国内政治 | 外交 | 経済  ]


―強権政治への復帰―

1976年のタイ

Copyrights アジア経済研究所  http://www.ide.go.jp/

国内政治

議会制民主主義の崩壊

サガット・チャローユー国防相(前国軍最高司令官兼海軍司令官)を議長とする国家統治改革団が,10月6日午後6時にクーデターを起し,民主党のセーニーを首班とする内閣を倒して国政の実権を握った。73年10月14日の流血の惨事とこれに続くタノム軍事政権の崩壊によって誕生したタイの議会制民主主義は,学生虐殺の張本人として国外追放された三人組の1人であるタノム元首相の帰国を契機として,再び血の海の中に沈められた。東南アジアで数少い議会制民主主義の実験は,過去幾多の例にもれず再度軍部の手で葬り去られ,タイの民主化に大きな役割を果した学生達は,今度は「共産主義者」の烙印を押されて軍や警察の追及を受けている。

国家統治改革団はその第一声明の中でクーデターに至った理由として,(1)王制を破壊し,国家を転覆させようとする共産主義者がベトナム人と結託して警察を攻撃した,(2)一部の閣僚,政治家やマスコミ機関が共産主義者を支援して混乱を拡大させたが,現政府はこの危機に対処する能力がない,との2点をあげ,国王を元首とする制度を守り,国家を共産産主義の手から守るために今回の政権奪取が必要であったと述べている。(1)については不敬罪問題とその後のタマサート大学の惨事を指しているが,10月5~6日にタマサート大学で現場指揮にあたったチュムポン副警察局長が,7日のタイ陸軍テレビで語った事件当時の状況からすると,攻撃は右派群衆の大学構内突入に端を発しており,それまでに散発的な銃撃戦はあったにせよ,(1)の理由は成立し難い。(2)の一部閣僚や政治家とはダムロン商相,スリン総理府長官,チュアン法相,ウィーラ前政府スポークスマンの民主党左派に属する4人を指している。右翼のナワポンやヴィレジ・スカウトは彼等を容共分子として攻撃し,その逮捕を要求していたが,クーデター後も彼等は逮捕や取調べを受けていない。従ってクーデターの理由については,国家統治改革団の声明からは離れて検討した方が事態を正確に把握できるだろう。

軍部内の対立

今回のクーデターをめぐる軍内部の動きについてはまだわからない面も多いが,これまでの経過をみると,クーデターの直接的契機は「タイ共産化の脅威」が現実としてあったのではなく,主として保守支配層および軍部内における権力闘争が原因であったと考えられる。73年の10月政変以後,実在した計画も含めて,クーデターの可能性が大きいと指摘されたのは約10回ある。最近では75年8月に反独裁戦線が暴露したC‐18計画,76年2月の3軍高官緊急招集によるクーデター計画事前鎮圧,7月にアティパット紙(全国学生センター機関紙)が暴露した国家改革評議会構想などがある。直接的な軍部独裁を目指すか,あるいは軍や警察の支持の下に行政テクノクラート,一部の知識人や実業家を参加させるかという点での違いはあるにせよ,手段として共通しているのは,政治的混乱を引き起し,政権を不安定な状態に陥し入れることによって,クーデターの大義名分を作りあげるということである。軍部だけではなく,右派団体のナワポンも1月にプラマーン副首相に対して,議会の解散と国政改革議会の設置などを要求していた。

軍部内には大別して,故クリット・シーワラー元国軍最高司令官兼陸軍司令官につながるグループと,チャラート元陸軍副司令官(クーデター後,予備役編入)を中心として与党のタイ国民党につながるプラマーン派が存在していた。クリットはタノムープラパート派直系であったが,73年10月に三人組を排除して軍の実権を握った。この他に少数となったが純粋のプラパート派も残っている。73年10月以後,軍の主流はクリット派が掌握していたが,嘗てサリット派との権力闘争に敗れて下野していたパオ派のプラマーンらが再び抬頭し,両派の確執が始まった。両派の争いは軍部内だけでなく政党次元にまで及び,議会政治を混乱させた。革新派の週刊誌『チャトゥラット』によると,クリット派,プラマーン派双方がクーデターで相手を倒す機会を狙い,4月のクリット急死後,クリット派支持のプラスート元警察局長やタウィー元空軍司令官らが大買収作戦を進めて保守系諸政党を糾合したが,タイ国民党議員にまで及んだため,両派の対立がより険悪化したと言う。真偽の程は別としても,両派の対立がクリットの死後急速に深まってきたことは事実である。プラパートやタノムの帰国と政治的混乱の背後にはプラマーン派の影があると言われていた。今回のクーデターは,こうした両派の先陣争いでクリット派が勝ったということになりそうである。

左右対立の深刻化

クーデターの底流にあるのは,73年10月以降に伸長をみせた革新勢力と,これに対抗して支配体制の維持をはかろうとする保守勢力との対立である。73年10月の政変は多分に偶然的要素の積み重ねがタノム軍事政権を崩壊に導いたといえるが,このために権力機構はその象徴であった特定個人を排除しただけで温存されていた。他方政変劇の主役であった学生には,国民の自由への要求を代弁していても,そこから先の政治的プログラムはまったくなかった。10月政変の収拾が国王の手にゆだねられてしまった理由がここにある。しかしこの政変を契機として政治的自由が大幅に拡大され,政治に参加する層は従来の軍人,官僚,資本家,地主だけではなくなった。民主主義の実験は過去何回か行なわれたが,今回の実験が過去のケースと違うのはこの国民の政治参加である。特に農民運動が具体的要求を持って出現したことはタイの歴史上初めてのことであり,請願運動の形態から一歩進んで農民組合としての組織化に入り,現地闘争戦術が組まれ,金貸に取りあげられた土地の請け戻し,負債救済や小作料引下げを要求して地方行政当局や地主との闘争が組まれた。

このような農民層の変化に代表される民主化の進展は,反対運動を強権で抑えこむ軍部独裁政治に馴れてきた保守派に大きな衝撃を与えた。そして革新勢力への対応策をめぐって,ククリット元首相に代表される,農村政策や行政改革の積み重ねによる農村支配の近代的再編成を意図するグループと,既存の支配機構を維持,強化することによって対抗しようとするグループとに分れた(実際はもっと複雑であるが)。双方共に農村を重視するということに変りはなかったが,後者の方が本流であったとみて良いだろう。そしてこの系譜から,軍部や警察の援助の下に右翼団体の組織化が進められた。74年10月に結成されたナワポンは,CIAとの関係を自認するワッタナーや,「共産主義者を殺すことは仏教の法理にかなう」と煽る僧キティウットの指導下に公称100万人の組織に発展した。75年に農民運動の指導者暗殺を連続的に行ない,遂に農民組合の活動を沈黙に追いやったのはこのナワポンであり,76年2月のブンサノン社会党書記長暗殺を含む革新系運動幹部に対するテロ活動の中心組織である。都市では職業学校生を中心とするガチンデーン(赤い野牛)がスト破りや,学生集会への爆弾攻撃で暴れまわった。75年から農村を中心としてヴィレジ・スカウトが全国的に組織され(76年10月で約100万人),民主主義を教えるために農村に入ろうとした学生達を追い返している。この組織は王室が積極的に育成をはかってきたことが特徴であり,皇太后や国王,王妃がこのために全国を歩きまわっている。ヴィレジ・スカウトは,国家,宗教,国王への忠誠を誓い,制服と国王から下賜されたネッカチーフを着用する。

クーデターへの序曲

右派団体は75年から本格的なテロ活動を組織し,農民運動,労働運動,大衆運動,革新政党の幹部を暗殺した。76年1月から4月の総選挙に至る期間は特にテロの嵐が荒れ狂い,革新政党の候補者は身動き出来ない状況におかれた。あまりのひどさに社会党が国王に直訴することを真剣に検討した程である。こうした状況下での選挙結果は明らかであり,革新勢力は惨敗した。右派の攻撃は76年中頃から言論界にも及び,5月にプラチャーチャート紙,6月にアティパット紙,10月にタイ・ラット紙が爆破され,またプラチャーティパタイ紙は政治的圧力に屈して,進歩的記者33人を解雇した。機甲師団放送局による革新系人物への個人攻撃が日を追ってエスカレートしていった。

73年10月の政変で学生を支持した国王は,今回はクーデターを推進する立場にまわった。国家統治改革団の声明は王制に対する脅威を政権奪取の理由のひとつとしてあげたが,王制擁護がクーデターの理由とされたことは,単に不敬罪問題だけではなく,そうした事件を生む土壌が形成されつつあることを示している。国王はこれまで国内の政治勢力の調停者として,国民的統合の象徴となってきたが,その王室を否定する傾向が学生や知識人,社会主義者を中心として広まりつつあった。王室の危機感を決定的にしたのは75年のインドシナ3国の社会主義化であり,さらにラオスでの王制廃土であった。国王が軍部を激励し,さらに右翼団体の組織化に動き出したのもこうした情勢を背景としていた。国王の態度の転換が過去3年間における民主主義の時代の変化を物語っている。

反共姿勢の強化

クーデター後,1974年憲法廃止,国会や政党の解散,5人以上の政治的集会禁止,新聞発行停止と再刊にあたっての検閣制度導入が実行に移された。さらに軍部は共産主義容疑者の逮捕,共産主義関係書籍の没収と焼却を行なった。10月6日以前に市販されていた本を持っていただけで,共産主義容疑者として逮捕するという徹底した反共の姿勢を打出している。10月8日には反共の闘士ターニン最高裁判事(国内治安維持司令部顧問)を首相に任命し,国家統治改革団は首相顧問団に衣替えした。形式的な行政の運営を民間人にゆだねることによって,軍部独裁色を薄め,内外の批判をやわらげようとするものである。10月22日には全文29条から成る憲法が公布され,また新内閣が発足した。憲法では第21条で,国内治安維持に必要な場合には自由に権力を行使できる首相大権を復活させている。新内閣には軍部から,ブンチャイ副首相,サガット国防相,レック副国防相の3人が参加し,民間からは右派のサマック内相らが名を連ね,女性2名も入閣した。11月20日には改革議会が発足したが,340名の議員のうち,軍や警察が145人を占め,次いで官僚グループの順で,民間からの任命もほとんどが右派の人間である。

タイの将来に関する政治的プログラムについては,10月13日にターニン首相が王制民主主義に至る道として発表している。それによると,各4年ずつ3段階に区切られるこの構想は,第1段階は任命議員のみからなる1院制の改革議会で,経済および政治の両面で安定を目指す再興期,第2段階では任命による上院と,民選による下院の2院制とし,双方に対等平等な権限を持たせる民主制創始期,第3段階では2院制下で,上院の権限を徐々に縮小し,下院の権限を逆に増大させていく民主制発展期,そして12年が経過した後に民主制が十分な程度に発展していれば,民選による単一の国民代表議会でいくとしている。プログラム通りにいけば,今後少なくとも12年間は管理された民主主義の時代が続き,また最初の4年間は権利と自由が制限される。この点についてターニン首相は(同じく軍部も),国民に完全な権利と自由を与えるのは早すぎると述べている。

王制民主主義への道

王制民主主義という概念についての説明はなされていないが,国王を元首とする民主制政治制度という意味で用いられる。ターニン首相はこれとは別に,英国や北欧の社会民主主義を理想とすると外国入記者団に述べている。王制民主主義は,国家,宗教,国王という国体を絶対的存在として,国体に対する批判は許されない。次にターニン政権の国内政策であるが,綱紀粛正の努力を別にすると,教育面と治安維持に集中されている。

教育面では韓国の反共教育を手本として,「民主主義のイロハから始める」教育改革を実行しようとしている。すでに教科書改訂について韓国から専門家を招くという話が出ており,その内容は,共産主義的傾向の排除と国家,仏教,国王という国体護持を強調するものとなる。また大学では陸軍心理作戦担当官による民族主義,愛国主義についての受講を義務づけようとしている。治安維持の面では,すでにサマック内相が共産ゲリラと闘う国境警備警察に対する援助を米国に要請しているが,注目されるのは,今後も引続き農村を中心とする反共組織の育成に力を注ぎ,共産ゲリラ浸透地域14県における市民軍創設,またヴィレジ・スカウトの組織を5年後には500万人にするなど,農民をゲリラと直接闘かわせる方向を出している。大衆レベルでの組織化は従来の右派にはなかった新しい動きであり,今後も注視する必要があろう。共産主義活動防止法についても改正を行ない,ゲリラ掃討に必要とする広範な権限を首相に集中させている。なお国防力増強について米国の無償援助は求めない方針であるが,米国の優遇借款による兵器購入や,米系資本を導入して軍需工場を建設することにしており,国軍装備の米国化の方向は変っていない。

新政権の課題

ターニン新政権が当面果すべき課題は国内の治安維持と,景気の回復であろう。経済の再建については外資の導入をテコとする方針で,外資優遇の対策を進めている。内政面での問題は政治的社会的安定をもたらしうるかどうかだが,不安材料も多い。軍部と王室の全面的支援を受けてはいるが,その軍部自体についても問題は残されている。クーデターの主役を演じた旧クリット派の中でも,クリエンサック国軍副司令官ら積極推進派とスーム陸軍司令官ら消極派の間で意見が割れ,これが国家統治改革団メンバーの発表の遅れやその後の活動に影響を与えているとの観測もある。またクーデター後もしばらくの間は,再クーデターがあるとの噂が絶えなかったという状況がある。軍部内が一本化しているかどうかは疑問であり,現状では対立がすぐ表面化するような状況にはないが,クリット・シーワラーの死後,傑出した指導者がいないために軍内部の統制がとりにくくなっている。

これまで国民的統合の象徴であった国王が今回はクーデター推進派にまわった。共産主義排除からさらに一歩進んで,体制内改革派をも排除することに踏み切った今回の行動によって,王室による国内政治勢力の調停者としての機能は失なわれた。学生や知識人,体制内改革派の中に生じつつあった王制への疑問は,このクーデターを契機として,王制否定へと明確になりつつある。「王制存亡の危機」に国王や王妃が中心となって大きな賭をしたわけだが,最後の切札を早く出しすぎたという感が強い。

いずれにせよ新政権は過去3年間の民主主義の全面的否定の上に成立しており,国体護持のために,共産主義は言うに及ばず,民主主義的思想傾向をも根絶するという困難な課題を担っている。韓国への急接近や,農村における反共組織の重点的編成などはその一方策である。しかしターニン政権については行政能力の不足が指摘されており,すでにターニン首相とジャーナリズムの不和が伝えられ,また経済の無策に対する批判が出て内閣改造の噂がとぶなど,前途は多難である。

反体制勢力の拡大

総選挙前から10月のクーデター前後にかけて,右派のテロを逃れて国外脱出や地下潜行を伝えられていた革新系団体の指導者が,タイ共産党の地下放送「タイ人民の声」を通じて,武装闘争への参加を呼びかけている。カイセーン副委員長,チャイワット副書記長ら社会党幹部,セークサーンやチラユットら元学生運動指導者,タートプーミ・チャイディー,プラシット・チャイヨーら労働運動指導者がそれぞれ,平和的手段による闘いが武力によって弾圧された以上,残された道は武器をとって闘う以外にないと強調し,人民戦争を呼びかけた。これら革新系指導者の他に,数百人の学生や知識人,労働者がジャングルに逃げこんだり,ラオスに渡っている。他方タイ共産党は10月7日の中央委員会声明で,サガットらを「極右反動ファシスト軍閥集団」として非難し,学生達の行動を称賛し,(73年)10月14日の精神をもって引続き闘うことを呼びかけた。タイ人民の声放送はその後も10月14日精神を強調し,全国学生センターの偉大な行動をたたえる放送を繰り返している。12月1日には党創立34周年声明を発表して,広範な革命戦線の結成を呼びかけると共に,10項目の当面の政策を修正して発表した(資料参照)。政策の内容については,26周年声明(1968年12月1日)の内容と大差ないが,統一戦線の呼びかけは情勢の変化を反映している。68年に強調されたのは,タイ共産党指導下の愛国武装勢力の闘争だけであり,毛沢東思想が強調され,タイ愛国戦線などには触れていない。今回の声明では,広大な農村地域における人民戦線の拡大と共に,反動支配地域における人民の闘争の発展が大きくとりあげられ,革命戦線の結成を呼びかけている。軍事政権の再登場と革新勢力の武装闘争参加は,反体制運動にこれまで以上の厚みを加えることとなった。武装勢力の力はまだ弱いが,過去3年間の民主主義の実験が,学生や知識人,労働者,農民に与えた影響は極めて大きいだけに,ターニン政権の対応如何では政治的不安をもたらす可能性が残っている。

外交

自主外交の推進

セーニー内閣の内政面における優柔不断とは対照的に,外交面ではピチャイ外相を中心として,米軍撤退,マレーシアとの国境協定問題,カンボジア,ラオス,ベトナム訪問と華やかな外交活動が繰り広げられた。

ククリット内閣時代に,対中国交回復にもとづく大使交換が行なわれた。1月26日に柴沢民大使が着任し,3月16日にカセームサモーソン大使が北京へ向った。次いで焦点は3月20日が期限とされる米軍撤退問題に移る。2月4日にタイ政府は公文書で7項目の条件を提示した。本格的交渉は3月に入ってから始まったが,残留米軍人はタイの法律に従うとの趣旨に米国側は納得せず,撤退期限は7月20日までに延期された。この間米軍撤退を要求する全国学生センターや,反独裁戦線の主催する集会は3万人の参加者を集めたが,右派の職業学校生やナワポンは各地で妨害を行ない,3月21日の米軍追放デモには爆弾が投げこまれて,4人の死者を出した。

総選挙後,明らかに米軍撤退に反対する右派や軍部の圧力で,セーニー内閣の外交方針は二転三転した。4月下旬にセーニー首相やタウィー副首相らは,米軍残留,ラーマスーン基地維持をにおわせ,アメリカ側も5月中旬にラーマスーンに関する新提案を行なった。5月下旬に撤退を求める政府の態度が決まり,軍部との意見の相違が表面化した。以後の交渉は弾薬や機材譲渡価格の交渉が中心となり,6月20日に米軍の撤退は完了した。

5月に入るとマレーシアとの国境に近いヤラー県ベトン郡で,ベトン駐留のマレーシア野戦警察軍撤退を要求するデモが激化した。発端はマレーシア軍が国境協定にもとづく越境追跡権を行使して,タイ領内に逃げこんだ共産ゲリラを追撃し,タイ人を逮捕した事件である。ピチャイ外相は直ちにマレーシア軍の撤退と国境協定の改訂を要求した。マレーシア野戦警察軍は6月上旬に撤兵したが,国境協定の交渉は,越境追跡権を求めるマレーシア側と,回教徒分離運動の共同鎮圧を求めるタイ側との間で調整がつかず,10月まで進展がみられなかった。クーデター後は,共産ゲリラ掃討のためにマレーシア軍がタイ領内に入ることを認めている。

6月にピチャイ外相一行は隠密でカンポジアを訪問し,イエン・サリ副首相との会談で外交関係の再開,国境貿易の再開に合意した。続いて8月にはラオス,ベトナムを訪問している。ラオスとの交渉では国境をさらに2~3ヵ所開くことなどで合意したが,ラオス側はピチャイが全権を委任されてこなかったことに不満を示した。ベトナムとの会談は,米軍を撤退させたセーニー政府の姿勢をベトナム側が評価したことにより,比較的スムースに進行し,一般的原則の他,外交関係の樹立を含む幾つかの懸案について合意をみた。

しかしこのような対外的バランスを重視した外交関係の調整は,政府部内においても十分な合意をみていなかったため,ピチャイ外相らの行動は右派や軍部の攻撃対象となった。国家主権という大義名分がある以上,米軍撤退や国境協定に公然と反対出来ないため,右派や軍部は,「共産主義の脅威」「ベトナムの脅威」を宣伝して自主外交の展開にブレーキをかけようとした。クーデター後,軍は報復人事として,アナン外務次官を解任,コーソン外務省政治局長らを左遷している。

反共外交の推進

ターニン内閣の外交方針の基調は反共であり,非友好国との対決を辞さない姿勢をとっている。第1に重視されているのはASEAN諸国との緊密な関係維持でありASEANの反共軍事ブロック化を目指して,ターニン首相が他の4ヵ国を歴訪し,二国間ベースの反共軍事協力を確認している。マレーシアとの国境問題は旧状に復された。第2に重要同盟国として米国,日本,韓国との連帯を強調しているが,とりわけ韓国との関係は急速に親密化している。次に共産圏諸国との関係については事実上の対決方針となっており,軍事政権非難を繰り返すベトナム,ラオス,ソ連との関係は悪化している。しかし本格的な外交関係の展開は77年以降に持ちこされている。

経済

概況

1973年の石油ショックに始まった経済危機は76年にも尾をひき,依然として不況色の強いものとなっている。76年前半に農産物を中心として輸出が好調に推移し,後半には工業面でも生産の拡大と投資支出の増加が見られるなど,景気回復への明るい材料はあるが,77年1月からの石油価格値上げが懸念され,また都市部では失業が増加している等,まだ全体として楽観は許されない状況にあると言えよう。

76年の国内総生産成長率は6.2%ないしは6.5%と見込まれている。しかし農業生産については,干ばつ(米,メイズ),洪水(ゴム),輸出価格下落による作付面積減(ケナフ)等の原因で,75年よりも生産量は減少することが予想されている。他方工業生産は徐々に回復してきており,第4四半期には原材料や中間製品の在庫が適正水準にまで下ったこともあって生産は拡大基調となり,これに伴なって,繊維,綿花,鉄鋼,化学などの工業原材料の輸入が増加し始めている。新規設備投資の手控えにより,76年の民間固定投資支出は9%の増加率(目標13%)にとどまった。

貿易収支は輸出が30%増の590億バーツ,輸入が4.8%増の700億バーツと推定されている。貿易収支の赤字は110億バーツで,75年の半分に減少した。輸出は米,ゴム,タピオカ製品を中心とする一次産品輸出が好調で,工業製品も衣料,繊維,セメント,缶詰等が順調に伸びている。輸入については景気の後退を反映して伸びが鈍くなっているが,9月以降輸入信用状の開設が急増しており,年末から増勢に転じている。貿易収支は大幅な改善をみたが,移転収支や民間資本取引の減少により,総合収支では75年の赤字幅(28.5億バーツ)と同程度,ないしは小幅の改善に留まるものとみられる。

物価

76年の物価上昇率は,消費者,卸売共に5%の上昇であり,比較的穏やかな推移を示した。しかし77年1月からは原油価格が値上げされるため,政府は11月から特別委員会を設置して,値上げの影響とその対策を検討している。これまで石油価格据置のために政府が石油会社に与えていた毎月1億バーツの特別補助金も打切りが決定したので,77年の物価上昇は石油製品を中心として,8%以上に達する見通しである。

農業

1976/77年度の農業生産は砂糖,タピオカを除くと,天候不順のために減産が伝えられている。籾米生産高は75/76年度に1538万トンと史上最高を記録したが,今年は干ばつの影響で7%減の1430万トンと予想されている。メイズも干ばつのため10%減の270万トン,ケナフは作付面積減少(タピオカへの作付転換が進んでいるため)により15%減の22万トン以下,またゴムも洪水の被害を受けて減産となっている。他方海外需要の強い砂糖きびは前年度比23%増の2260万トン,タピオカは18%増の950万トンと著しい生産の伸びをみせている。

ケナフは近年では1973年の48万8900トンをピークとして76年には22万トン以下と半分以下に減少した。これは農民が利幅の薄いケナフを捨てて,栽培が極めて簡単で,ヨーロッパ市場の需要が強く,価格も高値を続けているタピオカに転換したためであるが,今後もケナフの作付面積が減少し続けると,輸出余力がなくなるだけでなく,約20万トンの国内需要すら満たせなくなる恐れがある。他方タピオカは地力を著しく消耗させるので望ましい作物とはいえない。このため政府は第4次5ヵ年計画期間中は,タピオカの作付面積を1976年の水準で抑制し,ケナフの増産をはかることとしているが,価格面で思いきった対策をとらなければ,回復はかなり難しいであろう。

第1表 作物別農家収入(1975年)

農家庭先価格
バーツ/トン
収入
バーツ/ライ
生産原価
バーツ/ライ
利益
バーツ/ライ
砂糖きび
288
2,308
1,756
*548
タピオカ
420
992
643
*399
タバコ
1,350
2,095
1,800
295
ゴム
6,280
465
222
*242
大豆
3,600
512
274
*208
メイズ
2,020
755
560
195
ケナフ
3,000
415
377
*70
籾米
2,095
752
701
51
*)この数値は不正確と思われるが,当局に問合せることができなかったので原文のままとした。
(出所) NESDB,Fourth Five Year Plan.

ククリット内閣が実施した農産物価格保証政策はその是非をめぐって,労働者の小売米価値上抗議スト,閣内の分裂,国会解散に至る直接的契機を作ったものであるが,籾米(5%白米)の精米所買付価格を2500バーツ/トンに設定はしたものの,強制力を伴わず,しかも輸出価格の低下が重なって,実際には1800~2100バーツで取引きされた。こうして籾米の価格保証は失敗に終り,6月には従来からの価格支持政策に逆戻りした。支持価格はトン当り2100バーツとされた。なお輸出価格は6月以降上昇に転じ,籾米の農家庭先価格も大幅に値上りしている。

タイの農業生産の増大は耕地の外延的拡大によるところが大きく,その意味から国有林への違法入植は従来から論じられてきたが,森林資源の破壊は極めて急速に進み,現在の率でいけば15年以内には危険な状態になると報告されている。森林破壊の主な原因は違法入植と薪や木炭用の過伐であるが,年間470万ライが破壊されており,76年の森林面積は1億1800万ライ,全国土面積の37%ですでに安全基準を割っている。しかし植林は年間最高で10万ライ程度にすぎず,資源保全の重要性が強調されているが見通しは悲観的である。

工業

76年の工業投資は引続き停滞気味であるが,原材料や中間製品の輸入が回復し始めており,生産活動は上昇傾向を示している。

第2表原材料・中間製品輸入(100万バーツ)

1975
1976
上半期比較(%)
I
II
I
原料繊維
836
1,061
1,102
+31.8
化学品
2,630
2,872
3,247
+23.5
鉄鋼
1,634
1,592
2,085
+27.6
金属
905
1,218
1,001
+10.6
その他
1,955
1,343
2,044
+4.6
合計
7,960
8,086
9,479
+19.1
(出所) Bank of Thailand Monthly Bulleten, Sep., 1976.

投資活動は依然として低調である。政府は民間投資を促進するために公定歩合を8月に10%から9%に引き下げている。工業省に登録される工場の新設は6月末で2800件,資本金総額41億8300万バーツ,雇用労働者数3万312人となっている。75年同期と比較すると,工場数は589増加したが,資本金総額と雇用労働者数は減少しており,規模が零細化している。他方投資委員会へ出される大企業を中心とした奨励申請をみると,認可された企業の平均投資額は,73年の8095万バーツから,74年5225万バーツ,75年2349万バーツ,76年(1~8月)2968万バーツとこれも縮小傾向にある。これは外国資本の進出が投資環境の悪化から激減したためで,認可企業の登録資本金に占める外資の比重は,1973年の29%から,74年27%,75年16%,76年1~8月では僅か8%にまで落ちこんでいる。次に直接投資額は75年上半期10億180万バーツ,下半期7億4300万バーツ,76年上半期は8億バーツとなっており,上半期の比較では20%の減少となっている。このうち鉱工業への投資額は第3表の通りである。76年上半期の工業への直接投資は前年同期比63%も減少したが,とりわけ繊維の落ちこみが著しい。

第3表 業種別直接投資額(1,000バーツ)

1975
1976
I
II
I
鉱業
24,840
36,870
50,321
石油
13,758
20,759
42,690
その他
11,082
16,111
7,631
農産物加工業
24,328
14,447
34,265
工業
216,799
212,748
80,864
繊維
82,637
38,926
4,092
金属・非金属
6,117
24,193
13,026
機械・電機
54,717
49,263
36,801
化学
38,623
31,774
14,252
建設資材

2,842

その他
34,705
65,750
12,693
(出所) Bank of Thailand Monthly Bulletin, Sep.1976.
第4表 主要工業生産(上半期)

1975
1976
増減(%)
セメント 1,000トン
1,985
2,106
+6.1
麻袋 1,000枚
56,431
52,125
-7.6
タバコ トン
11,352
13,049
+14.9
石油製品 100万l
4,216
3,997
-5.2
亜鉛鉄板 トン
45,947
48,060
+4.6
銑鉄(1~3月)トン
2,676
2,478
-7.4
ビール 1,000l
30,563
37,770
+23.6
(出所) Bank of Thailand Monthly Bulletin, Sep.1976.

工業生産は76年に入って回復の兆しをみせている。76年の工業生産の増加率は7.5%と推定されている。上半期は繊維,砂糖,パイン缶詰,セメント,鉄,ビール等が好調であったが,第3四半期はやや中だるみとなっている。石油製品や紙その他国内市場を対象とした業種は停滞しているのに対し,輸出の増加や公共投資促進の影響を受けた業種が活気を呈し,景気回復過程の明暗がはっきりとあらわれている。

鉄鋼は74年6月から30%,75年10月から50%の操短を実施してきたが,75年の2度にわたる保護関税の引上げ,75年末からの公共事業の促進や76年後半からの民間商店建設など建設投資の増加により,棒鋼や形鋼等建設資材の操業率は70%に高まってきた。76年の鋼材生産は53.5万トンと予想されているが,タイの鉄鋼業は建設資材が中心なので,本格的な生産の回復は建設投資の増加待ちである。セメントは9月末までに321万トンの生産,前年同期比10%の増加を示しているが,国内需要が伸びないため在庫が増え続けている。繊維は輸出が8月までに23億バーツをこえて75年1年間の輸出額20億バーツを上回っており,76年の織物輸出量は史上最高の2.5億ヤードに達している。生産量は11億ヤードに達するとみられ,紡績は稼働率が90%強にまで高まり,3年来の不況から脱け出せる見通しが濃くなっている。しかし綿花や化繊等の原材料確保の不安がまだ解消せず,原油値上げの影響も大きいとみられるだけに楽観は出来ない。原料綿花の値上りが輸出利益をかなり食っているという面もある。在庫は輸出向企業が2カ月分であるのに対し,国内市場向企業は4~6カ月分といわれ,内需はまだ回復していない。自動車組立ては乗用車が伸び悩んでいるが,商用車の好調に支えられてフル稼働を続けている。9月末までの新車販売台数5万9491台中,ミニ・バスなどに利用される小型トラックが3万4107台を占めている。

第5表 繊維製品輸出

綿糸
化繊糸
綿織物
化繊織物
衣料
合計
トン
100万バーツ
トン
100万バーツ
100万ヤード
100万バーツ
100万ヤード
100万バーツ
100万点
100万バーツ
100万バーツ
1974
174.3
18.4
2546.2
147.5
32.1
251.9
51.7
525.8
31.7
844.9
1788.4
1975
227.0
17.3
3076.0
124.1
45.3
320.8
71.8
480.0
40.8
1047.5
1989.7
1976
(1~6月)
166.0
13.4
4721
153.7
71.8
462.9
65.6
395.3
22.4
700.3
1725.6
75年上半期比(%)
+305
+185
+533
+580
+448
+519
+202
+174
+41
+67

(出所) Customs Department.
第6表 自動車の輸入と組立(台)

乗用車
商用車
合計
輸入
国内組立
輸入
国内組立
輸入
国内組立
1973
12,780
17,935
30,344
9,499
43,124
27,434
1974
11,639
17,297
29,753
14,891
41,392
32,188
1975
7,864
15,524
38,862
15,467
46,726
30,991
(出所) Ministry of Industry, Industrial Statistics 1975.

貿易

76年の輸出は米,ゴム,タピオカ製品や繊維等の輸出が好調で,輸出額では対前年比30%増の590億バーツに達し,輸入の鈍化とあわせて貿易収支の赤字は半減した。しかし輸出価格はタピオカやゴムを除いては下落し,76年の農業生産が前年よりも減って輸出余力が落ちているため,77年は再び赤字幅が拡大することは避けられない。

米輸出は187万トン,85億3300万バーツに達した。これは対前年比で,量で96.5%増,額では45.8%の増加である。75年の豊作で輸出余力は180~200万トンとなり,他方輸出価格は低落傾向を示しているため,政府は毎月15万トンを目標として輸出促進をはかった。75年6月,12月に続いて76年1月に再度米プレミアムを引下げ,また国内米確保を目的とした備蓄米制度も廃止し,さらに政府間ベースの取引きを促進した。輸出量187万トンのうち48%の90.5万トンが政府ベースであり,近年の26~39%の比重からみても極めて高い割合である。10月以降は国内米確保のために輸出を抑制し,月15万トン以内に制限している。77年の輸出余力は110万トンと推定されている。

第7表 貿易収支(100万バーツ)

1975
1976
上半期
比較(%)
I
II
I
輸出
22,660
22,367
29,494
+30.2
輸入
33,421
33,414
35,233
+5.4
収支
-10,761
-11,047
-5,739
-46.7
(出所) Bank of Thailand Monthly Bulletin, Sep.1976.

その他重要商品の輸出は,砂糖が10月末まで99.4万トン(対前年同期比+81%),57.7億バーツ(同 +17%),9月末まででタピオカが270万トン(+56%),53.23億バーツ(+58%),ゴムが27万トン(+14%),37億6200万バーツ(+56%),メイズが180万トン(+50%),35億1500万バーツ(-2%),ケナフ11万トン(-8%),4億4900万バーツ(-10%)等となっており,タピオカとゴムを除いてはいずれも価格が下っている。輸出単価が低落し,他方輸入単価は続き上昇しているために交易条件は次第に悪化してきている。76年は不況による輸入の鈍化で貿易収支の悪化は避けられたが,77年の輸入増大は必至であり,交易条件の悪化はタイにとってかなり苦しいことになる。

労働

労働組合は11月現在で185(バンコク107,地方78)に達した。10月のクーデター以後ストライキは禁止されている。6月末までの資料では労働争議が262件で対前年同期比37件増,ストライキは117件で11件減となっている。要求内容は賃上げが一番多く,次いで経営者に労働法を遵守することを要求,生活費,ボーナス,衣服の順となっている。

他方景気の後退によって失業問題が深刻化してきた。76年6月の統計では労働人口2010万人中完全失業者は102万人,失業率5%となった。76年末では失業者120万人に達し,そのうち8万人がバンコクに集中し,大きな社会不安をひきおこしている。主たる理由は,高い人口増加率,景気の後退,米軍撤退による直接間接雇用者(約10万人)の失業等である。また新卒者の就職難は従来職業学校生を中心にみられたが,近年はエリート層である大学卒でも急増している。第4次5ヵ年計画では5年間で220万人分の雇用機会の創出をはかるとしているが,それでもなお失業率は現在よりも高くなる。バンコクにおける雇用の増大をはかると同時に,農村から都市への労働力移動抑制のために,地方中核都市の開発や工業の地方分散が計画されているが,政府の強い指導力が要求されている。

第8表 労働人口と失業率(1,000人)

労働人口
就業人口
失業人口
失業率
1972
17,373
16,503
860
5.0
1973
17,814
16,972
842
4.7
1974
18,288
17,570
718
3.9
1975
18,771
17,842
929
4.9
1976
19,211
18,165
1,046
5.4
1977
19,670
18,553
1,117
5.8
1981
21,601
20,398
1,203
5.6
1972~76年増加率
2.6
2.4
5.0

1977~81年増加率
2.3
2.3
2.8

注)10月1日現在。
(出所) NESDB, Fourth Five Year Plan.

外資勧誘への努力

10月のクーデター後,軍部の強力な支援のもとに登場したターニン内閣は,外資導入を柱として経済の立て直しをはかろうとしている。クーデター直後に国家統治改革団外務顧問のタナット元外相は,米国や日本を訪問してタイへの投資を呼びかけた。ターニン首相は投資委員会議長を兼任したが,首相が投資委員会の議長に就任したのは初めての事である。70年代前半の経済ナショナリズムの高揚の中から生れた,外国企業規制法,外国人職業規制法の見直しを決め,外国企業規制法についてはカテゴリーB(新規外国企業を認めない業種),およびC(登録局長の許可を条件として外国企業を認める業種)について付されている,生産または販売の対前年伸び率が1972年以降30%を越えてはならないとする条項の棚上げを決定している。さらに投資奨励法を改正して外国の投資家に対するサービス業務の改善をはかることとしている。実行面でもすでにビリトン社への錫鉱採掘再開を許可した。投資環境改善のためにストやロックアウトは禁止し,軍政下の治安強化によって犯罪発生率は半減した。ナショナリズムへの配慮から検討が遅れていた各種大型プロジェクトにも認可がおりる見通しである。政治的社会的安定がもたらされ,行政能率も向上しているから,外資導入による経済復興が成功するかどうかは,ターニン内閣の政策如何であるが,留意しなければならないのは,外国投資の激減が単に国内政情の不安定や先進国の景気後退だけでは説明できないということであり,タイの工業化政策がまだ不明確であり,一貫性を欠いていることにも原因がある。

第4次5ヵ年計画の方向

76年10月から第4次5ヵ年計画(1977―81)が開始された。同計画の承認は12月に行なわれた。開発支出総額は2524億5000万バーツである(参考資料参照)。同計画では基本的目標として

(1) 経済の復興促進

(2) 国民の間の経済的社会的格差の縮小

(3) 人口増加率抑制,人的資質改善,雇用増大

(4) 基礎的資源行政,環境行政の改善

をあげ,計画目標としては,

(1) 国内総生産の成長目標,年率7%。農業については5%,工業は9.6%

(2) 輸出の伸び率13.7%,輸入の伸び率11.5%,最終年度外貨準備高16億1730万バーツ

(3) 投資の伸び率7.2%

(4) 物価上昇率年6%,人口増加率2.1%などをあげている。

第3次5ヵ年計画期間中のタイ経済は,1971年から始まった国際通貨不安,73年以降の石油ショックによる世界的な景気後退の影響や,73年10月の政変とその後の国内政治の混乱,75年のインドシナ3国社会主義化などの影響を受けて,内外投資の冷却,生産活動の停滞,国境貿易の停止,物価騰貴,労働運動の抬頭,失業の増大,所得較差の拡大,農民運動の高揚などをもたらし,重要な転機にさしかかっていることを示している。同計画期間中の経済成長率は6.2%であり,目標の7%を達成出来なかった。その原因については,(1)1972年と76年の干ばつによる農業生産の不振(実質伸び率は72年-0.8%,76年3.1%),(2)1971年以降の世界的経済情勢の変化の2点をあげている。

過去3年間における経済,社会,政治情勢の変化を反映して,第4次5ヵ年計画では,経済発展を重視した過去の路線を大きく修正し,社会的公正の確立をめざして経済社会政策の改善をはかっている。このため開発の重点も短期的には経済の復興(1977,78年の2ヵ年を充てる),長期的には経済社会構造の改善による不平等の是正,国民の生活水準向上におかれている。なお第4次計画では資源問題も取り上げられ,国内資源の保護と有効利用が強調されている。即ち,土地については,土地改革や耕地整理の促進小作料の統制,国有地利用政策の策定,土地の権利関係の確定,農業金融の拡大,土壌改良などの対策を打ち出し,森林資源の保護についても,現状の維持(全国土面積の37%),森林破壊の抑制(現状の年470万ライを50万ラィ以下に),植林を現在より年50万ライ増加等の目標を立てている。この他に水資源,エネルギー資源対策も立てられている。

各産業部門別の開発政策でも,経済構造の改善と経済的社会的格差の縮小という方向に沿って,地方における開発が重点的に取りあげられている。農業面では,農民所得引上げと生産増加のための土地や農業労働力の有効利用と農業多角化,生産効率の増大,農業構造改善に必要な農産物価格制度の改革や,生産要素の整備,特に灌漑施設の整備,農業金融の拡大,また農民組織の強化などを重視し,また工業面では,地方開発と結びついた農産品加工工業や輸出工業の育成をはかり,工業の地方分散を促進しようとしている。第3次計画で出された重化学工業の導入という方向は将来の問題として,第4次計画では見送られた。このような開発政策の方向を反映して,第4次5ヵ年計画の開発支出予算配分は,通信運輸への支出を減らし,公共施設の充実や人的資源の向上などへの支出を引続き増加させている。

第9表 部門別開発支出(100万バーツ)

第1次計画
第2次計画
第3次計画
第4次計画
支出額

支出額

支出額

支出額

農業・灌漑
4,600
14.1
11,300
20.2
13,695
13.7
39,100
15.5
鉱工商業
2,600
8.0
1,065
1.9
2,350
2.3
3,605
1.4
通信運輸
10,200
31.3
17,080
30.6
19,475
19.4
37,175
14.7
動力
4,300
13.2
3,540
6.3
7,875
7.9
15,950
6.3
小計
21,700
66.6
32,985
59.0
43,395
43.3
95,830
37.9
社会開発
5,500
16.7
10,260
18.3
17,630
17.6
8,620
3.4
公共施設






33,335
13.2
保健衛生
1,400
4.3
2,570
4.6
6,340
0.6
19,380
7.7
教育
2,500
7.7
6,520
11.7
32,910
32.8
95,285
37.8
その他
1,500
4.8
3,550
6.4




小計
10,900
33.4
22,890
41.0
56,880
56.7
156,620
62.1
合計
32,600
100.0
55,875
100.0
100,275
100.0
220,150
100.0
注)計画ベース。第3次の社会開発は,都市,地方開発を含む。