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―石油に揺らぐタイ―

1980年のタイ

平塚 大祐

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政治

国内政治概観――揺れ動く政局

タイの政局は80年に大きく揺れ動いた。79年9月ごろから不安定となり始めていた政局は80年に入り一挙にその不安定性を露出させた。クリアンサック首相は経済問題で表面化した危機を乗り切るため2月11日に内閣改造に着手したが,野党ばかりでなく与党,上院,軍部の支持を得られず,2月29日の臨時国会で辞職を表明した。ついで,3月3日に新首相に選出されたプレム陸軍司令官は3月14日に第1次プレム内閣を組閣した。しかし,3大政党を抱えこんだ内閣は8月以降,社会行動党とタイ国民党の2大与党が対立,この対立がエスカレートし81年2月のプレム内閣改造にまで発展することになった。

こうした動きの中で,80年は今後のタイの政局を占う意味で重要な点を明らかにした。その第1は軍部の動向である。クリアンサック政府の崩壊はまさにタイ内閣存立の基盤が軍部であることを明らかにしたと言えよう。第2は,圧力団体としての学生および労働者の力が強まったことである。

現在のタイの政治を支えている基盤は軍部,正確に言えば陸軍であり,また軍部が80%以上を占める上院である。タイでは陸軍によるクーデターの噂が絶えない。政局が不安定になればクーデターの噂があり,軍内部人事異動の季節には政局はその不安定さを増す。また,上下両院526議席のうち225議席は首相が指名できる上院で,そのうち現在は陸軍軍人が113議席,海軍軍人が37議席,空軍が35議席,警察が8議席となっており,軍部の支持が得られないことは上院の支持を得られなくなることで政府の存立基盤を失う。

プレッシャーグループの筆頭は与野党である。タイでは首相が変るたびに,また内閣が改造されるたびに与党であったものが野党になったり,その反対となることがたびたびである。与野党に限らず政府が不安定となれば,各党は次期入閣を目指して行動する。

また,最近大きなプレッシャーグループとなってきたのが学生および労働者である。彼等が政府抗議を行えば野党がそれに乗じて政府倒しに懸命になる。クリアンサック政府崩壊の大きな力となったのは学生および労働者であった。とりわけ,学生は80年にかなり大きな抗議行動を何回となく繰り返し,11月17日には学生の代表が砂糖問題で商務相と会見するなど,政局を揺るがす大きな力となってきた。

タイの政治は,軍部と上院与野党,学生および労働者の微妙なバランスの上にあり,常に不安定要因にこと欠かない。1980年はカンボジア問題,経済問題で大きくバランスをくずし,プレム首相の陸軍司令官留任問題で傾いた。81年についても経済問題は依然続いており,陸軍司令官再留任の問題が控えている。プレム首相の指導力が問われる年であると言える。

クリアンサック政権の崩壊

クリアンサック政権の動揺は79年9月ごろから始まっていた。79年2回目の石油製品価格引上げが7月に行なわれ,公共料金の引上げが相次いで予定されたことから,これに業を煮やした社会行動党,タイ国民党,タイ人民党の3野党が9月27日に工業,運輸,内務各省の大臣,副大臣に不信任案を提出したことが動揺の始まりであった。この不信任案は否決されたものの,11月に入ると野党のほか学生が一連の公共料金引上げに対してクリアンサック政府を批判することとなった。政府支持派議員の要請もあって政府は電気・水道料金の引上げを見送ると発表し,野党および学生の攻撃をかわした。

野党および学生の攻撃を表面的にはかわせたものの,政府内部からの分裂が噴出した。11月7日には与党の自由正義党が3人の閣僚全員を辞職させると発表,ついで21日にはカセム総理府相のほか2閣僚が辞職,12月3日にはサワット総理府相を含む8閣僚が辞職した。このように政府は与党の支持さえも確保できなくなっていたのである。

しかも,軍内部でも亀裂が生じ始めクリアンサック首相に対する軍部の支持も揺らぎ始めていた模様である。10月25日に首相はASEAN3カ国の訪問を急遽途中で打ち切り緊急帰国している。タイ当局は同首相の病気とカンボジア情勢の緊迫化をあげているが,タイ軍内部でベトナム軍に対する対応をめぐり対立という情報が流れた。もともと軍内部にはベトナム軍およびカンボジア難民問題に対する対応をめぐり穏健派と強硬派の対立が噂されていたこと,また,軍内部でクリアンサック派とプレム派の分裂が始まっていたこと,またプレムが首相となるとクリアンサック首相と違いカンボジア問題をめぐって強硬措置をとり始めたこと,さらにタイとベトナム軍との間で非難応酬が繰り返されたりカンボジア領内からベトナム軍によると思われる越境砲撃などがカンボジア国境をにわかに緊迫化させてきたこと,これらを考え合わせるとクリアンサック首相の穏健的なカンボジア問題の処理に対しプレム支持派の強硬ブループが台頭し,両グループで何らかの衝突があったものと思われる。

80年に入り与野党,学生の動きはさらに活発化し,新たに労働運動が加わったことでクリアンサック政権は危機に立たされることになった。1月下旬にはタイ人の知識人,学者の間でもあと1カ月ももたないという噂が広まるほどであった。

1月23日に政府支持派のシャム民主党のクリアンサック支持離れが明らかとなる事態が起きた。同党の9議員が党の政府支持が弱いとして離党を発表したのである。自由正義党とシャム民主党という二つの与党の政府離れは,まさに与党も政府の基盤とはならないという現在のタイ政治の不安定性を露呈させたものであると言える。しかも,こうした時期に1月14日,タイ・タバコ専売の労働者が生活手当の改善を要求しストライキに突入したのである。19日から20日にかけ公社労組幹部集会が行なわれ,タイ・タバコ専売公社に対する支援と政府に対する要求について検討を行なった。このタイ・タバコ労働者に対する政府の措置をめぐって軍内部の意見が再度対立した模様で,軍内のクリアンサック政権に対する支持はさらに弱まったものと思われる。

このように緊迫した国内情勢の下で2月1日に電気料金,9日には石油製品および調理用ガス価格が大幅に引上げられたのであった。首相は,2月11日に内閣改造に着手し,蔵相に金融専門家であるソムマイ氏を迎え入れるなどテクノクラートを起用した経済問題重視型の内閣改造を行う一方,外相にカンボジア問題で実績のあるシッティ空軍大将を起用した。こうした内閣改造は,原油価格の大幅上昇を原因としたインフレ高進という経済悪化の解決に意欲を示そうとするものであり,またカンボジア問題に対する対応にも違った面を示し軍内部の分裂を阻止しようという狙いがあった。

しかしながら,2月13日に社会行動党,タイ国民党,タイ人民党の3野党が内閣不信任動議を提出することが決定,民主党に協力を要請した。3野党は攻撃目標をクリアンサック首相一人に絞りクリアンサック追い落しの行動に出た。プラマーン・タイ国民党党首が「臨時国会において両院の支持を得るためクリアンサック首相一人に攻撃目標を絞る」と表明したことで,21日に労働組合,政党,学生の呼びかけで開催された石油値上げ抗議集会では石油値上げ反対と並んでクリアンサック首相の退陣を要求するものとなった。ククリット社会行動党党首が24日の『バンコク・ポスト』紙との会見で「問題は石油値上げ問題に留まるものではなくなった。国民はクリアンサック首相の退陣を望んでいる」と発言している。これらの行動は,「石油に弱い国」の国民が,石油値上りによる不満を何らかの形で現わす恰好の標的としてクリアンサック首相を利用したものであった。

クリアンサック首相は窮地に追い込まれたが,2月28日に野党攻勢への対応を協議するため政府支持派議員を集め危機回避を図った。しかし,集まったのは下院65人,上院180人にすぎず,とりわけ若手将校上院議員の欠席が目立ち,首相の期待を裏切るものであった。これで首相は辞任を決めたものと思われ,29日の臨時国会演説でタイの経済危機を訴え石油値上げの理由を説明した後,辞職を表明,そのまま退出した。

以上みるように,クリアンサック首相が辞任に追い込まれた背景には,OPECの原油価格引上げによる石油問題とカンボジア問題をめぐる対応があったと言える。

石油価格引上げについては国民が回避できぬものと周知していた。『バンコク・ポスト』紙の社説では,首相はOPECの力によって辞任に追い込まれたのであり,首相辞任後も問題は依然として残ると述べており,首相に同情的な見方をした。また,国会での首相辞任表明に対し議員は一斉に拍手で退場を見送ったと伝えられている。

また,79年9月末の陸軍人事異動以降,軍内部でプレム陸軍司令官の力が強まり,カンボジア問題をめぐる対応の対立で,軍内部は一触即発の分裂の危機にさらされていたようである。1月23日の首相の突然の西独訪問中止を首相は王妃の米国出発円滑化,国家の安定,平和,秩序を脅かす重大な諸問題解決のためと説明しているが,クーデター発生という噂が飛び交った。『ヘラルド・トリビューン』紙は「普通ではない労働争議,軍内部対立の噂,首相の突然の西ドイツ訪問中止。これらは明らかにクーデターの印である」と伝えている。クーデターがあったかどうかについては明確には言えないが,少なくとも軍内部はクリアンサックからプレム支持へ固まっていたものと思える。その証拠に,クリアンサック首相は,2月28日にプレム陸軍司令官と共にチェンマイに赴き,プミポン国王に辞任の意向を伝えると同時に,政権交代円滑化のためプレム陸軍司令官を次期首相に推している。2月29日にはスーム国軍司令官が「首相指名を受けない。プレム陸軍司令官の就任意向」を表明しているし,3月2日には陸軍が公式にプレム支持を表明しており,軍内部はすばやい対応をみせている。これらは明らかに軍内部がプレム支持で早いうちから固まっていた証拠である。

今回の首相辞任は石油問題,カンボジア問題という2つの国際要因によるものであったことは確かであるが,それとともに軍の存在がタイではいかに大きいものであるかをみせつけるものであったと言える。野党の第一党であった社会行動党のククリット党首も「首相は全方面の支持が得られる軍人が就任すべきである」と発言している。現在のタイでは政権を担当するのは軍部そのものであると考えるべきではないだろうか。

クリアンサック後のタイがカンボジア問題で新しい対応をみせたことを考え合わせると,クリアンサックからプレムへの交代は軍そのものが対外政策で新しい方向を選択したものであると言えよう。

プレム政権とその動揺

3月12日,プレム首相は国営放送を通じて閣僚名薄を発表し,新内閣が成立した。今回の新内閣の特徴は以下の点である。第1に,大臣,副大臣37人のうち政党人が24人,そのうち下院議員が17人と文民主体色の強い内閣となったことである。軍人主体のクリアンサック前政権とは大きく異なっている。第2に,社会行動党,タイ国民党,民主党の3大政党の連立内閣と言うべきものであると同時に,1979年4月の選挙結果を反映した各政党の入閣者数となっていることである。これによって下院301議席のうち与党が過半数以上の議席を占めた。

クリアンサックの辞職は石油問題とカンボジア問題に脅かされているタイを象徴したと言えるが,この2つの大きな問題をかかえるタイにとっては国内政治の安定をはかることが先決である。そういう判断のもとに,新内閣では軍部色彩を薄め79年選挙を反映した民主主義政権色を打ち出し,下院での過半数議席確保をはかったのである。これは下院での多数議席を占めた野党を相手にしていたクリアンサック政権時代からの教訓を学びとったのであり,そこには国内政治の安定が必要である軍部の意向がうかがえる。

新政権の安定性に対する評価は悲観的なものが多かった。『ファイナンシャル・タイムズ』紙は「極めてバランスのとれた内閣」と評価した。『バンコク・ポスト』紙は「経済閣僚に社会行動党から起用し,ブンチュー副首相がその手腕を発揮しやすい」と新政権に経済問題解決への期待を込めた。『サヤーム・ラット』紙は「内閣は分裂の危機をはらみ,短命内閣である」と批評しそれぞれ政策の異なる政党の寄り合所帯内閣の分裂可能性を指摘した。またプレム首相の経済外交問題能力,指導力は未知数であるという点から内閣の行方が注目されていた。

心配されていた内閣分裂の徴候は半年もたたないうちに現われた。下院の野党グループが,砂糖価格の高騰と品不足という「砂糖問題および生活費急騰」を理由に社会行動党出身の政府経済チームに対し不信任動議に動いたのが発端であった。これに対しブンチュー副首相が「わが党のみが非難されるべきでない。政府・与党間の不一致が経済問題解決への障害となっている」と述べたことから,それ以後,経済問題に対して他の与党の協力が得にくくなったと『バンコク・ポスト』紙は伝えている。その後の経過で判断するかぎり,ブンチュー副首相が述べた不一致とは社会行動党とタイ国民党間の不一致と思われ,タイ国民党と社会行動党は険悪な雰囲気になっていった。

期せずして11月13日に両与党対立の火を大きくする二つの事態が起きた。一つは,社会行動党のコソン副工業相がレームチャバン・ソーダ灰工場建設問題に関してプレム首相の同問題調査委員長を提案したことで,それまでソーダ灰問題を担当してきたタイ国民党のチャーチャイ工業相の立場をなくしたことである。もう一つは,プラマーン・タイ国民党党首が,経済問題討議のための臨時国会招集要求に党員が加わることに反対しないと発言したことである。政府経済チームの中心となっている社会行動党にすれば,経済の改善が進まないのは与党の協力が得られないからであり,大きな不満をいだいたと言える。

こうしたあからさまな形での2与党間の対立が81年2月のサウジアラビア原油買い付けをめぐっての謎のテレックス事件をひき起こし,内閣危機を見てとった民主党員の離党でプレム内閣は改造を余儀なくされたのであった。

プレム政権誕生以来,プレム首相の指導力が問われていたが,政府内部の対立を収拾できず81年の内閣改造までに発展させてしまったことに,軍内部での同首相に対する評価を落としたことに間違いないことと思われる。また,プレム首相の陸軍司令官留任問題の際に軍内部で首相の陸軍司令官留任反対のビラが流された。軍内部の一部には,陸軍司令官のポストに留まることと国内政治の安定は無関係であり,首相が陸軍司令官ポストを留任するととは民主主義に反するという声がある,と伝えられている。おそらく,「デモクラティック・ソルジャー(民主的軍人)」グループによるものと思われる。80年11月にはヤング・タークスが解散を発表した。これまでプレム首相を支持していただけにプレム首相の軍内部での勢力にとってマイナスに働くことはあってもプラスには働かないであろう。ヤング・タークスのリーダーであるタニー陸軍大佐は『ネーション』紙とのインタビューで解散の理由としてデモクラティック・ソルジャーとの対立回避を挙げている。このことからも,軍内部で新たな勢力争いが始まっていると推測できる。80年の陸軍司令官留任は国王の意向ということもあって留任という形で収まったが,これはかえって軍内部に亀裂を生じさせたのではないか。

81年にもプレム首相の陸軍司令官留任問題は控えている。また,80年の政治混乱で首相の指導力が問われたことを考え合わせると,81年はプレム首相にとって試練の年となるであろう。

カンボジア問題対応の変化

タイの外交問題はカンボジアをめぐっての問題に尽きると言える。カンボジア問題に対するタイ側の対応は,クリアンサック政権時代とプレム政権下では相違が現われた。本稿では,まずクリアンサック時代のカンボジア政策にふれ,次にプレム政権のカンボジア問題に対する対応をクリアンサック政権の対応との違いを明らかにしながら述べ,最後に今後のタイのカンボジア対応問題の方向を探ってみたい。

〔クリアンサック政権下の対応〕

クリアンサック政権時代のカンボジア問題の基本方針は,厳正中立の堅持,ベトナムとの緊張緩和,カンボジア難民への人道主義措置の3点に集約され,いわばカンボジア難民救済に力点が置かれたものであった。

クリアンサック政府の対ベトナム緊張緩和政策と中立主義政策は表裏一体をなすものである。すなわち,カンボジア問題に関して中立的立場を堅持することによって緊張緩和をはかろうとするものであり,タイがいかに対ベトナムとの緊張緩和に努力していたかは,79年1月6日のワルトハイム国連事務総長との会談でクリアンサック首相が「東南アジア諸国はカンボジア国境の緊張を緩和する平和手段を見出すことに努力する」と表明していることから明らかである。

しかしながら,79年5月に発足した第2次クリアンサック政権ではカンボジア問題に対するタイの基本的姿勢に変化がみられたことも事実であった。5月29日に開かれた政府施政方針起草の特別閣議では,カンボジアにおける対ベトナム政策が最重点課題であることで合意し,当時のアルン副外相が「タイの外交政策は国家の防衛のために修正される」と発言し,対ベトナム政策修正を表明した。また,その後の国会における野党質問に対してシッティ国防会議事務局長が「タイはヘン・サムリン政権を認める最後の国となろう」と答え,タイ政府が初めて同政権を承認しないであろうことを明らかにした。

クリアンサック政権の対カンボジア基本方針は6月4日の政府施政方針に明確に示されている。施政方針によれば対カンボジア方針は次の3点から成り立っている。第1に,国家の安全と主権の確保とともに,国際社会が人道上の見地から難民問題解決に大きな責任を果すように政治的,外交的努力をおこなうことである。第2に,他のASEAN諸国との協働を促進すること,第3に,軍隊,警察,自発的市民軍の増強,タイ国防衛のため戦時体制をとること,である。

しかし,この新方針でもベトナムとの緊張緩和,中立的立場は維持されたようである。というのは,首相は,8月30日に「対ベトナム関係についてはベトナムの対タイ政策によって決まる」と事実上の対ベトナム緊張緩和政策を表明しているし,9月4日には「中立的立場を維持する」と明言しているからである。

むしろ,クリアンサック政府のカンボジア政策の特色は,カンボジア難民救済のための努力にあったと言える。首相はカンボジア難民問題をタイ国だけでは解決できない国際問題でありインドシナ難民を永久的難民と考え,先進国の援助努力を訴え,米国,ヨーロッパ諸国を訪問した。6月8日から始めたカンボジア難民強制送還は,各国からの難民援助と難民受入れが目的であり,世界の目をカンボジア難民問題にむけさせるのが目的であった。79年10月9日に発表した30万人収容可能な国家難民収容センター建設の決定は,政府がカンボジア難民を永久的難民と考えてのものであった。このようにクリアンサック政府のカンボジア問題は各国にカンボジア難民救済を呼びかけ実行させることにその焦点があった。

〔プレム政権下の対応〕

プレム政権では難民問題は国際問題である以上にタイにとっては国内問題であるという認識が強まった。難民問題が国内問題であるというのは,タイ・カンボジア国境での紛争がタイへ常にベトナムの脅威をもたらすからである。また,国際機関などによるカンボジア難民への援助で,難民の生活は国境付近のタイ村民の生活以上であるという不満が国民にあるという点でも国内問題と言える。シッティ外相は第2次クリアンサック政権下の総理府相時代に難民問題国際会議出席に先立ち「タイはすべての事実を明らかにし,難民問題がタイにとっていかに重要であるかをはっきりさせる」と語り,難民問題が国内問題となっていることを強調したが,プレム政権下で難民問題の根本的解決を推し進め始めた。

プレム政権のカンボジア問題への取り組み方は,難民問題の根本的解決であり,その方法としてはヘン・サムリン政権―ベトナム―ソ連勢力とタイ―ASEAN―中国―反ベトナム勢力という2大勢力の枠組のなかで解決していこうとするものである。すなわち,ASEAN諸国との連帯をはかり,米・中・ソという世界3大国を中心とした解決であり,このためにはベトナムとの緊張も辞さないというものである。クリアンサック政権の対ベトナム緊張緩和,中立,難民の救済という,いわば「無策の策」から転換し,タイの立場をはっきりとさせ,3大国をまき込むことによって難民発生の原因となっているベトナムのカンボジア占領を終らせようというものであった。プレム首相は政権発足後直ちにカオ・イ・ダン難民キャンプの分離・閉鎖計画,自発的帰国希望難民の送還計画といったハード・ライン政策に着手し,カンボジア問題の根本的解決の道を歩み始めた。

プレム政府のカンボジア問題に関する80年目標は9月に予定されていた国連総会での民主カンボジア承認にあったと言える。そのための第一弾は3月18日開かれたESCAP総会での提案であった。首相はその開会演説で,①平和的解決のための国際会議早期開催,②国境沿いに国際機関による安全地帯の設定,③タイ国境側への国連監視チームの常設,という3提案を行い,問題解決の意欲を示した。第二弾は4月から5月にかけてのプレム首相のASEAN訪問であった。首相は4月18日~19日にマレーシア,19日~20日にシンガポール,25日~26日にインドネシア,5月15日~16日にフィリピンを訪問し,他のASEAN諸国との関係強化を図った。

第三弾は,6月17日から開始された自発的帰国希望難民の送還開始である。ソ連タス通信は「自発的本国帰還はポル・ポト一派をはじめとする反革命武装グループのカンボジア領侵入である」と伝え,ベトナムは干渉と断定しタイ領に侵入,攻撃を行なった。

タイの送還は6月25~26日のASEAN外相会議,27~28日のASEAN拡大外相会議にむけてのタイ側の巧妙な措置であるという観測も聞かれた。実際,両会議ではベトナム軍のタイ領侵入を強く非難し,ASEAN諸国の団結強化,参加国のタイ支援に成功した。しかし,タイ側にとっては新たな難民流入をくい止める措置であり,ベトナム側の侵入攻撃は臨戦体制に突入したタイ国軍の戦力視察のための行動であると思われる。ただ,タイにとって有益であったことは,ソ連のアフガニスタン介入以降アフガンに注目していた世界の目を再びカンボジア問題に向けさせたことである。『バンコク・ポスト』紙の社説は「今回の戦いはタイに二つの勝利をもたらした。ひとつはベトナムとの戦における勝利であり,それ以上に勝利であったことは世界の目をカンボジア問題に向けさせたことである」と語っている。

プレム―シッティ外交は実を結び,10月の国連総会ではカンボジア代表権,政治解決決議の両採決で圧勝を収め,80年の目標は達成したと言える。

しかしながら,ベトナムは国連決議の承認を拒否しヘン・サムリン政権は新憲法公布,総選挙実施によってカンボジアでの既成事実を作りあげる作戦に出てきた。タイにとって問題なのはカンボジア国境での緊張から生じる難民発生である。ベトナム軍はポル・ポト一派への制裁という名目でカンボジア領を占領し,これがカンボジア難民発生の源となっている。それで,タイはポル・ポトに代る新勢力を育成し,ベトナムをカンボジアから撤退させようと考えているようである。すでに80年10月20日から22日にかけシッティ外相がマレーシア,インドネシア,シンガポール3国を訪問し,帰国後,インドシナ問題で共通の認識を得たと語っている。おそらく,ポル・ポトに代る第三勢力の育成で合意があったと思われる。また10月27日からプレム首相が「決定的に重大な中国訪問」を行なっている。これは,第三勢力の育成で固まったASEANの意向を説明し,ポル・ポト支持の変更を中国に要請したものと考えられる。

経済

80年経済概観

80年のGDP経済成長率は6%と79年の6.6%成長を下回り,2年連続の減速 成長にとどまった。経済成長低下の原因は,旱ばつによる農業の不振,79年から80年にかけての原油価格高騰によるデフレ効果,インフレ対策としての金融引締と海外高金利の影響による国内の高金利,であり,国内要因に海外要因が重なったものであった。

78年に好調であった農業生産は79年後半からの旱ばつにより,80年は乾期米,砂糖きび,キャッサバが大きな被害を受け,減産となった。とりわけ,砂糖きび生産は前年の約半分に落ち込み,世界的な砂糖きび生産の減産もあって砂糖価格の高騰および砂糖の不足をもたらした。

農業の不振はタイ経済に大きな影響を与えた。第1に,農産物をベースとしたアグロ・インダストリーに影響を与え,80年工業生産不振の一要因となった。第2に,農産物輸出の伸び悩みを招いた。

国内経済悪化の原因として次にあげられるのは原油価格高騰によるデフレ効果の影響である。OPECによる第2ラウンドの原油価格大幅引上げで,79年から80年3月までの間に,プレミアム・ガソリンが72%,高速ディーゼル油は130%以上も値上がりした。また,電気料金もコスト上昇のため80年だけでも2月に39.7%,10月に15.6%と通年で60%以上も上昇した。石油製品および電気料金の値上げが工業に与えた直接的影響は大きかった模様である。

また,石油製品および一連の公共料金の値上げで,消費者物価指数は79年後半以降急激に上昇し80年通年で19.7%上昇した。インフレ高進のあおりで民間消費はかなり冷え切った模様である。

民間消費の低下は,さらに工業生産,民間設備投資の悪化材料となった。OPECによる原油価格高騰は,直接的なルートと関接的なルートを通じてのデフレ効果を80年にもたらしたと言える。

80年経済悪化原因の最後にあげられるのは国内の高金利である。80年を通じて金利は高水準に推移した。78年末から2年以上にわたる高金利で民間設備投資増加率は大幅に減速し,在庫調整が進められた。とりわけ,2月から3月にかけての民間設備投資の落ち込みは著しく,中央銀行発表の投資指数は79年第1四半期のピーク時123から103まで2割ほど下落した。高金利を通じての民間設備投資,工業へのデフレ的効果も大きかったようである。

以上のように80年経済は,農業不振,石油価格高騰,インフレ,高金利という四つのルートを通してのデフレ効果が重なり,民間消費支出は79年の7.7%増から4.8%増まで低下し,工業生産増加率は78年,79年の各11.0%増,11.1%増から80年は6.2%増まで落ち込んだ。

工業生産の停滞模様のなかで建設活動も不振であった。建設活動は80年上半期から不振に陥り,棒鋼・セメント生産への影響が現われた。インフレの高進で80年下半期以降,住宅販売が極端な不振に落ち込み,全国で40万戸の住宅物件の売れ残りが生じたと言われている。このため月を追うごとに住宅建設は落ち込み,棒鋼生産は操業不振状態からいまだに脱し切れない。

海外経済部門も著しく悪化した。国際収支は79年の79億バーツの赤字から80年には52億バーツの黒字となったが,これは資本流入によるもので,貿易赤字額は79年の470億バーツから23.4%増の580億バーツまで拡大,石油に弱い貿易構造を露呈することとなった。輸出は農業の不振から主要農産物輸出の増加率が低下し,輸出総額は79年の30.2%増から80年は政府輸出目標の25%増を若干ながら下回る24.4%増の1330億バーツにとどまった。輸入は,非石油類が国内経済の悪化で対前年比9.2%増にとどまったが,石油輸入が原油価格高騰が原因で73.3%増の580億バーツとなり,この結果,総輸入額は対前年比24.1%増の1910億バーツとなった。なお,80年石油消費量は79年に比べ190百万リッター減少し11,600百万リッターにとどまったと報告されている。

80年金融情勢

79年は,76年から3年余りにわたる経済拡大が進む中,商業銀行貸出は急増傾向を持続させる一方,実質預金金利の大幅マイナスで貯蓄意欲は低下し,国内金融市場は78年第4四半期以降タイトに推移していた。

しかし,80年に入り国内金融市場の情勢は一変した。79年10月にアメリカ連邦準備銀行が銀行準備を金融政策の目標としたことから米国金利が短期間に急激に上昇し,それに連動してユーロ金利も同様に高い水準になった。このため,金融当局は1月7日に海外高金利下での資本流入促進措置として,商業銀行貸出金利の上限をこれまでの15%から18%に引上げ,これとともに定期預金金利を3%,貯蓄性預金金利を2.5%引上げると発表,即日実施した。この措置は,実質的には貸出金利を浮動化し,金融市場の情勢に貸出金利・預金金利を調整したものであった。

ところが,この措置は,経済活動が悪化し,企業の借入れ余力が弱まっていたときにとられたことから,企業の借入れは減退し,商業銀行貸出増加率は急激に低下し始めた。一方,預金利子率の大幅引上げでこれまで商業銀行に流入してこなかった資金を吸いあげ,同預金増加率は著しい上昇をみせた。

商業銀行預貸率でみるかぎり80年はほぼ年を通じて金融緩和が進んだものとみられる。同預貸率は1月の119%をピークに持続的に低下し10月には99%まで低下した。国内金融市場は依然逼迫傾向にあるものの金融緩和が進んだことは事実である。しかしながら,図1が示すように国内金利は国内金融市場の需給状況を反映しないで推移したことがわかる。

これは,79年,80年と国内資金需要が国内資金供給を上回っていたため海外からの借入が必要であり,このため国内金利が海外金利に連動して動いたためである。80年を通じ米国金利は短期間で急激に上下しユーロ金利もそれに連動して動いたが,国内金利も大きく乱高下を繰り返した。とりわけ,5月にはドルの下落に伴い国内コール・レートが7日の17.5%から9日16.5%,13日15.5%,15日14.5%,22日14.0%,27日13.5%,28日12.5%と1カ月未満で5%も下落した。

80年は海外要因で,国内金利が高水準に推移ししかも乱高下を繰り返したが,これにより民間設備投資をはじめとする経済活動は大きな影響を受けた。また,国内金利が海外金利に著しく影響されることは金融当局の政策スタンスを狭めるばかりでなく,金融緩和が必要な時に国内金利が上昇してしまうことさえ起りうる。第1次プレム内閣のアムヌアイ蔵相も国内金利は国内金融市場での資金需給によって決定されることが望ましいと指摘している。しかしながら,アジア中進国を目指しているタイにとっては,経済の拡大過程には資金が不足し海外市場に資金をたよらなければならない面があることは否定できない。

タイ経済,調整の始まり

タイ経済は第1次石油ショック後の1975年から1979年までの5年間でも年率8.4%と高い経済成長率を達成したが,その一方で数々の構造的とも言える経済問題をかかえこんでしまった。

図1 金融関連指表

第1は,都市と地方における所得格差の拡大である。同期間の農業生産は国民所得ベースで年率5.4%に過ぎなかったのに対し,製造業生産は11.06%増,建設業は15.6%増と極めて高い数字を示した。都市では製造業,建設業,地方では農業に偏ったタイ産業社会を考えれば,都市と地方所得格差拡大は,農業と製造業・建設業の伸び率の差から明らかである。

第2は,対外収支ポジションの悪化である。貿易赤字は,経済落ち込みの激しかった76年を除きほぼ一貫して拡大した。とりわけ,ここ数年,貿易赤字は急激に膨れあがり経常収支赤字の対GDP比は79年には8.3%,80年には8.5%まで達する見込みである。対外ポジション悪化の原因は二つである。一つは,原油価格引上げによる石油輸入支払の増加である。80年には石油輸入支払額は輸出所得の31.3%を占めるまでに至った。もう一つは,76年10月から始まった第4次5カ年計画で推進された輸入代替工業化である。輸入代替工業化は中間財・資本財の多額にわたる輸入が必要であったからである。

第3に,公的債務の増加である。インフラ整備が海外からの資金借入によって進められた結果,公的債務残高は80年に3864百万米ドルとGNPの11.6%にまで達する見込みである。

第4に,財政収支の悪化である。70年代の10年間で政府財政支出は3.6倍以上にふくれあがり,80年には財政赤字はGDPの13.3%に達する見込みである。

第5に,貯蓄・投資のアンバランスである。77年以降,旺盛な投資と国内貯蓄の伸び悩みで,国内資金調達率は80年には75.5%と,約4分の1の資金を海外に依存している。

以上みられる構造的とも言える経済問題に対処することが「苦難の80年代」をタイ経済が生き残る道であり,81年10月から始まる第5次5カ年計画で,これらの問題を解決し世界経済の動向に連動していくため,「調整」が必要であるという認識が政府経済チームおよびNESDBの中に生まれた。ブンチュー経済担当副首相をリーダーとする政府経済チームは,新5カ年計画へのスムーズな移行をはかるため,80年を調整の第一歩として位置づけたのである。

政府経済チームがまず行なったことは,タイ経済の非常事態宣言とタイ経済が新しい道を進むという宣言であった。政府経済チームのメンバーは「タイ経済がこのまま進めば,決定的な破局を迎えることは明らかである。タイ経済は構造的変革が必要となっている。」と再三再四にわたり繰り返し,「開発戦略」の方向を示した。また,ブンチュー副首相は「タイ株式会社」(資料参照)という概念をもちだし,タイの発展に寄与するものであれば,あらゆる海外企業の進出を歓迎するというオープン・ドア・ポリシーをとることを明らかにし,ここにタイ経済が新しい道を歩み始めたことを明らかにした。

彼らが語っている80年代に向けての「開発戦略の方向」とは以下の通り要約される。

○財政・金融政策の緊縮的運営を行う。これによってインフレ圧力を弱め,輸入抑制を図る。

○財政収入の増加と国内貯蓄の増加。これは,インフレおよび輸入の抑制をはかるとともに,財政収支ギャップおよび貯蓄・投資ギャップという不均衡を解消する。また,貯蓄の増加は海外金融市場からの影響を弱め国内金融政策の弾力的運用を可能にする。

○エネルギーおよび公共料金は実質コストを反映して調整し,これまでのような政府補助金の給付や調整の遅れを回避する。これは,エネルギーの節約,貿易収支の改善,財政支出削減を狙ったものである。

○輸入代替工業化から輸出代替工業化への転換。中間財,資本財の多量輸入を必要とし雇用吸収力の小さかった輸入代替工業化から,国内の農産物および鉱物資源を利用し雇用吸収力の大きい輸出代替工業化への転換を進める。これは,貿易収支の改善のほか,地方所得の向上,雇用確保を図ったものである。

○輸出促進。

○海外企業への投資機会増大。これは,民間フィールドはもとより公共フィールドまでも海外企業に門戸を開放するもので,国際収支の改善と公的債務負担の軽減を狙ったものである。

以上の財政・金融政策,工業化政策,エネルギ

○政策が「開発戦略の方向」であり,政府経済チームはこの枠組に沿って新5カ年計画に先立ち調整の第一歩を歩み始めた。

3月31日にはアムヌアイ蔵相,タムチャイ商相,ヌクン中銀総裁が,課税優遇措置見直し,輸出産業および輸出指向産業に対する融資改善,輸出市場拡大のための予算割当て増加,の3点を通じた輸出促進を行なうことで合意し,5月12日,10月16日に輸出促進措置が発表された。4月16日には投資申請を直接に総理府省に提出する投資認可迅速措置の発表,5月21日には低・中所得層の税緩和,高所得層の増税,法人税率の引上げを含めた大幅な税制改正が発表された。

6月25日には外国人商工会議所で外国人ビジネスマン,外交官約400人を前に,政府経済チームを伴ったプレム首相が演説,以下の項目を推進することを約束している。

○貿易活動,投資活動を営む外国人に対する公平な取扱い。

○投資を妨げている各種規制の緩和および行政処理の迅速化。

○腐敗および汚職の根絶。

○合法的労働組合および使用者団体の保護。

○合理的かつ理解しやすいガイド・ラインおよび条例設定とそのための政府部門の運営・計画。

○国家の安全・利益に反しない経済活動への海外企業の参加を歓迎する。

○外国企業を含めた企業の代表者による情報交換の開始。

さらに,9月10日には,電気料金などの公共料金は,政治的拘束から分離し世界経済の動きに連結させることで,タイ経済の調整は可能となるという首相見解表明が出され,政府経済政策の方向を明らかにした。

また,政府債務の急増を防ぎ計画的な債務返済計画のため,バンコク空港ホテルなどのプロジェクトが延期された。

以上のように,80年は「調整」へ向けて政府経済チームが着々とその準備を進め,あるものについては実施にまで至った。一方,NESDBでは第5次5カ年計画の作成作業が進められた。まず,1月29日にスントーン元経済担当副首相が第5次5カ年計画起草委員長に任命された。スントーン委員長は2月に5カ年計画準備委員会として七つの一般計画小委員会,七つの特別計画小委員会を設定した。すでに,支柱となる計画目標は設定,発表された。第1に,人口増加率を現在の年率2.1%増から1.5%増へ低下させる。第2に,計画期間中の借款予定額を約100億ドル,対外債務返済率は対処可能な8%以内,債務返済率は81年6.6%,82年7.09%,86年合計年度末は7.7%とすると発表された。第3に,農業生産増加率目標を年率5.8%とする。第4に,経済成長率目標を5~6%とする,と発表された。

81年3月の内閣改造でブンチュー副首相,アムヌアイ蔵相,タムチャイ商相らの社会行動党出身の経済閣僚が閣外に去った。プレム首相は新政府経済チームをテクノクラート中心で構成し,旧チームの路線を継続しようとしているが,果してどこまで可能であろうか。NESDBはこれまでの新5カ年計画のフレームを修正することはないと思われる。タイの将来は新生タイを目指した新計画をどこまで実行できるかにかかっている。