揺らぐアメリカの指導力

1991年 アメリカのアジア政策

浅野 幸穂

Copyrights アジア経済研究所http://www.ide.go.jp/

湾岸戦争とソ連解体のあとに来たもの

湾岸勝利とソ連解体

湾岸戦争開戦に始まりソ連の解体に終わった1991年の世界情勢の展開は,ブッシュ政権にとって「新世界秩序」構築の条件を成立させたかのようであった。

湾岸戦争の軍事的勝利は圧倒的であった。5大陸28カ国の60万人を動員した多国籍軍は1月17日の開戦以来,終始制空権,制海権を握り,ハイテク兵器を目標バグダッドに集中した。さらに途中,ソ連による和平工作を排除して2月24日地上攻撃に移り,イラク軍のクウェート完全撤退を待って同28日に停戦した。

「6週間の空爆と100時間の地上攻撃」で決着した「砂漠の嵐」作戦は,米軍死傷者を615人(国防総省8月発表)に止めて,イラク軍のクウェート撤退,クウェート合法政権の回復,ペルシャ湾の安全,米国市民の保護,という戦争目的(1990年9月11日,ブッシュ演説)を達成し,アメリカ国民を熱狂させた。「第2のベトナムではない」と繰り返していたブッシュ大統領の約束は果たされ,長い間の「ベトナム・シンドローム」から解放されたのである。アメリカがよい方向に向かっている,と考えるアメリカ人は90年10月から91年2月の間に19%から58%にはね上がった(WP/ABC調査)。当初武力解決方式に批判的であった民主党議員は共和党側から袋叩きに会った。この時点でブッシュの再選は約束されたも同然に見えた。

米軍の圧倒的軍事力を前に,一方のソ連勢力の後退もあって,中東のイスラム勢力も対米関係の改善に動き始めた。多国籍軍に加わったシリア,レバノンの米人人質解放に動いたイラン,戦後の中東和平会議への各国の一定の協力の例がそれである。中国が「単一超大国の世界支配」に警戒の目を向けたのはこのような傾向に対してであった。

一方,経済混乱と連邦構成各共和国の独立要求によってソ連は連邦の基盤を失い,年末,独立国家共同体(CIS)成立によって正式に解体した。ブッシュ政権が1989年,冷戦終結に踏み切ったのはソ連が東欧不介入の立場を明らかにしたからであった(本年報,1990年版)。ブッシュ大統領は90年8月「アスペン演説」で,国防戦略をソ連軍のヨーロッパ侵攻や世界戦争に対する備えから地域的な不測事態に備えることに転換し,兵力を5年間に25%削減することを明らかにしている。91年に入ってワルシャワ条約機構は3月末で軍事機構たることを停止し,7月1日には正式に解散した。そしてソ連自体も,8月の保守派クーデタ未遂事件を契機に諸共和国の離反に歯止めがかからなくなったわけである。

この事態に際してブッシュ政権は,議会,世論からの反発を受けながら,湾岸戦争遂行上ゴルバチョフに配慮して1月のソ連軍バルト3国弾圧には控え目な非難に終始した。ただしソ連に圧力をかけて,通常兵器削減条約の解釈や戦略兵器削減条約案の仕上げにおいてソ連の譲歩をかちとることを忘れなかった。8月クーデタ未遂後はバルト3国の外交上の承認に踏み切り,ソ連による分離承認を促した。これはその他共和国の独立の連鎖反応を呼んだ。さらにベーカー国務長官を送って,いまや弱体化したゴルバチョフからキューバからのソ連軍撤退の約束を取りつけ,アフガニスタンへの米ソの武器供与打ち切りで合意した。この年はエチオピアの政権崩壊(5月),アンゴラの和平成立(同月)が続き,カンボジア和平協定の成立(10月)と併せ,ソ連軍の撤退や援助停止を契機にして冷戦下の地域紛争がほとんど終結した。

文字通り「唯一の超大国」として残ったアメリカであるが,冷戦後の「世界新秩序」を設計,いわんや構築する作業が容易でないことはすぐ明らかとなった。湾岸戦争の勝利にせよソ連の解体にせよ,それ自体の意義が問い直されているのである。

湾岸戦争については,戦争直後のシーア派教徒やクルド族の反乱に対するイラク政府軍の弾圧にからみ,のちにはきびしい和平条件と国連制裁継続にもかかわらずフセイン政権が生きのびていることにからんで,戦争目的は達成されていないのではないか,という疑問が生ずるに至った。一層重大なことにアメリカ国内では,ブッシュ政権が対外政策にばかり入れこんで困難な国内問題をないがしろにしているのではないか,さらには,冷戦が終った今,アメリカは孤立主義にもどるべきではないか,という主張となって表われている。

内政優先論は,1992年大統領選挙が前哨戦に入った秋には民主党の巻き返しとして勢いを増した。この頃には,湾岸戦争を指導した大統領の栄光はブッシュから消え,人気は急落していた。経済回復の遅れ,特に失業率の高止まりが背景にあり,80年代以来共和党政権下の中産階級の地位低下がそれに拍車をかけた。しかも共和党保守派の孤立主義の主張はパット・ブキャナンに見られるように侮れない支持を得るに至った。11月初め,ペンシルベニア州上院補欠選挙の与党敗北をきっかけに,ブッシュはアジア歴訪の延期を決定した。

ソ連解体は単純にアメリカに有利とはいかなかった。世界の勢力均衡上からも解体後の善後処置という点からも,複雑な問題をはらんでいた。

ブッシュ政権は前述のとおり,ソ連軍によるバルト3国弾圧にも慎重に対処したし,8月クーデタ後実権がエリツィン・ロシア大統領に移行したのちも,つとめてソ連の立場に配慮した。冷戦が終結し,軍事的,経済的に弱体化したソ連であれば,地域紛争処理や中東和平共同呼びかけに見るように敵対者というより協働者であり,むしろ連邦存続の方に利用価値があった。批判されたゴルバチョフ固執はそのような読みからであろう。

ソ連が解体しCISという不安定な結びつきとなったことは,アメリカに軍事上,経済上大きな負担を負わせることになった。前者は軍備,特に核の管理の問題であり,単一のソ連軍解体に伴う制度上の不安定ばかりか社会経済的混乱にも目が離せなくなった。12月央ベーカー国務長官は主要共和国を廻り,もっぱら核管理の問題で交渉を行なった。後者は,悪化した国民生活に緊急援助を行ない市場経済移行を支援することである。8月のブレイディ財務長官,グリーンスパンFRB議長の訪ソ後も,情勢はさらに悪化したが,受け皿となる実効的な経済改革計画が準備されず,論議は活発だが緊急援助の範囲にとどまっている。

冷戦後世界の構造

アメリカが「新世界秩序」を唱えながらそれを明確に描けないでいるのは,旧来の枠組みが崩れた後の不確定性,予測困難性という過渡期特有の現象であるが,基本的にはアメリカにそれを描き実施する力があるか,という問題に帰着する。

冷戦が終結を迎えるまでに国際間の力の構造変化が進行した結果,米ソ対立という枠組みが外れると新しい勢力関係が明らかとなった。1991年8月ホワイトハウスが発表した年次報告『アメリカの国家安全保障戦略』(以下「安保戦略」)が,世界的な戦略環境の根本的変容を指摘し,「軍事超大国ソ連」(発表は8月クーデタ直前)につづけて「もっとも重要で広範な影響を与えた戦略動向の一つ」として「経済的,政治的指導者としての日本とドイツの出現」を挙げているのは興味ぶかい。「安保戦略」は日,独と健全な政治的,軍事的,経済的結びつきを求めつつ,それらとの通商交渉が伝統的な対ソ軍備交渉と同じ戦略的重要性をもつと見,また米軍駐留をめぐる費用分担など責任分担問題の先鋭化を予測している。

最近の国際関係では経済力のもつウェイトが高くなっているが,冷戦の終結はこの傾向を一層押し進める。アメリカの力の衰えは,湾岸戦争戦費を大部分,湾岸当事国のほか主として日,独の拠出に依存したことに表われている。しかも米議会の「日独只乗り論」や米政府の執拗な対日為替差損補塡要求は,経済力中心であった日,独を湾岸戦争を境に一層の政治,軍事的役割に乗り出すように仕向けている。

しかし日,独の国際関係におけるウェイトは,実はそれぞれ東アジア,西ヨーロッパという存立基盤から生じたものであろう。日本と東アジアの場合は別項にゆずり,1991年に見られたアメリカと西ヨーロッパの関係に注目してみよう。

NATOは11月,ローマの首脳会議で「新しい戦略概念」を採択,全ヨーロッパ戦線への同時,全面的脅威が事実上解消したという新しい戦略環境に立って,戦力規模(特に核戦力)を大幅に縮小し,柔軟性と機動力をもった即時緊急対応部隊を新設することとした。しかしその背後では,EC加盟9カ国が参加する西欧同盟(WEU)を中心に将来の欧州軍を形成しようとする独,仏の強力な動きとそれに反発する米,英の対立が渦巻いていた。ブッシュ大統領は,ヨーロッパの独自性を要求する動きに対し,アメリカはヨーロッパを従属させる意思はなくその統合を支持する,WEUはNATOの代替ではなく補完である,と応酬した。

今回は妥協が成立したが,将来にわたっては事態は流動的であろう。ECは12月のマーストリヒト会議で「欧州連合」創設を宣言し,一方アメリカとECはGATTウルグァイ・ラウンドの農業交渉の場で対立を続けている。すでにNATO国防相会議(6月)決定では,NATO全兵力は3分の1削減されて100万人に,うち米軍の比重は現32万人から10万人となる。米国内の孤立主義者の反応が見物である。

一方,米ソ対決に見られる冷戦型対立が解消するとともに,地域紛争の脅威がクローズアップされてくる。とりわけソ連・東欧圏を束ねていた枠組みが一挙に解消したことは潜在していた民族主義の勢力を解放した。旧ソ連,旧ユーゴをめぐる諸共和国,諸民族の紛争がそれである。これらの民族紛争もそうであるが,特に湾岸戦争は,それと関連する兵器,とりわけ核,生物,化学など大量破壊兵器の拡散の脅威を現実のものにした。

地域紛争と関連する脅威には,このほか「安保戦略」で挙げられている破壊活動,テロリズム,不法な麻薬取引,難民などがある。

手探りつづく新世界戦略

以上見てくると,湾岸戦争勝利やソ連の最終的解体という一見有利な情勢展開にもかかわらず,アメリカの新世界戦略の形成は情勢に対応しつつ手探り的に行なわれていることがわかる。これを軍事戦略について見てみよう。

アメリカは冷戦終結を踏まえてすでに1990年8月には,ヨーロッパ直接侵攻や世界戦争の危険が薄れた情勢下で兵力を5年間に25%削減し,国防の研究開発,人員・集積資材の輸送能力向上,現役・予備役の新しい即応体制,戦略を再構築できる態勢,の形で国防構造を再編成することを打ち出していた。イラクの侵攻が起きた日のブッシュ大統領の前記「アスペン演説」である。

1年後発表された前記「安保戦略」はこの方針を敷衍・展開したもので「将来の戦力の概念的枠組みを規定した新しい国防戦略」として提出されている。新時代の4基本要請,(1)核抑止力の確保,(2)重要地域における前方展開,(3)危機に対する効果的対応,(4)必要な際,戦力を再構築する国家能力,をもとに,25%削減した戦力規模で,四つの基礎混成軍―戦略軍,大西洋軍,太平洋軍,即応軍が編成される。基本はそうであるが,随所に湾岸戦争の経験が反映している。たとえば,弾道ミサイル拡散に対応した戦略防衛構想の修正,地域同盟国との平時の協力関係,戦力展開能力強化の必要性,州兵・予備役部隊の改編などである。

しかしこの「新国防戦略」にせよ必ずしも最終的なものとは言われまい。国際情勢の変化もあればアメリカ自体の財政事情もある。大量破壊兵器拡散防止と財政負担軽減の緊急性がある以上,ひきつづき情勢に対応した調整が必要となる。たとえばブッシュ大統領は「安保戦略」発表1カ月後の1991年9月,恐らくはソ連の新事態に対応して,戦術核の大幅削減を発表しソ連の同調を得た。12月には在韓配備の戦術核が撤去された。92年1月末の国防予算要求では,歳出ベースで前年比名目6.8%減,B-2爆撃機,シーウルフ型潜水艦などハイテク兵器が軒並み生産中止ないし削減となっている。軍事費削減はブッシュの再選戦略上,景気てこ入れと人気上昇を狙った減税財源としてであるが,客観情勢にその余地が生じたことも事実である。兵力削減規模は今のところ25%が堅持されているが,これもいつまで続くか疑問である。

「安保戦略」は「直面する敵は拡張主義的な共産主義であるよりも不安定それ自体だ」と述べる。冷戦後の未知の領域に踏み込んだことに加え,アメリカ自体の力の限界が目立つ。結局,「新世界秩序」は現実との格闘のなかで徐々に全き姿を現わしてくるのではなかろうか。

変わるアメリカの軍事プレゼンス

アメリカのアジア戦略と東アジア

アメリカの「新世界秩序」追求が模索状態であることはアジアにおいて一層はなはだしい。1991年末からのブッシュ大統領のアジア4カ国歴訪にその明確化の期待がかけられたが,はじめは予定日程の延期によってアジア軽視の姿勢かと疑われ,結局実施した時も再選を露骨に意識して個別企業の利害に傾斜するなりふり構わぬ姿勢により当然その成果も矮小化された。その「日米東京宣言」(92年1月9日)にしても,ベーカー国務長官の東京演説(91年11月,「参考資料」参照)から遠く隔たるものではなかった。

アジアと言っても,アメリカは通常,東アジアとかアジア・太平洋として捉え(南アジアは中東・南アジアなのである),前述のとおり,戦略上ヨーロッパに次ぐアメリカのプレゼンスの重点である。世界の石油供給基地であり,イスラエルとアラブの対立で不安定ただならぬ中東への利害関係の強さは言うをまたないが,戦略上のプレゼンスとしては地上軍の恒久的配備は困難である。

米軍のプレゼンスという点から言えば,ソ連が解体し東方に広大な緩衝地帯が出現したことで5年間で3分の2もの大幅な米軍削減が可能になったヨーロッパに比べて,東アジアは1992年末までの第1段階に10~12%の削減にすぎず,その後は不透明である。これはアジアの安全保障構造がソ連という単一の脅威を念頭においたヨーロッパのそれとは異なり,複雑な民族,人種,宗教の構成をとること,中国,北朝鮮,ベトナムなどの共産主義政権が残ること,などによるものであろう。

しかし別の面から見れば,これはアメリカが世界中でもっとも経済的,政治的に活力ある国々が集中する東アジアに重要性をおいていることの反映である。近年,アメリカ政府当局者はしばしば,アメリカの対アジア太平洋諸国との貿易額が対大西洋諸国のそれをかなり上回っている事実を指摘する(たとえば前記ベーカー演説でも)。

一層留意すべきことは,この重要地域において日本が占める圧倒的な地位である。貿易,投資,援助いずれの点でも,東アジアにおける日本のプレゼンスはアメリカのそれを凌駕し,特に1985年の国際通貨調整以後その傾向は著しい。アメリカはドイツとともに日本が経済的だけでなく政治的な指導者として出現していることに注目しているが,成長性ゆたかな東アジアの地盤において見た時その脅威感は一層強まるのである。

したがって1990年12月,マレーシアのマハティール首相から提起された東アジア経済グループ(EAEG。のち東アジア経済協議体=EAECにトーンダウン)構想は,東アジア地域だけをカバーし,かつ日本の主導に期待するという点で,想像以上にアメリカの危機感をかき立てるものとなった。ドイツを中心に強力な統合ECが出現しようとしている時,日本までが東アジアを囲い込むことになるのではないか,というわけである。そもそものEAECの発想がむしろEC,またアメリカの北米自由貿易協定(NAFTA)に対する対抗から出ているにもかかわらず,そしてアメリカ自身,さらに米州自由貿易圏をめざしてこの年中南米貿易協定相手国を28カ国にも拡大(7月)したにもかかわらず,NAFTAは関税同盟と違い域外圏に対し共通の障壁を打ち立てるものではない,と言い立てた。さらに,アメリカを除外したいかなる取り決めも非生産的だとEAECを批判した。

アメリカはこれに対置して,アジア太平洋経済協力(APEC)を押し立ててあらゆる機会をとらえてその育成を図っている。この枠組みを,「市場開放を促進し,ダイナミックな経済成長を持続し,政治協力を構築する」(「日米共同宣言」)ための地域的努力の場と捉え,この有望な市場に参加し政治的な主導権を取ろうとしている。EAECなど,起こりうる試みに対抗してこの組織に普遍性と正統性を与えるため,この年11月の第3回閣僚会議には中国,台湾,香港を初めて参加させ,さらにソ連ないしロシアの参加を将来に期待している。その反面,政略上APECの中核としてのASEANに敬意を示すのを忘れていない。

対日政策と対中政策

現在はアメリカが今世紀で初めて,対日関係も対中関係も同時に悪化した時代と指摘されている(スカラピーノ教授,『フォーリン・アフェアーズ』誌,1991/92年冬号)。アメリカが伝統的にそのどちらかにアジア政策の重点をおいてきたことは事実である。しかし今はその一方との関係によりかかるというより,アメリカが国際的勢力変動の結果として生じた,双方に対してもつジレンマを調整ながら均衡をとっていく時代のようである。

アメリカが衰えた力で新世界秩序に立ち向かうには,「グローバル・パートナーシップ」の名のもとに日本の経済力による「国際貢献」を引き出すしかない。湾岸戦費にしろ東欧・旧ソ連の再建支援策にしろそうである。しかしそのことは政治面でも日本の地位を高めざるを得ない。湾岸戦争協力の不十分を非難された日本の側に欲求不満が高いことは,安保常任理事国の地位要求,あるいは国連改組論の形で表われているとおりである。

湾岸戦争を契機に資金協力以上の国際貢献を求められた日本は,国連平和維持軍参加への道を準備しつつある。これは日本の軍事的地位向上という点で画期となろう。日米安保条約の枠内で日本の軍事的自立を抑制しつつ,日本に駐留の負担を負わせ,かつ日本から軍事技術の開発成果を吸収することが近年のアメリカのスタンスで,これは1990年の「東アジア戦略構想」(本年報,91年版,697~699ページ)に見られるが,ここにもジレンマがある。それは日本駐留のもつ意味をめぐってである。後述のように在比基地92年撤退がすでに決まり,一方,北朝鮮との交渉が進展して,在韓基地撤退の一時凍結された日程が再開され韓国主導に移行していく場合,在日基地は東アジア,太平洋,インド洋の有事展開の中心的任務を負わされることになる。在日基地はもっとも削減のおくれる存在になるのではなかろうか。日本の米軍駐留費負担にしてもすでに給料支出以外の73%という割合となり,それ以上となると米軍を傭兵的存在にするしかない。海外駐留兵力の削減が進んで在日基地の存在が突出した場合,アメリカ国内でも駐留継続の是非が論議されることになろう。

アメリカの政策において,日本の勢力台頭の抑制,同時に巨大な軍事力を擁し近い将来安定化が期待されない旧ソ連の国々に対する重しが期待されるのは中国の存在である。しかし民主化に向けたソ連の大きな変貌は,米国民の目に天安門事件以後定着した「伝統的共産主義国家」中国のイメージをいやが上にも大きくしている。アメリカ政府自身は,前述の勢力均衡論に立ち,中国の進める経済的「改革と開放」の行手にある政治的開放への進化に期待しているが,大幅な対中関係改善は早急に期待できない状況にある。

以上の基本的構図を背景に,1991年の日米間貿易摩擦は著しく政治色を帯びた。日米半導体協定延長(6月)など日本市場開放要求,工作機械に見られる輸出自主規制延長(12月)など,管理貿易の傾向は一層強まった。その頂点は,ビッグスリーの大統領直訴(3月)に始まる自動車および同部品メーカーによる日本の輸入増要求であった。

長びく不況,特に高い失業率の滞留からアメリカ国民が冷静な彼我の産業競争力の論議に耳を貸すわけはなく,感情的な「日本異質論」が横行した。12月の「真珠湾50年」記念行事はそうした文脈でとらえられた。日本の側も硬直した政治体質が,コメ市場開放をめぐり実体以上の「閉鎖性」を印象づけた。再選戦略上早期の経済回復を焦るブッシュ政権は,目に見える成果を日本に求めた。それが12月に始まるブッシュのアジア歴訪であって,ビッグスリーをはじめ自動車,同部品,など関係業界経営者を帯同する前代未聞の公式訪日となったのである。

中国との関係緊張の断面は,人権擁護,貿易摩擦,兵器拡散問題と多岐にわたっている。アメリカの世論は抑圧的,閉鎖的で国際慣行無視の中国というイメージで貫かれ,議会の論調は特にきびしいものがあった。前年,方励之夫妻の出国,特にイラク制裁決議への中国の消極的協力で一応鎮静していたものが湾岸戦争終結後再燃したのである。このなかで特筆すべきことは,ブッシュ政権が中国に別の尺度を当てはめているという非難に耐えて粘りづよく中国政府に改善を求め,最恵国待遇更新に条件を付した議会決議に拒否権を行使して,米中関係の最低線としてその待遇を守り抜いた姿勢である。

人権問題のなかで特に重視されたのが政治犯の待遇改善と釈放の要求である。貿易摩擦では,中国の対米貿易黒字の激増の背後にある保護主義・閉鎖主義政策,受刑囚労働製品の輸出,知的所有権保護の欠如が指摘された。また兵器拡散問題は湾岸戦争後とりわけ重視され,中国はパキスタン,シリアにミサイルを供与し,アルジェリア,イランの核開発に協力したと非難されている。

これらの懸案に対してブッシュ政権は,大統領が初めてダライ・ラマと会見(4月)して中国を牽制したが,万事非公式に取り運び中国の立場を尊重した。貿易問題にからみ衛星部品の輸出制限,税関・財務省・通商代表部などによる受刑者製品禁輸や中国系商社の不正輸入の捜査など,外見上はでな強硬措置もとったが,他方ではソロモン次官補(3月),キミット次官(5月),バーソロミュー次官補(6月,8月),そしてベーカー長官(11月)と国務省高官を次々と送りこんで事態改善の説得に当たらせた。政治的安定に腐心する中国政権の威信にかかわり,内政問題の領域に及ぶ点もあるので,直接には交渉の成果は出にくかったが,中国側もブッシュ政権に配慮してか,いずれについても少しずつ改善を行なった。兵器拡散規制会議出席(7月),核不拡散条約加入表明(8月)などがそれである。知的所有権保護問題は半年以上の交渉の末,年を越えて1月決着した。

プレゼンス削減と再編成

東アジアを重視し,みずからを繰り返し「大西洋国家であるとともに太平洋国家」と規定するアメリカが,冷戦後のアジアに送ったメッセージは「縮小はするが軍事プレゼンス(具体的には米軍前方展開)は継続する」ということであった。「安保戦略」もそうであったし,年末に始まるブッシュ歴訪もその確認の旅であった。展開兵力削減は状況に応じた段階的なアプローチを意味するものであったが,1991年にはアジア太平洋の3展開地点のうち,日本を除きフィリピンと韓国で急進展があった。1898年以来,アメリカのアジアにおけるプレゼンスの象徴的存在である在比基地から92年末をもって撤退を求められたこと,北朝鮮の核査察との絡みでアメリカが在韓基地から戦術核を撤去したことである。

在比基地撤収決定は,今世紀最大というピナツボ火山噴火被害によるクラーク空軍基地の機能停止という自然現象,フィリピン上院による「比米友好協力安全保障条約」批准を確保できなかったアキノ政権の政治力不足という直接の他律的要因もあるが,冷戦後の東アジア情勢を反映したプレゼンス縮小というアメリカの意志が根本にあった。

すでに1990年9月の第1回本交渉でアメリカ側は,大規模な軍事駐留はせず,10年間に漸次的に縮小したい,と主張した。これは当然同年8月のブッシュ・アスペン演説に現われた,前方展開は続けるが規模を縮小し効果的に即応できる態勢とする,という新戦略を反映したものであった。戦略的位置から言っても地元の受け入れ体制から言っても在比基地は維持したいが代替不能とは考えない,絶対的な財政の要請から規模は縮小するが投資効率上10年間は確保したい,ということであろう。したがって米政府当局者はブッシュ大統領以下当初から,在比基地は保持したいがフィリピン側が望まなければ引き揚げる,と強気の姿勢を崩さず,補償条件でも妥協しなかった。

これに対してフィリピン側はこの情勢変化を十分捉えられなかったようで,これまで度々の基地交渉で有効であった補償額上積みの伝統的交渉方式に最終段階まで固執した。そのためピナツボ噴火で条件が不利となってやむなく低い補償条件で妥結すると議会や世論に大衝撃を与えることとなり,当分の基地維持を有利と考えながらも批准拒否という対極に振り子が振れざるをえなかった。

事実経過を今少し言うと,クラーク空軍,スービック海軍両基地の存続はすでに前年11月の第2回交渉で決まり,1991年に持ち越されたのは主として補償金額と使用期間の問題であった。しかしこれは最大の難題で,1月から5月にかけての3回の交渉でも妥結を見なかった。2月の第4回交渉でもフィリピン側の要求は7年間58億ドルというものであった。しかしここに6月中旬のピナツボ大爆発が発生する。近接するクラーク基地の被害は甚大で兵員・家族1万5000人が退避する事態となり,米軍当局は1カ月のうちに同基地の放棄を決めた。空軍の復旧費見積もりは5億2000万ドルであり,新戦略下で費用/効果上スービックの保持に集中することが得策と見たのであろう。結局,これが決め手となって7月の第7回交渉で,スービック基地に限り10年間使用,補償年額2億300万ドルの条件で妥結した(条約調印は8月27日)。

長い駐留の歴史にもかかわらず在比基地を今や代替不能と見ないアメリカの原則的立場は,特に9月16日のフィリピン上院による同条約批准拒否後に発揮された。フィリピン政府は直ちに,現行の米比基地協定は9月16日限りで失効するとした前年の対米通告を撤回し,一時は国民投票による条約承認方式,最終的には3年間の段階的撤退方式による収拾案を提示した。しかしアメリカはこのスービック基地3年後撤退案についても,艦船の核積載の通告や指揮・統制にかかわる撤退日程表の明示などの制限条件を嫌ってこれに応ぜず,結局1992年末の撤退期限を受け入れた(12月末)。92年のフィリピン総選挙を考えると新政権下の再交渉の含みも十分考えられたが,それには目もくれず,92年初めからは浮きドック3基の撤去など具体的な引き揚げ作業を開始した。

在比基地は,7月のキャンプ・ジョン・ヘイから11月のクラーク基地まで,4箇所が返還された。残るスービック基地の1992年中返還で全面撤収となるが,それはどう代替されるのであろうか。アメリカは新戦略下で新規海軍基地建設などは考えず,修理・兵站機能はグアム,日本,シンガポール,ハワイに振り替えられる。特にシンガポールとは,90年のアクセス協定(航空機の訓練配備,艦船寄港などの取り決め)に続き,92年1月第7艦隊兵站司令部部隊受け入れが協定された。新戦略下で重視されるのは有事に迅速展開できるための受け入れ国との友好的な関係である。現在,アメリカはASEAN諸国と同様のアクセスの交渉をしているようであり,新政権下のフィリピンと再交渉があるとすれば主にこの面であろう。

韓国におけるアメリカのプレゼンス再編をめぐる情勢は,1991年後半急展開した。

アメリカは「東アジア戦略構想」では,1992年末までの兵力10%程度の削減,そして韓国軍の主導的役割と韓国の駐留費負担増大による再編を期しているが,それ以降は情勢を考慮して行なうという構えである。ところが朝鮮半島こそ潜在的な危険性がもっとも大きい地域と見られているのである。とりわけ,北朝鮮が核兵器の開発を急いでいるという疑惑が情勢安定化の最大の障害となっている。アメリカは硬軟両様のアプローチで,また米韓間の協力ばかりでなく,いわゆる「2+4」方式(南北当事国と米,ソ,中,日の関係4国)による働きかけでこの脅威を除去しようと図った。ただし,ベーカー・盧泰愚会談(11月)で表明したように,韓国の民族感情を尊重し同方式は南北統一など朝鮮半島の将来には及ぼさないとしている。

緊張緩和,そして問題解決の条件整備としては北朝鮮を国際社会に引き出すことであろう。北京の米朝対話,韓ソ国交成立,日朝交渉開始と環境条件は広がっていたが,1991年には9月に南北の国連同時加盟が実現した。ブッシュ大統領は5月,91年秋同時加盟が実現できなければ韓国の単独加盟を全面支持すると北に圧力をかけた。4週間後,北が国連加盟申請を表明したのに対し,国務省は北朝鮮の加盟に反対しないことを確認した。

北朝鮮の核開発防止の有力な手段は,同国が国際原子力機関(IAEA)に加盟しながら怠っている査察受け入れ義務に同意させることである。北はこれまで在韓米軍の保有する核兵器・施設との相互査察を条件としてきたのでその打開が必要であった。アメリカ側は核査察受け入れは無条件でと原則論を繰り返したが,5月頃から在韓米軍の核兵器の撤去を真剣に検討し始めたらしい。ソ連,日本など関係国にも打診したが,特に8月初めの米韓ホノルル協議で詰められた。

11月の米韓安保年次協議では北朝鮮のプルトニウム製造の切迫という情報が披露された。この席では米軍削減計画の中止,韓国へのパトリオット・ミサイルの供与,92年米韓合同軍事演習の強化,など対抗策が発表されたが,ほどなく在韓核兵器の撤去が米韓間で最終的に合意されたようである。9月に全面的な核兵力削減計画を発表したアメリカは,緊張緩和下で技術的にも地上核を海上発射核で代位できるという立場であった。12月18日,盧泰愚大統領は,事実上アメリカに代わって核の不在を宣言,翌日ブッシュ大統領は暗にこれを認めた。明けて1月7日北朝鮮はIAEAの核査察の受け入れを発表,韓国は「チームスピリット92」演習の中止に関する米韓合意を発表した。

イラクの事例から核査察だけでは核拡散の決め手にならないとはアメリカ自身の見方である。北朝鮮情勢は日程に上ってきた政権継承問題など不透明な部分も多く,在韓米軍削減が簡単に進む情勢にはないようであるが,対米,対日関係重視に見られるように徐々にではあれ北朝鮮の窓は開きつつあり,冷戦終結の影響はここでも着実に表われているといえよう。同時に核兵力大幅削減計画に続く在韓核兵器撤去に,大量破壊兵器拡散防止にかけるアメリカの強い意志を見ることができる。

終息に向かう地域紛争

冷戦に起因するアジアの地域紛争―カンボジア,アフガニスタン問題はすでに大勢が決していたとも言えるが,関係大国は紛争処理後の発言権確保と言う読みもあり,決着には至っていなかった。1991年は,諸紛争が国際情勢の激変に立ちおくれないよう,あるいはその派生として最終段階に向けて動き始めた。

カンボジアでは,前年国連安保常任理事国の斡旋で成立していた最高国民評議会(SNC)の4派が,3派連合政権,プノンペン政権それぞれの背後にある中国,ベトナムの接近(11月正常化)が背景にあって急速に歩み寄りを見せ,10月の和平協定調印に至った。

アメリカは,3月のソロモン国務次官補の訪中の際もカンボジア解決での尽力を迫り,またベトナムにはかねて,この問題とベトナム戦争関係行方不明米軍人(MIA)の解明問題とを国交正常化の前提条件としてきたのである。11月,SNCと国連暫定統治機構(UNTAC)が統治するプノンペンに米国特別代表が着任した。10月決定された対カンボジア禁輸解除は,1992年1月のブッシュ大統領アジア歴訪時に実施が発表された。

カンボジア和平の成立は,1975年の米軍サイゴン撤退以降未解決となっていたベトナムとアメリカの関係正常化の道を開くという点でも重要であった。前述の前提条件の一つが満たされるのである。そして,もう一方の行方不明米兵捜索への協力は,これ以前からいわば民間レベルで始まり,対米復交をねがうベトナムは最大限と言ってよい協力を行なってきた。

MIA問題では,4月のベッシー米特使とタク・ベトナム外相の会談で懸案のハノイ暫定事務所設置が認められ,アメリカ側の捜索体制も強化された。7月のMIA問題米民間団体が発表した生存米兵証拠写真なるものは投機的な偽造品と判明したが,これを契機にベトナム側の資料提供が促され,最高軍事機密であるベトナム戦争時の防空作戦データまで提供したと発表されている。

しかしアメリカ側の求めている条件は単純なカンボジア和平成立ではなく,「総合的なカンボジア問題解決」への協力なのである。カンボジア和平協定が成った10月23日,パリで行われた米越外相会談に先立ち,ベーカー国務長官は翌月からの米越国交正常化正式交渉の開始用意を発表した。しかしそれは,4月ラン・ベトナム国連大使と会談したソロモン国務次官補が提示した2年間4段階で正常化に至る「道路マップ」に沿ったものなのである。すなわちそこでは,カンボジアをめぐる(1)和平協定,(2)停戦と国連軍派遣,(3)国連による管理,(4)選挙と国民議会選出,の段階を経てベトナムの行動を監視しつつ完全正常化に至る道筋が示されている(「重要日誌」4月9日)。ベトナム側が「条件の吊り上げ」と嘆くのは一理ある。しかし同時に,米政府高官が8月のキエト新内閣の成立にいち早く期待を表明したように,1975年以降の硬直したベトナム外交が米越関係改善を遅らせたことも否定できない。双方の柔軟化で関係改善の加速化も考えられる。

アメリカの対越経済制裁にもきびしいものがある。ベトナムのIMF借款返済の延滞に対するつなぎ融資を供与して対越借款を再開する提案が多数国の支持を得たように,制裁緩和要求が国際的に高まり,アメリカ国内ビジネス界からのベトナム市場参入要求も出てきている。ビジネス,観光,取材などの旅行認可は12月緩和された。難民問題も,アメリカは香港収容の「経済難民」の強制送還に関する英越協定の調印を黙認しないと表明した(10月)が,それは建て前に終わりそうである。

アフガニスタンについては,前述のとおり9月のベーカー訪ソの際,米ソ双方の武器供与年内打ち切り合意を取り付けた。ソ連軍撤退後,ナジブラ政権が現状維持に成功しているのは,武器,食料,燃料など年間2億5000万~3億ドルのソ連援助の支えによると言われており,同政権にとっては正念場である。4月にはそれまで持ちこたえていた東部の要衝ホストがゲリラの手に落ちた。

モンゴルもアメリカにとっての地域問題である。共産主義から民主主義と市場経済に進みつつある域内最初の国として,アジアに残る共産政権に対する範例なのである。7月の海部・ブッシュ会談では日本の援助が要請されたし,同月ベーカー国務長官が訪問して1000万ドルの援助を発表した。

最後に南アジア,特にインドは,経済自由化,民営化,外資への市場開放などアメリカに望ましい方向に転換が行われ,米国資本の進出も活発化している。ここでの問題はやはり,民族・種族対立,それとからんだ大量破壊兵器拡散の問題である。核開発計画との関連でパキスタンに対する援助が停止されているが,一面それはソ連の脅威後退後,同国がアメリカにとって戦略的地位を微妙に変化させていることの所産でもあろう。

(動向分析部研究主幹)