
民主化運動は定着するか
1992年のタイ
東 茂樹
1991年2月にチャーチャーイ政権をクーデタで打倒したスチンダー陸軍司令官は92年4月,民選の手続きを経ることなく首相に就任した。彼のクーデタの手法と政治思想は,50年代末期に首相となったサリット元帥を彷彿とさせるものがあった。地盤沈下の著しい軍の政治的復権を意図していたのは確かである。しかし,首相就任後1カ月余りでバンコクの中間層および民主化をめざす諸団体が民主主義連盟として結集し民主化運動が王宮前広場で発生した。そしてこれが軍の発砲による流血事件に発展していった。国王および枢密院の動きもあり,王室が軍と民主化側の仲裁に入ることによって事件は収拾された。
一方,9月の出直し選挙の結果,5月事件当時民主化側に立った野党4党が逆に政権を担当することになり,民主党党首チュワンが首相に就任した。つまり,タイ政界は,メディアの呼び方に従えば「天使グループ」(pak thep,チュワン連立与党)と「悪魔グループ」(pak man,事件当時与党にあり親軍的だったタイ国民党など)に再編成されたことになる。
経済面では,1988年から3年連続二桁の経済成長を達成したのに伴い,従来の産業育成保護政策に代えて自由化・規制緩和政策が進められている。チャーチャーイ内閣時に,為替や金利など金融面での規制緩和が実施されたのに加え,91年から92年にかけて,アーナン内閣は自動車,石油,コンピュータ産業の関税の引き下げや民活の導入を行なってきた。これらの経済政策は,チュワン内閣にも引き継がれている。
また経済成長によって発生した不動産ブームには翳りが見えはじめ,その影響が株価の人為的なつり上げによる投機的な利益の追求という形で,証券市場にも及んだ。バンコク証券取引所の株価指数は,4月はじめに832.4であったが,流血事件の影響で,5月19日には667.8まで下がった。しかし事件後2~3カ月で証券市場に外国資金が戻りはじめ,9月の出直し選挙によるチュワン新内閣の誕生を好感して,10月の終わりには940.4にまで回復し,1日の取引高は120億バーツに達した。
政治
3月総選挙に向けた政界再編成
タイでは総選挙があるごとに議員の離合集散が活発化し,既存の政党構成が大きく変化するのが常である。1992年3月の総選挙に向けた政党再編成は91年中にほぼ完了していた。この過程で最も多くの有力議員を囲いこむのに成功したのがサーマッキータム党(サーマッキーは団結,タムは法の意味)であった。同党は91年2月にチャーチャーイ政権をクーデタで打倒した国家秩序維持評議会のスチンダー陸軍司令官ら軍人出身者の政治的基盤として結成された党である。同党には連帯党のナロン・ウォンワン党首らやタイ国民党の東北タイ地方出身議員の代表者サアート・ピヤワン副党首らが相次いで入党した。党首にはナロンが選ばれた。92年に入ってからは,1月にタイ全人民党のアーティット・ガムランエーク党首が10人の議員を引き連れてサーマッキータム党に移籍し,アーティットが党顧問に就任した。
一方,党首のチャーチャーイ首相を失ったタイ国民党は,1991年10月に空軍とのパイプを持つソムブーン・ラホン空港公団総裁を新党首に選出した。92年に入ってからはプラムアン・サパーワスおよびアヌワット・ワッタナポンシリ両副党首が袂をわかちサーマッキータム党に移籍した。
バンコクで人気の高い仏法の力党では,チャムロン党首がバンコク知事を辞職し,バンコク2区から立候補することが決まった。同時に知事時代に彼の下で働いたウィナイ・ソムポン,クラセー・チャナワォン両副知事も同党から立候補することになった。
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| バンコク | 中部タイ | 南タイ | 北タイ | 東北タイ | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| サーマッキータム(正義団結)党 | 0 | 15 | 2 | 29 | 33 | 79 |
| タイ国民党 | 0 | 42 | 2 | 12 | 18 | 74 |
| 新希望党 | 0 | 8 | 12 | 12 | 40 | 72 |
| 民主党 | 1 | 0 | 26 | 5 | 12 | 44 |
| 仏法の力党 | 32 | 6 | 1 | 2 | 0 | 41 |
| 社会行動党 | 0 | 5 | 0 | 4 | 22 | 31 |
| タイ人民党 | 2 | 4 | 0 | 1 | 0 | 7 |
| 連帯党 | 0 | 2 | 1 | 2 | 1 | 6 |
| 民衆党 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4 |
| タイ全人民党 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 |
| 大衆党 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 |
| 合計 | 35 | 83 | 45 | 69 | 128 | 360 |
チャワリット・ヨンチャイユット元陸軍司令官を党首とする新希望党では,1991年からプラソン元プレーム首相顧問とピサーン元内務省次官が書記長の座をめぐって対立していたが,結局ピサーンが勝利し,プラソンはその後仏法の力党に移籍した。
社会行動党は1992年1月に,モントリー・ポムパーニットの党首留任を決定している。
選挙の焦点は,政治家の汚職を問題にして1991年2月にクーデタを起こした軍が選挙後もはたして国政に権力を維持するのか,あるいは民選議員に権力を委譲するのかという点であった。というのは軍が任命した委員からなる憲法委員会が起草し,暫定議会で成立した91年憲法に対し,民主党,新希望党,仏法の力党,連帯党の4党は,次の点を強く批判していた。すなわちこの憲法では,首相は民選議員から選出すると規定していない,国会議長は上院議長が自動就任することになっている,上院に内閣不信任案の採決を認めている等の点で民主的でなく,軍の国政介入への余地を大きく残していた。上記4党は選挙後結束して,これらの点を改正すると約束していた。
一方サーマッキータム党,タイ国民党,社会行動党は,それぞれ党内に不正資産取得調査委員会がクロと判定した議員を抱え,クーデタの発生時には軍と対立していたにもかかわらず,その後軍関係者を党の重要ポストに迎えて軍に急速に近づいた。この3党にタイ人民党を加えた4党は同盟を結び,軍の政治介入を容認してクーデタ以前に引き続き政権に固執する姿勢を明らかにした。
3月総選挙とスチンダーの首相就任
3月22日の総選挙では予想どおり有力議員の囲い込みに成功した新設のサーマッキータム党が地方で議席を伸ばし,360議席中79議席を確保して第1党となった。この結果に当然国家秩序維持評議会首脳部は満足した。選挙結果は表1のとおりである。
しかし,この選挙で軍部が誤算していたのは,選挙民の政治意識がとりわけバンコクで変化してしたという点であった。つまりチャムロンがバンコク知事時代に政治浄化を訴える運動を繰り広げており,国民には民政への期待が高まっていたからである。チャムロンの率いる仏法の力党は市民の圧倒的支持を受け,前回選挙の15議席から一気に26議席増やして41議席をとった。逆にバンコクで強かったサマック党首率いる親軍的なタイ人民党は,31議席から7議席にまで議席を減らした。このようなバンコク市民の政治意識の変化とチャムロンのカリスマ性に対し軍が過剰反応を示したのが後の「5月流血事件」であるともいえよう。
選挙後の連立工作は,サーマッキータム党,タイ国民党,社会行動党,タイ人民党の4党が当初スチンダー国軍最高司令官兼陸軍司令官を首相に擁立することを計画したが,スチンダーは不正資産取得調査委員会がクロと判定した議員を閣僚にはしたくないとの理由で辞退した。結局3月25日に,上記4党に民衆党を加えた5党が連立を組むことで合意し,ナロン・サーマッキータム党党首を首班とすることとなった。しかし,その直後ナロンが麻薬の国際取引に関与しているとの容疑でビザ発給を停止されている事実がアメリカ国務省によって明らかにされた。スントン国家秩序維持評議会議長はすかさず,このような人物には首相になる資格はないと発言し,ナロンの首相就任の道は閉ざされた。その後,スチンダー陸軍司令官もスントンの意見に同調している。
この事態を受けて4月4日に,スントンをはじめとする軍首脳や上記5党は,首相侯補について協議を行なった。その結果,スチンダー陸軍司令官を候補として支持するという合意が形成された。スチンダーはこれに同意し,続いてアーティット・ウライラット下院議長が彼を第19代首相として推挙する旨国王に上奏し,4月7日,国王が署名,スントン国家秩序維持評議会議長が副署した勅令が出された。スチンダーは4月8日陸軍での送別演説の中で,前年11月18日の首相にはならないとの前言を翻して,国のため首相に就任した,と述べている。
「5月流血事件」(プルッサパー・タミン)
まず,選挙の手続きを経ずして首相に就任したスチンダーに抗議してチャラート・ウォラチャット元民主党議員が4月8日,国会前でハンストに突入した。4月17日にスチンダー内閣の顔ぶれが明らかになったが,不正資産取得調査委員会がクロと判定したモントリー(社会行動党),サノー,ワッタナー(ともにタイ国民党)の3名が入閣した。
これに対して新希望党,民主党,仏法の力党,連帯党の野党4党および諸団体は20日国会前広場で反スチンダー集会を開いた。この集会には「携帯電話を持った群衆」とメディアから呼ばれるバンコク市の中間層が多数参加した。その後5月6日にスチンダー首相が国会で施政方針演説を行なうのに合わせて4日に王宮前広場で再び反スチンダー集会が開かれ,5日からは野党のチャムロン仏法の力党党首もチャラートとともにハンストに入った。続く6日の施政方針の演説時には野党議員が議場から退席し,演説が終了すると再び入場してスチンダー批判を行ない,また国会前広場では反政府集会が開かれた。集会はさらに7日にも行なわれたためカセート国軍最高司令官およびイサラポン陸軍司令官は集会参加者に帰宅するよう警告した。スチンダー首相が辞任を拒否したため,8日も集会参加者はさらに増え,事態打開のために与党5党は憲法改正を提案した。9日に与野党が民主化改憲交渉に入った結果,いったん妥協が成立し,チャムロンはハンストを中止した。
しかし,その後与党側が改憲を拒む姿勢を見せたため,再び反政府感情が高まり,17日には王宮前広場で10万人規模の集会が開かれた。タイ社会科学協会がこの日の集会参加者のうち2000人について聞き取り調査したところ,月収1万バーツ(約480ドル)以上のサラリーマンを中心とするいわゆる中間層が5割を占めた。同日夜にはいると,チャムロンの先導で首相官邸へ向けてデモ行進を開始したが,途中のパーンファー橋付近でデモ隊と警察が衝突し,消防車が炎上,負傷者がでた。翌18日未明には1952年非常事態国家行政法第4条,8条および21条にしたがってスチンダー首相とアナン内相名でバンコクと周辺4県に非常事態宣言が出された。それによると10人以上の集会が禁止されているにもかかわらず,反政府側は一歩も退く構えを見せなかったため,焦った軍は午前4時すぎデモ隊に発砲し,多数の死傷者を出した。午後に反政府側の指導者であるチャムロンが逮捕され,これに反発したデモ隊と軍の衝突が20日まで繰り返され,事態は収拾がつかなくなった。
(1) 20日の枢密院会議
日本では,国王が20日夜に突如調停にのりだしたと報道されているが,実際はそれ以前に立憲制のもとで枢密院を中心にぎりぎりの解決努力がなされていたらしい。信頼できる情報を総合すると,20日午前緊急の枢密院会議が召集され,スチンダー首相の進退と同氏が辞任した場合の暫定首相に誰が適当かという議論がなされたようである。その際プレーム元首相,チャムロン仏法の力党党首,チャワリット新希望党党首らが候補としてあがったが,チャムロン,チャワリット両氏については,思想上の理由で反対の声があったといわれる。枢密院会議は全会一致が原則といわれ,結局ここでの解決は不可能となり,スチンダー首相の即時退陣もなくなった,ということである。
なによりも重要なことは,国王が1991年のクーデタ当初から軍の行動に批判的であったとみられることである。クーデタ後,軍が提出した暫定憲法案に対し異論を唱え,より民主的なものにするように助言していたといわれる(『ヘラルド・トリビューン』紙 1991年3月1日)。
(2) 20日夜の国王調停
枢密院会議が不調となったことを受けて20日夜,国王の指示によって,プレーム元首相を調停役としながら,政府側のスチンダー首相と民主化勢力のリーダーであるチャムロンの当事者同士で円満に解決することになった。
しかしスチンダーは結局,世論に抗しがたく,軍の発砲の責任をとる形で首相を辞任した。これは発砲の直接の責任者である陸軍司令官,国軍最高司令官などに恩赦を与えることを条件としたもので,スチンダーが一切の責任をかぶり軍そのものは免責にしようとするものであった。
今回の5月流血事件は,スチンダーがクーデタ後,陸軍司令官であった1991年11月に,「いかなる状況であっても首相にならない」と約束したにもかかわらず首相に就任し,かつ政治家の汚職を批判して不正資産取得調査委員会を作っておきながら,この委員会でクロと判定された3名を自らのスチンダー内閣の閣僚にしたという二重の食言に対して,民主化を求める市民と,権力の温存を図る軍との衝突ととらえることができる。しかし流血の事態にまで至った原因としては,軍の主要ポストを陸軍士官学校5期生で固め強大な権力を握るスチンダーと,7期出身で80年代前半はヤングタークスに属して政治変革を求めていたが,その後は仏教原理主義の立場に立つサンティアソーク(ポーティラック師が始めた新しい仏教の運動)に共鳴し,バンコク都知事として,その教えを政治に実践していたチャムロンとの個人的な確執があげられよう。事実,民衆の民主化運動は5月9日頃から,国会での憲法改正審議の推移を見守ろうという多くの団体と,集会の続行を主張したチャムロンとの間で対立が生じていた。
最終的には,スチンダー,チャムロン双方ともに譲らず,事態の収拾がつかなくなったため,国王が調停に乗りだしたが,このような解決方法は,1973年10月の学生革命以来,非常時に表舞台に登場する王室の権威が今回も確認されたことを示すものである。
流血事件後の局面展開
民主化を求める運動の舞台は,街頭での直接衝突から国会における憲法改正審議,さらには暫定政権の構成に移されることとなった。5月25日朝,憲法民主化案(首相は民選議員から選出するよう改正する,など)は全会一致で第1読会を通過した。5月流血事件まで親軍的で民主化に消極的だったタイ国民党等が民主化ムードに乗じて手のひらを返すように改憲支持にまわったのである。この時点から憲法改正は与野党間の重要な争点ではなくなったといえる。
与野党は一致してこの憲法改正,つまり軍人出身者が退役後民選の手続きなしにすぐに首相になることを可能にしているこれまでの憲法を改正しようとする動きを見せた。このことは,政党政治家が誇り高い軍部を自らのコントロール下に置くということを意味している。つまり政党政治家は,ここで一気に軍部の力を削ごうとしていたとみることもできるのである。
タイ最大の販売部数を持つ『タイラット』紙5月25日付けは,タイ国民党のソムブーン党首(空軍大将)が次期首相になる可能性が強いとした。一方,新希望党党首のチャワリット元陸軍司令官にはセントラル・グループ(デパート経営が中心)など財界からの支持もあるといわれ,彼にもチャンスはあるが,現在の軍との関係がよくなく,また連立を組んだ場合それをまとめられるかどうかという点で政治手腕は未知数であった。
一方,軍の責任者が恩赦を受けたことについて,市民はもちろん,公務員までもが反対の立場を示し,また反軍の動きは全国的な広がりを見せつつあった。軍は袋小路に追いやられつつあった。官僚テクノクラートでは大蔵省主計局職員等が278の署名を集めて文書で陸軍司令官らの辞任を要求,またチュラロンコン大学教職員,ソンクラーナカリン大学教職員,国鉄労組などが恩赦に関する緊急勅令に反対の声明を発表している。
かりに文民政権が成立したとしても,追い詰められた軍が再び不穏な動きを見せることも考えられた。第1軍区(バンコク)と地方軍管区の間に対立が伝えられ,地方軍管区の方は今回の軍の弾圧に直接関与しなかったのだから,非難を受けるいわれはないと反発した。(なお事件の経済に及ぼす影響については,「経済」の項参照)。

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(注) (1)政党名の次のかっこ内の数字は,獲得議席数。(2)大衆党のチャルーム・ユーバムルン党首は,3月22日総選挙で落選。大衆党の前議員1名は,3月22日総選挙の際,サーマッキータム党に所属。(3)仏法の力党のチャムロン・シームアンは,5月の流血事件に際し,党首を辞任。9月13日総選挙では,ステープ・アタコーンが党首代行を務めたが,チャムロンが実質的なリーダーであった。なお,1993年1月23日にはブンチュー・ローチャナサティエンが新党首に選出された。
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(出所) Matichon(週刊),1992年3月27日号,9月18日号;The Nation(週刊,タイ語),1992年9月18~24目号;Siam Almanac,2533―2534(1990―91)年版,などをもとに作成。
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アーナン暫定政権の成立
6月に入って,次の出直し総選挙に至るまで誰が暫定首相になるかが焦点となった。軍に加担したタイ国民党なども流血事件後一転して民主化を掲げ,暫定首相の座を狙ったのである。
新聞報道ではアーティット下院議長がソムブーン・タイ国民党党首の首相指名を国王に上奏しようとしているとの論調が一般的であった。ソムブーン党首もほぼ自分に間違いないと考えていたようである。こうした動きに対し,民主化運動の一翼を担った医師連盟はこれに抗議する声明を発表した。
しかし大方の予想を覆して6月10日,アーナン元首相を首相とするとの勅令が発表された。アーナン首相は就任後,できるだけ早く国会を解散し,総選挙を実施すると発表すると同時に,暫定内閣は35人以下で構成し,政治家は除外するとした。閣僚にはパオ・サラシン,パナット・シマサティエン,カセムソーン・カセーモシー,パイチット・ウアタウィクンなど官僚出身者が多く任命された。アーナン首相は6月30日に国会を解散し,総選挙を9月13日に行なうことを決定した。
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| バンコク | 中部タイ | 南タイ | 北タイ | 東北タイ | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 民主党 | 9 | 9 | 36 | 8 | 17 | 79 |
| タイ国民党 | 0 | 38 | 0 | 18 | 21 | 77 |
| 国家開発党 | 0 | 12 | 0 | 21 | 27 | 60 |
| 新希望党 | 0 | 6 | 6 | 8 | 31 | 51 |
| 仏法の力党 | 23 | 6 | 3 | 6 | 9 | 47 |
| 社会行動党 | 0 | 4 | 0 | 3 | 15 | 22 |
| 連帯党 | 0 | 6 | 0 | 0 | 2 | 8 |
| セーリータム(自由正義)党 | 0 | 2 | 0 | 2 | 4 | 8 |
| 大衆党 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2 | 4 |
| タイ人民党 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 |
| 民衆党 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 |
| 合計 | 35 | 83 | 45 | 69 | 128 | 360 |
選挙日程の決定を受けて,政界再編成が再び活発化した(図1)。まず7月に入って,チャーチャーイ前タイ国民党党首が,ゴン・タッパランシーらタイ国民党のチャーチャーイ派や,サーマッキータム党のアーティット顧問ら,そして民主党のプラチュアップ・チャイアサーンらを集めて国家開発党を結成した。これは,すでに内務省に登録されている既存のタイ全人民党を党名変更するという手続きで行なわれた。またサーマッキータム党ではナロン前党首に代えて,アヌワット・ワッタナポンシリ新党首を選出し,党名もトゥートタイ党(トゥートは高揚の意)に変更した。だが多くの議員が国家開発党に移籍し,またアーティット・ウライラット副党首も新しくセーリータム党(セーリーは自由の意)を結成したため,数週間後には,タイ国民党に吸収される形で消滅した。仏法の力党では,連帯党のブンチュー・ローチャナサティ・エン党首,チャムニ・サクディセート副党首,およびスポークスマンのスタム・セーンプラトゥムが入党することとなった。これにともない連帯党ではウタイ・ピムチャイチョン書記長を新党首に選出している。また仏法の力党は新希望党から移籍してきたプラソン・スンシリを同党顧問評議会メンバーとする決定を行なった。
8月に入ってアーナン首相は5月流血事件で軍の指揮をとったカセート国軍最高司令官兼空軍司令官らを左遷するという重大な決定を下した。これにより,カセートは国軍監察総監に,イサラポン陸軍司令官は副国防次官に,またチャイナロン第1軍区司令官は陸軍大学校長に異動した。新国軍最高司令官にはウォラナート・アピチャリー国軍監察総監が,陸軍司令官にはウィモン・ウォンワーニット国軍副最高司令官が,また空軍司令官にはガン・ピマンティップ国軍副最高司令官が就任した。
9月出直し選挙とチュワン政権の成立
9月13日の総選挙で目立ったのは仏法の力党がバンコクでの議席数を32から23に減らしたことである。これは5月流血事件でチャムロンがデモ隊を軍に近づけ,多数の死傷者を出したという結果に対し,市民が批判的であったためといわれている。これに対し,当時同じ野党でありながら,チャムロンの行動に批判的だったチュワンの民主党が79議席を獲得し,第1党となった。しかし,第2党となったタイ国民党と民主党の議席差はわずか2議席にすぎず,5月流血事件で民主化を推進した当時の野党側の完全勝利とはならなかった。おそらく,地方では民主化の熱はさほどなく,依然票の買収という伝統的選挙スタイルが一般的であったことを示しているのであろう。選挙後の各党の議席数は表2のとおりである。
選挙後第1党となった民主党のチュワン党首を軸に連立工作が進行した。その結果5月事件当時野党にあった4党に社会行動党を加えた5党で連立が成立し,チュワンが新首相となった。
しかし,チュワン政権は必ずしも一枚岩ではないところに問題がある。つまり,民主化のスピードについて連立与党の間に意見の相違があるためである。社会行動党は野党にあるタイ国民党などと同様の金権体質を持っている。民主党はその点比較的クリーンといわれているが,軍の機構改革や地方分権化ではそれほど積極的ではない。これに対し,仏法の力党は軍予算の削減や県知事公選制導入などによる地方分権化の積極的推進を党の政策に掲げているのである。
こうした連立与党内における足並みの調整に手間どり,チュワン政権は児童売春対策などの新しい政策を打ち出したものの,1992年中にはそれほど目立った成果は上げられなかった。最大の関心事であった5月流血事件の事後処理については,民主化勢力を納得させるだけの対応を示せなかった。事件当時の軍首脳に対する人事上の処理はアーナン暫定政権によってすでに実施されていた。チュワン政権に課せられた5月事件の究明という課題については,肝心の発砲を指揮した者の名前は公表されないままうやむやの状態になっている。
1993年に入ってからは5月流血事件を支えた民主化運動の指導者たちがチュワン政権の民主化に対する消極的な態度を見て,批判を強めつつある。民選議員であることを首相の条件とする旨の憲法改正は事件後実施されたものの,仏法の力党や民主主義連盟が主張している県知事の公選化など民主化のさらなる推進については,チュワン首相もそれほど積極的ではない。5月流血事件のタイ社会における意味が改めて問い直されていると同時に,再度民主化に向けて,仏法の力党などの政党と民間の諸団体を中心に,議会の外で民主化運動の再編成が進行しつつある。
経済
国家経済社会開発庁(NESDB)によれば,1992年のGDP成長率は7.4%と見込まれる。5月流血事件の影響は予想されたよりも小さかったが,これまで景気の牽引車であった建設投資が落ち込んだのが目立った。不動産景気の沈静化は,93年に入ってFCI事件による金融不安をもたらした。
タイ経済は,1985年後半からの円高に伴う直接投資の増加と輸出拡大に支えられ,88年以降3年連続の二桁成長を遂げた。NESDBが93年1月に発表した国民所得統計(Rebased Series)によると,88年から3年間のGDP成長率はそれぞれ,13.3%,12.3%,11.5%であった。これに伴ってインフラ不足,経常収支赤字の増大,貯蓄=投資ギャップの拡大などさまざまな副産物がもたらされた。しかし91年に入ると湾岸戦争等の影響で成長率は一桁台に鈍化していた。
2年続きの成長率鈍化は,インフラ不足など円高以降の高度成長に伴う諸問題を調整するうえでむしろ歓迎すべきものであるともみられる。加えて関税引き下げによる産業構造調整やバンコク国際金融センター構想など,産業,金融部門における自由化政策によってタイ経済は健全な政策を伴った安定成長に向かいつつあるといえよう。
流血事件の影響
5月の流血事件の影響は当初予想されたものより小さいものにとどまった。20日の国王調停後,治安の回復で経済活動も急速に回復し,オフィス,工場はほぼ正常にもどった。株価は暴落の反発で21日午前には前日比で59ポイント上昇した。その後学者・知識人などの集会,25日の改憲合意などの材料を受けて小刻みに上下した。
ニパット大蔵省財政政策局長は,今後政府向けの対外借入長期金利は0.5%程度上昇するとし,これによって政府の金利負担が年間50億バーツ増えることになると懸念を示した。タイ軍人銀行は,短期対外借入金利はすでに0.25%上昇している(『プーチャットガーン』紙,5月24目)と発表した。
また,観光収入の減少などにより,1991年にGDPの7.7%程度の水準にあった経常収支赤字がさらに拡大するのではないかと懸念された。しかし92年の観光収入は,91年とほぼ同じ1000億バーツを確保し,また貿易赤字が減少したため,経常収支赤字はかえって減少しGDPの6.1%となった。
同時に最近の不動産やサービス部門などの主導によるブームの反動が心配された。観光産業につづいて不動産で不況ムードが発生する可能性がでてきた。たとえば高級住宅を扱うバンコク・ランド社などはプロジェクトを凍結しはじめた。
しかし,事態収拾後すぐに海外の資金が証券市場にもどり,国際信用調査機関によるタイの格づけも5月流血事件による見直しはなかった。またプロジェクト融資もそれほど影響を受けることなく,インフラ向け資本投資もすぐにペースを取り戻した。
農業生産
1992年の農業部門は1月から7月まで続いた旱魃によって米生産などが影響を受け,穀物生産の伸び率は前年の5.3%に比べ3.5%と落ち込んだ。
旱魃によって被害を受けた主要作物は,米の一期作とメイズであった。旱魃により農民は,これら主要作物の作付けを遅らせたり,短期で収穫可能な作物に切り替えたりする必要に迫られた。農民は代替作物として主に大豆やナッツを選好した。旱魃により遊休地も増加したが,年後半の降雨によって状況は改善した。
キャッサバ,さとうきびは,価格好調により作付面積が増加した。またゴムについては,高収量品種の生産開始により,収量が増加した。
林業では,森林伐採禁止措置の継続やマングローブ保護強化のため,生産はさらに減少した。水産は,インドネシアやミャンマーなど,タイ経済水域以外にコンセッションを獲得したことに伴い漁獲高は前年を上回る結果となった。また,エビ養殖は引き続き好調であった。畜産部門では,ブロイラーチキン加工品輸出が好調のため生産が伸びた。
鉱工業
1992年の工業生産は,全体では年初の付加価値税導入によるビジネス界の調整,5月流血事件,アメリカや日本経済の低迷で若干減速した。
輸出向け工業生産は,世界景気の低迷により伸びが鈍化したものの,内需向けは耐久消費財を中心に引き続き消費需要が根強く,生産は順調に拡大した。減税,公務員・民間労働者の賃上げなどの好材料があったのが大きい。
とりわけ,自動車は第1次アーナン政権下の1991年7月の関税調整による価格低下で販売台数が急増した。完成乗用車の輸入には,2300cc以上が616.8%,それ未満については401.76%という高率の関税がかけられていた。これに対し関税調整により,輸入完成車(CBU)では,2300cc以上が210.88%,それ未満については132.62%に引き下げられた。国内組立車(CKD)については,2300cc未満が127.3%から87.87%に,それ以上については125.3%から106.32%に引き下げられた。これにより,92年の自動車売り上げは35万台,前年比で30%増加した。
一方,鉱業生産は伸び悩んだ。これは,建設部門の停滞,錫・タングステンなどの国際価格の低迷が主な原因である。天然ガス生産は,エラワン油田の生産が減少したものの,フナン油田など新しい油田での生産開始により相殺された。原油およびコンデンセートは,やはりフナン油田の生産開始により,生産が伸びた。
建設
建設部門では,工業団地,オフィス・ビル,高級住宅,ゴルフコースなどの建設が軒並み落ち込んだ。たとえば商業用ビルの新規建築許可面積は23.9%も減少した。
1982年から91年にかけて,バンコク市内の一等地シーロム地区におけるオフィス向け床面積供給は年平均3万平方メートルであったのに対し,92年から95年にかけて30万平方メートルに拡大するという。この不動産の供給過剰は過去数年の不動産投機の結果という色彩が強い。こうした不動産部門における投機的な動きに対し金融当局は,商業銀行の不動産向け融資規制を勧告した。商業銀行は高級コンドミニアム,ゴルフコースなど非住宅用に対する融資を引き締めた。
1993年に入って不動産の投機的傾向のつけが金融部門にまで及んだ。すなわち,金融会社First City Investment社(略称FCI社)の焦げ付き事件である。FCI社はラッタクン=ウォンパイトゥーン一族のラッタパイトゥーン・グループ(傘下企業15社)の金融的中核であった。同グループの不動産部門数社は90年末から不動産景気で業績を上げたものの,湾岸戦争を境にブームに翳りが見え始め,関連不動産会社の経営は次第に悪化した。それにもかかわらずFCI社は無担保融資を続けた。同時にFCI社は,グループ傘下のラッタナ不動産の株価を人為的につり上げ,インサイダー取引によって利益を上げようとしたのである。
直接投資
1992年の投資委員会(BOI)への新規奨励申請件数(タイ企業,外国企業の双方)は444件で前年比29.5%減,申請総額では2131億バーツ,24.4%減となった。申請件数444件はタイへの投資ブームが始まる直前の86年の水準(431件)に終わった。
一方,外国企業のみについてみると,申請件数は376件から265件に,額でみると2136億バーツから1691億バーツに減少している。このうち日本は129件から71件へと約45%減少している。これまでタイへの投資は電気機器,自動車部品,金属加工などを中心に増加してきたが,ここにきて投資が一巡したといえよう。今後日本からの投資は中小企業が中心となっていくとみられる。アジアNIEsからの投資件数も,台湾54件(前年60件),香港27件(36件)と落ち込んだ。これは華南経済圏への投資急増を,反映しているものと思われる。
次に外国資本の直接投資について投資委員会が申請を認可した件数を見てみると,やはり1991年の390件に対し,92年には248件と減少している。しかし金額では1273億バーツから2546億バーツへ倍増しており,シェル(オランダ)やエッソ・スタンダード(アメリカ)の石油精製など大型プロジェクトへの認可が寄与している。また工場の操業開始段階の件数では,91年の292件に比べ92年は256件の微減にとどまり,金額では592億バーツから634億バーツに増加している。80年代後半に大量流入した外国資本が,数年のタイム・ラグを経て生産の開始につながった。
国際収支
1992年の輸出は8400億バーツで伸び率は16%と前年より減速したものの,第7次5カ年計画の目標よりは上回っている。工業製品の輸出は前年同様順調であった。これは,タイの物価と為替相場が比較的安定していることによるところが大きい。加えて,ここ3~4年の設備投資の拡張により,電気扇風機,テレビ,冷蔵庫,エアコン,プラスチック製品,コンピュータおよびその部品など近年タイの輸出品目に加わった高付加価値製品も好調であった。また輸出市場もインドシナ,ASEAN,中東など経済成長の著しい地域に広がった。
他方,輸入は8.9%の低い伸びにとどまった。これは,景気の減速傾向,輸入価格の安定,およびセメント,ペトロケミカル製品など輸入代替生産の拡大によるところが大きい。加えて,1993年1月から原材料に関する輸入税が引き下げられることから,在庫投資が手控えられたことも影響している。中間財および原材料輸入は3.1%増の低い伸びにとどまった。資本財輸入は,前年の17.6%より低い12.8%増にとどまっており,設備投資が一服したことを示している。また,原油輸入価格が湾岸戦争のピーク時より12%ほど低下したことから,輸入額は若干減少した。その他の品目では関税引き下げの影響により,自動車,バスの輸入が増加した。
順調な輸出と輸入の鈍化により,貿易赤字は急速に減少した。したがって,5月流血事件の影響によるサービス収支黒字の減少にもかかわらず,経常収支赤字は223億バーツ減少し,1710億バーツとなった。
資本収支黒字は公共,民間ともに資本流入が減ったため,2060億バーツに減少した。公共純資本流入では,政府借入の繰り上げ返済,軍備輸入代金の返済額増加が影響している。また民間純資本流入は,国内および外国投資の減少,国内過剰流動性の増加による内外金利格差の縮小により,大幅に減少した。しかし,株式投資向け資本流入は若干増加している。総合収支黒字は前年比754億バーツ減の370億バーツ(約15億ドル)となった。
財政収支
1992財政年度(91年10月~92年9月)の政府収入は前財政年度の17.7%に比べ,7%増と低い伸びにとどまった。これは,事業税から付加価値税へと税制の一部が変更され,250億バーツの減収となってあらわれたことによるが,今後も産業構造調整を意図した関税引き下げによって,さらに収入が落ち込むものと予想される。
一方政府支出は,前年の14.3%より高い23.4%となった。これは,政府備品や土地購入,および公務員の給与引き上げなどの要因による。加えて,政府の新政策に基づく支出が膨らんだことも原因として挙げられる。具体的には,共通農業基金の設立,エッソ・スタンダード石油およびグルンタイ銀行の新規発行株式の購入,社会保険基金への資金拠出,農民援助基金および公共倉庫公社への補助金支出などである。
以上の結果,1992年度の政府財政黒字は,523億バーツへと49.8%減少した。
金融
景気の減速傾向により,1992年の商業銀行信用供与伸び率は,91年の21%に対し19.7%となった。一方,預金伸び率は国内金利の低下傾向により,91年の21.4%に対し,17%と低くなった。また,商業銀行の預金金利低下のペースが金融会社のそれより速かったため,金融会社に預金がシフトした。
商業銀行が預金伸び率の低下を埋め合わせるべく国外からの借入を増やしたため,6月と9月の法人税納入月を除いて,過剰流動性は比較的高かった。
金利は6度にわたって引き下げられた。1992年末の1年定期は前年末の10.5%から8.5%にまで下がった。プライム・レートは14%から11.5%に低下した。92年の頻繁な国内金利の調整は金利自由化政策の結果とみられるものの,プライム・レートと非プライム・レートの間の格差が広がってしまった。
物価
1992年の消費者物価指数の上昇率は4.1%となった。前年の5.7%に比べ落ち着いた動きを示したが,これは原油および製品輸入価格の安定が背景にある。食料品価格は肉,野菜,果物価格の上昇率が比較的高く,4.5%の伸びとなった。非食料品価格は,教育費,個人医療費,衣服価格の上昇で3.8%の伸びとなった。
1993年の展望
政治面では,5月の流血事件後出直し選挙の結果,これまで民主化運動を進めてきた民主党を中心とするチュワン連立内閣が発足し,改革を進めてきた。しかし事件の余波を受けて,1993年度予算の成立が大幅に遅れて,インフラ関連の公共事業の施工は期待されたほどには進んでいない。また米をはじめとする世界的な農産物の供給過剰により,地方の農民は農産物価格の低落に苦しみ,農村を支持基盤とする現野党を勢いづかせている。与野党の議席差が拮抗している上,連立を組んでいる社会行動党が,必ずしも他の与党と足並みを揃えていないため,政権は不安定な状態を続けている。
ただ軍に関しては,流血事件における発砲責任の追求はうやむやになったものの,事件当時の軍上層部は左遷されている。またこれまで軍の既得権益であった電話公社などの国営企業の役員ポストからも軍人が更迭され民間人が任命されており,軍の政治への影響力は縮小されている。
現在までのところ地方分権などの点で,チュワン政権の民主化に対する政策が充分でないために,議会の外で民主化運動が再度の昂揚に向けて再編成の動きを見せている。このため内政面では,軍の政治への影響力の低下という条件を生かして,このような民主化運動の批判に対応しながら,政治的な安定をいかに実現するかが課題になるであろう。
経済面では,2年連続の経済成長率の減速は,それに先立つ高度成長がもたらしたインフラのボトルネックやバブル経済の解消にとって,軌道修正の機会を提供したという点でむしろ好ましいものとなっている。
チュワン政権は,株価の投機的な動きに対し,証券取引関連の法的整備および金融当局による規制強化を断行している。またアーナン内閣から自由化・規制緩和政策が引き継がれ,1993年からはASEAN自由貿易地域(AFTA)の発足に伴う関税の段階的な引き下げが開始され,オフショアー市場を創設して,バンコクを国際金融センター(BIBF)にする構想が実施されつつある。
これらに代表されるように政府は関税の引き下げや民活の導入によって,産業の国際競争力を強めるとともに,他方ではサポーティングインダストリーの育成にも力を注いでいる。このような産業の構造調整が進められるかどうかが,これからタイ経済が安定成長するための鍵であると言えよう。
河森: 動向分析部
東 : 同上




