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製粉・製油業の近代化

Author: 笹間愛史
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1981年
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目 次

はじめに
Ⅰ 食品工業における製粉および製油の特徴・・・・・・・・・・3
 1 食糧経済での小麦粉と食用油の商品的展開(加工と用途)・・・・・・・・・・3
 2 食品貿易・国家政策(事業)からみた小麦粉および食用油(植物油)・・・・・・・・・・8
 3 製粉・製油の生産技術的特性と製品の品質・・・・・・・・・・14
Ⅱ 在来的製粉・製油からの脱皮の第1段階(近代的企業の成立)・・・・・・・・・・21
 1 土着的生産組織の崩壊を促した要因・・・・・・・・・・21
 2 先進技術の導入とその吸収の経験・・・・・・・・・・26
 3 生産面の技術革新と経営主体および流通条件・・・・・・・・・・49
Ⅲ 食品工業の発達からみた製粉乳製油業・・・・・・・・・・65


はじめに

 日本の諸産業が近代化して行く過程で,いわゆる軽工業のうち,繊維工業,とくに紡績・製糸と,製糖・製粉・製油などの食品工業が果した役割は大きかった。現在,軽工業部門の大会社の中で,日清戦争後から第一次大戦頃に企業化されたものは多く,それぞれの産業界の主流を占めている。その中で,「日清」という名を冠した企業名をもつ3社は製粉・製油・紡績の各工業のトップクラスの企業として堅実で安定した経営を続けている。それは必ずしも偶然とばかりは云えない。各社名の由来はさておき,日清戦争後からの日本と清国(中国)との密接な関係(清国人を株主とする場合もあった)を意識した社会的動向を反映したものといってよいであろう。
 日本における近代的産業の成立と発達は主として欧米の先進的技術を積極的に採用し,比較的新しい生産設備を導入することによって可能となった。そして,その発展は先進国にくらべて大変に低い賃銀の割には効率的に働く労働者によって支えられていた。他面において,それは原料購入面・製品販売面等で,アジア諸国,とりわけ中国大陸と密着することにより実現できたといえよう。資本進出さえ早くから行われ,食品工業会社の創業期に日本と中国にほぼ時を同じくして,工場建設をする例さえあった(日露戦争後)、もっともそれらは多分に日本の武力に援助されていたので,敗戦によって大きく状況が変化した。
 第2次大戦後は軽工業,とくに輸入原料に依存するところの大きい製粉・製油などの食品工業の国際競争力は低下した。中国をはじめアジア諸国との関係は全く一新した。しかし,戦後における内外での大変動にもかかわらず,60年以上前に設立された食品工業会社で現在大きく成長しているものは少なくない。
Ⅰ 食品工業における製粉および製油の特徴

 1 食糧経済での小麦粉と食用油の商品的展開(加工と用途)
 日本の食品工業をみる場合,国民の米を中心とした食生活との関係を考えなければならない。とくに封建制度から脱皮する過程で食品市場を強く規制していたのは伝統的な食生活,とくに西洋のそれとは異質な食習慣であった。日本産の米が主食であるか,主食であることを志向(現実には米を不十分にしか食することが出来ない場合)する食体系が,歴史的に強固に確立されていた。生命と直結している食習慣は変化が比較的ゆるやかで,保守的な面を強くもっていることは見逃せない。しかし,それは経済的な問題でもあった。米を中心とする食経済は,比較的安あがりにすますことも出来た。そのためパンの普及の面においても,菓子バン類は大量に消費された反面,食パンは米食と直接的競合関係にあるため,社会の洋風化に伴うその市場的発展が遅かった(とくに第2次大戦前)。
 最近20年くらいの間での日本人の食生活は急速に変った。それは所得水準を基本とする社会的諸変化と絡みあっている。しかし,米食体系は基本的には変ってはいない。その点については日本人としてフランスに永住し,フランス女性と結婚した人の次のような経験談が参考になると思われる。
 白状すると四十年来フランスの上等なパンを食い込んでいる私でも,やはり,ご飯の方がうまいので,米と醤油に永久の未練を残す日本人の夲質を変えることはむずかしいのであろう。しかしフランスではパン食が一ばん安上りであって,シャンパンよりも高い醤油ですき焼をやり,一キロ二百円の米をかきこんでいては財布の腹がもたなくなる。日本を知らない家の子供が,ヌイユとよぶ上等なフランスうどんにバターをいれ,肉汁をかけた一皿よりは,塩をちょっぴり加えて炊いたご飯を喜ぶのは,やはり争われない先祖返りというものであろう(滝沢敬一『わが家のメニュウ』暮しの手帖社,昭和30年,192ページ)
 日本人に好まれる白米を中心とする食体系において,麺類は,副次的な,補充的な食物として,重要性は小さくなかった。それは開港前に,各地で製麺業が発達していたことから明かである。しかし,それは米にとってかわるものではなかったし,食事に変化を与えるものないし,代用品という性格をもっているにすぎなかった。そして比較的貧しい米食体系において,食用油の利用はごく限られていた。一部揚物用などに使用されていたが,サラダ用や油漬缶詰用としての消費は,外国の食習
慣,とくに肉食(明治維新前はほとんど行われなかった)とともにはじまった。日本における肉食は所得面からの制約だけでなく,永年にわたる仏教の影響も無視できないほど大きかった。
 食品工業における原料,ないし調味料として消費される小麦粉・砂糖・食用油のうち,気候の関係などから,もっとも生産がおくれたと考えられる砂糖が商品として独自な発展を示し,徳川幕府が輸入面はもちろん,国産糖の出廻りも制限しなければならぬほどであった。ところが開港で安価な砂糖が輸入されるようになると,甘蔗の適作地にめぐまれないため生産費の高い国産糖は大きな打撃を受けた1)。それに対し,国際競争力をある程度もっていた小麦や菜種等を原料とする小麦粉や植物油は,開港後も,それほど潰滅的な影響は受けなかった。大量ではないが,若干量の輸出さえ,国産原料を使用して行った。
 小麦粉[、、、]の商品的展開についてみる場合も,開港が一つの分岐点となった。明治以前にも少量ながら小麦粉の輸出入があった。開港前において,小麦粉がどの程度の規模の市場形成をしていたかは正確にはわからない。その主要な用途は製麺用であり,製麩用,製菓用,糊用などはそれほど多くはなかったと考えられる。家庭で消費される小麦粉は,現在同様すくなかったが,麺類などをつくる習慣は現在と比較すればあった。
 製麺の増合も,大都会を中心に増加しつつあったうどん・そば類の販売(主に飲食店)と,乾燥度の高い長期保存が出来る製麺では,後者の比重が大きいと考えられる。その一因は日本最大の消費都市,江戸(東京)では大阪と異なり,そばが愛好されていたからでもある。開港前はもちろん,その後もしばらく,小麦粉の主要な需要は乾麺製造にあり,それぞれの製麺地で小麦粉の消費量が増大し,取引関係も独自に形成されていった2)。
 小麦粉の商品化という点から,製粉と製麺の関係を次のようにみることが出来る。おそらく初期は,製粉と製麺が同一業者により営まれていたであろう。しかし,水車製粉の発達,製麺規模の拡大で分化し,それぞれ専業化傾向を強めた。さきにのべたように,小麦粉の用途は製麺用に限られる傾向が強かったので,製麺産地における製粉業の独自な企業的な発展は,19世紀末頃までは大きな限界があったと考えられる(とくに水車製粉の場合)。
 開港・明治維新を経て,輸入粉の比重が高くなった。アメリカから輸入されたため,メリケン粉と通称されるようになった小麦粉は,主として,都市を中心に市場を拡大した。在来のいわゆるうどん粉の分野にも影響を与えるようになったが,パ
ンやビスケットなどの洋風菓子類にむけられるものが多かった。それについては次のような大蔵省の『外国貿易概覧』の記述が参考となる。
 明治26年(1893)について,「外国産麦粉ハ之ヲ内国産ニ比スレバ其色沢極メテ美麗ナルヲ以テ,従前ハ麺・菓子類ノ外,温飩其他ノモノニ使用セル處,亦勘カラサリシト雖モ,其価ノ貴キニ依リ近来ハ専ラ之ヲ麺麭及菓子ニ消糜シ其他,内地麦価,凶欠ナルニアラサレハ概ネ内国産ヲ使用セリ」といわれている。なお日清戦争後の29年については次のようにいわれている。
 元来本品ハ横浜港ノ輸入最モ巨額ヲ占メ其消費地ハ東京其他関東地方ヲ主トス。而ルニ本年ハ阪神地方ノ消費大ニ増加セリ。抑モ関東地方ハ重ニ相州産小麦ヲ以テ製粉ニ供スレドモ其色暗色ヲ帯ルカ故ニ色ノ白キヲ要スル食品ニハ米国粉ヲ常用シ,加フルニ麺麭類ノ需用モ亦大阪・神戸等ニ比スレハ大ナリ。是レ関東ニ於テ元来輸入麦粉ヲ主トシテ消費スル所以ナリ。之ニ反シ大阪地方ニ於テハ専ラ肥後小麦ヲ以テ製粉ノ原料トス。而シテ其色関東産ニ比シテ白キガ故ニ外国粉ヲ要スル場合少シ。然ルニ本年ハ……肥後小麦ノ価格昂騰セシヲ以テ,之レガ代用トシテ著シク米国粉ノ輸入ヲ増進セリト云フ
 以上のようにアメリカを主とし,一部カナダなどからも輸入(たとえば明治27年の場合は全輸入額64.2万円のうちアメリカ61.2万円,カナダおよびイギリス領アメリカ2.7万円,イギリス0.1万円)された小麦粉により,日本における小麦粉市場は新しい展開をとげるようになった。
第1表 日本における小麦粉供給推移
 輸入粉は第1表に示したように,一時は小麦粉市場の3分の1強を占めた。しかしそのあとを,輸入製粉機を設備した国産粉(機械粉)が急追するようになった。日本の近代的製粉企業は,国産小麦を主要原料とするものが多かったが,外麦も使用し,中には輸入小麦の依存率の高い製粉会社もあった。第1次大戦後から第2次大戦の間は,輸入原料の比重が高くなり,品質が向上した。近代的製粉企業が生産した小麦粉は,高い関税率で優位を占めることが出来るようになり,輸入粉にかわるとともに水車粉を圧迫して行った。そして外麦利用による輸出を行いながら,小麦粉市場を大製粉会社が支配するようになったわけである。
 食用油[、、、]の商品的展開は,比較的後のことであった。開港前にはてんぷらなどの揚物用等として油が使用されるようになっていたが,数量はわずかであった。植物の種子類を原料として製油した植物油の種類は多く,菜種油は数量も多かった。胡麻油のように,食用の比重の高い油もあったが,菜種油などは大部分が燈用であった。燈用油は現在からは想像もつかないほど重要な商品であった。日本史上すくなからず,史実やエピソードが残り,よく知られてもいる。それはともかく,次のように書かれているのは参考になるであろう。
 「菜種油及棉實油は,近世徳川時代より明治初年に至る所謂石油出現迄の約三百年間,蝋燭と共に照明資材として重要なる地位を占め,年々大阪より江戸に積下さるる菜種油は二十万両以上の巨額に達し大江戸の政治・経済の上にも大きな役割を為してゐたので,徳川幕府にも其の取締に就いては……極めて慎重なる態度を以て臨んだものであった」「元禄十一年,幕府は南組総会所をして大阪より各国への積出油につき調査せしめたるが,之に対し二十四軒の油問屋より答申したる所は……合計七万千五百八十六石八斗八升,此代銀一万五千九百二十五貫九百九十匁六分五厘にて,当時既に大阪が市中の消費を充して尚此の巨額を他に輸出しつつあった事は大阪絞油業の盛大を物語るものである3)。」
 元禄11(1698)年における大阪から各地への積出油は,種油49,039石(代銀10857貫),棉実油18,825石(同4040貫),胡麻油2,446石(同723貫)であった。石あたりの値が高いのは胡麻油であり,食用が多かったと考えられる。しかし,そのうち種油は一部胡麻油などと混和されて食用とされたほか,単独で食用とされたものもあったであろうが,その数量はごく限られていたと考えられる。精製にも大きな難点があったからである。
 開港は植物油の商品的展開に大きな影響を与えた。1つは輸出のため既存の封建的統制がゆすぶられ,破綻するようになった。そして燈油用として石油が出現した。明治26(1893)年12月に大阪油取引所が開かれ,各種の植物油を取扱い,定期取引を復活した(明治4年以後に油相庭会所などで取引所が行われていたが,何回か廃止,復活を重ねた)。そして翌年3月には石油も取引品目に加えた。しかし石油は39年以後取引されなくなった。この頃になると燈油市場での石油の優位は確立し,燈油が石油の代名詞となった。植物油の主流であった菜種油と棉実油は,燈油用以外にその需要を求める必要があった。1つは潤滑油(機械油)市場であるが,これもまた石油(鉱油)によってその大部分がかわられることになった。
 菜種油にとって,最も重要な市場は食用となった。明治41年辻本満丸(工学博士)の指導を受けるようになった桑名屋製油所が,翌年農商務省から植物性油研究の嘱託工場に指名され,研究費1000円を受領したのは偶然ではなかった。その後について「辻本博士の再度来場を迎へて昼夜を分たぬ研究の結果,〓々茲に本邦最初の苛性遭達法による白絞油精製を完成し,……直に斯法を一般に公開したるが,其の後斯法は漸次国内に普及し,茲に植物性油の精製は一躍面目を一新し,革命的なる進境を示すに至った4)」といわれている。精製度の高い植物油の需要は,食用面だけではなく,潤滑油その他として必要とされたが,それによって食用油,とくに揚物用以外の市場も拡大された。棉実油の場合も,精製でサラダ油などとしての用途が開けた。荏油・亜麻仁油は,塗料その他の需要が増大した。
 大豆油は一時大量に輸入されたこともあったが,増減がはげしかった(第3表)。日本における生産は,第1次大戦前までは比較的少量であり,他油との混和用などが多かった。しかし,満洲大豆を利用した油・粕の生産は技術的進歩および大豆粕の利用度の向上により,食用面で重要となった。関東大震災を契機に,大豆油の需要が増大するようになり,食用油として国民生活にかかせないものとなった。数量のみならず金額面でも,1920年代後半から菜種油の生産を上回る年が多くなった。そのような状態において,大豆油生産を主体とする製油の大手企業が市場の支配権を握るようになった。それは缶詰・びん詰として百貨店などで売られるようになり,油小売商・行商人の計り売りの比重が低下したからである。そして,油の混和ないし偽和による流通面での油商による操作は次第に限定されていった。
 以上のような食用油の比重の増大,およびマーガリンのような食用油脂の原料用の増加は,直接間接に外国とくに欧米の影響を受けている。オリーブ油の輸入は早くからあり,明治はじめ(1868年)には貿易統計面に表示されている。金額は小さ
いが増加傾向がみられる。缶詰用に使用されるものが多かったと思われるが,洋風の料理にも使用されたであろう。マーガリンは輸入品をまねて,はじめは牛脂などを原料としてが,先進国の技術を導入して植物油を原料とするようになった(1930年代後半以後)。
 昭和16(1941)年における植物油脂の用途別配給実績をみると,食用36%が最大であり,それにつぐのが分解用16%,軍需用15%であり,平時であればその比率はもっと低く,食用のそれがさらに高かったと思われる。そのほかでは塗料6%,外地向5%,機械油3%,食料工業3%が多い方である。そのほかでは印刷インキ及印肉,金属工業,製菓などが続いている5)。そのように植物油脂の用途はかなり広範囲になっていた。次に述べるように輸出が比較的早くから行われており,無視できないものがあるが,食用が大部分ではなかったようである。なお付言すれば,油漬缶詰は日本での消費はごくすくなく輸出用であった。

 注
 1)笹間愛史『日本食品工業史』,東洋経済新報社,昭和54年,48-49ページ。
 2)中島常雄『小麦生産と製粉業』,時潮社,昭和48年,245ページ以下
 3)大浦万吉,平野茂之『日本植物油沿革略史(改訂増補 黄金之花)』 新潮社,昭和23年,72-74ページ
 4)同前書所収「日本製油株式会社沿革略史」33ページ
 5)同前書,181ページ

 2 食品貿易・国家政策事業からみた小麦粉および食用油(植物油)
 日本が近代的社会を建設し,先進国の経済制度を導入する過程で,大きな問題は主要産業をいかに育成するかということであった。富国強兵政策の上で,強兵と関係の深い軍需産業を除けば,輸入増大傾向の著しい商品の製造業を保護・育成することが重要な問題であった。一方では,輸出産業の振興により,国際収支を改善し,貿易を拡大しようとした。ではそのような観点からみた場合,食品工業,とくに製粉および製油業(初期においては食品工業的性格は弱かった)はどのような役割を演じていたであろうか。
 輸入面において軽工業製品の比重が著しく高かったが,その中では,綿および毛製品と砂糖が群を抜いていた。封建制下において抑制されていた需要が,低い関税率と自由な貿易において顕在化したわけである。それらの製品の原料は国産化に難点があった。綿花は品質が悪く高価についた。羊毛は皆無といってよい状態であった。砂糖は甘蔗の成育に適した地域寮ほとんどなく,生産費が高かった。政府は綿糖について並々ならぬ力を入れたが,その効果は上がらなかった。そのため原料自給政策を全面的といってよいくらいに放棄し,工業面での助成に力を入れた。綿花つづいて,羊毛の輸入税が廃止された。砂糖については原料の輸入が不可能であったので,甜菜糖の製造その他にも力を入れたが失敗に終った。結局のところ,在来糖業の援助をほそぼそながらつづけ,日清戦争後に領有することとなった台湾の糖業に力を入れた。一方,戦争前後に成長しはじめた精製糖業(粗糖が原料)の育成を援助した。明治35(1902)年から輸入原料砂糖戻税法を施行することにより,政府はその発展に力をかした。いずれにしても19世紀末までの日本の関税率は,実際上は従価5%を割り,無関税状態にあった。ようやく明治32(1899)年に関税改正が行われた。しかし,少なからざる品目について協定税率がヨーロッパ諸国と結ばれた(アメリカ関係はなかった)。そのため関税の完全な自主権はまだ確立されたとはいえなかった。しかし産業保護の役割は,それまでとは格段に強く果すようになった。
第2表小麦および小麦粉の輸入・輸出
 製粉業[、、、]と輸入の関係についてみると次のようであり,糖業とはかなり異っていた。小麦粉の輸入は第2表のようであるが,その価額は砂糖と大差があった。輸入小麦を加えてもそのようにいえる。砂糖の輸入額は明治1(1868)年―5年の年平均166
万円,同6-10年,平均275万円,同11-15年平均359万円,同16-20年平均515万円,21-25年平均776万円,26-30年平均1,401万円,31-35年平均2,411万円と日本の全輸入額の1割程度を占めており,17(1884)年の如きは2割近くに達していた1)。したがって,製粉の場合,製糖面ほど強力で系統的な対策がとられなかった。しかし30年代後半に,小麦粉輸入が激増し,36年の如きは1000万円を超えたことは見逃せない。
 製粉業の重要性に着目した比較的早い事例は『米欧回覧実記』に求めることができる。新政権成立早々,右大臣岩倉具視を特命全権大命とし,木戸孝允・大久保利通らの実力者を柱とする約50名の使節団が,フランスのパン工場を見学した時(1872年)の報告箇所に,小麦粉の製造が緊急に必要であることを指摘した文章がある。それが単に久米邦武(同実記の編著者,のち歴史家として大成)の感想であったとしても,同書の民間に対する影響力からいって見逃せないものがある。
 製粉機の輸入は,政府関係者によって行われた。1つは米が当時つくれなかった北海道の開拓事業のためである。明治4年8月に開拓史の次官黒田清隆がアメリカから石臼製粉機を持ち帰り,アメリカ人N.W.ホルトを雇い,翌年装置した。9年には水力から蒸気力にかえた。12年(篩を輸入)以降をアメリカ種の小麦の栽培にも力を入れ,製品は好評を得た。18年には第2製粉所を建設,アメリカのノーダイク・マーモン社製造の50バーレル,ロール製粉機を導入した。製粉技師もアメリカから呼び,日本における近代的な製粉工業はその第一歩を国家的事業としてふみだした。農商務省第5回報告が導入したロール製粉機(7000円)について,「諸機械ノ精巧ナルハ迥カニ従来ノモノニ優レリ2)」と述べたのは当然であった。それらの設備は後述するように,民間に払下げられて後に,かなりの成績をあげたことは留意さるべきであろう。
 政府と製粉業との関係については権威ある文献に次のようにかかれている(ただし年代等に疑問がある)。
 明治6年,偶々松方正義仏国博覧会事務総裁として同国に出張するや,彼地より製粉機械二台を購入帰朝せり。当時,猶未だ欧米にありても一般ロール式製粉機を使用せずして,頗る堅牢なる仏国産砿石を材料として製せし石臼に,鉄製の枠を附けたるを主として使用せり。随って,松方正義の齎せる本邦最初の輸入製粉機械も亦,此の石臼なりき。……
 此の輸入石臼製粉機は,東京浅草蔵前の米廩内に据付けられ,一台の能力十五バーレル即ち二台三十バーレルとなり,又,和算七十石とも称せらる。一バ
ーレルとは一昼夜に四袋の小麦粉を生産する能力を言ひ,一袋の産量四十九英斤……原動機は水車を使用せずして蒸気原動機に據れり。随って之を以て本邦機械製粉工業の嚆矢となすこと通説なり。然るに,其の後,此の官設模範工場は,不幸にして予期の効果を挙ぐること能はず,一時廃絶に帰するの悲運に遭遇せり。又,巷間一説に曰く,当時政府は此の輸入石臼製粉機を其の儘,蔵前米廩内に死蔵して使用せざりしと……3)」
 のちに大蔵大臣となる松方がフランスからもち帰った機械は,ほとんど稼動しなかったと推定される。しかし,明治18年頃,民間に払い下げられ,使用されたが,石臼式のため大きな成果をあげることは出来なかった。それはともかく,製粉業が近代化してゆく過程で,国家的事業として,外国の進歩した製粉機が導入され,民間の製粉業に刺激をあたえたことは強調されてよいであろう。とくにロール式が比較的早く採用されたのは,国家事業であったからである。
 国家が日本における製粉業の近代化に与えた影響として見逃せないものに,関税の引上げのそれがある。すでに述べたように,明治32年の関税改正まではほとんどの輸入品は無関税に近い関税率にすぎなかったが,19世紀末年の改正で小麦粉については協定関税が設けちれなかった。小麦粉の日本への輸出国であったアメリカは,ある事情のため協定関税を求めなかった。32年に無税から10%に引きあげられた小麦粉の関税率は,37年10月15%に,38年7月25%に,39年10月30%に引上げられた。そして44年7月17日からは34%(以上いずれも従価基準率)とされた。理由はともかく急激な値上げであり,輸入に影響が出るのは当然であった。
 引上げの主要な理由が日露戦争のための費用であったとしても,それが日本製粉業,とくに先進国から機械その他を導入した成長期のロール式製粉業にとっては大変効果的な保護となった。36年に前年比で約3倍増加した小麦粉の輸入は,その後減少するが,それでも37-38年は戦時需要も強く微減程度であったが,39年以後は激減しはじめた。そのため,39(1906)年頃には,アメリカ太平洋岸地方の製粉業者の間に対日輸出減少を政治問題とする動きさえ生じたことが,日本の雑誌で報じられた。それには「早くも政党の問題となりてレパブリカン党中には日本に対し報復税を起す可しと議する者あるに至りたる由4)」とある。
 小麦粉の輸出はジベリア方面などに若干あったが,明治になってから32年までの間に20万円を超えた輸出額の年はなく,10万円以上は5ヶ年(27~31年)あったが,輸入額を上回った年は11,16の2年にすぎなかった。輸出は多くを望めないので,特別な振興の対象とはならなかった。
第3表 採油用種子および食用関係油の輸入・輸出
 製油業[、、、]は製粉業とはかなり異った貿易の条件にあったことは,第3表から推定できるであろう。まず輸入についてみると,植物油の場合,比較的継続的に安定して輸入されたのは日本では生産出来なかったオリーブ油であった。しかし金額的には小さく,明治32年までに5万円を超えた年はなかった。5万円以上の輸入があるようになるのは38年以後である。ただ製造用(缶詰など)に使用された量が多いとみられる「缶・樽入」のオリーブ油は,24年以後その消費量が多くなったこと,そして料理用として飲食店(とくに西洋料理関係)や一般家庭で使用された「びん入」が金額面では2万円前後になった年(明治35,38,39の各年)も打数では19年4,152ダース(7217円)以下であったことを見逃せない。それは他の油によって代替されたこと,その用途での需要増が大きくなかったことと関係がある。
 大豆油の輸入はきわめて不安定であり,また明治31-37年について数字が得られないので明確なことは云えない。明治はじめから30年までの間で輸入額が多かったのは,3年91万円,6年15万円だけで,11年6万円のほかは2,3万円の年が3年あるだけで,1000円にも達しない年が過半を占めていた。日本における大豆油の生産も当時はごく少なく,あまり重要性が認められていなかった(第1次大戦頃から生産が著しく増大)。主として混和ないし偽和用に使用されたと考えられる。ただ大
豆の輸入の統計は明治30年以後に明示されるようになったので,それ以前については不明である。30-34年の年平均は585万円とかなり多かったが,搾油用はまだそれほど多くなかった。
 国産油と競合する油の輸入についてみると,菜種油の輸入は公式な統計からは知ることが出来ないし,その量はあったとしても少量でしかないと推定される。棉子油の輸入も統計面に現われるのは,昭和2(1927)年からである。それほど多くの輸入量はなかったであろう。落花生油は昭和31年以後の数字がないので,30年までについてみると,明治5年9万円がとびぬけて多く,1~2万円の輸入額を記録した年が5年あるだけで,ほとんどが1万円未満であった。そのほか蓖麻子油,椰子油,亜麻子油,松精油などがあったが,食用油としての需要はほとんどなく,椰子油も食用として大量に使用されたのは,第2次大戦中であった。以上のように植物油の輸入,とくに食用油のそれは,オリーブ油以外ほとんど問題にするにたる油種はないといえるほどであった。ただ年によって,かなりの変化があったことは見逃せない。
 第1次大戦までの植物油は菜種油を中心として推移したといえる。同油は輸出力をもっており,輸入に悩まされることはなかった。しかも,それを中心とした植物油製造業は,日清戦争前にすでに先進技術の導入(とくにイギリス製の機械)の動きが民間を中心として現われていた。国家的事業として植物油製造が行われることはなかった。ただ前記したように,精製面で補助的役割を演ずる程度のことはあった。
 関税面では落花生油および大豆油の関税率(以下いずれも従価基準率)が32年の改正時に5%から10%に引上げられ,38年に15%となった。そして39年に前者が30%後者が20%に引上げられた。44年からはオリーブ油の缶・樽入5%,その他30%となった。落花生油30%,大豆油20%と率は変らず,綿実油20%など各油の関税率が設定された。なお原料面についてみると,大豆は明治32年,無税から5%課税となり,38年15%,44年20%となった。同年の胡麻子,荏胡麻子,菜種の関税率は15%であった。5)。なお付言すれば小麦や大豆などでも,製粉・製油原料として使用されたものの戻税が行われたが,粗糖の場合とちがって時期がおくれたのは,大量使用がおくれたためである。菜種,大豆は明治44年,小麦は第1次大戦直前であった。
 植物油の輸出の中心は菜子油であり,その他の油は明治44(1911)年までは貿易統計に示されていない。菜種油については第3表のようであるが,36年までは13万円を超えることはなかった。37年85万円,41年191万円など次第に金額が大きくなっ
た。なお大豆油も大正に入って統計面に現われ,100万円を上回る輸出額の年もふえる。そのほか綿子油も第1次大戦後にかなりの輸出があったり,椰子油も大正6(1917)年から8年までの3年間に,2,748万円を輸出するなどのことはあったが,一時的でしかなかった。いずれにしても第1次大戦までは重要な輸出ということは出来なかった。
 以上小麦粉と植物油(樟脳油,薄荷油は含まず)を中心に,食品工業の発達との関連を知る上での,貿易と国家の役割について述べた。それぞれの食品工業で異った条件があるため,一律にはいえないが,貿易とくに輸入額の大きい商品ほど国家との強いかかわりが生じる傾向があった。しかし工業が利潤を追求する点では,国家は補助的な役割を果したに過ぎないといってよいであろう。

 注
 1)東洋経済新報社編『日本貿易精覧』同社,昭和10年,165ページ,347ページ。
 2)藤原正人編『明治前期産業発達史資料』別冊(17)Ⅱ,同人,昭和41年,483ページ。
 3)日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,同会,昭和5年,211-12ページ。
 4)『東京経済雑誌』第1338号,経済雑誌社,明治39年,39ページ。
 5)大蔵省編『日本関税・関税史資料』同省,昭和41年。

 3 製粉・製油の生産技術的特性と製品の品質
 食品工業は一部をのぞけば,その原料がすでに食用としても無害なものである。そして原料を化学変化させ,その分子構造を変えてしまうような主工程をもつ製造業は比較的すくない。食品工業はいうまでもないが,食用品としての条件を満たすことが第1であり,その工程は物理的変化を主としている。なお加工度が高くなるにつれて,人間の嗜好によって大きく左右される製品が求められる。しかし,製粉や製油においては砂糖の精製と同様に比較的高度な精製工程(製粉の漂白を含む)を必要とされる。それは小麦粉・食用油・精製糖は原料的な食品として,不純分の除去が重要であるからといえる。
 製粉の場合についてみるとき,次のことを念頭に置いた方がよいであろう。製粉工業の近代化以前においては,比較的長期にわたって,世界の各地で水力・風力などを利用した石臼による製粉が行なわれ,顕著な進歩はなかった。その段階では日本を含め,各地の製粉技術に基本的な違いはないといえる。しかし,イギリス18世紀の産業革命から蒸気力の利用が進み,1785年,ロンドンで蒸気機関を設備した製
粉工場が出現した。また労賃の高いアメリカで,エバンスが1780年代には,石臼式ながら,各工程を動力で統一した自動式製粉工場(エレベーターやコンベア利用)を建設した。そのほかにもアメリカ人による装置の改善はすくなくなく,それらはアメリカのみならずヨーロッパの製粉工業にも影響を与えた。ここで注意しなければならないのは,製粉工程で最も重要なそれは,小麦の破砕・粉砕であり,その作業機が石臼か,対をなしているロールかで,製粉の能率・品質に大きな差が生じることである。一般に,石臼製粉・ロール製粉という風に,製粉工業が大別されるのはそのためである。
 ロール機は,すでに16世紀に考案されていたが,実用化の面では障害があった。1820年代から30年代にかけて,スイスなどで試験的段階から工場生産が行われるようになった。まだ欠点はあり,一時的衰退はまぬがれなかった。しかし,60年代末期にはウィーンですぐれたロール製粉工場が建設され,1873年にチューリッヒのウェーグマンが大変優秀なローラーを発明した。それらによって欧米において大規模なロール式製粉工業が発達することになった。なお1870年には胚乳部分を除くピュリファイアーの発明(フランス人,ラクロア)があり,アメリカで最初に使用された。以上によって,欧米を中心に近代的な,自動化されたロール式製粉業はほぼ完成された。
 日本においては,当時まだ在来のおくれた水車による,非常に不完全な石臼製粉が行われていた。1873年(明治6)アメリカ(フランスの良質な石臼用機を早くから利用)より水車式石臼製粉が導入され,3年後には蒸気機関つきの新製粉所が建設された。その経験を基礎に,新しい技術,すなわち小規模ながらほぼ諸工程のそろったロール式製粉が導入された。もっともそれらは官業によるものであり,民間における事業化は石臼製粉で約7年,ロール式で12年くらい遅れた。先進国と日本との間での製粉近代化の時間的な差は,以上から判断できるように,それほど大きくはなかった(30年以内)。それは製粉が機械設備さえ導入すれば操作が比較的容易に出来たためでもある。しかし,当時,日本が技術的に依存(機械類のほか,技術者も)していたアメリカでは,製粉工業は世界一の規模を誇れるほどに進歩していた。1870年代以後,石臼製粉は陳腐なものとなり,200バーレル以上のロールのロール式製粉工場は普通であり,1,000バーレル以上の工場もめずらしくはなくなっていた。その技術的格差の大きさもさることながら,機械供給面での違いはきわめて大きく,日本の製粉機械自給は大変に遅れた。
 製粉においても,原料である小麦によって製品である小麦粉の品質が左右される
ことはいうまでもない。日本の在来種はうどんなどに使用すればかなり適性があった。しかしパンには適していなかった。日本の小麦といっても品種も多く,永年の間にかなりの新品種がつくられた1)。それはともかく,原料面からくるところの,製粉において如何ともしがたい問題を除けば,あとは製粉機などの機能とその操作で品質と生産費が左右される。
 製粉業の工程は,まず小麦の受入が行われ,サイロなどで一時的に貯蔵される,その後製粉に送る前に精選される。精選工程は小麦に混入している夾雑物の除去が目的である。そして洗浄などを行って製粉機で製粉し,篩にかけ,皮質分と粉の部分を分離する。小麦粉も適当に分類される必要があるが,それを運搬,包装して各種の小麦粉と麭(副産物)として販売する。それらの工程でもっとも主要なのは製粉(破砕など)である。
 製粉工程のきめ手は製粉機にあるが,石臼式とロール式では皮質部の混入と能率の点で大きな差があった。皮質部の混入は篩によってもよく分離しない。『第3回内国勧業博覧会審査報告』(明治24年刊)は当時における石臼製粉による国産小麦粉とロール式による外国産小麦粉を比較している。皮質部混入によるタンパク質の比較の大きさが目立っており,色や味に影響した。もっとも在来製麺用としてはかなりの「適品2)」とされていた。
 ロール式と石臼式の比較については,やや後の著作の中に,「溝付ロールの面には小麦の切断を容易ならしめる為に軸に対して一定角度の傾斜を有する条溝があり,条溝の形状は外皮の損傷及び胚乳の粉末化を最少限度ならしめ得る程度たる事が必要……破砕作業を只一回の操作に依って完成せしむるのには幾多の困難が伴ふのみならず,かかる方法を以てしては到底良質の小麦を得る事が出来ないから,通例数台のブレーキ・ロール及びプラン・シフターを反覆使用……水車製粉とロール製粉との間に品質上その他に多大の相違があるのはこの為である3)」とある。
 水車を利用した石臼式製粉とロール式のそれとは,その他の工程でも,自然と異ってくるのはいうまでもないであろう。その点について「今日進歩せる製粉工場に於いては,精選工程の重要性を認め,其の設備亦完備せり。然れども,水車製粉にありては,精選工程と称すべきものなく,僅に,挽砕に先立ち,小麦粒を笊に入れて水洗をするに過ぎず4)」と云われていることからも,その一端を知ることができよう。
 水車製粉の場合,製粉装置がたとえ同じであっても,水流に動力源を求めて水車でエネルギーを伝える限り,大きな限界があった。製粉工場が大型化すればするほ
ど,そして高能率に稼動しようとする場合,蒸気力や電力に動力を求める必要があった。在来の水車製粉は急速にその競争力を失わざるをえなかった。それは生産技術面から結論されるところである。
 ここで参考までにふれなければならないことは小型の動力製粉機のことである。昭和4(1929)年に農林省は大日本農会に委託して,動力製粉機の懸賞募集を行った。それは3馬力以外の動力機で運転され,1インチ90目篩により処理される小麦粉の製造を目的としていた。入賞したものの中にはローラー式,鉄臼式,石臼式などがあったが,その優秀な機械で製粉した場合「市場の一等品に匹敵する5)」小麦粉があったという。それらの機械については製粉能率・製粉歩合・製粉の品質が公表された結果,「此の種の製粉機を共同利用して,所謂自家製粉をなすの熱が頓に高まり,数年を経ずして懸賞募集に入賞した優良な製粉機は,農村の共同作業場に急激に設備せられ,其の利用は日を遂ふて盛んになった6)」と伝えられる。しかし,それらは市販小麦粉の製造を目的としたものではなかった。ただ,水車製粉および近代的製粉と間接的な競合関係はあったであろう。
 以上述べたことから,想像できるように,製粉工業は化学工業的工程をほとんど持たない製造業であった。それが発達すればするほど大資本を必要とし,技術も高度化し,生産工程も複雑となり,種々の機械や装置が行われたことは見逃せない。しかし初期の段階においては,技術的に習得の困難な工業ではなかった。ためにロール製粉の創業の場合も比較的簡単に行われた。その点,製粉業について「其性質非常なる熟練的特殊技能を要するものに非らず……且つ職工数甚だ少きを以て経営甚だ容易なり,其他製造過程頗る短時間にして……其機械化比較的低廉7)」といわれていることはそれなりの理由がある。日本において,近代的製粉工場が各地に設立され,激しい競争を展開した1つの原因は生産技術的な面から来ている。日露戦争から第1次大戦までの間に,市場調節のためのカルテル操作がいろいろな形で行われたのは偶然ではないのである。また水車製粉がかなりあとまで存続しえたのも見逃せない事実であり,その点と関係がある。
 製油の場合,原料によって生産方法が異っている。しかし,含油率の比較的高い原料は圧搾によって,比較的容易に製油出来る。日本における製油の歴史はかなり古い8)。そして進歩はあったが,開港時までには他の産業同様,その生産手段は道具の段階にとどまっていた。その点については次の引用文が役立つであろう。
 「立木搾油器は在来の檮押木等より一段と精巧なりし為め,其の後永く明治末期迄各所に引続き利用され唯其の動力に於いて,僅かに水力・蒸気力・電気力
等を利用するものを用ふる程度の改革が行はれたるのみにて,寛政年度より明治末葉期欧米諸国より各種新式機械搾油器の輸入さるる迄,我国製油界を独占したものであった。
 尤も大阪にては同じ立木による搾油にても平野流(菜種一石八斗乃至二石を二度にて絞り上ぐる方法)堺流,天溝流(菜種一石乃至一石二斗を三度にて絞り上ぐる方法)等の各種の流派はあったが,何れも大同小異のものであった。……4~5人の絞油職人を要する……9)」
 もっとも,主としてイギリス10)から進歩した製油機が導入されたのは「明治末葉」ではなく明治中頃であった。それはさておき,立木による搾油とは一体どんなものであったであろうか。大蔵永常の『清油録』が伝えるところは大体次のようである。大蔵のそれは天保7(1836)年の出版であるが,徳川中期には胡麻油,荏油等は菜種油に圧倒されるようになっていたということを念頭に置く必要がある。まず莚にひろげて干された菜種を鍋で炊り,碓でふみ粉とし,篩にかけ,残りかすをふ●粉にし,粉を桶に入れる。そして蒸籠に入れてむし,袋に包み坪(うす)の中に金輪を重ね,立棧(たつざん)をはめ,其の中に石を置き,石の上に古い袋の切を敷きその上に棹を通し,矢をはめて槌で両方から打てば油が桶の中にたれる。それからもある程度の想像がつくように,比較的簡単なものであった。
 ここで見逃せないのは水車搾りが行われていたことであり,大阪に近い摂津(現在の兵庫県)では一段と進んだ方法が採用されていたといえよう。炊った種子を人力のかわりに水車で胴搗をして粉にした。その点について『清油録』には「其の手間大いに違へり,搾りたる油はかはることなけれども,油の抜方あしきとて粕の値段は人力搾りよりは少し劣れり,然れども石数多くしぼるがゆゑ算当は人力より宣し」とある。
 日本の鎖国時代,棉作は各地で行われており,その棉実を利用して,油を製造することは開港前200年以前の歴史をもっていた。ただその色のため,黒油とか赤油といわれ,品質がよくなかった。しかし,まもなく「灰直し」(石灰による精製紙漉)が行われるようになり,白油として,菜種油と競争できるほどの量が生産された。胡麻油なども古くから生産されていたが,その搾油方法には大差はなかった。搾油機は同一のものでよかった。
 明治20年代頃から次第に外国から新しい能率のよい搾油機が輸入された。それが従来の手絞搾油器(俗に立木),玉絞水圧機(石をのせて水の圧力で搾油)にかわった.主ず登場したのが板締水圧機(アングロカメリカン式)であった。それについ
ては「搾油機一台に鉄製棚板十五段あり,人毛にて編みたる手袋と呼ぶ布にて原料粉末を包み,板締機にて予め整形したるものを各段に装填加圧搾油するもので,搾油は板状をなす11)」といわれている。ゲージ水圧機は鋳鉄製の垂頭と底とからなり,其の間に円筒状のゲージをのせて,この中に原料を入れ,水圧により加圧する措置で,板締機より搾油量が多かった。エキスペラー搾油機の導入は日露戦争後であったが,同機については「自動式搾油にて,アンダーソン式及クルップ式等がある,横置したる胴体(バレル)の中央部を鉄棧を以て円筒となし,其の内部にウォームと呼ぶ螺旋を取り付けたるシャフトが回転して押出機の如く原料を送り,連続的に搾油する装置なり12)」とあることからも推定されるように,その能率はそれまでの搾油機に比較してすぐれていた(板締の約6割の労力)。そして,輸入先もドイツが加わった。
 大豆[、、]についても,板締機などが使用されたが,効果的に搾油するためには溶剤によって抽出する必要があった。それは含油率が低いためでもあった。ある資料13)によると,大豆油原料の成分中の粗脂油の率は胡麻55.2%,菜種42.2%はおろか,棉実22.5%にも及ばず,18.0%にすぎない。しかし,粗蛋白は他の原料が落花生などごく一部をのぞき,20%以下であるのに対し,大豆の率は40%と非常に大きい。そして原料が比較的安く得られたこと(とくに第2次大戦までは満州が特産地),肥料・飼料および食料としての市場が拡大したこと,大豆油の用途が広いこと,長期の貯蔵にもたえることなどの特徴をもっていた。
1920年代初期頃における,大豆製油についての圧搾式(丸粕,板粕)および抽出式の比較をみると次のようである。

 圧搾法のうち円粕は600~700ポンド(粕面毎平方インチ)の最高圧力を加えた場合,原料に対する収油率は10%程度,板粕は1,700~2,000ポンドの最高圧力で12%程度であった。それに対し抽出法(ベンジンを溶剤とする場合)の収油率は14%程度にまで達した。粕中に残留する油分については深のようにいわれている。
 「圧搾法(丸粕式,板粕式)は利用し得可き最大の高圧を加ふるも原料中には尚五~一〇%の油分を残留せしむ。何となれば圧力を加ふるに従ひ粕の毛細管は漸次狭搾せられ終に油は流出することを得ざるに至るが故なり。之に反し抽出法に依る時は粕中に残留する油分を〇・五%迄も低下せしむるを得るものなり。但し普通完全に近き迄油分を抽出するは経済上不利益なるを以て,残留分二%内外の程度に止むものなり。
 ……大豆油粕の主なる目的は日本に於ける肥料用にして……粕中に油分が多きに従ひ粕中の成分が分解して肥料となるのを妨ぐのみならず,栄養分が植物の毛根に吸収せらるを妨ぐるものなり。即ち搾取すれば価値ある油分の残留することに依り,肥料価値を軽減するものなり14)」
 大豆油製造業においては大豆油粕部分の比重が大きく,採算的にみても,他の植物油製造業とは比較にならないほどであった。とくにその食用化で,その傾向は一段と強まった。ただ抽出法はその製法上溶剤を使用しているので,単純に圧力をかけて搾油するのとは異った難点が生じた。1つは油と粕にやや溶剤の影響が出ること,他は資本を多額に必要とすることであった。しかし,それは必ずしも解決不可能なことではなかった。むしろ,大企業の優位牲の確立につながっていた。
 植物油製造業の場合,多かれ少なかれ,精製工程を必要とされるが,とくに収油率が高く,粕中に残る油の割合が低くなればなるほど精製は重要となる。精製工程は製油業の場合,単なる副次的工程とはいえないほどになった。初期には容器に入れて,粕などを沈澱させて,澄んだ油を汲み出すことで解決できた。しかし,製油業が近代化し,高度になるにつれ,精製面の技術も高い水準のものが要求された。とくに大豆油の場合はそうであり,また食用油および産業用での比重が高まればそれは決定的に重要であった。それは多分に化学工業的な性格をもつようになって来たといってよいであろう。その解決は当然ながら遅れた。なお油種によっても異っていた15)。
 製品の品質と生産技術は原料を前提とすれば密接な関係があり,産業によって異なることはいうまでもない。製粉の場合は,石臼式かロール式かで非常な差が生じ,小麦粉の商品性を左右する。そのほかピュリファイヤーとか漂白工程なども無視できず,産業の近代化,大企業の優位性の確立とそれらは絡みあっていた。製油の場合は,原料が多様なものが使用されていたので複雑であった。しかし,圧搾法の場合,搾油機の能率が高くなればなるほど精製工程での近代化を必要とされた。抽出法の場合は,さらにその点での重要性が決定的となった。それが,小零細製油との競争において大きな差をつける要因であった。また抽出法の採用は小資本では不可能であった。そして,そのような条件をより効果的にしていたのは動力化であったが,電力の普及は一面では企業間格差(ある程度は製品差)の解消的作用をしていたことを見逃せない。しかし,それはそれほど強いものではなかった。なお製油業の油粕は製粉業の皴と同様ないしそれ以上に企業収益に影響を与えていた。

 注
 1)正田貞一郎『製粉工業』(現代日本工業全集22)日本評論社,昭和11年,29-36ページ。
 2)第三回内国勧業博覧会事務局,『第三回内国勧業博覧会審査報告』第3部,第3編第七,同局,明治24年,455ページ。
 3)前出,正田貞一郎『製粉工業』。
 4)前出,日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,203ページ。
 5)橋本康人『小麦と製麺』西ヶ原刊行会,昭和12年,44ページ。
 6)同前書,46ページ。
 7)佐野次郎・垣内幸太郎『本邦企業者胼合及合同』下巻,東京宝文館,大正三年,302ページ。
 8)前出,大浦万吉,平野茂之『日本植物油沿革略史』10-126ページ。
 9)同前書,148ページ。
 10)日本工業化学会編『工業化学雑誌』第1編第4号化学会明治31年6月刊,291ページには「欧米機械製造所名」が列記されているが次のように製油機械類はイギリス関係のみしかない。それは当時,それにまさる製油機械が他になかったことを意味しないとしても,日本の製油業にとっては他国の会社の機械を知る機会が少なかったことを示している。
 11)前出,大浦万吉,平野茂之『日本植物油沿革略史』167ページ。
 12)同前,167-68ページ。
 13)佐藤義胤(満鉄)『大豆の加工』産業資料其二十一,南満州鉄道株式会社,大正15年,303-04ページ。
 14)同前書,349-51ページ。
 15)三井嗣喜『油脂工業』完用化学工業叢書,誠文堂,昭和6年,77-88ページ。

Ⅱ 在来的製粉・製油からの脱皮の第1段階(近代的企業の成立)

 1 土着的生産組織の崩壊を促した要因
 開港前に形成されていた生産組織は中央集権的徳川封建制に対応した側面を強くもっていた。徳川幕府の統制は江戸・大阪・京都・長崎など日本の経済の主要部を押えることによって行われた。それは流通面からの規制が主になっていた。とくに貿易がきびしく制限され,いわゆる鎖国状態に置かれていたため,製造業の発達による生産規模の拡大には強力な歯どめがかけれらていた。各領主は独自な要求で保護振興ないし極度な搾奪(薩摩藩の糖業政策など)を行ったが,あくまで徳川幕府の統制に服しながら,封建大名体制に役立つようにすることを目的としていた。永年にわたって体制に順応しながら収益を求めて来た諸業者は,流通・金融・土地所有に力点を置きがちであった。生産は収奪の対象であるが,それは富の根源であるから,その面での進歩はゆるやかながら,道具を使用する段階としては比較的高度に達していた。製粉・製油においても水車の利用はすでに開港前に行われていた。生産をより能率的にし,収益性を高めようとする内的欲求はその機会を待っていたといえよう。それが在来の土着的生産組織の崩壊の基本的要因であった。ただ旧体制がどのように崩れ,新しい産業がいかにして確立されるかは,それぞれの産業経済の歴史的性格に左右された。
 既存の生産・流通を中心とした経済関係に新しい枠を与えたのは明治政府であった。尊皇攘夷から鹿鳴館へという政治面での急転換は,開港後の先進国商品の流入を基礎に行われた。攘夷の代償は大砲・軍艦等の商品価値の認識にあった。鹿鳴館での外人接待は,半植民地的状態におかれている商品貿易に対する対策の一面をもっていた。さきにふれた岩倉具視ら新政権の実力者達の長期外遊は,富国強兵政策についての絶好の実物教育となった。新政権は成立まもなく廃藩置県に成功し,日本経済の資本主義化の主要条件をつぎつぎと整えた。新しい中央政権は大都市を中心に経済の発達を促した。明治の高級官僚はそれら.の過去を知る福沢諭吉をして,明治32(1899)年出版の自伝の中で「新政府は開国に豹変した様子……政府の開国論が次第次第に真成のものになって来て,一切万事改進ならざるはなし,所謂文明駸々乎として進歩するの世の事になったこそ実に有難い仕合せで,実に不思議な事で,云はば私の大願も成就した……」と書かせたほどの変革を行った。
 産業発達のための先進の情況の把握と,その広報活動および技術導入が,新政府の主導で行われた。明治5(1872)年頃の欧米の諸産業については,ウィーンでの博覧会を含め,『米欧回覧実記』で国民に知らされた。11年に発行されたそれは全100巻からなるもので,当時においては劃期的な大出版物であった。同実記は版を重ね,3500部印刷されたことは注目すべきことであった。その中にはイギリスの白糖精製場ビスケット工場など,フランスのチョコレート工場やパン製造場など食品工業関係の記事もある。そして同書中からとった新聞記事も当時はあった。政府は広報活動から新産業の導入・移植を行った。紡績・製糸などの繊維業をはじめ,多くの産業にわたって民業を刺激した。製粉については既に述べたが,製糖も甜菜糖業のような新しい事業に相当の投資が行われた。缶詰・乳業など民間の活動に好影響を与
えた。収益をあげた官営事業はまれであったが,その後における日本産業の急速な発達は,官営事業とその払下げがなかったなら,ありえなかったであろう。おそらくその発達はきわめて緩やかなきびしいものとなったであろう。とくに玉石入りまじっていたが,外国の技術者が,多数高級で雇用されたことは見逃せない重要性をもっていた。それによって日本人は多くを学びかつ彼等の秘密としていた技術を「盗んだ」。
 新時代の到来が政府によって先導されることによって,地方官庁もそれに応じた。利益を求めることに敏感な民間人は,富国はもちろん,強兵にすら共鳴した。官府だけでなく民間にも少なからざる知識人がいた。その最大の大物,日本近代化の輝けるブルジョア・イデオローグ福沢諭吉は幕臣としてアメリカに渡った時(万延元年,西歴1860年)の経験を次のように述べている。
 「亜米利加人が案内して諸方の製作所などを見せて呉れた。其時は桑港地方にマダ鉄道は出来ない時代である。工業は様々の製作所があって……さう云ふものは日本人の夢にも知らない事だらうと思って見せて呉れた所が,此方はチャント知て居る。是れはテレグラフだ。是れはガルヴァニの力で斯う云ふことをして居るのだ。又砂糖の製造所があって,大きな釜を真空にして沸騰を早くすると云ふことを遣て居る。ソレを懇々と説くけれども,此方は知て居る,真空にすれば沸騰が早くなると云ふことは。且つ其砂糖を清浄にするには,骨炭で漉せば清浄になると云ふこともチャント知て居る。
 ……ソレは少しも驚くに足らない。只驚いたのは,掃溜に行て見ても浜辺に行って見ても,鉄の多いには驚いた……空殼などが沢山棄ててある。是れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾ひがウヤウヤ出て居る1)。」
 慶応義塾から日本財界に多くの人材が早くから送りだされたことは,福沢の力を考える場合,当然といえる。そのほかにも少なからざる学識者が産業方面にも力を入れるようになった。欧米諸国への留学,商取引,移民等で出かけ,直接・間接に製造業の発達に寄与した人も多くなった。また外国人の日本滞在はそれに接した人間にいろいろな知識を得させた。それらが食品工業の発達と絡みあっていたことを見逃すわけにはいかない2)。製粉・製油との直接的な関係は後述するが,以上述べたような社会経済的な諸情勢が大きく日本の産業の近代化を促したことを強調したい。
 輸入品市場の形成・拡大は単にそれと競合する新旧の諸産業の進歩を促しただけでなく,直接的な競争関係にない製造業(醤油醸造3)その他)の近代化にも影響を与えた。しかし,先進国からの輸入品が増大すれば,それを自給(企業化)しようと
する動きが,比較的早く生じるのは当然であり,問題はそれを実現出来る条件の有無にあった。小麦粉の輸入の場合,それを港別にみると興味のある事実がわかる。第5表に示したように,横浜港から輸入される小麦粉が大部分であった。とくに明治28年頃までは8割以上をしめていた。これは東京周辺に近代的製粉工場が集中するようになる事と密接な関係がある。しかし,「聞ク所ニヨレバ舶来品ハ其初メ主トシテ販路ヲ東京ニ開キ之レニ次テ横浜ニシテ大阪ノ如キハ外国品ノ販路狭カリシト……メリケン粉ハ……優等ノ特質アルト共ニ爾来中下ノ両品ハ価額他ノ諸物価ニ比シ次第ニ低廉ニ向ヒケレバ全国都府ハ云フニ及バズ地方ニ至ル迄一般全国ニ普及……4)」と明治34年の高等商業学校の学生の調査にある。輸入小麦粉の全国的市場形成が横浜・東京を中心としていたことを知る上で参考となる。植物油(食用油)の場合は小麦粉ほどの輸入面からの刺激はなかった。
 輸出については前記したようにそれほど多額ではないが,在来の生産の規模を拡大し,土着的生産組織の改変にある程度の影響を与えた。小麦粉の場合,第5表に示したように長崎港からの輸出が多く,シベリヤ方面に相当輸出された。それは外人経営の新鋭製粉工場の生産品であった。しかし,輸出は安定性・継続性に欠けるため,また国際競争力に劣ることもあり,国内製粉業の近代的経営成立を推進するほどの力とはならなかった。植物油製造の場合は製粉業とはやや異なった条件にあり,輸出の寄与はより大きかったといってよいであろう。
第4表 植物油の生産推移
しかし,安定性は小麦粉輸出の場合と同様に欠けていた。植物油の生産・流通の中心は大阪であるが,輸出は神戸港が主であった。
 封建的な規制がほぼ一掃されたので,日本産の小麦粉,植物油の市場が拡大したことは生産の増大に反映した(第4表)。貿易面からの影響も加わって,既存の生産組織は大きな変化を余儀なくされた。その点については『ペルリ提督日本遠征記』やオールコックの『大君の都』に,幕末の日本を評価し,やがて日本が欧米諸国の競争者となるだろうとの予見があることに留意する必要がある。それは「物質文明にかんしては,日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない、機械設備が劣っており,機械産業や技術にかんする応用科学の知識が貧弱であることをのぞくと,ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう……原料と労働力の安価なことは,生来の器用さや技術と相まって,機械の差をおぎなうことであろう。日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから,もちろん外国製品の模倣をしたり,それからヒントをえたりすることだろう5)」という理由からであった。手工業水準の産業としては,日本の生産技術は高度なものをもっていた。そして,輸入機械類についても一部をのぞけばそれを模造するだけの能力があった。食品工業用の機械器具の模造も日清戦争前から始まっていた。それはともかくとして,外国の機械の入手は,開港後に外商が横浜などで商館をもつようになって,早急に容易となった。商館で即時に入手出来る場合もあった。
 経営面においても,工場制手工業の形態に達している場合もまれではなかった。製粉製油については商人の支配が強かったが,たとえば明治初年から中期までの製油業について次のようにいわれていることは見逃せないであろう。
 「元来当時の絞油屋と職人との間は,当時の各種家内工業に於いて見る親方・徒弟の如き関係とは別な立場に在ったもので,恰も現今の資本家と労働者の如き関係であった。小規模な家内工業が国内産業の大部分を占むる当時に在っては斯うした制度の下に在った企業としては,此の絞油業の外に今一つ造り酒屋があった。(酒造業だけではない――引用者)。云ふ迄もなく絞油業には各種機械設備,土地,建造物等々他の企業に比し相当多額の資本の固定を要したる為め,相当の有産者でない限り起業するを許されなかったが,其の反面職人は……若干の熟練を要するとはいへ何れも代替性に富む稼動であったから全然の無産者且つ無経験者であっても充分勤った……従って彼等が相当努力しても産を積んで資本家たる絞油屋に成るといふ事は先づ少い方であった。これが為め自然労資の間には幅の広い一線が劃されてゐた様である6)。」
 水車製粉の場合は労働者を雇用して,工場的経営を行うということはほとんどなかったと考えられる。家内工業的に製粉業が行われていて,製品取引における立場も弱かった。ただ製油の場合も油商との関係では,劣位にたたされるのが一般的といってよい。それはさておき,日本における幕末の産業経済の状態は,先進国の機械工場制度を採用して経営してゆけるだけの程度にまで進歩していた,そのために,新しい株式等の会社形態が規模の大きい経営を早く可能にしたといえよう。
 時代の急速な進転は製粉,製油の近代化を促し,また生産業者自体もそのような志向を強くもつようになった。日清戦争前後から,日本の製粉および製油業は,先進国から導入した機械を最大の武器として活動する近代的工場をもつ企業を成立させた。そしてそれらの企業が増加し,成長するにつれて,各業界は近代的企業が支配権を確立した。生産規模が拡大した企業は,概して流通面においても商業企業に対して優位にたつが,小麦粉と植物油(食用油)ではその商品の性格が異っていたため,後者の流通関係では商業企業の優位性は簡単に崩れなかった。

 注
 1)福沢諭吉『改訂福翁自伝』(文庫)岩波書店,昭和29年,114-15ページ。
 2)前出,笹間愛史『日本食品工業史』20,90,96,99,103,109,110その他の各ページ参照。
 3)野田醤油業の大手醸造家・茂木七郎右衛門(六代目)は福沢諭吉の紹介で知った技師の指導をうけ,明治20年に自邸内に試験所を設けた。そのほかにも,新研究,ボイラー等の設備が行われた。
 4)朽綱宗一『麦粉販売慣習取調報告書』一橋大学所蔵・非公刊,4-5ページ。
 5)オールコック(山口光朔訳)『大君の都』下(文庫),岩波書店,昭和37年。149ページ。
 6)前出,大津万吉,平野茂之『日本植物油沿革略史』148-49ページ。

 2 先進技術の導入とその吸収の経験
 日本における食品工業の近代化は,輸入品の増大によって決定づけられた面が非常に強い。そして輸入食品市場は大都市を中心に形成,拡大された。とくに密度の高い,販売効率の抜群な,輸入商品市場は東京・横浜を中心とした地区(以下京浜と略称)であり1),大阪・神戸の一帯(以下阪神と略称)は京浜とは大差があった。そのほか京都・名古屋・広島と,鎖国時代唯一の対外貿易の唯一の窓口であった長崎が明治31(1898)年末現在10万人以上の都市であった。人口200万の東京府は,東京市144万を中核とする大行政区域であり,諸官庁とその事業が集った世界有数の大消費都市であった。大阪府は82万の大阪市などからなる160万で,東京府と大差はなかった。しかし,その消費傾向は保守的といえた。横浜を上回る22万の神戸と近接した京都35万を加えても,京浜の都市人口には及ばなかった。輸入小麦粉(メリケン粉)の市場形成の中心であった京浜地区とその周辺で近代的製粉業が早く確立したのは当然であった。一方,輸入品,とくに先進国の菜種油・胡麻油などのそれの影響を全くといってよいほど受けなかった製油業は,鎖国時代に日本経済の中心(台所)であった大阪とその周辺で近代化が進んだ。在来の産業経営と,無関係に切り離されたような形態で企業化された新事業(先進的機械の導入等による)の場合はもちろん,在来の企業が経営規模を新しい機械で行う場合も,試行的性格をしばらく持っていた。そして初期における食品工業の近代化は,流通条件にめぐまれた都会地とその近辺に限られる傾向が強かった。小規模な試行的形態の企業化には競争力の弱さがあった。
 製粉業[、、、]における先進技術の導入とその吸収の経験については,大消費地を中心に販路を確立し,輸入粉に代わった企業のそれと,製麺地と密着して成長した企業ないし製粉業を対比しながら記述しよう。利潤追求が基本になっていない官営事業については前述したので,以下私的企業の製粉業を個別に考察しよう。
 大消費地と密着度の高い製粉企業としては,現在も日本の代表的な製粉会社である日本製粉[、、、、]の創立までの経緯を見る必要がある。民間における製粉業の先駆者は雨宮敬次郎であるが,彼は山梨県出身の特異な財界人として活躍したことで知られている。生糸・蚕種などの取引その他によって蓄財した雨宮は,外遊の機会をつかむことによって,旅行中の知見から明治13年頃,東京で製粉業に着手した。それはアメリカ製の石臼製粉機2台(40バーレル程度)を据付けた蒸気を動力とする小工場であった。彼はその製粉業について次のように回顧している。
 「粉を挽いて見たところが日本の人間は之を使ふことを知らない。粉には一番から二・三・四・五・六番までの種類がある……日本人は1番でなくては粉と承知しない……折角工場を建てて少しも売れなくては困ると思って居ると図らずも十四年に浦塩斯徳から1カ年間お前の所の機械で挽くだけの小麦粉を買うと云って来た……売った所が二万円儲かった。夫れから十五年にも買ひに来たから売ってやった又儲かる……すると大変な事が起きたそれは大蔵省が麦粉製造の機械場を建てると云ふ事で行って見ると成程浅草の米廩へ私の機械をそっくり其まま真似をして遣りはじめた……とうとう大蔵省で三十万円かけて据えて仕舞った2)」
 彼がまねをしたと云うているのは思いすごしと思われ,松方がパリ万国博で購入して帰ったフランス製の15バーレルの能力をもつ石臼2台のことであった。松方の官営製粉業は大した効果をあげずに払いさげられる。それは次にふれるとして,雨宮の製粉業は,国内における小麦粉の販売と無関係に事業を開始したこと,石臼製粉による未熟な技術で生産したことのため輸出に依存する結果となった。それでは安定した経営を望むことは無理であった。
 その後については必ずしも明らかな事実ばかりではないが,次のような経緯があったと思われる3)。輸出面でもゆきずまった雨宮は薩摩藩士で西郷派だった野村忍助(開拓使の製粉場の払下げを受けた一人)らと組んで,有限責任日本製粉会社(資本金20万円,払込5万円)を明治20年頃に設立するために運動した。同社は雨宮の事業を引きつぎ,一方で松方の官営製粉事業の払下げを受けた。その目的とするところは,軍用を中心とする内需に活路を開くことにあった。陸軍の要路の人達の協力があり,軍用パンむけに販路を確保できた。しかし5年もたたない24年には会社を解散した。それは陸海軍の物品購買規則が改正され,特権的なうまみが失われたからである。その工場を買った資産家も経営に失敗し,債権者の手に落ちることとなった。
 銀行家の南条新六郎らの債権者は,その製粉工場をもとに東京製粉合資会社(資本金5万円)を設立した。同社の製粉については「製品の販路を陸海軍のみに求めず,進んで民間販路の開拓に努め,経営に苦心を重ねた末,東京の雑穀商立川建蔵の後援を得て,漸く一方の活路を開くことが出来た4)」といわれている。たしかに有力な販売面の協力者の存在は大きかったが,会社創立の1年後に日清戦争がはじまったことによって救われた点を見逃せない。また資本力の点でも銀行家の長尾三十郎や回米問屋恒川新助ら有力出資者が加わったことで,経営は好転した。しかし,その製粉が石臼式で行われていたことは大きな弱点であった。
 明治29年に東京製粉合名会社は日本製粉株式会社(資本金30万円)に改組され,ロール式製粉の導入を行うことになった。ロール式の採用の必要は外国の製粉業についての情報も当時はかなり正確に把握されていたであろう。しかし,日本において官営であった開拓使の製粉事業が民間に払下げられてのち,唯一のロール製粉工場として,北海道の中心地札幌で稼動していたことの意味は非常に大きかった。同社ではその経営者後藤半七を招待して意見を聞き,精米業の経験者である高水幸次郎を札幌の製粉所に派遣して見学・実習させた。
 ロール製粉機の購入は,ちょうど精糖業拡張のためにアメリカに出かける鈴木藤三郎(日本糖業の発展に貢献する一方,各種の発明・事業を行った産業史上の一等星)に依頼された。鈴木は東京の茂須礼商会の紹介で,サンフランシスコのワグネル製造所に200バーレルの製粉設備を注文した。その点については,「このワグネル製造所というのは製粉機械の専業メーカーではなく,各種の産業機械の部品のメーカーであった。だから同製造所に注文したことは,あまり適当ではなかったわけたが,ともかく,かれは製粉機械と付属品および必要な汽罐機械までそろえたワンセットを1万2370ドルで購入する交渉をととのえ,正式の契約事務は茂須礼商会を這じて行なう約束をした5)」と云はれている。
 購入された製粉機械類の一式は,ロール製粉機4台,リール型篩4組精選機2台,整粒機1台,粉詰機1台およびエレベーター類であった。それらについて「ロール製粉機はワグネル製であったが,その他の機械はいずれもメーカーが違い,必ずしも仕様書のとおりに組立てることができなかった……部品の破損も少なくなかった6)」と書かれているところを見ると,この種の取引はまだ問題が多かったといえよう。それはともかく,工場建設や機械の据付けはアメリカから送られて来た製粉工場の写真や見取図を参考にして行い,「いっさい外人技師の手を借りずに機械にそえられた仕様書と札幌製粉所を見学した知識にしたがって据付けられ,運転が試みられた7)」。新工場に必要とされた費用は約6万円で,うち機械設備が6割近くを占め,建築費2割であった。
 新製粉設備は30年9月から稼動し,間もなく石臼製粉は操業中止するが,前者のすぐれていることは,品質・歩留・能率などから明かになった。生産量も,30年の48万貫(16.3万円)から翌年には108万貫(37.9万円)になった。職工数30人程度,200バーレル,80馬力の製粉工場は当時の先進国の規模では最小限といってよい位のものであったが,日本人の資本による最初の大型製粉工場であった。
 販売面においても,「新しい機械製小麦粉」にふさわしい商標が登録され,「新しい機械粉の発売にあたっては,特約店の制度を採用することにしている8)」。特約店の4軒は,東京の有力な粉問屋であった。それらの店をはじめ「日本製粉製造小麦粉販売店」と書かれた看板は主な販売店にかかげられた。特約店との契約内容の面においても,製粉会社の主導性が窺われる。なお「製品が良質で輸入メリケン粉にくらべて大して遜色がなかったから(もっとも当初は漂白過程を欠いたなどの事情で色は若干褐色がかったが,その後しだいに改善された),販売店は争って販売に努めるありさまで,販売は予想以上に伸長した9)」。その結果,同社は30年上期から35年上期まで10~20%の配当を行えるほど収益をあげることができた。
 日本製粉のほかにも,京浜地区に本社や主要工場などを置いていた製粉会社はあった。それらについて簡単にふれると次のようであった。まず東京製粉株式会社(日本製粉の前身,東京製粉合資会社とは無関係)が31年資本金15万円で創立された(のち30万円に増資)。同社については「工場を東扇橋町日本製粉工場と指呼の間に建設す。製造能力二百バーレルにして,即年運転を開始せり。山田・赤松の両人は,元来東京製綱株式会社の重役にして当経営を兼ね,其の他の当事者も亦斯業の経験に乏しく,為に営業不振に陥り,且,三十四年,不景気の襲来に遭遇し,日本製粉と合併交渉中,計らずも烏有に帰せり10)」といわれている。火災にあわなければ日本製粉に吸収されていたであろう。当時の日本としては200バーレルは大工場であり,小規模な試行期的経営を経験しないで事業を開始したのでは成功が困難であった。
 東亜製粉[、、、、]が資本金300万円という日本製粉の2倍以上の巨額で設立されたのは日露戦争後の39(1906)年であった。同社については「其の名称の示す如く,独り我が国内のみに止まらず,進んで海外に進出することを目的とせり……取締役会長には大橋新太郎就任し,相談役には渋沢栄一を戴きたるのみならず,取締役,監査役は財界の名士・富豪名を連ねたり。工場を本社所在地たる東京市外大島町及び支那漢口に建設す。共に製造能力六百バーレルなり11)」と書かれている。40年日本および中国で工場運転を開始した。しかし41年には資本金を250万円に減少する始末で,それまでの製粉企業とは比較にならぬほどの強力な資本的な背景をもっていたにもかかわらず,いきなり大規模な生産を行うことは難点が多かった。ともかく,経営は継続されたが,大正14(1925)年には日本製粉に合併された。
 帝国製粉[、、、、]は明治39年に創立された資本金50万円の株式会社である。社長は開港まもなく横浜で輸入品取引(いわゆる引取商)を行っていた安部幸兵衛で,砂糖,小麦粉などの取引業者として有力な存在であった。そのほか中には穀物商岩崎清七(アメリカ留学経験者・のち日本製粉社長)などの顔もみられる。東京府下の工場は600バーレル(ウルフ社製)の能力をもっていた。同社は不況の影響もあり,損失を出し,42年には日本製粉に合併された12)。これまた地道な試行的段階を経ないで大規模経営を行うことの困難さを示していると思われる。
 明治製粉[、、、、]株式会社については「三十九年の創立にして,本社及び工場を東京市外大島町に設く。前山久吉・久米良作等,専ら鉄道事業関係者の設立せるものにして米人技師を聘して努力せるも,主脳者製粉業に経験なき為失敗し,其の営業に先立ちて,明治41年1月,日本製粉に合併せらる。同社工場の運転を始めたるは,同年4月13)」といわれている。
 以上のように東京に本社を置く大型の製粉諸会社が先進国からの生産設備・技術の導入を行ったにもかかわらず,経営不振に陥ったのは当然な結果ということが出来る。輸入粉市場の拡大と日本製粉の成功などが京浜地区の有力投資家に製粉業への投資を誘ったことはまず競争を激化した。競争激化の中でしかも日本の不況期に,経験のほとんどない資本家が当時の日本では,比較的規模の大きいロール式製粉工場の経営を行うことには失敗する危険が大きかった。とくに販売面に難点があったと考えられる。工場生産は外国技師なり,日本人技師を雇用して解決することは一時的に生産費が高くなっても可能であったからである。その点次のように,東京近県で小規模のロール製粉をはじめた企業が,のちに大成して東京に本社を置くようになった9)ことは注意されなければならない。しかし,それには偶然的な幸運などがあったことも見逃せない。
 日清製粉[、、、、]は現在製粉業界では頭抜けた企業となっているが,それにはそれなりの理由があり,正田貞一郎とのかかわりが強い。日清製粉の前身は館林製粉である。館林は東京に比較的近い群馬県下の有名な町であるが,麦の産地という関係もあって付近に水車製粉が盛んに行われていた,同町には商工業を振興することを目的として館林実業談話会が明治30年につくられ,東京の知識人や友人を招いて話合う機会も持っていた。そのリーダー格の一人・正田貞一郎は東京の高等商業学校を卒業し,ある事情から外交官志望をあきらめて,古くからの醤油醸造業を行っていた。32年に正田が高商で経済学を教えられたことのある土子金四郎法学博士を招いた。アメリカから帰ってきた土子に正田はローラー・ミルを仕事としてやりたいと相談し,土子に「それはいい考えだ。アメリカではローラー・ミルが非常に盛んである。日本の将来のため大変いいことと思うから是非やりなさい14)」と激励された。それが正田に製粉会社設立の決断をさせた。すでに日本でもロール式製粉についてはよく知られるようになっており,正田の友人に三井物産の機械係もいてかなりの情報はもっていた。
 館林製粉株式会社が資本金3万円で設立されたのは33年20世紀を迎えた時であった。しかし,日清戦争後の好況は終り,不況に沈んでいる時であった。正田一族が大株主に名を列ねていることと無縁ではないとしても,40株しかもたない正田が専務取締役として経営の責任を負うことになった。社長を置かなかったことにもその経営意志がうかがわれる。機械については三井物産サンフランシスコ支店長小田柿捨次郎(正田の高商時代の同窓)に日産50バーレルの製粉機械1セットを送ってくるように依頼した。その返事に「アメリカでは百バーレルが単位で,五十バーレルの機械はないはずだ15)」とあった。重ねて依頼し,アリス・チャルマーの(ミルオーキー・ミネアポリス)の機械を送ってもらった。
 機械の稼動までには大変な努力を必要とされた。その点については「機械が着いたが,その時には技術者がいないので据付けることは出来ない。館林の鳶のうちに森田岩蔵という人があって,これを各方面へ調べにやった。正田専務はカタログや原書について勉強した……器用な社員がいたので,この人を対手にして機械を取付けた。……丁度機械の据付が大体完了する頃,アメリカで製粉機械の方面の学校を出た米田龍平という人が,チャルマー会社の紹介を持って来たので,この人に少し手伝って貰ったこともあった16)」と書かれている。資本力が小さかったこともあろうが,驚くほどの経営態度を感じさせるものがあった。それは1つの試行とみられるべきであろう。ともかく専務の月給が小学校教師の初任給(12円)以下という製粉会社は,34年据付け開始1ヶ月後に運転を開始した。
 製品についてみると,水車粉と違い,白いきれいな粉で「大変好評」を得たが,歩留が70%にならないくらい低く,採算に難があった。なお,製麺用の場合,「水車粉は粗い粉で水分の吸収が早く,短時間寝かせばうどんになるが,機械粉は水分を吸収する時間が長く,麩が出ないうちに製造すればうどんにならない。そこで新しい機械粉は駄目だという苦情も出た17)」といわれる。しかしそれはすぐ改善できた。当時は製麺用がほとんどで,まだ東京方面への販路は開拓していなかった。
 35年に資本金を6万円に増加し,38年には能力を100バーレルにすることが出来た。ようやく製粉会社として軌道に乗るようになったが,39年,資本金を1躍10倍の60万円(54万円増資)とした。出資者,役員に中央財界人として知られた根津嘉一郎(東武鉄道社長)らが加わり,社長に根津がなったが,経営は専務の正田を中心に行われた。新工場はアメリカのウルフ製の製粉機を加え,日産500バーレルであり,41年運転を開始した。一方,日露戦争後の好況時に京浜の有力実業家によって発起され,日清製粉(本社 横浜,資本金100万円うち払込25万円)は工場建設中に不況のため,館林製粉と合併することになった。それは重役中に正田と関係の深い人がいたことがきっかけとなっているけれども,正田が「かねて,館林はあまりに地方的に過ぎたから,どうかして東京へ出たいと考えていたし,館林製粉も相当の成績をあげていた18)」ことから実現したものであった。明治40年10月の合併で新しく日清製粉株式会社(資本金160万円)が生まれ,41年2月本社を東京に移転した。横浜工場の存在は同社の威力となった。
 旧日清は地味な館林とちがい派手なところがあり,また株金徴収面の争いも生じた。41年は2期損失を出したが,42年以後は6分以上の配当を行い,諸積立金も増大した。42年8月から横浜工場400バーレルが稼動し,日清製粉の総能力は900バーレルとなった。それは当時,日本製粉(2500バーレル),増田製粉所(神戸,1000バーレル)につぐ能力であった。42年には製菓用の薄力粉ヴァイオレットを売出しており,特約店制度も拡充,専属店も出来,近県のみでなく東京にも進出した。そのようにして日清は有力製粉企業となったが,ここで見逃せないのは横浜工場についての次のような経験である。
 「最初の横浜工場のシフターは頗る変ったもので,毎月一度か一度は故障……根本的に運転装置の軸承の構造が悪いため一度停ったら最後,油を差そうが,どうしようが絶対動かなくなるので,徹夜で直したことが何度かあったか知れぬ。そこでやむを得ずその部分をアメリカのノーダイクマーモン社に注文して最新型のものと取換えたところ,それからは故障なく調子よく継続運転が出来……この不良シフターは後日聞いた話では,ノーダイク社でも具合が悪く,売物にならず倉庫に仕舞込んであったものを旧日清製粉会社が製粉機械一式をノーダイク社に注文した際,値段の関係か何かで外のロール機その他と一緒に送って来たものであった。……その当時は横浜工場ばかりでなく,他の工場でも旧式のジャイレーターとかボルターとかいう篩機は構造に欠陥があったので,時々故障を起して技師を悩ましたものである19)。」
 館林製粉はすでに堅実で地道な経営により収益をあげるほどになっていたが,日清製粉と合併して新しい日清製粉となることによって,日本における製粉業の主流に位置を占めることが可能となった。それはそれまでの50バーレルにはじまる製粉経営が基礎となっていた。一方旧日清は,製粉経営の経験をもつ他社と合併せずに独自な経営を行った場合,成功の確率は高いとはいえなかった。それは日本製粉に吸収された諸製粉会社の動向からもわかる。成功するためには多額の資本をつぎ込んで,経験を積み,また販路の確保に力点を置かなければならなかったであろう。
 宇都宮[、、、、、]製粉は,館林製粉と同じく,群馬県で33年に設立された資本金10万円(払込6万円)の株式会社であった。その前身である下野製粉合資会社は29年3月に設立され,水車製粉(石臼2台,篩機六角リール4台,セパレーター1台)としては大規模であった。しかし,それを合併した新会社の工場は「当時最新式ウルフ会社製,能力百バーレル20)」でタービン50馬力であった。水車は廃止され,ロール式の新製粉会社となった。しかし同社は大日本製粉株式会社(明治40年設立,本社東京)
に買収された。大日本製粉は神奈川工場建設の予定をやめて,既存のそれを手に入れることにしたわけであった。宇都宮工場の増設を準備中に,日清製粉に合併されることになった。その宇都宮工場は増設後,400バーレルとなったので,日清製粉の能力は1300バーレルとなり,業界第二位となった。
 日東製粉[、、、、]は日清製粉とやや似た成りたちをしている。館林製粉創立と同じ年である明治33(1900)年に,埼玉製粉合資会社(日東製粉の前身)が資本金も同じ3万円で,埼玉県熊谷町で創立された。同社の前身は水車製粉所であったといわれるが,新工場にはロール製粉機65バーレルが据付けられることになった。その点については「製粉機械はアメリカのノーダイク・マーモン社に発注し,工場建設は岡田義郎技師(経歴不詳)が監督にあたり,機械の据付けも同技師が米国より送付の図面どおり実施した。また,付帯工事は東京から呼んだ渋谷定吉に当たらせた21)」といわれている。
 同社の経営は困難に陥った。その原因は規模がごく小さいロール製粉ではあっても,それまでの水車製粉に比較すれば数倍の生産能力をもっていた。したがって供給能力に販売がおくれたため,滞貨が多くなった。また新製粉についての中傷もあって,創設者である栗田国三郎(熊谷の有力者)の手から創業の年に比企彦三郎に所有が移った。
 比企はそれを熊谷製粉所とするが,天然氷を売っていた,製粉の未経験者であった。製粉の方は採算がとれたが相場で失敗し,工場はしばらく閉鎖された。東京出身の2人の人間がこれを買収したが,うまく経営できずにしまった。熊谷製粉所と原料面および製品販売面で取引上で密接な関係があった池田屋(松本米穀店)が経営することになったのは次のような経緯からである。
 熊谷製粉所からの申し出に松本平蔵は乗り気ではなかった。しかし,33年に東京高等商業学校を出た長男の松本真平は製粉事業の将来性に着目していたので,熱心に父を説得した。松本米穀店は肥料販売では日本一といわれるほどであり,熊谷銀行の副頭取のほか,各種事業に関係するほどの資産を蓄積していた。そこで父親は息子に3万円限度とする融資を与えた。息子は工場を賃借して,39年12月から製粉経営を行った。
 当時の工場にはダブルロールミル(18×7)5台,ジャイレイターシフター 2台,ピュリファイヤ(ダストコレクター付)1台,粉パッカー 1台,ブランダスター 1台,セパレーター 1台,スカラー 1台,ダストコレクター 2台,硝酸漂白機 1台などがあった。50馬力のモーターが動力で,事務5名(工場長を含む),現場9名(昼夜勤務)であった。原料は主に埼玉小麦が使用され,製品の小麦粉は麺業者むけが主であった。その経営については次のようにいわれているが,日本製粉はもちろん,日清製粉とくらべてもかなり時代があとのことである。
 「製粉業界は明治41年(1908)から不況に見舞われ,大手企業の中にも事業の存続を危ぶまれるようなものが続出した。しかし,熊谷工場は松本の経営に移ってから半年後には軌道に乗り,41年には,従来の賃借経営を脱して松本米穀店の一部門として買収されるにいたった。
 さらに,大正元年(明治45年〈1912〉)には熊谷駅の近くに用地を求め,第2工場の建設に着手し,翌年6月に竣工した。工場用地の買収資金や工場建設資金は製粉事業の利益から支出された。明治44年の製粉連合の価格協定で一時的に粉価が安定したことが,松本米穀店の製粉部門の採算を一層有利にしたのである22)」
 新設の工場はアメリカのウルフ社製のロール製粉機で能力は200バーレルであった。それによって経営規模は向上し,試行的段階を脱した。その後,松本米穀製粉株式会社が資本金30万円で大正3年に設立された。その後大正10年には第3工場(ウルフ社製500バーレル,米人技師を4年間招く)を稼動させ,業界の大手会社への階段に足をかけるようになった。なお東京支店は大正10年に深川出張所(大正7年開設)を昇格させたものである。それ以前の松本米穀店時代から販売力は強かったので,大手企業への道がひらけたといってよいであろう。
 本杜を東京に置く日東製粉の設立は昭和5年12月であり,松本米穀製粉と名古屋製粉および新田製粉が合併してつくられた。資本金235万円,4工場能力合計2350バーレルは大手企業の一角を占めるだけの内容といえた。名古屋製粉は明治36年の設立(資本金7.5万円)で,38年操業であった。合併時には2工場,700バーレル(アリス・チャーマーおよびノーダイク製)になっていた。なお新田製粉は大正9年に群馬県で設立され,合併時には創業時の200から350バーレル(アリス・チャーマー製)に増加していた。日東製粉の成立は日清製粉のそれとも異っている点もあるが似た面も見逃すことはできないであろう。ともかく,東京に本杜を置いて,大製粉企業に成長するまでの道のりは平坦なものではなかった。
 西日本[、、、]における経済の中心である阪神地区[、、、、]はロール製粉業の成立がおくれた。1つは益田製粉(大阪)のように経営規模が大きく,すぐれた品質の水車製粉業者がいたこと(関東については別記)23),播州などの有力製麺地での原料粉需給組織が強固であったことなどのためである。そして,それらと相関的な関係がある輸入粉市
場形成のおくれと,規模の小さいことに重要な原因があったと推察することが出来る。しかし次のように少数ながら日本の製粉業に影響を与えた動きがあった。
 増田製粉所[、、、、、]については,「最初増田増蔵製粉所と称す。米人ハーシュマンと増田増蔵との協同事業なり……明治39年5月,神戸市兵庫に敷地を選びて製粉工場を起工し,翌40年7月竣工す。次いで8月より運転を開始す。製造能力1000バーレル。業務の発展に伴ひ明治41年,株式会社増田製粉所に組織及び名称を変更す。資本金は50万円にして,全額払込済なり。社長には増田増蔵弟中村房次郎,取締役には増田増蔵,増田与一等の増田屋一家及び米人ハーシュマン就任す。又技師長としては米人ストロング釆配を振ふ24)」と書いたものがある。増田増蔵は安部幸兵衛と共に開港後,砂糖などの引取商として大をなし,貿易商として有力な地位を築き,輸入小麦粉などの大手取扱商でもあった。同社はアメリカのセンテニアルミル会社との合資会社であり,建築はアメリカ人技師が行い,用材から機械類一切がアメリカから輸入された。ロール製粉機1000バーレルの工場は当時格段に大きな規模であった。
 増田製粉所が神戸に工場をたて,アメリカ産小麦を原料に使用したことは,当時非常にすぐれた企業化であった。阪神地区での輸入粉の増大傾向にみるべきものがあったからである。またさしたる対抗企業がなかった。その上に先進国の技術や資本力を利用できたことは成功をより強固にしたといえる。なおここで付言するならば,関税引上げなどのため,小麦粉輸入が減退したのでその取扱商は対策を必要とされていた。日本製粉の製品を販売したのでは収益がすくなかったから,大手の輸入商が産業面に投資したわけである(同様のことは精糖業でもあった)。安部幸兵衛が帝国製粉を,関西の鈴木商店が九州に大里製粉(1600バーレル)をつくったのも同様であった。帝国製粉についてはすでにのべたように早く日本製粉に合併されたが,大里製粉もまた日本製粉と大正九年に合併している。それはともかく,増田製粉はその後も経営を維持しつづけた。しばらくの間,阪神地区は関東のようなカルテル協定は必要なかった。かなり優位性はつづき収益性にもみるべきものがあった25)。
 その他におけるロール製粉業としては,日本精米製粉株式会社(神戸市)がそれまでの精米のほかに製粉への進出をはかり,40年製造能力300バーレルの工場を完成している。資本金20万円であったが,その力は強くはなかった。なお穀物商の経営する大阪の益田製粉は,水車製粉からの脱皮をはかり,まず,蒸気力利用の製粉工場を20年に設置,輸出も行ったが,37年にはロール製粉を採用した(ノーダイク社製100バーレル)26)。
 その他全国いたるところでロール製粉が導入されるようになったが,名古屋という大都市を中心とする愛知県でも名古屋製粉(明治36年,既出)や敷島屋製粉所のロール式採用があった。後者は明治32年創業であったが,42年に水車製粉からロール式に変えている。アジア大陸に面した九州側は日本の重要な産業地および貿易拠点であった。製粉面でもみるべき動きがあった。長崎は明治になってからも,その貿易港としての機能は日本経済にとっても重要であった。各国の艦船の寄港地でもあり,商品市場として進んだ点があった。長崎の製粉業については次のような記述が参考になる。
 「長崎製粉株式会社は,初め長崎製粉所と称し,英国リンガー商会と密接なる関係を有し,主として英国人経営の下に設立せられたるものにして,其の機械亦,英国ヘンリー・サイモンス会社の製作に係り,能力二百バーレルなり。明治27年に創立し,同29年,工場の運転を開始せり.販路を専ら露領浦塩地方に求めたるも成功せず,業務不振の為め,遂に休業の已むなきに至り,明治32,3年頃,目本製粉との間に売買の交渉將に成立せんとせる時,長崎県人によりて新に株式組織となし,経営者の変更と共に長崎製粉株式会社と改称せしが,明治42年頃,祝融の怒りに融れ,其の後再興せず27)。」
 輸出に依存することは原料面から当時は無理があった。周辺の国内市場はまだ当時開けていなかったので,長崎製粉は日本人が経営しても困難が大きかったとみなければならぬ。火災に会って再建できなかったのはそのためと云える。
 福岡県下の大里に鈴木商店が大里製粉[、、、、]をつくったのは明治44年とかなりおくれたしかし,機械は中古であったけれども,一工場の規模は1600バーレルと,当時は日本最大であった。鈴木商店は関西を主要な地盤として成長した商業企業であり,引取商から有力貿易商に成長していた。その内外市場での商取引能力は強力であったそれに支えられたことと,第1次大戦の好況で経営にはみるべきものがあった。大正9年には日本製粉と合併した。
 製麺産地[、、、、]と密着した形でロール製粉企業が成長した例としては白石興産[、、、、]がある。宮城県の白石地方は古くからの製麺地としてしられ,温麺(ウーメン=油を使用しない乾麺)は農家の副業として生産されていたが,次第に機械工場生産に移った。その原料である小麦粉は水車製粉で生産されていたが,「製粉業者は毎日穀屋へ行って小麦を買ってこれを製箱し,出来たものは包装しないで箱に入れ,それを荷車に乗せて直接温麺屋に売って歩く,といったやり方をして28)」いた。そのような状態にショックを与えたのは輸入粉であった。
 輸入粉が白石地方に入るようになって数年後の明治19年,鈴木富太郎(年齢21歳,福沢諭吉の著書の愛読者)は郷土産業の振興のため温麺の改良を目的とする資本金5000円の白石興産商会を同志とともに設立した。翌年には資本金2.5万円の白石興産会社を起し「社長に土地の素封家である渡辺佐吉氏を推し,自らは専務に就任,小麦粉製造工場の建設に本格的に取り組むことになった」。その動機には宮城県知事の影響があった。松平正直知事は白石出張の際に温麺改良の話をきき,原料の改良が重要であることを指摘した。イタリーのマカロニのこと,メリケン粉のこと,東京の日本製粉や札幌の官営工場のことなどを話し,アメリカ製の製粉機械の買入れについても示唆した。20年には上京,紹介を受けた横浜の外国商館でスイス製ロール式製粉機(5馬力)1台を1500円で買うことにした。しかし,通訳をした日本人に,1割の手付け金を詐取された。それにめげず再度横浜にゆき,別の外商から売り物になっていた製粉機を850円で購入した。当事者たちは多大の犠牲をはらう覚悟で,その据付を行うことにした。幾多の難関(技術面,資金面)をこえて新工場が23年から稼動することになった。その設備は「東京工業学校製の30馬力ビクトリヤ式臥輪水原(タービン装置)を動力とし,英国(ロンドンのローベー商会)製フレンチストン石臼式製粉機」であった。技術者がいなかったこともあろうが,石臼式であり,結果はよくなかった。地元製粉業者および関東方面の機械製粉業者からも攻められた。23年にはかなりよくなったが,結局ロール製粉に移ることになった。明治34年9月に資本金を5万円に増額して,仙台市に新工場を建設した。設計はドイツ人技師が行ない,機械はアメリカのノーダイク・マーモン会社製能力は100バーレルであった。モーターは電力を動力とした(宮城県下での電動機使用のはじまり)。
 製品については「一等粉である「天印」は外麦粉(メリケン粉)に劣らない優良品として好評を得た。このため同工場の操業後は,当時のメリケン粉の進出を大いに食い止め,……白石地方の温麺の改良は白石興産会社の最新式の機械設備による原料小麦粉の改良が進んだため急速に行なわれた29)」と書かれている。当事者の熱意と努力が成功をもたらした面が強い。製麺地での動きは単純ではなかった。兵庫県は古くから素麺の有数の産地であるが,製粉業者の力がつよく,外部からの急速な進出をながらく拒んでいた。それは水車製粉業者が委託製麺を行ったことにも原因があり,そこでのロール製粉業の成立はなかった。その反面水車製粉で30バーレル程度の業者があったとされる30)。それはともかく第1次大戦前にはロール製粉の支配力は,主要市場で決定的であった。
 製油業[、、、]における先進技術の導入とその吸収の経験は,製粉業のそれとはかなり異った面がある。日本の製油業は輸入植物油の圧迫をほとんど受けず,旧来の製油業の内的欲求による革新の動きに左右されたといえる。しかも油の販売における特異性(混和ないし偽和を含む)のため油問屋の力が比較的強かった。それは植物油における食用油の比率が高くないこともあって,製粉業のように早く能率的な設備をした業者が業界を支配することが出来なかった。したがって,大阪を中心とした関西の動きを見る必要がある。ただ技術革新の動きは比較的早く,しかも国家の関与はきわめて少なかった。換言すれば,富国強兵政策からくる官府育成の対象として,植物油製造業は大きくとりあげられることはなかった。
 日本における製油業が先進国の機械を輸入し,技術を学びながら,生産を近代化して行くのはやはり,日清戦争前後の時期である。明治30(1897)年頃の製油業について「江州登能川と伊勢四日市とに各々一ケ処の製油会社あり,京都にては水力電気にて製油する合資会社外に小なる者二,三あり,能登川と四日市とは製油高概ね等しく一日百石の原料を消費し,摂津製油会社は大抵二百にして,即ち一年六万石乃至七万石を消費し,其製油一万三,四千石に出づ31)」といわれている。当時におけるそれらの会社の菜種油生産にしめる比率は1割程度だったとみられる。しかし,その頃には在来の農家副業的な製油ないし,工場制手工業から脱皮するまでの第一段階は終っていた。しかし,食用油との関係からみた場合,精製度の低さに問題があった。それについては「旧幕時代のそれを踏襲して一歩も出ず32)」といわれるほどで「灰直し法」程度しか行われていなかった。ただ摂津製油などでは白絞油をかなり生産していた。
 日本における製油業の近代化について,「元来本邦に於ける菜種油は古くは総て『立木』等と称せらるる楔利用の製油機によって搾油されたものであるが,明治20年頃より工場の機械化が叫ばれ33)」る状態となった。といっているものがあるが,それは四日市での製油業の動きを念頭に置いていたのではないかと思われる。
 四日市製油会社(創立,明治21年,資本金10万円)は日本における製油業近代化の先駆者である。同社はもと四日市工業株式会社(明治19年設立)の製油部門を分離独立させたものであった。その生産設備については次のようにいわれている。
 「機械は英国ノッチンハン府なるマンラープ・マリヲット会社の製造に係り,当時最良機械とせられたるアングロ・アメリカン式のものなりき。四個の水圧々搾器を備へ,ロール,ケットルモージングマシーン,ベーリングマシーン,エッヂストーン各々一台,水圧ポンプ,水圧アッキュムレーター組を有し,その他蒸気機関及び汽缶並に一式の附属品を備へ,一昼夜に凡そ百石の菜種子を圧搾せり。これ等の機械一式の代価は四万五千円なりと云ふ。而して,一昼夜の営業費用は凡そ参拾円余なりしと云へば,即ち菜種子一石につき参拾銭の割台なりしなり。されば,これを四日市附近の日本風の搾り器に依る菜種子一石の搾り費用凡そ六拾銭なりしに比ぶれば,その生産費は僅かに半額なりしを知るべし34)」
 そのように在来の製油にくらべ生産費が安くつく筈の企業の経営は失敗に終った。そして関係者の一人で,肥料商であった九鬼紋七の手で,四日市製油所となった。株式会社経営には無駄な費用がかかりやすいことも一因であったかもしれない。しかし,流通面に問題があったと考えられる。四日市は大阪などとくらべればめぐまれない面があったからである。また先駆者としての困難も大きかったであろう。問題はむしろ,農家副業的に生産されるものを含む,旧来の製油業の競争力にあった。
 摂津製油[、、、、]は23年9月資本金20万円(払込8万円)で設立された。イギリスのタフソン社製の機械を設備し,26年には生産を倍増した。蒸気機関を動力としており,29年には資本金も払込済となった。製品の大部分は種油で,鉱山の点燈用や中国地方や大阪の鉄道用が多かった。受注生産の白絞油は食品用または機械用であった。白絞油は種油の3分の1の製造であった。当社は日清戦争前に設立された製油企業(輸入機設備)のうち比較的経営状態が良かった。そして第2次大戦後においても存続した。その1つの原因は流通面の条件にめぐまれていたからと思われる。なお日清戦争後に近江製油株式会社(資本金30万円)が創業したが,経営が順調でなく32年には資本金を半額にしている。
 吉原製油は大阪の油商が独自に育てた企業であり,その経緯は次のようであった安政2(1855)年に大阪で江戸むけの油問屋の吉原商店が開業,油商として頭角を現わすようになった。明治27(1894)年には店内に菜種油の精製のための作業所を設けた。その年は日清戦争があり,海軍省納入指定もうけ,関係官庁(海軍・陸軍・鉄道)に白絞油を納入したためである。翌年には華商と提携し,台湾と香港への菜種油の輸出を行う。食用油として中国人に使用されたようである。
 はじめ油は大きな壷(三石入り,人の背丈位)に入れ,不純物の自然沈澱を待つやり方だったが(吉原には大壷が二,三十個あった)。しかし,のち簡単ながら,粗油に石灰を混ぜて焚く「灰直し法」が行われたが,店内の作業所では危険が大きいので,中止して,他に委託することにしたが,それには問題があり再び自家精製とするが,その点については次のようにいわれている。
 「市内,近郊の「いらず屋」に委託……「いらず屋」というのは,油問屋から粗油を預かり,精製だけを専門にやる店のことをいう。つまり精製の下請けである。堺や河内など菜種の産地や絞油屋に隣接して大小かなりの軒数が散在していたが,市内にも五・六軒はあった。……だがこの「いらず屋」も,軍需景気の折からどことも手いっぱいで,なかなか注文の量を期限までにこなしてくれない。しかもさらに困ったことには,精製度・品質がいちじるしく低下していた……陸軍,海軍に納入する大事な白絞油がほとんどだったから,万一不良品が混っていたのでは,今まで営々として築きあげてきた信用が一瞬にして水の泡と化してしまう。自家精製の時は「別上」とか「並上」とか品質を微妙に区別していたが,それも次第に瞹昧になったのである。……あれやこれやで,結局はまた自家精製に切替えざるを得なくなったのである。こうして野田工場建設に着工したのが39年秋,約5カ月かかって完成した。敷地420坪,建坪236坪。従事員約30人。
 もちろんこのような独立した工場を建てたのは大阪でも吉原がはじめてだったし,庭先か店の隅でほそぼそと油を焚いている問屋がほとんどだった中で,大仕掛けな精製設備を導入したこともまさに当時としては画期的なことであった35)。」
 しかし,その精製は大釜(直径5尺,深さ4尺)に油と石灰を入れて太い棒で攪拌する。灰直し法であった。大釜は7基だったといわれるから規模は大きくなったその熟された油は透明になったころ,さまして,漉船(横約六尺,縦約五尺,高さ約三尺の長方形の酒過装置,美濃紙袋約50個)で〓通し,この油をもう一度釜で焚きあげて精製が終る。一日の精製量が30~40石だったという。以上からわかるように油の精製は難点が多く,流通面をにぎっている油商がその面でも主導権を握りかちであった(自家ないし委託精製)。製油企業が搾油面では近代化しても,流通面で支配権を確立できなかった一因がある。
 精製面での大規模な自家精製で優位に立てるほど力をつけ,輸出向けでも,有力外商と取引していた吉原商店は第1次大戦の輸出でとくに発展した。大正6年に合名会社,堺製油所を創設した。それは桑名屋商店(大阪の古くからの大手油商)と共同事業としてはじまった。その点については桑名屋商店側が次のように書いている。
 「製油所を建設し,再び製油界に返り咲かんとし,当初丸締夫婦締[みようとじめ]六台を据え専ら菜種搾油に着手したるが,時恰も第一次大戦の初期に当り……大正4年,九州博多に於ける九州製油株式会社社長太田清蔵氏より同氏の経営にかかる同工場を譲渡せんとの内報を得たる為め大浦氏は直ちに西下,氏と懇談の結果,桑名屋商店再起の為め,後援的意味の下に極めて寛大なる条件にて同工場内機械全部即ち板絞り搾油機8台其の他一切を譲り受け,之れを前記堺工場に据付け,茲に一日菜種二百石処理能力の設備を完成……更に内容を強固ならしむる為め,吉原氏と熟議の上共同出資の下に合名会社組織とし「合名会社堺製油所」と改称したのである。斯くて製油は吉原商店,油粕は堺製油所にと各々其の特有の地盤を利して販売に当りたる為め業績日を遂うて挙り,其の後欧州大戦の拡大による油粕界の好調に前途益々好望視さるに至ったのである36)。」
 その後,同製油所の他からの買収問題が起ったのを機に,吉原商店の単独経営に移った。大正7年には大阪市西区築港に吉原油脂工業所を設立,一般油の精製・脱臭・脱酸を行い,のち石鹸の製造も開始した。菜種油(食用)を主とした大阪の製油界で,吉原は先行していた摂津と首座を争うようになる。その生産面への本格的な投資が遅れたにもかかわらず,生産でも大きく伸びたのは,経営者が生産技術の革新に熱心だったことと共に,その流通面での力が強力だったことに基本的な原因があったと云わねばならない(後述)。
 桑名屋商店[、、、、、]の製油業はかなり曲折したものであった。桑名屋は元禄時代(1700年頃)に創始されたといわれ,次第に江戸むけに油を送る大阪の有力問屋となった。明治7年には西洋型帆走船を建造・使用し,それまでの3分の2に航海日数を短縮(東京―大阪間10日以内)するなど積極的な活動をした。同店は一方で搾油への進出を行ったが,その点については次のようにいわれている。
 「桑名屋商店の梅花油及白絞油は,古来其の品質の優秀を以て世に知られ,……明治初年迄は之れ等の原料油は全部市中出油屋及地方の絞油屋よりの供給に待っていたが,明治14年頃に及び既に往年の株仲間制度は解かれ,各商業は明治新政の下に自由新儀に営まるることとなった為め,桑名屋にても此の機を利して,新たに搾油業に進出……同年大阪淀川上流桜宮に工場を設け,大阪地方[ヂカタ]絞油業組合に加盟し,専ら自家原料油としての菜種油の搾油に専念……同工場は不幸明治18年淀川筋の大水害により工場の一部を流失し惜しくも一時閉鎖の已むなきに至ったのである37)。」
 同店は同じ頃,出油屋業にも進出,大阪近郊辺の製油を蒐集し,各地方への販売を行った。明治20年からは東京向け専業では経営を発展させることは出来なかった同年には輸出にも力を入れるようになった。そして各種の油類と粕を取扱った。各官庁の指定商としても大きな存在であった。大阪油取引所でも2位をくだらぬほどの売買を行った。32年には中国産の菜種を輸入して製油所にも至って好評を得た。なおすでに述べた油の精製(辻本博士指導の苛性ソーダ法,食料油市場に好影響)にも成果をあげた(明治42年)。
 当時について「そのころ油問屋の大手筋といえば,西区阿波座の桑名屋,滋賀県能登川の奥田平八,そして吉原が,三つ巴しのぎをけずっていた。中でも桑名屋は,江戸積み油問屋では隨一の老舗で,一日の扱い高も200石と群をぬき,使用人に至っては実に吉原の5倍はいた38)」と云われる位であった。しかし,それは同系店(洋紙その他の輸入)の破綻でその整理が一段落するのに大正3年まで5年以上を必要とされた。しかし,さきにのべたような経緯で第2次大戦中堺製油所を経営,吉原商店と共同経営するようになる。大戦後にはそれを吉原に譲ったが翌年に「合資会社桑名屋製油所を再開し,亜麻仁油,麻実油及東京積菜種油,胡麻油の製造を為す傍ら,印度産菜種油粕を輸入し,之れが再製による煙草肥料の完成と普及に努力した」。
 以上菜種油を中心とする製油業についてみたが,製油業は比較的先進国技術の導入が早かったにもかかわらず,小零細の搾油の強固な存在それと結びついた旧来からの流通組織の強さ(それは植物油の流通の複雑性と絡んでいた),食用油市場のおくれのために急速な成長はもちろん,順調に企業発展したのはごく限られた。
 大豆油[、、、]製造業については次の2企業を主としてみよう。それは発達の経路を異にしながら,現在までの同業を代表する有力会社である。しかし,大豆油が製油業の主流になる過程で,業態はかなり似たものとなった。その原因は,大豆油生産技術における抽出法の優位性と食用油比重の増大,および大豆粕の商品性の展開にあった。もっとも第2次大戦後の植物油製造企業の大手諸会社はそれほど業態が違わなくなったが,それらが大豆油製造を行うまでにはかなりの違いがあった39)。なお次のようにいわれている点を念頭に置く必要がある。
 「本邦に於いては明治末期迄は大豆工業としては尚見るべきものなく,それが大豆採油,大豆油加工,大豆蛋白利用等の大豆諸工業の本格的発達の段階に入ったのは大正初期以降の事である。
 元来採油工業は肥料工業と表裏一体を為し,一面油脂工業で在り乍ら他面に於いて肥料工業としての性格を持っているが,この採油工業の二面性は専ら原油採取後の搾粕が肥料として重要なる地位を占めるといふ点に基因するのである。而かも過去に於ける我国は農業が全産業中中枢的地位を占めていたこと及び文化の程度未だ低く油脂の需要が尚低度であったことの為めに,採油工業は肥料工業に寧ろ其の重点を置かれていたのであって……大豆採油工業の場合に於ても同様の傾向を辿り,大豆粕としての肥料需要に刺戟され,其の普及が本邦大豆工業殷盛の端を開いたとさへ観られるのである。即ち大豆工業は日清戦争直後,我が国に輸入せられたる満州産大豆粕が,肥料として其の価値を広く認識せられ,漸次国内に其の需要を増し,之れが国内生産の要を痛感さるるに及んで,先づ大豆採油工業の勃興を促し,茲に大豆工業の基底を為す第一段階の端を開いたのである40)」
 日清製油[、、、、]は明治40(1907)年に「日清豆粕製造株式会社」として東京で発足している。資本金300(払込75)万円は当時としては大会社級であり,二流財閥の大倉喜八郎が企画し,松下久治郎らの肥料商が加わった。営業目的の中には豆粕および豆油の製造販売のほか豆粕・豆油・大豆の委託売買が入っていた。工場は大連において40年12月に完成した。「専売特許の荒木式豆粕圧搾機」を設備した同工場については「当社大陸の拠点として,また邦人系製油工場のトップを切って,明治41年8月に試運転を開始した」といわれている。なお元軍用地だった工場敷地(陸軍省指定条件下,20年間借地)については「埠頭との連絡は満鉄の鉄道引込線により原料の引取りや製品の積出しがスムーズにできたので,立地条件は同業の清国系工場に比べて遙かにすぐれていた41)」とある。なおすぐ増設し,豆粕製造能力を1日7000枚(約200トン)としている。工場建物機械の建設総工費は30余万円だった。
 手工業的で小規模な,いわゆる満州油房(石臼で大豆を粉砕し,くさびで搾油)の機械化は,英国商社が「原料の圧砕に蒸気機関「ローラー」を据付け蒸豆の搾油に手推螺旋式を以てする方法を創始42)」したことからはじまったようであり,それは日清戦争後(1896年)であった。その後,それに続いて,機械化が進んでいた。日本人の事業としては,小寺壮吉が営口において水圧式油房を設立した。小寺は日本人による油房業の「開祖」とされているが,そのほかにも機械油房を設立するものが現われた。大連において製油業が盛んになったのは,日本がロシアにかわって租借権を得た1906年以後であるが,明治41(1908)年には満鉄が港発着特定運賃制度を行ったため,大連が有利となり,同年に開業した油房が14にもなり,三井物産が三泰油房を中国人との合弁により設立した。そして大倉と松下の日清の工場建設をみた。その後に存続したのは日清,三泰など六油房であったが,「当市屈指の油房は実に当年の創業に係るもの43)」といわれている。
 日清はしばらく大連だけに工場をもっていたにとどまるが,創業当時は好機にもめぐまれ,成績をあげることが出来た。第2期以後2年間は6~9%の配当であったが,生産そのものよりも,商業面での比重が高まった。やがて系列下に問屋業をいとなむ会社を設立しているが,「これは収益の安定を欠いた本業の製油業をカバーするための営業の多角化の一端であった」。中国や製品出先の欧米・日本の情勢,競合品との関係によって原料等が大きく変動し,業績は不安定であった。大正3(1914)年世界大戦がはじまった時には資本金300(払込75)万円を60万円(全額払込済)に減資するほどであった。またさきの系列会社も閉鎖した。大戦初期は相場の見通し難もあり,経営はそれほど顕著には好転しなかった。しかし輸出の好調は大正7年3月期に資本金の7割におよび高収益をもたらした。(翌期も好調)一方では大正6年関東都督府から板粕製造試験補助金1万円を受けた。それまでの円粕式のほかに板粕式圧搾機械の導入を研究課題とした。また同年5月に日清製油株式会社に商号を変更,また営業目的の中には豆油以外の植物油・油粕も加えた。
 新社名となった日清はすぐに松下商店を合併した。その理由は「一つには当社事業の進展にともない,従来営業の拠点を設け,内外相呼応してより一層の社業発展を期す必要があったからであり,また二つには当社と同店が同種同型の企業でありしかもその主宰者の一人が当社の創立者でもあることからかねてその矛盾に悩んでいた44)」ことにあった。日清と松下は商取引上も密接な関係にあり,とくに後者は好調な経営を続けていただけでなく,国内に製造所をもっていた。合併により資本金は240万円増の300(払込180)万円となったが,50万円は松下商店および工場の買収費(大正3年10月から社長となっていた松下久次郎の持株に加わる)となった。
 日清は松下商店を合併することによって,製油企業としての他位を確立することになった。松下久次郎は東京で各種商店の店員を経験したのち,一流肥料商で重用され,明治19年20才で独立した。肥料仲次人として成功し,各種肥料のほか雑穀の取引も行うようになった。日清戦争後には大豆・同粕との関係を深め,豆の方面で頭角をあらわした。日清の創立に加わったのち,43年に横浜で圧搾機50台の豆粕製造所を建設した。その業態については「原料大豆は大連より仕入れ,製品の豆油は海外に輸出し,豆粕は…輸入品より二~三銭高く売れるほどの好評を博した44)」といわれている。その後,工場を移し,製造能力を数倍に増強した。なお42年からは「学校出」を採用し,人材の育成に努める事にした。同商店は横浜に近代的店舗を新設洋服着用を店員にすすめるなど,当時の個人的商店としては進んだものをもっていた。その経営内容もよかった。それはともかく,松下を合併したあとの日清は好調をつづけ第1次大戦後の反動期にも「倒産者が続出する中にあって少しの損害もこうむらず,かえって巨利を博するという結果45)」をあげた。それは松下との合併で流通面が非常に強化されていたことに大きな原因があったと推定される。
 豊年製油[、、、、]株式会社は大正11(1922)年に鈴木商店製油部が独立した資本金1000万円の会社となったものである。しかしそれまでの経緯は非常に注目すべきものがあった。1つは日本における抽出法による大豆油製造の主流を知る上で重要であるからであり,またその企業史は特異な事例として,問題になる点が少なくないからである。抽出法による大豆油製造の先駆者は京都の豆腐製造業者であり,日本人技師のすすめで,ベンジン抽出法を試みた,それは明治43年であり,その後に企業化するものもあったが,いずれも大成できなかった。その原因は資本力にも問題があったであろうが,技術が確立していなかったためと考えられる。それは次のように鈴木商店が,満鉄の技術を利用したことからも知ることができる。
 日露戦争の結果,日本は満州に特別の権益を確保することになり,同地の南満州鉄道株式会社,いわゆる満鉄は日本政府に援助されその権益を生かす上で重要な役割をはたしていた。そして満州の特産物であった大豆の効果的利用に着目し,第1次大戦前において,次のように抽出法を研究し,企業化を促した。
 「満鉄では大豆本来の真価を発揮せしめることと共に,満州における油脂工業の一大改善を計画,まず技師を欧米へ派遣して調査研究せしめたる結果,』当時ドイツにおいてその将来性を目されていた『ベンジン抽出法』の有利なるを確信し,その特許権を購入したのである。そして直ちに大連市外寺児溝に工場を建設,研究を重ねた結果,大正4年に至りいよいよ確信を得,将来一大工業として世界的に飛躍し得る価値を認めて,ここにこれを民営に移し以って一層斯工業の伸展を図るべく,大正5年その経営を神戸の合名会社鈴木商店に委譲したのである46)。」
 当時,それまでの加工費の半分で製油できる新しい抽出法は三井物産と競争関係を強めていた鈴木が工場とも入手した。そして大戦中に「鈴木商店製油部はその天恵の時運に乗じ,大連工場の能力の拡張,内地清水,鳴尾,横浜の各地に工場を建設し,以て本邦最大の製油工場たらしめた47)」大正7年当時の製油工場のうち大豆の消費能力1日100トンを越えた国内工場はわずかに6工場であったが,そのうち鈴木の所有が清水300トン,鳴尾200トン,横浜150トンと上位を独占しており,それに次ぐのは圧搾式の松下豆粕製造所120トンであった。そのように格段に規格の大きい3工場を大正6年に建設したことは,鈴木商店の資本力もさることながら,収益があげられるだけの生産技術の確立と油と粕の内外市場での拡大によつて可能になった。
そして見逃せないのは,その生産設備が比較的安く,しかも早く入手できたことである。満鉄での事業をすすめた上畠五一郎技師の報告書中には「機械全部は内地または大連で作れるから,外国機械を輸入するよりも半分ぐらい建設費が廉くなること48)」が強調されているという。当時の日本ではすでにかなりの機械・設備が生産され,外国のそれを模倣したり,一部改良することはしばしば行われていた。
 大戦後の世界的な反動期に内外において事業を急激に拡大していた鈴木商店はやはり大きな打撃を受けた。前記の三工場を分離独立させ豊年製油株式会社としたのは大正11年であったが,その頃の豊年はその主製品ともいうべき大豆粕が,化学肥料に圧迫された。また古くからの丸粕分野でも,その評価が確立できず不利な条件で販売されていたので49),業績は不振であった。油もその市場性に問題があり,精製技術の発達がとくに要請されていた。
 大正11年末の大豆油製造工場を製造法別に見ると抽出式が9工場大豆消費量(製造能力)は890トンであるのに対し,圧搾式は9工場630トンであった。それを大正7年に比較すると抽出式が14工場630トン,圧搾式が6工場115トン,それぞれ減少している50)。豊年製油の横浜工場は休止状態にあったが,大正11年末の中には含まれていない。いずれにしても大豆油製造業は困難な立場に置かれていた。それは満州での生産より不利な日本産の大豆油は大戦後不況の影響を強く受け,輸出不振となった。また後記するように,国内市場でも菜種油との競争では精製面での進歩を必要とされた。なお当時においては大豆油製造で大豆消費能力50トン以下の小工場が過半を占め,それなりの競争力をもっていた。その原因は抽出式が比較的大資本を必要とされ,生産費もそれほど安くならず,また流通面でも優位を確立できなかったことにある。

 注
 1)雑誌『実業の日本』第2巻16号(明治32年)には,「一寸人を走らしむれば,麦酒・缶詰立どころに買求め得ること町外れの路地に在りても亦能し得べきなり。舶来上等品を需要するは,東京に限るとも言ふべく,地方は名古屋,仙台等の大都会へ向け僅に送出さるるのみなり,一般の田舎向きは本邦の製品を専らとし,唯舶来品中に在りても独逸品のみは価の廉なるを以て強く田舎の需要に投じ得べきが如し」とある。
 2)櫻内幸雄『過去六十年事蹟』,桜内幸雄,明治40年,58ページ,ただし,日本製粉社史委員会編『日本製粉株式会社七十年史』,日本製粉,昭和43年,52ページにはやや異った記述がある,雨宮の製粉業がシベリアで成功したのは明治16年(4万袋の輸出)のみであとは「米国産のメリケン粉に席をゆずるありさまとなった」とそこにはある。
 3)前出,笹間愛史『日本食品工業史』84-85ページ。
 4)西村真次『村上太三郎伝』九曜社,昭和14年,273ページ。
 5)前出,日本製粉社史委員会編『日本製粉株式会社七十年史』77ページ。
 6)同前書,78ページ。
 7)同前書,77ページ。
 8)同前書,80ページ。
 9)同前書,82ページ。
 10)前出,日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,219ページ。
 11)同前書,233ページ。
 12)前出,日本製粉社史委員会編『日本製粉株式会社七十年史』122ページ。
 13)前出,日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,234ページ。
 14) 日清製粉株式会社史編纂委貝会編『日清製粉株式会社史」,同委員会,昭和30年,40ページ。
 15)同前書,49ページ。
 16)同前書,50ページ。
 17)同前書,53ページ。
 18)同前書,64ページ。
 19)同前書,69ページ。
 20)同前書,70ページ。
 21)日東製粉社史編纂委員会『日東製粉株式会社65年史』,日東製粉株式会社,昭和51年,31ページ。
 22)同前書,34ページ。
 23)関東方面における水車製粉は盛んで日本における有力な地帯を形成していた。明治10(1877)年における第1回内国勧業博覧会に出品した製粉業者の中には,当時とすれば注目してよい規模の業者(神奈川県に1人,1年間1.3万円,ほかに東京府に1人1万円に近い製造額の業者)もあった。しかし,その後その中で大成した業者はなかったようであり,概して小規模であった。それはそばの需要の多い東京市場ではうとん粉の進出に大きな限界があったからである。また輸入粉にかわるためにはロール式製粉に着手する必要があった。
 24)前出,日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,232-33ページ。
 25)前出,笹間愛史『日本食品工業史』317ページ。
 26)同前書,50ページ,172ページ。なお,前出,日本工学会『明治工業史』機械・地学篇,221ページには「益田製粉所は,益田商店主・益田太三郎の祖先伝来連綿たる個人経営に係り,水車製粉として大阪に冠たるのみならず,我国有数の地位を占む。明治二十三年大阪市西区薩摩堀の本店内に,一日二百石挽の大規模水車を設けたり」とある。
 27)同前,(明治工業史)219ページ。
 28)田中豊吉編『白石興産八十年史』東商報社,昭和42年,6ページ。
 29)同前,25ページ。
 30)前出,中島常雄『小麦生産と製粉工業』,261ページ。
 31)横山源之助『内地雑居後の日本他一篇』(文庫),岩波書店,昭和29年,178ページ。
 32)前出,大浦万吉・平野茂之『日本植物油沿革略史』付「日本製油株式会社沿革略史」33ページ。
 33)同前(本文)228ページ。
 34)日本工学会『明治工業史』化学工業篇同会,大正14年,559ページ。
 35)平野成子『吉原定次郎翁伝・油ひとすじ』,吉原製油株式会社,昭和48年,38-39ページ。
 36)前出,大浦万吉・平野茂之『日本植物油沿革略史』付「日本製油株式会社沿革略史」36-37ページ。
 37)同前,22ページ。
 38)平野成子『吉原定次郎翁伝・油ひとすじ』,43ページ。
 39)たとえば味の素本舗鈴木商店では味の素の原料を小麦粉から大豆蛋白にかえたのを契機として,昭和10年に製油業に進出するようになった(別会社)。なお醤油会社が原料(大豆蛋白)の関係から製油する例も若干あった。
 40)前出,大浦万吉・平野茂之『日本植物油沿革略史』157-58ページ。
 41)同前書,365ページ。日清製油株式会社社史編纂室『日清製油株式会社60年史』,日清製油株式会社,昭和44年,16-17ページ。
 42)前出,佐藤良胤『大豆の加工』362ページ。
 43)同前書,365ページ。
 43)前出,日清製油株式会社社史編纂室『日清製油60年史』43ページ。
 45)同前書,63ページ。
 46)植杉四子男編『豊年製油株式会社四十年史』,豊年製油株式会社,昭和38年,8ページ。
 47)同前書,9ページ。
 48)同前書,14ページ。
 49)同前書,17ページ。
 50)前出,佐藤良胤『大豆の加工』446-50ページ。

 3 生産面の技術革新と経営主体および流通条件
 製粉および製油について,主に第1次大戦までに企業化された現在の日本における主要企業を対象とした記述を行った。しかし,企業成立までの経緯についてはかなりの年代差があった。その後については以下において,昭和15(1940)年頃までの変化を簡単に述べる。各企業は同じ業種に属していても,それぞれのもつ諸条件は異っており,したがって収益状態も違うけれども,一応確立された経営主体として成長をとげた。それは絶えず先進的な生産技術の吸収とともに,流通面(原料購入と製品販売)で適応的な対策を立てながら主導性を発揮することで可能となった。その渦稈はかなり曲折があり,企業によっては一時的な破綻もあった。
 製粉業[、、、]の場合,日清戦争後とくに日本製粉株式会社がやや安定的に収益をあげるようになってから製粉業の近代化は本格化した。そして立地的にはあまり恵まれない開拓使の製粉事業が払下げ後も,民間経営として成りたったことが,日露戦争前のロール製粉機による企業化に強い影響を与えた。しかし第1表に示したように,近代的な機械による製粉業が小麦粉市場で支配的地位を占めるのは日露戦争を契機としており,小麦粉輸入に対する関税率引上げがそれを援助した。
 日露戦争後に続出した製粉業の企業化は,輸入小麦粉の取扱商の投資や鉄道国有にとなう資本移動などで大規模化した。しかし,それらの主要なものは先行し,拡充していた既存企業と比較的早く合併した。その原因は規模の大きな企業化を,必要な経営経験なしに行う場合は予定以上に多額の資本を必要とされるからである。とくに不況と創業初期が重なった場合,事態は大変に困難なものとなった。後続企業は先行企業から得るところも少なくないし,先進国についての情報等も容易になるなど利点はあるが,販路を確保することは市場拡大期でなければ簡単ではなかった。当時の日本におけるロール式製粉の能力は,明治33(1900)年365バーレルであったものが40年には3665バーレルとなり,42年には7365バーレルと急増した1)。第1次大戦前には1万バーレルをこえるほどあり,その間において,各種の製粉機が先進国,とくにアメリカから導入され,それについての経験を積み,独自な製粉技術の工夫を行うようになった。しかし,そのような急激な生産能力の増大と大手企業による各地における生産および流通の領域の拡大は,競争の激化を招いた。ついに生産制限の必要が生じた。
 製粉業における企業間協定は関東の諸社が行った。41年には原料小麦の買入価格買入方法の協定のみが成立するにとどまった。農商務大臣を経験した金子堅太郎の大合同の勧奨もあるなど事態はかなりきびしかった。そして44年12月には「供給過剰のため関東三社(日本,日清,東亜)は製粉聯合会を結成,協定により翌年5月まで50%操短2)」を行うこととなった。その後,3社による操短協定は第1次大戦初期まで続いた。なお大正4(1915)年には関東の3社と増田(関西),大里(九州)による全国製粉業聯合会が結成されている。
 第1次大戦は製粉業にとっても,未曽有の好況であった。大型工場の生産設備も大正6年には1.8万バーレルとなり,9年には2.2万バーレルを上回った。そして大戦後の反動期にも増加しつづけ,昭和4(1929)年には,4.5万バーレルに達した。それが製粉業の経営を深刻にし,日本製粉の破綻さえ生じた。しかし,一面では製粉業の諸企業がその中で生き残るための経営技術を積んだと云える。製粉機械の導入面だけでなく,外国小麦の利用も進歩した。アジアのより後進的な市場への進出も本格化した。工場立地も,国内市場との関係だけでなく,原料輸入・小麦粉輸出を考慮した,いわゆる海工場の建設が大規模に行われるようになった。一方では既存企業間の合併も進み,小数の大製粉会社による独占的な全国的な支配が確立した,以下,日本製粉・日清製粉の2社を中心にみよう。
 日本製粉[、、、、]は第1次大戦までは日本製粉業の首位の座をしめていた。配当率も比較的高く,収益状態も良好であった。配当年率が10%を下回ったのはごくまれで,12~30%の配当を行った時期が,明治30年―大正9年までの24年間のうち4分の3あった。その間に,明治製粉(40年12月),帝国製粉(42年9月)を合併するなど経営にかなり変化があり,経営方針にも問題が生じた。経営の基本となる生産面の充実とその工場配置に慎重で,積極的な政策が行われなかったように推察される。大正5年には4200バーレルの生産能力をもっていたが,7年には兵庫工場850バーレルの焼失にもわざわいされ3350バーレルとなり,わずかながら日清を下廻るようになった。その上,工場配置があまりにも東京中心となり過ぎていた。九州(久留米)の工場750バーレルをのぞくと4工場,2600バーレルが東京にあった。そして,その営業は流通面で収益をあげることに重点が置かれた。それは格段に有力な企業であり,短期的には効果はあがるが長期的には難点が生じた3)。日本製粉が第1次大戦前に建設した工場としては久留米工場を見逃せない。製粉機械はノーダイク・マーモンとアリス・チャーマーの両社にしぼり,値引き交渉の結果,後者から予備品とも合計11万円で購入,原動機はスイスのズルツァー社の300馬力蒸気機関とし,三井物産に買付けを委託した。工場建設にあたって,初めの計画では一般方式をとる予定であったが,種々の欠陥があった。しかし「アリス・チャーマー社と日本製粉技術陣が検討の結果,機械類を6階に分置してこの欠陥をなくす新しいアウトを採用4)」した。なお建物も5階から6階にしたため,強度,白蟻の被害などを考えて鉄筋コンクリート建築とした。重量機械を上部にすえつける工場として「大胆な革新的なものだった」といわれる。
 日本製粉は経営の最高責任者が小麦粉について素人的な人間から岩崎清七(慶応義塾から明治16年にアメリカへ行き,コーネル・エール両大学に学び,帰国後,家業の米穀店等の事業を営む)になった。大正8年10月に社長となった岩崎は,高木武と組んで積極経営を行ったが,すでに大戦後の反動期に入る時であった。元日本製粉にいた高木武が経営する東洋製粉と鈴木系の大里製粉を大正9年はじめに合併,つづいて東北製粉も合併した。大正12年には横浜工場を建設したが,大震災の被害が67万円あった。大正14年には東亜製粉を合併する一方で小樽工場を新設した。しかし,積極経営は業況を著しく苦しくした。日清製粉との合併が失敗し,破綻することとなった。金融恐慌のあった昭和2年に,日本製粉は三井物産の傘下に入り,再建されることとなった。翌年には資本金を減資し,経営陣も一新された。
 日本製粉はその間,合併と工場の新増設(一部休廃)により,昭和3年には製粉能力を実に17600バーレルとした。その間,東京にあった旧工場は大部分が廃止ないし火災のために失われた。それにかわって,横浜工場4000バーレルが大正13年に稼動するようになった。同工場については「ノーダイク社製の最新鋭機械を備え,原麦および製品の大貯蔵タンク,原麦の真空式水揚装置など,日本ではまだ珍しい設備が配置された,日本最初の本格的大規模海工場であった。とくに16基で1万トンの原麦を収容できる円筒型サイロは,日本で初めての設備であり,真空式水揚装置とともに,原料費用の引下げに大きな効果を発揮した5)」といわれている。たしかに国内の最大市場に近接しているだけでなく,輸入小麦の利用と小麦粉輸出にすぐれた立地の工場として劃期的な大工場であった。日本製粉の生産設備は三井物産のような有力商社と結ぶならば比較的短期間に再建できるだけの内容をもっていた。六正15年11月期から3年半続いた無配も,昭和4年11月期以後6~10%の配当が15年以上つづいてある。
 日清製粉[、、、、]は日本製粉と同様かなりの製粉会社を合併している。明治43年から14年の間に大日本,上毛,両毛,讃岐,九州の各製粉との合併はいずれも相手が比較的大資本ではない企業ということもあって,経営面の一貫性が保持されていた。とくに経営の実権が長期間にわたって正田貞一郎の手にあったことは,同社が製粉業におけるトップ企業になった要因の1つである。正田が『日清製粉株式会社史』(昭和30年)の「発刊によせて」次のように言っていることは見逃せない。
 「私が館林製粉株式会社を創立し,明治,大正と発展して行った時代に,日夲の工業として代表的なものは綿糸紡績業であった。製粉業は工業として極めて幼稚で,紡績とは比較にならなかった。そこで,私達は絶えず紡績業の合理的経営を学びつつ,これと肩を並べるように努力した。
 今一つは大正2年欧米の製粉工業を視察して,その長所を取入れたこと,以上の2つが当社の発展に役立ったものと思う。……製粉業は原料小麦が国際産品で相場の変動が激しい。それ故工業的に経営して,危険を防止したことが,当社の躓かなかった原因である。」
 日清製粉は明治42年以後37年間,無配に転落したことはないし,配当率が1割を下回った期も7年間(14期)にすぎない。とくに大正6年11月期から14年11月期の間は2~3割の配当が行われた。決算の諸項目(諸積立金,固定資産償却,配当率など)からみても堅実経営が伺われる。そして,その工場配置と製粉設備の新増設に慎重ながら積極的な努力が見える。東京に製粉工場がなかったが近県そして横浜の工場はかなり充実し,名古屋・神戸などの大都市のほか,中国・四国・九州にも工場を比較的早く所有していた。明治42年900バーレルにすぎなかった製粉能力が,大正3年には2200バーレルとなり,8年には4200バーレル,14年には1万バーレルをこえた。そして昭和5年には2万バーレル近くになった。5年火災のため8000バーレルの鶴見工場を焼失したが,2年後には1万バーレルとしたため,昭和8年には11工場計22000バーレルとなった。製粉能力でも日本製粉を上回るようになり,工場配地にも見るべきものがあった。
 創業しばらくは直接外国の製粉事業を見ることの出来なかった正田も,大正2年に4ケ月近くにわたり,随行者をつれて,欧米を視察した。アメリカにおいていわゆる「海の工場」についての知識を得,また労務管理,事務処理についても学び,原麦の真空吸揚機を知った。欧州系統のアンメ社(有名な製粉機製造会社)ではとくに原料の無駄のない,衛生的な科学的管理による製粉に感心した。欧米視察の結論は,「アメリカと欧州は事情が異なり,製粉工場経営の方法も違っているから,わが国製粉業の行き方としては,双方の長を採り短を捨て,特にわが国と事情の似たところのある欧州式の経営方法を採用するのが適当である,ということであった6)」。なお旅行中の知見によって研究所を創設している。
 名古屋工場の建設は外遊前から計画されていたが,帰国後にアンメ会社に製粉機械を発注して名古屋に据付けることとした。同工場は木造6階建,能力400バーレルであったが,それまでのアメリカ式製粉機と異なり,ドイツ式採用の「嚆矢」となった。大正14年はじめに完成した1500バーレルの神戸工場は鉄筋コンクリート造り6階建で,関西でははじめてニューマチック・ポンプを設備した。とりわけ注目しなければならないのは鶴見工場の建設であり,大正15年に第1期工事,昭和3年に第2期工事をほぼ完成し,日産7000バーレル,東洋一の大工場を建設した。それは日本製粉の横浜工場と同様の性格をもつもので,輸入原麦をニューマチック・ポンプで船から吸揚げること,製品輸出にも便利であること,京浜という大経済地帯の中にあることでそれは格段の重要性をもっていた。輸出のためにはとくに「世界的水準以上に持って行って,製品のコスト並に品質ともに外国を凌駕しなくてはならなかった7)」。すでにかなり経験を積んでいた日清製粉がドイツのアンメ社の代表者を相談相手とし,また技師および据付熟練工を多額の月給(技師は日本人の5倍弱)を払ってドイツから招いた。第1期はアンメ社の製粉機を入れたが,第2期はドイツのゼック機であった。それぞれ一長一短をもっていたが,輸入価格は割安であった。実際の運用はドイツの技師は日本の実情を知らないため「大分日本式に修正」された。製品は輸出むけ本位で大量生産に「終始した」ようである。
 日本の製粉業は日本製粉と日清製粉によって完全に主導されるようになった。昭和5年における全国の製粉能力は6万強(うち大型4.5)バーレルであったが,日清製粉19900バーレル,日本製粉17600バーレルと両社で約6割を占めていた。しかし実質的にはそれよりかなり大きな比重をもっていたといってよい。二大企業が発展する過程で多くの企業が両社に合併され,日本最初のロール製粉工場(官営から民営移行,のち札幌製粉となる)も大正9年日本製粉の所有となっている。そのように次第に中小製粉の独立経営は困難となった。第1次大戦後から1930年代初期までの過剰生産による経営不振のため,資本の集中が進んだ。昭和5(1930)年に松夲米穀,名古屋製粉,新田製粉の3社が合併して2350バーレルの会社となり,「三菱商事から10万円の資金援助を抑ぐことになった8)」のは見逃せない。なお日清製粉も三菱商事との関係を深めていた。もっとも白石興産のように独立経営を維持した企業もあり,大正11年,日本製粉から買入れた機械・建物で白石に工場を建設した(250バーレル)。仙台工場100バーレルと合わせて,同社は地方では有力な存在であったが「昭和6年には小麦相場の塞落で,創業以来最大のピンチに落ち入った9)」。しかし,底値で大量に買付けた小麦の値上がりで救われた。当時,地方の中小製粉企業としては少数の生き残り企業であった。
 戦後のながい不況期には,小麦・小麦粉の関税引上げや大手製粉企業を中心とする生産制限協定が各数回行われた。とくに昭和5年には日清製粉,日本製粉,三井物産の3社による製粉販売組合が結成され,その独占的支配は強化された。翌年にはそれに日東製粉が加わった。また製粉業は重要産業統制法を適用されることになった。それは国家によるカルテル援助であった。満州事変以後情勢は急変した。まもなく,2年近く続いた金輸出の再禁止,金兌換制の停止(6年12月)のため,円の為替相場は急落した。輸出は一時的に大きく伸びた反面,対外関係は悪化し,国内経済は予算膨脹もありインフレ傾向を強めた。製粉業も大きく変って行った。
 昭和7年の小麦関税引上げは大幅であり,小麦営殖奨励規制制定実施と共に国産小麦時代に移行した。有利な条件下で小麦が増産され,輸入小麦は減少した。一方では満州国の政策もあり,小麦粉輸出から資本輸出(製粉工場建設)に変った。大きな資本力と過剰な生産設備をもつ大製粉会社を中心に,1930年代後半に資本輸出が盛んに行われ,国内設備の移転も行われた。やがて太平洋戦争となり,敗戦によって日本の製粉工業は大きな打撃をうけることとなった。戦争によってすべてが失われたわけではなく,残存設備もあり,それまでに蓄積された生産技術はかなりの遺産として残った。戦後の復興と現在の状態を考える場合,過去における先進国技術の吸収とそれを日本の実情にあったように活用する過程で,独自な技術向上が行われたことを見逃せない。戦時の企業統合の影響もあるが,歴史の古い企業が現在も優位な地位を確保しているのは偶然ではない。
 製油業[、、、]は,製粉業のようにはその製品が食用ないし食品工業と密着していなかった。また原料が多様であり,中小の業者が根づよく存在していた。しかし,大豆油の大量生産が比較的少数の企業によって行われるようになると情勢は変って来た。その点については「大正末期より昭和初頭にかけて豊年会(豊年製油株式会社),日華会(日華製油株式会社),種水会(摂津製油株式会社)等々各社の販売特約店会が各所に結成され,其の製品の普及と販売実績の向上に白熱の血戦が続けられたのである10)」といわれていることが参考となろう。大豆油は初期には長期の商業信用を付与されており,投機商人に悪用されていたようである。しかし,製品の懸賞付き特売などを通じて,有力な製油企業の主導権が確立するようになった。菜種油製造企業も競争上からも同様の動きをした。
 旧来からの地盤の固い菜種油も機械化とくにエキスペラーの普及によって,生産効率を高め,また輸入原料の利用で生産量増大に努力する企業もまれではなくなった。一方の大豆油は新興の植物油として,抽出法を中心とした比較的限られた大企業で集中的に生産された。国産大豆は採油原料としては問題にならず,安価な満州大豆が大量に輸入出来る強味があった。なお胡麻油の生産・需要には大きな限界があったが,菜種油と大豆油は精製面を解決すれば食用油として大きな市場が開けたそして昭和初期の食用油について「取引上の上から見ると近年その小売商と行商人が激減したのは一見不思議であるが,これに代って大百貨店,食糧・化粧品問屋で立派に化粧された缶詰・瓶詰となって納まっている……従来全く輸入一方のサラダ油が大豆を原料に国内で製造され,洋食店を潤しているなどの福音もある。……植物油に対する需要の大勢は,廉くて量の多いものに向って進んでいるそうな11)」といわれるような状態になると,有力製油業者の立場は強力なものとなった。それまで流通面で行われた偽和,混和の余地を狭めることが出来るからである。以下菜種油と大豆油の製造をそれぞれ述べよう。
 菜種油[、、、]について「燈用としての利用性は著しく低下し,専ら食用としての地歩を確立すると共に,他面油脂工業の発達と共に,減摩用及鋼の焼入用等々の需要を見るに至り,更に工業用原料(人造ゴム・石鹸)其他頭髪用,薬用等多方面に其の特性を利用さるるに至り,其の需要は益々増加の傾向を辿り,之に伴う生産の増加を促され,且つ海外輸出も年々増加の傾向を示した12)」と云われている。なおここで付言したいのは菜種などの場合,製油原料として使用された物のうち輸出用について明治44(1911)年から戻税が行われ,輸入原料による輸出が促進された(もっとも大豆は内需用油も免税でさらに優遇されていた)。また搾油機によっては各種の原料から製油できた。
 吉原製油[、、、、]は菜種油を中心として生長した企業であるが,その動向には注目すべきものがあった。生産面への投資および近代化のおくれた吉原は先行していた摂津製油に追いつくことが一つの目標であった。それは「昭和のはじめまで油脂業界での西のリーダーシップ13)」をとっていたからでもある。たとえば輸入品(ゲッツ)に対抗出来る精製綿実油を昭和6年頃に輸出油漬缶詰用に売込もうとした。しかし「摂津製油もサラダ油に着目していて,製品「オレバーサラダ油」がすでに清水工場にそうとう売り込まれていた。遅れること半年」だった。吉原は油問屋として流通面に力をもっていた上に,生産面,研究面に力を入れており,昭和10年には摂津製油をぬき,関西でトップの座を獲得した。そして13(1938)年頃には「ゲッツの油を完全に駆逐14)」するほど吉原の綿実油の品質が向上したといわれる(ゴールデンサラダ油)。
 第1次大戦中に合名套社「堺製油所」に参加し,戦後それを単独経営するようになった吉原は,製油業に重点を置いた。大正13年には堺第2分工場に「はじめて米国製の連続式圧搾機エキスペラー2台を導入した。」「板締め機では残油分が7~8%であるのに対し,エキスペラーは6~7%」「残油分が1%も少なく(この1%が重大だった)数段手間が省ける15)」。吉原はすでに加賀製油所が輸入していたエキスペラーを入手して,大正7年に研究を始めていたようであり,13年に据付けた機械も,模倣・改良による機械を製造した(昭和17年のエキスペラー所有台数50台)。ただ元締め機は搾油量が少ないが良質の油がとれ,菜種の煎り具合で胡麻油に煮た香りの油となるため高く売れた。そのため後まで使用されており,昭和4年にも末次製の同機16台が増設されている。なお板締め機やボックスプレス(アメリカンオイルミル製,フレンチオイルミル製)も設備されたが,昭和7年には大正13年と同様アンダーソン型エキスペラー2台,クルップ製ゾーラー型エキスペラー3台,吉原製ステップ大型エキスペラー2台を設備している。その後も各種の機械を導入し,改良した吉原製エキスペラーを据付けている。そして抽出法によるカストル油の生産も行うようになった(太平洋戦争期)。吉原製油の動きは積極的で製油原料も多様であった。精製面では8年に米国製フィルタープレス,10年にシャープレス遠心分離機12年に新脱臭機をアメリカから輸入している。13年にゴールデンサラダ油(ドラム詰)をアメリカに輸出したことも注目される16)。
 大豆油製造[、、、、、]は明治35年に圧搾法による製油(当時は豆粕の比重が大きい)が,福井県下および兵庫県下ではじまり,次第に業者が増加したが,いずれも生産規模は小さかった。抽出法も行われたが,満鉄(ドイツ)の技術による鈴木商店の製油業で大豆油のみならず植物油製造業の状況は大きく変化することになった。しかし食用油という面からみれば日清製油の動きに見逃せないものがあった。その点と関連する次のような指摘(大正13年)を念頭に置く必要がある。
 「今日満州に比し原料の低廉なるものを得るは不能にして内地豆油の生産費が高率となるは理の当然なり……其の結果勢ひ内地工場に於て生産する豆油は国内に消費せざる可らざるに至りしものなり,即ち従来の菜種油の用途を奪ふ結果となり,其目的には従来の如く粗悪なる品質を以てしては需要者の希望に添ふことは不可能なる為め各工場に於て自ら精製を行ふに至りしなり。
 精製豆油の主なる用途は油揚,テンプラ等の食用にして現今にては僻遠の田舎までも用ひをれり。此外車軸油,塗料油,石鹸製造用としても相当用ひらる精製法は「アルカリー」精製,煮沸法,蒲原粘土法等の併用にして極めて簡単なるものなり,只日清製油横浜工場に於ては完備せる設備を以て科学的の精製法を用ふの準備中なりき。要するに内地の大豆搾油工業の現状は萎微不振……17)。」
 以上の指摘のように,輸出の望みが少ない条件の中では国内とくに食用に活路を求めることは自然であった。その点では菜種油が先行していたが,生産費が安く,原料にめぐまれ,また大豆粕の利用度が高い事など大豆油製造業には有利な点が多かった。
 日清製油[、、、、]は第1次大戦の終る頃に「豆粕製造」から「製油」に社名を変えた。それは大豆搾油・粕業での油の比重増大を反映したものであり,松下商店との合体で国内にも製油設備をもつようになった。大戦後の反動はきびしかったが,「商運」にもめぐまれ,大正15年7月期の決算までは配当を続けた。その間,満州ペイント,朝鮮肥料(2社ともに8年設立)など関連事業に投資したほか,業績不振の豆粕製
造所を改組し,傍系の亀崎製油株式会社(10年,資本金30万円)を設立した。かねて研究していた板粕工場は10年に大連,11年に横浜で完成した。前者61万円,後者54万円(うち工場建物が9万円,機械その他45万円)を要したが,その点については次のようにいわれている。
 「当社は業界に先がけて,まず機械設備の近代化を実現したのである。導入された米国フレンチ・オイル・ミルの機械は当時としては画期的な新鋭機として業界に誇り得るものであり,その特徴は在来の円粕圧搾機械に比較して,第一に出油率が高く,そのうえ油粕が肥料としての分解性に優れていること,第二には大豆以外の各種植物油原料をも搾油できることであった。なおその機械は横浜工場に18台,大連工場には24台据付けられ,一昼夜の原料処理能力は大豆として,横浜100トン,大連は130余トンであったが,大連ではその後間もなく英国ローズ・ダウンの機械12台を追設したので,能力は200トンとなった18)。」
 日清は大豆以外の原料も行うようになり,「植物油全般の多角的搾油」を大連から開始した。「大豆油の精製食用化」も大連が先行し,板粕工場に精製工場を設置した。横浜で新設されたのは,関東大震災直後であった。災害が比較的すくなかった横浜工場において「大正12年秋,最新式の精製機械をドイツより輸入し,同国でも斯界の権威であるメルク博士により数ヵ月にわたり機械の据付けならびに技術指導を受け,新製品の開発に乗り出したのである19)」。日清が大豆油精製による食用油において先行したことは見逃せない点である。建物7.2万円,機械設備5.5万円の投資は同社の発展の上で役立つところ大きかったと考えられる。
 昭和初期の不況は深刻であり,日清も赤字決算を余儀なくされ2年から9年(7月期)まで無配となった。輸出面からの影響も大きく,ヨーロッパへ大豆の形で輸出され,豆油輸出が激減した。その上に満州の政情も不安定であった。三井信託会社から120万円借入れ,大倉組の借入金80万円をかえすほどの苦境にあった日清は,各種の原料を使用して多角的な製油を行い,食用油に力を入れ活路を求めた。日清と食用油の関係については次のようにいわれている。
 「横浜工場は人力で締める捻締搾油機を使っていたが,それは搾油率が低かった反面,比較的良質の大豆油ができたので,単に静置沈澱だけで製品としてとおった。このうち少部分を海外に輸出し,そのほかはソーダ洗いをし,特製油という名をつけて関東・関西方面へ販売していた。しかしその用途はだいたいなたね油に混合するもので……大正11年頃,当時の横浜工場で“美人印のフライ油,天ぷら油”という名称で,この大豆特製油をびんに詰めて広く食料品店に卸したことがあった。これは全く試験的なものであったが,当時一般に顧みられなかった大豆油食用化の先鞭をつけたものといえよう。
 その後間もなく当社は,大連および横浜工場の機械をアメリカ製の水圧板締機に取換え,新時代への合理化を図った。しかし採油率が向上した反面,油の中に蛋白質などが多く出てきたため,精製しなければ市販することができなくなった。
 そこでさっそくその精製機械をドイツから買い……翌13年夏,この精製度の高い大豆油をサラダ油として売り出したらどうかということになり……
 その頃の当社は……肥料雑穀業が主体で食品関係とは全く縁遠い商売であったので,その方面の専門家……の助言により,販売特約店……5店を決めた20)」
 当時はまだサラダ油が消費されはじめたばかりで,アメリカから輸入されていたゲッツの製品がほとんどを占めていた。消費者に国産品の認識・普及を促す一方,大豆特有の青臭さをなくする等の精製技術の向上を必要とされた。「昭和初期には全国的な販売機構が確立された」というが,第2次大戦後の特約店と当時のそれとほぼ同じであるという。家庭用びん類と業務用かん類では,東京地区は関西とは逆に家庭用が上回っていたというから,日清の工場立地は有利であり,また圧搾法ということもあり早く食用油に着手したといえるだろう。ただデパートに陳列するのには輸入品との競合のため,そのデパートの名を入れたものにせざるをえなかったという事実も留意されてよいであろう。
 大豆の圧搾はくさび式かららせん式に移行し,水圧式が増加したが,その中では日清は最先端にあった。しかし抽出式は多少の問題があるとしても,油の収率が格段に高いので,日清も昭和8年に30トンという小規模ながら大豆油の抽出設備を行うこととし,翌年完成した。小規模なものでも収益性は良好だった。しかし,その後は圧搾法を充実している。大連では対アメリカ輸出のためローズ・ダウン式板粕圧搾設備12台増設(5.8万円)を昭和10年に完成,同年飼料工場も設けた。16年には横浜に鈴木式および自動式搾油機を新設したが,自動式はアンダーソン型エキスベラー12台,電力70トンであった。太平洋戦争時には圧搾200トン,抽出30トンが横浜工場の生産能力(1日処理量)であった。なお精製面ではシャープレスを昭和12年大連工場で,15年横浜工場でそれぞれ新設している。
 日清化学工業は12年に接着剤の製造企業を譲りうけ,大豆粕の利用を意図してつくられた。大豆粕は肥料としては硫安などの化学肥料に押されており,飼料・食用(調味醸造原料)に移って行かざるをえなくなっており,接着剤も,戦争の深まりの中で有望となっていた。そのほか戦争経済に対応する動きを必要とされるようになった。昭和11年8月から1年間の営業実績では横浜工場の場合,航空機用ひまし油がトップになっている。本社(横浜)は売上げ700万円の油脂で33%,450万円の油粕で41%の金額での比率を占めていた。そのように横浜の比重より大連のそれが大きかった。
 豊年製油[、、、、]は満鉄の製油事業を受けついで,国内でたちまち大豆油生産の主導権を握った鈴木商店の製油部が独立したものであった。その翌年の大震災の被害は,横浜工場の機械の清水工場への移送が大体終っていたため大きな損失はなかった。しかし経営は容易でなく,その株式を鈴木商店に対する貸付の担保として保有していた台湾銀行の意向で,杉山金太郎(貿易業の経験者,製油業とは関係なかったが引受にさいし,日清の松下社長と相談)が経営することとなった。大正13年社長となった杉山は「敢斗実践」,工業本位の方針をとり,環境もよくなり,業績が向上した。同社の精製面その他における進歩について次のようにいわれている。
 「大正11年頃……特約店……の進言で各種の精製法を研究,これに創意を加えて精製を行い,これを特製油と名付けて売出した……更に清水工場において幾多の改善と創意を加えようやく自信を得たので,大豆白絞油と名付けて一般市場に売出す……その後も設備の改善乃至は技術の向上に研究は怠るところなく精製能力の増大に努め,大正15年に至って脱臭法に幾多の改善を加え遂に同業者中の最上級銘柄に到達したのであった。一方撒豆粕についても当初の製品より研究に研究を重ね粕歩留の増大,残油分の減少,ベンジンロスの低下等各種設備を改善……飼料としてのユタカ豆,醤油味噌の醸造原料である桜豆,接着剤としての豊年グルー或は現在の各種製品を創成し,大豆蛋白利用工業の発展上に新分野を形成するに至った21)。」
 大正14年に技術者を欧米の油脂事情調査に派遣するなど外国技術にも注意をはらっていたが,サラダ油発売の昭和11年には研究所を設立している。なお大連工場での精製は内地での成功後の昭和4年に精製設備を完成している。豊年は大豆油製造業では抜群の存在であり,昭和初期に8割をしめていた。なお昭和10年代中頃における資料には「我国の需要は工業用5万屯,食料用8万屯に過ぎず,若し当社が全能力を発揮して生産せば食料用を全給して尚ほ工業用に2万屯から供給し得る筈である。又粕は年間輸入平均5千万枚125万屯であるが,当社の生産能力は其の4割にも達する23)」とある。
第5表 植物油脂工場数(昭和20年現在)
 以上のほかにも多くの製油企業があった。大豆油製造は比較的限られ,豊年,日清以外では日華製油など10企業にたらぬほどであった。しかし,歴史が古く,菜種が各地で生産されていたため,製油業は多くの地区にあり,愛知・岐阜・三重の各県は東京との結びつきがつよく,歴史の古い業者もあり24),それぞれの条件の中で企業の発展を行っていた。大阪とその周辺では摂津・吉原などが菜種を主体に大をなしていたし,九州などでの菜種油もみのがせない。また胡麻油の場合はまた独特な香味ある油質により,特別な地位を食用面で占めている。100年以上の伝統を誇る業者もあった25)。ただ数量的には価格高,原料的制約で菜種油や大豆油とは比較にならぬ位にすくなかった。
 第2次大戦までの製油業は次第に食品工業としての性格をつよめ,とくに1930年前後の世界的大恐慌の中で活路をその面で開くようになっていた。また植物油を使用した工業は石鹸のような硬化油工業だけでなく,マーガリン製造にも使用されだした。しかし,満州事変から日中戦争と戦争経済が深まると,製油業も軍需的性格を帯びるようになった。潤滑油や接着剤だけでなく,各種の用途は戦争と結びついた。そして太平洋戦争がはじまると,製油会社は南方の占領地でも製油業を経営する状態となった。一方では企業統合が進み,また戦争による被害はすくなくなかった。それはともかくとして,第2次大戦後の出発点はそれまでの遺産を基礎として行われた。そのため第1次大戦頃までに創業した企業が製油業でも主となっていた。
 最後に付け加えなければならないのは製粉と製油を兼業し,しかも,比較的新しいながら企業的成長をとげた事例である。昭和産業株式会社が資本金250万円で創立されたのは昭和11(1936)年である。本社は宮城県に置かれたが,業務の中心は東京であった。創業者で専務となった伊藤は肥料商の出身で農村との結びつきが強かった。その趣意書には「東北産業ノ開発ハ蓋シ刻下ノ急務ナルト信ジ,茲ニ多年同地方ト特殊関係ヲ有スル吾人ハ……肥料,製粉及製油其ノ他諸産業各方面ニ亘リ綜合的経営ヲ行イ東北農産品工業化ノ実ヲ挙ゲントスルモノナリ」とある。農産加工の第一の足掛りを小麦粉に求め,前年に昭和製粉を設立している。その後,急激に各種の事業を拡大した。経済的環境が比較的よく曲折はあったが,製粉・製油では大きな破綻はなく26),第2次大戦後も小麦製粉と植物油の製造を柱に特異な企業として,創業時の体質が生きている点が注目される。同社については次のようにいわれている。
 「昭和産業の強みは発足土台となった肥料商の実績と経験にあったといってよい。農村に強い販売力を持っているため,油は売れなくても,副産物の粕が肥料に向けられ,どんどん捌けていったのである。粉の場合も副産物のふすまの用途が多かった。だから当時は粕をつくるために油ができ,ふすまをつくるために粉ができたという主客転倒的な現象さえみられた。
 さらにこの時期の昭和産業を特長づける性格は,利潤獲得のウェイトがメーカー段階というより,商業的な基盤の上におかれていた点である。……原料の買付けで,まず大きな利益を獲得しようという傾向が強かったのである27)。」
 それは見逃せない点といってよいし,新規参入は容易でない状態にあったので,創業時の困難を克服する上で大きな役割をはたしたといってよいであろう。

 注
 1)前出,日清製粉株式会社社史編纂委員会『日清製粉株式会社史』附録31ページ。
 2)前出,日本製粉社史委員会『日本製粉株式会社七十年史』年表61-62ページ。
 3)前出,笹間愛史『日本食品工業史』296,294ページ。
 4)前出,日本製粉社史委員会『日本製粉株式会社七十年史』176ページ。
 5)同前書,263ページ。
 6)前出,日清製粉株式会社社史編纂委員会『日本製粉株式会社史』91ページ。
 7)同前書,121-22ページ。
 8)前出,日東製粉社史編纂委員会『日東製粉株式会社六十五年史』82ページ。
 9)前出,田中豊吉編『白石興産八十年史』47ページ。
 10)前出大浦万吉・平野茂之『日本植物油沿革略史』170ページ。
 11)刀弥館正雄『商品盛衰記』朝日新聞社,昭和4年,147-8ページ。
 12)前出,大浦万吉,平野茂之『日本植物油沿革略史』227ページ。なお同書の231ページには「現今本邦に於ける菜種油の用途……の内最も多いのは食料用にて,消費の約8割を占めていると推定されているが,最近諸工業の発達に伴い工業用方面に,多量の消費を見るに及んで,漸次消費率の転換を見るに至り,殊に食用方面に於ては大豆油,棉実油,椰子油等の競争品があり,之れ等は菜種油に比し価格が幾分低廉なる為め菜種油は之れ等により食用の地位が蚕食さるるの傾向にあり……」という記述が見られる。
 13)前出,平野成子『吉原定次郎翁伝・油ひとすじ』147ページ。
 14)同前書,83ページ。
 15)同前書,140-42ページ。
 16)同前書,「吉原製油百十八年のあゆみ(年譜)」
 17)前出,佐藤義胤『大豆の加工』451-52ページ。
 18)前出,日清製油株式会社社史編纂室『日清製油株式会社60年史』74-75ページ。
 19)同前書,83ページ。
 20)同前書,305-07ページ。
 21)前出,植杉四子男編『豊年製油株式会社四十年史』26-27ページ。
 22)山口惣吉編『油界百星』中央経済新報社,昭和3年,194ページ。
 23)深沢和夫編『油界百年史』中央経済新報社,昭和15年,295ページ。
 24)同前書にも参考となるものがあるが,山口惣吉編『油界百星』には,摂津製油について「本邦植物会社としては,豊年,日華に次ぐもので……其歴史の古いだけに時に社運の興廃はかなり曲折を経たものである。……
 年産額は約十五六万函にして就中,輸出量は約五,六万函内外其残余が内地供給である」(252ページ)と書かれている。株式会社奥田製油所(本社,滋賀県大正12年創立,資本金30万円)については「奥田氏菜種製油事業は父祖伝来の事業として古く建久の大昔……事業を会社組織に改めた動機は,去る明治29年近江製油を創立するに当って,会社を現在の所に移したのであった,超えて大正5年に至り近江製油を奥田家へ買収して,奥田製油所と改めた……同社の業績は近数年間概して相当の好成績を収めて居るが,株主配当は定款を以て年五分と定め,それ以上は成績の如何に抱らず之れを社内に保留すると云ふ健実一方の主義を執って居る。
 当社の我が菜種油界に於ける努力は,関東方面に於ては比数的優越の地位を占めて居る……東京支店の扱数量の全部を合すれば,年額約4,5万函に達するであろう」とある。
 熊沢製油合資会社(345ページ),合資会社丹羽製油(346ページ),合資会社太田製油場(361ページ),柏原製油合資会社(362ページ),大野油商株式会社(367ページ)についても参考となる記述があり,それらの歴史は古く,流通面に独特な強味をもっているものがほとんどである。
 25)前出,深沢和夫編『油界百年史』532ページには愛知県の竹本長三郎(日本胡麻油工業組合理事長,竹本製油所主について,「当家の開業は可なり古く,享保10年と云ふから今より200年前の昔で,以来一進一退はあっても当主まで連綿八代を閲し,丸本の胡麻,菜種油と云へば東海一円,京浜,京阪神間は勿論,全国的に其の名を知られ,海外までも販路を有して居る。
 ……大正14年更らに工事費30数万円を投じて蒲郡に広大なる新工場を建築し,機械施設を完備して生産の合理化を図る等大いに業面を刷新……植物油の製造販売を専門とし,其伝統を守って今日の大をなしたものであるが,社会の進運は之れを以て満足せしめず,氏が名実共に家業を統括するに至った昭和11年頃から化学油脂部を新設して染色織物用硫酸化油の製造をも開始したるところ,忽ち品質の優良を認められて各機業地からの需用頓に増加し,漸次其の生産高を増して昨今では食料用と機業用の両者半々位の割合を以て製油しつつある……年額大凡400万円内外の生産高を計上してゐるが,近来は原料不足の為め若干製造を手控へ居る模様である。
 なお,昭和初期に胡麻油では竹本製油につぐ業者だった兵庫県の平瀬製油株式会社については安永5(1776)年とする前出,山口惣吉編『油界百星』336ページに「関東方面に向って名声を博したるは実に明治の初年にして爾来幾十年其山力印胡麻の名は益々世の嗜好を喚起」「製造法は古来同社独特の研究になり,其原料の煎加減及び燃料用としての松葉を使用する等の点に特色を存し……」とある。
 同書には当時胡麻油製造でしられるようになった三重県の四日市製油場について「明治15年同地に於ける斯界の有志謀って,一工業会社を創立したるに始まり,明治19年組織を更めて四日市製油会社と為し,洋式最新式搾油機械を輸入して,製油に従事す。之れ本邦に於ける洋式製油事業開始の嚆矢と為す。亜いで先代九鬼氏は之れを買収して四日市製油と命名し,……明治45年合資会社組織としたるが,其後油業不振の為め迂余曲折を経て昨年8月現在九鬼氏の買収する所となり,純然たる個人経営として現在に至って居る。合資会社当時に在っては資本金32万円,同地方に於ける植油会社としては其最も大規模なものであった……胡麻油としては其品質優秀にして,而かも比較的価格の廉なる点に於て他の同種品を凌駕」(347ページ)とある。同社ははじめは菜種油を主としていたのが,胡麻油に変った事,なお早く先進的機械を導入しながら大企業に成長できなかった事で注目される。
 26)ダイヤモンド社編『食品コンビナートのパイオニア・昭和産業』(ポケット社史)ダイヤモンド社,昭和41年68ページにはワンマン的な支配者伊藤の死とシルクール(人造羊毛)の事業を主とする赤字で「最悪の危機を迎えることになった」とある,後援者の昭和電工の森の援助などがあったが,当時日本有数の大会社鐘淵紡績の傘下に入った。その原因は無理な新事業化にあったようである。
 27)同前書,58-59ページ。
 Ⅲ 食品工業の発達からみた製粉・製油業

 あらゆる産業についていえることであるが,食品工業の場合も,それぞれの工業のもつ生産・流通の諸条件に応じて,それぞれの生産規模・発展方向が歴史的過程の中で決定される。技術的革新(機械化等)が各商品の生産費低下に効果をあげるためには,それに応じた生産量が必要であり,したがって販路と市場の確保がなければならない。大量生産が比較的容易で,市場の広大な食品工業と,機械化が困難で市場の狭い食品工業ではその発達の過程が当然異っている。原料面からくる制約がどの程度であるかという点も無視できないものがあるが,製粉・製糖(精製糖)・製油などは概して大量生産型の工業として発達し,手作業の多い機械化が容易でない市場の狭い嗜好的食品類は非大量生産型の工業として存続したといえるであろう。
 多種多様な食品工業はそれぞれ特殊な性格をもっているが,各食品工業が無関係に存在するわけではない。もっとも重要なのは製品の需給を通ずる再生産構造ないし産業連関である。しかし,他の食品工業との関係が比較的薄いものと,濃いものとがある。農産物を原料としている製糖(甘蔗・甜菜),製粉(小麦),製油(菜種・大豆・胡麻)は他の食品工業から原料を供給されることはないので,その面では無関係といえる。しかしその場合でも,同一農産物たとえば小麦・大豆などを原料市場で購入する場合に他の食品工業と競合する。そして製品面をみるならば,砂糖・小麦粉・食用油はその少なからざる部分(それぞれ全販売量での比率は異る)は製菓・製パン・製麺など2次的加工業といってよい他の食品工業の原料として消費される。そのような原料供給的食品工業と直接に個人的消費の影響を受けることの大きい2次的加工業では性格を異にしている。後者が多種少量的生産傾向をもつのに対し,前者は原料面からの制約がないかぎり,少種大量生産的性格をもつ場合が多い。日本における製粉・製油は工業的に生産された原料品(中間生産財)を供給する食品工業として大量生産型工業として発達した(第6表参照)。
 製糖・製粉・製油という原料的食品工業の3つの柱といってよい工業の発展は製菓業を主要な製造業とする2次的加工業の展開と密接な関係があった。日本の製菓業は開港前すでに多様な発達の萌芽を育てていた。大衆的な駄菓子の類から茶道と結びつくところの大きい支配階級の消費する上菓子,カステラのような日本で特殊な発達した南蛮菓子(開港前の洋風菓子)まで多くの種類があった。もっとも製菓業を制約していたのは封建的規制とくに砂糖の流通制限とその価格高であった。
第6表 小麦粉および植物油の生産・輸出の推移
しかし,開港と明治政府の成立で情況は一変し,安価な砂糖の流入は製菓業の発展を可能にした。その上に洋風菓子の影響・軍需の刺激で製菓業の近代化が19世紀末期からはじまった。中にはアメリカで製菓技術を身につけて帰国し,製菓業近代化に寄与した森永太一郎のような事例もみられた。大都市を中心とする在来の製菓業の中にも革新的な動きがあった。それはともかく,当時の日本の製菓業は小規模なから,全国的なひろがりをもっていた。明治16年における菓子類の商賈数は政府の調査によると次のようであり,食品関係では穀物商を上廻ったほどである。不完全なものであるとしても,菓子類卸売1379(うち東京221,大阪176),同仲買941(東京48,大阪204),同小売10万5618(東京1101,大阪5677)は全体としての規模が大きかったことを推定させるものがある。とくに小売といっても自家製造品を店で売るものが少なくなかったことを考えれば,各店の製菓の規模は小さくても,全体の原料消費力は大きいものがあった。
 安価な砂糖の輸入,品質の良い小麦粉の使用増大で製菓業は急速に成長することとなった。その近代化の突破口を開く役割をはたしたのが,洋風大衆菓子(ビスケット,キャラメルなど)であった。製菓で使用される原料費において比重の大きいのは砂糖であったが,小麦粉や食用油の使用も急増した。その契機となったのは軍用ビスケット(パン)であり,西南戦争以後,日清戦争,北清事変,日露戦争等での軍需は大なり小なり,製菓・製パンの発達を促す役割を果した。ビスケットは軍需がなくなっても次第に一般市場がひらけたし,パンも菓子パンの形態で急速に普及した。洋風食品はアンパンに代表されるように,日本人むきに工夫されたものが多かった。ビスケットもイギリスのそれと同様では大衆的市場において問題が生じた。ビスケットについでキャラメルがややおくれてチョコレートが大衆的に消費されるようになった。一面では和菓子の洋風化(和洋折衷菓子),生産の機械化も進められ,砂糖など甘味料のほか小麦粉・食用油の使用が増大した。食用油の場合は砂糖・小麦粉ほどには製菓業との関係が密接ではなかったが,次の点を見逃すことはできない。油で揚げた菓子の増加のほかマーガリンの使用が菓子製造においてふえた。洋風菓子類に多く使用されたバターは酪農品であるが,その代替品である安価なマーガリンの使用が増大した。もっともマーガリンを製造するために植物油が使用されるようになったのは昭和10年代以後であった。食品工業の発達をみる場合,各種の原料とりわけ砂糖・小麦粉・食用油を使用する2次的加工業としての菓子製造業との関連の重要性はとくに注意されてよいであろう。
 製菓用以外での用途が製糖・製粉・製油に与えた影響も見逃せないものがある。
砂糖のように大部分が製菓用原料として使用されている場合でも,一般家庭用ないし料理店等での業務用の使用が3分の1程度はあり,それぞれの用途に応じた砂糖生産の発達を促していた。製菓以外の各種食品工業においても甘味料として調味に使用されていた。小麦粉の場合,昭和10(1935)年についてみると,製菓用は28%,
第7表 食糧消費の変化(大正10~14年,昭和6~10年)
製パン用12%であった。製バン用のうち菓子パン用がどの程度あるかは不明であるが,食パン用の独自な市場形成があり,製粉企業もそれに対応した動きを示した。製麺用はその比重が低下したといってもまだ43%もあり,製麩用7%と合計すれば小麦粉の約半分が在来的色彩の強い分野で消費されていたといってよい。すでにふれたように昭和16年の植物油の用途からも推定されるところであるが,必ずしも大部分が食用ではない。しかし第7表から推定されるように,大豆油を中心として,食用油の需用(揚物用が主)は増大した(ただし,大豆油と競合関係が強く,原料
面の制約がより大きい菜種油のそれは減少)。質的にみても多少問題があり,数量も少なかったサラダ油が家庭用としても使用されるようになった。なおまぐろやいわしの油漬缶詰の生産用としての消費も増大した。それらの缶詰はほとんど輸出されたが,第2次大戦前には大量生産された。なお食用以外の需要が製粉・製油の発展を促した面もみのがせない。小麦粉は繊維工業用などの糊材その他として,また植物油は各種の工業用の査材として使用されており,それが食用油製造にも影響していた。
 貿易面からみた製粉・製油工業についてみると,初期においては小麦粉・食用油の輸入によって,とくに製粉は近代化が促進された。一方,比較的早くから輸出を行い,やがて国内市場で近代的生産が優位をしめた。そして,第1次大戦を契機として外国市場との結びつきが強まり,安い原料を輸入することによって,それを上手に利用(関税の戻税などがそれを効果的にする)して輸出を増大した。そして満州その他の中国に武力侵略が行われると,そこで製粉工場を建設するなどの資本投下を行うようになった。もっともその結果は日本経済の崩壊で水泡に帰したが,一時的には製粉・製油業の展開があった。
 以上のべたような諸動向の基礎にあるものは国内市場を規制していた日本の食生活体系である。最初にふれたように伝統的で強固な米を中心とした食生活組織という大きな枠に対応して発達を遂げて来た(貿易面も直接・間接にそれに左右された)。社会的変化とくに商品経済の進展に伴う食品工業の発達により,慣習的な食生活が変化したことは見逃せないが,根本的な変革はなかった。それについては第6表が参考になるが,同一資料によってそれを補足するならば次のようである。
 明治44-大正4(1915)年の5年間の一消費単位(年令,性別を考慮したもので男子21才以上の成人の推定消費)当り1日平均純食糧消費中のカロリーは2630でうち米が59.2%を占め,大正10-14(1925)年のそれは2925カロリーで米は58.1%とやや減少した。しかし昭和6~10(1935)年には2793カロリーと総摂取カロり一が減少したこともあり,米もやや減少したにもかかわらずその比率は60.2%となった。いずれにしても約6割のカロリーを米に依存していた。しかも,改善傾向はあったが,山村・漁村を含む農村部では所得の関係から,米を思うように摂取出来ない(潜在的需要)状態に置かれだ人達が少なくなかったこと,米の代りに麦・雑穀・藷のたぐいを余儀なく食していたことを考慮するならば,日本人の食生活における米の地位の大きさは表面的な数字以上であることを認識せねばならない。
 第2次大戦前における農村が,高率現物地代による寄生地主制によって支配され,国内市場の拡大が阻害されていた。そして小作人を最低辺とする農民の貧困(低賃金労働者の供給源・溜池)が日本産業の発達を支え,対外進出の場合にも利用されていた。しかし,戦後アメリカなどの占領軍がしぶる日本政府のしりをたたいて農地改革を推進したことによって,戦後の日本は大きく変化した。それは食品工業の復旧と発展にも大きな影響を与えた。小麦粉のように価格形成に問題をもつ,国際的に割高な食品の場合も,1人あたりの消費量は第2次大戦前にくらべ,戦後20年以上たった時点では3倍程度にふえ,生産量もほぼ同様となった。小麦粉の用途もパン用が増大し,比率の低下した麺用と大差がなくなり,麺用そのものも,伝統的な乾麺・生麺用のほかに,日本的な中華風麺類,マカロニ・スパゲッティの類が増加した。食用油については戦前と戦後では比較にならないほど需要が増加し,生産も高度化した(サラダ油の激増など)。戦後における食品工業の発達を象徴するものは畜肉加工品の生産増大であり,日本人の食生活の変化を反映している。それは国民の所得水準が向上傾向を辿る過程で,どの食品に支出が行われるようになったかによって決定された。米の地位は低下したが,現在なお日本の社会・経済は米を主にして動く面を強くもっている。したがって戦後の食品工業もまた米とのかかわり合いは決して弱くはない。ただ戦前とは大きく変ったし,さちに変化しつつあることは見逃せない。