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クリーク農業の展開過程

Author: 八木宏典
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
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目次

Ⅰ 課 題・・・・・・・・・・2
Ⅱ 西南暖地水田とクリーク農業の立地・・・・・・・・・・3
Ⅲ 近世小農民経営の展開――近世・封建農法の展開・・・・・・・・・・16
Ⅳ 「佐賀段階」期の小農経営――近代農法の形成と展開・・・・・・・・・・30
Ⅴ 地域農業システムと小農経営――現代・戦後農法の課題・・・・・・・・・・57
Ⅳ むすび・・・・・・・・・・79


Ⅰ 課題

 佐賀平野の水田農業は,周知のようにクリーク農業という特殊性の上に立脚している。同時に,同地方の水田農業は西日本の西南暖地水田作地帯の一画に位置している。
 小論では,このように位置づけられる佐賀平坦農業の農業技術とそのような技術的基礎の上に成立する農業経営の展開過程を,主に次の2つの側画に焦点をあわせて解明することを課題としている。
 第1の点は,クリークという特殊な灌漑方式によって営まれる農業の意義,あるいはその利点,不利点などについて発達史的な立場から整理し,どのようなクリーク灌漑方式1)の改変がクリーク農業を発展させ,あるいはその発展の足かせとなっているのか,またどのような条件の整備がクリーク農業の発展にとって必要なのかなど,わが国における農業技術の発展とそのような技術革新をベースとしたクリーク農業の具体的な展開条件について明らかにすることである。一般にわが国の水田農業の発達過程は,これを水と土地との関係からみれば,いわゆる湿田農業から乾田農業への断えざる変革(=地下水をも含めた「人為的水制御の進歩と拡大2)」)の過程とすることができるが,このような水田農業の発達の道筋を,佐賀平野のクリーク農業を素材にして具体的に整理してみたいということである。
 第2の点は,太閤検地を画期として成立3)したとされるわが国の小農経営は,長い歴史的タームということでみれば,決して停滞的なものとして存在していたわけではなく,一定の歴史的変容と発達をとげて来たということが言えるが,この小農経営の具体的な変遷の過程を佐賀平野の水田経営を素材にして明らかにするということである。これまでわが国における農業経営は,一般に,零細耕圃に立脚する「多肥多労農業」を特徴とする小経営的生産様式の範疇として把握されてきた。しかしこのような小農経営も,歴史的にみればその時代時代によって存在形態も様々に変遷していているのであり,ここではかかる変遷とその具体的態様を水田農業の発展という一本の線上に跡づけることによって明らかにし,この中からわが国の小農経営発展の画期,あるいはその内容を具体的・構造的に整理してみたいということである。
 この場合,わが国の小農経営発展の画期は大きく分けてこれまでに2つあったと考えている。その1つは明治維新であり,他の1つは戦後改革である。このような区分は,わが国の幕藩体制社会あるいは資本主義社会の発展段階に応じた区分でもあり,いわば全く当り前のことと言えるが,むしろ論点としたい点は,このような時代の変化に先がけて,それに照応する農業生産力ないし経営構造の基礎が,すでに前の時代から準備されていたという点である。すなわち「一連の農業技術の改変←→耕地組織(土地と水)の改変←→水田利用方式の改変←→農業経営方式の改変←→新しい農業経営主体の躍進」という農業経営構造の転換の過程が,これらの時代に先がけてすでに広範に見出されているのであり,このような農業経営の動向をむしろ先取りないしは追認する形で,「地租改正」や「農地改革」など一連の制度的変革が行なわれてきたといった点である。
 また,第2の論点としては,このような小農経営発展の画期に対応して,わが国における農法の発展段階の区分が可能ではないかという点である。すなわち,わが国農法の独自の発展段階として「近世・封建農法→近代農法→現代・戦後農法」といった段階区分が設定できるのであり,わが国経済社会の発展――農産物市場を含む地域経済社会の発展――に対応した農法と農業経営構造の段階区分が可能ではないかということである。

 注
 1) これまで佐賀平野のクリーク水利をあつかったものに,宮地米蔵『佐賀平野の水利慣行調査』九州農政局,1967年,玉城哲ほか「日本農業における個別的水利用の成立条件に関する研究」水利科学研究所,1962年,『筑後川農業水利誌』九州農政局,1977年,江口辰五郎『佐賀平野の水と土』新評社,1977年などがある。また,クリークの生態系をあつかったものに「クリーク水田地帯における生態系の実態解析」九州農試研究資料第56号,1977年がある。
 2) 陣内義人「水田農業の展開と水利用」『農業経営研究』No.29,1978年,1ページ。
 3) 安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』(増補版),御茶の水書房,1964年。

Ⅱ 西南暖地水田とクリーク農業の立地

 本論に入る前に,西南暖地をとりまく地域的特徴とクリーク農業の立地について,後論に必要な範囲で概観しておこう。

1 西南暖地の地域的特徴
 水田の熱状態および水状態を表わす指標によってわが国の農業地域区分を試みた内嶋1)によれば,西南暖地は図1に示されたD型の地域として区分できるという。水稲栽培には不十分な熱状態のA地域,冷涼な熱状態のB地域,そして,中庸な熱状態のC地域に対して,西南暖地は二期作に十分な熱量を有するD地域として区分されている。このうちDⅠの地域は南九州,四国,紀伊半島の太平洋岸などに分布する多湿な環境域であり,DⅢは中国山脈,四国山脈の地形的影響によって特異的に形成されている寡湿な環境域である。北九州はこの中で,東海道,瀬戸内海沿岸地方などとともに,DⅡの中湿な環境域として区分されている。北九州(佐賀,福岡)の気候条件は表1によって示されているが,平均気温が高く,年間日照時間(とりわけ冬季の日照時間)の長い二毛作の可能な温暖地型の気候区域の一画に位置しているといえる。しかし,同じDⅡ型の環境域の中でも,近畿・瀬戸内地方などに比べると,北九州地方の気候には2つの特徴がみられる。その1つは,年間降雨量が他の地方よりも多く,しかもこの雨が6~7月の梅雨時に集中して降るという点である。また,第2は,9月の日照が北九州では比較的不安定であるという点である。これは佐賀,福岡,熊本などのいわゆる「西九州型」の気候が,「山陰(裏日本)型」に近い気候的性格を有するためである2)とされている。9月の日照の不安定さは,近年のこの地方における水稲の登熟不良や米質の悪さの要因としても説明されているのである。
図1 水稲栽培環境の地域区分
表1 西日本(佐賀,福岡,大阪)の気候
表2 1877-79年平均農業生産の地域性
 農業気象的にはこのように区分しうる西南地域も,これを農業生産発展の地域性という立場からみると,さらに大きな違いが見うけられる。資本主義形成期の明治初期における農産物構成を国別に整理した中村3)によれば,西日本の農業地域は大きく「商業的農業地帯」,「米作中心地帯」,「自給自作地帯」の3つの農業地帯に区分されるという。すなわち,棉,菜種を代表とする商業的農業が最も発達し,近世中期以降の国内市場形成の起動力をなした畿内およびその周辺地方(IA),田作率が高く一部に菜種の栽培がみられる二毛作地帯としての中国・北九州地方(ⅢC~D),生産力および特有農産物比率が低く,雑穀等の自給作物の比率の高い南九州地方(ⅣC)が,それぞれ区分されている。「社会的=地域的分業が最も発展し,したがって農業が最も多く商品生産化し『商人化』していた4)」大阪周辺のいわゆる「中央地帯」に対して,「強靱な封建的領主権がより深く商業的農業と全国的商品経済とに結合し……農民の商品生産の成果を吸収して封建的領主権を貨幣で肥え太らせた5)」北九州などのいわゆる西南地方が,ここでは区分されているのである。
 北九州は朝鮮半島に近く,早くから大陸との交流の窓口としての位置を占めていたが,このため様々な大陸方面や朝鮮半島からの影響を受けている。しかも太宰府の設置と条里制の残存などにも示されているように,北九州は比較的早くから開発されてきた地方でもある。しかし,国家の中心地や中央市場から離れているという事情が,畿内やその周辺地域に比べて,九州地方の辺境性を性格づけているともいうことができる。

2 クリーク農業の立地
 佐賀平野は九州北部の筑後川右岸に位置する,北緯33度15分,東経130度15分周辺の2市24町にまたがる沖積平野である。平野の全面積は4万5000ヘクタール(うち水田3万ヘクタール),平野の平均的傾斜は1/4000ほどであるが,新期沖積層地域における傾斜はわずか1/10000と平坦である。
 ところで,ここで言うクリークとは,いわゆる低平地水田地帯に網の目のように掘られた溝渠のことである。地元では一般に堀(ほり)と呼んでいる。クリークは地域ごとに完結して配置されているわけではなく,井樋などを通じて上流地域から下流地域まで縦横につらなった構造となっている。しかも,クリークの水利は,常に用水と排水とが一体不可分なものとして密接な関連を有している。下流地区の用水は上流地区の排水に依存し,上流地区の排水は下流地区の用水となることを前提として考えられている。クリークの水は,上流から下流へと平野を徐々に流下しながら何回となく反復利用され,ついには有明海に注ぐのである。
 佐賀平地(3万ヘクタール)における用水の需給関係について概算した表3-1によれば,農業用水の需要としては年間3億3千万トンが見積もられている。これに対して供給は天水(降水)が1億3千5百万トン(全供給水量の41%),溜池1千8百万トン(同6%),北山ダム4千4百万トン(同14%),河川水4千6百万トン(同14%),クリーク自身の水4千万トン(同12%),筑後川の淡水(アオ)2千4百万トン(同7%),地下水2千万トン(同6%)となっている。この表は年間における用水需給についての概算であり,しかもクリーク水の反復利用については計算に含めていないなど不十分な試算ではあるが,佐賀平野における用水供給事情の一端を物語っている。まず,この表で注目すべき点は,戦後の水利事業としては最も大きな事業であった北山ダムの建設(昭和36年)が,平地全体としてみればわずかに14%内外の農業用水の増加に寄与したにすぎず,平野の用水供給の4割以上を天水に依存しているという事実である。ここに,現在においても,クリーク網の配置とそこへの「水囲い」が重視されている理由がある。
 さらに表3-2は,この表の計算基礎に準じて,時代別の用水需給について試算をしたものである。まず,戦国時代初期の15世紀における用水需要量は,1億7千6百万トン(水田1万6千町歩)と計算される。これに対して,この期の供給量は1億6千2百余万トン,内訳は天水(44%),クリーク水(28%),溜池(8%),河川水(20%)である。溜池や河川水からの用水供給量は全体の28%であり,残りの72%の用水は天水や稲作前にクリークに貯められた水によってまかなわれている。次に,近世初期の17世紀における用水需給関係をみると,まず需要量は2千2百万トン(水田2万町歩)である。これに対して,この期の供給量は2億1千3百余万トンと計算される。内訳は天水(42%),クリーク水(20%),溜池(8%),河川水(19%),筑後川淡水(11%)である。封建領主権力による平野一円にわたった抜本的水利事業によって,中世代に比べて用水事情も大幅に改善されているが,それでも天水やクリーク水への依存率は62%である。もっとも,戦後の昭和40年代においてこの割合は54%であり,新たな水源開発や水利施設の改善などによる大幅な用水改善がみられるものの,未だ天水とクリーク水への依存率が全体の5割を占めている。
 佐賀平野のクリーク農業をとりまく地形的特徴を用水とのかかわりで整理すれば,以下の3点に要約することができる。第1の点は,平野の後背山地が浅いため集水面積が小さく,山地からの水資源に乏しいこと,第2の点は,平野東側を流れる筑後川の河床が低く,これまで下流域では自然流下の形式では本川の水を農業用水として利用しえないできたこと,第3の点は,平野がわが国でも干満差の最も大きい有明海に面していることである。とりわけ,この第3の点こそは,低平野水田地帯としての筑後・佐賀平野におけるクリーク農業の形成において,他の地域とくらべて際立った特徴を付与しているものと考えられる。すなわち,有明海の旺盛な干陸化作用は,年間約10メートルといわれる平野の前進をうながし,その過程においてきわめて複雑な海岸線を形成するとともに,また,後述するような特色のある用排水体系を生み出している。
表3-1 佐賀平地の用水の需要と供給の概要(昭和43年)
表3-2 佐賀平地における時代別用水需給の試算
 平野北部の天山・背振山地から流出する河川は,田手川,城原川,嘉瀬川,六角川など幾つかあげられる。そのうちでも最も大きな河川である嘉瀬川において,その流量は平水時2.5m3/sである。この程度の河川流量では3万ヘクタールにおよぶ水田全域を灌漑するには,全く水量が不足することは先にも検討した。もっとも,これらの河川は洪水比流量が大きく,山地からの土砂搬出が著しいものの,逆に比較的天井川が多く水田灌漑に利用し易いため,昔から用水源として有効に利用されてきた。一方,平野の東側を流れる筑後川は,水源をはるか熊本,大分県に有し,平水時流量56.5m3/s6)と豊富な水量をほこっている。この川は下流域において,「砂れきの運搬,堆積の少ない河川であり,これに加えて捷水路の建設及び著しい干満の影響で侵蝕が著しく,地盤高は周辺部より本川に近づくにしたがって次第に低く7)」なっている。このため「水は周辺部より本川に集まるか,あるいは本川よりあふれても再び本川へもど8)」ってしまうことから,そのままの状態では農業用水としてこれまで有効に利用しえないで来た。しかし,筑後川がわが国で最も干満差の大きい有明海に流出しているという事情が,同河川の農業的利用において周知のように「アオ(筑後川淡水)」取水という形で,昔からきわめて特異な水利用の形態を生み出してきた。有明海の干満差は,表4に示されているように,六角川河口付近において大潮差5.7メートルであり,また,最高潮位は海抜4.0メートルである。この潮が満潮時に筑後川の水を河口から上流に押し上げるのであるが,この水は筑後川の河口より26キロメートル地点まで逆上り,久留米市付近にまで達するといわれている。この潮によって押し上げられて来る筑後川の淡水を,樋門を開くことによってクリークに導入し,農業用水として貯溜したものが「アオ(淡水)」である。現在,このような形態でアオを利用しうる地帯は,佐賀平野(筑後川右岸)では同河川沿岸の約9千ヘクタールの区域とされ,その取水量は多い年では1億立方メートルを越えるともいわれている。
表4 六角川河口住の江港における潮位記録
 しかし,このような有明海の大きな干満差は,標高の低い沖積平野においては強固な防潮堤(潮土居)の築堤なしには,海水がそのまま平野深部にまで浸入することをも意味しており,同時に,満潮時には,平野全域の排水をも阻害することになる。有明海の大きな干満差は,一方で干潟の干陸作用(干拓地の拡大)を早め,また満潮時には筑後川の逆流水(=アオ)を苦もなくクリークに導入しうるという,水田農業にとっては有利な条件を形成するとはいえ,他方では,地域全体の排水をきわめて困難にするという不利な条件の要因ともなっている。とくに満潮時と豪雨時とがたまたま重なった場合,あるいは台風のコースが有明海を北東に通過した場合などは,他の地域にはみられない激湛な高潮や冠水害の被害をもたらす9)ことになるのである。
 さて,表5は戦後農業の一つの原型期ともいえる,昭和14年における市町村別の水田灌漑種類別面積および耕耘手段別面積である。右欄のクリーク率は,「昭和30年クリーク実態調査」によるものを掲げている。これによれば,佐賀平野2万8千町歩(当時)の水田面積のうち,そのおよそ6割を占める1万7千町歩がクリークによる揚水灌漑地帯である。地域別にはいわゆる平坦部の一円が揚水灌漑地帯,平野の山麓に近い地域が溜池灌漑地帯,そして河川流域に沿った地域が井堰灌漑地帯となっている。平野全域の平均では6.9%の面積比率を占めるクリークは,平坦部のいたるところ縦横に配置されて,水田農業の動脈あるいは静脈として,後述する幾つかの機能を果しているのである。なお,当時の水田耕耘手段別面積をみると,牛耕の行なわれていた地域は平野山麓地帯に集中しており,平坦部の多くの地域は馬耕地帯となっている。また,当時の人力耕の地域は,白石平坦のように水不足=低湿田地帯に集中している。すなわち,この表からは「溜池―牛耕」,「クリーク―馬耕」といった水利と耕耘との関係の存在をうかがわせるのであり,また,水田条件と耕耘との関係では「乾田―畜力耕」,「湿田―人力耕」といった関係をうかがわせる。地域別にあらわれたこのような3者の関係は,佐賀平坦農業の発達史を考える上で,きわめて示唆的である。
 「昭和30年クリーク実態調査」から,佐賀平野におけるクリーク面積割合を等値線によって示したものが図2である。同図には,アオ(筑後川淡水)利用地帯をも示してあるが,クリーク密度の高い地域が,このアオ利用地帯と平野北部地帯とのちょうど中間に位置していることがわかる。筑後川のアオを取水してそれを用水に利用できる同河川沿岸の平野東南部地帯,また,山間部の各所に築造された溜池の水を利用し,嘉瀬川や城原川などの「山水(河川水)」を取水して利用する平野北部および河川流域地帯,そして,ちょうど両者にはさまれた地域にクリーク密度の高い地帯が広がっている。たとえば,嘉瀬川と城原川とにはさまれた巨勢地方(現佐賀市巨勢町)などでは,クリーク密度が17.1%にも達している。
 クリークの果している機能を大きく整理すれば,用水路(流れ堀)としての機能,排水路(落し堀)としての機能,貯水池(貯溜堀)としての機能ということができる。
表5 佐賀平野における水田灌漑種類別・耕耘手段別面積(昭和14年)
図2 クリーク面積密度等値線
クリークの有するかかる3者の機能が不可分に絡み合い,相互に働き合うことによって一つのシステムを形成し,水田一筆ごとの「個別的水利用」の自由度を高めているのである。
 しかし,先にみた地域によるクリーク密度の違いは,クリークの大きさや機能の違いとも密接に関連している。北部地方の溜池あるいは中小河川水を利用可能なクリーク密度7.5%以内の地域では,深いしかも幅員の大きなクリークを必要とせず,佐賀の堀(クリーク)としてほぼ平均的といわれる深さ1.5~1.8メートル,幅5~8メートル程度の大きさのクリークが多い。ここでのクリークは用水路,排水路としての機能を強く持ち,その形状も「条里制の影響などもあって比較的整理された10)」,整然とした区画のものが多いとされている。条里制遺構にもうかがわれるように,この地帯は平野部の中でも比較的早くから開発された地域でもある。
 クリーク密度が7.5%を越える平坦中央部は,近くに有効な用水源を持たない用水不足地帯でもあった。このため,この地帯では深くかつ幅員の大きなクリークが多い。たとえば『神埼郡村誌』の直鳥村の項に,「凡ソ堀ト称スルハ田水ヲ貯フルノ所ニシテ溜池ト功用ヲ同フスト雖モ堀低ク田高ク堀水ヲ直チニ田中に漑キ入ルゝヲ得ス人力ヲ以テ車ヲ蹴テ之ヲ田ニ上ス其堀小渠ヲ以テ流水ヲ引キ彼此相流通スルアリ水門井樋ヲ以テ相通スルアリ……概ネ水湛ヘテ流レサルモノゝ惣称トス11)」と説明されているが,この地域のクリークは貯水池としての機能をより強く持ったものとなっている。この付近一帯には,中世代の「環濠集落」の遺構が散見されるが,この地帯は中世から近世にかけた開発の拠点でもあった。
 筑後川のアオを取水可能な平野東南部一帯の地域では,月に2回(大潮,小潮)は必ず定期的にアオを取水することができる。このため,当地域のクリークは長期の貯溜を必要としていない。次期のアオ取水時までの用水をまかなえればよいのであるから,クリークの深さも幅員もそれほど大きなものを必要としないのである。ここではむしろ,取水したアオを各地区へ速やかに配水し,また上流地域の余水をいかに速やかに筑後川に落すかが問題となる。クリークはむしろ貯水池としてよりも,アオの導入路と余水の排水路としての機能を備えたものに重点がおかれている。「堀の入り組み方も又それほど複雑でなく,……堀というよりも用水路に近い形12)」のものとされているのである。
 このように,クリークはその地域の用水需給のバランスを考慮して,永い年月の経験の中から人為的に改廃修復されてきたものであることがわかる。クリークは利用しうる水資源の乏しさと,その乏しい水資源の多元的・重層的利用の必要という低平地水田のおかれた条件のもとで,その地域の実情に応じて配置されているのである。「平地におりた溜池」とも称されるゆえんであるが,クリークは,これまでにみてきたような用排水機能や貯溜機能はもとより,用水の反復利用や用排水の調整(ファームポンド)機能をも併せ持つという点で,溜池とは異なる役割を果している。
 ところで,「堀低ク田高ク堀水ヲ直チニ田中に漑キ入ルゝヲ得ス」というクリーク水利の宿命的条件のもとでは,水田灌漑のためには何らかの揚水作業を必要とする。現在では,パイプラインや灌水機(ポンプ)などによって圃場ごとへの機械灌漑が可能であるが,かつては踏車や汲桶などを使った人力による揚水労働を必要としていた。人力による揚水作業は揚程も揚水量も限られていることから,水田への灌水は炎天下の長時間にわたるきわめて苦汗的な労働であった。クリーク水利は,このように,クリークへの共同での「水囲い」(貯水)と個別の水田への揚水という,2つの側面をあわせ持ったものである。この両者のそれぞれの在り方が相互に絡み合い影響しながら,その時代における地域農業の生産力を規定していたのである。

 注
 1)内嶋善兵衛「水温環境からみた日本の農業気候区分」,農業技術研究所報告A第9号,1962年,17-19ページ。
 2)佐藤正一「九州の夏作期間の日照と気温」九州農業試験場研究資料第45号,1973年。
 3)中村哲『明治維新の基礎構造』未来社,1978年,124ページ。
 4)堀江英一「封建社会における資本の存在形態」『堀江英一著作集』第2巻,青木書店,1976年,154ページ。
 5)「前掲書」177ページ。
 6)『筑後川水系調査書』経済企画庁総合開発局国土調査課,1968年。
 7)「防災科学技術総合研究報告第16号 有明海北岸低地における水害防止に関する研究(最終報告)」国立防災科学技術センター,1969年,6ページ。
 8)「前掲書」6ページ。
 9)『佐賀県災異誌』佐賀県防災課,1964年には,おびただしい回数の高潮や冠水害の被害状況が記録されている。
 10)「クリークの農業生産に及ぼす影響調査」佐賀県,1969年。
 11)『千代田町誌』,1974年,付録,646ページ。
 12)「クリークの農業生産に及ぼす影響調査」。

Ⅲ 近世小農民経営の展開
 ―近世・封建農法の展開―

 一般に,わが国における小農経営成立の画期は,「中世的名主体制の混乱の中から小農民経営を広範に成立させ」た中世から近世への転換期であったとされている。太閤検地は隷農的作人層の広範な分立をみせた畿内先進地の動きを先取りしながら,「一地一作人」の原則をもって,これら作人層を貢租負担者としての本百姓層に措定したのである。
 本章では,近世大名領主権力によって措定された,かかる近世小農民経営の18世紀以降における展開過程を,技術と経営構造とのかかわりにおいて実態的に考察することを課題としている。近世末期として位置づけられる18世紀以降の展開過程は,佐賀平野における近世・封建農法の展開過程でもあり,この期の構造が明治維新以降の技術と経営の原型ともなり,その後の佐賀平坦農業の在り方を規定していると考えるからである。

1 晩稲の導入と二期作の成立
 18世紀以降における佐賀クリーク農業の展開の様相は,金肥の施用と多肥化,二期作1)の成立と水田二毛作,踏車の導入,馬耕の普及と周到化などの点において見出すことができる。これらの分析に入る前に,まず同地方における当時の,水田生産力の水準について確認しておこう。
 これまでに明らかにさらている史料から類推すれば2),同地方における平均的な水稲収量水準は,おおよそ反当2石2斗前後とすることができる。また,同時期の田作小麦の収量は平均反当1石2斗前後であった。
 このような米の収量は,当然,圃場ごとの土地条件の違いによって異なっていた。神埼郡渡瀬村「野口家日記」から整理した表6によれば,高い位置にある「高段」の田は概して水稲収量が高く,平均して2石4斗前後の収量水準を示している。これに対して,低い位置にある「低段」の田は1石6斗前後の収量水準にとどまっていた。位置の高い「高段」の田は大水時の冠水害からはまぬがれるとともに,乾きも早く多肥にも適合的である。
表6 土地条件別水稲反当収量の試算(嘉永~元治年間)
だが,前述したように「堀低ク田高ク堀水ヲ直チニ田中ニ灌キ入ルルヲ得ス人力ヲ以テ車ヲ蹴テ之ヲ田ニ上ス」という性格をもつクリーク農業においては,ひとたび旱魃になれば漏水のため莫大な揚水労働を必要とすることになる。踏車を2段,3段に継いで揚水をしても「草あらし,水あらしが是非もなく3)」,また,さらにその状態までをも越えて,「作否」(収穫皆無)となってしまう危険性がたえずつきまとっていた。
 位置の高い「高段」の田(=「乾田」)は水稲収量も高く裏作における制限も少ないが,このような揚水の厳しさを把えており,漏水の著しい「高段」の田は,大正期に至る頃まで一般に低い土地等級の水田として考えられていたのである(表6の土地等級の項を参照)。しかし,揚水に苦労するとはいえ,この期においてすでに「高段」の田(=「乾田」)ほど米の収量も高いという水田農業生産力展開における常則性が,野口家という1町1反前後の小農民経営のうちに見出されるという点は,注目すべきことといえよう。
 このような収量水準を支えた当時の栽培技術はどのような内容であったか。この点については,すでに山田4)によってその概要が明らかにされている。ここでは多肥化に関係する当時の肥料事情についてのみふれておきたい。
 山田は「川副郷目安」の考証によって,当時の「肥料としては水田には人糞尿単用であった」と推定している。しかし,上西村古賀恵兵衛「諸日記帳」によれば,当時すでに肥料はこれだけに限られるわけではない。表7に示されるように,同家の水田には稲作にも,中手(中稲),晩田(晩稲)の両方において,干鰯や?油粕などの金肥が施用されている。しかも,「一番こへ」「二番こへ」という稲作での分肥技術がすでにとり入れられていたのである。
 ちなみに,この「諸日記帳」に記されている天保8,9年(1837-38)の施肥量を窒素に換算して示せば,反当り中手(Ⅰ)4.8キログラム,中手(Ⅱ)4.2キログラム,晩田(Ⅰ)5.0キログラム,晩田(Ⅱ)8.4キログラムとなる。晩田(Ⅱ)の8.4キログラムは当時としてはきわめて過大であり,むしろこれは例外ではないかと思われる。日記に記されている当時の窒素施肥量水準は,平均して反当り中手(中稲)で4~5キログラム,晩田(晩稲)で5~6キログラムではなかったかと思われるのである。だがこの水準は,後述するように,大正初期頃における同地方の施肥量水準をやや下廻るほどの高水準であり,干鰯の分解の遅さなど肥料効率や質の問題などを考慮しても,当時の一般的水準よりはやや多肥ではなかったかと思われる。古賀家が佐賀藩(蓮池支藩)の家臣の身分であり,しかも同時に質屋(金融)や肥料の仲買をも兼ねていたという事情が,このような稲作での多肥化を可能としたものといえよう。
表7 古賀恵兵衛「諸日記帳」にみる水田農業生産力と肥料事情
しかし,この日記の中に,当時の佐賀平野における耐肥性多収品種の新たな導入による,稲作集約化への動きの一端をみることができる。同家の栽培する水稲品種には,「べにや(赤紅屋)や「み六」種など新進の耐肥性多収品種,さらに「江戸蔵」「大阪餅」「みかわ」など他地域から導入されたと推定される様々な新品種が見出されるのである。
 さて,先の「野口家日記」によれば,当時の水田農業は,水植やがたなどごく「低段」の田を除けばどの水田も中手(中稲)と晩田(晩稲)が交互に作付けられた二期作であった5)。嵐はこの二期作成立の要因について,「増収のためのより高能率的な晩稲の採用にあったが,それが同時に随伴的に田植時前後の労力(とくに揚水)の分散調整に著しく役立つことにもなって成立した6)」と推定している。このことは,同地方における三化メイ虫被害の初発期が18世紀頃からであるという,メイ虫被害の発生消長の側面からも肯定することができるという。佐賀平野の二期作が,「早稲や中稲に比べ……施肥量に対する応答力の高い7)」晩稲の採用を契機として,18世紀頃に成立したものであるという指摘は,この期の水田農業展開を考える上できわめて示唆的である。近世末期の佐賀平野において,「白とふかい」(白道海)などその後明治大正期頃までも栽培された晩生の多収品種が見出されることも,この間の事情を物語っているものと思われる。
 「早中稲―裏作(麦,菜種,蚕豆)―晩稲―休閑」という,いわゆる2年3作方式の二期作は,裏作率50~60%という数字でみれば水田二毛作の上で一定の限界を持ったものである。しかしながら,早中稲と晩稲の2つの作期に分けることによって,農繁期の労働ピークの分散をはかりうるだけではなく,作期を相互にズラすことによって裏作の導入をヨリ安定したものとしている。しかも休閑田はただ放置されていたわけではなく,馬犂による休閑耕(雑草のスキ込みと「乾土効果」)が行なわれ,春先にはクリークから汲み上げられた泥土が有力な地力維持源として施されていた。18世紀のクリーク地帯において稲作集約化の結果として成立した二期作は,このように作付順序,労働配分,地力維持などの点で,当時においてそれなりの合理性を持ったものともいうことができるのである。

2 「乾田化」の進展
 この期の水田開発の動向を整理したものが図3である。この図に示した神埼郡上西村は,「西野ヶ里」と呼ばれた条里制時代からの旧村が,元禄~宝永初期頃(1700年代)に分村してできた村である。同村の宝永6年(1709)における土地面積は,18町8反1畝12歩である。ところがこれよりおよそ160年ほど経た慶応元年(1865)における同村の面積は19町7畝21歩で,この間の土地面積増加はわずかに2反6畝9歩にとどまっている。
 佐賀藩の支配地は「半歩」の単位において面積が把握されており,土地の一筆一筆が,幕末期まで厳格に把握されていた。しかも地目の変化や作付不能地の発生までその都度藩役人(検見役人)の手によって査定され,その年ごとの面積が把握されていたのである。このような同藩における土地支配の実態からは,農民の隠田あるいは繩のびなどは,それほど期待されるものではなかったように推定される。佐賀藩の耕地開発の歴史は,有明海の干拓による新田開発の歴史が主流であって,すでに条理制以前に開発された旧村におけるこの期の開発面積は,実態としても図3に示される程度のわずかなものであったようにうかがわれる。
 さて,この面積変化の内訳をみると,まず田面積が8反4畝2歩ほど増加している。この動きは主に畠田,屋敷田,水植の増加によってもたらされたものである。
図3 水田開発の図式(上西村:宝永~慶応年間)
逆に,畠,屋敷,および竹畔,かや畔などはこの間に面積が減少している。すなわち,かや畔や竹畔が畠や畔にかわるとともに,畠や畔が水田として開かれ,またこの中で新畠が形成されている。一方,クリークと水田が接する堀岸に水植が形成され,また,明屋敷や屋敷が水田として開かれているのである。
 これらの動向は面積的には,わずかな動きであるとはいえ,この期の水田農業展開の様相を把握する上で重要な手掛りとなる。すなわち,第1に畠や畔,屋敷が田地として開かれたということは,この間にこれまで土地の位置が高く,また水掛りが悪くて揚水困難となっていた土地が,何らかの方法で水田として使用できる技術的条件が整ったということを示唆しており,この技術的条件の変化としては,後述するように,踏車の導入あるいは水田床じめ作業の周到化など馬耕の進展が想定される。
 第2の点は,このような結果,同地方の水田全体において「乾田化」が進められたということである。
 かかる「乾田化」の進展をより詳しく検討するために掲げたものが表8である。同表は宝永期と慶応期について,「年々(季)否地8)」の全水田面積に占める割合を,それぞれの地目等級について計算して示した表である。ここで「年々(季)否地」というのは何らかの原因による作付不能によって年貢を免除された土地のことである。佐賀平野においてこのような「年々(季)否地」が頻発する要因として,道路や水路の拡張による遣れ地の発生,あるいは洪水や旱魃などによる作付不能地の発生などもあるが,その多くの要因は「クエトウ」(水田のクリークへの崩落)の発生であり,これによってクリークへズリ落ちた水田部分が作付不能となってしまう場合である。モンモリロナイト系粘土鉱物を多量に含有する重粘肥沃な海成沖積土である佐賀平野の水田土壤は,乾燥によって縦に亀裂が生じ易く,とりわけ乾田化の進んだ水田においては,この亀裂の生成が著しいとされている。「クエトウ」とは降水や灌漑水がこの亀裂の中に浸入することによって,水田の縁が亀裂の線に沿ってクリークの中へズリ落ちてしまう現象のことである。「クエトウ」の発生は,当然に裏作時の乾燥を経た春先に多いが,この結果は崩落した部分における水稲の作付けを不能とするだけでなく,その完全な修復には数年を要する場合もあり,また,修復不可能な場合もある。
 表8によって「年々(季)否地」の面積割合をみると,宝永期には耕地全体のわずか0.8%(1反4畝21歩,61ヵ所)にすぎなかったものが,慶応期においては3.3%(6反3畝17歩,200ヵ所)と大きく増加している。しかも地目別の内訳でみると,かかる「否地」がほとんど田地において発生しており,また田地の中でも屋敷田や畠田などの新開田だけでなく,上田から6下田までの既成水田においても頻繁に発生していることがわかる。
表8 年々(季)否地の面積とその割合
このような「年々(季)否地」発生の大きな要因は,先述したように「クエトウ」の頻発によるものであるが,かかる「クエトウ」の頻発こそ,これらの土地が当時「乾田」的な集約利用のもとにおかれていたことを如実に物語っている。強湿田的な水田土壤の状況下では,「クエトウ」は発生しないのである。
 さて,水植とは別名「ひらき」「さがり田」とも呼ばれ,クリーク岸に沿って細長く開かれた一段低い田地のことである。これは水田がクリークへ崩落した結果できたものとも言われているが,逆に水田の崩落を防ぐためにつくられたものとも言われている9)。水植は宝永期においては全く把握されていないが,慶応期に至ると2反4畝9歩,48筆が把握されている(図3)。この間のかかる水植の増加は,この期の「クエトウ」の頻発とも関連している。すなわち「クエトウ」の発生により崩落した水田が一部そのまま修復されずに水植となるとともに,このような「クエトウ」をあらかじめ防止するために水植がつくられたということである。しかし,いずれにしても水植が耕地として把握されるためには,水稲作付時におけるクリーク水位の低下が前提とされることは言うまでもないところであろう。このように「クエトウ」の頻発と「水植」の形成とは相互に関連したものであり,これはまた,佐賀平野における「乾田」化の動向とも密接にかかわっているということである。
 ところで,「年々(季)否地」の発生が,この間に下々田から6下田までの下位等級水田において多発している点が注目されるころである。このような下々田から6下田まで,あるいは畠田や屋敷田などにおける「年々(季)否地」の増加は,この間に,これらの等級の水田をも包含した田地全体(前掲表6における,ごく低段の「がた」や「水植」を除く)において「乾田化」が進展し,水田二毛作(二期作)の体系の中に組み入れられたことを物語っている。

3 踏車の導入と馬耕の周到化
 佐賀平野において,最初に踏車が導入された時期は安永年間(1770年代)10)とされている。それまでの汲桶による揚水から,このような踏車の導入という揚水手段の変革が,きわめて過重な揚水労働を大幅に軽減した点についてはいうまでもないところであろう。
 汲桶による揚水労働のありさまについては,すでに『農業全書』農事図11)や『地方凡例録12)』などにおいて詳しく図示され説明されている。しかし,この汲桶揚水段階における用水の方法は,これらの農事図や文章に示されているような,2尺あるいは丈もの落差をもって堀水を汲む姿とは考え難い。たしかに旱魃時や少雨年などではかかる過重な労働が強制されたであろうが,通常はむしろ梅雨期の雨でできるだけ堀(クリーク)を満杯にして,この水位を利用して[・・・・・・・]田に水を流入させ,あるいは汲桶などでかき込むようにして[・・・・・・・・・]田に水を入れるという方法が,当時の用水労働の一般的な姿ではなかっただろうか。旱魃時などにおける災天下の苦汗的労働,さらには水稲の「枯死」という事態を避けるための最良の対応策は,できる限り堀(クリーク)水を満水に保つことであったと思われるのである。「まだ水かこい[・・・・]無之候得供右之通大雨ニ而朝食後ヨリ洪水に成……13)」(傍点筆者)といわれるクリークへの営々たる「水囲い」が,地域の農業を維持する上で決定的な意義を有していたのである。
 だが,クリークをたえず満杯にしておくということは,逆にわずかな降雨でも水があふれて冠水害を引き起こす人為的要因ともなり,また,水田の湿田状態を恒常化することにもなる。佐賀平野における汲桶から踏車への揚水手段の変化は,揚水労働の能率化を通じて,〔クリーク水面≒田水面〕という関係を絶対的成立条件としていたそれまでの「湿田的水田農業」の段階から,わずかではあるがクリーク水位の変動を許容しうる「半湿田的水田農業」の段階への転換の契機ともなったということができるのである。
 次に,当時佐賀平野で普及していた馬耕と「乾田化」との関係について検討してみよう。
 佐賀平野において,近世初期には,おそらく隷農主的経営をも含む上層の農家だけに飼養されていたと思われる作馬も,幕末期に至ると1町前後の小農民経営にまで飼養され,馬耕が行なわれていた。「安政7年(1860)神埼郡上西村当宗門人改差出張」によれば,作馬は耕作面積1町2反ほどの経営にまで飼養されており,さらに「モヤイ馬14)」の形態で耕作面積5~7反ほどの農家層にまで導入されている。この期の上西村における作馬1頭当りの平均耕作面積を計算すれば,およそ2町1反ほどとなる。
 ちなみに『昭和2年佐賀県統計書』によれば,同年における佐賀県の水田面積は5万3千618町5反歩,これに対する作馬の飼養頭数は1万8千640頭である。作馬1頭当りの平均水田面積を算出すれば,およそ2町9反ほどとなる。この期の上西村では,すでに昭和初期の佐賀県平均にくらべても,密度の高い作馬飼養の事実が確認できるのである。
 かかる作馬による犂耕の作業手順については,山田の「川副郷目安」の考証によって,すでにその詳細が明らかにされているところであり,この期水田二毛作(二期作)の耕耘整地における能率的な畜力一貫作業体系が確立していたことが確認されている。
 この場合特筆されることは,すでに当時,ハエ犂,クレガエシ犂,水田犂という3種に分化した「中床犂体系15)」の存在が推定されることである。ハエ犂およびクレガエシ犂は乾田耕起・作畦用の犂,水田犂は代かき時における床締め用の犂であるが,「長床犂から……分化発達[・・・・]した16)」(傍点筆者)とされる機能的な「中床犂体系」による馬耕が,この期すでに普及・定着していたということである。このうち,中代用に特化した水田犂による水田床じめ作業の精緻化こそ,踏車による揚水労働と相俟って,この期の佐賀クリーク農業における「乾田化」の進展において,もう一つの重要な契機となっているということができる。すなわち,水田犂による水田床じめ作業の精緻化は,水田の「保水=湛水機能17)」を高めることによって旱魃時などにおける水制御の可能性を拡大するものであり,この結果は,「高段」の畔・畠などの開田を可能としただけではなく,田地全体においてもわずかながらもクリーク水位の変動を許容した,「半湿田的水田農業」の展開における重要な契機となったということである。
表9 幕末期上西村の階層構成
 さて,このような馬耕の普及と定着は佐賀藩の勧農政策によるところも大きいが,より重要なことは,この期すでに作馬を飼養しうる飼料自給の可能性が,小農民経営の側においても与えられていたということである。クリーク水田農業地帯における「〔粗飼料(稲ワラの)→稲作〕+〔濃厚飼料(裸麦《大麦》など→麦作〕の米麦二毛作《二期作》18)」(二重カッコ内は筆者)の進展によって,耕作面積1町2反ほどの経営においても,自家飯米(麦)の他に作馬飼養の濃厚飼料や粗飼料などの自給が可能であったということがいえる。堤塘や畦などの生草を刈り,米糠や豆幹などを与え,また農閑期(夏期)の「預り馬」の制度があったとはいえ,農家として飼養しうる飼料自給の限界規模にまで,すでにこの期において作馬が導入されていたということである。
 ところで,当時の佐賀平野の農業が,一般に家族労働を主体としながらも,上層農家では年季奉公人を雇用した,いわゆる「年雇経営」であったことについては,すでに山田らによって明らかにされているところである。上西村における年季奉公人(年雇)は,耕作面積2町5反以上の経営で2人,1町5反以上の経営で1人雇われている。この他に百姓万助や菜種の搾油業を営む末次忠助の家では,月に15日ないし20日の年季奉公人(日限奉公人)を雇っていた。クリーク農業における入念精緻な馬耕労働の必要などが,耕作面積1町5反以上の経営において,家族労働力の他にもかような年季奉公人(年雇)の存在を不可欠なものとしていた。
 このうち,馬使い年雇(「荒使子」)など水田農業の基幹労働にたずさわる年季奉公人(年雇)の給米(銀)の高は,平均して年間米5石4斗前後というきわめて高い水準のものであった。当時最も商品生産農業の進んでいた「畿内農業」において,農家の年季奉公人の給銀の高は米に換算してせいぜい年間2~3石ほどであり,農村加工業にたずさわる「日割雇」の給銀の水準でさえ年間米5石程度であったことを考えれば,この5石4斗という給米の高がいかに高水準のものであったかが理解されよう。かかる給米の水準こそ,当時の水田農業において馬耕がいかに重要視されていたかを物語るものである。
 しかもこの期すでに年季奉公人の使用において,契約に基づく労働日の計算が厳密に行なわれていた。欠勤日は「煩日」として,また,超過勤務日は「詰越」として,「をろし」という1日の分の1の労働時間単位で把握されており,それぞれの出不足に応じて1日当りの代米(銀)が計算され支払われていたのである。
 このように,この期の佐賀平野において,すでに馬耕を主軸とした農業労働の機能的分化および社会的分化が進展していたという点が注目されるのである。

4 近世農法の展開と担い手層
 山田は,この期の佐賀平野の「クリーク農法」(封建的クリーク農法)を総括して,「一種の労働肥料ともいうべき泥土をもって地力維持をなし,揚水と馬耕に多量の労働を投入するところのクリーク農法は,結果としては……二期作農業としてあらわれる19)」としている。しかし,佐賀平野の二期作が「早稲や中稲に比べ……施肥量に対する応答力の高い」晩稲の導入を契機として18世紀頃に成立したという嵐の指摘は,この期のクリーク農業の展開を考える上できわめて重要である。前述した古賀恵兵衛「諸日記帳」にみられる,金肥の施用と多肥化,新たな晩稲種の導入という動きこそ,この期の水田農業集約化の主要な側面であり,二期作はこの集約化
の結果として[・・・・・],佐賀平野における水田農業展開の一階梯として成立した方式であると考えられるのである。
 踏車は,まさにこの〔多肥化→晩稲種の導入〕という稲作集約化を保障する「乾田化」の要求に答えて,新しい技術革新の旗頭として導入されたものともいうことができよう。踏車の導入は,二期作をも止揚して晩稲一期作に進ませるほどの変革には至らなか的たとはいえ,それまでの汲桶による「湿田的水田農業」の段階から,わずかながらもクリーク水位の変動を許容しうる「半湿田的水田農業」の段階への一つの契機となり,同地方における稲作集約化と水田二毛作(二期作)の安定化に大きく寄与することになった。
 また,ハエ犂,クレガエシ犂,水田犂の3種に分化した「中床犂体系」による馬耕の周到化,とりわけ水田犂による水田床締め作業の精緻化は,このような踏車の導入と相俟って,同地方における「乾田化」におけるもう一つの重要な契機となり,水田二毛作(二期作)の安定的発展をもたらした。すなわち,踏車の導入は,揚水労働の能率化を通じて水と土地の客体的な基盤条件の改善の側面から,また,水田犂による床じめ作業など「中床犂体系」による馬耕の周到化は,労働の主体的契機としての側面から,この期の「乾田化」の進展を保障するものであり,これによって稲作の集約化と水田二毛作の安定化に寄与したということである。この結果は,水植やがた[・・]などごく「低段」の田を除けば,すべての田地における二毛作(二期作)の成立を可能とし,一定の限界内ではあれ,同地方における水田二毛作(二期作)の安定的発展に寄与したということができるのである。
 以上のように,近世末期の佐賀平野において,「多肥化→晩稲の導入と二期作の成立→踏車の導入→馬耕の普及と周到化(犂の分化)」といった,「乾田化」を軸とした水田二毛作(二期作)における一連の集約化の過程をみることができる。しかもこの過程が,作馬と犂(数種)と踏車という多くの固定資本を有し,一部は年季奉公人(年雇)に依存しながらも家族労働力を主体とした,小農民経営(1~2町層)の広範な「自立」と「前進」の技術的基礎として進展したという点が特筆されるところである。

 注
 1)ここでいう二期作とは,高知などで行なわれている同じ圃場での1年2回作をいうのではなく,持田の半公に早中稲(中手)を植え,他の半公には晩稲(晩田)を植えて〈早中稲→裏作→晩稲→休閑〉と交互に繰り返す,いわゆる2年3作型の作付け方式のことをいう。なお,早中稲には元来純粋の「早稲」とそのほかに「中田」「中手」があったが,早稲の晩稲化が進んで,幕末にはしだいに中稲(「中手」)が優勢になった。また晩稲は「晩田」とよばれていた。
 2)神埼郡渡瀬村「野口家日記」(『日本農書全集第11巻』農山漁村文化協会,1979年)によれば,同家の幕末期16年間の平均水稲反収は2石2斗4升,また,「川副郷目安」による川副東郷における安政4年(1857)の水稲反収は2石1斗4升であったが,さらに同時期の杵島郡竜王村(白石平坦)岩渕家の平均水稲反収は,2石4斗前後,神埼郡上西村古賀家「諸日記帳」に記された天保8年(1837)の水稲反収は中稲(中手)3石,晩稲(晩田)2石7斗,唐干(赤米)2石1斗(表7参照)であった。
 3)「野口家日記」(前掲書)277ページ。
 4)山田龍雄「佐賀平野における幕末期の農業技術」『農業経済研究』Vol.28,No.1.1956年。
 5)拙稿「近世末期佐賀農業経営の展開」(『九州農業試験場農業経営部研究資料』No.8,1979年,98ページ)参照。
 6)嵐嘉一「佐賀平野における所謂『2期作』稲作事情」『日本作物学会九州支部会報』No.34,1970年,28ページ。
 7)同氏『近世稲作技術史」,農山漁村文化協会,1975年,280ページ。
 8)「年々否地」というのは年貢の全免が連年に及ぶ土地,また「年季否地」というのはこの全免が3年で解除になる土地のことである。詳しくは拙稿,「前掲論文」,16-18ページを.参照。
 9)このような水植がつくられた理由の一つとして,「地盤が軟弱のため……(クリーク)岸がくづれるので二段岸をつくり,そこを低田に利用した」とされている『千代田町誌』,1974年,15ページ。
 10)三好嘉子『野田家日記』,西日本文化協会,1974年,15ページ。
 11)宮崎安貞「農業全書巻1~5」(『日本農書全集第12巻』農山漁村文化協会,1978年),39ページ。
 12)大石久敬(大石慎三郎校訂)『地方凡例録下巻』近藤出版社,1969年,227ページ。
 13)「野口家日記」(前掲書)245ページ。
 14)作馬の共同所有のこと,佐賀平野では独立して作馬を飼養しえない農家が共同(2~3戸)して作馬を飼養する慣行が当時から行なわれていた。
 15)田中洋介「クリーク農業の展開過程」(農業経営構造問題研究会『農業経営の歴史的課題』農山漁村文化協会,1978年,第Ⅱ篇第6章)127ページ。
 16)嵐嘉一『犂耕の発達史―近代農法の端緒―』,農山漁村文化協会,1977年,165ページ。
 17)田中洋介,「前掲論文」,農山漁村文化協会,125ページ。
 18)三好正喜「近代日本農業生産力の展開について―比較農法論序説―」『日本史研究』Vol.180,1977年8月,45ページ。
 19)山田龍雄・大田遼一郎,『前掲書』。
Ⅳ いわゆる「佐賀段階」と小農経営
 ―近代農法の形成と展開―

 ここでは明治維新以降の近代社会(資本制社会)における,主に明治後半期から昭和戦前期にいたる小農経営展開の態様について考察する。とくに大正期から昭和10年代にいたるいわゆる「佐賀段階」の形成期こそ,幕末期に原型づけられた近代農法の確立の過程でもあり,同時にそれは,戦後農法の端緒でもあると考えられることから,この期の構造については重視して分析する。
 なお,この時代における佐賀平担農業の経営構造の分析については,すでに山田1)らの詳細な業績があり,稲作技術の面からの分析としては嵐2),農耕体系の面からは田中2)の業績がある。また,「佐賀段階」論については,周知のように山田4),田中3),磯辺6),鎌形7)らの部厚い研究の蓄積をもっている。したがって,この章ではこれら先学のすぐれた諸業績に依存しながら,この期における経営構造の展開過程について整理し,その中で若干の私見を述べていきたい。

1 稲作生産力の展開と多肥化の進展
 幕末期段階において水稲反収2石2斗(330キログラム)水準を達成した佐賀平野の水田農業は,その後いくつかの曲折を経ながらも,昭和10年代にいたり反収3石(450キログラム)水準へと到達する。明治中期より昭和初期にいたる市郡別水稲反当収量の推移を示した図4によれば,この間の水稲収量には2つの大きな上昇期があったことを示している。1つは明治30年代後半期の山であり,2つは昭和10年前後の山である。
 嵐はこの第1の山について,「わが国暖地の稲作にとってはいろいろの意味で重要なエポックを画した一時期8)」であったと評価している。それはこの時代を境にして,それまでの山野草(刈敷),〓肥,糞尿などの自給肥料の上に魚肥,油粕などを加えた自給基調の肥料体系から,大豆粕などを中心とした購入肥料中心体系の時代に突入したこと,そのような多肥化の上に,それまでの長稈穂重型[・・・・・]中(晩)稲から短稈穂数型[・・・・・]晩稲への移行が行なわれたことに大きく注目したものである。
 表10は,明治末期より昭和10年代にいたる佐賀県の肥料消費状況について整理して示したものである。堆〓肥や人糞尿など自給肥料の上に,明治後期からはそれまでの金肥としての魚肥にかわって,大豆粕が大量に導入されている。また,大正期には過燐酸石灰,昭和期からは硫安などの無機質肥料が除々に増加し,さらに昭和8年からは各種の配合肥料が急増している。
図4 市郡別水稲収量の推移と反当肥料(窒素)消費量
魚肥・油粕→大豆粕(有機質肥料)→過燐酸石灰・硫安(無機質肥料)→配合肥料といった購入肥料の流れからみれば,まさに明治期はそのような流れの起点ともいうことができよう。しかし,表10から計算した反当肥料(窒素分)消費量のうち,購入肥料分の割合が5割を越える時期は大正末期であり,また,先述したように,魚肥の導入は幕末期においてすでに行なわれていた。したがって厳密にいえば,佐賀平野において購入肥料が使用され始める起点は近世末期ということであり,また,購入肥料基調の肥料体系への転換は大正末期の電気灌漑以降のことということになろう。
 むしろこの時代における稲作改良上の重要な意義は,それまでの長稈穂重型中(晩)稲から短稈穂数型晩稲への移行が行なわれたことであろう。表11は明治末期より昭和10年代までの水稲品種の変遷(作付割合)について整理して示した表である。明治~大正初期に主座を占めていた神力は,「その多蘖性によって1株苗数こそはやや少なくされたものの,1坪株数はかえって増加した条件下でうまく適応し,当時の増肥傾向ともあいまって,ますますその性能をあげることができた9)」と説明されているように,多肥密植に適応した短稈穂数型の晩稲であった。佐賀平野では,以後,神力→神力2号→神山・神徳へとますます多肥密植に適応力の高いより短稈穂数型晩生種の導入が行なわれ,いっそうの多肥化と収量増加をもたらすのである。
表10 各種肥料消費状況
 嵐は,このような明治後半期における多肥密植化と穂数型品種との適応関係は,戦後の昭和30年代以降におけるいわゆる「新佐賀段階」の場合とも全く類似的である点を指摘している。すなわち昭和30年代には「今まで以上に短稈多蘖の穂数型品種が育成,進展をみた(が)……これらの品種はホウヨクを盟主とする超穂数型グループであった。これにより……本田坪当り穂数は一気に大幅に増大し,しかも病虫害に対する強力な防除施策をも伴って稔実も充使確保され,その結果著しく収量を高めた。この増収メカニズムは,かつて明治後期に神力によって果たされたことと全く類似的であると思う10)」(カッコ内筆者)と述べている。明治後期の反収急増の山は,このように,多肥密植化と短稈穂数型品種との適応関係という,その後の暖地稲作における増収メカニズムの起点としての意義を有していたということである。
 明治前半期における稲作収量の統計を,どの程度の信頼性において読むかは別として,このような明治後期における稲作改良が,佐賀平担農業の水稲収量を,平均して反当2石4斗(360キログラム)前後の水準にまで押し上げたという点はたしかであろう。
表11 水稲品種の変遷
もっとも『明治21年佐賀県農事調査11)』によれば,当時の水稲市郡別平均反収は佐賀市で2石5斗(375キログラム),佐賀郡で2石3斗9升(358キログラム),県平均(佐賀市外10郡の単純平均)で1石7斗7升(266キログラム)であった。また,この期の平均反当施肥量を試算すれば,窒素分で佐賀市4.5キログラム,佐賀郡6.7キログラム,県平均(11市郡の単純平均)4.4キログラムと計算される。前掲図4においては,鎌形が計算した佐賀県の反当肥料消費量(窒素分のみ)の推移をもあわせて掲げているが,この図における明治末期の反当肥料(窒素分)消費量4.1キログラムの水準は,原資料の違いや肥料効率の問題を勘案したとしても,前章で明らかにした幕末期の施肥量水準および明治20年代の施肥量水準に比べて,そう著しい多肥でないことは明らかであろう。
 さらに,図5および図6は佐賀県と佐賀郡の分について,水稲収量の推移を実収値の変動とあわせて示したものである。両図ともに大正中期以降にいたり高位安定化するが,それ以前にはかなりの変動の幅をみせている。しかも佐賀郡では明治末期から大正初期にかけては反収が一時停滞している。明治後半期の稲作改良が,このような変動の幅を縮小しうる性格のものではなかった点を両図は物語っているのである。
 ところで,佐賀県の明治維新以降における農事改良は,明治14年の農談会の開催を皮切りに,明治17年の種子交換会,20年の品評会,21年の試験田事業,あるいは競犂会などを経て,明治37年にいたり7大要項(病虫害の防除,苗の改良,品種の統一,施肥の改善,種子の塩水選,稲正条植え,深耕の奨励)の米麦作指導方針が打ち出されてくる12)。この間,明治32年には農会法が制定され各段階の農会が組織されるが,以後,これらの農会の系統を通じて各種の農事指導が行なわれ,肥料の共同購入などが行なわれている。前掲図4に示された明治後期の第1の山は,そのような農事改良のひとつの結実を示したものともいえよう。しかし,この山は近世末期以来の技術構造の,体系としての変革によってもたらされたものではなく,むしろそのような技術構造をベースとして,その上に多肥密植化と品種改良によってもたらされた山であるということができる。梶井は明治中後期における「稲田一反歩収支」(斉藤万吉調査)の検討によって,「関西」の反収の高さをもたらしたものは「肥料の多投」と「労働多投による集約管理」であったと結論13)づけている。この期の生産力展開が「乾田馬耕にしめされる労働生産性追求の方向と,その他の労働集約的土地生産性追求の方向とが,ひとつの体系として不可分にむすびついたものではなかった14)」という点を明らかにしているのである。佐賀平野においても,この期の展開が踏車揚水と二期作,中床犂体系による馬耕など近世末期の基盤条件と技術構造の上にのったものであり,しかも畿内地方などに比べれば,多肥化についてある程度限界づけられていたということができる。
 さて,第2の山は,昭和10年前後における反収上昇の動きである。しかもこの反収上昇が,前掲図4に示されているように,白石平担(杵島郡)のような水不足=低湿田地帯において,より顕著であった点が注目されるところである。
 結論から先にいえば,この期の反収上昇は,機械灌漑を契機とした「乾田化」の進展と,晩稲一期作への転換など米麦二毛作の確立を背景としたものであり,いっそうの多肥密植化と穂数型晩稲(神山・神徳)の導入によってもたらされたものである。
図5 佐賀県における水稲収量の推移
図6 佐賀郡における水稲収量の推移
大正期から除々に無機質肥料の購入が行なわれ,昭和期からはそれまでの有機質肥料に量的にも逆転(前掲表10)するが,さらに昭和6年からは,各市町村の土壤と土地条件に合わせた肥料配合箋事業が着手されてくる。このような動きを背景として,昭和10年代にいたり多肥化がいっそう進展したことが確認されるのである(前掲図4)。また稲の品種についても,神山よりいっそう穂数型で晩熟の神山・神徳が全作付面積の6割近くを占めている(前掲表11)。
 昭和8年において全体の8割以上を占めるかかる晩稲種の進出は,いうまでもなく大正12年の晩稲一期作への統一の結果である。これは,後述するように,二期作に宿命的な三化メイ虫被害からの回避と,肥料応答力の高い晩稲の全面進出を目的としたものであった。この結果が先の反収上昇をもたらした点についてはすでに記述した。しかし,嵐はこのような稲多植期の引下げが,稲の生育期間をずらせることによって,三化メイ虫に対しては効果があったものの,「暖地(とくに九州,四国,中国)では二化メイ虫の脅威からはなお免れることができず15)」,このため「九州では田植期がその極限にまで繰下げられ,熟期のぎりぎりの限界にまで晩稲が進出する結果となった16)」と述べている。「繰下げられた高温下のおそい田植条件下では,当時の前期肥効型施肥法ともからんで,中間追肥の過効が無期分蘗期にまで及びがちとなり,稲の栄養体部の急激な過剰生育と軟弱化をきたして倒伏の遠因となり,さらに晩稲では,出穂直後の登熟需要期が日照の乏しい谷間にはまることとなり,充分な稔実をあげることがむずかしくなった17)」と分析しているのである。
 なお,かような稲作技術上の問題は,戦後の昭和30年代にいたって少しずつ克服されることになる。いわゆる「新佐賀段階」と呼ばれるこの時期において,著しい多肥密植化,晩稲→中稲への転化,いくらかの田植期の早化(メイ虫などの病虫害防除の進出と水田裏作の大幅な後退とが関連したが),後期肥効型施肥法の採用,無効分蘖期の肥料過効の抑制などの技術改良18)が行なわれ,稲作収量をさらに新しいステップへと押し上げるのである。もっとも,戦後30年代以降のこのような一連の稲作技術の改良も,基本的には昭和戦前期を原型とした土地基盤と技術構造の上に行なわれたという点が見落とされてはならないところであろう。

2 機械灌漑の実施と米麦二毛作の確立
 大正期以降の佐賀平野の水田農業に新しい展開の一大契機を与えたものは,大正11年にはじまる機械灌漑の実施19)と,大正12年の稲移植期引下げ20)である。機械灌漑による揚水労働の省力化は,後述するように,北九州労働市場の展開に触発された農業者の急激な流出と,当時の米価の高騰などを背景として取り組まれたものである。同時に,かかる改良が大正初期頃より除々に普及・定着してくる諸々の稲作技術改良の,当然の帰結として希求されていたものでもあったことはいうまでもない。
機械灌漑の実施は,それまで平均して反当7日の労力を要していた炎天下の苦汗的な揚水労働を軽減し,メイ虫被害からの脱却を目的とした二期作解消への道を開くとともに,後述するように,改良短床犂の定着や「乾田化」の進展の契機ともなり,いわゆる「佐賀段階」形成の大きな推進力となった。
 米反当所要労働の推移を示した表12によれば,明治中期以降およそ25日前後で停滞していた稲作反当労働日は,機械灌漑実施後の昭和期にいたってほぼ18日前後へと減少している。この減少の最も大きな要因が灌(排)水作業の機械化による揚水労働の軽減であったことは明らかであろう。
 さらに,このような揚水作業の機械化は,揚水労働そのものを大幅に軽減しただけでなく,クリーク水面との落差を問題にしなくなったという点においても画期的な意義を有していた。踏車の最大揚程はおよそ50センチであるから,これを越えるクリーク水面と田面との落差は,踏車を2段以上に継いだ揚水労働を農民に強いることになる。したがって,踏車を2段以上に継いだ過重な揚水労働の負担を避けるためには,できるだけこの落差を30センチ程度に止めておく必要がある。このためには,たえずクリーク水位の変動に注意をむけた,きわめて集約的なクリーク水管理が必要となる。クリーク水位を上げすぎれば,大雨時にはたちまち溢流して水田冠水の要因となり,また地下水位の上昇が水田の過湿を余儀なくさせる。一方,クリーク水位を下げすぎれば,旱魃時には莫大な揚水労働を必要とすることになる。機械灌漑の実施は,揚程の問題を無視しうる条件をつくり出したことによって,このような問題に対しても大幅な改善をもたらすことになった。すなわち,一方では地下水位を下げ,水田冠水を回避しうる可能性を拡大するとともに,他方では,圃場レベルの任意の水管理と,西南暖地に特有な8月の旱魃期を切り抜ける可能性を拡大したという点において,水田農業における「乾田化」の進展と「人為的水制御」の拡大への大きな前進の契機となったのである。
 ところで,大正期以降における佐賀平野の農事改良の動向を概観すれば,大正3年に県立農事試験場が設立され品種改良などの研究が始まるが,大正8年頃からは徐々に優良品種が普及に移されてくる。さらに,同年より県下の施肥標準調査の事業が始められ,昭和6年にいたるとそれぞれの町村の土壤や土地条件に見合った肥料配合箋決定事業21)が進められてくる。先に明治37年に告諭された7大要項のうち,正条植えやうすまき苗代なども,大正期にいたってその普及面積を大幅にのばしている。さらに農機具についてみると,田打車が最初に導入されたのは大正初年頃より,足踏脱穀機については明治末期から大正2年頃にかけてである。しかし,これらが平野全域に一般に普及するのは,機械灌漑実施後の大正末期から昭和初年にかけてのこととされている22)。
表12 米反当所要労働の推移
また,石油発動機,揚水ポンプ,動力脱穀機などの導入は昭和初年頃からであるが,それらが一般に普及してくるのも昭和10年以降である。
 これらの農事改良は,一方で苗代や田植労働の集約化をもたらしたが,他方では除草・施肥,刈取・脱穀労働などを軽減し,さらに前掲図5および図6にみられるような稲作収量の安定化(収量の年次変動幅の縮小)に大きく寄与したものといえる。しかしなおこれらの農事改良も,揚水労働の過重性に規制されて,二期作の解消を可能とするまでにはいたらなかったのである。
 水田の2年3作方式としての二期作は,労働配分の上でも,また作付順序や地力維持の上からも,それなりに合理性をもったものでもあった。たとえば図7は,鎌形が作成した稲移植期引下げ前の農家労力分配図である。ここでは春秋に若干のピークが認められるものの,二期作が年間の労働配分の上でそれなりの合理性をもった体系であることを示している。しかし,このように評価される二期作も,三化メイ虫に対しては宿命的ともいえる弱点を蔵していた。嵐によれば,三化メイ虫の被害は「稲の作季との間にきわめて密接な関連をもっており23)」,それは「とくに早い田植期の早稲のなかに中晩稲が加わることによって,第3化期の決定的被害としてあらわる24)」とされている。すなわち二期作においては,早稲に寄生して増殖した三化メイ虫が中晩稲に集中し,中晩稲の被害をより激甚なものとするのである。早稲に比べて肥料応答力の高い(したがって多収の)中晩稲に決定的な打撃を与えるという点で,三化メイ虫は暖地稲作(二期作)の発展にとっての大きなネックであった。しかも,購入肥料の比重が高まり(多肥化),諸々の農事改良が行なわれ,新たな多収品種(短稈穂数型晩稲)の導入が行なわれてくれば,それだけこのような弱点が露呈してくることになる。もはや,かかる宿命的弱点を克服するためには早稲早植栽培を打切り,この虫のライフサイクルを断ち切るしかなかったのである。稲移植期引下げによる晩稲一期作への転換は,このような宿命的弱点を克服することを第1の目的として実行されたものである。
 さて,機械灌漑の実施とそれによる「乾田化」の一定の進展は,当然に耕耘・整地労働の変革をもたらした。それまでの中床犂体系(ハエ犂,クレガエシ犂,水田犂)にかわって改良短床犂(現地ではモツタテ犂と称した)が普及,定着するとともに,馬耕の能率化と簡略化が行なわれた。表13は従来の中床犂にかわって改良短床犂が導入された場合の春期耕耘整地反当労働日数の変化を示したものである。ここでは従来の揚水と土地条件のもとでの比較であるが,それでも荒田おこし(ねりわり,すきあげ)における改良短床犂の能率の高さを示している。改良短床犂は,大正初年頃から散発的に導入されており,大正10年頃にはかなり一般化したとされるが,この改良短床犂の優位性を引き出させるためにも,機械灌漑の実施が望まれたものと考えられる。さらに,表14は機械灌漑実施後の,春期耕耘整地反当労働の減少を示したものである。
図7 稲移植期引き下げ前農家労力配分
ここでは反当2日の減少にモードがあるが,このような減少の主要因が,揚水作業の動力化によってはじめて可能となった,水どめ,中すきなど水保持=床締め作業の簡略化によるものであることは明らかであろう。すなわち機械灌漑はそれまでの入念精緻な水止め作業の簡略化や,他方では深耕ならびに耕耘・整地畦立て作業の能率化など改良短床犂のもつ優位性をより大きく発揮させる契機となり,その後の米麦二毛作確立の大きな推進力となったのである。
 しかし,磯辺25)によれば,機械灌漑の実施と稲移植期引下げは,新たに次のような3つの課題を顕在化させたといわれている。1つは,晩稲一期作によって打ち崩された従来の労働体系のバランスをいかに再建するか。2つは,水利体系の変更にともなう灌排水の処理(用排水体系の不均衡化の処理)をどうするか,3つは,裏作拡大の課題である。
 まず第1の課題は,稲移植期引下げが従来の農業経営における労働配分のバランスを大きく崩し,春・秋作業のピークをより鋭く拡大したという点である。鎌形によれば,この点は「稲刈時期が移植期引下げのためにおくれ,且つそれに引きつづく稲の脱穀作業に今までより一層一時的な労力需要が集中し,之が麦の播種労力と競合した……,春季における麦の刈取脱穀作業が従来二回行なう田植作業の中間にあって,そのために約二ヶ月にわたっていた春季農繁期間(5月10日~7月10日)が,移植期引下げにより遙かに短かい期間(5月27日~7月10日)にまで圧縮された26)」と分析されている。かかる課題に対しては,以下の2つの側面から取り組まれることになった。1つは労働のピーク時(なかんずく春季)における臨時雇の大量雇用であり,2つは農作業における動力機械の導入である。
表13 電気灌漑前春期耕耘整地反当労働日数
表14 電気灌漑後春期耕耘整地反当労働の減少
 前者については,筑後川対岸(福岡県)の三潴郡や八女郡の田植女などが大量に動員された。表15によれば,昭和12年度における佐賀県の田植雇用総労力は約22万人にも上っている。このうちの半数が福岡県からの田植女であったという。鎌形をして「季節的農業移動労働の例は全国いたる処にある。しかし実人員5万を越え,延労力実に10万人を越える例は,その規模に於て空前のものであった27)」と驚嘆せしめているゆえんである。
 表16は,主要府県における石油発動機・電動機の増加と分布を示したものである。佐賀県では大正9年に電動機1台のみであったものが,大正12年には石油発動機107台,電動機493台へと急増している。これらが揚水機や電気灌漑の動力として使われたものであることはいうまでもない。石油発動機と電動機とは昭和6年にいたり逆転するが,これらの動力使用が,佐賀平担農業におけるその後の機械力利用の起点となっている点が見落とせないところであろう。表17は佐賀県における主要動力農機具の普及をみたものである。動力脱穀機,揚水ポンプともに昭和初年より導入され,同10年代には急激にその普及台数を増加させている。
 このうち,とくに動力脱穀機の普及が米麦の脱穀調整風業を省力化し,春秋の農繁期の山を大きく崩した点が特集されるところである。
 第2の課題は,揚水作業の大幅な能率アップが,一方でクリーク水の不足を生み出すとともに,他方ではそれの速かな排出の必要を生み出すといった,いわば用水の不足と過剰の顕在化についての問題である。すなわち揚水作業の能率アップが,一方で,田植をはじめとした稲作期の集中によってクリーク水の一時的不足を生み出すようになったが,他方では,「乾田化」の進展による余水の速かな排出の必要を惹起したという点である。だが,このためには平野全域にわたるクリーク用排水体系の改善と調整が必要となる。
 表18は明治35年より昭和12年にいたる佐賀郡外5郡における耕地整理事業の推移を示したものである。なお,この表では明治32年の旧耕地整理法,および明治42年の改正耕地整理法によって認可を得た事業のみを掲げており,大正11年の大井手普通水利組合(4.225町歩)のように,純然たる自己資金で行なわれた事業は省かれている。まず,実施総面積は約1万1千町歩であり,これは6郡合計水田面積のおおよそ3分の1にあたっている。この実施面積を時期別にみれば,大正9年から昭和3年までの第Ⅱ期にその6割が集中している。事業のピークとしては明治42年前後にも一つの山があるが,なお圧倒的多数の事業は第Ⅱ期に集中しているのである。表19はこのような事業の内容について整理したものである。まず,明治後期の第Ⅰ期には,「区画整理」の名のもとに水路の改修や排水工事など,従来の耕地条件の上に一定の手直しが行なわれたことがうかがわれる。かかる補助事業の他にも井堰の改築などが各所で行なわれており,この時期に,多肥化にともなう一定の用排水改善が行なわれたことがうかがわれる。
表15 稲作雇傭労力(昭和12年4月-13年3月の1ヵ年間)
表16 主要府県における石油発動機・電動機の増加と分布
表17 佐賀県における主要動力農機具の発達
表18 佐賀平野における耕地整理事業の進展(認可件数と面積)
表19 耕地整理事業の内容(佐賀郡外5郡)
だがなお,面積的には寡少であった。大正前期の第Ⅱ期にいたると,新規水源開発としての溜池新設と,それにともなう地目変換,開墾が多くなる。第Ⅰ期の旧耕地整理法による一定の用排水改善の上に,この期には積極的な水源開発と,それによる水田開発が行なわれたことを示している。大正後期から昭和初期にかけた米価下落期の第Ⅲ期には,機械灌漑の事業が中心となっている。大正後半期はまさに機械灌漑(揚水作業の動力化)の時代ともいうことができるが,一方,この期以降からは機械力利用による地下水利用も行なわれている。また,この時期から,暗渠排水など排水工事や水路の改修などが増加している。なお,大正8年に開墾助成法が成立したこともあって,それまでの地目変換にかわって開墾の比重が高まってくる。昭和恐慌期から10年代にかけた第Ⅳ期には,開墾が圧倒的多数を占めている。先の開墾助成法の成立と米価の相対的な上昇をひとつの背景としたものであろう。なお,この期にも第Ⅲ期にひき続いて水路改修や排水工事が行なわれている。
 さらに見落とされてならない点は,表20に示されるように,県営用排水事業など平野全域にかかわる用排水幹線の改善事業が,大正末期より重点的に行なわれている点である。この事業は,大正11年制定の用排水幹線改良事業にのったものであるが,先にみた用排水路の改修や溜池の新設などの部分的地域的手直しに比べて,平野全域にわたる用排水体系の改善と調整をねらいとして行なわれたものであろう。以上のような諸事業が,用水の不足と過剰の共存という用排水体系の不均衡を,わずかながらでも改善するものであったことは明らかであろう。
 第3の裏作拡大の課題は,大正初期以来の小作経営成立の可能性として,「裏作収入が小作料支払ファンドとしての剰余形成に重要な意味を持28)」っていただけに,その後の経営展開における最も大きな課題であった。
表20 県営用排水事業一覧表
しかし,図8に示されているように,「稲作の一期化による収穫期の遅れと,依然たる整地・砕土の困難29)」などから,むしろ水田の麦作付面積はその後も減少する傾向にあった。ようやく作付面積が上昇傾向に転ずるのは,昭和初頭においてである。これは,改良短床犂による畜力耕耘技術の向上,麦の品種改良と成熟期の早まり,昭和7年以降の麦価高と小麦増産奨励,動力脱穀機の導入と普及など,一連の技術改良と奨励30)によるものである。また,麦作技術についても,縦ガンギから横ガンギへの転換,飛行機マガの導入などの改良31)が行なわれている。

3 家族経営への純化と自小作前進
 最初に,佐賀郡市を例にとった明治後期から昭和10年代にいたる自小作別田畑面積の推移(表21)によって,この間の自作地ならびに小作地の動向についてうかがってみよう。
 明治後期の第Ⅰ期においては,自作地面積が大きく減少するとともに,他方では小作地が大幅に増加している。このため,小作地率はこの間に10%前後の上昇をみせ,全国平均の小作地率へと近づいている。佐賀平野における地主小作関係のドラスチックな展開を,この期に想定することができる。
 つづく大正前期の第Ⅱ期においては,この傾向は続いているものの面積的には少なくなっている。また,この期は畑が減少し,その分水田が増加している。先にみた溜池の新設や地目転換の増加にともなう動きであろう。この間の小作地率の伸びは依然として全国水準よりも高く,大正6~8年にはついに小作地率が全国水準を凌駕している。この間の全国水準なみの小作地率のもとにおける,自小作経済の一定の展開をみることができよう。この期は,明治以来の稲作技術改良の成果が,除々に普及・定着してくる時期でもあり,また,磯辺の大正2~4年「稲作経済調査」の分析によれば,佐賀平担の農家(5戸中4戸が自小作農家)では反当余剰が反当小作料を上廻り,「佐賀平担における純小作の成立の可能性を示して32)」いるとされているところである。もっとも,これらの調査農家のいずれも2町以上の経営(5戸中3戸が年雇経営)であり,しかも裏作収入によってようやく水田経営の収支が償われている点が注意される必要があろう。
 大正後期から昭和初期にいたる第Ⅲ期は,自作地小作地の動向におけるひとつの,転換期にあたっている。明治後期より一貫して減少を続けてきた自作地面積は,大正末年にいたり最底を示し,逆に小作地面積は増加してひとつのピークを形成しているが,これにともなって小作地率もピークを形成している。
図8 佐賀県における田4麦の作付面積比率の推移
大正末期を底にした水田の自作地面積は,以後徐々に増加の傾向を示すのであるが,一方,小作地は昭和初期においていったん減少するものの,以後も依然として増加を続けている。
 昭和初期から10年代にいたる第Ⅳ期では,前期の自作地,小作地併増の傾向を引きついでいるが,なおその増加率は小作地の方が高い。もっともこの時期には畑が若干減少しており,水田増加の一部はかかる地目転換に負うものであることがわかる。しかし,それ以上の旺盛な開田が行なわれ,小作地の増加に寄与したことを示している。この期において開墾や干拓などが積極的に取り組まれ,そのような水田の外延的拡大をも足がかりとした経営の規模拡大の動きが,結果として自作地も小作地もともに増加させたものであろう。なお,昭和7~9年において,小作地率は文字通り最高を示している。全国の小作地率が昭和恐慌期の昭和4~6年に最高を示すに対して,佐賀平野ではやや年次が遅れているが,これは自作地の増加以上に小作地の増加が激しかったことによるものである。しかし,自作地増大の基調はその後も変りなく,この動きは戦後の農地改革へと結実して行くのである。
 それでは次に,自小作別の農業者数の推移についてうかがってみよう。まず,図9によれば,佐賀県における農業者数の動きは,明治30年代前半期の減少,大正元年までの現状維持,大正初期の激減,大正末期までの微減という動きとして把握することができる。この間に,明治25年を100とした農業者数はほぼ半減し,一方農家戸数も8割に減少している。
表21 自小作別田畑面積の推移(佐賀郡市)
このような著しい農業労働力の流出は,北九州労働市場の展開33)に誘発されたものであるが,かかる動向が佐賀平担農業のその後の展開に様々なインパクトを与えていることは容易に想像されるところであろう。
 農業者数の動きを佐賀郡市の例によって,自小作別にみたのが表22である。ここでも年次ごとの変動を考慮して,3ヵ年間の平均値として示してある。この表によれば,明治後期における農業者数の減少は,もっぱら自小作層を中心としたものであったことがわかる。自作層もやや減少しているが,小作層はむしろこの間に増加している。先にみた地主小作関係の展開をここでも想定することができる。しかし,この関係は大正前期の第Ⅱ期にいたると逆転する。この期の農業者数の激減は自作層を中心としたものとなり,両者がこの間に半減しているのに対して,自小作層の減少は2割にとどまっている。もっとも,ここでは農業者の自小作別間の移動が不明であり,実際にどの階層の農業者が最も多く離農したかはわからない。しかし,量的にも全体の51%のシェアを占める自小作層へ,自作の側からも小作の側からもこの期に収斂をみせているのである。以後,第Ⅲ期,第Ⅳ期とも,農業者数にはさほどの変化はない。しかし,自小作層増加の基調はその後も続くことになる。
 さらに,図10は磯辺の作成した農業労賃と米価の推移である。まず,明治26~30年を100とした米価は,明治後期から大正前期にかけて徐々に上昇を示すが,大正7年にいたり急騰し10年には735の水準にまで騰貴する。以後急落して昭和初年にはもちなおすものの,昭和恐慌にいたって再び低落する。一方年雇賃金は,明治後期から大正前期にかけてはやや高めに推移し,明治40,41年頃にひとつのピークを形成している。さらに大正後期からは急騰し,以後昭和7年頃まではそのままの水準で推移する。かかる推移が大正期の大幅な農業労働力の流出を背景としたものであることはいうまでもない。このように,米価と年雇賃金との水準は明治後期において一時乖離するが,大正9年にいたってその乖離は決定的となる。かかる両者の乖離が労賃の対米価比率を高め,この時代における年雇経営の存立を脅かすことになるのである。
 ところで,表23は山田の作成した佐賀県における50町以上地主の規模と性格(大正13年)である。この表からは,佐賀県における大地主数の少なさ,彼らの小作地面積シェアの少なさ,地主1人当り小作人数の多さ,小作人1人当り小作地面積の零細さなどを読みとることができる。佐賀県における地主層の圧倒的多数が,在村型の中小地主で占められていたことをこの表は端的に物語っている。
 以上の検討結果から,明治後期から昭和戦前期にいたる時代の佐賀平野において,「地主手作的年雇経営→自小作的年雇経営→自小作的家族中心経営」といった生産力担当層の転換のあとがうかがわれる。
図9 佐賀県における農家戸数及び農家労働力の流出
表22 自小作別農業者数の推移(佐賀郡市)
すなわち,明治後期の生産力展開のプロモーター層は「地主手作的年雇経営」であり,彼らはその生産力展開を槓杆とした積極的な貸付地の拡大を行なったものと思われる。しかし,従来の基盤条件と技術構造の上に,もっぱら多肥と品種によって打ち立てられたこの期の生産力展開は,やがては壁にぶつかり足踏みをはじめる。その上に明治後期における米価と労賃の乖離が,彼ら自身の経営を根本からおびやかすことになったのである。かわって,大正期には「自小作的年雇経営」が生産の中心となる。明治後期の米価と労賃の乖離,大正初期の急激な労働力の流出,しかも二期作体系から末だ脱却しえない条件のもとでは,積極的な技術導入と規模拡大によって経営余剰を生み出す以外になかった。しかし,このためには年雇の導入と小作地の拡大が不可欠な条件となる。この階層は「地主手作的年雇経営」と「自小作的家族中心経営」との中間に位置する,いわば過渡的な経営形態として位置づけられるが,彼らこそが大正期の積極的な機械灌漑の推進者となっていくのである。
図10 農業労賃と米価の推移
表23 50町以上地主の規模と性格
さらに昭和期にいたると「自小作的家族中心経営」が積極的な展開を始める。二期作の解消,米価と年雇労賃の乖離という条件のもとでは,もはや年雇経営の有利性は失なわれている。かわって,農繁期にのみ大量の臨時雇を雇用する家族中心経営が生産の中心となるのである。しかも,その後の米麦二毛作の進展は,定額小作料のもとで彼らの「自小作前進」をより有利なものとするのである。
 最後に,田中の分析34)した佐賀郡本庄村の事例によって,「佐賀段階」期の前進経営の姿についてうかがってみよう。表24~表26は前進農家群の構成ならびに耕地変化表である。まず,前進農家群の明治44年時点における構成は小作層11戸,自小作層9戸,自作層1戸であり,彼らの耕地面積は平均して1町~1町5反であった。ところが,昭和16年にいたると自小作層を頂点としたV字型の構成となり,耕地面積も平均して2町へと前進している。トップ経営は3~4町の規模へと躍り出している。表26の耕地変化表でみると,明治44年から昭和16年までの間に,彼らは自作地で2.8倍,小作地で1.1倍の拡大を行なったことになる。しかもこの前進の時期が,機械灌漑実施後の大正10年以降にある点が注目されるのである。
 一方,後進農家群の明治44年時点における構成および耕地変化表は表27,表28に示されている。彼らの上層の者は貸付地を所有した「地主手作的経営」であったことがわかる。もっとも,下層の者は自作ないし小作層であり,彼らの多くが大正期以降の流出者であることをうかがわせる。
 このように本庄村の事例は,明治末期から昭和10年にかけて1町~1町5反前後の中農層(小作・自小作層)が,2町以上の上層農(自小作層)へと逞しく前進していく姿を把えている。
 本庄村の事例で示された以上のような動きを,佐賀県全体の数字としてみたものが表29である。この表によれば,大正11年以降において1町未満層の減少と,他方での1町以上層の増加傾向を確認することができる。とりわけこの増加傾向が2~3町層ならびに3~5町層において顕著であり,しかもこの前進の動きが昭和期になってより激しくなっている点が注目されるところである。

4 近代農法の展開と「佐賀段階」
 佐賀平野の明治後期から昭和戦前期にいたる間の水稲収量の動きには,2つの大きなピークが認められた。しかしこの両者の間には,機械灌漑と稲移植期引下げという,水田基盤と技術構造にかかわる画期的な変革が行なわれており,両者の生産力的意義は全く異なっている。明治後期のピークは幕末期以来の技術構造と耕地条件の上に,むしろそれを基盤としながらより集約化された方向でなされたものであり,短稈穂数型晩稲(神力)の導入と購入肥料(大豆粕)の増投によってもたらされたものである。このような稲作技術の改良が,当時の農村の中核階層たる「地主手作的年雇経営」の主導のもとに行なわれたことが想定される。
表24 前進農家群明治44年構成表
表25 前進農家群昭和16年構成表
表26 前進農家21戸の耕地変化表
 この時期に小作地率が10%も上昇していることは,この間の動きとしてきわめて象徴的である。だが,品種と肥料のみによって打ち立てられた技術改良は,早晩その壁にぶつかり,足踏みせざるをえない。耕地条件と技術の体系としての変革をともなわない無理な多肥化は,逆に収量の不安定とメイ虫被害の激甚化の要因ともなる。ここに二期作の解消(止揚)と水と土地の再編(=機械灌漑)による,水田農業前進(=「乾田化」)への要求の起点が伏在してくる。なお,嵐は明治後期における増収メカニズムは,戦後の30年代以降におけるそれと類似的である点を指摘している。戦後のいわゆる「新佐賀段階」を評価する場合,この期の動きはきわめて示唆的である。
表27 後退農家明治44年構成表
表28 後退大経営五戸の耕地変化表
表29 耕作面積別農家戸数の推移(佐賀県)
 ところで,明治後期の稲作収量の増大は,一方で小作経営成立の可能性をももたらした。磯辺の大正2~4年「稲作経済調査」の分析はそのことを明らかにしている。ここに小作によって経営規模を拡大し,その経営余剰で自作地への拡大をはかるという「自小作前進」の原点が潜んでいる。この条件を支えたものは,稲作収量の相対的高位性と裏作収入であり,その前提としての規模の大きさと年雇使用である。一方,大正期に入ると大幅な農業労働力の流出が行なわれる。この流出が経営規模の小さい小作人層,ないしは傍系血族などを中心としたものであったことは想像に難くない。かかる動きによって地主手作的上層経営は,自身の依存する年雇労働力の点においても,また小作地の貸付対象者たる小作人層の点においても,その存立基盤を掘り崩されてくるのである。このように,大正期はまさに地主制そのものが掘り崩される大きな転換期でもあったが,同時にこの時代は,佐賀平野では栽培管理技術をはじめとした様々な近代農業技術が普及・定着してくる時期でもあった。それだけにそのような新しい技術を導入した,新たな事態に対応した経営の展開が希求されたのである。
 このためには,従来の土地の水の条件を改善して,米麦二毛作の安定的確立を図ることが焦眉の課題となる。その最大のポイントが揚水労働の機械化であった。この点の改善こそは,単に揚水労働そのものの省力化のみでなく,二期作を解消(メイ虫回避と二毛作の確立)し,「乾田化」を進める(耕耘整地労働の能率化と簡略化,深耕と多肥化),いわば水田農業の生産力を体系として高めるためのキイポイントであったのである。機械灌漑の事業が単に地主主導型というにとどまらず,小作人層をも含んだいわゆる耕作者主導型[・・・・・・]であったゆえんである。
 機械灌漑と稲移植期引下げは揚水労働を大幅に軽減しただけでなく,その後の稲作集約化への契機ともなった。しかし,一方で従来の労働体系のバランスを崩し,用排水体系の不均衡をも生み出し,そのような事情のもとでの裏作麦拡大を大きな課題とした。かかる要請に答えたのが福岡県三潴地方の早乙女(臨時雇)であり,動力農機具類の普及である。また,後者については,県営用排水事業など一連の用排水体系の改善と調整であった。
 一方,このような水田農業における「乾田化」の進展と麦作拡大の中で,さらに晩熟で穂数型の神山・神徳などの新品種が導入され,密植多肥化が進行する。これによって,佐賀平担農業の稲作収量は反当3石水準へと到達するのである。「生産力水準の高位と生産規模増大との併進という常則的展開の傾向」と指摘され,「その高位によって特徴づけられた流動資本集約化から固定資本集約化段階への指向」として経営構造との関連において理解されたところの,いわゆる「佐賀段階」の展開である。しかもこの展開が,逞しく,「自小作前進」する家族中心経営によって担われたところに,大きな特徴を指摘することができる。この期の経営と技術の構造こそ,農地改革によって措定された「戦後自作農」の原型をなすものである。

 注
 1)山田龍雄・大田遼一郎『佐賀県農業史』金華堂,1967年,山田龍雄『九州農業史研究』農山漁村文化協会,1977年。
 2)嵐嘉一『近世稲作技術史』農山漁村文化協会,1975年。
 3)田中洋介「クリーク水田農業の展開過程」農業技術研究所報告H第52号,1979年。
 4)山田勝次郎『米と繭の生産構造』岩波書店,1942年。
 5)田中定「佐賀県農業論」経済学研究第9巻第3・4号,1939年,同「佐賀県平担地帯―農村の分折」経済学研究第9巻第1号,同「佐賀県平担部農業及び農村の研究」『佐賀農業の研究』東亜農業研究所,1943年,第2部。
 6)磯辺俊彦「いわゆる『佐賀段階』の形成過程」『日本農業発達史』別巻下,1959年。
 7)鎌形勲『佐賀農業の展開過程』農業総合研究所研究叢書第13号,1950年。
 8)嵐『前掲書』114ページ。
 9)同書115ページ。
 10)同書117ページ。
 11)『佐賀県農事調査』九州近代史料叢書第6輯,1958年。
 12)山田『九州農業史研究』254-56ページ。
 13)梶井功『農業生産力の展開構造』全国農業会議所調査研究資料第45号,1961年,25ページ。
 14)同書26ページ。
 15)嵐『前掲書』118ページ。
 16)同書118ページ。
 17)同書118ページ。
 18)同書119ページ。
 19)「機械灌漑実施之?末」佐賀県佐賀郡大井手普通水利組合,1923年。
 20)「稲移植期引下の?末」佐賀県,1924年。
 21)「施肥標準調査報告書(第11編)」佐賀県立農事試験場,1933年。
 22)山田『九州農業史研究』292-94ページ。
 23)嵐『前掲書』532ページ。
 24)同書532ページ。
 25)磯辺「前掲論文」37-40ページ。
 26)鎌形『前掲書』237ページ。
 27)同書232ページ。
 28)磯辺「前掲論文」20ページ。
 29)同論文40ページ。
 30)同論文40-41ページ。
 31)田中洋介「水田裏作の生産構造」田代・花田編『現代日本資本主義における農業問題』御茶の水書房,1976年,第8章,317ページ。
 32)磯辺「前揚論文」20ページ。
 33)同論文29-31ページ。
 34)田中定「佐賀県平坦部農業及び農村の研究」59-68ページ。
Ⅴ 地域農業システムと小農経営
 ―現代・戦後農法の課題―

 戦後の昭和40年代にいたり,佐賀平野の水田農業はいわゆる「新佐賀段階1)」(図11)を形成した。これは稲作の技術革新によって新たな水田農業の躍進をめざしたものであり,それまでのながい停滞からの脱却を企図した佐賀農業の胎動でもあった。しかし,品種と肥培管理に偏重した稲作のみの生産力展開は,後述するように,一方で裏作麦の収量不安定や土地利用率の低下を,また他方では固定資本効率の低下や肥料効率問題などをも生み出し,この期の展開もいまや一つの隘路に直面している。すなわち,「水田再編」問題をかかえる現下の佐賀平担農業において,新しい商品作物の導入と水田高度利用をベースとした,新たな経営展開が指向されているのである。
 本章では,このように整理される現代・戦後農法の課題について,現在問題とされているクリーク再編の在り方ともかかわらせて考察することを課題としている。
図11 水稲収量(10アール当り)の推移(佐賀,奈良,青森,全国)
1 農家の営農類型と労働力構成
 ここで事例分析の対象としてとりあげる神埼郡千代田町,および佐賀郡川副町は,それぞれ佐賀平坦東部および下流域の水田率98~99%,クリーク面積密度(水田面積に対するクリーク面積の割合)10~15%の代表的なクリーク水田地帯の一画に位置している。1戸当り平均耕作面積は両町ともに97アール,耕地規模別でみた階層構成は,表30に示されるように,千代田町における200アール以上層の割合が少ないことを除けば,両者ともにほぼ佐賀県全体の平均に近い構成となっている。水稲の10アール当り収量は千代田町で594キログラム(昭和50年),川副町で591キログラム(同年),いわゆる「新佐賀段階」といわれた昭和41年のそれぞれ636キログラム,621キログラムに比べれば米の収量は停滞しているものの,市町村別の順位では諸富町についで県内第2位,第3位にランクされる県下でもトップクラスの水稲高位生産力地帯である。
 作目別の生産農業所得(昭和51年)の割合をみると,千代田町では米が69%,酪農9%,麦類8%,野菜7%であり,川副町では米が60%,麦類18%,養鶏7%,野菜6%,酪農5%となっている。山間地をも含む県全体の数字と比べれば米麦のウエイトが高いが,およそ7~8割のシェアを占める米麦を中心に,乳牛,野菜という作目配置が,両地域における水田作経営の基本的パターンということができる。
 それでは,まず農家の営農類型と労働力構成の側面から検討してみよう。表31は,千代田町K集落の全農家の経営概要を整理して示した表である。K集落の農家戸数は34戸,1戸当り平均水田面積は122アールであり,200アール以上の上層が少なく,中間的階層の多い比較的まとまった集落である。
 まず,農家の就業構成についてみよう。K集落の農家の1戸当り世帯員は平均5.5人,農業就業人口は1.7人である。1975年センサスによる佐賀県における1戸当り平均農家人口は4.94人,農業就業人口は1.67人であるから,当集落では家族数は県の平均よりは多いものの,農業就業人口ではほぼ同数ということになる。「戦前においても家族制度は東日本に比べて西日本においてその解体が進みそれだけ家族の規模は単純化されていた2)」といわれ,この関係は昭和40年頃では,例えば全国の1戸当り平均世帯員5.32人(1965年センサス)に対して九州のそれは5.08人(同),昭和50年でも全国の4.68人(1975年センサス)に対して九州の4.44人(同)というように,農家1戸当りの家族数は全国平均の9割前後の割合でこれまで推移してきている。しかも,農業就業人口はほぼ全国平均並みの水準を確保しており,昭和50年ではむしろ全国平均をこえている。このような中で,佐賀県はこれまでに九州の中でも,相対的に多くの農家人口ならびに農業就業人口をかかえて推移してきたということができる。
 しかし,最近の10年間ではやや異なった動きを示していることがうかがわれる。1つはこの間に九州全域で全国の趨勢以上の農家人口の減少を示しているのに対して,佐賀でのそれはやや鈍化していること,2つは農業就業人口の減少は九州では全国の趨勢よりも少ないのに対して,逆に佐賀でのそれが大きいことである。
 この点についてK集落における実態から検討してみよう。K集落の農家のうち,16歳以上の傍系世帯員をかかえている農家は13戸(38%)である。この割合は佐賀県平坦4部落の昭和41年における集計結果である23.6%という数字と比べてみるとむしろ大きいといえる。
表30 千代田町および川副町の概況(昭和50年)
表31 K集落における農家の経営概要
しかし内容をみると,高校・短大生などの学生が6戸,女子子弟(未婚)が3戸であり,就業する男子傍系世帯員をかかえている農家は4戸(12%)にすぎない。しかも,この4戸とも未婚の男子傍系世帯員であり,いずれも農業には全く従事していない。このことは,当地域における農業はもはや傍系世帯員を自家農業従事者としてとどめおき,農家の労働力構成を補強するという段階ではなくなったということを示している。
 この要因の大きなものとして,1つには近年の兼業化の波による傍系世帯員の他産業への流出,2つには水稲作を中心とする農業機械化の進展をあげることができる。昭和40年代半ばより始まる米価の停滞と米の生産調整は,8割以上にものぼるわが国農家の兼業化の方向を決定的にし,必要最小限の農業労働力を残して農業世帯員の兼業流出をもたらした。水田率95%以上の佐賀平坦地域において,とりわけこの動きが決定的だったことはいうまでもない。農家の家族形態は,さしあたって従来の形を維持しながらも,まず傍系世帯員の農業からの引上げを図り,いずれは農業外で「自立」することを前提にした就業を行なわせているものと思われる。
 しかも,当地方における兼業化の動きは,それだけに止まらない。表31でもみられるように,農家の後継者のうち水田酪農にとりくんでいる7戸(及び子弟が大学・高校など在学中の6戸)農家を除けば,実に21戸(62%)の農家の後継者(もしくは30歳代の経営主)が,職員勤務ないしは恒常的賃労働などの他産業就業をしているのである。
 ところで,田植機や自脱型コンバインなど水稲作を中心とした農業機械の導入により,いわゆる「中型機械体系」が佐賀平坦農業において形をととのえるのは,昭和46年以降である。
表32 農家人口および農業就業人口(1戸当り)
表33 K集落における就業者構成
この機械の導入テンポが,佐賀平野においては先の農業労働力の流出テンポと軌を一にしていることは興味深い。これら中型機械の「体系」としての導入は,それまで未完了であった傍系世帯員の農業からの完全離脱をうながすとともに,また他方で米麦作における農業雇用労働力の排除をも完了させたものといえる。昭和40年前後には1戸当り平均15人(上層では40~50人,下層でも3~5人)を必要としていた臨時雇が,昭和49年の調査時点では,「イ草」を導入している①,⑦,⑱農家の15~20人を除けば,全く雇用されていない。昭和45,46年前後のこれらの動きは,単に農業就業人口の「農業解体」的な減少という量的な変化のみではなく,佐賀平野の農家においてそれまで進行しつつあった直系家族,あるいは夫婦のみによる農業という線の純化をともなう,質的な変化をも意味するものであったということが推察されるのである。
 次に,農家の就業構成を階層別に整理して示した表33に目を移してみよう。どの階層の農家もおよそ3人前後の就業者を擁しているが,この人数の階層間の開きは0.7人であり,農家世帯員の開き(1.7人)ほどには開いていない。このうち,農従60日以上の農業労働力人口をとり,これを労働力構成による家族形態として分類してみると,前掲表31に示されるように,夫婦2人の労働力によって坦われているCタイプの経営は17戸(50%),夫婦2人と母親によって坦われているB"タイプの経営は2戸(6%),夫婦2人と父親もしくは後継者によって坦われているB〓タイプの経営は7戸(21%),2世代夫婦によって担われているBタイプの経営は1戸(3%),一方,主婦のみによるDタイプの経営は4戸(13%),農業従事日数60日以上の担い手のいないEタイプの経営が3戸(9%)となっている。K集落における農業労働力構成は,およそ3割の2世代(片親・後継者含む)家族と5割の夫婦家族,そして2割の主婦その他家族によって担われているということができるが,さらに,これを経営類型との関係で区分してみると,米プラス酪農やイ草など「複合経営」を志向している経営ではB・B’タイプ,米プラス麦の経営では夫婦2人のみによるCタイプ,米単作経営では,D・Eタイプの経営が多い。K集落の農業構成は,夫婦2人の労働力を中心に米麦二毛作体系をとる200アール以上層,労働力構成の充実を基本に水田酪農など複合化の志向を強める150~200アール層,米麦のほかにたまねぎや酪農など商品性の高い部門の導入を図りながらも,なお,1.0人の兼業従事を余儀なくされている100~150アール層,男子の恒常的賃労働と主婦農業にふたまたをかける50~100アール層,家計の中心は1.0人の職員勤務に依存しつつも農業は米単作で営む50アール未満層という類型区分をすることができる。

 2 農業機械の共同利用と農地の受委託
 佐賀平野においていわゆる「中型機械体系」が一応の形を整えるのは,前述したように,昭和46年以降である。これはいわゆる「新佐賀段階」(昭和41年)に遅れること5年ということになろう。東日本におけるこの期の農業機械化が,たとえば「感温性の高い短稈穂数型品種の導入→稲作の早期化・密植多肥→稚苗移植→稚苗田植機」というように,稲作の増収技術といくらかでも整合する側面を有していたのに対して,佐賀平野におけるこの期の農業機械化は,むしろ「『手抜き』の理論3)→機械化」という関係の中で,水田の増収技術とも分断されたところでの機械導入という側面を色濃くもっている。たとえば佐賀地方における稲の収穫作業は,慣行では「刈取り→地干し→稲小積→〔麦播き〕→脱穀→〓収納」という作業順序となっており,稲小積によって〓ワラの自然乾燥を行なうこの体系では,脱穀作業は「麦播き」がすべて終了した後に行なわれることになる。バインダーなど動力刈取機の導入は,「刈取り」作業を機械でおきかえることによって多人数の協業を排除し,その範囲内で家族労働力のみによる作業を可能とした。しかし,これによって「刈取り」作業そのものの能率を高めることはできたものの,これだけでは前記の秋作業体系を抜本的に変革するものではない。一方,自脱型コンバインの導入は,稲の刈取から脱穀までを一工程で行なうことによって,それまでの体系を「刈取り生脱穀→機械乾燥→〔麦播き〕」という形に変革した。
図12 K集落における機械の共同利用および受委託
しかし,この体系では,〓の乾燥まで含めた稲の全作業が終了するまでは「麦播き」(耕耘整地―施肥―畦立て―播種―鎮圧の各作業)ができないことになり(作期の制限),しかもカッター装着による生ワラの還元やコンバインの踏圧(こねまわし)などによって水田の乾きが悪くなるなど,かえって裏作麦の収量の不安定性を高めた技術内容となっている。例えば,前掲表31にも示されているように,秋雨にたたられた50年産麦では,コンバイン農家は軒なみに他の農家よりも減収となっているのである。このために,導入して間もないコンバインは麦の収穫だけに使用して,稲の収穫用にさらに新たにバインダーを購入した農家もあるという話も一部には聞かれる。また,春の田植えについてみても,稚苗田植機の導入によって田植時期が早まり,このため熟期の遅い小麦などが排除されているだけでなく,梅雨期の水稲の冠水害に対する抵抗性も弱くなっている。しかも稚苗植えによる米収量は成苗植えに比べてさほどの変化はなく,分施(多肥)技術・水管理などによってカバーされてはいるものの,分けつ過多や過繁茂,登熟不良など暖地水田作地帯の水稲栽培技術としては,むしろ不安定要素をより強く内包した技術内容となっている。しかし,このような問題をかかえているとはいえ,農業機械は今や新しい労働手段として,経営の「前進」にとって不可欠なものとなっており,農業機械化を一つのテコにしながら経営拡大に努めている農家も見出される。しかも特徴的なことは,機械の個別による導入だけでなく,地縁血縁的関係にもとづく自生的な利用共同など従来の「部落結合4)」の枠の中に取り込みながら,資金問題や利用効率などいわゆる「過剰投資」問題を回避しつつ,積極的な導入・利用が行なわれているということである(図12)。
 しかし,「新佐賀段階」の栽培技術のように耕地片単位で完結する「労働対象」的条件の改善とは異なり,「生産規模の拡大」を要求する「労働手段」としての機械の導入は,それまでの「部落結合」の枠をはみ出した新たな諸関係の再編の動きを,徐々に醸成させてきているようにうかがわれる。その1つとして,農地の受委託の動きをあげることができる。
 まず,農作業の受委託の方からみていこう。近年の中型機種(専用機)を中心とした農業機械の普及に伴い,農作業の受委託もこのところ佐賀平野では増加の趨勢5)にある。全体としての傾向は,ほぼ1ヘクタール前後の線を境に下層から上層へ,また田植機やコンバインなど個々の機種について装備の欠けている兼業層から専業的上層へという方向で動いているが,他方,同じ「しゅうじ」あるいは本家分家関係など地縁血縁関係に基づく委託も多い。また,ここでは機械の共同利用では あまりみられなかった,他集落農家との受委託関係がみられる。この多くが親戚関係など血縁に基づくものではあるが,中型機械の利用範囲が集落をこえている点については注目しておく必要があろう。
表34 N集落における機械体系タイプ別の受委託割合
 それでは,水田の裏小作を含めた農地の受委託についてみよう。K集落の場合では,集落外の受託地(4.6ヘクタール)を含めたほとんどすべての農地を酪農グループが飼料作に受託している。ここではむしろ米麦作が中心となっている川副町N集落の事例によって分析してみよう。表34は,N集落における農家の機械装備体系別にみた農地の受委託の実態である。これによればN集落の14%の農家から農地の5%ほどが委託に出され,逆に他の13%の農家がこれらの農地の受託をしている。裏小作(期間借地)まで含めれば,N集落の14%近くの農地が何らかの形で受委託されていることになる。これを農家の機械装備体系の違いでみると,非所有または耕耘機および田植機のみを有するⅠ~Ⅲタイプの農家層が委託層となり,カルチや乾燥機など機械を一応そろえているⅣタイプ以上の農家層が受託者側に回っている。このうち機械装備の全く欠けているⅠタイプ農家層では,裏小作まで含めると,4割近くの農家が農地のおよそ6割を委託していることになる。他方,コンバインやトラクターなど「中型機械体系」を装備したⅦタイプの農家層では,裏小作まで含めると,実に7割近くの農家が自己経営農地の3割余にもおよぶ農地の「借り足し」をしている。このように,N集落では水田二毛作を中心に「中型機械体系」を装備した比較的上層の農家において,農地の受託がより強く志向され,労働手段の高度2)佐賀大学農業経営学教室の農家経営調査(昭和48年)個表より作成。

化を一つのスプリングボードとした経営規模拡大への努力が行なわれている。一方,千代田町K集落では水田酪農という集約部門の展開の中で,飼料作を中心とした土地利用の増進が,農地委託の拡大という方向で行なわれている。
 このような農地の受委託の動きが,農家の土地利用率の動向とも密接にからんでいることはいうまでもない。表35によれば,N集落のⅠ,Ⅱタイプ農家層の自己経営農地に対する「土地利用率」70~90%から,Ⅶタイプ農家層の「土地利用率」190~240%まで,実に3倍もの大きな開きを示している。また,表36のK集落の例をみても,Ⅰタイプ農家層の76%からⅣタイプ農家層の174%,水田酪農のⅤタイプ農家層の291%まで,農家の「土地利用率」の格差はきわめて大きなものがある。
 以上のように,自生的な労働手段利用共同・土地利用共同など,これまでの地域的社会的諸関係に大枠で適応しながら,なお農地の受委託にみられる所有と経営の分離への志向など新しい諸関係をとり結びつつ,これまでの家族協業とは異なる夫婦主体の労働力構成で,新たな生産力再編への努力をしている農家層が形成されてきていることが指摘できよう。
 しかし,これらの農家層の胎動が,農業の今日的状況のもとにおいて,従来の地域農業の構造を変革しつつ,新しい生産力担当層として力強く「前進」するまでには末だ至っていないということができる。
 すなわち,佐賀平野における水田経営が,現段階において直面している諸問題をいくつか整理してみれば,おおよそ次のように要約することができよう。第1の問題は,前述した農家の労働手段利用共同・土地利用共同への努力にもかかわらず,いぜんとしてどの階層においても農業固定資本効率の低下が著しいことである。
表35 N集落における機械体系タイプ別水田利用状況
表36 K集落における機械体系タイプ別受委託の関係と土地利用状況
基本的には,農業収益性の低さや農業生産資材の高価格性など現代の「政策価格問題」にその原因を帰することができるが,なお技術問題的には,農業機械導入による労働能率向上の追求が,現時点において水稲以外の作目をも含めた土地生産性を高め,土地利用高度化を通じた生産力上昇には必ずしも結びついたものになっていないということである。これは佐賀平野の錯綜したクリークと分散した耕地が,農業機械の効率的利用の妨げとなっているというだけでなく,近年における裏作麦の低収不安定性などに示されるように,農業機械を基軸とした現行の技術体系が,従来の水田農業における慣行的な集約化技術を十分に乗りこえ,新たな生産力と経営方式の展開をもたらすまでには末だいたっていないということによっている。
 第2には,現段階における地力再生産機構の未確立の問題がある。佐賀平野では従来から行なわれてきた「泥土揚げ」が消滅して以来,堆〓肥など有機質の施用量は年々減少傾向を示してきている。このような中で,耐肥性新品種の導入に伴う10アール当り14~15キログラムにも及ぶ多量の窒素分の施用など稲作の多肥化が進んできているが,反面では,これに伴って肥料効率そのものの低下6)が問題とされてきている。この点を補完する一つの対策として,有機質源としての生ワラ施用が指導されている。しかし,10アール当り600~700キログラムにものぼる生ワラを現行の土地条件下でそのまま還元したのでは,窒素飢餓の問題や水田の乾きの悪化などをもたらし,その年の裏作の障害をひきおこすことにもなる。実際に生ワラを還元した水田の裏作麦などでは,減収や発芽不能さえもまねいている例が多いのである。
 ところで,水田酪農家の多いK集落では,これら酪農家の裏小作などを通じて,他の農家にも部分的ながら堆〓肥の施用が行なわれている。しかも,委託者側の中で比較的農業に熱意のある農家では,このことを意識しながら計画的に自己の農地を裏小作に出す農家も見受けられる。だが全体としてみれば,酪農家への裏小作にはむしろ消極的な農家が多いといえる。これはイタリアン・ライグラスなど飼料作跡地の根群の残留が,その後の耕耘,代かきや稚苗田植えなど小型機種による春作業の能率低下をもたらし,あるいは「稲作こよみ」が化学肥料を主体とした「米つくり」の設計となっているため,堆〓肥を施用しすぎることによって水稲の青立ちや稔実歩合の低下7)をもたらすなど,水田の施肥と地力維持にかかわるいくつかの技術的な基本問題をかかえていることによっている。
 第3には,クリーク地帯における土地基盤(土地と水の再編)の問題をあげることができる。「平地に下りたため[・・]池」といわれるクリークは,用水不足の干拓地農業に形成された一つの灌漑手段であり,天水(降雨)や中小河川水,アオ(淡水)など乏しい水資源を効率よく確保し,貯溜しておくという機能を果たしている。このクリークを縦横に配置し水を貯溜して反復利用するという用排水操作が,逆に,豪雨時における佐賀平野の「余水」の速かな排水を妨げることになり,作物の冠水害を惹起させる大きな要因となっているのである。もともと干拓地沖積土を主体とした重粘肥沃な土壤8)であり,これに加えて,1枚ごとの零細地片における用排水を可能とするクリークの配置と「水囲い」が,かつて「西南高位生産力地帯9)」の1つとされた佐賀平坦農業の水稲高位生産力形成の基礎であった。この重粘な沖積土壤とその上に形成された「クリーク慣行」とが,逆に現時点においては,野菜作や飼料作など田畑輪換を可能とする水田の用排水とコントロール(=乾田化)の妨げとなり,「中型機械体系」を基軸とした「複合経営」確立のための,大きな桎梏となってきているのである。

 3 用水需給の動態的把握
 ここで,複雑な構造を有するクリークの機能を実態的に把握し,今後のクリーク水利の再編方向について考察するために,特定地区をモデルにした用水需給の動態把握10)を試みる。
 計算のモデルとしてとりあげたA地区(圃場整備前)は,佐賀平坦東部地帯にあって一つの「水囲い(水管理)」単位をなしている。A地区の総面積は148.6ヘクタール,南北1.5キロ,東西1キロの南北にやや細長い区域である。このうち水田面積は110.4ヘクタール(水田率99.5%),クリーク面積率は15.6%である。かような当地区の姿を念頭において水収支のモデル化を試みたものが図13である。
 さて,このようなモデルによって,昭和54年における用水の需給動態を日単位において試算をして示したものが表37である。この表では,A地区のクリークと水田における6月5日より7月25日まで51日間の水の動きのみを掲げたが,最下欄の数字は5月より10月まで184日間の合計値ないし平均値を示している。
 まず,この年のD川からの取水量は70万立方メートル(平均0.067m3/s)であるが,この外にクリークへの流入は,降水,上流域からの流入,水田からの地下浸透水および越流など,合わせて304万2千平方メートルとなっている。これに対してクリークからの流出は,水面蒸発,下流域への流出と〓流,水田への灌水など,合わせて287万5千立方メートルである。すなわち,この年の5月から10月までの当地区のクリーク水は,およそ300万立方メートルの水の収支によって維持されていることになる。この水は当地区のクリーク貯水容量25万立方メートルをベースとして行なわれているのであるから,いわゆるクリークの回転率ということで言えば1200%である。また,A地区への外部からの純流入は,井堰,降水,上流域からの流入など合わせて280万2千立方メートルと計算されるが,そのうちで井堰からの取水量はわずかに25%を占めるにすぎず,他の大部分の用水は降水(48%)や上流域の余水(27%)などいわゆる自然水に依存している実態がわかる。
 この年の水田への灌漑量は145万1千立方メートル(水田10アール当り1300ミリ)であった。一方,水田内への降水は95万9千立方メートル,うち水田の用水として利用された水は59万立方メートル(61.6%)である。したがって,降水をも含めた水田への〓供給水量は204万1千立方メートル(うち降水29%)となるが,これは水田10アール当り1850ミリにあたる。また,この年の水田における減水量は蒸発散および地下浸透あわせて204万4千立方メートルであり,これは1日平均15.4ミリの減水深に相当する。
 なお,当地区の井堰からの取水量(Qink)70万立方メートルに対して,水田への灌水量(Qout P)は145万立方メートルであるから,この年のクリークにおける水の反復利用率11)(Qout P/Qint K)は2.07ということになる。
 以上のような水の流入,流出の結節点ともいえるクリーク貯水量(=水位)の変動は,表37の計算結果に基づいて,図14に示されている。この年のA地区クリークにおける平均貯水量は17万8千立方メートル(満水時の76%),平均水深は2.01メートル(田面下0.49メートル)であった。全体の数字としてみればまずまずの年であったと言うことができるが,しかし,図に示されているように,クリークの貯水量(=水位)はまさに日々刻々と大きく変動しており,とりわけ降雨には敏感に対応していることがわかる。省水資源型の構造ともいえるクリーク水利が,逆にその自然水依存のために内包している大きな悩みを,この図は同時に物語っている。
 さてそれでは,このようなクリーク水利の今後の再編方向についてどのように考えるか。以下若干考察してみよう。
 図15は,先のモデルを前提に,A地区(110.4ヘクタール)に対して0.3m3/s(仕付け水0.3m3/s,養い水0.2m3/s)の安定した用水源が与えられた場合の,クリーク水位の変動を示したものである。なお,ここでは従来にかわる安定した水源確保の当然の帰結として,排水能力の高い(従来の3倍と仮定した),水位(=地下水位)を引下げた(田面下1メートル)クリーク管理が行なわれているものと仮定した。
図13 A地区における水収支のモデル
かような条件のもとで計算したクリーク水位は,図にみられるように,きわめて安定した動きを示している。しかも,ここでは6月29日の150ミリをこえる雨も,クリークの水位変動の中に解消されている。すなわちここで注目される点は,水位を引下げることによって生ずるクリークにおける余水の貯溜機能である。A地区クリークの現行(圃場整備前)の形態を前提とすれば,満水面から田面下1メートルまでのクリークの有する貯水容量は約12万立方メートルである。したがって,満水位よりクリーク水位を1メートル下げることによって生じる営農上の効果は,地下水位を下げ,作物の湿害を回避するだけでなく,100~150ミリ程度の雨ならばクリーク水位の変動の中に解消しうる余水の貯溜機能をも有するということになる。
表37 A地区における水の動態(昭和54年計算値)
 もっとも,ここでの計算は,従来のクリーク配置と「水囲い」を前提としたものであり,稲作の技術係数や圃場別の水管理も現行のままとした上での話である。圃場整備が進み,水稲直播栽培12)や田畑輪換などが行なわれて来れば,それに応じて水田減水深や諸々の条件も大幅に変ることになろう。このような条件変化を加えた上でのモデル分析は,なお今後の課題として残されている。
 また,ここでは一地域のみでもある程度の独立した排水操作が可能であるという仮定の上に立っている。しかし実際には,低平地水田地帯の宿命として他地域からの「かぶり水」によって洪水が激化される例が多いのであり,豪雨時の排水条件は隣接(とりわけ上下流に)する他地域との関係によっても規制される。一地域の排水条件の改善は,平野全域の排水条件の整備と調整なしにはその十全な効果は期待しがたいのである。
 このような点があるとはいえ,先の一連の計算結果は,佐賀平野における今後の「土地と水の再編」問題を考える前提として,次の4つの条件を考慮することが重要であることを教えている。
 第1の点は,わずか0.3m3/s(110ヘクタール)の水(とはいっても,これを平野3万ヘクタールにそのまま普遍化すれば82m3/sの水となるが)でも恒常的な用水源が与えられさえすれば,クリーク地帯においてきわめて安定した水位の管理が可能であるという点である。このことは,低平地水田地帯における用排水改善の基本的なポイントが,新たな用水源の開発にあるということを物語っている。
 第2の点は,クリークの有する余水の貯溜と,それによる排水調整機能を生かした改善が重要であるという点である。地形勾配の少ない低平地水田地帯においては,地区内の悪水排除にはどうしても時間を要することになる。この間の地区内における悪水排除のバッファー機能として,クリークの有する余水の貯溜と排水調整機能の見直しが重要であるということである。しかも,田面とクリーク水面との落差の保持がこの機能を生かすことにつながる。クリークは,用水における調整池(ファームポンド)としての機能だけでなく,排水においても同様の機能を果しうるのであり,かかる機能を重視した改善が必要であるということである。
 第3の点は,このようなクリークの排水調整機能を重視した上で,なおその上に平野全域にわたる排水能力の抜本的な強化が必要であるという点である。クリーク地帯における新たな用水源開発は,当然に従来の用排水量の上に新たな水を上乗せすることになる。これらの水を地域においても,また平野全域においても,必要に応じて速かに排出するためには,前述したクリークの排水調整機能を活用するとともに,同時に何らかの新たな排水対策が必要となる。
図14 A地区におけるクリーク水位の変動(昭和54年)
図15A 地区におけるクリーク水位の変動(昭和54年;0.3m3/s)
前掲図15に示されるようなクリーク水管理も,地域の排水能力の強化があってはじめて可能となるのであり,用水源の開発とともに,排水の抜本的強化が新たな土地基盤創出のための基本問題となっているのである。
 第4の点は,そのような排水強化の上に立って,地域ごとのある程度独立した用排水操作の確立が必要であるという点である。用排水改良や圃場整備により水田の基盤条件が改善されてくれば,当然に地域の特性に応じた多彩な土地利用が展開してくることになる。この場合,その地域の土地利用に応じたある程度完結した用排水管理が必要となってくる。かつての「水囲い」単位をその基礎的な範囲として重視しつつも,それぞれの地域の特性に応じた,新しい「地域的水管理組織」の再編を考えていく必要があるということである。
 以上のように,A地区における用水需給のモデル分析の結果は,これまでクリークの果してきた諸機能を生かした上で,なおその上に新たな水源開発と排水対策を基本とした高度な用排水システムの創出が課題となることを教えている。

 4 クリーク再編の方向と経営発展
 佐賀平野の「クリーク征伐」が叫ばれてからすでに久しい。しかし「クリーク灌漑という方式自体……排水不良を必至とし,生産力高度化の阻害要因となっているのであって,クリークはむしろ整理され,用排水組織を基本的に改変することこそが問題とされなければならない13)」,と早くから指摘されているにもかかわらず,それが速かに進展しない理由は,地域の条件に密着した精緻な用排水体系としての,クリーク水利の改良のむずかしさに求められる。佐賀平野のクリーク再編は,単に部分的な用排水条件の手直しやクリークの埋め立てだけではその十全な効果は期待し難く,先に指摘したクリークと「水囲い」の持つ諸機能を十二分に生かした上で,圃場レベルの水管理と平野全域の用排水体系とが整合的に改善・整備されたものでなければならない。
 ところで,現在,佐賀県農業試験場などにおいて,①土地利用の高度化,②地力再生産システムの確立,③機械施設の効率的利用などを狙いとした新しい圃場モデル14)が考究されている。これは佐賀平野のおかれた立地条件を前提としながら,なおその条件を生かしつつ排水能力を高め,土地の高度利用を図ろうとするものであり,図15にその圃場モデルの一試案が示されている。この圃場モデルは,第1に制水門,調節水路の組合せによって単位ブロック内での任意の用排水ならびに地下水位のコントロールを可能とするとともに,重粘土壤の縦の亀裂にそったクリークへの水田崩落をも防止できるものであること。第2に,揚水ポンプ,埋設管,灌漑バルブなどパイプライン方式によって水の反復利用を可能としていること,第3に,弾丸暗渠(深さ30センチ)とコルゲート管材暗渠(深さ40~60センチ)を重層的に組み合せた排水能力の高い暗渠方式をとっていること,などの点にその特徴を指摘することができる。佐賀平野の水田土壤の水の「降下浸透速度」は,前掲表37に示されているように,わずかに1日当り5.4ミリである。この上に「中型機械」の走行による踏圧(こねまわし15))によってその大幅な低下をきたしていることなどが,水田の排水不良にさらに拍車をかけることとなり,たとえば田作麦などの近年における低収不安定性の大きな要因ともなっているのである。麦や野菜など米以外の商品作物の導入をも前提とした,水田高度利用のための水の「降下浸透速度」の目標値は,表38の試算によって示されている。これによれば,重粘土壤の水田の排水目標値は,高級野菜において実に1日当り200ミリとされており,そのための暗渠負担量は1日当り80ミリとされている。
 水資源に乏しいという佐賀平坦クリーク地帯の立地条件を前提としながら,なおこのような用水と排水,そしてそのための地下水位のコントロールをも可能とする,佐賀平野一円にわたった統一的な「用排水システム」の確立(土地と水の再編)が,現在課題とされているのである。そして,そのような土地と水の再編の上に,どのような高度二毛作体系を今後考えて行くのか,あるいはどのような田畑輪換と水田の輪作体系を創出して行くのか,新しい担い手層(企業的小農としての「家族複合経営」)前進の展望を含めた,かかる具体的な検討が課題となる。

 注
 1)宮島和二郎『米つくりその苦難の歩み』亜紀書房,1969年,94-149ページ。
 2)陣内義人「稲作経営の課題―佐賀平坦水田地帯の場合―」『日本米作論』,御茶の水書房,1970年,第11章。
 3)花田仁伍「日本農業の地域分析―九州―」『経済』No.95,新日本出版社,1972年。
 4)古島敏雄「耕作地主と部落結合」『農業経済研究』第27巻第3号,1955年。
 5)菅良治「進む稲作農家の経営分化」『農林統計調査』農林統計協会,1975年6月。
 6)田中洋介「生産力構造にみる前進と後進」『農業協同組合』1974年6月号。また,吉田武彦「日本の耕地の生産力と施肥」『農業技術』第26巻第5号,1971年では,今日における地力減耗の主要な要因を「窒素肥料の多肥と堆〓肥施用の激減」に求めている。
図16 実験農場で行なった土地基盤整備方式(佐賀県農試)
表38 暗渠排水の目標値(永石案)
 7)武藤軍一郎「多頭化酪農経営における水田飼料作の農法的研究」『九州大学農学部農場報告』第1号,1977年。
 8)鬼鞍豊「土壤からみた九州における水稲収量の地域性」『九州農業試験場彙報』第12巻第3,4号,1967年。
 9)山田盛太郎『日本農業生産力構造』岩波書店,1960年,22ページ。
 10)詳しくは拙稿「クリーク水田地帯における水需要構造のモデル分析」『農業経営研究叢書』第1号,農業技術研究所,1981年,第Ⅰ章を参照。
 11)長智男・黒田正治「水田用水系における管理用水について」(農林水産省別枠研究「農業水利施設系における水管理のシステム化に関する研究」推進会議資料)によれば,圃場整備地区の反復利用率は平均して1.52と計算されている。
 12)井手一浩「『地中耕起・地表不耕起作溝条播方式』による稲・麦連続栽培法」佐賀県農業試験場,1979年。
 13)梶井功「佐賀クリーク地帯における生産力構造の分析」『日本農業生産力構造』岩波書店,1960年,390ページ。
 14)八木義隆「干拓地における農業経営の展開と用排水方式」『農業経営研究』No.29,1978年。
 15)国分欣一他2名「機械作業が水田土壤の透水性に及ぼす影響」『日本土壤肥料学雑誌』第40巻第7号,1969年。

Ⅵ むすび

 佐賀平野の水田農業は,近世初頭に秩序づけられたクリーク網の配置と「水囲い」の水利慣行を基底におきながらも,なおこれをクリーク農業の発達といった視点からみれば,その端緒としての中世代の「湿地農業」から,「湿田農業(16~18世紀,汲桶・長(中)床犂)」→「半湿田農業(18世紀~大正期,踏車・中床犂体系)」→「乾田的農業(Ⅰ)(大正末期~昭和30年代,電気灌漑・改良短床犂)」→「乾田的農業(Ⅱ)(昭和30年代~50年代,北山ダム・動力補水機・中型機械(トラクタ)」という発展の過程を示してきている。そして,この発展が「汲桶→踏車→電気灌漑→北山ダム」という用水手段の変革と乾田化の進展を契機として行なわれている点が,とりわけ注目されるところである。
 今日の佐賀平坦農業が抱えている課題を要約すれば,田畑輪換の可能な新しい圃場システムの創出と,そのような圃場システムの確立を可能とする平野全域にわたる用排水システムの再編整備,さらにこの両者を有機的に結びつける新しい土地と水の「地域的管理組識」の再編であり,そのような統一的な基盤条件の整備のもとに形成される新しい「乾田農法1)」の確立である。
 佐賀平野では現在このような課題に答えるべく,市街化区域を除く要圃場整備面積(2万4700ヘクタール)の51%の地区で圃場整備事業が着工され,すでにそのうちの37%の地区で事業が完了2)している。さらに,新たな水源の開発として筑後大堰の建設,嘉瀬川ダム,城原川ダムの建設も予定3)されている。これらの新たな社会資本投資が,これまで蓄積されて来たクリーク水利と「水囲い」の土地資本ストックの機能をどのように引き継ぎ高め,新しいフローとして発現させていくのかは,ひとえにこの事業がこれまでに分析してきたクリーク農業の諸問題にどのように答え,またそれをどのように改善できるかにかかっていると言っても,過言ではないといえよう。

 注
 1)波多野忠雄・八木宏典「温暖地クリーク水田地帯における農業構造の変貌と農業用水需要構造」『九州農業試験場農業経営部研究資料』No.13,1981年,54-56ページ。
 2)「佐賀県の農業基盤整備」佐賀県農地林務部,1976年。
 3)「九州経済動向資料」第922号,九州経済調査協会,1980年,123-25ページ。