Pollution

List of Articles

足尾銅山の鉱毒問題の展開過程

Author: 菅井益郎
Series: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
Published Year: 1982年
Main Text (PDF version)
 目 次

Ⅰ 鉱毒問題の治水問題へのすりかえ・・・・・・・・・・2

 1 谷中村廃村と遊水池化・・・・・・・・・・2
 2 谷中村復活運動の挫折・・・・・・・・・・7

Ⅱ 鉱毒問題の潜在化・・・・・・・・・・16

 1 洪水,旱害,鉱毒被害に苦しむ農民・・・・・・・・・・16
 2 古河財閥の形成・・・・・・・・・・20
 3 戦争と鉱毒問題・・・・・・・・・・27

Ⅲ鉱毒問題の再燃・・・・・・・・・・33

 1 源五郎沢堆積場の決壊と毛里田村鉱毒根絶期成同盟会の結成・・・・・・・・・・33
 2 公害問題の沸騰と15.5億円の補償・・・・・・・・・・39
 3 掘り返される旧谷中村跡,困難な足尾地域の緑化・・・・・・・・・・45

むすびにかえて―生き返る田中正造の思想・・・・・・・・・・58


Ⅰ 鉱毒問題の治水問題へのすりかえ

 1 谷中村廃村と遊水池化
 田中正造の直訴を引き金として,再び首都の鉱毒世論は高まり,学生や都市知識人が鉱毒被害地を大挙して視察するなど,鉱毒問題は政治問題化の様相を強めた。こうした新たな事態に対処するために政府は,1902年3月17日第2次鉱毒調査会を発足させ,鉱毒事件を体制の枠内で処理する方法について諮問した。すなわち第2次鉱毒調査会においては鉱業継続を前提とした事件処理を目的としていたので,1897年当時のように,被害民側が要求する「鉱業停止」は,もはや最初から問題にはならなかったのである。そうした背景には,この時期満州・朝鮮をめぐる日本とロシアとの対立の激化という国際情勢があった。日露戦争の準備に力を注ぐ政府にとって戦略物資としての銅の増産は重要な政策のひとつであり,とりわけ足尾銅山はその政策の中心となるべきはずの銅山だったのである。
 第2次鉱毒調査会の政府への答申は,この年9月に大洪水が発生したために予定よりかなり遅れて提出されたが,鉱毒事件の処理のために,利根川と渡良瀬川の改修と合わせて,両川の合流点地域に広大な遊水池を設置するという方策は,第2次鉱毒調査会発足時に,すでにうわさとして住民の間に流されていたのだった。しかし遊水池予定地の地域の特定や設置計画の実施時期は,明確にされていなかった。
 渡良瀬川が利根川と合流する渡良瀬川の最下流地域は,栃木,茨城,埼玉,千葉の5県にまたがる一大低湿地を形成しており,常習的な洪水地帯であった。それゆえに足尾銅山の発展によって鉱毒が流される以前は,洪水のもたらす肥料分のおかげで豊かな農業生産を享受していた地域でもあった。遊水池の設置のために最初に廃村計画がもち上ったのは,利根川と渡良瀬川にはさまれた埼玉県北埼玉郡の利島,川辺両村(現在は合併して北川辺町となっている)であった。この両村では上流地域にくらべて鉱毒反対運動への取り組みが若干遅れた。しかし両村の鉱毒反対運動は,鉱毒・洪水被害がしだいに渡良瀬川の下流地域に及び,いっそう深刻さを増していったために,上流地域の運動が権力の弾圧と運動の疲れから急速に弱体化していく中にあって,逆にますます強化されていったのである。
 利島村では1902年1月,前年12月の田中正造の直訴に触発されて「渡良瀬川の流水を清浄ならしむる唯一の方針を変することなく,此の目的を達するに非んば其組織を解かず1)」との決意をもって利島村相愛会を結成した。この年の8月,中央の鉱
毒調査会や内務省の意を受けた埼玉県当局による利島,川辺両村の買収,廃村計画案が表面化したのであるが,両村では利島村相愛会員を中心にこの計画案にたいして激しい反対運動を展開し,10月16日には利島,川辺両村民大会を開くなど,一致団結して抗議行動を行なった。そして埼玉県当局にたいして,「県庁にして堤防を築かずば我等村民の手に依て築かん。従って国家に対し,断然納税兵役の2大義務を負はず」という決議をもって,両村の買収,廃村計画の撤回をせまった。埼玉県当局は,利島,川辺両村の強力な遊水池設置反対運動に押されて,ついにこの計画を断念するに至ったのである。
 翌1903年1月の栃木県の臨時議会でも,栃木県当局が下都賀郡谷中村を対象とした買収費を堤防修築費の名目で提出した。幸いにも同案は反対多数によって否決されたのであるが,その時点になっても遊水池の予定地や規模,工事概要などの具体的内容はおろか,遊水池設置計画自体さえ未だに公表されていなかった。計画が正式に発表されたのは6月の第18回帝国議会においてであった。それと前後して谷中村民は,隣接する利島・川辺両村民の物心両面にわたる支援を受けて,谷中村廃村反対運動を強めていった。田中正造は1902年から3年春にかけて利島・川辺両村の買収反対運動に奔走していたが,両村の買収,遊水池化が農民の運動によって撤回されたので,03年夏以降は谷中村の買収,廃村反対運動を指導するために,ついには同村に住みついたのであった。
 遊水池設置計画に対する農民の抵抗はきわめて根強く,予定地の一部をもつ群馬県と茨城県では,遊水池設置計画が具体化されるに至らず立ち消えになった。しかし県内に鉱毒,洪水の元凶である足尾銅山を抱える栃木県当局は,1904年12月の県議会に,再び谷中村買収費を提案した。折しも日本はロシアとの交戦中であり,世論はこのことでもちきりであった。そのために首都の世論は一村が買収,廃村になることに,ほとんど目を向けることがなかった。ここに谷中村の不運があった。
 12月9日夜,白仁武県知事は突如1904年度の土木治水費の追加予算として,78万5390円を提案した。この提案に関する審議は翌10日に行なわれたが,それは当時の年間の経常予算に匹敵するほどのあまりに多額の追加予算であったために,心ある議員は,臨時議会を開いて充分な審議を尽すよう要求した。だがそれは賛成少数で否決されてしまった。少数派議員の質問により,治水堤防費の内,48万5000余円が下都賀郡谷中村の堤防修築費,すなわち谷中村買収費であることが明らかにされた。大久保源吾県議,鯉沼九八郎県議などが次々に反対演説に立った。船田三四郎県議は「谷中村の買収と云ふものの性質から見ますると,治水の方法を変更するに過ぎない,治水の方法を以て其治水の目的たる処の人民をまるで滅亡することは道理上なすべきことであるか2)」と述べ,谷中村の買収ではなく,谷中村の堤防の修復こそが先決問題である,と県当局の遊水池設置案の反人民的性格を難じたのであった。県当局の方針,すなわちそれは第2次鉱毒調査会,および政府当局の方針でもあったが,谷中村の買収,廃村の理由は,利根川の逆流洪水によって谷中村の堤防が頻繁に破れ,その度に多額の堤防修築費を県費で支出せねばならなかったので,これを避けるために谷中村を遊水池にしてしまおうというものであった。ところが実際には県当局は1902年8月の大洪水による破堤箇所も修復せず,そればかりか県当局が修復工事をしないので村民が貧しい生活を切りつめて自主的に修復した堤防を,県当局は乱暴にも破壊し,あまつさえ破壊費用まで農民に要求してきたほどであった。県当局は堤防を破れたままにしておくことによって,農民の生活を奪い農民たちが村を捨てて出ていくことを期待したのである。
 12月10日の深夜,栃木県会は秘密会を開き賛成18,反対12でこの治水堤防費という名目の谷中村買収案を強行採決してしまった。すでに前夜までに県当局によって議員にたいする買収工作は完了していた。かつて1903年1月の臨時議会では反対にまわった議員たちの多くも,今度は賛成票を投じたのである。だが谷中村の買収費を治水堤防費から支出することは,予算執行の目的や手続きからいってまったく法律を無視したものであった。白仁武知事は,この不当な谷中村買収費を提案し,議員を買収して強行採決を行なった功績によって,1905年3月政府から200円の賞与金までもらっている。こうした事実からも,われわれは,谷中村の遊水池化政策にたいしていかに農民の反対が強かったかを窺い知ることができる。
 谷中村買収費48万円のうち12万円は災害土木費国庫補助金で,36万円は県費でまかなわれた。しかし48万余円がすべて谷中村の買収費として村民にわたったわけではない。5万円はかつて下都賀郡長であった安生順四郎が,巧妙な手口を使って村債を発行させ,私腹を肥やしたときに銀行から借り入れた資金の返済にあてられた。2万5000円は告訴問題にまで発展した県会議員の賄賂に使われたが,使途不明金として処理された。残りの約40万円が谷中村の買収費ということになるが,そのうちおそらく3~4割が遊水池設置に反対する村民の切り崩し工作に使われたといわれている。したがって実際に村民が手にしたのは,20数万円ということになるが実際の買収総額ははっきりしない。一部の富裕な村民を除いて,村民の大部分の土地は買収以前に借金の抵当に入っていたので,ごくわずかな移転料を受けとっただけであった。買収価格は,いずれも10アール当り,畑30円,田20円,宅地100円,家屋1坪移転料共8円,墓地1円にすぎなかった。
 栃木県当局は1905年に入るやただちに谷中村買収の準備作業を開始した。当時の谷中村は,戸数約450戸(堤内が約390戸),人口約2700人(堤内約2000人),面積約1200ヘクタール(堤内約1000ヘクタール)であった3)。
 400年の歴史をもつ天産豊かな谷中村の農民にたいして,栃木県知事白仁武は,1905年3月国有地を貸付けるから移転せよ,との告諭を送付した。しかし農民にとっては先祖伝来の土地を離れることには大きな抵抗があったし,移転先で新たに開墾して農用地とするまでの苦労を考えれば,いかに県当局が移転地のすばらしさを説いてもだれも移転したくはなかった。県の役人たちは,抵抗する谷中村民にたいしてあらゆる手段を用いて勧誘,切り崩しをはかった。県当局は遊水池とすることが決った谷中村にたいしては,そこに多数の村民が現に農業を営み住んでいるにもかかわらず,もはや堤防修復費を支出しようとはしなかった。それゆえ,農民は自らの生活と生命を洪水から守るために前年に引続き自力で堤防の修復を行ない,移転反対の決意を示した。農民のしたたかな抵抗の精神がそうさせたのである。
 こうした谷中村民の廃村反対運動にたいして,1902年に埼玉県当局の買収・廃村計画をはね返した利島・川辺の両村民は,かぎりない支援を送った。1905年1月両村民は貴衆両院議長にたいして「谷中村買収廃止請願書」を提出した。また谷中村民と共に栃木県知事にたいして繰り返し抗議行動を行なった。この抗議行動の中で両村の活動家が逮捕されたこともあった。また両村では1905年の春,谷中村民が決壊した堤防を自力で修復し急水留と称する仮堤防をつくった際に,数百人の応援人夫を送って谷中村民を助けたのであった。
 だが利島,川辺両村民と谷中村周辺の有志を除くと,大部分の農民活動家たちは谷中村廃村反対運動から遠ざかっていた。今や谷中村民の味方は谷中村周辺の農民と東京の言論人,宗教人,社会主義者,それと田中正造の国会議員時代の同志の一部になってしまったのである。この数年前までは,渡良瀬川沿岸町村から数千人から1万人を越す農民が結集し,多数のすぐれた活動家たちを生み出した鉱毒反対運動は,いったいどうなってしまったのであろうか。
 大部分の活動家たちは打ち続く鉱毒・洪水被害のために生活困窮に陥り,運動する余力を失ってしまっていた。そうした状態にあるとき,1902年夏の大洪水が鉱毒に侵されていない大量の山土を鉱毒被害地に運んできた結果,鉱毒被害は稀釈拡散され1902年の秋作,翌03年の夏作については,ある程度まで農業生産の回復を見るところとなり,農民の間には鉱業停止要求よりも農業生産を安定化するための治水を求める声が高まった。そこに政府から利根・渡良瀬川両川の大改修と洪水を防止するための遊水池の設置計画が発表され,あたかも実効あるもののように宣伝されたことから,遊水池設置の犠牲になる谷中村とその周辺地域以外の農民は,政府の治水計画に乗ぜられていったのだった。まさに鉱毒問題の治水問題へのすりかえ,あるいは転換ともいうべき事態となったのである。だが政府の治水計画をやむなく承認した農民たちも,谷中村とその周辺を遊水池化することによってほんとうに洪水が防止されるか否かについてまでは深く検討しなかった。彼らは自分たちが洪水から救われるならば,谷中村民の犠牲も仕方のないことと思うようになったのだった。こうした農民の意識は,単に農民のエゴイズムだとして片付けてしまうわけにはいかない。先述したように,この谷中村廃村に至る過程は,正に日露戦争の真最中であり,国家権力を握る者たちは,社会のあらゆる局面で日露戦争に向けて国民的な統合をはかっていた時期だったのである。農民活動家たちの全体的な変節も,こうした時代的背景を考慮してはじめて解明しうるのである。このように考えると,農民の鉱毒反対運動を挫折させ,谷中村を滅亡させたのは日露戦争であった,さらにいえば日露戦争をおこしたものたちであった,ということができよう。田中正造は後に,政府は「日露戦争中に谷中村を占領」したのだと述べている4)。
 さて再び元に戻り,谷中村の廃村・滅亡の過程を見ることにしよう。栃木県当局は1905年夏以降,役人たちを谷中村に送り込み勧誘と恫喝によって農民たちを移転させていった。谷中村では1902年以降かつてからあった村内の対立と洪水被害による財政の欠乏から,村長が不在であり下都賀郡の書記が村長の職務を管掌していた。県知事はこの管掌村長に命じて,1906年4月村会で谷中村を廃止し,隣の藤岡町に合併する決議を行なわせようとしたが,村会はこれを否決した。ところが県知事はこの決議をまったく無視して,7月1日町村制の下に成立していた谷中村を廃村にし,藤岡町に合併することを発表したのであった。しかし行政村としての谷中村は廃止されても,未だ140世帯1千人近い人々が残っていた。栃木県当局の移転反対派農民に対する切り崩しは,なりふりかまわぬものであった。当局は田中正造の右腕ともいわれた左部彦次郎を抱き込み,左部を通じて有力な農民活動家を次々に県側に寝返らせた。移転反対派農民は,1907年はじめには約70戸400人にまで減少したのである。
 1907年1月26日政府は谷中村の残留民に対して,ついに土地収用法の適用の認定公告を出した。田中正造をはじめ残った谷中村民は,利島・川辺両村の農民や東京の支援者の協力の下に,土地収用法の適用を撤回させようとしたが,政府も土地収用法の執行に当る県当局も農民たちの要求を一蹴し,移転をあくまで拒否していた堤内16戸にたいして強制破壊を実施したのであった。同時に堤外地に残留していた3戸は土地収用法によることなく,やはり強制的に破壊されたのであった。田中正造や木下尚江などの支援者の見守る中で,県の役人は官憲を配置し多数の日雇い人夫を使って,自分の家の中に座りこんでいる残留民を引きずり出し,次々に家屋を破壊した。病人が居ようと,乳飲み児や老人が居ようとも,役人たちは文字通り強権的に追い立てたのだった。こうして116人の農民は,住む家がないまま外に放り出されたのである。農民たちは非暴力主義を貫き,最後まで抵抗の意志を示した。彼らは役人や官憲が引きあげると,再び元の住居跡に雨露をしのぐだけの仮小屋をつくり,以後10年の長きにわたって谷中村復活を目標として住み続けるのである。
 400年の歴史を持つ谷中村の滅亡は,徹頭徹尾権力の手にかかってなされた。土地収用法の適用を決定した責任者は,第1次西園寺政友会内閣の原敬内務大臣であった。原は1918年に日本ではじめての政党内閣を組閣し,「平民宰相」と称されている政治家であるが,決して平民の代表であったわけではない。彼は足尾銅山主古河市兵衛が,その子を養嗣子にした陸奥宗光(田中正造の国会質問によって,鉱毒問題がはじめて社会問題化した1891年当時の農商務大臣)の秘書であり,谷中村が廃村に追いやられる1905年から06年にかけては,古河鉱業会社の副社長を勤めた人物であった。それゆえに若き日の社会主義者荒畑寒村が,強制破壊の直後に一気に書き下した『谷中村滅亡史』において,谷中村事件は「資本家と,政府と,県庁との,結托共謀せる組織的罪悪」であると断言し,「嗚呼悪虐なる政府と,暴虐なる資本家階級とを絶滅せよ,平民の膏血を以て彩られたる,彼等の主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠を以て,その頭を飾らしめよ5)」としめくくったのも,単なるアジテーションではなく,事実に基いたことだったのである。

 2 谷中村復活運動の挫折
 (1) 不当廉価買収訴訟裁判
 旧谷中村残留民は,住む家を破壊された後も仮小屋をたてて移転しようとはしなかった。谷中村民の抵抗を見守り,その闘争を支援してきた東京の有志たちは,強制破壊中には交代で残留民の見舞に訪れた。彼らはそこで強制破壊の実態や残留民の生活に直接触れて残留民に同情し,谷中村救済会を結成した。救済会には島田三郎,三宅雄二郎,高木正年,高橋秀臣,田中弘之,今村力三郎,花井卓蔵,卜部喜太郎,塩谷恒太郎,安部磯雄,逸見斧吉など著名な政治家,弁護士,ジャーナリストが集っていた。ただし木下尚江だけは救済会に加わらなかった。救済会の会員たちは少しでも残留民の役に立ちたいと願い,県当局の用地買収価格が不当に安かった点に着目して,土地収用法の規定に基いて不服申立ての訴訟を起すことを残留民に提案した。しかし残留民たちは,買収価格が安いことに不満だったのではなく,谷中村の買収・廃村そのものに反対だったので,買収価格の問題に収斂させてしまうような訴訟には消極的であった。もとより田中正造は強制収用に関わる補償金額を争うことには否定的であった6)。それにもかかわらず残留民や田中正造がこの提案に同意することにしたのは,日頃の救済会の人々の善意と熱意とを敢て無視することに抵抗を感じたからであった。
 こうして谷中残留民と,強制収用に備えて残留民から若干の土地を買受けて新しく谷中村の土地所有者となっていた田中正造や東京の支援者たちは,1907年7月29日宇都宮地方裁判所栃木支部にたいして「土地収用補償金額裁決不服の訴」を起した。これが「不当廉価買収訴訟裁判」と称されているものである。この訴訟が残留民の谷中村復活闘争の中でいかなる位置を占めていたかということについては,充分検討してみなければならない。結果的にみれば,この訴訟が残留民の闘いのひとつの大きな柱になっていたのは事実であるが,少なくとも当初は残留民にとっては積極的な意味をもっていなかったし,最後まで彼らにとっては負担であった。しかし一面では,この裁判の継続と谷中村民を支援する広範な首都の世論があったがゆえに,残留民が強制的に立退かされることなく,そのまま住み続けることができたのだとすれば,この裁判もそれなりの意義はあったということになる。田中正造と残留民が控訴を決意したのも,そうした理由からであった7)。
 裁判は10月7日に第1回公判が開かれたが,その後この訴訟を提唱した谷中村救済会が内部の方針の違いから消滅してしまい,田中正造以下32人の原告と地元栃木の弁護士だけで裁判を行なうことになった。4年後の1911年6月,原告,被告(栃木県当局)双方の代理人の和解申立てにより裁判長は和解を勧告したが,むろん田中正造や残留民は和解を拒否し,弁護団を立てなおして訴訟を続行した。1912年4月20日第1審の判決が下された。それはまったく「申し訳け」程度の勝利で,実質的には何の得るところもなかった。残留民と田中正造は控訴するかどうかについて控訴期限のぎりぎりまで検討し,6月12日東京控訴院に控訴した。控訴審では中村秋三郎が主任弁護士を無報酬で引き受けた。彼は谷中村救済会の高名な弁護士たちとは違って,残留民のさまざまな法的問題にも助力を惜しまなかった。控訴審では7年間に22回の公判が開かれた。この間1913年9月4日に田中正造が波乱に富んだ生涯を終え,訴訟は正造の未亡人である田中カツが引き継ぐなどの事態も生じた。控訴院は1918年8月18日きわめて不十分ながらも原告側の請求を認めて,強制収用時の県の買収価格の約1.5倍を公正な価格と認定し,県にその差額と利子分を支払えとの判決を下したのであった。
 12年にわたる不当廉価買収訴訟が終結したとき,すでに残留民たちの谷中村復活闘争も終りを遂げていた。それゆえこの裁判が鉱毒反対運動の最後の幕を閉じたのだといってもよい。次にわれわれは谷中村復活に賭けた田中正造と残留民の現実の闘いと,その挫折を余儀なくさせた渡良瀬川改修計画について,簡単に見ておくことにしよう。

 (2) 渡良瀬州の改修
 (イ) 河川法の適用 政府は谷中残留民を立退かせるために,官憲を使っって日常的な嫌がらせを行なったが,これに動じるような残留民たちではなかった。そこで政府は谷中村残留民を立退かせるために,1908年7月25日,旧谷中村に河川法を適用したのである。しかしこれも田中正造と残留民の抵抗によって目的を達することができず,かえって残留民や旧谷中村民が,耕作や漁業のために旧谷中村跡へ立ち入ることを認める結果になった。というのも栃木県当局が村民の移転に際して,元の農地での耕作を認めるとの口約束をしていた一方,河川法では耕作や漁業のための占用願が認められれば,河川敷を合法的に利用できると規定していたからである。
 とはいえ河川法の適用は,その中に住み続ける残留民にとっては非常にきびしいものであった。現に住んでいる仮小屋やその他の工作物一切も県当局の許可を得なければならなかった。田中正造と残留民は内務大臣に河川法適用の不当を訴える請願書を出したり,知事や県議会にたいして河川法適用を取消すよう要請した。これに応えて県議会は,1908年12月14日「河川法の適用告示を取消すべし」との意見書を採択すると同時に,田中正造の草案になる利根・渡良瀬両川の治水に関する意見書を全会一致で決議している。しかし県議会の決議にもかかわらず,栃木県当局と官憲による残留民追い出し方針は変らず,残留民が耕作をするためにわずかな仮堤防をつくっても妨害・破壊を行なった。また実際に仮小屋をたてかえた2人の残留民と,田中正造の死後,彼を祀る田中霊祠を設置した3人の残留民らが河川法違反で逮捕され,それぞれ20円の罰金刑に処せられたのである。
 (ロ) 渡良瀬川改修のねらい 残留民と田中正造は,旧谷中村に河川法が適用された翌1909年,彼らの目標とする谷中村の復活を根底から掘り崩すような渡良瀬川改修計画に直面することになった。政府はこの10数年前から,利根・渡良瀬両川の洪水を予防するための改修工事を計画していたが,日露の対立の激化,日露戦争への突入という状況の中で,財政的に困窮していたために両川の改修はなかなか進展しなかった。渡良瀬川改修案は第2次鉱毒調査会の鉱毒事件処分案の中心部分をなすものであったが,日露戦争中に谷中村を廃村にし,そこに住む農民をなかば強制的に追い出しただけであった。だがもともと治水の根本思想を欠いていた谷中村の遊水池化が洪水を防ぐのに役立つはずがなかった。それに計画では利根・渡良瀬両川の大改修と旧谷中村の3~4倍の広さの遊水池がセットになって,はじめて洪水予防に役立つという見込みだったのだが,谷中村を廃村にしただけであったから洪冰はかえってひどくなったのである。とくに谷中村残留民の家屋と土地が強制収用された直後の1907年8月の洪水は,利根・渡良瀬両川の下流一帯に大被害を与え,谷中村の遊水池がまったく無効であることを実証したのだった。
 政府は利根,渡良瀬両川の大改修なくして洪水を防止できないことを痛感し,かねてより計画してきた両川の大改修を実施に移すことにした。利根川の改修は下流から着手され,その第1期工事は,鉱毒被害民が第4回目の「押出し」(大挙上京請願運動)を決行し,官憲の大弾庄(川俣事件)で挫折を余儀なくされた1900年に着手されていた。日本ではこの年以降河川改修の方法が,低水工法から高水工法に全面的に転換された8)。高水工法というのは,堤防を高くすることによって洪水時の最大流量を河川の中に押し込め洪水を防ぐ工法であり,これに対して低水工法というのは,一定の流量以上に増水した場合は,堤防を越えさせ低湿地一帯に水をためて遊水地帯とし,それによって下流の流量を調節する工法である。いわば遊水地帯の犠牲において下流の洪水被害を最小限にするやり方といってよい。高水工法は土木技術上から難しいというだけでなく,工事費の点からきわめて高くついた。低水工法の場合は,広大な水害常習地帯を前提としてはいるが,大規模な土木工事は必要としなかった。
 明治政府は当初舟運を重視する立場から,オランダから低水工法の技術を導入して運河や低水路の開削を行なったが,内陸鉄道が発達するにしたがって,舟運の重要性が小さくなったので1900年以降は,もっぱら洪水対策上から全国的に高水工法を採用したのであった。渡良瀬川が利根川に合流する地域は,江戸時代から水害常習地帯であったが,それは徳川幕府の利根川にたいする治水方針が,左岸(下流に向って左側)の堤防を低く,右岸を高くすることにより,舟運に必要な利根川の流量を維持すると同時に,右岸の水害を防ごうとするものであったからである。前述したように明治政府も基本的にこの方針を受け継いだといえるが,鉱毒被害さえなかったならば,また煙害によって渡良瀬川源流地帯が荒廃して降雨から出水に至る時間が短縮されたり,多量の土砂による河床の上昇がなかったならば,渡良瀬川下流地帯を無人地帯にする必要はなかったのである。なぜなら江戸時代から利根川左岸の渡良瀬川下流地域の人々は,徳川幕府の治水対策の被害者であったために,利根川の逆流洪水に備えた生活様式を工夫していたからである。したがって足尾銅山の鉱毒被害さえなければ,利根川の治水対策を完全にすることによって,この渡良瀬川下流地域は,きわめて肥沃な農耕地帯として存続しえたのである。
 問題は利根川からの逆流洪水にあった。その原因は,東京市街を貫流して東京湾に注いでいる江戸川の流域を,洪水と足尾銅山の鉱毒の被害から守るために,利根川から江戸川への分流口である関宿の石堤を狭めたことにあった。谷中村廃村事件以降の田中正造が何よりも強調したのはこの点であったし,彼の晩年の約10年間の活動は,谷中村復活を実現するために関宿の石堤を取払って,利根川の水を江戸川に流し込むという治水方針の実現に向けられていたのであった9)。
 かつては渡良瀬川と利根川は別々に東京湾に流れ込んでいたが,その当時の渡良瀬川の本流は江戸川であった。徳川幕府は現在の利根川の下流部にあたる河川の舟運を維持するために,人工的に利根川を少しずつ東へつけ替えついに渡良瀬川に結び,赤堀川を人工的に開削して常陸川に落し,さらに鬼怒川,小貝川を合流して銚子から太平洋へ流れ込ませたのであった。これが利根川の瀬替,東遷と呼ばれるものであるが10),注意しておかねばならないのは,この利根川の東遷は,治水対策というよりも舟運のための流量維持を主目的になされたという点である。したがって銚子方面に流れる水は,利根川の分流にすぎず,江戸時代末期までその本流は,渡良瀬川の下流部となっていた江戸川を通じて東京湾に注いでいたのである。江戸川を通じて東京湾へ注ぐ流路廷長は,現在の利根川を通じて銚子から太平洋へ注ぐ場合の半分であり,逆に川の勾配は2倍となるから,それだけ水排けがよくなるのは自然の理であった。したがって田中正造が,江戸川の流頭呑口(関宿の分流)を狭めることを前提としてたてられた政府の利根・渡良瀬両川にたいする治水方針を全面的に批判したのは当然のことであったといえる。政府は明治時代の初期から江戸川の洪水対策を重視し,一貫して江戸川の流頭呑口を狭めてきたが,とくに鉱毒問題がいっきょに一大社会問題化した1896年夏の大洪水以降,著しく狭めたのである。そのために渡良瀬川下流地帯の逆流洪水は,いっそうひどいものになってしまったのである。
 そこで政府は,洪水対策と鉱毒問題の鎮静化の一石二鳥の効果をねらって,利根川と渡良瀬川の両岸について高水工法を施し,それまでの不特定の広大な遊水地帯をなくし,谷中村などの特定地域のみを遊水池(当時は潴水池と称した)として堤防で囲み,利根川が減水するまでそこに増水した渡良瀬川の水を一時的に溜めておくという計画をたてたのであった。そうすることによって政府は,江戸川と利根川下流地域の洪水を防ぐとともに,渡良瀬川下流地域の逆流洪水被害を減少させようとしたのである。また同時に洪水によって押し流されてくる鉱毒を広大な遊水地帯に拡散,堆積させずに,旧谷中村一帯の遊水池に沈澱させようとしたものといえる。ここに「鉱毒問題の治水問題への埋没」の真の原因があった。
 政府は日露戦争の過程で国民的統合を実現し,農村の指導者たちにも広く国家意識を植えつけることに成功したことから,それに乗じて鉱毒と洪水の被害によって疲弊した農民たちを分断し,彼らを体制内に取り込む方針をたてたのである。そして巧みな宣伝と説得活動により,農民側の連帯を急速に破壊していった。こうして旧谷中村の上流の農民たちは,利根川と渡良瀬川の高水工事が完成することによって,洪水のもたらす鉱毒被害が減少するのであれば,下流の一部の農民が犠牲になるのも止むを得ない措置である,と考えるようになっていった。かつて田中正造の支援を受けて当選した群馬県選出の武藤金吉代議士や,鉱毒反対運動の活動家の幹部であった野口春蔵,大出喜平などといった人々が,渡良瀬川改修促進運動の先頭に立ったのである。もはや上流と下流の被害農民たちの利害は完全に相容れないものになってしまっていた。
 (ハ)渡良瀬川改修工事計画とその実施 1909年政府は,利根川の第2期,第3期の改修工事と合わせて,渡良瀬川の改修工事計画を発表した。これを受けて栃木,群馬,茨城,埼玉の4県は,渡良瀬川改修諮問案を可決し内務省の計画に同意したのである。翌1910年3月政府は,第26帝国議会に渡良瀬川改修案を提出した。これにたいして田中正造をはじめ旧谷中村残留民や周辺町村農民は,各県会にたいする渡良瀬川改修反対運動をおこすとともに,首都における世論対策,議会内においては,長年にわたって田中正造や被害民の運動を支援してきた島田三郎などを通しての質問,追及を行なった。しかしながら,彼らの反対運動は効を奏さず,議会は総工費750万円,14ヵ年継続事業による渡良瀬川改修案を可決成立させたのであった。
 この改修計画は11),渡良瀬川に注ぐ思川などの各支川も対象としていた。その全流域面積は合計約3700平方キロメートル,流路廷長約830キロメートル,航路廷長約140キロメートル,灌漑反別は約1万9600ヘクタールに上っていた。またこの改修計画では,渡良瀬川の水害区城は沿岸4県6郡にわたり,その面積は約4万5900ヘクタールに及ぶものと想定している。改修計画の中でもっとも重要なものは,旧谷中村の西側を流れる渡良瀬川の河道(海老瀬の七曲りといわれる渡良瀬川の曲りくねった部分)を廃止して埋立て,代りに藤岡町の高台を開削して新川を疏通させ,渡良瀬川を旧谷中村の中に導く工事であった。この工事は旧谷中村を中心にして,その周辺の土地と赤麻沼とを合わせて周囲約27キロメートル,面積約3000ヘクタールという広大な遊水池をつくるための一環であった。遊水池の周囲には,堤塘が築かれることになっていた。その他渡良瀬川とその支川の堤防工事,付帯工事として数多くの水門,水路工事が計画されていた。
 改修工事は1910年度に着手されるが,この年の8月に発生した稀にみる大水害によって,1896年の洪水を基準にして策定されたこの計画は,早くも大幅な変更を余儀なくされた。改修は予定より4年遅れて1927年3月にようやく完工した。総工費は当初予算より増加し,1926年3月末の段階で1140万円の巨額に達した。その内訳は国庫支出金が793万5000円,関係4県負担金346万5000円(栃木県192万6000円,群馬県54万円,埼玉県46万8000円,茨城県53万1000円)であった。工事対象地域は4県2町21ヵ村にわたり,買収用地面積は2667ヘクタールに上った。第1次用地買収は1911年から12年にかけて行なわれたが,これに反対する農民も多く,なかなか進展しなかった。この事情を『渡良瀬川改修工事概要』は,「協議開始後或ル一部ニ於テハ買収価格ノ低廉ニ失セリト称へ,或ハ郷党離散ノ苦衷ヲ訴ヘシモノアリシモ,国家永遠ノ大事業ニシテ,将来ノ水害ノ除却ニ想到セバ,一部ノ犠牲又止ムヲ得ザルヲ覚リ,以後漸ク応諾ヲ得テ3月末日(1912年)ニハ九割ノ契約締結ヲ見タリ12)」と記している。第2次用地買収は1912年から13年にかけて行なわれたが,このときは買収対象地域に旧谷中村の堤外地が含まれていたために,旧谷中村残留民18名が最後まで用地買収を拒否し,その部分は買収されなかった。第3次用地買収は1913年から14年まで行なわれた。
 これら3回の用地買収において,価格が低廉すぎるとして民事訴訟をおこした人々もいたが,工事担当者にとっての因難は,旧谷中村残留民の存在であった。残留民たちは田中正造の死後も谷中村の復活をかけて,すでに遊水池化工事の始まったその地に住み続けていた。内務省はこうした旧谷中村残留民にたいして,繰り返し立退きを強要した。そして1915年11月ついに彼らの所有する堤外地についても土地収用法を適用した。その一方1916年5月以降になると,内務省当局は残留民の支援者たちを通して立退き問題の解決を求めて,しきりに接触してきたのである。残留民はそれも拒否したが,結局同年11月に県当局が立退き命令を出し,強制執行の
構えを見せたために,翌1917年1月19日止むなく県当局との問に移住覚書きを取交し,2日末日までに県当局が用意した土地に移転したのであった。なお移転の条件として,現在の耕作地と不用堤を貸付けること,および就業費,物件取払費などとして1戸当り60円から120円を支給することを認めさせた。こうして残留民が旧谷中村から藤岡町などの周辺に上った翌1918年8月,渡良瀬川改修工事の最難関である藤岡町の高台を開削する新川築造工事が完成し,「上流被害民の万歳の声のうちに疏水式が行なわれた13)」のであった。
 1905年以降谷中村を追われて他郷に移転した人々の中には,さらにオホーツク海に近い極寒の北海道佐呂間町に移住した人々もあった。彼らがその後60余年にわたって行なった帰郷運動については,後で触れることにしよう。また栃木県北部の那須高原の荒野にも,多くの旧村民が移住した。開拓に成功した人もいるが,失敗し旧谷中村に戻って残留民と同じように,仮小屋に住んだ人々(復帰者)もいた。旧谷中村周辺に移転した人々は,遊水池の中のかつての自分の土地を耕作したり,共有地で萱を刈ったり,赤麻沼で漁をしたりして生活をたてた。そうした中で旧谷中村残留民たちは,廃村となり遊水池とされた土地に10年以上にわたって住み続け,身をもって谷中村遊水池化の無効性を訴えるとともに,政府の治水方針の誤りと鉱毒問題の忘却とを糾弾し続けたのであった14)。

 注
 1)石井清蔵「義人田中正造翁と北川辺」(神岡浪子編『資料近代日本の公害』 新人物往来社,1971年)165ページ。
 2)栃木県『通常県会会議日誌』1904年,242ページ。
 3)谷中村周辺は利根川と渡良瀬川の水害常習地帯であったため,村の周囲を堤防で囲んで水害を防いでいた。こうした堤防で囲まれた集落を輪中という。堤内は輪中の中の土地を指し,堤外は輪中の外側の土地を指しており,洪水時には冠水する。
 4)『田中正造全集』第4巻,岩波書店,1979年,434ページ。
 5)荒畑寒村『谷中村滅亡史』1907年平民書房(即日発売禁止処分にされる),覆刻版明治文献,1963年,172ページ。改訂覆刻版新泉社,1970年,170ページ。
 6)島田宗三『田中正造翁余録』上,三一書房,1972年,150ページ参照。
 7)島田,前掲書,下,52ページ。
 8)小出博『日本の河川研究――地域性と個別性』東京大学出版会,1972年,90ページ参照。
 9)田中正造の治水論については,『田中正造全集』第4巻,第5巻を参照。
 10)利根川の瀬替,東遷については小出博,前掲書44-93ページ参照。同『利根川と淀川』 中央公論社,1975年,150ページ,184ページ。布川了「渡良瀬川改修工事と鉱毒事件」(渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件』1号,1978年7月所収)を参照。
 11)改修計画については内務省東京土木出張所『渡良瀬川改修工事概要』1925年を参照。
 12)同上書,14ページ。
 13)島田,前掲書,下,279ページ。

Ⅱ 鉱毒問題の潜在化

 1 洪水,旱害,鉱毒被害に苦しむ農民
 利根川と渡良瀬川の改修は内務省の直轄事業として行なわれたが,その工事はきわめて大規模であったので,国民の負担も大きかった。利根川の改修は,1900年に下流の第1期工事に着手してから30年の歳月と6734万円という巨費を投じて,1930年に一応の完成を見た。また渡良瀬川の改修工事は,前述したように1910年から1140万円の工費をかけて,17年後の1927年に竣工した。これらの巨額の工事費のうち,渡良瀬川と利根川下流に関する改修費のかなりの部分は,足尾銅山の操業にともなう鉱毒,洪水被害の対策のために支出されたものと考えられるから,足尾銅山に起因する工事費の増加分が,どれくらいの額に上っていたのかを算定することはきわめて難しい。だが鉱毒問題が一大社会問題となったために,政府がその鎮静化をはかる目的で洪水対策を重視し,さらに江戸川へ鉱毒が流れ込むのを防ぐために江戸川の流頭呑口を狭め,その結果生じた利根川下流域の洪水を軽減するために,谷中村を遊水池にする治水方針を策定したのだとすれば1),足尾銅山の操業は国家の財政支出を増加させ,それだけ国家の国民生活へのサービスを低下させたのだといえよう。そしてこのとき策定された治水の基本方針が,現在に至るまで継承されてきたことを考えれば,足尾銅山の操業は巨額の治水費の累積という形で,直接国民全体に大きな負担を強いてきたのである。したがって利根川と渡良瀬川の治水方針を見ただけでも,鉱毒問題は未だに終ってはいないのだといえる。
 たしかに利根川と渡良瀬川の改修後は,農作物が全滅するというような激甚な被害はなくなった。しかしそれは農民たちが用水の管理に特別の注意を払ったからでもある。農民たちは足尾地方で大雨が降るとすぐさま用水の取入口を閉じたし,また日常的には田圃の水の取入口に鉱毒溜と称する鉱毒泥の沈澱池を設置したり,取入れた用水を田圃の周囲にめぐらしたりして,鉱毒被害を軽減する工夫をしていた。用水の管理は1日たりとも怠ることはできなかった。鉱毒溜の鉱毒泥は少なくとも1年に1回以上,場合によっては数回もさらわねばならなかった。用水の取入口の田圃には必ず鉱毒溜がつくられていたから,その数はきわめて多く,鉱毒泥の浚渫はたいへんな労力を必要とした。この浚渫された鉱毒泥はどこにも捨てることができなかったので,田圃のあちらこちらに積み上げられた。農民はそれを毒塚と呼んだ。この毒塚もつい最近まで,被害地の田圃ではよくみられた。なお鉱毒溜や鉱毒泥沈澱用の水路は現在でも残っており,もっとも上流地域の被害地で今も鉱毒被害を受けている群馬県太田市の毛里田地区で見ることができる。
 日常的な水の管理以外にも,農民たちは鉱毒被害のはなはだしい田圃については天地返しを行なったり,新しい山土を入れたりした。さらに土壌を改良するために石灰を投入し,鉱毒被害に強い品種を選ぶとともに大量の肥料を使用して農業生産の回復に努力した。農民たちの無償の労力と多額の自己資金の投下によって、農業生産は少しずつ回復していったが、鉱毒被害を受けない地域と比べれば生産性は依然として低かった。そうした事態にたいして農民たちは諦めて傍観していたわけではない。渡良瀬川の改修のために谷中村の遊水池化も止むをえない,と思っていた谷中村より上流地域の人々も,灌漑用水を取水している渡良瀬川の汚濁には激しく抗議し,古河鉱業はもとより,関係各官庁にたいして水源涵養を強く訴えた。渡良瀬川と利根川にはさまれた両毛地方の農地の灌漑用水は、ほとんど渡良瀬川に依存していたので,渡良瀬川の汚染は,この地方の農民にとって死活問題であった。灌漑用水の取水口は堰と水門が設置され,そこから水路で遠くまで導水されていた。水利施設の主要なものは渡良瀬川の改修にともなってつくりかえられたが、各水利組合や個々の農民の負担による工事も多かった。渡良瀬川には,上流から岡登堰,待堰,矢場堰,三栗谷堰などの取水用の堰があり,それらの管理は各水利組合が行なっていた。農民たちは古河鉱業や関係官庁にたいする抗議行動や交渉などは,ほとんどこの水利組合を通して行なった。
 かつて農民たちは足尾銅山の鉱業停止を目標に鉱毒反対運動を行なったが,谷中村の廃村と遊水池化,渡良瀬川改修工事の開始という状況の中で,その目標を一歩後退させて治水と灌漑用水の整備においたのだった。現実に足尾銅山が発展すればそれだけ下流に流出する鉱毒は増えるし,また製錬ガスによる森林の荒廃も進むことになった。足尾山地は関東地方にも有数の多雨地帯であったので,かつては樹木の成育はきわめてよかったが,しかしそれだけに煙害による森林の荒廃によって,表土の流出は加速度的に進み,容易に岩盤が露出してしまったのである。その結果足尾山地の保水力は著しく低下してしまった。そこに洪水と旱魃被害が激化する必然性があったのである。1900年から1950年までの間で,洪水被害の大きかった年だけを挙げてみても02年,10年,14年,19年,22年,25年,35年,38年,47年,48年,49年の11回もある。そしてこの間ほとんど毎年のように台風による大雨の被害が発生している。一方降雨量が少なくて旱魃による被害が大きかったのは,1913年,24年,29年,33年などであった2)。とくに田植えの時期に旱魃に見舞われると田植えができなくなり,その被害は甚大であった。そのようなとき,農民たちは番水制を施行して少ない水を農民的規律に従って配分し,被害を最小限に抑えようとしたのだった。
 ところで谷中村は遊水池計画が表面化した頃から,待矢場両堰普通水利組合と三栗谷普通水利組合では,灌漑用水の鉱毒汚染と異常渇水にたいする対策をたてるために,それぞれほぼ年1回の割合で足尾地域の現地視察を行ない,足尾銅山における鉱毒予防工事の実態や山林の荒廃状況などについて調査した。かつて古河鉱業は渡良瀬川から取水する水利組合に寄附金や見舞金の名目で,鉱毒沈澱池の浚渫費用などの一部を支払っていた。しかし日露戦争が始まる1904年2月,古河鉱業は1897年に待矢場両堰普通水利組合と締結した示談契約が満期になるや,「内外全体ノ形勢ハ勿論小家ノ之レニ対スル位置責任等ニ至ル迄該契約締結ノ当時即チ30年2月ト今日トハ全ク変化致居候3)」と,前回の契約後に鉱毒予防工事を実施したという理由をもって,示談契約の更新を拒否したのであった。それまで各水利組合は,田中正造や大多数の農民たちのように鉱業停止要求を第1目標とせずに,彼らの批判する示談金契約による事件の収拾を行なっていたのであるが,古河側からの示談金打切りの一方的通告に接することにより,水利組合は自らの利害関係を明らかにする必要に迫られ,水源地の視察を始めたものであろう。
 第1次大戦勃発から3年目の1916年になると,銅価は急上昇し1914年には1トン当り554円であったものが1046円となった。それにともなって各地の銅山は増産対策がとられたが,足尾銅山の産銅量は1914年当時の1万811トンから1916年には1万4207トンへと増大した4)。このような急速な増加が,下流の鉱毒被害をひどいものにしたことは十分推察しうることである。
 この年の11月下旬,11人の委員は4日間にわたって水源地調査を行ない,鉱毒予防工事の実態や煙害状況について報告書を作成した。そしてそれにもとづいて,翌1917年2月に群馬県知事にたいして次のような意見書を提出した。
 意見書5)
 当待矢場両堰普通水利組合ノ水源渡良瀬川ノ発源地ナル足尾銅山古河鉱業所ニ対シ鉱毒予防ニ関シ明治30年(1897)政府命令ニヨリ鉱業主ハ夫々相当ノ施設ヲナシ下流人民ノ危害ヲ防除シタル筈ニ候處未タ洪水ト共ニ土砂ノ侵入少カラサルノミナラス用水期節ニ於テ比[ママ]年渇水ヲ告クルニヨリ其状況視察候處鉱毒予防工事中不備ト思料スルモノ左ノ実況ニ有之候
 1. 坑水並選鉱用廃水ハ沈澱池濾過池ヲ増設シタルニヨリ常時ハ毒分ノ減少セシモ一朝豪雨ノ際ハ雨覆等ノ設備ナキ為メ若干ノ泥渣紛鉱ハ雨水ト共ニ溢出スルヲ防止シ得サルモノトス
 1. 砂防工事ノ網状工事ハ豪雨ニ際シ山岳崩落ノ砂礫ト共ニ流出シテ山骨ヲ露ハシ其効果ナキモノゝ如シ
 1. 亜硫酸瓦斯ハ脱硫塔ヲ改造シ噴烟ヲ一ヶ所ニ蒐集スルヲ以テ一見有効ナルカ如キモ亜硫酸瓦斯ハ未タ脱却シ尽サー[ママ]ルカ故ニ烟燵ヨリ吐出セル烟毒ニヨリ足尾銅山連亘ノ山脈ニハ青色ヲ帯ヘルモノナク尚猛烟ハ日光山中ヲ惨害シツゝアリテ数年ノ後ハ足尾銅山ハ勿論日光山ニ連亘セル山脈ハ必ス灰山ト化シテ我水源ハ一層涸渇スヘキ状態ナリトス
 以上ノ状況ナルヲ以テ適応ノ御措置相成候様御賢慮相仰度本会ノ議決ヲ以テ謹テ意見及上申候也
 大正6年(1917)2月10日
 待矢場両堰普通水利組合議長
 上原栄三郎
 群馬県知事三宅源之助殿
 この意見書では,足尾銅山の鉱毒予防工事が不完全であること,脱硫塔の効果はなく亜硫酸ガスによる煙害はますますひどくなり,その被害は日光連山にまで及び,そのため水源はいっそう涸渇する状態であると憂慮している。というのも1915年7月に旱魃で水源が涸渇し,稲作の灌漑ができずにいたところへ8月2日に豪雨があったため農民たちは急いで灌漑したのだが,渡良瀬川の水は鉱毒が流出したときと同様に濁り,大騒ぎをしたばかりであったからである6)。旱魃の後の豪雨は鉱毒を大量に流出させるので,灌漑用水としては最悪であったが,枯死寸前の農作物には一刻も早く水をかけねばならなかったのである。
 水源地の足尾山地の荒廃によって渡良瀬川の流量は,洪水の時はますます増大して,渇水の時にはますます減少したので,農民たちはその両方にたいする対策が必要となった。洪水対策は渡良瀬川の改修工事に付随して行なわれたが,渇水時の対策や用水の取入口に沈澱池を設置するなどの鉱毒対策は,水利組合自らの手で行なわねばならなかった。1924年夏の大旱魃による被害はきわめて大きく,農民たちの水源涵養にたいする要求をいっそう高めた。1925年2月群馬県の新田,山田,邑楽の東毛3郡の農民数千人は足尾銅山煙害防止問題に関する農民大会を開き,貴衆両院,内務,農商務大臣にたいする請願書を可決した。農民たちは水源涵養を政府当局に求めるとともに,「速ニ鉱業法ヲ改正シ同法中ニ鉱業ニ依ル損害賠償ニ関スル規定ヲ設ケラレ候様」請願したのだった7)。というのは当時の損害賠償法規は,民法上の規定しかなく,そこでは原告側すなわち被害者側に立証責任が課せられていたため,鉱毒被害などのような場合は,裁判所に訴えてもほとんど勝つ見込はなかったからであった。鉱業法の改正については,住友財閥の経営する別子銅山四阪島製錬所の煙害に反対する農民たちが,すでに1907年頃から強く要求していたものであるが,結局1939年になってようやく実現したのであった。
 農民たちの水源涵養,鉱毒流出防止の願いも空しく,足尾銅山の鉱毒予防施設の不備から,突然鉱毒が流下してくることもしばしばあった。とくに被害が甚大であった年は,1929年,34年,35年,39年であった。とくに34年の鉱毒流下事件の場合は,古河鉱業が,選鉱処理施設の能力以上の操業を続けたために廃石と鉱滓の捨場に困り,渡良瀬川に故意に流したのが原因であった。監視活動をしていた待矢場堰の組合員がその現場を目撃したことから,各水利組合は古河鉱業に対して厳重な抗議を行なった8)。鉱毒流下事件が相次いだり,渇水年が続いたりしたことから,三栗谷水利組合では1933年に三栗谷用水の改良事業を行なうことを決定した。それは,鉱毒の被害を最小限にするために伏流水取水用の集水暗渠を設置するなど,種々の工夫がこらされていた。また用水路からの漏水を防ぐために三面をコンクリート舗装とした。この改良事業が県営事業としての認定を受けたのは1935年であった。しかし第1期工事分の総工費33万円のうち地元負担分が9万9000円もの多額に上ったために,着工が危まれたのであるが,水利組合ではこの地元負担金を古河鉱業に負担させるべく,ねばり強く交渉し,1936年に古河鉱業に8万5000円を寄贈させることに成功したのであった。これにより第1次改良事業は1936年3月に開始され,1939年に完成した。その後第2次大戦中に第2次,第3次の改良事業を行ない,戦後も第4次改良事業(1948―50年),第5次改良事業(1950―67年)を実施した。この5次にわたる三栗谷用水の改良事業には,集水暗渠や独特の構造の沈砂池など,農民たちの鉱毒除害にかけた熱意がこめられている9)。

 2 古河財閥の形成
 われわれはこれまで,足尾銅山の操業にともなう煙害と鉱毒被害によって,人々が経済的にのみならず,肉体的にも精神的にもいかに苦痛を強いられていたか,その一端をかいま見てきた。足尾銅山から排出される砒素や鉛などの有毒金属をたっぷり含んだ亜硫酸ガスは,渡良瀬川源流の数千ヘクタールもの森林地帯をはげ山に変え,松木村を廃村に追いやった。そして渡良瀬川の最下流地域では,鉱毒,洪水合成被害対策のために3000ヘクタール以上の農地がつぶされ,巨大な鉱毒溜の機能をもった遊水池に変えられた。そのために人口2700人,450戸の谷中村は,強権的に消滅させられたのであった。このように渡良瀬川の源流の村と最下流の村とが,いずれも足尾銅山の発展の犠牲になって滅亡したという事実を見るだけでも,その経営者である古河鉱業会社の責任がいかに重大なものであったかを指摘しうるのである。
 古河鉱業会社は,日本の明治初期の政商として著名な小野組の番頭であった古河市兵衛が,小野組の没落後,足尾銅山の成功を足がかりにして発展の基礎を築いたもので,しだいに東北地方の金属鉱山や九州地方の炭鉱開発にも手をのばしていった。同社は古河市兵衛の生存中はまだ個人経営の形態をとっていたが,彼の死後経営を引き継いだ古河潤吉によって1905年に会社形態に改組された。設立時の古河鉱業会社の資本金は500万円であった。しかし同社の設立後まもなくして社長の古河潤吉は病死し,また設立に際して副社長に迎えられた政友会の実務上の第一人者である原敬も,1906年1月西園寺公望内閣の成立にともなって,その内務大臣に就任するために退社したのであった。同社の社長は市兵衛の実子である虎之助が継いだ。原敬は古河鉱業会社退社後も,鉱毒問題と暴動事件とで揺れる同社を擁護し続けたのだった。
 日露戦争後の長期慢性不況から第1次世界大戦ブーム期の日本の産業構造は,依然として繊維産業が主体であったが,それまでほとんど見るべきものがなかった造船をはじめ鉄鋼や肥料,染料などといった重化学工業部門の産業も,この時期めざましい発展を遂げた。重化学工業の展開と並んで特徴的だったのは,動力源としての電力が普及したことである。第1次大戦中に本格化した工場内の電化と,それを支えた電気事業の急速な発達は,電線の需要を大幅に拡大した。それ故に古河鉱業会社は日露戦後の銅価の低迷の中でも拡大し続け,第1次世界大戦のブーム期に至って古河コンツェルンを形成しえたのである。そうした古河鉱業会社の発展を可能にしたのは,谷中村問題を最後に鉱毒問題が社会的には潜在化したことと,それに加えて渡良瀬川改修工事が国営事業として行なわれたために,莫大な鉱毒被害にたいする損害賠償責任を負わないですませえたからであった。
 ところで日露戦後の日本経済は一時的な戦後ブームはあったが,世界的な経済不況の影響を受けて1907年には恐慌が発生した。それ以降は慢性的な不況となり,日本経済は低迷状態が続いたが,第1次世界大戦の勃発した1914年末になってようやく好転しはじめた。そして戦争が長期化するにつれて船舶をはじめ日本商品に対する欧米諸国の需要が高まる一方で,欧米諸国からの工業製品の輸入が大幅に減少したことから,日本国内の工業生産は急激に拡大して,1916年から1920年の反動恐慌に至る間は,未曽有の戦争景気が訪れた。
 1914年を基準として1919年の経済規模をみると,工業生産額は3.4倍,労働者数は1.9倍,事業計画資本は16倍にも膨脹した。また日本からの輸出額は,1913年には13億6200万円であったものが,1920年には42億8500万円となり,約3倍の増加を見たのであった。その結果,産業資本が確立してまだまもないひ弱な日本資本主義は,それまでの貿易の不均衡と莫大な外債の利払による恒常的な正貨準備の不足状態から脱却し,国際収支の上で約28億円もの黒字を計上して,債務国からはじめて債権国に変ったのであった。もっともその黒字も1920年恐慌とそれに続く不況の中で急速に消滅してしまったが,この時期の各企業の拡大ぶりはあまりにも急テンポであったので,戦後恐慌はそれだけ深刻になったのであった。新興コンツェルンの鈴木商店は,老舗の三井や三菱の独壇場であった商事部門で急成長を遂げ,売上高で一時三井をしのいだこともあったが,経営形態の近代化が遅れ,戦後恐慌とそれに続く1923年の関東大震災,さらに1927年の金融恐慌の過程で没落した。その後商事部門のみが再建されて現在の日商岩井株式会社に引継がれているが,この鈴木商店の例はきわめて典型的なもので,そのほかにも第1次大戦のブーム期に繁栄しながらも,戦後恐慌の過程で没落した例は数限りなくあった。そして古河鉱業会社もそうした社会的・経済的環境に大きく影響されたのである。
 ここで古河鉱業会社の設立時点に再び立ち戻って,日露戦後の同社の拡大,発展の状況を同社の『創業100年史11)』などを参考にしながら概観しておこう。
 1905年,古河本店は古河鉱業会社に改組された。古河鉱業会社が経営上第一に実施したことは,その主力鉱山である足尾銅山の操業近代化であった。経営陣はそれまでの飯場制度にもとづく自由採掘制を廃止して階段掘りを採用することにより,生産性の上昇と乱掘の防止をはかろうとしたのである。それには何よりも江戸時代から続いている飯場制度を改革し,坑内作業の全体について経営側が直接管理しうる機構に変える必要があった。だがこのような飯場制度の改革は,既得権益を奪われることになった飯場頭や,この改革で実質賃金を切下げられた労働者の強い反発を買った。しかし経営者側が労働者の要求を無視したことから,1907年2月,労働者の怒りはついに鉱山施設のほとんどを破壊,もしくは焼失させた。これが足尾銅山暴動事件といわれるもので10),軍隊の出動によってようやく鎮圧されたのであった。先に見たようにこの暴動事件が発生したちょうどそのとき,下流の旧谷中村では,土地収用法の適用に反対して農民たちが執拗な反対闘争を展開していたのである。
 暴動事件が経営側に与えた影響は,下流の鉱毒問題よりははるかに大きいものであった。それは労働者の闘争が直接生産過程を危機に陥らせるものであったのにたいして,鉱毒被害農民の運動は行政にたいして行なわれ,生産過程には直接関与しなかったからであろう。暴動事件以後古河鉱業の経営首脳は労務管理対策を重視し、労働争議の発生を未然に防ぐことに力を注ぐとともに,暴動で破壊された諸施設の再建と坑内外設備の近代化を急いだ。
 古河鉱業会社は,足尾銅山の経営上の最大のネックであった輸送問題を解決するために,1907年足尾鉄道株式会社を設立した。同鉄道は1912年に全線が開通した。また1906年に完成した日光電気精銅所は毎年拡張されたが,1912年には新たに7工場が建設され,市場の銅需要の多様化に応じた製品の生産を可能にした。こうした生産面での改革に加えて販売部門の充実も進められた。1896年に勝野炭鉱門司出張所が設置されたのを皮切りに,1904年大阪出張所,1906年上海派出店などが設置された。いずれも取引の増大にしたがって1911年から12年にかけて支店に昇格し,その他,国内外の販売網もいっそう拡充されていった。さらに1915年には香港出張所と,後に古河コンツェルンを揺がす大事件を引き起した大連出張所が設置され,1916年には京城とロンドンに,1918年にはニューヨークにも出張所が開設された。
 さらに古河鉱業会社では,以前からの銅山と炭鉱経営に加えて電線製造部門への進出をはかり,1908年に横浜電線製造株式会社の経営権を獲得したのをはじめ,日本電線株式会社,九州電線株式会社の経営権も手に入れ,原料の供給から製品の販売までを行なった。そして1913年には林業部を開設して,15年にはマレー半島でゴム園の経営をはじめたり,朝鮮で鉱山の操業を手がけたりした。また国策会社である満鉄(南満州鉄道会社,1906年設立)や中日実業株式会社(1913年設立)にも資本参加を行なった。この間1911年に商法の改正にともない,古河鉱業会社は古河合名会社に商号を変更した。
 第1次世界大戦前の古河は銅を主力商品として,しだいに関連分野にも進出していったが,経営の基礎は足尾銅山であった。古河の経営陣は日露戦後第1次大戦に至るまで足尾銅山にたいして巨額の近代化投資を行なった。暴動による損害も大きく,その再建費も含めて,1906年から1914年までの足尾銅山の起業費総額は約269万円に上った。これに日光精銅所と日光水力発電所の建設費を加えると573万円となり,足尾関係だけでも古河鉱業の全起業費の70%にも及んだのである12)。このような巨額の資本投下により1907年以降の足尾産銅高は第1表にみるように増加し,13年には年産1万トン台に達した。
第1表 足尾産銅高と対全国比
翌14年に第1次世界大戦が勃発したために,戦略物資である金属市価はそれまでの低迷状態を脱し,15年以降急騰しはじめた(第2表参照)。古河鉱業は生産能力の最大限まで増産を行ない,1917年には1万7387トンを生産し,自山産出の鉱石による産銅高としては,足尾銅山史上の最大を記録したのである。だが増産のための投資額は利潤をはるかに上回り,古河鉱業は追加投資資金の不足に直面したのだった。古河家の発展を支えてきた足尾銅山は,その開発投資の巨大化によって,今や古河鉱業全体の桎梏になろうとしていた。すなわち「日露戦後以降の古河鉱業が直面していた自己金融的蓄積の限界は,3社分立によるコンツェルン形成と古河銀行の設立によって突破される方向を見出した13)」のである。
 1916年11月,古河合名会社は持株会社である古河合名会社(資本金2000万円),合名会社古河鉱業会社(同500万円),古河商事(同1000万円)の3社に分離独立し,コンツェルン形態をとったのである。そしてこれより2ヵ月前の9月に東京古河銀行(同年6月設立,資本金500万円)が営業を開始し,古河財閥の機関銀行として傘下の企業への資金融資を担当した。
第2表 第1次大戦期の鉱産物市価
翌1918年4月合名会社古河鉱業会社から主要鉱山と工場が分離して,新会社古河鉱業株式会社(資本金2000万円)が設立された。同年5月現在の古河財閥は,持株会社である古河合名会社が全株を所有する鉱業,商事,銀行の直系会社3社と,過半数の株式を所有し,持株支配をしている旭電化,横浜護謨などの傍系会社12社,および2000株以上の株式を所有する投資会社9社で構成されていた。
 上流と下流の2つの村を滅亡させ,数千ヘクタールの森林をハゲ山にし,少なく見積っても数万ヘクタールの田畑を鉱毒で侵し,さらに鉱毒・洪水合成被害の対策のために巨額の国民の税金を支出させて,ここに古河財閥は成立したのである。もちろん三井,三菱,住友,安田の4大財閥をはじめ,他の財閥も古河とさしたる違いはなかったかもしれない。しかし,その発展の犠牲に供された人々の生活と自然とが,後日まで白日の下に曝け出されていた例は,他には見られない。足尾銅山の鉱脈が優良で,しかもその位置が下流に大人口をもつ渡良瀬川の源流の奥深い内陸部であったことは,農民たちにとって不運であった。彼らの20年にわたる幅広い鉱毒反対運動は挫折を余儀なくさせられたとはいえ,全国の鉱毒被害民の運動を鼓舞するとともに,古河と同様に銅山から出発して財閥となった住友(別子銅山)や,新興財閥の鮎川(日産,日立鉱山),財閥としては頓挫した藤田組(小坂鉱山),あるいは鉱山部門が商事部門と並んで財閥形成の柱となっていた三井(三池炭坑,神岡鉱山)や三菱(高島炭坑,尾去沢鉱山)などの鉱山経営に強い影響を与えた。鉱毒予防施設である沈澱池,堆積場,石灰による中和処理などが全国の鉱山に義務付けられたのは,足尾銅山鉱毒反対運動にたいする政府側からの対応策の一つであった。
 さて第1次大戦のブームの中で生まれた古河財閥は,1920年の戦後恐慌の中での銅価の暴落と古河商事の破綻によって,戦線の縮小を余儀なくされたのである。古河商事の破綻の直接的な原因は,1920年1月に発覚した大連出張所の豆粕取引と銀相場における破綻であった14)。この大連事件による損失総額は,古河商事の資本金の2倍半にあたる2569万円に上った。古河商事は1921年11月古河鉱業に合併されて精算されたのであるが,古河合名と古河鉱業の資本金合計額に匹敵する負債は両社に引き継がれた。古河商事の破綻は直接的に多額の負債という重荷を残しただけでなく,古河財閥が総合財閥として飛躍する上で必要不可欠な総合商社の欠落を意味した。この影響は後まで尾をひき,古河財閥の機関銀行であった古河銀行の衰退の遠因ともなった。古河銀行は1931年にもともとその親銀行的存在であった第一銀行に譲渡された。こうして商社と金融の2大部門を失った古河財閥は,もはや一流財閥に成長する条件を失うことになったわけであるが,旧来からの鉱業,電線製造,化学などの部門に加えて,1920年には銅を中心とする金属加工部門の拡大再編を目的として古河電気工業株式会社を設立した。また新しく電気器機の製造部門への参入をはかり,西ドイツのシーメンス社との技術提携の下に1923年に富士電機製造株式会社を設立した。1920年代を通じて電機と化学は低迷を続けたが,1930年代になって軍需産業優先の経済政策がとられたことによって急成長を遂げたのである。さらに1935年には現在の富士通株式会社の前身である富士通信機製造株式会社,1939年には日本軽金属株式会社を設立するなど,日中戦争から第2次世界大戦の過程で,古河財閥は産業部門を中心に拡大し続けたのであった。

 3 戦争と鉱毒問題
 日露戦争の過程で農民側が対政府鉱業停止要求運動に挫折し,分裂していったのと裏腹に,古河鉱業は鉱業からしだいにその関連部門,さらには一般貿易にまでその業務を拡大し,第1次世界大戦による異常なブームの中でコンツェルンを形成し財閥としての地歩を築いた。しかし戦争の終結によってもたらされた戦後反動恐慌の中で,古河商事の破綻に直面し,一流財閥として完成する途を閉ざされたのである。同時に古河財閥の中核である古河鉱業も,戦争終結による銅価の低落と安価なるアメリカ銅の輸入増加によって経営不振に陥り,他の産銅業者とカルテルを結成するとともに,足尾銅山における労働者の整理を断行した。1919年11月労働組合の活動家を中心に300余名が解雇されたことに抗議して,足尾騒擾事件と呼ばれる大争議が起った。足尾銅山の労働運動は,全国的にみてもっとも先進的な部類に属しており,1921年4月にも大争議が発生した。
 日本経済は世界的には相対的安定期であった1920年代を通して,関東大震災,金融恐慌などが連続して発生したため,ついに不況から脱け出せなかった。さらに1929年秋に始まる世界恐慌により,アメリカへの生糸輸出が半減したことに加えて,この時期に懸案であった第1次世界大戦勃発以来停止していた金本位制の復活がなされたために,金の流出が急増し,日本経済は深刻な不況に陥った。1931年9月日本の満州駐留軍である関東軍は中国軍と衝突して満州事変を起したが,それを契機に日本は国際連盟を脱退し,中国大陸への進出を本格化していった。政府は金輸出の再禁止を実施するとともに,景気回復のために赤字国債を発行しつつ農村に対する時局匡救事業として土木工事を行なう一方,その何倍もの資金を投入して軍需産業とその基礎産業である鉱業や重化学工業の振興をはかった。
第3表 満州事変以降の足尾産銅量と粗鉱品位
かくして日本はナチスドイツと並んで逸速く不況を克服したのである。しかし,1937年7月に日中戦争に突入したことにより,枢軸国以外の欧米諸国からの反発が強まり,もともと資源の少ない日本は,基本的な軍需物資の輸入すら困難な状況に陥った。政府は生活必需品の生産を削減して,軍需生産を拡大する経済政策をとった。とくに1941年12月からアメリカとの間で戦端を開いて以降は,国民の生活はどん底に突き落されたのであった。すなわち軍事的な敗北以前に日本経済は完全に破綻していたのである15)。
 1931年の満州事変の勃発から1945年の敗戦に至る15年間の日本経済は,前半を準戦時経済体制,後半を戦時経済体制とわけて考えることができるが,この期の全体を通じて古河財閥は再び発展したのである。古河財閥は1920年代は足尾銅山をはじめとする諸鉱山により,30年代は古河電工や富士電機を中心に業績を拡大した。日中戦争がドロ沼に入る頃から鉱産物の増産は国家の重要政策課題となり,政府は1938年3月に重要鉱物増産法を公布したのに続き,5月には探鉱奨励金交付規則,40年5月には選鉱場設置奨励規則,41年4月には鉱山機械化奨励規則などを公布した。増産のための補助金政策の結果,全国の総産銅高は増加していったが,新規の鉱脈の見出されなかった足尾銅山の産銅高は,第3表に見るように,一時期増加したもののしだいに減少した。鉱石品位の低下という条件の下で増産を実現しようとすれば,出鉱量の増加をはかる以外に方法はなく,そのために足尾銅山の操業は採鉱重視,開坑(新規鉱源の開発)軽視に傾き,それがいっそう品位の低下を招いて悪循環を繰り返させたのである。なお低品位鉱の処理のために足尾銅山では1935年新規の選鉱工場を建設して,浮遊選鉱法を主体とした選鉱法に改良したが,それは選鉱廃水量の増加と水質の悪化をともなったために,本章の第1項で見たように,下流の鉱毒被害の激化(鉱毒流下事件)に帰着したのであった。また低品位鉱の大量処理による廃鉱の増加により,足尾銅山では堆積場などの新増設を行なったが,後に鉱毒問題再燃の原因となる源五郎沢堆積場も,第2次大戦中の1943年10月設置されたものであった。1944年1月,古河鉱業は軍需会社に指定され,生産資材や労働力の優先配分を受けた。しかしそれにもかかわらず,それらの絶対的不足はいっそう進んだ。こうした中で足尾銅山では,強制連行されてきた中国人捕虜や朝鮮人労働者を坑内外の作業に従事させたり,戦争末期に至っては欧米人捕虜をも強制労働に従事させたりしたのであった16)。
 第2次世界大戦期の足尾銅山は乱掘によって荒廃した。そうした状況では,直接生産性の上昇に結びつかない坑内外の保安や公害防止のための対策などは,まっ先に手抜きがなされたとみてまず間違いないと思われる。下流の農民たちの誰もが,「そりゃ戦時中はひどかった。ちょっと雨が降ると白濁した水が渡良瀬川から用水に流れ込み,もし取水口を閉じ忘れたりすると,稲は枯れたり実らなかったりした。」と当時を回想して話してくれる。また,だからこそ,農民たちは灌漑用水設備の整備に熱心だったのだといえる。日中戦争開始後も下流の農民の運動は続き,1938年9月の渡良瀬川大洪水,翌39年6月の増水によって激甚な鉱毒被害が発生したため群馬県の桐生市,山田郡,待矢場水利組合などの農民たちは,渡良瀬川改修群馬期成同盟会を結成して,栃木県足利郡の農民などとともに,内務省にたいして水源涵養と渡良瀬川の再度の改修要求を提出した。農民たちの陳情活動は翌1940年11月まで22回も行なわれ,ようやく同年12月に15年継続で800万円の改修予算が成立したのであった。その後も水源地帯の砂防工事を求める陳情や,渡良瀬川改修促進の請願が繰り返し農民たちから提出された。
 上述の事態が意味していることは,多額の工事費を投じて1927年に完成した内務省直轄の渡良瀬川改修工事が,わずか10年もたたぬ間にほとんど役に立たなくなるほど,足尾銅山からきわめて大量の鉱毒や土砂が流出してきたということである。そうでなければ,もともと改修工事自体がきわめて不完全であったことになる。おそらくその両方が,第2次大戦下であるにもかかわらず巨額の資金を要する改修工事が要求され,またそれが決定された理由であった。しかしこの改修工事が戦時非常増産体制の下で,どこまで実施されたかは知ることができない。戦時中の農作物被害がどのように補償されていたかは不明であるが,ある農民の証言では,銅山へ交渉に行った者にたいしてのみ,土壌改良剤として若干の石灰などが渡された程度であったという。古河鉱業は現在の時点においても,公式には1897年の鉱毒予防工事によって古河の責任になる鉱毒の処理は完了した,そして1927年に完成した渡良瀬川改修工事により江戸時代からの鉱毒も処理され洪水の原因もなぐなった,としているほどであるから17),戦時下で農民にたいして鉱毒被害の責任を認めることなど決してなく,したがって損害賠償どころか,わずかな補償さえしなかったのである。
 さて国民に犠牲を強いつつ,中国大陸から東南アジア諸国へと進出をはかった日本は,1945年8月アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下を直接の契機としてポツダム宣言を受諾した。敗戦後占領軍が実施した民主化政策の中で,それまで軍部によって抑圧されてきた政治運動や労働運動,農民運動などが自由に行なえるようになり,いっせいに各種の社会運動が開始された。そうした状況の中で鉱毒被害民たちも,足尾銅山にたいする被害補償を要求する運動を行なったのである。各地の農民組合はそれぞれ足尾銅山に出かけ,公然と石灰や鉱毒土砂の浚渫費を要求した。
 敗戦の翌年の1946年5月頃群馬県山田郡毛里田村(現在太田市)の小暮完次は東毛地方鉱毒根絶期成同盟会を組織し,古河鉱業にたいして石灰や肥料を要求した。小暮会長の方針は,もっぱら被害地の地力復旧のための石灰などの供与を要求するだけで,鉱毒の予防を迫るものはなく,その交渉は人々の疑惑を買うようなやり方だったので,数年のうちに消滅してしまった。しかし足利農民組合や農民組合運動の活動家たちは,小暮らにならってそれぞれ独自に古河鉱業と交渉して,石灰などの現物供与を実行させたのである。当時の梁田村農民組合の石灰施肥基準は,激甚区10アール当り75キログラム,中被害区10アール当り45キログラム,微弱区10アール当り30キログラムであった。この基準で梁田全村の石灰所要量を計算すると,合計283.5ヘクタールの田圃で約115トンが必要であったという18)。
 農民側のこうした独自の活動にたいして栃木県当局は,1946年6月栃木県鉱毒対策小委員会を設置し,鉱毒被害の実態,土壌分析,石灰の使用調査を行なうとともに,石灰や肥料の配給を行なった。この栃木県の鉱毒対策小委員会にたいして,足利農民組合は、応急対策として鉱害土砂浚渫工事費の支給,鉱害地中和用の石灰の配給,石灰窒素やカリ肥料,燐酸肥料の特配などの要求や,用水引入口の鉱毒流入防止施設の実現要求を提出した。また恒久的な対策として、小委員会が鉱山の施設完備を政府に要求するとともに,古河鉱業にたいしては,「徹底的ナル」鉱毒流出防止対策と,被害農民にたいする損害補償とを行なわせるよう要望したのであった19)。
 農民たちの鉱毒被害地復旧への熱意によって,少しずつ地力が回復しはじめた1947年9月,カスリン台風にともなう豪雨によって,渡良瀬川や利根川流域は大洪水に襲われたのである。旧谷中村跡に設置された渡良瀬遊水池の周辺で13ヵ所が破堤し,下流の洪水予防のために設置された遊水池は,むしろ下流の水害を大きくした。渡良瀬川の大出水を合流した利根川は,自然の理にしたがって江戸川流域を本流として流れ下り,莫大な損害を発生させたのである。渡良瀬川流域の被害は死者361人,行方不明76人,負傷者549人,罹災者21万4895人,倒壊家屋1432戸,流失家屋817戸,浸水家屋は4万4610戸に上った。流失した田畑は800ヘクタール以上,冠水した田畑は1万5000ヘクタール以上にも達した。この台風による被害は利根川流域を中心に全国で死者,行方不明者が1500人以上,建物の流失もしくは倒壊が1万2700戸以上,浸水戸数は41万8000戸余,流出もしくは冠水した田畑は30万ヘクタール以上にもなったのである。
 1910年に改訂された利根川と渡良瀬川の両川の治水計画は,この時までにすでにその無効性が証明されていたが,このカスリン台風による水害で完全に破綻してしまった。群馬県の農民たちは,この年の12月に戦時中に設置した渡良瀬川改修群馬期成同盟会を再発足させ,改修工事促進の運動を展開した。渡良瀬川は1948年9月(アイオン台風),1949年9月(キティ台風)にも出水し,大きな被害を出した。これに対して建設省は利根川と渡良瀬川の治水計画の全面的な見直しを行ない,利根川上流の数ヵ所に大ダムを建設するとともに,渡良瀬遊水池を洪水調節池として完成する計画を立て,その工事に着手した。
 このように,戦時中も敗戦後も食料や物資欠乏の中で,農民たちは鉱毒と洪水合成被害にたいして,個人的な被害軽減の努力に加えて,さまざまな形での政府や古河鉱業にたいする交渉や闘いを行なうよう運命づけられていたのである。

 注
 1)利根川の治水問題に詳しい大熊孝新潟大学助教授は,最近の著書(大熊孝『利根川治水の変遷と水害』 東京大学出版会,1981年)で利根川の水害と治水対策とを実証的に検討して,鉱毒問題こそ渡良瀬遊水池設置の原因であったことを明らかにしている。その中で「鉱毒問題が発生していなければ,江戸川拡大方針が当初から採用され,利根川治水体系は現状とは大きく変っていたようにも思われる」(170ページ)と述べ,明治政府の利根川治水方針が鉱毒問題に大きく影響されたものであることを強く示唆している。
 2)宇都宮気象台編『栃木県の気象』1963年,災害年表,田部井健二「三栗谷用水」宇都宮大学社会教育研究室,1976年,44ページ参照。
 3)待矢場両堰普通水利組合編『待矢場両堰々史』下,1922年,覆刻版,関東史料研究会,1979年,1157ページ。
 4)この翌年の1917年には足尾銅山の生産量は1万7387トンに達し,自山銅(足尾銅山産出の鉱石からのみ生産)としては足尾銅山の歴史上最大を記録した。
 5)前掲『待矢場両堰々史』前編,547ページ。
 6)同上書,523ページ。
 7)1933年2月16日,栃木県足利郡三栗谷普通水利組合管理者岡村勇提出,内務,農林,商工各大臣及び貴衆両院議長宛の「鉱業法改正ニ関スル請願書」(足利市史編さん委員会編『近代足利市史,別巻史料編鉱毒』)1976年,483ページ。
 8)同上書,495ページ。
 9)三栗谷用水の改良事業については,同上書503-07ページ。田部井健二,前掲書参照。
 10)飯場制度の改革と暴動事件の関係については,二村一夫「足尾暴動の基礎過程」,『法学志林』57巻1号1959年7月,30ページ以下参照。
 11)日本経営史研究所編『創業100年史』,古河鉱業株式会社,1976年。
 12)この時期の古河鉱業の起業費の分析については,武田晴人「日露戦後の古河財閥」(東京大学『経済学研究』21号,1978,10)24ページ参照。
 13)武田同上論文,31ページ。
 14)古河商事の破綻の真の原因はなかなか確定しがたいが,輸入銅の増大にたいして古河鉱業が「社銅売止め」で対抗したことも原因であったと見られている。大連事件や古河商事の破綻と足尾銅山との関係については,武田前掲論文及び武田「古河商事と"大連事件"」(『社会科学研究』32巻2号,1980,8)を参照。
 15)第2次大戦中の日本経済の状況,とくに軍需物資の生産を第1とした日本経済の状況については,山崎広明編著『戦時日本経済』 東京大学社会科学研究所(「ファシズム期の国家と社会」第2巻),東京大学出版会,1979年を参照。
 16)この点については古河鉱業の『創業100年史』には触れられていないが,有志の手により,1972年に坑内外の労働で死亡した中国人捕虜の霊を慰めるための中国人殉難者慰霊塔が,足尾町の銀山平に建てられた。
 17)前掲古河鉱業の『創業100年史』では,この点について「水害問題を広範囲のものとし,深刻化させた明治23年の渡良瀬川堤防決潰の主要原因のひとつは,このような幕府の『利根川東遷』工事にあったといえる」(同書316ページ),さらに「先の足尾銅山の予防工事,大正初期の渡良瀬川調節池の設置とあいまって,渡良瀬治水工事の完成により,鉱毒問題も一応の解消をみたのであった」(同書317ページ)とも述べている。
 18)前掲『近代足利市史』508ページ。
 19)同上書510ページ。

Ⅲ 鉱毒問題の再燃

 1 源五郎沢堆積場の決壊と毛里田村鉱毒根絶期成同盟会の結成
 敗戦後の日本はGHQ(連合軍総司令部)の占領政策の下で経済の復興をはかった。当初のアメリカの対日占領政策は,経済面では,日本を戦争へと導いた巨大独占資本である財閥やその傘下の大企業を解散もしくは分割して,経済の民主化を実現し,日本が再び戦争を起さないようにすることであった。こうして財閥家族が支配する持株会社は整理され,主要企業の経営幹部は一切の公職から追放された。また1947年には独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定され,古河系企業の7社も分割の対象とされたのである。ところが東西の冷戦の激化という国際政治状況を反映して,アメリカの対日占領政策は経済の民主化よりも,日本資本主義の再建を第一義的課題とすることに変ったために,古河鉱業株式会社をはじめ古河系企業7社は分割を免れたのである。
第4表 特需の概要(1950.6-55.6)
 足尾銅山では,戦後復興期の基礎資材の生産に重点をおいた経済政策である傾斜生産方式の下で,順調に生産を回復させた。しかしそうした傾向も長くは続かず,狂乱的な戦後インフレを収束するために,GHQの財政顧問であるドッジ(J.Dodge)によって推進された引締め政策に起因する「安定恐慌」の中で,足尾銅山の生産量は減少したのである。ところが1950年6月に朝鮮戦争が勃発し,アメリカ軍の補給基地となった日本は,第1次大戦以来の戦争ブームにわき,足尾銅山は再び活況を呈した。この朝鮮戦争による「特需」こそ日本資本主義再建のスプリング・ボードとなったもので,1950年から55年までの5年間の「特需」累計額は約16億ドル,日本円で5760億円に上った(第4表参照)。1950年度の国の一般会計決算額が約6332億円であったことを考えれば,この「特需」がいかに大きいものであったかを知ることができる。このブームを背景に,足尾銅山では探鉱に全力を注ぐとともに,「品位の高い他山産出鉱処理の拡大を内容とした足尾製練所の拡充1)」をはかった。次いで粉鉱の処理,燃料の節約,および亜硫酸ガスの画収を目的として,1954年10月,自溶炉の建設に着手し,56年2月に完成させた。戦後の足尾銅山の生産量は第5表に示されているが,朝鮮戦争以降の産銅の急増と他山銅の増加(主として輸入鉱石)の状況を知ることができる。こうして足尾銅山は製錬施設の一新によって再び発展しはじめたが,同時にそれまで潜在化していた鉱毒問題が突如顕在化したのであった。
 自溶炉が完成して2年後の1958年5月30日,足尾銅山の14の堆積場(第1図参照)のうち,もっとも南に位置する比較的小規模の源五郎沢堆積場が決壊し,約2千立方メートルの大量の鉱泥が渡良瀬川に流出し,6千ヘクタールの水田に直接被害を与えた。
第5表 敗戦後の足尾産銅量
この年は降雨も少なく麦類が枯れる心配があったほどで,堆積場の決壊した5月30日にはもちろん雨など降っていなかった。したがって源五郎沢の決壊は全面的に古河鉱業側の管理のずさんさによるものであった。
第1図 足尾鉱山付近図(排水処理系統)
ところが企業側に立つ行政当局は,後に水質審議会に提出した書類の中で,「堆積場に対する配慮の不備と降雨による異常の現象」と報告して,古河鉱業の弁護をしているが,事実を隠し通すことはできないものである。この源五郎沢堆積場の決壊による被害は,待矢場用水の取入口がある群馬県山田郡毛里田村(現在は太田市毛里田)を最激甚地として広大な地域に及んだ。ちょうど田植前にあたっていたため,下流の2万数千戸にも上る農家が被害を受け,再び鉱毒反対の声が強まった。
 当時毛里田村の農業協同組合の組合長であった恩田正一は,それまでの農民側の運動がわずかな石灰や肥料などの現物供与を要求するものでしかなかったことを反省し,補償の要求ではなく,鉱毒被害の完全な防止を目標とする新しい鉱毒反対運動の組織化の必要性を痛感した。つまりそれまでの運動は,補償要求とはいえ現実には寄付金の要請に止まる運動であり,古河鉱業側の鉱毒タレ流しの責任を問わないことを前提としていたのである。大部分の農民は,名目上は寄付金として供与されるわずかばかりの補償で泣き寝入りすることに慣らされていた。そして堆積場の決壊,鉱毒の大量流出という事態に直面しながら,またしても旧来と同じパターンで古河側から手を打たれようとしていた。恩田はこれに強く反発し,渡良瀬川から取水している群馬県側の3市3郡,すなわち桐生,太田,館林の3市と山田,新田,邑楽の3郡の農民や行政の代表者約150人を引き連れて足尾銅山に行き抗議行動を行なった。第1回目の抗議行動は,源五郎沢堆積場が決壊して11日後の6月10日のことであった。
 その後7月10日,恩田は自分の住む村で毛里田村鉱毒根絶期成同盟会(以下毛里田村同盟会)を結成し会長となったが,他村にたいしても活発な組織活動を展開した。恩田は比較的大きな地主で,農協の組合長の職務に就いていたことからも推察しうるように,政治的には保守で自民党の支持者である。しかし鉱毒反対運動の思想,その行動からみればおそらく最左派といってよいであろう。彼は代表者たちがわずかな寄付金で引き下がろうとすることに断固として反対し,古河に被害の責任を認めさせ,鉱毒の流出を完全に防止させることを訴えて止まなかった。この恩田の決意に農民や行政の代表者たちも突き動かされ,それまで不可能と思われていた古河鉱業にたいする責任追及と,鉱毒の完全防止,損害賠償の獲得に向って一致団結して行動するようになったのである。こうして8月2日群馬県東毛3市3郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(以下3市3郡同盟会)が結成され,恩田は会長に選ばれた。
 渡良瀬川沿岸の農民たちの抗議に対して古河鉱業側は,鉱山局の指導に従った設備であるから決壊が起ってもこちらには責任はない,と開きなおり,農民にたいして一片の誠意すら見せようとはしなかった。ところが古河鉱業は,堆積場の決壊によって鉄道線路が押し流された国鉄当局に対しては,175万3991円の補償金を支払っていたのである。この国鉄足尾線は,もともとは足尾銅山用の資材や製品の輸送のために古河鉱業が敷設したもので,その後まもなく国有化されたが,現在に至るまで「足尾銅山専用鉄道」ともいうべき路線であって,銅山の操業には欠くことのできないものであった。古河鉱業はこうした自社の営業に直接関係する国鉄当局にたいしては,被害の全額ではないにしても補償金を支払いながら,巨額の被害を受けた農民にたいしてはまったく責任をとろうとはしなかったのである。
 源五郎沢が決壊した1958年は,日本の公害問題の歴史上とくに重要な年であった明治以来の足尾銅山の鉱毒問題が再び浮かび上っただけでなく,さまざまな産業分野での生産第一主義的な新技術の採用が,環境を著しく汚染し,農漁民の生活を脅かす事態が頻発し,農漁民の直接行動を誘発したのである。とくに4月以降社会問題化した本州製紙江戸川工場の廃水タレ流し事件3)は,政府や財界に大きな影響を与え,政府はこの事件を契機に懸案であった水質2法,すなわち公共用水域の水質保全に関する法律と,工場排水等の規制に関する法律を,同年12月に制定公布したのであった。当時の日本の産業公害でもっともひどかったのは,紙,パルプ工場からの廃液による河川や海の汚染であった。なかでも国策パルプによる北海道石狩川の汚濁や,三菱製紙による福島県の阿武隈川沿岸の汚濁,同じく兵庫県の高砂市周辺の汚濁,兵庫パルプによる兵庫県加古川沿岸の汚濁,本研究の一環として取り上げられている西日本パルプによる高知県浦戸湾一帯の汚濁,大昭和製紙など大小の製紙工場が集中する静岡県富士市の田子の浦一帯の汚濁など全国各地のパルプ工場の廃水による農漁業被害が発生していた。また新日本窒素肥料株式会社(現チツソ株式会社)の水俣工場の廃水に原因する水俣病,三井金属鉱業株式会社神岡鉱山の廃水に原因するイタイイタイ病など,人体に直接被害を及ぼす公害も社会問題化しはじめていた。このように鉱山や工場の廃水規制は,当時全国民的課題になっていた。しかし行政当局は水質規制法案を準備しながらも,財界の反対によって過去2度も国会提出を断念していた。本州製紙江戸川工場廃水タレ流し事件において,千葉県浦安町(現在は浦安市)の漁民が,多大の犠牲を払って止むにやまれぬ直接行動を行なわなかったならば,この水質規制法案の成立は疑いなくさらに先に延期されたことであろう。
 さて水質を規制する法律の制定は,足尾銅山鉱毒被害民にとっても数十年来の願いであった。それゆえに水質2法が,源五郎沢堆積場の決壊の年に制定されたことは,きわめて意義深いことといえる。水質保全法は翌1959年4月1日から施行されたが,それに先立って3月,政府は同法にもとづいて経済企画庁の所管になる水質審議会を発足させた。水質審議会はとくに汚濁のはなはだしい河川や水域を指定し,その水質基準を決定することを任務としていたが,その委員には被害者である農漁民はひとりとして含まれていなかった。それなのに加害者である古河鉱業の社長や国策パルプの社長は委員になっていたのである4)。鉱毒根絶同盟会では審議会の委員に被害者側の代表も入れるように強く要求し,6月には700人もの農民が大型バスに分乗して陳情したが,政府側は農民の要求をはねつけたのである。水質審議会はその後2年以上開店休業の状態で水質基準づくりは進まなかった。
 翌1960年は日米安全保障条約の継続をめぐり日本の世論は2分された。日米安保条約は,革新勢力を中心とする大きな反対運動にもかかわらず,政権党である自民党の方針通り継続が決定した。労働界ではこの年三井鉱山三池炭抗で「総労働対総資本の対決」と称された大争議が発生したが,労働組合側の完敗に終った。このことは本研究の一環である三池炭塵爆発によるCO中毒問題において言及することになっているが,1960年に起った2つの出来事は,いろいろな意味から日本社会の大変動を物語っていた。1960年代の10年間は,日本経済が高度成長を遂げた一方で,あらゆる公害問題が激化し,自然破壊が急速に進行した時期であった。この期の公害,環境問題の悪化の背景には,せっかく水質2法を制定したにもかかわらず,具体的な施策を行なわなかった行政の怠慢があった。
 1962年になって政府は同盟会の恩田に,水質審議会の第6部会(渡良瀬川部会)の専門委員になるよう要請した。1部会の専門委員にすぎないとはいえ,ようやく被害者側の代表も水質基準づくりに参加しうることになったことは,行政の一大進歩のように見えた。しかし政府は,一方では加害企業の社長たちをそのまま水質審議会の委員に任命していたにもかかわらず,恩田に対しては,毛里田村と3市3部の同盟会の会長を辞任することを条件としたのである。農民側はこうした不公平な扱いに大いに怒ったが,水質基準づくりに農民側の意見を反映させるという実をとるために,恩田は1962年12月やむなく会長を辞任し,専門委員のひとりとなったのである。
 鉱毒被害の根絶を誓った恩田にとって,専門部会はあまりにもいい加減なものであった。企業側の代表は,恩田の「泥棒を審判官にするのか」という批判により委員を辞めたが,その主張は経済企画庁や通産省の役人たちが代弁した5)。専門部会の委員たちは,もっとも鉱毒被害の大きい降雨時の渡良瀬川の汚濁には目を向けず,あるいは最悪時の水質を規制しようとはせずに,年間の平均値による水質基準をつくろうとした。降雨時の被害の大きさは被害民にとって常識であり,降雨時の水質を規制することによって,はじめて平均値での規制も意味をもつのである。1964年10月,3市3郡同盟会の農民たち600人は大型バスに分乗して上京し,関係官庁に「鉱毒汚濁の原因究明」を陳情した。だが恩田の必死の努力や農民たちの数多くの陳情,抗議行動にもかかわらず,事務当局にすぎない経済企画庁の役人たちは,専門部会の議論が煮つまらないまま,1967年2月に渡良瀬川の銅の含有量を0.06ppmとする水質基準案を作成して,通産,農林両省の了解をとりつけた。そして0.01ppmを主張していた恩田の知らない間に,群馬県庁に対して,同基準案が水質審議会第6部会で正式に決定される旨の非公式の連絡を行ない,農民側の主張の切崩しを図ったのである。
 政府は群馬県当局を通じて鉱毒被害地の土地改良事業における農民側の費用負担の軽減と山元の鉱毒対策事業を条件に,同盟会の幹部を説得した。そしてついに同盟会幹部から,0.06ppm以下での水質規制の早期制定を要求する陳情書を提出させることに成功した。同盟会の会長を辞任した恩田に,もはや同盟会の方針転換をくつがえす力はなかった。こうして1968年3月6日水質審議会の第6部会は,恩田の強硬な反対論を数で押しきり,群馬県大間々町高津戸地点での渡良瀬川の水質規準を銅の含有量0.06ppm,足尾銅山の排水基準を栃木県足尾町のオットセイ岩地点で1.5ppmと決定したのである6)。同基準は翌3月7日に告示されたが,その施行は1年と10ヵ月後の1969年12月1日からとされた。企業にとっては至れり尽せりの措置であった。このまったく不充分な水質基準を決定施行するまでに,水質審議会は10年以上も要したのである。こうした日本における公害行政の遅れといい加減さこそ、1960年代末以降の公害問題の爆発を惹起したものであった。沈黙を強いられた恩田の苦渋に満ちた心境を思いやるとき,われわれは公害問題の解決の困難さと,そのいっそうの重要性を確認させられるのである。

 2 公害問題の沸騰と15.5億円の補償
 渡良瀬川の水質規制は1969年12月になってようやく施行されることになったが,銅含有率0.06ppmという水質基準は恩田の主張したとおりあまりにもゆるかった。桐生市水道局の検査によると,同市の水道の原水である渡良瀬川の水からは,国の環境基準の0.05ppmを上回るヒ素がしばしば検出された。69年の5,6月には0.3ppm,10月には0.5ppmと基準の6~10倍ものヒ素が検出されていた。1970年に入ってからも同市水道局の検査によれば,基準の4~5倍のヒ素が検出された日は,1ヵ月間で10数日にも上った7)。渡良瀬川の水質基準は,もともと銅の含有率を規制することによって,銅以外の重金属汚染をも防止することを目的としていた。したがって0.01ppm規制を要求していた恩田や農業学者の意見を尊重せずに,その6倍もゆるい基準をつくったのであるから,大量のヒ素が検出されたのも当然のことであった。
 ところが1971年になると,毛里田地区産出米のカドミウムによる汚染問題が表面化し,6月には住民検診が実施された。太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会(毛里田同盟会)では,恩田正一が会長を辞任したあと,板橋明治が第2代の会長になっていたが,板橋会長らは,ヒ素についでカドミウム汚染が明らかになったことから,同年6月,古河鉱業にたいして1戸当り1200万円,1100戸分の鉱毒被害補償として計132億円と,親子3代にわたる生活補償を要求したが,古河鉱業は農民側の要求をまったく無視したのであった。
 その毛里田同盟会は,かって渡瀬川の水質基準づくりの最終局面に至って,鉱毒汚染田の土壌改良の実施と農業振興のための公共投資の増加などを見返り条件に,自らの代表である恩田の主張していた0.01ppmを後退させ,政府案の0.06ppmに妥協した経緯があった。それゆえに毛里田同盟会としても,土壌改良や田圃の基盤整備事業が着手されていない段階で,新しくカドミウムによる汚染が発見されたことは看過しえない重大な事態であった。板橋会長らは8月31日,まだ7月1日に発足して間もない環境庁に大石武一長官を訪れ,毛里田同盟会が古河鉱業にたいして,80年間の農作物被害の補償として総額120億円を請求するので協力をえたいと陳情した。だがそうしている間にも,毛里田地区産出米のカドミウム汚染問題はいっそう拡大し,ついに翌1972年1月には,毛里田産出米の一部が政府の指示によって出荷凍結の処分にされたのであった。農民たちは古河鉱業に強く抗議するとともに,あらためて120億円の損害賠償を要求したが,同社はこの農民側の少なすぎる要求を一蹴したばかりか,カドミウム汚染米に責任があることまで否認したのである。
 毛里田同盟会はここに至り,公害紛争処理法の第26条の規定にもとづいて政府の中央公害審査委員会(中公審)にたいして,過去20年間(1952年度―71年度)の農作物被害にかぎって損害賠償を求める調停を申請することを決定した8)。そして3月31日,第1次提訴として110人分,4億7007万円の損害賠償の調停を申請した。古河鉱業側はこれにたいして,5月4日,次のような内容の意見書を中公審に提出して,農民側の主張を全面的に否定した。(1)足尾銅山は日本最大の銅山として国家経済発展の大きな原動力となり,日清戦争,日露戦争,第2次世界大戦さらに戦後復興期にあっては,国家の命令にしたがって増産に応えてきた,(2)189年の渡良瀬川大洪水を契機とする鉱毒問題の発生以来,巨額の費用を投じて鉱毒防止設備を設置し,河川の汚濁防止や煙害防止につとめてきた,(3)高津渡地点における平均銅濃渡を0.06ppm以下としている水質基準が守られていることからも明らかなように,渡良瀬川の鉱毒汚染は存在しない,(4)したがって農産物の減収の原因は足尾銅山の操業に原因するか否か疑問である,(5)大洪水は渡良瀬川流城の地形が急峻なためである,(6)仮に足尾銅山の操業が農作物に何らかの被害を与えたとすれば,その影響は自然条件によるものが大部分と考えられるが,被害についてはその都度被害農家に補償をしてきているので今さら再び支払う必要はない9)。このように古河鉱業の意見書は,国策への協力と水質基準を楯にして全面的に開きなおり,鉱毒被害にたいする同社の責任を全く回避しようとするものであった。とくに第6項について古河側は,第1に毛里田地区の農作物の減収の割合は小さい,第2に1953年12月に群馬県知事と地元選出の3人の衆議院議員を立会人として,待矢場両堰土地改良区にたいして800万円の寄付を行なうという和解契約を締結しており,その際契約締結後は「鉱毒,又は農業水利に関する補償要求,又はこれに類する一切の補償行為を絶対に行なわない」という契約をしている,第3に損害の大部分については鉱業法第115条で定めている「3年」の消滅時効が成立しているという3点を理由として補償支払いを拒否したが,いずれもかえって同盟会の農民たちから強い反発をかったのである。
 古河鉱業側の欺瞞に充ちた意見書の提出にたいして,同盟会の農民たちは5月19日には第2次提訴として842人分,32億3227万円,8月31日には第3次提訴として18人分4503万円の損害賠償の調停を申請した。後に第1次,第2次申請分の全額が修正増額されたことにより,最終的な調停申請状況は,申請人数970人,被害面積470ヘクタール,請求金額38億9219万円となった。第1回調停は5月20日に開かれ,1972年中に6回の調停が開かれた。この間調停を担当していた中公審が改組されて,7月1日から公害等調整委貝会(公調委)が発足したため,調停作業は公調委によって進められることになった。1972年から翌73年秋の第1次オイル・ショックに至る間は,全国各地の住民による公害反対運動が高まったために,政府もそれなりの対応を迫られ,各種の公害関係法規の改正を行なうとともに,72年6月には自然環境保全法,73年10月には公害健康被害補償法を新たに公布するなど,公害・環境政策の整備を行なった時期であった。この調停がこうした公害,環境政策の整備期に,それも新生の公調委の初仕事としてなされたことは,被害側の農民たちにとっては有利に作用したと考えられる。公調委は72年中に数回の現地調査を行ない,農作物被害の実態を視察する一方,鉱毒,すなわち銅やヒ素などの重金属や鉱滓が,実際に足尾銅山から流出してくることを確認し,農民側の主張を裏付けたのであった。
 ところで古河鉱業側は,この年11月1日,突如として足尾銅山の閉山計画を発表し,労働組合にたいして人員整理を通告した。公表された足尾銅山の閉山理由は,埋蔵鉱量の枯渇と採掘条件の悪化であったが,ちょうどこのとき,毛里田地区鉱毒根絶同盟会の起した鉱毒被害にたいする損害賠償を求める調停が進行しつつあった時期なので,古河鉱業側が表明したように閉山とこの調停がまったく無縁であったとは考えにくい。おそらく古河鉱業には,問題となっている足尾銅山を閉山することによって,世論の批判をかわす狙いがあったとみてよいであろう。
 だが閉山といっても採掘部門の操業を中止するだけで,選鉱部門の一部と製練部門は輸入鉱石によって操業を継続する方針であったから,製練所の廃水が渡良瀬川を汚染することに変りはなかった。また閉山しても抗内には絶えず湧水があり,その処理は閉山前と同様に行なわなければならなかったし,それを怠ればただちに下流に鉱毒被害を及ぼすものであった。さらにもっとも重視しなければならないのは,足尾銅山が閉山になっても明治時代からの鉱滓や廃石の堆積場はそのまま残存し,輸入鉱石による製練が続くかぎり,むしろ鉱滓は増加する一方であったという点である。
第6表 足尾事業所堆積場一覧表
 第6表は1972年当時の足尾銅山の堆積場の一覧であるが,使用を中止した堆積場が13ヵ所,現在も使用中のものが1ヵ所あり,72年当時の総堆積量は,古河鉱業が示した数字によると約1100万立方メートルに及んでいる。これだけの大量の鉱滓が第1図に示されているように足尾地域のいくつかの溪谷を埋立てているという事実を見れば,この数多い堆積場の鉱毒流出対策を完全なものにしないかぎり,閉山によって渡良瀬川流域の鉱毒被害が軽減もしくは消滅する見通しは,まったくなかったといえる。そして今なお堆積場決壊の危険性は除去されていないし,未処理の浸透水の流出は続いているのである。
第7表 高度成長期以降の足尾産銅量
このように足尾銅山の閉山計画の発表は,古河鉱業の経営上の理由を第1としながらも,その契機は1970年代初頭の公害問題の全国的な社会問題化と,毛里田地区の農民たちによる,39億円にものぼる農作物被害補償を求める調停請求事件にあったといってよいであろう。
 1960年代の高度成長期とそれ以降の足尾銅山の産銅量を見ると(第7表),閉山計画を発表する1年前までは毎年5000トン前後生産していたことがわかる。72年度の産銅量が減少したのは,この年から閉山の準備に入ったためであろう。高度成長期に他山銅,すなわち輸入銅精鉱による生産が急増していることに注意する必要がある。というのは輸入銅精鉱の急増が毛里田地区のカドミウム汚染と関係しているのではないか,と思われているからである。
 こうして足尾銅山は閉山計画の発表からわずか4ヵ月後の翌1973年2月に予定通り閉山されたのであった。同年3月足尾銅山とともに,17世紀初頭から日本の1,2位を競う銅山として栄えた愛媛県の別子銅山11)も閉山となった。しかし製錬部門は,輸入銅精鉱によって新鋭の東予製錬所で継続されている。両銅山は日本近代化の初期に重要輸出品としての銅を大量に産出し,日本における資本主義の発展という観点からは大きな意義があったといえるが,反面数多くの農民と漁民に鉱毒や煙害による被害を与えたのであった。日本経済の高度成長の末期に両銅山が閉山され,それと前後して小坂鉱山をのぞく日本国内の主要な銅山のほとんどが閉山されたことは,日本資本主義の歴史を見る上で,まことに興味深い事実だといえる。
 さて,われわれは農作物の被害補償を求める調停事件に戻らねばならない。1972年に続き73年中も調停作業は続けられた。この年8月8日足尾銅山の製錬所の上流にある砂防ダム(通称「3川合流ダム」)の下流排水口の1ヵ所から,約2000トンの土砂が流出し,桐生市をはじめ渡良瀬川から取水する各水道局が厳戒態勢をしく事件が起った。また10月には「洪水時には堆積場から大量の鉱毒が流出している」という環境庁の調査結果が公表され,下流の住民の不安を裏付けたのであった。
 調停作業は73年6月に第10回目が開かれ,その後は具体的な調停内容の詰めが行なわれていたが,74年5月10日第13回目の調停で,公害等調整委員会は毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会と古河鉱業側に正式な調停内容を提示した。双方とも前もって了解していたため翌11日に調停書に署名し,鉱毒被害にたいする補償請求には一応の結着がつけられたのである。調停内容は,(1)古河鉱業は農作物被害の原因を認め,農民側に補償金15億5000万円を支払う,(2)古河鉱業は足尾鉱業所の全施設から重金属などを渡良瀬川に流出させないように施設を改善する,(3)古河鉱業と農民側の双方は,渡良瀬川流域における「農用地の土壌の汚染防止等に関する法律」に基づいて,土地改良事業の早期実現をはかるため関係機関に協力する,(4)古河鉱業は将来における足尾事業所施設に起因する公害の発生を予防するため,群馬県,太田市と公害防止協定を結ぶことなど全部で9項目からなっていた12)。
 約39億円の補償請求にたいして15億5000万円の補償であったから,金額的にいえば農民側の勝利とはいえない。しかし第1に古河鉱業側に鉱毒被害の責任を認めさせたこと,第2にそれまでの「農事振興」とか「寄付」といった形ではなく,正式な損害賠償としての補償金として支払わせたことは,1世紀にもおよぶ足尾銅山鉱毒事件の中でも初めてのことであり,画期的なことであった。とはいえこの調停請求事件全体を見るとき,そこに問題がなかったわけではない。第1に多くの識者が指摘するように,調停作業が完全な密室の中で行なわれた点である13)。調停が公開されなかったことは,他の公害事件にたいする教訓を引き出したり,波及効果を与えたりすることをきわめて困難にしたのであった。第2は調停に直接関わることではないが,農民たちが支払われた補償金のほとんど全額を各自に分配してしまい,同盟会でプールしなかった点である。調停条項では補償金の具体的な配分方法については触れてはいないが,農民相互の連帯,鉱毒反対運動の継続,足尾銅山にたいする永続的監視などを考慮するとき,補償金の一部でもプールしておくことの方が,運動論的には得策であったように筆者には思えてならない。もっとも,その辺にこの補償金請求調停事件における農民側の限界があったのかもしれない。他方この新しくつくられた調停制度についてみると,この調停では公害等調整委員会はかつてなかったほどの「高額の」補償金の支払いを決定したが,その後はこのような調停を1回も行なっていないのである。その理由として考えられることは,おそらく被害者側にとっては低額であった補償金も,企業にとっては「高額すぎる」ものとして,財界から環境庁に強い圧力がかけられたためであろう。

 3 掘り返される旧谷中村跡,困難な足尾地域の緑化
 日露戦争にすべての国民が動員されている間に,もっとも激甚な鉱毒と洪水被害にさらされていた谷中村は,国家権力の手によって足尾銅山の犠牲に供せられ滅亡した。そして旧谷中村跡は,利根川と渡良瀬川の流域の洪水被害を減少するための遊水池とされ,現在に至っている。谷中村周辺は両河川の改修工事によって,第2図に見るように大きく変貌した。
 谷中村の廃村後,1909年に利根川,1910年に渡良瀬川の改修工事が開始されたが,遊水池の建設を含めた両河川の改修工事は,工事費用,工事規模のいずれからみても第2次大戦前における日本最大の土木工事であった。取扱った土砂の量は合計2億2000万立方メートルに及び,パナマ運河建設時の土砂量の1億8000万立方メートルを上回っていた14)。だが,それほど大規模な治水工事も,自然の力にはかてず,前述したように大出水がある度に,両河川の計画高水流量の改訂が行なわれたのであった。
第2図 渡良瀬池周辺の新旧比較図
渡良瀬遊水池と名づけられた旧谷中村は,繰返す大洪水によって上流から運ばれてくる土砂で埋まり,わずかの年月で遊水池としての機能も果しえなくなった。とくに1947年のカスリン台風による大洪水は,遊水池の無効性を証明した。利根川改修計画は1896年に策定されてから,1910年と35年に大きく改訂されたが,カスリン台風の後で3度目の根本的な改訂が加えられることになった。
 渡良瀬遊水池が単なる遊水池としてではなく,洪水調節池として明碓に位置づけられたのは,1935年洪水にもとづいた改修計画以後のことであるが,47年の大洪水の発生によってその洪水調節機能はいっそう重視されることになった。そして63年から総事業費310億円の計画で渡良瀬遊水池の調節化工事が本格的に開始されたが,その後インフレの影響もあって事業費は何回か増額修正されてきた。1980年5月に公表された数字では63年度から79年度までの17年間に209億8000万円の工事費を費し,80年度以降の計画ではさらに444億5200万円の事業費の投下が計画されているので,調節池化工事の総事業費は,当初の見積額の2倍以上の654億3200万円余に達するものと見込まれている。調節池は3つの部分からなり,総面積は22.8平方キロメートル,容量は1億6180万立方メートルに及び,調節池を仕切る囲繞堤の延長は1万5340メートル,洪水時に渡良瀬川の水が流れ込むようにつくられた越流堤の延長は,3787メートルに達している15)。
 遊水池の調節池化工事が着工されてから数年して,今度は貯水池化計画(通称「水ガメ化計画」)がもちあがった。1970年1月,建設省は「新全国総合開発計画」の一環として,遊水池の一部を掘り下げて貯水池とする計画を発表した。貯水池化により遊水池を首都圏の水上リクリエーション基地とするとともに,工業用水を確保することを目的としていた。それは第1調節池の南側4.5平方キロメートルを平均6.5メートル掘り下げ,2640万立方メートルの水をためる計画で,1970年から予備調査にはいった。建設省は73年から実施計画調査を行ない,76年に工事用道路の建設を開始した。掘り下げ工事は78年から本格的に行なわれているが,1984年の完成をめざして現在大型の土木機械やダンプカーが所狭しと動きまわっている。この貯水池化工事の総事業費には約480億円が予定されている。
 貯水池の形はハート形をしているが(第3図),それは上部の凹部に旧谷中村の遺跡である延命院の跡と共同墓地があるためである。この墓地は1972年の夏,貯水池工事を進める建設省によって破壊される寸前のところで,旧谷中村残留民の子孫たちが工事用のブルドーザーの前に座り込み,文字通り身をもって守りぬいたものである。16戸の旧谷中村残留民の子孫の何人かは,不当に安く強制的に買上げられたかつての自分の土地で,すでに3代にわたって冬の副業にヨシを刈り,それでヨシズを編んでは東京方面に出荷してきたのである。墓地には谷中村の復活を唱えて10年以上もの間,権力に抵抗しつつ,廃村となった旧谷中村に住みついた残留民の怨念がこもっていたのであろう。旧谷中村残留民の子孫と,田中正造を顕彰しその意志を継ごうとする田中会の人々は,この事件を契機に「旧谷中村の遺跡を守る会」を発足させて,建設省当局とねばり強い交渉を続け,ようやく延命院跡と共同墓地周辺を水ガメ化計画からはずさせたのであった。
 それにしても旧谷中村跡はなぜ何度も掘り返されるのであろうか。遊水池の中は洪水によって運ばれてきた大量の土砂と,その浚渫作業によって幾度となくその形状を変えられた。しかし調節化工事が始まるまでの遊水池は,まだ自然を残していた。至るところ開発されつくした関東地方にあっては,遊水池内の湿原はたいへん貴重なものである。そこには,他の場所にはない数多くの珍しい種類の動植物が棲息していた。しかし調節化工事とともに湿原の一部が失われはじめ,1970年代に始まった貯水池化工事によって,残されていた湿原は,貯水池と掘り上げられた土砂の堆積からなる台地とに変えられつつあるのである。
第3図 渡良瀬遊水池の現況
 広大な湿原は,それを見る者に容易にかつての谷中村を想像させた。それは谷中村の滅亡と日本の明治時代後半期の最大の社会運動であった鉱毒反対運動のいわば「証人」であるとともに,民衆の生活を破壊してまで日本の急速な近代化を強引に推進した「明治政府の失政の遺跡」とでもいうべきものであった。それゆえにか,現在の政府にとってもこの広大な湿原の存在は,はなはだ具合の悪いものであるらしく,今や残された第2の自然ともいうべきこの湿原を,すっかりなくしてしまおうとしているのである。「旧谷中村の遺跡を守る会」や自然保護団体の人々の活動によって,ようやく旧谷中村の中心部の共同墓地周辺だけは今のところ破壊を免れているが,それさえブルドーザーの下敷にされるようなことがあれば,われわれはアメリカに次いで資本主義国中世界第2位のGNPを誇る日本の現政府も,明治政府といか程かの進歩もないことを確認するだけである。谷中村滅亡の歴史を現代の物質社会に対する警鐘として残し,また湿原の動植物を保護するためにも,一切の土木工事を直ちに中止させる必要があるといえよう。渡良瀬遊水池は,洪水調節池,工業用水貯水池としてつくり変えられる以前にも,在日米軍の演習地として使用する計画や新東京国際空港の建設計画,大手の観光資本によるレクリエーション基地化の計画もあった。米軍の演習地とする計画は,周辺の地方自治体や革新団体の広範な反対運動により撤回されたが,その経験に学ぶまでもなく,渡良瀬遊水池のこれ以上の破壊の防止は,周辺住民の問題意識をどれ程高めうるかにかかっているのである。
 さて広大な遊水池も,上流から運ばれる大量の土砂が減少しないかぎり,つねにその浚渫や掘り返し作業が必要となる。そこにはすでに耕作農民は絶えて久しく,それゆえ鉱毒被害が社会問題化することはないが,つねに浚渫をしていなければ流れてくる土砂の堆積によって,洪水調節機能がそこなわれることになる。そこでわれわれはもう一度渡良瀬川の源流に遡ってみることにしよう。
 鉱毒汚染のもっとも激しい太田市毛里田地区から約30キロメートル上流に草木ダムがある。草木ダムは洪水調節,渡良瀬川沿岸の農地の灌漑,上水道,及び最大2万キロワットの発電を目的とした多目的ダムで,1971年に着工され,総工費315億円を費して1976年に竣工した。それは堤の高さ140メートル,堤頂の長さ405メートル,貯水面積17平方キロメートル,貯水量5050万トンの中規模のダムで,外見上はふつうのダムと何ら変ったところはない。だがその上流に環境庁の調査でも明らかなように,閉山後も鉱毒を流出し続けている足尾銅山を抱えている点で,他のダムとは異なっている。すなわち,上流から流れてくる重金属を含んだ土砂や浮遊物質が,水道用原水や灌漑用水に流れ込むのをできるだけ防止するために,その取水設備には半円筒多段型ローラー・ゲートが設置され,つねに表流水を取水するよう設計されているのである。ダム建設によって比較的大粒の土砂は,ダムの底に沈澱させうるかもしれないが,しかし重金属を含んだ細かな浮遊物質については,まったく除去できないばかりか,かえって拡散してしまうことになる。それゆえ毛里田の農民たちは,ダム建設後かえって灌漑用水の濁りが常態化してきたという。そのためダム管理当局も水質検査には細心の注意を払っているというのであるが,ダムの貯溜水の濁りについては,いかなる対策をも持ち合わせていないのが実状である。
 この草木ダムの建設の表向きの理由は,首都圏への水道用水の供給,洪水調節などである。しかし,その計画策定から本工事への着工,竣工にいたるプロセスを,渡良瀬川の水質基準の審議,水質基準の施行,15.5億円の農作物補償の決定,古河鉱業と地元の群馬県および桐生,太田両市との間の公害防止協定の締結などの経過と重ね合わせてみると,草木ダム建設には隠された理由があると考えてよいだろうそれは下流の鉱毒被害民にとっては自明のことと思われるが,渡良瀬遊水池と同様に,このダムも足尾銅山の巨大な「鉱毒溜」であるという点である。水質審議会か渡良瀬川の水質基準を最大値でなく,まったく意味のない「平均値」で決定したのは,明らかに草木ダムの完成を前提としたものであった。政府の公害等調整委員会が当時の公害の被害補償としては,予想されたよりも「高い金額」で調停したのも,草木ダムによって新たな鉱毒・洪水被害が発生しなくなることを見込んだ上でのことであったと思われる。15.5億円の補償調停では,同時に将来的な公害防止協定の締結がうたわれていたが,ダムが完成した1976年7月に地元と古河鉱業の間で同協定が締結され,78年3月に「公害防止細目協定書」も双方で合意に達した。
 しかしこの公害防止協定の締結には,毛里田地区鉱毒根絶同盟は強く抗議した。その理由は,第1に被害者である毛里田地区住民を排除して内容を決めたものであること,第2に被害者の立入調査権を認めていないこと,第3に加害者である古河側の水質調査を前提にしていること,第4に土地改良について具体化してないこと,第5に農林水産省の農業用水基準では銅0.02ppmであるにもかかわらず,0.06ppmの基準を引き下げようとしていないことなどであった17)。しかし群馬県当局と桐生太田の両市長は,住民の反対にもかかわらず,同防止協定を締結したのであった。現在毛里田地区では鉱毒被害田の土壌改良事業が実施段階を迎えているが,地元住民の意見を無視した「公害防止協定」にもとづくものであるために,それはまだ地元農民全員の同意を得られていない。というのも,渡良瀬川源流の谷に点在する鉱滓堆積場からの鉱毒流出が続き,さらに草木ダムも鉱毒の沈澱池としては機能していない状態の下では,土壌改良を行なっても20年ほどで元の鉱毒田に戻ってしまうと予想されているからである。たしかに,100億円を超えると見込まれている土壌改良費は古河鉱業と政府が折半するとしても,山元における鉱毒流出防止対策と治山事業が遅れている状態では,土壌改良の実効が上がらないのは明白である。さらに農民たちからすれば,現行法規の下で土壌改良を実施すると,その農地は永久に農地としてしか使用できないという制約条件がつくだけでなく,土壌改良によって土地がやせてしまうので,将来必ず鉱毒汚染被害が繰り返されることを知りつつ土壌改良を実施することは,将来に大きな不安を残すことになるのだといえよう18)。とはいえ汚染された農地を放っておくわけにはいかない。現状で考えられる最上の策は,とりあえずいかなる条件もつけずに土壌改良を実施し,また十分な有機肥料を無償で供給することであろう。その場合もちろん将来再び汚染が進行した場合には,原則的には古河鉱業に費用を負担させて再び土壌改良を行うことを義務づけておく必要がある。足尾銅山の山元対策が万全になるまで,それは永遠に繰り返されねばならないのである。
 「公害防止協定」は締結されたが,大雨が降れば基準をはるかに超える銅やヒ素が流出する。1979年10月18日の台風の時もそうであった19)。直接の原因は堆積場からの鉱毒を含んだ水があまり多すぎて,中才浄水場の処理能力を超えてそのまま渡良瀬川にあふれたためであった。堆積場と浄水場の不備についてはしばしば指摘され,毛里田地区鉱毒根絶同盟からも強い抗議が繰り返されてきたものである。この点についてはⅢ―1で述べたので,最後に煙害被害地の治山と緑化事業について簡単に触れておくことにしよう。
 古河鉱業の足尾製錬所周辺とそれより北方は,いまだにまったくのハゲ山が延々と続いている。この景観こそ,一度破壊されつくした自然を再び元に戻すことがいかに困難であるかということの見本であろう。製錬所より南の方向,すなわち渡良瀬川の下流方面の山の斜面は,多額の治山,植林費用をかけてようやく少しずつ緑が回復してきた。とはいえ,それもまだこの10数年のことであり,山の上部は山骨が露出している個所も少なくない。そうした個所はまるで坊主頭に何本ものハチ巻きをしめたように,山肌の岩石の崩落を防ぐためのコンクリート製の土止めが取りまいている。どんなに小さく急峻な谷筋や,雨が降ったときだけ水が流れ落ちる斜面にも,大小の砂防用ダムが数多く建設されている。そしてそれらの大部分は,建設されるすぐ後から崩落する岩石によって埋っていく。営林署の植林担当者は,そこに下から運び上げた土を盛り,草を植え,木の苗を植えるという,たいへんな努力を積重ねて煙害裸地の緑化を行なってきたのである。
 しかし製錬所より上流地域は山が険しいこと,あまりに山肌の崩落の状態がひどく斜面に小さな砂防ダムを築くことさえできず,とくに煙害がもっともひどかった松木沢,仁田元沢などは,いまだにまったく手がつけられていない状態が続いている。この数年ようやく久蔵沢筋の緑化が進められるようになったが,そこでも自然が回復するためには,これから少なくとも数十年が必要であろう。松木沢や仁田元沢の緑化は,おそらく数百年の単位で考えねばなるまい。松木沢は古河市兵衛が足尾銅山を再興するまで,あの日光中禅寺湖畔の鬱蒼たる森林が続いていたといわれる地域であるが,今では1本の灌木さえ見つけることができない。せいぜい崩れ落ちた岩石が堆積したところや,かつて松木村の人々が住んでいた比較的緩やかな傾斜地に草が生えている程度で,皮肉にも足尾地域は関東地方でも有数の多雨地帯であるにもかかわらず,山全体は一滴の雨も降らない砂漠の山を思わせる。営林署の作業員は,ヘリコプターを用いてアメリカから輸入された雑草の種子を上空からまくとともに,土の間に種子と肥料をサンドイッチのようにはさんだ植生盤を,タイルを貼るように岩盤にはりつけるなどして緑化事業をすすめ,最近ようやくその成果が少しずつ現れ始めてきたところである。
 第2次世界大戦後の治山事業費の累積額は,約33億円にも達しており,それは現在の価額に換算すれば70億円以上になるであろう。また戦前の荒廃地復旧費の累積額は,戦前の価額で約69万円と計算されているから20),かりに1000倍して考えるとすると,それは現在の価額でおよそ7億円に相当することになる。足尾地域の治山事業のためにこれまで費やされた国費は,少なく見積っても総計で80億円を下ることはあるまい。さらに今後の治山事業費は,1977年に立てられた全体計画によると約1300億円の巨費が見込まれているのであるが,おそらくそれだけの資本投下を行なっても,自然の回復にはまだ程遠いと思われる。
 ここでわれわれの率直な疑問を述べておかねばならない。それは国有林荒廃の原因が足尾製錬所から排出される亜硫酸ガスにあることは疑いのない事実なのに,何故に巨額の治山事業費が国庫から支出されてきたのか,という点である。国民は古河鉱業にたいして自分たちの財産である国有林に損害を与えた責任を追求し,損害賠償を求める権利を有しているが,これまでにこのことを裁判などで問題にした人はひとりもいなかった。もちろん,本来なら政府が国民全体に委託されて国有財産を管理しているのであるから,政府は古河鉱業にたいして損害賠償を請求し,その賠償金をもって煙害被害地の復旧費用に充当すべき義務があったといえよう。
 ところが,政府は古河鉱業にたいして損害賠償を請求するのではなく,すでに今から21年前の1960年に損害賠償請求権の放棄を決定していたのである21)。驚くべき行政の怠慢ぶり,企業との癒着ぶりである。その決定は直接的には国有林の管理を担当する林野庁が行なったものであるが,当時は本稿のⅢ-1で述べたように,源五郎沢堆積場の決壊事故が発生し,下流の農民たちが激しく古河鉱業を追及していたときであった。しかしながら農民たちも,研究者たちも誰ひとりとして国有林の損害賠償請求権が放棄されたことを知らなかった。鉱毒問題が再燃していたときだけに,政府当局はあえて公表しなかったものと思われる。林野庁長官は,1959年7月「国有林野鉱煙害賠償要綱について」という通達を各営林署長宛に送り,1957年度,58年度,59年度の3年分の損害についてのみ賠償を請求することを指令した。
第8表 濃硫酸生産量
この通達では56年度以前については,鉱業法第115条の第1項前段の規定22)によって3年の時効が成立しているために,損害賠償請求権はすでに消滅したとの見解をとっていた。それは足尾地域の国有林をハゲ山にした責任については,これ以上間わないことを宣言したことと同義であった。この通達を出した翌1960年6月,林野庁は同「要綱」で指令した被害額の算定方式に関する改訂通達を出し23),それにもとづいて実際の損害賠償交渉が行なわれた。それは「鉱業権者との協議の上契約により実質的には損害賠償金として相当の見舞金を出させる」(アンダーラインは筆者)というもので,古河鉱業はこれに応じて320万円の見舞金を出したのであった。何とわずか320万円で,あの厖大な国有林被害にケリがつけられたのである。
 古河鉱業は1956年にフィンランドのオートクンプ社から導入した自溶製錬方式の新型炉を完成すると同時に,アメリカのモンサント・ケミカル社からは接触式硫酸製造法を導入して,亜硫酸ガスから濃硫酸を製造する装置を建設し,それまで大量に排出していた亜硫酸ガスの回収をはかった。
第9表 1955年当時の煙害状況
第8表は自溶炉による製錬が開始されてからの濃硫酸の生産量を示しているが,この表から逆にわれわれは,それまでいかに大量の亜硫酸ガスが大気中に放出されていたかを推測することができる。にもかかわらず,林野庁の行なった損害賠償請求は,放出亜硫酸ガスの減少を待って行なわれたのであり,明らかに国民の財産を不当に処分したといってよい。当時の足尾地域の国有林被害は,第9表で見るように草木が1本もない,まったくのハゲ山だけで2000ヘクタール以上もあり,民有林(そのほとんどは古河鉱業の所有であるが)も含めれば,それは3000ヘクタールにも及んでいた。ほとんど草木が育っていない激害地は,国有林だけで1200ヘクタールもあったから,その被害がいかに大きなものであったか容易に想像がつく。これだけの大被害が,誰にも知られずにわずか320万円の打ち切り補償で結着がつけられたことは,足尾銅山鉱毒事件の本質,荒畑寒村のことばを借りれば「政府資本家共謀の罪悪」を余すところなく物語っているといえよう。
 最後にわれわれは,自溶炉による製錬が開始されてからも,硫酸の需給状態の弛緩や技術的不完全によって,大量の亜硫酸ガスの放出が日常的に行なわれたことのために,植林事業もこの10年くらい前までは,あたかもシジフォス的労働のごとくあまり成果を期待できなかったことをつけ加えておこう。だが1960年の打切り補償以降,林野庁は毎年の損害額を算定して古河鉱業に請求すべきだとしている「通達」の趣旨を反故にしてきた。したがって古河鉱業は,その後の煙害被害についても時効によって免責されているのである。
 岩盤が露出した足尾山地は,足尾町当局が現在「日本のグランド・キャニオン」と名付け観光地として売出し中である。だが渡良瀬川下流の洪水の原因が,足尾地域の荒廃した源流にあることを考えるとき,いかに足尾銅山閉山による過疎化現象を食いとめるためとはいえ,水源林の涵養をうたうのではなく,水源林の荒廃を売り物にする地方行政の担当者にたいして,不快の念をもつのは筆者だけではあるまい。行政が今なすべきことは,古河鉱業にたいして鉱滓堆積場の鉱毒流出防止設備を完全なものにし,一刻も早く水源林を回復させるために全力を尽させることである。とはいえ.古河鉱業に責任を認めさせた上で,とりあえず行政が肩代りすることまで否定するものではないが.基本線は早急の水源林の復旧であるといえる。

 注
 1)前掲『古河鉱業100年史』601ページ。
 2)恩田正一「足尾銅山鉱毒被害をめぐって―その今日の実態」,『ジュリスト』No.492,1971年11月10日,78ページ。
 3)本州製紙江戸川工場廃液タレ流し事件については,石田好数編『漁民闘争史年表』(1972年,亜紀書房)及び,若林敬子「埋立地域にみる環境破壊と漁民闘争史―千葉県浦安町―」(2)(『環境法研究』第2号,1975年4月)を参照。次に両書に依りつつ,この事件の概要について簡単に見ておきたい。
 本州製紙江戸川工場は1922年に設置された古くからのパルプ工場であるが,1958年3月19日新鋭のSCP(セミ・ケミカル・パルプ)製造設備を完成すると同時にその試運転を開始し,4月22日から本格的操業に入った。試運転をはじめてまもなく,同工場から排出された「黒い水」は,江戸川と河口一帯の東京湾を汚染し,アサリ・ハマグリなどの魚貝類やノリを死滅もしくは商品価値のないものにした。東京都の葛西浦や千葉県の浦安,行徳など8漁協の漁民たちは工場の操業停止を要求したが,工場側はこれを無視したため,ついに5月24日浦安町の漁民を中心にして1000人が工場に押しかけ団交を要求した。工場側はいったん黒い水の排出を止めるが,6月になって再度流し始めた。漁民側は東京都に働きかけて再び排出中止を行なわせたが,9日になって工場側は三度黒い水を流した。これにたいして浦安町では全町民をあげて翌10日に町民大会を開き,都庁などへの陳情を行なったのち,本州製紙江戸川工場へ押しかけ交渉を要求した。工場内に入ろうとする漁民たちに対して,工場内に待機していた警察機動隊数百名が警棒をふりかざして追い返そうとしたため,流血の大乱闘となった。漁民側は瀕死の重傷1人を含む重軽傷者143人を出し,8人が検拳された(浦安事件)。漁民側の犠牲はきわめて大きかった。しかしこの事件が契機となってようやく行政当局も本州製紙にたいする行政指導に乗り出したのであった。工場側は当初漁民側にたいして,廃液処理施設の建設には3ヵ月かかるのでタレ流しをその間認めてほしいとしていたが,事件後わずか10日間で応急工事を完成させた。もっともSCP設備は翌1959年3月まで運転を停止した。
 浦安事件の社会的反響はきわめて大きく,とりわけ汚染と埋立てに追い立てられている全国の漁民たちの共感をよんだ。6月30日全国の漁民代表4000人が東京に集まり,「水質汚濁防止対策全国漁民大会」を開催し,水質汚濁防止法の制定を訴えた。こうして浦安漁民の犠牲を恐れぬ果敢な行動によって,同年12月の国会で水質2法の制定が承認されたのであった。ところでタレ流し事件については,12月から翌年の2月にかけて工場側が漁民側に総額で5100万円の補償金を支払うことで話し合いがまとまった。また浦安事件では30人の漁民が書類送検されていたが不起訴処分となり,本州製紙事件は一応収拾されたのである。なお会社側がこの事件の後処理のためについやした費用は,補償金と廃液処理施設の建設費用1億7000万円以外に,SCP設備の運転停止にともなう諸経費として,運転を再開するまでの8ヵ月の間1日当り100万円以上を要したといわれている。最初から会社側が廃液処理施設を設置していたならば,漁民も犠牲を払わずにすんだし,会社側もその建設費用の何倍もの支払を行なう必要もなく,また会社の社会的なイメージ・ダウンを避けられたはずである。
 4)恩田正一講演記録「水質基準のからくり」(宇井純編『公害被害者の論理』公開自主講座「公害原論」第2学期の全記録4,勁草書房,1973年)11ページ。
 5)恩田 同上講演記録,18ページ。
 6)水質審議会での議論のいい加減さ,行政側が古河鉱業といかに癒着して水質基準を決定し,また農民側の切り崩しをはかったかについては,林えいだい『望郷―鉱毒は消えず』亜紀書房,1972年の第4章「鉱毒根絶の願い」にドキュメント風に詳しく描かかれている。
 7)『朝日新聞』1970年6月4日,9月9日。
 8)ここで公害紛争処理法が制定され,中公審が設立された背景について若干説明しておこう。日本では高度経済成長の結果公害による被害が激化し,1960年代後半になると被害者と加害企業との間で損害賠償をめぐる紛争が至るところで発生しはじめた。それからの公害紛争のうちでとくに生命に関わる被害を住民に与えながら,加害企業側が住民の損害賠償請求に応じなかったケースのいくつかについては,すでに民事訴訟がおこされていた。とりわけ「四大公害裁判」と称されている新潟水俣病(1967年6月提訴),四日市ゼンソク(67年9月提訴),イタイイタイ病(68年3月提訴),水俣病(69年6月提訴)の公判過程は,1970年における公害世論の沸騰を準備するものであった。
 70年になるとガソリンに添加されている4エチル鉛が原因となって発生した道路沿い住民の鉛中毒や,大気汚染による光化学スモッグなどが多発し,公害問題は一大社会問題となった。新聞,テレビなどマスコミは,連日公害問題のキャンペーンをはった。こうしてこの年12月には公害関係法規の制定のために臨時国会(「公害国会」)が開かれ,1967年に制定された公害対策基本法も大幅に改正された。改正法では国民から批判されていた67年法の「経済との調和」条項が削除された。これはそれまで「調和」という名目の下で,実際には公害の防止や被害者の救済よりも経済成長が優先させられてきたことへの反省であった。財界はこの条項の削除に反対したが,世論の高まりには勝てなかったのである。もっとも1973年のオイル・ショック以降財界はしきりにこの条項の復活を叫んでいる。
 70年の「公害国会」では計14の公害関係法が改正もしくは新しく制定された。ちなみに前節で言及した水質保全法と工場排水規制法は廃止され,新たに水質汚染濁防止法が制定されている。公害紛争処理法は,このように1960年代後半から70年にかけての公害問題の高まりの中で制定されたのであった。しかし大きな社会問題となった公害紛争は,すべて民事裁判に委ねられたままで,被害者側は新しく設けられたこの政府の公害紛争処理機関には見向きもしなかった。それは長い公害の歴史の中で行政府が加害企業側に肩入れをしてきた事実が明白であったために,被害者側は新しい調停機構にたいしても不信を抱いていたからである。
 9)古河の意見書の内容は『環境破壊』5巻9号,1974年10月,36-38ページを参照。
 10)『朝日新聞』1972年11月1日。
 11)別子銅山は住友財閥の成立の基礎となった銅山で,住友金属鉱山株式会社の経営。なお別子銅山の煙害・鉱毒問題については,拙稿「別子銅山煙害事件」(『社会科学研究』29巻3号,1977年10月)及び拙稿「日本資本主義の公害問題―四大銅山鉱毒・煙害事件」(同誌30巻4,6号,1979年2月,3月)において検討してある。
 12)調停内容については前掲『環境破壊』5巻9号,21ページ,『朝日新聞』1974年5月10日付夕刊を参照。
 13)同上『朝日新聞』記事。
 14)小出『日本の河川研究』93ページ。
 15)建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所『渡良瀬遊水池調節池化工事の概要』1974年9月,1976年2月,1980年5月発行のリーフレットによる。
 16)在日駐留軍の演習地としての使用計画は,1962年7月に調達庁から地元関係町村に指示された。しかし関係する1市2町3ヵ村では「渡良瀬遊水池米軍演習地反対期成同盟会」を発足させ,政府へ計画撤回の陳情活動などを繰り返した。また革新団体も同年11月には全国から1万2000人を集めて,「赤麻,渡良瀬遊水池軍事基地化反対全国統一行動関東地区赤麻大集会」を開催するなど,活発な反対運動を展開した。こうした地元住民の反対運動により,遊水池は米軍の演習地とはされなかったのである。
 17)『朝日新聞』(群馬版)1978年,5月30日。
 18)毛里田村鉱毒根絶期成同盟会前会長恩田正一の話(1981年1月6日聴取り調査)。
 19)『読売新聞』(群馬版)1979年11月17日。
 20)大間々営林署足尾治山事業所『足尾の治山』1978年,10ページ。
 21)『朝日新聞』(夕刊)「放棄していた国有林補償」1980年10月20日。
 22)鉱業法第115条(消滅時効)。損害賠償請求権は,被害者が損害及び賠償義務者を知った時から3年間行わないときは,時効によって消滅する。損害の発生の時から20年を経過したときも,同様とする。前項の期間は,進行中の損害については,その進行のやんだ時から起算する。
 23)国有林の鉱煙害被害に関する林野庁と古河鉱業との「見舞金契約」の詳細については,安田睦彦「足尾鉱毒と国有林被害―放棄されていた損害補償請求」『公害研究』11巻1号,1981年7月,を参照。

 むすびにかえて―――生き返る田中正造の思想

 足尾銅山鉱毒事件が最初に社会問題化した年から現在すでに90年も経過している。だがそれは今なお渡良瀬川の源流地域と,利根川に合流するもっとも下流の地域とに,いずれも3000ヘクタール以上もの荒野を残している。それらを一望しただけでも,われわれはいかに鉱毒・煙害の被害が大きかったかを想像しうる。と同時にわれわれは,この鉱毒事件を,世界史的にはきわめて遅れて資本主義化の途を歩んだ19世紀末の日本が,「富国強兵」「殖産興業」の二大スローガンを掲げて闇雲[やみくも]に西欧の近代技術を取りいれたことの結果であったとみるとき,そこには近代技術の取りいれ方の問題と,それ自体に内包されている生産第1主義的な,あるいは物質主義的な性格の問題が存在していることに気づく。
 日本の支配階級は何よりも欧米の先進資本主義国に追いつくことを優先したため,近代技術の生産第1主義的側面をよりいっそう助長させたのであった。生産第1主義に凝り固まっていたのは,支配階級だけでなかった。貧しい生活を強いられてきた民衆たちの多くも,貧しさから脱け出そうと努力すればするほど,結果的に支配者階級のイデオロギーに同調せざるをえなかったのである。こうした生産第1主義的な考え方が,幾分なりとも是正されるようになったのは,1970年代のはじめ以降公害反対の住民運動が高まってきてからのことである。とはいえ,現在においても官僚や企業の経営者たち,それに民間大企業の労働組合の指導者たちの大部分は,依然として生産第1主義的な考え方を重視している。
 かつて田中正造は近代の機械文明を評して,「世界人類の多くハ,今や機械文明と云ふものニ噛ミ殺さる1)」と述べているが,それは近代文明の本質をついた評であった。現在のように地上の生物を一瞬のうちに破滅に追いやる「原水爆時代」をあたかも予見していたかのようである。今や原水爆ならずとも,原子力の平和利用(商業利用)の推進や遺伝子操作,さまざまな毒性の強い化学物質,重金属汚染などの拡大によっても「人類がかみ殺される」危険は急速に高まっているといえる。田中正造は鉱毒被害のひどさと,それを防止しようとしなかった資本家や政権担当者,官僚たちを告発し続けたが,彼の目には激甚な鉱毒被害を発生させた生産第1主義的な技術体系は,それを支え,促進した政治的あるいは文化的な要素と一体のものとして映った。とはいえ彼は必ずしも近代文明全般を否定するものではなかった。
 田中の文明観は次のような彼のことばから理解しうる。すなわち田中は「野蛮ニして野蛮の行為を為すハ可なり。文明の力ら,文明の利器を以て野蛮の行動を為す,其害辛酷なり故ニ野蛮の害ハ小なり。文明の害ハ大ヘナリ2)」と近代文明の野蛮性について述べ,さらに「物質上,人工人為の進歩のみを以てせバ社会は暗黒なり。デンキ(電気―筆者)開ケテ世見(間)暗夜となれり。然れども物質の進歩を怖るる勿れ。此進歩より更ニ数歩すすめたる天然及無形ノ精神的発達をすゝめバ,所謂文質彬々知徳兼備なり。日本の文明今や質あり文なし,知あり徳なきに苦むなり。悔改めざれバ亡びん3)」と,近代文明の物質万能主義を否定したのである。とはいえこうした田中の近代文明批判は,彼の晩年の日記になるほど多くみられる。われわれはそれらを読むとき,4分の3世紀以上前の田中のことばが,巨大化しすぎた現代社会にたいする警告としてそのまま通用することに驚きを感ずる。
 田中正造が1913年の9月,河川調査の旅先で没したとき,谷中村問題で最終的には田中と袂を分かったとはいえ,長い間彼と鉱毒反対運動を担った何万という農民たちが彼の葬儀を行なうために集った。それは一市民の葬儀としては,おそらく日本近代史上最大の葬儀であった。かつての農民活動家たちは,火葬後被害地の5ヵ所に分骨し,田中の霊を慰めた。それは田中正造の生前の意志に反した行為ではあつたが,鉱毒反対運動に疲れた人々にとっては,そうせずにはいられなかったのであろう。彼の死後13年して,田中の業績を顕彰する農民や首都の知識人たちは,彼の演説草稿や書簡を編集して『義人全集』全5巻を刊行した。田中の伝記や評伝および彼の思想と行動を中心に書かれた鉱毒事件の歴史は,これまでに刊行された単行本だけでも数十冊にのぼっている。雑誌論文の類は,おそらくそのまた数倍はあろう。そしていつしか田中正造の「義人」伝説がつくられるようになり,晩年の孤独な闘いとは対照的に田中は死んだ後に再び民衆の指導者として,人々から祀られることになったのである。
 さらに年月が経過し,多くの人々にとって伝説化した田中正造しか知られなくなり,ついにはその名さえ忘れ去られはじめた1960年代の後半,日本では公害問題が全国的に噴出したことによって,正造を「義人」としてではなく,ひとりの人間としてその思想と行動を再評価しようとする動きが高まった。それ以降田中の再評価は,公害反対運動の活動家,郷土史研究者,日本近代史の研究者,政治学や思想史の研究者たちの間にしだいに拡がりはじめている。公害問題の噴出という現実とともに,田中再評価の契機となったものとして,旧谷中村残留民と彼らを最後まで支援した人々によって組織された田中会の活動がある。旧谷中村残留民とその周辺地域の農民たちは,田中正造が晩年の全精力を注ぎ込んで自治村の復活を目ざした遊水池内の残留民の宅地内に,彼の分骨を埋葬し石の祠に祀った。彼らは東京の少数の知識人たちもいれて田中会を結成し,谷中村復活の闘いを続けた。彼らは旧谷中村を立退くとき,田中正造を祀った田中霊祠もいっしょに移転し,その後現在に至るまで毎年4月4日に例祭を行なってきた。現在の田中会の人びとは,発足した当時の人々の3代も後の子孫にあたるが,未だに田中正造のことを「田中さん」と親しそうに呼ぶのである。そこには「義人田中正造」といった世間一般に拡がったイメージとは異なった田中正造像が生き続けているのである。
 残留民とその子孫たちは,渡良瀬川の上・中流域の農民たちが行なったような寄付金要請運動なども行なわず,ほとんど目立った動きをしなかった。ただ移住後まもなく発生した萱刈事件のときには,谷中残留民を結集軸としてまとまり,旧谷中村民の利益を守りぬいたが4),その後は田中霊祠を奉賛し,田中正造の業績を顕彰するにとどまってきた。1957年5月,田中会の人びとは多数の関係者の協力をえて田中霊祠の拝殿を新築した。そして同年12月,田中霊祠は宗教法人としての認可をうけたのである。日本の近代史上,民衆のなかから「義民祠」に祀られた人物は,おそらく田中正造ひとりであろう。田中会の人びとの活動は,少しずつ会の外にたいしても影響を及ぼしはじめた。少数ではあるが歴史家や思想史研究者たちの中からも,田中に関心をもつ人びとが現れてきた。
 田中会の人びとの田中正造を現代に伝えようとする地味な活動は,1960年代後半の全国的な公害反対運動の発生によって,いっきょに広く知られることになった。それ以来田中会で行なう毎年4月4日の例祭には地元の住民だけでなく,遠方の人びとや研究者たちも数多く参加するようになってきている。ある研究者は,旧谷中村跡の遊水池と田中霊祠を公害から人類を守るためのメッカにしようと提案しているが,たしかにここにはそうするだけの歴史的意義があるように思われる。多くの人びとがこの地を訪れて,田中正造の環境破壊への抵抗の精神と永続的な平和希求の思想を学びとって帰ることができるなら,彼の一生をかけた「事業」である鉱毒反対運動は,形を変えて現代の反公害住民運動を担う活動家たちへと引継がれていくことになる。それこそ少数の残留民とともに,孤立して谷中村復活闘争に献身した晩年の田中が,もっとも望んだことだったのである。
 田中正造の思想と行動の再評価,鉱毒事件の歴史的全容の解明がはじまったばかりの1972年3月,谷中村を追われるようにして北海道へ移住した農民たちのうち,6世帯20人が,60年ぶりに栃木県に帰郷した5)。移住先の自然はきわめて厳しく,農民たちは移住してまもなく帰郷を望むようになったが,栃木県当局は帰郷の便宜をはからなかった。彼らは1927年に第1回の帰郷請願書を栃木県知事に提出して以来,戦前に3回提出したが実現しなかった。1971年4月,ちょうど公害問題が世論を沸騰させている時期に,彼らは4度目の請願を行なった。そしてようやくその願いがかなえられたわけだが,彼らは元自分たちの住んでいた所に帰ることはできなかった。田中正造と残留民たちの必死の闘いにもかかわらず,谷中自治村の復活は未だ成就していないからである。

 注
 1)『田中正造全集』12巻,岩波書店,1978年,426ページ。「1911年8月29日付の田中正造の日記」より。
 2)1912年1月31日付の田中正造の日記,『田中正造全集』13巻,71ページ。
 3)1912年7月21日付の田中正造の日記,同上書,532ページ。
 4)谷中村から同辺地域に移住した人びとには,移住の条件として遊水池内の耕地や萱刈り場の専用権が認められていたが,1921年栃木県会の政友会勢力と結んだ藤岡町当局がこれを制限し,町当局につながる元からの町民たちにも遊水池の使用権を与えようとしたために,町当局と旧谷中村民たちが衝突した(萱刈事件)。旧谷中村民たちは残留民を中心に縁故民大会を開いて町当局の方針に反対し,ついにその専用権をまもり抜いたのである。
 5)北海道へ移住した人々の生活については,小池喜孝『谷中から来た人たち』 新人物往来社1972年を参照。また帰郷運動については,前掲,林えいだい『望郷』を参照。