地域研究

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伝統的鉱業技術の体様

著者名: 佐々木潤之介
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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目 次
はじめに・・・・・・・・・・2
1 前近代鉱業の成立・・・・・・・・・・5
2 17世紀初頭の鉱山技術・・・・・・・・・・11
3 17世紀半ば~19世紀半ばまでの採鉱技術・・・・・・・・・・19
4 17世紀半ば~19世紀半ばまでの冶金技術・・・・・・・・・・26


はじめに

 本稿では,所与の課題を,日本鉱業の展関に即して,解明することとする。その取扱う時期的範囲は,前近代より,おおよそ20世紀初頭までとする。
 わが国における鉱業は,すでに前近代において,相当程度の展開を遂げていた。それを,明治初年の東京大学理学部採鉱冶金学教師であったクルト・ネットウ(Curto Netto)の言葉をかりていえば,「日本人の自国の鉱物を探索したること遍きは按外にして,甚だしきは全山処として採鉱試掘の跡なきはなき地方多し。且つ頗るたしかなる鉱山報告書を編める等を見ても,日本人の鉱山に心がけ深き一端をしりぬべし」(「日本鉱山篇」)という状態であった。そして,その鉱産額は,ネットウによれば,1876年において,価格に換算して,鉱産物総価額約1700万マルク,その内訳は,石炭685万マルク,銅574万マルク,銀180万マルク,金93万マルク,粗鉄43万マルクであったとしている。鉱産物のこの配分は,19世紀を通じて変らない。1902年の統計(第17次農商務統計表)によれば1900年の鉱業について,その鉱産高は第1表のように示されている。表に明らかなように,全鉱産物価格の過半を石炭が,3分の1程度を銅が占め,金銀がそれに続いている。このうち,石炭産業はいうまでもなく,明治期の新興鉱業であった。これを別として伝統的鉱業についてみれば,わが国の主要鉱業は銅・金・銀山業であったことが判る。
 そこで,同じく1900年について,その段階での主要鉱山を,銅(年産10万斤以上),金(年産10貫以上),銀(年産1,000貫以上)について,それぞれに示したのが,第2表である。この主要15鉱山だけで,金の33%余,銀の52%余,銅の61%余の産額をしめている。さらに,その規模を坪数で示すと,この15鉱山の総坪数2,255万余坪,鉱区券数24であって,これは,金・銀・銅・鉛の稼業坪数の21.9%,鉱区券数の2.5%にあたる。こうして,金銀銅鉛の4鉱産についていえば,少数の大規模鉱山が秀れた坪を稼行して多量の鉱産をあげていることが明らかであって,このことは,他方に,数多くの中小鉱山が劣質の坪で低い鉱産を行なっている状況をも物語っている。そして,この傾向は,銅山において,もっとも強いということができる。
第1表 全国鉱産高(1900年)
第2表 主要鉱山(1900年)
第3表 鉱山変災(金属山1900年)

 前近代鉱業の成立

 さらに,この年6月30日現在の金属鉱山就業者数は,就業人員54,805人であり,その就業日数は376,177日であった。そして,その坑夫其の他の中で,この年,鉱山変災で死傷した者は,坑内では窒息・磐石崩落・爆裂薬が,坑外では爆裂薬が,それぞれ主なものであった。この鉱山変災については,ここではこれ以上の統計がないので不明であるが,この限りでも,窒息・磐石崩落などの前近代以来の災害と並んで,爆薬の破裂による災害が大きいことに注目されよう。
 ところで,与えられた課題の観点にたてば,前掲の主要鉱山を含む諸鉱山において,そのおかれた状況に応じて,それなりの固有の技術発展が,江戸時代を通じても存在したということが,まず明らかにされなくてはならないであろう。その伝統的鉱山・冶金技術の発展は,たしかに,科学史の見地より見るときには,「科学もマンネリズムに陥って,技術自身も工芸的な性格を脱しえなかった」(「日本の技術の歴史」『日本科学技術史』)と総活されるような限界をもったものであったにせよ,ともかく技術の進歩はあったのであり,その進歩が,明治以降の西欧鉱山技術の受容のさいの,その受容のしかたや,受容の結果に,かなり大きな役割を果たすことになったということは,否定できないことである。
 そこで,以下,項を分かって,わが国の鉱山業の成立過程とその特質,及び前近代における伝統的鉱山・冶金技術の発展のあり方とその社会史的意義を考えるところから,与えられた課題に応対することにしよう。
 (なお,本稿は,このプロジェクト研究の初年度にあたることから,課題にして,これまでどの程度までの研究上の蓄積があったかということを明らかにすることを目的として記述することにする。)

1 前近代鉱業の成立

 日本鉱業史の研究は,それ自体史料的な意味をもっ,アドルフ・メッヒェル(Adolf Mezger);クルト・ネットウ,フランソワ・コクネ(Fransois Coignet)らの報告書(ネットウ「日本鉱篇」,コクネ「日本鉱物資源に関す覚書」は刊行されている)や,前述の鉱山書(赤穂満矩の「鉱山秘書」,黒沢元重の「鉱山至宝要録」など。その一部は『日本科学古典全書』に採録,復刻されている)などを除けば,まとまったものとしては,おそらく,上野景朗・三上徳三郎『本邦鉱業と金融』(1918年)がもっとも早く,『明治工業史(鉱業編)』(1925~31年),『日本鉱業発達史』(1932年),『日本産業史』(1938年),『日本鉱業史要』(1943年)がそれに続き,戦後では小葉田淳『鉱山の歴史』がほぼ唯一の概説書となっている。これらのうち,戦前・戦中のものは,個別鉱山の研究に根ざした概説とは言い難く,また『鉱山の歴史』は,鉱山経営史に重点をおいたものであって,鉱山技術史については,きわめて大きな弱点があるといってよい。鉱業技術史の概要的まとめや特質づけについての仕事は,主として戦後のものであって,『明治前日本鉱業発達史』,『日本科学技術史大系巻20』,『三技博音著作集巻10,11』,『日本科学技術史』などがその代表的なものである。これらの科学技術史研究には,前にふれたような問題点もあり,かつ,その技術が必ずしも労働組織など鉱山労働の歴史的存在様式との有機的関連をもって研究されているとはいえない問題点もある。
 したがって,現在の鉱山史研究は,この経営史と科学史との2つの研究系列を,個別鉱山の研究を通して,社会史として総合し,再構成しなければならない段階に立ち至っていると考えられる。このことが,研究史を大きくふり返ってみたさいの,本稿の基本的関心であるが,その関心に基づいて,個別鉱山の歴史を求めれば,幾つかの個別鉱山史がある。現在のところ,単行本,あるいは論文によって,精粗の差はあれ,その歴史を知りうる鉱山は,白根・尾去沢・院内・荒川・阿仁・細倉・佐渡・足尾・赤沢・和佐保・茂住・長棟・吾妻・多田.安倍・虎谷・松倉・亀谷・石見・生野・中瀬・吉岡・小泉・別子・立川などの金・銀・鉛・硫黄山である。
 これらの概論および個別鉱山史の研究に基づいて,まず,前近代における鉱山の概要を示す。各鉱山の開鉱年代を,前掲の1900年現在における主要鉱山について示すと以下のようになる。

 阿仁鉱山―銀山天正3年,金山慶長11年,銅山寛文10年
 院内鉱山―銀山慶長11年
 荒川鉱山―銀山慶長年間,銅山元禄13年
 尾去沢鉱山―金山慶長4年,銅山元禄13年
 小坂鉱山―銀山文政12年
 佐渡鉱山―西三川金山文永年間,鶴子銀山天文11年,相川銀山慶長6年
 足尾鉱山―銅山慶長15年
 生野鉱山―銀山天文11年
 吉岡鉱山―銅山大同年間
 別子鉱山―銅山元禄3年
 山ケ野鉱山―金山寛永17年
 大口鉱山―金山慶長年間

(以上開坑年代判明分のみ)

 この他,鉱山史上重要だと思われる鉱山について,その開坑年代の判明している分だけ付記しておこう。

 陸奥尾太鉱山―銅山大同年間
 羽後太良鉱山―鉛山文永年間
 羽前延沢鉱山―銀山慶長年間
 羽前永松鉱山―銅山慶長年間
 陸中白根鉱山―金山慶長3年,銅山寛文9年
 陸中小真木鉱山―金山慶長3年
 隆中不狼倉鉱山―銅山寛文年間
 陸前細倉鉱山―銀山大同年間,鉛山17世紀初頭
 岩代半田鉱山―銀山大同年間
 伊豆土肥鉱山―金山天正年間
 美濃畑佐鉱山―銀山天正18年,銅山元禄年間
 飛騨和佐保鉱山―銀山天正17年
 飛騨茂住鉱山―銀山天正17年
 摂津能勢鉱山―銅山長暦元年
 越中虎谷鉱山―金山元和元年
 越中長棟鉱山―鉛山寛永年間
 能登宝達鉱山―金山天正12年
 但馬明延鉱山―銅山8世紀以前
 石見大森鉱山―銀山延慶年間
 石見笹谷鉱山―銅山弘安年間
 播摩川上鉱山―銅山天正年間
 豊後尾平鉱山―錫山天文16年,銀山天正年間,銅山寛永年間
 薩摩芹ケ野鉱山―金山承応2年
 対馬佐須鉱山―銀山白鳳3年

 これより明らかなように,主要鉱山は,小坂鉱山などのごく一部を除けば,17世紀以前に発見・開鉱されたのであった。さらに言えば,その開鉱年代は,金銀山においては,16世紀末,17世紀初頭が多く,銅山においては,17世紀中葉から17世紀末が多いということがいえる。この各鉱山の開鉱年代からも,17世紀の鉱山業の隆盛をうかがい知れるが,さらに,各鉱山のそれぞれの盛衰についてみておくことにしょう。
 銀山の例として,佐渡相川銀山における「上納灰吹銀」を示すと,図のようになる。この変動は,ほぼ,銀産額の変動を示しているものと考えてよい。17世紀前半の最盛期と18・9世紀の低滞状況とを明らかに読みとることができる。なお,この図には含まれていないが,相川銀山の極盛期は,開鉱の翌年,慶長7年の出銀量10,000貫匁であったとされている。
 大森銀山も開鉱後急速に発展し,その運上銀は天文年間に100枚あるいは500枚であったといわれ,慶長初年には3,600貫匁,寛永元年には1,200貫匁余の上納銀を納めたと記録されている。しかし,寛永・正保の頃から衰勢に向かい,延宝元年の灰吹銀産出高は400貫匁にも及ばぬ程となった。生野銀山も慶長3年の上納銀は62,267枚(2,677貫481匁)という厖大な額であったが,寛永期以降衰退し,元禄初年には灰吹銀高500貫匁前後となったという。
 銅山の例として,別子銅山の粗銅産出量を示すと図のようになる。ここもまた開鉱の翌年元禄5年には,596,279斤余,翌々年の同6年には,818,195斤の荒銅を生産し,同11年には,わが国銅山の最高記録ともいわれる535,171斤余を産出した。
佐渡相川銀山,上納灰吹銀量
別子銅山産銅量(粗銅)
阿仁銅山出銅表
しかし,その後衰勢に向い,享保年間以降低滞したことは,図の示す通りである。
 銅山の例の2として,阿仁銅山,11カ山よりなるこの銅山の中心である小沢山についてみると,開発直後には40~90万斤,元禄15年に140万斤,宝永5年に200万斤と産銅を増大させたが,この後衰退し,寛保元年約65万斤,明和2年45万斤の産銅にしかすぎなくなった。なお,阿仁銅山全体としては,その産銅量の判明するのは,寛政3年以降であって,その趨勢は,図に示す通りである。
金・銀・銅産額概要
 金山は,おおよそ銀山と同じ動向を辿るものとみられる。なお,江戸時代を通じて,わが国の金・銀・銅産額を示す数値は,表にまとめた程度のものだけである。すでに明らかなように,この表には金銀山の最盛期である16世紀末~17世紀初頭の数値が入っていない。例えば銀についていえば,17世紀初頭に佐渡相川銀山のみで年6~9万キログラムの銀産があり,年間輸出量は20万キログラムにのぼったといわれるから,表に示される宝永年間の数値とは比較にならない額であることは,明らかであろう。

2 17世紀初頭の鉱山技術

 前項で述べた鉱山の盛衰について,評論を加えたのはコワネであった。コワネはいう。
 日本の鉱山開発は西暦1596年より古くはない(中略)。鉱山稼行の技術は,日支両国の交渉が頻繁となった時代に,支那から輸入せられたものと考えられる。其の後カソリックの宣教師が日本全土に入り込むに及んで,欧羅巴式の方法が導入せられた事も想像出来る所である。此の事は,西紀1572年から1585年の間の太閣様の時代に,鉱山開発が最も進展してきたのであるが,それが恰も宣教師の勢力の最大となった時代の前後数年と符号する事と,新しい採鉱冶金技術が国内に拡がり,斯業の急速な発展の原因と言えはざる迄も,その発展を助長するには,一定の期間を要するものである事とを考え合わせると,思い半ばに過ぎるものがある(前出「覚書」)。
この評論は,細部において正しくない。しかし,16世紀末から17世紀初頭にわが国鉱山技術の急速な発展があり,その発展がその後の鉱山業の基礎をなしていること,そして,その発展は外国との交流において成り立っているものであること,さらに,その発展が秀吉政権の成立と深い関連をもっていることを示唆していること,などの点には,コワネの日本鉱山史についての博識と深い洞察力とが示されているといえよう。
 じっさい,すでに述べたような,16世紀末~17世紀初頭のわが国鉱業の発展は,この時期固有の政治・社会・経済的条件の上にのみ,行なわれえたのであった。その諸条件の綜括的表現が「天下の山」原則であった。この原則は,公を公儀の意味で理解すれば,鉱山公有原則といってもよいし,さらには,国家的所有原則と言ってもよい。この原則がたてられた年代は正確にしがたいが,この原則に基づいて秀吉が全国の金銀銅鉛山を掌握したのは,天正17・8年のことであった。ここに至って,これまで,戦国大名の私的支配下にあり,その有力な経済的基礎となっていた鉱山は,統一政権のもとに掌握・支配され,公有化された。例えば佐渡鶴子銀山は,越後の戦国大名上杉氏の給人本間摂津守の支配下に,天文11年の開鉱以来稼行とされていた。秀吉は天正17年,越後を上杉氏の分国として認めたが,同時に,西三川の金山,鶴子の銀山の管理,稼行を上杉氏に委ねた。それと同時に,例えば西三川砂金について「西三川砂金之義は,先例に任せ,伏見大阪へ相納めらるべき者也」(天正17年5月下知状)と命じたように,産出金・銀の秀吉の許への運送・集積を命じた。慶長3年,秀吉は上杉氏を会津に移封したが,佐渡支配は依然として上杉氏の支配下においた。慶長5年にいたって,家康が佐渡を天領とし田中清六にその支配を命ずるまで,この上杉氏の佐渡支配は続いている。
 大内氏の支配下で開鉱された石見大森銀山は,その後戦国大名の争奪の対象となり,その支配も,大内氏―尼子氏―毛利氏と転変したが,文禄3年に,秀吉の家臣駒井益庵が奉行として派遣され,慶長には3,000枚,翌3年には4,869枚の銀が,秀吉に上納されている。慶長6年,家康はこの大森銀山を天領とし,大久保長安を奉行に命じた。
 これらの例のように,秀吉政権や徳川政権は,多くの主要鉱山を直轄支配の下にくみ入れていくが,しかし,それは鉱山のすべてではなく,また,鉱山の経営方式においても一定であることを意味しない。鉱山の経営を大名・藩に預ける方式や,その経営を山師などに請負わせる方式などがある。それを大別すると前表のようになるのであろう。これらの区分は,各鉱山についてみれば,決して固定しているものではない。鉱山の盛衰を見合せながら,幕府は鉱山ととその周辺地を直轄支配にしたり,また幕府や藩はその経営を直営にしたり請負経営にしたり,などの方法をとるからである。
 しかし,いずれの方式をとるにせよ,鉱山にたいする公有原則は,秀吉によってたてられ,徳川政権にうけつがれて,貫徹していたのであった。そして,この公有原則は,たんに,鉱産物は公儀に属するということのみではなく,様々の鉱山業展開の基礎ともなったのである。
 鉱山関係技術より見れば,それは,16世紀まで展開して,また旧来の技術を権力が掌握することであり,それをたかめるための海外技術の導入を容易にすることであり,さらに,これらの諸技術を急速に国内の諸鉱山に,伝播・展開させることでもあった。
 すなわち,上記の第1点より見れば,以下の通りである。16世紀末までのわが国の鉱山技術の発展水準は,採・探鉱における坑道掘と,冶金における灰吹・南蛮吹とであった。本来,採鉱法には,溝掘(露頭から溝を掘って鉱脈に沿って採鉱する)・つるし掘(堅穴による採鉱)・犬下り掘(鉱脈に沿って坑口から地中に掘人ってゆく採鉱)の3種類があった。これらはいずれにせよ,鉱脈が露頭していることが前提になっている採鉱法である。このいわば露頭採鉱法の上に,坑道(=間歩)の掘進を基本とする坑道掘が成立した。系譜的には犬下り法の発展したものと位置づけられているこの抗道掘には,2通りのものがある。
 1つは,露頭している鉱(=鉱床)から,鉱筋(=鉱脈)の存在を予測し,それをめざして間歩(=坑道)を掘進し,鋪(=切羽)を設けて採鉱する坑道採鉱法である。このさい重要な技術は,その鉱,鉱筋の測定と,それへの掘進の技術であって,それは,寸甫(寸法)によって現わされていた。しかし,寸甫が1つの職種として出てくるのは,17世紀半ば以降のことであって,17世紀初頭においては,採鉱労働の親方である大工ないし,大親方である金名子が,この寸甫技術を身につけていたと考えるべきであろう。このような坑道採鉱法は,甲州の諸金山において進んだものとされている。しかし,史実の上で坑道採鉱法の確かめうる最古のものは,石見大森銀山のそれであって,その大森銀山の坑道掘は,出雲田儀三,島清右衛門が,出雲杵築の鷺銅山から「穿通子」=大工3人を連れてきて始めたものだという。佐渡相川銀山の慶長・元和年間において判明する金掘70人の出身地は,播摩(15人),越前(13人),石見(12人),大阪(7人),伊勢・越中(各5人)などであり,秋田院内銀山の開鉱時の鉱山居住者の出身地が判明する分の主なものについてみれば,金名子6人中越前2人,大工9人中越前3人,越後・備前各2人となっている。これより見ると,自ら坑道掘を各地で行なっていたかどうかは別としても,少くとも,坑道採鉱法に適応できる能力をもった金名子,大工たちが,越後・伊勢から石見・備前の間の中部日本の広範な地域に存在していたことは否定できないであろう。
 2つは,探鉱のための坑道掘である。このためには,坑道掘進技術の前提として,山の見立て(=探鉱)技術が不可欠となる。もちろん,この時期にあっても,探鉱技術の基本は漂石探鉱(谷間での流石,砂礫の椀掛け,あるいは断崖,谷間の露出部の焼け等によって,鉱物の存在を鑑定する方法)であるが,それは長年の経験の蓄積と,鋭い勘とを必要とするものであった。それ故に,探鉱は,山相の鑑定という形をとって,継承されてゆくことになる。そして,このような山の見立ての技術を体得しているのが山先であった。秀吉が天正年間,鉱山開発のために,摂津多田の山先,原丹後,原淡路に二代受領を許したのは,まさにこの山先技術の重要性と,その技術の権力による掌握とを示しているに他ならない。しかしながら,この山先も,17世紀初頭において,山師と分化していたとはいえない。山師についていえば,例えば,佐渡相川銀山の慶長年間山酬一覧に見える山師には2通りあり,1類は,山先を名乗る者を主体とした,伊勢・備前・石見・但馬・丹波・越前・越中等の出身山師で,2類は,大阪・江戸・京都の出身山師である。2類の山師は鉱山経営能力を主体としたいわば商人山師であろうと思われるが,1類はほぼ明らかに,山先山師なのである。同じ時期,同じ銀山で,金掘の出身地に,播摩・越前・石見が多いことは,この1類の山師の出身地と対応しているといってよいであろう。秋田佐竹領では,院内銀山を発見した4人の山師に,山先証文を与えて特権を認めたということや,大久保長安が伊豆・石見両国から,「銀山功者」を呼びよせて,佐渡銀山の山師としたことなども,同様のことを示すであろう。
 こうした,寸甫技術・山先技術を伴った坑道掘が,17世紀初頭にいたる採鉱技術の技術史的前提であったとすれば,灰吹法・南蛮絞は,同様に冶金技術の技術的前提であった。ネットウは,日本では「鉱石より金属を製取するに古来唯鎔解あるのみ」と評価している。また一般に,冶金法の記録上把握しうる最古のものは,対馬の一種の酸化製錬法(含銀鉛鉱処理)であり,ついで南蛮絞(含銀粗銅処理),砕鉱分離法(金鉱処理),塩焼法(金銀分離),山下吹(銅鉱還元製錬),アマルガム法(銀製錬)などが,17世紀半ば頃まで存在した冶金法であったとされている。このうち,アマルガム法・南蛮絞りは,明らかに輸入技術であった。そして,南蛮絞はかが国に定着したが,アマルガム法は,佐渡銀山において急速にひろめられたものの,原料である水銀の供給困難を直接の理由として,短期間で消滅したのであった。なお,わが国の水銀生産は古くから伊勢丹生などで行なわれていたが,17世紀の初頭には衰え,水銀は輸入に頼らざるをえなかったのである。
 なお,この佐渡のアマルガム法については,その存在を否定する考え方もあるが,いずれにしても,その鉱山技術史上にしめる比重は,それほど大きいものではない。また,銅製錬における奥州吹は,紀伊から秋田阿仁銅山に伝えられたものといわれるが,阿仁銅山で奥州吹の基本である「焼鉱を還元熔解して得る銀を完全熔焼し再び還元熔解」するという冶金法が,少くとも伝統的・持続的にうけつがれたとはいえない。そこで,17世紀初頭において基本となっているのは,摂津能勢の採銅所などを中心にして育てられ,紀伊,伊勢をはじめ,その周辺の鉱山にうけつがれてきた寸吹・真吹法,天文2年石見大森銀山で始まり,ついで大森銀山から生野銀山等に伝えられたという灰吹法,博多・大阪などの都市手工業に定着していた南蛮絞法の3系統の技術であったと考えられる。秋田阿仁銅山の精錬法は紀伊熊野から伝えられたが,開鉱期の院内銀山の冶金手工業者(=床屋)の出身地は,判明ある者39人中,石見11人,大阪6人,越中・備後・備前・播磨各2人,であった。
 これらの3系統の冶金技術は.いずれも精銀・精銅を得るためのものであり,それは主要鉱山の多くが,銀銅山として存在していたことに対応していた。そして,これらの3系統の技術の統合によって,17世紀初頭の銀・銅・鉛の分離技術は科学的処理法には至らなかったものの,その限界内では,著しく高い水準に到達していたといえよう。そして,その限りでは未熟であった金・銀分離技術は,慶長15年頃に出現した塩焼法によって一歩進められた。この塩焼法は「是れ蓋し化学的処理法の濫膓ならんか」と言われるほどの画期性を秘めたものであったが,それを考案したのは,後藤徳乗らの幕府金銀座であったのであり,その基礎となったのは灰吹法であったのである。
 鉱山公有原則は,以上のような内容の探鉱・冶金技術を,その直接支配下におくことをも意味した。その諸相は,幕府直轄鉱山においては佐渡鉱山についてあげた例のごとくであり,大名支配下の鉱山においては,大名は鉱山に関わっては,その私領内に存在する鉱山に対する支配は,幕府の代官としてそれを行なうという位置づけを与えられていたのであった。そこで,鉱山公有原則は,必然的に,鉱山の他産業・地域からの隔離,鉱山相互間の交流,鉱山物流通の特殊構造とをもつこととなった。
 鉱山は他地域,他産業,とくに農村から隔離された特殊地域でなければならぬという原則は,山中・鉱山町・鉱山領の設定として現れている。その詳細についてはここでは述べないが,この特殊地域としての鉱山の設定の直接的な目的は,鉱山労働力を農民から明確に区別して双方の労働組織のそれぞれに固有の確立をはかること,日常諸物資の非自給に基礎をおく鉱山住民の貨弊経済の影響が,自給経済に基礎をおく農民経済に及ぶことを否定すること,の2点にあったことは明らかである。そして,この鉱山の特殊地域化は,一方で,鉱山技術と農業技術との隔離をもたらし,他方で,農民の間での鉱山労働者に対する差別感をも含めた特殊社会意識をも生み出すとともに,鉱山労働者の特権意識をも強めることとなった。
 このように特殊地域化された鉱山は,その交流を鉱山相互の間にもつこととなる。このことは,幕府が鉱山の生産力増大を求めて,積極的に,労働者・諸技術の各鉱山への伝播に努めたことによって,決定的となった。前述の坑道掘と冶金法は,17世紀に入って,わが国鉱山の一般的技術水準となったのである。その技術者・労働者の移動については,すでに,相川,院内両鉱山について示した通りである。これらの他に,慶長・元和年間の,鉱山相互の関係について,
17世紀初鉱山の交流の例
 年 代 概 要
慶 長 9 年 大森銀山役人を相川銀山に派遣する
    13 年 相川銀山の山師が備中鉛山の者,及び大森銀山大工らと共に,越後鉛山に行く
    19 年 播磨の山師が出羽太良鉛山を請負う
慶 長 年 間 泉州堺の者が出羽延沢銀山を試掘し,問吹を行う
        甲州の金掘らが武蔵秩父金銀山を開発する
        院内銀山に佐渡銀山から「かね山の作法」が伝えられる
        佐渡銀山開発に,石見・伊豆・甲斐の者が参加する
        伊豆金山開発に,甲斐の者が参加する
元 和 7 年 佐渡奉行,生野奉行を補佐する。生野銀山で相川銀山にならって,荷分法をとる
元 和 年 間 長門と石見の者が北九州の金山掘場の請負願を出す
        相川銀山の山師3人が南部朴金山を稼行する
        佐渡銀山山師味方但馬,伊豆銀山奉行佐野主馬が,多田銀山経営に参加する
寛 永 9 年 多田銀山から「かたけ吹」が生野銀山に送られる

その一部を,別に掲げておこう。ところで,このような交流の進展の底には,鉱業生産をたかめるために,労働力供給は同時にまた,農業労働力への影響を与えないという原則にたつ必要がある。そこで,否応なく,労働力移動が必要になってくる。17世紀初頭にどのくらいの鉱山労務者がいたかは全く不明である。口伝や記録によると,慶長6年,石見大森銀山は,戸数26,000戸,人口20万人といい,佐渡銀山は慶長18年人口10万余人,寛永6年家数3,790軒,人口20万500人という。もちろん,これらがいずれも過大であることは,明らかである。しかし,相当程度の多量の鉱山労働力が全国に散在していたことは確かであって,これらの労働力は,衰退した鉱山から繁栄している(=盛りの)鉱山へ,或いは復活した(=直りの)鉱山へと大量に移動していた。そして一般に,特定の土地への緊縛が強烈であったこの時期に,その移動を可能にするためには,そのための特権が必要であった。この特権の基礎になっていたのが,それ自体は偽文書である「家康公山例五十三ケ条」である。家康の名によって鉱山労務者が特権を与えられているという認識は,この文書の真偽をこえて,17世紀に入ると一般的なものとなっていた。そして,その特権の,具体的かつ直接的な権限は,通関特権だったのである。
 しかし,この特権が,ほぼ採鉱労務者に限られているものであったことは注意してよい。彼らが移動性に富んでいたことは,その抗道掘進,採鉱技術が遅れていたことと照応している。簡単な鉄製手道具による採鉱労働は,その大部分と彼自身が身につけている経験と体力とに頼っていたのである。そしてまた,この特権によって,採鉱労務者が個別的に移動可能であることが一般的であったとはいえないことにも注意してよい。採鉱労務者は大工あるいは大親方である金名子に従属しており,その金名子はさらに山師との間に従属関係をもっていたからである。秋田や津軽での17世紀の金名子は,それぞれ,50~60人程度の採鉱労務者をかかえていたと考えられている。そして,金名子の山師への従属度は,山師の鉱山経営商人化に伴って,また,採鉱の金名子による請負制の一般化とともに,急速に弱まっていくが,その請負制と,採鉱技術の発展の低位性とによって,金名子の採鉱労務者への支配,後者の前者への従属は強固に維持されている。その結果,この鉱山労務者の移動は,この労働組織集団を単位として行なわれるのが一般的であったように考えられる。もっとも,大森銀山などの西国の鉱山では,東国に比べて,より鉱山労務者の個別的移動が一般的であったように見える。基本的な労働形態に大きな差があるとはいえないにもかかわらず,労働組織の上で相違があるのであって,これらの西国の鉱山においては,採鉱労務者の山師への直接的従属が基本形態になっている。金名子的大親方は,支配機構にくみこまれて役人化し,採鉱労務者への直接的個別的支配力を失っているといってよい。この東国と西国との労働組織の差異については,さらに検討しなければならない点が少なくない。しかし,いずれにせよ,冶金技術者(=床屋・吹屋)の移動は,採鉱労務者とは違って,特権的であったとはいえないのである。それは,床屋・吹屋が高度の技術保有者であり,比較的大規模な冶金施設を必要とし,かつ,強い徒弟制的な関係をもってるところの,山元での完成品生産者だったからである。ひと言でいえばそれは高級職人親方だったのであって,それゆえに上記のような特権から排除されていたのであった。したがって,これらの床屋,吹屋の移動には,少なくとも17世紀初頭においては,山師なり領主なりが関与していたといわなくてはならない。
 金銀銅がことさらに重要視された直接の理由は,貨弊地金と貿易のためであったことは,よく知られているところである。それゆえ,貨弊鋳造権と貿易権の独占を幕府がめざすとき,地金生産の向上と流通独占の強化とは不可欠の条件となる。そこで,公有原則はもっともはっきりと流通において示されることとなったのであった。幕府金銀座は17世紀初頭に設けられたし,銅屋仲間は寛永14年に設けられた。もともと,すでに述べたように,鉱産物は公有であるという原則にたっていたから,これらの座,仲間は,公有物の処理を本来の使命としていた。しかし,同時にこれらの組織は,旧来からの,主として貨弊形態をとっている古金銀や,公有原則から洩れた地金の公有化のための組織でもあったのである。そしてそのためには,これらの座,仲間は単なる流通機関ではありえなかった。それは,当時として最高水準の冶金技術をもった手工業の組織でもあったのである。逆に,冶金技術は,この座,仲間を頂点として編成されていたといってもよい。そのことは,金銀冶金技術における後藤,銅吹技術における住友,に代表的に示されている。

3 17世紀半ば~19世紀半ばまでの採鉱技術

 17世紀半ばまでの銀山,17世紀後半での銅山は,それぞれに,17世紀半ばが「金銀鉱業の低調と銅鉱業の伸長」といわれるような,興隆を示したが,それはなお,その基礎を地表に近い,しかも良質の原鉱(=鉑)の採鉱においているものであった。したがって,探鉱技術に限界がある限り,鉱山開発は限度に達するようになり,採鉱はより地表から遠く,かつ,低位の鉑を採取することになるとともに,その低位の鉑から冶金に努めなくてはならないようになる。これは,17世紀半ばの銀山,17世紀末~18世紀初めの銅山が共通して直面しはじめた問題点であった。そして,その困難をどのように克服してゆくかという努力の道程が,17~19世紀半ばの間の鉱山技術史の展開に他ならない。
 採鉱技術それ自体についていえば,発展は無かったといわなくてはならない.終始,採鉱労働は手掘によって鉱床中に溝を掘り,そこに薪木を積んで燃やし,冷却後採鉱するというこの火入れ法は,18世紀末以降一般に行なわれるようになったが,それは火力利用のもっとも初歩的なものであった。さらに進んだ火薬爆破による採鉱の試みは,文久3年,大島高任が米人鉱山技師パンペリー(Pumpelly)に教示されて,北海道のユーラップ鉛山で火薬発破を行なうまで,見ることができなかった。火薬発破がわが国鉱山でひろく用いられるにいたる画期は,1878年のモリソン商会によるダイナマイトの輸入であったとされている。
 採鉱技術において見るべき進歩がなかったけれども,労働組織上の分化は一般的であった。前述のように,山師と金名子,大工らの従属関係は弱まり,後者の採鉱請負組織は自立度を強めた。それとともに,山師は,鉱山経営管理技術を主体とするものに移り,実体的には,鉱山役人化していった。ほんらい山師の一側面をなしていた探鉱技術は,山先に担われることとなり,山先もまた,行なわれたのである。わが国鉱業における手掘採鉱の占める比重は,明治以降にいたっても根強いものであった。主要鉱山35鉱山についての統計である表によると明らかなように,鑿岩機による採鉱が手掘採鉱を上まわったのは,1920年前後のことだったのである。この手掘はいうまでもなく,手鉄・鎚・鶴嘴等を主要な道具とするものであって,それは確かに経験と熟練とを必要とする特殊な技術ではあるが,全くの人力消耗の技術でもあった。そして,同時に,この手掘技術が,固有の労働組織と結びついていたことに注意される必要があろう。それは,小は大工=親方のもとにおける,大は金名子=大親方のもとにおける金名子,大工を頂点とする,金名子,大工,手子,掘子などからなる採鉱請負の徒弟組織であった。
 採鉱にさいして,その補助手段としての火力の利用は,別子銅山などで火入掘が行なわれた程度のことである。特殊な技術保有者として鉱山管理体系の中にくみこまれていった。これらの鉱山管理・探鉱技術は,17世紀末には,鉱山書として記録されて伝えられるにいたる。その代表的なものが,秋田院内銀山の事実に基づいて,秋田藩士であり,惣山奉行をも経験した黒沢元重(浮木)の記した「鉱山至宝要録」(元禄4年)であった。
 本来,金名子・大工の技術の1つであった寸甫技術も,金名子・大工から分離していく。すでに,上の「至宝要録」では,「鋪の切様など吟味するを寸甫という。此役は今に頭有て(中略)寸甫頭と言う」と記している。また,坑道が深く進むにつれて,坑道を一定の大きさに保全する必要が出てくる。
手掘・鑿岩機掘の比重
それは鉑の運搬と,通気とに直接の理由があるが,その坑道の大きさは,例えば大森銀山では竪4尺横2尺と定められている。このことは坑道維持の技術を生み出す。坑道掘は本来横坑を主体としているものであるが,その初期においては,坑道維持技術は,金名子・大工のものであった。しかし,坑道の延長とともに,坑道維持技術(=留山の技術)が,金名子・大工とは別の山留ないし山留大工によって担われ,分掌されることとなった。そして,坑道の状況に応じた山留めの技術は,そのための木材の種類や組み方を中心に,様ざまの分化を示すに至る。
 ところで,採鉱に始まる,採鉱―坑外運搬―砕鉱―撰鉱―焼鉱の過程のなかで,金名子・大工らの卒いる採鉱請負組織が,どの部分までを受持つかということについては,鉱山によって,かなり大きな違いがあるようである。阿仁銅山では,本来採鉱~焼鉱までを行なうようになり,50人程度の労務者をかかえていた。しかしその後,焼鉱が分離して,本来の形となり,金名子経営の労務者数も減少していく。これにたいし,佐渡相川銀山では,金名子経営は,採鉱~坑外運搬だけを担っているものの,その経営の労務者数は,19世紀半ばにかけて,増大していく。右見大森銀山の大工は,採鉱~坑外運搬だけの職種であるが,銀山役人に直接に属している家族規模(「鎚壱丁前四人」)の小労務者組織であって,金名子経営への発展の様子は見られない。津軽尾太銅山・陸中尾去沢銅山はほぼ阿仁銅山と,秋田院内銀山はほぼ相川銀山と,伊予別子銅山はほぼ大森銀山と,それぞれ同様の労働組織と経緯とをもっていると見られる。
 坑道掘の掘進と共に,新しい問題が出てくる。それは排水と排煙であった。疏水抗や煙貫抗の開鑿がそれである。すでに,慶長10年代に,生野銀山や院内銀山等では疏水坑の開鑿が試みられていた。煙貫坑道は寛永11年に佐渡相川銀山で掘鑿されていたといわれる。もっとも煙貫坑道は,新しい坑道堀というよりは,山の上や古間歩からの通気坑の掘り抜き,採鉱坑道の掘進のさいに同時に掘る副坑,などの方法をとったのであった。そこで,坑道掘に関していえば,排煙よりは排水工事が中心となるべきであって,この水抜普請のために,普請大工の組織が作られた。その普請労働者数は,例えば,1789年の阿仁銅山においては,鉑掘労務者合計725人にたいして,279人を数えている。もちろん,その普請労働者の組織・技術は,採鉱労働者のそれと同じであるが,賃銀は,採鉱の場合と違って,掘進能率によって支払われる。いわゆる火縄普請は,そのことをよく示している。そしてまた,この排水坑開鑿が大規模になると,計測技術が不可欠となる。ここに,振矩師が出現することになるのであって,この意味では,佐渡の南沢疏水道の完成は,鉱山技術史のみならず,土木技術史においても,重要な意義をもっているといえよう。
 もちろん,排水については,排水坑につきるものではない。鉱山衰退のもっとも大きな直接の原因は,出水による鋪の水鋪化にあったから,排水努力は,さまざまの形で行なわれた。もっとも初歩的な方法は,釣瓶揚水である。ついで,早く元和4年には,佐渡相川銀山に寸法樋が移入され,さらに,同じ相川銀山に,寛永14年には水上輪(竜樋)が伝えられ,天明2年には水銃(竜吐水)が移入された。これらはいずれも先進的な技術の導入であった。そして,これらの排水技術は,とくに寸法樋を主として,各地の鉱山に佐渡から伝えられていった。しかし,例えば水上輪が寛永14年に伝えられたが,承応2年にいたって実用されたものの,それは試用で終ってしまい,寛政2年にいたってようやく復活したという事実は,導入された技術と,それを活用する技術(技術的基礎)との問題を考えさせる点で興味深い。そしてそのこととの関連で天保11年の「佐渡四民風俗追加」は,次のように記している。
 スポン樋,水上輪,阿蘭陀スポイト又は竜越樋杯唱候もの,近年迄色々御試有之候へ共,敷内深く相成候に随ひ,細工物にては損所の故障繁く,水取後れ候処,当時の如く井車を仕付け,釣瓶にて汲揚候方故障も少く,御入用を省き,水の揚り方宜く,此上の法無之趣に御座候
 結局,新たな排水具の導入があっても,釣瓶揚水を基本としたのが,佐渡相川銀山だったのである。そして,その揚水労働には,よく知られている水替人足が使役されたのであった。なお,石見大森銀山で文久3年に新水取機が考案されたといわれるが,その詳細については判っていない。生野銀山,別子銅山などでは,竹樋・箱樋が主要な揚水具であった。このような揚水具が動力使用の揚水機に代っていくのは,明治13年,佐渡で蒸気動力のコーニッシュ・ポンプが採用されたことに始まる。したがって,それ以前においては,揚水具はすべて人力消耗のそれであって,揚水能率も低く,排水の最も効果的な方法は,排水坑の開鑿であった。この排水坑を開鑿できない場合は,湧水の大きい鉱山では,結局のところ,水鋪が続出し,衰山のやむなきにいたったのである。なお,事柄の性質上,揚水具については,農業技術との関係がもっとも深いということを注目するべきであろう。もともと,水上輪などは農業用揚,排水機として考案されたものであって,鉱山にはそこから導入されたものであった。しかし,それらが定着しなかったことの技術的な基礎は,その根底に,前述の鉱山と農村との分離支配が存在することを想起しておく必要があろう。
 突発的な坑内出水は,これに対処する方法がない。1818年の生野銀山坑夫溺死事件はその例であって,一挙に18人の坑夫の人命を奪ったという。落盤・坑内出水と並んで起こる坑内災害は,ガス爆発であった。佐渡相川銀山の天保年間の事件や,慶応年間の半田銀山の事件などがそれである。
 このガス爆発事件にも連なり,一般には採鉱労働の労働条件においてもっとも重要なこととして,坑道掘に伴なっておきた問題が,通気問題であった。この通気問題は,抗内におけるガス,鉱塵の発生とともに,坑内照明と深く関わっている。坑内照明は,17世紀においては,油火・紙燭等を灯していた。17世紀末には,その油や紙を手に入れられない貧しい山師が,しの竹を灯したとされている。しかし,その後,発生する油煙が少ないという理由で,和竹を使うようになったという。この篠竹・油火による照明は,明治20年代前半まで一般的な方法であり,その後カンテラ燈を経て,アセチレン燈が利用されるようになったのは,明治末年のことであった。
 通気技術は,前述のように,煙貫掘盤の他に,通気具が工夫された。風箱・風漏斗を間歩に連ねて並べ,その口から唐箕などで送風するという方法がその1つである。しかし,この方法のもつ限界は大きく,その結果は,各鉱山で,坑内労務者に多くの,けだえ病者を生み出すこととなった。ただ,安政3年から5年にかけて,石見大森銀山で試みられた坑内通気対策は,重要なものであった。備中笠岡から招かれた官太桂誠之の薬蒸気法と,マスク法とがそれである。マスク法は坑内労務者に,梅肉をあてたマスクをつけさせるというものであるが,薬蒸気法は,前述の風箱で送風するさいに,その送風を薬蒸気にするというものであった。蒼木,酸母,〓,酢醤薬を水にうすめた酢に入れ,これを沸騰させた蒸気を送りこむというのである。そしてそのために,官太桂は,坑毒の分析をもしている。この事例は,坑内通気についての化学的分析と,それにたいする薬学的処置とを試みたという点で,画期的なことであったといえるであろう。しかし,この試みが直ちに成功したとか,一般的になったとかをいうことはできない。わが国の鉱山において一般に,坑内空気の分析は明治期に入っても殆んど行なわれることなく,通気法も小型扇風機が使われているていどだからである。
 抗道の大きさは,鉑の坑外搬出にも関連している。この搬出は,よく知られている年少男子労務者や,一部には女性労務者によって行なわれていた。念のために,前記の生野銀山坑夫溺死事件の被害者のうち女子は15歳1人,14歳3人,13歳2人,12歳1人,の合計7人であり,下財(=大工)の最若年は18歳である。年少労務者がまず掘子として大工にかかえられ,18歳にいたって大工に取りたてられることを示している。このエブに鉱石を入れ,人肩によって搬出する方法は,江戸時代の一般の搬出法であったが,この点は,明治に入ってもっとも早く改善された。すなわち,明治元年コワネが佐渡で坑道開鑿にさいし,軌乗を敷設し,竪坑には捲揚機を設けたのに始まり,明治17・8年には各鉱山で軌道鉱車が設けられるにいたったという。その動力も,人力・馬匹から,明治30年代にはいって電力へと変化する。そしてこの軌条搬出の変化は,当然のこととして,坑道の大加背化への改良を必要としたのである。
 選鉱労働は,多く,金名子や大工に属している女性労務者の仕事であり,砕鉱労働を伴っている。選鉱に必要な鑑別能力は,彼女らのものであった。そして,一般にこの石からみ作業は日雇労働であったのにたいし,一部鉱山では,その鑑別能力にたいして,熟練を認めて一部の砕女を定雇にした例もある。このように,撰鉱技術が重視されてきた背景には,鉑質の低下の問題があったのである。そして,その鉑質の低下は,同時に,砕鉱技術や再撰鉱技術を表面化させることとなった。
 砕鉱技術は,「石おろし」「からめて吹く」という冶金法から「はたき物鉑」の冶金へと移っていく過程で,汰場労働を作り出していく。それは,石からみの上に,「石おろし」「臼はたき」「抜取り」の労働である。その汰場労働は,「はたき物鉑」の冶金の比率が大きくなるにつれて,大きくなっていくが,それは初めのうちは主として,廃鉱からさらに撰鉱する再撰鉱の方法であった。そこで,正徳年間の阿仁銅山にあっては,この汰場労働は金名子経営の中に含まれてきていたのである。砕鉱労働は手労働であった。例外的に,早く寛永3年に,佐渡相川銀山に水車が利用されたが,それは定着せず,寛政6年に水車砕鉱が再興されたものの,それが佐渡において一般化したのは文政年間のことであった。この佐渡での水車砕鉱の一般化は,佐渡での大吹冶金技術の展開に対応している。それは,この冶金法は「汰物」といわれる粉鉱精練の技術だったからである。こののち,佐渡では人力による石からめはなくなったと言われるが,他鉱山にこの水車砕鉱がどの程度ひろまったかは明らかでない。前述の揚水機の場合と同様に,この水車砕鉱は容易に定着しなかったものの,揚水機と違って結局砕鉱技術の主要なものとなったことは,それが冶金法の変化と結びついており,かつ,大林与兵衛の工夫,20年来の工夫などといわれるような,鉱山内部における職人の工夫があったからに他ならない。しかもその冶金法の改善や砕鉱の工夫が,ことさらに佐渡において顕著にみられたのは,1723年,佐渡において,砕鉱を採鉱労働から完成に分離し,公儀鏈粉成所をつくって,そこに統一,集中したということに対応している。そこで,わが国の撰鉱技術の一般的な変化は,明治22年,佐渡での銅撰鉱,細倉での銀・鉛撰鉱がドイツ方式によって撰鉱工場として完成するにいたるまで,主として手労働によるものであったということができる。
 焼鉱の技術変化については明らかでない。銅鉱についていえば,焼釜の規模の変化があったように見えるが,結局,明治期に入って,ストール→反射炉・回転炉・機械炉が使用されたが,明治33年,小坂鉱山で生鉱製練に成功したのを機に,冶金上の技術史的意味は急速に後退することになった。

4 17世紀半ば~19世紀半ばまでの冶金技術

 冶金技術の面での発展は,大きくは2つに分けられる。1つは1床の処理能力を大きくすることで経費の節減,冶金精錬の能率化を図ることであり,それはたんに床規模の拡大だけでなく,鞴の改良を伴うものであった。他の1つは,くりかえし精錬であって,それは生産物の純度をたかめることであったが,主としては精錬過程で生ずる屑鉱からのくりかえし精錬であった。そしてこのことは,製品の多様化をもたらすこととなった。しかしながら,この2つの方向での技術改良は,灰吹・南蛮吹技術に基礎をおき,その枠内での改良・工夫に他ならなかった。
 そして,全体として見れば,日本鉱業の冶金技術は,明治に入って,初年から,さまざまの洋式技術導入の試みがなされ,灰吹・南蛮技術は急速にその地位を退けられていった。しかし,その導入技術のうち,金銀冶金については,明治30年代の青化法の採用・展開が,銅冶金については,前述の明治30年代の乾式生鉱精錬の展開,同40年代の転炉製銅の一般化が,伝統技術を最終的に否定した。
 それにいたる冶金技術の到達した姿の一例は,阿仁銅山について高島米八が描いた表である。米八は銅売却までの基本工程を,10段階に分けて説明しているが,それは大きくは,荒銅生産・絞銀=丁銅生産・銀鉛生産の3工程に区分される。
 このうち,荒銅生産は,砕鉱=探鉱→焼鉱→寸吹(荒吹)→真吹(間吹)の4工程が基本になっている。例えば吉岡鉱山について示すと表のようである。
 この内,床尻銅と真吹銅とが荒銅となるが,鉑と荒銅との比率は,冶金技術の水準と鉑の品位によっている。
阿仁銅山精錬表
元禄9年吉岡銅山生鏈50荷(10吹)加工工程
そして,その冶金技術は,それぞれの鉱山において,鉑質の上下の動向に応じての工夫がなされていた。阿仁銅山では,享保年間,150荷=1800貫匁の鉑を一挙に20日間をかけて焼鉱し,寸吹は1日に焼鉱48荷を4回にわけて吹き,それからの鈹銅を真吹が1吹にして真吹銅を作り,結局1,800貫匁から8~12枚(1枚は7~8貫匁)の荒銅を作っている。これと前掲の表を比べると,享保から幕末に至る間に,焼鉱の実質必要時間が増大し(1:2.4),寸吹1吹分が大規模(1:2.1)となっている。そしてそれによる荒銅生産は,2倍以上となっているのである。吉岡銅山では,元禄~寛政の間に,焼鉱時間が短くなり(1:0.71),ほぼ同じ水準の鈹銅,床尻銅を生産している。この2つの事例からでも,それぞれの鉱山での冶金技術の改良のされ方の違いが判る。鉱山相互の技術偏差の大きさは,これらの表の比較からだけでも明らかであるが,さらに例えば日向鉱山では寸吹だけで銅を生産しているといい,生野銀山では焼鉱を行なわずに寸吹・真吹にかけるといい,後期の尾去沢銅山では焼鉱を本焼・焼直しと2度行なってから寸吹真吹に付するという。
 銀冶金を,石見大森銀山について,正徳4年の例で示すと表A・Bの如くである。表中の小吹とは合せ吹のことであるが,含銀銅からの吹分けを示すBが銀生産の基本形態であることはいうまでもない。金冶金は自然金については,銀冶金技術の一形態だといえる。それは鉑と鉛との合せ吹と,それによって出来た筋金湯折の灰吹による吹き分けと,その吹き分けられた筋金の焼塩による調製との3工程からなっている。それを佐渡鉱山について示したのが表である。そして,この間で問題となるのは,金銀分離であるが,それは,少なくとも文政年間の佐渡においては,実現していなかったといってよい。すなわち,佐渡での塩焼というのは,産金の光沢を出すことを主な目的として,焼塩の中に分筋金・筋金を入れて蒸し,あるいは洗うというものであって,銀座で行なう塩焼とは,目的も方法も異なっていたのである。金銀分離の方法としての塩焼は,なお,銀座に独占されていたのであった。
 鉛冶金の基本型は,秋田太良鉛山に見られる。それは焼鉱(撰鉱200貫匁,木炭130貫匁,薪木140本,草20貫匁,雲母小量を5日間で焼き焼鉱を作る),荒鉛吹(煙鉱200貫匁,木炭40貫匁,屑鉄6貫匁を,3吹11時間で吹く)の2工程よりなり,撰鉱200貫匁から荒鉛100貫匁を得ている。錫冶金については焼鉱(砂錫300Kg,松薪で焼く,精砂錫をうる),熔解炉(精砂錫60Kg,食塩1合,木炭72Kgを鞴2台で1~2時間吹き,鍰と粗錫とを得る),南蛮濾(粗錫を鞴1日で吹く)という工程で正錫をえている。
 以上が,各鉱産物の冶金技術の基本型である。そしてこれらの基本型が,それぞれの鉱山において,工夫がなされ,さまざまの偏差を示すにいたっていることは,銅山の例に示されているところである。しかし,その個別的な改良,工夫の他鉱山への伝播は,17世紀半ば以前に比べて,著しく困難になってきていたといわなくてはならない。それは一面では,17世紀半ば以前の技術伝播が,いわば冶金技術原理とその一定の応用についてのものであったのにたいし,それ以後の工夫・改良は,さらに進んだ,それ故に,各鉱山の個別事情に根ざしたところの,同一原理の応用だったということにある。
石見銀山銅銀絞(A)
石見銀山(正徳年間)(B)
佐渡金銀吹分け
とくに,17世紀以前とは異なり,鉱山が衰退状況に入っていたという事情は,この技術の個別性をいっそう強いものにしたといえる。他面では,冶金技術が各鉱山の個別的状況に応じて,それなりに定着していたということである。それゆえに,すでに,かってのように,幕府や藩が職人を移動させて技術を移植するという方法は著しく困難になっており,むしろ,技術導入の主体は,職人それ自体に移っていたのである。このことは,職人が鉱山支配役人や山師への従属から自立性を強めてきたということともに密接に関連している。そして,その結果は,工夫・改良を個別的な性格の強いものとし,またその伝播をも,それが受容されたとしても,個別的・閉鎖的なものにすることとなったのである。各鉱山の冶金技術の偏差の基礎にはこのような事情があったが,それにもかかわらず,その工夫・改良と部分的な伝播とを通じて冶金技術の進展があったのであった。それを,2~3の事例について略述しておこう。
 佐渡相川銀山では,冶金(=吹方)は,買石の職分であった。本来,山師支配下にあった買石は山師より自立してきていたが,享保8年に統制が強められた。公儀鏈粉成所が設けられるとともに,買石から鞴を没収し,公儀床屋制がしかれた。宝有6年には鉱山改革が行なわれて,寄勝場が作られ,汰場・床屋が統合された。このことを基礎にして,一方では,吹鞴の改良が,「清太夫の工夫」として行なわれた。これは,風口を前後2ケ所につけて,1挺で2カ所の用を足すという両縁鞴である。鞴については,早く元禄年間に,天秤鞴が考案されており,その送風力は著しく強められた。他方では,文化13年の大吹法の提案である。吹大工孫吉が秋田での吹方にならって提案,採用されたものであって,これまでの吹方に比べ,汰物鉑60倍にあたる30貫匁を一挙に吹きたてれば,必要な鉛は14.3倍ですみ,出銀も4%増し,吹立経費は46%の減となるというのが,その試し吹の結果であった。この大吹が有効性を発揮したのは,それが徹底的な汰物精錬であったからである。そもそもが,この大吹は,産銀の主体を穿鑿鏈と呼ばれる廃鉱においている精錬法であった。そして,この大吹が正規の主要な精錬法として採用されると,本来の原鉱である本途鏈も,汰物として加工されなくてはならない。佐渡の粉成所は,そのことを可能にしたのである。そこで,鉱質の低下に伴う砕鉱の細分化が進むと,同様な工夫,改良が出てくる。石見大森銀山でも,大吹(鏈1,000貫匁,2夜3日吹)と中吹(鏈500貫匁,1日1夜吹)との比較検討がなされ,前者が,経費の上で生産費の節減になることが説かれている。そして,この大吹・中吹比較は,佐渡とも秋田とも関係なく,大森独自の工夫であったとみられる。
 銅冶金については,秋田阿仁銅山の例がある。鉱山の衰勢という事態を背景に,床屋役の吉田又三郎が,天保2年に提案したのが,鈹吹法である。それは,鈹燃(吹床で焼鉑を溶融し,再鈹と床尻銅を取る)鈹吹(鈹を寸吹にかけて,再鈹と床尻銅を取る)の2つの工程をくりかえして,荒銅をとるのであって,真吹は行なわれないことになる。そして,この方法では,従来の方法と比べて,銅・銀・鉛も生産増となり,経費の節減もあって,年間産銅10,000箇とすれば,銭22,100貫文の増益となるのである。ここで技術史上注意しなくてはならないことは,いわゆる奥州吹とされる還元式銅精錬法という技術にもっともふさわしい内容の冶金法が,阿仁で文化13年から始められた鈹吹法だということである。そして,この鈹吹法は,こののち阿仁銅山の主要な冶金法となる。ただし,この鈹吹法がどのように他鉱山に伝えられたか,否かについては,現在のところ,論証することはできない。
 細倉鉛山の文政元年の銀罫法の改良は,それまでの生野流の銀鉛分離法に対する改良法で中川流と呼ばれる。それは罫地床での大量鎔鉱が特徴的であって,これにより経費の節減と,鉛目切(絞銀による減少部分)の減少とを図っている。これは,細倉鉛山の独自の改良であったのにたいし,文政13年,生野から来た銀罫職人らが伝えたのが砂鉛絞銀法であった。しかし,このいわば導入技術は定着せず,文政17年,油井久米之助の考案と言われる生吹法が,鉛冶金法として始められた。本来,前述のように,鉛冶金は,一貫した脱硫作業である焼吹法であって,細倉においても例外ではなかった。これを,焼鉱せずに直接に上鉛鉱粉10貫匁を堅炭7貫匁,鉄屑3貫匁を鞴で3時間程吹いて,仕上げるというものである。この吹方と,従来の焼吹との比較計算史料によると,砂鉛1万貫匁についての計算では,この生吹が出鉛で12%の増,出銀で4%の増となっている。このことは,この生吹法の画期性を示しているが,そのための経費は,1.69倍に増大している。その結果,収支では,5~6%の利益増にすぎない。そして,この経費増は,その主体が吹大工(33人から333人へ),吹指(132人から667人へ)の人件費増である。つまり,この生吹法は,その内容としては,吹床における大工,鞴子指らの,高度の労働集約的な方法だったのであり,このような労働集約的な冶金法を採用しても,若干とはいえ利益増になっていることは,その吹大工・吹差の賃銀が低劣であったことを物語っているに他ならない。
 ところで,技術史上注目されてよいのは,幕末期の小鉱山である。会津鱒沢鉛山は,職人合計60人のうち掘大工25人という典型的な小鉱山であるが,ここでは,冶金では生吹法,採鉱では火入法,砕鉱では水車砕鉱,坑内照明では「すす竹」使用が行なわれており,かつ,相当程度の利益をあげていた。ここには,江戸時代の鉱山技術のもっとも水準の高いものが集成されているように見える。鱒沢鉛山では判らないが,近くの鶴沢鉛山では,線香による時間測定に基づいた入・出坑・休息が行なわれている。朝6ツから夕方迄,線香7本のうち,1本は昼休み,1本は中休みと定められ,全山の労務者が太鼓によって入坑・休息・出坑する仕くみになっていたという。これもまた,江戸時代の鉱山労働合理化の1つの代表的な事例であったといえよう。
そして,幕末期にいたって,大規模鉱山は,殆ど衰退状態にあり,別子銅山なども3カ月休山したという事例等も考え合わせると,この期間の鉱山技術は,これらの小鉱山においてこそ,集成・継承されてきたということができよう。
 しかしながら,冶金技術においては,江戸時代初頭から,その最高の水準を,都市特権職人が持ち続けていたことは明らかである。しかし,その間に,金銀については金銀座で,銅については銅吹仲間で,それぞれどのような技術的発展があったかということについては,全く明らかではない。
 知りうる冶金法の改善の,もっとも進んだものは,地方銀絞所におけるそれである。この銀絞所としては,秋田籠山と,飛騨高山とが知られているが,前者の方がはるかに早く設置されていて,技術的水準も高い。銅吹仲間である大阪屋が,秋田藩と結んで,安永3年,幕府の許可を得て,手代 松井善右衛門を秋田に派遣し,米代川の河畔に作ったものである。秋田諸鉱山,とくに阿仁銅山からの銅から絞銀すること,そのさいに必要な鉛は,秋田太良鉛山の産鉛を使用すること,が目標であった。大阪の特権職人技術としての冶金法が直接に,秋田に移され,そこを舞台に,善右衛門を中心に,さまざまの工夫・改良がなされる。灰吹の灰の改良,南蛮吹の灰の改良,灰吹の空吹の考案,含銀・片銅・白味銅の吹方の考案等がその工夫の一部であるが,やはりもっとも重要なことは,銀絞法の改良であった。籠山の銀絞の基本は,合吹・南蛮吹・大灰吹・小灰吹・清吹の5段階に分れるが,さらにそれに,その各段階で生成する屑・湯口・本溜・小吹溜の再冶金過程が付け加わる。この間にあって,とくに,貴鉛から灰吹銀と炉滓とを分離する工程である灰吹が,大灰吹と小灰吹とに段階づけられていて,これによって,貴鉛からの銀分純度と,分離された銀の純度とが高められている。
文化9年 籠山稼行工程
 この善右衛門らの工夫は,「他ニ有之間敷と奉存候」と善右衛門自身が記しているように,当時の冶金技術の中でも頭抜けた水準のものであった。そして,その結果到達した。籠山銀絞所の冶金工程は,表に示される通りであって,19世紀半ばまでのわが国冶金技術の最高水準を示すものと評価してよい。
 安政3年に幕府によって設けられた高山銀絞所でもその冶金工程は,合吹(合床),絞り吹,南蛮吹(漉床・漉炉),灰吹(灰吹床),炉滓返(大吹床),であって,その基本工程は,当時の一般的治金技術と相違はない。そして,ここでの技術改良の1つは,慶応3年の大型炉床の築造であったが,これは,前に佐渡相川銀山等について述べた大吹と同じである。いま一つの改良は,万力鞴,並鞴の鞴の改良,新調である。これはともに灰吹用の鞴であったが,技術的には,佐渡相川の両口鞴を原型にした改良にすぎなかった。なお,高山銀絞工程で注意されうるのは,銀絞所が一貫して,合吹と南蛮吹とを「丸仕事」として維持しようとし,両者の分業を認めなかったことである。また,それ自体重労働である鞴指に,年少労働を使っている点も,特徴的だといえよう。技術の職人的手仕事への封じこめと,この年少重労働の使役とが,一部に若干の技術的改良をもたらしながらも,籠山にくらべて,停滞的な様相を示すに至ったことの大きな理由となっているのであろう。