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自転車産業の発達

著者名: 上田達三
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次
 はじめに・・・・・・・・・・2
 1 第2次世界大戦後の展開・・・・・・・・・・3
 2 自転車産業の現状と構造的特質・・・・・・・・・・11
 3 技術開発と生産・流通構造の変化・・・・・・・・・・17

 表1-表23・・・・・・・・・・34


は じ め に

 今日,日本の自転車産業は,その製造品出荷額が全製造業のわずか0.2%を占めるにすぎない小さい産業であるが,世界の自転車産業に位置づけてみるとき、その輸出額はかつての自転車王国イギリスを1967年に追い抜いて第1位,生産量はアメリカについで第2位を占めるにいたっている。
 明治初年の開国の頃に日本に始めて自転車が渡来したといわれ,明治中期以降,輸入自転車の修理と補修部品の生産から端を発した日本の自転車産業は,日本の土壤のなかで幾多の変容をとげつつ発展してきたのである。
 第2次世界大戦までの発展過程については,竹内常善氏の論稿にゆずり,本稿では,第2次世界大戦によってほとんど潰滅的な打撃をこうむった日本の自転車産業が,終戦以降,今日にいたる発展の経過と現状の構造的特質を概観し,それとの関係で技術開発の実態をあとづけ,その課題を探ることとしたい。なお,本文の基礎資料は作表して巻末に一括掲載してあるので参照されたい。

 注
 1) 工業統計によれば,1977年の自転車・同部品製造業の事業所数1175,従業者数2万1719人,製造品出荷額2844億円となっており,全製造業に占める地位は,いずれも0.2%に満たない。くわしくは〈表・1〉参照。
 2) 国連貿易統計による,1975年の日本の自転車(部品をふくむ)輸出額は1億1419万ドルであり,日本につづく世界の主要輸出国はフランス,イギリス,西ドイツ,イタリアである。くわしくは〈表・2〉参照。
 3) 1978年の完成車生産台数は,アメリカ730万台についで日本は590万台,このほか世界の主要生産国は西ドイツ,フランス,イギリス,イタリア等の西欧諸国となっているが,ソ連,インドも,今日ではかつての自転車王国イギリスを超える生産を行っている。くわしくは〈表・3〉参照。このほか,最近,台湾,韓国が急速な発展をとげてきており,対米市場で日本の有力な競争相手国となりつっある。後述1-(3)参照。
1 第2次世界大戦後の展開

(1) 生産推移からみた時期別特徴
 第2次世界大戦前における日本の自転車生産のピークは,1940年の完成車125万台,8900万円,部品2100万円であったが,終戦時,1945年の完成車生産はわずか1万8000台となり,戦後日本の自転車生産の再開は,ほとんど無から始まったといってもよい状態であった。
 日本の自転車の生産・輸出・輸入の推移は〈表・4〉に示すとおりであるが,1946年以降,今日にいたる戦後の完成車の生産推移から,次のような時期区分をすることができる。
 ① 1946~1950・復興期・年産10万台から100万台へ
(統制経済下,物資不足,つくれば売れる時期)
 ② 1951~1955・停滞期・100万台~110万台を低迷
(朝鮮戦争休戦後の内需停滞)
 ③ 1956~1960・成長期・140万台から330万台へ急伸
(国内景気拡大にともなう内需の急増期)
 ④ 1961~1965・転換期・310万台~320万台を低迷
(実用車が自動車にとってかわられ,軽量車へ転換,対米輸出始まる)
 ⑤ 1966~1970・飛躍期・360万台から450万台へ増加
(輸出増加とスポーツ車など新製品開発)
 ⑥ 1971~1973・爆発的ブーム期・500万台から940万台へ急増
(内外需増大,ミニサイクル・ブーム)
 ⑦ 1974~1978・反動,生産過剰期・600万台前後に減少
(内需停滞,円高による輸出減,発展途上国の追上げ)
 以上に要約したように,第2次大戦後,1970年までの完成車の生産推移は,成長-停滞-成長という,ほぼ5年きざみの交替を繰り返しながら,趨勢的な発展をとげてきた。
 1971年から73年には,爆発的な自転車ブームが起り,74年以降はその反動として急激な下落をみせている。
 一方,部品の生産推移も,以上にみた完成車の生産推移とほぼ同様の動きを示した。この部品生産額には,完成車に使用されたものがふくまれていること,完成車の販売が伸びれば部品需要が増大することから当然の動きであった。それぞれの時期における内容を,需要構造の変化と関連して次にみていこう。

 注
 4)流通経済研究所『自転車流通部門の実態調査事業報告書』 1972年 149ページ。

 (2) 需要構造の変化
 自転車に対する需要は,実用面とスポーツ・レジャー面という2面性をもっている。
 歴史的にみると,工業化の低次段階では,運搬・人員輸送などの実用面を中心に需要が増大してきた。こうした傾向は,現在でも多くの発展途上諸国でみられる。その後,工業化が進むにつれて実用面は次第に自動車に代替され,自転車需要は停滞をみせる。しかし,所得水準が一定程度以上の豊かな社会に入ると,自転車はスポーツ・レジャー面からの新らたな需要が生じるようになる。
 日本においても,第2次大戦後,こうした経過をたどってきた。1950年代まで,自転車は庶民の足として実用に供され,また,商店,小工場での運搬用として利用されたが,日本経済が復興過程を終え,拡大過程にむかうにつれて,実用としての自転車は次第に自動車に置きかえられるようになり,前述1961~65年の転換期をむかえることになる。
 通産省の自転車生産統計が車種別に分類して計上されるようになったのは1957年からであるが,この年以降の車種別生産推移〈表・5〉をみると,完成車全体に占める実用車のシェアは,1959年の76%をピークに,漸次低下をつづける中で,自転車全体の生産量の伸び率が鈍化し,しかも一方において自動車の生産が急上昇を始めた。1960年代前半には,自転車産業は,高度成長期にはいった日本の国内事情からみて,もはや適応性を失いはじめているのではないか,といわれた時期であった。もし実用車だけの生産が自転車生産量の主流を占めていたら,この時期の生産実績はもっと急降下していただろう。この時期に軽快車・スポーツ車の需要が増え出し,総生産量としては横這い現象となったわけである。実用車の生産は,1966年以降の飛躍期にも低迷をつづけ,1978年にはわずか2%にもみたないものとなっている。
 これに対して,軽快車・スポーツ車の生産台数シェアは,1958年の12%から徐々に上昇し,1964年に実用車を抜いてトップに立ち,1967年には57%に達した。1968~9年はブームの反動と子供車・特殊車の伸びに押されてシェアを落したが,1970年には再び50%を確保した。しかし1973年以降は,後述のようにミニサイクルの登場によってシェアは低下傾向を示している。
 このように1961~65年の転換期をへて,1966~1970年の飛躍期をむかえたが,それは主としてサイクリングなど,スポーツ,健康づくりとしての自転車需要の高まりによるものであった。国内では自転車産業団体を中心に,サイクリング普及のための啓蒙運動が活発に展開され,自転車メーカーも軽量スポーツ車の技術開発が成果を納めるようになった。また,後述のように,米国を中心とする海外市場でも,スポーツ車の需要が拡大し,日本製品の品質向上によって,こうした需要を満たすことが可能となり,1960年代後半以降,輸出面でも好調な伸びをみせたのである。
 1971年以降の爆発的ブーム期は,米国で先鞭をつけられたバイコロジー運動が,反公害意識の高まった日本でも大きな共感をもって受け入れられたこと,業界団体を中心とする積極的なサイクル・ショウの展開,自転車道等の外部環境の整備などの要因がこの時期にかさなったためであるが,より大きな原因として,軽便なミニサイクルの登場と,その急速な普及があげられる。
 ミニサイクルの需要が急激な拡大をみせたのは,住居の郊外化(都市のドーナツ化現象)の結果,買物等の身近な生活にも足の便を必要とし,潜在していた軽便な交通手段に対する巨大な需要を発掘したためである。
 急激な需要増に対して,自転車メーカーでは設備投資を活発化させたが,オイルショック以降の不況の過程では,このようなブームは長続きせず,1974年以降,自転車の生産量は急激に低落した。このためブーム期に新規に投資された設備の多くが遊休化し,各メーカーの固定費を増加させ,この固定費負担を軽減させようとして激しい製品の乱売競争を引き起した。また,ブームの主力がミニサイクルであったことから,自転車の高級化が大きく後退したこともマイナス要因となっている。つまり,1960年代後半には,軽量車・スポーツ車の生産が着実に増加し,自転車の高級品化,販売単価の向上に寄与してきたが,ミニサイクルの登場によって潜在需要を喚起させたものの,販売単価は低く,収益率を悪化させる要因となったのである。
 一方,部品については,全体としての生産・輸出・輸入の推移はすでに〈表・4〉に示されているが,部品の品目別生産の推移をみると〈表・6〉のとおりである。その構成比〈表・7〉からあきらかなように,フレーム,どろよけ,ハンドル,リム,サドル,ケースなどが,シェアを低めてきたのに対し,ギヤクランク,キャリバーブレーキ,ハブ,フリーホイル,変速機などがシェアを高めてきており,さきにみた実用車からスポーツ,レジャー用自転車への需要の移行に対応するための技術集約的部品の生産が増加の傾向をたどってきたといえるのである。

 注
 5) 中小企業金融公庫調査部 『大阪府下における主要中小企業の基本構造と問題点』 (その2)V・自転車(港徹雄稿)1977年 59ページ。以下同書のことを『問題点』と略称する。
 6) 自転車産業振興協会 『自転車の一世紀-日本自転車産業史』 1973年 446ページ。以下同書を『一世紀』と略称する。
 7) 同上書 448ページ。
 8) 前出 『問題点』 60~61ページ。
 9) 同上書 62ページ。
 10) 同上書 62ページ。
 11) 自転車部品は種々の視角からグループ分けがなされている。(Ⅰ)機械としての自転車の構成要素として,次の4つの要素に分けられる。①動力受入れ部分:ペダル,クランク。②伝動部分:大ギヤ,チェーン,フリーホイルまたは小ギヤ。③仕事部分:車輪(ハブ,スポーク,リム,タイヤ)。④支持部分:フレーム体,前ホーク,サドル,ハンドル。(Ⅱ)日本工業規格では,その使用個所により次の5つの区分に分類している。①車体部:フレーム体,シートポスト,シートピン,ランプ掛け,前ホーク,ヘッドセット,ハンガセット,どろよけ。②駆動部:ギヤクランク,フリーホイル,ペタル,チェーン。③制動操縦部:リムブレーキ,バンドブレーキ,ハンドル,にぎり,サドル。④車輪部:リム,スポーク,ハブ,タイヤ,チューブ。⑤その他:クランクピン,チェーン引,チェーンケース,ベル,キャリヤ,スタンド,リフレックスリフレクタ,空気ポンプ,錠,発電ランプ。自転車産業振興協会『自転車実用便覧・第3版』1977年,12ページ,19ページ。(Ⅲ)部品工業の内部での業種別発展から,つぎの3つのタイプがみられるとする,1961年時点での報告(後出)がある。①機械化生産が可能で,工場の大規模化,量産化方式をとりうる資本集約的な,リム,チェーン,スポーク,フリーホイルなどのグループ。②作業工程を極度に細分化でき,かつ手作業部分が多く,小さな生産単位の中小工場が地域的により集って,社会的分業を営むフレーム,前ホーク,ブレーキ,ハンガーヘッド小物などの労働集約的なグループ。③前2者の中間形態をとるギヤクランク,ハブ,ペタル,泥除,ベルなどのグループ。つまり少種多量生産型,多種少量生産型,そして中間型の3つの形態である。大阪府立商工経済研究所『自転車工業の停滞性と構造的変化-機械工業における中小企業の再編過程(その7)』(三品頼忠,山本順一稿),1961年,1~2ページ。以下同書を『構造的変化』と略称する。なお,上記(Ⅰ),(Ⅱ)の機械工学的な観点からの分類は,時代によってほとんど変らないが,(Ⅲ)産業の技術的発展の形態からの分類はその進歩に応じて変るものであり,筆者は今日の時点では試みにつぎのように分類するのが一法であろうと考えている。①少品種多量品目で機械の自動化,量産化方式をとりうる資本集約的なリム,チェーン,スポーク。②金属加工,接合を主体とし,技能集約的工程の多いフレーム,前ホーク,ハンドル,リムブレーキ,ケース,キャリヤ,スタンド,サドル。③主として駆動部部品で高度な技術による機械加工と組立を主体とする技術集約的な,変速機,フリーホイル,ギヤクランク,ハブ,ペタル,キャリバブレーキ,バンドブレーキ。

 (3) 国際環境の変化
 第2次世界大戦前,日本の自転車輸出の最盛期といわれた1936~37年には,国策として円ブロックに対する輸出振興策の波に乗ったとはいえ,日本の自転車輸出は生産の約半分を占め,当時の機械部門輸出額の第1位を獲得していた。
 第2次大戦後の日本の自転車輸出の推移〈表・4〉をみると,1960年頃までの長いあいだ,輸出の不振をかこっていた。
 1960年代以降,完成車・同部品の輸出が伸び始め,1960年代後半から70年代にかけて飛躍的な伸長がみられた。戦後,完成車輸出のピークは,台数では1972年の155万台,金額では1974年の229億円で,1965年対比台数が3.4倍,金額7.6倍,部品輸出のピークは1974年の492億円で65年対比10.5倍という伸びを示した。部品の品目別輸出額は〈表・8〉のとおり,前述の部品の品目別生産推移とほぼ併行した傾向をたどっている。
 こうした輸出伸長のなかで,仕向地別に大きな変化が起った。日本の自転車の地域別,国別輸出額推移〈表・9~10〉をみれば,1950年代には東南アジア向けを主力とし,残余はアフリカ,中南米向けであったが,60年代以降,これら発展途上地域のシェアが低下した反面,北米州,とりわけアメリカ向け輸出が飛躍的に増大した。
 アメリカ向け輸出のシェアは,1957年のわずか3%から,ピーク時の1974年には66%に増大し,戦後日本の自転車輸出に占めるアメリカ市場の重要性が急速に高まったのである。
 輸出額全体のなかで完成車と部品の構成割合の推移を仕向地域別にみると〈表・11〉,全体として完成車のシェアは1970年頃まで増大してきたが,それ以降は部品の輸出シェアが高まってきており,近年,日本の自転車輸出が,完成車から部品輸出に移行する傾向をたどってきている。
 ヨーロッパ州向け輸出は,もともと完成車輸出はほとんど皆無に近く,すべて部品といってもよい状態であるが,東南アジア,中南米州において,完成車のシェアが低下し,部品輸出が急速に上昇している。とりわけ東アジア中進国に限ってみれば,〈表・12〉のように日本からは部品がほとんどすべてを占め,完成車は極めて少くなっている。これら諸国では日本以外の他国からの完成車輸入も行っていない。このことは,台湾,韓国などの自転車産業が,日本から部品を輸入したり,自ら生産したりして完成車を組立てる体制を完全に整えたことを意味している。さらに重要なことは,台湾の場合,日本の台湾への部品輸出が台湾の完成車組立に大きな役割を果した結果,アメリカ市場において台湾製自転車が日本製品の強力な競争相手として登場しつつある,ということである。
 アメリカは世界最大の自転車生産国であり,かつ最大の輸入国でもある。アメリカの自転車産業には,日本,欧州レベルの部品メーカーなるものが存在せず,すべて完成車メーカーであるため,部品の供給は,日本,欧州,最近では発展途上国からの輸入に依存している。これは部品生産が人件費高などのために採算ベースにのらないからである。完成車メーカーは1977年にステルバー(STELBER)社が倒産した結果,現在6社となっており,アメリカの自転車業界は工業型完成車メーカーの寡占体制下にある。
 さて,アメリカ市場における日本とアジア中進国との競合状況をみるために,アメリカの完成車輸入をこれら諸国製品別にみると〈表・13〉,金額ベースでは,日本のシェアが1971年の28%から76年には36%へ増大しているのと平行して,台湾からの輸入増大も著しく,そのシェアが71年の3%から76年には23%へと,急上昇していることがわかる。
 数量ベースでは,台湾製自転車の進出はさらに目ざましい。1971年,アメリカの総輸入台数の5%に満たなかった台湾製自転車は,1976年には57万台・34%を占め,日本の47万台・28%を大きく引き離している。
 ところで,このような金額ベースと数量ベースとの間にみられる大きな乖離は,以下のような要因によるものと思われる。
 ① 台湾の輸出品は同表に示されているように,車径24インチ以下のハイライザー(アメリカでは一般に子供車のことをさす)を中心とした低級車種を中心としていること。
 ② 日本の輸出は車径26インチ以上の大人用スポーツ車を中心とした高級車種に重点をおいていること。
 ③ 部品のアメリカ市場向け輸出〈表・14〉において,日本は圧倒的な強みを発揮していること。
 まず台湾がハイライザーの輸出に重点をおくようになった背景には,日本では同車種が利益率の大きい輸出商品としての魅力を失い,もっばら,国内需要を対象とするようになったという事情が存在する。台湾の製品はこの間隙をぬって対アメリカ輸出に成功した。アメリカのハイライザーには独得の消費選好があり,ほとんどがコースタブレーキ(チェーンを逆回転するとブレーキがかかる)付自転車といわれるものである。同車種は低級車ではあるが,アメリカの子供用自転車としては普及車であり,不況期においても安定した成長が見込める車種といわれている。こうした車種を対象に,台湾はアメリカ向け輸出を拡大し,限界供給者たる地位から安定的な供給基地へと飛躍した。今日,台湾製ハイライザーの国際競争力は揺ぎないものとなったとみてよいだろう。
 次に,車径26インチ以上の大人用スポーツ車を中心とする高級車をみると,日本のシェアは,1976年に金額,数量ベースとも40%を越えており,日本の競争力が強い。しかしながらこの分野においても,台湾および韓国の追い上げが徐々に浸透していることが注目されねばならない。ただ,こうした高級車に関しては,アメリカが台湾および韓国へ発注する際,変速機,ブレーキなどの主要な技術集約的部品については,日本の部品メーカーのブランドを指定しているケースがほとんどであるため,日本からの間接輸出が相当程度存在する。したがって,これを差し引けば台湾および韓国の輸出金額は実質的には低下するものとみられる。
 一方,自転車部品に関しては日本からの供給がアメリカ市場をほぼ独占しており,他の国の追随を許していない〈表・14〉。これは日本の部品メーカーが,技術集約的部品の生産に最大の努力を傾注し,需要構造の変化に対応して絶えず新製品の開発,品種の改良などを実施するなど,生産技術能力の向上と価格面からの国際競争力の強化を指向してきた成果である。特に日本製部品のブランド浸透力などからみた非価格競争力には,揺ぎないものがある。前述のように,アメリカ向け輸出に関して台湾製および韓国製自転車は,技術集約的部品について日本の部品を用いざるをえない立場にあるのであって,当面,東アジア中進国の部品輸出がアメリカ市場で急増する懸念は小さい,といえるであろう。
 しかし,将来の見通しとなると問題は別である。事実,1977年末から急進した円高傾向は,台湾の部品輸出に有利な条件を与えつつあり,サドル,タイヤ・チューブ,チェーン,リム,スポークといった部品の国際競争力は,「追い上げ」の射程距離に入ったと言われている。
 アメリカ市場以外のおもな市場における競合の状態を以下に簡単に見ておこう。
 カナダ市場においても,台湾製自転車の追い上げがきびしい。輸出台数ベースでみると,自転車ブーム時の1973年に,日本の輸出台数28万台に対し,台湾が15万台であったのに対し,76年には日本が19万台,台湾が38万台と,両者の立場は完全に逆転している。
 さらに,東南アジア,中近東市場をみると,1975年,1976年の2年間に台湾製自転車が完全に市場を支配し,完成車輸出に関する限り,発展途上国市場における競合関係には終止符が打たれたとみられる。
 発展途上国では,高級車種よりもむしろ低・中級車種に潜在的な需要があるため,これら市場へは今後とも台湾製および韓国製自転車が大幅に進出するものとみられている。この意味で,世界の自転車産業は一つの転機を迎えているといってよいだろう。
 他方,ヨーロッパ市場においては,自転車産業が伝統的に保護,育成され,かつ消費者の商品選択基準が米国よりも一段きびしいために,台湾,韓国製自転車の進出は,現在はもとより将来においてもむずかしいとされている。それだけ日本製自転車,同部品にとっては希望のもてる市場といえよう。
 一方,日本の海外からの自転車輸入についてみると〈表・4〉,完成車は1973~1974年に急増し,74年には14万台にのぼったが,その後減少して1977年以降は1万台に満たず,ほとんど無視しうるものである。この反面,部品の輸入は1972年以降,着実に増加し,1978年には11億円におよんでいる。1978年の輸入相手国をみると〈表・15〉,シンガポール,台湾をはじめ,先進国からは,イタリア,フランスであるが,台湾,シンガポール,韓国からの輸入は,価格が安く,今後,増加傾向をたどるものとみられる。

 注
 12) 1937年の生産は完成車,部品あわせて226万台分,これに対して輸出は114万台分で約50%を占めた。堺市経済部商工課『堺の伝統産業』1972年3月,32ページ。
 13) 大蔵省『通関統計』によれば,1937年の機械輸出総額は1億8047万円であったが,そのうち自転車・部分品・付属品は2921万円で16.2%を占めてトップ,以下,汽船その他の船舶の汽缶14.8%,鉄道車両・部分品・付属品11.5%,自動車・部分品・付属品11.4%とつづいている。前出『一世紀』329ページ。
 14) 〈表・4〉によれば,1950,1951年に一時的な輸出増加がみられたが,これは主として1950年から再開された中国向け輸出に多くを負うている。当時,在日アメリカ銀行にあった中国のドル資産は凍結されていなかったので,その資金によって1950年5000台,1951年には8万台および部品合計で300万ドルの輸出がなされた。当時,日中国交は回復しておらず,貿易正常化がむずかしい国際政情にあり,バーター物資の選定問題あるいは金融決済の不円滑など,商談成立をさまたげる多くの条件が山積し,自転車の対中国輸出も1952年以降激減した。前出『一世紀』432ページ。
 15) 芝田利雄「東アジア中進国の輸出伸長とわが国中小企業,ケース・スタディ4,自転車・同部品」日本貿易振興会『海外市場』第28巻第322号,1973年8月,50ページ。以下同書を『ケース・スタディ』と略称する。
 16) 〈表・3〉参照。
 17) 1976年のアメリカの自転車・同部品の輸入額は1億5000万ドルで第1位,以下,西ドイツ6700万ドル,オランダ5500万ドルとつづいている。自転車産業振興協会『自転車統計要覧・第13版』1979年,229ページ。
 18) 前出『ケース・スタディ』51ページ。
 19) 以下は同上書,51~54ページから要約引用。
 20) 同上書,54ページ。

2 自転車産業の現状と構造的特質

 以上,第2次世界大戦以降,今日にいたる過程の概観をつうじて,日本の自転車産業の現状にいたる動向がほぼ明らかにされたが,現状の構造的特質を以下に要約しておこう。

 (1) 中小企業地域集団
 日本の自転車産業の企業規模構成を,工業統計によってみると〈表・16〉,自転車・同部品製造業の全国事業所数1175のうち,従業員9人以下の零細企業が783で70%弱を占めており,300人以上の大企業はわずか9企業,1%にも満たない。
 日本の自転車産業が,いわゆる中小零細企業からなっていることが明らかであるが,これら企業が東京,名古屋,大阪の巨大都市およびその周辺に群集し,中小企業地域集団が形成されているのである。
 都道府県別に自転車・同部品の出荷額構成をみると〈表・17〉,完成車では,埼玉,東京,愛知,大阪の4都府県が60%を占め,それ以外では13府県において生産されているが,産出事業所が1または2のために統計上秘匿されているような状態である。
 車種別にみると,実用車は埼玉,大阪,子供車は東京,愛知,軽快車・スポーツ車・特殊車は東京でそれぞれ出荷割合が高い。
 部品の製造業は,完成車にくらべると産出地域が分散しており,全国34都道府県で生産されている〈表・18〉。しかしここでも出荷額構成からみて特定地域に集中しており,大阪(59%),愛知(8%),東京(7%),埼玉(4%)の4都府県あわせて全国の78%を占め,完成車の場合よりもむしろ集中度が高くなっている。したがって完成車と部品をあわせた出荷額の上位都府県をみると,①大阪46%,②東京10%,③愛知8%,④埼玉8%であり,これら4地域から日本の自転車全体の72%が出荷されていることになる。とりわけ,大阪は部品生産に重点をおいた全国第一の自転車産地を形成している。
 大阪の自転車産業は,歴史的には堺市における伝統的な鉄鉋鍛冶や刀鍛冶の技術が自転車部品を生む焼入や切削技術に生かされて,明治30年代に,輸入自転車の補修部品の製造が始められて以降,今日まで一貫して日本の自転車産業の中心としての役割を果してきた。この中小企業地域集団は,その内部に立ち入れば,次節にみるように,分業体制が極度に発達しているのである。

 注
 21) 通産省編『全国機械工場名簿1977年版』によれば,埼玉県には完成車・部品あわせて9工場あるが,このうち3工場は,東京に本社をおく大手メーカーの工場で,この3工場が埼玉県の出荷額のほとんどを占めているとみられ,埼玉の出荷額統計の大部分は,実質的には東京とみてよいと思われる。

(2) 部品工業の独立性
 すでに明らかなように,日本の自転車工業は,完成車部門と部品部門に区分されるが,それぞれが専門化した生産形態をとっている。
 日本の自転車産業の何よりも特徴的なことは,部品メーカーが完成車メーカーに従属することなく,強い独立性をもっていることである。
 元来,自転車産業は自動車,時計産業と同じく代表的な組立産業である。それは親工場としての組立工場をピラミッドの頂点として部品メーカーが下請制的に編成されるのが普通の形態であるが,日本の自転車の場合,最初から商品としての完成車を生産する目的をもって部品工業が起ったものではなかった。
 日本の自転車産業の歴史は,輸入自転車の修理,補修用部品の製作から,まず部品工業が形造られたのに始まり,それがやがて国産完成車の製造に進んだものであって,自動車や時計と異って,完成車組立技術そのものが自転車工業発展の決定的なポイントになり得なかった。そのために完成車組立部門への資本投下もおくれ,大規模システムによる製造は著しく立ちおくれを示した。
 とりわけ大阪では,堺の鉄鉋,刃鍛冶から転業した家内工業的な生産形態による補修部品の生産を出発点とした。その後の発展過程において,自転車部品は国際的に規格が統一されるようになり,部品相互間の互換性が貫徹され,各メーカーの部品が完成車メーカーに従属することなく独自の商品として1人あるきが可能となった。自転車部品のそれぞれに部品メーカーのブランドが明記されている。
 さらに,部品の規格が統一され互換性をもつことから,単一部品を多くの完成車メーカーに供給することが可能となった。換言すれば,部品メーカーは単一の部品を大量に生産し,このため完成車メーカーが部品からの一貫生産システムをとろうとしても,生産コスト面で部品メーカーに対抗できない生産構造となっているのである。
 このことは部品工業も同じであり,部品メーカーの大手でも自社生産しているのは,特定部品に限定され,しかも,ひとつの完成部品が,リレー式に数工場の異種作業を経て完成品となる場合が多い。たとえば,堺市の自転車部品工業の企業集団のごときは,狭小な地域に多数の中小部品工場とその関連業者が密集化して,相互に補完し合っており,その分業組織は網の目のように,外注,下請関係が交錯している。
 日本の自転車製造業の品目別工場数〈表・19〉をみれば,今日,1部品についてはわずか数社が生産しているにすぎず,完成部品毎に寡占的産業組織を形成しているが,前出〈表・16〉でもあきらかなように,多数の中小零細企業がこれら部品メーカーの下請として存立している。日本の自転車産業は極度に分業体制が発展しており,外部からの新規産業の参入が困難な構造となっているといえるのである。

 注
 22) 自転車産業が部品を原点にして出発したのはひとり日本だけではない。かつて世界の自転車王国であったイギリスが,第1次世界大戦で輸出をストップしたのを契機に,他の先進各国は補修部品の供給維持を図るため,いっせいにイギリス製部品のコピーを始めた。ここに自転車部品の規格が国際的に統一された理由があり,国際間の輸出入交流が盛んにになった背景がある。前出『ケース・スタディ』56ページ。
 23) 大阪府立商工経済研究所『大阪における自転車産業の実態-生産篇』1954年,21ページ。以下同書を『実態』と略称する。なお同書は三品頼忠,山本順一,谷口庄,森川善雄と筆者の五人の共同調査研究によるものである。
 24),25) 前出『問題点』,57ページ。
 26) たとえば,新家工業ではリム,杉野鉄工ではクランク・ギヤー,島野工業,マエダ工業では変速機,フリーホイルなどに特化している。同上書,57ページ。
 27) 前出『構造的変化』2ページ。
 28) たとえば,部品メーカーの大手,島野工業(第1部株式市場上場企業)について,東洋経済新報社『会社四季報・1979年3集』は「自転車用駆動部品,ブレーキ部品の総合メーカーで世界的に圧倒的シェア」と紹介している。同書587ページ。

 (3) 完成車組立部門の商業資本的性格
 完成車メーカーは,その性格上,2つに分けられている。
 第1は,フレームまたはその他の特定部品の自社生産機能をもち,コンベア方式など近代的組立システムで組立てを行う「工業型」メーカーといわれているものである。
 第2は,部品の自社生産機能を全くもたず,購入部品のアッセンブルだけを行う「問屋型」メーカーといわれているものである。
 「工業型」完成車メーカーがフレームの生産に重きをおいているのは,フレームには自社製品としての特色をもたせやすく,また,自転車の骨組みとして重要な部品であるためである。フレーム以外の部品で自社生産するのは,フォーク,ハンドル,泥除など,せいぜい2~3種をてがける程度であるが,最近では部品製造を部品メーカーにまかせる傾向がつよまっており,「工業型」完成車メーカーでも,フレーム以外の部品はほとんど製造を行っていないケースが増加している。
 「問屋型」完成車メーカーでは,すべての部品を購入し,これらをアセンブルして完成車を製作するが,「問屋型」の場合,完成車の組立を行う企業もあれば,また,半組立品(5分組,7分組等)のままセットで出荷する企業もある。このほか,完成車メーカーの車を卸売したり,修理用部品を卸売するなど,卸問屋を兼業する場合も多い。
 自転車産業において,完成車組立て部門が技術的にみて,かならずしも大規模生産システムを必要としない,ということは注目される。自動車はもちろん自動二輪車でさえ,エンジンの生産と大型重量部分をともなう組立てのための大型工場を必要であるのに対して,自転車の組立ては,小売店頭においても可能であることからも明らかなように,その工程は部品の生産にくらべて単純ですらある。大手完成車メーカーは,市場における販売機能を中心に成立するといってもよい。有名ブランドの自転車としての品質は,部品メーカーから優良な部品を調達することによって達成されるのであり,必ずしも独自の技術力によるものとは限らない。さきにみた部品工業の独立性と関連して,完成車組立部門の特質として,以上のような商業資本的性格が指摘されうるのである。
 注
 29) 前出『問題点』57ページ。
 30) 大阪府商工部『大阪府自転車又はその部分品の製造業産地中小企業振興ビジョン』1979年,2ページ。以下同書を『振興ビジョン』と略称する。
 31) 大阪府立商工経済研究所『最近10年間における大阪中小工業の基本動向-その11・自転車製造業』(高田亮爾稿),1969年,15ページ。以下同書を『基本動向』と略称する。
 32) たとえば,リムの分野で大きなシェアをもつA工業は,有名ブランド自転車用の部品から,「安売り」用の部品,さらに最高級のステンレス製リムなど,多様な品質のものを供給している。大阪府商工部・桃山学院大学総合研究所『地場産業技術実態調査報告書』第5章自転車部品製造業(後藤邦夫稿),1978年,61~62ページ。以下同書を『技術調査』と略称する。なお同書は8人の共同研究であり,筆者もそのうちの1人として討議に参加した。

 (4) 流通機構の特色
 自転車の流通経路は図にしめすとおりであるが,部品を購入してアッセンブルを行う完成車メーカーは,工業型メーカー,問屋型メーカーを問わず卸売機能を備えており,部品メーカー→部品問屋→完成車メーカー→地方問屋→小売店というのがもっとも一般的なルートである。しかし零細な問屋型メーカーでは,みずから個別の部品を購入する能力をもたず,大手問屋型メーカーから再購入しているケースも多い。
 自転車の流通機構が他商品の場合と異なるのは,小売店が修理機能や最終組立て機能をもっていることからきている。自転車は耐久消費財であり,比較的長期間使用されるため,修理機能が重要となるが,家電製品にみられるようなメーカーによるアフター・サービスはみられず,小売店が直接,修理を行っている。近年,自転車の品質向上から修理件数は減少傾向にあるが,自転車1台販売するごとに,年間数件の修理需要が生じるといわれ,小売店の重要な収入源となっている。
 このように,従来,小売店が自転車の修理,組立て機能をもってきたため,百貨店,スーパー・マーケットでの販売は取りのこされてきた。しかし,自転車の品質向上により故障が減少してきたこと,ミニサイクルブームにみられるように自転車需要が急速に成長してきたことから,スーパー,百貨店での自転車取扱いが増加し,既存の一般小売店との間に摩擦が大きくなっている。スーパー等に販売される場合は代納業者により完全に組立てられて納入されている。
 スーパーにとって,自転車は販売面積あたりの効率も悪くなく,また,目玉商品として客引にも利用できるという利点があり,スーパーでの流通マージンは一般小売店の半分程度であるとみられる。スーパー,百貨店,通信販売(日刊紙を利用)など,既存流通ルート以外の販売を業界では第3ルートと呼んでいる。
 問屋型完成車メーカーのなかには,スーパー等第3ルート販売を中心に急成長をとげたものもあるが,スーパー等は発注台数が不規則であり,また価格面でもきびしいため,一般に完成車メーカーは第3ルートの拡張に警戒的になっている。
 完成車メーカーは,「工業型」メーカーであっても,部品の圧倒的部分を部品メーカーから仕入れているため,原価のうち購入部品費率が高く,50~60%におよび,直接労務費が8~9%である。また,車種によって利益幅に大きな相違があり,さらには需要動向によって大きく左右されており,不況期には建値を割って値崩れをおこしやすい。
 部品メーカーでも,不況期には生産規模を維持するために割引販売がみられるが,割引率はメーカーによって相違しており,割引率の大きいメーカーは経営が不安定になりやすい。
 問屋型完成車メーカーの場合,一般に部品等の購入代金が60~70%を占めている。直接労務費比率はコストの6%程度である。零細な間屋型完成車メーカーでは,ほとんど常勤の組立工をもたず,委託組立てという出来払い制をとっている。このため,固定費の比率は極めて小さく,零細メーカーが不況期にも存立してゆける基盤をなしている。

 注
 33) 前出,『問題点』,66~67ページ。
 34) 小売店において組立てする割合は,後述3-(4)のように,減少してきている。
 35) 以上の流通機構については,前出『問題点』,66~68ページを参照。

3 技術開発と生産・流通構造の変化

 (1) 戦争による技術停滞
 第2次世界大戦末期の日本の自転車生産施設は,事実上ゼロに等しいような状態であった。戦時中の工場,生産設備に対する爆撃によって相当な被害をうけていたし,またこれにまぬがれた自転車製造工場の施設は,それまでに軍需資材の生産にほとんど切り換えられていたからである。
 「終戦時,1945年夏の日本経済を簡単に評すれば,そこには無価値になった大量の戦争生産設備の残骸が横たわっており,他方に残された消費物資に対してあまりにも多すぎる人達が右往左往していた。残存した生産設備を産業別にみると,……消費関連部門では,戦前の最高能力に対し,たとえば繊維は33%,硫安42%,洋紙46%,自転車20%という程度の設備を残すだけであった。しかもこれらの設備はそれ自体が老朽化し,原料の入手難,さらに流通組織の破壊によって多くは遊休化していたのである」。
 しかし,終戦によって戦後遊休設備となった軍需工場跡を,自転車生産の工場にもどすことも比較的たやすいことであったことは,復興の条件の一つでもあった。戦前1000万台に近かった自転車国内保有台数は,戦争直後500万台に落ち〈表・20〉,しかもタイヤのかわりに繩をまいて走るような無残なものとなっており,自転車に対する需要は限りなく大きかった。
 戦災をまぬかれた自転車製造業者は,設備が老朽化していても自転車,部品の製造能力を残していたが,原材料が配給制であり,その配給数量のワク内だけの生産しかできなかった。しかしやがて配給制切符のヤミ値ができたし,ヤミ資材が出回わり始め,配給ルート以外の製造も行われるようになった。各種の生活物資はすべて時価(ヤミ値)ならば入手できる時期となったが,なかでも自転車はひっぱりだこであった。
 値段や品質は二のつぎで,新品自転車が店頭に出れば,羽根が生えて飛ぶように売れた。朝買った新車がその日のうちにパンクしたり,ハンドルがガタガタと異常な音を出したりする話は珍しくなかった。すべて輸入にまたなければならないゴムを原料とするタイヤ・チューブは,なかでも貴重品扱いであった。完成車メーカーで正式ルートによって生産される自転車には,タイヤ・チューブがヒモつき配給されることになっていたが,現実の問題として車体とタイヤ・チューブの需要のアンバランスはあまりに激しく,「タイヤ・チューブなし自転車」だけが平然とルートに乗ったり,ウラ取引されたりもした。
 生産者価格の推移をみると,大蔵省・物価庁の告示による公定価格は,1945年8月310円,1946年895円,1947年末3200円,1948年7月6300円と改訂されたが,それ以降,一率6300円でおさえられていたために,一流品,二流品など品質差が認められず,戦前のブランドをもつ良心的な製造業者にとっては二重の苦痛を伴う結果となっていた。しかし1949年に入って,インフレが終熄されるにしたがって,最底価格が公定価格となり,一流銘柄品にはプレミアムがつく状態であった。そして1950年春頃からは一流製品のみが公定価格の取引き対象となり,二流品以下の自転車は,4800~6000円と公定を割るものがでてきた。こうして,1950年3月,統制が撤廃されたが,それ以降,生産者価格が5000~1万円と値開きがでてきたし,小売り価格は6000~1万2000円,付属品の完備した最高品で20000円近くで売買されるようになった。自由競争の時代をむかえ,製造業界に再編成の動きがでてきたのである。
 戦後統制時にみられた動きのひとつとして,問屋(なかには小売店)によって組立てられる自転車が増加し,戦前と同じように問屋勢力の著しい復活が行われたことである。その直接の原因は,完成車には価格と配給数量の枠がきびしくはめられていたが,部品については価格統制のみであったから,部品を集めて完成車を組み立てることは自由であり,その間隙をついて問屋のアセンブルメーカーが成長したのである。
 また,本来は部品メーカーであったものが,完成車メーカーが資材配給の面で有利であったために完成車の製造を手掛けるものがみられたが,自由競争の時代に入ると,これらの大部分は,本来の部品メーカーにもどっていった。

 注
 36) 日本経済新聞社編『日本産業百年史・下巻』。前出『一世紀』35~36ページ。
 37) 前出『一世紀』369ページ。
 38) 同上書,373,376ページ。
 39) 同上書,376ページ。
 40) 同上書,382~383ページ。
 41),42) 同上書,383ページ。

 (2) 大手旧軍需工場の参入
 第2次大戦後の顕著な特色として,戦前には自転車製造業に関与していなかった旧軍需工場が自転車産業に参入し,一時は大きな位置を占めたことである。
 これらの旧軍需工場では,直接的な軍事生産施設こそ撤去破壊されていたが,なお精度の高い工作機械をもち,それに見合う高度の技術者たちが手持ちぶさたで日を送っていたし,ジュラルミン・鉄鋼類の資材もまだ相当量のストックを持っていた。
 これらの旧軍需工場から戦争後,突如として平和産業としての自転車製造業に転じたものは,自転車業界では“転換メーカー”と呼ばれたが,そのおもなものはつぎのような大企業であった-三菱重工津機器,萱場産業岐阜工場,日本金属産業,中西金属,半田金属,不二越鋼材,富士産業太田工場,高砂鉄鋼,天辻工業,片倉工業,西日本工業,中山太陽堂,大同製鋼,大和紡績。
 戦前,完成車メーカーで大手業者といえば,宮田製作所,大日本自転車,岡本自転車のほか2,3を数えるにすぎなかった自転車業界に対して,これら転換メーカーの参入は,ある時期,大きな圧力を与えた。
 「わが国で完成車メーカーが問屋的な注文生産をはなれて自社規格を作り,統一された自社マークをつけ,自由に他社と競争して生産するに至ったのは,厳密な意味では戦後の昭和24年頃とされ」,転換メーカーの進出が,とくに技術面における刺激剤となったことは否定できない。
 1947年の工場規模が,戦前の最盛期・1937年にくらべて大型化している(従業員100人以上の工場が1937年22工場に対し,1947年には69工場となっている)〈表・21〉が,これは転換メーカーの参加による影響としか説明することができない,とされている。
 「昭和24年度第1・4半期~2・4半期における通産省の完成車生産割当をみると,……いわゆる転換メーカーに対する割当数が総割当量の38%の10万6000台を占めている。このような転換メーカーの進出は自転車工業の大規模化を一部に期待させたが,その後の推移はこれを裏切り」,敗戦後,自転車業界を震憾させた転換メーカーは1社をのこして,ぞくぞくと自転車業界から退陣していった。
 工業資本として進出した転換メーカーは,統制経済が撤廃され,自由競争の時代に入ると,問屋の復活によって「問屋型」完成車メーカーからの圧迫をうけ,また多くの部品メーカーとの取引問題,販売組織の弱さの問題に当面し,自転車産業独自の発展過程からもたらされたその体質・構造に適応しえなかったということができる。加えて,1950年6月朝鮮戦争が始まり,特需ブームがおこったことは,転換メーカーにとって再転換の機会であったのである。

 注
 43),44),45) 前出『一世紀』363ページ。
 46) 前出『実態』23ページ。
 47) 前出『一世紀』39ページ。
 48) 同上書,364ページ。
 49) 政治経済研究所「自転車工業の構造と危機の所在」『政経月誌』NO.10,1952年12月。
 50) 転換メーカーのうち,現在も自転車製造業者として残っているのは「片倉自転車(株)」の1社だけであり,大手メーカー系列工場として参入した企業を加えれば,1949年に完成車製造を始めた「ブリヂストン・サイクル(株)」が数えられるにすぎない。前出『一世紀』,365ページ。

 (3) 自転車産業振興費の注入と技術開発
 第2次世界大戦後の自転車産業の技術進歩をみるに際して,競輪の収益から注入された自転車産業振興費と,その事業の果した役割を無視して考えることはできない。
 1948年8月に公布された「自転車競技法」は,その目的として「自転車の改良増産,輸出の増加,国内需要の充足に寄与すると共に,地方財政の増収を図るため……」と,うたっており,競輪の売上げ収益のなかから自転車産業界へ国の資金が交付されることになった。多くの基幹産業のような国の庇護をうけたことのなかった自転車産業界にとって,この振興費が交付されることになったことは,戦後の自転車産業の復興,発達の足跡をたどる上において,見逃すことができない特徴といえよう。
 振興費は4つの項目に分けられ,その振興事業の内容はつぎのものであった。
 ① 自転車生産技術の向上ならびに品質の改善-(a)外国自転車等輸入および性能研究,(b)自転車関係内外特許情報製作頒布,(c)自転車検査設備および性能検査,(d)自転車生産施設合理化補助金,(e)自転車関連工業研究補助金,(f)機械研究費,(g)自転車発明実施化試験補助金,(h)自転車検査制度確立,(i)自転車工業標準化,(j)輸出品検査費,(k)自転車性能試験実施諸費。
 ② 自転車輸出の振興-(a)海外現地調査員派遣,(b)海外現地情報調査,(c)海外宣伝用見本自転車頒布,(d)海外宣伝用英文カタログ製作頒布,(e)自転車等海外市場巡回展示,(f)海外宣伝用映画製作頒布,(g)輸出機械国際展示会開催補助,
(h)海外見本市参加補助。
 ③ 自転車中小企業合理化指導-(a)自転車産業実態調査,(b)自転車小売標準店運動,(c)中小自転車企業共同施設補助,(d)中小自転車企業能率診断指導補助。
 ④ 自転車産業向貸付金-金融機関を通じて業者に貸付。貸付先,商工組合中央金庫ほか11都市銀行,出資先,中小企業金融公庫。
 1949年から1978年にいたる自転車産業振興費の推移をみると〈表・22〉,この30年間に総額388億円にのぼる額が,自転車業界に交付されたことになるが,このうち,生産技術の向上に48%,自転車産業合理化に26%が使用されている。ここでは自転車産業の技術進歩に果した役割を中心に以下に簡単に記しておこう。
 振興費の交付が始った1949年から1953年にいたる5年間は,政府予算の一部として,当時としては約20億円にのぼる巨額が自転車産業のために交付され,戦時中の生産技術の停滞を埋めるため,主として業界,企業者への貸付資金をつうじて大きい役割を果したとみられている。
 「戦時中の生産技術の停滞や,海外市場の空白を埋めること,国内の生産水準を引上げること,流通機構の実態を調べてその近代化をはかることなど,企業単位でなしえない自転車産業の振興対策の青写真はこの時期に立てられ,ひび割れたかんばつ地帯に浸み込む水のように業界内に浸み込んでいった。段つきスポーク・軽合金リム・バテッドチューブ・テーパーチューブ・ゴム高周波加流法など,こんにちでは常識となった技術は,この時期に振興事業によって研究され,実用化していった。1951年ごろから市場に出た軽快車(ロードレーサー)は,それまでの日本の自転車産業界で姿をみせたことのないものであり,ヨーロッパではすでに市販され始めていたものだったが,この新車国産化を可能にしたのは,これら各部分品の製造技術の開発によるものであった。また,1950年,東芝鋼管に依託された“自転車用電縫鋼管生産技術の研究”によって,わが国の電縫管は急速に普及した」。
 1954年9月には,自転車生産技術開放研究室が設置された。これは自転車生産技術向上のための業界の施設として,工業技術院名古屋工業技術試験所内の一部を借り,振興費によって第一,第二実験工場を建設して必要な機械器具の設置と研究要員の充実をはかったものである。ここでは,自転車生産に関係のある材料,塑性加工,接合,塗装,鍍金その他あらゆる生産技術の研究を行い,その成果を開放し,東京,大阪にも分室を設けて業界指導にあたった。
 この開放研究室は,1958年10月,財団法人・自転車技術研究所として独立経営に発展した。研究所には名古屋に総合研究室,東京,大阪に指導所をおいて,自転車の品質改善,コスト低減をはかるための調査研究と,その成果を普及,指導する技術センターの役割を果すこととなった。
 1968年6月,この自転車技術研究所は,愛知県犬山市に4万平方メートル余の敷地を得て建設移転した。1971年9月,東京,大阪にあった自転車技術指導所を一元化して自転車技術研究所支所とし,今日にいたっている。
 今日,同研究所およびその大阪支所の果している役割について,大阪府『地場産業技術実態調査報告書』は次のような評価をしている。
 「……比較的豊富な資金にめぐまれ,かなりすぐれた設備機器類を保有している。各企業は技術相談,依頼試験,依頼加工といった形での利用のほか,技術懇談会(自転車,金型,環境)に加入し,新技術情報の取得,共同開発テーマの選択などをおこなおうとしている。新生産技術の開発につながる専用機などは,業界内の中堅企業のほか,工作機械メーカーにおいても開発され,いわば,外部からの新規設備械器の導入を通じての技術移転がなされることもある。しかし、この場合においても,自転車技術研究所における試験活動が大きな役割を演じているように思われる」。

 注
 51) 同法は1957年改正され,「自転車その他の機械の改良及び輸出の振興並びに機械工業の合理化に寄与するとともに……」と,振興費の対象を自転車から,機械工業一般にひろげられた。前出『一世紀』409ページ。
 52) 同上書,43ページ。
 53) 同上書,411~412ページ。
 54) 同上書,412ページ。
 55) 同上書,414~415ページ。
 56) 技術研究所・指導所の業務は次のとおりであった。
 ① 自転車の生産資材・生産技術に関する研究
 ② 自転車の意匠・設計の調査研究
 ③ 自転車工場の生産管理・設備の合理化に関する調査研究
 ④ 自転車業界依頼による技術相談・調査・試験・研究・設計・試作
 ⑤ 自転車技術者の養成・再教育
 ⑥ 自転車に関する工業所有権の取得と管理運用
 ⑦ 機関紙・講習会などによる事業成果の発表・普及・指導 同上書,453~454ページ。
 57) 同上書,422ページ。
 58) 前出『技術調査』,65ページ。
 (4) JIS制定と完成車組立部門の変容
 日本の自転車産業は,世界に最大市場をもったイギリス製自転車・部品の国産化に始まったため,古くからBSC(イギリス規格)が広く採用されるようになり,メートル法に改められた今日でも,「インチサイズのメートル寸法読み替え」により,ねじ,鋼球規格も,各はめあい部の寸法もすべてイギリス規格に準拠したJIS(日本工業規格)で行われている。
 1949年,工業標準化法が施行され,JIS制度が発足したが,自転車工場に始めてJISマーク表示制度(同法19条にもとづき,製造業者は国の認定をえて,みずから自工場の製品にJISマークを表示できる制度)が適用されたのは,以下にしめすとおり,1953年以降であった。
 1953年12月 リム,スポーク,チェーン
 1955年2月 ギヤクランク,ペダル,フリーホイル,小ギヤ
 1956年5月 リムブレーキ,バンドブレーキ,ハンドル,ハブ,コースタハブ
 1957年5月 フレーム,前ホーク
 1958年7月 どろよけ,サドル
 1960年6月 自転車(完成車)
 1960年 主要16部品のJIS表示指定工場が235工場となる(該当工場379)
 1961年 完成車JIS指定にともなう小売業者の技術検定,JIS自転車の審査
 1962年 完成車の組立出荷始まる。完成車のJIS実施段階に入る。
 以上のように,自転車のJIS指定は,1953年,リム,スポーク,チェーンなど,すでに機械化がすすみ,自動化の度合が高かった資本集約的部品から始まり,1955年から56年にかけては,ギヤクランク,フリーホイルなど,主として機械加工と組立を主体とした技術集約的部品,1957年にはフレーム,前ホークなど,金属加工と接合を主体とする技能集約的部品へ,そして最後に1960年の完成車へと追加されていった。
 多くの部品から組立てられる完成車のJIS指定がもっともおくれたが,これには以下のような自転車生産に特有のむずかしい問題があった。
 このころまでは,完成車メーカーは自工場で完全組立てを行わず,必要な部品,付属品をセットして梱包し,地方卸を通じて小売店へ配送し,小売店頭において完成車に組立てられる場合が多かった。その理由として,完成車メーカーが完全組立をするとすれば,工場の作業設備が十分でないために多くの人手を要し,かつ広い工場面積を必要としたこと,組立て出荷すれば容積が大きくなって輸送費がかさみ,取扱いが不便になること,また,小売店としては自店組立てによって組立手数料がはいり,大きな収入源となっていたこと,などがあげられる。
 完成車の組立てを製造工程とみる場合,組立てを行う小売店は工場の一部とみなされることになる。そこで完成車がJIS指定をうけるためには,完成車を組立てる小売業者がJIS完成車の組立て技術者として公的に認められることが必要となり,JIS完成車の組立て技術者検定審査が実施されることとなった。
 日本自転車検査協会による全国小売業者など6万名余に対する技術検定試験,技術講習会をはじめとした各種の広汎な準備態勢を動員し,完成車がJIS指定商品になったのが1960年6月,完成車JIS工場が実現したのは1962年5月であった。
 一方,大手完成車メーカーは,完成車JISの一応の図式ができたこと,1960~61年頃から,完成車のアメリカ市場向け輸出が増加しはじめたことから,自社工場で完成車を組立て出荷するという新しい方針に踏み切ったのである。1962年に入ってからは,完成車メーカーの大勢は本格的に組立て出荷を実施することとなった。大手完成車メーカーでは,コンベア方式の採用,フランス製車輪組立機の導入,流れ作業方式など,組立部門の急速な拡張整備が行われ,量産体制の強化と販売網の拡張が図られた。たとえば,ブリヂストン・サイクル社はダイカスト法で月産3万台,山口自転車社は販売網拡張で月産5万台を目標とし,また従来の販売政策をあらためて販売部門を独立させ,積極的に代理店を強化し,小売店までの指導を通じて市場を開拓するなどの事例がみられた。
 同時に,大手完成車メーカーと総合商社または大工業資本との提携が表面化したことも見逃しえない。販売拡張では宮田製作所と三井物産,大日本自転車と伊藤忠商事,日米冨士自転車と東京食品,ウェルビーと丸紅飯田との販売提携,量産では宮田製作所と松下電器産業との資本提携などがあげられる。
 また,梱包組立て技術の開発も見逃しえない要因であろう。1960年頃から増大しはじめた完成車のアメリカ市場向け輸出は,アメリカ側業者が6台,12台梱包などのセットではなく,1台ずつのダンボール梱包でなくては受けつけない時代になっていたので,日本側でも急きょ1台梱包組立て技術が開発され,実行に移されていたことも国内態勢を急激に変化させる重要な要因となったのである。
 従来,末端の仕上工場,修理工場の役割を果していた小売店は,労働力不足が進行してゆくなかにあって,組立てマージンをあてにするよりも,需要開拓に努力した方が利益が大きくなり,とくに都会地小売店は修理屋から近代的販売店への脱皮がみられはじめた。
 このことは完成車メーカーにとって生産形態の大型化,集中化をさらにすすめることになった。〈表・19〉にみられるように,1958年に,190を越えていた完成車メーカーが1969年には100以下になっていることによっても明らかであろう。
 以上にみた過程を通じて,「問屋型」メーカーの地位が低下傾向をたどったことが注目される。既述のように第2次大戦後,問屋の復活がみられ,1955年当時,全国完成車生産台数のうち「問屋型」完成車メーカーの出荷が70%,「工業型」完成車メーカー30%という割合であったが,1962年に両者の地位が相半ばし,1969年頃には「問屋型」30%,「工業型」70%と逆転するにいたった。前述のように,完成車メーカーにおけるセット出荷から組立車出荷が増大するにつれて,コンベアシステムによる流れ作業を行う「工業型」完成メーカーに対して,中小規模層の多い「問屋型」メーカーは,コンベアシステムの導入が困難であり,労働力不足も激化し,実質的に組立車出荷が不可能に近い状態となってきたのである。

 注
 59) たとえばクランク軸とクランク穴のはめあい部分の寸法はイギリスが5/8インチであり,日本ではこれに見合うメートル法で15.88mmと読み替えている。自転車産業振興協会『自転車実用便覧』第3版,1977年8月,17~18ページ。
 60) 「自転車略年譜」,前出『一世紀』512~514ページ。
 61) 同上書,436ページ。
 62) 同上書,436ページ,438ページ。
 63) 同上書,437ページ。
 64) 同上書,437~438ページ。
 65) 同上書,439ページ。
 66) 前出『構造的変化』7~8ページ。
 67) 同上書,8ページ。
 68) 前出『一世紀』439ページ。なお,梱包組立技術の開発について,前述の自転車技術研究所が大きな役割をはたしたとみられる。
 69) 同上書,440ページ。
 70) 前出『基本動向』111ページ。
 71) 同上書,108~109ページ。

 (5) 部品工業の技術開発と階層分化
 すでにのべたように,第2次世界大戦中,日本の自転車産業の技術進歩がおさえられ,戦後1945~1950年の復興期には,統制経済のもと,老朽化した設備機械,おくれた技術による品質を二の次にした生産でも,ともかくもつくれば売れるという時期であった。
 1949年11月,通産省工業技術庁は「わが国工業技術の実態」と題する戦後初の工業技術白書を発表したが,その中で日本の自転車産業,とりわけ部品工業の技術的たちおくれにふれて,次のような指摘がなされている。
 「過去におけるわが国の自転車は外国の自転車の外形模倣から一歩も出ていなかったのであって,このことはわが国の自転車の部品規格を,英国のそれと寸法的に一致せしめて,英国車との交換を可能とし,部品輸出による自転車輸出の繁栄を築きあげるに与って力があったが,他面強度,硬度の不足を招いたのみならず,品種,構造等の改善に対する独創性を失わしめるという,ちぐはぐな場面を展開するにいたったのである。これは両国の自転車を比較すれば判然とする。すなわち,構造的にみれば,わが国自転車には,英国製自転車に最近特に普及されてきた変速機もなければ,ダイナモハブもない。製品の品種もほとんどわが国のそれは一種類といってよい位である。
 製造技術の点からも旧態依然たるもので,たとえば,自転車生産総工程の23%を占める鍍金作業に自動バフ機械があまり用いられないので,手作業に頼っていたり,脂取り,水洗いから鍍金作業,乾燥まで一貫してやれるコンベア式の自動鍍金装置が広く普及されていない事実,あるいは総工数の35%を占める機械加工作業に自動送りプレス,自動ネジ切り盤等の自動機の普及改善の行われていないことによっても明らかである。勿論これには経済的な悪条件やその他の理由もあるが,諸外国特に英国が戦後の輸出振興対策の波に乗って,著しい進展振りを見せ,品質においても価格においても漸次優位を占めつつあるに鑑み,設備の近代化が望まれる所以である」。
 この白書も述べているように,日本の自転車産業にとって,戦前はもとより,戦後もイギリスに追付くことが当面の第1の目標であった。
 「1949年,イギリスの最新型自転車33台が購入された。……取りよせたイギリス車はスポーツ車・軽快車であったが,……フレームは特殊鋼管によって軽量化されており,逆爪フレーム,キャリバーブレーキ,内外装変速機,WOリム・タイヤが採用されているし,加工においてはギヤ歯はプレス打抜き,クランク軸は冷間鍛造の高度の技術が駆使され,光沢メッキ,メタリック塗料が施され,見えない部分の仕上げは省略され,行き届いた合理化研究の跡がうかがわれた。
 キャリバーブレーキも内外装変速装置も,理論的には戦前から承知しており,試作も行われていたが,そうした新しい技術が装着された自転車を目前にして,わが技術関係者はいまさらのように戦争とその前後の歳月の長い空白を感じないわけにはいかなかった。
 わが自転車業界は一致して技術の研究開発を急いだ。スイス,フランス,イタリアからも最新鋭の自転車を取り寄せて研究を重ねた。日本の自転車を世界市場で通用させるためには,水をあけられた欧州車にはやく追いつき,そして追い抜かなければならないのであった」。
 日本の自転車産業は,部品工業が部品ごとに専門化しており,戦後統制から自由経済への移行にともなって,それぞれ独立性をもつ部品工業は,以上にみた先進自転車国との大きな技術格差を埋めるための技術開発,設備の合理化を競って進めることとなった。1960年以降,労働力不足の激化が,生産性向上によるコストダウンの必要性を高めたし,部品のJISが制定され,規格の統一がすすめられたことによって,JIS許可工場では,少種多量生産体制がとりやすくなり,設備合理化に拍車をかけることとなった。
 1960年以降,日本の自転車のアメリカ市場向け輸出が増加し始め,1967年には日本の自転車輸出がイギリスを追い抜いたが〈表・2〉,この時期は実用車から高度な技術を必要とする高級車-軽快車・スポーツ車への転換の時期にあたっており,この過程を通じて,日本の自転車部品工業の技術レベルが,自転車先進国に追いつき,追い越したとみることができる。自転車部品は多種性に富み,それぞれの部品工業における技術開発の内容が異なり,一括してその内容を記することが困難であるが,ちょうどこの時期-1968年時点で過去10年間の動向-について,大阪の自転車工業を対象にした実態調査を中心に,今回のヒアリング調査(大阪府堺市)その他の資料をも参考にしながら,以下にその概要をみてみよう。
 (a) 連続自動塗装設備
 塗装工程においては,従来,人手によって一つ一つ塗装がなされていたが,自動塗装設備が1955年頃から導入されはじめた。これは赤外線を利用した静電塗装機で,従来の設備にくらべ塗料が節約され,仕上げがよくなるほか,生産能率も約3倍となった。
 (b) 連続自動めっき設備
 めっき設備はかなり高額であるため,自転車メーカーで設置する企業は上層の一部メーカーにすぎず,小規模メーカーはめっき専業者に外注する場合が多い。1960年以降,大手部品メーカーから連続自動めっき設備が導入された。これはそれまでの半自動めっき設備とくらべ,①重労働がなくなったので女子労働力ばかりでよい,②同数の従業員数で能率は3倍上昇,③品質が向上した,等の利点があらわれた。
 (c) 冷間鍛造
 自転車部品のなかで,シャフト,ハンガーワン,フリーホイルなど,鍛造を必要とするものが少なくない。鍛造工程では従来熱間鍛造によっていたが,大手部品メーカーのS社では,1960年に同社独特の冷間鍛造加工を開発,1964年にはアメリカ,ブラウン・エンジニアリング・カンパニーと技術提携し,冷間鍛造の自動化の技術とシステムを導入し,合理化をさらに推進した。これを契機に冷間鍛造が広く導入されたが,この冷間鍛造は画期的な新技術であり,品質の向上,材料の節約,工程数の減少,作業環境の改善などに大きく貢献した。
 (d) 自動加工機
 1960年代に入って,各社独自で自動化をはかる動きが活発になった。多くの企業で自社用専用機械の開発が試みられ,独自の自動機械を開発した企業は,調査89企業の61%・54企業にのぼっている。とくに従業員30人以上の企業群では,ほとんどの部品にわたって,ほとんどすべての企業が自動機の開発がなされ,たとえば,それまで2人を必要とした場合は1人に,男子労働にたよっていた場合は女子労働でも出来る,というような省力化が進められた。
 (e) 以上のほか,従来プレスしなければならなかった前フォークの工程に,スエッジンク・マシン(鉄丸棒の先を細くする機械)が導入された。堅牢性と耐摩耗性のための焼入れ方法が導入され,品質向上に寄与した。動力には手動から油圧式が大幅に導入された。またフリーホイールの製造工程においても,ホブ盤から大型プレス機へ移行し,約10倍の能率向上をもたらしたといわれる。
 以上のような自転車部品工業における技術開発,設備の合理化の促進の背景に,前述の自転車産業振興費の果した役割があり,また1963年度から1968年度には中小企業近代化促進法の業種指定(リムとチェーンをのぞく自転車部品工業)による政策的なバックアップがあったことが留意されなければならないだろう。
 こうして,実用車から軽快車・スポーツ車への転換期を通じて,自転車部品工業の技術開発,設備合理化が進展したが,この過程で自転車産業の構造変化がともなったのである。
 さきに,完成車メーカーの大型化,上位集中化による企業数の減少が指摘されたが(前述3-(4)参照),部品工業においても,〈表・19〉のように,各部品を通じてメーカー数の減少がみられ,上位規模部品メーカーへの生産の集中がみられた。
 工業統計による従業員規模構成の推移をみてみよう〈表・23〉。事業所数は,全体として1960年,65年,70年と順次減少しているが,これは上述の諸変化に適応できなかった企業の脱落が多く,業界構造の再編が進んだことをしめしている。
 従業員数29人以下の小零細層では,1960-70-75年の間に,絶対的減少,相対的シェアの微増となっているが,30~99人の中間層では絶対的にも相対的にも減少し,100人以上の上位規模層では大きな変化がみられない。
 従業員数では,同じ時期に,全体では絶対的減少しているが,とりわけ中間層の減少が大きく,上位規模層では増加している。
 製造品出荷額では,上位規模層への集中がよりはっきり示されている。以上総じて,1960年代を通じて,自転車産業は中間層を境に,上層と下層への階層分化が進んだことが明らかであろう。
 同時に,完成部品メーカーと部品の部品をつくる外注,下請工場との関係にも変化がみられた。大手部品メーカーでは,開発した高度のノウハウをともなうものに自社の生産力を集中し,人手を要する労働集約的な作業を外注に回すという方向がとられた。さきにみた小零細層の根強い存在の背後には,部品工業内部での社会的分業のあり方に,このような担当作業工程の変化をともなっていたと解することができるのである。

 注
 72) 通産省工業技術庁『わが国工業技術の実態』1949年,前出『実態』45ページ。
 73) 前出『一世紀』43~44ページ。
 74) 前述3-(4)参照。
 75) 前出『基本動向』66~70ページ。
 76) 島野工業株式会社(大阪府堺市)。『島野工業50年の歩み』によれば,冷間鍛造の技術が日本に入ってきたのは,ドイツのマイプレス社がトレードフェアに出品し脚光をあびるようになった1957年ごろであった。同社ではただちに独自の研究に着手,スリースピードハブのアメリカ輸出が軌道に乗りはじめ,その量産化の必要から,1960年,本格的な研究開発にとりかかり,1962年,スリースピードハブをはじめ,ハブおよびフリーホイールの製造工程における冷間鍛造の工業化が実現した。これによって,製品の小形軽量化,しかも強度上はより丈夫な,安定した品質の製品ができるようになった。材料費の面からは,従来の熱間鍛造素材重量685グラムに対し,冷間鍛造素材重量は400グラムで,約36%の材料費が削減された。加工面では,鍛造後の切削加工がまったく不要か,ほんのわずかの加工で完成品にすることが可能となり,スリースピードハブ部品,フリーホイール部品に例をとれば,工程の省略ないし短縮により,機械加工コストは,平均して25~35%低減した。かりに冷間鍛造技術の開発が数年おくれていたとしたら,スリースピードハブの量産体制はととのわず,したがってアメリカ市場への進出は果たしえなかったにちがいない。……幸い,このころになると,スリースピードハブの好調な売れゆきなどもあって,金融筋の自転車部品工業に対する見方も大分かわり,自転車産業協会などの裏付資金も借りられるようになり(前述,自転車産業振興費による貸付資金),それが拍車となって,1960年をさかいに,年々設備投資がつづけられた。『島野工業50年のあゆみ』ダイヤモンド社,1971年,99~111ページ。
 77) 前出『振興ビジョン』15ページ。
 78) 1964年から1967年の4ヶ年に,近代化促進法にもとずく指定機械の投資額は約24億円であった。前出『基本動向』71ページ。
 79) 前出『島野工業50年のあゆみ』111~113ページ。

 (6) 技術開発の課題
 すでにみたように,日本の自転車産業は,1960年以降,実用車中心の状態から軽快車・スポーツ車,さらには子供車,婦人車,ミニサイクルなどの多様化への展開過程で,技術開発,設備合理化がすすめられ,これが1960年代後半から70年代への飛躍期を準備する技術的基盤になったとみることができる。
 1977年から78年にかけて,大阪府の自転車部品工業の技術実態調査が行われ,この調査の過程で筆者も共同討議に参加する機会を得ることができたが,この報告書を中心にして,近年における自転車産業の技術開発の実態と課題を以下に探ることとしたい。
 全体的な考察をおこなう前提として,いくつかの主要部品生産分野での最近における著しい事例について見ておくことが必要であろう。
 ① フレーム……生地であるパイプを切断し,一部加工し,熔接などをおこなって組立て,塗装仕上げをおこなう。従来,生地組立てをおこなう小規模メーカーと自動化に近い手法を早期に導入したやや大規模な塗装仕上げ中心のメーカーに分れていたが,ほぼ以下のような技術開発がなされた。
 (a) 材料が鋳鉄パイプから,高張力鋼,特殊鋼,軽合金などに多様化した。軽量化との関連で,0.8~1mm程度のクローム・モリブデン鋼管などが多用されているが,この処理,加工は旧来の手工業的熟練の枠内のものではない。
 (b) 加工組立てにおいても,古いヤスリかけとロウづけ(いずれも相当の熟練が必要)から,冷間しぼり,各種の溶接手法の導入などによって格段と進歩しつつある。
 (c) 塗装方式,仕上げのいずれにおいても,手法,生産技術双方について進歩し,連続,自動化のレベルが向上した。
 ② ハンドル……生地であるパイプの切断,加工をおこない,メッキをして組立てる。各工程はきわめて手工業的であったが,次のように変化してきた。
 (a) 切断,加工については,専用の機械が開発され,手工業に依存する部分が後退した。
 (b) メッキ工程は,研磨をふくめ,かなり重要な位置を占めるが,きわめて手工的であった。しかし,連続的自動工程化の方向に発展しつつある。
 ③ ギヤクランク,ハブ,フリーホイル等……各種の生地に対し,プレスワーク,切削,鍛造などをおこなって多くの小部品を生産し組立てなければならず,しかも,回転部分に関連するため,精度と強度が必要である。在来,切削加工部分が多く,組立て工程も複雑であるということで量産化は困難であるとされていた。しかし,この分野で,冷間加工の導入によってもっとも大きな変化が生じたといえる。すなわち,鍛造,プレス,切削,熱処理という工程は,熱処理および表面仕上げ,冷間鍛造(プレスワーク)というはるかに短い工程となり,しかも,各部品を一挙につくりあげることが可能になった。そのさい,プレス用金型加工という新分野がおこってきた。そこにおいては,在来の切削加工だけでなく,放電加工が重要なものとして登場してきている。
 ④ ブレーキ,ペダル等……多くの多種多様な部品(ブレーキの場合でも約90にのぼる)の組立てが中心であり,他に若干の主要部品が手工業的に機械加工される,という分野であった。
 (a) ここでも,主要部品の冷間加工による量産,自動工作機械の導入などによって省力化が進められてきた。
 (b) 組立て工程は,ながい間,未熱練労働者(女子をふくむ)によって家内工業的に進められてきたが,分業化,流れ作業化の傾向が現われつつある。
 ⑤ リム,スポーク等……強度と一定の精度は要求されるが,製品の形態が比較的単純であるため,工程を機械化することは容易であった。したがって,専用機の開発による自動化への志向もつよく,企業規模も大きい。
 以上のように,各部品の特色にしたがって,技術課題の重点が異り,技術格差,企業格差につながる傾向があることがわかる。
 このような部品の個別性とともに,多様な部品生産に共通する課題を明らかにしておくことが,産業全体の技術問題を考える前提として必要であろう。
 ① まず,横断的な課題として,部品の自動生産,冷間加工,組立て工程の合理化,塗装,メッキ等仕上げ工程の自動化等の,いわゆる省力化につながる問題,新材料の開発,精度の向上といった問題,関連する工作機械等の開発などといったテーマがある。これらは直接的に製品の質の向上,量産,低価格化などを目標とするハードの技術開発課題である。
 ② デザインの向上,新分野のための新車種の選択,品質管理の実施,国内規格(JIS)および輸出用規格に合致した生産工程および検査工程の管理など,いわゆるソフトの開発課題がある。
 ③ いわゆる「外部性」をもった問題として,環境関連技術課題も重要である。加工(とくにプレスワーク,鍛造など),工作工程における騒音,メッキ工程から出る廃液,この種の金属加工全体に共通する油の使用と関連した問題は,中小工場が住宅地と混在して分布しているこの業界の場合にはとくに重要である。
 第2次世界大戦後の日本の自転車産業の技術開発にとって,自転車技術研究所の果した役割は大きかったし(前述3-(3)参照),また,標準,規格と関連した工程管理技術については,車輛検査協会が各企業に対する指導,普及活動を通じて技術移転の中心的役割をはたしている。主な企業はほぼJISを取得し,独自に外国工業規格をも得ているところがある。このように,自転車産業における技術開発の条件については相対的にめぐまれた立場にあるといえるかもしれない。しかし,以下のような問題点を指摘しておかなければならない。
 ① 企業間格差(技術格差)は依然として大きい。その根拠の一部は,取扱う部品の種類によるものであるとはいえ,一方では数十人の研究スタッフと年間10億円に達する研究開発費を計上し,国際的に技術情報を取得する中堅企業があり,他方には,家内工業的水準の活動の中で,人件費の高騰や騒音公害反対になやまされている企業も絶無ではない。部品産業全体としての下請け化は生じていないが,部品産業内部の下請け化の傾向はたしかに存在している。
 ② 台湾,シンガポールなど,後発国の追上げに対して,省力化,自動化によるコスト低減と製品の高級化によって対抗する,という他産業に見られる常道がとられつつあるように見える。そのような方式のみで成功をおさめられるかどうかが根本的に問題にされなければならないかもしれない。たしかに,自転車部品産業が潜在的にもっている技術力および技能的熟練は相当のレベルのものである。この力を他分野に及ぼす,あるいは,製品の多角化をさらにはかってゆくことが必要であろう。すでに若干の企業はそのような方向をめざしているが,今日の社会におけるニーズを正しくつかんで総合的な情報にもとずく指導,助言をおこないうる態勢の整備が必要である。
 ③ 自転車技術研究所は,たしかに重要な役割を果しているが,多くの公的研究機関と共通した問題をかかえているように思われる。たとえば,設備に比して研究スタッフの数が充分でないこと,研究管理に意識的にとり組まれているとはいえないこと,すぐれた設備や機器の運用に熟達した技能職員の登用と確保が困難であり,研究者にゆだねられていること……等である。企業内の熟練者との人的結合をつよめるなどの措置が必要であろう。
 ④ いわゆるソフトテクノロジーの分野での開発活動はかならずしも活発とはいえない。コンピュータも,おそらく,工程制御,自動機械化といった方向にもっぱら導入されてゆくであろうと思われるが,ソフト面での合理化による組立て工程等の管理,小企業のネットワークにおける在庫の適正化などに一層役立てる余地があろう。
 省力化,製品の質的向上,といった問題はもちろん重要であるが,生産管理をふくめた企業管理の側面について,開発すべき広義の技術的課題が残されているように思われる。いくつかの企業においては,すでに独自の成果をあげているであろうが,小企業にとって,今後重要となるであろう多種少量生産の効率的遂行などは重要な課題となるであろう。

 注
 80) 前出『技術調査』(後藤邦夫稿),1978年,59~68ページ。
表1 日本の自転車製造業の全製造業に占める地位-1977年
表2 自転車主要輸出国の輸出額推移(自転車+部品)
表3 世界の主要自転車生産国の生産台数(完成車)
表4 日本の自転車の生産,輸出,輸入の年別推移
表5 日本の完成自転車の車種別生産推移
表6 日本の自転車部品の品目別生産額推移
表7 日本の自転車部品の品目別生産額構成比推移
表8 日本の自転車部品の品目別輸出額推移
表9 日本の自転車の地域別輸出額推移(完成車+部品)
表10 日本の自転車の主要仕向国別輸出額の推移(完成車+部品)
表11 日本の自転車輸出の地域別完成車対部品構成比
表12 日本からアジア中進国向け完成車・部品の輸出推移
表13 アメリカ市場における完成車の競合状況
表14 アメリカ市場における自転車部品の競合状況
表15 日本の自転車,同部品の国別輸入額 -1978年-
表16 日本の自転車・同部分品製造業の規模別統計-1977年-
表17 日本の自転車の都府県別出荷額 -1977年-
表18 自転車の部分品,取付具,付属品の都道府県別出荷額構成-1977年-
表19 日本の自転車製造業の品目別工場数の推移
表20 日本の自転車保有台数の推移
表21 規模別工場数の戦前・戦後比較
表22 自転車産業振興費の推移
表23 日本の自転車・同部品製造業の規模別統計