DIA-211-1969-01-05-1 | ミャンマー | 1969年01月05日 | 1960年代 | 今月,ラングーンの各地で警察,商業局,治安行政委,党役員および労働大衆代表からなる捜索隊が結成される。この決定は党役員と労働者評議会代表との討論の結果なされた。ヤミ市が物価上昇の主な原因であるとの指摘がなされている。ヤミ商人はいろいろな方法で繊維製品,時計,万年筆,ハンドバックなどの消費物資をラングーンに持ち込み,ラングーンからは地方で必要とされている商品を持ち出している。商人達はまたラングーンでも,砂糖,コンデンスミルク,小麦粉などのヤミ取引を行なっている。彼らは登録喫茶店,菓子店からそれらを買い入れ,公定の2倍で非登録店で売却する。 |
DIA-211-1969-01-06-1 | ミャンマー | 1969年01月06日 | 1960年代 | ラブッタ発:約100人の反政府軍がマゥンガイとカンベ村を占拠し,協同組合などから物資を奪って去った。警官2名が殺された。 |
DIA-211-1969-01-07-1 | ミャンマー | 1969年01月07日 | 1960年代 | ペグー発:午後11時30分プンタザ警察管区のラングーン=マンダレー鉄道路線で,下り鉄道線が反政府軍の地雷で爆破された。 |
DIA-211-1969-01-07-2 | ミャンマー | 1969年01月07日 | 1960年代 | チャンユトクィン発:この町に開設された協同米買付センターは1月8日までに35万バスケット以上を買い付けた。しかし第1商業公社は湿気が多いとの理由でまだその買付センターの米を受け取っていないので,米の貯蔵が問題となってきている。このままのペースで買付けが進めば,買入れ量が前年を大きく上廻るものとみられている。前年の収穫期には共産軍がこの地方で活発であり,彼らは農民に100バスケット当り500チャット以下で米を売らないよう勧告していた。違反者は殺され,家畜は喰べられ,車は破壊されるとの脅迫がなされていた。このため110万バスケットの買付け予想に対して,実際には85万バスケットが買い付けられただけであった。しかし現在は第77師によりこの地方の共産軍は一掃された。 |
DIA-211-1969-01-10-1 | ミャンマー | 1969年01月10日 | 1960年代 | エラ(ヤメティン県),ヤミ米商人の活動が目立ってきている。彼らはエラなどの各駅から,8~12チャット(バスケット当り)で買い入れた米を毎日列車でヤメティン,メティラなどに運び,15~20チャットで売却している。彼らの活動は捜索隊の活動が不活発となり,鉄道職員にヤミ米を没収する権利のないところから大っぴらとなっている。 |
DIA-211-1969-01-13-1 | ミャンマー | 1969年01月13日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長と数名の閣僚らは6日間にわたりモールメイン,テナセリム地区を視察,この日ラングーンに帰着した。 |
DIA-211-1969-01-13-2 | ミャンマー | 1969年01月13日 | 1960年代 | マンダレー発:マダヤ郡では季節労働者の不足で刈入れが遅れている所が多くなっている。いつもはシュエボから労働者が移動してくるが,現在郡間の労働者の移動は禁止されているので,こうしたことになった。 |
DIA-211-1969-01-16-1 | ミャンマー | 1969年01月16日 | 1960年代 | ペンウェゴン発:チャウチー付近で,ボーデュワ傘下のKNDO200人とジョージに卒いられたNDUF兵100人とが活動地域の境界争いから交戦した。第3カチン・ライフル部隊が現場に接近した。(注,KNDO=カレン民族防衛機構,NDUF=民族民主統一戦線) |
DIA-211-1969-01-17-1 | ミャンマー | 1969年01月17日 | 1960年代 | 1月15日に地下からラングーンに戻ったビルマ共産党指導者タキン・チットの長女の明らかにしたところによれば,現在タラワジー県共産党は北京帰りのオン・テェインらに指導されており,“第1無敵中隊”は兵力60人で,オン・テェインを司令官とし,ボーセィン・ミンを政治委員としているという。また彼らは目下KNUの保護下にあるという。(注,KNU=カレン統一党) |
DIA-211-1969-01-20-1 | ミャンマー | 1969年01月20日 | 1960年代 | タボイ発:11人の反政府兵がカミャウキン村に入り,前村長,協同組合責任者ら5人の村人を殺害し,村の警察隊と交戦した。 |
DIA-211-1969-01-23-1 | ミャンマー | 1969年01月23日 | 1960年代 | モゴゥン(カチン州)発:マヤンとパタゥン間で列車が地雷にふれ,7輌が脱線,同時にKIA兵に攻撃された。警官2名が死亡,民間人2名死亡,警官4名が捕われた。(注,KIA=カチン独立軍) |
DIA-211-1969-01-23-2 | ミャンマー | 1969年01月23日 | 1960年代 | ペグー発:共産軍15人はダイク・ウの西10マイルの村に入り,村落治安委議長を殺害した。 |
DIA-211-1969-01-23-3 | ミャンマー | 1969年01月23日 | 1960年代 | パゥク発:約20人の共産兵が本郡キナ村に入り村の長老と民兵指導者の妻を殺した。 |
DIA-211-1969-01-27-1 | ミャンマー | 1969年01月27日 | 1960年代 | イェ発:午前6時30分頃イエ=モールメイン間列車の先導装甲車がカレン軍の地雷で脱線,約30人のカレン兵に攻撃された。近くの米買付所から政府軍がかけつけ,約45分の交戦ののち撃退した。 |
DIA-211-1969-01-27-2 | ミャンマー | 1969年01月27日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長夫妻は,アユブ・カーン大統領の招きでパキスタン訪問に出発した。 |
DIA-211-1969-01-27-3 | ミャンマー | 1969年01月27日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長一行はパキスタンのラワルピンジに到着,アユブ・カーン大統領の出迎えを受けた。 |
DIA-211-1969-01-28-1 | ミャンマー | 1969年01月28日 | 1960年代 | ラワルピンジ発:ネ・ウィン議長一行は約2時間にわたりアユブ・カーン大統領と会談した。 |
DIA-211-1969-01-28-2 | ミャンマー | 1969年01月28日 | 1960年代 | 政府はビルマ駐在新ソ連大使N.I.Smirnov氏の任命を承認した。 |
DIA-211-1969-01-29-1 | ミャンマー | 1969年01月29日 | 1960年代 | ラワルピンジ発:消息筋によればネ・ウィン議長らは予定していた2日間のダッカ訪問を中止した。 |
DIA-211-1969-01-29-2 | ミャンマー | 1969年01月29日 | 1960年代 | カラチ発:ネ・ウィン議長一行はマングラ・ダムを見学した。 |
DIA-211-1969-01-30-1 | ミャンマー | 1969年01月30日 | 1960年代 | ラワルピンジ発:ネ・ウィン議長一行はイスラマバードを視察した。 |
DIA-211-1969-01-31-1 | ミャンマー | 1969年01月31日 | 1960年代 | ラワルピンジ発:ネ・ウィン議長一行は予定より1日早くパキスタン訪問を終え帰国の途についた。 |
DIA-211-1969-01-31-2 | ミャンマー | 1969年01月31日 | 1960年代 | サン・ユ陸軍副参謀長は,1月28日ラングーンを出発,南東軍管区の各地を視察,1月31日ラングーンに帰着した。 |
DIA-211-1969-02-01-1 | ミャンマー | 1969年02月01日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長一行はパキスタン訪問から帰国した。なお途中インドのベナレスで1泊した。 |
DIA-211-1969-02-01-2 | ミャンマー | 1969年02月01日 | 1960年代 | 農業開発公社(ARDC)はその所有する3千台以上のトラクターを村落農協に売却する方針を固めているが,その第一歩として,チャウセ県チャウセ郡で4ヵ村の農協に対し,各々2台ずつのトラクターが売卸された。売り値は1台7千チャットで5ヵ年払いである。 |
DIA-211-1969-02-02-1 | ミャンマー | 1969年02月02日 | 1960年代 | 本日開かれたラングーンのレイン地区労働者評議会執行委員会の報告によれば,1968年12月16日に国有化された同地区の42の私営工場のうちいくつかの企業が,原料不足で操業を停止している。国有化された企業のうち食品工場,化学工場は操業している。しかし繊維工場,金属工場は閉鎖している。また同地区のPacificゴム工場,Ngwe Zin Yaw油工場,Ngwe Zin Yaw製粉工場,Ngwe Thagi油工場,12の衣服工場,9のブリキ工場,Shwengaロープ工場を含む27の私営工場(労働者772入)が,原料不足,電力が利用できないこと,経営者の決定などの理由で操業を停止している。 |
DIA-211-1969-02-03-1 | ミャンマー | 1969年02月03日 | 1960年代 | タンヤン発:北シャン州のビンディン軍として知られた反政府軍兵士863人の集団帰順式が,当地の第33ビルマ連隊で,ソーミン東部軍区副司令官が出席して行なわれた。 機関銃25丁,M-1ライフル192丁,カービン銃163丁,中国製ライフル101丁,アメリカ製ライフル42丁,イギリス製ライフル20丁,ピストルなど火器630丁が政府に手渡された。 |
DIA-211-1969-02-04-1 | ミャンマー | 1969年02月04日 | 1960年代 | インドのTata輸出会社はビルマ国鉄に対し,7万8千トンの鉄道レール資材(7千万ルピー)を5ヵ年の延払いで売却することを契約した。 |
DIA-211-1969-02-07-1 | ミャンマー | 1969年02月07日 | 1960年代 | 政府はラングーン,モールメイン,バセインにある24の海運業会社を国有化すると発表した。 |
DIA-211-1969-02-09-1 | ミャンマー | 1969年02月09日 | 1960年代 | マンダレーで第22回連邦記念日セミナーが政府関係者,全国各地からの代表など786人を集めてマンダレーで開かれた。(530頁参照) |
DIA-211-1969-02-12-1 | ミャンマー | 1969年02月12日 | 1960年代 | アチャブ発:午前1時半頃,約60人の共産兵がポンナグン郡サバタ警察署を攻撃し,警官2名が死亡,警官の妻1人が死亡,警官2人が負傷した。 |
DIA-211-1969-02-15-1 | ミャンマー | 1969年02月15日 | 1960年代 | ウー・チー・ハン外相と小川大使は,日本がビルマに1億4280万チャットの円借款を供与する(5年後から20ヵ年返済)旨の覚え書を交換した。 |
DIA-211-1969-02-15-2 | ミャンマー | 1969年02月15日 | 1960年代 | 昨年の12月9日から2月14日までにペグー山地区で,共産党兵12人が殺され,23人が捕われ,37人が投降した。 |
DIA-211-1969-02-16-1 | ミャンマー | 1969年02月16日 | 1960年代 | シュエグン発:政府軍第77師団は1月28日からサルウィーン川東岸で“ドゥウン”作戦を開始し,KNDO軍の訓練センター,医学校,下士官訓練所を攻略した。政府軍は士官用帽子100,アメリカ製スパイク靴50足,ライフル類数丁,船外モーター,石油,米などを捕獲した。 |
DIA-211-1969-02-16-2 | ミャンマー | 1969年02月16日 | 1960年代 | パーアン発:投降者によればサルウィーン川西岸で活動しているKNDO軍内部で対立が激化しているという。 すなわち,昨年11月に開かれた11日間のカレン統一党(KNU)のサルウィーン川西岸方面の指導者会議で,トゥン・ミン“准将”が20万チャット以上の党資金を流用し,金,土地,象などを私用に使っていたのが発覚した。 その結果“副司令官チャー大佐,第1大隊長ディンガ少佐,第2大隊長シャーミン少佐,第3大隊長チャーホー少佐らはトゥン・ミンを非難した。そして彼らはその司令部に反対して,タトン県とサルウィーン川西岸をその支配地域と宣言し,ビリン,チャィクト,タトン,パーアン,タトン西部に自分達の支配を打ち出した。 |
DIA-211-1969-02-19-1 | ミャンマー | 1969年02月19日 | 1960年代 | 政府は村落銀行を再組織し,農業融資金返済手続きを変更し,取立てに協力した銀行委員に1%のコミッションを認める措置をとった。 |
DIA-211-1969-02-26-1 | ミャンマー | 1969年02月26日 | 1960年代 | 中央農民評議会第1回セミナーがネ・ウィン議長ら出席の下に,ラングーンで開かれた(セミナー内容は530頁参照)。 |
DIA-211-1969-02-27-1 | ミャンマー | 1969年02月27日 | 1960年代 | モンコンでラシオ県タンヤン郡で先頃政府に帰順した349人の反政府軍(シャン系)に対して武器保有を認める式典が行なわれた。 なお同グループが保有を認められた武器は,ピストル24丁,M-1ライフル52丁,カービン銃83丁,ステンガン30丁,機関銃16丁,ライフル153丁,2インチ迫撃砲1,弾丸類2万4930発である。 |
DIA-211-1969-03-01-1 | ミャンマー | 1969年03月01日 | 1960年代 | モーゴク郡タンサイン村付近で午前6時半頃政府軍第40ビルマ連隊攻撃隊とチャン・サーグループの反政府軍が交戦,反政府軍兵5人が死亡,3人が負傷した。 |
DIA-211-1969-03-02-1 | ミャンマー | 1969年03月02日 | 1960年代 | ラングーンのチャイカサングランドで10万人以上を集めて「農民の日」大集会が開かれた。 ネ・ウィン議長は大会にメッセージを送り,中央農民評議会結成をたたえた。 タゥンチー中央農民評議会議長は革命評議会を代表して演説し,農民評議会を通じての農業革命の達成と,農民,労働者の団結を強調した。 |
DIA-211-1969-03-05-1 | ミャンマー | 1969年03月05日 | 1960年代 | タンブザャット発:午前8時30分頃,イェ発の列車が地雷にふれ先導装甲車が脱線した。カレン反政府軍が護衛部隊を攻撃したが,後からきた列軍の護衛兵が加わってきたので撤退した。 |
DIA-211-1969-03-05-2 | ミャンマー | 1969年03月05日 | 1960年代 | 1968年3月4日からの1年間で北方管区内(上流管区)で政府軍警部隊が殺害した共産兵は170人,逮捕者は61人となった。投降者は281人に達した。ミン・オンに卒いられる共産軍(イラワジ作戦部隊)はいまやジャングル深く後退したという。 |
DIA-211-1969-03-06-1 | ミャンマー | 1969年03月06日 | 1960年代 | 中央労働者評議会執行委員会は中央,地方の全政府部局に通告を送り,今後労働者代表を各種の会合に呼ぶ場合,同執行委員会に通知するよう要請した。 |
DIA-211-1969-03-07-1 | ミャンマー | 1969年03月07日 | 1960年代 | マンダレー発:本郡内で14のレンガ工場が2月15日に政府命令で閉鎖され,2千人以上の労働者が失業している。 |
DIA-211-1969-03-07-2 | ミャンマー | 1969年03月07日 | 1960年代 | バセイン発:本郡のシャウピャキャンプから,資材を運ぶトラックが,カレン反政府軍の待伏せ攻撃を受け,第904建設工兵隊兵士5人が死亡,2人が負傷,民間人9人が死亡,1人が負傷した。 |
DIA-211-1969-03-08-1 | ミャンマー | 1969年03月08日 | 1960年代 | タボイ発:3月7日第25ビルマ連隊の8人の兵士とロンロン郡イェビュ村米買付けセンターのマネージャーウーティン・ウィンは徒歩で政府資金をセンターに運ぶ途中地雷にふれ,2名の兵士が死亡,2名が負傷した。同時に,約60人の反政府兵の攻撃をうけたが,約30分交戦後撃退した。重傷の兵士1名が3月8日死亡した。 |
DIA-211-1969-03-12-1 | ミャンマー | 1969年03月12日 | 1960年代 | 鉱山省は3月12日から,民間による宝石の採掘を禁止し,原石の保有,輸送,取引を非合法化することにした。 |
DIA-211-1969-03-16-1 | ミャンマー | 1969年03月16日 | 1960年代 | 中国共産党中央委員会,ビルマ共産党中央委員会に弔電を送り,タキン・タン・トン議長の死に哀悼。 |
DIA-211-1969-03-16-2 | ミャンマー | 1969年03月16日 | 1960年代 | ラングーンのレイン地区で原料不足から25の工業企業が操業を停止し,600人以上が失業している。2月以来閉鎖しているものの内訳はメリヤスなど12企業,錫関係9企業,ロープ業4である。3月に入って,パン屋,うどん製造業者なども操業を停止している。 |
DIA-211-1969-03-18-1 | ミャンマー | 1969年03月18日 | 1960年代 | ペンウェゴン発:第3カチンライフル第4中隊はチュエジョイン村で徴税中の40人のKNU兵と交戦,6人を殺した。 |
DIA-211-1969-03-19-1 | ミャンマー | 1969年03月19日 | 1960年代 | トォンゼ発:約30人の反政府兵がタラワジー県ゴニダン村を攻撃,16戸と商業局の米倉庫を焼いた。政府軍第35ビルマ連隊がかけつけ,反政府兵は撤退した。 |
DIA-211-1969-03-20-1 | ミャンマー | 1969年03月20日 | 1960年代 | (北京発新華社=中国通信)中国共産党の周恩来,康生両政治局常務委員はこのほど,ビルマ共産党中央代表団団長のタキン・バ・ティンティン副議長,団員のタキン・ペ・ティン中央委員らと会見し,タキン・タン・トン議長の死に哀悼の意を表わした。 |
DIA-211-1969-03-22-1 | ミャンマー | 1969年03月22日 | 1960年代 | 政府は公務員の停年を55歳から60歳に延長した。 |
DIA-211-1969-03-24-1 | ミャンマー | 1969年03月24日 | 1960年代 | ビルマ共産党本部分隊長コー・トゥン・ミンは3月4日第53ビルマ連隊に投降,この日記者会見を行ない,次の諸点を明らかにした。 1969年1月タキン・ジンが公式に党議長に就任した際,彼は党本部にいた。彼はデルタ管区の中央委員ソータンを1月5日にペグー県から連れて来るように命じられた部隊の一員であった。 ソータンは1月8日に処刑された。彼の処刑の前に,彼が1964年路線に反対し,1955年路線を支持していると非難した,タキン・タン・トン前議長の録音演説を聞かされたという。なお,ソータンは1960年以来デルタ管区委員会議長。 党本部には約150人の男女がいる。うち武装者は40人。共産軍はいま無線機がなく北京と直接連絡できない。しかし,部隊は1970年には中国製火器を約束されている。ポリトビューロー員は,タキン・ジン,タキン・チット,タキン・プー,コ・オン・ジーの4人である。 |
DIA-211-1969-03-24-2 | ミャンマー | 1969年03月24日 | 1960年代 | チャウクタガ発:昨年ペグー山麓の村々を荒していた共産軍はいまや政府軍,民兵に追われて四散しているが,彼らは最近村々にひそかに手書きのポスターなどをはり,村人に彼らと連絡するよう呼びかけているという。 |
DIA-211-1969-03-26-1 | ミャンマー | 1969年03月26日 | 1960年代 | ペグー発:ニャウングルービン郡オゥンジー村に約10人の共産兵が入り,僧侶と村落土地委員会委員と書記の3人を連れ出し殺害した。 |
DIA-211-1969-03-27-1 | ミャンマー | 1969年03月27日 | 1960年代 | インディラ・ガンジー首相,4日間の予定で到着。 |
DIA-211-1969-03-31-1 | ミャンマー | 1969年03月31日 | 1960年代 | マーシャル・グリーン米国務次官補,24時間の予定でラングーン訪問。ウーチーハン外相と会談。 |
DIA-211-1969-04-01-1 | ミャンマー | 1969年04月01日 | 1960年代 | タチレークでのチャットのタイ・バーツとの交換レートは従来の100チャット=200バーツから,100チャット=115バーツへと低落している。 |
DIA-211-1969-04-02-1 | ミャンマー | 1969年04月02日 | 1960年代 | チャウクタガ発:77師団の諸部隊は,夕方頃,ペグー山系ニャゥングルービン西25マイルにある共産軍本部キャンプを攻撃し,大きな被害を与えた。 |
DIA-211-1969-04-04-1 | ミャンマー | 1969年04月04日 | 1960年代 | ネ・ウイン議長は療養のため英国に出発。 |
DIA-211-1969-04-07-1 | ミャンマー | 1969年04月07日 | 1960年代 | 政府軍第77師団は3月30日から4月6日にかけてニャゥンレブ付近で作戦,ビルマ共産党本部兵19人とイェボー・オン・ジー中央委員を殺した。 |
DIA-211-1969-04-11-1 | ミャンマー | 1969年04月11日 | 1960年代 | 軍情報部発表によれば,3月1日からラングーン市内の共産党組織摘発作戦が行なわれ,政府職員,ジャーナリスト,作家など27人が逮捕された。なお軍情報部副司令ティン・ウ中佐によれば,共産党は軍要人,元党員らへのテロ活動を計画し,同時に軍内部,計画党内部へさえも浸透せんと企てているという。 なおこの日,27人のうち17人が釈放された。 |
DIA-211-1969-04-11-2 | ミャンマー | 1969年04月11日 | 1960年代 | ウー・ヌー元首相一家は静養のためインドに向った。 |
DIA-211-1969-04-16-1 | ミャンマー | 1969年04月16日 | 1960年代 | ボガレイ発:約30人の共産兵がカマカル警察を攻撃,2時間交戦。共産兵2名戦死,警官の子供2人が死んだ。 |
DIA-211-1969-04-19-1 | ミャンマー | 1969年04月19日 | 1960年代 | ラングーン港では過去3年間にわたり入港船舶数の減少が続き,それと比べて労働者数は変らず,このため出費がかさんでいる。 1965-66年の入港船舶数は621隻,1966-67年は555隻,1967-68年は482隻であった。 荷の積み降ろしをする臨時労働者数は,それぞれの年に1269,1268,1273人であり,管理職員と常雇い労働者数は939人と990人であった。 |
DIA-211-1969-04-24-1 | ミャンマー | 1969年04月24日 | 1960年代 | 第3回中央人民労働者評議会セミナー開く。(セミナー内容は533頁参照) |
DIA-211-1969-04-25-1 | ミャンマー | 1969年04月25日 | 1960年代 | ペグー発:ペンウェゴン警察管区の3ヵ村が約30人のKNU兵と約40人の農民に襲われ,物資,現金を奪われ,村人4人が連れ去られた。 |
DIA-211-1969-05-01-1 | ミャンマー | 1969年05月01日 | 1960年代 | 「労働者の日」大集会,10万人を集めてラングーンで開く。集会におけるマウン・シュエ大佐演説。 ○労働者評議会の強化 ○生産上の困難について 1967-68年は国営企業には若干の生産進展があったが,私企業は低下した。 国営企業さえ原料,部品不足,輸送,財政上の困難に直面した。 農業生産は好調だったが,国は十分なだけ農産品を買い付けられず,米輸出は低下した。 |
DIA-211-1969-05-01-2 | ミャンマー | 1969年05月01日 | 1960年代 | バセイン発:当地発ヘンザダ行き列車が共産兵の地雷で脱線,同時に攻撃された。しかし第38連隊,警察,民兵隊などがかけつけたので共産軍は撤退した。 |
DIA-211-1969-05-02-1 | ミャンマー | 1969年05月02日 | 1960年代 | ミンラ発:本郡では当初62ヵ村に協同組合が結成されたが,1967年と1968年に共産軍により40の協同組合が破壊された。最近軍と村人との努力により22組合が再建された。 |
DIA-211-1969-05-03-1 | ミャンマー | 1969年05月03日 | 1960年代 | イエボー・ミヤらの執筆による「タキン・タン・トン最後の日々」第1部出版。 |
DIA-211-1969-05-05-1 | ミャンマー | 1969年05月05日 | 1960年代 | チャウクタガ発:カレン反政府軍内で左派KNU(NDUF加盟)と右派のKNU(マン・バ・ザン,ボーミャー指導)との間の対立が公然化し,両派とも相手打倒の意図を隠してはいない。 マン・バ・ザンはかつて左派をひきいて,共産党とNDUFを結成した。1963年の和平交渉決裂後,マン・バ・ザンは左派をぬけて,コートレイのタイ国境よりのサルウィーン川東岸で主に活動しているボーミャー派のKNUに加わった。ボーミャーグループは国境の向うから武器を獲得しており,当然火力は優れているが,その見解は右よりである。 ボーミャーとマン・バ・ザンに卒いられる右派とデルタ出身のチャウ・ミャー・タンとボー・チン・ペに卒いられる左派とのイデオロギー的相違は拡大し,その緊張は激化して武力衝突に至る場合がある。4月26日に両派はシュエジィン郡で交戦し,マン・バ・ザンは8人を失った。ボーミャー派は現在シッタン東岸の村々を巡り,村人達に,カレン民族の意欲を完全に無視して外国の主人に奉仕しているグループに助力しないよう警告している。左派はその非難に反論する13ページのパンフレットをもって対抗している。その文書はまたボーミャー派が列車,バスを爆破し,旅客から掠奪を行なっていると非難している。そしてボーミャー派の大隊長たちさえその党の綱領を知らず,部下を野放しにしていると述べてる。 |
DIA-211-1969-05-09-1 | ミャンマー | 1969年05月09日 | 1960年代 | モンスーン耕作融資の支払いが開始された。融資は1人500チャット以下,村落農業銀行から支払われ,それがない時は協同組合から,両者ともない時は土地委員会から支払われる。また集団保証制がとられる。1967年期融資金までを返済した農民にのみ支給される。村に未返済者がいる場合には,返済ずみ者のみで新グループを結成する。 作物の種類別エーカー当り融資額は,次のとおり。 米=25チャット,綿花=20,ポテト=75,玉ねぎ=75,ビルマたばこ=60,唐がらし=50,ケナフ=20,ジュート=20,メイズ=10,マッペ=10など。 |
DIA-211-1969-05-11-1 | ミャンマー | 1969年05月11日 | 1960年代 | 目下の農業融資貸出し残高は1億4980万チャット。 |
DIA-211-1969-05-12-1 | ミャンマー | 1969年05月12日 | 1960年代 | 内陸水運局は73隻の船舶を保有しているが,目下運行しているのは42隻である。なお反政府軍により船舶29隻を失った。乗員15人が死亡している。損害は210万チャットにのぼる。 |
DIA-211-1969-05-18-1 | ミャンマー | 1969年05月18日 | 1960年代 | 過去3ヵ月間に約300軒のパン屋,菓子屋が,小麦粉不足のため閉業している。労働者は給料の半額を受けとっている。 |
DIA-211-1969-05-20-1 | ミャンマー | 1969年05月20日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長夫妻帰国。 |
DIA-211-1969-05-21-1 | ミャンマー | 1969年05月21日 | 1960年代 | ラングーン発:ここ数日間に食用油の卸売価格が上昇している。そして製油工場主,倉庫主たちは地方で落花生を買い占めている。 |
DIA-211-1969-05-22-1 | ミャンマー | 1969年05月22日 | 1960年代 | イェ発:治安,政治教育,経済開発,社会福祉,行政に関する,政府計画の効果的達成のための第5列作戦(ファィブコラム作戦)が第31ビルマ連隊,治安委,商業局,土地局,その他政府機関メンバーが参加して行なわれた。いくつかのチームが4月7日から25日までと,5月5日から21日までの間に,村々にキャンプし,村人たちと話し合いながら問題を解決していった。 |
DIA-211-1969-05-22-2 | ミャンマー | 1969年05月22日 | 1960年代 | バセイン郡チェパゥン村が50人のNDUF兵に攻撃され,農協と7戸の家が焼かれ,財貨が奪われた。農協書記が連れ去られた。 |
DIA-211-1969-05-26-1 | ミャンマー | 1969年05月26日 | 1960年代 | ムドン発:夜10時半頃,約30人のモン反政府兵が嵐に乗じてムドンに侵入,商業局倉庫から繊維4千チャット,ある医師の家から財貨4千チャットを強奪して去った。なお警察署も攻撃された。 |
DIA-211-1969-05-28-1 | ミャンマー | 1969年05月28日 | 1960年代 | ラングーン発:第13商業公社(機械器具)は4月末までに全国の農民に対し,90万丁のくわを配給した。公社は今年中に120万丁を配給する計画であり,残り30万丁は目下配送中である。なお昨年は122万丁を配給した。 |
DIA-211-1969-05-28-2 | ミャンマー | 1969年05月28日 | 1960年代 | インガプ発:今年は反政府軍の脅威がないため,漁業区(37区)の競売による政府収益は9万2110チャットとなり,昨年より倍増した。1968年は4万5285チャットであり,漁業労働者達は反政府軍に同額を支払ったという。 |
DIA-211-1969-05-30-1 | ミャンマー | 1969年05月30日 | 1960年代 | ニューデリーでインド=ビルマ国境委会合。 |
DIA-211-1969-06-02-1 | ミャンマー | 1969年06月02日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長,統一諮問会議メンバーと会談。諮問会議報告書提出される(534 |
DIA-211-1969-06-02-2 | ミャンマー | 1969年06月02日 | 1960年代 | ヤンドーン発:第91ビルマ連隊攻撃隊はカレン兵と交戦,“大隊長”ら10人を殺した。 |
DIA-211-1969-06-02-3 | ミャンマー | 1969年06月02日 | 1960年代 | オンラン発:第44ビルマ連隊のティンウイン中尉に卒いられた警察と民兵隊は,タンハマゥタンウ丘陵の共産軍キャンプを攻撃,20数名の共産兵のうち,5人を殺し,3人を捕えた。 |
DIA-211-1969-06-04-1 | ミャンマー | 1969年06月04日 | 1960年代 | ジゴン発:当地東12マイルのタラワジー県ナタリン郡のペグー山系ふもとのサゥンウェト村の民兵隊基地が朝,約150人の共産兵の攻撃をうけ,村落委議長が殺された。 攻撃は共産軍「常勝」中隊IとIIによって行なわれ,北京帰りのオン・テェィンに卒いられていた。 |
DIA-211-1969-06-04-2 | ミャンマー | 1969年06月04日 | 1960年代 | マウビン発:第91ビルマ連隊の一中隊はNDUF部隊とワダゥ村付近で交戦,8人を殺した。 |
DIA-211-1969-06-08-1 | ミャンマー | 1969年06月08日 | 1960年代 | トングー発:本県の農民は昨年10月1日から今年の5月31日までに154万7255チャットの農業融資金返済を行なった。 |
DIA-211-1969-06-10-1 | ミャンマー | 1969年06月10日 | 1960年代 | ラングーン発:当地では六つの企業が農具類の製造に従事しているが,商業局からの原材料の木や鉄の供給が遅れているため,一部の企業がヤミ商品を使って生産を続けているだけで,他は操業を停止している。このため,以前20チャットだったすきやくわは目下80チャットもする。 業者達は年間の需要である荷車8万台,くわ6万丁,すき3万丁に対し,原料不足のため,荷車2万台,くわ1万丁,すき2万丁しか供給できない。 |
DIA-211-1969-06-11-1 | ミャンマー | 1969年06月11日 | 1960年代 | ラングーンの食用油価格は五つの製油工場が生産を増強したことと,プローメからの食用油が入荷したため,急落した。 しかし市内の5大工場の原料手持は1週間分である。落花生のラングーンヘの供給は当面見込みがない。 |
DIA-211-1969-06-11-2 | ミャンマー | 1969年06月11日 | 1960年代 | バセイン発:本郡の1969-70年度第3回漁業区権競売が48漁業区に対し100人以上の漁民を集めて開かれた。本県には合計293の漁業区があり,うち2が人民真珠漁業局,14が村落農協により運営され,266が私営である。 これら漁区からの収入は昨年8万チャットをこえた。 |
DIA-211-1969-06-14-1 | ミャンマー | 1969年06月14日 | 1960年代 | アチャブ発:60人の共産兵がパンシャゥン警察署を攻撃,放火,警官4人を殺し,ライフル16丁などの武器を奪った。 |
DIA-211-1969-06-16-1 | ミャンマー | 1969年06月16日 | 1960年代 | ジゴン発:本郡のペグー山系ふもとの共産軍は農民がモンスーン耕作に従事するのを妨げるような破壊的活動を行なっている。 |
DIA-211-1969-06-18-1 | ミャンマー | 1969年06月18日 | 1960年代 | 政府,ウーチーハン外相兼国家計画相の辞任を認め,サン・ユ准将を国家計画相に,マウン・ルイン大佐を外相にそれぞれ兼職を命令 なおウーチーハン外相の辞表は,要旨次のようなものである。 私と個人的に親しい幾人かの元政治家と軍人がしばしば私が彼らの個人的かつその他の問題に助力するよう求めており,私はその申し出を受け入れざるをえなくなった。私は明確な自覚をもって,私のなしうる助力を,彼らに与えねばならない。私は彼らが将来も私の援助を求めるものと信じている。 私はこうしてあらゆる援助を与えてきたけれども,いまや私の公的義務と私の個人的な社会的義務がぶつかりあう徴候が現われ,それは私に大きな心配を与え,私は一日として心が安静でなくなった。そこで私は閣僚の地位を去り,私が元からつとめている購入局長の職のみを維持したい。 |
DIA-211-1969-06-20-1 | ミャンマー | 1969年06月20日 | 1960年代 | "ラングーンの記者団は軍当局の招待でミャンミャに行き,そこで,南西軍司令部と第88師団により15日前(6月7日)に開始されたデルタ地区でのシュエリンヨン作戦とモヘイン作戦についての説明をうけた。 南西軍区司令官サン・チー大佐,第88師881戦術司令部司令アィエ・コー大佐,南西軍区司令部作戦司令チャウ・カイン中佐,第93ビルマ連隊司令ティン・セイン少佐が説明に当った。 シュエリンヨン=モヘイン合同作戦は15日前に,ミャンミヤ県の「テェインラチャウ」地区と呼ばれる,55平方マイルのデルタ地区で開始された。作戦は続行中。第881戦術司令部司令官アィエ・コー大佐が,掃討部隊としての第108ビルマ連隊,第11ビルマ連隊,第2ビルマライフルを指揮している。 封鎖部隊としては,第2チンライフル,第27ビルマ連隊,第38ビルマ連隊,第93ビルマ連隊,警察軍の1個中隊,砲艦インレー号,ナワラー号,海軍船艇第302号,第306号が参加した。 また民兵700人以上も重要な役割を果した。統合作戦は南西軍区司令サンチー大佐の全体的指揮の下に進められている。これまでに攻撃軍は第6KPGF大隊(カレン人民ゲリラ軍)と第2KPLA大隊(カレン人民解放軍)を含む敵と12回交戦した。この結果ラブッタ郡での作戦で,KNDOのクェカウ部隊の8人共産党ティン・ぺ部隊の2人,マゥンピュー部隊の1人を殺した。 合計143人が投降した。なお先月5月12日から23日まで第3次""シュエリンヨゾ'作戦が行なわれ,第27ビルマ連隊は1000人以上の民兵の支援をうけて,ミャンミャ県共産党指導者ボーウのキャンプを攻撃している。なおボーウは戦死。" |
DIA-211-1969-06-20-2 | ミャンマー | 1969年06月20日 | 1960年代 | "ラングーン発:タエトミョー県のマルントラクター工場で組み立てられた500台の""Zwe""型トラクターが,ペグー管区の農協を手始めとして販売されることになった。 1台1万8000チャットで現金あるいは5ヵ年年賦で販売される。しかし農協は健全な財政をもち,治安のよい地域にあるものにのみ限られる。1農協あたり2台限りとなっている。年賦の場合,頭金10%,年5%の利子がつく。" |
DIA-211-1969-06-25-1 | ミャンマー | 1969年06月25日 | 1960年代 | ミャンミャ県下でのシュエリンヨン=モヘイン作戦の結果,これまでに,共産党兵20人とKNUP兵18人が戦死,共産兵39人,KNUP兵4人が捕われ,共産兵128人,KNUP112人が投降した。 戦死者中には共産党ミャウンミャ県書記ボーウ,イラワジ管区委員バーオンと4人の中国人,第6KPGF司令クェトカウが含まれている。 |
DIA-211-1969-06-26-1 | ミャンマー | 1969年06月26日 | 1960年代 | シュエチン発:第57ビルマ連隊パトロールはKNU第7旅団第1中隊100人と交戦,7人を倒した。 |
DIA-211-1969-06-28-1 | ミャンマー | 1969年06月28日 | 1960年代 | テェインレ地区での第108ビルマ連隊との戦闘で,KNUP第2県議長ビーポとその部下10人が戦死した。 |
DIA-211-1969-07-01-1 | ミャンマー | 1969年07月01日 | 1960年代 | 政府,マンダレー,ザガイン,マグェ,アラカン,カチン,コートレイ,カヤ,シャン各管区と州内の映画館53館を国有化。 |
DIA-211-1969-07-02-1 | ミャンマー | 1969年07月02日 | 1960年代 | バセイン発:当地西部でランチに乗って作戦中の第2チンライフルの一隊は反政府兵の待伏せ攻撃をうけ,大尉1人と兵4人を失った。また5人が負傷した。反政府兵10人が戦死した。 |
DIA-211-1969-07-02-2 | ミャンマー | 1969年07月02日 | 1960年代 | チャウクタガ発:郡区農民評議会書記ウーオン・ディンはチャウクタガ郡人民農民評議会に報告書を提出し,農村各組織間のライバル関係と衝突がひんぱんで,単純な問題の解決すら遅らせられていると述べた。 |
DIA-211-1969-07-02-3 | ミャンマー | 1969年07月02日 | 1960年代 | "革命評議会,4司令官を副大臣に任命。 南東軍区司令マウン・ルイン大佐 〔国家計画〕 東部軍区司令オンペ大佐 〔鉱業〕 北西軍区司令セイン・ミャー大佐 〔内務〕 ラングーン軍区司令ラーホン大佐 〔外務〕 の各担当副大臣に任命。" |
DIA-211-1969-07-10-1 | ミャンマー | 1969年07月10日 | 1960年代 | 電力供給局(ラングーン管区)は,地方工業推進委員会の許可なく操業していた1600の家内工業企業への電力供給を停止した。 家内工業の多くはプラスチック,アルミニウム加工,小印刷所,玩具製造関係である。各企業は少なくとも5人以上の従業員をもち,合計8500人が働いているが,政府に対し原料供給申請はしていない。 |
DIA-211-1969-07-11-1 | ミャンマー | 1969年07月11日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長,英国へ出発。 |
DIA-211-1969-07-12-1 | ミャンマー | 1969年07月12日 | 1960年代 | ラングーン発:ボタタウン人民初級労働者評議会No.23の組織活動に関する報告書は,労働者が組織活動に不熱心な理由として,商品配給における広汎な不能率と汚職をあげている。 報告書は低収入労働者の窮状を伝えて,消費者物価の高騰と人民商店での恒常的な物質不足は,労働者をしてそのわずかな所得を必需品への法外な価格での購入に使いつくすことを余儀なくさせていると述べている。 収支を合わせることのできない家庭は,その子供達を臨時の職につかせてわずかの金でも稼がせようとしており,子供の教育は犠牲になっている。絶望的となった労働者はヤミ取引に従事し,そのため正規の仕事への注意がなおざりとなり,また全配給制度の調整の欠除と障害とがひき起されている。 報告書は統制物質がめったに大多数の低所得労働者には達しないという事実を指摘して,労働者の恒常的な窮状は,革命政府の教育,衛生,住宅,運輸,農業における諸計画の成功を伝えるものとはなっていないと述べている。 新聞は繊維その他の基本的物質の生産増大を報じているが,人民商店にはほとんど物がない。人民商店に常に物がないということは,配給の重要なポストにいる人々が不正を行なうため,物がヤミ市場に流れているのではないかとの疑いを招いている。 たとえば,全国のロンジーの需要を充すために4千万の男物ロンジーが生産されたといわれる。ロンジーを付ける男は1500万人に達するが,人民商店は1人ではなく,年間1家族に1枚のロンジーを売ったにすぎない。残りのロンジーはどこに行ったのか。 報告書は結論として,現在の経済情勢が労働者の士気をなくしていったと述べている。 |
DIA-211-1969-07-12-2 | ミャンマー | 1969年07月12日 | 1960年代 | 南西軍区での第88軽歩兵師団と民兵隊の協同作戦の結果,これまでに反政府兵83人が死亡,66人が捕われ,295人が投降した。 |
DIA-211-1969-07-13-1 | ミャンマー | 1969年07月13日 | 1960年代 | ビルマ航空がアメリカのノースウェスト航空からチャーターし,東南アジア航路に就航させるボーイング727がラングーンに到着した。 |
DIA-211-1969-07-17-1 | ミャンマー | 1969年07月17日 | 1960年代 | ラングーン発:第3地区カマユット,レイン,マヤゴンでは国営工業部門での生産は増大しているが,私企業部門では低下し,約50の工場が閉鎖された。閉鎖の理由は原材料と部品の不足である。また電力供給停止が原因となった場合もある。11の麺類工場,16のメリヤス工場,5の食用油工場,8の錫加工工場,4のココヤシ皮ロープ工場,2のバーミチェリ工場,ゴム工場1が閉鎖され,1千人以上の労働者が失業した。 |
DIA-211-1969-07-18-1 | ミャンマー | 1969年07月18日 | 1960年代 | ラングーン市長に中央軍区のミョーオン中佐が任命された。 |
DIA-211-1969-07-24-1 | ミャンマー | 1969年07月24日 | 1960年代 | 鉱山省,7月24日以降,全ひすい鉱業の国有化を発表。 |
DIA-211-1969-07-24-2 | ミャンマー | 1969年07月24日 | 1960年代 | トンゼ発:KNU約80人が,タラワジー県の四つの村に侵入,村人2人を誘拐した。 |
DIA-211-1969-07-24-3 | ミャンマー | 1969年07月24日 | 1960年代 | バセイン発:KNUテゥン・チーグループのNDUF兵が夜間東部バセイン郡の諸村に侵入,村落治安委議長,農協委員,元共産兵ら3人を殺した。 |
DIA-211-1969-07-24-4 | ミャンマー | 1969年07月24日 | 1960年代 | 韓国経済使節団到着(4日間滞在)。 |
DIA-211-1969-07-25-1 | ミャンマー | 1969年07月25日 | 1960年代 | レインブエ発:第2カチンライフルの攻撃隊(60人)は,ボーミャーに卒いられたKNDO1個大隊(約400人)と7時間にわたり交戦,40人以上を倒した。政府兵1人が死亡。 |
DIA-211-1969-07-25-2 | ミャンマー | 1969年07月25日 | 1960年代 | ラングーン発:七つの国有化された製傘工場が一つに統合された。 |
DIA-211-1969-07-26-1 | ミャンマー | 1969年07月26日 | 1960年代 | ラングーン発:中央土地委員会は地方委員会に対し米作地を大規模にバナナ畑に変えようとする動きがあることから,これを止めさせるよう指令を出した。 |
DIA-211-1969-07-28-1 | ミャンマー | 1969年07月28日 | 1960年代 | ビルマ,ネパールと直接無線連絡を開始。 |
DIA-211-1969-07-30-1 | ミャンマー | 1969年07月30日 | 1960年代 | 北朝鮮親善使節団到着。 |
DIA-211-1969-08-03-1 | ミャンマー | 1969年08月03日 | 1960年代 | 1969年6月末までに,48県,284郡,1万2067村の地区に土地委員会が結成された。1969村区で治安不良のため土地委員会が結成されていない。 |
DIA-211-1969-08-04-1 | ミャンマー | 1969年08月04日 | 1960年代 | (北京8月15日発新華社=中国通信)ビルマ共産党中央委員会代表団,同党創立30周年についての「戦争に勝ち、政権を奪取する道を前進しよう」と題する声明を発表。 |
DIA-211-1969-08-05-1 | ミャンマー | 1969年08月05日 | 1960年代 | ラングーンで地区工業監督委員会が結成される。これは地区治安委議長を長とし,管区工業監督委員会代表を書記とし,地区工業担当官,労働担当官,商業局マネージャー,党代表,郡区労働省評議会代表が参加する。委員会は工業企業の経営委員会と会合し,生産計画を定める。 また企業が原料,部品を確保するのを助け,さらに製品の生産,保管,販売,労働問題,金融に発言権をもつ。 |
DIA-211-1969-08-06-1 | ミャンマー | 1969年08月06日 | 1960年代 | バンコク発:ウーヌー前首相到着。 |
DIA-211-1969-08-07-1 | ミャンマー | 1969年08月07日 | 1960年代 | チャウクタガ発:7月30日から8月5日の間に,ボーミャ派のKNU兵約80人がサルウィーン東岸のチャウチ郡,シュエジィン郡の村々を訪ずれ,村人に政府軍の攻撃に協力せぬよう警告した。 |
DIA-211-1969-08-09-1 | ミャンマー | 1969年08月09日 | 1960年代 | ネ・ウィン議長,英国から帰国。 |
DIA-211-1969-08-11-1 | ミャンマー | 1969年08月11日 | 1960年代 | バンコク発:タノム首相の招待で滞在中のウーヌー前首相は,ネ・ウィン政権を激しく非難し,その統治をファシストと呼び,現政権は国の経済を破壊し,少数民族地域での反乱を挑発し,人民の権利を抑圧し,気ままに人々を逮捕し,無期限に拘留していると述べた。 また国有化は,国有化ではなく強奪であり,奪われた資産は軍将校の個人的使用に供されていると非難し,さらに少数民族地域に直接統治を行なったために,反乱を挑発したと述べた(ニューヨーク・タイムス)。 |
DIA-211-1969-08-12-1 | ミャンマー | 1969年08月12日 | 1960年代 | ラングーン管区内の20以上の私営および国営食用油製造工場が,種油の不足のため閉鎖された。6月に入り,落花生の供給が混乱したため。 |
DIA-211-1969-08-15-1 | ミャンマー | 1969年08月15日 | 1960年代 | ビルマ・タイ航空協定調印。 |
DIA-211-1969-08-15-2 | ミャンマー | 1969年08月15日 | 1960年代 | ビルマ航空で40人の観光団到着。 |
DIA-211-1969-08-15-3 | ミャンマー | 1969年08月15日 | 1960年代 | 中国共産党,創立30周年でビルマ共産党に祝電。 |
DIA-211-1969-08-15-4 | ミャンマー | 1969年08月15日 | 1960年代 | プンタザ発:午後11時15分,マンダレー発ラングーン行き貨物列車が地雷に接触,転覆し,運転手が死亡,貨車23輌と鉄橋とが大きな損傷を受けた。損害は10万チャット以上。 |
DIA-211-1969-08-19-1 | ミャンマー | 1969年08月19日 | 1960年代 | マンスフィールド米上院議員到着。3日間の滞在。 |
DIA-211-1969-08-20-1 | ミャンマー | 1969年08月20日 | 1960年代 | ミンピャ発:この町の織物業を調査中のチームは登録されている943台の織機のうち実際には730台しかないことを発見した。これは政府から余分の糸の配給をうけ,ヤミに流すための操作である。 |
DIA-211-1969-08-22-1 | ミャンマー | 1969年08月22日 | 1960年代 | イェダシェ発:ペグー管区の村落協同組合に売却されるトラクターの第1陣24台がトングー県の農協に配送された。他の諸県の農協向245台は1970年4月までに送られる。ARDCは1969年12月1日から各農協3人の割で運転手を訓練する。なお1台当り1万8千チャット。 |
DIA-211-1969-08-23-1 | ミャンマー | 1969年08月23日 | 1960年代 | イェ発:午前11時,モールメイン=イェ間上り列車の護衛車が反政府軍に待伏せ攻撃をうけた。政府兵1人が死亡,1人が負傷,機関士1人が負傷。 |
DIA-211-1969-08-23-2 | ミャンマー | 1969年08月23日 | 1960年代 | メルグィ発:第17ビルマ連隊は当地東のタータゥン村付近の共産党拠点を攻略,5人を殺した。拠点には40人がいた。 |
DIA-211-1969-08-24-1 | ミャンマー | 1969年08月24日 | 1960年代 | ラングーン発:マヤゴンとレイン地区労働者評議会会議開催。 マヤゴン地区労働省評議会執行委員会の報告書は,生産の低下について述べ,工場に供給される糸が品質が悪いこと,多くの浪費があること,生産されたものが規格外であるケースの多いことなどを指摘している。 また一部の労働者は社会主義制度に反対し,以前の方法を好み,そのため能率が落ちていると述べている。 レイン地区の会議では,同地区の2万4957人を雇用する241工場のうち,原材料不足のため47工場が閉鎖され、1159人の労働者が失業したことが報告された。 国有化された企業に生産増加の徴しがまったくみられず,私企業は原材料不足で赤字に苦しんでいる。 |
DIA-211-1969-08-25-1 | ミャンマー | 1969年08月25日 | 1960年代 | マウビン発:約20人の反政府兵がタヨケラー村に入り,農協議長・農民評議会員を殺した。 |
DIA-211-1969-08-27-1 | ミャンマー | 1969年08月27日 | 1960年代 | チャウクタガ発:トングー県チャウチー郡のKNUは最近農民たちにパンフレットを配布し,初級農民評議会に加わらぬよう呼びかけている。 パンフレットは革命政府の農業改革を非難し,政府の初級農民評議会に参加するものはKNU自体の「改革」に反対するものであると述べて,厳罰にすると警告している。 |
DIA-211-1969-08-28-1 | ミャンマー | 1969年08月28日 | 1960年代 | 中央土地委員会は地方の各級土地委員会に指示し,すべての土地と小作権に関する紛争を民事裁判所に持ち出すことなく自身の手で解決するよう命じた。 |
DIA-211-1969-08-28-2 | ミャンマー | 1969年08月28日 | 1960年代 | ラングーン発:トーヤゥンガレ副郡区24ヵ村の土地委員は彼らが村人から地租を集めた手数料として1万0308.52チャットを受け取った。 この地区での地租総額は16万チャットで,土地委員は12万チャットを集めた。 |
DIA-211-1969-08-29-1 | ミャンマー | 1969年08月29日 | 1960年代 | ウーヌー前首相,ロンドンで記者会見を行ない,反ネ・ウィン政権闘争を開始することを明らかにした(537頁参照)。 |
DIA-211-1969-08-30-1 | ミャンマー | 1969年08月30日 | 1960年代 | ラングーン発:パベダン地区労働者評議会執行委員会の年次総会に対する報告書は,オンサン市場は密輸品が公然と売られているヤミ市場になり下っている,野外マーケットもまたヤミ市センターとして有名となっていると述べ,さらに以下の諸点を報告している。 野外マーケットの正規の店は密輸品を取り扱ってはいない。しかし呼売り商人や役人の妻たちにより雇われている人々が密輸品を売りに来ている。 私営の五つの製菓店が原料が入手できずに閉鎖した。これらは国有化さるべきである。 印刷,製本,はき物製造,縫製,カジ屋,理髪などの分野では,原材料をヤミで買わねばならないので,数が減っている。こうした企業の労働条件は悪い。生産協同,組合が作られるべきである。 固定給の労働者は物価値上りのため赤字に苦しんでいる。彼らは副業を求めねばならない。これは生産に悪影響を及ぼしている。 なお会合には中央労働者評議会副議長ウバニィエンらが出席した。 |
DIA-211-1969-08-30-2 | ミャンマー | 1969年08月30日 | 1960年代 | UBA,ラングーン=バンコク=ホンコンルート第1便出発。 |
DIA-211-1969-09-02-1 | ミャンマー | 1969年09月02日 | 1960年代 | ロイコー発:警察パトロール隊はチャウタイン村付近でカレン民族進歩党(KNPP)の約30人に待ち伏せされ,警官4人が戦死した。反政府兵3人が死亡。 |
DIA-211-1969-09-04-1 | ミャンマー | 1969年09月04日 | 1960年代 | ラングーン発:第88特殊部隊の諸部隊は投降した共産兵の案内で西ダイク・ウー郡のジャングル中で,党内闘争の末処刑された,共産党ペグー県副司令官ミャートゥらの死体を発見した。 |
DIA-211-1969-09-05-1 | ミャンマー | 1969年09月05日 | 1960年代 | ウーヌー前首相訪米。 |
DIA-211-1969-09-11-1 | ミャンマー | 1969年09月11日 | 1960年代 | ニューヨーク発:ウーヌー前首相は夜のテレビを通じ,資金集めのために北京とおそらくモスクワを訪問すると述べた。 |
DIA-211-1969-09-11-2 | ミャンマー | 1969年09月11日 | 1960年代 | ラングーン発:ラングーン管区工業監督委員会の集めた統計によれば,ラングーンの12の地区に合計2914の工業企業がある。 国営企業は183で,繊維工場65,食料品工場32,化学工場22,金属工場21,窯業4,一般工業12,その他27となっている。 私営あるいは国家コントロール企業には,繊維計画下に536工場,食料品計画下に382工場,金属計画下に204工場,化学計画下に364工場,窯業計画下に4工場,その他844工場となっている。 |
DIA-211-1969-09-12-1 | ミャンマー | 1969年09月12日 | 1960年代 | ニューヨーク発:ウーヌー前首相は記者会見を行い,本年末までに軍事工作を開始する,最初はゲリラ戦を行ない,正規軍に拡大していく,それの費用には約400万ドルを要しようと述べた。 |
DIA-211-1969-09-13-1 | ミャンマー | 1969年09月13日 | 1960年代 | ラングーン発:ネ・ウィン将軍は8日間にわたる中央ビルマの工業視察旅行を終えこの日帰着した。 |
DIA-211-1969-09-18-1 | ミャンマー | 1969年09月18日 | 1960年代 | マウビン発:夜,町の郊外に侵入しようとした約45人の反政府兵(KNUP第5地区部隊とみられる)と,情報により待ち伏せていた軍,警察隊とが約30分にわたり交戦,反政府兵は撤退した。警官1人が死亡。 |
DIA-211-1969-09-20-1 | ミャンマー | 1969年09月20日 | 1960年代 | マウビン発:南西軍区司令部参謀オン・ヴィン中佐は,「イラワジー管区26ヵ郡の反政府軍は人民から“保護税”を1年間に約400万チャット取っている。これは1管区からの反政府軍の取分としては最大である」と語った。 彼は反政府軍は分解していっているが,いくつかの場所では残存分子が田舎で活動している,人々は大量の保護税を納めねばならない,と述べた。 |
DIA-211-1969-09-21-1 | ミャンマー | 1969年09月21日 | 1960年代 | ワシントン発:マンスフィールド上院議員は東南アジア政策に関する報告書の中でビルマについて述べ,次の諸点を明らかにした。 ○在ビルマ米大使館員91人のほとんど半数は米軍事資材配送チーム員かミリタリーアタッシェである。 ○ビルマ政府は軍事資材配送チームを,それが運営される今後2年の期間を越えて維持することに「特別な関心」を示してはいないのに,ラングーンの米軍事使節団は縮小のきざしを示してはいない。 ○米国は同国に対する軍事代表と経済援助計画を削減すべきである。 |
DIA-211-1969-09-23-1 | ミャンマー | 1969年09月23日 | 1960年代 | "政府は1969-70年度予算支出法案を承認した。 (単位チャット) 革命評議会 57,403,050 各省と部局 1,767,522,010 シャン州 30,471,660 カチン州 16,452,530 カヤ州 4,729,600 コートレイ州 11,479,470 局,公社,評議会, 7,310,662,400 委員会,銀行など 地方公共団体 76,723,400 計 9,275,444,120" |
DIA-211-1969-09-25-1 | ミャンマー | 1969年09月25日 | 1960年代 | マウン・ルゥイン外相,国連において要旨次の如く演説。 ○ビルマはその文化,伝統,習慣にもっとも適した杜会変革を達成した。○中国の国連加盟を支持。 ○ラオスヘの外国勢力の介入に反対。○米ソの軍縮交渉を望む。 |
DIA-211-1969-09-26-1 | ミャンマー | 1969年09月26日 | 1960年代 | 政府,ビルマ経済全般の動きを説明した「人民への報告」発表。(報告書の要旨は538頁参照) |
DIA-211-1969-09-26-2 | ミャンマー | 1969年09月26日 | 1960年代 | ミンラ(タエト県)発:午前4時頃,バラシン警察駐在所と民兵キャンプが,約100人の共産軍に攻撃され,警官6人と民兵11人が死亡。ライフル23丁,ステンガン1丁を奪われた。 |
DIA-211-1969-09-29-1 | ミャンマー | 1969年09月29日 | 1960年代 | ガーディアン紙「タキン・タン・トン最後の日々」第2巻の内容を紹介。 |
DIA-211-1969-10-04-1 | ミャンマー | 1969年10月04日 | 1960年代 | ビルマ政府は国連開発計画代表と国連開発計画(特別基金)のシッタン川渓谷開発計画実行プランに関する取決めに調印した。計画に対する資金は国連から218万2500ドル,ビルマ政府から現物で,109万6000ドルとなっている。 |
DIA-211-1969-10-07-1 | ミャンマー | 1969年10月07日 | 1960年代 | ラングーンで中央労働者評議会第4回セミナー開く,マゥン・シュエ議長があいさつを行ない,合同協議委員会が110企業に設立されたと報告した。(セミナーの内容については544頁参照) |
DIA-211-1969-10-08-1 | ミャンマー | 1969年10月08日 | 1960年代 | ミャンミャ郡テェインラ地区(125ヵ村6869人)では反政府軍が一掃された後平定計画が進められている。 計画の第1段階は1967年7月21日から8月6日まで,第2段階は8月15日から9月4日まで行なわれた。農業局,土地局,協同組合局,林業,農村開発,農業機械化,登録局など11の政府機関が参加した。 政府役人たちは村人を助けて124ヵ村に164の治安行政委を結成させた。彼らはまた推定地租額10万チャットのうち6万チャットを集めた。 また出生,死亡など人口統計が集められた。また居住地などの地図が作られた。教育局は文盲数を調べ,学校の状況を調べ,またPTAを結成した。医療サービスもなされた。 農協が組織され,協同組合商店が町から村に移された。24ヵ村区に23協同組合店がつくられた。 農業局は村落農業監督委員会を村々に作り,種,肥料などを配った。 農業銀行は24村区に村落銀行をつくった。林業局は協同組合製材所に製材許可を与えた。 農村開発局はジュート,レモン,ライ麦,唐がらし,パインなどの栽培を指導した。 農業機械化局は,水力ポンプ,トラクターなどの使用の準備をした。 |
DIA-211-1969-10-09-1 | ミャンマー | 1969年10月09日 | 1960年代 | ウーヌー前首相,東京着。 |
DIA-211-1969-10-14-1 | ミャンマー | 1969年10月14日 | 1960年代 | タラワジー県で有名な共産党の北京帰りマ・セイン・ウィンはその部隊を赤旗共産軍,NDUF軍と合同させ,ボガーレ郡で農民を苦しめている。10月11日夜,ボガーレ郡ガョカゥン村で80人以上の共産兵が,民兵指導者と農民1人と休暇で村に帰っていた政府軍大尉とを殺した。 |
DIA-211-1969-10-14-2 | ミャンマー | 1969年10月14日 | 1960年代 | オタワ発:マゥン・ルイン外相,シャープ外相と会談。カナダのビルマ林業に対する援助などが討議された。 |
DIA-211-1969-10-17-1 | ミャンマー | 1969年10月17日 | 1960年代 | 東京発:ウーヌー前首相は記者会見で次のように語った。私は現在の軍政に反対する反乱で,ビルマ人を武装させるために武器を獲得するだろう。どこから獲得するかについては語れないと思うが,われわれはそれを得るだろう。私はバンコクに戻るが,そこを反ネ・ウィン戦争の本部にするつもりはない。私は米国で,ワシントンはネ・ウィン軍政に武器を与えるのを止めるであろうという情報をえた。中国は自分の政府に友好的であった。そしていまや反ネ・ウィン分子を助けている。 |
DIA-211-1969-10-17-2 | ミャンマー | 1969年10月17日 | 1960年代 | 商業省は1969-70年新米と1968-69年古米の買上げ価格を昨年並みにすることを発表した。すなわち, 新米(1969-70年) (単位チャット) |
DIA-211-1969-10-18-1 | ミャンマー | 1969年10月18日 | 1960年代 | 最近の統計によれば,全国に317の信用組合,67の市場協同組合,258の軍部隊協同組合がある。 317の信用組合のうち,ザガイン管区に19,マンダレー管区に26,マグエ管区29,ペグー管区23,アラカン管区22,イラワジー管区19,テナセリム管区19,チン特別区9,シャン州15,カヤ州2,コートレイ州11,ラングーンに107がある。 市場協同組合はすべてラングーンにある。 軍部隊多目的協同組合は,ザガインに7,マンダレー管区52,マグエ管区12,ペグー管区42,アラカン管区4,イラワジー管区20,テナセリム管区23,カチン州8,シャン州37,カヤ州2,コートレイ州6,ラングーン45である。チン特別区にはない。 |
DIA-211-1969-10-19-1 | ミャンマー | 1969年10月19日 | 1960年代 | ラングーン発:タマイン織物工場は1968-69年に全体の必要量綿4万4205梱(各100Viss)に対し,2万7144梱を供給されただけで,生産は目標に達しなかった。今年度もまた綿の供給は悪いものとみられている。 この結果,労働者の3交替制を2交替制に改める必要がでてきている。しかも1969-70年度に入手できる綿2万0930梱では2交替制でも9ヵ月分しかない。 なお1968-69年の生産量は綿糸100万ポンド。 |
DIA-211-1969-10-20-1 | ミャンマー | 1969年10月20日 | 1960年代 | ラングーン発:タマインの人民繊維工場第1,第2,第3は1968-69年中に,規則違反のために260人の労働者を解雇した。 経営当局はまた118人の労働者に最後の警告を与えている。1回第警告は,1968人になされ,第2回は423人に,第3回は181人に,第4回は75人に,第5回は34人に,第6回は14人に警告が与えられた。 |
DIA-211-1969-10-21-1 | ミャンマー | 1969年10月21日 | 1960年代 | ホンコン発ロイター/NAB/ガーディアン:ウーヌー前首相は記者会見で,彼は国有化された財産を正当な持ち主に返し,外国人事業家には取引の自由を与える,しかし資産を軍政により接収された外国人企業には補償すべき十分な資金はないだろうかと語った。 またもし彼が権力を回復すれば,経済は公共,私営,協同組合の三つのセクターをもつことになると述べた。 中国との関係については,彼は,中国に再訪問したいこと,彼の政策が対中友好政策であることを宣言した。彼は過去において中国=ビルマの友好はすばらしくいっていたし,中国はビルマの共産主義者に一発の弾丸も与えなかった,と語った。 彼は,海外から多くの精神的支援を受けたが,まだ資金集めははじめていないと述べた。これらの資金は外国へ逃れたビルマ人の救援に使われ,武器購入には使わないと彼は語った。 |
DIA-211-1969-10-21-2 | ミャンマー | 1969年10月21日 | 1960年代 | ホンコン発AP/NAB/ガーディアン:ウーヌー前首相は,記者会見で,もしひもつきでないならば“誰からでも-共産中国あるいは悪魔をも含めて-”武器を受け取るだろうと語った。また共産中国を訪問したいと語ったが,時期,武器援助を求めるか否か,については答えなかった。 しかし彼は,多くのビルマ人を殺し,我が国を経済的廃墟としたネ・ウィン独裁を終らせる唯一の道は,私が避けようとした内戦ということになりそうであると述べた。 |
DIA-211-1969-10-22-1 | ミャンマー | 1969年10月22日 | 1960年代 | チョンピャウ,チャウンゴン,エインメ各地区で南西軍区司令部と第88軽歩兵師団によって行なわれている,“第6次シュエリンヨン作戦”と“第3次モヘイン作戦”により,10月20日までの8日間に100人の反政府兵が投降した。また4人が殺された。 作戦に参加している政府軍は,第36,第18,第38,第51,第98各ビルマ連隊,第2チンライフル,人民警察軍および第88師団傘下の第108軽歩兵連隊,第2ビルマライフル,第11ビルマ連隊,第1チンライフル,さらに約1万人の民兵である。 |
DIA-211-1969-10-24-1 | ミャンマー | 1969年10月24日 | 1960年代 | バンコク発AP/NAB/W.P.D.:ウー・トゥイン前ビルマ経済相は南東ビルマからターク県メーソートに入り,タイに亡命を求めたと内務省が発表した。 ウー・トゥインは今週はじめタイに入り,現在タークにいる。彼はビルマ人政治家11人と同行している。 |
DIA-211-1969-10-26-1 | ミャンマー | 1969年10月26日 | 1960年代 | 日本青年の船さくら丸到着。 |
DIA-211-1969-10-26-2 | ミャンマー | 1969年10月26日 | 1960年代 | 10月10日から25日の間にデルタで政府軍に投降した反政府兵は153人,死者は12人となった。 |
DIA-211-1969-10-28-1 | ミャンマー | 1969年10月28日 | 1960年代 | ネパール外相,ネ・ウィン議長と会談。 |
DIA-211-1969-10-28-2 | ミャンマー | 1969年10月28日 | 1960年代 | "政府は,1967年人民銀行法にもとづくThe People's Bank of the Union of Burma は11月1日から営業を開始すると発表した。 この銀行は次の諸銀行,金融機関の機能を統合する。すなわちUnion Bonk,外貨管理局(the Union Bank),the Industrial Development Bank Ltd., the Union Insurance Board, the People's Bank No.5/9, No.11/12, No.19, the Savings and Securities Dept., the People's Loan Company。 本店はラングーンの前Union Bankにおかれる。" |
DIA-211-1969-10-28-3 | ミャンマー | 1969年10月28日 | 1960年代 | ボーガレ発:約60人のKNDO兵が午後6時頃本郡ダビュゴン村に入り,村人1人を,民兵を結成し農業融資金を集めようとした罪で殺した。 |
DIA-211-1969-10-28-4 | ミャンマー | 1969年10月28日 | 1960年代 | パーアン発:本郡のサルウィーン川岸のチャイン村で第4カチンライフルの中隊とチャウ・ホエグループのKNDO兵90人が4時間にわたり交戦,KNDO兵25人と政府兵5人が戦死した,また政府軍中隊長以下6人が負傷した。 |
DIA-211-1969-10-28-5 | ミャンマー | 1969年10月28日 | 1960年代 | バンコク発AP/NAB:タイ内務省パウン次官は,ウーヌー前首相がタイに政治亡命を求めてきていると述べた。なお,同次官は先週タイに入国したウートゥイン前経済相ら12人のビルマ人政治家に政治亡命が認められたと語った。 |
DIA-211-1969-10-29-1 | ミャンマー | 1969年10月29日 | 1960年代 | 中央治安行政委で開かれた農村開発検討会議でマゥンチャウ副議長は,1962年から1969年までの7年間に2万0857の農村開発プロジェクトに対し9370万チャットが支出されたと述べた。そのうち7130万チャットは農村開発資金から支出され,2230万チャットは民衆からの労働奉仕および資材供出であった。ごれらの計画により2万1545村が利益をえた。 プロジェクトのうちわけは,橋・道路3760,井戸,貯水池,ダムが4213件,施薬所761,学校6870,農業・土地開発4380。 |
DIA-211-1969-10-31-1 | ミャンマー | 1969年10月31日 | 1960年代 | プローム発:ペグー管区では今年,犯罪件数が急減した。 |
DIA-211-1969-11-03-1 | ミャンマー | 1969年11月03日 | 1960年代 | 全軍司令官会議開く。ネ・ウィン議長とサン・ユ准将がそれぞれ軍の直面する問題について重要な演説を行なった。(演説の要旨は545頁を参照) |
DIA-211-1969-11-03-2 | ミャンマー | 1969年11月03日 | 1960年代 | バンコク発:ウーヌー前首相とその息子,書記の3人が当地に亡命のため到着した。 ウーヌー前首相はやはり亡命中の元ビルマ軍参謀長Tommie Clift将軍の住宅に滞在する。 |
DIA-211-1969-11-03-3 | ミャンマー | 1969年11月03日 | 1960年代 | ラングーン発:タマインの人民繊維工場は,本日から1日3交替制を原料不足のため1日2交替制労働に変更した。朝7時から午後3時までと,午後3時から午後11時までの2交替となった。同工場は3600人の労働者をもち,職からはずされた120人の労働者に対しては研修が行なわれている。 |
DIA-211-1969-11-04-1 | ミャンマー | 1969年11月04日 | 1960年代 | ラングーン発:上ビルマの22の選ばれた村区で実験的に設立された協同組合トラクター・ステーションは成功している。 マンダレーとチャウセ県の10ヵ村区で20台のトラクター,ザガインとシュエボ県の7カ村区で22台,ミンブ県の5ヵ村区で10台が稼動している。そして農民の子弟たち76人がこれまでトラクター運転の訓練を受けた。訓練費のうち旅費のみが農協負担,他は政府負担である。 これらの実験用トラクターは農場に近いこともあって農民に熱心に支持され,モンスーン前棉花耕作に重要な役割を演じた。 |
DIA-211-1969-11-05-1 | ミャンマー | 1969年11月05日 | 1960年代 | ラングーン発:ボタタゥン地区初級労働者評議会の会合でボタタゥン新聞編集長ウー・ティン・リンは,社会革命は政府の官僚機構により妨げられていると述べ,労働者評議会,農民評議会が官僚機構にとってかわるよう主張した。 |
DIA-211-1969-11-06-1 | ミャンマー | 1969年11月06日 | 1960年代 | ビルマ社会主義計画党第4回セミナー開く。ネ・ウィン議長が3時間にわたり当面の問題などについて演説した。(セミナー内容は546頁参照) |
DIA-211-1969-11-06-2 | ミャンマー | 1969年11月06日 | 1960年代 | シリアム発:タエト県マルントラクター工場で組み立てられた500台のZweトラクターがペグー管区内の農協に販売するために出荷された。各1万8千チャットで年賦払い。 |
DIA-211-1969-11-06-3 | ミャンマー | 1969年11月06日 | 1960年代 | インドネシア政府はビルマと今年度13万トンの米を購入する契約に調印した。うち5万トンが政府間取引,残りは民間ベース。 |
DIA-211-1969-11-08-1 | ミャンマー | 1969年11月08日 | 1960年代 | チャウク発:11月26日に政府軍に捕われた赤旗共産党員の自供によれば,タキン・ソーは,若干の幹部と約30人の部下にともなわれて,政府軍の攻撃に追われ,ツタウタゥン,ヌワマタゥン,サリン水路などの地域を転々としている。そして食糧,武器が枯渇しつつあるという。 |
DIA-211-1969-11-10-1 | ミャンマー | 1969年11月10日 | 1960年代 | オンラン発:第44ビルマ連隊と民兵は,シュエパンダウ地区で共産兵と交戦,共産兵を11人を殺し,5人と子供10人を捕えた。 |
DIA-211-1969-11-10-2 | ミャンマー | 1969年11月10日 | 1960年代 | タンブザヤット発:イェ発の装甲列車が約20人の反政府兵により攻撃された。機関士2人が負傷。 |
DIA-211-1969-11-11-1 | ミャンマー | 1969年11月11日 | 1960年代 | 政府,ウー・サン・マゥンを対駐米大使に任命。 |
DIA-211-1969-11-12-1 | ミャンマー | 1969年11月12日 | 1960年代 | バンコク発:米穀商協会のプリチャ書記長は,タイはシンガポール,マレーシア,ホンコンの米市場をビルマに奪われつつあると述べた。ビルマはA-I Super Riceに対しトン当り34スターリングの値を提示しているが,タイは43スターリングを提示している。 |
DIA-211-1969-11-13-1 | ミャンマー | 1969年11月13日 | 1960年代 | 中央治安行政調整会議(~15日)。 |
DIA-211-1969-11-13-2 | ミャンマー | 1969年11月13日 | 1960年代 | 農業用水力ポンプの破損増加。ポンプ使用は1966-67年の7909台から1968-69年の1万0334台に増加したが,破損数は4154台から4960台にと増加した。 |
DIA-211-1969-11-13-3 | ミャンマー | 1969年11月13日 | 1960年代 | ムドン発:第31ビルマ連隊は夜間,タンブザヤット南15マイルで3人のモン兵を殺した。 |
DIA-211-1969-11-13-4 | ミャンマー | 1969年11月13日 | 1960年代 | メルグィ発:第17ビルマ連隊攻撃隊はアライチャン村付近で約20人の共産兵と交戦,3人を殺した。 |
DIA-211-1969-11-15-1 | ミャンマー | 1969年11月15日 | 1960年代 | 第75回社会主義計画党中央組織委員会は党憲章草案を採択した。要旨次の通り。 第I章は指導原則と行動計画について述べている。 党は「ビルマ社会主義への道」を行動指針とする。 人間による人間の搾取を廃止して,社会主義経済を樹立することを目指す。 党はあらゆる問題において中道を進むよう努める。社会主義経済は全国民の利益に奉仕する。 社会主義経済法を採択する。 |
DIA-211-1969-11-16-1 | ミャンマー | 1969年11月16日 | 1960年代 | タトコン発:本郡の農民たちはシュエミヨーでの北西軍区農業監督委議長テェイン・オン中佐らとも会合で,政府の低買上げ価格のため砂糖きびの作付が低下して行く一方であること,トラクターサービスが富農中心であることなどを訴えた。 |
DIA-211-1969-11-17-1 | ミャンマー | 1969年11月17日 | 1960年代 | ワゥ発:政府軍はクンサイク村付近で共産党県委員U Hla Aungら21人の共産兵を殺した。 |
DIA-211-1969-11-18-1 | ミャンマー | 1969年11月18日 | 1960年代 | 全国の労働紛争数は年々低下している。労働紛争解決数の推移は次の通り。 1964年 7038件,1965年 9759件,1966年 4813件,1967年 4359件,1968年 2762件。 |
DIA-211-1969-11-19-1 | ミャンマー | 1969年11月19日 | 1960年代 | 南ベトナムのファン・クァン・ダン国務相,2日間の予定で到着。 |
DIA-211-1969-11-21-1 | ミャンマー | 1969年11月21日 | 1960年代 | サン・エ准将は18日から21日まで,東部軍区のラシオ,クトカイ,ナムカムなどを訪問し,軍当局者と話し合った。 |
DIA-211-1969-11-26-1 | ミャンマー | 1969年11月26日 | 1960年代 | チョンピャウ発:デルタでの南西軍区司令部の第6次シュエリンヨン作戦と第88師団の第3次モヘイン作戦の結果,10月13日以来の6週間に反政府兵の死者,投降者は315人を数えた。この作戦には民兵1万2627人が加わっている。これは今日タラワジーに到着した記者団に明らかにされたものである。 南西軍区当局の説明では,作戦は10月13日にバセイン県の東部バセイン,チョウンゴン,チョンピャウ各郡,ミャンミャ県エインメ,ワケマ各郡,マウビン県西ピンタナゥ郡で開始された。第77師の第1チンライフル,第2ビルマライフル,第11ビルマ連隊,第108特殊部隊が作戦に参加した。封鎖に参加したのは南西軍区の第2チンライフル,第27ビルマ連隊,第36ビルマ連隊および海軍,民兵である。 この作戦でKNUP第7県議長Man El Htoo,カレン人民武装力第3連隊副司令Than Shein,KNUPチョウンゴン郡党書記G-One Ohn Maungらが戦死した。 |
DIA-211-1969-11-27-1 | ミャンマー | 1969年11月27日 | 1960年代 | 11月19日以来開かれていたビルマ=パキスタン航空協定会議終る。 |
DIA-211-1969-11-28-1 | ミャンマー | 1969年11月28日 | 1960年代 | ネ・ウィン将軍は,11月25日からマンダレー,ザガイン,ニャウンウ,マルン,シンダイの各地を視察した。 |
DIA-211-1969-12-01-1 | ミャンマー | 1969年12月01日 | 1960年代 | ガーディアン紙によれば,現在デルタで行なわれている政府軍の第6次シュエリンヨン作戦と第3次モヘイン作戦により封鎖されている地域と人口は次の通り。地域はバセイン県のチョンピャウとチャウンゴン郡,ミャンミャ県のエインメ郡,マゥビン県のパンタナウ郡である。 作戦地域内総人口は37万9559人で,そのうち24万0097人がビルマ族,13万9462人がカレン族である。郡別内訳は次の通り。 チョンピャウ郡:92村区,542ヵ村,人口12万3921人。うちビルマ族8万7845人,カレン族3万6076人。 チャウンゴン郡:67村区,398ヵ村,人口7万7672人。うちビルマ族6万0761人,カレン族1万6911人。 エィンメ郡:101村区,468ヵ村,人口8万3959人。うちビルマ族4万1363人,カレン族4万2596人。 パンタナウ郡:53村区,355ヵ村,人口9万4007人。うちビルマ族5万0128人,カレン族4万3879人。 |
DIA-211-1969-12-02-1 | ミャンマー | 1969年12月02日 | 1960年代 | The Guardian紙によれば,現在のデルタのシュエリンヨンとモヘイン作戦の行なわれている4ヵ郡(カレン軍の呼び名ではデルタ第7県)には438人の反政府兵がいたが,そのうち315人がすでに死亡あるいは捕われたという。残りの123人のうち65人は封鎖中の540平方マイル内に隠れている。他の58人は65人(女性を含む)の追従者とともに封鎖地域外に出た。 |
DIA-211-1969-12-03-1 | ミャンマー | 1969年12月03日 | 1960年代 | マレーシアのラザク副首相,今朝ラングーンに到着。午後3時マウン・ルィン外相と会談,同夕,ネ・ウィン議長および革命評議会メンバーと会見した。(8日まで滞在) |
DIA-211-1969-12-09-1 | ミャンマー | 1969年12月09日 | 1960年代 | 教育局長が最近出した通達によれば,各学校長は,三度規律違反に対する警告をうけた学生を学校から追放することができる。 |
DIA-211-1969-12-09-2 | ミャンマー | 1969年12月09日 | 1960年代 | チャウクメ発:ラシオ=メイミョー間下り貨物列車がチャウンタ村付近で約100人の反政府兵に攻撃され,脱線,8人の護衛警官のうち1人が死亡,2人が負傷,警官の武器と列車のエンジン部品などが奪われた。. |
DIA-211-1969-12-10-1 | ミャンマー | 1969年12月10日 | 1960年代 | ラングーンの東南アジア半島競技会場で暴動‐政府機関紙ワーキング・ピープルス・デイリーによれば,12月9日午後7時,競技会のタマイン・ボクシング会場に詰めかけた,タマイン・カレッジ寮生を含む1千人以上の群衆が入場券を買えなかったことから騒ぎ出し,会場建物と警備隊に投石をはじめた。警備隊はまもなく群衆を追い払うことに成功したが,一群の学生は午後8時頃タマイン・カレッジ前で警察のランドローバー1台,ジープ1台に放火した。学生達は附近の住民を加えて,ズェガビン・ホールの廻りをデモし,スローガンを叫んだ。 同時に別の約300人の学生は柔道競技会場用の車1台に放火,また11時半頃には会場の飾り付けをはずし,タイマツとして火をつけた。 午前0時30分に,ラーハン教育相らが現場にかけつけ,学生達の説得にあたった。 午前1時頃,ラングーン大学学芸・科学部の寮生若干がインセィン道りから競技会場に向い行進をはじめた。しかし警備隊は彼らを競技会場付近から押し戻した。同時にタマイン寮生の一部がインセィン道りを行進してきた。フレイン警察署の警官隊が彼らを引き返させようとしたゝめ,彼らは署の前に座り込み,デモを行なった。 午前6時,ウー・エーフレイン経済学部長がかけつけ彼らを説得した。学生たちは午前8時半頃次第に寮に返りはじめた。 午前10時半頃,ラングーン大学学芸・科学部生のグループが柔道会場付近に現われ,飾りつけをはずし火をつけた。そして彼らはプローム道りを行進したが警備隊に阻止された。彼等はカマユット・ナナトオ道りからチャンドオ墓地を通り行進,午後3時頃シャウ道りに現われた。警備隊はそこから彼らを大学に誘導した。 大学内でニィニィ教育次官らが不満学生と会見した。構内は大学が閉鎖され,学生が退去したゝめ夕方には平静となった。 なおこの事件について外電は次のように報じている。ラングーン10日発AP:ラングーン大学の学生たちが9日夜から10日にかけて軍政反対を叫んで騒ぎを起し,警察の自動車2台,陸軍将校の乗用車1台に放火,首都ラングーンへの幹線道路を一時封鎖したが,軍隊が出動,威かく射撃によって解散させた。 この騒ぎは9日夜,当地で行なわれている東南アジア半島競技会のボクシング会場につめかけた三千人余が「満員だ」と入場を断られたことからはじまった。(朝日12月11日) |
DIA-211-1969-12-10-2 | ミャンマー | 1969年12月10日 | 1960年代 | 教育省は9日夜の暴動事件に関連して,ラングーンの大学内の情況が緊迫していることを理由に,12月24日から始まる予定の年末休暇をラングーンの全大学,専門学校で10日から繰り上げて実施することを決めた。 |
DIA-211-1969-12-11-1 | ミャンマー | 1969年12月11日 | 1960年代 | タイ国のプラパート副首相,タウィ空軍元師は午前10時45分ラングーン空港に到着,夕刻ネ・ウィン議長を訪問,会談した(14日帰国)。 |
DIA-211-1969-12-14-1 | ミャンマー | 1969年12月14日 | 1960年代 | ラシオ=マンダレー間下り列車がシポウから9マイルの地点で,鉄道レールがはずされていたため停止したところ,約150人の反政府兵に攻撃され,乗車していた第306砲兵隊兵士らと1時間以上交戦となったが,反政府兵が撤退した。 |
DIA-211-1969-12-15-1 | ミャンマー | 1969年12月15日 | 1960年代 | マンダレー発:本日マンダレー学芸科学大学と農科大学の学生約500人がデモを行なった。このため当局は大学を1月4日まで閉鎖することを決めた。 |
DIA-211-1969-12-15-2 | ミャンマー | 1969年12月15日 | 1960年代 | バセイン発:12日夜,ラングーンの大学が閉鎖されたために,当地に帰った学生らに刺激されて,バセインカレッジの学生700人が授業停止を要求してデモを行なった。デモは翌日も約500人の学生により続けられ,14日には200人か参加して継続した。このため学校当局は明日から同校の閉鎖を決定した。 |
DIA-211-1969-12-16-1 | ミャンマー | 1969年12月16日 | 1960年代 | カゥム(ツワンテ郡=ハンタワジー県):本郡サンカウク村付近でBo Moe Hein,No Ta Lone Sein,Bo Naw Saingに率いられた約200人のNDUF兵と第90ビルマ連隊兵が約4時間交戦,政府兵1人,反政府兵1人が戦死した。 |
DIA-211-1969-12-17-1 | ミャンマー | 1969年12月17日 | 1960年代 | 本日付けで全国の大学,高等専門学校,国立学校が一時的に閉鎖されると教育省から発表された。これは不穏分子が各地で学生を煽動しているためである。 |
DIA-211-1969-12-17-2 | ミャンマー | 1969年12月17日 | 1960年代 | ラングーン:最近,五つの電池製造工場が原料不足から無期限に操業を停止した。 |
DIA-211-1969-12-17-3 | ミャンマー | 1969年12月17日 | 1960年代 | カヤン:政府入植局は,米作地を野菜や果樹園に転換しようとする広汎な傾向に悩まされているだけではなく,米作地の真中に養魚池を堀るというもうひとつの農民からの排戦によっても苦しんでいる。 こうした池は本郡のパル村など数ヵ村の外側で堀られている。いく人かの農民は池堀りに数千チャットを費している。今年の夏にある農民は一万チャットを稼いだという。これは米作からの利益の何倍にもなる。 |
DIA-211-1969-12-18-1 | ミャンマー | 1969年12月18日 | 1960年代 | 政府は1968-69年に全国の既存の3710ヵ所の漁場のうち3278カ所を競売し,1300万チャットの利益を上げた。 このうち165ヵ所は人民真珠漁業局が,493ヵ所は村落農協が,2620ヵ所が私人によって買い上げられた。 |
DIA-211-1969-12-19-1 | ミャンマー | 1969年12月19日 | 1960年代 | タェト発:ミンドンから8マイルのミャウクピン警察駐出所がボーテットンに率いられた約80人の反政府軍に攻略された。攻撃は午前4時半頃に始まり,警官6人が死亡,6人が負傷,家族2人が死んだ。 |
DIA-211-1969-12-20-1 | ミャンマー | 1969年12月20日 | 1960年代 | 政府機関紙Working People's Dailyはかってウーヌーのピードゥンズ党タムウェ支部の書記であったマゥン・サウから押収されたものとして,11月23日付の反ネ・ウィン闘争を呼びかけるウーヌーのアッピールとウーヌーと側近達を写した写真2枚を発表した。ウーヌーのアッピールは要旨次の通り。 私はビルマを離れる前からさえ,僧侶や一般人の利己主義なネ・ウィン将軍と革命評議会員による軍事独裁打倒を求める蜂起についてよく知っていた。我々はまた,ひんぱんな秘密報告により,この蜂起が日々勢いを増し,いまや爆発点に達したことを知った。 我々は日々休みなくネ・ウィン将軍一派を絶滅し排除するために努力している。 我々は支持者達の危険を少なくするために,すべての関係者に対し,我々が我々自身が戦斗を開始したと宣言する時までこめ蜂起が爆発しないよう訴える。 我々は全国民,特に僧侶に対し,利己主義者の脅威から早く解放されるよう祈るよう求めたい。 |
DIA-211-1969-12-21-1 | ミャンマー | 1969年12月21日 | 1960年代 | 陸運局のバス関係労働者が反ウーヌーデモを行なった。 |
DIA-211-1969-12-22-1 | ミャンマー | 1969年12月22日 | 1960年代 | ラングーン各地で政府機関,工場などの労働者による反ウーヌー集会。 |
DIA-211-1969-12-22-2 | ミャンマー | 1969年12月22日 | 1960年代 | ビルマ外務省ウートゥン・シェン次官はタイ国大使を招き,ウーヌーの11月23日付のアッピールは反政府武力斗争への準備を休みなくつづけていることを明らかにしていること,そのウーヌーにタイ政府が亡命を認めていることに,注意を換起する政府覚み書きを手交した。 |
DIA-211-1969-12-23-1 | ミャンマー | 1969年12月23日 | 1960年代 | ラングーン各地で工場労働者,政府関係労働者によるウーヌー非難集会。2~3000人が参加。 またマンダレー,モールメイン,ナトージーで反ウーヌーポスターがはり出された。 プロームでも7000人以上が集会。 |
DIA-211-1969-12-24-1 | ミャンマー | 1969年12月24日 | 1960年代 | 鉱物開発公社はマウチ鉱山の調査,再開発のためソ連の協力をえる協定を結んだ。 |
DIA-211-1969-12-26-1 | ミャンマー | 1969年12月26日 | 1960年代 | ラングーンで林業局労働者ら2500人が反ウーヌーデモ。また各所で集会。 モールメインでは工場労働者ら4千人,ニャウグレビンでは工場,政府機関労働者,学生など5千人,プンタザ,チョンピャウで反ウーヌー集会,デモが行なわれた。 |
DIA-211-1969-12-28-1 | ミャンマー | 1969年12月28日 | 1960年代 | ラングーンなどで反ウーヌー集会,デモ。 |
DIA-211-1969-12-29-1 | ミャンマー | 1969年12月29日 | 1960年代 | ビルマ・ソ連新航空協定調印。 |
DIA-211-1969-12-30-1 | ミャンマー | 1969年12月30日 | 1960年代 | ラングーン:タマインの第1,第2,第3人民繊維工場労働者3干人はウーヌー非難集会を開き,労働者と農民との団結,破壊活動への監視強化を強調した。また人民石油産業労働者1千人などが反ウーヌーのデモを行なった。 |
DIA-211-1969-12-30-2 | ミャンマー | 1969年12月30日 | 1960年代 | 教育省はすべての国立小,中,高等学校は1月5日に開校,技術系高等専門学校は1月12日,大学,一般高等専門学校は1月15日に授業再開を行なうと発表。 |
DIA-211-1969-12-31-1 | ミャンマー | 1969年12月31日 | 1960年代 | ネ・ウィン将軍は8日間にわたるアラカン,プローム,ミャナウン地区視察族行を終え,本日ラングーンに帰着した。 ネ・ウィン将軍は12月24日に出発,サンドウェイに行き地方当局者と会談,29日にはそこからプロームに,30日にミャナウンを訪問した。 |
DIA-211-1969-12-31-2 | ミャンマー | 1969年12月31日 | 1960年代 | ラングーンで,港湾労働者2000人などが反ウーヌー集会。またマンダレー各地で集会。 |