ID 国名 日付 年代 内容
DIA-211-1970-01-01-1ミャンマー1970年01月01日1970年代ラングーン,マンダレーなどで反ウーヌー・デモ,集会。
DIA-211-1970-01-04-1ミャンマー1970年01月04日1970年代第22回独立記念日。
DIA-211-1970-01-04-2ミャンマー1970年01月04日1970年代ラシオでの記念スポーツ集会に反政府軍テロ。8人死亡。県治安委議長オン・チュー中佐も死亡。
DIA-211-1970-01-04-3ミャンマー1970年01月04日1970年代北京駐在ビルマ代理大使は大使館で記念レセプションを開き,中国側からも官吏,外交官が出席。
DIA-211-1970-01-05-1ミャンマー1970年01月05日1970年代ロイコー発:タウンジー=ロイコー道路上で政府軍パトロールが約50人の反政府兵に攻撃され,政府兵11人戦死。
DIA-211-1970-01-08-1ミャンマー1970年01月08日1970年代製材所の活動。現在133の製材所が休業中であるが,これら企業の所有者が工場の機械,部品を売却することを禁止する指令が出された。なお目下全国で319の製材所が操業中で,これには82の国有化工場,10の監督委支配下工場がある。
DIA-211-1970-01-11-1ミャンマー1970年01月11日1970年代シュエグン発:Kamamoung=Papun道路の橋51が最近KNDO(カレン民族防衛組織)軍により焼かれた。
DIA-211-1970-01-12-1ミャンマー1970年01月12日1970年代今月から合同協議会のある96の工場で「モデル就業規則」が施行されることになった。なお現在110工場に合同協議会がある。
DIA-211-1970-01-15-1ミャンマー1970年01月15日1970年代ネ・ウィン議長,インド訪問。
DIA-211-1970-01-16-1ミャンマー1970年01月16日1970年代ネ・ウィン,ガンジー首相会談。
DIA-211-1970-01-19-1ミャンマー1970年01月19日1970年代タン・セイン司法相は,現在刑務所には1万4000人の囚人がいること,1200人が裁判中であることを明らかにした。
DIA-211-1970-01-20-1ミャンマー1970年01月20日1970年代5000人という大卒失業者のための「大学卒雇用委員会」設立。
DIA-211-1970-01-20-2ミャンマー1970年01月20日1970年代タトン発:ニャルダウエ村付近で反政府兵の待伏せで,政府軍大尉ら4人死亡。
DIA-211-1970-01-20-3ミャンマー1970年01月20日1970年代タジ発:郡内農民240人は会合し,村落治安委,土地委員の一部が,旧地主が農民から小作料をとりたてているのを助けていると非難。
DIA-211-1970-01-22-1ミャンマー1970年01月22日1970年代ネ・ウィン議長帰国。
DIA-211-1970-01-24-1ミャンマー1970年01月24日1970年代メィクティラ発:公有地不法居住者が不法獲得地を巨額で売却している。1962年頃40フィート×50フィートの土地が300~500チャットだったのが,いまや2万チャットする。
DIA-211-1970-01-24-2ミャンマー1970年01月24日1970年代政府軍発表によれば,前ピードゥンズ党指導者ウー・ウィンは昨年12月20日,タイに行く途中病気で死亡した。
DIA-211-1970-01-27-1ミャンマー1970年01月27日1970年代ビルマ人民銀行(1969年11月1日営業開始)は,国営商業銀行,国営農業銀行,および人民銀行10数行を2月1日から接収することになった。
DIA-211-1970-02-12-1ミャンマー1970年02月12日1970年代第23回連邦記念日。ラングーンで10万人の集会。ネ・ウィン議長メッセージを送り,社会主義を基礎とする憲法を起草中であることを明らかにした。またラーハン大佐が新憲法の諸原則を次のように明らかした。・労働者と農民の政治的,経済的,社会的発展を推進するための社会主義制度に応じた国家を建設する。・全民族が統一国家の建設に参加する。・各民族はそれぞれの文化を発展させる。・先進民族は後進民族のために身を犠牲にする。
DIA-211-1970-02-15-1ミャンマー1970年02月15日1970年代デルタ・モールメイングン郡で警察パトロールが共産兵60人に攻撃され,3人戦死。
DIA-211-1970-02-15-2ミャンマー1970年02月15日1970年代全国の政府機関と私企業で新たに163の合同協議会(JCC)の結成が開始された。
DIA-211-1970-02-16-1ミャンマー1970年02月16日1970年代シリアム郡区労働者評議会年次報告は石油産業の機械設備の老朽化に警告した。
DIA-211-1970-02-17-1ミャンマー1970年02月17日1970年代The GuardianはNDUF(民族民主統一戦線加盟)カレン民族統一党(KNUP)の最近の動向について論文発表。
DIA-211-1970-02-18-1ミャンマー1970年02月18日1970年代ラングーンのシュエリンヨン・タオル工場(従業員50人),原料不足で操業停止。 20日 △ワシントン:ウー・サン・マウン新駐米大使,ニクソン大統領に信任状提出。
DIA-211-1970-02-22-1ミャンマー1970年02月22日1970年代ラングーン:フレイン地区労働者評議会年次報告は,議会主義復活を図る勢力の活動に警告。またマヤンゴン地区労働者評議会年次報告は,国営企業では私企業より浪費が大きいと警告。
DIA-211-1970-02-23-1ミャンマー1970年02月23日1970年代ラングーンでの工場閉鎖:フレイン地区とマヤンゴン地区では1969年に71の私営工場が閉鎖され,2210人が失業した。原因は原料不足。フレイン地区ではメリヤス工場,繊維工場,ココヤシ皮ロープ工場,食品工場が閉鎖され,マヤンゴンではアルミ工場,ココヤシ皮ロープ工場,メリヤス工場,電池工場が閉鎖された。
DIA-211-1970-02-25-1ミャンマー1970年02月25日1970年代中央人民農民評議会第2回セミナー,ラングーンで開く(セミナー内容は参考資料参照)。
DIA-211-1970-02-27-1ミャンマー1970年02月27日1970年代モールメイン発:この2カ月間で原料不足で6つの石けん工場が閉鎖された。
DIA-211-1970-03-02-1ミャンマー1970年03月02日1970年代ラングーンで「農民の日」集会開く――ネ・ウィン議長はメッセージで協同組合計画の農民生活向上にもつ意義を強調した。タウン・チ大佐は政府を代表して演説し次の諸点を明らかにした。 ・郡区農民評議会と同組織委は1969年12月末までに255とになった。・農民に土地法を説明し,計画的な農業生産を行ない,搾取からまぬがれるよう農民評議会は努力せよ。・メンバーの何人かは反政府軍に殺された。評議会員は武装すべきである。・米が計画的に耕作された1967―68年から始まった農業計画は進展しているが,生産性向上の面でなすべきことが多い。1968-69年は綿花,砂糖きび生産は工場需要を充たせなかった。これは農民が他の金になる作物を植付けたためである。農具の不足も原因である。農業計画が妨げられる別の理由は秘密の土地賃貸し,割当地を休閑地にしているものがいることなどである。・協同組合は全国の1万4012カ村区のうち1万2548カ村区に設立された。しかし一部では不正があり,一部は反政府軍により解体された。協同組合による米の買付けは進展している。・協同組合セクターは社会主義経済の第2の柱である。都市での成功は農村での成功で保障される。また農協は消費組合から生産者協同組合に発展させられるべきだ。・8カ郡22カ村農協に52台のトラクターが売却された。さらに270カ農協に552台のトラクターを売る準備がなされている。
DIA-211-1970-03-02-2ミャンマー1970年03月02日1970年代「人民石油産業」は「ミャンマ(ビルマ)石油公社」に,「人民ボードウィン産業」は「ミャンマ・ポードウィン公社」に,それぞれ名称変更。
DIA-211-1970-03-02-3ミャンマー1970年03月02日1970年代政府,205人の政治犯釈放。
DIA-211-1970-03-04-1ミャンマー1970年03月04日1970年代ラングーンの工場閉鎖。1969-70年度はじめから,ティンジャングン地区では34の工場が閉鎖され,1100人が失業中。メリヤス,タオル,防水布,糸,ぬか油,ココヤシ皮繊維,電池,化粧品,ろうそく,石けん,バケツなどの工場である。
DIA-211-1970-03-04-2ミャンマー1970年03月04日1970年代ラングーン発:5つの乾電池工場が原料供給で3カ月ぶりに操業再開。
DIA-211-1970-03-10-1ミャンマー1970年03月10日1970年代タウングー発:林業局施設が共産軍に攻撃され,5人死亡。
DIA-211-1970-03-11-1ミャンマー1970年03月11日1970年代ミンガラドン発:ティン・ウ中央軍区司令官は,1968年にはラングーン周辺13カ郡で反政府軍活動があったが,1969年には10カ郡から反政府軍が一掃され,現在作戦は残りの3カ郡でつづけられていると述べ,赤旗共産党とKNDOへの断固たる戦いを主張した。
DIA-211-1970-03-14-1ミャンマー1970年03月14日1970年代タジ郡では織物業者の多くが政府との契約条件があわず,契約を拒否している。
DIA-211-1970-03-16-1ミャンマー1970年03月16日1970年代米国アポロ12号飛行士3人,ラングーンを親善訪問。
DIA-211-1970-03-16-2ミャンマー1970年03月16日1970年代台湾の中央日報は,タイ駐在米人記者が「Atlantic Monthly」4月号で,中国で訓練されたビルマ北部出身兵士と中国民兵約2万人が北ビルマに入っていると報じたことを伝えた。
DIA-211-1970-03-19-1ミャンマー1970年03月19日1970年代ラングーン:ユーゴ外相,マウン・ルィン外相と会談。
DIA-211-1970-03-24-1ミャンマー1970年03月24日1970年代ティン・ペ准将は本日付で救済・復興・国家連帯・社会福祉相となり,マウン・ルィン外相が商業・協同組合相を兼任することになった。
DIA-211-1970-03-24-2ミャンマー1970年03月24日1970年代農業開発公社(ARDC)のティン・オン少佐は,農民は何でも好きなものは作付けできるが,彼らはまた国の経済に必要な綿花と砂糖きびを作付けるよう要請されている,と述べた。また今年ラングーン周辺で生育した野菜類がラングーンの野菜価格を大幅に引下げたが,これはARDCが種子,肥料,農具などを大量に自由販売したことによると述べた。
DIA-211-1970-03-24-3ミャンマー1970年03月24日1970年代1968年以来閉鎖中のビルマ最大の食用油工場グェジンヤウ工場が昨日生産を再開した。
DIA-211-1970-03-26-1ミャンマー1970年03月26日1970年代ラングーン発マンダレー行急行貨物がダイ・ウ付近で地雷にふれ脱線。
DIA-211-1970-03-27-1ミャンマー1970年03月27日1970年代バンコク発:タイのウォンセ駐ビルマ大使は帰国して記者会見を行ない,カチン反政府軍のために先週ビルマ政府兵200人以上が殺された,と述べた(読売3月29日)。
DIA-211-1970-03-27-2ミャンマー1970年03月27日1970年代マウチ鉱山(カヤ州)は11年間の操業停止の後,本日再開された。戦前は世界第2位のスズ,過マンガン重石鉱。
DIA-211-1970-03-28-1ミャンマー1970年03月28日1970年代北シャン州キューコク町のビルマ政府軍1個中隊は,3月24日以来強力な共産軍の攻撃をうけ,28日同町から撤退した。この町は中国国境と100ヤードしか離れていない。
DIA-211-1970-04-02-1ミャンマー1970年04月02日1970年代ティン・ペ准将(救済・復興・国家連帯・社会福祉相)は病気療養のため英国に出発した。
DIA-211-1970-04-05-1ミャンマー1970年04月05日1970年代ネパールのマヘンドラ国王,ラングーン訪問(9日帰国)。
DIA-211-1970-04-13-1ミャンマー1970年04月13日1970年代ソ連労働使節団,ラングーン訪問。
DIA-211-1970-04-14-1ミャンマー1970年04月14日1970年代ネ・ウィン議長,日本訪問。
DIA-211-1970-04-15-1ミャンマー1970年04月15日1970年代ネ・ウィン議長,皇居で天皇の昼食会に出席,佐藤首相も同席。
DIA-211-1970-04-17-1ミャンマー1970年04月17日1970年代ネ・ウィン議長,万国博ビルマデーに出席。
DIA-211-1970-04-19-1ミャンマー1970年04月19日1970年代労働省は全国の主な事業体,企業で労働者福祉委員会を結成することにした。
DIA-211-1970-04-19-2ミャンマー1970年04月19日1970年代チャウクタガ発:カレン反政府軍の共産派KNUPと右派のKNUF(KNUフロント)との対立が激化しているとの報道。
DIA-211-1970-04-24-1ミャンマー1970年04月24日1970年代中央人民労働者評議会第5回会議開催(会議の内容は参考資料参照)。
DIA-211-1970-04-25-1ミャンマー1970年04月25日1970年代政府はウーヌー前首相グループの活動について発表し,ウーヌー派は約100人にすぎず,武器は少なく,資金不足に悩まされていると述べた。またウーヌー派の秘密放送が始まったことを明らかにした。
DIA-211-1970-04-27-1ミャンマー1970年04月27日1970年代ビルマ・ソ連新航空協定調印。
DIA-211-1970-04-29-1ミャンマー1970年04月29日1970年代政府はインドネシア政府に対し,カンボジア問題のためのアジア会議に出席せぬと回答した。
DIA-211-1970-05-01-1ミャンマー1970年05月01日1970年代ラングーンで労働者の日集会。 ・ネ・ウィン議長は大会にメッセージを送り,社会主義建設の成果を強化するために,革命評議会と党は人民とともに,党を中核党から大衆党に変え,新憲法を起草し,社会主義原則を経済に適用し,協同組合分野を拡大していくであろうと述べた。また破壊分子の活動に警告した。 ・マウン・シュエ中央人民労働者評議会議長が演説し,次の諸点を明らかにした。 革命評議会は資本主義,地主制を排除するための最初の成功をおさめた,とくに基幹産業の国有化,多数の工業計画の発足,流通国有化は大きな前進である。しかしいくつかの国営企業では英領時代からの官僚制のために前進が妨げられた。 党憲章草案は目下各段階で検討中であり,その主目的は国家建設における党の指導性の強化である。労働者評議会と農民評議会の参加で党を中核党から大衆党に変える。それが実現すれば新憲法発布の条件が整ったといえよう。労働者と農民評議会の代表を治安行政委に参加させる措置がとられている。 生産低下の原因は国内外の原料価格の上昇,消費物資生産の不十分さのため工業生産価格が上昇していることにある。
DIA-211-1970-05-03-1ミャンマー1970年05月03日1970年代バセイン発:ヌガタインジャウン郡本部の警察署に約100人の共産兵とNDUF兵が4台のバスで乗込み占拠し,警官5人が殺された。
DIA-211-1970-05-03-2ミャンマー1970年05月03日1970年代北シャン州のモンロン郡本部の警察署が約100人のカチン反政府兵に占拠され,警官1人死亡。
DIA-211-1970-05-05-1ミャンマー1970年05月05日1970年代クトーカイ(北シャン州)発ロイター:ネ・ウィン政府は中国を刺激することを恐れて,ビルマ軍に対し,中国国境を越えた流弾を発射することを何としても差し控えるよう命じている。ビルマ軍は共産軍の放棄した中国国境から100ヤードのキューコクを奪回するのにさえ細心の注意を払っている。 最近の政府声明では政府軍は4000人の親共ゲリラに攻撃されたキューコク防衛のためにその火力を全部使えなかったと述べていた。この丘りょう地区の住民の話によれば,共産軍は戦闘に敗けるとすぐ中国側に逃げ込んでしまうという。 3月28日にキューコクが陥落する直前に,やはり国境から16マイルのムンバウとナムタウの町が共産軍の手に帰した。これらの町の住民は近くの身寄りのところに避難している。キューコク付近の2万人の住民は当地に避難したが,彼らは攻撃で約200人の共産兵が死傷したといっている。政府軍は19人が戦死,30人が負傷した。また共産側はビルマ官吏,軍人など75人を捕え,政府側は100人余の共産兵を捕えた。 越境しての共産側の攻撃は,ビルマ政府が中国を刺激せぬために沈黙しているにもかかわらず,ここではよく知られた事実である。 多くのキューコクの人々は,中国軍がビルマ共産軍の攻撃を助け,負傷兵を救けているのを目撃した(International Herald Tribune5月6日)。
DIA-211-1970-05-05-2ミャンマー1970年05月05日1970年代ロイコー発:当地から38マイルの地点で兵士18人と民間人2人を乗せたマウチ鉱山所属のバスが,反政府軍に攻撃され,兵士9人が戦死,9人が負傷した。
DIA-211-1970-05-06-1ミャンマー1970年05月06日1970年代東京:ネ・ウィン議長,佐藤首相と75分間会談。佐藤首相はビルマへの経済援助,およびベンガル湾石油開発への技術援助を約束した。ネ・ウィン議長はビルマからの鉱産物,木材の買付けを要望した。
DIA-211-1970-05-09-1ミャンマー1970年05月09日1970年代西独は繊維工場建設のため約4100万チャットの長期借款をビルマに供与することに合意した。工場はパレイク近くに建設。
DIA-211-1970-05-12-1ミャンマー1970年05月12日1970年代党中央組織委労働部副書記ミンオン中佐は,労働者内部で生産妨害を行なうものと,すべての規律を官僚主義として排除する無規律なものとへの取締り強化を主張した。
DIA-211-1970-05-17-1ミャンマー1970年05月17日1970年代農業金融局は,8月31日までに農業融資を行なう準備をすすめている。融資はこれまでの融資を返済した者にのみなされる。
DIA-211-1970-05-22-1ミャンマー1970年05月22日1970年代全国の87の第1級工場,企業で4月30日以来新しい就業規則が採用されていることが明らかにされた。
DIA-211-1970-05-23-1ミャンマー1970年05月23日1970年代ネ・ウィン議長は訪日後英国を訪問していたが,この日エリザベス女王と会見した。
DIA-211-1970-05-24-1ミャンマー1970年05月24日1970年代モニン(カチン州):ナンパタイ村とルエムン村の民兵基地が約200人のKIA(カチン独立軍)に攻略され,15人が連れ去られた。
DIA-211-1970-05-24-2ミャンマー1970年05月24日1970年代ラングーン発:鉄道車両状況。国鉄の374台の機関車のうち,246台が運行可能で,84台が修理待ち,34台が修理中,10台が修理不能である。
DIA-211-1970-05-25-1ミャンマー1970年05月25日1970年代ラングーン:第8回インド=ビルマ合同国境委員会開催。
DIA-211-1970-05-28-1ミャンマー1970年05月28日1970年代政府は今後の経済政策の中心となるべきものとして協同組合を推進することにし,「協同組合法(1970)」(1970年法律第1号)を公布し,また「協同組合評議会」に関する通達,「協同組合計画とその実行」に関する通達,を発表した(内容は参考資料参照)。
DIA-211-1970-05-28-2ミャンマー1970年05月28日1970年代ビルマ政府は,ツーリスト・ビザの期限をこれまでの72時間から168時間(7日間)に延長することを決定した。
DIA-211-1970-05-28-3ミャンマー1970年05月28日1970年代インド=ビルマ国境委員会,1970-71年に国境225マイルを画定することに合意。
DIA-211-1970-05-29-1ミャンマー1970年05月29日1970年代協同組合省は28日付で協同組合相を議長として協同組合評議会執行委員会を結成した。
DIA-211-1970-05-29-2ミャンマー1970年05月29日1970年代ラングーン発:これまでに全国の7つの訓練学校で,合計1万1577人のトラクター運転手と機械技術者が訓練を受けた。
DIA-211-1970-05-30-1ミャンマー1970年05月30日1970年代ラングーン発(The Guardian):過去数日間にこれまで2年間つねに上昇していた消費物資のいくつかの価格が急落した。原因は協同組合計画の発表にあり,そのため消費財を貯め込んでいた商人たちが品物を急いで売出したことにあるとみられている。またこのため一部の食用油製造業者などは値上りを待つため生産をストップしたといわれる。しかし市場の売行きは値下りにもかかわらず活発ではない。
DIA-211-1970-05-30-2ミャンマー1970年05月30日1970年代The Guardian6月5日によれば,5月29日と30日の両日,シャン州ラシオ北東15マイルで共産軍と政府軍が17時間にわたり交戦,共産兵40人以上が死亡,100人が負傷,政府兵6人が死亡,11人が負傷した。戦闘は5月17日に約600人のビルマ共産党部隊がセンウィの町を攻撃したことから開始された。この攻撃は政府軍により撃退された。しかし5月19日,この共産軍の一部がラシオ駅を攻撃し,政府軍はこの共産軍を追撃した。 5月29日の午前10時30分頃に始まった戦闘は30日午前4時頃までつづき,600人の共産軍は指導者ら多数を失なって撤退した。死体42が数えられた。M-20ピストル4丁,M-21ライフル2丁,M-22小火器8丁,カービン銃1丁,40ミリロケット砲1などが捕獲された。
DIA-211-1970-06-01-1ミャンマー1970年06月01日1970年代協同組合省は協同組合規則(1970)を公布した。
DIA-211-1970-06-08-1ミャンマー1970年06月08日1970年代セィン・ウィン公共事業・住宅相は,機械・部品の国産化に努力すること,機械を破損せぬよう努めるよう強調。
DIA-211-1970-06-11-1ミャンマー1970年06月11日1970年代第1回協同組合評議会会議開く。議長マウン・ルイン大佐。サン・ユ蔵相,セィン・ウィン公共事業相,タウン・ティン鉱山相,タウン・チ農林相,マウン・シュエ工業・労働相,チョウ・ソー中央治安委議長兼内相,タシ・セィン運輸相が委員として出席。
DIA-211-1970-06-26-1ミャンマー1970年06月26日1970年代国防省筋はビルマ通信との記者会見で最近の共産党とウーヌー派の活動状況について要旨次のように述べた。 ・ラシオでの5月29日の戦闘後の追跡戦で共産兵10人が死に,共産側の死傷は合計200余となった。投降者中には1965年に外国に行ったビルマ生まれの青年や幾人かの少数民族がいた。このラシオの共産軍は共産党前線総司令部の直接指導下にあった。彼らは共産党政治委員Ho Kao(Bo Than Shwe,共産党の合法時代に入党,“紅衛兵”の前指導者,1950年に外国に中央委候補の資格で行く)に指導されていた。 ・ペグー山系では粛清がつづいており,ペグー山系管区本部事務局長Yebaw Tin Soeが最近殺された。また元ラングーン大学生運動指導者Yebaw Mya San,前紅衛兵指導者Bo Min Gaungも殺された。 政府軍攻勢と内部分裂,食料不足等でペグー山系西で活動していたタャワディー県の「第1無敵中隊」,プロム県の「第2無敵中隊」は士気,兵員を失なっている。これら部隊と中央司令部との連絡は失なわれている。Ma Sein Win(ノータロン・セィン),Bo Tin Maung(Hla Han),U Aung Zanは,戦闘部隊からますます切り離されて,ペグー山のジャングル深くかくれている中央司令部の後を追っている。 ・ウーヌー・グループは資金難,指導者間の不和,食料・衣料不足から組織の弱体化がすすんでいる。しかし秘密放送はつづいている。 ・ウーヌーは,マシ・バ・ザンに率いられたKNUフロントと力の衰えつつあるナイ・シュエ・キンに率いられたモン愛国党との間に統一戦線を結成したと宣伝している。
DIA-211-1970-06-26-2ミャンマー1970年06月26日1970年代マグエ県サレーに最近肥料工場が工費1億0900万チャットで完成,目下試運転が行なわれている。従業員1000人で,9月から完全操業。年間4000トンのアンモニアを生産し,それを使って200トン以上の肥料を生産する。
DIA-211-1970-06-27-1ミャンマー1970年06月27日1970年代ウーヌー派の愛国青年戦線の秘密放送は,5月15日から25日の間に開かれた議会民主党(ウーヌーの党)とモン新国党,カレン民族統一党との会合で,ネ・ウィィン独裁政権打倒のための統一戦線が結成されたと報じた。発表された3派協定によれば,ネ・ウィン政権の打倒諸民族の完全平等にもとづく連邦制国家の樹立,モン州,アラカン州,チン州の新設,一院制の議会制度などが合意されている。
DIA-211-1970-06-27-2ミャンマー1970年06月27日1970年代ラングーン=:Kyungon間鉄道175マイルの複線化が完成した。これでビルマの複線距離は第2次大戦前と同じになった。
DIA-211-1970-06-30-1ミャンマー1970年06月30日1970年代ラングーン軍区司令部で管区内協同組合計画会議。協同組合局のフラー・シュエ中佐が説明し,17の経済分野のうち運輸,通信,計画,外国貿易の4分野を除く13の経済分野(農業,漁業,畜産,林業,化学,鉱業,製造業,電力,建設,金融,社会サービス,住宅,私的サービス,卸売,小売)に協同組合計画が適用されると述べた。協同組合は3つのレベル,すなわち初級,郡区,中央で結成される。基本協同組合には生産,信用,消費,その他がある。
DIA-211-1970-06-30-2ミャンマー1970年06月30日1970年代ラングーン:郵便・電信局は7月1日からテレックス・サービスを導入する。
DIA-211-1970-07-01-1ミャンマー1970年07月01日1970年代ラングーン:政府軍退役軍人786人に対する職業訓練が開始された。訓練コース開講式でサン・ユ准将は,現在の計画によれば,一定の年令に達するか,健康の適さぬものは軍から退役し,再就職用訓練を受けると述べ,さらにこの計画は現在まで軍は老齢者,健康を害した者を軍内にとどめてきたが,これが軍の戦闘力を退化させているためにやむをえず行なわれる旨説明した。
DIA-211-1970-07-03-1ミャンマー1970年07月03日1970年代ラングーン:ペグーとラングーン管区の第1回協同組合訓練コースが県・郡区協同組合マネージャーら111人を集めて開かれた。 中央軍区農林・協同組合監督委のテイン・フトー中佐が協同組合の発展について次のように述べた。1904年に協同組合法が公布され,1905年1月から協同組合運動がはじまった。革命政府は社会主義を目指した協同組合を目標に農業多目的協同組合を発展させ,1964年までに各村が少なくともひとつの農協をもつことになった。1966-67年の経済をみると,国有企業が生産の38%を占め,協同組合が3%,民間が59%を占めた。同じ年に取引の54%が国家によって行なわれ,6%が協同組合,40%が私企業により行なわれた。
DIA-211-1970-07-08-1ミャンマー1970年07月08日1970年代ネ・ウィン議長インド訪問(~10日帰国)。
DIA-211-1970-07-08-2ミャンマー1970年07月08日1970年代モービン県シュエロウン郡でデルタ管区の「第7カレン人民ゲリラ軍」の46人がボーピョー副司令に率いられ政府軍に投降。
DIA-211-1970-07-09-1ミャンマー1970年07月09日1970年代アキャブ発:今日までにアラカン管区内で国立中学5校と78の小学校が共産軍により閉鎖された。
DIA-211-1970-07-15-1ミャンマー1970年07月15日1970年代タボイ発:本県農村部では反政府軍の後退により,農村での人民農民評議会,農協の結成,再開が進んでいる。
DIA-211-1970-07-22-1ミャンマー1970年07月22日1970年代ラングーン発:ARDCは69年12月以来農協に対し,1000台以上のトラクターを5年払いで販売した。
DIA-211-1970-07-23-1ミャンマー1970年07月23日1970年代政府発表によれば,デルタのミャウンミヤ,ピヤポン,モービン3県のモービン,チャイクラー,ボガレ,モールメイングン,ワケマの各郡で行なわれた政府軍の第8次“シュエリンヨン”作戦と第5次“モヘイン”作戦の結果,これまでに反政府兵35人が死亡,137人が投降,9人が捕われた。南西軍区の各部隊と第88師団傘下部隊が参加した。戦死者中にはカレン人民解放軍第2連隊中隊長チツ・レー・マウンらがいる。なお今回の作戦は6月27日に開始された。
DIA-211-1970-07-24-1ミャンマー1970年07月24日1970年代中央治安行政委は農村開発計画に新しい政策を導入する――新政策は,これまでの農村行政が徴税,治安対策,犯罪防止,裁判などに重点をおいてきたのに対し,経済,社会,教育など農村大衆の全分野的な生活向上を図ることに重点をおく。この新政策は政府の方針変更を反映したものである。新政策の下では,政府機関は農村開発計画達成の第1段階にのみ参加する。後の段階では,政府機関は自助努力により計画を遂行する農民を教育し,組織し,指導する。必要な援助は与えるが,全部費用を出してスプーンを口に持っていって養ってやるようなやり方はしない。
DIA-211-1970-07-27-1ミャンマー1970年07月27日1970年代ネ・ウィン議長,ラングーンの「第1重工業」を視察。
DIA-211-1970-07-27-2ミャンマー1970年07月27日1970年代ラングーン発:5人以上の労働者を雇用する企業に社会福祉法が適用された結果,ラングーンでは2,000企業以上の17万人の労働者が,マンダレーでは1,300企業の2万6000人,モールメインでは300企業の9,400人,バセインでは270企業の7,700人,モニワでは550企業の9,300人,ペグーでは300企業の8,000人,ヘンザダでは270企業の6,900人,ミンジャンでは260企業の4,000人の労働者が法の適用を受けるようになった。
DIA-211-1970-07-29-1ミャンマー1970年07月29日1970年代ラングーン発:政府発表によれば,ビルマ軍はシャン州で共産軍と最近激しい戦闘を行なった。21日には第106連隊1中隊はクトカイ近くの山中で約500人の共産軍と交戦,100人を倒し,60人を負傷させた。政府軍は将校3人を含む戦死59人,負傷者31人,行方不明10人を出した。22日にはクトカイ郡東北部で第1シャンライフル1中隊は約30人の共産軍に攻撃され死者3人を出した。共産兵1人を倒した。23日,政府軍は共産軍の拠点モンシ村を占領した。また27日,政府軍は南シャン州ラウサウクの共産軍管区司令部を攻撃,4人を倒した。
DIA-211-1970-08-01-1ミャンマー1970年08月01日1970年代ラングーン:中華人民共和国大使館付武官・Wei Ching-yuan氏は,1日夜第43回中国人民解放軍創立記念レセプションを開いた。ビルマ国防省の軍務局長マウン・マウン・チョウ・ウィン准将,国防省のチー・マウン大佐,ティン・マウン大佐,トン・ティン大佐,軍情報局長チ・キン大佐,軍内局ティン・オゥン中佐,外務省情報次官ティン・トン中佐らが出席した。
DIA-211-1970-08-04-1ミャンマー1970年08月04日1970年代政府はフラー・ハン保健・教育相を同時に外務相に任命した。また4人の次官が任命された。すなわち協同組合省次官にウー・バー・ニィエン,工業省次官にマウン・マウン・カ大佐,保健省次官にティン・オゥン中佐,教育省次官にニィ・ニィ博士。
DIA-211-1970-08-06-1ミャンマー1970年08月06日1970年代協同組合省は協同組合の結成を行なう郡区委員会の構成を指令した。委員会議長は郡区治安行政委議長がなり,委員は計画党,郡区労働者評議会,同農民評議会各代表がなる。委員会は協同組合参加資格者リストを作り,必要統計を作成する。
DIA-211-1970-08-12-1ミャンマー1970年08月12日1970年代ネ・ウィン議長,ラングーン大学視察。
DIA-211-1970-08-14-1ミャンマー1970年08月14日1970年代ラングーン発:米作地に勝手に養魚池を掘り,農業生産を妨げるものが増えているため,政府は養魚池を掘ろうとする者は事前に県土地記録・調査官に申請し,県治安委,県土地委の承認をえて,中央土地委員会の許可を受けねばならぬことにした。
DIA-211-1970-08-15-1ミャンマー1970年08月15日1970年代ペグー発:豆類,唐がらし,玉ねぎ,ガーリック,ポテトなどの乾物類の値段がここ数年来の最低となった。理由は売行き不振である。また仲介業者は協同組合計画がこの1~2カ月内に実施されることを予想して,ストックを大量に持とうとはしていない。落花生価格も下落し,冬期に落花生を買い込んだ投機業者は大損している。
DIA-211-1970-08-17-1ミャンマー1970年08月17日1970年代フティン・チョウ建設省次官は,同省セミナーでの報告で,労働省調査によれば毎年12万から15万人の青年が労働者年齢に達するが,そのうち18~20%が職をうるにすぎないということである,と述べた。
DIA-211-1970-08-17-2ミャンマー1970年08月17日1970年代チャウンゴン発:本郡農民評議会会議で,農民代表はポンプ,トラクター不足を訴え,また村の長老たちがいくつもの村落組織の代表となり「プチブル化した」と非難した。
DIA-211-1970-08-17-3ミャンマー1970年08月17日1970年代The Working People's Daily編集員ウー・ザウ・ウィンは最近デルタ地方のジュート栽培状況を視察しその報告を発表しているが,17日付の同紙上で,次のジュート作付シーズンには現行の2万トンの生産を倍増するというジュート計画はおそらく達成されるだろうと述べ,その理由としてデルタでの治安回復を挙げている。
DIA-211-1970-08-18-1ミャンマー1970年08月18日1970年代ラングーン発:昨年支給された農業融資の83%(8420万チャット)が今年6月までに返済された。新しい農業融資金返済制度の下では,返済金は村落土地委員会により取り立てられ,土地委員会は取立金の1%のコミッションを受取る。またこれまでの団体保証による農業融資は,融資金を返済した者に個別的に融資する制度に切り替えられた。これが融資返済を促進している。
DIA-211-1970-08-18-2ミャンマー1970年08月18日1970年代ラングーン発:1970年協同組合計画による消費者協同組合と信用組合の結成が,最初に第1次優先順位の町々で,次いで第2次優先順位の町々でなされることになった。
DIA-211-1970-08-19-1ミャンマー1970年08月19日1970年代ラングーン:タマインの人民繊維工場は今年これまでに糸620万ポンド,織物800万ヤードを生産した。また1年間2交替制で操業するに十分な綿3万梱を受取った。
DIA-211-1970-08-21-1ミャンマー1970年08月21日1970年代タウン・チ農林相はARDC会議で,国際市場の変化によりビルマは米以外の作物,とくにジュートの生産に力を入れる必要があると述べた。
DIA-211-1970-08-22-1ミャンマー1970年08月22日1970年代ラングーン:マヤンゴン地区労働者評議会の1970年半年期会議で,企業管理者層が特権階級化していること,日給制労働者の給料が何年働いても3.15チャットであること,機械・部品,原料の不足,管理者が現場と話合うことなく生産目標を決めること,などのために生産が阻害されていること,などが報告された。
DIA-211-1970-08-23-1ミャンマー1970年08月23日1970年代協同組合局は初級および郡区協同組合結成を調整・監督するために管区協同組合監督委員会を結成した。
DIA-211-1970-08-23-2ミャンマー1970年08月23日1970年代アキャブ発:「ロヒンガ・ムスリム独立革命軍」の2つの派はそれぞれビルマ共産党の承認をえてブチダウン郡とマウンダウ郡で村人から重税をとっているという。
DIA-211-1970-08-24-1ミャンマー1970年08月24日1970年代バンコク発8月26日ロイター:タイ国チェンライ県選出民主党議員ソンタム氏は記者団に,シャン族の何人かがメーサイ地区国境でビルマ側からタイ側に入っており,彼らがビルマ政府と戦っている「勇敢な青年戦士」運動のメンバーであることを政府に通告し,彼らとウーヌー派との連絡について警告した,と述べた。
DIA-211-1970-08-25-1ミャンマー1970年08月25日1970年代ワシントン発UPI(The Working People's Daily8月27日):米国務省は,1958年以来ビルマに対し軍事援助合計約8800万ドルを供与してきたことを認めた。同省は現会計年度の軍事援助計画にはビルマ向け予算はない,しかしまだ少額の販売計画――それも廃止されつつある――が残っている,と述べた。なおビルマ援助計画に関する情報は,ネ・ウィン将軍が自国を完全に中立であることを示したいという意志のために押えられてきた。
DIA-211-1970-08-25-2ミャンマー1970年08月25日1970年代ラングーン:ARDC機械農業部は,1970-71年度の工業用作物耕作向けに5000台の揚水ポンプを農協に売却する。ポンプは農協か3人以上の農民団体に売られる。
DIA-211-1970-08-26-1ミャンマー1970年08月26日1970年代中央土地委員会は各省に対し,各省管轄下の部局,事業体が同委員会の事前承認なしに米作地を他の目的に使用せぬよう通達した。なお土地委員会は69年6月にも同様の通達を出している。
DIA-211-1970-08-26-2ミャンマー1970年08月26日1970年代ワシントン発AFP:当地専門家筋は,1958年以来の米国の対ビルマ軍事援助(これまでに8000万ドル)は今会計年度予算には含まれていないので廃止されたものとみられると語った。
DIA-211-1970-08-31-1ミャンマー1970年08月31日1970年代ラングーン発:農地の一部あるいは全部の売却,質入れ,移動を禁止している1953年土地国有化法第4条に違反した農民に対して厳しい措置がとられることになった。これは8月14日の中央土地委員会通達で明らかにされたもので,10月1日より発効する。 これによれば,自分名儀の土地を売却等した農民は500チャットまでの罰金,土地の耕作権をもつ農民が土地を処分した場合も罰せられる。土地を手に入れた側の者は土地を没収され,没収地は農民に再配分される。なお2頭の牛で耕作するに足りない土地をもつ農民が,2頭の牛で耕作するに適当な土地分を購入した場合は特別な考慮が払われる。
DIA-211-1970-09-01-1ミャンマー1970年09月01日1970年代ラングーン発Henry Kamm(ニューヨーク・タイムス→International Herald Tribune9月1日):共産中国がスポンサーとなっている反乱軍はビルマ東北の国境地区を主戦場として,5月以来3つの戦場で政府軍に重大な被害を与えた。 軍事観測者たちによれば,東北での脅威は約1年前北京により高められることになった。その時ビルマ政府はラングーン北部のペグー山系とイラワジ川デルタで共産党とカレン民族反乱軍に対する戦闘を成功裡に進めていたのである。東北部での戦闘の目的は,政府軍をけん制することにあると信じられている。 目的が何であれ,最高司令部はけん制に乗ることを拒否したため,東北で重大な被害を受けた。しかし中央と南方ビルマでの作戦は昨年でやめた。観測筋によれば,結果は1948年の独立以来真剣に争われてきた主要部での効果的な政府コントロールを回復することになった。 北から南にかけての道路,川,鉄道というビルマの主要な輸送ラインを悩ましてきた反乱軍は,秘密のビルマ共産党本部から指令され,効率的に活動してきた数千人から,ジャングルの隠れ家からほとんど出てこられない数百人にまでなった。 政府筋は,反乱活動は全国的に低調であると主張している。独立以来,多数の非ビルマ部族はビルマを統一国家としようとする中央政府の努力に対して,各グループがばらばらに,絶えず反乱してきた。中国と断固とした親中国派のビルマ共産党にとって,これらの反乱を利用してラングーンの全国への支配力を弱めることは簡単なことであった。 3月に,中国に支援された反乱軍はビルマ軍をしてキューコクという国境の町を放棄させた。政府は,町を防衛することは他の国,中国に発砲することになるとして軍を引いたと発表した。このことは,公式に中立を守ることに関心をもっているネ・ウィン将軍の政権が,中国は反乱軍のための聖域を提供していると公然と非難するのに近いことである。 政府筋によれば,最近の衝突は8月15日に起こった。(シャン州の)ナムカムとクトカイの間で1000人と推定される反乱軍と200人以上の政府軍が衝突した。……両軍の被害は大きく,多数の政府兵が行方不明となったという。 14万5000人からなるビルマ軍は主力戦闘部隊として3個歩兵師団をもつ。当地の軍事専門家たちはビルマ軍は,それが戦っている制限戦争のための高い士気をもち,良い訓練を受けた,規律ある反乱軍対策部隊であるとしている。軍は約2万人の職業的準軍隊的警察軍によって補強されている。 主要な武器の外国からの購入源は米国であり,米国は過去12年間,非交換可能ビルマ貨幣を売る形で軍事援助約8000万ドルを供給した。この計画は最終段階にある。ビルマは自身で小火器を作りはじめた。
DIA-211-1970-09-02-1ミャンマー1970年09月02日1970年代ラングーン:政府発表によれば,シャン州で8月後半に5度の衝突で12人の共産兵が殺された。また26人の共産軍召集兵が投降した。政府軍は死者14人,行方不明24人,負傷7人を出した。 最初の戦闘は8月15日クトカイ郡マンハイ村付近で第106軽歩兵連隊2個中隊と共産軍1100人とが衝突,政府兵10人が戦死,24人が行方不明となった。8月27日の戦闘はクトカイ郡カウンカ村付近でKIA兵150人と第45ビルマ連隊1個中隊との間に起こり,政府兵3人が戦死した。8月28日にはムサ郡で政府軍は共産兵7人を倒した。
DIA-211-1970-09-02-2ミャンマー1970年09月02日1970年代ラングーン発:中央土地委員会は,反政府軍支配から最近解放された土地の再配分に関する通達を地方土地委員会に送った。 通達によれば,反政府軍は支配下の土地を諮意的に配分していたという。したがって解放された土地では,耕作者の土地保有の合法性を至急調査する必要があり,場合によっては土地の再配分が必要となる。本来の耕作権者が土地を奪われ,他の者が耕作を許されていた場合には,1963年小作法によりその土地は本来の耕作権者に戻される。 本来の耕作権者がいない場合は,反政府軍から土地耕作権を与えられていた者の土地は返還され,1963年小作法第11条の規定でもっともふさわしい農民にその土地を再配分する。もし農民からある土地を反政府軍に奪われていたとの訴えがなされた場合,それは土地紛争として中央土地委員会に提起され,通常の手続きにより処理される。
DIA-211-1970-09-08-1ミャンマー1970年09月08日1970年代政府軍はシャン州Lawksawk東方にある共産党中央局司令部支所を攻撃し,共産党中央委員タキン・ティン・トンおよび6人の共産兵を殺した。
DIA-211-1970-09-11-1ミャンマー1970年09月11日1970年代ラングーン発:最新の通達によれば,新協同組合法による協同組合は各管区・州内でただひとつの郡においてのみ結成され,それらは70年10月からの1970年協同組合計画で結成さるべき諸協同組合の成功を保証するための経験をうるパイロット計画として実験的に結成される。
DIA-211-1970-09-12-1ミャンマー1970年09月12日1970年代協同組合省次官ボーレイ博士は,協同組合は経済企業であるから,商業原則にもとづき運営されるべきであり,官僚的に運営されてはならない,と述べた。
DIA-211-1970-09-14-1ミャンマー1970年09月14日1970年代ラングーン:タウン・チ農林相は,これまでに郡区農民評議会209,郡区組織委員会41,初級評議会8502が結成されたと述べた。26カ郡と5748カ村区でまだ評議会が結成されていない。
DIA-211-1970-09-15-1ミャンマー1970年09月15日1970年代政府は全国で401人の政治犯を釈放した。
DIA-211-1970-09-15-2ミャンマー1970年09月15日1970年代ARDCは8月までに全国の777カ農協にトラクター1561台を売却した。
DIA-211-1970-09-16-1ミャンマー1970年09月16日1970年代1969-70年度の8月末までに全国43の職業安定所は,11万人の求職者に対し2万3785人の職業をあっせんした。なお求職者は最低小学校卒以上の資格を必要とされる。
DIA-211-1970-09-18-1ミャンマー1970年09月18日1970年代ネ・ウィン議長は1970-71年度予算支出法案を承認した。また同時に大蔵省に対し1970-71年度中に50億チャットの借入れ権限を与えた。支出内訳は次のとおり(単位チャット)。 革命評議会 54,921,540 各省と部局 1,919,137,910 シャン州 29,331,310 カチン州 17,078,380 カヤ州 4,337,350 コートレイ州 11,076,190 局,公社,評議会,委員会,銀行など 7,262,248,000 地方公共団体 77,986,320 計 9,376,117,000
DIA-211-1970-09-18-2ミャンマー1970年09月18日1970年代政府は総額約4億5000万チャットの1970年度補正予算支出法案を承認した。内訳は次のとおり(単位チャット)。 各省と部局 42,800,780 各州 1,447,510 局,公社,評議会,委員会,銀行など 406,183,560
DIA-211-1970-09-18-3ミャンマー1970年09月18日1970年代ビルマ政府は西独と技術・経済協力協定と財政援助協定を締結した。 政援助協定によれば,西独はビルマに石油開発向けに2200万ドイツマルク(約2800万チャット)の長期借款を供与する。技術・経済協力協定は,780万ドイツマルク(約1000万チャット)の西独贈与を利用して,西独専門家,資材の供与がなされる。これも石油開発向けである。
DIA-211-1970-09-19-1ミャンマー1970年09月19日1970年代大蔵省,ビルマ経済の全般状況を説明した「人民への報告」発表(内容は参考資料参照)。
DIA-211-1970-09-21-1ミャンマー1970年09月21日1970年代中央治安行政委は地方治安委に対し,冬期耕作融資金配分に関して指示した。農民1人当たり最高融資額は500チャット。融資は村落銀行,農協,村落土地委員会からの融資チームを通じ戸別になされる。これらの機関のないところでは連帯保証制によりグループ宛になされる。また旧融資を完済したものにのみ新融資は支給される。
DIA-211-1970-09-26-1ミャンマー1970年09月26日1970年代アキャブ発:ラテダウン郡で客船がノータロン・セイン,ボー・フラー・トンらに率いられた約100人の共産兵に攻撃され,乗客1人が死亡。
DIA-211-1970-09-30-1ミャンマー1970年09月30日1970年代ネ・ウィン革命評議会議長は,中国国慶節にあたり周恩来首相にメッセージを送った。
DIA-211-1970-09-30-2ミャンマー1970年09月30日1970年代ミャウンミヤ県ボガレ郡で共産兵23人が投降。
DIA-211-1970-10-01-1ミャンマー1970年10月01日1970年代ラングーン:中国大使館で国慶節記念レセプションが開かれ,マウン・ルィン外相代理,フラー・ポーン外務次官,軍務局長マウン・マウン・チョウ・ウィン准将,軍情報局長チ・キン大佐,情報省次官ティン・トン中佐らが出席した。
DIA-211-1970-10-04-1ミャンマー1970年10月04日1970年代ラングーンのポジヨーク・マーケットでは,食料,繊維製品から電気製品や自転車に至る品物が人民デパートで無制限に大衆に売られている。これは諸工場の製品をできるだけ早く大衆に送り込み,また必需品を大衆がよく利用できるよう,中央商業局がラングーン管区商業局と協力してはじめたものであり,もしこの新実験が成功すれば,ラングーンの他の市場やマンダレーでもこの制度が導入される。
DIA-211-1970-10-05-1ミャンマー1970年10月05日1970年代食用油の価格は前年同期にくらべて半値となっている。昨年9月はヴィス当たり15.40チャット,現在は7.35チャット。これはゴマ,落花生の生産増大による。
DIA-211-1970-10-06-1ミャンマー1970年10月06日1970年代北シャン州のクトカイ郡スクマウン村付近で第2ビルマ連隊1個中隊と共産軍500人が交戦,政府兵27人が戦死,37人が負傷,若干の行方不明を出した。政府軍機が出動,共産兵70人を殺した。
DIA-211-1970-10-07-1ミャンマー1970年10月07日1970年代政府は新米の買上げ価格を昨年と同じとすると発表。第1商業公社精米センター,倉庫,買上げセンターでの46ポンド入り100バスケットの買上げ価格は次のとおり(単位チャット)。
DIA-211-1970-10-10-1ミャンマー1970年10月10日1970年代中央商業局が地方商業局に最近指示したところによれば,消費者協同組合は最初,店員と在庫を含めて商業局店舗,基本的な食品店を接収する。
DIA-211-1970-10-10-2ミャンマー1970年10月10日1970年代ラングーン:カマユット地区の第14化学工業初級労働者評議会集会で,ウー・オン・チャイン議長は,消費者物価の上昇が日給3.15チャットにすぎない労働者の間に汚職を生み出す原因となっているとして,最低賃金の引揚げを要求した。
DIA-211-1970-10-10-3ミャンマー1970年10月10日1970年代チャウパダゥン=Kyeeni間新鉄道路線26マイルが開通。
DIA-211-1970-10-10-4ミャンマー1970年10月10日1970年代ボガレ郡で共産軍と政府軍が交戦,共産兵6人死亡。
DIA-211-1970-10-11-1ミャンマー1970年10月11日1970年代政府は中国大使にウー・ティン・マウンを任命した。
DIA-211-1970-10-11-2ミャンマー1970年10月11日1970年代中国の広東見本市に参加するビルマ代表団が出発した。
DIA-211-1970-10-11-3ミャンマー1970年10月11日1970年代ラングーン発:1959年雇用規制法が10月1日から全国で発効した。これは5人以上を雇用する事業体は雇用を職安を通じて行なうよう規定している。
DIA-211-1970-10-11-4ミャンマー1970年10月11日1970年代ボガレ郡でカレン人民ゲリラ軍第2連隊副中隊長マン・ミンら10人が政府軍に投降。
DIA-211-1970-10-16-1ミャンマー1970年10月16日1970年代労働省次官にトン・シェイン中佐。
DIA-211-1970-10-16-2ミャンマー1970年10月16日1970年代シャン州クトカイ郡モンリ村付近で政府軍と共産軍400人が交戦,政府兵2人戦死。
DIA-211-1970-10-18-1ミャンマー1970年10月18日1970年代バンコク発:ウーヌー前首相,バンコクから姿を消す。
DIA-211-1970-10-19-1ミャンマー1970年10月19日1970年代バンコク発UPI:ウーヌー前首相に近い筋が語ったところによれば,ウーヌーはネ・ウィン政権に対する革命闘争を開始するためにビルマに出発した。同筋はウーヌーの行先について言及しなかったが,ウーヌーはすでに5万の完全武装兵からなる民族解放戦線部隊とともにビルマにいるはずである,と語った。
DIA-211-1970-10-19-2ミャンマー1970年10月19日1970年代バンコク発AP:プラパート副首相は,もしウーヌー前首相がタイに帰れば不法入国の罪で逮捕する,と述べた。 プラパート副首相はまた,ウーヌーは行方をくらます前,タノム首相に北東タイ地方の旅行許可を求める書簡を送り,タイ政府はこれを許可した,と述べた。
DIA-211-1970-10-19-3ミャンマー1970年10月19日1970年代ラングーン:中央人民労働者評議会第6回会議開催(内容は参考資料参照)。
DIA-211-1970-10-21-1ミャンマー1970年10月21日1970年代ラングーン:ビルマ通信は,ウーヌーらのグループがビルマに入ったというバンコク情報に関し,ビルマ国防省の責任ある高官とインタビューを行なった。 国防省高官は,ウーヌー,ナイ・シェエ・キン,マン・バ・ザンはビルマ内ではなく,タイ内にいること,いわゆる5万の兵力をもった民族解放戦線軍というのは宣伝にすぎず,カレン反乱軍,モン反乱軍,ウーヌー・グループの生き残りにつけた名前にすぎないこと,カレンとモン反乱軍は自壊していること,ウーヌー一派内に激しい内部対立があること,グループの数は宣伝で何倍にもいいふらされていること,などを明らかにした。またウーヌー派は宣伝力が弱まったために,人民,僧侶,軍人を挑発し,政府に反抗させるために彼のビルマ入りのニュースをばらまいたとの見解を明らかにした。 国防省高官はまた,70年5月25日,ウーヌーの議会民主党,カレン民族統一戦線,新モン州党が「全民族解放戦線」を結成し,マン・バ・ザンが議長,ナイ・シュエ・キンが書記長,ボーレ・ヤが政治書記,T・クリフトが財務書記となったこと,また70年7月に軍が編成され,サウ・チャ・ドウ“少将”が参謀長に任命されたこと,軍は南方管区と中央管区に分けられ,南方管区司令はボー・ヤン・ナイン,中央管区はマウン・トゥインが司令となったこと,兵力は南方管区が130人,中央管区が80人であること,ウーヌー派とは外国の秘密情報部員とがしきりに接触していること,などを明らかにした。 国防省高官はまたカレン民族統一戦線の兵力について次の数字を発表した。 第1師団(ボーミャ司令官)。 第1旅団 Bo Kya以下500人(タトン県) 第3旅団 Kaser Doe以下400人(チャウキ郡) 第6旅団 Shwe Saing以下300人(コーカレイク郡) 第7旅団 Htein Maung以下500人(フレインブエ郡) またモン新国党は兵力30人にすぎないと述べた。 なお共産党と連合しているカレン軍(KNUP)については,総兵力1150人と発表された。 国防省高官はさらに,捕獲文書から明らかになった事実として,ウーヌー派とカレン,モン反乱軍との連合に関して,カレン州分離権もウーヌーがまだ承認していないため,カレン軍とウーヌーの間に対立があること,闘争成功後の首相はマン・バ・ザンがなることなどを明らかにした。
DIA-211-1970-10-21-2ミャンマー1970年10月21日1970年代バンコク発UPI10月22日:SEATOのバルガス総長は,中国はビルマに対し“ひそかな侵略”を始めるかもしれない。われわれは両国の外交復交を綿密に監視せねばならない,と述べた。
DIA-211-1970-10-24-1ミャンマー1970年10月24日1970年代ラングーン:11月1日からラングーン=マンダコー間とラーグーン=プローム間に夜行列車が走ることになったと発表。
DIA-211-1970-10-25-1ミャンマー1970年10月25日1970年代ワーキング・ピープルス・ディリーは評論員論文で,タイ国のビルマに対する姿勢を非難した。
DIA-211-1970-10-25-2ミャンマー1970年10月25日1970年代ワーキング・ピープルス・ディリーは評論員論文で,ビルマ・中国復交に関するSEATOのバルガス事務局長発言を非難。
DIA-211-1970-10-25-3ミャンマー1970年10月25日1970年代ボガレ郡で共産兵47人投降。
DIA-211-1970-10-26-1ミャンマー1970年10月26日1970年代26日 △ネ・ウィン議長,タン・ユー・サイン大佐を革命評議会員から解任。
DIA-211-1970-10-28-1ミャンマー1970年10月28日1970年代ピャポン郡で共産党県委員ら共産兵21人が投降。
DIA-211-1970-10-30-1ミャンマー1970年10月30日1970年代バンコク発:タイの「バンコク・ワールド」紙,ネ・ウィン議長重体説報道。
DIA-211-1970-10-30-2ミャンマー1970年10月30日1970年代ラングーン:中央治安行政委副議長マウン・チョー大佐は労働省付となった。またイェ・ゴゥン農林省次官補は同省および土地国有化省次官に昇任した。このためティン・ソー大佐が運輸省付となった。
DIA-211-1970-10-31-1ミャンマー1970年10月31日1970年代バンコク発:当地ではネ・ウィン議長死亡説が流布されている。
DIA-211-1970-10-31-2ミャンマー1970年10月31日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長,カンボジア大使の信任状受取る。
DIA-211-1970-10-31-3ミャンマー1970年10月31日1970年代ラングーン発:政府発表によれば,北シャン州クトカイ地区モンシ渓谷で約1500人の共産軍と政府軍第88師傘下諸部隊が10月23日から29日の間激戦を展開し,政府軍は空軍機をも出動させ,共産兵約500人を殺した。政府軍は死者7,負傷45,不明3人を出した。
DIA-211-1970-10-31-4ミャンマー1970年10月31日1970年代ラングーン:労働省は労働者評議会セミナーを年2回から必要に応じて開くこと(年1回を意味する)に改めた。なおこれまでに初級労働者評議会2425,郡区組織委72,郡区評議会180が結成されている。
DIA-211-1970-11-01-1ミャンマー1970年11月01日1970年代サン・ユ総参謀次長は3日間にわたるラシオ,クトカイ地区視察の後,本日ラングーンに帰任した。
DIA-211-1970-11-04-1ミャンマー1970年11月04日1970年代中央治安行政委は,非農業目的に土地を使用する申請を審査するため郡区レベルの委員会結成を指示した。
DIA-211-1970-11-06-1ミャンマー1970年11月06日1970年代ラングーン:ソ連のスミルノフ駐ビルマ大使は,ウーヌー前首相はソ連に手紙を出し,その中でネ・ウィン政権を倒すための革命活動をビルマで開始したと述べた,と発表した。同大使の話では,ウーヌー前首相はもう一通の手紙で,政権についたらすべての取決めを破棄すると述べたという(ロイター・朝日11月7日)。
DIA-211-1970-11-07-1ミャンマー1970年11月07日1970年代ティン・ペ准将(救済・復興・国家団結・社会福祉相)は4月2日以来の英国での病気療養を終え,ラングーンに帰った。
DIA-211-1970-11-07-2ミャンマー1970年11月07日1970年代マウン・シュエ労働・工業相は病気療養のため英国に出発した。
DIA-211-1970-11-08-1ミャンマー1970年11月08日1970年代ウー・テイン・マウン新中国駐在ビルマ大使,北京に向け出発。
DIA-211-1970-11-10-1ミャンマー1970年11月10日1970年代赤旗共産党指導者タキン・ソーはパコック県セイピュー郡で捕えられた。第87ビルマ連隊が身柄をあずかっている。
DIA-211-1970-11-14-1ミャンマー1970年11月14日1970年代テイン・ペ准将,政府閣僚および革命評議会員から辞任。
DIA-211-1970-11-16-1ミャンマー1970年11月16日1970年代北京:駐中国新ビルマ大使ウー・ティン・マウン,北京到着。
DIA-211-1970-11-18-1ミャンマー1970年11月18日1970年代ネ・ウィン議長,フィリピン訪問。
DIA-211-1970-11-19-1ミャンマー1970年11月19日1970年代商業省は10月26日付でタン・ユー・サイン大佐を商業省から国防省に配置替えした。
DIA-211-1970-11-20-1ミャンマー1970年11月20日1970年代人事移動。人民警察軍長官オン・ペ中佐は国防省付に,国防省次官ウー・マウン・マウンは外務省付に,国連代表ウー・ソー・ティンは外務省付に,また10月19日付でティン・アウン少佐は農業開発公社理事長に,イェ・ゴウン中佐は農林次官に,それぞれ発令。
DIA-211-1970-11-21-1ミャンマー1970年11月21日1970年代ラングーン:第3回学生・青年フェスティバルが始まったオン・サン・スタジアム付近で暴動が発生,暴徒はスタジアムから市中心街へとくり出し,商店,映画館,バスなどに投石,バス,タクシー,その他自動車を破壊,放火した。暴動は午後2時半頃から夜に入るまでつづき,500人以上の破壊分子が逮捕された。暴動のきっかけはフェスティバル開催をめぐる学生側と政府側とのトラブルといわれている。ロイター電によれば約1000人の学生が暴動に加わったという。
DIA-211-1970-11-21-2ミャンマー1970年11月21日1970年代ネ・ウィン議長はフィリピン訪問を終え帰国。
DIA-211-1970-11-21-3ミャンマー1970年11月21日1970年代北京:ウー・ティン・マウン新駐中国大使,菫必武中国副主席に信任状提出。
DIA-211-1970-11-23-1ミャンマー1970年11月23日1970年代バンコク発11月25日ロイター/NAB:タイの野党指導者セニ・プラモート氏は声明を発表し,タイがウーヌー前首相に政治活動の場を提供することは,ビルマとの関係を著しく悪化させようと警告した。
DIA-211-1970-11-28-1ミャンマー1970年11月28日1970年代ネ・ウィン議長は病気療養のため英国に出発した。
DIA-211-1970-11-30-1ミャンマー1970年11月30日1970年代道路輸送局,バスの最低料金値上げ。
DIA-211-1970-12-03-1ミャンマー1970年12月03日1970年代財務省は国有化された工場従業員の暫定定員化計画を承認した。1968年に国有化された工場の従業員は約1万6000人であった。
DIA-211-1970-12-05-1ミャンマー1970年12月05日1970年代大学管理局は,12月に予定の試験を延期し,12月6日から1月5日まで大学を休校とすることを決めた。
DIA-211-1970-12-06-1ミャンマー1970年12月06日1970年代全国の道路通行はこの日から右側通行に切りかえられた。
DIA-211-1970-12-06-2ミャンマー1970年12月06日1970年代北京:駐中国大使ウー・ティン・マウンは周恩来中国首相と会見した。
DIA-211-1970-12-07-1ミャンマー1970年12月07日1970年代ビルマ=ソ連新航空協定調印。
DIA-211-1970-12-08-1ミャンマー1970年12月08日1970年代中央治安行政委員会は,中央土地委員会人事を再組織した。新議長は中央治安行政委副議長チー・マウン大佐,副議長は農林次官イエ・ゴウン中佐。
DIA-211-1970-12-10-1ミャンマー1970年12月10日1970年代ラングーン:第1回計画党大会開催実行委員会の最初の会合が開かれた。サン・ユ議長は,党大会が計画党を人民の党に発展させていくうえで重要な意義をもつことを強調するあいさつを行なった。
DIA-211-1970-12-11-1ミャンマー1970年12月11日1970年代ラングーン:訪問中のソ連ジャーナリスト使節団は,中央人民労働者評議会と中央人民農民評議会の執行委員会を訪問した。
DIA-211-1970-12-12-1ミャンマー1970年12月12日1970年代ラングーン:マウン・シュエ労働・工業相は英国での病気療養を終え帰国。
DIA-211-1970-12-17-1ミャンマー1970年12月17日1970年代ティン・ウ中央軍司令官はペグー山系ふもとチャウタガ郡の村で演説,共産党を外国の手先と非難するとともに,新植民地主義者の拡張主義にも対抗せねばならないと述べた。また計画党を人民の党に作りかえる努力が進められており,人民の党が結成された後,憲法が起草され,2年内に人民政府が生まれ,計画党主導の下に社会主義国家が建設されよう,と語った。
DIA-211-1970-12-22-1ミャンマー1970年12月22日1970年代運輸省,ラングーンのバス料金を再引下げ。
DIA-211-1970-12-26-1ミャンマー1970年12月26日1970年代商業省次官チャウ・ザウ大佐は,10月30日付で国防省付となった。
DIA-211-1970-12-26-2ミャンマー1970年12月26日1970年代前赤旗共産党のウー・チョウ・ウィン,前NDUFのウー・オン・ティン,同ウー・アゥン・ナインは,それぞれ,移民・国民登録相,司法相,地方行政民主化相の個人秘書官となった。
DIA-211-1970-12-26-3ミャンマー1970年12月26日1970年代中央土地委員会は,村落土地委員会から1970年に処理した土地紛争の実情報告を求めた。これは土地紛争処理に際し,土地委員の汚職についての不満が絶えないためである。
DIA-211-1970-12-29-1ミャンマー1970年12月29日1970年代ラングーン=マンダレー鉄道のピュー付近で,石炭輸送列車が地雷にふれ,脱線した。
DIA-211-1971-01-05-1ミャンマー1971年01月05日1970年代ラングーンのLatha地区で,4人の社会主義計画党員が,党組織委の定めた手続きにより,秘密投票で,地区党細胞指導者の選出を行なった。Mayangon地区でも同様の選出が行なわれた。
DIA-211-1971-01-06-1ミャンマー1971年01月06日1970年代Lashio県Hsenwi東30マイルのPharmain村で,政府軍はHkun Hsarグループのシャン反政府兵150人と交戦,5人を殺し,15人を負傷させ,22人を捕えた。また軽機関銃3挺,ピストル7挺,カービン3挺,ステンガン2挺,ライフル4挺,などを捕かくした。
DIA-211-1971-01-09-1ミャンマー1971年01月09日1970年代ネ・ウィン議長,イギリスから帰国。
DIA-211-1971-01-11-1ミャンマー1971年01月11日1970年代中央人民労働者評議会は下部機関に対し,今年度政府予算赤字分1億9600万チャットを埋め合わせるための労働者のキャンペーンをはじめるように指示した。 この運動では,労働者に社会主義経済制度だけが経済諸悪を救いうる制度であることを納得させること,スローガン,ポスターなどで予算赤字を救済するための手段を労働者に説明すること,月1~2回政府機関の業績を労働者に発表する会合を開くこと,この会合で,①生産施材の効率的利用,②工場をフル稼動させ,その生産能力を改善し,生産性を上げること,③新建設中の工場を早く完成させること,④商業局物資を必要な場所に早く配送すること,⑤公共支出の節約,⑥輸出品生産の増強,⑦重要物資のみを輸入すること,などを討議すること,が行なわれるべきである。
DIA-211-1971-01-14-1ミャンマー1971年01月14日1970年代政府は駐日大使に Captain Chit Ko Ko(BN)を任命した。
DIA-211-1971-01-15-1ミャンマー1971年01月15日1970年代Mandalay発Myitkyina行列車が午前10時頃,PyindaungとMayan駅間で地雷にふれ脱線,反政府軍の発砲を受け,さらに放火された。乗客8人が死亡,26人が負傷(うち7人重傷)した。
DIA-211-1971-01-15-2ミャンマー1971年01月15日1970年代ラーグーン:1969-70年センサスによると,ラングーンの人口は171万7649人(男86万6057人,女85万1592人)である。市人口は毎週542人の割合で増加している。
DIA-211-1971-01-22-1ミャンマー1971年01月22日1970年代Penwegon発1月23日:22日夜Kyaukkyiの商業局倉庫,病院などが約150人のカレン兵により掠奪された。反政府兵は町に入ると第57ビルマ連隊基地を攻撃,さらに郡区治安委議長宅などに発砲,公務員一人を殺した後,物資を奪って去った。交戦は約30分続いた。
DIA-211-1971-01-23-1ミャンマー1971年01月23日1970年代Toungoo:本郡のKinseikなどの村々のジュート耕作者に,13台の新品と中古のクボタポンプが現金でARDCから売却された。本郡のジュート面積は,今年は昨年の倍の600エーカーとなる予定。また県全体では3万エーカーの予定で,200台のポンプが売却されることになっている。価格は新品が1,800チャット,中古で1,086チャットである。
DIA-211-1971-01-26-1ミャンマー1971年01月26日1970年代ラングーン:Sir Seewoosagur Ramgoolam,マウリティウス首相到着。空港ではネ・ウィン首相,ラーハン教育相,マウンルゥイン商相らが出迎えた。なお夕刻にはネ・ウィン議長主催の歓迎レセプションが開かれた。
DIA-211-1971-01-27-1ミャンマー1971年01月27日1970年代モールメイン:当地の人口は19万人に達し,町は混雑し,過去5年間で建物は雨後のたけのこのように建てられた。そこで,市の計画的拡大のために,「大モールメイン計画」達成を目指す市計画委員会が県治安議長Sein Nyun少佐を長として結成された。
DIA-211-1971-01-29-1ミャンマー1971年01月29日1970年代Kado発:テナセリム海岸での石油探鉱は70年11月にはじまり,西ドイツ技術者の協力で進展をみせている。
DIA-211-1971-02-03-1ミャンマー1971年02月03日1970年代11人のメンバーから成る日本経済使節団,ラングーン到着。
DIA-211-1971-02-06-1ミャンマー1971年02月06日1970年代外務省は,ビルマ政府は新駐ビルマ中国大使として陳肇源 ChenChao-Yuan 氏を承認すると発表した。同氏は1918年に広東に生れ,大学卒。駐スウェーデン大使館参事官,外務省国際機関部副部長,駐インド大使館参事官を歴任。
DIA-211-1971-02-08-1ミャンマー1971年02月08日1970年代Lashio10月2日発:国鉄Lashio=Mandalay線,Namtu,Nammiao駅間を通過中の列車が反乱軍埋設の地雷によって爆破され,同時に50名の反乱軍が襲撃した。これにより乗客7名が死亡,25名が負傷した。なおこの事件の1時間半後軍警混成隊が反乱軍と同地で交戦してこれを撃退した。
DIA-211-1971-02-12-1ミャンマー1971年02月12日1970年代第24回連邦記念日-ラングーンのチャイカサン広場で10万人を集め記念式典が行なわれた。カチン州評議会議長U Dingra Tangが集会の議長をつとめた。 ネ・ウィン議長のメッセージがタン・セィン大佐により読上げられた。議長は,諸民族の団結と破壊分子との闘争を強調するとともに,中核党を人民党に変革する準備と新憲法の起草が進められていることを明らかにした。またラーハン大佐が,革命評議会を代表して,同趣旨の演説を行なった。
DIA-211-1971-02-15-1ミャンマー1971年02月15日1970年代ボン:訪独中のThaung Tin鉱山相は,西独政府と技術協力協定に調印した。
DIA-211-1971-02-20-1ミャンマー1971年02月20日1970年代ラングーン:ネ・ウイン議長は今夕病気治療のため英国に出発した。サンユ准将ら多数の高官が見送った。
DIA-211-1971-02-21-1ミャンマー1971年02月21日1970年代ラングーン:Thingangyun地区労働評議会に提出された報告によれば,化学繊維産業第8グループの第2繊維工場(以前のThabawaナイロン工場)の労働者の間で,原料不足のため仕事がたびたびストップするため士気の低下がみられるという。仕事がない時,労働者たちは眠ったり,本を読んだり,ゲームをしたりしている。また女工たちのなかには,製品を盗み出すものもいる。
DIA-211-1971-02-23-1ミャンマー1971年02月23日1970年代ラングーン発:ロンドンの病院に2月21日,吐血症とmalenaの治療のために入院したネ・ウィン議長は,その後回復に向い,2日以来起き上ることを許され,流動食をとっていると本日発表された。
DIA-211-1971-02-23-2ミャンマー1971年02月23日1970年代Henzada発:南西軍区で1月19日にはじめられた第9次Shwelinyon作戦により,Bassein県Ngaputaw郡で,5週間に,反政府兵262人が戦死,あるいは捕われた。また2月12日にはじまった第10次Shwelinyon作戦により,12日間にHenzada,Ingabu,Myanaung各部で192の反政府兵が戦闘力を失なった。これは当地の第18ビルマ連隊本部で,南西軍司令官San Kyi大佐らにより訪問記者団に明らかにされたものである。 説明によれば,第9次作戦は南西軍区戦術司令官(2)Aung Bwint大佐に指揮され,第2チンライフル,第27,93,98,38の各ビルマ連隊,海軍,警察,と地方住民6,000人が参加した。 第10次作戦は,南西軍区戦術司令官(1)Khen Za Mung大佐に指揮され,第18,51,63の各ビルマ連隊,第77軽歩師団,と地方住民が参加した。 第9次作戦では火器193挺,弾丸1,285発,象18頭が捕獲され,第10次作戦では火器64挺,弾丸760発,象4頭が捕獲された。
DIA-211-1971-02-23-3ミャンマー1971年02月23日1970年代Mandalay発:今朝,Mandalay-Mitkyina上り郵便列車が,Namsi-ongとMawhan間でKIAにより爆発され,乗客16人が死亡,15人が負傷した。列車は脱線したうえ,約200人のKIA兵に攻撃された。先導していた装甲列車が引き返し,約1時間交戦し,KIAを撃退した。KIAは乗客の財貨を奪って去った。
DIA-211-1971-02-26-1ミャンマー1971年02月26日1970年代ラングーン発:全国の106カ郡で設けられた354の協同組合米買付所は,1970年12月はじめから1971年1月末までに,もみ米5120万5759バスケットを買付けた。これら買付所は精米工場や倉庫に設けられ,3,199の農協が運営に参加している。各管区別の買付所数は次の通り。 Sagaing=50,Mandalay=13,Magwe=7,Pegu=109,Arakan=7,Irrawaddy=124,Tenasserim=33,カテン州=9,ラングーン=2。
DIA-211-1971-03-02-1ミャンマー1971年03月02日1970年代「農民の日」-ラングーンのチャイカサン広場に10万人を集めて記念集会が開かれた。ネ・ウィン議長のメッセージがMaung Shwe大佐により読上げられた。ネウィン議長は,農民の組織化,人民の先の建設,憲法の起草という3つの仕事に農民大衆が積極的に参加するようよびかけた。 Thauug Kyi大佐が革命評議会を代表して,記念報告を行なった。要点は次の通り。 現在,郡区人民農民評議会と郡区同組織委員会が261,初級人民農評議会が8,630あり,メンバーは560万人である。評議会は治安の安定した地方に設立されており,評議会数の増加は,治安が回得していることを意味している。メンバーのいく人かは殺害されたが,他のメンバーに恐慌をきたすほどに危険は拡大しなかった。 現在までに1万2574の村落農協が結成された。 1970年に2,552の村落農協により283の購入所が開設され,430の協同組合が873台のトラクターを賃貸している。
DIA-211-1971-03-05-1ミャンマー1971年03月05日1970年代Kadoe発:モールメインの治安当局はヤミ取引一掃のための大規模なキャンペーンを開始した。モールメインは鉄道,道路,空路に連絡しており,国境に近いことから,1965年以来ラングーン以南の多数の密輸ルートの一大集散地となっている。このため1965年から取締りチームが結成され,1969年にはヤミ商人2,000人が捕逮され,230万チャットの商品が押収された。1970年には1,000人が逮捕され,500万チャットが押収され,今年1~2月では,203人が摘発され,30万チャットが押収された。 こうした摘発にもかかわらず,密輸は増大している。このため最近当局は取締まりを強化し,列車などへの監視を強め,またヤミ市の売場を焼払ったりした。
DIA-211-1971-03-07-1ミャンマー1971年03月07日1970年代ラングーンのKamayut地区の国有化工場はここしばらく,労働者間の不一致と無規律により悩まされている。この地区の国有化工場で起っている望ましくない事態の全ての根底にあるのは,今日国有および私有の工業分野で広汎に経験されている原材料不足である。この結果長期のレイオフ,労働者のモラルの低下をもたらしている。機械の考朽化と代替品のないことのため,生産目標が達成されず,また品質の低下をひき起している。 国有化されている“Turkey”印傘工場の機械は非常に古く,何年も更新されていない。その結果傘の品質は低下した。 ミャンマ・ビスケット工場は1969-70年の200万ポンドの生産目標に対して184万4000ポンドのみを生産した。1970-71の目標は月間15万3000ポンドで年間185万ポンドであったが,工場は10月~1月に45万ポンドを生産しただけで,しかも生産は低下しつつある。同工場は現在15日間操業しているだけである。 化学工業経営委員会No21/22傘下の工場では,生産は順調である。しかし労働者間の不一致が進歩を妨げている。 賃金の支払基準が確定されていないUniversities Pressでは労働者内の不満は広汎である。 Kamayutには26の私営工場があるが,労働者に職業の安定を約束することができない。一部は原材料不足で閉鎖せねばならなかったし,他は1970-71年繊維計画による商業局に対する約束を果せなかったために生産が出来なくなった。 この原料不足のため閉鎖された企業には,Shwe Nagaボタン工場,Unionボタン工場,ミャンマ・バケツ工場,Hla Thanプラスチック工場,U Hla Shwe織物工場があり,商業局への約束が果せなかった企業には,Sein Ohziメリヤス工場,Nan Hawng メリヤス工場,Gyotuメリヤス工場,Thet Tha Brothers メリヤス工場,Ein An傘工場があり,これらの工場の労働者は目下失業している(W.P.D 3月8日)。
DIA-211-1971-03-08-1ミャンマー1971年03月08日1970年代マンダレー:当地で行なわれた農業調査労働者集会は,農業生産増大の目的で農民間に競争的農業を導入すべきことに同意した。
DIA-211-1971-03-08-2ミャンマー1971年03月08日1970年代Nawnghkio発:当地に今朝10時に到着したマンダレー=ラシオ鉄道上り列車は,ヤミ商人たちで立錐の余地もなく,当駅から乗込む予定の50人の乗客はついに列車に乗れなかった。なお3月6日にはNawngpein駅で無理に列車に乗込もうとした乗客の間で暴力沙汰が起った。
DIA-211-1971-03-11-1ミャンマー1971年03月11日1970年代Kyauktada地区労働者評議会年次報告は,“家内工業はいまや生存のための闘いに敗れつつある。彼らは,こぎ手の努力にもかかわらずますます深く沈んでいくボートのなかにいる”と述べた。 報告は,地区内の国有化工業の場合でも,原料不足と機械部品不足のため,生産が低下したと述べた。私企業の場合は生産低下はもっと大きい。 家具は,きもの製造業者の一部は生産停止したが,まだ原料の配給をうけている。
DIA-211-1971-03-12-1ミャンマー1971年03月12日1970年代ラーグーン発:商業省は3月13日付で次の農産品の買上げ価格を引上げた。
DIA-211-1971-03-13-1ミャンマー1971年03月13日1970年代革命評議会は本日付で,ビルマ社会主義計画党社会主義経済委員会を再組織した。メンバーは次の通り。  革命評議会は本日付で,ビルマ社会主義計画党社会主義経済委員会を再組織した。メンバーは次の通り。  議長 ネ・ウィン将軍  副議長 サンユ准将  メンバー Thaung Tin准将  メンバー Sein Win准将  メンバー Thaung Kyi大佐  メンバー Maung Shwe大佐  メンバー Than Sein大佐  メンバー Maung Lwin大佐  書記 U Ba Nyeln
DIA-211-1971-03-13-2ミャンマー1971年03月13日1970年代ラングーン:中央政治学校での第3回郡区農民評議会コース開会式で,中央人民農民評議会長ThaungKyi大佐は,261郡区で9,294の初級農民評議会の下に578万3880人以上の農民が組織されたと語った。全国で226の郡区農民評議会と35の郡区農民評議会組織委員会が結成された。 なお第3回中央人民農民評議会会議は2月末の予定が最初4月第1週に延期され,つづいて4月第3週に延期されたことが明らかにされた。
DIA-211-1971-03-15-1ミャンマー1971年03月15日1970年代ラングーン:Thaungkyi農林相は1971年農業セミナー開会式で演説して,ビルマは米以外の輸出産品を開発せねばならないと述べた。 同農林相は昨年の農林計画が予定通りには達成されなかったことを指摘し,農政職員が農民とより密接となる,よう要求した。とくに落花生,ゴマ,綿花,ジュート,ゴム,マッペ,その他豆類の生産が十分でないと述べた。
DIA-211-1971-03-16-1ミャンマー1971年03月16日1970年代ラングーン・ラーハン厚生・教育相は,ネ・ウィン議長が今日ロンドンの病院から退院したと述べた。
DIA-211-1971-03-19-1ミャンマー1971年03月19日1970年代The Working People’s Dailyは,第1回計画党大会に,第1次4カ年計画(1971-72→1974-75)のための指導原理を述べた「ビルマ経済計画ガイド」が提出される,と報じた。
DIA-211-1971-03-19-2ミャンマー1971年03月19日1970年代ラングーンの港湾地区党支部の組織報告は,労働者たちが家計を維持するためにアルバイトの仕事をせねばならないために,党活動に従事する余裕がなく,その結果不満足なものとなっている,と述べた。
DIA-211-1971-03-25-1ミャンマー1971年03月25日1970年代Mandalay:San Yu准将は北西軍区現職教育コースで演説し,軍人は計画党のバックボーンであると述べた。
DIA-211-1971-03-27-1ミャンマー1971年03月27日1970年代第26回国軍記念日。Thaung Dan副参謀長(空軍)が記念演説を行ない,将兵は軍を人民軍に変え,中核党に変えることに努力せねばならないと同時に,左右の破壊主義者と闘うべきであると強調した。
DIA-211-1971-03-29-1ミャンマー1971年03月29日1970年代ラングーン:Kamayut地区計画党支部で,Yebaw Hla Thwinら4人の発言者は,政府の経済計画ガイドについて,“ガイドは経済計画の達成について村落農協に過度に依存している。これはわが国の協同組合の多くがまだ十分再組織されていないことから再考慮を必要とする”と述べた。 彼らはまた1971年度の投資目標額と1975年度のそれとが同じであることについて,長期計画では投資が増加すべきであると述べた。しかし過去8年間の生崖増加率が年率3%であったことからみて,計画が年率4.7%の生産増を予定していることは高すぎると批判した。 さらに,国有化された企業で操業停止がつづき,生産物の品質も低下していることは,人々に私企業時代のほうがよかったとの印象を与えていると指摘した。そして彼らは計画のなかで私企業にもっと活動分野を与えるよう要求した。
DIA-211-1971-03-29-2ミャンマー1971年03月29日1970年代ラングーン:労働省工場および労働法監督官セミナー開く。会合で,労働次官MyoMyint 中佐は,全国の1万7706の工場,事業所のうち,ラングーンの1,767工場と事業所,その他地区の4,617企業で労働法が適用されていれと述べた。
DIA-211-1971-04-01-1ミャンマー1971年04月01日1970年代新駐ビルマ・中国大使★陳/Chen☆★肇★/Chao☆源/Yuan☆氏,San Yu准将に信任状提出。
DIA-211-1971-04-01-2ミャンマー1971年04月01日1970年代5日ロンドン発NAB:ネ・ウィン将軍はロンドンを出発,イラン,インドを経て帰国の途についた。
DIA-211-1971-04-01-3ミャンマー1971年04月01日1970年代ラングーンのYankin地区党支部執行委員報告は,「労働者と農民は中核党を人民の党に変えることに賛同したが,インテリの一部は政府に好意をもたず,ビルマ社会主義への道を信じていない。彼らは革命期の困難を過大視している。こうした態度はインテリと官僚の間に最も多い。党員の一部や労働者も現在の原料不足と生活苦のために懐疑的となっている。その結果党員の一部は党務に関心を失なった。しかし多くの党員の士気は高い」と指摘している。 南Okkalapa党支部総会に提出された支部執行委報告は,同地区の居住者が中小企業家,労働者,事務員,臨時雇い労働者,市場商人,露店商などからなることを指摘した後,「工業家たちは原材料を入手することができず,政府の経済政策のため大打撃を受けた。事務員と工場労働者を別にすれば,人々は定期収入をもたない。物価高により彼らは苦しんでいる。……工業家の一部はこのために,1969-70年と1971年に破壊分子の活動を支持した。工場労働者,事務員,市場商人,臨時雇い労働者たちも経済困難のために,政府に不満をもっているが,左右の破壊分子を支持した者の数は少なかった」と指摘している。
DIA-211-1971-04-06-1ミャンマー1971年04月06日1970年代ラングーン:南Okkalapa党支部総会で,Yebaw Kyaw,Yebaw Saw Hlaing’Yebaw Tin Nuは,政府経済セクターが38%で,協同組合セクターが3%であり,私的所有が59%に達することは,まだ社会主義経済制度が不安定なものであることを示しているとして,新経済計画期に私的所有の割合を減少させていくことを要求した。
DIA-211-1971-04-08-1ミャンマー1971年04月08日1970年代ニューデリー:ネ・ウィン将軍,2日間の予定で当地に到着。
DIA-211-1971-04-08-2ミャンマー1971年04月08日1970年代ラングーンのAhlone地区労働評議会執行委報告は,「工業経営スタッフの一部と工業担当政府職員の一部はなおも人民労働者評議会を信頼していない」と指摘した。 報告はまた生産目標が達成されていない理由を次のように指摘した。   (1)労働者は正しい信念とイデオロギーをもって働いているが,彼らは原材料と機械部品入手困難とを克服することができないこと。 (2)労働者の労働評議会に対する理解が不十分であり,労働者の権利と義務を実行に移せないでいること。 (3)計画作成に際して上下の意見の交換がないこと。 (4)物価高で労働者が苦しんでいること。 (5)いくつかの産業で,製品の品質基準が定められていないこと。 (6)生産を妨害する破壊分子の工作があること。 (7)官僚主義の残存していること。 (8)労働者の能力が十分高められていないこと。
DIA-211-1971-04-10-1ミャンマー1971年04月10日1970年代ネ・ウィン議長は今朝ラングーンに到着する予定であったが,気分がすぐれぬため出発を延期した。彼の便に血液が混っていたためニューデリーの病院で目下治療中である。
DIA-211-1971-04-13-1ミャンマー1971年04月13日1970年代ロンドン:ネ・ウィン議長は病気について精密検査を受けるため,12日にニューデリーを出発,本日当地に到看した。
DIA-211-1971-04-15-1ミャンマー1971年04月15日1970年代Toungoo発:ラングーン発マンダレ一行第11号急行列車がNyaungchedauk=Kywebwe間で,反乱軍の地雷3発が爆破して急停車,このためPyu駐屯第39連隊が駆けつけ,付近にいたHlaNwe派反乱軍50名と30分にわたって交戦。連隊兵士4名が死亡。
DIA-211-1971-04-19-1ミャンマー1971年04月19日1970年代ラングーンのKyauktada地区計画党支部大会が開かれた。提出された執行委報告書にはまず党組織活動の弱さの原因について指摘し,党幹部が下部と接触しないこと,党支部に提出される諸問題の解決が遅れること,党員自身による政治的,経済的犯罪が増大していること,党員自身による党への攻撃がなされていること,などを挙げている。 報告書はまた経済問題について,国有化企業に進展がみられず,物価が上昇し,流通制度になお欠陥があり,ヤミ物資が幅をきかせており,労働者の生活が打撃を受けていると述べている。そして経済困難と破壊分子の活動が多くの人々の道徳を低下させ,売春婦,辻強盗,密輸業者が増加していると指摘し,これらも党組織を弱める原因となっていると述べている。
DIA-211-1971-04-19-2ミャンマー1971年04月19日1970年代ラングーンのBotataung地区支部総会が開かれ,Yebaw Ye Maung支部長は,党内を分裂させんとしている破壊分子の活動に警告するとともに元政治家,反乱分子,軍人といった出身によって党員を差別することをつつしまねばならないと述べた。 また執行委員報告書では,党員申請を行なった公務員,労働者中には申請をしなければ昇進できないのではないかなど考えて申請したものがかなりいること,工場生産において原料などが労働者自身によって盗まれることがあること,労働者の生活難のため労働評議会への労働者の熱意が失なわれていること,などが指摘されている。
DIA-211-1971-04-21-1ミャンマー1971年04月21日1970年代ロンドン:ネウィン議長退院。
DIA-211-1971-04-23-1ミャンマー1971年04月23日1970年代協同組合局の直接監督下にその村落支部を通じ,全国106カ郡に開かれた354の協同組合米買付所は,4月15日までに8400万バスケットのもみ米を買上げた。1970-71年の買付予定は9300万バスケット。
DIA-211-1971-05-01-1ミャンマー1971年05月01日1970年代ラングーン:労働者の日大集会開く。ラングーンのチャイカサン広場に10万人以上の労働大衆が集まり,式典が行なわれた。 ネ・ウィン議長のメッセージがThan Sein大佐により代読されたが,メッセージは,計画党を人民の党に変革することのビルマ民主主義と労働者の利益に及ぼす意義について強調し,また全労働者が経済開発に協力するよう要請している。 Maung Shwe大佐が革命評議会を代表して演説し,豊かな社会主義社会の建設のために,労働者は,計画党を人民党に変えていくこと,新憲法を起草すること,国家経済開発のために生産を増大させること,地上と地下の破壊分子を絶滅させること,の4つの任務を負っていると強調した。 なおMaung Shwe大佐は経済問題について次の評点を明らかにした。 米輸出の不振により,いまや基本的な機械部品と原料しか輸入できなくなり,国内消費に悪影響が出ている。国際競争力ある新製品を開発せねばならない。 木材生産を戦前レベルまで引上げるためにさらに努力がなされねばならない。また鉱山開発も促進されねばならない。石油については新油田の開発により,石油の自給が達成された。近く輸出ができよう。 工業生産は1965-66年が最低で,1969-70年が最高であった。国家セクターの生産低下は原料,部品不足と工業間の調整欠除による。マネージャーの能力不足と労働者の無規律も原因である。 私企業の状況も同様であり,輸入原料を使う工場の生産はかなり低下した。 流通制度の混乱も,輸送の困難などから続いている。
DIA-211-1971-05-07-1ミャンマー1971年05月07日1970年代ラーグーン:第1商業公社(農産品)は,Pazundaungバザールに袋入りの米を自由に販売する特設店を,実験的に開設した。近く他のバザールにも特設店を開く予定。
DIA-211-1971-05-07-2ミャンマー1971年05月07日1970年代ペグー発:Peinzalok付近の鉄橋でラングーン=マンダレー間上り列車が地雷にふれ,同時に反政府軍に銃撃された。学生1人が死亡した。
DIA-211-1971-05-08-1ミャンマー1971年05月08日1970年代Toungoo発5月9日:本県のTantabinが約100人のカレン兵に攻撃され,4人が負傷,5万チャットの財貨が失なわれた。すなわちカレン兵は一方で警察署を攻撃しつつ,商業局倉庫,人民商店などを焼き払った。
DIA-211-1971-05-14-1ミャンマー1971年05月14日1970年代ラーグーン発:1971年のモンスーン耕作融資は8月31日まで各農家に対して支給される。エーカー当り融資額は次の通り(単位チャット)。 米=25,綿花=20,ポテト・玉ねぎ=75,ビルマたばこ=60,唐がらし=50,ジュート・ケナフ=20,メイズ,マッペ,バター豆など豆類=10。 融資支払いは中央治安委の指示により行なわれる。
DIA-211-1971-05-18-1ミャンマー1971年05月18日1970年代ビルマ社会主義計画党組織委員会は,1971年6月28日に,同党の第1回党大会を開催する,と発表した。
DIA-211-1971-05-21-1ミャンマー1971年05月21日1970年代ラングーン:農業開発公社(ARDC)は1962-63年から1969-70年までに全国に88のトラクターステーションを開設した。1962-63年には4,220人のARDC職員が1,391台のトラクターをもつ20のトラクターステーションを運営し,21万8000エーカーを耕作していた。
DIA-211-1971-05-27-1ミャンマー1971年05月27日1970年代1969-70年にはステーションは88,トラクターは4,052台,職員1万0315人となった。耕作面積は70万7996エーカー。またARDCは1969-70年には協同組合に1,561台のトラクターを売った。政府は,新駐ビルマ・ソ連大使としてAlexei Ivanovich Elizavetin氏の任命に同意した。 同氏は,1915年生れ,1954年に外交官となり,藩陽,上海の総領事,在中国大使館参事官をつとめた。また外務省極東部副部長もつとめ,さらに,1968年に在中国大使館公使となった。
DIA-211-1971-05-31-1ミャンマー1971年05月31日1970年代ラングーン:計画党中央組織委員会発表によれば,6月28日からの党大会には,824人の代議員と294人の代議員候補が出席する。 824人の代議員の出身地区別内訳は次の通り。 第1党副管区(Mandalay)=39,第2(Chauk)=33,第3(チン高原,Falam)=20,第4(Sagaing)=20,第5(Myitkyina)=26,第6(Lashio)=26,第7(Keng-tung)=9,第8(Taunggyi)=21,第9(Loikaw)=8,第10(Pa-an)=13,第11(Moulmein)=39,第12(Bassein)=31,第13(Akyab)=31,第14(Mingaladon)=88,第15(ラングーン)=122。 中央軍司令部=168人,中央政治学校党支部2人,党本部支部=3人,さらに南西軍区司令部,空軍,第88師団,南東軍区司令部,北西軍区司令部,第77師団,国防省,ラングーン軍司令部,東部軍区司令部,中央軍区司令部,第99師団,海軍は125人を送る。
DIA-211-1971-06-01-1ミャンマー1971年06月01日1970年代ラングーン:当局はビルマ社会主義者計画党の予備軍として計画党青年リーダーの結成をすすめている。同リーダーは12歳から25歳までの青年からなる。また15歳から25歳までの青年の組織は計画覚書年団と呼ばれ,10歳から15歳までの子供達の組織は少年指導者団と呼ばれ,5歳から10歳まではTeza Youthsと呼ばれる。
DIA-211-1971-06-03-1ミャンマー1971年06月03日1970年代ラングーン発:土地国有化省は,5月26日付で,今年9月30日で,1947年の登録(臨時措置法)を失効させることにした。 この法律は第2次大戦中に実行された契約を登録し,また破壊された文書を回復させる機会を人々に与えるものであった。
DIA-211-1971-06-07-1ミャンマー1971年06月07日1970年代ニューデリー:インド・ビルマ第5回国境委員会開会。
DIA-211-1971-06-08-1ミャンマー1971年06月08日1970年代ラングーン:ネウィン議長夫妻帰国。
DIA-211-1971-06-23-1ミャンマー1971年06月23日1970年代Kawkareik県Kya-in警察派出所が約30人のカレンとウーヌー派混成軍に攻撃されたが,反乱軍は死者1人を出して徹退した。
DIA-211-1971-06-23-2ミャンマー1971年06月23日1970年代Loikaw発:Kunnarw村付近で,Pa-Oおよびカレンニ民族進歩党のHla AungとThan Maungに率いられた約150人の反政府兵が,警察パトロールを攻撃.警官1人が死亡,1人が負傷。
DIA-211-1971-06-27-1ミャンマー1971年06月27日1970年代政府,犯罪者への恩赦令発表―ネ・ウィン革命評議会議長はビルマ社会主義計画党第1回党大会を祝して,次のような恩赦を発表した。 (1)死刑判決を受けた者は終身刑に変更する。 (2)禁錮刑を受けている者はその残された刑期の3分の1を免除される。
DIA-211-1971-06-28-1ミャンマー1971年06月28日1970年代ラングーン:ビルマ社会主義計画党第1回党大会開催。その内容と経過は参考資料参照。
DIA-211-1971-06-29-1ミャンマー1971年06月29日1970年代計画党大会に,「党憲章草案」,「経済開発計画ガイドライン」提出さる(参考資料参照)。
DIA-211-1971-06-30-1ミャンマー1971年06月30日1970年代5月末までに全国で750の協同組合が結成された。
DIA-211-1971-07-02-1ミャンマー1971年07月02日1970年代Thayet県とProme県の境のSetsety村付近で作戦中の第26ビルマ連隊の1個中隊は午前7時半頃,Salai Tha Uに率いられた共産党軍第2常勝中隊約80人により待伏せ攻撃をうけ45分間交戦し,Salai Tha Uら2人の共産兵を倒した。政府軍中隊指揮官Maung Maung Myint大尉ら政府兵4人が戦死,4人が負傷した。 Salai Tha Uは1949年共産党に入り,共産党中央委員,1963年の和平交渉団員。37歳。
DIA-211-1971-07-04-1ミャンマー1971年07月04日1970年代計画党大会,党憲章を承認。
DIA-211-1971-07-06-1ミャンマー1971年07月06日1970年代Kyaukme県Namhsanで第22ビルマ連隊に,Khun Li「中佐」に率いられたPalaung愛国軍第5連隊兵108人が集団で帰順した。 ガービン77挺,M-1ライフル81挺,機関銃1迫撃砲3門などが提出された。
DIA-211-1971-07-07-1ミャンマー1971年07月07日1970年代計画党大会で党中央委員会議長にネ・ウィン将軍選出(参考資料参属)。
DIA-211-1971-07-09-1ミャンマー1971年07月09日1970年代革命評議会新メンパー発表さる(参考資料参照)。
DIA-211-1971-07-10-1ミャンマー1971年07月10日1970年代革命評議会諮問会議の構成等発表される(参考資料参照)。
DIA-211-1971-07-15-1ミャンマー1971年07月15日1970年代ビルマ政府閣僚会議構成は1971年7月15日現在次の通りである。 (1)ネ・ウィン将軍~首相,国防相 (2)San Yu准将~蔵相,国家計画相 (3)Sein Win准将~建設・住宅相 (4)Thaung Kyi大佐~農林相,土地国有化相 (5)Maung Shwe大佐~工業相,労働相 (6)Kyaw Soe大佐~内務相,司法相,地方行政民主化相,宗教相,移民・国民登録相 (7)Than Sein大佐~運輸・通信相 (8)Hla Han大佐~外務相,教育相,保健相 (9)Thaung Dan准将~情報相,文化相,救済・復興・国家連帯相,社会福祉相 (10)Maung Lwin大佐~商業相,協同組合相 (11)Thaung Tin准将~鉱山相 なおKoKo大佐が副大臣,閣僚会議書記に任命された。
DIA-211-1971-07-22-1ミャンマー1971年07月22日1970年代The Working People’s Daily紙は,社説で,治安行政委員会の活動にある諸欠陥を批判した。
DIA-211-1971-07-29-1ミャンマー1971年07月29日1970年代ビルマ政府は駐ビルマ新米大使として,Edwin W Martin氏の任命を承認した。 同氏は1917年に生れ,1941年に外交界に入り,1944年までバミューダ勤務。1944年から45年まではコンゴのレオポルドビルに駐在,46年から48年まで北京,48年から49年は漢口,49年から50年は台北,50年から51年はラングーンでそれぞれ勤務。56年から58年まではロンドンに勤務し,その後国務省中国局長となる。1961年から64年は,米太平洋軍司令官付政治顧問,64年から67年はアンカラの米大使館参事官,1970年まではホンコン駐在米総領事。
DIA-211-1971-07-31-1ミャンマー1971年07月31日1970年代外務省は,ネ・ウィン議長夫妻が8月中に,中国政府の招きで訪中すると発表した。
DIA-211-1971-08-03-1ミャンマー1971年08月03日1970年代Taunggyi県Phekon副郡区のPekin警察署が,Shwe AyeとSaw Tunに率いられた約150人の反政府軍に攻撃された。15人の警官隊は午前5時から,第54ビルマ連隊の1個中隊がかけつけた午前9時まで応戦し,反政府軍を撃退した。反政府兵2人が戦死,警官4人が負傷した。なお警察署長の妻が連去られ殺された。
DIA-211-1971-08-06-1ミャンマー1971年08月06日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長夫妻は午前7時,UBA特別機で中国への,非公式友好訪問に出発した。外務・教育.保健相ラーハン外相,閣僚会議書記KoKo大佐が同行した。
DIA-211-1971-08-06-2ミャンマー1971年08月06日1970年代北京:ネ・ウィン議長一行は午後1時30分北京空港に到着した。周恩来首相,黄永勝総参謀長,季先念副首相,郭沫若氏らが出迎えた。なおネ・ウィン議長一行は北京への途次広東に立寄り,そこで省革命委員会主席らの出迎えを受け,また昼食を取った。 午後7時30分,周恩来首相主催の夕食会が開かれた。周恩来首相は歓迎のあいさつを行ない,要旨次のように述べた。 ビルマとわが国は隣国であり,両国民の間には長く確固たる友好があった。ビルマが独立し,中華人民共和国が生れた後,その友好はさらに強化された。両国はネ・ウィン議長が初めてビルマ首相となった時,その国境問題を解決した。これは両国の善隣関係の一層の強化に役立った。 中国政府は長年ビルマに対し平和と善隣の政策を追求し,ビルマ政府の平和と中立の政策を尊敬し,両国人民の友好の発展に努めてきた。 われわれは過去2年間の両国の関係正常化,大使の相互交換,貿易の発展を大きな喜びをもって見守ってきた。ネ・ウィン議長の中国訪問は両国の関係改善への努力をさらに強化することになろう。 これに対し,ネ・ウィン議長は次のように答えた。 中国政府の招きにより再び中国を訪問できたことは大きな喜びである。周恩来首相ら中国指導者と相互に関心ある問題を討議する機会をもちえることは,両国の友情,相互理解,協力に役立ち,すでにある理解と協力を一層促進するものであろう。 中国とビルマの人民は,共通の国境をもちよき隣人として永い関係を維持してきた。この友好的な両国は,その国内開発のために平和的に仕事をすすめ,また国際平和の推進のために努力している。 こうした努力を通じて両国の相互の利益はさらに推進されよう。 ネ・ウィン議長は毛沢東主席,林彪副主席,周恩来首相のために乾杯した。
DIA-211-1971-08-06-3ミャンマー1971年08月06日1970年代Minbu西方16マイルのMinbu=Padan道路上で,午前8時頃,第88師団所属の31人の兵士が,共産軍北西管区のThet Tunに率いられたとみられる約100人の共産兵に待伏せ攻撃を受け,政府兵7人が戦死,17人が負傷,火器27挺を奪われた。また同行の計画党員1人も死亡した。
DIA-211-1971-08-07-1ミャンマー1971年08月07日1970年代ネ・ウィン議長夫妻は午後6時,毛沢東主席を訪問し,午後8時15分まで友好的に会談した。ラーハン外相,KoKo大佐,周恩来首相,李先念副首相らが同席した。 なおこの日ネ・ウィン議長は,午前と午後の2回,周恩来首相と会談した。ラーハン外相,KoKo大佐,李先念副首相,韓念竜副外相,★劉/Liu☆★春/Chun☆外務省アジア局長らが同席した。 また夕刻,ネ・ウィン議長一行は,周首相らとバレーを見物した。
DIA-211-1971-08-08-1ミャンマー1971年08月08日1970年代ネ・ウィン議長夫妻は,午後7時30分,周首相夫妻を招き夕食会を開催した。黄永勝総参謀長,郭沫若氏,ラーハン外相らが同席した。 なおこの日午後3時,ネ・ウィン議長は同首相らと2時間45分にわたり会議した。
DIA-211-1971-08-09-1ミャンマー1971年08月09日1970年代ネ・ウィン議長一行は,周首相らとともに広東を訪問し,省革命委主催の夕食会に出席した。
DIA-211-1971-08-09-2ミャンマー1971年08月09日1970年代ラングーン:内務・司法・地方行政民主化・宗教・国民登録相KyawSoe大佐は,療養のため英国に向け出発した。内務・宗教省特任官Kyi Nyun少佐が同行した。 Than Sein運輸・通信相,Tin U中央軍区司令官,Hla Phone副外相,ラングーン軍区司令官Kyaw Htin大佐,軍情報次長Tin U中佐,内務次官Hla Maung中佐,人民警察軍副長官U Thanらが見送った。
DIA-211-1971-08-10-1ミャンマー1971年08月10日1970年代ネ・ウィン議長は,広東で,周恩来首相と,午前9時30分から12時45分,午後4時から6時30分の2度にわたり会談した。
DIA-211-1971-08-11-1ミャンマー1971年08月11日1970年代広東:ネ・ウィン議長夫妻は午後6時30分周恩来首相と広東省幹部を招きレセプションを行なった。なおレセプション終了後の午後8暗から,ネ・ウィン議長は周首相らと非公式の夕食をとった。 ネ・ウィン議長は中国訪問中の中国側の好意に感謝するあいさつを行ない。われわれもまた中国首相ら中国の友人を同じように歓迎する機会をもちたいと述べた。
DIA-211-1971-08-12-1ミャンマー1971年08月12日1970年代ネ・ウィン議長一行は,中国時間午前11時,周首相らに見送られて広東を出発,午後12時30分ラングーンに帰着した。
DIA-211-1971-08-19-1ミャンマー1971年08月19日1970年代南東軍区Kya-in Seikkyiの第32ビルマ連隊基地が,ウーヌー派とヤミ商人の援助で持ち込まれたバズーカ砲を用いた,Oliver(Plah Kho)に率いられた100人余のKNUF兵に攻撃された。政府兵5人が戦死,武器輸送車1台がバズーカで破壊された。反政府兵は3人の死者を残し撤退した。
DIA-211-1971-08-21-1ミャンマー1971年08月21日1970年代ネ・ウィン議長は計画党中央執行委員,革命評議会員,閣僚,州評議会員,副閣僚,党本部書記,各省幹部,革命評議会諮問会議メンバーらを集め,国家連帯,新憲法などについて要旨次のように演説した。 国家連帯のためには,各州出身者からの提言が望ましい。また各州評議会からの提案が積極的になされるべきである。 憲法を作ることは重要であるが,それと同時に憲法を支える様々な法規がなければれらない。それも人々の意見を取入れ,憲法の原則に一致した形で作成されねばならない。これらの点についてこの会合で,討議してもらいたい。
DIA-211-1971-08-22-1ミャンマー1971年08月22日1970年代中央協同組合結成委員会議長Bo Lay博士は,消費者協同組合と消費者大衆に対し,私営商人の活動を監視するよう次のように警告した。 すなわち商人は今月に入り協同組合活動妨害のために動きはじめている。商店の賃貸料を値上げ,食用油商による価格操作,小規模商店の増加などがラングーンでみられる。 私営商人は非統制物資の取扱いを許されているが,彼らは大規模な外国人企業家による操作から免れていなければならない。もし彼らが卸売をやろうとすれば,登録が必要であり,また協同組合商品交換所でそれをやらねばならない。
DIA-211-1971-08-31-1ミャンマー1971年08月31日1970年代ラングーン:計画党と中央人民評議会は,1971-72年度,全国に600カ所で米その他農産物買付所を設置し,村落農協が買付を実施する計画を決めた。 村落農協のメンバーのために,可能な地域ではメンバーから買付けたと同じもみ米を貯蔵しておく準備がなされている。またもみ米販売代金の一部は協同組合員の間に,農産物に対する部分支払いとして配分される。このほか政府は倉庫建設に援助を与える。 第1商業公社はもみ米と農産物の買付用に協同組合に融資を行なう。同公社はまた買上げ米の精米に責任をもつ。
DIA-211-1971-09-02-1ミャンマー1971年09月02日1970年代ネ・ウィン議長は8月25日から本日まで,上ビルマを視察した。
DIA-211-1971-09-04-1ミャンマー1971年09月04日1970年代ラングーン:司法・内務・行政民主化・宗教・移民・国民登録相Kyaw Soe大佐は,英国での病気治療を終え帰国した。
DIA-211-1971-09-05-1ミャンマー1971年09月05日1970年代ラングーン軍区工業監督委員会からの公式チームは,同軍区の1971-72年繊維計画のための詳細を調整するために,Hlaing労働者評議会事務所で同地区の繊維工業家達と会見した。54のメリヤス工場,6のタオル工場,21の織物工場の代表者が会合に出席した。 メリヤス工場所有者たちは,計画当局は大型サイズのシャツ450万点を製造することを予定しているが,この大型シャツは18工場のみが製造能力をもち,この場合残りの40工場は中小型の製造能力しかないので,仕事を得ることができず,約500人の労働者が職を失なうことになると指摘した。彼らは中小型製造タイプの工場31が昨年から閉鎖されていることを指摘し,それらを今年もまた製造計画からはずすのは不公平であると述べた。彼らによれば,昨年職を失なった370人の労働者はこれまでにまだ職を得ていない。 タオル工場所有者たちは,1971-72年の生産計画たるタオル20万本は,1工場が1カ月で製造しうる量であると述べた。これでは16工場の200人余の労働者が職を失なうことになるという。 織物業者たちは,役人たちに,彼らが第5商業公社との交渉で直面している諸困難の解決を助けるよう要望した。しかし彼らは1971-72年の計画は彼らの職を保証すると述べた。 職を失なうことになる労働者代表は役人に彼らの救済を要求した。彼人たちは善処を約した。
DIA-211-1971-09-06-1ミャンマー1971年09月06日1970年代ラーグーン:Maung Lwin 商業・協同組合相は第1商業公社地域マネジャー会議長終日に演説し,農産物買付け,商品移動などについて要旨次のように述べた。 農産物生産を増加させるために農産品価格の引上げを主張する者が多かったが,私営業者の投機などを考えると,そうすることは容易なやり方ではない。 ビルマの消費物価は他国に比して決して高くない,牛肉,薬などそうである。しかし問題は商品が常に入手しうるわけではないということにあり,それは流通上の欠点による。 いくつかの農業物価は引上げられるかもしれないが,それが農民に農業生産を高めさせる刺激として使われるべきではない。むしろ農機具や融資を農民が必要とする時に与えられるように努めるべきである。 来年の国内消費用の米は協同組合により取扱われ,商業公社は輸出用米を取扱かう。 一部の精米工場は米をでたらめに精米しており,品質が悪化し,消費にも適さない。 米買付について,一部の職員は融資を適切に貸出していず,米買付用の金を私消している。村落治安委や土地委員会が買付所の会計を検査すべきである。 協同組合計画について,商業公社職員の間には,協同組合の発展により,彼らの職が奪われるのではないかとの印象がある。これは正しくない。私営セクターが保有している商品の流通に障害があり,もしそれらの商品が協同組合により取扱われるならば,そこに改善がみられよう。
DIA-211-1971-09-10-1ミャンマー1971年09月10日1970年代1964-65年から1970-71年までに全国でモンスーンおよび冬期耕作融資と収獲期融資が,総計10億8000万チャット支払われた。融資は村落農業銀行を通じて支給された。 総計のうち2億68000万チャットが返済されていない。 農業銀行は1969-70年冬期耕作触資として1330万チャットを支払い,このうち89.3%が返済された。同年収獲期融資として支払われた1660万チャットのうち,95.1%が返済された。 1970年のモンスーン耕作融資は合計1億1600万チャットで,うち82.49%が返済され,冬期耕作融資1460万チャットのうち55%が返済された。収獲期融資2150万チャットのうち83%が返済された。 1971年モンスーン期には耕作融資1250万チャットが支払われた。 村落農業銀行に加入する農民は1株5チャットの株を買わねばならず,融資のうち1%を貯蓄せねばならない。 村落農業銀行の保有する株と貯蓄の額は現在8000万チャットを上回った。
DIA-211-1971-09-20-1ミャンマー1971年09月20日1970年代革命政府は9月20日付で,革命評議会員兼蔵相・国家計画相のサンユ准将をビルマ政府副首相に任命した。
DIA-211-1971-09-22-1ミャンマー1971年09月22日1970年代1971年度補正予算支出法が革命評議会議長により承認された。  各省・部局 4,124,730 州 2,607,600 局,公社等 120,588,890
DIA-211-1971-09-23-1ミャンマー1971年09月23日1970年代1971-72年予算発表さる(参考資料参照)。
DIA-211-1971-09-23-2ミャンマー1971年09月23日1970年代ラングーン発:国家計画省は9月21日付で,第1回党大会で採択された経済計画ガイドラインにもとづく経済計画の達成のために,各段階の委員会を結成した。 委員会は中央,郡区,村区/町/地区,工場/事務所に結成された。委員会は経済計画達成のため必要な場合,作業委員会を結成する。 中央委員会は中央治安委議長に率いられ,副国家計画相,中央治安委副議長を副議長とし,計画党中央委員会本部代表7名,中央人民農民評議会,中天人民労働者評議会,中央土地委員会,中央協同組合評議会からの代表各2名,各省副大臣,次官,6軍区司令官をメンバーとして構成される。 郡区および村区/町/地区委員会は当該治安行政委議長に率いられ,党,人民農民評議会,人民労働者評議会,土地委員会,協同組合,政府任命委員をメンバーとする。 事業所マネージャーは工場/事務所委員会の議長に任命され,党,農民評議会,労働者評議会,協同組合,政府任命委員が委員となる。
DIA-211-1971-09-24-1ミャンマー1971年09月24日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長は計画党中央委員会第2回臨時会議で演説,国際通貨危機の原因などについて説明するとともに,党員か国家予算など経済問題をよく勉強すべきであると述べた。また中国訪問について次のように述べた。 周首相との会談で,周首相がまずビルマを受入れてくれるなら,援助を再開したいと述べ,われわれはそれを受託した。そこで私は,両国の友好のために,1967年の事件で被害を受けた中国人のためにわれわれが何をなすべきかについて助言を求めた。これに対し周首相は,ビルマは独立国として独自に適当な策をとれると答え,また中国人技師の死についてはビルマ側が心配することはない,それは中国政府が配慮する,とつけ加えた。 周首相はさらに華僑に対する政策を説明し,華僑資本家による搾取は認めない,また華僑が二重国籍をもつことも認めない,と語り,1世代あるいは2世代その国に住む中国人や混血中国人は,彼らが望む場合,その国の法律にもとづき市民権を与えられることが好ましいと述べた。
DIA-211-1971-09-25-1ミャンマー1971年09月25日1970年代ビルマ社会主義計画党中央委員会は新悪法起草のために97人からなる委員会を結成させた。委員会は1973年8月に新憲法草案を中央委員会に提出する。 また委員会議長はサンユ准将である。メンバーには軍幹部,各階級,民族代表,政治経験者,法律専門家が含まれている。 なおネ・ウィン計画党中央委員会議長は同夕,党中央委員らを招き夕食会を行なった。
DIA-211-1971-10-01-1ミャンマー1971年10月01日1970年代新駐ビルマ米国大使Edwin Webb Matin氏,ネ・ウィン議長に信任状提出。
DIA-211-1971-10-02-1ミャンマー1971年10月02日1970年代ラングーン:ポドゴルヌイ・ソ連議長は,2日間の予定で午後3時50分当地に到着した。ネ・ウィン議長,サンユ副首相,ラーハン外相らが出迎えた。なおポドゴルヌイ議長には,マズロフ政治局員,カッシェフ党中央委書記,ノビコフ中央委員,スカチコフ党中央委員(閣僚会議対外経済関係委議長),ソロコフ党中央委員(第1副国防相:大将),グリシン副貿易相らが随行している。 ネ・ウィン議長夫妻は,同夕,インヤレークホテルでポドゴルヌイ議長らを招き夕食会を開いた。ネ・ウィン議長,ポドゴルヌイ議長がそれぞれ,あいさつの演説を行なった。 ポドゴルヌイ議長はとくにビルマ・ソ連の友好関係を強調するとともに,ビルマ社会主義計画党が大衆の党へと発展していることを称賛した。 またこの日,ネ・ウィン議長ポドゴルヌイ議長が出席し,両国の公式会談が行なわれた。
DIA-211-1971-10-02-2ミャンマー1971年10月02日1970年代新憲法の起草委員会は,大衆に対し,新憲法起草に関する諸提案を,12月31日までに同委員会に送るようにアピールを発した。
DIA-211-1971-10-02-3ミャンマー1971年10月02日1970年代ラングーン:ポドゴルヌイ議長一行は本日午後0時35分,当地を出発した。
DIA-211-1971-10-05-1ミャンマー1971年10月05日1970年代ネ・ウィン議長夫妻,英国に向け,健康診断のため出発。
DIA-211-1971-10-07-1ミャンマー1971年10月07日1970年代ラングーン:ビルマ,中国両政府は,1961年1月9日の経済.技術協力協定を継続させることで合意に達した。この旨の書簡が本日国家計画省でMaung Lwin副国家計画相と陳慶源大使との間交換された。 合意によれば協力協定の未実行分は2億7000万チャットで,その利用期限は1975年9月末まで延長されることになる。また借款の返済は1980年10月から1990年9月の間に分割払いでなされ,無利子である。なお今後の協定内容実施については,中国代表団がラングーンを訪問して協議する。
DIA-211-1971-10-09-1ミャンマー1971年10月09日1970年代ラングーン:インド・ビルマ国境画定作業討議のため,調査局長Hla Aung大佐らがインドに向け出発した。
DIA-211-1971-10-10-1ミャンマー1971年10月10日1970年代人民銀行農業融資部の指示によれば,今年12月31日までに全国1万以上の農業銀行を通じて,3780万チャットの冬期耕作融資が支給される。村落銀行のない場所では農協,両者ともないところでは土地委員を通じて支給される。返済保証をするために,集団保証制度により支給される。 各農民への融資額は500チャット以内とし,旧融資を返済していないものには新融資はなされない。 県治安委が融資支払いに責任をもつ。各品種へのエーカー当り融資額は次のとおり。 ガリク=125チャット,バージニアたばこ=80,ポテト=75,玉ねぎ=75,ビルマたばこ=60,唐がらし=50,米=25,小麦=20,メイズ=10,豆類=10.
DIA-211-1971-10-10-2ミャンマー1971年10月10日1970年代ラングーン:通商評議会執行委員U Thein Maungに率いられたビルマ貿易代表団,広東交易会に向け出発。
DIA-211-1971-10-14-1ミャンマー1971年10月14日1970年代ラングーン:タイ外相代理サンガ・キチカチョン警察少将一行,午後5時10分ラングーンに到着。 ラーハン外相らが空港に出迎えた。サンガ外相代理は同夕6時30分,外務省にラーハン外相を訪問した。同夕7時40分,ラーハン外相主催夕食会が開催された。
DIA-211-1971-10-14-2ミャンマー1971年10月14日1970年代ラングーン:新憲法起草委員会,サンユ准将を議長として,第1回会合を開く。 サンユ准将が開会演説を行なった。その要旨は次の通り。 本委員会は大衆の意志を反映しつつ,憲法草案を起案する。 本委員会は2年間で最終草案を起草し,1973年8月に計画党中央委員会に提出する。 委員会はまず第1次草案を起草し,党中央委員会の承認を求め,党中央委は草案を大衆に提示する。委員会は大衆の批判を参考にして第2次草案を起草し,再び党中央委に提示する。と同様にしてまた第3次草案が起草される。 この第3次草案が1973年8月に党中央委に提出される。党中央委はそれを革命評議会に提出し,革命評議会は人民の承認を得て,新憲法を公布する。 委員会は憲法の原則として,民族の連帯,人間による人間の搾取の廃止などを守るとともに,次の原理にしたがわねばならない。 (1)社会主義を国家の目標とする。 (2)社会主義経済制度を国の経済制度とし,その制度を守るための諸法を制定する。 (3)国家は社会主義民主主義の基礎のうえに組織される。 (4)全民族は平等に共存する。 (5)労働大衆は民主的,個人的権利を享受し,国家へのその義務が規定される。 (6)その他社会主義民主主義国家創設に必要な諸条項が規定される。
DIA-211-1971-10-15-1ミャンマー1971年10月15日1970年代ラングーン:タイのサンガ外相代理は,午前8時サンユ副首相を訪問,会談した。また同9時30分,タイ外相一行はラーハン外相を訪問,会談した。
DIA-211-1971-10-15-2ミャンマー1971年10月15日1970年代新憲法起草委員会は,地方・州の民衆の意見を求めるために,閣僚を長とする15の視察チームを結成,地方に派遣することにした。Hla Han大佐,Thaung Kyi大佐,Kyaw Soe大佐,San Yu准将,Than Sein大佐,Sein Win准将がチームを率いている。
DIA-211-1971-10-18-1ミャンマー1971年10月18日1970年代ラングーン:1970-71年には合計363の協同組合米買付所が開設され,1971年8月末までに,9140万バスケットが買上げられ,第1商業公社(農産品)に提供された。 第1商業公社は各協同組合買上所に3人の労働者を派遣した。各買付所は100バスケットにつき15チャットの手数料をかせいだ。 第1商業公社は協同組合が買付所を開けない場所にのみ独自の買付所を開設した。協同組合は今年から米の貯蔵,精米,集配をも行なう。第1商業公社は輸出に集中する。
DIA-211-1971-10-18-2ミャンマー1971年10月18日1970年代ラングーン:中国対外経済関係省のYenChia-hua部長に率いられた9人の中国経済調査団が本日ラングーンに到着した。空港にはビルマ側関係者,陳駐ビルマ大使らが出迎えた。
DIA-211-1971-10-19-1ミャンマー1971年10月19日1970年代ラングーン:中国経済調査団一行は,この日,国家計画省にMaung Lwin副大臣,外務省にHla Han外相をそれぞれ訪問,会議した。 なおHla Han外相は同夕,中国代表団を招き夕食会を開催した。Maung Lwin商業相,陳中国大使らが同席した。
DIA-211-1971-10-19-2ミャンマー1971年10月19日1970年代ラングーン発NAB:ビルマ政府と日本政府は8月4日ラングーンで,ビルマの沿海石油開発のために36億円に達するアンタイドローン協定についての覚え書きを交換した。 これにつづいて,10月13日,東京で海外経済協力基金とミャンマ石油公社が借款に関する協定に調印した。この協定では,沿海石油開発のための施材とサービスは国際入札によりどの国からも購入しうる。返済期間は7年すえおきで25年間,利子3%。
DIA-211-1971-10-21-1ミャンマー1971年10月21日1970年代ラングーン:中央治安行政委員会議長チョーソー大佐は,第7回治安行政委訓練セミナーで演説し,治安行政はビルマ社会主義建設に至る過程で,政府機構と人民の間をつなぐ接点の役割を果すべきである,と強調した。
DIA-211-1971-10-23-1ミャンマー1971年10月23日1970年代ビルマ社会主義計画党財政・国家計画委員会は,ビルマ社会主義計画党中央委員,中央人民労働者評議会員,中央人民労働者評議会員,経済計画達成中央委員会員と会見し,経済計画について説明した。 このなかで20カ年経済計画が1973年1月から9月の間に策定されること,第2次5カ年計画(1975-76~1978-79)が1975年9月までに最終的に決定されることが,明らかにされた。また年次経済計画を含む経済計画の作成手続きが説明された。 さらに経済計画を達成するための各レベルの委員会構成と権限なども説明された。なお各段階とも経済計画達成委員会議長は各段階の治安行政委議長により占められる。
DIA-211-1971-10-26-1ミャンマー1971年10月26日1970年代Mohnyin:約30人の反政府兵が午後7時30分頃,この町のAungthabye地区が守備についた民兵隊を攻撃,8人の民兵隊員と民間人1人を殺した。
DIA-211-1971-10-29-1ミャンマー1971年10月29日1970年代Myitkyina:San Yu計画党書記長に率いられた新憲法起草委の小委員会は,当地でこの地方の労働大衆398人を集め,新憲法への意見を聴取した。
DIA-211-1971-11-01-1ミャンマー1971年11月01日1970年代ラングーン:第1回アフロ・アジア卓球大会に参加するビルマ代表団,北京に向け出発。
DIA-211-1971-11-02-1ミャンマー1971年11月02日1970年代ラングーン:San Yu准将に率いられた新憲法起草委チームは,10月27日からBhamo,Miitkyina,Mogaung,Mohnyin,Putaoを訪問,人民代表から新憲法に関する意見を聴取,本日ラングーンに帰った。
DIA-211-1971-11-03-1ミャンマー1971年11月03日1970年代Pegu:Kyaw Soe大佐に率いられた新憲法起草委チーム,Pegu,Kawa,Waw各郡の労働大衆代表と会見,新憲法への意見を求めた。
DIA-211-1971-11-03-2ミャンマー1971年11月03日1970年代Kyaikto:Sein Win准将に率いられた新憲法起草委チーム,当地で人民代表と会見。
DIA-211-1971-11-04-1ミャンマー1971年11月04日1970年代Kyaukme:ラーハン大佐に率いられた新憲法起草委チーム,当地に到着。
DIA-211-1971-11-04-2ミャンマー1971年11月04日1970年代Paletwa:Than Sein大佐に率いられた新憲法起草委チーム,当地で人民代表から意見聴取。
DIA-211-1971-11-06-1ミャンマー1971年11月06日1970年代Mandalay:San Yu准将に率いられた新憲法起草委チーム,当地で近郊からの1,000人の人民代表を集め,憲法への意見聴取。
DIA-211-1971-11-07-1ミャンマー1971年11月07日1970年代ラングーン:商業・協同組合相Maung Lwin大佐に率いられたビルマ通商代表団,北京に向け出発。
DIA-211-1971-11-07-2ミャンマー1971年11月07日1970年代Pyapon:本郡の党支部で第1商業公社から協同組合に対し,米買付手数料が支払われた。Pale,Thon-htatなど4カ村の村落農協買付所は,33万1200バスケット分の米に対し2万2046チャット,またKyonguなど6カ村の協同倉庫は33万1438バスケットに対して1万7844チャットを受取った。
DIA-211-1971-11-12-1ミャンマー1971年11月12日1970年代Pyinmana:San Yu准将に率いられた新憲法起草委チーム,当地での大衆集会に出席。
DIA-211-1971-11-12-2ミャンマー1971年11月12日1970年代ラングーン発NAB:10月の最後の週にインドのDehradunで,インド・ビルマ両国代表は,1968-69年度に画定された250マイルの両国国境の最新地図を確認した。
DIA-211-1971-11-13-1ミャンマー1971年11月13日1970年代北京:商業相 Maung Lwin大佐に率いられた6人のビルマ貿易代表団,当地に到着。
DIA-211-1971-11-14-1ミャンマー1971年11月14日1970年代ラングーン発:1970年協同組合計画にもとづき10月末までに,全国で2,587の協組が設立された。うち1,908が消費者組合,77が生産者組合,573が信用組合,24が郡区組合,その他5となっている。
DIA-211-1971-11-16-1ミャンマー1971年11月16日1970年代ラングーン:中央人民労働者評議会第7回大会開催。 Maung Shwe大佐が開会演説を行ない,評議会メンバーが政治,経済,社会,評議会の諸問題などについて,積極的に討議を展開し,実際的な問題解決策を見出していくよう要求した。 170ページの中央執行委員会報告が提出された。報告は組織,生産,規律,福祉,将来の課題の5章からなり,その要旨は次の通り。 組織:結成以来4年を経るが,なお活動の調整が欠けている。活動の安定が望まれる。初級,郡区,中央の各評議会間の調整が不足している。郡区委員会は評議会全メンバーの活動を利用しえず,専任メンバーと雇用員にのみ頼っている。 また初級,郡区レベルで必要な生産的仕事を行なう場合,人手不足が問題となっている。また資金も問題である。 さらに評議会内部での団結にも問題がある。 団結が乱される評議会は,経済的事業を行なっているものに多い。この場合集団指導が個人指導に道をゆずり,衝突が出てくる。 生産:国有分野では工場数は減少したが,政府による新建設,合併などの効果により,生産は改善された。国有工場のために,原材料の確保,機械・部品の確保に重点がおかれた。困難は前年より減少した。国有化工場の組織改善がなされれば,生産はさらに増強されよう。 政府の社会主義計画により,1963年,1968年,1969年に,いくつかの私企業が国有化された。これらの工場での経営はまだ十分確立されていない。労働者対策も不安定である。そしていくつかの工場は操業を停止している。また非国有化企業でも経営委員会や労働者組織によって運営されている企業がある。こうした企業の運営について適切な指示が与えられるべきである。 必要な登録なしに操業している小規模私営企業が増大していることを重視する必要がある。これらの企業のために労働者の職が増加していることは真実であるが,労働者は社会主義的な保護を与えられねばならない。これらの企業を監督し,法に違反せぬ形で操業を続けられるようにすべきである。 合同協議委員会(JCC)は284結成されたが,経営側も労働者もその役割を十分知らないでいる。 規律:労働規則に対する最もひんぱんな違反は,理由なき欠勤,遅刻,汚職である。評議会は労働者を教育せねばならない。また罰則の公平な適用とともに,工場財源を守る措置を強化せねばならない。 労働者福祉:昇進に関して労働者の不満がある。これは明確な規準がないためである。財務省は臨時労働者の常雇い化について指示を出した。しかし全ての省で実行されたわけではない。10年以上も臨時雇いのものがいる。 商業省雇用者が協同組合省に配転となる際,事務系のみが配転となり,商業局店員たちは移されず,一方業務は協同組合にとり代わられつつあるので,その将来が不安定となっている。 労働者評議会の専従となった場合,旧職場への復帰昇進等で不利にならないようすべきだ。 財政委員会から労働者評議会の基盤強化のために会員から会費を徴収する計画が大会に提出された。これによると1972年4月から評議会メンバーは年所得に応じて,最低0.25チャットから13チャットまでの会費を支払うことになる。 なお大会は代議員討議の後24日閉会。
DIA-211-1971-11-19-1ミャンマー1971年11月19日1970年代北京:ビルマ・中国,通商.借款協定調印。Maung Lwin商業相と白相国対外貿易相が調印した。また李先念副首相も調印式に出席した。 なおMaung Lwin大佐は,この日郭沫若氏と会見した。
DIA-211-1971-11-24-1ミャンマー1971年11月24日1970年代ラングーン:San Yu准将に率いられた新憲法起草委チームは,ラングーン第7地区の住民との対話集会に出席した。席上San Yu准将は,政府の9カ年にわたる攻勢により,デルタ,ペグー山系,北部7州の状況は著しく改善されたと述べ,また武器の国産化が進められた結果,国軍はいまや内外の敵に対応しうると指摘した。
DIA-211-1971-11-26-1ミャンマー1971年11月26日1970年代第7回中央労働者評議会最終日。 中央執行委員会から代議員の発言に対するさまざまな回答が行なわれた。 Maung Shwe議長が閉会演説を行ない,新憲法起草,経済計画等を説明するとともに,内部の破壊分子の活動に警戒するよう述べた。 大会はまた次の諸決議を採択した。 (1)執行委報告を承認す。 (2)労働者評議会員は新憲法起草に積極的に参加する。 (3)経済計画に積極的に協力する。 (4)各段階の労働者評議会を社会主義原則に合致させるよう再組織する。 (5)評議会活動のためにメンバーがより多くの力を集中させる。 (6)先の資金計画を修正つきで採択する。 (7)破壊分子の摘発を進める。 なおサンユ准将は,大会出席者のためにこの日夕食会を行なった。
DIA-211-1971-11-27-1ミャンマー1971年11月27日1970年代Kalaw:Pinmi村で,共産軍とシャン諸民族解放戦線の活動を非難する大衆集会。 なおシャン諸民族解放戦線は1968年6月に,それまでのPa-O解放戦線(1966年12月,Saya Theinが設立)が再組織されたもの。
DIA-211-1971-11-28-1ミャンマー1971年11月28日1970年代ラングーン:副国家計画相Maung Lwin大佐,インヤレーク・ホテルで,訪問中の中国経済使節団員を招き夕食会を開いた。
DIA-211-1971-11-29-1ミャンマー1971年11月29日1970年代ラングーン:中国経済使節団帰国。なおビルマに1カ月半滞在。
DIA-211-1971-11-30-1ミャンマー1971年11月30日1970年代ラングーン:ソ連のグリシン副貿易相は12月1日開催のソ連商工展覧会出席のため到着。1週間滞在の予定。
DIA-211-1971-12-01-1ミャンマー1971年12月01日1970年代ラングーン:ソ連商工展開く。
DIA-211-1971-12-01-2ミャンマー1971年12月01日1970年代ラングーン:チェコのHruza副外務相,3日間の予定で到着。
DIA-211-1971-12-03-1ミャンマー1971年12月03日1970年代ラングーン:ソ連のグリシン副貿易相一行,Maung Lwin商業・協同組合相を訪問。
DIA-211-1971-12-05-1ミャンマー1971年12月05日1970年代Loikaw:Taunggyiから当地に向ったバスが,当地から25マイルの地点で60人の反政府兵に攻撃され,乗客5人が死亡,16人が負傷。
DIA-211-1971-12-06-1ミャンマー1971年12月06日1970年代ラングーン発:San Yu副参謀長は12月4日ラングーンを出発,ラシオを訪問,Sein Mya戦略司令官らと会談,5日には第77軽歩兵師団本部を訪問Paul Tun Shein司令と会談,5日夕刻ラングーンに帰着した。
DIA-211-1971-12-06-2ミャンマー1971年12月06日1970年代Lashio発12/9:7日午前5時半頃,Nampawng副郡区Manse村が約200人の反政府兵により攻撃された。民兵隊は抗戦したが5人の死者を前に撤退し,反政府兵は村を掠奪,放火,205人の村人が家を失ない,多数が負傷した。
DIA-211-1971-12-08-1ミャンマー1971年12月08日1970年代東京:ネ・ウィン議長,佐藤首相を訪問,1時間会談。この会談でビルマに対し,日本はプロジェクトと商品で約7000万ドルの円借款を与えることが決ったといわれる。
DIA-211-1971-12-10-1ミャンマー1971年12月10日1970年代ネ・ウィン議長夫妻帰国。
DIA-211-1971-12-12-1ミャンマー1971年12月12日1970年代ラングーン:ミャンマ石油公社は今会計年度中に,701の既存の油井と新油井から740万バレル(米)の原油を生産する計画である。 この目標は1970-71年の620万バレルの実積を19.5%上回る。
DIA-211-1971-12-13-1ミャンマー1971年12月13日1970年代ラングーン:中央経済計画達成委員会第3回会議が,Kyaw Soe大佐を議長として開かれた。郡区経済計画達成委結成状況,郡区の農作計画,原料配分のため全工業企業の登録問題などが討議された。
DIA-211-1971-12-18-1ミャンマー1971年12月18日1970年代ペグー:当地で1,000人の労働者が集り,29人の労働者を解雇したSetkyaタバコ工場の経営者を非難する集会を開いた。
DIA-211-1971-12-25-1ミャンマー1971年12月25日1970年代ビルマ政府,チャット貨を12月27日より切下げると発表。新レートは次の通り。
DIA-211-1971-12-27-1ミャンマー1971年12月27日1970年代ラングーン:San Yu准将は新憲法起草委の15のチームが,最近の地方訪問中に,10万5000人以上の労働者大衆と会合をもち,3,458人の人民代表から意見を聞いたことを明らかにした。 また3,458人のうち,813人が統一国家を提案,50人が統一国家内の地域自治,15人が統一国家内の民族自治,63人が現行制度,111人が連邦制度を提案したことを明らかにした。
DIA-211-1971-12-27-2ミャンマー1971年12月27日1970年代ラングーン:中国から7人のメンバーからなる軽工業品調査団が到着した。万年筆,ボールペンなどの専門家を含んでいる。
DIA-211-1972-01-01-1ミャンマー1972年01月01日1970年代ラングーン:工業省は1965年経済社会主義化法にもとづき,ラングーンその他の町々の69の工場を国有化した。繊維工場7,食品工場45,化学工場8,金属工場3,機械工場1,その他5工場が国有化された。
DIA-211-1972-01-02-1ミャンマー1972年01月02日1970年代ラングーン発:労働・工場法監督局は,12月31日までに全国に736の労働者福祉委員会を結成した。メンバーは27万9667人。
DIA-211-1972-01-17-1ミャンマー1972年01月17日1970年代Pa-an:連邦記念日のための連邦旗リレーが開始され,今日ラングーンから当地に空路連邦旗が運ばれてきた。
DIA-211-1972-01-18-1ミャンマー1972年01月18日1970年代ラングーン:昨年ビルマには1万3223人の観光客が訪れ,うち1万1192人が7日間の滞在ビザを十分に利用した。またアメリカ人が最も多く,次に日本人,ドイツ人,英人,オーストラリア人,スイス人,イタリア人の順となっている。
DIA-211-1972-01-19-1ミャンマー1972年01月19日1970年代Toungoo:本県Htantabin郡Zayatgyiの警察派出所が約100人の共産軍により早朝攻撃された。しかし警察軍の抵抗により協同組合店の物資などを奪って去った。子供3人が負傷した。
DIA-211-1972-01-22-1ミャンマー1972年01月22日1970年代ラングーン:Thaung Kyi中央農民評議会議長は,中央政治学校での農民問題研修コース終了式での演説で,過去5年間に7454人の農民中核幹部が19の研修コースで訓練を終えたことを明らかにした。 また,現在232の郡区農民評議会,31の同組織委員会,1万0116の村落農民評議会が結成ずみで,23郡にまだ郡区評議会や同組織委がない,と述べた。
DIA-211-1972-01-25-1ミャンマー1972年01月25日1970年代ラングーン:西独政府代表団とビルマ政府は,4500万ドイツ・マルクの西独資金援助を両国が合意する諸計画に可能な限り早く利用する旨の合意覚え書きに調印した。覚え書きは西独代表団長Sohn博士とMaung Lwin副国家計画相の間で調印された。 覚え書きでは,また技術援助として,西独が①ビルマの工業計画のフィージビリティ調査費を支出すること,②工業技術訓練センター設立に援助すること,③Hermyingyi鉱開発用と,Bawdwin鉱改良テストのための外貨コストを負担すること,④2年間にわたり鉱物資源開発専門家の派遣を延長すること,が取り決められた。
DIA-211-1972-01-25-2ミャンマー1972年01月25日1970年代ラングーン:7人の中国軽工業調査団,空路帰国の途に。彼等は12月27日に到着,ラングーンのほか,マンダレー,Nyaung-Uなど視察した。
DIA-211-1972-02-01-1ミャンマー1972年02月01日1970年代ラングーン:日本・ビルマ航空協定調印。
DIA-211-1972-02-10-1ミャンマー1972年02月10日1970年代ラングーン:第25回連邦記念日。式典がチャイカサン・ホールで開かれた。ラーハン大佐が開会演説を行ない,連邦諸民族の団結を強調した。次にMaung Aye中佐が,諸民族の経済,文化的発展の方策について述べた「報告書」を提出した。この報告書について,18人の代議員が見解を発表した。
DIA-211-1972-02-11-1ミャンマー1972年02月11日1970年代ラングーン:チャイカサンホールでは,連邦記念日式典が続行され,13人の代議員が発言,その後ラーハン大佐があいさつを行ない閉会した。 なお,ネ・ウィン議長は政府高官らを招き,連邦記念日夕食会を開いた。 また,リレーされていた連邦旗はこの日,ペグーからラングーンに到着した。
DIA-211-1972-02-12-1ミャンマー1972年02月12日1970年代ラングーン:チャイカサン広場で10万人以上の労働大衆が集まり,連邦記念日記念集会が開かれた。ネ・ウィン議長のメッセージが発表された。諸民族の平等,人間の搾取の廃止を基本とする新憲法の起草が全民族の参加にもとづいて進められていることが強調された。 また,ラーハン大佐が革命評議会を代表して記念演説を行なった。
DIA-211-1972-02-16-1ミャンマー1972年02月16日1970年代ラングーン:マレーシアのラザク首相,ネ・ウィン議長の招きで非公式訪問のため到着。空港にはネ・ウィン議長らが出迎えた。
DIA-211-1972-02-16-2ミャンマー1972年02月16日1970年代ラングーン:Maung Shwe工業・労働相,日本親善工業展を訪問。
DIA-211-1972-02-18-1ミャンマー1972年02月18日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長はラザク・マレーシア首相のために夕食会を開いた。
DIA-211-1972-02-19-1ミャンマー1972年02月19日1970年代ラングーン:・ラザク・マレーシア首相帰国。ネ・ウィン議長が見送った。
DIA-211-1972-02-20-1ミャンマー1972年02月20日1970年代ラングーン発:インド軍のPaintal准将とビルマのHle Aung大佐(調査局長)に卒いられたチームが,13日から19日までの間,ビルマ・インド国境の国境画定状況を視察した。
DIA-211-1972-02-20-2ミャンマー1972年02月20日1970年代Mudon発2.21:当地東のKyaikmaraw郡Taungalayで,Saw HtooとMaung Peに卒いられた約100人の反政府兵が警察派出所を攻撃したが,1時間余の交戦後,死者1,負傷4を出し撤退した。警官1人が死亡,7人が負傷。
DIA-211-1972-02-21-1ミャンマー1972年02月21日1970年代ラングーン:工業開発公社は,ジュート生産中心地のBassein,Henzada,Myaungmya,Maubinの各県に織機100台のジュート工場を建設,ガニーバックを製造する計画であり,工場団地の選定が終った。ガニーバックは現在はラングーンのOkkyinで製造されている。
DIA-211-1972-02-21-2ミャンマー1972年02月21日1970年代ラングーン:ビルマ宝石展へのバイヤーの第一陣として,中国からの3人の代表が到着した。
DIA-211-1972-02-23-1ミャンマー1972年02月23日1970年代ラングーン:3月2日の革命評議会結成10周年を記念して,インセイン,マンダレー,モールメイン,バセインその他の刑務所から264人の政治犯が釈放された。 政治犯の所属別内訳は次の通り。アラカン政治各組織=11人,労働者統一党=13人,人民進歩党4人,共産党=50人,赤旗共産党49人,学生44人,労働者21人,その他=11人。 うち著名なものは,共産党のDallah Moota(U Tun Sein),赤旗のThakin Yan Chway,人民進歩党のThakin Khin Aung,アラカン赤旗共産党のBonbauk ThaKyaw,共産党のThakin Zinの妻Daw Kyi Kyi,カレンのMahn Ba Zanの妻Daw Kyi Kyiらである。
DIA-211-1972-02-23-2ミャンマー1972年02月23日1970年代ラングーン:新憲法起草委員会第3回会合開く。サンユ議長は開会演説で,この会合に同委員会の9つの小委員会で検討を終えた,新憲法の第1次草案が提出され,検討に委ねられる,と述べた。1次草案は15章202項からなる。
DIA-211-1972-02-23-3ミャンマー1972年02月23日1970年代ラングーン:ソ連文化相Ekaterina A Furtseva夫人,バンコク経由到着。Thaung Dan情報文化相らが出迎えた。
DIA-211-1972-02-26-1ミャンマー1972年02月26日1970年代ラングーン:新憲法起草委:新憲法第1次草案を採択。
DIA-211-1972-02-27-1ミャンマー1972年02月27日1970年代ラングーン:Myanma石油公社沿海石油開発計画にもとづき,ガルフ石油会社の調査船,Gulf-rexがラングーン港に到着した。 この計画は1971年11月24日,アメリカ大使館が申し出たガルフ石油会社の技術援助計画にもとづくものであり,総経費は100万ドル。
DIA-211-1972-02-27-2ミャンマー1972年02月27日1970年代Toungoo発2.28:Htantabin郡Natywaの警察駐屯所が,Saw Bonnyに卒いられた約100人のKNUP兵に攻撃されたが,2時間の交戦の後,KNUP兵は撤退した。
DIA-211-1972-03-01-1ミャンマー1972年03月01日1970年代ラングーン:インヤレーク・ホテルで第8回ビルマ宝石展開く。
DIA-211-1972-03-02-1ミャンマー1972年03月02日1970年代ラングーン:「農民の日」大衆集会がチャイカサン広場で開かれ,10万人上以上の労働大衆が集まった。 ・ネ・ウィン議長のメッセージがMaung Shwe大佐により代読された。メッセージは農民が農民評議会の強化と農業生産の向上に努力することをよびかけた。 ・Thaung Kyi大佐が革命評議会を代表して演説した。大佐は,農民が組織の強化,生産の向上,特に工業用作物の生産増強,新憲法起草などに積極的に貢献するよう呼びかけるとともに,現在農民評議会メンバーは600万人を越え,郡区農民評議会と同組織委が263,初級農民評議会が1万0116結成されていることを明らかにした。
DIA-211-1972-03-02-2ミャンマー1972年03月02日1970年代Ela発3.4:Pyinmana-Kyaukpadaung線Lewe西6マイルのKantha駅が30人の女性と50人の男からなる反政府軍に攻撃され,駅が焼かれ,駅長宅,協同組合店などが掠奪された。
DIA-211-1972-03-03-1ミャンマー1972年03月03日1970年代Akyab発:政府軍第20ビルマ連隊は2月7日よりビルマ・インド国境のPaletwa郡で,ミゾ反政府軍の掃討戦を開始し,Laungkadu,Pauktoowa,Ohnteewa,Phwelaikwa,Pakarwa,Mwelaikwa,Stinwa,Myitwa,Mawtalan,Shwelaikwaの各村々を解放した。ミゾ軍(約300人)は国境を越えて逃走したといわれる。
DIA-211-1972-03-04-1ミャンマー1972年03月04日1970年代ラングーン:Maung Lwin商業・協同組合相に卒いられたビルマ貿易使節団,英国に向け出発。使節団はEEC諸国も訪問する。
DIA-211-1972-03-05-1ミャンマー1972年03月05日1970年代ラングーン:第8回宝石見本市終る。総売上げは,225万2511・50ドル(1204万4815.43K)。
DIA-211-1972-03-06-1ミャンマー1972年03月06日1970年代ラングーン:新憲法起草委第4回会議。憲法第1次草案を討議。
DIA-211-1972-03-10-1ミャンマー1972年03月10日1970年代ラングーン:日本の鈴木大使とMaung Lwin副国家計画相は,日本が1973年6月までに,日本商品買付けのため,46億2000万円の借款を供与する旨の協定に調印した。返済期間は据置き7年を含む25年,金利年3%。
DIA-211-1972-03-11-1ミャンマー1972年03月11日1970年代Pegu県Shwegyin郡Minlan-Thanzeik村軍駐屯所が「コートレイ民族統一戦線」のゲリラ約350人に攻撃された。攻撃は11日午前3時頃から13時間つづき,ゲリラ側はM-16ライフル,M-79ロケット,無反動ライフルを使用した。約30余人の第57ビルマ連隊からの守備隊は交戦をつづけ,本隊が救援にきたため,ゲリラは撤兵した。政府兵2人,警官2人,子供1人が死亡した。ゲリラ側死者20名と推定されている。
DIA-211-1972-03-11-2ミャンマー1972年03月11日1970年代Akyab3.12発:Warbo村で約100人の共産軍が政府軍小隊を攻撃,政府兵2人が戦死,4人が負傷した。
DIA-211-1972-03-12-1ミャンマー1972年03月12日1970年代Pyu発:Sittang川西岸で13人の警察パトロールが共産党第4常勝中隊約50人に待伏せ攻撃を受け,警官2人が死亡,5人が共産軍に連れ去られた。共産兵はグリーンの制服を着ていた。
DIA-211-1972-03-15-1ミャンマー1972年03月15日1970年代ラングーン:革命評議会は本日付で,ビルマの行政機構の改正を発表,実施に移した。発表内容は要旨次の通り。 第1部:これまでの行政制度はほとんど英領時代のものを継承しており,わが国および各民族の利益に役立たなかった。このため国民の利益に奉仕し,社会民主主義の基礎となり,現在起草中のビルマ新憲法の規定に合致した行政機構の基礎を準備する必要がある。 このため革命評議会は新行政制度を実施し,新行政手続を規定する。 第2部:(a)政府各省は別記のように再組織する。(b)事務局(The Secretariat)は廃止され,関係閣僚がその権限をひきつぐ。 各省の権限は関係する新機構にひきつがれる。行政手続規則は全て新しく改訂される。 第3部:各省の閣僚,副閣僚はその任務を継続する。新しい省は次の通り。
DIA-211-1972-03-15-2ミャンマー1972年03月15日1970年代革命評議会は本日付で次の副閣僚を任命した。 (1)U Aye Maung ─文化省 (2)U Aung Hmi ─労働省 (3)U Chit Maung ─計画・財務省 (4)U Tha Kyaw ─運輸・通信省 (5)Htin Kyaw大佐 ─建設省 (6)Van Kulh大佐 ─社会福祉省 (7)Chit Khin大佐 ─内務・宗教省 (8)Ye Goung中佐 ─農林省 なお,新制度によると,これまでの中央・管区・県・郡・村という制度は,中央・管区・郡・村に改められる。
DIA-211-1972-03-15-3ミャンマー1972年03月15日1970年代ラングーン:Kyaw Soe内務・宗教相,治療のため英国へ出発。
DIA-211-1972-03-16-1ミャンマー1972年03月16日1970年代ラングーン:社会主義計画党中央委員会第3回会議。ネ・ウィン議長が演説を行ない,憲法起草,経済問題,特に協同組合化などへの党員の積極的参加を要求するとともに,行政改革を契機として民衆が政府行政の運営に積極的に参加しうる条件ができたことを強調した。そして今後治安行政委に労働者,農民代表を加える方針を明らかにした。 おお,憲法第1次草案が討議のため会議に提出された。
DIA-211-1972-03-17-1ミャンマー1972年03月17日1970年代ラングーン:社会主義計画党中央委員会第3回会議,第2日:新憲法草案を討議。
DIA-211-1972-03-17-2ミャンマー1972年03月17日1970年代ラングーン:Mayangon地区党支部執行委員会年次報告は,RTBタクシー部では部品不足で503台のMazdaタクシーが運行を停止している,と指摘した。また地区内の住民は大部分月収100チャット以下で生活が苦しく,商業局商店や協同組合から受け取った品物を再販売しなければならなくなっている,しかし彼等をヤミ商人,社会主義の破壊者と呼ぶのは酷である,と述べている。さらに人々のヤミ市場への依存は強まりつつあり,情況は悪化していると警告している。
DIA-211-1972-03-18-1ミャンマー1972年03月18日1970年代ラングーン:社会主義計画党第3回会議,第3日。新憲法草案を討議。なお,ネ・ウィン議長はこの日党中央委員のために夕食会を開いた。
DIA-211-1972-03-18-2ミャンマー1972年03月18日1970年代ラングーン発:全国の301の第1商業公社の協同組合の米買付所は,2月末までに合計1億1000万バスケットの米を買付けた。 なお,イラワジ管区189カ所の米買付所では2月末までに,3660万バスケットの米を買付けている。
DIA-211-1972-03-19-1ミャンマー1972年03月19日1970年代ラングーン:社会主義計画党第3回中央委員会,終了。ネ・ウィン議長が閉会演説を行ない,党員が新憲法草案を国民によく説明すること,また行政改革により党員が行政機構を監視する役割をもつことになったが,従来の官吏および民衆とよく協力しあうように,などを要望した。
DIA-211-1972-03-19-2ミャンマー1972年03月19日1970年代ラングーン:全国の工場,事業所で284のJCC(合同協議委)が結成された。
DIA-211-1972-03-20-1ミャンマー1972年03月20日1970年代ラングーン:ビルマ,バングラデシュ,大使級関係樹立で合意。
DIA-211-1972-03-21-1ミャンマー1972年03月21日1970年代ラングーン:ビルマ・西独,技術協力協定調印。西独がラングーン工科大学に実験用機械設備を提供する。
DIA-211-1972-03-23-1ミャンマー1972年03月23日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長は病気検診のため海外に出発した。革命評議会議長局長Ko Ko大佐,副内務・宗教相Chit Khin大佐が同行した。
DIA-211-1972-03-25-1ミャンマー1972年03月25日1970年代ラングーン:ラーハン外相,インドネシア,マレーシアへの友好訪問に出発。 ジャカルタ:ラーハン外相到着。マリク外相らの出迎えを受けた。
DIA-211-1972-03-26-1ミャンマー1972年03月26日1970年代ラングーン:Thamaingホステルの学生達が午前1時頃インセイン道りのHlaing警察署に押しかけ,放火し,大きな損害を与えた。 事件は前夜,ホステルの一学生が映画館から出たとき,6人の青年により刺されたことに端を発し,このため約600人の学生達が警察に行進し刺した6人の青年の引渡しを求めた。刺した6人はすでに逮捕されlnsein刑務所に入れられていたので,警察は引渡しを拒否,このため放火騒ぎとなった。
DIA-211-1972-03-27-1ミャンマー1972年03月27日1970年代Kyaikmaraw3.28:Kyainseikkyi郡Thanmaya村の警察派出所が約400人の反政府軍に攻撃され,警官5人が負傷,ライフル17丁を奪われた。反政府兵3人が戦死した。
DIA-211-1972-03-28-1ミャンマー1972年03月28日1970年代ジャカルタ:ラーハン外相スハルト大統領を訪問。スハルト大統領は将来のビルマ訪問を約束した。なお,この夕,ラーハン外相はマリク外相らを招き夕食会を行なった。
DIA-211-1972-03-28-2ミャンマー1972年03月28日1970年代Akyab発:3月21日Akyab県Zedipyin郡Kyanpaw Pauktaw村でキャンプ中のYin Hla Seinに卒いられた40人の共産兵に,アラカンの6つの回教系反政府組織の連合軍300人が攻撃をしかけた。攻撃は5時間つづき,Hla Tun Bawに卒いられた50人の別の共産兵がキャンプ救援に到着したため,回教系軍は死者13人を出して撤兵した。共産兵1人が戦死した。 攻撃したのは,ムスリムのZawfirグループ,Abdul Siddiqueグループ,Abdul Zawliグループ,アラカン解放党,Kyaw Zan Hreeのアラカン共産党,および国境外から入ってきた亡命者グループである。なお3つのムスリム系グループと亡命者グループは3月13日Mayu山系で会合し,同盟を決めたが,これにアラカン解放党とアラカン共産党が加わった。
DIA-211-1972-03-29-1ミャンマー1972年03月29日1970年代ジャカルタ:ラーハン外相,マリク外相会談。マリク外相は会談後,両国は今後相互の関係を強化していくことで合意した,と述べた。 なおラーハン外相はバリへ向かった。
DIA-211-1972-03-30-1ミャンマー1972年03月30日1970年代ラングーン発:商務省は中央商業局(Central Trade)を商業局(Trade Department)と名称を変更した。しかし22の商業公社の名称は変更しない。 農林省は,ARDC(農業開発公社)と農業局を農業公社として合併させ,STB(国家林業局)を林業公社,人民真珠漁業局を人民真珠漁業公社と名称を変更した。
DIA-211-1972-03-31-1ミャンマー1972年03月31日1970年代クアラルンプール:ラーハン外相,インドネシアから当地に到着。7日間滞在予定。
DIA-211-1972-04-03-1ミャンマー1972年04月03日1970年代Kwala Lumpur:Hla Han外相,ラザク首相を訪問。両国関係のほか,東南ア中立化問題,ニクソン北京訪問の東南アへの影響などが話し合われた。
DIA-211-1972-04-04-1ミャンマー1972年04月04日1970年代ラングーン:商業・協同組合相Maung Lwin大佐に卒いられた通商使節団,ヨーロッパ訪問から帰国。
DIA-211-1972-04-06-1ミャンマー1972年04月06日1970年代ラングーン発4.7:サンユ准将は4月6日中央軍区東ペグー山系地区Nyaunglebin付近の軍前線陣地を視察した。Tin U中央軍区司令官,軍情報局長Tin U中佐らが同行した。サンユ准将は前線陣地での演説で,ウーヌー派,共産党を激しく非難し,彼等が政府軍と民衆とを離間させるために行なっている宣伝に乗せられぬよう警告した。
DIA-211-1972-04-06-2ミャンマー1972年04月06日1970年代ラングーン:ラーハン外相,インドネシア,マレーシア訪問より帰国。なお外相はクアラルンプールで質問に答え,ビルマはASEANに加入しないとの方針を再確認した。
DIA-211-1972-04-07-1ミャンマー1972年04月07日1970年代ラングーン上空で,午前1時45分頃,ウーヌー派反乱軍がチャーターした飛行機が,政府軍兵士に反乱軍参加を呼びかける宣伝ビラを投下した。同機はタイから飛来したと信じられている。
DIA-211-1972-04-09-1ミャンマー1972年04月09日1970年代ラングーン:モーリシャスのRamgoolam首相,中国訪問の途中2日間の予定でビルマ訪問のため到着。
DIA-211-1972-04-10-1ミャンマー1972年04月10日1970年代ラングーン:サンユ副首相はモーリシャス首相夫妻のために夕食会を開いた。
DIA-211-1972-04-12-1ミャンマー1972年04月12日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長,海外での健康診断を終え帰国。
DIA-211-1972-04-12-2ミャンマー1972年04月12日1970年代政治犯23人釈放。釈放者中には前共産党中央委員“Layhti”Ohn Maungらがいる。
DIA-211-1972-04-14-1ミャンマー1972年04月14日1970年代ラングーン:1970年協同組合計画にもとづき,3月末までに1万745の協同組合が再組織された。このうち1万444が農協である。
DIA-211-1972-04-16-1ミャンマー1972年04月16日1970年代ビルマ正月。
DIA-211-1972-04-16-2ミャンマー1972年04月16日1970年代ラングーン:内務・宗教・司法相Kyaw Soe大佐,英国から帰国。
DIA-211-1972-04-20-1ミャンマー1972年04月20日1970年代ラングーン:ビルマ政府,指導体制を再編成。 (1)ネ・ウィン将軍ら軍を退役。次の軍高官が4月20日付で退官した。 ネ・ウィン将軍,Sein Win准将,Thaung Kyi大佐,Maung Shwe大佐,Kyaw Soe大佐,Than Sein大佐,Hla Han大佐,Maung Lwin大佐,Ko Ko大佐,Maung Lwin大佐,Aung Pe大佐,Sein Mya大佐,Hla Phone大佐,Maung Maung Kha大佐,Htin Kyaw大佐,Chit Khin大佐,Van Kulh大佐,Tun Tin大佐,Thein Aung中佐,San Win中佐,Ye Goung中佐。以上21人。 (2)次の任命と昇進が4月20日付でなされた。 国防軍(陸軍)副参謀長San Yu准将は国軍総参謀長および将軍に任命された。 中央軍区司令官Tin U大佐は,准将となり国防軍(陸軍)副参謀長に任命された。 (3)ビルマ政府は次のように再組織された。 U Ne Win~首相 San Yu将軍~副首相・国防相 U Sein Win~建設相 U Thaung Kyi~農林相 U Shwe~工業・労働相 U Kyaw Soe~外務相 U Than Sein~運輸・通信相 Dr Hla Han~教育・保健相 Thaung Dan准将~情報・文化・社会福祉相 Dr Maung Lwin~商業相 Thaung Tin准将~鉱業相 Dr Maung Maung~司法相 U Ba Nyein~協同組合相 U Sein Mya~内務・宗教相 U Lwin~計画・財務省
DIA-211-1972-04-22-1ミャンマー1972年04月22日1970年代ラングーン:新憲法第1次草案が新憲法起草委書記局より発表された。 新憲法草案は16章210項目からなる。 新憲法第1次草案の内容は参考資料参照。
DIA-211-1972-04-29-1ミャンマー1972年04月29日1970年代革命評議会議長はビルマ全国に1972年センサス法(1972年法律第3号)を公布,施行した。 この法律は政府がビルマ全土でセンサスを行なうために組織を結成し,また人員を雇用し,センサス調査を行なえることにしたものである。この法律ではセンサス調査員はいかなる建物にも入り,人々に質問を行なう権限をもち,人々は質問に必ず答えねばならないことになっている。
DIA-211-1972-04-30-1ミャンマー1972年04月30日1970年代ラングーン:KamayutおよびHlaing地区労働者評議会年次総会に対する地区執行委報告は,地区内の工場生産低下の原因について,それぞれ次のように述べている。 Kamayut地区内では,ビスケット諸工場は年間生産目標150~185万チャットに対し,120万チャット分しか生産できなかったが,原因は原料不足ではなく,包装紙の不足であった。また小麦の供給は問題がなかったが,品質は古く,悪かった。 UnionとShwe Nagaボタン工場は原料不足のため閉鎖されたことになっているが,本当の原因は,第6商業公社が1000万ダース以上ものナイロンボタンの在庫をかかえていたことにあった。しかも民衆はヤミ市場で高値のタイ製ボタンを買わねばならない状況である。 またHlaing地区評議会の報告は,生産低下の原因として,原料不足,商業公社が完成品を消費者に速かに渡せないことからくる,商業公社からの製品への注文とぎれ,を指摘している。
DIA-211-1972-04-30-2ミャンマー1972年04月30日1970年代Kanyutkwin:約150人のカレン反政府兵がラングーン=マンダレー道路沿いのこの町に侵入,警察署を攻撃する一方,駅,精米工場変電所に放火,市場,協同組合,銀行,宝石店などを掠奪して去った。民間人2人が死亡した。
DIA-211-1972-05-01-1ミャンマー1972年05月01日1970年代ラングーン:チャイカサン広場で労働者の日大集会が開かれ,10万人以上が集まった。 ネ・ウィン議長がメッセージを送り,新憲法の起草,経済建設への労働者の参加を強調した。 革命評議会を代表してU Shweがあいさつし,労働者の団結,新憲法起草への労働者の参加,新行政制度の完成,経済計画の達成,協同組合制度の完成,反乱分子の一掃への労働者の協力を要求した。 また労働者評議会は,261の郡区労働者評議会,2662の初級評議会と150万人のメンバーをもっている,と述べた。
DIA-211-1972-05-05-1ミャンマー1972年05月05日1970年代ラングーン:商業省は4月24日付で,米の買付け,貯蔵,精米,輸送,販売について次のような通達を出した。 通達によれば,多目的農業協同組合,農業生産協同組合,村落協同組合,消費者協同組合,初級協同組合グループ,郡区協同組合,郡区協同組合グループ,は協同組合局の計画にもとづき,次の事業を行なうことができる。 (1)農民からの米の買付け,および買付けた米の貯蔵,買付けた米と農民手持米の精米。 (2)政府あるいは他の協同組合への米の販売。 (3)国内における米の輸送。 (4)人間あるいは動物,あるいは工業用消費のための米の卸売り,あるいは小売。 こうした事業において,米の価格,手数料等は政府が決定する。
DIA-211-1972-05-06-1ミャンマー1972年05月06日1970年代Myitkina:San Yu将軍,約750人の人民代表に,新憲法草案を説明。
DIA-211-1972-05-07-1ミャンマー1972年05月07日1970年代ラングーン:外務省はU Lwin駐国連大使を駐米国大使に任命した。
DIA-211-1972-05-09-1ミャンマー1972年05月09日1970年代Mandalay:新憲法起草委議長San Yu将軍は当地市公会堂で,地域民衆代表に対し,憲法草案を説明した。
DIA-211-1972-05-14-1ミャンマー1972年05月14日1970年代ラングーン:U Lwin財務・計画相に卒いられた11人のビルマ代表団,中国政府の招きで中国訪問に出発。
DIA-211-1972-05-15-1ミャンマー1972年05月15日1970年代ラングーン:人民警察軍長官にOhn Kyi大佐任命。
DIA-211-1972-05-15-2ミャンマー1972年05月15日1970年代ペグー:ペグー郡区協同組合は5月16日から郡内の18の精米所の経営を行ない,また米取引に従事すること になった。各精米所に米買付所がおかれる。なお郡内の21精米所のうち第1商業公社が3を経営する。なお郡区SACは今日郡内の4精米工場の閉鎖を命じた。
DIA-211-1972-05-17-1ミャンマー1972年05月17日1970年代ラングーン:南Okkalapa,Yankin,Thingangyunの労働事務所は,原料不足による工場閉鎖で失業した人々の数を調べている。 Thingangyunでは223人の労働者をもつ7工場が,南OkkalapaとYankinでは4工場(59人)が原料不足で閉鎖された。
DIA-211-1972-05-18-1ミャンマー1972年05月18日1970年代Rathedaung:共産軍とミゾ族との混成とみられる約200人の反政府軍が,この町を攻撃,倉庫などを掠奪した。政府兵2人が戦死,4人が負傷した。
DIA-211-1972-05-19-1ミャンマー1972年05月19日1970年代ラングーン:新憲法起草委議長サンユ将軍は,Yankin,北Okkalapaなどの地区代表1450人に新憲法草案を説明した。
DIA-211-1972-05-19-2ミャンマー1972年05月19日1970年代ラングーン:ビルマ国営通信(NAB)と中国の新華社通信はニュース交換協定に調印した。
DIA-211-1972-05-20-1ミャンマー1972年05月20日1970年代ラングーン発5.21:Kamayut党支部組織報告は,左右の破壊分子による組織への攻撃に警告するとともに,Kamayut地区には1万1444人の労働者(事務的,知的,肉体的)がいるが,うち3320人が失業している,と述べた。
DIA-211-1972-05-21-1ミャンマー1972年05月21日1970年代協同組合局は郡区協同組合が地方産品を工場から直接購入しうるよう措置している。しかし協同組合局は,郡区協同組合が工場から商業局を通さず,消費者に販売するために現金で工場の在庫品のみを直接買付けるよう指示した。直接買付けの対象品目には,コーヒー,麺類,繊維,石けん,歯みがき,化粧品,エンジン,バッテリー,建設用材などとなっている。また対策となる工場や倉庫の場所と名前は,工場あるいは商業局か協同組合局に通知される。協同組合局は各郡区への商品割当で,価格などを決め,郡区協同組合に通知する。
DIA-211-1972-05-21-2ミャンマー1972年05月21日1970年代ラングーン:バングラデシュ外相Abdus Samad Azad氏,3日間の予定で到着。Kyaw Soe外相らが出迎えた。
DIA-211-1972-05-23-1ミャンマー1972年05月23日1970年代ラングーン:バングラデシュのAbdus Samad Azad外相,ネ・ウィン議長を訪問。
DIA-211-1972-05-25-1ミャンマー1972年05月25日1970年代ラングーン:バングラデシュ外相帰国。ビルマ政府とバングラデシュ政府は,善隣友好,非同盟について合意した旨の共同声明を発表した。
DIA-211-1972-05-26-1ミャンマー1972年05月26日1970年代東京発AP:新華社通信によれば,北京訪問中のU Lwin財務・計画相らビルマ代表団は,李先念副首相ら中国側と会談した。
DIA-211-1972-05-31-1ミャンマー1972年05月31日1970年代ラングーンの地区協同組合は,食用油の値上りを押えるため,ヤミ商人達と競争して落花生を上ビルマで買付け,16の搾油工場で生産を開始する予定である。しかし生産者の手元にはもう落花生はなく,このため値上りはつづく見込みである。なおラングーンの5月30日の食用油価格は,卸売100viss=985K,小売1viss=12Kである。
DIA-211-1972-06-03-1ミャンマー1972年06月03日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長は,9時から10時20分まで開かれた会合で,科学者,政府役人,党幹部,軍区・師団司令官,ジャーナリスト達に対し,未開発天然資源の開発を促進するよう要望する演説を行なった。
DIA-211-1972-06-03-2ミャンマー1972年06月03日1970年代ラングーン:The Working People’s Dailyによると,最近の調査のなかで,現在政府各部局には25万人以上,公社には30万人,地方機関に2万人の職員が働いているが,このうち月給が350チャット以上のものは,1万1993人にすぎないという。
DIA-211-1972-06-04-1ミャンマー1972年06月04日1970年代ラングーン:新憲法起草委派遣チームから憲法草案の説明を受けた人民代表が,今度はラングーン各地で一般大衆に新憲法草案の説明を開始した。
DIA-211-1972-06-06-1ミャンマー1972年06月06日1970年代ラングーン:米作見通し。今年の米作付面積は1230万1758エーカーとみられ,うち1177万4152エーカーで収穫可能とみられる。エーカー当り平均33.29バスケットの生産が見込まれるとすれば,総生産は3億9192万5120バスケットとなる。 このうち農民自家用米,損耗分1億6721万8820バスケットを差し引くと,市場には215万2235トンが出廻り,国内消費分105万トンを差し引くと,残りが輸出用となる。
DIA-211-1972-06-07-1ミャンマー1972年06月07日1970年代ラングーン:U Lwin財務・計画相に卒いられた経済使節団が,中国訪問から帰国した。
DIA-211-1972-06-08-1ミャンマー1972年06月08日1970年代ラングーン:Maung Lwin商業相に卒いられた経済使節団が,ソ連に向け出発した。
DIA-211-1972-06-11-1ミャンマー1972年06月11日1970年代Zeyawaddy:Pyu北4マイルのZeyawaddy駅に午前1時5分頃,Kya Shweに卒いられたKNU第3旅団兵50人が侵入,切符売上金311チャットを奪ったが,丁度到着した列車に乗っていた第105,第107ビルマ連隊兵と交戦した後逃亡した。
DIA-211-1972-06-11-2ミャンマー1972年06月11日1970年代Tavoy:本県Launglon付近で農業融資支給チームの乗ったバスが地雷にふれ,警官など13人が死亡,6人が負傷した。
DIA-211-1972-06-12-1ミャンマー1972年06月12日1970年代ラングーン:内務・宗教省は最近人民警察軍に指示し,警官が取り調べに際し,拷問を用いることを一切禁止するよう命じた。
DIA-211-1972-06-12-2ミャンマー1972年06月12日1970年代モスクワ:Maung Lwin商相に卒いられたビルマ経済使節団到着。
DIA-211-1972-06-16-1ミャンマー1972年06月16日1970年代ラングーン:政府,29種の定期刊行物の発行停止。また漫画52紙の発行も停止した。
DIA-211-1972-06-16-2ミャンマー1972年06月16日1970年代モスクワ発ロイター:ビルマ経済使節団はソ連と1973年度分の貿易協定を結んだ。
DIA-211-1972-06-17-1ミャンマー1972年06月17日1970年代ラングーン発The Working People’s Daily:KNUP(カレン民族連盟党)議長Kaw Htoo(Saw Kyaw Mya Than)将軍は,1972年4月27日夜,ペグー山系中で心臓病のため死亡した。 Saw Kyaw Mya Thanは1917年Yandoon郡Kyonyit村でU Sein PoとDaw Pon Hmonの子として生れた。村の小学校で4年間学び,その後家庭教師から教育を受けた後,両親の農場で働いた。 1947年,彼はSaw Ba U Gyiの下でKNDO軍の結成に活躍した。1949年の反乱では,KNDO軍を卒いYandoon郡を席巻,KNDO第1旅団長としてAhphyaukに本部を置いた。1951年に政府軍がAhphyaukを奪回したとき,彼は第1旅団を卒いペグー山中に撤退した。 1954年に彼はデルタに帰り,その地方のKNDO軍を指揮した。デルタで副参謀長を勤めた後,1956年ペグー山のKNUP本部に戻り,参謀長となった。 1966年にはKNUP中央委員会副議長に任命され,KNUPがKNUPとKNU Frontに分裂した後,彼は1967年にKNUP議長となり,1972年4月に至っていた。
DIA-211-1972-06-19-1ミャンマー1972年06月19日1970年代モスクワ:Maung Lwin商相に卒いられたビルマ経済使節団は7日間のソ連滞在を終え,ワルシャワに向け出発した。
DIA-211-1972-06-22-1ミャンマー1972年06月22日1970年代ラングーン:ビルマ・西独,経済協力協定調印。この協定により西独は500万ドイツ・マルクの長期資金援助によりビルマの工業開発を援助する。
DIA-211-1972-06-23-1ミャンマー1972年06月23日1970年代ラングーン:協同組合省は1972-73年度から郡区協同組合により米その他の作物を,買付け,加工,販売するための準備措置を発表した。 発表によれば,郡区協同組合は予備的措置として,5月16日から国内米取引の取扱いを開始した。この予備的措置は,第1商業公社の米配給業務を助けることと,来年より協同組合の責任となる国内米取引に協同組合関係者を習熟させるためになされている。 また発表は次の諸点を明らかにしている。 郡区協同組合は国内米取引に集中するのみならず,他の作物の買付,加工,保管,販売にも従事することになる。協同組合は全国で農民の余剰米を買い上げるために特別な注意を払わねばならない。米の買付け,精米,保管,配分は,協同組合の責任となる。また第一商業公社に対し,輸出用米を売却せねばならない。 1972-73年耕作期より,政府による農業融資配分を停止する計画がある。農業融資制度は,協同組合による農民からの収穫物の予約買付制度により取り替えられよう。農民はその収穫物の予約販売を協同組合と約束することにより,トラクター代,肥料代,殺虫剤代,農具代を含む耕作費をまかなうための現金支払いを受けることになる。これの細目は協同組合省で検討中で
DIA-211-1972-06-27-1ミャンマー1972年06月27日1970年代ラングーン:管区,州,郡区,村区,地区レベルで人民裁判所が設立される。中央治安行政委が人民司法委員会を結成し,同委員会が有識者,人望家を選び人民裁判所を設立する。現在の裁判所はその案件をできるだけ人民裁判所に移管する。人民裁判所の控訴委員会も設置される。
DIA-211-1972-06-28-1ミャンマー1972年06月28日1970年代ラングーン:ビルマ,タイ両国は26,27,28日の3日間,ラングーンで話し合いをもった結果,1969年8月15日に結ばれた両国の航空協定を改訂することで合意に達した。 なおタイ代表団は,Perm Limpisvasti空軍元帥以下航空,通信,外交,陸運関係者からなっている。
DIA-211-1972-06-29-1ミャンマー1972年06月29日1970年代Sandoway発7.1:Gwa郡Kalabyinの警察駐屯所が約100人の反政府兵に攻略され,警官3人とその妻1人が死亡,警官2人が負傷した。ライフル7丁,軽機関銃1丁などが奪われた。
DIA-211-1972-06-30-1ミャンマー1972年06月30日1970年代ラングーン:U Chit Khin副内務・宗教相は同時に中央治安行政委副議長に任命された。 U Ye Goung副農林相は中央土地委員会議長に任命された。
DIA-211-1972-07-03-1ミャンマー1972年07月03日1970年代Pyu発7.4:第48ビルマ連隊分遣隊は,Toungoo県Htantabin郡Ye-U地近くのビルマ共産党管区本部を攻撃,共産党県委員Daw Tin Yiと部下3人を殺した。
DIA-211-1972-07-04-1ミャンマー1972年07月04日1970年代ビルマ社会主義計画党は創立後10年を経過した。1971年4月30日までに,313の党支部が結成され,109万7359人の申請者のうち26万857人が党員となり,76万3133人が党シンパとして認められた。党が中核党より人民の党となってより,7万3369人が党員とみとめられた。うち2万316人の労働者,8207人の農民が含まれている。 党の指導により,合計184の郡区労働者評議会,70の郡区労働者評議会組織委,227の郡区農民評議会,36の郡区農民評議会組織委員会が結成された。 また中央計画党青年連盟組織委員会,および73の郡区組織委員会が結成された。
DIA-211-1972-07-04-2ミャンマー1972年07月04日1970年代ラングーン:ラングーン管区経済委員会は管内の協同組合に対し,毎月1人当り4pyisと4カン(ミルクかん)の割合で米を消費者に配給するよう指示した。 このため経済委員会は商業公社に対し,7月9日までに首都の29カ郡区協同組合に対し1万8000トン(25万2000袋)の米を配分するよう指示した。協同組合は手持米を加えて,この4pyisと4カンの配給を実行する。
DIA-211-1972-07-06-1ミャンマー1972年07月06日1970年代Insein,Moulmein,Mandalayの刑務所から72人の政治犯が釈放された。このうち24人がウーヌー派関係者,4人がKIA,12人が赤旗共産党,23人がビルマ共産党関係者となっている。
DIA-211-1972-07-06-2ミャンマー1972年07月06日1970年代Tharrawaddy発:第53ビルマ連隊はOkpo東方Winthayet村付近のKNUPキャンプを攻撃,“中隊長”Bo Gyaung Win他1人を殺した。KNUPペグー山管区議長Saw Kyar Chitは逃走した。
DIA-211-1972-07-07-1ミャンマー1972年07月07日1970年代ラングーン:中央人民労働者評議会執行委員会は,郡区人民労働者評議会と同組織委員会に対し,新行政制度の下で経済,社会組織に奉仕する人民代表を,労働者評議会の執行委員クラスから選出するよう指示した。
DIA-211-1972-07-10-1ミャンマー1972年07月10日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長は,ハンガリー政府の招きで,同国への親善訪問に出発した。
DIA-211-1972-07-11-1ミャンマー1972年07月11日1970年代Pa-an発7.12:本県Myainggalay副郡区Wutkyi警察駐屯所が,午前1時45分約70人のKNDO兵(Shwe Pu指揮)に攻撃されたが,警官隊の反撃で1時間後に撤退した。この間協同組合店が掠奪された。
DIA-211-1972-07-12-1ミャンマー1972年07月12日1970年代ラングーン:7月1日付で中央行政治安委員会のメンバー変更が行なわれた。議長にはU Sein Mya内務・宗教相,書記はU Chit Khin副内務・宗教相である。76人のメンバーのうち,11人は政府任命,11人が党本部代表,12人が中央労働者評議会代表,14人が中央農民評議会代表である。残りの通常メンバーは,軍,政府,各州高官からなっている。
DIA-211-1972-07-15-1ミャンマー1972年07月15日1970年代ブダペスト:ネ・ウィン議長,ハンガリー訪問。本日特別列車でブダペストに到着,ハンガリー政府首脳と会見。
DIA-211-1972-07-15-2ミャンマー1972年07月15日1970年代ラングーン:中央治安行政委員会傘下の各種の委員会が7月1日付で再構成された。各委員会の議長は次の通り。 司法委員会~副司法相,あるいは最高裁長官。 治安委員会~U Sein内務・宗教相。 行政委員会~同上。 経済委員会~U Chit Moung副財務・計画相。 社会福祉委員会~U Van Kulh副社会福祉相。 土地委員会~U Ye Goung副農林相。
DIA-211-1972-07-16-1ミャンマー1972年07月16日1970年代ラングーン発:1970年度協同組合計画にもとづき,5月末までに全国で3587の協同組合が結成された。 地域別では,Sagaing管区(268),Mandalay管区(583),Magwe管区(196),Pegu管区(492),Arakan管区(143),Irrawaddy管区(430),Tenasserim管区(233),Chin特別区(30),カチン州(116),シャン州(180),カヤ州(25),コートレイ(34),ラングーン管区(857)となっている。 形態別では,消費者組合が1982,農業生産者組合が38,村落協同組合が52,工業生産者組合が319,信用組合が945,郡区協組が249となっている。
DIA-211-1972-07-17-1ミャンマー1972年07月17日1970年代ラングーン:中国,ビルマ経済技術協力協定にもとづき,ビルマの水力発電開発を援助するため,中国から水力発電調査団が到着した。
DIA-211-1972-07-19-1ミャンマー1972年07月19日1970年代ブダペスト:ネ・ウィン議長,ハンガリー訪問を終了。なお相互の内政不干渉を強調する共同声明が発表された。
DIA-211-1972-07-19-2ミャンマー1972年07月19日1970年代ラングーン:Maung Lwin商業相らビルマ経済使節団,ソ連・東欧訪問から帰国。
DIA-211-1972-07-21-1ミャンマー1972年07月21日1970年代ラングーン:14の管区および州治安行政委員会が再組織された。また7月20日付で県治安行政委員会が解散させられた。各管区,州治安行政委員会メンバーには,党,労働者評議会,農民評議会の代表が参加することになった。なお各管区,州治安行政委員会議長は次の通り。 カチン州~Phaw Yu Gar中佐,カヤ州~U Hla Khaing,コートレイ州~Mahn San Myat Shwe,チン特別区~Khen Za Mung大佐,ザガイン管区~Tin Maung中佐(空軍),テナセリム第1管区~Ohn Kyaw 大佐,同第2管区~Kyaw Win大佐,ペグー管区~Hla Shwe中佐,Magwe管区~Thein Nyun中佐,マンダレー管区~Tin Thein大佐,アラカン管区~Tin Shwe中佐,ラングーン管区~U Min Nyi,シャン州~Soe Hlaing大佐,イラワジ管区~Chit Hlaing司令官。
DIA-211-1972-07-21-2ミャンマー1972年07月21日1970年代ワシントン:U Lwin新駐米大使,ニクソン大統領に信任状提出。ニクソン大統領は同大使に対し,ビルマの非同盟政策への支持,および麻薬取締りへの協力継続を表明した。
DIA-211-1972-07-22-1ミャンマー1972年07月22日1970年代ラングーン:ビルマ政府は,1973年のセンサス業務の中心実施機関として,中央センサス委員会を設立,同委員会の業務を全て中央治安行政委員会に委託した。
DIA-211-1972-07-29-1ミャンマー1972年07月29日1970年代ラングーン:1971年9月21日付国家計画省通達153号で設立された,各段階の経済計画達成委員会は解散させられ,その業務は各段階の治安行政委員会にひきつがれることになった。
DIA-211-1972-08-01-1ミャンマー1972年08月01日1970年代ラングーン:内務・宗教省は,これまで移民,国民登録,センサス省により行なわれてきた移民,国民登録,センサス業務は職員も含めて,各段階の治安行政委員会にひきつがれると発表した。
DIA-211-1972-08-01-2ミャンマー1972年08月01日1970年代ラングーン:林業局は全国の保護林内で無断に耕作を行なっている農民に対し,必要と認められる場合には許可証を出して,耕作をつづけさせることにした。なお現在保護林内の約9万エーカーの土地を,3万6780人の農民とその家族が耕作している。 また無断耕作地のうち6万1333エーカーがデルタにある。
DIA-211-1972-08-03-1ミャンマー1972年08月03日1970年代バンコク発UPI:プラパート陸軍大将は,タイ政府は先週ビルマからタイ国境地方に逃亡したビルマのウ・バ・スェ元首相に対し,同地からバンコクに亡命するよう求める,と述べた。
DIA-211-1972-08-04-1ミャンマー1972年08月04日1970年代ラングーン発WPD:ビルマ共産党内の粛清で最近,デルタ管区委員Bo Thawらが殺された。 Bo Thawらデルタ管区兵9人は,72年6月2日,党管区委員会書記Bo Aung Peにより逮捕され,“Nga Thaw”グループの裏切者として,7月16日処刑された。 Bo Thaw(51)はHenzada高校に学び,1939年学生ストに参加,ビルマ独立軍,ビルマ国防軍に参加,1948年に地下に入った。地下でPVO Henzada地区リーダーとなり,1950年共産党と同盟した,“革命的PVO”デルタ地区責任者となった。1954年に“革命的PVO”が共産党と合体した後,共産党デルタ管区委員となった。 彼は1968年以来,党管区軍事指導者Bo Aung Peと対立していた。
DIA-211-1972-08-06-1ミャンマー1972年08月06日1970年代ラングーン:中央治安行政委員会は,最近再編成された管区,州治安行政委員会,郡区治安行政委員会,および各段階の司法委員会は,1972年8月7日より,司法,行政上の権限を与えられるとの通達を発した。なお管区,州治安行政委は7月20日に,郡区治安行政委員会は8月1日に再編成された。
DIA-211-1972-08-07-1ミャンマー1972年08月07日1970年代ラングーン:内務・宗教省の通達によれば,新人民裁判所制度のもとで,州・管区レベル,郡区レベル,町区・村区レベルの三段階に人民裁判所が設立される。 町区・村区裁判所は地区司法委員会により選ばれたメンバーをもち,二級と三級の裁判長の権限をもち,地区内の事件を裁判する。より重大な事件は,郡区あるいは管区(州)裁判所で,郡区あるいは管区(州)司法委により選ばれたメンバーにより裁判される。各裁判所は最少3人のメンバーをもつ。 各段階の人民裁判所の設立は本日よりはじめられる。裁判所メンバーは司法委員会により,労働者,農民,国産薬品業者,機械技術者,運転手,およびその他の職業の人々から選ばれる。9つの州と管区裁判所,88の郡区裁判所設立は本日より開始される。 町区・村区裁判所の設立はその後に開始される。 町区・村区裁判所のメンバーは15人,郡区は30人である。州・管区裁判所は各郡を代表する6人のメンバーからなる。
DIA-211-1972-08-07-2ミャンマー1972年08月07日1970年代ラングーン:U Sein Mya内務・宗教相は,ラングーン管区治安行政委の会合で演説し,“本日より治安行政委員会は行政・司法上の権限を与えられた。これは社会主義民主主義行政機構の開始の画期となろう”と述べた。
DIA-211-1972-08-07-3ミャンマー1972年08月07日1970年代ラングーン:最近の数字では,農民評議会メンバーは600万人を上回った。
DIA-211-1972-08-08-1ミャンマー1972年08月08日1970年代ラングーン:工業省は新行政制度により,傘下の部局,公社の再編成を行なった。また7月18日付通達で,再編成された次の公社のための委員会を結成した。再編成された公社は,工業計画第1公社,同第2公社,電力公社,重工業公社,製紙公社,化学工業公社,石油化学公社,繊維工業公社,食糧工業公社,一般産業公社,金属工業公社,陶業公社,製薬公社,家内工業公社,地方工業調整局,である。
DIA-211-1972-08-09-1ミャンマー1972年08月09日1970年代ラングーン:最近地下に入り,ビルマ共産軍に加わっていた3人の元大学生が政府軍に投降,記者会見で,共産党本部には2つの派からなる50人がおり,また特別な戦闘部隊は約260人である,と述べた。
DIA-211-1972-08-14-1ミャンマー1972年08月14日1970年代ラングーン:Hlaing地区労働者評議会の報告によれば,1971-72会計年度,経済計画対象の同地区内の工場は,なおも原材料不足と完成品の在庫に悩まされている。 報告書はまた,計画が労働者の意見を聞かず,国営工場経営者と商業公社の間だけで決められていることに不満を訴えている。合同経営委員会と経済計画達成委員会は,これまで発言する機会がなかった。このことは,監督委員会傘下の私企業でも同様である。
DIA-211-1972-08-14-2ミャンマー1972年08月14日1970年代ラングーン発WPD:共産軍第4常勝中隊司令官Bo Lwinは,8月1日夜,PyuとZeyawaddy間で橋に地雷を仕掛けている際,接近し,脱線した装甲列車と交戦中,背後からきた銃弾に当り戦死した。これは8月10日に投降した第4中隊兵により明らかにされた。 Bo LwinはBogale郡Kanigyi村の農民の子で,45歳であった。1948年に地下に入り,ペグー県で共産軍に参加した。1950-51年にはPyinmana郡で,下ビルマ共産党の第3師団にいた。1959年にはThakin ZinとともにNDUF結成工作に従事,1963年には秘かにラングーンに入り,地下工作を行なった。1967年には党本部におり反党派パージに参加,1972年以来第4常勝中隊司令官。
DIA-211-1972-08-15-1ミャンマー1972年08月15日1970年代ラングーン:中央治安行政委員会は8月7日付で,次の15の委員会を結成した。すなわち,刑務所監督委員会,外国人活動コントロール委員会,町村開発委員会,農業・漁業・畜肉・林業委員会,鉱・工業・電力委員会,建設委員会,商業委員会,運輸・通信委員会,協同組合委員会,教育委員会,保健委員会,社会委員会,人民再入植委員会,情報文化委員会,である。
DIA-211-1972-08-16-1ミャンマー1972年08月16日1970年代協同組合評議会の通過によれば,1970年協同組合計画により再組織された村落協同組合は,いまや農業融資未返済金の取立て,新融資の配分,農機具の製造と信用販売,についても責任をもつことになった。
DIA-211-1972-08-17-1ミャンマー1972年08月17日1970年代ワシントン:U Kyaw Soe外相,ロジャーズ米国務長官と会談。
DIA-211-1972-08-22-1ミャンマー1972年08月22日1970年代日本政府はビルマに対し,201億6000万円の円借款供与を協定した。
DIA-211-1972-08-24-1ミャンマー1972年08月24日1970年代Penwegon:8月21日午後4時,Ma Moeに卒いられた約80人の共産兵が,当地西のペグー山ふもとのThanbayagon村に入り,民兵隊長U Sein Kuntを連れ去り,物資を奪った。共産兵は緑の軍服を着ていた。 また8月22日朝,共産兵は当地西6マイルのKhintha村を襲い,民兵隊員の家から物資を奪った。 同様に8月23日午後9時30分,ラングーン=マンダレー鉄道のTawgywe-in駅がMaung Myaに卒いられた約30人のKNU兵により攻撃,占拠され,物資が奪われた。KNU兵はまた接近してきた列車にも発砲した。
DIA-211-1972-08-27-1ミャンマー1972年08月27日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長夫妻帰国。
DIA-211-1972-08-27-2ミャンマー1972年08月27日1970年代ラングーン:ビルマ・インド国境の航空写真地図作成に参加するビルマ政府チームがインドに向け出発した。
DIA-211-1972-08-28-1ミャンマー1972年08月28日1970年代ラングーン:ビルマ卓球チーム,中国に向け出発。
DIA-211-1972-08-31-1ミャンマー1972年08月31日1970年代Kyonpyaw発:Ngathaingyaung付近で第36ビルマ連隊に,共産党Bassein管区委員会の分隊長Tun Min以下39人の共産兵が投降した。
DIA-211-1972-09-01-1ミャンマー1972年09月01日1970年代ラングーン:Bahan地区で354人の青年に,計画党青年団員仮証明書が発給された。
DIA-211-1972-09-07-1ミャンマー1972年09月07日1970年代ラングーン:政府は1972-73年度の農作物17品目の作付計画を次のように定めた。(単位エーカー)米=1239万6000,小麦=20万6000,とうもろこし=47万4000,落花生=173万5000,ゴマ=211万5000,綿花=59万4000,ジュート=31万4000,roselle=3000,ゴム=21万5000,唐がらし15万5000,玉ねぎ=4万9000,ガリク=1万9000,ポテト2万7000,バージニアたばこ=12万1000,砂糖きび=14万4000,豆類=179万5000。
DIA-211-1972-09-08-1ミャンマー1972年09月08日1970年代ラングーン:センサス委員会(中央治安行政委)のもとで,1973人口センサス作成のため,中央センサス委員会,管区,州,郡区,および町村センサス委員会がそれぞれ結成された。
DIA-211-1972-09-09-1ミャンマー1972年09月09日1970年代ラングーン:革命評議会諮問評議会は,ビルマ政府の1972-73年度予算案を討議した。
DIA-211-1972-09-10-1ミャンマー1972年09月10日1970年代ラングーン:協同組合局は,各省とその傘下の公社等に対し,今後物資購入等に際し,私企業と取り引きすることをやめ,協同組合と取り引きするよう要請した。
DIA-211-1972-09-12-1ミャンマー1972年09月12日1970年代ラングーン:ラングーン管区治安行政委員会は,食用油業者を集め,手持油を全て売り渡すよう命令した。 また,ラングーン市内の食用油卸売業者の手持油は全て凍結するよう命令が出された。12日夜に郡区治安委,党,農民・労働者評議会関係者が行なった調査によれば,市内の約80の卸売業者は3万2272vissの食用油をストックしている。当局はこれらをviss当り14Kで買い,14.50Kで消費者に売る計画である。 なお,現在の小売値は22Kである。
DIA-211-1972-09-12-2ミャンマー1972年09月12日1970年代U Ba Nyein協同組合相は,中央および地方治安行政委員会と各省との業務調整会議で演説し,米取引について次のように述べた。 協同組合は各村で10人を越えることはない米買占者に対して,組織的に接近して米を買上げるようにせねばならない。 協同組合は将来,米を農民から前貸金を与えて買い上げるようになろう。そして各農民は協同組合へ売却した残りの余剰米を自由に処分してよい。しかし仲介人がこの情況を利用することには対策を講じていくであろう。 この点については,治安行政委員会の協力をえて,農村評議会が,私企業者が経済を握らないよう対策を講じることになろう。この面でも協同組合が私企業部明を取り上げることが必要となる。 またU Sein Mya内務相は,治安行政委員会は,農村の米取引等を監視しておかねばならない,と述べた。
DIA-211-1972-09-15-1ミャンマー1972年09月15日1970年代ラングーン:ラングーン管区治安行政委員会は,食用油業者に対し,彼等のストックを強制的に買上げることから生じる混乱を考慮して,今後食用油業者が合理的な価格で販売するならば,彼等による自由な販売を認めると通告した。しかしゴマ,落花生等の搾油作物は今後全て協同組合が買上げることにし,業者によるこれら作物の取引きを禁止した。
DIA-211-1972-09-17-1ミャンマー1972年09月17日1970年代ラングーン:協同組合局は全国の114カ郡の郡区協同組合に対し,落花生とゴマの買付け,加工,販売を行なうよう指示した。
DIA-211-1972-09-18-1ミャンマー1972年09月18日1970年代ラングーン:商業省は今日,ゴマと落花生の取引について,協同組合のみが従事しうる郡区の名前125郡区を発表した。しかしこの通達は,種子用,自家用,労働者への現物支給用として農民がゴマ,落花生を売買すること,民衆の直接消費用の小売,果子類への加工は許可している。
DIA-211-1972-09-22-1ミャンマー1972年09月22日1970年代ラングーン:革命評議会議長は本日付で,U Shwe工業・労働相をそのポストおよび革命評議会メンバーの地位から解任した。 革命評議会議長はまた,本日付で,U Sein Mya内務・宗教相をそのポストから解任した。
DIA-211-1972-09-22-2ミャンマー1972年09月22日1970年代Tenasserim発9.24:本郡のBanpyi小学校付近で,Thein Maungに卒いられた約90人の共産兵が,Bo Yangon卒いる38人のKNDO兵を攻撃し,Bo Yangon以下15人のKNDO兵が死亡した。
DIA-211-1972-09-23-1ミャンマー1972年09月23日1970年代ビルマ革命評議会は首相官房副大巨U Ko Koを内務・宗教相に,U Maung Maung Kha副工業相を工業・労働相に,Maung Cho中佐を副工業相に任命した。
DIA-211-1972-09-25-1ミャンマー1972年09月25日1970年代ラングーン:ビルマ社会主義計画党中央委員会第4回会議が,ネ・ウィン議長出席のもとに開かれた。 党規律,党予算,党の経済政策等が討議された。
DIA-211-1972-09-28-1ミャンマー1972年09月28日1970年代ラングーン:革命評議会議長は本則972年補正予算法,1972年財政収支法,1972年経済計画目標法,の3法案を承認した。
DIA-211-1972-09-29-1ミャンマー1972年09月29日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長は計画党諮問委員会で演説し,当面の米と食用油不足について説明,政府の保有米は12月中旬までの配給に耐えられる量であり,それ以降は新しい収穫がはじまるので心配はないと述べ,また食用油問題も協同組合が取引きに慣れれば解決するだろうと主張した。 なお演説のなかで,政府による米の配給量は,1967年が最低で82万3288トン,1971年が最高で120万6858トン,1965~71年の年平均が89万8885トンであったと述べた。さらに現在の政府手持米が26万トンであることを明らかにした。 また食用油については,1967年の自由化以来値動きがはじまり,1967年1月がviss当り8.33K,その年の最高額が7月の17.50K,それ以降年々の最高値は1968年が10K(1月),1969年が16.24K(8月),1970年は8K(8月),1971年が5K(8月),と変動していたものが,今年は5月の8Kから9月には18~19Kと急上昇したと指摘し,この最大の原因は協同組合による食用油取引きが十分スムースに行なわれていない段階でのブローカーによる価格操作によると述べた。
DIA-211-1972-09-29-2ミャンマー1972年09月29日1970年代ラングーン:革命評議会議長は本日1972-73年度政府予算案を承認した。 財務・計画省が本日発表した1972-73年度政府予算は次の通りである。 (単位100万チャット)
DIA-211-1972-09-30-1ミャンマー1972年09月30日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長,ロンドンに出発。これはネ・ウィン夫人が2日前発病,ロンドンに送られ,その容態が悪化しているためである。
DIA-211-1972-09-30-2ミャンマー1972年09月30日1970年代ロンドン発10.1:ネ・ウィン議長夫人,Daw Khin May Than,ビルマ時間9月30日午後10時54分,ロンドンの病院で死去。
DIA-211-1972-09-30-3ミャンマー1972年09月30日1970年代ラングーン:ビルマ中央銀行は,本日より,これまでの1チャット,5チャット,10チャット,20チャットの各紙幣に加えて,25チャット紙幣を発行した。
DIA-211-1972-09-30-4ミャンマー1972年09月30日1970年代ラングーン:計画党諮問評議会々議終了。党の経済計画承認。
DIA-211-1972-10-01-1ミャンマー1972年10月01日1970年代ロンドン:ネ・ウィン議長到着。ラーハン保健相,U Ko Ko司法相らが同行。
DIA-211-1972-10-01-2ミャンマー1972年10月01日1970年代ラングーン:人民銀行(農業融資部)は,1万の村落銀行を通じ,10月2日から12月31日までに,冬期耕作ローンを配分する。27品種に対し,3500万チャットが融資される。また旧融資を返済した者のみに融資がなされる。
DIA-211-1972-10-04-1ミャンマー1972年10月04日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長帰国。
DIA-211-1972-10-05-1ミャンマー1972年10月05日1970年代ラングーン:今会計年度より協同組合が全国で米の配給業務をとり扱うが,第1商業公社は,カチン州,チン特別区,シャン州などの交通不便な75カ郡においては,米の配給業務を継続することになった。
DIA-211-1972-10-06-1ミャンマー1972年10月06日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長夫人Daw Khin May Than,葬儀。
DIA-211-1972-10-09-1ミャンマー1972年10月09日1970年代ラングーン:中国通信省副局長馬昌達に卒いられた中国使節団が,Taunggyi-Kengtung道路のサルウィーン川上でのTakaw橋建設工事計画を話し合うため,ラングーンに到着した。
DIA-211-1972-10-14-1ミャンマー1972年10月14日1970年代ラングーン:中央労働者評議会は,下部組織に対し,評議会員が自ら事業を運営したり,行政官僚的役割を果たしている事例について警告し,評議会員の役割は労働者の生産,規律,福祉に配慮することのみにある,と指摘した。
DIA-211-1972-10-18-1ミャンマー1972年10月18日1970年代ラングーン:最高裁はラングーンの全司法官に対し,次の刑事案件,すなわち裁判を待っているもの,訴訟関係者がそれを望むもの,等は人民裁判所に事件を移管するよう指示した。
DIA-211-1972-10-20-1ミャンマー1972年10月20日1970年代ラングーン:印刷・出版業者登録局は,書籍,定期刊行物はそのコピーが同局により調査され,承認されるまで出版してはならない旨の通達を出した。
DIA-211-1972-10-20-2ミャンマー1972年10月20日1970年代ラングーン:9月28日付で,Mya Kyaw中佐が革命評議会およびビルマ政府閣僚評議会の書記に任命された。
DIA-211-1972-10-20-3ミャンマー1972年10月20日1970年代Pyapon:第90ビルマ連邦本部での記者会見で,南西軍区司令官Than Tin大佐は,9月26日にタイから船でデルタ南部Bogale郡内に上陸したウーヌー派部隊30人と地元のシンパ19人は,政府軍警7カ中隊,民兵5000人の包囲攻撃により,10月18日頃までにほぼ一掃されたと発表した。戦闘では反乱兵8人,政府兵5人が死亡した。 記者会見ではまたTin U軍情報局長が,最近タイ領から,Toungoo東方に約60人,テナセリム方面に二百数十人の“亡命者グループ”の侵入があったことを明らかにした。さらに10人程度からなる2~3の小グループがペグー山方面にキャンプをおき,ラングーン,ペグー地区で破壊工作を開始しようとしていたと述べた。またモールメイン方面での破壊工作についてその事例を報告した。 Tin U中佐はウーヌーら亡命者グループの現在の勢力について,総兵力は約1,200人であると述べた。またウーヌー自身は仲間と意見があわず,議会民主党議長を辞任したが,まだ放送等はつづけ,自分を議長と呼んでいることを明らかにした。
DIA-211-1972-10-21-1ミャンマー1972年10月21日1970年代Maymyoで赤旗共産党中央委員Ohn Maung“将軍”がその妻とともに逮捕された。 彼は元ビルマ政府軍兵士で,1948年から赤旗活動に参加,マンダレー,シャン高原地区で活動していた。1970年にはPakokku県Sinlaitaungにある党本部にThakin Soeに呼ばれ,中央委員となった。Thakin Soeが政府との“平和交渉”のため本部を離れた後,彼は他の中央委員U Aung,U Thawda,Ko Kyi Lin,Bo Soe Hlaと活動をつづけていた。
DIA-211-1972-10-26-1ミャンマー1972年10月26日1970年代ラングーン:政府は米不足地区に対し米余剰地区からの米を供給する措置をとっている。今年は101の米余剰郡が約1200万バスケットの米を118の米不足郡に供給する予定。
DIA-211-1972-10-28-1ミャンマー1972年10月28日1970年代ラングーン:今年の産米量推定。総生産高は4億1250万バスケット。作付面積は1241万エーカーで,1189万1600エーカーが収穫可能面積。
DIA-211-1972-10-31-1ミャンマー1972年10月31日1970年代ラングーン:州,管区,郡区の治安行政委員会は,教育省の現行法,規則,指示にもとづく諸権限を与えられることになった。これにより学校建設,教員の任用等の権限が治安行政委に与えられることになる。
DIA-211-1972-10-31-2ミャンマー1972年10月31日1970年代ラングーン:全国で12月31日までに1万の村落銀行を通じ,米収穫ローン2000万チャットが配分される。米作地1エーカーにつき10チャットの割で,最大限200チャットまで支給される。旧債務を完済した者のみに支給がなされる。当局はまた,協同組合よりすでに作物代金の支払いを受けた者に,融資を行なわないよう指示している。 なお,農業銀行は次のように収穫ローンを支払ってきた。1963年=1800万K,1967年=1320万K,1968年=1280万K,1969年=1670万K,1970年=2150万K,1971年=2000万K,1972年=2000万K。合計1億2220万K。 1964年から66年の間は,予約買付金が支払われたので,収穫ローンは支給されなかった。
DIA-211-1972-11-01-1ミャンマー1972年11月01日1970年代Sandoway:当地から60マイルのSathwa村警察駐屯所が,GarmeinとBo Ba Htooに卒いられた約300人のKNDO兵に攻撃されたが警察軍に撃退された。しかしKNDO兵は協同組合物資を奪い,教師3人,助産婦2人を連れ去った。
DIA-211-1972-11-02-1ミャンマー1972年11月02日1970年代ラングーン:ラングーン管区協同組合シンジケートは,デルタでの早場米の収穫が終わり,米市場が買手市場となったとして,米の買付け価格の引下げを決めた。 すなわちバスケット当り価格は,ngakywe米で34から28チャットへ,meedon米は32から26,ngasein米は30から24にそれぞれ引き下げられた。 モンスーン期間中,ラングーンのヤミ市場ではngakywe米は50k以上,meedonは40k,ngasein米は36kであった。
DIA-211-1972-11-03-1ミャンマー1972年11月03日1970年代ラングーン:ビルマ中央銀行は協同組合省の勧告にもとづき,ラングーン管区協同組合シンジケートに対し,1972-73年度の食用油,ココナット油計画,商品交易センターなどの費用として1740万チャットの融資を行なった。 ラングーン管区は1年に1050万vissの食用油を必要とし,シンジケートは必要原料を確保し,10の製油工場で生産し,配給する。また交易センターでは現在米の買入れが行なわれている。
DIA-211-1972-11-04-1ミャンマー1972年11月04日1970年代ラングーン:全国の農民は協同組合と第1商業公社に対し,今年もみ米1億5730万バスケットを売却することに同意した。このうち8000万バスケットが輸出向けに精米される。 地区別の売却約束量は次の通り。(単位バスケット)。 Mandalay,Kyaukse,Yamethin,Meiktila=6,050,050. Shwebo,Monywa,Katha=11,715,741 Henzada,Myaungmya,Maubin,Pyapon,Bassein=39,939,476. Myitkyina,Mogaung,Mohnyin=2,088,0000. Rathedaung,Myohaung,Minbya,Pauktow,Kyauktaw,Buthitaung,Ponnagyun=2,730,136. Kyaukpyu,Manaung,Sandoway=129,589. Taunggyi,Kalaw,Hopon,Ywangan,Lawksawk=261,796. Loilem,Laicha,Namsan,Kunhein,Mongnai,Langkho,Mongmai,Mongpan,Kyeethe,Mongkaing,Mongshu=1,048,333. Lashio,Hsenwi,Tengyeng,Mongyai,Muse=506,003. Kyaukme,Nawnghkio,Nansan,Mongmit,Mabain,Hsipaw,Namtu=2,410,439. Kunlong,Hopan,Kunkyan,Mongmaw,Panwaing,Naphan,Panphan,Pangyan=394,410. Thaton,Moulmein=9,462,000. Tavoy=65,000. Toungoo,Prome,Tharrawaddy=40,075,000. Magwe,Minbu=412,000. Hmawbi,Hanthawaddy=26,293,000.
DIA-211-1972-11-04-2ミャンマー1972年11月04日1970年代ラングーン発WPD:第96ビルマ連隊攻撃隊は10月15日,Bilin郡Maipoke村付近の,亡命者Aung NaingグループのAung Tha Byayキャンプを攻撃,3人を殺した。Aung Naingは10月22日,国外の亡命派中央軍区に逃亡した。Aung Naingら19名はWaw,Pegu,ラングーンでの破壊活動の使命をもっていた。 10月30日,同キャンプにいたTin Uら15名がMyitkyoで政府軍に投降した。 第96連隊兵はまた11月3日に,同グループの1人を射殺した。 一方ペグー山系に侵入していたTet Tun以下約150人の亡命派兵は10月29日夜ペグー山を離れた。シッタン川を渡り,彼等は東Kyaukky郡に入った。政府軍はこのうち1人を殺したが,政府兵1人が戦死した。なおTet Tunはペグー山中で,10月23日共産党のAung Theinらと会見し,休戦を申し込んだといわれる。 また11月2日第25ビルマ連隊はTavoy地区でMoses以下15人の侵入者と交戦,Mosesら4人を倒した。 なお11月4日午前5時頃,MoulmeinのDaingwunkwin警察署長宅近くに手投弾が投げられ爆発したが,被害はなかった。
DIA-211-1972-11-06-1ミャンマー1972年11月06日1970年代ラングーン:センサスは1973年4月より作業が開始され,1975年には結果が発表される予定である。なお現在ビルマには,314郡区,315市,3334町区,1万3336村区がある。
DIA-211-1972-11-07-1ミャンマー1972年11月07日1970年代Myitkyina:サンユ准将に率いられた新憲法起草委チーム,当地で人民代表と会合。なおサンユ准将はあいさつのなかで,左右の破壊分子と対決し,当面する困難解決に全民族が参加するよう要望した。
DIA-211-1972-11-07-2ミャンマー1972年11月07日1970年代Toungoo県Swa郡Mandattaung村東のジャングルで,亡命者グループと連絡をもつIPU(国内統一平和戦線Internal Unity and Peace Front)ゲリラキャンプを第85ビルマ連隊兵が攻撃,ゲリラ9人を殺し,3人を捕えた。
DIA-211-1972-11-13-1ミャンマー1972年11月13日1970年代ラングーン管区人口は,HmawbiとHanthawaddy両県の合併により,311万4000人となった。うち約100万人が農村部人口である。
DIA-211-1972-11-14-1ミャンマー1972年11月14日1970年代ラングーン:計画・財務省は10月1日付で公務員,日給労働者への給与を改訂した。新給与体系では,公務員,警官に対する生活費手当は廃止された。また軍人給与も改訂された。 100チャットから1,000チャットまでの月給は増額されたが,1,200から1,500チャットの給与はすえおきとなった。公務員,警官の給与は100チャットから1,500チャットまで,軍人は75チャットから1,500チャットまでとなっている。公務員,警官給与は21段階,軍人は16段階に分かれている。 年金手当も改訂された。(これまでは3.15k)。 日給労働者は全て3.85チャットとされる。 なおこれにより政府雇用者70万人中14万人にのぼる最低給与所得労働者の月給は,82チャットから少なくとも100チャットに引上げられることになる。 また教員給与は増額された。
DIA-211-1972-11-16-1ミャンマー1972年11月16日1970年代Thandaung郡Yado村付近で,Lawpita発電所からラングーンに向かう送電線の支柱3本が破壊活動で爆破された。
DIA-211-1972-11-17-1ミャンマー1972年11月17日1970年代ラングーン:軍情報局長Tin U中佐は記者会見で亡命者グループの活動を次のように説明した。 亡命者の軍事評議会は””中央管区””のU Thwinに対し,亡命者軍をビルマに侵入させる仕事を命じ,U Thwinはその義兄弟Tet Tun率いる“一個連隊”をビルマに潜入させた。 U ThwinはまたTet Tunに軍事活動と並行して,政治的,組織的機構作りの仕事を命じた。Tet Tunは1972年8月13日Maesod付近のHophaingキャンプである機関を結成した。この団体は20人の連合党系の元政治家を含んでいた。この団体からのThakin Thin KyiとBo Ye Hlaは9月と10月にビルマに入った。彼等は旧政治家の亡命,新メンバーの募集などの工作を,Kyaukkyi,Shwegyin,Pegu,Myitkyo,Waw各郡で行ない,新メンバーらを“中央管区”に送り込んだ。 Tet TunはBohmu Thant Shin,U Myaグループを含む約160人とともに,1972年8月第3週にKawthooleiからビルマに入った。彼等は1972年9月19日Tawgywe-in西Tonkhan村に達した。 中央軍区司令官は第99師団傘下部隊により彼等を掃討することにした。 9月22日には第10ビルマ連隊攻撃隊が約40人の亡命者と交戦したが,双方に被害はなかった。ひきつづき,第7ビルマ連隊攻撃隊が亡命派と交戦,政府兵10人が負傷した。 第7ビルマ連隊とHkun Ye Naungグループ亡命者との交戦では,敵5人と政府兵1人が死亡した。 Tet Tun以下150人は10月28日ペグー山東方から撤退しはじめた。彼等が10月30日シッタン川岸に達したとき,第109軽歩兵連隊が追いつき交戦した。政府兵1人が死亡した。また第57ビルマ連隊も彼等と交戦,敵1人を倒した。 11月1日,第39ビルマ連隊兵はDaungbo村で彼等の兵器類を奪った。 Tet Tunグループの損害は死者6人,投降3人であり,政府軍はHK-33を5丁,M-16を4丁,カービン1,トランシーバー2,などを奪った。 7月20日,Kayah州からToungoo県に入ったZaw TunとMin Naing(Jimmy)に率いられた“国内統一平和戦線””派の別の亡命者グループ約60人は,9月17日Thandaung郡Shokho村で第48ビルマ連隊と交戦,10月8日に国境のThawlehtaキャンプに撤退した。しかしその一部はPyinmanaとToungoo東方で活動中である。 11月7日Mandattaung村で国内統一平和戦線グループ50人と第48ビルマ連隊との交戦では,亡命者は死者9人,捕虜3人を出した。 亡命者“南方管区”のTin Ngweグループは10月7日Nateintaung村付近で第19ビルマ連隊と交戦した。同日Ho Hein率いる約60人は,Yebyu郡Bohtaung付近で第24ビルマ連隊と交戦した。第24ビルマ連隊は10月21日,Yebyu郡,Kyauklongyi村付近で約100人の亡命者グループと交戦した。 亡命者“第1特別師団”の活動については,約40人が10月17日Mergui西郡Kanmawで警察派出所を攻撃,占拠した。10月22日,Aung Letya率いる約80人が,Thabawlaikgyiの第17ビルマ連隊キャンプを攻撃した。 10月26日Hla Myint率いる約40人がTenasserim郡区Tagu警察を攻撃した。警官1人死亡,7名負傷。 72年9月中に亡命者Aung Naingグループが爆破装置をもちKyaikto郡に入った。第96ビルマ連隊が掃討し,10月30日Tin Uら15人の亡命者が投降した。11月3日にも1人が投降した。11月3日には同グループの1人が戦死した。 11月9日Thaung Myint率いる7人の亡命派同調者と政府兵がBogale郡Thabyaygan村で交戦,政府兵3人,警官1人が戦死した。
DIA-211-1972-11-17-2ミャンマー1972年11月17日1970年代ラングーン:サンユ将軍率いる新憲法起草委チームは,Twanteで住民代表から意見聴取。
DIA-211-1972-11-17-3ミャンマー1972年11月17日1970年代Lashio:Hla Han教育相率いる新憲法起草委チーム,当地で人民代表の意見聴取。
DIA-211-1972-11-17-4ミャンマー1972年11月17日1970年代Tiddim:Than Sein運輸相率いる新憲法起草委チーム,当地で人民代表の意見聴取。
DIA-211-1972-11-17-5ミャンマー1972年11月17日1970年代Mongnai:Thaung Kyi農林相率いる新憲法起草委チーム,当地で人民代表の意見聴取。
DIA-211-1972-11-17-6ミャンマー1972年11月17日1970年代Moulmein:Sein Win建設相率いる新憲法起草委チーム,当地で人民代表の意見聴取。
DIA-211-1972-11-18-1ミャンマー1972年11月18日1970年代ラングーン:Thaung Tin鉱山相らは,ラングーン港に到着した,米国援助による浅海探査船MV Westem Islander号を視察した。この船は1972年8月10日,マルタバン海での石油調査について,米国Amoco国際石油会社からの100万ドルの技術援助協定にもとづくものである。
DIA-211-1972-11-18-2ミャンマー1972年11月18日1970年代Akyad発11.21:Buthidaung郡Thayet Sanwinmanu村付近で,第20ビルマ連隊兵30人は,約200人のムスリム反乱兵と交戦,これを撃退した。
DIA-211-1972-11-23-1ミャンマー1972年11月23日1970年代ラングーン:サンユ将軍はBotataungなど地区人民代表との憲法草案説明会で,革命評議会による人民議会への国家権力のひき渡しは,1974年3月頃と予定されている,と述べた。
DIA-211-1972-11-25-1ミャンマー1972年11月25日1970年代Bogale郡Htawpaingクリーク付近で,第98ビルマ連隊と第27ビルマ連隊兵は,亡命者Thaung Myintとその現地同調者7人を射殺した。政府兵3人と警官1人が戦死した。
DIA-211-1972-11-26-1ミャンマー1972年11月26日1970年代ラングーン:ラングーン管区経済委員会調整会議が開かれ,U Saw Tun Sein議長はあいさつで,12月1日より協同組合が米の買付け,精米,配給を行なうと述べるとともに,ラングーン管区300万人のための米は,1973年1月15日分まで確保されている,と述べた。
DIA-211-1972-11-26-2ミャンマー1972年11月26日1970年代ラングーン:Twante,Kawhmu,Kungyangon各郡区は農協を通じて農民と米の買付け協定を結びつつあり,また100バスケットに付き150チャットの割合で前貸金を支給している。これまでにTwante郡30カ村区で45万チャットが前渡しされた。
DIA-211-1972-12-02-1ミャンマー1972年12月02日1970年代ラングーン:U Aung Hmi副労働相はモデル労働者に対しての説明で,成年労働者は2887万の総人口の40%を占め,そのうち10%が工場労働者,73%が農業,17%がサービス業労働者であり,工業労働者は140万人と推定されている,と述べた。
DIA-211-1972-12-03-1ミャンマー1972年12月03日1970年代Sandoway発12.4:当地から50マイルのChaingkauk村南で,第55ビルマ連隊兵を運んでいたトラックが,約80人のカレン兵に待伏せ攻撃され,政府兵10人が戦死,民間人2人が死亡,さらに9人が負傷した。
DIA-211-1972-12-05-1ミャンマー1972年12月05日1970年代ラングーン:Charles H Percy米上院議員,4日間の予定で到着。
DIA-211-1972-12-07-1ミャンマー1972年12月07日1970年代ラングーン発WPD:ラングーン管区の人民警察は当局より民衆との友好関係を密にするようにとの指示にもとづき,先週から各家庭への戸別訪問を行ない,防犯などにつき民衆の協力を求めている。
DIA-211-1972-12-07-2ミャンマー1972年12月07日1970年代ラングーン:第1商業公社はラングーン市民に対し,12月分の米の配給は規定量を配給している。大人は1カ月5Pyis,子供は2.5Pyisとなっている。
DIA-211-1972-12-11-1ミャンマー1972年12月11日1970年代ラングーン:白相国対外貿易相に率いられた中国貿易代表団,5日間の予定で到着─空港にはMaung Lwin商相らが出迎えた。なおこの日Maung Lwin商相は中国代表団のために夕食会を開いた。U Lwin計画財務相らが出席した。
DIA-211-1972-12-11-2ミャンマー1972年12月11日1970年代ラングーン:第8回中央労働者評議会大会開催─ネ・ウィン首相ら522人のオブザーバーと中央労働者評議会メンバー547人が出席した。 開会のあいさつを行なったU Ba Nyein中央労働者評議会副議長は,今年は労働者の政府行政への参加,新憲法起草への参加がなされたことを指摘するとともに,労働者の団結に労働者評議会が努力するよう強調した。 ・会議に中央執行委員会報告が提出された。そのなかで次の諸点が明らかにされた。 (組織)~現在,中央評議会メンバー579人,郡区評議会198,郡区組織委員会73,初級評議会組織委員会437,初級評議会2,747,労働者評議会員151万1960人(1万4297事業団),となっている。 新行政制度により,1,115人の郡区労働者評議会員が郡区治安行政委に参加,37人の中央評議会員が管区/州治安行政委に参加し,37人の中央評議会員と33人の郡区評議会員が,中央治安行政委員となり,うち12人が同執行委員となっている。 (生産)~略。 (経済計画)~第1次4カ年計画初年度(1971-72)において,生産額は目標の6.6%増に対して1.3%増にとどまり,サービスは目標の5.8%増に対し4.7%増にとどまった。 農林生産は小幅増にとどまり,魚肉生産は目標の14.2%増に対し2.3%増であった。 鉱業では目標の23.2%増に対し11.8%増にとどまった。工業では目標の7.6%増に対し0.5%増にすぎず,建設も15.8%増の目標に対し,0.6%増であった。 (規律)~略。 (福祉)~略。 (将来の業務)~政治活動を通じ組織を強化し,経済計画の達成に協力し,協同組合計画に協力する。合同協議評議会(JCC)を拡大強化する。
DIA-211-1972-12-12-1ミャンマー1972年12月12日1970年代ラングーン:白相国中国貿易相,U Lwin計画財務相を訪問。
DIA-211-1972-12-13-1ミャンマー1972年12月13日1970年代ラングーン:第26回連邦記念日中央準備委員会が,サンユ将軍を議長として開かれた。 席上サンユ将軍は,来年の連邦記念日の中心スローガンは新憲法の完成であり,1973年中には国民投票を経て,新憲法を公布できよう,と述べた。
DIA-211-1972-12-15-1ミャンマー1972年12月15日1970年代ラングーン:白相国中国貿易相一行は午前Maung Lwin商業相を訪問,午後はSyriam精油所を視察した。
DIA-211-1972-12-15-2ミャンマー1972年12月15日1970年代Kiev:ソ連,ウクライナ訪問中のThaung Dan准将らは,AN-24飛行機製造工場を見学した。
DIA-211-1972-12-16-1ミャンマー1972年12月16日1970年代Merguiで大火,約2000戸が焼失。
DIA-211-1972-12-18-1ミャンマー1972年12月18日1970年代ラングーン:商業省,1972-73年米価を決定。 Ngasein米~K425 Meedon米~K442 Emata米~K448 Ngakywe米~K514 Kaukhnyin米~K413 この米価は1972年11月1日より有効となる。また価格は各46ポンドづめ100バスケットに対する,第1商業公社精米センター,倉庫・買付所での価格である移動買付所で買上げるものについては,そこから精米センターあるいは倉庫までの輸送コストが差し引かれる。 商業省はまた本日,1965年6月22日付の米の卸小売価格改訂に関する通達を廃止する通達を出した。 なお旧価格は: Ngasein米~K358 Meedon米~K373 Emata米~K378 Ngakywe米~K433 Kyaukhnyin米~K348
DIA-211-1972-12-18-2ミャンマー1972年12月18日1970年代ラングーン:商業省は本日付で,ゴマと落花生の買付け,製油,販売統制を撤廃した。なお,9月18日以来,政府機関と協同組合のみがこれらの行為を許されていた。
DIA-211-1972-12-19-1ミャンマー1972年12月19日1970年代ラングーン:第8回中央労働者評議会大会最終日。 大会は,労働者の新憲法起草への参加,経済計画達成への協力,破壊分子との対決等を主張する決議案を採択した。 なおネ・ウィン議長は大会参加者らのために夕食会を開いた。
DIA-211-1972-12-20-1ミャンマー1972年12月20日1970年代ラングーン発WPD:1972~73年度中に,全国の協同組合米買付所は,もみ米1億4400万バスケットを買上げると推定されている。 このうち4460万バスケットは第1商業公社に売られ,残りは協同組合により精米され,第1商業公社が供給する76カ郡区を除く全国の人々に配給される。 第1商業公社は輸出米を精米する。
DIA-211-1972-12-21-1ミャンマー1972年12月21日1970年代ラングーン:人民銀行の貯金利子が73年1月1日より,現行の年2%から3.5%に引き上げられることになった。またこれまでの利子が1人1カ月1万チャット以内の貯金に対してのみ支払われる,といった制限規定は全廃され,全貯金に対し新利子が支払われる。
DIA-211-1972-12-21-2ミャンマー1972年12月21日1970年代ラングーン:首相官房第1局長U Hla Tintは,12月15日付でビルマ政府閣僚評議会書記に任命された。
DIA-211-1972-12-22-1ミャンマー1972年12月22日1970年代ラングーン:赤旗共産党書記長タキン・ソーは,反逆罪で裁判を受けるため特別刑事法廷No.60/1972に出廷した。 タキン・ソーは1970年11月11日,Pakokku郡Kyunchaung村で政府軍に捕われた。
DIA-211-1972-12-30-1ミャンマー1972年12月30日1970年代ラングーン:Tin U副参謀総長(陸軍)は中央政治学校で,軍内組織委員会メンバー等に対して,政治的自覚を強め,軍人がその義務を果たすようにするための努力を強化するよう要請した。
DIA-211-1973-01-02-1ミャンマー1973年01月02日1970年代ラングーン-国軍情報局長兼国家情報局長Tin Oo中佐は記者会見で,72年12月24日からはじまった””Zuzaka作戦””で,食用油,食糧などの投機業者や不法利得者の一掃が進められていると述べた。全国で534人の業者が逮捕された。うちラングーンで76人,ペグー管区で82人が捕われた。
DIA-211-1973-01-02-2ミャンマー1973年01月02日1970年代農林省はペグーとテナセリウム第2管区で,外人経営の3つのゴム園を国有化したと発表した。
DIA-211-1973-01-04-1ミャンマー1973年01月04日1970年代第25回独立記念日-ネ・ウィン議長は政府高官らを招き夕食会を開いた。
DIA-211-1973-01-05-1ミャンマー1973年01月05日1970年代ラングーン:ネ・ウィン議長らは,チャイカサン広場の独立記念式典会場を視察した。
DIA-211-1973-01-05-2ミャンマー1973年01月05日1970年代陸軍副参謀長Tin U准将,軍情報局長Tin Oo中佐ら,Moulmein,Kawthaung,Mergui,Tavoyの軍施設を視察。
DIA-211-1973-01-08-1ミャンマー1973年01月08日1970年代Mudon:Thanbyuzayat南2マイル地点でモン反乱兵がバスに発砲,乗客4人が死亡した。
DIA-211-1973-01-09-1ミャンマー1973年01月09日1970年代ザィールのモブツ大統領,中国訪問の途中,当地に1泊の予定で到着。ネ・ウィン議長と会談。
DIA-211-1973-01-10-1ミャンマー1973年01月10日1970年代日本からの鉱物調査団到着。
DIA-211-1973-01-11-1ミャンマー1973年01月11日1970年代ビルマ医学会第9回保健会議で,Hla Han教育・厚生相は,1962年以前555であった農村保健センターは現在970になり,また農村地区に82のステーション病院が設立されていると述べた。 また会議で,1962年には全国で269の病院(医師660人,看護婦2,066人)があるにすぎなかったが,1972年は398病院(医師3,104人,看護婦9,112人)となったことが発表された。
DIA-211-1973-01-11-2ミャンマー1973年01月11日1970年代Pyuntaza:本郡Kada村の治安委議長と書記が約30人の共産兵により殺された。共産兵は村人に対し,政府に米を売らぬよう要求した。
DIA-211-1973-01-11-3ミャンマー1973年01月11日1970年代Akyab発1.14:Paletwa向けの客船が共産軍に攻撃,占拠され,警官1人,乗客3人が死亡,財貨を奪われた。
DIA-211-1973-01-13-1ミャンマー1973年01月13日1970年代ミャンマ石油公社は今年5990万ガロンのケロシンを生産する計画である。これは前年を900万ガロン上回る。昨年のケロシン売上げは1億1440万チャットに達した。
DIA-211-1973-01-15-1ミャンマー1973年01月15日1970年代”タキン・ソーの裁判-赤旗共産党書記長Thakin Soe(66歳)に対する反逆罪での裁判が特別刑事法廷No.60172で開始された。この日は投降した元赤旗””将軍””U Myint Aungが,Thakin Soeとの関係などにつき証言した。 閉廷後Thakin Soeは記者会見で,現在著書を執筆中で,このなかで彼の誤りを認めている,と述べた。彼は自分はマルキストであるが,仏様を尊敬していると述べた。 また彼は自発的に70年11月に投降したと主張,さらにオンサンに従がわなかったのは間違いであり,もしオンサンとともに働いていたら,ビルマは日本と同じ水準に達したであろうと語った。彼はネ・ウィン氏の指導するビルマ社会主義計画は成功していると確信していると述べた。”
DIA-211-1973-01-16-1ミャンマー1973年01月16日1970年代Zeyawaddy:Toungoo県Oktwin郡Payagalay村付近でToungoo発Pyu行のバスが,約50人のカレン反政府兵に攻撃され,乗客6人が死亡,11人が負傷した。
DIA-211-1973-01-18-1ミャンマー1973年01月18日1970年代”タキン・ソーの裁判-Thakin Soeの第2回公判開く。赤旗共産軍元””将軍””UMyint Aungが証言に立った。主要点は次の通り。 。彼は1942年にビルマ共産党に入党した。その年の党大会は反日政策の追求を決めた。 1940年に党の””lnseinテーゼ””が現われ,また””Myingyanテーゼ””なるものもできた。前者は反日政策を主張し,後者は日本に反対するための民主勢力の協力を主張した。ともにThakin Soeにより書かれた。 。ビルマ独立をめぐり共産党は分裂したが,赤旗は非合法化されて後武器をとった。 。1948年内戦後2ヵ月内に赤旗はカレンと衝突した。 。赤旗など地下諸党はフルシチョフ・テーゼを修正主義として反対した。 。赤旗は支配地区にある種の政府機構をつくった。 次に元赤旗将軍UKyawWinが証言した。 。1939年8月15日Thakin Ba Hein宅で,ビルマ共産党が秘かに結成された。創立者は,Thakin Aung San,Thakin Soe,Thakin Ba Hein,Goshal,Dutta(インド共産党より)らであった。当時Thakin Than Tunは党員ではなかった。AungSanが書記長となった。 。党は中国共産党と接触した。中共のラングーン代表は,毛沢東のゲリラ戦の著作を英訳した。 Thakin Soeはレーニンの著作を訳した。 。日本軍占領時代,UKyaw WinはDanubyuに行き,Dedaye警察を占領して武器を奪った。その後Aung Sanの指令でDedaye郡指導者とされた。その頃はTamweでThakin Soeと会った。 Thakin Soeは反日闘争を開始しようとしてAung SanとThakin Than Tunへの手紙を彼に託した。しかし返事はなかった。 そこでThakin SoeはUKyaw Win,Thakin Tin Mya,BoHteinKin,Bo Tun Seinに武器などを集めるよう命じ,それらをShwegondaing寺院に隠した。 Thakin Soeは当時Kyaukmyaungに住み,約束した日にその寺で会合した。 その頃Thakin Soeは””ビルマ独立官言-1””を書いた。文書は””TheCommunistParty(Burma),Camp India,1940””と署名された。 。1944年8月,Thakin SoeとAung Sanが会い,反日闘争開始で合意した。Thakin Soeが政治指導者となり,Aung Sanが軍事指導者となった。 Thakin Soeは記者会見で声明を発表し,ビルマ社会主義計画党の指導により,社会民主主義共和国が建設されうるとの確信を表明するとともに,計画党への入党を申請したことを明らかにした。”
DIA-211-1973-01-21-1ミャンマー1973年01月21日1970年代ザイールのモブツ大統領帰国。なおビルマ,ザイール両国は外交関係樹立について共同声明を発表した。
DIA-211-1973-01-21-2ミャンマー1973年01月21日1970年代モーリシャス経済・計画・開発相K.Jagatsingh氏ら,中国訪問の途中,当地を1泊の予定で訪間。なお同氏はこの日,U Lwin財務・計画相を訪問。
DIA-211-1973-01-22-1ミャンマー1973年01月22日1970年代”タキン・ソー第3回公判-UKyawWinが証言をつづけた。要点は次のとおり。 。1955年,Thakin Soeは党機関誌(New Power)でフルシチョフを激しく攻撃した。 。1956年,党本部は政府軍の””Auong Marga作戦””のため,転々と所在を移し,6ヵ月後Phaungbyin南に移っていた。そこでの中央委会議でポリトビューローが改組され,””人民民主革命軍事評議会(PDRMC)が結成された。Thakin Soeは議長となり,Ko Myint Aungが軍司令官となった。この年,党は政府と和平交渉を求めて,住民の署名運動をはじめたが,政府軍の作戦再開で失敗に終った。 。1956年12月,Monywa県Taungbyauk村で,BCPのThakin Chit,Yebaw Htay,PVOのBo Aung Naing,赤旗による三派会議が開かれた。Thakin Soe,Thakin Than Tunは出席しなかったが,両者は,この会議で決まった統一協定にサインした。 。1958年,政府軍の攻勢で党本部はMinbu県Namadaungに移った。 次に党本部はアラカンに移った,1961年12月には,党本部はアラカン山方Myebon郡にあり,約200人がいた。 。1962年2月,党本部は政府軍攻勢で移動した。 ネ・ウィン軍政後,政府軍は再び本部への攻撃を開始した。本部は3グループに分かれて逃れた。このときKoMyint Aung指揮部隊が政府軍に投降した。 。赤旗本部がMinbya郡にあるとき,BCPからThakin ChitとBo Tbet Tunがきて,いわゆる劉小奇計画-インドネシア共産党型の議会主義路線-をもたらしたが,Thakin Soeは拒否した。 この会合中に,政府の和平交渉提案がなされた。タキン・ソーは和平交渉に行くことを自身決定した。”
DIA-211-1973-01-22-2ミャンマー1973年01月22日1970年代Moulmein工業高校開校。
DIA-211-1973-01-22-3ミャンマー1973年01月22日1970年代30人の同志の1人,Thakin TunKhin死去。
DIA-211-1973-01-24-1ミャンマー1973年01月24日1970年代新憲法起草委会議,新憲法第2次草案を採択
DIA-211-1973-01-25-1ミャンマー1973年01月25日1970年代Pegu:Pegu郡区治安行政委は,上ビルマの商人が1人当り2バスケットという割当量以上に米を農民から買い付け,上ビルマに運んでいる状態に対し,取締りを強化することを決めた。 協同組合が米取引を接収して以来,各個人は1人2バスケットの米を直接農民から買うことを許されているが,商人達は運び屋を雇いこの規定を利用して米を買い集めている。 ある男は当地からMeiktilaに米2バスケットを運ぷ約束で,旅費と15チャットを支給された。このようにして,毎日米約1,500バスケットが上ビルマに運ばれているとみられている。
DIA-211-1973-01-26-1ミャンマー1973年01月26日1970年代政府,ベトナム停戦を歓迎-ビルマ政府は声明を発表し,ベトナム停戦協定達成を歓迎するとともに,これがラオス,カンボジアでの平和をもたらし,さらに全東南アジァに永続的平和をもたらすことを希望すると述べた。またビルマ政府はこのために,この地域の国々が共に努力するべきときがきたと考える,と指摘した。
DIA-211-1973-01-26-2ミャンマー1973年01月26日1970年代Thongwa発1.27:Kayan,Thongwa,Kyauktan各郡区からの民兵240人に,第90ビルマ連隊より火器が支給された。
DIA-211-1973-01-28-1ミャンマー1973年01月28日1970年代Pyu発:Pyu郡Kyawhla-gyi村の農民がBCP兵士に射殺された。
DIA-211-1973-01-29-1ミャンマー1973年01月29日1970年代Penwegon発:ラングーン・マンダレー道路のTawkywe-inを通行中のバスが共産党Bo Thein派の襲撃を受け,乗客1名が射殺され,4名が負傷した。
DIA-211-1973-01-30-1ミャンマー1973年01月30日1970年代労働省労働法改正委員会は現在,現行労働法の改正案を作成中である。これは現行労働関係法がいずれも旧植民地時代のもので現状に適しなくなっているためである。
DIA-211-1973-02-01-1ミャンマー1973年02月01日1970年代タイ国籍ヘリコプター侵入-Monghsat近郊でビルマ領内(国境より5マィル地点)に一旦着陸し,離陸しようとしたタイ警察所有のヘリコプター(””タイポリス914号””)がビルマ陸軍に発見され,陸軍兵士の発砲で彊制着陸させられた。 当局の調べではこのヘリコプターは国境付近の麻薬栽培ルートを捜索していたものであったとされており,タイ警察官5名の他アメリカ大使館員3名が同乗していた。
DIA-211-1973-02-01-2ミャンマー1973年02月01日1970年代Hale発:Hale郡区党支部書記長UTin Tun,同区SACメンバーUHarmanを団長とする農村開発団はKaryaw,Kyun,Kun,Linenaungなどのナガ25ヵ村を巡回し,民族問題に対する革命評議会の立場と新憲法につき説明した。一行は警官,政府軍第52ビルマ連隊の軍人,商工会員,土地記録局職員など30名で構成されていた。
DIA-211-1973-02-04-1ミャンマー1973年02月04日1970年代東部軍司令官Aung Khin大佐は1月27日に,シャン反乱軍Sang Nyat,Li Min,Ai Myint各派の兵士計140名がKengtung駐留の第4チン銃隊に投降したと発表。
DIA-211-1973-02-05-1ミャンマー1973年02月05日1970年代Akyab8日発:Kyauktaw郡Apaukwa村の警察,民兵詰所を共産党HIaAmg,San Tha派軍50名が襲撃,2時間に亘って交戦,共産軍は郡農協,米買付所などから計2万6000チャット相当の物資を略奪して逃走,なお共産軍兵士4名が死亡,5名が負傷した。
DIA-211-1973-02-06-1ミャンマー1973年02月06日1970年代陸軍副参謀長Tin U准将は1月30日から2月6日までタウンジー,ケントウンなどの東部軍管区を視察した。
DIA-211-1973-02-07-1ミャンマー1973年02月07日1970年代パキスタン大統領特使Kburshid Hasan Meerが到着した(4日間)。空港にはUKyaw Soe外相らが出迎えた。
DIA-211-1973-02-07-2ミャンマー1973年02月07日1970年代連邦記念日に向けての連邦旗のリレーがラングーン郊外のHleguに到着。
DIA-211-1973-02-08-1ミャンマー1973年02月08日1970年代UNDP援助継続UNDP(国連開発計画)の第15回総会でビルマの開発計画(1973~1977年)に対し総額1500万ドルの援助を決定した。このうち1432万7000ドルが計画本体に,87万6000ドルが予備費,調査費などに当てられる。この援助は34%が教育,25%が鉱業,10%が農業開発に向けられ,うち399万4000ドルは進行中のプロジエクト,1033万3000ドルが新規計画に向けられる。
DIA-211-1973-02-10-1ミャンマー1973年02月10日1970年代第26回連邦記念日での記念討論会の主題は””新憲法について”と決定。
DIA-211-1973-02-12-1ミャンマー1973年02月12日1970年代連邦記念日集会チャイカサン広場で10万人以上の労働大衆が集まり,連邦記念日記念集会が開かれた集会では新憲法作成への積極的参加が決議された。また,ネ・ウィン議長のメッセージでは,新憲法の採用と「社会主義的民主国家」の建設への労働大衆の参加が強調された。
DIA-211-1973-02-12-2ミャンマー1973年02月12日1970年代Ye発:当朝Ye-MouImein鉄道のPaingwanとKalunpe間で巡回装甲列車(APT)鉄道が反乱軍の地雷に触れ,機関車と客車4両が脱線した。45分間の交戦後`新モン州党の反乱軍は逃亡した。
DIA-211-1973-02-13-1ミャンマー1973年02月13日1970年代Sandoway発:木材会社の丸太切出し中のトラックがKyaukkyi川の源,PoHlaBaw村近くでNDUF反乱軍の一団に発砲された。Nyaungbinwan村でも10日にこうした事件があった。
DIA-211-1973-02-14-1ミャンマー1973年02月14日1970年代IMFはビルマに対し1350万ドルのSDRスタンドバイ協定を承認した。
DIA-211-1973-02-15-1ミャンマー1973年02月15日1970年代ラングーン:ビルマ看護婦協会第20回会議が開催され,保健相代理Thein Aungは1961年1,929人,1972年9,112人と看護婦が増加したが,今後さらに増加するだろうと述べた。
DIA-211-1973-02-16-1ミャンマー1973年02月16日1970年代ラングーン管区の諸地域における米買付所での米売買は急に活発となり,郡区での米移動禁止令が効力を生じた今月10日以来410万バスケットの米が買い付けられた。
DIA-211-1973-02-16-2ミャンマー1973年02月16日1970年代計画党青年同盟(LYL)中央組織委員会は,LYL郡区紐織委に国勢調査プロジエクトに積極的に参加するよう指示した。
DIA-211-1973-02-17-1ミャンマー1973年02月17日1970年代モスクワ発:ソ連科学アカデミー東洋学研究所の科学会議でソ連・ビルマ関係が取り上げられ,友好,協力が強調された。駐ソ大使U Kyaw Dunも出席。
DIA-211-1973-02-18-1ミャンマー1973年02月18日1970年代Selayywa発:陸軍参謀総長San YuはKyauktaga郡区,Selayywaの新定住区(settlement)を視察した。
DIA-211-1973-02-19-1ミャンマー1973年02月19日1970年代マレーシア陸軍参謀総長Tan Sri Datuk Haji Ibrahimbin Ismail一行は親善訪問のためミンガラドン空港に到着した。
DIA-211-1973-02-19-2ミャンマー1973年02月19日1970年代ビルマ連邦銀行中央事務局はチャットとドルの公式交換レートの修正を発表した。それによると,新レートはUS1ドルに対してK4.8138であり,2月13日から効力を持つ。ちなみに,旧レートはUS1ドルに対しK5.3487であった。
DIA-211-1973-02-20-1ミャンマー1973年02月20日1970年代Kyaikmaraw発:Phanon橋警察所の巡査がNgabyinma村近くのNgalaseikで反乱者によって射殺された。
DIA-211-1973-02-21-1ミャンマー1973年02月21日1970年代豆,麦価改訂-商業相は2月25日から豆類・小麦価格を次のとおり修正した。 (1)Suntarni/SuntapyaK12.50 (2)Matpe(1等級)K16.00 (3)Matpe(2等級)K13.00 (4)BocateK12.00 (5)PeyinK12.00 (6)Mexipax小麦K15.00 (7)白小麦K13.00 (8)赤小麦K11.00 なお,(1)の価格は69ポンド・バスケット当り,その他は72ポンド・バスケット当りである。
DIA-211-1973-02-21-2ミャンマー1973年02月21日1970年代外相代理Chartchai Choonhavan准将を団長とするタイ親善使節団到着(3日間滞在)。
DIA-211-1973-02-21-3ミャンマー1973年02月21日1970年代第2次世界大戦後石油輸入国であったビルマは,革命政府成立後Myanaung,Prome,Mandalay,Shwepyithaにおける新油層の発見,開搾によって,産油高は63年度1億5400万ガロンから70年度2億0600万ガロン以上と着実に上っている。
DIA-211-1973-02-21-4ミャンマー1973年02月21日1970年代昨年2月1日タイ王国警察914号ヘリコプターから捕獲された3人のアメリカ人将校と4人のタイ人釈放さる。
DIA-211-1973-02-21-5ミャンマー1973年02月21日1970年代Theinseik発:約50人のKNDO反乱軍Kyaikkaw,Theinseikのバザールを略奪。反乱軍は酒屋と質屋に押し入ったが,軍隊,警察に駆逐され,途中燃料庫に放火した。
DIA-211-1973-02-22-1ミャンマー1973年02月22日1970年代Akyab発:米6,200バスケットを積んだ2隻の船が約30人のBCP反乱軍により攻撃された。15日,Kalapon島近くMyobaungからAkyabまで4隻の米ボートを引いてThida Aye号が出発しようとする時に生じた。
DIA-211-1973-02-22-2ミャンマー1973年02月22日1970年代東独と外交樹立-政府は2月23日からドイツ民主主義共和国と大使レベルの外交関係を樹立することに同意した。
DIA-211-1973-02-23-1ミャンマー1973年02月23日1970年代ビルマ連邦銀行は10の小規模銀行を3月1日付で郡区支店銀行に昇格させる。支店銀行はNatogyi,Depayin,Thegon,Paungde,Einme,Myohaung,Ponnagyun,Minbya,Pwinbyu,Leweで開かれる。
DIA-211-1973-02-25-1ミャンマー1973年02月25日1970年代新協同組合は5,955-1970年協同組合化計画にもとづいて設置された協同組合は全国で3,933となった。管区別組合数健つぎのとおり。 サガイン285マンダレー603 マグウェ204ペグー141 アラカン141イラワジ570 テナセリム〔I〕167テナセリム〔II〕84 チン特別管区36カチン州125 シャン州225カヤ州32 コウトレイ州40ラングーン986 また目的別では次のとおり。 消費者協同組合1,985,農業生産者協同組合18,村落協同組合113,工業生産者協同組合500,信用協同組合981,サービス業協同組合19,郡協同組合226,郡合同協同組合2,基本合同協同組合49。
DIA-211-1973-02-26-1ミャンマー1973年02月26日1970年代Minhla(Thayet)発:約50人のBCP反乱者は20日Bwe村に侵入し,小学校を閉鎖した。当郡区において,これまで破壊または閉鎖された小学校は,Bwe,Okbokon,Banpyin,Nalai,Tbabyebin,Yengan,Kyaukpon,Talokeyin,Sau,Kantok,Nyaungbintaiの11村に上っている。
DIA-211-1973-03-01-1ミャンマー1973年03月01日1970年代Shwebo,Ye U,Watlet,Khin-U,Taze,Dapayin,Kyunhla,Kanbalu各郡区全村の住民は,最近Bhamo,Katha,マンダレー地帯およぴイラワジ川沖積島地帯の農民の冬作物収穫を手伝うため移動した。農民はイラワジ川沖積地帯の牧草が生い茂るので家畜を連れて行く。マンダレーでは収穫8バスケット当り,KathaとKachuinでは5バスケット当り1バスケットの落花生が与えられる。Shwebo農民の移動労働は伝統となっている。
DIA-211-1973-03-01-2ミャンマー1973年03月01日1970年代HariNarainを団長とするインド測量団到着。一行はビルマの当局者とともに今年の国境測量と地図作成の共同作業の進展を視察する。
DIA-211-1973-03-02-1ミャンマー1973年03月02日1970年代「農民の日」大衆集会が全国で開催された。
DIA-211-1973-03-03-1ミャンマー1973年03月03日1970年代モールメイン:「3党連合」の反乱兵約100人がKawthoolei Kyaikmaraw郡Khalai Tagundaing村の警察陣地を攻撃した。U Ba Tint指揮する警官15人は45分間交戦で反乱兵4人を殺し,M-16ライフル1丁を捕獲したが,警察伍長1人死亡,巡査2人負傷した。反乱兵は付近の2っの橋に放火逃亡した。
DIA-211-1973-03-05-1ミャンマー1973年03月05日1970年代中央農民評議会執行委員会はCPC第5回大会に報告書を提出した。その内容は以下のとおりである。 。組織-1967年3月以降,郡区評議会246,郡区組織化委員会16,町,村の農民評議会1万0848がそれぞれ設置された。なお,郡区農民評議会は組織のない村落に初級評議会を設置する計画である。 。訓練-当初の目標は年2課程の実施であったが,70年以外は1課程しか実施されていない。246郡区農民評議会中訓練課程を開設したのは33であった。課程は約5日間であるが,農閑期には短期間でも一層訓練課程を開く必要がある。 。生産・計画-第1次4カ年計画下での農業生産の増加に比べ耕作面積が拡張されなかったこと,悪天候などのため生産は余り増加していない。したがって,現在の小規模保有に基づく農業経営を集団的農業あるいは協同農業体制に移行させる必要がある。 。調査-調査によれば,多くの郡区は家畜農業の拡大を欲しているが,家畜飼料,医療不足のため進行していない。 。機械化農業-評議会の-部には農業機械化への指向性が欠如している。現在機械化農業局はトラクター6,265,ポンプ3,259を所有し,協組はトラクター2,375,トレーラー315,ポンプ1,935,耕絵機5を所有し,農民(3人以上協同で)はポンプ7,607,耕転機216を所有している。 。協組・購売消費者への福祉活動および人民の信頼を得ることにおいて十分でない。 。社会福祉農村大衆への福祉計画は各部門の協力のみでは成功しない。 。情報-教育映画の映写や図書館の設置が必要である。
DIA-211-1973-03-05-2ミャンマー1973年03月05日1970年代The Guardianの刊行者U Ba Kyauを団長とする新聞使節団は中国政府の招待を受け中国へ出発した。
DIA-211-1973-03-05-3ミャンマー1973年03月05日1970年代中央農民評議会第5回大会に提出された財政委員会報告によれば,CPCの年次支出は以下のとおりである。
DIA-211-1973-03-08-1ミャンマー1973年03月08日1970年代5日前Mergui地区Yadanabou鉱山で6人の反乱者が政府軍により殺害された。同鉱山は3日約150人の反乱者により攻撃されたが,第17ビルマ連隊と警察官約30名が出動し,M-16^s6,HK-33^s2,トランシーバー1組を捕獲した。政府側は死者2名,負傷者15名をだし,鉱山事務所が放火された。
DIA-211-1973-03-08-2ミャンマー1973年03月08日1970年代Phone Myint少佐率いる東南司令本部の特別部隊とKNUF反乱軍との交戦で,追放者Myint Hlaingが生捕られ,政府側は2名が負傷した。
DIA-211-1973-03-09-1ミャンマー1973年03月09日1970年代計画・財政相U Lwin率いるビルマ代表団は日本訪問に出発した。
DIA-211-1973-03-09-2ミャンマー1973年03月09日1970年代外相U Kyaw Soeはタイ政府招待でタイ公式訪問(3日間)に出発した。
DIA-211-1973-03-10-1ミャンマー1973年03月10日1970年代モールメイン:ユ00人強の反乱軍が同地からKaropi,Pa-nga製塩工場へ行く途中の道路輸送組合トラック5台をストップさせ運搬物を強奪した。事件はMudon郡のTagundaing交差点で生じた。5人の運転手は行方不明で軍と警察が捜査中である。
DIA-211-1973-03-11-1ミャンマー1973年03月11日1970年代中央農民評議会第5回会議第7日。社会主義計画党の経済政策について説明がなされた。
DIA-211-1973-03-14-1ミャンマー1973年03月14日1970年代社会主義計画党中央委員会第5回会議開催-ネ・ウィン議長は演説で,党内の集団的指導の必要,政府の財政危機に触れるとともに消費に十分な米が必要であると言明した。また党書記長San Yu将軍は中央執行委の活動について報告した。
DIA-211-1973-03-15-1ミャンマー1973年03月15日1970年代ラングーン・マンダレー道路計画-マンダレー・ラングーン間ハイウェイ(433マイル)の道路幅拡張計画には1972-73年度に約600万チャットが使用される見込みである。最初の計画ではラングーン・Payagyi間50マイル以上を11から22フィー-トに広げられた。1971-72年度にはマンダレーからスタート,25マイルが拡張され,現在36マイル以上に達し今会計年度にはKumeに達する予定である。
DIA-211-1973-03-15-2ミャンマー1973年03月15日1970年代政府は西ドイツおよびEEC大使としてU Ba Sawを任命した。
DIA-211-1973-03-19-1ミャンマー1973年03月19日1970年代臨時党大会および第2回党大会召集のためのSan Yu党書記長,将軍を委員長とする99人委員会が,党中央委員会と党活動視察委員会の共同会議で設置され,直ちに第1回会議を開いた。
DIA-211-1973-03-22-1ミャンマー1973年03月22日1970年代シャン北部戦線-Kutkai:最近北東部軍区の前線を訪れている報道関係者は2グループに分かれMuseとNamkhamを視察した。Museでは司令官SoeMyint少佐が,Soe Wiuの率いるBCP反乱者はShweli川沿岸を逃走中で反乱軍間の殺し合いや空軍への投降が多く,また200人以上の住民が政府軍への協力を誓っていると状況を説明した。また,Namkhamでは総工費600万チャットで26・5マイルにわたるNamphatkar Namkham間戦略道路が6月までには完成の予定といわれる。
DIA-211-1973-03-22-2ミャンマー1973年03月22日1970年代Kutkai:第88軽歩兵管区の政府軍司令官Myo Aung大佐は記者会見で,北東部軍区において過去10カ月間(1972年5月27日-1973年3月19日)のうち129回にわたる戦闘で死者300人(BCP288,KIA11,Palaung 1),負傷者60人(BCP48,KIA12),生捕り48人,投降65人におよぷ反乱分子にたいする勝利を収めたと述べた。 また,Muse付近の3,127地点(0815857),Kawagkhan(0084890),Lawankyaing(9424555)の前線ではBCP反乱軍にたいし勝利している。Z127区地点では1972年11月-6日に戦闘があり,略奪を試みようとした約800人のBCP反乱軍の内5人の指導者を含む187人が死亡。 Kawngkhamでは1973年2月11日に約5分間の戦闘があり,約60人のBCP反乱軍の内7人死亡,6人負傷。Lawankyaingでは1973年2月21日の約30分間の戦闘で約150人の反乱軍中63人が死亡。
DIA-211-1973-03-23-1ミャンマー1973年03月23日1970年代Kunlong:北東部軍区の前線を視察中の報道関係者はHopan地域を巡回した。当地26万以上の人民は収穫期にBCP,KIA,Palaung反乱軍に悩まされ,8郡区の25の学校の内15が反乱軍の命令で閉鎖中,人民軍と軍隊は反乱軍一掃に努力している。
DIA-211-1973-03-24-1ミャンマー1973年03月24日1970年代クンロン地区の戦闘-第99師団司令官Tin Sein大佐は記者会見で,後進的なKunlong地域に政権樹立をというビルマ共産党の企図は人民と空軍の努力により粉砕され,BCP反乱軍はKunlongにおける40日間の戦闘(1971年11月19日}12月28月)での総崩れ以来逃亡していると述べた。 40日間の会戦中以下のごとく8回にもわたる衝突があった。 (1)11月20日-MankhaCamp37時間15分 (2)22日-Loi Mankha丘陵4時間 (3)25日-〃30分 (4)26日-Shawtilin丘陵12時間45分 (5)30日-Haikaba丘陵8時間45分 (6)12月5日-〃4時間 (7)11日-LoiMankha丘陵33時間 (8)18日-Kawnykyai5時間45分
DIA-211-1973-03-25-1ミャンマー1973年03月25日1970年代ラシオ地域での戦闘-北東部軍区において政府軍は約2年9ヵ月間(1971年6月30日~1973年3月15日)にBCP,KIA,シャン,Loimaw,Wa.KMTなどの反乱軍との1,874回の交戦で勝利した。反乱軍は7,O00人以上死亡,570人生捕り,720名投降,火器1,309が奪回された。また,M型ライフル(547),散弾銃(12),連発ピストル(12),mmピストル(95),軽機関銃(28),G型ライフル(33),カービン銃(286),機関銃(30),mm銃(16)が押収された。
DIA-211-1973-03-26-1ミャンマー1973年03月26日1970年代The Guardian編集長U B Kyaw率いる新聞代表団は3週間以上にわたる中国での新聞活動見学を終え帰国した。
DIA-211-1973-03-28-1ミャンマー1973年03月28日1970年代モールメイン:Ye Tavoy道路,25/4哩程標にある警察派出所が反乱軍200人に攻撃された。約30分の交戦で,警官9人と役人1人,住民2人が死亡し,警官4人が負傷,反乱者は10人死亡し,カービン銃が押収された。反乱軍は警察専用車に放火後逃亡し,Yebyuの政府軍部隊が出動した。
DIA-211-1973-04-01-1ミャンマー1973年04月01日1970年代自民党宮沢喜氏率いる日本親善使節団6人が到着,U Kyaw Soe外相等らが出迎えた。4日間の滞在。
DIA-211-1973-04-01-2ミャンマー1973年04月01日1970年代セメントエ場の現況-Kyanginのセメントエ場は1975年はじめに生産を開始する予定である。同工場の建設は1972年1月Myanaung郡,Kyangin西5マイル,Banbwegon村付近に開始された。工場は当初日産800トンで1974-75年度には5万トン生産の見込みである。ちなみに,現存するThayetmyoの3工場は来たる会計年度には22万トン,197-374年度には23万トン,1974-75年度には24万トンを生産する見込みである。
DIA-211-1973-04-01-3ミャンマー1973年04月01日1970年代センサス開始される-第1回センサスはイギリス統治下インドの一部として1872年に,1881年から1942年までは10年毎に,独立後の第1回センサスは1953年にそれぞれ実施された。これらのセンサスは前回の数字に一定の割合は附加するという原則(1953年は2.3%)であ り,正確なものではなかった。その意味で今回のセンサスは最初の正式なもので(1971年第1回計画党大会で経済開発計画が決議されて後センサスの必要が提起された),1972年4月30日に効力を発した「新センサス法」にもとづいている。センサス委員会として中央治案行政委員会が任命され,この委員会が内相代理を委員長とする中央センサス委員会を設置した。今回のセンサス計画には6000万チャット万以上が認可され,計数者として学生39万9480人,検査官として教師,大学生2万6631人が雇用され,全国315市,314郡が3,334区,1万3336村に分割された。 ちなみに,ビルマでのセンサスの歴史はTagaungのThadol Zabudipa Mahadazaraza王の統治時代のBC500年にさかのぼる。王はパゴダ建築のため各世帯にレンガを納入させようと人口を調査したといわれる。
DIA-211-1973-04-03-1ミャンマー1973年04月03日1970年代ラングーン川沿岸域浮動人ロセンサスによれば,ラングーン港郡区には約800世帯が居住する約400のバラックが存在し,河川では貨物船80隻,川舟70隻,港湾船(portsvessels)300隻が世帯家屋となっている。
DIA-211-1973-04-07-1ミャンマー1973年04月07日1970年代社会主義計画党臨時大会開かる。
DIA-211-1973-04-08-1ミャンマー1973年04月08日1970年代社会主義計画党臨時大会第2日。党書記長San Yu将軍が第1回党大会以来1年9ヵ月間の党の発展について報告した。
DIA-211-1973-04-08-2ミャンマー1973年04月08日1970年代U Tbein Nyun率いるビルマ代表団はインドと舟空協定につき話し合うため出発した。
DIA-211-1973-04-08-3ミャンマー1973年04月08日1970年代親善訪間中のスワラン・シン・インド外相はUKaw Soe外相を訪問した。
DIA-211-1973-04-09-1ミャンマー1973年04月09日1970年代ネ・ウィン議長は,ビルマがアジア開発銀行(ADB)の-員となるため1973年ADB法に調印した。
DIA-211-1973-04-09-2ミャンマー1973年04月09日1970年代Akyab:BCP郡書記Mai Tun Uと兵Saw Maung Uは軍情報第3支部に投降した。ライフル,砲身,連発ピストル各1丁と各種弾薬が押収された。
DIA-211-1973-04-12-1ミャンマー1973年04月12日1970年代政治犯釈放-拘留者975人は全国各郡で釈放された。この内,380人はZuzaka作戦でNIBにより留置された者で,595人は政治犯拘留者であった。 政治犯拘留者の内訳は,Sinpbyudaw作戦による者159,亡命者シンパ201,BCPシンパ55,偏向学生,青年39,KNUP・KNUFシンパ87,KIAシンパ10,新モン州党(New Mon State Party)シンパ1,シャン反乱者シンパ10,その他33であり,これを軍区別にみれば,北部軍区10,東部軍区11,南東部軍区186,ラングーン軍区220,南西部軍区64,西部軍区16,北西部軍区23,中央軍区65であった。また,前者380人の出身別内訳は,ラングーン43,ペグー57,イラワディー135,Tenasserim41,アラカン11,マンダレー75,Sagaing3,Magwe8,シャンとKayah州7であった。
DIA-211-1973-04-14-1ミャンマー1973年04月14日1970年代Lashio:Wa北部地域における「Ye Man Aung作戦」に参加したKyaw Swa少佐率いる第3ビルマ連隊の常勝部隊は当地で歓待された。部隊は空軍,砲兵隊,人民軍と協力して,3月12~25日間の16回にわたる交戦において,敵側300人以上の死亡,150人の負傷という戦果を収めた。
DIA-211-1973-04-15-1ミャンマー1973年04月15日1970年代Dedaye郡91カ村の内50カ村地域以上は,1972年4月開始された識字キャンペーンにより100%の成果をあげたと公式に表明された。同郡区379カ村では,15歳~55歳の1万0600人が文盲であったが,読書室や図書館が開設され成功を収めた。
DIA-211-1973-04-17-1ミャンマー1973年04月17日1970年代職業訓練学校の増設-教育省は漸次,職業訓練学校を増設する予定である。最近開設された各種学校内訳は,技術研究所4-Insein,マンダレー,Kalaw,Prome(Chauk,モウルメインに開設予定),技術高校6-マンダレー,Taunggyi Maymyo,モウルメイン,ラングーン(2)(Henzada,Yenangyaungに開設予定),農業高校10-Myaungmya Thegon Toungoo Namsang Myittha,Shwebo,Myitkyina,Pa-an,Lonpi,Dimawso,商業学校2-ラングーン,マンダレーとなっている。
DIA-211-1973-04-17-2ミャンマー1973年04月17日1970年代警察署長U Chit Theinは””Briberyand Corruption Suppression Act””贈賄,腐敗規制法第4条(1)(d)(2)により逮捕された。Yinmabin郡区,Lettaungngai村の1住民の労働者評議会への4月10日付報告によれば,切盗容疑で留置されていた容疑者から釈放金として500チャットを収賄した。
DIA-211-1973-04-18-1ミャンマー1973年04月18日1970年代西部軍区地域のアラカン管区にいるビルマ共産党の反乱者とその支持者,およびミゾ反乱者は,地方住民の協力によるビルマ第20,第34連隊による掃討によって大打撃を受けた。
DIA-211-1973-04-18-2ミャンマー1973年04月18日1970年代ネ・ウィン議長夫妻は今朝BAC特別機で日本親善訪問に出発した。
DIA-211-1973-04-19-1ミャンマー1973年04月19日1970年代公用語はピルマ語だけ-全省は公用語としてビルマ語を使用するよう指示したが,若し英語使用が避けられないなら挿入の場合に限られことになる。ちなみに,英語は1947年以後ビルマの公用語となっていた。
DIA-211-1973-04-28-1ミャンマー1973年04月28日1970年代アジア開銀のメンバーに-アジア開発銀行(ADB)は39番目のメンバーとしてビルマの参加を受諾するとともに,マンダレーの道路建設に借款が適用されると発表した。
DIA-211-1973-04-28-2ミャンマー1973年04月28日1970年代Hlegu郡,Wachaung村地域の人民軍に火器が供給された。住民1,000人(軍人60人)以上が出席した会合で,第91ビルマ連隊司令官San Tun少佐は国家防衛における人民軍の役割を強調した。
DIA-211-1973-04-29-1ミャンマー1973年04月29日1970年代織物公社の現況-織物公社は1973-74年度初頭からYwathitkyi織物工場とPalaik織物合成でテトロン生産を開始する計画である。テトロン織物は国内綿と輸入ポリエステルで生産され,ポリエステルは輸入中である。公社は社会主義計画党の長期,短期の経済政策に基づく国内の必要に応じて,Thamaingの人民織物第3工場の拡張,Meiktila織物工場,ThamaingのTarpaulin工場,Ywathitkyi織物工場,Palaik織物合成,Thingangyun綿紡工場の建設に努力している。
DIA-211-1973-04-29-2ミャンマー1973年04月29日1970年代ラングーン駅で爆弾-ラングーン駅で,爆弾の爆発により4人が死亡,27人が負傷した。モウルメインからの下り列車108号が第2番線ホームに丁度入って来たとき何者かが爆弾を投下した。
DIA-211-1973-05-01-1ミャンマー1973年05月01日1970年代「労働者の日」大衆集会がチャイカサン広場で開催された。 ネ・ウィン議長のメッセージがU Thaung Kyi BSPP統合書記長により代読された。メッセージは労働者が一層の生産の粗織化,事業の促進化および訓練強化に努力するようよびかけた。 ・労働者評議会を代表して,U Mya Hanは演説のなかで,労働者が農業生産向上のための農機具生産,原料・機具の適切な使用による生産向上,品質改善,生産費削減に努力するよう呼びかけるとともに,新憲法第2次起草への積極的な貢献が,新行政におけるSAC制度の政治的意義,反乱分子一掃への協力を強調した。 ・大衆集会は,(1)経済発展のための生産の向上,(2)新憲法採択への積極的参加,(3)反乱分子の排除を決議した。
DIA-211-1973-05-02-1ミャンマー1973年05月02日1970年代Toungoo:国内平和統一党Pa Nya NgaのZaw Tun指導下のTun Me Lone派の反乱者3人は,Swa駐留の第26ビルマ連隊に投降した。
DIA-211-1973-05-03-1ミャンマー1973年05月03日1970年代新聞・報道関係労働者は,ラングーン中央駅テロ事件を非難する大衆集会を開催した。
DIA-211-1973-05-03-2ミャンマー1973年05月03日1970年代レネ・ウィン首相タイ訪問-タイ公式訪問中のネ・ウィン首相はタノム首相と約2時間にわたり会談した。
DIA-211-1973-05-04-1ミャンマー1973年05月04日1970年代基礎教育職員配置会議で,Hla Han教育相は大衆間に教育にたいする渇望が極めて大きいと表明した。
DIA-211-1973-05-04-2ミャンマー1973年05月04日1970年代Magwe:同地南東約14マイル,Yincbaung川に建設されたYinchaun橋が開通した。
DIA-211-1973-05-04-3ミャンマー1973年05月04日1970年代タイ公式訪問第2日目のネ・ウィン議長大妻をプミポン国王大妻歓迎。タノム首相と両国関係について会談した。
DIA-211-1973-05-05-1ミャンマー1973年05月05日1970年代スワラン・シン,インド外相は3白間の親善訪問のため到着,UKyaw Soe外相らが迎えた。
DIA-211-1973-05-08-1ミャンマー1973年05月08日1970年代Letpadan:同郡区Hmawin村地域,Padainsu村でよそ者がいるとの情報で巡回中の警官の発砲により,‘KNUP’の反乱者1人が死亡,1人が負傷した。
DIA-211-1973-05-09-1ミャンマー1973年05月09日1970年代商業省は米・小麦の国内取引に関する統制解除令(10日発効)を発表した。
DIA-211-1973-05-10-1ミャンマー1973年05月10日1970年代マンダレー管区灌漑計画-灌漑部局はマンダレー管区,Madaya郡区におけるYenatha灌漑計画(990万チャット)を実施している。現在,土地整備,採石,排水運河の掘進,橋41と水門68の建設,排水門368,防潮門24,排水管15の取付け,警備場38の設置,水流調整運河のコンクリート土台の据え付けおよび主要運河沿いの叢林地の除去を施行している。同計画はマンダレー管区の長期灌漑計画(13)の1つで,農地約工万8000エーカーを灌漑する。
DIA-211-1973-05-12-1ミャンマー1973年05月12日1970年代Kyallkseセメントエ場-1974-75年度にKyaukseセメントエ場(1億6000万チャット)の建設が開始される。これは中国の援助により工業省,セメント業公社が3年間で建設する予定である。中国援助団はフィーズィビリティー調査の35%を完了した。原料はKyaukse東方数マイル,Tbandawmyat,Dattaw,Nwargegauk,Kyaukhti,Shwe-u-min,Kyaukpakhetの山地から採取される。用水はMyitnge川に,電力はマンダレーのTagundaing発電所に依拠する。完成後は1300人以上の労働者が雇用され,年産24万トンの見込みである。
DIA-211-1973-05-13-1ミャンマー1973年05月13日1970年代観光客の増加状況は次の通りである。1969年-3,054人,1970年-1万0996人,1971年-1万3405人,1972年-1万7838人,1973年1月~4月-7,491人。今年の4ヵ月間は前年の同期と比較すると50%増となっている。
DIA-211-1973-05-13-2ミャンマー1973年05月13日1970年代レインドとの間に定期便-5月2日以来インド航空重要日誌581の定期便が発着している。これまでインドとの航空サーヴィスは停止状態にあったが,今年4月9日-18日に両国代表はニューデリーで航空協定に関する会談が開催され,この結果5月1日付けでインド航空の上空通過・乗り入れが認可された。現在,インド航空はカルカッタからラングーンヘ週3便,上空を週4回飛行している。
DIA-211-1973-05-15-1ミャンマー1973年05月15日1970年代刑事裁判所第62法廷で1972年の証言に継続して,Thakin Soe別名U Soe前赤旗共産党書記長は,1948年にビルマに開始された内乱財政的赤字を示していた国民経済,生産力,技術および人民の文化水準の悪化にたいする基本的犯罪人であったことを認めた。
DIA-211-1973-05-16-1ミャンマー1973年05月16日1970年代Sandoway:8年来同地域で活動していたアラカン人民解放戦線のチン人Peter Ba Cho通称Than Naingに率られた31人の反乱者は西部軍区第55ビルマ連隊に投降した。投降の理由は,政府軍の攻撃激化,ジャングルでの食糧の欠乏,反乱者間のイデオロギー上の相違によるといわれる。
DIA-211-1973-05-18-1ミャンマー1973年05月18日1970年代Salingyi:赤旗共産党中央委員代理Ba=Chit別名Chit Pe Nyuntと同中央委組織員DawHla Tinは,同郡区Hkuntha村の郡区SACに投降した。G-3ライフルと252箱の弾薬が押収された。翌日には同中央委員Tbakin BakunもKyartetの警察に投降した。3人の反乱者は政府軍攻撃によりMagwe管区から逃亡した一団にいて同郡区に来たが,第15ビルマ連隊と警察の共同作戦によりジャングルに追込まれていた。
DIA-211-1973-05-19-1ミャンマー1973年05月19日1970年代モウルメインのDaingwunkwinの発電所と警察署にM-79機動銃とHK-33ライフルで武装した6人の追放者が発砲し,学生2人負傷したが,その他の損害はなかった。
DIA-211-1973-05-19-2ミャンマー1973年05月19日1970年代中央労働者評議会と中央農民評議会を代表するビルマ代表団は,AUCCTUの招待でソ連親善訪問のため出発した。
DIA-211-1973-05-19-3ミャンマー1973年05月19日1970年代Pyu:反乱者のテロリズムを非難する大衆集会がYethiri劇場で開催され,Pyu,Zeyawaddy,Nyaungbintha郡区の住民1,500人以上参加した。
DIA-211-1973-05-19-4ミャンマー1973年05月19日1970年代Bogale:反乱軍を装い川舟所有者と農民から「税」を要求していた強盗が警察により敗走させられた。今月第2週目,Kuntheechaung,Thaphyan,Kyunnyo,Shwebose各村の農民と川舟所有者は,1工-カー当り2チャット,1隻当り500チャットの税を要求する「愛国勢力」のSaw Kyaw Than署名の文書を受け取った。強盗が隠れていると報告されたMeinmahla孤丘のHnarhnapauk村を同郡区警察指揮官U Kyaw MyintとSetsan警察署指揮官U Sun Hlaing率いる警察が攻撃し,強盗側は2人死亡,5人逮捕され,ライフル3丁,12発の303弾薬を押収した。
DIA-211-1973-05-24-1ミャンマー1973年05月24日1970年代U Tin Maung Kyi情報,報道局長率いる情報代表団はビルマ・ソ連文化協力交換計画に基づきソ連訪問へ出発した。3週間滞在予定。
DIA-211-1973-05-26-1ミャンマー1973年05月26日1970年代Akayb:Myebon郡区Thinganet村のトラクター基地でBCP反乱軍の攻撃により警官1人が死亡,2人が負傷した。警察の反撃で反乱は鎮圧されたが,タイヤ7本,軽油8カンが破壊された。
DIA-211-1973-05-28-1ミャンマー1973年05月28日1970年代Akyab:西部軍区とアラカン海軍基地の政府軍部隊は,11日アラカン管区Rathedaung郡区Nanyar川上流のMaya丘陵にあったムスリム強盗団の根拠地を攻略。4時間の交戦で10人の強盗団が死亡,30人以上が行方不明となり,SBBL銃4,ブレン銃身4,ブレン連発銃15,500箱相当の弾薬,タイプライター3,重要文書などを押収した。
DIA-211-1973-05-31-1ミャンマー1973年05月31日1970年代ビルマとインドの航空輸送協定が妥結した。了解事項についての覚え書が作成され調印された。
DIA-211-1973-06-01-1ミャンマー1973年06月01日1970年代Kyain-Seikkyi:モン反乱者,「新モン州党」の「地区副委員長」Nai Ohn Sheinは,第32ビルマ連隊に投降した。カービン銃1,弾丸72発が押収された。
DIA-211-1973-06-02-1ミャンマー1973年06月02日1970年代鉱業相Thaung Tin退役海軍准将,ビルマ石油公社Aung Khin経営部長行は,モジ島の油田試掘第1号やAkyabMOC施設を2日間で視察しラングーンに戻った。
DIA-211-1973-06-03-1ミャンマー1973年06月03日1970年代職業安定所は,1962~1972年に約40万人に職を斡旋した。各年別内訳は,1962=3万3154,1963=2万1346,1964=3万2293,1965==3万5953,1966=3万2259,1967=3万6809,1968=3万4821,1969=7万4821,1971=4万4144,1972=4万2693となっている。
DIA-211-1973-06-06-1ミャンマー1973年06月06日1970年代農業公社UHlaMyint理事長は,最近上半期におけるジュート輸出総量は3万3000トンに達したことを明らかにした。最近の年度別生産高は,1970-73年5万4000,1971-72年8万4000,1972-73年11万(見込み)トンであり,昨年1万6000トンが輸出された。
DIA-211-1973-06-08-1ミャンマー1973年06月08日1970年代計画・財務省は,各レベルにおいて経済計画実施委員会を設置するよう告示した。
DIA-211-1973-06-11-1ミャンマー1973年06月11日1970年代ネ・ウィン首相インドネシアへ-ネ・ウィン議長夫妻は,BAC特別機でインドネシァおよびマレーシアヘの親善訪問に出発した(6月17日まで)。
DIA-211-1973-06-11-2ミャンマー1973年06月11日1970年代Lashio:東北軍区での記者団との会見で防衛情報局長Tin Oo大佐は,KMT侵入時に組織された東・東北軍区の「地方防衛隊」は解散したと説明した。
DIA-211-1973-06-12-1ミャンマー1973年06月12日1970年代ソ連人誘拐事件-政府はLoi Maw派反乱軍によるソヴィエト人誘拐事件に関して,恐喝的要求に応ずる積りがないことを言明した。 。ソヴィエト人誘拐事件の概要 Sao Sanhtun病院の医師Boris Pianitskiと技師Stanis Iav Vinogradovは4月16日誘拐され,現在も拐われている。IBMNDは「大陸部作戦局」という組織下に,ビルマ,タイ,ラオス3国境界が接する「黄金の三角地帯」に活動領域を持ち,その活動は反政府運動,政府転覆あるいは中国についての情報収集である。 今年2月Kokang派反乱軍とLoi Maw派反乱軍間にアヘン抗争が生じたが,KMTの残存軍の調停で停戦。二派は3月5日同盟し,2人のロシア人の誘拐を計画,4月16日に実行した。 政府はソ連政府と協議の上秘密とし,救出を試みた。防衛情報員DSIがマンダレー刑務所に拘留中のHkunsaに会見し,Loi Mawに手紙を書くように要請し,口述文書がMaw反乱軍に送られた。同派のLao Shanから5月4日付で返答が来たが,内容は要求を受け入れないなら人質の写真と録音テープを世界に公表するというものであった。 DSIによれば,11月4日に釈放されていたMang Soeに,6月までに釈放されない時駐ビルマ大使を誘拐し,自分と交換するようHkunsaが指示していたといわれる。3月末Taungyiに結集した反乱分子は,この陰謀露見で逮捕された。 5月22日,民政移管される1974年3月2月に釈放が決定される見込みゆえロシア人を釈放するようにという内容のHkunsaの手紙がLoiMaw派に送られた。翌日,LoiMaw派はロシア人々質に関連し政府の返答を求め,中国も人質を望んでいると書いてきた。
DIA-211-1973-06-14-1ミャンマー1973年06月14日1970年代ネ・ウィン議長はクアラルンプー-ルに到着。4日間の日程でラザク首相と東南アジァの安定と両国の協力につき話し合う予定。The Straits Times紙は,「静かな頂上会談時代のはじまり」と評価した。
DIA-211-1973-06-15-1ミャンマー1973年06月15日1970年代2日間にわたったラングーン郡区SAC総会終る。UKoKo中央SAC議長は閉会演説で,ラングーンとマンダレー西部管区で計画されている農村経済調査には5,000人の学生が志願している,また経済計画実行委にたいし可耕地の耕作,工場での汚職防止,アヘン密売の効果的阻止等を指示すると述べた。
DIA-211-1973-06-17-1ミャンマー1973年06月17日1970年代最近計画・財務相U Lwinと工業・労働相U Maung Maungは北・中央ビルマの工場を視察した。視察したのは,Pakokku人民たばこ工場,建設中のKynnchaungガス・ター-ビン発電所,KyunchaungとSaleの肥料工場,Meiktilaの人民綿工場,PyinmanaとZeyawaddyの砂糖工場およびZeyawaddyの蒸留酒びん製造所である。
DIA-211-1973-06-18-1ミャンマー1973年06月18日1970年代ジャカルタ:ネ・ウィン議長のインドネシア訪問はインドネシア言論界に大きな影響を与えている。軍系新聞AngkatanBersenjataは,ビルマの東南アジア中立化構想とその役割は成果あるものと評価した。
DIA-211-1973-06-26-1ミャンマー1973年06月26日1970年代Myaungmya:学生・労働者を含む6万1000以上上が反乱分子-KMT,Lo Hsing-han Hkunsa一派を非難する集会を開催しデモをした。
DIA-211-1973-06-27-1ミャンマー1973年06月27日1970年代Akyab: Myohaung 郡区Balibyin(かつてのBCPの拠点)で「BCP地区委員会」副委員長Ba Theinは,一週間前怒った村民により殺害された。BCP反乱者は6月18日Kyaryebyin村近くでフェリー・ボートを強奪した後同村に隠れていた。ステン銃と弾薬は第34ビルマ連隊に引き渡された。
DIA-211-1973-06-28-1ミャンマー1973年06月28日1970年代ゴム園は国有化されない-農林省の告示によれば,ゴム・プランテーションは30年間は国有化されない予定である。これはゴム生産増大のため地方のゴム・プランテーション所有者に最大限の援助を与えるという政府の方針にそってなされた。
DIA-211-1973-06-28-2ミャンマー1973年06月28日1970年代革命評議会議長は,民事事件を裁くためにも人民裁判所を強化する法令(7)―Revolutionary Council LawNos.2~8 of 1973―を公布した。
DIA-211-1973-06-28-3ミャンマー1973年06月28日1970年代新憲法の国民投票と第1回人民大会および各レベルの人民評議会に向けての選挙を実施するための準備委員会(委員長U Ko Ko 内務・宗教相)が設置された。
DIA-211-1973-06-30-1ミャンマー1973年06月30日1970年代Kunlong:郡区SACおよび計画党支部は,救済局にたいしてBCP反乱者の米要求や「税」取立てからHopanに避難したWa郡北部地域の住民のため救済店を設けるよう要請した。Hopanの難民は167家族1,100入に達し,当局は5月中に米,塩,毛布などを配給した。
DIA-211-1973-07-03-1ミャンマー1973年07月03日1970年代シャン州灌漑計画-灌漑局は9000万チャットの経費でシャン州において灌漑計画(8)を実施中である。これらは,Yaunghwe(Nyaungshwe)郡区のNamletchaung計画(4800万チャット,2万2000エーカー以上),Hsenwi郡区のHsenwi溪谷開発計画(900万チャット,9,000エーカー以上),Mongmit郡区のMongmit溪谷開発計画(900万チャット,9,000エーカー),Ken-gtung郡区Monglin溪谷開発計画(300万チャット,6,000 エーカー),同郡区のKengtung溪谷開発計画700万チャット,1万7000エーカー),溪谷開発計画(500万チャット,7,000エーカー),Tachilek溪谷開発計画(400万チャット,1万7000エーカー),Mongyawng郡区のPonparkyin開発計画(400万チャット,3,700エーカー)である。計画が完成すればシャン州の約8万8000エーカーが灌漑されることになる。
DIA-211-1973-07-05-1ミャンマー1973年07月05日1970年代ビルマ政府は鉄道・水路の復旧のためIDAと3300万ドル借款協定に調印。
DIA-211-1973-07-06-1ミャンマー1973年07月06日1970年代ビルマ,エチオピアと航空輸送協定を締結。
DIA-211-1973-07-08-1ミャンマー1973年07月08日1970年代港湾公社は外港開発(8)とモウルメイン,バセインおよびアキヤブ港にそれぞれ400万チャット100万チャフトを投資している。各々の港湾収入と損失額は以下の通りである。
DIA-211-1973-07-09-1ミャンマー1973年07月09日1970年代UNDP計画でビルマ応用調査研究所に応用重合体調査実験室を設置するための計画・文書が計画財務省で調印された。政府側からはU Chit Moung計画・財務副大臣が,UNDPおよびUNIDOを代表しHimalaya・S・Ranaが参加した。
DIA-211-1973-07-14-1ミャンマー1973年07月14日1970年代Yezeir農業研究所施設がこのほど完成,9月7日に開設予定。
DIA-211-1973-07-15-1ミャンマー1973年07月15日1970年代農用トラクター-各州の国有・組合所有別トラクター台数は,Kachin 218 (138,80),Kayah 91(80,11),Kawthoolei 66(37,29),チン特別管区68(35,33),シャン309 (196,113)である。
DIA-211-1973-07-17-1ミャンマー1973年07月17日1970年代麻薬王逮捕さる-シャン州南部タイ国境付近のMong Mau のシャン反乱軍本部は政府空軍により占領された。攻撃は第77軽歩兵連隊の戦略作戦部隊によるAung Thanlwin作戦によってなされ,反乱軍指導者Lo Hsing-han(羅生漢)は国境を越えたMae Hong Son地区Ban Thong村でタイ国境警備警察により逮捕された。SSA指導者Hkun KyaNuの書記Sai Duも同時に逮捕され,反乱者5人が負傷した。
DIA-211-1973-07-18-1ミャンマー1973年07月18日1970年代Krishna Moorthi ADB副総裁はSan Yu将軍を訪問した。
DIA-211-1973-07-18-2ミャンマー1973年07月18日1970年代今年のゴム輸出による外貨獲得高は約3500万チャットに達している。なおTenasserim第I,II,ペグー,Kawthoolei各管区の国有・私有ゴム・プランテーション,20万エーカー以上の内1万3000エーカー以上から毎年乳液1300ポンド以上が産出する。
DIA-211-1973-07-19-1ミャンマー1973年07月19日1970年代革命評議会メンバーとSan Yu首相代理の主催によって第26回Arzani Day(殉難者の日)式典が挙行された。
DIA-211-1973-07-20-1ミャンマー1973年07月20日1970年代ビルマ銀行,チャットとマルクの公式交換レート修正を決定。効力は6月末からで,1マルクは1.80358チャットである。
DIA-211-1973-07-21-1ミャンマー1973年07月21日1970年代今期農民は全国で1201万2048エーカーに稲作をしたが,農業省による試験的調査では1118万8958エーカーが良好であるという。農業省は1エーカー当り平均31バスケットの生産高を見込んでいる。
DIA-211-1973-07-22-1ミャンマー1973年07月22日1970年代UNDP,ECAFEなどの共同支援による人間環境実情調査使節団が到着,2日間の滞在。
DIA-211-1973-07-23-1ミャンマー1973年07月23日1970年代労働省の職業紹介セミナーがU Maung Maung Kha工業・労働相により開かれた。政府関係と州・管区代表72人が参加した。開会演説において,現在職業紹介所は52に達するが,登録者,求人数および就職者は,1970年21万5404,3万8248,3万7281,1971年25万6856,5万0786,4万8175,1972年30万8791,4万7744,4万0618であり,登録者と就職者間に大きなギャップがあると指摘された。
DIA-211-1973-07-24-1ミャンマー1973年07月24日1970年代タイ国境近くMong Mauの前線要塞の南東8マイルLoi Mawng山系軍配置点4855に立てこもっていたKokang Kakweye派とSSAの反乱者約300人は撃退された。20日,Aung Thanlwin作戦中の政府軍部隊300の攻撃で30分間の交戦後,反乱者は1人の死亡者の火器を残しタイ側に逃亡,約30人の負傷反乱者はタイのWan Hku Han Lei村に逃走した。政府軍はM-40爆弾の散弾片で5人が負傷した。M-16ライフル1,連発銃5,弾丸筒54,カービン銃2,弾丸81発,M18A地雷1,制動機1,地下機雷1,A1弾薬筒42,40mm爆弾19などが押収された。
DIA-211-1973-07-26-1ミャンマー1973年07月26日1970年代ネ・ウィン議長は,Hla Han保健・教育相博とともに上ビルマでの6日間にわたる工業計画視察を終えラングーンに戻った。
DIA-211-1973-07-26-2ミャンマー1973年07月26日1970年代新憲法起草委第8回会合で第3次草案が承認された。
DIA-211-1973-07-27-1ミャンマー1973年07月27日1970年代U Lwin計画・財務相は,鈴木日本大使と日本の援助に関する覚書きを取り交わした。それによれば,援助は46億2000万円に上る商品借款とSyriamの製油所建設のための70億円のプロジェクト借款からなり,支払いは期限7年据置18年延払い,利子率は年3%となる見込みである。
DIA-211-1973-07-31-1ミャンマー1973年07月31日1970年代ビルマはネパールと航空輸送協定を締結した。
DIA-211-1973-08-01-1ミャンマー1973年08月01日1970年代バングラ商業・貿易相AHMカマルズザマン一行は貿易会談のため到着。
DIA-211-1973-08-02-1ミャンマー1973年08月02日1970年代反乱分子Kokang Kakweye派指導者Lo Hsing-han,各派シャン反乱者およびSSA指導者Hkun Kya Nuの書記Sai Duなどは,BAC機でバンコクからビルマに送還された。
DIA-211-1973-08-02-2ミャンマー1973年08月02日1970年代シャン反乱軍掃討作戦-7月22日から東,北西軍区地域でのYemanhone Kakweye 作戦で4人の反乱者が捕獲され,70人が投降,火器106と送信機が押収された。7月22日-Kakweye派反乱者2人がTangyangの第33ビルマ連隊に翌日さらに2人がLashioの第41ビルマ連隊に投降,カービン銃とM-1ライフルが押収された。25日―同派反乱者34人がNamsalatの第1ビルマ連隊に,翌日さらに8人が第41連隊に投降,カービン銃24,M-79手りゅう弾発射機,ピストル3,M-1ライフル5,軽機関銃5が押収された。28日-さらに同派反乱者22人が第1連隊に投降,カービン銃17,軽機関銃7,M-798手りゅう弾発射機3,ピストル2が押収された。31日-Namlinの第33ビルマ連隊は,同派反乱者が隠退蔵していたカービン銃28,ステン銃7,ライフル,ピストル4,火器7を捕獲した。
DIA-211-1973-08-03-1ミャンマー1973年08月03日1970年代Bassein:同西郡区,Shaukchaung村の人民軍指導者Mahn Shwe Maik,SAC議長Mahn Pan Uおよび農民評議会議長U San Nyein は,8月7日Win Htein率いるKNDO反乱軍に射殺された。反乱軍は海岸村を旅行中であった3人の代表者も捕獲し,警官2人などが負傷した。彼等はSinmaswai村にも侵入し,SAC議長U Lu Htweと息子を殺害した。
DIA-211-1973-08-03-2ミャンマー1973年08月03日1970年代ビルマ,バングラデシュと貿易協定を締結。
DIA-211-1973-08-04-1ミャンマー1973年08月04日1970年代新人民司法制度(昨年8月7日開始)下において農民・労働者は各々2,200人,510人以上が郡区人民裁判所判事となっている。一周年を記念して発行された便覧によれば,各段階の判事内訳は以下の通りである。
DIA-211-1973-08-06-1ミャンマー1973年08月06日1970年代計画党中央委員会第6回会合開催さる。(8月10日まで)ネ・ウィン議長は,民政移管の問題について米の問題に触れ,非常事態にそなえ政府に十分な米が確保されるために農民に貯蔵米を売却するよう訴えた。
DIA-211-1973-08-07-1ミャンマー1973年08月07日1970年代マンダレー:Mongmit,Mogok Thabeikky-ing地域にいる反乱軍Kokang kakweyeは,4日Mongmit郡区Tarmohnyin村の住民と政府機関員により包囲され,M-16-5J,M-1-1,連発銃-23,カービン統-2,M-79機動統-2,ブローニー機関銃-1,手りゅう弾-2,無線機-2,2,000箱の弾薬が押収された。反乱軍指導者Kyu Gwan Shinも捕獲された。
DIA-211-1973-08-08-1ミャンマー1973年08月08日1970年代Hsipaw:Pangwaing村での第22ビルマ連隊部隊および人民軍とシャン反乱軍との交戦で,反乱者5人が死亡し,2人が捕獲されよM-11ライフル7丁と1,000箱以上の弾薬が押収された。
DIA-211-1973-08-08-2ミャンマー1973年08月08日1970年代社会福祉局の乞食解放運動は順調に運んでいる。福祉局によれば乞食人口は5,000人に達する。
DIA-211-1973-08-09-1ミャンマー1973年08月09日1970年代IDAにより7月5日に贈与された総額3300万ドルをビルマ鉄道公社(BRC)と内陸水運公社(IWTC)に再貸付けする協定が,政府計画・財務省代表U Chit MoungとBRC代表U Tun Shein理事長およびIWTC代表U Hla Win理事長間で調印された。BRCへの借款は1670万ドル,IWTCは1630万ドルである。
DIA-211-1973-08-11-1ミャンマー1973年08月11日1970年代ラングーンの企業-最近学生により実施された経済調査によれば,ラングーン管区38郡区(但しTamwe郡区とCocos諸島は除く)における企業数は2万4280に達する。企業種別内訳は,綿業・紡績業39,食品業38,窯業15,金属業65,化学業29,雑業35である。また郡区別内訳は,Mingaladon 535,北Okkalapa 1779,Hlaing 1514,Kamayut 568,Yankin 412,Kemmendine 867,Ahlone 523,Sanchaung 945,Latha 535,Pabedan 1242,Kyauktada 1015,Botataung 329,Pazundaung 749,Dagon 160,Bahan 587,Dawbon 157,Mingala-tamgyun 755,Seikkyi/Kanaungto 142,Kayan 354,Kungyangon 793,Hmawbi 877,Hlegu 271,Insein 727,南Okkalapa 1226,Thingangyun 932,Lammadaw 655,Thaketa 800,Dallah 339,Mayangon 736,Syriam 343,Twante 1546,Thongwa 230,Kawhmu 1231 Kyauktan 213,Htantabin 443,Taikkyi 1064である。
DIA-211-1973-08-11-2ミャンマー1973年08月11日1970年代天然ガス使用産業の増加にともなって,ビルマ石油公社は13の井戸で試掘を行なっている。
DIA-211-1973-08-13-1ミャンマー1973年08月13日1970年代ジュート生産概況-今年のモンスーン前期作ジュートのジュート耕作地29万7474の内1万エーカーは良作で,総生産高は6000万vissと見込まれている。これは1エーカー当り213.5vissの生産高となる。管区別生産割合は,イラワディー80%,ペグー15%,ラングーン,マンダレー5%となる予定である。
DIA-211-1973-08-13-2ミャンマー1973年08月13日1970年代イラワジ川架橋フィージビリティー調査団の日本人技術者,経済学者ら一行7名が到着。同調査団はイラワジ川架橋(プローム付近)についてのサイト選択,橋梁構造などを調査する。
DIA-211-1973-08-14-1ミャンマー1973年08月14日1970年代革命評議会「国民投票法」公布。
DIA-211-1973-08-14-2ミャンマー1973年08月14日1970年代労働省・工場・一般労働法監査部局の主催により第8回職業保健・安全課程が開催された。10日間,100人以上の労働者を有する25国有工場から技術,熟練労働者が参加する。
DIA-211-1973-08-15-1ミャンマー1973年08月15日1970年代農業公社による土地利用に関する共同会合終る。
DIA-211-1973-08-16-1ミャンマー1973年08月16日1970年代革命評議会は,「国民投票法」に基づきU Dingra Taungを首班とする国民投票実行委員会の設置を告示した。
DIA-211-1973-08-16-2ミャンマー1973年08月16日1970年代Dawee Chullasapya農業・協組相,空軍司令官率いるタイ代表団,国境問題に関するビルマ・タイ高等委員会会合に出席するため到着。
DIA-211-1973-08-22-1ミャンマー1973年08月22日1970年代イラワジ川架橋計画のための日本予備調査団は,17日以来のProme地域訪問を終えラングーンに戻った。
DIA-211-1973-08-23-1ミャンマー1973年08月23日1970年代U Kyaw Soe外相,B Podtserobソ連外務省特使を歓迎した。
DIA-211-1973-08-29-1ミャンマー1973年08月29日1970年代国防相代理Tin Oo中佐率いる国防省の代表団,マレーシア国防省の招待により親善訪問に出発。クアラルンプールに到着,一週間滞在。
DIA-211-1973-09-01-1ミャンマー1973年09月01日1970年代ビルマ,西独と航空輸送協定調印。
DIA-211-1973-09-02-1ミャンマー1973年09月02日1970年代国民投票日12月-国民投票委員会は憲法制定のための国民投票を12月15日から31日までに行なうと発表した。
DIA-211-1973-09-07-1ミャンマー1973年09月07日1970年代ウ・セイン・ウィン建設相はラングーン=マンダレー間道路を視察。
DIA-211-1973-09-08-1ミャンマー1973年09月08日1970年代マウン・ルィン貿易相はガット総会出席のため東京に向かった。
DIA-211-1973-09-08-2ミャンマー1973年09月08日1970年代共産党デルタ地区書記長Bo Aung Peは政府軍との戦闘中Laymyethna郡で死亡。
DIA-211-1973-09-10-1ミャンマー1973年09月10日1970年代Thakin Soeの死刑判決確定(1970年11月10日逮捕)。
DIA-211-1973-09-15-1ミャンマー1973年09月15日1970年代国民投票委員会は州,省(計12)委員会メンバーを任命。
DIA-211-1973-09-18-1ミャンマー1973年09月18日1970年代共産党軍との闘い-南西軍区に活動するBCPとKNDO反乱軍は地方住民の援助による政府軍の攻撃の結果,降服を余儀なくされつつある。イラワジ管区NDUF「軍司令官,イラワジ管区委会メンバー,第8地域指導者」Kha SuことKo Koに率いられた15人の反乱軍は政府軍作戦の結果9月11日第36ビルマ連隊に降服せざるを得なくなった。G-3ライフル,ライフル3丁,ステンガン3丁が押収された。また,政府軍は,Aung Din「管区委員」の軍事作戦に対抗してBCP管区委会のジャングル地域の掃討作戦を展開し,9月12日,Aung Dinの妻を含む84人の反乱者が降服した。押収された武器はブレンガン3丁,カービン銃2丁,ライフル7丁,ステンガン3丁,revolver 3丁,DBBLIT 1丁,No 156無線機,ラジオレシーバー2,テープ・レコーダー2,タイプライターであった。
DIA-211-1973-09-19-1ミャンマー1973年09月19日1970年代ネ・ウィン議長はスイスで健康診断を終え掃国した。議長は8月18日に出発していた。
DIA-211-1973-09-19-2ミャンマー1973年09月19日1970年代Pegu:同郡区Bawnetkyi村の30人以上の人民軍に火器が提供された。
DIA-211-1973-09-20-1ミャンマー1973年09月20日1970年代ビルマ航空公社(BAC)は,F-27 Fokker Friendship機購入のためFokker-VFW会社との協定に調印。
DIA-211-1973-09-21-1ミャンマー1973年09月21日1970年代鉱業省は,第1回鉱山地理調査・開発セミナーを開催,22日まで。
DIA-211-1973-09-23-1ミャンマー1973年09月23日1970年代新憲法の国民投票を支持する大衆集会が全国各地で開催されている。
DIA-211-1973-09-23-2ミャンマー1973年09月23日1970年代Bassein地区Ngawun川西岸のNgapudaw地区における政府軍部隊とSawtack率いる約80人の反乱軍の交戦において,KNDO第8地区の“書記”,郡区議長Mahn Shan Hpoung,Bo Maung Theinなど14人が死亡した。政府部隊は,カービン銃1,ステン銃1,ライフル14,9mmピストル1を反乱者から押収した。
DIA-211-1973-09-26-1ミャンマー1973年09月26日1970年代KNU第6班長Yaw Tha 別名Bo Yoe(前“KPGF”反乱軍第6大隊司令官・第4地区委員)と「党地区委員」Shat KhweことU Than Maung,Kelvinなど28人の反乱者は,Ingapu郡区のThitphyu川に駐屯している第1戦略区司令官Tun Kyi大佐に投降した。カービン銃1,ライフル6,ステン銃1が押収された。
DIA-211-1973-09-27-1ミャンマー1973年09月27日1970年代政府暫定予算発表-政府は1973-74年度政府予算を発表し,計画,財務副大臣が説明,会計年度変更(4月1日から3月31日まで)にともない,今期は3月31日までの暫定予算であることを明らかにした(参考資料参照)。
DIA-211-1973-09-27-2ミャンマー1973年09月27日1970年代ネ・ウィン議長夫妻は訪問中のケント公爵夫妻を歓迎して宴会を開催した。
DIA-211-1973-09-27-3ミャンマー1973年09月27日1970年代Kyanktaw : Adu Hauを首領とするムスリム強盗団が21~24日にMyinluk村の第20ビルマ連隊に投降,小機関銃1,ステン銃4,ライフル2,M-21 7,G-17および大量の弾薬が押収された。
DIA-211-1973-09-28-1ミャンマー1973年09月28日1970年代本日付計画・財務省の告示によれば,娯楽税は10月7日より認可料の30%に固定された。
DIA-211-1973-10-01-1ミャンマー1973年10月01日1970年代Toungoo : 130人からなるAung Zeya派のBCP反乱軍が同郡区にKabaung川北部から侵入したが,政府軍部隊の作戦下で分散状態にある。これまで,9月第1週には同派の男20人,女10人の反乱者が投降,9月26日にはBCP政治組織者Ma Swe Layが戦闘で死亡,G-3ライフルが押収され,翌日Maung Tinが捕獲,9月30日にはBCP政治組織者Khin Winが戦闘で死亡,カービン銃が押収された。
DIA-211-1973-10-01-2ミャンマー1973年10月01日1970年代人民警察軍は9周年を迎え各地で記念式典が挙行された。
DIA-211-1973-10-03-1ミャンマー1973年10月03日1970年代1972-73年「模範労働省」729人が選ばれた。選考はカチン,カヤ,シャン各州,Sagaing,Tenassern第1.2,ペグー,Magwe,マンダレー,アラカン,ラングーン,イラワディー各管区の100人以上の労働者を擁する257工場の労働者20万0142人からなされ,第1等級58,第2等級212,第3等級459の3段階に分けられた。
DIA-211-1973-10-05-1ミャンマー1973年10月05日1970年代退役軍人中央組織委員会は,来たる新憲法に関する国民投票に退役軍人が積極的に参加するよう郡区組織委員に指示した。
DIA-211-1973-10-06-1ミャンマー1973年10月06日1970年代第38ビルマ連隊部隊による攻撃で,BCP「デルタ地区委員会」の委員Aung Din別名Hla Kyiは,Ingapu西Kyauktalone村において死体で捕獲された。彼は同委員Bo Thawや中央委員Yebaw Soe Thanにたいする粛正活動に積極的に参加していた。
DIA-211-1973-10-07-1ミャンマー1973年10月07日1970年代南西軍区のBCP,KNDO反乱軍は,Tatmadaw,PPF人民軍の作戦で打撃を受け孤立化している。
DIA-211-1973-10-07-2ミャンマー1973年10月07日1970年代10月1日,反乱軍8人がBassein西郡区Madawgon村で投降,カービン銃1,Gー3 1,ライフル2,66発の弾丸が押収された。
DIA-211-1973-10-07-3ミャンマー1973年10月07日1970年代9月30日,BCP,KNDOの「地区指導者」を含む7人がMyanaung郡区Nattaung村で投降,ライフル3,回転銃7が押収された。
DIA-211-1973-10-08-1ミャンマー1973年10月08日1970年代第2回BSPP党総会開催-策2回BSPP党総会(10月21日まで)が開かれ,ネ・ウィン議長が演説,第1次4ヵ年計画,20ヵ年計画の目標などについて述べた。三大目標については①生活水準の倍増,②農業国から工業国への転換,③社会主義的生産関係の確立,また4ヵ年計画における目的は①輸出の増大,②国内生産力の有効的活用,③国家,協同組合,民間の三所有型態による安定成長,④経済活動における無駄の解消などである。
DIA-211-1973-10-08-2ミャンマー1973年10月08日1970年代中国の広東交易博覧会にはU Thein Maung交易評議会委員率いる10人の代表団が参加する予定。
DIA-211-1973-10-09-1ミャンマー1973年10月09日1970年代国民投票委員会は,通達策11号で地区,村落小委会が25日までに各投票所において選挙人の最終名簿を準備するよう指示した。
DIA-211-1973-10-10-1ミャンマー1973年10月10日1970年代商業省は通達第49号(11月7日発効)において米の購売価格を決定した。それによれば規定価格は次の 通りである。
DIA-211-1973-10-10-2ミャンマー1973年10月10日1970年代内務・宗教省による1973年センサス前計数によれば,ビルマの人口は3月31日で2888万5807人-男1435万6754人,女1452万9113人である。
DIA-211-1973-10-10-3ミャンマー1973年10月10日1970年代Falam :「チン新年の日」が挙行され,第2回計画党大会を歓迎する決議がなされた。
DIA-211-1973-10-12-1ミャンマー1973年10月12日1970年代BCP指導者Bo Saw Lwin(別名Yebawshein,Tun Hla,MuMin)は,9月17日Pegu Yomahの中央本部でBCP粛正派によりリンチを受けたといわれる。最近,路線問題をめぐりBCPの抗争は激化し,中央本部委員長Thakin ZinとThakin Chit派は,Myaing-Sein-Pain派に属するBo Saw Lwinを武器強奪闘争路線に反対する修正主義者,反逆者として処罰した。
DIA-211-1973-10-17-1ミャンマー1973年10月17日1970年代計画党第2回大会第9日目,先に選出されたネ・ウィン議長を委員長とする中央委会委員150人が発表された。また,党監査委会委員(委員15人,代理委員5人から構成)も任命された(参考資料参照)。
DIA-211-1973-10-18-1ミャンマー1973年10月18日1970年代第1回産料医・婦人科医会議が医療協会ホールで開催された。
DIA-211-1973-10-19-1ミャンマー1973年10月19日1970年代1972-73年にビルマを訪問した観光旅行者1,700人以上からの収入は4万4000米ドル以上に達した。
DIA-211-1973-10-19-2ミャンマー1973年10月19日1970年代農業協会は1972年11月以来農業生産拡大のため180万エーカー以上の土地の土壌テストを実施した。
DIA-211-1973-10-21-1ミャンマー1973年10月21日1970年代ネ・ウィン議長は計画党第2回大会の閉会にあたり,計画党を量質ともに強化させるため有能な人物を 党員として認める必要があることを強調した。また最終日の議長Ye Naingは諸階層組織の再編成の必要を強調するとともに,政治的,外交的,軍事的手段により反乱分子を一掃するよう呼びかけた。 ネ・ウィン議長夫妻は党大会代表と夕食会を開催した。
DIA-211-1973-10-22-1ミャンマー1973年10月22日1970年代Htaukkyant近くのゴム・プランテーションの古い爆弾を掘り出していた17人(5人の警察官を含む)が,Hmawbiの第2装甲車連隊により捕獲された。連発銃2,ステン銃1,ライフル7が押収された。彼等は爆弾の火薬をviss当り35チャットで市場で売る目的であった。
DIA-211-1973-10-24-1ミャンマー1973年10月24日1970年代Bassein:U Dingra Taug率いる国民投票委会当地に到着,7,000人以上の労働大衆が歓迎。
DIA-211-1973-10-29-1ミャンマー1973年10月29日1970年代1973年青年セミナー,Kaba Aye Hallで開催。計画党書記長San Yu将軍は国家事業における青年の現在,将来の役割を定義し,青年計画党中央組織委長Lwinはセミナーが青年運動史における画期的事件であるとした。またカチン州の1代表は,反乱者と戦うため同州への青年組織活動の拡大を呼びかけた。
DIA-211-1973-10-30-1ミャンマー1973年10月30日1970年代Kwan Hso Lyan中隊長率いるLo Hsing-han所属のKokanese反乱軍の反乱者73人は,Namhsanの第66ビルマ連隊に投降した。カービン銃27,M-7,M-16ライフル21,小機関銃1,M-79手りゅう弾発射機4,手りゅう弾16,爆薬13および弾薬が押収された。
DIA-211-1973-11-01-1ミャンマー1973年11月01日1970年代教育関係法発布-革命評議会は,教育関係法を7法,ビルマ大学法1973年,ビルマ基礎教育法1973年,ビルマ教育調査法1973年など(革命評議会法N0.13~19)を10月29日付で公布した。
DIA-211-1973-11-02-1ミャンマー1973年11月02日1970年代政府は,UNDP,UNOTCと地質調査,開発計画のための計画文書に調印した。援助額は約140万ドル。
DIA-211-1973-11-05-1ミャンマー1973年11月05日1970年代選挙法発布-ネ・ウィン議長は選挙法,1973年(the Elections Law,1973)を公布した。これは,人民議会と各レベルの人民評議会において忠実に労働大衆を代表する人民代表の選出とその選挙への広汎な国民参加の促進化を規定したもの。
DIA-211-1973-11-06-1ミャンマー1973年11月06日1970年代Myanma鉱物開発公社(MMDC)は,カチン州Karmaing郡区において,ひすい採鉱を促進している。当郡区Phakang,Tawhmaw,LongkhinおよびGatehmawにおける採鉱は1966-67年に開始された。 各年度採鉱量は,1966-67=184viss,1967-68=361viss,1968-69=852viss,1969-70=1,398viss,1970-71=2,000viss,1971-72=3,000viss,1972-73=5,800viss,1973-74=6,000viss 以上(見込み)である。
DIA-211-1973-11-07-1ミャンマー1973年11月07日1970年代Homalin:10カ国17企業の代表23人は,Chindwin溪谷開発計画に関連し現場視察のためHkamtiに到着した。
DIA-211-1973-11-10-1ミャンマー1973年11月10日1970年代コカン族反乱軍は,10月18日までに総計184人が政府に投降し,火器159が押収された。最近では,11月3日,Lo Hsing Han派コカン族Yan Way Pyin反乱軍指揮官を含む25人がCashio郡区Hsin-in陣地の第41ビルマ連隊部隊に投降にカービン銃7,ピストル3,M-1ライフル1,M-16ライフル1,M-79手りゅう弾発射機2,小機関銃および弾薬が押収され,11月6日,Ho Shauk-chan指揮官ら39人がMongpanの第66ビルマ連隊に投降,カービン銃21,ピストル3,M-1ライフル9,M-16ライフル3,M-79手りゅう弾発射機2,小機関銃2,手りゅう弾14および大量の弾薬が押収された。
DIA-211-1973-11-12-1ミャンマー1973年11月12日1970年代Kuo Kuang-Hua率いる7人の中国医療教育代表団到着,3週間の滞在予定。
DIA-211-1973-11-15-1ミャンマー1973年11月15日1970年代第15憲法起草委フィールド・チームの首班 San Yu将軍は,地方チーム員に国民投票で労働大衆の100%の支持を得るため奮闘するよう指示した。各チームの首班は,各地においてこのように地方チーム員に要請した。
DIA-211-1973-11-16-1ミャンマー1973年11月16日1970年代Myanma石油公社の第13回年次地質会議が開催,タウン・ティン鉱業相が出席。
DIA-211-1973-11-16-2ミャンマー1973年11月16日1970年代政府は,暫定的処置として外国為替統制委員会(委員長は計画・財務相)を設置した。
DIA-211-1973-11-18-1ミャンマー1973年11月18日1970年代ネ・ウィン議長夫妻は,国民投票に関達して地方役人と会談するため北ビルマ,チン特別管区,カチン,シャンおよびKayah各州を8日から10日間にわたり巡回した。
DIA-211-1973-11-23-1ミャンマー1973年11月23日1970年代ネ・ウィン議長,Tan Sri Lee Siok Yewマレーシア保健相を歓迎。
DIA-211-1973-11-23-2ミャンマー1973年11月23日1970年代マウン・ルウィン商業相率いるビルマ代表団,コロンボ計画会議第23回会合(ニュージーランド,ウェリントン,27日開催)に出席のため出発,一行は,マレーシア,シンガポールおよびインドネシアにおいても貿易促進に関して代表と会談する予定。
DIA-211-1973-11-24-1ミャンマー1973年11月24日1970年代政府は,1970年の協同組合法に即して9つの条令-洋服屋協組条令,軍人協組条令,基礎協組連合条令,郡区協組連合条令など-を公布した。
DIA-211-1973-11-29-1ミャンマー1973年11月29日1970年代計画・財務省,工業問題に関する共同会議を開催,第2次4ヵ年経済計画および1974―75年年次計画について討議された。
DIA-211-1973-11-30-1ミャンマー1973年11月30日1970年代製塩公社は,1973-74年生産目標を157.2百万vissと規定した。管区別ではイラワジ=73.4,Tenasserim=73.3,アラカン=10.5百万vissと予定。1972-73年の総生産高は106.5百万vissであった。
DIA-211-1973-11-30-2ミャンマー1973年11月30日1970年代ネ・ウィン議長は,26日から4日間にわたるkawthoolei,Tenasserim I,II管区視察旅行を終えラングーンに戻った。
DIA-211-1973-12-04-1ミャンマー1973年12月04日1970年代U San Win商業副大臣はクアラルンプールで,マレーシア代表と2国間の貿易促進,経済協力について会談。
DIA-211-1973-12-05-1ミャンマー1973年12月05日1970年代革命評議会は,法律用語の正確な翻訳のために翻訳法(The Interpretation Law,1973)を公布した。
DIA-211-1973-12-05-2ミャンマー1973年12月05日1970年代Myanma輸出入公社は,1972-73年において“Du-ya”を含む100万以上のたばこを輸出した。主要輸出国は,USA,イギリス,カナダ,香港,シンガポールおよびアフリカ諸国である。
DIA-211-1973-12-07-1ミャンマー1973年12月07日1970年代反乱軍投降者増加-KNUP反乱軍指導者Saw Mya Yin(Pu Htu,Htoo Ka Baw)は,Ingapu郡区Nyaungbinthaの第38ビルマ連隊の前線部隊に投降,カービン銃が押収された。これは,南西軍区による「Taing-lone-aung作戦」によるもので,9月までに投降した反乱者は600人に達し,武器366が押収された。3日の第一次作戦では,政府軍はSaw Mya Yinの秘密キャンプを攻撃,交戦で彼の妻ら2入が死亡,「少佐」Malaが捕獲された。また“KNDO”反乱軍のデルタ地域における「地区司令官」,Saw Tun Aye,衛生兵Tun Kyi,指揮官Saw Kyaw ThinおよびShwe Thaungは,Henzada地区,Laymyethnar郡区,Ngapihlan村の第36ビルマ連隊の前線部隊に投降した。
DIA-211-1973-12-09-1ミャンマー1973年12月09日1970年代1973年のビルマへの旅行者数は2万人以上に達した。国籍別では日本人が第1位で,フランス人がこれに次いでいる。各年別旅行者数は,1969年=3,054,1970年=10,996,1871年=13,405,1972年=17,838となっている。
DIA-211-1973-12-11-1ミャンマー1973年12月11日1970年代ADB借款-アジア開銀はこのほどラングーンの給水および電化計画用として総額9210万チャットの借款を与えることを決定した。電化計画にはミヤオングの発電機用ガスタービン施設なども含まれている。
DIA-211-1973-12-12-1ミャンマー1973年12月12日1970年代青年計画党を中心にして青年層は各地で大衆集会を開催し,国民投票の準備に積極的に参加している。
DIA-211-1973-12-12-2ミャンマー1973年12月12日1970年代ラングーン管区・郡区協同組合連合会とMyanmaの輸出入公社は,カチン州北部の積雪山系にのみ栽培される薬草Khantauk(解熱剤の原料)1,160ポンドの最初の積送品を日本に輸出した。この薬草は年間約10万viss生産され,現行市場価格では1 viss当り350チャットであるが,輸出時には1,000チャット以上となる。
DIA-211-1973-12-12-3ミャンマー1973年12月12日1970年代Taunggyi:Pa-O住民は,封建主義廃止24周年記念式典において新憲法を支持した。式典では,Pa-Oの封建主義者反対闘争の目的は社会主義的民主国家の達成であることが強調された。
DIA-211-1973-12-13-1ミャンマー1973年12月13日1970年代国民投票委員会発表によれば,有権者総数は1458万4601人,そのうち外国居住者は1,310人,また開設される投票所は26万1357である。
DIA-211-1973-12-15-1ミャンマー1973年12月15日1970年代新憲法に関する国民投票開始さる(31日まで)。
DIA-211-1973-12-16-1ミャンマー1973年12月16日1970年代Kengtung : 当地の政府軍司令官Myo Aung大佐は,報道関係者との会見で,政府軍は地方住民との協力による「Ye Yan Aung作戦」の展開により国境地域における敵を一掃し,Mongyang,MongmaおよびMonglui地域に押し進みKengtung溪谷を支配する目的でそこに本拠をかまえSalween川東岸域に「赤色権力」(Red Power)を樹立しようとしていたBCPの戦略に大打撃を与えた,と述べた。
DIA-211-1973-12-17-1ミャンマー1973年12月17日1970年代国民投票は,第1日目の15日には全国314郡区の半分以上の郡区において完遂された。
DIA-211-1973-12-18-1ミャンマー1973年12月18日1970年代15日シャン州北部Namhsan郡区Kyaukpyu村域において国民投票を妨害しようとしたPalaung反乱軍指導者Aung Kyiは,政府軍により捕獲された。反乱軍はすでに投票箱26を破壊していた。
DIA-211-1973-12-18-2ミャンマー1973年12月18日1970年代道路輸送公社は,商品流通の円滑化と物価騰貴に対処するため1974年1月1日から国有協同組合ストアーに加えて個人ストアーの商品をも運搬する手はずを整えている。
DIA-211-1973-12-20-1ミャンマー1973年12月20日1970年代Myanma Badwin公社は,オーストリアの専門家の援助によるBawsaingにおける鉛炭酸塩鉱床の可能性調査に関する基本作業を終えた。
DIA-211-1973-12-22-1ミャンマー1973年12月22日1970年代内務・宗教省は,各省に人民議会および評議会選挙においては公務員も立候補する資格を有することを通告した。
DIA-211-1973-12-23-1ミャンマー1973年12月23日1970年代人民議会選挙は1月27日から-選挙委員会(通達第3号)によれば人民議会および各レベルの人民評議会にたいする第7回選挙は1974年1月27日~2月10日に実施されることになった。
DIA-211-1973-12-26-1ミャンマー1973年12月26日1970年代各レベルの治安・行政委員会は,家畜の無差別殺りくを防止し,ライセンスに基づき畜殺を組織的に監視するよう指示した。
DIA-211-1973-12-26-2ミャンマー1973年12月26日1970年代人民評議会議席数-革命評議会は,宣言第108号において,4,000人以下の人口を有する郡区人民評議会および400人以下の人口を有する町区・村区人民評議会のメンバー数を規定した。それによれば,4,000人以下の郡区における人民評議会は15人,300人以下の地区・村落地域におけるそれは7人,また301人から400人までの地区・村落地域におけるそれは9人でそれぞれ構成される。
DIA-211-1973-12-29-1ミャンマー1973年12月29日1970年代ネ・ウィン議長は,26日から3日聞Sittang製紙工場とPa-nga製塩プラントを視察した。
DIA-211-1973-12-29-2ミャンマー1973年12月29日1970年代国防省は,国防関係職員および軍人も被選挙権を有することを通達した。
DIA-211-1974-01-01-1ミャンマー1974年01月01日1970年代人民議会選挙区確定-選挙委員会は第7号決定を発表,人民議会に向けての選挙区数などを明らかにした。これによると全国314郡を451選挙区に分け各区1名づつ立候補する。州・管区別の選挙区数はつぎのとおり。カチン州20,カヤ州8,コートレイ州14,チン特別管区13,サガイン管区47,テナセリム第2管区12,ペグー管区47,マグウェ管区38,マンダレー管区51,テナセリム第1管区18,アラカン管区24,ラングーン管区52,シヤン州57,イラワジ管区50。
DIA-211-1974-01-03-1ミャンマー1974年01月03日1970年代憲法採択さる-12月15日から30日まで行なわれていた憲法信認国民投票の結果,90.19%の信認を得て採択され,直ちに新憲法が発布された。政府発表では有効投票1409万4360票のうち90.19%にあたる1331万2801票が賛成票であった。なお当日の有資格票総数は1476万0036票で投票率は95.5%に達した。またこれで正式国名が「ビルマ連邦社会主義共和国」となった。
DIA-211-1974-01-03-2ミャンマー1974年01月03日1970年代オン・ジー元准将ら釈放さる-政府は新憲法発布を記念して恩赦を発表,計1212名を釈放した。このなかにはオン・ジー元准将,ウ・チ・マウング元大佐らも含まれている。
DIA-211-1974-01-03-3ミャンマー1974年01月03日1970年代反乱軍の選挙妨害-国民投票委員会は,選挙期間中における反乱軍の妨害活動について発表,合計11人の選挙委員が反乱軍に殺され,141人が連れ去られた。この内訳はカチン州16人,カヤ州62人,カレン州46人,ペグー管区8人,シヤン州9人である。
DIA-211-1974-01-05-1ミャンマー1974年01月05日1970年代人民議会選挙のための州別選挙区が発表された。
DIA-211-1974-01-06-1ミャンマー1974年01月06日1970年代U San Win 貿易副大臣とその一行は12月23日以来インドネシアを訪問,貿易問題で討議してきたが,本日帰国。
DIA-211-1974-01-06-2ミャンマー1974年01月06日1970年代Kyonpyaw 発:Danubyu 郡 Zeebinyo 村でKNDO 反乱軍 Gar Man が政府軍に射殺され,部下4名が逮捕された。
DIA-211-1974-01-06-3ミャンマー1974年01月06日1970年代第102歩兵連隊(連隊長 Tun Myint 中佐)はケントン地域の反共産軍作戦(Ye Yan Aung 作戦)を終了し連隊本部に帰任した。
DIA-211-1974-01-07-1ミャンマー1974年01月07日1970年代ネ・ウィン議長夫妻による新憲法制定記念パーティが開かれ,党幹部,選挙委メンバーなどが招待された。
DIA-211-1974-01-09-1ミャンマー1974年01月09日1970年代Lo Hsing-han 裁判-Lo Hsing-han 裁判が行なわれているインセイン郡人民法廷で証人喚問が始ま り,1番目に元鉱業大臣U Aung Pe が証人台に立った。 〈U Aung Pe の証言〉 U Auag Pe は1965年7月当時東部軍管区司令官であった。当時は Kokang 地域における Kunlong 国境付近はシャン族土候の支配下にあった。 その後シャン族土侯 Sawbwa Yan Gyi Saingとその妹 Oive Yang が逮捕され,その弟 Jimmy Yang は逃亡した。1965年に同地域で軍事作戦が開始されたとき,Lo Hsing-han と20人の若者は2カ月間思想訓練を受け,小火器を与えられ政府軍と行を共にし補佐官をしていた。 その年の後半,Hkun Kyar Hbin グループが国境付近で強力な行動を起しはじめたとき,Lo Hsing-han 派は100人から150人の勢力に拡大していた。これらのグループはいづれも国境警察隊として陸軍から賃金をもらっていた。
DIA-211-1974-01-09-2ミャンマー1974年01月09日1970年代国連で,ビルマの正式国名が変更されたことが発表され,同時に国旗の変更が正式に受諾された。
DIA-211-1974-01-12-1ミャンマー1974年01月12日1970年代選挙委員会議長U Soe Ya とそのメンバーは人民議会選挙について説明するため,地方を訪問する予定で,その第一弾として Pyu 郡を訪れた。
DIA-211-1974-01-13-1ミャンマー1974年01月13日1970年代70万エーカーを開墾-農地開墾計画(LRS)に基づき1972/73年度内に全国で合計169万9000エーカーの処女地,遊休地が開墾された。開墾費用は1エーカーにつき約370チャットで,これまでに6億2800万チヤットが投資された。
DIA-211-1974-01-14-1ミャンマー1974年01月14日1970年代投票要領発表-選挙委員会第10号指令を発表し,人民議会選挙における投票要領を明らかにした。これによると全選挙区対立候補のない信認投票であるため,賛成および反対の投票箱をそれぞれ設置する。
DIA-211-1974-01-15-1ミャンマー1974年01月15日1970年代タウン・ダン情報・文化相はマンダレーを視察。
DIA-211-1974-01-16-1ミャンマー1974年01月16日1970年代Lo Hsing-han 裁判法廷に北東軍管区副司令官 Hla Pe 大佐が証入として審問され,Lo Hsing-han  私兵団は政府軍から1入1ヵ月50チャットの報酬を受けていたと証言した。
DIA-211-1974-01-17-1ミャンマー1974年01月17日1970年代新米国大使-駐ビルマ米国大使が新任された。新任大使は前ホンコン総領事 David L. Osborn である。
DIA-211-1974-01-20-1ミャンマー1974年01月20日1970年代農業公社は1974/75年度の化学肥料配給計画を発表。総計17万トンを配給する。なお作物別では,稲耕作用に6万トン,棉花用に3万トン,ジュート用に2万トン,残りはその他作物用である。
DIA-211-1974-01-21-1ミャンマー1974年01月21日1970年代人民議会候補者発表-選挙委員会は人民議会および各レペル人民評議会候補者リストを発表した。人民議会候補者のなかでは,ネ・ウィン首相がラングーン管区 Mayangon 第1選挙区,サン・ユー将軍が同管区 Baban 選挙区からそれぞれ立候補している。
DIA-211-1974-01-22-1ミャンマー1974年01月22日1970年代政府は人民議会選挙に向けて,選挙違犯を厳重に取締るよう各関係機関に指示,同時に,新聞をつうじて違犯の重要性をキャンペーンした。
DIA-211-1974-01-23-1ミャンマー1974年01月23日1970年代Akyab 1月28日発:アキャブ港40マイルの灯台が5人の武装反乱軍に襲われた。
DIA-211-1974-01-24-1ミャンマー1974年01月24日1970年代選挙委員会は,人民議会および各レベル人民評議会の投票についてその信認が50%以上でなければならないことを布告した。
DIA-211-1974-01-24-2ミャンマー1974年01月24日1970年代豆および棉花の生産者価格引き上げ-交易省は1月27日から豆および棉花の政府買上げ価格を引きあげると発表,主な産物の引き上げ新価格はつぎのとおり。 (カッコ内は旧価格) マッペ1等(72ポンド当り) 17チャット(16チャット) バタービンズ1等(69ポンド当り) 18チャット(15チャット) メイズ(55ポンド当り) 8チャット(6チャット) 長繊維棉花(1 viss 当り) 3.5チャット(1.8チャット)
DIA-211-1974-01-25-1ミャンマー1974年01月25日1970年代選挙委員会は人民議会選挙における開票および認定方法について発表した。
DIA-211-1974-01-26-1ミャンマー1974年01月26日1970年代Ngataaingyaung 発:KNDO 軍 Mahn Saw Bwa 派の第7部隊所属の5名の兵士およびその家族などが第36連隊(Sai Hmon 少佐)に投降した。
DIA-211-1974-01-26-2ミャンマー1974年01月26日1970年代各地で人民議会選挙を支持する米の集団販売(政府へ売却)が行なわれている。政府支持の表明の仕方としてこの集団販売が行なわれており,牛車を連らねて政府倉庫までデモンストレーションをしている。
DIA-211-1974-01-27-1ミャンマー1974年01月27日1970年代人民議会選挙開始-第1回人民議会および各レペル人民評議会選挙の投票がまづラングーン管区の39郡で午前6時から一斉にスタート。ネ・ウィン議長は婦人を同伴,Mayangon 郡第29投票所で投票を済ました。
DIA-211-1974-01-28-1ミャンマー1974年01月28日1970年代革命評議会は「人民議会法」と「人民評議会法」を発布した。
DIA-211-1974-01-30-1ミャンマー1974年01月30日1970年代人民議会選挙当選者の発表始まる。第1日目は合計60名の当選者が発表され,ネ・ウィン議長,サン・コー大将らが含まれている。
DIA-211-1974-02-01-1ミャンマー1974年02月01日1970年代ビルマ鉱物開発公社(MMDC)はモン州での錫,アンチモニー鉱山開発を行なっているが,Paung,Chaungzon の鉱山から錫,アンチモニー,タングステンが増産されている。
DIA-211-1974-02-01-2ミャンマー1974年02月01日1970年代前第2情報隊司令官 U Kyaw Nyein 元少佐は,Lo Hsing-ban とその弟 Lo Hsing Min から1967年から69年まで計1万チャットの贈賄をしていた罰で裁判にかけられていたが,このほど保釈された。
DIA-211-1974-02-03-1ミャンマー1974年02月03日1970年代ラングーン管区9786投票所のうち783投票所で郡区,村区人民評議会議員選挙の結果信認されない候補が来たり,集計ミスがあったためやり直し投票が行なわれた。
DIA-211-1974-02-03-2ミャンマー1974年02月03日1970年代拡大する労働者評議会-中央労働者評議会(CPWC)は各レベル評議会の組織状況を発表,年1年組織が拡大しているがまだ完全でないと述べた。なお組織状況はつぎのとおり(1973年末現在)。 郡労働者評議会225,郡労働者評議会組織委員会51,労働者評議会メンバー1,569,775,労働者評議会(郡レベル)支持2992。
DIA-211-1974-02-04-1ミャンマー1974年02月04日1970年代オーストラリア首相来訪-ネ・ウィン議長の招請を受けてホイットラム・オーストラリア首相夫妻が公式訪問。空港にはネ・ウィン議長夫妻らが出迎えた(2日間)。
DIA-211-1974-02-05-1ミャンマー1974年02月05日1970年代ホイットラム・オーストラリア首相とネ・ウィン議長が公式会談。サン・ユー大将,チョウ・ソー外相らが同席した。
DIA-211-1974-02-07-1ミャンマー1974年02月07日1970年代インガソル米極東担当国務次官補がネ・ウィン議長と会談した(2月9日まで滞在)。
DIA-211-1974-02-08-1ミャンマー1974年02月08日1970年代政府革命評議会は布告第1号を発令,各レベル人民評議会の開催にともなう業務の援助をSAC(治安行政委員会)が行なうよう通達した。
DIA-211-1974-02-10-1ミャンマー1974年02月10日1970年代Maung Maung 法相は社会福祉省副大臣U Van Kulh らとともに Thayetmyo 県を視察した。当地では第44連隊司令官 Sein Ya 中佐らが案内した。同法相はその後プローム,タラワディなどの刑務所を視察した。
DIA-211-1974-02-10-2ミャンマー1974年02月10日1970年代工業省は1974/75年度のセメント生産目標を29万トンと設定した。
DIA-211-1974-02-11-1ミャンマー1974年02月11日1970年代西独経済協力省顧問Dr.R.Barthelt ら西独経済使節団は文部省を訪れ,Nyi Nyi 副大臣と協力関係について会談した。なおこの日東独運輸副大臣が来訪,航空協定について話し合う予定。
DIA-211-1974-02-12-1ミャンマー1974年02月12日1970年代連邦記念日-第27回連邦記念日中央式典がラングーンの City Hall で開催され,各地でも式典が開かれた。 この日に寄せてネ・ウィン議長は国民にメッセージを送り「憲法を堅持し,社会主義社会を達成し,国家の統一を実現しよう」と述べた。
DIA-211-1974-02-12-2ミャンマー1974年02月12日1970年代Kyaikkhami 発:Mudon 郡南部地域で活動しているBo Kyaw Ohn 派反乱軍の Monpyithit 隊のメンバーTun Yinが当地消防隊に投降した。
DIA-211-1974-02-13-1ミャンマー1974年02月13日1970年代陸軍参謀次長 Tin Oo 准将は連邦記念日の地区代表としてラングーンに来ているペグー山系からの住民代表と会見,共産党軍支配下にあった暮しなどについて聴取,労をねぎらった。
DIA-211-1974-02-14-1ミャンマー1974年02月14日1970年代第22回全国医療会議が開かれた。
DIA-211-1974-02-15-1ミャンマー1974年02月15日1970年代第10回ビルマ宝石見本市(政府主催)がラングーンで開かれ,今回は総額3900万チャット(205万3080米ドル)相当の宝石が出品された。
DIA-211-1974-02-15-2ミャンマー1974年02月15日1970年代U Lwin 計画・財務相は米の政府買付状況視察のため Paung 地区を訪れた。鉱山相 Thaung Tin 大佐は地区を訪れ,状況を視察,さらに政府の長・短期計画について現地担当官に説明した。
DIA-211-1974-02-16-1ミャンマー1974年02月16日1970年代東独政府との間で航空輸送協定案文が調印された。
DIA-211-1974-02-17-1ミャンマー1974年02月17日1970年代バングラ密貿易を取締-Buthidaung Maun-gdaw 付近のバングラ国境地域で米(153袋)を密輸出しようとしていたグループを摘発。これらのグループは1袋200チャットでバングラ側に売っていたという。
DIA-211-1974-02-18-1ミャンマー1974年02月18日1970年代ウ・セイン・ウイン建設相はDaik-Uを訪れ,米買付状況を視察した。また社会福祉大臣U Van KulhはPa-an付近の買付状況を視察した。
DIA-211-1974-02-19-1ミャンマー1974年02月19日1970年代ビルマ海軍フリゲート艦は Mingala-Taungny-unt付近のビルマ領海で操業中の台湾漁船(乗組員21名),タイ漁船(5名)をだ捕したと発表した。
DIA-211-1974-02-19-2ミャンマー1974年02月19日1970年代南西軍管区司令官 Than Tin 大佐は Kyangin 郡および Myanaung 郡内の反乱軍活動から追い出され,逃げてきた村民と会い,状況について聴取した。なおこれらの村は第18連隊を中心とする政府軍の掃討作戦で反乱軍から奪回したと発表した。
DIA-211-1974-02-20-1ミャンマー1974年02月20日1970年代麻薬法を制定-革命評議会は麻薬法(革命評議会法第5号,1974年)を制定,布告した。これは,これまで法的には野放しにされていた麻薬の製造,密売,輸出,取引,使用に対し禁止,制限を定めたもので,ただし1979年3月1日までの期限で,シャン州16郡18,734エーカーでのケシの栽培についての適用除外が認められた。
DIA-211-1974-02-20-2ミャンマー1974年02月20日1970年代SAC が改組-革命評議会は指令第112号を発令して,SAC(治安行政委員会)は全レベルとも各レベル人民評議会に接収されると発表した。これにより,これまでの SAC の業務,権限も人民評議会に移譲されることになった。
DIA-211-1974-02-21-1ミャンマー1974年02月21日1970年代農業公社局長 U Ba Hnin はバセイン,ヘンザダを訪れ,現地関係者から事情を聴取。この報告によるとイラワジ管区では今年ジュート作付は23万3200エーカーと見込まれている。
DIA-211-1974-02-22-1ミャンマー1974年02月22日1970年代宝石見本市売上げ2100万チャット-第10回宝石見本市が終了した。これまでの集計では売上総額は2109万8365チャット(438万2892ドル)であった。
DIA-211-1974-02-23-1ミャンマー1974年02月23日1970年代所得税法公布-革命評議会は所得税法を公布した。これは20カ年計画期間中における安定的な資金(財源)調達を実現するためで,民間企業については年所得4万2000チャット,個人については4200チャット以上を対象に累進課税された。
DIA-211-1974-02-25-1ミャンマー1974年02月25日1970年代党中央委員会-第3回計画党中央委員会が開かれ,1974/75年度予算,民政移管について討議して,それぞれ最終承認を決めた。
DIA-211-1974-02-26-1ミャンマー1974年02月26日1970年代革命評議会は民政移管を定める布告を発令,また人民裁判評議会員の人民議会互選を定める布告も発表した。
DIA-211-1974-02-26-2ミャンマー1974年02月26日1970年代元内相に3年の刑-第1号特別刑事法廷は収賄などの疑いで裁判を受けていた元内相 U Sein Mya(元大佐)に3年と6カ月の徴役刑を言い渡した。
DIA-211-1974-02-27-1ミャンマー1974年02月27日1970年代タキン・ソーの控訴棄却-1973年9月1日に死刑を言い渡され控訴していた赤旗共産党議長タキン・ソー(60歳)の特別刑事法廷控訴審はこれを棄却した。
DIA-211-1974-02-28-1ミャンマー1974年02月28日1970年代革命評議会は①州およびチン担当評議会,②国民会計委員会,③革命評議会諮問委員会の組織を解体したと発表。
DIA-211-1974-03-01-1ミャンマー1974年03月01日1970年代国産オイルタンカー完成-ビルマ造船公社は,民政移管を記念して国産オイルタンカー(1650トン)を完成した。
DIA-211-1974-03-01-2ミャンマー1974年03月01日1970年代東南軍管区で大作戦-東南軍管区第17連隊はメルグイ郡北部での反乱軍掃討作戦を2月25日から展開しており,いまのところ成功裏に進められ,反乱軍の投降者が続出している。
DIA-211-1974-03-02-1ミャンマー1974年03月02日1970年代人民議会開会(民政移管成る)-ネ・ウィン革命評議会議長は第1回人民議会開会日で全権力の人民議会への移譲を宣言した。このあと国家評議会,議長団などを選出した。
DIA-211-1974-03-02-2ミャンマー1974年03月02日1970年代大統領にネ・ウィン-入民議会は国家評議会メンバー28名(議会代表14名,州・管区代表14名)を選出,議長にはネ・ウィンが選ばれ,大統領となった。書記長にはサンユー大将が選ばれ副大統領となった。メンバーはつぎのとおり。 議長 U Ne Win 書記長 Gen.San Yu 委員 U Kyaw Soe,U Kyaw Zaw(イラワジ),Col Kyaw Win(テナセリム),U Kben Za Moong,U Khin Maung(モン),U Soe Hlaing,Sao Ohn Hnya(カヤ),U Tin Thein,U Tun Myint(Lang-Kho),U Tun Lin(シャン),U Dingra Tang(カチン),U Ba Nyein(マグウエ),Col Min Thein,Dr.Maung Maung(マンダレー),Dr.Maung Lwin,U Mahn San Myat Shwe(カレン),U Hla Tun Pru,Dr.Hla Han,U Tha Din(ペグーン),U Thaung Kyi,Com.Thaung Tin(ラングーン),Brig.Tbaung Dan(サガイン),U Than Sein,U Than Sein(アラカン),Dr.Theing Aung.Thakin Aung Min(チン)
DIA-211-1974-03-02-3ミャンマー1974年03月02日1970年代各レベルの人民評議会も一斉に開会した。
DIA-211-1974-03-02-4ミャンマー1974年03月02日1970年代農民の日を記念する中央集会が各地区の代表5000人を集めてラングーンで開かれた。ネ・ウィン議長はこれに対しメッセージを送った。
DIA-211-1974-03-04-1ミャンマー1974年03月04日1970年代閣僚評議会メンバーなどを選出-人民議会は閣僚評議会,入民判事評議会などのメンバーを選出した(参考資料)。
DIA-211-1974-03-05-1ミャンマー1974年03月05日1970年代ネ・ウィン大統領所信表明-人民議会でネ・ウィン大統領は所信表明演説を行なった。
DIA-211-1974-03-05-2ミャンマー1974年03月05日1970年代国防治安委員会-政府は新たに国防治安委員会(SDSC)を設置,メンバーをつぎのように発表した。 議 長 U Sein Win 首相 メンバー U Thaung Kyi, U Kyaw Soe Brig・Thaung Dan, Com, Thaung Tin, U Lwin, U Ko Ko, Brig・Tin Oo U Hlaphone.
DIA-211-1974-03-05-3ミャンマー1974年03月05日1970年代人民議会担当委員会をつぎのように発表した(人名は書記長)。 (1)財務・計画委員会:U Khin Maung Mya (2)協同組合・農林委員会:U Zaw Pe 〈3)商業委員会:U Kyaw Thant (4)工業・天然資源委員会:U Hla Aye (5)建設・運輸・通信委員会:U Aung Kyaw Myint (6)科学・技術委員会:U Htwe Han (7)公共行政委員会:U Lwin Maung (8)国際関係・外務委員会:U Maung Maung (9)法律委員会:U Tin Aye Kyaw (10)社会・情報委員会:U Tin Tun (11)農民・労働者・青年委員会:U Tin Pe (12)民族問題委員会:U Maung Aye (13)議会代表資格審査委員会:U Myint Thein
DIA-211-1974-03-06-1ミャンマー1974年03月06日1970年代先に特別控訴審で死刑が確定したタキン・ソー元赤旗共産党議長はネ・ウィン大統領に対し恩赦を訴えたこのなかでタキン・ソーは,自分が果した独立への役割と独立前の反ファシスト行動,社会主義思想の宣伝について考慮し,さらに67歳という高齢も考えて欲しいと述べている。
DIA-211-1974-03-08-1ミャンマー1974年03月08日1970年代副大臣任命-国家評議会は第1号布告を発令し,計17名の副大臣を任命した。副大臣も全員人民議会議員である。
DIA-211-1974-03-08-2ミャンマー1974年03月08日1970年代三軍参謀長を任命-国家評議会は布告第2号を発令,参謀長をつぎのように任命した。 国軍参謀総長 Tin Oo 准将 陸軍参謀長 Kyaw Htin 大佐 海軍参謀長 Chit Hlaing 大佐 空軍参謀長 Saw Pru 大佐
DIA-211-1974-03-09-1ミャンマー1974年03月09日1970年代ゴム価格引上げ-政府はゴムの政府買上げ価格を引上げてつぎのように改訂した。
DIA-211-1974-03-10-1ミャンマー1974年03月10日1970年代Lashio 近郊 Tang yang 村のバザールが反乱軍の放火で全滅,被害総額は920万チャットに達した。
DIA-211-1974-03-10-2ミャンマー1974年03月10日1970年代カヤ州は食糧自給-カヤ州はこれまで米の州内自給ができなかったが,灌漑による稲作普及の結果,今年はじめて自給が達成され,さらに2万4000バスケットを第1交易公社に売却した。
DIA-211-1974-03-11-1ミャンマー1974年03月11日1970年代第2次4カ年計画発表-第2次4カ年計画(1974年4月1日~1978年3月31日)が U Lwin 財務計画相によって国会で発表され,提出された。また内容については U Chit Moung 同省副大臣によって説明された(参考資料参照)。
DIA-211-1974-03-12-1ミャンマー1974年03月12日1970年代1974/75年度予算案発表- U Lwin 財務・計画相は1974/75年度予算案を発表,国会に提出した。総額5億8190万チャットの赤字が計上された(参考資料参照)。また同時に1973/74年度の「財政・経済・社会状況報告書」が提出された(参考資料参照)。
DIA-211-1974-03-13-1ミャンマー1974年03月13日1970年代人口は2950万人に-入口は1961年の2220万から年平均2.2%増加して今年はついに2950万人に達した。年代別内訳はつぎのとおり。
DIA-211-1974-03-13-2ミャンマー1974年03月13日1970年代経済援助-12日に国会に提出された「経済報告書」によるビルマが受けた外国援助はつぎのとおりである。 1. 長期借款 単位10万チャット 米国 23 中国 91 フランス 346 西独 108 日本 1735 世銀 1007 アジア開銀 254 2. 中・短期借款 チェコ 185 イタリー 20 日本 147 オランダ 98 ソ連 27 3. その他 ビルマ・日本技術協力 923 その他国際機関 587 なお1974年末までの援助累積債務は13億1000万チャットと見込まれている。
DIA-211-1974-03-14-1ミャンマー1974年03月14日1970年代国会は「国旗制定法」を採択。
DIA-211-1974-03-14-2ミャンマー1974年03月14日1970年代40新工場が完成-第1次4カ年計画(1972年10月1日~1974年3月末日)期間中に40の新工場が完成した。
DIA-211-1974-03-15-1ミャンマー1974年03月15日1970年代Myanma Bawdwin Corporation はカナダ国際開発局と合同でYadanatheingi鉛・銀鉱山開発プロジェクトを行なっていたがこのほど終了した。この間ビルマ側は20万ドルの設備,機械を供与され,技術指導を受けた。
DIA-211-1974-03-15-2ミャンマー1974年03月15日1970年代土地所有状況-「経済報告」による耕作地所有規模別農家戸数の構成比はつぎのとおり。
DIA-211-1974-03-16-1ミャンマー1974年03月16日1970年代最大規模製材所操業開始-規模において東南ア最大の製材工場が Okkyin(ラングーン)郊外に完成,操業を開始した。これは木材公社が1965年から3億チャットを投じて建設していたもので,従業員1000人,年間15万トンの木材加工能力を持ち,年9万4000トンの材木を生産することができる。
DIA-211-1974-03-18-1ミャンマー1974年03月18日1970年代国会,政治犯の釈放を決議-国会10日目は“国章法”および“ビルマ社会主義計画党改正法”を採択,さらに反乱軍関係政治犯の釈放と刑期短縮を含む恩赦の実施決議を賛成多教で決定した。これに基づき19日国家評議会は第1号宣言を発表,恩赦を正式に発表した。
DIA-211-1974-03-19-1ミャンマー1974年03月19日1970年代国会経済審議-国会は「経済報告書」「予算案」の審議を開始した。このなかで,食糧生産価格の引き上げ(Dr.Chit),木材製品の輸出増大(Saw Aung Htoo)などが主張された。
DIA-211-1974-03-19-2ミャンマー1974年03月19日1970年代最高裁で死刑が確定したタキン・ソー元赤旗共産党議長の大統領直訴について国家評議会は審議をしたが,これを却下することに決定した。
DIA-211-1974-03-20-1ミャンマー1974年03月20日1970年代開発計画の審議開始-国会は20カ年および第2次4カ年計画についての審議を開始,17名の議員が質問をした。このなかでU Sai Maingはシャン州の農業開発を推進するべきとの意見を提出した。
DIA-211-1974-03-20-2ミャンマー1974年03月20日1970年代国家評議会による恩赦宣言に基づき各地で政治犯の釈放が行なわれたが,モールメンでは134名が釈放された。またインセインからは87名が釈放された。
DIA-211-1974-03-22-1ミャンマー1974年03月22日1970年代政府軍ジェット機猛爆-(バンコク発AFP)政府軍ジェット戦闘機3機が Myawaddy 地区の反乱軍に占領された政府軍陣地および石油貯蔵所を猛爆した。しかし爆撃地点からタイ国境までわづか数キロのところであったためタイ政府はビルマ政府に抗議した。なお反乱側カレン解放軍第6旅団司令官 Shwe Seing 大佐は「いまやわが軍は Myawaddy 周囲25キロ平方を完全に支配している」と述べたと伝えられた。
DIA-211-1974-03-22-2ミャンマー1974年03月22日1970年代KNU反乱軍攻撃-タイに本拠を置く KNU 反乱軍 Bo Mya 派軍は3月17日から22日までの間に,600名以上の軍勢でMyawaddy,Thingannyinaung,Mepale村の政府軍陣地を一斉攻撃,これまでに政府軍6名が死亡,44名が負傷した。また反乱軍は87名が死亡,125名が負傷した。
DIA-211-1974-03-25-1ミャンマー1974年03月25日1970年代東部シャン州の反乱軍掃討作戦-政府軍は Myo Aung大佐を司令官として Aung Khin大佐らの連合部隊による“Yeyannaing 作戦”を2月第1週から行なっているが,すでにBCP(共産党)軍と15回に亘る交戦をして,現在共産軍をMong Yang,Mong Ma 地域から押し出し,Mong Yu 地域国境付近まで追いつめている。これまでの戦闘で反乱軍側63名が戦死,80名が負傷,政府軍側12名死亡,34名が負傷,62名が行方不明となっている。
DIA-211-1974-03-25-2ミャンマー1974年03月25日1970年代中国の援助によってこのほど完成したTakaw 橋の開通式が行なわれ,建設省副大臣U Hla Tinなどが出席した。
DIA-211-1974-03-25-3ミャンマー1974年03月25日1970年代経済計画および政府予算案が国会を通過,採択された。
DIA-211-1974-03-25-4ミャンマー1974年03月25日1970年代Letpadan 発:300人からなるKNDO反乱軍が Hmaw-In 村の警察署を襲撃,4名の警官,民兵が死亡,反乱軍は3名の死亡,4名の負傷。なお反乱軍は警察署からライフル16丁,機関銃1丁,弾丸1500発,自転車などを奪い取った。
DIA-211-1974-03-28-1ミャンマー1974年03月28日1970年代Minhla 郡内の BCP は棉花栽培農家に対して政府に棉花を売らないよう脅迫していることがこのほど明らかにされた。
DIA-211-1974-03-30-1ミャンマー1974年03月30日1970年代1962年から1973年までの12年間における全国での火災による損害は合計4億7100万チャットに達した。火災件数は31,585件,火災の内訳は住居76,000,工場409,倉庫886であった。
DIA-211-1974-03-30-2ミャンマー1974年03月30日1970年代ビルマ政府は輸出品目として骨粉の生産増加を農業公社に指示した。この骨粉は肥料用に日本などから引合いがきており今年すでに800~1000トンの注文に応じた。輸出価格はトン当り上質粉で200チャットである。
DIA-211-1974-03-31-1ミャンマー1974年03月31日1970年代Kyi Soe 中佐を隊長とする政府軍第28連隊の所属部隊は Pa-an 郡 Natkyaw 村付近で中隊司令官 Johnに率いられるKNDO軍と1時間半に亘って交戦,John司令官は戦死した。
DIA-211-1974-04-01-1ミャンマー1974年04月01日1970年代西独議会経済政策審議会メンバーがセイン・ウィン首相と会談。
DIA-211-1974-04-04-1ミャンマー1974年04月04日1970年代交易公社米の買付に必死-第1号交易公社は米の買付期限の3月末日を超えてもなお全国で米の買付に奔走している。例年になく米の買付状況が悪いといわれている。
DIA-211-1974-04-04-2ミャンマー1974年04月04日1970年代ナガ丘陵に新道路-ナガ丘陵地域Lahe郡内に Hkamti-Lahe 間自動車道路がこのほど完成した。この道路は1952年に建設開始されたが,その後ストップしていた。
DIA-211-1974-04-05-1ミャンマー1974年04月05日1970年代文盲撲滅運動-1974年度文盲撲滅運動はシャン州に重点が置かれた。Kalaw で開かれた本運動開始宣言式に Dr.Khin Maung Win 教育相が出席,これまでに全国71郡で文盲が撲滅したと述べた。
DIA-211-1974-04-05-2ミャンマー1974年04月05日1970年代設備管理委員会設立-政府は全ての政府機関所有の自動車を含む設備,機械の有効利用達成のための指導と政策を立案する設備管理委員会を設立した。 この委員には,交易,運輸,通信,農林,などの関係省副大臣が任命された。
DIA-211-1974-04-06-1ミャンマー1974年04月06日1970年代マレーシア首相来訪-マレーシアのラザク首相夫妻が特別機で到着。ウ・セイン・ウィン首相夫妻らが出迎えた。ラザク首相はネ・ウィン大統領の招きで来訪したもので3日間滞在。
DIA-211-1974-04-07-1ミャンマー1974年04月07日1970年代来訪中のラザク・マレーシア首相はネ・ウィン大統領と会議,この会談にはサン・ユ副大統領,セイン・ウイン首相,U Hla Pbone外相,U Hla Maw 駐マレーシア大使らが同席した。 席上,両首脳はとくに東南アジア情勢について意見を交換し,マレーシアの対中国交渉に対し,ネ・ウィン大統領は「早期実現を望む」として,中国についての見解を述べた。
DIA-211-1974-04-09-1ミャンマー1974年04月09日1970年代米の買付進まぬデルタ-The Guardian 紙社説は「デルタにおける問題」と題して,デルタ地方での政府による米の買付がはかばかしくなく,目標の50%をやっと超えたに過ぎないとして,その原因を闇取引の横行によるものだと激しく闇行為を非難,政府生産者米価が安いのは消費者価格を抑えるためであり,闇価格の高騰は一部悪質業者の利益となるだけだと警告した。
DIA-211-1974-04-09-2ミャンマー1974年04月09日1970年代北朝鮮副主席来訪-北朝鮮の康良煜副主席が公式訪問,空港にはサン・ユ副大統領,セイン・ウィン首相らが出迎えた。
DIA-211-1974-04-09-3ミャンマー1974年04月09日1970年代国家情報局法発効-人民議会は4月5日付で「選挙委員会法」および「国家情報局法」を採択した。このうち「国家情報局法」は閣僚評議会の下に情報担当機関および担当官によって構成される国家情報局(NIB)を設置するというもので国家の治安,防衛のための情報を収集する。NIBは首相がトップで国防相,計画,財務相,内務,宗教相,外務相がその役員を担当する。
DIA-211-1974-04-10-1ミャンマー1974年04月10日1970年代ネ・ウィン大統領は北朝鮮副主席と会談。
DIA-211-1974-04-11-1ミャンマー1974年04月11日1970年代ネ・ウィン大統領は来訪中のタイ外相チャルパン・イサランクルと会談。タイ外相は10日に来訪4日間の滞在。
DIA-211-1974-04-11-2ミャンマー1974年04月11日1970年代シャン反乱軍 Tai Leng(赤色シャン族)の2人の軍部指導者(Lu Din 37歳,Moe Lwin28歳)は4月7日 Tachileik の計画党支部議長に投降,本日空路ラングーンに護送された。
DIA-211-1974-04-11-3ミャンマー1974年04月11日1970年代Lasbio 発:Loimaw派反乱軍の6名の兵士が第41連隊(司令官 Soe Min 中尉)に投降,カービン銃5丁,M-79などの武器も提出した。
DIA-211-1974-04-12-1ミャンマー1974年04月12日1970年代ウ・コ・コ内相ら4閣僚はラングーン管区人民議会議員と会談,内相は議員の汚職行為に厳重に抗議した。
DIA-211-1974-04-12-2ミャンマー1974年04月12日1970年代国外逃亡者が帰国-4月5日に在タイ・ビルマ大使館に投降した16名の国外逃亡者が空路ラングーンに帰着,彼らは国境付近にいる反乱グループについて「いま国境付近には“Union Solidarity Party”,Union Solidarity United Front”などの主に密輸を業とするグループがいるが,グループ間の争い,グループ内の不統一は日増しに深刻になり殺し合いが行なわれている」と語った。
DIA-211-1974-04-13-1ミャンマー1974年04月13日1970年代経済委員会設立-閣僚評議会は布告に基づき経済委員会(EC)を設立した。これは副首相兼計画相U Lwin が議長で,工業,鉱業,建設,運輸・通信,協同組合,農林,内務,教育,労働名担当相がメンバーで,財務・計画副大臣が書記長になる。
DIA-211-1974-04-13-2ミャンマー1974年04月13日1970年代漁訓センター所属船だ捕-東南アジア漁業訓練センター(シンガポール)所属の訓練船チヤンギ号がビルマ海域内でビルマ海軍にだ捕され,日本人船長(他に日本人5名)ら乗組員全員が連行された。
DIA-211-1974-04-16-1ミャンマー1974年04月16日1970年代KNDO 反乱軍 Bo Kyaw Hoe 師団配下のBo Ba Chaw 大隊所属の5名の兵士が Thaton 駐屯の第24連隊に投降した。
DIA-211-1974-04-18-1ミャンマー1974年04月18日1970年代タイ国籍漁船がビルマ領海内でだ捕され乗組員24名が逮捕され,ラングーンに連行された。
DIA-211-1974-04-20-1ミャンマー1974年04月20日1970年代ネ・ウィン大統領インド亜大陸三国を訪問-ネ・ウィン大統領は特別機でインド亜大陸三国(インド,パキスタン,バングラ)訪問の途についた。一行には国家評議会員Dr.Hla Han,Dr.Maung Maung,U Hla Phone 外相ら15名が含まれている。 なお大統領一行は20日午後最初の訪問地パキスタンのイスラマバードに到着,F.E.チョードリ大統領,ブット首相らの出迎えを受けた。
DIA-211-1974-04-20-2ミャンマー1974年04月20日1970年代協同組合に警告-協同組合相 Sein Lwin 大佐はラングーン管区郡の協同組合理事長を集めて,協同組合における損失と無駄を最少限にくい止め,配給の円滑化を企るよう警告した。
DIA-211-1974-04-21-1ミャンマー1974年04月21日1970年代ネ・ウィン大統領,ブット首相と会談-ネ・ウィン大統領はイスラマバードでブット首相と会談,その後タルベラ・ダム建設現場を視察した。
DIA-211-1974-04-23-1ミャンマー1974年04月23日1970年代パキスタン・ビルマ共同声明-訪パ中のネ・ウィン大統領はブット首相との間で「パキスタン・ビルマ共同声明」を発表,このなかで両国間には懸案の問題はないとし,友好と相互理解を深めることに同意した。
DIA-211-1974-04-23-2ミャンマー1974年04月23日1970年代ネ・ウィン大統領インドヘ-パキスタンでの公式訪間日程を終え,ニューデリに到着。
DIA-211-1974-04-25-1ミャンマー1974年04月25日1970年代第6回中央労働者評議会大会がラングーンで開催され,U Maung Maung Kha 議長が開会宣言を行なった。
DIA-211-1974-04-25-2ミャンマー1974年04月25日1970年代ネ・ウィン大統領,ガンジー首相と会談-インドを公式訪問中のネ・ウィン大統領はニューデリーでガンジー首相と2時間に亘って会議,主にインド亜大陸の全般的情況および両国間の経済協力について意見を交換した。
DIA-211-1974-04-25-3ミャンマー1974年04月25日1970年代アラカン地方の反乱活動-Akyab 発:アラカン地方における反乱軍(BCP,赤旗共産党,アラカン独立軍,回教徒反乱軍)は,反乱軍間で領域争い,あるいは自派内の内ゲバで急衰しつつあり,また西部司令部の第20連隊の掃討作戦も効果がでている。この結果多くの投降者が出ており,Buthidaung の有力な回教徒軍指導者 Noor Hussain が先週内ゲバで彼の右腕といわれた部下に射殺されたりした。
DIA-211-1974-04-26-1ミャンマー1974年04月26日1970年代ビルマ,インド共同声明-ビルマ・インド共同声明が発表され,両国間の経済・技術協力を拡大することに合意した。
DIA-211-1974-04-26-2ミャンマー1974年04月26日1970年代ネ・ウィン大統領バングラヘ-ネ・ウィン大統領はインドの訪問を終え,バングラデシュを訪問するためニューデリーからダッカに到着した。 空港ではラーマン首相の出迎えを受けた。
DIA-211-1974-04-26-3ミャンマー1974年04月26日1970年代ビルマ・マレーシア航空協定がラングーンで調印された。
DIA-211-1974-04-27-1ミャンマー1974年04月27日1970年代ネ・ウィン大統領,ラーマン首相と会談-ネ・ウィン大統領はラーマン首相,モハメドウラー大統領,カマール・フセイン外相らと会談,ラーマン首相とは東南アジア情勢,両国間の協力間題などについて意見の交換をした。
DIA-211-1974-04-28-1ミャンマー1974年04月28日1970年代Mawchi 鉱山の生産低下-ラングーンで開かれている中央労働者評議会総会でカヤ州,Pasawng 郡代表U Maung Si は「最近当地域における反乱軍の活動と,燃料の不足によって Mawchi 鉱山の生産量が低下している」と述べた。
DIA-211-1974-04-29-1ミャンマー1974年04月29日1970年代ビルマ・バングラ共同声明-ネ・ウィン大統領とラーマン首相はビルマ・バングラデシュ共同声明を発表,両国の友好と協力を前進させることに合意し,「両国は東南アと南アジアのかけ橋になる」と述べている。また両国はインド洋平和中立化を強く支持した。
DIA-211-1974-04-29-2ミャンマー1974年04月29日1970年代ネ・ウィン大統領はインド亜大陸三国の訪問を終え帰国した。空港ではサン・ユ大将,セイン・ウィン首相らの出迎えを受けた。
DIA-211-1974-04-30-1ミャンマー1974年04月30日1970年代Tin Oo 大将北部を視察-国軍参謀総長Tin Oo 大将は海軍参謀長 Saw Pru 准将,陸軍主計総監Ba Thaw 准将,陸軍主任参謀 Maung Maung 大佐,砲兵局長 Sein Tun 大佐,補給・輸送局長 Khing Maung Lay 大佐らと共に北部軍区の視察を26日以来続けている。一行は当区駐屯連隊,野戦部隊,戦略地点はどの視察を行なっている。
DIA-211-1974-05-01-1ミャンマー1974年05月01日1970年代Kyi Soe 中尉率いる政府軍第28連隊のパトロール隊はPa-an郡内で3月31日,4月日7日に KNDO 軍と戦闘,反乱軍2名が死亡,3名を逮捕した。
DIA-211-1974-05-01-2ミャンマー1974年05月01日1970年代Martaban 発:第24連隊所属の1個中隊は Paung郡 Ohntabin 村で,KNDO 反乱軍 Kyaw Hoe 派の Kyaw Sun とP.Too 軍100名と遭遇,交戦,政府軍は反乱兵3名を射殺した。なお同政府軍部隊は交易公社の籾買付チームの護衛勤務の最中であった。
DIA-211-1974-05-02-1ミャンマー1974年05月02日1970年代BSPP 中央委員会開催-第4回 BSPP 中央委員会が党本部で開かれた。ネ・ウィン議長が開会演説を行ない,経済困難に対処するため全力を尽せと訴えた。また経済当局の背任行為や不規律を鋭く非難した(5月6日まで)。
DIA-211-1974-05-03-1ミャンマー1974年05月03日1970年代労働省は中央労働紛争委員会のメンバーを全面的に入れ替えたと発表。委員長には労働相,メンバーは社会福祉,運輸・通信,鉱・工業,貿易,協同組合,農村などの各省からの代表と労働者,農民各評議会からの代表から選出されている。
DIA-211-1974-05-04-1ミャンマー1974年05月04日1970年代政府軍1個小隊と50人の共産党軍がアラカン州 Ponnakyun 郡 Laungbok 村近郊で戦闘,反乱側4名が死亡した。
DIA-211-1974-05-05-1ミャンマー1974年05月05日1970年代全国の郡農民評議会と同評議会組織委員会は1974/75年度経済計画の目標達成のために米の作付面積拡大と反収増加のキャンペーンを行なうことになった。とくに作付面積については休閑地の作付を強調し,二期作の拡大を勧める。
DIA-211-1974-05-05-2ミャンマー1974年05月05日1970年代カレン反乱軍 Bo Nyo 派軍の下士官 Ko San Kyi がモールメン市内の町区人民評議会議長に投降した。投降理由については,「病気をしたが反乱軍内では全然治療をしてくれなかった」と語った。 また同日 Thaton の党支部にカレン反乱軍北西司令部付の中隊長 Bo Ye Swe が投降した。
DIA-211-1974-05-06-1ミャンマー1974年05月06日1970年代新モン州党Win Sein派反乱軍兵士 Chit Too が Mudon の計画党支部に投降した。
DIA-211-1974-05-07-1ミャンマー1974年05月07日1970年代反乱軍の襲撃で25人が死亡-モールメン=Kyondo 間にある Seinbyu の渡し(Khaya 村)で300 人の乗客を乗せたフェリーボートが約200人の反乱軍の襲撃を受け,付近の第28連隊と戦闘になったが,乗客,政府軍兵士など25名が死亡,82名が負傷した。この反乱軍は Mon Pyithit 党であると確認された。
DIA-211-1974-05-07-2ミャンマー1974年05月07日1970年代工場で集団略奪-棍棒などで武装した約80人の強盗団が Okkyin の製材工場(建設中)と同地の精油工場に押し入り,建設機械や木材その他の調度品を略奪して逃走した。
DIA-211-1974-05-08-1ミャンマー1974年05月08日1970年代物価抑制委員会設置-政府は消費者物価の急騰に対処し,これを抑制する対策をたてるための物価抑制委員会を設置した。議長には副首相が任命され,経済関係10閣僚がメンバーとなった。この委員会は現在の物価高の現状と原因を調査し,その対策をたてて,閣僚評議会に報告書を提出する。
DIA-211-1974-05-12-1ミャンマー1974年05月12日1970年代副大統領,国会報告-サンユー副大統領は Bahan 郡選挙区で選挙民を集めて,第1回国会の報告をした。
DIA-211-1974-05-12-2ミャンマー1974年05月12日1970年代Kyai kmaraw 郡内の3個所で,最近起った反乱軍のフェリー・ポート襲撃事件での反乱軍の虐殺行為を非難する大衆抗議集会が開かれた。
DIA-211-1974-05-13-1ミャンマー1974年05月13日1970年代閣僚の地方遊説-第1回の人民議会の報告を兼ねて閣僚の地方遊説が行なわれている。U Lwin 副首相はPa-an,Sein Lwin 協同組合相はペグーで,Nyi Nyi 鉱山相は Wakema でそれぞれ国会報告を行ない,現地を視察した。
DIA-211-1974-05-14-1ミャンマー1974年05月14日1970年代中央農地委員会はこのほど各レベル農地委員会に対し,農地の適正使用をチェックし,農民を指導する行動を起すよう指令した。これは最近農民がかってに作物を転換したり,耕作しなくなったりするケースが多くなったためである。
DIA-211-1974-05-14-2ミャンマー1974年05月14日1970年代国外逃亡者に徴役5年-Kyauktada 郡第2法廷は,さきに国外逃亡して,ウ・ヌー派軍に参加して,政府軍に捕まった Tin Aye ら5名に対し,非合法結社法,武器法などを適用して,計5年の刑を言い渡した。
DIA-211-1974-05-15-1ミャンマー1974年05月15日1970年代タイ軍事使節来訪-タイ防衛大学校長 Chaveng Youngcharoen 中将を団長とするタイ軍事使節団が来訪。国防相兼国軍参謀長 Tin Oo 大将が会見した。
DIA-211-1974-05-15-2ミャンマー1974年05月15日1970年代KNU 反乱軍 Mahn Kyaw Lwin 派所属の3名がGyobingauk郡人民警察隊に投降した。 また同じ日,KNU の Bo Pan Shwe 派の1人が Mudon 郡計画党支部に投降した。
DIA-211-1974-05-16-1ミャンマー1974年05月16日1970年代NDUF 兵士2名が Pegu 山のふもとのMinhla郡 Ywegon 村の人民評議会議長に投降した。またMudonではモン州党の兵士が Kamawet村の人民評議会に投降した。
DIA-211-1974-05-16-2ミャンマー1974年05月16日1970年代共同通信社とビルマ情報省との間でニュース交換協定が調印された。
DIA-211-1974-05-18-1ミャンマー1974年05月18日1970年代物価抑制作業委設置-先に閣僚会議のなかに設置された物価抑制委員会の協議に基づいて,具体的な方法を検討し,実施するための物価抑制作業委員会が設置された。
DIA-211-1974-05-19-1ミャンマー1974年05月19日1970年代国家評議会で3月19日,決議された“政治犯に対する恩赦”に基づいて,ビルマ全国で合計160万枚の恩赦決議文を報告するビラが,15~18日の4日間にわたって空中散布された。このビラはビルマ語と各少数民族語によって書かれている。
DIA-211-1974-05-22-1ミャンマー1974年05月22日1970年代西独と借款協定-西独政府はビルマ政府に対し総額600万ドイツ・マルク(約240万ドル)の借款を与えるとの協定が両国代表の間で調印された。この借款のうち半分以上が天然ガスの液化装置の建設に使用された。
DIA-211-1974-05-23-1ミャンマー1974年05月23日1970年代米の取引再国有化-政府交易省は「社会主義経済建設法行使令」(1965年)に基づいて,1974/75年度における米の取引を再国有化する旨の布告を発表した。 この布告の内容はつぎのとおりである。 (1)指定された計208郡内の農民が生産した籾は国家のみが購入することができる。すなわち農民は第1号交易公社にのみ販売することができる。 (2)指定された郡内の籾生産者は1975年4月30日までに指定された価格で売却され,買付チームに売却量,収穫量を報告しなければならない。もし申告以上に売却した場合は,その分だけ特別価格で買上げられる。 (3)第1号公社に売却したのち,生産者は余剰米を直接消費者に販売することができる。しかし,その場合居住郡内に限られる。この取引については,随時,第1号公社によって指示が出される。 (4)指定郡内においては,第1号公社は,生産者との間に協定が成立すれば1エーカー当り35チャットを超えない範囲内で予約買付をすることができる。
DIA-211-1974-05-24-1ミャンマー1974年05月24日1970年代外交問題委員会設立-閣僚評議会は国際問題および外交政策について協議諮問する外交問題委員会を評議会内に設立した。
DIA-211-1974-05-24-2ミャンマー1974年05月24日1970年代ネ・ウィン大統領東南ア・豪州へ出発-ネ・ウィン大統領はマレーシア,オーストラリア,ニュージーランド,インドネシア,シンガポールヘの公式訪問のために出発。最初の訪問国マレーシアのペナンに到着。ラザク首相の出迎えを受けた。なお一行には,国家評議員 Hla Han,U Hla Phone 外相らが含まれている。
DIA-211-1974-05-25-1ミャンマー1974年05月25日1970年代ネ・ウィン大統領,ラザク首相と会談-ネ・ウィン大統領はラザク首相と正式会議し,席上マレーシア・中国の外交関係樹立について話し合った。
DIA-211-1974-05-25-2ミャンマー1974年05月25日1970年代テナセリム郡当局がこのほどまとめた結果,当郡内で3月23日から5月2日までの40日間で合計45名の反乱軍兵士が投降した。 このなかには反乱軍“大尉”Paw Sein,Moe Kyaw らが含まれている。
DIA-211-1974-05-25-3ミャンマー1974年05月25日1970年代1974/75年産籾の予約買付は早くも6月1日から実施されることになり,第1号交易公社は準備を開始した。なお今年産の予約買付目標は1億4000万バスケット(約280万トン)てある。なお1973/74年度の政府集荷米は,7200万バスケット(144万トン)に過ぎなかった。
DIA-211-1974-05-27-1ミャンマー1974年05月27日1970年代マレーシアとは治安問題について意見交換-ラザク首相はネ・ウィン首相との会談では,マレーシアにおける共産党反乱軍対策について意見交換したと述べた。
DIA-211-1974-05-27-2ミャンマー1974年05月27日1970年代モン反乱軍大量投降-モン州各地で最近モン人民党(Mon Pyithit Party)所属兵士合計57名が各地政府当局に投降した。
DIA-211-1974-05-28-1ミャンマー1974年05月28日1970年代ネ・ウィン大統領,オーストラリアヘ-マレーシア訪問を終えて,オーストラリアに到着。ウィットラム首相と正式会談。インド洋の非武装化問題などについて話し合った(訪問日程8日間)。
DIA-211-1974-05-28-2ミャンマー1974年05月28日1970年代第1号交易公社は6月1日からスタートする予約買付実施のために総額2億チャットを準備したと発表。予約買付は1エーカー当り総額35チャットが支払われる。なおそのうち254チャットは先払い,10チャットは収穫時に支払われ,先に指定された208郡で実施される。
DIA-211-1974-05-28-3ミャンマー1974年05月28日1970年代領海侵犯タイ漁船に厳刑-4月12日,領海侵犯したとしてだ捕されたタイ籍のトロール漁船の乗組員24名全員に18カ月の徴役刑が言渡された。
DIA-211-1974-05-29-1ミャンマー1974年05月29日1970年代“チャンギ号”乗組員に有罪-4月7日,ビルマ領海侵犯で逮捕されていた東南ア漁業開発センター所属訓練船“チャンギ号”の乗組員(船長,日本人 広田)全員に1年の徴役実刑が,Seikkan 郡裁判所で言い渡された。
DIA-211-1974-05-30-1ミャンマー1974年05月30日1970年代モン人民党反乱軍がマルタバン近郊 Tarana 村付近で人民警察軍と交戦,反乱軍はリーダーを含む3人が死亡した。
DIA-211-1974-06-01-1ミャンマー1974年06月01日1970年代アキャブ郡 Ngwedwinthay 村の第20連隊に,共産軍地区副司令官 Aung Saw Tun に率いられる10名の兵士が投降した。
DIA-211-1974-06-01-2ミャンマー1974年06月01日1970年代タクシー料金値上げ-道路運輸公社は6月1日付で料金改訂を発表。これによると軽三輪タクシーの基本料金は現行60ピアを75ピアに,5分の1マイル毎の料金10ピアを15ピアにそれぞれ値上げした。 なおファミリア(マツダ)タクシーは基本料金1チャットを1.25チャット,5分の1マイル毎の料金20ピアを25ピアに値上げした。
DIA-211-1974-06-02-1ミャンマー1974年06月02日1970年代1974/75年度産米の予約買付が開始した。
DIA-211-1974-06-04-1ミャンマー1974年06月04日1970年代Waingmaw 郡 Washaung 村民2500名は反乱軍活動に対する抗議集会を開いた。
DIA-211-1974-06-05-1ミャンマー1974年06月05日1970年代ネ・ウィン大統領ニュージーランドヘ-ネ・ウィン大統領はオーストラリアから,次の訪問国ニュージーランドに到着。カーク首相らの出迎えを受けた。
DIA-211-1974-06-06-1ミャンマー1974年06月06日1970年代米価値上がりに端を発した国営企業労働者による暴動状態について政府が正式声明を発表(資料参照)。
DIA-211-1974-06-07-1ミャンマー1974年06月07日1970年代ラングーン市内平静-刑法144条が適用されて,ラングーン市内はほぼ平静に戻った。全ての路線バス,官庁も業務を再開した。
DIA-211-1974-06-07-2ミャンマー1974年06月07日1970年代6日の教育省の学校閉鎖令に従って,地方出身の学生は続々地方へ帰郷していった。この帰郷のために,運輸省は特別列車やバスを用意した。
DIA-211-1974-06-07-3ミャンマー1974年06月07日1970年代ネ・ウィン大統領はニュージーランドの公式訪問を終え,インドネシアに向かった。インドネシアでは,非公式訪問で,スハルト大統領と非公式会談を行なった(6月8日と9日,バリ島にて)。
DIA-211-1974-06-08-1ミャンマー1974年06月08日1970年代Martaban 駐屯第32連隊部隊はKya-in-Seikkyi 郡 Pankpyat 村近くで Mon 人民党の基地を攻撃,リーダー3名などを射殺した。
DIA-211-1974-06-12-1ミャンマー1974年06月12日1970年代ネ・ウィン大統領はインドネシア訪問(4日間)を終え,シンガポールに到着。空港ではリー・クァン・ユー首相の出迎えを受けた。
DIA-211-1974-06-13-1ミャンマー1974年06月13日1970年代ASEAN 加盟の意志なし-駐ジャカルタ・ビルマ大使 U Kyi Hanは,ネ・ウィン大統領のインドネシア訪問について記者会見に応じた。その際「ビルマはいまのところ ASEAN に加盟する考えはない。それは加盟国にいまでも外国軍が駐留しているからである」と述べた。
DIA-211-1974-06-15-1ミャンマー1974年06月15日1970年代ネ・ウィン帰国-ネ・ウィン大統領はオーストラリアなど5カ国の訪問を終えて,最後の訪問国シンガポールから特別機で帰国した。サン・ユ副大統領,セイン・ウィン首相らが出迎えた。
DIA-211-1974-06-16-1ミャンマー1974年06月16日1970年代ジュート耕作拡大-農業省は今期ジュート耕作面積は昨年実績をさらに上回って合計35万エーカーとなる見込みと発表。なお昨年は29万9047エーカーであった。生産は9万0920トンであった。
DIA-211-1974-06-19-1ミャンマー1974年06月19日1970年代IDA 2400万ドルの借款-世銀・IDAは森林開発計画に2400万ドルの借款をビルマ政府に与える用意があることを明らかにした。
DIA-211-1974-06-20-1ミャンマー1974年06月20日1970年代アキャブ南東の Phoyonga 島(別名 Myengu 島)を占領していた60名の反乱軍(共産党)と政府軍第20連隊(司令官 Win Swe 中佐)は6月9日以来攻防戦を展開していたが,20日政府軍が反乱軍を撃破した。
DIA-211-1974-06-21-1ミャンマー1974年06月21日1970年代ジュート買上価格引上げ-農業公社は6月24日からジュートの買上価格を引き上げると発表した。品質別旧価格と新価格はつぎのとおり,数量単位は viss 当り。
DIA-211-1974-06-21-2ミャンマー1974年06月21日1970年代元在ビルマ中国人の不法再入国と反政府活動-元在ビルマ中国人で正式手続により中国本土に引揚げたもののうち多数の者が中国・ビルマ国境より不法潜入し,国境付近の Mengmao(別名 Shweli )地区に集結しつつあり,若干の者は密輸活動を通じ国境越えに接触する一方,当国在住の若干の家族や親類縁者達が,現金や財産を自ら本国引揚者達へ送っていることやビルマ共産反乱軍と接触していること等が調査の結果判明した。 なお,不法再入国者は他にインドおよびバングラデシュ方面より出没している者で同報道にこれら不法再入国者たちにする密輸はビルマ社会主義活動を妨害し,将来社会問題を起しかねない。なお政府は国境地帯での取締り強化を指示した。
DIA-211-1974-06-22-1ミャンマー1974年06月22日1970年代6月暴動に共産党分子の活動-NIB(国家情報局)は先の6月暴動を煽動したとして,ビルマ共産党所属の工員2名を逮捕した。NIBではこの2人はビルマ共産党の党員で,6月のストライキを煽動することを党本部から指令され,工作を続けていたとしている。
DIA-211-1974-06-23-1ミャンマー1974年06月23日1970年代「プロレタリア革命戦線」の存在-マグウェ,イエナンジョン地区第1情報局支部と人民警察は騒動時に逮捕された者の取調べをしているが,このうち確実に共産党と連携する組織が労働者内部に存在することをつきとめた。これは「プロレタリア革命戦線」と称してストライキ期間中,同地区で「我々には国家評議会はいらない!我々には人民評議会はいらない! ストライキを断固支持する!」という内容のパンフレットを配ったりして,ストライキや騒動を煽動した。
DIA-211-1974-06-28-1ミャンマー1974年06月28日1970年代管理および社会問題委員会設立-閣僚評議会は各省,政府機関における管理システムや労働を含む社会問題を処理する委員会を閣内に設立。議長には内務・宗教相があたる。
DIA-211-1974-06-29-1ミャンマー1974年06月29日1970年代閣僚評議会経済委員会は,消費財および工業用機械部品,車輌部品などの輸入を円滑かつ早急に行なうための各省調整会議を行なった。
DIA-211-1974-06-30-1ミャンマー1974年06月30日1970年代地方開発に1280万チャット-地方開発の各州予算がこのほど発表された。総額は1280万チャットでうち849万チャットが地方開発基金(政府予算)から計上され,残り431万チャットは人民の奉仕,機械持ち込みなどであてられる。管区・州別開発額はつぎのとおり。(カッコ内はプロジェクト件数,単位・チャット) カチン州 816,600(18) カヤ州 256,900(6) カレン州 284,800(7) チン州 696,050(9) サガイン管区 1,859,400(38) テナセリム管区 315,000(10) ペグー管区 1,319,800(28) マグウェ管区 1,418,800(25) モン州 590,150(10) マンダレー管区 1,107,820(23) アラカン州 811,680(17) ラングーン管区 647,000(13) シャン州 1,358,700(29) イラワジ管区 1,328,100(26)
DIA-211-1974-07-01-1ミャンマー1974年07月01日1970年代第5回党中央委員会-社会主義計画党第5回中央委員会がステート・ハウスで開かれた。
DIA-211-1974-07-02-1ミャンマー1974年07月02日1970年代教育省は6月初めのラングーン騒動のため無期限閉鎖されている全教育機関の再開を8月1日と決定した。
DIA-211-1974-07-02-2ミャンマー1974年07月02日1970年代ネ・ウィン大統領は韓国親善使節団と会見。
DIA-211-1974-07-03-1ミャンマー1974年07月03日1970年代国外亡命者組織 Bo Moe Nyo 派 Bogyoke Thuein 師団配下の“軍曹”と“兵士”2名がMudon駐屯の第62連隊に投降した。
DIA-211-1974-07-03-2ミャンマー1974年07月03日1970年代ネ・ウィン大統領,労働者にアピール-第5回党中央委員会最終日,党議長ネ・ウィン大統領は演説を行ない,労働者に強く訴えた。要旨はつぎのとおり。 (1)国の経済は困難な状況にある。全国民がこの困難を打開するため,全努力を傾注することを望む。 (2)農民は米の生産増加に励み,収穫時期が多少遅れても,あらゆる土地に稲作を行うよう努力することを望む。 (3)労働者は,彼ら自身が持てる問題は討議によって解決を図らねばならない。工場や設備を止めるのはもっての他である。生産を低下させる余地はないのだ。労働者及び関係者は内包する問題を早期に解決することを望む。
DIA-211-1974-07-03-3ミャンマー1974年07月03日1970年代ストライキ労働者を釈放-閣僚評議会管理・社会問題委員会の決定により6月のストライキ騒動で逮捕されていた労働者のうち241名が釈放された。
DIA-211-1974-07-04-1ミャンマー1974年07月04日1970年代反乱軍基地破壊-南東軍管区所属の第2戦略師団(司令官 Min Naing 大佐)2個中隊はカレン州 Kyondo 郡内の2つの反乱軍基地を襲撃,反乱軍6名を射殺,基地を占領した。
DIA-211-1974-07-04-2ミャンマー1974年07月04日1970年代6月騒動の調査委員会設置-国家評議会は労働者による示威行動に始まった6月騒動の調査委員会を設置して詳細な調査を命じた。なお委員長には Shwebo 第2区選出の国会議員で入民検事委員会メンバーのU Aye Maung が任命された。
DIA-211-1974-07-05-1ミャンマー1974年07月05日1970年代工芸品の輸出振興-第17号交易公社は1972年以来ビルマ産手工芸品の輸出を行なってきたが,最近世界市場における関心が高まったことを機会に,ビルマ輸出入公社と調整しながらこの工芸品の輸出振興に力を入れることになった。
DIA-211-1974-07-05-2ミャンマー1974年07月05日1970年代対ポンドをフロート制に-ビルマ連邦銀行が1971年12月25日に決定した対ポンド交換レート(1ポンド=13.9372チャット)を1974年7月1日からフロート制にしたことを発表した。
DIA-211-1974-07-06-1ミャンマー1974年07月06日1970年代6月騒動で逮捕されていた労働者のうちさらに56人が釈放された。
DIA-211-1974-07-10-1ミャンマー1974年07月10日1970年代砂糖キビ価格値上げ-工業省管轄下の公社が買上げている砂糖キビ価格を,トン当り40チャットから60チャットに値上げ(7月15日から)することが決定した。
DIA-211-1974-07-10-2ミャンマー1974年07月10日1970年代新米価発表-貿易省は今年10月1日から政府によって買上げられる籾の価格を平均約40%値上げすることを決定し,つぎのような改訂価格を発表した。100バスケット(46ポンド)当りの価格である。
DIA-211-1974-07-10-3ミャンマー1974年07月10日1970年代Tharrawaddy 郡 Thitawgan 村区 Chigyikwin 村に Bo Moe Hein 率いるKNUP・BCP連合軍約300名が侵入,村内全戸を略奪して廻った。これは当村出身の3名(うち女性2名)の反乱軍兵士が投降したことによる腹いせであった。
DIA-211-1974-07-10-4ミャンマー1974年07月10日1970年代Pa-an 郡 Eindu の人民警察隊駐屯所が,約30名の KNDO 反乱軍の急襲を受け,8名の警官が連行された。この反乱軍はいずれも政府軍ユニホームを着用していた。
DIA-211-1974-07-11-1ミャンマー1974年07月11日1970年代モールメン=ムドン間道路を検問していた軍・警パトロール隊は金塊(時価10万チャット相当)を運んでいた婦人4名を逮捕した。
DIA-211-1974-07-11-2ミャンマー1974年07月11日1970年代世銀,森林開発に借款-世銀(IDA)はビルマ政府に対して,木材伐採の復興と改善事業のために総額2400万ドルの借款を与える旨,このほどビルマ政府と合意に達した。この借款は50年延払い,10年据置きで,1.34%のサービス・チャージなどを除いて無利子。
DIA-211-1974-07-12-1ミャンマー1974年07月12日1970年代ネ・ウィン大統領英国へ-ネ・ウィン大統領夫妻は英国で病気治療を受けるため出発した。
DIA-211-1974-07-15-1ミャンマー1974年07月15日1970年代党代表,北朝鮮へ-社会主義計画党中央委員会メンバー,タウン・ダン准将を団長とする6名の計画党代表団が北朝鮮に向け出発した。
DIA-211-1974-07-17-1ミャンマー1974年07月17日1970年代中央人事問題委員会設立-閣僚評議会内に人事政策全般にわたって政府に諮問する中央人事間題委員会(議長・内相)が設立された。なおこの委員会では月給1300チャット以上の官吏の任命・罷免・昇格などを審査・決定する。
DIA-211-1974-07-20-1ミャンマー1974年07月20日1970年代工業問題委員会設立-工業計画公社は,工業問題技術委員会を組織した。議長には工業計画公社工業計画局長が任命される。
DIA-211-1974-07-21-1ミャンマー1974年07月21日1970年代全国就学人口-全国の小学校から高校までの就学人口は1961/62年度から13年間に約2倍半増加し,190万人から440万人になった。
DIA-211-1974-07-21-2ミャンマー1974年07月21日1970年代関税局は,日本および香港からの船荷から大量の密輸品(計314万チャット)を押収したと発表。
DIA-211-1974-07-22-1ミャンマー1974年07月22日1970年代道路運輸公社の所属乗合バス700台が,現在未修理のまま野ざらしにされていることがこのほど解った。当局は対策を急ぐよう関係者に指示した。なおマツダ・ライトバン型のタクシーも計500台が未修理のまま放置されていると発表された。
DIA-211-1974-07-23-1ミャンマー1974年07月23日1970年代国営農地は2万エーカ-―各州・管区の労働者セツルメント局管轄の国営農場は,今年度合計2万2840エーカーに耕作された。 作物別では稲3400エーカー,メイズ1万3000エーカー,長繊維棉花3800エーカー,カシューナッツ300エーカー,トウモロコシ200エーカー,砂糖キビ40エーカー。
DIA-211-1974-07-24-1ミャンマー1974年07月24日1970年代夕方,ラングーン中央駅構内で,手投弾が投げ込まれ爆発,数人が負傷した。犯人は不明だが,ウ・ヌー派軍の仕業と伝えられている。
DIA-211-1974-07-24-2ミャンマー1974年07月24日1970年代第1回軍党委員会-軍内の計画党委員会が組織(タマドウ党委員会)され,その第1回大会が開かれ,委員長サン・ユー大将が基調演説を行ないタマドウ党委員会の役割と責務を述べた。なお同委員会メンバーは300名以上で,ほとんどが軍高官で構成されており,ネ・ウィン大統領やセイン・ウィン首相は含まれていない。
DIA-211-1974-07-25-1ミャンマー1974年07月25日1970年代エッソも石油開発で契約-Esso Exploration & Production Burma Inc. はビルマ石油公社との間でマルタバン湾油田鉱区M-1,M-10,M-11,M-12の開発権の契約を完了した。
DIA-211-1974-07-26-1ミャンマー1974年07月26日1970年代タバコ販売税引下げ-来年4月1日から12月31日までの間,紙巻タバコの販売税を現行15%から10%に引下げると発表。
DIA-211-1974-07-28-1ミャンマー1974年07月28日1970年代大学中央評議会設立-大学の運営などを協議するための大学中央評議会が設立され,議長に教育相,副議長に教育副大臣が任命された。
DIA-211-1974-07-31-1ミャンマー1974年07月31日1970年代アキャブ地区 Panktaw 郡内ではこれまで反乱軍の登校拒否と妨害のために,ほぼ閉鎖同様であった小・中学校のうち,陸軍の治安努力によって,最近45校が再開された。
DIA-211-1974-08-01-1ミャンマー1974年08月01日1970年代貿易省,米の買付で指示-貿易省は布告第9/74号を発令,政府による米の買付,精米,輸送に関する基準を発表した。 これによると第1号交易公社は1973/74年およびそれ以前の産米については買付を行なわないが,1974年11月1日からこれを行なうとしている。
DIA-211-1974-08-03-1ミャンマー1974年08月03日1970年代北朝鮮と航空協定-7月25日以来,ラングーンで行なわれていた北朝鮮との航空協定に関する会議が終了し,代理店開設と地上サービスに関する協定に調印した。
DIA-211-1974-08-05-1ミャンマー1974年08月05日1970年代学生釈放さる-3月25日の Kamayut 警察署放火事件で逮捕されていた学生(大学20人,高校3人,その他7人)30人が釈放された。
DIA-211-1974-08-06-1ミャンマー1974年08月06日1970年代新油田を発見-MOC(ビルマ石油公社)は Myaing 郡の Letpando 試掘井で新油田を突きとめた。深さ4757フィートで,日産1000バレルと見込まれている。これで石油産業が国有化されて以来5番目の新油田発見である。
DIA-211-1974-08-07-1ミャンマー1974年08月07日1970年代国家評議会,公式呼称について発表-国家評議会は布告を発令し,民政移管にともなう公式呼称についてつぎのように発表した。 (1)“革命評議会議長”は“大統領”に改称。 (2)“革命評議会議長”は“国家評議会議長”に改称。 (3)“政府”とは“閣僚評議会”のことをいう。 (4)“最高裁判所長官”は“人民判事評議会議長”に改称。 (5)“最高裁判事”は“人民判事評議会メンバー”に改称。 などである。
DIA-211-1974-08-08-1ミャンマー1974年08月08日1970年代ネ・ウィン大統領帰国-7月11日以来,英国で病気治療をしていたネ・ウィン大統領夫妻が帰国した。
DIA-211-1974-08-10-1ミャンマー1974年08月10日1970年代ラングーンの犯罪-ラングーン管区警察長官は記者会見で,1973/74年のラングーン管区内の犯罪事情について説明。 これによると同年内に発生した犯罪のうち75%はすでに解決済みで,昨年の50%を上まわった。なおスリは1079件であった。
DIA-211-1974-08-11-1ミャンマー1974年08月11日1970年代第1号交易公社は先に出された布告第5/74号に基づき,各地で早場米の買付を開始した。
DIA-211-1974-08-11-2ミャンマー1974年08月11日1970年代国外亡命者反乱グループ Hophai キャンプ(7月23日政府軍が破壊済み)所属の2名の秘密兵士がラングーンで逮捕され,携行していた自動小銃,機関銃などを押収された。
DIA-211-1974-08-12-1ミャンマー1974年08月12日1970年代貿易使節団(団長 U Chit Moung )はニューデリーでインド貿易省次官などと,両国間の貿易,経済協力について具体的な話合いを開始した。
DIA-211-1974-08-14-1ミャンマー1974年08月14日1970年代100年ぶりの大洪水-イラワジ河の水位は8月初旬より危険域を超え,各地で氾濫しており,増水位からみたらほぼ100年ぶりの洪水といわれ,被害も大きい。関係閣僚は,早急に救援活動を開始すべく協議している。
DIA-211-1974-08-15-1ミャンマー1974年08月15日1970年代ウ・ルウィン副首相は来訪中の自民党湊徹郎代議士と会見した。
DIA-211-1974-08-17-1ミャンマー1974年08月17日1970年代第6回党中央委員会-計画党第6回中央委員会が開かれ,U Tu Lin 第1書記から基調報告がネ・ウィン議長に提出された。
DIA-211-1974-08-17-2ミャンマー1974年08月17日1970年代インドを訪問中の貿易使節団はインド政府との間で貿易に関する支払い協定に調印した。 なお,インドからは綿繊維,薬品,電気機器,機械設備が輸入され,ビルマから鉱産品,カーバイドが輸出される。
DIA-211-1974-08-19-1ミャンマー1974年08月19日1970年代計画党特別総会予備会議-計画党特別総会予備会議が Kaba Aye の総会議場で開かれ,党総会運営委員会議長サン・ユー大将が,開会にあたっての報告を行なった。
DIA-211-1974-08-19-2ミャンマー1974年08月19日1970年代セイン・ウィン首相,Tin Oo 大将らは,ヘンザダ地区の洪水状況をヘリコプターで視察した。
DIA-211-1974-08-20-1ミャンマー1974年08月20日1970年代党特別総会開会-計画党特別総会が開かれ,ネ・ウィン計画党議長が開会演説を行ない,党の本務について述べた。またサン・ユー書記長が基調報告を行なった。なお総会には地区代表,軍,オブザーバーなど計1452名が参加。
DIA-211-1974-08-20-2ミャンマー1974年08月20日1970年代アキャブ近郊 Myobaung 郡の政府軍第20連隊に BCP 地区リーダー Bo Hla Phyn Than と4名の兵士が投降。
DIA-211-1974-08-21-1ミャンマー1974年08月21日1970年代北朝鮮外交使節団が来訪。
DIA-211-1974-08-23-1ミャンマー1974年08月23日1970年代党特別総会終了-計画党特別総会の最終日にネ・ウィン党議長が演説,「正しい思考と判断による一層の努力と労働」を強調,資本主義と社会主義の違いについても言及した。
DIA-211-1974-08-24-1ミャンマー1974年08月24日1970年代洪水被害中間報告-各州,管区人民評議会および警察,軍がまとめたこれまでの洪水被害はつぎのとおりである。 被害地域 68郡 被災戸数 27万戸 被災者数 140万人 被災面積 110万エ一カー 農地被災 75万エ一カー 被災家畜数 20万頭
DIA-211-1974-08-25-1ミャンマー1974年08月25日1970年代洪水対策救援本部長 Tint Swe 大佐(国防副大臣)は,現地視察のためプロームを訪れた。
DIA-211-1974-08-26-1ミャンマー1974年08月26日1970年代スハルト大統領来訪-スハルト・インドネシア大統領はネ・ウィン大統領の招請を受け,正式訪問のため特別機で到着,同日,ネ・ウィン大統領と第1回会談を行なった。
DIA-211-1974-08-27-1ミャンマー1974年08月27日1970年代スハルト大統領とネ・ウィン大統領は,特別機でパガンを訪問,パガンで第2回会談を行なった。
DIA-211-1974-08-27-2ミャンマー1974年08月27日1970年代洪水地域に再植用籾-第1号交易公社は各州・管区の当該マネージャーに対し,洪水被災地域の農民に対し,洪水で被害を受けた稲作の再植用の籾を緊急配給する手続を行なうよう指示した。
DIA-211-1974-08-29-1ミャンマー1974年08月29日1970年代ビルマ・インドネシア共同声明-スハルト・インドネシア大統領は4日間の公式訪問を終え帰国した。空港にはネ・ウィン大統領,サン・ユー副大統領らが見送った。なお帰国に先立ち,両国の共同声明を発表し,両国の親善と経済協力の一層の前進を強調した。
DIA-211-1974-08-29-2ミャンマー1974年08月29日1970年代党代表団ユーゴヘ-計画党中央執行委員タウン・ティン大佐を団長とする計画党代表視察団が,ユーゴ訪問に出発した。
DIA-211-1974-08-30-1ミャンマー1974年08月30日1970年代首相,洪水被災地を視察-セイン・ウィン首相および U Ye Goung 農林相,国防副大臣 Tint Swe 大佐はヘンザダ地区の洪水被災地を視察。
DIA-211-1974-09-01-1ミャンマー1974年09月01日1970年代労働省社会保障局は,社会保障計画に基づく労働者の福祉計画をさらに拡大し,今年度中に,社会保障計画の適用地域をさらに6郡追加することにした。現在社会保障計画は労働者の災害,疾病,失業,母子保障などをカバーしており,全国郡に適用され,36万人が対象となっている。
DIA-211-1974-09-01-2ミャンマー1974年09月01日1970年代ウ・ルウィン副首相はモールメン地区 Kyaikmaraw で,当地区の担当官と,当地区洪水被災地での復興について協議した。 また,洪水対策救援本部メンバーも当地区を視察中である。
DIA-211-1974-09-02-1ミャンマー1974年09月02日1970年代工業副大臣 Maung Cbo 大佐を団長とする工業視察団(3週間)が日本と北朝鮮に向け出発した。
DIA-211-1974-09-08-1ミャンマー1974年09月08日1970年代“大尉”に率いられた5人のミゾ反乱軍が7月17日に Paletwa 駐屯の第20連隊に投降していたことがこのほど明らかにされた。このミゾ反乱軍“大尉”は,現在アキャブの病院に入院中で,この投降はビルマ共産党中央委員 U Kyaw Mya に連れてこられたと述べたという。
DIA-211-1974-09-09-1ミャンマー1974年09月09日1970年代選挙委員会は第6回会議を開き,各レベル人民評議会選挙の補選を10月中に行なうことを決定した。
DIA-211-1974-09-10-1ミャンマー1974年09月10日1970年代海軍参謀長 Chit Hlaing 大佐は Maubin の洪水被災地を視察。
DIA-211-1974-09-10-2ミャンマー1974年09月10日1970年代インセインの Ywama 製鋼所(資本設備5000万チャット)の拡張計画が検討されている。この製鋼所は1957/58年時は年産3630トンであったが,1970/71年に2万8122トンに達し,さらにその後生産を伸ばしている。
DIA-211-1974-09-11-1ミャンマー1974年09月11日1970年代アジア開銀,漁業開発に融資-アジア開銀はこのほどビルマ政府に対し,漁業開発用として980万ドルの借款を与えることに決定した。
DIA-211-1974-09-13-1ミャンマー1974年09月13日1970年代基礎教育局は教育相を議長とする基礎教育評議会を設立したと発表。
DIA-211-1974-09-13-2ミャンマー1974年09月13日1970年代U Hla Phone 外相を団長とする国連総会代表(全員14名)が出発した。
DIA-211-1974-09-16-1ミャンマー1974年09月16日1970年代第2回国会開会-第2回人民議会(国会)が開会,432名の議員(出席率96.2%,全議席449)が登院,サン・ユー副大統領らの演説が行なわれ,討論が開始された。
DIA-211-1974-09-16-2ミャンマー1974年09月16日1970年代マンダレーで爆弾-マンダレーの繁華街 Zegyo 時計台付近で午前8時50分,手投弾が爆発,歩行者など11名が重軽傷を負った。なおこの手投弾はテロリストによって投げ込まれたものと警察は発表した。
DIA-211-1974-09-17-1ミャンマー1974年09月17日1970年代ラングーンにも爆弾-ラングーンの Hume 街の鉄道駅で朝,爆弾が投げ込まれ爆発,数名が重軽傷を負った。
DIA-211-1974-09-18-1ミャンマー1974年09月18日1970年代人民議会2日目は議会に提出された国家評議会,閣僚評議会,人民判事評議会などの基調報告について討論した。
DIA-211-1974-09-18-2ミャンマー1974年09月18日1970年代モン人民党中央委員会メンバーで,同反乱軍 Tha-meinbayan 連隊の司令官 Nai Kyaw Ohn(40歳)が46名の配下と Thanbyuzayat 駐屯政府軍第31連隊に投降した。
DIA-211-1974-09-21-1ミャンマー1974年09月21日1970年代KMT 情報局通信連隊の司令官級U Kyaw(45歳)とその配下がマンダレー市で逮捕された。
DIA-211-1974-09-23-1ミャンマー1974年09月23日1970年代サン・ユー大将,6月騒動について答弁-国家評議会書記長サン・ユー大将は人民議会で5・6月の労働者によるデモ・ストライキ騒動に関して,答弁を行なった。 このなかで,「騒動は消費者物価の値上がりか原因ではないか」との質問に対し,同大将は「物価高もひとつの要因であるが,基本的には,労働省内部に潜入していた左翼破壊主義者の煽動に依るものである」と述べた。
DIA-211-1974-09-23-2ミャンマー1974年09月23日1970年代貿易省は,9月23日付で,食品工業公社および農業公社が農業から買上げるヴァージニァ葉タバコの生産者価格を1 viss当り,現行45ピアから70ピアに引上げると発表。
DIA-211-1974-09-25-1ミャンマー1974年09月25日1970年代イタリアと航空協定-ビルマ政府とイタリア政府との間で航空協定の話し合いがラングーンで行なわれていたが,このほど合意に達っし,調印した。
DIA-211-1974-09-25-2ミャンマー1974年09月25日1970年代U Lwin 副首相を団長とする代表団が,IMF総会と世銀総会に出席のためワシントンに向け出発した。
DIA-211-1974-09-25-3ミャンマー1974年09月25日1970年代政府軍第17軽騎兵連隊は Mergui 郡一帯で,反乱軍掃討作戦を開始した。これは旧ウー・ヌ派に対して行なわれるもので,9月24日当郡内で3名を逮捕した。
DIA-211-1974-09-27-1ミャンマー1974年09月27日1970年代マンダレー爆発事件の犯人逮捕-9月16日,マンダレー市街で手投弾を爆発させた犯人を捜索していた北西軍管区第1情報部と警察は僧侶2名を含む9人を逮捕して,取調べを開始した。
DIA-211-1974-09-27-2ミャンマー1974年09月27日1970年代Tacbilek 郡 Salingauk 村の人民評議会議長宅が約200名の反乱軍部隊に襲われ,3名が死傷,10万チャット相当の金品が略奪された。
DIA-211-1974-09-28-1ミャンマー1974年09月28日1970年代豆類の生産者価格値上-貿易省は第1号交易公社が農民から買上げる豆類の価格をつぎのように引上げると発表。
DIA-211-1974-10-01-1ミャンマー1974年10月01日1970年代新駐中国大使任命-ネ・ウィン大統領は新駐中国大使に前カナダ大使 Thakin Chan Tun を任命した。
DIA-211-1974-10-02-1ミャンマー1974年10月02日1970年代8名の囚人を連行して Thaubyuzayat からモールメンに向かう途中の護送者がモン反乱軍の襲撃を受け,警官2名が殺され,2名が負傷した。なお囚人は逃走しかけたが,すぐに逮捕された。
DIA-211-1974-10-03-1ミャンマー1974年10月03日1970年代ネ・ウィン大統領ユーゴへ-ネ・ウィン大統領夫妻はチトー大統領の招きを受けて,ユーゴへ公式訪問するため出発。なお,U Hla Phone 外相が同行。
DIA-211-1974-10-03-2ミャンマー1974年10月03日1970年代モールメン=kyodoフェリー上で税関吏が乗客から金の延棒合計17万チャット相当を押収した。
DIA-211-1974-10-03-3ミャンマー1974年10月03日1970年代第16回インド・ビルマ国境会談がラングーンで開始され,ビルマ側は代表として陸軍副参謀長 Kyaw Htin 准将が出席した。
DIA-211-1974-10-04-1ミャンマー1974年10月04日1970年代Minhla 郡内に潜んでいた共産党 Thet Tun 派の活動員1名(3年前入党)が郡警察に自首した。
DIA-211-1974-10-04-2ミャンマー1974年10月04日1970年代ネ・ウィン大統領はユーゴへの途中ローマに立寄り,レオーネ大統領と会見した。
DIA-211-1974-10-04-3ミャンマー1974年10月04日1970年代貿易相 U San Win を代表とする貿易使節団が日本,中国,韓国へ向け出発した。
DIA-211-1974-10-07-1ミャンマー1974年10月07日1970年代Nyaunglebin 地区の元共産党占領地区の村落で,政府軍第30連隊によって民兵隊創設のための軍事訓練が開始された。
DIA-211-1974-10-07-2ミャンマー1974年10月07日1970年代ネ・ウィン大統領一行はユーゴに到着。
DIA-211-1974-10-08-1ミャンマー1974年10月08日1970年代ユーゴを訪問中のネ・ウィン大統領は,チトー大統領と正式会談。席上,チトー大統領は,ビルマ政府の追求する社会主義と非同盟外交を高く評価するとともに,両国の友好促進と協力を強調した。
DIA-211-1974-10-08-2ミャンマー1974年10月08日1970年代U Lwin 国連で演説-国連総会で U Lwin 副首相は一般演説を行ない,国際情勢,海洋法などに言及,ポルトガルの非植民地主義を歓迎した。
DIA-211-1974-10-09-1ミャンマー1974年10月09日1970年代新聞・刊行物公社総裁 U On Pe を団長とする情報使節団が日本訪問のため出発。
DIA-211-1974-10-10-1ミャンマー1974年10月10日1970年代第1号交易公社の購入・販売第1部は,人民議会の勧告に従って,各地区支部に対し,農民の保有・余剰米の動きを厳しくチェックするよう指示した。
DIA-211-1974-10-10-2ミャンマー1974年10月10日1970年代7月29日ラングーン市街で警察のパイロールカーに手投弾を投げ爆破した事件を捜査していた当局は,カレン反乱軍の指示を受けていたウー・ヌ派軍工作員2名をラングーン市内で逮捕,手投弾2発などを押収した。
DIA-211-1974-10-10-3ミャンマー1974年10月10日1970年代Shweggyin 地区 Chaidawya 村で村民が反乱軍に対する抗議集会を開き,デモを行なった。なお集会には政府軍第57連隊付の Hla Pe 少佐らも出席した。
DIA-211-1974-10-11-1ミャンマー1974年10月11日1970年代第36回広州交易会への代表団(団長,輸出入公社総裁 U Win Pe)が出発。
DIA-211-1974-10-11-2ミャンマー1974年10月11日1970年代ビルマ・ユーゴ共同声明-ネ・ウィン大統領とチトー大統領は共同声明を発表。この中で全てにわたる意見交換が一致されたと述べられた。なお,ネ・ウィン大統領は5日間の公式訪問を終え,帰国の途についた。
DIA-211-1974-10-14-1ミャンマー1974年10月14日1970年代8月~9月の洪水によって被害を受けた稲作地計90万4000エーカーのうちすでに73万エーカーが再植を終えた。
DIA-211-1974-10-14-2ミャンマー1974年10月14日1970年代計画党代表団ソ連,東独ヘ-計画党代表団(団長U Thaung Kyi 統合書記長,団員13名)が,ソ連,東独の視察と交換のため出発した。
DIA-211-1974-10-15-1ミャンマー1974年10月15日1970年代保健相 Kyi Maung 大佐,教育相Dr.Khin Maung Win,文化相 U Aye Maung 一行はアラカン州 Kyaukpyu を視察,当地で関係官と会談。席上教育相は「アラカン州に魚の養殖訓練センターを設立する予定である」ことを明らかにした。
DIA-211-1974-10-15-2ミャンマー1974年10月15日1970年代外人旅行者減少-移民局が発表したところによると8月までの8ヵ月間の外国人旅行者数は昨年より下回って11,378人であったと発表した。なお1972年は11,461人,1973年は18,878人であった。
DIA-211-1974-10-16-1ミャンマー1974年10月16日1970年代精米業者は協力体制で-ペグー郡経済委員会議長 U Hla Myint は郡人民評議会で,政府の米買上げ計画には個人の利益は許されない,精米業者はそういう立場で政府との協力体制を強化せよと指示した。
DIA-211-1974-10-16-2ミャンマー1974年10月16日1970年代Mergui 西郡補選管理委員を警備していた政府軍陸・海警護隊が Thaichaunggyi 村で約30名の反乱軍に襲撃され,約1時間の交戦の後,反乱軍を撃退した。この戦闘で4名の村民が死亡,政府軍2名,反乱軍3名が負傷した。
DIA-211-1974-10-17-1ミャンマー1974年10月17日1970年代闇市の繁栄-最近ラングーン市内の露天市場に,大量の密輸品,闇物資が出廻っており,これまであまりみられなかった“高級ブランデー”や“インスタント・コーヒー”など品数も豊富であり,警察の手入れがあっても,すぐに出廻るという状況である(WPD.レポート)。
DIA-211-1974-10-18-1ミャンマー1974年10月18日1970年代人民評議会補選-ラングーン管区の郡・町人民評議会議員の補欠選挙が開始した。10月末日までに全選挙区での結果が判明する予定。
DIA-211-1974-10-21-1ミャンマー1974年10月21日1970年代ペグー山系の反乱軍-中央軍管区およびペグー山系特別作戦師団司令官 Than Tin 大佐はペグー山系域の各種反乱軍情勢についてつぎのように説明した。これは Pyu 郡 Nyaungkaya 村で行なわれた4000人の農民(38部落)で結成された民兵隊の創設式で成されたものである。 (1)1974年6月1日から開始したペグー山系特別作戦で,これまでに共産軍53名を射殺ないしは逮捕した。 (2)BCP Aung Naing 派の副司令官 Tin Tun と“委員”Than Auns は政府軍に投降した。 (3)この期間で KNUP 所属兵士32名が投降した。
DIA-211-1974-10-22-1ミャンマー1974年10月22日1970年代1970年の協同組合計画に基づき中央協同粗合とそれを管理する3つの委員会(中央組織委員会,経営委員会,会合委員会)が12月に設立される運びとなった。
DIA-211-1974-10-23-1ミャンマー1974年10月23日1970年代モン州では今期籾の買付所を合計24カ所に設置して買付を始めたが,第1号交易公社の見積りでは,今期,当州内での買付量は240万バスケット(5万5200トン)としている。
DIA-211-1974-10-24-1ミャンマー1974年10月24日1970年代農民は二期作を推進せよ-Thingangyun 郡を訪れたウ・セィン・ウィン首相は当郡内400名の農民を前に,食糧不足を解消するために農民は米の二期作を実現するよう努力せよと訓辞した。なおこのなかで首相は今年の洪水は,被害規模からして,60年ぶりのもので,来年の米作に多大な影響が出ると述べ,さらに30万エーカーの作付を行なう必要があると述べた。
DIA-211-1974-10-26-1ミャンマー1974年10月26日1970年代ラングーンの米の需給好転-ラングーン管区人民評議会の第2回会合が開かれているが,席上.評議会中央委員 U San Khaing はラングーンの米の需給にっいて,「ラングーン市内では1ヵ月間に2万2607トンの配給米が必要であるが,10月実積では1万2500トンしか配給されていない。これまでほぼ1万トン近く不足していたが,11月から1万5000トン増加して配給不足を補う予定である」と述べた。
DIA-211-1974-10-27-1ミャンマー1974年10月27日1970年代元共産党員逮捕さる-1968年2月に BCP に参加,同年10月に投降していたDr.Nyan Chit が,ラングーンの自宅で第1国防情報隊によって逮捕された。
DIA-211-1974-10-27-2ミャンマー1974年10月27日1970年代各レベル人民議会のメンバーが公務中に反乱軍あるいはその他の理由で殉職した場合の遺族補償はつぎのとおり。 人民議会メンバー 1万チャット 管区・州評議会〃 7000 〃 郡評議会〃 5000 〃 町・村区評議会〃 3000 〃
DIA-211-1974-10-27-3ミャンマー1974年10月27日1970年代鉱産品輸出急増-当局が発表したところによると,今年内の鉱産品輸出額は1億4000万チャットに達する見込みで,これは昨年実績の5000万チャットの約3倍にあたる。
DIA-211-1974-10-28-1ミャンマー1974年10月28日1970年代モン州の工業生産ガタ落ち-モン州内の工場における生産は今年に入って急減していると報告された。Bilin 精糖工場では昨年実績18,800トンに対し今年は9月末までにわづか6000トンにしか達していない。このようにその他のセラミック工場,食用油工場,ロープ製造工場などでも昨年実績の半分以下ないしは3分の2程度にしか達していない。理由については明らかにされていない。
DIA-211-1974-10-28-2ミャンマー1974年10月28日1970年代ウ・セイン・ウィン首相は Waw 郡を視察,洪水後の農業生産状況などを聴取,二期作の必要性を関係者に指示した。
DIA-211-1974-11-04-1ミャンマー1974年11月04日1970年代参謀総長地方視察-国軍参謀総長 Tin Oo 大将は国防省作戦本部長 Tun Tin 大佐,参謀本部付 Khin Maung Soe 中佐らとともに,2日から4日まで北東および東部軍管区地域を視察,各地で前線部隊を巡回し,軍事情況などを協議してきた。
DIA-211-1974-11-06-1ミャンマー1974年11月06日1970年代田中首相はネ・ウィン大統領の招待を受けて公式訪問,午後5時40分,特別機でミンガラドン空港に到着,空港にはウ・セイン・ウィン首相,ウ・ルウィン副首相,U Hla Phone外相らが出迎えた。 田中首相は,夜ネ・ウィン大統領と第1回の会談,これには,ウ・セイン・ウィン首相,サン・ユー副大統領らも同席した。
DIA-211-1974-11-06-2ミャンマー1974年11月06日1970年代副首相経済状況を説明-ウ・ルウィン副首相兼計画・財務相は閣内経済委員会で,国内経済状況について要旨つぎのように説明した。 (1)1971-72年に国民総生産を年5.2%と想定したが,現実には2.4%しか達成されなかった。かくしてGNPでは8%の想定に対しわづか1.1%(1972-73年)でしかなかった。1973-74年は目標7.8%に対し4.1%にとどまった。かくして第1次4カ年計画は目標を達成できなかった。 (2)第2次計画ではGNP年率4.5%としているが,これは達成可能であり,かつギリギリの必要ラインである。人口増加率は2.2%と想定した。 (3)国民経済は1961-62年から1964-65年まで多少改善されていたが,1965-66年から1966-67年まで停滞し,その後漸次回復してきた。しかし1971-72年から1973-74年までまた停滞傾向に陥った。 (4)これらの停滞の原因は①資本主義経済から社会主義経済への移行期における過渡的現象,②農業部門における生産の不安定性,③行政機構が社会主義デモクラシーを導入して後まだ平常化していないこと,④エネルギー危機,原料不足から生じた世界的インフレによる影響などである。 (5)かくして今年度は GNP の成長率を6.3%と設定したが,6月の労働者争議,8月の大
DIA-211-1974-11-07-1ミャンマー1974年11月07日1970年代日本65億円の借款供与-田中首相は午前10時,ウ・セイン・ウィン首相と約1時間半にわたって正式会談,会談の議題は両国の経済協力問題が大部分で,特に日本側から第3次商品援助として総額65億円(年利2.75%,30年償還)の円借款供与を申し入れ,ビルマ側もこれを快諾した。 なおこの他,今後の協力案件として,①マン精油所,②パルプ工場建設,などの追加借款供与の用意があることを明らかにした。 さらにモニワ銅山開発,海底油田探査についても日本側は協力を惜しまない旨申し入れた。なお,この席で遺骨収集について協力を申し入れたがビルマ側はこれも快諾した。 セイン・ウィン首相はビルマの米作増進のため肥料,灌漑・排水設備などについて日本の協力を要請した。
DIA-211-1974-11-08-1ミャンマー1974年11月08日1970年代田中首相は午後2時30分ミンガラドン空港を出発,帰国した。なお首相は帰国に先立ち,ネ・ウィン大統領と2度目の正式会談を行なった。 また,帰国前にビルマ・日本共同声明が発表され,両国の親善と協力が強調された。
DIA-211-1974-11-08-2ミャンマー1974年11月08日1970年代サン・ユー副大統領は自身の選挙区(ラングーン市 Banhan 区)民代表2000人を招き,第1回人民議会の報告会を行なった。
DIA-211-1974-11-09-1ミャンマー1974年11月09日1970年代Ban-Yong-Song を団長とする韓国経済使節団が来訪。貿易など経済協力について会談。
DIA-211-1974-11-11-1ミャンマー1974年11月11日1970年代サン・ユー副大統領はネ・ウィン大統領を代表して,大統領の選挙区民1000人に人民議会報告を行なった。
DIA-211-1974-11-11-2ミャンマー1974年11月11日1970年代闇物資大量摘発-ラングーン管区人民評議会,貿易省関係者を中心に300人の有志による闇物資摘発隊はラングーン=モールメン鉄道で,177名の乗客から,カセットテープレコーダーなど合計200万チヤット相当の密輸物資を押収した。
DIA-211-1974-11-11-3ミャンマー1974年11月11日1970年代経済計画にインセンティブ制度-ウ・ルウィン計画・財務相は閣内経済委員会で,「経済計画(プロジェクト・ベース)実施の際,インセンティブ制度を導入して,①商業ベースで行なう場合,②担当官吏に償与を与える場合と2通りに分けて実施する」と述べた。
DIA-211-1974-11-12-1ミャンマー1974年11月12日1970年代国軍参謀総長 Tin Oo 大将は中央軍管区司令官 Than Tin 大佐,第77旅団司令官 Yan Naung Soe 大佐らとともに,ペグー山系中で展開されている反乱軍掃討“Anng Soe Moe 作戦”の前線部隊を視察,将兵に演説した。
DIA-211-1974-11-14-1ミャンマー1974年11月14日1970年代総理官房が声明-総理官房室は洪水後の米作について要旨つぎのような声明を発表した。 (1)全ての農民大衆は1974-75年産米の必要量を確保するため全可耕地に生産するよう励め。 (2)今年の洪水で全土で100万エーカーの米作地が被害を受けた。そのうちまだ80万エーカーしか再植されていない。このため,二期作として少くとも30万エ一カーに作付されねばならない。 (3)全ての役畜,農機具,人力,技術,資材を投入して食料の必要量を確保しなければならない。 意欲と土地と水があれば米は生産できる。畜力やスキがなかったら,竹や棒でも米を作ることができる。小さな土地に大きな生産をあげるよう努力せよ。
DIA-211-1974-11-14-2ミャンマー1974年11月14日1970年代学生,新聞社に投石,警官と衝突-学生約400人がラングーン市内の“Hanthawaddy”新聞社に押しかけ投石を始めた。このため10分後に警官隊が催涙弾で応酬これを排除した。 しかし,その後11人の学生代表か再度新聞社に押しかけ,新聞社代表に要求を拒否されたため,近くの商店で火をつけたりして暴れた。警察当局は直ちに捜査を開始した。 この学生達は,11月10日マンダレー丘上で起ったマンダレー大学生による騒動(事件の詳報なし)について11月12日付の“Hanthawaddy”が,写真を掲載し,タイトルに「マンダレー丘上での学生暴動」と書いたことに抗議したもので,このタイトルを訂正せよと要求していた。
DIA-211-1974-11-16-1ミャンマー1974年11月16日1970年代東独を訪れている計画党代表団(団長・党統合書記長 U Thaung Kyi)は東独社会主義統一党中央委員会書記長と会談,両党の友好,協力を強調した共同コミュニケを発表した。
DIA-211-1974-11-17-1ミャンマー1974年11月17日1970年代貿易相 U San Win はペグーを訪れ,米の政府買付状況を視察した。
DIA-211-1974-11-17-2ミャンマー1974年11月17日1970年代労働省は全国49市町区で職業交換所を設置した。これはラングーン市内11カ所,マンダレー市内2カ所であと主要都市に11カ所ずつ設けたもの。
DIA-211-1974-11-18-1ミャンマー1974年11月18日1970年代セイン・ウィン首相は教育相Dr.Khin Maung Win とともにテナセリム地区を視察,米の二期作普及などについて地区担当官と会談した。
DIA-211-1974-11-18-2ミャンマー1974年11月18日1970年代ラングーン管区では洪水被災米作地20万エーカーのうち約75%にあたる186,060エーカーで再植が完了していることが,ラングーン管区洪水対策委員会で発表された。
DIA-211-1974-11-18-3ミャンマー1974年11月18日1970年代モールメン郡協同組合は,米の二期作を行なう農民に限って,計30台のポンプを賃貸すると発表した。
DIA-211-1974-11-19-1ミャンマー1974年11月19日1970年代6月の労働者デモに関する裁判が行なわれ,このうち Sinmalaik 造船所労働者に対する審理の中で労働者側弁護士は「労働者のスローガンを見る限り反社会主義経済の言動はなかった」と述べた。
DIA-211-1974-11-20-1ミャンマー1974年11月20日1970年代1965年以降,非ビルマ人所有ないしは占有していたアパートのうち政府は空室1263室を接収して,ビルマ人が入居しているが,この管理がバラバラであったため現在当局が検討をしている。
DIA-211-1974-11-21-1ミャンマー1974年11月21日1970年代ウ・ルウィン副首相,セイン・ルウィン協同組合相などが,それぞれ自己の選挙区で選挙民に国会報告を行なった。
DIA-211-1974-11-21-2ミャンマー1974年11月21日1970年代自動車保有台数-道路運輸局は全国の登録自動車台数は8万4695台と発表,このうち約半数の4万3663台がラングーン市内であり,全国のオーナードライバーは6087人であることを明らかにした。
DIA-211-1974-11-21-3ミャンマー1974年11月21日1970年代鉱業相Dr.Nyi Nyi はアキヤブでアラカン州人民評議会メンバーと,同州の海底油田開発に関して意見を交換した。
DIA-211-1974-11-23-1ミャンマー1974年11月23日1970年代労働者の生活不安-Lanmadaw 郡労働者評議会の会合で経済危機による生活費の上昇は労働者の生活不安を一層深刻にしており,賃金上昇がないままでは社会不安を起しかねないなどと訴えられた。
DIA-211-1974-11-24-1ミャンマー1974年11月24日1970年代協同組合の現状-中央協同組合準備委員会は9月末までの全国の協同組合の組織状況をつぎのように発表した。 基本協同組合(村落) 16,808 郡協同組合 277 郡協同組合シンジケート 118 計 17,212
DIA-211-1974-11-25-1ミャンマー1974年11月25日1970年代酒類底をつく-第4号交易公社が扱う酒類(ビルマ製ラム,ブランデー,ビール)が生産の激減とともにこの2ヵ月間ほとんど市中に出回らなくなり,闇価格が2~3倍に上昇した。なお現在の生産量はほぼ通常の半分程度である。
DIA-211-1974-11-25-2ミャンマー1974年11月25日1970年代前国連事務総長ウ・タントがニューヨークでがんのため死亡,享年65歳。
DIA-211-1974-11-26-1ミャンマー1974年11月26日1970年代国家評議会は「与党保護法」「補選法」など9つの法律を布告した。
DIA-211-1974-11-26-2ミャンマー1974年11月26日1970年代ハンガリー首相来訪-ネ・ウィン大統領の招待によりハンガリーのフォック首相が公式訪問,ネ・ウィン大統領と会談した。
DIA-211-1974-11-27-1ミャンマー1974年11月27日1970年代トングー地区で2名の共産党反乱軍が投降,1名が逮捕された。
DIA-211-1974-11-29-1ミャンマー1974年11月29日1970年代ネ・ウィン大統領はハンガリー首相と第2回目の正式会談を行ない両国の友好と協力を増進することで一致した。なおハンガリー首相一行は公式訪問を終え帰国した。
DIA-211-1974-12-01-1ミャンマー1974年12月01日1970年代ウ・タントの遺体が到着-前国連事務総長の遺体(11月25日ニューヨークで死去)がビルマ航空特別機でバンコクからラングーンに到着した。空港には真娘など親族が出迎えただけで政府要人は出席しなかった。 なお遺体はUNDPの車で Kyaikkasan 広場にひとまず安置された。学生達は政府がこの遺体処置に何もしなかったということでかなり不満を示している。なおバンコクまでは国連の特別機で運ばれたが,政府はこの特別機のラングーン入りを拒否,政府自ら特別機を差し向けたものである。
DIA-211-1974-12-02-1ミャンマー1974年12月02日1970年代ラングーン市開発委員会(RCDC)がこのほど交通事故についてまとめたところによると事故原因の93%が無謀運転に依るものであると発表した。
DIA-211-1974-12-03-1ミャンマー1974年12月03日1970年代犯罪一掃作戦-ラングーン市内の犯罪を一掃するための特別行動計画として“レオパード”作戦が11月18日から開始されているがこのほど中間報告が発表された。このなかで各種犯罪の犯人のうち16歳以下が20を占めていることが判明した。
DIA-211-1974-12-05-1ミャンマー1974年12月05日1970年代第8回計画党中央委員会が開かれ,ネ・ウィン議長が演説,また党綱領の改正などが討議された。
DIA-211-1974-12-05-2ミャンマー1974年12月05日1970年代ウ・タントの遣体奪わる-午後3時からウ・タントの埋葬式が行なわれ,Kyaikkasan 広場から Kyandaw 墓地まで遺体を運ぶ途中,5万人の参列者の目前で,学生,青年僧侶などによって遺体が奪われ,ラングーン大学構内大会堂に持ち込まれた。これは学生達が,ウ・タントに対する政府の処遇を不満として,国葬並みの扱いにせよと要求して行動したもの。なお大学構内は夜に入っても数千人の群衆に占拠され,治安当局は付近一帯を厳重警戒しているが,イザコザはない。 これに対し,政府教育省は全国の全教育機関を12月6日から無期限に閉鎖すると発表した。
DIA-211-1974-12-05-3ミャンマー1974年12月05日1970年代南西軍管区司令官 Myo Aung 大佐はイラワジ管区一帯の視察旅行に出発した。
DIA-211-1974-12-06-1ミャンマー1974年12月06日1970年代ラングーン管区 Tamwe 郡内の治安が悪化していることに対し,人民監査委員会は Tamwe 警察に厳重な取締りをするよう指示した。当郡内だけでも今年始めから9月18日まですでに965件の犯罪が発生しているが,郡内41警察派出所にわづか50名の警官しかおらず,取締り当局の整備も急がれている。郡の人口は約10万人。
DIA-211-1974-12-06-2ミャンマー1974年12月06日1970年代政府,ウ・タントに墓地提供-ラングーン市開発委員会(RCDC)はウ・タントの埋葬場所として Thakin Kodaw Hmaing 記念碑近くの土地を提供することに決め,親族,および大学構内にたてこもる学生,僧侶に伝えた。
DIA-211-1974-12-09-1ミャンマー1974年12月09日1970年代第8回党中央委員会が開かれ1971年から74年までの党の収支報告が行なわれ,これを承認した。
DIA-211-1974-12-09-2ミャンマー1974年12月09日1970年代ウ・タントの葬式またも妨害さる-政府が埋葬場所を提供して,葬式のやり直しを行なおうとしたが(8日),学生達によってまたも妨害された。このことについてラングーン管区人民評議会は声明を発表して事件の経過を説明,市民に冷静を保つよう要請した。 なお,8日,9日と学生達が,政府による埋葬(実質的には親族)を拒否して,構内を中心に暴れまわったため,大学,教育省当局は警察に対し,治安出動を要請した。
DIA-211-1974-12-10-1ミャンマー1974年12月10日1970年代ウ・タントの親族が政府に訴状-ウ・タントの弟,娘などの親族が「ウ・タントの遺体が親族の希望を無視して特定の政治分子によって大学構内の前学生連合跡地に埋められようとしている」との訴状を大統領宛に送った。このコピーは直ちに党書記長サン・ユー大将,セイン・ウィン首相,ウ・コ・コ内相らにも送られた。 この訴状のなかで,「政府の力で遺体を守って欲しい」とも書かれてあった。
DIA-211-1974-12-11-1ミャンマー1974年12月11日1970年代ラングーン管区全域に戒厳令-国家評議会議長ネ・ウィンはラングーン管区全域に布告第4号を発令,戒厳令を施くとともに全域を軍の直轄管理に置くと発表。また刑法144条を適用するとともに午後6時から午前6時までの外出禁止令を出した。なおラングーン市内はラングーン管区司令官 Khin Ohn 大佐が指揮する。
DIA-211-1974-12-11-2ミャンマー1974年12月11日1970年代市内の官庁舎が破壌さる-治安当局の発表によると10日から11日未明にかけて,ラングーン市内各所で暴動状態が発生,警察署,鉄道駅などが破壊され,鉄道車輌,自動車など多数が放火された。しかし,軍の出動,戒厳令発動とともに平静に向っている。
DIA-211-1974-12-11-3ミャンマー1974年12月11日1970年代ウ・タント埋葬さる-朝6時半,軍隊に警護されてウ・タントの遺体が親族の希望どおり,ラングーン市が用意したカントンメント・ガーデン内(シウェーダゴン・パゴダ境内)に埋葬された。 なお,11日未明,軍隊は大学構内に強行突入して遺体を運び出したため,構内中心に学生達と衝突,数十人が死亡したと伝えられる。
DIA-211-1974-12-12-1ミャンマー1974年12月12日1970年代市内平静-戒厳令下2日目のラングーン市内は各所で軍隊による厳しい監視下におかれ,平静を回復,鉄道,路線バスも復旧した。 なお市場では生鮮食料品価格が3日前に比べ2倍ほどにはねあがり,米は Viss 当り72チャットから90チャットに値上がりしている。
DIA-211-1974-12-13-1ミャンマー1974年12月13日1970年代閣内経済委員会の定例会議が開かれ,ウ・ルウィン計画・財務相は1975-76年度の経済目標について説明した。
DIA-211-1974-12-15-1ミャンマー1974年12月15日1970年代水力発電は2倍-電力公社の発表によるとローピタ水力発電プラントの拡張工事が完成したため,発電量は昨年より倍増し,8万4000キロワットから16万8000キロワットに達した。
DIA-211-1974-12-15-2ミャンマー1974年12月15日1970年代騒動指導者の大量逮捕-治安当局は,戒厳令直前のラングーン騒動に関係したとして公共物保護法を適用して逮捕を続けているがこれまでに逮捕者は数百名に達した。
DIA-211-1974-12-16-1ミャンマー1974年12月16日1970年代ラングーン市交通局の発表によると1973年1年間の市内の交通事故は計3000件で負傷者2000名,死者は188名であった。
DIA-211-1974-12-17-1ミャンマー1974年12月17日1970年代外出禁止時間短縮-ラングーン管区軍事施政官 Khin Ohn 大佐は17日付で市内の外出禁止時間を3時間短縮して午後7時から午前4時までとすると発表。
DIA-211-1974-12-18-1ミャンマー1974年12月18日1970年代マンダレーでもデモ-マンダレー市内で僧侶を中心にデモが13日から5日間も続いたことがこのほど明らかにされた。詳細は不明。
DIA-211-1974-12-18-2ミャンマー1974年12月18日1970年代米の生産順調-農林省土地登録局は今年産米の中間報告を発表,稲作可耕地1260万2230エーカーのうち1215万4375エ一カーの作付に成功し,4億888万4678バスケットの生産が見込まれる。 なお州・管区別の作付面積と予想収量はつぎのとおり。
DIA-211-1974-12-19-1ミャンマー1974年12月19日1970年代ビルマ全国には計10万人の盲人がおり,これは280人に1人が盲人である。
DIA-211-1974-12-20-1ミャンマー1974年12月20日1970年代Nyi Nyi 鉱業相は Letpando の新油田試掘井を視察した。
DIA-211-1974-12-21-1ミャンマー1974年12月21日1970年代モールメン近郊 Kyondoe 付近を航行中のフェリーボートが,反乱軍に銃撃され,乗っていた警官5名が射殺され,乗客38名が負傷した。
DIA-211-1974-12-22-1ミャンマー1974年12月22日1970年代ラングーン市軍事施政官 Khin Ohn 大佐は,外出禁止令をさらに短縮,午後10時から午前4時までとした。
DIA-211-1974-12-23-1ミャンマー1974年12月23日1970年代現エジプト駐在大使 U Zahre Lian がネパール大使に任命,また後はエジプト大使に現パキスタン大使 U Tha Tun を任命した。
DIA-211-1974-12-23-2ミャンマー1974年12月23日1970年代暴動に関係したとして逮捕されていたもののうち250名が事情聴取の後釈放された。
DIA-211-1974-12-24-1ミャンマー1974年12月24日1970年代保健省は1974年3月末までに全国で970のヘルス・センターを設置しているが,このほどさらに43のセンターを設立することを発表した。
DIA-211-1974-12-27-1ミャンマー1974年12月27日1970年代暴動に関係したとして逮捕されていたもののうち255名が釈放されたが,全員丸坊頭にされた。
DIA-211-1974-12-28-1ミャンマー1974年12月28日1970年代Khami族が反乱軍から避難-Buthidaung郡Saindin 港東方30マイル付近の部落に住む175人の Khami 族が共産党およびミゾ族反乱軍に家を焼かれてButhidaung に避難してきた。現在同市の小学校に収容されている。
DIA-211-1974-12-30-1ミャンマー1974年12月30日1970年代中央協同組合設立さる-全国の各レベル協同組合の中央機関として中央協同組合が設立され,ラングーンのカバアイ・ヒルで結成大会が開かれた。この組合は協同組合活動をさらに推進し,効果をあげるため中央で企画・調整・監理するものである。
DIA-211-1974-12-31-1ミャンマー1974年12月31日1970年代Maymyo の国軍アカデミー第16回卒業式に出席した陸軍参謀長 Kyaw Htin 准将は「新しい陸軍士官は憲法を守ることに精進せよ」との訓辞を与えた。
DIA-211-1975-01-01-1ミャンマー1975年01月01日1970年代中央協同組合予算確定―中央協同組合は1975年4月1日から1975/76年度を初年度として,正式に事業を開始することになった。 初年度予算として289万3926チャットが計上された。 なお役員は21名,従業員は188名である。
DIA-211-1975-01-06-1ミャンマー1975年01月06日1970年代青空市場再開―12月10日以降,騒動のため閉鎖されていたラングーンのアウン・サン市場と青空市場が再開された。この決定はいずれも市開発委員会と郡人民評議会によって決定されたものである。またこの日,市内の全小学校の授業が再開された。
DIA-211-1975-01-09-1ミャンマー1975年01月09日1970年代税収は順調―国税局は税収担当官調整会議を開き,1974/75年度の税収状況を検討した。これによると,9月末までの半年間に計7億5000万チャットの税収があり,これは当初予定税収総額(12億チャット)の63%にあたる。部門別では協同組合80%,民間65%,国営62%となっている。
DIA-211-1975-01-13-1ミャンマー1975年01月13日1970年代人民議会特別会期開会―人民議会第1回特別会期が開かれ,439名(定員451)の議員が出席。1974/75年度補正予算(9億1720万チャット)が提出説明された。そして12月11日に布告されたラングーン管区の戒厳令(布告第4号)についてサンユー国家評議会書記長が説明,この布告は憲法76条に従って出されたものと説明した。
DIA-211-1975-01-14-1ミャンマー1975年01月14日1970年代12月暴動に関する質疑応答―人民議会は12月暴動に関する質疑応答を行ないウ・コ・コ内相は要旨つぎのように答えた。 (1)学生,僧侶は12月5日にウ・タントの遺体を略奪,ラングーン大学構内で「解放区域」と称して,反政府スローガンを叫んだり,パンフレットを配布した。 (2)警察は12月11日,午前2時に武装なしで(催涙ガスは使用)構内から学生たちを排除すべく実力行使した。 したがって,構内では発砲していない。 (3)軍隊は警官隊の背後に位置して,必要と認めた時だけ発砲したが,構内では射殺,ケガ人は出ていない。
DIA-211-1975-01-15-1ミャンマー1975年01月15日1970年代人民議会は,サンユー副議長が,戒厳令施行に関する質問に答え,ウ・ルウィン副首相が1974/75年予算案に関する質問に答えた。 なお同日,1975年予算案と,新しい法律である“市民権利保護法”が通過した。
DIA-211-1975-01-15-2ミャンマー1975年01月15日1970年代12月暴動の際逮捕されていた者のうち,さらに301人が釈放された。
DIA-211-1975-01-15-3ミャンマー1975年01月15日1970年代中高等学校再開―12月初め以来閉鎖されていたラングーン市内の全中学校,高等学校が再開された。
DIA-211-1975-01-15-4ミャンマー1975年01月15日1970年代僧侶釈放さる―12月暴動で逮捕されていたもののうち計245人が新たに釈放されたが,うち240人は僧侶である。
DIA-211-1975-01-16-1ミャンマー1975年01月16日1970年代12月暴動について―ウ・コ・コ内相は,人民議会で12月暴動について詳細を説明。また特別会議で各地区の議員がこの問題に関してつぎのような意見を述べた。 U Nai Ba Tun(Pa-an2区) 政府に反対する右翼・左翼分子が社会不安を醸成するために生活難を利用し,さらにウ・タント葬儀を利用した事件であった。こうした分子には厳しい態度で臨む必要がある。 U Naing Win(Pakokka1区) もし,ウ・タントの遺体が適切な場所に埋葬されていたら,問題は平和的に解決していただろう。しかし,無政府主義者によって国際的スキャンダルとなるような騒動に発展した。 U Tun Yi(Htilin) この騒動で右翼,左翼分子に対する取締りを強化しなければならないことを教えられた。 U Ba Sein(Mayangon2区) 暴動に参加したのは労働者ではない。守銭奴の闇商人たちである。社会主義経済をむしばむこのような分子には効果的な処置をとる必要がある。
DIA-211-1975-01-20-1ミャンマー1975年01月20日1970年代U Htin Kyaw建設相とDr. Khin Maung Win教育相はラングーン大学キャンパスを訪れ,騒動後の大学構内の整備状況を視察した。
DIA-211-1975-01-21-1ミャンマー1975年01月21日1970年代アラカンに水産学校―アラカン州Kyaukpyuに建設中の水産学校が6月に開校する運びとなった。
DIA-211-1975-01-24-1ミャンマー1975年01月24日1970年代アラカンの政府軍キャンプ破壊さる―アラカン州An郡Ma-ie-Chaung Letpan村駐屯の政府軍第34連隊と警察の前線キャンプがBo Thet Tun,Aung Thuに率いられた約300人の共産軍に急襲され,駐屯していた計23名の政府軍が応戦,共産軍側は19名が死亡し,6名が重傷した。政府軍は9名が死亡して,キャンプを放棄,キャンプは炎上した。
DIA-211-1975-01-24-2ミャンマー1975年01月24日1970年代12月暴動で逮捕されていたもののうち,学生など313人が釈放された。釈放者は全員丸坊頭にされていた。
DIA-211-1975-01-25-1ミャンマー1975年01月25日1970年代ネーウィン大統領はテナセリム管区メルグイ郡のPearl Islandを1月22日から1月25日まで視察した。同行者は国家評議会員U Tun Lin,Kyaw Win大佐,農林相U Ye Gaung,協同組合相Sein Lwin大佐,工業副大臣Maung Cho大佐らであった。
DIA-211-1975-01-26-1ミャンマー1975年01月26日1970年代チャット平貨切下げ―政府は1月25日午前10時付でチャットの25%(対SDR)切り下げを発表した。 これによって対ドル交換比率は1ドル6.23チャットとなった。
DIA-211-1975-01-27-1ミャンマー1975年01月27日1970年代米の集荷に全力を―中央農民評議会執行委員U SoeはKayan郡内15力村の農民代表と会談,米は収穫後できるだけ多く政府に売却するよう要請した。
DIA-211-1975-01-28-1ミャンマー1975年01月28日1970年代Tavoyから62マイル地点の部落で“Pwe”の祭でにぎわっていた群衆の中に爆弾がなげ込まれ,7名が死亡,21名が負傷した。
DIA-211-1975-01-31-1ミャンマー1975年01月31日1970年代ラングーン外出禁止令解除―ラングーン軍管区司令官Khin Ohn大佐は軍管区行政令第8号を発令して,12月11日以来施行されているラングーン市内の夜間外出禁止令(午後10時から午前4時)を解除した。
DIA-211-1975-01-31-2ミャンマー1975年01月31日1970年代12月暴動の逮捕者のうちさらに524人が釈放された。
DIA-211-1975-02-01-1ミャンマー1975年02月01日1970年代12月暴動の際逮捕されていた者のうち,これまでに合計2054名が釈放されていると発表された。
DIA-211-1975-02-04-1ミャンマー1975年02月04日1970年代反テロ集会―ラングーン市Pabedan郡で約5000人の市民が爆弾テロに抗議する集会を開いた。
DIA-211-1975-02-04-2ミャンマー1975年02月04日1970年代交易公社在庫放出―交易公社は手持在庫品をペグー,ラングーン,イラワジ各管区の郡協同組合に対し優先的に放出することをこのほど発表した。 なお各交易公社の手持在庫品はつぎのとおりである。
DIA-211-1975-02-05-1ミャンマー1975年02月05日1970年代破壊活動防止法および市民権利保護法公布―国家評議会議長は2月5日付で「市民権利保護法」(The Civil Rights protection Law)を公布した。この法律は1月15日すでに人民議会を通過した。 この法律では,憲法および諸法で保障されている市民権が束ばくされていたり,侵されている場合,市民が議会および政府にその回復を訴えることができるなどが規定されている。 なお,同日付で「破壊活動防止法」も公布された。
DIA-211-1975-02-07-1ミャンマー1975年02月07日1970年代シャン州記念日―第28回シャン州記念日式典がタウンジーで開催され,席上シャン州人民評議会議長u Tm Yin Lawは「1947年のパンロン会議まではシャン州は封建領主に支配されていた。しかしいまや封建領主は駆逐されてしまった」などと述べた。
DIA-211-1975-02-07-2ミャンマー1975年02月07日1970年代12月暴動の際逮捕されていた者のうちさらに342人が釈放された。
DIA-211-1975-02-07-3ミャンマー1975年02月07日1970年代鉱業相Dr. Nyi Nyiは2週間の予定でユーゴと西独を訪問するため出発した。なお工業副大臣Maung Cho大佐らが同行,両国で銅山などを視察する。
DIA-211-1975-02-08-1ミャンマー1975年02月08日1970年代反乱軍抗議集会―2月5日から7日にかけてGyobingauk,Okpo,Letpadanで計画党主催による反乱軍抗議集会が開かれ,それぞれ5000~8000人の住民が参加,反乱軍の破壊活動に抗議した。
DIA-211-1975-02-12-1ミャンマー1975年02月12日1970年代第28回連邦記念日―10万人の参加者を集めて,連邦記念日の中央式典がラングーンのチャイカッサン広場で開かれた。この式典でネーウィン大統領は演説し「統一は民族独立を擁護するために必要不可欠であり,社会主義完成のためにも実現しなければならない」などと述べた。
DIA-211-1975-02-14-1ミャンマー1975年02月14日1970年代政府北部シャン州で大作戦―政府軍北東および東部軍管区司令部は北部シャン州で現在共産軍掃討作戦“Aung Kyaw Moe作戦”“Ye Yan Naing作戦”を行なっているが,1月21日と2月3日に共産軍と衝突,Mon Yu地区,Mongkung,Mong Yawngなどで政府軍が優勢に闘っている。これまでの双方の損害は共産側死者460人(うち85人は死体で捕獲),4人を捕虜にした。政府軍は死者96人,負傷132人,行方不明66人である。
DIA-211-1975-02-16-1ミャンマー1975年02月16日1970年代Tamanthi水力発電プロジェクト―電力公社はHomalin=HkamtiのTamanthi村付近のチンドウィン河に建設が予定されているTamanthi水力発電プロジェクトの予備調査を終了した。このプロジェクトは20ヵ年計画に基づくもので総工費は21億2000万チャットと見積られている。完成予定は1988年。
DIA-211-1975-02-16-2ミャンマー1975年02月16日1970年代トングー近郊Thandaung郡下Kanazobin村で政府軍第39連隊部隊と約100人のKNUF軍(Kyar Shwe派)とが交戦。反乱軍7名が死亡,2名が逮捕された。 なお政府軍は1名が負傷。
DIA-211-1975-02-18-1ミャンマー1975年02月18日1970年代司令官前線を視察―北東軍管区司令官Tin Sein大佐,第99歩兵師団長Min Goung大佐,第993戦術師団司令官Myo Nyun大佐は,対共産軍戦闘の最前線本部のあるMuseを訪れ,戦闘状況を視察,また当地区行政官らと協議した。
DIA-211-1975-02-18-2ミャンマー1975年02月18日1970年代ユーゴ副首相来訪―Antun Vratusaユーゴ副首相一行が公式訪問(18日~22日)した。空港にはU Tun Tin労働相らが出迎えた。
DIA-211-1975-02-19-1ミャンマー1975年02月19日1970年代サンユー大将とウ・セイン・ウィン首相は訪問中のユーゴ副首相と会見,関係閣僚も出席して主に経済協力について話し合った。
DIA-211-1975-02-20-1ミャンマー1975年02月20日1970年代第1号交易公社は主要米産地36郡の地域マネージャー会議を開き,今期の籾の扱いについて協議,この結果今期集荷予定の1億4534万6054バスケットのうち6684万2146バスケットを4月15日まで精米することを決定した。
DIA-211-1975-02-20-2ミャンマー1975年02月20日1970年代元首相(1939~1940年)U Puがラングーンの自宅で死去,94歳。
DIA-211-1975-02-21-1ミャンマー1975年02月21日1970年代北東軍管区司令官Tin Sein大佐は北部シャン州地区のTangyang,Mongkawng,Loihso,Nampan村を視察,Wa地区での戦闘によって避難してきた難民を見舞った。なお同地区では政府軍第33,第37連隊が中心となって難民救済を行なっている。
DIA-211-1975-02-24-1ミャンマー1975年02月24日1970年代2月21日からウ・ルウィン副首相はカチン州を訪れ,北部軍管区司令官Hla Pe大佐など同州指導者と会談,経済計画などについて説明,同地区を視察した。
DIA-211-1975-02-24-2ミャンマー1975年02月24日1970年代ネパール国王戴冠式に首相―ネパール国王戴冠式にビルマ政府代表としてセイン・ウィン首相夫妻が出席した。
DIA-211-1975-02-24-3ミャンマー1975年02月24日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のMohd Sadliインドネシア鉱業相と会見,Nyi Nyi鉱業相が同席した。
DIA-211-1975-02-25-1ミャンマー1975年02月25日1970年代米の買付状況良好―中央農民評議会の開会演説で同評議会議長U Thaung Kyi農相は今年度の籾の買付状況について述べ,おおむね順調であることを発表した。この演説によると2月24日までに第1号交易公社は籾9100万バスケットを集荷した。しかし農相は「今年度目標の1億4600万バスケットが達成されるまでは努力を怠ってはならない」と述べた。
DIA-211-1975-02-25-2ミャンマー1975年02月25日1970年代中央農民評議会第6回大会―中央農民評議会(CPPC)第6回大会がラングーンで開かれ,執行委員会報告が提出された。
DIA-211-1975-02-25-3ミャンマー1975年02月25日1970年代汚職犯で起訴され郡裁判所で懲役刑の判決を受けた(2.22)元内相U Sein Myaは直ちに管区裁判所に控訴した。
DIA-211-1975-02-25-4ミャンマー1975年02月25日1970年代インドネシアと航空協定―インドネシア政府代表団と交渉を続けていた航空協定がこのほど調印された。
DIA-211-1975-02-26-1ミャンマー1975年02月26日1970年代原料難で造船所危機―Simalaik造船公社は今年度主に原料不足で予定どおりの生産ができないでおり,第3四半期を終っても生産目標の14.2%にしか達していない。
DIA-211-1975-02-28-1ミャンマー1975年02月28日1970年代政府はアルゼンチン政府と外交関係を樹立したと発表。大使級の交換を行なうことになった。
DIA-211-1975-02-28-2ミャンマー1975年02月28日1970年代MinhlaとMeelaunggon村で2人の共産軍兵士に誘拐されそうになった若者が,銃を奪って逃走,奪った銃と弾丸を党郡支部に提出した。
DIA-211-1975-02-28-3ミャンマー1975年02月28日1970年代中国領内からカチン州へ密入国した7名に対してインセイン郡裁判所は懲役7年の刑を言い渡した。
DIA-211-1975-03-01-1ミャンマー1975年03月01日1970年代CPPC大会7項目の決議文採択―中央農民評議会第6回大会が閉幕。最終日に政治(1項日)経済(1項日)技術(5項日)に関する決議文を採択した。 この日CPPC議長ウ・タウン・チが閉会演説を行ない,ビルマ社会主義成功への農民の努力を強調,さらに現在までの会員が700万に達したと述べた。
DIA-211-1975-03-02-1ミャンマー1975年03月02日1970年代農民の日―農民の日記念中央集会がラングーンのチャイカサン広場で行なわれ,農民代表など10万人が集まった。 この日,ネーウィン大統領は特別メッセージを寄せた。このなかで大統領は「破壊と闘って,生産を増加し,独立を守ろう」と述べた。
DIA-211-1975-03-02-2ミャンマー1975年03月02日1970年代ラングーン市内爆弾テロ―ラングーン市中央部のアウン・サンマーケット付近で手投げ弾が爆発,歩行者など15人が負傷した。 犯人は直ちに逮捕されたが,自供によるとウ・ヌー派軍U Thwin派所属で,農民の日記念集会に向けてテロ工作のため派遣されたという。また同じグループの仕業と思われる爆発が記念集会会場で集会直後にあって4人が負傷した。
DIA-211-1975-03-02-3ミャンマー1975年03月02日1970年代戦闘地域でも農民集会―現在共産軍との戦闘地域となっているMong Yang地区で農民の日の記念集会が開かれ,農民など3000人が参加した。代表者はそれぞれ共産軍,シャン反乱軍の脅威を訴え,これを打ち破らねばならないと述べた。またMuse地区でも1500人が集まって開かれ,第4連隊司令官Nyant Swe中佐らも出席した。
DIA-211-1975-03-04-1ミャンマー1975年03月04日1970年代Nyi Nyi鉱業相は無資格者―選挙委員会は人民議会議員の資格審査を行なっているが,このほど鉱業相Dr. Nyi Nyiは憲法第177条の人民議会議員の資格要件(両親のいずれもビルマ国籍でなければならぬ)に抵触するとして,議員の資格をはく奪した。これによって,鉱業相のポストも解任された。
DIA-211-1975-03-05-1ミャンマー1975年03月05日1970年代来訪中のタイ国軍最高司令官代行Krit大将はセイン・ウィン首相と会談した(3月3日~3月6日)。
DIA-211-1975-03-07-1ミャンマー1975年03月07日1970年代米の増産計画―世銀(IDA)の援助に基づく,イラワジおよびペグー管区の米増産計画作成のための作業委員会が設置され,委員長に農林副大臣が任命された。 このプロジェクトの内容要旨はつぎのとおりである。 (1)小堤防および水路を建設することによって100万エーカーの休閑地を復興する。 (2)簡便な携帯式揚水ポンプを導入して,二期作を普及,イラワジ管区で35~40%,下ビルマ全域で25%まで二期作地帯にする。 (3)高収量品種の普及 (4)農業普及員の強化 (5)農用資材,資金,種子の供給拡大 (6)市場整備,加工および輸送の改善
DIA-211-1975-03-08-1ミャンマー1975年03月08日1970年代計画党新年度予算を採択―計画党中央委員会が開かれ,1975/76年度党予算を採択した。この委員会にはネーウィン党議長も出席。
DIA-211-1975-03-09-1ミャンマー1975年03月09日1970年代Thaton郡Duyinzeikクリーク近郊を通行中の2台の乗合バスが反乱軍に襲われ,現金2000チャットその他1万チャット相当の品物が略奪された。
DIA-211-1975-03-09-2ミャンマー1975年03月09日1970年代観光客は微増―ビルマへ入国する外人観光客は1969年以来すこしずつ増えてきており,観光収入もつぎのように微増している。
DIA-211-1975-03-11-1ミャンマー1975年03月11日1970年代1975/76年度予算案国会提出―ウ・ルウィン財務・計画相は1975/76年度政府予算および年次計画(4ヵ年計画の第2年度分)を国会に提出した(内容要旨は参考資料)。
DIA-211-1975-03-12-1ミャンマー1975年03月12日1970年代国会,経済計画を審議―人民議会は提出された予算案および年次計画について審議を行なった。発言要旨はつぎのとおり。 U Thein Tun(Kyaukktan) 1975/76年度の目標は是が否でも達成されなければならない。個々の経済部門の統合を計って経済計画に統一性をもたせなければならない。とくに米の買付計画は政治的にも経済的にもその持つ意味は重要であり,強化しなければならない。 U Tin Win(Hmawbi) 主要経済部門すなわち生産,サービス,商業ともに統一的に運営される必要がある。 所有形態3部門のうち1974/75年度では,民間部門が成長しただけだった。1975/76年度では国営,協同組合部門を強化し,民間部門をさらにできるだけ接収するべきである。 U Tun Hla(Shwegu,カチン州) 計画が現実的でなければなんにもならない。家畜生産は長期計画に基づいて協同組合形式で行なわれることが望ましい。農民に適正に家畜が配分されるためにも,闇商人を絶滅するためにも有効である。 U Ba Shin(Yebyu) 国家は28万エーカー,すなわち耕地の10%まで国営農地として所有するべきである。 そのためには,休閑地の復興や処女地の開拓を行ない適切な作物を栽培する必要がある。 Hla Kyi中佐(テナセリ・
DIA-211-1975-03-13-1ミャンマー1975年03月13日1970年代新2閣僚任命―人民議会は秘密投票で新しい閣僚評議会員2名を選出した。選出されたのは現工業副大臣Maung Cho大佐と現人民議会工業・天然資源委員会書記長U Hla Ayeである。なおポストは未定であるがこれは鉱業大臣Dr. Nyi Nyiの解任と同日決定した新省の増設(工業省No.2の新設)に伴うものである。
DIA-211-1975-03-13-2ミャンマー1975年03月13日1970年代3月2日ラングーン市街地で爆弾テロを行なった犯人Nyun Tin(ウ・ヌー派国外逃亡者グループ)に対し,特別法廷は死刑の判決を言い渡した。
DIA-211-1975-03-14-1ミャンマー1975年03月14日1970年代人民議会反乱軍問題で決議―人民議会で反乱軍の活動状況が報告されるとともに,シャン北部での対共産軍作戦Aung Kyaw Moe作戦およびYe Yan Naing作戦に参加して多大な成果を収めている陸軍,地区住民,警察に対して賛辞を送る決議文を採択した。
DIA-211-1975-03-15-1ミャンマー1975年03月15日1970年代閣僚人事―政府は省および閣僚の増設に伴う閣僚人事をつぎのように発表した。 鉱業大臣 U Maung Maung Kha(前工業大臣) 工業(第1省)大臣 Maung Cho大佐(前工業副大臣) 工業(第2省)大臣 U Hla Aye なお,国家評議会は14日付で,Hla Maung大佐,U Ohn Kyi,Kyaw Htin准将,U Aung Bwint,Than Tin大佐,Kyin Ohn大佐,Dr. Bo Layの副大臣任命を発表した。
DIA-211-1975-03-15-2ミャンマー1975年03月15日1970年代共産党幹部Thakin ZinとThakin Chit殺さる―ペグー山中Kyauktaga郡Yenwe Chaung付近での政府軍第107歩兵大隊と共産軍の戦闘で共産党議長Thakin Zinと書記長Thakin Chitが戦死した。この戦闘はペグー山中で展開されている政府軍のAung Soe Moe作戦に基づく政府軍の行動中に同地区の共産党軍本部を政府軍が急襲したものである。なお同戦闘で共産党“紅衛兵”Nyant Myint他3名が捕まった。またYebaw Po Thanも戦死。
DIA-211-1975-03-17-1ミャンマー1975年03月17日1970年代人民議会は1975/76年度国家予算を採択。
DIA-211-1975-03-18-1ミャンマー1975年03月18日1970年代人民議会最終日―人民議会最終日は閣僚評議会報告,国家評議会報告などの最終答弁が行なわれ,閣僚評議会報告の答弁に立ったウ・セイン・ウィン首相は価格,米の買上問題などについて,さらに行政努力を行なうと弁明した。
DIA-211-1975-03-19-1ミャンマー1975年03月19日1970年代ラングーン警察当局は市内に潜入していたU Thwin派反乱軍工作員3名を逮捕,手榴弾などを押収した。
DIA-211-1975-03-20-1ミャンマー1975年03月20日1970年代ペグー山中から共産党軍をほぼ一掃―ペグー山中で展開されている対共産党軍掃討特別作戦(Aung Soe Moe作戦)についてNyaunglebinの第77歩兵師団前線本部で記者会見が行なわれ中央軍管区司令官兼特別作戦司令Than Tin大佐は作戦について説明した(説明内容は資料参照)。
DIA-211-1975-03-20-2ミャンマー1975年03月20日1970年代原油産出は7600万バーレル―1974/75年度の原油産出量は7600万バーレルで前年度に比べ8.53%の増加であった。 鉱業生産全体ではグロスで2億5000万チャット,前年度比12.6%増であった。
DIA-211-1975-03-21-1ミャンマー1975年03月21日1970年代UNDPがビルマ政府に対し,テナセリム地区海底錫鉱開発のために技術援助するとの協定がこのほど調印された。 この計画はUNDPが計100人の技術を30人の訓練生受入れ用として125万7300ドル,機材供与用として94万8000ドル援助するというものである。
DIA-211-1975-03-21-2ミャンマー1975年03月21日1970年代ペグー山中の共産党員残るは17名―Aung Soe Moe作戦の結果ペグー山中にはあと17名の闘士しか残っていないことが,このほど投降してきたTin Aye Lay(Kwinchaung隊)の証言によって明らかとなった。 この17名の内訳は本部護衛隊8名,中央病院2名,Aung Naing隊3名,Kwinchaung隊1名,紅星隊2名,Daik-U隊1名となっており,食糧や住居もないので早晩投降するだろうとTin Aye Layは語った。 なおAung Soe Moe作戦開始以前のペグー山中共産党軍は総勢775名で,その内訳は本部護衛80名,中央病院30名,Aungzeya隊250名,Amg Naing隊(NDUF兵士含)260名,Htantabin郡隊80名,Oktwin郡隊20名,Kwinchaung隊40名,Nyaunglebin郡隊27名,Daik-U.隊30名,紅星隊20名であった。
DIA-211-1975-03-21-3ミャンマー1975年03月21日1970年代対バングラ密輸団捕まる―バングラデシュとの密輸を捜査していたアキヤブ警察はOhdan港で米(154袋)を積み込んでいた密輸船団を捕獲,乗組員を逮捕した。これまでの調べでは密輸団はバングラデシュとの国境にあるShimapyu島まで運び,そこで取引する。1袋600チャットが相場であるが,海陸ともに国境で監視にみつかったときは1袋につき40チャットを郡評議会員や警官に支払っていたという。 なお当局では今年に入ってからも,このような大がかりな密輸がかなりあるものと追求しているが,ルートは海だけでなく陸からもある。そしてことに国境地帯での米価はベンガルに近づくほど高値になる。 またアラカン州移民局は不法入国者などの調査を進めているが,2月から3月にかけて,Maungdaw郡内150カ村で約1万5000人が行方不明,すなわち密出国していることがわかった。なお当郡の人口23万7000のうち19万9000は不法入国者である。
DIA-211-1975-03-22-1ミャンマー1975年03月22日1970年代KIA反乱軍の略奪―Tun MyaingことSoe Myintに率いられた約100名のKIA軍がサガィン管区BanmaukとMansiの町を攻撃,Banmauk市内では党支部,警察署,木材公社,電報局,赤十字,籾買付センターなどを略奪してまわり,放火して,民家など200戸が焼失した。また当町会計局,協同組合局,人民病院などから現金96万チャットを奪った。この間2時間。 またその後同反乱軍はMansi町の駅を襲い警官隊と銃撃戦をしたあと,警察署を占拠。 夜10時30分までの約3時間町内で略奪の限りをつくして逃走した。 なお3月24日,政府軍第42連隊部隊が同反乱軍を追跡,交戦して,3名の反乱軍を射殺した。
DIA-211-1975-03-25-1ミャンマー1975年03月25日1970年代陸軍記念日恩赦―ラングーン管区司令官は陸軍記念日恩赦として12月暴動の逮捕者のうち81人を釈放したと発表。またこのほか61名がさらに釈放された。
DIA-211-1975-03-26-1ミャンマー1975年03月26日1970年代参謀総長前線部隊を激励―国軍参謀総長Tin Oo大将はAung Soe Moe作戦前線本部を訪れ,当作戦に参加した第77歩兵師団,第107,第101,第105,各歩兵連隊将兵を集め,作戦の成功を祝うとともに激励した。
DIA-211-1975-03-26-2ミャンマー1975年03月26日1970年代マンダレーで爆弾―マンダレーのBowgyaパゴダのお祭でにぎわっている群衆の中に手榴弾が投げ込まれ,爆発,4名が死亡,50名が負傷した。
DIA-211-1975-03-26-3ミャンマー1975年03月26日1970年代ラングーン軍管区司令官は12月暴動の逮捕者のうちこれまでに計3098名が釈放され,100名が恩赦の対象となったと発表。
DIA-211-1975-03-27-1ミャンマー1975年03月27日1970年代ペグー地区Htantabin郡Inngyaw村東で漁民1人がKNUP反乱軍に射殺された。
DIA-211-1975-03-27-2ミャンマー1975年03月27日1970年代陸軍記念日―第30回記念日の記念式典がラングーンのレジスタンス公園で開かれ,陸軍将兵代表が出席,参謀総長Tin Oo大将が「党の指導に従い,国民のモデルとなるように」との演説を行なった。
DIA-211-1975-03-28-1ミャンマー1975年03月28日1970年代未登録卸売を禁止―貿易省は民間卸売業者に対し,4月30日以降未登録業者については全面的に営業停止する指示を発令した。これによって農産品28品目,水産品11品目の民間卸売が認められているが,4月30日までに所定の登録を済まさないと営業できなくなる。
DIA-211-1975-03-29-1ミャンマー1975年03月29日1970年代12月暴動で逮捕されていたもののうち僧侶113名が釈放された。
DIA-211-1975-03-30-1ミャンマー1975年03月30日1970年代官船が密輸―海軍がアキヤブ西方オイスター諸島を航行中の真珠・漁業公社所属の2隻のトロール船を密輸の現行犯で連行した。 調べによるとこの2隻は,アキヤブからバングラのコックスバザールへ米223袋を密輸し,その見返りとして500ベールの繊維を持ち込もうとしていた。なお密輸された米はKyaukpyuで1袋当り70チャットで仕入れ,バングラ国境付近では1袋495チャットで取引されているという。当局では1974/75年度内で,バングラに密輸された米は200万バスケット(約4万5000トン)にのぼるとみている。
DIA-211-1975-04-01-1ミャンマー1975年04月01日1970年代預金利子引上げ―財務計画者は普通預金金利を現行年利3.51%を6%に引き上げることを決定。また3年もの定期預金にはさらに2%(年利)が加算される。
DIA-211-1975-04-02-1ミャンマー1975年04月02日1970年代各交易公社の古い在庫品を一掃するため,3月31日までに市場に放出するとの通達が先に出されていたが,期日までに4分の1を放出したに過ぎない。
DIA-211-1975-04-04-1ミャンマー1975年04月04日1970年代モールメン地区Kywechangon村の村落人民評議会メンバーが同村の青年によって刺殺された。
DIA-211-1975-04-04-2ミャンマー1975年04月04日1970年代Tha Gyaw率いる5名のKNUP軍がベグー管区Htantabin郡Zayatkyee東岸のZindone漁場で釣をしていた村民約100人に向けて発砲,1人の婦人が負傷した。
DIA-211-1975-04-04-3ミャンマー1975年04月04日1970年代ネーウィン大統領北部シャン州を視察―ネーウィン大統領は国防相Tin Oo大将らとともに,3月29日から4月4日までラシオ,ナムツ,ケントウンなどの北東および東部軍管区地域を視察し,前線各部隊,地区行政責任者などと会談した。
DIA-211-1975-04-05-1ミャンマー1975年04月05日1970年代ラングーンでまた爆弾―ラングーン市中心部のアウン・サンマーケット付近で,午後6時55分手榴弾が投げ込まれ,1人が死亡,35人が負傷した。なお犯人の国外逃亡者グループ3名が7月に警察当局に逮捕された。
DIA-211-1975-04-09-1ミャンマー1975年04月09日1970年代工場内でコソ泥横行―最近工場内ことに主要国営工場内で従業員による製品のコソ泥が横行して,当局はその対策を真剣に考えはじめた。
DIA-211-1975-04-10-1ミャンマー1975年04月10日1970年代最長コンクリート橋完成―建設公社が1972年1月から着工していたTavoy近郊のKamyawkin橋がこのほど完成した。この橋はビルマでは最長のコンクリート橋(プレストレス工法)で長さ1100フィート,幅22フィートで,総工費は当初の見積820万チャットに対し,740万チャットであった。
DIA-211-1975-04-10-2ミャンマー1975年04月10日1970年代人民議会は1月3日を憲法記念日とすることを決定した。
DIA-211-1975-04-10-3ミャンマー1975年04月10日1970年代火力発電所が供給開始―EPCが1972年からパコック郡イラワジ西岸(パガン対岸)で建設していたガス・タービン発電所(天然ガス使用)が昨年完成,試運転を経て,このほど同地区工場用に電力の供給を開始した。これは英国の技術協力によるもの。
DIA-211-1975-04-12-1ミャンマー1975年04月12日1970年代戒厳令解除―国防省参謀本部はTin Oo参謀総長の名で布告第2,第3号を発表,12月11日(1974年)付で施行されていたラングーン市内の戒厳令を解除し,市行政を軍事管理から国家評議会に移管したと発表した。
DIA-211-1975-04-16-1ミャンマー1975年04月16日1970年代ネーウィン大統領は自らの選挙区民(ラングーン,Mayangon郡第1区)を集め,約20分間にわたって,人民議会の報告を混ぜての演説を行なった。
DIA-211-1975-04-17-1ミャンマー1975年04月17日1970年代Lashio近郊Hkashi村のLisu部落の7戸のうち6戸が,約50人のシャン反乱軍による攻撃と放火で焼失した。34人が家を失った。政府軍第68連隊が反乱軍を追跡するとともに復旧作業を開始した。
DIA-211-1975-04-18-1ミャンマー1975年04月18日1970年代政府はプノンペン陥落に関する政府声明を発表,「平和が維持されることを切に望む」と述べた。
DIA-211-1975-04-19-1ミャンマー1975年04月19日1970年代新駐バングラ大使に前クメール駐在大使U Maung Maungが任命された。
DIA-211-1975-04-19-2ミャンマー1975年04月19日1970年代教育省高等教育局は12月以来閉鎖されているラングーン大学,マンダレー大学および各種カレッジを5月第2週から再開すると発表した。
DIA-211-1975-04-20-1ミャンマー1975年04月20日1970年代紙巻タバコ販売を全面国有化―食料品公社は紙巻タバコ販売の代理店(公社指定で卸売から小売まで扱っていた)全部を4月20日付で契約停止し,今後は第3号交易公社が扱うことになったと発表。これは代理店の操作で紙巻タバコの価格はまちまちで,高騰を続けているため取られた措置である。
DIA-211-1975-04-23-1ミャンマー1975年04月23日1970年代第10回中央労働者評議会大会が開かれ,議長U Maung Maung Khaが開会演説を行なった。このなかで「中央労働者評議会の予算はまだ完全に自立できない」と述べた。
DIA-211-1975-04-23-2ミャンマー1975年04月23日1970年代Aung Naingに率いられたウ・ヌー派軍―隊がThanbyuzayat郡Wewin-Kalar警察派出所を急襲,警官隊と20分に亘って交戦した。警官1名が死亡,1名が重傷。
DIA-211-1975-04-25-1ミャンマー1975年04月25日1970年代財務・計画省は各省保有の自動車およびその他機械の効率的使用を諮問するための設備管理委員会(委員長第2工業省副大臣)を設立した。
DIA-211-1975-04-28-1ミャンマー1975年04月28日1970年代米の密輸(アラカン)―アキヤブ郡当局は155袋の米(政府倉庫からの盗品)を密輸しようとしていた船を捕獲した。 なお,当地区での米の密輸出は日に約1000袋といわれ,Kyaukpyu,An,Myebon,Minbya,Pauktaw,Myohaung,Kyauktaw,Rathedaung,Buthidaungなどから焼玉船,漁船,サンパンなどでバングラへ運ばれている。アキヤブでは1袋144チャットのところ国境地域では280~350チャットになっている。
DIA-211-1975-04-29-1ミャンマー1975年04月29日1970年代労働者評議会セミナー閉会―第10回中央労働者評議会セミナーが閉会,最終日に議長U Maung MaungKhaは演説を行ない,評議会メンバーの五つの任務として①1975/76年度計画の目標達成のために工業生産を高めること,②国営企業の生産および流通過程に商業主義を導入すること,③社会主義民主主義制度を確立するため相互に協力して努力すること,④破壊分子の一掃に協力すること,⑤党の指導に忠実に従うこと,などを述べた。
DIA-211-1975-04-29-2ミャンマー1975年04月29日1970年代Lo Hsing-han裁判―Lo Hsing-han(39歳)の裁判がラングーンで行なわれているが,以下のことが明らかになった。 1968年2月14日からKokang地区のKar Kwe Yay(地方防衛義勇隊)のリーダーとして,配下800人を使って密輸を開始,ビルマ側から麻薬,ヒスイ,タイ側から外国製品,ジープ2台,部品,金の延棒,武器,外貨などをそれぞれ密輸していた。
DIA-211-1975-04-30-1ミャンマー1975年04月30日1970年代ベトナムに対する反応―ビルマの各新聞(政府発行)は“ミン大統領が無条件降伏をした”という事実報道にとどめた。社説もコメントもない。
DIA-211-1975-05-01-1ミャンマー1975年05月01日1970年代労働者の日―労働者の日記念中央式典がラングーンのチャイカサン広場で8万人の労働者を集めて開かれ,“社会主義への破壊分子を一掃しよう”“社会主義経済計画を全うするために生産を高めよう”という二つの決議文を採択した。
DIA-211-1975-05-01-2ミャンマー1975年05月01日1970年代「経済危機を乗り切ろう」―ネーウィン大統領は労働者の日記念集会に向けて特別メッセージを送り,「世界経済はわが国にも危機を及ぼした」として「この経済危機を全員の努力で乗り切り,生産を高めることによってインフレを克服しよう」などと述べた。
DIA-211-1975-05-04-1ミャンマー1975年05月04日1970年代ラングーンの外人専用デパート内で午前8時半,爆弾が爆発,店内の一部が破壊された。負傷はなかった。
DIA-211-1975-05-05-1ミャンマー1975年05月05日1970年代南東軍管区第2戦術司令官(軍管区副司令官)Min Naung大佐はMudon-Kyaikmaraw地区の民兵隊を集めて演説し,民兵隊の役割を強調するとともに,武器の不正使用を警告した。
DIA-211-1975-05-07-1ミャンマー1975年05月07日1970年代密輸取締りを強化せよ―モールメン郡人民判事委員会は,郡人民評議会に対し提出したレポートのなかで,密輸犯の取締りについて,現行法では密輸に対して外貨管理法でしか取締ることができず,これだと刑が軽いことを指摘。密輸取締法を制定する必要があると述べた。
DIA-211-1975-05-07-2ミャンマー1975年05月07日1970年代大統領イラワジ西岸を視察―ネーウィン大統領は5月2日から7日までイラワジ西岸域を訪れ,重工業公社,国防産業公社所属の自動車組立,トラクター工場などを視察。なお,国家評議会員U Thaung Kyi,Tin Oo国防相らが同行した。
DIA-211-1975-05-09-1ミャンマー1975年05月09日1970年代酒の密造者大量摘発―ラングーン郊外Htaukkyanのらい病患者コロニーで約200人の酒の密造者を逮捕し,大量の密造酒を押収した。
DIA-211-1975-05-10-1ミャンマー1975年05月10日1970年代デルタにサイクロン―7日,デルタ北部のヘンザダ,バセイン地方を襲ったサイクロンは当地に大きな被害を与えた。ヘンザダでは約80%の家屋が倒壊,このなかには映画館,監獄なども含まれている。バセインでは合計39名が死亡した。
DIA-211-1975-05-11-1ミャンマー1975年05月11日1970年代モン州地区で反乱軍一掃作戦―南東軍管区配下の各部隊は4月28日から5月11日までの間,モン州Mudon,Thanbyuzayat,Ye地区で国外逃亡者軍(旧ウ・ヌー派軍)およびKNDO軍一掃作戦を展開し,成功裡に進めている。 この作戦は第62,第31連隊,第101戦闘部隊,地区民兵隊,一般市民なども参加した大合同作戦である。 5月6日にはThanbyazayat道路東側のAyataungおよびSonnonthaに侵入していた旧ウ・ヌー派軍(Min Naing,Nyo Hmaing派)200名,KNDO Oliver派軍と交戦,反乱側11名が死亡,2名を捕虜にした。 4月20日にはYe=Tavoy間道路沿のYeywa村およびManaung村の旧ウ・ヌー派軍Tun Hla派キャンプを急襲,3名を捕虜にした。 4月28日,Thanbyuzayat道路東側のTagundaing,TaunggaleでAung Ba派(旧ウ・ヌー派軍)20名をPayangazuに押し込んだ。
DIA-211-1975-05-12-1ミャンマー1975年05月12日1970年代全高等教育機関再開―12月騒動以来閉鎖されていたラングーン大学を始めとする全国の高等教育機関が再開した。
DIA-211-1975-05-15-1ミャンマー1975年05月15日1970年代人民評議会員襲わる―シャン州Hsisang郡人民評議会議長に率いられた一行がSaikhaung村でSayaKanのシャン反乱軍に襲撃され,郡人民判事委員会メンバーが射殺され,その他5名が負傷した。
DIA-211-1975-05-16-1ミャンマー1975年05月16日1970年代ビルマ共産党,議長・書記長の戦死で声明―ビルマ共産党中央委員会は議長・書記長が3月15日に戦死したことに関する声明を発表,「革命を勝利までやり抜く」旨述べた(動向分析資料No.75-2に掲載)。
DIA-211-1975-05-16-2ミャンマー1975年05月16日1970年代輸出用米の盗難―ラングーンの各埠頭で輸出用として船積みを待っている米袋が最近盗難されている。少くとも1日10袋分の米が紛失しており,多くは荷役夫が自らの“コミッション’として袋に穴をあけて抜取っている。
DIA-211-1975-05-17-1ミャンマー1975年05月17日1970年代材木の紛失―木材公社は過去5年間に河川運搬中,盗難およびその他の理由で紛失した木材の数量を発表,これによるとチーク材26万5982本,ハードウッド18万8963本となっている。
DIA-211-1975-05-18-1ミャンマー1975年05月18日1970年代鉄道運賃値上げ―鉄道公社は5月20日から乗客運賃を平均30%値上げすると発表。なお貨物運賃はこれより先(2月)に30%値上げされている。
DIA-211-1975-05-20-1ミャンマー1975年05月20日1970年代カレン州KawbeinとKawlamu間を航行中の密輸船が反乱軍の銃撃を受け1人が死亡,4人が負傷した。
DIA-211-1975-05-20-2ミャンマー1975年05月20日1970年代中国共産党中央委員会は,ビルマ共産党中央委員会タキン・バ・ティン・ティンに弔電を送り,同党中央委員会議長タキン・ジンと中央書記タキン・チトの戦死に深い哀悼の意を表明した。
DIA-211-1975-05-21-1ミャンマー1975年05月21日1970年代南北朝鮮およびベトナムと国交樹立―外務省は政府の決定に基づいて,北ベトナム,南ベトナム臨時革命政府,カンボジア新政府と外交関係を樹立する方向で行動すると発表。またこれよりさき,北朝鮮と韓国と同時に国交樹立したことを明らかにした。
DIA-211-1975-05-22-1ミャンマー1975年05月22日1970年代今年度作付面積―政府は1975/76年度の全農作物作付面積は2333万0828エーカ「うち稲作付面積は1259万7987エーカーになる見通しであると発表。
DIA-211-1975-05-23-1ミャンマー1975年05月23日1970年代UNDPは航空および船舶通信施設の建設プロジェクトに総額100万9000ドルの援助を行なう。このための協定がビルマ政府との間で調印された。
DIA-211-1975-05-26-1ミャンマー1975年05月26日1970年代学生の長髪禁止せよ―ラングーン市Pabedan郡人民評議会議長は郡内の全学校長に対し,生徒の長髪を禁止するようにと勧告した。
DIA-211-1975-05-28-1ミャンマー1975年05月28日1970年代北ベトナムと大使交換―政府は北ベトナム政府との間で,相互に大使級レベルの外交関係樹立に合意したと発表。
DIA-211-1975-05-28-2ミャンマー1975年05月28日1970年代「連邦民族民主戦線」結成―カレン民族同盟(KNU=Mahn Ba Zan議長)を含め,反政府少数民族グループ5党がメーソットで5月15日から29日まで2週間にわたって「革命的民族会議」を開催,最終日に合同コミュニケを発表,5党による「連邦民族民主戦線」を結成した。この5党はKNUのほか,新モン州党(NMSP),アラカン解放党(ALP),カレン民族進歩党(KNPP),シャン州進歩党(SSPP)である。なおコミュニケには同戦線の目的を「ビルマ国内のすべての民族の独立,平等,発展を保証する新しいビルマ連邦の樹立」だと宣言し,「ネーウィン現政府を打倒し,政権を奪取するための行動を起こす」と決議した(内容は参考資料)。
DIA-211-1975-05-28-3ミャンマー1975年05月28日1970年代ADB技術協力にグラント―アジア開銀はマンダレー管区のSedawgyi多目的ダムプロジェクト(ADB借款供与)に対し5人の専門家からなる技術協力チームを無償供与することに決定。このダムは主に灌漑用であり,5万0800ヘクタールを灌漑する。
DIA-211-1975-05-30-1ミャンマー1975年05月30日1970年代南ベトナム革命政府と大使交換―政府は南ベトナム臨時革命政府との間で大使レベルの関係を樹立することに同意したと発表。
DIA-211-1975-05-30-2ミャンマー1975年05月30日1970年代世銀(IDA)はビルマの電話網の改善用に2100万ドルの借款を供与すると発表。
DIA-211-1975-06-01-1ミャンマー1975年06月01日1970年代大盗賊団捕わる―人民警察隊総監U Shwe Thanは,最近ペグーとラングーンの境界付近で出没していた武装盗賊団66名を捕えたと発表,この盗賊団はライフル,カービン銃,自動小銃などで武装しており,人民警察隊は4月初めから掃討作戦を行なっていた。
DIA-211-1975-06-03-1ミャンマー1975年06月03日1970年代副首相ソ連へ―ウ・ルウィン副首相は経済協力の交渉とソ連内のプロジェクト視察のための経済代表団の団長としてソ連に向け出発。対外経済関係局長U Soe Saingらが随行。
DIA-211-1975-06-03-2ミャンマー1975年06月03日1970年代学生数は400万人超える―教育省は3月末現在の学校統計を発表。これによると生徒数は高校生18万2848人,中学生76万2871人,小学生344万9552人,合計439万5271人。 また学校数は国立校2万0047のうち高校566,中学校1182,小学校1万8229である。
DIA-211-1975-06-04-1ミャンマー1975年06月04日1970年代石油の輸出に全力を―MOC(ビルマ石油公社)は1975年度地質学セミナーを開き,席上鉱業相U Maung Maung Khaは「ビルマは石油の自給達成だけで満足してはならない。石油を輸出できるよう全力を傾けなければならない。」などと述べた。
DIA-211-1975-06-04-2ミャンマー1975年06月04日1970年代低所得者間に繊維製品放出―第5号交易公社は月収300チャット以下の各種賃金労働者に対し繊維製品を販売すると発表。
DIA-211-1975-06-05-1ミャンマー1975年06月05日1970年代UNICEFは1976/77年度に計369万ドルの援助を行なうことに決定。
DIA-211-1975-06-05-2ミャンマー1975年06月05日1970年代党指導部学生と会談―計画党中央執行委員Dr. Hla HanおよびDr. Khin Maung Win(教育相)はラングーン大学獣医畜産学部の学生たちと会談。Dr. Hla Hanは現在の国内経済危機の原因を,①不可抗力の天然災害と②世界市場における価格高騰であると説明,さらに米の輸出が減少したのは人口増に見合う生産増がなかったことであると述べた。これに対し13人の学生代表がそれぞれ質問して閉会となった。なおDr. Maung MaungはMOCの労働者と会談,同様の演説を行なった。
DIA-211-1975-06-05-3ミャンマー1975年06月05日1970年代第1号交易公社が米の買付独占―貿易省は布告を発令,チンおよびカヤ州を除く12州・管区内の208郡の籾の買付(1975/76年産米)を第1号交易公社が独占し他の機関は買付ができないと発表した。 ・これに基づき,郡人民評議会行政委員会は個々の農民の生産性(反収)を考慮したうえで供出割当を定める。 ・公社は各農民と予約買付契約を結び1エーカー当り最高50チャットの予約金を支払う。ただし,1974/75年内において天災以外の理由で予約買付割当量を供出できなかった農民にはこの予約金は支払われない。 ・予約買付割当量を超えて生産した農民はその余剰米を居住郡内に限って自由に販売できる。 〔供出割当について〕 供出割当は農民の保有耕地面積と収穫量によって決められる。割当決定についての事例はつぎのとおり。 ・反収50バスケットの農地20エーカーで計1000バスケットを生産した耕作者は666バスケットが供出割当で残り334バスケッが耕作者保有米として許される。反収15バスケットの農地30エーカーで計450バスケットを生産した耕作者の場合は369バスケットを耕作者保有米として許される。これは公式割当スケジュールに基づき交易公社への供出は81バスケットとなるからである。
DIA-211-1975-06-06-1ミャンマー1975年06月06日1970年代学生デモ隊市中を行進―数百人の学生がラングーン大学構内で集会を開いた後,市中をデモ行進した(詳細は6月暴動として参考資料掲載)。
DIA-211-1975-06-06-2ミャンマー1975年06月06日1970年代党執行部工学部でも学生と会談―計画党中央執行委員Dr. Hla Hanを中心とする党執行部はラングーン大学工学部学生とも会談,主に経済問題について質疑応答を行なった。 またDr. Maung Lwinはマンダレー大学1500人の学生と質疑応答,主に学園問題,学生の経済困難について話し合われた。 なおこの党執行部と学生との会談においてどのような問題が提出され,どのようにして終わったか定かではないが,この後の学生によるデモ,騒動の直接的な原因であったといわれる。またこれより先,5月初め頃より,学園の民主化,経済困難の解決を要求して学生たちが度々市中をデモ行進していた。これに対して党執行部がこの会談を利用して説得にあたったものであると思われる。
DIA-211-1975-06-07-1ミャンマー1975年06月07日1970年代党指導部各地で労働者と会談―計画党執行委員Dr. Maung Lwinと指導部はマンダレーの第1号マッチ工場の労働者など400名と会談,現在の経済危機について説明し,「全国民手を結んで危機を乗切ろう」と呼びかけた。 同じく党執行委員Dr. Maung Maungは石油公社(MOC)労働者と同じような会合を持った。 また国軍参謀総長Tin Oo大将はラングーン軍管区司令部で当軍管区兵士を集めて同様の会合を開いた。
DIA-211-1975-06-08-1ミャンマー1975年06月08日1970年代教育相は学生デモに関する特別声明を発表した(内容は参考資料)。
DIA-211-1975-06-08-2ミャンマー1975年06月08日1970年代食糧品の緊急放出を指令―協同組合省副大臣U Thein Htuは協同組合幹部に対し,在庫食糧品を自由市場より安い価格で放出するよう指示した。
DIA-211-1975-06-08-3ミャンマー1975年06月08日1970年代ペグー山中から難民―ベグー山中のBamalaik,Hpa-aw,Kyarpweなどの村からカレン人250名が反乱軍(共産党か?)の脅威から逃れ,Minhlaに避難してきた。郡行政当局はHtanbingon村に難民キャンプを設けて,収容した。
DIA-211-1975-06-09-1ミャンマー1975年06月09日1970年代大学を閉鎖―教育相はラングーン大学およびマンダレー大学の全学部の試験を速やかに行なうため9日午後1時をもって閉鎖すると発表した。なお試験は6月24日までに出身県内の郡人民評議会の監督の下で行なうと発表,大学閉鎖に関して情報省は声明を発表した(全文は資料の項参照)。
DIA-211-1975-06-09-2ミャンマー1975年06月09日1970年代党執行部各地で労働者と会談―計画党執行委員U Kyaw SoeがYedasheの合板工場労働者と会談して,現情勢を説明した。なお執行委員Thaung Tin大佐,U KoKo,Thaung Dan准将らもそれぞれ各地で同様の集会に出席した。
DIA-211-1975-06-10-1ミャンマー1975年06月10日1970年代共産党が学生デモに関する声明を発表―情報省は今回の学生デモおよび暴動がビルマ共産党の指示を受けた学生によって煽動されたものとして,その証拠となる共産党声明全文を発表した。また情報省は学生の配布したビラやパンフレットの内容も公表して,今回の運動がビルマ共産党の指導によったものだと断定した(内容要旨は参考資料)。
DIA-211-1975-06-11-1ミャンマー1975年06月11日1970年代ソ連を訪問中のウ・ルウィン副首相はバイバコフ蔵相など経済関係トップとモスクワで会談。
DIA-211-1975-06-11-2ミャンマー1975年06月11日1970年代ラングーンの治安回復―ラングーン大学の学生たちは6月9日の教育省声明(大学閉鎖令)の後も,街頭に出て,殊にインセイン付近でデモ行進しスローガンを叫んだり,パンフレットを配ったりしていた。6月10日には下町地区に現われ同じような示威行進を行ない,中央講堂からシュウェーダゴン・パゴダに本拠を移して,同パゴダのテラスを占拠。 6月10日,ラングーン師団司令官Aye Ko大佐は軍事管理令第9号を発令,市内の集会・デモを禁止し,市内の行政権限を掌握した。これに基づき,パゴダの学生に対し,実力行使を開始,学生たちを排除,多くが逮捕された。 このため,ラングーン大学講堂,シェウェーダゴン・パゴダは平静を取り戻した。11日,Aye Ko大佐をはじめ計画党指導部が両地を視察,破損状況などを見てまわった。
DIA-211-1975-06-12-1ミャンマー1975年06月12日1970年代基礎食料品価格を統制―首相官房室は布告第1/75号を発布14品目の食料品価格を統制する旨発表した。この措置は価格凍結ではなくて,小売,卸売価格の騰貴を各郡人民評議会がチェックし,1968年の社会主義経済建設権限法に基づき貿易省は適切な措置をとるというもの。なお14品目の内訳は全品種米(民間取引),普通米(民間取引),砕米(民間取引),米ぬか(民間取引),落花生油,胡麻油,塩(民間取引),乾燥チリー(短),乾燥チリー(長),玉ねぎ,ふすま,sadawpe,penilay,peyaza,pesingonである。 なおこの措置に関し,貿易省は布告第6/75号を発表,14品目の上限価格を定めた。上限小売価格は以下のとおり。
DIA-211-1975-06-12-2ミャンマー1975年06月12日1970年代価格統制委員会設置―貿易省は商品価格の統制を円滑に行ない価格の騰貴を抑制するための有効な調査や勧告を行なう価格統制委員会(議長・貿易省副大臣)を設置した。
DIA-211-1975-06-16-1ミャンマー1975年06月16日1970年代闇業者に強行措置―計画党中央執行委員U Ko Koは第一工業相U Hla AyeらとともにOkkyinのジュート工場を訪れ,労働者に経済困難について説明した。U Ko Koはこのなかで「反乱軍は国内の治安を乱しているばかりでなく,密輸や闇市を取しきって,経済を撹乱している。政府はこうした行為に強行措置をとっており,特にモンとアラカン両州で行動している。」などと述べた。
DIA-211-1975-06-17-1ミャンマー1975年06月17日1970年代物価大勢は落ち着く―物価統制令の布告後,ラングーンの物価は大勢として落ち着く方向にあるが,肉類,魚は依然として高値を続けている。これは小売マージンがviss当り5チャットと大幅であるためとされている。なお17日現在のラングーンでの小売価格は,viss当りで,大エビ14チャット,小エビ8チャット,にわとり15チャット等である。
DIA-211-1975-06-18-1ミャンマー1975年06月18日1970年代鉄道労働者を逮捕―治安当局はインセインの機関庫労働者24名を逮捕した。これは去る6月9日から11日までに生産活動を破壊し,労働者をデモに煽動し,公共物を破壊したというもの。
DIA-211-1975-06-18-2ミャンマー1975年06月18日1970年代Khin Maung Layを団長とする人民議会メンバー代表団7名がソ連を親善訪問するため出発した。
DIA-211-1975-06-18-3ミャンマー1975年06月18日1970年代運輸関係高官更迭―鉄道公社総裁U Tun Shein,総局長U Tha Sinなどを含む鉄道公社高官,航空公社のマネージャー,パイロットなど10数名が,病気あるいは職務怠慢,密輸鴛助などの理由で辞職勧告を受けた。 なお,鉄道公社総裁には運輸省副大臣Khin Ohu大佐が兼任する。
DIA-211-1975-06-18-4ミャンマー1975年06月18日1970年代日本の商品借款―日本の商品借款合計65億円(1億3000万チャット)の供与に関する覚書が交換された。条件は10年据置,30年延払い,年2.75%である。
DIA-211-1975-06-19-1ミャンマー1975年06月19日1970年代ビルマ航空公社は同公社所属の18名のステユワードおよびステユワーデスを18日付で免職処分にした。これらは不正なチケットを横流ししたり,禁止されている荷物の輸送に便宜を与えたという理由。
DIA-211-1975-06-20-1ミャンマー1975年06月20日1970年代外務省第一書記官U Tha Tunが大統領官房長官に任命された。
DIA-211-1975-06-20-2ミャンマー1975年06月20日1970年代学生暴動に関連したとして逮捕されていた3名の共産党シンパ学生に対する特別法廷で4~7年の懲役刑が言い渡された。
DIA-211-1975-06-21-1ミャンマー1975年06月21日1970年代労働者28人を逮捕―治安当局はデモおよび生産破壊を煽動したとしてラングーン駅の機関区鉄道員など28人を逮捕したと発表。
DIA-211-1975-06-22-1ミャンマー1975年06月22日1970年代党の指導は賞讃さるべきもの―Hlaing郡党支部代表Yebaw Teza Tin Ohnは党支部主催の労働者との対話集会で,「計画党指導部による人民との接触は賞讃さるべきもの,一般大衆との距離がなくなり大衆と共に歩むことは評価される」と述べた。
DIA-211-1975-06-23-1ミャンマー1975年06月23日1970年代第10回計画党中央委員会―第10回計画党中央委員会(2日間)が開かれ,第1日目は党議長ネーウィン大統領が開会演説,サンユー書記長が中央執行委員会報告を行なった。
DIA-211-1975-06-23-2ミャンマー1975年06月23日1970年代テロリストを指名手配―去る3月2日Kyaikkasan広場で爆弾を投げつけ,さらに5月4日にはスーレパゴダで爆弾を投げた犯人ウ・ヌー派テロリストKyaw Myint(27歳)を国家情報局は全国に指名手配した。
DIA-211-1975-06-24-1ミャンマー1975年06月24日1970年代計画党は反共政党ではない―第10回計画党中央委員会最終日にネーウィン議長は演説をし,要旨つぎのように述べた。 (1)計画党は反左翼および反共政党ではない。計画党はビルマ共産党の行動に対し闘っているのである。何故ならビルマ共産党は独立を脅やかし,武装反乱をもって混乱を巻き起している。 (2)経済問題は今日のビルマの緊急問題である。問題の解決には生産を高めることである。 (3)最近の暴動やデモ事件などを取締るには現行法では不充分である。適切な法律を追って制定しなければならない。しかし,政府は法に基づく行動を遵守するつもりである。 なお中央委員会はこのあと決議文を採択,閉会した。
DIA-211-1975-06-24-2ミャンマー1975年06月24日1970年代新中央委員任命―第10回計画党中央委員会で新しい5名の中央委員を選出した。新メンバーはKyaw Nyein大佐,Khin Ohn大佐,U Hla Tin,Than Tin大佐,U Ohn Kyawである。
DIA-211-1975-06-24-3ミャンマー1975年06月24日1970年代UNDP駐ビルマ代表は,1974年から1978年までの第2次5ヵ年計画用に総額3500万ドルの借款を供与すると公式発表した。 なおUNDP借款の部問別投資内訳は農・鉱業19%,工業13%,運輸・通信および社会計画8%,教育・保健など7%,水および電源開発6%,労働管理・雇傭8%,国際貿易1%。
DIA-211-1975-06-24-4ミャンマー1975年06月24日1970年代米の略奪事件増える―ベグー駅で武装した一群が米の貨車を襲い,鉄道公安員を銃撃して逃走した。この種の事件が最近各地で発生している。
DIA-211-1975-06-26-1ミャンマー1975年06月26日1970年代パイプラインから石油を盗む―シュリアムのビルマ石油公社精油所から船着場まで敷かれている送油管に穴をあけて灯油が大量に盗まれていたことがこのほど発覚,またその穴から灯油が付近の田畑に流れ出て,60エーカーの作物に被害を与えた。
DIA-211-1975-06-26-2ミャンマー1975年06月26日1970年代石油化学公社でも大量解雇―石油化学産品及天然ガス販売公社の総裁U Aung Theinをはじめとする3人の役職員の辞職が認められ,さらに10数名の同公社職員が解雇された。これは同公社の汚職,不正などの責任をとられたもの。
DIA-211-1975-06-27-1ミャンマー1975年06月27日1970年代元軍人に懲役10年―ウ・ヌー派軍と連絡し,アウン・サン廟の攻撃や空軍機のハイジャックを計画したとして72年に逮捕されていた元ICS将校U Saw Hanと元空軍軍曹U San Khinkに10年の懲役刑が言い渡された。
DIA-211-1975-06-28-1ミャンマー1975年06月28日1970年代密輸取締り―国家情報局員によるメルグイ地方での密輸取締りが軍の援助の下で行なわれ,Palaw近辺ではゴム,ガピー,小エビ,その他水産品,カシューナットなどを外国へ密輸しようとしていた小舟5隻を摘発した。取締りは特に河川沿岸で行なわれている。
DIA-211-1975-06-28-2ミャンマー1975年06月28日1970年代シャン北部で共産軍と激戦―北東軍管区司令部は共産軍掃滅のためのAung Kyaw Moe作戦を展開しているが,最近Tangyang郡Mankyaung Nakha地域でサルウィン河を渡って侵入してきた共産軍大部隊と交戦,6月22日から6日間連続の戦闘をし,また空軍機の応援も得て,これまで反乱軍120名が戦死,多数を負傷させた。政府軍側は32名戦死,73名負傷,4名が行方不明である。
DIA-211-1975-06-29-1ミャンマー1975年06月29日1970年代アラカンの米不足続く―1日当り平均数千袋の米が密輸出されているアラカン地方では,主に給料生活者の間で米不足が深刻になっている。治安当局は密輸取締りを強化しているが,陸海路で続々とバングラへ密輸されている。
DIA-211-1975-06-30-1ミャンマー1975年06月30日1970年代カレン州北部Thandaung郡Hteikpu村付近で政府軍第77師団所属の第102歩兵連隊部隊がカレン反乱軍の武器貯蔵所を発見,M2対戦車砲20門,ブローニング自動小銃4丁,M16自動小銃5丁,7.9口径銃弾3150個などを押収した。
DIA-211-1975-07-01-1ミャンマー1975年07月01日1970年代サンユー国家評議会議長はラングーンのPhaunggyi中央行政訓練学校で開かれた第1回各レベル人民評議会執行委員に対する特別訓練コースで講演,人民評議会の役割などを説明した。
DIA-211-1975-07-02-1ミャンマー1975年07月02日1970年代75/76年産米買付計画―第1号交易公社は1975/76年度産米の買付計画を発表,買付は合計1億5000万バスケット(籾)とした。なお地区別予定量はつぎのとおり。(単位はバスケット) サガイン管区 990万 イラワジ管区 5660万 マンダレー管区 430万 モン州 630万 マグウエ管区 230万 テナセリム管区 70万 ペグー管区 4380万 カチン州 200万 ラングーン管区 1710万 シャン州 10万 アラカン州 650万 カレン州 40万
DIA-211-1975-07-03-1ミャンマー1975年07月03日1970年代新駐日大使にU Thaung Lwinが任命された。
DIA-211-1975-07-04-1ミャンマー1975年07月04日1970年代Dr. Nyi Nyi駐豪大使に―前鉱業相Dr. Nyi Nyiは駐オーストラリア大使に任命された。なお外務省は同日付で新駐イタリー大使に現計画党中央問題委員会書記長U Shwe Zan Aungを任命した。
DIA-211-1975-07-05-1ミャンマー1975年07月05日1970年代新駐米大使にU Tin Latが任命された。
DIA-211-1975-07-06-1ミャンマー1975年07月06日1970年代石油産出量減少の見込み―ビルマ石油公社は1975/76年度石油産出量推計を修正,原油生産の当初見込み878万バーレルを778万バーレルとした。 各産地別の推計生産量はつぎのとおりである。 Chauk. Lanywa,Yenangyat, 34万1100(バーレル) Yenangyaung 113万3600 Myanaung 54万9100 prome 45,9300 Mannおよびその他 530万1600
DIA-211-1975-07-09-1ミャンマー1975年07月09日1970年代パガンで地震―パガンの旧都付近で震度3(8ガル,弱震)の地震が発生,多くの遺跡に亀裂が生じたり,建物の頂上付近がくずれおちたりした。文化相U Aye Maungが急拠視察した。
DIA-211-1975-07-11-1ミャンマー1975年07月11日1970年代国連代表にMyint Maung准将―政府は国連代表に現人民議会メンバーのMyint Maung准将を任命した。
DIA-211-1975-07-14-1ミャンマー1975年07月14日1970年代国防相Tin Oo大将は農林相U Ye Gaung, 計画党中央委員U Tin Aye Kyawらとともに,11日から14日までイラワジ管区西部を視察,労働者,農民と接触した。
DIA-211-1975-07-15-1ミャンマー1975年07月15日1970年代中央統計局長が駐仏大使に―大統領は現中央統計局長(財務・計画省管轄)U Thet Tunを新駐仏大使に任命した。
DIA-211-1975-07-16-1ミャンマー1975年07月16日1970年代ミチナ=ラングーン便開設―BAC(ビルマ航空公社)はラングーン=ミチナ間の直通便を開設したg週2便。
DIA-211-1975-07-16-2ミャンマー1975年07月16日1970年代通商に関する大使会議―貿易相主催の対外通商発展に関する大使会議が開かれ,主要国駐在大使が出席した。
DIA-211-1975-07-16-3ミャンマー1975年07月16日1970年代学生暴動犯人に極刑―ラングーン特別法廷は6月の学生暴動に関係した学生,労働者などの裁判を行なっていたが,このほど計203名に4年から9年の懲役刑を言い渡した。また7月24日には2名が13年,1名が8年の刑を言い渡された。
DIA-211-1975-07-17-1ミャンマー1975年07月17日1970年代汚職に警告―協同組合相は同省管轄下の公社の責任者を集め汚職,不正,浪費について重大な警告をした。
DIA-211-1975-07-17-2ミャンマー1975年07月17日1970年代財務・計画省副大臣U Myo Mintと高等教育局長U San Tha Aungは米国の教育機関を視察中であるが,このほどハーバード大学を訪れた。
DIA-211-1975-07-17-3ミャンマー1975年07月17日1970年代Tin Oo大将イラワジ地方を視察―計画党中央執行委員Tin Oo大将は11日から17日までイラワジ管区各地方を視察,労働者,農民,学生などと懇談した。
DIA-211-1975-07-20-1ミャンマー1975年07月20日1970年代新駐ソ連大使に計画党中央問題委員会書記長U Myo Myint,新駐チェコ大使にシャン州評議会員Dr. Ba Maungがそれぞれ任命された。
DIA-211-1975-07-23-1ミャンマー1975年07月23日1970年代不活動党員に出頭命令―計画党中央委員会は党員でありながら長い間活動せずに,また何処の支部とも接触しないいわゆる不活動党員に対し,期限までに最寄りの党支部に出頭または連絡することを命じた。
DIA-211-1975-07-23-2ミャンマー1975年07月23日1970年代国家評議会書記長サンユー大将は北朝鮮金日成主席特使楊亨燮及びその一行と会見した。また24日にはネーウィン大統領が会見した。
DIA-211-1975-07-24-1ミャンマー1975年07月24日1970年代公務員に対する粛正―政府は国家公務員(公社も含む)に対し,職務怠慢,公金不正使用などの綱紀の緩みに対する取締りを強化しているが,このほど農林省関係公務員481人が摘発された。
DIA-211-1975-07-25-1ミャンマー1975年07月25日1970年代ラシオ近郊Tangyangで住民5000人が集まって共産党に対する抗議集会を開いた。
DIA-211-1975-07-27-1ミャンマー1975年07月27日1970年代私営工場主を摘発―ラングーンの私営工業監査委員会は市内89人の私営工場主を原料の不正横流し,闇行為などで摘発し,政府公社からの原料供給を停止することに決定した。 これらの工場はほとんどが食品加工業である。
DIA-211-1975-07-28-1ミャンマー1975年07月28日1970年代閉鎖中のラングーン大学の学生のための試験が各学生の出身地で開始された。
DIA-211-1975-07-28-2ミャンマー1975年07月28日1970年代貨車から闇米を摘発―鉄道警察は鉄道貨物として輸送中の闇米を3日間で600袋押収した。この闇米の輸送には鉄道関係者らの官吏も関係しているとして捜査が開始された。
DIA-211-1975-07-30-1ミャンマー1975年07月30日1970年代:Lo Hsing-hanの裁判―麻薬王Lo Hsing-hanの裁判がラングーン管区裁判所で続けられているが,これまでに以下のようなことが判明した。 (1)1965年にLo Hsing-hanは政府の要請でKokang地域でKar Kwe Yay(民間防衛隊)を組織した。 組織する際の資金は警察の金で支払われた。最初この組織は100丁の武器と150人の兵士からスタートした。1973年4月までに勢力は1300人,武器700丁を有すまでになった。 (2)1973年4月20日政府は39のKKYの解隊を指令した。Lo Hsing-hanはこの解隊を4月30日まで延期してくれるよう要請した。しかし,1973年5月に入ってLo隊はLwese地区のMangrinに行き,Lwemoi軍,IBMND(台湾軍国防省情報局)所属隊,シヤン州立軍(SSA),KMT第3/5旅団,Bo Laik UおよびTaik Se軍などと接触して,5月23日に“北シャン州解放戦線”を結成,Loはこのリーダーに選ばれた。 (3)6月3日にLo隊は政府軍“Man Aung作戦”および“Aung Thanlwin作戦”の一隊と交戦,Lo隊はタイ領に逃げた。そこでタイ政府軍に逮捕されて8月2日ビルマに送還された。 (4)68年2月14日から73年4月30日までLoはKKYの隊長として不法にビルマ・タイを往復して,麻薬,麻薬製品,ヒスイ,宝石などを牛車隊,自動車,飛行機・
DIA-211-1975-07-30-2ミャンマー1975年07月30日1970年代自動車持ち込みを制限―政府は外国からの帰国者が自動車を持ち込む場合,これまでは代理人でも受け取れたが,これからは本人が受け取る者に限って許可すると発表。またこれによると持ち込み制限は1家族1台に限る。
DIA-211-1975-08-04-1ミャンマー1975年08月04日1970年代シャン州Kyaukme郡Kywegonの寺院で当郡内の農民300名を集めて共産党の残虐行為を糾弾する集会が開かれた。席上主催者は「共産軍は罪のない農民を殺害することに何のためらいもない。農民からかってに税金を集め,村の学校を閉鎖した」などと述べた。
DIA-211-1975-08-06-1ミャンマー1975年08月06日1970年代第23号交易公社(包装)総裁U Khin Ooと2名の職員が逮捕された。総裁逮捕の理由は公用車のヘッドライトを自分の車に取り付けたというもの。
DIA-211-1975-08-06-2ミャンマー1975年08月06日1970年代U Hla Phone外相は24時間の予定でビェンチャンを訪れ,パテト・ラオの副首相代行Phoune Sipraseuth准将と会見,ビルマを公式訪問するよう招待した。
DIA-211-1975-08-07-1ミャンマー1975年08月07日1970年代モールメンから米を輸出―第1号交易公社モールメン支所はインドネシア向けに7700トンの米を輸出した。
DIA-211-1975-08-07-2ミャンマー1975年08月07日1970年代マンスフィールド米上院議員が4日間の訪問予定でビルマを訪れた。この間ネーウィン大統領と非公式に会見した。
DIA-211-1975-08-08-1ミャンマー1975年08月08日1970年代ビルマ連邦銀行の新総裁にラングーン大学経済学部長Dr. Aye Hlaingが任命された。
DIA-211-1975-08-08-2ミャンマー1975年08月08日1970年代外相北京を公式訪問―U Hla Phone外相は中国を公式訪問する予定で,北京に到着した。空港には喬冠華外相らが出迎えた。
DIA-211-1975-08-08-3ミャンマー1975年08月08日1970年代6月騒動逮捕者に極刑―ラングーン市特別法廷は6月の騒動時に逮捕されていた者についての裁判を行なっていたが,このほど52名に対し判決を言い渡した。これによるとうち21名が懲役16年,14名が懲役13年,17名が懲役10年である。
DIA-211-1975-08-09-1ミャンマー1975年08月09日1970年代セイン・ウィン首相は農林副大臣U Thein Hanらを伴いカレン州を訪れ,州都Pa-an近郊農村を視察した。
DIA-211-1975-08-09-2ミャンマー1975年08月09日1970年代国有化ビルを返却―U Ohn Kyaw建設副大臣を委員長とする特別委員会は先に国有化されたビル建物を返却するよう要請していた76名の旧所有者に対しこのほど返却することを決定した。
DIA-211-1975-08-10-1ミャンマー1975年08月10日1970年代Karaweikホール落成―ラングーン市内ロイヤル湖上に完成した国営レストランKaraweikホールが予定より1年遅れて開業した。これは第20号交易公社(観光業)の管轄になる。
DIA-211-1975-08-10-2ミャンマー1975年08月10日1970年代陸軍副参謀長がカチン州を視察―陸軍副参謀長Kyaw Htin准将は8月6日から10日まで北東軍管区を視察,ミチナの第58連隊,ラシオの第99歩兵師団,タウンジーの第1,第2野戦病院などを巡察した。
DIA-211-1975-08-10-3ミャンマー1975年08月10日1970年代外相中国外相と公式会談―北京を訪問中のU Hla Phone外相は喬冠華外相と公式会談を行なった。
DIA-211-1975-08-10-4ミャンマー1975年08月10日1970年代KIA反乱軍指導者内ゲバで死亡―KIA(カチン独立軍)のリーダーZau Sengとその弟で司令官補佐Zau Tuおよび書記長Pon Shwe Zau Sengが8月10日,北部タイ領Chengrai県のKIA国外事務所本部で金銭問題のトラブルで配下に射殺された。これは指導者が麻薬やヒスイの密輸あるいは強奪した多額の金を持ち込んではタイ領内で組織のための支出よりは自分たちのためのぜいたく品を買い込んだことに反発した下級兵士が射殺したものとされている。Zau Sengのもう1人の弟Zau DanとKIA第4旅団司令官は1975年3月1日に北シャン州Kutkai郡内のジャングルで,共産党軍との領域問題の紛争の後,殺されている。この3人兄弟の死とKIAにあってビルマ人とカチン族の離反を煽動していたPon Shwe Zau Sengの死はKIA指導体制の力を大幅に低下することになった。
DIA-211-1975-08-11-1ミャンマー1975年08月11日1970年代外相,鄧小平副首相と会談―中国を訪問中のU Hla Phone外相は鄧小平副首相,喬冠華外相と会談。
DIA-211-1975-08-13-1ミャンマー1975年08月13日1970年代陸軍副参謀長東南軍管区を視察―陸軍副参謀長Kyaw Htin准将はモールメンの東南軍管区本部を訪れ,本部将校に対し演説したのち,第104歩兵連隊,イラワジ海軍基地などを視察した。
DIA-211-1975-08-13-2ミャンマー1975年08月13日1970年代商品統制令違犯者を逮捕―貿易省指令第6/75号およびラングーン軍政令第10/11号によって14品目の食糧品が国家統制にされているが,これに違犯した者13名がこのほど逮捕された。
DIA-211-1975-08-14-1ミャンマー1975年08月14日1970年代韓国特使来訪―韓国朴大統領の特使Dr. Soyong Chungが来訪,空港にはTin Oo外相代行,U Ye Goung農林相らが出迎えた。
DIA-211-1975-08-14-2ミャンマー1975年08月14日1970年代北東軍管区Tangyang郡Mongkyaing村で当郡内の農民1250名が集まって反共集会を開き,共産党の暴力行為を非難し,共産党を追放するため国軍と協力しようと呼びかけた。北部シャン州では各地でこのような反共集会が開かれている。
DIA-211-1975-08-15-1ミャンマー1975年08月15日1970年代モールメンの工業生産大幅に低下―モールメン地区の国営工業は今年の生産目標を大幅に下回ることになりそうだと当局が発表。これによると主要工場でのこれまでの目標達成率はつぎのとおりである。 セラミック工場 66~37%(製品による) モールメン醸造 13% 製材工場 84% 鋼ロープ工場 45~21% 米油工場 13%
DIA-211-1975-08-16-1ミャンマー1975年08月16日1970年代中国を訪問したU Hla Phone外相は北朝鮮を公式訪問,平壌でHo Dam外相と会見した。
DIA-211-1975-08-18-1ミャンマー1975年08月18日1970年代Tin Oo外相代行はバングラデシュ新大統領K.N.アーメドに「友好と協力関係は変わらない」とのメッセージを送った。
DIA-211-1975-08-20-1ミャンマー1975年08月20日1970年代今年産米予想は4億1800万バスケット―第14期農民評議会マネージメント・コース卒業式の席上U Thaung Kyi中央農民評議会議長は「1975/76年度の米作付面積は1260万エーカー,生産は4億1820万バスケットと予想される」と述べた。なお全体の農業生産は対前年度比7.1%の増加を予想していることも明らかにした。
DIA-211-1975-08-20-2ミャンマー1975年08月20日1970年代パキスタン特使来訪―パキスタンのブット大統領特使Mumtaz Ali Bhutto通信相が来訪,Tin Oo外相代理,Sein Lwin運輸相らが出迎えた。
DIA-211-1975-08-20-3ミャンマー1975年08月20日1970年代北朝鮮を公式訪問したU Hla Phone外相は19日再び北京に到着,20日喬冠華外相と会談した。
DIA-211-1975-08-22-1ミャンマー1975年08月22日1970年代副首相スウェーデンを訪問―ウ・ルウィン副首相はスウェーデン貿易相の招待を受けて6日間の予定でスウェーデン訪問に出発した。なお同行者は海外経済関係局長U Chien Haiなどである。
DIA-211-1975-08-22-2ミャンマー1975年08月22日1970年代6月暴動で逮捕されていたもののうちさらに183名が懲役4年から10年の刑を言い渡された。
DIA-211-1975-08-25-1ミャンマー1975年08月25日1970年代収税状況はまだ悪い―関税局と国税局の調整会議が開かれ,U Myo Myint計画・財務副大臣は税金の収集状況はまだ満足すべき状態でないと述べ,目標を達成するよう関係者に訓示した。
DIA-211-1975-08-25-2ミャンマー1975年08月25日1970年代北東軍管区司令官Tin Sein大佐は第99歩兵師団長らとともに23日から3日間北東軍管区地域の戦闘部隊を視察。
DIA-211-1975-08-25-3ミャンマー1975年08月25日1970年代赤旗共産党掃討作戦―北西軍管区司令官Hla Tun大佐と同副司令官Soe Myint大佐はSeikpyuおよびSalin郡内の村民に対し赤旗共産党掃討作戦に協力するよう要請した。なお同郡内は赤旗共産党の活動領域となっている。
DIA-211-1975-08-27-1ミャンマー1975年08月27日1970年代協同組合,新制度を導入―協同組合省は配給物資流通のスピード化と費用削減のための新制度を導入したことを発表した。
DIA-211-1975-08-27-2ミャンマー1975年08月27日1970年代内務省は発禁されている小説を出版した印刷所,出版社に対してこれ以上出版を続けると処分すると警告。
DIA-211-1975-08-29-1ミャンマー1975年08月29日1970年代国家評議会は人民議会事務局長にU Aung Khin Tintを任命した。
DIA-211-1975-08-30-1ミャンマー1975年08月30日1970年代ラングーン市内を通行中の国営バスに手投弾が投げ込まれ,24人が負傷した。なお犯人はU Thwinの義兄Bo Te Tunの指示を受けた青年で400チャットで引き受けたと自供。なお犯人は数時間後に逮捕された。
DIA-211-1975-08-31-1ミャンマー1975年08月31日1970年代政府機関の人事更迭続く―8月末に第一工業省,IWTCなどで課長クラスの更迭が行なわれた。これは一連の政府官吏の不正,腐敗追放の一部である。
DIA-211-1975-08-31-2ミャンマー1975年08月31日1970年代今年度産米は良好―1975/76年度産米について農林省はつぎのように見込みを発表した。 作付面積 1260万エーカー 生産量(籾) 4億1820万バスケット うち政府買上げおよび輸出用ストック 1億5000万バスケット
DIA-211-1975-09-01-1ミャンマー1975年09月01日1970年代協同組合省と貿易省の両副大臣が農産物の買上げ促進と配給のスピードアップを実現するために両省の協力体制強化について話し合った。
DIA-211-1975-09-01-2ミャンマー1975年09月01日1970年代マンダレーで爆弾―マンダレー近郊の国鉄Paukkan駅で手投弾が投げ込まれ爆発,1人死亡,9人が負傷した。
DIA-211-1975-09-03-1ミャンマー1975年09月03日1970年代農林相東南アへ―Ye Goung農林相はマレーシア,フィリピン,シンガポールを公式訪問するため出発した。農林相は3国で農・水産業開発について意見交換する。9月19日帰国。
DIA-211-1975-09-04-1ミャンマー1975年09月04日1970年代輸出貿易促進委員会―貿易省は輸出を拡大し外貨を増大するため,その目標を設定し,具体策を作成する輸出貿易促進委員会を結成した。同委員会は関係各省からの代表がメンバーとなる。
DIA-211-1975-09-06-1ミャンマー1975年09月06日1970年代食用油価格改定―貿易省は落花生,胡麻の卸売価格改定に伴う食用油の公定価格を改定すると発表。 これによると生産地での卸売価格は1viss当り落花生油17チャット,胡麻油16チャットである。生産地以外での郡では上記価格に輸送コストと2%のマージンを加えた価格,小売価格はこれに10%のマージンを加えたもので1viss当り23チャットを超えない価格となる。
DIA-211-1975-09-08-1ミャンマー1975年09月08日1970年代モン州内で密輸された自動車の保有者合計445人が送検された。なお税関はモールメン郡などで密輸自動車445台も同時に押収した。
DIA-211-1975-09-09-1ミャンマー1975年09月09日1970年代援助物資の不正を取締り―計画・財務省の機材管理委員会は9月1日より,国連や外国政府からの援助物資が不正使用されていないかどうか総点検を始めた。特に自動車や機械などの援助物資が私的に使用されていないかどうか厳しくチェックされる。
DIA-211-1975-09-09-2ミャンマー1975年09月09日1970年代政府官吏の汚職取締続く―政府官吏に対する汚職や不正の取締りが続けられているが,第一工業省,交易公社などで多数の中堅幹部が摘発された。
DIA-211-1975-09-11-1ミャンマー1975年09月11日1970年代露店の禁止―ラングーン市内における舗道上で店開きしているすべての露店が本日付で禁止され,ラングーン市開発委員会によって特設された場所に集められた。露店主はそれぞれ特設マーケット内の敷地をクジ引きで割り当てられ,移動した。
DIA-211-1975-09-14-1ミャンマー1975年09月14日1970年代ネーウィン大統領地方視察―ネーウィン大統領はU Ko Ko内相,U Maung Maung Kha鉱業相,第二工業相Maung Cho大佐,国防副大臣Kyaw Htin准将らとともに9月11日から14日までMogok,Madaya,Paganを視察した。
DIA-211-1975-09-15-1ミャンマー1975年09月15日1970年代北朝鮮農業代表団が公式訪問,農林副大臣Dr. Bo Layらが出迎えた。
DIA-211-1975-09-19-1ミャンマー1975年09月19日1970年代ゴム買付順調―第1号交易公社は1975/76年度のゴム買付予定を1万5000トンと設定したが,8月末までに1万2060トンを買付けた。地区別ではテナセリム5660トン,モン州5520トン,その他となっている。
DIA-211-1975-09-19-2ミャンマー1975年09月19日1970年代テロリストに無期懲役―Kyauktada郡裁判所は1973年10月に逮捕された爆弾テロリスト(Thwin派亡命グループ)2名(男女)について無期懲役刑を言い渡した。この2人は1973年3月末までタイ領内HophaiのThwin派中央師団キャンプで訓練を受け,同年10月3日ラングーンの数ヵ所に爆弾を仕掛けて逮捕されていたもの。
DIA-211-1975-09-20-1ミャンマー1975年09月20日1970年代ラングーン軍管区所属師団は8月20日からHleguおよびHmawbi郡内で未登録武器の押収作戦を行ないこれまでにピストル,カービン銃など約100丁の武器を押収,119名を逮捕した。
DIA-211-1975-09-20-2ミャンマー1975年09月20日1970年代カヤ州の地域開発―カヤ州のロイコーを含む3郡で農業開発を主とする地域開発が進められているが,今年度はこの計画に総額25万6950チャットが計上されている。
DIA-211-1975-09-21-1ミャンマー1975年09月21日1970年代テロリスト逮捕さる―4月5日ラングーンの市街地で爆弾を投げて1人が死亡,35人が負傷した事件の犯人がLashioのホテルで逮捕された。調べでは犯人は2月にThwin派逃亡者グループに600チャットでやとわれたという。
DIA-211-1975-09-25-1ミャンマー1975年09月25日1970年代大統領は駐西ドイツ大使に現計画・財務副大臣U Chit Moungを任命した。
DIA-211-1975-09-27-1ミャンマー1975年09月27日1970年代国連総会にビルマ政府代表として出席するUHla Phone外相が出発した。
DIA-211-1975-09-29-1ミャンマー1975年09月29日1970年代人民評議会役員会議―第3回人民評議会(各レベル)執行委員会がラングーンで行なわれ,ウ・ルウィン副首相が演説,経済計画の推進と議会運営の円滑化を要請した。
DIA-211-1975-09-29-2ミャンマー1975年09月29日1970年代カレン地区の治安を討議―Pa-anのカレン族居住地区の治安回復を検討するための会議が開かれ,第一戦略師団長兼南東軍管区副司令官Min Naung大佐,カレン州人民評議会員,住民代表らが出席した。席上Pa-an郡民兵隊監察委員会議長は,現在同郡内に民兵隊が15隊組織されていることを明らかにした。
DIA-211-1975-10-01-1ミャンマー1975年10月01日1970年代情報相辞職―情報相U Chit Khinは健康上の理由で辞職を認められた。
DIA-211-1975-10-02-1ミャンマー1975年10月02日1970年代ユーゴのBijedic首相夫妻がハノイ訪問途中ラングーンに立寄り,空港でウ・セイン・ウィン首相らと会談した。
DIA-211-1975-10-05-1ミャンマー1975年10月05日1970年代韓国貿易代表団来訪(6日間)。
DIA-211-1975-10-06-1ミャンマー1975年10月06日1970年代インドからジープを密輸―チン州のTiddimで,警察当局はインドから密輸されたジープ3台を押収。
DIA-211-1975-10-08-1ミャンマー1975年10月08日1970年代インド首相特使来訪―ガンジーインド首相の特使としてShri Raj Bahadurが来訪,ネーウィン大統領と会見(3日間)。
DIA-211-1975-10-10-1ミャンマー1975年10月10日1970年代運輸・通信省は道路水運委員会を設置すると発表。
DIA-211-1975-10-10-2ミャンマー1975年10月10日1970年代貿易省副大臣U Thein Nyunを団長とする9人の広東交易代表団が出発した。
DIA-211-1975-10-10-3ミャンマー1975年10月10日1970年代国連総会出席のため米国に滞在中のU Hla Phone外相はワシントンでインガソル国務次官補と会談した。
DIA-211-1975-10-11-1ミャンマー1975年10月11日1970年代共産党中央委員殺さる―ビルマ共産党中央委員Soe Kyiと共産党ペグー地区委員会の元委員Bo Phone Kyawが政府軍第30連隊の攻撃によって,Daik-U郡Bawni村近郊で射殺された。
DIA-211-1975-10-12-1ミャンマー1975年10月12日1970年代U Ko Ko内相は回教徒指導者と会談,回教徒の要求を聴取した。
DIA-211-1975-10-13-1ミャンマー1975年10月13日1970年代第11回党中央委員会―第11回党中央委員会総会が開かれ,ネーウィン議長が演説した。
DIA-211-1975-10-14-1ミャンマー1975年10月14日1970年代政府軍,麻薬精製所を占拠―政府軍部隊は9月後半にシャン州サルウィン川西岸域の各所でシャン反乱軍と交戦,Langkho南方でシャン統一革命軍(SURA)経営の麻薬精製所を占拠した。
DIA-211-1975-10-15-1ミャンマー1975年10月15日1970年代第4回人民議会開会―第1期第4回人民議会が開かれ,ネーウィン大統領が開会宣言,セイン・ウィン首相が閣僚評議会を代表して,基調報告をし,サンユー大将が国家評議会報告を行なった(10月31日まで)。
DIA-211-1975-10-15-2ミャンマー1975年10月15日1970年代人民事評議会は現在,全国314郡のうち162郡で事務所を開設している。
DIA-211-1975-10-16-1ミャンマー1975年10月16日1970年代U Lwin(Magwe郡2区選出)が閣僚評議会新メンバーに,U Lwin Maung(Wundwin 1区)とHla Maung大佐(Moulmeingyun 2区)が人民判事評議会メンバーにそれぞれ選出された。
DIA-211-1975-10-20-1ミャンマー1975年10月20日1970年代国有化資産の返還―人民議会の席上ウ・ルウィン計画・財務相は質問に答えて,国有化されて後,国家がそれを運用していない建物,装置については返還されるであろうと述べ,補償も支払われるであろうとし,技術的な方法について検討中であることを明らかにした。
DIA-211-1975-10-21-1ミャンマー1975年10月21日1970年代閣僚の人事異動――人民議会は国家評議会の提案した閣僚人事をつぎのように承認した。 前情報相 U Maung Maung Kha―鉱山・労働相 前協同組合相 Sein Lwin大佐―運輸・通信相 前労働相 U Tun Tin―協同組合相 新任 U Lwin―情報相
DIA-211-1975-10-22-1ミャンマー1975年10月22日1970年代中国に工業代表団―第一工業相U Hla Ayeを団長とする21人の工業代表団が中国を正式訪問するため北京に向った。
DIA-211-1975-10-22-2ミャンマー1975年10月22日1970年代KIA反乱軍第1連隊のBran Shaung軍曹はバーモに現われた際,政府軍密偵に発見され,ピストルで射ち合いになったが,射殺された。
DIA-211-1975-10-23-1ミャンマー1975年10月23日1970年代人民議会8日目,反乱軍問題についての討議のなかで,シャン州内における共産軍およびLaimaw中国人軍の動向が報告された。
DIA-211-1975-10-24-1ミャンマー1975年10月24日1970年代学生問題に対する政府見解―人民議会で学生問題に関する質疑応答が行なわれ,ウ・セイン・ウィン首相は,現行教育制度は党の基本方針に従って改革されねばならない,大学は間もなく再開するが,それまで平和的に授業が進められるような措置がとられようなどと述べた。
DIA-211-1975-10-27-1ミャンマー1975年10月27日1970年代ラングーンに緊急物資―ラングーン管区郡協同組合連合は政府各公社との協力で公社産出の製品128品目,総額3000万チャットを管区内の協同組合をつうじて緊急に救出することを開始した。
DIA-211-1975-10-31-1ミャンマー1975年10月31日1970年代モン州人民評議会は各郡人民評議会に対して,今年産米の籾買付が目標を達成するよう訓令するとともに,契約違反の農民に警告することを指示した。なお昨年のモン州における買付目標達成率は郡平均92.6%であった。
DIA-211-1975-10-31-2ミャンマー1975年10月31日1970年代新米価発表―貿易省は1975~76年度籾の買上価格をつぎのように発表,なおこの価格は精米所及び倉庫渡し価格で,これから輸送コストが差し引かれる。11月1日から施行。100バスケット当り,
DIA-211-1975-11-02-1ミャンマー1975年11月02日1970年代フランス政府特使と経済代表団が来訪,12日間滞在。
DIA-211-1975-11-03-1ミャンマー1975年11月03日1970年代Tin Oo大将カチン北部を視察―国防相,国軍参謀長Tin Oo大将は空軍参謀長Saw Pru准将らと共に10月31日から4日間,北部軍管区地域を視察した。
DIA-211-1975-11-05-1ミャンマー1975年11月05日1970年代Sutopo大将を団長とするインドネシア防衛研究所の視察団が来訪,国防省副大臣Kyaw Htin准将らが出迎えた。
DIA-211-1975-11-07-1ミャンマー1975年11月07日1970年代首相マンダレーを視察―セイン・ウィン首相は官房副長官Tint Swe大佐,鉱山省副大臣Than Tin大佐らと11月5日から3日間マンダレー管区内の経済施設を視察した。
DIA-211-1975-11-07-2ミャンマー1975年11月07日1970年代Waingmaw郡Shwenyaungbin村で村民2000人による対反乱軍抗議集会が開かれた。
DIA-211-1975-11-08-1ミャンマー1975年11月08日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のフランス政府特使と会談。
DIA-211-1975-11-11-1ミャンマー1975年11月11日1970年代ネーウィン大統領訪中―ネーウィン大統領は中国を公式訪問するため出発,同日北京に到着した。北京空港には鄧小平副首相らが出迎えた。 なお随行者は国家評議会員Dr. Maung Maung,U Tun Lin,外相U Hla Phone,国防副大臣Kyaw Htin准将らである。なお大統領の訪中は朱徳全人大常委委員長,周恩来首相の招待によるもの,11日夜周恩来首相に代行して鄧小平副首相主催の晩さん会が開かれた。
DIA-211-1975-11-11-2ミャンマー1975年11月11日1970年代密輸自動車の摘発開始―偽ナンバーを掛け,エンジンナンバーを書き替えたりして通用している密輸自動車の摘発が,税関情報官と警察,道路運輸局関係者らで始められた。
DIA-211-1975-11-12-1ミャンマー1975年11月12日1970年代ネーウィン大統領は鄧小平副首相と正式会談。
DIA-211-1975-11-12-2ミャンマー1975年11月12日1970年代貿易省は6月12日に価格統制の対象とした14品目のうち,中等米,Sadawpe,Penilay,Pezingonの4品目を対象から外すと発表。 また同日付で価格統制中の塩,玉ねぎ,チリーの価格上限を10~25%引き上げた。
DIA-211-1975-11-13-1ミャンマー1975年11月13日1970年代ネーウィン大統領,毛沢東と会見―また同日鄧小平副首相との第2回会談を行なった。
DIA-211-1975-11-13-2ミャンマー1975年11月13日1970年代大統領,シアヌーク元首と会談―ネーウィン大統領はU Hla Phone外相と共に北京でカンボジアのシアヌーク元首と会談した。
DIA-211-1975-11-14-1ミャンマー1975年11月14日1970年代ネーウィン大統領は鄧小平副首相と3回目の会談を行なった。同夜,大統領主催の晩さん会が行なわれた。
DIA-211-1975-11-14-2ミャンマー1975年11月14日1970年代オーストラリア政府は建設公社に対し,120万9000チャット相当の建設機械(20トン積ダンプ5台など)を贈与した。
DIA-211-1975-11-15-1ミャンマー1975年11月15日1970年代中緬共同声明発表―ネーウィン大統領と朱徳全人大常委委員長は共同声明を発表(内容は参考資料)。 また大統領一行は公式訪問の日程を終え,ラングーンに帰着した。
DIA-211-1975-11-15-2ミャンマー1975年11月15日1970年代海軍パトロール船はメルグイ地区Maputay島付近で,密輸船2隻を捕獲した。この密輸船にはタイ向けのゴム33束,鉛1550ビスが積込まれていた。
DIA-211-1975-11-18-1ミャンマー1975年11月18日1970年代ソ連の文化使節団が来訪。
DIA-211-1975-11-19-1ミャンマー1975年11月19日1970年代亡命者グループに厳罰―爆弾テロなどで当局に逮捕された亡命者グルーブ(旧ウ・ヌー派軍)に対する裁判が各地で行なわれているが死刑を含む厳罰が与えられている。
DIA-211-1975-11-24-1ミャンマー1975年11月24日1970年代亡命派テロリストを処刑―3月2日ラングーンで爆弾を投げ多数の死傷者を出して逮捕されていた亡命グルーブ(U Thwin派)のNyun Tinの死刑が執行された。死刑執行はネーウィン政府始まって以来のことである。
DIA-211-1975-11-26-1ミャンマー1975年11月26日1970年代国防相,ココ島を視察―国防相兼国軍参謀長は海・空副参謀長らとともに25,26日に亘って海軍基地のあるCocos島を視察した。
DIA-211-1975-11-30-1ミャンマー1975年11月30日1970年代ラングーン市内のクリーンキャンペーンを続けている市開発委員会は,1万3680名の特別奉仕隊を編成して,市内目抜きどおりの清掃,舗道の修理などを一斉に行なった。
DIA-211-1975-12-01-1ミャンマー1975年12月01日1970年代サンユー大将は国防相Tin Oo大将,計画党中央委員本部付U Tun Linらと11月30日から2日間にわたって,カチン州都ミチナを訪れ,主に軍関係者に対して国内外情勢を語った。
DIA-211-1975-12-04-1ミャンマー1975年12月04日1970年代貿易相T.B. Ilaangaratneを団長とするスリランカ貿易代表団が来訪。
DIA-211-1975-12-05-1ミャンマー1975年12月05日1970年代大学再開は1月5日―6月暴動から閉鎖したままの大学の再開について,教育省高等教育局は声明を発表し,76年1月5日に再開することに決定した。
DIA-211-1975-12-06-1ミャンマー1975年12月06日1970年代農林省は,畜産業を統合して畜産業公社を設立すると発表。
DIA-211-1975-12-08-1ミャンマー1975年12月08日1970年代ユーゴの陸軍参謀長Stane Potdar元帥が来訪,三軍総参謀長兼陸軍参謀長Tin Oo大将ら国軍幹部が出迎えた。
DIA-211-1975-12-09-1ミャンマー1975年12月09日1970年代サンユー大将北シャン州を視察―サンユー大将は12月7日から3日間,計画党中央委員会第一書記U Tun Linらとラシオ地区を中心に北部シャン州を視察した。
DIA-211-1975-12-11-1ミャンマー1975年12月11日1970年代ソ連共産党代表団来訪―ソ連共産党中央委員会委員Ivan Ivanovich Bodyulを団長とする共産党代表団が計画党中央委員会国際関係・外交部書記U Maung Maungに付き添われて到着した(10日間滞在)。
DIA-211-1975-12-18-1ミャンマー1975年12月18日1970年代副大統領,ソ連共産党指導者と会う―サンユー計画党書記長兼副大統領は来訪中のソ連共産党代表団と会見,計画党副書記長U Taung Kyi,書記局員U Tun Linらも同席した。
DIA-211-1975-12-20-1ミャンマー1975年12月20日1970年代国軍参謀長Tin Oo大将は東部軍管区の国境地区戦闘部隊を視察,Kengtungでは第88軽歩兵師団,Mong Pa Liaoでは第108軽歩兵連隊,第4チン銃隊などの将兵と会談した。
DIA-211-1975-12-20-2ミャンマー1975年12月20日1970年代セイン・ウィン首相はTavoyの大火被災地を視察,3日間滞在。
DIA-211-1975-12-21-1ミャンマー1975年12月21日1970年代第1号交易公社は当公社統制品目のうち,メイズ,Suntari,Matpe,Suntapya,Pedisein,Pezinngon,Butter beans,Peyin,Bocate,Pe-phyu-layなどの豆類を生産者から直接購入することに決定した。
DIA-211-1975-12-23-1ミャンマー1975年12月23日1970年代対外貿易部長李強を団長とする中国貿易代表団は個別会談に入ったが,李強団長はネーウィン大統領と会談(12月23~27日)。
DIA-211-1975-12-23-2ミャンマー1975年12月23日1970年代計画党書記長サンユー大将はU Tun Lin第1書記らと共にシャン州各地区の視察を行なっている(3日間)。
DIA-211-1975-12-23-3ミャンマー1975年12月23日1970年代ロイコーの住民がKNPP(カレンニ民族進歩党)の反乱活動を非難する抗議集会を開いた。
DIA-211-1975-12-24-1ミャンマー1975年12月24日1970年代民兵隊に武器増加―テナセリム地区の民兵隊の強化を図るため,第98連隊がPyapon,Mudon,Zalun地区の民兵隊に,武器供与を増加した。
DIA-211-1975-12-27-1ミャンマー1975年12月27日1970年代5民間団体を解散―内務省はラングーン・ロータリークラブ,ライオンズクラブ,世界平和会議など民間5団体の解散を命じた。
DIA-211-1975-12-29-1ミャンマー1975年12月29日1970年代計画党中央委員総会―計画党第12回中央委員総会が開かれ,ネーウィン議長が開会演説,サンユー書記長が基調報告を行なった(2日間)。
DIA-211-1976-01-01-1ミャンマー1976年01月01日1970年代KMT軍掃討作戦―12月中旬より,シャン州Mong Ping地区でKyaw Din大尉に率いられる政府軍第16連隊とAung Din少佐の第43連隊はKMT掃討作戦を行ない,これまでにKMT軍31名を殺し,40名を逮捕した。この他第65連隊も同地区で戦闘中である。
DIA-211-1976-01-04-1ミャンマー1976年01月04日1970年代KMT軍との戦闘―東部方面師団本部の副司令官Kyaw Min中佐に率いられる特別部隊はMong Ping郡内で麻薬運搬中のKMT軍と戦闘,59名を殺し,90名を逮捕,59名を投降させた。また57ミリ無反動砲を含む,276個の武器を押収した。その他にも当地域内でKMT軍39名を殺し,43名を逮捕,40名を投降させた。
DIA-211-1976-01-05-1ミャンマー1976年01月05日1970年代貿易相解任―国家評議会書記は,閣僚評議会より提出されていたU San Win貿易相の辞職願を受理し,これを認めたと発表。 閣僚評議会は1月2日にU San Winの辞職を勧告していた。勧告の理由は,1975年4月5日における西洋ダンスに関する首相,官房室によって出された指示を守らなかったというもの。(12月24日夜のインヤ・レークホテルにおける大統領のパーティー乗り込み事件に関し,責任をとらされた)
DIA-211-1976-01-05-2ミャンマー1976年01月05日1970年代大学再開―1975年6月に封鎖されていた全国の大学,高等教育機関が再開された。
DIA-211-1976-01-06-1ミャンマー1976年01月06日1970年代セイン・ウィン首相はペグー管区を訪れ,農村地区を視察,関係者と籾の買付計画について協議した。
DIA-211-1976-01-07-1ミャンマー1976年01月07日1970年代外相,北ベトナム訪問―U Hla Phone外相は北ベトナムを公式訪問(4日間)するためハノイに向った。
DIA-211-1976-01-07-2ミャンマー1976年01月07日1970年代San Win前貿易相の解任によって,新貿易相にU Hla Ayeまた第1,第2工業相にMaung Cho大佐が任命されたと発表。
DIA-211-1976-01-09-1ミャンマー1976年01月09日1970年代IDAはこのほどビルマ政府に対し,畜産振興のための資金援助として750万ドルの借款を与えることに決定した。
DIA-211-1976-01-09-2ミャンマー1976年01月09日1970年代ウ・ルウィン副首相は6日から9日までNgaputawおよびBassein郡を訪問。籾買付センタ-などを視察,係官などと協議した。
DIA-211-1976-01-10-1ミャンマー1976年01月10日1970年代ハノイを訪問中のHla Phone外相はファン・バン・ドン首相と会見した。ホアン・ヴァンティエン副首相も同席。
DIA-211-1976-01-11-1ミャンマー1976年01月11日1970年代U Htin Kyaw建設相は,Bassein-Monywaハイウェー建設工事および,Sindeの工場を視察した。
DIA-211-1976-01-12-1ミャンマー1976年01月12日1970年代鉱業副大臣Than Tin大佐を団長とする銅鉱業,鉄鋼業視察団が出発。ペルー,アメリカ,西独,イタリアを訪問する。
DIA-211-1976-01-15-1ミャンマー1976年01月15日1970年代国家評議会メンバー,マウン・ルウィンはZeyawaddy精糖工場を視察した。
DIA-211-1976-01-16-1ミャンマー1976年01月16日1970年代各種の組織や団体を監察し,法に適合しているかどうか,また登録が必要かどうかを審査するための中央委員会(内務省管轄)が設置された。これは1964年の「国家団結保護法」に基づき設立された諸団体を対象にするもの。 現在,社会主義計画党及びその関連機関以外,政治団体の結成は禁止されており,宗教,文化,社会奉仕団体でも政治活動は一切禁止されている。
DIA-211-1976-01-17-1ミャンマー1976年01月17日1970年代Bo Yan Naing派の“小隊長”Kyi Win他9名の反乱軍兵士と家族が,Tavoy駐屯の第25連隊所属第3戦術部隊に投降し,M-16ライフル,HK-33ライフルなどを押収された。
DIA-211-1976-01-22-1ミャンマー1976年01月22日1970年代貿易相U Hla Ayeは訪問中のモーリシアス商業相と会見。
DIA-211-1976-01-22-2ミャンマー1976年01月22日1970年代内務・宗教相U Ko Koは社会福祉相U Van Kulh,国防副大臣Kyaw Htin准将,内務副大臣U Ohn Kyiらとともにチン州のHakaに到着,同地での関係者と協議した。
DIA-211-1976-01-24-1ミャンマー1976年01月24日1970年代ネーウィン大統領は大統領官房長U Tha Tunとともにラングーン師団本部を訪れ,戦傷者を見舞った。
DIA-211-1976-01-24-2ミャンマー1976年01月24日1970年代1975-76学年度入学者決定―全国の大学および専問学校の新入学者が発表された。これによると入学者総数は全国で1万5063人である。そのうちラングーン大学は7105人である。
DIA-211-1976-01-25-1ミャンマー1976年01月25日1970年代Minbu-Malun間(20マイル)に石油用パイプラインが完成した。
DIA-211-1976-01-25-2ミャンマー1976年01月25日1970年代国家評議会メンバーThaung Tin海軍准将はTwante,Kawhmu両郡を訪れ,当地関係者と経済,社会問題に関して協議。
DIA-211-1976-01-26-1ミャンマー1976年01月26日1970年代サンユー大将,カレン州を訪問―BSPP書記長サンユー大将は,国軍参謀総長Tin Oo大将,BSPP中央委員会第1書記U Tun Linらとともに25日,26日の2日間Pa-anを訪れ,カレン州の党組織などについて関係者と協議した。
DIA-211-1976-01-27-1ミャンマー1976年01月27日1970年代木材盗難防止作戦一警察当局はサガイン・マンダレー,マグウェ各管区で国営木材公社用の木材の盗難が多いことから,一斉にその取締りのための特別作戦を展開中である。木材の盗難は,河川をイカダで運搬中のものが狙われるケースが多く,昨年1年間に確認されただけでも7000万チャット,4万2200本の木材が盗まれている。
DIA-211-1976-01-28-1ミャンマー1976年01月28日1970年代スリランカ首相公式訪問―バンタラナイケ・スリランカ首相が5日間の予定で公式訪問。セイン・ウィン首相夫妻が出迎えた。
DIA-211-1976-01-28-2ミャンマー1976年01月28日1970年代西洋ダンス・パーティーを禁止―ランクーン管区入民評議会は閣僚評議会の指示に基づき,ホテル・ロッジ,その他の公共の場所において,伝統文化を破壊するような音楽を伴う退廃的西洋式ダンス・パーティーを禁止する旨の命令を発表した。この違犯者には刑法188条が適用される。なおこれはラングーン管区だけである。
DIA-211-1976-01-29-1ミャンマー1976年01月29日1970年代訪問中のバンダラナイケ・スリランカ首相はセイン・ウィン首相と公式会談を行なった。ウ・ルウィン副首相,U Hla Phone外相,U Hla Aye貿易相らも同席した。
DIA-211-1976-01-30-1ミャンマー1976年01月30日1970年代バンダラナイケ・スリランカ首相一行はシャン州都タウンジーを訪れた。
DIA-211-1976-01-30-2ミャンマー1976年01月30日1970年代イギリス,石油開発に資金供与―イギリス政府はビルマの海上石油開発用の機械購入のために,ビルマ政府に対し,総額19万4000ポンド(2622万チャット)の資金供与(贈与)を行なつた。
DIA-211-1976-01-31-1ミャンマー1976年01月31日1970年代ネーウィン大統領はバンダラナイケ首相とパガンで会見。
DIA-211-1976-01-31-2ミャンマー1976年01月31日1970年代Hmawbiの陸軍士官学校において第50期士官候補生の卒業式が行なわれ,陸軍参謀長Kyaw Htin准将が国軍参謀総長に代わって演説した。
DIA-211-1976-02-01-1ミャンマー1976年02月01日1970年代BSPP書記長サンユー大将はKyaw Htin准将らとともに,2日間にわたってペグー管区東部地区を訪れ,党関係者と協議した。
DIA-211-1976-02-02-1ミャンマー1976年02月02日1970年代Bo Yan Naingの息子Yan Linが,1月28日にタイ領内で自派の抗争の巻き添えで暗殺された(参考資料)。
DIA-211-1976-02-04-1ミャンマー1976年02月04日1970年代セイン・ウィン首相はU Hla Aye貿易相らとともにMoulmeingyun,Bogale両郡の籾買付センタ-を訪れ,「目標達成に全力を尽くせ」と訓令した。
DIA-211-1976-02-05-1ミャンマー1976年02月05日1970年代政府はインドのWater and Power Development Consultancy Services Ltd.との間でPhuguyiラングーン水供給プロジェクト(3100万ドル)のコンサルタント・サービスの契約を行なった。
DIA-211-1976-02-07-1ミャンマー1976年02月07日1970年代反乱軍Nay Min中佐死亡―Bo Yan Nalng派情報局長Nay Min中佐こと元関税局次長U Tan Hanがバンコクで死亡した。彼はBo Yan Naingの妻の甥である。1971年4月6日にタイ領内亡命者グループキャンプに参加。
DIA-211-1976-02-08-1ミャンマー1976年02月08日1970年代内務相U Ko Koはシャン州のケシ栽培地帯を視察。Pindaya郡Taungpawgyi村で,現在同地区を中心に不法ケシ栽培撲滅作戦を行なっている関係者と協議した。
DIA-211-1976-02-10-1ミャンマー1976年02月10日1970年代国家評議会書記サンユー大将は第29回連邦記念日特別討論会で演説―特に経済問題について言及,「各民族は経済困難克服のために集団的努力をせよ」などと述べた。
DIA-211-1976-02-12-1ミャンマー1976年02月12日1970年代第29回連邦記念日―中央記念式典はラングーン市チャイカサン広場で行なわれ,ネーウィン大統領のメッセージを国家評議会員U Thaung Kyiが代読した。大衆集会に各州からの代表者など10万人が出席した。
DIA-211-1976-02-15-1ミャンマー1976年02月15日1970年代サンユー大将プロームへ―計画党書記長サンユー大将は,同党中央委員会本部第1書記U Tun Lin陸軍参謀長Kyaw Htin准将と共に,14~15日MinhlaとPromeを視察,同地区の党支部で演説した。
DIA-211-1976-02-16-1ミャンマー1976年02月16日1970年代セイン・ウィン首相はU Maung Maung Kha鉱業相U Htin Kyaw建設相,第1および第2工業相Maung Cho大佐,内閣官房副大臣Tint Swe大佐,鉱業省副大臣Than Tin大佐らとともに,Myanaung油田及びAunglan郡のPyalo油田試掘井などを視察した。
DIA-211-1976-02-17-1ミャンマー1976年02月17日1970年代タイ政府,7人の在タイ反乱軍指導者の国外追放を決定―タイ政府スポークスマンはビルマとの友好関係を維持するために,政府はこのほどタイ領内在住のビルマ人反政府軍指導者を国外追放することに決定したと述べた。 この7人の指導者は,国民愛国党(PPP)Bo Let Ya将軍,同党副党首Saw Kya Doe,同党書記長Zali Maw大佐,連邦団結党指導者Tin Maung Win,反ファシスト国民統一党(AFPUP)リーダーBobmu Aung,愛国解放軍(PLA)リーダーBO Yan Naing,カレン民族連合(KNU)リーダーMabn Ba Zanである。
DIA-211-1976-02-18-1ミャンマー1976年02月18日1970年代サンユー副大統領は来訪中のWHO事務局長Dr.H.T.Mahlerと会見。
DIA-211-1976-02-18-2ミャンマー1976年02月18日1970年代社会福祉相U Van KulhはBAC機でKengtungを訪問,住民と福祉問題で協議した。
DIA-211-1976-02-21-1ミャンマー1976年02月21日1970年代ラオスのカイソン首相が訪ソの途中ラングーンに立寄り,空港でセイン・ウィン首相と1時間会談した。
DIA-211-1976-02-21-2ミャンマー1976年02月21日1970年代国家評議会はDr.Maung Sheinを副大臣に任命した。なお23日付で計画・財務担当に決定した。
DIA-211-1976-02-22-1ミャンマー1976年02月22日1970年代協同組合は今年度産米にっいて,申告どおりの籾を第1号公社に販売した農民について特別に総額5900万チャット相当の繊維製品を優先的に販売することを決定した。
DIA-211-1976-02-23-1ミャンマー1976年02月23日1970年代サンユー書記長イラワジ管区を遊説―計画党書記長サンユー大将は最近全国各地を遊説しているが,21日から23日まで,同党中央委員会第1書記U Tun Lin,陸軍参謀長Kyaw Htin准将らとともにイラワジ管区各地区を視察し,主に党関係者を集めて演説した。
DIA-211-1976-02-24-1ミャンマー1976年02月24日1970年代ネーウィン大統領は21日から24日までMergui郡の真珠養殖場を視察した。同行者は国家評議会員U Kyaw Win,農林相U Ye Goung,海軍参謀長Chit Hlaing大佐,大統領官房長官U Tha Tunなどである。
DIA-211-1976-02-26-1ミャンマー1976年02月26日1970年代第7回中央農民評議会―第7回中央農民評議会総会がラングーンで開かれ,同評議会議長U Thaung Kyiが開会演説,「1975-76年度の農業生産は目標の98.8%であった」と指摘し農業生産の拡大の必要性を強調した。サンユー副大統領,セイン・ウィン首相らも出席。
DIA-211-1976-02-28-1ミャンマー1976年02月28日1970年代計画党書記長サンユー大将は27日から2日間チン州を訪れ,党支部などで協議した。なお同党第1書記U Tun Lin,陸軍参謀長Kyaw Htin准将らが同行。
DIA-211-1976-02-28-2ミャンマー1976年02月28日1970年代U Sein Win首相は貿易省副大臣U Aung Bwihtらと27,28日とアラカン州を視察,交易関係者らと協議した。
DIA-211-1976-02-29-1ミャンマー1976年02月29日1970年代KIA軍により農作業が妨害―中央農民評議会の席上カチン州代表が,「Mohnyin郡一帯の農民はKIA軍の出没によって,米,砂糖キビ,落花生などの栽培地3000エーカーが,現在休閑の止むなきに至っている。」と述べた。
DIA-211-1976-02-29-2ミャンマー1976年02月29日1970年代セイン・ウィン首相は来訪中のイラク首相と会談した。
DIA-211-1976-03-01-1ミャンマー1976年03月01日1970年代ネーウィン大統領は夜,中央農民評議会総会に出席した代表者を招いて夕食会を開いた。
DIA-211-1976-03-01-2ミャンマー1976年03月01日1970年代第7回中央農民評議会は経済計画の完全実施などを含む7項目の決議文を採択して閉会した
DIA-211-1976-03-01-3ミャンマー1976年03月01日1970年代農産物買上価格を改定―貿易省は3月1日付で,農産物15品目の政府買上げ価格を平均40%値上げした。主な改定価格はつぎのとおり。
DIA-211-1976-03-01-4ミャンマー1976年03月01日1970年代Wuntho郡人民評議会解散―国家評議会はサガィン管区Wuntho郡人民評議会執行委員会を解散し,臨時委員会を任命した。委員会解散の理由は明らかにされていないが,同委員会はKIA反乱軍とのとかくのウワサがあったとされている。
DIA-211-1976-03-02-1ミャンマー1976年03月02日1970年代農民の日記念集会―農民の日記念集会がラングーンのチャイカサン広場で開催され,8万人が出席,ネーウィン大統領のメッセ-ジが読みあげられた。
DIA-211-1976-03-03-1ミャンマー1976年03月03日1970年代セイン・ウィン首相はティン・ウー国防相,U Van Kulh社会福祉相らとラングーン師団本部を訪れ,戦傷兵を見舞った。
DIA-211-1976-03-04-1ミャンマー1976年03月04日1970年代国防相ティン・ウー大将はバングラデシュ大統領特使Musharraf Husain Khan海軍少将と会見した。
DIA-211-1976-03-05-1ミャンマー1976年03月05日1970年代ネーウィン大統領はバングラデシュ大統領特使Musharraf Husain Khan海軍少将と会見。
DIA-211-1976-03-06-1ミャンマー1976年03月06日1970年代国防相解任―閣僚評議会の決定に基づき,首相は6日付で国防相のポストを兼務すると発表。 (注)Tin Oo国防相の解任は理由が明らかにされてないが,同時に三軍総参謀長の地位と人民議会メンバーの地位も解任された。同日付の国家評議会布告によって,三軍総参謀長に陸軍参謀長Kyaw Htin准将の昇格が決定した。
DIA-211-1976-03-06-2ミャンマー1976年03月06日1970年代ラオスのカイソン首相は訪ソからの帰途,ラングーンに立寄り,空港でセイン・ウィン首相と約1時間会談した。
DIA-211-1976-03-06-3ミャンマー1976年03月06日1970年代国営企業に商業主義導入―ウ・ルウィン副首相を議長とする閣内経済委員会の席上,同副首相は,「国営企業の生産拡大を企るため商業主義的経営を積極的に導入する」と述べた。
DIA-211-1976-03-06-4ミャンマー1976年03月06日1970年代国家評議会メンバーDr.Hla Hanは3日から3日間アラカン州各地区を視察。またKoko内相はTwante郡のShwethatay築堤工事現場を視察。
DIA-211-1976-03-08-1ミャンマー1976年03月08日1970年代党中央委総会―計画党中央委員会第13会総会が開かれ,ネーウィン議長が開会宣言をし,サンユー書記長が基調報告を行なった。
DIA-211-1976-03-08-2ミャンマー1976年03月08日1970年代盗難木材の奪還作戦―警察当局,木材公社及び林業局は盗難された木材の奪還共同作戦を行なっているが,これまでに約5000トンの木材を捕獲した。
DIA-211-1976-03-10-1ミャンマー1976年03月10日1970年代南ベトナム外相グエン・チ・ビンはソ連訪問の途中,ミンガラドン空港に立ち寄り,U Win外務省副大臣と1時間会談した。
DIA-211-1976-03-10-2ミャンマー1976年03月10日1970年代人民議会開会―第1期第5回人民議会が開会し,国家評議会報告,閣僚評議会報告が提出された。またこの日,ウ・ルウィン計画財務相から1976-77年度予算案が提出された。
DIA-211-1976-03-11-1ミャンマー1976年03月11日1970年代会期中の国会で国家評議会新メンバーにU Saw On(シャン州・ナムツ出身)が任命された。
DIA-211-1976-03-12-1ミャンマー1976年03月12日1970年代Bo Ohn Hlaingに率いられた7名の旧ウーヌー派軍兵士が,Mergui駐屯の第17連隊に投降した。これらはAung Letya派に属して,当地区で活動していた。
DIA-211-1976-03-15-1ミャンマー1976年03月15日1970年代経済計画の手続を変更―ウ・ルウィン計画・財務相は人民議会で質問に答え,経済計画についてつぎのように述べた。 (1)資本投資は利益を挙げ得るプロジェクトにのみ行なわれるべきであり,生産が促進され,利益が早期に産み出されるプロジェクトが優先される。 (2)国営企業の生産計画には商業ベースが導入され,目標操業率が定められ,損失と無駄を避ける努力がなされている。 (3)外貨は,生産部門における基本的物資購入にプライオリティーが与えられており,経済委員会の策定した政策枠内で認可され,管理される。
DIA-211-1976-03-17-1ミャンマー1976年03月17日1970年代国家評議会はアラカン州Manaung郡人民評議会の解散命令を出し,当評議会の新執行部を任命した。
DIA-211-1976-03-17-2ミャンマー1976年03月17日1970年代農業融資の上限を撤廃―ウ・ルウィン副首相は人民議会での質問に答え,農業融資の現行貸付限度(エーカー当り25チャット,200エーカーまで)を改め,この上限は米にだけ適用されるよう改正することを明らかにした。
DIA-211-1976-03-21-1ミャンマー1976年03月21日1970年代旧ウーヌー派軍とカレン軍合同部隊は夜10時,Thaton変電所を急襲,設備や駐車中のトラックを炎上させた。
DIA-211-1976-03-22-1ミャンマー1976年03月22日1970年代学生騒動の煽動者逮捕―23日のタキン・コドウ・フマイン(独立運動指導者で,スターリン平和賞を受賞)の生誕百年祭記念デモ行進を企てていた旧ウーヌー派軍工作員が国家情報局によって事前に逮捕された。なお23日には予定どおり,デモ行進が行なわれ,反政府スローガンを叫び,騒動となった(この件については参考資料掲載)。
DIA-211-1976-03-24-1ミャンマー1976年03月24日1970年代学生達大学閉鎖に抗議―ラングーン大学生数百名が,23日の大学閉鎖を決めた教育省声明に抗議して,大学講堂を占拠,キャンパス内で気勢をあげた。警察隊は直ちに排除にかかり,リーダー格の3名を逮捕した。 なお,大学生達は閉鎖に伴い,教育省が用意した特別列車で帰郷を開始した。市内は平静を回復。
DIA-211-1976-03-24-2ミャンマー1976年03月24日1970年代北ベトナム貿易使節団来訪―北ベトナム貿易相特使グエン・バン・リンを団長とする使節団が来訪(3月31日まで)。
DIA-211-1976-03-24-3ミャンマー1976年03月24日1970年代米国務長官付麻薬関係顧問Sheldon Vanceはビルマ政府による麻薬撲滅作戦を高く評価し,当作戦を成功しつつあると語った。
DIA-211-1976-03-25-1ミャンマー1976年03月25日1970年代ラングーンで学生騒ぐ―ラングーン大学の学生達約200名が午後7時に構内講堂で集会を開き,タマイン・ホステル,繊維工場などでデモ参加とゼネストを叫びながら,デモ行進した。これはスターリン平和賞授賞タキン・コドウ・フマイン生誕百年祭記念集会と称したもので,一派はホステル料金の値下げを要求してデモ行進,警官隊と衝突した。
DIA-211-1976-03-25-2ミャンマー1976年03月25日1970年代大学再び閉鎖―22日の学生騒動に関し,教育省は声明を発表,全国の大学を無期限閉鎖すると通告した。再開後3ヵ月足らずである。
DIA-211-1976-03-25-3ミャンマー1976年03月25日1970年代ネーウィン大統領は第31回陸軍記念日展示会を視察,サンユー副大統領,国防相Kyaw Htin少将ら軍首脳が同行した。
DIA-211-1976-03-26-1ミャンマー1976年03月26日1970年代大統領スイスへ―ネーウィン大統領は病気療養のためスイスに向け出発した。なお婦人は同行していない。
DIA-211-1976-03-26-2ミャンマー1976年03月26日1970年代反乱軍による難民に救援物資―北部シャン州Kutkai駐屯の第992戦術作戦師団長Win Maung大佐は,当郡内の16ヵ村のカチン族,パラアウン族,シャン族,リス族など2620名と会い,毛布などの物資を配布した。これらの村民は共産軍の活動から逃れてきた難民達である。
DIA-211-1976-03-26-3ミャンマー1976年03月26日1970年代人事異動―国家評議会は中央師団副司令官Sein Ya大佐を鉄道公社総裁に,第54連隊司令官Aye Ko中佐を中央国防訓練学校校長にそれぞれ任命した(3月3日付)。
DIA-211-1976-03-27-1ミャンマー1976年03月27日1970年代第31回国軍記念日―中央式典はラングーンのレジスタンス・パークで開かれ,三軍参謀長らが出席,新国軍総参謀長Kyaw Htin少将が記念演説を行なった。なお,その後,三軍による市中パレードが行なわれた。
DIA-211-1976-03-29-1ミャンマー1976年03月29日1970年代国家評議会書記は議長に代行して“1976年度予算法”を公布した。
DIA-211-1976-03-29-2ミャンマー1976年03月29日1970年代北朝鮮副総理来訪―北朝鮮の許淡副総理・外交部長一行が公式訪問,フラー・ポン外相らが出迎えた。
DIA-211-1976-03-30-1ミャンマー1976年03月30日1970年代セイン・ウィン首相は29,30日,バセインを中心としてデルタ地帯での米の集積状況を視察した。
DIA-211-1976-03-30-2ミャンマー1976年03月30日1970年代来訪中の北朝鮮許淡外交部長はフラー・ポン外相と正式会談,U Win外務省副大臣らが出席。
DIA-211-1976-03-30-3ミャンマー1976年03月30日1970年代サンユー副大統領は,来訪中の北朝鮮外相許淡と会見。
DIA-211-1976-04-01-1ミャンマー1976年04月01日1970年代国家評議会は“物品・サービス税”を公布した。
DIA-211-1976-04-01-2ミャンマー1976年04月01日1970年代交易公社再編成―貿易省は交易公社を以下のように再編成した。
DIA-211-1976-04-01-3ミャンマー1976年04月01日1970年代国家評議会は貿易省副大臣U Thain Nyunの辞職願を3月23日付で認めた。
DIA-211-1976-04-03-1ミャンマー1976年04月03日1970年代右派軍工作員に死刑判決―75年6月のラングーン騒動を指導した旧ウーヌー派系U Thwin派工作員に対する特別法廷で,被告Tin Maung Ooに死刑の判決がいい渡された。
DIA-211-1976-04-03-2ミャンマー1976年04月03日1970年代航空公社(BAC)はオランダのFokkar本社からFokker F28ジェット旅客機2機を購入した。国内線に利用する。
DIA-211-1976-04-04-1ミャンマー1976年04月04日1970年代サンユー計画党書記長は国軍参謀長Kyaw Htin少将らとチン州およびマグウェ地区を視察,計画党支部で演説,「社会主義と民族統一は不可分である」などと述べた。
DIA-211-1976-04-06-1ミャンマー1976年04月06日1970年代国家評議会員Dr.Hla Han,U Ba Nyeinらはカチン州を訪れ,同州人民評議員と協議。
DIA-211-1976-04-07-1ミャンマー1976年04月07日1970年代カレン大攻勢―KNU第7師団司令官Htein Maungに率いられた500人の反乱軍が6日,7日とカレン州Papmに侵入,Papun城,政府軍第19連隊所属守備大隊本部を同時攻撃,これに対し,軍および民兵が応戦したが,政府軍は空軍戦闘機まで投入して,ようやくこれを撃退した。
DIA-211-1976-04-07-2ミャンマー1976年04月07日1970年代北ベトナム副首相来訪―U Hlu Phone外相の招きで,北ベトナム副首相兼外相グエン・ドイ・ティンが一行10名とともに来訪,セイン・ウィン首相と会談した(4月10日まで)。
DIA-211-1976-04-09-1ミャンマー1976年04月09日1970年代新税法について―財務・計画副大臣U Myo Myintはこのほど発表された新税法について,改訂の理由などについてつぎのように説明した。 (1)税体系はビルマの諸情勢の変化に応じて変える必要がある。今回の改訂はその変化に応じた措置である。 (2)その意味において,現行税制は時代遅れで,税の徴集も組織的ではない。 (3)従って現行税法では経済開発実施,社会主義的税体制の確立のためにも改訂する必要があった。
DIA-211-1976-04-10-1ミャンマー1976年04月10日1970年代共産軍掃討作戦―第88,第77両軽歩兵師団の共同作戦による対共産軍掃討Ye Naing Aung作戦が3月22日から29日まで行なわれ,中部シャン州Loi Long,Loi Pyek Put,Mong Ngenなどで戦闘し,共産軍側90名が戦死,150名が負傷した。
DIA-211-1976-04-10-2ミャンマー1976年04月10日1970年代モンゴル外相来訪―モンゴル外相L.Rinchinが公式訪問,U Hla Phone外相が出迎えた。
DIA-211-1976-04-11-1ミャンマー1976年04月11日1970年代内務・宗教省の団体登録監査中央委員会はこれまでに全国569の団体が登録されたと発表,このなかにはPTA,赤十字,労働者厚生委員会などが含まれている。
DIA-211-1976-04-12-1ミャンマー1976年04月12日1970年代U Hla Phono外相は来訪中のモンゴル外相と公式会談した。
DIA-211-1976-04-12-2ミャンマー1976年04月12日1970年代反乱軍Mudon警察を襲う―旧ウーヌー派軍Sein Myint隊とモン反乱軍Chan Nyein隊の合同部隊60人が午後11時45分,Mudon郡警察本部を重火器で急襲。警察隊は政府軍第70連隊第62大隊が到着するまでの15分間激しく応戦,1名が死亡,6名が負傷した。反乱側1名死亡,5名が負傷した。
DIA-211-1976-04-13-1ミャンマー1976年04月13日1970年代マン油田生産回復―1975年10月以来,輸送困難や生産設備の故障などで20本の油井が生産停止になっていたがこのほど操業を開始し,生産設備の70%にまで回復,日産1万6000バーレルの水準に達した。現在77本の油井が操業中である。
DIA-211-1976-04-13-2ミャンマー1976年04月13日1970年代サンユー副大統領は来訪中のモンゴル外相と会談。
DIA-211-1976-04-16-1ミャンマー1976年04月16日1970年代高額紙幣復活―連邦銀行は新しい100チャット紙幣と1チャット硬貨を発行した。 (注)1964年5月に100チャット,50チャット紙幣を廃止していらい,25チャットが最高額紙幣であった。
DIA-211-1976-04-17-1ミャンマー1976年04月17日1970年代首相,長期地方視察―セイン・ウィン首相は4月9日から9日間にわたってテナセリム管区の各地区を視察,地区担当官と各種の問題で協議した。
DIA-211-1976-04-17-2ミャンマー1976年04月17日1970年代ソビエトYCL(青年共産主義者同盟)第1書記を団長とする友好使節団が来訪。
DIA-211-1976-04-18-1ミャンマー1976年04月18日1970年代油田設備で窃盗―Chauk油田設備内で,最近,組織的な窃盗団が大量のワックス,鉄および銅棒などを盗んでいることがこのほど明らかになった。
DIA-211-1976-04-18-2ミャンマー1976年04月18日1970年代カヤ州人民評議会議長Sao Ngwe Thaungが解任された。
DIA-211-1976-04-20-1ミャンマー1976年04月20日1970年代ウ・ルウィン副首相はジャカルタでのADB理事会出席のため出発。オーストラリア,ニュージーランドも訪問する。
DIA-211-1976-04-20-2ミャンマー1976年04月20日1970年代ADBはこのほどピンマナ精糖工場プロジェクトに対し技術援助を行なうことを決定した。
DIA-211-1976-04-22-1ミャンマー1976年04月22日1970年代シュリアム精油所は盗難の宝庫―最近シュリアム精油所で各種オイルの抜き取り,ワックス,その他製品及び設置機械が組織的且つ大量に盗まれている。盗品はいくつかのルートをとおって市場に出廻っている。事態を重視した当局は調査に乗り出した。
DIA-211-1976-04-25-1ミャンマー1976年04月25日1970年代サンユー大将シャン州へ―サンユー副大統領は計画党第1書記,国軍参謀長Kyaw Htin少将らとともに21日から25日までシャン州,カヤ州各地を視察した。各地で主に反乱軍一掃について討議した。
DIA-211-1976-04-25-2ミャンマー1976年04月25日1970年代第11回中央労働者評議会総会がラングーンで開催され,議長U Maung Maung KLaが基調演説を行なった。このなかで議長は,「労働者は生産増加に全力を注ぐ必要がある」などと述べた。
DIA-211-1976-04-26-1ミャンマー1976年04月26日1970年代反乱軍の攻撃で民間人75名死亡―カレン州Pa-an北方10マイル地点を航行中の民間乗用船がKNU反乱軍に攻撃され沈没,乗客73名が死亡,122名が負傷し,多数が行方不明になった。
DIA-211-1976-04-26-2ミャンマー1976年04月26日1970年代U Hla Phone外相は来訪中のモーリタニア大統領特使と会見した。
DIA-211-1976-04-26-3ミャンマー1976年04月26日1970年代Kyaw Sanに率いられた150名のKNU反乱軍がThaton郡Yinnyein村とPaung郡Zingyaik村を同時に攻撃した。警察官数名が負傷,合計3万8000バスケットの籾を略奪,村に放火した。
DIA-211-1976-04-26-4ミャンマー1976年04月26日1970年代シンガポールと航空脇定に調印。
DIA-211-1976-04-27-1ミャンマー1976年04月27日1970年代セイン・ウィン首相は来訪中のモーリタニア大統領特使と会談。
DIA-211-1976-04-27-2ミャンマー1976年04月27日1970年代政府は西独政府との間で総額1億9500万チャットの援助協定に調印,これはBawdwin鉱山の復興と開発に使われる。
DIA-211-1976-04-27-3ミャンマー1976年04月27日1970年代カンプチアとの間で大使レベルの交換協定に調印した。
DIA-211-1976-04-28-1ミャンマー1976年04月28日1970年代セイン・ウィン首相はKyauktan,Syriam両郡内の経済施設を視察,担当官と懇談した。
DIA-211-1976-04-29-1ミャンマー1976年04月29日1970年代U Hla Phone外相はモロッコ国王特使と会見。
DIA-211-1976-04-30-1ミャンマー1976年04月30日1970年代陸軍参謀長にAye Ko大佐―Kyaw Htin少将の国軍参謀長昇格に伴い空席となっていた陸軍参謀長にラングーン師団司令官Aye ko大佐が任命された。また国防省総監にTun Tin大佐が任命された。なお,Aye Ko大佐は准将に昇格した。
DIA-211-1976-04-30-2ミャンマー1976年04月30日1970年代反乱軍の麻薬取引本拠が攻撃さる―政府軍第88歩兵師団(司令官Hla Oo大佐)部隊は最近シャン高原南部タイ国境付近Nar Munのジャングル内で,反乱軍の経営する麻薬取引本拠および精製工場などを発見,第16ライフル隊,第49大隊の応援を得てこれを攻撃,反乱側は200名の武装兵士で応戦,しかし,結局政府軍は大量の武器,麻薬を押収するとともに,この本拠を占領した。
DIA-211-1976-05-01-1ミャンマー1976年05月01日1970年代労働者の日記念集会―記念集会はラングーンのサヤサンホールで開かれ,ミネーウィン大統領が特別演説を行ない,「経済計画を労働者の力で全うしよう」と呼びかけた。またこの集会で1976-77年度経済計画め成功などを盛り込んだ決議文が採択された。
DIA-211-1976-05-04-1ミャンマー1976年05月04日1970年代U Tun Tin協同組合相は4月27日から5月4日までアラカン州各地区を視察した。
DIA-211-1976-05-05-1ミャンマー1976年05月05日1970年代ラングーン駅で爆発―ラングーン中央駅構内に手榴弾が投げ込まれ爆発,12名が負傷した。またマンダレー駅では4月30日に同型の手榴弾が爆発,2名が重傷を負つた。
DIA-211-1976-05-06-1ミャンマー1976年05月06日1970年代東独の外務副大臣がラングーンでU Win外務副大臣と会見。
DIA-211-1976-05-06-2ミャンマー1976年05月06日1970年代稲作の目標を違成せよ―計画党中央執行委員U Amg Nyunはラングーン地区農民評議会に対し,稲作の目標を達成するよう通達,同様に各地の評議会にも計画党から指示された。
DIA-211-1976-05-08-1ミャンマー1976年05月08日1970年代運輸相Sein Lwin大佐は,機関車買付交渉のため,ビルマ外国貿易銀行総裁U KoKo Layらとフランスに向け出発した。
DIA-211-1976-05-10-1ミャンマー1976年05月10日1970年代マルコス大統領来訪―マルコス大統領夫妻は公式訪問(1日)のためラングーンに到着,空港にはサンユー副大統領,セイン・ウィン首相国家評議会員タウン・チウが出迎えた。なおサンユー副大統領主催の昼食会で,両国代表は友好親善を強調した。
DIA-211-1976-05-11-1ミャンマー1976年05月11日1970年代MOC(ミヤンマ石油公社)はMalunとPah.tanag。間にイラワジ河横断石油送油パイプを敷設することに成功した。
DIA-211-1976-05-14-1ミャンマー1976年05月14日1970年代セイン・ウィン首相は第1工業大臣Tint Swe大佐らとともにタラワディの製陶工場を視察した。
DIA-211-1976-05-15-1ミャンマー1976年05月15日1970年代大統領帰国―スイスで病気治療をしていたネーウィン大統領が帰国した。空港にはサンユー副大統領,セイン・ウィン首相らが出迎えた。
DIA-211-1976-05-17-1ミャンマー1976年05月17日1970年代AFP記者,国外追放―ラングーン駐在唯一の外国通信記者AFPのJacques Lamourecexが,5月8日付で国外追放されたことが明らかにされた。当局はこの理由を,同記者が「事実無根の記事を送り,ビルマ国内情勢を必要以上に悪化している,と書いたり,虚偽の情報源を使った記事を書いていた。」などと説明している。
DIA-211-1976-05-19-1ミャンマー1976年05月19日1970年代セラミック工業公社のTharrawaddyセラミック工場が生産開始した。
DIA-211-1976-05-20-1ミャンマー1976年05月20日1970年代計画党青年部の訓練コースが終了,社会主義青年団中央組織委員会議長のウ・ルウィン副首相が演説した。
DIA-211-1976-05-20-2ミャンマー1976年05月20日1970年代第1工業相Tint Swe大佐はGyogonのBPI工場を視察した。
DIA-211-1976-05-20-3ミャンマー1976年05月20日1970年代Ba Thaw准将はPyu郡選挙区に帰り,選挙民と会談,経済施設などを視察した。
DIA-211-1976-05-21-1ミャンマー1976年05月21日1970年代セイン・ウィン首相はThongwa,Kayan両郡の米の貯蔵施設などを視察した。
DIA-211-1976-05-21-2ミャンマー1976年05月21日1970年代チャウク油田から石油や石油製品を盗んだ31名の労働者,住民が逮捕された。
DIA-211-1976-05-22-1ミャンマー1976年05月22日1970年代ネーウィン大統領は自らの選挙区(Mayangon1区)民を集め,人民議会の報告を行ない,このなかで郡「ビルマは自ら選んだイデオロギーと政策に立却しており,そのためには如何なる困難をも排除し,発展していかねばならない」などと述べた。なお選挙民からの質問には同席したサンユー副大統領が答えた。
DIA-211-1976-05-25-1ミャンマー1976年05月25日1970年代サンユー副大統領は自らの選挙区(Bahan郡)民を集め議会の報告を行ない,「社会民主主義国家を樹立した目的は社会主義経済制度に立脚した自由で公正な新しい社会を建設することにある」などと述べた。
DIA-211-1976-05-25-2ミャンマー1976年05月25日1970年代タイ・ビルマ合同国境委員会がチェンマイで開かれ,出席したタイ陸軍参謀長Charoen PhongPanich大将は,去る2月にタイ政府から国外追放処分を受けたボーレ・ヤーなどのビルマ反乱軍指導者7名はいまだにタイ領内に居ると語った。しかし,ビルマ当局はこの合同国境委員会が開かれたことを公式に確認していない。
DIA-211-1976-05-25-3ミャンマー1976年05月25日1970年代電話料金値上げ―郵便・通信公社は各取扱い料金を4月1日にさかのぼり値上げしたと発表。
DIA-211-1976-05-26-1ミャンマー1976年05月26日1970年代第1工業相Tint Swe大佐は工業関係官庁セミナーの最終日に,1975-76年度の工業生産実績及び1976-77年度の生産目標を発表した。これによると1975-76年度の工業生産は目標の83.4%であり,食糧・セラミック,一般工業が目標の60%台にとどまった。
DIA-211-1976-05-26-2ミャンマー1976年05月26日1970年代ベトナムのグエン・ドイチン副首相一行とラオスのボンビチット外相が東独の帰途約1時間ミンガラドン空港に立ち寄り,フラーポン外相らと会談した。
DIA-211-1976-05-27-1ミャンマー1976年05月27日1970年代オーストラリア政府はコロンボプランに基づき雑豆貯蔵用のサイロを無償建設することを決定,調印した。
DIA-211-1976-05-28-1ミャンマー1976年05月28日1970年代籾買付計画の完全実施―セイン・ウィン首相は1975-76年度籾買付計画を討議するためのペグー管区担当官会議に出席して,買付計画を完全実施することが重要であると述べた。
DIA-211-1976-05-28-2ミャンマー1976年05月28日1970年代パキスタンと貿易協定―政府はパキスタン政府との間で貿易協定に調印した。
DIA-211-1976-05-29-1ミャンマー1976年05月29日1970年代第1工業相Tint Swe大佐を団長とする工業視察団が韓国に向け出発した。また労働省副大臣を団長とする第6回ILO総会への代表団が出発した。
DIA-211-1976-05-29-2ミャンマー1976年05月29日1970年代連邦銀を5つに分轄―ビルマ連邦銀行は業務分担に応じて,5つの新しい組織に分轄されることになった。(1)ビルマ連邦銀行(Union of Burma Bank)(2)ミヤンマ経済銀行(Myanma Economic Bank)(3)ミヤンマ外国貿易銀行(Myanma Foreign Trade Bank)(4)ミヤンマ農業銀行(Myanma Agricultural Bank)(5)ミヤンマ保険公社(Myanma Insurance Corporation)
DIA-211-1976-05-29-3ミャンマー1976年05月29日1970年代南ベトナム臨時革命政府外相グエン・チ・ビンが帰国の途中,ミンガラドン空港に立寄り,フラーポン外相と会談した。
DIA-211-1976-05-29-4ミャンマー1976年05月29日1970年代Aye Ko准将が国防相副大臣に任命された。
DIA-211-1976-05-30-1ミャンマー1976年05月30日1970年代ラングーン管区で各レベル人民評議会補欠選挙が行なわれた。
DIA-211-1976-05-31-1ミャンマー1976年05月31日1970年代協同組合相U Tun Tinは自分の選挙区ミチナ郡区で選挙民を集めて国会報告を行なった。
DIA-211-1976-05-31-2ミャンマー1976年05月31日1970年代学校及び生徒数―教育省基礎教育局は,1975年末現在の学校及び生徒,教師数などを,つぎのとおり発表した。
DIA-211-1976-06-03-1ミャンマー1976年06月03日1970年代U Aye Maung文化相を団長とする文化使節団がソ連,ルーマニア,ブルガリア3国の訪問に出発。
DIA-211-1976-06-07-1ミャンマー1976年06月07日1970年代計画省計画局長U Hla Maungを団長とする経済計画視察団がソ連,東独,チェコ,ハンガリーに向け出発した。
DIA-211-1976-06-09-1ミャンマー1976年06月09日1970年代閣僚評議会経済委員会と管区人民評議会執行委員の経済関係合同会議が開かれ,セイン・ウィン首相は「経済計画は如何なる困難があろうとも完全実施をしなければならない」などと述べた。
DIA-211-1976-06-10-1ミャンマー1976年06月10日1970年代ペナンから約100万チャット相当の密輸品(ココナッツ油,機械など)を積んで航行中のモーターランチを海軍パトロール艇が発見これを逮捕した。
DIA-211-1976-06-11-1ミャンマー1976年06月11日1970年代アラカン州Ponnagyun郡内の民兵隊に武器・弾薬が配られた。この武器配布には州人民評議会議長U Tin Ngwe,西部軍管区司令官Min Goung大佐らが立ち合った。
DIA-211-1976-06-12-1ミャンマー1976年06月12日1970年代ユーゴの外務副大臣Lazar Mojsovが3日間の予定でラングーンに到着,U Van Kulh文化相,Khin Maung Win教育相らと会談した。
DIA-211-1976-06-13-1ミャンマー1976年06月13日1970年代ケシ栽培の転作進む―ラシオ,クットカイ郡など北部シャン州郡において,農業公社はケシ栽培(麻薬用)地を野菜,果樹などの栽培地に転用する計画を進めているが,1976-77年度計画で計9694エーカーの転作を行なう。なお当計画は順調に進んでいる。
DIA-211-1976-06-15-1ミャンマー1976年06月15日1970年代低所得者向けに物資の緊急配給一関係当局は月収350チャット以下の低所得者を対象に,米,塩,灯油,タオル,ロンジーなど17品目の基礎商品の緊急配給を実施した。
DIA-211-1976-06-16-1ミャンマー1976年06月16日1970年代ラングーン・プローム間を走行中の列車内で爆弾が爆発,3名が負傷した。
DIA-211-1976-06-17-1ミャンマー1976年06月17日1970年代協同組合試験農場―農林,協同組合関係閣僚,高官会議の席上,1976-77年度に各州,各管区ごと少くとも一つの協同組合形式の試験農場(Piiot Co-op.farms)を設立することが発表された。この農場には農民だけでなく計画党青年部,学生,農業技術者なども参加する。
DIA-211-1976-06-20-1ミャンマー1976年06月20日1970年代U Lwin情報相はマグウェの情報センター施設を視察した。
DIA-211-1976-06-20-2ミャンマー1976年06月20日1970年代近代酪農場プロジェクト―農林省は世銀の融資により,Htaukkyant(ラングーン近郊)に近代酩農場を建設することに決定した。費用は4420万チャットの見込み。
DIA-211-1976-06-21-1ミャンマー1976年06月21日1970年代ラングーン管区内の各レベル人民評議会議員の空席244のうち179議席についての補欠選挙が5月30日から6月6日までに行なわれ,177議席が確定した。
DIA-211-1976-06-27-1ミャンマー1976年06月27日1970年代U Aye Maung教育相を団長とする教育視察団がソ連,ルーマニア,ブルガリア訪問から帰国した。
DIA-211-1976-06-28-1ミャンマー1976年06月28日1970年代第14回計画党中央委員総会―ネーウィン計画党議長が開会宣言し,演説のなかで,物価高と賃金固定による生活苦からの克服が最大の課題であり,財政的行政的措置を講じつつあると述べ,「全ての国民の努力によってのみこれが解放される」と,繰り返し国民の忍耐と努力を呼びかけた。
DIA-211-1976-06-29-1ミャンマー1976年06月29日1970年代新中央委員選任―計画党第14回中央委員会2日目でU Thein Nyuに代わってU Maung Maung Gyiが党中央委員会代理に,Tin Oo大将に代わってU Maung Maung Khaが党中央執行委員にそれぞれ選任された。
DIA-211-1976-06-30-1ミャンマー1976年06月30日1970年代第14回計画党中央委員総会が終了。今期総会では不活動党員及び党員不適格者の党籍除名の促進などが決議されたもよう。
DIA-211-1976-07-01-1ミャンマー1976年07月01日1970年代航空達賃値上げ―航空公社は1月から,国内全路線の運賃を改定,平均30%を値上げした。改定料金によるとラングーン・マンダレー間は片道で,135チャットから175チャットに値上げされた。
DIA-211-1976-07-02-1ミャンマー1976年07月02日1970年代政府関係職員に一時金―政府大蔵省は最近の物価高で困っている政府関係職員のうち月収440チャット以下の職員(合計82万2000人)に対し,最高40チャット,最低15チャットの特別生活一時金(TCLA)を支払うことに決定した。
DIA-211-1976-07-06-1ミャンマー1976年07月06日1970年代閣僚の地方旅行頻繁―6月中旬頃から閣僚の選挙区詣および視察旅行が相次ぎ,政府の政策の説明が続けられている。また各地区,各企業体単位で計画党大会におけるネーウィン議長演説を支持する大会,集会が連日のように開かれている。
DIA-211-1976-07-08-1ミャンマー1976年07月08日1970年代鉄道料金値上―鉄道公社は長距離列車の運賃を改定,平均20%値上げした。
DIA-211-1976-07-09-1ミャンマー1976年07月09日1970年代繊維産業公社はMyaungmya郡Pattagon村に織機250機のジュート工場(予定従業員2700人)を建設することに決定,1978-79年度操業開始予定。
DIA-211-1976-07-13-1ミャンマー1976年07月13日1970年代農業使節団北朝鮮へ―農林省副大臣U Theln Hanを団長とする農業使節団が北朝鮮を公式訪問するため出発した。
DIA-211-1976-07-14-1ミャンマー1976年07月14日1970年代貿易使節団ベトナムへ―U Hla Aye貿易相を団長とする貿易使節団がベトナムを公式訪問するためにハノイに向け出発した(10日間)。
DIA-211-1976-07-16-1ミャンマー1976年07月16日1970年代Yenangyaung油田とChauk油田を結ぶオイル・パイプライン(全長32マイル)が完成,送油を開始した。当間のパイプ・ラインはすでに戦前にあったが,戦争で破壊されてから初めての送油施設である。
DIA-211-1976-07-20-1ミャンマー1976年07月20日1970年代サンユー副大統領はU Thaung Kyi,U Than,Sein,Dr.Hla Han,Dr.Maung Lwin,U Kyaw Soe,Thang Dan准将など国家評議会メンバーとともに,各州,管区人民評議会長と会談した。
DIA-211-1976-07-20-2ミャンマー1976年07月20日1970年代ネーウィン大統領暗殺未遂事件を発表―政府は新聞,ラジオをつうじてで大統領,サンユー副大統領などを暗殺する計画をたてたとして,7月2日にこれを発見,以後18日までに14名の政府軍将校を逮捕したと発表した。 これによると「彼ら14名の現役将校達は,社会主義経済制度を破壊し,国家権力を強奪することを企図し,ネーウィン大統領,サンユー副大統領,国家情報局長Tin Oo大佐を暗殺する計画をたてた。」 「政府はこの謀叛に対し,7月2日にリ-ダ-格のOhn.Kyaw Myint大尉,Win Thein大尉,Tun Kyaw大尉およびその共犯者San Kyi大尉,Thant Zin Myaing大尉,Ba Chit大尉,Win Maung大尉,Aung Kyi Oo大尉,Chit Khaing空軍少佐,Han Zaw大尉,Kyaw Shein大尉,Sein Thaung大尉,Sein Myint少佐,Maung Lat少佐の14名を逮捕した。」 「この件に関し,さらにこれらの将校の上官達(3名の現役大佐)が職務怠慢を理由に取調べを受けている。」などとなっており,さらに,この事件は早急に人民裁判所において裁判が開始されるとしている。
DIA-211-1976-07-20-3ミャンマー1976年07月20日1970年代ベトナム政府特使来訪―ベトナム外務次官ファン・ヒエンが政府特使として来訪,特使は空港で「両国の親善関係は長期的立場にあり,友好協力関係は満足すべき状態にある」などと述べた。
DIA-211-1976-07-23-1ミャンマー1976年07月23日1970年代軍情報局長Aung Htay大佐は財務・計画省関税局に異動した。
DIA-211-1976-07-26-1ミャンマー1976年07月26日1970年代各級人民評議会に権限付与のための調整会議―21日から26日までラングーンで各レベルの人民評議会に各種権限を付与するための調整会議が開かれ,26日サンユー副大統領の権限付与についての演説が行なわれた。
DIA-211-1976-07-28-1ミャンマー1976年07月28日1970年代ラングーン大学学長Dr.Maung Maung Khaはビルマ・アメリカ教育交換計画に基づき,30日間の予定でアメリカ訪問に向け出発した。
DIA-211-1976-07-31-1ミャンマー1976年07月31日1970年代陸軍参謀長Aye Ko少将は中央政治学校で行なわれた将校訓練コース終了式の席上,「社会主義革命の途中過程をはぶくようなことはしてはならない」などと述べた。
DIA-211-1976-08-02-1ミャンマー1976年08月02日1970年代ラングーン駅に爆弾―ラングーン中央駅構内で手投弾が爆発,4人が死亡,67人が重軽傷を負った。これまで亡命派反乱軍によって投げ込まれた爆弾と同型のものと確認された。
DIA-211-1976-08-04-1ミャンマー1976年08月04日1970年代農業公社本部は各支部,地区事業所に対し農業生産における頭初計画を達成するよう訓令を発した。
DIA-211-1976-08-04-2ミャンマー1976年08月04日1970年代関税局は今年度これまでに外国から不法に入手したオートバイに対して罰金及び税金合計330万チャットを徴収した。当局はさらに不法入手オートバイの摘発を強化すると発表。なおこれまでに685台が摘発されたが,ほとんどがタイとの国境付近でのものである。
DIA-211-1976-08-06-1ミャンマー1976年08月06日1970年代ラングーン駅近くのThamada映画館前で手投弾が爆発,1人が死亡,7人が負傷した。
DIA-211-1976-08-08-1ミャンマー1976年08月08日1970年代共産党地下分子逮捕―当局はランクーンその他の地区で活動していた47人のビルマ共産党地下分子を逮捕した。彼らはMeemong(探照灯)と題する地下出版(5面発行)をし,また学生運動との連係を保持していた。 なおこれらの地下グループの指導者であるU Kyaw Zaw元准将(57歳,57年6月退役,63年当時よりBCPのシンパとなる)とその一家は逮捕される直前に逃亡したことが明らかとなった。一部では中国民航機で逃亡したとも伝えられた。 その後8月10日にU Kyaw Zawはビルマ共産党の地下放送をつうじて,本人が解放区に帰ったことと併せて,国民に武装一斉ほう起を呼びかける声明を共産党軍最高司令官の名で発表した。 また8月12日には政府情報局はU Kyaw Zaw一家の行方についで情報提供を市民に要請し,全国指名手配をした。
DIA-211-1976-08-13-1ミャンマー1976年08月13日1970年代マレーシア首相来訪―マレーシアのフセイン・オン首相ら一行が来訪,空港にはセイン・ウィン首相,ウ・ルウィン副首相らが出迎えた。そしてネーウィン大統領と会談。
DIA-211-1976-08-16-1ミャンマー1976年08月16日1970年代セイン・ウィン首相率いるビルマ代表団はコロンボの非同盟会議出席のため出発(19日まで)。
DIA-211-1976-08-17-1ミャンマー1976年08月17日1970年代ネーウィン大統領は健康診断のためスイスに出発(10月16日帰国。なおことしは3月26日から5月15日まで行っており2回目である)。
DIA-211-1976-08-17-2ミャンマー1976年08月17日1970年代マンスフィールド米上院民主党院内総務が来訪(19日まで)。
DIA-211-1976-08-21-1ミャンマー1976年08月21日1970年代国軍参謀総長Kyaw Htin准将はThan Nyun大佐らとともに18日から21日まで北西軍管区地域を視察した。
DIA-211-1976-08-21-2ミャンマー1976年08月21日1970年代ベトナム通商代表団来訪―ベトナム貿易省局長以下9人の通商代表団が来訪,U Aung Bwint貿易副大臣らと会談した(28日まで)。
DIA-211-1976-08-21-3ミャンマー1976年08月21日1970年代計画党青年組織(LYO)委員会のメンバーと人民議会公共問題委メンバーによる青年代表団はソ連コムソモールの招待により訪ソ。
DIA-211-1976-08-28-1ミャンマー1976年08月28日1970年代政府は74年12月の学生暴動で逮捕され,軍事法廷で有罪判決を受けた1591名の受刑者が釈放され,2962名について刑期が軽減されたと発表。
DIA-211-1976-08-30-1ミャンマー1976年08月30日1970年代映倫規定発表―ウ・ルウィン情報相は私営の出版・映画製作者に対する倫理綱領を発表。出版物,映画作品は“ビルマ社会主義の原則”に合致したものでなくてはならず①ビルマ社会主義に反対する出版物,②宗教を冒とくし,外交政策に反対,ポルノ,犯罪を促すような文学作品は禁止される。
DIA-211-1976-08-30-2ミャンマー1976年08月30日1970年代協同組合評議会―中央協同組合評議会第2回総会がラングーンで開かれ,6項目の決議文が採択された。 また協同組合相U Thein Htooによって協同組合発展のための7項目計画が発表された。このなかで特に組合経営の商業ベース導入が強調された。
DIA-211-1976-09-01-1ミャンマー1976年09月01日1970年代ラングーンの戒厳令解除―国家評議会は1974年12月11日より,ラング-ン管区に出されていた戒厳令と軍直轄管理を8月31日付で解除した。
DIA-211-1976-09-04-1ミャンマー1976年09月04日1970年代Yankin郡人民評議会議長及び書記長が公金不正流用で逮捕された。
DIA-211-1976-09-04-2ミャンマー1976年09月04日1970年代ラオスのカィソン首相はソ連への途中ラングーンの空港に立寄り(2時間)フラーポン外相と会談した。
DIA-211-1976-09-07-1ミャンマー1976年09月07日1970年代ラングーンに民兵隊―ラングーン管区人民評議会の指示に基づき,初の人民治安部隊を創設,警察と協力して治安の維持に努めることになった。これは9月1日からの戒厳令解除に伴うラングーンの治安維持のため警察力では不充分であると判断されたためで,各郡人民評議会が,地区計画党の指導に基づいて創設する。
DIA-211-1976-09-10-1ミャンマー1976年09月10日1970年代大統領暗殺計画の概要について,警察庁情報官が発表(参考資料参照)。
DIA-211-1976-09-11-1ミャンマー1976年09月11日1970年代計画党統合書記U Thaung Kyiとセイン・ウィン首相はラングーンの中国大使館を訪れ,毛沢東主席の死に対する哀悼の意を表明した。
DIA-211-1976-09-15-1ミャンマー1976年09月15日1970年代大統領暗殺計画の首謀者に対する裁判開始―大統領の暗殺を企てたとして逮捕された首謀者に対する裁判がラングーン管区特別法廷で始まった。またこの暗殺計画を知っていながら黙認したとして逮捕された元国軍参謀長Tin Oo大将に対する軍事裁判も開始された。
DIA-211-1976-09-15-2ミャンマー1976年09月15日1970年代セイン・ウィン首相は農林副大臣U Thein Han,農業公社総裁U Tin UらとHmawbiの中央国立農場を視察した。
DIA-211-1976-09-15-3ミャンマー1976年09月15日1970年代ソ連共産党中央委員会機関誌“Agitator”の編集長など3人のソ連ジャーナリストが来訪。
DIA-211-1976-09-16-1ミャンマー1976年09月16日1970年代中央労使紛争委員会は労使紛争の円滑な解決のために郡レベルに労使紛争委員会を設置しているが,これまで245郡で設置が終った。
DIA-211-1976-09-18-1ミャンマー1976年09月18日1970年代北シャン州ラシオ西方NamhsanおよびHkohkun両村で約100名のパラウン族とKIAの合同隊が経営する麻薬精製所を,政府軍第22連隊が攻撃,5名の反乱兵を殺し,精製所を占拠した。
DIA-211-1976-09-20-1ミャンマー1976年09月20日1970年代政府軍第77歩兵連隊はLoilem北方Laikha郡付近より300人からなるシャン統一軍ロイマウ派の麻薬・ヒスイ運搬キャラバン隊を包囲攻撃,反乱兵15名を殺し,680ビスの麻薬,10キロのヘロインなどを押収した。
DIA-211-1976-09-20-2ミャンマー1976年09月20日1970年代党中央委員会―第15回計画党中央委員会が開かれ,サンユー書記長が開会演説,中央委員Kyaw Win大佐の死去に伴う新委員にU Hla Soeを選出した。またこの日党中央委員会と党監査委員会(議長セイン・ウィン)との合同会議が開かれた。
DIA-211-1976-09-20-3ミャンマー1976年09月20日1970年代ボードウィン鉱山の搬出経路になっているHsipaw=Namtu道路間の隣路Doktawaddy河にこのほど工費160万チャットで橋(長さ35フィート)が建設されることになった。当地点は現在フェリーで連絡しているが,しばしば航行不能となる。
DIA-211-1976-09-20-4ミャンマー1976年09月20日1970年代農林副大臣Dr. Bo Layを代表とする農業調査団がマニラを訪間するため出発,IRRIの視察が目的。
DIA-211-1976-09-21-1ミャンマー1976年09月21日1970年代Tin Oo元大将の保釈申請却下―Tin Oo元大将は大統領暗殺事件に関する供述書の検討のため仮保釈を申請していたが,軍事法廷はこれを却下した。なおこの日軍事法廷はTun Kyaw大尉を証人として喚問した。これによると3月5日,証人はTin Oo大将の国防省解任を首謀者Ohn Kyaw Myint大尉に告げ,その理由について語り合った。3月6日,2人は国防省の将校宿舎に北部軍司令官Hla Pe大佐を訪ねたという。
DIA-211-1976-09-24-1ミャンマー1976年09月24日1970年代暗殺事件裁判―被告San Kyi大尉に対する邸問が行なわれた。San Kyi大尉はメイミヨウ軍官学校を卒業(1966年)。第109歩兵連隊に配属され,1972年5月から参謀本部付でTin Oo大将付の副官となった。3月4日,Tin Oo大将は大統領官邸からの帰途,翌日のプログラムを全てキャンセルすることを指示,「私は妻の行状(禁制品を購入)のために辞職する」と述べた。さらに3月5日,大将は全ての職を辞し,副官達の移動をアレンジすると述べた。 首謀者Ohn Kyaw Myint大尉(OKM)とは1972年参謀本部付となった時初めて会つた。当時OKM大尉はラングーン師団司令官付参謀であった。彼らは大将辞職後も自宅を訪れ,「大将の辞職は不当であり,何らかの手を打つ必要がある」と述べた。OKM大尉は3月9日か10日の夜,大将宅を訪れ,党中央委員会で誰も大将の辞職に触れなかったことは悲憤に耐えないと述べ,再度軍に戻ることを請願した。 そして,3月20日か21日の夜に電話で,OKM大尉は.大将の状況を聞き,OKM大尉は「大将が何も行動を起さなくとも我々がやらねばならない」と述べた。 このように経過を述べたあと,副官は「大将は終始,事を起すことはまずい」と述べていたと証言した。
DIA-211-1976-09-25-1ミャンマー1976年09月25日1970年代ビルマとオーストラリアは航空協定に調印した。
DIA-211-1976-09-25-2ミャンマー1976年09月25日1970年代暗殺事件裁判―証人喚問および被告に対する査問が行なわれ,この日証拠物件のうち,車輌,武器・弾薬などが提示された。Sein Myint少佐,Ba Chit大尉,Tin Oo元大将は供述を拒否し続けている。
DIA-211-1976-09-25-3ミャンマー1976年09月25日1970年代鉱業副大臣Than Tin大佐は第1鉱業公社総裁U KoKo Thanらと22日,23日とNamtu BawdwinおよびNamma炭鉱を視察した。
DIA-211-1976-09-25-4ミャンマー1976年09月25日1970年代暗殺事件裁判―暗殺事件首謀者OKM大尉は3月6日付でSan Kyi大尉に代わってKyaw Htin参謀長の副官に任命されていた。
DIA-211-1976-09-25-5ミャンマー1976年09月25日1970年代貿易省は家畜の密輸を取締るため5月10日シャン州4郡に家畜の移動を禁止したが,このほどさらにSagaing,Kale,Tamu,Homalin4郡にも禁止する指令を出した。
DIA-211-1976-09-26-1ミャンマー1976年09月26日1970年代プローム郡人民評議会メンバー7名が更迭された。
DIA-211-1976-09-27-1ミャンマー1976年09月27日1970年代米の予約買付プレミアムを値上げ―農産物公社は米の予約買付契約をしたものに支払うプレミアムのうち収穫時のものを1エーカーに付き15チャットから35チャットに値上げしたと発表,これにより,農民は耕作時にエーカー当り35チャット,収穫時にも35チャット合計70チャットを受けとる。
DIA-211-1976-09-27-2ミャンマー1976年09月27日1970年代暗殺事件裁判―San Kyi大尉と証人Maung Lat少佐に対する喚問が行なわれ,少佐は,OKM大尉が3月27日の決起後軍事評議会を設立する予定でつぎのような人々をメンバーに考えていたことを証言した。 メンバーはTin Oo大将,Kyaw Htin少将,Aye Ko大佐,Than Tin大佐,Khin Ohn大佐,Tun Kyi大佐,Hla Pe大佐らとなっていた。
DIA-211-1976-09-28-1ミャンマー1976年09月28日1970年代暗殺事件裁判―Win Thein大尉に関する裁判の一環として,現役鉱業副大臣Than Tin大佐が証人として喚問され,大佐は7月2日に事件の重大さに気付き,首相宛に決起についての上申書を手渡していたことを明らかにした(内容は参考資料)。なおこの日西部師団司令官Min Goung大佐も証人として出廷した。
DIA-211-1976-09-28-2ミャンマー1976年09月28日1970年代貿易相U Hla Ayeは来訪中の韓国大統領特別顧問Koh Sung Joeと会見した。
DIA-211-1976-09-29-1ミャンマー1976年09月29日1970年代マニラで開かれるIMFおよび世銀の年次総会出席のためウ・ルウィン副首相が出発した。
DIA-211-1976-09-29-2ミャンマー1976年09月29日1970年代冬期農業融資枠拡大―ミヤンマ農業銀行は今冬期農業耕作者に対する融資枠を大幅に拡大することを発表。これによると農家1戸当りの融資限度はこれまでの500チャットから1000チャットに引きあげられ,稲作についてはエーカー当り25チャッ卜から50チャットに引き上げられ,22種農産物についてそれぞれ20%から50%引き上げられる。
DIA-211-1976-09-29-3ミャンマー1976年09月29日1970年代暗殺事件裁判―空軍参謀長Saw Pm少将が証人として喚問され,OKM大尉は7月3日に決起のため空軍に協力を求めていたことを証言した
DIA-211-1976-09-30-1ミャンマー1976年09月30日1970年代暗殺事件裁判―前国防省情報局長Aung Htay大佐(7月31日付で税関局長)ら7名の証人および被告への喚問を行なった。 Aung Htay大佐は7月3日に,アメリカ大使(オズボーン)が国家情報局長Tin Oo大佐と会見し,大使が暗殺将校グループが,大臣公邸に現われ「決起が発覚したので亡命したい」と申し入れたがこれを断わったことを述べていた事実を明らかにした。
DIA-211-1976-09-30-2ミャンマー1976年09月30日1970年代政府はメキシコ政府と国.交を樹立した。
DIA-211-1976-10-01-1ミャンマー1976年10月01日1970年代大学再開―ラングーン大学など全国の大学が再開された。3月23日以来。なお教育省は大学の入学規則を大幅に改訂し,厳しい入学資格を設けた。 トングー郡人民評議会議長が停職を命じられた。なお先に,プロ-ム郡でも議長などが停職を命じられている。
DIA-211-1976-10-03-1ミャンマー1976年10月03日1970年代農産物交易公社は1976-77年度における籾の政府買上げは1億5090万バスケット(精米170万トン)になろうと発表した。なお今年の稲作付面積は1280万エーカーで,昨年の買上げ実績は1億5000万バスケットであった。
DIA-211-1976-10-04-1ミャンマー1976年10月04日1970年代第12回国軍士官講習会がミンガラドンの中央政治学校で開かれたが,開会式の席上,国軍参謀長Kyaw Htin少将に代わって陸軍参謀長Aye Ko少将が開会演説を行なった。
DIA-211-1976-10-05-1ミャンマー1976年10月05日1970年代首謀者の自自を公表―暗殺事件を審理中の特別法廷は9月9日に行なわれたOhn Kyaw Myint大尉の自白を発表した。このなかでOKM大尉はTin Oo元大将とのやりとりで,将来の経済政策にも触れ,外国との合弁事業を含む外資導入の必要性を語ったとあった。
DIA-211-1976-10-08-1ミャンマー1976年10月08日1970年代暗殺事件裁判―首謀者の1人でWin Them大尉の自白が発表された。このなかで首謀者が大統領暗殺の後,軍事革命評議会を設立し,このメンバーに先に明らかになった以外に,元陸軍准将のKyaw Zaw,国家評議会メンバーThaung Kyi,Tint Swe大佐(第1工業相)の名が挙げられ,現首相のウ・セイン・ウィンも引き続き滞まつてもらうことを考えていたことが明らかになった。
DIA-211-1976-10-11-1ミャンマー1976年10月11日1970年代1977-78年度農業計画を検討するための担当官会議が開かれ,席上Ye Goung農相は,輸出の促進と工業用原料開発のため棉花,砂糖キビ,ジュートの栽培開発を重点的に行なうと言明した。
DIA-211-1976-10-11-2ミャンマー1976年10月11日1970年代政府はキューバ政府と外交関係を樹立した。
DIA-211-1976-10-11-3ミャンマー1976年10月11日1970年代政府は新駐中国大使にU Myint Maungを任命した。
DIA-211-1976-10-11-4ミャンマー1976年10月11日1970年代Myothit郡裁判所判事が公金横領で逮捕された。
DIA-211-1976-10-13-1ミャンマー1976年10月13日1970年代Tin Oo元大将の保釈請求が再度却下された。
DIA-211-1976-10-14-1ミャンマー1976年10月14日1970年代計画党第16回中央委員会―第16回中央委員会が開かれ,サンユー書記長が開会演説をした。
DIA-211-1976-10-15-1ミャンマー1976年10月15日1970年代第6期人民議会始まる―第6期人民議会はサンユー国家評議会書記長によって開会された。第1日目はサンユー書記長が国家評議会報告を行なったまたセイン・ウィン首相が閣僚評議会報告を行なった。
DIA-211-1976-10-16-1ミャンマー1976年10月16日1970年代大統領帰国―ネーウィン大統領は8月17日以来スイスで病気治療をしていたが帰国。空港にはサンユー大将,セイン・ウィン首相らが出迎えた。
DIA-211-1976-10-16-2ミャンマー1976年10月16日1970年代ラオスのカイソン首相一行はソ連からの帰途,2時間ラングーンに立寄ってセイン・ウィン首相と会談した。
DIA-211-1976-10-16-3ミャンマー1976年10月16日1970年代1976年の経済中間報告―ウ・ルウィン財務・計画相は1976年の経済中間報告を人民議会に提出した。また同時に補正予算案を提出した
DIA-211-1976-10-18-1ミャンマー1976年10月18日1970年代民間企業の育成検討―人民議会第3日目の質疑応答の際,ウ・ルウィン副首相は「規則の枠内で民間企業を育成するための措置が現在検討されている」と述べた。
DIA-211-1976-10-19-1ミャンマー1976年10月19日1970年代暗殺事件裁判―ラングーン管区法廷で検事側の論告が行なわれた。
DIA-211-1976-10-23-1ミャンマー1976年10月23日1970年代農業生産計画発表―Ye Goung農林相は人民議会で,農業生産計画について詳細な報告を行なった。これによると籾生産は1975-76年度は4億4130万バスケットが見込まれ,1976-77年度は4億4540万バスケットが計画された。
DIA-211-1976-10-25-1ミャンマー1976年10月25日1970年代IMFのDr.H.J.Witteveen(M.D)が来訪。26日にはウ・ルウィン財務・計画相と会談した。
DIA-211-1976-10-26-1ミャンマー1976年10月26日1970年代Tin Oo大佐,NIB局長解任―国家評議会議長(大統領)付軍事補佐官Tin Oo大佐(BC5807)は兼務していた国家情報局(NIB)長をU Lay Maung(現ビルマ宝石公社)に移管した。
DIA-211-1976-10-27-1ミャンマー1976年10月27日1970年代U Mya Maung情報省副大臣を団長とする新聞関係代表団がベトナム視察に出発した。
DIA-211-1976-10-28-1ミャンマー1976年10月28日1970年代臨時党大会開く―計画党臨時党大会が開かれ,ネーウィン議長,サンユー書記長がそれぞれ,臨時党大会開催の理由について,党綱領を現状に即して変えるべき時がきたためと述べた。なおネーウィン議長はこのことについて,「ビルマの政治・経済の破滅的状況に対して対処するため」という表現をした(会期3日間)。
DIA-211-1976-10-30-1ミャンマー1976年10月30日1970年代臨時党大会で党綱領を改正―党大会が終了,党綱領の改正を含む3つの決議文が採択された。
DIA-211-1976-10-31-1ミャンマー1976年10月31日1970年代経済政策を修正―ウ・ルウィン財務・計画相は先の国会の答弁中,経済困難の克服のために①国営企業の商業主義導入,②操業率の設定・③労働者へのボーナス支給,④一定枠内の民間企業の育成・⑤輸入制限の緩和などを考えていることを明らかにした。
DIA-211-1976-11-01-1ミャンマー1976年11月01日1970年代計画党中央委員会―第17回計画党中央委員会が開かれ,臨時大会で提出された綱領の修正案が満場一致で採択された。
DIA-211-1976-11-01-2ミャンマー1976年11月01日1970年代世銀総裁来訪―マクナマラ世銀総裁が来訪,ウー・ルウィン副首相らが出迎えた。
DIA-211-1976-11-02-1ミャンマー1976年11月02日1970年代党員の大量粛清―計画党中央委員会は12項目の決議文を採択した。このなかで党員5万4193名の党籍はく奪も承認された。 (注)この党籍はく奪は不正行為,不活動などが横行したため,党が8月頃に党員全員に対し党員証の提出を求め,審査して後,有資格者には党員証が返された。この除名党員のなかには,計画党の理論的ブレーンとして社会主義者を自認し,1974年時の党中央委員会序列83番目で国家評議会メンバーU Ba Nyeinが含まれている。
DIA-211-1976-11-02-2ミャンマー1976年11月02日1970年代マクナマラ世銀総裁はネーウィン大統領と会談。サンユー副大統領らが同席した。また3日にはセイン・ウィン首相とも会談した。
DIA-211-1976-11-08-1ミャンマー1976年11月08日1970年代カチン州Mohnyinを約100名のKIA軍が襲撃,33戸の民家が焼かれ,12名が射殺された。
DIA-211-1976-11-09-1ミャンマー1976年11月09日1970年代大統領はビルマの国連代表に外務省国際・経済局長U Mg Mg Gyiを任命した。
DIA-211-1976-11-12-1ミャンマー1976年11月12日1970年代ウ・コ・コ内相は計画党地区委員会の席上,行政,治安問題についての報告を行ない,特に麻薬常習犯について言及した。
DIA-211-1976-11-13-1ミャンマー1976年11月13日1970年代第1工業相Tint Swe大佐は省内会議で第1工業省管轄下の工場に対し製品の品質向上と生産目標の達成を強調した。
DIA-211-1976-11-13-2ミャンマー1976年11月13日1970年代ビルマ政府はポルトガルと外交関係を樹立。
DIA-211-1976-11-16-1ミャンマー1976年11月16日1970年代協同組合及び貿易両相の副大臣U Thein HtooとU Aung Bwintは14日からシャン州Keng Tung地区を訪れ,同地区の経済状況を視察した。
DIA-211-1976-11-17-1ミャンマー1976年11月17日1970年代ローシンハンに死刑宣告―麻薬王Lo Hsinghanに対する裁判がInsein郡法準で行なわれているが,このほど当法廷は刑法第122条により,死刑を宣告した。これは麻薬の密売,その他の密輸入行為とともに部下1000人を率いて自ら組織した“北シャン州独立統一戦線”の国家叛逆罪を問われたもの。
DIA-211-1976-11-18-1ミャンマー1976年11月18日1970年代新インド大使にU Chit Kbinが任命された。
DIA-211-1976-11-19-1ミャンマー1976年11月19日1970年代国家評議会はラングーンの軍管理下における国家評議会レポートを発表。
DIA-211-1976-11-19-2ミャンマー1976年11月19日1970年代第46連隊所属第3中隊はPutao付近,Machanbaw郡Nwanlahtonku村でKIA軍第7連隊と交戦,連隊長Magaung La“少尉”他5名を殺し,M-16,M-21などの武器を押収した。
DIA-211-1976-11-25-1ミャンマー1976年11月25日1970年代セイン・ウィン首相はU Thein Han農林省副大臣と共に,シャン州タウンジーを訪れた。
DIA-211-1976-11-25-2ミャンマー1976年11月25日1970年代Padung郡Thaledan村の民兵隊が,第92連隊司令官Myint Win中佐から武器を授与された。
DIA-211-1976-11-25-3ミャンマー1976年11月25日1970年代西独援助―西独政府はビルマに対し総額4000万マルクの援勘を行なう旨の協定に調印した,年利0.75%,10年据置,50年延払いである。なおこの援助は①油送船(河川用)の購入,②Phaungdaw水力発電所建設,③鉄道プロジェクト,④Syriamガラスビン工場拡張,⑤ガラスビン工場運営基金および銅鉱プロジェクトなどに使用される予定。
DIA-211-1976-11-25-4ミャンマー1976年11月25日1970年代暗殺事件裁判―法廷は14日からTim Oo元大将に対する尋問を開始した。元大将はこのなかで,首謀者の自白について多くの部分を否定した。
DIA-211-1976-11-26-1ミャンマー1976年11月26日1970年代中央労働者評議会臨時総会―総会は議長U Maung Maung Khaが基調演説を行ない,評議会の役割を強調するとともに,全労働者の参加を呼びかけた。
DIA-211-1976-11-26-2ミャンマー1976年11月26日1970年代日本政府,石油精製工場に援助―日本政府はMann油田における石油精製工場(日産2万5000バレール)建設に対し,総額299億5000万円(約1億ドル)の借款を供与することを決定した。年利3%,7年据置,25年延払い。
DIA-211-1976-11-27-1ミャンマー1976年11月27日1970年代先の計画党員資格停止者のなかに含まれていたとされるU Ba Nyeinが,中央労働者評議会臨時総会に副議長のまま出席していることが確認された。しかし,U Ba Nyeinの党除名は確実であり,26日付で人民監査委員会メンバー,および人民議会議員の辞職が国家評議会に受理されている。
DIA-211-1976-11-28-1ミャンマー1976年11月28日1970年代ウー・ルウィン副首相は東京で小坂外相と会談,1974年3月に終了する準賠償に引き続き日本からの援助を要請した。また29日には三木首相と会談した。
DIA-211-1976-11-30-1ミャンマー1976年11月30日1970年代対ビルマ援助グループ会議(東京会議)開催―東京で対ビルマ援助グループ(オーストラリア,カナダ,西独,日本,フランス,英国,米国)会議が世銀の主催で開かれ,ビルマ側からウ-・ルウィン副首相が出席,ビルマ政府は向こう3年間に,年間総額2億ドルの援助を要請した。なおこれには,IMF,アジア開銀,UNDPなども参加した。
DIA-211-1976-12-01-1ミャンマー1976年12月01日1970年代ソ連最高会議代表団来訪―ソ連最高会議常任幹部会議長マチヤノフを団長とする代表団一行7名が到着,ビルマ側人民議会代表団が出迎えた。
DIA-211-1976-12-03-1ミャンマー1976年12月03日1970年代ビルマはオーストリア政府と航空協定に調印した。
DIA-211-1976-12-03-2ミャンマー1976年12月03日1970年代インドネシアと石油協力―インドネシア訪問中のU Maung Maung Kha鉱山相は当地でインドネシア政府との石油開発および石油産業に関する協力について協議を開始した。なお同鉱山相は4日にスハルト大統領と会談した。
DIA-211-1976-12-04-1ミャンマー1976年12月04日1970年代モールメンからShwegunへ航行中の水運公社所属のモーターランチがThon-ein-Zu村付近で両岸から反乱軍の銃撃を受け,警乗中の政府軍と15分間にわたって銃撃戦を展開,乗組員1名と7名の乗客が負傷した。
DIA-211-1976-12-08-1ミャンマー1976年12月08日1970年代来訪中のソ連最高会議代表団はサンユー副大統領と会見した。
DIA-211-1976-12-08-2ミャンマー1976年12月08日1970年代9品目の価格統制解除―貿易省は本日付,落花生,落花生種子,胡麻,落花生油,胡麻油,ひよこ豆(グラム),チリー(Short),チリー(long),玉ねぎの9品目の価格統制を解除すると発表。
DIA-211-1976-12-09-1ミャンマー1976年12月09日1970年代ビルマは東独との間で航空協定に調印した。
DIA-211-1976-12-10-1ミャンマー1976年12月10日1970年代ウー・ルウィン副首相東京会議について説明―副首相は記者会見で,11月30日東京で開かれた援助グループ会議について,その詳細を説明,またその他の国との援助に係わるプロジェクトについても説明した。また席上,ビルマ政府が,当会議に“外国援助・投資5ヵ年計画”を提出した旨明らかにした。
DIA-211-1976-12-10-2ミャンマー1976年12月10日1970年代国軍参謀総長Kyaw Htin少将は8日から10日まで陸軍軍務局長Tun Tin大佐,高級参謀Than Nyun大佐らと南東軍管区地域を視察した。
DIA-211-1976-12-10-3ミャンマー1976年12月10日1970年代貿易省は多発する密輸を防ぐため,チン州Matupi郡内の家畜の移動を全面禁止した。
DIA-211-1976-12-13-1ミャンマー1976年12月13日1970年代国有化店舗の返還―交易公社はすでに国有化され,当公社の所管になっている店舗のうち,未使用のものについて,最近旧所有者に返還をしているが,このほどペグーで47店舗が返還された。
DIA-211-1976-12-13-2ミャンマー1976年12月13日1970年代ビルマの麻薬取締り進行―米国麻薬取締局はビルマ政府が進めている麻薬取締りを評価すると次のように述べた。アメリカへ流入する麻薬のうちビルマ産が最も多く,年間450トンにも達する。ビルマ政府は過去18ヵ月間のうち,17のヘロイン精製工場を破壊し,1万8000エーカーのケシ栽培地の転用に成功した。
DIA-211-1976-12-13-3ミャンマー1976年12月13日1970年代海軍哨戒艇はMergui沖で密輸入品(コンデンス・ミルク,繊維,バティック,魚網など)10万チャットを積んだ民間スクーナーを摘発した。この船は約5万ポンドのゴムを密輸出しての帰りであった。
DIA-211-1976-12-15-1ミャンマー1976年12月15日1970年代ビルマ政府とアルバニア政府外交関係を樹立。
DIA-211-1976-12-16-1ミャンマー1976年12月16日1970年代暗殺裁判の最終弁論―大統領暗殺事件法廷では最終弁論が開始され,弁護人U Ko Yuがそれぞれの弁論を行なった。このなかで当事件に関する被告の供述はあいまいで,証拠不十分であることが強調された。
DIA-211-1976-12-18-1ミャンマー1976年12月18日1970年代1977~78年度経済計画について討議―閣僚評議会経済委員会と管区・州レベル人民評議会議長団との1977~78年康経済計画および予算に関する調整会議が開かれ,ウー・ルウィン計画相は来年度の予算は3本立とすること,来年度は投資を大幅に増加させることなどを説明した。
DIA-211-1976-12-18-2ミャンマー1976年12月18日1970年代統制農産物価格を引上―農林省はジュート・マッペ,メイズなどの価格を統制している農産物の政府買上げ価格を平均50%引き上げると発表した。
DIA-211-1976-12-20-1ミャンマー1976年12月20日1970年代セイン・ウィン首相は17日から20日までテナセリム地区を視察した。
DIA-211-1976-12-22-1ミャンマー1976年12月22日1970年代計画党書記長サンユー大将は最近,マンダレー,マグウェ地区を視察したことが発表された。なお,Kyaw Htin少将らが同行した。
DIA-211-1976-12-23-1ミャンマー1976年12月23日1970年代反乱軍抗議集会―Paung郡内26ヵ村から3000人の農民が集会を開き,最近当地区で反乱軍が活動していることに対し,抗議した。
DIA-211-1976-12-23-2ミャンマー1976年12月23日1970年代世銀(IDA)はラングーン港修復のために,1000万ドルの借款を供与することを決定した。10年据置き,50年延払い,無利子であるが,年間0.75%のサービス・チヤージ。
DIA-211-1976-12-24-1ミャンマー1976年12月24日1970年代ネーウィン大統領再婚―ネーウィン大統領はチポー王朝の末喬でイタリアに在住していたYadana Nat Maiと再婚したことを発表した。
DIA-211-1976-12-25-1ミャンマー1976年12月25日1970年代暗殺事件法廷は検察側による最終論告を行ない首謀者には刑法122条第1項の適用を要求,全員に有罪を求刑した。
DIA-211-1976-12-29-1ミャンマー1976年12月29日1970年代第3回党大会に向けて,各地区,各機関および軍内で,同大会代議員の選出が行なわれているが,参謀本部ではSein Tun大佐他12名の代議員が選出された。なお軍関係ではどのレベルでも,佐官以上が選出されている。
DIA-211-1976-12-30-1ミャンマー1976年12月30日1970年代ビルマ研究協議会―第10回ビルマ研究協議会が開かれ,8つの研究レポートが発表された。
DIA-211-1976-12-30-2ミャンマー1976年12月30日1970年代政府企業労働者にボーナス―工業省関係の企業および工場の従業員にボーナスが支払われた。また各省でもボーナスの支払いが行なわれており,平均1人当り200チャットである。
DIA-211-1976-12-30-3ミャンマー1976年12月30日1970年代Toungoo郡Kyauktaing村およびMawchi郡Thulolba,Lokha-lo村の村落民兵隊にそれぞれ武器が供与された。
DIA-211-1976-12-31-1ミャンマー1976年12月31日1970年代国軍士官学校卒業式―第18期国軍士官学校(メイミヨー)卒業式が行なわれ,参謀総長Kyaw Htin少将はじめ,三軍参謀長,軍務局長,北西軍管区司令官らが出席した。卒業生は127名である。
DIA-211-1976-12-31-2ミャンマー1976年12月31日1970年代共産軍と大戦闘―第6連隊(第77歩兵師団直下)部隊はシャン州Mong Hsu郡Keng Lon村8マイル東方Man Yawm村付近で200名の共産軍部隊と3時間にわたって戦闘,共産軍1名戦死,多数を負傷させた。またM-21ライフル50丁,M-22S3丁,カービン銃7丁を捕獲,政府側1名戦死,6名負傷。
DIA-211-1977-01-02-1ミャンマー1977年01月02日1970年代共産軍は1年間に政府軍兵士2016名を死傷させたと発表―1月2日の“ビルマ人民の声”放送(Voice of the People of Burma)は1976年1月1日から12月31日まで,ビルマ共産党軍およびシャン州立軍との合同軍はビルマ政府軍将兵計2016名を死傷させたと述べた(参考資料参照)。
DIA-211-1977-01-05-1ミャンマー1977年01月05日1970年代メルグイの警察監視船は沿岸を航行中の密輸船6隻を摘発,ピストル,ゴム,エンジンなどの密輸品20万チャット相当を押収した。
DIA-211-1977-01-06-1ミャンマー1977年01月06日1970年代計画党のサンユー書記長,タウン・チ中央執行委員ら党幹部がラングーンのKamayut計画党支部大会を視察。
DIA-211-1977-01-07-1ミャンマー1977年01月07日1970年代計画党サンユー書記長は党中央委員U Tun Lin,陸軍参謀長Aye Ko准将らとBassein,Pyapon地区を視察した。
DIA-211-1977-01-08-1ミャンマー1977年01月08日1970年代海軍警備艇はモールメン=メルグイ間で,ペナン島から密輸品(総額70万チャット,カセット・ラジオ,テープ,自転車,モータサイクル,繊維品など)を積んで航行中のスクーナーを摘発した。
DIA-211-1977-01-09-1ミャンマー1977年01月09日1970年代米の集荷順調―1976年産米の政府集荷が各地で進められているが,今年は順調で,農村当局の推計では,今年度目標(4億4600万バスケット)を上回り,最終的には4億4635万バスケット相当となるとしている。
DIA-211-1977-01-11-1ミャンマー1977年01月11日1970年代暗殺事件首謀者に死刑―大統領暗殺事件を審理中のラングーン管区裁判所は首謀者Ohn Kyaw Myint大尉に対して死刑,Win Thein大尉に無期懲役,Hla Pe大佐に10年,Sein Min少佐,Ba Chit大尉にそれぞれ5年,Tin Oo元大将には懲役7年の刑をいい渡した。なおこの判決では,人民によって選択された憲法を踏みにじろうとした罰は重大であり,人民を守るべき軍人がこれに加担した罰は厳しく扱わねばならないと指摘している。
DIA-211-1977-01-12-1ミャンマー1977年01月12日1970年代ラオスのスファヌボン大統領は特別機でインドに向かう途中,マンダレーに1時間立寄り,外務大臣U Winと会談した。
DIA-211-1977-01-14-1ミャンマー1977年01月14日1970年代計画党書記長サンユー大将は党中央執行委員タウン・チ,国軍参謀総長Kyaw Htin大将,党中央執行委員U Tun Lin,計画党書記局メンバーU Than Sein,U Kyaw Zaw,U Tin Win Nyoらと共にラングーン市Mayanjonの支部総会に出席した。
DIA-211-1977-01-17-1ミャンマー1977年01月17日1970年代共産軍地区指導者殺さる―ビルマ共産党第2軍管区(アラカン州)司令官・地区政治委員Tha Doe Aungは,Rathedaung近郊Kayuchaung村で,政府軍との戦闘中,戦死した。 これは,56人の輩下とともに共産車がマユ半島に進出した際,政府軍第20歩兵連隊と遭遇,交戦したもの。
DIA-211-1977-01-17-2ミャンマー1977年01月17日1970年代専門学科大学を新設―ウ・ココ内務・宗教相は記者会見の席上,現状の総合大学制度を改め,学科ごとに専門学校を新設する計画であることを発表した。これは現行の総合大学を各専門科に分轄し,それぞれ専門大学として新設するというもの。
DIA-211-1977-01-19-1ミャンマー1977年01月19日1970年代スファヌボン大統領来訪―ラオスのスファヌドン大統領は特別機で公式訪問のため到着。同期間内にタウンジー,マンダレー,パガンなどを視察した。
DIA-211-1977-01-21-1ミャンマー1977年01月21日1970年代共産党とカチン独立機構が共闘成立―“ビルマ人民の声”放送は,共塵党とカチン独立機構(KIO)が,1976年7月6日に共闘するための合意に達していたことを発表した(参考資料)。
DIA-211-1977-01-24-1ミャンマー1977年01月24日1970年代政府海軍哨戒艇はメルグイ西沖で密輸船を捕獲。この船には繊維,ホンダオートバイ,自転車,ミルク,鉄板,釘など総額15万チヤット相当の密輸品が積まれていた。
DIA-211-1977-01-25-1ミャンマー1977年01月25日1970年代政府軍ヘロイン精製所を占領―政府軍東部軍所属第88歩兵師団司令官Khin Kyaw Nyo大佐の指i揮する麻薬密輸掃討特別作戦“Moehein 2”作戦が1月18日から25日までタイ国境地帯で開始され,政府軍部隊はMonghsat東南23マイル地点でHkun Hsa率いる300人のLoilnaw軍の経営するヘロイン精製所を攻撃してこれを占拠した。
DIA-211-1977-01-27-1ミャンマー1977年01月27日1970年代タイ外交使節団訪問―タイのウパディット外相を団長とする外交使節団が公式訪問(26日),サンユー副大統領と会談した。タウン・チ国家評議会会員,フラー・ポン外相,Kyaw Htin国防相らが同席した(28日まで)。
DIA-211-1977-02-01-1ミャンマー1977年02月01日1970年代3月2日の“農民の日”式典委員会議長にサンユー副大統領,副議長にタウン・チが選ばれた。メンバーにはU Mg Mg Kha,U Tun Lin,U Than Sein,U Kyaw Zaw,U Tin Winらが選ばれた。
DIA-211-1977-02-03-1ミャンマー1977年02月03日1970年代中国ジャーナリスト訪問―「新華社日報」編集長Fan Fayuanを団長とする10人の中国ジャーナリスト団が友好訪問,ウ・ルウィン情報相と会見した。
DIA-211-1977-02-04-1ミャンマー1977年02月04日1970年代Malun-Kanhla間のオイルパイプラインが完成した。
DIA-211-1977-02-05-1ミャンマー1977年02月05日1970年代周恩来未亡人鄧穎超訪問―中国全人大副委員長鄧穎超が特別機で公式訪問。空港にはネーウィン大統領夫妻らが出迎えた。また空港から宿舎までの沿道では歓迎の人波で埋まった。この訪問はネーウィン大統領の招待によるものである。
DIA-211-1977-02-05-2ミャンマー1977年02月05日1970年代ビルマはバングラデシュとの間で航空協定に仮調印した。
DIA-211-1977-02-07-1ミャンマー1977年02月07日1970年代サンユー副大統領は訪問中の鄧穎超と会談した。これにはタウン・チ,マウン・マウン国評議会員,フラーポン外相らが同席した。 またこの日鄧女史はセイン・ウィン首相の案内でラングーン市内を見学した。
DIA-211-1977-02-09-1ミャンマー1977年02月09日1970年代2月9日付WPDは一面に論説員による中国との友好親善を強調する論文を掲載した。こうした論文掲載は鄧穎超の滞在期間中行なわれた。
DIA-211-1977-02-10-1ミャンマー1977年02月10日1970年代国家評議会は第1期人民議会第7回総会を3月21日から開くことを布告した。これには国家評議会議長の名においてサンユー書記長が署名した。
DIA-211-1977-02-10-2ミャンマー1977年02月10日1970年代マンダレー,パガンなどを回ってラングーンに戻った鄧穎超はセイン・ウィン首相と会談,さらにネーウィン大統領夫妻主催の晩さん会に出席した。なお地方旅行にはネーウィン大統領夫妻,Kyaw Htin国防相夫妻らが同行した。11日に帰国。
DIA-211-1977-02-11-1ミャンマー1977年02月11日1970年代電力公社はユーゴから総額2000万ドルの借款により電力関係物資(トランスミッションなど)を購入することをこのほどユーゴ政府物資輸入公社で協定したことを発表。
DIA-211-1977-02-11-2ミャンマー1977年02月11日1970年代連邦記念日セミナー―第30回連邦記念日セミナーが各州,管区代表者を集めてラングーンで開かれ,サンユー副大統領が代表演説した。このなかで,経済での民間部門開発はビルマ社会主義の枠内で奨励されなければならないと述べた。
DIA-211-1977-02-12-1ミャンマー1977年02月12日1970年代フラー・ポン外相はインド大統領の葬儀に出席のため,ニューデリーに出発。
DIA-211-1977-02-12-2ミャンマー1977年02月12日1970年代連邦記念日中央式典はラングーンで開かれ,各地で同様の集会が開かれた。中央式典にはネーウィン大統領のメッセージが読み上げられた。
DIA-211-1977-02-12-3ミャンマー1977年02月12日1970年代インド大統領の追悼式に出席するためフラー・ポン外相を団長とする代表団が出発した。
DIA-211-1977-02-12-4ミャンマー1977年02月12日1970年代政府軍,KNU軍と激戦―南東軍司令官Kyin Mamg Kyaw指揮下の特別作戦部隊は2月5日から15日まで,Hlaing Bwe,Thamola,Maitabu,Nyaungdaing,Kyawkoなどで5回にわたってKNU軍と交戦した。 最大の交戦は政府軍第18,27連隊合同部隊がHlaing Bwe郡Nyaungdaing村でHtein Maung率いるKNU第7旅団500名の部隊と4日,5日に亘って交戦,KNU軍は40名戦死,60名負傷,政府軍6名死亡,42名負傷した。
DIA-211-1977-02-14-1ミャンマー1977年02月14日1970年代サンユー副大統領は連邦記念日に出席した山岳少数民族代表と懇談した。
DIA-211-1977-02-14-2ミャンマー1977年02月14日1970年代中央麻薬統制委員会の発表によると1976/77年度内にケシ栽培地合計1550エーカーでケシの栽培を禁止することに成功した。このうち1384エーカーがシャン州内で,マンダレー管区108エーカー,マグウェ管区14エーカー,チン州42エーカー,カチン州3エーカーである。
DIA-211-1977-02-15-1ミャンマー1977年02月15日1970年代共産軍と東部軍激戦―2月5日から8日まで,東部軍第88歩兵師団司令官Khin Kyaw Nyo大佐率いる特別作戦部隊は東シャン,ワー地区のWang Kong,Wan Hsai,Wan Li,Mong Yangで共産軍と激戦,共産軍に多大な損害を与えたと発表。共産側死者120名,負傷者は150名以上,政府軍死者10名,負傷42名。 共産軍は57mm,75mm,82mm砲,無反動砲などを使用,政府軍は空軍の爆撃援護も行なった。
DIA-211-1977-02-16-1ミャンマー1977年02月16日1970年代海上密輸取締り強化―海軍沿岸警備隊はマルタバン湾内で海上密輸の一斉取締を行ない,16日から17日にかけて3隻の密輸船(ゴム,魚などの密輸出品,密輸入品は自転車,バティック,繊維,バッテリー,亜鉛鉄板,サンダル,ワイヤー,石油缶,練乳,ナイロン布,その他)を摘発した。
DIA-211-1977-02-16-2ミャンマー1977年02月16日1970年代ラングーン・東京間にダイレクト・テレックス―日本政府はテレックス・システム(200万チャット)を寄贈,これにより,ラングーン・東京間は香港経由でテレックスは直通となった。
DIA-211-1977-02-18-1ミャンマー1977年02月18日1970年代第18回党中央委員会―第18回計画党中央委員会が17,18日の2日間開かれ,席上,サンユー書記長が中央委員会メンバー再選にあたって党の基本的課題などに関する演説を行なった(参考資料参照)。
DIA-211-1977-02-21-1ミャンマー1977年02月21日1970年代第3回計画党大会開く―社会主義計画党第3回大会がミンガランドンの中央政治科学学校講堂で開かれ,ネーウィン議長によって開会が宣言された後,サンユー書記長が党中央委員会の基調報告を発表した(参考資料参照)。
DIA-211-1977-02-21-2ミャンマー1977年02月21日1970年代政府はラオスに対し,1977年内に米を贈与することを決定した。なお1976年には米と食塩を贈与している。
DIA-211-1977-02-22-1ミャンマー1977年02月22日1970年代第3回党大会―2日目は,代議員によって基調報告について討議が行なわれた。
DIA-211-1977-02-24-1ミャンマー1977年02月24日1970年代第3回党大会―4日目はサンユー書記長が,代議員の質問に答える形で,基調報告の追加説明を行なった。 また10名の代議員によって第3次4ヵ年計画についての意見が交わされた。
DIA-211-1977-02-25-1ミャンマー1977年02月25日1970年代党大会―5日目はサンユー書記長によって党中央委員会改選に関する説明と,投票が行なわれた。また党綱領改正に関する討議が行なわれた。党綱領の改正は138項目にわたり,外資導入拡大,サービス・コントラクト方式の適用部門の拡大,国営企業についての生産競争,商業主義の導入などが含まれている。
DIA-211-1977-02-26-1ミャンマー1977年02月26日1970年代セイン・ウイン首相ら11名が中央委候補を辞退―中央委員会メンバーの改選が行なわれたが,今回は定員180名のところ,立候補にリストアップされたのは360名で,この内,45%が現メンバーから,残り55%が第3回党大会に出席している代議員である。 なお立候補を辞退した16名はつぎのとおりである。カッコ内は現職。 U Ko Ko(内相),Khin Maung Lay大佐(陸軍兵站局長),U Chit Moung(現駐仏大使),U Sein Win(首相),U B Nyein(元計画党事務局),U Mahn Tha Myaing,U Shwe Zan Aung,U Lwin(副首相兼計画・財務相),Dr.Maung Lwin(国評メンバー),Dr.Hla Han(国評メンバー),U Tha Kyaw(元運輸副大臣),U Than Sein(国評メンバー),Thaung Tin海軍大佐(国評メンバー),Thaung Dan空軍准将(国評メンバー),U Aung Pe,U Ohn Maung Gyi.
DIA-211-1977-02-27-1ミャンマー1977年02月27日1970年代党中央委新メンバー発表―計画党大会7日目,中央委員会新メンバーが発表された。これによりメンバー180名(うち現役軍人42名),中央委員候補59名(うち現役軍人13名)となった。メンバー・リストは参考資料参照。
DIA-211-1977-02-28-1ミャンマー1977年02月28日1970年代新任されたメンバーによる党中央委員会が開かれた。
DIA-211-1977-02-28-2ミャンマー1977年02月28日1970年代Myo Aung大佐ら9名の人民議会議員の辞任が受理された。
DIA-211-1977-03-01-1ミャンマー1977年03月01日1970年代Papun郡Kamamaung村にKNU反乱軍部隊が侵入,無反動砲などで攻撃,民家92戸,交易公社酒店などが焼失した。なお第19連隊所属部隊が交戦これを撃退。
DIA-211-1977-03-01-2ミャンマー1977年03月01日1970年代第3回党大会終了―第3回党大会が終了した。この日,新しい党幹部が発表された。主なところは次のとおり。また4つの決議文が採択された。 党中央執行委員会 議長:Ne Win 書記長:Gen.San Yu メンバー:U Kyaw Soe,Kyaw Htin少将,Dr.Maung Maung,U Thaung Kyi,U Maung Maung Kha,Aye Ko准将,U Tun Lin,Saw Pru准将,U Zaw Win,U Than Sein,U Kyaw Zaw,U Tin Win Nyo,U San Shein. 党書記局メンバー:U Khin Maung Mya,U Than Hlaing,Soe Thein大佐,U Tin Aye Kyaw. 党監査委員会 議長:U Min Thein 書記長:U Kyi Maung メンバー:U Nyunt Thein,U Maung Nyo,,U Aung Chein,U Htein Lin,Tin Oo大佐,Sein Lwin大佐,U Kyar Gye. 党綱紀委員会 議長::U Tin Theinin大佐,U Tin Aye Kyaw. 書記長:U Mahn San Myat Shwe メンバー:Ba Thaw准将,U Tun Shein,U Kyin Tin,U Sein Maung,U Khin Aye,U Soe Hlaing,U Khen Za Mong,U Myint Thein,U Tun Shwe,U Khin Maung,U Tin Oo,U Han Htwe,U Saw Bi,U Saw Shwe Lay,U Tin Aung,U.E.Hsan,U Soe Hlaing,U Maung Maung.
DIA-211-1977-03-02-1ミャンマー1977年03月02日1970年代ホマリンで反乱軍と戦闘―2月2日,サガイン管区Leshi郡Khuthu村で政府軍第52連隊は60名の反乱軍と交戦,反乱側6名死亡。2月20日,Mophailuk村付近で20名の反乱軍と戦闘,反乱軍はHomalinジャングルに逃げ込んだ。3月2日,3名の反乱軍が第52連隊に投降,政府軍は反乱部隊を追跡した。
DIA-211-1977-03-02-2ミャンマー1977年03月02日1970年代ラングーンに爆弾―ラングーン市Pabedan地区のレストラン近くで爆弾が爆発,2人が死亡,47名が負傷した。この事件につき,愛国党軍はAR-THITの紙上で「われわれの都市ゲリラ人民解放軍が行なった作戦で,政府の秘密警察官を狙ったもの」と声明した。
DIA-211-1977-03-02-3ミャンマー1977年03月02日1970年代農民の日記念集会―農民の日記念集会が各地で行なわれ,ネーウィン大統領は「農業生産の増大」を呼びかけるメッセージを発表した。
DIA-211-1977-03-05-1ミャンマー1977年03月05日1970年代ビルマ・ポーランド航空協定が仮調印された。
DIA-211-1977-03-05-2ミャンマー1977年03月05日1970年代第3期第2回党中央委員会―席上,タウン・チ執行委員から1977/78年度予算案が提出され,これが承認された。
DIA-211-1977-03-07-1ミャンマー1977年03月07日1970年代ビルマ政府はコスタリカ政府と外交関係を樹立。
DIA-211-1977-03-07-2ミャンマー1977年03月07日1970年代カンプチアのイエン・サリ副首相が5人の代表団と共に来訪,フラー・ポン外相らが空港に出迎えた(3月12日まで)。
DIA-211-1977-03-08-1ミャンマー1977年03月08日1970年代亡命右派軍2名がラングーン市内に列車で入るところを,ケメダイン鉄道公安官に逮捕された。
DIA-211-1977-03-10-1ミャンマー1977年03月10日1970年代IDA(世銀)はビルマに対し,鉱業開発のための融資総額1600万ドルを決定した。 このプロジェクトはHeinze Basinの海底油田掘削施設などが主で,総コスト2780万ドルが見込まれている。世銀融資の条件は10年据置,50年延払い,金利無で,年0.75%のサービス・チャージ。
DIA-211-1977-03-10-2ミャンマー1977年03月10日1970年代木材生産増加―農林省は1977/78年度における木材生産(伐採)の目標103万1000トン(前年度実績100万3000トン)とした。内訳はチーク33万トン(23万トン),ハードウッド70万1000トン(77万3000トン)である。
DIA-211-1977-03-10-3ミャンマー1977年03月10日1970年代下ビルマ稲作開発プロジェクト―下ビルマ稲作地開発プロジェクトの第1期分がスタートした。これはデルタ地帯における遊休地および洪水などによる荒廃地の再開発のために,築堤,排水工事などを中心としたプロジェクトで1976/77年度から1981/82年度にいたるもので,総工費5400万ドル(うち世銀融資3000万ドル)である。
DIA-211-1977-03-12-1ミャンマー1977年03月12日1970年代農林副大臣兼中央農民評議会副議長U Thein Hanと農業公社総裁U Tin OoとがIRRIの招きでフィリピンに向け出発した。
DIA-211-1977-03-13-1ミャンマー1977年03月13日1970年代ネーウィン大統領,イエン・サリと会談―ネーウィン大統領は来訪中のイエン・サリ副首相の表敬訪問を受け,会談した。またこの日セイン・ウィン首相主催の晩さん会が開かれ,両国の友存関係が強化されることを相互に表明した。
DIA-211-1977-03-13-2ミャンマー1977年03月13日1970年代ネーウィン大統領夫妻東北部視察―ネーウィン大統領夫妻は8日から13日まで東北部および東部管区を視察したことが発表された。随行者は国評メンバーU Saw Ohn,国防相Kyaw-Htin大将,NIB局長U Lay Maung,国軍情報局長Myo Aung大佐,大統領官房長Aye Kyaw中佐らであった。
DIA-211-1977-03-14-1ミャンマー1977年03月14日1970年代ゴムの密輸船だ捕―メルグイ郡沖合で航行中のゴムの密輸船(生ゴム1000ポンド)を警察監視船が発見,だ捕した。
DIA-211-1977-03-19-1ミャンマー1977年03月19日1970年代石油化学・天然ガス販売公社と日本の海外経済協力基金は,Mann油田に石油精製施設建設用のローン総額299億5000万円(1億ドル)を供与する協定に調印した。同施設は日産2万5000バーレルの能力。条件は7年据置,25年延払い,年利3%。
DIA-211-1977-03-21-1ミャンマー1977年03月21日1970年代第7回人民議会開会―第1期第7回人民議会が招集され,開会した。この日438議員が出席,国家評議会書記長サンユー大将が国家評議会報告を行なった。またセイン・ウィン首相が閣僚評議会報告を行ない,1975/76年の経済成長は4.8%にとどまったが,1976/77年は6%を見積ることができると述べた。
DIA-211-1977-03-22-1ミャンマー1977年03月22日1970年代1977年度予算案提出―人民議会はウ・ルウィン計画相が1977/78年度予算案と,経済計画を提出,説明を行なった。
DIA-211-1977-03-23-1ミャンマー1977年03月23日1970年代KNU軍を攻撃―東南軍本部はZwe Aung作戦を行ない,KNU反乱軍の本拠であり,密輸の基地であるタイ国境沿いのWanghkha(Kawmura)を一斉砲撃,また3日間にわたって200名のKNU軍と戦闘,反乱軍は多数の死傷者を出した。なおこの戦闘で政府軍の砲撃の一部がタイ領内に届き,タイ領内部落も大きな損害を受けた。
DIA-211-1977-03-27-1ミャンマー1977年03月27日1970年代ボズラフ外相を団長とするチェコ代表団が来訪,U Win外務副大臣らが出迎えた。 3月30日にフラー・ポン外相と会談。同日,U Maung Maung Kha首相とも会談。
DIA-211-1977-03-28-1ミャンマー1977年03月28日1970年代ラングーン市内Myomyingtaung映画館事務折に爆弾が投げ込まれ,22名が負傷した。
DIA-211-1977-03-29-1ミャンマー1977年03月29日1970年代首相・副首相交替,Maung Maung Khaが新首相に―人民議会最終日,Maung Maung Kha現鉱業相が新首相に任命され,U Tun Lin(BSPP事務局長)が新入閣,運相に,U Than Seinが計画・財務相に,U Kyaw Zawが鉱業・労働大臣にそれぞれ任命され,セイン・ウィン前首相,ウ・ルウィン副首相は国家評議会メンバーに選出された。なお新しい閣僚評議会及国家評議会メンバーは参考資料に掲載。
DIA-211-1977-03-30-1ミャンマー1977年03月30日1970年代ベトナム通信副編集長ら2名の代表団が到着した。
DIA-211-1977-03-30-2ミャンマー1977年03月30日1970年代東独党代表団来訪―東独社会統一党代表団が来訪,訪問中にサンユー大将らと会見した。
DIA-211-1977-03-30-3ミャンマー1977年03月30日1970年代1976年11月29日,ボタタウン新聞社に爆弾を投げて逮捕された旧ウーヌー派軍工作員(Mya Aye)は,刑法122条に基づき,死刑を宣告された。
DIA-211-1977-03-31-1ミャンマー1977年03月31日1970年代1977年度経済計画法布告―国家評議会議長は1977/78年度の各部門の成長目標を含めた年次経済計画法を布告,発表した。これによると経済成長率は実質6.6%,農業6.3%,工業6.4%とそれぞれ目標が設定された。
DIA-211-1977-03-31-2ミャンマー1977年03月31日1970年代U Ko Ko前内相,人民議会辞職―党中央委選出からはずされたU Ko Ko前内相は入民議会議員も辞職した。なお4月1日付で,外国駐在大使(カナダ)に任命された。
DIA-211-1977-03-31-3ミャンマー1977年03月31日1970年代1977年度政府予算法発表。
DIA-211-1977-04-01-1ミャンマー1977年04月01日1970年代東部軍所属部隊と警察の合同部隊は3月29日から31日までタウンジー郡Kyauktalone村の密輸基地を捜索,9人の密輸業者を逮捕,繊維など250万チャット相当の物資と重要文書,73頭の運搬用牛を押収した。押収物資はタウンジー郡協同組合に引渡された。
DIA-211-1977-04-03-1ミャンマー1977年04月03日1970年代マッペの密輸急増―マッペの取引は全て交易公社が扱うことになっているが,1976年の天候不順によって,マッペ生産は低下し,国際価格が上昇したことによって,国産マッペの密輸出が増えている。このため当局はマッペ密輸出については死刑を含む厳罰で臨むことを指示した。
DIA-211-1977-04-03-2ミャンマー1977年04月03日1970年代1976/77年度内に密輸出されようとしたゴムのうち,当局は3万1718ポンドを押収した。
DIA-211-1977-04-04-1ミャンマー1977年04月04日1970年代赤色シャン州計画者に無罪―1972年2月24日に,憲法起草委に対し,シャン族とカチン族の混合地域を赤色シャン州(Shanis)として分離させることを計画した元カチン州SACメンバー,元計画党地区委などに対する裁判がラングーンの中央法廷で行なわれたが,無罪が言い渡された。
DIA-211-1977-04-06-1ミャンマー1977年04月06日1970年代ネーウィン,ネパールへ―ネーウィン大統領夫妻は,ネパール国王の招待で同国を公式訪問するため出発した。同行者は国評メンバーDr.Maung Maung,フラー・ポン外相,NIB局長U Lay Maungらである(4月8日まで)。
DIA-211-1977-04-08-1ミャンマー1977年04月08日1970年代モールメンに爆弾―モールメン市警察前で,旧ウーヌー派軍工作員が爆弾を仕掛け,爆発したが,犯人は直後に逮捕された。
DIA-211-1977-04-09-1ミャンマー1977年04月09日1970年代領海及び漁業専管水域法発効―国家評議会議長は領海12海里,漁業専管水域200海里を宣言する法律を発布,同時に公務員人選・養成委員会(人事院)法などを布告した。
DIA-211-1977-04-10-1ミャンマー1977年04月10日1970年代建材・電気製品交易公社総裁U Aung Nyuntを団長とする代表団が春の広州交易会出席のため出発した。
DIA-211-1977-04-13-1ミャンマー1977年04月13日1970年代インドからの密輸―Tamu郡の警察・税関は,4台のバスに積まれていたインドからの密輸入品総額100万チャット相当を摘発した。自動車部品,自転車部品,繊維,医薬品などである。
DIA-211-1977-04-14-1ミャンマー1977年04月14日1970年代政府軍キャンプが共産軍に襲撃さる―参謀総長Kyaw Htin大将は,陸軍参謀Than Nyunt大佐とシャン州Mong Mitの政府軍第12歩兵連隊前進基地を視察した。当基地は4月11日,300人の共産軍によって襲撃され,反乱側53名が死亡,政府軍士官4名,兵15名が戦死した。
DIA-211-1977-04-19-1ミャンマー1977年04月19日1970年代シンデに工業訓練センター―西独政府は技術援助の枠内(総額4068万チャット)で,プローム対岸シンデに,工業技術者訓練のためのセンターを設置することになり,政府と合意が成立した。
DIA-211-1977-04-21-1ミャンマー1977年04月21日1970年代ブルガリア農民党代表団が来訪,計画党指導部が出迎えた。なお22日にはサンユー党書記長,党国際関係局長U Maung Maungらと会談した。
DIA-211-1977-04-22-1ミャンマー1977年04月22日1970年代予算委員会設置―国家評議会は国家予算の作成,計画,監理,諮問などを目的とする国家予算委員会を設置した。議長にはDr.Maung Maung,メンバーには国評メンバーのウ・ルウィン,財務計画相のウ・タン・セインらが任命された。
DIA-211-1977-04-25-1ミャンマー1977年04月25日1970年代税務関係機関代表者会議が開かれ,納税状況および今後の目標などが討議された。前2ヵ年とも,納税実績は目標を上回った。1977/78年度の目標額は28億6000万チャットである。
DIA-211-1977-04-27-1ミャンマー1977年04月27日1970年代ネーウィン大統領中国を公式訪問―ネーウィン大統領夫妻は中国を公式訪問。北京空港には,華国鋒主席,李先念副首相らが出迎えた。なお同行者は,国評メンバー,タウン・チ,マウン・マウン博士(夫妻),フラーポン外相,Kyaw Htin大将,第2工業相Maung Cho大佐(夫妻),NIB局長U Lay Maung,国防省情報局長Myo Aung大佐,大統領官房長Aye Kyaw中佐らである。この日,李先念副首相主催の晩さん会が開かれた。なお北京への途中,一行は雲南省昆明に立寄り,安平生雲南省革命委員会主任,王必成中国人民解放軍昆明部隊司令員・省革命委副主任などと会談した。
DIA-211-1977-04-29-1ミャンマー1977年04月29日1970年代ネーウィン大統領は華国鋒主席と会談した。
DIA-211-1977-04-30-1ミャンマー1977年04月30日1970年代ビルマ海軍哨海艇はタボイ沖合でペナン島からの密輸船を捕獲した。同船には60万チャット相当のパームオイル,自転車(19台),自動車部品などが積まれていた。
DIA-211-1977-05-01-1ミャンマー1977年05月01日1970年代共産党員脱獄―Dedaye郡刑務所に収容されていたビルマ共産党Dedaye郡委員会メンバーThein Lwinら53名の囚人が,現職警察官の手引で脱獄。5月14日まで,共産党員ほか22名が,当局の追跡で殺された。脱獄囚は,奪った武器や,警察官の差し入れ武器などで武装していた。
DIA-211-1977-05-03-1ミャンマー1977年05月03日1970年代ネーウィン大統領一行は山西省を訪れ,大寨生産大隊を視察した。
DIA-211-1977-05-04-1ミャンマー1977年05月04日1970年代U Kyaw Soeが国評メンバーを辞任―国家評議会メンバーのU Kyaw SoeとU Than Seinが辞任,U Kyaw Soeは中央公務員養成学校の校長,U Than Seinは公務員人選・養成委員会議長にそれぞれ新任された。
DIA-211-1977-05-04-2ミャンマー1977年05月04日1970年代公務員人選・養成委員会設置―公務員の人事と訓練のたあの委員会が設置され,議長にU Than Seinが任命された。なおメンバーには,軍,閣僚評議会とともに計画党からも多数選任された。
DIA-211-1977-05-04-3ミャンマー1977年05月04日1970年代国有化企業の補償―1963年に国有化された企業および施設の前所有者からの補償請求はこれまで1万8985件に達しているが,このうち1087件が補償委員会にかけられ,664件について検討され,うち538件に対する補償支払いが行なわれる予定である。なおこれまでに367件に対し,計425万チャットが支払われた。1963年内に国有化された施設は合計1万5100で,うち1万952が商業関係である。
DIA-211-1977-05-05-1ミャンマー1977年05月05日1970年代チャット貨を切下げ―政府当局はチャットの公定レートを平均9.9%切下げ,5日より実施すると発表。これにより対米ドルレートは,これまでの6.7チャットから7.3358チャットとなった。
DIA-211-1977-05-05-2ミャンマー1977年05月05日1970年代ネーウィン大統領一行は内モンゴル自治区の人民公社を訪問した。
DIA-211-1977-05-05-3ミャンマー1977年05月05日1970年代政府当局はこの2年間に計1万8000エーカーのケシ栽培地を破壊した。1975/76年度9309.25エーカー,1976/77年度8769.42エーカーである。ほとんどはシャン州内である。
DIA-211-1977-05-05-4ミャンマー1977年05月05日1970年代Kadoe郡内を密輸業者から頼まれて密輸品を運んでいた3人のポーターが,反乱軍によって襲われ,1人は殺された。なお,ポーターの運搬料は1回(国境からモールメンまで)800チャット(数年前は400チャット)にまでハネ上がっており,当郡内の多くの農民が,この仕事に従事している。
DIA-211-1977-05-09-1ミャンマー1977年05月09日1970年代IMFは3500万SDRのスタンドバイ・クレジットの供与を承認した(引出し期間は1年)。
DIA-211-1977-05-09-2ミャンマー1977年05月09日1970年代Tai Yen-Liangを団長とする中国技師団(5名)が来訪。精米工場建設の調査。
DIA-211-1977-05-09-3ミャンマー1977年05月09日1970年代メルグイ郡税関局はこの1年に密輸に使用されたスクナー船140隻を捕獲,このうち54隻を協同組合に売却し,56隻を民間に払下げることに決定した。
DIA-211-1977-05-12-1ミャンマー1977年05月12日1970年代ネーウィン帰国―ネーウィン大統領一行は中国訪問の公式日程を終え,特別機で帰国した。この間,各地方を訪問,最後は狭西省,広西僮族自治区などを視察した。
DIA-211-1977-05-14-1ミャンマー1977年05月14日1970年代北朝鮮から棉花代替産物の開発技術者(4ヵ月間の調査)4名が到着した。
DIA-211-1977-05-23-1ミャンマー1977年05月23日1970年代アラカン解放軍と激戦―北西軍副司令官Myo Nyunt大佐の率いる政府軍特別部隊(第50,第89連隊)は5月13日から23日まで,9回にわたって,チン州Tidim郡近辺で,アラカン族解放軍とチン族軍との合同軍と激戦した。 アラカン族解放軍はリーダーKhaing Moe Linと94名,チン族軍はリーダーWilliamと13名であり,うち,48名が戦闘で戦死し,3名が捕まった。またそれ以外の50名が投降し.リーダーは逃亡した。 リーダーのKhaing Moe Linは,1967年にアラカン族解放軍に参加,KNUのBo Mya派と接触。しかし,同年政府軍に逮捕され,1974年に釈放されるや,再びBo MyaとKNU本部のWakhaキャンプで接触,アラカン族の密輸業者を中心にALAを結成した。KNUはこの組織に対し,“軍”創設のために,軍事・政治訓練,武器供与などを行なった。1974年6月から1976年まで,Wakhaキャンプで訓練を受け,アラカン州に侵入した。 アラカン州に行軍途中,Pao族反乱軍のMaeawキャンプで,Williamの率いた亡命者チン族グループに会い,連合隊を結成。そして,チン州Tiddim郡で政府軍と漕遇したものである。
DIA-211-1977-05-24-1ミャンマー1977年05月24日1970年代政府はオランダと航空運輸協定に調印した。
DIA-211-1977-05-26-1ミャンマー1977年05月26日1970年代ソ連のフィリュービン外務次官来訪。予定を3日間延長して6月1日まで滞在,この間,サンユー計画党書記長と会談,訪ソを要請した。
DIA-211-1977-05-27-1ミャンマー1977年05月27日1970年代海軍警備艇は24日から26日までに,計6隻の密輸船を捕獲,50万チャット相当の物資を押収し,55人を逮捕した。
DIA-211-1977-05-28-1ミャンマー1977年05月28日1970年代サンユー副大統領はネーウィン大統領の代理として,大統領の選挙区民に人民議会報告を行なった。
DIA-211-1977-05-28-2ミャンマー1977年05月28日1970年代海軍哨戒艇は,メルグイ沖を航行中の,ゴム密輸船(6万ポンド積載)を捕えた。
DIA-211-1977-05-28-3ミャンマー1977年05月28日1970年代各地で地方大学が新設されているが,このほどペグー地方大学(Regional College)がオープンした。
DIA-211-1977-05-29-1ミャンマー1977年05月29日1970年代バ・モー博士死去―民族主義者,初代首相(1937年)のバ・モー博士がラングーンで死去した。84歳,なお,WPDは死亡公告だけで,特別な記事,論評は掲載しなかった。
DIA-211-1977-05-29-2ミャンマー1977年05月29日1970年代ILO年次総会のビルマ代表団(団長中央労働者評議会議長U Ba Nyein)が出発。
DIA-211-1977-05-30-1ミャンマー1977年05月30日1970年代サンユー副大統領は自分の選挙区民に対する議会報告を行ない,とくに経済状況について説明した。
DIA-211-1977-05-31-1ミャンマー1977年05月31日1970年代ネーウィン大統領,工業地帯を視察―大統領は5月22日から31日まで中部ビルマ各地区を視察,工業設備などを主に巡察した。同行者はKyaw Htin大将,U Ye Gaung農林相,Chit Hlaing海軍参謀長,Saw Pru空軍参謀長らであった。
DIA-211-1977-05-31-2ミャンマー1977年05月31日1970年代籾予約買付始まる―1977/78年度の政府による予約買付が農業農産物公社によって始められた。これは全国68郡に,買付センターを設け,耕作予定農民との契約をするものである。 農民に対する予約払込みは,耕作前にエーカー当35チャット,収穫後にさらに35チャット支払われる。
DIA-211-1977-06-01-1ミャンマー1977年06月01日1970年代ソ連の青年代表団が親善訪問。これは計画党青年部中央組織委員会議長U San Sheinの招待によるもの。
DIA-211-1977-06-05-1ミャンマー1977年06月05日1970年代前内相U Ko Koは駐カナダ大使に任命された。
DIA-211-1977-06-05-2ミャンマー1977年06月05日1970年代ラングーン市Kamaynt警察署近くの舗道で爆弾が爆発,歩行者6名が重傷を負った。
DIA-211-1977-06-06-1ミャンマー1977年06月06日1970年代石油公社,外国銀行から借款―ミヤンマ石油公社はチェース・マンハッタン・アジア銀行とWardley銀行とを幹事とする外国銀行14行による借款団から総額3875万ドルの借款(政府保証)を受けることになった。14行中には東京銀行(Tokyo Finance(Asia)Ltd.)も含まれている。 供与される借款のうち1490万ドルはGwema=Syriam間(200マイル)の石油パイプライン建設,その他は5基の石油採掘装置などの購入に充てられる。
DIA-211-1977-06-09-1ミャンマー1977年06月09日1970年代道路運輸公社は6月16日から,ラングーン=マンダレー間に長距離定期バスを運行することになった。
DIA-211-1977-06-13-1ミャンマー1977年06月13日1970年代MEIC総裁U Khin Maung Yiを団長とする貿易代表団がマレーシアに向け出発した。
DIA-211-1977-06-13-2ミャンマー1977年06月13日1970年代人民評議会定数改正―村落人民評議会の定数改正をつぎの選挙から行なうことが発表された。人口と定数についてはつぎのようになる。 人口 定数 500人以下―  7名  501~1,000―8名 1,001~1,500―9名  1,501~2,000―10名 2,001~3,000―11名  3,001~4,000―12名 4,001~5,000―13名  5,001~6,001―14名 6,001~8,000―15名  8,001~10,000―16名 10,001~12,500―17名  12,501~15,000―18名 15,001~17,500―19名  17,501以上―20名 なお,この定数は,前回定数より少なくなっており,最大人口区は前回30名であったが,次回から20名までとなった。
DIA-211-1977-06-20-1ミャンマー1977年06月20日1970年代マレーシアは,ビルマから6万トンの米を輸入することになった。これは現在マレーシア訪問中のビルマ貿易代表団との話し合いで決まったもの。
DIA-211-1977-06-21-1ミャンマー1977年06月21日1970年代日本の新規借款調印―日本政府は総額285億4000万円(7億5200万チャット)の借款を供与する旨,ビルマ政府と調印した。 内訳はプロジェクト援助195億4000万円が,旧四プロ用の資器材購入用に,商品援助のうち70億円は旧四プロ用の原材料購入,20億円はその他の工業用資器材購入用に当てられる。 条件は年利2.75%,10年据置30年延払いである。
DIA-211-1977-06-26-1ミャンマー1977年06月26日1970年代各レベルで労働者協会(Workers Asiayone)および農民協会(Peasants Asiayone)が設立されているが,郡レベルの協会では各地で組織化が進み,執行委員の選出が行なわれている。
DIA-211-1977-06-27-1ミャンマー1977年06月27日1970年代国軍参謀長Kyaw Htin大将は,自分の選挙区ミンガラドンで,選挙区民を集め,人民議会報告を行なった。
DIA-211-1977-07-02-1ミャンマー1977年07月02日1970年代中央軍司令官Yan Naung Soe大佐は,戦術司令官Maung Maung Aye中佐らと共にシッタン河東岸域を視察,各地で政治・経済問題について担当者と協議した。
DIA-211-1977-07-02-2ミャンマー1977年07月02日1970年代Yezinに建設中の林業試験研究所がUNDPの援助で,すでに80%まで建設が進み,1979年に完成する予定である。
DIA-211-1977-07-03-1ミャンマー1977年07月03日1970年代U Ye Goung農林相は7月1日,2日とヘンザダ郡選挙区に帰り人民議会報告をし,当郡内の農業プロジェクトを視察した。
DIA-211-1977-07-03-2ミャンマー1977年07月03日1970年代カチン独立機構と共産軍の合同人民軍は,ミチナ近郊で政府軍第109歩兵連隊と交戦,2名の政府軍兵士を殺した。
DIA-211-1977-07-07-1ミャンマー1977年07月07日1970年代U Htin Kyaw建設相と第2工業相Maung Cho大佐はマンダレーおよびペグー地区で建設中の工場を視察した。
DIA-211-1977-07-07-2ミャンマー1977年07月07日1970年代Ywama製鋼所は1976/77年度に建設鋼材3万2199トン(予定3万3300トン)を生産した。なお1977/78年度の生産目標は3万2000トンとした。
DIA-211-1977-07-09-1ミャンマー1977年07月09日1970年代共産軍はKeng Tung近郊で政府軍第77歩兵連隊と交戦,政府軍側3名戦死。
DIA-211-1977-07-12-1ミャンマー1977年07月12日1970年代日本政府は保健省管下の生体医学研究センターへの設備,器材用として計4000万チヤツトの贈与を供与することに調印した。 なお同センターは,日本の援助によって設計建設されているもので,1975年に7億円の贈与をすでに行なっている。
DIA-211-1977-07-12-2ミャンマー1977年07月12日1970年代選挙委員会(議長U Saw Oo)は1974/1977年間に行なわれた各レベル人民評議会補欠選挙について報告。これによると同期間に入民議会30,州管区評議会127,郡評議会1860,町・村評議会6016,計8033議席に対する補欠選挙を行なった。
DIA-211-1977-07-12-3ミャンマー1977年07月12日1970年代ビルマ共産党の「人民の声」放送は,ソ連の商船が東南アジア地域を侵害していると批難する解説を放送した。
DIA-211-1977-07-16-1ミャンマー1977年07月16日1970年代領海を侵略してダ捕されていたタイ漁船の27名のタイ人乗組員に対する裁判が行なわれ,船長に懲役6カ月の判決が言い渡された。
DIA-211-1977-07-20-1ミャンマー1977年07月20日1970年代バングラデシュ大統領公式訪問―バングラデシュ大統領ジアウル・ラーマン少将一行が公式訪問(4日間)した。これはネーウィン大統領の招待を受けたもので,空港にはネーウィン大統領が出迎えた。またこの夜,ネーウィン大統領主催の晩さん会が開かれ,友好協力が強調された。
DIA-211-1977-07-20-2ミャンマー1977年07月20日1970年代政府軍による麻薬撲滅作戦が6月末以来,南シャン地区一帯で進められているが,政府軍第94連隊はMong MauでSUAとカレンニ反乱軍の合同経営の麻薬精製キャンプを発見これを破壊した。
DIA-211-1977-07-21-1ミャンマー1977年07月21日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のバングラデシュのジアウル大統領と公式会談。サンユー副大統領,タウン・チ国評メンバー,マウン・マウン・カ首相,フラー・ポン外相らが同席した。なおこの夜,サンユー副大統領が晩さん会を主催した。
DIA-211-1977-07-26-1ミャンマー1977年07月26日1970年代第1回農民協会総会―旧中央農民評議会にあたる第1回農民協会総会がラングーンのカバアイ・ホールで開かれた。8月1日の最終日まで,農民協会の組織,執行委員選挙などについて協議,農業発展における農民協会の役割などが強調された。
DIA-211-1977-07-26-2ミャンマー1977年07月26日1970年代ネーウィン大統領,農民協会総会で演説―ネーウィン大統領は第1回総会に出席,演説を行ない,農民の役割を強調した。 また,農業生産増加と発展の為に,農民は政府及び計画党の指導と協力を受けながら,自らも協力して欲しいと要望した。
DIA-211-1977-07-28-1ミャンマー1977年07月28日1970年代サンユー副大統領は来訪中のインドネシア運輸相Dr.Emil Salimと会談。 この日両政府間で航空運輸協定が調印された。
DIA-211-1977-07-29-1ミャンマー1977年07月29日1970年代第1回農民協会総会は,200名の中央委員(Baho Oczi Ahpwe)を選出した。これはほぼ地区別に割当てられた人数で選任された。
DIA-211-1977-07-29-2ミャンマー1977年07月29日1970年代共産軍,戦果を発表―共産党の“人民の声”放送は,カチン州内における今年上半期(1月1日~6月30日)の戦果を発表。 政府軍との戦闘件数は大小16回,政府軍戦死者55名,このなかには中隊長も含まれている。33名を負傷させ,うち17名を捕えている。 武器多数を捕獲した他,2つの橋を破壊した。
DIA-211-1977-07-29-3ミャンマー1977年07月29日1970年代協同組合副大臣辞任―国家評議会は協同組合副大臣U Thein Htooの辞職願を受理したと発表。
DIA-211-1977-07-29-4ミャンマー1977年07月29日1970年代ラングーン市スーレパゴダ道路で爆弾による爆発があったが,人身被害はなかった。
DIA-211-1977-07-30-1ミャンマー1977年07月30日1970年代道路運輸公社(RTC)は7月31日から,ラングーン=トングー間に長距離定期バスを運行すると発表。
DIA-211-1977-08-01-1ミャンマー1977年08月01日1970年代上ビルマで旱魃―Myingyang Mahlaingなど上ビルマの畑作地帯は,今年極度の雨量不足に見舞われ,旱魃の被害が出ている。これまでのところ,棉花,落花生,胡麻など計24万1000エーカーに被害が出ている。
DIA-211-1977-08-01-2ミャンマー1977年08月01日1970年代農民協会執行部決定―第1回農民協会総会最終日に中央執行委員の選出が行なわれ,議長にU Thaung Kyi,副議長にU Soe,U Chit Swe,書記長にU Than Yuらが選ばれた。メンバーは計35名。なお,この日6項目にわたる宣言を採択した。
DIA-211-1977-08-01-3ミャンマー1977年08月01日1970年代バングラデシュとビルマは航空協定に仮調印した。
DIA-211-1977-08-05-1ミャンマー1977年08月05日1970年代駐カンボジア大使に現駐中国大使U Myint Maungが任命された(兼任)。
DIA-211-1977-08-08-1ミャンマー1977年08月08日1970年代第1回労働者協会総会のための準備会議が開かれ,中央労働者評議会副議長U Ba Nyein,統合書記U Kyaw Thant,第1回労働者協会総会準備委員会議長ウ・マウン・マウン・カ首相,第1回労働者協会総会執行委員会議長U Htin Kyaw建設相らが出席した。
DIA-211-1977-08-09-1ミャンマー1977年08月09日1970年代第1回労働者協会総会開く―7月末の農民協会総会に引き続き,労働者協会第1回総会が,ラングーンKaba Aye丘の講堂で開かれた。これには各地方,工場などから780名の代表が出席した。これにはネーウィン大統領も出席,労働者の役割などについて述べた。
DIA-211-1977-08-10-1ミャンマー1977年08月10日1970年代福田首相来訪―福田首相一行は3日間の公式訪問のため特別機でラングーンに到着した。空港にはマウン・マウン・カ首相,U Kyi Maung保健・情報相,U Ye Goung農林相,Moung Cho第2工業相,U Hla Aye貿易相らほとんどの閣僚と関係高官が出迎えた。 またこの晩,ネーウィン大統領は一行を晩さん会に招いた。サンユー副大統領,国評メンバーU Thaung Kyi,マウン・マウン・カ首相,フラー・ポン外相らが同席した。なお席上,福田首相の訪日要請に対し,ネーウィン大統領は受諾する意向を明らかにした。
DIA-211-1977-08-10-2ミャンマー1977年08月10日1970年代ラオスのスファヌボン大統領がモスクワへ行く途中,ラングーンに立寄り,フラー・ポボン外相と会談した。
DIA-211-1977-08-10-3ミャンマー1977年08月10日1970年代福田首相,経済協力を約束―福田首相は午前10時,マウン・マウン・カ首相と約1時間半にわたって経済協力について会談した。 席上,福田首相からつぎのような経済協力が提示された。 (1)食糧増産のための農機具,肥料など6億円の無償援助。 (2)ビルマ側の要請した精米,尿素肥料,河川航行バージ,漁業開発,セメント工場などのプロジエクトについて,資金協力,技術協力でできる限り配慮する。 (3)経済関係だけでなく,両国間の文化交流を積極的に推進する。 なおこの後,「日本,ビルマ共同声明」を採択・発表した。
DIA-211-1977-08-12-1ミャンマー1977年08月12日1970年代福田首相一行はビルマでの公式日程を終え,午前10時20分,インドネシアへ向け出発した。
DIA-211-1977-08-14-1ミャンマー1977年08月14日1970年代労働者協会幹部選任―労働者協会第1回総会最終日に中央執行委員会メンバーが選出され,つぎのように決定した。 議長  U Maung Maung Kha(首相) 副議長  U Ba Nyein(国評メンバー)  U Aung Hmi 書記長  U Tin Myat 総会書記  U Kyaw Than,U Ohn Khin 委員はU Kyaw Ohn他28名である。
DIA-211-1977-08-16-1ミャンマー1977年08月16日1970年代インド外相,来訪―インド外相S.A.B.バジパイ他4名の代表団が公式訪問(4日間)のためラングーンに到着,フラー・ポン外相らが出迎えた。
DIA-211-1977-08-17-1ミャンマー1977年08月17日1970年代地方大学委員会―今年開校した地方カレッジの運営を諮問する地方カレッジ中央監査委員会の第1回会合が開かれた。
DIA-211-1977-08-17-2ミャンマー1977年08月17日1970年代アジア開銀の借款で韓国から購入した3隻のトロール漁船が到着した。
DIA-211-1977-08-17-3ミャンマー1977年08月17日1970年代戦後初の石油輸出,日本へ―石油化学・天然ガス工業公社は,日本の金商又一商事に重油3万トンを輸出した。この石油輸出は独立後は初めてである。
DIA-211-1977-08-18-1ミャンマー1977年08月18日1970年代来訪中のバジパイ・インド外相はネーウィン大統領,サンユー副大統領と会見した。
DIA-211-1977-08-20-1ミャンマー1977年08月20日1970年代OKM大尉の控訴棄却―国家反逆事件で死刑及び重罪を言い渡されていたOhn Kyaw Myint元大尉らの控訴について,ラングーン中央法廷はこれを棄却すると発表した。
DIA-211-1977-08-20-2ミャンマー1977年08月20日1970年代MOCと石油化学・天然ガス公社によって建設されていたマン油田からGwema港(イラワジ河川港)までの141マイルのパイプライン(10インチ)がこのほど完成。Gwema港からシュリアム精油所までは石油バージで運ばれる。
DIA-211-1977-08-21-1ミャンマー1977年08月21日1970年代政府はベトナムとの間で航空協定に調印した。これは18日に来訪したベトナム政府航空局長との間で行なわれたもの。
DIA-211-1977-08-22-1ミャンマー1977年08月22日1970年代計画党中央委員会―計画党第四回中央委員会が開かれ,サンユー書記長が中央執行委員会報告を行なった。またこの日は,開会予定の人民議会に臨む党の基本方針などについて討議された。
DIA-211-1977-08-23-1ミャンマー1977年08月23日1970年代ラングーン市民がテロを批難―Kyauktada郡人民評議会の第10回総会で,市内のテロ活動が頻発していることから,一般市民を犠牲にするこの種のテロに対する抗議の決議を採択した。
DIA-211-1977-08-23-2ミャンマー1977年08月23日1970年代モールメン警察当局は市内の住居から,密輸された9000本の注射器を押収,関係者を逮捕した。
DIA-211-1977-08-23-3ミャンマー1977年08月23日1970年代北部シャン州協同組合連合会はラングーンのオン・サン・マーケットにシャン州産品販売店を開設,ワイン,蜂みつなどの販売を開始した。
DIA-211-1977-08-25-1ミャンマー1977年08月25日1970年代電力公社はMyanaungガスタービン発電所か電力供給を開始したと発表。この発電所は今年4月完成したもので,現在66KVの能力。
DIA-211-1977-08-25-2ミャンマー1977年08月25日1970年代第1期第8回人民議会開かる―第1期第8回人民議会が開かれ,定数451人のうち436人が出席,ネーウィン大統領が開会宣言した。またサンユー副大統領が国家評議会報告,マウン・マウン・カ首相が閣僚評議会報告を行なった。閣僚評議会報告のなかで,1976/77年の米の生産が目標を超えて4億4630万バスケットであったこと,しかし政府集荷は1億4070万バスケット(目標1億5600万バスケット)であったと述べている。
DIA-211-1977-08-27-1ミャンマー1977年08月27日1970年代ネーウィン大統領はサンユー副大統領,Kyaw Htin大将らと中央公務員養成学校(校長は今年5月に国評メンバーを退任したU Kyaw Soe)を訪れ,視察した。
DIA-211-1977-08-27-2ミャンマー1977年08月27日1970年代入民議会3日目は,国家評議会及び閣僚評議会報告について,各議員との質疑応答が行なわれた。
DIA-211-1977-08-27-3ミャンマー1977年08月27日1970年代計画党青年部中央組織委員会書記長U Tin Hlaを団長とする青年代表団が各国の招請にもとづき,ハンガリー,ソ連,東独訪問のため出発した。
DIA-211-1977-08-30-1ミャンマー1977年08月30日1970年代ガスステーションに時限爆弾―ラングーン市Pabedanのガスステーションで爆発があり,事務所内が大破した。時限爆弾によるものとみられている。
DIA-211-1977-08-30-2ミャンマー1977年08月30日1970年代カンボジアへ代表団―フラー・ポン外相を団長とするビルマ政府代表団は,カンボジア政府の招待で公式訪問した。
DIA-211-1977-08-31-1ミャンマー1977年08月31日1970年代政府はタイ領爆撃の補償を拒否―今年3月,ビルマ政府軍が国境付近のカレン族軍基地を攻撃したさい,砲撃がタイ領内にまで及び,タイ人30名が死亡した件につき,タイ政府がこれを補償するよう要求していた。これに対し,ビルマ政府はバンコクのビルマ大使をつうじて,「責任はなく,したがって補償する必要はない」との回答を寄せてきた。これにつき,タイ政府は新らたな対策を検討中である。
DIA-211-1977-08-31-2ミャンマー1977年08月31日1970年代ネーウィン大統領が人民議会で演説―人民議会最終日に,ネーウィン大統領が演説。大統領はこのなかで,1962年以来,自分達がやってきた業績を評価しながらも,自己反省を忘れるなと呼びかけた。 また,住居の不法占拠を例に出して,勝手な人事異動や,与えられた職務に不満を持っている人々が多いことに警告し,ビルマ人の伝統的な絆である“ar-nar-de”(相互理解)の精神を発揮し,トラブルのないよう目標に向って進もうと呼びかけた。そして最後に,5月に国評メンバーを辞めて,中央公務員養成学校の校長に転身したU Kyaw SoeとU Than Seinの態度は「自ら国の最高権力から降りて,実質的な仕事を選んだことは立派であり,見習うべき態度である」と結んだ。
DIA-211-1977-09-01-1ミャンマー1977年09月01日1970年代大統領暗殺・アラカン州分離陰謀計画が発覚,関係者が逮捕さる―大統領を始めとして,国家指導者を暗殺し,アラカン州の分離を謀議したとして,警察当局に逮捕されていた(8月初め)7名の犯人に対する分離裁判がラングーン管区第63法廷で開かれた。この事件はアラカン州の計画党員,ラングーン市内の郡人民評議会員が,KNUと接触して謀議したということで注目される。
DIA-211-1977-09-02-1ミャンマー1977年09月02日1970年代カンボジアを訪問中のフラー・ポン外相はキュー・サムファン国家元首と会談した。
DIA-211-1977-09-02-2ミャンマー1977年09月02日1970年代人事異動―国家評議会は保健局長U Aung Theinを8月13日付で解任したと発表。また現北西軍司令官Hla Tun准将(軍籍5497)を国防省主計総監に,陸軍参謀本部付参謀Than Nyunt大佐(軍籍6356)を国防省付特別参謀に,国防省民兵・社会関係局長Sein Win中佐(軍籍6893)を国防省法務官にそれぞれ任命したと発表。
DIA-211-1977-09-02-3ミャンマー1977年09月02日1970年代ラングーン市Maung Taulay街の商店内で爆弾が爆発,数名が軽傷を負った。
DIA-211-1977-09-05-1ミャンマー1977年09月05日1970年代第2期人民議会選挙は1月1日から15日まで―第2期人民議会議員選挙は1978年1月1日から15日の間に行なわれることが,選挙委員会から発表された。これは各レベル人民評議会選挙と同時に行なわれる。 また同日付で,州・管区レベルの選挙委員会が組織され,それぞれのメンバーが発表された。
DIA-211-1977-09-05-2ミャンマー1977年09月05日1970年代カンボジアを公式訪問したフラー・ポン外相は北京経由で帰国した。
DIA-211-1977-09-05-3ミャンマー1977年09月05日1970年代交易公社(印刷・文具)総裁U Soe Hlaingを団長とする貿易使節団が中国に向け出発した。
DIA-211-1977-09-06-1ミャンマー1977年09月06日1970年代計画党代表団ブルガリアへ―計画党協同組合・農業関係委員会書記U Zaw Peに率いられた3名の代表団がブルガリアへ向った。
DIA-211-1977-09-08-1ミャンマー1977年09月08日1970年代ビルマ航空のTwin-Otter機が行方不明になった。これはMong HsatからKengtungへ飛行中だったもので,10日,空軍ヘリコプターによって,山間部に墜落しているのが確認された。
DIA-211-1977-09-08-2ミャンマー1977年09月08日1970年代情報・保健相U Kyi Maungはバセインの放送局などを視察した。
DIA-211-1977-09-10-1ミャンマー1977年09月10日1970年代U Htin Kyaw建設相と第1工業相Tint Swe大佐はイラワジ管区内の工業施設を視察した。
DIA-211-1977-09-10-2ミャンマー1977年09月10日1970年代ウー・マウン・マウン・カ首相は第2工業相Maung Ch大佐とMindegyiの石油試掘井を視察。
DIA-211-1977-09-10-3ミャンマー1977年09月10日1970年代6つの法律が発効―ネーウィン議長は6つの新法律を公布した。これはビルマ郵便局法修正法,国家情報局修正法,制限修正法,人民議会及び人民評議会修正法,人民監察評議会修正法,民間企業関連法などである。
DIA-211-1977-09-12-1ミャンマー1977年09月12日1970年代ネーウィン大統領はラングーン市の自分の選挙区民を集めて,人民議会報告を行なった。
DIA-211-1977-09-16-1ミャンマー1977年09月16日1970年代ネーウィン大統領,中国訪問―ネーウィン大統領一行は中国を公式訪問(9月20日まで)するため北京に到着,華国鋒主席,鄧小平副首相らの出迎えを受けた。これでネーウィン大統領は4月につづいて,今年2度目である。
DIA-211-1977-09-16-2ミャンマー1977年09月16日1970年代サンユー副大統領はBahanの自分の選挙区で人民議会報告を行ない。この1年間物価が下落することに努めた政府の方針を説明した。
DIA-211-1977-09-17-1ミャンマー1977年09月17日1970年代U Tun Lin,U Than Sein失脚―国家評議会は運輸・通信相U Tun Lin,計画・財務相U Than Seinの解任を発表した。2人は今年3月末に計画党から入閣してきたもので,政府高官のフランス亡命に関し責任をとらされたものと観測されている。
DIA-211-1977-09-17-2ミャンマー1977年09月17日1970年代ネーウィン大統領は華国鋒主席と会談。鄧小平副首相,鄧穎超全人代常務委副委員長,黄華外相らが同席した。
DIA-211-1977-09-18-1ミャンマー1977年09月18日1970年代農民協会中央執行委員会メンバーはカチン州Bhamoを訪れ,地区農民協会を視察した。この視察はカチン州一帯にわたって25日まで続けられた。
DIA-211-1977-09-20-1ミャンマー1977年09月20日1970年代政府高官がフランスに亡命―政府民間航空局長Nyunt Tinと計画党ラングーン管区副書記のTun Aungはフランスで亡命を要請,フランス政府はこれを受け入れた。2人は政府代表団(7名)のメンバーでヨーロッパを歴訪中。(世界日報)
DIA-211-1977-09-20-2ミャンマー1977年09月20日1970年代ネーウィン大統領,北朝鮮公式訪問―ネーウィン大統領一行は,4日間の日程(23日まで)で北朝鮮を公式訪問,平壌に到着。午後金日成首席主催の晩さん会に出席した。 なお一行のメンバーはつぎのとおり。 Khin Sanda Win(ネーウィンの娘),Dr.Maung Maung,フラー・ポン外相,Col.Maung Cho(第2工業相),Gen.Kyaw Htin,Lt-Col.Aye Kyaw(大統領付官房長),U Lay Maung(国家情報局長)など。 晩さん会の席上,ネーウィン大統領は,両国の相互協力を強調,金日成主席はビルマの自立的努力と非同盟政策を礼賛した。
DIA-211-1977-09-21-1ミャンマー1977年09月21日1970年代ネーウィン大統領は金日成首席と会談―この会談では友好協力関係,相互に関連する諸問題についての意見交換が行なわれた。
DIA-211-1977-09-22-1ミャンマー1977年09月22日1970年代計画省対外経済関係局長に現同局付部長U Thein Myintが昇格した。
DIA-211-1977-09-23-1ミャンマー1977年09月23日1970年代アラカン州の独立を陰謀したとして逮捕されている元計画党員らの公判のなかで,証人喚問が続けられている。そのなかで証人Hashim Bhaiは,犯人達は今年2月,バングラデシユの大使館付武官Amin大佐に会い,独立運動に援助してくれるよう要請したことがあると証言した。
DIA-211-1977-09-23-2ミャンマー1977年09月23日1970年代建設省住宅局は国有住居の不法占拠者234名に対し,立退き勧告を出していたが,従わなかったものに対する強制執行を開始した。
DIA-211-1977-09-26-1ミャンマー1977年09月26日1970年代第5回計画党中央委―第5回計画党中央委員会が開かれ,ネーウィン議長も参加,1977年内に臨時党大会を開くことを決議した。
DIA-211-1977-09-28-1ミャンマー1977年09月28日1970年代ネーウィン,ロンドンへ―ネーウィン大統領はメディカル・チェックを受けるためロンドンに向け出発した。サンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相らが見送った。
DIA-211-1977-09-28-2ミャンマー1977年09月28日1970年代フラー・ポン外相は国連第32総会出席のため出発。
DIA-211-1977-09-30-1ミャンマー1977年09月30日1970年代国防省は全軍の将兵が着用する階級章を10月1日から,新階級章に変えると発表。
DIA-211-1977-10-01-1ミャンマー1977年10月01日1970年代米価改訂―貿易省は1977/78年度の米の買上価格を発表。今回の改定はとくに,上質米について価格を引き上げた。
DIA-211-1977-10-01-2ミャンマー1977年10月01日1970年代国防相Kyaw Htin大将はラングーン師団本部で人民議会報告を行なった。
DIA-211-1977-10-02-1ミャンマー1977年10月02日1970年代第1工業省管轄のYwathitkyi棉繊維工場が1976/77年度の最優秀モデル工場に選ばれた。なお当工場の1977/78年度は,これまで操業率70.6%(目標90.3%)で,4800万チャットの生産が見込まれている。
DIA-211-1977-10-03-1ミャンマー1977年10月03日1970年代ラングー市内の交通規則厳守キャンペーンが始まり,規則違反は厳しく罰せられると発表された。これは自動車運転手だけではなく,歩行者も対象になっている。
DIA-211-1977-10-04-1ミャンマー1977年10月04日1970年代「KIAは自壊を早めている」―最近投降してきた6名の元KIAおよびBCP兵士を歓迎する会がKutkaiで開かれ,元KIA軍曹Aung Tunは要旨つぎのように述べた。 (1)KIA軍は共産軍と合同してからますます自壊的かつ無秩序状態になってきた。そして,正義を失なっているため投降希望者が多くなっている。 (2)共産軍はKIAと手を結んでからKIA領域を犯すようになった。KIAと共産軍との間には意見の喰い違いが多くて,1974年にはのリーダーの1人が暗殺されたりトラブルが絶えない。 また共産軍小隊長Li Ko Phyinはつぎのように述べた。 (1)BCP第2旅団3031隊と特別戦闘連隊はいまも破壊活動を続けている。共産軍50名は8月5日にMonpaw到着,Kutkai周辺の騒動をせん動した。 (2)そしてMawan橋(Kutkai-Tamonye間)を破壊した。 (3)共産軍はネーウィン政府は人民を抑圧しているといっているが,実際に人民を抑圧しているのは共産軍そのものである。 なおこの6名のうち3名は3月7日にまた3名は9月9日に政府軍第45連隊に投降してきたものである。
DIA-211-1977-10-06-1ミャンマー1977年10月06日1970年代第2次OPECローン―OPEC特別基金はビルマ政府に対し,第2次借款として442万ドルを与える旨調印,なお第1次借款は1977年1月に225万ドルが決定,第2次分は,世銀借款と合同で,電気通信網の拡大とラングーン市給水計画に使用される。同借款の条件は無利子で,0.75%のサービスチャージ,4年据置きの19年返済,なお給水計画分については5年据置きの20年返済。
DIA-211-1977-10-06-2ミャンマー1977年10月06日1970年代外務省は新駐ソ大使にU Kyaw Khaingを任命したと発表。
DIA-211-1977-10-06-3ミャンマー1977年10月06日1970年代農林相U Ye Goungは農民協会中央執行委員U Thein HanとともにTaikkyi郡Hlaing川沿岸の洪水被災地域を視察し,災害復旧を速やかにし,生産減少が起らないよう当局に指示した。
DIA-211-1977-10-09-1ミャンマー1977年10月09日1970年代北部シャン州国境付近で共産軍との戦闘に参加していた第76歩兵連隊(司令官Hla Pe大佐)550名はマンダレーに帰還,市民4000人に迎えられた。
DIA-211-1977-10-10-1ミャンマー1977年10月10日1970年代Tatkon郡内5ヵ村の村民からなる民兵隊(Hardcore People’s Militia)600人に対し,第109歩兵連隊司令官Myo Swe中佐から武器を引き渡された。
DIA-211-1977-10-10-2ミャンマー1977年10月10日1970年代運輸・通信相Sein Lwin大佐は運輸・通信事情視察のためインドネシアに向け出発した。
DIA-211-1977-10-10-3ミャンマー1977年10月10日1970年代ビルマはイタリーとの間で航空運輸協定に調印した。
DIA-211-1977-10-10-4ミャンマー1977年10月10日1970年代政府は人民議会選挙に向けての選挙区を確定するための布告を発表。これによると州・管区別の選挙区数はつぎのとおり。 カチン州  51  カヤ州  30 カレン州  55  チン州  35 ザガイン管区  86  テナセリム管区  50 ペグー管区  88  マグウェ管区  82 マンダレー管区  91  モン州  67 アラカン州  73  ラングーン管区  89 シャン州  86  イラワジ管区  93
DIA-211-1977-10-11-1ミャンマー1977年10月11日1970年代ラングーン市内タマダ映画館内で時限爆弾が爆発したが,人身被害はなかった。
DIA-211-1977-10-11-2ミャンマー1977年10月11日1970年代Bhamo郡内の2ヵ村の民兵隊に武器が手渡され,政府軍第47連隊司令官Tun Kyi中佐,第1戦術師団司令官Kyaw Min大佐らが出席した。
DIA-211-1977-10-12-1ミャンマー1977年10月12日1970年代ベトナムから貿易代表団―ベトナム対外貿易省次官グエン・チャンを団長とする6人の貿易代表団が到着(10月15日まで)。
DIA-211-1977-10-12-2ミャンマー1977年10月12日1970年代軍と党役員がシャン州視察―シャン州内各地で,軍の駐屯高官と党地区指導者らがチーム編成して,9月中旬から,担当諸地域の視察を行なった。これは麻薬栽培者に対する更生・指導,農地転用指導,治安対策など,集団的な努力を行なうため,地区指導者と協議,指導体制を確立するためである。
DIA-211-1977-10-13-1ミャンマー1977年10月13日1970年代U Ye Goung農林相と第1工業相Tint Swe大佐はKyaukse,Myittka各郡の農業公社の農場を視察した。
DIA-211-1977-10-15-1ミャンマー1977年10月15日1970年代U Ye Goung農林相はShwebo地区を訪れ,高収量品種稲作の状況視察。
DIA-211-1977-10-15-2ミャンマー1977年10月15日1970年代農林省は各出先機関に対し,今期作付米の収量増加のため,ロスをできるだけ少なくするよう農民に指導すべく措置をとれとの指示を出した。,
DIA-211-1977-10-17-1ミャンマー1977年10月17日1970年代鉱業・労働相解任―国家評議会は布告第79/77号を発令,鉱業・労働相U Kyaw Zawを解任したと発表。理由については触れていないが,先の2閣僚解任と共に,3月に新入閣した者の解任が続いているため,政府内部対立の問題と関連していることが取沙汰されている。
DIA-211-1977-10-17-2ミャンマー1977年10月17日1970年代国立芸術学校校長U Tin Ayeを団長とする文化使節団が中国を訪問(2週間)。
DIA-211-1977-10-18-1ミャンマー1977年10月18日1970年代入民議会・人民評議会選挙委員会議長Dr.Mehm Thet Sanはマグウェ管区選挙小委員会を訪れ,選挙の重要性について強調した。
DIA-211-1977-10-19-1ミャンマー1977年10月19日1970年代ルーマニア対外貿易・国際経済協力省次官Dumitry Bejanを団長とする代表団が到着。計画・財務,協同組合相U Tun Tinらが出迎えた。
DIA-211-1977-10-22-1ミャンマー1977年10月22日1970年代フラー・ポン外相は国連総会からの帰途,東独を3日間公式訪問。
DIA-211-1977-10-22-2ミャンマー1977年10月22日1970年代来訪中のルーマニア貿易代表団はマウン・マウン・カ首相と会見。
DIA-211-1977-10-22-3ミャンマー1977年10月22日1970年代陸軍参謀長前線を視察―陸軍参謀長Aye Ko准将は兵站局長Sein Tun大佐,信号局長Than Tin大佐らと10月18日から22日まで,ラシオの北東師団を訪れ,同地区での共産軍との前線を視察した。
DIA-211-1977-10-23-1ミャンマー1977年10月23日1970年代ビルマ共産党Kyawt Yin派のオルグChit TunがMongmit警察に逮捕された。携行していた9mmピストルと弾丸50発,重要文書も押収された。
DIA-211-1977-10-24-1ミャンマー1977年10月24日1970年代フラー・ポン外相はユーゴスラビアを公式訪問(26日まで)。
DIA-211-1977-10-25-1ミャンマー1977年10月25日1970年代政府は駐バングラデシュ新大使にU Thein Wlnを任命したと発表。
DIA-211-1977-10-25-2ミャンマー1977年10月25日1970年代イギリスの開発省次官R.A.Browningが来訪。計画・財務副大臣Dr.Maung Shein,対外経済局長U Thein Myintらが出迎えた。
DIA-211-1977-10-28-1ミャンマー1977年10月28日1970年代右派パオ族軍が投降―パオ族反乱軍(通称白パオ軍)の実質上の軍事リーダーで,“Thuwunna師団”司令官クン・イエ・ノウン(Khun Ye Naung)とその部下66名が政府軍第94連隊前線基地に投降してきた。 クン・イエ・ノウンはKyaikkaw村(Thaton郡)に生まれ,1969年10月に地下に入り,U Thwin派中央軍に加わった。その後同軍の第2責任者となり,パオ族連隊司令官となった。1974年にU Thwinと意見が合わずここを離れ,KNU反乱軍Bo Myaの援助で“Pa-O Liberation Army”を結成,その後シャン州パオ族領域で活動していたU Hla Pe(1975年死亡)のパオ族軍と合流,密輸や麻薬隊からの税を集めたりしていた。1976年5月に結成された13党による民族民主戦線では副議長に選ばれた。 今年に入って政府軍のMoe Hein第3次作戦によって,常に逃げまどわなければならなくなり,このため,親共産軍のパオ族Tarkalai派(通称赤パオ軍)と手を結ぶことを企てたが,白パオ軍から反対され,9月に同軍から除名された。このため投降を決意したというもの。 なお9月には同パオ軍の副司令官級のPo Toeら7名がMyawaddyの第97連隊前線基地に投降している。クン・イエ・ノウン隊は投降時にM-16銃38丁,M-18銃1丁,HK-33銃
DIA-211-1977-10-28-2ミャンマー1977年10月28日1970年代人民評議会権限法制定―国家評議会は“各レベル人民評議会および執行委員会の権利・責任法を制定”(10月26日発効)した。これは各レベルの人民評議会の権利・義務を法的に確定し,人民議会および国家評議会との関係を詳細に規定したものである。
DIA-211-1977-10-28-3ミャンマー1977年10月28日1970年代第1工業省関係工業生産順調―第1工業省の工業計画関係会議が開かれ,席上第1工業相Tint Swe大佐は,「1977/78年度第2四半期の生産目標(第1工業省管轄下の国営工場)は6億3770万チャットであったが,実績は7億360万チャットであった」と述べ,工業生産が回復基調にあることを指摘した。
DIA-211-1977-10-28-4ミャンマー1977年10月28日1970年代ラシオ地区Kyaukme郡内の村民が国境周辺で戦闘に参加している将兵に対し,食糧,タバコなど合計7万チャットの品物を供与した。
DIA-211-1977-10-30-1ミャンマー1977年10月30日1970年代ネーウィン大統領帰国―9月28日からロンドンで療養していたネーウィン大統領が帰国,サンユー副大統領らが出迎えた。またこの日,国連議会に出席,その後東独,ユーゴスラビアを訪問していたフラー・ポン外相も帰国した。
DIA-211-1977-10-30-2ミャンマー1977年10月30日1970年代三軍参謀長前線視察―陸・海・空軍参謀長Aye Ko准将,Chit Hlaing大佐,Saw Pru准将は,陸軍兵站局長Sein Tun大佐らと北東師団の前線であるKunlong,Hopan,Panglong地区を29,30日と視察した。
DIA-211-1977-11-01-1ミャンマー1977年11月01日1970年代共産軍と激戦―北東軍管区内の国境周辺で,北東軍所属部隊は10月3日から27日まで“Ye Min Aung”作戦を展開。サルウィン川東岸域Ho-Pang,Chu Shwe,Hpa-Ling,Ho-Hsawnなどで,共産軍と24日間にわたって激戦,政府軍は空軍も応援,戦闘はなお続行中である。 この間,共産側は500名が戦死,多数が負傷した。戦死者のうち373名が遣体で捕獲され,共産軍中隊長1名が投降した。また政府軍側も士官13名と兵士113名が戦死,39名が行方不明,237名が負傷し,戦闘機(バンパイヤー)1機が撃墜された。一時は共産軍はHo-Pangの町を占領しようとしたが,これを撃退。 一部筋ではこの間に政府軍1個大隊が全滅したといわれている。
DIA-211-1977-11-01-2ミャンマー1977年11月01日1970年代麻薬運び屋に重刑―麻薬の運搬をして逮捕されていた2名のシャン人に対する裁判が結審,それぞれ7年の懲役刑がいい渡された。
DIA-211-1977-11-05-1ミャンマー1977年11月05日1970年代世銀が種子改良に借款―IDA(世銀)は稲種子改良プロジェクトに総額550万ドルを供与することに決定。これにより350万エーカーに高収量品種を普及させたいとしている。
DIA-211-1977-11-05-2ミャンマー1977年11月05日1970年代Hsenwiの党員,村民,第69連隊兵士など1万5000人が,10月をつうじて共産軍と戦闘をして帰還した第13連隊(司令官Saw Shwe少佐)将兵を歓迎する集会を開いた。
DIA-211-1977-11-05-3ミャンマー1977年11月05日1970年代Insein郡裁判所は先に死刑判決を受けた元KKYリーダーの麻薬王ローシンハンの控訴を棄却した。
DIA-211-1977-11-06-1ミャンマー1977年11月06日1970年代今年産米の政府集荷目標は1億6070万バスケット―農業・農産物公社は11月1日から全国900個所の買付センターで米の集荷を開始しているが,当公社の推計では今年産米の生産量は4億8020万バスケット,このうち1億6070万チャットを政府集荷目標としている。 なお各州・管区別の集荷目標はつぎのとおりである。 (単位は100万バスケット) カチン州  2.335  カレン州  0.055 ザガイン管区  9.5  テナセリム管区  0.9 ペグー管区  45.2  マグウェ管区  2.550 マンダレー管区  4.8  モン州  6.950 アラカン州  7.4  ラングーン管区  21.2 シャン州  0.115  イラワジ管区  59.2 (注)政府は11月8日付で生産量推計を4億6000万バスケットに修正した)。
DIA-211-1977-11-07-1ミャンマー1977年11月07日1970年代Mong Kungで,最近同郡党支部に投降してきた共産軍第4045連隊兵士4名を歓迎する会が催された。席上元共産軍小隊長Ai Tunは「われわれは2年間共産軍にいた。その間大変な苦労をし,食事も満足に与えられなかった。1ヵ月の手当は10チャットで,政府軍から逃げ廻る毎日であった」と述べた。
DIA-211-1977-11-08-1ミャンマー1977年11月08日1970年代新任アメリカ大使Maurice D.Beanが大統領に信任状を提出。
DIA-211-1977-11-08-2ミャンマー1977年11月08日1970年代電力公社はチェコのPragoinvestからディーゼル発電機(600万ドル)を購入する契約をした。
DIA-211-1977-11-08-3ミャンマー1977年11月08日1970年代精米施設の改善を決定―農業・農産物公社は米の輸出促進のために現存のパー・ボイルド精米所の施設改善を進める計画を発表した。現在全国にはイラワジ管区内の40工場を含め,パー・ボイルド精米所は49あり,処理能力は818トンである。これを修理あるいは施設改良,新設などで,全国に59工場として,能力956トンまで高めたいとしている。
DIA-211-1977-11-10-1ミャンマー1977年11月10日1970年代10月中にシャン高原で共産軍と戦闘してきた将兵達の歓迎会や,プレゼントが各地で相次いでいる。第77歩兵師団所属の第6連隊はラングーンに帰還,市民の歓迎を受けた。
DIA-211-1977-11-13-1ミャンマー1977年11月13日1970年代計画党臨時大会準備委員会―計画党臨時大会に向けて,第6回党中央委員会,準備委員会などが開かれ,大会の運営について協議した。
DIA-211-1977-11-14-1ミャンマー1977年11月14日1970年代計画党臨時大会開く―計画党臨時党大会がラングーンで開かれ,ネーウィン議長が開会演説を行ない党内の結束を強化しなければならないとし,「党内で与えられた職務や地位に不満を感じることなく,党員は常に滅私奉公の精神を貫ぬかねばならない」などと述べた。 また党大会議長に任命されたYebaw Tha Tunは開会宣言後,今大会を開いた理由についてつぎのように述べた。 (1)党規約に基づき第5回中央委でこの開催を決定,党内統一を強化するための協議を行なう。 (2)党規約の改正,新しい中央委員選挙をすること。なお,サンユー書記長は中央委員会基調報告を行なった。このなかで,「党中央委員会のなかで,重大な対立があり,一部は反党,反国家的行為をし,先のアラカン分離陰謀と関連していたことも判明したため,U Thaung Kyi,Kyaw Htin大将,Tin Oo大佐,U Lay Maung(NIB局長)らが特別の監査委員会を設置して党中央委メンバーの不穏な動きを監察した」との党内紛争の経過を説明した。
DIA-211-1977-11-14-2ミャンマー1977年11月14日1970年代北テナセリム海岸沖を航行中の2隻のスクーナーが,当局に捕えられ,積んでいた密輸品200万チャット相当が押収された。密輸品はカセット・テープ,ゴム靴,靴磨粉,ワイヤー釘,陶器,ビスケット,印刷用品,プラスチック製ハンドバッグ,印画紙,自動車部品,乾電池,自転車,ホンダモーターバイクその他である。
DIA-211-1977-11-16-1ミャンマー1977年11月16日1970年代党中央委選挙―計画党臨時大会3日目は党中央委員会委員を決める投票が行なわれた。
DIA-211-1977-11-17-1ミャンマー1977年11月17日1970年代計画党新指導部決定―臨時党大会最終日に,中央委員会,執行委員会などの新指導部が発表された。(参考資料参照),2月の第2回党大会で決定したばかりにもかかわらず新委員の選挙が行なわれたことは異例であり,党中央での紛争を裏付けたものとして注目される。 なお第3回党大会では中央委員は合計180名,候補59名であったが新任された中央委員は250に増えた。 第3回大会で委員に指名され,今回リストからもれた人は合計52名,また候補リストからもれた人は8名である。 新体制での内訳のうち,現役軍人は88名(29.2%),軍出身者72名(28.2%),少数民族45名(18%)となっている。
DIA-211-1977-11-17-2ミャンマー1977年11月17日1970年代共産党第4045軍第12中隊所属の2兵士がLaikhaの第77歩兵師団前線キャンプに投降してきた。 この兵士は,今後政府軍兵士と共に共産軍と闘うつもりであると述べた。
DIA-211-1977-11-18-1ミャンマー1977年11月18日1970年代海軍哨戒艇はメルグイ沖を航行中の密輸船4隻を捕えた。このうち3隻は魚,魚汁,エビなどを積んで密輸出しようとしていたもの,1隻は機械部品などの密輸入品を稽んでいた。
DIA-211-1977-11-18-2ミャンマー1977年11月18日1970年代各地の労働者団体が,党臨時大会の決定を歓迎し,支持する集会を開いた。
DIA-211-1977-11-20-1ミャンマー1977年11月20日1970年代今年4月から10月末までに全国で27の新らしいパイロット協同組合農場が建設された。
DIA-211-1977-11-21-1ミャンマー1977年11月21日1970年代チェコの技術工業相Ing Pavol Bahyl一行が来訪,工業施設視察が目的(1週間)。
DIA-211-1977-11-22-1ミャンマー1977年11月22日1970年代石油精製プラントに日本援助―円借款によるMann石油精製プラント建設に関し,このほど石油化学工業公社と三菱重工との間で契約が成立した。総工費は12億チヤット,同プラントの最終能力は日産2万5000バーレル,1981年に操業開始予定。
DIA-211-1977-11-23-1ミャンマー1977年11月23日1970年代新任の駐ビルマ・中国大使Mo Yen-Chungはネーウィン大統領に信任状を提出。
DIA-211-1977-11-24-1ミャンマー1977年11月24日1970年代マウン・マウン・カ首相は来訪中のチェコ工業相と会見,U Tun Tin計画・財務相,フラー・ポン外相,Maung Cho第2工業相などが同席した。
DIA-211-1977-11-24-2ミャンマー1977年11月24日1970年代一般工業公社は1977/78年度中にアヒル羽根70トンを輸出する準備を進めている。この羽根はトン当り3000~7000ドルになり,ビルマではモールメン,イエ,メルグイなどが産地である。
DIA-211-1977-11-26-1ミャンマー1977年11月26日1970年代大統領,カンボジアを公式訪問―ネーウィン大統領はカンプチア民主共和国元首の招待を受け午前8時特別機でプノンペンに向った。同行者はThaung Kyi,Dr.Maung Maung,フラー・ポン外相,Ye Goung農林相,Kyaw Htin大将,U Lay Maung NIB局長,大統領官房長Aye Kyaw中佐,国防省情報局長Myo Aung大佐らである。 プノンペン空港ではキュー・サンファン大統領,Nuon Chea人民代表大会常任委議長,イエン・サリ副首相兼外相,Von Vet副首相兼経済相,Son Sen国防相らほとんどの首脳が出迎えた。 空港から迎賓館までの沿道には両国の友好を示すスローガンの幕が貼られ,多くの市民が歓迎した。 この日のプノンペン放送は,カンボジアが新体制になって初めての外国元首の訪問ということで,両国が非同盟を追求する共同の友としてその歓迎振りを報道した。 この夜キュー・サンファンの主催による晩さん会が開かれネーウィン大統領はカンボジアの反植民地闘争と国家建設の努力を賞賛,両国の友好・親善を強調した。
DIA-211-1977-11-27-1ミャンマー1977年11月27日1970年代カンボジアを訪問中のネーウィン大統領はイエン・サリ外相の案内でシアムレップを訪れ,アンコール・ワット,アンコール・トムを見学した。
DIA-211-1977-11-28-1ミャンマー1977年11月28日1970年代U Hla Aye貿易相はインドネシアとの二国間貿易の発展を協議するためジャカルタに向った。
DIA-211-1977-11-28-2ミャンマー1977年11月28日1970年代第2工業省副大臣U Hla Tinが辞職。
DIA-211-1977-11-28-3ミャンマー1977年11月28日1970年代ネーウィン大統領はシアムレップから夕方戻り,キュー・サン・ファン国家元首と会談した。
DIA-211-1977-11-29-1ミャンマー1977年11月29日1970年代カンボジアを公式訪問したネーウィン大統領一行は午前10時,ラングーンに帰着,サンユー副大統領らが出迎えた。
DIA-211-1977-12-01-1ミャンマー1977年12月01日1970年代インドネシアを訪問中の貿易代表団(団長:U Hla Aye貿易相)はインドネシア貿易相と会談,貿易の拡大を協議し,4000トンの食用油の輸入と麻袋の輸出などで合意した。
DIA-211-1977-12-02-1ミャンマー1977年12月02日1970年代国際協力事業団はアラカン山脈中のバセイン管理森林の風倒木伐採・搬出プロジェクトに技術協力および器材供与として450万ドルを供与することに決定,調印した。
DIA-211-1977-12-02-2ミャンマー1977年12月02日1970年代人民評議会幹部7名を解任―国家評議会は布告第88’77を発令し,Maungdaw郡人民評議会議長U Saw Hla Pruら7名を解任したことを発表,この7名はいずれも「公的利益保護法」「社会主義経済権限法」違犯に問われたもの。
DIA-211-1977-12-03-1ミャンマー1977年12月03日1970年代大統領,稲作地帯を視察―ネーウィン大統領は,12月2日と3日,サンユー副大統領,計画党統合書記U Thaung Kyi,マウン・マウン・カ首相,国防相Kyaw Htin大将,農林相U Ye Goung,第2工業相Maung Cho大佐らとTaikkyi郡内の稲作地帯における集団相互収穫状況などを視察した。また大統領は農民代表と各地で直接会談した。
DIA-211-1977-12-04-1ミャンマー1977年12月04日1970年代40名のビルマ伝統歌舞団がベトナムに向け出発(2週間)。
DIA-211-1977-12-04-2ミャンマー1977年12月04日1970年代教育相Dr.Khin Maung Winは第26回コロンボ計画諮問委員会に出席のためカトマンズに向かった。
DIA-211-1977-12-06-1ミャンマー1977年12月06日1970年代貿易相U Hla Ayeを団長とする貿易代表団はクアラルンプルに到着。
DIA-211-1977-12-07-1ミャンマー1977年12月07日1970年代青年奉仕隊キャンプ4カ所に開設―青年の訓練と,生産活動の奉仕を目的に組織されている青年奉仕隊の特別キャンプが,Yezin,Myaungmya,Basseinなど4ヵ所に開設された。
DIA-211-1977-12-08-1ミャンマー1977年12月08日1970年代マウン・マウン・カ首相は来訪したイスマイル・マレーシア外相と会見。
DIA-211-1977-12-08-2ミャンマー1977年12月08日1970年代ネーウィン大統領は,U Thaung Kyi,国防相Kyaw Htin大将,Ye Goung農相らと共にShwebo郡の稲収穫状況を視察し,農民と会談,席上大統領は高収量品種の普及による増産と集団努力の必要性を強調した。
DIA-211-1977-12-09-1ミャンマー1977年12月09日1970年代大統領は来訪中のイスマイル・マレーシア外相と会談。
DIA-211-1977-12-09-2ミャンマー1977年12月09日1970年代第2工業・鉱山相Maung Cho大佐は1977年度MOC年次地質学セミナーの開会式で,石油およびガス生産と開発が,国の経済発展の鍵を握ると述べ,その重要性を強調した。
DIA-211-1977-12-09-3ミャンマー1977年12月09日1970年代中国から広東民族舞踊団が到着,ラングーンとマンダレーで上演する。10日に文化相U Aye Maungが一行と会見した。
DIA-211-1977-12-10-1ミャンマー1977年12月10日1970年代オランダ政府はビルマに対し,総額3000万ギルダーの援助を供与することが発表された。これはビルマ航空のFokker機の部品,船舶部品,粉ミルク,乳製品,医薬品の購入に充てられる。
DIA-211-1977-12-11-1ミャンマー1977年12月11日1970年代海軍当局は12月第1週内に領海内で7隻の密輸船とタイ籍漁船1隻を捕獲したと発表。
DIA-211-1977-12-12-1ミャンマー1977年12月12日1970年代ネーウィン大統領はMayangon選挙区から―1月1日から始まる第2期人民議会選挙に向けて,各地,各選挙区で候補者の認定作業が行なわれているが,ラングーン市Mayangon郡第1区では,計画党郡支部による候補者選定会議で,ネーウィンが満場一致で候補者に指名された。この他国家評議会員のU Lwin,Dr.Maung Lwin,U Ba Nyeinらがそれぞれの選挙区で同日指名された。なおサンユー副大統領はBahan選挙区から13日に指名された。
DIA-211-1977-12-15-1ミャンマー1977年12月15日1970年代国軍党支部で総会―国軍内の計画党支部総会が開かれ,全国各地の国軍支部で基調報告や人民議会候補者の指名結果などが報告された。
DIA-211-1977-12-16-1ミャンマー1977年12月16日1970年代MOC(ビルマ石油公社)は1977/78年度の原油生産目標を1095万バーレルとした。なおこれまでの実績はつぎのとおり。 1974/75  6.7百万バーレル 1975/76  7.09 〃 1976/77  9.49 〃
DIA-211-1977-12-17-1ミャンマー1977年12月17日1970年代ラングーン市内中心部Theingyizay市場構内で爆弾が爆発。人身被害はなかったが電気交換器が破壊されたため,一部地域で停電した。
DIA-211-1977-12-20-1ミャンマー1977年12月20日1970年代ラングーン市内中央スーレパゴダ通り,タマダ映画館近くの橋上の電話交換ボックス付近で爆弾が爆発,通行中の三輪タクシーが破損,運転手が死亡した。
DIA-211-1977-12-20-2ミャンマー1977年12月20日1970年代Kyaikto地Mokpalin村の村民1000人が共産党の破壊活動を批難する抗議集会を開いた。これには第96連隊からThein Zaw少尉らも参加した。
DIA-211-1977-12-21-1ミャンマー1977年12月21日1970年代農業開発が最優先―U Tun Tin計画・財務相は政府および地方議会執行委員との経済調整合同委員会会議で,第3次4ヵ年計画においては農林業開発に対し引き続き最優先が与えられると述べ,農林業開発さらにはこれに資する工業開発に大幅な投資が行なわれると説明した。
DIA-211-1977-12-23-1ミャンマー1977年12月23日1970年代士官は党の原則を学べ―メイミヨウの国軍士官学校第19回卒業式典に出席した国軍参謀長Kyaw Htin大将は「士官諸兄は計画党の指導原則をよく学び,党の指導に従い,国家に忠誠を誓って,滅私奉公せよ」などと述べた。なおこの日の卒業生は135名である。
DIA-211-1977-12-23-2ミャンマー1977年12月23日1970年代有権者は1600万人―1月1日から行なわれる人民議会および評議会選挙の確定有権者数は1611万8828で,選挙される総員数は17万8639,このうち人民議会は464,州および管区人民評議会976,郡人民評議会2万2864,町村人民評議会15万4353である。
DIA-211-1977-12-23-3ミャンマー1977年12月23日1970年代新任の駐ソ・ビルマ大使U Kyaw Khineがモスクワで信任状を提出。
DIA-211-1977-12-26-1ミャンマー1977年12月26日1970年代ネーウィン大統領は12月24日から26日まで,North Nawinダム,Paukkhaung試掘井,Tharrawaddyセラミック工場などを視察した。Kyaw Htin大将,Ye Goung農林相,Maung Cho鉱山・第2工業相,Lay Maung NIB局長などが同行した。
DIA-211-1977-12-26-2ミャンマー1977年12月26日1970年代選挙委員会,選挙方法を放送で説明―全国向け放送をつうじて,選挙委員会は来る総選挙の方法,手続,立候補者,選挙区の選定手順などについて,質疑応答形式で説明した。
DIA-211-1977-12-27-1ミャンマー1977年12月27日1970年代ビルマ政府は西独政府との間で航空運輸協定に調印した。
DIA-211-1977-12-28-1ミャンマー1977年12月28日1970年代服役中の囚人を建設労働に―1977年度刑務所担当官会議に出席した内務相Sein Lwin大佐は,「5000人の服役囚人を計画的に国家建設プロジェクトに動員させる方法を検討中である」と述べた。現在全国には37の刑務所がある。
DIA-211-1977-12-28-2ミャンマー1977年12月28日1970年代Yezin農業研究所のDr.Kyaw Zinを団長とする教育使節団がベトナム訪問に出発した。
DIA-211-1977-12-31-1ミャンマー1977年12月31日1970年代1月1日からの総選挙に向けて,各地で投票を呼びかける宣伝隊が繰り出したり,投票所の清掃,その他の催し物が行なわれ,選挙準備に明け暮れた。
DIA-211-1978-01-01-1ミャンマー1978年01月01日1970年代人民議会選挙始まる―任期満了に伴う第2期人民議会議員および各レベル人民評議会議員選挙の投票が全国一斉に開始された。改選される人民議会議席は464,州・管区人民評議会976,郡人民評議会2万2846,町村人民評議会15万4353で計17万8639議席である。 (注)当選議員名簿は資料参照。
DIA-211-1978-01-02-1ミャンマー1978年01月02日1970年代大統領,副大統領らが当選―1日に投票された人民議会選挙の結果が各地区で判明し,ラングーンから立候補したネーウィン大統領,サンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相らが信任された。
DIA-211-1978-01-06-1ミャンマー1978年01月06日1970年代中央裁判所は麻薬王Lo Hsing Hang(元KKYリーダーで,終身刑の判決を受け服役中)の再審請求を却下した。
DIA-211-1978-01-07-1ミャンマー1978年01月07日1970年代ラングーンに爆弾―ラングーン市Theinbyu街のガソリンスタンドで時限爆弾が爆発したが,建物の一部が損壊しただけで人身に被害はなかった。
DIA-211-1978-01-08-1ミャンマー1978年01月08日1970年代全国各地で政府公社による米の集荷が本格的に行なわれているが,当初の予定どおりにはいかず,状況は良くない。このため各地で軍人や奉仕青年団などを動員して集荷に懸命である。
DIA-211-1978-01-10-1ミャンマー1978年01月10日1970年代チェコ対外貿易相来訪―チェコの対外貿易相Ing Andrej Barcakを団長とする7名の貿易代表団が来訪(14日まで),トラクタープロジェクト,タイヤ工場プロジェクト,ディーゼルポンプ工場プロジェクト実施などについて協議する予定である。
DIA-211-1978-01-11-1ミャンマー1978年01月11日1970年代マウン・マウン・カ首相は来訪中のチェコ貿易代表団と会見。フラー・ポン外相,U Tun Tin協同組合相,Maung Cho第2工業相らが同席した。
DIA-211-1978-01-12-1ミャンマー1978年01月12日1970年代チェコと経済協力協定―チェコ政府は総額1億4000万ドルの借款を供与することを含める経済協力協定をビルマ政府との間で調印した。この借款は年利2.5%,3年据置,16年延払い。このうち全体の96%はチェコ援助により建設されたトラクター組立工場の拡張と部品の供給に,その他はタイヤ製造工場の新設(年産70万3000本),デイーゼル・ポンプおよびノズル製造工場(年産15万4700ユニット)新設に使用される。
DIA-211-1978-01-12-2ミャンマー1978年01月12日1970年代西独経済協力相Marie Schlei他11名の代表団が来訪,第2工業相Maung Cho大佐らが出迎えた。1月13日に首相と会見。
DIA-211-1978-01-13-1ミャンマー1978年01月13日1970年代西独が肥料工場援助―西独政府は第3化学肥料工場建設のために総額9000万マルクの借款を供与する旨調印した。この借款は1977,1978年に供与され,年利0.75%,10年据置,50年延払い。
DIA-211-1978-01-15-1ミャンマー1978年01月15日1970年代シヤン州警察司令官U Khin Maung Lwinを団長とする警察視察団は12月10日から28日にかけて,Phekhon,Pinlaung,Kengtung,Monghsatにおける麻薬撲滅運動“Taunteikpan作戦”の現地視察を行なった。この作戦は,ケシ栽培地の転作を奨励することによって,生産を阻止しようというもの,この1年間に西Phekhon郡だけで,5000エーカーのケシ栽培地の転作を行なった。
DIA-211-1978-01-15-2ミャンマー1978年01月15日1970年代U Thein Pe Myint死去―1930年代の独立運動の先駆者で,1945年にビルマ共産党書記長に就任,その後アウン・サン内閣の農林相,NUFからの国会議員などを歴任したU Thein Pe Myintが死去した。
DIA-211-1978-01-17-1ミャンマー1978年01月17日1970年代サンユー副大統領は来訪中のFAO事務局長Dr. E. Saoumaと会談した。
DIA-211-1978-01-19-1ミャンマー1978年01月19日1970年代ユーゴ副大統領来訪―ユーゴ副大統領Stevan Doronjski夫妻一行が来訪,空港にはサンユー副大統領らが出迎え,大統領宮廷でネーウィン大統領が会見した。(5日間)
DIA-211-1978-01-20-1ミャンマー1978年01月20日1970年代来訪中のユーゴ副大統領はサンユー副大統領および国家評議会員らと会談した。
DIA-211-1978-01-21-1ミャンマー1978年01月21日1970年代メルグイ沖で密輸船3隻が捕獲された。この船にはバッテリー,砂糖,練乳,自動車用エンジンなどの密輸入品が積載されていた。また19日は同地点で生ゴム5万ポンドを密輸出しようとしていたスクーナーが捕獲されている。
DIA-211-1978-01-23-1ミャンマー1978年01月23日1970年代パリで開かれる予定の対ビルマ援助国会議に出席する代表団が出発した。団長は計画・財務兼協同組合相U Tun Tinである。
DIA-211-1978-01-26-1ミャンマー1978年01月26日1970年代鄧小平公式訪問―鄧小平中国副首相が6日間の公式訪問のため到着した。空港にはネーウィン大統領他政府首脳が出迎え,大統領官廷で第1回目の会談を行なった。空港からの沿道は数万人の歓迎の人波で埋まり,ただならぬ歓迎振りが示された。 (注)WPD紙は鄧小平の訪問期間中,全て一面全面を使った。また27日付ではZin Lin署名の中国,ビルマ友好関係に関する評論文が掲載された。
DIA-211-1978-01-27-1ミャンマー1978年01月27日1970年代鄧小平副首相とネーウィン大統領は2回目の正式会談を行なった。この日はサンユー副大統領も個別に鄧小平と会談,マウン・マウン・カ首相主催の晩さん会が開かれた。席上鄧小平はそのスピーチで,ビルマの反帝国主義,反覇権主義の政策を讃えた。
DIA-211-1978-01-30-1ミャンマー1978年01月30日1970年代鄧小平主催の晩さん会が開かれ,席上ネーウィン大統領はそのスピーチで,対中友好関係が深まっていることを強調し,再来訪を要請した。
DIA-211-1978-01-30-2ミャンマー1978年01月30日1970年代東北軍管区の国境地区前戦で“Ye Min Aung”作戦を展開して,原隊に帰還した第4カチン銃隊兵士はメイクティラ市民1万人の歓迎を受けた。
DIA-211-1978-01-31-1ミャンマー1978年01月31日1970年代鄧小平帰国―6日間の公式日程を終え帰国した。空港にはネーウィン大統領らが見送った。
DIA-211-1978-01-31-2ミャンマー1978年01月31日1970年代「農業技術の改善を」農相―Hmawbi中央農場で,U Ye Goung農相は,稲作の二期作の導入などの充来の農業技術を改善し,増産の必要性を強調した。
DIA-211-1978-02-01-1ミャンマー1978年02月01日1970年代対ビルマ援助国会議―パリで対ビルマ援助国会議が開かれ,U Tun Tin計画・財務相が第3次4ヵ年計画を説明,援助を要請した。なお政府当局は援助要請のため別に「開発投資5ヵ年計画」を提示した。これに出席した国,機関はつぎのとおりである。 オーストラリア,カナダ,フランス,西ドイツ,日本,イギリス,アメリカ,ADB,IMF,EC,他にオブザーバーとしてフィンランド。 ビルマ政府はこの会議に年間2億5000万~3億ドルの援助要請をしたもようで,世銀代表は「5ヵ年計画期間中,年平均20%以上の投資増が必要である」と語り,ビルマ政府の開発政策は概ね各国に歓迎されたもようである。
DIA-211-1978-02-01-2ミャンマー1978年02月01日1970年代駐モンゴル大使にU Kyaw Khaingが任命された。
DIA-211-1978-02-01-3ミャンマー1978年02月01日1970年代U Aye Maung文化相は来訪中の北朝鮮歌舞団と会見した。
DIA-211-1978-02-02-1ミャンマー1978年02月02日1970年代マウン・マウン・カ首相はU Hla Aye貿易相,U Htin Kyaw建設相らとバセイン,ミマンマの籾買付状況などを視察した。
DIA-211-1978-02-02-2ミャンマー1978年02月02日1970年代第1工業相Tint Swe大佐はMahlaingを訪れ,第2綿繰工場などを視察した。
DIA-211-1978-02-04-1ミャンマー1978年02月04日1970年代国家評議会は選挙法違反などで4名の人民評議会メンバーを解任したと発表。
DIA-211-1978-02-05-1ミャンマー1978年02月05日1970年代U Aung Bwint貿易副大臣はモールメン,ムドンなどモン州地域の籾買付状況を視察,政府の集荷増大を訴えた。
DIA-211-1978-02-06-1ミャンマー1978年02月06日1970年代新駐フィンランド大使に,駐ソ大使U Kyaw Khaingが任命された。またハンガリー大使は駐チェコ大使U Maung Maungが任命された。
DIA-211-1978-02-06-2ミャンマー1978年02月06日1970年代ネーウィン,北西地区を視察―ネーウィン大統領は1月31日から2月6日まで,Kyaw Htin国防相,Maung Cho第2工業相,U Lay Maung国家情報局長らと,北西軍管区地区を訪れ,モゴク鉱山,農場などを視察した。
DIA-211-1978-02-08-1ミャンマー1978年02月08日1970年代北朝鮮技術団来訪―竹材料の化学繊維工場建設のための技術協力として北朝鮮技術団一行13人が来訪した。
DIA-211-1978-02-08-2ミャンマー1978年02月08日1970年代前計画相らの裁判始まる―前計画相U Than Sein,前運輸・通信相U Tun Lin,前計画党中央委員U Tin Win Nyo,U Tin Aye Kyaw,U Zaw Peなど7名に対する汚職,公金流用に関する裁判がラングーン管区第63法廷で開始された。前計画相らは77年9月に解任され,11月の党大会でも中央委員から罷免されていたいわゆる“社会主義強硬派”の中核的存在といわれていた。
DIA-211-1978-02-12-1ミャンマー1978年02月12日1970年代Kun Hing橋開通―シャン州ケントン=タウンジー間のKun Hing橋が完成,このほど開通武を行なった。
DIA-211-1978-02-12-2ミャンマー1978年02月12日1970年代連邦記念日―第31回連邦記念日式典が各地で行なわれた。今年も中央式典は行なわれず,ラングーンでは,各少数民族代表が,ネーウィン大統領主催の晩さん会に招かれた。
DIA-211-1978-02-14-1ミャンマー1978年02月14日1970年代U Hla Aye貿易相はSyriam地区の籾買付センターを視察した。またU Ye Goung農林相はイラワジ管区,ラングーン管区の担当官と籾買付促進のための諸問題を討議した。
DIA-211-1978-02-14-2ミャンマー1978年02月14日1970年代KNUが攻撃―40名のKNU反乱軍がPa-an郡Lunhnyar村を攻撃し,同村駐屯の政府軍第2カチン銃隊附属の4個分隊と交戦,さらに応援部隊(1個中隊)との間で戦闘し,反乱軍は戦死者16名を残して逃走した。
DIA-211-1978-02-15-1ミャンマー1978年02月15日1970年代ラオスに米を無償供与―ビルマ政府はラオス政府に対し,米300トンを無償供与した。なおラオス領内Meng Mong村で供与武が行なわれ,ビルマ側から東部軍第1戦術師団司令官Nyo Win中佐らが出席した。
DIA-211-1978-02-16-1ミャンマー1978年02月16日1970年代アラカン州で移民法違反者を摘発―2月11日からアキヤブ郡内で,不法移住者を摘発するための特別行動“Nagamin作戦”が開始され,これまでに1000人以上が逮捕された。 当作戦で適要される法律は「ビルマ移民法(緊急法)」,「外国人登録法(1949年)」などである。
DIA-211-1978-02-17-1ミャンマー1978年02月17日1970年代海軍警備艇は,西メルグイ沖で6隻の密輸船を摘発,20万チャット相当(練乳,砂糖,建材,その他日用品)の密輸入物資を押収した。
DIA-211-1978-02-17-2ミャンマー1978年02月17日1970年代Kyaukme郡Ponwo村などの村民1500人が共産党の破壊活動を非難する集会を開いた。この集会で村民達は,口々に,共産軍が罪のない村民を殺害し,民家に火をつけ,物資を略奪した事実を訴えた。
DIA-211-1978-02-17-3ミャンマー1978年02月17日1970年代全国種子(改良)委員会がラングーンで開かれ,農林副大臣Dr. Bo Layは「改良種子は肥料投入以上に生産性を向上さす要素となる」と述べ,種子改良の必要を強調,政府のプロジェクトについて説明した。
DIA-211-1978-02-19-1ミャンマー1978年02月19日1970年代アーロン地区工業順調―ラングーン市アーロン地区にある8つの国営工業の1977―78年度,上半期の生産状況が発表された。これによるとそのうち5つの工業で当初目標を超えた。アスベスト・セメント工場アーロン第2製材所(郡協同組合所有),アーロン造船所,合板工場などが目標を超えた一方,アーロン製氷工場,食品加工,チーク製材所は目標を下回った。
DIA-211-1978-02-19-2ミャンマー1978年02月19日1970年代麻薬撲滅作戦―シャン州で進められている麻薬撲滅のための“Taungteikpan作戦”により1977年12月10日から79年2月17日までに,全シャン州で合計8302エーカーのケシ栽培地を他の農作物に転換することに成功した。
DIA-211-1978-02-20-1ミャンマー1978年02月20日1970年代北朝鮮副首相来訪―北朝鮮副首相孔鎮泰を団長とする代表団が来訪,空港には第2工業相Maung Cho大佐らが出迎えた。(25日まで)
DIA-211-1978-02-20-2ミャンマー1978年02月20日1970年代シャン州Mongkuangで当郡内の2200人の住民が,共産軍の略奪,殺人行為を非難する集会を開いた。
DIA-211-1978-02-20-3ミャンマー1978年02月20日1970年代ビルマ政府は北朝鮮政府との間で航空運輸協定に調印した。
DIA-211-1978-02-21-1ミャンマー1978年02月21日1970年代首相,北朝鮮代表団と会見―マウン・マウン・カ首相は来訪中の北朝鮮副首相一行と会談した。またこの日,計画相らも会見し,経済協力問題について協議した。
DIA-211-1978-02-21-2ミャンマー1978年02月21日1970年代爆弾犯人に死刑―インセイン郡裁判所はラングーン市内などで爆弾を仕掛け,爆発させた亡命派反乱軍Tun TinとKyaw Maung Soeに対し,死刑と判決を言い渡した。
DIA-211-1978-02-23-1ミャンマー1978年02月23日1970年代アラカン分離陰謀計画首謀者に死刑―ラングーン管区裁判所は,アラカン州分離,大統領暗殺を企てたとして審理されていた首犯格の元計画党員U Maung Ngwe Aung,U Mahn Dor Waik,Maung Kyaw Htooに死刑判決,またU Htein Linも死刑,U Aung Sein Thaに無期懲役,U Tun Kyawに懲役10年をそれぞれ言い渡した。
DIA-211-1978-02-25-1ミャンマー1978年02月25日1970年代第3回党中央委員会―社会主義計画党第3回中央委員会が開かれ,党財政計画などが討議された。なおネーウィン議長,サンユー書記長も出席。
DIA-211-1978-02-26-1ミャンマー1978年02月26日1970年代全国各地で第2期人民議会開会を歓迎する集会が開かれ,ラングー市では集団清掃が行なわれたり,またある地区では寄付が集められたりした。
DIA-211-1978-02-28-1ミャンマー1978年02月28日1970年代メイミョウに自動通話装置―日本の技術協力により,工事が進められていたメイミョウの電話自動装置がこのほど完成し,引渡式が行なわれた。
DIA-211-1978-02-28-2ミャンマー1978年02月28日1970年代日本の無償協力―日本政府はビルマに対し,稲作開発のために,総額6億円の無償援助を行なう旨の協定に調印した。これはHmawbi,Hlegu両郡の稲作開発用の化学肥料,農業機械などである。
DIA-211-1978-02-28-3ミャンマー1978年02月28日1970年代麻薬密売人に死刑―インセイン郡裁判所は“Aung Moe Hein作戦で逮捕されていた麻薬密売人3名に対し,死刑判決を言い渡した。
DIA-211-1978-03-01-1ミャンマー1978年03月01日1970年代国営企業職員にボーナス支給―各国営公社・企業の職員に対する1976―77年度分のボーナスが一斉に支給された。
DIA-211-1978-03-01-2ミャンマー1978年03月01日1970年代漁業開発プロジェクト―第2次漁業開発プロジェクト(総費用6830万ドル)に対し,アジア開銀は2600万ドルの借款を供与することになった。またECは112万ドルの贈与を供与している。
DIA-211-1978-03-02-1ミャンマー1978年03月02日1970年代第2期第1回人民議会開会―1月の選挙によって一新された第2期人民議会の第1回議会が開かれた。定数464議席中,462名(99.57%)が出席,この日は国家評議会員29名,閣僚評議会員17名,人民司法評議会員7名,人民検察評議会員5名,人民監察評議会員6名がそれぞれ選ばれた。(資料参照)
DIA-211-1978-03-02-2ミャンマー1978年03月02日1970年代人民議会選挙の投票率は93.58%―第2期人民議会第1日目,選挙委員会議長Dr. Mehm Thet Sanは,選挙の結果について報告した。これによると人民議会選挙は有権者数1500万のうち投票率は93.58%,州・管区人民評議会は976選挙区から971評議会員が選ばれ,いずれも高率の投票率で,それ以下のレベルについても,ほぼ議席数が確定した。
DIA-211-1978-03-02-3ミャンマー1978年03月02日1970年代農民の日―1978年度農民の日記念集会が全国各地で催され,ネーウィン大統領はメッセージを送った。
DIA-211-1978-03-03-1ミャンマー1978年03月03日1970年代首相は留任,外相は前中国大使―閣僚評議会は,2日に選任されたメンバーの担当ポストを発表。マウン・マウン・カ首相,Kyaw Htin国防相らは留任,新たに入閣した前駐中国大使Myint Manng准将は外相に,建設相には,陸軍主計総監:Hla Tun准将がそれぞれ就任した。また副大臣もそれぞれ任命され,国防治安委員会(議長・首相)も新しく任命された。(資料参照)
DIA-211-1978-03-03-2ミャンマー1978年03月03日1970年代第3次4ヵ年計画を説明―人民議会2日目に,U Tun Tin計画・財務相は1977―78年度予算実施報告と第3次4ヵ年計画についての説明を行なった。(資料参照)
DIA-211-1978-03-04-1ミャンマー1978年03月04日1970年代前保健相が駐英大使に―駐英大使U Tha Kyawの国評メンバー就任に伴い,前保健相のU Kyi Maungが新駐英大使に任命された。
DIA-211-1978-03-04-2ミャンマー1978年03月04日1970年代人民議会の各特別委員会(13)のメンバーが新任された。
DIA-211-1978-03-05-1ミャンマー1978年03月05日1970年代物価下落―1977年7月から12月までの間に,各交易公社が扱っている品目のうち500品目の価格が下落した。政府によるとこれは生産コストを下げ,マージンを限定したためといわれる。
DIA-211-1978-03-06-1ミャンマー1978年03月06日1970年代人民議会で15人のメンバーから成る選挙委員会が新任された。なお議長には高等教育局長U San Tha Aungが選ばれた。
DIA-211-1978-03-07-1ミャンマー1978年03月07日1970年代人民議会は第3次4ヵ年計画についての審議が行なわれ,U Tun Tin計画・財務相は,1978―79年度予算も含めて答弁に立ち,目標達成に全力を注ぐと述べた。
DIA-211-1978-03-09-1ミャンマー1978年03月09日1970年代新駐中国大使にU Tha Tunが任命された。
DIA-211-1978-03-10-1ミャンマー1978年03月10日1970年代Meiktila市内で,前線から帰還した第79連隊将兵に対する歓迎集会が開かれ,市民は同隊に対して,タバコ,石けんなどの日用品を寄付した。
DIA-211-1978-03-11-1ミャンマー1978年03月11日1970年代Hmawbiの陸軍士官訓練学校の第53期卒業式が行なわれ,陸軍参謀長Aye Ko准将が訓辞を与え,陸軍の歴史,役割などを述べた。
DIA-211-1978-03-13-1ミャンマー1978年03月13日1970年代消防庁の発表によると,全国で常勤消防士は1798名,また補助消防士は1万6812名である。また全国の消防自動車数は784台。
DIA-211-1978-03-14-1ミャンマー1978年03月14日1970年代デンマークから借款―デンマーク政府はビルマ政府に対し,総額3000万クローネ(3670万チャット)の借款を供与する協定に調印した。これは冷凍庫,製氷設備などの水産開発用に使用され,無利子,10年据置き,35年延払い。
DIA-211-1978-03-14-2ミャンマー1978年03月14日1970年代灌漑面積拡大―農林省灌漑局によると,第2次4ヵ年計画期間中第3年度までに合計2.7万エーカーを新たに灌漑し,2.2万エーカーに対し排水設備を終えた。この期間中,シャン州Hopong溪谷プロジェクトほか全部で6つの灌排水プロジェクトを完成させた。
DIA-211-1978-03-15-1ミャンマー1978年03月15日1970年代アラカン州人民議会議長Kyaw Maung少佐らは州各地区の政府籾買付センターを訪れ,籾の買付状況を視察した。
DIA-211-1978-03-15-2ミャンマー1978年03月15日1970年代鉱物輸出は2.1億チャット目標―鉱業相関係機関の担当官会議が開かれ,席上,鉱業相Than Tin大佐は鉱産物の1978―79年度の輸出目標を2.1億チャットと定め,どう達成していくかを討議した。
DIA-211-1978-03-17-1ミャンマー1978年03月17日1970年代税関局と海軍当局が1977年内にビルマ領海域で逮捕した密輸現行犯は合計306人であった。このうち57人はタイ国籍のもので,うち47人は現在裁判中である。
DIA-211-1978-03-18-1ミャンマー1978年03月18日1970年代建設相Hla Tun准将はHmawbiで建設中のフットボール製造工場を視案した。
DIA-211-1978-03-20-1ミャンマー1978年03月20日1970年代反乱軍抗議集会―シャン州Mongmit郡内のシャン,カチン,パラウン,リス諸族など4000人が共産軍の破壊活動に抗議する大集会を開いた。またMong Pingでも2000人の住民による同様の集会が開かれた。
DIA-211-1978-03-20-2ミャンマー1978年03月20日1970年代モン州Mudon警察に,亡命派反乱軍(Bo Yan Naing派)メンバーCho Tooが投降した。
DIA-211-1978-03-21-1ミャンマー1978年03月21日1970年代物価下落続く―昨年後半から全国でほとんどの商品の値下がりが続いており,とくに食糧品価格の値下がりが大きくなっている。ラングーンでは卸売価格で落花生油が前年同期の327チヤットから238チャットへ(10viss当り),玉ねぎが215チヤットから150チヤットへ(100viss当り),チリーが1650チャットから1475チャットへ(100viss当り)と値下がりしている。
DIA-211-1978-03-23-1ミャンマー1978年03月23日1970年代ネーウィン,東北地区を視察―ネーウィン大統領は東部および東北軍管区を17日から23日まで視察,Keng Tungでは第88歩兵師団本部を訪れ,前線の状況を視察,傷病兵を見舞った。なお,Kyaw Htin大将,Ye Goung農林相,Than Tin鉱業相,Tun Yi准将,Tin Oo大佐らが同行した。
DIA-211-1978-03-25-1ミャンマー1978年03月25日1970年代KNU反乱軍Saw Tartar派兵土がPaung郡Yinnyeinの軍キャンプに投降してきた。この投降者の言によるとKNU軍のTartar派とLone Lone派が最近Thaton郡内で衝突し,Lone Loneが射殺されるという事件があり,この内部抗争から逃れるために投降したもの。
DIA-211-1978-03-25-2ミャンマー1978年03月25日1970年代ネーウィン大統領はマウン・マウン・カ首相らと国軍記念日展覧会を視察。
DIA-211-1978-03-25-3ミャンマー1978年03月25日1970年代BAC機墜落―ラングーン発マンダレー経由ミチナ行ビルマ航空機フレンドシップが,ミンガラドン空港離陸直後に墜落し,乗客44名,乗員4名全員が死亡した。このなかには日本の橋梁建設センター調査団6名が含まれている。
DIA-211-1978-03-26-1ミャンマー1978年03月26日1970年代“Ye Min Aung作戦”―政府軍北東師団部隊は,2月から3月にかけてラシオ北東部サルウィン川西岸域(Tang-Yan地域)を中心に共産軍掃討のための“Ye Min Aung作戦”を行なった。この作戦は2月初め,共産軍約1300人がSia-ka-la,Tachi-leng,Ai-tzu-tou地域に侵入したため,これを撃退すべく行なわれたもので,空軍の応援もあって,共産軍約800人を撃滅させ,このうち335名の戦死を確認した。政府軍側損害は戦死135,行方不明124,負傷229名であった。
DIA-211-1978-03-27-1ミャンマー1978年03月27日1970年代国軍記念日―第33回国軍記念日を祝う式典が行われ,ラングーンでは,軍首脳も出席して三軍のパレードが行なわれた。またネーウィン大統領は官廷で招待者と会食した。パレードを前にKyaw Htin国防相は国軍の任務などについて演説した。
DIA-211-1978-03-28-1ミャンマー1978年03月28日1970年代国家評議会議長は“1978年度予算法”を発布した。
DIA-211-1978-03-29-1ミャンマー1978年03月29日1970年代汚職追放運動―ラングーン管区人民評議会議長Kyaw Myint中佐は,管区内調整会議の席上,汚職に厳しい監視体制をとるよう警告した。
DIA-211-1978-03-30-1ミャンマー1978年03月30日1970年代ビルマ製船舶進水―造船公社で製造した外航貨物船“Loikaw”(800トン)が進水した。
DIA-211-1978-03-31-1ミャンマー1978年03月31日1970年代経済計画調整会議―閣僚評議会経済調整委員会は州・管区人民評議会代表と会合,1978―79年度経済計画について説明するとともに,計画実施における地方行政機関の協力を要請した。
DIA-211-1978-04-01-1ミャンマー1978年04月01日1970年代米の生産は前年比14万トン増(政府発表)―1977―78年度の籾の生産量は前年比14万トン増の946万トンとなったと発表された。
DIA-211-1978-04-03-1ミャンマー1978年04月03日1970年代前線部隊の大歓迎会―シャン高原北部で共産軍と戦闘して原隊に復帰してきた第77歩兵師団所属第2連隊はTheinzayat,Peguで1万人以上の市民に迎えられ,祝勝会が行なわれた。
DIA-211-1978-04-04-1ミャンマー1978年04月04日1970年代今期農業融資は5000万チャット―1978年度の耕作融資はビルマ農業銀行から8月末までに総額5000万チャットが貸出される。農家1戸当りの融資最高額は1400チャットで,23種の作物が対象とされる。作物別エーカー当りの融資額はつぎのとおり。 落花生100チャット,ポテト90チャット,玉ねぎ75チャット,稲70チャット,タバコ50チャット,チリー50チャット,ひまわり50チャット,マッペ35チャット,バタービーン35チャット,大豆35チャット,メイズ30チャット,その他雑豆20チャット。なお農産物公社との間で予約買付契約をしたものはこの融資対象からはずれる。
DIA-211-1978-04-05-1ミャンマー1978年04月05日1970年代北朝鮮から同時に2組の代表団が来訪した。ひとつは教育使節団,他は化学繊維技術団で,ビルマでのビニロン生産の可能性を調査する。
DIA-211-1978-04-05-2ミャンマー1978年04月05日1970年代鉱山相Than Tin大佐とU Saw Hla Pru副大臣は4月3日~5日までテナセリム管区内の各地の鉱山の視察を行なった。
DIA-211-1978-04-06-1ミャンマー1978年04月06日1970年代ビルマ航空はラングーン―ダッカーカルカッタ便を新しく就航させた。週1便。
DIA-211-1978-04-06-2ミャンマー1978年04月06日1970年代訪問中の北朝鮮教育省副大臣Li Hi Jongは教育相Khin Maung Win博土と会談した。
DIA-211-1978-04-08-1ミャンマー1978年04月08日1970年代計画党書記長サンユー大将は7日,8日の2日間にわたって,テナセリム管区の計画党支部を訪れ,地区党幹部と会談した。なお同行者は国防相Kyaw Htin准将,党中央委書記局書記Khin Maung Tint大佐らである。
DIA-211-1978-04-10-1ミャンマー1978年04月10日1970年代S. A. Karimに替わって駐ビルマ・バングラ大使にZahir-uddinが任命され,ビルマ政府はこれを承認した。
DIA-211-1978-04-10-2ミャンマー1978年04月10日1970年代シャン州北部で反乱軍抗議の大集会―シヤン州北部Tang-Yanで付近の住民1万6000人が集まって共産軍の破壊活動を非難する大抗議集会が開かれた。これは3月6日,共産軍がサルウィン河東岸からTang-Yanの北部を攻撃,多くの住民が死傷し,略奪あるいは寺院や学校に放火したことに抗議したもの。またRathedaung郡Nyaungpinle村でも2万人の共産軍抗議集会が開かれた。
DIA-211-1978-04-12-1ミャンマー1978年04月12日1970年代畜産振興に日本の援助―日本の国際協力事業団はビルマに対し畜産振興の技術協力(総額300万ドル)を行なうことがこのほど決定した。
DIA-211-1978-04-12-2ミャンマー1978年04月12日1970年代北朝鮮は工業サービス公社に対し5台のブルドーザー(75馬力)を無償供与した。これは昨年9月ネーウィン大統領訪朝の際,金日成主席から贈られることが約東されたもの。
DIA-211-1978-04-12-3ミャンマー1978年04月12日1970年代Maubin駐屯第27連隊戦闘部隊は北シャン州での共産軍との戦闘を終え,原隊に帰還,市民2000人に迎えられた。
DIA-211-1978-04-13-1ミャンマー1978年04月13日1970年代市民,戦闘部隊を歓迎―北シャン州Tang Yan地区で共産軍と戦闘,原隊に復帰したモン州Theinzayat駐屯の第77師団所属第2連隊兵士を多くの市民が歓迎,歓迎式典が連隊本部で開かれた。
DIA-211-1978-04-14-1ミャンマー1978年04月14日1970年代3月末までの協同組合は全国で1万9218組合となった。内訳はつぎのとおり。 中央協同組合(1),郡協同組合連合(州,管区レベル,19),郡協同組合(296),単位協同組合連合(160),工業製品製造者協同組合(429),水産業協同組合(467),農産物生産者協同組合(145),村落協同組合(12,511),消費者協同組合(2,349),企業内協同組合(326),信用協同組合(2,233),生鮮食品業協同組合(33),サービス業協同組合(4),警察署員協同組合(245)。 協同組合員数は660万人,資本金は18億5000万チャット。
DIA-211-1978-04-15-1ミャンマー1978年04月15日1970年代KIAが攻撃―約300人のKIA軍がカチン州Shwegu町を早朝攻撃,一時町内を占拠,商業銀行から40万チャットの現金を略奪した。これに対し,軍警合同部隊が応戦,夕方までに撃退した。政府軍は5名,警察官2名,市民7名が死亡し,警察官9名が行方不明となった。反乱軍側は12名が死亡し,2名が捕まった。
DIA-211-1978-04-15-2ミャンマー1978年04月15日1970年代外相,バングラ訪問―外相Myint Maung准将を団長とする代表団は,ベンガル人回教徒(ビルマ在住)の越境問題を話し合うためバングラデシュ訪問に出発した。なお同行者は西部軍司令官Min Goung大佐,アラカン州人民評議会議長Kyaw Maung少佐,外務省政治局局長U Saw Hlaing,移民・労働局局長U Soe Myintらである。(16日まで)
DIA-211-1978-04-16-1ミャンマー1978年04月16日1970年代カレンニ反乱軍リーダー戦死―南シャン州Kehsi東方10マイルLoilan村近くで,政府軍はカレンニ反乱軍と交戦,この際カレンニ軍“参謀長”Saw Mun Na“少将”が戦死した。Saw Mun NaはHpasaung郡に生まれ,1966年に地下に潜り“Karenni Amyotha Toetetyay党”に参加,72年に中隊長,73年に副参謀長となり,最近では東北国境地区で共産軍と接触を始めていた。
DIA-211-1978-04-19-1ミャンマー1978年04月19日1970年代計画党書記長サンユー大将は18,19の2日間,国防相Kyaw Htin大将らと共にマグウェ管区内の計画党支部などを視察,関係者と協議した。
DIA-211-1978-04-22-1ミャンマー1978年04月22日1970年代計画党サンユー書記長は国防相Kyaw Htin大将らと共に21,22の2日間,ペグー管区の党支部などを視察,関係者と協議した。
DIA-211-1978-04-22-2ミャンマー1978年04月22日1970年代陸軍参謀長Aye Ko准将は内務副大臣U Ohn Kyi,陸軍兵站局長Tin Sein大佐らとともに19日から22日まで東部軍地区の前線部隊を視察。Mong Hsatの第88歩兵師団,Kengtungの第232野戦医療大隊などを訪れた。
DIA-211-1978-04-23-1ミャンマー1978年04月23日1970年代第4次Moe Hein作戦開始―麻薬撲滅のためのMoe Hein第4次作戦が4月12日からタイとの国境付近Loi Lem地区一帯で開始された。この作戦は東部軍所属部隊と第88歩兵師団との連合部隊によって行なわれ,これまでに13回にわたって麻薬を扱う反乱軍との戦闘を行ない,Loi Lem,Taku,Mae Mao,Mae Hkam,Loi Sam Saw,Mong Yaungなどで10ヵ所の麻薬精製所を発見,破壊した。また政府軍はこれまでに生アヘン158キロ,アヘン液594ガロン,ヘロイン精製液374リットルなどを押収した。これらの地域には麻薬精製,運搬,密輸などを扱う反乱軍が集中しており,Loimaw派軍,Kokang軍,Labu族軍,KIA軍,SSA軍,KMT軍などがいる。 なお22日にはラングーン駐在の各国駐在武官,外人記者団の代表が,ビルマ政府の案内でMoe Hein作戦の現地視察を行なった。
DIA-211-1978-04-24-1ミャンマー1978年04月24日1970年代農民協会中央会―第2回農民協会中央会総会がラングーンで開かれ,同中央会議長U Thaung Kyiが農民協会の現状,農業生産の近況,同協会の役割などに関して演説した。
DIA-211-1978-04-24-2ミャンマー1978年04月24日1970年代Lahu族が共産軍抗議集会―Mong Pingで共産軍に抗議する集会が開かれ,約2000人の住民(ほとんどがLahu族)が参加,席上住民代表としてU Gana Wunが演説,「共産軍はシャン州各地で殺りく行為を繰り返し,籾や種籾さえ略奪している。Lahu族は,こうした略奪から逃れるため伝来の土地や家を棄てMong Pingに難民として生活している。Lahu族は共産軍と闘うためには,政府軍に協力する用意がある」などと述べた。
DIA-211-1978-04-27-1ミャンマー1978年04月27日1970年代Shweguで反乱軍抗議集会―4月15日,KIA軍に攻撃され,市民にも死者の出たShweguで市民4000人がこれに抗議する集会を開いた。この席上市民の1人は,KIAはいまや共産党の手足となっており,その破壊活動は許されないと強い口調で抗議した。
DIA-211-1978-04-28-1ミャンマー1978年04月28日1970年代Pa-an近郊Hlaingbwe=Htilon間で約100人のKNU反乱軍が通行中のバス10台をつぎつぎに略奪,バスは放火された。
DIA-211-1978-04-29-1ミャンマー1978年04月29日1970年代計画党書記長サンユー大将はKyaw Htin国防相らとともに28,29の2日間,マンダレー,ペグー管区内の党支部などを視察,関係者と協議した。
DIA-211-1978-04-29-2ミャンマー1978年04月29日1970年代内務省国民登録を強化,不法越境住民を締め出し―内務・宗教省は,ビルマ国民,市民権保有外人,無国籍者および不法侵入者を区別するための特別登録作戦を全国各地で,昨年5月以来行なっていることを明らかにした。 いま行なわれている登録強化運動は特にWanthan-Oo作戦,Nagamin作戦と名付けられた2つの作戦で,ラングーン市内を含め,全国各地で行なわれ,未登録国民の登録,不法侵入者の摘発などが中心で,登録違反者は逮捕されている。
DIA-211-1978-04-29-3ミャンマー1978年04月29日1970年代ラングーン管区人民評議会執行委員会は,ラングーン市Hlawga湖付近一帯を刑法144条適用地域として,立ち入り禁止にした。これはこの湖付近帯で付近の住民が,無断で漁をしたり,金網やコンクリートを破壊したりして荒れ放題になっていた。
DIA-211-1978-05-01-1ミャンマー1978年05月01日1970年代全国各地で労働者の日記念集会が開かれた。
DIA-211-1978-05-01-2ミャンマー1978年05月01日1970年代国民登録違犯者摘発―政府・移民局は,今年に入って未登録非ビルマ人,違法在住外人に対する特別摘発作戦を全国各地で行なっていることを明らかにした。移民局は非ビルマ人に義務づけられている国民登録証の保持,またはビルマ在住証明の保持,いづれかに違反している非ビルマ人の摘発を行なっており,移民法,または国民登録法に基づいて各地で,その違反者を逮捕している。 (注)3月末からアラカン州の国境付近の回教徒住民(ほとんどがベンガル人移住者)のうち,これまで国境を越えてバングラデシュに避難した者が15万人を超えたといわれている。
DIA-211-1978-05-02-1ミャンマー1978年05月02日1970年代シャン州内52郡のうち,これまで30郡にすでに何らかの発電施設および送電が行き届いている。
DIA-211-1978-05-02-2ミャンマー1978年05月02日1970年代駐カンボジア大使に駐中国大使U Tha Tunの兼任が命じられた。
DIA-211-1978-05-04-1ミャンマー1978年05月04日1970年代第1工業省年次報告―第1工業相Tint Swe大佐は同省年次報告会の席上,同省管轄の工業生産の概況について述べ,1977―78年度の総生産額は目標に対し103.5%と目標を上回ったと報告,その原因について,コマーシャリズムが浸透したことと指摘した。
DIA-211-1978-05-04-2ミャンマー1978年05月04日1970年代鉱業相Than Tin大佐は3日,4日,モン州内の鉱山を視察した。また建設相Hla Tun准将は2日,3日,各地の建設工事現場を視察した。
DIA-211-1978-05-06-1ミャンマー1978年05月06日1970年代情報・文化相U Mya Maungは3日から6日にかけて,Pagan地区を視察した。
DIA-211-1978-05-07-1ミャンマー1978年05月07日1970年代海軍哨戒艇は西メルグイ沖を航行中の密輸船3隻を捕獲し,合計30万チャット相当の密輸品を押収,このなかにはゴム,砂糖,練乳,建材などが含まれていた。
DIA-211-1978-05-08-1ミャンマー1978年05月08日1970年代亡命派反乱軍Sein Myint派“Paukkyaing隊”所属兵士Hla MyintがKyaiknlaraw郡人民評議会に投降した。
DIA-211-1978-05-08-2ミャンマー1978年05月08日1970年代KNU軍と銃撃戦―政府軍第2カチン銃隊所属部隊はThaton北東Windayei村近くでKNU軍第1旅団200名と交戦したのを皮切りに,付近で20日までに数回の戦闘を行ない,KNU軍は15名が戦死した他,KNU軍第1旅団所属第2連隊司令官NaluことKabagyawが戦死した。
DIA-211-1978-05-08-3ミャンマー1978年05月08日1970年代教育副大臣Maung Maung Ayeを団長とする教育使節団が北朝鮮に向け出発した。
DIA-211-1978-05-09-1ミャンマー1978年05月09日1970年代投降共産軍兵士が反共演説―Mong Yawngで3000人を集めた集会で,4月に政府に投降した共産党第815軍の通称Kuntiゲリラ隊7名が,反共演説を行ない,共産党の非人道的破壊行為,略奪などの事実を暴露,抗議した。
DIA-211-1978-05-09-2ミャンマー1978年05月09日1970年代ラングーン管区内の各種協同組合調整会議が開かれ,協同組合相Sein Tun大佐が出席。商品供給の円滑化について討議した。
DIA-211-1978-05-09-3ミャンマー1978年05月09日1970年代前Letpadan郡党支部議長U Bo Niと前同郡人民評議会執行委員U Nyunt Thaungは救援物資を横領したとして起訴された。
DIA-211-1978-05-10-1ミャンマー1978年05月10日1970年代タイ首相来訪―マウン・マウン・カ首相の招待を受けてタイのクリアンサク首相がタイ空軍特別機で到着した。空港には首相の他,国防相,計画相らが出迎えた。また,午後6時半からはネーウィン大統領と会見した。(2日間)
DIA-211-1978-05-13-1ミャンマー1978年05月13日1970年代バングラ国境の状況―政府移民局はバングラ国境で行なわれている不法在住非ビルマ人に対する登録,検査のための“Nagaminプロジェクト”の進行状況を発表,さらに4月末から5月にかけて,当地区で起った不法ベンガル人の“抵抗”について発表した。これによると,Buthidaung郡第12,第13区ではこれまでに1万6563家族,10万622人の検査を行なったが,うち4395家族,2万3400人がバングラ側に逃亡,うち631名を逮捕した。
DIA-211-1978-05-13-2ミャンマー1978年05月13日1970年代オーストラリア政府はMobyeかんがいプロジェクト用のトラクターなど650万ドル相当の機材を無償供与した。
DIA-211-1978-05-15-1ミャンマー1978年05月15日1970年代陸軍参謀長,北部を視察―陸軍参謀長Aye Ko准将は12日から15日にかけて北部軍本部(Bhamo,司令官Saw Maung大佐)を訪れ,同軍管轄区域を視察した。
DIA-211-1978-05-16-1ミャンマー1978年05月16日1970年代西ドイツ国会議員団が来訪,計画相U Tun Tin,第2工業相Maung Cho大佐らと会談した。
DIA-211-1978-05-17-1ミャンマー1978年05月17日1970年代Kyaukpyuにサイクロン―アラカン州を襲ったサイクロンによってKyankpyu市の90%の建物が倒壊した。なお政府は鉱業省副大臣U Saw Hla Pruを現地に派遣して,被害状況の視察を行なった。
DIA-211-1978-05-18-1ミャンマー1978年05月18日1970年代“Nagaminプロジェクト”は全国ベース―政府移民局は声明を発表し,バングラデシュへの難民が国際化していることに鑑み,不法在住非ビルマ人への登録・検査措置は,バングラ国境付近だけで行なっているものではなく,カチン,アラカン両州およびザガイン,マンダレー両管区でも同様なことが行なわれていると述べ,各地域での登録状況などについて詳しく発表した。
DIA-211-1978-05-18-2ミャンマー1978年05月18日1970年代国家評議会は5つの政府局長ポストの人事異動を発表した。このなかには現東北軍管区司令官Min Naung大佐が消防局総監に任命されたなどが含まれている。
DIA-211-1978-05-18-3ミャンマー1978年05月18日1970年代運輸・通信相Khin Ohn大佐らはデルタ地帯の工場,道路建設状況を視察した。
DIA-211-1978-05-19-1ミャンマー1978年05月19日1970年代農林省副大臣U Kyaw Htainはプローム付近で最大の農用ダム(北Nawinダム)を視察した。
DIA-211-1978-05-20-1ミャンマー1978年05月20日1970年代Kyaw Htin国防相,Hla Tun建設相,U Hla Aye貿易相,Sein Tun協同組合相,U Mahn San Myat Shwe労働・福祉相ら政府関係閣僚,副大臣は特別機でKyaukpyuを訪れ,サイクロン被災地を視察した。
DIA-211-1978-05-21-1ミャンマー1978年05月21日1970年代陸軍,警察合同隊は77年12月から78年4月末までシャン,カチン,チン州で合計1万312エーカーの不法ケシ栽培地を発見,これを耕作禁止した。なお,このうち1万206.79エーカーはシャン州内である。
DIA-211-1978-05-24-1ミャンマー1978年05月24日1970年代消費者物価下落続く―ラングーン市の消費者物価は昨年末から下落が続いているが,5月に入ってもわずかながらこの傾向は続き,チリー,玉ねぎ,タバコなどは前月比10~20%の値下がり,しかし,魚および魚製品,食用油はわずかに上昇した。
DIA-211-1978-05-25-1ミャンマー1978年05月25日1970年代全国に仲買センター―全国各管区・州に合計326の協同組合仲買センターを設置,一斉にオープンした。
DIA-211-1978-05-27-1ミャンマー1978年05月27日1970年代計画党書記長サンユー大将はKyaw Htin大将らと共に26,27の両日モン州,カレン州を訪問,党地区指導者らを集め,党の基本方針などを説明した。
DIA-211-1978-05-28-1ミャンマー1978年05月28日1970年代ラングーン管区内36郡で人民議会および各レベル人民評議会の補欠選挙が行なわれた。
DIA-211-1978-05-28-2ミャンマー1978年05月28日1970年代林業局は1977―78年度内に,不法にラングーンに持ち込まれたり,密売された木材のうち800トン(160万チャット相当)を押収したと発表。
DIA-211-1978-05-29-1ミャンマー1978年05月29日1970年代第3次計画を検討―閣僚評議会の経済調整委員会が開かれ,第3次4ヵ年計画の実施方法について討議された。このなかで,計画・財務副大臣Maung Sheinは,第2次計画が結局目標を達成されなかったことを反省し,第3次計画は,目標達成に全力を注ぐと述べ,関係各機関の協力を要請した。
DIA-211-1978-05-30-1ミャンマー1978年05月30日1970年代内外記者団,回教徒難民問題を視察―情報省はラングーンに在住の内外記者団を,バングラデシュへの流出が続く回教難民の実情を視察させるため,28日から30日までButhidaungおよびMaungdaw地区へ案内した。記者団には情報文化省副大臣Aung Htay大佐,内務・宗教副大臣U Khin Maung Tiらが同行,問題の地域で,残留しているベンガル人回教徒とインタビューしたが,住民は,一部の過激派の回教徒が政府の国民登録を拒否して暴動を起したため,回教徒住民は迷惑していると述べた。 また情報省当局は記者団に対し,政府軍側がこれらの住民を武力で追い払った事実はないと説明した。
DIA-211-1978-05-31-1ミャンマー1978年05月31日1970年代労働福祉相U Mahn San Myat Shweを団長とするILO第64回大会代表団が出発。
DIA-211-1978-05-31-2ミャンマー1978年05月31日1970年代亡命派反乱軍Bo Maung Soeに率いられる計7名の反乱軍が,東メルグイ郡計画党支部に投降した。これらはAung Letya派軍に属し,Thayetchaung郡内で活動していたが,政府軍の攻勢に耐えきれなくなったことと,指導者の不正にがまんが出来なくなったとその理由を述べた。
DIA-211-1978-06-03-1ミャンマー1978年06月03日1970年代計画党書記長サンユーは陸軍参謀長Aye Ko准将らと共にマンダレー地区を訪れ,党地方支部を視察,政治・経済状況などについて演説した。 また鉱業相Than Tin大佐は5月29日から6月3日までテナセリム管区内の6鉱山を視察。
DIA-211-1978-06-04-1ミャンマー1978年06月04日1970年代労働者協会書記次長U Kyaw Thanを団長とする3名の代表団がユーゴに向け出発した。
DIA-211-1978-06-05-1ミャンマー1978年06月05日1970年代国防省,中国訪問―国軍参謀総長兼国防相Kyaw Htin大将を団長とする軍事代表団が中国へ親善訪問するため出発した。なお随員は陸軍主計総監Tin Sein大佐ら軍関係者である。 北京に到着した夜,中国副総理兼国防部長徐向前主催の夕食会に出席,ネーウィン大統領のメッセージを読みあげた。
DIA-211-1978-06-06-1ミャンマー1978年06月06日1970年代T.フセイン外務次官を団長とするバングラデシュ政府代表団は難民問題を討議するため来訪。
DIA-211-1978-06-07-1ミャンマー1978年06月07日1970年代対バングラ難民問題会議開始―外務省会議室でバングラ政府代表団とビルマ政府代表が難民問題の処理についての第1回会談を行なった。ビルマ側はU Tin Ohn外務副大臣らが出席した。
DIA-211-1978-06-07-2ミャンマー1978年06月07日1970年代Kyaw Htin大将,華主席と会見―Kyaw Htin大将は午前中,北京の中国空軍部隊を視察。午後華国鋒主席と会見した。この会見で,華国鋒主席は,ビルマ共産党の支援問題について「ソ連はベトナムを使って中国を包囲しようとしている。中国としては近隣諸国とのそれほど重要でない問題は解決する用意がある」(朝日新聞,7/20付)と述べたと伝えられた。
DIA-211-1978-06-07-3ミャンマー1978年06月07日1970年代Merguiに新空港―建設公社は現在,Merguiで新空港の建設のための準備を進めている。これは旧空港を改良することがベースになるが,ジェット機の離着陸も可能となる。
DIA-211-1978-06-07-4ミャンマー1978年06月07日1970年代第2工業相Maung Cho大佐は西独との経済協力関係推進を話し合うため,ボンに到着。なお同大佐はこれ以前にチェコ,スイスを訪問した。
DIA-211-1978-06-08-1ミャンマー1978年06月08日1970年代台湾スパイを逮捕―人民警察特別情報局は昨年末からこれまでにメイミョー,ミチナなどで台湾籍の21名のスパイを逮捕したと発表。
DIA-211-1978-06-09-1ミャンマー1978年06月09日1970年代ネーウィン大統領は,サンユー大将らと共に国軍病院を訪れ,負傷兵を見舞った。
DIA-211-1978-06-09-2ミャンマー1978年06月09日1970年代バングラデシュとほぼ合意―難民問題処理のためのバングラデシュとの話し合いが終わり,両国代表の間で,ほぼ合意に達した。
DIA-211-1978-06-10-1ミャンマー1978年06月10日1970年代カチン州Waingmaw郡Madane村で,約3000人の村民が反乱軍抗議集会を開き,反乱軍の破壊行為を厳しく非難した。この集会には第2戦術師団長Min Zaw中佐らも出席,村民は民兵隊組織の必要性を強調した。
DIA-211-1978-06-10-2ミャンマー1978年06月10日1970年代ネーウィン大統領は,来訪中のバングラデシュ外務次官,T.フセインと会い,難民問題解決のための労をねぎらった。
DIA-211-1978-06-10-3ミャンマー1978年06月10日1970年代軍事代表団帰国―中国を訪問していたKyaw Htin大将をはじめとする軍事代表団が帰国した。なお代表団は9日,上海を訪れ,昆明経由で帰国したもの。空港にはマウン・マウン・カ首相らが出迎えた。
DIA-211-1978-06-10-4ミャンマー1978年06月10日1970年代協同組合は1万9744―1978年3月末までに全国で組織されている各種協同組合は計1万9744組合となった。なお郡協同組合連合会は18となった。
DIA-211-1978-06-12-1ミャンマー1978年06月12日1970年代ネーウィン大統領は,来訪したアルジェリア大統領特使A. K. Zaibeck(全国人民議会計画・財務委員長)と会談した。また14日にはサンユー副大統領が会見。
DIA-211-1978-06-12-2ミャンマー1978年06月12日1970年代国営工業生産なお順調―国営の各工業は,新年度に入っても,順調な生産を続けており,製材,繊維,ゴム加工,化学などが,いずれも月例目標を大幅に超過している。
DIA-211-1978-06-16-1ミャンマー1978年06月16日1970年代在外ビルマ人船員―現在,外国籍船舶で働いているビルマ人船員は合計1800人で,彼らからの外貨送金は年700万チャットである。また,国内に持ち込まれる外国製自動車はほとんどが,この船員が持ち込んだものである。政府海員雇傭管理局は,外国船への船員採用については増加させる方針である。
DIA-211-1978-06-17-1ミャンマー1978年06月17日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のオーストラリア労働党代表W. G. Haydenと会議。またこの後労働党代表はマウン・マウン・カ首相,U Tun Tin財務・計画相らと会見した。
DIA-211-1978-06-17-2ミャンマー1978年06月17日1970年代Mong Kung郡Zoyti Phayagon村で共産軍の破壊活動に抗議する大衆集会が開かれ,最近,共産軍が付近の村民に対し,テロ行為を続けていることが暴露された。
DIA-211-1978-06-18-1ミャンマー1978年06月18日1970年代テナセリム海軍基地からの3隻のパトロール艇は同沖で,合計25隻の密輸帆船を捕獲した。
DIA-211-1978-06-21-1ミャンマー1978年06月21日1970年代サンユー計画党書記長は,国軍参謀総長Kyaw Htin大将らと共にザガインを訪れ,党員を集め,政治・経済報告を行なった。
DIA-211-1978-06-22-1ミャンマー1978年06月22日1970年代国営工業製品値下げ―第1工業省管轄下の工業公社が生産する製品のうち67品目について,7月1日から値下げすることが決定した。値下げ予定の製品は繊維,医薬品,金属製品などで,理由としては原材料の安定的確保,生産性の向上,損耗分の減少などができるようになったからとしている。
DIA-211-1978-06-23-1ミャンマー1978年06月23日1970年代運輸・通信相Khin Ohn大佐は事情視察のため,マンダレー,メイミヨーを訪れた。
DIA-211-1978-06-23-2ミャンマー1978年06月23日1970年代魚缶詰製品も値下げ―人民真珠・水産公社は,当公社生産の魚缶詰価格を平均10%値下げすると発表した。
DIA-211-1978-06-24-1ミャンマー1978年06月24日1970年代モン州人民評議会は各郡評議会に対し,最近,タイやマレーシアにアヒルの羽毛が密輸出されている事実に関し,これを防ぐよう指示した。
DIA-211-1978-06-27-1ミャンマー1978年06月27日1970年代退役軍人会総会―第2回退役軍人会中央総会が開かれ,ネーウィン大統領,サンユー大将らが出席,退役軍人会の役割などが討議された。なお現在同会のメンバー総数は6万4116人である。
DIA-211-1978-07-01-1ミャンマー1978年07月01日1970年代前情報相で,現国家評議会メンバーU Lwinが死亡。66歳。
DIA-211-1978-07-02-1ミャンマー1978年07月02日1970年代タイに通商代表団―U Myo Myint財務・計画副大臣を団長とする通商代表団がタイに向け出発,タイ関係当局と通商関係拡大について協議する。(7月11日まで)
DIA-211-1978-07-04-1ミャンマー1978年07月04日1970年代建設相Hla Tun准将は6月29日から7月3日までラングーン=マンダレー間道路の建設工事現場を視察した。
DIA-211-1978-07-04-2ミャンマー1978年07月04日1970年代インド機械輸出促進評議会議長Shri Sureth Mehtaを団長とするインド貿易代表団が来訪,第1工業省,交易省関係者らと協議した。
DIA-211-1978-07-05-1ミャンマー1978年07月05日1970年代Mon Pyithit Partyに所属する4名の反乱軍兵士がThanbyuzayat駐屯の政府軍第31連隊中隊長Aung Nyunt少佐に投降した。
DIA-211-1978-07-06-1ミャンマー1978年07月06日1970年代ビルマ代表団バングラへ―難民及び国境問題協議のため,外務副大臣U Tin Ohnを団長とする代表団が,ダッカへ向け出発した。
DIA-211-1978-07-07-1ミャンマー1978年07月07日1970年代法制委員会発足―国家評議会は7月4日付で,党と政府の関係,現行法の適合性などを審理する目的で法制委員会を組織した。また当委員会議長には国評メンバーMaung Maung博士が任命された。
DIA-211-1978-07-10-1ミャンマー1978年07月10日1970年代朝鮮民主主義人民共和国博覧会がラングーンで開かれた。
DIA-211-1978-07-10-2ミャンマー1978年07月10日1970年代協同組合相Sein Tun大佐ら一行はラングーン管区内3郡の各種協同組合を視察。
DIA-211-1978-07-11-1ミャンマー1978年07月11日1970年代対バングラ難民問題に関する協定―ビルマから国境を超えたビルマ在住ベンガル人の扱いについて,ダッカで7月7日から9日まで両国政府間で協議が行なわれ,要旨つぎのような協定が調印された。 (1)合法的にビルマで居住していたもので,現在キャンプに収容されている住民はビルマ側に送還する。 (2)第1段階では,国民登録(NRC),および外人登録証(FRC)を所有している者及びその家族について送還。 (3)ビルマに居住していた者で,新たにビルマ国内居住の資格条件を有する者を送還。 (4)送還業務は8月末からとする。 (5)国境については,破壊損傷した国境標識を速やかに両国が復旧する。
DIA-211-1978-07-11-2ミャンマー1978年07月11日1970年代IDA農業開発に援助―世銀(IDA)は下ビルマ稲作地帯開発に3450万ドルの借款を供与した。これは,灌排水などの事業が主で,10年据置,50年延払い,年利0.75%。
DIA-211-1978-07-12-1ミャンマー1978年07月12日1970年代鉱業相鉱山視察―鉱業相Than Tin大佐らは12日から14日まで,Namtu Bawdwin鉱山を訪れ,建設中の鉱石砕石工場などを視察した。
DIA-211-1978-07-15-1ミャンマー1978年07月15日1970年代ネーウィン大統領上ビルマ地区を視察―ネーウィン大統領夫妻(Yadana Nat Maiと別れた後,以前に結婚していたことのあるDaw Ni Ni Myintと今年再婚)は国評メンバーDr. Maung Maungらとともに10日から15日までマンダレー,マグウェ,メイクティラなどを訪れ,軍施設,工場などを視察した。
DIA-211-1978-07-15-2ミャンマー1978年07月15日1970年代反乱軍抗議集会―バーモ郡モマウクで,1500人の住民がKIA反乱軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。これは7月12日にKIA派反乱軍が同町に侵入,略奪したことに抗議したもの。
DIA-211-1978-07-16-1ミャンマー1978年07月16日1970年代サンユー大将,軍を退役―計画党書記長,国家評議会書記長サンユー大将は,60歳の国軍定年制に基づき軍を退役した。これで国軍の現役大将は国防相Kyaw Htin大将1人となった。
DIA-211-1978-07-16-2ミャンマー1978年07月16日1970年代ポパ山麓植林計画―農林省林業局はポパ山麓の植林3ヵ年計画をこのほど策定した。これにはKyetmauktaungダムからの灌漑によるものが中心となる。
DIA-211-1978-07-17-1ミャンマー1978年07月17日1970年代ネパールの国王の弟Gynendra Bir Bikaram Shah一行が北朝鮮訪問の途中,ビルマに立寄った。外相Myint Maung准将が出迎えた。
DIA-211-1978-07-17-2ミャンマー1978年07月17日1970年代ホテル・観光公社総裁U Tin Maungを団長とする視察団が中国に向け出発した。またビルマ文化・芸術団が中国,北朝鮮に向け出発した。
DIA-211-1978-07-17-3ミャンマー1978年07月17日1970年代食用油も下落―一般消費者物価の下落が続いているなかで,高値を維持していた各種食用油は,今月に入って,微落傾向を示し,ラングーンで,胡麻油が前月比4%下がった。
DIA-211-1978-07-18-1ミャンマー1978年07月18日1970年代海上密輸急増―海軍哨戒艇はメルグイ沖で1日に8隻の密輸帆船を捕獲した。最近こうした帆船によるタイ,マレーシアとの海上密輸船が増加し,政府による摘発も増加している。
DIA-211-1978-07-18-2ミャンマー1978年07月18日1970年代UNDP“アンブレラー計画”修正に調印―一UNDPの資金援勘による下ビルマ総合開発のための,いわゆる“アンブレラー計画”の修正計画がこのほど計画省との間で調印された。これは当初の250万ドルから300万ドルに増加されたもので,開発のための調査費用に充てられる。
DIA-211-1978-07-19-1ミャンマー1978年07月19日1970年代第31回殉難者の日―第31回殉難者の日式典がオン・サン廟で行なわれ,マウン・マウン・カ首相,オン・サン未亡人Daw Khin Kyiらが出席した。
DIA-211-1978-07-20-1ミャンマー1978年07月20日1970年代外相,非同盟会議へ―ベルグラードで開かれる非同盟外相会議に出席するため,外相Myint Maung准将が出発した。
DIA-211-1978-07-20-2ミャンマー1978年07月20日1970年代道路運輸公社はこのほどラングーン市内の自動車交通状況についてまとめた。これによると公社運営の定期バス路線は17で,800台が運行し,一日120万の乗客がある。さらに市民バス,タクシーを含めるとラングーンでは1日平均200万人の乗客である。
DIA-211-1978-07-25-1ミャンマー1978年07月25日1970年代牛場対外経済相はマウン・マウン・カ首相と会見,また内相Sein Lwin大佐,首相官房長U Hla Tint,財務・計画相U Tun Tin,農林相U Ye Goungらと会談した。
DIA-211-1978-07-25-2ミャンマー1978年07月25日1970年代来訪中のネパール国王の弟Gyanendra Bir Bikram Shahは,ネーウィン大統領と会見。
DIA-211-1978-07-25-3ミャンマー1978年07月25日1970年代農林省調査局長U Hla Kyawを団長とするバングラ国境調整のための代表団が出発,国境標識の確認などが話し合われる。
DIA-211-1978-07-26-1ミャンマー1978年07月26日1970年代Kutkai郡内の村民2000人が反乱軍に抗議する集会を開き,村民の活動を破壊する行為を強く非難した。
DIA-211-1978-07-28-1ミャンマー1978年07月28日1970年代国境地帯で作戦をしていた第106歩兵連隊の戦闘部隊がラングーンの原隊に復帰,約5000人の住民に歓迎された。
DIA-211-1978-07-29-1ミャンマー1978年07月29日1970年代Tin Oo大佐NIBのメンバーに―大統領軍事補佐官Tin Oo大佐は国家情報局(NIB)のメンバーに任命された。
DIA-211-1978-07-29-2ミャンマー1978年07月29日1970年代農林相U Ye GoungはHleguの高収量稲の特別,試験圃場を視察した。
DIA-211-1978-07-30-1ミャンマー1978年07月30日1970年代近藤文部次官が来訪,教育省副大臣Dr. Maung Maung Ayeらが出迎えた。なお31日に教育・保健相Win Maung大佐と会談した。
DIA-211-1978-07-30-2ミャンマー1978年07月30日1970年代ビルマはモロッコ王国と大使級レベルの交換をする外交関係を樹立した。
DIA-211-1978-07-31-1ミャンマー1978年07月31日1970年代国家評議会メンバーU Aung Din(78歳)が死亡。1920年のラングーン大学ボイコット運動の指導者の1人であった。
DIA-211-1978-08-01-1ミャンマー1978年08月01日1970年代ミンガラドン空港拡張計画―建設省を中心としたミンガラドン空港拡張に関する調整委員会が開かれ,建設相Hla Tun准将は拡張の必要性を説明した。
DIA-211-1978-08-02-1ミャンマー1978年08月02日1970年代海上密輸急増―今年の1月から3月まで,モールメン税関が押えた密輸品は250万チャットに達した。また4,5月の2ヵ月間だけでモン,カレン両州内で摘発された密輸事犯は258件にのぼった。
DIA-211-1978-08-02-2ミャンマー1978年08月02日1970年代第1工業相Tint Swe大佐および建設相Hla Tun准将はHmawbiに建設中のフットボール製造工場を視察した。
DIA-211-1978-08-02-3ミャンマー1978年08月02日1970年代汚職党指導者に極刑―汚職により逮捕され,ラングーン管区裁判所で審理されていた者のうち,元計画党指導者に極刑がいい渡された。これによるとU Tin Win Nyoは無期懲役,U Tin Aye Kyawは7年というもので,いずれも,公共財産保護法などに間われたもの。
DIA-211-1978-08-02-4ミャンマー1978年08月02日1970年代第2工業相Maung Cho大佐を団長とする経済使節団が北朝鮮平壌に到着した。
DIA-211-1978-08-03-1ミャンマー1978年08月03日1970年代協同組合および財務,計画省は,1978―79年度内に,20の農業生産者協同組合に対して,総額345万4320チャットの長期借款を融資したと発表。
DIA-211-1978-08-03-2ミャンマー1978年08月03日1970年代元計画・財務相無期懲役―汚職で逮捕され,裁判にかけられていた元計画・財務相U Than Seinは無期懲役をいい渡された。また元計画党指導部U Zaw Peは7年の懲役。
DIA-211-1978-08-06-1ミャンマー1978年08月06日1970年代シヤン州内には全部で1300の協同組合が組織されている。このうちTaunggyiとLashioに郡農協連合会がある。
DIA-211-1978-08-07-1ミャンマー1978年08月07日1970年代第1回法律委員会―第1回法律委員会(議長Dr. Maung Maung)が開かれた。これは国家評議会,閣僚評議会から選任されたメンバーで構成され,国内の法律を審議し,実情に適合した法制を確立するために設けられたものである。
DIA-211-1978-08-08-1ミャンマー1978年08月08日1970年代第3回中央協同組合会議―第3回中央協同組合会議が各地,各種協同組合代表を集めラングーンで開催され,議長の協同組合相Sein Tun大佐が協同組合活動の意義や,現状について基調報告を行なった。
DIA-211-1978-08-08-2ミャンマー1978年08月08日1970年代警察当局はモールメン近郊を通行中の密輸品運搬トラックを摘発,総額15万チャット相当の密輸入品を押収した。このトラックには発電機,カセット・レコーダー,板ガラス,ナイロンロープ,ゴム製サンダル,魚網,乾電池,プラスチック・テープなどが積込まれていた。
DIA-211-1978-08-09-1ミャンマー1978年08月09日1970年代中央協組会議―第3回中央協同組合会議2回目は,協同組合の主要三業務についての質疑応答があり,23名の執行委員会メンバーを選出した。なお議長にはU San Tint協同組合副大臣が選ばれた。
DIA-211-1978-08-10-1ミャンマー1978年08月10日1970年代タイ貿易使節団来訪―タイ商務省次官Vicharn Niratvongsを団長とする貿易使節団が来訪,農林兼貿易相U Ye Goungらと会談した。11日には財務・計画相と会談,交易公社などを訪れた。
DIA-211-1978-08-11-1ミャンマー1978年08月11日1970年代元運輸相無期懲役―汚職などで起訴され裁判中であった元運輸相,計画党中央執行委員U Tun Linに無期懲役刑がいい渡された。
DIA-211-1978-08-15-1ミャンマー1978年08月15日1970年代シャン北西部で激戦―“Ye Min Aung作戦”に基づき政府軍第9,第54連隊はラシオ北西Mong MitおよびNamhsanで8月3日から13日まで,共産軍と戦闘,共産軍は23名戦死,30名が投降し,政府軍は多数の武器・弾薬を押収した。
DIA-211-1978-08-15-2ミャンマー1978年08月15日1970年代Kawkareik郡Kyondoe付近で第32連隊はKNU軍Naing Shwe Ko派と交戦,KNU軍兵士6名を逮捕,M16などの武器も押収した。
DIA-211-1978-08-16-1ミャンマー1978年08月16日1970年代警察当局はPaung近郊Zinkyaik村で密輸品を運搬中のトラックを摘発,医薬品,魚類など合計15万チャット相当の密輸入品を押収した。
DIA-211-1978-08-18-1ミャンマー1978年08月18日1970年代国連代表アラカン視察―国連難民間題高等委員会代表が,バングラ国境地帯の実清を視察するため来訪,ビルマ政府からの説明を受ける。
DIA-211-1978-08-19-1ミャンマー1978年08月19日1970年代モン州の密輸―モールメン税関の発表ではモン州内で,今年前半6ヵ月内に摘発された密輸品は合計250万チャットであった。なお1977―78年度の合計摘発密輸は1410万チャットである。
DIA-211-1978-08-20-1ミャンマー1978年08月20日1970年代駐西ドイツ大使にビルマ航空公社総裁Zeya Kyaw Htin U Maung Maung Nyuntが任命された。
DIA-211-1978-08-23-1ミャンマー1978年08月23日1970年代ネーウィン療養のためオーストリアへ―ネーウィン大統領は療養のため,オーストリアへ向け出発した。夫人同伴。なお,空港にはサンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相らが見送った。
DIA-211-1978-08-24-1ミャンマー1978年08月24日1970年代ソ連労働組合代表団来訪―ソ連ウクライナ農業労働者組合連合委員会議長VI Butenkoら,労働組合代表団が来訪,ビルマ農民協会議長U Thaung Kyiと会談した。
DIA-211-1978-08-26-1ミャンマー1978年08月26日1970年代労働者協会マネージメント会議が終了,当協会副議長U Ba Nyeinが労働者協会の役割とその重要性について演説した。
DIA-211-1978-08-26-2ミャンマー1978年08月26日1970年代イラワジ管区26郡の今年産米の予想収穫は,6400万バスケットである。なお昨年の同期予想収穫量は5920万バスケットであった。
DIA-211-1978-08-27-1ミャンマー1978年08月27日1970年代ラングーン市Thingangyun郡第2区で人民議会の補欠選挙が行なわれ,人民議会議長U San Tha Aungらが視察した。
DIA-211-1978-08-27-2ミャンマー1978年08月27日1970年代Papun空港を離陸直後のビルマ航空機(Twin Otter)が墜落,乗員など14名が死亡した。
DIA-211-1978-08-29-1ミャンマー1978年08月29日1970年代代表団インドへ―協同組合相Sein Tun大佐を団長とする12名の親善・状況視察のための代表団がインドへ向け出発した。
DIA-211-1978-08-31-1ミャンマー1978年08月31日1970年代バングラ難民帰還開始―バングラ政府との協定に基づき,両国政府はバングラ領内に収容されているビルマ在住ベンガル人の帰還業務を開始した。ビルマ政府はこれをHinthaプロジェクトと呼び,31日第1隊の帰還受入れを開始した。
DIA-211-1978-08-31-2ミャンマー1978年08月31日1970年代シャン高原で麻薬撲滅作戦―政府軍北東師団および東部師団は6月1日から8月31日まで,シヤン高原で,麻薬運搬を主業とする反乱軍撲滅のための特別作戦(Ye Min Aung,Lay Maun Aung)を展開,この期間に,19回の戦闘を行なった。特に,東部師団での作戦では,ビルマ共産軍を含め,KIA,SSA,Palaung,Loimaw各軍の麻薬運搬隊と交戦し,反乱軍合計96名を殺し,52名を逮捕した。
DIA-211-1978-09-01-1ミャンマー1978年09月01日1970年代バングラデシュに収容されている難民帰還第1隊58名がMaungdaw郡Taungbyo Letweキャンプに到着した。
DIA-211-1978-09-02-1ミャンマー1978年09月02日1970年代建設相Hla Tun准将,副大臣U Myint Aungは拡張建設中のSinmalaik造船所を視察した。また運輸・通信相Khin Ohn大佐は8月28日からモン州各地の通信・運輸施設を視察した。
DIA-211-1978-09-04-1ミャンマー1978年09月04日1970年代外相Myint Maung准将を団長とする代表団が北朝鮮に向け出発した。一行は9月8日の人民共和国創建30周年式典に出席する。
DIA-211-1978-09-04-2ミャンマー1978年09月04日1970年代バングラからの難民第1陣―バングラ・ビルマ間の難民送還協定に基づき,バングラ側から難民の第1陣58人が,ビルマ領内Buthidaung郡の入植地に到着した。
DIA-211-1978-09-05-1ミャンマー1978年09月05日1970年代運輸・通信相Khin Ohn大佐と同省副大臣KoGyi大佐は,ラングーン市のDallaとAhloneの両造船所を視察。
DIA-211-1978-09-06-1ミャンマー1978年09月06日1970年代40人から成るビルマ民族舞踊団がソ連,東ドイツへ向け出発した。
DIA-211-1978-09-08-1ミャンマー1978年09月08日1970年代首相北ナウィンダムを視察―マウン・マウン・カ首相はYe Goung農林相,Tint Swe第1工業相らとともに建設中の北ナウィンダムを視察した。
DIA-211-1978-09-08-2ミャンマー1978年09月08日1970年代MOC民間銀行から借款―MOC(石油公社)は新油井採掘(4基)費用として,民間外国銀行借款団から1000万ドルの借款を供与されることになったと発表。 これはチェーズ・マンハッタン・アジアとWardley銀行を幹事とする12銀行からなる借款団から供与されるもので,1977年6月にも3875万ドルの借款供与を受けている。なお,東銀(アジア)も参加している。
DIA-211-1978-09-10-1ミャンマー1978年09月10日1970年代ミヤンマ農業銀行シュリアム郡支店はBoggoke村の9人の農民を対象に,家畜購入用資金として,総額2万3800チャットを供与した。これは全国でもめずらしいケースで,1年以内に借入金の75%を6回払いで返済することを条件としている。
DIA-211-1978-09-11-1ミャンマー1978年09月11日1970年代精糖工場建設にADBローン―アジア開銀はPyinmana Integrated Sugar Project用として総額3150万ドルの借款を供与する旨,ビルマ政府と調印した。このプロジェクトは精糖工場建設のほか,付近の砂糖キビ栽培開発用の灌排水,流通改善等を含める砂糖産業の総合開発プロジェクトである。
DIA-211-1978-09-12-1ミャンマー1978年09月12日1970年代外相,北京へ―北朝鮮を訪問していた外相Myint Maung准将ら一行は,中国を親善訪問するため北京に到着。黄華外相らの出迎えを受けた。
DIA-211-1978-09-13-1ミャンマー1978年09月13日1970年代経済使節団日本へ―財務・計画相U Tun Tinを団長とする経済使節団が日本政府の招待を受け出発,経済協力について協議する。なお一行は,ワシントンでのIMF,世銀の年次総会にも出席する。
DIA-211-1978-09-15-1ミャンマー1978年09月15日1970年代SittangおよびYeni製紙工場は1978―79年度内に,製紙原料として,竹材660万本を購入することを発表した。このうち200万本は協同組合をつうじて購入される。
DIA-211-1978-09-16-1ミャンマー1978年09月16日1970年代土地は国家が所有するもので,農民は経営を委託されているもの―国家評議会書記長サンユーは布告第3号/78(農用土地を耕作する権利に関する布告)を出した。全文は次のとおり。 1.憲法第18条に基づき,国家は全ての土地の最終所有者である。 2.したがって,農用土地を耕作する権利は国家の許可を得てのみ生ずる。 3.農用土地を耕作する権利とは,作物栽培,貯蔵,輸送,生産物の販売等を含む。 4.農用土地を耕作する権利を与える際に,国家を代表して,閣僚評議会が適切な規則及び,それに違反した場合の罰則を設けるものである。
DIA-211-1978-09-16-2ミャンマー1978年09月16日1970年代国防相Kyaw Htin大将は海・空各参謀長らとともに南西軍管区地域を視察した。
DIA-211-1978-09-17-1ミャンマー1978年09月17日1970年代反乱軍抗議大集会―Bhamo市内で,市民1万人以上が国境付近で戦闘してきた政府軍の歓迎と反乱軍に抗議する大集会に集まり,共産軍に影響されているKIA軍およびシャン族軍による破壊,略奪行為を批難した。
DIA-211-1978-09-18-1ミャンマー1978年09月18日1970年代耕作権に関する農林省布告―農林大臣U Ye Goungは布告第4号/78を発令,内容はつぎのとおりである。 農民が農用土地を耕作する権利に関する規則は国家評議会布告第3号/78(9月16日付)に基づいて,閣僚評議会がつぎのように定めた。 1.(a)農用土地は,農業計画に基づく作物栽培に関する人民評議会執行委員会による指示に基づき,有効に生産され,栽培されなければならない。“農用土地を使用する”とは作物栽培,貯蔵,精米,輸送,生産物の販売を含める。 (b)農民が栽培した作物は国家によって買上げられ,閣僚評議会によって指示された組織に,指示された期間内に,指示された価格で販売され,販売される量は人民評議会執行委員会によって随時指示される。 2.上記原則に関して,各レベル人民評議会執行委員会は,定められた手続きに基づき監察を行ない,違反が確認された場合は使用している農用土地の耕作権を剥奪することを含める罰則を適用する。
DIA-211-1978-09-18-2ミャンマー1978年09月18日1970年代北朝鮮,中国を訪問したMyint Maung外相ら一行が帰国,Kyaw Htin国防相らが出迎えた。
DIA-211-1978-09-22-1ミャンマー1978年09月22日1970年代運輸・通信省Khin Ohn大佐はザガイン管区Padu=Paukkan間鉄道延伸計画工事現場を視察。
DIA-211-1978-09-23-1ミャンマー1978年09月23日1970年代首相,農村を視察―マウン・マウン・カ首相はYe Goung農林相,Maung Cho第2工業相らとともに9月21日からラングーン各地区の稲作(高収量)地帯および製紙,合板工場などを視察した。
DIA-211-1978-09-24-1ミャンマー1978年09月24日1970年代インドネシア国会副議長来訪―インドネシア国会副議長Mahammad Isnaeniが,ビルマ人民議会議長の招請に応じ来訪,5日間滞在した。
DIA-211-1978-09-25-1ミャンマー1978年09月25日1970年代米価据置―貿易省は1978/79年度の米の買上価格を発表。これによると各種,各等級とも価格が据置かれた。昨年度は上質米が数%引き上げられた。
DIA-211-1978-09-26-1ミャンマー1978年09月26日1970年代ネパールのビスタ首相一行は中国訪問の途中,ラングーンに立寄り一泊した。空港にはマウン・マウン・カ首相らが出迎えた。
DIA-211-1978-09-26-2ミャンマー1978年09月26日1970年代内務・宗教相Sein Lwin大佐は同省副大臣らとともにアラカン州を訪れ,バングラデシュからの難民送還計画(Hintha Project)の実情を視察した。
DIA-211-1978-09-29-1ミャンマー1978年09月29日1970年代シャン高原密輸反乱軍掃討作戦―政府軍はシャンおよびカヤ州で密輸を取り仕切る各派反乱軍に対する特別作戦(Ye Min Aung,Lay Maun Aung)を展開しているが9月1日から28日までの間に各種反乱軍と12回戦闘し,反乱軍52名を殺し,15名を捕え,40名が投降した。また政府軍はこの間に密輸用の麻薬,ヒスイ,仏像など多数を押収した。
DIA-211-1978-09-29-2ミャンマー1978年09月29日1970年代ビルマ政府はエジプトとの間で航空輸送協定に調印した。
DIA-211-1978-09-30-1ミャンマー1978年09月30日1970年代貿易相辞任―貿易相U Hla Ayeの辞職願が受理され,さらに人民議会議員の辞職も認められた。 (注)U Hla Aye貿易相の辞任は,貿易に関する汚職が原因といわれている。 なお同日付でTun Kyi大佐の人民議会議員辞任も受理された。
DIA-211-1978-09-30-2ミャンマー1978年09月30日1970年代Hmawbiの陸軍士官訓練学校における第54期士官訓練コース終了式が行なわれ,陸軍参謀長Aye Ko准将が出席した。
DIA-211-1978-10-02-1ミャンマー1978年10月02日1970年代中央軍管区司令官Wan Tin大佐は軍管区地域内の各都市を視察,ペグー山中に設けられたカレン族難民部落などを訪れた。
DIA-211-1978-10-03-1ミャンマー1978年10月03日1970年代外相Myint Maung准将は国連総会に出席するためニューヨークに向け出発した。
DIA-211-1978-10-05-1ミャンマー1978年10月05日1970年代内務・宗教省はアラカン州のMyohaung郡の名称をMyauk Uに変更すると発表。
DIA-211-1978-10-07-1ミャンマー1978年10月07日1970年代バ・ビ両内相,国境で会談―内務・宗教相Sein Lwin大佐とバングラデシュ内相A. S. M. Mustafizur Rahmanは,ビルマ領内Maungdaw郡に特設されたTaungbyo Letweキャンプで会談した。 これは両国が協定に基づき,現在行なっている難民の移還作業を視察すること,相互の努力に感謝するために行なわれたもの。 なおSein Lwin大佐はこのあと8日,9日と各地で続けられている移還作業を視察した。
DIA-211-1978-10-08-1ミャンマー1978年10月08日1970年代漁業許可は農林省からも―農林省は,これまで国税局の許可(ライセンス)さえあれば漁業を行なうことができていたもののうち,50トンを超える船または240馬力以上のエンジン付船については,今後農林省からの操業許可も得なければならないと通達。これは大型船によるヒルサ漁を制限するために取られたもの。
DIA-211-1978-10-09-1ミャンマー1978年10月09日1970年代中国厚生使節団―中国厚生省次官Huang Shu-tseを団長とする厚生関係使節団一行は,15日間の訪問を終え帰国,この間ビルマの医療,厚生施設,伝統的施策などを視察した。
DIA-211-1978-10-09-2ミャンマー1978年10月09日1970年代Ye郡Kawdat村付近の沖合で密輸船が,哨戒中の海軍警備艇に捕獲された。この船にはカセット・レコーダー217台,罐入りビスケット,その他日用品など約100万チャット相当の物資が積まれていた。
DIA-211-1978-10-10-1ミャンマー1978年10月10日1970年代Myint Maung外相は国連総会で一般演説を行ない,非同盟,人種差別反対,軍縮などを強調し,先進国の対開発途上国援助の増額を要請した。
DIA-211-1978-10-11-1ミャンマー1978年10月11日1970年代ネーウィン帰国―オーストリアで療養中だったネーウィン大統領と夫人(Daw Ni Ni Myint)が帰国。サンユー副大統領らが出迎えた。
DIA-211-1978-10-11-2ミャンマー1978年10月11日1970年代文化省の派遣するビルマ文化使節団(民族音楽,舞踊)がフランスに向け出発。
DIA-211-1978-10-15-1ミャンマー1978年10月15日1970年代ザガイン管区Tabayin選挙区選出の人民議会メンバーU Saw Uの辞職が,国家評議会によって認められた。
DIA-211-1978-10-17-1ミャンマー1978年10月17日1970年代日本政府は総額6億円の無償援助を供与することになり,このほど調印した。これは小学生用の制服のための繊維購入などに充てられる。
DIA-211-1978-10-17-2ミャンマー1978年10月17日1970年代西ドイツ政府は総額1000万マルクの借款供与を決定,ビルマ政府と調印した。これは西ドイツ援助プロジェクト用の設備・機械などの購入に充てられ,10年据置,50年延払い,年利0.75%。
DIA-211-1978-10-18-1ミャンマー1978年10月18日1970年代世銀南アジア担当副総裁W. D. Hopperが来訪,U Tun Tin財務計画相,U Ye Goung農林相が出迎えた。
DIA-211-1978-10-18-2ミャンマー1978年10月18日1970年代日本の無償援助―食糧増産のための無償援助(第2K.R)11億円の供与に関する協定に調印。この援助は79/80年度内にTaikkyi,Kyauktaga,Henzada,East Bassein,Okpo郡内の稲作改善のための,肥料,農業機械の投入に使用される。
DIA-211-1978-10-20-1ミャンマー1978年10月20日1970年代第5次円借―第5次円借款(135億円)協定が調印された。この円借は,うち80億円が四プロ用の原料,資材の購入用に,55億円がシュリアム精油所拡張プロジェクト用の機械,設備購入に使用される。10年据置,30年延払,年利2.5%。
DIA-211-1978-10-21-1ミャンマー1978年10月21日1970年代計画党第5期中央委―計画党第5期中央委員会総会が開かれ,ネーウィン議長が開会を宣言した。この総会は23日から開かれる人民議会に向け開かれたものである。
DIA-211-1978-10-22-1ミャンマー1978年10月22日1970年代原子力エネルギーの研究と開発を促進するための原子力エネルギー委員会(議長・保健相)が発足,各関係省副大臣が委員となった。
DIA-211-1978-10-22-2ミャンマー1978年10月22日1970年代アキヤブに自動交換施設―世銀借款で建設されていたアキヤブ市内の電話自動交換局がこのほど完成し,当市内および主要都市間との自動通話が可能となった。
DIA-211-1978-10-22-3ミャンマー1978年10月22日1970年代ミーチナ駐屯第66師団戦闘部隊が前線から帰還,市民の大歓迎を受けた。当部隊はカチン州内で,共産軍およびKIA軍と戦闘をしてきたもの。
DIA-211-1978-10-23-1ミャンマー1978年10月23日1970年代人民議会開かれる―第2期第2回人民議会が開かれ,サンユー副大統領が国家評議会報告,マウン・マウン・カ首相が閣僚評議会報告をそれぞれ行なった。首相はこのなかで,年初から年央にかけて,経済,社会状況とも著しく改善されたことを報告,またサンユーは行政機構における中央と地方の役割,行政官の姿勢などについて述べた。
DIA-211-1978-10-25-1ミャンマー1978年10月25日1970年代副首相にU Tun Tin―人民議会3日目,副首相に計画・財務相U Tun Tinを選出した。なお副首相は1977年3月の内閣改造後空席のままであった。またU Hla Ayeの辞任後空席であった貿易相にKhin Maung Gyi大佐が選出された。
DIA-211-1978-10-26-1ミャンマー1978年10月26日1970年代人民議会は,質疑応答を終え,サンユー国評書記長の答弁で締めくくって,4日間の会期が終了した。
DIA-211-1978-10-27-1ミャンマー1978年10月27日1970年代建設相Hla Tun准将はラングーンに建設中の人民議会堂現場を視察。
DIA-211-1978-10-28-1ミャンマー1978年10月28日1970年代サンユー,療養のため英国へ―サンユー副大統領は病気治療のため英国へ向かった。首相ほかほとんどの政府首脳が見送った。なお1974年3月に副大統領になってから,始めての外国行きである。
DIA-211-1978-10-30-1ミャンマー1978年10月30日1970年代青年労働者指導者訓練コース―第2回青年労働者指導者訓練コースが開かれ,計画党青年部中央組織委員会議長Sein Tun大佐が演説,生産活動における青年の役割を強調し,指導者たる心構えなどについて述べた。
DIA-211-1978-10-31-1ミャンマー1978年10月31日1970年代共産軍投降者が集会に出席―Mindonで西部軍司令官Thwa Kyaw Zwa中佐らが出席して,共産軍抗議集会が開かれた。これには最近政府軍に投降してきた26名の元共産軍兵士らも参加,過去の誤った行為を人民に謝まる旨の声明文を読んだ。
DIA-211-1978-10-31-2ミャンマー1978年10月31日1970年代アキヤブ郡国税局は第2次4ヵ年計画期間内(1972/73~1975/76)の各種税収は目標の120万チャットを大幅に下廻り,86万3665チャットに過ぎなかったと発表。
DIA-211-1978-10-31-3ミャンマー1978年10月31日1970年代ベトナム政府教育使節団来訪―ベトナム政府教育使節団(団員8人)が到着,ビルマの教育施設などを視察する。
DIA-211-1978-11-02-1ミャンマー1978年11月02日1970年代工業製品は,品質も重要―第1工業相Tint Swe大佐は同省第2・四半期報告会で,工業生産は量的には目標に順次到達しているが,今後は品質向上にも配慮していかなければならないと述べた。
DIA-211-1978-11-02-2ミャンマー1978年11月02日1970年代バングラからの難民送還作業は本格化しており,当日だけで872名がビルマ領内へ帰国した。
DIA-211-1978-11-03-1ミャンマー1978年11月03日1970年代全国14州および管区で,各レベル人民評議会の補欠選挙を管理するための選挙小委員会が設立された。
DIA-211-1978-11-04-1ミャンマー1978年11月04日1970年代先の人民議会を通過した「辞職及補充法」が発効した。これは人民議会および各レベル人民評議会メンバーの辞職に関する規則とそれによって空席となる議席の補充について規定したものである。
DIA-211-1978-11-04-2ミャンマー1978年11月04日1970年代建設相Hla Tun准将はラングーン郊外Minthaの合板プラントを視察。
DIA-211-1978-11-07-1ミャンマー1978年11月07日1970年代稲収穫始まる―全国各地で稲の収穫がスタートし,政府は集荷目標を達成するため,各地で種々な手段を講じているが,Kyaunggon郡内の村では郡人民評議会の指導で,農民が,政府への販売を収穫前に確約するところもある。なお今期稲作の収量は,いまのところ昨年並みは維持できるとの見通しである。
DIA-211-1978-11-09-1ミャンマー1978年11月09日1970年代難民帰還者は4756名―バングラからの難民移還作業(Hintha Project)により,これまでに帰還した者は合計4756名に達した。
DIA-211-1978-11-10-1ミャンマー1978年11月10日1970年代Kyonpyaw選挙区選出の人民議会メンバーU Thaungの辞職が認められた。
DIA-211-1978-11-12-1ミャンマー1978年11月12日1970年代農林副大臣U Kyaw Htainはイラワジ管区各地域における米の集荷状況を5日間にわたって視察。また協同組合相Sein Tun大佐は9月からモン州各地区を視察。
DIA-211-1978-11-13-1ミャンマー1978年11月13日1970年代UNDP援助―UNDPは畜産開発プロジェクト(FAO,230万ドル)とパルプ・紙研究訓練パイロットプラン(UNIDO,209万ドル)への援助を決定し,財務計画省と調印した。
DIA-211-1978-11-14-1ミャンマー1978年11月14日1970年代鄧小平立寄る―鄧小平中国副首相夫妻一行はシンガポールからの帰途,ミンガラドン空港に約3時間立寄り,ネーウィン大統領夫妻,U Thaung Kyi,マウン・マウン・カ首相らと会談した。
DIA-211-1978-11-15-1ミャンマー1978年11月15日1970年代建設相Hla Tun准将はU Myint Aung副大臣らと共にラングーン郊外Hlawgaで建設中の警察治安統制隊本部を視察した。
DIA-211-1978-11-16-1ミャンマー1978年11月16日1970年代1978年度高等教育セミナーが開かれ,教育相Dr. Khin Maung Winは大学教育および高等教育の本務と原則などについて演説した。
DIA-211-1978-11-16-2ミャンマー1978年11月16日1970年代バングラデシュからの難民帰還者はこれまで5000人を超えた。
DIA-211-1978-11-17-1ミャンマー1978年11月17日1970年代鉱業相Than Tin大佐は15日から3日間,カヤ州各地区の鉱山を視察。
DIA-211-1978-11-17-2ミャンマー1978年11月17日1970年代マレーシア貿易代表団(団長Boey Cheong-see)が来訪,貿易関係機関,協同組合などを訪問。
DIA-211-1978-11-19-1ミャンマー1978年11月19日1970年代外人旅行客増加―ホテル・観光公社発表によると外人観光客は今年に入ってさらに増加して,10月末までに1万8000人となり,今年1年間で2万3000人と推定され,77年の2万1000人を超える見込みとなった。また年々団体観光客が増えており,77年はその割合が70%に達したが,今年もそれを上廻ると予想される。
DIA-211-1978-11-20-1ミャンマー1978年11月20日1970年代北朝鮮貿易代表団―北朝鮮対外貿易相Choi Jong Gunを団長とする貿易代表団が来訪,Khin Maung Gyi貿易相らと会談。
DIA-211-1978-11-21-1ミャンマー1978年11月21日1970年代中国軍事代表団来訪―中国人民解放軍副総参謀長,伍修権を団長とする11人の軍事友好代表団が来訪,Kyaw Htin大将らが出迎えた。11月27日まで滞在。22日には,マウン・マウン・カ首相と会見した。
DIA-211-1978-11-25-1ミャンマー1978年11月25日1970年代中国軍事使節団は,北西軍管区司令官Aung Khin大佐の案内でメイミヨーの陸軍士官学校を訪問。
DIA-211-1978-11-25-2ミャンマー1978年11月25日1970年代ベトナムとの文化交流計画の一員として,ベトナム歌舞団が来訪,12月4日までラングーン,マンダレーで公演。
DIA-211-1978-11-27-1ミャンマー1978年11月27日1970年代U Mya Maung文化情報相を団長とする文化使節団が日本政府の招待により日本に向け出発。日本の文化活動を視察する.
DIA-211-1978-11-27-2ミャンマー1978年11月27日1970年代バングラの難民移送計画によって,帰還した難民は11月26日までに1万2405名に達した。
DIA-211-1978-11-28-1ミャンマー1978年11月28日1970年代教育相Dr. Khin Maung Winを団長とする代表団がコロンボプラン諮問委員会出席のため米国に向かった。
DIA-211-1978-11-29-1ミャンマー1978年11月29日1970年代マウン・マウン・カ首相はKyaw Htin国防相,Ye Goung農林相らと,28,29の両日,テナセリム管区を訪れ,Tavoyなどの政府公社,党支部などを視察した。
DIA-211-1978-11-30-1ミャンマー1978年11月30日1970年代日本政府の稲作振興援助計画に基づく,無償援助8億円分の化学肥料供与についての協定が調印された。
DIA-211-1978-11-30-2ミャンマー1978年11月30日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐と同省貿易開発局長U Ba Hlaはイラワジ管区各地区の政府籾買付センターを視察。
DIA-211-1978-11-30-3ミャンマー1978年11月30日1970年代国家評議会はThan Htay大佐(メルグイ西地区)を副大臣に任命した。担当省は未発表。
DIA-211-1978-12-01-1ミャンマー1978年12月01日1970年代国軍が農作業を援助―合計1200人の陸海空軍から選抜された将兵がHmawbiなどラングーン管区内郡の“高収量稲作プロジェクト地区の収穫作業を援助するため,各割当村落に派遣された。これは“Shwewarmye作戦”と名付けられ,収穫作業をする農民を手伝うために組織された。
DIA-211-1978-12-02-1ミャンマー1978年12月02日1970年代労働・福祉相U Mahn San Myat Shweはラングーン市内の労働者病院を視察。
DIA-211-1978-12-03-1ミャンマー1978年12月03日1970年代農林相Ye Goung,協同組合相Sein Tun大佐,貿易相Khin Maung Gyi大佐らはラングーン郊外の政府籾買付センターを視察,籾の買付状況などを検討した。
DIA-211-1978-12-03-2ミャンマー1978年12月03日1970年代大統領は駐キューバ大使に現国連大使U Maung Maung Gyeeを任命した。(兼任)
DIA-211-1978-12-06-1ミャンマー1978年12月06日1970年代サンユー帰国―病気療養のため1ヵ月間英国に滞在していたサンユー副大統領が帰国,空港にはネーウィン大統領自ら出迎えた。
DIA-211-1978-12-07-1ミャンマー1978年12月07日1970年代第2回労働者協会中央委員会―労働者協会第2回中央委総会が開かれ,U Maung Maun Kha議長が開会演説をし,当協会の年次報告および組織とその役割などについて述べた。(中央委総数は178名)
DIA-211-1978-12-07-2ミャンマー1978年12月07日1970年代UNICEFは1978年から1981年までの対ビルマ通常援助を2122万ドルとすることに決定,このほどビルマ政府と協定に調印した。
DIA-211-1978-12-08-1ミャンマー1978年12月08日1970年代亡命派軍大量投降―12月7日から8日にかけてテナセリム地区で亡命派反乱軍(旧ウーヌー派軍)131名が政府軍に投降した。これは反乱軍“テナセリム特別師団”とNai Soe派Tha Zin軍が部隊ごと投降したもので,投降の理由について,KNU軍第6旅団(Saw Marvel)との分轄を画すためにDr. Myint Saingの指示に基づき,カレン軍が攻撃を開始したためと述べている。また亡命派リーダーのBo Let Yaは11月27日にカレン軍により殺されたと述べた。
DIA-211-1978-12-10-1ミャンマー1978年12月10日1970年代労働協会の任務―労働協会第2回中央委最終日にU Maung Maung Kha議長は当協会の四大任務について述べた。なお四大任務は,①第3次4ヵ年計画目標達成のために積極的に労働者を組織すること,②農業部門での共同生産を実現するために組織すること,③労働者の福祉を機能的・円滑に行なうこと,④破壊分子を一掃すること。なお最終日に11の決議が採択された。
DIA-211-1978-12-10-2ミャンマー1978年12月10日1970年代建設相Hla Tun准将と運輸・通信相Khin Ohn大佐はMerguiで建設中の空港施設などを視察した。
DIA-211-1978-12-11-1ミャンマー1978年12月11日1970年代第6回党中央委―計画党第6回中央委員会が開かれ,ネーウィン議長が開会宣言,サンユー書記長およびタウン・チ次席書記長がそれぞれ中央執行委報告を行なった。(3日間)
DIA-211-1978-12-14-1ミャンマー1978年12月14日1970年代日本政府は橋梁建設のための無償援助(5億円)を供与することに決定した。これは1978―79年度内に供与される。
DIA-211-1978-12-16-1ミャンマー1978年12月16日1970年代北朝鮮の国立サーカス団が来訪。
DIA-211-1978-12-17-1ミャンマー1978年12月17日1970年代国家評議会メンバーU Tun Myat(74歳,プローム第2区選出)が死亡。
DIA-211-1978-12-18-1ミャンマー1978年12月18日1970年代国家評議会は財務・計画省副大臣U Myo Myintの副大臣辞職を認め,在外大使転任を指示した。なお,この後26日付で人民議会メンバー(Bndalin 1区)の辞職も認められた。 また1979年1月2日付で駐カンプチア大使に任命された。
DIA-211-1978-12-18-2ミャンマー1978年12月18日1970年代ラングーン市の三番目の地方大学が開校。
DIA-211-1978-12-20-1ミャンマー1978年12月20日1970年代治安当局はTachilekで,ジープで運搬中のアヘン粉71kgを押収,金額にして約100万チャット相当。
DIA-211-1978-12-20-2ミャンマー1978年12月20日1970年代第2回計画党青年セミナー―第2回計画党青年セミナーが開かれ,党を代表してサンユー書記長が出席,演説し,計画党青年組織の役割などについて述べた。 また青年組織中央委員会書記長U Hla Shweが基調報告をした。
DIA-211-1978-12-22-1ミャンマー1978年12月22日1970年代党青年セミナー終了―計画党青年セミナーが終了し,「青年は国家の利益のために献身的にならなければならない」とのスローガンを採択した。夜,セミナーに出席した各地区代表はネーウィン夫妻主催の夕食会に招かれた。
DIA-211-1978-12-22-2ミャンマー1978年12月22日1970年代農業公社主催の“高収量品種特別普及計画”のための調整会議が開かれ,Ye Goung農林相は,農業生産を上げるためにはとくに輸出作物の品種改良をすることが先決であると述べ,特別普及計画について説明した。
DIA-211-1978-12-23-1ミャンマー1978年12月23日1970年代来年度経済目標―1979―80年度の経済目標設定に関する閣内調整会議が開かれ,今年度上半期経済実績の検討と来年度の具体的目標が討議された。
DIA-211-1978-12-24-1ミャンマー1978年12月24日1970年代各地各レベルの党支部で総会が開かれた。
DIA-211-1978-12-27-1ミャンマー1978年12月27日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐を団長とする代表団が出発。モーリシャス,モルディブ,バングラデシュ三国を訪問し,貿易関係を協議する。
DIA-211-1978-12-28-1ミャンマー1978年12月28日1970年代内務・宗教相Sein Lwin大佐と副大臣U Ohn KyiはPhugyi給水プロジェクトの進捗状況を視察した。
DIA-211-1978-12-30-1ミャンマー1978年12月30日1970年代政府はモーリシャスと大使級レベルの外交関係を樹立した。
DIA-211-1979-01-01-1ミャンマー1979年01月01日1970年代民主カンプチア国(ポルポト政権)の駐ビルマ大使Pich Cheangがネーウィン大統領に信任状を提出。
DIA-211-1979-01-04-1ミャンマー1979年01月04日1970年代独立記念日-ビルマ独立記念日に際し,特別な催しは行なわれなかったが,大統領主催の晩さん会が開かれ外交団,軍,党関係者ら多数が招かれた。
DIA-211-1979-01-05-1ミャンマー1979年01月05日1970年代籾買上新制度を検討-農林相U Ye Goung,協同組合相Sein Tun大佐,農林副大臣Dr. Bo Lay,U Kyaw Htain,協同組合副大臣U San Tintはバセインで,政府による籾の買上げのための新制度を検討した。席上農林相は,籾の買上げ量は農民の諸条件を勘案して決定されるよう配慮しなければならない,などと述べた。
DIA-211-1979-01-06-1ミャンマー1979年01月06日1970年代ケシ栽培の追放-1974年以来,政府当局は全国で合計2万8900エーカーのケシ栽培地の転作を完了した。
DIA-211-1979-01-06-2ミャンマー1979年01月06日1970年代米国会議員団来訪-アメリカ民主党国会議員Lester L. Wolffを団長とする10名の国会議員団はビルマにおける麻薬撲滅運動の実態を視察するため来訪(1月8日まで)。議員団は7日シャン州のMong Hsatのケシ栽培追放地などを視察した。なおビルマはこの週,麻薬撲滅週間として,各種のキャンペーンや催しを行なった。
DIA-211-1979-01-07-1ミャンマー1979年01月07日1970年代WPD(Working People’s Daily=以下WPD)紙はバンコク発のロイター電としてプノンペン陥落を四面で小さく報じた。
DIA-211-1979-01-07-2ミャンマー1979年01月07日1970年代Mong Pingに新滑走路-シャン州東部Mong Pingに新しく滑走路が建設された。当地は共産軍活動領域内にあり,政府にとって重要な軍事拠点である。
DIA-211-1979-01-11-1ミャンマー1979年01月11日1970年代ガンビア財務・貿易副大臣Kemo Sannehを団長とする貿易代表団が来訪,貿易副大臣U Ohn Kyawらと会見した。
DIA-211-1979-01-12-1ミャンマー1979年01月12日1970年代人民検察評議会は労働者の権利を保護する効果的な措置を検討するための臨時総会を開いた。
DIA-211-1979-01-12-2ミャンマー1979年01月12日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐は来訪中のガンビア貿易代表団と会見。
DIA-211-1979-01-13-1ミャンマー1979年01月13日1970年代内務・宗教副大臣U Ohn Kyiは移民省の第一線事務官を集め,移民についての基本的な考え方や国民登録についての原則などについて訓示した。
DIA-211-1979-01-13-2ミャンマー1979年01月13日1970年代鉱業相テナセリム視察-鉱業相Than Tin准将は10日から13日までテナセリム管区Tavoy, Kawthaung,Merguiなどの鉱山,鉱業開発プロジェクトを視察,現地で担当係官らと会談した。
DIA-211-1979-01-14-1ミャンマー1979年01月14日1970年代協同組合相Sein Tun大佐はマンダレー,ザガインを訪れ,当地で協同組合役員と会談。
DIA-211-1979-01-16-1ミャンマー1979年01月16日1970年代政界指導者が選挙区で議会報告-国家評議会および人民議会メンバーは,このところ,それぞれの選挙区で政治,経済情勢および国会についての報告を行なっている。
DIA-211-1979-01-16-2ミャンマー1979年01月16日1970年代Snwewamye計画に基づき,国軍の特別援農隊が,ラングーン管区各地で,農民の籾運搬,排水溝建設などを手伝っている。
DIA-211-1979-01-18-1ミャンマー1979年01月18日1970年代亡命派テロリストに死刑-Mingalataungnyunt郡裁判所は,77年8月30日および11月20日にラングーン市内で爆弾を投げて,爆発させたとして公判中の亡命反乱軍Zaw MyintことSan Aungに死刑の判決を言い渡した。
DIA-211-1979-01-19-1ミャンマー1979年01月19日1970年代ネーウィン大統領はサンユー副大統領とともに郡Mayangon生産者協同組合を訪れ,協同組合活動状況を視察した。
DIA-211-1979-01-19-2ミャンマー1979年01月19日1970年代U Tun Tin副首相は,来訪中の森下自民党議員らと会見した。
DIA-211-1979-01-19-3ミャンマー1979年01月19日1970年代U Kyaw Htain農林副大臣は1月13日から,選挙区のザガインに帰り,当地の農業施設,農民を視察した。
DIA-211-1979-01-19-4ミャンマー1979年01月19日1970年代建設相Hla Tun准将は17日から19日にかけて,イラワジ河中流域およびデルタ地帯での建設工事現場を視察した。
DIA-211-1979-01-20-1ミャンマー1979年01月20日1970年代大統領,選挙区民に報告-ネーウィン大統領は,自身の選挙区Mayangon郡第1区の選挙民代表を集め,政治,経済状況及政策を説明した。なおサンユー副大統領が同席し,詳細説明を代行した。
DIA-211-1979-01-21-1ミャンマー1979年01月21日1970年代サンユー副大統領は自身の選挙区Bahan郡で選挙民代表を集め国会報告を行なった。また同日,副大統領は国評メンバーU Taung Kyi,マウン・マウン・カ首相らとともに同郡内に設置された火災難民キャンプを訪れた。
DIA-211-1979-01-21-2ミャンマー1979年01月21日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐,貿易局長U Ba Hlaらはペグー管区各地の政府籾買付センターを視察した。
DIA-211-1979-01-22-1ミャンマー1979年01月22日1970年代人民議会代表団インドネシア訪問-U San Tha Aung(アキヤブ選出)を団長とする8名の人民議会代表団がインドネシアを親善訪問(1週間)するため出発。
DIA-211-1979-01-22-2ミャンマー1979年01月22日1970年代対中航空協定改訂へ-ラングーンで,中国代表団との間で,中国・ビルマ航空協定(75年締結)改訂のための交渉が開始された。なお中国代表団は20日に到着。
DIA-211-1979-01-22-3ミャンマー1979年01月22日1970年代北部軍管区司令官兼カチン州計画党議長Saw Maung准将,北西部軍管区司令官兼ザガイン管区計画党議長Aung Khin准将,ザガイン管区人民評議会議長Ba Kyi中佐らは,カチン州北部Hkamti, Lahai地区を訪れ,当地区関係係官らと会談した。
DIA-211-1979-01-23-1ミャンマー1979年01月23日1970年代運輸・通信相Khin Ohn准将は,来訪中の中国民航代表団と会見。
DIA-211-1979-01-23-2ミャンマー1979年01月23日1970年代対印航空協定調印-インド政府との間で,航空協定が調印された。
DIA-211-1979-01-23-3ミャンマー1979年01月23日1970年代バングラ外相来訪-バングラ外相Shamsul Huqが来訪,U Myint Maung外相と会談。
DIA-211-1979-01-24-1ミャンマー1979年01月24日1970年代大統領,バングラ外相と会見-ネーウィン大統領は,来訪中のバングラ外相と会見。またこのあと,サンユー副大統領はじめ国評代表団と会談した。
DIA-211-1979-01-24-2ミャンマー1979年01月24日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将と第1工業相Tint Swe准将はWakema郡を訪れ,ジュート栽培地を視察,ジュートの生産状況を関係者から聴取した。
DIA-211-1979-01-25-1ミャンマー1979年01月25日1970年代対中国航空協定草案が調印された。
DIA-211-1979-01-26-1ミャンマー1979年01月26日1970年代マウン・マウン・カ首相は自身の選挙区Hlaing郡第2区で,人民議会報告を行なった。
DIA-211-1979-01-26-2ミャンマー1979年01月26日1970年代インドの対外関係国務大臣Shri Samarendra Kunduが来訪,外相らと会談した。
DIA-211-1979-01-27-1ミャンマー1979年01月27日1970年代財務・計画相兼副首相U Tun Tinは自身の選挙区ミチナ郡第1区で,国会報告を行ない,カチン州の経済問題について,選挙民代表と討議した。また農林相U Ye Goungは25日から27日までモン州を訪れ,農業,畜産施設を視察した。
DIA-211-1979-01-28-1ミャンマー1979年01月28日1970年代鉄道公社はラングーン=プローム間に夜間急行列車を2月1日から運行すると発表。
DIA-211-1979-01-29-1ミャンマー1979年01月29日1970年代インドネシアを訪問中のビルマ人民議会代表団がジャカルタでスハルト大統領と会談した。
DIA-211-1979-01-30-1ミャンマー1979年01月30日1970年代連邦リレー開始-第32回連邦記念日に向けて各州各管区から連邦旗がラングーンに向けてリレーされるが,この連邦旗の受渡式が行なわれ,各地に特別機で運ばれた。
DIA-211-1979-01-30-2ミャンマー1979年01月30日1970年代第16回宝石見本市がインヤレークホテルで開始され,初日に,ネーウィン大統領はサンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相ら多くの閣僚と視察した。
DIA-211-1979-01-31-1ミャンマー1979年01月31日1970年代農業及び農産物交易公社の78/79年度第3四半期調整会談が開かれ,籾の買付状況が報告され,また,買付促進のための措置が討議された。なお貿易相Khin Maung Gyi大佐が出席。
DIA-211-1979-01-31-2ミャンマー1979年01月31日1970年代国家評議会はシャン州Mong Yan郡人民評議会執行委員会の議長および書記長を含む9名の執行委員の解任を通告した。これは,憲法および現行法を厳守するとの人民評議会法に違反するとして行なわれたもの。これに基づき,U Saw Wayの議長など新メンバーを暫定的に任命した。
DIA-211-1979-01-31-3ミャンマー1979年01月31日1970年代U Htin Kyaw辞任-国家評議会は前建設相,現国家評議会員U Htin Kyawの辞任を認めた。なお同氏の人民議会メンバー(Kyaiklat第1区)の辞任も認められた。
DIA-211-1979-02-01-1ミャンマー1979年02月01日1970年代社会福祉・労働相U Mahn San Myat Shweは,1月25日から2月1日までマンダレー,ザガイン管区各地の社会福祉事業を視察した。
DIA-211-1979-02-02-1ミャンマー1979年02月02日1970年代ラングーン管区人民評議会籾買付監査委員会の発表によると同管区の今期籾買付目標2160万バスケットをすでに達成した。さらに目標を超えたものについては,随時倉庫,精米機能の範囲で集荷することになる。
DIA-211-1979-02-02-2ミャンマー1979年02月02日1970年代難民帰還者6万を超す-バングラデシュからの難民帰還は1日平均2000人程度,今も続いているが,当局によると,1月31日までの帰還者累計は6万803人に達した。これは,難民総数の約半分にあたる。
DIA-211-1979-02-05-1ミャンマー1979年02月05日1970年代マウン・マウン・カ首相は連邦記念日中央式典会場の施設を視察した。
DIA-211-1979-02-06-1ミャンマー1979年02月06日1970年代ペグー管区では政府による籾買付は順調に進み,1月31日までに今期の集荷目標4613万9000バスケットを超えた。なおこの目標量は全生産量の48.3%と設定されたものである。
DIA-211-1979-02-07-1ミャンマー1979年02月07日1970年代新通貨発行-ビルマ連邦銀行は新らしい50ピアスコインを発行,2月10日から流通する。
DIA-211-1979-02-07-2ミャンマー1979年02月07日1970年代UNDPの援助-UNDPの援助による食糧及び薬品品質管理プロジェクトに関する協定が調印された。プロジェクト資金は39万ドル。
DIA-211-1979-02-08-1ミャンマー1979年02月08日1970年代サンユー副大統領は第32回連邦記念日式典に出席する各州・管区の代表と会見した。
DIA-211-1979-02-08-2ミャンマー1979年02月08日1970年代2月12日開店予定の商業省傘下のデパートを第1工業相Tint Swe准将,商業相Khin Maung Gyi大佐ら数閣僚が視察した。また北西軍区司令官Aung Khin准将,中央軍区司令官Wan Tin准将,ラングーン軍区司令官Myo Aunt大佐,南西軍区司令官Than Nyunt大佐らも視察した。
DIA-211-1979-02-09-1ミャンマー1979年02月09日1970年代Ye Goung農林相は軍人のための第4回農業コースの最終日に演説し,農業生産の向上を強調したがそのなかで次の諸点を明らかにした。○特別高収量米耕作計画は1975/76年度にTaikkyi郡のPhalon村の400エーカーに導入された。1976/77年には同郡で4000エーカーに拡大され,1977/78年は同郡とShwebo郡の全部に拡大された。1978/79年は23の郡で作付られている。この23郡での作付により,米生産はそれまでに比して2220万バスケット増加し,収量もエーカー当り44.15バスケットから59バスケットに増加した。○1978/79年の農業生産状況では,米作は非常に満足すべき状態であった。米は1293万8340エーカーに作付られ,うち1260万6719エーカーで収穫があり,5億380万バスケットの生産が見込まれている。これは1977/78年の生産量を5030万バスケット上回っている。○油脂作物の場合,落花生作付は前年を5万エーカー下回った。しかしゴマは42万3千エーカー上回った。 ジュート作付は1978―79年に8万エーカー作付がふえ,2450万vissの増産が見込まれる。綿花も55万エーカー増,620万viss増と見込まれる。
DIA-211-1979-02-10-1ミャンマー1979年02月10日1970年代サンユー副大統領は計画党統合書記U Thaung Kyi,マウン・マウン・カ首相,国軍総司令官Kyaw Htin大将,陸軍参謀長Aye Ko少将,海軍参謀長Chit Hlaing少将,空軍参謀長Saw Pru少将,大統領軍事補佐官Tin Oo准将,NIB局長U Lay Maungらは,連邦記念日に招待された山岳少数民族代表と会談。
DIA-211-1979-02-11-1ミャンマー1979年02月11日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将は,ヘリコプターで,ナガ丘陵のHkamtiを訪れ,ナガ族リーダーなどと会談した。
DIA-211-1979-02-11-2ミャンマー1979年02月11日1970年代運輸・通信相Khin Ohn准将は7日から11日までアラカン州各地の運輸通信関係プロジェクトの進行状況を視察した。
DIA-211-1979-02-11-3ミャンマー1979年02月11日1970年代ネーウィン大統領夫妻は,第32回連邦記念日に向けて,各界のリーダー,代表を大統領官邸に招いて,晩さん会を催した。
DIA-211-1979-02-12-1ミャンマー1979年02月12日1970年代第32回連邦記念日-第32回連邦記念日中央式典がラングーンのKyaikkasan広場で開催され,12万5000人が出席した。中央式典が開催されたのは76年以来3年ぶりである。この式典に向けネーウィン大統領は特別メッセージを寄せ,民族統一の促進と,経済計画の達成を強く訴えた。なお同メッセージは計画党統合書記U Thaung Kyiが代読した。
DIA-211-1979-02-12-2ミャンマー1979年02月12日1970年代総合デパート開店-国産品の需要拡大をねらって,国営総合デパートがラングーンに開店した。このデパートは,ネーウィン政権成立以来,最も大規模な国営小売店舗の開発であり,国内の工業生産向上を背景としたもので注目される。取扱い商品は約620品目で,売場は4階建である。
DIA-211-1979-02-13-1ミャンマー1979年02月13日1970年代国軍総参謀長Kyaw Htin将軍は,山岳・高原地域からの連邦記念式典参加代表を招き夕食会を行なった。
DIA-211-1979-02-15-1ミャンマー1979年02月15日1970年代インドネシアが米5万トン買付-インドネシアの食糧庁長官B.Arifin少将が14日に来訪,15日に貿易大臣Khin Maung Gyi大佐との間で,ビルマ米5万トンの買付契約を結んだ。
DIA-211-1979-02-15-2ミャンマー1979年02月15日1970年代1978年間にビルマを訪れた外人観光客は2万1900人であった。これらのうちもっとも多かったのはフランス人で全体の19%であった。米国人は14%,ドイツ人10%,日本人9%となっている。
DIA-211-1979-02-15-3ミャンマー1979年02月15日1970年代難民帰還者7万を超す-バングラデシュからの難民帰還者は2月12日までに7万104名に達した。
DIA-211-1979-02-15-4ミャンマー1979年02月15日1970年代ラオスに米を援助-ビルマ政府はラオス政府に対し米(Kaukhnyin種)200トン,種籾100トンを寄贈した。この贈呈式がシャン州Tongpei郡Meng Mong村のラオス国境で行なわれ,ビルマ政府側から第1戦術師団長Their Han中佐らが出席した。
DIA-211-1979-02-16-1ミャンマー1979年02月16日1970年代建設相シンガポールとマレーシアへ-建設相Hla Tun准将はシンガポールとマレーシアをそれぞれ4日間の日程で訪問している。建設相は両国の工業化,住宅建設,通信などのプロジェクトを視察している。
DIA-211-1979-02-17-1ミャンマー1979年02月17日1970年代ペグー管区の政府による籾買付は順調に進み,目標の4613万9000バスケットに対し,すでに5000万バスケットを超えた。
DIA-211-1979-02-17-2ミャンマー1979年02月17日1970年代保健相Win Maung大佐ら一行はWakemaを訪れ,保健施設などを視察。
DIA-211-1979-02-18-1ミャンマー1979年02月18日1970年代労働・社会福祉相V Mahn San Myat Shweは,2月14日から18日までMoulmein, Pa-an地区を視察した。
DIA-211-1979-02-21-1ミャンマー1979年02月21日1970年代米空軍音楽隊(42人),ビルマとの文化交流のためラングーン到着-6日間滞在し,演奏活動を行なう。
DIA-211-1979-02-21-2ミャンマー1979年02月21日1970年代建設相Hla Tun准将ら,オーストラリア,マレーシア,シンガポール訪問より帰国。
DIA-211-1979-02-21-3ミャンマー1979年02月21日1970年代対フィンランド航空協定-ビルマ政府はフィンランドとの間に航空協定草案に調印した。
DIA-211-1979-02-22-1ミャンマー1979年02月22日1970年代1978年に全国で開設された800の籾買付所のうち,ペグー管区Nyaunglebin郡Peinzaloke買付所が全国第1位の買付所に選ばれた。
DIA-211-1979-02-22-2ミャンマー1979年02月22日1970年代U Mya Maung文化・情報相,米空軍バンド一行と会見。
DIA-211-1979-02-22-3ミャンマー1979年02月22日1970年代Bilin郡Yinohan村で,付近の村落から集まった約3500人のカレン族が,KNU反乱軍の破壊活動を非難する大衆抗議集会を開いた。
DIA-211-1979-02-25-1ミャンマー1979年02月25日1970年代本日付WPDはネーウィン大統領が近くタイを訪問すると発表した。
DIA-211-1979-02-26-1ミャンマー1979年02月26日1970年代サンユー計画党書記長はラングーン管区計画党国軍支部の代表1500人を集め,一般情勢について説明した。これには国評メンバーU Thaung Kyi,マウン・マウン・カ首相,Kyaw Htin大将,Sein Lwin准将,U Myint Maung外相,Tin Oo准将が出席した。
DIA-211-1979-02-26-2ミャンマー1979年02月26日1970年代労働・社会福祉相U Mahn San Myat Shweは24日から26日まで,バングラデシュからの難民受入事業,(Hintha Project)の現状を視察するため国境付近を巡回した。
DIA-211-1979-02-26-3ミャンマー1979年02月26日1970年代米空軍バンド,ビルマ訪問終える。
DIA-211-1979-02-27-1ミャンマー1979年02月27日1970年代ユーゴの貿易代表団来訪。
DIA-211-1979-02-28-1ミャンマー1979年02月28日1970年代ユーゴ経済代表団,U Myint Maung外相,Than Tin鉱業相,Khin Maung Gyi貿易相をそれぞれ訪問。
DIA-211-1979-03-01-1ミャンマー1979年03月01日1970年代NIB(国家情報局)局長U Lay Maungは記者会見で,「匿名の手紙,電話,電報などによる情報や批判あるいは不満に基づいては如何なる行動も起さない」と述べた。なおNIBは,これに関する通達を各省庁,機関に出した。
DIA-211-1979-03-01-2ミャンマー1979年03月01日1970年代第1工業相Tint Swe准将は来訪中のユーゴ貿易代表団と会見。
DIA-211-1979-03-02-1ミャンマー1979年03月02日1970年代ラングーンなどで農民の日集会。
DIA-211-1979-03-04-1ミャンマー1979年03月04日1970年代ネーウィン大統領タイを公式訪問-ネーウィン大統領はタイ国王の招待を受けて同国を公式訪問するためバンコクに向け出発,サンユー副大統領らが見送った。バンコク空港にはタイ国王の出迎えを受け,夜,国王主催の晩さん会で,両国の友好関係を強調した。なお国評メンバーDr. Maung Maung, U Myint Maung外相,大統領府官房長Aye Kyaw大佐,NIB局長U Lay Maungらが同行した。
DIA-211-1979-03-05-1ミャンマー1979年03月05日1970年代ネーウィン・クリアンサク会談-訪タイ中のネーウィン大統領はクリアンサク首相と会談,会談内容は公表されないが,ベトナム,カンボジア問題等について協議したと伝えられた。
DIA-211-1979-03-05-2ミャンマー1979年03月05日1970年代Namtu郡Narhsaing, Panchin, Lwaipye村の村民1500人が共産軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。
DIA-211-1979-03-06-1ミャンマー1979年03月06日1970年代ネーウイン大統領帰国-タイを公式訪問したネーウィン大統領は,特別機で帰国,空港にはサンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相らが出迎えた。
DIA-211-1979-03-06-2ミャンマー1979年03月06日1970年代アジア開銀(ADB)の吉田総裁が来訪,対ビルマ開発融資について協議した。
DIA-211-1979-03-07-1ミャンマー1979年03月07日1970年代ネーウィン大統領はYwatnitkyiの民族学校卒業生と会った。なおこれらの卒業生はそれぞれの出身少数民族社会に帰って,教師や社会福祉活動に携わる。
DIA-211-1979-03-07-2ミャンマー1979年03月07日1970年代マウン・マウン・カ首相は来訪中のアジア開銀総裁と会見。
DIA-211-1979-03-08-1ミャンマー1979年03月08日1970年代マレーシア保健相来訪-マレーシア保健相Tan Sri Chong Hon Nyanが5日間の予定で親善訪問。
DIA-211-1979-03-08-2ミャンマー1979年03月08日1970年代3月8日現在のバングラからの難民帰還者は累計8万9771人であった。
DIA-211-1979-03-09-1ミャンマー1979年03月09日1970年代サンユー副大統領は来訪中の吉田アジア開発銀行総裁と会見。
DIA-211-1979-03-09-2ミャンマー1979年03月09日1970年代国防相Kyaw Htin大将は三軍各参謀長とともに第34回国軍記念日に向けて開催されている展覧会会場を視察した。
DIA-211-1979-03-09-3ミャンマー1979年03月09日1970年代戦闘部隊が住民から歓迎-シャン高原で共産軍と戦ってきた第75連隊部隊はプロームの本隊に帰還,住民6000人の歓迎を受けた。また3月7日には第1連隊がMinhlaに帰還,住民5000人が歓迎集会を開いた。
DIA-211-1979-03-09-4ミャンマー1979年03月09日1970年代タトン市で手榴弾爆発-Thaton市のShwezayanパゴダでTabaungの祭でにぎわっていたところ,KNU軍ゲリラ部隊が手榴弾を投げ込み,爆発,5人が死亡,約60人が負傷した。
DIA-211-1979-03-10-1ミャンマー1979年03月10日1970年代吉田アジア開銀総裁,ビルマ訪問終了。
DIA-211-1979-03-11-1ミャンマー1979年03月11日1970年代マレーシア保健相,マンダレーを日帰り訪問。
DIA-211-1979-03-11-2ミャンマー1979年03月11日1970年代Wakema郡のAungmingala米買付所が全国第31位の優良買付所賞を受ける。授賞式でイラワジ管区人民評議会議長Aye Khaing中佐は,1977/78年度の全国1億6070万バスケットの買付目標のうち,イラワジ管区は5290万バスケット(36.08%)を占めている,全国で開設された808の買付所のうち,イラワジ管区には210が開設されたと述べた。また1978/79年度はイラワジ管区で229の買付所が開かれ,買付目標は6040万バスケットであるという。
DIA-211-1979-03-12-1ミャンマー1979年03月12日1970年代マレーシア保健相帰国。
DIA-211-1979-03-14-1ミャンマー1979年03月14日1970年代西独の外務担当国務大臣H.H. Bruecher一行が来訪。
DIA-211-1979-03-14-2ミャンマー1979年03月14日1970年代ネーウィン大統領,第34回国軍記念日展示場視察。Kyaw Htin国防相らが同行。
DIA-211-1979-03-15-1ミャンマー1979年03月15日1970年代Thaton市で市民など2万人が集まり反乱軍の破壊活動に対する大抗議集会を開いた。これは3月9日にThatonでの祭りでKNUによる手榴弾の爆発によって5人が死亡60人が負傷したことに抗議したもの。
DIA-211-1979-03-15-2ミャンマー1979年03月15日1970年代西独国務相らU Myint Maung外相訪問。
DIA-211-1979-03-16-1ミャンマー1979年03月16日1970年代第1工業相Tint Swe准将はバセインに建設中のガラス工場,ジュート工場などを視察した。
DIA-211-1979-03-17-1ミャンマー1979年03月17日1970年代党中央委-計画党は第7回中央委員会を開き,ネーウィン議長が開会演説,サンユー書記長が,人民議会に係わる諸案件を説明,79/80年度予算案を承認した。
DIA-211-1979-03-17-2ミャンマー1979年03月17日1970年代西独国務相らPagan, Nyaung-U訪問。
DIA-211-1979-03-18-1ミャンマー1979年03月18日1970年代西独国務相らラングーンに帰着。
DIA-211-1979-03-19-1ミャンマー1979年03月19日1970年代第2期第3回人民議会開会-定例人民議会が開会され,サンユー国家評議会書記長が国家評議会報告,U Tun Tin副首相が79/80年度予算案および経済計画,マウン・マウン・カ首相が閣僚評議会報告を行なった。
DIA-211-1979-03-19-2ミャンマー1979年03月19日1970年代西独と資金協力協定-ビルマ政府は西独政府との間で,西独が総額7000万ドイツマルクの資金供与をするとの協力協定に調印。この資金は,うち6000万マルクを第3尿素工場,外洋船舶,ケーブル工場などの建設,購入費に使用し,1000万マルクを,(1)Heinda錫鉱山,(2)Sindeポンプ・モーター製造工場,(3)Kyunchaug肥料プラント,(4)Paleik繊維工場,(5)Zeyawaddyアルコール醸造プラント,(6)HmawbiおよびDanyingoneレンガ工場などの部品,機械購入に使用される。
DIA-211-1979-03-20-1ミャンマー1979年03月20日1970年代政府人事-人民議会第2日目に,空席の2名の国家評議会員が新任された。U Khin Aye(Wundwin郡第2区)とU Zaw Win(Kayan郡第2区)とである。なお,Tun Tin少将が空席の人民司法評議会メンバーに選出された。また情報文化相(U Mya Maung)と社会福祉・労働相(U Mahn San Myat Shwe)がそれぞれ担当相を交替した。新任副大臣にSein Ya大佐(Myanaung郡),U Khin Maung Yi(Tabayin郡)が任命され,担当省は追って発表される。
DIA-211-1979-03-22-1ミャンマー1979年03月22日1970年代中国,ビルマ米を輸入-中国政府はビルマから米5万トンを輸入する契約を行なった。
DIA-211-1979-03-23-1ミャンマー1979年03月23日1970年代国防省の新軍務局長に現西部師団長Min Goung准将が任命された。なお前任者のTun Tin少将が人民司法評議会のメンバーに任命されたための措置。
DIA-211-1979-03-23-2ミャンマー1979年03月23日1970年代人民議会は最終目各評議会報告に関する質疑応答を終え,会期を終了した。
DIA-211-1979-03-23-3ミャンマー1979年03月23日1970年代難民帰還者10万を超す-バングラデシュからの難民帰還者はいまでも1日2000人のペースで続けられており,3月23日現在の帰還者累計は10万1592名に達した。
DIA-211-1979-03-24-1ミャンマー1979年03月24日1970年代ネーウィン大統領はサンユー副大統領らとともにHmawbiの中央農業試験場で開かれている農業機械及び家畜展覧会を視察した。
DIA-211-1979-03-27-1ミャンマー1979年03月27日1970年代陸軍記念日-第34回陸軍記念日式典が開かれ,ラングーンのレジスタンス公園では,陸軍将兵を集め,国軍最高司令官Kyaw Htin大将が記念演説を行なった。また当夜,大統領官邸では,大統領主催の晩さん会が開かれた。
DIA-211-1979-03-30-1ミャンマー1979年03月30日1970年代ネーウィン国家評議会議長,1979年政府支出法公布。
DIA-211-1979-03-31-1ミャンマー1979年03月31日1970年代在住外人に国籍-内務宗教省移民局は長期間ビルマに在住する外国籍を持つ者に対し,ビルマ市民権を得たいと思っている場合,その審査に応ずるとの見解を示し,今年末までに当局へその意志を伝えるよう呼びかけた。
DIA-211-1979-04-01-1ミャンマー1979年04月01日1970年代U Myint Maung外相はマレーシア訪問から帰国。
DIA-211-1979-04-02-1ミャンマー1979年04月02日1970年代サンユー書記長テナセリム地方へ-計画党書記長サンユーは1日,2日とテナセリム管区各地を訪問,計画党支部,軍施設等を視察,メルグイの政府軍第17連隊本部の報告会で演説。サンユー書記長は演説のなかで,通信・道路の欠陥克服,物価高,経済汚職と闘う必要を強調した。また治安面では同地方で主に活動しているKNU反政府軍及び共産党残存分子との闘いを訴えた。
DIA-211-1979-04-04-1ミャンマー1979年04月04日1970年代Gwema-Syriam間送油管完成-MOC(ミヤンマ石油公社)がShwedaung郡GwenmaとSyriam精油所間に建設していた石油輸送パイプライン(口径10インチ,全長286マイル)が本日正式に開設された。記念式典で第2工業相Maung Cho大佐は,79年度のビルマの原油生産は999万バレルで,80年度からはビルマは原油輸出国となろうと述べた。
DIA-211-1979-04-05-1ミャンマー1979年04月05日1970年代木材搬送訓練センター開設-日本の技術協力によって建設された木材搬送(ケーブル・ロッキング)訓練センターが開設,これはアラカン山脈の風倒木搬送の技術協力が中心となっているプロジェクトで,日本からは専門家派遣,機材供与などが行なわれていた。
DIA-211-1979-04-07-1ミャンマー1979年04月07日1970年代経済計画調整会議-第3次4カ年計画の第2年度にあたる1979/80年度経済計画実施のための担当政府機関,地方自治体などによる調整会議が開かれた。席上,マウン・マウン・カ首相が,今年度計画実施に関して,その完遂を強く要請した。またU Tun Tin副首相は1978/79年度の米買付量は目標を上回り1億8650万バスケットとなったと述べた。
DIA-211-1979-04-08-1ミャンマー1979年04月08日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐および同省副大臣U Khin Maung YiはTwante郡の政府籾買付所などを視察。
DIA-211-1979-04-08-2ミャンマー1979年04月08日1970年代肥料配給-農業公社は1979/80農業年度内の化学肥料の配給量を発表,種類別では,尿素7万2981トン,三重過燐酸5万1471トン,加里肥料4117トンなどである。
DIA-211-1979-04-10-1ミャンマー1979年04月10日1970年代軍労働者に叙勲-三軍将兵のうち特に功労の認められた者に対する叙勲式が行なわれ,大統領自ら授与した。最高位のThiha Thura賞は今回7名に授与された。
DIA-211-1979-04-10-2ミャンマー1979年04月10日1970年代4月10日までのバングラからの難民帰還者は合計11万6390人に達した。
DIA-211-1979-04-11-1ミャンマー1979年04月11日1970年代作家・ジャーナリスト組織委員が再発足し,議長にU Tun Tinが就任した。
DIA-211-1979-04-11-2ミャンマー1979年04月11日1970年代中央軍区司令官Tuang Za Khai大佐らDaik-Uの米貯蔵所建設視察。
DIA-211-1979-04-14-1ミャンマー1979年04月14日1970年代中国政府はビルマ産マッペ5000トンを輸入することに契約した。
DIA-211-1979-04-14-2ミャンマー1979年04月14日1970年代商業省および運輸通信省は各地方で1カ月分の米の備蓄を行なう計画をすすめており,その第一陣として米540トンが今日ラングーンからマンダレーに輸送された。
DIA-211-1979-04-16-1ミャンマー1979年04月16日1970年代協同組合省は各地でパイロット協同組合農場を設立中であり,これまでに573が設立された。
DIA-211-1979-04-17-1ミャンマー1979年04月17日1970年代協同組合増加-1979年3月末までの各種各レベルの協同組合総数は20,500組合である。種別組合数は以下のとおり。中央協同組合 1 郡連合協組 16 郡協組 300 村落連合協組 173 工業生産者協組 563 鉱業協組 25 林業協組54 水産協組 591 農業協組 609 村落協組 12,585 消費者協組 2,400 職場内協組 334 信用協組 2,508 生鮮食品商協組 33 サービス業協組 17 人民警察協組 291
DIA-211-1979-04-18-1ミャンマー1979年04月18日1970年代FAOはゴム園復興計画に技術援助を行なうことを決定,ビルマ政府と調印した。
DIA-211-1979-04-18-2ミャンマー1979年04月18日1970年代日本,低所得者向住宅無償援助-日本政府は,低所得者向住宅建設用の資機材(6億円)の無償援助を供与すべく協定に調印した。
DIA-211-1979-04-19-1ミャンマー1979年04月19日1970年代ネーウィン大統領はマンダレー管区Madaya郡のSakyintaung宝石鉱山を視察した。
DIA-211-1979-04-20-1ミャンマー1979年04月20日1970年代ビルマ仏教の最高僧Agga Mahapandita Mahasi Sayadawを団長とする仏教使節団がワシントンに到着,マサチューセッツ州の宗教団体の招待によるもの。
DIA-211-1979-04-22-1ミャンマー1979年04月22日1970年代キューバから特使-ネーウィン大統領は来訪したキューバ首相特使Manuel Cespedes鉱業相一行と会談,Myint Maung外相らが同席,一行は4月18日から23日まで滞在。
DIA-211-1979-04-23-1ミャンマー1979年04月23日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐は,Seikkyiで建設中の籾貯蔵所を視察。
DIA-211-1979-04-24-1ミャンマー1979年04月24日1970年代ADB借款-アジア開銀はSedawgyi水資源開発プロジェクトに1460万ドルの借款を供与すると発表,当プロジェクト総費用は1660万ドルであるが残りはOPEC借款の供与がすでに決定している。10年据置,40年延払い,利子1%。
DIA-211-1979-04-25-1ミャンマー1979年04月25日1970年代農民協会中央委-農民協会第3回中央委員会がラングーンで開かれ,中央委議長U Taung Kyiが開会演説。
DIA-211-1979-04-27-1ミャンマー1979年04月27日1970年代第3回援助国会議-世銀の主催による第3回対ビルマ援助国会議で東京で開かれ,日本,西独,英国,フランス,オーストラリア,カナダ,米国,フィンランド,ノルウェー,世銀,IMF,アジア開銀,UNDP,EECなどが出席,ビルマ政府側からは副首相兼財務計画相U Tun Tinらが出席,ビルマの経済状況,第3次4カ年計画などを説明。なお,79/80年度用として約3億ドルの援助がプレッジされたと伝えられた。
DIA-211-1979-04-27-2ミャンマー1979年04月27日1970年代ラングーン管区人民評議会で発表された執行部報告書によると,管区内26郡区の消費者はケロシン油の配給が月260万ガロンから100万ガロンに減らされたために苦しんでいるという。
DIA-211-1979-04-27-3ミャンマー1979年04月27日1970年代農民協議会中央委総会でU Ye Goung執行委員,U Than Yu書記は委員の質問に答えて次の諸点を明らかにした。○1979/80年のたね米用に100万バスケットのもみ米が確保された。○高収穫米は23郡を対象として作付され,4566万5102バスケットの米が買付られた。○農業機械化局の保有トラクターは3500台にすぎない。かんがい局はかんがい作業に77/78年度は550万チャット,78/79年は1255万チャットを支出した。○農業銀行は農民へのモンスーン耕作ローンの支給を,旧ローン返済者に対し5月はじめから行なうよう指示した。○協同組合保有トラクターへの部品と修理サービスを急ぐ。農業銀行は上級・中級農協に390万チャットのローンを支給した。○ゴム産業については30年間国有化しないので,業者は安心して仕事をしてもらいたい。○第3次4カ年経済計画の昨年の米作計画によれば,イラワジ管区は330万エーカー,ペグー管区は230万エーカー,ラングーン管区は130万エーカーの作付を予定されており,この3管区は全国の1300万エーカーの米作付地のうち53%を占める。3管区ではエーカーあたり60バスケットの収穫が必要である。
DIA-211-1979-04-27-4ミャンマー1979年04月27日1970年代建設相Hla Tun准将は25日から27日まで,東部師団管区内の道路建設状況を視察,Kengtung, Mong Ping, Mong Phak, Tachilek, Monghsat, Monghaiなど訪問。
DIA-211-1979-04-28-1ミャンマー1979年04月28日1970年代新50チャット紙幣発行-連邦銀行は28日付で,新50チャット紙幣を発行,流通した。これまで1チャット,5チャット,10チャット,25チャット,100チャット紙幣が流通している。
DIA-211-1979-04-29-1ミャンマー1979年04月29日1970年代ィスラエル外相来訪-ダヤン・イスラエル外相夫妻が親善訪問のため来訪,Myint Maung外相らが出迎えた(4日間)。
DIA-211-1979-04-29-2ミャンマー1979年04月29日1970年代稲作振興のために表彰制-農林省と貿易省は,稲作の生産,集荷に好成績を収めた地域(郡単位)に対し表彰することを行なっているが,今年度ラングーン管区ではKyauktan郡が選ばれ,表彰された。
DIA-211-1979-04-30-1ミャンマー1979年04月30日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のダヤン・イスラエル外相と会談,Myint Maung外相,大統領,官房長Aye Kyaw大佐らが同席した。また同日別個に,サンユー副大統領,マウン・マウン・カ首相が同外相と会談。
DIA-211-1979-05-01-1ミャンマー1979年05月01日1970年代労働者の日。
DIA-211-1979-05-02-1ミャンマー1979年05月02日1970年代ダヤン・イスラエル外相,ビルマ訪問終了。
DIA-211-1979-05-03-1ミャンマー1979年05月03日1970年代第1工業省年次報告-第1工業省は1978/79年度の年次報告会を行ない,第1工業相Tint Swe准将が報告を行なった。これによると同省管轄下の工業生産額は29億チャットで前年度比2.2%増であった。主な製品別伸び率では,砂糖13.8%,炭酸水21.6%,綿糸53.8%,ポプリン63.5%,リンネル40.9%,医薬品13.6%であった。
DIA-211-1979-05-05-1ミャンマー1979年05月05日1970年代内務省副大臣U Ohn Kyawは2日から5日までHintha Project(バングラ難民帰還プロジェクト)地域を視察。
DIA-211-1979-05-06-1ミャンマー1979年05月06日1970年代バングラから特使-バングラデシュ大統領特使として同国農業相Nurul Islamが来訪,空港にはMyint Maung外相らが出迎えた(9日まで)。
DIA-211-1979-05-06-2ミャンマー1979年05月06日1970年代農業融資-ミヤンマ農業銀行は今期の稲作農業に対する耕作融資は総額6.8億チャットであると発表,エーカー当り70チャットである。
DIA-211-1979-05-07-1ミャンマー1979年05月07日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のバングラ特使Nurul Islam農相と会談,Myint Maung外相らが同席,また同特使はその後貿易相Khin Maung Gyi大佐とも会談した。
DIA-211-1979-05-07-2ミャンマー1979年05月07日1970年代農産物貿易公社の第4四半期会議で,専務理事Kyi Thein大佐は,もみ米の買付は目標の1億6400万バスケットに対し,1億8640万バスケットに達したと述べた。
DIA-211-1979-05-09-1ミャンマー1979年05月09日1970年代貿易使節団-貿易相Khin Maung Gyi大佐を団長とする貿易使節団がマレーシアとインドネシアに向け出発した。主にビルマ米の売付けを行なう。
DIA-211-1979-05-09-2ミャンマー1979年05月09日1970年代バングラデシュ大統領特使帰国。
DIA-211-1979-05-09-3ミャンマー1979年05月09日1970年代党書記長カチン州へ-計画党書記長サンユーは8日,9日と陸軍参謀長Aye Ko少将らとカチン州ミチナを訪れ,同市で計画党地方支部役員らを集め,党および国家の情勢などについて報告した。このなかで書記長は治安問題に触れ,KIAとBCP反乱軍との戦いには,市民防衛隊(militiamen)の拡充も必要であるなどと述べた。
DIA-211-1979-05-09-4ミャンマー1979年05月09日1970年代反乱軍抗議集会-シャン州Mong Yai郡,Loi Ngun村で,付近の村民など5000人が集まり,反乱軍の破壊行為を非難する抗議集会を開き,第67連隊司令官などが出席した。
DIA-211-1979-05-10-1ミャンマー1979年05月10日1970年代インドネシアを訪問中の貿易相Khin Maung Gyi大佐はインドネシア貿易相と両国の貿易経済関係促進について会談した。
DIA-211-1979-05-12-1ミャンマー1979年05月12日1970年代ラングーン市警察改組-ラングーン市警察は1964年以来人民警察隊として再編されていたが,さらに人民警察としての機能を充実させるため計画党との連携を強めるべく組織を改正した。この再編成について内務・宗教相Sein Lwin准将は,5万人の警察官の一部にはまだ植民地警官のような態度で民衆に臨むものがあると指摘した。
DIA-211-1979-05-12-2ミャンマー1979年05月12日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐,マレーシア訪問。
DIA-211-1979-05-12-3ミャンマー1979年05月12日1970年代カチン州で反乱軍抗議集会-カチン州Waingmaw村で付近の村民3000人が集まり,反乱軍に対する抗議集会を開いた。
DIA-211-1979-05-13-1ミャンマー1979年05月13日1970年代U Tun Tin副首相は東京での第3回援助国会議および第5回UNCTAD総会に出席して帰国。
DIA-211-1979-05-14-1ミャンマー1979年05月14日1970年代繊維工業公社専務理事Khin Nyo中佐は,メイクティラ繊維工場とタマイン繊維工場の79年度モデル工場賞授与式での演説で,次の点を明らかにした。繊維工業公社は78/79年度は本来13億6920万チャットの生産目標をたてていたが,これはさまざまな理由から11億9860万チャットに改訂された。しかし実際には13億820万チャットが生産された。77/78年度は11億1280万チャットであった。一方製品の販売額は12億1980万チャットで,生産額の93.2%であった。
DIA-211-1979-05-14-2ミャンマー1979年05月14日1970年代マレーシア政府はビルマ米5000トンを輸入する契約に調印。
DIA-211-1979-05-15-1ミャンマー1979年05月15日1970年代サンユー書記長アラカン州へ-計画党書記長サンユーはKyaw Htin国防相,Saw Pru空軍参謀長らと14日,15日とアラカン州を訪れ,アキヤブで各方面からの党員を集め,一般状況,党活動などについて報告した。
DIA-211-1979-05-16-1ミャンマー1979年05月16日1970年代情報文化相U Mahn San Myat Shweは印刷・出版公社管轄の印刷工場などを視察した。
DIA-211-1979-05-16-2ミャンマー1979年05月16日1970年代Khin Maung Gyi貿易相一行,インドネシア,マレーシア訪問より帰国。
DIA-211-1979-05-16-3ミャンマー1979年05月16日1970年代デンマーク,水産開発に援助-デンマーク政府は,トロール漁船,漁業監視船,冷凍設備などの供与を含む水産開発に総額9000万クローネ(1億1300万チャット)の借款を供与する旨このほど政府と調印。10年据置,無利子,35年延払い。
DIA-211-1979-05-17-1ミャンマー1979年05月17日1970年代インドネシアがビルマ米8万トン輸入-インドネシア政府はビルマ米8万トンを輸入する契約をした。同国は2月15日に5万トンの輸入契約をしており,合計13万トンを輸入することになる。
DIA-211-1979-05-19-1ミャンマー1979年05月19日1970年代情報文化相U Mahn San Myat Shweはラングーン市内の各新聞社を訪れ,新聞発行現場を視察。
DIA-211-1979-05-19-2ミャンマー1979年05月19日1970年代北東軍管区司令官Aye San大佐と,第99歩兵師団司令官L Khun Phan大佐は,最近,シャン北部での対共産軍戦闘で負傷した将兵を見舞った。
DIA-211-1979-05-19-3ミャンマー1979年05月19日1970年代タイ麻薬取締代表団来訪-タイ国軍最高司令官付参謀長Saiyad Kerdphol大将を団長とするタイ政府麻薬取締代表団一行は17日から19日までラングーンを訪れ,Kyaw Htin国防相,大統領軍事顧問Tin Oo准将,U Lay Maung NIB局長,警察庁長官U Thein Aungらと会談。
DIA-211-1979-05-20-1ミャンマー1979年05月20日1970年代僻地手当改正-国家評議会は国家公務員および公共事業体職員に支給されている僻地手当(Regional Allowance)の改正を決定した。これは現行制度が1947年に制定されたままであったことに関し,カチン州やシャン州などの僻地在任者の手当を引上げるために行なわれたもので,平均約20%引上げられた。6月1日から施行。
DIA-211-1979-05-20-2ミャンマー1979年05月20日1970年代アコリカへ貿易代表団-貿易省副大臣U Khin Maung Yiを団長とするビルマ米輸出促進のための代表団がアフリカ,ヨーロッパ諸国に向け出発した。
DIA-211-1979-05-20-3ミャンマー1979年05月20日1970年代労働・福祉相U Mya Maungは15日から20日までペグー,マンダレー,マグウェ各省の関係機関を視察した。
DIA-211-1979-05-21-1ミャンマー1979年05月21日1970年代国家評議会は国防省主計総監に現北西軍管区司令官Aung Khin准将を任命した。前任者はTin Sein准将。
DIA-211-1979-05-21-2ミャンマー1979年05月21日1970年代北東戦線で勝利した第70ビルマ連隊将兵がTaungupに帰還した。また第80ビルマ連隊はThegon郡大衆と第4,第5軽歩兵連隊兵士家族らによって歓迎された。
DIA-211-1979-05-22-1ミャンマー1979年05月22日1970年代ネーウィン大統領,バングラ訪問-ネーウィン大統領はジア大統領の招請にもとづきバングラデシュを公式訪問,ラングーン空港にはサンユー計画党書記長,マウン・マウン・カ首相らが見送った。この日ジア大統領主催の晩さん会に出席,随行者は国評メンバー,U Thaung Kyi,Dr. Hla Han,外相U Myint Maung,大統領付官房長Aye Kyaw大佐,NIB局長U Lay Maungらである。
DIA-211-1979-05-23-1ミャンマー1979年05月23日1970年代バングラと国境画定に調印-バングラデシュとビルマは新しい国境画定協定に調印した。これは,訪問中のネーウィン大統領とジア大統領自ら調印したもの。なおこの日,ネーウィン大統領はジアウル大統領を招き答礼宴を開いた。
DIA-211-1979-05-23-2ミャンマー1979年05月23日1970年代新駐オーストラリア大使に現計画・財務相副大臣U Myo Myintが任命された。
DIA-211-1979-05-23-3ミャンマー1979年05月23日1970年代Hlaingbwe郡Kawhlaing村で村民3500人が集まり,KNU反乱軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。同村とAuktaw村が最近KNU軍の略奪を受けた。
DIA-211-1979-05-23-4ミャンマー1979年05月23日1970年代北東地区での戦闘に勝利した第13ビルマ連隊将兵がChaukに帰還した。
DIA-211-1979-05-24-1ミャンマー1979年05月24日1970年代ビルマ米バングラに10万トン-ビルマはバングラ政府に対し,米10万トンを輸出する契約に調印。
DIA-211-1979-05-24-2ミャンマー1979年05月24日1970年代ビ・バ共同コミュニケ-ネーウィン大統領は公式日程を終え帰国。これに先立ち両国は共同コミニュケを発表,友好と協力を強調した。またこのなかで,インドシナ問題は国連で解決されること,インド洋平和地帯構想を支持することなどが含まれている。
DIA-211-1979-05-24-3ミャンマー1979年05月24日1970年代反乱軍非難大集会-ペグー山脈東部域のShwekyin郡Padekaw村で,カレン人,シャン人などを含む近くの村民1万5000人が,反乱軍を非難する大抗議集会を開いた。これには中央軍管区第2戦術部隊司令官Hla Myint大佐ら軍関係者,計画党支部役員らも参加,この集会で,去る5月2日にPaderaw村がカレン族反乱軍に襲撃され,村民多数が殺され,約1万チャット相当の物品が略奪されていたことが明らかにされた。また同様に最近,同郡内のDonzayit, Kunseik, Zalokegyi, Nyaungchedauk, Winkhanein, Ahlegyu, Tagundaing村も何らかの形で反乱軍から被害を受けたことが明らかにされた。
DIA-211-1979-05-24-4ミャンマー1979年05月24日1970年代反SSA集会-シャン州Kehsi Mansam郡Mongnawng村で1200人の村民がSSA(シャン州立軍)反乱軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。これによると5月14日に同村にSSA軍が襲撃し,45人の村民が殺され,物品略奪,放火,パコダの破壊などを行ない,最近Laikha, MongkungなどKhesi Mansam-Monghsu間道路沿線の村々を襲っていることが明らかにされた。なお同様の集会が27日,29日にも同地及び周辺で開かれた。
DIA-211-1979-05-25-1ミャンマー1979年05月25日1970年代建設相Hla Tun准将は23日から25日まで,モン州各地で建設中の道路,橋梁建設現場を視察。Thatonでは第44師団Mya Thin司令官(大佐)らが出迎えた。
DIA-211-1979-05-26-1ミャンマー1979年05月26日1970年代ラングーンでの食料油価格を安定化させるために,中央協同組合は,4月7日から25日までに,ラングーン管区27郡区協同組合に,12万8149vissの油を配給した。このために4月の第3週には24チャット/viss当りであった落花生油と23チャットであったゴマ油はそれぞれ21チャットと20チャットに下落した。6~7月向けに,30万vissの油をザガイン,マンダレー,マグエ,ペグー各管区から購入することが予定されている。
DIA-211-1979-05-27-1ミャンマー1979年05月27日1970年代Kyaukkyi郡Myetywai村で村民5000人が集まりKNU反乱軍抗議集会を開いた。
DIA-211-1979-05-27-2ミャンマー1979年05月27日1970年代Kehsi Mansamで第76ビルマ連隊兵士ら2000人の大衆が集まり,SSA反政府軍非難集会。
DIA-211-1979-05-27-3ミャンマー1979年05月27日1970年代反乱軍抗議集会-シャン州Loilem郡Mongpawn村でビルマ共産軍および共産軍と共闘関係にある少数民族軍の破壊行為に抗議する集会が開かれた。当地では最近,共産軍による略奪が激しくなっている。
DIA-211-1979-05-28-1ミャンマー1979年05月28日1970年代ラングーン管区は1979/80年の米作計画は本来5440万バスケットがあったが,高収穫米の導入により6000万バスケットの生産目標に改訂された。なおラングーン管区は130万エーカーの米作地があるが,うち80万エーカーが高収穫米適地となっている。この適地には農民10万7979人がいる。また水牛6万2722頭,牛16万8965頭がいる。
DIA-211-1979-05-29-1ミャンマー1979年05月29日1970年代Monghsu郡Monghsuに4000人が集まりSSA反政府軍非難集会。第77軽歩兵師団戦術作戦司令官Myint Soe大佐らが参加。
DIA-211-1979-05-30-1ミャンマー1979年05月30日1970年代ルーマニアと航空協定に調印。
DIA-211-1979-05-30-2ミャンマー1979年05月30日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐は28日から30日までイワラジ管区各地の倉庫,精米所などを訪れ,米の損耗状況などを視察した。
DIA-211-1979-05-30-3ミャンマー1979年05月30日1970年代運輸・通信相Khin Ohn准将は27日から30日までイワラジ管区の運輸・通信施設を視察,地区党役員らと会談した。
DIA-211-1979-05-30-4ミャンマー1979年05月30日1970年代Hong Hkat郡Monkhanhein村で,第88軽歩兵師団組織委は第6ビルマ連隊を通じ,反乱活動対策に活動したグループへの贈物を送った。
DIA-211-1979-06-01-1ミャンマー1979年06月01日1970年代バングラからの難民帰還者は5月31日までに累計15万4800人となった。
DIA-211-1979-06-01-2ミャンマー1979年06月01日1970年代協同組合相Sein Tun大佐は5月31日と6月1日,アラカン州各地で協同組合活動を視察した。
DIA-211-1979-06-01-3ミャンマー1979年06月01日1970年代西部軍区司令官Wan Tir准将らは,5月30日に反政府軍により焼かれたアラカン州のDaung-taungyo村を視察した。
DIA-211-1979-06-01-4ミャンマー1979年06月01日1970年代Lewe郡の5000人の大衆とPyinmana郡7000人の大衆は前線から帰った第85ビルマ連隊将兵を歓迎した。
DIA-211-1979-06-02-1ミャンマー1979年06月02日1970年代労働福祉相U Mya Maungを団長とするILO年次総会代表団が出発。
DIA-211-1979-06-02-2ミャンマー1979年06月02日1970年代前線兵士に慰問-東部軍管区地域で主にカレン族軍と戦闘中の前線兵士に各地から集められた慰問品の贈呈式がMongpongなどで行なわれた。
DIA-211-1979-06-02-3ミャンマー1979年06月02日1970年代Kutkai郡Pan Hsay Damで第99軽歩兵師団司令官L Hkun Hpan大佐に率いられた1500人が労働奉仕。またKunlong郡でも第3カチンライフル,第1野砲連隊,第993戦術作戦部隊将兵らが運河建設奉仕。
DIA-211-1979-06-02-4ミャンマー1979年06月02日1970年代モールメン付近のサルウィン河を航行中の密輸船が摘発され,10万チャット相当の物資が押収された。
DIA-211-1979-06-03-1ミャンマー1979年06月03日1970年代運輸・通信副大臣Ko Gyi大佐らは沿岸航行小型客・貨船の建造を視察するためノルウェーに向け出発。なおビルマ五星船公社は,ノルウェーに客船3隻と貨物船2隻を発注する予定。
DIA-211-1979-06-03-2ミャンマー1979年06月03日1970年代Minbu郡5000人とSagu郡3000人の大衆は北東地区での戦闘からがいせんした第10ビルマ連隊将兵を歓迎した。
DIA-211-1979-06-05-1ミャンマー1979年06月05日1970年代旅行公社の発表によれば1978年中にビルマを訪問した外人旅行客は2万人であった。なお74年から78年間の年平均では1万8800人である。
DIA-211-1979-06-05-2ミャンマー1979年06月05日1970年代Hmaubiで第77軽歩兵師団の現職訓練コース開く。なお6月4日には,第66軽歩兵師団の現役訓練コースが第911野戦工兵中隊内で開かれた。
DIA-211-1979-06-06-1ミャンマー1979年06月06日1970年代Pyaponで5000人の大衆が東部軍区前線から帰還した第98ビルマ連隊を歓迎した。
DIA-211-1979-06-08-1ミャンマー1979年06月08日1970年代労働・福祉副大臣U Khin Nyeinはバングラデシュからの難民受入れ状況について6日から8日まで現地を視察。
DIA-211-1979-06-08-2ミャンマー1979年06月08日1970年代UNDP援助-UNDPは1979年から1982年までの3年間に総額4320万ドルを援助することに決定した。この内訳構成は農業開発35%,工業開発16%,社会開発14%,運輸・通信,貿易,資源開発,文化協力に35%となっている。
DIA-211-1979-06-08-3ミャンマー1979年06月08日1970年代シャン州Panhaing, Panhkam両村で7日,8日にわたって,反乱軍抗議集会が開かれた。両村は今月初めに反乱軍によって略奪された。
DIA-211-1979-06-09-1ミャンマー1979年06月09日1970年代ラングーン大学で第33回卒業式が行なわれた。今年度はMSc,BScなど724名,学卒者796名であった。
DIA-211-1979-06-11-1ミャンマー1979年06月11日1970年代国軍選抜サッカーチームが親善試合のため北京に向け出発した。
DIA-211-1979-06-11-2ミャンマー1979年06月11日1970年代第8回党中央委-第8回計画党中央委員会が開かれ,サンユー書記長,U Thaung Kyi統合書記が基調報告した。
DIA-211-1979-06-11-3ミャンマー1979年06月11日1970年代ILOと協同組合省共催でビルマ協同組合経営開発政策セミナーが開かれた。
DIA-211-1979-06-11-4ミャンマー1979年06月11日1970年代反乱軍抗議集会-Mong Pingで2000人の村民が共産軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。
DIA-211-1979-06-14-1ミャンマー1979年06月14日1970年代アジア開銀ミッション,教育援助でKhin Maung Win教育相訪問。
DIA-211-1979-06-14-2ミャンマー1979年06月14日1970年代Kyondoe=モールメン間を航行中の船から,腕時計60個・洋傘205本などを含む密輸入品合計10万チャット相当が警察当局によって摘発された。
DIA-211-1979-06-15-1ミャンマー1979年06月15日1970年代第1工業相Tint Swe准将,建設相Hla Tun准将は14日と15日,ペグー管区内のジュート生産地,道路・橋梁施設を視察。
DIA-211-1979-06-15-2ミャンマー1979年06月15日1970年代協組と国営企業が取引-全国の郡協同組合を中心とした各種協同組合と交易公社,国営工場などとの商品売渡し協定調印のための第16回調整会議が開かれた。これは協同組合が各国営企業から商品を購入する協定について協議するもので,これによって各協組は各国営企業と直接取引する。なおこの日調印された取引額は,合計8700万チャットであった。
DIA-211-1979-06-17-1ミャンマー1979年06月17日1970年代家畜購入資金融資拡大-ミヤンマ農業銀行は,農民の家畜購入資金融資を今年度59郡に増加し,資金合計は610万チャットとすると発表。なお昨年度は41郡に320万チャットであった。
DIA-211-1979-06-19-1ミャンマー1979年06月19日1970年代ユーゴの社会主義労働者同盟代表団が来訪。20日にはビルマ労働者協会中央委員会副議長U Ba Nyeinと会談。
DIA-211-1979-06-19-2ミャンマー1979年06月19日1970年代ビルマ社会主義計画党第8回大会終了。党中央本部,農民評議会中央本部,労働者評議会中央本部などで行なわれた国家情報局の調査にもとづいてなされた調査行動委報告書などを承認。
DIA-211-1979-06-19-3ミャンマー1979年06月19日1970年代U Myint Maung外相,ソ連,ハンガリー訪問に出発。
DIA-211-1979-06-20-1ミャンマー1979年06月20日1970年代ビルマ,中国水泳競技会開く。
DIA-211-1979-06-21-1ミャンマー1979年06月21日1970年代U Myint Maung外相,ソ連訪問-グロムイコ外相と会談,両国関係と東南アジア情勢討議。
DIA-211-1979-06-21-2ミャンマー1979年06月21日1970年代ユーゴ労働代表団,ビルマ訪問終了。
DIA-211-1979-06-22-1ミャンマー1979年06月22日1970年代農林副大臣Dr. Bo Layは3日間,マンダレー・メイミョー付近の木材伐採,搬出状況などを視察した。
DIA-211-1979-06-22-2ミャンマー1979年06月22日1970年代ビルマ・中国親善水泳大会終了。
DIA-211-1979-06-22-3ミャンマー1979年06月22日1970年代モスクワでのビルマ・ソ連外相会議終了。なおU Myint Maung外相はコスイギン首相とも会見した。
DIA-211-1979-06-23-1ミャンマー1979年06月23日1970年代鉱業相Than Tin准将は21日から23日までザガインの第1銅鉱プロジェクト,マンダレーの第1鉄鋼プロジェクトなどを視察。
DIA-211-1979-06-23-2ミャンマー1979年06月23日1970年代小麦の政府買上げ取り止め-農産交易公社の経営委員会が開かれ,今年から当公社は国内産小麦の購販売および精麦を停止すると発表。去年までは,当公社は生産者および協同組合から直接購入,当公社で精麦して,関係消費公社,消費者に販売していたが,これではコストが高くつくため停止に踏み切った。 ビルマ・タイ国境協定合意-ビルマ政府代表団は20日から23日までバンコクで,タイとの海域国境問題を協議してきたが,このほど専門家レベルで基本的合意に達した。
DIA-211-1979-06-23-3ミャンマー1979年06月23日1970年代訪ソ中のU Myint Maung外相,ボルゴグラード訪問。
DIA-211-1979-06-24-1ミャンマー1979年06月24日1970年代訪ソ中のU Myint Maung外相はレニングラードを訪問。
DIA-211-1979-06-24-2ミャンマー1979年06月24日1970年代運輸・通信相Khin Ohn准将はアラカン州Kyaukpyuの新レーダー施設を視察。
DIA-211-1979-06-24-3ミャンマー1979年06月24日1970年代北京・駐中国ビルマ大使U Than Tunは,ビルマ軍親善フットボール・チームの訪中終了に際し,中国人民解放軍副参謀長らを招き晩さん会を開いた。
DIA-211-1979-06-25-1ミャンマー1979年06月25日1970年代U Myint Maung外相は訪ソを終えモスクワからブダペストに到着,ハンガリー外相招待による訪問。
DIA-211-1979-06-26-1ミャンマー1979年06月26日1970年代Muse郡Selan村で付近の村民2000名が反乱軍に対する抗議集会を開いた。また23日にはタウンジー郡Htonepho村で同様の集会があった。
DIA-211-1979-06-27-1ミャンマー1979年06月27日1970年代全政府雇用者はそのランクを問わず同一労働同一権利政策により,7月1日よりその公用旅行日当を1日10チャットとされることになった。これまでは4チャットから12チャットまでの幅がランクによりあった。
DIA-211-1979-06-28-1ミャンマー1979年06月28日1970年代U Myint Maung外相,ハンガリー訪問終了。
DIA-211-1979-06-30-1ミャンマー1979年06月30日1970年代米国ハワイ州職業教育長官Samson Shigetomi博士,教育相Khin Maung Win博士訪問。
DIA-211-1979-07-01-1ミャンマー1979年07月01日1970年代U Myint Maung外相はソ連,ハンガリーへの公式訪問を終え帰国,空港にはU Mya Maung労相らが出迎えた。
DIA-211-1979-07-02-1ミャンマー1979年07月02日1970年代教育相Dr. Khin Maung Winを団長とする教育代表団がユネスコ主催の第37回国際教育会議に出席のためジュネーブに向け出発した。
DIA-211-1979-07-02-2ミャンマー1979年07月02日1970年代軍の援農作戦-三軍から選抜された1200名の兵士による援農作戦(Myaseinyaung作戦)がKyauktan, Hmawbi郡などで開始された。これらは田植えなどの農作業を手伝う。
DIA-211-1979-07-02-3ミャンマー1979年07月02日1970年代訪中の国軍サッカーチーム,帰国。
DIA-211-1979-07-03-1ミャンマー1979年07月03日1970年代ビルマ政府はフィリピンとの間で,フィリピン航空の領空運航についての航空協定に調印した。
DIA-211-1979-07-04-1ミャンマー1979年07月04日1970年代第1工業相Tint Swe准将と建設相Hla Tun准将は2日から4日までBassein, Myaungmyaなどのジュート工場,ガラス工場などを視察した。
DIA-211-1979-07-05-1ミャンマー1979年07月05日1970年代特別調査局79~80年度第一四半期調整会議で,内務・宗教省次官U Ohn Kyiは,局員が寛大な態度で人々に臨むよう要望した。
DIA-211-1979-07-06-1ミャンマー1979年07月06日1970年代国防相・国軍参謀総長Kyaw Htin大将は軍高官らと4日から6日までミチナの北部軍管区司令部を訪れ,前線部隊や軍病院などを視察した。ミチナでは第一特別作戦局長Tun Yi准将,北部軍区司令官Myint Lwin大佐,第66軽歩兵師団長Tin Oo大佐らが出迎えた。一行はヘリでMogaungの第74ビルマ連隊本部,Tanaiの軍キャンプなどを視察した。
DIA-211-1979-07-08-1ミャンマー1979年07月08日1970年代家畜の価格下がる-マグウェ近辺での役用牛の取引価格が値下がりしており,500チャットから1000チャットの間で取引されている。昨年は2000から2500チャットであった。
DIA-211-1979-07-09-1ミャンマー1979年07月09日1970年代首相訪中-マウン・マウン・カ首相は中国政府の招きで親善訪問するため北京に到着。随行者はU Myint Maung外相,Than Tin鉱業相,U Hla Tint首相官房長,NIB副長官Bo Ni中佐ら16名,北京空港には,華主席らが出迎えた。
DIA-211-1979-07-09-2ミャンマー1979年07月09日1970年代Ye Goung農林相は12日から20日までローマで開かれる農業改革・農村開発会議に出席するため出発,Kyaw Htin国防相らが見送った。
DIA-211-1979-07-09-3ミャンマー1979年07月09日1970年代ラングーン管区協同組合関係者調整会議で,Sein Tun協同組合相は,管内2362協同組合内で,2645件の汚職などの事件が起きたと述べ,対策の強化を主張した。
DIA-211-1979-07-10-1ミャンマー1979年07月10日1970年代首相,中国首脳と会談-北京を訪問中のマウン・マウン・カ首相は,鄧小平副首相,黄華外相らと会談した。また夕刻には鄧小平副首相主催の晩さん会が催され,同副首相は両国の友好,親善関係がますます深まっていることを強調するとともに,「変動する国際情勢の下で両国は共通の理解と立場を堅持している」と述べた。
DIA-211-1979-07-11-1ミャンマー1979年07月11日1970年代北京を訪問中のマウン・マウン・カ首相は中国全人大副委員長鄧頴超と会談。
DIA-211-1979-07-12-1ミャンマー1979年07月12日1970年代中国と経済技術協力協定-マウン・マウン・カ首相と華国鋒首相が会談,この間両首脳は中国・ビルマ経済・技術協力協定に調印した。この協定は中国が総額1億元の借款を供与することを盛り込んだもの。またこの日,マウン・マウン・カ首相主催の晩さん会が開かれた。
DIA-211-1979-07-13-1ミャンマー1979年07月13日1970年代首相,北朝鮮へ-マウン・マウン・カ首相一行は朝鮮民主主義人民共和国政府の招待を受けて同国を公式訪問するため平壌に到着,同日,李鐘玉首相と会談,また同夜李鐘玉首相主催の晩さん会が開かれた。
DIA-211-1979-07-13-2ミャンマー1979年07月13日1970年代西独援助-西独政府は総額700万ドイツマルク(40.25百万チャット)の技術協力(無償)を行なう旨の協定にビルマ政府当局との間で調印,これは,Ywataung鉄道訓練所,Namtu鉱滓処理プロジェクトなどの技術協力および機械供与に使用される。
DIA-211-1979-07-14-1ミャンマー1979年07月14日1970年代建設相Hla Tun准将は10日から14日まで,マンダレー,ザガイン管区の建設現場を視察。
DIA-211-1979-07-14-2ミャンマー1979年07月14日1970年代北朝鮮を訪問中のU Myint Maung外相は許淡外相と会談,協力関係,非同盟運動などについて確認した。なおMaung Maung Kha首相は,金日成主席生誕地など訪問。
DIA-211-1979-07-14-3ミャンマー1979年07月14日1970年代首相,金日成と会談-北朝鮮を訪問中のマウン・マウン・カ首相は金日成首席と会談,また同日,一行は平壌近郊の発電所などを見学。
DIA-211-1979-07-14-4ミャンマー1979年07月14日1970年代Lashio郡Maungmat村で,付近の住民1万人が集まり,共産軍の破壊活動に抗議する集会を開いた。第662戦術作戦司令部司令官Tin Hlaing大佐が情況報告を行った。集会には,第80ビルマ連隊,第69ビルマ連隊からの兵士も参加した。集会では国軍移動映画部隊による映画上演,郡区協同組合によるケロシン油,ろうそく,石けん,繊維製品,農具類の販売も行なわれた。
DIA-211-1979-07-17-1ミャンマー1979年07月17日1970年代マンウ・マウン・カ首相,平壌で李鐘玉首相を招き答礼宴を開く。
DIA-211-1979-07-18-1ミャンマー1979年07月18日1970年代キューバ特使来訪-キューバ大統領特使でキューバ閣僚評議会副議長Flavio B. Pardoが来訪,内務・宗教相Sein Lwin准将らが出迎えた。また同日,ブルガリア外務次官Marin Lotovが来訪。
DIA-211-1979-07-18-2ミャンマー1979年07月18日1970年代マウン・マウン・カ首相ら,北朝鮮訪問終了。
DIA-211-1979-07-19-1ミャンマー1979年07月19日1970年代第32回殉難者の日-第32回殉難者の日(Arzani Day)記念追悼会がアウン・サン廟で行なわれ,U Tun Tin副首相,アウン・サン未亡人Daw Khin Kyiらが出席。
DIA-211-1979-07-20-1ミャンマー1979年07月20日1970年代ネーウィン大統領は来訪中のキューバ特使と会見。同特使は,また同日,別個にU Tun Tin副首相と会見。一方ブルガリア代表団はSein Lwin外相代行(内務・宗教相)と会見した。
DIA-211-1979-07-20-2ミャンマー1979年07月20日1970年代Kayah州Dimawhso郡Nammaikhon村で反乱軍非難集会。6千人参加。U Kyaw Din州人民評議会議長,第2戦術作戦司令部司令官らが出席。
DIA-211-1979-07-21-1ミャンマー1979年07月21日1970年代Pardoキューバ大統領特使,ビルマ訪問終了。
DIA-211-1979-07-22-1ミャンマー1979年07月22日1970年代マウン・マウン・カ首相一行,中国,北朝鮮訪問より帰国。
DIA-211-1979-07-22-2ミャンマー1979年07月22日1970年代1979年1~6月のビルマ訪問観光客数は,1万512人であり,仏人1532人,日本人1310人,ドイツ人1210人,米国人1203人の順である。前年同期は1万594人が訪問。
DIA-211-1979-07-22-3ミャンマー1979年07月22日1970年代東部軍区司令部副司令官Myint Aung大佐,シャン州人民評議会Tun Yin Law議長らは,13日から22日まで南シャン州のLoilem, Namsan, Mongnai, Mawkmai, Langkho, Mongpanを訪問。地方当局者と,左右の破壊分子の一掃,経済計画の達成などについて討議した。
DIA-211-1979-07-23-1ミャンマー1979年07月23日1970年代アメリカン・センターで,スペース・シャトル展開く。
DIA-211-1979-07-24-1ミャンマー1979年07月24日1970年代カレン州Pa-an郡Thanhle村で約5万人が集まり,新モン国党反政府軍から投降した4人の青年の投降式が行なわれた。
DIA-211-1979-07-25-1ミャンマー1979年07月25日1970年代イラワジ管区人民評議会執行委と同管区内26郡区人民評議会議長との連絡会議が24,25両日ラングーンで開かれ,80年度経済計画実績の検討と,81年度計画目標作成についての検討が行なわれた。
DIA-211-1979-07-25-2ミャンマー1979年07月25日1970年代7月15日以来,ラングーンに,Magwe, Sagaing方面から7万5100vissの食用油が到着,207の初級協同組合を通じ,ゴマ油22.50チャット/viss当り,落花生油23.50チャット/vissで販売された。
DIA-211-1979-07-26-1ミャンマー1979年07月26日1970年代日本政府が,ラングーンとマンダレーの総合病院への器材,技術高校への機械設備,Elaでの冶金研究所設立のためにビルマ政府に対し,1億200万チャット(33億円)のグラントを供与する協定がラングーンで結ばれた。
DIA-211-1979-07-27-1ミャンマー1979年07月27日1970年代ラングーン管区検査局と管区39郡区検査局議長はラングーンで会合し,協同組合犯罪防止策について検討した。
DIA-211-1979-07-27-2ミャンマー1979年07月27日1970年代Magwe管区Myothit郡区協同組合は,商人,ブローカーによる食用油投機防止について対策をすすめている。
DIA-211-1979-07-27-3ミャンマー1979年07月27日1970年代OPEC,特別基金がビルマの水力発電計画に2百万米ドルのローンを与えることが,ウイーンで発表された。ローンは無利子で,20年間に返済する。
DIA-211-1979-07-28-1ミャンマー1979年07月28日1970年代ラングーン市非行鎮圧中央機関は,会合を開き,市の治安,規律の維持,環境改善を図るためのガロン計画(78/79)について討議した。
DIA-211-1979-07-28-2ミャンマー1979年07月28日1970年代衛生相Win Maung大佐は,27,28両日,モン州の病院,村落衛生状況などを視察した。
DIA-211-1979-07-28-3ミャンマー1979年07月28日1970年代ミチナでカチン州経済について検討会が行なわれ,党地方委議長Myint Lwin大佐が,経済活動を促進し,協同組合計画の達成にはげみ,破壊分子を一掃して,経済計画の達成に努力しようとの報告を行った。
DIA-211-1979-07-29-1ミャンマー1979年07月29日1970年代Ye Goung農林相,ローマの農業開発会議より帰国。
DIA-211-1979-07-31-1ミャンマー1979年07月31日1970年代中国解放軍建軍52周年記念レセプションが中国大使館で開かれ,国防相Thura Kyaw Htin将軍らが出席した。
DIA-211-1979-08-01-1ミャンマー1979年08月01日1970年代マウン・マウン・カ首相,眼病治療のため英国に出発。サンユー国家評議会書記長らが見送った。
DIA-211-1979-08-01-2ミャンマー1979年08月01日1970年代ラングー市非行鎮圧中央機関は,今日よりガロン計画78/79を開始し,市場,駅,盛り場などで不法行為,交通違反,ヤミ露店などの一斉取りしまりを行った。
DIA-211-1979-08-01-3ミャンマー1979年08月01日1970年代中国完成プラント輸出公社は第1工業省繊維工業公社のShwedaung械繊維工場計画のために,704万4108英ポンド(約1億チャット)の機械・設備を提供する協定に調印した。
DIA-211-1979-08-03-1ミャンマー1979年08月03日1970年代西独政府は,ビルマのファイブ・スター船舶公社に対し,2隻の貨物船購入費として5800万ドイツ・マルク(約2億400万チャット)のローンを提供する協定に調印した。2%の利子で,4年間すえおき後,15年間返済。
DIA-211-1979-08-05-1ミャンマー1979年08月05日1970年代ラングーン市で進められているガロン計画は,中央監査委員会以下,作業監督委員会,地域レベル委員会などによって進められているが,中央監督委員会は,U Ohn Kyi副内務・宗教相に率いられ,副情報相Aung Htay大佐,副社会福祉相,副建設相,人民警察軍長官,ラングーン軍区副司令官らが参加している。ガロン計画には8つの分野があり,治安,浮浪者取締り,露店・スコッター取締り,交通規則実行,衛生活動,町の美化などが含まれている。
DIA-211-1979-08-06-1ミャンマー1979年08月06日1970年代国軍農業コース(第5回)開く-U Ye Goung農林相が開会式で演説し,高収穫米の導入など,農業近代化の重要性を強調した。
DIA-211-1979-08-06-2ミャンマー1979年08月06日1970年代建設省建設公社とILOの共催で,建設技術セミナーがラングーンで開かれた。
DIA-211-1979-08-06-3ミャンマー1979年08月06日1970年代ラングーン管区人民評議会調整会議が開かれ,79/80年度の協同組合作業を検討した。Sein Tun協同組合相らが出席した。
DIA-211-1979-08-06-4ミャンマー1979年08月06日1970年代ペグーで,前線から帰還の第107軽歩兵連隊兵士の歓迎式が行なわれた。
DIA-211-1979-08-08-1ミャンマー1979年08月08日1970年代貿易省の農産物貿易公社の79/80年度第1期調整会議が開かれた。同公社専務理事Kyi Their大佐は,79年度,もみ米1億6800万バスケットの購入目標に対し,1億8600万バスケット購入し,輸出も目標を上廻ったと述べるとともに,農産物の品質向上のために今後努力する必要があることを強調した。
DIA-211-1979-08-08-2ミャンマー1979年08月08日1970年代Lewe郡では干害のため予定の6万5千エーカーに対し4500エーカーの米作付しかできず,かんがい建設に大衆動員がされている。
DIA-211-1979-08-09-1ミャンマー1979年08月09日1970年代農産物貿易公社調整会議で,貿易相Khin Maung Gyi大佐が演説し,近づく収穫期に備え,効率的な米買付所体制の整備を急ぐよう訴えるとともに,高収量米の導入が43郡区に広まったこともあり,今年の米買付は目標を上廻るだろうと述べた。
DIA-211-1979-08-09-2ミャンマー1979年08月09日1970年代建設技術セミナー終了。
DIA-211-1979-08-10-1ミャンマー1979年08月10日1970年代西独から購入したディーゼル機関車8両がラングーンに到着した。
DIA-211-1979-08-10-2ミャンマー1979年08月10日1970年代ペグー郡区では,79―80年度の米作付計画10万9075エーカーに対し,7月末までに7万3401エーカーを作付した。
DIA-211-1979-08-11-1ミャンマー1979年08月11日1970年代Ohn Kyaw副内務宗教相は,州・管区からの移民・労働力関係部局長の連絡会議で演説,中央の指示と規則を厳格に守り,外国人登録,国民登録,センサス作成などの作業を行なうよう要望,二重登録の防止,外国人の移動確認などを訴えた。
DIA-211-1979-08-11-2ミャンマー1979年08月11日1970年代ラングーン管区人民評議会執行委,郡区人民評議会執行委,同管区および郡区農業監督委メンバーは会合を開き,天然災害予防について話し合った。管区農業監督委議長U Myint Theinは,天候不順により1979-80度のラングーン管区の6千万バスケットの米収穫目標達成に困難が生じていることを克服するために努力することを訴えた。
DIA-211-1979-08-12-1ミャンマー1979年08月12日1970年代社会福祉省は,州,管区人民評議会に対し,天然災害対策委員会の設置を要請する通達を送った。また副社会福祉相を書記とし,各省副大臣をメンバーとする。天然災害防止・救済・復興作業委員会が設置されたことが明らかにされた。
DIA-211-1979-08-13-1ミャンマー1979年08月13日1970年代ラングーン市非行鎮圧中央機関のガロン計画検討会議が開かれ,内務・宗教相Sein Lwin准将は,ラングーンを首都にふさわしい町とするために,町を美しく,平和なものとせねばならないと強調した。
DIA-211-1979-08-13-2ミャンマー1979年08月13日1970年代世銀の国際開発協会は,ビルマの東ペグー山系林業計画に3500万ドルを融資することが明らかになった。
DIA-211-1979-08-14-1ミャンマー1979年08月14日1970年代ラングーン管区人民評議会は,天候不順に備えて,たねもみ,肥料,水力ポンプ,トラクターなどの準備を急いでいる。米作付はモンスーン初期の降雨量の少なさのため遅れたが,7月末までに14郡で90万エーカーの作付が行なわれた。しかし8月末の降雨量次第で米作に打撃が予想されている。
DIA-211-1979-08-14-2ミャンマー1979年08月14日1970年代シャン州党地方委員Mya Lwin中佐一行はTaunggyi郡Athonedaw村区8カ村の農民と経済,治安題問を討議した。農業銀行は135農民に26,880チャットの耕作融資を配分した。また協同組合は政府に米の売却を契約した農民に農具,日用品などを売却した。
DIA-211-1979-08-15-1ミャンマー1979年08月15日1970年代計画党の指導により農林省と国防省共催で,第1回基礎養蜂コースが開かれ,Ye Goung農林相,Tin Oo国家評議会議長補佐官(准将)が,ビルマでの養蜂導入の意義について演説した。またFAO専門家も説明を行なった。
DIA-211-1979-08-15-2ミャンマー1979年08月15日1970年代運輸通信相Khin Ohn准将,韓国,日本,マレーシア,シンガポール訪問に出発。
DIA-211-1979-08-15-3ミャンマー1979年08月15日1970年代バセインでイラワジ管区人民評議会執行委,管区司法委,管区検査官,警察長官,郡区人民評議会議長らが集まり,協同組合と農業活動にともなう犯罪の防止策を検討した。イラワジ管区には3059の協同組合がある。
DIA-211-1979-08-15-4ミャンマー1979年08月15日1970年代第86ビルマ連隊に,戦死・負傷者見舞金として,労働者からの寄金3050チャットが渡された。
DIA-211-1979-08-16-1ミャンマー1979年08月16日1970年代ラングーンでのガロン計画によって,8月1日から10日までに,20人の不良青年が訓練学校に送られ,62人の極貧者が老人ホーム,精神病院に移され,118人の乞食が刑務所送りとなった。
DIA-211-1979-08-16-2ミャンマー1979年08月16日1970年代ミンガラドンで前線から帰った第106軽歩兵連隊兵士の歓迎会が行なわれた。
DIA-211-1979-08-16-3ミャンマー1979年08月16日1970年代運輸通信相Khin Ohn准将,韓国到着。
DIA-211-1979-08-17-1ミャンマー1979年08月17日1970年代鉱山相Than Tin准将は,14日から17日までマンダレー管区とシャン州の鉱山プロジェクトを視察した。
DIA-211-1979-08-18-1ミャンマー1979年08月18日1970年代海外から輸入された120万vissの食用油がラングーン港に到着した。
DIA-211-1979-08-19-1ミャンマー1979年08月19日1970年代Syriamで郡区協同組合が建設した精米所の開設式があり,協同組合相Sein Tun大佐らが出席した。
DIA-211-1979-08-19-2ミャンマー1979年08月19日1970年代ラングーン管区人民評議会議長Kyaw Myint中佐は,18,19両日Taikkyi郡の,田植え情況,兵士,公務員,青年らによる労働奉仕隊の活動などを視察した。本郡では8月17日までに,12万9576エーカーの米作地で,9万4980エーカーの作付が終り,8月中に全てが終る予定である。
DIA-211-1979-08-20-1ミャンマー1979年08月20日1970年代中央政治科学研究所で第29回基礎政治コース開く。
DIA-211-1979-08-20-2ミャンマー1979年08月20日1970年代英国のDashwood金融会社のSirdar Aly Aziz会長は香港で記者会見し,ビルマの人民真珠・漁業公社との間で,2千万ドルの漁業開発契約を結んだと述べた。契約によれば,同社は香港のDashwood造船会社で,1千万ドルの費用で漁船など23隻を建造するほか,アラカン沿岸のMayo湾に1020万ドルの予算で漁業加工基地を造る。なお資金はMidland銀行のローンでまかなう。
DIA-211-1979-08-21-1ミャンマー1979年08月21日1970年代U Myint Maung外相,ハバナの非同盟諸国会議出席のため出発。
DIA-211-1979-08-22-1ミャンマー1979年08月22日1970年代ラングーン・イラワジ両管区の林業・漁業協同組合連絡会議が開かれ,イラワジ管区の12林業,10漁業協組,ラングーン管区の30林業,13漁業協組代表らが出席。
DIA-211-1979-08-22-2ミャンマー1979年08月22日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将は,マンダレーでの人民警察軍現職訓練コース卒業式で演説し,警察は,植民地時代のような人民を見下す態度を改め,人民に奉仕し,愛されねばならないと強調した。
DIA-211-1979-08-22-3ミャンマー1979年08月22日1970年代ペグー管区人民評議会で,U Khin Nyein副社会福祉・労働相は,現在の情況では,干害や洪水の恐れはないと述べた。
DIA-211-1979-08-22-4ミャンマー1979年08月22日1970年代Loilemから26マイルのKhelon村で付近の住民と当局者数百人が集まり,ビルマ共産党軍の一掃について話し合った。
DIA-211-1979-08-24-1ミャンマー1979年08月24日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将は,Madaya郡で,高収量米作付けに働らく,兵士300人,警官100人,青年隊100,村人700人からなる労働奉仕隊の活動を視察した。
DIA-211-1979-08-24-2ミャンマー1979年08月24日1970年代Kyaikmaraw郡Tayarnar村で4000人が集まり,新モン国党からの1メンバーの投降式。
DIA-211-1979-08-25-1ミャンマー1979年08月25日1970年代内務・宗教相(外相代行)Sein Lwin准将,朝鮮民主主義人民共和国移動大使Kim Byong Gyi氏と会見。
DIA-211-1979-08-26-1ミャンマー1979年08月26日1970年代ネーウィン大統領夫妻,国軍総参謀長Thura Kyaw Htin将軍夫妻,Ye Goung農林相,U Lay Maung情報局長らは,8月23日から26日まで,中央軍区司令部地域を視察した。一行は23日,列車でラングーンからプロームに到着,管区党委員会議長P Kyaw Han大佐,中央軍区司令官Tuang Za Khai大佐,第66軽歩兵師団司令官Tin Oo大佐らの出迎えを受けた。24日は北Nawinダムを視察した。
DIA-211-1979-08-27-1ミャンマー1979年08月27日1970年代副運輸通信相Ko Gyi大佐,ファイブ・スター船舶公社がポーランドから購入した沿岸の石油タンカーMahn号(1350トン)視察。
DIA-211-1979-08-28-1ミャンマー1979年08月28日1970年代林業局各部連絡会議でBo Lay副農林相は,林業局は第3次カ年計画にもとづき,78/79年度にチークと堅木材の若木を1万400エーカーに,79/80年には1万3600エーカーに,80/81年は16,200エーカーに,81/82年は2万1千エーカーに植林する計画であり,78/79年度には目標の34万トンに対し,374,594トンのチークを切り出し,目標の4億5千万チャットを上廻る林産物9億1千万チャットが輸出されたと述べた。副農林相は,しかし,チークと堅木材の若木植林は計画以上になされねばならないとし,79/80年は2万エーカー,80/81年は3万エーカー,81/82年は4万エーカーを植林目標とすべきだと述べた。
DIA-211-1979-08-28-2ミャンマー1979年08月28日1970年代ビルマ政府は英国のマウントバッテン卿の死去にともない,3日間の服喪を発表。
DIA-211-1979-08-29-1ミャンマー1979年08月29日1970年代Khin Maung教育省,アジア開銀ミッションと会見。
DIA-211-1979-08-29-2ミャンマー1979年08月29日1970年代英国政府,電力公社のガス・タービン発電購入用などに,3602万チャット贈与。
DIA-211-1979-08-29-3ミャンマー1979年08月29日1970年代クアラルンプールを訪問中のKhin Ohr運輸通信相は,マレーシア政府と民間航空,海運,通信での協力に合意した。
DIA-211-1979-08-29-4ミャンマー1979年08月29日1970年代農林省はモンスーン中期がまもなく終り,モンスーン後期の終りまで50日ほどとなったことから,農民に米の作付を急ぐようよびかける通達を出した。
DIA-211-1979-08-30-1ミャンマー1979年08月30日1970年代外務省は,ネーウィン大統領がマウントバッテン卿の葬儀に参列すると発表。
DIA-211-1979-08-30-2ミャンマー1979年08月30日1970年代アジア開銀は,ビルマの第二次米処理産業計画に1700万ドルのローンと15万ドルの贈与を与えると発表。ローンは10年据えおき,40年払い,年利1%。
DIA-211-1979-08-31-1ミャンマー1979年08月31日1970年代閣僚会議経済調整委員会,各州・管区人民評議会執行委議長による79/80年度米買付計画調整会議が開かれた。
DIA-211-1979-08-31-2ミャンマー1979年08月31日1970年代私企業法にもとづき登録ずみの私営工業への原料,機械,部品の購入・配分を調整,監視する常設委員会が,関係会議指令により結成された。
DIA-211-1979-09-01-1ミャンマー1979年09月01日1970年代中央協同組合訓練学校で,協組活動専門家セミナーが開かれ,協同組合相Sein Tun大佐があいさつ。
DIA-211-1979-09-01-2ミャンマー1979年09月01日1970年代ミヤンマ農業銀行は,1979年冬期耕作ローンとして,前年を1300万チャット上回る7千万チャットを用意し,9月1日より11月末までに融資する。融資は旧融資返済ずみの者に対してのみなされ,一人当りの最高額は1400チャットである。融資額は作物により異なる。
DIA-211-1979-09-01-3ミャンマー1979年09月01日1970年代第1工場相Tint Swe准将,バセインの板ガラス工場操業開始式に出帯。
DIA-211-1979-09-02-1ミャンマー1979年09月02日1970年代ネーウィン大統領,マウントバッテン卿葬儀参列のため英国に出発。U Lay Maung国家情報局長らが同行。
DIA-211-1979-09-02-2ミャンマー1979年09月02日1970年代計画・財務省は,ミヤンマ農業銀行に対し,農民の役牛購入用に新たに38郡で長期ローンを供与することを許可した。これで97郡でこの制度が実施されることになる。38郡用に,190万チャットが用意された。
DIA-211-1979-09-03-1ミャンマー1979年09月03日1970年代ネーウィン大統領は訪英の途中,シンガポール空港で気分が悪くなり,ラングーンに帰った。マウントバッテン卿葬儀には,英国滞在中のマウン・マウン・カ首相が出席する。
DIA-211-1979-09-03-2ミャンマー1979年09月03日1970年代運輸通信相Khin Ohn准将,日本,韓国,シンガポール,マレーシア訪問より帰国。
DIA-211-1979-09-04-1ミャンマー1979年09月04日1970年代Langkhoの民衆2500人は,前線から帰還した第79ビルマ連隊を歓迎した。またMinbuの民衆5千人も,前線がら帰還した第88ビルマ連隊兵士を歓迎した。
DIA-211-1979-09-06-1ミャンマー1979年09月06日1970年代建設相Hla Tun准将一行は,9月4日から6日まで,ペグーとのイラワジ管区の道路,橋工場などを視察した。
DIA-211-1979-09-07-1ミャンマー1979年09月07日1970年代ビルマ,非同盟会議解散,再編成要求-ハバナでの第6回非同盟諸国首脳会議に出席しているビルマ代表団団長U Myint Maung外相は,この日の全体会議で非同盟運動の解散と新しい非同盟運動再建のための新憲章起草委員会の設立を要求する緊急動議を提出,首脳会議が何らの決定にも達せねば,ビルマは非同盟運動から脱退すると言明した。U Myint Maung外相の発言内容は資料参照。
DIA-211-1979-09-10-1ミャンマー1979年09月10日1970年代中国農業代表団到着。2週間滞在し,ビルマの農業,畜産かんがいを視察する予定。
DIA-211-1979-09-11-1ミャンマー1979年09月11日1970年代中国農業代表団,U Ye Goung農林相訪問。
DIA-211-1979-09-11-2ミャンマー1979年09月11日1970年代ミヤンマ農業銀行は,下ビルマ米作地開発第1次プロジェクトに属するPyapon, Labutta, Ngapudaw, Bogale, Wakema各郡の農民に対し,耕耘機買付用のローンを供与する準備をすすめている。耕耘機は20馬力で1台1万7千チャットで農業機械化局より購入する。農業銀行は年利8%で村落銀行に融資し,村落銀行は年利12%で農民に融資する。返済は6年間で,6回払い。なお融資総額は34万チャット。
DIA-211-1979-09-12-1ミャンマー1979年09月12日1970年代マウン・マウン・カ首相,英国より帰国。
DIA-211-1979-09-12-2ミャンマー1979年09月12日1970年代中国農業代表団,マンダレー,メイミヨー訪問。
DIA-211-1979-09-12-3ミャンマー1979年09月12日1970年代ガロン計画により8月1日より9月10日までにラングーンで,800人の乞食,浮浪者らが当局の保護下におかれた。
DIA-211-1979-09-12-4ミャンマー1979年09月12日1970年代Yedashe郡Swaの住民5千人は前線から帰った第84ビルマ連隊兵士を歓迎した。
DIA-211-1979-09-13-1ミャンマー1979年09月13日1970年代貿易省は1979―80年米買付価格を発表した。各品種別の価格は次の通り(100バスケット当り)。
DIA-211-1979-09-13-2ミャンマー1979年09月13日1970年代非同盟会議出席のビルマ代表団帰国。
DIA-211-1979-09-13-3ミャンマー1979年09月13日1970年代中国農業代表団,MadayaのSedawgyiダムなど視察。
DIA-211-1979-09-14-1ミャンマー1979年09月14日1970年代日本・薬品購入用にビルマに2億4千万円(約720万チャット)贈与協定。
DIA-211-1979-09-14-2ミャンマー1979年09月14日1970年代中国農業代表団,Kyaukse中央農園など視察。
DIA-211-1979-09-15-1ミャンマー1979年09月15日1970年代建設相Hla Tun准将,ラングーン=マンダレー高速道路建設情況視察。
DIA-211-1979-09-15-2ミャンマー1979年09月15日1970年代Thura U Tun Tin副首相兼計画・財務相,IMF・世銀総会出席のためユーゴに出発。
DIA-211-1979-09-15-3ミャンマー1979年09月15日1970年代中国農業代表団,Pyinmanaの農業公社Yezin農業研究所視察。
DIA-211-1979-09-16-1ミャンマー1979年09月16日1970年代中国農業代表団,Kyauktaga郡の高収量米耕作基地など視察し,ラングーン帰着。
DIA-211-1979-09-17-1ミャンマー1979年09月17日1970年代運輸通信相Khin Ohn准将は,14~17日の間,マンダレー経由,シャン州NawnghkioとNawngPein間のGokhteik鉄道バイパス開通式に出席した後,ラングーンに帰った。
DIA-211-1979-09-17-2ミャンマー1979年09月17日1970年代U Kyaw Khin副保健相を団長とするビルマ保健代表団,中国訪問に出発。
DIA-211-1979-09-17-3ミャンマー1979年09月17日1970年代中国農業代表団,Taikkyi郡のPhalon高収量米耕作基地を視察。
DIA-211-1979-09-17-4ミャンマー1979年09月17日1970年代ビルマ・イラク航空協定調印。
DIA-211-1979-09-18-1ミャンマー1979年09月18日1970年代第1工業相Tint Swe准将,マンダレー地方の大理石工場,たばこ工場,綿工場など視察。
DIA-211-1979-09-18-2ミャンマー1979年09月18日1970年代農業公社でU Ye Goung農相らが出席し,モンスーン作物耕作情況検討会が行なわれた。州と管区からの代表は,9月15日までにモンスーン作物耕作の93パーセント以上が終ったと報告した。
DIA-211-1979-09-18-3ミャンマー1979年09月18日1970年代中国農業代表団,ラングーン地域の畜産業など視察。
DIA-211-1979-09-18-4ミャンマー1979年09月18日1970年代ジャパン・ファウンデーションは,ビルマ重工業公社に対し,カラー・テレビ放送施設一式(ラングーンと郊外向け)と受信機100台を贈与した。
DIA-211-1979-09-19-1ミャンマー1979年09月19日1970年代米政府は,中央麻薬取締り局に対し,ケシに替る代替収入源のひとつとするために養蜂用の蜂を提供することになり,Sherry米代理大使からビルマ側に蜂の一部を引渡す式典が同局でなされた。
DIA-211-1979-09-19-2ミャンマー1979年09月19日1970年代第1工業相Tint Swe准将,Paleik繊維工場など視察。
DIA-211-1979-09-19-3ミャンマー1979年09月19日1970年代中国農業代表団,Henzada訪問,米作など視察。
DIA-211-1979-09-20-1ミャンマー1979年09月20日1970年代ペグー管区の米生産・売却賞授与式がOkpoで開かれ,Khin Maung Gyi貿易相,U Ye Goung農林相らが出席した。Khin Maung Gyi貿易相は演説のなかで,78/79年度は,13年間で最高の1億8600万バスケットの米の買付がなされたと述べるとともに,政府は米の貯蔵所,精米所の拡充に努めると語った。U Ye Goung農林相は,1975年頃までの30年間,ビルマの米作は3億8千~4億バスケットにとどまっていたのに対し,78/79年は5億バスケットの収穫を上げることが出来たと,米作の好調を強調するとともに,今後,米とともに,その他作物の増産にも努めねばならないと指摘した。
DIA-211-1979-09-21-1ミャンマー1979年09月21日1970年代中国農業代表団,バセイン地区の農業視察。
DIA-211-1979-09-22-1ミャンマー1979年09月22日1970年代U Myint Maung外相ら,国連総会出席のためビルマを出発。
DIA-211-1979-09-22-2ミャンマー1979年09月22日1970年代中国農業代表団,農林省訪問,意見交換。
DIA-211-1979-09-23-1ミャンマー1979年09月23日1970年代ミヤンマ農業銀行は,同行支店のある41郡区の農民に,揚水ポンプ購入ローンを支給する。ローンは1台につき6423チャットで,410台分として260万チャットが用意されている。農業銀行は年利8%で村落銀行に融資し,村落銀行は12%で貸付ける。ローンは5年間で5回払いで返済する。
DIA-211-1979-09-24-1ミャンマー1979年09月24日1970年代中国農業代表団帰国。
DIA-211-1979-09-24-2ミャンマー1979年09月24日1970年代MingaladonとHmawbi両郡の1万人の民衆は前線から帰った第82ビルマ連隊を歓迎。
DIA-211-1979-09-25-1ミャンマー1979年09月25日1970年代中央協同組合評議会第4回総会が開かれ,協同組合相Sein Tun大佐が開会演説を行なった。Sein Tun大佐は演説のなかで,消費者協同組合は必要な地域に全て結成されたので,今後農業,漁業,畜産など生産者協同組合の発展に力を入れねばならないとよびかけるとともに,農業生産者協同組合は農産物の生産,販売のみならず,加工の面まで一貫してやることが望ましいと指摘した。同相はまた,協同組合内汚職根絶を強調した。
DIA-211-1979-09-27-1ミャンマー1979年09月27日1970年代西独訪問中のThura U Tun Tin副首相,西独外務省国務相Hamm-Bruecher博士と会見。
DIA-211-1979-09-28-1ミャンマー1979年09月28日1970年代中央協同組合評議会第4回総会終了。中央協同組合議長兼副協同組合相U San Tintは閉会演説で,これまでに2万700の協同組合が作られ,うち2028生産者協組と678農業協組があると述べ,今後農業協同組合の拡充に努めるべきであると主張した。
DIA-211-1979-09-28-2ミャンマー1979年09月28日1970年代ビルマ石油化学工業公社,三菱石油にビルマ原油100万バレル輸出契約。
DIA-211-1979-09-28-3ミャンマー1979年09月28日1970年代U Myint Maung外相は国連総会演説で,ビルマの非同盟運動脱退を確認した。
DIA-211-1979-09-29-1ミャンマー1979年09月29日1970年代国産の沿岸航行用タンカーShwe Pyi Tha号(1125トン)進水式。
DIA-211-1979-10-01-1ミャンマー1979年10月01日1970年代人民警察軍第15回創立記念式典。ラングーン管区人民警察軍司令官Khin Kyway中佐は,演説で,警察は自己批判を行ない,汚職をなくし,人民の信頼をえなければならないと述べた。
DIA-211-1979-10-02-1ミャンマー1979年10月02日1970年代イギリス政府,ビルマに95万ポンドの建設用機械・部品を贈与。
DIA-211-1979-10-03-1ミャンマー1979年10月03日1970年代特別調査局第2四半期調整会議でU Ohn Kyi副内務・宗教相は,調査局員は人々にていねいに接し,法規に忠実であり,汚職に関わってはならないと述べた。
DIA-211-1979-10-04-1ミャンマー1979年10月04日1970年代協同組合相Sein Tun大佐,マンダレー訪問,協同組合マーケッティング調整会議に出席。
DIA-211-1979-10-04-2ミャンマー1979年10月04日1970年代9月24日以来の嵐の結果,ラングーン管区で広汎な降雨があり,米作への水不足の懸念が解消された。
DIA-211-1979-10-06-1ミャンマー1979年10月06日1970年代社会保障国家開発全国セミナー開催。U Mya Maung労働・社会福祉相らが出席。
DIA-211-1979-10-07-1ミャンマー1979年10月07日1970年代IMF・代銀総会に出席したThura U Tun Tin副首相兼計画財政相,帰国。
DIA-211-1979-10-07-2ミャンマー1979年10月07日1970年代U Myint Maung外相,国連より帰国。
DIA-211-1979-10-08-1ミャンマー1979年10月08日1970年代第2期人民議会第4回議会開催。議会はネーウィン大統領を議長として457議員中446名が出席して開かれた。午前の議会では,国家評議会報告書がサンユー国家評議会書記長より提出され,またサンユー書記長はさきの非同盟会議におけるビルマの行動について報告した。午後の議会には,マウン・マウン・カ首相による閣僚会議報告書の他,人民司法評議会報告,人民検察評議会報告などが提出された。
DIA-211-1979-10-08-2ミャンマー1979年10月08日1970年代Thatonの第24ビルマ連隊に,KNU反政府軍兵士2人が投降した。
DIA-211-1979-10-09-1ミャンマー1979年10月09日1970年代人民議会,第2日入り。この日は,国家評議会報告,閣僚評議会報告,司法評議会報告についての討議が行なわれた。また選挙委員会報告が提出された。
DIA-211-1979-10-09-2ミャンマー1979年10月09日1970年代ミチナで洪水。
DIA-211-1979-10-09-3ミャンマー1979年10月09日1970年代Mongmit郡Mangpatで約2千人が集まり,KIA反乱軍非難集会。
DIA-211-1979-10-10-1ミャンマー1979年10月10日1970年代人民議会第3日。報告書をめぐる討論がつづけられた。
DIA-211-1979-10-11-1ミャンマー1979年10月11日1970年代第2期人民議会第4回会議閉会。
DIA-211-1979-10-13-1ミャンマー1979年10月13日1970年代ラングーン管区人民評議会主催により,Pazundaung郡協同組合で,不人気商品処理方法に関するセミナーが開かれた。
DIA-211-1979-10-14-1ミャンマー1979年10月14日1970年代ラングーン管区人民評議会執行委は,管区内各郡区別の1979/80年度もみ米買付目標を設定した。総量は3千万バスケットである。なお収穫は6千万バスケット(目標5440万バスケット)が見込まれている。
DIA-211-1979-10-15-1ミャンマー1979年10月15日1970年代ネーウィン大統領は,国家評議会主催の教育セミナーで演説し,ビルマの教育レベルを世界水準にまで引上げるため,人的・物的資源を動員し,また教育内容を再検討せねばならないと述べた。
DIA-211-1979-10-15-2ミャンマー1979年10月15日1970年代マンダレー,ザガイン地区でイラワジ川が増水,危険レベルを越えた。
DIA-211-1979-10-15-3ミャンマー1979年10月15日1970年代Papun郡Kamamaung村で3千人が集まり,KNU反政府軍非難集会。
DIA-211-1979-10-16-1ミャンマー1979年10月16日1970年代ラングーン管区人民評議会は,80/81年度米作目標について討議,7千万バスケットを米作目標に定めた。79/80年度は目標の5440万に対し,6310万バスケットの収穫が見込まれている。
DIA-211-1979-10-18-1ミャンマー1979年10月18日1970年代人民議会と人民評議会選挙委員会は連絡会議を開き,79年11月1日より80年1月末までに,各段階の人民評議会メンバー1176人の欠員補充選挙を行うことと,80年1月10日から24日までに人民議会議員3人の補充選挙を行うことを決定した。
DIA-211-1979-10-19-1ミャンマー1979年10月19日1970年代社会福祉国家開発セミナー終了。
DIA-211-1979-10-21-1ミャンマー1979年10月21日1970年代副農林相U Kyaw Htain,ペグー管区Kyauktaga郡の米作情況視察。
DIA-211-1979-10-22-1ミャンマー1979年10月22日1970年代ネーウィン大統領,ラオス訪問。ネーウィン大統領はラオスのスファヌボン大統領の招待で同国を公式訪問し,この日ビエンチャンに到着した。ビエンチャン空港には,スファヌボン大統領,プーン外相らが出迎えた。ネーウィン大統領にはMaung Maung博士(国家評議会),U Myint Maung外相,NIB情報局長U Lay Maung,外務省政治局長U Tin Tunらが同行した。ネーウィン大統領はこのスファヌボン大統領主催の晩さん会に出席した。両大統領は,両国の友好と独立を強調するあいさつを行った。
DIA-211-1979-10-23-1ミャンマー1979年10月23日1970年代ラオス訪問中のネーウィン大統領は,この日,スファヌボン大統領,カイソン首相とそれぞれ会談した。またネーウィン大統領はスファヌボン大統領を招き晩さん会を開いた。
DIA-211-1979-10-23-2ミャンマー1979年10月23日1970年代マウン・マウン・カ首相はヘリコプターでMyaungmyaジュート工場プロジェクト,バセインの板ガラス工場を視察した。Thura Kyaw Htin国防相,第1工業相Tint Swe准将,建設相Hla Tun准将,特別作戦局長Tin Sein少将らが同行した。
DIA-211-1979-10-23-3ミャンマー1979年10月23日1970年代協同組合相Sein Tun大佐は,20日よりこの日までBassein, Myaungmyaなどデルタ各地を視察した。
DIA-211-1979-10-24-1ミャンマー1979年10月24日1970年代ネーウィン大統領はこの日,3日間のラオス訪問を終え,帰国した。大統領は帰国に際し,ラオス大統領との間で共同声明を発表した。なお共同声明は,東南アジアについて,両大統領は,東南アジア諸国は武力の行使なしに,その相違を友好的に解決しうるだろうとの希望を表明し,“各国の民衆はそれぞれの必要と意欲にもとづいて,外部からの干渉なしに,それぞれの政治,経済,社会制度を自由に選ぶ権利をもつことを再確認した”と述べている。
DIA-211-1979-10-24-2ミャンマー1979年10月24日1970年代第1工業省第2四半期生産評価会議。この会議でTint Swe第1工業相は,79/80年度第3四半期より,工業公社の生産物を,協同組合省を通さず,郡区協同組合との直接契約で売却することになったと述べた。
DIA-211-1979-10-24-3ミャンマー1979年10月24日1970年代文化情報相U Mahn San Myat Shwe,20日より24日まで,Pagan, Mandalay, Sagaingなど視察。
DIA-211-1979-10-24-4ミャンマー1979年10月24日1970年代鉱山相Than Tin准将,17日より24日までTenasserim管区の鉱業計画視察。
DIA-211-1979-10-24-5ミャンマー1979年10月24日1970年代日本海外経済協力基金,ビルマに8つの精米工場など建設するためのローン43億5千万円(1億4137万チャット)を供与。
DIA-211-1979-10-26-1ミャンマー1979年10月26日1970年代第1工業省,79/80年度第2四半期生産評価会議最終日。Tint Swe第1工業相は最終演説で,製品の品質管理を厳しくするよう強調した。
DIA-211-1979-10-26-2ミャンマー1979年10月26日1970年代ファイブ・スター船舶公社が西独より購入した貨物船Maw-la-myaing号がラングーン港に到着。積載量1万1千トン。
DIA-211-1979-10-27-1ミャンマー1979年10月27日1970年代ミヤンマ輸出入公社,中国にマッペ1万トン売却契約。
DIA-211-1979-10-28-1ミャンマー1979年10月28日1970年代Phruhso郡Phruhsoで2500人が集まり,Karenni Amyothar Toe-tet-yay党反政府軍による道路,橋,学校,保健所などへの破壊活動を非難した。
DIA-211-1979-10-29-1ミャンマー1979年10月29日1970年代農林省は通達を発し,農民に対し,もみ米の刈り入れ,脱穀,あおぎ分けに際し,できるだけ損失を少なくするよう要望した。
DIA-211-1979-10-30-1ミャンマー1979年10月30日1970年代ビルマ鉄道公社は,11月1日より,ラングーン・マンダレー間急行列車に食堂車を連結する方針を決めた。
DIA-211-1979-10-30-2ミャンマー1979年10月30日1970年代ビルマ政府,新駐ビルマ米大使として,Patricia M Byrne女史を承認。
DIA-211-1979-10-30-3ミャンマー1979年10月30日1970年代Kutkai郡Namphakka村で2千人がKIA反政府軍非難集会。
DIA-211-1979-10-31-1ミャンマー1979年10月31日1970年代ビルマ・バングラデシュ国境協定(1979年5月23日調印)批准書交換。
DIA-211-1979-11-01-1ミャンマー1979年11月01日1970年代中央麻薬取締局は1979年1~3月に,シャン,カチン,チン各州とザガイン,マグエ,マンダレー各管区で,3969.7エーカーのケシ畑を破壊した。
DIA-211-1979-11-01-2ミャンマー1979年11月01日1970年代マンダレー郡区でもガロン計画が開始された。
DIA-211-1979-11-03-1ミャンマー1979年11月03日1970年代農産物貿易公社は,79/80年度もみ米買付を167郡の900以上の米買付所を通じて行い,1億7千万バスケットの買付けを予定している。買付けは10月1日よりはじめられた。
DIA-211-1979-11-04-1ミャンマー1979年11月04日1970年代農林省農業機械化局は,79年1~6月に農民に対し,Zweトラクター42台,耕耘機64台,揚水ポンプ1764台を配分した。今年はトラクター555台,耕耘機205台,揚水ポンフ。6640台を配分する予定。
DIA-211-1979-11-04-2ミャンマー1979年11月04日1970年代Kyaukkyi郡Nat-than kwin村で5千人が集まり,反政府軍非難集会が開かれ,反政府軍に対抗する反ゲリラ・グループが9カ村で結成された。中央軍区第1作戦司令官Kyaw Tint中佐らが出席した。
DIA-211-1979-11-06-1ミャンマー1979年11月06日1970年代建設相Hla Tun准将,ペグー管区Shwedaungの繊維工場建設状況など視察。
DIA-211-1979-11-07-1ミャンマー1979年11月07日1970年代農林省製塩工業公社は,79年1~6月に1560万vissの塩を生産し,79年中に3270万vissを生産する予定である。
DIA-211-1979-11-07-2ミャンマー1979年11月07日1970年代協同組合相Sein Tun大佐,Toungoo, Pyu, Pyinmana各郡で農業協同組合活動視察。
DIA-211-1979-11-08-1ミャンマー1979年11月08日1970年代内務宗教相Sein Lwin准将を団長とするビルマ親善使節団,バングラデシュ訪問。
DIA-211-1979-11-09-1ミャンマー1979年11月09日1970年代鉱山相Than Tin准将,7~9日間,マンダレー,ザガイン両管区の鉱山など視察。
DIA-211-1979-11-09-2ミャンマー1979年11月09日1970年代日本政府はビルマ政府に対し,公共建物建築用資材,肥料購入のため31億円(約9300万チャット)の贈与を行った。
DIA-211-1979-11-11-1ミャンマー1979年11月11日1970年代ソ連アクロバット・体操チーム,ビルマ訪問。
DIA-211-1979-11-12-1ミャンマー1979年11月12日1970年代1979/80年度農業生産検討と80/81年度農産物耕作調整のための会議が開かれ,U Ye Goung農林相,農業公社の地方代表らが出席した。U Ye Goung農林相は基調報告のなかで次の諸点を明らかにした。○ある個人農家のもみ米収穫量の記録は,78/79年度の231バスケット/エーカー当りから,今年は285バスケットに伸びたが,全ビルマ的にみると収量の伸びは満足しえるものではない。75/76年度の35.5バスケットから78/79年は40バスケットになったにすぎない。○第3次5カ年計画は,イラワジ,ラングーン,ペグーの主要米作管区で,81/82年度の収量をエーカー当り60バスケットと予定している。しかしこの目標を80/81年度に達成しうるようにすべきである。
DIA-211-1979-11-12-2ミャンマー1979年11月12日1970年代ビルマ新聞代表団,中国訪問に出発。
DIA-211-1979-11-13-1ミャンマー1979年11月13日1970年代内務宗教相Sein Lwin准将ら,バングラデシュ訪問より帰国。
DIA-211-1979-11-13-2ミャンマー1979年11月13日1970年代農業機械化局農村水力供給部は,ユニセフの援助で中ビルマのドライゾーンで,79年10月末までに413本のチューブ井戸を掘った。78/79年度から81/82年度までに3千本を掘る予定である。
DIA-211-1979-11-15-1ミャンマー1979年11月15日1970年代世銀南アジア担当副総裁Hopper氏,ビルマ訪問。
DIA-211-1979-11-15-2ミャンマー1979年11月15日1970年代カレン州Thandaung郡Thandaunggyi村で,反政府軍非難,反ゲリラ・グループ結成大会が開かれた。
DIA-211-1979-11-16-1ミャンマー1979年11月16日1970年代農産物貿易公社,79/80年度第2四半期会議開催。貿易相Khin Maung Gyi大佐らが出席。同貿易相は輸出米などの品質改善の必要を強調した。
DIA-211-1979-11-16-2ミャンマー1979年11月16日1970年代Hopper世銀副総裁,マウン・マウン・カ首相,Thura U Tun Tin財政計画相,U Ye Goung農林相,第2工業相Maung Cho大佐,運輸通信相Khin Ohn准将らとそれぞれ会談。
DIA-211-1979-11-17-1ミャンマー1979年11月17日1970年代マウン・マウン・カ首相,Hmawbiの第1工業省一般産業公社のフットボール工場を視察。
DIA-211-1979-11-17-2ミャンマー1979年11月17日1970年代全国で34人の労働者が78/79年度の最良社会主義労働者(モデル労働者)に選ばれた。
DIA-211-1979-11-17-3ミャンマー1979年11月17日1970年代中国経済使節団到着。対ビルマ援助プロジェクトの実行情況視察のため。
DIA-211-1979-11-19-1ミャンマー1979年11月19日1970年代黄華中国外相,ラングーン訪問。U Myint Maung外相と会談。
DIA-211-1979-11-19-2ミャンマー1979年11月19日1970年代Hopper世銀副総裁,ビルマ訪問終了。
DIA-211-1979-11-19-3ミャンマー1979年11月19日1970年代U Ye Goung農林相,ローマでのFAO会議に出席,ビルマ代表団長として演説。
DIA-211-1979-11-21-1ミャンマー1979年11月21日1970年代中国経済使節団,ビルマ側経済当局者と会談。副計画財政相Aye Ko大佐ら出席。
DIA-211-1979-11-21-2ミャンマー1979年11月21日1970年代副貿易相U Khin Maung Yiを団長とするビルマ貿易代表団,インドネシアへ出発。
DIA-211-1979-11-21-3ミャンマー1979年11月21日1970年代ソ連新聞代表団,ビルマ国営通信を訪問。
DIA-211-1979-11-21-4ミャンマー1979年11月21日1970年代第1工業相Tint Swe准将は,20日,21日,カレン州Pa-an郡とモン州Moulmein郡の工業状況を視察した。
DIA-211-1979-11-22-1ミャンマー1979年11月22日1970年代日本海外経済協力基金石原総裁,副首相兼計画財政相Thura U Tun Tin,第1工業相Tint Swe准将をそれぞれ訪問。
DIA-211-1979-11-23-1ミャンマー1979年11月23日1970年代経済協力基金石原総裁,第2工業相Maung Cho大佐と会談。
DIA-211-1979-11-23-2ミャンマー1979年11月23日1970年代建設相Hla Tun准将は,21~23日の間カチン州を訪問,道路,橋,病院などの建設状況を視察。
DIA-211-1979-11-24-1ミャンマー1979年11月24日1970年代黄華中国外相,ネパールからの帰途,3日間の予定でビルマ訪問。
DIA-211-1979-11-25-1ミャンマー1979年11月25日1970年代ネーウィン大統領,黄華外相と会見。黄華外相は,この日オンサン廟などを訪問した。
DIA-211-1979-11-25-2ミャンマー1979年11月25日1970年代ビルマ貿易代表団,インドネシアから帰国,インドネシアは米15万トンの輸入契約を代表団と結んだ。
DIA-211-1979-11-25-3ミャンマー1979年11月25日1970年代労働・社会福祉相U Mya Maung,20~25日間,マンダレー,ザガイン両管区の福祉施設など視察。
DIA-211-1979-11-26-1ミャンマー1979年11月26日1970年代国家評議会サンユー書記長,マウン・マウン・カ首相,黄華外相と会見。なお中国外相一行はこの日帰国した。
DIA-211-1979-11-26-2ミャンマー1979年11月26日1970年代中国親善バトミントン・チーム到着。
DIA-211-1979-11-27-1ミャンマー1979年11月27日1970年代ネーウィン大統領,サンユー国家評議会書記長,マウン・マウン・カ首相,国防相Thura Kyaw Htin,鉱山相Than Tin准将ら,ミヤンマ宝石公社視察。
DIA-211-1979-11-27-2ミャンマー1979年11月27日1970年代Ngaphe郡Manaungで1400人が集まり,3人の反政府兵投降式を見守った。
DIA-211-1979-11-28-1ミャンマー1979年11月28日1970年代計画党合同書記U Thaung Kyi,イギリスでの治りょうから帰国。
DIA-211-1979-12-01-1ミャンマー1979年12月01日1970年代第2工業省重工業公社の技術訓練学校(Sinde)の開校式がPadaung郡Sindeで行われた。この学校建設には西独援助2554万2千マルクが使用された。
DIA-211-1979-12-01-2ミャンマー1979年12月01日1970年代Mogoungで5千人が集まり,KIA非難集会。
DIA-211-1979-12-03-1ミャンマー1979年12月03日1970年代全国不具者予防,治りょう,リハビリテーション・セミナーが保健省とWHO共催で開かれた。
DIA-211-1979-12-05-1ミャンマー1979年12月05日1970年代WPO紙は一面で,50チャットのニセ紙幣が出廻っていることに警告し,対策を指示する政府声明をのせた。
DIA-211-1979-12-05-2ミャンマー1979年12月05日1970年代中国人民解放軍体操チーム,ビルマ訪問。
DIA-211-1979-12-06-1ミャンマー1979年12月06日1970年代ネーウィン大統領は3日より6日まで北西軍区司令部地区を視察した。マウン・マウン・カ首相,Thura Kyaw Htin国防相,U Ye Goung農林相,Tint Swe第1工業相,Maung Cho第2工業相,Than Tin鉱山相,NIB情報局長U Lay Maung,大統領府官房長Aye Kyaw大佐,国軍情報局長Kyaw Tun大佐らが同行した。一行はマンダレー管区のMadaya大理石工場,Paleikせんい工場,マンダレーの伝統医薬品研究所,博物館などを視察した。
DIA-211-1979-12-06-2ミャンマー1979年12月06日1970年代バングラデシュに2万5千トンの米の売却を決めたビルマ貿易代表団が同国より帰国した。
DIA-211-1979-12-07-1ミャンマー1979年12月07日1970年代日本国際協力事業団,Lewe郡Elaの金属研究開発センター建設に20億円(約6576万9千チャット)贈与を鉱山省と調印。
DIA-211-1979-12-08-1ミャンマー1979年12月08日1970年代Maubinの大衆6千入は,前線から帰った第27ビルマ連隊兵士を歓迎した。
DIA-211-1979-12-09-1ミャンマー1979年12月09日1970年代ラングーン市開発委員会は,いくつかの主要道路沿いでの不許可露店商の禁止を発表した。
DIA-211-1979-12-10-1ミャンマー1979年12月10日1970年代ビルマ社会主義計画党中央委員会第10回総会が,ネーウィン党委員長を議長として開かれ,執行委報告などが討議された。
DIA-211-1979-12-11-1ミャンマー1979年12月11日1970年代ビルマ社会主義計画党中央委総会終了。ネーウィン党委員長は最終演説で,次の諸点を明らかにした。○天候不順による米不作が懸念され,前年度米を備蓄していたが,不作は予想ほどのもではなく,来年度の国内消費米については心配はなくなった。輸出にも一定量が確保しうると思われるが,その量は今後1~2カ月内に明らかになろう。○教育改善のための計画が立案されつつある。○宗教的狂信団体等に注意をはらわねばならない。○協同組合活動を不正のない形に移さねばならない。○検討中の新市民権法を真剣に考慮しよう。
DIA-211-1979-12-13-1ミャンマー1979年12月13日1970年代労働者評議会中央委員会第3回総会開く。
DIA-211-1979-12-14-1ミャンマー1979年12月14日1970年代労働者評議会中央委第3回総会終了。
DIA-211-1979-12-14-2ミャンマー1979年12月14日1970年代閣僚会議経済調整委員会はマウン・マウン・カ首相を議長として,各州・管区人民評議会執行委議長らと会談,4カ年計画の80/81年分目標を討議した。
DIA-211-1979-12-15-1ミャンマー1979年12月15日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将は,現在ビルマ仏教界にあるさまざまな問題点を検討するために,全仏教僧会議を開く方針を明らかにし,このため作業委員会に参加する僧侶達の選出を行うについて宗教界指導者達への協力を要請した。
DIA-211-1979-12-16-1ミャンマー1979年12月16日1970年代Hmawbiの農業公社中央農園で,ラングーン管区米収穫コンテストが開かれた。あいさつをしたU Ye Goung農林相は,米の収量向上,損失分減少化の必要を強調するとともに,ゴマなど油脂作物の耕作をよびかけた。
DIA-211-1979-12-19-1ミャンマー1979年12月19日1970年代協同組合,工場代表と貿易公社との間での第18回取引契約調印のための予備協議が行われ,Sein Tun協同組合相らが出席。
DIA-211-1979-12-21-1ミャンマー1979年12月21日1970年代貿易相Khin Maung Gyi大佐一行は,3日間にわたりマンダレー,ザカイン管区の農産物買付,貯蔵などの情況を視察した。
DIA-211-1979-12-22-1ミャンマー1979年12月22日1970年代内務宗教相Sein Lwin准将,モン州のPaung訪問,最近の大火被災地視察。
DIA-211-1979-12-23-1ミャンマー1979年12月23日1970年代内務・宗教相Sein Lwin准将は仏教会議作業委参加僧侶の選出について,モン州仏教界長老に請願を行った。
DIA-211-1979-12-27-1ミャンマー1979年12月27日1970年代薬品科学部で薬品科学研究会議が開かれ,U Ye Goung農林相らが出席した。
DIA-211-1979-12-27-2ミャンマー1979年12月27日1970年代U Mya Maung労働・社会福祉相は22日から27日までモン州の労働,福祉活動を視察した。
DIA-211-1979-12-28-1ミャンマー1979年12月28日1970年代オーストラリア,ビルマの農村水利計画に約1億8900万チャット贈与。
DIA-211-1979-12-28-2ミャンマー1979年12月28日1970年代ビルマ・クエート,航空協定合意。
DIA-211-1979-12-31-1ミャンマー1979年12月31日1970年代マンダレー管区地方委議長U Nyein Maungらは,1月1日より貿易省繊維貿易公社が当地で開店するデパートを見学した。