ID 国名 日付 年代 内容
DIA-202-1970-01-06-1カンボジア1970年01月06日1970年代農業省1969~70年度の作付け面積と収穫量を発表-1969~70年度の米の作付け面積は237万ヘクタールで乾期の籾の収穫量20万6000トン,雨季の収穫量309万4000トン,計330万トンにのぼる。また各州の耕作面積と収穫量は次のとおり。
DIA-202-1970-01-14-1カンボジア1970年01月14日1970年代日本・カンボジア通商協定延長-60年2月10日調印の,日本・カンボジア通商協定を70年2月15日から,71年2月14日までさらに一年延長することに両国合意。 なお,日本とカンボジアとの69年度1月から10月までの貿易は,通関実績で輸出1731万ドル,輸入621万7000ドル。
DIA-202-1970-01-20-1カンボジア1970年01月20日1970年代フィンランドと外交関係を樹立。
DIA-202-1970-01-22-1カンボジア1970年01月22日1970年代シリク・マタク首相代理,カンボジアがIMFに加盟を認められたことを発表。
DIA-202-1970-01-23-1カンボジア1970年01月23日1970年代国会は6億3000万リエルの1970年度暫定予算案を承認した。
DIA-202-1970-01-23-2カンボジア1970年01月23日1970年代左派政治家の帰国を許可-プノンペン国内放送は,ルーム・ソフォン元首府長官が,ソン・ブンサイ駐仏大使を通じて,在仏中のチャウ・セン氏(左派政治家67年以降の右寄り政策に伴ないフランスに事実上亡命)に対し,いつ帰国しても構わないと通告,シアヌーク元首が国外に亡命しているカンボジア人を許し,その帰国をのぞんでいるとよびかけていることを明らかにした。
DIA-202-1970-01-30-1カンボジア1970年01月30日1970年代定例閣議で次の事項を承認。 1. 70年の輸出入計画 輸出予想額 52億5509万リエル 輸入予想額 37億0300万リエル 2. プノンペン市に屠殺場建設を許可 3. フランスとの経済,財政協力協定案を承認。 総額1億2500万フランにのぼるフランスとの借款をとりきめた。この借款は第2次5カ年計画に予定された下記の優先的諸計画に融資される。 (1) シアヌークビル給水事業 1200万フラン (2) シアヌークビル火力発電所 2750万フラン (3) プノンペン中央電話局拡張 400万フラン (4) シアヌークビル港拡張 1670万フラン (5) 鉄道車輌640万フラン (6) ラテックス処理工場(2カ所) 840万フラン (7) 工業諸計画 4500万フラン (8) プレクトノットダムへの借款(すでに出資決定ずみ) 500万フラン 以上合計1億2500万フランで,この借款は,カンボジアにとって有利であるとされているが,その利率,償還期限は明らかにされていない。
DIA-202-1970-02-03-1カンボジア1970年02月03日1970年代プノンペン駐在米大使館は米軍のダックダム攻撃での損害賠償について外務省に賠償内容を通告した。 死者25人(1人400ドル)10,000ドル 重傷8人(1人150ドル) 1,200ドル 軽傷2人(1人100ドル)  200ドル 合計       11,400ドル またコンポンチャム州の3つの村の6人に2,400ドル(1人400ドル)を賠償する。
DIA-202-1970-02-05-1カンボジア1970年02月05日1970年代ロン・ノル内閣改造-シアヌーク元首の要請で国会議長は国会を招集し,ロン・ノル内閣の改造を承認した。内閣改造は次のとおり。 Lon Nol 首相兼国防,情報相 Yen Sambaur 第2副首相兼法務,公共保健,社会福祉,労働,雇用,地価調整相,農村と農民の発展,国会連絡担当 Prom Thos 工業・貿易長官 Un Tramuch 官房長官 Chau Xeng ua 社会活動,労働,地価評価,農村発展長官 Tourn Lang 農業省長官 Hoa Hong 公共保健長官
DIA-202-1970-02-06-1カンボジア1970年02月06日1970年代1970年の農産物の価格-輸出入公社は1970年度の農産物の価格を発表した,その細目は次のとおり。
DIA-202-1970-02-06-2カンボジア1970年02月06日1970年代仏借款の条件-パリ交渉の結果とりきめた仏借款の条件は次のとおり。
DIA-202-1970-02-13-1カンボジア1970年02月13日1970年代フランス系会社の労働者代表200人は国会に陳情団を送り,賃銀引上げ要求を支援するよう請願した。
DIA-202-1970-02-14-1カンボジア1970年02月14日1970年代シリク・マタリ首相代理就任
DIA-202-1970-02-17-1カンボジア1970年02月17日1970年代米国,爆撃の犠牲者に対して補償-米政府は69年11月16~19日のダクダム拠点に対する爆撃の犠牲者に対する補償金として1万1400ドル,69年10月6日のコンポンチャム攻撃事件の犠牲者に対するものとして2400ドルを支払った。
DIA-202-1970-02-19-1カンボジア1970年02月19日1970年代ロン・ノル首相,健康を回復してパリから帰国。
DIA-202-1970-02-22-1カンボジア1970年02月22日1970年代バーター制度による1970年1月1日から2月15日までの輸出契約額は5678万9783リエルに達した。
DIA-202-1970-02-25-1カンボジア1970年02月25日1970年代国会,オーストラリア,オランダ,東独との外交関係を大使級外交関係に引上げることを承認。
DIA-202-1970-03-02-1カンボジア1970年03月02日1970年代フランス,カンボジアの石油調査に出資-財政省はカンボジアの石油調査にフランスが投資することを認可。投資額と投資条件は次のとおり。 ・炭化水素の調査のため3年間に調査費250万米ドルを投資。 ・第4年目に150万米ドル,第5年目に150万米ドルを投資。 ・投資条件として30年間国有化しないと公約すること。
DIA-202-1970-03-02-2カンボジア1970年03月02日1970年代コンゴ(ブラザビル)は,カンボジアの現国境を承認し尊重する旨を声明。
DIA-202-1970-03-06-1カンボジア1970年03月06日1970年代ロン・ノル首相,軍隊と政府の首脳とともにラタナキリ州を視察。
DIA-202-1970-03-07-1カンボジア1970年03月07日1970年代3月5日までの米の輸出実績-1970年1月1日から3月5日までの米の輸出量は2万4985トン(1億3158万1466リエル)に達した。 輸出先は次のとおり。
DIA-202-1970-03-07-2カンボジア1970年03月07日1970年代バーター制度による1月1日から2月28日までの輸出契約額は6972万7977リエルに達した。
DIA-202-1970-03-08-1カンボジア1970年03月08日1970年代シリク・マヌク首相代理,閣議で南ベトナム解放民族戦線に米などの農産物を多量に売却したと公表。
DIA-202-1970-03-10-1カンボジア1970年03月10日1970年代スバイリエン州で住民が南ベトナム解放民族戦線の駐留に反対してデモ。
DIA-202-1970-03-11-1カンボジア1970年03月11日1970年代カンボジア人のデモ隊,北ベトナムと南ベトナム革命政府の両大使館に侵入-プノンペン駐在の北ベトナムおよび南ベトナム革命政府の大使館と情報センターは,同時に約1000人のデモ隊に襲われた。 △シアヌーク元首は,プノンペンのコソマック皇太后に電報を送って「カンボジアの国益と評判をそこない非常になげかわしい事件」といい,「社会主義諸国との友好関係を破壊し,外部の資本主義,帝国主義勢力に祖国を売ろうとした連中の組織的工作だ。わたしは信任を国民投票に問い,敗れれば退位する」と述べた。
DIA-202-1970-03-12-1カンボジア1970年03月12日1970年代シリク・マタク第1副首相,11日の事件は民衆の正当な怒りと発言-マタク第1副首相は北ベトナムと革命政府の両大使館の襲撃事件後,「われわれの政府は南ベトナムの解放戦線と通商協定を一時停止し,カンボジア地上軍を10万人に増員する。カンボジアは中立を保持したいと望んでいるが,現在カンボジアに加えられている脅威に対しては自衛する決意である。11日の事件は南の解放戦線によってカンボジア領が侵犯され続けていることに対する民衆の正当な怒りの発露であり,政府は同事件で両大使館に遺憾の意を表明したが,両者ともカンボジアを尊重しなければならない」との見解を発表した。
DIA-202-1970-03-12-2カンボジア1970年03月12日1970年代シアヌーク元首はフランス国営テレビ放送とのインタビューで次のように述べた。 ・現在のプノンペンでの大衆デモや北ベトナム,革命政府両大使館への攻撃の背後にいる指導者のある者は,政府や国会の内部にいる者だ。彼らはきわめて行動的であり,軍将校のなかにも,安易な生活を送ることを可能にする米国の援助を,なつかしく思っている者が多くいる。 ・極右指導者たちはすでに,CIAか,ほかの類似の機関かは知らないが,米国と直接の接触を保ってきた。彼らはカンボジアを第2のタイ,南ベトナム,あるいはラオスにしたいと望んでいるのだ。 ・ソ連と中国はカンボジアの中立と独立が,彼らの最上の利益にかなうことを理解してくれるだろうし,北ベトナムや解放戦線が内政干渉をやめ,カンボジアから出ていくよう説得してくれるに違いない。共産主義者は極右が権力を握る口実を与えるべきではない。 ・私は現在の流れを変え,カンボジアの中立と非同盟を回復するため,予定を早めて帰国する。ソ連,中国の支援を確信しているが,もし彼ら共産主義者がカンボジアの中立とその立場を十分に尊重してくれなければ,私は辞任する。極右と私自身との対決は十分ありうるし,彼らが私を退ける前に,私が踏み出さなければ,クーデターも起こりうる。
DIA-202-1970-03-12-3カンボジア1970年03月12日1970年代アジア開発銀行からの借款に仮調印- 借款総額 167万ドル(国営ダム公社向け) 利率 年利3% 償還期限 4年間据置きで12年間 技術援助として国営ダム公社の顧問技師のため必要な経費 8万ドルを贈与。
DIA-202-1970-03-13-1カンボジア1970年03月13日1970年代国民議会と王室議会は3月11日のデモ隊の行動に対して支持を決議。
DIA-202-1970-03-14-1カンボジア1970年03月14日1970年代シアヌーク元首,モスクワでコスイギンソ連首相と会談。
DIA-202-1970-03-15-1カンボジア1970年03月15日1970年代米軍チャーター船コロンビアイーグル号(7605トン)は,米国からタイのサタヒプ米海軍基地へ航行中,タイ沖で一部船員が反乱を起し,カンボジア領海内に停泊した。
DIA-202-1970-03-15-2カンボジア1970年03月15日1970年代日クーデター起こる-新指導部はチエンヘン国民議会議長(元首代行),ロン・ノル首相,シリク・マタク第1副首相の3人で構成。
DIA-202-1970-03-18-1カンボジア1970年03月18日1970年代全室海港閉鎖
DIA-202-1970-03-18-2カンボジア1970年03月18日1970年代IMFから特別割当-69年末IMFに正式に加盟した結果,第1特別割当てとして319万2000ドルを受けた。
DIA-202-1970-03-19-1カンボジア1970年03月19日1970年代シアヌーク殿下北京に到着
DIA-202-1970-03-20-1カンボジア1970年03月20日1970年代米国と日本の両政府カンボジア新政権を自動的に承認すると示唆。
DIA-202-1970-03-21-1カンボジア1970年03月21日1970年代チエンヘン国会議長,国家元首に正式に就任―また,フリサラ外相が辞任したので,エムサンバウル第2副首相が外相を兼任し,コンッチ前陸軍情報局長とチンホアン議員がそれぞれ国家保安相と情報相に就任。
DIA-202-1970-03-22-1カンボジア1970年03月22日1970年代新政府,シアヌーク支持派首脳の入国禁止を発表-新政府はシアヌーク殿下夫妻をはじめ,同殿下支持派の入国禁止を発表した。入国を禁止された人物は次のとおり。 シアヌーク殿下夫妻 ペンヌート元首顧問(前首相) ニエク・チュ・ロン前王国軍総司令官 ズオン・サム・オン前軍総監(元国防相) ゴフ前空軍参謀長兼元首技術顧問 チャウセン元経済相 シソワトメタビ駐東ドイツ大使
DIA-202-1970-03-23-1カンボジア1970年03月23日1970年代シアヌーク殿下,北京でフアム・バン・ドン北ベトナム首相と会談-AFP通信によると,駐北京カンボジア大使ナイ・バレンチン氏は,ドン首相が21日に北京を訪問し,到着直後シアヌーク殿下と会談したと語った。
DIA-202-1970-03-23-2カンボジア1970年03月23日1970年代シアヌーク殿下の5項目の声明-シアヌーク殿下は北京で同胞に告げる書と厳かな声明を発表した。 (1) 合法的な国家元首の名において,憲法にもとづいておこなわれた宣誓にそむき,王国憲法に違反したロン・ノル政府と2つの議会を解敗する。 (2) 全国の同胞がロン・ノル=シリク・マタク=チエンヘン集団が制定する法令,命令,通達を執行しないよう要求する。 (3) 新しい民族団結政府を成立させると同時にカンボジア社会各界の資格ある代表の参加する臨時協商会議を成立させる。 (4) 民族解放軍を創設する。 (5) 「カンボジア民族統一戦線」を結成する。 この戦線の任務は(イ)ロン・ノル,シリク・マタク,チェンヘンの親帝国主義反動集団の独裁から祖国を解放すること,(ロ)インドシナ人民とともにアメリカ帝国主義とたたかうこと,(ハ)勝利ののち国家を再建することである。
DIA-202-1970-03-24-1カンボジア1970年03月24日1970年代新政府,18カ国駐在公館の維持確保を発表。
DIA-202-1970-03-26-1カンボジア1970年03月26日1970年代1970年度国家予算成立-国家は1970年度国家予算案の総額98億1997万6200リエルを討議し承認した,同予算案の内訳は次のとおり(単位リエル)。 国会 34,318,400 王室評議会 8,852,000 首相 74,145,251 労働省 14,749,190 社会活動省 19,633,000 計画省 15,639,200 工業省 10,371,168 外務省 176,016,400 内務省 157,437,668 国家保安省 101,569,213 国境防衛省 536,128,100 情報省 62,700,000 観光省 16,220,520 教育省 1,991,901,900 貿易省 10,811,220 農業省 314,327,300 法務省 53,519,400 文化省 32,553,747 保健省 441,301,782 公共事業省 350,550,009 郵便通信省 94,188,501 財政省 2,608,675,501 国防省 2,694,367,200 合計 9,819,976,200"
DIA-202-1970-03-26-2カンボジア1970年03月26日1970年代北ベトナムと革命政府の両大使館員,プノンペンから引き揚げ。
DIA-202-1970-03-26-3カンボジア1970年03月26日1970年代国営商業銀行,定期預金金利を引上げ-10万リエルから100万リエルまで1年定期を4%から6%へ,500万リエル以上については5%から7%へ。定期以外の貸付けについては年利7%を8%へ。これは4月1日から適用される。
DIA-202-1970-03-27-1カンボジア1970年03月27日1970年代米国務省,米軍がカンボジア国境を越え戦闘を拡大することに反対すると表明。
DIA-202-1970-03-30-1カンボジア1970年03月30日1970年代キューバ政府,同国共産党はシアヌーク殿下を支持すると宣言。
DIA-202-1970-04-01-1カンボジア1970年04月01日1970年代新政府,米国に追跡権なしと声明。
DIA-202-1970-04-03-1カンボジア1970年04月03日1970年代新政府,中国の内政干渉を非難-政府は中国がカンボジアの内政に干渉し,政権復帰をねらうシアヌーク前国家元首を支援していると非難,両国の関係は,カンボジア駐在康矛召中国大使が,新政権のサムバウル新外相との会見を拒否したことから緊張。
DIA-202-1970-04-06-1カンボジア1970年04月06日1970年代ウタント国連事務総長,カンボジア新政府代表を国連代表とみなすと表明。
DIA-202-1970-04-09-1カンボジア1970年04月09日1970年代共産軍の攻撃により,政府軍がスバイリエン州の国境地帯から撤退。
DIA-202-1970-04-15-1カンボジア1970年04月15日1970年代ロン・ノル首相,「1840年にクメール人が一斉に決起し,数千人のベトナム人を殺し,その支配から国を解放したときのようにベトナム人を追い出そう」と放送。
DIA-202-1970-04-16-1カンボジア1970年04月16日1970年代政府軍,タケオ州の5陣地を放棄。
DIA-202-1970-04-17-1カンボジア1970年04月17日1970年代英国政府,カンボジア新政府の諸外国への武器援助呼びかけに応ずる意のないことを正式に表明。
DIA-202-1970-04-18-1カンボジア1970年04月18日1970年代軍当局,共産軍がタケオ州の首都を包囲し,プノンペンへ35キロ地点に進撃したと発表。
DIA-202-1970-04-22-1カンボジア1970年04月22日1970年代カンプチア統一戦線,政府軍兵士に対して,個人の利益を一時犠牲にして,カンプチア統一戦線に参加するよう要請したパンフレットを各地で配布。
DIA-202-1970-04-22-2カンボジア1970年04月22日1970年代ニクソン米大統領,カンボジア情勢に対処するため国家安全保障会議を招集。
DIA-202-1970-04-24-1カンボジア1970年04月24日1970年代ジーグラ米大統領報道官,「カンボジア領内での北ベトナムおよび解放戦線の活動は,中立国に対する国外から侵略であり,いかなる意味においても内戦とは認められない」と言明。
DIA-202-1970-04-24-2カンボジア1970年04月24日1970年代タイと通商再開。
DIA-202-1970-04-25-1カンボジア1970年04月25日1970年代インドシナ人民首脳会議開催-(参考資料参照)
DIA-202-1970-04-26-1カンボジア1970年04月26日1970年代南ベトナム政府使節団,プノンペンに到着。
DIA-202-1970-04-30-1カンボジア1970年04月30日1970年代米軍および南ベトナム政府軍,カンボジアへ進攻。
DIA-202-1970-04-30-2カンボジア1970年04月30日1970年代インドとパキスタン,アジア会議に不参加。
DIA-202-1970-05-01-1カンボジア1970年05月01日1970年代佐藤首相は米軍のカンボジア進攻について「カンボジア領内の北ベトナムと革命軍を排除し,カンボジア中立を維持したいという米政府の判断に基づくものであり,米国としてやむを得ずとった措置であろう」との見解を発表。
DIA-202-1970-05-01-2カンボジア1970年05月01日1970年代シアヌーク殿下,中国の毛沢東,林彪両首脳と会見。
DIA-202-1970-05-01-3カンボジア1970年05月01日1970年代フランス,カナダ,スウエーデンおよびインド各政府,米軍のカンボジア進攻について遺憾の意を表明。
DIA-202-1970-05-02-1カンボジア1970年05月02日1970年代コスイギン・ソ連首相,米国のカンボジア進攻と北爆再開を非難。
DIA-202-1970-05-03-1カンボジア1970年05月03日1970年代ビルマ政府,アジア諸国会議に不参加。
DIA-202-1970-05-03-2カンボジア1970年05月03日1970年代クーデター後物価は最高30%上昇。
DIA-202-1970-05-03-3カンボジア1970年05月03日1970年代米軍,ミモトに基地建設。
DIA-202-1970-05-04-1カンボジア1970年05月04日1970年代解放軍,メコン川東部全域を制圧。
DIA-202-1970-05-04-2カンボジア1970年05月04日1970年代グリーン・ベレー(米軍特殊部隊)所属のカンボジア人部隊2000人以上がプノンペンへ到着。
DIA-202-1970-05-04-3カンボジア1970年05月04日1970年代シムバル首相特使,経済援助要請の目的で訪日。
DIA-202-1970-05-04-4カンボジア1970年05月04日1970年代カンプチア民族統一戦線結成と王国民族団結政府樹立(政治綱領は参考資料参照) ・カンプチア民族統一戦線中央政治局 議長 ペン・ヌート 委員 チャウ・セン キュー・サムファン フー・ニム チア・サン ズオン・サム・オル少将 サリン・チャク フート・サンバート フー・ユオン チャン・ヨーラン チョウン・ムン ・王国民族団結政府 首相 ペン・ヌート 外相 サリン・チャク 無任所相 チャウ・セン 人民教育・青年相 チャン・ヨーラン 保健・宗教・社会問題相 ゴ・フー博士 経済・財政相 チョウン・ムン 国防相 キューサムフアン 軍需・軍備相 ズオン・サム・オル少将 情報・宣伝相 フー・ニム 公共事業・郵政・建設相 フート・サンバート 内務・農村改革・協同組合相 フー・ユオン 司法相 チア・サン
DIA-202-1970-05-05-1カンボジア1970年05月05日1970年代中国政府,カンボジア王国民族団結政府を承認
DIA-202-1970-05-05-2カンボジア1970年05月05日1970年代北朝鮮政府,カンボジア王国民族団結政府を承認
DIA-202-1970-05-05-3カンボジア1970年05月05日1970年代ルーマニア政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-05-4カンボジア1970年05月05日1970年代ニクソン米大統領,米軍はカンボジア国境から30キロないし35キロ以上には進攻しない,また現在越境作戦に従事している米軍は6月30日までに撤退させると言明。
DIA-202-1970-05-06-1カンボジア1970年05月06日1970年代北ベトナム政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-06-2カンボジア1970年05月06日1970年代ユーゴ政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-06-3カンボジア1970年05月06日1970年代イラク政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-06-4カンボジア1970年05月06日1970年代南ベトナム政府,プノンペンに常駐代表部を開設
DIA-202-1970-05-06-5カンボジア1970年05月06日1970年代南ベトナム臨時革命政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-06-6カンボジア1970年05月06日1970年代キューバ政府,カンボジア王国民族団結政府を承認。
DIA-202-1970-05-07-1カンボジア1970年05月07日1970年代解放区で民族統一戦線指導下の人民団結抗戦運動の代表者会議。 (出席者) 東部代表兼愛国武装勢力代表キュー・サム・フアン,西北部代表フー・ユオン,西南部代表フー・ニム,人民派代表ケオ・ミース,農会代表チウ・セット,労働組合代表グオン・ペン,民主青年同盟代表トウ・チャ・ニン教授,民主婦人協会同盟クー・ボ・ナ・リ教授婦人,知識人・教授・教師代表ソー・セン教授,タイ族代表プラ・シト,ラタナキリとストウンチエン両州の少数民族代表トン・ピー,モンドルキリとクラチエ両州の少数民族代表サン・マン,チャムス族の代表クレマト,このほか仏教界代表。
DIA-202-1970-05-07-2カンボジア1970年05月07日1970年代新政府,駐カンボジア中国大使と大使館全員の出国を拒否。
DIA-202-1970-05-08-1カンボジア1970年05月08日1970年代解放軍,プレイベン州都を包囲。
DIA-202-1970-05-09-1カンボジア1970年05月09日1970年代王国民族団結政府,北京駐在大使にケルミアス氏を任命。
DIA-202-1970-05-11-1カンボジア1970年05月11日1970年代米上院外交委員会,カンボジア支援禁止の法案を可決。
DIA-202-1970-05-12-1カンボジア1970年05月12日1970年代タイと国交回復。 △シアヌーク殿下,カンボジア民族解放軍に特別メッセージ,要旨次のとおり。 ・すでに,スバイリエン,プレイベン,タケオなど多数の州,都市部にはわれわれ人民の政治組織が樹立されている。 ・解放軍はプノンペンを包囲,いつでもこれを奪取できる状態にある。 ・現地でゲリラ活動を指導中のキュー・サムフアン国防相,フー・ヨーン内相,フーニム情報相の閣僚にカンボジアのすべての行政を委任した。
DIA-202-1970-05-12-2カンボジア1970年05月12日1970年代コスイギンソ連首相,電報で,カンボジア統一戦線結成に対する祝意と,カンボジアの愛国勢力の解放闘争への支持を表明。
DIA-202-1970-05-16-1カンボジア1970年05月16日1970年代カンボジア問題に関するアジア会議開催。
DIA-202-1970-05-19-1カンボジア1970年05月19日1970年代解放軍,北部ストンチエン市を完全に制圧。
DIA-202-1970-05-19-2カンボジア1970年05月19日1970年代政府,北ベトナムおよび南ベトナム革命政府と断交。
DIA-202-1970-05-19-3カンボジア1970年05月19日1970年代ペンヌート民族団結政府首相,国土の4分の3を解放したと言明。
DIA-202-1970-05-22-1カンボジア1970年05月22日1970年代カンボジア民族解放軍はつぎのような戦果を発表した。現在まで数百のゲリラ組織を結成し,多数の青年がこれに参加し,5月18日まで2カ月間に米軍約2000人を含む2万4000人の敵部隊を掃討,解体,1万以上の武器,数百台の軍用車,600トンに及ぶ弾薬,軍需品を捕獲した。また,全土で40以上の郡都を解放した。
DIA-202-1970-05-22-2カンボジア1970年05月22日1970年代共和制移行のための委員会設立。
DIA-202-1970-05-24-1カンボジア1970年05月24日1970年代シアヌーク殿下ハノイを訪問。
DIA-202-1970-05-25-1カンボジア1970年05月25日1970年代サムバウル外相,サイゴンを訪問。
DIA-202-1970-05-26-1カンボジア1970年05月26日1970年代中国および北ベトナム駐在のカンボジア大使館員帰国。
DIA-202-1970-05-26-2カンボジア1970年05月26日1970年代米政府,カンボジア政府に750万ドルの小火器を供与すると通告。
DIA-202-1970-05-30-1カンボジア1970年05月30日1970年代駐タイ初代大使コウンウィク元外相赴任。
DIA-202-1970-06-01-1カンボジア1970年06月01日1970年代本日から戒厳令施行。
DIA-202-1970-06-07-1カンボジア1970年06月07日1970年代解放軍,シエムリエプ市空港を占領。
DIA-202-1970-06-08-1カンボジア1970年06月08日1970年代ウタント国連事務総長,アンコールワット遺跡の保護を呼びかけ。
DIA-202-1970-06-10-1カンボジア1970年06月10日1970年代国道4号線,初めて攻撃さる。
DIA-202-1970-06-11-1カンボジア1970年06月11日1970年代ウタント国連総長,インドシナ問題解決のため,関係15者会議を開くようと提案。15者とは,①現在戦争当事者である北ベトナム,サイゴン,南ベトナム革命政府,カンボジアのシアヌーク支持派,ラオスのパテト・ラオ,ビエンチャン政権,プノンペン政権,②ジュネープ会議に参加した五大国すなわち米,英,仏,ソ連,中国,③国際監視委員会国インド,カナダ,ポーランドである。
DIA-202-1970-06-12-1カンボジア1970年06月12日1970年代国道4号線,通行不能。
DIA-202-1970-06-12-2カンボジア1970年06月12日1970年代政府軍,アンコール・ワット遺跡周辺を,“無防備地区”と宣言。
DIA-202-1970-06-12-3カンボジア1970年06月12日1970年代スレイ・サマン大佐を首席代表とする政府代表団,台湾を訪問。
DIA-202-1970-06-15-1カンボジア1970年06月15日1970年代国道5号線も不通。
DIA-202-1970-06-15-2カンボジア1970年06月15日1970年代シアヌーク殿下北朝鮮の平壌に到着。
DIA-202-1970-06-16-1カンボジア1970年06月16日1970年代サリンチャク王国民族団結政府外相,インドを訪問し,ガンジー首相と会見。
DIA-202-1970-06-16-2カンボジア1970年06月16日1970年代スレイ・サマン代表団,マニラを訪問して軍事援助を要請。
DIA-202-1970-06-25-1カンボジア1970年06月25日1970年代オーストラリア,特別援助-オーストラリア政府はカンボジアの1970~71年度国家予算赤字補填のため50万ドルの援助を決定。
DIA-202-1970-06-25-2カンボジア1970年06月25日1970年代18歳から60歳までの男女に総動員令を実施。
DIA-202-1970-06-26-1カンボジア1970年06月26日1970年代メコン開発委員会4カ国(ラオス,カンボジア,南ベトナム,タイ)は,戦火で中断しているプレクトノットのダム建設事業継続のための国際協力を訴えた。
DIA-202-1970-06-27-1カンボジア1970年06月27日1970年代政府軍,北東ラタナキリ,モンドルキリ,クラチエ,ストンチエンなど4州を放棄。
DIA-202-1970-06-28-1カンボジア1970年06月28日1970年代1970年6月25日までの稲米買入状況。
DIA-202-1970-06-28-2カンボジア1970年06月28日1970年代ロン・ノル首相米軍の再介入を希望-ロン・ノル首相は,記者会見で次のように言明した。 ・2カ月間の米軍介入は成功だった。 ・カンボジア軍は依然として強化途上にある。 ・カンボジア軍の大半は兵器の不足に悩んでいるので,政府は引き続き米軍の爆撃による支援を望んでいる。また場合によっては再介入も希望する。
DIA-202-1970-06-29-1カンボジア1970年06月29日1970年代カンボジア作戦米軍戦死339人-米軍のカンボジア進入から6月29日までの2カ月間に米軍の戦死者339人,負傷者1509人,南ベトナム軍の戦死者866人,負傷者3724人に達した。
DIA-202-1970-06-29-2カンボジア1970年06月29日1970年代民族団結政府国防省は全解放武装勢力に「プノンペン政権の基地,中枢センター交通路に全面攻撃をかけるよう」指令。
DIA-202-1970-06-30-1カンボジア1970年06月30日1970年代オプ・キエムアン第3副首相,経済財政について通信社に回答- ・クーデター後の経済政策について:国有化政策を廃止して自由化を実施,民間銀行の設立を許可。 ・貿易について:国内の混乱,交通不安が原因で,赤メーズ,ゴム,木材の生産が減少,輸出入も計画より減少している。輸出計画を52億5500万リエルから25億3500万リエルへ変更,輸入計画を37億0300万リエルから24億2000万リエルへ変更。1970年1月~5月の輸出入実績は,輸出13億1256万9000リエルで,輸入9億4992万リエルである。輸出品目: 米とその他:90,000トン ゴム:16,000〃 赤メーズ:10,000〃 木材:56,000m3 水牛:15,000頭 牛:3,000〃 その他:3,500トン
DIA-202-1970-06-30-2カンボジア1970年06月30日1970年代シアヌーク殿下,北朝鮮訪問,共同声明を発表。
DIA-202-1970-07-01-1カンボジア1970年07月01日1970年代ロン・ノル政府の強化のため内閣改造- 首相兼国防相 Lon Nol将軍 副首相兼首相補佐 Sirik Matak将軍 国務相兼法律国会連絡 Yem Sambaur 内務公安兼文化相 Op Kim Ang 工業相 Prom Thos 教育相 Chham Sokhun 農業相 Un Hamuch 社会活動と労働相 Chau Xeng Ua 貿易と運輸相 Hou Hong 財政相 Tim Nguon 外相 Koun Wich(前駐タイ大使) 保健相 Kang Keng准将 情報相 Keuk Kylim 協同団体組織相 Um Sim
DIA-202-1970-07-01-2カンボジア1970年07月01日1970年代プノンペン駐在韓国代表部李依根公使,信任状を提出。両国の外交関係は3年ぶりに正式に再開。
DIA-202-1970-07-02-1カンボジア1970年07月02日1970年代ポンピドー・フランス大統領は「諸大国はインドシナの不幸な人民を関係のない抗争に巻き込むことをやめるべきだ」と述べ,平和展望は米国が米軍の全面撤退の決意を示さないかぎり生まれないと強調した。また中国を含む関係国による国際会議を再び主張し,一方カンボジア王国民族団結政府(シアヌーク派)との関係について,フランスはシアヌーク殿下との関係を維持していると述べた。
DIA-202-1970-07-02-2カンボジア1970年07月02日1970年代国連大使にKhim Tit(旧首相)任命。
DIA-202-1970-07-03-1カンボジア1970年07月03日1970年代シアヌーク殿下は北朝鮮から北京に帰着した際「われわれは交渉解決に応じるつもりはない。カンボジアのいかなる分割をも拒否する。われわれはベトナムの例にはならいたくない。またわれわれは長期的に勝利を得るものと信じている。われわれは男女のゲリラを強力に組織しつつある。数カ月以内に乾期が来た時,抵抗運動が本当に爆発するだろう」と述べた。
DIA-202-1970-07-03-2カンボジア1970年07月03日1970年代チヤウセン・カンボジア王国民族団結政府無任所相はインタビューで「プノンペンを砲撃して占領するつもりはない。マヒさせれば十分」と述べた。
DIA-202-1970-07-05-1カンボジア1970年07月05日1970年代カンボジア特別軍事法廷はシアヌーク前国家元首の罪状を審理し,同元首の罪状は,①共産軍による領土占領を指導したこと,②解放戦線,北ベトナム,パテト・ラオ軍の破壊活動を許したこと,③聖域内の解放戦線に武器,食糧,医療の輸送を許したこと,④国家の経済,財政におけるサボタージュを組織したことなどであると述べ,元首に対して国家反逆罪による死刑を判決し,財産の没収,市民権はく奪を命令した。
DIA-202-1970-07-07-1カンボジア1970年07月07日1970年代カンボジア駐在力石日本大使は日本外務省に対して,大使館員(9人)を含めた日本人全員の引揚げを検討しなければならない時期に近づいたとして,いつでも大使命令を出せる権限を与えるよう要請した。
DIA-202-1970-07-07-2カンボジア1970年07月07日1970年代ヘルムズ米中央情報局長官(CIA)は米上院外交委員会の秘密聴聞会で共産軍がカンボジアの大きな部分をいまや支配下に置いているとの新聞報道はほぼ正確であると確認した。
DIA-202-1970-07-10-1カンボジア1970年07月10日1970年代サイゴンの米軍司令部は,カンボジア軍訓練のために,米国は今年度100万ドルから200万ドルをあてると発表。
DIA-202-1970-07-14-1カンボジア1970年07月14日1970年代米国,マリースウオンク欧州担当国務副次官補をカンボジア駐在新大使に任命。
DIA-202-1970-07-15-1カンボジア1970年07月15日1970年代ケアト・チョン前カンボジア工業相(コンポチャム大学総長)は,世銀の借款交渉を終えてワシントンからプノンペンへの帰途,パリでシアヌーク派と会見した結果,13日シアヌーク派につくことをきめ,フランス航空で北京に到着。
DIA-202-1970-07-17-1カンボジア1970年07月17日1970年代チュー南ベトナム大統領,カンボジアを正式に訪問。
DIA-202-1970-07-17-2カンボジア1970年07月17日1970年代ニクソン米大統領は1970会計年度最終日(6月30日)に,カンボジアに対する武器援助100万ドルの追加を認めたため,同年度の武器援助総額は当初の見積もり790万ドルから890万ドルに増額。
DIA-202-1970-07-19-1カンボジア1970年07月19日1970年代解放武装勢力はバタムバンの東南65キロ,プノンペンに向かう鉄道浴いにあるスウエイドンケプ村を占領。
DIA-202-1970-07-21-1カンボジア1970年07月21日1970年代ロン・ノル首相,公式にタイを訪問。
DIA-202-1970-07-21-2カンボジア1970年07月21日1970年代各国の救援状況-米国務省スポークスマンはカンボジアに対する各国の援助をつぎのように発表した。 ・日本は人道主義の立場から日本赤十字社を通じて200万ドルの救援物資を7月16日から送り始めている。 ・オーストラリアは機械設備,車輌,河川用船舶など120万ドル相当の援助物資を与えつつある。 ・ニュージーランドは医療品など5万6000ドル相当の物資を7月15日から送り始めている。 ・南ベトナムは陸軍用の装備品を援助する。 ・タイは陸軍の制服とその他装備を援助する。 ・アジア開発銀行はカンボジア国内建設資金および通常施設,復旧資金として総額160万ドルの借款を供与した。
DIA-202-1970-07-22-1カンボジア1970年07月22日1970年代日本,7月末にカンボジア派遣技術者を引揚げる予定。
DIA-202-1970-07-25-1カンボジア1970年07月25日1970年代台湾政府外交使節団,カンボジアを訪問。
DIA-202-1970-07-28-1カンボジア1970年07月28日1970年代解放軍,キリロムを占領。
DIA-202-1970-07-28-2カンボジア1970年07月28日1970年代Duong Sam Ol(元国防相)氏を団長とするカンプチア王国民族団結政府代表団,ラオス解放区を訪問。
DIA-202-1970-07-28-3カンボジア1970年07月28日1970年代カンプチア民族統一戦線放送局開設。
DIA-202-1970-08-01-1カンボジア1970年08月01日1970年代カンプチア民族統一戦線放送局の最初の番組で,シアヌーク殿下は「放送局はファシズムと帝国主義に反対し,独立,中立,進歩をめざすカンボジア人民の唯一の真の声である。同胞に対して毎日その任務を示し,帝国主義と裏切者たちがおおい隠している内外の事実を明らかにする。放送回数は毎日5回にわたって(うち1回はニュース記録用の朗読の時間)カンボジア語で放送する」と述べた。
DIA-202-1970-08-01-2カンボジア1970年08月01日1970年代カンボジア駐留南ベトナム軍とカンボジア政府軍との間に衝突事件。
DIA-202-1970-08-01-3カンボジア1970年08月01日1970年代国立銀行,1970年7月30日から8月5日までの輸出価格を発表。
DIA-202-1970-08-02-1カンボジア1970年08月02日1970年代解放軍,国道7号と6号の分岐点スターンを占領。
DIA-202-1970-08-03-1カンボジア1970年08月03日1970年代米空軍,キリロム高原と国道4号線沿いの解放軍陣地を爆撃。
DIA-202-1970-08-04-1カンボジア1970年08月04日1970年代韓国外交代表部,8月15日から大使館に昇格。
DIA-202-1970-08-04-2カンボジア1970年08月04日1970年代オーストラリア政府,農業用自動車50台を供与。
DIA-202-1970-08-07-1カンボジア1970年08月07日1970年代ソン・ゴク・タン元首相,首相顧問に任命。
DIA-202-1970-08-10-1カンボジア1970年08月10日1970年代カンプチア通信社(AKI)設置。
DIA-202-1970-08-10-2カンボジア1970年08月10日1970年代カンボジア王国民族団結政府は声明を発表し,①解放区で取材する記者は団結政府の許可が必要,②今まで行方不明の外国人記者について団結政府は責任を持たないと述べた。
DIA-202-1970-08-10-3カンボジア1970年08月10日1970年代シアヌーク派の外交官と留学生,ウインとプラハのカンボジア大使館を占拠。
DIA-202-1970-08-12-1カンボジア1970年08月12日1970年代第2軍管区(カムポート州)の軍事裁判所は,大隊長のトム・ラバン中佐に容共罪により死刑を判決。
DIA-202-1970-08-14-1カンボジア1970年08月14日1970年代カンボジア系のタイ人と純タイ人を訓練する経費を米政府が負担することについてタイ政府と合意。
DIA-202-1970-08-17-1カンボジア1970年08月17日1970年代軍事法廷は民族団結政府のペンヌート首相ら閣僚9人を含む17人に反逆罪で死刑の判決。モニク王妃と義母の2人には密輸罪で終身重労働刑を宣告。
DIA-202-1970-08-17-2カンボジア1970年08月17日1970年代中国,シアヌーク政府と無償軍事援助協定に調印。
DIA-202-1970-08-20-1カンボジア1970年08月20日1970年代米政府,1971年会計年度に5000万ドル程度の新軍事援助決定か。
DIA-202-1970-08-21-1カンボジア1970年08月21日1970年代政府,食糧不足に備え,プノンペン市民に,食糧自給体制を呼びかけ。
DIA-202-1970-08-22-1カンボジア1970年08月22日1970年代民族団結政府はキュー・サムファン国防相を副首相に任命。
DIA-202-1970-08-23-1カンボジア1970年08月23日1970年代解放軍シャム湾のコーコン島に上陸,これを占領。
DIA-202-1970-08-24-1カンボジア1970年08月24日1970年代ペンヌート団結政府首相は統一戦線中央委員会に政治軍事報告を行ない,「領土の3分の2以上,人口280万を完全に解放した。外交面ではわが政府は23カ国に承認された。また中央委員会は解放区で抗米救国のレジスタンを指導する人々に多くの権限を与える。キュサムファン国防相を副首相に任命,その他数名の次官を任命したと述べた。
DIA-202-1970-08-24-2カンボジア1970年08月24日1970年代米国は1971年会計年度4000万ドルの援助を供与。
DIA-202-1970-08-26-1カンボジア1970年08月26日1970年代政府は日本に贈与2000万ドル,借款2000万ドル,合計4000万ドルの援助を要望。
DIA-202-1970-08-27-1カンボジア1970年08月27日1970年代プラハ市警官,カンボジア大使館を占拠した書記官と学生を排除。
DIA-202-1970-08-28-1カンボジア1970年08月28日1970年代アグニュー米副大統領,カンボジアに来訪。
DIA-202-1970-09-01-1カンボジア1970年09月01日1970年代南ベトナム政府,カンボジアへ軍事顧問団を派遣。
DIA-202-1970-09-03-1カンボジア1970年09月03日1970年代解放軍プノンペンへの送電線施設を攻撃。
DIA-202-1970-09-05-1カンボジア1970年09月05日1970年代軍事法廷はソン・ゴク・タン元首相に対するシアヌーク時代の死刑判決を破棄し,無罪を言渡した。
DIA-202-1970-09-06-1カンボジア1970年09月06日1970年代米国,ヘリコプター6機(150万ドル)を供与。
DIA-202-1970-09-07-1カンボジア1970年09月07日1970年代非同盟会議,カンボジア代表の出席を認めず。
DIA-202-1970-09-12-1カンボジア1970年09月12日1970年代アジア開発銀行,カンボジアのダム建設に167万ドル投資することを決定。
DIA-202-1970-09-15-1カンボジア1970年09月15日1970年代解放軍,国道6号線付近で政府軍約4000人を包囲。
DIA-202-1970-09-17-1カンボジア1970年09月17日1970年代来日中のカンボジア議員団は佐藤首相を訪問し,カンボジア情勢を説明。
DIA-202-1970-09-17-2カンボジア1970年09月17日1970年代解放軍の地上砲火,カンボジア北部で米軍のF100型機1機を撃墜。
DIA-202-1970-09-20-1カンボジア1970年09月20日1970年代カンプチア通信によれば,8月20日までにケンダール州とタケオ州の130村のうち80の村に革命政権が成立。
DIA-202-1970-09-25-1カンボジア1970年09月25日1970年代解放軍,国道4号線,5号線を遮断。
DIA-202-1970-10-02-1カンボジア1970年10月02日1970年代日本政府は6月末の医薬品援助につづいて輸送手段を中心とした第2次無償援助200万ドルを供与する方針を決定。内容は170万ドルがトラック200台,30万ドルがフエリーボート。
DIA-202-1970-10-02-2カンボジア1970年10月02日1970年代マッケーン米太平洋総司令官,プノンペン到着。
DIA-202-1970-10-03-1カンボジア1970年10月03日1970年代解放軍,国道1号線を再封鎖。
DIA-202-1970-10-05-1カンボジア1970年10月05日1970年代国民議会上下両院合同会議は王制を廃止し,9日に共和制移行を宣言する提案を満場一致で可決。
DIA-202-1970-10-07-1カンボジア1970年10月07日1970年代国会は現情勢では総選挙の実行は不可能なので,議員の任期(10月15日に満了)を1年延長することに決定。
DIA-202-1970-10-08-1カンボジア1970年10月08日1970年代シアヌーク殿下は共和制移行について次のように述べた。 ①新共和制は完全に不法である。1947年の憲法に違反しているだけでなく,民意を全く聴取していない。②王国議会は独断で“上院”と称しているだけである。③新共和国は米帝国主義に養われる反動グループである。④新共和国政府はプノンペン政府で,カンボジア全体の政府ではない。
DIA-202-1970-10-08-2カンボジア1970年10月08日1970年代農業省次官は今年の米の作付面積は30~40%減と発表。
DIA-202-1970-10-09-1カンボジア1970年10月09日1970年代共和制移行を宣言。
DIA-202-1970-10-09-2カンボジア1970年10月09日1970年代カンボジアと南ベトナムとの両政府経済財政代表団はつぎの8項目について合意に達した。①経済・通商協定,②支払い協定,③航空協定,④メコン川利用協定,⑤関税協定,⑥国境協定,⑦免税通商協定,⑧密輸防止協定。
DIA-202-1970-10-09-3カンボジア1970年10月09日1970年代共和制移行の式典に出席した大使は米国,南ベトナム,韓国,ファリピンおよび日本の各大使で,ソ連,東欧諸国,インドおよびフランスの大使は欠席した。
DIA-202-1970-10-12-1カンボジア1970年10月12日1970年代北京訪問中のクーブドミュルビル仏元首相はシアヌーク殿下と会見。
DIA-202-1970-10-19-1カンボジア1970年10月19日1970年代国会は国名をカンボジア王国からクメール共和国に変更。独立記念日を11月9日から10月9日に変更。
DIA-202-1970-10-26-1カンボジア1970年10月26日1970年代コソマク皇太后は健康上の理由でフランスに行くことを希望したが,政府はこれを拒否。
DIA-202-1970-10-27-1カンボジア1970年10月27日1970年代農業省の調査によれば,米作地13州の来年1~3月の収穫推定量は前年の約30%減となり,籾で224万トン。
DIA-202-1970-10-27-2カンボジア1970年10月27日1970年代1月~8月の輸出実績は総額16億7000リエル。内訳は米6億6000万リエル(13万トン),ゴム4億5000万リエル(1万8000トン),木材5050万リエル(5万m3)トウモロコシ4000万リエル(1万トン)である。
DIA-202-1970-10-28-1カンボジア1970年10月28日1970年代カンボジアの8月末現在の金,外貨準備高は38億リエルで5月末と比べ2億リエル増加した。国立銀行から政府への貸付金は13億リエルにふえて計29億リエルとなり,発券高も11億リエル増の88億リエルに膨張した。
DIA-202-1970-10-28-2カンボジア1970年10月28日1970年代チエン・ヘン国家元首訪日。
DIA-202-1970-11-06-1カンボジア1970年11月06日1970年代南ベトナム政府軍6000人はカンボジア国境に突入し,カンボジア政府軍の協力で地上作戦を開始。
DIA-202-1970-11-07-1カンボジア1970年11月07日1970年代プノンペン映画館で爆破,14人が死亡,18人が負傷。
DIA-202-1970-11-08-1カンボジア1970年11月08日1970年代中国の人民日報はカンボジア王国建国17周年記念を祝って「勝利は必ず英雄的なカンボジア人民のものである」と題する社説を発表。
DIA-202-1970-11-09-1カンボジア1970年11月09日1970年代シアヌーク殿下はカンボジア王国建国17周年に当たり,「カンボジア,ベトナム,ラオス3国人民は共同の敵米侵略者を前にしており,3民族の抗米救国の戦争は切り離せないものである。すべての行動は,3国人民の共同事業の有利な全体から出発しなければならない。インドシナ3国人民はインドシナ人民首脳会議の精神に基づき,引き続き団結し,ともに戦い,ともに勝利するだろう」と述べた。
DIA-202-1970-11-10-1カンボジア1970年11月10日1970年代解放軍はプノンペン北西約70キロにある主要道路の交差点を占拠。
DIA-202-1970-11-11-1カンボジア1970年11月11日1970年代米軍機は政府軍を支援するため,北部の解放軍補給路を爆撃。
DIA-202-1970-11-12-1カンボジア1970年11月12日1970年代民族団結政府のペン・ヌート首相,ハノイを訪問。
DIA-202-1970-11-12-2カンボジア1970年11月12日1970年代解放軍は首都プノンペンの防衛外かく線を攻撃した。またプノンペンの南西24キロの政府軍司令部を攻撃。
DIA-202-1970-11-15-1カンボジア1970年11月15日1970年代解放軍はコンポンチャムの西北7キロの政府軍重要拠点を攻撃,政府軍守備隊は1時間の抵抗の後,撤退。
DIA-202-1970-11-15-2カンボジア1970年11月15日1970年代政府,シアヌーク殿下の令嬢4人を逮捕。
DIA-202-1970-11-15-3カンボジア1970年11月15日1970年代東ドイツ駐在カンボジア大使シソワト・メタビ殿下(マタク副首相の実弟),カンプチア民族統一戦線に参加。
DIA-202-1970-11-16-1カンボジア1970年11月16日1970年代シアヌーク殿下夫妻,中国の革命根拠地延安を訪問。
DIA-202-1970-11-18-1カンボジア1970年11月18日1970年代カンボジア王国民族団結政府のサリン・チャク外相は5日間にわたってパキスタンを友好訪問。
DIA-202-1970-11-19-1カンボジア1970年11月19日1970年代プノンペンの自由通りで一連の爆発事件が起き,軍事輸送車1台,セダン2台が破損,兵士2人と通行人7人が負傷。
DIA-202-1970-11-21-1カンボジア1970年11月21日1970年代カンボジア政府軍の発表によると,解放軍は国道4号線沿いの政府軍陣地を攻撃した。またプノンペン郊外の政府軍最大の火薬庫が解放軍のロケット弾で爆破され,少なくとも20人が死亡,80人以上が負傷した。
DIA-202-1970-11-27-1カンボジア1970年11月27日1970年代シエムリエプ孤立。
DIA-202-1970-11-28-1カンボジア1970年11月28日1970年代政府,プノンペン在住外国人の外出禁止を含む新たな治安対策の強化を決定。
DIA-202-1970-11-30-1カンボジア1970年11月30日1970年代カンボジア王国民族団結政府,ロン・ノル政権が米軍の計画にしたがいラオス南部に1000人のカンボジア軍を進攻させたと非難。
DIA-202-1970-12-01-1カンボジア1970年12月01日1970年代プノンペンの米大使館爆破。
DIA-202-1970-12-01-2カンボジア1970年12月01日1970年代北部戦線で政府軍3万が孤立。
DIA-202-1970-12-03-1カンボジア1970年12月03日1970年代国会,70年度国家修正予算138億3597万6200リエルを可決。
DIA-202-1970-12-03-2カンボジア1970年12月03日1970年代米上院歳出委員会は軍事支出法案を意見書をつけて可決。意見書は「大統領の言明に沿って同法案に基づく支出は,米地上戦闘部隊をラオス,タイ,カンボジアに派遣するために使用しないものとする」と述べている。
DIA-202-1970-12-05-1カンボジア1970年12月05日1970年代政府軍首脳部は防衛線を大幅に後退させ,新しい防衛ライン“ロン・ノル線”を作る予定。ロン・ノル線は北西部のバタムバンからトンレサップ湖の南を通り,東に曲がってコンポチャムに達するもの。
DIA-202-1970-12-09-1カンボジア1970年12月09日1970年代クメール語の新聞ノコルトム(偉大な国)紙は社説で「カンボジア領内の南ベトナム政府軍の行動を非難し,同軍隊の退去を要求する」と述べた。
DIA-202-1970-12-12-1カンボジア1970年12月12日1970年代解放軍,国道7号線の拠点を猛攻。
DIA-202-1970-12-17-1カンボジア1970年12月17日1970年代中国外交部と中・カ友好協会は中国カンボジア友好相互不可侵条約調印10周年記念を祝うレセプションを開催。
DIA-202-1970-12-28-1カンボジア1970年12月28日1970年代政府,新聞の検閲を実施。
DIA-202-1970-12-29-1カンボジア1970年12月29日1970年代米上下両院協議会,米のカンボジア派兵を無条件に禁止する条件をつけて国防調達法を承認。 ラオス
DIA-202-1971-01-01-1カンボジア1971年01月01日1970年代国道4号線上コンポンソム北方61キロで,輸送隊が解放軍に攻撃さる。
DIA-202-1971-01-01-2カンボジア1971年01月01日1970年代南ベトナムで訓練されたカンボジア政府軍3個大隊がコンポンソム港に空輸された。
DIA-202-1971-01-03-1カンボジア1971年01月03日1970年代プノムペン北方70キロ,国道7号線上のPrey Totung南で政府軍と解放軍が激戦。
DIA-202-1971-01-04-1カンボジア1971年01月04日1970年代国道7号線上の南ベトナム国境に近いKrek町近くで南ベトナム政府軍が作戦。
DIA-202-1971-01-05-1カンボジア1971年01月05日1970年代メコン河をさかのぼってプノムペンに向う軍用船団がネアクルン南方で待伏せ攻撃を受ける。
DIA-202-1971-01-06-1カンボジア1971年01月06日1970年代ニクソン大統領,対外追加援助支出権限法に署名,カンボジアへの2億5500万ドル援助が含まれる。その内,新規援助は1億5500万ドル,この法律には「米地上戦闘部隊と軍事顧問のカンボジアへの派遣を禁ずる」との条項がつけられている。
DIA-202-1971-01-07-1カンボジア1971年01月07日1970年代ウェイアンド南ベトナム派遣米軍副司令官,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-01-08-1カンボジア1971年01月08日1970年代4号線作戦参加のため,南ベトナム政府軍2個大隊がコンポンスプーに到着。
DIA-202-1971-01-08-2カンボジア1971年01月08日1970年代Keat Chhon団結政府官房長官は声明を発表し,米国,タイ,南ベトナムがカンボジアの大陸棚に境界線をひき,鉱物資源石油を略奪していると非難した。
DIA-202-1971-01-11-1カンボジア1971年01月11日1970年代南ベトナム政府軍2,000人が国道1号線作戦に投入される。
DIA-202-1971-01-13-1カンボジア1971年01月13日1970年代南ベトナム政府軍5,300人とカンボジア軍8,000人が合同で国道4号線打開作戦開始(25日まで)現在カンボジアに駐留する南ベトナム軍は合計1万4300人。
DIA-202-1971-01-13-2カンボジア1971年01月13日1970年代キ南ベトナム副大統領,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-01-14-1カンボジア1971年01月14日1970年代シアヌーク統一戦線議長,クメール人民にあて13号メッセージ発表。
DIA-202-1971-01-14-2カンボジア1971年01月14日1970年代米国防総省スポークスマンは,ベトナムの米軍が南ベトナム軍をカンボジアに輸送し得ることを明らかにした。
DIA-202-1971-01-14-3カンボジア1971年01月14日1970年代4号線上,Stung Chay村で南ベトナム政府軍が解放勢力と激戦。
DIA-202-1971-01-14-4カンボジア1971年01月14日1970年代米機B52の8機が4号線沿いの2地点を爆撃。
DIA-202-1971-01-15-1カンボジア1971年01月15日1970年代政府,新聞の事前検閲制廃止。
DIA-202-1971-01-17-1カンボジア1971年01月17日1970年代ガソリン輸送船団がプノムペン到着。
DIA-202-1971-01-17-2カンボジア1971年01月17日1970年代南ベトナム政府軍,ミモト一帯および1号線スベイリエンで作戦開始。
DIA-202-1971-01-17-3カンボジア1971年01月17日1970年代南ベトナム政府軍司令部発表「南ベトナムのタイニン省に接するカンボジア領で行なわれていた作戦終了」
DIA-202-1971-01-18-1カンボジア1971年01月18日1970年代シアヌーク民族統一戦線議長,同戦線中央委政治局,王国民族団結政府,北京でアピール発表。
DIA-202-1971-01-18-2カンボジア1971年01月18日1970年代サイゴン米軍司令部発表,「カンボジアでの作戦支援のため空から補給,これにはシャム湾の米第7鑑隊ヘリ空母も参加」
DIA-202-1971-01-19-1カンボジア1971年01月19日1970年代シアヌーク殿下,アメリカの新たな侵略を糾弾する声明発表。
DIA-202-1971-01-20-1カンボジア1971年01月20日1970年代ロンノル首相,サイゴン訪問。
DIA-202-1971-01-20-2カンボジア1971年01月20日1970年代レアード米国防長官,記者会見で言明-「カンボジアへの地上戦闘部隊派遣禁止の議会決議を守るが,軍事援助は行ない,カンボジアでの米空,海軍力の行使は続ける」
DIA-202-1971-01-21-1カンボジア1971年01月21日1970年代政府,北ベトナム政府に対し,カンボジア領内で捕えられた北ベトナム,ベトコン捕虜と行方不明になっている外人記者の交換を提案。
DIA-202-1971-01-22-1カンボジア1971年01月22日1970年代南ベトナム・カンボジア両政府,5協定に調印。
DIA-202-1971-01-22-2カンボジア1971年01月22日1970年代解放軍,プノムペン空港を攻撃-解放軍,チュルイチャンバ海軍基地を砲撃,プノムペンで南ベトナム大使公邸爆破さる。
DIA-202-1971-01-23-1カンボジア1971年01月23日1970年代日本カンボジア通商協定を72年2月14日まで延長することをとり決めた文書交換。
DIA-202-1971-01-23-2カンボジア1971年01月23日1970年代シェムリエプの政府軍3個大隊,国道4号線作戦中の第7旅団など,プノムペン防衛に呼戻される。
DIA-202-1971-01-23-3カンボジア1971年01月23日1970年代プノムペンで警察移民局,爆破さる。
DIA-202-1971-01-23-4カンボジア1971年01月23日1970年代シアヌーク統一戦線議長,ペン・ヌート団結政府首相はキュー・サムファン国防相に電報を送り民族解放武装勢力のプノムペン空港でおさめた勝利を祝った。
DIA-202-1971-01-23-5カンボジア1971年01月23日1970年代北京の王国民族団結政府は,チャン・ナム・チュン,南ベトナム臨時革命政府がキュー・サムファン国防相あてに送った4号線とプノムペン空港での勝利を祝う電報を受取った。
DIA-202-1971-01-23-6カンボジア1971年01月23日1970年代解放軍,プノムペン南方30キロのSaangを攻撃。
DIA-202-1971-01-25-1カンボジア1971年01月25日1970年代米国防総省スポークスマン言明「クーパー・チャーチ修正条項は,カンボジア兵訓練のために米軍要員を派遣することを禁じたものとは解釈していない」
DIA-202-1971-01-25-2カンボジア1971年01月25日1970年代政府軍20個大隊がプノムペン北西方および西方で反撃掃討作戦開始。
DIA-202-1971-01-25-3カンボジア1971年01月25日1970年代プノムペン国際空港再開。
DIA-202-1971-01-25-4カンボジア1971年01月25日1970年代チュー大統領,ネアクルンの南ベトナム軍を視察。
DIA-202-1971-01-26-1カンボジア1971年01月26日1970年代米国防総省発表,「カンボジアに対し航空機供与」「米軍事援助チームがカンボジアへ」
DIA-202-1971-01-26-2カンボジア1971年01月26日1970年代シアヌーク・民族統一戦線議長,ベトナム民主共和国訪問,2月9日北京に帰る。10日シアヌーク議長とトン・ドク・タン主席の共同声明発表。
DIA-202-1971-01-27-1カンボジア1971年01月27日1970年代米海軍から8隻の河川しょう戒艇が引渡される。
DIA-202-1971-01-28-1カンボジア1971年01月28日1970年代プノムペンの公式筋言明,60人の米軍要員からなる兵器供与チームが数週間内にカンボジアに派遣される。
DIA-202-1971-02-01-1カンボジア1971年02月01日1970年代シンバル駐日大使,第2次プレクトノット計画貸付け協定に調印。
DIA-202-1971-02-04-1カンボジア1971年02月04日1970年代ド・カオ・チ中将指揮のもとに新たに投入された南ベトナム政府軍2,500人を加えてコンポンチャム州999ゴム園地帯で作戦開始,南ベトナム政府軍10個大隊,カンボジア政府軍3個大隊が参加。
DIA-202-1971-02-04-2カンボジア1971年02月04日1970年代コンポンチャム北方30キロで南ベトナム政府軍が解放軍と激戦。死者7人,負傷者28人の損害。
DIA-202-1971-02-05-1カンボジア1971年02月05日1970年代国家非常事態宣言6カ月延長。
DIA-202-1971-02-06-1カンボジア1971年02月06日1970年代杉浦日本大使,チェンヘン国家元首に信任状提出。
DIA-202-1971-02-06-2カンボジア1971年02月06日1970年代国会,共和国憲法草案起草委員会の設立法可決。
DIA-202-1971-02-06-3カンボジア1971年02月06日1970年代コンポンチャム東南東10キロで南ベトナム政府軍と解放軍が激戦,死者10人,負傷者37人の損害。
DIA-202-1971-02-08-1カンボジア1971年02月08日1970年代ロンノル首相,病気で倒れる。
DIA-202-1971-02-08-2カンボジア1971年02月08日1970年代Koun Wick外相,マレーシア訪問。
DIA-202-1971-02-09-1カンボジア1971年02月09日1970年代南ベトナム政府軍,スヌールで解放軍と激戦,死者10人,負傷者28人の損害。
DIA-202-1971-02-09-2カンボジア1971年02月09日1970年代南ベトナム政府軍4個大隊と軽騎兵連隊,1号線北で作戦。
DIA-202-1971-02-09-3カンボジア1971年02月09日1970年代シアヌーク民族統一戦線議長,ラオス辺境某地でスファヌボン・ラオス愛国戦線党議長と会談,11日共同声明発表。
DIA-202-1971-02-11-1カンボジア1971年02月11日1970年代プノムペン海軍基地砲撃さる。
DIA-202-1971-02-13-1カンボジア1971年02月13日1970年代ロンノル首相名のラジオ声明「政治軍事の責任をシリクマタク中将に委任」
DIA-202-1971-02-13-2カンボジア1971年02月13日1970年代ロンノル首相,治療のためホノルルへ。
DIA-202-1971-02-16-1カンボジア1971年02月16日1970年代プルサト州知事殺さる。
DIA-202-1971-02-17-1カンボジア1971年02月17日1970年代米・カンボジア援助協議,米国は緊急輸入資金として1000万ドルを供与。
DIA-202-1971-02-21-1カンボジア1971年02月21日1970年代ネアクルン東の1号線上の橋,破壊さる。
DIA-202-1971-02-21-2カンボジア1971年02月21日1970年代Vihear Suorで作戦中の政府軍攻撃さる。
DIA-202-1971-02-23-1カンボジア1971年02月23日1970年代1号線沿い,南ベトナム国境近くのBavetの政府軍,解放軍に攻撃さる,死者4人,負傷者27人の損害。
DIA-202-1971-02-24-1カンボジア1971年02月24日1970年代南ベトナム政府軍1,500人,ネアクルン東で作戦開始。
DIA-202-1971-02-26-1カンボジア1971年02月26日1970年代首相府コミュニケ,物価上昇阻止について国民の協力を呼びかけ。
DIA-202-1971-02-26-2カンボジア1971年02月26日1970年代Koun Wick外相,オーストラリア訪問。
DIA-202-1971-02-27-1カンボジア1971年02月27日1970年代国道7号北鈎針地区で南ベトナム政府軍。解放軍に攻撃さる,死者6人,負傷者53人の損害。
DIA-202-1971-02-28-1カンボジア1971年02月28日1970年代シリク・マタク首相代理記者会見「ロンノル首相は帰国後復職する,北ベトナムは補給に困難を来たしている。ソ連が活動再開の努力をしているという動きはない」
DIA-202-1971-02-28-2カンボジア1971年02月28日1970年代プノムペン東方80キロ,1号線の政府軍,解放軍に攻撃さる,死者4人の損害。
DIA-202-1971-03-02-1カンボジア1971年03月02日1970年代解放軍,コンポンソム精油所を砲撃。
DIA-202-1971-03-02-2カンボジア1971年03月02日1970年代米,カンボジア経済援助協定調印,米国は,①1000万ドルのの緊急輸入,②850万ドルの余剰農産物援助を供与。
DIA-202-1971-03-02-3カンボジア1971年03月02日1970年代銀行業自由化法公布。
DIA-202-1971-03-04-1カンボジア1971年03月04日1970年代政府軍,4号線打開作戦。
DIA-202-1971-03-08-1カンボジア1971年03月08日1970年代Koun Wick外相,佐藤首相と会見,米5万トンの援助を要請。
DIA-202-1971-03-08-2カンボジア1971年03月08日1970年代Chup・ゴム園南端の南ベトナム政府軍陣地,解放軍に攻撃さる,死者4人,負傷者40人の損害。
DIA-202-1971-03-15-1カンボジア1971年03月15日1970年代Vihear Suor南東12キロ(プノムペン北東24キロ)で戦闘,政府軍死者5人,負傷者10人。
DIA-202-1971-03-16-1カンボジア1971年03月16日1970年代王政復古クーデタ未遂。
DIA-202-1971-03-17-1カンボジア1971年03月17日1970年代国防省でシリク・マタク首相代理演説「ラオス作戦により敵は後方を分断された,現在は第3局面にあり,弱められた敵は転覆活動に転じた。ロンノル首相の指示により今日から人民戦争を全面的に開始する」
DIA-202-1971-03-17-2カンボジア1971年03月17日1970年代Chup・ゴム園近くのSuong北東6キロで南ベトナム政府軍が解放軍と交戦,死者8人,負傷者50人。
DIA-202-1971-03-18-1カンボジア1971年03月18日1970年代Vihear Suorで政府軍と解府軍が激戦。
DIA-202-1971-03-20-1カンボジア1971年03月20日1970年代政府,戦略村計画を実施,プノンペンとウドンの家族が戦略村に収容。
DIA-202-1971-03-24-1カンボジア1971年03月24日1970年代解放軍,プノムペン空港の輸送キャンプを砲撃。
DIA-202-1971-03-25-1カンボジア1971年03月25日1970年代解放軍,4号線ピクニル峠で政府軍輸送隊を攻撃。
DIA-202-1971-03-27-1カンボジア1971年03月27日1970年代アメリカからの経済援助1000万ドル追加協定調印。
DIA-202-1971-03-29-1カンボジア1971年03月29日1970年代軍事法廷,元クラチエ州知事に死刑判決。
DIA-202-1971-04-01-1カンボジア1971年04月01日1970年代国会,共和国憲法起草拡大委設置令を可決,20日公布。
DIA-202-1971-04-01-2カンボジア1971年04月01日1970年代南ベトナム政府軍,デルタからカンボジア領へ新作戦開始。
DIA-202-1971-04-05-1カンボジア1971年04月05日1970年代解放軍,コンポンチャム市周辺の政府軍陣地を攻撃,メコン河東岸Kg.Russeyに200発の砲弾を浴びせ地上攻撃,政府軍死者20人,負傷者100人。
DIA-202-1971-04-07-1カンボジア1971年04月07日1970年代政府軍と解放軍,国道4号線で激戦,政府軍死者20人の損害。
DIA-202-1971-04-12-1カンボジア1971年04月12日1970年代ロンノル首相,ハワイから帰国。
DIA-202-1971-04-15-1カンボジア1971年04月15日1970年代ChupとKrekの間のKandol Chrumにある南ベトナム政府軍第5レンジャー部隊司令部,解放軍に攻撃さる(サイゴン北西145キロ)。
DIA-202-1971-04-15-2カンボジア1971年04月15日1970年代14,15両日解放軍,メコン河東岸Kandol Chramn北西5キロの南ベトナム政府軍に500発の砲弾を浴びせる。
DIA-202-1971-04-16-1カンボジア1971年04月16日1970年代政府軍,国道4号線打開作戦,ピクニル峠で包囲されている降下部隊1,000人の救出のため,9,000人のクメールクロム部隊投入。
DIA-202-1971-04-20-1カンボジア1971年04月20日1970年代ロンノル首相辞任。
DIA-202-1971-04-21-1カンボジア1971年04月21日1970年代両院合同会議はロンノル将軍を元帥に指名。
DIA-202-1971-04-23-1カンボジア1971年04月23日1970年代ロンノル前首相,再組閣に乗出す。
DIA-202-1971-04-24-1カンボジア1971年04月24日1970年代解放軍,プノムペンにロケット砲3発を撃ち込む。
DIA-202-1971-04-28-1カンボジア1971年04月28日1970年代国道4号線上Troeung Trayingの政府軍,解放軍と激戦,政府軍死傷者65人。
DIA-202-1971-04-29-1カンボジア1971年04月29日1970年代ロンノル将軍,再組閣を断念。チェンヘン元首,シリク・マタク氏を後任に指名。
DIA-202-1971-04-30-1カンボジア1971年04月30日1970年代シリク・マタク氏,組閣を辞退。チェンヘン元首,チュオプヘル氏に組閣要請。
DIA-202-1971-05-01-1カンボジア1971年05月01日1970年代チュオプヘル氏,組閣辞退。チェンヘン元首,インタム国会議長に組閣要請。
DIA-202-1971-05-03-1カンボジア1971年05月03日1970年代首班指名についての首脳会議,インタム氏はロンノル将軍に組閣要請,ロンノル将軍はマタク氏が首相の職務を代行することを条件に受諾。
DIA-202-1971-05-06-1カンボジア1971年05月06日1970年代ロンノル新内閣,国会で信任さる。シリクマタク首相代行演説「新内閣の任務は,①ベトコン,北ベトナムを追い払う,②新憲法制定,③経済問題の解決にある」
DIA-202-1971-05-11-1カンボジア1971年05月11日1970年代国会議長にYem Sambaur氏選出さる。
DIA-202-1971-05-11-2カンボジア1971年05月11日1970年代おうむの口ばし地区で南ベトナム政府軍作戦。
DIA-202-1971-05-15-1カンボジア1971年05月15日1970年代南ベトナム政府軍数千人,おうむの口ばし地区で新作戦開始。
DIA-202-1971-05-20-1カンボジア1971年05月20日1970年代国道3号線で政府軍新作戦,Lon Non中佐指揮。
DIA-202-1971-05-22-1カンボジア1971年05月22日1970年代アーウイン米国務次官,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-05-25-1カンボジア1971年05月25日1970年代キエム南ベトナム首相,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-05-25-2カンボジア1971年05月25日1970年代プノムペン市,商店看板,公共建物内での会話にカンボジア語使用を指示。
DIA-202-1971-05-26-1カンボジア1971年05月26日1970年代解放軍,スヌールの南ベトナム政府軍を攻撃。
DIA-202-1971-05-27-1カンボジア1971年05月27日1970年代非常事態宣言,6カ月延長。
DIA-202-1971-05-27-2カンボジア1971年05月27日1970年代政府軍と解放軍プノムペン北25キロPreah Prasapで戦闘。
DIA-202-1971-05-30-1カンボジア1971年05月30日1970年代学生,青年,ウドンの商店を襲う。
DIA-202-1971-05-31-1カンボジア1971年05月31日1970年代スヌールの南ベトナム政府軍2,500人撤退,増援部隊3,000人もスヌールを奪回できず。5日間の激戦で南ベトナム政府軍は死傷300人以上の損害。
DIA-202-1971-05-31-2カンボジア1971年05月31日1970年代チェンヘン元首,国会開会演説「すべての問題はベトコン,北ベトナムの侵略から起っている。相手がクメール共和国の独立,主権,中立,領土保全を尊重するなら領土内での戦争を終結し,交渉に応じる,交渉の前に外国軍は撤退せねばならぬ」。
DIA-202-1971-05-31-3カンボジア1971年05月31日1970年代アメリカと経済援助協定調印,5000万ドル。
DIA-202-1971-06-01-1カンボジア1971年06月01日1970年代プノムペンの米援助要員宿舎で爆発事件,米人3人負傷。
DIA-202-1971-06-01-2カンボジア1971年06月01日1970年代政府軍,プノムペン東23キロChamlangおよびPrey Baingで戦闘,政府軍死傷50人。
DIA-202-1971-06-02-1カンボジア1971年06月02日1970年代ニクソン米大統領は1972会計年度のカンボジアへの経済援助として1億1000万ドルを要請,なおこれまでの援助額は軍事援助1億8500万ドル,経済援助7000万ドルであった。
DIA-202-1971-06-04-1カンボジア1971年06月04日1970年代Koun Wick外相,ラム南ベトナム外相との間に密輸防止協定調印。
DIA-202-1971-06-06-1カンボジア1971年06月06日1970年代民族団結政府のキュー・サムファン国防相,民族解放軍最高司令官に任命さる。
DIA-202-1971-06-08-1カンボジア1971年06月08日1970年代政府軍と解放軍,プノムペン東北20キロプレイトムで激戦,政府軍死傷80人。
DIA-202-1971-06-15-1カンボジア1971年06月15日1970年代政府軍と解放軍,メコン東岸Prek Tameak付近で激戦,政府軍死者9人。
DIA-202-1971-06-15-2カンボジア1971年06月15日1970年代プノムペン,モノロムホテル前でテロ事件。
DIA-202-1971-06-16-1カンボジア1971年06月16日1970年代政府軍と解放軍,コンポンスプー州Tram Khnar北西4キロで激戦,政府軍死傷者55人。
DIA-202-1971-06-17-1カンボジア1971年06月17日1970年代林彪中国国防相がキュー・サムファン解放軍総司令官就任に祝電。
DIA-202-1971-06-18-1カンボジア1971年06月18日1970年代政府軍5,000人,Nou Tho准将指揮下にメコン東岸で作戦開始。
DIA-202-1971-06-24-1カンボジア1971年06月24日1970年代日本援助のフェリー・ボート2隻到着。
DIA-202-1971-06-26-1カンボジア1971年06月26日1970年代政府軍6,000人がメコン河東(ビヒアスオルからモアトクラサスにかけ)で新作戦。
DIA-202-1971-06-29-1カンボジア1971年06月29日1970年代Koun Wick外相,台湾訪問。
DIA-202-1971-06-29-2カンボジア1971年06月29日1970年代政府軍6,000人,メコン東岸で新作戦開始,すでに作戦中の5,000人に合流。
DIA-202-1971-07-01-1カンボジア1971年07月01日1970年代Long Boret情報相,大陸棚問題について記者会見。
DIA-202-1971-07-05-1カンボジア1971年07月05日1970年代国会開会,71年度予算案審議。
DIA-202-1971-07-08-1カンボジア1971年07月08日1970年代南ベトナム政府軍3,000人がおうむの口ばし地区で新作戦。
DIA-202-1971-07-16-1カンボジア1971年07月16日1970年代赤道ギニア,シアヌーク政府を正式承認。
DIA-202-1971-07-17-1カンボジア1971年07月17日1970年代プノムペン軍事法廷,ナラリト,ナラディポ両殿下に無罪の判決。
DIA-202-1971-07-20-1カンボジア1971年07月20日1970年代カンボジア領内の南ベトナム政府軍,クレクからミモトに至る国道7号線沿いに再集結。
DIA-202-1971-07-22-1カンボジア1971年07月22日1970年代シアヌーク議長,北朝鮮訪問。
DIA-202-1971-07-22-2カンボジア1971年07月22日1970年代カンボジア紙がシアヌーク殿下との直接交渉を提起。
DIA-202-1971-07-23-1カンボジア1971年07月23日1970年代国会,クン・タイ・リ経済・補給相解任を決議。
DIA-202-1971-07-26-1カンボジア1971年07月26日1970年代政府軍5,000人,コンポンチュナン州東側地域で新作戦。
DIA-202-1971-07-26-2カンボジア1971年07月26日1970年代ロンノル首相,ラジオで言明「54年ジュネーブ協定に基づき外国軍は撤退せねばならぬ。中国は調印国の一部である」
DIA-202-1971-07-28-1カンボジア1971年07月28日1970年代南ベトナム政府軍3,500人,おうむの口ばし地区に進攻。
DIA-202-1971-07-30-1カンボジア1971年07月30日1970年代シアヌーク統一戦線議長,クメール人民にあて24号メッセージを発表。
DIA-202-1971-08-01-1カンボジア1971年08月01日1970年代レ・ドク・ト顧問,北京でペン・ヌート首相と会談。
DIA-202-1971-08-06-1カンボジア1971年08月06日1970年代シリク・マタク首相代行を団長とするカンボジア政府代表団,訪米のためプノムペン出発。
DIA-202-1971-08-07-1カンボジア1971年08月07日1970年代セネガル,シアヌーク政府承認。
DIA-202-1971-08-08-1カンボジア1971年08月08日1970年代政府軍,Lon Non大佐指揮下にTram Khnar,Srang地区で新作戦。
DIA-202-1971-08-08-2カンボジア1971年08月08日1970年代キュー・サムファン民族団結政府副首相は,シアヌーク統一戦線議長にメッセージを送り,7月30日付のシアヌーク議長のメッセージを支持した。
DIA-202-1971-08-10-1カンボジア1971年08月10日1970年代シリク・マタク首相代行,ニクソン米大統領と会談。
DIA-202-1971-08-16-1カンボジア1971年08月16日1970年代政府軍,ネアクルンの南ベトナム政府軍基地閉鎖と撤兵を要求。
DIA-202-1971-08-16-2カンボジア1971年08月16日1970年代周恩来中国首相,シアヌーク殿下と会談。
DIA-202-1971-08-17-1カンボジア1971年08月17日1970年代カンボジア軍事代表団,サイゴンで南ベトナム軍事代表団と戦闘肩代り問題について会談。
DIA-202-1971-08-19-1カンボジア1971年08月19日1970年代政府軍4,000人,Fernandez准将指揮下にコンポンスプー州で新作戦開始。
DIA-202-1971-08-19-2カンボジア1971年08月19日1970年代統一戦線,民族団結政府国内特使イエン・サリ氏は北京に到着。
DIA-202-1971-08-20-1カンボジア1971年08月20日1970年代政府軍1万5000人,Hou Hang Sin准将指揮下にコンポントム州タンコクで新作戦開始。
DIA-202-1971-08-25-1カンボジア1971年08月25日1970年代ソン・ゴク・タン氏,経済,補給委員長に就任。
DIA-202-1971-08-25-2カンボジア1971年08月25日1970年代シリク・マタク首相代行,訪日。
DIA-202-1971-08-26-1カンボジア1971年08月26日1970年代プノムペン軍事法廷,華商2人に死刑判決。
DIA-202-1971-08-30-1カンボジア1971年08月30日1970年代シリク・マタク首相代行,帰国。
DIA-202-1971-09-01-1カンボジア1971年09月01日1970年代国会,台北に代表部設置を決定。
DIA-202-1971-09-02-1カンボジア1971年09月02日1970年代統一戦線代表団(ズオン・サム・オル団長)訪ソ,10日ソ連,同戦線の綱領を支持するとのコミュニケ発表。
DIA-202-1971-09-03-1カンボジア1971年09月03日1970年代カンボジア政府,マレーシアと大使級外交関係を結ぶことに合意。
DIA-202-1971-09-07-1カンボジア1971年09月07日1970年代アメリカ援助の農産物を40万ドル増額させる協定に調印。
DIA-202-1971-09-07-2カンボジア1971年09月07日1970年代クドリャフツェフ・ソ連大使更迭。
DIA-202-1971-09-08-1カンボジア1971年09月08日1970年代Koun Wick外相言明,来年半ばまでに南ベトナム政府軍の撤兵について協議中。
DIA-202-1971-09-09-1カンボジア1971年09月09日1970年代マッケーン米太平洋軍司令官,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-09-15-1カンボジア1971年09月15日1970年代国会,Yem Sambaur議長不信任案を否決。
DIA-202-1971-09-15-2カンボジア1971年09月15日1970年代Koun Wick外相,国連総会出席のため出発。
DIA-202-1971-09-17-1カンボジア1971年09月17日1970年代国会,政府提出の非常事態法6カ月延長を否決,10月中旬まで延長。
DIA-202-1971-09-20-1カンボジア1971年09月20日1970年代プノムペン市内の石油貯蔵施設砲撃さる。
DIA-202-1971-09-23-1カンボジア1971年09月23日1970年代インタム内相担当第1副首相,解任さる,後任にチムグオン官房長官が兼任。
DIA-202-1971-09-24-1カンボジア1971年09月24日1970年代日本政府,カンボジアに米2万トンをおくることを決定。
DIA-202-1971-09-25-1カンボジア1971年09月25日1970年代プレクトノット・ダム建設現場,攻撃さる。
DIA-202-1971-09-26-1カンボジア1971年09月26日1970年代米大使公邸近くで手投げ弾爆発,米大使館員2人が死亡。
DIA-202-1971-09-30-1カンボジア1971年09月30日1970年代カンボジア・台湾経済交渉合意。
DIA-202-1971-09-30-2カンボジア1971年09月30日1970年代キュー・サムファン氏ら解放区の知識人91人声明発表。
DIA-202-1971-10-07-1カンボジア1971年10月07日1970年代7日から27日まで北京で,イエン・サリ特使を含めて,民族団結政府,統一戦線が重要会議。
DIA-202-1971-10-10-1カンボジア1971年10月10日1970年代コンポントム州タンコク北東で激戦,政府軍死傷者22人。
DIA-202-1971-10-16-1カンボジア1971年10月16日1970年代チェンヘン元首発表,18日以降,上下両院を制憲議会に移行。
DIA-202-1971-10-18-1カンボジア1971年10月18日1970年代新内閣成立-首相Lon Nol,首相代行兼国防相Sirik Matak,首相府担当第1副首相Tim Nguon,大蔵担当第2副首相Sok Chhong,農村開発担当第3副首相Hang Thun Hak,外相Koun Wick,社会活動相Chau Xeng Ua,工業相Chann Sokhum,情報相Long Boret,農業相Sor Song,法相Danh Sang,公共事業相Khy Taing Lim,厚生省So Satta,文部相Pan Sothi,郵政相Chhieng Kim Suor,内務・治安相Thappana Nginn,商業・補給相Ma Lai Khem。
DIA-202-1971-10-20-1カンボジア1971年10月20日1970年代プノムペンの仏教僧4,000人,国会の解散に抗議してデモ。
DIA-202-1971-10-20-2カンボジア1971年10月20日1970年代ロンノル首相ラジオ,メッセージで言明「われわれは戦争に勝つために団結を守るべき義務がある。われわれには選ぶべき2つの道がある。一つは破壊に通じる古くさい自由民主主義の不毛のゲームを続けることであり,一つはこの無政府状態と闘い勝利に導くことである。新政府は勝利をもたらす方を選んだ」
DIA-202-1971-10-21-1カンボジア1971年10月21日1970年代Sok Chhong蔵相,リエル通貨の変動相場制移行,為替安定基金創設,増税,物価統制などの経済安定計画を発表。
DIA-202-1971-10-27-1カンボジア1971年10月27日1970年代大蔵省令により輸入関税改定,奢侈品に対し戦争支援税課税,29日より適用。
DIA-202-1971-10-28-1カンボジア1971年10月28日1970年代国立銀行,外国為替取引を停止。新平価は1ドル=139.72リエルに設定される。
DIA-202-1971-11-02-1カンボジア1971年11月02日1970年代プノムペン北方110キロ国道6号上のRumlongで激戦,政府軍死傷者250人。
DIA-202-1971-11-02-2カンボジア1971年11月02日1970年代キュー・サムファン民族団結政府副首相,クメール人民に決起を呼びかけるアピールを発表。
DIA-202-1971-11-04-1カンボジア1971年11月04日1970年代アメリカと32万ドル相当の農産物援助協定に調印。
DIA-202-1971-11-06-1カンボジア1971年11月06日1970年代ムーラー米統幕議長,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-11-08-1カンボジア1971年11月08日1970年代制憲議会開会,議長にインタム氏選出。
DIA-202-1971-11-09-1カンボジア1971年11月09日1970年代ロンノル首相は総動員令に関する会議で「共和国憲法は72年1月末には制憲議会で採択され,2月15日には国民投票を行なう」と述べた。
DIA-202-1971-11-09-2カンボジア1971年11月09日1970年代シアヌーク殿下主宰のもとにカンボジア王国独立18周年記念レセプションが開かれ,席上シアヌーク殿下は「カンボジア問題はニクソンがつくり出したものであり,彼のみが解決できる。ニクソン氏がわが国の内政に対する干渉を停止することに同意しないならば,他の者が新しいジュネーブ会議を開いても役に立たぬ」と言明。
DIA-202-1971-11-10-1カンボジア1971年11月10日1970年代プノムペン空港の空軍基地など砲撃さる。
DIA-202-1971-11-10-2カンボジア1971年11月10日1970年代イエン・サリ氏を団長とする統一戦線,民族団結政府代表団,北ベトナムを訪問。17日まで滞在,16日共同声明に調印。
DIA-202-1971-11-13-1カンボジア1971年11月13日1970年代政府軍,国道6号上のRumlongから撤退。
DIA-202-1971-11-14-1カンボジア1971年11月14日1970年代プノムペン空港,砲撃さる。
DIA-202-1971-11-15-1カンボジア1971年11月15日1970年代憲法起草拡大混合委の活動停止。草案は政府に引渡される。
DIA-202-1971-11-16-1カンボジア1971年11月16日1970年代政府軍首脳,サイゴン訪問。
DIA-202-1971-11-17-1カンボジア1971年11月17日1970年代プノムペン西方20キロツオルレアプで激戦,政府軍死傷者100人。政府軍は同地域に1万人の増援部隊を投入して作戦開始。19~20日激戦があり政府軍死者69人,解放軍死者300人。
DIA-202-1971-11-19-1カンボジア1971年11月19日1970年代Sak Sutsakhan参謀次長,サイゴン訪問。
DIA-202-1971-11-19-2カンボジア1971年11月19日1970年代Alexis Johnson米国務次官,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-11-20-1カンボジア1971年11月20日1970年代南ベトナム政府軍首脳,プノムペン訪問。
DIA-202-1971-11-22-1カンボジア1971年11月22日1970年代南ベトナム政府軍数千人,国道7号線および1号線で作戦開始。
DIA-202-1971-11-23-1カンボジア1971年11月23日1970年代(北京)シアヌーク議長,ファン・バン・ドン首相と会談。
DIA-202-1971-11-29-1カンボジア1971年11月29日1970年代南ベトナム政府軍2,500人,Kg,Trach,ネアクルンに進撃。
DIA-202-1971-11-29-2カンボジア1971年11月29日1970年代為替安定基金創設会議がパリで開かれ,カンボジア,オーストラリア,ベルギー,イタリア,日本,韓国,ニュージーランド,英国,米国代表が出席。
DIA-202-1971-12-01-1カンボジア1971年12月01日1970年代(パリ)チャウセン民族団結政府特別任務担当相は記者会見で言明「われわれは国際会議での合意による政治解決であれ,カンボジアの分割には応じない。」
DIA-202-1971-12-02-1カンボジア1971年12月02日1970年代政府軍,プノムペン北方95キロ,国道6号線上のバライから退却。
DIA-202-1971-12-03-1カンボジア1971年12月03日1970年代国道6号線沿いのチェンラⅡ作戦終了。
DIA-202-1971-12-04-1カンボジア1971年12月04日1970年代シアヌーク殿下は,キュー・サムファン副首相兼総司令官に電報を送り,国道6号線でおさめた勝利を祝った。
DIA-202-1971-12-05-1カンボジア1971年12月05日1970年代南ベトナム政府軍,国道1号線で作戦。
DIA-202-1971-12-05-2カンボジア1971年12月05日1970年代プノムペン北西25kのBat Daengで激戦,6日政府軍は同地から撤退。
DIA-202-1971-12-06-1カンボジア1971年12月06日1970年代南ベトナム政府軍,チュプに進撃,17日撤退。
DIA-202-1971-12-06-2カンボジア1971年12月06日1970年代シアヌーク統一戦線議長言明「72年2月下旬ハノイでインドシナ解放勢力首脳会議開催」
DIA-202-1971-12-07-1カンボジア1971年12月07日1970年代政府,憲法草案を制憲議会に引渡し。席上シリク・マタク首相代行は,憲法草案は制憲議会によって承認された後に,国民投票にかけずに暫定的に実施に移すことを明らかにした。
DIA-202-1971-12-07-2カンボジア1971年12月07日1970年代プノムペン,砲撃さる。
DIA-202-1971-12-08-1カンボジア1971年12月08日1970年代南ベトナム政府軍,ダンベで激戦,政府軍死傷者30人,10日撤退。
DIA-202-1971-12-10-1カンボジア1971年12月10日1970年代イエンサリ氏の率いる民族統一戦線・団結政府代表団は朝鮮を訪問し,17日まで滞在』18日北京で共同コミュニケ発表。
DIA-202-1971-12-13-1カンボジア1971年12月13日1970年代南ベトナム政府軍6,000人とカンボジア政府軍4,000人はチュップで作戦開始,17日終了。
DIA-202-1971-12-15-1カンボジア1971年12月15日1970年代政府軍1万人,プノムペン西方で反撃作戦開始。
DIA-202-1972-01-01-1カンボジア1972年01月01日1970年代政府軍1万人が昨年11月6日以来プノムペン西方および北西郊外15~25キロで続けてきた掃討作戦が終了,政府軍の死者157人,負傷者545人,解放勢力側の死者は1,253人。
DIA-202-1972-01-07-1カンボジア1972年01月07日1970年代米軍事援助品105ミリ砲36門がプノムペン空港に到着,政府軍が保有する同タイプの砲は150門になる。カンボジアに対するアメリカの軍事援助で武器・弾薬の形で配布された額は71~72年度2億ドルにのぼる。
DIA-202-1972-01-09-1カンボジア1972年01月09日1970年代(北京発新華社)カンボジア民主婦人協会議長のキュー・ポナリー夫人は最近アピールを発表して次のように述べた。「プノムペンかいらい政権が一時支配している地区で生活している婦人は,米帝とその手先に反対する闘争を断固として繰り広げ,一層多くの婦人が解放区に来て抗米救国闘争に参加せねばならぬ,解放区の婦人は大いに増産につとめ,節約にはげみ抗米救国闘争を堅持せねばならぬ。」
DIA-202-1972-01-11-1カンボジア1972年01月11日1970年代クレクに進攻していた政府軍は,南ベトナム政府軍が突然撤退したため同基地を放棄した。
DIA-202-1972-01-12-1カンボジア1972年01月12日1970年代国道7号クレクの南ベトナム政府軍はこのほど南ベトナム領内に撤収,このためクレクを守備していたカンボジア政府軍第22旅団も南ベトナム領内に撤退。
DIA-202-1972-01-13-1カンボジア1972年01月13日1970年代米,カンボジア政府,72年度PL480農産物援助協定に調印,同協定により米国は1409万ドル相当を供与。物品は綿布,綿糸,タバコ,野菜油,小麦粉。71年度のPL480援助は920万ドル。
DIA-202-1972-01-13-2カンボジア1972年01月13日1970年代米機,プノムペン東110キロ,クレクを爆撃。
DIA-202-1972-01-14-1カンボジア1972年01月14日1970年代為替支持基金会議開催─プノムペン駐在のIMF代表も出席,米,日,豪,ニュージーランド,タイ,マレーシアの6カ国が拠出する意向を表明。
DIA-202-1972-01-14-2カンボジア1972年01月14日1970年代カンボジア西部に配置されていたチャーリー基地の南ベトナム政府軍歩兵部隊4,000人は南ベトナム領内に撤収。南部で作戦していた南ベトナム政府軍も13日,作戦を終了しAngtassomの仮司令部に引揚げ。
DIA-202-1972-01-15-1カンボジア1972年01月15日1970年代フリサラ元外相,プノムペンを脱出してフランスへ。
DIA-202-1972-01-19-1カンボジア1972年01月19日1970年代カンボジア,タイ両国代表はバンコックで国境安全保障協定に調印。これにより国境の安全と漁業に関する合同委員会が設置される。この協定は,国境地帯に両国の連合部隊と共同の警察パトロール隊を置き,両国の軍隊,警察が共産軍を追跡して相手国領内に立入ることを許可しあうことにしている。
DIA-202-1972-01-21-1カンボジア1972年01月21日1970年代(北京)団結政府情報省声明,タイとの国境安全保障協定調印を非難。
DIA-202-1972-01-23-1カンボジア1972年01月23日1970年代マンスフィールド米上院議員は,「パリ会談が失敗に終ったのは,ラオス,カンボジアを除外したからだ」と述べ,両国を加えた全インドシナ和平会談開催を提案し,両国の代表として「カンボジアからはシアヌーク元国家元首,ラオスからはバッタナ国王が適当だ」と述べた。
DIA-202-1972-01-24-1カンボジア1972年01月24日1970年代オーストラリアで対ゲリラ戦法の訓練を受けるため,カンボジア政府軍の第1陣70人がキャンベラ到着。
DIA-202-1972-01-27-1カンボジア1972年01月27日1970年代夜,プレクトノット・ダムに80発の迫撃砲弾が撃ち込まれる。被害なし。
DIA-202-1972-01-28-1カンボジア1972年01月28日1970年代ウエストモランド米陸軍参謀総長はサイゴンからプノムペン入り,ロンノル首相,シリクマタク首相代行らと会談,7時間の滞在の後,ウドンへ。
DIA-202-1972-01-29-1カンボジア1972年01月29日1970年代シエムリエプ・アンコール地区で,Sar Hor少将指揮下に“Angkor Chey”作戦開始。
DIA-202-1972-01-30-1カンボジア1972年01月30日1970年代駐インド・カンボジア大使館当局者は,カンボジアがバングラ・デシュを承認したと発表。
DIA-202-1972-02-01-1カンボジア1972年02月01日1970年代ロン・ボレット情報相は,政府はこれまでに北ベトナムとの和平会談を求めていかなる直接的,間接的接触も持ったことはないと述べた。
DIA-202-1972-02-05-1カンボジア1972年02月05日1970年代(北京)団結政府声明,ニクソン8項目提案のカンボジアに関する部分を拒否。
DIA-202-1972-02-07-1カンボジア1972年02月07日1970年代(北京)民族統一戦線集会,イエンサリ特使出席。決議はニクソンの8項目提案を拒否し,和平交渉の陰謀を非難。
DIA-202-1972-02-07-2カンボジア1972年02月07日1970年代(新華社電・AKI)シアヌーク殿下の息子ノロドム・レアク・ビボン殿下,1月末解放区入り。
DIA-202-1972-02-07-3カンボジア1972年02月07日1970年代(パリ)王位最高委事務局長プン・ペン・チエン夫妻は統一戦線参加を声明。
DIA-202-1972-02-10-1カンボジア1972年02月10日1970年代政府,アンコール・ワット,アンコール・トム遺跡での戦闘を行なう権利を留保する旨警告。
DIA-202-1972-02-11-1カンボジア1972年02月11日1970年代政府軍,アンコール・ワット寺院の包囲作戦(“アンコール・チェイ”)開始,歩兵6,000人以上4個旅団が4方面から作戦を展開。
DIA-202-1972-02-11-2カンボジア1972年02月11日1970年代(北京)中国のカンボジナ(団結政府)に対する72年度経済援助ならびに軍事物資供与に関する協定,北京で調印。
DIA-202-1972-02-12-1カンボジア1972年02月12日1970年代シアヌーク統一戦線議長夫妻は北ベトナムのトン・ドク・タン大統領の招待で同国を非公式訪問するため北京からハノイに到着。
DIA-202-1972-02-14-1カンボジア1972年02月14日1970年代カンダル州,コンポン・スプー州でNou Tho准将指揮下に“Trapeang Thnot-Tuol Leap”作戦開始,28日終了。解放勢力死者2人,政府軍負傷者19人。
DIA-202-1972-02-14-2カンボジア1972年02月14日1970年代ニュージーランド政府は,カンボジア軍を訓練するため18人の軍事訓練団を同国に派遣すると発表,訓練団は南ベトナムのカムラン近くの場所で米軍と協力して訓練に当る。
DIA-202-1972-02-15-1カンボジア1972年02月15日1970年代アンコール・ワット遺跡付近での政府軍と解放軍の衝突はここ2日間激化,解放軍は4,000人,政府軍は最近増強されて5,000人。双方とも大砲で武装されているが,衝突は自動火器に限定されている。
DIA-202-1972-02-15-2カンボジア1972年02月15日1970年代(北京)団結政府首相ペン・ヌート,アンコール遺跡を守るよう僧侶・人民に呼びかけ。
DIA-202-1972-02-18-1カンボジア1972年02月18日1970年代政府軍,48時間の激戦の後,アンコール・ワットの西部地区のネアムルプ寺院,アンコール・トムのバイヨン寺院を奪回。
DIA-202-1972-02-21-1カンボジア1972年02月21日1970年代政府は2月21日から,アメリカ援助による輸入(CIP)を促進するため,銀行が輸入供託金を期限4カ月,年利5%で供与すること,為替レートは前月の平均優先レートを採用することを決めた。但し石油製品,紙,ミルク,肥料は例外。
DIA-202-1972-02-21-2カンボジア1972年02月21日1970年代シエムリエプ市北東地区で,“Angkor Chey”作戦中の政府軍は解放勢力と終日白兵戦を演じ,死者11,負傷者30人の損害を受けた。
DIA-202-1972-02-22-1カンボジア1972年02月22日1970年代AKIによれば,最近ノロドム・フリサラ殿下が解放区入り。
DIA-202-1972-02-25-1カンボジア1972年02月25日1970年代シアヌーク議長,トン・ドク・タン北ベトナム大統領,ファム・バン・ドン首相らと会談,ベトナム通信は,双方が米帝とかいらい政権に対する両国人民の共同の戦いについて意見の一致をみたと報道。
DIA-202-1972-02-27-1カンボジア1972年02月27日1970年代カンボジア政府軍と南ベトナム政府軍は共同で,スベイリエン市東,北,タケオ州Angtassom等での作戦開始。
DIA-202-1972-03-01-1カンボジア1972年03月01日1970年代為替支持基金設置会発効。
DIA-202-1972-03-01-2カンボジア1972年03月01日1970年代コンポントム市南の政府軍陣地を攻撃した解放勢力に対する反撃作戦で,2月20日~3月1日の間に政府軍死者26人,負傷者90人,解放勢力死者400人。
DIA-202-1972-03-01-3カンボジア1972年03月01日1970年代アンコール・ワット近く,シエムリエプ西方20キロ,32キロの政府軍2陣地,解放勢力に攻撃さる。政府軍死者17人,負傷者20人。
DIA-202-1972-03-03-1カンボジア1972年03月03日1970年代国銀,リエルの対米ドル・レートを3.8%切下げ,1ドル買い134.46リエル,売り135.00リエルに設定。5日更に切下げて1ドル買い149.40リエル,売り150.00リエルに設定。
DIA-202-1972-03-03-2カンボジア1972年03月03日1970年代軍事法廷は戦闘中捕えられた北ベトナム軍捕虜3人に死刑の判決を下した。この判決は戦争捕虜の処遇に関する1949年のジュネーブ条約を無視したもの。
DIA-202-1972-03-05-1カンボジア1972年03月05日1970年代2月29日開始された政府軍数個大隊によるシエムリエプ,アンコール地区での“Angkor Chey”作戦で,これまでに政府軍死者77人,負傷者251人,解放勢力死者105人。
DIA-202-1972-03-05-2カンボジア1972年03月05日1970年代シアヌーク議長とトン・ドク・タン北ベトナム大統領の共同声明発表。
DIA-202-1972-03-05-3カンボジア1972年03月05日1970年代シアヌーク議長,ハノイを発ち上海へ。9日の上海発AFP電によれば,3,4日の両日,ハノイで周・シアヌーク会談,周・ドン会談が行なわれた。
DIA-202-1972-03-07-1カンボジア1972年03月07日1970年代マーシャル・グリーン米国務次官補,プノムペン訪問,シリク・マタタ首相代行,コン・ヴィック外相と会談し,ニクソン訪中について説明。このあと空港での記者会見で「我々はクメール人の自衛の努力を今後も支持する」「同時に我々は交渉による解決を追及している」と言明。
DIA-202-1972-03-09-1カンボジア1972年03月09日1970年代(上海)シアヌーク殿下は「周首相が同殿下と北ベトナム首脳に対し完全勝利の日まで中国が全面的支援を与えることを確約した」と言明。
DIA-202-1972-03-10-1カンボジア1972年03月10日1970年代ロンノル氏,国家元首に就任,同氏は放送を通じ,制憲議会の閉鎖を発表,制憲議会は11日に新憲法草案の採決を行なう予定だった。
DIA-202-1972-03-10-2カンボジア1972年03月10日1970年代南ベトナム政府軍4万はトアンタン72B作戦のためカンボジア国境に集結し,9日から2万5000人の兵力による作戦が開始された。10~11日,6,000人がおうむの口ばし地区から西へ進入,10日1号線沿いで大隊規模の戦闘があり解放勢力40人が戦死,政府軍も10人が死傷,11日タケオで戦闘,12日Kg.Trach付近で4時間の戦闘,解放勢力死者11人,政府軍死者2人,負傷者16人。釣針地区への越境部隊の先頭はクレクに到達し,周辺に砲火支援陣地4カ所を再建した。
DIA-202-1972-03-11-1カンボジア1972年03月11日1970年代制憲議会解散令。
DIA-202-1972-03-11-2カンボジア1972年03月11日1970年代情報相は「シリク・マタク氏の首相就任はまだ発表されていない」と言明。
DIA-202-1972-03-12-1カンボジア1972年03月12日1970年代内閣総辞職,但し15日まで機能。
DIA-202-1972-03-12-2カンボジア1972年03月12日1970年代大統領制に関する政令公布,それによれば元首は以後大統領の称号をとり,大統領は内閣と治安会議をもつ。
DIA-202-1972-03-12-3カンボジア1972年03月12日1970年代政府軍レンジャー部隊,スベイリエン州で戦闘,政府軍死傷18人,解放勢力死者12人。
DIA-202-1972-03-13-1カンボジア1972年03月13日1970年代ロンノル国家元首,大統領に就任─3軍総司令官と首相も兼任。14日大統領就任式。式典は突然に行なわれたので各国大使は参列できなかった。
DIA-202-1972-03-16-1カンボジア1972年03月16日1970年代シリク・マタク前首相代行は,ラジオを通じ国民にメッセージを出し「政界から引退する」と発表,同氏は声明の中で「国民の中に私を批判するものがあり,政治的混乱を招いている。このため私は混乱を回避するためロン・ノル大統領に対し政界から引退することを伝えた」と述べた。学生,一部の仏僧,国会議員,ロンノン中佐らは同氏の副大統領ないしは第1国務相就任に反対していた。 ロンノル大統領はシンバル駐日大使に組閣を要請していたが,16日同氏は組閣の意志のないことを伝えた。
DIA-202-1972-03-16-2カンボジア1972年03月16日1970年代プノムペン空港に隣接する空軍基地内の弾薬庫が爆発,弾薬庫内にはナパーム弾をはじめ弾薬数10トンが貯蔵されていた。
DIA-202-1972-03-16-3カンボジア1972年03月16日1970年代(平壌)北朝鮮がカンボジア王国民族団結政府に軍事援助を与えることに関する両国政府間の協定,調印。
DIA-202-1972-03-20-1カンボジア1972年03月20日1970年代政府,新内閣の閣僚名簿を発表─焦点となっていた副大統領は未定。首相に就任したソン・ゴク・タン氏は記者会見で「米国はインドシナから撤退の方針を決めたが,北ベトナムはいぜんわが国に踏みとどまって侵略を続けている。戦争の終結は赤クメールではなく,北ベトナムの出方にかかっている」と発言。 21日発令された新内閣の陣容は次の通り。 Lon Noc元帥:大統領兼閣僚会議議長 Son Ngoc Thanh:首相兼外相 Yem Sambaur:法務担当相 Mau Say:大統領府担当相 Sak Sutsakhan:国防担当相 Phlek Chhat:計画・外国援助・開発担当相 Thappana Nginn:内務・治安・祭祀・在郷軍人・観光担当相 Long Boret:情報相 Chau Xeng Ua:労働・社会活動相 Chhann Sokhum:工業・鉱業・海洋漁業相 Hou Hong:保健・福祉相* Kang Keng:商業相 Un Tramuch:総動員問題相 Sor Song:農業・農林開発相 Khy Taing Lim:住宅・公共事業・通信・運輸相 Ith Thuy:財政相 Thach Chia:教育・文化相 Oung Hiem:プノムペン市庁担当相 *Hou Hong氏は発表直後就任を拒否しYem Sambaur氏が兼任。
DIA-202-1972-03-21-1カンボジア1972年03月21日1970年代解放軍,プノムペン攻撃─解放軍,プノムペンに200発の122ミリロケット弾,迫撃砲弾を撃ち込む。死者110人,負傷者280人,木造家屋272戸が焼失。またプノムペン空港にもロケット弾30発が撃ち込まれ,滑走路に被害があった。同じ頃,Stung Meancheyの国営放送局には決死隊がB-40で攻撃を加えた。
DIA-202-1972-03-24-1カンボジア1972年03月24日1970年代プノムペンのトンレサップ川にかかるチュルイチャンワル橋でプラスチック爆弾が爆発。
DIA-202-1972-03-24-2カンボジア1972年03月24日1970年代南ベトナム政府軍3,000人がクレクを目ざして越境。
DIA-202-1972-03-25-1カンボジア1972年03月25日1970年代解放軍司令部設置─統一戦線と団結政府は北京でコミュニケを発表し,民族解放人民武装勢力最高軍事司令部と,プノムペン市委員会の構成を明らかにした。民族解放人民武装勢力最高軍事司令部の構成は次の通り。議長キュー・サムファン総司令官,副議長サロト・ソル軍作戦部長,同ノン・チェア軍政治部長,同ソ・ワナ軍作戦部副部長。民族統一戦線首都プノムペン市委員会の構成は次の通り。議長ノロドム・フリサラ殿下,副議長チウン・チェウン博士,同キュー・ポナリー夫人。
DIA-202-1972-03-25-2カンボジア1972年03月25日1970年代象牙海岸と大使級の外交関係樹立。
DIA-202-1972-03-25-3カンボジア1972年03月25日1970年代カンポト東30キロ,Kg.Trachで越境作戦を行なっている南ベトナム政府軍機甲部隊に解放勢力は122ミリロケット砲200発を撃ち込み,地上攻撃をかけた。政府軍死者15人,負傷者20人。解放勢力死者15人。
DIA-202-1972-03-25-4カンボジア1972年03月25日1970年代政府軍,コンポンスプー州Kg.Tram東で“Prey Khlar”作戦開始。
DIA-202-1972-03-25-5カンボジア1972年03月25日1970年代解放軍,プノムペン空港の軍民両基地にロケット弾を撃ち込む。
DIA-202-1972-03-26-1カンボジア1972年03月26日1970年代情報省発表:ロンノル大統領はプオン・トン・プノムペン大学長を長とする委員会に新憲法草案の作成を指示,メンバーには草案作成に重要な役割を果たしたロン・ボレット情報相も参加。
DIA-202-1972-03-26-2カンボジア1972年03月26日1970年代カンポト州Kg.Trachの政府軍陣地,ロケット砲攻撃をうける。同地で作戦中のカンボジア・南ベトナム合同軍は23~27日の間に49人の死者を出し解放勢力75人を戦死させた。
DIA-202-1972-03-28-1カンボジア1972年03月28日1970年代政府当局は,プノムペン市民に対し,解放勢力側の首都攻撃に備えて自ら武装し,家屋の下にざんごうを掘るよう指示した。
DIA-202-1972-03-28-2カンボジア1972年03月28日1970年代大統領顧問にPho Proeung,Au Chheun,Laau Bounpa氏任命。
DIA-202-1972-03-28-3カンボジア1972年03月28日1970年代特別軍区(R.M.S)司令官Nou Tho准将からDeng Layom准将に交代。
DIA-202-1972-03-28-4カンボジア1972年03月28日1970年代計画,青年,スポーツ,戦争犠牲者,薬品生産,ラジオ・テレビに関する6つのCommissariat general廃止。
DIA-202-1972-03-29-1カンボジア1972年03月29日1970年代ロンノル大統領は,ラジオを通じ,最近の解放勢力の攻勢について国民向けのメッセージを発表し,次のように述べた。「法と慣習を尊重せねばならぬ。自由が他人の自由を侵害するものであってはならぬ。民主主義はよいが,無政府主義になってはいけない。私は北ベトナムベトコンに勝利するパルチザンである。あるクメール集団が他のクメール集団を踏みつぶしてはならぬ。総動員に従って,政府が援助し,人民が実現し,技術者が補佐するとの方式で国家を建設しよう。」
DIA-202-1972-03-29-2カンボジア1972年03月29日1970年代政府軍司令部はプノムペン全市に特別布告を出し,4月3日前後に共産軍がプノムペン市内に地上攻撃か大規模なロケット砲撃をかけてくるとみて,首都市民に「ナイフ,ライフル銃,剣などをとり,ざんごうを掘って徹底抗戦する」よう要請した。首都周辺には政府軍2万人が防衛線を築いている。
DIA-202-1972-03-29-3カンボジア1972年03月29日1970年代ネアクルン,122ミリロケット砲撃を受ける。
DIA-202-1972-04-01-1カンボジア1972年04月01日1970年代学生連合のイム・ユー・ハイ議長は3週間にわたった反政府行動の終結を宣言し,政府機構の改組を求めた今回の闘争は勝利を収めたと述べた。この日の集会には急進派の指導者達は欠席した。
DIA-202-1972-04-01-2カンボジア1972年04月01日1970年代プレイベン市,砲撃さる。
DIA-202-1972-04-01-3カンボジア1972年04月01日1970年代プノムペン西北30キロのバットデンで戦闘,同地区では数千人がこの3日間掃討作戦を続けている。
DIA-202-1972-04-02-1カンボジア1972年04月02日1970年代憲法委員会,新憲法草案の作成終了(委員長プオン・トン・プノムペン大学長)。
DIA-202-1972-04-04-1カンボジア1972年04月04日1970年代国債発行令発令。償還期限1年以内,額面は5,000から1億リエルまで7種,年利は3カ月物で5.5%,6カ月が6.5%,1年が10%。
DIA-202-1972-04-05-1カンボジア1972年04月05日1970年代シアヌーク殿下,北朝鮮訪問。5月6日金日成首相と共同声明調印。
DIA-202-1972-04-07-1カンボジア1972年04月07日1970年代解放勢力は国道1号と15号をスベイリエン市周辺とプレイベン地区で切断戦闘はなお続行中,Kg.Trachでも戦闘が続いている。
DIA-202-1972-04-08-1カンボジア1972年04月08日1970年代政府軍,Tuol Leap北で“sud de Phnom Baset”作戦開始。
DIA-202-1972-04-12-1カンボジア1972年04月12日1970年代非常事態宣言(71年10月18日発令)を更に6カ月延長。
DIA-202-1972-04-14-1カンボジア1972年04月14日1970年代Kg.Trachで戦闘続く。1週間で南ベトナム政府軍の死者70人,解放勢力死者100人。
DIA-202-1972-04-16-1カンボジア1972年04月16日1970年代解放勢力,プノムペン空港,カンボール弾薬集積基地などを砲撃。
DIA-202-1972-04-19-1カンボジア1972年04月19日1970年代解放勢力はプノムペン南東80キロ,国道1号上のKg.Trabekをほぼ占領,国道1号はChiphou,Prey Phdau,Prasauth,Kg.Trabekなどで解放勢力側に占拠されている。
DIA-202-1972-04-19-2カンボジア1972年04月19日1970年代タケオ市南9キロで戦闘,解放勢力死者35人,政府軍死者5人,負傷13人。
DIA-202-1972-04-20-1カンボジア1972年04月20日1970年代Oudong Meanchey州を新設する法令発布。州都はOudong。
DIA-202-1972-04-20-2カンボジア1972年04月20日1970年代解放勢力,国道1号上のKg.Trabek他6拠点を占領。Kg.Trabekの政府軍1個大隊は孤立し,大隊司令官が捕虜になった。
DIA-202-1972-04-20-3カンボジア1972年04月20日1970年代Angkor Chey作戦中の政府軍はSvay Thom-Pradek間で戦闘,死者52人,負傷250人を出した。
DIA-202-1972-04-21-1カンボジア1972年04月21日1970年代保健・福祉相にUng Su Hai Kim Teng氏任命さる。
DIA-202-1972-04-22-1カンボジア1972年04月22日1970年代3月の全学連によるシリク・マタク不信任決議の際,運動の原動力となった法学部のクイ・ペックはテレビで「今回の憲法草案には言論,政党の自由がない」と批判。
DIA-202-1972-04-24-1カンボジア1972年04月24日1970年代プノムペンの法経学部で憲法批判集会が行なわれ,2,000人の学生が参加したが,野戦警察部隊は戦車4台を動員してこれを包囲,法学部内には小銃,手投げ弾で武装した100人の学生がたてこもっている。学部前には集会の開催を要求する学生2,000人が集まって警察側とにらみあっている。
DIA-202-1972-04-24-2カンボジア1972年04月24日1970年代ソン・ゴク・タン首相発表「クイ・ペックは国民を扇動しており,彼には逮捕状が出ている」。
DIA-202-1972-04-24-3カンボジア1972年04月24日1970年代スベイリエン市西10キロ,スペアントラムの政府軍前進基地で戦闘。
DIA-202-1972-04-26-1カンボジア1972年04月26日1970年代法学部前で学生は憲兵隊の封鎖を突破しようとしたが,憲兵隊は催涙ガスを発射,学生はライフルで応戦し,銃撃戦となり,学生2人が負傷した。
DIA-202-1972-04-27-1カンボジア1972年04月27日1970年代法学部に集まった1,000人の学生は26日の発砲事件に抗議して警戒中の憲兵のジープに投石,このためジープに乗っていた憲兵少佐が学生の解散を命じたが,憲兵隊はライフル銃,催涙ガスを突然発射し,学生3人を死亡させた。
DIA-202-1972-04-30-1カンボジア1972年04月30日1970年代新憲法についての国民投票─内務省は投票総数を180万とふんでいる。政府支配地域の総有権者は220万人。 5月10日内務省発表によると,投票総数165万0331,賛成160万8293(97.45%),反対4万1172,無効866。
DIA-202-1972-04-30-2カンボジア1972年04月30日1970年代国道1号上の要衝バベトは解放勢力の攻撃をうけ,カンボジア政府軍はバベトを撤収して南ベトナム領に避難した。また政府軍はKg.Trachからも撤収した。解放勢力は戦車,ロケット,対空兵器で装備されている。
DIA-202-1972-05-05-1カンボジア1972年05月05日1970年代カンボジア学生連合は,27日の学生射殺事件に抗議して反政府デモを行なった。1万人の学生が参加。
DIA-202-1972-05-06-1カンボジア1972年05月06日1970年代解放勢力,プノムペン市西部をロケット砲撃,市民37人が死亡,192人が負傷。さらにプノムペン市内のサイゴン橋の西側地区を奇襲攻撃,プノムペン中心部から5キロ南,国道2号上のタクマウとの中間にあるチヤクアングレで100人の解放勢力と政府軍が戦闘,チャクアングレ発電所に被害。
DIA-202-1972-05-09-1カンボジア1972年05月09日1970年代ロンノル大統領は5月8日のニクソン演説を歓迎して次のように言明。「クメール政府は米大統領の提案した全面的停戦と国際監視がわが地域における平和回復のために不可欠の第一歩であると考える。クメール政府としては,停戦に続いてクメール領土にいる北ベトナムとベトコンの侵入勢力の撤退が必要であると考える。」
DIA-202-1972-05-09-2カンボジア1972年05月09日1970年代解放勢力,コンポンチュナン市南15キロのSandan政府軍陣地を攻撃,政府軍負傷19人。
DIA-202-1972-05-10-1カンボジア1972年05月10日1970年代ロンノル大統領は,4月30日の国民投票で多数の信任を受けて新憲法を公布し,12日から発効するとの政令に署名。
DIA-202-1972-05-10-2カンボジア1972年05月10日1970年代シリク・マタク中将,大統領特別顧問に任命さる(首相格)。
DIA-202-1972-05-11-1カンボジア1972年05月11日1970年代米B52,プノムペン北方50キロの軍事目標を爆撃。
DIA-202-1972-05-12-1カンボジア1972年05月12日1970年代大統領選挙法公布,立候補者は生来カンボジア国籍であること,カンボジア国籍をもつ両親から出生していること,既婚者であれば配偶者は生来カンボジア国籍であること,選挙日に満40歳以上の年齢をもつことなどの条件を満たさねばならぬ。また公務員・軍人は特別休暇をとらぬ限り立候補できない。
DIA-202-1972-05-12-2カンボジア1972年05月12日1970年代臨時憲法裁判所メンバーにAu Chheun,Lim Kry,Touch Kim,Ray Lomuth,Say Boran,Hem Ketsana氏任命。議長はAu Chheun氏。7月1日,Ray Lomuth氏に代わりTan Bien氏任命。
DIA-202-1972-05-13-1カンボジア1972年05月13日1970年代プノムペンに5発の122ミリロケット砲弾が撃ち込まれる。また日本人経済専門家自宅前でプラスチック爆弾が爆発。
DIA-202-1972-05-15-1カンボジア1972年05月15日1970年代ロンノル大統領は北ベトナム・ベトコン兵士あてにラジオで声明を発表し,次のように述べた。「戦争は終結に向かっている。クメール共和国は北ベトナム・ベトコン部隊が戦争をやめるなら,彼等のためにキャンプを作り,捕虜として扱い,帰国させる。北ベトナム・ベトコンに協力したクメール人はわが軍に帰順せよ。集団で武器をもって帰順するものは進級し,わが軍の隊列に統合される。職につきたいものに補償するために,委員会が設立される。」
DIA-202-1972-05-15-2カンボジア1972年05月15日1970年代政府軍,タケオ州キリボン陣地から撤退,解放勢力の突撃隊はロケット砲,迫撃砲の援護のもとに夜襲をかけた。
DIA-202-1972-05-15-3カンボジア1972年05月15日1970年代(北京)ペン・ヌート団結政府首相,スアン・トイ代表と会見。
DIA-202-1972-05-16-1カンボジア1972年05月16日1970年代大統領選立候補届出締切り,内務省に届出を終えたのはロンノル大統領,インタム前制憲議会議長,シンバル駐日大使,ケオアン前法経学部長,フイムオン大佐(復員兵委員会委員長)の5人。
DIA-202-1972-05-16-2カンボジア1972年05月16日1970年代ロンノル大統領はスイス・テレビとの会見でクメール・ルージュと北京の亡命政府を含めた連合政府を認めるかとの質問に答え「我々はクメール・ルージュを敵と考えていない。共和体制に武力で反対しなければ社会に統合される。しかしわが人民,青年が廃止した王制を夢見る北京のシアヌークの仲間には席がない」と述べた。またパリでのソ連との交渉について,「パリでソ連と交渉する必要はない。したければプノムペンで出来る」と述べた。
DIA-202-1972-05-20-1カンボジア1972年05月20日1970年代鉱物資源規制に関する法令適用条項発令。
DIA-202-1972-05-20-2カンボジア1972年05月20日1970年代解放勢力,コンポントム市南西10キロの政府軍陣地を攻撃,政府軍死者9人,負傷9人。
DIA-202-1972-05-21-1カンボジア1972年05月21日1970年代内務省発表による大統領選立候補者は次の通り。Keo Ann(41歳),Lon Nol(59歳),In Tam(50歳)。
DIA-202-1972-05-26-1カンボジア1972年05月26日1970年代ソン・ゴク・タン首相兼外相は,ロジャース米国務長官あての書簡で,68年7月1日調印の核拡散防止条約にクメール共和国が参加する,と述べた。
DIA-202-1972-05-26-2カンボジア1972年05月26日1970年代解放勢力,スベイリエン市ならびに周辺の政府軍陣地を砲撃。
DIA-202-1972-05-29-1カンボジア1972年05月29日1970年代シアヌーク殿下,北京に帰る。シアヌーク殿下は4月4日から5月7日まで北朝鮮を公式訪問し,その後中国東北地方を旅行していた。
DIA-202-1972-06-04-1カンボジア1972年06月04日1970年代大統領選挙─7日発表された開票結果は次の通り。投票総数105万9505,ロンノル54.93%,インタム24.44%,ケオアン20.61%(8日内務省発表)(その後憲法裁判所がIn Tam,Keo An両氏の申立てにより若干修正した結果を15日に発表)。
DIA-202-1972-06-07-1カンボジア1972年06月07日1970年代7日夜~8日にかけ解放勢力200人,タクマウ市に侵入攻撃。その他Prek Ho,プノムペンも砲撃,政府側死者42人,負傷64人。
DIA-202-1972-06-08-1カンボジア1972年06月08日1970年代この10日間解放勢力に攻撃されていたタケオ州Paing Kasei政府軍陣地に政府軍増援。これまでの戦闘で政府軍死者25人,負傷62人。
DIA-202-1972-06-09-1カンボジア1972年06月09日1970年代6日以来解放勢力に攻撃されていたコンポンチャム州Skoun東7キロ国道7号上のWat Thmei陣地に政府軍到達,周辺で戦闘,政府軍死者15人,負傷24人。 同作戦は17日まで続き,17日国道7号開通,解放勢力死者は合計355人,政府軍死者47人,負傷50人。
DIA-202-1972-06-14-1カンボジア1972年06月14日1970年代プレイベン南東5キロでの戦闘で,政府軍は解放勢力を撃退,政府軍死者2人,負傷17人。
DIA-202-1972-06-19-1カンボジア1972年06月19日1970年代1月19日調印されたタイ・カンボジア治安・国境漁業協定に基づく両国の漁業委員会がバンコックで開会。
DIA-202-1972-06-21-1カンボジア1972年06月21日1970年代国銀,リエル平価を切下げ。1ドル買い160.36リエル,売り161.00リエルに設定。23日更に下がり,1ドル買い186.26リエル,売り187.00リエルに設定。23日外国市場の閉鎖により国銀の平価設定を一時停止,26日適用レートを1ドル買い154.38リエル,売り155.00リエルに設定。
DIA-202-1972-06-22-1カンボジア1972年06月22日1970年代シアヌーク議長は19日から4日間にわたりルーマニアを訪問,22日アルバニアのチラナに到着。同議長はルーマニア滞在中「カンボジアの国土の80%,人口の70%がすでに解放された」ことを強調,チャウシェスク書記長は「ロンノル政権の完全打倒のため援助を惜しまない」と約束。
DIA-202-1972-06-22-2カンボジア1972年06月22日1970年代キュー・サムファン解放軍司令官,徹底抗戦を呼びかけ。
DIA-202-1972-06-25-1カンボジア1972年06月25日1970年代ソン・ゴク・タン首相兼外相とEnders米代理,大使は,1650万2000ドルの輸入資金援助協定と575万7000ドル(73年6月まで)の農産物援助協定に調印,これで72年6月末に終る年度に使えるアメリカの経済援助は5630万ドル。
DIA-202-1972-06-27-1カンボジア1972年06月27日1970年代閣議は政党法案を採択,それによれば政党は25歳以上の100人以上をもって結成されねばならず,政党は共和体制を害するものであってはならぬ,閣議はまたPailin,Banteay Chhmar,Kompong Seilaの3州創設を決定。
DIA-202-1972-06-27-2カンボジア1972年06月27日1970年代新聞法公布。
DIA-202-1972-06-28-1カンボジア1972年06月28日1970年代コナリー米大統領特使,ロンノル大統領と会見。
DIA-202-1972-06-28-2カンボジア1972年06月28日1970年代シアヌーク殿下,アルジェ到着,空港にはブーメデイエン・アルジェリア革命評議会議長が出迎え。7月7日モーリタニアへ。7月14日ユーゴスラビアへ。7月23日アルバニアへ。7月29日北京帰着。
DIA-202-1972-06-28-3カンボジア1972年06月28日1970年代(北京)王国民族団結政府スポークスマン声明「ニクソン政権またはその他の大国が押しつけようと試みている欺まん的な停戦を断固拒否する」「いかなる大国もカンボジアの意志に反してその運命を決定するのを決して許さない」。
DIA-202-1972-06-29-1カンボジア1972年06月29日1970年代大蔵省,国債に関する取決めを発表。
DIA-202-1972-06-29-2カンボジア1972年06月29日1970年代政府軍20個大隊(1万人)は国道1号線の打開作戦を開始,米空軍支援。
DIA-202-1972-07-01-1カンボジア1972年07月01日1970年代政党法発令。
DIA-202-1972-07-02-1カンボジア1972年07月02日1970年代解放勢力,カンポト州Pong Tuk地区の政府軍を砲撃,政府軍死者7人,負傷11人。
DIA-202-1972-07-03-1カンボジア1972年07月03日1970年代ロンノル大統領就任式。
DIA-202-1972-07-04-1カンボジア1972年07月04日1970年代政府軍はIth Suong大佐指揮のもとに国道1号上,プレイベン州Kg.Trabek奪回を目ざす“Sbyra”作戦を開始,激戦の後,24日同町を奪回,7月4日から22日までの間に政府軍死者27人,負傷者250人,解放勢力死者302人。
DIA-202-1972-07-04-2カンボジア1972年07月04日1970年代カンポト州Pong Tukで戦闘,政府軍死者7人,負傷11人。
DIA-202-1972-07-05-1カンボジア1972年07月05日1970年代Richard Sneider米国務省次官補(東アジア担当),ソン・ゴク・タン首相と会見。
DIA-202-1972-07-05-2カンボジア1972年07月05日1970年代タケオ州Angtassomで解放勢力攻勢,村民等7人死,36人負傷。
DIA-202-1972-07-08-1カンボジア1972年07月08日1970年代政府軍,タケオ州Angtassom市奪回作戦,政府軍死者10人,負傷者40人。
DIA-202-1972-07-10-1カンボジア1972年07月10日1970年代Kang Keng商業相辞任,後任にKoch San氏任命。
DIA-202-1972-07-10-2カンボジア1972年07月10日1970年代商業相,75%砕米白米の輸出許可を停止。
DIA-202-1972-07-10-3カンボジア1972年07月10日1970年代Angtassom町奪回作戦中の政府軍は,解放勢力の砲撃を受け死者12人,負傷35人の損害。
DIA-202-1972-07-14-1カンボジア1972年07月14日1970年代国防省通達により,12,13日付けのSangkruos Cheat紙発行停止。同紙は政府が人民をだまし,この2年間,無能力さによって北ベトナム・ベトコンの侵入を許した,と主張した。
DIA-202-1972-07-21-1カンボジア1972年07月21日1970年代ロンノル大統領,ラジオで言明「7月1日から月収2,500リエル以下のサラリーマン,労働者の給料を2,500リエルに引上げ,最低80リエルの日給を保証する。」
DIA-202-1972-07-23-1カンボジア1972年07月23日1970年代Bailey橋が修復され国道5号(プノムペン~パタンバン)再開。
DIA-202-1972-07-23-2カンボジア1972年07月23日1970年代“Angkor Chey”作戦中の政府軍に対し,解放勢力が攻撃,政府軍死者1人,負傷者29人。
DIA-202-1972-07-25-1カンボジア1972年07月25日1970年代南ベトナム政府軍3万2000人,ゲインフオン,キエンツオン両省からおうむの口ばし地区にかけて掃討作戦開始,北方からはカンボジア政府軍3個旅団がはさみうちにする。
DIA-202-1972-07-25-2カンボジア1972年07月25日1970年代政府軍5月10日に解放勢力に奪取されたタケオ市南東30キロKoh Andethを奪回。
DIA-202-1972-07-29-1カンボジア1972年07月29日1970年代シアヌーク殿下は6週間にわたる東欧,北アフリカ訪問旅行を終え,北京に帰着。
DIA-202-1972-07-30-1カンボジア1972年07月30日1970年代情報相コミュニケ,「最近のコナリー氏とヘイグ准将のカンボジア訪問の際,アメリカはカンボジアに対する支援を続けることを確認した」。
DIA-202-1972-07-31-1カンボジア1972年07月31日1970年代大統領令により政府は6カ月間(更新可能)大蔵省の提案にもとづき,政府の経済政策に従った価格水準に調整するため,ならびに商工業活動を活発にするため,租税の割当てを変更できる。
DIA-202-1972-07-31-2カンボジア1972年07月31日1970年代APU総会開会,台湾,インドネシア,日本,カンボジア,韓国,ラオス,フィリピン,南ベトナムが参加。
DIA-202-1972-08-02-1カンボジア1972年08月02日1970年代ラオス・カンボジア郵便通信協定調印。
DIA-202-1972-08-05-1カンボジア1972年08月05日1970年代ロンノル大統領,ソン・ゴク・タン首相他軍幹部,スベイリエン州訪問,スワンク米大使ら各国大使も招かる。難民問題の現状視察。スベイリエン市は今度の攻勢で7日までに4万7000人の難民を受け入れた。
DIA-202-1972-08-06-1カンボジア1972年08月06日1970年代インタム氏の率いる民主党は,9月3日に行なわれる国会選挙をボイコットし,1週間前に内務省に登録ずみの同党の候補者118人の立候補をとりやめると宣言。
DIA-202-1972-08-06-2カンボジア1972年08月06日1970年代解放勢力,プレイベン州Kg.Trabekの政府軍陣地を戦車を含む2個連隊で攻撃,政府軍2個中隊が壊滅。 解放勢力はまた,コンポンチャム州の国道7号上の陣地を攻撃,国道7号はTroeungで切断,政府軍死者2人,負傷21人。 また首都近くTrapeang Veng,Pong Toeuk,Angtasekで戦闘,政府軍死者2人,負傷者27人。
DIA-202-1972-08-07-1カンボジア1972年08月07日1970年代官庁の就業時間を月曜から金曜まで7時半~14時,土曜は7時半から12時に変更,8日から実施。
DIA-202-1972-08-07-2カンボジア1972年08月07日1970年代解放勢力,戦車でプノムペン南東90キロKg.Trabek町を攻撃,同町への政府軍の補給はヘリのみで行なわれている。
DIA-202-1972-08-08-1カンボジア1972年08月08日1970年代Kg.Trabekの戦闘続く,解放勢力は政府軍陣地に500発の砲弾をあびせる。 9日も戦闘続く,6日以来政府軍死者98人,負傷者114人,解放勢力死者240人,戦車24台破壊。
DIA-202-1972-08-10-1カンボジア1972年08月10日1970年代(ジョージタウン)非同盟諸国会議はシアヌーク政権の同会議加盟を承認。
DIA-202-1972-08-11-1カンボジア1972年08月11日1970年代政府声明「①難民の数は南ベトナムでの北の攻勢以来,スベイリエン,プレイベン,カンダル,タケオ,カンポットなどで特に増大している。②8月6日以来,Kg.Trabek戦で北はソ連製戦車を出動させている」。
DIA-202-1972-08-11-2カンボジア1972年08月11日1970年代未明,政府軍は解放勢力の反撃にあいアンコール・ワット北西Phnom Bakhenの陣地から撤退。
DIA-202-1972-08-16-1カンボジア1972年08月16日1970年代解放勢力,プノムペンの空港に122ミリロケット6発を撃ち込む。
DIA-202-1972-08-18-1カンボジア1972年08月18日1970年代ロンノル大統領はソン・ゴク・タン首相兼外相を外相のポストからはずし,外相の後任にロン・ボレット情報相を任命。
DIA-202-1972-08-18-2カンボジア1972年08月18日1970年代解放勢力,国道5号沿いの各地で攻勢。プノムペン北西140キロKbal Damrei,Trapeang Chanの2政府軍陣地を奪取。同陣地を守備していた180人の政府軍兵士が戦死し,付近の陣地に逃げたのは30人にすぎなかった。
DIA-202-1972-08-22-1カンボジア1972年08月22日1970年代アダム・マリク・インドネシア外相,プノンペン訪問,ASEANの平和プランについて討議するため。
DIA-202-1972-08-23-1カンボジア1972年08月23日1970年代解放勢力,プノムペン南40キロ国道3号上のアンタソムを攻撃。 Kg.Trabekでの政府軍の作戦続く。5日から23日までに政府軍は死者129人,負傷者305人,不明240人,解放勢力は死者254人,戦車破壊31台の損害。 政府軍はエリート部隊の「パラ」を投入してRumchekとKg.Trabekの間の開通作戦。
DIA-202-1972-08-28-1カンボジア1972年08月28日1970年代太湖周辺国道5号線での政府軍の作戦続く。政府軍はKblal Damrei,Trapeang Chanの奪回とPonley,O Russei Sachでの包囲を解く作戦。 タケオ州国道2号線では,解放勢力がPrsat Neang Khmauに100発の砲撃を加え,Loveaで政府軍と激戦,政府軍に死者15人の損害,解放勢力死者21人。
DIA-202-1972-08-29-1カンボジア1972年08月29日1970年代ソン・ゴク・タン首相サイゴン訪問─同首相はサイゴン空港で「カンボジア政府はインドシナ全域での停戦を主張する南ベトナム政府の立場を完全に支持する」と述べた。Thappana Nginn内相とPok Sam Anカンボジア・南ベトナム両軍連絡担当が同行。 30日,タン首相はチュー大統領と会談。
DIA-202-1972-08-29-2カンボジア1972年08月29日1970年代解放勢力,国道5号線Ponley政府軍陣地を奪取,同地の攻防戦はこの10日間続いていたが,政府軍100人は行方不明。
DIA-202-1972-08-30-1カンボジア1972年08月30日1970年代夜,解放勢力,プノムペン北方国道5号上のPrek Phneou,Prek Toten,Peam Sathaを砲撃,政府軍死者28人,負傷35人。
DIA-202-1972-08-31-1カンボジア1972年08月31日1970年代サイゴンを訪問していたソン・ゴク・タン首相は帰国に当っての記者会見で次のように語った。「チュー大統領のインドシナ一括停戦案を支持する」「今度の訪問の目的は停戦問題の討議にあり,軍事面の協定には至らなかった。」
DIA-202-1972-08-31-2カンボジア1972年08月31日1970年代政府軍タケオ州Loveaに対する解放勢力の圧力を排除,これまでの戦闘で政府軍死者35人,負傷者62人。
DIA-202-1972-09-01-1カンボジア1972年09月01日1970年代解放勢力,プノムペン南方Prey Svar,Put Sarを攻撃。
DIA-202-1972-09-03-1カンボジア1972年09月03日1970年代国会選挙─126議員選出。
DIA-202-1972-09-06-1カンボジア1972年09月06日1970年代商務省布告「政府は1等米(50%)を750リエル,2等米(50%)を700リエルで販売,米販売業者は政府に上記価格で6日以降3日以内にストック米を引渡すこと」。
DIA-202-1972-09-06-2カンボジア1972年09月06日1970年代解放勢力,Kg.Trabek西の政府軍陣地を砲撃,国道1号線は同地西で切断された。7日も同地を攻撃し,政府軍と戦闘,政府軍死者1人,負傷者16人。 6日~9日までの戦闘で政府軍死者数名,負傷者100名,その他1個大隊が行方不明。
DIA-202-1972-09-07-1カンボジア1972年09月07日1970年代7日夕から8日にかけ,政府軍兵士を含む多数の市民が,華商の穀倉や中央マーケットなどを襲い,米その他を略奪。
DIA-202-1972-09-07-2カンボジア1972年09月07日1970年代(北京)シアヌーク議長はUPI通信社長と会見し,「我々はロンノルとの政治解決は決して認めない」と述べた。
DIA-202-1972-09-08-1カンボジア1972年09月08日1970年代ロンノル大統領は国民にメッセージを発表し次のように述べた。「敵はプノムペンにある米を買い集め支配地にかくすよう命じている。また米がプノムペンに着かぬよう国道3,5号の切断を命じている。米のストックは現在十分にあるが,バタンバンからプノムペンへの輸送が,国道5号切断のため不可能である。また9月4日にプノムペンに着くはずだったタイからの購入米が台風のため遅れている。政府は米補給を円滑にするため要員増,バタンバンからの空路輸送などの措置をとった。」
DIA-202-1972-09-08-2カンボジア1972年09月08日1970年代商業省コミュニケ「5袋以上の米ストックを保有する者は3日以内に区当局に届出るべし」(68年4月12日令)。
DIA-202-1972-09-08-3カンボジア1972年09月08日1970年代ロン・ボレット情報相,ソン・ゴク・タン氏に代わり外相(兼務)に任命さる。
DIA-202-1972-09-08-4カンボジア1972年09月08日1970年代国道5号再開,同国道は8月30日,Spean Prek TatenとPeam Satha橋が破壊されて以来不通になっていた。
DIA-202-1972-09-08-5カンボジア1972年09月08日1970年代解放勢力,プノムペン東90キロ,国道1号沿いの政府軍陣地を攻撃政府軍は陣地8カ所を放棄。
DIA-202-1972-09-08-6カンボジア1972年09月08日1970年代(北京)シアヌーク殿下,レ・ドク・ト顧問と会見。
DIA-202-1972-09-09-1カンボジア1972年09月09日1970年代ソン・ゴク・タン首相はEnders米代理大使と会見,米政府は南ベトナムに貯蔵されている米1万トンを貸付ける意向。
DIA-202-1972-09-09-2カンボジア1972年09月09日1970年代政府,非常事態宣言期間中,食料品,必需品の無許可貯蔵を禁止。
DIA-202-1972-09-09-3カンボジア1972年09月09日1970年代Khemara Thipadei紙,発行停止に。
DIA-202-1972-09-09-4カンボジア1972年09月09日1970年代統一戦線最高司令部はすべての反政府勢力に対し,すべての前線で総攻撃をかけるよう指令。
DIA-202-1972-09-10-1カンボジア1972年09月10日1970年代タケオ市南東20キロKg.Chrey近くで戦闘,政府軍死者5人,負傷者10人。
DIA-202-1972-09-11-1カンボジア1972年09月11日1970年代スベイリエン,プレイベン,タケオ等の州知事交代。
DIA-202-1972-09-11-2カンボジア1972年09月11日1970年代Lon Non大佐指揮のもとにネアクルン付近の解放勢力の圧力を除去するための“Baphnom”作戦開始。
DIA-202-1972-09-11-3カンボジア1972年09月11日1970年代国道5号,O Russei SachとKbal Damrei間の戦闘続く。Phdiekでの戦闘で政府軍死者2人,負傷者12人。
DIA-202-1972-09-11-4カンボジア1972年09月11日1970年代南ベトナム政府軍,スベイリエン州,国道1号線で作戦開始。
DIA-202-1972-09-12-1カンボジア1972年09月12日1970年代閣議,プレク・チャト計画・援助担当相は日本政府との協議で日本が80万ドル相当の米を贈与することに同意したと報告,また閣議は輸入米価を2,200リエルに,1°-50%米を1,900リエルに値上げすることを決定。
DIA-202-1972-09-12-2カンボジア1972年09月12日1970年代ネアクルン近くのKg.Soeung政府軍陣地に対する解放勢力の攻撃続く。政府軍は11日Phnom Chhoeu Kachから撤退,政府軍死者数人,負傷者100人(兵士家族を含む)。
DIA-202-1972-09-13-1カンボジア1972年09月13日1970年代kang Keng少将,大統領特別顧問の職を解かれる。米不足にも拘らず同将が商業相だった頃,米の輸出を許可した責任をとって。
DIA-202-1972-09-13-2カンボジア1972年09月13日1970年代大統領府に平定・国家建設局設置。
DIA-202-1972-09-13-3カンボジア1972年09月13日1970年代Oudong南東数キロで戦闘,政府軍負傷者30人。
DIA-202-1972-09-14-1カンボジア1972年09月14日1970年代国会開会,126議員出席(社会共和党)。議長選挙では,Tan Kim Huon氏(農大学長)がBuon Hong Keat Tek Lay氏(厚生省の医者)を105票対14票で敗り議長に当選,第1副議長にはPan Sothi氏,第2副議長にはEng Soth氏(いずれもプノムペンのインテリ)が当選。
DIA-202-1972-09-14-2カンボジア1972年09月14日1970年代米の価格・補給・貯蔵・配給問題委員会設置,委員長にLon Non大佐とハン・ツン・ハク氏。
DIA-202-1972-09-14-3カンボジア1972年09月14日1970年代Noel Gayler米太平洋軍司令官,プノムペン来訪。
DIA-202-1972-09-15-1カンボジア1972年09月15日1970年代商業省は次のように米価の最高価格を決めた(100kg袋当り)。1等15%米2,600リエル,1等25%米2,400リエル,1等50%米2,200リエル,2等50%米2,000リエル,輸入米2,200リエル。
DIA-202-1972-09-15-2カンボジア1972年09月15日1970年代(北京)シアヌーク殿下,グエン・バン・クァン南ベトナム臨時革命政府大使と会見,9月1日の革命政府声明を支持。
DIA-202-1972-09-16-1カンボジア1972年09月16日1970年代フェルナンデス少将参謀総長就任式。
DIA-202-1972-09-17-1カンボジア1972年09月17日1970年代上院選挙。
DIA-202-1972-09-17-2カンボジア1972年09月17日1970年代フェルナンデス参謀総長は最高司令部の第1号特別命令を出し,上官の命令に服従すべきことを強調した。
DIA-202-1972-09-17-3カンボジア1972年09月17日1970年代国道5号線Kbal Damrei,Trapeang Chan,Cheang Luong,O Russei Sach,Phdiek,Baribaurで作戦中の政府軍(Um Savuth准将指揮)は8月18日以来解放勢力側に占領されていたPonleyまでの同国道を開通させた。 8月18日以来の政府軍側の損害は死者180人,負傷者230人,行方不明125人。
DIA-202-1972-09-18-1カンボジア1972年09月18日1970年代(プノムペン:AP)政府軍司令部によれば,プノムペン南東60キロ,メコン東岸における24時間の戦闘で政府軍は死者65人,負傷者266人の損害を出した。 メコン東岸での敗北はメコン河を使った政府軍の補給に支障をきたすものと見られる。
DIA-202-1972-09-19-1カンボジア1972年09月19日1970年代国道5号線,コンポンチュナン州Pong Ro南および北で政府軍パトロール隊襲撃さる。政府軍死者15人,負傷者7人。
DIA-202-1972-09-20-1カンボジア1972年09月20日1970年代タン首相と杉浦日本大使,日本からの米(2.46億円,80万ドル相当)贈与に関する公文交換。
DIA-202-1972-09-20-2カンボジア1972年09月20日1970年代Pok Sam An准将,駐南ベトナム大使に任命さる。
DIA-202-1972-09-24-1カンボジア1972年09月24日1970年代Thappana Nginn代表団,バンコック訪問,国境治安,流通問題について協議。
DIA-202-1972-09-24-2カンボジア1972年09月24日1970年代(北京)シアヌーク殿下,第37号アピールで,ロンノル軍将兵に反米闘争呼びかけ。
DIA-202-1972-09-26-1カンボジア1972年09月26日1970年代(サイゴン:UPI)米軍はB52による爆撃の3分の1をカンボジア南東部のコンポンチャム,プレイベン,スベイリエンに向けている。米機30機が昨夜から今日にかけ南ベトナム国境沿いを爆撃,ねらいは解放勢力が米大統領選を目ざした攻勢をかけるのを阻止することにある。
DIA-202-1972-09-27-1カンボジア1972年09月27日1970年代米大使乗用車がプラスチック爆弾に触れ,エンダース代理大使の護衛官ら2人が死亡。大使は休暇で帰国中。
DIA-202-1972-09-28-1カンボジア1972年09月28日1970年代フェルナンデス参謀総長第2号特別命令,「プノムペンに駐留する部隊はすべて同市の外に撤退せよ。同市の徴兵支部は廃止され,徴兵センターだけが機能する」。
DIA-202-1972-09-29-1カンボジア1972年09月29日1970年代9月22日以来国道2号Samrong Yonで政府軍と解放勢力が戦闘,政府軍死者44人,負傷者126人。
DIA-202-1972-10-02-1カンボジア1972年10月02日1970年代タン首相とEnders米代理公使,米3万トン(555万8000ドル)援助公文交換。
DIA-202-1972-10-02-2カンボジア1972年10月02日1970年代政府軍司令部は,解放勢力がネアクルン基地周辺の政府軍陣地に全面的な攻撃を開始したと発表。同地区一帯に数百発の砲弾が撃ち込まれた。ネアクルンから7キロ離れたロンチェク陣地は解放勢力の戦車隊の攻撃を受け,近くの前しょう地点が数時間の激戦の後2日午後陥落,解放勢力死者82人,政府軍死者4人,負傷者30人。 政府軍3日発表によればChhoeu Kach,Kg.Soeung,Rumchekでの戦闘で9月30日から10月2日までに政府軍死者13人,負傷者38人,解放勢力死者111人。
DIA-202-1972-10-02-3カンボジア1972年10月02日1970年代解放勢力,カンポット空港に着陸した旅客機に迫撃砲2発を撃ち込む。
DIA-202-1972-10-03-1カンボジア1972年10月03日1970年代(ニューヨーク)国連総会一般討論での演説の中で,喬冠華中国外務次官は次のように述べた「シアヌーク殿下のカンボジア王国民族団結政府はクメール人民の唯一の合法代表であり,ロンノル政権は外部勢力の押しつけたものである。国連はこの違法状態をただし,民族団結政府の合法的権利を回復させるべきだ」。
DIA-202-1972-10-04-1カンボジア1972年10月04日1970年代(朝日)首相側近筋によると,タン首相は大統領に辞表を提出した。大統領は9日に回答する。
DIA-202-1972-10-04-2カンボジア1972年10月04日1970年代上院開会。議長にSaukham Khoy中将,第1副議長にTep Hun,第2副議長にHem Chiamroeun選出。
DIA-202-1972-10-04-3カンボジア1972年10月04日1970年代Journal du Parti Republicain発行停止に。
DIA-202-1972-10-05-1カンボジア1972年10月05日1970年代シアヌーク殿下とペンヌート首相は,カンボジア国民に対してロンノル政権打倒の闘争に立ち上がるよう呼びかけた。
DIA-202-1972-10-06-1カンボジア1972年10月06日1970年代(AFP)プノムペンの南および南西方地域で軍事行動が急激に活発化。またプノムペン北方50キロでは解放勢力が国道5号線を10キロにわたり引続き制圧。
DIA-202-1972-10-07-1カンボジア1972年10月07日1970年代解放勢力,プノムペン市内に突入攻撃─政府軍発表によれば侵入したのは2個中隊(1個中隊45人)。戦車10台破壊,6人のベトナム人容疑者逮捕,政府側死者23人,負傷者41人,解放勢力死者81人。
DIA-202-1972-10-07-2カンボジア1972年10月07日1970年代解放勢力,タケオ南国道2号Ton Loapの政府軍陣地を砲撃,政府軍死者3人,負傷者34人。
DIA-202-1972-10-08-1カンボジア1972年10月08日1970年代国道5号Sala Lek Pramで戦闘,政府軍死者9人,負傷者19人。
DIA-202-1972-10-09-1カンボジア1972年10月09日1970年代国道1号切断さる。
DIA-202-1972-10-09-2カンボジア1972年10月09日1970年代政府軍,タケオ南Kg.Chreyなど3カ所の陣地,トンレアプなど2カ所から撤退。
DIA-202-1972-10-13-1カンボジア1972年10月13日1970年代カメルーン政府とシナヌーク政権,大使級外交関係樹立で合意。
DIA-202-1972-10-14-1カンボジア1972年10月14日1970年代国営放送発表:ソン・ゴク・タン首相辞任,ロンノル大統領はハン・ツン・ハク社会共和党書記長に組閣要請。
DIA-202-1972-10-14-2カンボジア1972年10月14日1970年代タン首相・Enders代理公使,2000万ドル援助に関する公文交換。
DIA-202-1972-10-15-1カンボジア1972年10月15日1970年代ハン・ツン・ハク内閣成立─ロンノル大統領はタン前首相の辞表を受理し,ハン・ツン・ハク新首相を任命。 新内閣陣容は次の通り。 Hang Thun Hak:首相 Mau Say:大統領府付国務相 Chhann Sokhum:法務担当国務相 Thappana Nginn:国防担当国務相 Sar Hor:内務担当国務相 Hem Keth Sana:首相府担当相 Long Boret:外務相 Khy Taing Lim:公共事業通信相 Sor Song:農業相 Ith Thuy:経済・財政問題相 Ung Su Hai Kim Teng:保健相 Thach Chia:労働・社会活動相 Lon Non:解放・建設(農村開発)・総動員・帰順担当内務省付相 Keam Reth:情報相 Sum Chhum:計画・国家開発相 Keo Mong Kry:教育・文化・青年・スポーツ相 Long Botta:青年・スポーツ長官 Khuon Chhiek:工業長官 Um Samuth:文化長官 Saphon Sarasi:商業長官 Kong Orn:解放・建設(農村開発)長官
DIA-202-1972-10-15-2カンボジア1972年10月15日1970年代(北京)シアヌーク殿下とペン・ヌート殿下,レ・ドク・ト顧問と会見。
DIA-202-1972-10-17-1カンボジア1972年10月17日1970年代ハク首相施政方針演説「各省を4つのグループに分ける。①国防・外務:戦争勝利,外交手段による領土回復,②内務・国家建設・農村開発:全市民参加による平定,③文部・文化・法務・保健・社会活動・労働:生活改善,④大蔵・情報・心理作戦・農業・公共事業:補佐」。
DIA-202-1972-10-17-2カンボジア1972年10月17日1970年代ソン・ゴク・タン,大統領特別顧問に任命さる。
DIA-202-1972-10-19-1カンボジア1972年10月19日1970年代政府は声明を発表し,北ベトナム軍とベトコンが国際監視下で同国領土から撤退することを義務づけなければ,インドシナ問題の解決を最終的なものとは認めないと述べた。
DIA-202-1972-10-20-1カンボジア1972年10月20日1970年代ハン・ツン・ハク首相は上院議長邸でのパーティーに向かう途中ピストルで撃たれたが難を免れた。
DIA-202-1972-10-21-1カンボジア1972年10月21日1970年代シアヌーク殿下は北京で声明を発表し,ベトナムあるいはラオスで停戦が実現しても,シアヌーク派の軍隊は「最後の勝利」まで戦い続けるであろう,と述べた。同殿下はその中で,中国と北ベトナムはたとえベトナム停戦後であっても,自分の軍隊に武器弾薬その他軍需物資の供給を続けるだろうと強調,プノムペンのロンノル政権を打倒して自分の政権を回復することが,カンボジアにおける停戦の前提条件であると述べている。
DIA-202-1972-10-22-1カンボジア1972年10月22日1970年代ハク首相は,キッシンジャー補佐官来訪直前に「政府はクメール・ルージュとの和平会談に原則的に合意に達した」と発表。
DIA-202-1972-10-22-2カンボジア1972年10月22日1970年代キッシンジャー補佐官プノムペン訪問。
DIA-202-1972-10-22-3カンボジア1972年10月22日1970年代バタンバンから2,000袋の米を積んだ船がプノムペン到着。
DIA-202-1972-10-23-1カンボジア1972年10月23日1970年代プノムペンの陸軍参謀本部近くに107ミリロケット弾が撃ち込まれる。夜,タケオ市砲撃さる。
DIA-202-1972-10-24-1カンボジア1972年10月24日1970年代(北京)民族団結政府スポークスマンは声明を発表し,カンボジアの現状停戦論を米帝国主義の陰謀として非難し,プノムペン売国奴を掃滅する,と述べた。
DIA-202-1972-10-26-1カンボジア1972年10月26日1970年代シアヌーク議長ハノイ訪問─28日共同声明発表,声明は「ロンノル・シリクマタク・ソンゴクタンを打倒するため,いささかも妥協せず,一歩も後退することなく戦う決意である」と述べている。
DIA-202-1972-10-29-1カンボジア1972年10月29日1970年代(共同)信頼筋によると,ロンノル平定相は29日,赤色クメールと接触するための評議会を設置,更にキュー・サムファン団結政府副首相の弟を赤色クメール側に派遣した。
DIA-202-1972-10-31-1カンボジア1972年10月31日1970年代政府軍司令部は,停戦協定調印前に解放勢力が大攻勢をかけることを予測して全土で厳戒体制に入ったと発表。
DIA-202-1972-11-02-1カンボジア1972年11月02日1970年代民族団結政府国内指導者ならびに武装勢力指導者は解放区で会議を開き,2日声明を発表して次のように述べた。 「交渉,妥協,停戦を受けつけず,完全な勝利をかちとるまで,米帝とその外国の手先およびロンノル,シリク・マタク,ソン・ゴク・タンらを頭とする売国奴との闘争を最後まで進め抜く。」
DIA-202-1972-11-02-2カンボジア1972年11月02日1970年代シアヌーク殿下,平壌訪問。
DIA-202-1972-11-07-1カンボジア1972年11月07日1970年代民族統一戦線・民族団結政府友好代表団(団長ペン・ヌート,副団長イエン・サリ)は,朝鮮非公式訪問を終え,平壌を出発。
DIA-202-1972-11-09-1カンボジア1972年11月09日1970年代(北京)民族団結政府は独立19周年を祝う声明を発表し,「ベトナム和平協定はカンボジアには適用されない。同協定による国際監視委員会はカンボジアで活動する権利がない」と述べた。
DIA-202-1972-11-11-1カンボジア1972年11月11日1970年代カンボジアに対する米軍需物資の供与,強化さる。
DIA-202-1972-11-11-2カンボジア1972年11月11日1970年代夜,解放勢力,ウドンに10発の122ミリ砲撃を加える。ウドン市の政府軍は依然包囲されている。夜,プノンペン港へセメントを運ぶ途中の韓国船がトンレサプ川で爆破さる。
DIA-202-1972-11-12-1カンボジア1972年11月12日1970年代ヘイグ特使プノンペン来訪,ロンノル大統領と会談。
DIA-202-1972-11-16-1カンボジア1972年11月16日1970年代政府軍,国道4号のTrapeang Kraloeungを奪回。国道5号も開通。
DIA-202-1972-11-19-1カンボジア1972年11月19日1970年代解放勢力,プノンペン北西56キロ,国道5号線上でトラック50両(うち,30台が米)からなる政府軍輸送部隊を壊滅さす。
DIA-202-1972-11-27-1カンボジア1972年11月27日1970年代タパナギン国防相,ウエイアンド米援助軍司令官と会見。
DIA-202-1972-11-29-1カンボジア1972年11月29日1970年代クメール軍事銀行設置。
DIA-202-1972-12-01-1カンボジア1972年12月01日1970年代プノンペンの首相府庁舎に107ミリロケット砲2発撃ち込まれる。
DIA-202-1972-12-02-1カンボジア1972年12月02日1970年代政府軍司令部,第44歩兵旅団を員数不正申告で解散。
DIA-202-1972-12-04-1カンボジア1972年12月04日1970年代シアヌーク殿下は1カ月にわたる平壌訪問を終え,同市を出発。
DIA-202-1972-12-06-1カンボジア1972年12月06日1970年代プルンジ共和国,民族団結政府承認決定を発表。
DIA-202-1972-12-07-1カンボジア1972年12月07日1970年代プノンペン港に停泊中のパナマ貨物船,機雷で爆破さる。同船は米国援助物資を積んで6日夜入港。
DIA-202-1972-12-12-1カンボジア1972年12月12日1970年代サリン・チャク団結政府外相,パキスタン訪問。
DIA-202-1972-12-15-1カンボジア1972年12月15日1970年代プノンペン港で石油輸送船が爆発で沈没。
DIA-202-1972-12-16-1カンボジア1972年12月16日1970年代ペン・ヌート団結政府首相,ヌハク・プームサワン・ラオス愛国戦線中央常任委員と会見。
DIA-202-1972-12-21-1カンボジア1972年12月21日1970年代解放勢力,コンポントム市攻撃,24日も同市から4キロの地点で激戦。
DIA-202-1973-01-01-1カンボジア1973年01月01日1970年代「報道委員会」設置。同委は新聞法の適用を保証する役割を果たす。
DIA-202-1973-01-03-1カンボジア1973年01月03日1970年代米大使との間に,為替支持基金の73年延長に関する公文交換。
DIA-202-1973-01-03-2カンボジア1973年01月03日1970年代豪大使館は,豪政府からの軍事・非軍事援助リストを廃止すると発表。これには輸送機DC‐3,軍用ラジオが含まれる。コロンボ・プラン(プレク・トノット計案画),為替基金援助(73年100万ドル)は続行。
DIA-202-1973-01-04-1カンボジア1973年01月04日1970年代未明,ポチェントン空港近くに122ミリ・ロケット弾12発,民間機1機,損傷,死3,傷30。 解放勢力,プノンペン南40キロ,国道3号上のTram Khnarに侵入。解放勢力は1日から同市を攻撃,兵力4000~5000人。1日~4日政府軍死11,傷48,解放勢力死18。
DIA-202-1973-01-04-2カンボジア1973年01月04日1970年代ロン・ボレ外相,エクアドル外相と共同声明,外交関係樹立で合意。同外相は4日帰国。
DIA-202-1973-01-04-3カンボジア1973年01月04日1970年代下院,72年度予算第3次修正案を可決。
DIA-202-1973-01-05-1カンボジア1973年01月05日1970年代Tram Khnar町で白兵戦。政府軍2個大隊1500人が奪回作戦。解放勢力は同市の半分以上を占拠中。
DIA-202-1973-01-06-1カンボジア1973年01月06日1970年代プノンペン港桟橋,爆破さる,パナマ船損傷。
DIA-202-1973-01-06-2カンボジア1973年01月06日1970年代団結政府代表団(団長チャウ・セン特別相),チリ訪問。9日両国は外交関係樹立を決定。
DIA-202-1973-01-07-1カンボジア1973年01月07日1970年代(パリ)パリのカンボジア館でシアヌーク支持派の学生とロン・ノル派の学生が衝突。
DIA-202-1973-01-08-1カンボジア1973年01月08日1970年代解放勢力,メコン東岸のPreah Prasapを攻撃。政府軍,同地を撤退,9日同地を奪回,夜,解放勢力,国道2号のSvay Preyを攻撃。
DIA-202-1973-01-08-2カンボジア1973年01月08日1970年代ロン・ノル大統領,記者会見で言明「①最近ホンジュラス,ニカラグア,エルサルバドル,ハイチ,ドミニカ,コロンビア,ウルグアイ,パラグアイ,ボリビア,アルゼンチン,グァテマラ,コスタリカの12ヵ国がわが国を正式に認めた。②政府がシアヌーク殿下と交渉する可能性はない。③今年から徴兵制施行 ④クメール・ルージュとはあらゆる場所で接触をはかっており,成果をあげている。北ベトナムがカンボジア領内から撤退した後,共和国憲法を基礎にしてクメール・ルージュと民族統合を図りたい」
DIA-202-1973-01-09-1カンボジア1973年01月09日1970年代解放勢力,プノンペン南方18キロの国道2号線上Svay Prey基地を攻撃,政府軍死3,傷10。国道2号はタケオからPhnom Denまで開通。
DIA-202-1973-01-09-2カンボジア1973年01月09日1970年代上院,難民対策を政府に要請する決議を採択。同時に72年度予算第3次修正案を可決。
DIA-202-1973-01-11-1カンボジア1973年01月11日1970年代国道1号で激戦。政府軍,ネアクルン東のKg.Soeung,ChhoeuKach,Rum Chekから撤退。解放勢力,カンダル州Prek Ho(政府軍死10),タケオ州Thnal Totung(政府死6)等を攻撃。
DIA-202-1973-01-11-2カンボジア1973年01月11日1970年代国会前に107ミリ・ロケット弾3発。
DIA-202-1973-01-12-1カンボジア1973年01月12日1970年代政府軍,ネアクルンから7キロのメコン河西岸にあるプレクデク陣地を放棄。12日の国道沿いの激戦で政府軍死100。
DIA-202-1973-01-13-1カンボジア1973年01月13日1970年代団結政府代表団(団長チャウ・セン特別相),キューバ訪問。 (北京)中国,カンボジア73年度軍事,経済援助協定調印。
DIA-202-1973-01-13-2カンボジア1973年01月13日1970年代日本との通商協定,74年2月14日まで延長。
DIA-202-1973-01-16-1カンボジア1973年01月16日1970年代政府軍は15日から6000人を動員して反攻を開始。ネアクルンからベトナム国境に至るメコン河沿いの全拠点を奪回。
DIA-202-1973-01-17-1カンボジア1973年01月17日1970年代米上院議員5人(対外援助調査小委代表),72-73年度の対カンボジア援助協議のためプノンペン訪問。
DIA-202-1973-01-18-1カンボジア1973年01月18日1970年代メコン河を船団がプノンペンに到着。
DIA-202-1973-01-18-2カンボジア1973年01月18日1970年代ヘイグ特使,サイゴンからプノンペン着。3時間滞在の後ビエンチャンへ。
DIA-202-1973-01-21-1カンボジア1973年01月21日1970年代(北京)シアヌーク殿下,外国人記者に語る「北ベトナム・アメリカ間の停戦は,カンポジアには適用されぬ。月末にハノイを訪問,その後カントンを公式訪問,5,6月にはセネガル等を公式訪問する。カンボジアが解放されれば,仏・ソにとって損失となろう。米新植民主義を排除し,ロン・ノル一派を排除した完全独立しか受け入れぬ。カンボジアの抵抗勢力は独立しており,正規軍は7万2000人を数える」
DIA-202-1973-01-24-1カンボジア1973年01月24日1970年代ハク首相は,ベトナム停戦協定発効後,政府軍は北ベトナム,解放戦線,カンボジアのゲリラ軍に対する攻撃作戦を停止する方針であると言明。
DIA-202-1973-01-24-2カンボジア1973年01月24日1970年代台湾との間に畜産,飼料生産に関する技術協定調印。
DIA-202-1973-01-25-1カンボジア1973年01月25日1970年代パキスタン外務省声明,団結政府を承認。
DIA-202-1973-01-26-1カンボジア1973年01月26日1970年代シアヌーク,ペン・ヌート,キュー・サムファン署名の声明「カンボジア国家と人民は常に平和を熱愛してきた。カンボジア問題解決のためにはシアヌーク殿下の70年3月22日の5項目声明が適用されねばならぬ」
DIA-202-1973-01-26-2カンボジア1973年01月26日1970年代(北京)シアヌーク議長,クメール人民に第40号メッセージ。
DIA-202-1973-01-26-3カンボジア1973年01月26日1970年代ロン・ポレ外相,7ヵ国訪問を終え帰国。
DIA-202-1973-01-27-1カンボジア1973年01月27日1970年代(北京)シアヌーク殿下言明「われわれは国際会議には決して参加しない。ベトナム停戦協定での取決めにわれわれは対象になっていない。米政府がキ補佐官を送りたいというのなら歓迎する。米国との関係を正常化するという唯一の目的のために話し合いを行なうことが可能だ」
DIA-202-1973-01-27-2カンボジア1973年01月27日1970年代統一戦線政治局コミュニケ,19日付でKer Chhrengを追放。
DIA-202-1973-01-27-3カンボジア1973年01月27日1970年代ベトナム停戦協定に関するロン・ノル大統領宣言「ベトナム停戦協定は54年ジュネーブ協定で保証されたクメール人民の権利の尊重を述べている。これは北ベトナム・ベトコンに抵抗してきたクメール人民の勝利である。」
DIA-202-1973-01-28-1カンボジア1973年01月28日1970年代ベトナム停戦後の情勢に関するロン・ノル大統領宣言「北ベトナムは侵略をやめ,カンボジアに関する54年ジュネーブ協定を尊重せねばならぬ。以下の行為はベトナム停戦協定の精神と原則に違反する。①停戦後のクメール領土での北ベトナム・ベトコンによる攻撃作戦②クメール領からの撤退拒否ないし民間人の形による分散 ③経路としてクメール領土を秘密に使用すること④クメール領土に武器弾薬を隠したり聖域を維持すること ⑤クメール人民の生活,財産に対するサボ・破壊行為や内政問題に対する騒乱活動。」「北ベトナム・ベトコンの撤退を助けるため,わが軍は29日7時以降,攻撃作戦を停止する。」
DIA-202-1973-01-28-2カンボジア1973年01月28日1970年代ロン・ノル大統領,国会で演説「29日午前7時を期して政府軍に攻撃作戦活動の停止を命令した」「防衛的軍事作戦を通じ全領土内で合法的防衛権は行使し続け る。」
DIA-202-1973-01-29-1カンボジア1973年01月29日1970年代解放勢力,コンポントム市の政府軍陣地を攻撃。
DIA-202-1973-01-29-2カンボジア1973年01月29日1970年代(北京)シアヌーク殿下,AFP記者に語る「団結政府と米国との討議の用意あり」
DIA-202-1973-01-29-3カンボジア1973年01月29日1970年代ロン・ノル大統領,ベトナム停戦に関する国民向けのメッセージ。
DIA-202-1973-01-29-4カンボジア1973年01月29日1970年代韓国と文化協定調印。
DIA-202-1973-01-30-1カンボジア1973年01月30日1970年代シアヌーク殿下,ハノイ訪問。トン・ドク・タン大統領の招きでテトをハノイで過ごすため。イエン・サリ特使も同行。2月7日まで。
DIA-202-1973-01-31-1カンボジア1973年01月31日1970年代(ハノイ)シアヌーク殿下,バーチェット記者に対し戦闘縮小と大赦を含む政策転換,米国に対する門戸開教を発表。
DIA-202-1973-02-01-1カンボジア1973年02月01日1970年代北ベトナム政府声明,シアヌーク議長らの1月26日と28日の声明を支持。2日,臨時革命政府,ラオス愛国戦線中央委も支持声明。
DIA-202-1973-02-01-2カンボジア1973年02月01日1970年代アグニー副大統領,サイゴンからプノンペンに到着。ロン・ノル大統領らと会談の後バンコックへ。
DIA-202-1973-02-02-1カンボジア1973年02月02日1970年代国道4号,Trapeang Kraloeung南西4キロのTalatで切断さる。
DIA-202-1973-02-02-2カンボジア1973年02月02日1970年代アメリカからの米援助を73年前半2万8000トン増やす公文調印。
DIA-202-1973-02-04-1カンボジア1973年02月04日1970年代解放勢力,プノンペン南方87キロのタケオ市周辺の政府軍陣地を攻撃,政府軍死5,傷4,固道2号はタケオ北6キロで切断さる。
DIA-202-1973-02-04-2カンボジア1973年02月04日1970年代ロバート・トムソン(ニクソン大統領顧問),Peang Lovea平定地区視察。
DIA-202-1973-02-05-1カンボジア1973年02月05日1970年代プノンペンの各工場で,家族手当引上げ等を要求するストライキ。
DIA-202-1973-02-06-1カンボジア1973年02月06日1970年代夜,解放勢力,プレイベン州Peam Chor,Prey Khla,Phum Chanを攻撃,政府軍死7,傷12,解放勢力死8。
DIA-202-1973-02-06-2カンボジア1973年02月06日1970年代ベトナム援助米軍副司令官兼第7艦隊司令官ジョン・W・ボークト将軍,ロンノル大統領訪問。
DIA-202-1973-02-07-1カンボジア1973年02月07日1970年代シアヌーク殿下,ハノイ訪問を終え広州に到着。ハノイで共同コミュニケ発表。16日上海へ(キッシンジャー補佐官,10日ハノイ,15日北京訪問)。
DIA-202-1973-02-07-2カンボジア1973年02月07日1970年代イン・タム氏,和解担当大統領特別顧問に任命さる。
DIA-202-1973-02-08-1カンボジア1973年02月08日1970年代政府軍,ネアクルンからプレイベンに至る国道15号沿いの3つの村から撤退。
DIA-202-1973-02-08-2カンボジア1973年02月08日1970年代リチャードソン国防長官公表,1月30日のロン・ノル大統領の停戦宣言以来はじめて,米機がプノンペン北方を爆撃。
DIA-202-1973-02-08-3カンボジア1973年02月08日1970年代ケアム・レト情報相,記者会見で言明「政府は ①北ベトナム・ベトコンの撤退を助けるため攻撃活動停止②相手方のクメール人の社会復帰 ③国家開発,の措置をとった。平和と国民和解のためにはベトナム共産主義者がわが領土から撤退し,内政干渉をやめ,反逆者シアヌークの活動を中止せねばならぬ。」
DIA-202-1973-02-08-4カンボジア1973年02月08日1970年代タイ軍事代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1973-02-10-1カンボジア1973年02月10日1970年代解放勢力,プノンペン南東28キロの国道1号沿いKoki周辺の政府軍陣地を攻撃占拠。国道1号は同地で切断さる。 政府軍,ネアクルン北7キロのBanam市から撤退。ネアクルンを守る数個旅団の政府軍は孤立。
DIA-202-1973-02-10-2カンボジア1973年02月10日1970年代日本からバス(5740万円相当)援助に関する文書交換。
DIA-202-1973-02-11-1カンボジア1973年02月11日1970年代政府軍,コンポントム市南6キロのTrapeang Veng陣地を,数日間の激戦の後放棄。
DIA-202-1973-02-11-2カンボジア1973年02月11日1970年代ホノルルの米太平洋統合司令部は,8日以来,B52などによる空爆を行なっていると発表。
DIA-202-1973-02-11-3カンボジア1973年02月11日1970年代キュー・サムファン副首相ら3閣僚アピール,青年・学生・知識人にロンノル政権打倒を呼びかけ。
DIA-202-1973-02-12-1カンボジア1973年02月12日1970年代政府高官筋言明,12日の閣議,新議会選挙を統一戦線側に提案することを決定。
DIA-202-1973-02-15-1カンボジア1973年02月15日1970年代サリバン米副国務次官補,プノペン到着。
DIA-202-1973-02-15-2カンボジア1973年02月15日1970年代ロン・ボレ外相,プノンペン出発,16日象牙海岸,17日モンロビア,19日リペリア,23日オートボルタ,25日ガーナ訪問。
DIA-202-1973-02-16-1カンボジア1973年02月16日1970年代政府軍,10日~16日国道1号(Dey Eth,Banam等)打開作戦,解放勢力死87,政府軍死29,傷100。
DIA-202-1973-02-18-1カンボジア1973年02月18日1970年代夜,解放勢力,カンダル州Seam Reap南を攻撃,傷20。
DIA-202-1973-02-19-1カンボジア1973年02月19日1970年代解放勢力,固道2号を切断。
DIA-202-1973-02-20-1カンボジア1973年02月20日1970年代ロン・ノル大統領,物価上昇抗議に対し,国民に平静を呼びかけ。
DIA-202-1973-02-21-1カンボジア1973年02月21日1970年代解放勢力,国道3号を切断。
DIA-202-1973-02-21-2カンボジア1973年02月21日1970年代プノペンで学生,教師が物価上昇に抗議してスト。
DIA-202-1973-02-24-1カンボジア1973年02月24日1970年代イン・タム民族和解一致担当大統領顧問辞任。
DIA-202-1973-02-24-2カンボジア1973年02月24日1970年代日本からのプレハブ住宅援助に関する文書交換。
DIA-202-1973-02-24-3カンボジア1973年02月24日1970年代西独からの人道援助品(ビタミン剤など)引渡し。
DIA-202-1973-02-25-1カンボジア1973年02月25日1970年代解放勢力プノンペン南33キロ国道3号上で政府軍2個大隊を攻撃,米機出動。プノンペン南21キロ国道2号上でも解放勢力攻勢,政府軍5個大隊増援。
DIA-202-1973-02-26-1カンボジア1973年02月26日1970年代緊急閣議,閣議後ケアム・レト情報相言明「政府は友邦に援助を要請する措置を講じる」
DIA-202-1973-02-26-2カンボジア1973年02月26日1970年代アメリカと経済援助に関する文書交換,2500万ドル追加。
DIA-202-1973-02-27-1カンボジア1973年02月27日1970年代(上海)シアヌーク殿下声明,米国政府にパリ協定尊重とカンボジアへの干渉停止を要求。
DIA-202-1973-03-01-1カンボジア1973年03月01日1970年代タイと為替支持基金延長(73年12月31日まで)に関する文書交換。
DIA-202-1973-03-02-1カンボジア1973年03月02日1970年代コンポントム空港掃討作戦中の政府軍は同市西2キロで1個大隊の解放勢力と戦闘,政府軍死1,傷27,解放勢力死32。
DIA-202-1973-03-03-1カンボジア1973年03月03日1970年代解放勢力,プノンペン南11キロのタクマウを迫撃砲で攻撃,政府軍はタクマウを基地として国道2号打開作戦中。
DIA-202-1973-03-03-2カンボジア1973年03月03日1970年代団結政府外務省発表,ダオメーと国交樹立。
DIA-202-1973-03-06-1カンボジア1973年03月06日1970年代パリ会議に関しロン・ノル大統領国民に呼びかけ,「大国,北ベトナム,臨時革命政府はわが国の独立・主権・中立・統一・領土保全を認めた。クメール共和国は,北ベトナムおよびベトコンと軍隊の撤退,捕虜交換について話し合う用意がある。)
DIA-202-1973-03-06-2カンボジア1973年03月06日1970年代国会,18歳~35歳の全男子を18ヵ月間義務兵役につける法案を可決。
DIA-202-1973-03-08-1カンボジア1973年03月08日1970年代解放勢力,タケオ州Samrong Yongを攻撃,政府軍死5,傷7。
DIA-202-1973-03-12-1カンボジア1973年03月12日1970年代団結政府外務省発表,チャドが団結政府を承認。
DIA-202-1973-03-14-1カンボジア1973年03月14日1970年代解放勢力,タケオ市に8発の81ミリ砲を撃ち込む。政府軍,国道2号打開作戦続行。
DIA-202-1973-03-14-2カンボジア1973年03月14日1970年代デモ許可制に関するプノンペン市条令。
DIA-202-1973-03-14-3カンボジア1973年03月14日1970年代ジョン・ハナー米AID長官,プノンペン到着,
DIA-202-1973-03-16-1カンボジア1973年03月16日1970年代マリ駐在団結政府大使,信任状提出。
DIA-202-1973-03-17-1カンボジア1973年03月17日1970年代ソ・ポトラ元空軍大尉,大統領官邸を襲撃-教員のスト集会でも手りゅう弾事件。
DIA-202-1973-03-17-2カンボジア1973年03月17日1970年代ロン・ノル大統領令,非常事態宣言-憲法第7,8,11,12条により保証された権利と自由を停止。 ロン・ノル大統領,非常事態宣言にもとづき,政府発行のものを除く新聞発行を停止,また集会禁止令発令。
DIA-202-1973-03-18-1カンボジア1973年03月18日1970年代未明,解放勢力,タクマウ市南部を砲撃。 文部省声明,教員に26日から授業を再関するよう呼びかけ。
DIA-202-1973-03-18-2カンボジア1973年03月18日1970年代通信統制に関する大統領令。
DIA-202-1973-03-18-3カンボジア1973年03月18日1970年代カントル殿下,ボパ王女ら王族8人,王妃宅に監禁さる。
DIA-202-1973-03-19-1カンボジア1973年03月19日1970年代19日から20日朝にかけ米B52がプノンペン近郊を爆撃,目標はタクマウ地域とメコン川東岸。
DIA-202-1973-03-19-2カンボジア1973年03月19日1970年代上・下院合同議会決議,①北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の侵略活動を非難 ②共和体制を破壊しようとする侵略者の手先の共謀を非難 ②大統領と共和体制を無条件に支持。
DIA-202-1973-03-19-3カンボジア1973年03月19日1970年代ケオ・アン氏,逮捕さる。
DIA-202-1973-03-20-1カンボジア1973年03月20日1970年代政府軍,国道2号Chambak,Takeo間を開通,政府軍第3師団による3月8~20日の間のプノンペン,タケオ間打開作戦で,政府軍死3,傷71,解放勢力死38。 解放勢力,Sala Lek Pram北を攻撃,国道5号一時不通に。
DIA-202-1973-03-20-2カンボジア1973年03月20日1970年代空軍司令官,So Sato准将からPen Randa大佐に父代。
DIA-202-1973-03-20-3カンボジア1973年03月20日1970年代文部省コミュニケ,3月26日の授業再開は新しい指示があるまで延期し,教員,生徒,学生は共和国防衛と建設に参加する。
DIA-202-1973-03-20-4カンボジア1973年03月20日1970年代メコン川経由で,貨物船3隻,石油輸送船4隻等がプノンペン着。
DIA-202-1973-03-20-5カンボジア1973年03月20日1970年代米上院の各委員会代表団,プノンペン到着。難民問題,民間人犠牲者問題,戦争の経済に与える影響,食料事情等について調査。同代表団は21日,ロン・ノン平定計画担当相と会談。Sam Sok計画省代表によれば,戦争による公共資産の損害は215.8億リエル,宗教資産の損害は10億リエル,私有財産の損害は813.6億リエルにのぼる(合計して20億ドル)。
DIA-202-1973-03-21-1カンボジア1973年03月21日1970年代解放勢力,タクマウ市に30発の砲撃。米機はプレイベン,コンポントム等を爆撃。
DIA-202-1973-03-21-2カンボジア1973年03月21日1970年代合同議会,報道,集会,住居,通信統制に関する非常事態宣言を6カ月間政府に付与することを承認。
DIA-202-1973-03-21-3カンボジア1973年03月21日1970年代シリク・マタク前首相監禁さる。
DIA-202-1973-03-22-1カンボジア1973年03月22日1970年代ケアム・レト情報相記者会見「シリク・マタク氏が合法野党の指導者になるのを阻止しない。政府は同氏を陰諜者から守るための措置をとった。」「非常事態宣言は共和体制の強化のため,秩序の樹立,強力な行政府,治安保証,現実的経済というあらゆる分野で決定的勝利を得るための措置である」 同相はまた,共和制政体転覆計画が過去2,3日間にあったと発表,官吏20人を逮補し,100人を軟禁処分にしたと言明。
DIA-202-1973-03-23-1カンボジア1973年03月23日1970年代シアヌーク殿下,クメール同胞への第42号メッセージ「ワシントンはわれわれと接触しようとしない」「カンボジアの戦争終結については,米政府がパリ協定に違反し続ける限り,問題の解決はあり得ない」
DIA-202-1973-03-23-2カンボジア1973年03月23日1970年代政府軍,国道5号を開通さす。バタンバンから米等87台のトラックがプノンペン着。コンポンソムからもトラック210台がプノンペン着。
DIA-202-1973-03-23-3カンボジア1973年03月23日1970年代公務員規律に関する大統領令。
DIA-202-1973-03-23-4カンボジア1973年03月23日1970年代イタリアからの難民向け贈与1万7122ドル引渡し式。
DIA-202-1973-03-25-1カンボジア1973年03月25日1970年代解放勢力,ネアクルン付近の政府軍陣地を攻撃,ネアクルンから1キロまで進出。政府軍降下部隊,同町西岸陣地を奪回。
DIA-202-1973-03-26-1カンボジア1973年03月26日1970年代ドク・ラシ,駐英大使に任命さる。
DIA-202-1973-03-28-1カンボジア1973年03月28日1970年代第2軍区司令官,フェルナンデス少将からMoul Khleng少将に交代。
DIA-202-1973-03-28-2カンボジア1973年03月28日1970年代(ワシントン)グリーン米国務次官補は,米下院外交委東アジア問題小委で「米軍のカンボジア爆撃強化は,同国に和平交渉をもたらすための鉄けん政策である」と証言。
DIA-202-1973-03-30-1カンボジア1973年03月30日1970年代解放勢力,タケオ市砲撃40発。夜,米機,プノンペン西南方のメコン河沿い,国道1号沿い,タケオ周辺などを爆撃。
DIA-202-1973-03-31-1カンボジア1973年03月31日1970年代ロン・ノル大統領メッセージ「パリ協定締結後,北ベトナムとベトコンは1月の3万人から3月には4万5000人に兵力を増強している。特に北ベトナム第1師団2個連隊が南ベトナムからタヶオに戻った。北部のコンポントム州Koh Korにはトラック部隊のルートをつくった。」
DIA-202-1973-03-31-2カンボジア1973年03月31日1970年代イ・ツイ経済,財政相辞任,後任はケオ・モン・クリ教育相が兼任。
DIA-202-1973-04-01-1カンボジア1973年04月01日1970年代解放勢力,タケオに50発の砲撃。2日も40発の砲撃。
DIA-202-1973-04-01-2カンボジア1973年04月01日1970年代政府,1日から自動車ガソリンの販売を1台当り300リエル,ガス・オイルとディーゼル・オイルの販売を1台当り200リエルに制限。
DIA-202-1973-04-02-1カンボジア1973年04月02日1970年代政府軍第13旅団,キリロム高原奪回。
DIA-202-1973-04-02-2カンボジア1973年04月02日1970年代軍最高司令部コミュニケ「戦闘を放棄し戦線を離れるものは脱走兵として軍事法廷にかける」
DIA-202-1973-04-02-3カンボジア1973年04月02日1970年代台湾と暫定航空協定に関する文書交換。
DIA-202-1973-04-03-1カンボジア1973年04月03日1970年代夜,B52,2波でプノンペン東数十キロのメコン川沿岸一帯を爆撃。
DIA-202-1973-04-04-1カンボジア1973年04月04日1970年代上下両院,危険事態宣言を採択―ロン・ノル大統領,同宣言令に署名,ヘム・ケト・サナ首相府付き国務相は議会に対し,憲法上もっとも緊急と規定されている危険事態宣言が共和制政府を守るため必要になったと説明,「共和国の敵側の反乱,軍事活動の再然が,政治体制や国家の独立,領土保全に影響を及ぼしている」と言明。 同法は6ヵ月有効,政府はラジオ,新聞,集会,住居,通信について法令で取締まることができる。
DIA-202-1973-04-04-2カンボジア1973年04月04日1970年代ロン・ノン平定計画相辞任。
DIA-202-1973-04-04-3カンボジア1973年04月04日1970年代エドワード・W・ブルック米共和党上院議員ら,ロン・ノル大統領と会見。
DIA-202-1973-04-05-1カンボジア1973年04月05日1970年代解放勢力,プノンペン東13キロのメコン川東岸で政府軍砲艦を砲撃,同艦はネアクルンに弾薬を運ぶ途中。
DIA-202-1973-04-05-2カンボジア1973年04月05日1970年代ペン・ヌート首相一行,北京からハノイへ。
DIA-202-1973-04-05-3カンボジア1973年04月05日1970年代団結政府外務省発表,ニジェールが同政府を承認。
DIA-202-1973-04-05-4カンボジア1973年04月05日1970年代(パリ)チャウ・セン団結政府特別使命相,言明,「米国は爆撃によってカンボジア人民に彼らの和平を受け入れさせ,倒れかかっているプノンペンの権力掌握者と妥協させようとしている。」
DIA-202-1973-04-05-5カンボジア1973年04月05日1970年代政府国防委発表,11人の前王家一族を軍事法廷に送ることを決定,王族9人をプノンペン郊外のツオルノク刑務所に投獄。
DIA-202-1973-04-06-1カンボジア1973年04月06日1970年代シアヌーク殿下一行,解放区訪問の帰途ハノイ到着,11日北京へ。
DIA-202-1973-04-07-1カンボジア1973年04月07日1970年代政府軍,国道3号上アンタソム町を放棄。
DIA-202-1973-04-07-2カンボジア1973年04月07日1970年代カンボジア中央部で米空軍偵察機が撃墜さる。
DIA-202-1973-04-08-1カンボジア1973年04月08日1970年代メコン河をプノンペンに向かう途中立住往していた19隻の補給船団のうち6隻がプノンペンに到着。
DIA-202-1973-04-09-1カンボジア1973年04月09日1970年代国道4号開通。
DIA-202-1973-04-10-1カンボジア1973年04月10日1970年代ヘイグ特使,プノンペン訪問,ロン・ノル大統領と会談した後サイゴンへ。
DIA-202-1973-04-10-2カンボジア1973年04月10日1970年代米機,プノンペンの空輸作戦を開始,米C130輸送機17機が燃料コンテナを積んでプノンペン到着。
DIA-202-1973-04-12-1カンボジア1973年04月12日1970年代12日夜から13日朝にかけ解放勢力,タケオに50発以上の砲撃。13日米機はタケオ市郊外を爆撃。
DIA-202-1973-04-12-2カンボジア1973年04月12日1970年代(東京)エカフエ総会第2日,カンボジア代表キ・タン・リム公共事業相が演説,この間,中国代表は退場。
DIA-202-1973-04-12-3カンボジア1973年04月12日1970年代(パリ)リ・バン・サウ臨時革命政府スポークスマン言明,サイゴン軍数個連隊がカンボジア侵攻準備のため動員体制に入ったとの情報がある。
DIA-202-1973-04-13-1カンボジア1973年04月13日1970年代(北京)シアヌーク殿下,解放区入りについて記者会見。
DIA-202-1973-04-14-1カンボジア1973年04月14日1970年代シアヌーク殿下一行,朝鮮公式訪問,17日北京へ。
DIA-202-1973-04-15-1カンボジア1973年04月15日1970年代サイゴン軍レンジャー部隊,サイゴン南西200キロのチンビエンからカンボジア領に越境作戦。その他サイゴン軍歩兵部隊はサイゴン西方150キロのメコン河沿いの町ホング北西5キロで戦闘。同町はプノンペンへの補給船団の出発地点。
DIA-202-1973-04-15-2カンボジア1973年04月15日1970年代国道6号Taing Kauk南方およびPrakham西方で戦闘,政府軍死18,解放勢力死30。
DIA-202-1973-04-15-3カンボジア1973年04月15日1970年代消息筋語る,米機爆撃の1日当り平均出撃回数は250回,これは昨年の激戦時に南ベトナムに加えられた爆撃回数に匹敵。
DIA-202-1973-04-16-1カンボジア1973年04月16日1970年代夜,解放勢力,タケオ市を攻撃,その他プノンペン南40キロのTram Khnar町に侵入。
DIA-202-1973-04-17-1カンボジア1973年04月17日1970年代政府軍,国道1号打開作戦開始。
DIA-202-1973-04-17-2カンボジア1973年04月17日1970年代ロン・ノル大統領,共和国の政治基盤拡大の決意を表明。
DIA-202-1973-04-17-3カンボジア1973年04月17日1970年代ハン・ツン・ハク内閣総辞職申し入れ。
DIA-202-1973-04-18-1カンボジア1973年04月18日1970年代(北京)シアヌーク殿下,ラオス愛国戦線代表団団長ヌハク・プームサバンと会見。
DIA-202-1973-04-18-2カンボジア1973年04月18日1970年代ロン・ノル大統領,政策決定機関としての最高政治評議会設立構想を発表。
DIA-202-1973-04-20-1カンボジア1973年04月20日1970年代ソ。ポトラ将校,北京到着,統一戦線参加。
DIA-202-1973-04-21-1カンボジア1973年04月21日1970年代政府軍,プノンペン南24キロのSeam Reapを放棄。20~21日,米機出動。
DIA-202-1973-04-21-2カンボジア1973年04月21日1970年代台湾と文化協定調印。
DIA-202-1973-04-23-1カンボジア1973年04月23日1970年代23日夜から24日にかけ米機,プノンペン周辺を最大規模の爆撃。
DIA-202-1973-04-23-2カンボジア1973年04月23日1970年代上・下院特別合同会議は大統領の政策を承認,政府に期限6ヵ月の全権を与えることを満場一致で可決。
DIA-202-1973-04-24-1カンボジア1973年04月24日1970年代ロン・ノル大統領,4人制最高政治評議会設立と国会両院の機能6ヵ月停止を発表-最高政治評議会は大統領を補佐する。議長ロン・ノル。25日初会合。
DIA-202-1973-04-25-1カンボジア1973年04月25日1970年代(AKI)解放勢力にタケオ州南ベトナム国境近くのプノンデン基地を解放。
DIA-202-1973-04-25-2カンボジア1973年04月25日1970年代解放勢力,タケオ市,シェムリェプ市,コンポントム市等を攻撃。25~26日,政府軍,タケオ北東4キロのBaray奪回作戦,政府軍死9,傷10。
DIA-202-1973-04-26-1カンボジア1973年04月26日1970年代未明,解放勢力,ポチェントン空港とその周辺に10発砲撃,市民死19,傷55。
DIA-202-1973-04-26-2カンボジア1973年04月26日1970年代情報省,プノンペン封鎖に関する外国報道に反論,この2ヵ月来の攻撃は北ベトナムとクメール・ルージュによるものであり,シアヌーク・パルチザンによるものではないと言明。
DIA-202-1973-04-27-1カンボジア1973年04月27日1970年代夜,米B52,メコン東岸,プノンベン南部を爆撃。
DIA-202-1973-04-28-1カンボジア1973年04月28日1970年代解放勢力,Chrui Changwar海軍基地周辺に迫撃砲20発を撃ち込む。B52(米グアム島)30機,プノンペン南東23キロを爆撃。
DIA-202-1973-04-28-2カンボジア1973年04月28日1970年代政府軍最高司令部,Kg.Kantuot,Ang Talek,Thmat Pong,Sethboを奪取したとの解放勢力側の報道に反論。
DIA-202-1973-04-28-3カンボジア1973年04月28日1970年代最高政治評議会設置令。
DIA-202-1973-04-30-1カンボジア1973年04月30日1970年代(AKI)解放勢力,メコン左岸チュルイチレイ基地を攻撃,政府軍第2旅団1,800人全滅。
DIA-202-1973-04-30-2カンボジア1973年04月30日1970年代ロン・ノン将軍,パリに向け出発。
DIA-202-1973-05-01-1カンボジア1973年05月01日1970年代解放勢力,タケオ市を60発砲撃。
DIA-202-1973-05-02-1カンボジア1973年05月02日1970年代ハク内閣の総辞職,受理さる。
DIA-202-1973-05-03-1カンボジア1973年05月03日1970年代(AKI)解放勢力,コンポンチュナン州コンポンチャク町を解放。
DIA-202-1973-05-03-2カンボジア1973年05月03日1970年代スイス・コンフェデレーションとスイス赤十字から36.45トン(1400万リエル)の粉ミルク贈与引渡し式。
DIA-202-1973-05-04-1カンボジア1973年05月04日1970年代ポチェントン空港に着陸しようとした米空軍機が飛行場西南の陸軍病院に墜落,患者ら60人が死傷。7日のAKPは解放勢力がプノンペン周辺で米機を撃墜したと報道。
DIA-202-1973-05-04-2カンボジア1973年05月04日1970年代カンポト空港で民間機が砲撃さる。
DIA-202-1973-05-06-1カンボジア1973年05月06日1970年代プノンペンに入ろうとしたパナマ船籍のタンカー1隻が炎上。
DIA-202-1973-05-07-1カンボジア1973年05月07日1970年代最高政治評議会,基本政策を採択,信頼筋によると,この計画には北ベトナム軍と解放戦線がカンボジアから引揚げた後の赤色クメール側との交渉,あらゆるカンボジア人を含む選挙が含まれる。
DIA-202-1973-05-08-1カンボジア1973年05月08日1970年代シアヌーク殿下夫妻は,セネガル,ギニア,マリ,コンゴ公式訪問のため北京を出発。同殿下はこのあとモーリタニア,アルジェリア,アルバニア,ユーゴ,ルーマニアも非公式訪問する。イエン・サリ特使も同行。
DIA-202-1973-05-08-2カンボジア1973年05月08日1970年代カンポト市,砲撃さる。
DIA-202-1973-05-10-1カンボジア1973年05月10日1970年代(ワシントン)米下院本会議,74年度国防予算をカンボジア爆撃に流用することを禁止する修正案を可決。政府は国防予算のうち,4.3億ドルの流用(うち,少なくとも1.75億ドルはカンボジア爆撃用)を認めるよう要求していた。
DIA-202-1973-05-11-1カンボジア1973年05月11日1970年代夜,解放勢力,プノンペン西方25キロのWat Phnom,Thmat Pongを攻撃,政府軍は同陣地を撤退。
DIA-202-1973-05-11-2カンボジア1973年05月11日1970年代(ダカール)セネガル訪問中のシアヌーク殿下,演説「①74年前半に再び解放区に戻る ②米機の爆撃停止,ロン・ノルへの軍事援助停止,全外国軍隊の引揚げを条件に団結政府は米国と和解することを提案」
DIA-202-1973-05-11-3カンボジア1973年05月11日1970年代(北京)ペン・ヌート首相,レ・ドク・ト氏と会見。
DIA-202-1973-05-11-4カンボジア1973年05月11日1970年代最高政治評議会,イン・タム氏に組閣を要請,同氏はこれを了承。
DIA-202-1973-05-12-1カンボジア1973年05月12日1970年代団結政府外務省声明,米機のカンボジア集中爆撃(プノンペン周辺,タケオ,スベイリエン周辺など)を非難。
DIA-202-1973-05-12-2カンボジア1973年05月12日1970年代政府軍にタケオ西方15キロの解放勢力陣地を爆撃,15日政府軍はタケオ南西2キロWat Chhoeutealで作戦,解放勢力62人を戦死さす。
DIA-202-1973-05-13-1カンボジア1973年05月13日1970年代13日~17日,タイ海軍艦艇4隻,コンポンソム港等を訪問。
DIA-202-1973-05-13-2カンボジア1973年05月13日1970年代大陸主権問題協議のためサイゴン側代表団がプノンペンに向け出発,カンボジアは,Phu Quoc,ThoChau島の領有を主張している。
DIA-202-1973-05-13-3カンボジア1973年05月13日1970年代イギリスから贈与の農業資材(1,000ポンド相当)引渡式。
DIA-202-1973-05-14-1カンボジア1973年05月14日1970年代Prek Engから来た第7師団兵士20名が,Chbar Ampeou市場で発砲しながらデモ,Phnom Basetから来た他の兵士一団もプノンペン中心部で発砲,デモ隊は給料の支払い遅延に抗議。
DIA-202-1973-05-15-1カンボジア1973年05月15日1970年代夜,米機,カンポト周辺を爆撃。
DIA-202-1973-05-16-1カンボジア1973年05月16日1970年代団結政府と大衆組織,各国に公開書簡。
DIA-202-1973-05-16-2カンボジア1973年05月16日1970年代イン・タム内閣発足ーイン・タム新首相は次のとおり新内閣の陣容を発表した(15日任命)。 In Tam:首相 Mau Say:大統領府付き国務相 Chhann Sokhum:首相府担当国務相 Thappana Nginn:公共事業・運輸担当相 Sar Hor:在郷軍人・傷夷軍人担当相 Long Boret:外務担当相 Hem Keth Sana:内務・祭祀担当相 Ray Lomuth:民族和合担当首相府付き国務相 Uy Say:国防担当相 Keo Mongkry:財政相 Khy Taing Lim:計画相 Keam Reth:労働・人民福祉相 Sum Chhum:情報相 Chheang Kim Suor:郵政・通信相 Um Samuth:文化相 Saphon Sarasi:商業・補給相 Kong Orn:農村開発相 Ly Kvan Pan:法務相 Sok Heang Sun:保建相 Keo Sang Kin:教育相 Loeung Nal:社会活動・難民相, Sisowath Duongchivin:農業相 Sean Peng Se:工・鉱・手工業相 Pa Pheng:観光相 閣僚の政党別構成は,社会共和党10,共和党3,中立派3,軍人3。
DIA-202-1973-05-16-3カンボジア1973年05月16日1970年代国銀総裁,Hing KunthelからSok Chhongに交代。
DIA-202-1973-05-16-4カンボジア1973年05月16日1970年代(ワシントン)ニクソン大統領は16日,「議会の行動は,パリ交渉の開始を前に戦闘終結の見通しを傷つけるもの」との特別声明を発表。15日米上院歳出委が国防予算をラオス,カンボジア爆撃作戦に使用することを禁止した法案を可決している。
DIA-202-1973-05-17-1カンボジア1973年05月17日1970年代石油輸送船6隻がプノンペン着。貨物船1隻が被弾。
DIA-202-1973-05-20-1カンボジア1973年05月20日1970年代愛国知識人協会員ソン・セン教授,愛国進歩的作家・詩人同盟議長チウ・オル教授ら15人の署名になる声明。
DIA-202-1973-05-20-2カンボジア1973年05月20日1970年代19,20日,B52を含む米機,カンボジアを爆撃。
DIA-202-1973-05-21-1カンボジア1973年05月21日1970年代解放勢力,国道4号上のO Banteay Prey,Prey Nopを攻撃,プノンペン南西150キロで同国道を占拠。
DIA-202-1973-05-22-1カンボジア1973年05月22日1970年代3月27日から5月22日までのタケオの戦で,解放勢力死387,政府軍死190。
DIA-202-1973-05-22-2カンボジア1973年05月22日1970年代閣議,コソマク王妃ら17人の釈教を決定。
DIA-202-1973-05-23-1カンボジア1973年05月23日1970年代23日夜から24日朝にかけB52を含む米機がプノンペン周辺を爆撃。
DIA-202-1973-05-23-2カンボジア1973年05月23日1970年代軍最高司令部コミュニケ,北ベトナム軍第5,第9師団が新たにプレイベン州Kg.Trabekに駐留。同師団は72年末までChup,Mimotにいた。
DIA-202-1973-05-24-1カンボジア1973年05月24日1970年代キュー・サムファン副首相声明「イン・タム政府は,ハク内閣同様,米帝の侵略の道具である。米帝その手先の和平交渉陰謀を粉砕する」
DIA-202-1973-05-25-1カンボジア1973年05月25日1970年代政府軍,国道1号のネアクルンStung Slot間を打開。解放勢力,Stung Slotを砲撃。
DIA-202-1973-05-25-2カンボジア1973年05月25日1970年代団結政府外務省発表,パキスタンと大使級外交関係樹立を決定。
DIA-202-1973-05-26-1カンボジア1973年05月26日1970年代サリバン米副国務次官補,プノンペン訪問。
DIA-202-1973-05-26-2カンボジア1973年05月26日1970年代日本から贈与のバス10台引渡し式。
DIA-202-1973-05-27-1カンボジア1973年05月27日1970年代夜から28日にかけ,解放勢力はサイゴンからプノンペンに向かっていた14隻の船団を攻撃し,貨物船4隻を撃沈。
DIA-202-1973-05-27-2カンボジア1973年05月27日1970年代情報省宣言「25日パリで団結政府特別相は,団結政府とクメール政府の間には交渉ないし接触はなかったことを確認し,シアヌークはキ・ト会談でカンボジアが問題になることを拒否することを明らかにした。当情報省は双方の間に交渉も接触もなかったこと,前ハク内閣のもとで北ベトナム占領地域にいるクメール人との間に接触が企てられたこと,この企てはイン・タム内閣のもとでも続けられていることを明らかにする。」
DIA-202-1973-05-29-1カンボジア1973年05月29日1970年代(ラバト)モロッコ訪問中のシアヌーク殿下,言明「モロッコは団結政府を承認。われわれはニクソン大統領に,米国がプノンペンの売国奴を見捨てれば,カンボジア王国と米国との間は直ちに和解でき,外交関係が直ちに回復されると提案する。」
DIA-202-1973-05-29-2カンボジア1973年05月29日1970年代(ヌアクショット)イェン・サリ特使,声明発表「第3勢力の陰謀は,カンボジアの内政に対する外国の干渉に他ならぬ。シアヌーク殿下を議長とする統一戦線の中で大団結を実行する以外は,救国は論じられない。」
DIA-202-1973-05-30-1カンボジア1973年05月30日1970年代AKI論評「統一戦線とプノンペン売国奴との間の境界ははっきりしており,歩むべき第3の道もなければ,妥協などあり得ない。」
DIA-202-1973-05-30-2カンボジア1973年05月30日1970年代ソン・サン元首相,パリへ。
DIA-202-1973-05-31-1カンボジア1973年05月31日1970年代団結政府情報・宣伝相声明,プノンペンの売国奴とは接触,交渉,妥協せず。
DIA-202-1973-05-31-2カンボジア1973年05月31日1970年代(ワシントン)米上院本会議,ラオス,カンボジアの爆撃作戦に国防予算を使用することを全面的に禁止したイーグルトン議員提出の追加支出権限修正案を可決。
DIA-202-1973-05-31-3カンボジア1973年05月31日1970年代73年度予算発表,歳出347億リエル。
DIA-202-1973-06-01-1カンボジア1973年06月01日1970年代ハン・ツン・ハク前首相,パリに向け出発。
DIA-202-1973-06-01-2カンボジア1973年06月01日1970年代西独から6万マルク(496万リエル)の難民向け人道援助引渡し式。
DIA-202-1973-06-03-1カンボジア1973年06月03日1970年代解放勢力,スベイリエン陣地を攻撃。
DIA-202-1973-06-04-1カンボジア1973年06月04日1970年代政府軍,国道3号Doeum Rokarから撤退。
DIA-202-1973-06-04-2カンボジア1973年06月04日1970年代傷病退役軍人,過去3ヵ月間の手当未払いに抗議してデモ。
DIA-202-1973-06-04-3カンボジア1973年06月04日1970年代ネアン・チン・ハン内閣官房長,シアヌーク側と接触のためパリへ。
DIA-202-1973-06-05-1カンボジア1973年06月05日1970年代(北京)中国訪問中のレ・ジュアン第一書記とファン・バン・ドン首相,ペン・ヌート首相と会見。
DIA-202-1973-06-05-2カンボジア1973年06月05日1970年代(ワシントン)ロジャース米国務長官,米議会に7月から始まる新年度の対カンボジア軍事援助1.8億ドルを要請。
DIA-202-1973-06-06-1カンボジア1973年06月06日1970年代未明,解放勢力,国道4号Thnal TotungとAng Snuol間を攻撃。5日夜,解放勢力,国道3号,Kg.Kantuot,国道5号Spean Kruosを砲撃。
DIA-202-1973-06-07-1カンボジア1973年06月07日1970年代石油輸送船7隻がプノンペン到着。
DIA-202-1973-06-08-1カンボジア1973年06月08日1970年代(チラナ)シアヌーク殿下言明「北ベトナムはわれわれに代わってカンボジア問題を交渉しないことを保証
DIA-202-1973-06-08-2カンボジア1973年06月08日1970年代Kg.Speu東6キロの村民300人,解放勢力に強制移住させらる。
DIA-202-1973-06-09-1カンボジア1973年06月09日1970年代夜,解放勢力,ポチェントン空港を13発砲撃,バタンバン空港を50発砲撃。
DIA-202-1973-06-11-1カンボジア1973年06月11日1970年代フェルナンデス参謀総長,バタンバン訪問。
DIA-202-1973-06-12-1カンボジア1973年06月12日1970年代政府軍,国道4号Ang Snuol,Thnal Totung間で解放勢力と激戦,解放勢力死30,政府軍死20,傷40。
DIA-202-1973-06-12-2カンボジア1973年06月12日1970年代(北京)ペン・ヌート首相,政府支配下の僧侶・知識人・青年・学生にメッセージ「われわれはカンボジアに2つまたは3つの政府ができることに断固反対する。第3の勢力の承認を断固拒否する。いかなる帝国主義大国のいかなる解決策も拒否する。」
DIA-202-1973-06-13-1カンボジア1973年06月13日1970年代サリン・チャク団結政府外相,イラク訪問。16日シリア訪問。
DIA-202-1973-06-14-1カンボジア1973年06月14日1970年代Um Sim駐米大使,ニクソン大統領に信任状提出。
DIA-202-1973-06-15-1カンボジア1973年06月15日1970年代政府軍,国道3号Prey Totung町から撤退。
DIA-202-1973-06-15-2カンボジア1973年06月15日1970年代スレイ・サマン,コスタリカ大使に任命さる。
DIA-202-1973-06-15-3カンボジア1973年06月15日1970年代政府,新米傾発表。
DIA-202-1973-06-16-1カンボジア1973年06月16日1970年代解放勢力,国道5号をプノンペン北西50キロで切断。
DIA-202-1973-06-17-1カンボジア1973年06月17日1970年代解放勢力,スクーン西で国道6号を切断。。
DIA-202-1973-06-18-1カンボジア1973年06月18日1970年代最高政治評議会,オム・マノリン,イ・ツイ,テプ・チュー・ケンら政治犯39人を釈放。
DIA-202-1973-06-22-1カンボジア1973年06月22日1970年代コンポンスプー州Phum Run,Trapeang Kchang,等で百数十軒が被災。
DIA-202-1973-06-22-2カンボジア1973年06月22日1970年代イン・タム首相は州知事会議で行政対策について脱明「①非軍人知事を増やす,②内務省管轄下の特殊部隊を設置 ③現在の必要をみたすため耕作を強化」
DIA-202-1973-06-23-1カンボジア1973年06月23日1970年代コンポンスプー州知事,Mey Sichan准将からMam Phang氏に交代。
DIA-202-1973-06-23-2カンボジア1973年06月23日1970年代香港のマリン・アソシェーツ社と大陸ダナ石油探査協約調印。
DIA-202-1973-06-25-1カンボジア1973年06月25日1970年代最高政治評議会,国軍編成について検討。
DIA-202-1973-06-27-1カンボジア1973年06月27日1970年代コンポンチャム州知事,Moul Kleng少将からSrey Ya准将に交代。
DIA-202-1973-06-28-1カンボジア1973年06月28日1970年代国道3号Kg.Kantuot地区で戦闘,政府軍死7。
DIA-202-1973-07-01-1カンボジア1973年07月01日1970年代(ワシントン)ニクソン大統領,カンボジア爆撃を8月15日までに停止する法案に署名。
DIA-202-1973-07-03-1カンボジア1973年07月03日1970年代シアヌーク殿下はアフリカ,東欧11カ国訪問を終え2ヵ月ぶりにウルムチに房った。同殿下は5月10日セネガル,13日ギニア,16日マリ,19日コンゴ,23日ザンビア,26日モロッコを公式訪問,29日モーリタニア,6月1日アルジェリア,4日アルバニアを非公式訪問,9日ユーゴ,22日ルーマニアを友好訪問。
DIA-202-1973-07-03-2カンボジア1973年07月03日1970年代モスクワ放送,シアヌーク殿下を「国家元首」の肩書きで呼ぶ。
DIA-202-1973-07-05-1カンボジア1973年07月05日1970年代シアヌーク殿下一行,北京帰着。空港で「われわれは早くから,すでに2,3回,米国と話し合う用意があると言ってきた。しかし米国はこれにこたえなかった。」「カンボジアを分割しようとする米国の考え方,米国に押しつけられた平和は絶対に受けつけられない」と言明。
DIA-202-1973-07-06-1カンボジア1973年07月06日1970年代(北京)シアヌーク殿下言明,米国流の平和受け入れられず。
DIA-202-1973-07-06-2カンボジア1973年07月06日1970年代政府6項目提案-ロン・ボレ外相は「政府は向こう側のクメール代表と,敵対行為停止,国民和解達成のため会談する用意がある。」と述べ,6項目の提案を行なった。
DIA-202-1973-07-07-1カンボジア1973年07月07日1970年代シアヌーク殿下は米国雑誌パレードの会見記事で,「ロン・ノル政権への支持などをやめるなら対米交渉を拒否せず」「米がカンボジアの真の政府と交渉したいならキュー・サンファン氏と交渉すべし」と言明。
DIA-202-1973-07-08-1カンボジア1973年07月08日1970年代国道4号開通。
DIA-202-1973-07-09-1カンボジア1973年07月09日1970年代(ワシントン)米国務省コミュニケ「米政府は6日のロン・ノル政府の宣言を,早期に敵対行為に終止符をうつためのクメール共和国の真面目な願望の新たな表現として歓迎する」
DIA-202-1973-07-10-1カンボジア1973年07月10日1970年代団結政府情報宣伝相声明,ロン・ノル政府の6項目提案を拒否。
DIA-202-1973-07-12-1カンボジア1973年07月12日1970年代団結政府声明,ロン・ノル政府の6項目提案を,拒否。
DIA-202-1973-07-13-1カンボジア1973年07月13日1970年代キュー・サンファンら3閣僚,政府軍将兵に決起をよびかけるアピール。
DIA-202-1973-07-13-2カンボジア1973年07月13日1970年代政府軍,プノンペン南19キロの国道2号Kg.Kantuot,Kg.Tuolから撤退。
DIA-202-1973-07-13-3カンボジア1973年07月13日1970年代共和警察(Police Sathearanak Roth)設置令。
DIA-202-1973-07-13-4カンボジア1973年07月13日1970年代ニクソン大統領特使ウェィアンド米太平洋軍司令官,プノンペン訪問。
DIA-202-1973-07-13-5カンボジア1973年07月13日1970年代米国防総省,グアム島を基地にカンボジア爆撃に従事していたB521個中隊(15機)を米本土に引揚げると発表。
DIA-202-1973-07-16-1カンボジア1973年07月16日1970年代団結政府スポークスマン声明「ウェィアンド将軍とボークト将軍は最近サイゴン・バンコック軍をカンボジアに侵入させ,場合によっては米軍を侵入させる計画を練った。」「カンボジア問題は米国が侵略を完全に停止することによってはじめて解決される」
DIA-202-1973-07-16-2カンボジア1973年07月16日1970年代キュー・サンファンら3閣僚,政府側支配下の住民,青年,公務員へアピール。
DIA-202-1973-07-16-3カンボジア1973年07月16日1970年代(北京)シアヌーク殿下,クメール同胞に告ぐる書第43号発表。
DIA-202-1973-07-16-4カンボジア1973年07月16日1970年代最高政治評議会,徴兵制実施を決定。18~35歳,兵役に。
DIA-202-1973-07-16-5カンボジア1973年07月16日1970年代イキリスから贈与の天幕引渡し式。
DIA-202-1973-07-16-6カンボジア1973年07月16日1970年代西独から贈与の医薬品(4万マルク)(難民向け人道援助)引渡し式。
DIA-202-1973-07-20-1カンボジア1973年07月20日1970年代シアヌーク殿下,北朝鮮へ向け北京を出発。
DIA-202-1973-07-21-1カンボジア1973年07月21日1970年代19~21日,解放区で国民大会。21日声明採択。
DIA-202-1973-07-21-2カンボジア1973年07月21日1970年代フェルナンデス将軍言明「政府は8月15日以降も米国および友好国に,共産側に対する爆撃を続けるよう要請」
DIA-202-1973-07-24-1カンボジア1973年07月24日1970年代ロン・ノル大統領,ラジオ演説「1ヵ月前から北ベトナムとカンプチア民族統一戦線によるプノンペン攻撃が強まった。われわれはさらに防御を固めねばならぬ」
DIA-202-1973-07-25-1カンボジア1973年07月25日1970年代キュー・サンファンら3閣僚,政府支配都市の憎侶,仏教徒にアピール「今や米帝とその手先がもたらした苦痛を終らせる時であり,団結して戦う時である」
DIA-202-1973-07-25-2カンボジア1973年07月25日1970年代解放勢力,ポチェントン空港とその付近にロケット弾30発の砲撃。
DIA-202-1973-07-25-3カンボジア1973年07月25日1970年代アメリカと経済援助協定調印,73ー74年度分2500万ドル。
DIA-202-1973-07-25-4カンボジア1973年07月25日1970年代ニューヨーク連邦地裁,ホルツマン下院議員らのカンボジア爆撃即時中止訴訟を認める。27日,米司法省はこの判決を不服として控訴。
DIA-202-1973-07-26-1カンボジア1973年07月26日1970年代(AKI)プノンペンの各大学で強制徴兵に抗議してスト。
DIA-202-1973-07-27-1カンボジア1973年07月27日1970年代夜,プノンペン北西8キロで激戦,米B52出動。
DIA-202-1973-07-28-1カンボジア1973年07月28日1970年代夜,政府軍,プノンペン東南25キロのSaangを放棄。
DIA-202-1973-07-28-2カンボジア1973年07月28日1970年代(北京)周首相,コンゴ元首歓迎宴で演説「米国はカンボジアに対する爆撃と一切の軍事干渉を直ちに停止し,カンボジア人民が外国の干渉なしに自分で自分の問題を解決できるようにすべきである」
DIA-202-1973-07-29-1カンボジア1973年07月29日1970年代ポチェントン空港北3キロで戦闘。
DIA-202-1973-07-29-2カンボジア1973年07月29日1970年代(KAKI)プノンペン各地の工場で強制徴兵に反対してゼネスト。
DIA-202-1973-08-02-1カンボジア1973年08月02日1970年代解放勢力,国道1号をプノンペン東南20キロで切断。これまで数週間にわたりプノンペンから35キロで切断されていた。
DIA-202-1973-08-02-2カンボジア1973年08月02日1970年代ロン・ボレ外相,ジャカルタ訪問。
DIA-202-1973-08-05-1カンボジア1973年08月05日1970年代AKI発表「解放軍の一部がプノンペン市に進入」
DIA-202-1973-08-05-2カンボジア1973年08月05日1970年代(AKI)解放勢力,プノンペン北30キロの国道6号Taing Kaukを解放。
DIA-202-1973-08-06-1カンボジア1973年08月06日1970年代国道1号プノンペンから11キロのベアルスバウで政府軍2個大隊,解放勢力2個大隊と激戦,解放勢力は同地を4日に占拠。
DIA-202-1973-08-06-2カンボジア1973年08月06日1970年代米機,ネアクルン町の中心街を誤爆,死137,傷368。
DIA-202-1973-08-07-1カンボジア1973年08月07日1970年代夜,解放勢力,カンボールの国際通信センターを攻撃,国外との連絡途絶。
DIA-202-1973-08-08-1カンボジア1973年08月08日1970年代統一戦線の声放送アピール「統一戦線部隊はプノンペンに入った。プノンペン市民は武器をとるよう訴える」
DIA-202-1973-08-08-2カンボジア1973年08月08日1970年代ニューヨーク州連邦巡回高裁,8月15日までのカンボジア爆撃継続を支持。
DIA-202-1973-08-10-1カンボジア1973年08月10日1970年代シアヌーク殿下は,平壌からマンスフィールド議員あてに電報で,米国の軍事介入と援助停止を含む和平提案を行なった。
DIA-202-1973-08-10-2カンボジア1973年08月10日1970年代(北京)ペン・ヌート団結政府首相,国内の僧・同胞・武装勢力にメッセージ,スト,デモ,転覆活動を呼びかけ,ロンノル集団との連合政府樹立には応じられないと言明。
DIA-202-1973-08-10-3カンボジア1973年08月10日1970年代(平壌)シアヌーク議長は新華社を通じて,プノンペンに大使館をおく各国政府に対し,大使館の閉鎖と外交員の退去を要求。
DIA-202-1973-08-10-4カンボジア1973年08月10日1970年代米,カンボジア空軍に軍事輸送機8機,装甲車,トラック,弾薬等を引渡し。
DIA-202-1973-08-11-1カンボジア1973年08月11日1970年代政府軍発表,プノンペン南郊の解放勢力撤退。
DIA-202-1973-08-11-2カンボジア1973年08月11日1970年代ロン・ノル大統領,ラジオ演説「噂によれば,われわれ共和国側は8月15日前にインドシナ共産主義者がプノンペンを攻撃するのを恐れているというが,私は祖国を見捨てることはない。敵はわが軍を打ち破ることはできない。国民と共に最後の勝利まで闘う」
DIA-202-1973-08-11-3カンボジア1973年08月11日1970年代(AKI)プノンペン仏教大学の学生僧1,500人が,徴兵法と大学課程改編に反対してスト。
DIA-202-1973-08-12-1カンボジア1973年08月12日1970年代プノンペン北東56キロのスクーン,スダンチェイ,バコム,プレイトツンが陥落,コンポンチャム市孤立。
DIA-202-1973-08-13-1カンボジア1973年08月13日1970年代解放勢力,ポチェントン空港西方8キロTuol Leapの政府軍拠点を攻撃。
DIA-202-1973-08-13-2カンボジア1973年08月13日1970年代(平壌)シアヌーク殿下,イズベスチヤ論評に関し,ソ連の内政干渉に反論。
DIA-202-1973-08-13-3カンボジア1973年08月13日1970年代スム・チュム情報相,記者会見で言明「北ベトナム・ベトコンはパリ協定と6月13日の声明を踏みにじっている。しかしアメリカは8月15日以降爆撃を停止する。われわれは相手方の意思表示を待っている。」
DIA-202-1973-08-13-4カンボジア1973年08月13日1970年代アメリカと経済援助協定調印,米3.5万トン供与。
DIA-202-1973-08-13-5カンボジア1973年08月13日1970年代(ワシントン)マンスフィールド議員は声明を発表し,シアヌーク提案の検討をニクソン大統領に要請し,「同提案はカンボジア人同士による平和的解決の基礎となり得る」と述べた。
DIA-202-1973-08-13-6カンボジア1973年08月13日1970年代(ワシントン)ホワイトハウス副報道官言明「米,ロン・ノル政権に対し,法の許す範囲であらゆる援助努力を継続」
DIA-202-1973-08-14-1カンボジア1973年08月14日1970年代トーゴ政府,団結政府承認。マルタ政府,団結政府を承認。
DIA-202-1973-08-14-2カンボジア1973年08月14日1970年代(ホノルル)ゲイラー米太平洋統合軍司令官,15日午前0時以降のカンボジア爆撃停止を命令。
DIA-202-1973-08-14-3カンボジア1973年08月14日1970年代ロン・ノル大統領特派移動大使,朴大統領と会見。
DIA-202-1973-08-15-1カンボジア1973年08月15日1970年代(天津)シアヌーク殿下言明「8月15日は民族抵抗運動にとって偉大な勝利の日である。」「われわれは 首都プノンペンを解放する」
DIA-202-1973-08-15-2カンボジア1973年08月15日1970年代(北京)ペン・ヌート団結政府首相,政府声明発表。
DIA-202-1973-08-15-3カンボジア1973年08月15日1970年代米B52,午前11時の爆撃停止期限を前にスクーン爆撃。
DIA-202-1973-08-16-1カンボジア1973年08月16日1970年代シアヌーク殿下,北京到着。ファン・バン・ドン首相と会見。
DIA-202-1973-08-16-2カンボジア1973年08月16日1970年代(ワシントン)米国防総省スポークスマンは,米軍が爆撃停止後もカンボジア領内で非武装の輸送・偵察飛行を行なったことを確認。
DIA-202-1973-08-16-3カンボジア1973年08月16日1970年代政府軍,プノンペン南14キロKg.Kantuot町を奪回。政府軍死12,傷18。
DIA-202-1973-08-17-1カンボジア1973年08月17日1970年代(北京)シアヌーク殿下言明「8月15日直前に13万人の南ベトナム兵士がカンボジアへ」
DIA-202-1973-08-17-2カンボジア1973年08月17日1970年代国道1号プノンペン=ネアクルン間開通。
DIA-202-1973-08-17-3カンボジア1973年08月17日1970年代サク・スツァカン移動大使,大平外相と会見。
DIA-202-1973-08-18-1カンボジア1973年08月18日1970年代解放勢力,コンポンチャム市に迫る。
DIA-202-1973-08-19-1カンボジア1973年08月19日1970年代プノンペン市内,中央市場などで3件の爆発事件。
DIA-202-1973-08-22-1カンボジア1973年08月22日1970年代政府軍,国道4号上,コンポンスプー市西8~10キロの3陣地を奪回。
DIA-202-1973-08-22-2カンボジア1973年08月22日1970年代スワンク米大使,さる6日のネアクルン誤爆事件で米国が15万ドルの補償金を支払う協定に調印。
DIA-202-1973-08-24-1カンボジア1973年08月24日1970年代解放勢力,コンポンチャム市から3.2キロ地点で地上攻撃開始。
DIA-202-1973-08-25-1カンボジア1973年08月25日1970年代(AKI)解放勢力,コンポンスプー市南で国道4号を切断。
DIA-202-1973-08-25-2カンボジア1973年08月25日1970年代解放勢力,プノンペン北40キロで国道5号を切断。国道5号は7月以来政府軍の手にあった。
DIA-202-1973-08-25-3カンボジア1973年08月25日1970年代第1軍区司令官,Srey Ya准将からSar Hor少将に交代。
DIA-202-1973-08-26-1カンボジア1973年08月26日1970年代(ニューヨーク)シュレジンジャー米国防長官言明「カンボジア領内で,領土粉争と米の補給問題をめぐって,北ベトナム軍とカンボジア解放勢力が紛争」
DIA-202-1973-08-26-2カンボジア1973年08月26日1970年代ロン・ノル大統領声明「シアヌーク殿下は北ベトナム・ベトコンに頼んでわが国を攻撃している。シアヌーク殿下はわれわれを灰にしたいのか」
DIA-202-1973-08-27-1カンボジア1973年08月27日1970年代(北京)シアヌーク殿下,人民武装勢力に特別メッセージ。
DIA-202-1973-08-27-2カンボジア1973年08月27日1970年代シリク・マタク氏,シアヌーク殿下に公開状を送る。
DIA-202-1973-08-27-3カンボジア1973年08月27日1970年代軍人危険手当(月1,500リエル)に関する法令。
DIA-202-1973-08-28-1カンボジア1973年08月28日1970年代(北京)シアヌーク殿下声明,プノンペン側との交渉の可能性を否定。
DIA-202-1973-08-28-2カンボジア1973年08月28日1970年代(ワシントン)ホワイトハウス副報道官発表「スワンク大使が近く辞任。」
DIA-202-1973-08-29-1カンボジア1973年08月29日1970年代団結政府発表,マルタと大使級外交関係を樹立。
DIA-202-1973-08-30-1カンボジア1973年08月30日1970年代(北京)シアヌーク殿下,レ・ジュアン第一書記と会見。
DIA-202-1973-08-31-1カンボジア1973年08月31日1970年代ロン・ノル大統領,非同盟諸国会議事務局長にあてメッセージ,シアヌーク政府の扱いに抗議。
DIA-202-1973-09-02-1カンボジア1973年09月02日1970年代プノンペン西24キロ,国道4号Sala Kruosで戦闘,政府軍死13。
DIA-202-1973-09-02-2カンボジア1973年09月02日1970年代(北京)シアヌーク殿下,政府軍人に特別メッセージ,政府軍から離脱を呼びかけ。
DIA-202-1973-09-05-1カンボジア1973年09月05日1970年代チェン・ヘン副議長,記者会見,シアヌーク殿下を攻撃。
DIA-202-1973-09-06-1カンボジア1973年09月06日1970年代解放勢力,コンポンチャム市に侵入,政府軍と市街戦。
DIA-202-1973-09-07-1カンボジア1973年09月07日1970年代(アルジェ)非同盟諸国首脳会議でシアヌーク殿下演説「ソ連がロン・ノル政権と外交関係を保っている事実は理解に苦しむ」,同殿下は19日北京へ。
DIA-202-1973-09-07-2カンボジア1973年09月07日1970年代コンポンチャム市攻防戦,市民数万脱出。
DIA-202-1973-09-07-3カンボジア1973年09月07日1970年代フェルナンデス司令官,コンポンチャム死守を命令。同発言によれば同市を攻撃する解放勢力は17個大隊。
DIA-202-1973-09-09-1カンボジア1973年09月09日1970年代政府軍増援部隊が13隻の舟艇でコンポンチャムに到着。
DIA-202-1973-09-11-1カンボジア1973年09月11日1970年代(KAKI)解放勢力,プノンベン西南28キロ国道4号上のThnal Totung町を解放。
DIA-202-1973-09-13-1カンボジア1973年09月13日1970年代(AKI)解放勢力,ビヘアスオル東1.5キロのプレイトムを攻略。
DIA-202-1973-09-19-1カンボジア1973年09月19日1970年代政府軍,国道4号開通。同国道は数週間来,プノンペンから22キロのAng Snuolで切断されていた。
DIA-202-1973-09-20-1カンボジア1973年09月20日1970年代政府軍,コンポンチャムの大学北1キロの陣地奪回。8月17日から9月19日までの同市攻防戦で政府軍死202,傷1,013,解放勢力死225。
DIA-202-1973-09-20-2カンボジア1973年09月20日1970年代政府軍,Koki奪回。国道1号,ネアクルンまで開通。16日から切断されていた。
DIA-202-1973-09-20-3カンボジア1973年09月20日1970年代シアヌーク殿下は国連事務総長あてに電報を送り,団結政府の国連代表権復活問題を課題としてとりあげるよう要請。
DIA-202-1973-09-24-1カンボジア1973年09月24日1970年代ラオス和平議定書締結に当たり政府声明,7月6日の6項目を再確認。北ベトナム・ベトコンの撤退要求。
DIA-202-1973-10-03-1カンボジア1973年10月03日1970年代(北京)シアヌーク殿下,清水正夫氏と会見。
DIA-202-1973-10-03-2カンボジア1973年10月03日1970年代ロン・ノル大統領メッセージ,18~25歳の男子徴兵。
DIA-202-1973-10-04-1カンボジア1973年10月04日1970年代政府軍,コンポンチャム市から飛行場への道を確保。
DIA-202-1973-10-04-2カンボジア1973年10月04日1970年代(ニューヨーク)ロン・ボレ外相,キッシンジャー国務長官と会見,キ長官は10月26日からの北京滞在中シアヌーク殿下と会う計画はないと言明,また議会が課した枠内でロン・ノル政府への支援を続けると言明。
DIA-202-1973-10-05-1カンボジア1973年10月05日1970年代カンボジア。イスラエル文化協定調印。
DIA-202-1973-10-06-1カンボジア1973年10月06日1970年代政府軍,プノンペン北西18キロのChrey Loasを奪回。7日,プノンペン北西20キロのBat Deng奪回。
DIA-202-1973-10-09-1カンボジア1973年10月09日1970年代ロン・ノル大統領,ラジオ演説で相手側が交渉の日と場所を決めるよう呼びかけ。
DIA-202-1973-10-10-1カンボジア1973年10月10日1970年代(北京)シアヌーク殿下コミュニケ「ソ連が団結政府をカンボジアの唯一の合法政府として承認。」
DIA-202-1973-10-10-2カンボジア1973年10月10日1970年代イン・タム首相兼最高政治評議会員,辞表提出。
DIA-202-1973-10-11-1カンボジア1973年10月11日1970年代(北京)トルスチコフ・ソ連大使,シアヌーク殿下を訪問。
DIA-202-1973-10-12-1カンボジア1973年10月12日1970年代(ニューヨーク)ロン・ノル政権を国連から追放し,団結政府の国連代表権復活を要求する新議題が,非同盟諸国31ヵ国の共同提案により総会に提出さる。
DIA-202-1973-10-14-1カンボジア1973年10月14日1970年代イン・タム首相,留任に同意。
DIA-202-1973-10-15-1カンボジア1973年10月15日1970年代ロン・ノル大統領,23日に失効する危険事態宣言を74年4月4日まで6カ月延長する法令を発表。
DIA-202-1973-10-15-2カンボジア1973年10月15日1970年代ロン・ノル大統領,モントイーグル・スターンズ米国務次官補と会見。
DIA-202-1973-10-16-1カンボジア1973年10月16日1970年代Tram Khnar市場で戦闘,政府軍死9,傷16。
DIA-202-1973-10-16-2カンボジア1973年10月16日1970年代(ニューヨーク)国連一般委員会,団結政府代表権復活決議案の議題採択を可決。17日総会も同議題を採択。
DIA-202-1973-10-17-1カンボジア1973年10月17日1970年代(北京)シアヌーク殿下,岡田春夫議員と会見。
DIA-202-1973-10-18-1カンボジア1973年10月18日1970年代チャン・ソクム外相代理は,ソ連代理大使とそのスタッフが24日,一時的にプノンペンを離れると言明。ソ連代理大使は17日外務省を訪れ,プノンペン退去のための便宣供与を要請。
DIA-202-1973-10-18-2カンボジア1973年10月18日1970年代米第7空軍司令官チモツィフ・オキーフ将軍,ロン・ノル大統領と会見。
DIA-202-1973-10-20-1カンボジア1973年10月20日1970年代団結政府,国内に-(北京)シアヌーク殿下言明「団結政府の構成を近く抜本的に改め,外務省を除く各省の全ポストを統一戦線国内勢力の指導者達に渡す。」「団結政府は完全に領土内に設置される」「団結政府の在外部分は,外務省を除いて,廃止され,大使として残る。」
DIA-202-1973-10-20-2カンボジア1973年10月20日1970年代最高政治評議会,コソマク皇太后の離国許可。
DIA-202-1973-10-21-1カンボジア1973年10月21日1970年代内閣改造-イン・タム首相は次のとおり内閣を改造。 In Tam:首相 Hang Thun Hak:議会連絡ならびに外務省・和平・文化・社会活動・難民問題統合担当第1副首相 Op Kim Ang:公共事業省ならびに農村開発・労働・人民福祉・都電・観光省統合担当第2副首相 Thappana Nginn:国防ならびに情報・保健・在郷軍人省統合担当第3副首相 Mau Say:大統領府付き国務相 Chhann Sokhum:首相府担当国務相 Long Boret:外務担当国務相 Hem Keth Sana:交渉・平和問題担当国務相 Ray Lomuth:首相府付き民族和合担当限務相 Khy Taing Lim:計画ならびに財政・農業・商業・補給・工業・手工業省統合担当国務相 Keo Mongkry:財政相 Keam Reth:労働・人民福祉相 Sum Chhum:在郷・傷夷軍人相 Chhieng Kim Suor:郵政・通信相 Um Samuth:文化相 Saphon Sarasi:商業・補給相 Kong Orn:農村開発相 Ly Kvang Pan:法務相 Sok Heang Sun:保健相 Keo Sangkim:教育・スポーツ・青年相 Loeung Nal:社会活動・難民相 Sisowath Duong Chivin:農業相 Sean Pengse:工業・鉱業・手工業相 Pa Pheng:観光相 Svay So:首相府付き政策実施統制担当相 Eap Kim Choan:情報相 Duong Sareth:首・
DIA-202-1973-10-22-1カンボジア1973年10月22日1970年代(北京)シアヌーク殿下は,東独政府が団結政府を承認し,プノンペンの大使館をひきあげ,国連総会で団結政府の権利回復に賛成投票を行なうことを通告してきたと発表。
DIA-202-1973-10-22-2カンボジア1973年10月22日1970年代エンダース米代理大使,今年度為替安定基金の275万ドル追加出資の意向を表明。
DIA-202-1973-10-23-1カンボジア1973年10月23日1970年代新内閣発足-ロン・ノル大統領は6カ月ぶりに再開した国会で演説し,最高政治評議会の存続を決定したこと,内閣の改造を認めたことを明らかにしたほか,同政府が7月6日に行なった6項目の和平提案をくり返した。
DIA-202-1973-10-23-2カンボジア1973年10月23日1970年代モンゴル政府はシアヌーク殿下の書簡(11日付)に対する返書で,①モンゴルは一貫して団結政府がカンボジアにおける唯一合法の政府であるとみなしてきた ②カンボジア人民の抗米救国闘争を断固支持し続ける ③第28回国連総会で団結政府の合法的権利回復に賛成することを表明。
DIA-202-1973-10-26-1カンボジア1973年10月26日1970年代シアヌーク殿下はル・モンド紙との会見で生涯北京にとどまると言明。
DIA-202-1973-10-27-1カンボジア1973年10月27日1970年代解放勢力,プノンペン北20キロで国道5号を切断。
DIA-202-1973-11-01-1カンボジア1973年11月01日1970年代プノンペン南方150キロKepで激戦,政府軍死12,傷50。解放勢力死55。Kepは4月以来解放勢力に占領されていたが,今週政府軍は,解放勢力の軍需物資陸揚げ防止のため奪回作戦を開始していた。
DIA-202-1973-11-01-2カンボジア1973年11月01日1970年代米と今年度CIP 850万ドル援助協定調印。
DIA-202-1973-11-02-1カンボジア1973年11月02日1970年代(北京)シアヌーク殿下,ホイトラム豪首相と会見。
DIA-202-1973-11-04-1カンボジア1973年11月04日1970年代(AKI)解放勢力,Tram Khnar町を解放。
DIA-202-1973-11-05-1カンボジア1973年11月05日1970年代(ワシントン)ラッシュ国務次官,クレメンツ国防次官,対外軍事援助小委でカンボジアに対する緊急軍事援助2億ドルを要求,同言明によれば,政府軍は1日50万~100万ドルの弾薬を使っており,まもなく必要資金が枯渇する。
DIA-202-1973-11-06-1カンボジア1973年11月06日1970年代プノンペン西南40キロの固道3号と4号間の拠点スランで激戦の後政府軍撤退。
DIA-202-1973-11-06-2カンボジア1973年11月06日1970年代この数日,政府軍補給船がコンポントム市に到着。また政府軍はコンポンチャム飛行場周辺のPhnom Srei,Phnom Prosを奪回。
DIA-202-1973-11-07-1カンボジア1973年11月07日1970年代(モスクワ)ソ連政府,団結政府の駐ソ大使を革命記念日式典に招待。
DIA-202-1973-11-08-1カンボジア1973年11月08日1970年代(北京)サリン・チャク外相,イエン・サリ特使を解放区へ送る送別会を催す。同特使は9日北京出発,ハノイ到着,12日ファン・バン・ドン首相と会見。
DIA-202-1973-11-09-1カンボジア1973年11月09日1970年代(広州)シアヌーク殿下発表「今日以後,王国政府は全部カンボジア国内におかれる。ペン・ヌート首相は暫定的に国外にとどまる。国内ではキュー・サンファン副首相が閣議を主宰する」
DIA-202-1973-11-09-2カンボジア1973年11月09日1970年代(東京)日本カンボジア友好協会設立,会長佐ー木更三,理事長坂本徳松,顧問伊藤武雄,黒田寿男,西園寺公一,牧野内武人,松本俊一,藤山愛一郎,山田無文。
DIA-202-1973-11-14-1カンボジア1973年11月14日1970年代米国と商品輸入計画援助250万ドル増額協定調印。
DIA-202-1973-11-15-1カンボジア1973年11月15日1970年代(ワシントン)ロン・ボレ外相,ニクソン大統領と会見。米は援助を約束。
DIA-202-1973-11-15-2カンボジア1973年11月15日1970年代(パリ)経済安定基金74年出資に関する会議,オーストラリア代表欠席。
DIA-202-1973-11-18-1カンボジア1973年11月18日1970年代解放勢力,タケオ市南3キロの政府軍基地を攻撃。
DIA-202-1973-11-19-1カンボジア1973年11月19日1970年代政府軍機T28,大統領官殿を爆撃。
DIA-202-1973-11-21-1カンボジア1973年11月21日1970年代ル・モンド21日付,ポドゴルヌイ議長,シアヌーク殿下に国家元首・統一戦線議長の肩書をつけて独立記念祝賀メッセージを送る。
DIA-202-1973-11-21-2カンボジア1973年11月21日1970年代(AFP)ロン・ノル大統領言明「クメールは団結政府問題を重要視しない。我々は交渉による解決に反対しないが,現在のかけひきは北ベトナムと他の外国がやっているものだ」
DIA-202-1973-11-25-1カンボジア1973年11月25日1970年代公務員の石油消費規則措置に関する首相令。
DIA-202-1973-11-30-1カンボジア1973年11月30日1970年代(AKI)解放勢力,プノンペン東18キロのビヘアスオル町を解放。
DIA-202-1973-12-01-1カンボジア1973年12月01日1970年代ロン・ノル大統領,タクマウでのルージュ帰順式で,7月の6項目を繰り返す。
DIA-202-1973-12-03-1カンボジア1973年12月03日1970年代シアヌーク殿下はキュー・サンファン副首相に電報を送り,新閣僚任命と統一戦線プノンペン委員会の新構成を承認。新メンバーは次のとおり。司法・司法改革相ノロドム・プリサラ殿下,公衆衛生相チウン・チエン博士,公共事業・郵便電信・建設相トク・プン氏,宗教・社会問題担当相チオウ・チエト氏,人民教育・青年相イエン・デイリト女史。
DIA-202-1973-12-03-2カンボジア1973年12月03日1970年代(ニューヨーク)アルジェリアなど33カ国,シアヌーク政権の代表権に関する決議案を国連総会に提出。
DIA-202-1973-12-05-1カンボジア1973年12月05日1970年代(ニューヨーク)国連,非同盟決議案討議の1年延期動議を採択。
DIA-202-1973-12-05-2カンボジア1973年12月05日1970年代政府軍,プノンペン西60キロのスレクロンから撤退。政府軍死傷30。
DIA-202-1973-12-06-1カンボジア1973年12月06日1970年代解放勢力,タケオ付近の政府軍陣地を攻撃。政府軍死24,傷30。
DIA-202-1973-12-07-1カンボジア1973年12月07日1970年代イン・タム首相,辞表提出,10日辞任。
DIA-202-1973-12-10-1カンボジア1973年12月10日1970年代(パリ)チウン・プラシト団結政府調整相(カンボジア人民連帯国際会議カンボジア代表団長)言明,「シアヌーク殿下はカンボジア全土解放のため国内に帰る決意を明らかにした」「ソ連はカンボジアに対する政策を改めた。われわれはこのような積極的な態度に感謝する」
DIA-202-1973-12-10-2カンボジア1973年12月10日1970年代解放勢力,国道5号のプノンペン北西22キロのPrek Tatenを攻撃。
DIA-202-1973-12-11-1カンボジア1973年12月11日1970年代最高政治評議会,新内閣で合意,首相にロン・ボレ外相。
DIA-202-1973-12-13-1カンボジア1973年12月13日1970年代解放勢力,コンポンスプー南部の政府軍陣地に80発の砲弾を撃ち込む。政府軍死7,傷30。
DIA-202-1973-12-14-1カンボジア1973年12月14日1970年代解放勢力,プルサト市西南28キロのレアチ町を解放。
DIA-202-1973-12-14-2カンボジア1973年12月14日1970年代第II軍区司令官,チャンタランセイ大将に交代。
DIA-202-1973-12-15-1カンボジア1973年12月15日1970年代解放勢力,プノンペン南東14キロ国道1号上のワットダウンサリ基地を攻撃。
DIA-202-1973-12-16-1カンボジア1973年12月16日1970年代プノンペン東17キロ国道1号上の政府軍陣地のキエンスバイが陥落。国道5号も依然プノンペン北22キロのPrek Tatenで切断。
DIA-202-1973-12-17-1カンボジア1973年12月17日1970年代政府軍,国道1号のWat Chantaraingsei=Kbal Koh間を開通さす。国道4号はPhnom Sabmourを奪回し,打開作戦続行。
DIA-202-1973-12-20-1カンボジア1973年12月20日1970年代(AKI)グオン・エン勤労者連合議長,政府支配下労働者にアピール「統一戦線,団結政府がプノンペンに入り,プノンペン市と全国を治めるよう招くため,人民武装勢力と緊密に団結せよ」
DIA-202-1973-12-23-1カンボジア1973年12月23日1970年代解放勢力,プノンペンに7発のロケット弾攻撃。24,25日も続く。
DIA-202-1973-12-23-2カンボジア1973年12月23日1970年代モーリシャス,ハンガリー,団結政府を承認。
DIA-202-1973-12-25-1カンボジア1973年12月25日1970年代解放勢力,メコン東岸のプノンペン北東17キロのKroch Soeuchを300発砲撃。
DIA-202-1973-12-26-1カンボジア1973年12月26日1970年代ロン・ボレ内閣成立-新内閣の陣容は次のとおり。 Long Boret:首相 Op Kim Ang:第1副首相兼公共事業・運輸相 Thappana Nginn:第2副首相兼国防・在郷軍人・傷病軍人相 Chhann Sokhum:内務・祭祀・総動員・平定・和解相 Trinh Hoanh:情報・観光相 Keuk Ky Lim:首相府付き外務担当相 Khy Taing Lim:財政・計画・経済相 Saphon Sarasi:商業・補給相 Um Samuth:文化相 Chhieng Kimsuor:郵政・通信相 Ly Kvang Pan:法務相 Sok Heang Sun:保健相 Keo Sangkin:教育・青年・スポーツ相 Sisowath Duong Chivin:農業相 Duong Sareth:工業・手工業相 Thach Toan:労働・社会活動・難民・農村開発相
DIA-202-1973-12-29-1カンボジア1973年12月29日1970年代徴兵適格者調査に関する政令。
DIA-202-1973-12-30-1カンボジア1973年12月30日1970年代解放勢力,大統領官邸,米大皮館近くなどにロケット弾攻撃。
DIA-202-1974-01-02-1カンボジア1974年01月02日1970年代英と74年度為替支持基金延長に関する文書交換。英は20万ポンド出資の予定。
DIA-202-1974-01-04-1カンボジア1974年01月04日1970年代米と74年度為替支持基金協定調印。
DIA-202-1974-01-04-2カンボジア1974年01月04日1970年代トリン・ホアン情報相,記者会見,「情勢が悪化しても米空軍の介入を要請することはない。ロン・ノル大統領はメコン東岸掃討作戦を指令した」。
DIA-202-1974-01-07-1カンボジア1974年01月07日1970年代ロン・ノル最高司令官,首都の各防衛組織に塹壕を掘り,ロケット砲攻撃から守るよう命令。
DIA-202-1974-01-07-2カンボジア1974年01月07日1970年代コンポンスプー州知事,Mam PhangからChanta Raingsey准将に交代。
DIA-202-1974-01-08-1カンボジア1974年01月08日1970年代解放勢力,タケオ市に100発(米製105ミリ砲)の砲撃。9日も40発砲撃。
DIA-202-1974-01-10-1カンボジア1974年01月10日1970年代トリン・ホアン情報相言明,「団結政府と個人的に接触」「赤クメール軍は存在するが,幹部は北ベトナム人である。部隊は赤クメールだが,後方はベトナムである」
DIA-202-1974-01-12-1カンボジア1974年01月12日1970年代ソン・サン,ロン・ノル大統領の出国と民衆救済委設置を提案。
DIA-202-1974-01-13-1カンボジア1974年01月13日1970年代チモチフ・オキーフ米第7空軍司令官,ロン・ノル大統領と会談。
DIA-202-1974-01-14-1カンボジア1974年01月14日1970年代(広州)佐々木更三氏との会見でペン・ヌート首相言明「日本政府はプノンペンから大使館を引き揚げて,カンボジア内戦に中立の態度をとることを望む」
DIA-202-1974-01-16-1カンボジア1974年01月16日1970年代文学部学生コミュニケ,「現在の闘いは武装農民と外国援助に結びついた少数の特権階級の内戦である」としてロン・ノル大統領の辞任を要求。
DIA-202-1974-01-18-1カンボジア1974年01月18日1970年代ロケット弾,デカルト高校に命中。仏教師団(家族を含め800人)引揚げを決定。英人家族も引揚げを決定。
DIA-202-1974-01-24-1カンボジア1974年01月24日1970年代夜,解放勢カプノンペンを砲撃,46発。
DIA-202-1974-01-25-1カンボジア1974年01月25日1970年代(ワシントン)米国務省キング・スポークスマン言明「米国は24日の反政府軍の砲撃を極めて遺憾に思っ ている。プノンペンには100万人の避難民が満ち満ちている。米国は非戦闘員を目標にした無感覚な砲撃の継続に反対であり,責任を持っている者が政治解決に向けての停戦と交渉を求めているカンボジア政府の訴えに目を向けることを要望している」。過去2日間にプノンペンに撃ち込まれた105ミリ砲弾は80発以上,死54,傷140以上。
DIA-202-1974-01-26-1カンボジア1974年01月26日1970年代夜,プノンペン市南部(バンチポン,ストンミアンチェイ,ポチェントン)に105ミリ曲射砲弾145発撃ち込まれる。死30,傷70。
DIA-202-1974-01-27-1カンボジア1974年01月27日1970年代ロン・ノル大統領,国民にメッセージ「外国侵略軍がパリ協定第20条に違反してカンボジア領内で軍事活動を続けている」,ICCの活動再開を要請。
DIA-202-1974-01-28-1カンボジア1974年01月28日1970年代ニクソン大統領,ロン・ノル大統領に親書「73年1月29日の停戦宣言と7月6日の提案を北ベトナムとクメール共産主義者が拒否した以上,共和国は防衛努力を強化する他ない。アメリカは自衛のため最大限の支援を続ける」。
DIA-202-1974-01-30-1カンボジア1974年01月30日1970年代ロン・ノル大統領発表,非常事態令を半年間延長。
DIA-202-1974-02-02-1カンボジア1974年02月02日1970年代未明,解放勢力500人,プノンペン南部に進入,プノンペン南部,南西部に150発砲撃,死20,傷70。
DIA-202-1974-02-04-1カンボジア1974年02月04日1970年代インガソル国務次官補,プノンペン訪問。
DIA-202-1974-02-05-1カンボジア1974年02月05日1970年代解放勢力,プノンペン南東の政府軍哨所を突破,サイゴン橋から500メートルの難民キャンプとタバコ工場を砲撃。
DIA-202-1974-02-06-1カンボジア1974年02月06日1970年代(AKP)John Gunter Dean,米大使に任命さる。11日(パリ)チャウ・セン団結政府特別使命相コミュニケ「ロン・ノル政権との交渉には決して応じない」。
DIA-202-1974-02-06-2カンボジア1974年02月06日1970年代解放勢力,プノンペン南西部Phsar Doem Kor地区を105ミリ曲射砲で砲撃55発。死168,傷90。家屋破壊1699。
DIA-202-1974-02-12-1カンボジア1974年02月12日1970年代統一戦線の声放送,プノンペン市民に一斉ほう起呼びかけ。
DIA-202-1974-02-14-1カンボジア1974年02月14日1970年代米軍事援助物資供与チーム団長John Cleland少将,W.W.Palmer准将と交代のため。
DIA-202-1974-02-16-1カンボジア1974年02月16日1970年代解放勢力,プノンペン南東Chbar Ampou地区を米製105ミリ砲で54発砲撃。死5,傷47。
DIA-202-1974-02-17-1カンボジア1974年02月17日1970年代ロン・ボレ首相言明「解放勢力側の下級レベルと接触があったが,唯一の回答は銃によるものだった。米国は中・ソを通じて交渉実現に努力しているが,ハノイが唯一の障害である」。
DIA-202-1974-03-06-1カンボジア1974年03月06日1970年代クウェート政府発表,団結政府承認。サリン・チャク外相が訪問中。レフランス航空発表,プノンペンへの乗入れ中止。
DIA-202-1974-03-07-1カンボジア1974年03月07日1970年代夜,解放勢力,カンポト市に75ミリ砲弾37発砲撃。8日も60発。
DIA-202-1974-03-11-1カンボジア1974年03月11日1970年代11~15日,シアヌーク殿下一行,ラオス解放区を公式訪問。15日共同声明。
DIA-202-1974-03-18-1カンボジア1974年03月18日1970年代プノンペン北方40キロのウドン市内で戦闘。
DIA-202-1974-03-27-1カンボジア1974年03月27日1970年代ロン・ボレ首相言明,昨年の6項目提案を繰り返したが,答えなし。
DIA-202-1974-03-28-1カンボジア1974年03月28日1970年代団結政府代表団(団長キュー・サムファン副首相),ハノイ到着。
DIA-202-1974-03-29-1カンボジア1974年03月29日1970年代最高政治評議会解散。代わりに憲政行政委員会設置。新委員会の議長はロン・ノル大統領,副議長はシリク・マタク氏,委員はロン・ボレ首相,フェルナンデス参謀総長。国会が与えた大統領の非常大権も廃止。新委員会は国会を補佐する。
DIA-202-1974-03-31-1カンボジア1974年03月31日1970年代政府軍第7師団司令官ウン・コブ准将,第1師団司令官イト・スウォン准将を解任,ウドン陥落のため。第7師団司令官の後任には首都特別区師団司令官デン・ライウォム准将が任命さる。
DIA-202-1974-03-31-2カンボジア1974年03月31日1970年代リ・クバン・パン法相,ソク・ヘアン・スン厚相ズオン・サレト産業相辞表提出。3閣僚はチェン・ヘン氏に近い中立派。チェン・ヘン氏は,記者会見で最高政治評議会の解散は米国の圧力によるものと言明。
DIA-202-1974-04-01-1カンボジア1974年04月01日1970年代キユー・サムファン副首相,イエン・サリ特別顧問,北京入り―シアヌーク殿下,周恩来首相,葉剣英党副首席ら出迎え。
DIA-202-1974-04-11-1カンボジア1974年04月11日1970年代シアヌーク殿下,北京発。12日,平壌到着。
DIA-202-1974-04-27-1カンボジア1974年04月27日1970年代政府軍,プノンペン北西40キロの州都Sala Lek Pramから撤退。
DIA-202-1974-05-18-1カンボジア1974年05月18日1970年代教師Yi Yon,Ould Chan,Pen Manil(プノンペン公立高校教員連合委員長)の3人,逮捕さる。
DIA-202-1974-05-23-1カンボジア1974年05月23日1970年代ロン・ノル大統領の非常大権6ヵ月延長,ただし,新聞の自由(新聞法の枠内で)は復活。
DIA-202-1974-05-26-1カンボジア1974年05月26日1970年代警察,3月18日高校を急襲,生徒61人を逮捕。26日までに逮捕された教師4人の釈放対策の検討のため集会を開いたため。26日,35人釈放さる。
DIA-202-1974-05-27-1カンボジア1974年05月27日1970年代プノンペンの中学・高校,26日朝の3月18日高校の教師・生徒逮捕に抗議して閉鎖。
DIA-202-1974-05-31-1カンボジア1974年05月31日1970年代プノンペンの高校生,中学生500人,3月18日高校から国警本部まで,逮捕学生釈放を要求してデモ行進。
DIA-202-1974-06-04-1カンボジア1974年06月04日1970年代3月18日高校でケオ・サン・キム文相ら2人,殺害さる。
DIA-202-1974-06-04-2カンボジア1974年06月04日1970年代文相傷害事件後,プノンペン市内各地で機動隊と学生が衝突,学生死3,傷数人,逮捕100人近く(AFP)。
DIA-202-1974-06-04-3カンボジア1974年06月04日1970年代共和党所属4閣僚辞表提出,現内閣は昨年12月成立,社会共和党9人,共和党4人,無所属3人の構成。辞表を提出したのは,オプ・キム・アン,トリン・ホァン,ズオン・チビン,キム・スオル。
DIA-202-1974-06-11-1カンボジア1974年06月11日1970年代統一戦線・団結政府代表団,南ベトナム解放区訪問,13日共同コミュニケ調印。
DIA-202-1974-06-13-1カンボジア1974年06月13日1970年代ロン・ノル大統領は,ロン・ボレ首相の辞表を受理した後,政めて同氏を首相に再任。
DIA-202-1974-06-13-2カンボジア1974年06月13日1970年代ロン・ポレ新内閣成立。
DIA-202-1974-06-17-1カンボジア1974年06月17日1970年代大学,高校,再開(3月18日高校を除く)。
DIA-202-1974-06-20-1カンボジア1974年06月20日1970年代(カラカス)中国,海洋法会議一般委員会で,クメール共和国の出席に異議。席順の決定に留保を表明。
DIA-202-1974-06-25-1カンボジア1974年06月25日1970年代Le Monde:6月4日逮捕された22人のリセ生徒釈放さる。16人の生徒と教師は依然逮捕されている。
DIA-202-1974-07-09-1カンボジア1974年07月09日1970年代ロン・ノル大統領,無条件和平交渉を提案。
DIA-202-1974-07-10-1カンボジア1974年07月10日1970年代(北京)シアヌーク殿下,ロン・ノル大統領の和平提案を拒否,米国がカンボジアへの介入を中止し,ロン・ノル政権への軍事援助を打ち切れば,カンボジア問題は交渉の必要もなく解決されようと言明。
DIA-202-1974-07-24-1カンボジア1974年07月24日1970年代団結政府は,非友好的態度により,外国企業のゴム園(大部分フランス)を国有化。
DIA-202-1974-08-08-1カンボジア1974年08月08日1970年代マリク・インドネシア外相,ロン・ボレ首相あて書簡で,和平実現に努力と言明。
DIA-202-1974-08-09-1カンボジア1974年08月09日1970年代(ジャカルタ)ロン・ボレ首相,マリク外相と会談。
DIA-202-1974-08-10-1カンボジア1974年08月10日1970年代夜,スヴァイリエン市に122ミリ砲等100発が撃ち込まれる。
DIA-202-1974-08-12-1カンボジア1974年08月12日1970年代(マニラ)ロン・ボレ首相,ロムロ比外相と会談。
DIA-202-1974-08-28-1カンボジア1974年08月28日1970年代政府軍9個大隊(2700人),プノンペン南東バサック川東岸で掃討作戦。
DIA-202-1974-08-28-2カンボジア1974年08月28日1970年代政府軍,アンコールのロルオス遺跡群を奪回。
DIA-202-1974-08-29-1カンボジア1974年08月29日1970年代南ベトナム政府,カンボジア海底石油試掘を15日以内にやめるよう要求。
DIA-202-1974-08-30-1カンボジア1974年08月30日1970年代(北京)シアヌーク殿下,新任の孫浩駐カンボジア王国中国大使と会見。康矛召前大使は29日離任。
DIA-202-1974-09-01-1カンボジア1974年09月01日1970年代解放勢力,プノンペン西15キロのAng Snuol,同北西18キロのTuol Leap周辺の政府軍陣地を攻撃。
DIA-202-1974-09-06-1カンボジア1974年09月06日1970年代コンポンソム沖南西105キロのプオルワイ島で,南ベトナム・カンボジア両海軍が威嚇射撃。
DIA-202-1974-09-11-1カンボジア1974年09月11日1970年代ロン・ボレ首相12日間のサウジアラビア,ヨルダン,レバノン3国訪問から帰国,「サウジアラビア,レバノンと外交関係を樹立することになろう」と言明。
DIA-202-1974-09-19-1カンボジア1974年09月19日1970年代消息筋によると,コンポンチャム市で夜,数百入の兵士,学生が米屋・雑貨商を襲う。コンポンスプー市でも300人の市民・兵士が商店・市場を襲う。
DIA-202-1974-09-21-1カンボジア1974年09月21日1970年代ロン・ノン将軍,1年半ぶりに帰国。
DIA-202-1974-09-25-1カンボジア1974年09月25日1970年代(ニューヨーク)木村外相,ロン・ボレ首相と会談。
DIA-202-1974-09-28-1カンボジア1974年09月28日1970年代解放勢力,コンポンチュナン市を砲撃,政府軍死109,傷245。解放勢力1万3000人が同市周辺に集結,同市中心部から5キロで戦闘。
DIA-202-1974-10-09-1カンボジア1974年10月09日1970年代(ニューヨーク)ロン・ボレ首相国連総会で演説。
DIA-202-1974-10-14-1カンボジア1974年10月14日1970年代統一戦線放送「次の乾期にプノンペンに対し,さらに大規模な攻勢をかけるであろう」
DIA-202-1974-10-25-1カンボジア1974年10月25日1970年代米国の75年度対カンボジア援助協定調印。
DIA-202-1974-10-28-1カンボジア1974年10月28日1970年代シアヌーク議長,アルジェ訪問。
DIA-202-1974-11-14-1カンボジア1974年11月14日1970年代「国家非常事態宣言法」6ヵ月延長。
DIA-202-1974-11-19-1カンボジア1974年11月19日1970年代プノンペンで兵士700人が11月分の給料未払いに抗議してデモ。
DIA-202-1974-11-27-1カンボジア1974年11月27日1970年代(ニューヨーク)国連本会議,ロン・ノル支持派提案を支持することを,賛成58,反対56,棄権20の2票差で決定。
DIA-202-1974-11-28-1カンボジア1974年11月28日1970年代(北京)シアヌーク議長声明,国連決議を拒否。
DIA-202-1974-11-30-1カンボジア1974年11月30日1970年代ロン・ノル大統領,国会議員,仏教指導者,軍首脳を集めた集会で演説「わが政府は相手側と和平交渉に入る用意がある」。
DIA-202-1974-12-16-1カンボジア1974年12月16日1970年代(ニューヨーク)国連総会,ロン・ノル政権代表の信任状を拒否する修正案(シリア提案)を反対61,賛成53,棄権19で否決。
DIA-202-1974-12-16-2カンボジア1974年12月16日1970年代プノンペン西130キロの国道4号上Kg.Seila政府軍陣地に900発の砲撃。またバタンバン市南西25キロのコクラロール政府軍陣地にも1000発の砲撃。
DIA-202-1974-12-19-1カンボジア1974年12月19日1970年代Thappana Nginn国防相,辞任。
DIA-202-1974-12-25-1カンボジア1974年12月25日1970年代解放戦線・革命政府代表団,カンボジア解放区訪問。
DIA-202-1974-12-30-1カンボジア1974年12月30日1970年代プノンペンの高校生組織,政府に民主化を要求する6項目の声明。
DIA-202-1975-01-01-1カンボジア1975年01月01日1970年代キュー・サムファン副首相,新年アピール。
DIA-202-1975-01-03-1カンボジア1975年01月03日1970年代プノンペン北西25キロのプノンバセットの政府軍拠点(第7師団司令部あり)陥落。
DIA-202-1975-01-03-2カンボジア1975年01月03日1970年代解放勢力,プノンペン中央市場に107ミリ砲弾3発を撃ち込む。
DIA-202-1975-01-05-1カンボジア1975年01月05日1970年代(北京)シアヌーク殿下声明,米国が同殿下の提起したいくつかの条件を受け入れれば,ロン・ノル集団と交渉とのデマに反論。
DIA-202-1975-01-06-1カンボジア1975年01月06日1970年代ポチェントン空港,砲撃さる。北西から中国製107ミリ・ロケット43発。被害なし。
DIA-202-1975-01-08-1カンボジア1975年01月08日1970年代(北京)シアヌーク元首,マルタ共和国のドミニク・ミントフ首相と会見。
DIA-202-1975-01-13-1カンボジア1975年01月13日1970年代自動車用ガソリン販売制限。
DIA-202-1975-01-17-1カンボジア1975年01月17日1970年代カンボジア電力会社,電力供給を3分の1に制限。
DIA-202-1975-01-19-1カンボジア1975年01月19日1970年代18日,ポチェントン空港,20日プノンペン市内が砲撃さる。
DIA-202-1975-01-21-1カンボジア1975年01月21日1970年代団結政府情報宣伝省声明,アメリカの侵略継続を告発。
DIA-202-1975-01-22-1カンボジア1975年01月22日1970年代解放区でカンボジア・ベトナム友好協会設立に関する人民大集会開催。協会役員を次のように選出,主席キュー・サムファン副首相,副主席チェイ・チョム統一戦線プノンペン市委員会委員長。
DIA-202-1975-01-23-1カンボジア1975年01月23日1970年代ポチェントン空港,閉鎖。
DIA-202-1975-01-27-1カンボジア1975年01月27日1970年代キュー・サムファン副首相,敵占領地区の僧侶,将兵,警官にアピール,反ロン・ノル闘争への決起,解放区入りを歓迎。
DIA-202-1975-01-27-2カンボジア1975年01月27日1970年代キュー・サムファン副首相声明,「人民武装勢力が全土で攻勢を開始して1ヵ月が過ぎた。我々はロン・ノルらの最後の巣くつを攻撃しようとしている。外交官・外国機関は,その家族を外国へ避難させてほしい」
DIA-202-1975-01-30-1カンボジア1975年01月30日1970年代メコン川輸送船団,プノンペン到着。
DIA-202-1975-02-02-1カンボジア1975年02月02日1970年代(北京)シアヌーク殿下,エンジー・ガンビア外相と会見。
DIA-202-1975-02-05-1カンボジア1975年02月05日1970年代ロン・ノル大統領布告,「市民は市街戦に備えなければならない。」「全市民は反乱軍に向って立ち上がれ。兵士は最前戦を守り,市民は銃後を固めよ。各地区を防衛するためざんごうを掘り,軍との連絡を密にせよ。この指示を完全に実行に移さない地区責任者は解任され,軍法会議に送られるだろう」
DIA-202-1975-02-05-2カンボジア1975年02月05日1970年代プノンペン南東35キロのプレクユンでメコン川輸送開通作戦に当たっていた政府軍2個大隊壊滅,首都に撤退。
DIA-202-1975-02-05-3カンボジア1975年02月05日1970年代(北京)シアヌーク殿下声明「フォード大統領,キッシンジャー長官が議会から新たな軍事援助の承認をとりつけても,国土の完全解放まで闘う」
DIA-202-1975-02-06-1カンボジア1975年02月06日1970年代国道1号沿いのプノンペン北30キロで,この数日間に政府軍2個大隊全滅。
DIA-202-1975-02-09-1カンボジア1975年02月09日1970年代シアヌーク殿下,旧正月をハノイで過ごすためハノイ到着。15日北京へ。
DIA-202-1975-02-10-1カンボジア1975年02月10日1970年代イエン・サリ特使,チン外相の招待でハノイ訪問。
DIA-202-1975-02-11-1カンボジア1975年02月11日1970年代(ハノイ)ドン首相,シアヌーク殿下歓迎宴(テト)で演説,カンボジア和平実現には,米国がロン・ノル政権への一切の援助を停止することが前提条件であることを強調。
DIA-202-1975-02-12-1カンボジア1975年02月12日1970年代プノンペン中央市場にロケット弾。
DIA-202-1975-02-15-1カンボジア1975年02月15日1970年代在タイ米軍司令部発表;米国防総省の契約した米国の民間航空大型ジェット貨物機が15日朝からプノンペンへ物資の緊急輸送開始。この他従来のC130輸送機り5機による輸送も並行して行なわれている。
DIA-202-1975-02-17-1カンボジア1975年02月17日1970年代政府軍2個大隊,ネアクルン南20キロのメコン川要衝ペアムライン島から撤退。
DIA-202-1975-02-19-1カンボジア1975年02月19日1970年代プノンペン北西24キロの政府軍第7師団司令部,連絡を断つ。
DIA-202-1975-02-20-1カンボジア1975年02月20日1970年代プノンペン南東83キロ地点でメコン河沿岸に上陸を試みた政府軍,艦艇3隻を撃沈され撃退さる。
DIA-202-1975-02-20-2カンボジア1975年02月20日1970年代バタンバンからタイに向かう列車,爆破さる。死40,傷50。
DIA-202-1975-02-21-1カンボジア1975年02月21日1970年代バタンバンで物価高騰に抗議して高校生ら3000人がデモ,中国人経営の商店,ホテルを襲う。
DIA-202-1975-02-21-2カンボジア1975年02月21日1970年代タイ,カンボジア国境を閉鎖。
DIA-202-1975-02-24-1カンボジア1975年02月24日1970年代(北京)シアヌーク殿下,周首相と会見。喬冠華外相も同席。
DIA-202-1975-02-24-2カンボジア1975年02月24日1970年代24,25日,解放区で第2回国民議会。
DIA-202-1975-02-25-1カンボジア1975年02月25日1970年代(北京)シアヌーク殿下,声明。ハビブ米国務次官補が最近の証言で統一戦線の立場をわい曲したことを非難し,最後まで闘う決意を表明。
DIA-202-1975-02-25-2カンボジア1975年02月25日1970年代シアヌーク殿下,ニュースデー紙あて電報で言明「米議会が追加援助を可決しても,民族抵抗運動の勝利を短期間遅らせるだけにすぎない」
DIA-202-1975-02-25-3カンボジア1975年02月25日1970年代(ワシントン)キ長官,記者会見で「緊急援助が数週間内に成立しないと,カンボジア政府は反乱勢力に降伏を余儀なくされよう」と言明。フォード大統領もアルバート下院議長あて特別書簡で同様の警告。
DIA-202-1975-02-25-4カンボジア1975年02月25日1970年代州都ウドン陥落。
DIA-202-1975-02-25-5カンボジア1975年02月25日1970年代プノンペン市内に20発の中国製107ミリ・ロケット弾が撃ち込まれる。ポチェントン空港にも13発。北部戦線では解放軍が12キロ地点のプレクプヌーに迫る。
DIA-202-1975-02-26-1カンボジア1975年02月26日1970年代前日に続きプノンドーンペン高校生徒ら,中国人商店へ押しかけ,旧用品の値下げと中国語使用禁止を強要。
DIA-202-1975-02-27-1カンボジア1975年02月27日1970年代プノンペン市内で,学生らが通りかかったベトナム系中国人の車を襲撃,10人が逮捕さる。
DIA-202-1975-02-27-2カンボジア1975年02月27日1970年代ロン・ボレ首相,学生連盟代表21人と会見。学生側は経済状態について訴えたほか,バタンバン暴動についての説明を要求。
DIA-202-1975-02-27-3カンボジア1975年02月27日1970年代マンスフィールド議員発表,シァヌーク議長が米議会の全議員あてに電報,米国にロン・ノル援助をあきらめ,カンボジア民衆の自主解決にゆだねるよう訴え。
DIA-202-1975-02-27-4カンボジア1975年02月27日1970年代プノンペン西10キロのツオルレアプ,および同北8キロのプレクルオンの二つの政府軍陣地が陥落。
DIA-202-1975-02-27-5カンボジア1975年02月27日1970年代(ワシントン)米国防総省発表,プノンペンに対する1日15便の空輸を3月1日までに42便に増強。
DIA-202-1975-02-28-1カンボジア1975年02月28日1970年代プノンペンで高校生ら500人,中国人商店など襲う。
DIA-202-1975-03-01-1カンボジア1975年03月01日1970年代米議員調査団6人,プノンペン訪問。
DIA-202-1975-03-02-1カンボジア1975年03月02日1970年代シアヌーク殿下,ニューヨークタイムス紙に書簡,「米国との和解と関係正常化の唯一の条件は,ロン・ノル政権との関係を断つこと」と言明。
DIA-202-1975-03-03-1カンボジア1975年03月03日1970年代(ワシントン)米国務省,現在カンボジアに緊急空輸されている米2万トンを無償供与とし,赤十字国際委などを通じて難民など市民に分配することを決定。
DIA-202-1975-03-04-1カンボジア1975年03月04日1970年代(北京)イエン・サリ特別顧問,周首相と会見。同氏は1日北京入り。15日帰国。
DIA-202-1975-03-05-1カンボジア1975年03月05日1970年代(ワシントン)フォード大統領,国家安全保障会議召集。
DIA-202-1975-03-05-2カンボジア1975年03月05日1970年代米海兵隊1500人を乗せた米ヘリ空母「オキナワ」,シャム湾に出動。
DIA-202-1975-03-05-3カンボジア1975年03月05日1970年代米軍,プノンペンに対するコメと軍事物資の空輸を解放側の砲撃のため一時中止。7日再開。
DIA-202-1975-03-05-4カンボジア1975年03月05日1970年代ポチェントン空港,民間航空に対し閉鎖。7日再開。
DIA-202-1975-03-05-5カンボジア1975年03月05日1970年代(ワシントン)米国務省,交渉経過公表。
DIA-202-1975-03-06-1カンボジア1975年03月06日1970年代(ワシントン)フォード大統領記者会見で言明「米国としてはいかなる人物が解決に介在しようとも,解決へのいかなる障害にもならない」
DIA-202-1975-03-07-1カンボジア1975年03月07日1970年代ポチェントン空港,砲撃さる。
DIA-202-1975-03-07-2カンボジア1975年03月07日1970年代(北京)シアヌーク元首声明,米国の干渉をやめさせるよう各国に呼びかけ。
DIA-202-1975-03-07-3カンボジア1975年03月07日1970年代(北京)シアヌーク元首,モザンビーク解放戦線のサモラ・モイセス・マシェル議長と会見。イエン・サリ特別顧問も同席。
DIA-202-1975-03-08-1カンボジア1975年03月08日1970年代議会,ロン・ノル大統領とロツ・ボレ内閣に全権限を与えることを決議。これは内閣改造と軍首脳部更迭への布石。
DIA-202-1975-03-08-2カンボジア1975年03月08日1970年代軍部筋によれば,首都防衛の第7師団レイヨン師団長はすでに解任。
DIA-202-1975-03-10-1カンボジア1975年03月10日1970年代ロン・ボレ首相,ロン・ノル大統領に辞表。ロン・ノル大統領はロン・ボレ氏に再組閣要清。
DIA-202-1975-03-10-2カンボジア1975年03月10日1970年代バタンバンで学生が反華僑・米価つり上げ抗議の暴動。
DIA-202-1975-03-10-3カンボジア1975年03月10日1970年代(北京)シアヌーク元首とペン・ヌート首相は,最近解放勢力の新勝利と第2回国民会議の成果についてキュー・サムファン副首相に祝電。
DIA-202-1975-03-11-1カンボジア1975年03月11日1970年代(北京)シアヌーク元首,ムワンガ・ザンビア外相と会見。
DIA-202-1975-03-11-2カンボジア1975年03月11日1970年代フェルナンデス中将,参謀総長兼総司令官を辞任。18日プノンペンを離れる。
DIA-202-1975-03-12-1カンボジア1975年03月12日1970年代新参謀総長にサクスト・サカン中将就任。総司令官のポストは廃止。
DIA-202-1975-03-13-1カンボジア1975年03月13日1970年代(北京)シアヌーク元首声明,プノンペンの大使館閉鎖と居留民の引き揚げ要求。
DIA-202-1975-03-13-2カンボジア1975年03月13日1970年代ポチェントン空港の弾薬貯蔵所にロケット弾が命中。米,空輸を中断。
DIA-202-1975-03-15-1カンボジア1975年03月15日1970年代(北京)シアヌーク元首,日カ友好協会常任理事の清水正夫氏と会見。
DIA-202-1975-03-15-2カンボジア1975年03月15日1970年代プノンペン政府軍,ツオルレアプを奪回。
DIA-202-1975-03-15-3カンボジア1975年03月15日1970年代消息筋によると,仏大使館が総領事館に格下げ。
DIA-202-1975-03-17-1カンボジア1975年03月17日1970年代(ワシントン)米上院外交委,6月末打ち切りを条件にカンボジアへの8250万ドルの軍事援助追加を認める妥協案を可決。
DIA-202-1975-03-17-2カンボジア1975年03月17日1970年代プノンペンの国立教育専門学校学生150人,73年3月17日の反政府運動記念日の17日,同構内で市内デモ行進の準備,武装憲兵50人が出動して集会を解散さす。
DIA-202-1975-03-18-1カンボジア1975年03月18日1970年代プノンペンで100人の高校生が長びく戦争に抗議してデモ。
DIA-202-1975-03-20-1カンボジア1975年03月20日1970年代解放勢力,ツオルレアプを再占拠。
DIA-202-1975-03-21-1カンボジア1975年03月21日1970年代キュー・サムファン副首相,プノンペン側の人民に闘争強化呼びかけ。
DIA-202-1975-03-21-2カンボジア1975年03月21日1970年代ロン・ボレ新内閣成立。
DIA-202-1975-03-22-1カンボジア1975年03月22日1970年代団結政府,統一戦線成立5周年記念の声明。
DIA-202-1975-03-22-2カンボジア1975年03月22日1970年代ディーン米大使,ロン・ノル大統領と会談。
DIA-202-1975-03-22-3カンボジア1975年03月22日1970年代(北京)朱徳委員長,周総理は,シアヌーク元首とペン・ヌート首相にあて統一戦線成立5周年にあたり祝電。
DIA-202-1975-03-23-1カンボジア1975年03月23日1970年代統一戦線・民族解放人民武装勢力成立5周年祝賀会。キュー・サムファン副首相が主宰。
DIA-202-1975-03-23-2カンボジア1975年03月23日1970年代キュー・サムファン副首相兼国防相・民族解放人民武装勢力総司令官,三種部隊の各級司令部・幹部・兵士に書簡。
DIA-202-1975-03-26-1カンボジア1975年03月26日1970年代シアヌーク殿下声明,ロン・ボレ首相の和解工作を拒否。
DIA-202-1975-03-26-2カンボジア1975年03月26日1970年代日本政府,栗野大使に閉鎖を訓令。
DIA-202-1975-03-28-1カンボジア1975年03月28日1970年代シアヌーク殿下発表;ソ連が団結政府を唯一の合法政府と認める。
DIA-202-1975-03-29-1カンボジア1975年03月29日1970年代チェン・ヘン氏,出国,バンコクへ。1日パリへ。
DIA-202-1975-04-01-1カンボジア1975年04月01日1970年代ロン・ノル大統領出国―夫人,令嬢2人,ロン・ボレ首相らを同行。ジャカルタ経由バリ島着。出国に際し大統領代行としてソ・カム・コイ上院議長を指名。
DIA-202-1975-04-01-2カンボジア1975年04月01日1970年代団結政府閣僚会議声明(キュー・サムファン副首相署名)「統一戦線および団結政府は全カンボジア・全プノンペン市を統治すべし」
DIA-202-1975-04-01-3カンボジア1975年04月01日1970年代ネアクルン陥落。
DIA-202-1975-04-01-4カンボジア1975年04月01日1970年代インド,団結政府承認。
DIA-202-1975-04-02-1カンボジア1975年04月02日1970年代解放勢力,プノンペン北西8キロの政府軍防衛線の一部を突破。
DIA-202-1975-04-02-2カンボジア1975年04月02日1970年代ポーランド政府発表,ロン・ノル政権と断交。
DIA-202-1975-04-04-1カンボジア1975年04月04日1970年代シアヌーク殿下声明,和解政府組織せず。
DIA-202-1975-04-04-2カンボジア1975年04月04日1970年代スリランカ,団結政府承認。
DIA-202-1975-04-05-1カンボジア1975年04月05日1970年代プノンペン政府,動員年齢を18歳から40歳までに拡大。
DIA-202-1975-04-05-2カンボジア1975年04月05日1970年代日本大使館一時閉鎖。
DIA-202-1975-04-06-1カンボジア1975年04月06日1970年代ロン・ボレ首相,バンコクへ。8日プノンペン帰着。
DIA-202-1975-04-08-1カンボジア1975年04月08日1970年代シアヌーク殿下,キュー・サムファン副首相はそれぞれ声明を発表し,バンコクでの双方の接触に関する報道を否定。
DIA-202-1975-04-10-1カンボジア1975年04月10日1970年代(ワシントン)フォード大統領外交演説,カンボジア緊急援助は手遅れに。
DIA-202-1975-04-11-1カンボジア1975年04月11日1970年代ソ・カム・コイ大統領代行,チャウ・サウ民主党党首に組閣要請。
DIA-202-1975-04-12-1カンボジア1975年04月12日1970年代米大使館,プノンペンを撤収―コイ大統領代理も出国。
DIA-202-1975-04-12-2カンボジア1975年04月12日1970年代プノンペン議会,3ヵ月間の機能停止,軍に全権委譲を決議。
DIA-202-1975-04-12-3カンボジア1975年04月12日1970年代サク・ストサカン参謀総長を議長に暫定最高委設立。副議長にロン・ボレ首相。
DIA-202-1975-04-12-4カンボジア1975年04月12日1970年代(北京)シアヌーク殿下声明,すべての政治責任を赤色クメールに委譲済み。
DIA-202-1975-04-13-1カンボジア1975年04月13日1970年代キュー・サムファン副首相アピール,暫定最高委打倒を呼びかけ。
DIA-202-1975-04-14-1カンボジア1975年04月14日1970年代政府軍T28戦爆機,プノンペンの統参本部爆撃。
DIA-202-1975-04-14-2カンボジア1975年04月14日1970年代解放勢力部隊,プノンペン市内西部地区に進入。
DIA-202-1975-04-15-1カンボジア1975年04月15日1970年代解放勢力,タクマウ町を占領。
DIA-202-1975-04-16-1カンボジア1975年04月16日1970年代暫定最高委,停戦・政権移譲提案をジュネーブの国際赤十字を通じシアヌーク殿下への伝達を信頼,シアヌーク殿下はこの提案を拒否し,最高委のメンバーが出国するよう勧告。
DIA-202-1975-04-16-2カンボジア1975年04月16日1970年代イラン,ポルトガル,トルコ,団結政府を承認。
DIA-202-1975-04-17-1カンボジア1975年04月17日1970年代プノンペン政府軍降伏。
DIA-202-1975-04-17-2カンボジア1975年04月17日1970年代プノンペンに入城した解放勢力,住民に対して同市からの退去を命令。
DIA-202-1975-04-18-1カンボジア1975年04月18日1970年代マレーシア,ラオス,ネパール,団結政府承認。
DIA-202-1975-04-18-2カンボジア1975年04月18日1970年代(北京)シアヌーク殿下,池田創価学会会長と会見。
DIA-202-1975-04-18-3カンボジア1975年04月18日1970年代(ワシントン)米財務省,カンボジア資産封鎖。
DIA-202-1975-04-19-1カンボジア1975年04月19日1970年代日本政府,団結政府承認決定を発表。
DIA-202-1975-04-22-1カンボジア1975年04月22日1970年代キュー・サムファン副首相,ラジオ演説,完全な勝利を宣言。
DIA-202-1975-04-25-1カンボジア1975年04月25日1970年代25~27日,特別国民会議。
DIA-202-1975-04-25-2カンボジア1975年04月25日1970年代カナダ,団結政府承認。
DIA-202-1975-04-27-1カンボジア1975年04月27日1970年代(北京)コサマク王妃死去。
DIA-202-1975-04-30-1カンボジア1975年04月30日1970年代団結政府声明,国連の議席回復要求。
DIA-202-1975-05-01-1カンボジア1975年05月01日1970年代(パリ)団結政府パリ代表部チャウ・セン代表声明「プノンペンの仏大使館に保護されている者の中に多数の裏切り者がいる。これは内政干渉である」
DIA-202-1975-05-01-2カンボジア1975年05月01日1970年代(ニューヨーク)国連本部,サリン・チャク団結政府外相から受取ったメッセージを公式文書として発表。 国連スポークスマンの説明によれば,この行為は新政権を正式かつ完全に認知したことを意味する。
DIA-202-1975-05-03-1カンボジア1975年05月03日1970年代プノンペン解放後,仏大使館に閉じ込められていた外国人の送還第一陣585人,ポイペットからタイへ脱出。
DIA-202-1975-05-06-1カンボジア1975年05月06日1970年代カンボジア民族統一戦線の声放送は国際関係におけるカンボジアの原則を明らかにした。①わが人民,戦士,幹部は,歴史的勝利のもとで,現在も将来も革命的原則性をよりつよめねばならない。②平和と正義を受ける世界各国人民は,我々の解放闘争を支持し,評価した。我々はその支持に深く感謝する。③特別国民会議がのべているように,カンボジアは,現在も将来も全世界の平和と正義を受ける人民との団結をつよめ,真の独立・平和・民主・正義・進歩を目ざす世界的闘争を互いに支持しあう。④カンボジアの長期的戦略原則は,独立・平和・中立・非同盟の政策を支持することである。いかなる外国からの,さまざまの形での干渉・侵略・転覆活動に断固反対する。
DIA-202-1975-05-06-2カンボジア1975年05月06日1970年代ビエンチャンのベトナム筋によると,中国機の編隊が4月末,団結政府閣僚と高官,中国の外交官・技術者をプノンペンに運んだ。
DIA-202-1975-05-07-1カンボジア1975年05月07日1970年代プノンペン放送「新政権は外国の援助や支配を望まず,自立の道を目指す」
DIA-202-1975-05-08-1カンボジア1975年05月08日1970年代カンボジアから退去する外国人の第三陣150人,タイに入る。
DIA-202-1975-05-08-2カンボジア1975年05月08日1970年代(ワシントン)米上院本会議は,南ベトナム及びカンボジアからの難民救済資金として,対インドシナ軍事援助費の一部を流用する権限をフォード大統領に与える法案を可決。
DIA-202-1975-05-08-3カンボジア1975年05月08日1970年代(ワシントン)米下院歳出委員会対外活動小委員会は,フォード大統領の要請した5億0700万ドルの難民対策費を,4億0500万ドルに削減して全会一致可決した。
DIA-202-1975-05-09-1カンボジア1975年05月09日1970年代統一戦線の声放送は,農業立国で進むと,新政権の方向を明らかにした。
DIA-202-1975-05-10-1カンボジア1975年05月10日1970年代フー・ニム情報相は,米当局やタイに脱出した一部外国人の虚偽の処刑報道について反論。
DIA-202-1975-05-12-1カンボジア1975年05月12日1970年代カンボジア海軍,米貨物船マヤゲス号をだ捕―米ホワイトハウス発表,カンボジア海軍が公海上(N9°48’,E102°53’,カンボジア沖96キロ)で米国籍貨物船「マヤゲス号」を砲撃,だ捕。
DIA-202-1975-05-14-1カンボジア1975年05月14日1970年代米国防総省発表,米空軍機がマヤゲス号付近で3隻のカンボジア艦船を撃破。
DIA-202-1975-05-14-2カンボジア1975年05月14日1970年代ペン・ヌート首相夫妻,大寨訪問のため北京発。
DIA-202-1975-05-15-1カンボジア1975年05月15日1970年代米海兵隊,ヘリで,コータン島に上陸。カンボジア側が放棄したマヤゲス号に乗船。米爆撃機,カンボジア本土のレアム空軍基地を爆撃。午後1時,マヤゲス号乗員39人全員釈放。
DIA-202-1975-05-16-1カンボジア1975年05月16日1970年代(ワシントン)米商務省,対カンボジア禁輸措置を発表。
DIA-202-1975-05-17-1カンボジア1975年05月17日1970年代団結政府は,米国による,コンポンソム爆撃は,マヤゲス号事件が解決したあとに行なわれたとして米国を非難する声明を発表した。
DIA-202-1975-05-17-2カンボジア1975年05月17日1970年代シアヌーク殿下は,マヤゲス号事件でアメリカ非難の声明を発表。
DIA-202-1975-05-17-3カンボジア1975年05月17日1970年代中国を友好訪問中の社会党の佐々木更三議員は北京で,解放されてまもないシアヌーク国家元首と会見した。
DIA-202-1975-05-19-1カンボジア1975年05月19日1970年代シアヌーク元首,平壌訪問。ズオン・サム・オル統一戦線中央政治局委員が随行。
DIA-202-1975-05-19-2カンボジア1975年05月19日1970年代情報省声明,タイがマ号事件で領内の基地からの米軍のカンボジア攻撃を支援したと非難。
DIA-202-1975-05-22-1カンボジア1975年05月22日1970年代カンボジアとタイとの国境にあるプレア・ビヘア寺院にたてこもった旧ロンノル政権兵士68人が解放軍に降伏。
DIA-202-1975-05-28-1カンボジア1975年05月28日1970年代プノンペン放送,ゴム農園の国有化をこのほど完了。国有化は解放勢力の進撃とともに着々と進められた。
DIA-202-1975-05-28-2カンボジア1975年05月28日1970年代統一戦線の声放送;全人民の米生産活動への努力と,灌漑用堤防の建設によって,今や米の三期作が可能に。
DIA-202-1975-05-30-1カンボジア1975年05月30日1970年代タイのウタパオ空軍基地に脱出していた旧政府軍兵士ら87人の難民,帰国を許可され,ポイペト入り。
DIA-202-1975-06-02-1カンボジア1975年06月02日1970年代反共運動指導者,パリで記者会見,3万5000人が地方で反共闘争。
DIA-202-1975-06-02-2カンボジア1975年06月02日1970年代プノンペン放送;プノンペンと北部諸州間のメコン川輸送再開。
DIA-202-1975-06-05-1カンボジア1975年06月05日1970年代プノンペンの発電所,紡績工場をはじめ個人のあらゆる工場事業所を国有化。生産再開。
DIA-202-1975-06-08-1カンボジア1975年06月08日1970年代団結政府はこのほど,国内の外国語の使用を禁止し,外国文化の影響を一掃する文化整風運動を進めることを決め,8日の放送で国民に,公私に拘らず国語を使うよう呼びかけ。
DIA-202-1975-06-11-1カンボジア1975年06月11日1970年代カンボジア指導者,ハノイ訪問。
DIA-202-1975-06-12-1カンボジア1975年06月12日1970年代タイ当局発表,カンボジア砲艦1隻が,バンコク南東500キロのタイ領海を侵犯,タイ海上警察警備艇と交戦。またアラニャプラテトにもカンボジア側からの発砲があり,タイ国境警備隊との間で銃撃戦。
DIA-202-1975-06-13-1カンボジア1975年06月13日1970年代米当局者によれば,ベトナム側がカンボジア解放勢力との戦闘の結果,シャム湾沖のコータン島に近いワイ群島を占領。
DIA-202-1975-06-16-1カンボジア1975年06月16日1970年代サリン・チャク外相,チラナでホッジャ・アルバニア労働党首と会談,シ殿下の同党に対する友援感謝の親書手交。 同外相は17日ベオグラード到省,チトー大統領あてシ殿下親書携行。
DIA-202-1975-06-21-1カンボジア1975年06月21日1970年代ハノイ放送;統一戦線の声放送によれば,新政府はプノンペンを工業中心地にする努力を続けている。
DIA-202-1975-06-22-1カンボジア1975年06月22日1970年代新華社電;統一戦線の声放送によれば,プノンペン―シアヌークビル間,プノンペン―ポイペト間の鉄道がすでに再開。
DIA-202-1975-06-23-1カンボジア1975年06月23日1970年代プノンペン放送;カンボジアは全力をあげて領土を防衛。
DIA-202-1975-06-28-1カンボジア1975年06月28日1970年代プノンペン放送,団結政府声明,外国報道機関が流した虐殺事件のニュースはデマ。
DIA-202-1975-07-08-1カンボジア1975年07月08日1970年代プノンペン放送;カンボジア解放武装勢力の方針6項目を次のように発表。 ①片手に武器,片手にクワを持つ,②新生カンボジアの経済開発を進め,祖国を防衛する,③人民と国家の結合を強める,④あらゆる帝国主義者,新旧植民地主義者と戦う,⑤人民に適当な住居を与え,病人には適切な医療をほどこす,⑥農業,特に米の生産のため,人民に土地を与える。
DIA-202-1975-07-09-1カンボジア1975年07月09日1970年代(平壌)シアヌーク殿下,マルーフ・イラン副大統領と会見。
DIA-202-1975-07-13-1カンボジア1975年07月13日1970年代北京発新華社電は,プノンペン港とその設備が残らず修復されたと報じた。
DIA-202-1975-07-17-1カンボジア1975年07月17日1970年代中小貿易商社32社は,日本カンボジア貿易会(理事長・岩井古四郎日越貿易会事務局長)を設立した。
DIA-202-1975-07-19-1カンボジア1975年07月19日1970年代宇都宮氏,平壌郊外の宮殿でシアヌーク殿下と会談。
DIA-202-1975-07-24-1カンボジア1975年07月24日1970年代アラニャプラテトでタイとカンボジアが国交・通商問題について接触。
DIA-202-1975-08-03-1カンボジア1975年08月03日1970年代ニャンザン紙報道,レ・ジュアン第一書記がこのほどカンボジアを訪問。
DIA-202-1975-08-05-1カンボジア1975年08月05日1970年代プノンペン放送は,カンボジアが非同盟諸国の一員になることをのぞんでいると伝えた。
DIA-202-1975-08-07-1カンボジア1975年08月07日1970年代プノンペン放送は,カンボジア新政府を正当かつ合法的政府と認めた国々との連帯を強めると述べた。
DIA-202-1975-08-13-1カンボジア1975年08月13日1970年代プノンペン放送は,キュー・サムファン副首相兼国防相に加えて,新たにイエン・サリ副首相府特別顧問を外交担当の副首相に,また,ソン・セン人民民族解放軍参謀総長を国防担当の副首相に任命したと発表。
DIA-202-1975-08-14-1カンボジア1975年08月14日1970年代キュー・サムファン副首相,放送を通じて内外政策発表。
DIA-202-1975-08-15-1カンボジア1975年08月15日1970年代キュー,サムファン副首相を団長とする団結政府及びカンボジア民放統一戦線代表団は,特別機で北京に到着。
DIA-202-1975-08-18-1カンボジア1975年08月18日1970年代中国,カンボジア両国の共同声明ならびに経済・技術協力協定が北京で調印された。鄧小平副首相とキュー・サムファン副首相が,自国政府を代表して協定に署名した。
DIA-202-1975-08-19-1カンボジア1975年08月19日1970年代キュー・サムファン副首相ら,統一戦線政府代表団は中国訪問を終り,北鮮の首都平壌を訪問。
DIA-202-1975-08-19-2カンボジア1975年08月19日1970年代金日成主席は,キュー・サムファン第一副首相らと会見した。会見には,平壌滞在中のカンボジア王国元首シアヌーク殿下夫妻も同席。22日両国共同声明発表。
DIA-202-1975-08-19-3カンボジア1975年08月19日1970年代団結政府代表団(団長イエン・サリ副首相,副団長サリン・チャク外相),非同盟会談出席のため北京発リマへ。
DIA-202-1975-08-22-1カンボジア1975年08月22日1970年代シアヌーク殿下は平壌を出発して北京に。
DIA-202-1975-08-27-1カンボジア1975年08月27日1970年代(北京)毛沢東首席はシアヌーク殿下,ペン・ヌート首相,キュー・サムファン副首相らと会見。
DIA-202-1975-08-27-2カンボジア1975年08月27日1970年代新華社電;統一戦線の声放送によれば,タクマウ市の国営タイヤ工場が解放後1ヵ月で生産再開,プノンペン南部の自転車タイヤ工場も6月初生産再開。
DIA-202-1975-08-30-1カンボジア1975年08月30日1970年代シアヌーク元首,キュー・サムファン副首相ら,ハノイ到着。
DIA-202-1975-08-30-2カンボジア1975年08月30日1970年代イエン・サリ副首相(外交担当)は,ニューズウィーク最新号とのインタビュー記事の中で,住民が空っぽになったプノンペンに,これまで約10万人が戻っていると述べた。
DIA-202-1975-09-02-1カンボジア1975年09月02日1970年代(ハノイ)ソ連・党政府代表団,シアヌーク殿下と会談。
DIA-202-1975-09-03-1カンボジア1975年09月03日1970年代ニューヨークで,アナン駐米タイ大使は,イエン・サリ副首相およびサリン・チャク外相と個別に会談,国交正常化と貿易について話し合った。
DIA-202-1975-09-05-1カンボジア1975年09月05日1970年代プノンペン放送;ポチェントン空港の修復がこのほど完了。
DIA-202-1975-09-05-2カンボジア1975年09月05日1970年代国連経済特別総会5日目の一般討論でイエン・サリ副首相は,現在の事実上の鎖国状態を今後徐々に解くことを明らかにし,友好国からのひもつきでない援助なら受ける旨を表明した。
DIA-202-1975-09-08-1カンボジア1975年09月08日1970年代統一戦線の声放送,ベトナム軍がカンボジア領土の島・国境地帯を占拠している事実はないと報道。
DIA-202-1975-09-09-1カンボジア1975年09月09日1970年代シアヌーク国家元首とペン・ヌート首相は,キュー・サムファン副首相とともに特別機でプノンペン入り。
DIA-202-1975-09-10-1カンボジア1975年09月10日1970年代キューバを公式訪問中のイエン・サリ副首相はプラポ消費財政担当副首相と会談。
DIA-202-1975-09-10-2カンボジア1975年09月10日1970年代タイのチャチャイ外相は・シアヌーク国家元首とイエン・サリ副首相をタイに公式に招待したと語った。
DIA-202-1975-09-10-3カンボジア1975年09月10日1970年代シアヌーク国家元首を交えて,初の閣議が行なわれ,国家再建の現状を討議。
DIA-202-1975-09-12-1カンボジア1975年09月12日1970年代プノンペン市内の国立競技場で,シアヌーク殿下,ペン・ヌート首相らを迎え,帰国歓迎とカンボジア解放を記念する人民大集会が開かれた。
DIA-202-1975-09-14-1カンボジア1975年09月14日1970年代イエン・サリ副首相,パリ着。
DIA-202-1975-09-15-1カンボジア1975年09月15日1970年代北ベトナムのグエン・ツオン駐カ大使,ハノイを出発,プノンペンへ。
DIA-202-1975-09-17-1カンボジア1975年09月17日1970年代シアヌーク元首夫妻,ポチェントンの繊維工場視察。
DIA-202-1975-09-19-1カンボジア1975年09月19日1970年代「カンボジア王国民族団結政府は,在北京のカンボジア大使館を通じて伝えられた4月19日付の日本大使館発口上書による承認宣言につき,日本政府に感謝の意を表明する」との9月16日付のカンボジア政府の口上書が,北京の日本大使館にとどけられた。
DIA-202-1975-09-28-1カンボジア1975年09月28日1970年代統一戦線の声放送;メキシコと大使級外交関係樹立。
DIA-202-1975-09-28-2カンボジア1975年09月28日1970年代国慶節参加のためシアヌーク殿下,北京入り。
DIA-202-1975-10-03-1カンボジア1975年10月03日1970年代シアヌーク元首,パリ経由ニューヨーク着。
DIA-202-1975-10-04-1カンボジア1975年10月04日1970年代(北京)小川駐中国大使,カンボジアのトク・カム・ドゥン大使と会談。
DIA-202-1975-10-05-1カンボジア1975年10月05日1970年代プノンペン放送,来年から生産運動をさらに発展させ,コメを600万トン生産し,うち400万トンを輸出して工業機械や農業用トラクターを購入すべし。
DIA-202-1975-10-06-1カンボジア1975年10月06日1970年代(ニューヨーク)シアヌーク元首,国連総会本会議で演説。
DIA-202-1975-10-12-1カンボジア1975年10月12日1970年代12日付の英紙サンデー・タイムズは,パリでのシアヌーク殿下との会見記を掲載。この中でシアヌーク殿下は,プノンペンにすでに労働者・技術者10万人が戻り,同市の人口はいずれ30万の適正人口に達しようと言明。
DIA-202-1975-10-12-2カンボジア1975年10月12日1970年代(北京)シ元首とともにカンボジアに帰国しこのほど北京に戻ってきたシ殿下側近たちは,AFP特派員に,ロン・ノン将軍はリンチ,ロン・ボレ首相,シリク・マタク元首相らは銃殺刑に処されたこと,国民はトップ・クラスを除き改名を強制されたことを明らかにした。これら側近50人はフランスへ亡命。
DIA-202-1975-10-12-3カンボジア1975年10月12日1970年代シ殿下は12日発行の米週刊紙タイムに掲載されたインタビューで,中国・ベトナム・北朝鮮との外交関係正常化は年内に完了するが,これに次ぐのはアルジェリア・キューバで,ソ連・東欧とは2年後になろうと言明。
DIA-202-1975-10-15-1カンボジア1975年10月15日1970年代シ殿下,平壌訪問。
DIA-202-1975-10-20-1カンボジア1975年10月20日1970年代金恩煥北朝鮮大使,プノンペンに着任。
DIA-202-1975-10-28-1カンボジア1975年10月28日1970年代イエン・サリ副首相ら代表団,パンコク訪問―29日,チャチャイ外相と会談。31日共同コミュニケ調印。①大使級外交関係樹立で合意。②現在の国境線にもとづく領土保全を尊重,③経済・通商分野での協力関係を平等・互恵にもとづき発展させる。
DIA-202-1975-11-01-1カンボジア1975年11月01日1970年代(バンコク)イエン・サリ副首相記者会見「カンボジアは中国・北ベトナムを含めいかなる大国の干渉も望んでいない。ASEANをはじめ他のどんな地域共同体にも加盟する考えはない。タイとの外交関係は国境に連絡事務所を設置し,職員を配置することで始まる」
DIA-202-1975-11-15-1カンボジア1975年11月15日1970年代シアヌーク殿下,イラク訪問。
DIA-202-1975-11-17-1カンボジア1975年11月17日1970年代ポイペトでチャチャイ外相,イエン・サリ副首相が初の国境会談。連絡事務所の開設問題,出入国・通商問題について話合い。記者会見でイエン・サリ副首相は,連絡事務所が17日開設されること,チャチャイ外相のプノンペン招待に同外相が応じ,日時は改めて協議すると言明。
DIA-202-1975-11-29-1カンボジア1975年11月29日1970年代アラニャプラテト―ポイペト間の鉄道復旧。
DIA-202-1975-12-08-1カンボジア1975年12月08日1970年代(バンコク)タイ外務省スポークスマン言明,12月中にタイ産塩1万2000トンをカンボジアに輸出。
DIA-202-1975-12-11-1カンボジア1975年12月11日1970年代タイの国境警備隊がプラチンブリ県の国境の村の哨所で武装カンボジア人と交戦。
DIA-202-1975-12-14-1カンボジア1975年12月14日1970年代第3回国民議会開催,新憲法草案採択。
DIA-202-1977-01-02-1カンボジア1977年01月02日1970年代(バンコクポスト;トラート)赤クメール兵,タイのムアン郡の村に侵入,タイ警察3人,村民1人を殺す。
DIA-202-1977-01-03-1カンボジア1977年01月03日1970年代オランダと大使級外交関係樹立。
DIA-202-1977-01-04-1カンボジア1977年01月04日1970年代キュー・サムファン議長,ビルマ国慶節にあたりネ・ウィン議長に祝賀メッセージ。
DIA-202-1977-01-15-1カンボジア1977年01月15日1970年代外務省スポークスマン声明,「このところ一部の帝国主義国と反動国家の宣伝機関は,カンボジアが国境で紛争を起こしていると中傷している。しかしカンボジア人民は自分の領土で平穏に生活することを強く望んでおり,遠近諸国の領土に干渉,侵略,併合することは絶対にない」。
DIA-202-1977-01-21-1カンボジア1977年01月21日1970年代ジャップ国防相からソン・セン国防担当副首相あてに,カンボジア革命軍創立9周年にあたり祝賀メッセージ。
DIA-202-1977-01-21-2カンボジア1977年01月21日1970年代ユーゴ経済代表団(団長,ムクジル・ベイサド無任所相),プノンペン訪問。2月3日経済・貿易協力協定に調印。
DIA-202-1977-01-25-1カンボジア1977年01月25日1970年代北朝鮮ジャーナリスト代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1977-01-28-1カンボジア1977年01月28日1970年代タイ内務省発表;カンボジア人武装集団約500人がアラニャプラテト付近の3つの村を攻撃。住民8人,警官1人死亡。
DIA-202-1977-02-04-1カンボジア1977年02月04日1970年代外務省覚書,タイのカンボジア領侵犯に抗議。12月19日から1月26日までの事件について。
DIA-202-1977-02-07-1カンボジア1977年02月07日1970年代ベトナム婦人連合代表団(団長ハ・チ・クエ議長),プノンペン訪問。
DIA-202-1977-02-11-1カンボジア1977年02月11日1970年代タイ政府は軍部の要請により,11日からカンボジア向け輸出禁止を決定。
DIA-202-1977-02-12-1カンボジア1977年02月12日1970年代タイ軍スポークスマン発表:タイ海軍巡視艇は,タイ領海に侵入してタイのトロール漁船をだ捕したカンボジアの武装船と交戦。このあとカンボジァ砲艦は,だ捕したタイ漁船一隻をえい航して逃走。
DIA-202-1977-02-25-1カンボジア1977年02月25日1970年代日本の貿易業界筋によれば,香港の英豊有限公司を通じて日本から初めての輸出商談(鋼材1万トン)が成立。
DIA-202-1977-03-04-1カンボジア1977年03月04日1970年代イエン・サリ副首相,アジア諸国訪問へ―イエン・サリ副首相は4日プノンペンを出発,北京着。5日李先念副首相と会談。7日ラングーン着,14日北京に戻り,17日コロンボ着,21日シンガポール着,24日クアラルンプール着,27日イスラマバード着,4月1日帰国。
DIA-202-1977-03-18-1カンボジア1977年03月18日1970年代ルーマニア共産党機関紙「スクインテア」代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1977-03-19-1カンボジア1977年03月19日1970年代プノンペン放送;外務省声明,米大統領特別使節団の入国を拒否。
DIA-202-1977-03-22-1カンボジア1977年03月22日1970年代プノンペン放送;民族民主戦線創設7周年記念日(3・23)に当り社説。
DIA-202-1977-04-04-1カンボジア1977年04月04日1970年代(シンガポール共同)外交筋によれば,シンガポールとカンボジアは,①シンガポールにカンボジアの通商代表部設置,②両国間の定期海運サービス開始で合意。
DIA-202-1977-04-15-1カンボジア1977年04月15日1970年代4・17勝利2周年記念式典。キュー・サムファン議長演説。
DIA-202-1977-04-15-2カンボジア1977年04月15日1970年代プノンペン放送報道「食糧は十分あり,1人当り米の配給量はダブル・ブッシェル13杯,備蓄用として2杯,種籾のストックは昨年の2倍,輸出用余剰米15万トン」
DIA-202-1977-04-16-1カンボジア1977年04月16日1970年代中国の華国鋒党主席兼首相から,キュー・サムファン議長,ヌオン・チア議長,ポル・ポト首相にあて,国慶節記念祝電。
DIA-202-1977-04-16-2カンボジア1977年04月16日1970年代ベトナムのタン大統領,レ・ズアン書記長,チョン・チン議長,ドン首相から上記3首脳に祝電。
DIA-202-1977-04-16-3カンボジア1977年04月16日1970年代ラオスのスファヌボン大統領とカイソン首相からカンボジア首脳に祝電。
DIA-202-1977-04-16-4カンボジア1977年04月16日1970年代ソ連のポドゴルヌイ議長からキュー・サムファン議長に祝電。キュー・サムファン議長も返電。
DIA-202-1977-04-20-1カンボジア1977年04月20日1970年代ラオス婦人連合代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1977-05-03-1カンボジア1977年05月03日1970年代スペインと大使級外交関係樹立。
DIA-202-1977-05-03-2カンボジア1977年05月03日1970年代(ワシントン)米下院外交委国際機関分科委,カンボジアにおける人権侵害に関する聴聞会。7月26日にも。
DIA-202-1977-05-12-1カンボジア1977年05月12日1970年代プノンペン放送;主要鉄道復旧。
DIA-202-1977-06-06-1カンボジア1977年06月06日1970年代プノンペン国内放送社説「すでに6月であるが,若干の地域ではまだ降雨がない。従って水の問題を解決するためベストを尽さなければならない」
DIA-202-1977-06-10-1カンボジア1977年06月10日1970年代ミハイロ・ロンパール・ユーゴ大使,信任状提出。
DIA-202-1977-06-24-1カンボジア1977年06月24日1970年代ラオス民間航空代表団,カンボジア訪問。27日両国民間航空路開設協定調印。
DIA-202-1977-06-26-1カンボジア1977年06月26日1970年代米誌タイム報道;カンボジア軍がしばしばベトナムのクァンドク省を攻撃,またベトナム軍はカ領スベイリエン地区へ反撃出動。
DIA-202-1977-06-30-1カンボジア1977年06月30日1970年代ソム・サン駐ラオス大使,信任状提出。
DIA-202-1977-07-10-1カンボジア1977年07月10日1970年代アリ・サリム・ムアワッド初代駐カンボジア・南イエメン大使,信任状提出。
DIA-202-1977-07-20-1カンボジア1977年07月20日1970年代タイ国境警備警察21日発表によれば,アラニャプラテト北部のバンノイパライに数十人のカンボジア軍が侵入,タイ軍と戦闘。タイ側死者23人。
DIA-202-1977-07-30-1カンボジア1977年07月30日1970年代プノンペン放送;領海・領有諸島の防衛について報道。
DIA-202-1977-08-02-1カンボジア1977年08月02日1970年代タイ国軍最高司令部発表,プラチンブリ県タプラヤ郡サンロチャンガン村とサンガ村を200人ずつのカンボジア軍が襲撃。タイ側死者28人。
DIA-202-1977-08-06-1カンボジア1977年08月06日1970年代プノンペン放送;モンドルキリ地区の防衛について報道。
DIA-202-1977-08-14-1カンボジア1977年08月14日1970年代プノンペン放送言明「民主カンボジア政府はこのほど,カ領に近づこうとしている敵の侵入を食い止めるため,東部,北東部,南部,北西部の4地域で軍隊を動員」
DIA-202-1977-08-19-1カンボジア1977年08月19日1970年代タイのクリアンサク国軍最高副司令官言明,カンボジアで2月クーデター未遂事件。
DIA-202-1977-08-25-1カンボジア1977年08月25日1970年代(バンコク共同)タイ軍部筋によれば,このほどタイ,カンボジア両国がビエンチャンで外交的接触。
DIA-202-1977-08-30-1カンボジア1977年08月30日1970年代ビルマ政府代表団(団長ウ・フラ・ポン外相),プノンペン訪問。
DIA-202-1977-09-02-1カンボジア1977年09月02日1970年代キュー・サムファン議長,ヌオン・チェア人民議会議長兼首相代理,ベトナム独立32周年記念日に当り祝電。
DIA-202-1977-09-17-1カンボジア1977年09月17日1970年代レプノンペン放送;全市民が5時に起きて働くようにとの公式命令を報道。
DIA-202-1977-09-24-1カンボジア1977年09月24日1970年代レプノンペン放送;カンボジア共産党・政府代表団が9月末中国を訪問と報道。
DIA-202-1977-09-27-1カンボジア1977年09月27日1970年代カンボジア共産党創立17周年記念集会―ポル・ポト首相兼書記演説。
DIA-202-1977-09-28-1カンボジア1977年09月28日1970年代党・政府代表団,中国・北朝鮮訪問へ―団長はポル・ポト首相・書記。イエン・サリ,ボン・ベト両副首相・中央委常任委員ら同行。28日北京着。同夜中国側主催歓迎宴。10日2日カンボジア側から答礼宴。ポト首相は10月2日北京で記者会見,10月4日北朝鮮訪問,8日共同コミュニケ調印,同日再び北京に戻り,22日帰国。
DIA-202-1977-09-28-2カンボジア1977年09月28日1970年代ベトナム共産党中央委,カンボジア共産党創立記念祝賀メッセージ。
DIA-202-1977-09-29-1カンボジア1977年09月29日1970年代中国共産党中央委,カンボジア共産党中央委に同党成立17周年祝賀電。
DIA-202-1977-09-29-2カンボジア1977年09月29日1970年代プノンペン放送;ペン・ヌート顧問とのインタビューを報道。
DIA-202-1977-10-03-1カンボジア1977年10月03日1970年代(ニューヨーク)モイソフ国連議長言明,「カンボジアが分担金を納入したことにより,投票権停止問題は解消」。
DIA-202-1977-10-03-2カンボジア1977年10月03日1970年代ソクキエン・カンボジア大使主催で同国党創立17周年記念祝レセプション。ベトナム側出席者はドン首相をはじめ,フン副首相,コン副首相兼農業相,トイ対外連絡委員長,ダオ中将人民軍総政治部副主任など多数である。
DIA-202-1977-10-06-1カンボジア1977年10月06日1970年代(モスクワ)プラウダ紙;ソ連共産党中央委がカ共産党中央委にあてた祝電(同党存在の公表を機に)を掲載。
DIA-202-1977-10-07-1カンボジア1977年10月07日1970年代(ワシントンAP)米情報筋によれば,先月末タイニン,ダラト両省でカ軍の攻撃により戦闘。
DIA-202-1977-10-11-1カンボジア1977年10月11日1970年代イエン・サリ外務担当副首相,国連総会で演説。12日ウパヂット・タイ外相と会談。
DIA-202-1977-10-14-1カンボジア1977年10月14日1970年代タイ国軍最高司令部声明,「カ軍が今後もタイ領土に侵攻するなら対抗措置に出る」。
DIA-202-1977-10-15-1カンボジア1977年10月15日1970年代ウ・ミン・マウン駐カンボジア・ビルマ大使,プノンペン到着。24日信任状提出。29日プノンペン発。
DIA-202-1977-10-20-1カンボジア1977年10月20日1970年代(ハノイ発ロイター)ハノイの信頼筋によると,10月初めからカンボジア国境のベトナム側タイニン,チャウドク両地域でカンボジア側のロケット攻撃をきっかけに戦闘。
DIA-202-1977-10-21-1カンボジア1977年10月21日1970年代(北京)鄧小平副主席,AFP通信社長に言明,「カンボジアとベトナムは良好な交渉を通じて自分達の問題を解決するだろう」。
DIA-202-1977-10-24-1カンボジア1977年10月24日1970年代プノンペン放送;9月29日付,10月23日付のシアヌーク殿下の書簡を発表。
DIA-202-1977-10-24-2カンボジア1977年10月24日1970年代プノンペン放送報道;タイとの友好関係促進を希望。
DIA-202-1977-10-29-1カンボジア1977年10月29日1970年代中国電信代表団,プノンペン訪問。11月10日,このほど完成した電信の開始のための協定調印。
DIA-202-1977-10-31-1カンボジア1977年10月31日1970年代プノンペン放送;東独共産党からのカ共産党創立17周年記念祝電を報道。
DIA-202-1977-11-03-1カンボジア1977年11月03日1970年代タイ軍部スポークスマン発表,タイ空軍機がカ軍陣地を爆撃。カ兵100人以上が2日夜タイ側の3村落を襲撃したため。
DIA-202-1977-11-06-1カンボジア1977年11月06日1970年代プノンペン放送;コンポンチュナン,コンポンスプーなど西部諸州の支配をもくろむ帝国主義者に対する革命軍による防衛闘争の必要性を強調。
DIA-202-1977-11-07-1カンボジア1977年11月07日1970年代プノンペン放送;キュー・サムファン議長,ブレジネフ議長あてに10月革命を祝う電報。
DIA-202-1977-11-11-1カンボジア1977年11月11日1970年代プノンペン放送;外務省声明,タイとの国境問題についてビエンチャンで話し合うことを提案。
DIA-202-1977-11-14-1カンボジア1977年11月14日1970年代プノンペンで北朝鮮と民間航空協定調印。
DIA-202-1977-11-19-1カンボジア1977年11月19日1970年代ラオスのカムパン・ビラチト大使,信任状提出。
DIA-202-1977-11-24-1カンボジア1977年11月24日1970年代プノンペンで北朝鮮大使と77年通商協定調印。
DIA-202-1977-11-24-2カンボジア1977年11月24日1970年代カンボジアは駐北京大使を通じて東南アジア競技会への参加を希望。
DIA-202-1977-11-26-1カンボジア1977年11月26日1970年代ネ・ウィン大統領,プノンペン訪問。29日帰国。国家元首の民主カ訪問は初めて。
DIA-202-1977-12-02-1カンボジア1977年12月02日1970年代(モスクワAP)ソ連外務省当局者によると,カンボジアの在モスクワ外交団が,最近ソ連から引き揚げ。
DIA-202-1977-12-03-1カンボジア1977年12月03日1970年代中国の陳永貴政治局員・副首相,カの党・政府の招待によりプノンペン訪問。
DIA-202-1977-12-06-1カンボジア1977年12月06日1970年代リタウディン・マレーシア外相,プノンペン訪問。
DIA-202-1977-12-17-1カンボジア1977年12月17日1970年代ラオス党・政府代表団,プノンペン訪問―団長スファヌボン大統領,団員シパスート外相,スチチャク通信相,他。キュー・サムファン議長,ヌオン・チア党副書記,イエン・サリ副首相ら出迎え。キュー・サムファン議長,ポル・ポト書記らと会見。19日コンポンソム港訪問。20日帰国。
DIA-202-1977-12-24-1カンボジア1977年12月24日1970年代中国貿易代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1977-12-24-2カンボジア1977年12月24日1970年代タイ国境を越えてカンポジアを訪問したスウェーデンのオベルグ駐タイ大使,タイに戻る。
DIA-202-1977-12-27-1カンボジア1977年12月27日1970年代オーストラリアのマルクス・レーニン主義共産党代表団(団長フィリップ・リンチ議長),プノンペン訪問。
DIA-202-1977-12-31-1カンボジア1977年12月31日1970年代政府声明,ベトナム軍のカ領侵略を非難し,ベトナムとの断交を発表。(資料参照)
DIA-202-1978-01-02-1カンボジア1978年01月02日1970年代ソク・キアン駐ハノイ大使と全館員,北京に向け出発。
DIA-202-1978-01-02-2カンボジア1978年01月02日1970年代キュー・サムファン議長,このほど金日成主席に対し,12月31日の政府声明を送付。
DIA-202-1978-01-03-1カンボジア1978年01月03日1970年代情報・宣伝省スポークスマン声明,ベトナム軍がカンボジア領内にいる限り交渉はしないと言明。
DIA-202-1978-01-03-2カンボジア1978年01月03日1970年代Tran Xuan Manベトナム臨時代理大使ならびに館員,帰国。
DIA-202-1978-01-03-3カンボジア1978年01月03日1970年代シアヌーク前国家元首,共産党あて書簡で,ベトナムの領土侵犯を非難。
DIA-202-1978-01-06-1カンボジア1978年01月06日1970年代情報・宣伝省スポークスマン,77年9月以降のベトナム軍のカ領侵入について声明。ベトナム軍が撤退し,インドシナ連邦構想を捨てれば交渉にと言明。 同日,ベトナム外務省情報局も記者会見。
DIA-202-1978-01-07-1カンボジア1978年01月07日1970年代スウェーデン,タンザニア,イラク,フィンランド,デンマークの各国大使,訪カ。11~14日シアムリアプ・アンコール地区訪問,21日離カ。
DIA-202-1978-01-08-1カンボジア1978年01月08日1970年代プノンペン放送,6日の勝利について。
DIA-202-1978-01-09-1カンボジア1978年01月09日1970年代政府,国連事務総長あてにベトナム非難の文書を送る。
DIA-202-1978-01-10-1カンボジア1978年01月10日1970年代(ビエンチャン)Sam San駐ラオス大使,シパスート副首相兼外相とベトナム・カンボジア国境紛争について会談。ラオス側は双方が互いの主権と領土主権の尊重を基礎に平和的解決のための話し合いをするよう希望。
DIA-202-1978-01-15-1カンボジア1978年01月15日1970年代外務省スポークスマン声明,領海12カイリ,経済水域200カイリ。
DIA-202-1978-01-18-1カンボジア1978年01月18日1970年代鄧穎超・中国共産党中央委員・全人代常務副委員長,訪カ,21日まで。
DIA-202-1978-01-18-2カンボジア1978年01月18日1970年代(ワシントン)クリストファー米国務副長官,カンボジアの人権抑圧非難。
DIA-202-1978-01-30-1カンボジア1978年01月30日1970年代タイのウパジット外相,訪カ。大使交換の早期実現,貿易の即時再開などで合意。2月2日,帰国。
DIA-202-1978-02-05-1カンボジア1978年02月05日1970年代(ハノイ)ベトナム政府,和平提案。①兵力を国境線から引離す,②国境条約を結ぶための直接会談,③現国境の尊重と国際監視。
DIA-202-1978-02-12-1カンボジア1978年02月12日1970年代プノンペン放送,首都防衛を国民に強調。
DIA-202-1978-02-14-1カンボジア1978年02月14日1970年代タイ軍事スポークスマンによれば,兵力120人のカ軍がブリラム県バラナイ村を襲撃,村民50人を連れ去る。
DIA-202-1978-03-02-1カンボジア1978年03月02日1970年代ユーゴと5ヵ年経済・貿易協力協定議定書調印。
DIA-202-1978-03-04-1カンボジア1978年03月04日1970年代ユーゴ報道代表団,訪カ。18日まで滞在。17日,ポル・ポト首相と会見。
DIA-202-1978-03-04-2カンボジア1978年03月04日1970年代中国鉄道技術者代表団,訪カ。
DIA-202-1978-03-06-1カンボジア1978年03月06日1970年代プノンペン放送によれば,政府はこのほどベトナムの国内滲透工作に対する措置として,①ベトナムのインドシナ連邦構想についての教育,②国境の内外での敵の行為に警戒,③職業選択・言論・旅行などの自由をなくし,党の方針と規律を徹底,④スパイの侵入に警戒の4方針を打出した。
DIA-202-1978-03-10-1カンボジア1978年03月10日1970年代タンユグ通信によれば,プノンペンの人口は現在2万人以下に。
DIA-202-1978-03-11-1カンボジア1978年03月11日1970年代プノンペン放送は,10日のユーゴ代表団との会見にユン・ヤット文化・教育・情報相が出席したと報道。これまで情報相はフ・ニム。
DIA-202-1978-03-18-1カンボジア1978年03月18日1970年代ルーマニア通商・経済代表団,訪カ。
DIA-202-1978-04-01-1カンボジア1978年04月01日1970年代(3日ハノイ放送)越軍,ホンドク島近くでカ軍艦2隻を撃沈。
DIA-202-1978-04-02-1カンボジア1978年04月02日1970年代チュニジア大使,信任状提出,8日北京へ。
DIA-202-1978-04-06-1カンボジア1978年04月06日1970年代ノルウェー大使,信任状提出,8日北京へ。
DIA-202-1978-04-07-1カンボジア1978年04月07日1970年代13日のプノンペン放送によれば,カ軍は7日侵入した越軍を撃退,560人以上を殺した。
DIA-202-1978-04-08-1カンボジア1978年04月08日1970年代駐中国マダガスカル大使,訪カ,16日まで。
DIA-202-1978-04-12-1カンボジア1978年04月12日1970年代ポル・ポト首相は,同国記者との会見で,ベトナムは南ベトナム臨時革命政府とハノイ政府が66~67年に承認を発表した陸上,海上の国境線内におけるカンボジアの独立,主権,領土保全を尊重しなければならないと言明。
DIA-202-1978-04-15-1カンボジア1978年04月15日1970年代解放3周年記念祝賀集会。キュー・サムファン議長声明。
DIA-202-1978-04-15-2カンボジア1978年04月15日1970年代バンコク発AFPによれば,中国は過去3年間,107ミリ・ロケット砲,130ミリ砲,AK47自動小銃,高速艇,トラック,石油,弾薬などを供給,これによってカ軍30~40連隊が完全武装。 また15日のロサンゼルス・タイムズ紙はバンコクの西側情報として,カンボジアの中国軍が過去6ヵ月間に急増。
DIA-202-1978-04-21-1カンボジア1978年04月21日1970年代21日 (ワシントン)カーター米大統領は,カ国における人権侵犯を非難する声明。
DIA-202-1978-04-22-1カンボジア1978年04月22日1970年代米国マルクス・レーニン主義共産党代表団,訪カ。29日まで。
DIA-202-1978-04-22-2カンボジア1978年04月22日1970年代中国ゴム技術調査・研究グループ,訪カ。5月20日まで。
DIA-202-1978-04-23-1カンボジア1978年04月23日1970年代プノンペン放送;アルゼンチン・マルクス・レーニン主義共産党代表団,訪カ。
DIA-202-1978-04-29-1カンボジア1978年04月29日1970年代プノンペン放送論評。ベトナムはカンボジア指導部転覆をねらって75年9月,76年4月,9月,77年4月,9月の計5回,クーデターを画策。
DIA-202-1978-05-02-1カンボジア1978年05月02日1970年代ミニッチ・ユーゴ外相,訪カ,4日まで。
DIA-202-1978-05-11-1カンボジア1978年05月11日1970年代シンガポール政府経済使節団(団長,リー・チョン外務省地域経済局長),訪カ。貿易・関係再開で合意。
DIA-202-1978-05-13-1カンボジア1978年05月13日1970年代ルーマニア経済通商代表団(団長,ビコシ・ネハイ外務省海外協力局長),訪カ,6月3日まで。
DIA-202-1978-05-13-2カンボジア1978年05月13日1970年代民主カンボジア放送;カ政府は,北京に駐在するビン・アブダル・ヤラル・マレーシア大使を駐カ大使として受入れると発表。
DIA-202-1978-05-15-1カンボジア1978年05月15日1970年代外務省覚書,15日付で国境紛争に関する提案,①ベトナムの攻撃停止,②スパイ送り込み,破壊活動停止,③インドシナ連邦構想放棄,④独立・主権・領土保全・自治権尊重。 ベトナム外務省は6月6日付覚書でこれを拒否,2項目の提案。
DIA-202-1978-05-20-1カンボジア1978年05月20日1970年代ニャンザン紙報道;ベトナムのチン副首相兼外相は駐プノンペン・ラオス大使を通じて4月10日付で,イエン・サリ副首相兼外相あてに覚書を送る。同副首相はこの覚書の受取を拒否。
DIA-202-1978-05-21-1カンボジア1978年05月21日1970年代(26日ベトナムの声放送)キエンジアン省沖合でカ海軍の艦艇3隻が操業中の越漁船に発砲したため,越軍が反撃,1隻を撃沈。
DIA-202-1978-05-28-1カンボジア1978年05月28日1970年代チャウシェスク・ルーマニア大統領,訪カ。29日友好・協力条約調印。また経済・技術協力協定,貿易協定,海洋漁業協力協定に調印。
DIA-202-1978-06-03-1カンボジア1978年06月03日1970年代イエン・サリ副首相兼外相,3日北京訪問,4日ニューヨークへ。8日国連本部で「ベトナムの侵略」に関する映画を上映。9日国連軍縮総会で演説。 同外相は11日,訪日。13日北京へ。17日帰国。
DIA-202-1978-06-17-1カンボジア1978年06月17日1970年代アブドル・ラーマン駐カ・マレーシア大使,プノンペン入り,信任状を提出。24日,北京へ。
DIA-202-1978-06-17-2カンボジア1978年06月17日1970年代中国熱帯作物調査・研究代表団,訪カ。
DIA-202-1978-06-25-1カンボジア1978年06月25日1970年代情報・宣伝省スポークスマン,ベトナムによるクーデター計画についてプレス・コミュニケ発表。
DIA-202-1978-07-01-1カンボジア1978年07月01日1970年代シンガポール電信局,カンボジアとの電信業務開始。
DIA-202-1978-07-08-1カンボジア1978年07月08日1970年代イタリー統一共産党代表団,訪カ。
DIA-202-1978-07-14-1カンボジア1978年07月14日1970年代イエン・サリ副首相兼外相,タイ訪問。国境紛争回避,貿易代表団交換,大使交換などで合意。
DIA-202-1978-07-15-1カンボジア1978年07月15日1970年代北朝鮮代表団(団長金衡律外務次官),訪カ。
DIA-202-1978-07-18-1カンボジア1978年07月18日1970年代イエン・サリ副首相兼外相,ベオグラード着。27日,非同盟諸国外相会議で演説。
DIA-202-1978-07-22-1カンボジア1978年07月22日1970年代ベルギー・カンボジア協会代表団,訪カ。
DIA-202-1978-07-29-1カンボジア1978年07月29日1970年代ソン・セン副首相兼国防相,訪中。8月5日まで。
DIA-202-1978-07-29-2カンボジア1978年07月29日1970年代デンマーク・マルクス・レーニン主義労働者党代表団,訪カ。8月5日まで。
DIA-202-1978-07-30-1カンボジア1978年07月30日1970年代30日付ル・モンド紙での会見で,イエン・サリ副首相兼外相は,対米復交について肯定的発言。
DIA-202-1978-08-04-1カンボジア1978年08月04日1970年代5日発売のファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌は,反ポル・ポト政権運動を指導している人は,ソ・ピム国家幹部会第1副議長と報道。
DIA-202-1978-08-07-1カンボジア1978年08月07日1970年代(ワシントン)米国務省スポークスマン言明,米国としては近い将来,カンボジアと関係正常化を行う見通しはない。
DIA-202-1978-08-07-2カンボジア1978年08月07日1970年代カンボジア,インドネシアとの国交樹立に関するコミュニケ発表。
DIA-202-1978-08-08-1カンボジア1978年08月08日1970年代(タイ国境タプラヤ発ロイター)難民の話によれば,1ヵ月前から旧政権関係者に対する粛清実施。
DIA-202-1978-08-12-1カンボジア1978年08月12日1970年代スイスと国交樹立に関する共同コミュニケ。
DIA-202-1978-08-12-2カンボジア1978年08月12日1970年代スウェーデン・カンボジア友好協会代表団,訪カ。26日まで。
DIA-202-1978-08-12-3カンボジア1978年08月12日1970年代駐カ・ギニア大使,訪カ。13日信任状提出。19日北京へ。
DIA-202-1978-08-13-1カンボジア1978年08月13日1970年代ルーマニア歌舞団,プノンペンで公演。
DIA-202-1978-08-16-1カンボジア1978年08月16日1970年代カンボジア放送は,日中平和友好条約調印を歓迎する論評発表。
DIA-202-1978-08-18-1カンボジア1978年08月18日1970年代カ政府,プノンペン常駐ビルマ大使の任命を承認。26日ビルマ外務省代表団,訪カ。
DIA-202-1978-08-20-1カンボジア1978年08月20日1970年代外務省スポークスマン声明,ニャンザン紙は7月15日ワイ島がベトナムの島と述べたが,同島とその附近の海域はカ領。
DIA-202-1978-08-27-1カンボジア1978年08月27日1970年代外務省宣伝情報局声明,24日付プラウダ論評をとりあげ,ソ連を膨脹主義超大国と非難。
DIA-202-1978-09-02-1カンボジア1978年09月02日1970年代佐藤駐中国大使,信任状提出のためプノンペン着。9日北京へ。
DIA-202-1978-09-02-2カンボジア1978年09月02日1970年代ヌオン・チェア議長,訪中。7日まで。7日から13日まで北朝鮮訪問,13日から16日まで訪中。
DIA-202-1978-09-05-1カンボジア1978年09月05日1970年代外務省声明,ソ連のブレジネフ書記長と政府はベトナムを使ってカンボジア侵略を続けていると非難。
DIA-202-1978-09-16-1カンボジア1978年09月16日1970年代日本・カンボジア友好協会代表団,プノンペン入り。
DIA-202-1978-09-16-2カンボジア1978年09月16日1970年代金恩煥駐カ・北朝鮮大使,任期を終え帰国へ。
DIA-202-1978-09-22-1カンボジア1978年09月22日1970年代カ放送によれば,8月中旬,下旬,メコンの水位急上昇,多くの村が水没。
DIA-202-1978-09-27-1カンボジア1978年09月27日1970年代共産党創立18周年記念集会。ポル・ポト書記長演説。
DIA-202-1978-09-28-1カンボジア1978年09月28日1970年代シアヌーク前国家元首,カ指導者との夕食会に出席。
DIA-202-1978-09-30-1カンボジア1978年09月30日1970年代ウ・ルウィン・マウン駐カ・ビルマ大使,プノンペン着。10月2日信任状提出。
DIA-202-1978-10-07-1カンボジア1978年10月07日1970年代イエン・サリ副首相兼外相,北京着。8日ニューヨークへ。12日国連総会で演説。16日ニューヨーク発。この間国連事務総長の訪問を招請。31日総長は訪問受諾。
DIA-202-1978-10-07-2カンボジア1978年10月07日1970年代崔相黙駐カ・北朝鮮大使,プノンペン着。8日,信任状提出。
DIA-202-1978-10-09-1カンボジア1978年10月09日1970年代ベトナムのクァンドイ・ニャンザン紙論評,カンボジア19州のうち16州で反政府決起。
DIA-202-1978-10-17-1カンボジア1978年10月17日1970年代イエン・サリ副首相兼外相,フィリピン訪問。20日共同声明調印。20日,同相はインドネシア訪問,24日まで。
DIA-202-1978-10-26-1カンボジア1978年10月26日1970年代プノンペン放送論評,党の計画は80年末までに全国協同組合の30%を先進協同組合に。
DIA-202-1978-11-05-1カンボジア1978年11月05日1970年代汪東興副主席を団長とする中国党・政府代表団,訪カ,9日まで。
DIA-202-1978-11-06-1カンボジア1978年11月06日1970年代プノンペン放送社説は,ソ越条約について,ベトナムとソ連がカンボジアに対する大攻勢を進めていることを示すものと言明。
DIA-202-1978-11-15-1カンボジア1978年11月15日1970年代ハノイ放送は反乱軍指導者ソムリン氏のアピール発表。
DIA-202-1978-11-18-1カンボジア1978年11月18日1970年代米情報筋によれば,スヌールでカ軍2000~3000人が大敗。
DIA-202-1978-11-22-1カンボジア1978年11月22日1970年代駐ビルマ大使にPech Cheang駐中国大使(兼任)を任命。
DIA-202-1978-12-03-1カンボジア1978年12月03日1970年代3日のハノイ放送によれば,このほどカンプチア救国民族統一戦線結成。議長ヘン・サムリン元党東部地区委員・第4師団長,副議長チア・シン元人民代表議会議員,書記長ロス・サマイ革命軍参謀補佐。カンボジア通信(SPK)を設置,3日から放送開始。 4日のハノイ放送は,戦線の11項目からなる活動綱領を伝えた。綱領は,ポル・ポト=イエン・サリ政権の打倒,総選挙の実施,居住,移動,宗教の自由,銀行の設置,通貨の発行,強制結婚の廃止,などを内容としている。
DIA-202-1978-12-05-1カンボジア1978年12月05日1970年代中国の葉剣英全人代委員長,キュー・サムファン議長に書簡。ベトナムに対するカンボジアへの支持表明。
DIA-202-1978-12-07-1カンボジア1978年12月07日1970年代ベトナムのホアン・コク・ベト祖国戦線議長,救国戦線議長に祝電。
DIA-202-1978-12-09-1カンボジア1978年12月09日1970年代ワシントン・ポスト紙ベッカー記者,セントルイス・ポスト・デスパッチ紙ダドマン記者,ロンドン大学コールドウェル講師,プノンペン訪問。コールドウェル講師は23日,プノンペン宿舎で射殺さる。
DIA-202-1978-12-11-1カンボジア1978年12月11日1970年代プノンペン放送は,革命軍がクラチエ,モンドルキリでベトナム軍と戦っていると報道。
DIA-202-1978-12-12-1カンボジア1978年12月12日1970年代ポル・ポト首相は新華社通信のインタビューに答え,「国土の一部がベトナムの手におちるかもしれない」,「われわれは長期戦を覚悟している」と言明。
DIA-202-1978-12-15-1カンボジア1978年12月15日1970年代ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌は,汪東興副主席は訪カ時,シアヌーク前国家元首の出国と,プノンペンの放棄を提案。
DIA-202-1978-12-26-1カンボジア1978年12月26日1970年代救国戦線中央委,対外政策に関する声明。
DIA-202-1979-01-01-1カンボジア1979年01月01日1970年代救国戦線中央委,解放区における8項目の政策発表。
DIA-202-1979-01-01-2カンボジア1979年01月01日1970年代民主カンボジア(以下DKと略)のイエン・サリ外務担当副首相,国連安保理議長に電報で,ベトナムの侵略についての理事会召集を要請。
DIA-202-1979-01-03-1カンボジア1979年01月03日1970年代DK政府,国連緊急安保理開催を要請するメッセージ。
DIA-202-1979-01-04-1カンボジア1979年01月04日1970年代救国戦線軍,スバイリエン市解放。
DIA-202-1979-01-06-1カンボジア1979年01月06日1970年代シアヌーク元国家元首,DK政府代表として国連安保理出席のためプノンペン発,北京着。9日,成田経由でニューヨーク着。成田で三宅アジア局次長と会見。11日,国連安保理出席。2月12日,ニューヨーク発13日,北京着。
DIA-202-1979-01-07-1カンボジア1979年01月07日1970年代救国戦線軍,プノンペンを陥落さす。
DIA-202-1979-01-08-1カンボジア1979年01月08日1970年代カンボジア人民革命評議会樹立-メンバーは次の通り。議長 ヘン・サムリン 国防省担当副議長 ペン・ソワン 外務省担当副議長 フン・セン 内務省担当委員 チェア・シム 情報・新聞・文化省担当委員 ケオ・チャンダ 教育省担当委員 チャン・ヴェン 公衆衛生・社会問題省担当委員 ヌ・ベン 経済・人民福祉省担当委員 モク・サクン
DIA-202-1979-01-08-2カンボジア1979年01月08日1970年代サムリン議長,国連安保理議長にメッセージを送り,7日以降ポル・ポト政府は存在せずと通告。
DIA-202-1979-01-09-1カンボジア1979年01月09日1970年代トン・ドク・タン大統領とファン・バン・ドン首相はヘン・サムリン議長あてに,人民革命評議会を唯一正当な代表と認める書簡を送る。
DIA-202-1979-01-10-1カンボジア1979年01月10日1970年代人民革命評議会声明,カンボジア人民共和国(People’s Republic of Kampuchea以下PRKと略)の樹立を宣言。
DIA-202-1979-01-10-2カンボジア1979年01月10日1970年代ロス・サマイPRK代表,AA連帯機構幹部会議第7回拡大会議出席のためハノイ着。
DIA-202-1979-01-11-1カンボジア1979年01月11日1970年代11日のカンボジア通信(SPK)によれば,PRK政府は,メコン委参加を決定。
DIA-202-1979-01-11-2カンボジア1979年01月11日1970年代DK政府声明,全カンボジア人民が民族・民主・愛国統一戦線を結成し,ベトナムと戦うよう呼びかけ。また,各国がベトナムの撤兵を要求するよう呼びかけ。
DIA-202-1979-01-16-1カンボジア1979年01月16日1970年代PRK外務省声明,外交方針を声明。
DIA-202-1979-01-17-1カンボジア1979年01月17日1970年代Chea Soth駐越カンボジア大使,信任状提出。
DIA-202-1979-01-25-1カンボジア1979年01月25日1970年代プノンペンで解放祝賀集会。ヘン・サムリン議長とペン・ソワン副議長が演説。
DIA-202-1979-01-25-2カンボジア1979年01月25日1970年代救国戦線中央機関紙「カンプチア」発刊。
DIA-202-1979-02-04-1カンボジア1979年02月04日1970年代人民革命評議会アピール,敵の残党掃討,米の収集などを呼びかけ。
DIA-202-1979-02-15-1カンボジア1979年02月15日1970年代プラシトDK国連大使,書簡で国連安保理議長に,カ問題討議の緊急理事会招集を要求。
DIA-202-1979-02-16-1カンボジア1979年02月16日1970年代ドン首相を団長とするベトナム政府代表団,訪カ-18日,平和友好協力条約調印。(資料参照)
DIA-202-1979-02-16-2カンボジア1979年02月16日1970年代救国戦線代表団(団長ロス・サマイ書記長),訪ソ。
DIA-202-1979-02-24-1カンボジア1979年02月24日1970年代24日のSPKによれば,バタンバンとシソフォンを結ぶ鉄道再開。
DIA-202-1979-02-25-1カンボジア1979年02月25日1970年代25日のSPKによれば,フン・センPRK外相は国連安保理議長にメッセージを送り,革命評議会が唯一の代表であり,これをぬきにした議論は無効と言明。
DIA-202-1979-02-25-2カンボジア1979年02月25日1970年代フンセンPRK外相,マラミス・ESCAP事務局長にメッセージ。革命評議会が唯一の代表と言明。
DIA-202-1979-02-26-1カンボジア1979年02月26日1970年代ロガチョフ・ソ連外務省東南アジア局長,プノンペン訪問。
DIA-202-1979-03-04-1カンボジア1979年03月04日1970年代カンパン・ビラチット駐カンボジア・ラオス大使,信任状提出。
DIA-202-1979-03-07-1カンボジア1979年03月07日1970年代ベトナムのボー・ドン・ジアン駐カンボジア大使,信任状提出。
DIA-202-1979-03-15-1カンボジア1979年03月15日1970年代15日のSPKによれば,数国戦線と人民革命評議会がこのほど合同で全国大会。当面の任務を検討。
DIA-202-1979-03-17-1カンボジア1979年03月17日1970年代民主カンボジアの声放送によれば,ポル・ポト軍はコンポンスプー市を奪回。
DIA-202-1979-03-20-1カンボジア1979年03月20日1970年代スファヌボン大統領らラオス国会・政府代表団訪カ-(ラオスの項と資料を参照)
DIA-202-1979-03-22-1カンボジア1979年03月22日1970年代チウン・プラシト・DK国連代表,信任状提出。
DIA-202-1979-03-26-1カンボジア1979年03月26日1970年代PRKのフン・セン外相,国連総長あてメッセージで国連が民主カンボジア・チウン・プラシット代表の信任状を受理したのに抗議。
DIA-202-1979-03-27-1カンボジア1979年03月27日1970年代VNA代表団(団長ダオ・ツン社長),訪カ。 28日,Chey Saphon SPK社長と協力協定調印。
DIA-202-1979-03-29-1カンボジア1979年03月29日1970年代キューバ・エルナンデス駐カンボジア大使,信任状提出。
DIA-202-1979-03-30-1カンボジア1979年03月30日1970年代30日のSPKによれば,最近プノンペンで第1回全国軍事会議開催,ペン・ソバン副議長が出席。
DIA-202-1979-03-30-2カンボジア1979年03月30日1970年代プノンペン・モニボン通りの“1月7日病院”再開。医者7人。
DIA-202-1979-04-02-1カンボジア1979年04月02日1970年代人民革命評議会,プノンペン市内の街路名の変更を発表。
DIA-202-1979-04-05-1カンボジア1979年04月05日1970年代5日のハノイ放送によれば,先月28~30日の救国戦線軍による総攻撃で,ポル・ポト軍は壊滅,タイ国境に近い戦闘本部を放棄。
DIA-202-1979-04-06-1カンボジア1979年04月06日1970年代ミアス・サムナン救国戦線中央委員以下カンボジア労働総同盟代表団,世界労連大会(ソフィア)へ向かう途中ハノイへ立ち寄り,スアン・トイ中央委書記と会見。
DIA-202-1979-04-07-1カンボジア1979年04月07日1970年代ダッハ駐カ東独大使,信任状提出。
DIA-202-1979-04-09-1カンボジア1979年04月09日1970年代PRK政府声明,75年4月17日のプノンペン解放の日を国家記念日にする,と。
DIA-202-1979-04-09-2カンボジア1979年04月09日1970年代PRKのモク・サクン経済・生活相,病死。
DIA-202-1979-04-10-1カンボジア1979年04月10日1970年代VNAによれば,ヘン・サムリン軍はこのほど,キリロム高原に近いアムレアンのポル・ポト軍司令部を攻撃,2000人を壊滅。
DIA-202-1979-04-13-1カンボジア1979年04月13日1970年代プノンペン博物館,再開。
DIA-202-1979-04-26-1カンボジア1979年04月26日1970年代SPK通信によると,プノンペンの中央郵便,電信,電話局が3月上旬再開。4年ぶり。
DIA-202-1979-04-27-1カンボジア1979年04月27日1970年代SPK;スバイリエン州の行政単位の90%(540村,70県)が革命権力樹立。
DIA-202-1979-04-27-2カンボジア1979年04月27日1970年代ツェレンドル・モンゴル大使,信任状提出。
DIA-202-1979-05-03-1カンボジア1979年05月03日1970年代3日のSPKによれば,ロス・サマイ救国戦線書記長が経済・福祉省担当に就任,同氏はまた中央工業委員会委員長に就任。
DIA-202-1979-05-06-1カンボジア1979年05月06日1970年代6,7日,DK閣議,乾期情勢を総括,ゲリラ戦の強化を決定。
DIA-202-1979-05-06-2カンボジア1979年05月06日1970年代PRK外務省スポークスマン声明,タイ空軍機4機が4月29日カ領空を侵犯。
DIA-202-1979-05-09-1カンボジア1979年05月09日1970年代DKのイエン・チリト女史,マニラ入り。17日UNCTAD総会で演説。この時,ソ連,ベトナムはじめ20数ヵ国代表退場。
DIA-202-1979-05-13-1カンボジア1979年05月13日1970年代DK政府声明,「5月6,7の両日閣議を開催した。この雨期にベトナム軍2万人を死傷さす。1年2年はおろか,10年でも戦い続ける」
DIA-202-1979-05-13-2カンボジア1979年05月13日1970年代プノンペン放送,革命評議会が承認した新しい州構成を発表。全部で18州とプノンペン市。シエムリエプとウドミアンチェイが合併してシエムリエプ=ウドミアンチェイ州に。
DIA-202-1979-05-13-3カンボジア1979年05月13日1970年代ソ連からの援助物資引渡し式。燃料5,000tなど。
DIA-202-1979-05-17-1カンボジア1979年05月17日1970年代17日のSPKによると,燃料5,000tと大量の医薬品を積んだソ連貨物が,このほどカンボジアの港に入港。
DIA-202-1979-05-20-1カンボジア1979年05月20日1970年代シアヌーク元国家元首,北朝鮮訪問。
DIA-202-1979-05-25-1カンボジア1979年05月25日1970年代ファン・チョン・トエ・ベトナム通信・運輸相を団長とする通信・運輸代表団,訪カ。26日,PRKと物資輸送・通信協力議定書調印。
DIA-202-1979-05-25-2カンボジア1979年05月25日1970年代オレク・ボストリン駐カ新ソ連大使,着任。28日,信任状提出。
DIA-202-1979-05-28-1カンボジア1979年05月28日1970年代PRKのフン・セン外相,非同盟諸国外相会議にオブザーバーとして出発するためコロンボに向け出発。6月1日モスクワ立寄り,6月4日コロンボ入り。
DIA-202-1979-05-30-1カンボジア1979年05月30日1970年代DK代表団(団長イエン・サリ副首相),非同盟諸国外相会議に出席のためコロンボ入り。
DIA-202-1979-05-31-1カンボジア1979年05月31日1970年代PRK外務省特別声明,「ベトナム軍のカ駐留は合法的な相互協力関係によって行われている」「大国の介入や侵略の危険が去ればベトナム軍は撤退する」
DIA-202-1979-05-31-2カンボジア1979年05月31日1970年代(東京)園田外相,衆院内閣委でポル・ポト政権への援助を人道的立場から検討と言明。
DIA-202-1979-06-02-1カンボジア1979年06月02日1970年代全国で郵便業務再開。
DIA-202-1979-06-04-1カンボジア1979年06月04日1970年代(コロンボ)非同盟諸国調整会議。10日まで。カ代表権問題討議。
DIA-202-1979-06-08-1カンボジア1979年06月08日1970年代プノンペン・バタンバン鉄道試運転。
DIA-202-1979-06-12-1カンボジア1979年06月12日1970年代ベトナムとソ連人民のカンボジア人民への救援物資第1回分(食糧1700トン)の満載船2隻がメコン川からプノンペンへ入港。なお数万トン級船団が待機中。
DIA-202-1979-06-12-2カンボジア1979年06月12日1970年代イエン・サリ副首相,パキスタン訪問。14日北京着。20日訪日。
DIA-202-1979-06-16-1カンボジア1979年06月16日1970年代ポル・ポト首相,タイ首相あて書簡で,カンボジア難民を再びタイに流出させないよう協力すると約束。
DIA-202-1979-06-18-1カンボジア1979年06月18日1970年代DK放送,プノンペン北方130キロのサンツクレオ地区を解放と報道。
DIA-202-1979-06-26-1カンボジア1979年06月26日1970年代イエン・チリト社会問題相の率いるDK代表団,スーダン訪問を終えハルツームを出発,ソマリアへ。27日ソマリア訪問。
DIA-202-1979-07-01-1カンボジア1979年07月01日1970年代プノンペン放送:プノンペン住民は10万人に。
DIA-202-1979-07-02-1カンボジア1979年07月02日1970年代ポーランドのミクリッチ新大使,信任状提出。
DIA-202-1979-07-03-1カンボジア1979年07月03日1970年代日本共産党代表団(団長西沢副委員長),訪カ。
DIA-202-1979-07-05-1カンボジア1979年07月05日1970年代ラオス政府,カンボジアに米500トン,その他衣類などの援助を決定。ストンチェン,ラタナキリ,プレアビヘアの住民に供与。
DIA-202-1979-07-06-1カンボジア1979年07月06日1970年代ロス・サマイ経済人民福祉相を団長とするPRK経済代表団,ソ連訪問のためプノンペン出発。16日,79年無償援助協定調印。
DIA-202-1979-07-06-2カンボジア1979年07月06日1970年代PRK外務省声明,6月30日のASEAN外相会議コミュニケがベトナム軍の撤退を主張したのに反論。
DIA-202-1979-07-11-1カンボジア1979年07月11日1970年代(北京発ロイター)シアヌーク殿下言明「パリで難民集会が行われれば,私が民族救済連合戦線の議長に任命されるだろう」
DIA-202-1979-07-16-1カンボジア1979年07月16日1970年代PRK外務省声明「ベトナム軍の駐留は両国の利益に合致し,非同盟運動の原則,国連憲章に合致したもの」「北京拡張主義がポル・ポト=イエン・サリを使ってカンボジアの独立を脅かすのをやめれば直ちに撤退する」
DIA-202-1979-07-17-1カンボジア1979年07月17日1970年代DK政府,赤十字社設立。
DIA-202-1979-07-21-1カンボジア1979年07月21日1970年代バンコクのスウェーデン大使館筋によれば,タイからカンボジアに追い返された難民に国際赤十字とスウェーデン赤十字が救援米を送る計画を,ヘン・サムリン政権が拒否。
DIA-202-1979-07-24-1カンボジア1979年07月24日1970年代人民革命評議会と救国戦線中央委員会合同大会,開催。ロス・サマイ書記長が報告。
DIA-202-1979-07-26-1カンボジア1979年07月26日1970年代革命評議会,輸出入公社KAMPEXIM設立を決定。
DIA-202-1979-08-03-1カンボジア1979年08月03日1970年代ベトナム,トンレサプ湖漁業復興援助のため17トンの設備供与。
DIA-202-1979-08-04-1カンボジア1979年08月04日1970年代ブ・バンカン・ベトナム厚相ら代表団,来訪。8日まで滞在,PRKと医療協力協定調印。
DIA-202-1979-08-13-1カンボジア1979年08月13日1970年代ND紙:PRK,ベトナムと民間航空協定調印。ベトナムは旅客機1機を贈与。
DIA-202-1979-08-15-1カンボジア1979年08月15日1970年代ポル・ポト政権を裁く人民革命裁判所法廷開廷。18日,検察当局は,ポル・ポト,イエン・サリ両氏の死刑を求刑。
DIA-202-1979-08-18-1カンボジア1979年08月18日1970年代シアヌーク殿下,国連総長あて書簡で,国際監視委のもとに総選挙を行うこと,赤クメール武装解除のためベトナム軍に代わり平和維持軍を派遣することを提案。
DIA-202-1979-08-20-1カンボジア1979年08月20日1970年代ヘン・サムリン議長を団長とする代表団,ラオス訪問。フン・セン外相,ロス・サマイ経済相,ケオ・チャンダ情報相ら同行。22日まで。24日,共同声明発表。
DIA-202-1979-08-22-1カンボジア1979年08月22日1970年代ヘン・サムリン議長を団長とする代表団,ベトナム訪問。25日,共同声明調印。28日,同代表団はハノイ出発,モスクワ経由で31日ハバナへ,9月14日キューバを離れ,15日モスクワ着。9月18日ハノイ立寄り帰国。
DIA-202-1979-08-23-1カンボジア1979年08月23日1970年代ワシントン・ポスト紙報道,ヘン・サムリン政権が国際機関による1億ドルの緊急食糧援助受け入れに同意。
DIA-202-1979-08-24-1カンボジア1979年08月24日1970年代シアヌーク殿下,北京へ。31日,再び平壌へ。
DIA-202-1979-08-26-1カンボジア1979年08月26日1970年代PRK外務省スポークスマス声明,カンボジアの領海は12カイリ。
DIA-202-1979-08-29-1カンボジア1979年08月29日1970年代コンポンソム港,一般商船に再開。
DIA-202-1979-09-03-1カンボジア1979年09月03日1970年代プノンペンとハノイ,ホーチミン両市を結ぶ航空路開設。毎週月曜日と金曜日。
DIA-202-1979-09-06-1カンボジア1979年09月06日1970年代6日の民主カンボジアの声放送は,8月21日発表された「カンボジア大民族統一愛国民主戦線の政治綱領草案」を報道。この草案は8月21日,キュー・サンパン議長からシアヌーク殿下にも伝えられ,同殿下に議長就任が要請された。9日,同殿下はこの申入れを拒否。
DIA-202-1979-09-06-2カンボジア1979年09月06日1970年代キュー・サンパンDK議長,キューバ滞在を終えハバナ発。
DIA-202-1979-09-08-1カンボジア1979年09月08日1970年代(ハノイ)Khum Xi PRK郵政相,ベトナムのファム・ニエル郵便総局長と郵便・電報協定に調印。
DIA-202-1979-09-09-1カンボジア1979年09月09日1970年代(ハバナ)非同盟諸国首脳会議,カンボジアの席を空席とすることを決定。
DIA-202-1979-09-16-1カンボジア1979年09月16日1970年代イエン・サリ副首相,ニューヨーク到着。
DIA-202-1979-09-16-2カンボジア1979年09月16日1970年代モスクワ放送:ヘン・サムリン政権はこのほどエチオピアと大使級外交関係樹立。
DIA-202-1979-09-17-1カンボジア1979年09月17日1970年代ハノイ放送:パナマ政府がこのほどヘン・サムリン政権を承認。
DIA-202-1979-09-21-1カンボジア1979年09月21日1970年代ND紙:ベトナムの小乗仏教代表団も訪カ。
DIA-202-1979-09-21-2カンボジア1979年09月21日1970年代国連総会,ポル・ポト政権代表の資格を認める決議を採択。
DIA-202-1979-09-24-1カンボジア1979年09月24日1970年代PRK外務省声明。国連総会のポル・ポト政権承認決議に抗議。
DIA-202-1979-09-25-1カンボジア1979年09月25日1970年代(平壌)シアヌーク殿下のもとに亡命カンボジア人会議,カンボジア民族主義連合の結成を決定。
DIA-202-1979-09-26-1カンボジア1979年09月26日1970年代(バンコク)日,米など15カ国と国際赤十字,ユニセフなどの国際機関ならびにタイ政府,カンボジア援助について協議。
DIA-202-1979-09-29-1カンボジア1979年09月29日1970年代29,30日,救国戦線第2回大会。29日,ヘン・サムリン議長が報告。西部,西北部,西南部の山岳地帯,タイ国境の敵の掃討作戦で敵兵5万人の戦斗力を奪う。ベトナム,ソ連等から贈られた数十万の米を分配。50万以上の工場を復旧。31の国と運動が承認。
DIA-202-1979-09-29-2カンボジア1979年09月29日1970年代シアヌーク殿下,中国建国30周年祝賀行事出席のため北京入り。
DIA-202-1979-09-30-1カンボジア1979年09月30日1970年代ノロドム・スリヤボンは,タイ記者団との会見で,カンボジア民族解放運動の議長であると言明。
DIA-202-1979-10-02-1カンボジア1979年10月02日1970年代ジフコフ・ブルガリア共産党第一書記,訪カ。
DIA-202-1979-10-03-1カンボジア1979年10月03日1970年代ペン・ソワンPRK国防相,東独訪問のためプノンペン発。
DIA-202-1979-10-09-1カンボジア1979年10月09日1970年代ソン・サン元首相を議長とするクメール人民民族解放戦線結成。
DIA-202-1979-10-23-1カンボジア1979年10月23日1970年代グロムイコ・ソ連外相,ケオ・プラサトPRK駐ソ新任大使と会見。26日,信任状提出。
DIA-202-1979-10-24-1カンボジア1979年10月24日1970年代人民革命評議会新人事-5省と国立銀行設置,経済・人民福祉省廃止。商業相 タン・サルーム 工業相 ミアス・サムナン 農業相 メン・タン 財政相・国立銀行総裁 チャン・チム 社会問題委員会担当相 ネウ・サモン 特別問題・経済協力・裁判所・憲法起草担当相 ロス・サマイ。
DIA-202-1979-10-24-2カンボジア1979年10月24日1970年代サッサー米上院議員,訪カ。フン・センPRK外相と会談。
DIA-202-1979-10-29-1カンボジア1979年10月29日1970年代ペチ・ブンレトPRK大使,マラミスESCAP事務局長に信任状提出。
DIA-202-1979-11-04-1カンボジア1979年11月04日1970年代PRK外務省,カンボジア緊急援助計画について声明発表。援助は革命評議会を通すように,と。
DIA-202-1979-11-05-1カンボジア1979年11月05日1970年代(ニューヨーク)カンボジア緊急援助国連会議開催。同会議で表明された各国の援助状況は,ECが5,550万ドル,米国が6,900万ドル,日本が1,000万ドル,カナダが1,500万ドル,ソ連が8,500万ドル,ベトナムが5,000万ドル。
DIA-202-1979-11-09-1カンボジア1979年11月09日1970年代米上下両院,カンボジアに,6,900万ドルまでの援助を与える権限法案を承認。
DIA-202-1979-11-12-1カンボジア1979年11月12日1970年代ボー・ドン・ジアン・ベトナム大使,帰国。
DIA-202-1979-11-12-2カンボジア1979年11月12日1970年代ホルツマン議員を団長とする米議会代表団,訪カ
DIA-202-1979-11-14-1カンボジア1979年11月14日1970年代(ニューヨーク)国連総会,ASEAN等の提案したカンボジアにおける敵対行為の即時停止・全ての外国軍隊の撤退を求める決議案を採択。
DIA-202-1979-11-16-1カンボジア1979年11月16日1970年代PRK外務省声明,国連におけるカンボジア問題討議は違法と非難。
DIA-202-1979-11-18-1カンボジア1979年11月18日1970年代日本政府派遣のタイ・カンボジア国境実情調査団(団長・緒方貞子前国連公使),バンコク到着。
DIA-202-1979-11-25-1カンボジア1979年11月25日1970年代仏民主連合議員団,ヘン・サムリン議長と会見。
DIA-202-1979-11-25-2カンボジア1979年11月25日1970年代シアヌーク元国家元首,パリ入り。約2カ月滞仏の予定,ペン・ヌート元首相,同行。
DIA-202-1979-11-29-1カンボジア1979年11月29日1970年代PRK外務省スポークスマン,対カ援助の大部分がベトナムに流れているとの仏議員発言に反論。
DIA-202-1979-11-30-1カンボジア1979年11月30日1970年代ベトナムと出入国ビザ免除に関する協定調印。
DIA-202-1979-12-01-1カンボジア1979年12月01日1970年代プノンペンで救国戦線創立1周年記念集会。
DIA-202-1979-12-01-2カンボジア1979年12月01日1970年代人民革命評議会,カンボジア・ラオス友好協会設立を決定。ネウ・サモン社会委議長が会長。同評議会はまた,カンボジア・ソ連友好協会設立を決定。会長はヨス・ポル救国戦線中央委総書記。
DIA-202-1979-12-02-1カンボジア1979年12月02日1970年代(パリ)クメール民族主義者連合,集会開催。シアヌーク殿下ら出席。
DIA-202-1979-12-04-1カンボジア1979年12月04日1970年代日本政府,カンボジア難民への9億5,000万円援助を決定。
DIA-202-1979-12-04-2カンボジア1979年12月04日1970年代モンゴル党・政府代表団,訪カ。団長バトムンフ政治局員兼閣僚会議議長。
DIA-202-1979-12-06-1カンボジア1979年12月06日1970年代(ロンドン)ギルモア英外相代理は下院での答弁で,英国はもはやポル・ポト政権を承認していないと言明。
DIA-202-1979-12-07-1カンボジア1979年12月07日1970年代プノンペンの医・薬学部再開。
DIA-202-1979-12-07-2カンボジア1979年12月07日1970年代仏共産党議員代表団,プノンペン訪問。10日まで。
DIA-202-1979-12-08-1カンボジア1979年12月08日1970年代8日のニャンザン紙によれば,10~11月,3隻のソ連船が7000tの食糧・食品をプノンペン港へ。
DIA-202-1979-12-09-1カンボジア1979年12月09日1970年代ポル・ポト首相,日本人記者団と会見。
DIA-202-1979-12-13-1カンボジア1979年12月13日1970年代(パリ)シアヌーク殿下,ジスカールデスタン仏大統領と会談,ジ大統領は国際会議開催へのシ殿下のイニシアチブを支持。
DIA-202-1979-12-14-1カンボジア1979年12月14日1970年代(クアラルンプール)ASEAN臨時外相会議,共同声明採択。民主カンボジア政府を引き続き承認。
DIA-202-1979-12-15-1カンボジア1979年12月15日1970年代15~17日DK人民代表議会,政府,軍,各省の合同大会開催-同大会は,カンボジア大民族統一愛国民主戦線の結成,民主カンボジア憲法の停止,上記戦線議長に暫定的にキュー・サンパンが就任することを決定。また,首相がポルポトからキュー・サンパンに代わったほか,新政府人事を次のように決定。首相キュー・サンパン 外務担当副首相 イエン・サリ 国防担当副首相 ソン・セン 経済・財政相 チウン・チウム 公衆衛生相 チウン・チウーン 社会問題相 イエン・チリト 文化・教育相 ユン・ヤット 首相府相 ケアト・チョン 国家科学技術委員会委員長 チウン・ムン 情報省担当国務相 トク・リン 設備・輸送省担当国務省 サ・キムロムト 電信省担当国務相 チョーン・ハイ
DIA-202-1979-12-15-2カンボジア1979年12月15日1970年代ペン・ソバン副議長兼国防相の率いるPRK軍事代表団,訪越。
DIA-202-1979-12-18-1カンボジア1979年12月18日1970年代PRK第1回全国保健会議開催。ヌ・ベン保健相報告,全国で病院数122,ベッド数7575,保健員6566人,医者56人。
DIA-202-1979-12-21-1カンボジア1979年12月21日1970年代PRK経済代表団,訪ソ。団長タン・サリム貿易相。27日,無償経済援助協定調印。
DIA-202-1979-12-24-1カンボジア1979年12月24日1970年代ゴ・ディエン新駐カンボジア・ベトナム大使,プノンペン着任。26日,信任状提出。
DIA-202-1979-12-30-1カンボジア1979年12月30日1970年代DK外務省スポークスマン声明,ソ連軍のアフガン侵攻に抗議。