ID 国名 日付 年代 内容
DIA-202-1980-01-05-1カンボジア1980年01月05日1980年代プノンペンでインドシナ3国外相会議。共同コミュニケ要旨①カンボジア情勢は後戻りできない。②人民革命評議会はカンボジア人民の唯一真の代表である。③3国は東南アジア各国と不可侵条約を結ぶ用意あり。
DIA-202-1980-01-05-2カンボジア1980年01月05日1980年代FULRO(ベトナム被圧迫民族解放戦線)政府,民主カンボジア(以下DKと略)に対する特使としてIdro Li氏を任命。
DIA-202-1980-01-07-1カンボジア1980年01月07日1980年代プノンペンで「1月7日勝利」記念集会。ラオスのスファヌボン大統領,ベトナムのグエン・フー・ト副大統領,ソ連のM.A.Prokofyev教育相らが出席。
DIA-202-1980-01-07-2カンボジア1980年01月07日1980年代民主カンボジアの声放送(以下VODKと略),プノンペンでのインドシナ3国外相会議を非難。
DIA-202-1980-01-09-1カンボジア1980年01月09日1980年代クメール・セレイ・グループはVan Sarenを指導者にすることを決定。
DIA-202-1980-01-09-2カンボジア1980年01月09日1980年代プノンペン郊外のChak Angre製紙工場操業開始。
DIA-202-1980-01-11-1カンボジア1980年01月11日1980年代ソ連が1979年中にカンプチア人民共和国(以下PRKと略)に与えた援助8500万ドル,うち食糧159,000トン。
DIA-202-1980-01-13-1カンボジア1980年01月13日1980年代VODKによれば,カンボジアのベトナム軍は24個師団と14独立連隊,総兵力25万に達した。
DIA-202-1980-01-15-1カンボジア1980年01月15日1980年代DKのSar Kimlomuth装備・運輸相を団長とする代表団,東南アジア中央銀行総裁会議に出席のため,シンガポールに到着。
DIA-202-1980-01-16-1カンボジア1980年01月16日1980年代PRK人民革命評議会農産物分配について指令。①80年は農業税などいかなる税も徴収しない,②生産団結チームに来年の種子をリザーブした後すべて分配する③個人農の場合村落委員会へ余剰を寄付する。
DIA-202-1980-01-17-1カンボジア1980年01月17日1980年代ヘン・サムリン議長,日本共産党代表と会見。
DIA-202-1980-01-19-1カンボジア1980年01月19日1980年代PRKペン・ソワン国防相の率いる軍事代表団はラオス国防相の招きで,ビエンチャンヘ。
DIA-202-1980-01-22-1カンボジア1980年01月22日1980年代AFPプノンペン電は1979年末のカンボジアの人口を600万と報道。
DIA-202-1980-01-23-1カンボジア1980年01月23日1980年代VODK,1月10日付のFULRO政府の世界がベトナムの圧政を非難し,これに抵抗するFULRO運動を支援するよう訴えた手紙を放送。
DIA-202-1980-01-23-2カンボジア1980年01月23日1980年代DK,アフガンに関するイスラム会議を支持。
DIA-202-1980-01-26-1カンボジア1980年01月26日1980年代DK情報省はベトナム軍がプルサト州Leach地区で有毒化学物質を散布し,17人を死亡させたと非難。
DIA-202-1980-01-30-1カンボジア1980年01月30日1980年代DKのキュー・サンパン議長,イランのバニ・サドル氏大統領当選に祝電。
DIA-202-1980-01-30-2カンボジア1980年01月30日1980年代PRK農業省は79年に65万haに米が植えつけられ,現在まで,40万haを収穫したと発表。
DIA-202-1980-02-02-1カンボジア1980年02月02日1980年代ヘン・サムリン議長,ペン・ソワン国防相を団長とするPRK高級代表団,ソ連を友好訪問。
DIA-202-1980-02-02-2カンボジア1980年02月02日1980年代VODK,カンボジア大民族統一愛国民主戦線(以下PDFGNUKと略)の政治綱領を放送。
DIA-202-1980-02-04-1カンボジア1980年02月04日1980年代タイ軍事筋によればベトナムはカンボジア領内にタイ向けにソ連製SAM2ミサイルを設置。
DIA-202-1980-02-06-1カンボジア1980年02月06日1980年代DKのイェン・サリ外相,シンガポールを訪問。
DIA-202-1980-02-10-1カンボジア1980年02月10日1980年代カンプチア救国民族統一戦線(以下KNUFNSと略)中央委員会第1回会議5つの任務を提案。①KNUFNSを拡大し,団結を強化する。②生産を増加し,生活を安定させる。③革命的行政機構を作り上げる。④革命軍を建設し秩序の維持に努める。⑤ベトナムやラオスとの連帯を強化する。
DIA-202-1980-02-11-1カンボジア1980年02月11日1980年代フン・セン外相を団長とするKNUFNS代表団,ポーランド統一労働者党大会に出席。
DIA-202-1980-02-15-1カンボジア1980年02月15日1980年代フサク大統領,シュトルーガル首相らのチェコの高級党・政府代表団,カンプチアを公式訪問。
DIA-202-1980-02-16-1カンボジア1980年02月16日1980年代VODK,1980年の最初の数週間だけで,ベトナムはプノンペンとバタンバンに行政顧問として10,000人を送り込んだと非難。
DIA-202-1980-02-18-1カンボジア1980年02月18日1980年代プノンペンでカンプチア・ベトナム友好協力条約締結記念集会,チア・シム内相が演説。
DIA-202-1980-02-25-1カンボジア1980年02月25日1980年代プノンペン郊外のTuol Kouk繊維工場で労働組合設立。
DIA-202-1980-02-25-2カンボジア1980年02月25日1980年代プノンペン・バタンバン間の鉄道再開。
DIA-202-1980-02-26-1カンボジア1980年02月26日1980年代KPNLF(クメール人民民族解放戦線)のソン・サン元首相,国連の高等弁務官がカンボジア難民を帰国させようとしていることを非難。
DIA-202-1980-02-27-1カンボジア1980年02月27日1980年代PRKの軍機関紙“革命軍”,大衆を鼓舞し,大衆に対して規律正しく振舞う軍隊を建設しようという社説を掲載。
DIA-202-1980-02-27-2カンボジア1980年02月27日1980年代訪米中のシアヌーク殿下,米国務長官と会談。
DIA-202-1980-02-27-3カンボジア1980年02月27日1980年代キュー・サンパン首相,解放区で西側記者と会見し,政治解決に応ずる用意があるがベトナム軍の撤退がカンボジア問題解決の鍵であると語った。
DIA-202-1980-02-28-1カンボジア1980年02月28日1980年代ブルガリア軍事代表団(団長Kiril Kosev将軍党中央委員,軍総政治局長)来訪。
DIA-202-1980-02-28-2カンボジア1980年02月28日1980年代PRK外務省,カンボジア難民帰国を拒否,タイ当局との会談を提唱。
DIA-202-1980-02-28-3カンボジア1980年02月28日1980年代ソ連の軍艦,コンポン・ソム港に入港。
DIA-202-1980-02-28-4カンボジア1980年02月28日1980年代DK駐北京大使ペク・チュアンによればDK軍は正規軍ゲリラ5万に地方ゲリラ3万からなる。
DIA-202-1980-03-02-1カンボジア1980年03月02日1980年代VODK,2月15日ベトナム軍が国際援助を受けにタイ国境に行ってきた村民を処刑したと非難。
DIA-202-1980-03-04-1カンボジア1980年03月04日1980年代カンプチア・ソ連友好協会代表団(団長Yos PorKNUFNS中央委員会書記長),ソ連と東独訪問へ。
DIA-202-1980-03-06-1カンボジア1980年03月06日1980年代KPNLFのソン・サン議長はフランス・テレビで,彼の運動は本当の国民軍であって,シアヌークはこれを頼りにすることができると語った。
DIA-202-1980-03-08-1カンボジア1980年03月08日1980年代PRK,ASEAN・EEC外相会議の共同宣言はカンプチアの国内問題への干渉であると非難。
DIA-202-1980-03-08-2カンボジア1980年03月08日1980年代DK,ASEAN・EEC共同宣言を歓迎。
DIA-202-1980-03-09-1カンボジア1980年03月09日1980年代キュー・サンパン首相を団長とするDXの高級代表団,中国を訪問。華国鋒首相らが出迎える。
DIA-202-1980-03-10-1カンボジア1980年03月10日1980年代PRK対外貿易銀行の設置を発表。
DIA-202-1980-03-11-1カンボジア1980年03月11日1980年代カナダを訪問中のシアヌーク殿下はキュー・サンパンとは組めないがソン・サンとなら一緒にやっていけると示唆した。
DIA-202-1980-03-11-2カンボジア1980年03月11日1980年代キュー・サンパン首相,北朝鮮を訪問,金日成首席と会談。
DIA-202-1980-03-14-1カンボジア1980年03月14日1980年代コンポン・ソム港では700人が働いており,荷揚げ能力は1日500~1000トンである。
DIA-202-1980-03-15-1カンボジア1980年03月15日1980年代ヘン・サムリン議長,フン・セン外相,ケオ・チャンダ情報相ら東独へ,18日友好協力条約を締結。
DIA-202-1980-03-17-1カンボジア1980年03月17日1980年代中央銀行プノンペンに開店。
DIA-202-1980-03-20-1カンボジア1980年03月20日1980年代バンコク・ポストはプノンペン政権はかつてポル・ポト派に属していたヘン・サムリンらのグループとハノイで訓練されたペン・ソワンらの2グループから成り,ハノイは第一のグループを切り捨てるかもしれないと報道。
DIA-202-1980-03-21-1カンボジア1980年03月21日1980年代シアヌーク殿下はブリニッセルで,中国はクメール・ルージュに莫大な軍事をおこなっていると非難。
DIA-202-1980-03-22-1カンボジア1980年03月22日1980年代プノンペン放送,2月5日の緊急経済・技術援助協定によりソ連は過去3ヵ月間に,米3万4200トン,コーン3万3400トン,小麦粉6900トン,などを供与。
DIA-202-1980-03-24-1カンボジア1980年03月24日1980年代フン・セン外相,ハンガリー社会主義労働党第12回党大会に出席。
DIA-202-1980-03-24-2カンボジア1980年03月24日1980年代DK経済・財政省,プノンペン政権の通貨は無効なので使用しないよう警告。
DIA-202-1980-03-25-1カンボジア1980年03月25日1980年代中央銀行,政府職員に新通貨で給与を支払う。
DIA-202-1980-03-25-2カンボジア1980年03月25日1980年代ヘン・サムリン議長やペン・ソワン国防相,プノンペン市内の商店の開店式に出席。
DIA-202-1980-03-26-1カンボジア1980年03月26日1980年代ソ連のフィリュービン外務次官はプノンペンを訪問し,ヘン・サムリン議長と会談。
DIA-202-1980-03-30-1カンボジア1980年03月30日1980年代プノンペン放送,タイがクメール反動派を強制的に帰そうとしていると非難。
DIA-202-1980-04-01-1カンボジア1980年04月01日1980年代DKのキュー・サンパン議長,イラン・イスラム共和国1周年を記念して祝電。
DIA-202-1980-04-02-1カンボジア1980年04月02日1980年代P.Nedyak次官らのソ連海軍省代表団来訪。
DIA-202-1980-04-02-2カンボジア1980年04月02日1980年代ヘン・サムリン議長,ペン・ソワン国防相ら,トン・ドク・タン大統領の葬儀に出席のためハノイへ。
DIA-202-1980-04-02-3カンボジア1980年04月02日1980年代シアヌーク殿下は,臣下の多くが反対しないなら,PRKのカンボジアへ帰る用意があると語る。
DIA-202-1980-04-02-4カンボジア1980年04月02日1980年代人民評議会,道路や河川上のチェック・ポイントを廃止し,兵士や官吏が人や物資の通行を勝手に止めることを禁ずる政令を公布。
DIA-202-1980-04-07-1カンボジア1980年04月07日1980年代ビン教育相らのベトナム教育省代表団来訪。
DIA-202-1980-04-07-2カンボジア1980年04月07日1980年代シアヌーク殿下,金日成首席と会談。
DIA-202-1980-04-08-1カンボジア1980年04月08日1980年代保健省代表団(ヌ・ベン保健相)ラオスを訪問。
DIA-202-1980-04-09-1カンボジア1980年04月09日1980年代タイのシッティ外相,ソ連大使と会見して,平和と安定に対するタイの希望を理解するよう求めた。
DIA-202-1980-04-09-2カンボジア1980年04月09日1980年代タイの最高司令部情報局は,現在90万近いカンボジア人がタイ国境に集結し,うち16万がタイ領にあって当局の保護下にあると発表。
DIA-202-1980-04-10-1カンボジア1980年04月10日1980年代ソ連共産党中央委対外連絡委代表団来訪。
DIA-202-1980-04-10-2カンボジア1980年04月10日1980年代切手発行。
DIA-202-1980-04-11-1カンボジア1980年04月11日1980年代フン・セン外相,“新しい”シアヌークに警戒心を失わぬようにと演説。
DIA-202-1980-04-11-2カンボジア1980年04月11日1980年代人民評議会憲法草案を審議,採択。
DIA-202-1980-04-14-1カンボジア1980年04月14日1980年代タイのシッティ外相,国連代表がプノンペンを訪問することに反対を表明。
DIA-202-1980-04-17-1カンボジア1980年04月17日1980年代プノンペンで4月17日大勝利記念集会。
DIA-202-1980-04-17-2カンボジア1980年04月17日1980年代DK創立5周年記念にキュー・サンパン国家幹部会議長兼首相声明を発表。
DIA-202-1980-04-17-3カンボジア1980年04月17日1980年代KNUFNS代表団(Yos Por書記長)ハンガリーを訪問。
DIA-202-1980-04-18-1カンボジア1980年04月18日1980年代DK情報省,ベトナム軍による有毒物質使用を非難する声明を発表。
DIA-202-1980-04-21-1カンボジア1980年04月21日1980年代フン・セン外相,アフガニスタン訪問へ出発。
DIA-202-1980-04-22-1カンボジア1980年04月22日1980年代バンコク・ポスト紙,ヘン・サムリン政権を承認せず,ベトナム軍の撤退を求めたプレム首相の立場を支持。
DIA-202-1980-04-22-2カンボジア1980年04月22日1980年代180人からなるソ連人船員と技術者が第2陣としてコンポン・ソム港に到着。
DIA-202-1980-04-25-1カンボジア1980年04月25日1980年代ベトナム軍の脱走将校,カンボジアでの有毒ガスの使用を認める(香港AFP)。
DIA-202-1980-04-25-2カンボジア1980年04月25日1980年代KPNLFのソン・サン議長,西側記者と会見し,クメール・ルージュとの統一戦線は拒否すると言明。
DIA-202-1980-04-26-1カンボジア1980年04月26日1980年代プノンペン放送,政治解決の努力は無駄であるとプレム首相のASEAN各国訪問を論評。
DIA-202-1980-05-01-1カンボジア1980年05月01日1980年代国連社会経済理事会,カンボジア援助のための国際会議を今月中に開くことを決定。
DIA-202-1980-05-05-1カンボジア1980年05月05日1980年代PRK外務省,国連経済社会理事会で採択されたASEANの国際会議招集決議は無効であると拒否。
DIA-202-1980-05-06-1カンボジア1980年05月06日1980年代国際赤十字,ベトナム軍の化学兵器使用に根拠なしと発表。
DIA-202-1980-05-08-1カンボジア1980年05月08日1980年代DKのキュー・サンパン議長,チトー大統領の葬儀に出席,9日華国鋒中国首相と会談。
DIA-202-1980-05-09-1カンボジア1980年05月09日1980年代DKのキュー・サンパン首相は放送でDK支配下に130万人,PRK支配下に100万人,残りの人口は競合地区に住んでいると述べた。
DIA-202-1980-05-14-1カンボジア1980年05月14日1980年代PRKのメン・チャン農業相によれば,かつて240万haであった米の耕作面積はポル・ポト時代の77年には132.3万haで,100万ha余が放置された。79年は米80.5万ha,とうもろこし7万haが耕作された。80年には米150万ha,とうもろこし13万haを計画している。
DIA-202-1980-05-14-2カンボジア1980年05月14日1980年代シアヌーク殿下,民族主義連合の議長を辞任。
DIA-202-1980-05-15-1カンボジア1980年05月15日1980年代PRKの人民革命評議会,全州・都市に人民革命裁判所を設立する法令を発布。
DIA-202-1980-05-16-1カンボジア1980年05月16日1980年代PRKの援助受入れ・分配委会議の報告ではベトナムの79年の援助約5600万ドル(うち米14万トン),80年は約6200万ドル,ソ連は80年に1億3400万ドル(うち食糧16万4000トン)を供与の予定。
DIA-202-1980-05-16-2カンボジア1980年05月16日1980年代マレーシア訪問中のインドのゴンザルベス外務審議官はベトナム軍が今撤退すれば,カンボジアは無政府状態に陥る,プノンペン政権は爪弾きされればされるほどベトナムに頼るようになると語った。
DIA-202-1980-05-19-1カンボジア1980年05月19日1980年代プノンペンでホー主席生誕90周年大集会。
DIA-202-1980-05-19-2カンボジア1980年05月19日1980年代タイ軍当局,国境沿いのカンボジア難民にカンボジア領内に戻るよう説得。
DIA-202-1980-05-20-1カンボジア1980年05月20日1980年代世界平和評議会プノンペンでカンプチア人民との連帯国際会議。
DIA-202-1980-05-21-1カンボジア1980年05月21日1980年代70万のイスラムのうち50万が過去5年間に殺されたとカンボジア難民がイスラム会議で報告。
DIA-202-1980-05-23-1カンボジア1980年05月23日1980年代コロンボでバンドン会議25周年記念の国際会議は,中国の対ベトナム戦争を非難し,ベトナム,ラオス,カンボジア3国人民の闘争を支持した。
DIA-202-1980-05-25-1カンボジア1980年05月25日1980年代DK外務省,人道援助国際会議を計画。
DIA-202-1980-05-26-1カンボジア1980年05月26日1980年代ハンガリー軍事代表団(党中央委員,国防相兼人民軍総参謀長イシュトバーン・オラ上将)来訪。
DIA-202-1980-05-26-2カンボジア1980年05月26日1980年代ジュネーブでカンボジア援助国際会議。21ヵ国が1億1624万ドルの資金拠出を約束。
DIA-202-1980-05-26-3カンボジア1980年05月26日1980年代ベトナムの祖国戦線代表団(団長Hoang Quoc Viet祖国戦線幹部会議長)来訪。
DIA-202-1980-06-02-1カンボジア1980年06月02日1980年代DK政府閣僚会議,80年雨期初めの情勢検討。
DIA-202-1980-06-02-2カンボジア1980年06月02日1980年代ベトナム中央銀行のTran Duong総裁来訪。
DIA-202-1980-06-05-1カンボジア1980年06月05日1980年代ベトナムと為替交換と決済に関する議定書。
DIA-202-1980-06-06-1カンボジア1980年06月06日1980年代PRK外務省はタイ王国政府と国境地帯の緊張した状態を終らせるために話し合う用意があると声明。
DIA-202-1980-06-07-1カンボジア1980年06月07日1980年代DK首相府声明①国連決議に沿ってベトナム軍が全面撤退する。②撤退後国連監視下で総選挙をして政府を選ぶ。③ベトナムと平和共存するの3点を提案。
DIA-202-1980-06-07-2カンボジア1980年06月07日1980年代プノンペンの人民革命法廷17人のセリカ・グループに3年から20年の禁固刑を宣告。
DIA-202-1980-06-07-3カンボジア1980年06月07日1980年代タイ政府,PRKの呼びかけを拒否。
DIA-202-1980-06-07-4カンボジア1980年06月07日1980年代訪米の帰途来日中の耿中国副首相,カンボジアの政治解決に反対しないと語る。
DIA-202-1980-06-08-1カンボジア1980年06月08日1980年代タイのSa Keoのキャンプでカンボジア難民約1万人がベトナムのカンボジア占領に抗議集会。
DIA-202-1980-06-10-1カンボジア1980年06月10日1980年代DK政府,中央銀行の設立を決定。
DIA-202-1980-06-11-1カンボジア1980年06月11日1980年代駐タイ米国大使,米はASEAN提案の決議に基づく政治解決を支持すると言明。
DIA-202-1980-06-11-2カンボジア1980年06月11日1980年代シアヌーク殿下,政治活動を断念すると書明。
DIA-202-1980-06-12-1カンボジア1980年06月12日1980年代タイ訪問中のシンガポールのラジャラトナム副首相はプレム首相と会談,両国はシアヌーク殿下の訪問を歓迎することで合意。
DIA-202-1980-06-12-2カンボジア1980年06月12日1980年代DKゲリラ列車を襲撃,200人が死亡。
DIA-202-1980-06-12-3カンボジア1980年06月12日1980年代タイのプレム首相,カンボジア難民送還を許可。
DIA-202-1980-06-13-1カンボジア1980年06月13日1980年代PRK外務省,タイの難民送還に抗議。
DIA-202-1980-06-15-1カンボジア1980年06月15日1980年代カンプチア赤十字社,難民の送還についてタイ赤十字社との会談を呼びかけ。
DIA-202-1980-06-16-1カンボジア1980年06月16日1980年代スウェーデンPRKに情報事務所設置を許可。
DIA-202-1980-06-18-1カンボジア1980年06月18日1980年代DK政府代表,国境で帰国難民を歓迎。
DIA-202-1980-06-18-2カンボジア1980年06月18日1980年代フン・セン外相,アフリカ諸国歴訪へ出発。
DIA-202-1980-06-18-3カンボジア1980年06月18日1980年代クメール・セレイの指導者Van Saren死亡。
DIA-202-1980-06-18-4カンボジア1980年06月18日1980年代ロス・サマイの秘書タイに避難。
DIA-202-1980-06-19-1カンボジア1980年06月19日1980年代カンプチア革命軍創立記念日(1951年6月19日)
DIA-202-1980-06-20-1カンボジア1980年06月20日1980年代タイ軍事筋によればソ連はPRKに食糧援助の削減を通告。
DIA-202-1980-06-23-1カンボジア1980年06月23日1980年代カンボジア駐留のベトナム軍,タイ領に侵入。
DIA-202-1980-06-26-1カンボジア1980年06月26日1980年代ベトナムのタク外相,ベトナム軍はタイからのカンボジア人の武装帰還を阻止するだろうと語った。
DIA-202-1980-06-26-2カンボジア1980年06月26日1980年代クアラ・ルンプールのASEAN外相会議,カンボジア国際会議の開催を求め,DK支持を再確認。
DIA-202-1980-06-30-1カンボジア1980年06月30日1980年代KPNLFのソン・サン議長フランス・テレビに人道援助の50%はベトナムへ輸送され,25%はカンボジア駐留のベトナム軍へ,15%はヘン・サムリン政権の官吏に,10%のみがカンボジア人に渡っていると語った。
DIA-202-1980-07-01-1カンボジア1980年07月01日1980年代タイ軍部は,ベトナム軍とプノンペン軍はタイ・カンボジア国境全域を封鎖したと発表。
DIA-202-1980-07-02-1カンボジア1980年07月02日1980年代フン・セン外相,イエメン人民共和国(南)を公式訪問。
DIA-202-1980-07-03-1カンボジア1980年07月03日1980年代シアヌーク殿下の暫定連合政府提案をソン・サン議長拒否。
DIA-202-1980-07-05-1カンボジア1980年07月05日1980年代KPNLFのソン・サン議長は仏在住カンボジア人大会で「もし国連がヘン・サムリン政権を承認するようなことになればカンプチア国内に反共臨時政府を樹立するかもしれない」と述べた。
DIA-202-1980-07-06-1カンボジア1980年07月06日1980年代DKゲリラ,ポーサット州で列車襲撃。
DIA-202-1980-07-07-1カンボジア1980年07月07日1980年代インド政府,PRK政府を承認。
DIA-202-1980-07-08-1カンボジア1980年07月08日1980年代訪日中のイエン・サリ外相,大平首相の葬儀に出席。
DIA-202-1980-07-10-1カンボジア1980年07月10日1980年代DKのイエン・サリ外相,北京訪問し,黄華外相,李先念副首相と会談。
DIA-202-1980-07-11-1カンボジア1980年07月11日1980年代DKゲリラ,タイ国境近くで反共ゲリラ・グループと衝突,この衝突で双方20人が死亡。
DIA-202-1980-07-12-1カンボジア1980年07月12日1980年代訪ソ中のペン・ソワン国防相,ウスチノフ・ソ連国防相と会談。
DIA-202-1980-07-12-2カンボジア1980年07月12日1980年代キュー・サンパン首相,西側記者にポル・ポトが共産党中央委書記を解任される可能性を示唆。
DIA-202-1980-07-14-1カンボジア1980年07月14日1980年代クメール・セレイのミット・ドン派,DKとの共闘を決定。
DIA-202-1980-07-17-1カンボジア1980年07月17日1980年代ラオスでインドシナ3国外相会議。ケオ・チャンダ情報相出席,4項目提案。
DIA-202-1980-07-17-2カンボジア1980年07月17日1980年代国際援助機関当局はタイ・カンボジア国境のゲリラ支配地域への人道援助はストップすると言明。
DIA-202-1980-07-17-3カンボジア1980年07月17日1980年代ペン・ソワン国防相,チーホノフ・ソ連第一副首相と会談。
DIA-202-1980-07-18-1カンボジア1980年07月18日1980年代フン・セン外相,ニカラグアを訪問。
DIA-202-1980-07-20-1カンボジア1980年07月20日1980年代フン・セン外相,キューバ訪問。
DIA-202-1980-07-20-2カンボジア1980年07月20日1980年代DKのソン・セン国防相,北京で中国首脳と会談。
DIA-202-1980-07-24-1カンボジア1980年07月24日1980年代KPNLFはクメール・ルージュとの妥協はありえないと言明した。
DIA-202-1980-07-24-2カンボジア1980年07月24日1980年代ペン・ソワン国防相,訪ソ中のレ・ズアン・ベトナム共産党書記長と会談。
DIA-202-1980-07-25-1カンボジア1980年07月25日1980年代DKゲリラ,アンコール・トムに潜入。
DIA-202-1980-07-25-2カンボジア1980年07月25日1980年代フン・セン外相,アンゴラ,ルアンダ,コンゴを訪問。
DIA-202-1980-07-27-1カンボジア1980年07月27日1980年代新リエルの“暫定的非公式レート”1リエル=3ドン。1ドル=4リエル。
DIA-202-1980-07-29-1カンボジア1980年07月29日1980年代国際援助機関はカンプチアに約6万トンの種籾を送ったが,しかしなお12~13万トンが植付けに必要。
DIA-202-1980-08-01-1カンボジア1980年08月01日1980年代PRK外務省,タイ軍が月平均約500トンの中国製兵器をポル・ポト軍に引き渡していると非難。
DIA-202-1980-08-02-1カンボジア1980年08月02日1980年代UNICEF事務局長,これからの3ヵ月間にカンボジアは12万トンの救援食糧が必要と語った。
DIA-202-1980-08-04-1カンボジア1980年08月04日1980年代ワルトハイム国連事務総長バンコク訪問。
DIA-202-1980-08-05-1カンボジア1980年08月05日1980年代PRK放送,ASEAN共同声明は建設的でなく,タイ・カンプチア関係の緊張緩和に役立ずと論評。
DIA-202-1980-08-06-1カンボジア1980年08月06日1980年代キュー・サンパン首相解放区で読売新聞記者と会見,大民族統一愛国民主戦線の基礎が村々で形成されつつある。ベトナム南部の山岳民族によるFULRO,ラオスの「ラオス解放民族戦線」と情報交換,軍事協力を行なっていると語った。
DIA-202-1980-08-07-1カンボジア1980年08月07日1980年代タイ軍部によれば8千人の強力なベトナム軍師団がタイ国境へ移動した。
DIA-202-1980-08-10-1カンボジア1980年08月10日1980年代DK情報省,ベトナム軍の毒ガス使用を非難。
DIA-202-1980-08-11-1カンボジア1980年08月11日1980年代PRK農業省代表団(団長メン・チャン農相)ベトナム訪問。
DIA-202-1980-08-12-1カンボジア1980年08月12日1980年代ベトナム軍のMig21カンボジア北西へ移動。
DIA-202-1980-08-14-1カンボジア1980年08月14日1980年代7月末までの米の植付け面積は50万haで80年計画の40%,とうもろこしの植付け面積は8万ha。
DIA-202-1980-08-14-2カンボジア1980年08月14日1980年代日本・カンプチア貿易会代表団(岩井古四郎団長)カンプチア輸出入公社と経済交流,貿易の発展に関する覚書を交換。
DIA-202-1980-08-15-1カンボジア1980年08月15日1980年代日本の「カンボジア救援センター」代表団(水野清衆院議員,田英夫,秦豊参院議員),DK政府支配地区でキュー・サンパン首相と会談。
DIA-202-1980-08-16-1カンボジア1980年08月16日1980年代シアヌーク派のゲリラ指導者Kong Sileah死亡。
DIA-202-1980-08-16-2カンボジア1980年08月16日1980年代PRK憲法草案完成委員会設置。
DIA-202-1980-08-18-1カンボジア1980年08月18日1980年代ベトナム,PRKへの無償援助供与協定。
DIA-202-1980-08-21-1カンボジア1980年08月21日1980年代シアヌーク殿下北京で声明を発表「ベトナム植民地主義」を非難し,「国連がいわゆる“カンプチア人民共和国”の国連総会参加を完全かつ徹底的に拒否」するよう要請した。
DIA-202-1980-08-22-1カンボジア1980年08月22日1980年代ソ連民間航空省のイルチュク次官来訪。
DIA-202-1980-08-25-1カンボジア1980年08月25日1980年代フン・セン外相は記者会見でタイのカンプチアとの交渉拒否の態度を批判,タイの中立は欺まんであると非難した。
DIA-202-1980-08-27-1カンボジア1980年08月27日1980年代ソン・サン議長,ヨーロッパに対し,「カンボジア人民が自らを解放するための必要な手段を供与するよう」要請した。
DIA-202-1980-08-28-1カンボジア1980年08月28日1980年代ASEAN事務レベル常任委,「ASEANはカンボジア代表権問題では民主カンボジア政権支持を継続する」と声明。
DIA-202-1980-09-01-1カンボジア1980年09月01日1980年代KPNLFのソン・サン議長,日本訪問。
DIA-202-1980-09-01-2カンボジア1980年09月01日1980年代国連難民高等弁務官は31万の帰国者を定住するための1400万ドルの援助計画を発表。
DIA-202-1980-09-03-1カンボジア1980年09月03日1980年代日本外務省,民主カンボジアの代表権維持のため,40数ヵ国政府に働きかけ。
DIA-202-1980-09-04-1カンボジア1980年09月04日1980年代コンポンソム港石油貯蔵施設再建。
DIA-202-1980-09-08-1カンボジア1980年09月08日1980年代9月初頭現在の米の植付け面積83万1000ha,現農作期計画の70%。
DIA-202-1980-09-08-2カンボジア1980年09月08日1980年代プノンペン師範大学80~81学年(209人)開始。
DIA-202-1980-09-08-3カンボジア1980年09月08日1980年代シアヌーク殿下,ガーディアン紙で民意を代表するカンボジア政府が選出されるまでの間国連の議席を空席にしておくことを支持すると語る。
DIA-202-1980-09-09-1カンボジア1980年09月09日1980年代PRK通信,「シハヌークは今日ではいずれの社会層も代表せず,北京とワシントンの共謀の産物と化している。ソン・サンは山師で政治日和見主義者であり,今日では北京および帝国主義を援助してカンプチア革命を弱体化しようとしている。キュー・サンパンは知識人であるが,北京と帝国主義に魂を売った」と論評。
DIA-202-1980-09-10-1カンボジア1980年09月10日1980年代PRK外務省,タイ当局による約300人のカンプチア難民の強制送還を糾弾し,この問題の公正な解決を見出すために両国の形式を問わない会談を呼びかく。
DIA-202-1980-09-13-1カンボジア1980年09月13日1980年代PRK人民革命評議会,81年初のカンプチア全国で総選挙を実施することを決定。
DIA-202-1980-09-14-1カンボジア1980年09月14日1980年代バンコク情報タイ国境にソ連軍事顧問が活動中と報道。
DIA-202-1980-09-15-1カンボジア1980年09月15日1980年代パレスチナ解放人民戦線代表団来訪。
DIA-202-1980-09-18-1カンボジア1980年09月18日1980年代国連信任状委員会,DKを承認。
DIA-202-1980-09-20-1カンボジア1980年09月20日1980年代メコンの水位平均10mで,冠水地域拡大。
DIA-202-1980-09-20-2カンボジア1980年09月20日1980年代コンポントム州当局国道6号の修復工事開始。
DIA-202-1980-09-20-3カンボジア1980年09月20日1980年代ASEAN5ヵ国外相,全国連加盟国に対して民主カンボジアの国連議席維持を支持するようアピール。
DIA-202-1980-09-23-1カンボジア1980年09月23日1980年代PRK当局の警告にもかかわらずタイ国境に食糧援助を受けとりに来るカンボジア人増加。
DIA-202-1980-09-23-2カンボジア1980年09月23日1980年代KPNLFのDien Del将軍,DKとの統一戦線を拒否。
DIA-202-1980-09-25-1カンボジア1980年09月25日1980年代PRK外務省,国連でカンボジアに関するいかなる決議が採択されようとも「不法かつ無効」とみなすと声明。
DIA-202-1980-09-25-2カンボジア1980年09月25日1980年代洪水でカンダル州の米の収穫被害。
DIA-202-1980-09-28-1カンボジア1980年09月28日1980年代キュー・サンパン首相は中国記者団に自由クメール勢力は民主カンボジア政府と内部争いをしないことを保証した。その武装要員の多くが民主カンボジア軍に加わり,ベトナムに対してともに戦っていると言明。
DIA-202-1980-09-29-1カンボジア1980年09月29日1980年代チェコのクルサク文化相来訪。
DIA-202-1980-10-01-1カンボジア1980年10月01日1980年代全国の米植付け面積120万haに達した。
DIA-202-1980-10-02-1カンボジア1980年10月02日1980年代DK政府,法律制定準備委員会設立を決定。
DIA-202-1980-10-02-2カンボジア1980年10月02日1980年代社会主義諸国に留学する学生歓送会,80年の留学生164人,うちソ連86人,東独45人。
DIA-202-1980-10-03-1カンボジア1980年10月03日1980年代ハノイは放送を通じてタイ・カンボジア国境の両側に非武装地帯の設置と引換えにベトナム軍の一部をカンボジアから撤退させることを提案した。
DIA-202-1980-10-08-1カンボジア1980年10月08日1980年代10,20,50各リエル紙幣発行。
DIA-202-1980-10-10-1カンボジア1980年10月10日1980年代インド共産党代表団来訪。
DIA-202-1980-10-11-1カンボジア1980年10月11日1980年代PRKアンコール遺跡管理保存評議会設立。
DIA-202-1980-10-13-1カンボジア1980年10月13日1980年代コン・コルン新駐ベトナム大使信任状提出。
DIA-202-1980-10-13-2カンボジア1980年10月13日1980年代国連総会,ベトナムなど17ヵ国の民主カンボジアの追放をねらった修正案を賛成35,反対74(棄権32)で否決。
DIA-202-1980-10-14-1カンボジア1980年10月14日1980年代PRK外務省「第35回国連総会で最近採択された不正かつ理不尽な決定を断固拒絶する」と声明。
DIA-202-1980-10-14-2カンボジア1980年10月14日1980年代オーストラリア,DK政府の承認を取消す。
DIA-202-1980-10-17-1カンボジア1980年10月17日1980年代KPNLFのソン・サン議長,パリで間もなくカンボジア亡命政府を樹立する積りであると語る。
DIA-202-1980-10-18-1カンボジア1980年10月18日1980年代シアヌーク殿下,北京でジスカール仏大統領と会談。
DIA-202-1980-10-18-2カンボジア1980年10月18日1980年代DK首相府,今乾期にベトナム軍7万人を活動不可能にしようと声明。
DIA-202-1980-10-19-1カンボジア1980年10月19日1980年代シアヌーク殿下,趙中国首相と会談。
DIA-202-1980-10-21-1カンボジア1980年10月21日1980年代DK政府は過去6ヵ月の雨期にDK戦士はベトナム軍4万以上を戦闘不能にしたと発表。
DIA-202-1980-10-21-2カンボジア1980年10月21日1980年代タイのシティ外相,クアラルンプールで,カンボジアの政治解決にはシアヌーク殿下が重要な役割を果しうると述べた。
DIA-202-1980-10-22-1カンボジア1980年10月22日1980年代第35回国連総会,ASEANなど提出のカンボジア問題討議のための国際会議開催決議案を賛成97,反対23,棄権22で採択。決議案要旨①81年初めに全当事者が参加した国際会議を開催する,国連事務総長に会議招集の準備を行うよう要請する。②救援物資がカンボジア民間人にだけ渡るようにするためタイ国境に国連オブザーバーを派遣する。③カンボジア西部国境に国連監視下の安全地帯を設置する。
DIA-202-1980-10-23-1カンボジア1980年10月23日1980年代PRK外務省,国連におけるカンボジア情勢決議に抗議。
DIA-202-1980-10-27-1カンボジア1980年10月27日1980年代シアヌーク殿下,カンボジア国際会議を呼びかけた最近の国連決議にも反対である。国連のカンボジア代表権においてクメール・ルージュ維持に賛成票を投じた諸国の代表とは何事もともにしたくない,私の政治からの引退は決定的であり,不変である,と語る。
DIA-202-1980-11-01-1カンボジア1980年11月01日1980年代ソ連のKaravayev建設相来訪。
DIA-202-1980-11-02-1カンボジア1980年11月02日1980年代DKゲリラ,カンポット西方トラペアン・ブルク駅周辺でベトナム軍を襲撃。
DIA-202-1980-11-04-1カンボジア1980年11月04日1980年代訪ソ中のケオ・チャンダ情報・文化相・デミチエフ・ソ連文化相と会見。
DIA-202-1980-11-04-2カンボジア1980年11月04日1980年代DK,FULRO,ラオスのLPNLUFの代表,3国国境で会談し,反越共同戦線の樹立を決議。
DIA-202-1980-11-06-1カンボジア1980年11月06日1980年代PRKの文化代表団(チア・タン公衆衛生次官)文化技術協力局の招きで訪仏。
DIA-202-1980-11-07-1カンボジア1980年11月07日1980年代プノンペンでソ連社会主義革命63周年式典。
DIA-202-1980-11-09-1カンボジア1980年11月09日1980年代VODKはヘン・サムリン議長,チア・シム内相らとベトナム一辺倒の実力者ペン・ソワン国防相との間に権力闘争が起きていると放送。
DIA-202-1980-11-13-1カンボジア1980年11月13日1980年代ジャクソン国連カンボジア問題特別調整官はカンプチアの人口を600万人と推定。ヘン・サムリン政権下の各州当局があげた数字の積算は570万,ベトナムおよびヘン・サムリン政権の推定は640万であった。
DIA-202-1980-11-13-2カンボジア1980年11月13日1980年代80年8月15日現在ソ連は7330万ドル相当の援助を供与。
DIA-202-1980-11-14-1カンボジア1980年11月14日1980年代訪中したシンガポールの季首相は「私が会った中国3首脳はいずれも,中国はポル・ポト政権の復活を通じてカンボジアへの影響力を再構築しようとは考えていないと繰り返した」と語った。
DIA-202-1980-11-15-1カンボジア1980年11月15日1980年代中国の李先念党副主席は日本テレビ社長との会見でDKのポル・ポト前首相について「大きな誤ちを犯したが,すでに自己批判し,新しい政策を打ち出した。誤ちを認めた以上,これには寛大に対処しなければならない」と述べた。
DIA-202-1980-11-15-2カンボジア1980年11月15日1980年代公衆衛生省,マラリア根絶委員会設立。
DIA-202-1980-11-17-1カンボジア1980年11月17日1980年代ヘン・サムリン議長,フン・セン外相らチェコを公式訪問。
DIA-202-1980-11-20-1カンボジア1980年11月20日1980年代レーガン政権の顧問Ray Cline,DK地区訪問。
DIA-202-1980-11-20-2カンボジア1980年11月20日1980年代イエン・サリ外相,ジャカルタでのコロンボ・プラン定例総会へ出席。
DIA-202-1980-11-21-1カンボジア1980年11月21日1980年代ヘン・サムリン議長,フン・セン外相らブルガリアを公式訪問。
DIA-202-1980-11-25-1カンボジア1980年11月25日1980年代ヘン・サムリン議長らハンガリーを公式訪問。
DIA-202-1980-11-26-1カンボジア1980年11月26日1980年代プノンペン人民法廷はネアク・チアトニュム(Neak Cheat Niyum=民族主義者)と称する反革命分子14人に対し死刑および2~20年の禁固刑を宣告。
DIA-202-1980-11-28-1カンボジア1980年11月28日1980年代シアヌーク派のMoulinaka(カンプチア民族解放運動),DK軍と共同でベトナム軍を攻撃。
DIA-202-1980-11-30-1カンボジア1980年11月30日1980年代Peou You Leng KNUFNS副議長死去。
DIA-202-1980-11-30-2カンボジア1980年11月30日1980年代DKゲリラ,コンポン・ソム地区で線路切断。
DIA-202-1980-12-02-1カンボジア1980年12月02日1980年代東独のHans Joachim Hensinger法相来訪。
DIA-202-1980-12-02-2カンボジア1980年12月02日1980年代プノンペンでKNUFNS創立2周年記念。チァ・シム内相が演説。
DIA-202-1980-12-12-1カンボジア1980年12月12日1980年代プノンペン放送,カンボジアに関する国際会議の前にASEAN諸国のいわゆる参加国を制限した国際会議を開こうとの提案は時間の浪費であると攻撃。
DIA-202-1980-12-12-2カンボジア1980年12月12日1980年代ソ連海軍代表団,コンポン・ソム港訪問。
DIA-202-1980-12-13-1カンボジア1980年12月13日1980年代DK対外友好代表団(Nin Borin)日本を訪問。
DIA-202-1980-12-13-2カンボジア1980年12月13日1980年代国連総会は事務総長にカンボジアとアフガンでの化学兵器使用の有無を調査させる提案を採択。
DIA-202-1980-12-14-1カンボジア1980年12月14日1980年代VODK,DKゲリラはコンポン・ソム付近で線路を切断。
DIA-202-1980-12-14-2カンボジア1980年12月14日1980年代14の国営漁業グループ(メンバー1500人)と7000の団結組が設立された。集団化に加盟している漁民は両者で3万人。
DIA-202-1980-12-15-1カンボジア1980年12月15日1980年代ソ連外務省代表団来訪。
DIA-202-1980-12-15-2カンボジア1980年12月15日1980年代プノンペンにロシア語学校開設。
DIA-202-1980-12-17-1カンボジア1980年12月17日1980年代VODK,DKゲリラKompong Seilaでベトナム軍輸送隊を待伏せ攻撃。
DIA-202-1980-12-18-1カンボジア1980年12月18日1980年代KPR国防省,ベトナム人民軍創立36周年記念に関する指示を発令。
DIA-202-1980-12-18-2カンボジア1980年12月18日1980年代シアヌーク殿下,FFER誌への手紙で,中国と国連がクメール・ルージュ支持を止めたら,反ベトナム闘争の先頭に立つであろうと述べた。
DIA-202-1980-12-19-1カンボジア1980年12月19日1980年代ペン・ソワン国防相らキューバ共産党第2回党大会へ出席。
DIA-202-1980-12-21-1カンボジア1980年12月21日1980年代バタンバン州Koas Kralarに県で鉄道切断。
DIA-202-1980-12-22-1カンボジア1980年12月22日1980年代タイ政府,赤十字によるプノンペンへの航空輸送は薬品だけに限ることを通達。
DIA-202-1980-12-22-2カンボジア1980年12月22日1980年代VODK,DKの人民代表議会のNuom Chea常任委議長は地方視察。
DIA-202-1980-12-22-3カンボジア1980年12月22日1980年代ベトナム人民軍機関紙クアン・ドイ・ニャン・ザンにペン・ソワン国防相論文「カンプチアとベトナムの人民と軍隊の間の親密な固結と同盟はいつまでも美しく,永続し,かつ純粋である」。
DIA-202-1980-12-23-1カンボジア1980年12月23日1980年代中国の章文晋外務次宮はベトナム軍の撤退なしでも中国はカンボジア国際会議に参加すると言明。
DIA-202-1980-12-23-2カンボジア1980年12月23日1980年代Mak Mun村近くでベトナム軍とクメール・セレイ軍交戦。
DIA-202-1980-12-27-1カンボジア1980年12月27日1980年代KPNLFのソン・サン議長北京に(北京発AFP)
DIA-202-1980-12-29-1カンボジア1980年12月29日1980年代1980年の植付け面積150万haに達す。年初米9万2000ha,副作物5万2000ha,主作付期に米120万ha,副作物11万7450ha。10~15戸からなる団結組約10万が成立。
DIA-202-1981-01-02-1カンボジア1981年01月02日1980年代ベトナム共産党中央委宣伝・訓練部代表団(団長Hoang Tung)プノンペン着。
DIA-202-1981-01-02-2カンボジア1981年01月02日1980年代バタンバン州人民革命委員会,セリカ・グループ400人の投降を歓迎する集会を開く。
DIA-202-1981-01-04-1カンボジア1981年01月04日1980年代「民主カンボジアの声放送(以下VODKと略)によれば民主カンボジア(ポル・ポト派を指し,以下DKと略)のゲリラ,プルサト州アク地区でベトナム軍輸送隊を攻撃,25人を殺傷した。
DIA-202-1981-01-04-2カンボジア1981年01月04日1980年代VODK・民主カンボジアに関するASEANの立場を支持するとの鈴木首相の発言を歓迎。
DIA-202-1981-01-05-1カンボジア1981年01月05日1980年代カンプチア人民共和国(以下PRKと略)フン・セン外相,ペン・ソワン国防相,来力中の米下院のアジア太平洋委議長 Stephen Solarz 議員と会談。
DIA-202-1981-01-07-1カンボジア1981年01月07日1980年代DK閣僚会議は1980年の成果を検討。
DIA-202-1981-01-10-1カンボジア1981年01月10日1980年代ソ連文化代表団(コンドラチェフ文化省対外関係局長)来訪。
DIA-202-1981-01-12-1カンボジア1981年01月12日1980年代農業省,炭疽熱病の流行について警告。
DIA-202-1981-01-14-1カンボジア1981年01月14日1980年代KPNLF(クメール人民民族解放戦線)のソン・サン議長は国連総会前に彼の政府を樹立するつもりであると語った。
DIA-202-1981-01-16-1カンボジア1981年01月16日1980年代シアヌークの第2王子ナリンドラポン殿下,DK抵抗勢力に参加。
DIA-202-1981-01-16-2カンボジア1981年01月16日1980年代ヘン・サムリン議長,来訪中の日共代表団(宮本太郎中央委員)と会見。
DIA-202-1981-01-18-1カンボジア1981年01月18日1980年代人民革命評議会は郡や区の人民革命委員会の選挙についての政令を公布。選挙権18歳以上,被選挙権21歳以上。
DIA-202-1981-01-18-2カンボジア1981年01月18日1980年代DKゲリラ,プノンペンでベトナム軍を襲撃,3日間のテロで17人が死傷。
DIA-202-1981-01-18-3カンボジア1981年01月18日1980年代DK情報省はコミュニケでベトナム軍による有毒化学物質の使用を非難。
DIA-202-1981-01-20-1カンボジア1981年01月20日1980年代クメール・セレイ・の指導者はKPNLFとの統一政府を樹立し,DKと国連の議席を争うと語った。
DIA-202-1981-01-26-1カンボジア1981年01月26日1980年代東独経済代表団(Hans Braun 計画委局長)来訪
DIA-202-1981-01-26-2カンボジア1981年01月26日1980年代ブルガリアの貿易代表団(Todorov 次官)来訪。
DIA-202-1981-01-28-1カンボジア1981年01月28日1980年代インドシナ三国外相会議,ASEAN諸国との「東南アジア地域会議」の3月31日開催を提唱。
DIA-202-1981-01-30-1カンボジア1981年01月30日1980年代VODKによればロス・サマイは経済・計画相を解任され獄中,チア・シム・カンプチア救国民族統一戦線(以下KNUFNSと略)中央委員も降格。
DIA-202-1981-01-30-2カンボジア1981年01月30日1980年代ハンガリー経済代表団(Laszlo Sgigethy 国際経済委議長)来訪。
DIA-202-1981-02-04-1カンボジア1981年02月04日1980年代プノンペンで東独の1981年度分無償援助(1500万マルク)協定調印。
DIA-202-1981-02-04-2カンボジア1981年02月04日1980年代フン・セン外相,非同盟外相会議議長への書簡で,カンプチア人民革命評議会のみが非同盟運動のメンバーとして行動できると言明。
DIA-202-1981-02-05-1カンボジア1981年02月05日1980年代PRK情報省に文盲追放部を設置。
DIA-202-1981-02-05-2カンボジア1981年02月05日1980年代キュー・サンパン首相,解放区で西側記者と会見し,ソン・サン氏に反越統一戦線の指導権を譲ることを申し出たことを明らかにした。
DIA-202-1981-02-07-1カンボジア1981年02月07日1980年代Robert Jackson 国連事務総長特使,ペン・ソワン国防相と会見。
DIA-202-1981-02-08-1カンボジア1981年02月08日1980年代シアヌーク殿下,カンボジアの新統一戦線の指導者となる意向を表明。引受けの条件として従来の①勝利の後,全武装勢力の武装解除,②国際的に保障された中立,③国際監視委員会と国際平和維持軍の設置に加えて,中国の援助をあげた。
DIA-202-1981-02-08-2カンボジア1981年02月08日1980年代DK軍,プレア・ビハール省,バク・アンルンでベトナム軍を攻撃,15人を殺し,25人を負傷させた。
DIA-202-1981-02-10-1カンボジア1981年02月10日1980年代PRKの駐印大使Dith Mounty,非同盟外相会議開会式に出席。
DIA-202-1981-02-11-1カンボジア1981年02月11日1980年代パリのクメール国民連合臨時行動委員会はシアヌーク殿下を頭とする統一戦線を支持すると表明。
DIA-202-1981-02-13-1カンボジア1981年02月13日1980年代オーストラリア労働党のKenneth Honelfry 上院議員プノンペン来訪。
DIA-202-1981-02-13-2カンボジア1981年02月13日1980年代プノンペンでソ連との経済援助協定(ソ連専門家の派遣と農業機械供与)に調印。
DIA-202-1981-02-14-1カンボジア1981年02月14日1980年代オーストラリア,民主カンボジアに対する承認を取消す。
DIA-202-1981-02-14-2カンボジア1981年02月14日1980年代VODK,非同盟会議の結果を歓迎。
DIA-202-1981-02-16-1カンボジア1981年02月16日1980年代プノンペン放送,シアヌークはカンプチアの国家と人民の裏切り者であると論評。
DIA-202-1981-02-17-1カンボジア1981年02月17日1980年代ペン・ソワン国防相,ソ連共産党26回大会出席のためモスクワへ。
DIA-202-1981-02-19-1カンボジア1981年02月19日1980年代ハンガリア経済代表団(Janos Berbandi 副首相)来訪。
DIA-202-1981-02-22-1カンボジア1981年02月22日1980年代パリの海外クメール人総会はクメール・ルージュとの話合いにはいることを非難。
DIA-202-1981-02-24-1カンボジア1981年02月24日1980年代VODK,1月プノンペンのDKデリラはベトナム軍53人(ソ連人顧問3人,ベトナム軍師団長1人を含む)を戦闘不能にした。
DIA-202-1981-02-27-1カンボジア1981年02月27日1980年代楠正俊自民掌議員,タイ国境に近い解放区で,KPNLFのソン・サン議長と会見。
DIA-202-1981-03-01-1カンボジア1981年03月01日1980年代プノンペンでソ連・ベトナム・カンプチア3国の経済協力協定調印。ソ連のオサデュク対外経済連絡委副議長,ベトナムのゴ・ディエン大使が出席。
DIA-202-1981-03-03-1カンボジア1981年03月03日1980年代イン・タムとニエク・チュウロン,シアヌーク殿下と会談のため平壌に到着。
DIA-202-1981-03-03-2カンボジア1981年03月03日1980年代タイ軍部,DKゲリラの攻撃で国道6号のKompong Thom~Sisohon 間は不通になっていると発表。
DIA-202-1981-03-06-1カンボジア1981年03月06日1980年代KPNLFのソン・サン議長,シアヌーク殿下に統一戦線結成の提案を送付するよう要請。
DIA-202-1981-03-09-1カンボジア1981年03月09日1980年代VODKによれば,カンポト省,アンコール・チェイ地区,チュラク・シエム村でDK軍はベトナム軍を輸送中の列車を襲撃,75人を死亡させた。
DIA-202-1981-03-10-1カンボジア1981年03月10日1980年代シアヌーク殿下とDKのキュー・サンパン首相,平壌で統一戦線結成につき会談。合意に達せず。
DIA-202-1981-03-10-2カンボジア1981年03月10日1980年代ヘン・サムリン政権,新憲法草案を公表。
DIA-202-1981-03-11-1カンボジア1981年03月11日1980年代ESCAP第37回会議に出席したDKのチューン・チウム経済・財政相は統一戦線結成のためにDK指導者の何人かを亡命させることは問題になりえないと語る。
DIA-202-1981-03-17-1カンボジア1981年03月17日1980年代ニカラガ共和国のHumberto Ortega 国防相来訪。
DIA-202-1981-03-20-1カンボジア1981年03月20日1980年代シアヌーク殿下はムリナカ運動のNhem Sophonに中国の援助を得るためにDKと協力するよう要請。
DIA-202-1981-03-22-1カンボジア1981年03月22日1980年代プノンペンで区レベルの人民革命委員会の選挙始まる。
DIA-202-1981-03-25-1カンボジア1981年03月25日1980年代PRKの高級代表団(チア・シム内相),東欧諸国の党大会へ出席のため出発。
DIA-202-1981-03-25-2カンボジア1981年03月25日1980年代ASEAN,ソ連のカンボジア問題を討議するための地域会議提案を拒否。
DIA-202-1981-03-25-3カンボジア1981年03月25日1980年代カンボジアのSPK,ベトナムのVNA,ラオスのKPL,ソ連のTASS,協力協定に調印。
DIA-202-1981-03-25-4カンボジア1981年03月25日1980年代AFPによればカンボジアの米生産量は79年40万トン,80年75万トン,81年目標85万トン,年間最低消費量100万トン。輸入必要量25万トン。
DIA-202-1981-03-26-1カンボジア1981年03月26日1980年代ソ連の国家計画委員会代表団来訪。
DIA-202-1981-03-27-1カンボジア1981年03月27日1980年代ヨーロッパ議会代表団,プノンペン来訪。
DIA-202-1981-03-27-2カンボジア1981年03月27日1980年代タイ訪問中のパール・オーストリア外相は,ソ連はカンボジア国際会議への態度を変える可能性があると語った。
DIA-202-1981-03-29-1カンボジア1981年03月29日1980年代DKのケアト・チョン首相府相,侵略者レ・ズアン一派による選挙の茶番に反対しようと声明。
DIA-202-1981-03-29-2カンボジア1981年03月29日1980年代全国選挙委員会設置,委員長サイ・フータン。
DIA-202-1981-04-06-1カンボジア1981年04月06日1980年代DK軍,シエムレアプ省でベトナム軍を攻撃,自動車10台を破壊,65人を死傷させた。
DIA-202-1981-04-06-2カンボジア1981年04月06日1980年代PRKのメン・チャン農相は農業会議で1981年に種籾56,790トン,メイズ種子1,100トン,化学肥料23,584トンを配布,現在95,908の団結チームが150万haを耕作していると報告した。
DIA-202-1981-04-10-1カンボジア1981年04月10日1980年代プノンペンの人民革命法廷,ポル・ポト分子4人に3年の禁固から終身刑の判決を宣告。
DIA-202-1981-04-11-1カンボジア1981年04月11日1980年代DKのイエン・サリ副首相,エジプトを訪問。
DIA-202-1981-04-12-1カンボジア1981年04月12日1980年代シアヌーク殿下は共同通信に対して,もし中国が彼の軍隊を援助するなら,越軍撤退後DK軍を武装解除すべしとの要求を取下げてもいいと語った。
DIA-202-1981-04-13-1カンボジア1981年04月13日1980年代DKのイエン・サリ副首相,スーダンを訪問。
DIA-202-1981-04-14-1カンボジア1981年04月14日1980年代シアヌーク派代表インタム,バンコク訪問。
DIA-202-1981-04-15-1カンボジア1981年04月15日1980年代イスラム開発銀行の代表来訪。
DIA-202-1981-04-17-1カンボジア1981年04月17日1980年代PRK建国6周年,ヘン・サム・リン議長演説。
DIA-202-1981-04-17-2カンボジア1981年04月17日1980年代タイ国境のムリナカ・キャンプでクメール・セレイ・グループの合同司令部開設。
DIA-202-1981-04-21-1カンボジア1981年04月21日1980年代シアヌーク殿下は北京で中国の黄華外相と会談した後記者会見し,ムリナカ派に中国の軍事援助は得られなかったと語った。
DIA-202-1981-04-21-2カンボジア1981年04月21日1980年代イエン・サリ副首相シンガポールを訪問。
DIA-202-1981-04-22-1カンボジア1981年04月22日1980年代PRK第1歩兵旅団,第196歩兵師団に昇格。
DIA-202-1981-04-22-2カンボジア1981年04月22日1980年代VODK,13日DK軍はシソフォン近くでベトナム軍の中将を殺したと発表。
DIA-202-1981-04-22-3カンボジア1981年04月22日1980年代ベトナムのフーカン省代表団,姉妹省スツンチェン省に来訪。
DIA-202-1981-04-23-1カンボジア1981年04月23日1980年代VODK,3月ベトナム軍がシエムレアプ省でカンボジア人省委員,地区委員を逮捕した事件を報道。
DIA-202-1981-04-24-1カンボジア1981年04月24日1980年代KPNLFのソン・サン議長訪米。
DIA-202-1981-04-24-2カンボジア1981年04月24日1980年代ベトナム,ラオス,カンボジアの3国,ASEANとの地域会議開催についての話合いを提案。
DIA-202-1981-04-26-1カンボジア1981年04月26日1980年代タイのシティ外相はパリで会見し,タイはソン・サンをDK首相にして,その下にクメール人各派が統一戦線政府を樹立することを望んでいる,この政府からクイール・ルージュの指導者のうちポル・ポト,イエン・サリ,ソン・セン,キュー・サンパンらは除かれる,ヘン・サムリンの参加はありうると語った。
DIA-202-1981-04-27-1カンボジア1981年04月27日1980年代シアヌーク殿下,ソン・サン議長に5月15日シンガポールでの会談を提案。
DIA-202-1981-04-30-1カンボジア1981年04月30日1980年代VODK,3月27日ベトナム軍はコンポンチュナン省知事 Daok Narin,同省コンポントララクレウ地区の責任者 Svay Koeun を解任した。
DIA-202-1981-05-01-1カンボジア1981年05月01日1980年代全国で国会議員選挙。
DIA-202-1981-05-01-2カンボジア1981年05月01日1980年代タンサロム商業相を団長とする経済代表団ベトナムを訪問。2日ベトナムとの間に援助と貿易協定に調印。
DIA-202-1981-05-03-1カンボジア1981年05月03日1980年代DK外務省,声明でベトナムが化学兵器を使用していることを非難。
DIA-202-1981-05-03-2カンボジア1981年05月03日1980年代フン・セン外相は記者会見で今度の選挙は代表を選ぶのであって政治体制を選ぶのではない,政治体制はすでに決まっていると語った。
DIA-202-1981-05-05-1カンボジア1981年05月05日1980年代プノンペンで開催されたチャム人大会で,ポル・ポトが権力をとる前70万人であったチャム人のうち20万人が生き残ったと報告された。
DIA-202-1981-05-06-1カンボジア1981年05月06日1980年代ベトナム人民軍顧問団が引揚げを開始し,経済・農業専門家と交代。
DIA-202-1981-05-08-1カンボジア1981年05月08日1980年代ソン・サンKPNLF議長米国に援助を要請。
DIA-202-1981-05-13-1カンボジア1981年05月13日1980年代DKゲリラ,コンポン・スプー近くの6号国道でベトナム軍トラック隊を攻撃,12人を死傷させた。
DIA-202-1981-05-14-1カンボジア1981年05月14日1980年代来カ中のシリアのバース党代表団,フン・セン外相と会談。
DIA-202-1981-05-15-1カンボジア1981年05月15日1980年代FAOによれば今年の種籾必要量12万5000トン,カンプチアのストックは10万トン。今供給中のもの2万5000トン,後消費用として10万2800トンが必要。
DIA-202-1981-05-17-1カンボジア1981年05月17日1980年代DK閣議,1981年乾期の成果を総括し,5月から始まる雨期の活動方針を決定し,国際会議への支持と民主カンボジアとその武装力をなくそうとする陰謀に警戒を怠らないことを強調した。
DIA-202-1981-05-19-1カンボジア1981年05月19日1980年代インドシナ3国外相,ワルトハイム国連事務総長へ書簡,東南アジア地域会議開催に努力されたしと要請。
DIA-202-1981-05-22-1カンボジア1981年05月22日1980年代タイの国家安全保障会議事務局長によるとカンボジア難民は収容所に10万8000人,国境近くに20万人。
DIA-202-1981-05-25-1カンボジア1981年05月25日1980年代国際ラジオ・テレビジョン(OIRT),カンボジア人民の声放送をメンバーとして承認。
DIA-202-1981-05-26-1カンボジア1981年05月26日1980年代カンプチア人民革命党第4回大会開幕。162人の代表が参加。外国代表としてレ・ズアン書記長,カイソン書記長,ガプロフ・ソ党中央委員・トルクメン共和国第一書記。ペン・ソワン国防相が政治報告を行なった。役員人事は資料参照。
DIA-202-1981-05-29-1カンボジア1981年05月29日1980年代VODK,党大会について人民革命党とは1951年当時ベトナムがカンボジアの党に付けた名前である。党大会ではハノイから帰ってきたペン・ソワン派が要所を抑え,国内派のヘン・サムリングループの役割は小さくなった,今後両派の対決は激化するであろうと論評。
DIA-202-1981-06-01-1カンボジア1981年06月01日1980年代東京でカンボジアに関する国際会議。
DIA-202-1981-06-03-1カンボジア1981年06月03日1980年代VODK,国連がDK承認を取下げるなら,ベトナムは軍の一部をカンボジアから撤退させるとのジャン外務次官の発言は部分撤退でカンボジア人民の抵抗を止めさせようとするトリックだと論評。
DIA-202-1981-06-06-1カンボジア1981年06月06日1980年代ベトナムへ農業代表団(Kong Samol 農業次官)
DIA-202-1981-06-14-1カンボジア1981年06月14日1980年代プノンペンでインドシナ外相会議。①7月中旬にラングーンで東南アジア地域会議を開催する,②地域会議での合意や協定を保証するために国際会議を開催することなどを提案。
DIA-202-1981-06-15-1カンボジア1981年06月15日1980年代DKインドシナ外相会議の提案を拒否。
DIA-202-1981-06-16-1カンボジア1981年06月16日1980年代ベトナムの高級軍事代表団来訪。バン・ティエン・ズン国防相,レ・ヅク・ナン国防次官,フン・テ・タイ副参謀長・ファム・ゴク・マウ総政治部副部長,ダン・タン総後勤部副部長。
DIA-202-1981-06-16-2カンボジア1981年06月16日1980年代ソン・サン議長はKPNLFが閣僚の過半数を得られるなら,DK政府を率いる用意があると語る。
DIA-202-1981-06-17-1カンボジア1981年06月17日1980年代マニラでASEAN外相会議,カンボジアに関する平和方式を提案。①国連による平和維持軍の派遣,②外国軍の撤退,③外国軍撤退の後カンボジア各派の武装解除および国連監視下の自由な選挙。
DIA-202-1981-06-18-1カンボジア1981年06月18日1980年代ラオスの軍事代表団(カムタイ・シファンドン国防相)来訪。
DIA-202-1981-06-18-2カンボジア1981年06月18日1980年代カンプチア人民革命軍創立30周年集会,ベトナム,ラオスの高級軍事代表団出席。
DIA-202-1981-06-19-1カンボジア1981年06月19日1980年代タイに収容中のカンボジア難民のうち4万人が帰国の意志を表明。
DIA-202-1981-06-20-1カンボジア1981年06月20日1980年代ASEAN閣僚会議で園田外相平和方式を提案。 ①平和維持軍の派遣②停戦③ベトナム軍の段階的撤退④カンボジア武装勢力の一定地域への集結と武装解除⑤将来,カンボジア・ベトナム間に非武装地帯を設置。
DIA-202-1981-06-21-1カンボジア1981年06月21日1980年代VODK,ASEAN閣僚会議の声明を歓迎。
DIA-202-1981-06-24-1カンボジア1981年06月24日1980年代PRK第1回国会開会。27日まで。憲法採択,従来の救国戦線に代えてカンプチア祖国建設戦線(KFNC)樹立,国家機構人事を決定(資料参照)。
DIA-202-1981-06-27-1カンボジア1981年06月27日1980年代VODK,ベトナムのバン・チエン・ズン国防相がシエム・レアップへの旅行を中止したのは当地のカンボジア軍が叛乱を起したためと報道。
DIA-202-1981-06-29-1カンボジア1981年06月29日1980年代イエメン人民民主共和国代表団来訪。
DIA-202-1981-06-30-1カンボジア1981年06月30日1980年代ハンガリーとの間に領事協定調印。
DIA-202-1981-06-30-2カンボジア1981年06月30日1980年代DK政府と国民大団結愛国民主戦線は国民団結のための最低限の政治綱領を決定。
DIA-202-1981-07-01-1カンボジア1981年07月01日1980年代VODK,カンボジア人民は国際会議がベトナム軍の撤退に期限を設けることを望むと論評。
DIA-202-1981-07-03-1カンボジア1981年07月03日1980年代シアヌーク殿下,パリでシェイソン仏外相と会談。
DIA-202-1981-07-03-2カンボジア1981年07月03日1980年代ベトナムの教育省代表団(Ho Truc次官)来訪。
DIA-202-1981-07-06-1カンボジア1981年07月06日1980年代フン・セン外相,東欧諸国およびシリア・インド訪問へ出発。
DIA-202-1981-07-08-1カンボジア1981年07月08日1980年代国連やその他の援助機関は5月以来,3万9891トンの種籾をカンボジアに提供した。未渡し分4万4316トン。
DIA-202-1981-07-08-2カンボジア1981年07月08日1980年代在仏のカンボジア人グループAscodekaは国連事務総長に手紙を送り,ポル・ポト派を国連機関から追放するよう訴えた。
DIA-202-1981-07-08-3カンボジア1981年07月08日1980年代チア・ソト計画相の司会で物価問題を討議する経済閣僚会議。
DIA-202-1981-07-09-1カンボジア1981年07月09日1980年代シアヌーク殿下,カンボジア国際会議ヘイン・タム元首相をオブザーバーとして派遣。
DIA-202-1981-07-11-1カンボジア1981年07月11日1980年代ソ連と経済・貿易協力協定調印。
DIA-202-1981-07-13-1カンボジア1981年07月13日1980年代ニューヨークでカンボジア国際会議。79カ国,オブザーバー15カ国,2代表が参加。
DIA-202-1981-07-13-2カンボジア1981年07月13日1980年代アンタラ通信によれば中国はカンボジア問題解決についてのASEAN案の①武装解除,②選挙を実施する臨時政府樹立,③ヘン・サムリン政権代表の招待の3点について反対した。
DIA-202-1981-07-15-1カンボジア1981年07月15日1980年代高級軍事代表団(チャン・シ国防相),ソ連国防省の招きでモスクワヘ出発。
DIA-202-1981-07-17-1カンボジア1981年07月17日1980年代DKゲリラ,コンポン・ソムの4号国道上でベトナム軍を攻撃,2日間で25人を戦闘不能にした。
DIA-202-1981-07-17-2カンボジア1981年07月17日1980年代7月初めまでに全国で米18万5720ha(うち浮稲10万ha)と副次作物6万7000haが植付けられた。
DIA-202-1981-07-18-1カンボジア1981年07月18日1980年代PRK外務省,カンボジアには解決すべき間題は何もないと声明。
DIA-202-1981-07-19-1カンボジア1981年07月19日1980年代タイに基地を持つセリカ・グループ140人が,PRK政府に投降。
DIA-202-1981-07-21-1カンボジア1981年07月21日1980年代1981年前半でプノンペン港は4万6600トンの貨物を陸揚げした。うち種籾1万トン,化学肥料700トン。
DIA-202-1981-07-24-1カンボジア1981年07月24日1980年代DK政府と国会は,幹部や兵士にいかなる理由があろうとも同胞たるカンボジア国民を殺すことを禁ずる法令を公布した。
DIA-202-1981-07-26-1カンボジア1981年07月26日1980年代インドネシアのモヒタル外相はパリで仏のシェイソン対外相と会談し,カンボジア国際会議で設置が決った委員会のメンバーに仏が参加するよう要請した。
DIA-202-1981-08-01-1カンボジア1981年08月01日1980年代ヨス・ポルKFNC書記長,東独を訪問。
DIA-202-1981-08-02-1カンボジア1981年08月02日1980年代ペン・ソワン首相休暇のためソ連に到着。
DIA-202-1981-08-03-1カンボジア1981年08月03日1980年代南仏でシアヌーク=ソン・サン会談。
DIA-202-1981-08-04-1カンボジア1981年08月04日1980年代VODKによればヌオン・チェア国会常務委員長,Chhit Choeun 総参謀長らはシエム・レアップの6号国道附近の戦線を視察。
DIA-202-1981-08-05-1カンボジア1981年08月05日1980年代カンプチア紙社説「干ばつと闘おう」。
DIA-202-1981-08-10-1カンボジア1981年08月10日1980年代チャン・シ国防相,東独とブルガリアを訪問。
DIA-202-1981-08-10-2カンボジア1981年08月10日1980年代農業省,洪水の警告を出す。
DIA-202-1981-08-11-1カンボジア1981年08月11日1980年代DKゲリラ,コムポンセイラとココンの4号国道でベトナム軍を襲撃,4日間で53人を死傷させた。
DIA-202-1981-08-11-2カンボジア1981年08月11日1980年代ラオスの貿易代表団(Maisouk Saisompheng 通商産業相)来訪。
DIA-202-1981-08-14-1カンボジア1981年08月14日1980年代洪水と干ばつのため7月までの田植面積は計画の29%,昨年はこの時期40%。
DIA-202-1981-08-16-1カンボジア1981年08月16日1980年代VODKによれば,ソン・セン国防相,ケ・ポク軍副書記長とともにスツンチエン,クラチエ,コムポンチャム,コムポントム戦線を視察。
DIA-202-1981-08-18-1カンボジア1981年08月18日1980年代DK政府,団結を呼びかける声明を発表。①すべての勢力や個人はベトナム侵略者を追い出すために団結しなければならない,②各派は最低限の政治綱領で一致すればよく,連合内で各派は組織を維持し独自に行動できる。
DIA-202-1981-08-19-1カンボジア1981年08月19日1980年代プノンペン放送,ベトナムの8月革命を記念してベトナムとカンボジアの団結の戦略的意義を強調。
DIA-202-1981-08-19-2カンボジア1981年08月19日1980年代プノンペンの職業訓練センター再建にソ連の援助,議定書に調印。
DIA-202-1981-08-22-1カンボジア1981年08月22日1980年代運輸・通信・郵便省は1981年7月1日から手紙,小包,電話に課税することを布告。
DIA-202-1981-08-24-1カンボジア1981年08月24日1980年代フン・セン外相,シリア訪問の途次,20日から24日までモスクワに滞在。
DIA-202-1981-08-24-2カンボジア1981年08月24日1980年代フン・セン外相,シリアを公式訪問。
DIA-202-1981-08-24-3カンボジア1981年08月24日1980年代ラオスとの間の貿易協定調印。
DIA-202-1981-08-25-1カンボジア1981年08月25日1980年代エジプトのアル・アーラム紙副編集長,DK解放区でイエン・サリ副首相と会見。
DIA-202-1981-08-26-1カンボジア1981年08月26日1980年代フン・セン外相,インドを公式訪問。
DIA-202-1981-08-28-1カンボジア1981年08月28日1980年代ブー・タンKPRP政治局員はベトナムの党教育宣伝委代表団(Nguyen Hoang 党政治学校局長)と会見。
DIA-202-1981-08-29-1カンボジア1981年08月29日1980年代ヘン・サムリン議長,カダフィ議長に米国との対決でカンボジア人民はリビアの側にあるとのメッセージ。
DIA-202-1981-09-02-1カンボジア1981年09月02日1980年代シンガポールでカンボジアの反越3派の首脳会議。4日のコミュニケの要旨①ベトナム侵略者からカンボジアを解放するために民主カンボジアの連合政府を樹立する②連合政府を樹立する方式を研究するために準備委員会を設置する③カンボジア国際会議を支持する④世界の平和愛好諸国が国際会議を支持するよう訴える。
DIA-202-1981-09-02-2カンボジア1981年09月02日1980年代プノンペンでベトナム独立記念式典。
DIA-202-1981-09-03-1カンボジア1981年09月03日1980年代ヘン・サムリン議長はAFP記者と会見し,洪水と干ばつの被害を受けているので国際救援団体がカンボジアを引き続き援助するよう訴えた。
DIA-202-1981-09-03-2カンボジア1981年09月03日1980年代カンプチア紙,シンガポールでの3者会談は何も達成できない,カンボジア情勢は後戻りきかないと論評。
DIA-202-1981-09-07-1カンボジア1981年09月07日1980年代中国赤十字代表団,DK解放区を訪問。
DIA-202-1981-09-07-2カンボジア1981年09月07日1980年代Mat Ly 農業次官によれば8月25日までに,米73万haを植付けたが76.650haが損害を受けた。副次作物は10万250haに植付けたが,2万haが被害。
DIA-202-1981-09-07-3カンボジア1981年09月07日1980年代フン・セン外相,来力中の日本の議員代表団(石井一)と会見。
DIA-202-1981-09-09-1カンボジア1981年09月09日1980年代ソ連で休養中のペン・ソワン書記長,ブレジネフ書記長と会談。
DIA-202-1981-09-09-2カンボジア1981年09月09日1980年代ペン・ソワン書記長,モスクワでソ連のArkhipov第一副首相と会談,経済協力について合意。
DIA-202-1981-09-11-1カンボジア1981年09月11日1980年代モスクワからの帰途,ペン・ソワン書記長はハノイでレズアン書記長と会談。
DIA-202-1981-09-12-1カンボジア1981年09月12日1980年代VODK,シンガポール会談は4項目を決めただけでそれ以上は決めていないと報道。
DIA-202-1981-09-13-1カンボジア1981年09月13日1980年代カンボジアの3派の代表,バンコクで初会合。
DIA-202-1981-09-16-1カンボジア1981年09月16日1980年代キューバの党と政府代表団(Sergio del Valle共産党政治局員保健相)来訪。
DIA-202-1981-09-16-2カンボジア1981年09月16日1980年代在欧カンボジア人諸団体,カンボジア3派首脳の共同コミュニケを歓迎する声明を発表。
DIA-202-1981-09-18-1カンボジア1981年09月18日1980年代民主カンボジア国連の議席を維持。
DIA-202-1981-09-19-1カンボジア1981年09月19日1980年代PRK外務省,国連における民主カンボジアの議席維持は現実を無視したものであると声明。
DIA-202-1981-09-19-2カンボジア1981年09月19日1980年代DKのChan Youran大使,スーダン大統領に信任状提出。
DIA-202-1981-09-21-1カンボジア1981年09月21日1980年代ソ連の労働組合代表団(Sauninカムチャツカ地域労働組合議長)来訪。
DIA-202-1981-09-29-1カンボジア1981年09月29日1980年代DKのイエン・サリ副首相第26回国連総会で演説。
DIA-202-1981-09-30-1カンボジア1981年09月30日1980年代PRK外務省,カンボジアで化学兵器が使用されているとの噂は中国拡張主義者と米帝国主義者の陰謀によるもので事実無根であると声明。
DIA-202-1981-10-01-1カンボジア1981年10月01日1980年代VODKインドのベトナム支持を非難。
DIA-202-1981-10-02-1カンボジア1981年10月02日1980年代DK軍最高司令部は雨期の戦果を発表,ベトナム軍2万1408人を戦闘不能にした。275の村を解放,解放区の住民は4月の150万人から170万人に拡大した。
DIA-202-1981-10-03-1カンボジア1981年10月03日1980年代PRK閣僚会議は官庁の勤務時間を午前6時から11時まで,午後は1時30分から5時までとすることを決定した。
DIA-202-1981-10-04-1カンボジア1981年10月04日1980年代DK情報省,ハノイで発刊された地図では“おうむの嘴”地区がベトナム領になっているとして非難。
DIA-202-1981-10-05-1カンボジア1981年10月05日1980年代DKゲリラ,コンポンソムで鉄道や石油精製施設を破壊。
DIA-202-1981-10-05-2カンボジア1981年10月05日1980年代宣伝・教育委員会代表団(Bou Thang 中央宣伝・教育委員会議長),ラオスを訪問。
DIA-202-1981-10-10-1カンボジア1981年10月10日1980年代VODK,ベトナムがタケオ州でカンボジア人を村から追出してその後にベトナム人を入植させていると非難。
DIA-202-1981-10-12-1カンボジア1981年10月12日1980年代DK情報省,3者特別委員会の討議について3者は10月4日,連合政府ではA)どの派も絶対的権力を持たないB)重要な決定は3者の同意でなされることC)民主カンボジアの合法性を継承するの3点で合意したにもかかわらず,ある派が(イ)絶対的権力(ロ)過半数の閣僚ポスト(ハ)DK指導者の亡命を要求してきたので行詰っていると声明。
DIA-202-1981-10-13-1カンボジア1981年10月13日1980年代DK保健省,ベトナムが使用している化学物質やガスにどう対処するかに関する指示を通達。
DIA-202-1981-10-15-1カンボジア1981年10月15日1980年代世界労連と総評の代表団来訪。
DIA-202-1981-10-16-1カンボジア1981年10月16日1980年代PRK外務省,国連でのASEAN諸国提案に反駁する声明を発表。
DIA-202-1981-10-18-1カンボジア1981年10月18日1980年代党・政府代表団(ペン・ソワン書記長兼首相)建国1300年記念のためブルガリア訪問へ出発。
DIA-202-1981-10-19-1カンボジア1981年10月19日1980年代プノンペン放送,連帯の陰にかくれているポーランドの反動勢力の目的はグダンスクの連帯会議で明白になったと論評。
DIA-202-1981-10-22-1カンボジア1981年10月22日1980年代国連総会,ASEANなどのカンボジア決議案を賛成100,反対25,棄権19で可決。
DIA-202-1981-10-23-1カンボジア1981年10月23日1980年代プノンペン法廷,ポル・ポト軍の将校に2年刑から終身刑の判決を下す。
DIA-202-1981-10-23-2カンボジア1981年10月23日1980年代コンポントム州Santuk地区の軍民はベトナム軍と協力してポル・ポト軍掃討作戦。これらの地区では戦略村を作り,常時村民が監視することになった。
DIA-202-1981-10-28-1カンボジア1981年10月28日1980年代ラオスとの間にノン・ビザ協定。
DIA-202-1981-10-30-1カンボジア1981年10月30日1980年代DKのヌオン・チェア人民代表大会議長は北京で,戦いは拡大していると語る。
DIA-202-1981-11-02-1カンボジア1981年11月02日1980年代VODK,コンポントム州で10月5日カンボジア人兵士がベトナム軍に反乱を起したと報道。
DIA-202-1981-11-03-1カンボジア1981年11月03日1980年代化学物質使用の有無を調べる国連調査チーム,タイとラオス・カンボジアの国境地帯を視察。
DIA-202-1981-11-07-1カンボジア1981年11月07日1980年代プノンペンでソ連十月革命64周年記念集会。
DIA-202-1981-11-07-2カンボジア1981年11月07日1980年代タイのNation Review紙によるとソン・サン議長の条件とは①ソン・サンが首相となる②KPNLFが閣僚の過半数を占める③ポル・ポト,イエン・サリ,ソン・セン,タ・モクの亡命の3つである。
DIA-202-1981-11-13-1カンボジア1981年11月13日1980年代DKのキュー・サンパン首相,ヌオン・チェア国会議長は化学兵器の被害を受けた軍民を見舞う。
DIA-202-1981-11-16-1カンボジア1981年11月16日1980年代シアヌーク派のイン・タム代表は3者特別委員会の困難はソン・サン氏が閣僚の過半数を要求し,3者合意の原則に反対していることであると語った。
DIA-202-1981-11-17-1カンボジア1981年11月17日1980年代カンプチア紙社説「平均10~15戸からなる生産チームを増やそう」。なお自留地および宅地として1.5~2haが認められる。
DIA-202-1981-11-19-1カンボジア1981年11月19日1980年代ステッセル米国務次官はタイでカンボジアの反越抵抗勢力に軍事援助を与えるつもりはないと語る。
DIA-202-1981-11-23-1カンボジア1981年11月23日1980年代プノンペンの医学・薬学学校で卒業式。医師18人,薬剤師25人が誕生,1980年1月の創立以来,これまでに医師43人,薬剤師50人が卒業した。
DIA-202-1981-11-24-1カンボジア1981年11月24日1980年代ペン・ソワン書記長,バタンバン州,プルサト州を視察。
DIA-202-1981-11-24-2カンボジア1981年11月24日1980年代バンコクのシンガポール大使館声明要旨。ラジャラトナム副首相らはシティ外相およびソン・サン議長,キュー・サンパン首相,イエン・サリ副首相,イン・タム代表と会談し,タイの同意を得て,ゆるい連合政府の結成を提案した。この提案に対してキュー・サンパン首相らは2カ月の猶予を要求した。
DIA-202-1981-11-28-1カンボジア1981年11月28日1980年代フン・セン外相,国連専門家作成の東南アジアの地図に民主カンボジアが記されていることについて国連事務総長に抗議。
DIA-202-1981-11-28-2カンボジア1981年11月28日1980年代シンガポールのリー首相は記者会見で,日本の国会議員のプノンペン訪問はベトナムに誤ったシグナルを与えたかもしれないと語った。
DIA-202-1981-11-28-3カンボジア1981年11月28日1980年代シンガポール外務省当局はシアヌーク殿下はシンガポール提案を承諾したと発表した。
DIA-202-1981-11-30-1カンボジア1981年11月30日1980年代DK国会常務委員会,政府,PDFGNUKは連合政府結成に関するシンガポール提案についてその可否を判断するよう全軍民に通達。
DIA-202-1981-11-30-2カンボジア1981年11月30日1980年代ソン・サン議長はマレーシアはKPNLFに財政援助を与えることを約束したと語った。
DIA-202-1981-11-30-3カンボジア1981年11月30日1980年代東ドイツの党代表団来訪。
DIA-202-1981-12-01-1カンボジア1981年12月01日1980年代PLO代表団来訪。
DIA-202-1981-12-05-1カンボジア1981年12月05日1980年代カンプチア人民革命党書記長にヘン・サムリン国家評議会議長ペン・ソワン氏は同時に首相も解任。
DIA-202-1981-12-06-1カンボジア1981年12月06日1980年代ヘン・サムリン代表団,モスクワに立ち寄る。
DIA-202-1981-12-06-2カンボジア1981年12月06日1980年代カンボジア共産党,党の解散を発表。
DIA-202-1981-12-07-1カンボジア1981年12月07日1980年代DK情報省,シアヌーク殿下やソン・サン議長はDKに対する中傷を止めるべきであると声明。
DIA-202-1981-12-07-2カンボジア1981年12月07日1980年代ラオスの中央宣伝・教育委員会代表団来訪。
DIA-202-1981-12-07-3カンボジア1981年12月07日1980年代タイのSiam Rat紙過大な条件をつけるソン・サンの代りにシアヌークを支持したらどうかと論評。
DIA-202-1981-12-07-4カンボジア1981年12月07日1980年代PRK首相代行にチャンシ副首相兼国防相。
DIA-202-1981-12-08-1カンボジア1981年12月08日1980年代VODK,ペン・ソワン書記長解任について“中流で馬を変えても事態は変らない”と論評。
DIA-202-1981-12-08-2カンボジア1981年12月08日1980年代ヘン・サムリン代表団,モンゴルを公式訪問。
DIA-202-1981-12-08-3カンボジア1981年12月08日1980年代ハノイ駐在のPRK代理大使はペン・ソワン書記長は病気のため解任されたと語った。
DIA-202-1981-12-09-1カンボジア1981年12月09日1980年代プノンペン放送,ポル・ポト派を蘇生させようとするASEANの試みは無駄であると論評。
DIA-202-1981-12-10-1カンボジア1981年12月10日1980年代タイのパタヤでASEAN外相,カンボジア問題を討議。共同声明でDKはシンガポール提案を受けいれるよう要請。
DIA-202-1981-12-10-2カンボジア1981年12月10日1980年代ホン外務次官,社会主義国外務次官会議出席のためラオスヘ。
DIA-202-1981-12-11-1カンボジア1981年12月11日1980年代VODK,DKゲリラはシエム・レアップ州でベトナム軍を襲撃し,同州ベトナム人知事を殺したと報道。
DIA-202-1981-12-14-1カンボジア1981年12月14日1980年代DKの920旅団,クラチエ州,モンドルキリ州の軍民大会はシンガポール提案を受けいれぬようキュー・サンパン首相,ヌオン・チェア国会議長に要請。
DIA-202-1981-12-15-1カンボジア1981年12月15日1980年代DKの第3旅団とココン州の軍民はシンガポール提案に反越闘争を強化する保障なしと決議。
DIA-202-1981-12-17-1カンボジア1981年12月17日1980年代DKの第801旅団およびラタナキリ州,スツン・チエン州の軍民は“連合政府”提案に反対を表明。
DIA-202-1981-12-18-1カンボジア1981年12月18日1980年代ヘン・サムリン代表団,帰途ハノイに立寄る。レ・ズアン書記長と会見。
DIA-202-1981-12-20-1カンボジア1981年12月20日1980年代プノンペンで国家建設戦線第3回大会。国家建設・国防統一戦線(KUFNCD)と改称。
DIA-202-1981-12-21-1カンボジア1981年12月21日1980年代DK国家評議会議長,軍の階級と編制に関する法令を公布。
DIA-202-1981-12-21-2カンボジア1981年12月21日1980年代ソ連のフィリュービン外務次官とキューバのトラース外務次官来訪。
DIA-202-1981-12-22-1カンボジア1981年12月22日1980年代ソ連との領事協定に調印。
DIA-202-1981-12-24-1カンボジア1981年12月24日1980年代チャン・フィン財政相ベトナム訪問。
DIA-202-1981-12-27-1カンボジア1981年12月27日1980年代カンボジアの元国防相Sak Sutsakhan将軍,元特殊部隊司令官Thach Reng将軍,KPNLFに参加。
DIA-202-1982-01-02-1カンボジア1982年01月02日1980年代タイ・ラオス・ベトナム3国国境地帯にある民主カンボジア(以下DKと略す)の基地がベトナム軍の砲撃で破壊され,DKゲリラは死者50人,負傷者200人をだした。同基地はソン・セン国防相の指揮下にあり兵力1万(タイ:Nation Review 紙)。
DIA-202-1982-01-04-1カンボジア1982年01月04日1980年代PLO代表団(Ali Ahmad中央委員)来訪。
DIA-202-1982-01-07-1カンボジア1982年01月07日1980年代1月7日のプノンペン解放3周年記念集会。
DIA-202-1982-01-08-1カンボジア1982年01月08日1980年代(北京):シアヌーク殿下,北京で連合政府結成のための3派首脳会談を行なうことを提唱。
DIA-202-1982-01-10-1カンボジア1982年01月10日1980年代民主カンボジア放送(以下VODKと略す),現状でベトナムを援助することはその侵略勢力を強化することになると,フランスを非難。
DIA-202-1982-01-11-1カンボジア1982年01月11日1980年代東独の軍事代表団(Heinz Hoffmann 国防相)来訪,14日東独との間に軍事脇力協定調印。
DIA-202-1982-01-16-1カンボジア1982年01月16日1980年代ユーゴの週刊誌Mnの編集長 Garil Kasoli,DK地区を訪問。
DIA-202-1982-01-16-2カンボジア1982年01月16日1980年代フン・セン外相はいかなる条件下でもシアヌークやソン・サン,クメール・ルージュとは話し合わない,と語る。
DIA-202-1982-01-18-1カンボジア1982年01月18日1980年代プノンペンではペン・ソワン派幹部の逮捕のニュース流れる。
DIA-202-1982-01-21-1カンボジア1982年01月21日1980年代インドの閣僚代表団(G・K・ラオ元農相)来訪。
DIA-202-1982-01-22-1カンボジア1982年01月22日1980年代イエン・サリ副首相はDK地区で,「ゆるい連合政府案」を受けいれることはできないと日本の田国会議員に語る。
DIA-202-1982-01-25-1カンボジア1982年01月25日1980年代タイ外務省によれば,DKはシンガポール提案を拒否し,3首脳による会談を希望してきた。
DIA-202-1982-01-27-1カンボジア1982年01月27日1980年代フン・セン外相,インドのラオ元農相に対してタイがポル・ポト派や他の反動派を一カ所に集め,彼らへの補給を止めれば,カンボジアはベトナム軍の一部撤退への措置をとる,タイ・カンボジア間に非武装地帯を設置する必要がある,と語った。
DIA-202-1982-01-27-2カンボジア1982年01月27日1980年代ソン・サン議長はパリで,クメール・ルージニがゆるい連合政府案を拒否したことは,国連の承認が得られなくなることを意味する,と語った。
DIA-202-1982-01-27-3カンボジア1982年01月27日1980年代マレーシアのガザリ外相,カンボジアの3派が話し合うための場所を提供してもよいと語る。
DIA-202-1982-01-30-1カンボジア1982年01月30日1980年代ソ連経済代表団(Ti Yav計画次官),来訪。経済協力協定調印。
DIA-202-1982-01-31-1カンボジア1982年01月31日1980年代カンプチア人民革命党(KPRK)第3回中央委総会(26~31日)―①1982年の国家計画,② Khang Sarin 中央委員を書記局員に選出。
DIA-202-1982-02-01-1カンボジア1982年02月01日1980年代東独の文化代表団来訪。
DIA-202-1982-02-05-1カンボジア1982年02月05日1980年代第2回国会開会(10日まで)。82年経済・文化発展計画を採択。首相に Chan Si,副首相兼国防相にBon Thangを任命。
DIA-202-1982-02-06-1カンボジア1982年02月06日1980年代ソ連の軍事代表団来訪。団長オガルコフ元師はCPSU 中央委員,陸軍総参謀長,第1国防次官。
DIA-202-1982-02-10-1カンボジア1982年02月10日1980年代タイ軍当局によれば,ベトナム軍はカンボジアの西南戦線に薪手の2個師団を投入。
DIA-202-1982-02-10-2カンボジア1982年02月10日1980年代フランス共産党24回大会に出席したフン・セン外相はパリで,フランスはポル・ポト体制を承認しなかった,ポル・ポト体制を非難・告発しさえした,私はフランス政府がカンプチアの現実を永久に無視することはできないと思う,と語る。
DIA-202-1982-02-12-1カンボジア1982年02月12日1980年代プノンペンでインドシナ中央銀行総裁会議。
DIA-202-1982-02-13-1カンボジア1982年02月13日1980年代タイのN”on紙によるとシアヌーク派のMoulinaka の指導者 Teap Ben 将軍と KPNLF のDien De1 将軍は2月6日 Nong Chenで,ついで2月9日バンコクで会談した。
DIA-202-1982-02-14-1カンボジア1982年02月14日1980年代カンプチアの国会法および国家評議会法制定。
DIA-202-1982-02-15-1カンボジア1982年02月15日1980年代フン・セン外相,ハノイでインドのラオ外相と会談。
DIA-202-1982-02-16-1カンボジア1982年02月16日1980年代ビエンチャンでインドシナ3国外相会議開催―カムパイ・ブパー外相代理,フン・セン外相,グエン・コ・タク外相が出席。17日コミュニケ発表。
DIA-202-1982-02-18-1カンボジア1982年02月18日1980年代DK外務省,ビエンチャン・コミュニケを反駁する声明発表。
DIA-202-1982-02-18-2カンボジア1982年02月18日1980年代ソン・サン議長はパリでシアヌークの首脳会談提案 を拒否。KPNLF地区の住民は11万4000人,兵力9000,残り3000が武器を持っている,と語る。
DIA-202-1982-02-19-1カンボジア1982年02月19日1980年代カンプチア人民共和国(PRKと略す)外務省,タイ側が化学兵器を使用したことに対する抗議声明。
DIA-202-1982-02-21-1カンボジア1982年02月21日1980年代北京でシアヌーク殿下,キュー・サンパンDK議長と会談。
DIA-202-1982-02-21-2カンボジア1982年02月21日1980年代VODK・ベトナム軍のカンボジアからの全面撤退がなければ,東南アジアは平和,自由,中立の地帯にはなりえない,と論評。
DIA-202-1982-02-22-1カンボジア1982年02月22日1980年代ヘン・サムリン議長,来訪中のラオス国家建設戦線代表団と会見。
DIA-202-1982-02-23-1カンボジア1982年02月23日1980年代キュー・サンパン議長,ポル・ポト入院説を否定。
DIA-202-1982-02-25-1カンボジア1982年02月25日1980年代AFPによれば,DK軍はベトナム軍の乾期攻勢で年初来守勢に立ち,Phnom Malay地区の解放区は縮小している。
DIA-202-1982-03-03-1カンボジア1982年03月03日1980年代キュー・サンパン議長,シソフォン地区を視察,『ワシントン・ポスト』の記者と会見。
DIA-202-1982-03-10-1カンボジア1982年03月10日1980年代DK,キュー・サンパン=シアヌーク会談に関する公報を発表。
DIA-202-1982-03-10-2カンボジア1982年03月10日1980年代タイのプラソンNSC事務局長は,ソ連のインドシナ3国への軍事援助はかつての1日300万㌦’から600万㌦に増加した,ソ連は1年前からラオスとカンプチアを直接援助するようになった,ベトナムヘの援助は300万㌦在ベトナムのソ連人顧問は1980年の5000人から81年には8000人になった,ソ連はインドシナの第4の港としてReamを建設していると語った。
DIA-202-1982-03-13-1カンボジア1982年03月13日1980年代北京はソン・サン・グループヘの援助を停止(タイ:Nation Review 紙)。
DIA-202-1982-03-14-1カンボジア1982年03月14日1980年代PRK全国計画者会議,1982年の経済目標を設定。米の作付面積160万ha,コーン12万ha,短期工業作物3万ha(うち煙草8500ha,Soybeans6000ha,落花生5000ha,砂糖きび2500ha,ジュート1万5000ha,綿1000ha),牛96万7000頭(1980年比4.5%増),水牛40万6000頭(1980年比3%増),漁獲量6万㌧。電力1億1400万キロワット時,織機1000台を復興,布350万㍍,網1000㌧,輸送量38万5000㌧。
DIA-202-1982-03-16-1カンボジア1982年03月16日1980年代カンプチア通信,ソ連がReam港を拡張しているとの報道はデマだ,と反論。
DIA-202-1982-03-17-1カンボジア1982年03月17日1980年代ベトナム軍,Sok San のソン・サン派拠点を占領。
DIA-202-1982-03-19-1カンボジア1982年03月19日1980年代PRK 外務省,タイ当局の敵対行動についての白書を発表。
DIA-202-1982-03-20-1カンボジア1982年03月20日1980年代DK情報相,ベトナムの化学兵器使用を非難。
DIA-202-1982-03-21-1カンボジア1982年03月21日1980年代VODK,DKゲリラ,コンポンソム地区の4号道路上で,ソ連のクレーン車とベトナム軍トラックを攻撃,10人を殺害と発表。
DIA-202-1982-03-22-1カンボジア1982年03月22日1980年代VODK,DK軍は1981年10月にベトナム軍に占領されたシエム・レアプやコンポン・トム地区の郷村をこの2月までに奮回した,と発表。
DIA-202-1982-03-25-1カンボジア1982年03月25日1980年代ヘン・サムリン国家評議会議長,ベトナムの党大会出席のためハノイヘ出発。
DIA-202-1982-03-25-2カンボジア1982年03月25日1980年代ソン・サン議長はパリで,ベトナム軍は解放区の二つの村を占領したのち撤退した,と語る。
DIA-202-1982-03-25-3カンボジア1982年03月25日1980年代プノンペンにソ連・クメール友好病院再建。
DIA-202-1982-03-30-1カンボジア1982年03月30日1980年代DK の Thiounn Mumm 国家科学技術委員会議長はマニラでの第2回アジア・太平洋科学・経済計画相会議に出席。
DIA-202-1982-04-01-1カンボジア1982年04月01日1980年代コンゴ人民共和国の Pierr eNze外相来訪,共同コミュニケ発表。
DIA-202-1982-04-02-1カンボジア1982年04月02日1980年代フン・セン外相,来訪中のフランス共産党代表団(Paul Laurent 政治局員)と会談。
DIA-202-1982-04-02-2カンボジア1982年04月02日1980年代キューバ共産党代表団(Jesus Montane Oropesa 政治局員)来訪。
DIA-202-1982-04-05-1カンボジア1982年04月05日1980年代DK情報省,フランスが81年12月ベトナムに2億フラン(4000万㌦)の援助を与えたこと,ハノイに特使を派遣したことをとり上げ,これはレ・ズアン侵略者を助けるものだと非難した。
DIA-202-1982-04-05-2カンボジア1982年04月05日1980年代ハンガリー・のブヤ外相来訪,9日共同コミュニケ発表。
DIA-202-1982-04-07-1カンボジア1982年04月07日1980年代東京での「カンボジア・デー」に出席のため,DK代表団(イエン・チリト社会問題相)訪日。
DIA-202-1982-04-15-1カンボジア1982年04月15日1980年代キュー.・サンパン議長,新年(4月17日)のメッセージ。4月17日はDK成立7周年記念日。.
DIA-202-1982-04-17-1カンボジア1982年04月17日1980年代ハンガリア人民軍代表団(団長 Ferenc Karpati 国防次官)来訪。
DIA-202-1982-04-17-2カンボジア1982年04月17日1980年代ヘン・サムリン議長,4・17記念日に演説。
DIA-202-1982-04-20-1カンボジア1982年04月20日1980年代ソン・サン議長はバンコクで記者会見し,KP NLF は武装勢力9000,訓練は受けているが武器のないものが3000,と語る。
DIA-202-1982-04-21-1カンボジア1982年04月21日1980年代DK政府閣議声明―「DK はカンボジア問題を武装闘争によってのみ解決しようとは望んでいない。DKはそれがベトナム軍を撤退させるものであればいかなる方法でも歓迎する」。
DIA-202-1982-04-22-1カンボジア1982年04月22日1980年代1982年の雨期作戦を成功させよう。1982年の目標:植付け180万ha,うち160万haが米で175万㌧の籾(KAMPUCHEA 社説)。
DIA-202-1982-04-24-1カンボジア1982年04月24日1980年代DK のチアト・チョン特使,セネガル・モーリタニア,ニジェール,トーゴを訪問。
DIA-202-1982-04-25-1カンボジア1982年04月25日1980年代ヘン・サムリン議長,ラオスの人民革命党第3回党大会に出席のためラオスヘ出発。
DIA-202-1982-04-26-1カンボジア1982年04月26日1980年代チェコの国防相来訪。
DIA-202-1982-04-26-2カンボジア1982年04月26日1980年代ブルガリアの経済代表団(Yanko Markov 森林・木材工業相)来訪。
DIA-202-1982-04-26-3カンボジア1982年04月26日1980年代ソン・サン議長,マレーシアで記者会見,3派連合政府はできるだけ早く結成すべきだと語った。
DIA-202-1982-04-30-1カンボジア1982年04月30日1980年代フランス,カンボジア問題解決のためタイにベトナムとの高級当局者会談を提案。
DIA-202-1982-04-30-2カンボジア1982年04月30日1980年代DK ゲリラ,カムポット州で Angkor Chey 地区, Chrak Siemで鉄道爆破,5人のベトナム人が死亡。
DIA-202-1982-05-03-1カンボジア1982年05月03日1980年代バンコクの EEC 代表部は,ベトナムが軍を撤退させるまでは対ベトナム経済援助は考えない,と語る。
DIA-202-1982-05-04-1カンボジア1982年05月04日1980年代DKのキュー・サンパン議長とKPNLFのソン・サン議長とが先週会談(バンコクポスト紙)。
DIA-202-1982-05-06-1カンボジア1982年05月06日1980年代ソン・サン氏は国のためか自分のためかを選ばなければならない(rバンコクポスト』紙社説)。
DIA-202-1982-05-07-1カンボジア1982年05月07日1980年代DKの Thiounn Thioeunn 博士,WHOの会議で CBW の調査を要請。
DIA-202-1982-05-08-1カンボジア1982年05月08日1980年代フン・セン外相,ソ連外務省の招きでモスクワヘ出発。
DIA-202-1982-05-09-1カンボジア1982年05月09日1980年代タイのシティ外相の北京訪問の目的は連合政府結成を促すことにあると論評(カンプチア通信)。
DIA-202-1982-05-11-1カンボジア1982年05月11日1980年代シアヌーク殿下,タイ外相の連合政府案を明かす。大統領シアヌーク,首相ソン・サン,副首相キュー・サンパン。クメールリレージュはこれに難色を示した。
DIA-202-1982-05-14-1カンボジア1982年05月14日1980年代イエン・チリト社会問題相によるとソン・サン議長は自らに首相と外相の地位を,キュー・サンパン氏に副首相の地位を与えるよう要求している。
DIA-202-1982-05-18-1カンボジア1982年05月18日1980年代プノンペン放送,タイのシティ外相の訪中は失敗だった,と論評。
DIA-202-1982-05-19-1カンボジア1982年05月19日1980年代クメールの連合政府樹立が遅れていることにASEAN諸国は失望している。ソン・サン議長は首相と国防相のポストを自派に要求しているがこれは非現実的である,クメール・ルージュも国際的支持を得ていないので,ポル・ポトらを亡命さすべきである(マレーシア放送)。
DIA-202-1982-05-21-1カンボジア1982年05月21日1980年代DK軍,7号線上クラチエとスヌール間でベトナム軍トラック2台を襲撃,ベトナム人40人を死傷させた(VODK)。
DIA-202-1982-05-22-1カンボジア1982年05月22日1980年代VODK,ベトナム人がタケオ州 KaohAndet地区に入植していることを非難。
DIA-202-1982-05-24-1カンボジア1982年05月24日1980年代PRK国会代表団(チア・シム議長),ソ連最高会議の招きでモスクワヘ。
DIA-202-1982-05-26-1カンボジア1982年05月26日1980年代ソ連外国貿易省のアジア局長来訪,1982年の貿易,支払協定調印。
DIA-202-1982-05-26-2カンボジア1982年05月26日1980年代カンプチア通信,北朝鮮を非難する論評―「裏切者や犯罪者を賞めることはカンプチアと朝鮮両国人民の共通の大義に対する挑戦である」。
DIA-202-1982-05-28-1カンボジア1982年05月28日1980年代DK外務省,非同盟会議におけるDKの正当な権利と議席を回復することを訴える声明を発表。
DIA-202-1982-05-29-1カンボジア1982年05月29日1980年代プノンペンで第1回全国仏教者大会開催。ヘン・サムリン議長出席。
DIA-202-1982-06-02-1カンボジア1982年06月02日1980年代チア・シム国会議長,モスクワでクズネトフ・ソ連最高会議第1副議長と会見。
DIA-202-1982-06-04-1カンボジア1982年06月04日1980年代フン・セン外相,ソ連訪問から帰国。
DIA-202-1982-06-08-1カンボジア1982年06月08日1980年代DKのイエン・サリ副首相は国連本部で日本の桜内外相と会見,オーストリアのパール外相(カンボジアに関する国際会議の議長)と会見。
DIA-202-1982-06-14-1カンボジア1982年06月14日1980年代シンガポールでASEAN外相会議。
DIA-202-1982-06-15-1カンボジア1982年06月15日1980年代フィリピンのロムロ外相は,ある人々はベトナムをソ連から引離すことができると考えているが,ベトナムが近い将来カンボジアから引揚げることについては悲観的である,もしわれわれが圧力をかけベトナムが世界中で孤立するなら,カンボジアから撤退を余儀なくされる可能性があると思う,と語った。
DIA-202-1982-06-21-1カンボジア1982年06月21日1980年代タイの『サイアム・ラヤト』紙,社説で,政府に公開質問状:シティ外相が3派連合の成立に手を貸したことはタイをベトナムとの対決に引きずり込んだのではないか。
DIA-202-1982-06-21-2カンボジア1982年06月21日1980年代ソン・サン議長は,ベトナムがカンボジアからの撤退に同意すれば,ベトナムおよびプノンプンのヘン・サムリン政権との話合いにも反対しない,と語る。
DIA-202-1982-06-22-1カンボジア1982年06月22日1980年代カンボジアの3派代表,シアヌーク殿下,ソン・サン議長,キュー・サンパン DK 首相はクアラルンプールで連合政府樹立協定に調印。大統領シアヌーク,副大統領にキニー・サンパン,首相にソン・サン。
DIA-202-1982-06-23-1カンボジア1982年06月23日1980年代タイのプレム首相は,連合政府への援助は軍事援助も含めて他のASEAN諸国に相談して決める,と語る。
DIA-202-1982-06-23-2カンボジア1982年06月23日1980年代ソン・サン首相,AFPとの会見で連合の主たる目的はベトナムを話合いに引きいれ,国連決議を受諾させることである,と語る。
DIA-202-1982-06-25-1カンボジア1982年06月25日1980年代カンプチア人民革命党(KPRP)中央委第4回総会開催。
DIA-202-1982-06-25-2カンボジア1982年06月25日1980年代タイの Nation Review 紙,社説で「タイは連合政府に武器援助はできない」と主張し,プレム首相の発言は重大である,と批判。
DIA-202-1982-06-27-1カンボジア1982年06月27日1980年代シアヌーク大統領はカンボジア問題解決のためのジュネーブ会議を提唱。’
DIA-202-1982-06-27-2カンボジア1982年06月27日1980年代シアヌーク大統領は彼および彼の派はソン・サン派に加わってもよい,と言明。
DIA-202-1982-06-28-1カンボジア1982年06月28日1980年代カンプチア人民革命党創立31周年記念集会。
DIA-202-1982-06-28-2カンボジア1982年06月28日1980年代東独の経済代表団来訪。
DIA-202-1982-07-02-1カンボジア1982年07月02日1980年代DKのシアヌーク大統領,フィリピンを訪問しマルコス大統領と会見。
DIA-202-1982-07-03-1カンボジア1982年07月03日1980年代DKのシアヌーク大統領,タイを訪問。途中7日以降,DK支配区を訪問。
DIA-202-1982-07-05-1カンボジア1982年07月05日1980年代タイ訪問中のシアヌーク大統領,タイのプミボン国王と会見。
DIA-202-1982-07-06-1カンボジア1982年07月06日1980年代ホー・チ・ミン市で第6回インドシナ3国外相会議。7日コミニケを発表し,ベトナム軍の一部撤退,東南アジア国際会議の開催などを提案。
DIA-202-1982-07-07-1カンボジア1982年07月07日1980年代ホー・チ・ミン市でPRKとベトナムの間に「歴史的水域についての協定」締結さる。
DIA-202-1982-07-09-1カンボジア1982年07月09日1980年代ムリナカ・グループに中国の武器が到着。
DIA-202-1982-07-09-2カンボジア1982年07月09日1980年代DK大統領シアヌーク殿下はカンボジア領内のDK支配区で,連合政府の構成を発表。
DIA-202-1982-07-12-1カンボジア1982年07月12日1980年代インドネシアの『ムルデカ』紙,ベトナムの部分撤退に真剣な考慮を与えるべきであると主張。
DIA-202-1982-07-15-1カンボジア1982年07月15日1980年代PRK,モスクワでソ連との82~85年経済・技術援助協定に調印。
DIA-202-1982-07-15-2カンボジア1982年07月15日1980年代在カンプチア・ベトナム軍,一部撤退を開始。
DIA-202-1982-07-17-1カンボジア1982年07月17日1980年代シアヌーク大統領,バンコクを出発し中国へ。
DIA-202-1982-07-17-2カンボジア1982年07月17日1980年代プノンペンでべトナム軍の歓送セレモニー。
DIA-202-1982-07-21-1カンボジア1982年07月21日1980年代PRKのソイ・ケオ総参謀長はベトナム軍の一部撤退はカンプチア情勢が安定したために実施されたと語った。
DIA-202-1982-07-22-1カンボジア1982年07月22日1980年代VODK,ベトナムはハチエンからカンポト州コンポンチャクヘ増援部隊を派遣と放送。
DIA-202-1982-07-22-2カンボジア1982年07月22日1980年代訪比中のソン・サンDK首相,マルコス大統領,ロムロ外相と会談。
DIA-202-1982-07-26-1カンボジア1982年07月26日1980年代『インドネシア・タイムズ』紙は社説で,シアヌークとヘン・サムリンの対話開始を呼びかける。
DIA-202-1982-07-27-1カンボジア1982年07月27日1980年代クメール・ルージュのキュー・サンパン,ヌオン・チェア,バタンバン州の軍民を訪問。
DIA-202-1982-07-27-2カンボジア1982年07月27日1980年代カンボジア国際会議の特別委員会のマサムバ・ザー・ル議長バンコク着。
DIA-202-1982-07-29-1カンボジア1982年07月29日1980年代タイの国家安全保障会議のプラソン局長はベトナムのタク外相と会談。
DIA-202-1982-07-30-1カンボジア1982年07月30日1980年代VODK,タケオ州にベトナム人が定住しようとしていると非難。
DIA-202-1982-07-30-2カンボジア1982年07月30日1980年代ICKの特別委員会のマサム・バザール委員長はタク外相とバンコクで会談。資格はセネガル大使として。
DIA-202-1982-07-31-1カンボジア1982年07月31日1980年代PRK,海域・大陸棚画定法公布。
DIA-202-1982-07-31-2カンボジア1982年07月31日1980年代バンコクで民間レベルのカンボジア国際会議。
DIA-202-1982-08-01-1カンボジア1982年08月01日1980年代カオイダン・キャンプのカンボジア難民の3分の1がベトナム人と戦うために帰国することを申し込む。
DIA-202-1982-08-01-2カンボジア1982年08月01日1980年代バンコクの Nation Review 紙,タク外相はタイのシティ外相との会談でクメール・ルージュが3派連合政府から撲除された時ベトナムはシアヌーク殿下と交渉するかも知れないとほのめかしたと報道。
DIA-202-1982-08-02-1カンボジア1982年08月02日1980年代中央宣伝・教育委代表団(CbunYanコンポン・スプー州宣伝・教育委員長)ソ連へ学習のため出発。
DIA-202-1982-08-03-1カンボジア1982年08月03日1980年代東独とカンプチア人職業訓練議定書に調印。
DIA-202-1982-08-05-1カンボジア1982年08月05日1980年代カンプチア人民革命党中央委組織局代表団(団長サイ・フートン政治局員党組織局長)ベトナム訪問。
DIA-202-1982-08-05-2カンボジア1982年08月05日1980年代プノンペン放送社説,ベトナムのタク外相の4カ国(シンガポール,ビルマ,マレーシア,タイ)訪問はこの地域の平和と安定に重要な貢献をしたと論評。
DIA-202-1982-08-07-1カンボジア1982年08月07日1980年代KPRPの通達,ベトナムの独立記念日を祝うよう各機関に命令。
DIA-202-1982-08-07-2カンボジア1982年08月07日1980年代バンコクでASEANの外相,カンボジア問題を協議。ベトナムのタク外相の訪問はハノイの政策に何等の変化がないことを明らかにしたという点で一致。
DIA-202-1982-08-09-1カンボジア1982年08月09日1980年代VODK,ベトナムはトラック70台の軍隊をアンジャン省からカンボジアヘ移送と報道。
DIA-202-1982-08-10-1カンボジア1982年08月10日1980年代チャン・シ首相来力中のベトナムのファム・カイ電力相と会見。8日,技術者の交換,部品援助で合意。
DIA-202-1982-08-11-1カンボジア1982年08月11日1980年代カイロ訪問中のキュー・サンパンDK副大統領,エジプト外相と会談。
DIA-202-1982-08-11-2カンボジア1982年08月11日1980年代シアヌーク大統領ユーゴ訪問。キュー・サンパン副大統領も12日合流。
DIA-202-1982-08-13-1カンボジア1982年08月13日1980年代VODK,PRKとベトナムとの海域画定および専管水域についての協定は無効であると論評。
DIA-202-1982-08-14-1カンボジア1982年08月14日1980年代民主カンボジア代表団(シアヌーク大統領,キュー・サンパン副大統領)ルーマニア訪問。
DIA-202-1982-08-15-1カンボジア1982年08月15日1980年代第1期第5国会。20日国家財産保護法と人民の苦情・告訴の調査と解決手続き法を採択。
DIA-202-1982-08-22-1カンボジア1982年08月22日1980年代国会代表団(チア・シム国会議長)ブルガリアヘ出発。
DIA-202-1982-08-24-1カンボジア1982年08月24日1980年代北京滞在中のシアヌーク大統領,万里副首相と会談。
DIA-202-1982-08-24-2カンボジア1982年08月24日1980年代プノンペン放送,ユーゴとルーマニアが裏切者シアヌークを迎えたことはカンプチアの内政に対する許すべからざる干渉であると非難。
DIA-202-1982-08-31-1カンボジア1982年08月31日1980年代カンプチア航空局は1982年9月7日よりプノンペン=ホー・チ・ミン市間を週2便運航すると発表。
DIA-202-1982-09-01-1カンボジア1982年09月01日1980年代プノンペン放送,カンボジア人民はソ連がとった中ソ関係改善のイニシアチブを支持すると論評。
DIA-202-1982-09-06-1カンボジア1982年09月06日1980年代情報・文化省代表団(Chheng Phon情報・文化相)ラオスへ。
DIA-202-1982-09-07-1カンボジア1982年09月07日1980年代『バンコク・ポスト』紙,ベトナムは8月に2個師団をカンボジアに派遣と報道。
DIA-202-1982-09-14-1カンボジア1982年09月14日1980年代シアヌーク大統領はパリで記者会見し,鄧小平副主席が「我々はカンボジアが中立,非同盟,独立,非共産主義であることを望む」と語ったと述べた。
DIA-202-1982-09-16-1カンボジア1982年09月16日1980年代ベトナム人民軍代表団(マイ・ヂン・ハイ人民軍総政治部長)来訪(~23日)。
DIA-202-1982-09-16-2カンボジア1982年09月16日1980年代VODK,DK特別攻撃隊は9月16日,プノンペンでベトナム軍兵士を襲撃,2人を殺害。
DIA-202-1982-09-17-1カンボジア1982年09月17日1980年代フン・セン外相,国連事務総長に「犯罪者」が国連の議席を占めていることを抗議。
DIA-202-1982-09-18-1カンボジア1982年09月18日1980年代PRKの Kong Korm外務次官と Hor Nam Hong 駐モスクワ大使はギニア・ビサウ,ケープ・ヴェルデ,ベニン,イエメン人民民主共和国,エチオピア,モザンビーク,セイシニル,マダガスカルを訪問。
DIA-202-1982-09-18-2カンボジア1982年09月18日1980年代シアヌーク大統領ニューヨーク入り。
DIA-202-1982-09-18-3カンボジア1982年09月18日1980年代ブリガリアの国会代表団(トドロフ国会議長・ブルガリア共産党政治局員)来訪。
DIA-202-1982-09-19-1カンボジア1982年09月19日1980年代VODK,1982年7月と8月にベトナムはプレイ・ベン州プレアム・チョル地区に1000戸のベトナム人家族を定住させるために送り込んだと報道。
DIA-202-1982-09-20-1カンボジア1982年09月20日1980年代プノンペン放送,カンダル州の武装勢力は7月と8月に208回の掃討作戦を行ない敵34人を逮捕した,彼らのなかにはシアヌーキスト,セレイカ・グループが含まれている,と報道。
DIA-202-1982-09-20-2カンボジア1982年09月20日1980年代バンコクの Nation Review 紙は,PRKのソ連人顧問は昨年の500~600人から800人に増加した,1979’}81年のソ連の援助は3億㌦であったが,1981~85年には10億㌦を約束した,ソ連は1981年9月モスクワを訪問したペン・ソバンにこの額をベトナムを経由せず直接PRKに供与することを約束したと報道。
DIA-202-1982-09-21-1カンボジア1982年09月21日1980年代PRKのモスクワ大使は政府はポル・ポトに指導されたクメール・ルージュ政権の支持者に対して大赦を行なうであろうと語った。
DIA-202-1982-09-30-1カンボジア1982年09月30日1980年代第57回国連総会でシアヌーク DK 大統領演説。
DIA-202-1982-09-30-2カンボジア1982年09月30日1980年代ASEAN 5カ国,カンプチアからのすべての外国軍の撤退と独立・主権の回復を求めた共同決議案を提出。
DIA-202-1982-10-05-1カンボジア1982年10月05日1980年代『バンコク・ポスト』紙,PRK外務省総務局長Di Lamtho1がクメール・セレイ派に降伏してきたと報道。
DIA-202-1982-10-08-1カンボジア1982年10月08日1980年代シアヌークDK大統領はワシントンでブッシュ米副大統領と会見。
DIA-202-1982-10-13-1カンボジア1982年10月13日1980年代タイのAInphaiphana Kankaset株式会社とDK商業省は6年間で100万立方mの木材(200億バーツ)を輸出する契約に調印。
DIA-202-1982-10-14-1カンボジア1982年10月14日1980年代バンコクのMatuphum 紙,Phnum Malai地区にDKの軍事司令部が設立されたと報道。
DIA-202-1982-10-17-1カンボジア1982年10月17日1980年代VODK:DK最高司令部は1982年雨期の戦果として,ベトナム軍兵士2万2000人を戦闘不能にし,ベトナム軍の脱走兵2859人,ヘン・サムリン軍の脱走兵1万2000人と発表。
DIA-202-1982-10-17-2カンボジア1982年10月17日1980年代PRKのチア・ソト副首相兼計画相はハンガリーTVとの会見で,カンプチアはいまだ食糧自給を達成していない,食糧配給は1人1月米15kgである。と語った。
DIA-202-1982-10-20-1カンボジア1982年10月20日1980年代タイのNation紙はフン・セン外相とホル・ナム・ホン元外務次官(現ソ連およびポーランド大使)の間の対立が激化しつつあると報道。
DIA-202-1982-10-21-1カンボジア1982年10月21日1980年代ディエン・デル将軍,同派暗殺事件にからみKPNLF軍参謀長を辞任。以後 Sak Sutsakhan将軍らの臨時軍事委員会が同派の指揮をとることになった。
DIA-202-1982-10-24-1カンボジア1982年10月24日1980年代雨期の9月30日までの稲の植付け面積は150万haで計画の95.12%を達成した。
DIA-202-1982-10-25-1カンボジア1982年10月25日1980年代エスマット代表以下の国連有毒物質調査チームタイを訪問。
DIA-202-1982-10-25-2カンボジア1982年10月25日1980年代国連総会,民主カンボジア連合政府の代表権を賛成90,反対29,棄権26で承認。
DIA-202-1982-10-26-1カンボジア1982年10月26日1980年代シアヌークDK大統領,国連総会で演説。
DIA-202-1982-10-26-2カンボジア1982年10月26日1980年代VODK,国連総会の多数票は民主カンボジアの代表権と正当性を今一度明確に示したと論評。
DIA-202-1982-10-26-3カンボジア1982年10月26日1980年代KPNLFのラジオ放送を開始。
DIA-202-1982-10-28-1カンボジア1982年10月28日1980年代国連総会,カンポジアの政治解決を求めた45カ国共同決議案を105対25,棄権20で採択。
DIA-202-1982-10-28-2カンボジア1982年10月28日1980年代ベトナムの財政省代表団(チュー・タム・トゥック財政相)来訪,31日,財政協定に調印。
DIA-202-1982-10-29-1カンボジア1982年10月29日1980年代PRK外務省,国連にはカンボジア問題について演ずべき役割は何もないと声明。
DIA-202-1982-10-30-1カンボジア1982年10月30日1980年代ソ連の軍事代表団(ウトキン・ソ連陸軍政治部副部長)来訪。
DIA-202-1982-11-05-1カンボジア1982年11月05日1980年代VODK,ソ連の軍事代表団のプノンペン訪問はベトナム軍の1982~83年の乾期作戦計画策定を援助するのが目的であると論評。
DIA-202-1982-11-07-1カンボジア1982年11月07日1980年代北京訪問中のキュー・サンパンDK副大統領は趙紫陽首相と会談。
DIA-202-1982-11-07-2カンボジア1982年11月07日1980年代プノンペンでソ連10月革命を祝う式典。
DIA-202-1982-11-10-1カンボジア1982年11月10日1980年代KPNLFは西部国境でのベトナム軍との戦闘で19人の兵士が黄毒ガスの被害をうけたと発表。
DIA-202-1982-11-12-1カンボジア1982年11月12日1980年代KPRP書記局はブレジネフ・ソ連共産党書記長の死を悼んで各機関が11月15日から3日間の喪に服するよう指令。
DIA-202-1982-11-13-1カンボジア1982年11月13日1980年代ヘン・サムリン議長,フン・セン外相,ブレジネフ書記長の葬儀出席のためモスクワヘ出発。
DIA-202-1982-11-16-1カンボジア1982年11月16日1980年代国会代表団(チア・シム国会議長),ベトナムとラオス訪問へ出発。
DIA-202-1982-11-16-2カンボジア1982年11月16日1980年代シアヌークDK大統領は平壌に到着し,金日成首席と会談。
DIA-202-1982-11-16-3カンボジア1982年11月16日1980年代タイのプラソン国家安全保障会議事務局長は,ベトナムは乾期攻勢に備えてカンボジア西部のベトナム軍部隊を増強している,と語った。
DIA-202-1982-11-18-1カンボジア1982年11月18日1980年代中国訪問中のタイのプレム首相は超首相とDKの抵抗を引き続き支援すること,ベトナム軍撤退の後,中立のカンボジアが出現することを望むことで一致した。
DIA-202-1982-11-20-1カンボジア1982年11月20日1980年代ソン・サンDK首相はシンガポールでリー・クワン・ユー首相と会談。
DIA-202-1982-11-20-2カンボジア1982年11月20日1980年代ソン・サンDK首相,中国訪問,趙紫陽首相と会談。
DIA-202-1982-11-23-1カンボジア1982年11月23日1980年代『バンコク・レビュー』紙は「中国は明らかにカンボジア政策を変えた」との社説を発表。
DIA-202-1982-11-24-1カンボジア1982年11月24日1980年代PPK外務省はシンガポールがシアヌーク派とソン・サン派に武器を送っていると非難した。
DIA-202-1982-11-25-1カンボジア1982年11月25日1980年代シアヌーク大統領は閣議のためのタイ行きをとりやめた。
DIA-202-1982-11-26-1カンボジア1982年11月26日1980年代マレーシアを訪問したルーマニアのチャウシェスク大統領は,ベトナム軍撤退によるカンボジア問題解決でマハティール首相と一致。
DIA-202-1982-11-26-2カンボジア1982年11月26日1980年代タイの国家安全保障局のプラソン事務局長はカンボジアからの木材搬出をストップするために国境を閉鎖すると発表した。
DIA-202-1982-11-30-1カンボジア1982年11月30日1980年代国家評議会定例会議,大使の召還および各省次官の任命と1982名3雨期の農産物買入れ価格と工業製品売渡し価格案を審議。
DIA-202-1982-12-02-1カンボジア1982年12月02日1980年代プノンペンでカンプチア国家建設・国防統一戦線(KUFNCDと略)の4周年記念集会。
DIA-202-1982-12-06-1カンボジア1982年12月06日1980年代中国のテレビ記者団,DK支配区を訪問。 13日メアス・サムナンエ業相はプノンペンでキューバのグエルメス通信相と1983-84年経済・技術・科学協力についての議定書に調印。
DIA-202-1982-12-14-1カンボジア1982年12月14日1980年代マレーシアを訪問中の仏のモーロア首相はフランスはカンボジア間題の早期解決に何らかの役割を演ずる用意があると語った。
DIA-202-1982-12-15-1カンボジア1982年12月15日1980年代VNAはベトナムがシアヌーク大統領に手紙を送ったとか,ベトナム外相がカンプチアの選挙にシアヌークが参加する可能性について語ったという報道を否定した。
DIA-202-1982-12-15-2カンボジア1982年12月15日1980年代ベトナムのタク外相はバンコクでベトナム軍の乾期攻勢はないだろうと語った。
DIA-202-1982-12-16-1カンボジア1982年12月16日1980年代PRKの党と政府の高級代表団(ヘン・サムリン議長,サイ・フタン中央組織委議長),ソ連邦結成60周年記念式典に出席するためモスクワヘ出発。
DIA-202-1982-12-17-1カンボジア1982年12月17日1980年代カンボジア国境のタイ軍警戒態勢に。
DIA-202-1982-12-18-1カンボジア1982年12月18日1980年代高級軍事代表団(ブー・タン国防相),ベトナム訪問へ。
DIA-202-1982-12-21-1カンボジア1982年12月21日1980年代DKのソン・サン首相はインドネシアを訪間しスハルト大統領と会談。
DIA-202-1982-12-21-2カンボジア1982年12月21日1980年代マレーシアのマハティー一ル首相はシアヌークDK大統領は非同盟首脳会議に招かれるべきであると語る。
DIA-202-1982-12-23-1カンボジア1982年12月23日1980年代ハノイでPRK人民革命軍とペトナム人民軍の間に軍事協力協定調印。
DIA-202-1982-12-24-1カンボジア1982年12月24日1980年代訪ソ中のヘン・サムリン議長,アンドロポフ書記長と会談。
DIA-202-1982-12-24-2カンボジア1982年12月24日1980年代シンガポールのリー・クワン・ユー首相バンコクを訪問,カンボジア問題を討議。
DIA-202-1982-12-25-1カンボジア1982年12月25日1980年代VODK,スベイリエン州にベトナム人家族140戸を移住させたと非難。
DIA-202-1982-12-25-2カンボジア1982年12月25日1980年代VODK,DK軍はプレア・ヴィヘル州でベトナム軍を襲撃し,46人を殺傷。
DIA-202-1982-12-28-1カンボジア1982年12月28日1980年代プノンペンで第2回KUFNCD全国大会。
DIA-202-1982-12-30-1カンボジア1982年12月30日1980年代シンガポールの『ストレート・タイムズ』紙によるとシアヌーク殿下はDK大統領としての外交・政治活動から時身を引きたいとの意向を側近にもらした。
DIA-202-1982-12-30-2カンボジア1982年12月30日1980年代タイ当局,サケオとプラヤ・カムフットの難民センターを閉鎖。今後カンボジア難民はカオイダン・センター(現在収容人員6万4000人)に集中する。
DIA-202-1983-01-10-1カンボジア1983年01月10日1980年代PRK、1982年の鉄道輸送量は11万1500㌧、そのうち籾3万5500㌧、肥料6万㌧、燃料4000㌧、乗客40万650人を運んだ。
DIA-202-1983-01-12-1カンボジア1983年01月12日1980年代『バンコク・ポスト』紙、、ベトナムがベルギーを介し、シアヌークDK大統領との接触を図ったと報道。
DIA-202-1983-01-13-1カンボジア1983年01月13日1980年代ESCAPのDK代表にソン・サン派のBun Sang、クメール・ルージュのPech Bunreyh大使は副団長に。
DIA-202-1983-01-16-1カンボジア1983年01月16日1980年代日本の社会党国会議員(下平正一)、DK地区を訪問し、キュー・サンパン副大統領と会談。
DIA-202-1983-01-17-1カンボジア1983年01月17日1980年代タイの国会代表団、プノンペン訪問。
DIA-202-1983-01-18-1カンボジア1983年01月18日1980年代シアヌークDK大統領北京訪問。20日胡耀邦中共総書記と会談。
DIA-202-1983-01-19-1カンボジア1983年01月19日1980年代PRK高級軍事代表団(団長Bou Thang国防相)ラオスを訪問。
DIA-202-1983-01-25-1カンボジア1983年01月25日1980年代ベトナムとの間に1983年貿易為替に関する議定書に調印。
DIA-202-1983-01-26-1カンボジア1983年01月26日1980年代プノンペンでカンプチア人民革命党(KPRP)中央委第5回総会28日まで開催。
DIA-202-1983-01-27-1カンボジア1983年01月27日1980年代シアヌーク大統領、DK地区で民主カンボジア連合政府の閣議を開催。
DIA-202-1983-01-27-2カンボジア1983年01月27日1980年代Tang Saroem対外貿易相、モスクワ訪問へ出発。
DIA-202-1983-01-28-1カンボジア1983年01月28日1980年代タイのシティ外相はシアヌーク大統領の故国訪問はDKについてのあらゆる噂を打消したと語った。
DIA-202-1983-01-28-2カンボジア1983年01月28日1980年代VODK(民主カンボジアの声放送)、ベトナム人の300家族がプレイベン省Kompong Trahek 地区に入植したと非難。
DIA-202-1983-01-29-1カンボジア1983年01月29日1980年代プノンペン放送、82年の豚飼育は前年比131%増、養鶏は117%増。1982年末現在、水牛42万606頭(8.48%増)、101万8810頭(91.4%増)と発表。
DIA-202-1983-01-31-1カンボジア1983年01月31日1980年代タイ軍部によるとベトナム軍の攻撃を受けて3万人がタイ側に避難。
DIA-202-1983-01-31-2カンボジア1983年01月31日1980年代北京のベトナム大使館はハノイはシアヌークを愛国者とみなしており、彼はラオスにおけるプーマ殿下の役割を与えられるであろうとの1月25日付『ル・モンド』紙記事を偽りであると否定した。
DIA-202-1983-01-31-3カンボジア1983年01月31日1980年代VODK・DK軍は1月23日コンポン・トムの戦場で同省のベトナム人知事、コンポン・スベイ県長を殺したと発表。
DIA-202-1983-02-02-1カンボジア1983年02月02日1980年代国連難民事務所によると82年にタイに到着したインドシナ難民は1万1261人(81年4万3260人)、タイのインドシナ難民は1981年の19万2998人から1982年には16万8909人となった。定住のための出国者は81年の10万2561人に対して3万3090人、うち米国へ1万9188人、仏へ7594人、オーストラリアへ3326人、カナダへ2109人。
DIA-202-1983-02-03-1カンボジア1983年02月03日1980年代DK連合政府外務省、1983年1月31日、ベトナム軍がノン・チャンのカンボジア難民収容所を攻撃し、これを破壊したと声明。
DIA-202-1983-02-03-2カンボジア1983年02月03日1980年代シアヌークDK大統領、北京でシュルツ米国務長官と会談。
DIA-202-1983-02-03-3カンボジア1983年02月03日1980年代PRKのフン・セン外相はシアヌーク殿下との話合いは現在も将来も問題にならないと語った。
DIA-202-1983-02-04-1カンボジア1983年02月04日1980年代モスクワでソ連との間に1983~85年貿易支払協定および1983議定書に調印。カンボジアの輸出品は天然ゴム・木材、煙草。ソ連側は石油製品、圧延板、機械その他。
DIA-202-1983-02-05-1カンボジア1983年02月05日1980年代プノンペンで第1期国会第4回会議開催。1982年予算執行状況と1983年予算、経済・文化計画の方向を検討。
DIA-202-1983-02-05-2カンボジア1983年02月05日1980年代シアヌークDK大統領は北京で中国がムリナカ派に武器援助を約束したこと、昨年8月ルーマニアのチャウシェスク大統領が反越3派とヘン・サムリン政権との新しい連合を造るよう提案したことを明らかにした。
DIA-202-1983-02-05-3カンボジア1983年02月05日1980年代チェコとの間に1983年貿易協力議定書調印。
DIA-202-1983-02-05-4カンボジア1983年02月05日1980年代DKのキュー・サンパン副大統領、開発と貿易に関する地域会議に出席のためイラクを訪問。
DIA-202-1983-02-14-1カンボジア1983年02月14日1980年代民主カンボジア国民軍の声(VONADK)放送始まる。
DIA-202-1983-02-15-1カンボジア1983年02月15日1980年代DKのソン・サン首相はパリで国連決議に沿わないならいかなる妥協案にも反対すると語った。
DIA-202-1983-02-20-1カンボジア1983年02月20日1980年代ビエンチャンでインドシナ3国外相会議開催。
DIA-202-1983-02-20-2カンボジア1983年02月20日1980年代VODK、コンポン・トム省ではベトナム軍がカンボジア人に村を出て耕作するのを禁じているため飢饉に陥っていると報道。
DIA-202-1983-02-22-1カンボジア1983年02月22日1980年代ビエンチャンでインドシナ首脳会議。
DIA-202-1983-02-24-1カンボジア1983年02月24日1980年代DK国防省、部分撤退の嘘にまどわされてはならないと声明。
DIA-202-1983-02-25-1カンボジア1983年02月25日1980年代グレナダ共和国の外相来訪。
DIA-202-1983-02-25-2カンボジア1983年02月25日1980年代プノンペンで世界平和協議会主催の「東南アジアの平和のための国際フォーラム」開催。
DIA-202-1983-03-04-1カンボジア1983年03月04日1980年代『バンコク・ポスト』紙ベトナム軍がバタムバンの飛行場を修復中と報道。
DIA-202-1983-03-06-1カンボジア1983年03月06日1980年代VODK、ベトナム人家族200戸が1月17日タケオ州、キリビン地区の村に入植したと報道。
DIA-202-1983-03-06-2カンボジア1983年03月06日1980年代シアヌークDK大統領はカンボジアの席を空席のままにするとの非同盟諸国外相会議の決定を非難。
DIA-202-1983-03-06-3カンボジア1983年03月06日1980年代チェコ連邦議会代表団(団長アロイス・インドラ議長)来訪。
DIA-202-1983-03-07-1カンボジア1983年03月07日1980年代プノンペン放送、第7回非同盟運動首脳会議を歓迎。
DIA-202-1983-03-11-1カンボジア1983年03月11日1980年代ベトナムのタク外相はニューデリーでASEANがプノンペン政権を承認しなくてもカンボジアについて対話は可能である。プノンペン政権の承認は前提ではないと語った。
DIA-202-1983-03-15-1カンボジア1983年03月15日1980年代ニカラグワ国家再建政府軍事委員会のD・オルテガ・サーベドラ首相兼司令官来訪。
DIA-202-1983-03-18-1カンボジア1983年03月18日1980年代DK、ソン・サン首相の司会で調整会議開催。
DIA-202-1983-03-23-1カンボジア1983年03月23日1980年代バンコクでカンボジア問題についてASEAN外相会議。ASEANメンバーとベトナムとの対話に留意するとの声明を発表。
DIA-202-1983-03-24-1カンボジア1983年03月24日1980年代DKのソン・サン首相はバンコクで西独のゲンシャー外相と会談。
DIA-202-1983-03-24-2カンボジア1983年03月24日1980年代VODK、カンボジア人民のフランス人民への公開状のなかで、ベトナム援助や外相訪問などフランスの対ベトナム政策は正しくないと非難した。
DIA-202-1983-03-25-1カンボジア1983年03月25日1980年代バンコクで開かれたASEANとEECの外相会議はカンボジア問題についてシアヌーク殿下を首班とする民主カンボジア連合政府の成立は政治解決を探求するうえでの重要な一歩であるとの見解を発表した。
DIA-202-1983-03-25-2カンボジア1983年03月25日1980年代DKのソン・サン首相、ベトナム軍のソン・サン派の難民収容所攻撃を非難。
DIA-202-1983-03-27-1カンボジア1983年03月27日1980年代ベトナムを訪問した仏のシェイソン対外関係相はベトナム抜きでカンボジアの将来を話しするのは無意味である、ベトナム軍の撤退の後、クメール・ルージュによって犯された前代未聞の恐怖がくり返されるのは望まないと語った。
DIA-202-1983-03-30-1カンボジア1983年03月30日1980年代プノンペンでマルクス死後100年の記念集会、チア・シム国会議長が演説。4月1日からプノンペンの旧シソワト大通りはカール・マルクス大通りと改名。
DIA-202-1983-03-31-1カンボジア1983年03月31日1980年代ベトナムの政府経済代表団来訪(団長ダン・ティ3国経済文化協力ベトナム委員会議長)。
DIA-202-1983-03-31-2カンボジア1983年03月31日1980年代ベトナム軍はDK軍拠点を攻撃し、クメール・ルージュのプノムチャットを占領。
DIA-202-1983-04-01-1カンボジア1983年04月01日1980年代キュー・サンパンDK副大統領、グループ77の第5回閣僚会議に出席のためブエノスアイレス到着。
DIA-202-1983-04-01-2カンボジア1983年04月01日1980年代DK連合政府のソン・サン首相はマレーシア、シンガポールを訪問。
DIA-202-1983-04-02-1カンボジア1983年04月02日1980年代ASEAN、ベトナム軍の攻勢を非難する特別共同声明を発表。
DIA-202-1983-04-04-1カンボジア1983年04月04日1980年代シアヌークDK大統領、ベトナム軍のオスマク・シアヌークボレイ地区攻撃を非難。
DIA-202-1983-04-08-1カンボジア1983年04月08日1980年代DKのソン・サン首相、カオイダンの難民キャンプを訪問し、ベトナム軍に抵抗するよう演説。
DIA-202-1983-04-10-1カンボジア1983年04月10日1980年代DK軍、ポイペト南方ノンクラのベトナム軍陣地を占領。
DIA-202-1983-04-11-1カンボジア1983年04月11日1980年代PRKのミース・クロク国防次官兼軍総政治部長ラオスを訪問。
DIA-202-1983-04-11-2カンボジア1983年04月11日1980年代PRKのスツンテン州の軍民は州都近くの森でDK軍を発見、27人を行動不能にした。
DIA-202-1983-04-12-1カンボジア1983年04月12日1980年代プノンペンでインドシナ3国臨時外相会議。共同コミュニケ―(1)ASEANとの対話を望む、(2)5月にベトナム軍の一部が撤退する、(3)タイの主権と領土を尊重する、(4)タイ・カンボジア国境に安全地帯を設置するとの提案を繰返す、(5)国境地帯の安全と平和維持のためのいかなる提案をも歓迎する。
DIA-202-1983-04-14-1カンボジア1983年04月14日1980年代DKゲリラはタクマウに駐屯するベトナム軍を攻撃、死者20人、負傷25人の損害を与えた。
DIA-202-1983-04-16-1カンボジア1983年04月16日1980年代タイのシティ外相はもしハノイがタイ国境から30キロメートル軍を引くなら、カンボジア問題を話し合うためにハノイを訪問してもいいと語った。
DIA-202-1983-04-17-1カンボジア1983年04月17日1980年代VODK、民主カンボジア成立8周年を祝う。
DIA-202-1983-04-18-1カンボジア1983年04月18日1980年代ソ連のグロムイコ外相、モスクワでインドシナの3大使と会見。
DIA-202-1983-04-21-1カンボジア1983年04月21日1980年代シアヌークDK大統領は北京で李先念政治局員と会談。
DIA-202-1983-04-23-1カンボジア1983年04月23日1980年代シアヌークDK大統領、ミッテラン大統領の招きでパリを訪問。
DIA-202-1983-04-24-1カンボジア1983年04月24日1980年代VODK、DKゲリラ、ポチェントン空港近くに駐屯するベトナム軍を攻撃。死者45、負傷23の損害を与えた。
DIA-202-1983-04-30-1カンボジア1983年04月30日1980年代DKのシアヌーク大統領はバタムバン州プヌム・マライ地区のDK本部でマレーシア、中国、バングラデシュ、北朝鮮、モーリタニアの各大使から信任状を受けとった。
DIA-202-1983-05-01-1カンボジア1983年05月01日1980年代シアヌーク大統領、DK地区で連合政府閣議を主宰。ソン・サン首相は欠席。
DIA-202-1983-05-02-1カンボジア1983年05月02日1980年代ベトナム軍の一部、プノンペンを通って撤退。
DIA-202-1983-05-03-1カンボジア1983年05月03日1980年代PRKのブー・タン国防相、ウスチノフ国防相の招待でソ連訪問へ。
DIA-202-1983-05-04-1カンボジア1983年05月04日1980年代シアヌークDK大統領マレーシア訪問。
DIA-202-1983-05-04-2カンボジア1983年05月04日1980年代AFP、4月中旬プノンペンで反政府分子による爆発が2回もあり15人が死亡したと報道。
DIA-202-1983-05-06-1カンボジア1983年05月06日1980年代『ル・モンド』紙、ベトナム移民に関するPRKの党書記局文書と閣議通達を紹介。
DIA-202-1983-05-06-2カンボジア1983年05月06日1980年代DK連合政府のソン・サン首相はオーストラリア、ニュージーランドを訪問。
DIA-202-1983-05-06-3カンボジア1983年05月06日1980年代カンプチア紙社説、ベトナム軍の撤退はカンボジア革命の進展とベトナムの善意を示すものである。
DIA-202-1983-05-06-4カンボジア1983年05月06日1980年代タイのNSCのプラソン事務局長は撤退した部隊に代わって新たにコンポントムに駐留していた第309師団がパイリン地区に展開していると語った。
DIA-202-1983-05-10-1カンボジア1983年05月10日1980年代シアヌークDK大統領、バタムバン州でプヌムマライ地区でパキスタン大使の信任状を受けとる。
DIA-202-1983-05-12-1カンボジア1983年05月12日1980年代タイのNSCのプランン事務局長はベトナムは一部撤退の後、新たに2000人の兵をカンダル州に送り込んだと語った。
DIA-202-1983-05-14-1カンボジア1983年05月14日1980年代チェコを訪問中のPRKのブータン国防相はフサク党書記長と会見。
DIA-202-1983-05-15-1カンボジア1983年05月15日1980年代オーストラリアのボーウェン副首相は、ベトナム軍の撤退後のカンボジアの治安維持のために日豪平和維持軍の派遣を提案した。
DIA-202-1983-05-20-1カンボジア1983年05月20日1980年代プノンペン放送、中曽根首相のASEAN訪問について東京は依然としてポル・ポト一派の犯罪に気づかない振りをし、カンプチアの現実に眼をつぶっていると論評した。
DIA-202-1983-05-24-1カンボジア1983年05月24日1980年代国連人道援助機構、カンボジア難民に追加援助を決定。日本420万㌦、中国10万㌦等。
DIA-202-1983-05-29-1カンボジア1983年05月29日1980年代VODK、5月初めベトナム人家族400戸がクラチエ市付近に移住し、400㌶の農地を没収した。
DIA-202-1983-05-29-2カンボジア1983年05月29日1980年代VODK、DK国民軍はカムポト州チュック地区のベトナム軍陣地を占領。
DIA-202-1983-05-29-3カンボジア1983年05月29日1980年代シアヌーク大統領は北京での『ル・モンド』紙と会見し、ヘン・サムリン政権の代表をも含めた国民連合の構想こそ現実的な平和への道であると語った。
DIA-202-1983-05-30-1カンボジア1983年05月30日1980年代VODK、ベトナム軍はクラチエやラタナキリからスツン・チエンへ兵を運んだが、うち190人が脱走し、ベトナムに帰ってしまった。
DIA-202-1983-06-01-1カンボジア1983年06月01日1980年代ベトナム軍の撤退は5月31日完了。
DIA-202-1983-06-01-2カンボジア1983年06月01日1980年代シアヌーク殿下は北京で、ソン・サン首相との関係がよくないために連合政府から脱退するかもしれない、と語った。
DIA-202-1983-06-02-1カンボジア1983年06月02日1980年代DK軍、シソフォン地区のオタケ村など八つの村を解放。
DIA-202-1983-06-06-1カンボジア1983年06月06日1980年代プノンペン放送、シエム・レアプ州の軍民は敵60人を殺し、11人を捕えた。降伏したもの7名。山や森に逃げていたもの67人が革命の側に帰ってきた。
DIA-202-1983-06-07-1カンボジア1983年06月07日1980年代PRKのコン・コルム外務次官は共同通信に、シアヌークとは取引きしない、彼の4派連合の提案は、DK連合政府の弱さを示すものであると語った。
DIA-202-1983-06-09-1カンボジア1983年06月09日1980年代タイのシティ外相とベトナムのタク外相会談。
DIA-202-1983-06-13-1カンボジア1983年06月13日1980年代DK軍放送、5月21日アンルン・チュレイでPRKに徴募されたカンボジア人兵士400人が脱走。
DIA-202-1983-06-16-1カンボジア1983年06月16日1980年代タイ軍部によるとベトナム軍はオダール・メアンチャイ州サムロン地区に駐屯するPRK軍第286歩兵師団を民主カンボジアを支持しているという理由で武装解除し、師団長ほかカンボジア人高級将校を逮捕した。
DIA-202-1983-06-16-2カンボジア1983年06月16日1980年代タイはASEANを代表してシアヌーク殿下に大統領の職にとどまるよう要請した。
DIA-202-1983-06-19-1カンボジア1983年06月19日1980年代PRK武装勢力創立32周年。1951年6月19日イサラク軍として誕生。
DIA-202-1983-06-24-1カンボジア1983年06月24日1980年代バンコクでのASEAN閣僚会議、カンボジア問題を討議。
DIA-202-1983-06-24-2カンボジア1983年06月24日1980年代タイの新聞によると、ヘン・サムリン政権のソ連に対する債務は1981年の8000万㌦から1983年には2億4000万㌦となった。
DIA-202-1983-06-25-1カンボジア1983年06月25日1980年代バンコク空港に立寄ったシアヌークDK大統領に対してASEAN5カ国の外相が出迎えた。
DIA-202-1983-06-26-1カンボジア1983年06月26日1980年代VODK、ASEAN外相会議の立場を歓迎。
DIA-202-1983-06-27-1カンボジア1983年06月27日1980年代インドネシア訪問中のシアヌークDK大統領はスハルト大統領と会談。
DIA-202-1983-06-27-2カンボジア1983年06月27日1980年代バンコクでASEANと先進国6カ国の外相会議。 ASEAN側はベトナムがカンボジアから撤退するように先進国6カ国が圧力をかけることを求めた。
DIA-202-1983-06-27-3カンボジア1983年06月27日1980年代タイの国連代表はDK連合政府を構成する反越3派のそれぞれの代表が現在のクメール・ルージュ代表に代わって国連に出席することになろうと語った。
DIA-202-1983-06-28-1カンボジア1983年06月28日1980年代クメール人民革命党創立32周年記念式典。
DIA-202-1983-06-30-1カンボジア1983年06月30日1980年代インドシナ3国経済・文化協力委員会会議開催のためベトナムとラオスの代表団来訪。
DIA-202-1983-06-30-2カンボジア1983年06月30日1980年代KPRP中央委員会第6回会議が27日から30日まで開かれた。
DIA-202-1983-07-03-1カンボジア1983年07月03日1980年代ハノイを訪問したオーストラリアのヘイドン外相はバンコクでカンボジア問題の解決にはすべての方面が柔軟さを示さなければならない、この問題で鍵を握っている中国は過去にとった態度を柔らげた兆候をいまだ示していないと語った。
DIA-202-1983-07-03-2カンボジア1983年07月03日1980年代VODKはカンボジアで実施されているベトナム化政策を非難した。ベトナム人の移住が増えて、カンボジア在住のベトナム人は40万人に達した。
DIA-202-1983-07-08-1カンボジア1983年07月08日1980年代カンボジア貿易省に責任をもつ輸出入公社Kampeximは、83年上半期に5500㌧クレプ・ゴムを輸出した。
DIA-202-1983-07-10-1カンボジア1983年07月10日1980年代カンボジア問題を討議するために訪中したタイ外務省高官は中国とタイは9月の国連総会でDKの議席を守ることに全力をつくすことで合意したと述べた。
DIA-202-1983-07-13-1カンボジア1983年07月13日1980年代タイ軍部筋によるとベトナム軍がヘン・サムリン政権の地方幹部で抵抗勢力に好意を示すものや住民の反ベトナム行動を支持するものをパージし始めたので多数の住民(約1500人)がタイ国境沿いのKPNLF地区に避難してきた。
DIA-202-1983-07-19-1カンボジア1983年07月19日1980年代プノンペンで第7回インドシナ外相会議。
DIA-202-1983-07-20-1カンボジア1983年07月20日1980年代カンボジアとベトナムの両外相はプノンペンで両国国境問題の解決を規定する諸原則に関する協定に調印。双方は1954年使用のインドシナ地理局の10万分の1地図に示された国境線を国境とみなすことに同意した。
DIA-202-1983-07-23-1カンボジア1983年07月23日1980年代民主カンボジア外務省、ベトナムとの国境協定は無効であると声明。.
DIA-202-1983-07-25-1カンボジア1983年07月25日1980年代PRK閣僚会議は農業生産増産のため旱ばつと闘うよう農民に通達を出す。
DIA-202-1983-07-27-1カンボジア1983年07月27日1980年代PRK外務省声明は、タイがタイ・カンボジアの国境標識を動かしていること、国境沿いのカンボジア村落の名称をタイ名にしていることを非難した。
DIA-202-1983-07-27-2カンボジア1983年07月27日1980年代タイの新聞によるとクメール・ルージュはその支配区廟仏教の伝統的行事を復活したり、服装を自由化したり、市場を作り商業活動を許すなどの行政改革を行なっている。
DIA-202-1983-07-29-1カンボジア1983年07月29日1980年代ビエンチャンでインドシナ3国のメコン委員会会議PRKのコン・サモル農業相が出席。
DIA-202-1983-07-30-1カンボジア1983年07月30日1980年代タイを訪問した中国の呉外相は中越関係はベトナムがカンボジアからその軍隊を無条件に撤退すれば正常化されよう、当面の差し迫った任務は政治解決に必要な条件を作るためにシアヌーク殿下の反越連合政府への支援を強めることであると語った。
DIA-202-1983-08-03-1カンボジア1983年08月03日1980年代KPNLFによると北西部諸州では州知事を含むPRK官吏が300人以上もベトナム軍によって逮捕された。
DIA-202-1983-08-03-2カンボジア1983年08月03日1980年代カンプチア紙によると現在全国に約9万5300の農業生産団結組が存在し、これに134万戸が参加している。団結組の耕地は10~20㌶である。
DIA-202-1983-08-05-1カンボジア1983年08月05日1980年代プノンペン放送によればベトナムのボー・バン・キエト副首相が7月ラタナキリ州を訪問した。
DIA-202-1983-08-05-2カンボジア1983年08月05日1980年代プノペン放送、ベトナム軍がヘン・サムリン政権の幹部をパージしているとの報道はデマだと否定。
DIA-202-1983-08-06-1カンボジア1983年08月06日1980年代VODK、DK軍は、コンポン・チャム州メモト地区で3000人の同胞を解放。
DIA-202-1983-08-09-1カンボジア1983年08月09日1980年代ハンガリーと経済援助協定調印。
DIA-202-1983-08-15-1カンボジア1983年08月15日1980年代PRK国会第5回会議。過去6カ月の国家計画執行状況を検討。チア・シム議長は敵の陰謀で経済困難、人民の生活水準、人民と国家の負担は重くなっていると演説。
DIA-202-1983-08-16-1カンボジア1983年08月16日1980年代PRKの国家建設・防衛統一戦線全国協議会のヨス・ポル書記長は国会で1975年4月から1979年1月までに274万6105人がポル・ポト政権によって殺されたという報告を行なった。
DIA-202-1983-08-18-1カンボジア1983年08月18日1980年代KPNLFの機関紙はベトナムがプノンペン政権と進めている姉妹都市、姉妹州づくりはインドシナ連邦構想具体化の一環であると非難した。
DIA-202-1983-08-18-2カンボジア1983年08月18日1980年代タイ軍当局はカンボジア領内におけるベトナム人とカンボジア人の反目は団結村に強制移住させること、そこでは村長はじめ役人にはベトナム人が任命されること、さらにはトンレサップ湖の漁業権の争いが原因になっていると語った。
DIA-202-1983-08-23-1カンボジア1983年08月23日1980年代DK軍放送、DKゲリラはコンポン・チャム州コンボン・シエム地区でベトナム軍トラックを攻撃、ソ連人8人を殺し、4人を負傷させた。
DIA-202-1983-08-25-1カンボジア1983年08月25日1980年代VODK、ソ連船がコンポン・ソム港に戦車や大砲を陸揚げしたと放送。
DIA-202-1983-08-27-1カンボジア1983年08月27日1980年代プノンペン放送、コンボントム州コンポンスヴェイ地区でDKゲリラ65人が帰順したと報道。
DIA-202-1983-08-27-2カンボジア1983年08月27日1980年代KPRP中央委通達、ベトナムの国慶節を祝賀し、両国の団結と協力を増進させるよう指令。
DIA-202-1983-08-29-1カンボジア1983年08月29日1980年代VODK、ベトナム化政策によりカンダル州カオ・トム地区では人口の90%がベトナム人になった。
DIA-202-1983-09-02-1カンボジア1983年09月02日1980年代プノンペンでベトナムの国慶節を祝う集会。
DIA-202-1983-09-07-1カンボジア1983年09月07日1980年代DKのソン・サン首相はワシントンで「これまでベトナムはカンボジアに60万人の移民を送り込んできた。これには18万の駐留軍は含まれない。このままでゆくとカンボジアはベトナムに併合される」と演説した。
DIA-202-1983-09-07-2カンボジア1983年09月07日1980年代KPRP中央委書記局は旱ばつのため田植えに遅れが出ているので、この雨期作に努力するよう通達を出した。1983年8月30日までに80万㌶の田植えが完了したが、これは計画の50%にしかすぎない。
DIA-202-1983-09-10-1カンボジア1983年09月10日1980年代ソ連との間に経済協力協定調印。
DIA-202-1983-09-13-1カンボジア1983年09月13日1980年代PRK外務省、タイの侵略白書を発表。
DIA-202-1983-09-15-1カンボジア1983年09月15日1980年代米国の下院外交委員会アジア・太平洋地域委の主催でカンボジアに関するシンポジウム。
DIA-202-1983-09-16-1カンボジア1983年09月16日1980年代クメール・ルージュ軍がシアヌーク派の兵士30人を取り囲み武装解除した、DK連合政府派閥間のとくにクメール・ルージュによる他派の攻撃が頻発していると、10月2日AFPは報道している。
DIA-202-1983-09-16-2カンボジア1983年09月16日1980年代PRK計画経済省は1984年度国家計画を討議。チア・ソト計画・経済相は工業を復興し、輸出を増加させるために農業生産の増加に重点を置くよう指示した。
DIA-202-1983-09-20-1カンボジア1983年09月20日1980年代PRKのフン・セン外相はモスクワでソ連のグロムイコ外相と会談。
DIA-202-1983-09-20-2カンボジア1983年09月20日1980年代PRK外務省、「ベトナム居留民に対する政策」という文書を発表。1979年以後1983年半ばまでに5万6000人がカンボジアへ帰ってきたとしている。
DIA-202-1983-09-21-1カンボジア1983年09月21日1980年代ASEAN各国はカンボジア問題について共同アピールを発表。その中でタイ・カンボジア国境からのベトナム軍の撤退が政治解決へつながると訴えている。
DIA-202-1983-09-22-1カンボジア1983年09月22日1980年代タイ軍筋によるとベトナム軍はPRKの自衛民兵を10万の兵力にするためにカンボジア人の徴募訓練を強化している。
DIA-202-1983-09-22-2カンボジア1983年09月22日1980年代タイ軍当局によるとベトナム軍はコンポン・ンムの近くにソ連の援助で大飛行場を建設中である。
DIA-202-1983-09-24-1カンボジア1983年09月24日1980年代ベトナム軍、アムピルのソン・サン派の拠点を攻撃、攻撃は3日間も続いている。
DIA-202-1983-09-25-1カンボジア1983年09月25日1980年代DK軍、チャンタナブリ州に面したベトナム軍陣地を攻撃中と発表。
DIA-202-1983-09-28-1カンボジア1983年09月28日1980年代この9月でバタムバン市から2400人が国境のアムピル難民キャンプに脱出してきた。
DIA-202-1983-09-29-1カンボジア1983年09月29日1980年代オーストラリアはASEANに対してカンボジアに関する共同提案国にはならないと通告した。
DIA-202-1983-09-29-2カンボジア1983年09月29日1980年代ベトナムはタイに対してインドシナ諸国とASEANとの話し合いを再び提案した。
DIA-202-1983-10-01-1カンボジア1983年10月01日1980年代VODK、ベトナム軍がコンポン・チュナン州で青年を狩り集め訓練のためベトナムへ送った。
DIA-202-1983-10-02-1カンボジア1983年10月02日1980年代ASEANの外相グループはオーストラリアの決定を不満とし報復行動に出ることで一致した。
DIA-202-1983-10-02-2カンボジア1983年10月02日1980年代ASEAN外相グループはカンボジアからのベトナム軍撤退の要求を取り下げるようにとのベトナムの提案を拒否した。
DIA-202-1983-10-04-1カンボジア1983年10月04日1980年代シアヌークDK大統領、第38回国連総会で、約60万のベトナム人がカンボジアに送り込まれていると演説し、ASEANアピールを部分的に承認した。
DIA-202-1983-10-05-1カンボジア1983年10月05日1980年代プノンペン放送、ASEAN諸国はカンボジアについて古い立場を捨ててはいないと論評。
DIA-202-1983-10-05-2カンボジア1983年10月05日1980年代アルバニアはPRKを公式に承認した。
DIA-202-1983-10-07-1カンボジア1983年10月07日1980年代ベトナムのタク外相は国連で演説し、東南アジアの問題は国連の枠外で解決さるべきであると述べた。
DIA-202-1983-10-10-1カンボジア1983年10月10日1980年代KPRP対外関係委員会代表団(プラク・スン副議長)はソ連を訪問した。
DIA-202-1983-10-11-1カンボジア1983年10月11日1980年代プノンペン放送は国連総会で表明されたベトナム外相の四つの立場は論理的で理性的でありかつ善意のものであると論評。
DIA-202-1983-10-12-1カンボジア1983年10月12日1980年代国連審査委員会、民主カンボジア(DK)の代表権を受理。
DIA-202-1983-10-13-1カンボジア1983年10月13日1980年代DK連合政府、ベトナム移民について声明。
DIA-202-1983-10-13-2カンボジア1983年10月13日1980年代ベトナムのタク外相はパリでベトナムは少なくとも後5年は撤退しないと語った。
DIA-202-1983-10-15-1カンボジア1983年10月15日1980年代DK国民軍最高司令部は1983年度雨期の戦果を発表、それによると2万1301人のベトナム軍兵士を殺すか、負傷させた、他に1万2382人を戦闘不能にした。
DIA-202-1983-10-19-1カンボジア1983年10月19日1980年代プノンペンで9月28日のアンドロポフ・ソ連共産党書記長の声明を支持する集会。
DIA-202-1983-10-20-1カンボジア1983年10月20日1980年代第38回国連総会は民主カンボジアの代表権を投票なしで承認。
DIA-202-1983-10-21-1カンボジア1983年10月21日1980年代PRK外務省声明。国連総会はカンボジアの代表権について誤った決定を行なった。
DIA-202-1983-10-24-1カンボジア1983年10月24日1980年代キューバの高級国会代表団(フラビオ・ブラボ・パルド国会議長)来訪。
DIA-202-1983-10-24-2カンボジア1983年10月24日1980年代モンゴルの高級軍事代表団(ジャスランギン・ヨンドン国防相)来訪。
DIA-202-1983-10-25-1カンボジア1983年10月25日1980年代タイ軍筋によると、約300人の中国系カンボジア人(華僑)がタイ国境に逃亡してきた。ベトナムは自国民を移すため、カンボジア人を追い出している。
DIA-202-1983-10-27-1カンボジア1983年10月27日1980年代国連総会はカンボジアからの外国軍隊の撤退を求めた決議案を105対23で可決した。
DIA-202-1983-11-02-1カンボジア1983年11月02日1980年代プノンペンでロシア10月革命記念集会。
DIA-202-1983-11-02-2カンボジア1983年11月02日1980年代VODK、国連決議を尊重させるためにベトナムにもっと圧力をかける必要があると報道。
DIA-202-1983-11-06-1カンボジア1983年11月06日1980年代タイのシティ外相はクリアンサク元首相らタイ国会議員のベトナム訪問には反対しないが、カンボジアへの旅行には反対であると語った。
DIA-202-1983-11-07-1カンボジア1983年11月07日1980年代ジャカルタでASEAN外相会議。
DIA-202-1983-11-10-1カンボジア1983年11月10日1980年代VODK、コンポン・チャム州スツン・チャン地区でベトナム軍はDKゲリラと関係があるとしてクメール人の将校と兵士400人を逮捕したと報道。
DIA-202-1983-11-10-2カンボジア1983年11月10日1980年代PRK外務省、米のニカラグア干渉を非難。
DIA-202-1983-11-11-1カンボジア1983年11月11日1980年代ASEAN外相会議は9月のASEAN提案を具体的なものにするために事務会議を設置することを決定した。
DIA-202-1983-11-13-1カンボジア1983年11月13日1980年代シアヌーク派とソン・サン派は今乾期に合同作戦を展開することで一致した。
DIA-202-1983-11-13-2カンボジア1983年11月13日1980年代シアヌーク派とソン・サン派は共同の移動放送局を設置し、今月から「カンボジア人民の声」として放送の予定。
DIA-202-1983-11-14-1カンボジア1983年11月14日1980年代ハンガリーの経済代表団(ヤノス・ボルバンディ副首相)来訪。
DIA-202-1983-11-17-1カンボジア1983年11月17日1980年代タイ軍筋によるとソ連が建設していたコンポン・ソム近くの空港が完成し、すでに使用中である。
DIA-202-1983-11-17-2カンボジア1983年11月17日1980年代モンゴルの国会代表団(Demchigiyn Molomjamts 政治局員兼党書記)来訪。
DIA-202-1983-11-17-3カンボジア1983年11月17日1980年代ハンガリーと経済・科学・技術協力協定を結ぶ。
DIA-202-1983-11-18-1カンボジア1983年11月18日1980年代タイ軍筋によると戦車や装甲車を伴ったベトナム軍1個師団(5000~6000人)がタイ国境に展開している。
DIA-202-1983-11-18-2カンボジア1983年11月18日1980年代インドネシアを訪問した仏のシェイソン外相は、ASEANアピールはカンボジア問題を解決するための努力の重要な一環であると評価した。
DIA-202-1983-11-20-1カンボジア1983年11月20日1980年代ヘン・サムリン議長、来訪中のポーランド外相と会見。
DIA-202-1983-11-22-1カンボジア1983年11月22日1980年代タイを訪問したオーストラリアのホーク首相はオーストラリアもASEANもカンボジアについてベトナム軍の撤退とカンボジア国民の自決という共通の基本目標を持っていると語った。
DIA-202-1983-11-23-1カンボジア1983年11月23日1980年代ベトナムとの間に1984年度水利協力に関する覚え書きに調印。
DIA-202-1983-11-23-2カンボジア1983年11月23日1980年代ベトナム軍、タイ国境に集結。
DIA-202-1983-11-25-1カンボジア1983年11月25日1980年代カンプチア革命青年協会第1回全国大会開催。
DIA-202-1983-11-29-1カンボジア1983年11月29日1980年代ヘン・サムリン議長の司会で国家評議会開催。
DIA-202-1983-12-02-1カンボジア1983年12月02日1980年代プノンペンでカンボジア救国戦線成立5周年記念式典。
DIA-202-1983-12-04-1カンボジア1983年12月04日1980年代ソン・サン派の軍はバタムバン州Phum Thmeiのベトナム軍陣地を攻略した。
DIA-202-1983-12-05-1カンボジア1983年12月05日1980年代PRKの鉄道2路線700キロメートル、道路1万7000キロメートルがベトナムの援助で修復された。
DIA-202-1983-12-06-1カンボジア1983年12月06日1980年代プノンペン人民法廷で反革命分子10人の裁判。
DIA-202-1983-12-07-1カンボジア1983年12月07日1980年代Far Eastern Economic Review 誌によるとPRKの前首相兼人民革命党書記長であったペン・ソバン氏が1年にわたるソ連での療養を終えて帰国した。同氏は正式に復権してはいないが、同氏の帰国はソ連の影響力増大を意味するものと受取られている。
DIA-202-1983-12-07-2カンボジア1983年12月07日1980年代プノンペンでカンプチア労働組合連合第1回全国大会。代議員302人が出席した。
DIA-202-1983-12-08-1カンボジア1983年12月08日1980年代ベトナム共産党対外関係部代表団(団長ブ・クワン中央委員兼党対外関係部長)来訪。
DIA-202-1983-12-09-1カンボジア1983年12月09日1980年代プノンペンでインドシナ3国の経済・文化協力委員会議長の第2回会議。
DIA-202-1983-12-13-1カンボジア1983年12月13日1980年代反越3派の首脳、揃って中国を訪問。
DIA-202-1983-12-15-1カンボジア1983年12月15日1980年代KUFNCD全国協議会第3回総会。過去5年の仕事を検討し、1984年の任務を設定することが課題。
DIA-202-1983-12-16-1カンボジア1983年12月16日1980年代VODK、カンボジア人民はDK連合政府代表の中国訪問を喜んでいると論評。
DIA-202-1983-12-16-2カンボジア1983年12月16日1980年代クアラルンプールで開かれたASEAN高級事務会議はカンボジア問題の政治解決を達成するための方法を検討した。
DIA-202-1983-12-17-1カンボジア1983年12月17日1980年代クメール・ソビエト友好病院は1日に500人の患者を診療できるまでに復興しているが、ソ連の援助で84年は全面診療が可能になる予定。
DIA-202-1983-12-18-1カンボジア1983年12月18日1980年代プノンペンでベトナム人民軍創立39周年記念式典(12月22日)。
DIA-202-1983-12-19-1カンボジア1983年12月19日1980年代KPRP中央委第7回会議開催。
DIA-202-1983-12-20-1カンボジア1983年12月20日1980年代プノンペン放送、反越3首脳の北京訪問を「北京のもう一つの悪だくみ」と論評。
DIA-202-1983-12-22-1カンボジア1983年12月22日1980年代バンコク・ポスト紙、ベトナムはかつてない規模の乾期大攻勢をかけようとしていると報道。
DIA-202-1983-12-25-1カンボジア1983年12月25日1980年代ベトナム軍の攻勢を予想してカンボジア国境のタイ軍は警戒体制に置かれている。
DIA-202-1983-12-29-1カンボジア1983年12月29日1980年代タイ軍部は25基のソ連のミサイルSAM―6がタイ・カンボジア国境に配置されていることの意味を検討中。
DIA-202-1984-01-01-1カンボジア1984年01月01日1980年代(ベトナム通信=以下VNA)カンボジア(PRK)で現在64工場が操業,労働者1万4500人。約1万1600人が集団あるいは私的小工業で労働。
DIA-202-1984-01-02-1カンボジア1984年01月02日1980年代プノンペン放送:ケオ・チャンダ・プノンペン市人民革命委議長発言:過去5年で,工業省所属企業・工場の80%以上が再建,市支配下の企業・工場30以上が再建された。婦人・青年・ピオニールなど大衆組織メンバーは9万1063人。
DIA-202-1984-01-04-1カンボジア1984年01月04日1980年代プノンペンでベトナム義勇兵記念碑落成式。
DIA-202-1984-01-06-1カンボジア1984年01月06日1980年代PRKフン・セン外相,カンボジアにかつて在住したベトナム人50万人のうち5万6000人のみがもどってきたが,中国系住民は5州・市のみでも6万1000人と言明。
DIA-202-1984-01-07-1カンボジア1984年01月07日1980年代プノンペンでヘン・サムリン政権,建国5周年記念集会。市民17万人が街頭に。
DIA-202-1984-01-07-2カンボジア1984年01月07日1980年代アンピル・キャンプ:クメール人民民族解放戦線(KPNLF)議長にソン・サン再任。
DIA-202-1984-01-19-1カンボジア1984年01月19日1980年代ブルガリア政府代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1984-01-19-2カンボジア1984年01月19日1980年代ベトナム食品省代表団,プノンペン入り。
DIA-202-1984-01-23-1カンボジア1984年01月23日1980年代ベトナム水産省代表団,プノンペン訪問。
DIA-202-1984-01-24-1カンボジア1984年01月24日1980年代DK 3派首脳,カンボジア領内基地で閣議開催。
DIA-202-1984-01-24-2カンボジア1984年01月24日1980年代ソン・サン派,シアヌーク派と合同で,カンボジア語での「クメール民族主義者放送」開始。
DIA-202-1984-01-24-3カンボジア1984年01月24日1980年代プノンペン放送:1月初めまでに,雨期作米90万ha(作付地の60%)で収穫,乾期作米3000ha(計画の20%)で田植完了。
DIA-202-1984-01-25-1カンボジア1984年01月25日1980年代プノンペン:ソ連・ヘン・サムリン政権,海上物資輸送協定調印。
DIA-202-1984-01-26-1カンボジア1984年01月26日1980年代DKシアヌーク,ポル・ポト派プムトメイ基地訪問,ユーゴとエジプト大使から信任状受領。
DIA-202-1984-01-28-1カンボジア1984年01月28日1980年代ビエンチャンでインドシナ3国外相会議。29日,同会議はコミュニケ発表。ヘン・サムリン政権抜きでのASEANとの対話,人道的問題での米国との協力用意,84年もカンボジアからのベ軍部分撤退への希望など,表明。
DIA-202-1984-01-28-2カンボジア1984年01月28日1980年代民主カンボジア放送(以下民主カ放送):1月19~20日,ゲリラ,コンポントム市攻撃,知事ら殺害,と報道。
DIA-202-1984-01-30-1カンボジア1984年01月30日1980年代DKシアヌーク大統領,タトム・キャンプで会見。タイに大使交換よびかけ。
DIA-202-1984-01-31-1カンボジア1984年01月31日1980年代民主カ放送:ゲリラ,1月27日シエムレアップ攻撃,ベトナム兵50人殺害。
DIA-202-1984-02-01-1カンボジア1984年02月01日1980年代チア・ソット・カンボジア副首相,ホーチミン市でのカンボジア・ベトナム・ラオス経済文化協力計画会議出席のため出発。
DIA-202-1984-02-01-2カンボジア1984年02月01日1980年代PRKブー・タン国防相,コンポン・チャム省のベトナム軍を訪問。
DIA-202-1984-02-01-3カンボジア1984年02月01日1980年代(チェンマイ)タイ国王,シアヌーク大統領と会見。
DIA-202-1984-02-02-1カンボジア1984年02月02日1980年代PRKヘン・サムリン書記長,プノンペンの病院にベトナム傷病兵見舞い。
DIA-202-1984-02-02-2カンボジア1984年02月02日1980年代バンコク:プレム首相・シアヌーク大統領会談。
DIA-202-1984-02-04-1カンボジア1984年02月04日1980年代民主カ放送:2月2日,ゲリラ,プルサト市一時制圧,と報道。
DIA-202-1984-02-05-1カンボジア1984年02月05日1980年代シアヌーク大統領,マレーシア訪問。
DIA-202-1984-02-06-1カンボジア1984年02月06日1980年代PRKフン・セン外相,カピッツァ・ソ連外務次官と会談。
DIA-202-1984-02-07-1カンボジア1984年02月07日1980年代PRKカンボジア国会第1期第6回会期開く。
DIA-202-1984-02-08-1カンボジア1984年02月08日1980年代PRKチャン・シ首相,カピッツァ・ソ連外務次官と会見。
DIA-202-1984-02-08-2カンボジア1984年02月08日1980年代民主カ放送:ゲリラ,2月3日コンポントム攻撃。
DIA-202-1984-02-10-1カンボジア1984年02月10日1980年代PRKカンボジア国会,84年経済計画,予算案など承認して閉会。
DIA-202-1984-02-11-1カンボジア1984年02月11日1980年代プノンペンでカンボジア・ソ連友好高等技術研究所開所式。
DIA-202-1984-02-12-1カンボジア1984年02月12日1980年代PRKフン・セン外相,ハノイ訪問(~14日)。
DIA-202-1984-02-13-1カンボジア1984年02月13日1980年代ヘン・サムリン書記長,モスクワ入り(~15日)。
DIA-202-1984-02-14-1カンボジア1984年02月14日1980年代シアヌーク大統領,シンガポール訪問。
DIA-202-1984-02-15-1カンボジア1984年02月15日1980年代ハノイ:ベトナムと公共衛生協力協定調印。
DIA-202-1984-02-15-2カンボジア1984年02月15日1980年代民主カ放送:ゲリラ,2月11日バッタンバン攻撃。
DIA-202-1984-02-16-1カンボジア1984年02月16日1980年代プノンペン市党・革命委代表団,ハノイ入り。
DIA-202-1984-02-16-2カンボジア1984年02月16日1980年代モスクワ:PRKフン・セン外相,イリイチョフ・ソ連外務次官と会談。
DIA-202-1984-02-18-1カンボジア1984年02月18日1980年代PRKチャン・シ首相,ベトナム高等職業教育省代表団と会見。
DIA-202-1984-02-20-1カンボジア1984年02月20日1980年代カンボジア・ベトナム教育協力協定調印。
DIA-202-1984-02-20-2カンボジア1984年02月20日1980年代シンガポール:シアヌーク大統領,ポル・ポト軍4万人,KPNLF1.2万人,シアヌーク派5000人と語る。
DIA-202-1984-02-21-1カンボジア1984年02月21日1980年代ハノイ:プノンペン市党・革命委代表団,ファン・バン・ドン首相と会見。
DIA-202-1984-02-21-2カンボジア1984年02月21日1980年代ジャカルタ:シアヌーク・スハルト両大統領会談。
DIA-202-1984-02-23-1カンボジア1984年02月23日1980年代民主カ放送:2月18日クラティエ攻撃。
DIA-202-1984-02-26-1カンボジア1984年02月26日1980年代PRKカンボジア・東独,保健協力協定。
DIA-202-1984-02-28-1カンボジア1984年02月28日1980年代民主カ放送:ゲリラ26日プルサト攻撃。
DIA-202-1984-03-01-1カンボジア1984年03月01日1980年代バンコク:シティ・タイ外相,ベトナム軍3個師団タイ・カンボジア国境より撤収した,と報道。
DIA-202-1984-03-01-2カンボジア1984年03月01日1980年代プノンペン:農業省会議で:Kong Samol農相は,2月初めまでに,現乾期の米作計画の60%を達成,ほかにメイズ4万4790ha,補助食料1万2650ha,工業用作物8210haが作付られたと言明。
DIA-202-1984-03-02-1カンボジア1984年03月02日1980年代プノンペン放送:第196師団は1983年に敵兵350人を殺し,218人を負傷させ,国境防衛に貢献した。
DIA-202-1984-03-06-1カンボジア1984年03月06日1980年代民主カ放送:国民軍,2月下旬以降,バッタンバン,シソフォン,サムロット,コンポンスプーなどで攻撃,ベ軍11拠点攻略,敵兵数百人せん滅,と報道。
DIA-202-1984-03-06-2カンボジア1984年03月06日1980年代プノンペン:インドシナ3カ国メコン委員会第7回会議開催(~8日)。
DIA-202-1984-03-07-1カンボジア1984年03月07日1980年代民主カ放送:ゲリラ850人が4日シエムレアップ空港攻撃,ベ兵40人,ソ連技師1人殺傷,と報道。
DIA-202-1984-03-08-1カンボジア1984年03月08日1980年代バンコク:FAO 83年央のカンボジア人口を703万4000人と推計,食糧不足と警告。
DIA-202-1984-03-08-2カンボジア1984年03月08日1980年代プノンペン放送:2月中に反乱軍307人を殺害。
DIA-202-1984-03-12-1カンボジア1984年03月12日1980年代バンコク:DKシアヌーク大統領,最近のマレーシア,シンガポール,インドネシア,フィリピン訪問は成功し,各国は,反ベトナム闘争支援を約束,と語る。
DIA-202-1984-03-13-1カンボジア1984年03月13日1980年代ジャカルタ:ベトナム外相,ASEANがインドシナ3カ国提案の協議に応ずれば,ASEAN案の協議を用意と言明。
DIA-202-1984-03-14-1カンボジア1984年03月14日1980年代キャンベラ:ベトナム外相,カンボジアのベトナム軍は5~10年駐留すると言明。
DIA-202-1984-03-17-1カンボジア1984年03月17日1980年代ジャカルタ:ソン・サンDK首相,スハルト大統領と会談。スハルト,DK支持不変,と表明。
DIA-202-1984-03-17-2カンボジア1984年03月17日1980年代プノンペン:ソ連,PRK,1984年貿易協定調印。
DIA-202-1984-03-20-1カンボジア1984年03月20日1980年代プムトメイ:DKシアヌーク大統領,マレーシア大使の信任状受領。
DIA-202-1984-03-20-2カンボジア1984年03月20日1980年代ジャカルタ:DKソン・サン首相,カンボジア和解会議のバンドン開催を主張,まだベトナム人30万人がカンボジア市民権を与えられたと語る。
DIA-202-1984-03-20-3カンボジア1984年03月20日1980年代モスクワ:ソ連・PRK,ラジオ・テレビ協力協定調印。
DIA-202-1984-03-21-1カンボジア1984年03月21日1980年代プノンペン:チア・ソット・PRK計画相,チェコ経済代表団と会見。
DIA-202-1984-03-28-1カンボジア1984年03月28日1980年代プノンペン:人民革命党中央委第8回総会開催(~30日)。
DIA-202-1984-03-29-1カンボジア1984年03月29日1980年代PRK貿易省代表団訪ベ(~4月5日)。
DIA-202-1984-03-31-1カンボジア1984年03月31日1980年代民主カ放送:3月29日DK連合政府,ソン・サンを議長として軍事調整委開催。シアヌーク,キュー・サンファン出席。
DIA-202-1984-04-01-1カンボジア1984年04月01日1980年代ローマ発ロイター:1,2月にカンボジアを訪問したFAO調査団によれば,84年の食糧生産は,最低必要量104万トンを少なくとも17万7000トン下廻る。
DIA-202-1984-04-03-1カンボジア1984年04月03日1980年代プノンペン:ハノイ航空便開設。
DIA-202-1984-04-03-2カンボジア1984年04月03日1980年代チア・ソット計画相,ラオス運輸代表団と会見。
DIA-202-1984-04-03-3カンボジア1984年04月03日1980年代平壌:シアヌーク,北京経由北朝鮮入り。
DIA-202-1984-04-04-1カンボジア1984年04月04日1980年代プノンペン=ソ連国家対外経済関係委代表団,チア・ソット計画相と会談。
DIA-202-1984-04-04-2カンボジア1984年04月04日1980年代ハノイ:PRK・ベトナム,経済・貿易協力協定。
DIA-202-1984-04-05-1カンボジア1984年04月05日1980年代バンコク:タイ政府,カンボジア難民1万人が過去1週間で流入,と発表。
DIA-202-1984-04-05-2カンボジア1984年04月05日1980年代プノンペン:PRK・ラオス運輸通信協力協定。
DIA-202-1984-04-05-3カンボジア1984年04月05日1980年代アメリカのベトナム戦退役兵士代表団訪問。
DIA-202-1984-04-08-1カンボジア1984年04月08日1980年代モスクワ:PRKフン・セン外相,グロムイコ・ソ連外相会談。
DIA-202-1984-04-09-1カンボジア1984年04月09日1980年代民主カ放送:3月30日シエムレアップとトンレサップ間のベ軍補給基地攻撃,ベ兵35人殺す。
DIA-202-1984-04-09-2カンボジア1984年04月09日1980年代プノンペン:ベトナム輸送公司代表団訪問。
DIA-202-1984-04-09-3カンボジア1984年04月09日1980年代ベトナム法律協会代表団訪問。
DIA-202-1984-04-11-1カンボジア1984年04月11日1980年代民主カ放送:4月8日,ゲリラ,コンポンスプー占領,投獄中の372人解放。
DIA-202-1984-04-11-2カンボジア1984年04月11日1980年代PRKフン・セン外相,アフリカ訪問より帰国。
DIA-202-1984-04-12-1カンボジア1984年04月12日1980年代プノンペン放送:パイリン近くでポルポト兵,32人殺害,タイ兵22人を国境近くで捕えたと報道。
DIA-202-1984-04-12-2カンボジア1984年04月12日1980年代プノンペン:PRKフン・セン外相,米ベトナム退役兵士代表団と会見。
DIA-202-1984-04-15-1カンボジア1984年04月15日1980年代バンコク:タイ軍,ベトナム軍がタイ偵察機撃墜と発表。
DIA-202-1984-04-15-2カンボジア1984年04月15日1980年代ベ軍,ソン・サン派アンピル基地攻撃。
DIA-202-1984-04-15-3カンボジア1984年04月15日1980年代東京:DKキュー・サンファン副大統領訪日。
DIA-202-1984-04-16-1カンボジア1984年04月16日1980年代民主カ放送:ゲリラ,スタントレン州ターラーバリワット町制圧,ベ兵59人殺傷,と報道。
DIA-202-1984-04-20-1カンボジア1984年04月20日1980年代バンコク:ソン・サン首相,パリより到着,カンボジアへ。アンピルで攻防つづく。
DIA-202-1984-04-22-1カンボジア1984年04月22日1980年代北京・新華社:ポルポト軍,4月9日コーコン州クマラプミン市攻撃,ベ兵107人殺す。
DIA-202-1984-04-23-1カンボジア1984年04月23日1980年代バンコク:ベトナム軍,アンピル撤収。ソン・サン派Sak Sutsakhon参謀長,アンピルでの9日間戦闘で,ベ兵500人殺す,自軍22人死亡,101人負傷(UPI)。
DIA-202-1984-04-24-1カンボジア1984年04月24日1980年代民主カ放送:ゲリラ,4月16日コンポントム突入,ベ兵5人倒す,と報道。
DIA-202-1984-04-26-1カンボジア1984年04月26日1980年代プノンペン:ベトナム共産党中央委事務所代表団来訪。
DIA-202-1984-04-26-2カンボジア1984年04月26日1980年代PRK労働組合連合代表団,ソ連へ出発。
DIA-202-1984-04-27-1カンボジア1984年04月27日1980年代プノンペン:インドシナ3国文化相会議。
DIA-202-1984-04-29-1カンボジア1984年04月29日1980年代PRK・ベトナム,1984年統計協力協定。
DIA-202-1984-05-01-1カンボジア1984年05月01日1980年代プノンペン・メーデー集会。チャン・シ首相演説。
DIA-202-1984-05-02-1カンボジア1984年05月02日1980年代民主カ放送:3月20日~4月20日,プルサト州レアク県でヘン・サムリン兵1800人がポル・ポト軍に投降。
DIA-202-1984-05-04-1カンボジア1984年05月04日1980年代民主カ放送:ポルポト軍,4月30日プルサト州で列車攻撃,ベ兵25人殺害。
DIA-202-1984-05-05-1カンボジア1984年05月05日1980年代プノンペン放送:PRK国防省,1983年12月27日から84年4月15日までに,PRK軍・ベトナム軍は,敵兵4500人を殺傷,捕虜とした,と発表。
DIA-202-1984-05-06-1カンボジア1984年05月06日1980年代平壌:DKシアヌーク大統領,胡・中国総書記と会見。
DIA-202-1984-05-08-1カンボジア1984年05月08日1980年代ジャカルタ:ASEAN外相会議,カンボジアでのベトナム軍攻勢非難の声明。
DIA-202-1984-05-08-2カンボジア1984年05月08日1980年代ハノイ:ベトナム・PRK,財政協力協定。
DIA-202-1984-05-10-1カンボジア1984年05月10日1980年代ハノイ:PRK国家評議会代表団訪ベ。
DIA-202-1984-05-11-1カンボジア1984年05月11日1980年代ハノイ:ベトナム外務省,ASEANのカンボジア撤兵要求拒否。
DIA-202-1984-05-12-1カンボジア1984年05月12日1980年代プノンペン:ソ連・PRK非商業支払い決済議定書調印。
DIA-202-1984-05-14-1カンボジア1984年05月14日1980年代プノンペン:ソ連・PRK文化・科学協定。
DIA-202-1984-05-14-2カンボジア1984年05月14日1980年代PRK外務省,ASEAN外相会議のカンボジアへの内政干渉非難声明。
DIA-202-1984-05-15-1カンボジア1984年05月15日1980年代PRK運輸通信代表団,ベトナム訪問。またPRK工業省代表団も訪ベ。
DIA-202-1984-05-17-1カンボジア1984年05月17日1980年代プノンペン:カンプチア農業耕作会議(~19日)。84年雨期米耕作170万ha計画で合意。前年比10万ha増。
DIA-202-1984-05-18-1カンボジア1984年05月18日1980年代ハノイ:PRK国家評議会事務局代表団,チュオン・チン・ベトナム国家評議会議長と会談。
DIA-202-1984-05-22-1カンボジア1984年05月22日1980年代ベトナム通信:PRK交通・運輸・郵政省代表団,15~22日,ベトナム訪問。
DIA-202-1984-05-23-1カンボジア1984年05月23日1980年代ハノイ:PRK工業省代表団,ベトナムと経済技術協力協定。
DIA-202-1984-05-24-1カンボジア1984年05月24日1980年代ジャクソン国連事務総長特使,21日~24日,PRK訪問。
DIA-202-1984-05-26-1カンボジア1984年05月26日1980年代PRK財政省代表団,13日間のベトナム,ラオス訪問より帰国。
DIA-202-1984-05-30-1カンボジア1984年05月30日1980年代東京:DKシアヌーク大統領訪日。
DIA-202-1984-05-30-2カンボジア1984年05月30日1980年代PRKチア・シム国会議長,チェコ訪問。
DIA-202-1984-05-31-1カンボジア1984年05月31日1980年代プラソン・タイ軍安全保障会議事務局長,ゲリラ攻撃のためベ軍戦車,タィ・カ国境に出撃できず,ゲリラ,各地で燃料106万ガロン破壊と語る(Nation Review)。
DIA-202-1984-05-31-2カンボジア1984年05月31日1980年代東京:シアヌーク,中曽根首相と会談。
DIA-202-1984-06-01-1カンボジア1984年06月01日1980年代プノンペン:第1回インドシナ3国貿易会議。
DIA-202-1984-06-02-1カンボジア1984年06月02日1980年代東京:シアヌーク,三派連合よりポル・ポト派を排除することは不可能,三派兵力は6万人以上になった,と記者会見で言明。
DIA-202-1984-06-02-2カンボジア1984年06月02日1980年代カンボジア領内:シアヌーク,ソン・サン両派,常任軍事調整委員会初会合。委員長はソン・サン派サク・ストサカン将軍,副委員長シアヌーク派ティアプ・ベン将軍。
DIA-202-1984-06-02-3カンボジア1984年06月02日1980年代プノンペン:インドシナ3国貿易相,貿易協力指導原則で合意。
DIA-202-1984-06-04-1カンボジア1984年06月04日1980年代ソウル:ソン・サンDK首相訪韓。
DIA-202-1984-06-06-1カンボジア1984年06月06日1980年代PRKフン・セン外相,アフリカ訪問へ出発。ハノイでベトナム外相と会見。
DIA-202-1984-06-06-2カンボジア1984年06月06日1980年代北京:シアヌーク,ウランフ中国国家副主席会見。
DIA-202-1984-06-11-1カンボジア1984年06月11日1980年代プノンペン:チア・シムPRK国会議長ら国会代表団,チェコ・ハンガリーへの2週間訪問より帰国。
DIA-202-1984-06-15-1カンボジア1984年06月15日1980年代ハノイ放送:在カンボジアのベ軍,6月中に約1万人撤兵と発表。
DIA-202-1984-06-15-2カンボジア1984年06月15日1980年代PRK,サントメ・プリンシペと国交。
DIA-202-1984-06-16-1カンボジア1984年06月16日1980年代バンコク:タイ・カ国境で米・タイ軍事演習。
DIA-202-1984-06-16-2カンボジア1984年06月16日1980年代民主カ放送:ベトナム軍の部分撤兵は欺瞞。
DIA-202-1984-06-18-1カンボジア1984年06月18日1980年代PRK・アンゴラと協力条約。
DIA-202-1984-06-19-1カンボジア1984年06月19日1980年代プノンペン:人民革命軍建軍33周年祝賀会。ブー・タン国防相が演説。
DIA-202-1984-06-23-1カンボジア1984年06月23日1980年代プノンペンでベ兵3000人が帰国式典。
DIA-202-1984-06-25-1カンボジア1984年06月25日1980年代民主カ放送:5月26日~6月21日,ベトナム新兵力3000人がカンボジア入り。
DIA-202-1984-06-25-2カンボジア1984年06月25日1980年代プノンペン:オーストラリア議会代表団訪問。
DIA-202-1984-06-28-1カンボジア1984年06月28日1980年代プノンペン:カンプチア人民革命党創立33周年記念式典。ヘン・サムリン党中央委書記長ら出席。
DIA-202-1984-06-29-1カンボジア1984年06月29日1980年代PRKフン・セン外相,6~29日アフリカ歴訪。
DIA-202-1984-06-30-1カンボジア1984年06月30日1980年代PRK,7月2日まで,85年国家計画立案会議開く。
DIA-202-1984-07-02-1カンボジア1984年07月02日1980年代ビエンチャン・インドシナ3国外相会議開催。
DIA-202-1984-07-02-2カンボジア1984年07月02日1980年代プノンペン:第2回カンプチア仏教僧侶会議開く。
DIA-202-1984-07-03-1カンボジア1984年07月03日1980年代ビエンチャン:インドシナ3国外相会議終了,ASEANとの対話主張のコミュニケ発表。
DIA-202-1984-07-03-2カンボジア1984年07月03日1980年代モスクワ:カピッツァ外務次官,インドシナ3カ国大使に,3国外相会議のイニシアチブ支持表明。
DIA-202-1984-07-04-1カンボジア1984年07月04日1980年代北京:シアヌーク,ソン・サン,キュー・サンファン会談。DK3首脳,趙中国首相と会談。
DIA-202-1984-07-08-1カンボジア1984年07月08日1980年代SPK通信:84年初め,プノンペン精糖工場,植物油工場,コンポンソム製氷工場,カンポートのセメント工場再開。全国操業工場数59,労働者1.5万人。
DIA-202-1984-07-09-1カンボジア1984年07月09日1980年代ハノイ:ベトナム・PRK,1984年農業相互協力協定調印。
DIA-202-1984-07-10-1カンボジア1984年07月10日1980年代ジャカルタ:ASEAN外相会議,カンボジア紛争でベトナム非難のコミュニケ。
DIA-202-1984-07-10-2カンボジア1984年07月10日1980年代PRK外務省,中国指導者のカンプチアへの犯罪に関する「白書」発表。
DIA-202-1984-07-11-1カンボジア1984年07月11日1980年代ハノイ:『ニャンザン』,ASEANのベ軍撤兵要求を非難。
DIA-202-1984-07-11-2カンボジア1984年07月11日1980年代北京:シアヌークDK大統領,China Dailyとの会見で,カンボジア解決全党派会議開催を主張。
DIA-202-1984-07-12-1カンボジア1984年07月12日1980年代ジャカルタ:安倍外相,拡大ASEAN外相会議で,カンボジア和平への日本協力案表明。
DIA-202-1984-07-12-2カンボジア1984年07月12日1980年代プノンペン放送:84年初め党中央委第7回総会は生産連帯組強化決議。現在10万以上の生産連帯組があり,全国で約130万世帯が参加。
DIA-202-1984-07-17-1カンボジア1984年07月17日1980年代モスクワ:PRKチャン・シ首相,訪ソ。ソ連・PRK貿易経済科学技術協力委設置協定。
DIA-202-1984-07-20-1カンボジア1984年07月20日1980年代プノンペン:第1回イスラム教徒代表者会議。
DIA-202-1984-07-23-1カンボジア1984年07月23日1980年代民主カ放送:ベトナム軍は5月以来1万2600人の増援軍をカンボジアに派遣。9100人がシエムレアップ,ウッダーミアンチェイ州,3000人がバッタンバン州,500人がクラティエ州に入る。
DIA-202-1984-07-23-2カンボジア1984年07月23日1980年代ハノイ放送:PRKコン・サモル農相,7月初め訪ベ時に,84年の米作付185万ha目標,畜産では84年に牛670万頭,家禽900万羽と語る。
DIA-202-1984-07-24-1カンボジア1984年07月24日1980年代ベトナム,カンボジアでの安倍提案拒否。
DIA-202-1984-07-24-2カンボジア1984年07月24日1980年代PRKヘン・サムリン議長,フランス国会代表団と会見。
DIA-202-1984-07-25-1カンボジア1984年07月25日1980年代PRKフン・セン外相,シアヌーク,ソン・サンは新憲法承認すれば復帰しうる,しかしクメール・ルージュ含む四派連合は問題にならぬと言明(AFP)。
DIA-202-1984-07-28-1カンボジア1984年07月28日1980年代DKシアヌーク大統領,エジプト訪問。
DIA-202-1984-07-29-1カンボジア1984年07月29日1980年代ベトナム軍,ソン・サン派オボク基地砲撃。
DIA-202-1984-08-01-1カンボジア1984年08月01日1980年代カイロ:エジプト,民主カンプチア政府承認。
DIA-202-1984-08-01-2カンボジア1984年08月01日1980年代プノンペン:インドシナ3国公衆衛生相会議開く。
DIA-202-1984-08-01-3カンボジア1984年08月01日1980年代人民革命党中央委第9回総会(~4日)。
DIA-202-1984-08-01-4カンボジア1984年08月01日1980年代フン・セン首相代理,ラオス通信代表団と会見。
DIA-202-1984-08-02-1カンボジア1984年08月02日1980年代DK領内:DK政府軍首脳会議。キュー・サンファンが司会。KPNLF参謀長Sak Sutsakhan将軍,シアヌーク派軍参謀長Teap Ben将軍出席。
DIA-202-1984-08-08-1カンボジア1984年08月08日1980年代バンコク:ベトナム,ヘン・サムリン軍,アンピル地区砲撃。
DIA-202-1984-08-08-2カンボジア1984年08月08日1980年代パリ:シアヌーク,フランス大統領と会談。
DIA-202-1984-08-08-3カンボジア1984年08月08日1980年代ベトナム通信:7~8日,ハノイでインドシナ3国国家計画委副委員長・計画省次官会議。
DIA-202-1984-08-10-1カンボジア1984年08月10日1980年代パリ:シアヌーク,フランス大統領に,反ベ三派とヘン・サムリン政権による無条件パリ会談提案と言明。
DIA-202-1984-08-10-2カンボジア1984年08月10日1980年代プノンペン放送:雨期入り後7月半ばまでの稲作付面積41万2000ha,前年比15万3000ha増。補助作物10万3000ha,工業用作物1万8000haも作付。
DIA-202-1984-08-11-1カンボジア1984年08月11日1980年代民主カ放送:5月~7月25日の間に,ベトナム軍1万8200人がカンプチアに増援された。
DIA-202-1984-08-15-1カンボジア1984年08月15日1980年代プノンペン:PRK第1期第7回国会開催。
DIA-202-1984-08-16-1カンボジア1984年08月16日1980年代SPK通信:ブー・タン国防相,ヘン・サムリン軍,84年上半期に敵軍1万0179人を殺傷,捕虜と報道。また83/84乾期に敵兵力が1979年以来最大の攻勢に出て,シエムレアップ,バッタンバン,コンポントム,プルサトなど多くの都市を攻撃したことを認めた。
DIA-202-1984-08-21-1カンボジア1984年08月21日1980年代プノンペン放送:人民革命党中央委第9回総会,農地の管理と使用に関する決議採択。
DIA-202-1984-08-21-2カンボジア1984年08月21日1980年代PRKペン・ナウート教育相は第5回教育会議で,83/84年の小学生数154万4839人,学校数2817,教師3万6520人,中学生14万5726人,学校数207,教師4494人,高等学校生7334人,と報告。
DIA-202-1984-08-22-1カンボジア1984年08月22日1980年代民主カンボジア地区:ソン・セン参謀長,民主カ軍,バッタンバン,コンポンソム,コンポンチュナン,プノンペン北西で攻勢,ベ軍数万人が雨期攻勢と(新華社,8/23)。
DIA-202-1984-08-25-1カンボジア1984年08月25日1980年代プノンペン:ベトナム援助によるカンプチア・テレビ局,PRK政府に引渡し。
DIA-202-1984-08-29-1カンボジア1984年08月29日1980年代PRKコン・サモル農業相,雨期に食糧作物186万5700haの植付けを計画(うち米は170万ha),しかし8月半ばまでの植付完了は約60万5000ha,これは6月末から7月中の旱ばつとその後の洪水による。
DIA-202-1984-08-31-1カンボジア1984年08月31日1980年代プノンペン:PRKウク・ブンチューン司法相,ファン・ヒエン・ベトナム司法相と会談。
DIA-202-1984-09-01-1カンボジア1984年09月01日1980年代アンコール・ワット:ファン・ヒエン・ベトナム司法相一行訪問(6日帰国)。
DIA-202-1984-09-04-1カンボジア1984年09月04日1980年代PRKフン・セン外相,ブルガリア訪問に出発(18日帰国)。Pen Navouth教育相,東独へ出発。
DIA-202-1984-09-06-1カンボジア1984年09月06日1980年代民主カ放送:8月中にベ兵2846人殺傷と報道。
DIA-202-1984-09-10-1カンボジア1984年09月10日1980年代民主カ国民軍の声放送:9月3日,国民軍,プノンペン発プルサト行列車攻撃,ベ兵45人殺害と報道。
DIA-202-1984-09-10-2カンボジア1984年09月10日1980年代SPK通信:PRK国家評議会,対外文化・経済協力省設立(8月31日付)を決定。
DIA-202-1984-09-11-1カンボジア1984年09月11日1980年代ハノイ:ベトナム外相,カンボジア平和監視に中立国際委構想表明(共同)。
DIA-202-1984-09-11-2カンボジア1984年09月11日1980年代プノンペン:ラオス司法相訪問。
DIA-202-1984-09-11-3カンボジア1984年09月11日1980年代第1回地方レベルPRK軍幹部研修コース終了(1カ月研修)。
DIA-202-1984-09-15-1カンボジア1984年09月15日1980年代プノンペン放送:農業省報告では8月半ばまでに60万5560haで稲の田植えを行ない,副次食糧作物7万6340ha植付け。これは83年同期比25万ka増。しかし8,9月,洪水により26万haに被害(うち米作地22万4000ha)。
DIA-202-1984-09-21-1カンボジア1984年09月21日1980年代SPK通信:今年1~6月に鉄道は貨物6万7000トン,旅客21万5745人を輸送した。
DIA-202-1984-09-23-1カンボジア1984年09月23日1980年代バンコク:ピチット少将,ベトナム軍,9月末か10月初旬にゲリラ拠点攻撃を準備,雨中,兵員,大砲をタイ国境方面に増強,ゲリラが反撃中,と発表(UPI)。
DIA-202-1984-09-24-1カンボジア1984年09月24日1980年代ワシントン:DKシアヌーク大統領,ソン・サン首相,レーガン大統領に会見。ソン・サン,米に1万人分の兵器援助求める。
DIA-202-1984-09-25-1カンボジア1984年09月25日1980年代国連総会:シアヌークDK大統領演説,ベトナムは1979年以来ベトナム人50~60万人をカンボジアに入植させたと非難。
DIA-202-1984-09-25-2カンボジア1984年09月25日1980年代プノンペン:PRKヘン・サムリン書記長,日本共産党代表団と会見。代表団は24~27日滞在。
DIA-202-1984-09-27-1カンボジア1984年09月27日1980年代バンコク:西側専門家筋,雨期小休止のため9月に入り,カンボジアでの戦闘激化と語る(AFP)。
DIA-202-1984-09-28-1カンボジア1984年09月28日1980年代ベトナム外相訪タイ(~30日)。
DIA-202-1984-09-29-1カンボジア1984年09月29日1980年代北京:李先念国家主席,シアヌーク,ソン・サン,キュー・サンフアンと会談。
DIA-202-1984-09-30-1カンボジア1984年09月30日1980年代バンコク:ビチャイ・タイ副首相はベトナム外相と会談後,ベトナム外相はヘン・サムリン政権が自立できるようになったのち5年後に自発的にベ軍を撤兵させる方針を示し,またASEANとインドシナ代表からなる国際監視委による総選挙と監視付きのベトナム軍撤兵案を提示した,と語った。
DIA-202-1984-09-30-2カンボジア1984年09月30日1980年代タイ軍事筋,マライ山で激戦と発表(時事,10/1)。
DIA-202-1984-09-30-3カンボジア1984年09月30日1980年代北京:DK3首脳,胡総書記,趙首相と会談。
DIA-202-1984-10-02-1カンボジア1984年10月02日1980年代北京:鄧小平・シアヌークらDK3首脳会談。
DIA-202-1984-10-02-2カンボジア1984年10月02日1980年代ハノイ:PRKチャン・シ首相・ベトナム首相会談。
DIA-202-1984-10-03-1カンボジア1984年10月03日1980年代東京:グエン・コ・タク外相,安倍外相との会談で,在カンボジアのベ軍,政治解決なくとも5~10年で大部分撤兵,ヘン・サムリン政権の統治権も5~10年で確立するとの意見表明。
DIA-202-1984-10-03-2カンボジア1984年10月03日1980年代PRKチャン・シ首相,東独訪問(~11日)。
DIA-202-1984-10-06-1カンボジア1984年10月06日1980年代民主カ放送:雨期の5カ月間にベ兵1万人以上殺傷,ベ軍は同期間に2万4400人をカンボジア派兵。
DIA-202-1984-10-06-2カンボジア1984年10月06日1980年代プノンペン:チア・シムPRK国会議員,ラオス人民軍参謀本部代表団と会見。
DIA-202-1984-10-09-1カンボジア1984年10月09日1980年代国連:グエン・コ・タク外相,5~10年でヘン・サムリン政権は自力防衛可能,ベ軍撤兵と総会演説。
DIA-202-1984-10-09-2カンボジア1984年10月09日1980年代プノンペン:PRK・ポーランド海軍協力協定。
DIA-202-1984-10-11-1カンボジア1984年10月11日1980年代プノンペン:ベトナム林業相訪問。
DIA-202-1984-10-12-1カンボジア1984年10月12日1980年代ニューヨーク:ベトナム外相,カンボジアについて東南ア諸国との会議が数カ月後に開かれよう,またシアヌーク殿下の処遇はカンボジア人自身の内政問題,と言明。
DIA-202-1984-10-15-1カンボジア1984年10月15日1980年代モスクワ:PRK・ソ連,領事協定調印。
DIA-202-1984-10-17-1カンボジア1984年10月17日1980年代国連総会,民主カンボジアの代表権承認。
DIA-202-1984-10-17-2カンボジア1984年10月17日1980年代プノンペン:ベトナム・PRK,林業協力協定。
DIA-202-1984-10-18-1カンボジア1984年10月18日1980年代プノンペン:PRK・コン・サモル農相,洪水のため,稲の作付面積は計画170万haに対し110万ha,副次作物の作付は計画13万900haに対し8万468ha,洪水はメコンとパサック川沿岸で発生,耕地33万ha(うち米作26万4000ha)が破壊,住宅も4919棟が失われ,推定損害額は20億リエル,うち農業面では9億1000万リエル,37万人余が被害,稲作付は約127万haに達する予定であるが,85年カンプチア人民は4~5カ月間食糧不足に直面しようと,記者会見で言明。
DIA-202-1984-10-19-1カンボジア1984年10月19日1980年代ブダペスト:PRK・ハンガリー,85年物資交換協定。
DIA-202-1984-10-22-1カンボジア1984年10月22日1980年代プノンペン:ハンガリー工業省代表団到着。
DIA-202-1984-10-23-1カンボジア1984年10月23日1980年代パリ:ベトナム外相,国連でASEAN各国外相と会談,カンボジアで対話することで一致,と語る。
DIA-202-1984-10-26-1カンボジア1984年10月26日1980年代プノンペン:東独議会代表団訪問。
DIA-202-1984-10-27-1カンボジア1984年10月27日1980年代プノンペン放送:最近ソ連経済代表団がMemotとChupのゴム・プランテーション視察。
DIA-202-1984-10-29-1カンボジア1984年10月29日1980年代モスクワ:ベトナム・ソ連外相会談。
DIA-202-1984-10-30-1カンボジア1984年10月30日1980年代国連総会,カンボジアからの全外国軍撤退,政治解決要求決議,110対22,棄権18で可決。
DIA-202-1984-11-01-1カンボジア1984年11月01日1980年代PRKヘン・サムリン議長,ガンディー首相葬儀参列のためインドへ出発。
DIA-202-1984-11-01-2カンボジア1984年11月01日1980年代ハノイ:PRK労働組合連合代表団,10月25日~11月11日までベトナム訪問。
DIA-202-1984-11-02-1カンボジア1984年11月02日1980年代プノンペン:カンプチア人民革命党全国党幹部会議(~9日)。
DIA-202-1984-11-04-1カンボジア1984年11月04日1980年代プノンペン:PRKヘン・サムリン議長帰国。
DIA-202-1984-11-05-1カンボジア1984年11月05日1980年代ビエンチャン:インドシナ3国年次国防会議(~7日)。
DIA-202-1984-11-07-1カンボジア1984年11月07日1980年代VNA:PRKコン・サモル農相,84年雨期の稲作付面積は120万ha(計画の64%),工業用作物と副次作物の作付は40万5270ha(計画の63.78%)であると述べた。
DIA-202-1984-11-07-2カンボジア1984年11月07日1980年代プノンペン:チャン・シ首相,ソ連革命記念集会で演説。
DIA-202-1984-11-08-1カンボジア1984年11月08日1980年代PRK商業・貿易代表団,ラオス訪問(~14日)。
DIA-202-1984-11-09-1カンボジア1984年11月09日1980年代プノンペン:2~9日,人民革命党幹部全国会議開催。
DIA-202-1984-11-12-1カンボジア1984年11月12日1980年代PRKフン・セン外相,スウェーデンへ出発。
DIA-202-1984-11-15-1カンボジア1984年11月15日1980年代ホーチミン市:ベトナム・PRK 85年水利協力協定調印。
DIA-202-1984-11-15-2カンボジア1984年11月15日1980年代民主カ放送:カンボジアのベトナム移民数はこれまでに60万人。
DIA-202-1984-11-16-1カンボジア1984年11月16日1980年代国連:ベトナム代表,カンボジアでASEANとの対話よびかけ。
DIA-202-1984-11-17-1カンボジア1984年11月17日1980年代プノンペン放送:ソ連援助の第4発電所開所。
DIA-202-1984-11-19-1カンボジア1984年11月19日1980年代バンコク:ベ軍2000,ソン・サン派ノンチャン基地攻撃,一部占拠,住民2万がタイ領へ避難。
DIA-202-1984-11-19-2カンボジア1984年11月19日1980年代プノンペン:チェコ労働組合代表団訪問。
DIA-202-1984-11-20-1カンボジア1984年11月20日1980年代バンコク:ベ軍,ノン・チャン基地占領。
DIA-202-1984-11-20-2カンボジア1984年11月20日1980年代プノンペン:ソ連最高会議代表団訪問(~22日)。
DIA-202-1984-11-20-3カンボジア1984年11月20日1980年代モスクワ:PRKフン・セン外相訪ソ。
DIA-202-1984-11-23-1カンボジア1984年11月23日1980年代プノンペン:ハンガリー党・政府代表団訪問。
DIA-202-1984-11-23-2カンボジア1984年11月23日1980年代パリ:PRKフン・セン外相訪仏(~12月3日)。
DIA-202-1984-11-24-1カンボジア1984年11月24日1980年代アンピル:DKソン・サン首相到着。
DIA-202-1984-11-26-1カンボジア1984年11月26日1980年代プノンペン:ポーランド国会代表団訪問。
DIA-202-1984-11-29-1カンボジア1984年11月29日1980年代ノン・チャンで攻防戦。
DIA-202-1984-11-29-2カンボジア1984年11月29日1980年代パリ:PRKフン・セン外相,シアヌーク殿下と訪仏中に会見する計画はないと言明。
DIA-202-1984-12-01-1カンボジア1984年12月01日1980年代プノンペン:モンゴルからPRKへの無償経済援助協定調印。
DIA-202-1984-12-02-1カンボジア1984年12月02日1980年代プノンペン:カンプチア祖国救済戦線(現KUFNCD=カンプチア国家建設防衛統一戦線)創立6周年記念集会。
DIA-202-1984-12-04-1カンボジア1984年12月04日1980年代ノン・チャン基地で攻防戦。
DIA-202-1984-12-07-1カンボジア1984年12月07日1980年代バンコク:ソン・サン派,ノン・チャン基地奪回と同派放送。
DIA-202-1984-12-07-2カンボジア1984年12月07日1980年代プノンペン:ベトナム・PRK 85年物資交換協定。
DIA-202-1984-12-07-3カンボジア1984年12月07日1980年代フン・センPRK外相,帰国。
DIA-202-1984-12-11-1カンボジア1984年12月11日1980年代プノンペン:チァ・ソット首相代理兼計画相,ベトナム対外貿易省代表団と会見。
DIA-202-1984-12-11-2カンボジア1984年12月11日1980年代プノンペン:米ベトナム戦復員兵士代表団,フン・センPRK外相と会談。
DIA-202-1984-12-12-1カンボジア1984年12月12日1980年代プノンペン:米議会代表団(モンゴメリー団長),フン・センPRK外相と会談。
DIA-202-1984-12-12-2カンボジア1984年12月12日1980年代バンコク:タイ軍事筋,ベトナム軍,KPNLFのバン・ソクサン・キャンプ占領,と発表。
DIA-202-1984-12-14-1カンボジア1984年12月14日1980年代PRK・ラオス,85年文化協力協定。
DIA-202-1984-12-17-1カンボジア1984年12月17日1980年代アンピル:ベトナム軍が砲撃。
DIA-202-1984-12-17-2カンボジア1984年12月17日1980年代パリ:DKシアヌーク大統領,仏大統領と会談。
DIA-202-1984-12-18-1カンボジア1984年12月18日1980年代PRKブー・タン副首相兼国防相,ベトナム訪問(~24日)。
DIA-202-1984-12-20-1カンボジア1984年12月20日1980年代PRKラジオ・テレビ代表団ベトナム訪問。
DIA-202-1984-12-20-2カンボジア1984年12月20日1980年代人民革命党中央委対外関係部代表団訪ベ。
DIA-202-1984-12-24-1カンボジア1984年12月24日1980年代プノンペン:ソラーズ議員ら米議会代表団到着,フン・セン外相と会談し,ラオスへ向う。
DIA-202-1984-12-25-1カンボジア1984年12月25日1980年代バンコク:ベ軍,ソン・サン派のアンピルとノンサメット・キャンプを攻撃。
DIA-202-1984-12-26-1カンボジア1984年12月26日1980年代リテイセン・キャンプで激戦。キャンプの住民6万人がタイ領へ避難。
DIA-202-1984-12-26-2カンボジア1984年12月26日1980年代バンコク:ソラーズ米下院議員,PRKのフン・セン外相は,ソン・サン,シアヌークとは彼らがポル・ポト派と手を切れば交渉と言明した,と。
DIA-202-1984-12-27-1カンボジア1984年12月27日1980年代PRKタン・サルーム商業・貿易相,訪ベ。
DIA-202-1984-12-29-1カンボジア1984年12月29日1980年代ソン・サン,アンピル訪問,軍幹部と協議。
DIA-202-1984-12-31-1カンボジア1984年12月31日1980年代PRKチャン・シ首相死亡。
DIA-202-1984-12-31-2カンボジア1984年12月31日1980年代ハノイで,ベトナム・PRK年経済・文化・科学技術協定調印。
DIA-202-1985-01-03-1カンボジア1985年01月03日1980年代シアヌーク,パリより北京へ戻る―AFP 3日は,北京西側外交筋の言として,シアヌークが北京で「PRKのフンセン外相とパリで会うことを拒否した。来月に会おうとの提案も拒否した」と語ったと報道。
DIA-202-1985-01-04-1カンボジア1985年01月04日1980年代アンピル(KPNLF本部)住民2万人タイ領へ退去―ベトナム軍の攻撃で3日夜退去命令が出た。
DIA-202-1985-01-04-2カンボジア1985年01月04日1980年代ベトナム軍,装備増強―タイ軍筋によると,プノンペンにはMi-24型ヘリ6機,ベトナム南部のビエンホアには,Antonov-26型輸送機7機がひかえ,またアンピル付近にはT-54型戦車12輌,兵員用装甲車20輌,大砲約20門が運ばれ,アンピル攻撃が間近かという。
DIA-202-1985-01-04-3カンボジア1985年01月04日1980年代クラチエ港完成―PPDS 4日によると,メコン川岸のクラチエ市に167㍍の埠頭と倉庫がこのほど完成。インドシナ3国間の交易拡大が期待されている。
DIA-202-1985-01-04-4カンボジア1985年01月04日1980年代中国,3派の団結を要請―李先念国家主席が北京訪問中のシアヌークDK大統領に要請。
DIA-202-1985-01-04-5カンボジア1985年01月04日1980年代ベトナム軍,タイ側へ越境とタイ軍発表―KPNLF軍を追撃中にブリラム県バンクルアド地区へ侵入しタイ軍と衝突と主張。4日ウボンラッチャタニ県でも「クメール民族主義者ら」を追撃中2~3キロメートル侵入と主張。
DIA-202-1985-01-05-1カンボジア1985年01月05日1980年代チャンシ前首相の葬儀(フンセンが葬儀長)。
DIA-202-1985-01-08-1カンボジア1985年01月08日1980年代アンピル基地陥落(7日からの攻撃で)。
DIA-202-1985-01-09-1カンボジア1985年01月09日1980年代米国務省,ベトナム軍の越境攻撃を非難。
DIA-202-1985-01-10-1カンボジア1985年01月10日1980年代中国,ベトナムのカンボジア攻撃強化を非難。
DIA-202-1985-01-10-2カンボジア1985年01月10日1980年代PRK国会第8期はじまる,~14日。
DIA-202-1985-01-11-1カンボジア1985年01月11日1980年代ベトナムの態度―ベトナム訪問の帰途バンコクに立寄った日本の桜内義雄前外相の感想。(1)ベトナムは,ASEAN,インドシナ3国,その他6カ国(オーストラリア,スウェーデンを含み,日本を含まず)のカンボジア国際会議の開催を希望(NR紙12日),(2)ベトナム軍はカンボジアから5~6年内に完全撤収する,(3)ヘンサムリン政権はシアヌーク派と対話を希望し,ベトナムもこれに肯定的な態度だった(『朝日新聞』12日)。
DIA-202-1985-01-11-2カンボジア1985年01月11日1980年代ソンサン,ゲリラ戦の拡大を表明―アンピルを追われたKPNLFは,今後カンボジア内部にゲリラ戦を拡大するとし,アンピル奪還の考えはないと語った。
DIA-202-1985-01-11-3カンボジア1985年01月11日1980年代PRK外務省,声明でタイ軍の領土侵犯を非難。
DIA-202-1985-01-11-4カンボジア1985年01月11日1980年代84年の生産活動―11日PRK国会報告。雨期米生産は84年11月中旬現在で計画の77.6%。家畜は15万5283頭増加し,ゴム栽培地は6206㌶に拡大。首都と4省では工・手工業計画は83.7%達成,4発電所が稼動開始。なおSPK 2日によると工業生産は83年比40%の伸び,電力生産は17%増の1.3億kWh。プノンペン等4市の繊維工場は漁網210万㍍,毛布7.5万枚,タオル4.3万枚を生産,全体で88%増。軽飲料43%増,紙巻タバコ2倍など。またPPDS7日では,83/84年期米の政府買上げは計画の122%を達成,雨期米は120万㌶におよび乾期米は16.8万㌶の計画という。
DIA-202-1985-01-14-1カンボジア1985年01月14日1980年代新首相にフンセン外相が兼任と決定―14日の国会が選出。人民革命党政治局員6人中第4位。
DIA-202-1985-01-14-2カンボジア1985年01月14日1980年代ソ連共産党外交委員会代表団くる,~21日。
DIA-202-1985-01-14-3カンボジア1985年01月14日1980年代第8期国会の議事内容―14日までに可決されたものは,83年度歳入出決算,84年度財政・予算実行決議,85年度予算案,85年度経済・社会開発決議など。また農民・少数民族・私営経済部門に対する諸政策,さらには政治的に道を誤った(ポト派や「反動分子」に従った)人々に対する政策の実施などについても討議・検討。
DIA-202-1985-01-16-1カンボジア1985年01月16日1980年代85年PRK国家計画目標決定で会議,~20日。
DIA-202-1985-01-17-1カンボジア1985年01月17日1980年代インドシナ3国外相第10回定例会議,~18日。ホーチミン市で。
DIA-202-1985-01-18-1カンボジア1985年01月18日1980年代3国外相会議声明(要旨)―(1)カンボジア問題はASEANと3国との間の問題ではない,とするASEAN数カ国の見解に留意し,ベトナム,ラオスとの2国間関係の発展を希う東南アジア数カ国の意図を歓迎する。マレーシア提案の東南アジア中立化,非核化構想を歓迎する。(2)中国との友好,協力関係の早期回復を希望する。(3)タイとの関係改善を希望する。(4)アメリカとの関係正常化を希望し,各界との人的交流を拡大したい。(5)東南アジア地域の平和と安定のため,関係諸国と交渉に入りたい。問題点は(以下は5項目提案―編者)(1)ポルポト派排除と並行するベトナム義勇軍の撤退,(2)カンボジア民族自決権,大量虐殺の脅威からの自由,(3)外国監視下のカンボジア総選挙,(4)東南アジアの平和・安定地域化,(5)東南ア諸国民権利尊重,諸協定実施のための国際保障の確立などである。3国は東南アの平和・安定に関係するすべての問題を討議する国際会議の開催を再度提案する(注:ベトナム外相は19日,国際会議参加国に東南アジア諸国,ジュネーブ会議参加6カ国,オーストラリア,スウェーデンを例示)。
DIA-202-1985-01-18-2カンボジア1985年01月18日1980年代アメリカの態度―訪タイ中のウォルフォウィッツ米国務次官補によると,アメリカはカンボジア・ゲリラに対して政治,人道的援助は行なうが,軍事援助は従来通り行なわない。ASEANとベトナム間の政治解決努力に期待する,と語った。
DIA-202-1985-01-18-3カンボジア1985年01月18日1980年代カンボジア戦線の状況―タイ国家安全保障会議事務局長の発表。(1)今乾期攻撃ではベトナム側がMi-24型戦闘ヘリコプターなど空軍力をはじめて動員。(2)ベトナムは今回,2個師団を新規に投入。(3)最近前例のない動きとして数万のカンボジア民間人を国境地帯での軍事労役に徴用。(4)84年のベトナム軍撤兵は2連隊以下の規模で,新規導入兵力はこれを上回った。
DIA-202-1985-01-18-4カンボジア1985年01月18日1980年代フンセン,ポルポト派排除を要請―3国外相会議出席中のフンセン首相は,AFPに対して,「シアヌーク,ソンサンら民族主義者が,ポルポトと手を切れば,彼らと会談を行なう用意がある」と語った。
DIA-202-1985-01-18-5カンボジア1985年01月18日1980年代国連事務総長特使,人道援助で調査。
DIA-202-1985-01-19-1カンボジア1985年01月19日1980年代ANSとKPNLF,ゲリラ作戦で合意か―シアヌーク派軍ANSとソンサン派軍KPNLFの調整委員会Permicoが84年9月に合意したもので,今後は国境の民間人居住地近くに基地を設けず,カンボジア内部に移動軍事基地網と小規模兵站庫群をつくるという。主唱者は,KPNLF軍参謀長のSak Sutsakhan将軍(NR紙19日)。
DIA-202-1985-01-23-1カンボジア1985年01月23日1980年代ソ連通商・経済・科学技術協力代表団来訪,~25日。24日に経済協力・通商議定書に調印。
DIA-202-1985-01-23-2カンボジア1985年01月23日1980年代インドシナ共産党結成55周年指示―中央宣教委員会18日の指示。国民の思想教育深化発展を求めるもの。
DIA-202-1985-01-24-1カンボジア1985年01月24日1980年代ソ連海洋船隊省代表団,フンセンを訪問―団長はTrunov副相。同団は23日にPRK側と覚書交換。
DIA-202-1985-01-27-1カンボジア1985年01月27日1980年代国連事務総長,カンボジア難民キャンプ訪問。
DIA-202-1985-01-29-1カンボジア1985年01月29日1980年代シアヌーク,タイに到着。
DIA-202-1985-01-29-2カンボジア1985年01月29日1980年代PRK国家建設戦線第4期大会開催(31日参照)。
DIA-202-1985-01-30-1カンボジア1985年01月30日1980年代国連事務総長,ハノイからバンコクに戻る―「カンボジア問題解決で若干の進展があった」と言明。
DIA-202-1985-01-31-1カンボジア1985年01月31日1980年代ベトナム軍,ポルポト派拠点に向け集結―タイ軍情報筋によると,3個師団でプノムマライ山付近。
DIA-202-1985-01-31-2カンボジア1985年01月31日1980年代シアヌーク,ソンサンら国連事務総長と会う―シアヌークDK大統領は会談後,「ベトナムは,カンボジア問題解決のための交渉で3派連合からポルポト派を排除する案を国連総長に提示したようだが,これはトリックであり拒否する。ポルポト派はカンボジア内部で非常な成功を収めており,3派分断に反対する」と語った。
DIA-202-1985-01-31-3カンボジア1985年01月31日1980年代ベトナム軍のポルポト派拠点への攻撃本格化。
DIA-202-1985-01-31-4カンボジア1985年01月31日1980年代PRK国家建設防衛統一戦線,「在外カンボジア人政策」を採択―カンボジア人は過去の如何を問わず,ポルポト派と手を切り,PRK憲法を尊重するかぎり,市民権を享受できる,とするもの。
DIA-202-1985-01-31-5カンボジア1985年01月31日1980年代フランス,PRKに病院復興で援助―ポルポト派時代に破壊された結核研究所の再建で両国赤十字が合意。
DIA-202-1985-02-02-1カンボジア1985年02月02日1980年代シアヌーク,「自由アジアの声」放送でカンボジア人へメッセージ(DK大統領として,1月30日付け)―「ヘンサムリンらがベトナム,ソ連等に奉仕することをやめれば,われわれはこれを歓迎し4派連合政府を作ってもよい」というもの。
DIA-202-1985-02-02-2カンボジア1985年02月02日1980年代ポト派軍の活動―2日ベトナム軍西北前線司令部のあるシエムレアプを攻撃。ソ連人顧問多数とベトナム兵38人を殺害したという(VONADK 8日)。
DIA-202-1985-02-03-1カンボジア1985年02月03日1980年代3派連合政府第5回閣議―「カンボジア問題は,過去6年間国連で採択された決議通りに,ベトナムが完全撤兵しないかぎり解決されない」と声明。なお,NR紙21日は,この際3派の3国防相が毎月1回会合すべきことが決められた,と報道。
DIA-202-1985-02-03-2カンボジア1985年02月03日1980年代PRK,インドシナ共産党結成55周年式典挙行。
DIA-202-1985-02-04-1カンボジア1985年02月04日1980年代ポト派拠点4日間で3カ所陥落。
DIA-202-1985-02-05-1カンボジア1985年02月05日1980年代PRK諸組織の現況―SPK 5日。最近開催の国家建設防衛統一戦線会議に提出された報告によると,同戦線の84年新規加盟員は10万人(83年は2万),労働組合連合は2.4万人(43%増で8万へ),青年連合は2万人(40%増で7万へ),婦人連合は130万人以上となったという。
DIA-202-1985-02-06-1カンボジア1985年02月06日1980年代ASEAN各国,ソ連に対越援助停止を要請。
DIA-202-1985-02-08-1カンボジア1985年02月08日1980年代PRKのSPK通信,シアヌークの呼び掛けに拒否を表明,PPDSも12日,16日に拒否を表明。
DIA-202-1985-02-09-1カンボジア1985年02月09日1980年代シアヌーク,4カ国大使の信任状受理―ポルポト派本拠地プノムマライに近いプントメイで,北朝鮮,セネガル,バングラデシュ,モーリタニアの各大使から。シ大統領はこの後の記者会見で,(1)中国が新たに40万㌦相当の人道援助を3派に供与した,(2)中国指導部はベトナムが3派への攻撃を続けるかぎり第2,第3の「教訓」を与えると約束した,と語った。
DIA-202-1985-02-11-1カンボジア1985年02月11日1980年代ASEAN外相,3派への軍事・政治支援を要請―バンコクでの特別外相会議の共同声明。
DIA-202-1985-02-14-1カンボジア1985年02月14日1980年代PRK国防省,外務省,戦果を共同発表。
DIA-202-1985-02-15-1カンボジア1985年02月15日1980年代ポルポト派本拠地陥落―1月31日深夜より始められたベトナム軍の攻撃は,まず前衛拠点を次々に陥したあと15日までに本拠地プノムマライを占領した。また15日には,ポト派司令部所在のプントメイも陥ちた。
DIA-202-1985-02-15-2カンボジア1985年02月15日1980年代シアヌーク,中国の対越砲撃に疑問―シKD大統領は,シアヌーク,ソンサン,キューサンファンら3派代表が最近北京で鄧小平に会った際,鄧が「ベトナムが3派軍を激しく攻撃した場合,中国は軍事干渉し,第2の教訓を与えるだろう」と語ったが,最近の中国の対越砲撃は,その第2の教訓かどうか疑わしいと語った。
DIA-202-1985-02-16-1カンボジア1985年02月16日1980年代ポト派ゲリラ活動―タイ国家治安会議事務局長の発表。最近占領されたところは前哨地にすぎない。ヵルダモン山系奥地の基地を攻撃するのは困難であろう。ポト派は前哨地を放棄してベトナム軍の背後で活動しはじめていた。最近ではプノンペンから30キロメートルの地点や,コンポントム,コンポンチャム,クラティエなどで戦闘があり,またバッタンバン空港をも攻撃している。
DIA-202-1985-02-17-1カンボジア1985年02月17日1980年代PRK外務省,ASEAN外相会議声明を非難―「11日のバンコクでの共同声明は,中国とタイの立場の単なる繰返しにすぎない。PRKは,1月18日のインドシナ3国外相会議の立場を再確認する」と表明。
DIA-202-1985-02-17-2カンボジア1985年02月17日1980年代ポト派軍,トンレサップ南岸で23カ村解放と主張(VONADK 17日)。
DIA-202-1985-02-17-3カンボジア1985年02月17日1980年代シアヌーク派民族戦線代表者会議,タイで開催。
DIA-202-1985-02-18-1カンボジア1985年02月18日1980年代「ベトナム軍,毒ガス使用」―タイ軍科学部18日の発表。16日にアンピルからタイ領内にうち込まれた4発のロケット弾。19日のハノイ放送はこれを否定。
DIA-202-1985-02-18-2カンボジア1985年02月18日1980年代3派代表,中国駐タイ大使と緊急会議―シアヌーク,ソンサン,キューサンファン3首脳は,最近のベトナム軍の攻勢につき沈平大使と会談し,3派間の軍事協力と,反越ゲリラ闘争の強化を申し合わせた。なおNR紙21日によると,3派はこの会談に先立つ会合で,3派常設委員会の設置で合意したという。
DIA-202-1985-02-20-1カンボジア1985年02月20日1980年代PRK外務省声明,タイの軍事干与を非難。
DIA-202-1985-02-21-1カンボジア1985年02月21日1980年代カンボジア難民への85年援助約束額―国連国境救済作戦委員会UNBRO発表。日本136万㌦と乾パン72万食分(日本の地方自治体の寄付に政府が輸送費2076万円を負担),アメリカ400万㌦,中国5万㌦,ノルウェー53万㌦,フランス60万㌦相当のメイズ。なお84年11月以来の新規難民増は15.5万人。
DIA-202-1985-02-22-1カンボジア1985年02月22日1980年代ベトナム,シアヌークの役割を承認か―AFP 22日は,ベトナム高官が最近,国家元首の地位を含めたシアヌークの政治役割を認めたと報道。ベトナム国連代表も,21日ほぼ同様の見解を表明したという。一方シアヌークは,最近の声明で,中国とポルポト派が,フランスによるシアヌーク=フンセン会談開催提案を拒否したと表明している,という。ハノイ外交筋によると,4月のバンドン会議で,シアヌークとベトナム高官との会見を実現させようという動きがありうる,という(HIS 27日は,この会見説を否定)。
DIA-202-1985-02-24-1カンボジア1985年02月24日1980年代シアヌーク,オーストラリア訪問。
DIA-202-1985-02-24-2カンボジア1985年02月24日1980年代シアヌークの対越交渉の条件―タイ外務省筋発表。シアヌークは23日にタイ外相と会談した際「DK連合政府大統領としてなら,ベトナムと会談してもよい」と語ったという(BP紙25日,ベトナム日誌27日参照)。これは同大統領が10日のフランス・テレビとの会見で「ベトナムが主権・独立,民族自決権を認めるなら,連合政府はベトナムと友好不可侵条約を結んでもよい」と主張し,その旨をハノイに伝えるよう同テレビ記者に依頼したものと同じものという。VNA27日はこれを拒否。
DIA-202-1985-02-25-1カンボジア1985年02月25日1980年代人革党中央委第10回総会,~28日。
DIA-202-1985-02-26-1カンボジア1985年02月26日1980年代シアヌーク,カンボジア国際会議を提唱―オーストラリアで,ヘイドン外相と会談した際提案。54年ジュネーブ会議を範とし前提条件もつけないという。
DIA-202-1985-02-28-1カンボジア1985年02月28日1980年代PRK国家評議会開催。PPDSによると,Ney Pena中央委員候補が中央委員へ昇格。
DIA-202-1985-02-28-2カンボジア1985年02月28日1980年代PRK軍の国内掃討作戦―コンポントム省軍が2~8日間だけで同省内で30回の作戦を行なったという。
DIA-202-1985-02-28-3カンボジア1985年02月28日1980年代ポト派最高司令部の指令―VONADK 28日は,2月末現在の戦況と若干の指示を与え,その中で,戦闘域を次の3地区に区分している。第1区―トンレサプ湖周辺諸州;第2区―西部国境域;第3区―その他全域。なお同派VODKは21日の放送ですでにこの区分を使用済。
DIA-202-1985-03-01-1カンボジア1985年03月01日1980年代3派国防相会議開催―ソンサン首相主宰の最初の会議で,連合政府国防調整委員会と呼ばれる。
DIA-202-1985-03-01-2カンボジア1985年03月01日1980年代PRKの農業生産状況―SPK1日は,最近開催の農業省第6回総括会議報告を次のように報道。84年雨期作米は130万㌶に植付けられ,うち47万1120㌶は自然災害で破壊された。この損失は10万㌶の副次作物で部分的に補われた。10月以来の現乾期作の植付けは,米8.8万㌶(計画は16.8万㌶),タバコ1.1万㌶,落花生2300㌶,ゴム500㌶,メイズ3.6万㌶。また牛196.2万頭,豚101.4万頭へ。木材7.3万立方㍍,薪16.4万ステール,角材16.4万立方㍍,木炭2.3万㌧。漁獲は計画の87%,6万2700㌧であった。
DIA-202-1985-03-03-1カンボジア1985年03月03日1980年代ポト派,コンポンチュナン省で攻勢展開か。
DIA-202-1985-03-04-1カンボジア1985年03月04日1980年代3派間の協力問題―ソンサン首相はNR紙に対して,「3派は1年1回閣議を開き,またいつでも,とくに国連で会合をもっている。3派間では相互攻撃をなくすよう約束している」と表明(24日参照)。
DIA-202-1985-03-04-2カンボジア1985年03月04日1980年代PRK軍,国境防衛労働への参加を要請―PPDS4日発表の軍週刊機関誌Kangtoap Padevoatの論説。
DIA-202-1985-03-05-1カンボジア1985年03月05日1980年代シアヌーク派拠点タツムへの攻撃はじまる。
DIA-202-1985-03-06-1カンボジア1985年03月06日1980年代中国,シアヌークの2月26日提案に反対を表明―ベトナム軍の完全撤退は譲れないというもの。
DIA-202-1985-03-07-1カンボジア1985年03月07日1980年代タイ,越軍がタイ領侵犯と国連に抗議―ベトナム軍は2月20日以降数回越境し,ことにシアヌーク派拠点タツム攻略に当っては1800人が越境したと主張。
DIA-202-1985-03-08-1カンボジア1985年03月08日1980年代オーストラリア外相ポト派を厳しく批判―ハノイでの記者会見。「ベトナム軍のカンボジア侵攻の理由も理解する」と語った。
DIA-202-1985-03-08-2カンボジア1985年03月08日1980年代フンセン首相オーストラリア外相と会談―ハイデン外相がホーチミン市へ立ち寄った際,急拠開催。フンセン首相は,カンボジア問題解決の条件として次の6点をあげたという(SPK 12日の発表)。(1)ポルポト派の政治的軍事的排除,(2)ベトナム軍の完全撤退,(3)民族連帯の達成と国際監視下の自由選挙,(4)異なった社会制度の諸国が共存する平和で安定した東南アジアの創造,(5)地域外諸国の干渉の停止,(6)合意事項実施を確保する国際的保障,監視体制の確立。同首相はさらに,「ポルポト派と手を切り,カンボジア人民共和国憲法を尊重するものは,選挙への立候補を許されよう。ポルポト派を除く全当事者は今こそ会談に臨むべきだ。さもなくば,カンボジア問題はカンボジア内の発展,すなわちポルポト派の排除と,ベトナム軍の段階的撤退によって解決されよう」と説明(Le Monde紙4月7日,Newsweek誌4月8日もフンセンの同様の言葉を報道)。
DIA-202-1985-03-08-3カンボジア1985年03月08日1980年代ベトナム外相カンボジア国際会議案支持か―訪越中のオーストラリア外相の言(2月26日参照)。
DIA-202-1985-03-08-4カンボジア1985年03月08日1980年代ベトナムと地域レベルの協力で報告書に調印―東北4州(プレヴィハル,スタントレン,モンドルキリ,ラタナキリ)とプノンペン市,およびこれに見合うベトナム側6省とホーチミン市の間の経済・文化協力。
DIA-202-1985-03-08-5カンボジア1985年03月08日1980年代ベトナムと経済協力,物資交流等で議定書調印。
DIA-202-1985-03-09-1カンボジア1985年03月09日1980年代内閣改造―SPK通信9日による。Chan Phin蔵相が内外交易相を兼任,Tang Saroem内外交易相は対外経済・文化協力相に転任。新設の社会行動・廃疾者相にMa Sabun,Tea Banh副国防相は運輸・通信・郵政相に,Khun Chhy運輸1通信・郵政相は内閣室相にそれぞれ就任。
DIA-202-1985-03-10-1カンボジア1985年03月10日1980年代オーストラリア外相,フンセン首相の考えを説明―タイ外相と会談後の記者会見で。(1)ポルポト派の排除とはポルポトとイエンサリ2人の排除を指し,その妻子を含まない。また(2)同派の兵士の武器放棄と戦闘停止とを意味する。(3)政党として選挙に参加できるのは共産党のみとし,他は無所属として立つ。(4)将来のカンボジアは中立ではありえないが,駐比米軍とか,駐マ豪軍などの問題には言及しない。(4)これらの条件についてフンセン首相タク外相は時限に言及したが,それがいつかは言えない。
DIA-202-1985-03-11-1カンボジア1985年03月11日1980年代シアヌーク派拠点タツムも陥落―なおこの戦闘でシアヌーク派軍ANSの副参謀長King Men将軍が戦死し,後任にシアヌークの子Norodom Chakrapong(BP紙14日)とTea Chamrath(BP紙26日)が,また作戦部長にはToan Chay将軍(同26日)が任命された。
DIA-202-1985-03-11-2カンボジア1985年03月11日1980年代オーストラリア外相,和平努力失敗と言明一ベトナム軍のタイ領侵犯が事実と判明したためという。
DIA-202-1985-03-11-3カンボジア1985年03月11日1980年代中国国家主席ら,タイ訪問―~15日。PRK側はこの訪問を非難した。
DIA-202-1985-03-12-1カンボジア1985年03月12日1980年代VODK,オーストラリア外相の言動を非難。
DIA-202-1985-03-12-2カンボジア1985年03月12日1980年代ヘンサムリンら,ソ連書記長葬儀へ(17日帰着)。
DIA-202-1985-03-14-1カンボジア1985年03月14日1980年代ポルトガル共産党代表団,PRK訪問。
DIA-202-1985-03-14-2カンボジア1985年03月14日1980年代キューサンファン,ユーゴスラヴィア訪問,~16日。
DIA-202-1985-03-15-1カンボジア1985年03月15日1980年代タイ,再びベトナム軍の領土侵犯で国連に提訴―同日タイ軍部は警告の記者会見を行なった。
DIA-202-1985-03-18-1カンボジア1985年03月18日1980年代シアヌーク派も拠点奪回を図らず―シアヌーク派軍Thip Ben司令官が,タツム基地について言明。
DIA-202-1985-03-18-2カンボジア1985年03月18日1980年代ベトナム軍の「タイ領侵犯問題」―BP紙18日によると,インドネシア外相はベトナム首相から,「偶発事件であり,意図したものではない」とのメッセージをタイ首脳あてに託された,という。HIS 18日は,これに反駁し,ハノイのインドネシア大使館も19日否定した。なおオーストラリア外務省も,侵犯の可能性を示唆する連絡をベトナム外相からうけたと発表している(12日)。
DIA-202-1985-03-18-3カンボジア1985年03月18日1980年代人革党書記局,イデオロギー任務で指示―PPDS 18日。全国幹部会議決議の研究学習・実践を全国,全レベルの幹部に指示。
DIA-202-1985-03-19-1カンボジア1985年03月19日1980年代新ソ連大使,PRKへ信任状提出―前任者はOleg Bostorin,新任者はYuriy I.Razdukhov。
DIA-202-1985-03-19-2カンボジア1985年03月19日1980年代PRK,第1回国防勤労会議開催。
DIA-202-1985-03-21-1カンボジア1985年03月21日1980年代3派政府内閣のシアヌーク派代表に異動―BP紙21日。国防相にはNorodom Chakkrapong殿下(従来はIn Tam),保健相にはKhek Vandy(従来はChakkrapong),蔵相と教育相はそれぞれBuor HerlとChak Saroeunで不変。
DIA-202-1985-03-21-2カンボジア1985年03月21日1980年代PRK国会議長らハンガリー社労党大会へ発つ。
DIA-202-1985-03-21-3カンボジア1985年03月21日1980年代QDND紙編集長のLe Figaro紙21日会見―「ベトナム軍の今期の成功は,事前に多くの道路を建設したことによる。82年と違い今回は雨期がきても,マライ山からは退かない。ベトナム軍は占領拠点に駐留を続け,カンボジア民間人を入れる予定だ。トンレサプ湖北西部やコーコン沿海地域にはまだ仕事がたくさんある」。
DIA-202-1985-03-21-4カンボジア1985年03月21日1980年代保健省,UNICEF,WHO共催会議開催。~22日。
DIA-202-1985-03-22-1カンボジア1985年03月22日1980年代PRK外交代表団,ブルキナファソ訪問。
DIA-202-1985-03-23-1カンボジア1985年03月23日1980年代PRK戦果発表―PPDS23日。84年11月18日から85年3月11日までで敵兵4418人殺害(別に130人殺傷),捕虜99人,傷害・戦闘不能2400,武装捕獲9000。
DIA-202-1985-03-23-2カンボジア1985年03月23日1980年代ポト派は中国の「第2の教訓」を望まず―シアヌークのインドシナ向け声明で,キューサンファンの中国に対するこの要望が明かされた。
DIA-202-1985-03-23-3カンボジア1985年03月23日1980年代モンゴル外相,PRKに来訪,~26日。
DIA-202-1985-03-24-1カンボジア1985年03月24日1980年代シアヌーク,中国の非妥協的態度に困惑―24日北京発AFP。シアヌークDK大統領は,中国がベトナム軍の完全撤退で譲らないため,見通しが立たない。中国とベトナムは前提条件なしで問題解決のため交渉にのぞむべきだ,と遺憾の意を表したという。
DIA-202-1985-03-24-2カンボジア1985年03月24日1980年代3派,ゲリラ活動協調で合意―NR紙24日によると,3月初めに開かれた3派非公式首脳会議で,非ポト2派のゲリラが奥地に侵入する場合,ポト派支配村落民に干渉しないかぎり,ポト派軍はこの侵入を助成するというもの。なおこの会議では,政治面での協力を推進するための新しい機関を設置するという案は当分棚上げとすることで合意した(4日参照)。
DIA-202-1985-03-26-1カンボジア1985年03月26日1980年代ポト派軍,プノンペン附近を攻撃―VONADK4月9日。首都北西部ウドン地区でベトナム兵多数を殺害し,タンク27輌(一説には数輌)を破壊。
DIA-202-1985-03-30-1カンボジア1985年03月30日1980年代ソ連援助の火力発電所始動―コンポンソムで82年12月に建設開始されたもの。30日にはまず800kWのディーゼル発電機が始動。他に4基が今後設置予定。
DIA-202-1985-04-02-1カンボジア1985年04月02日1980年代フンセン,越軍撤退に伴い戦果を発表―今乾期攻勢で敵兵1.2万人(他発表はすべて1万)を殲滅または戦闘不能とし,武器1.5万を捕獲。占領拠点はポト派8,ソンサン派7,シアヌーク派1。なおSPK1日は,さらにタイ空軍機撃墜1,トラック撃破24,捕獲弾薬数千㌧,同食糧数百㌧としている(5月21日参照)。
DIA-202-1985-04-03-1カンボジア1985年04月03日1980年代ベトナム軍第4次撤退―PPDS3日発表。「ベトナム志願兵」の1.5万人が3日撤退開始。4年来の最大規模で,残留兵力は盛期の3分の1減という。撤退兵はカンボジア東部,東北部7州でポト派を掃討。
DIA-202-1985-04-03-2カンボジア1985年04月03日1980年代ポト派の活動―VONADK3日は,最近プノンペンから30キロメートル地点でベトナム兵23人を殺害と発表。
DIA-202-1985-04-03-3カンボジア1985年04月03日1980年代ポト派代表団,日本自民党幹事長を訪問―Ieng Thirith団長(3派政府副外相)は,金丸幹事長に対し,ハノイへは人道援助すら与えないよう要請したという。
DIA-202-1985-04-03-4カンボジア1985年04月03日1980年代3派に常設調整委員会できる―3派閣僚と3派調整委員会委員の会合で(ソンサン,キューサンファンは出席,シアヌークは欠席),常設合同委員会の設置を決定。3派連合政府結成に関する82年クアラルンプル声明の枠内における連合政府の活動の継続性を確保し,ベトナムに対する共同闘争の効果を高めるものという。
DIA-202-1985-04-04-1カンボジア1985年04月04日1980年代米国務省,「越軍むしろ増強」と指摘。
DIA-202-1985-04-05-1カンボジア1985年04月05日1980年代ポト派3月の「戦果」―BP紙6日によるポト派放送(5日)。ソ連人顧問15人,ベトナム兵2860人以上殺害と報道。
DIA-202-1985-04-05-2カンボジア1985年04月05日1980年代ポルポトの近況―訪日中の3派政府副外相Ieng Thirith(ポルポトの義妹)はNHKテレビに対し,「かれは自派の最高司令官で,現在はカルダモン山中にいると聞く。私自身は3月末に会ったが,元気だった」と語った(なお香港の『争鳴』誌4月30日は「北京に入院中」と報道,タイ軍筋はこれを否定)。
DIA-202-1985-04-05-3カンボジア1985年04月05日1980年代PRK国家評議会開催―スベイリエン州人民委員会議長(Vok Sim)と第1副外相(Kong Korn)の任命,カンボジア語綴字標準化に関する国会要請の審議など(注:従来は副外相に第1,第2の別がなかった)。
DIA-202-1985-04-06-1カンボジア1985年04月06日1980年代ベトナム外相,シアヌークを語る―Le Monde紙6日で,84年末のシアヌーク=フンセン会談不成立につき,「この会談は元来フンセンやフランス外相や私などでなく,シアヌーク自身が提案したものだ。会談設定後,かれは中国に声をかけた。中国やポト派の反対を知ってのうえでだ。シアヌークはかれらからも,フンセンからも譲歩を得ようとした。これはかれの常套手段だ。中ソ雪解けは東南アジアに良好な雰囲気を作りだそうが,結局事を決するのは戦場であり超大国ではない」と言明。
DIA-202-1985-04-07-1カンボジア1985年04月07日1980年代ベトナム軍,ソンサン派拠点ノンチャンを奪回,その後も争奪戦が続く。
DIA-202-1985-04-08-1カンボジア1985年04月08日1980年代ポーランド労働者党,PRKに来訪。
DIA-202-1985-04-08-2カンボジア1985年04月08日1980年代PRK,ゴム栽培会議(3日間)終わる―報告によると,84年のゴム生産は1万3500㌧,また,ラテックスは1.9㌶の土地から計画の102%の生産であった。
DIA-202-1985-04-09-1カンボジア1985年04月09日1980年代PRKフンセン外相ナミビア問題非同盟外相会議に書簡―特定超大国のアンゴラ,ナミビア介入を非難したもの(PPDS 10日)。
DIA-202-1985-04-09-2カンボジア1985年04月09日1980年代ソ連・ザイツェフ外務省東南ア部長,PRKに来訪。
DIA-202-1985-04-10-1カンボジア1985年04月10日1980年代マレーシア外相,間接対話を提案―ASEAN常任委議長たるマレーシアのリタウディーン外相によると,紛争当事者が別個の部屋に待機し,仲介者がこれをつないで交渉をまとめるという方式(proximity meeting)。
DIA-202-1985-04-10-2カンボジア1985年04月10日1980年代3派連合政府ソンサン,米国務長官に軍事・経済援助要請―なお米下院外交小委員会は最近,86年分として500万㌦の軍事援助をカンボジア3派に与える案を承認。米政府はこれに関連して,従来の経済援助を今後は非共産2派に限った軍事援助にかえて与える可能性を示唆。インドネシアのモフタル外相は12日に「軍事援助が大きなものにならないことを期待する」と表明。
DIA-202-1985-04-13-1カンボジア1985年04月13日1980年代タイ=カンボジア国境に鉄条網か―タイ軍筋発表。目的は3派軍の侵入を防ぐための地雷敷設という。同筋は22日,地雷敷設を確認と発表。
DIA-202-1985-04-14-1カンボジア1985年04月14日1980年代タク外相,越軍撤退計画を発表(Reuter)―(1)85年末までに3分の1,(2)政治解決の有無にかかわらず,87年までに半数,(3)90年までに3分の2,(4)95年までに全軍。これは最初の詳細な数字発表とされる。
DIA-202-1985-04-15-1カンボジア1985年04月15日1980年代ハンガリー連帯委代表団,PRKを訪問。
DIA-202-1985-04-17-1カンボジア1985年04月17日1980年代タイにおけるカンボジア難民―タイの国連難民委員会発表,85年3月末現在3万7021人。
DIA-202-1985-04-17-2カンボジア1985年04月17日1980年代「大国の態度」―モフタル・インドネシア外相は,「米,ソ,中は,カンボジアの現状を許容範囲内と考え,解決に真剣味がない」と語る。
DIA-202-1985-04-17-3カンボジア1985年04月17日1980年代PPDS,バンドン会議のシアヌーク招待に反対。
DIA-202-1985-04-18-1カンボジア1985年04月18日1980年代インドネシア外相,シアヌークのバンドン会議欠席を予測―ベトナムとの将来の接触機会を損わないことを望んでいるため,と付言。
DIA-202-1985-04-18-2カンボジア1985年04月18日1980年代85年度インドシナ3国首都協力議定書調印さる―協定内容は文化,社会,芸術など。
DIA-202-1985-04-22-1カンボジア1985年04月22日1980年代シアヌークのNewsweek22日会見―(1)アメリカの援助提案は遅きに失した,(2)カンボジアの将来は非常に暗い,(3)ソンサンは正直な人物だが彼とその将軍らは戦場ではゼロであり,ポルポトはゼロではない。
DIA-202-1985-04-22-2カンボジア1985年04月22日1980年代ブルガリア経済・科学技術協力代表団,PRK訪問。
DIA-202-1985-04-23-1カンボジア1985年04月23日1980年代シアヌーク,大統領辞任を表明か―北京の西側外交筋23日発表。シアヌークは最近,キューサンファン副大統領に辞任書簡を送ったという。米国務省は23日留任を要請。AFP5月6日によると,シアヌークの目的は,「越軍撤退を条件とせず,中国がソ連,ベトナムと直接交渉に入るよう説得すること」にあるという。
DIA-202-1985-04-23-2カンボジア1985年04月23日1980年代PRK,「反徒」に投降帰順奨励措置発表―PPDS 23日。84年3月19日付け閣議令第4号(同8月19日国会承認)に伴う国防,内務,大蔵の3相の決定。これによると,武器を携行してきた場合,敵側に関する情報をもたらした場合,敵側に人的物的損害を与えたうえで投降した場合,などに分け,200~2000リエルの賞金を与えるとしている。なおSPK通信24日によると,85年1~3月の投降数は1149で,84年同期比256%増という。
DIA-202-1985-04-24-1カンボジア1985年04月24日1980年代シアヌークに辞意撤回の要請―バンドン会議出席のASEAN諸国代表は,一様に撤回を希望。
DIA-202-1985-04-24-2カンボジア1985年04月24日1980年代キューバ外相,PRKを訪問,~27日。
DIA-202-1985-04-26-1カンボジア1985年04月26日1980年代シアヌーク,辞意撤回―北京の3派大使館が平壌のシアヌークから得た連絡を発表したもの。
DIA-202-1985-04-26-2カンボジア1985年04月26日1980年代シアヌーク派ゲリラの現況―同派軍ANS筋がNR紙に伝えたところでは,4月16日現在で6500人のゲリラ兵士がシエムレアップ附近まで浸透しており,5月中旬までにはさらに1200人を追加するという。またANSの総兵力は1万1000人で,未装備予備隊は1000人という。
DIA-202-1985-04-26-3カンボジア1985年04月26日1980年代元シアヌーク派幹部,タイを非難―SPK通信は,2月18日に発表されたという元FUNCINPEC副議長In Tamの書状を報道。タイはカンボジアの隣接諸洲の併合政策をいまだすてていない,というもの。
DIA-202-1985-05-02-1カンボジア1985年05月02日1980年代ソ連海軍・コンポンソム,レアム2港の使用権を確保か―米海軍大学バーンスタイン教授が発表。
DIA-202-1985-05-02-2カンボジア1985年05月02日1980年代カンボジア国内でマラリア大量発生か―4月18~23日にカンボジアを訪問した国連関係者の証言。
DIA-202-1985-05-02-3カンボジア1985年05月02日1980年代シアヌークの健康状態―AFP北京発。同人は初期そこひを病み,5~6年で失明しかねない。また静脈炎,半身不随,心臓発作などの可能性もあり,毎年6カ月間は北朝鮮と中国とで半引退の状態の滞在を希望。
DIA-202-1985-05-06-1カンボジア1985年05月06日1980年代シアヌークとマレーシア対話案―AFP北京がシアヌークより受けた電信。「個人としては賛成だが,3派政府構成員がヘンサムリン政権との対話,妥協に反対しているので,公的には承認できない」という。
DIA-202-1985-05-06-2カンボジア1985年05月06日1980年代DK民族軍司令部の84/85年乾期戦闘総括(4月30日付け,VONADK5月6日放送)―敵兵2.7万殺害,戦車・装甲車等270輌破壊。
DIA-202-1985-05-07-1カンボジア1985年05月07日1980年代越,ラオスから国家計画関係代表団来訪。
DIA-202-1985-05-08-1カンボジア1985年05月08日1980年代タイ軍のカ領侵犯―PPDS 8日。1日以降タイ軍が砲撃や領空侵犯を行なったというもの。
DIA-202-1985-05-09-1カンボジア1985年05月09日1980年代タイ産種籾,カンボジアへ―アメリカの一救済機関は,さる2日バンコクよりタイ産種籾1100㌧を飢餓救済のためカンボジアに向け送り出した。同機関によると,タイ政府が過去5年来の禁を解除したものという。
DIA-202-1985-05-09-2カンボジア1985年05月09日1980年代日境有刺鉄線壁,70キロメートルに―タイ軍筋発表。アランヤプラテートとタプラヤ地区に接するタイ=カ国境部分。
DIA-202-1985-05-10-1カンボジア1985年05月10日1980年代PRKの農業生産状況―Kong Sam-ol農相はPPDS 10日で次のとおり発言:今日の天然災害に対処するため閣議第2号指令にもとづき農業省は,全国各地に作業班を派遣して,雨・乾期の収穫状況調査を行ない,ガイドラインを出す。雨期作では期初に水路,堤,貯水池などの設置が必要であり,乾期作も可能なところでは年2回行なう必要がある。種籾不足の問題は,深刻では ない。浮き稲種は16万㌶に植付け計画に対し,1.6万㌧の種籾を必要とするが州間調整で不足を解消しうる。なおSPK16日では,84/85年乾期作が11.9万㌶で収穫された(ヘクタール当り2㌧)。州別ではタケオ州3.1万㌶,カンダル州3万㌶,プレイベン州2.2万㌶,コンポンチャム州1.7万㌶,IR種収量はコンポンチャム州2.5㌧,スベイリエン州3.5㌧,カンポト州3.3㌧であった。
DIA-202-1985-05-11-1カンボジア1985年05月11日1980年代ソ連赤軍総政治部代表団,PRK訪問,~22日。
DIA-202-1985-05-14-1カンボジア1985年05月14日1980年代ポルポト派作戦の今後―VODK14日発表。(1)トンレサップ周辺5州での越軍攻撃強化,(2)プノンペン周辺地区の戦場化(Oudong,Ang Snuol,Kandal Stoeng,Ponhea Loe,Muk Kampulの5区),(3)タイ=カ国境では機動的消耗戦の強化。(4)他の地域でも,ゲリラ活動の強化で,敵の行政を破壊し,越軍の補給路断絶。
DIA-202-1985-05-14-2カンボジア1985年05月14日1980年代ソンサン,軍事指揮権を移譲―KPNLFスポークスマンの14日発表。Sak Sutsakhanは新総司令官に。
DIA-202-1985-05-15-1カンボジア1985年05月15日1980年代PRK外務省声明,タイを非難―「タイ当局はさる7日国連への声明で,ベトナムがタイ領を30回侵犯し,またタイ東北17県の併合を望んでいると訴えたが,まことに恥ずべき中傷だ」として,逆にタイ側の拡張欲事例を発表。
DIA-202-1985-05-15-2カンボジア1985年05月15日1980年代米上院,対2派援助を承認―1986年対外援助法(148億㌦)で,カンボジアの部分は,「東南アジアの他の反共諸国が同様の措置をとることを条件に500万㌦の援助を与える」というもの(下院は7月9日,大統領署名は8月8日)。
DIA-202-1985-05-17-1カンボジア1985年05月17日1980年代マレーシア間接対話案の動向―マレーシア首相がタイ首相に説明し,協力を求めた。
DIA-202-1985-05-17-2カンボジア1985年05月17日1980年代ソンサン,北京よりバンコクに戻る―タイ語紙,Naew Na19日によると,中国で趙紫陽首相と会い,望外の援助を得た,という。
DIA-202-1985-05-18-1カンボジア1985年05月18日1980年代人革党地区指導者会議,最近開催―PPDS 18日。85年雨期の重要問題を討議し,党書記長の助言:「敵ゲリラへの宣教活動の組織化と米生産への指導を二大任務とする」を承認。また各地の戦闘,食糧生産の拡大は地区幹部の責任であることも確認された。
DIA-202-1985-05-18-2カンボジア1985年05月18日1980年代キューサンファン,胡耀邦と会う―VONADK 20日。胡総書記は民主カンボジア軍への完全な支持を確認。
DIA-202-1985-05-18-3カンボジア1985年05月18日1980年代元首相ペンヌート,パリで客死。79歳。
DIA-202-1985-05-20-1カンボジア1985年05月20日1980年代3派連合,「間接交渉案」拒否か―3派政府に近いタイ当局筋の言(BP紙20日)。BP紙24日によると,ポト派の反対で全会一致が得られないためらしい。
DIA-202-1985-05-21-1カンボジア1985年05月21日1980年代PRK国防省の戦果発表―SPK 21日。国境沿いでは4ヵ月間の全18作戦の乾期攻勢で,全拠点を支配し,1万以上の敵兵を殺害,捕虜数100人,捕獲武器1.5万,諸物資数百㌧,撃墜航空機1,破壊トラック24台。国内約100作戦では,敵兵2000以上を戦闘不能にし,500人を捕虜とし,武器約2000を捕獲した。
DIA-202-1985-05-23-1カンボジア1985年05月23日1980年代マレーシア,3派兵士20人を訓練中(40日間),タイ紙Naew Na 23日報道。難民キャンプⅡの難民。
DIA-202-1985-05-25-1カンボジア1985年05月25日1980年代ソ連援助の病院完全復興なる―1960年に造られ,ポルポト時代に荒廃に帰していたとされるカンボジア=ソ連友好病院。500ベット。SPK通信26日。
DIA-202-1985-05-26-1カンボジア1985年05月26日1980年代シエラレオーネ,3派政府を承認。
DIA-202-1985-05-28-1カンボジア1985年05月28日1980年代3派,間接対話案でASEANと折衝―BP紙30日は,3派代表がこの際ベトナムとの直接交渉を希望と報道。
DIA-202-1985-05-29-1カンボジア1985年05月29日1980年代反共2派,単一司令部結成か―BP紙31日。同紙6月1日によると,シアヌーク派筋はこれを否定。
DIA-202-1985-05-30-1カンボジア1985年05月30日1980年代シアヌーク,和平提案再提示―BP紙特約記者Jacque Bekaertが直接本人から受取ったもの(BP紙30日)。(1)紛争の4当事者(3派とPRK)が無前提条件で会談する,(2)同4当事者による政府の設立,(3)国際平和監視軍による4派間の武力紛争阻止,(4)国連監視下の総選挙(Le Monde30日も報道)。
DIA-202-1985-06-01-1カンボジア1985年06月01日1980年代PRK国家評議会,プノンペン市長任命―プ市人民革命委員会委員長にThong Khonを任命。BP紙7日は,前任者Keo Chandaの粛清か解任と見ている。
DIA-202-1985-06-03-1カンボジア1985年06月03日1980年代「ポト派軍,越軍への攻勢を強化」―タイ軍筋は(NR紙3日),越軍が国境地帯から中部に戻って国内掃討作戦に戻るのを阻止するため,という。
DIA-202-1985-06-03-2カンボジア1985年06月03日1980年代ベトナム国家評議会議長ら,PRK訪問。
DIA-202-1985-06-03-3カンボジア1985年06月03日1980年代ソンサンDK首相訪日―4日安倍外相,5日中曽根首相と会談。朝日5日によると,安倍外相は直接援助の要請をことわったという。
DIA-202-1985-06-05-1カンボジア1985年06月05日1980年代反共2派,軍事活動を統合か―NR紙5日によると,反共2派のラジオ報道では,5月以降の2派軍の統合努力は,個別作戦レベルでのみ行なわれる模様。
DIA-202-1985-06-05-2カンボジア1985年06月05日1980年代ソンサン,「間接対話案」に消極姿勢表明,東京で。
DIA-202-1985-06-06-1カンボジア1985年06月06日1980年代日本外務省,DKからの研修生受け入れ検討を開始か(日経,6日)。
DIA-202-1985-06-07-1カンボジア1985年06月07日1980年代PRK,民間人1万人を徴用か―VONADKによると,ベトナム軍は本年の乾期攻勢で大幅な人的損害をうけたため,今後の7ヵ月間に全国の各地区から200~300人,合計約1万人を徴用することになろうという。
DIA-202-1985-06-07-2カンボジア1985年06月07日1980年代シンガポール,タイ両首相,カンボジア問題で討議―内容は不明。両国ともマレーシアの対話案に消極的。
DIA-202-1985-06-07-3カンボジア1985年06月07日1980年代「中国の3派援助は均等」―ソンサンの東京発表。
DIA-202-1985-06-08-1カンボジア1985年06月08日1980年代カ=越共同声明―SPK8日。来訪中のベトナム首脳との間で出されたもの。主要点は次のとおり。(1)ワシントン=東京=ソウルの軍事同盟(lien minh quan su)結成の試みを非難,(2)中国当局者のインドシナ3国に対する敵対政策は東南アジア人民,中国人民の利益に反する。平和五原則にもとづき伝統的友好関係回復に努力を続ける,(3)3国は,85年1月の3国外相会議声明で東南アジア・カンボジア問題の政治的解決に善意を示した。3国とASEAN諸国間の対話の風潮を促進する必要がある,(4)タイ王国との善隣関係の発展にかける善意は不変である,(5)3国とアメリカとの関係正常化は,この地域の全関係者に稗益する。
DIA-202-1985-06-10-1カンボジア1985年06月10日1980年代KPNLF軍の近況―KPNLF司令部筋によると(BP紙10日),同軍兵士約5500人が現在国内奥地で活動し,シアヌーク派軍ANSとも作戦を調整中という。なおNR紙13日によると,同派現兵力は1.3万人。
DIA-202-1985-06-10-2カンボジア1985年06月10日1980年代タイ,カンボジア難民の送還を示唆(14日参照)。
DIA-202-1985-06-12-1カンボジア1985年06月12日1980年代シアヌーク,アメリカの外交努力を要請―平壌でNYT紙に表明:アメリカは500万㌦の軍事援助より外交に重点を移すべきだ。1954年のジュネーブ方式にならって,3派とヘンサムリン政権の4派で連合政府を結成するよう影響力を行使してほしい。ポト派参加には不満もあろうが,カンボジア居座りを意図するベトナムはポルポトより危険だ。軍事的解決は中国が第2の教訓を実行する場合可能だが,中国は最早その状況にない。
DIA-202-1985-06-13-1カンボジア1985年06月13日1980年代食糧事情悪化か―国連世界食糧計画WFP筋によると,85年の食糧不足は40万㌧と84年より悪いとのPRK政府推計を発表。WFPが84年に援助した1.6万㌧は東・北6州の15万人に配布され,その状況はWFPが把握しており,ベトナム軍への流用はないという。
DIA-202-1985-06-13-2カンボジア1985年06月13日1980年代PRK,三善青年競争運動集約の第1回会合開催。
DIA-202-1985-06-14-1カンボジア1985年06月14日1980年代タイ,カンボジア難民を送還か―BP紙14日。84年11月以来タイ側に逃がれ,難民証を与えられていない者23万人を近々,カンボジア領内の安全地帯に送還する。タイ軍,国際赤十字委,および国連国境救助作戦局が合同でこの送還を監視するという。PRK外務省は19日これを非難する声明を発表。なお10日参照。
DIA-202-1985-06-16-1カンボジア1985年06月16日1980年代ソ連建設の火力発電所始動―SPK16日。バッタンバン州都,1000kW。同規模2基の増設も予定。
DIA-202-1985-06-17-1カンボジア1985年06月17日1980年代HDS,PRK商業部門活動を報道。
DIA-202-1985-06-18-1カンボジア1985年06月18日1980年代フンセン,政治解決は1987年が山―共同通信とのイソタビューで,「(ベトナム軍撤退の)時間的枠組が5年とすれば,政治解決に必要な時限は中をとって,2.5年である。つまり87年以後では遅すぎる」と言明。
DIA-202-1985-06-18-2カンボジア1985年06月18日1980年代ラオス軍総政治部代表団,PRK訪問,~25日。
DIA-202-1985-06-22-1カンボジア1985年06月22日1980年代中国,ポルポト派支持を確認―中国国際問題研究所の宦郷所長は(UPI―BP紙22日),「ポト派政権時代の所業には誇張がある。さもなくば兵力の拡大はありえない。中国は3派を等しく支持する」と言明。
DIA-202-1985-06-22-2カンボジア1985年06月22日1980年代日本共産党駐ハノイ代表,フンセン首相に会見。
DIA-202-1985-06-24-1カンボジア1985年06月24日1980年代PRK法相,東独訪問終了,保健相は訪東独中。
DIA-202-1985-06-26-1カンボジア1985年06月26日1980年代反共2派,統一司令部結成で特別委員会設置(NR紙26日,なお5月29日参照)。
DIA-202-1985-06-28-1カンボジア1985年06月28日1980年代人民革命党中央委員会第11回会議,最近開催―プノンペン放送28日発表。
DIA-202-1985-06-28-2カンボジア1985年06月28日1980年代人民革命党創建第34周年。
DIA-202-1985-06-28-3カンボジア1985年06月28日1980年代ラオス計画委員会代表団,PRK訪問。
DIA-202-1985-06-28-4カンボジア1985年06月28日1980年代ソ越首脳会談とカンボジア問題―28日モスクワでの両国書記長会談のあとのソ連外務省説明では,「カ問題の解決はアジアの緊張緩和に不可欠だが,中越,中ソの二国間で話し合う問題だ」とあり,明確な表明を回避。
DIA-202-1985-06-29-1カンボジア1985年06月29日1980年代KPNLF,ANS両派軍,初めて合同会議―目的は合同司令部設置に関する意見交換。KPNLF代表はGen. Dien Del参謀長,Dr. Abdul Gaffar Peangmeth,Col. Chhim Omyon,ANS代表Gen. Teap Ben参謀長,Gen. Toan Chay作戦司令官,Mr. Lah Tol政治顧問。
DIA-202-1985-07-01-1カンボジア1985年07月01日1980年代インドシナ3国国家計画委員会第2回会議,プノンペンで開催。3日夕刻3国間で86~90年間の経済・文化協力覚書に調印。2国間ベースでも同様の覚書調印。
DIA-202-1985-07-02-1カンボジア1985年07月02日1980年代シアヌーク,タイ案間接対話案を支持―6月30日タイ外相と討議し,2日の記者会見で支持を表明。
DIA-202-1985-07-06-1カンボジア1985年07月06日1980年代PRK外務省,タイ対話案非難の声明。
DIA-202-1985-07-07-1カンボジア1985年07月07日1980年代ポト派放送,タイ対話案に賛意。
DIA-202-1985-07-08-1カンボジア1985年07月08日1980年代PRK外相,国連へ抗議文を送る―国連の世界女性会議に民主カンボジア代表がいるため。
DIA-202-1985-07-08-2カンボジア1985年07月08日1980年代ベトナム外相の見解―8日発売15日付けTime誌との会見で,ベトナム軍のカンボジア撤退の条件として,ポルポトの北京亡命などによる排除,中国の援助停止,タイによる聖域提供の停止を要求。将来のカンボジア政権については,シアヌークとヘンサムリンの共有に同意する,と表明。また全面解決のための国際会議を提唱,参加国にはアメリカ,ソ連,中国,イギリス,フランス,ポーランド,インド,インドネシア,カナダなどを挙げ,日本は,過去にポト派を支援したため希望しないと表明。
DIA-202-1985-07-08-3カンボジア1985年07月08日1980年代CIA,反共2派へ援助―WP紙8日。82年以来,毎年数百万㌦の非軍事援助を提供。また2ヵ月前にはケーシーCIA長官がタイ=カンボジア国境を訪問。
DIA-202-1985-07-08-4カンボジア1985年07月08日1980年代ASEAN外相会議特別共同声明発表―クアラルンプル会議第1日目で発表。要旨:(1)ASEANはカンボジア問題でベトナムとの間接対話,すなわち代理交渉に入る可能性についてDK政府と協議した。(2)DK政府はその用意があると回答した。代理交渉にはヘンサムリン(政権)の代表者をベトナム代表の一部として出席させることも可能である。(3)代理交渉は試験的性格を持ち,以下の包括的,政治的解決に関する基本的要素を伴う。―・外国軍のカンボジア撤退,・国連監視委員会の設置,・国民的和解,・国連監視下の選挙と民族自決の実現。(4)ASEANはベトナムに対し,軍事的解決を求めず,上の提案に前向きに応ずるよう訴える。
DIA-202-1985-07-09-1カンボジア1985年07月09日1980年代PRK外務省,ASEAN間接対話で声明。
DIA-202-1985-07-09-2カンボジア1985年07月09日1980年代米国務長官,KPNLF派難民キャンプを訪問。
DIA-202-1985-07-09-3カンボジア1985年07月09日1980年代シアヌーク,失意の北京記者会見―「私は,誰も耳を傾けてもらえない権力のない形式的長にすぎない。私は敗北と挫折しか予測できない。10~20年後にカンボジアはベトナムの1省になってしまおう」と語った。
DIA-202-1985-07-09-4カンボジア1985年07月09日1980年代PRKで一般市民20万人が戦闘地域で労役か―ASEAN外相会議後にマレーシア外相が発表。過去6カ月に2万人ずつを順繰りに強制労働させたというもの。
DIA-202-1985-07-10-1カンボジア1985年07月10日1980年代ASEAN間接対話案への反応―シアヌーク(BW紙10日)は「カンボジア闘争は,越,ソ,中が関係を改善し,妥協をうけ容れる場合のみ終結するが,これはありえない。いかたる解決も3派とヘンサムリン派が参加するものでなければならない。ベトナムがASEANの間接対話案を認めるわけがない。それは自らを侵略者と認めるものだからだ」と語った。なお14日北京での記者会見でも,ASEAN案を「非実現的」とし,全関係国を包む国際会議の開催を主張した。一方ポト派はVODKを通じて11日,支持を表明。またPRKは10日のSPK通信で拒否を表明。
DIA-202-1985-07-10-2カンボジア1985年07月10日1980年代SPK通信,タイ軍機53機が6月に領空侵犯と発表。
DIA-202-1985-07-11-1カンボジア1985年07月11日1980年代ND紙もASEAN外相会議対話案を非難。
DIA-202-1985-07-13-1カンボジア1985年07月13日1980年代ソ連,洪水被災者に救助―来訪中のキルギス共和国ソ=カ友好協会会長から寄贈。自転車300台,ミシン100台,ラジオ150,布4000㍍,毛布200枚,蚊帳1万㍍その他。
DIA-202-1985-07-14-1カンボジア1985年07月14日1980年代VODK論説,間接対話提案を評価。
DIA-202-1985-07-15-1カンボジア1985年07月15日1980年代ポト派,柔軟態度表明―VONADK15日は,7月5~6日のポト派幹部会議が採択した次の声明を発表:(1)民主カンボジアの態度は,国連決議によってカンボジア問題を解決するという点で3派連合政府のそれと同じものである。両者ともベトナム軍を撤退させるべく政治手段での問題解決を欲している。ゆえにわれわれはベトナムとの会談を拒否してはいない。(2)ベトナムは,カンボジア人多数を死に至らしめた上でカンボジアへ自国民60~70万人を入植させている。(3)シアヌークを将来のカンボジア大統領と考える。ベトナムの侵略戦争へ協力を強要された人々とも団結し,ベトナム侵略者と戦う。この点ではヘンサムリン・グループでも歓迎する。ベトナムに従わず,カンボジアに留まることに同意するかぎり,彼らにつかえたカンボジア人であれ正規の市民とみなす。(4)将来のカンボジアは自由資本主義経済,議会政治制度をとる。(5)ベトナム撤退後のカンボジアは独立,平和,中立,非同盟とし,国内に外国軍・外国軍基地を認めない。国連が中立を保障してくれるよう望む。(6)ベトナム軍撤退後は,ベトナムと平和共存のため不可侵条約を結ぶ。(7)ソ連,およびその他のワルシャワ条約諸国との友好関係を欲する。これら
DIA-202-1985-07-15-2カンボジア1985年07月15日1980年代フンセン首相,ASEAN提案を拒否―SPK会見で表明。ND紙も批判論評を同日発表。
DIA-202-1985-07-16-1カンボジア1985年07月16日1980年代フンセン首相,国連事務総長へ難民問題で書簡―タイの23万人の難民本国送還策は,実はポト派テロリストの組織的送還を意味する,としている。
DIA-202-1985-07-16-2カンボジア1985年07月16日1980年代VONADK,タク外相要求(8日参照)に反論―VONADKは,この際はじめて,ポルポトの名に言及。
DIA-202-1985-07-17-1カンボジア1985年07月17日1980年代シアヌーク,東南ア訪問を一時延期(夫人の病気が理由。19日が出発予定日だった。AFP17日)。
DIA-202-1985-07-17-2カンボジア1985年07月17日1980年代ポルポト派声明(15日参照)への反応―中国外務省は,部分的に支持する旨表明。シアヌークは懸念表明。
DIA-202-1985-07-17-3カンボジア1985年07月17日1980年代PRK第1国会第9会期開催―21日閉会までに承認した法案は,最高人民法廷・最高検事局設立法案,対外経済・文化協力省,戦傷者社会行動省設立法案。また5閣僚任命批准も行なわれた。
DIA-202-1985-07-18-1カンボジア1985年07月18日1980年代農業生産活動―国会報告。過ぐる乾期の目標は15万㌶を16万8200㌶へ引上げることであったが,実績耕作地は11万8972㌶(IR種植付地は4万2100㌶)で収穫面積は災害により11万7130㌶に終わった。生産量はヘクタール当り2㌧。83~84年乾期に比し収穫面積はほぼ等しく,生産量はIR種導入で2.7万㌧増加した。現雨期作は6月末現在44万5000㌶の耕作を終了(国家計画の42.5%)。浮き稲は20万8000㌶。牛215万頭,豚183万頭,漁業は国家計画の72%達成。ゴム園労働者は1万7500人。
DIA-202-1985-07-21-1カンボジア1985年07月21日1980年代ソ連と保健協力協定結ぶ―来訪中のソ連副保健相と。80年2月締結の文化・科学協力に沿うもの。
DIA-202-1985-07-21-2カンボジア1985年07月21日1980年代キューサンファン,アフリカ諸国訪問に発つ―3派政府代表としてカメルーン,セネガル,モーリタニア,シエラレオーネ,コートジボワールの5国を訪問し,国連での支持取付けに働きかけた。
DIA-202-1985-07-22-1カンボジア1985年07月22日1980年代PRK文盲撲滅運動―全国文盲撲滅・補助教育委員会第4回会議が開催された。報告では第1次3カ年計画終了時の文盲48万3000人強のうち39.32%が,第2次計画期で文盲を脱したという。
DIA-202-1985-07-25-1カンボジア1985年07月25日1980年代VODK論評「カンボジアはなぜ自由資本主義と議会主義をもたねばならぬか」。
DIA-202-1985-07-25-2カンボジア1985年07月25日1980年代PPDS論評,ASEAN外相会談提案を拒否。
DIA-202-1985-07-27-1カンボジア1985年07月27日1980年代PRKへの本年上半期投降者数―バッタンバン州700人以上(7月27日発表)。シエムレアップ州1301人(8月2日発表),コンポントム州517人(8月3日発表)。
DIA-202-1985-07-28-1カンボジア1985年07月28日1980年代シアヌーク,ポト派に警告―AP北京支局あての電信で,ポト派が自派兵士38人を殺害したと非難。
DIA-202-1985-07-28-2カンボジア1985年07月28日1980年代PRK,工業製品と商業活動に課税を発表。
DIA-202-1985-07-29-1カンボジア1985年07月29日1980年代PRK84~85学校年教育状況―Hang Chuon副教育相発表:幼稚園615,生徒数4万2960,保育者950。小学校3140,生徒数142万5480,中学校234(前年は209),生徒数23万7860(モンドルキリ州を除く),高等学校19,生徒数1万900,高等教育2050人(海外留学641人除く),職業教育受講者3420人。
DIA-202-1985-08-01-1カンボジア1985年08月01日1980年代反共2派軍,軍事活動で限定的統合開始―6月末の発表の司令部統合には至っていない(BW紙1日)。
DIA-202-1985-08-01-2カンボジア1985年08月01日1980年代アメリカ民間団体,PRKの「人権無視行為」を非難―ニューヨーク国際人権法律家委員会の報告。
DIA-202-1985-08-01-3カンボジア1985年08月01日1980年代「ソ連,カンボジア問題で直接干与を拒否」―マレーシア副外相によるザイツェフ・ソ連外務省東南アジア局長の言。
DIA-202-1985-08-02-1カンボジア1985年08月02日1980年代プノンペン市に非常事態発令―VODK,2日発表。PPDSが7月29日に出したというもの。ただしバンコク発AP通信はこの件を確認していない,と報道。また10日のバンコク発AFPは,プノンペン市内の民兵の移動を伝えるニュースを誤解したもの,と報道。
DIA-202-1985-08-03-1カンボジア1985年08月03日1980年代VODK,越ソの連合政府分解作戦に警戒を要請―国連総会を前に心理作戦に警戒せよとよびかけ。
DIA-202-1985-08-05-1カンボジア1985年08月05日1980年代インドシナ3国=インド第2回連帯協力セミナー,プノンペンで開催,~7日。インド代表は同国のインドシナ研究所所長。3国はそれぞれ外務省の高官。3国側代表は,対中,対タイ等の外交問題で見解を表明。
DIA-202-1985-08-05-2カンボジア1985年08月05日1980年代3派政府副外相,エジプト訪問―カイロ訪問中の5日,エジプトのアマル社会保険相と会談。
DIA-202-1985-08-08-1カンボジア1985年08月08日1980年代米対外援助権限法案成立―レーガン大統領の署名による。今後2年間で総額254億㌦,うち500万㌦がカンボジア反共2派向け(5月15日参照)。
DIA-202-1985-08-12-1カンボジア1985年08月12日1980年代PRK国家評議会,定例会議開催。
DIA-202-1985-08-15-1カンボジア1985年08月15日1980年代第11回インドシナ3国外相会議開催―(2日間)。16日発表の共同声明は要旨次のとおり:(1)ベトナム志願軍は毎年撤退を続け1990年までにすべてを完了する。この撤退が平和・安全の破壊に利用される場合は,カ,ベ政府が協議して,適切な措置をとる。(2)東南アジアの平和・安定およびカンボジア問題解決のため,真の対話が必要だとの理解が一般化しだした。本年1月18日の外相会談が提案した5項目案は実質的対話の基礎となろう。(3)ASEAN諸国の直接・間接対話の提案における対話者の決定は,相互討議が可能と考える。(4)ASEANはインドネシアを,3国はベトナムを代表に指名した。近々予定の両国外相会談に期待する。(5)マレーシアの間接対話提案は検討に価する。PRKは,ポルポト派除去をもととする民族和解の実現と,ベトナム志願軍全面撤退に伴う総選挙について,クメールの諸反対勢力もしくは個人と会談をはじめる用意がある。(6)ラオスのアメリカ行方不明兵に対する人道的政策を歓迎する。ベトナムの同種問題に対するアメリカとの高級レベル会談開始姿勢を賞讃する。越米の不明兵・その他相互関心の諸問題に関する会談が,東南アジアの平和・安定の回復を促進するものと確信する。(7)中越交渉を再開す
DIA-202-1985-08-16-1カンボジア1985年08月16日1980年代フンセン外相の説明―外相会議共同声明発表直後の表明。(1)ベトナム軍の5年内撤退はポルポトの排除とタイ領内のその聖域の除去と同時でなければならない。(2)民族和解はポルポト派の軍事的,政治的排除をもととする。シアヌーク,ソンサンはポルポト派と手を切ればPRKとの対話に参加してよい。(3)タイ提案は,その参加者のゆえに拒否する。(4)近く開催予定のインドネシア=ベトナム外相会談を重要視している。なお22日のベトナムVNA通信によると,この会談で,フ外相は,質問に答えて「ポルポト個人ではなく,組織としてのポルポト・クリークの排除を要求する」と語ったという。
DIA-202-1985-08-17-1カンボジア1985年08月17日1980年代シアヌーク,3国外相会談声明で論評―「これは90年までにカンボジアのベトナム化を完成させることを意味する」と北京で語った。またAFP20日では,「私は,私が主宰する政府が認めない以上,ヘンサムリン氏やその陣営の他の人と会うことはできない。私は中国の友情を失うような贅沢をもっていない」と表明。
DIA-202-1985-08-17-2カンボジア1985年08月17日1980年代DKのエジプト大使,スーダンをも兼任(17日に信任状提出)。
DIA-202-1985-08-17-3カンボジア1985年08月17日1980年代「ベトナム軍撤退は1990年以前にも」―HDSとの会見でタク外相は,「状況しだいで今後数年以内の撤退もありうる」と語った(9月11日参照)。
DIA-202-1985-08-19-1カンボジア1985年08月19日1980年代VODK,3国外相会談で論評「うそと欺瞞はハノイ・ベトナム侵略者の本性」。
DIA-202-1985-08-20-1カンボジア1985年08月20日1980年代ソンサンの態度―PRK外相16日の発言に対して「ASEAN提案の枠内でしか対話しない」と表明。
DIA-202-1985-08-21-1カンボジア1985年08月21日1980年代3国外相会議声明への反応―中国外務省は,「注目に価せず」とし,ベトナム軍の即時全面撤退を要求。タイ外相は「従来より和解的」と感想表明。
DIA-202-1985-08-22-1カンボジア1985年08月22日1980年代反共2派に合同軍事司令部成立―2派が作る常設軍備調整委員会の発表。これによると,KPNLF派からはSak Sutsakhanが総司令官,A. Gaffar Peang-Methが副参謀長,ANS派からはTeap Benが副司令官,Toan Chayが参謀長にそれぞれ任命された。また参謀部は,計画,作戦,兵站,情報,政治の5局とする。
DIA-202-1985-08-22-2カンボジア1985年08月22日1980年代ベトナム=インドネシア外相会談―タク外相は21~26日間インドネシアを訪問し,22日にカンボジア問題で会談。内容は不明。会談後のインドネシア側声明は「解決への小さな共通点を見いだしたが,なおいくつかの相違点があり,9月の非同盟会議で討議を再開する」としている。
DIA-202-1985-08-25-1カンボジア1985年08月25日1980年代ソンサン派,組織に欠陥か―ソンサンは自派指導部の改革に失敗の場合辞任する,と語った(AFP)。
DIA-202-1985-08-26-1カンボジア1985年08月26日1980年代3派政府外務省,非同盟運動の議席問題で声明。9月2~7日の同外相会議へのメッセージ。
DIA-202-1985-08-27-1カンボジア1985年08月27日1980年代タイ軍筋,越軍の新攻勢を予測―時期は10月,すでに第4師団約1.5万人が国境地帯に展開中という。
DIA-202-1985-08-28-1カンボジア1985年08月28日1980年代シアヌーク,中国,バングラの大使信任状を受く―タイ国境沿いのDangrek(タツムの東30キロのポルポト派基地)で。中国大使は張徳維。
DIA-202-1985-08-28-2カンボジア1985年08月28日1980年代シアヌークの打開案―Dangrekでの記者会見で,「私はベトナムと無前提で話し合いたいが,連合政府の同僚はこれを認めてくれない。現実的には3派とヘンサムリン派の4派政府を作るべきだ」と語った。
DIA-202-1985-08-28-3カンボジア1985年08月28日1980年代3派連合政府のシアヌーク主宰閣議,ASEAN間接対話提案に支持表明。
DIA-202-1985-08-30-1カンボジア1985年08月30日1980年代シアヌーク,再び国際会議提唱―バンコクでの新聞記者協会の会議で(28日と9月6日参照)。
DIA-202-1985-08-31-1カンボジア1985年08月31日1980年代ヘンサムリン書記長,ベトナム建国式典に発つ。
DIA-202-1985-09-01-1カンボジア1985年09月01日1980年代ベトナム駐留軍は「約10万人」―ハノイ市訪問中の日本新聞協会代表団にHoang Tung中央委書記が示した数字。最盛期兵力も「17万人」と言及。
DIA-202-1985-09-02-1カンボジア1985年09月02日1980年代ポト派,「ポルポト退陣」と発表―民主カンボジア派(ポルポト派)大統領兼民主カンボジア国(DK)副大統領キューサンファンは,2日のVONADKを通じ,両職兼務の同人名の同日付け声明のなかで,ポト派内部を律する次の3項が,8月24日に決定されたと発表した。(1)公務,軍務の定年を60歳とする。(2)キューサンファンは大統領,ソンセンは副大統領の地位を保つ。諸政策の決定は,専門部局の調査・検討,高級責任指導部内の討議,協議を経る。重要事項は,公務・軍務幹部の全国会議が審議,決定する。(3)ポト派民族軍の最高軍事委員会を24日以降解散する。同軍最高司令官にソンセンを任命する。すでに退役したポルポト(VODKは,退役することとなっているポルポト,としている)は,国防経験の調査,普及を行なう国防学院長となる(注:ポルポトの年齢には現在,57歳,60歳,63~64歳の3説がある―編者)。
DIA-202-1985-09-03-1カンボジア1985年09月03日1980年代「ポルポト退陣」の反響―シアヌークは,イタリアのCorrier Della Sera紙3日に対し,「個人の見解としては茶番だ」と語った。またPRKのSPK通信は4日,「国連総会へ向けたトリックだ」と非難。ハノイの外交筋は(AFP),「中国のベトナムに対するシグナルで,両国間のコンタクトが破られていないことを示している」とし,ND紙5日は,「欺瞞に満ちたトリック」と論評。中国外務省は4日「カンボジア人民の団結に有利」と歓迎の意を表明。
DIA-202-1985-09-04-1カンボジア1985年09月04日1980年代PRK,ベトナムと商品交換協定に調印。
DIA-202-1985-09-06-1カンボジア1985年09月06日1980年代カンボジア駐留軍撤退の条件―ルアンダでの非同盟外相会議に出席したタク外相は6日の記者会見で,「2年前のニューデリー首脳会議での決議どおり,東南アジアからすべての外国軍隊が撤退するなら,ベトナムもカンボジアから撤退する」と語り,東チモールのインドネシア軍,マレーシア,シンガポールのニュージーランド軍,フィリピンのアメリカ軍を例示した。
DIA-202-1985-09-06-2カンボジア1985年09月06日1980年代シアヌーク,ASEAN間接対話拒否―訪仏中仏外相と会談後の記者会見で表明。かわって中,ソ,越を含む関係国会議を提唱。なおシ派が仏から受けている援助は年5万㌦,伊からは同30万㌦と公表した(AFP)。
DIA-202-1985-09-08-1カンボジア1985年09月08日1980年代シアヌーク,ポルポト退陣発表に態度軟化―連合政府の国際的イメージの改善に有益とローマで表明。
DIA-202-1985-09-09-1カンボジア1985年09月09日1980年代PRK通信省代表団,モスクワへ発つ。
DIA-202-1985-09-11-1カンボジア1985年09月11日1980年代タク外相,ベトナム軍撤退期日繰上げ示唆―ジャカルタ発日経11日によると,8月下旬インドネシアを訪問したタク外相が,87年前半を示唆したというもの(8月15,17日参照)。なおジャカルタ発読売11月7日によると,この際排除さるべきポト派幹部として,ポルポト,イエンサリ(元外相),同夫人,ソンセン,タモク(参謀総長)の5人があげられたという。
DIA-202-1985-09-14-1カンボジア1985年09月14日1980年代ベトナム通貨回収令―新ドン貨発行に伴う措置。9月22日までに申告(1回のみ)したものをリエル貨と交換する。19日ラジオ発表の14日閣議決定によると,正当な手段で入手・保有されている旧ドン貨は,5ドン=1リエルの率で交換する。在PRK外国公館,国際機関は,カンボジア外国貿易銀行の為替レートに等しい最高レートでの交換が認められる,というもの。
DIA-202-1985-09-14-2カンボジア1985年09月14日1980年代PRK,バッタンバン州の投降反徒数,1~6月で1026人と発表。
DIA-202-1985-09-16-1カンボジア1985年09月16日1980年代ユーゴ,3派連合政府に支持表明―ユーゴのRaif外相の8月21日付けキューサンファン宛て書簡をVONADKが発表したもの。
DIA-202-1985-09-17-1カンボジア1985年09月17日1980年代フンセン首相,国連事務総長に書簡―1月と8月のインドシナ3国外相会議の決定にそって,ベトナム軍が一定の条件下に90年までに撤退し,カンボジア問題が自動的に解消する,とするもの。
DIA-202-1985-09-17-2カンボジア1985年09月17日1980年代フンセン首相,来訪中の仏国会議員団と会談。
DIA-202-1985-09-20-1カンボジア1985年09月20日1980年代PRK政府代表団,ソ連,ハンガリーに発つ―団長はChea Soth政治局員・副首相。
DIA-202-1985-09-23-1カンボジア1985年09月23日1980年代PRK国家評議会,徴兵制令発表―SPK通信によると,18~30歳の全市民に5年間の義務を課すもの。
DIA-202-1985-09-23-2カンボジア1985年09月23日1980年代キューサンファン,国連で外交活動―VODK 10月2日によると,スリランカ,ブルンディの2外相と会談。また同10月8日は,26日以降も各国外相と会談と報道。
DIA-202-1985-09-24-1カンボジア1985年09月24日1980年代人革党外交委代表団,ソ連を訪問,~10月6日。
DIA-202-1985-09-29-1カンボジア1985年09月29日1980年代人革党中央委第4期第12回総会開催。
DIA-202-1985-10-01-1カンボジア1985年10月01日1980年代南イエメン新大使,PRK政府に信任状を提出。
DIA-202-1985-10-02-1カンボジア1985年10月02日1980年代シアヌークDK大統領,国連第40回総会で演説。
DIA-202-1985-10-03-1カンボジア1985年10月03日1980年代人革党宣教部,第5期大会に向け文書発表,「カンボジア革命は勝利の道を断固進む」(SPK3日)。
DIA-202-1985-10-03-2カンボジア1985年10月03日1980年代PRK,ソ連とモスクワで最近,第2回経済・科学技術会議を開催(PPDS 3日発表)。
DIA-202-1985-10-03-3カンボジア1985年10月03日1980年代ポト派軍,プノンペンをロケット砲撃か―VONADKが3日,9月15日のこととして発表。
DIA-202-1985-10-03-4カンボジア1985年10月03日1980年代PRK工業省代表団,ハンガリーに発つ。
DIA-202-1985-10-03-5カンボジア1985年10月03日1980年代米=タイ兵站協定調印―カンボジア領からのベトナム軍の越境攻撃に対処するため,と説明されている。
DIA-202-1985-10-08-1カンボジア1985年10月08日1980年代SPK,タイ軍の9月における領空・領海侵犯を報道。なおベトナムのVNAは同内容を7日に報道。
DIA-202-1985-10-09-1カンボジア1985年10月09日1980年代国連総会信任状委員会,DKを継続承認―同委が無投票でDK信任状を受理。反対はソ連のみ。
DIA-202-1985-10-12-1カンボジア1985年10月12日1980年代PRK首脳,ベトナム首脳と会談―人革党第5期大会のため12カ国から代表団が来訪中であるが,12日レズアン書記長をはじめとするベトナム代表団とのみ特別に会談が行なわれた。
DIA-202-1985-10-12-2カンボジア1985年10月12日1980年代人革党中央委,隔週刊誌Pracheachon創刊―編集長はSom Kimsuor女史。
DIA-202-1985-10-13-1カンボジア1985年10月13日1980年代人民革命党第5期大会,~16日―中央委員80人,地方委員170人が出席。ヘンサムリン書記長の政治報告,サイプタン政治局員の党規約改正提案等が行なわれた。16日には同政治報告と規約改正が承認され,また役員改選があり(「参考資料」参照),閉会した。
DIA-202-1985-10-14-1カンボジア1985年10月14日1980年代第1次社会経済復興・開発5カ年計画―Heng Samrin書記長の14日の政治報告のなかより要約抜萃―(1)86~90年の5年間の第1の業務は農業生産を最大限に高めることで,食糧,ゴム,木材,水産物の四つを優先させる。(2)ゴム生産の復興加速に積極策をとる。1990年までに5万㌶,ラテックス5万㌧を復興させ,さらに8000~1万㌶に新期植付けを行なう。(3)現存の工業生産能力を選別復興させ,小中工業基地を建設する。(4)輸出と倹約をもって,現下の不均衡な国家経済を改善する(5)分配・流通を強固にする。そのモットーは「農民が米と農産物を国家へ売るのは愛国心であり,人民への財の売却・流通は,国家の人民への責任である」というものである。(6)基礎構造投資は,水路,運輸・通信の復興,ゴム開発,基幹的企業・計画の復興などに向けられる。(7)指導部と経済管理とを基本的に変革することで,第1次5カ年計画を成功させる。 人口は2.8%弱で拡大しており,食糧生産は1人当り年350キログラムの達成につとめる。1990年の目標は上記ゴムに加え,木材20万立方㍍,水産物13万㌧,ヘンプ1.5万㌧,電力3億kWhなどである。 現存の生産能力,可能性を正しく利用し,国家経済部門の欠陥を改善するため,経済発展
DIA-202-1985-10-15-1カンボジア1985年10月15日1980年代ASEAN,非公式にポト派排除に同意か―訪日中のGiangベトナム副外相が日本人記者に表明。
DIA-202-1985-10-17-1カンボジア1985年10月17日1980年代PRK外務省,国連決議に非難の声明。
DIA-202-1985-10-20-1カンボジア1985年10月20日1980年代3派政府,ニューヨークで閣議開催。
DIA-202-1985-10-23-1カンボジア1985年10月23日1980年代PRK,投降兵士2.5倍増と発表―SPK23日によると1~9月間で3566人と,84年同期の2.5倍という。
DIA-202-1985-10-28-1カンボジア1985年10月28日1980年代越・ラオス,国連でカンボジア問題共同声明を発表―(1)国連でのカンボジア問題討議は,カンボジア人民共和国の同意と参加がない以上,内政干渉である。(2)国連討議での大量殺戮グループ代表の出席はカンボジア人民への挑戦である。(3)過去の国連決議は問題解決に無力であった。二つの国家群間の対話が緒につきかけている現在,国連での討議は時代錯誤となっている。(4)かかる国連討議は,平和,軍拡競争といった国際問題から関心をそらすものだ。(5)以上の理由から,越・ラ2国はカンボジア問題での国連討議には不参加を宣言する。 (後文)越・ラはPRKとともに,東南アジア問題の正しい政治解決につとめ,平等原則に立つASEAN諸国の対話促進努力を歓迎する。
DIA-202-1985-10-30-1カンボジア1985年10月30日1980年代ゴム産業―PPDS30日によると,第5期大会への報告で,ゴム栽培地は85年までに2.7万㌶が回復され,労働力は1.85万人へ増加,クレープ処理量は5万㌧となった,という。
DIA-202-1985-10-30-2カンボジア1985年10月30日1980年代PRK国家評議会定例会議開催。
DIA-202-1985-11-04-1カンボジア1985年11月04日1980年代シアヌーク,国連で演説―カンボジア問題討議での演説。このなかで3派政府名でベトナムに対し,次を提言―国連決議を尊重すれば,ベトナムに協力したカンボジア人に報復を行なわない。専門的技能を有するヘンサムリン=フンセン・グループの人々にも国家行政のなかで適切な地位を与える。ベトナムと平和,不可侵,友好,技術文化経済協力の条約を結んだ後,ベトナム人に毎年,米,果物,乾・鮮魚等を援助として与える。 なおベトナム政府高官は6日,シアヌーク提案に対し「プノンペンに向って語るべきだ」と拒否した。
DIA-202-1985-11-05-1カンボジア1985年11月05日1980年代国連カンボジア決議採択―国連総会で「カンボジアからのすべての外国軍隊の撤退を求める(58カ国共同提出の)決議」が賛成114,反対21,棄権16で採択された。提出国は3派政府,ASEAN6カ国など62カ国。反対はソ連圏諸国。ベトナムとラオスは討議をボイコット。84年は110―22―18であった。
DIA-202-1985-11-06-1カンボジア1985年11月06日1980年代ソ連軍事援助増強か―北京の3派代表発表では,ソ連船2隻が10月24日コンポンソム港に多数の戦車,砲を搬入し,またベトナムが新たに1.1万の兵を投じ,駐カンボジア軍兵力は20万になったという。なおVODK18日は,10月にソ連船2隻がトンレサプ川をシエムレアプまで遡行し戦車8輌,弾薬等を運搬したと報道。
DIA-202-1985-11-06-2カンボジア1985年11月06日1980年代ASEAN12項目提案に国連総長賛同か―国連から帰国したインドネシアのモフタル外相によると,10月31日に同提案を総長に説明し,賛同を得たという(インドネシア「参考資料」を参照,Jakarta Post 7日)。
DIA-202-1985-11-07-1カンボジア1985年11月07日1980年代「クメールの声放送」開設さる―反共2派の放送局を自称するもの。6325Khz,49㍍バンドで,85年11月(ママ)に,カンボジア全国向けで開設したという。
DIA-202-1985-11-08-1カンボジア1985年11月08日1980年代インドネシア外相,調停に関心―モフタル外相は,シアヌークDK大統領が提唱するカンボジア問題の当事者4派によるカクテルパーティのホスト役を喜んで引きうけると発言。また,「シ大統領の言うカクテルパーティとは4派間の民族和解の会合のことであり,最近の国連総会の場でシ大統領が提案したもの」と説明した(AFP8日,ジャカルタ)。
DIA-202-1985-11-10-1カンボジア1985年11月10日1980年代乾期攻勢開始か―タイ側報道および新設クメールの声放送によると,タイ・チャンタブリ県に対峙するプルサット州プノムクラヴァン地区で,ベトナム=PRK軍の砲撃がはじまった模様。BP紙10日は,タイの国家治安会議事務局長の言として,10月末にソ連製戦車20輌がコンポンソム湾に陸揚げされた,と報道した。
DIA-202-1985-11-10-2カンボジア1985年11月10日1980年代PRK,チェコと貿易議定書調印,プラハで。
DIA-202-1985-11-12-1カンボジア1985年11月12日1980年代人革党外交委代表団,ハンガリーに向け発つ。
DIA-202-1985-11-12-2カンボジア1985年11月12日1980年代Pen Nayut教育相,ポーランドに向け発つ。
DIA-202-1985-11-12-3カンボジア1985年11月12日1980年代PRK内外交易省代表団,東欧諸国に向け発つ。
DIA-202-1985-11-12-4カンボジア1985年11月12日1980年代米生産不調か―SPK 12日。本年雨期作米植付けは,目標の170万㌶に対し,雨期到来の遅れで60万5500㌶が終わったのみ。2万4300㌶が旱害を被った。また内閣は,84年作の不調による現在の食糧不足に対し,各州市人民革命委員会による相互扶助の精神発揚を要請。なおSPK20日も,84/85年作は計画の78%,133万㌶に植付けられたが,85年は旱害でさほどよくない,と発表。
DIA-202-1985-11-12-5カンボジア1985年11月12日1980年代シアヌーク,新提案で仏記者に語る―Le Quotidien de Paris紙12日に対し,カンボジア4派による無前提の非公式会談とその後の国際会議の開催提案を説明。
DIA-202-1985-11-16-1カンボジア1985年11月16日1980年代インドシナ3国通信相会議開催,プノンペンで。
DIA-202-1985-11-18-1カンボジア1985年11月18日1980年代人革党書記長,日本共産党17回大会へ祝電―SPK18日発表。
DIA-202-1985-11-18-2カンボジア1985年11月18日1980年代PRK側への投降者―PPDS18日発表。1~9月で3派側から3556人(84年同期比2.5倍)が投降。
DIA-202-1985-11-18-3カンボジア1985年11月18日1980年代ベトナム人入植者数―クメールの声放送18日によると,現在70万人が入植しており,プノンペンでは総人口80万人のうち28万人に達する,としている。
DIA-202-1985-11-18-4カンボジア1985年11月18日1980年代ロンノル元首相死去,72歳,アメリカで。
DIA-202-1985-11-20-1カンボジア1985年11月20日1980年代PRK外務省,「タイ軍の領土侵犯」に抗議声明―これによると11月6~14日だけで211回という。
DIA-202-1985-11-20-2カンボジア1985年11月20日1980年代ラオス新大使,PRKへ信任状提出(Pheli Khounlaleuk)。
DIA-202-1985-11-21-1カンボジア1985年11月21日1980年代ベトナム軍,10月中旬よりタイ国境に集結開始か(VONADK 21日発表)。
DIA-202-1985-11-27-1カンボジア1985年11月27日1980年代乾期攻勢―BP紙27日は,KPNLF派の放送(26日)として,ベトナム軍は乾期攻勢のため約1.2万の兵,70輌の戦車などを新規に導入して準備中と報道。
DIA-202-1985-11-29-1カンボジア1985年11月29日1980年代インドネシア外相,カクテルパーティを説明―シアヌーク提案の会議は中国,ソ連,ASEAN諸国等を含むものだが,インドネシア提案は,紛争当事者4派にベトナムの参加を容認した会議である,と説明。なおKPNLF派(N紙23日),シアヌーク派(BP紙27日)は,インドネシア案に消極的という。
DIA-202-1985-12-01-1カンボジア1985年12月01日1980年代国連難民事務局等から食糧援助―SPK1日によると,カンボジア赤十字を通じてこのほどタケオ,プルサト,プレイヴェンの3州に合計191㌧の米が与えられた。
DIA-202-1985-12-02-1カンボジア1985年12月02日1980年代VODK,乾期攻勢で論評―「ベトナムは10月に国境地帯で乾期攻勢を始める予定だったが,今日まで遅らされている。理由は,(1)トンレサップ湖周辺とその隣接5州,国道5,6号や鉄道沿いの重要拠点へのわが軍の攻勢で手が塞がれ,また(2)西部方面でわが軍が乾期到来前に攻勢を仕かけたためである」というもの。
DIA-202-1985-12-05-1カンボジア1985年12月05日1980年代PRK外務省,カンボジア戦争で白書発表―外務省報道局11月発表とある(SPK 5日)。題は「カンボジア人民共和国に対する宣戦布告なき戦争」。
DIA-202-1985-12-08-1カンボジア1985年12月08日1980年代3派首脳,北京で葉剣英中国国家主席と会談―3派の3首脳は7~10日に北京を公式訪問。
DIA-202-1985-12-09-1カンボジア1985年12月09日1980年代カクテルパーティの参加国―シアヌークの子息ラナリット殿下は,BW紙9日で,パーティには,ベトナム,ソ連,中国,ASEAN諸国およびアメリカの出席を希望する,と表明(11月29日参照)。
DIA-202-1985-12-10-1カンボジア1985年12月10日1980年代3派側の戦術―BP紙10日は,シアヌーク派軍ANSが国内村落に民兵基地を作ろうとし,今後はタイ側からの定期的派兵をやめる予定だ,と報道した。これによると,ANSは主にコンポントムとシエムレアプに約4400の兵を現有し,年内に6000に高めようとしている。一方ポルポト派軍は身分を隠し,現在の反越勢力はANSとKPNLFだけだと村民に宣伝しているという。
DIA-202-1985-12-10-2カンボジア1985年12月10日1980年代シアヌーク,対中態度に難渋―Le Mondee紙10日は北京での単独会見を次のように報道:―シアヌークは中国を困らせないため,中国と報道機関とには全く違った調子の話をする。彼は公的には中国と3派政府との関係の強化を謳歌する発言を行なっているが,これは儀礼である。最近のわが紙との会見では,中国は,自己のベトナム軍撤退要求が非現実的なものであり,考え通りに事が進まないことを認識してくれるよう希望すると語った。
DIA-202-1985-12-11-1カンボジア1985年12月11日1980年代中国の対3派援助―VOA 11日によると,武器弾薬のほか32万㌦の提供を決定した,という。
DIA-202-1985-12-13-1カンボジア1985年12月13日1980年代KPNLF陣地に砲撃激化か―BW紙13日によるとタイのAngsila村に近いO Bek Chanが12~13日に砲撃をうけた。軍事筋は乾期攻勢の始まりと見ている。
DIA-202-1985-12-15-1カンボジア1985年12月15日1980年代3派政府外務省,ベトナム軍が毒物使用と非難。
DIA-202-1985-12-16-1カンボジア1985年12月16日1980年代ソ連法務省代表団来訪,~23日。
DIA-202-1985-12-17-1カンボジア1985年12月17日1980年代人革党書記局,国防強化で回状を出す。
DIA-202-1985-12-17-2カンボジア1985年12月17日1980年代カクテルパーティ方式,ポト派のみ否定的か―モフタル・インドネシア外相がキャンベラで発表。
DIA-202-1985-12-19-1カンボジア1985年12月19日1980年代PRKの駐越大使,離任(Sieng Saran)―新大使Tep Henは26日に信任状提出。
DIA-202-1985-12-20-1カンボジア1985年12月20日1980年代KPNLF派の分裂表面化―BP紙19~20日とN紙20日によると,ソンサン議長に反対するグループがこのほど別組織「救国臨時委員会」を結成した。参加者はDien Del参謀長,Sak Sutsakhan司令官,Abdul Ghaffar前議長秘書ら。
DIA-202-1985-12-22-1カンボジア1985年12月22日1980年代ベトナム,4派カクテルパーティ会談に前向き態度を表明―越外務省スポークスマンは22日,「ベトナムは4派会談提案を公式には知らされていない。この問題はPRKのみが決定しうる問題だ。PRKは,ポト派排除等を前提とする国民的合意達成を討議するためなら,クメール人(個人,複数)のいかなる敵対者とも会合をもつ,と表明したが,ベトナムはこれを支持する」と声明(11月29日参照)。
DIA-202-1985-12-23-1カンボジア1985年12月23日1980年代越=インドネシアでカンボジア問題の高級実務協議ジャカルタで24日まで―インドネシア外務省筋は24日,ASEAN12項目和平プログラムとハノイの5項目提案が討議されたが特別な進展はなかった,と発表(11月6日参照)。
DIA-202-1985-12-23-2カンボジア1985年12月23日1980年代VNA社長,中国がカクテルパーティの障害と表明―訪日中の23日,『毎日新聞』に語ったもの。
DIA-202-1985-12-23-3カンボジア1985年12月23日1980年代ソ連赤十字代表団来訪,~26日。
DIA-202-1985-12-23-4カンボジア1985年12月23日1980年代PRK,85年の投降者4000人(84年の2倍)と発表。
DIA-202-1985-12-24-1カンボジア1985年12月24日1980年代PRK軍兵士に反乱か?―VONADK24日は16,17日プルサト州の2カ所で合計850人が反乱と報道。
DIA-202-1985-12-25-1カンボジア1985年12月25日1980年代シアヌーク,4派カクテルパーティに消極的態度を表明―ホンコン滞在中AFP会見で,「参加者の問題で成功しまい」と語る。これに対し,モフタル・インドネシア外相は同日,「非公式会談は,挫折とは思わないが,時機が適さなければ,強行はしない」と発言。
DIA-202-1985-12-26-1カンボジア1985年12月26日1980年代ベトナム外相らPRKに来訪。
DIA-202-1985-12-26-2カンボジア1985年12月26日1980年代KPNLF内紛でタイ政府はソンサンを支持―ホンコン訪問中のシアヌークDK大統領の発表。タイ政府は,ソンサンを復職させない場合,KPNLFへの外国援助を妨害する,と圧力をかけた,という。なおタイ外相は,27日,この内紛には介入しない,と表明。
DIA-202-1985-12-27-1カンボジア1985年12月27日1980年代ベトナムと国境画定協定に調印―PPDS 27日によると,83年7月20日締結の国境問題解決原則に関する協定にもとづき,画定作業が進められ,27日の調印に至った。SPK28日は,「国境線は1954年まで,使用されていた10万分の1地図に準拠し,また最も重要なことはマルクス=レーニン主義にもとづくものであり,カンボジアのベトナム化論を打破するもの」としている。
DIA-202-1985-12-28-1カンボジア1985年12月28日1980年代KPNLF,5国境拠点全部放棄(タイ軍筋発表)。なお撤退兵力は約7000人。
DIA-202-1985-12-30-1カンボジア1985年12月30日1980年代3派政府外務省,国境協定拒否を28日付けで声明(ソンサン首相は29日,VONADKは31日に拒否声明)。
DIA-202-1986-01-02-1カンボジア1986年01月02日1980年代ANSのラナリト殿下は,BP紙との会見で,ANSは,国境での戦闘から国内に潜入してゲリラ活動を行なう戦術に転換することになろう,われわれは人民の心をとらえなければならない,と語った。国内に潜入しているANS軍兵士は,7408人に達していると報道されている。
DIA-202-1986-01-03-1カンボジア1986年01月03日1980年代SPKによると,プレアビハル省では,1985年に117人が帰順してきた。
DIA-202-1986-01-03-2カンボジア1986年01月03日1980年代KPNLFのソンサン議長は,PCCS(Provisional Central Committee of Salvation)による叛乱を終わらせると言明した。KPNLF軍参謀長Sak Sutsakhan将軍を代表とするPCCSは,ソンサン議長が独裁的に権力を行使したこと,ANSとの軍事協力を妨害したことを叛乱の理由に挙げている。
DIA-202-1986-01-05-1カンボジア1986年01月05日1980年代東独の国家計画委代表団(Gerhard Scheurer副首相兼国家計画委議長)来訪。チアント計画相とシュオイラー副首相は1986~90年PRK・GDR経済協力の基本方向に関する議定書に調印した。
DIA-202-1986-01-05-2カンボジア1986年01月05日1980年代PRKのブータン国防相は,ベトナムの人民軍雑誌Tap Chi Quan Doi Nhan Dan 1986年1月号に寄稿し,1984~85年乾期攻勢における勝利はカンボジア革命勢力の成熟への重要な一歩であるとその意義を強調した。(1)この攻勢によって国境地域にあった敵の主要な16拠点が粉砕され,敵はカンボジア領内の主要基地を失った。かくしてカンボジア領内に二つの政権が存在するという状況を作ろうとした意図は失敗した。PRKは全土に対する支配権を確立した。(2)敵兵1万人以上,すなわち敵兵力の20%を戦闘不能にした。(3)PRKの党と政府の行政機構および組織が地方にも広がった。(ハノイ放送5日)
DIA-202-1986-01-06-1カンボジア1986年01月06日1980年代米国のソアレス議員,カンボジア反越勢力のうちの2派の現況を調査するためバンコクを訪問,タイ高官,ソンサンKPNLF議長と会談し,キャンプを訪問した。
DIA-202-1986-01-06-2カンボジア1986年01月06日1980年代PPDSによると,プレイベン省人民委議長は,ベトナムの姉妹省ドンタプ省は経済文化社会のあらゆる領域にベトナム人専門家を派遣している。ドンタプ省は10万haの土地で17万5000トンの籾を集めるが,プレイベン省は22万5000haの土地がありながら,2万トンの米しか買入れることができないと語った。
DIA-202-1986-01-07-1カンボジア1986年01月07日1980年代ラオスのPasason紙は,PRK7年の実績を紹介した。食糧は自給を達成,1985年は200万トンの籾を収穫し,24万トンが国家に売り渡された。副次作物の植付面積は15万haとなった。ゴムの生産量は1万3000トン,6万トンの海産物,豚と牛は400万頭に達している。
DIA-202-1986-01-07-2カンボジア1986年01月07日1980年代N紙によると,KPNLFとANSは4日合同軍事指揮部を設置し,非共産2派の軍事行動を統合的に指揮することになった。最高司令官にSak将軍,副司令官にANSのTeap Ben将軍,総参謀長にANSのToan Chay将軍,副参謀長にKPNLFのDr.Gaffarが任命された。
DIA-202-1986-01-07-3カンボジア1986年01月07日1980年代プノンペンで第7回国慶節記念集会。ヘンサムリン議長が演説。
DIA-202-1986-01-08-1カンボジア1986年01月08日1980年代VONADKによると,1月2日カムポト地区のプヌンソイで300人のカンボジア人兵士が軍を離脱した。300人のうちカムポト省出身が100人,タケオ省出身が200人であった。
DIA-202-1986-01-08-2カンボジア1986年01月08日1980年代PPDSによると,コンポントム省の軍民は過去1週間ベトナム軍と協力して掃討作戦を行ない,反越3派の兵士43人を殺し,14人を捕え,9人を負傷させた。また7人を帰順させた。
DIA-202-1986-01-11-1カンボジア1986年01月11日1980年代シアヌーク殿下はAFPと会見し,抵抗勢力内の分派行動は止めるべきであり,たとえKPNLFの主席の地位を失ったとしても,ソンサンは民主カンボジア連合政府(CGDK)の首相であると語った。
DIA-202-1986-01-13-1カンボジア1986年01月13日1980年代ソ連の国家計画委員長タルイジン第一副首相が来訪し,1986~90年のソ連・カンボジアの貿易および経済協力について協議した。
DIA-202-1986-01-13-2カンボジア1986年01月13日1980年代ポーランドの国家計画委議長Manfred Gorywoda副首相来訪。
DIA-202-1986-01-14-1カンボジア1986年01月14日1980年代チェコ政府代表団(S。Potac副首相兼国家計画委議長)来訪。
DIA-202-1986-01-14-2カンボジア1986年01月14日1980年代ラオス人民解放軍代表団(Somsak Saisongkam党中央委員,国防次官)来訪。
DIA-202-1986-01-14-3カンボジア1986年01月14日1980年代ハノイでPRKとベトナム間に1986年度経済協力協定が調印された。
DIA-202-1986-01-17-1カンボジア1986年01月17日1980年代ヘンサムリン書記長出席の下にKPRPの第2回中央委総会が15日から17日まで開催され,1985年の革命の実績を評価するとともに86年と87年の戦略的任務を決定した。
DIA-202-1986-01-19-1カンボジア1986年01月19日1980年代KPRP中央委とPRK政府,ソ連のゴルバチョフ書記長の核管理提案(86年1月15日)を支持する声明を発表。
DIA-202-1986-01-19-2カンボジア1986年01月19日1980年代VODKによると,シエムレアプに駐屯するPRKのカンボジア人兵士300人が脱走し,家庭に帰った。
DIA-202-1986-01-21-1カンボジア1986年01月21日1980年代DK国民軍司令部は,21日声明を発表し,1985年12月の半ばから1986年1月半ばまで,ベトナムは7900人の兵力とT-54型戦車24台をカンボジアに送り込んだと発表した。
DIA-202-1986-01-23-1カンボジア1986年01月23日1980年代ピエンチャンで第12回定例インドシナ外相会議。グエン・コ・タク外相,フンセン外相,シパスート外相が出席,24日コミュニケ発表。そのなかで,1986年もベトナム軍の撤退を続け,90年までに撤退を完了する,PRKはポルポト一派を排除することを条件に他のグループ,個人との話い合いに入る用意がある,PRKはタイ領内のカンボジア難民の帰国問題を話し合う用意がある,と述べている。
DIA-202-1986-01-24-1カンボジア1986年01月24日1980年代BP紙は,タイ軍最高指令部からの情報として,ヘンサムリン軍が叛乱を起こしたので,首都プノンペンは1万3000のベトナム軍によって防衛されている。カンボジア人労働者の取扱いをめぐってココン省のヘンサムリン軍第2師団はベトナム軍の339師団に反抗した後,解散させられたと報道した。
DIA-202-1986-01-25-1カンボジア1986年01月25日1980年代DK国民軍最高司令部は25日付で,1月19日プレイベン省Sithor Kandal地区でベトナム軍を攻撃し,ベトナム人22人を捕え,30人を殺し,20人を負傷させて,同地区を解放した,プノンペン東方の戦区の軍民を表彰した。
DIA-202-1986-01-27-1カンボジア1986年01月27日1980年代PRKのフンセン外相はビエンチャンでの記者会見で,ポルポトに反対するわれわれの闘争に加わるならわれわれはシアヌークを常に歓迎する,と語った。
DIA-202-1986-01-27-2カンボジア1986年01月27日1980年代VOK,ヘンサムリン軍兵士への公開状で,ベトナム軍339師団に叛乱を起こしたヘンサムリン軍第2師団の兵士は,カンボジア人民に対する計り知れない貴重な貢献をしたと賞讃した。
DIA-202-1986-01-28-1カンボジア1986年01月28日1980年代カンボジア党代表団(Nguon Nhel 政治局員候補,プノンペン党書記),キューバ共産党第3回大会に出席のため,プノンペンを出発。
DIA-202-1986-01-29-1カンボジア1986年01月29日1980年代ハンガリーとの間に1986~90年の保健協力協定を締結。ハンガリー側はカンボジア人専門家を訓練するとともに毎年2人の専門家を派遣する。
DIA-202-1986-02-01-1カンボジア1986年02月01日1980年代ソ連の民間海運省代表団(Trounov Boris Pavlovich同省次官)来訪。
DIA-202-1986-02-02-1カンボジア1986年02月02日1980年代SPKによると,1985年にコムポントム省で革命の側に帰順してきたものは871人,うち762人がポルポト派,109人がソンサン派であった。
DIA-202-1986-02-03-1カンボジア1986年02月03日1980年代プノンペンで第3回インドシナ通信社社長会議。
DIA-202-1986-02-04-1カンボジア1986年02月04日1980年代第1期国会第10回会議(~7日)。1986年の国家計画,1984年予算の収支,1985年財政報告,1986年の財政目標,憲法12条の修正の承認。PRK-SRV国境画定条約の批准,国事統制相に Sin Song 氏を任命,第1期国会の任期を1991年まで延長することを承認,人民最高法廷議長に Khang Sarin 氏を,検事総長にChan Min氏を任命した。
DIA-202-1986-02-07-1カンボジア1986年02月07日1980年代VONADKによると,ココン省Kraomで200人の同胞が決起し,ベトナム人20人を殺し,6人を負傷させた。
DIA-202-1986-02-08-1カンボジア1986年02月08日1980年代シアヌーク殿下は,ANSの司令官兼参謀長にRanarit 殿下を任命。
DIA-202-1986-02-08-2カンボジア1986年02月08日1980年代民主カンボジア連合政府(CGDK),インドシナ外相会議コミュニケに関してアピール。国連総会の関係決議とカンプチア問題国際会議の声明を土台にして,CGDKはベトナムと直接交渉あるいは間接交渉を行なう用意がある。解決には次のものが含まれる―(1)全ての外国軍の撤退,(2)国連監視委員会の設置,(3)民族和解,(4)国連監視下での選挙と政府の樹立,カンボジア人民が自由,統一,民族独立を再び手に入れた時カンボジア民族和解政府は,ベトナムと平和,非侵略,友好,協力の協定に調印する。
DIA-202-1986-02-08-3カンボジア1986年02月08日1980年代VODKによると,DK国民軍コンポンスプーのベトナム軍訓練センターを攻撃,ベトナム軍兵士145人を殺し,155人を負傷させた。同胞550人が帰郷した。
DIA-202-1986-02-11-1カンボジア1986年02月11日1980年代SPKによると,1月の帰順者は全国で585人で,うち旅団長,大隊長と9人の中隊長が含まれていた。携行してきた武器36丁。
DIA-202-1986-02-12-1カンボジア1986年02月12日1980年代PRK-USSR技術研究所で第1回研修生85人が卒業。建設30人,電気29人,農業水利26人。
DIA-202-1986-02-12-2カンボジア1986年02月12日1980年代DK,シアヌーク殿下と民族統一戦線の現在および将来について声明。(1)DKはシアヌーク殿下を現在もベトナム軍撤退後もカンボジアの大統領とみなす,(2)DKは独立,中立,平和,協同の民族統一戦線が現在も将来も国民大団結の下で他と共同して,祖国を防衛し建設する任務を遂行する政治勢力であると考える。DK代表キューサンパンとDK国民軍最高指揮官ソンセンが署名。
DIA-202-1986-02-12-3カンボジア1986年02月12日1980年代VODK,DK国民軍ポチェントン空港を3方面から攻撃。ベトナム軍兵士23人を殺し,31人を負傷させた。
DIA-202-1986-02-16-1カンボジア1986年02月16日1980年代ANS軍80人は,シエムレアプ省 Varin 地区 Prasat 村と Kouk Dong 村のベトナム軍中隊を攻撃し,ベトナム側2人を負傷させた。ANS軍も2人負傷した。
DIA-202-1986-02-17-1カンボジア1986年02月17日1980年代プノンペンで,PRK-SRV友好協力条約締結7周年記念式典。ベトナムからチュ・フィ・マン政治局員が出席。
DIA-202-1986-02-19-1カンボジア1986年02月19日1980年代AFP,ヘンサムリン政権は,CGDKのゲリラに抵抗するために各村落に民兵を組織しつつあると報道。
DIA-202-1986-02-19-2カンボジア1986年02月19日1980年代KPNLFのソソサソ議長は,最高指揮官Sak Sutsakhan将軍,参謀長Dien Del将軍を解任したと発表した。Porom Vith将軍を4人から成るKPNLF指揮委員会の委員長に任命した。
DIA-202-1986-02-20-1カンボジア1986年02月20日1980年代VONADKによると,コンポンスプー西方の訓練センター防衛のために派遣されたヘンサムリン軍の一連隊が決起し,ベトナム軍兵士14人を殺し,多くを負傷させた。
DIA-202-1986-02-21-1カンボジア1986年02月21日1980年代KPRP高級代表団(ヘンサムリン書記長,メンサムアン政治局員兼組織委員会委員長),ソ連共産党27回大会に出席のためモスクワへ出発。
DIA-202-1986-02-26-1カンボジア1986年02月26日1980年代DK国民軍最高司令部は,2月8日のコムポンスプー西方のベトナム軍訓練センターを攻撃し,多大の戦果を挙げたプノンペン戦区の幹部,兵士,人民に祝意を表明した。
DIA-202-1986-02-27-1カンボジア1986年02月27日1980年代DK国民軍最高司令部は,2月12日のポチエントン空港攻撃とその戦果を賞讃。
DIA-202-1986-02-28-1カンボジア1986年02月28日1980年代SPK,シェムレアプ・オダルメアンチャイ省では,1986年1月だけで敵の宣伝に迷わされていた分子215人が帰順した。
DIA-202-1986-03-01-1カンボジア1986年03月01日1980年代SPK,クメール・ルージュのポチエントン空港攻撃の発表は作り話にすぎないと論評。
DIA-202-1986-03-02-1カンボジア1986年03月02日1980年代VODK,ベトナム人によって設置された村落行政機構を解体させることは,彼らのカンボジア支配を根底からくずすものであると強調。
DIA-202-1986-03-03-1カンボジア1986年03月03日1980年代DK国民軍は,プノンペン西方47kmのコンポンスプーの町を7方面から攻撃し,ベトナム軍兵士105人を殺し,150人を負傷させた(VONADK,3/7)。
DIA-202-1986-03-04-1カンボジア1986年03月04日1980年代VODK,バタムバン地域は今乾期(8年目)の最も激烈な戦場になった,この地域におけるDK軍の攻撃は戦略的意味を持っている,と論評。
DIA-202-1986-03-05-1カンボジア1986年03月05日1980年代CGDKのThiounn Thioeun保健相は,ベトナム軍が有毒化学物質を使用したと非難する声明を発表。2月27日バタムバン省シソポン地区でベトナム人は水に毒を入れたため,179人の戦士が影響を受けた。パイリン地区では80人が影響を受け,20人が死んだ。
DIA-202-1986-03-05-2カンボジア1986年03月05日1980年代フンセン首相,来訪中のオーストラリア議会代表団(Richard Charlesworth議員)と会見。
DIA-202-1986-03-06-1カンボジア1986年03月06日1980年代N紙によると,ベトナムはカンボジア市民をゲリラから引離すために5号道路,6号道路,69号道路沿いに戦略村を設置する計画を進めている。
DIA-202-1986-03-08-1カンボジア1986年03月08日1980年代VONADKによると,DK国民軍はコムポントムを攻撃し,周辺のKon Tnaot村やBalang村など40村の行政機構を解体した。7方面からの攻撃でベトナム人兵士215人を殺し,142人を負傷させた。
DIA-202-1986-03-12-1カンボジア1986年03月12日1980年代CGDK政府,声明を発表し,SRVとPRKとの間に1985年12月27日結ばれた国境画定条約は無効であると言明。
DIA-202-1986-03-13-1カンボジア1986年03月13日1980年代シニムレアプ・オダルメアソチャイ省で,ソ連の援助で建てられた発電所の完成式。
DIA-202-1986-03-14-1カンボジア1986年03月14日1980年代N紙,ベトナムは昨年12月,プルサト省で,ベトナム軍に反抗したヘンサムリン軍の一師団を再編した。
DIA-202-1986-03-15-1カンボジア1986年03月15日1980年代VOKによると,コンポンチャム省コンポンシエム地区でPRK軍とベトナム軍が2月26日に衝突し,ベトナム軍兵士12人が死亡し,23人が負傷した。ヘンサムリン軍側は死者6人,負傷3人であった。原因はベトナム人がカンボジアの産物を本国に送るのを阻止したこと,ベトナム軍がキロ当り2.5リエルで米を売るよう強制したのを止めようとしたことであった。
DIA-202-1986-03-16-1カンボジア1986年03月16日1980年代KPNLFの情報部によると,ベトナムはプノンペン政権を指導するために「インドシナ政策局」なる監督機関を設置している。
DIA-202-1986-03-17-1カンボジア1986年03月17日1980年代CGDKの8項目提案。シアヌーク大統領は北京での閣議の後,カンボジア問題の政治解決のための提案を発表。要約すると,(1)ベトナム軍の撤退は期限付の場合2段階に分けて実施される,(2)撤退手続きに合意したら停戦を実現する,(3)撤退も停戦も国連監視チームによって監視される,(4)撤退の第一段階が終わったら,ヘンサムリングループはCGDKとの話し合いに入る,その場合4者は平等の立場で話し合う,(5)4派連合政府は国連監視下の自由選挙を行なう,(6)カンプチアの自由民主体制と中立は国連によって保障される,(7)国家再建のために東西中立のあらゆる諸国からの援助を受けいれる,(8)中立非同盟のカンボジアは,ベトナムと不可侵条約を結ぶとともに貿易や経済関係を樹立する。
DIA-202-1986-03-17-2カンボジア1986年03月17日1980年代PRKのフンセン首相,Koy Buntha国防次官兼総参謀長とともに,かつてソンサン・グループの基地であったエアンダンキムを視察し,タイが敵対政策をとっているので,われわれはこの防衛線を築かねばならないと兵士を激励した。
DIA-202-1986-03-18-1カンボジア1986年03月18日1980年代カンボジア国際会議を組織するための日本人委員会の代表団一行12人は,18日からDK国民軍・基地を訪問し,DK赤十字議長イエンチリト女史と会見した。
DIA-202-1986-03-19-1カンボジア1986年03月19日1980年代VONADK,3月1日シソポン南方Ta Khievに駐屯するカンボジア人兵士1個中隊が叛乱を起こし,ベトナム軍兵士27人を殺した。
DIA-202-1986-03-19-2カンボジア1986年03月19日1980年代チェコとの間に1986~90年の商品交換についての協定と,合同プロジェクトに対するチェコの借款供与に関する協定が調印された。
DIA-202-1986-03-21-1カンボジア1986年03月21日1980年代DK国民軍は,コムポンチュナンのPhsa Kraom ベトナム海軍基地を攻撃,ベトナム軍兵士28人を殺し,16人を負傷させた(VODK)。
DIA-202-1986-03-24-1カンボジア1986年03月24日1980年代『プラチェアチョン』紙,CGDKの8項目提案を「北京で仕組まれた新たな茶番」と論評。
DIA-202-1986-03-26-1カンボジア1986年03月26日1980年代VOKとの会見でソンサン首相は,8項目提案に関して,ベトナム側が提案はポルポトの復帰を意味する,と主張したことに対し,私の聞いたところでは,ポルポトはベトナムが撤退に同意すれば引退することを約束したと答えた。
DIA-202-1986-03-26-2カンボジア1986年03月26日1980年代PRKは,ポーランドとの間に1986~90年の貿易協定を締結した。
DIA-202-1986-03-26-3カンボジア1986年03月26日1980年代VOKによると,3月8日コムポンチュナンの空港で,100人のヘンサムリン軍とベトナム軍が衝突し,ベトナム軍18人が殺され,50人が負傷した。ヘンサムリン軍側は3人が死亡,14人が負傷した。
DIA-202-1986-03-26-4カンボジア1986年03月26日1980年代CGDK国防相会議。CGDK3派の国防相はソンサン首相の下に会議を開き,軍事行動調整委員会と渉外委員会の設立について合意した。
DIA-202-1986-03-27-1カンボジア1986年03月27日1980年代シエムレアプ・オダルメアンチャイ省の1985年の帰順者は2000人を超えた。うちポルポト派1385人,ソンサン派589人,彼らは1100丁の武器を携行してきた。同省の転向促進会議にフンセン首相が出席した。
DIA-202-1986-03-27-2カンボジア1986年03月27日1980年代プノンペンで郵便・運輸・通信省会議が開かれ,過去の活動を総括するとともに1986年の任務を検討した。85年の物資運搬量は41万440トンで計画を3%超過,対前年比12%増であった。プノンペンとコムポンソムの2船舶会社は計画を14%超過した。187kmの道路を修復し,橋を2088メートルにわたって修理した。
DIA-202-1986-04-02-1カンボジア1986年04月02日1980年代CGDKのキューサンパン副大統領は,ASEAN高官会議に8項目提案を説明するためにマニラに到着。
DIA-202-1986-04-04-1カンボジア1986年04月04日1980年代KPNLF軍参謀部は,3月28日のバタムバン市内のベトナム軍陣地に対するDK軍の攻撃にKPNLF軍からも2個中隊と1特別攻撃隊が参加した,と発表した。また同軍は3月25日のANS軍によるベトナム軍攻撃にも参加した,と発表。
DIA-202-1986-04-05-1カンボジア1986年04月05日1980年代プノンペンで開かれた第7回全国農業総括会議でフンセン首相が演説し,食糧,ゴム,木材,海産物の4産品の増産に励むよう訴えた。とくに米については作付面積を300万ha(戦前レベル)に拡大しなければならない,と述べた。
DIA-202-1986-04-06-1カンボジア1986年04月06日1980年代キューサンパン副大統領はバンコク空港で記者会見し,カンボジア問題の解決に際しては各派は武装解除ではなく停戦するだけである,ベトナムは過去の経験から信用できないからである,と語った。
DIA-202-1986-04-07-1カンボジア1986年04月07日1980年代Ney Pena政治局員兼内相,ブルガリアの第13回党大会に出席。
DIA-202-1986-04-07-2カンボジア1986年04月07日1980年代PRK閣僚会議,帰順者に対する報奨金を倍に増額することを決定。1986年4月10日から86年5月15日まで,個人であると部隊単位であるとを問わず革命の側に武器を携行してきた帰順者に対しては,85年3月30日付の国防省,内務省,財政省の3省メモに規定されている金額の倍額を与える。ただし1986年5月16日以降の帰順者に対しては規定どおり。
DIA-202-1986-04-08-1カンボジア1986年04月08日1980年代VONADKによれば,ココン地域の戦場で130人のカンボジア人兵士がベトナム軍に叛乱を起こした。 1月から4月初めまでに1345人のカンボジア人兵士と人民がベトナムに叛旗をひるがえした。
DIA-202-1986-04-09-1カンボジア1986年04月09日1980年代キューバの司法大臣来訪。
DIA-202-1986-04-12-1カンボジア1986年04月12日1980年代東京で「カムプチア・デー」集会,8項目和平案を受けいれるよう要求した決議を採択。
DIA-202-1986-04-13-1カンボジア1986年04月13日1980年代PRK国家評議会のヘンサムリン議長,新年のメッセージ。議長は,敵は致命的打撃を受け解体しつつあるが,われわれの力を弱らしていけばわれわれの政権を転覆できるという幻想を捨ててはいない。わが軍と同胞は敵と一段と激しく闘わねばならない。また敵に従っている者は家族のもとへ帰るよう帰順を呼びかける,と訴えた。
DIA-202-1986-04-13-2カンボジア1986年04月13日1980年代CGDK外務省は声明を発表し,ベトナムが本当にカンボジア問題を政治的に解決することを望むなら,8項目和平提案を基礎にCGDKと話し合わなければならない,と述べた。
DIA-202-1986-04-14-1カンボジア1986年04月14日1980年代VONADKによると,シソポン南部のAmpil村で,ヘンサムリン軍の兵士100人がベトナム軍に叛乱を起こし,強制労働に狩り出された民間人500人を釈放した。
DIA-202-1986-04-16-1カンボジア1986年04月16日1980年代DK国民軍は,ポチェントン国際空港を3方面から攻撃し,ベトナム人34人を殺し,52人を負傷させた。この攻撃でソビエトの爆撃機4機も破壊した(VONADK)。
DIA-202-1986-04-16-2カンボジア1986年04月16日1980年代DK国慶節に際して北朝鮮の金日成主席,シアヌーク大統領に祝辞。
DIA-202-1986-04-16-3カンボジア1986年04月16日1980年代北朝鮮の金永南外相,カンボジアの国慶節に当り,キューサンパンDK副大統領に祝電。独立,平和,中立非同盟のカンボジアを建設するための戦いにおいて新しいより大きな勝利を望む,と言明。
DIA-202-1986-04-16-4カンボジア1986年04月16日1980年代中国の李先念国家主席,趙紫陽首相は民主カンボジアの国慶節に当り祝電。8項目和平提案を支持する,と言明。
DIA-202-1986-04-17-1カンボジア1986年04月17日1980年代ANS最高司令部は同軍がDK国民軍の協力を得て,4月9日と11日にシエムレアプ省の Kralanh 県 Prey Chhruk と Puok 県Angkor Pheas 郡 Chakrei でベトナム軍を攻撃し,ベトナム兵士100人を殺し,130人を負傷させた,と発表した(VOK)。
DIA-202-1986-04-21-1カンボジア1986年04月21日1980年代SPKによると,1986年の初めの3ヵ月間に,敵の宣伝に欺かれていた人民1299人が732丁の銃および多量の弾薬を持って革命の側に帰順してきた。帰順者のうち65%がポルポト派,20%がソンサン派,残りがシアヌーク派であった。
DIA-202-1986-04-21-2カンボジア1986年04月21日1980年代ベトナム国会代表団(グェソフート国会議長),公式訪問のためプノンペン到着。
DIA-202-1986-04-22-1カンボジア1986年04月22日1980年代ハンガリーの国家計画庁代表団(Gyorgy Doro副議長)来訪。
DIA-202-1986-04-22-2カンボジア1986年04月22日1980年代ソ連の国家対外経済関係委員会の代表団(Nikita Pavlovich Tulupov副議長)来訪。
DIA-202-1986-04-22-3カンボジア1986年04月22日1980年代PPDSによると,コンポントムの武装勢力はベトナム軍と協力して掃討作戦を行ない,敵兵100人を殺し,53人を負傷させた。
DIA-202-1986-04-26-1カンボジア1986年04月26日1980年代タンサロム対外経済・文化協力相は,ソ連の対外関係委員会のソニペフ副議長と1986~90年ソ連・カンボジア経済,文化,科学,技術協力協定に調印した。
DIA-202-1986-04-28-1カンボジア1986年04月28日1980年代ASEAN外相会議は,CGDKの8項目提案を支持するとともに,ベトナムがこの提案に積極的に答えるよう要請する共同声明を発表した。
DIA-202-1986-04-29-1カンボジア1986年04月29日1980年代DK国民軍は,4方面からシエムレアプ市にあるベトナム軍の戦略拠点を攻撃し,ベトナム兵22人を殺し,30人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-05-01-1カンボジア1986年05月01日1980年代プノンペンでメーデー集会,チアシム国会議長が演説。
DIA-202-1986-05-03-1カンボジア1986年05月03日1980年代DK国民軍は,シエムレアプ省 Sot Nikom 地区 Rolus 町のベトナム軍を攻撃し,Meanchey 郷と12の村を解放した(VONADK)。
DIA-202-1986-05-07-1カンボジア1986年05月07日1980年代VODK,米国とASEANが採択した3項目提案を支持すると論評。3項目とは,(1)カンボジアから撤兵するまでベトナムを政治的外交的に孤立させる,(2)カンボジアの抵抗勢力にあらゆる支援を与える。(3)ASEANが提唱した原則に従ってカンボジア問題の政治解決を求める。
DIA-202-1986-05-08-1カンボジア1986年05月08日1980年代PPDSによると,PRK軍は4月1ヵ月間で195の掃討作戦を行ない,1188人を戦闘不能にした。3月の2.5倍。
DIA-202-1986-05-13-1カンボジア1986年05月13日1980年代VODK,「8年目の今乾期にパイリン地域を平定しようとしたベトナム軍の攻撃は失敗に終わった」と論評。
DIA-202-1986-05-14-1カンボジア1986年05月14日1980年代SPKによれば,4月のPRKへの帰順者は411人であった。
DIA-202-1986-05-17-1カンボジア1986年05月17日1980年代KPRP中央委,3月29日のゴルバチョフ演説および1986年4月23日のソ連政府声明を支持するメッセージを,ソ連党中央委に送付。
DIA-202-1986-05-17-2カンボジア1986年05月17日1980年代DK国民軍最高指揮部は,パイリン地区のDK国民軍がベトナム軍の進攻をくい止めたことを表彰した。
DIA-202-1986-05-18-1カンボジア1986年05月18日1980年代プノンペンの党および人民委員会は,タイ・カンボジア国境での陣地構築などの土木工事に従事していた労働者第5次作業団が,プノンペンに帰還したのを祝う集会を開催した。
DIA-202-1986-05-20-1カンボジア1986年05月20日1980年代Tuol Sleng博物館で,ポルポト=イエンサリ=キューサンパン一味に対するカンボジア人民の憎しみを表明する11回目の記念集会が開催され,ヘンサムリン議長,チアシム国会議長ら首脳が出席した。
DIA-202-1986-05-20-2カンボジア1986年05月20日1980年代ANS軍筋によると,ANS軍はバタムバン省,Preah Net Preach 地区プレアシアヌーク村近くでの4日間にわたる戦闘で,ベトナム人兵士80人を殺した。
DIA-202-1986-05-20-3カンボジア1986年05月20日1980年代VODK,ストックホルムでのベトナム Tran Quynh 副首相の発言で,1990年までに全面撤退するという同国の宣伝が嘘であることが暴露された,と論評。
DIA-202-1986-05-21-1カンボジア1986年05月21日1980年代PRK国防省は,ベトナム義勇軍のカンボジアからの撤退を発表。撤退するのは第8歩兵師団,95歩兵旅団,第37歩兵連隊とその付属部隊から成る第98師団グループら約1万2000。
DIA-202-1986-05-21-2カンボジア1986年05月21日1980年代DK国民軍スポークスマンは声明を発表し,ベトナム軍がタイニンから22号道路を通ってトラック80台分の兵力を,ソンベから13号道路を通ってトラック50台分の兵力を,カンボジアのコムポンチャム省やクラチエ省に増強したと述べた。
DIA-202-1986-05-22-1カンボジア1986年05月22日1980年代PRK軍機関紙 Kangtvap Padevoat 社説は,今回のベトナム軍の撤退について,「1984~85年乾期攻勢で,わが軍およびベトナム軍は国境沿いにある16の敵拠点を占領し,カンボジア・タイ国境地帯を掌握した。懲罰を逃れ国内に残存している分子もわが軍に少しづつせん滅されている。このような有利な条件が撤退を可能にしたのである」と述べた。
DIA-202-1986-05-25-1カンボジア1986年05月25日1980年代ベトナム軍は,バタムバン省バンニミットの東にヘリコプター基地を建設した(BP紙)。
DIA-202-1986-05-27-1カンボジア1986年05月27日1980年代『プラチエアチヨン』紙社説「撤退はPRKとSRVの善意のもう一つの証拠である」。このなかで,撤退はカンボジア武装勢力の成長によるものであり,敵側が弱ってきたことによる。タイ国境の17拠点を失い,敵は国内に潜入してきている,しかし彼らの移動は困難になっている。1985年の乾期に比して今年は帰順者が2倍になっていると述べた。
DIA-202-1986-05-28-1カンボジア1986年05月28日1980年代CGDKのソンサン首相は,ベトナム軍の撤退は単なる入れ替えにすぎない,KPNLFは国内に8000~9000人のゲリラをいれている。われわれは世界の国々にカンボジアから手を引くまではベトナムの経済再建を助けないよう要請していると語った(VOK)。
DIA-202-1986-05-28-2カンボジア1986年05月28日1980年代ソンサン首相の司会でCGDKの3派国防相会議開催。ベトナム軍の撤退は単なるローテーションの一部にすぎない,1986年4月に軍事と渉外の調整委員会を設置したことはCGDKの戦闘行動を活発にしていると評価した。
DIA-202-1986-05-29-1カンボジア1986年05月29日1980年代PRK軍は,過去1週間に敵兵183人を戦闘不能にした。88人を殺し,24人を捕え,71人を帰順させた(PRDS)。
DIA-202-1986-05-30-1カンボジア1986年05月30日1980年代BP紙,シアヌーク大統領は「ベトナム軍が撤退すれば,私とソンサンは紙の上だけの指導者になるだろう。なぜならクメール・ルージュはカンボジアの本当の主人公になるからである」と語った。
DIA-202-1986-05-30-2カンボジア1986年05月30日1980年代DK外務省声明,5月29日ベトナム軍が,タイのプラチンプリ県のTa Ngoc カンボジア難民キャンプSite8を砲撃したことを非難。砲撃で20人が死亡,30人が負傷した。
DIA-202-1986-06-03-1カンボジア1986年06月03日1980年代CGDKのキューサンパン副大統領は,エジプト,ケニア,ルワンダ,ブルキナファソ,セネガル,リベリア,ギニアを訪問して帰国した。
DIA-202-1986-06-10-1カンボジア1986年06月10日1980年代オーストラリアのハイデン外相はバンコクで記者会見し,CGDKの8項目提案は完全なものではないが話し合いのきっかけになると思われるので,ベトナムは再考すべきであると述べた。
DIA-202-1986-06-10-2カンボジア1986年06月10日1980年代シニムレアプ・オダルメアソチャイ省では,5月中に300人が帰順してきた(PPDS)。
DIA-202-1986-06-10-3カンボジア1986年06月10日1980年代PRKのフンセン首相は『ユマニテ』紙の記者と会見し,ベトナム軍の3分の1以上がすでに撤退した,1990年にはカンボジア問題は3派やASEANと話し合わなくても解決されるであろう,政治解決を望むなら話し合いを1986年と88年の間に始めなければ間に合わない,シアヌークのCGDKとは話し合わない,事実上ポルポトの支配下にあるからである,タイ軍が侵略するのでタイとの国境に700kmの防衛線を建設中である,と語った。
DIA-202-1986-06-12-1カンボジア1986年06月12日1980年代ベトナムの国家統制委員会代表団(Bui Quang Tao 中央委員兼国家統制委議長)来訪。
DIA-202-1986-06-13-1カンボジア1986年06月13日1980年代NW紙によると,タイ国家安全保障会議のプラソン事務局長は,現在2万5000の難民を収容しているカオイダンのキャンプは,年末に閉鎖されるであろう,第三国への入国を拒否されたものは国境沿いのキャンプに移されることになろう,と語った。タイのインドシナ難民は12方3649人。
DIA-202-1986-06-14-1カンボジア1986年06月14日1980年代PRKの武装勢力(KPRAF)総政治局,KPRAF創立35周年記念日(1951年6月19日) の祝賀に向けて指示を発表。
DIA-202-1986-06-15-1カンボジア1986年06月15日1980年代6月10日,DK国民軍は他の勢力と協同して4方面からアンコールワット地区のベトナム軍を攻撃し,25村を解放するとともにベトナム軍兵士35人を殺し,52人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-06-16-1カンボジア1986年06月16日1980年代キューバの軍事代表団(Aldo Santamaria 国防次官),KPRAF35周年記念式典に出席するため来訪。
DIA-202-1986-06-17-1カンボジア1986年06月17日1980年代KPRAFの35周年式典に出席するためソ連国防省代表団(N.I.Smirnov海軍副司令官)到着。
DIA-202-1986-06-18-1カンボジア1986年06月18日1980年代KPRAFの35周年式典に出席のため,SRV高級軍事代表団(Van Tien Dung 国防相)とLPDRの高級軍事代表団(Khamtai Siphandon 国防相)が到着。
DIA-202-1986-06-19-1カンボジア1986年06月19日1980年代プノンペソでKPRAF創立35周年記念式典。ヘンサムリン議長演説。
DIA-202-1986-06-19-2カンボジア1986年06月19日1980年代KPRPの組織委員会代表団(Mrs.Men Sam An政治局員,組織委員会委員長),ベトナムでの2週間の活動を終えて帰国。
DIA-202-1986-06-21-1カンボジア1986年06月21日1980年代VODK「CGDK樹立4周年を祝って」を発表。
DIA-202-1986-06-24-1カンボジア1986年06月24日1980年代マニラで開かれていたASEAN外相会議はカンボジア問題について,CGDKの8項目提案は話合いのための建設的枠組みを提供しているとし,平和的解決のためにベトナムがCGDKと親しく話し合うよう訴えた。
DIA-202-1986-06-26-1カンボジア1986年06月26日1980年代KPRP代表団(Mat Ly 政治局員),ポーランドの党大会に出席するために出発。
DIA-202-1986-06-26-2カンボジア1986年06月26日1980年代マニラで開かれたASEAN外相と先進国外相の協議会で,オーストラリアのハイデン外相は,カンボジア人の和解とベトナムとの対話のために,ポルポトおよび他のクメール・ルージュ指導者を裁くための法廷を設置するよう提案した。
DIA-202-1986-06-26-3カンボジア1986年06月26日1980年代PRK帰順工作委員会(委員長 Bou Thang 政治局員,委員11人,1984年設立)によると,1986年の最初の5ヵ月間の帰順者は2038人に達した。うちポルポト派65%,ソンサン派20%,シアヌーク派15%,この数字は1985年の半分を越している。帰順者は1237点の武器を携行してきた(SPK)。
DIA-202-1986-06-27-1カンボジア1986年06月27日1980年代BP紙,撤退の一方で5月中に新たに1万3000のベトナム兵士がカンボジアに送り込まれた。国家安全保障会議プラソン事務局長26日語る。
DIA-202-1986-06-28-1カンボジア1986年06月28日1980年代ヘンサムリン議長,KPRP創立35周年記念集会で演説し,インドシナ共産党(ICP)のカンプチア担当委員会は会議を召集し,カンプチアにKPRPと呼ぶ党を創ることを決定した,それが今日である。ポルポト反動派はマルクス・レーニン主義教育を充分に行なえなかったことを利用して,指導権を奪い,毛沢東主義を党生活に持込んだ。1979年1月7日以来,党はICPの伝統に従って再建されている,と語った。
DIA-202-1986-06-28-2カンボジア1986年06月28日1980年代ND社説。カンボジア革命の進展を紹介,1985年の工・手工業生産額は80年の3倍になり,国内消費・生産の需要を満たし,輸出もしている。土地は全人民の所有となり,耕地の3分の2が復旧された。10万の互助組が農業生産に従事し,1985年には全国で200万トンに近い籾を収穫した。
DIA-202-1986-06-28-3カンボジア1986年06月28日1980年代コムポントム省当局は,今乾期に414人の帰順者があったと発表した。
DIA-202-1986-07-02-1カンボジア1986年07月02日1980年代タイのプラソンNSC事務局長によると,タイとの国境封鎖と抵抗勢力の圧殺を目的とした,ベトナムの暗号名K-5計画は成功しなかった。抵抗勢力の現況は総勢7万で,うちKPNLFが1万2000,クメール・ルージュが5万1000,ANSが8000である。ベトナム軍は14万だが,うち戦闘部隊は10万である。ハノイは1985年末までに,治安維持の責任をヘソサムリン軍に移したいと望んでいたが,90年までへと延期せざるをえなかった(N紙)。
DIA-202-1986-07-03-1カンボジア1986年07月03日1980年代中国共産党の胡耀邦総書記はシアヌークCGDK大統領のために宴会を開き,CGDKの8項目提案への支持を表明した。
DIA-202-1986-07-06-1カンボジア1986年07月06日1980年代DK国民軍は6月29日,バタムバンからプノンペン行きの列車を攻撃し,ベトナム人兵31人を殺し,37人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-07-10-1カンボジア1986年07月10日1980年代PRKの党と政府は,ベトナムのレ・ズアン書記長の死に際して7月11日から15日まで,全国が喪に服するよう指令した。
DIA-202-1986-07-13-1カンボジア1986年07月13日1980年代党と政府の代表団(ヘンサムリン書記長),レ・ズアン書記長の葬儀に出席のためハノイへ出発。同行者は,Say Phuthang 国家評議会副議長,Chea Soth 副首相,Yos Son 党対外連絡委副主任。
DIA-202-1986-07-15-1カンボジア1986年07月15日1980年代DK軍ゲリラは,プノンペンのキリロム映画館の西側でベトナム軍兵士と要員を手投げ弾で攻撃し,12人を死亡,4人を負傷させた。このためプノンペンの夜間通行は7月18日まで禁止された(VONADK)。
DIA-202-1986-07-16-1カンボジア1986年07月16日1980年代プノンペンでインドシナ3国の経済文化協力に関する第7回会議開催。カンボジアから Peng Pat 経済・文化協力省次官,ベトナムから Tran Quoc Manh,インドシナ経済文化協力委副議長,ラオスから Soulima Bounleut 計画委副議長が団長として出席した。
DIA-202-1986-07-17-1カンボジア1986年07月17日1980年代KPRP第5期中央委第3回総会(7月10日から16日まで開催)のコミュニケ発表。1985~86年の乾期の成果を検討し,86年後半の目標を承認した。
DIA-202-1986-07-17-2カンボジア1986年07月17日1980年代ヘンサムリン書記長,ハノイでソ連のN.I.ルイシコフ首相と会談。
DIA-202-1986-07-19-1カンボジア1986年07月19日1980年代CGDK外務省,1986年7月18日インドシナ3国が結んだ経済文化協力協定は,完全に無効であるとの声明を発表。
DIA-202-1986-07-21-1カンボジア1986年07月21日1980年代第1期国会第11回会議開催。21日は,1986年前半期の経済計画実施状況および後半期の任務を審議するとともに,予算案の修正を決定した。22日は,外交,防衛ライン構築,帰順工作についての報告を審議。
DIA-202-1986-07-22-1カンボジア1986年07月22日1980年代『プラチエアチヨン』紙,「全員を動員して旱ばつの危険と戦って雨期用の水田全部で田植を終わらせよう」という社説を掲げる。
DIA-202-1986-07-24-1カンボジア1986年07月24日1980年代米国のインドシナ3国人民との連帯委員会代表団(Merle Ratner 共同議長)は,1週間の滞在の後プノンペンを出発。
DIA-202-1986-07-25-1カンボジア1986年07月25日1980年代内閣改造。第1国会第11回会議は1986年の国家予算と新閣僚の任命を承認して閉幕,新任閣僚は以下のとおり。Ney Pena 内相,Say Chhum 農相,Chhay Than 蔵相,Kong Sam-ol農業担当相,Ho Non 貿易相,Sam Sarit ゴム園総局長。
DIA-202-1986-07-28-1カンボジア1986年07月28日1980年代Kong Sam-ol農業担当相は記者会見して,本年前半の稲作は降雨量が少ないこと,メコンの水位が下るのが遅かったために計画の80%しか達成できなかった,農民がこの雨期に植付計画を100%完遂したとしても,カンボジアは年末までに1ヵ月ないし1ヵ月半の間,食糧不足に直面することになろう,PRK政府はこのため世界の国際機関や人道的援助組織および国家に緊急援助を要請すると語った。
DIA-202-1986-07-29-1カンボジア1986年07月29日1980年代VODKは,DK軍の7月10日,14日,15日のプノンペン周辺の攻撃を挙げて,これらの攻撃はヘンサムリン政権が全土を支配し,カンボジア情勢は後戻りできないというベトナムの宣伝が虚偽であることを暴露しているとともに,彼らがプノンペンの防衛のために兵力を集中するので,他の地域の防衛が手薄になることを意味していると論評した。
DIA-202-1986-07-29-2カンボジア1986年07月29日1980年代『プラチエアチヨン』紙社説は今雨期に敵を攻撃し,より多くの重大な敗北を与えようと訴えた。それによると,敵はカンボジア内部で活動することを余儀なくされ,兵の補充,物資弾薬の補給を絶たれている。しかも現実の民衆の生活をみることができるので帰順者も多い。
DIA-202-1986-07-29-3カンボジア1986年07月29日1980年代ニカラグアのサンヂニスタ民族解放戦線(FSLN)と政府の代表団(Henry Ruiz,FSLN指導部メンバー・対外協力相)来訪。
DIA-202-1986-08-02-1カンボジア1986年08月02日1980年代シアヌークCGDK大統領は,ジンバムエのムガベ首相・非同盟運動議長に手紙を送り,1979年,ハバナの会議で行なわれたカンボジアの議席を空席にするという決定を,否決するよう訴えた。
DIA-202-1986-08-04-1カンボジア1986年08月04日1980年代シンガポールを訪問中のCGDKのシアヌーク大統領は,ダナバラン外相と会談し,民主カンボジアの8項目提案を討議した。両者は同提案にはカンボジア各派の武装解除や国際平和維持軍の創設など,多くの付け加えるべき事項があるということに同意した。シアヌーク殿下は,国際社会により受け入れ易いようにこれらの点を,クメール・ルージュに同意させるよう努力するつもりであると語った。
DIA-202-1986-08-06-1カンボジア1986年08月06日1980年代N紙によると,8月5日ヘンサムリン政権の兵士20人が,国境を越えてタイ軍に降伏した。理由は,カンボジア抵抗勢力とのつながりがあると,ベトナム軍に疑われたためであるという。
DIA-202-1986-08-10-1カンボジア1986年08月10日1980年代CGDKのシアヌーク大統領はタイ国境のオダルメアンチャイ省の移動ゲリラ基地に帰る。記者会見席上,中国の胡耀邦総書記が,ベトナム軍が撤退すれば,クメル・ルージュ軍の兵力を他の2派と同レベルに削減するよう彼らに示唆した,と語ったと述べた。同席していたキューサンパン副大統領は,その提案を考えたことがないと語った。シアヌーク大統領は同派の基地で初めて,マレーシアのBakri Aiyub Ghazzali 大使の信任状を受けた。また同式典にはKPNLF代表も初めて出席した。
DIA-202-1986-08-11-1カンボジア1986年08月11日1980年代地方武装勢力の幹部のための訓練コースが,高級党幹部学校でBou Thang 国防相の下に開設された。
DIA-202-1986-08-11-2カンボジア1986年08月11日1980年代フンセン首相は,ベトナムのファムバンドン首相に,7月22日の風水害でハイフォン省とランソン省で堤防が決壊したり,冠水したり,多数の被害が出たことについて見舞のメッセージを送った。
DIA-202-1986-08-14-1カンボジア1986年08月14日1980年代CGDKは本年2回目の閣議を開催,コミュニケを発表。要旨―(1)抵抗勢力はプノンペン,バタムバン,ムアン,プルサト,シエムレアプ,コムポソトムなどの都市でベトナム軍を攻撃しつつある。(2)抵抗3派が協力しているのをみてヘンサムリン政権側の兵士や人民は,ゲリラを助けるようになっている。(3)8項目提案はベトナム軍撤退後も国家の憲章となる。ヘンサムリン側も国造りに参加できる。
DIA-202-1986-08-17-1カンボジア1986年08月17日1980年代ハノイで第13回インドシナ3国外相会議。フンセン外相,シパスート外相,グエンコタク外相が出席。
DIA-202-1986-08-18-1カンボジア1986年08月18日1980年代PRK国会高級代表団(Chea Sim 国会議長),ソ連,ポーランド,東独訪問の旅へ出発。
DIA-202-1986-08-18-2カンボジア1986年08月18日1980年代VONADK18日によると,8月10日DK国民軍は,モンドリキリ戦線でベトナム軍連隊基地を攻撃し,15人を殺し,17人を負傷させた。
DIA-202-1986-08-18-3カンボジア1986年08月18日1980年代WODK,シアヌークCGDK大統領は15日バンコクでの記者会見で,8項目提案はCGDKの最後の提案で付け加えるものは何もないと語った。
DIA-202-1986-08-19-1カンボジア1986年08月19日1980年代CGDK外務省は声明を発表し,ゴルバチョフ書記長のウラジオストク演説には何ら新味はなく,ソ連がベトナムのカンボジア侵略を支持しているかぎり,そのアジア・太平洋地域における侵略と拡張の戦略を捨てたと誰も信ずることはできない,カンボジア問題の解決はベトナムとCGDKの協議および8項目を基礎にしてこそ可能である,と論評した。
DIA-202-1986-08-20-1カンボジア1986年08月20日1980年代インドシナ外相会議を終えたフンセン外相は,われわれはポルポト一派排除を基礎に,国民和解のために他のクメール人反対派もしくは個人との話し合いに入る用意があると語った。ポルポト一派とは個人なのか組織を含むのか,の質問に対しては,「政治的軍事的組織である」と答えた。
DIA-202-1986-08-20-2カンボジア1986年08月20日1980年代CGDK外務省は声明を発表し,ベトナムはカンボジアからの撤退を宣伝しているが,事実は兵を増強し,ベトナム人入植者は70万以上に達している。CGDKの立場は1986年8月14日の閣議声明に述べてあるとおりで,カンボジア問題の解決はベトナムが1986年3月17日の8項目提案を受けいれることであると述べた。
DIA-202-1986-08-22-1カンボジア1986年08月22日1980年代CGDKのシアヌーク大統領,マレーシアを訪問,8項目提案について説明した。
DIA-202-1986-08-23-1カンボジア1986年08月23日1980年代PRK外務省の招きでソ連外務省のI・ロガチョフ外務次官は,21日から23日までカンボジアを訪問した。
DIA-202-1986-08-24-1カンボジア1986年08月24日1980年代UNICEFの代表団(James P.Grant 理事)は,3日間にわたってカンダル省のプロジェクトを見学。
DIA-202-1986-08-27-1カンボジア1986年08月27日1980年代シアヌーク殿下によると,クメール・ルージュはシアヌーク軍を攻撃し,9人を殺した。
DIA-202-1986-09-02-1カンボジア1986年09月02日1980年代フンセン外相は,国連事務総長から派遣されたDL.T.Kunugiと会見。
DIA-202-1986-09-02-2カンボジア1986年09月02日1980年代『プラチエアチヨン』紙は社説で,モンスーンの終わりまでに田植えを終わらせよう,と訴えた。8月14日までに水不足のため植付けは計画の43%,移植は25%しかなされていない。旱ばつで苦しんだうえにモンスーンの大雨で,洪水の被害が広がっている。バタムバンとタケオ省が打撃を受けている。
DIA-202-1986-09-04-1カンボジア1986年09月04日1980年代VOK,シアヌーク大統領のインタビューを放送。国内の同胞に対して民族主義的戦士を助けるように,ヘンサムリン政権を脱走してくる兵士や公務員は歓迎する,ベトナム軍に蜂起するようなことはしてはならない,決して自分自身および家族の安全を危険にしてはならない。ベトナム軍の撤退が始まると同時に国際平和維持軍の派遣を要請する。彼らには少なくとも5年間は駐留して貰う。ヘンサムリン氏やフンセン氏に対してわれわれカンボジア人同士の4派会議を開き,4派連合政府を樹立しようではないか,と訴えた。
DIA-202-1986-09-06-1カンボジア1986年09月06日1980年代コムポン・チュナン戦線では,DK国民軍はプノンペンからバタムバンへ向かう列車を,ロレア・ピール県の Kdol 駅と Krang Skea 駅の間で待伏せ攻撃し,ベトナム軍兵士17人を殺し,41人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-09-09-1カンボジア1986年09月09日1980年代ヘンサムリン議長,モスクワ到着。
DIA-202-1986-09-09-2カンボジア1986年09月09日1980年代DK国民軍は地方住民と協力して,コムポントムにあるベトナム軍7701師団の司令部を2方面から攻撃した。30分の戦闘の後,ベトナム軍兵士6人を殺し,13人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-09-10-1カンボジア1986年09月10日1980年代『プラチェアチョン』紙は,中国の胡耀邦書記が,ポルポト軍の兵力をシアヌーク派軍なみに3万5000から1万5000に減らすことに同意する,と言ったこと,またシアヌークがカンボジアに平和維持軍を受けいれ,各派は武装解除すると付け加えたのは,中国が舞台まわしをしているトリックにすぎないと論評した。
DIA-202-1986-09-10-2カンボジア1986年09月10日1980年代DKの高級代表団(シアヌーク殿下,ソンサン首相,キューサンパン副大統領)の中国訪問終わる。鄧小平顧問はDK代表団との会見で,「民主カンプチア連合政府の三つの愛国勢力への中国の支援は,確固とした,無条件かつ永久のものである」と述べた。
DIA-202-1986-09-11-1カンボジア1986年09月11日1980年代プノムマライ山付近で,ベトナム軍とクメール・ルージュとの間に激戦があり,ベトナム軍兵土7人が死亡(AFP)。
DIA-202-1986-09-17-1カンボジア1986年09月17日1980年代フンセン首相兼外相は,国連事務総長と41回総会議長にメッセージを送り,ポルポト一味を議席から追放するよう要求した。
DIA-202-1986-09-18-1カンボジア1986年09月18日1980年代ブルガリア共産党対外政策・関係局代表団来訪。
DIA-202-1986-09-21-1カンボジア1986年09月21日1980年代『プラチエアチヨン』紙,生産と人民の生活によりよく奉仕するために社会主義商業網をより広範囲に拡大しようとの社説を掲げた。物資の管理がしっかりしていないので,役人は商人から賄賂をとり,国家の財産を自由市場に横流ししている。このため物価の高騰を招いていると論評した。
DIA-202-1986-09-24-1カンボジア1986年09月24日1980年代9月13日,カムポト省 Kampot 県,Veal Vong の陣地でカンボジア人兵士64人が叛乱を起こし,ベトナム軍兵土を殺し,一部は自宅に帰り,他はDK国民軍に加わった(VONADK)。
DIA-202-1986-09-24-2カンボジア1986年09月24日1980年代SPKは,タイ軍スポークスマンが,タイ軍がプリラム県省内2kmにある丘の上に駐屯していた50人のベトナム軍兵士を撃退した,と語ったが,それは自らの敵対政策をかくすための作り話にすぎないと放送した。
DIA-202-1986-09-25-1カンボジア1986年09月25日1980年代KPNLFのゲリラはカンボジアと南ベトナムとの国境の町Kong TumのTouey Chu Maで米兵3人の遺骨を認識票とともに発見したと語った。認識票は,Bynum J.Ronall US 5589740とBon Edwin W 259726345 ANEC PROTT,R.Th.rich RDL 27750 O.Pos Cjh.
DIA-202-1986-09-26-1カンボジア1986年09月26日1980年代PRKの軍機関誌Kangtvap Padevoat 社説。敵は重大な敗北を喫したにもかかわらず,北京やタイの援助を得て,あらゆる邪悪な手段を弄してわれわれに反対している。彼らは平和,中立,国民和解などを主張することによってわが軍民をだまそうとしている。われわれは兵士に対する政治教育を強化しなければならない。
DIA-202-1986-09-27-1カンボジア1986年09月27日1980年代『プラチエアチヨン』紙,田植えを急いで雨期作の計画を実現するよう社説で訴える。9月半ばで田植えは計画の54%しか進捗していない。
DIA-202-1986-09-28-1カンボジア1986年09月28日1980年代第41回国連総会に出席中のASEAN各国外相は,CGDK大統領シアヌーク殿下のためのパーティを開いた。キューサンパン副大統領,ソンサン首相も出席した。
DIA-202-1986-09-28-2カンボジア1986年09月28日1980年代VODK,国連でのソ連外相演説を非難。
DIA-202-1986-09-28-3カンボジア1986年09月28日1980年代CGDKの3首脳,中国首脳に国慶節の祝電。
DIA-202-1986-09-28-4カンボジア1986年09月28日1980年代DK国民軍は9月20日,シエムレアプ市のベトナム軍師団司令部を攻撃,ベトナム兵10人を殺し,7人を負傷させた(VONADK)。
DIA-202-1986-09-28-5カンボジア1986年09月28日1980年代SPK,バタムバン省Ampil北西でPRK軍は,侵入してきたタイ軍機F5一機を撃墜した。
DIA-202-1986-09-29-1カンボジア1986年09月29日1980年代DK軍は4号道路を通って,コムポンソム港からプノンペンへ物資と人員を輸送しているベトナム軍輸送隊を,コムポンスプー省Phnum Sruoch 地区近くで襲撃し,11人を殺し,17人を負傷させた(VONADK10/6)。
DIA-202-1986-09-30-1カンボジア1986年09月30日1980年代プノンペンでハンガリーとの間に1986~90年の文化,科学,技術協力協定が締結された。
DIA-202-1986-09-30-2カンボジア1986年09月30日1980年代DK国民軍最高司令部は,1986年5~9月の雨期の戦闘結果を総括。ベトナム兵1万300人を殺し,2050の村を解放したと発表した。
DIA-202-1986-09-30-3カンボジア1986年09月30日1980年代CGDKのシアヌーク大統領,国連総会で演説,カンボジアの戦争は内戦ではなくベトナムの侵略戦争である,と述べ,8項目提案をベトナムが再考するよう求めた。
DIA-202-1986-10-03-1カンボジア1986年10月03日1980年代KPNLFゲリラに随行していたオーストラリア人記者 David Nason がベトナム軍との交戦で負傷。
DIA-202-1986-10-03-2カンボジア1986年10月03日1980年代第5回プノンペン仏教僧会議,プノンペンおよびカンダル,タケオ,コムポンスプー,プレイベンの各省から400人の僧が参加,チアシム国会議長が出席した。
DIA-202-1986-10-03-3カンボジア1986年10月03日1980年代フンセン首相は内外商業省で開かれた1985~86年度米買付け工作総括会議で演説し,米を買付けるには消費財を国家指定価格で充分に農民に提供することが必要であり,私的商人と競争するためには遠隔の地にまで出張する移動店が必要だと述べた。なお1985~86年度食糧買付量は計画の44%,中央政府への引渡し量は計画の37%であった。
DIA-202-1986-10-10-1カンボジア1986年10月10日1980年代9月26日と29日にカムポト省カムポト地区の Veal Vong陣地のカンボジア人兵士157人が叛乱を起こし,ベトナム兵若干を殺傷し,自由になった(VONADK)。
DIA-202-1986-10-15-1カンボジア1986年10月15日1980年代CGDK外務省声明:国際旅行社がアンコールワットへの外国人ツアーを組織するとの報道があるが,これはベトナムがカンボジア情勢を完全に支配しているとの印象を与えるために仕組んだことである。全土で戦闘が行なわれているので,カンボジアへの旅行はきわめて危険である,したがって旅行者に何が起ろうともCGDKは責任を負うことはできない。
DIA-202-1986-10-18-1カンボジア1986年10月18日1980年代SPK,国連でのカンボジア問題の討議はカンボジア人民の唯一合法的で正当な代表者たるPRK政府代表が参加してないので無効であると論評。
DIA-202-1986-10-18-2カンボジア1986年10月18日1980年代コムポンスプー省の人民法廷はポルポト軍の攻撃隊兵士10人に対して指揮官のChea Saranに死刑を,他の兵士に4年の刑から終身刑を宣告した。
DIA-202-1986-10-24-1カンボジア1986年10月24日1980年代モスクワに滞在中のヘンサムリン書記長はノーボスチ通信と会見し,PRKは民族和解のためにポルポト派を除くという条件で反対派と話し合う用意があると語った。
DIA-202-1986-10-27-1カンボジア1986年10月27日1980年代PRK外務省,1986年10月15日,タイ軍が空軍と砲撃の援護の下バタムバン省アムピル地区南西にあるHill537を攻撃し占領したと非難した。
DIA-202-1986-10-30-1カンボジア1986年10月30日1980年代キューサンパン副大統領のシアヌーク大統領へのメッセージ(オーストリア大使館経由のベトナム側申し出に対するコメント)(1)この申し出はベトナムが一層苦境に落ち込んでいることを示すものである,(2)ベトナムはシアヌーク殿下とその「かいらい」とを話し合せようとしている,(3)「かいらい」とは話し合うべきでない,話し合いは侵略者ベトナムとその犠牲者CGDKとの間で持たるべきである。ヘンサムリンやフンセンがベトナム代表団の一部として参加するのはいい。しかし協定ができた時の調印者はシアヌーク殿下とチュオン・チンあるいはファムバンドンの2者である。かくしてベトナムはわれわれを見下すことはできない。
DIA-202-1986-10-30-2カンボジア1986年10月30日1980年代VODKによれば,10月15日シエムレアプ省の Srei Snam 地区に駐屯するカンボジア人兵士が叛乱を起し,ベトナム人省知事と省委員会の委員1人を殺した。地区住民を西部国境の強制労働に狩り立てたことに反対したのが理由。
DIA-202-1986-11-02-1カンボジア1986年11月02日1980年代ASEAN諸国はオーストラリアがプノンペンに非政府系の援助調整センターを10月2日設立したことに不快感を示した。現在インドシナでは Australian Freedom from Hunger Campaign,Save the Children Fund,Australian People for Health,Education and Development Abroadの3団体が活動している。ASEANはオーストラリアがプノンペンに衛星地上局を設置することにも不快感を示している。
DIA-202-1986-11-03-1カンボジア1986年11月03日1980年代DK国民軍はコムポンチュナンのベトナム軍空港を攻撃,10人を殺し,7人を負傷させた(VODK11月9日)。
DIA-202-1986-11-06-1カンボジア1986年11月06日1980年代パレスチナ解放民主戦線(DFLP)代表団(Yasir ’Abd Rabbuh 政治局員兼書記長補),4日間のプノンペン訪問を終える。
DIA-202-1986-11-07-1カンボジア1986年11月07日1980年代CGDKのシアヌーク大統領はパリでの記者会見で,カンボジア問題を解決するにはハノイはCGDKと話し合いをしなければならない,PRKの代表はベトナム代表団のなかに含まれると語った。
DIA-202-1986-11-08-1カンボジア1986年11月08日1980年代PRKのフンセン首相はAFP記者との会見で,カンボジアのゲリラはプノンペン政府に今なお困難を引起しつつあるが,もはやその存在を脅してはいない,困難はあるが,PRKは自分の足で立てるので1990年までにベトナム軍は撤退できる,今日まで,5万7000人のベトナム人がカンボジアに帰ってきた,彼らは1970年以前にここに住んでいた人々であると語った。
DIA-202-1986-11-13-1カンボジア1986年11月13日1980年代東独との間に1987年の貿易協力についての議定書に調印。これによればカンボジアはゴム,木材,大豆,煙草,その他の農産物を,東独は輸送手段,化学肥料,タイプライター,カメラ,薬品を提供する。
DIA-202-1986-11-15-1カンボジア1986年11月15日1980年代シアヌーク殿下個人の代表事務所は,殿下はベトナムの提案(10月30日参照)を拒否したのではなく代りの提案を行なったのであると発表した。提案は,(1)シアヌーク殿下とベトナムのチュオン・チン書記長もしくはファム・バン・ドン首相との会談。ヘンサムリン議長あるいはフンセン首相がベトナム側として同席してもよい。(2)すべての関係者による国際会議の2点より成る。
DIA-202-1986-11-18-1カンボジア1986年11月18日1980年代CGDKの最高軍事会議,ANSのラナリト殿下を議長としてDK国民軍のソンセン司令官,KPNLFのSak Sutsakhan 将軍が今乾期における軍事協力を討議。
DIA-202-1986-11-19-1カンボジア1986年11月19日1980年代BP紙によるとDKのポルポト氏は病気のため数週間前に基地を離れ,目下北京で治療中。
DIA-202-1986-11-24-1カンボジア1986年11月24日1980年代PRKとチェコとの間で1987年度物資交換に関する議定書が調印された。カンボジアはゴム,木材,大豆を輸出し,チェコは衣類,化学原料,薬剤原料,トラクター,医療機器など300万ルーブルを提供する。3月19日には1986~90年の物資交換協定とチェコの対カンボジア援助協定が調印された。これによるとチェコは合板プラントの設備,繊維工場とタイヤ工場の拡張工事,ディーゼル機関車2台とその部品など600万ルーブルの借款を供与する。
DIA-202-1986-11-28-1カンボジア1986年11月28日1980年代CGDK外務省声明,再びアンコールワットへの旅行の安全について警告(10月15日参照)。
DIA-202-1986-11-29-1カンボジア1986年11月29日1980年代PRK国会高級代表団(チアシム国会議長)アルバニアへ出発。
DIA-202-1986-11-29-2カンボジア1986年11月29日1980年代KPNLFの国防相 Im Chhudet 大佐は記者会見で,ソンサン首相に反抗したグループ,Sak Sutsakhan 司令官,Dien Del 参謀長,Huy Kanthal 元首相,Abdul Gaffar Peang-Meth 博士らは首相に解任されたが,今なおその地位に留まっている,ソンサン首相は和解の措置をとるだろう,と語った。
DIA-202-1986-12-03-1カンボジア1986年12月03日1980年代VONADK,DK国民軍,プノレサトからプノンベンへ米をはこんでいる列車をTotoeng Thngai駅とKrakor の Kamreng 駅の間で攻撃。ベトナム兵35人を殺し,48人を負傷させた。
DIA-202-1986-12-10-1カンボジア1986年12月10日1980年代内閣改造(1)フンセン首相の外相兼任を,ブータン副首相の国防相兼任を,チアント副首相の計画相兼任をそれぞれ解く,(2)コンコルム(Kong Korm)第一外務次官を外相に,コイブンタ(Koy Buntha)国防次官兼参謀長を国防相に,チアチャント(Chea Chanto)第一計画省次官を計画相に任命する。(3)フンセン政治局員兼中央委書記の党中央委外交委員会議長の職を解き,その職にヨスソン(YosSon)中央委員を任命する。(4)ジトムンチ(Dit Munti)人民最高法廷副議長を外務次官に,Ke Kimyan党バタムバン省委書記代行を国防次官兼参謀長に任命する。
DIA-202-1986-12-15-1カンボジア1986年12月15日1980年代VODKは,内閣改造に関してカンプチア政府ではすべてのことがベトナム人によって決定されるから,手先を変えても何ら新味はないと論評した。
DIA-202-1986-12-16-1カンボジア1986年12月16日1980年代ソ連・カンプチア政府間委員会で,(1)経済協力に関する議定書(若干のプロジェクトの再興とゴム生産の拡大をソ連が援助する)が調印された。他に次の二つが調印された。(2)1987年度貿易支払に関する議定書,(3)ソ連の1986~90年の無償援助協定(300のスカラシップを与える,150人のソ連専門家を農業プロジェクト調査のため派遣する)。ソ連側からはV・K・グセフ副首相が調印した。
DIA-202-1986-12-17-1カンボジア1986年12月17日1980年代VODK,ベトナムの党大会でレ・ドク・ト派が後退したのはカンボジア作戦の失敗によるものだと論評。VODKはまたバン・ティエン・ズン国防相,チュー・フィ・マンが大会に出席しなかったのもカンボジアでの失敗によると報道した。
DIA-202-1986-12-19-1カンボジア1986年12月19日1980年代DK国民軍,シエムレアプ国際空港をロケット攻撃。特別部隊はアンコール附近に駐屯する7705師団本部を攻撃しベトナム兵13人を殺し,15人を負傷させた。
DIA-202-1986-12-21-1カンボジア1986年12月21日1980年代ベトナムの高級軍事筋はAFPに対して,今乾期の終わり,1987年4月か5月に,さらに多くの兵士をカンボジアから撤退させる予定である。状況によって5方から6万の撤退もあり得ると語った。同筋は,カンボジアでの戦いは政治面に移行している,クメール・ルージュは兵力の補充の必要から政治活動を強化している,彼らはまた来るべき政治解決にも備えている,いずれにしろ1990年にベトナム軍が撤退することには変わりがない,と語った。
DIA-202-1986-12-24-1カンボジア1986年12月24日1980年代BW紙によるとKPNLFのソンサン議長とストサカン(Sak Sutsakhan)司令官との和解の試みは失敗に終わった。
DIA-202-1986-12-25-1カンボジア1986年12月25日1980年代オーストラリアの旅行社 Orbitour が組織したアンコールワット観光旅行一行14人はシエムレアプとアンコールワットを見物して無事バンコクに帰着した。一行は22日プノンペンに着き,アンコールでは半日を過したが,戦争の気配や痕跡は見当らなかったと語る。
DIA-202-1986-12-26-1カンボジア1986年12月26日1980年代中国の趙首相はシアヌーク大統領のために宴を催し,その席で中国が連合政府の8項目提案を支持することを表明した。
DIA-202-1986-12-26-2カンボジア1986年12月26日1980年代KUFNCDカンプチアの建設・国防の統一戦線=略称祖国戦線)の第6回全国評議会プノンペンで開催。
DIA-202-1986-12-27-1カンボジア1986年12月27日1980年代DK国民軍はパイリン地区 Chamka Kafe のベトナム軍連隊に攻撃をかけ,ベトナム兵150人を殺し,86人を負傷させた。
DIA-202-1987-01-05-1カンボジア1987年01月05日1980年代PPDS,1月7日を記念する社説で,1986年1~11月で帰順4000人以上,携行してきた武器2000と発表。
DIA-202-1987-01-07-1カンボジア1987年01月07日1980年代シアヌーク殿下は北京でイタリアのUNITAと記者会見し,CGDKとプノンペン政府がウィーンで話し合うというベトナム側の提案について,殿下は賛成するが,他の2人が反対しているので,不可能だと語った。
DIA-202-1987-01-07-2カンボジア1987年01月07日1980年代PRK建国記念日8周年式典。ヘンサムリン議長が演説。
DIA-202-1987-01-09-1カンボジア1987年01月09日1980年代モスクワでアジア社会主義国会議,ベトナム,カンボジア,朝鮮民主主義人民共和国,ラオス,モンゴル,ソ連の外務次官が出席。
DIA-202-1987-01-20-1カンボジア1987年01月20日1980年代フンセン首相,コムポンチュナン省を訪問。同省は1986年に5万570haの米,5600haのメイズを植えつけた。これは1985年比13%増と22%増であった。1986年の開墾面積は前年の4000haに対して5600haであった。漁獲高は9600トンであった。
DIA-202-1987-01-21-1カンボジア1987年01月21日1980年代ANSのラナリト殿下は,CGDKとプノンペン政権との話し合いを呼び掛けたベトナム提案を拒否すると述べた。理由はこの提案を受ければカンボジア問題はベトナムの侵略によって起こされた問題ではなくて,カンボジア自身の国内問題になってしまうからである。
DIA-202-1987-01-21-2カンボジア1987年01月21日1980年代VOKによると,1月12日ルーマニアを訪問したシアヌーク大統領に対して,チャウセスク大統領はベトナムがブカレストでCGDKとヘンサムリン政権が会談する,そしてこの4派連合政府とベトナムは停戦およびベトナム軍の撤退について話し合うという提案をしてきた。しかしシアヌーク大統領は彼とヘンサムリンの会談は,カンボジアの戦争がベトナムの侵略ではなくて,カンボジア人同士の内戦であると誤解されるおそれがあるのでベトナムとまず会談する,その会談にベトナム側としてヘンサムリンが加わってもいいと語った。
DIA-202-1987-01-21-3カンボジア1987年01月21日1980年代SPKによると,カンボジアの米の作付け面積は200万haに達した。1980年代末までに250万haに達する目標で努力中。メイズが4万ha,タバコが1万haで,ゴムを1990年までに6万haに拡大する予定。カンボジアはゴムの輸出を開始した。
DIA-202-1987-01-22-1カンボジア1987年01月22日1980年代VONADKによるとCGDK外務省スポークスマンはプノンペン政権とは話し合わないとの立場を確認した。
DIA-202-1987-01-23-1カンボジア1987年01月23日1980年代ソ連のラジオ・テレビ国家委員会代表団(団長:ユーリー・オルロフ副委員長)来訪。
DIA-202-1987-01-24-1カンボジア1987年01月24日1980年代CGDKのソンサン首相はSite 2などのカンボジア難民キャンプを訪問。
DIA-202-1987-01-26-1カンボジア1987年01月26日1980年代KPRP第5期第4回中央委総会が23日から26日まで,ヘンサムリン書記長の司会で開かれた。
DIA-202-1987-01-27-1カンボジア1987年01月27日1980年代東独のシェル(Horst Soelle)副首相来訪。経済,科学,技術協力政府間委員会会議に出席のため。
DIA-202-1987-01-28-1カンボジア1987年01月28日1980年代ヘンサムリン書記長,テトにあたり,ベトナム軍兵士に感謝のメッセージ。
DIA-202-1987-01-28-2カンボジア1987年01月28日1980年代SPK声明:1月27日:KPRAFとベトナム義勇軍がタイ領に侵略したとのタイ支配層による中傷を拒否する,PRKは外部からの侵略およびタイ領からのクメール反動派による攻撃にたいして正当な自衛権を行使しているが,常にタイの主権と領土保全を尊重している。
DIA-202-1987-01-28-3カンボジア1987年01月28日1980年代BPによると,ベトナム軍はタイのKhao Din 村(アランヤプラテート南方50km)を105ミリ砲で砲撃。
DIA-202-1987-01-28-4カンボジア1987年01月28日1980年代タイ最高司令部情報局の報告によると,ヘンサムリン政権は徴兵に失敗し,多数の青年がCGDKへ帰順した。ベトナムとヘンサムリン政権は今年は15歳から30歳までの青年を例外なしに徴兵する,また独身の女子も入隊できる政策を打ち出した。
DIA-202-1987-01-28-5カンボジア1987年01月28日1980年代ソ連との間に1987~89両国間テレビ・ラジオ協力に関する協定が調印された。
DIA-202-1987-01-28-6カンボジア1987年01月28日1980年代CGDK3派のゲリラ260人がバタムバン省のタイ国境から40km入ったところにあるベトナム軍陣地を攻撃して,ベトナム兵28人を殺し,7人を負傷させた(AFP2/2)。
DIA-202-1987-01-29-1カンボジア1987年01月29日1980年代『プラチェアチョン』紙によると,1986年末までに全国で米14万7000haを収穫した。収量は1.23トン/haであった。
DIA-202-1987-01-30-1カンボジア1987年01月30日1980年代コイブンタ国防相,ベトナムのテトにあたり,ベトナム義勇軍兵士に挨拶のメッセージ。
DIA-202-1987-01-30-2カンボジア1987年01月30日1980年代東独との間に,カンボジア人学生と労働者訓練に関する協定(東独は1986~90年に年間技術専門学校学生に90,大学生に70のスカラシップを与える),ゴム生産での協力協定(コムポンチャム省のチャムカルアンヅオンで1万haのゴム園を再建する)に調印。1986年の両国の物資交換は85年比18%増,東独の援助は1870万マルクであった。1980年以来の訓練計画により800人以上のカンボジア人が東独の大学や専門学校で訓練を受け,そのうち300人が帰国して重要なポストで働いている。
DIA-202-1987-02-03-1カンボジア1987年02月03日1980年代ベトナム人民軍総政治部代表団(Nguyen Quyet 大将,中央委書記,総政治部長)来訪,ラオス人民軍総政治部代表団(Osakan中将,LRPR中央委員,LPA総政治部長)来訪。El Vansarat(中央委員,国防次官,総政治部長)が出迎え。
DIA-202-1987-02-04-1カンボジア1987年02月04日1980年代PRK国会開催。予算,計画を検討。
DIA-202-1987-02-18-1カンボジア1987年02月18日1980年代CGDKはソ連,ベトナムに対し,カンボジア問題の政治的解決のためのCGDKの8項目提案を受け入れるよう呼びかけるアピールを発表した。
DIA-202-1987-03-10-1カンボジア1987年03月10日1980年代ソ連のシェワルナゼ外相来訪。
DIA-202-1987-03-17-1カンボジア1987年03月17日1980年代日本の倉成外相は閣議で,タイ領内に流入しているカンボジア難民に,70万食分の乾パン(1億円相当)を贈る,と報告した。
DIA-202-1987-03-19-1カンボジア1987年03月19日1980年代日本のカンボジア会議設立準備委員会代表団はDK解放区を21日まで訪問した。
DIA-202-1987-03-21-1カンボジア1987年03月21日1980年代VODK,ベトナムのファム・バン・ドン首相はスウェーデン記者との会見で,たとえDK国民軍が活動していてもベトナムは1990年にはカンボジアからその軍隊を撤退すると語ったが,これを信ずるものは誰もいないと論評した。
DIA-202-1987-03-24-1カンボジア1987年03月24日1980年代国連のESCAP書記兼対カンボジア人道援助調整のための国連事務総長代表Kibia氏は19日から24日までPRKを公式訪問した。
DIA-202-1987-03-27-1カンボジア1987年03月27日1980年代AFP,KPNLFのソンサン議長とサクサトサカン司令官との紛争は解消したと報道。両者は3月19~20日,Site 2の難民キャンプを訪問した。
DIA-202-1987-03-27-2カンボジア1987年03月27日1980年代BWによると,CGDKのキューサンパン副大統領は「抵抗勢力がバタムバン,シエムレアプ,コムポントムとプノンペンの一部を包囲できる状態なので,ベトナムはカンボジアでの戦争に勝てないと信ずる」と語った。
DIA-202-1987-03-27-3カンボジア1987年03月27日1980年代VONADKによると,DK軍はコムポンソム近くのベトナム軍燃料庫を炎上させた,ガンリン1万8000リットルが炎上した。
DIA-202-1987-04-01-1カンボジア1987年04月01日1980年代CGDKのキューサンパン副大統領,金日成主席の75歳の誕生日に祝電。
DIA-202-1987-04-01-2カンボジア1987年04月01日1980年代シエムレアプ・オダールメアンチャイ省における1987年の第1四半期の帰順者は337人,ポルポト派141人,ソンサン派101人,シアヌーク派95人であった。
DIA-202-1987-04-01-3カンボジア1987年04月01日1980年代ソ連の党中央委対外連絡局代表団(Smirnovskiy副局長)来訪。
DIA-202-1987-04-02-1カンボジア1987年04月02日1980年代DK国民軍はプノンペン市のRussei Kev 石油会社北方のベトナム軍にたいして手投げ弾を投げ,4人を殺し,3人を負傷させた(VONADK,4月13日)。
DIA-202-1987-04-06-1カンボジア1987年04月06日1980年代プノンペンでインドシナ民間航空会議。
DIA-202-1987-04-08-1カンボジア1987年04月08日1980年代中国の李先念国家主席は北京でシアヌーク大統領夫妻を招いて祝宴。
DIA-202-1987-04-09-1カンボジア1987年04月09日1980年代SPK,コムポントム省における今年第1四半期の帰順者は234人,前年同期の2倍と発表。
DIA-202-1987-04-09-2カンボジア1987年04月09日1980年代東京のカンボジア・デー(4月11日)出席のため来日したDKのイエンチリト女史は日本外務省の村田審議官,大島東南アジア課長らと会談した。
DIA-202-1987-04-11-1カンボジア1987年04月11日1980年代SPK,バタムバン省における今年第1四半期の帰順者は366人,ポルポト派148人,ソンサン派200人,シアヌーク派18人と発表。
DIA-202-1987-04-14-1カンボジア1987年04月14日1980年代VONADK,キューサンパン副大統領,仏暦2530年の新年,民主カンボジア創立12周年に当たり,声明を発表。1986年3月17日の8項目,87年2月18日の声明でも明らかなようにCGDKはベトナムとの話し合いを提案しているが,ベトナム側はこれを拒否している。
DIA-202-1987-04-16-1カンボジア1987年04月16日1980年代北朝鮮の金日成主席,DK成立12周年に際し,シアヌーク大統領に祝電。
DIA-202-1987-04-17-1カンボジア1987年04月17日1980年代タイ訪問中の中国の呉学謙外相はタイのシティ外相と会談し,先のシェワルナゼ・ソ連外相による東南アジア訪問後もソ連のカンボジア問題への基本姿勢に変化はみられないとの認識で一致した。
DIA-202-1987-04-17-2カンボジア1987年04月17日1980年代N紙,KPNLFのサクサトサカン将軍は3月4日副司令官にDien Del 将軍を任命したと報道,参謀長には,Prok San-An将軍を任命。
DIA-202-1987-04-19-1カンボジア1987年04月19日1980年代外国貿易銀行は外国人および海外カンボジア人による国内への送金を許可するとの声明を発表。
DIA-202-1987-04-25-1カンボジア1987年04月25日1980年代チアソト副首相,キューバ代表団(Manuel Castillo Rebasa 通信相,キューバ・PRK経済科学技術委員会キューバ側委員長)を接見した。
DIA-202-1987-04-29-1カンボジア1987年04月29日1980年代アルバニア国会代表団(Petro Dode 党中央委,国会議長)来訪。30日の共同コミュニケで双方は国連における代表権がPRKに与えられることを要請することで意見の一致を見た。
DIA-202-1987-05-04-1カンボジア1987年05月04日1980年代VODK,DK国民軍の乾期3カ月間の戦果を発表。そのなかでプノンペンでの攻撃8回,コムポンソムで5回ベトナム軍を攻撃したと発表。
DIA-202-1987-05-07-1カンボジア1987年05月07日1980年代CGDKのシアヌーク大統領はクメール・ルージュ軍がANS(シアヌーク派軍)を攻撃したとの理由で,向こう1年間大統領の職務を遂行しないと声明した。
DIA-202-1987-05-08-1カンボジア1987年05月08日1980年代VODK,カムポト省人民はDK国民軍,カンボジア人兵士,愛国的地方官吏とともに大会を開き,ベトナム軍の化学物質使用を非難したと報道。
DIA-202-1987-05-11-1カンボジア1987年05月11日1980年代商業省幹部(Ho Non 商業相),ベトナム供給省代表団(Hoang Dac Nghi 供給相)と双方の協力について協議。ベトナム側はプノンペン郊外のRussei Kev の石油貯蔵所の能力を6500立方メートルに拡大することについて援助を約束した。
DIA-202-1987-05-11-2カンボジア1987年05月11日1980年代農業省統計局によると,今乾期の米の植付面積は12万5000haで前年乾期より3000ha増であった。4月末までに7万3400haが収穫され,収量は2.25トン/haであった。特にカンダル省は2.651トンであった。
DIA-202-1987-05-12-1カンボジア1987年05月12日1980年代チェコは1986~90年の期間に600万ルーブルの信用を供与した。この金はDei ET の合板工場,Tuol Kouk の繊維工場,Takhmau のタイヤ工場の建設および機関車2台を輸入するのに使われる。
DIA-202-1987-05-13-1カンボジア1987年05月13日1980年代N紙によると,タイのチュラロンコン大学アジア研究所の調査チーム(団長:Khian ThiRawit 博士)はベトナム脱走兵との面接調査から,ベトナム軍の撤退は人員の交替にすぎないと発表した。
DIA-202-1987-05-14-1カンボジア1987年05月14日1980年代モスクワでのソ連・タイ外相会談は「カンボジア問題」について新しい進展なく終了した。
DIA-202-1987-05-14-2カンボジア1987年05月14日1980年代カンボジア・ソ連友好協会代表団(Sim Ka 党中央委員,党統制委副議長)モスクワへ出発。
DIA-202-1987-05-15-1カンボジア1987年05月15日1980年代CGDK首相でもあるソンサンKPNLF議長はバンコクの新聞への声明でシアヌーク殿下の存在はわが国の政治解決に不可欠であり,クメール・ルージュがANS軍を攻撃しないとの殿下の要求に応じることを望むと声明した。
DIA-202-1987-05-17-1カンボジア1987年05月17日1980年代CGDKのシアヌーク大統領はユーゴのLazar Mojsov 大統領の就任に祝電。
DIA-202-1987-05-17-2カンボジア1987年05月17日1980年代BP紙,シアヌーク殿下がCGDKを離れることはありえない,ベトナムは私人としてのシアヌークには興味がない,休暇を取ることによって殿下はどこへでも,誰とでも会う自由を得る必要があったからだと報道。
DIA-202-1987-05-19-1カンボジア1987年05月19日1980年代VONADK,コムポンスプー省ウドン地区でベトナム側は有毒物質を水中に散布したと放送。
DIA-202-1987-05-19-2カンボジア1987年05月19日1980年代タイ国境警察はSite 2キャンプからタイ組織によって密出国させられようとしたカンボジア難民16人を逮捕。
DIA-202-1987-05-20-1カンボジア1987年05月20日1980年代Tuol Sleng 虐殺博物館でポルポト虐殺体制を憎む国民の集会開催。5000人が参加。なおフンセン首相以下の幹部も列席。マトリ国会議長が演説。
DIA-202-1987-05-20-2カンボジア1987年05月20日1980年代VODK,ベトナムがCGDKの一部とプノンペンの手先と話し合いをさせようと画策しているのは彼らが侵略の陰謀を捨てていないからであると論評。
DIA-202-1987-05-21-1カンボジア1987年05月21日1980年代ベトナムの外務省スポークスマンはポルポト派排除を条件にして国民和解のために相手側の個人およびグループと話し合う用意があるとのPRKの声明を全面的に支持すると声明した。
DIA-202-1987-05-21-2カンボジア1987年05月21日1980年代BP紙社説,シアヌーク殿下の辞退は時期が悪い,パリでのベトナムとの会談はCGDKの代表としてではなく私人の立場になろうと論評。
DIA-202-1987-05-25-1カンボジア1987年05月25日1980年代インドネシアのモヒタル外相はシアヌーク殿下が1年間大統領職を辞退するとの決定を発表したことはASEANの努力に水をさすものであると語った(Jakarta Post,5月26日)。
DIA-202-1987-05-26-1カンボジア1987年05月26日1980年代ハノイの共同特派員に対してベトナム当局はポルポト,イエンサリ,キューサンパンのみならずソンセン,タモクを含めていると語った。
DIA-202-1987-05-27-1カンボジア1987年05月27日1980年代アムネスティ・インタナショナルはカンボジアでは数千の政治犯が1979年以来非人間的条件下で裁判もなしに拘留され,拷問を受けているとの報告を発表した。最近捕えられた数千の政治犯は暴力行為に参加したものではなく,ほとんどが忠誠を疑われた官吏,労働者,農民,学生,教師,僧侶からなっている。
DIA-202-1987-05-29-1カンボジア1987年05月29日1980年代VONADKは,23日コムポンスプー西1kmのベトナム軍訓練センターでカンボジア人兵士100人が訓練を放棄し,家に逃げ帰ったと報道。
DIA-202-1987-05-31-1カンボジア1987年05月31日1980年代CGDK外務省,5月29日ベトナム軍がタイの難民キャンプSite 2を砲撃し,死者7人,20人が負傷したとの声明を発表した。
DIA-202-1987-05-31-2カンボジア1987年05月31日1980年代VONADKによると,DKの北京駐在外交官が5月16日付けでシアヌーク殿下に大統領職を1年間休暇をとるとの決定を思い止まるよう要請する手紙を送った。署名者はChan Youran 氏とその夫人,Chun Phana 氏とその夫人,Srei Bori 氏とその夫人,Uk Phoeun 氏,Meng Tangngorn 夫人。
DIA-202-1987-06-01-1カンボジア1987年06月01日1980年代クメール・ルージュの指導者キューサンパン議長とソンセン国防相はシアヌーク殿下が大統領の地位を1年間離れるとの決定をひるがえすよう要請した。
DIA-202-1987-06-01-2カンボジア1987年06月01日1980年代シアヌーク殿下はラナリト殿下への電報でもしクメール・ルージュにより支配されている難民キャンプでの民間人に対する人権侵害が止まらなければ,大統領の職からさらに1年間休暇をとるつもりであるとの意志を表明した。
DIA-202-1987-06-01-3カンボジア1987年06月01日1980年代SPKによると1986年,国家公務員の家庭の78%が副業を行なった。プノンペンをはじめ各省都の137の工場,企業,役所で4万2355人の労働者が家庭経済に従事し,米1万700トン,メイズ475トン,キャッサバとタロ3483トン,豆2500トン,野菜果物5200トンを生産した。彼らは牛2万1320頭,豚3万3276匹,魚32万790尾,鶏30万3000羽を養った。この結果国家が与える給与の2倍の所得を得た。労働総同盟では1988年までに国家公務員の家庭の80から90%を副業に従事させ副業から月に28kgから35kgの食料,10kgから15kgの魚と肉,50kgから70kgの野菜と果物,手細工仕事で月500リエルの収入を得るようにする予定である。
DIA-202-1987-06-02-1カンボジア1987年06月02日1980年代PRK外務省の役人はAFPに対してクメール・ルージュが先月プノンペンを攻撃したことはなく,首都は安全であると語った。ある居住者は夜9時から朝5時までの外出禁止令に変更はないと語った。
DIA-202-1987-06-03-1カンボジア1987年06月03日1980年代PRKでは5月末まで10万7000haの米を収穫した。収量は2.42トン/haであった。今乾期の植付け面積は12万2340haで,前の乾期より4500ha増加した。
DIA-202-1987-06-03-2カンボジア1987年06月03日1980年代今年の第1学期にバタムバンとコムポントムの学生は62人をPRK側に帰順させた。また同じ時期にカンダル,タケオ,コムポンチャム,バタムバンの各省では2300人以上の学生が軍に志願した。そのうち1200人はカンダル省からであった。
DIA-202-1987-06-04-1カンボジア1987年06月04日1980年代カオイダンの難民キャンプを襲ったクメール人強盗団,タイ軍守備隊と衝突。一人死亡。N紙によればKPNLFの脱走兵の模様。
DIA-202-1987-06-04-2カンボジア1987年06月04日1980年代KPRP政治局は本年11月7日に全国でソ連10月革命70周年祝典を開催することを決定した。
DIA-202-1987-06-04-3カンボジア1987年06月04日1980年代ベトナムの労働総同盟代表団(Pham The Duyet 議長兼党中央委書記)来訪。ヘンサムリン議長,マトリ労働総同盟議長らと会談。
DIA-202-1987-06-05-1カンボジア1987年06月05日1980年代インドネシアのモフタル外相はシアヌーク殿下の休暇宣言はクメール・ルージュの望ましくない分子を除くためのものであると言明した。
DIA-202-1987-06-05-2カンボジア1987年06月05日1980年代VODK,5月20日コムポンチャム地区でベトナム軍が理由もないのにカンボジア人112人を逮捕し投獄したと報道。
DIA-202-1987-06-05-3カンボジア1987年06月05日1980年代VOK,6月2日CGDK各派の代表者会議が開かれ,シアヌーク殿下は依然としてCGDKの大統領であると声明した。ANSからラナリト殿下,KRからはDK国民軍のソンセン司令官,KPNLFからIm Chhudet 国務相が参加した。
DIA-202-1987-06-06-1カンボジア1987年06月06日1980年代SPK,国際アムネスティの報告書に反論,敵の側から帰順してきたものは3万人に上るが,彼らは収容所に入れられることもなく,国家に土地を割り当てられ,全市民権を享受している。
DIA-202-1987-06-06-2カンボジア1987年06月06日1980年代クメール・ルージュのキューサンパン副大統領,モニク妃殿下の誕生日に祝電。
DIA-202-1987-06-07-1カンボジア1987年06月07日1980年代コムポンスプー,コムポンチュナン,スベイリエン,コムポンチャム,シエムレアプ・オダルメアンチヤイ,スツンチエンの選挙区で国会議員の補欠選挙。
DIA-202-1987-06-11-1カンボジア1987年06月11日1980年代VONADKによると,DK国民軍は6月4日シエムレアプ国際空港を攻撃,ベトナム兵6人を殺し,9人を負傷させた。
DIA-202-1987-06-11-2カンボジア1987年06月11日1980年代シンガポールのダナバラン外相はASEAN常任委議長の資格でシアヌーク殿下に手紙を送り,殿下のCGDKの大統領としての役割はカンボジア問題の政治解決を求める上で決定的である,1年間の休暇をとるとの決定はこれを尊重することを伝え,今後の殿下の行動についてはASEAN側に知らせるよう要請した。
DIA-202-1987-06-12-1カンボジア1987年06月12日1980年代インドネシアのモフタル外相はカンボジア問題の解決のため,国連が新たな4項目提案を用意していることを明らかにした。その骨子は,(1)ベトナム軍の部分撤退,(2)「カクテル・パーティー」の開催,(3)ベトナム軍の全面撤退,(4)総選挙または住民投票によるカンボジア新政府の樹立,である。
DIA-202-1987-06-12-2カンボジア1987年06月12日1980年代ソ連との間に農業協力に関する協定が調印された。この文書によるとソ連は1987~90年にトラクターなど農業機械の修理工場三つを建設するとともに九つの移動修理所を提供することになる,さらに訓練のため45人のカンボジア人を3カ月間ソ連に派遣する計画も含まれている。
DIA-202-1987-06-13-1カンボジア1987年06月13日1980年代PRK外務省,タイ侵略3周年に出されたラオス外務省コミュニケを支持する声明を発表。
DIA-202-1987-06-13-2カンボジア1987年06月13日1980年代KPNLFの前線司令部は5月5日のコミュニケで,武装力は8004人で,カンボジアの12の省で活動していると発表した。
DIA-202-1987-06-15-1カンボジア1987年06月15日1980年代北京の記者団に届いた文書でシアヌーク殿下は,「カンボジアはベトナムの1省となるか再びクメール・ルージュの支配下に落ちるかに直面している」と述べた。
DIA-202-1987-06-16-1カンボジア1987年06月16日1980年代ASEAN外相会議は共同コミュニケでベトナムに対してCGDKの8項目提案への拒否を再考するよう求めた。
DIA-202-1987-06-18-1カンボジア1987年06月18日1980年代PRK外務省の一員は米国人一人がカンボジア領内でベトナム軍に逮捕されたとのタイ側報道を否定し,わが領土ではいかなる米国人も逮捕されていないと語った。
DIA-202-1987-06-18-2カンボジア1987年06月18日1980年代日本の倉成外相はASEAN拡大会議でカンボジア問題について,(1)ベトナムが前提条件なしで民主カンボジアとの交渉の場につく,(2)ベトナム軍撤退の際の平和維持の方法を明確にし,カンボジア人による公正で自由な選挙を確保する,(3)自由で民主的,平和的,非同盟,中立のカンボジアをつくる,(4)和平達成後のインドシナ全域の経済復興を進める,4項目を提唱した。
DIA-202-1987-06-22-1カンボジア1987年06月22日1980年代キューサンパン副大統領,CGDK成立5周年についての声明。DK国民軍はCGDKの抵抗グループと一層団結・協力するように,またベトナムは将来8項目提案に沿った政治解決を受け入れざるを得なくなると述べた。
DIA-202-1987-06-22-2カンボジア1987年06月22日1980年代『プラチェアチョン』紙,シンガポールでのASEAN外相会談は再びCGDKの8項目提案を支持し,PRKの再生と成長の事実を見ようとしないと論評した。
DIA-202-1987-06-26-1カンボジア1987年06月26日1980年代シアヌーク大統領はデクイアル国連事務総長に書簡を送り,国連が提案したカンボジア問題解決のための4項目提案を支持するとのべた。
DIA-202-1987-06-27-1カンボジア1987年06月27日1980年代『プラチェアチョン』紙,社説で地方民兵勢力の拡大と強化に注意を払おうと強調。
DIA-202-1987-06-28-1カンボジア1987年06月28日1980年代カンプチア人民革命党(KPRP)創立36周年を記念する集会がプノンペンで開かれ,1000人が参加した。
DIA-202-1987-06-29-1カンボジア1987年06月29日1980年代今漁期,全土で川魚6万2154トンの漁獲高を上げた。コムポンチュナン省が1万2100トン,シエムレアプ・オダールメアンチャイ9575トン,プルサト7000トン,コムポンチャム5180トン,コムポントム5134トン,バタムバン4200トン,この外海水魚7247トンの漁獲高を上げた。
DIA-202-1987-06-30-1カンボジア1987年06月30日1980年代ウランバートルでのアジア・太平洋共産党会議に出席するためにKPRP代表団(Ney Pena政治局員兼内相)出発。
DIA-202-1987-06-30-2カンボジア1987年06月30日1980年代6月10日までの6週間に貿易省は2万2200トンの米を買いつけた。前年のそれは1万870トンであった。商業省はセメント,鉄板,ジュート袋,家庭洋品など2200万リエルを販売した。
DIA-202-1987-07-01-1カンボジア1987年07月01日1980年代6月の第1週までに全国の農民は29万4000トンの米(1986年度雨季より13万8310トン増)を政府に売却した。政府は化学肥料2万7449トン,農機具,その他数百万リエルの物資を支給した。
DIA-202-1987-07-01-2カンボジア1987年07月01日1980年代フンセン首相,モスクワでソ連のシェワルナゼ外相と会談。両者は合理的な解決がカンボジアに平和を建設することを目指しているすべての愛国勢力間の国民和解と協力の政策であると考えると述べた。
DIA-202-1987-07-03-1カンボジア1987年07月03日1980年代インドのNatar Singh 対外関係国務相来訪。
DIA-202-1987-07-04-1カンボジア1987年07月04日1980年代VONADK,87年前半の戦果を発表。ベトナム兵1020人を殺し,1134人を負傷させた。764の村62の郷,一つの町,三つの県でその行政機構を解体した。
DIA-202-1987-07-08-1カンボジア1987年07月08日1980年代VOK,シアヌークの国民へのメッセージを放送。そのなかで自分が大統領の職から一時的に離れたのはカンボジア問題の解決に自らの肉体的精神的力を集中させたいからであると述べた。
DIA-202-1987-07-10-1カンボジア1987年07月10日1980年代VONADKによると,カンダル省,Panlea Loe 地区でベトナム人の入植に反対するデモ発生。
DIA-202-1987-07-10-2カンボジア1987年07月10日1980年代第1期国会第13回会議開催。
DIA-202-1987-07-11-1カンボジア1987年07月11日1980年代VOK,ベトナム軍はシエムレアプ・オダールメアンチャイ,コムポントム,コムポンチャム諸省の住民をよりタイ国境に近いところに移住させようとしている,そしてその後にベトナム人を入植させようとしていると非難。
DIA-202-1987-07-11-2カンボジア1987年07月11日1980年代KPNLF軍司令部は4月18日ベトナム当局がラタナキリ省からプレイベン省にかけて国境標識を15kmカンボジア側に移動させたと発表した。
DIA-202-1987-07-12-1カンボジア1987年07月12日1980年代VODKによると,DK国民軍はプルサト省Pean Ta 地区 Tataok 村のベトナム軍330師団司令部を攻撃,ベトナム兵168人(師団長,連隊長各一人を含む)を殺し,114人を負傷させた。
DIA-202-1987-07-14-1カンボジア1987年07月14日1980年代ヘンサムリン議長はインドの新聞Patrioptとの会見で,インドはカンボジア問題の解決に重要な役割を果たすことができる,ベトナム義勇軍の撤退はポルポト派およびその他のクメール反動派に対する物質的軍事的支援の停止と並行して実施されなければならないと述べた。
DIA-202-1987-07-14-2カンボジア1987年07月14日1980年代『プラチェアチョン』紙社説,旱ばつのため雨季作の植えつけが遅れている,水利に全力を注ぐよう強調。
DIA-202-1987-07-15-1カンボジア1987年07月15日1980年代PPDS,第1期国会第13回会議の決議を実行しようとの社説を発表。その中で1987年1~6月の帰順者は2000人,86~87年乾季の稲作は85~86年度雨季より面積,生産量ともに増加,国家への納入も86年よりは増えたと述べた。
DIA-202-1987-07-19-1カンボジア1987年07月19日1980年代1987年1~6月期に抵抗勢力側の2280人がPRK政府側に帰順した,地域ではシエムレアプ・オダールメアンチャイ省とバタムバン省がそれぞれ709人,653人であった,79年1月以来の帰順者は3万5000人近くに達している。
DIA-202-1987-07-19-2カンボジア1987年07月19日1980年代KPNLFの軍事指導部再編,参謀長にPol Samp-ang将軍,副参謀長にK Pan Thai 将軍(作戦),Hing Kunthon(行政),Chak Bori(補給),Caffar Abdul Peangmeth 博士(計画と心理作戦)の4氏を任命。
DIA-202-1987-07-20-1カンボジア1987年07月20日1980年代KPRP第5期中央委員会第5回総会コミュニケ。決議項目の中にインドシナ首脳会議の開催を承認。
DIA-202-1987-07-21-1カンボジア1987年07月21日1980年代タイ軍最高司令部情報局はタイ・カンボジア国境のカンボジア難民は29万7236人でうちPrichim Buri 県に20万1624人がいると発表した。
DIA-202-1987-07-21-2カンボジア1987年07月21日1980年代VONADK,DK国民軍は7月13日カムポト省,カムポト地区,Kanghen 村でコムポンソムからプノンペン行きのベトナム軍列車を襲撃,ベトナム兵5人を殺し,16人を負傷させた。
DIA-202-1987-07-22-1カンボジア1987年07月22日1980年代PRKの党と政府の高級代表団(ヘンサムリン党書記長・国家評議会議長),ポーランドへの友好訪問に出発,代表団にはチアソト副首相,コンコルム外相,チアチャント計画相,チュヘンポン文化情報相,チャンベン国家評議会事務局長が含まれている。
DIA-202-1987-07-22-2カンボジア1987年07月22日1980年代ゴルバチョフ書記長,インドネシアのMERDEKA紙に対しカンボジア問題は話し合いを通じてかつ国民和解を通じてのみ解決されると語った。
DIA-202-1987-07-25-1カンボジア1987年07月25日1980年代バンコクでカンボジアについての国際会議。31カ国から外交官,ジャーナリスト,政府役人が参加。国連決議に対する支持を表明。この会議でキューサンパン副大統領が演説し,ベトナム軍が1990年に撤退することはないと述べた。
DIA-202-1987-07-27-1カンボジア1987年07月27日1980年代PRK外務省はバンコクで開かれたカンボジア国際会議について,声明を発表し,この種の会議はカンボジア人民に対する内政干渉であり,PRKはこの会議から出てくるあらゆる中傷を拒否すると言明した。
DIA-202-1987-07-27-2カンボジア1987年07月27日1980年代カンボジアとアジアにおけるシアヌーク殿下の個人代表事務所はコミュニケを発表し,SNAを従来のSihanouk’s Nationalist ArmyからSihanoukist National Army(Kangtoap Cheat Sihanouk Niyom)に変更し,今後シアヌーク殿下の公式スポークスマンはラナリト殿下であると言明した。
DIA-202-1987-07-28-1カンボジア1987年07月28日1980年代モスクワでヘンサムリン書記長はゴルバチョフ書記長と会談した。ゴルバチョフ書記長は政治解決にはCGDKを消滅させる必要があると語ったと言われる。
DIA-202-1987-07-29-1カンボジア1987年07月29日1980年代ホー・チ・ミン市で会談したインドネシア,ベトナム両外相は,(1)カンボジア内で敵対する4派に非公式対話を求める,(2)次にベトナムなど関係国を含めた拡大対話に移る,を骨子とする共同声明を発表した。
DIA-202-1987-07-29-2カンボジア1987年07月29日1980年代VONADK,7月22日と26日にSamlot戦区で19人のカンボジア人兵士がDK国民軍に加わったと報道。
DIA-202-1987-07-29-3カンボジア1987年07月29日1980年代カンボジア赤十字はFAOから贈与された米52トンを旱ばつで被災したコムポンチュナン省の1022家族に分配した。
DIA-202-1987-07-30-1カンボジア1987年07月30日1980年代ハノイのAFPのGilles Campion 記者は,シアヌーク殿下の外交努力が失敗したと次のように報じた。シアヌーク殿下は5月24日,ピョンヤンのベトナム大使館にベトナムあるいはプノンペン政権の代表と会談したいとの招請状を送った。ベトナムはこれを拒否したがプノンペン政権のフンセン首相は6月3日受諾し,会談はピョンヤン若しくは朝ソ国境で行なうことを提案した。シアヌーク殿下は6月23日北朝鮮での会談の用意が整っていると伝えたが,2日後何の説明もなく会談をとりやめると通告してきた。とりやめはモニク妃が北京で万里首相とあった後のことである。
DIA-202-1987-07-31-1カンボジア1987年07月31日1980年代VODKはベトナムが真にカンボジア問題を解決しようと望むなら,CGDKと8項目提案に従って話し合わなければならない,CGDKとヘンサムリン政権とを話し合わせようとするベトナムの最近の動きは,ヘンサムリン政権を認知させるためのトリックにすぎないと論評した。
DIA-202-1987-08-03-1カンボジア1987年08月03日1980年代KPRPの情報・訓練委員会代表団(Khoy Khunhuor委員長),ソ連訪問を終える。
DIA-202-1987-08-03-2カンボジア1987年08月03日1980年代VONADKによると,7月22日から24日にかけてカンボジア国際会議日本委員会代表団(菊池昌典教授,大森山梨県会議員)が,民主カンボジアの基地を訪問した。
DIA-202-1987-08-03-3カンボジア1987年08月03日1980年代インドシナ3国の経済文化協力委員会会議はプノンペンで3日問の会議を終える。
DIA-202-1987-08-04-1カンボジア1987年08月04日1980年代SPK,カンボジアはここ10年来最悪の旱ばつに見舞われた。7月末で米の植え付けは計画の12%でしかないと報道。
DIA-202-1987-08-08-1カンボジア1987年08月08日1980年代7月末での副次食糧作物の植え付け面積は6万2344haで計画の50.5%,7月だけで4万9095haが植え付けられた。工業作物は2万2722haで計画の37.58%,7月だけで2万1676haが植え付けられた。
DIA-202-1987-08-10-1カンボジア1987年08月10日1980年代PRK外務省は声明でPRKは核不拡散条約に加盟すると発表。
DIA-202-1987-08-10-2カンボジア1987年08月10日1980年代VOKによると,オーストリアの外交官(Aime Wolfgang)を通じて,ベトナムはオーストリアに対して,カンボジア各派が非公式対話をウィーンで開催できるよう努力方を依頼した。
DIA-202-1987-08-10-3カンボジア1987年08月10日1980年代VODK,「ベトナム軍が有毒性化学兵器を使用してわが人民を殺害しようとしていることに警戒しよう」と論評。
DIA-202-1987-08-11-1カンボジア1987年08月11日1980年代SPK,雨にもかかわらず農民は48万1000haの水田を耕し,4万2400haの苗床を作り,27万3000haへ移植した。バタムバン省は田植え目標の35.27%,コムポントム省は19%を達成したと報道。
DIA-202-1987-08-11-2カンボジア1987年08月11日1980年代SPK,メイズの栽培面積は3万2500ha(うち赤メイズ1万9600ha)で計画の52%である。コムポンチャム省が1万200ha,カンダル省が1万2000haであると報道。
DIA-202-1987-08-12-1カンボジア1987年08月12日1980年代フンセン首相は来訪中のビエンチャン市代表団(団長Keobounphan ビエンチャン市党書記,LPRP政治局員)と会見。
DIA-202-1987-08-13-1カンボジア1987年08月13日1980年代インドシナ3国の外務次官会議。
DIA-202-1987-08-13-2カンボジア1987年08月13日1980年代タイを訪問したソ連外務省のAnatoliy Zaytsev 東南アジア局長はカンボジア問題についてのソ連の立場は変わりうるものであり,政治解決のためにできることは何でもすると語った。
DIA-202-1987-08-14-1カンボジア1987年08月14日1980年代BP,KPRPのヘンサムリン書記長はソ連の指導者に対してカンボジア問題の解決のために反対派の代表と会う用意があるが,ポルポト,キューポナリイ,イエンサリ,イエンチリット,ヌオンチエアの5人は除くと語ったと報道。
DIA-202-1987-08-15-1カンボジア1987年08月15日1980年代プノンペンでインド独立記念集会,チアソト副首相が演説。
DIA-202-1987-08-16-1カンボジア1987年08月16日1980年代バンコクで開かれたASEAN外相非公式会議は,インドネシアのモヒタル外相とベトナムのグエン・コ・タク外相とが合意した「カクテル・パーティ」を,(1)カンボジア人同士の集まりの後ただちにベトナムの代表も参加すること,(2)にCGDKの8項目が主要議題になること,の2条件を付けて支持することを承認した。
DIA-202-1987-08-18-1カンボジア1987年08月18日1980年代北京を訪問したタイのシティ外相にたいして,呉学謙外相は中国はカンボジア問題の解決を望んでいるがその鍵はベトナム軍の撤退であり,シアヌーク殿下は政治解決の後にできる新政府の権力あるリ-ダ-にふさわしい人物であると語った。
DIA-202-1987-08-19-1カンボジア1987年08月19日1980年代VODK,いろいろな提案がなされているが,カンボジア問題についてのベトナムとソ連の立場に変化はないと論評。
DIA-202-1987-08-19-2カンボジア1987年08月19日1980年代インドネシア外務省はシアヌーク殿下にASEAN外相会議について説明するためにNana Sutresna 政治局長をピョンヤンに派遣することを決定した。
DIA-202-1987-08-20-1カンボジア1987年08月20日1980年代ベトナム外務省スポークスマンは「カクテル・パーティ」について,ASEAN外相会議は7月29日の合意に反している。インドシナ3国はASEAN諸国が同合意を尊重することを望むと言明した。
DIA-202-1987-08-20-2カンボジア1987年08月20日1980年代インドネシアの新聞MERDEKAは,バンコク会談についてタイが非公式会談に中国を含めるよう提案したのはASEANの政治解決の努力を複雑にすると論評した。
DIA-202-1987-08-20-3カンボジア1987年08月20日1980年代ソ連の商業,経済,科学・技術両政府間委員会代表団(V.N.Kozlov ソ連委員会副委員長)来訪。
DIA-202-1987-08-20-4カンボジア1987年08月20日1980年代旱ばつのために稲の植え付けは33万4700haで目標の18.9%,工業作物は5万200haを植え付けた。。
DIA-202-1987-08-21-1カンボジア1987年08月21日1980年代タイ外務省のSomphan Kokilanon 報道官代行はモヒタル外相の役割を尊重する,カンボジア問題がカンボジア人間の内戦でないことは明白であると語った。
DIA-202-1987-08-22-1カンボジア1987年08月22日1980年代KPRP政治局コミュニケ:KPRP政治局は1987年7月28日モスクワで開かれたヘンサムリン=ゴルバチョフ両党書記長の会談についての報告を了承し,PRKの国民和解政策をソ連が支持したことに感謝した。
DIA-202-1987-08-24-1カンボジア1987年08月24日1980年代東独との間に1987~90年の文化科学協力計画を締結。東独は70の奨学金を約束した。
DIA-202-1987-08-25-1カンボジア1987年08月25日1980年代VODK,ベトナムもソ連もCGDKの8項目を基礎にして話し合うことを拒否しているので外交面と戦場で圧力をかける以外にないと論評。
DIA-202-1987-08-25-2カンボジア1987年08月25日1980年代中国訪問を終えたタイのシティ外相は鄧小平顧問がASEAN諸国に対してベトナムの立場には変化がないのでカンボジア問題の解決をやみくもに急がないよう忠告したと語った。
DIA-202-1987-08-26-1カンボジア1987年08月26日1980年代フンセン首相は Los Angeles Times との会見で,PRKは個人の資格でCGDKの高官との会談を要請した,我々はシアヌーク殿下,ソンサン首相,キューサンパン副大練領との会談を歓迎するが,ポルポト・イェンサリの二人は拒否すると語った。
DIA-202-1987-08-26-2カンボジア1987年08月26日1980年代CGDKのキューサンパン副大統領はバンコクテレビとの会見でクメール・ルージュがシアヌーク派軍を攻撃したとの主張は誤りであると語った。
DIA-202-1987-08-26-3カンボジア1987年08月26日1980年代Khang Sarin 人民最高法廷議長は解放煙草工場を訪問し,労働者と話し合った。
DIA-202-1987-08-26-4カンボジア1987年08月26日1980年代フンセン首相は祖国を訪問した在仏カンボジア人代表団(Scadany Mathly)と会見。
DIA-202-1987-08-27-1カンボジア1987年08月27日1980年代VONADK,ベトナムは,カンボジア人同士の話し合いを提唱しながら同時にある人物あるいはある抵抗勢力が除去されるべきだとしているが,これでは抵抗勢力は破壊されてしまい,プノンペン派だけとなり和解の必要がない,したがってベトナムの侵略を受け入れることと同じであると論評した。
DIA-202-1987-08-27-2カンボジア1987年08月27日1980年代PRK,国民和解についての声明を発表。そのなかでPRKは国民和解について話し合うために,犯罪者ポルポトと一部の彼の側近の共犯者を除く,向こう側のクメール人各グループやそのグループの指導者と会う用意がある;国外に住むカンボジア人同胞の帰国を歓迎する,また向こう側に欺かれたが目覚めて帰還した人々をも平等に扱い援助する;タイ領にいるカンボジア難民の組織的な秩序ある帰郷について,国際人道機関および関係方面と話し合う用意があることを明らかにした。
DIA-202-1987-08-28-1カンボジア1987年08月28日1980年代プノンペンで26日から28日までPRK,ソ連,ラオス,ベトナム4カ国の外務省代表がカンボジア問題で協議,4カ国代表は1987年8月27日のPRK声明への支持を表明した。
DIA-202-1987-08-28-2カンボジア1987年08月28日1980年代在仏のカンボジア人7氏・カンボジア各派に戦争を終わらせるための話し合いを呼びかける。以下の7氏である。Huy Kanthoul 元首相,Chheam Vam 元首相,Nhiek Tioulong 元国防相,Duong Sam Ol 元国防相,Thoun Ouk 元工業相,Chhum Cocsal 元国会議長,Nong Kimny 元駐ソ大使。
DIA-202-1987-08-29-1カンボジア1987年08月29日1980年代ソ連のロガチョフ外務次官はモスクワで記者会見し,現状ではカンボジア問題についての対話を促進するすべての要素を強めていくことが必要だと語った。
DIA-202-1987-08-29-2カンボジア1987年08月29日1980年代8月中旬までの旱ばつで1万5077haの水田,1万3723haの副次作物の畑が破壊され,10万5700haの浮稲用,マニヨク用の土地が耕作できないでいる。気象局によると全国の貯水池の水は前年比11.2%減で,水位が例年の平均より542mm下っている。
DIA-202-1987-08-29-3カンボジア1987年08月29日1980年代シアヌーク大統領,ソンサン首相,キューサンパン副大統領らのDK代表団は中国政府の招待により公式訪問のために北京に到着。
DIA-202-1987-08-30-1カンボジア1987年08月30日1980年代DK首脳を迎えたレセプションで中国の李先念主席は中国はカンボジア問題の政治的解決と8項目の和平提案を支持する,またカンボジアが勝利した後もシアヌーク殿下が主席に留まることを支持する,解決の鍵はベトナム軍の撤退で,ベトナムは何らの条件も付けることはできないと語った。
DIA-202-1987-08-31-1カンボジア1987年08月31日1980年代プノンペンで27日発表の国民和解政策を支持する集会がカンプチア労働組合連合(KFTU)によって開催され,議長のマトリ政治局員がこの政策は祖国と人民に対する高度な責任感の表われであると演説した。
DIA-202-1987-08-31-2カンボジア1987年08月31日1980年代VODK,中国の趙紫陽首相はシアヌーク殿下らのDK代表団との会談で,ベトナム軍が撤退しない国民和解はベトナムがプノンペンに擁立したかいらい政権の基礎の上にカンボジア政府を作ることを意味し,ベトナムのカンボジア侵略と占領を国際社会に認知させるものである,CGDK3派は国連決議や8項目提案をベトナムが受け入れるまで戦うべきであると述ベた。
DIA-202-1987-08-31-3カンボジア1987年08月31日1980年代VOK,「ベトナム式の平和」を拒否し,ベトナム軍が撤退するまで戦おうと論評。
DIA-202-1987-09-01-1カンボジア1987年09月01日1980年代インドシナ3国外務次官会議コミュニケ,8月12日と13日のプノンペン会議で,PRKは「カクテル・パーティー」に参加すること,ラオスとベトナムも後の段階で他の関連国とともにこのパーティに参加することを明らかにした。PRKとベトナムはベトナム軍の撤退を監視するためにインドネシアからの代表を含めて,国際監視団の存在を原則的に認めた。
DIA-202-1987-09-01-2カンボジア1987年09月01日1980年代PRKの党と政府の代表団(Kong Korm 外相),エチオピア公式訪問の旅へ出発。
DIA-202-1987-09-01-3カンボジア1987年09月01日1980年代タイ国境での防衛線構築に従事した労働者のプノンペン帰還を祝してナショナル・スタジアムで集会,Nguon Nhel プノンペン市党書記が出席した。
DIA-202-1987-09-01-4カンボジア1987年09月01日1980年代チアシム国会議長兼祖国建設・防衛統一戦線全国会議委員長(政治局員)は在仏カンボジア人総連合代表団(Scadavy Mathly Roun 議長)と会見した。
DIA-202-1987-09-02-1カンボジア1987年09月02日1980年代CGDK代表団は北京で声明を発表し,「ベトナムが国連の関係決議とCGDKの8項目提案を基礎としてCGDKと交渉するまで,困難な共同闘争を継続することを決意している」と述べた。
DIA-202-1987-09-03-1カンボジア1987年09月03日1980年代VODK,9月1日北京での鄧小平・CGDK3首脳との会談を報道。鄧小平顧問は中国はカンボジア人民の闘争を独立回復まで支持する,ベトナム侵略者に対して勝利した後カンボジアが社会主義制度を取らないとの事実を承認する,われわれはシアヌーク殿下がカンボジアを指導し続けることを望むと語った。
DIA-202-1987-09-03-2カンボジア1987年09月03日1980年代PPDS,シエムレアプ・オダールメアンチャイ省の(PRK)武装勢力は1987年前半期に476人の敵を殺し,452人を負傷させ,99人を捕虜にしたと報道。
DIA-202-1987-09-04-1カンボジア1987年09月04日1980年代VOK,シアヌーク派軍(ANS)創立6周年を記念する総司令官ラナリト殿下のメッセージを放送。創立時3500人であった兵力は1987年8月現在で1万5500人である。1982~83年の作戦区域はタイ国境のオダール・メアンチャイに限られていたが86~87年の作戦区域はシエムレアプ,バタムバンの外にコムポンチャム,クラティエ,コムポンスプー,コムポンチュナンの各省に拡大している。35の村を解放し行政機構とゲリラ組織を設立した。1759人がANSに志願してきた。87年1月から8月までに360回の攻撃をかけ,敵766人を殺し,970人に負傷させ,二人を捕えた。ヘンサムリン軍に参加していたカンボジア人兵士298人がANSに加わった。ANSは今や3派のなかで第2位の兵力であり民衆の支持を得ている。
DIA-202-1987-09-05-1カンボジア1987年09月05日1980年代PRK,閣僚会議は旱ばつの被害を食い止めるため,とうもろこし,キャッサバ,タロイモなどの畑作に転換することや水揚げポンプの活用などを指示した通達を発表。
DIA-202-1987-09-05-2カンボジア1987年09月05日1980年代PPDS,8月27日までに全国の農民はとうもろこし3万5300ha,キャッサバ5900ha,そら豆1万6200ha,ゴマ1万1200ha,砂糖きび4600ha,ジュート5160ha,野菜1万2000haの作付けを終えたと報道。
DIA-202-1987-09-05-3カンボジア1987年09月05日1980年代『プラチェアチョン』紙,北京でのCGDKの声明に反駁,ベトナム軍の一方的撤退とCGDKの8項目提案を基礎にカンボジア問題を解決するよう要求したCGDKの声明は,曖昧で不確かな言葉に満ちておりかつカンボジアの現実を無視している。PRKはカンボジア人民の唯一合法的政権であり,カンボジア全領土を支配している。いわゆる3派のCGDKはポルポト派の醜い顔を隠すための煙幕にすぎず,国際反動の援助で辛うじて生き永らえてきたにすぎない。
DIA-202-1987-09-05-4カンボジア1987年09月05日1980年代DK最高司令部は1987年の6月から8月までの3カ月間にベトナム軍は1万4400の兵を新たにカンボジアに派遣したと発表した。
DIA-202-1987-09-09-1カンボジア1987年09月09日1980年代VONADK,9月1日バタムバン省,Moung 地区Vat Pa 陣地の近くでベトナム軍の大佐が地雷を踏んで死亡したと報道。
DIA-202-1987-09-10-1カンボジア1987年09月10日1980年代農業省は,9月までの米の作付け面積を44万8800ha(計画の25%)と発表した。バタムバン省とコンポントム省は6万850haでそれぞれ50%と45%である。最も打撃を受けているコムポンスプー省は2040haで計画の2%にすぎない。
DIA-202-1987-09-10-2カンボジア1987年09月10日1980年代フンセン首相は数カ月前カンボジア領に侵入した米国人(ベトナム戦争に参加)を拘留中であると日本の共同通信に語った。アランヤプラテートのタイ当局者によると米国人はSterling Brian Bono (35歳)で1987年5月2日行方不明米兵を探すためにカンボジア領に入った。
DIA-202-1987-09-17-1カンボジア1987年09月17日1980年代商業省とプノンペン食糧会社は赤メイズを前年の2倍の価格で買い付けることにした。カンダル省で9000トン,コムポンチャム省で6000トン,クラチエ省で1500トン,プレイベン省で1000トンの買付けを予定している。
DIA-202-1987-09-17-2カンボジア1987年09月17日1980年代シアヌーク殿下はカンボジア問題の政治解決を見出すためプノンペン政権およびCGDKの他の2派の指導者と話し合うことに同意した。
DIA-202-1987-09-19-1カンボジア1987年09月19日1980年代VOKによるとバタムバン省パイリン地区で8月10日ヘンサムリン軍兵士10人が叛乱を起こし,ベトナム兵7人を殺してジャングルに逃亡した。
DIA-202-1987-09-19-2カンボジア1987年09月19日1980年代SPK,87年1~8月の帰順者は3044人で,1979年1月7日以来の合計は3万5636人に達したと報道。
DIA-202-1987-09-20-1カンボジア1987年09月20日1980年代VODK,PRKとの話合いについて,カンボジア問題を内戦として自らの侵略を覆い隠し,プノンペンに擁立したベトナムの手先を合法化しようとするベトナムの陰謀は誰も欺くことはできないとしてベトナムがCGDKと直接話し合うことを要求した。
DIA-202-1987-09-21-1カンボジア1987年09月21日1980年代Hor Nam Hong 駐ソ大使はヘンサムリン議長の特使としてシリアを公式訪問した。
DIA-202-1987-09-23-1カンボジア1987年09月23日1980年代DK国民軍,コムポンチュナン―プノンペン間の列車をウドンのTrapeang Tnaot と Tuol Leap 間で襲撃し,ベトナム兵6人を殺し,11人を負傷させた。
DIA-202-1987-09-23-2カンボジア1987年09月23日1980年代VODK,シソポンの北Thmar Puok とPhnum Srok 地区でべトナム軍5個連隊が攻勢に出ようと集結していたが,DK国民軍は人民と協力してこれを攻撃し,108人を殺し,75人を負傷させたと報道。
DIA-202-1987-09-28-1カンボジア1987年09月28日1980年代オーストラリアのLeopold Gratz 国会議長(カンボジアに関する国連委議長)はDie Presse 紙との会見で,中国はクメール・ルージュに対する無条件支持の立場を捨てようとしていると語った。
DIA-202-1987-09-28-2カンボジア1987年09月28日1980年代ベトナム軍,ポルポト軍司令部を攻撃,このためクメール・ルージュ系民間人4000入がタイ側に逃亡。
DIA-202-1987-09-29-1カンボジア1987年09月29日1980年代ベトナムのグエン・ディ・ニエン外務次官は国連総会で演説し,「PRKが急速に成長したので,政治解決がない場合でも1990年までにベトナム軍の撤退は完了するとインドシナ諸国は声明してきている」と述べた。
DIA-202-1987-09-29-2カンボジア1987年09月29日1980年代BP紙によると9月20日KPNLF軍400人がANS(シアヌーク派)軍に加わってきた。
DIA-202-1987-09-30-1カンボジア1987年09月30日1980年代国連総会でのカンボジア情勢討議を前にASEAN諸国はカクテル・パーティーについての共同の覚書を加盟国に配付した。覚書でASEAN諸国は当初カンボジア人同士で開かれるパーティーにベトナムも参加することに同意したことに満足していると述べている。
DIA-202-1987-09-30-2カンボジア1987年09月30日1980年代カンダル省Stoeng 地区の代表と会見したヘンサムリン議長は「民族和解政策はポルポトとその副官達を除いたすべてのカンボジア人と団結し平和で独立した社会主義へ前進する国を建設するためである」と語った。
DIA-202-1987-09-30-3カンボジア1987年09月30日1980年代DK国民軍最高司令部は第9回目の雨期(5月から9月末)の戦闘状況を総括したコミュニケを発表。これによるとベトナム兵1万1000人を戦闘不能にし,3500の村落の行政機構を破壊した。ベトナム軍兵士6040人が,またカンボジア人兵士1480人が脱走した。
DIA-202-1987-10-01-1カンボジア1987年10月01日1980年代『プラチェアチョン』紙は,村落に侵入しようとする敵の策謀を粉砕しようとの社説で,敵の戦略は知人や親戚を頼り小人数で潜入し,村民を扇動しようとする心理戦争に変わってきているので,これに備えるよう訴えた。
DIA-202-1987-10-05-1カンボジア1987年10月05日1980年代モスクワでのソ連・カンボジア友好協会主催の合同集会でソ連のA・パラノモフ繊維相はPRKの民族和解政策を完全に支持すると述べた。
DIA-202-1987-10-07-1カンボジア1987年10月07日1980年代VONADK,10月4日からシソポン北方戦区でベトナム軍286師団の第5連隊と第7連隊に所属するカンボジア人兵士が反乱を起こしていると報道。
DIA-202-1987-10-08-1カンボジア1987年10月08日1980年代PRK,カンボジア問題解決についての声明を発表。要旨:(1)PRKは平和解決のためにシアヌーク殿下とその他の抵抗グループの代表と話し合う用意がある。またシアヌーク殿下に高位のポストを提供する用意がある。抵抗グループのうちポルポトとその同僚を除くすべての人々が国家再建に加わることを歓迎する,(2)PRKに敵対する外部からの干渉や援助がなくなると同時にベトナム軍は完全に撤退する,(3)撤退後に外国人監視団の監視下で総選挙を行ない政府を樹立する,(4)協定の実施を保障するために国際会議を開く。
DIA-202-1987-10-08-2カンボジア1987年10月08日1980年代VONADK,ベトナム軍は9月28日から10月1日にかけてカンボジア人4000人を徴募しパイリン地区での労働に従事させようとしたが一部が逃亡しようとしたため,200人を殺したと報道。
DIA-202-1987-10-11-1カンボジア1987年10月11日1980年代PRK国防省はベトナム義勇軍第94師団と第99師団が1987年11月に撤退すると発表した。
DIA-202-1987-10-13-1カンボジア1987年10月13日1980年代VOK,ベトナム軍が完全に撤退した後に4派連合政府は設立されるのであって逆ではないと論評。
DIA-202-1987-10-14-1カンボジア1987年10月14日1980年代国連総会でカンボジアからの外国軍隊の撤退を求めたASEAN決議案が賛成117,反対21,棄権16で可決された。
DIA-202-1987-10-15-1カンボジア1987年10月15日1980年代VOK,ヘンサムリン軍がベトナム軍に反抗する事例が多くなり,ヘンサムリン政権は困っていると報道,原因はヘンサムリン軍が反越3派と協力しているのではないかとベトナム軍が疑っていることにある。
DIA-202-1987-10-21-1カンボジア1987年10月21日1980年代フンセン首相はカンボジアは米兵の遺骨を若干もっており,米国政府からの正式の要請があれば返すつもりである,われわれはこの問題を承認問題と結びつけてはいないと語った。米国政府はカンボジアでの行方不朋者を91人(軍人83人,民間人8人)としている。
DIA-202-1987-10-21-2カンボジア1987年10月21日1980年代リエル切下げ,AFPによると10月1日からリエルの公式対ドル・レートは30リエルから100リエルへ切り下げられた。一般にはこの影響はなく,自由市場でも6カ月前1ドル=124リエルであったものが,20日現在でも1ドル=130リエルで交換されている。
DIA-202-1987-10-22-1カンボジア1987年10月22日1980年代AFPのGilles Campion 記者はプノンペンから「多くのプノンペン市民はシアヌーク殿下が帰る時がきた。それこそがカンボジアに平和をもたらすと信じている」と報道。
DIA-202-1987-10-23-1カンボジア1987年10月23日1980年代農林省幹部は旱ばつのため1987年の米作は前年より30万トン少なくなると言明した。計画では10月末までの今農期に177万haを植付けすることになっていたが,10月15日現在で115万haである。
DIA-202-1987-10-28-1カンボジア1987年10月28日1980年代ソ連10月革命記念式典に出席するため党と政府の高級代表団(ヘンサムリン書記長)モスクワへ出発。
DIA-202-1987-10-29-1カンボジア1987年10月29日1980年代カンボジア航空,ソ連の援助で発展。ソ連はAir Kampuchea に飛行機7機,ヘリコプター5機と部品,装備,格納庫など1270万ルーブル相当分を供与した。また1980年以来,カンボジア人学生をソ連の航空学校で教育し,現在パイロットおよび技術者150人がすでに帰国した。彼らはソ連専門家とともにAir Kampuchea のすべてのフライトを運行している。
DIA-202-1987-10-29-2カンボジア1987年10月29日1980年代国家評議会は,サイチューム(Say Chhum)農相,ティエバーン(Tie Banh)運輸通信相,コンサムオル(Kong Sam-Ol)無任所相(農業担当)の3人を副首相に任命した。
DIA-202-1987-10-29-3カンボジア1987年10月29日1980年代中国の李先念主席はシアヌーク殿下の65歳の誕生を祝って宴を催し,その席で国連で117国がベトナム軍の撤退を要求した決議案を支持したことはシアヌーク殿下のCGDKの外交的勝利である,中国は以前同様カンボジア人民の民族解放の戦いを支持すると述べた。
DIA-202-1987-10-30-1カンボジア1987年10月30日1980年代PRKのフンセン首相はモスクワで記者会見し,シアヌーク殿下がフンセン首相との会談を提案したことはシアヌークがPRK政府と同じ道を歩み始めたことを示していると述べた。
DIA-202-1987-10-30-2カンボジア1987年10月30日1980年代VONADK,10月23日バタムバン発プルサト行きの列車がMoung地区で破壊され,ベトナム人兵士5人が死亡,10人が負傷したと報道。
DIA-202-1987-11-03-1カンボジア1987年11月03日1980年代タイのチャワリット陸軍司令官は記者会見でカンボジアの紛争は内戦であり国際戦争ではないと語った。
DIA-202-1987-11-04-1カンボジア1987年11月04日1980年代バンコクのシアヌーク代表事務所はフンセンとの会談に臨むシアヌークの立場を発表。(1)内外情勢がカンボジア問題の解決に有利となってきたので1日も早い解決に努力するのは愛国者として義務である,(2)接触を求めてきたのはベトナムとフンセン氏の側である,(3)シアヌークが会談に付した条件は書面でフンセン氏が謁見を要請する,議事録を公表することの2点である,(4)民族和解は完全に独立したカンボジアという枠内でのみ可能と考える。これは外国軍隊がいない,中立で非共産主義のカンボジアを意味する,(5)シアヌークが非合法のPRK政府のポストに就くことはありえない,外国軍隊が完全に撤退してのちカンボジア人民のみが将来の指導者を選ぶことができる。
DIA-202-1987-11-07-1カンボジア1987年11月07日1980年代プノンペンでソ連10月革命70周年記念集会。
DIA-202-1987-11-16-1カンボジア1987年11月16日1980年代VOK,去る7月プルサト省Phnum Phkai Proek に陣取る連隊で500人のヘンサムリン軍の兵士が給与・食糧の遅配に抗議して陣地を離脱したと報道。
DIA-202-1987-11-20-1カンボジア1987年11月20日1980年代日本共産党議員団は日本外務省がKPRP代表団に入国ビザを発給しないことに抗議した。
DIA-202-1987-11-20-2カンボジア1987年11月20日1980年代PPDSによるとコムポンチュナンの武装勢力はコムポントム省Baray 地区 Boeng Roloem 一帯でポルポト派に対する掃討作戦を行ない,73人を戦闘不能にした。このうち18人を殺し,5人を捕え,50人を負傷させた。
DIA-202-1987-11-27-1カンボジア1987年11月27日1980年代ベトナム軍第6次撤退―コンコルム外相はプノンペンで100人を超える内外記者団と会見し,今回の撤退は2万人でこれまでのうち最大のもので,これはPRK軍が成長し,ベトナム軍に代わって国の防衛を担当出来るようになったことを示すものである,1990年までにはベトナム軍は完全に撤退できるであろうと語った。
DIA-202-1987-11-28-1カンボジア1987年11月28日1980年代プノンペンで開かれた「撤退ベトナム軍第94軍団と第99軍団を送る大集会」にヘンサムリン書記長,ブータン副首相,チアソト副首相,コイブンタ国防相が出席。
DIA-202-1987-11-28-2カンボジア1987年11月28日1980年代タイのチャワリット陸軍司令官はタイ・カンボジア国境に展開するタイ軍を通常の国境警備の水準にして残りを引き上げる,これはモスクワに対する善意のあかしであると語った。
DIA-202-1987-12-01-1カンボジア1987年12月01日1980年代サイチューム農相は今年は20万1086haの水田を機械で耕作したが,1988年は1383台のトラクターで24万2300haの耕作を予定していると語った。
DIA-202-1987-12-02-1カンボジア1987年12月02日1980年代シアヌーク・フンセン会談。4日要旨次の共同コミュニケを発表。(1)カンボジアの紛争は政治的に解決されなければならない,(2)戦争を終わらせ,独立,民主,主権を保持した中立で非同盟のカンボジアを再建するため,カンボジア問題はすべての派閥を加えた話合いを通じてカンボジア人民自身によって解決されなければならない,(3)カンボジアの派閥間で協定が成立したら,これを保障するための国際会議を呼びかける,(4)両者は1988年1月に第2回会談をFere-en-Tardenois で,また第3回会談をピョンヤンで持つことに合意する。上述の合意を基礎に他の派閥にも会談の参加を呼びかける。
DIA-202-1987-12-04-1カンボジア1987年12月04日1980年代英国代表団(Jim Lester 保守党議員),1週間の訪問を終えてプノンペンを出発。
DIA-202-1987-12-07-1カンボジア1987年12月07日1980年代パリからの帰途,フンセン首相はモスクワに立ち寄りリジコフ・ソ連首相と会談した。
DIA-202-1987-12-09-1カンボジア1987年12月09日1980年代VODKはベトナムがカンボジア問題を解決したいのなら,ベトナム軍の撤退についての協定を作るためにCGDKと話し合わなければならないと論評した。
DIA-202-1987-12-10-1カンボジア1987年12月10日1980年代農業省は今農季に化学肥料1万4429トン,農薬2.1トン,殺虫剤6700リットル,みょうばん3トン,噴霧器117個を農民に供給した。
DIA-202-1987-12-10-2カンボジア1987年12月10日1980年代農業省の報告によると今年の木材生産は15万7441立方メートルで,計画より約5%,1986年に比して30%増であった。このうちラタナキリ省が1万3137立方メートルで計画の3倍,コムポンチャム省が1万3990立方メートル,クラチエ省が1万3230立方メートル,スツンチェン省が1万388立方メートルであった。
DIA-202-1987-12-10-3カンボジア1987年12月10日1980年代シアヌーク殿下はKPNLFとクメール・ルージュが会議参加に同意するまでPRKのフンセン首相と約束した2回の会談を取り止めると発表した。
DIA-202-1987-12-10-4カンボジア1987年12月10日1980年代グエン・バン・リン書記長,ファム・フン首相,レ・ドク・ト顧問らのベトナム首脳はシアヌークとの会談を終えて帰途ハノイに立ち寄ったフンセン首相と会談した。
DIA-202-1987-12-12-1カンボジア1987年12月12日1980年代PRK国防省声明。タイ・カンボジア国境に沿って配備されていたタイ軍が後退したのに呼応してベトナム義勇軍も国境地域から15kmカンボジア領内に後退すると発表。
DIA-202-1987-12-12-2カンボジア1987年12月12日1980年代フンセン首相は会談について全国民に放送。そのなかでシアヌーク殿下の会談停止は他の2派が参加するのを待つためで,もし他の2派が会談に加わるのを拒否しつづけるなら,われわれは無限に待つ必要はない,停戦協定が結ばれるまでは戦闘を止めてはならない,われわれは戦いながら交渉するという段階に入った,戦場での力関係が政治解決に達するための決定的要因である,と語った。
DIA-202-1987-12-14-1カンボジア1987年12月14日1980年代フランスのミッテラン大統領はシアヌーク殿下と会見し,カンボジア問題の解決に際して殿下に代わりうる人物はだれもいないと激励した。
DIA-202-1987-12-14-2カンボジア1987年12月14日1980年代マニラのASEAN首脳会議に参加したタイのプレム首相は,ベトナムはカンボジア問題を解決しようとするなら抵抗勢力の指導者であるシアヌーク殿下と直接話し合うべきであると語った。
DIA-202-1987-12-18-1カンボジア1987年12月18日1980年代SPK,12月12日の国防省声明はタイ側の善意に答えたものであり,PRK政府はタイ側がカンボジア難民キャンプをタイ領内深く移して,抵抗している武装力と分離する措置をとることを望むと放送した。
DIA-202-1987-12-20-1カンボジア1987年12月20日1980年代フンセン首相,ラオス訪問へと出発。25日帰国。
DIA-202-1987-12-21-1カンボジア1987年12月21日1980年代KPRP中央委政治局はソ連のチャプリン特使より米ソ首脳会談についての報告を聞く。
DIA-202-1987-12-22-1カンボジア1987年12月22日1980年代KPNLFのソンサン議長はもしベトナムが会談に加わるか,あるいは撤退を約束するなら,シアヌーク・フンセン会談に加わると発表した。
DIA-202-1987-12-24-1カンボジア1987年12月24日1980年代人民中央銀行は10リエルの新札を発行した。
DIA-202-1987-12-26-1カンボジア1987年12月26日1980年代VODKはベトナム人民に対して,(1)カンボジアに送られた息子や夫を返すようハノイ当局に要求しよう,(2)息子や夫がカンボジアで戦うために徴募されるのを阻止しよう,(3)ハノイ当局に現在のみじめな生活水準を解決することを要求しようと呼びかけた。
DIA-202-1987-12-29-1カンボジア1987年12月29日1980年代アフガニスタンのナジブラ大統領来訪。31日にPRK・アフガニスタン友好協力条約に調印。
DIA-202-1987-12-29-2カンボジア1987年12月29日1980年代SPKによる,国家評議会の決定によりフンセン首相は再び外相を兼任し,コンコルム前外相は首相補佐官として社会文化を担当することになった。
DIA-202-1988-01-03-1カンボジア1988年01月03日1980年代BP紙はヘンサムリン政権が1987年6月に開いた特別閣議の記録文書を入手した。この文書によるとフンセン首相は「わが軍はポルポト軍ほど強くない」,「抵抗勢力側は中国,米国,タイの支援を受けており,勝てない」などと「戦場から外交へ路線転換する」理由を説朋している。
DIA-202-1988-01-07-1カンボジア1988年01月07日1980年代プノンペンでPRK建国記念集会,ヘンサムリン議長が演説。
DIA-202-1988-01-07-2カンボジア1988年01月07日1980年代バンテアイメアンチャイ(Banteay Meanchay)省成立。
DIA-202-1988-01-16-1カンボジア1988年01月16日1980年代民主カンボジア連合政府(CGDK)の3派代表者会議,シアヌーク派からラナリト殿下,DK(クメール・ルージュを指す)からソンセン司令官,KPNLFからイムチューデット(Im Chhudet)代表が出席した。
DIA-202-1988-01-18-1カンボジア1988年01月18日1980年代DK国民軍最高司令部作戦局は15日付けでベトナム軍の撤退の宣伝にまどわされず最後まで団結して戦いを続けるよう指示を発した。
DIA-202-1988-01-20-1カンボジア1988年01月20日1980年代VOKによるとシアヌーク軍(ANS)は1987年にベトナム軍兵士1240人を殺し,1493人を負傷させた。。PRK軍兵士415人がANSに加わった。
DIA-202-1988-01-20-2カンボジア1988年01月20日1980年代SPKによると1987年の帰順者は4377人で,うちシエムレアプ・オダールメアンチャイ省が1831人,バタムバン省が1266人,コムポントム省が807人であった。1986年全体では5000人。
DIA-202-1988-01-21-1カンボジア1988年01月21日1980年代パリ郊外でシアヌーク・フンセン第2回会談。シアヌーク殿下はシアヌーク派とヘンサムリン政権の二派だけで暫定連合政権を樹立するという提案を行なった。フンセン首相はベトナム軍の撤退についてポルポト派の排除を条件に「3段階に分けて24カ月以内」と撤退期限を短縮する提案をした。しかし合意には至らず,4月にピョンヤンで第3回会談を行なうことで合意した。
DIA-202-1988-01-23-1カンボジア1988年01月23日1980年代フンセン首相,シアヌーク殿下との会談について記者会見し,両者は,(1)ベトナム軍の撤退のスケジュール,(2)連合政府の樹立,(3)カンボジアの将来の政治体制,(4)独立,中立,非同盟のカンボジアについての原則,(5)国際保障と監視の5項目について話合ったことを明らかにした。同首相は(3)(4)(5)については原則的合意に達したが,(1)(2)については協議が必要であると語った。とくに(2)については連合政府を総選挙前に樹立するか総選挙の結果として樹立するかで両者は対立した。PRKの解体を意味するので総選挙前の樹立には反対であると語った。
DIA-202-1988-01-24-1カンボジア1988年01月24日1980年代プノンペンでKPRP第6回中央委総会がヘンサムリン書記長が出席して開催された。
DIA-202-1988-01-26-1カンボジア1988年01月26日1980年代KPNLFは新聞公報を発表し,ソンサン議長はベトナムが会談に参加するかまたはベトナムが国連事務総長に撤退を約束するのでなければ,PRK政権とは話し合わないだろうと述べた。
DIA-202-1988-01-29-1カンボジア1988年01月29日1980年代フンセン首相兼外相帰国。1月30日の政治局会議で第2回シアヌーク・フンセン会談について報告。会議は第2回会談をカンボジア問題解決への新しい一歩であると評価した。
DIA-202-1988-01-30-1カンボジア1988年01月30日1980年代シアヌーク殿下は北京で声明を発表,同日付で民主カンボジア三派連合政府の大統領を辞任し,三派連合政府から離脱すると言明した。同時にシアヌーク派軍事組織の最高司令官に子息のラナリト殿下を指名した。4月に予定していたピョンヤンでの第3回シアヌーク・フンセン会談も中止すると語った。
DIA-202-1988-02-03-1カンボジア1988年02月03日1980年代第1国会第14回会議開催(~8日)。チアシム議長は演説でフランスにおけるフンセン・シアヌーク会談は成功であったと評価するとともに,村や郷の政治に注意を向けるよう述べた。
DIA-202-1988-02-03-2カンボジア1988年02月03日1980年代CGDKのソンサン首相はバンコクで声明を発表し,カンボジア国民および武装勢力に対して最後の勝利まで団結してベトナム侵略者に対する戦いを強めるよう訴えた。そのなかでハノイ当局はCGDKの分裂を策し,カンボジア侵略を国際社会に既成事実として認めさせようと画策していると非難した。
DIA-202-1988-02-04-1カンボジア1988年02月04日1980年代ソ連軍総政治局代表団(A.D.Lizichev総政治局長・党中央委員),3日間の公式訪問。
DIA-202-1988-02-06-1カンボジア1988年02月06日1980年代DKのキューサンパン議長はシアヌーク殿下に翻意を要請するために北京に到着。7日と8日の会談でシアヌーク殿下は国際監視下の総選挙実施に先立ち,カンボジア四派暫定政府を樹立することを提案したが,キューサンパン議長は好意的な反応を示した模様。この会談でCGDKの三派間の関係は修復された。
DIA-202-1988-02-11-1カンボジア1988年02月11日1980年代CGDKは,10日,11日,カンボジア領内で閣議を開き,「シアヌーク殿下が大統領の職務をすぐに再開することを期待し,確信する」と表明した。閣議にはソンサン首相,キューサンパン副大統領,シアヌーク派総司令官のラナリト殿下と8閣僚が出席した。DK指導者のイエンサリも参加した。
DIA-202-1988-02-11-2カンボジア1988年02月11日1980年代カンボジア・ベトナム両国間の1988年度物資交換に関する議定書が調印された。貿易量を対前年比20%増とすることが決められた。
DIA-202-1988-02-13-1カンボジア1988年02月13日1980年代プノンペンで文盲追放運動全国大会開催。ヘンサムリン議長は演説のなかで1980年6月18日文盲追放運動の開始を宣言してより今日まで文盲の55.29%を追放した,1990年までの3年間に完全追放を達成しようと述べた。
DIA-202-1988-02-16-1カンボジア1988年02月16日1980年代Shah A.M.S.Kibria国連事務総長特使は食糧事情調査のため16日から18日までPRKを公式訪問した。
DIA-202-1988-02-16-2カンボジア1988年02月16日1980年代SPKはカンボジア・ベトナム平和友好協力条約9周年に当たり,同条約の調印はマルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義を基礎にした両国の友好発展のターニング・ポイントであると放送した。
DIA-202-1988-02-18-1カンボジア1988年02月18日1980年代PRKのコイブンタ国防相はソ連国防省の招きで,モスクワへ出発。
DIA-202-1988-02-24-1カンボジア1988年02月24日1980年代VODK,カンボジア人民は三つの武器でベトナム軍と戦おうと放送。(1)ベトナム軍に奪われないように米や籾を隠す,(2)兵士,民兵,村や郷の役人とならない,(3)K-5計画のために徴募されないようにする,の三つである。
DIA-202-1988-02-25-1カンボジア1988年02月25日1980年代ラナリト殿下はシアヌーク殿下の国民へのメッセージを朗読,そのなかでカンボジア問題が解決できないのは,(1)ベトナムがわが国からの撤兵に同意しない,(2)フンセン氏とプノンペン政権がPRKとCGDK両政府を解体して,総選挙を実施するための暫定連合政府を樹立しようという私の提案を拒否しているからである。私がポルポト派と将来も行動をともにするとの噂を信じてはならない,私は彼らの罪を許さない。しかし彼らの罪をベトナムがカンボジア侵略の口実にすることはできない,と述べた(VOK)。
DIA-202-1988-02-29-1カンボジア1988年02月29日1980年代PRK幹部のための6カ月間の政治学習コース開幕,295人が参加。メンサムアン(Men Sam-An)政治局員兼中央組織委員会委員長が開幕の演説。
DIA-202-1988-03-05-1カンボジア1988年03月05日1980年代AFPによるとシアヌーク派のラナリト最高司令官は年末までにシアヌーク軍の武器はソ連製のカラシニコフから西欧製のものに取換えられるであろう,ANSは兵力1万7700人でうち1万1200人がカンボジア領内で戦っている,と語った。
DIA-202-1988-03-05-2カンボジア1988年03月05日1980年代KIPNLF軍のサクサトサカン司令官は同軍の創立9周年に当たり,次のように演説した。当時2000人余にすぎなかった兵力は現在では2万1000人に達した。うち5593人がカンボジア内部での作戦行動に従軍している。あと5435人を作戦に投入する用意ができている。1987年3月5日から88年3月5日までの1年間に466回の戦闘,85回の待伏せ,61回のサボタージュを実施し,敵兵840人を殺し,771人を負傷させた。ベトナム兵51人を捕え,5人が帰順してきた。ヘンサムリン軍からは116人が加わった。味方は193人が殺され,390人が負傷した。
DIA-202-1988-03-12-1カンボジア1988年03月12日1980年代農業会議に出席したフンセン首相は1988年の目標,作付け面積196万ha,生産量260万㌧を達成するよう呼びかけた。
DIA-202-1988-03-12-2カンボジア1988年03月12日1980年代PRKの党と政府はベトナムのファム・フン首相の死を悼んで15日を全国民が喪に服する日と決定した。
DIA-202-1988-03-17-1カンボジア1988年03月17日1980年代プノンペンでカンボジア,ラオス,ベトナムとソ連の外務次官会議。議題はカンボジア問題の政治解決と東南アジア情勢。Dit Munti,Sulivong Prasithidet,Tran Quan Co,Igor Rogachev各国次官が出席。
DIA-202-1988-03-19-1カンボジア1988年03月19日1980年代DK,キューサンパン議長署名のコミュニケを発表し,ベトナム軍撤退後DKが権力を握るのではないかとの報道を打消した。コミュニケはDKは将来のカンボジアについては1985年7月6日の声明で明らかにしたように議会制民主主義,資本主義経済体制を採用すること,また政治解決については1987年3月17日のCGDK声明の立場を守ると述べている。
DIA-202-1988-03-23-1カンボジア1988年03月23日1980年代フンセン首相は日本の学術代表団(石沢良昭上智大学教授)と会見。
DIA-202-1988-03-25-1カンボジア1988年03月25日1980年代プノンペン大学再開,フンセン首相が出席してプノンペン大学の開校式が開かれた。11学部,学生数1052人。
DIA-202-1988-04-01-1カンボジア1988年04月01日1980年代シアヌーク殿下はフンセン首相との第3回目の会談を拒否すると発表した。理由はベトナム軍が1990年までは撤退しないからであると述べた。
DIA-202-1988-04-05-1カンボジア1988年04月05日1980年代DK国民軍は3月29日プノンペンからコムポンソムへ向うベトナム軍の車をカオンで襲撃し,10人を殺し,12人を負傷させた。うち死者5人はソ連人顧問であった(VONADK)。
DIA-202-1988-04-10-1カンボジア1988年04月10日1980年代北朝鮮の金日成主席はシアヌーク殿下のために宴会を開き,カンボジア人民の正義の戦いを支持すると述べた(VODK)。
DIA-202-1988-04-12-1カンボジア1988年04月12日1980年代シエムレアプ・オダールメアンチャイ省の1988年第1四半期の帰順者は586人で,うちポルポト派241人,シアヌーク派218人,ソンサン派127人であった(SPK)。
DIA-202-1988-04-13-1カンボジア1988年04月13日1980年代カンボジアの仏暦2532年の新年に当たり,PRK政府は帰順者政策を発表した。1988年4月13日から同年5月13日までに武器その他を携行して革命政府の側に帰顧した者には86年の新年に設定された額の2倍の賞金が与えられることになった。また敵の食糧や武器など隠匿物資のありかを通報した者は武器弾薬を除く分を与えられることになった。
DIA-202-1988-04-16-1カンボジア1988年04月16日1980年代中国の楊尚昆主席と李鵬首相はDK建国13周年に当り,シアヌーク大統領,ソンサン首相,キューサンパン副大統領に祝電を寄せ,中国政府と人民はベトナムの侵略に対するカンボジア人民の抵抗を支持し続けることを約束した。
DIA-202-1988-04-17-1カンボジア1988年04月17日1980年代プノンペンで4月17日勝利記念集会を開催。
DIA-202-1988-04-20-1カンボジア1988年04月20日1980年代SPKによると1987年にカンプチア鉄道会社は3万4278㌧の物資と90万4000人の旅客を運んだ。同社は技師5人を含む従業員2459人で18台の機関車と443両の貨車を持ち,プノンペン―バタムバン・シソポン間338㎞とプノンペン―コムポンソム間364㎞を運行している。
DIA-202-1988-04-21-1カンボジア1988年04月21日1980年代ベトナム国家計画委員会代表団(Tran Phuong同委副議長)来訪。
DIA-202-1988-05-01-1カンボジア1988年05月01日1980年代プノンペンでメーデー大集会,Nguon Nhelプノンペン市党委書記が演説した。
DIA-202-1988-05-02-1カンボジア1988年05月02日1980年代チアソト副首相が出席して貿易省会議が開かれた。1987年の買付けは1986年比64%増,販売は前年比178%増,輸出は1986年比13%増,輸入は4%増であった。1570の村落を対象にして680の国営商店,300の集団経営の商店が設立された。
DIA-202-1988-05-04-1カンボジア1988年05月04日1980年代カンプチア輸出入公社(Kampuchea Export and Import Corporation,KAMPEXIM)は1987年に1986年比13%増の輸出を行なった。
DIA-202-1988-05-06-1カンボジア1988年05月06日1980年代PRK代表団(Tie Banh中央委員候補,郵便・運輸・通信相)は4月25日から27日までアフガニスタンを訪問,Sultan Ali Keshtmand人民民主党政治局員と会談した(SPK)。
DIA-202-1988-05-08-1カンボジア1988年05月08日1980年代1988年4月末までにPRK当局は31万6100㌧(計画35万㌧の90%)の食糧を購入した。前年同期より15%増。
DIA-202-1988-05-10-1カンボジア1988年05月10日1980年代DK国民軍のソンセン最高司令官は1987年10月から88年4月までの第10回乾期の戦果として,ベトナム兵1万1200人を殺し,ベトナムに奉仕していたカンボジア人兵士2038人,村落行政官4159人を解放したと発表した(VONADK)。
DIA-202-1988-05-19-1カンボジア1988年05月19日1980年代地方強化のための幹部会議が16日から19日まで4日間プノンペンで開かれた。会議には500人以上の地方幹部とヘンサムリン国家評議会議長,チアシム国会議長,フンセン首相,ブータン副首相,メンサムアン党中央組織委委員長らの幹部が出席した。
DIA-202-1988-05-20-1カンボジア1988年05月20日1980年代CGDK外務省は声明を発表し,ベトナムは食糧不足から緊急援助を呼びかけているが,世界各国,国連その他の人道的諸機関がカンボジアから撤兵しないかぎりベトナムを援助しないように訴えた。
DIA-202-1988-05-21-1カンボジア1988年05月21日1980年代国家評議会が開かれ,1988年第1四半期の社会経済的任務の達成状況に関する閣議報告を受けるとともに閣僚の異動その他を承認した。
DIA-202-1988-05-22-1カンボジア1988年05月22日1980年代『プラチェアチョン』紙は社説「国防の任務の指導的役割を高めよう」で「今から1990年までは第5回党大会決議の実現に決定的な意味を持つ時期である。軍事攻勢のみを行なう時期から交渉しながら戦う時期に移行した。敵とわれわれとの軍事,政治,外交,経済の分野での闘争ははげしく,複雑なものになる。勝利を決定するのはわれわれの真の革命勢力,とくに武装勢力が強力となり戦場で優勢に立つことである」と述べた。
DIA-202-1988-05-26-1カンボジア1988年05月26日1980年代PRK国防省,ベトナム軍5万の撤兵を発表―コミュニケの要旨:PRK政府とベトナム政府は(1)1988年6月から12月までに5万のベトナム兵を撤退させる。(2)1988年中に駐カンボジア・ベトナム軍最高司令部も撤退する,(3)残存するベトナム軍はPRK司令部の指揮下に入り,90年に完全に撤退するの3点に合意した。
DIA-202-1988-05-26-2カンボジア1988年05月26日1980年代ANSスポークスマン,コンポントム省ではPRKの地方当局とANSの軍隊との交歓が行なわれていると発表した。コムポントム省では5000人の民衆と,PRK軍とともに招待されたシアヌーク派軍兵士500人もベトナム軍の撤退を祝った。また仏陀の誕生日には450人のANS軍兵士が招待された。
DIA-202-1988-05-27-1カンボジア1988年05月27日1980年代PRK外務省声明,ベトナム軍の撤退と同時に,ベトナム軍がカンボジア・タイ国境から30㎞後退すること,国境地帯に安全地帯を設置することを明らかにするとともに,在タイのカンボジア難民の帰国についての話し合いを提案した。
DIA-202-1988-05-29-1カンボジア1988年05月29日1980年代ソ連政府はタス通信を通じてベトナム・カンプチア両国政府の5万人撤兵という新しい建設的措置を全面的に支持すると発表した。
DIA-202-1988-05-30-1カンボジア1988年05月30日1980年代VOKは,「ベトナム軍の撤退について歓迎はするが,カンボジア人の要求は一部ではなく全部の撤退である。ベトナムは7月のジャカルタ会議に参加するなど態度を柔らげているが,われわれは真の独立を獲得するまで戦闘姿勢をくずしてはならない」と論評した。
DIA-202-1988-05-31-1カンボジア1988年05月31日1980年代キューサンパンCGDK副大統領はVONADKを通じてベトナム軍の撤退は欺瞞にすぎない。残存ベトナム軍をPRK軍司令部の指揮下に置いたのはカンボジア問題の解決はPRKと話し合わなければならないと思わせるトリックであると言明した。
DIA-202-1988-06-06-1カンボジア1988年06月06日1980年代タイとの国境を守備しているNeang Sophal旅団長は記者会見し,ベトナム軍の撤退について,自分の旅団は1985年から独力でこの地域を抑えているので,これまでどおり,国境を断固として守り抜く。87年だけでも716回も出撃し,21回の戦闘で,敵兵126人を殺し,97人を負傷させ,2人を捕虜にしたと語った(PPDS)。
DIA-202-1988-06-06-2カンボジア1988年06月06日1980年代第4回インドシナ3国,中央銀行総裁会議開催。
DIA-202-1988-06-09-1カンボジア1988年06月09日1980年代BP紙,DKの幹部Thuch RinおよびPRKの外務次官Sieng Saranがシアヌーク殿下と接触し,自らの党派を脱してシアヌーク派に加わりたいと申し出たことを明らかにした。Rinは1976年DKの国会議員,79年初からはYun Yat(Son Sen国防相の妻)とともに中国へ行き,VODKの放送局を設立した。82年7月CGDKの教育文化相に任命された。Sieng Saranは85年までPRKの駐ハノイ大使で,帰国後外務次官となり,88年1月のシアヌーク・フンセン会談で来仏し,帰国しなかった。
DIA-202-1988-06-14-1カンボジア1988年06月14日1980年代ソ連のチャップリン特使はバンコクで記者会見し,ソ連はカンボジアから全面撤退するようベトナムを説得するつもりだと語った。
DIA-202-1988-06-15-1カンボジア1988年06月15日1980年代PRK国防省コミュニケ:1988年5月26日のPRKとベトナム両国防省のベトナム義勇軍の第7次撤退についてのコミュニケに基づき,ベトナム義勇軍の撤退式は6月30日プノンペンで行なわれる。PRKはカンボジア問題に関心あるすべての政府,国,国際機関の代表,個人が来訪して撤退を見守るのを歓迎する。
DIA-202-1988-06-17-1カンボジア1988年06月17日1980年代バンコクでのタイ・ベトナム両国外相会談はカンボジア問題で,(1)政治的に解決する,(2)カンボジアの中立・非同盟化を図る,(3)ベトナム軍の完全撤退が必要―との認識で一致した。また両国ともジャカルタでの非公式協議に代表を出席させる方針を確認した。
DIA-202-1988-06-18-1カンボジア1988年06月18日1980年代米紙『ワシントン・ポスト』によると中国政府はこのほど米国に対し,カンボジア問題の政治解決が達成されれば,ポルポト前DK軍最高司令官とその幹部の永久的な政治亡命を受け入れるとの意向を伝達した。
DIA-202-1988-06-23-1カンボジア1988年06月23日1980年代フンセン首相は日本国会議員代表団(桜内元外相)と会見し,クメール・ルージュの武装解除が政治解決の前提であると語った。
DIA-202-1988-06-25-1カンボジア1988年06月25日1980年代CGDKの3首脳はジャカルタ会議におけるシアヌーク・CGDKの立場を表明。(1)ベトナムは国際監視下で明確な時間表に従って3段階に分けて軍隊を撤退させなければならない。撤退の第2段階が終わったところでPRKとCGDKは解体し,シアヌーク殿下を長とする4派連合政府を樹立する。この暫定4派連合政府が国際監視下で選挙を行ない制憲議会を設置する,(2)ジャカルタ会議には同時にベトナム外相も参加し,シアヌーク殿下およびCGDKと戦争の終結について話し合いを行なう,(3)カンボジアについて達した協定を保証するために国際会議を開く。
DIA-202-1988-06-27-1カンボジア1988年06月27日1980年代シアヌーク殿下はANSの基地で,モーリタニア,ユーゴ,エジプト,ギニア,バングラデシュ,パキスタンの各大使から信任状を受けとった。式典にはキューサンパン副大統領,ソンセン国防相(クメール・ルージュ),イムチュデット国防相(ソンサン派),ブンサイ経済相(ソンサン派),ラナリト殿下らが出席した。
DIA-202-1988-06-30-1カンボジア1988年06月30日1980年代ポチェントン空港でベトナム軍司令部(レ・ゴク・ヒエン司令官)の撤退式。カンボジア側からはチアシム国会議長,ブータン副首相,コイブンタ国防相らが出席した。
DIA-202-1988-06-30-2カンボジア1988年06月30日1980年代ベトナム軍副司令官La Kha Phieu少将は,ベトナムはクメール・ルージュのために1977~79年までに3万の兵士を失った,79年1月クメール・ルージュ政権を倒してから今日まで2万5000の兵士が殺されたと発表。同少将によれば負傷者は戦死者と同じ,5万5000人であった,87年は死者500人,負傷者2500人であった。
DIA-202-1988-07-04-1カンボジア1988年07月04日1980年代バンコクで第21回ASEAN外相会議。
DIA-202-1988-07-06-1カンボジア1988年07月06日1980年代KPRP第5期中央委員会第7回総会が7月3日から6日まで開催され,(1)1988年後半の任務として新しい段階での革命事業を自ら引き受けられるように革命勢力を建設し強化することを確認した,(2)公私合営企業の設立を承認した,(3)Sar Kheng党中央委書記とSay Chhum中央委員を政治局員候補にSay PhuthangとSay Chhumを中央委書記に選出した。
DIA-202-1988-07-07-1カンボジア1988年07月07日1980年代第1国会第15回会議が開催され,チアシム国会議長は開会演説で「PRK国民議会はPRK政府を解体しようとするあらゆる陰謀を糾弾する」と述べた。
DIA-202-1988-07-10-1カンボジア1988年07月10日1980年代PPDS,シエムレアプ・オダールメアンチャイ省の1987~88年乾期の戦果を放送。同省の軍民は674回の作戦を行ない,2507人の敵を戦闘不能にした,この中には死者358人,負傷者358人,捕虜71人,降伏したもの1226人が含まれている。
DIA-202-1988-07-11-1カンボジア1988年07月11日1980年代シアヌーク殿下,7月10日付の声明で民主カンポジア連合政府(CGDK)大統領を辞任しフランスに亡命すると発表。
DIA-202-1988-07-11-2カンボジア1988年07月11日1980年代インドシナ3国臨時外相会議開催。ベトナムのグエン・コ・タク外相,ラオスのトンサバト外相代行,PRKのフンセン外相はプノンペンで会談し,ジャカルタ会議は1987年7月29日のホー・チ・ミン市での共同声明に従って開かれなければならないとの声明を発表した。
DIA-202-1988-07-14-1カンボジア1988年07月14日1980年代中米への途次,ヘンサムリン議長はクレムリンでグロムイコ・ソ連最高会議幹部会議長と会談。両者はジャカルタ会議の開催を危くするような声明は許すべきでないと指摘した。ソ連はカンボジア問題の解決を保障する国際会議に参加する用意があると言明。
DIA-202-1988-07-18-1カンボジア1988年07月18日1980年代DK国民軍最高司令部,ベトナム軍の撤退およびタイ国境から30㎞後退との声明はまやかしである,と国民軍およびカンボジア人民に通達。
DIA-202-1988-07-20-1カンボジア1988年07月20日1980年代PRK国家評議会は以下の憲法修正を行なう旨政令を発表した。第12条は次のようにする:国民経済は国営経済,国営・私営混合(公私合営)経済,集団経済,家族経済,私営経済の五つの部門からなる。国家は国営経済と公私合営経済が国民経済のなかで大きな役割を果せるよう国営経済をしっかりと運営する。他方で集団,家族,私営経済が国家と人民の生活に有益な方向に発展するよう援助し指導する,第19条の第3項を次のようにする:外国貿易は国家の監督と管理下に置かれる。
DIA-202-1988-07-22-1カンボジア1988年07月22日1980年代SPKによると,7月20日グエン・バン・リン書配長はモスクワで,ゴルバチョフ書記長と会談し,ベトナム軍は遅くとも1989年末かあるいは90年初めまでに撤退すると述べた。
DIA-202-1988-07-25-1カンボジア1988年07月25日1980年代ジャカルタ会議開催―カンボジア問題の政治的解決を図るための非公式協議がジャカルタ郊外ボゴールで開幕した。午前のカンボジア4派の協議にはPRKのフンセン首相兼外相,CGDK側はシアヌーク派のラナリト殿下,ポルポト派のキューサンパン議長,ソンサン派のソンサン議長が参加し,午後の協議にはASEAN6カ国の代表とベトナム,ラナスの代表が加わった。25日の4派協議でPRKのフンセン首相兼外相は7項目の提案を行なった。26日シンガポールのダナバラン外相は6項目の提案を行なった。スハルト大統領の招きでジャカルタに滞在中のシアヌーク殿下は27日カンボジア4派の代表を招き,5項目の提案を行なった。
DIA-202-1988-07-28-1カンボジア1988年07月28日1980年代ジャカルタ会議終了。会議は共同声明を採択できなかったが,(1)会議の全参加者による実務作業グループを設置し,(2)作業グループは1988年12月までに,次の会談の開催に向けた勧告をするとの決議を採択した。
DIA-202-1988-07-28-2カンボジア1988年07月28日1980年代キューサンパンDK議長は,ジャカルタ会議について,(1)全参加国がベトナム軍の撤退と民主カンボジアの復権阻止がカンボジア問題の二つの鍵であることに同意したとのベトナム外相の発表は偽りである,(2)カンボジア4派はかなりの点で合意に達したとの同外相発言は世界を欺くためのものであると新聞発表で強調。
DIA-202-1988-07-28-3カンボジア1988年07月28日1980年代ベトナム共産党中央組織委員会代表団(グエン・デュク・タム政治局員兼組織委委員長),7月21日から28日までPRKを訪問し,メンサムアン政治局員が率いるPRK中央組織委員会代表団と協議した。両代表は90年までの両委員会の協力に関する文書に調印した。
DIA-202-1988-07-30-1カンボジア1988年07月30日1980年代KPRPの政治局はジャカルタ会議の意義が,(1)カンボジア問題の解決のために東南アジア諸国が初めて参集したこと,(2)カンボジア問題の政治解決のための二つの鍵,すなわちベトナム軍の撤退とポルポト派の復権阻止および各派に対する外国からの援助停止を初めて結びつけたことにあると評価した。
DIA-202-1988-08-01-1カンボジア1988年08月01日1980年代1988年1~6月のPRKへの帰順者は2220人。内訳はポルポト派1325人,ソンサン派411人,シアヌーク派484人であった。
DIA-202-1988-08-03-1カンボジア1988年08月03日1980年代モンゴルのウランバートル放送,中国がポルポトに政治亡命を認めるとの香港『争鳴』誌記事を紹介。
DIA-202-1988-08-08-1カンボジア1988年08月08日1980年代シアヌーク殿下,日本を訪問,宇野外相と会談。
DIA-202-1988-08-14-1カンボジア1988年08月14日1980年代フンセン首相,コムポンチャム省党第1回大会に出席し,(1)地方を革命の強固な根拠地にしよう,(2)軍を強化してプロレタリア独裁の道具としよう,(3)ベトナム軍の撤退に備えて,幹部や党員の政治・イデオロギー教育を徹底しようと演説した。
DIA-202-1988-08-15-1カンボジア1988年08月15日1980年代DK,包括的政治解決案を発表。要旨:(1)ベトナム軍は国際監視下,スケジュールに従って撤退する,(2)撤退協定調印後に停戦を実施する,(3)撤退の最終段階でPRKとCGDKとを同時に解体し,シアヌーク殿下の下に4派暫定政府を樹立する。4派の軍は4派委員会と国際監視委の管理下に置く,(4)4派暫定政府が選挙を組織する,(5)4派からなる軍は同数の兵力とし,4派合同指揮部の下に置く,(6)協定を保証するために国際会議を開き,とくにDKが他派を支配しないように国際監視委を設置する,(7)ベトナムと不可侵条約を結ぶ。
DIA-202-1988-08-20-1カンボジア1988年08月20日1980年代国家評議会,大幅な内閣改造を決定。ベトナム,ラナス,ソ連その他の社会主義国との経済・文化協力省を廃止,内閣の下に観光総局が設置された。副首相兼国防相にTie Banh,内相にSin Song,国防次官兼軍参謀総長にPol Saroeun,駐ソ大使にBo Rasi女史を任命。
DIA-202-1988-08-25-1カンボジア1988年08月25日1980年代ヘンサムリン国家評議会議長・カンプチア革命武装勢力最高司令官,プレイベン省Kamchay Mea地区Krabau郷の民兵に武器を供与する式典に出席した。
DIA-202-1988-08-28-1カンボジア1988年08月28日1980年代DK最高司令部は,DKがベトナム軍撤退後に備えて,武器弾薬を貯えているとの報道をデマだと否定。
DIA-202-1988-09-02-1カンボジア1988年09月02日1980年代プノンペンでベトナム革命43周年記念集会。チアント副首相,Nguon Nhelプノンペン市党委書記らが出席。
DIA-202-1988-09-19-1カンボジア1988年09月19日1980年代CGDK外務省は声明を発表し,ベトナム,PRK,ソ連の意図は(1)ベトナムは撤退しない,(2)PRKを維持する,(3)DKを消滅させる,(4)PRKの下で民族和解を実現することであると述べた。
DIA-202-1988-09-23-1カンボジア1988年09月23日1980年代シアヌーク殿下,ミッテラン・フランス大統領と会談。
DIA-202-1988-09-24-1カンボジア1988年09月24日1980年代ヘンサムリン国家評議会議長,88/89学年度の開始に当たって演説。87/88学年度に6万人の児童が幼稚園に,150万人以上が小学校に,2万人以上が中学校あるいは専門学校に,6000人が友好国の学校で学習していること,また教師数が6万であることを明らかにした。
DIA-202-1988-09-28-1カンボジア1988年09月28日1980年代Say Chhum農業相は過去10年の農業を総括し,1979年の食糧の作付面積77万510ha,生産量56万5220㌧に対して87年の作付面積142万8130ha,生産量181万3950㌧,木材生産は80年の239立方㍍から88年には14万980立方㍍,淡水魚の漁獲量は80年の1万8400㌧から88年には6万1200㌧,88年の海産魚の漁獲量は2万㌧で80年比1万8000㌧増であったと述べた。
DIA-202-1988-10-01-1カンボジア1988年10月01日1980年代プノンペンで労働組合第2回全国大会始まる。 全国から350人の代表が出席し,4日49人の執行委員会を決め,議長にマトリ政治局員を選出した。
DIA-202-1988-10-03-1カンボジア1988年10月03日1980年代農業省の農機具供給公社は今雨期に化学肥料3万2315㌧,農薬1万2825㍑,殺鼠剤8.5㌧を配給した。1987年の雨期には化学肥料2万8458㌧,農薬5万8686㍑,殺鼠剤19.7㌧,ポンプ113台を配給した。これから始まる乾期には2万㌧の肥料を供給する予定である。
DIA-202-1988-10-04-1カンボジア1988年10月04日1980年代党,政府および国民議会はベトナムのチュオン・チン元書記長の死を悼んで10月5日喪に服すよう指示。
DIA-202-1988-10-04-2カンボジア1988年10月04日1980年代ベトナムのチュナン・チン元書記長の葬儀にはチアシム国会議長が出席。
DIA-202-1988-10-05-1カンボジア1988年10月05日1980年代CGDKソンサン首相は第43回国連総会で次のような和平提案を行なった。(1)ベトナム軍は国際監視の下,時間表に従って撤退する,(2)PRKとCGDKは共に解体する,(3)4派暫定政府を樹立する,(4)国際監視委と国際平和維持軍を入れる,(5)選挙を実施する,(6)ベトナム軍撤退後に国際会議を招集する。
DIA-202-1988-10-09-1カンボジア1988年10月09日1980年代KPNLFのソンサン議長はKPNLF創立9周年に当たりメッセージを発表し,(1)民主カンボジア(DK)の国名を「カンボジア」に変える,(2)国旗をDKのものから1970年まで使用していたものに変える,(3)国歌をDKのものから1970年以前のものに変える,(4)人権侵書を防止するため人権委員会を設置する,(5)カンボジアの中立を国際的に保障するとの提案を明らかにした。
DIA-202-1988-10-12-1カンボジア1988年10月12日1980年代ヘンサムリン書記長はプノンペン市党大会で演説。同市には四つの大きな国営企業と1800の手工業生産センターがあり,1988年の生産額は8億リエル(80年の生産額は2億リエル)に達する,また人民革命党は120の支部を持ち1000人近い党員がいることを明らかにした。
DIA-202-1988-10-16-1カンボジア1988年10月16日1980年代PRK国防省は今から12月まで第7次ベトナム軍撤退計画(5万人)の残り分の撤退を見とどけるために国際機関,マスメディアの代表の来訪を歓迎するとのコミュニケを発表した。
DIA-202-1988-10-16-2カンボジア1988年10月16日1980年代KPRP中央委員会は郷レベルの行政機構の強化を目的とした会議を開催し,その模範としてシエムレアプ・オダールメアンチャイ省Po Pen郷を紹介。同郷は民兵と大衆団体を強化し,12人のポルポト派を一掃し,反政府分子35人を投降させた。
DIA-202-1988-10-17-1カンボジア1988年10月17日1980年代DKのキューサンパン議長は国連決議案の修正の動きについて声明を発表し,平和と正義を愛する諸国が侵略者とその犠牲者を区別するよう,また各民族は自決権を有することを考慮するよう要請した。
DIA-202-1988-10-17-2カンボジア1988年10月17日1980年代ジャカルタでカンボジア作業部会始まる。クメール・ルージュの代表は参加せず。ソンサン派:Son Soubert,Thach Reng将軍,シアヌーク派:Chak Sarik,Bou Laisreng,Chau Samritsdei,ヘンサムリン派:Hor Nam Hong,Sok An,Pich Sam-ang。
DIA-202-1988-10-19-1カンボジア1988年10月19日1980年代DK国民軍のソンセン司令官は1988年5月から10月までの戦果として,ベトナム兵1万4129人を殺傷,そのほか8600人を戦闘不能にしたと発表した。カンボジア人兵士2840人がベトナム軍の支配を脱してきた。
DIA-202-1988-10-21-1カンボジア1988年10月21日1980年代VODKによると,10月5日クラチエ省Chhlong地区に駐屯していたカンボジア人の一大隊がベトナム軍に反抗して,5人を殺し,6人を負傷させて一部は故郷に帰り,一部はDK国民軍に加わった。
DIA-202-1988-10-25-1カンボジア1988年10月25日1980年代英国のサッチャー首相はシアヌーク殿下と会談し,殿下の平和努力を支援することを約束した。
DIA-202-1988-10-27-1カンボジア1988年10月27日1980年代1988年1~9月にシエムレアプ・オダールメアンチャイ省Ankor Chum地区の武装勢力は342回の掃討作戦を行ない,39人を殺し,48人を負傷させた。同地区民兵は49回の作戦を行ない11人を殺し,9人を負傷させた。また同地区の警察は隠れていた敵分子266人(ソンサン派97人,シアヌーク派93人,ポルポト派73人)を逮捕した(PPDS)。
DIA-202-1988-10-30-1カンボジア1988年10月30日1980年代『ワシントン・ポスト』紙はタイ軍将校がカンボジアの非共産抵抗勢力への米の援助(1200万㌦)のうち350万㌦を着服していたと報道した。
DIA-202-1988-11-01-1カンボジア1988年11月01日1980年代PRKのフンセン首相はAFPとの会見でカンボジア問題の政治解決から排除すべきクメール・ルージュの指導者としてPol Pot,Ieng Sary,Ieng Thirit,Khieu Samphan,Son Sen,Ta Mok,Noun Chea,Keo Pottを挙げた。
DIA-202-1988-11-01-2カンボジア1988年11月01日1980年代PRK計画省高官,カンボジア経済の回復を軌道に乗せるには西側から5億㌦の援助が必要,と言明。
DIA-202-1988-11-03-1カンボジア1988年11月03日1980年代国連総会は過去の残虐行為・政策の復活阻止を付加したASEANなど53カ国のカンボジア問題決議案を賛成122,反対19,棄権13で採択した。
DIA-202-1988-11-04-1カンボジア1988年11月04日1980年代PRK外務省は国連のカンボジア問題に関する決議は無効であると声明した。
DIA-202-1988-11-07-1カンボジア1988年11月07日1980年代パリで初めてのカンボジア三者会談開かる。シアヌーク殿下,PRKのフンセン首相,CGDKのソンサン首相の三者は8日共同コミュニケを発表し,作業部会を設けること,第2回会談を1989年に開くこと,DKにも参加を呼びかけることを明らかにした。
DIA-202-1988-11-07-2カンボジア1988年11月07日1980年代Rashit Khamidulinソ連大使によると1979年から85年にソ連はPRKに4550万ルーブルの援助を与えた。86~90年の現五カ年計画期に援助は1億6600万ルーブルになろう,またソ連の輸出は81~85年が2億9300万ルーブルで86~90年には6億ルーブルに達する見込みであると語った。
DIA-202-1988-11-07-3カンボジア1988年11月07日1980年代PRKのフンセン首相,パリ会談で国民和解政策を発表。要旨は(1)ポルポト派指導者を国民和解に参加させない,自ら武装解除し,帰順してきたポルポト軍兵士は参加を認める,(2)ベトナム軍撤退3カ月後に国際監視下で選挙を実施する,(3)シアヌーク殿下を議長とする4派から成る国民和解評議会を樹立する。
DIA-202-1988-11-10-1カンボジア1988年11月10日1980年代国連難民救済機構によると,クメール・ルージュは支配下のTa Luan難民キャンブから8000人をカンボジア領内に移動させた。
DIA-202-1988-11-12-1カンボジア1988年11月12日1980年代フンセン首相はパリ会談からの帰途,モスクワでソ連のシェワルナゼ外相と会談。
DIA-202-1988-11-13-1カンボジア1988年11月13日1980年代タイ訪問中の李鵬中国首相はベトナムの1990年までの撤退を拒否,89年6月までの撤退を求めた。
DIA-202-1988-11-18-1カンボジア1988年11月18日1980年代フンセン首相,インドを訪問し,ラジーブ・ガンディー首相と会談。
DIA-202-1988-11-20-1カンボジア1988年11月20日1980年代貿易・経済・科学技術協力のための政府間委員会ソ連側代表団(グーセフ副首相),第5回協議のための来訪。カンボジア側代表団の委員長はチアント副首相,第4回協議は1987年12月モスクワで開催された。
DIA-202-1988-11-22-1カンボジア1988年11月22日1980年代ソ連の援助で建設されたBayon衛星地上ステーションがPRK側に引渡された。
DIA-202-1988-11-23-1カンボジア1988年11月23日1980年代ロガチョフ・ソ連外務・次官来訪。
DIA-202-1988-11-24-1カンボジア1988年11月24日1980年代VODKによるとDKのキューサンパン議長は,11月17日付のシアヌーク殿下への書簡で次回のパリ会談に出席の用意がある,作業部会にはOk Sakunユネスコ代表を出席させると言明した。
DIA-202-1988-11-30-1カンボジア1988年11月30日1980年代シアヌーク殿下は5項目の新提案を行ない,これを受け容れなければPRKとの会談は行わないと語った。その内容は(1)時間表に従ってかつCGDKへの武器援助停止という条件なしにベトナム軍は撤退する,(2)CGDKとPRKは同時解体する,(3)国際監視下の選挙,(4)4派連合政府と国軍の創設,(5)国際平和維持軍の導入。
DIA-202-1988-12-01-1カンボジア1988年12月01日1980年代教育省によると,1988/89学年度に886人の学生をソ連その他の友好国に派遣,現在526人が高等教育を受けており,55人が大学院にいる。これまでに派遣留学生は5780人で,うち2314人が帰国して働いている。
DIA-202-1988-12-01-2カンボジア1988年12月01日1980年代PRK国防省はベトナム軍6個師団1万8000人が12月15日から21日までに撤退と発表。これまで3万2000人が撤退しているので,年内5万人の撤退は完了する。
DIA-202-1988-12-13-1カンボジア1988年12月13日1980年代農業省によると,雨期米の作付面積は170万haで計画の98%であった。
DIA-202-1988-12-14-1カンボジア1988年12月14日1980年代DKのキューサンパン議長はパリ郊外で記者会見し,「われわれはシアヌーク殿下を国家指導者と考える,ポルポトは一線を退いた」と述べた。
DIA-202-1988-12-15-1カンボジア1988年12月15日1980年代ベトナム軍撤退開始。全世界から92人のジャーナリストおよび関係者が参集。
DIA-202-1988-12-21-1カンボジア1988年12月21日1980年代李鵬中国首相,中国を訪問中のインドのラジーブ首相に対して,ベトナムが撤退したら,カンボジアの反政府勢力への援助も停止すると語った。
DIA-202-1988-12-21-2カンボジア1988年12月21日1980年代パリ作業部会中断。
DIA-202-1988-12-23-1カンボジア1988年12月23日1980年代アラタス・インドネシア外相はジャカルタ会議は予定どおり開くべきだ,大国が地域問題を解決するのを待っているのは正しくないと語った。
DIA-202-1988-12-23-2カンボジア1988年12月23日1980年代CGDK閣議開催。ソンサン首相,キューサンパン副大統領,ラナリト殿下,国防調整委員会のソンセン,Im Chhudet,Chakkrapong殿下らが参加した。コミュニケの要旨:(1)3派の協力を強化する,(2)CGDKは11月27日のシアヌーク殿下による5項目提案を支持する,(3)相手側が態度を変えていないので1989年2月に予定されているジャカルタ会議を延期するよう提案する,(4)人権が尊重されるよう努力する。
DIA-202-1988-12-26-1カンボジア1988年12月26日1980年代VONADKとの会見でDKのソンセン司令官は1988年6月初めから12月の初めまでにベトナムは新たに2万6000の兵力を送り込んだと語った。
DIA-202-1989-01-03-1カンボジア1989年01月03日1980年代インタム(In Tam)元首相・現Khmer Amatak(海外カンプチア人協会)会長はPRK外務省の招きで来訪。「私にとってはベトナム軍の存在よりもクメール・ルージュの復権が重要である」と語った。
DIA-202-1989-01-03-2カンボジア1989年01月03日1980年代カンプチア人民革命武装勢力に1988年12月31日付けで階級制導入。ブータン副首相,ティエバン副首相兼国防相を将軍に,Ke Kimyan国防次官,Pol Saroeun参謀長を少将に任命。
DIA-202-1989-01-06-1カンボジア1989年01月06日1980年代プノンペンでPRK建国10周年記念集会。ベトナムのグエン・バン・リン党書記長,ラオスのカイソン・ポンビハーン書記長らが出席。ヘンサムリン国家評議会議長とベトナムのリン書記長は演説のなかで,両国は,もし政治解決ができるなら,1989年9月までに残留ベトナム軍を撤退させることで合意した,と発表した。
DIA-202-1989-01-10-1カンボジア1989年01月10日1980年代カムポット市を訪問したフンセン首相は,プノンペン政権は55歳以上の人でないと僧侶になることを認めず,また寺院に法外な税を課すなど宗教政策において誤りがあったとして住民に詑びた。
DIA-202-1989-01-18-1カンボジア1989年01月18日1980年代CGDKは新聞公報を発表し,シアヌーク殿下の5項目提案を再度支持することを確認した。(1)ベトナムが撤退の時間表を示すこと,(2)総選挙前にPRKとDKを同時に解体する,(3)国際監視下の選挙,(4)4派暫定政府と4派統合軍を樹立する,(5)国際平和維持軍の派遣。
DIA-202-1989-01-25-1カンボジア1989年01月25日1980年代プノンペンでカンプチア国家建設・防衛統一戦線(KUFNCD)第4回全国大会開幕。ヘンサムリン国家評議会議長ら345人が出席。また外国来賓とともにKhmer Amatak会長のインタム氏も出席した。
DIA-202-1989-01-25-2カンボジア1989年01月25日1980年代PRKのフンセン首相,バンコクを訪問。
DIA-202-1989-02-06-1カンボジア1989年02月06日1980年代国防省の報告によると1987年8月の国民和解政策の公布以来,PRK政権側に帰順した者は7000人近くに達した。これで帰順者の合計は84年の帰順工作委員会設立以来,2万2530人,79年の政権樹立以来4万3110人となる。
DIA-202-1989-02-07-1カンボジア1989年02月07日1980年代VONADK,1月19日,1万㌧のソ連船がコムポンソム港で武器弾薬を荷揚げした,と放送。
DIA-202-1989-02-09-1カンボジア1989年02月09日1980年代中央統制委員会のChan Seng副委員長(政治局員候補)病死。
DIA-202-1989-02-14-1カンボジア1989年02月14日1980年代PRK政府はクメール・タイ経済協力委員会(委員長:ティエバン国防相)の設置を決定。
DIA-202-1989-02-16-1カンボジア1989年02月16日1980年代第2回ジャカルタ非公式協議の作業部会開始。
DIA-202-1989-02-16-2カンボジア1989年02月16日1980年代シアヌーク殿下の北京声明,DK大統領への復帰の意思を明らかにするとともに,以下の3点を世界に警告。(1)現在ベトナムはカンボジアに100万人の入植者を送り込んでいる。(2)ベトナム兵はかいらい軍になりすましている。(3)プノンペンのかいらい政権の内外政策はすべてベトナム人の監督下にある。
DIA-202-1989-02-17-1カンボジア1989年02月17日1980年代プノンペンでインドシナ3国外相会議。
DIA-202-1989-02-17-2カンボジア1989年02月17日1980年代KPNLFのソンサン議長は,ジャカルタで同派の軍最高可令官の地位を掌握した,と語った。
DIA-202-1989-02-18-1カンボジア1989年02月18日1980年代憲法修正。PRKは憲法第15条,第16条,第17条を修正する法律を公表した。第15条:市民は土地の占有権と使用権を持ち,家屋および耕作用に国家が分配した土地財産を相続する権利を持つ。第16条:国家は他人に売ったり貸したりするために未利用地を保有することを禁ずる。何人も権限ある当局の許可なく農地および放棄された森林を農業以外の目的に使用することは許されない。第17条:土地を占有し使用する権利は別に制定される法律によって規定される。以上の法律は1989年2月11日の国会で可決された。
DIA-202-1989-02-19-1カンボジア1989年02月19日1980年代ジャカルタで第2回非公式協議開催。21日,アラタス議長が19項目の合意事項を発表。
DIA-202-1989-02-20-1カンボジア1989年02月20日1980年代チアシム国会議長は5人のタイ国会議員と会見し,わが軍は今年クメール・ルージュを一掃するつもりであるが,タイが彼らに避難所を与えないでもらいたいと語った。
DIA-202-1989-02-25-1カンボジア1989年02月25日1980年代カンプチア人民革命党(KPRP)政治局は,第2回ジャカルタ非公式協議についてのフンセン首相の報告を受け,クメール・ルージュが国際舞台で支持を失い,3派間の亀裂が深まったという意味で成功であったと評価した。
DIA-202-1989-02-26-1カンボジア1989年02月26日1980年代シアヌーク殿下は北京で,米国のブッシュ大統領と会見。ブッシュ大統領は米国がカンボジアの政府指導者としてシアヌーク殿下を支持することを約束。
DIA-202-1989-02-27-1カンボジア1989年02月27日1980年代CGDK,第2回ジャカルタ協議について声明を発表。ベトナムが柔軟な態度を示さなかったために解決を見出せなかったと述べ,シアヌーク殿下の5項目およびその具体的説明が解決の基礎であると述べた。
DIA-202-1989-03-01-1カンボジア1989年03月01日1980年代ソ連の対外経済関係国家委員会代表団(M.Go-lobev資金・物資・技術局の副局長)1986~90年の両国経済協力計画の修正文書に調印して,帰国。
DIA-202-1989-03-02-1カンボジア1989年03月02日1980年代PPDSによると,PRKはタイ政府との間で,クメール・ルージュ軍を追跡してタイ領内にはいることについて,協定に達した。
DIA-202-1989-03-13-1カンボジア1989年03月13日1980年代PRKはキューバと1989年の貿易・物資交換協定に調印した。これによるとキューバは原料糖2000㌧と精製糖1000㌧を供給し,カソボジアはゴム250㌧と10万ルーブル相当の他の産品を供給する。
DIA-202-1989-03-13-2カンボジア1989年03月13日1980年代フンセン首相は,プノンペンで開催された第1回全国経済会議で演説し,米,ゴム,木材,漁獲の4部門に力を入れると述べた。
DIA-202-1989-03-14-1カンボジア1989年03月14日1980年代CGDK3派の指導者(シアヌーク大統領,ソンサン首相,キューサンパン副大統領)は北京で会談し,シアヌーク殿下を委員長とする最高国防会議を設置し,反越3派間の軍事協力を密にすることを決定した。
DIA-202-1989-03-16-1カンボジア1989年03月16日1980年代PRK政府は反政府ゲリラの兵士が武器や書類を持って帰順してきた場合,1000リエルから1万リエルの報奨金を与えることを決定した。とくに指揮官を殺すか武器弾薬庫を破壊してきた者には,1万5000リエルが与えられる。
DIA-202-1989-03-16-2カンボジア1989年03月16日1980年代フンセン首相はAhmed Rafudin国連事務総長特使と会見し,PRKはベトナム軍が一方的に撤退したとしても自分の足で立つことができると述べた。
DIA-202-1989-03-16-3カンボジア1989年03月16日1980年代中国の李首相,カンボジア3首脳との会見で,北京におけるカンボジア3派首脳会談で団結が強まったと評価し,ベトナム軍の完全撤退に続いて4派連合政府を樹立すべきであると述べた。
DIA-202-1989-03-23-1カンボジア1989年03月23日1980年代国家評議会はPRK憲法改正委員会を任命した。委員長にはチアシム国会議長,副議長の1人にはインタム元首相が選ばれた。
DIA-202-1989-03-28-1カンボジア1989年03月28日1980年代カンプチア赤十字の書記長兼プノンペン医学院長Mi Samedi博士は,米国を3週間にわたって訪問。US. Indochina Reconciliation Projectがこの旅行を組織した。
DIA-202-1989-03-29-1カンボジア1989年03月29日1980年代米下院のStephan Solarz議員来訪。30日,チアシム国会議長,フンセン首相らと会談。
DIA-202-1989-03-30-1カンボジア1989年03月30日1980年代世界イスラム機構代表団(団長:Izz-al-Din Nasir bin ’Abd-al-’Aziz執行委員)来訪。4月3日チアシム国会議長と会談。
DIA-202-1989-04-01-1カンボジア1989年04月01日1980年代KPRP中央委員会の特別総会が3月29日からヘンサムリン書記長を議長として開かれた。総会はティエバン(Tie Banh)副首相兼国防相を中央委員に選出。
DIA-202-1989-04-01-2カンボジア1989年04月01日1980年代PRK閣議は,4月1日から5月5日までに敵側の文書や武器を持って帰順してきた者には,1989年2月22日の閣議決定に列記してある報奨金の倍額を与えることを決定した。
DIA-202-1989-04-03-1カンボジア1989年04月03日1980年代中央帰順工作委員会(議長:ブータン政治局員)は,1988年の帰順者は5944人で,うちポルポト派3447人,ソンサン派1274人,シアヌーク派1223人である,と発表した。
DIA-202-1989-04-05-1カンボジア1989年04月05日1980年代ベトナム軍の撤退発表。PRK,ラオス,ベトナムの3政府は共同声明で,1989年9月末までにベトナム義勇軍はカンボジアから撤退すると発表。
DIA-202-1989-04-05-2カンボジア1989年04月05日1980年代PRKのフンセン首相は撤退声明発表に際しての記者会見で3派および国際社会が次の措置をとるよう要請した。(1)ポルポト軍の解体,(2)ポルポト派に対する軍事・経済援助および聖域の供与を即時停止する,(3)ポルポト派の武器庫の摘発,(4)ポルポト派指導者を裁判に付する,(5)ポルポト派が難民キャンプを軍事目的に使用しないようにする。またポルポト派が復権するようであれば,PRKは他の国に支援を要請すると語った。
DIA-202-1989-04-05-3カンボジア1989年04月05日1980年代第2回KPRP幹部全国大会開催。党中央委員ら250人が参加し,(1)過去10年の成果を検討し,1989-90年およびその後の活動目標,(2)社会経済復興のための政策,(3)第5期党中央委員会の改組,の三つを決定した。11日,政治局員にNguon Nhel,Sar Kheng,Say Chhum,Tie Banh,政治局員候補にSim Ka,Sin Song,Pol Saroeunを選出した。
DIA-202-1989-04-06-1カンボジア1989年04月06日1980年代シアヌーク殿下はカンボジア問題の解決について声明を発表。解決の枠組みは次のとおり。(1)国際監視下でのベトナム軍の完全撤退,(2)撤退後各国はカンボジア4派への軍事援助を停止する。(3)国連監視団と平和維持軍の派遣,(4)ベトナム軍撤退完了と同時にPRKとCGDKを解体し,4派連合政府を樹立する,(5)各派の軍隊はそれぞれ1個師団(1万人)に制限し,国軍に統合する,1万をはみ出す部分は武装解除する。(6)フランスのミッテラン大統領に国際会議の開催を要請する。
DIA-202-1989-04-09-1カンボジア1989年04月09日1980年代チェコスロバキアのヤケシュ共産党書記長来訪。10日,共同声明を発表。
DIA-202-1989-04-11-1カンボジア1989年04月11日1980年代朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席は,民主カンボジアのシアヌーク大統領のためにピョンヤンで祝宴を催した。
DIA-202-1989-04-19-1カンボジア1989年04月19日1980年代N紙社説。フランスがシアヌーク派に軍事援助を実施したことは大きな誤りであると論評。タイ陸軍参謀長Sunthorn将軍は18日,フランス軍用機が一機分の武器をシアヌーク派に搬入したことを確認した。
DIA-202-1989-04-21-1カンボジア1989年04月21日1980年代タイ国会議員代表団(Phiraphan Phalusuk下院外交委副委員長以下25名)は,4日間の公式訪問のため空路到着。22日,ティエバン国防相,24日,フンセン首相と会談。
DIA-202-1989-04-22-1カンボジア1989年04月22日1980年代「農民に対する党と政府の政策」発表。要旨は,(1)農民の利益を守るため農民協会を組織する,(2)農民は自分の土地を所有する,(3)国家は農民の生産意欲を高めるような価格決定をする,(4)農民はその生産物を市場で自由に販売できる,(5)農民は革命活動に参加するとともに税を納めなければならない。
DIA-202-1989-04-25-1カンボジア1989年04月25日1980年代CGDK国防調整委員会を構成している3派の国防相,すなわちDKのソンセン司令官,KPNLFのIm Chhudet,ANSのノドロムチャクラポン殿下の3人は25日会談し,4月6日のシアヌーク殿下の声明を支持するコミュニケを発表した。
DIA-202-1989-04-25-2カンボジア1989年04月25日1980年代非国営部門の小・手工業に対する国家の政策についての第2回党幹部会議の決定が発表された。これによると資本家経営の形態も含め非国営の経済組織は生産手段を所有し,労働者を雇用することができる。
DIA-202-1989-04-27-1カンボジア1989年04月27日1980年代タイ軍部は9月末のベトナム軍完全撤退を疑問視していると発表した。ベトナムはカンボジア駐留軍は現在5万と言っているが9万から11万人が残留している。内訳はタイ,カンボジア国境に5歩兵師団,4歩兵連隊計3万3800,5つの軍団司令部に3万3300,19の特殊部隊に2万8100,沿岸警備司令部に6000となっている。
DIA-202-1989-04-27-2カンボジア1989年04月27日1980年代フンセン首相はN紙と会見して,(1)国際監視では妥協できる,(2)PRKの解体はできない,4派からなる最高評議会を樹立し選挙法を作り,選挙を実施する。PRKは日常生活において法と秩序を維持する。各派の軍は停戦期間中現場にとどまる,(3)難民を帰国させるのに政治解決まで待つ必要はない,(4)財政の赤字は歳出の8%でインフレの原因になっている。インフレは心配するほどではない,と語った。
DIA-202-1989-04-28-1カンボジア1989年04月28日1980年代CGDK3派の指導者は,シアヌーク殿下の司会で会議を開き,9月30日以後もベトナム軍の占領は終わらない。PRK側が進めている選挙準備を非難する,との共同声明を発表した。
DIA-202-1989-04-29-1カンボジア1989年04月29日1980年代憲法修正のための臨時国会。この会議にはインタム,Pung Penh Cheng夫妻,Thong Peng Liat氏らの在外有名人士が参加した。チアシム国会議長は憲法15条,16条,17条の修正理由として次の3点を挙げた。(1)1989年2月,政府は土地所有およびその使用について,また中小企業や私営企業に関する政策を決定し,経済改革に乗り出した。経済改革は政治改革を伴わざるを得ない。(2)先の第2回党幹部大会で革命の現段階を民族民主民衆革命と規定し直したことに,国の基本法を照応させなければならない。(3)現在政治解決を求めて戦闘しながら交渉する,という局面にある。われわれは国内では民族和解を,国外ではより多くの人々の共感と支持を必要としているので憲法を修正する必要がある。
DIA-202-1989-05-01-1カンボジア1989年05月01日1980年代憲法修正。PRK特別国会は憲法修正案を可決した。主な修正点は以下のとおり。(1)国名を「カンボジア」とする。(2)人民革命党は社会と国家の指導勢力である。(3)仏教を国教とする,(4)平和中立非同盟の外交政策を追求する,(5)死刑は廃止する,(6)国家評議会を設置し,その議長が国家主席となる,(7)国旗を替える。
DIA-202-1989-05-02-1カンボジア1989年05月02日1980年代CGDKはPRKの憲法修正は外交的策略にすぎず,(1)国際監視下でのベトナム軍の完全撤退,(2)PRKの解体,(3)シアヌーク殿下を首班とする4派連合政府の樹立,(4)国際監視下の選挙,(5)国際平和維持軍の導入,の5項目を要求する声明を発表した。
DIA-202-1989-05-02-2カンボジア1989年05月02日1980年代ヘンサムリン議長はプノンペン経済学院の第1回卒業式(卒業生99名)に出席。経済学院は1984年に設立され,ベトナム人教師団が教育にあたっている。
DIA-202-1989-05-02-3カンボジア1989年05月02日1980年代ジャカルタでシアヌーク・フンセン第4次会談。
DIA-202-1989-05-05-1カンボジア1989年05月05日1980年代カンボジア国憲法公布。
DIA-202-1989-05-05-2カンボジア1989年05月05日1980年代CGDKの3首脳および閣僚はシアヌーク殿下の下にバンコクで閣議を開き,次のような声明を発表した。年末にパリでカンボジア4派の円卓会議および国際会議を開くというシアヌーク提案を支持する。閣議はカンボジア問題の解決のために以下の3条件が必要であると指摘した。(1)ベトナム軍の国際監視下の完全撤退,(2)シアヌーク殿下を首班とする暫定4派連合政府を樹立し,国際監視下で選挙を実施する。(3)国際平和維持軍を派遣する。
DIA-202-1989-05-06-1カンボジア1989年05月06日1980年代ジャカルタからの帰途バンコクに立ち寄ったフンセン首相は,タイのチャーチャーイ首相と会談した後会見し,次のように述べた。ベトナム軍の撤退後,シアヌーク殿下はクメール・ルージュを捨ててわれわれと同盟するものと確信している。タイ首相が提案した停戦をベトナム軍の撤退後一方的に宣言する用意がある。
DIA-202-1989-05-08-1カンボジア1989年05月08日1980年代シアヌーク大統領はシアヌーク派の基地で,セネガル,中国,北朝鮮各大使の信任状を受けとった。
DIA-202-1989-05-08-2カンボジア1989年05月08日1980年代『プラチェアチョン』紙は社説で,5月2日のフンセン=シアヌーク会談は,民族和解への歴史的意義をもつ一歩をしるしたと評価した。その理由として,シアヌーク殿下がフンセンと同盟してプノンペンに帰ることを決心した,と述べたことを挙げている。
DIA-202-1989-05-10-1カンボジア1989年05月10日1980年代カンボジア政府は,プノンペンの10年間にわたる10時から4時30分までの夜間外出禁止令を解除した。
DIA-202-1989-05-11-1カンボジア1989年05月11日1980年代ソンサン首相はVOKとの記者会見で,ジャカルタ協議について次のように述べた。以前は政権の解体を求めたが,今回はそれを要求せず,フンセン首相に対して4派連合政府への加入を求めた。プノンペン政権が存続することを認め,その官吏の解雇を求めなかった。CGDKの官吏がPRKの行政機構に徐々に統合されることを求めた。しかしフンセン首相はこれを拒否した。
DIA-202-1989-05-19-1カンボジア1989年05月19日1980年代経済・科学技術協力のためのソ連・カンプチア政府間委員会ソ連側代表団(Kozlovソ連委副議長)が1991~95年の両国間協力の打合わせのため来訪。
DIA-202-1989-05-26-1カンボジア1989年05月26日1980年代カンボジア国外務省は,中ソ首脳会談について声明を発表し,両国が第三国の利益を害することなく関係を正常化することで合意したことを歓迎した。
DIA-202-1989-06-02-1カンボジア1989年06月02日1980年代シアヌーク派の高級幹部は,フランスはタイ経由によるシアヌーク派への武器移送を4月以来停止していると語った。
DIA-202-1989-06-05-1カンボジア1989年06月05日1980年代VONADK5日,ポルポト国防高等研究所長が3月4目付手紙でDK党のキューサンパン議長とソンセン副議長に,同研究所長を退き,ベトナム軍撤退まで研究員としてとどまりたいと要請していたことを発表。DK党首脳は6月3日付の返書でこれを許可した。この後ヌオンチエア(Nuon Chea)氏,Chhit Choeun別名モク(Mok)氏も引退の要請を行なった。
DIA-202-1989-06-20-1カンボジア1989年06月20日1980年代カンボジア人パイロットが操縦するミグ21飛行中隊がベトナムでの訓練を終えてポチエントン空港に帰来し,カンボジア空軍第701部隊となった。
DIA-202-1989-06-23-1カンボジア1989年06月23日1980年代カンボジア政府は,宝石探しのためカンボジア領に不法に入国し,逮捕されたタイ人113人を釈放した。
DIA-202-1989-06-25-1カンボジア1989年06月25日1980年代「共同通信」によると,プノンペンの外交筋は,カンボジアにいたベトナムの経済顧問は1988年末までに引揚げたことを明らかにした。
DIA-202-1989-06-27-1カンボジア1989年06月27日1980年代プノンペンで,カンプチア人民革命党(KPRP)創立38周年記念式典。ヘンサムリン書記長,チアシム国会議長,ブータン,チアソト政治局員ら党首脳が出席した。
DIA-202-1989-07-02-1カンボジア1989年07月02日1980年代ASEAN外交筋によると,外相会議に先立ってカンボジアの反越3派勢力は,DKを加えない解決を拒否する態度を伝えてきた。CGDKの文書は来るべきパリ国際会議が政府,行政機構,軍のすべての分野で4派を平等に取扱うことに特に注意するよう要請している。
DIA-202-1989-07-04-1カンボジア1989年07月04日1980年代ASEAN外相会議閉幕。共同声明はカンボジア問題について,包括的政治解決,ベトナム軍の撤退を検証する国際監視機構,自由選挙まで平和と秩序を維持するための国際平和維持軍の必要を強調した。さらにベトナムとカンボジア各派が解決のためにさらに柔軟性を発揮することを要請した。カンボジアの国際会議に関するフランスのイニシアチブを評価するが,これは過去10年にわたるASEANの努力を補うものであるべきである。
DIA-202-1989-07-05-1カンボジア1989年07月05日1980年代カンボジア外務省は声明を発表し,ASEAN外相会議は,カンボジア紛争の包括的政治解決という古い立場をとりつづけ,ジャカルタ協議や最近のシアヌーク・フンセン会談の結果よりも後退したと批判した。
DIA-202-1989-07-05-2カンボジア1989年07月05日1980年代KPRP第5期中央委第9回総会が,1989年6月30日から7月5日までヘンサムリン書記長の下で開かれ,89年前半の実績を評価し,後半の目標を決定した。とくにベトナム軍撤退後に備えて,党の任務を検討した。
DIA-202-1989-07-05-3カンボジア1989年07月05日1980年代ブルネイに到着した日本の三塚外相は,タイのシティ外相に対して,日本は国際監視機構の活動に要員の派遣でも資金の面でも参加する用意があると伝えた。また三塚外相はASEAN各国外相に対して平和達成後カンボジア復興委員会設立についての提案を説明した。
DIA-202-1989-07-05-4カンボジア1989年07月05日1980年代ASEAN外相会談,パリ国際会議でとるべき立場について不一致。N紙によればシンガポールは,タイの動きはプノンペン政権との拙速な妥協に導きかねないとの懸念を表明し,侵略者に目的物を与えるようなことをしてはならないと強硬姿勢を示した。これに対し,タイの外相はASEANの忍耐と団結は必要であるが,同時にイデオロギーによって分裂させられず,相互の利益と繁栄で結ばれた平和と調和の東南アジアをつくることにも努力しなければならないと答えた。
DIA-202-1989-07-10-1カンボジア1989年07月10日1980年代DK国民軍最高司令部にとどいた報告によると,1989年5月3日プノンペンでカンボジアかいらい政権とハノイ侵略者の間で秘密会議がもたれ,撤退の後残留ベトナム兵をどこにかくすかを決定した。参加者はヘンサムリン,チアシム,ティエバン,チャンベンらである。会議はベトナム兵をココン省に5000人,バタムバン省に8000人,シエムレアプ省に1000人,タケオ省に500人,コムポンソム省に2000人をかくすことを決定した。
DIA-202-1989-07-13-1カンボジア1989年07月13日1980年代カンボジア国会,カンボジア国の永世中立案を採択。このほか財政省,貿易省,工業省,国防省の組織と任務の再編,ビザの発給手続きの改善に関する法律を可決した。
DIA-202-1989-07-21-1カンボジア1989年07月21日1980年代フンセン首相は,モスクワでソ連のシェワルナゼ外相と会談。双方は包括的解決に向けて努力することで合意した。
DIA-202-1989-07-24-1カンボジア1989年07月24日1980年代フランスのLa Celle-Saint-Cloudで,フンセン首相・シアヌーク殿下会談。フンセン首相はベトナム軍撤退以前にカンボジア各派が停戦することを提案したが,シアヌーク殿下はこれを拒否した。
DIA-202-1989-07-25-1カンボジア1989年07月25日1980年代La Celle-Saint-Cloudでカンボジア4派会談。
DIA-202-1989-07-26-1カンボジア1989年07月26日1980年代ヘンサムリン議長はソ連のゴルバチョフ書記長の招きでソ連訪問へ出発。27日の到着を伝えたタス通信は今回の訪問を休養のためと報じた。
DIA-202-1989-07-28-1カンボジア1989年07月28日1980年代工業省,内外投資の入札対象として12工場を選定。応募期間は7月28日より8月31日まで。工場名次のとおり。(1)旧BGI,(2)旧ペプシ工場,(3)Chak Angre自転車タイヤ,(4)Touol Konk自転車タイヤ,(5)製粉工場,(6)Chak Angreプラスチック,(7)製紙工場,(8)Chruoy Changva調味料工場,(9)製糖工場,(10)ぬか油工場,(11)薬品工場,(12)縫製工場。
DIA-202-1989-07-30-1カンボジア1989年07月30日1980年代カンボジアに関するパリ国際会議。18ヵ国が参加するカンボジア国際会議が,フランスとインドネシアの両外相を共同議長として開かれた。
DIA-202-1989-08-01-1カンボジア1989年08月01日1980年代国会,兵役法を採択。兵役法では18歳から30歳までの男子は3年の兵役義務を負うが,専門学校生および大学生,大学院生は兵役免除となっている。
DIA-202-1989-08-07-1カンボジア1989年08月07日1980年代パリ国際会議の専門家調査団(ノルウェーのVadset中将),プノンペン到着。
DIA-202-1989-08-10-1カンボジア1989年08月10日1980年代シアヌーク殿下は,プノンペン政権との連合政府をつくろうというフンセン首相の提案を拒否し,カンボジア問題が解決して1,2ヵ月は彼自身の行政機構を維持したいと語った。
DIA-202-1989-08-11-1カンボジア1989年08月11日1980年代ベトナムのチャン・クワン・コ外務次官は,パリ国際会議の調整委員会で,カンボジア在住のベトナム人は8万人であってDKが言うように100万人ではないと言明した。
DIA-202-1989-08-12-1カンボジア1989年08月12日1980年代VONADK,ベトナムは多様な形態でその要員をカンボジアに送り込んでいるので,国際監視機構には少なくとも2000人のスタッフが必要であると論評。
DIA-202-1989-08-14-1カンボジア1989年08月14日1980年代VONADK,プノンペン政権の修正憲法第4条を取り上げ,ベトナム共産党によってつくられたカンプチア人民革命党が社会と国家の指導勢力であるなら,国民和解も,4派連合政府の樹立も不可能ではないか,と論評した。第4条は次のとおり:カンプチア人民革命党はカンボジア社会と国家を指導する勢力であり,すべての政治勢力の国民的団結と統一の中核である。
DIA-202-1989-08-23-1カンボジア1989年08月23日1980年代カンボジアを視察したパリ国際会議専門家調査団は会議に報告書を提出した。主要点以下のとおり。(1)マラリアと結核が蔓延している,(2)銀行の機能が不十分である,(3)熟練労働者が不足している,(4)宿泊設備がないため,その建設に工兵隊が必要,(5)ICM(国際監視機構)は60~90日間は食糧その他を自給する必要がある,(6)カンボジア全土に野戦病院を設置する,(7)ICMは水と電気を自給しなければならない。
DIA-202-1989-08-27-1カンボジア1989年08月27日1980年代シアヌーク殿下は,独立,中立,平和,協同のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC),通称シアヌーク派の議長を辞任した。
DIA-202-1989-08-30-1カンボジア1989年08月30日1980年代バンコクのSiam Rath紙は社説で,タイ軍部に政治解決が不可能ならカンボジアを東西に分断し,東側をプノンペン政権に西側を3派連合政府に支配させてはどうかとの分割案がでているが,この考えには同意できないと反論した。
DIA-202-1989-08-30-2カンボジア1989年08月30日1980年代カンボジアに関するパリ国際会議は解決に至らなかったことを認め,解決の努力は今後も続け,フランスが適当な時期にパリ国際会議を再び開催する準備を行なう用意がある,との声明を発表。
DIA-202-1989-09-04-1カンボジア1989年09月04日1980年代党・政府の高級代表団(ヘンサムリン議長,チアソト副首相,ティエバン国防相,Yos Son党対外関係委委員長,Tang Saroem貿易相,Im Chhunlim党官房副主任),ベトナム訪問へ出発。
DIA-202-1989-09-05-1カンボジア1989年09月05日1980年代国防省はコミュニケで,1989年6月と7月にすでに2万4000人のベトナム義勇軍が撤退し,残り2万6000人は9月21日から26日にかけて撤退すると発表した。
DIA-202-1989-09-06-1カンボジア1989年09月06日1980年代ベトナム・カンボジア共同声明。グエン・バン・リン,ヘンサムリン両書記長は,会談の後,共同声明を発表した。ベトナムは1989年7月20日,カンボジア国会が宣言した永世中立を尊重すると明記した。双方はカンボジア問題の政治解決を望むが,ポルポト派の復権には断固反対すると述べている。
DIA-202-1989-09-11-1カンボジア1989年09月11日1980年代タイのチャーチャーイ首相は,顧問らとともにCGDKのラナリト殿下,ソンサン首相と個別に会談し,政治解決の前の停戦を提案した。
DIA-202-1989-09-12-1カンボジア1989年09月12日1980年代CGDKは声明を発表し,ベトナム軍の撤退宣言は「ごまかし」であり,9月以後も10万から13万のベトナム兵が残存する,と述べた。
DIA-202-1989-09-18-1カンボジア1989年09月18日1980年代プノンペン発共同によると,ベトナム軍撤退を目前にして肉の価格は10%上昇,1米㌦は公定の150リエルに対して220リエルに上昇した。
DIA-202-1989-09-19-1カンボジア1989年09月19日1980年代フンセン首相タイ訪問。フンセン首相は,ポイペトを通って陸路バンコクに到着。チャーチャーイ首相,チャワリット最高司令官らと会談して21日帰国。
DIA-202-1989-09-20-1カンボジア1989年09月20日1980年代コムポンソム港のChay San港長によると,1989年1~7月の輸出は88年1年間の2万4066㌧に対して4万6870㌧(大豆1万5619㌧,木材1万2597㌧,鉄くず1万1526㌧など)で,輸入は88年の18万2787㌧に対して89年1~7月は11万085㌧(石けん,衣類などの消費財4万1347㌧,ディーゼル油1万7540㌧,セメント1万4951㌧,機械・車9500㌧,肥料7408㌧など)であった。
DIA-202-1989-09-20-2カンボジア1989年09月20日1980年代ベトナム軍のNguyen Van Thai少将は,1978年のカンボジア介入以来,ベトナム軍の死者は5万5300名,重傷者11万名,軽傷者5万5000名,計22万1300名に上ったと発表した。
DIA-202-1989-09-21-1カンボジア1989年09月21日1980年代シアヌーク殿下は,フンセン首相との二者会談を拒否。
DIA-202-1989-09-21-2カンボジア1989年09月21日1980年代BP紙のJames Pringle記者は1989年5月の自由化以来,プノンペンには汚職がはびこっていると報道・フンセン首相ら幹部の一族は接収された別荘が割当てられるとその別荘を国際機関に貸し付け家賃を取っている,兵士の給与が月2㌦,政府官吏の給与が月5㌦であるので所得の格差が大きくなっている。東欧諸国の外交官は腐敗汚職はクメール・ルージュに倒される直前のロンノル政権時に似てきたと心配している。
DIA-202-1989-09-23-1カンボジア1989年09月23日1980年代ティエバン国防相は,パイリンがDKの手に落ちたことを認める。
DIA-202-1989-09-25-1カンボジア1989年09月25日1980年代ベトナム軍撤退。プノンペン市民,外国人記者団とともにベトナム軍の撤退を見送る。撤退式にはヘンサムリン国家評議会議長も出席。
DIA-202-1989-09-26-1カンボジア1989年09月26日1980年代ヘンサムリン国会評議会議長,全党,全軍,全人民にアピール。ベトナム軍撤退に際して警戒を強め,ジェノサイド体制の復権を阻止し,革命の成果を守るよう訴えた。
DIA-202-1989-09-27-1カンボジア1989年09月27日1980年代チアシム国会議長は,来訪中のタイ国会議員に対して,政治解決があろうとなかろうと年末に一方的に総選挙を実施すると語った。
DIA-202-1989-09-27-2カンボジア1989年09月27日1980年代中国の楊尚昆国家主席は,シアヌーク殿下にメッセージを送り,ベトナムの一方的撤兵は国際監視を受けず信ずることはできない。中国はシアヌーク殿下が主導するカンボジア人民の正義の闘争を支持すると述べた。
DIA-202-1989-09-30-1カンボジア1989年09月30日1980年代ソンサン派の軍隊は,シソポンの北50kmのThmar Puok地区を制圧した。
DIA-202-1989-10-06-1カンボジア1989年10月06日1980年代外国人記者団16人は,パイリンを訪問。196師団のLong Kheng副司令官は師団は1981年からパイリンに展開している。ポルポト派はこの地域のどこも,占領してはいないと語った。
DIA-202-1989-10-10-1カンボジア1989年10月10日1980年代フンセン首相,来訪中の米国のマスキー上院議員と会見。
DIA-202-1989-10-11-1カンボジア1989年10月11日1980年代VONADK,ポルポト派のソンセン最高司令官は,日本のNHK記者団と解放区で会見し,今回武装闘争を強化したのは,ベトナムに圧力をかけて包括的政治解決を受けいれさせるためであると語った。
DIA-202-1989-10-16-1カンボジア1989年10月16日1980年代ソ連の国家計画委員会代表団(団長:V.V. Broussov対外経済協力局長)来訪。1991~95年の相互協力について討議。
DIA-202-1989-10-16-2カンボジア1989年10月16日1980年代閣議,米の買入れ価格を1kg当り1リエルに決定。
DIA-202-1989-10-17-1カンボジア1989年10月17日1980年代1~9月の工業生産は26億1200万リエル昨年同期比20%増であった。内訳は電力4億2400万リエル,機械1億4600万リエル,化学2億2300万リエル,建設5000万リエル,繊維2億8600万リエルであった。
DIA-202-1989-10-18-1カンボジア1989年10月18日1980年代過去9ヵ月間に外国企業およびカンボジア民間会社24企業と,ソ連およびチェコの国営企業が28件の投資を決定した。
DIA-202-1989-10-25-1カンボジア1989年10月25日1980年代BP紙によると,プノンペン政権のチェコスロバキア駐在外交官Chhin Sunan二等書記官夫妻が子供とともに,10月5日ボンのアメリカ大使館に亡命を求めて身を寄せてきた。
DIA-202-1989-10-30-1カンボジア1989年10月30日1980年代東京発共同によると,ベトナムは,9月20日ヘンサムリン政権と秘密協定を結び,バタムバン,シエムレアプ,スツンチェン,コムポンチャム,コムポンソムの5都市に領事館を設置した。領事館が軍事的機能を果たしているかどうかは不明である。
DIA-202-1989-10-30-2カンボジア1989年10月30日1980年代プノンペンに9時から5時までの夜間外出禁止令。
DIA-202-1989-11-01-1カンボジア1989年11月01日1980年代バンコクのNation紙,プノンペンに支局を開設。
DIA-202-1989-11-03-1カンボジア1989年11月03日1980年代駐カンボジア・ソ連大使(Rashit Khamidulin)は,反政府派を支援している他の国が援助を停止した時にのみ,ソ連はプノンペン政権への軍事援助を停止する。現在の援助は二国間協定に基づくもので,ベトナム軍の撤退に左右されるものではないと語った。
DIA-202-1989-11-05-1カンボジア1989年11月05日1980年代カンボジア国家人民銀行の統計によると,1988年のソ連ブロックからの経済援助は7億ルーブルであった。またソ連外交筋によるとソ連人顧問は640人である(N紙,11月5日)。
DIA-202-1989-11-05-2カンボジア1989年11月05日1980年代共同によると米国防省および情報関係当局は,ベトナム軍は軍事顧問と情報将校を残して,大部分はカンボジアから撤退したことを認めた。
DIA-202-1989-11-11-1カンボジア1989年11月11日1980年代N紙によると11月1日カンボジアの大蔵省は,タイとカンボジア間の取引をタイの銀行を通して,米ドルあるいはタイ・バーツで行なうことを決定した。9月からリエルはバーツに連動することが公式に決められた。11月1日,リエルは33%切下げられて1㌦=218リエルとなったが,闇市場では225リエルであった。
DIA-202-1989-11-13-1カンボジア1989年11月13日1980年代1979年以後ソ連に3620人の学生が派遣され,うち1170人が学業を終え帰国した。また490人のソ連人専門家がカンボジアに派遣され,人材養成を担当した。
DIA-202-1989-11-14-1カンボジア1989年11月14日1980年代1986~90年にソ連はカンボジアに対して,人材養成・訓練の施設16ヵ所の建設を援助し,9500万ルーブルの信用供与を行なった。1987~90年にソ連は,コムポンソム港とプノンペン港の拡張工事に400万ルーブルを支出する予定。
DIA-202-1989-11-15-1カンボジア1989年11月15日1980年代米国務省の副報道官は,タイのステップ・バイ・ステップ政策は権力配分をどうするかを決め,また選挙を見守る公正な政府機構を樹立しないならば現政権を合法化するだけである,米国は包括的平和解決を支持すると語った。
DIA-202-1989-11-16-1カンボジア1989年11月16日1980年代国連総会は,カンボジア問題解決に関するASEAN決議案を賛成124(前年122),反対17(19),棄権12(13)で可決した。
DIA-202-1989-11-16-2カンボジア1989年11月16日1980年代バンコクのMatichon紙は,10月26日以来,2万3000人のベトナム軍兵士がパイリン地区,シソポン地区などの西部戦線に送られたとのプノンペン政府筋の言明を報道。同筋によるとプノンペン政府はこれらベトナム兵に傭兵として月1万リエル(約1200バーツ)を支払っている。
DIA-202-1989-11-17-1カンボジア1989年11月17日1980年代KPNLFのソンサン議長,DKのキューサンパン議長,シアヌーク派のラナリト殿下の3人は,インドネシアのアラタス外相の10月27日付メッセージに対する返書を発表。ベトナムの態度には変わりがない,話し合いはジャカルタ協議よりもパリ国際会議の枠内で行なわれるべきであると述べた。
DIA-202-1989-11-17-2カンボジア1989年11月17日1980年代ポルポト派軍,Phnum Malai基地を占領。
DIA-202-1989-11-24-1カンボジア1989年11月24日1980年代オーストラリアのエバンス外相は,カンボジアの国連での議席を空席にし,総選挙までの間国連の行政機関がカンボジアを統治するという新提案を明らかにした。
DIA-202-1989-11-26-1カンボジア1989年11月26日1980年代ソンサン派軍,Svay Chekを占領。
DIA-202-1989-12-02-1カンボジア1989年12月02日1980年代シアヌーク派とソンサン派,プノンペン政府軍に呼びかけ,以下のものを持って帰順してきた者には,それぞれ次のとおり米ドルあるいは金を与える。(1)M1-24ヘリコプター,4万㌦(90オンス),(2)その他の航空機,2万4000㌦(50オンス),(3)戦車,6000㌦(13オンス),(4)大砲,2000㌦(5オンス),(5)ベトナム兵,1000㌦(2オンス),
DIA-202-1989-12-04-1カンボジア1989年12月04日1980年代タイ軍事筋によるとプノンペン政府が西北部戦線において乾期反攻作戦を開始した。
DIA-202-1989-12-04-2カンボジア1989年12月04日1980年代ハンガリーとの間で1990年の物資交換支払い議定書が調印された。カンボジアはハンガリーへ,ゴム,大豆,ごま,黒こしょうなどを輸出し,薬剤原料,ワクチン,血清,電気製品などを輸入する。89年にカンボジアはハンガリーへ,ゴム1000㌧,大豆1200㌧,ごまを700㌧輸出し,化学製品200㌧を輸入した。
DIA-202-1989-12-07-1カンボジア1989年12月07日1980年代英国の外交官Andrew George一等書記官,プノンペンを訪問。
DIA-202-1989-12-09-1カンボジア1989年12月09日1980年代PRK国連の役割を受入れ。フンセン首相は,記者会見で次のジャカルタ非公式協議を早い時期に開催するとのタイのチャーチャーイ首相の提案を支持すると次のように述べた。外国からの軍事援助の停止と停戦を監視する国際監視機構の樹立について話し合う用意がある。ただし国連がその役割を引受けるには,カンボジアの議席を空席にし中立の立場をとらねばならない。内部問題についてはナミビア方式を討議したい。同時にオーストラリアのエバンス外相提案をも討議する用意がある。
DIA-202-1989-12-09-2カンボジア1989年12月09日1980年代CGDKの憲法第1次草案作成発表。この文書にはシアヌーク殿下,KPNLFのソンサン議長,DKのキューサンパン議長が1989年7月18日に合意署名している。主要点は以下のとおり。国名をカンボジア,仏教を国教とする。任期7年の大統領制,上下二院制,複数政党制。
DIA-202-1989-12-11-1カンボジア1989年12月11日1980年代シアヌーク殿下,国連の議席空席化案を拒否。
DIA-202-1989-12-12-1カンボジア1989年12月12日1980年代カンボジア外務省と協議のため来訪したソ連のロガチョフ外務次官は,12月9日のフンセン首相の新提案を意義あるかつ勇気ある譲歩だと評価し,これに対する支持を表明した。
DIA-202-1989-12-18-1カンボジア1989年12月18日1980年代タイのピチャイ副首相は,シアヌーク殿下はその頑固さと突飛な言動のために政権づくりから除外されるかも知れないと警告した。ピチャイ副首相は11月ベトナムを訪問した際,3派を一体とみなせば,プノンペン政権はクメール・ルージュの代表が政権に存在することに眼をつぶることができるという考えを伝えた。
DIA-202-1989-12-18-2カンボジア1989年12月18日1980年代N紙によると,プノンペンでは1バーツ=9.35リエル,1米㌦=248リエル,米1kg=32リエル,豚肉1kg=230リエル,鶏肉1kg=135リエル,鶏卵1個=9リエル。
DIA-202-1989-12-18-3カンボジア1989年12月18日1980年代BP紙によると,プノンペン政府は総選挙を組織する権利を国連に与えることを決定し,カンボジア議会の承認を待っている。フンセン首相は総選挙の後,二つの政府は同時に解体されること,総選挙の後成立した新政府が新国軍を設立するまで,各派は現状のままで停戦を守ることを提案した。
DIA-202-1989-12-25-1カンボジア1989年12月25日1980年代タイ・カンボジア国境で救援活動を行なっているUNBRO(United Nations Border Relief Operation)は,財政危機に直面している。1990年の予算は前年の5480万㌦とほぼ同じ5870万㌦でインフレを考慮すると減少である。現金支出をみると前年の3300万㌦から90年は2840万㌦に減少している。
DIA-202-1989-12-28-1カンボジア1989年12月28日1980年代SPK,チャウセスク独裁体制を打倒したルーマニア人民の勝利を喜ぶと論評。
DIA-202-1989-12-30-1カンボジア1989年12月30日1980年代シアヌーク殿下は『フィガロ』紙との会見でカンボジアが自由選挙の間国連の行政下に置かれることを条件に,国連の議席を空席にすることを受けいれると語った。