DIA-203-1969-01-06-1 | ラオス | 1969年01月06日 | 1960年代 | パテト・ラオ覚え書‐パテト・ラオは覚え書を発表し,アメリカは1968年11月1日以来,ラオスの解放区にたいする爆撃を強化していると非難した。 |
DIA-203-1969-01-14-1 | ラオス | 1969年01月14日 | 1960年代 | ビェンチャン近くの弾薬庫爆破‐ビェンチャン郊外で,政府軍の弾薬庫がパテト・ラオのゲリラ部隊によって攻撃され,大爆発を起こした。3分の1が破壊され,政府軍に3人の死者が出た模様である。 |
DIA-203-1969-01-15-1 | ラオス | 1969年01月15日 | 1960年代 | アメリカの広報センター破壊‐パテト・ラオのゲリラ隊はビェンチャン北東のムオンカン地区にあるアメリカ広報センターを奇襲,破壊した。 |
DIA-203-1969-01-16-1 | ラオス | 1969年01月16日 | 1960年代 | ラオス政府,パテト・ラオ代表部のビェンチャンからの退去を要請‐ラオス外務省は,国際監視委員会に対してパテト・ラオ代表部をビェンチャンから退去させるよう要請した。要請書は「南部ラオスのタテンにたいする共産側の攻撃,ビェンチャン郊外の弾薬倉庫爆破などのため,ラオス政府はペトラン代表およびその部下を民衆のデモから保護することはできない」と述べている。 |
DIA-203-1969-01-18-1 | ラオス | 1969年01月18日 | 1960年代 | 愛国戦線抗議‐愛国戦線は代表団の引揚げ要請にたいし,つぎのように声明した。 (1)ビェンチャンの愛国戦線代表団は,1962年6月ラオス3派の協定にもとづいて設置された。 (2)プーマをかしらとする現政権はアメリカのかいらい政権であり,愛国戦線代表団引揚げを要請するなんの資格も持っていない。 (3)アメリカとそのかいらいは代表団の安全を保障しなければならないし,かれらの新たな挑発・妨害行為から生じるすべての重大な結果について責任を負わなければならない。 |
DIA-203-1969-01-20-1 | ラオス | 1969年01月20日 | 1960年代 | ラオス人民解放軍創立20周年 |
DIA-203-1969-01-28-1 | ラオス | 1969年01月28日 | 1960年代 | ソ連外相,アメリカの干渉を非難一グロムイコ・ソ連外相はアメリカはラオスにおける軍事行動を強化し,ベトナムに平和をもたらす努力に好ましくない雰囲気をつくりだしていると非難した。 |
DIA-203-1969-01-31-1 | ラオス | 1969年01月31日 | 1960年代 | ソ連大使,解放区ヘ-ミニン駐ラオスソ連大使は北東ラオスのサムネワへ出発した。同大使はハノイからサムネワに行くことになっている。 同大使はスファヌボン・パテト・ラオ議長へのプーマ首相の親書を携行している。 |
DIA-203-1969-02-07-1 | ラオス | 1969年02月07日 | 1960年代 | 中国外交官帰任-駐ラオス中国大使館参事官岳泰恒氏は,2年ぶりにビエンチャンに帰任した。 |
DIA-203-1969-02-11-1 | ラオス | 1969年02月11日 | 1960年代 | パテト・ラオは王都ルアン・プラバン飛行場を攻撃し,T-28型飛行機18機を破壊した。 |
DIA-203-1969-02-12-1 | ラオス | 1969年02月12日 | 1960年代 | アメリカの爆撃を公認-プーマ首相は米国機がラオス領内の北ベトナム軍集結地域を爆撃していることを初めて公式に確認,つぎのように述べた。 われわれは,北ベトナムがラオス領内への浸透を倍増している事実に注視している。しかしわが政府軍の力は北ベトナム軍の攻撃を押えるのに十分である。昨年のような激しい北ベトナム軍の攻勢はないだろう。したがって外国軍の介入を要請する必要はない。われわれはこの数年,外国軍の介入を回避するため努力してきたし,今後もそれを避けたいと希望している。 |
DIA-203-1969-02-14-1 | ラオス | 1969年02月14日 | 1960年代 | ミニン・ソ連大使,ビェンチャンヘ帰着。 |
DIA-203-1969-02-16-1 | ラオス | 1969年02月16日 | 1960年代 | "1969会計年度の前半(7月1日~12月31日)の歳入は27億4300万キップであった。内訳はつぎのとおり。 1968年7月 270,275,280キップ 8月 323,135,884 9月 366,963,934 10月 982,192,170 11月 415,917,321 12月 384,540,042 計 2,743,024,631" |
DIA-203-1969-02-19-1 | ラオス | 1969年02月19日 | 1960年代 | アメリカ空軍の爆撃強化-テト休戦中,アメリカ空軍はラオスにおける爆撃を強化した。休戦中30機のB-52は10回出撃し,さらに300~400機の戦闘爆撃機がこれに参加した。昨年の11月1日の北爆停止以来,ラオスにおける空爆は北爆と同じ程度に強化され,アメリカ軍は75機を失っている。 |
DIA-203-1969-03-02-1 | ラオス | 1969年03月02日 | 1960年代 | ナカン陥落-ビェンチャン北東約530キロの政府軍前進拠点ナ・カン(サムネワ省)が,パテト・ラオの攻撃を受けて占領され,政府軍約50人が負傷,数人が戦死した。 同地区の行政,軍事責任者フアン・シハラート中佐も戦死した。ナカンはサムネワ省の行政軍事の中心地である。約150人の将兵が行方不明となった。 |
DIA-203-1969-03-03-1 | ラオス | 1969年03月03日 | 1960年代 | ナムグム・ダム攻撃-ナムグム・ダム西方3.2キロにある間組の機械置場がパテト・ラオの攻撃を受け,ブルドーザー,パワーショベル,ダンプ,クレーンなど機械設備の50%が破損した。 |
DIA-203-1969-03-04-1 | ラオス | 1969年03月04日 | 1960年代 | 日本大使館は,ラオス外務省に警備強化を申し入れた。 |
DIA-203-1969-03-10-1 | ラオス | 1969年03月10日 | 1960年代 | アメリカ軍のラオス立入りを認む-レアード国防長官は,作戦行動中アメリカ軍がラオス領に立ち入ったかもしれないことを認め「これはアメリカ軍を保護するためであって,エスカレーションとは考えない」と語った。 |
DIA-203-1969-03-11-1 | ラオス | 1969年03月11日 | 1960年代 | ルアンプラバン空港襲撃-ルアンプラバン空港が襲撃され,飛行機3機が破壊され,4人の兵士が死亡,9人が負傷した。 |
DIA-203-1969-03-11-2 | ラオス | 1969年03月11日 | 1960年代 | ラオス外務省声明-アメリカ海兵隊のラオス国境侵犯についてつぎのような声明を発表した。 ラオス政府はベトナム戦争をラオス領に拡大することを許さない。サリバン駐ラオスアメリカ大使は,事件後ただちにプーマ・ラオス首相に対し遺憾の意を表明,米国は今後ラオス領に対する敵対行為の拡大を避けるべく努力することを約した。 |
DIA-203-1969-03-13-1 | ラオス | 1969年03月13日 | 1960年代 | スフアヌボン愛国戦線議長,ベトナムとの国際連帯週間に当り,北ベトナム,南ベトナム解放戦線支持を表明。 |
DIA-203-1969-03-13-2 | ラオス | 1969年03月13日 | 1960年代 | ラオス王国軍参謀長ウドン・サナニコンは,警察軍司令官とともに,3週間の予定で米国視察旅行に出発した。 |
DIA-203-1969-03-17-1 | ラオス | 1969年03月17日 | 1960年代 | ビェンチャンで反パテト・ラオのピラ-ビェンチャンでラオス愛国戦線と北ベトナム代表部の追放を要求するビラが撒かれた。パテト・ラオ代表部は1月20日以来封鎖され,外界との接触を断たれている。 |
DIA-203-1969-03-18-1 | ラオス | 1969年03月18日 | 1960年代 | ウイリアム・H・サリバン,ラオス駐在米大使転任のため帰国。 |
DIA-203-1969-03-21-1 | ラオス | 1969年03月21日 | 1960年代 | レアード国防長官はアメリカ上院軍縮分科委員会での質問に答え,南ベトナムのアメリカ軍司令官は1965年以来「保護的対応措置」として,ラオス領内にはいって作戦する権限を与えられていると語った。 |
DIA-203-1969-03-23-1 | ラオス | 1969年03月23日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線,ラオスに北ベトナム軍が侵入しているとのプーマ首相の主張に反論声明を発表。 |
DIA-203-1969-03-23-2 | ラオス | 1969年03月23日 | 1960年代 | ラオス王国軍創立19周年 |
DIA-203-1969-03-27-1 | ラオス | 1969年03月27日 | 1960年代 | パリ会談にラオス・カンボジアの参加を-フアム・ダン・ラム南ベトナム政府首席代表は27日のパリ会談で「北ベトナム軍は南ベトナムからだけでなく,ラオス,カンボジアからも撤退すべきだ」と要求した。ロッジ米首席代表は「少なくとも4万人の北ベトナム軍がラオスに展開し戦闘したり,もしくはラオス問題の妨害をしている。北ベトナム軍はまたカンボジアの領土主権を侵犯している」と述べた。 |
DIA-203-1969-03-28-1 | ラオス | 1969年03月28日 | 1960年代 | パテト・ラオ大攻勢-27日夜からラオス南部および中央部で大攻勢を開始した。南部ではサラバン,アトップおよびボロベン高原のラオス政府軍基地に対して,パテト・ラオ軍はまず砲撃を行なったのち,歩兵部隊による地上攻撃を加えた。中部では政府軍第2軍管区司令部の所在地であるサムトン東方25キロのコソムの陣地に,85ミリ,100ミリ砲300発以上を撃ちこんだ。 |
DIA-203-1969-03-30-1 | ラオス | 1969年03月30日 | 1960年代 | ルアンプラバン放送中継局完成-コロンボ計画に基づきオーストラリア,英国,西ドイツの援助で総額50万ドル相当の放送中継局が完成した。 |
DIA-203-1969-03-31-1 | ラオス | 1969年03月31日 | 1960年代 | サイゴンのアメリカ筋は,北ベトナムから南ベトナムヘの補給を監視するため,5人から10人の海兵隊員,特殊部隊員で構成されるチームを,ラオス領内にいれていると言明した。 |
DIA-203-1969-03-31-2 | ラオス | 1969年03月31日 | 1960年代 | アメリカ国務省東南アジア担当国務次官補マーシャル・グリーンは,ラングーンよりビェンチャンに到着した。 |
DIA-203-1969-04-01-1 | ラオス | 1969年04月01日 | 1960年代 | 議員連盟に3閣僚参加-新しく成立した,ジュネーブ協定実施のための議員連盟に3閣僚が参加を表明した。 |
DIA-203-1969-04-10-1 | ラオス | 1969年04月10日 | 1960年代 | ビェンチャンの北約34キロのタゴン農業学校建築現場で,フランス人5人(援助使節団)が射殺された。ラオス政府筋はパテト・ラオの仕業だと言明している。 |
DIA-203-1969-04-20-1 | ラオス | 1969年04月20日 | 1960年代 | プーマ首相,北ベトナム軍がラオス領にいる限り,爆撃を停止するわけにはいかないと言明。 |
DIA-203-1969-04-24-1 | ラオス | 1969年04月24日 | 1960年代 | 政府軍シエン・クワンを再占領一メオ族のバン・パオ(Vang Pao)将軍にひきいられたラオス政府軍は,1964年以来パテト・ラオの支配下にあった,シエン・クワンを奪回した。 |
DIA-203-1969-04-24-2 | ラオス | 1969年04月24日 | 1960年代 | タケク孤立-ビエンチャンからサバナケットにたる13号道路が寸断されたため,ラオス政府は,タケクの補給をタイ領を経由して行なうことについて,タイ政府に協力を要請した。 |
DIA-203-1969-05-03-1 | ラオス | 1969年05月03日 | 1960年代 | 政府軍,ジャール平原の要衝を奪回-政府軍はジャール平原のムオンガンおよびムオンフアンをパテト・ラオの手から奪回した。 |
DIA-203-1969-05-04-1 | ラオス | 1969年05月04日 | 1960年代 | 政府軍大打撃を受く-パテト・ラオの春の攻勢で,政府軍は各地で大打撃を受けた。 サムネワ省は下ほとんどパテト・ラオの支配下におかれた。 ベン渓谷も占領され,パトテ・ラオはメコン河に戦略的要地を獲得した。 政府軍は首都北西50キロのボリカン高地,ビェンチヤン平原を失った。 北部ラオスで25ヵ所の陣地が陥落した。 ビェンチャンと南部ラオスの諸省とを結ぶ,13号道路が全面的に使用不能になり,橋13ヵ所が破壊された。 サラバンとアトプが包囲され,孤立した。 |
DIA-203-1969-05-08-1 | ラオス | 1969年05月08日 | 1960年代 | 駐ラオス,アメリカ大使にゴッドレイ氏任命。 |
DIA-203-1969-05-09-1 | ラオス | 1969年05月09日 | 1960年代 | 北ベトナム大使帰任-レ・バン・ビエン駐ラオス北ベトナム大使はビェンチャンに帰任し,ラオス当局に対しバッタナ国王との会見を申し入れた。 |
DIA-203-1969-05-12-1 | ラオス | 1969年05月12日 | 1960年代 | 北ベトナムのホー大統領は,バッタナ国王への新年のメッセージの中で「北ベトナムは1962年のジュネーブ協定を尊重し,平和,中立,国民融和の政策を全面的に支持する」ことを約束した。 |
DIA-203-1969-05-12-2 | ラオス | 1969年05月12日 | 1960年代 | 下院議長に,フーイ・サナニコン再選-元ラオス首相,ビェンチャンの最も大きな旧家の一つの出身であるフーイ・サナニコンがラオス下院議長に再選された。現在代議士であるかれの3兄弟の1人フェン・サナニコンと競争し39対4票で当選確定,他に13票の白票と3名の欠席者があった。またシエン・クワン出身の代議士で,元外務大臣のソプサイサナ殿下は,53対3票で副議長に再選された。 |
DIA-203-1969-05-13-1 | ラオス | 1969年05月13日 | 1960年代 | ソ連のアジア担当外務次官カピッツアはプーマ首相と会談。レ・バン・ヒエン大使もプーマ首相と会談。 |
DIA-203-1969-05-13-2 | ラオス | 1969年05月13日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線中央委員会,南ベトナム解放民族戦線提案10項目のベトナム問題解決案支持を声明。 |
DIA-203-1969-05-17-1 | ラオス | 1969年05月17日 | 1960年代 | 愛国戦線中央委覚え書ーラオス愛国戦線中央委員会は,過去5年間の解放区にたいするアメリカの爆撃についての覚え書を発表し,アメリカがラオス解放区爆撃を無条件に停止するよう要求した。 |
DIA-203-1969-05-20-1 | ラオス | 1969年05月20日 | 1960年代 | プーマ首相は記者会見で,北ベトナム軍が撤退すれば爆撃を停止し,南ベトナム解放民族戦線の10項目提案も支持すると言明した。また北ベトナム軍が徐々に撤退すれば,爆撃を減らすとも言明。 |
DIA-203-1969-05-21-1 | ラオス | 1969年05月21日 | 1960年代 | SEATO会議コミュニケ-第14回SEATO会議はラオス情勢に重大な関心を示し,北ベトナムはラオス領を使って,南ベトナムとタイに侵透していると非難した。 |
DIA-203-1969-05-25-1 | ラオス | 1969年05月25日 | 1960年代 | パテト・ラオ,シエン・クワンを奪回 |
DIA-203-1969-05-25-2 | ラオス | 1969年05月25日 | 1960年代 | 約150人の中立派軍が政府軍に参加。 |
DIA-203-1969-05-29-1 | ラオス | 1969年05月29日 | 1960年代 | プーマ首相は国会での演説で,ラオスの戦争で難民が60万に達している,今年の予算支出は約3400万ドルになろうと述べた。 |
DIA-203-1969-05-31-1 | ラオス | 1969年05月31日 | 1960年代 | ワーナーイギリス外務省外務次官補ビェンチャンに到着。 |
DIA-203-1969-06-01-1 | ラオス | 1969年06月01日 | 1960年代 | プーマ首相,議会で信任投票を求む-右派からの批判に対抗して,プーマ首相は信任投票を求めた。同首相は賛成29,棄権10で信任を獲得したが,右派はつぎのように草案修正に成功した。 原案は国民共同体に復帰すべきものとして,パテト・ラオのみをあげていたが,最終草案は左派と同じく反政府の右派をも復帰すべきものにあげている。これは右派が現在タイに亡命中のプーミ・ノサバンの復帰を望んでいることを示している。 |
DIA-203-1969-06-08-1 | ラオス | 1969年06月08日 | 1960年代 | キューバのルイス・ペレス軍事代表は6月4日から8日までラオス解放区を訪問した。 |
DIA-203-1969-06-11-1 | ラオス | 1969年06月11日 | 1960年代 | 王都ルアンプラバンとビェンチャンを結ぶハイウェイが,アメリカの援助で完成した。 |
DIA-203-1969-06-11-2 | ラオス | 1969年06月11日 | 1960年代 | ラオス愛国中立勢力行動綱領-ラオスの愛国的中立勢力は行動綱領を発表した。行動綱領はアメリカとその手先の特殊戦争を完全に失敗させ,独立した平和な中立のラオスを実現するため,民族的和合と国の統一を実現するため,中立勢力は愛国戦線と協力して奮闘することを明らかにしている。また愛国中立勢力は,スバナ・プーマ殿下のいわゆる「中立勢力」を認めない。彼は国と人民の裏切者であると非難している。 |
DIA-203-1969-06-12-1 | ラオス | 1969年06月12日 | 1960年代 | プーマ首相はアメリカの飛行機が,ラオス領内で爆撃を行なっていることを認め,北ベトナムがラオス領内の基地と浸透ルートを使用するかぎり,爆撃は続けられようと語った。 |
DIA-203-1969-06-14-1 | ラオス | 1969年06月14日 | 1960年代 | 米国筋は,「米国はラオス政府の近代武器供与の要請を検討の結果,M16型ライフル銃4000挺をラオス王国政府に供与することに決め,目下これを船積み中である」と伝えた。 ラオス政府が現在使用中の武器は,パテト・ラオや北ベトナム兵のものよりも旧式で性能が悪いといわれる。また米国政府にAC47型砲術練習艦“スピーキー”を供与することを検討中であるといわれている。 |
DIA-203-1969-06-18-1 | ラオス | 1969年06月18日 | 1960年代 | 政府軍,タ・トムを奪回一タ・トムは1年来パテト・ラオによって占領されていたが,空軍の援助により政府軍は奪回に成功した。 |
DIA-203-1969-06-20-1 | ラオス | 1969年06月20日 | 1960年代 | 駐ラオス新南ベトナム大使ホアン・コ・トイ(Hoang-co-Thny)氏が着任した。 |
DIA-203-1969-06-20-2 | ラオス | 1969年06月20日 | 1960年代 | プーマ首相,パリ,ロンドンへ出発。 |
DIA-203-1969-06-28-1 | ラオス | 1969年06月28日 | 1960年代 | 政府軍,ムオンスイを撤退。 |
DIA-203-1969-06-28-2 | ラオス | 1969年06月28日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線代表団,ルーマニアで共同コミュニケ発表-ルーマニア滞在の愛国戦線代表団は,マウレル・ルーマニア共産党執行委員,常任幹部会員,ルーマニア社会主義共和国閣僚会議議長を含むルーマニア共産党中央委員会と国家機関の代表によって歓迎された。 愛国戦線代表団は,ルーマニア共産党執行委員候補,中央委書記ミハイ・ジエラを団長とする共産党代表と会談を行ない,共同の関心のある諸問題につき一致した意見をのべた。 ルーマニア側は15年にわたるアメリカ帝国主義の新植民地主義侵略戦争,とくにラオス人民に対する米空軍の爆撃を糾弾し,ラオス人民の抗米救国闘争に偉大な連帯と深い共鳴を表明した。 |
DIA-203-1969-07-03-1 | ラオス | 1969年07月03日 | 1960年代 | ムオンスイ奪回に政府軍出撃-ラオス政府は1週間前パテト・ラオ軍の手に落ちたムオンスイ奪回のため,反撃を開始し,すでに7号道路と13号道路の交差する地点の掃討を終ったといわれる。 |
DIA-203-1969-07-05-1 | ラオス | 1969年07月05日 | 1960年代 | 5ヵ年計画延期か一チヤンピアナポン財務長官はタイを訪問中「ラオス最初の経済開発5ヵ年計画は来月開始の予定であったが,資金難のため来年1月まで実施を延期することになろう」と語った。 |
DIA-203-1969-07-07-1 | ラオス | 1969年07月07日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線代表団,東欧,ソ連を友好訪問-チャオ・スーク・ボンサク愛国戦線中央委員を団長とする代表団はソ連,ルーマニア,東ドイツ,ブルガリア,チェコスロバキアの東欧諸国を訪問した。 |
DIA-203-1969-07-10-1 | ラオス | 1969年07月10日 | 1960年代 | ベトナム共和国のホアン・コ・トイ大使国王に信任状呈出。 |
DIA-203-1969-07-10-2 | ラオス | 1969年07月10日 | 1960年代 | 英国はラオス国営ラジオ放送局設置に1万ポンドを援助。 |
DIA-203-1969-07-11-1 | ラオス | 1969年07月11日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線中央委員会覚え書-愛国戦線中央委員会はラオス3派連合政府8周年および1962年のジュネーブ協定7周年にさいして覚え書を発表した。 この中で現ピェンチャン政権はラオスにおけるアメリカの特殊戦争の道具であり,プーマ首相は国と人民を裏切りアメリカの道具となったと述べている。そしてラオス愛国戦線と愛国中立勢力こそラオス人民の民族的利益の真の代表者である。したがってラオス問題は1962年のジュネーブ協定と,現在のラオスの現実の情勢とにもとづいて解決されなければならないと強調している。 |
DIA-203-1969-07-17-1 | ラオス | 1969年07月17日 | 1960年代 | 政府軍ムオンスイ奪回を放棄-ウドン・サナニコン参謀総長は奪回作戦をおこなっていた政府軍降下部隊400人は,60台余のソ連製PT-6型戦車をともなった1500人の北ベトナム軍の攻撃を受け,ムオンスイを撤退したと発表した。 またこの奪回作戦に参加した米アメリカの戦闘爆撃機2機,ヘリコプター2機が共産側の対空砲火で撃墜された。 |
DIA-203-1969-07-18-1 | ラオス | 1969年07月18日 | 1960年代 | パテト・ラオ放送によると,解放区では317の村で文盲排除計画が基本的に達成された。また1968-69学年度の学生総数は前年に比して11%増加した。 |
DIA-203-1969-07-24-1 | ラオス | 1969年07月24日 | 1960年代 | プーマ首相,ポンピドー大統領と会談し,フランスがジュネーブ協定に基づき,ラオスの紛争解決に乗り出すよう要請した。 |
DIA-203-1969-07-24-2 | ラオス | 1969年07月24日 | 1960年代 | パテト・ラオ軍,ナムグム・ダム建設地近くの政府軍陣地を攻撃,このためダム建設に従事している日本人技術者,タイ人技術者はビェンチャンに避難した。 |
DIA-203-1969-07-25-1 | ラオス | 1969年07月25日 | 1960年代 | プーマ首相ハノイを非難-パリでプーマ首相は,記者会見を行ない,ハノイはラオスを植民地化し,衛星国にしようとつとめていると非難し,世界各国,特にラオス中立に関する62年のジュネーブ協定調印国に対し“北ベトナムの侵透を阻止し,平和を回復するよう”要請した。 また同首相はこの記者会見で米軍のラオス駐留を否定した。 記者会見の内容は次の通りである。 北ベトナムは,南ベトナムに向っている部隊および休暇中の部隊員を除き,ラオスに6万の戦闘部隊を駐留させている。これは,昨年の水準よりも2万人多い。 私はラオス首相兼国防相として,ラオス駐留北ベトナム部隊に対する米国の爆撃を中止させない。 また24日,パリ和平会議の北ベトナム首席代表スアン・トイがラオスには米軍部隊1万2千人が常駐していると言明したのを論評し,全くの虚偽であり,疑う者は自らやって来て実情をみるよう招請すると述べた。 ナムグム・ダム攻撃にも関連してハノイはラオスの経済を破壊しようとつとめている。共同議長国である英ソ両国は,ラオスの情勢に対し,他の調印国の注意を喚起させるべきである。 |
DIA-203-1969-07-29-1 | ラオス | 1969年07月29日 | 1960年代 | 解放区の医療網-ラオス解放区には,広範な医学校網が設立されている。 その中には,中央水準のもの1校と地方水準のもの3校がある。これには人民解放軍によって運営されている医学校は含まれない。 各州は現在各々中級の医学校をもっている,解放区の3分の1は看護婦養成学校をもっている。昨年各種の水準の約1400名の医療工作者が卒業した。医療網は,現在300余村にわたっている。42の村は応急治療のため衛生ポストをもっている。下部ラオスでは現在40の州立あるいは県立病院があり,平均435名の住民に一つのベッドを提供している。この種のものとしてラオス最初の40べッドのライ・サナトリウムが昨年設立された。このほか数千名にのぼる衛生工作者が解放された農村で活動し,さらに辺ぴな地域あるいは新たに解放された地域では,13の移動医療チームが活動している。 |
DIA-203-1969-07-30-1 | ラオス | 1969年07月30日 | 1960年代 | 英外務省はメッセージを送り北ベトナムの侵略によって,ラオスの平和が脅かされていることについて,1962年のジュネーブ協定調印諸国の注意を喚起した。この措置は6月30日のラオス政府の提訴に基づくものであり,6月30日,7月17日のソ連政府に対する共同行動の呼びかけが失敗に終った結果,英国が単独でとったものである。 |
DIA-203-1969-07-31-1 | ラオス | 1969年07月31日 | 1960年代 | 駐カンカイ中共経済文化代表団は,中国人民解放軍42周年記念レセプションを開いた。ラオス人民解放軍シエンクアン司令官シンカポ将軍,愛国中立勢力司令官ズアン大佐ほかが出席。 |
DIA-203-1969-08-01-1 | ラオス | 1969年08月01日 | 1960年代 | ラオス愛国戦線代表団,ウランバートル訪問。 |
DIA-203-1969-08-04-1 | ラオス | 1969年08月04日 | 1960年代 | パテト・ラオのゲリラ,ビエンチャン郊外のワッタイ空港を攻撃。 |
DIA-203-1969-08-05-1 | ラオス | 1969年08月05日 | 1960年代 | 2名のアメリカ人平和部隊暗殺-ビエンチャン東方3キロのパクセへの道路で,パテト・ラオ部隊のロケット砲撃を受け,2名のアメリカ平和部隊員と,ラオス人の獣医2名が死亡した。 |
DIA-203-1969-08-08-1 | ラオス | 1969年08月08日 | 1960年代 | アンザス理事会,ラオスの軍事情勢に懸念を表明。 |
DIA-203-1969-08-09-1 | ラオス | 1969年08月09日 | 1960年代 | 通貨安定基金拠出年次協定更新-アメリカ,イギリス,フランス,日本,オーストラリアは60年度拠出額をつぎのとおり決定した。アメリカ,1610万ドル,フランス,日本各170万ドル,イギリス,71万ポンド,オーストラリア72万ドル。 |
DIA-203-1969-08-10-1 | ラオス | 1969年08月10日 | 1960年代 | アメリカ国防省,北爆停止以来ラオスを集中的に爆撃していると声明,北爆停止以前の月間延べ出撃回数は4700回であったが,1968年11月には1万2800回,12月には1万5000回,本年1月には1万4000回となり,それ以後1万2500回となっている。 |
DIA-203-1969-08-10-2 | ラオス | 1969年08月10日 | 1960年代 | 政府軍,シエン・デットの陣地を放棄-ビエンチャンの北方150キロのシエン・デット(Xieng-Det)陣地を政府軍が放棄した。 この陣地は,ムオン・スイ基地から南西30キロにあり1個大隊の政府軍で防備され,なお6月末よりパテト・ラオ部隊に包囲されていた。 シエン・デットの陥落は,ムオン・スイの陥落後の主要な要衝であるバン・ビエンヘのパテトラオ軍の前進を示している。 |
DIA-203-1969-08-10-3 | ラオス | 1969年08月10日 | 1960年代 | 駐ラオス・北ベトナム大使館員5人と報導関係者1人計6人が,ラオス領から退去命令を受けた。 |
DIA-203-1969-08-11-1 | ラオス | 1969年08月11日 | 1960年代 | 北ベトナム,ラオスに抗議-北ベトナム外務省は,ラオス・ビェンチャン駐在の北ベトナム大使館員に対するビェンチャン政権の不法行為に抗議して,要旨次のような声明を発表した。 ビェンチャン政権は,9日,外交官ナンバーをつけた車に乗っていた北ベトナムの外交官2人,大使館員3人およびベトナム通信ビェンチャン特派員を計画的に2度も逮捕,尋問,虐待した。 同政権は,故意に交通事故を起したうえ,この事故がラオス政府に対して向けられた行為である証拠を発見したと言明した。これは厚かましい挑発行為である。 ベトナム民主共和国外務省は,6人の即時釈放と損害賠償,わが大使館員の正常な活動を保証することを要求する。 |
DIA-203-1969-08-14-1 | ラオス | 1969年08月14日 | 1960年代 | "1969-1970年度予算提出(単位千キップ) 歳出 17,343,601 歳入 8,543,601 赤字 8,800,000 赤字は,外国援助ならびに経済安定基金の商品援助でまかなわれる。 国家予算として始めて4億1800万キップを経済発展費として特に項目を計上したことは注目すべきである。 財務大臣は,政府の予算作製が困難であり,またその大部分が軍事予算に費されている旨を強調し,昨年度政府軍援助のための予備軍設置,飛行場守備のため周囲に囲いをこしらえるなど不時の支出により,予算管理の点で混乱をきたしたことを国会で報告した。 しかし,この赤字財政にもかかわらず,この5年間で収入が35億キップから85億キップに増大した点など,政府がいくらか好転のきぎしを認めていることを明らかにし,1970年度からは,軍人,官公吏の給料はわずかではあるが増額すると述べた。 また新しい税金徴収についての質問に,我が国の発展,国際上の見地からいってもこれは止むを得ないと答えた。" |
DIA-203-1969-08-16-1 | ラオス | 1969年08月16日 | 1960年代 | 駐ラオス米大使ゴッドレイ(Godley)氏信任状を呈出。 |
DIA-203-1969-08-22-1 | ラオス | 1969年08月22日 | 1960年代 | 中立派軍司令官にセンスバン・スバナラート(Sengsouvang Souvannarath)大佐を任命。元司令官ソンフェト・ソトサバン(Somphet Sotsavan)大佐は6月のムオン・スイ陥落の責任をとって副司令官に降等。 |
DIA-203-1969-08-24-1 | ラオス | 1969年08月24日 | 1960年代 | メコン委員会,ナムグム・ダム建設現場の周辺を中立地帯にすることを提唱。 |
DIA-203-1969-08-24-2 | ラオス | 1969年08月24日 | 1960年代 | マンスフィールド米上院議員,ラオス訪問。 |
DIA-203-1969-08-29-1 | ラオス | 1969年08月29日 | 1960年代 | ラオス国家計画評議会,第1次5ヵ年計画を承認。 |
DIA-203-1969-09-03-1 | ラオス | 1969年09月03日 | 1960年代 | ビェンチャン地区の収穫は洪水のため20~25%の被害を受けた。Sayfong,Ban Hom,Sithane Tayでは収穫の80%が被害を受けた模様。 |
DIA-203-1969-09-04-1 | ラオス | 1969年09月04日 | 1960年代 | アメリカ,スリサボン・ボン病院(200ベッド)を贈与。 |
DIA-203-1969-09-08-1 | ラオス | 1969年09月08日 | 1960年代 | 政府軍,ムオン・フィンを占領。 |
DIA-203-1969-09-13-1 | ラオス | 1969年09月13日 | 1960年代 | ウ・タント国連事務総長,ナム・グム・ダムの重要性を強調。 |
DIA-203-1969-09-14-1 | ラオス | 1969年09月14日 | 1960年代 | サヤブリでパテト・ラオ政府軍を待伏せ攻撃し,7人死亡,7人負傷。 |
DIA-203-1969-09-14-2 | ラオス | 1969年09月14日 | 1960年代 | 予算承認ー下院は1969-70年度予算を承認した。歳出179億6447万1000キップで,うち国防費が85億,警察費12億0300万キップである。歳入は85億4360万1000キップである。 |
DIA-203-1969-09-16-1 | ラオス | 1969年09月16日 | 1960年代 | ラオ語放送始まる。 |
DIA-203-1969-09-16-2 | ラオス | 1969年09月16日 | 1960年代 | ラオス政府軍,パテト・ラオのビェンチャン代表部を包囲。 |
DIA-203-1969-09-17-1 | ラオス | 1969年09月17日 | 1960年代 | フランス軍事使節団長に任命されたFrancois Joseph Wagner 少将,ビェンチャン到着。 |
DIA-203-1969-09-17-2 | ラオス | 1969年09月17日 | 1960年代 | アメリカ上院,ラオスとタイヘの介入に警告-アメリカの上院は,アメリカのラオスとタイに対する軍事援助が物質的,技術的なものに限られ,直接的援助でないことを規定した決議案を採択した。 |
DIA-203-1969-09-18-1 | ラオス | 1969年09月18日 | 1960年代 | 米軍,ラオス軍への支援を認める-米国務省スポークスマンは,ラオス王国軍がラオス北部のジャール平原と南部の9号道路沿いで軍事攻勢に出ていることを明らかにするとともに,米国がラオス王国軍に軍事援助を与えていることを認めた。 |
DIA-203-1969-09-24-1 | ラオス | 1969年09月24日 | 1960年代 | 国務省はラオスにはアメリカ政府職員500人,援助関係の雇用者330人,その家族1300人のアメリカ人が居留していると発表した。 |
DIA-203-1969-09-27-1 | ラオス | 1969年09月27日 | 1960年代 | 政府軍,カンカイなどを再占領-プーマ首相は政府軍が中部のムオンフィン,北部シェンクワン省のカンカイ,ジャール平原,フォンサバン,シェンクワンなどを占領したことを確認した。 |
DIA-203-1969-09-30-1 | ラオス | 1969年09月30日 | 1960年代 | プーマ首相,日本訪問-プーマ首相は国連総会出席の途中,日本に立ち寄り,佐藤首相,愛知外相とベトナム情勢を中心に両国間の経済問題について会談し,日本がラオスの為替安定基金への拠出額を,大幅に増額してほしいと要請した。 |
DIA-203-1969-10-06-1 | ラオス | 1969年10月06日 | 1960年代 | 政府軍,パテト・ラオ拠点を奪取一政府軍はアメリカ空軍の援護を受けて中部ラオスのサラバン北方60キロのバン・ツムランを占領した。また,中部のムオン・フィン南方20キロのバン・サンを再占領した。 |
DIA-203-1969-10-07-1 | ラオス | 1969年10月07日 | 1960年代 | プーマ首相,ニクソン大統領と会談,軍事援助増額を要請。 |
DIA-203-1969-10-11-1 | ラオス | 1969年10月11日 | 1960年代 | パテト・ラオ雨季戦果を発表-6月から始まった雨期の最初の4ヵ月間にパテト・ラオ軍は敵軍5000を戦闘不能にした。 |
DIA-203-1969-10-11-2 | ラオス | 1969年10月11日 | 1960年代 | 中国,ラオス革命記念日に祝電-周恩来中国首相は,ラオス愛国戦線党中央委議長スフアヌボン殿下に,ラオス革命24周年の祝電を送り,中国人民は,アメリカ帝国主義とタイ反動派のラオス侵入に反対するラオス人民がこの正義の闘争を断固支持し,ラオス人民がこの抗米救国戦争を,最後まで推し進めるのを支持すると述べた。 |
DIA-203-1969-10-16-1 | ラオス | 1969年10月16日 | 1960年代 | カナダ,ICC代表引揚げ-ラオス国際監視委員会のカナダ代表は,ラオスからカナダ代表を引き揚げると通告した。この決定は,カナダの国内間題であり,とくに財政事情によるものとみられている。 |
DIA-203-1969-10-17-1 | ラオス | 1969年10月17日 | 1960年代 | 愛国戦線党代表団中国訪問-チャオ・スーク・ボンサク・ラオス愛国戦線党中央委員を団長とし,ニアブ・ラオス愛国戦線党中央委員・シェンクワン州委員会議長を副団長とする愛国戦線党代表団は,中国友好訪問のため北京に到着した。 |
DIA-203-1969-10-20-1 | ラオス | 1969年10月20日 | 1960年代 | 米上院でラオス作戦聴聞会開始。 |
DIA-203-1969-10-22-1 | ラオス | 1969年10月22日 | 1960年代 | 愛国戦線,アメリカ軍の介入を非難-プーミ・ボンビチット愛国戦線党書記長はジュネーブ会議の共同議長国および参加国に覚え書を送り,ラオスに対するアメリカ帝国主義の介入が強まっていることを非難した。覚え書は軍事顧問2000人,軍人1万2000人のアメリカ人がラオスに駐留しているとしている。 |
DIA-203-1969-10-23-1 | ラオス | 1969年10月23日 | 1960年代 | ナム・グム・ダム建設現場保護のため,ラオス軍出動。 |
DIA-203-1969-10-29-1 | ラオス | 1969年10月29日 | 1960年代 | アメリカのラオス援助-フルブライト米上院外交委員長は,ワシントンポスト紙記者とのインタビューにおいて「米国は3万6000人のラオス人部隊を武装し,訓練し,輸送するため,年間約1億5000万ドルを使い,本格的な作戦を行なっている。またタイに基地を持つ米空軍が,これら部隊に大規模な支援活動を行なっている」と述べた。 |
DIA-203-1969-10-29-2 | ラオス | 1969年10月29日 | 1960年代 | ラオス人民解放軍の八つの規律-ラオス人民解放軍は解放軍の守るべき規律としてつぎの8項目を発表した。 (1)戦時においても平和時においても上級の命には絶対に従うこと。 (2)他民族の財産を取ってはならないが,武器と装備はいつでも使えるようにしておくこと。 (3)あらゆるものを清潔にしておくこと。病気を根絶し,井戸,水道,住居をよごしてはならない。 (4)すべての人に対して丁寧であること,年寄りを尊敬し,子供をいつくしみ,婦人に対して礼を失しないこと。 (5)人民からは針一本,糸一筋といえども奪ってはならず,正当な値段で買い,損害を与えたものに対しては弁償すること。 (6)人民に宣伝をおこない,彼らを教育し,その仕事を支援すること。 (7)人民の慣習伝統を尊重し,仏教を信じ,寺院その他の記念物を保存すること。 (8)軍の秘密を守り,革命的仕事を実行すること。 |
DIA-203-1969-11-03-1 | ラオス | 1969年11月03日 | 1960年代 | ソ連外相,米のラオス介入を非難-ソ連のグロムイコ外相は,1962年の「ラオス問題に関するジュネーブ会議」参加国に対し声明書を送り「アメリカのラオス介入拡大は,東南アジア人民に対する侵略戦争で第2戦線を設けようとするものだ」とアメリカを非難した。 |
DIA-203-1969-11-08-1 | ラオス | 1969年11月08日 | 1960年代 | 米機,ラオスに化学爆弾-パテト・ラオ通信は,米機が10月10日サバナケット省ムオンフィン県の居住地区に化学爆弾を投下し,40人の現地住民を中毒させたことを非難した。 |
DIA-203-1969-11-11-1 | ラオス | 1969年11月11日 | 1960年代 | アメリカ人パイロット158人以上が捕虜-ビェンチャンのパテト・ラオ代表部は,現在158人以上のアメリカ人パイロットが,パテト・ラオに捕えられていると語った。同代表によれば,アメリカ人の他にタイ人,南ベトナム人,国府系中国人,フィリピン人も捕えられている。彼らはすべて捕虜としてではなく,犯罪人として扱われるとのことである。 |
DIA-203-1969-11-12-1 | ラオス | 1969年11月12日 | 1960年代 | 愛国戦線中央委員会は3日のニクソン演説について声明を発表し,ベトナム民主共和国と南ベトナム共和臨時革命政府の立場を支持した。 |
DIA-203-1969-11-19-1 | ラオス | 1969年11月19日 | 1960年代 | パテト・ラオ,トム・ファリン,バン・タレオを攻撃。 |
DIA-203-1969-11-19-2 | ラオス | 1969年11月19日 | 1960年代 | パテト・ラオ軍,ムオン・フィンを奪取。 |
DIA-203-1969-11-19-3 | ラオス | 1969年11月19日 | 1960年代 | アメリカ国務省,ラオスにおいて行方不明のアメリカ人は160人であると発表。 |
DIA-203-1969-11-22-1 | ラオス | 1969年11月22日 | 1960年代 | 愛国戦線,タイ当局を非難-愛国戦線中央委員会は声明を発表し,タイ当局がアメリカに追随し,ラオス空爆の基地となっているのみならず,5000の戦闘部隊を送り,ビェンチャンの軍隊とともに解放区の掃討戦に参加させていると非難した。 なお,同中央委はラオス問題をラオス人自身に解決させるよう要求している。 |
DIA-203-1969-11-23-1 | ラオス | 1969年11月23日 | 1960年代 | パテト・ラオ,シェンクワンを再占領。 |
DIA-203-1969-11-23-2 | ラオス | 1969年11月23日 | 1960年代 | 米軍,ラオス領内を集中攻撃-サイゴンの米当局筋は「米軍司令部は共産側の戦力増強に備え,ラオス領内の北ベトナム補給に新たな爆撃を加えている」と語った。 |
DIA-203-1969-12-01-1 | ラオス | 1969年12月01日 | 1960年代 | ラオス人民解放軍最高指揮部乾期動員命令-パテト・ラオ最高指揮部は乾期動員令を発し全軍,全人民が団結を強め,侵略者とその手先に痛打を浴せ,新しい勝利を獲得するよう命令した。 |
DIA-203-1969-12-06-1 | ラオス | 1969年12月06日 | 1960年代 | 中国軍,ラオスに侵入-プラパート,タイ内相兼陸軍総司令官は,「中国軍2個師団がラオス北部に侵入,中国国境から36キロのフォンサリに向って居り,タイに直接の脅威を与えている」と発言。 |
DIA-203-1969-12-07-1 | ラオス | 1969年12月07日 | 1960年代 | 空港拡張工事,東棉に受注-東洋棉花は,ラオス政府とワッタイ空港拡張工事の単独受注の正式契約を結んだ。契約高は,約150万ドル(5億4千万円)で工事費用の一部として我が国政府もラオス政府に対し2億5千万円の贈与をすることになっている。12月着工の予定。 |
DIA-203-1969-12-13-1 | ラオス | 1969年12月13日 | 1960年代 | プーマ首相,中国軍浸透認める-プーマ首相は,ラオス北部に中国軍4ないし5個大隊がいることを確めた。これは,先にタイのプラパート副首相が,ラオス北部地方に中国軍2個師団が浸透していると述べたことに答えたもので,2個師団もいることは否定した。 |
DIA-203-1969-12-15-1 | ラオス | 1969年12月15日 | 1960年代 | 米上院秘密会で,ラオス,タイでの戦闘禁止を可決-米国防予算支出法案を討議している米上院は,15日の秘密会で同支出法案の付帯事項として,ラオス,タイヘの米戦闘部隊の介入を禁止する国防支出修正案を72対17で可決した。 この日,上院で討議に入る前に国防総省が国防予算案でパテト・ラオに対抗させるためラオス王国軍に9000万ドルの援助を計上していることが明らかにされ,これは前年に比し16.7%の増加となっている。 |
DIA-203-1969-12-19-1 | ラオス | 1969年12月19日 | 1960年代 | パテト・ラオが大攻撃-18日夜半から19日末期にかけて,パテト・ラオはジャール平原のアメリカとその手先の陣地13ヵ所に大規模な攻撃をかけ,ライプオト,プーンペットの基地にも突入した。パテト・ラオの発表による敵の損害は,死傷もしくは捕虜にした敵兵は将校を含め69人,せん滅した敵の前線司令部1ヵ所,破壊した軍用車23台,大砲105ミリ砲,155ミリ砲,合計4門,敵の兵器と戦争資材合計数百トン,炎上させた兵舎250ヵ所,ガソリン数万リットルである。 |
DIA-203-1969-12-20-1 | ラオス | 1969年12月20日 | 1960年代 | “ベトナム人民軍に学ぼう”-ラオスの人民解放車の機関紙「ラオス人民解放軍」はベトナム人民軍の建軍25周年にあたって“ベトナム人民軍に学ぼう”という社説かかげた。 |
DIA-203-1969-12-20-2 | ラオス | 1969年12月20日 | 1960年代 | 愛国戦線,南ベトナム解放民族戦線結成9周年を祝う-愛国戦線中央委員会は南ベトナム解放戦線,臨時革命政府代表団を迎えて,サムネワの解放区で盛大な祝典をおこなった。この式典には愛国戦線のスフアヌボン殿下,愛国的中立勢力同盟のカムスク・ケオラ議長はじめ,1000人以上の人々が参加した。 |
DIA-203-1969-12-20-3 | ラオス | 1969年12月20日 | 1960年代 | パテト・ラオ,三井のジープを砲撃-ビェンチャン北方約21キロにあるバン・フオン・ソト村付近の13号道路で,ラオスで送電線延長工事を行なっている三井所有のジープがパテト・ラオのロケット砲撃を受け,乗っていたラオス人4名,カンボジア人1名が死亡した。 |
DIA-203-1969-12-22-1 | ラオス | 1969年12月22日 | 1960年代 | 共同コミュニケ-南ベトナム解放民族戦線臨時革命政府代表団は,友好訪問を終えるにあたりラオス愛国戦線との共同コミュニケを発表した。その中でベトナム側は,愛国戦線の12項目の政治綱領とラオス問題解決についての,愛国戦線の立場を支持することを約束し,ラオス側は解放戦線の10項目を支持することを表明した。双方はまたタイ愛国戦線の指導するアメリカ帝国主義とその手先に反対し,真の独立と自由のためのタイ人民の闘争を支持し,主権と領土保全のため,シアヌーク元首の指導の下にカンボジア王国がおこなっている闘争を支持した。 |
DIA-203-1969-12-30-1 | ラオス | 1969年12月30日 | 1960年代 | ハノイに情報センター設置-愛国戦線中央委員会とベトナムの祖国戦線は,ベトナムとの友好と団結を強化し,共通の敵侵略者に対する解放闘争の任務を遂行するために,ハノイに愛国戦線の情報センターを設置することについて同意した。 |