ID 国名 日付 年代 内容
DIA-203-1970-01-06-1ラオス1970年01月06日1970年代ラオス愛国戦線党(パテト・ラオ)創立14周年記念日。
DIA-203-1970-01-06-2ラオス1970年01月06日1970年代北ベトナムのVNA通信社と,パテト・ラオ通信社の間で協力協定調印。
DIA-203-1970-01-10-1ラオス1970年01月10日1970年代ハノイにラオス愛国戦線党代表部開設。
DIA-203-1970-01-12-1ラオス1970年01月12日1970年代パテト・ラオ,フ・フェン(Phu Pheng)を再攻撃。
DIA-203-1970-01-13-1ラオス1970年01月13日1970年代日本政府,ラオスへ第2次食糧援助。援助は67年に成立した国際穀物協定に基づくもので,農業資材70万ドル,タイ国産モチ米50万ドル,合計120万ドルを贈与する。
DIA-203-1970-01-14-1ラオス1970年01月14日1970年代パクセ在住のアメリカ人家族,治安不良のため引揚げ。
DIA-203-1970-01-19-1ラオス1970年01月19日1970年代捕虜になっている米海軍パイロット夫人代表,パテト・ラオ代表と会見。
DIA-203-1970-01-20-1ラオス1970年01月20日1970年代ラオス人民解放軍創立21周年。
DIA-203-1970-02-03-1ラオス1970年02月03日1970年代ラオス政府,北ベトナムにジャール平原の中立化を提案。
DIA-203-1970-02-05-1ラオス1970年02月05日1970年代パテト・ラオ,ジャール平原中立化案を拒否。
DIA-203-1970-02-05-2ラオス1970年02月05日1970年代ジャール平原に住む2万3000人の住民は,アメリカの指示により南方に向かっての避難を開始。
DIA-203-1970-02-07-1ラオス1970年02月07日1970年代北ベトナム,プーマ首相の提案を拒否。
DIA-203-1970-02-09-1ラオス1970年02月09日1970年代パテト・ラオ,パクベン西方8キロのモカチョク陣地を占拠。
DIA-203-1970-02-13-1ラオス1970年02月13日1970年代パテト・ラオ,北部ラオスを奪回-ハノイ放送によると,パテト・ラオ軍は北ラオスのルアンプラバン,ウドムサイ,フォンサリ各省に接する広大な地域を奪回した。
DIA-203-1970-02-15-1ラオス1970年02月15日1970年代パテト・ラオ,ジャール平原で米機1機撃墜。
DIA-203-1970-02-16-1ラオス1970年02月16日1970年代パテト・ラオ,パタセ飛行場を攻撃,飛行機3機に損害。
DIA-203-1970-02-18-1ラオス1970年02月18日1970年代パテト・ラオ,ロンチェンおよびジャール平原地区を攻撃,政府軍数百人に損害を与え,政府軍用機12機を撃破。
DIA-203-1970-02-19-1ラオス1970年02月19日1970年代プーマ首相,ジャール平原死守を言明。
DIA-203-1970-02-20-1ラオス1970年02月20日1970年代パテト・ラオ書記長,B52の爆撃について英ソ共同議長国へ書簡
DIA-203-1970-02-20-2ラオス1970年02月20日1970年代パンヤ・プアシ駐ソ大使は,核拡散防止条約の政府批准書をソ連政府に寄託。
DIA-203-1970-02-21-1ラオス1970年02月21日1970年代パテト・ラオ,シェンクアン飛行場を占拠。
DIA-203-1970-02-23-1ラオス1970年02月23日1970年代ニクソン米大統領は,ラオスに関する国家安全保障会議を召集。
DIA-203-1970-02-23-2ラオス1970年02月23日1970年代ナムグム・ダム定礎式。
DIA-203-1970-02-24-1ラオス1970年02月24日1970年代政府軍,ムオンスイ飛行場を放棄。
DIA-203-1970-02-26-1ラオス1970年02月26日1970年代米国防省は,ラオス領内で行方不明または捕虜となった米兵の数は193人と発表。
DIA-203-1970-02-26-2ラオス1970年02月26日1970年代パテト・ラオ通信によると,パテト・ラオは2月10日から24日までに1000人以上の敵部隊をせん滅,ジャール平原,シェンクァン地区全体,ムオンスイ,フーコウト地区を奪回した。
DIA-203-1970-02-26-3ラオス1970年02月26日1970年代政府軍,ジャール平原山間部を放棄。
DIA-203-1970-02-26-4ラオス1970年02月26日1970年代米国防長官「ラオス介入」で言明-レアード米国防長官は,記者会見で次のように言明した。 ・爆撃の目的は,共産勢力と闘うラオス政府軍の支援ではなく,ベトナムの立場を守ることだけにある。 ・米国の地上兵力がラオスで戦っている事実はない。 ・米国のラオス政策は過去3,4年来のものと基本的に変っていない。
DIA-203-1970-02-27-1ラオス1970年02月27日1970年代英外務省スポークスマンは記者会見で次のように述べた。 ・英外務省は,ラオス情勢を討議するためのジュネーブ会議のような国際会議の開催を求める提案をまだ受取っていない。 ・しかし,英国は長い間ラオスの平和維持のために国際的な外交的措置を講じるべきだとの立場をとっており,いろいろの機会にその立場を表明してきた。 ・ソ連と北ベトナムが62年のジュネーブ協定に基づいたラオスでの平和の再建に協力していないことが,こうした国際的な外交的措置をとることへの障害になっている。
DIA-203-1970-02-27-2ラオス1970年02月27日1970年代米大統領,ラオス情勢について国家安全保障会議を召集。
DIA-203-1970-02-28-1ラオス1970年02月28日1970年代愛国戦線党中央委員会,ジャール平原=シェンクワン地区を全面的に奪回したシェンクワン州軍民の大勝利を称賛する声明を発表。
DIA-203-1970-03-06-1ラオス1970年03月06日1970年代ニクソン大統領,ラオスについて声明を発表,62年のジュネーブ協定の共同議長団である英ソ両国首相に書簡を送り,ラオスの中立平和を確立するための努力を要請したことを明らかにした。
DIA-203-1970-03-06-2ラオス1970年03月06日1970年代ラオス愛国戦線党,5項目の政治解決案(参考資料参照)。
DIA-203-1970-03-09-1ラオス1970年03月09日1970年代米政府,パテト・ラオ提案を原則的に支持。
DIA-203-1970-03-09-2ラオス1970年03月09日1970年代北ベトナム政府,パテト・ラオの5項目提案を全面支持。
DIA-203-1970-03-10-1ラオス1970年03月10日1970年代米軍事要員のラオスでの戦闘手当-米国防省ラオスで勤務している米軍事要員は1966年1月1日以来,毎月65ドルの戦闘手当を支給されていると発表。この手当は実際には“敵性砲火危険手当”とよばれているが,ベトナム勤務の米軍兵力が支給されている戦闘手当と全く同質のものである。
DIA-203-1970-03-17-1ラオス1970年03月17日1970年代政府で補給基地サムトンの住民2000人とアメリカ人十数人避難。
DIA-203-1970-03-19-1ラオス1970年03月19日1970年代英政府,10カ国に書簡-英政府は,ジュネーブ会議の共同議長国として,62年ラオス中立協定に調印した10カ国に書簡を送り,「すべての当事国が協定を守り,すでに危険になっているラオス情勢を一層悪化させるような行動を慎しむよう」と呼びかけた。
DIA-203-1970-03-20-1ラオス1970年03月20日1970年代パテト・ラオ特使,プラジト・チャンパン(Pradith Thiangpang)大佐,ICC機でビエンチャンに到着。
DIA-203-1970-03-21-1ラオス1970年03月21日1970年代愛国戦線党中央委員会はラオスに対するタイ軍の介入を非難する声明を発表。
DIA-203-1970-03-21-2ラオス1970年03月21日1970年代サイゴンの米軍司令部,過去11日間に米軍機がラオス上空で7機撃墜されたと発表。
DIA-203-1970-03-26-1ラオス1970年03月26日1970年代中国外交部は,タイ軍2個大隊のロンチェン増派を非難したパテト・ラオ中央委員会スポークスマンの声明を支持する声明を発表。
DIA-203-1970-03-26-2ラオス1970年03月26日1970年代米軍機,ロンチェンを攻撃。
DIA-203-1970-03-26-3ラオス1970年03月26日1970年代プーマ首相は,パテト・ラオのスファヌボン議長にメッセージを送り,外国軍隊の存在を両地域全部(政府地区,解放地区)にわたって国際監視委員会(ICC)に監視させるという同首相の構想を公式に提案した。また,平和会議の前提条件としてスファヌボン議長が提案していた米軍によるラオス全土の爆撃停止要求を拒否した。
DIA-203-1970-03-27-1ラオス1970年03月27日1970年代ラオス政府軍,サムトン近郊の陣地を奪回-政府部隊は18日に撤退したサムトン基地から16キロのプーファサイ陣地を奪回した。また,メオ族ゲリラ部隊もバン・パオ将軍指揮下にサムトン基地を一望におさめる多数の丘陵を奪取した。
DIA-203-1970-03-27-2ラオス1970年03月27日1970年代ラオス愛国戦線党中央委員会,シアヌーク殿下の5項目宣言を支持。
DIA-203-1970-03-30-1ラオス1970年03月30日1970年代ソ連と航空協定調印。
DIA-203-1970-04-03-1ラオス1970年04月03日1970年代プーマ首相,フランスの国際会議提案に同意
DIA-203-1970-04-04-1ラオス1970年04月04日1970年代ラオス政党会議-ラオス政党会議は国防省で開かれ,つぎの3点を申し合せた。 (1) ラオス愛国戦線党(パテト・ラオ)との交渉についてはプーマ首相に一任する。 (2) プーマ首相は5日以降にスファヌボンパテト・ラオ議長への返書を作成する。 (3) 右派,中立派を統合した強力な政党を組織する。新政党結成は,パテト・ラオとの交渉にそなえ,政府側にも右派,中立派を一本化した政党が必要になってきたもので,各政党とも新政党結成に協力することを了承した。新政党結成のための組織委員会が近々発足の予定。
DIA-203-1970-04-06-1ラオス1970年04月06日1970年代サイゴンの米軍司令部は,米軍戦闘機2機がラオス上空で撃墜されたと発表。
DIA-203-1970-04-07-1ラオス1970年04月07日1970年代プーマ首相は,タイには約800万人のラオ族が住んでおり,彼らの中のある者はラオス国軍に参加していること,また,志願兵の形でタイ人がラオスの戦争に加わっていることを認めた。
DIA-203-1970-04-07-2ラオス1970年04月07日1970年代ラオス南部上空で米海軍の戦闘爆撃機2機が撃墜された。
DIA-203-1970-04-09-1ラオス1970年04月09日1970年代パテト・ラオへ回答-プーマ首相は,パテト・ラオのスファヌボン議長の3月22日付けの親書に対して要旨つぎのような返書を渡した。 ・パテト・ラオの5項目の提案を討議する用意がある。しかし,この5項目提案は話合いの条件として明確なものとはいえない。 ・ラオス政府は,誠実な話合いをするのによいふんいきを作りだすために次のことを提案する。 (1) ラオス全土で敵対行為をしている双方の間の戦およびすべての外国軍隊の即時撤退。 (2) 同時にICCによる停戦の監視。不法にラオスに駐留している外国軍隊の撤退を監視する。これはラオス全土について行ない,いかなる例外も含まない。 (3) すべての関係党派が参加して会議を開く。この会議はすべての対立点について討議し,国家の利益に沿った形でバランスのとれた最終的解決を求めるためのものである。中立保持のためこの会議はいかなる外国の介入も排除して行なうものとする。会議の場所は今後協議して決定する。 ラオス問題の解決は,すべて62年のジュネーブ協定に基づいて行なわれるべきである。この3項目提案に対して,パテト・ラオ側が回答を寄せることを期待する。
DIA-203-1970-04-10-1ラオス1970年04月10日1970年代ビエンチャン北方100キロの山上に米輸送機C-130墜落。
DIA-203-1970-04-11-1ラオス1970年04月11日1970年代パテト・ラオ,サバナケット東方100キロのタンバイ飛行場を攻撃し占拠。
DIA-203-1970-04-12-1ラオス1970年04月12日1970年代政府軍,タンバイ飛行場を奪回。
DIA-203-1970-04-13-1ラオス1970年04月13日1970年代パテト・ラオの攻撃で政府軍ムオン・ファランを撤退。
DIA-203-1970-04-19-1ラオス1970年04月19日1970年代米のラオスに関する聴聞会証言記録発表-米議会のラオス聴聞会証言記録が発表され,米国のラオスでの軍事介入の一部が明らかにされた。 (1) 68年末,北爆停止以来ラオス爆撃は昨年8月で,3倍の規模にまで強化された。 (2) 64年以来,北部ラオスの戦闘では米大使が事実上共同軍司令官の役割をはたし,米機爆撃作戦の任務,軍事経済援助の供与,ラオスの軍事訓練計画などを一手に握ってきた。 (3) ラオス在住の米軍関係者数は3月6日ニクソン大統領が発表した1040人よりもはるかに多く,短期間で交替する者,ラオス内外(タイなど)での爆撃訓練顧問,物資供与・情報活動などに参加している者は数万にのぼる。
DIA-203-1970-04-22-1ラオス1970年04月22日1970年代パテト・ラオ通信によると,3月1日から4月10日までにB52を含む米空軍機が1万8616回にわたってパテト・ラオ支配区に出撃,ナパーム弾,ボール爆弾などを大量に投下,多数の住民を殺傷した。
DIA-203-1970-04-23-1ラオス1970年04月23日1970年代ラオス領内およびラオス・カンボジア国境近くの2カ所で,共産軍により米機6機が撃墜された。
DIA-203-1970-04-24-1ラオス1970年04月24日1970年代日本政府,農場建設援助協定に調印-日本政府は,ラオスに対する技術開発援助の一つとしてビェンチャン平野に“パイロット農場”をつくることになり,ビェンチャンで日本側下田大使,ラオス側インペンスリアタイ計画相の立合で協定に調印。農場建設のため日本は5年間で約3億円を投入,今年度中にも着工する。
DIA-203-1970-04-30-1ラオス1970年04月30日1970年代パテト・ラオ,アトプーを占領。
DIA-203-1970-05-12-1ラオス1970年05月12日1970年代パテト・ラオ,北ベトナム軍4陣地占領-ボロベン高原の周囲にある4陣地が,11日,12日の両日にわたってパテト・ラオ,北ベトナム軍に占領された。
DIA-203-1970-05-12-2ラオス1970年05月12日1970年代共産軍攻撃の危機に頻しているサラバンの軍人,官吏,政治家の家族2400名が米軍輸送機によって引き揚げを完了した。1万5000人から2万人に及ぶ一般住民は今のところそこにとどまっている。
DIA-203-1970-05-12-3ラオス1970年05月12日1970年代プイ・サナニコン国民議会議長再選。同議長は1963年以来議長の席にある。
DIA-203-1970-05-18-1ラオス1970年05月18日1970年代パテト・ラオ,ジャカルタ会議を非難。
DIA-203-1970-05-19-1ラオス1970年05月19日1970年代カイロで「ラオス人民支援国際会議」開催。
DIA-203-1970-05-22-1ラオス1970年05月22日1970年代日本政府,ワッタイ空港拡張計画に1億8000万円(昨年度2億5000万円供与)を供与。
DIA-203-1970-05-24-1ラオス1970年05月24日1970年代米のラオス爆撃1日3000トンと,パテト・ラオ非難。
DIA-203-1970-05-25-1ラオス1970年05月25日1970年代サバナケット空港でチャンパサック財務相のヘリコプター,パテト・ラオに狙撃される-また,サイグナシット財務担当国務大臣,ウィコット英代理大使。オーストラリア大使館付武官,新聞記者など著名人の乗っている飛行機も同様狙撃された。
DIA-203-1970-05-25-2ラオス1970年05月25日1970年代日本工営,ラオスのタゴン計画(127万6000ドル)の施工管理を受注。
DIA-203-1970-06-06-1ラオス1970年06月06日1970年代プーミ・ボンビチット書記長ハノイ訪問。
DIA-203-1970-06-07-1ラオス1970年06月07日1970年代AID長官,ラオス援助で表明-ハンナAID(米国際開発局)長官は,ラジオ・インタビューで,米国の対ラオス援助計画がCIAのラオスでの活動をカムフラージュするのに使われていることを認めるとともに,同長官がこのようなやり方に不満であり,ニクソン大統領が直ちにこれを中止するよう希望する意向を表明した。また同長官は,このように援助という名目でこの種の活動が行なわれているのはラオスだけであると付け加えた。
DIA-203-1970-06-08-1ラオス1970年06月08日1970年代愛国戦線党と愛国的中立派が特別会議を開催-パテト・ラオとラオス愛国中立派は,6日から8日までの3日間サムネワで特別会議を開いた。この会議は,米帝国主義者とその手先きの侵略に対するラオス人民の戦いを検討するとともに,インドシナの新たな情勢におけるラオス人民の今後の任務を総括するために開かれたものである。 同会議に出席したスファヌボン,パテト・ラオ議長は,政治報告を行ない,カムスークケオラ中立派議長は,これまでにラオス愛国戦線によって成しとげられた輝かしい戦果を報告し,両派のかたい軍事的団結を称賛し合った。
DIA-203-1970-06-08-2ラオス1970年06月08日1970年代パテト・ラオ書記長,ハノイでシアヌーク殿下と会見。
DIA-203-1970-06-09-1ラオス1970年06月09日1970年代パテト・ラオ,サラバンを占領-サラバン市は8日夜半,パテト・ラオ一個大隊の攻撃を受け,9日午前4時半陥落した。同市は,ラオス政府軍がラオス南東部で確保していた最後の州都である。また,この攻撃は同地域住民や政府軍数個部隊の反乱による支援を受けたという。
DIA-203-1970-06-13-1ラオス1970年06月13日1970年代カンボジアの軍事使節団,ビエンチャン着。
DIA-203-1970-06-13-2ラオス1970年06月13日1970年代パテト・ラオ,南部の政府軍拠点ムンラパモック(Mounlapamok)を占領。
DIA-203-1970-06-14-1ラオス1970年06月14日1970年代政府軍,ビエンチャン北西約290キロのメコン河岸のパクコプ(Pakkhop)を奪回。
DIA-203-1970-06-17-1ラオス1970年06月17日1970年代ラオス政府,パテト・ラオとの接触維持を決定-ラオス政府は17日の閣議で,パテト・ラオのスファヌボン議長からプーマ首相宛のラオス問題解決に関しての書簡を検討,パテト・ラオ指導部との接触を維持することに決定。この書簡は,去る12日付けのもので,16日プーマ首相に手渡された。内容は,3月6日付けパテト・ラオの5項目に対する4月9日付けのプーマ首相の返書に対する回答である。
DIA-203-1970-06-18-1ラオス1970年06月18日1970年代スファヌボン議長のメッセージ内容-パテト・ラオ通信によると,スファヌボン議長の12日付けのプーマ首相あてのメッセージの内容は次のとおり。 ・ラオス問題の解決は米軍の完全撤退,臨時連合政府の樹立と総選挙施行など,私が3月に示した5項目提案に基づいてのみ達成することができる。 ・ラオス愛国戦線は,解放区に対する米軍による爆撃が無条件かつ全面的に停止されれば,関係各党派と会談する用意がある。 ・愛国戦線は真に平和を望んでいるが,アメリカがラオスにおける戦争拡大を続けるならば,自衛権を発動し,62年のジュネーブ協定を擁護するため,米国侵略者とその従僕に反撃を加えるであろう。
DIA-203-1970-06-21-1ラオス1970年06月21日1970年代プーマ首相,スファヌボン殿下と無条件で緊急に会見する必要性を強調。
DIA-203-1970-06-22-1ラオス1970年06月22日1970年代南部2州,共産軍勢力下に-22日夜,政府軍はサラバン地区で保持していた最後の拠点ノンブア(サラバン東方15キロ)を放棄した。この結果,サラバン,アトプー両州はほぼ共産軍制圧下にはいった。
DIA-203-1970-06-25-1ラオス1970年06月25日1970年代パテト・ラオ代表団平壌へ-サナン・リティサック党中央委員を団長とする愛国戦線代表団は,朝鮮戦争勃発20周年を記念して25日から行なわれる「南朝鮮から米侵略軍の撤退を要求する平壌市民大会」に参加するためハノイ経由で平壌に向かった。
DIA-203-1970-06-26-1ラオス1970年06月26日1970年代政府軍,共産軍に占領されたホーチミン・ルートを見下す位置にあるプーカラ山(サラバンから東南10キロ)を奪回。ここは共産軍に占領されるまで米軍のレーダー・ステーションがあり,ラオス南部で最も重要な戦略拠点の一つであった。
DIA-203-1970-06-30-1ラオス1970年06月30日1970年代国会,中立政策の継続を承認-国会は,プーマ首相に対する信任投票を行ない,同首相の中立政策を信任25,不信任5,棄権8で承認(17議員は抗議のためボイコット)。また,プーマ首相は内閣改造を約束した。
DIA-203-1970-07-02-1ラオス1970年07月02日1970年代プーマ首相はスファヌボン愛国戦線議長の和平提案に返書を送り,ビエンチャン北東約180キロのカンカイ(ジャール平原)でラオス問題平和解決のため交渉を開始するよう提案した。
DIA-203-1970-07-06-1ラオス1970年07月06日1970年代パテト・ラオ,ジャール平原より撤退。
DIA-203-1970-07-16-1ラオス1970年07月16日1970年代プーマ首相,インドシナの反共軍事同盟に不参加を表明。
DIA-203-1970-07-18-1ラオス1970年07月18日1970年代共産軍コーン島に上陸。
DIA-203-1970-07-20-1ラオス1970年07月20日1970年代パテト・ラオ,会談場所としてカンカイを拒否。
DIA-203-1970-07-22-1ラオス1970年07月22日1970年代情勢悪化のため南部6省に非常事態宣言を布告
DIA-203-1970-07-25-1ラオス1970年07月25日1970年代米,ラオスへの救援米供与を停止-米国はこのほどラオス難民に対する救援米供与契約をラオス側契約者がごまかしている疑いがあるとして解約した。この救援米供与にはAIDの70会計年度対ラオス援助費5000万ドルのうち約100万ドルを当てることになっていた。
DIA-203-1970-07-27-1ラオス1970年07月27日1970年代米国防長官,ラオスへの侵入認む-米下院軍事支出分科委員会における5月4日の証言で,レアード米国防長官は,米軍が数回にわたりラオスに越境し,89時間程度北ベトナム軍と交戦したことを明らかにし,次のように述べた。 ・南ベトナム滞在中,自ら一つのラオス侵入作戦を許可したことがある。 ・戦況で米軍の安全がかかっている場合,米軍の損害を予防するという“防衛的対応”方針に従って自分は指揮官に対しラオス領内への短期出撃を許可する権限を持っていると思う。 ・ラオス領内の敵の聖域を破壊するよう米軍に命じるこは,議会の禁止決議がある以上,議論の対象になるかもしれない。
DIA-203-1970-07-28-1ラオス1970年07月28日1970年代タイ軍2個大隊,ビエンチャン郊外に到着。
DIA-203-1970-08-03-1ラオス1970年08月03日1970年代パテト・ラオ特使,プーマ首相に親書-パテト・ラオ特使,スーク・ボンサク殿下は,スファヌボン議長からの親書をプーマ首相に手渡した。
DIA-203-1970-08-05-1ラオス1970年08月05日1970年代政府,パテト・ラオ提案を拒否。
DIA-203-1970-08-05-2ラオス1970年08月05日1970年代ラオス空港滑走路延長工事完成。
DIA-203-1970-08-08-1ラオス1970年08月08日1970年代政府,スファヌボン書簡公表。
DIA-203-1970-08-10-1ラオス1970年08月10日1970年代バッタナ国王,万国博見物のため訪日。
DIA-203-1970-08-13-1ラオス1970年08月13日1970年代和平交渉代表団決定-政府は,パテト・ラオとの和平交渉に参加する政府代表団9人を決定した。 首席 フェン・フォンサバン内相 ゴン・サナニコン公共事業相 ブオン・チエン将軍(ラオス休戦委員会議長) ソプ・サイサナ殿下(右派の議会指導者) ソムサニト殿下(元首相) プーマ首相は,ラオス各派による事態解決のための話合いはきわめて近い将来開始されるだろうと述べ,いったん話合いが始まれば1,2カ月のうちに大幅な進展がみられようと語った。
DIA-203-1970-08-14-1ラオス1970年08月14日1970年代パテト・ラオ,カンカイを会談地とすることに同意。
DIA-203-1970-08-17-1ラオス1970年08月17日1970年代パテト・ラオ,米・南ベトナム軍部隊のサバナケット進入についてラオス政府に抗議。
DIA-203-1970-08-17-2ラオス1970年08月17日1970年代第2回ビエンチャンでタイ・ラオス経済協力委員会。タイ側は,ラオスに対し貨物輸送費引下げを伝えた。
DIA-203-1970-08-18-1ラオス1970年08月18日1970年代政府は,8月1日から15日までの戦況を次のように発表した。共産側の損害は 死者 250名   負傷者 256名 捕虜  9名   帰順者  92名 また,この時期に政府支配地区に6014名の避難民がきた。
DIA-203-1970-08-18-2ラオス1970年08月18日1970年代政府は,カンカイ会談のための予備会議は不要と言明。
DIA-203-1970-08-21-1ラオス1970年08月21日1970年代米上院は,ラオスおよびカンボジア政府を支援して戦っている外国軍隊の経費を米政府がこれ以上支出するのを禁ずる法案を可決した。
DIA-203-1970-08-21-2ラオス1970年08月21日1970年代パテト・ラオのビエンチャン駐在代表チャオ・ソット・ペトラシ大佐は,ハノイ経由で根拠地サムネワに向かった。
DIA-203-1970-08-26-1ラオス1970年08月26日1970年代71年度国家予算国会を通過-国民議会は,年度予算案を全会一致で承認。 歳出 3650万ドル 歳入 1880万ドル 残額 1770万ドルは外国援助でまかなわれる。
DIA-203-1970-08-31-1ラオス1970年08月31日1970年代ベトナムの8月革命とベトナム建国25周年を記念する集会で,ファン・バン・ドン首相は,ラオスのカンカイで開かれるスファヌボン殿下とプーマ殿下の代表による会談を支持すると表明。
DIA-203-1970-09-01-1ラオス1970年09月01日1970年代プーマ首相,パリで首脳会談を提案。
DIA-203-1970-09-02-1ラオス1970年09月02日1970年代スファヌボン議長は,プーマ首相の代表と会談する全権代表として,中央委員のプーン・シパスート将軍を任命。
DIA-203-1970-09-06-1ラオス1970年09月06日1970年代プーマ首相は空路パリを出発,首席代表として非同盟国首脳会議に出席するためルサカに向かった。
DIA-203-1970-09-07-1ラオス1970年09月07日1970年代パリでの会談も拒否-パテト・ラオは,プーマ首相が提案したラオス和平に関するパリ首脳会談について,時間のむだであると同時にプーマ側が誠意に欠けるものであるとし,パテト・ラオ側の立場は全権代表プーン・シパスート将軍によって明らかにされていると述べ,同会談を拒否した。
DIA-203-1970-09-11-1ラオス1970年09月11日1970年代政府軍,アトプー再突入。
DIA-203-1970-09-25-1ラオス1970年09月25日1970年代パテト・ラオのスーク,ボンサク特使,サムネワへ出発。
DIA-203-1970-10-01-1ラオス1970年10月01日1970年代フォンサバン首相代理兼内相はパテト・ラオのスファヌボン殿下に書簡を送り,ボンサク特使の帰任を求めた。
DIA-203-1970-10-01-2ラオス1970年10月01日1970年代フームパン・サイニャシット財政担当国務相は,300万ドルの米国援助で3000ヘクタールを灌漑するダムと付属運河をサヤブリ州に建設中であることを明らかにした。
DIA-203-1970-10-06-1ラオス1970年10月06日1970年代国会,国連に北ベトナムの侵略を非難するよう要求した決議を採択。
DIA-203-1970-10-07-1ラオス1970年10月07日1970年代タイと裁判協定。
DIA-203-1970-10-11-1ラオス1970年10月11日1970年代国会,ニクソン大統領の5項目提案を支持。
DIA-203-1970-10-12-1ラオス1970年10月12日1970年代ラオス独立宣言25周年-ラオス独立宣言25周年を迎えてスファヌボン中央委議長は,全国民にアピールを発表。
DIA-203-1970-10-12-2ラオス1970年10月12日1970年代ラオス独立25周年を記念して中国の人民日報は,「ラオス人民の抗米救国戦争はかならず勝利する」と題する社説を発表。
DIA-203-1970-10-12-3ラオス1970年10月12日1970年代共産軍,ムオンスイから撤退。
DIA-203-1970-10-12-4ラオス1970年10月12日1970年代B52,ホー・ルートの爆撃を強化。
DIA-203-1970-10-12-5ラオス1970年10月12日1970年代ハバナの,3大陸連帯委常設書記局は,ラオス人民との第2回連帯週間(10月12日~19日)を記念して闘争支持のアピールを発表。
DIA-203-1970-10-13-1ラオス1970年10月13日1970年代プーマ首相,英首相と会談。
DIA-203-1970-10-13-2ラオス1970年10月13日1970年代パテト・ラオ,米の5項目を非難。
DIA-203-1970-10-15-1ラオス1970年10月15日1970年代ラオス首相,ワシントン訪問。
DIA-203-1970-10-18-1ラオス1970年10月18日1970年代政府軍特殊部隊は,戦略拠点バンナ(ビエンチャン北方約170キロ)を奪回した。
DIA-203-1970-10-20-1ラオス1970年10月20日1970年代ラオス外務省,北ベトナムのジュネーブ協定侵犯白書を発表。
DIA-203-1970-10-21-1ラオス1970年10月21日1970年代ニクソン大統領,プーマ首相にラオスの支持を保証。
DIA-203-1970-10-23-1ラオス1970年10月23日1970年代フランス,1100万フランの借款を供与。
DIA-203-1970-10-26-1ラオス1970年10月26日1970年代米,地上軍戦闘説を否定。
DIA-203-1970-10-27-1ラオス1970年10月27日1970年代プーマ首相,インドシナ問題の国別解決を提案。
DIA-203-1970-10-27-2ラオス1970年10月27日1970年代プーマ首相,2カ月の外遊から帰国。
DIA-203-1970-10-30-1ラオス1970年10月30日1970年代政府,交渉再開に新提案。
DIA-203-1970-11-06-1ラオス1970年11月06日1970年代駐ラオス日本大使に谷盛規氏を決定。
DIA-203-1970-11-07-1ラオス1970年11月07日1970年代パテト・ラオのスーク・ボンサク特使,ビエンチャンに帰任。
DIA-203-1970-11-17-1ラオス1970年11月17日1970年代政府は,プーマ首相とボンサク特使との会談について次のようなコミュニケを発表。 ・同会談は,カンカイ和平会談をめぐる意見交換を中心にしたものである。 ・カンカイ会談を開催の節,サムネワからカンカイまで,パテト・ラオ代表団の輸送の便を計るようICC(国際監視委員会)に対し提案した。
DIA-203-1970-11-24-1ラオス1970年11月24日1970年代共産軍,政府軍の7拠点を攻撃。
DIA-203-1970-11-24-2ラオス1970年11月24日1970年代プーマ首相,ボンサク特使と再びラオス和平準備会談。この会談でボンサク特使は,プーマ殿下に対して近くカンカイで行なわれる予定の両殿下の会見についての愛国戦線側の条件を明らかにし,この会見はあくまでも両殿下の代表の会見であり,政府代表と党派代表の会見とするよう要求したプーマ殿下の意向にくりかえし反論した。また,サムネワからカンカイに赴くスファヌボン殿下の安全を保証するため,早期に会談を始めることができるよう米軍とビエンチャン政府軍などの飛行機が,会見前15日から会見後10日間を通じて,シェンクァン,サムネワ両州に対するすべての砲爆撃その他あらゆる空軍活動を停止すべきことを要求した。そして会見の地上における安全の問題については愛国諸勢力が責任をもつことを明らかにした。
DIA-203-1970-12-07-1ラオス1970年12月07日1970年代共産軍,ルアンプラバン空港10キロまで進出。
DIA-203-1970-12-07-2ラオス1970年12月07日1970年代米情報関係筋は,北ベトナム軍が,ラオス南部および南ベトナム国境付近のセブーンとアトプーの間の地区に司令部と補給拠点に使われると思われる大規模な陣地を増築中であることを明らかにした。
DIA-203-1970-12-10-1ラオス1970年12月10日1970年代ラオス政府高官筋は,サバナケットの右派青年将校グループが軍事クーデターを計画しているとの報告を9日に受取った。計画の指導者は2週間前,サバナケットからメコン川を渡ってタイのムクダハンに行った右派のブルルート・ファイコフィ元大佐である。同大佐は,タイに亡命中の右派指導者ノサバン元副首相の側近で,タイからサバナケットの第3軍区司令部の右派将校と連絡,武装ほう起を計画した。
DIA-203-1970-12-11-1ラオス1970年12月11日1970年代北ベトナム外務省,ラオスでの侵略強化を非難。 北ベトナム外務省は,B52を中心とする米空軍がラオス人民を殺傷するためこの50日間で6万5000トンの爆弾を投下,またラオス領内にカンボジア政府軍6個大隊,タイ人部隊12大隊を送りこみ,さらに南ベトナム政府軍の派遣を準備していると非難している。
DIA-203-1970-12-11-2ラオス1970年12月11日1970年代プーマ首相,パテト・ラオに中立地帯設置を提案。 プーマ首相は,パテト・ラオに対して,北東のサムネワからジャール平原近接のカンカイにかけて幅15キロの中立地帯を設置することを提案した。また,この周辺に対して,政府軍が爆撃を中止する用意があることを示唆した。
DIA-203-1970-12-12-1ラオス1970年12月12日1970年代機密装備の米機撃墜される-サイゴンの米軍司令部の発表によると,米空軍の最高機密に属する装備がなされている戦闘爆撃機B52キャンベラが,ラオス南部のホーチミン・ルート地区で北ベトナム軍の対空砲火により撃墜された。なお,インドシナでの米軍機の損害は,この10年間に7379機となった。
DIA-203-1970-12-15-1ラオス1970年12月15日1970年代日本,ラオスに送電線設置のため2000万円を贈与。
DIA-203-1970-12-17-1ラオス1970年12月17日1970年代東銀,71年3月でラオスから引揚げ。
DIA-203-1970-12-27-1ラオス1970年12月27日1970年代10月に暴露されたクーデター未遂は,ノサバン将軍復帰を図ったものであったことが判明。
DIA-203-1970-12-28-1ラオス1970年12月28日1970年代共産軍,ジャール平原,ボロベン高原の政府軍陣地5カ所を占領。
DIA-203-1971-01-05-1ラオス1971年01月05日1970年代サナニコン公共事業相は,プーマ首相あての書簡の中で「ラオスは中立策を捨て,サイゴン,バンコック,プノムペン,ビエンチャン軍事同盟を結成すべきだ」と述べた。
DIA-203-1971-01-05-2ラオス1971年01月05日1970年代愛国戦線のソットペトラシ代表は,「われわれは会談に必要な措置として会談中のシェンクアン州全域の爆撃停止,サムネワからカンカイに至る幅10キロの中立回廊の設計を要求する。これによって譲歩の限界を示した以上,あとはプーマ首相の決断にかかっている」と語った。
DIA-203-1971-01-06-1ラオス1971年01月06日1970年代ラオス国防省スポークスマンの発表によると,ボロベン高原南部の町,バンフェイサイをめぐって戦闘が行なわれ,パテトラオは死者151人をだし,政府軍は2人死亡,10人が負傷した。
DIA-203-1971-01-06-2ラオス1971年01月06日1970年代愛国戦線中央委員会は,愛国戦線創立15周年を記念してラオス人民にアピールをだし,71年は,アメリカが支援するビエンチャン政府打倒に全力をあげるようよびかけた。
DIA-203-1971-01-19-1ラオス1971年01月19日1970年代サイゴンの公式筋は,米軍がラオスにロケット発射装置を備えた武装ヘリコプターを出動させていると言明した。これは,武装ヘリがカンボジア領内での南ベトナム政府軍の作戦支援のために使われているという米軍司令部の発表に続いて行なわれた。公式筋が支援の事実を認めたのは今度がはじめてである。
DIA-203-1971-01-20-1ラオス1971年01月20日1970年代サイゴンの米軍司令部スポークスマンの発表によると,タイとトンキン湾から発進,ラオスを爆撃した米海,空軍機は1月の最初の2週間で共産側のトラック1,000台以上を破壊した。これは,5年以上前から開始されたラオス爆撃の中では最大の戦果で,昨年12月のラオス南部爆撃以来の大規模な爆撃である。
DIA-203-1971-01-20-2ラオス1971年01月20日1970年代レアード米国防長官は,国防総省での記者会見で,アメリカは今後もカンボジア,ラオス,南ベトナムで空軍力を行使していくと表明。
DIA-203-1971-01-21-1ラオス1971年01月21日1970年代パテトラオ特使ボンサク殿下は,プーマ首相を官邸に訪問。 昨年以来両者の間で行なってきたカンカイ和平会談のための予備交渉を一時打切って,22日サムネワに帰ると通告した。
DIA-203-1971-01-22-1ラオス1971年01月22日1970年代プーマ首相はボンサク特使にスファヌボン議長あての親書を託し,カンカイに代る新たな会談場所として王都ルアンプラバンを提案した。
DIA-203-1971-01-22-2ラオス1971年01月22日1970年代ボンサク殿下はソ連機でビエンチャンを出発,ハノイ経由でサムネワへ向った。
DIA-203-1971-01-23-1ラオス1971年01月23日1970年代ラオス政府は,ケネディラウンド食糧援助計画の一部として日本から送られたトラクターなど約40万ドル分の農業機械が一年以上も農民の手に渡らず,宙に浮いた事件について対策を協議した結果,これまでの有償領布方式をやめて出来るだけ早期に大部分を無償で配る方針を決めた。
DIA-203-1971-01-25-1ラオス1971年01月25日1970年代ビエンチャン南東336キロのムオンファランは,24日パテトラオの猛攻撃を受け,25日に政府軍はこれを放棄した。
DIA-203-1971-01-28-1ラオス1971年01月28日1970年代政府軍,ムオンファランから撤退。
DIA-203-1971-01-30-1ラオス1971年01月30日1970年代プーマ首相は「ボンサク提案は,共産側の総攻撃の準備をおおいかくすもので,ジャール平原爆撃停止要求は受入れられない。北ベトナム軍が撤退すれば爆撃を停止してもよい」と語った。
DIA-203-1971-02-01-1ラオス1971年02月01日1970年代米空軍は,ホー・チ・ミンルートへの連続150回目の爆撃を行なった。 これにはB52戦略爆撃機30機,戦術戦闘爆撃機など200機が参加した。
DIA-203-1971-02-01-2ラオス1971年02月01日1970年代愛国戦線中央委スポークスマンは米国と南ベトナム政府軍のラオス侵略を非難する声明を発表した。
DIA-203-1971-02-01-3ラオス1971年02月01日1970年代愛国戦線のポンピチト書記長は,62年ジュネーブ会議共同議長国である英国とソ連に緊急メッセージを送った。
DIA-203-1971-02-02-1ラオス1971年02月02日1970年代スファヌボン愛国戦線議長はプーマ首相に緊急メッセージを送り,米国の戦争拡大を阻止するため適当な措置をとるよう要請した。
DIA-203-1971-02-03-1ラオス1971年02月03日1970年代政府発表によると,パテトラオ軍部隊はジャール平原の端にあるムオンスイ基地とその他5つの拠点,4っの陣地(ルアンプラバンから10キロ以内のところ)を占領した。
DIA-203-1971-02-04-1ラオス1971年02月04日1970年代タイ・ラオス間の国境を閉鎖-タイのチュラサフヤ陸軍参謀総長は,ラオスのムオンスイが共産軍に占領されたので,タイはラオスとの国境を閉鎖したと言明,北部のチュンライから東はウボルに至る対ラオス国境地帯の全域に特殊部隊が配置されたことを明らかにした。
DIA-203-1971-02-04-2ラオス1971年02月04日1970年代プーマ首相は記者会見で「ラオス政府としては外国軍隊のラオス介入を好むものではないとの態度に今もかわりはない,ホールートの問題は北ベトナム側と米国との間で処理すべき問題だ。南ベトナム軍がラオスに侵攻する場合には米国から事前の通告があると思う」と語った。
DIA-203-1971-02-04-3ラオス1971年02月04日1970年代ラオス人民解放軍カムタイ・シファンドン最高司令官は全国の武装勢力に対し,侵入した敵をせん滅するよう命令。
DIA-203-1971-02-04-4ラオス1971年02月04日1970年代サムトン東北14キロのムアンポトの政府軍前線基地,パテトラオに攻略さる。
DIA-203-1971-02-05-1ラオス1971年02月05日1970年代政府軍,ムオンファランを奪回。
DIA-203-1971-02-06-1ラオス1971年02月06日1970年代エドワード・ケネディ米上院議員は,ラオス難民救済のため支出されるはずのAID(米国国際開発局)の予算5500万ドル(201億円)の約半分が,CIA(米中央情報局)のラオスでの活動に流用されていると告発した。 同議員によると,CIAは67年以来この資金をパテト・ラオと戦っているメオ族などの特殊部隊のために使っているといわれ,この事実はハンナAID長官からも確認された。 同議員は,難民救済に名を借り,ラオス情勢に介入するのは,最も悪質なギマン行為である。米国はラオス介入を減らすようにみせかけながら,その実,介入の度を深めるばかりである。それはラオスの中立を保証したジュネーブ協定の明白な侵犯であるにもかかわらず,回避しようとしていると非難した。
DIA-203-1971-02-07-1ラオス1971年02月07日1970年代政府軍特殊部隊が1個中隊100人を残してサムトン基地から撤退。
DIA-203-1971-02-08-1ラオス1971年02月08日1970年代米,南ベトナム政府軍,ラオス進行作戦開始。
DIA-203-1971-02-08-2ラオス1971年02月08日1970年代プーマ政府,声明発表-プーマ首相は,ラオス領土内に,南ベトナム政府軍が進入している事実を確認して以下の声明を発表した。 「この事態の責任はまず第一にラオスの中立と領土を侵してきた北ベトナムにある。しかしながらその他の国の軍隊がわが国に進入することを決して正当化することは許されない。ラオス政府はここに全外国軍隊のラオスからの撤退を要求する。また関係大国がジュネーブ協定の責任を果すため努力するよう要請する」
DIA-203-1971-02-09-1ラオス1971年02月09日1970年代政府軍スポークスマンはロンチェン基地北方と,北東方の2地点で政府軍と解放勢力間に激戦が行なわれていると報じた。 国防省スポークスマンによると一つの戦闘はメオ族避難民センターと,米国の援助で作られた滑走路のあるサムトンの北東約10キロのプーナサイで行なわれた。
DIA-203-1971-02-09-2ラオス1971年02月09日1970年代スファヌボン議長,シアヌーク・カンプチア民族統一戦線議長と会談。
DIA-203-1971-02-09-3ラオス1971年02月09日1970年代シエンデト,ムジョンチム(ルアンプラバンとビエンチャンを結ぶ幹線道路から25キロ~30キロの地点)にある政府軍の2拠点はパテトラオ軍の手に落ちた。
DIA-203-1971-02-09-4ラオス1971年02月09日1970年代バンパオ将軍,6日間にわたるタイ訪問から帰国。
DIA-203-1971-02-10-1ラオス1971年02月10日1970年代プーマ首相,シスク国防相,バンパオ将軍,ゴッドレー大使,ロンチェン基地防衛について協議。
DIA-203-1971-02-10-2ラオス1971年02月10日1970年代政府軍は,国道7号線と17号線が交差する戦略拠点サラプクンに増援部隊を急派。
DIA-203-1971-02-11-1ラオス1971年02月11日1970年代愛国戦線中央委は,米,南ベトナム政府軍のラオス進攻を支持した英国政府の態度を抗議する声明を発表。
DIA-203-1971-02-11-2ラオス1971年02月11日1970年代プーマ首相,ソプサイサナ国会副議長をフランス大使に,インペン・スリタイ法相をイギリス大使に任命。
DIA-203-1971-02-11-3ラオス1971年02月11日1970年代国際監視委員会非公式会談開催。
DIA-203-1971-02-12-1ラオス1971年02月12日1970年代政府,全土に緊急事態宣言発令-プーマ首相兼国防相は国王の名において王国軍最高司令官ウアン・ラチクン少将に治安維持に必要な措置をとるため法律に基づく権限を授与。
DIA-203-1971-02-12-2ラオス1971年02月12日1970年代プーマ首相は「南ベトナム政府軍がホー・ルートを切断すれば,中国がパテトラオの要求に応じ,2~3ケ月以内にラオスに義勇軍を入れる可能性が強い」と警告。
DIA-203-1971-02-13-1ラオス1971年02月13日1970年代プーマ首相,記者会見で言明「12日からの緊急事態宣言はルアンプラバン,サムトン,ロンチェンなどの情勢を考えて出した。この結果治安維持が警察の手から軍に移った」,「ラオス王国軍は南ラオスで絶対に南ベトナム軍と合同作戦をしていない,南部ラオスのラオス王国軍の中にタイの義勇兵が入っていることはあり得る」「ラオスだけの個別和平の見通しは非常に難しくなった」
DIA-203-1971-02-13-2ラオス1971年02月13日1970年代13~14日パテトラオ軍は,CIAの秘密基地ロンチェンに対し大規模な地上攻撃を開始し,基地の防衛網に突入し,大損害を与えた。
DIA-203-1971-02-14-1ラオス1971年02月14日1970年代シスーク国防相言明「政府軍は第1,3,5軍管区から5個大隊の増援軍を派遣し,ロンチェン基地を死守する」
DIA-203-1971-02-17-1ラオス1971年02月17日1970年代ビエンチャンで18~25歳の青年の強制徴兵が開始された。25日中止。
DIA-203-1971-02-17-2ラオス1971年02月17日1970年代(UPI)タイの志願兵1,600人がロンチェン基地に空輸された。
DIA-203-1971-02-18-1ラオス1971年02月18日1970年代国際監視委員会公式会談開催-カナダのシャープ外相の要請に基づき外国軍隊のラオス介入の実情を調査。
DIA-203-1971-02-18-2ラオス1971年02月18日1970年代ラオス第5軍管区司令官,クープラシット・アバイ将軍は布告中の緊急事態宣言をさらに強化するため数力条の新しい具体的措置がラオス全土にとられたと発表した。 ビエンチャン市内では,全面的な夜間外出禁止令はまだ実施されていないが,すべてのバー,ダンスホール,レストラン,ナイトクラブなどの閉店は2時間早められ午前一時になった。また,ラオス,タイの国境であるメコン川上流の航行は午後7時から翌朝午前5時までストップ。午後6時以後は,ビエンチャン空港,放送局,発電所,水道局,刑務所,軍関係施設への一般人立入を禁止。同将軍は,各人が身分証明書を携帯するよう求め,新命令に服従しない人については当局が責任をもたないと警告した。
DIA-203-1971-02-19-1ラオス1971年02月19日1970年代政府軍,チェポン西方70キロのノンプアラオの重要拠点を放棄。
DIA-203-1971-02-19-2ラオス1971年02月19日1970年代愛国戦線中央常任委員会特別会議がスファヌボン議長の司会のもとに開かれ,米,南ベトナム軍のラオス進攻後の全国軍民の新しい任務,スファヌボン議長とシアヌーク殿下との会談報告について討議。
DIA-203-1971-02-22-1ラオス1971年02月22日1970年代22~23日,米機はロンチェン基地を包囲中の解放軍を猛爆。
DIA-203-1971-02-22-2ラオス1971年02月22日1970年代サラバン西方フエイムネの拠点を守備していた政府軍3個大隊は,48時間にわたる解放軍の集中砲火をあびたあと同陣地を放棄。
DIA-203-1971-02-22-3ラオス1971年02月22日1970年代ラオス進攻南ベトナム政府軍第39レンジャー大隊は南ベトナム国境から10キロの地点で解放軍から壊滅的打撃を受けた。
DIA-203-1971-02-23-1ラオス1971年02月23日1970年代愛国戦線中央委と愛国中立勢力連盟委の常任委員会がこのほど臨時会議開催。
DIA-203-1971-02-25-1ラオス1971年02月25日1970年代ソ連政府,米国のラオス介入を非難する声明を発表。
DIA-203-1971-02-26-1ラオス1971年02月26日1970年代ラオス進攻の南ベトナム政府軍,ラオバオ峠北西16キロの第31高地で壊滅的打撃を受ける。
DIA-203-1971-03-01-1ラオス1971年03月01日1970年代政府軍,ジャール平原北東部で大作戦開始,特殊部隊,タイ軍数個大隊が支援。
DIA-203-1971-03-05-1ラオス1971年03月05日1970年代サイニャプリー州ムアンピアンで,国王夫妻,プーマ首相,ゴッドレー米大使出席の下で米国援助のナムターン灌漑計画(灌漑ダムおよび水路建設)完成の祝典が行なわれた。 総工費15億キツプ,米,ラオス双方の技術者の協力で完成し水路の全延長3キロメートル,幅35メートル,深さ5メートル,供給水量3m2/秒,給水能力雨期3,000ha,乾期1,500ha。
DIA-203-1971-03-06-1ラオス1971年03月06日1970年代南ベトナム政府軍,チェポン占領を発表。
DIA-203-1971-03-09-1ラオス1971年03月09日1970年代ボロベン高原東部ラオス政府軍重要拠点PS22陣地,解放軍3個大隊の攻撃を受け陥落。
DIA-203-1971-03-09-2ラオス1971年03月09日1970年代ラオス国防省筋はラオス空軍が南ベトナム政府軍のラオス進攻作戦に関連して米空軍と共同作戦をしていることを認めた。
DIA-203-1971-03-15-1ラオス1971年03月15日1970年代クープラシット・アバイ第5軍管区司令官兼ビエンチャン守備隊司令官兼第5軍管区緊急事態施行管理委員長はワッタイ空港周辺2キロメートル四方の区域の住民は午後6時から翌日午前6時まで点火および外出を禁止すると命令した。
DIA-203-1971-03-19-1ラオス1971年03月19日1970年代米国は,吸水ポンプ,発電機その他付属品3600万キップ相当の品をラオス側に供与した。
DIA-203-1971-03-21-1ラオス1971年03月21日1970年代ルアンプラバン空港は,解放軍のロケット弾,迫撃砲弾を少なくとも十発うちこまれ,ヘリコプター1機と営舎の一部が破壊されて軍用機以外の航空機の発着が禁止された。 バッタナ国王は,ラオス政府軍創設21周年の式典に出席のため,同空港からビエンチャンに向う予定だったが中止になった。
DIA-203-1971-03-22-1ラオス1971年03月22日1970年代カイソン・フォンビハン愛国戦線中央委副議長を団長とする代表団,ソ連共産党第24回大会出席のためハノイ到着,23日北京着,24~25日周恩来首相と会談,27日モスクワ着。
DIA-203-1971-03-22-2ラオス1971年03月22日1970年代プーマ首相は,ルアンプラバンの飛行場が解放軍部隊のロケット砲撃を受けたことに関連して,情勢の把握と飛行場の損害状況を視察するためルアンプラバンに到着した。
DIA-203-1971-03-23-1ラオス1971年03月23日1970年代プーマ首相は,ルアンプラバン会談開催提案を拒否するスファヌボン議長からの返電を受取った。
DIA-203-1971-03-23-2ラオス1971年03月23日1970年代王国軍建軍25周年記念式典がビエンチャンで行われた。バッタナ国王は欠席。
DIA-203-1971-03-23-3ラオス1971年03月23日1970年代政府軍は,ルアンプラバンに接近した解放軍部隊に対して空軍機を中心とした攻撃を開始,米戦闘機がタイから出動して爆撃を加え解放軍は死傷者数十人をだし,北東方面に撤退中である。
DIA-203-1971-03-25-1ラオス1971年03月25日1970年代愛国戦線中央委は,9号道路の全将兵と人民に勝利を祝うメッセージを送った。
DIA-203-1971-03-26-1ラオス1971年03月26日1970年代パテト・ラオのソット・ペトラシビエンチャン駐在代表は「王都攻撃は,ルアンプラバン空港を軍事基地として使用するなという,米国と,ラオス右派に対する警告であり,王都は中立でなければならない」と語った。
DIA-203-1971-04-01-1ラオス1971年04月01日1970年代ベトナム援助により,サムヌア州に建設された水力発電所の落成式が行なわれた。
DIA-203-1971-04-03-1ラオス1971年04月03日1970年代アーウィン米国務次官は,米上院外交委員会公聴会での証言で,B52戦略爆撃機が人口密度の高いラオス北部で使用されていることを初めて公式に認めた。
DIA-203-1971-04-04-1ラオス1971年04月04日1970年代(モスクワ)ソ連共産党大会でカイソン・フォンビハン愛国戦線代表があいさつした。同代表団は14日モスクワ発,北京着,22日周恩来首相と会談,30日ハノイ着。
DIA-203-1971-04-06-1ラオス1971年04月06日1970年代反プーマ・クーデター失敗-プーマ政権打倒クーデターが発覚し,政府軍大佐2人を含む十数人が逮捕された。首謀者はタイ在住の元タイ国会議員アンポン・スワンナボン。
DIA-203-1971-04-07-1ラオス1971年04月07日1970年代カムパンパニヤラオス外相代理,愛知外相と会談。
DIA-203-1971-04-08-1ラオス1971年04月08日1970年代ロンチェン基地北東15キロの重要拠点バンナは,5日の米軍の誤爆事件以来動揺が生じていたが,7日から8日にかけての解放軍の集中砲火400発を浴び,兵士,避難民などに死傷者百数十人をだし,8日午前逃亡兵多数がでて解放軍の手に落た。
DIA-203-1971-04-10-1ラオス1971年04月10日1970年代米国援助で,ビエンチャン西北約350キロメートルのファイサーイ飛行場の拡張工事が完成。 この滑走路は,長さ1,414m,幅23m,工費3億9100万キツプ,拡張の目的は経済と国防の2点。
DIA-203-1971-04-14-1ラオス1971年04月14日1970年代米共和党議員マクロスキー,ジエローム・ワルデ氏は北部ラオスで難民にインタビューしたレポートを発表し,爆撃が避難の最大の理由であると主張した。
DIA-203-1971-04-20-1ラオス1971年04月20日1970年代日本の援助で建設中のナムグム・ダムは第1期工事を9分通り完了,貯水式を行ない貯水を開始した。
DIA-203-1971-04-26-1ラオス1971年04月26日1970年代愛国戦線と中立左派が会談-27日ラオス問題の平和的解決のための2項目提案を含む共同コミュニケを採択。
DIA-203-1971-04-27-1ラオス1971年04月27日1970年代スファヌボン愛国戦線議長はプーマ首相に親書を送り,ボンサク特使をビエンチャンに帰任させ和平交渉を再開することを明らかにした。
DIA-203-1971-04-29-1ラオス1971年04月29日1970年代政府はボンサク特使との間で和平予備会談を再開するとのコミュニケ発表。
DIA-203-1971-04-29-2ラオス1971年04月29日1970年代日本の会社とマイクロウェーブ設置協定締結,この協定により,ビエンチャン~ノンカイ間通信が5月中に可能となる。
DIA-203-1971-05-04-1ラオス1971年05月04日1970年代ムオンファラン(ビエンチャン南方350キロ)は,解放軍の激しい砲撃と歩兵部隊の攻撃により同軍に再占拠された。
DIA-203-1971-05-08-1ラオス1971年05月08日1970年代ボンサク特使,ビエンチャンに帰任。
DIA-203-1971-05-09-1ラオス1971年05月09日1970年代米空軍のB52戦闘爆撃機は,南ベトナムでシャカ停戦が行なわれた同日,ラオス南部のボー・チ・ミン・ルートに対し,この2カ月間で最も激しい爆撃を加えた。
DIA-203-1971-05-11-1ラオス1971年05月11日1970年代国会,王会開会,国会議長にプイ・サナニコン,王会議長にウトン・スバナボン氏選出。
DIA-203-1971-05-11-2ラオス1971年05月11日1970年代北ベトナム外交官に投石-ラオスの憲法記念日,プーマ首相の公開演説会場から退場しようとした4人の北ベトナム外交官に対し,ラオス軍兵士と警官が投石し,傷を負わせた。 事件は,ビエンチャンの目抜き道路に設けられた要人席にいたグエンジャブ代理大使ら4人の北ベトナム外交官がプーマ首相の北ベトナムによるラオス派兵非難に抗議のため,乗用車に乗りこんだとき起ったが,負傷は軽微とみられる。
DIA-203-1971-05-12-1ラオス1971年05月12日1970年代ボンサク特使はプーマ首相に,4月27日付のスファヌボン議長の書簡(2項目提案)を手交。
DIA-203-1971-05-15-1ラオス1971年05月15日1970年代ケネディ米民主党上院議員は,7月1日(72会計年度)より,ラオス政府軍や米中央情報局指導の現地部隊に対する米海外難民援助費の流用が停止されるだろうと述べた。同議員は米国際開発局(AID)のハンナ長官から送られた7日付の手紙でこれは確認されたと語った。
DIA-203-1971-05-16-1ラオス1971年05月16日1970年代パクセ東方40キロのパクソン,激戦ののち解放軍に制圧さる。
DIA-203-1971-05-17-1ラオス1971年05月17日1970年代政府軍,9号道路西側,サバナケト東方60キロのドンヘン町を放棄。
DIA-203-1971-05-18-1ラオス1971年05月18日1970年代仏援助によるナムドン水力発電ダム建設工事完了,発電能力5300kw,総工費6600万キップ。
DIA-203-1971-05-19-1ラオス1971年05月19日1970年代ラオス政府軍,ボロベン高原の最後の拠点フェイコンを放棄,同高原は共産側が完全制圧。
DIA-203-1971-05-20-1ラオス1971年05月20日1970年代北ベトナム外務省声明,ラオス愛国戦線の2項目和平提案を全面支持。
DIA-203-1971-05-21-1ラオス1971年05月21日1970年代上院外交委員会,アメリカのCIAはラオスで4,800人のタイ傭兵を使用していることを明らかにした。
DIA-203-1971-05-24-1ラオス1971年05月24日1970年代71~72国会,年度予算案を承認予算委へ送付,総額192億キップ,軍事予算85億キップ。
DIA-203-1971-05-24-2ラオス1971年05月24日1970年代スファヌボン議長を団長とするラオス愛国戦線代表団がハノイを訪問した。30日まで滞在,30日共同声明に調印。
DIA-203-1971-05-26-1ラオス1971年05月26日1970年代プーマ首相はスファヌボン議長あてに返書を送り次のように述べた。 「地上および空中での戦闘の全面的な完全停止に到達することが緊急の課題である。そこで次のことを提案する。ボンサク特使に私の代表との交渉を直ちに開催できるように全権を付与することと,交渉期間中,議事項目に制限を加えないこと」
DIA-203-1971-05-27-1ラオス1971年05月27日1970年代アジア開発銀行はナムグム・ダムからビエンチャン市内への送電線工事のため337万ドルを融資することを承認。
DIA-203-1971-06-07-1ラオス1971年06月07日1970年代米国務省スポークスマンは,ラオス内の義勇軍に米国が支援を与えていることを公式に認めた。また,この義勇軍がタイ人とラオス少数部落民であり,米政府の支援は資金および物資の供与であると説明した。米政府はこれら義勇軍の存在を認め,これに支援を与えてきた事実を正式に確認したのは初めてである。
DIA-203-1971-06-09-1ラオス1971年06月09日1970年代トーメン,小松製作所,日野自動車,渡辺機械は,タゴン灌漑プロジェクトの建設機械,資材等の受注が内定した。受注額は,建設機械50万ドル,資材5万2000ドルの計55万2000ドルでアジア開発銀行ベースの調達である。同プロジェクトは,農業開発,とくに米作増産を目指した灌漑施設を建設しようというもの。そして,去る5月3日締切りで国際入札された建設用機械,資材にはトーメングループの他,三井物産グループ,タイのメーカーなどが応札,トーメングループが1番札をとり受注をきめたもの。 受注内容は,ブルドーザー9台,ショベルカー1台,ダンプカー2台,それにワゴン,ウィスカーなどで総額55万2000ドルとなる。
DIA-203-1971-06-14-1ラオス1971年06月14日1970年代サイミントン民主党上院議員は,上院本会議で米政府がラオスで秘密のうちに軍事介入を拡大していると批判し,これを押えるためホー・チ・ミン補給路爆撃を除くラオスでのあらゆる形の軍事経済援助,作戦支援に2億ドルの限度を設ける法案を15日提出すると発表した。
DIA-203-1971-06-20-1ラオス1971年06月20日1970年代サイミントン米上院外交委分科委員長は,分科委員会が調査収集したラオスにおける米国の行動に関する情報を,国務省ないし国防総省が安全保障上の理由から機密扱いするよう命じるならその情報の一部を公表する用意があると語った。
DIA-203-1971-06-22-1ラオス1971年06月22日1970年代スファヌポン議長,プーマ首相に新2項目和平提案-1.米国の爆撃停止と同時に停戦。2.ジャール平原とビエンチャンで交互に話合い。
DIA-203-1971-06-26-1ラオス1971年06月26日1970年代ソープサイサナ前国民議会副議長は,駐仏大使に任命され,5月中旬ビエンチャンを発ち,パリに向ったがフランス政府は同氏のかんばしくない噂のため信任状の受取りをちゅうちょし,そのため信任状提出に至らないまま政府の命により6日帰国した。
DIA-203-1971-06-30-1ラオス1971年06月30日1970年代政府は閣議でパテトラオとの交渉の前提条件としてジャール平原に限定した停戦を申入れる旨決定した。
DIA-203-1971-07-05-1ラオス1971年07月05日1970年代プーマ首相,返書-プーマ首相はスファヌボン議長に返書を送り, 「1.ジャール平原の中心(飛行場)から半径30キロ以内で全面停戦,2.その後ジャール平原ならびにビエンチャンで全領土での停戦について合意するため話し合い,3.話し合いによって未解決のすべてのラオス問題を解決する」と提案した。
DIA-203-1971-07-07-1ラオス1971年07月07日1970年代政府軍は,サバナケットから90キロの戦略拠点ムオンファランを奪回。
DIA-203-1971-07-08-1ラオス1971年07月08日1970年代ラオス王国軍最高司令官ウアン・ラティクーン中将辞任。後任に王国第3軍管区司令官プンホーン・マークテーパラック少将が就任。
DIA-203-1971-07-09-1ラオス1971年07月09日1970年代プーマ首相は,政府軍はすでにジャール平原を制圧し,カンカイ以北に進撃しようとしていると言明,部隊の一部は,すでに,かつてパテト・ラオ司令部のあったシエンクアンの近くまで到達していることを明らかにした。
DIA-203-1971-07-11-1ラオス1971年07月11日1970年代スファヌボン議長は,プーマ首相にメッセージを送り,同首相の5日付電報を批判すると共に,再び全面停戦を強く主張。
DIA-203-1971-07-12-1ラオス1971年07月12日1970年代インペーン・スリニャタイ司法相兼計画担当代行の駐英大使転出に伴い,次の人事移動が明らかにされた。 司法相はプーマ首相が兼任,情報宣伝担当首相代理にカムパン・パンニャー,司法担当首相代理にカムキン・スワンナラーシー,経済担当代行兼計画協力担当代行にシスク・ナチャムパサック財政相が兼務,経済担当代行補佐兼計画協力担当代行補佐はフムバン・サイニャシット財政担当国務相が兼務。
DIA-203-1971-07-13-1ラオス1971年07月13日1970年代スファヌボン議長はプーマ首相あて返書でプーマ提案を拒否。
DIA-203-1971-07-20-1ラオス1971年07月20日1970年代ラオス議会は,麻薬取引とその原料となるケシの栽培を禁止する法令を可決した。
DIA-203-1971-07-21-1ラオス1971年07月21日1970年代サイミントン米上院議員は,ラオスにいるタイ雇兵に対する財政援助をやめることを要求する法案を提出した。これは,昨年米議会がラオスで活動しているタイ軍に米国防総省予算を使用することを禁止したにもかかわらず,その後CIAの予算を使って,ひきつづきタイ雇兵の資金をまかなっているため。
DIA-203-1971-07-23-1ラオス1971年07月23日1970年代プーマ首相はスファヌボン議長に書簡を送り「1.カンカイないしビエンチャンでの和平会談即時開催2.ジャール平原での爆撃停止を半径30キロ以上に拡大」との先の提案をくり返した。
DIA-203-1971-07-23-2ラオス1971年07月23日1970年代愛国戦線のソット・ペトラシ代表言明,「1.新ジュネーブ会議開催は不必要,2.米軍がラオス爆撃を停止すれば米軍捕虜は釈放,3.ニクソン訪中は米中の内政問題」
DIA-203-1971-07-27-1ラオス1971年07月27日1970年代日本の経済援助によるビエンチャンのワッタイ空港拡張計画第2期工事の細目協定がラオス外務省で調印された。 今回の工事の総工費は180万ドルで,駐機場誘導路,照明設備などを完備することになっている。
DIA-203-1971-07-28-1ラオス1971年07月28日1970年代第4軍管区司令部声明,政府軍サラバンを再占拠。同地は,昨年6月9日解放軍に占領された。
DIA-203-1971-07-30-1ラオス1971年07月30日1970年代愛国戦線中央委は,南ベトナム共和国臨時革命政府の1日付の7項目新和平提案を完全に支持する声明を発表した。
DIA-203-1971-07-30-2ラオス1971年07月30日1970年代トーメンは,ラオス政府のタゴン地区かんがい整備計画に伴う必要器材約50万ドルの落札に成功,正式にラオス政府との間で契約を行なった。同計画は,タゴン地区820ヘクタールを整備しようというもので,トーメンは工事に必要なブルドーザー9台,セメントなどを納入することになっている。
DIA-203-1971-07-30-3ラオス1971年07月30日1970年代政府軍,南部パクセの東約30キロ,国道3号線沿いの拠点を攻撃,これを奪回。
DIA-203-1971-07-31-1ラオス1971年07月31日1970年代プーマ首相,カンカイ会談の安全保障に混成軍の編成を提案。
DIA-203-1971-08-01-1ラオス1971年08月01日1970年代政府軍,ボロバン高原の要衝パクソンを3カ月半ぶりに奪回。
DIA-203-1971-08-02-1ラオス1971年08月02日1970年代米上院外交委分科会,ラオス戦争の真相を公表。
DIA-203-1971-08-02-2ラオス1971年08月02日1970年代プーマ首相は日本人記者との会見で次のように述べた。 「ラオス和平は即時会談開始が先決である。全土停戦はそこで話合えばよい。会談前の全土停戦を受入れられない理由はこの間に北が軍備を増強する疑いがあるからだ。しかし全外国軍の撤退確約とその国際監視という条件があれば,われわれも旧ホールート以外の全ラオス領停戦を望む,だが愛国戦線はこれを望まないだろう。旧ホールートの問題はベトナム戦争が片づかない限り解決しない」
DIA-203-1971-08-04-1ラオス1971年08月04日1970年代スファヌボン愛国戦線議長は,プーマ首相の7月22日付メッセージは,7月5日付の古い提案の繰り返しにすぎなく,全領土即時停戦という愛国戦線側の6月22日提案の受諾の回避であり,米帝国主義者とその手先の行為をかくす目的であると非難する書簡を同首相宛に送った。
DIA-203-1971-08-06-1ラオス1971年08月06日1970年代ボンサク特使,ビエンチャンを引揚げ。
DIA-203-1971-08-06-2ラオス1971年08月06日1970年代ワシントン・ポストにすれば,米政府は最近,中国との摩擦をさけるため,CIAが支援しているラオス山岳部族によるスパイ班を中国領内に派遣することを中止するよう命令した。
DIA-203-1971-08-10-1ラオス1971年08月10日1970年代トーメンはビエンチャンのワッタイ空港第2期拡張工事を請負うことになりラオス政府との間で正式に契約調印した。 総工費3億6000万円,同空港のタクシーウエーを建設するもの。9月着工,来年5月完成の予定。 トーメンは,第1期工事も請負っており,工事費3億6000万円全額日本政府の無償援助。
DIA-203-1971-08-10-2ラオス1971年08月10日1970年代アヘン栽培,吸飲,売買,精製,混合,粉末化などの禁止に関する法律が国民議会を通過。
DIA-203-1971-08-16-1ラオス1971年08月16日1970年代スファヌボン議長の特使ボンサク殿下がサムネワ帰着。
DIA-203-1971-08-18-1ラオス1971年08月18日1970年代プーマ首相はスファヌボン議長あてに次の返書を送った「私はラオス王国政府があなたの提案に含まれるすべての点を話合うことを拒絶しないことを強調したい,私は直ちに交渉を開く時がきていると思う。あなたが全権代表を指名し,われわれはビエンチャンとカンカイを交互に会談地とすることに合意しているので,第1回会談をビエンチャンでもちたい,この会談では北部ラオス,たとえばジャール平原における停戦と爆撃停止を検討したい」
DIA-203-1971-08-20-1ラオス1971年08月20日1970年代ビエンチャンのワッタイ空港は,3年ぶりのメコンの大洪水で一部浸水,国内,国外線とも使用不能となり閉鎖された。
DIA-203-1971-08-25-1ラオス1971年08月25日1970年代レスファヌボン議長はプーマ首相に書簡を送り次のように述べた。「18日付提案は外国の干渉なしにラオス問題を討議することを拒否するもの,侵略者一味がラオス王国に対する軍事的冒険の放棄を拒否するなら,ラオス人民と愛国戦線は自己の正当な自衛権を行使することを厳しく警告する」
DIA-203-1971-08-26-1ラオス1971年08月26日1970年代プーマ首相,愛国戦線に対し,来年1月の総選挙参加を呼びかけ。
DIA-203-1971-08-27-1ラオス1971年08月27日1970年代プーマ首相,バンコック訪問,タノム首相と会談,バンコックを発ちパリに。このあと訪米。
DIA-203-1971-09-01-1ラオス1971年09月01日1970年代新国連大使に任命されたカムマーオ殿下は国連のウ・タント事務総長に信任状を提出。
DIA-203-1971-09-04-1ラオス1971年09月04日1970年代8月9日米国務省が「米国はもはや62年ジュネーブ協定にはしばられない,なぜなら8万の北ベトナム軍がラオスの中立をおかしているからだ」と述べたことに対し,プーマ首相は記者会見で反論。
DIA-203-1971-09-10-1ラオス1971年09月10日1970年代国民議会は,同議会総選挙に愛国戦線も参加するよう呼びかける決議を採択。
DIA-203-1971-09-13-1ラオス1971年09月13日1970年代政府は,数カ月前に任命した駐仏大使ソプサイサナ氏をビエンチャンに呼び返しカンパンパンヤ新大使を任命した。
DIA-203-1971-09-16-1ラオス1971年09月16日1970年代政府軍,パクソンを奪回,政府軍,タイ軍10個大隊4,000人は米空軍の支援のもとにパクソン周辺で11日以来作戦を展開してきた。
DIA-203-1971-09-17-1ラオス1971年09月17日1970年代ペン・ポンサワン内相は,ソット・ペトラシ駐ビエンチャン愛国戦線代表に,同戦線の総選挙参加を要請するスファヌボン議長宛の書簡を手交した。
DIA-203-1971-09-20-1ラオス1971年09月20日1970年代国防省スポークスマンは,先週行なわれたボロベン高原の要衝パクソン奪回作戦で,政府軍は死傷,行方不明1,100人以上の大損害をだしたと発表した。
DIA-203-1971-09-20-2ラオス1971年09月20日1970年代政府,愛国戦線に対し来年1月の国会選挙に参加するよう呼びかけ。
DIA-203-1971-09-25-1ラオス1971年09月25日1970年代政府軍,7号線上のムオンスイを奪回。
DIA-203-1971-09-28-1ラオス1971年09月28日1970年代プーマ首相,国連総会で演説。
DIA-203-1971-09-29-1ラオス1971年09月29日1970年代外国為替局長は,通貨安定基金への各国の71/72年度の拠出状況を発表,日本が30万ドル増額した他は70/71年度と同額。
DIA-203-1971-09-30-1ラオス1971年09月30日1970年代プーマ首相,ニクソン米大統領と会談。
DIA-203-1971-10-04-1ラオス1971年10月04日1970年代米上院本会議は,ラオスに対する米国の軍事,経済援助などの支出を年間3億5000万ドルに制限することを承認した。 これはサイミントン議員が軍事調達法の修正案として提出したもので,制限額の対象には軍事,経済援助のほかCIAの活動費も含まれている。ただし,ホールート爆撃の予算は含まれない。
DIA-203-1971-10-10-1ラオス1971年10月10日1970年代ラオス愛国戦線全国大会,サムヌワ州解放区で開会,会期は10日から15日まで,スファヌボン議長が政治報告。
DIA-203-1971-10-10-2ラオス1971年10月10日1970年代スファヌボン殿下はラオス独立宣言26周年(10月12日)に当り,「ニクソン・ドクトリンの重大な破産」と題する論文を発表。
DIA-203-1971-10-12-1ラオス1971年10月12日1970年代ラオス愛国戦線党中央委員会は,サムヌワ州解放区で独立26周年の祝賀大会を開いた。
DIA-203-1971-10-17-1ラオス1971年10月17日1970年代愛国戦線中央委は米国の特殊部隊使用強化を糾弾する声明発表。
DIA-203-1971-10-18-1ラオス1971年10月18日1970年代プーマ首相,パリからロンドンに到着。
DIA-203-1971-10-21-1ラオス1971年10月21日1970年代愛国戦線中央委,ニクソン・ドクトリンによる戦争強化を非難する声明発表。
DIA-203-1971-10-22-1ラオス1971年10月22日1970年代プーマ首相,帰国。
DIA-203-1971-10-22-2ラオス1971年10月22日1970年代前ラオス王国軍最高司令官,ウァン・ラティクーン将軍は,72年1月2日のラオス総選挙に参加するため政党を設立することを明らかにした。同党は,王国軍を引退した高級将校25人からなっており,対外政策については中立方針をとるが,国内政策については現政府の政策を支持する旨,表明した。
DIA-203-1971-10-25-1ラオス1971年10月25日1970年代プーマ首相は,日本人記者団との特別会見で,米中接近の新情勢下で,パテト・ラオに対し,数日中に和平回復のため新提案を行なうことを明らかにした。
DIA-203-1971-11-04-1ラオス1971年11月04日1970年代政府は,国内の銀行に8日まで閉鎖を命じ,米,英,仏,日本,オーストラリアの通貨とキップとの交換の無期限停止措置をとった。
DIA-203-1971-11-08-1ラオス1971年11月08日1970年代平価切下げ-政府は,キップの20%切下げを実施し,これに伴う経済改革案を発表した。政府コミュニケによると,ぜいたく品に対する輸入税の引上げ,ぜいたく品以外の物価の凍結,政府職員の賃金凍結,ラオス国内銀行における外貨勘定の廃止などで,4日に停止命令のでた銀行業務は同日再開された。1米ドルは,600キップになる。
DIA-203-1971-11-15-1ラオス1971年11月15日1970年代愛国戦線スポークスマンは,1972年1月の国会選挙について,これはビエンチャン政府が米国の新植民地主義陰謀を実行するためのものであると非難する声明を発表した。
DIA-203-1971-11-20-1ラオス1971年11月20日1970年代スファヌボン議長はプーマ首相にメッセージを送り,最近のラオスに対する爆撃,タイ兵投入などの戦争強化は同首相の訪米と関連していると述べ,「米国はラオス人民がともに席につき,外国の干渉なしに自らの事柄を解決するための条件が作り出されるようにするためにラオス全領土に対する砲爆撃を直ちに無条件に停止しなければならない」と強調した。
DIA-203-1971-11-22-1ラオス1971年11月22日1970年代国防省は,ソ連製戦車の援護をうけた解放軍が先週末からムオンファランおよびその周辺の政府軍拠点を攻撃し,制圧した。
DIA-203-1971-11-27-1ラオス1971年11月27日1970年代プーマ首相は,20日付のスファヌボン書簡に対して次のような返書を送った。 1.ボンサック,パテト・ラオ代表に必要な権限を与えビエンチャンに再派遣し,爆撃停止と停戦について会談すること。 2.ジャール平原を中立化すること。
DIA-203-1971-12-02-1ラオス1971年12月02日1970年代ナムグム・ダム第1期工事落成式,バッタナ国王出席。
DIA-203-1971-12-06-1ラオス1971年12月06日1970年代政府軍,ビエンチャン南東500キロのサラバンから撤退。
DIA-203-1971-12-10-1ラオス1971年12月10日1970年代ムジア峠北東約12.5キロの地点のラオス領で,米軍F105戦闘爆撃機「サンダーチーフ」1機が北ベトナム軍地対空ミサイルで撃墜された。 70年3月10以来,米軍はラオスで74機を失なっている。北軍のソ連製地対空ミサイルで米軍機が撃墜されたのははじめて。
DIA-203-1971-12-14-1ラオス1971年12月14日1970年代プーマ首相は,4日間にわたるマレーシア公式訪問のため14日クアラルンプールに到着した。 同首相は,ラザク・マレーシア首相と,東南アジア中立化構想などについて討議し,17日共同声明に調印した。
DIA-203-1971-12-16-1ラオス1971年12月16日1970年代スファヌボン議長はプーマ首相に書簡を送り,70年3月6日の5項目声明,71年4月26日および6月22日の2項目提案を強調した。
DIA-203-1971-12-18-1ラオス1971年12月18日1970年代ラオス人民解放軍最高司令部はこのほど命令を発し,全軍に敵を討つ競争を呼びかけた。
DIA-203-1971-12-20-1ラオス1971年12月20日1970年代解放軍は18日からジャカルタ平原で攻勢-20日チャムパサク国防相代理は,政府軍が同平原からほぼ撃退されたと発表。それによれば,北ベトナム軍は1万5000人を投入し死者1,500人を出し,政府軍の死傷者は500人にのぼった。
DIA-203-1971-12-21-1ラオス1971年12月21日1970年代政府は米ドル切下げに追随してキップ平価を切下げ,1ドル600キップのレートを据えおくことを発表。
DIA-203-1971-12-23-1ラオス1971年12月23日1970年代マッケーン米太平洋軍司令官,ラオス訪問。
DIA-203-1971-12-24-1ラオス1971年12月24日1970年代愛国戦線のソット・ペトラシ駐ビエンチャン代表は,記者会見し,次のように述べた。 1.ビエンチャン政府軍は,今年の雨期にタイ軍10個大隊を含む40個大隊で解放区ジャール平原を侵略した。今回,愛国勢力がそれを奪回したわけである。 18日以来の攻撃で愛国勢力は,タイ部隊7個大隊,バンパオ将軍の特殊部隊4個大隊計11個大隊を一掃,3,000人の死傷者を出させ,ほかの9個大隊に大きな損害を与えた。 1.西側は愛国勢力がこの戦闘に多くの近代兵器を投入したことに驚いているが,われわれは25年以上も戦い,パイロットの養成も進み滑走路もある。 1.米国は,人民戦争に勝てないことが分らない。ニクソン米大統領は反戦世論から,中国に助けを求めに行くのだろうが,中国は米国のインドシナからの完全撤退を迫るだけだろう。 ラオス愛国戦線の2項目提案,南ベトナム臨時革命政府の7項目提案を米国がのまないかぎり戦争は終結しない。 1.米中首脳会議に過大な期待はもっていない。われわれは真の独立自由の獲得まで戦い続ける。ラオス問題は,われわれ愛国戦線の力で解決できると確信している。 今回のジャール平原攻撃は,訪中するニクソン大統領へのよき贈り物である。
DIA-203-1971-12-25-1ラオス1971年12月25日1970年代国防省スポークスマンの発表によると,ロンチェン北東22キロにある政府軍のパンナ陣地とカンコ陣地が解放軍の攻撃で陥落した。
DIA-203-1971-12-28-1ラオス1971年12月28日1970年代南部ボロベン高原の要衝,パクソンは27日夜灘から解放勢力の猛烈な攻撃を受け,政府軍は西方に撤退した。
DIA-203-1971-12-29-1ラオス1971年12月29日1970年代解放軍,ロンチェン基地西方19キロの政府軍拠点ムオンポワンを占領。
DIA-203-1972-01-02-1ラオス1972年01月02日1970年代国民議会選挙。
DIA-203-1972-01-03-1ラオス1972年01月03日1970年代バンパオ将軍はロンチェンから司令部をロンチェン南西の飛行場に移した。ホールート爆撃の米機を誘導する米軍の電子機器も同基地から南160キロまで撤収。
DIA-203-1972-01-06-1ラオス1972年01月06日1970年代スファヌボン議長,愛国戦線成立16周年にあたりアピール発表。
DIA-203-1972-01-07-1ラオス1972年01月07日1970年代日本政府からラオス政府に100万ドルの援助を与える文書を交換。援助は米,ワッタイ空港,タゴン農業開発に使われる。
DIA-203-1972-01-08-1ラオス1972年01月08日1970年代パテトラオはロンチェン基地に突入攻撃をかけた。9日も同基地の外郭陣地に攻撃を加え,7,000人の政府軍と近接戦を展開。
DIA-203-1972-01-10-1ラオス1972年01月10日1970年代南部ラオスを爆撃していた米機は,チェポン付近で地対空ミサイルの攻撃を受けた。米軍機が南部ラオスに持込まれたSAMミサイルで攻撃されたのは初めて。
DIA-203-1972-01-10-2ラオス1972年01月10日1970年代パテトラオ,ロンチェン基地東北12キロにあるサムトン飛行場を攻略,更に,ロンチェンに130ミリ砲70発以上を撃ち込み,同基地北東2キロの政府軍陣地を陥落させた。
DIA-203-1972-01-10-3ラオス1972年01月10日1970年代パテトラオ,ビエンチャン北方170キロのサラプクンを砲撃,地上攻撃,政府軍死者9人,負傷者20人。同拠点の北と南で13号線は切断された。
DIA-203-1972-01-10-4ラオス1972年01月10日1970年代政府軍,パクセ東方29キロ国道23号上のバンニクを8日からのパテトラオの攻撃のため放棄,政府軍特殊部隊3個大隊はパクセに撤退,政府軍死傷者130人。
DIA-203-1972-01-11-1ラオス1972年01月11日1970年代パテトラオ,ロンチェン北東2キロの政府軍陣地を奪取,政府軍死者4人,負傷者30人。バンパオ将軍はロンチェン基地に復帰。
DIA-203-1972-01-12-1ラオス1972年01月12日1970年代パテトラオ,ロンチェン基地に侵入。
DIA-203-1972-01-14-1ラオス1972年01月14日1970年代ロンチェン基地防衛強化のため,3,000人のタイ政府軍部隊がこの1週間,同地区に空輸された。この増援はさる7日のエーブラムズ司令官とタノム首相との話合いによるもの。
DIA-203-1972-01-18-1ラオス1972年01月18日1970年代政府軍は米機の支援爆撃のもとに,ロンチェン北西の尾根スカイラインを再占拠し,同基地一帯を奪回した。
DIA-203-1972-01-20-1ラオス1972年01月20日1970年代パテトラオ,ルアンプラバン南東60キロにあるサラプクンの政府軍司令部を占拠。
DIA-203-1972-01-20-2ラオス1972年01月20日1970年代人民解放軍最高司令官,建軍23周年にあたり一層大きな勝利をかちとるよう命令。 19日建軍23周年祝賀集会,スファヌボン議長,シトン・コマダム副議長,シパスート軍最高指揮部代表らが出席。
DIA-203-1972-01-23-1ラオス1972年01月23日1970年代北ベトナム外務省スポークスマンは声明を発表し,23日,ビエンチャン駐在北ベトナム大使館に手投げ弾が投げこまれたことに抗議。
DIA-203-1972-01-26-1ラオス1972年01月26日1970年代パテトラオ,パクセ北東30キロのケンハオを制圧,同地は政府軍2個中隊が守っていた。
DIA-203-1972-01-29-1ラオス1972年01月29日1970年代ビエンチャン市で0時から6時まで外出禁止令。
DIA-203-1972-01-29-2ラオス1972年01月29日1970年代ルアンプラバン飛行場,砲撃さる。
DIA-203-1972-01-31-1ラオス1972年01月31日1970年代米軍機は北ベトナム,ラオス上空で北ベトナムの対空陣地から6回にわたる敵対行動を受け,米軍機はこれに対して5回にわたる北爆で報復した。
DIA-203-1972-02-04-1ラオス1972年02月04日1970年代政府軍,ビエンチャン─ルアンプラバン間の拠点ムオンカシを放棄。
DIA-203-1972-02-06-1ラオス1972年02月06日1970年代愛国戦線中央委声明,ニクソン大統領の8項目提案を糾弾し,臨時革命政府と北ベトナムの声明を支持。
DIA-203-1972-02-11-1ラオス1972年02月11日1970年代政府軍12個大隊3,000人,ロンチェン基地周辺で反撃作戦開始。
DIA-203-1972-02-13-1ラオス1972年02月13日1970年代政府軍,ビエンチャン北方40キロのムオンカシを奪回。ムオンカシはビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ国道13号線上の要衝,2月3日パテトラオの手におちた。
DIA-203-1972-02-15-1ラオス1972年02月15日1970年代ソット・ペトラシ愛国戦線代表によれば,プーマ首相はこのほどスファヌボン議長に書簡を送り,ボンサク特使のビエンチャン派遣を要請した。同書簡は諸大国が頭越しに紛争を解決する恐れがあると述べ建設的話合いを呼びかけている。北ベトナム軍事介入への非難に触れていない。
DIA-203-1972-02-18-1ラオス1972年02月18日1970年代(サイゴンUPI)パテトラオ放送言明「今や米国の侵略者およびがん迷な手先をねらう銃火はいたる所に火をふいている。銃火はムオンカシばかりでなく,ビエンチャン,ルアンプラバン,サバナケット,パクセ郊外やその他の地域でも火を吹くことは確実である」。
DIA-203-1972-03-01-1ラオス1972年03月01日1970年代医療援助調査のため海外技術協力事業団派遣の調査団がビエンチャンに到着。
DIA-203-1972-03-07-1ラオス1972年03月07日1970年代マーシャル・グリーン米国務次官補,プーマ首相と会見。
DIA-203-1972-03-08-1ラオス1972年03月08日1970年代政府軍2個大隊は空からの大がかりな支援にも拘らず,4日間の戦闘でパクセとパクソンの間にある拠点ラオンガムを失った。シスク・ナ・チャンパサク国防相代理,マクテパラク陸軍司令官らは8日パタセに急行。
DIA-203-1972-03-11-1ラオス1972年03月11日1970年代6日からバンコックで開かれていた第4回ラオス・タイ経済技術協力委終了。ラオス代表団長はPane Rassavong国家開発計画局長。両国の通商拡大について協議,また先にアジア開銀が反対したメコン架橋プランについて修正プランを出すことで合意。
DIA-203-1972-03-12-1ラオス1972年03月12日1970年代パテトラオ,ロンチェン飛行場を激しく砲撃。またロンチェン基地を望む尾根にも砲弾を降らす。
DIA-203-1972-03-13-1ラオス1972年03月13日1970年代パテトラオ,ジャール平原南部にある政府軍サムトン基地を36時間の激戦の後奪取。サムトン基地はタイ人部隊4,000人が主力となって守っていたが,10日夜からパテトラオの攻撃を受けた。
DIA-203-1972-03-14-1ラオス1972年03月14日1970年代パテトラオ,ロンチェン基地周辺の3基地を攻撃,15日,同基地を見おろすスカイライン・リッジを制圧。
DIA-203-1972-03-18-1ラオス1972年03月18日1970年代パテトラオ,ロンチェン攻撃を開始,同基地北方の尾根上の政府軍ヘリ発着場2カ所を奪取。同地域の攻撃には解放勢力20個大隊が参加しているといわれる。
DIA-203-1972-03-23-1ラオス1972年03月23日1970年代政府,バングラデシュを承認。
DIA-203-1972-03-28-1ラオス1972年03月28日1970年代ソット・ペトラシ愛国戦線代表は,ボンサク特使が近くピエンチャンを訪れ,プーマ首相との和平予備交渉を再開すると言明。
DIA-203-1972-03-29-1ラオス1972年03月29日1970年代南部ラオスで米空軍AC130攻撃機が3発の地対空ミサイルの攻撃を受けて撃墜さる。
DIA-203-1972-04-01-1ラオス1972年04月01日1970年代パテトラオ,ビエンチャン北方160キロの政府軍陣地を攻撃。
DIA-203-1972-04-03-1ラオス1972年04月03日1970年代(Xat Lao)プーマ首相は数日前のNew York Times記者との会見で次のように語った。「パテトラオは62年以前に中立派がもっていた地域を奪取しようとしている。敵の攻勢の目標は第2,第4軍区にある。しかし夏までには敵は補給に難をきたし,危機は去るだろう。北ベトナムが侵略活動を減らさぬ限り,爆撃停止には応じられない。これはアメリカと北ベトナムの問題だ。」
DIA-203-1972-04-03-2ラオス1972年04月03日1970年代ロンチェン基地を見下ろすスカイライン・リッジの政府軍特殊部隊は,先週奪回した3陣地のうち2つを放棄。
DIA-203-1972-04-04-1ラオス1972年04月04日1970年代チャンパサク蔵相は記者会見で次のように語った。「キップ安定基金出資国は昨年と同量ないしそれ以上の出資をすることに同意した。出資額は2500万ドルとなろう。従って1ドル=600キップの平価は維持される。1ドル=240キップの公式レートを廃止したのは大使館・国際機関がヤミで替えるのを防止するためである。」
DIA-203-1972-04-06-1ラオス1972年04月06日1970年代ワッタイ空港拡張第2期工事完工式。
DIA-203-1972-04-15-1ラオス1972年04月15日1970年代政府軍4個大隊,国道13号上のサラプクンを奪回,同地は1月以来,パテトラオに占拠されていた。
DIA-203-1972-04-17-1ラオス1972年04月17日1970年代プーマ首相はビエンチャンの新年を祝う式で次のように述べた。「今年は平和の年であり,昨年までの問題は終った,我々は外国人にもうけさせぬよう全国民が一致してインフレと斗わねばならぬ。生活費の上昇にあわせ,5月1日に公務員給与を引上げる。政府は年間2700~2800万ドルの援助を受けながら,外国人にもうけさせている。」
DIA-203-1972-04-18-1ラオス1972年04月18日1970年代大蔵省はインドシナ銀行の為替交換所開設を許可,18日からキップ─ドル交換を開始,レートは605キップが1ドル。
DIA-203-1972-04-18-2ラオス1972年04月18日1970年代愛国戦線党中央常務委と愛国中立勢力同盟常務委は声明を発表し,4月16日の北ベトナムに対する米の戦争拡大行為を非難。
DIA-203-1972-04-18-3ラオス1972年04月18日1970年代パテトラオ,パクセ東方30キロ,パクセ─パクソン間の国道上のバンニク基地を奪回,同基地は4月8日以来政府軍が占領していた。
DIA-203-1972-04-21-1ラオス1972年04月21日1970年代物価委(大蔵省),肉の小売価格を決定。
DIA-203-1972-04-24-1ラオス1972年04月24日1970年代パテトラオ,ルアンプラバン北方18キロの政府軍陣地を占拠,同陣地を守っていた200人の政府軍兵士のうち半数が行方不明となった。
DIA-203-1972-05-03-1ラオス1972年05月03日1970年代学生が政府の経済政策に抗議してデモ行進を計画しているとの噂にもとづき,治安当局は対策を協議した。
DIA-203-1972-05-08-1ラオス1972年05月08日1970年代大蔵省はビエンチャン市に対し,肉の売買を8日から自由にするよう通告した。これは独占的肉屋が小売りを控えているため。
DIA-203-1972-05-11-1ラオス1972年05月11日1970年代学生代表はチャンパサク蔵相と会見し,生活費上昇に対する政府の政策をただした。又プーマ首相は学生代表と会見し,三派連合政府を維持するつもりであることを明らかにした。
DIA-203-1972-05-11-2ラオス1972年05月11日1970年代フランス大使館で手りゅう弾爆発。
DIA-203-1972-05-12-1ラオス1972年05月12日1970年代国会開会,議長にプイ・サナニコン氏,副議長にソプ・サイサナ氏再任。
DIA-203-1972-05-12-2ラオス1972年05月12日1970年代愛国戦線党中央委声明,米国の北ベトナム港湾封鎖を非難。
DIA-203-1972-05-16-1ラオス1972年05月16日1970年代国会の憲法擁護グループは新内閣組閣動議を決議。
DIA-203-1972-05-17-1ラオス1972年05月17日1970年代閣議は憲法擁護グループの内閣改造要求動議について検討し,プーマ首相は現在の三派連合政府形式を変える意志はなく,国会が要求せぬ限り辞任の意志もないことを明らかにした。
DIA-203-1972-05-17-2ラオス1972年05月17日1970年代パテトラオ,コンセドンを砲撃の後,地上攻撃,国道13号切断,パクセからきた政府軍救援部隊と12時間戦闘の後パテトラオ撤退,コンセドンは米の豊富な所。
DIA-203-1972-05-18-1ラオス1972年05月18日1970年代パテトラオ1個大隊,南部の省都コンセドンを制圧。
DIA-203-1972-05-19-1ラオス1972年05月19日1970年代国会,憲法擁護グループは憲法19条に従い王に新首相任命を要請する動議を提出,カムシン・サナニコン議員は首相が十分に活動しておらず,政府の中に腐敗があると批判。
DIA-203-1972-05-22-1ラオス1972年05月22日1970年代国会,憲法擁護グループの動議を審議。修正案を35対13で可決。
DIA-203-1972-05-25-1ラオス1972年05月25日1970年代パテトラオ,パクセ南方48キロの郡都フィアファイを制圧。
DIA-203-1972-05-26-1ラオス1972年05月26日1970年代大蔵省発表:外国旅行者のドル・レート(買い)を公定600キップに税金240キップを加えて1ドル=840キップに変更。
DIA-203-1972-06-01-1ラオス1972年06月01日1970年代プーマ首相はシスク・ナ・チャンパサク蔵相に対し,第4軍区の軍事情勢を救うための全権を付与した。
DIA-203-1972-06-14-1ラオス1972年06月14日1970年代キップ安定基金1972年度分の調印終了式。各国の出資額は次の通り。アメリカ1600万ドル,日本260万ドル,ラオス200万ドル,イギリス170万ドル,フランス170万ドル,オーストラリア6万5000ドル。
DIA-203-1972-06-15-1ラオス1972年06月15日1970年代クープラシト・アバイ将軍指揮のもとに第4軍区の政府軍はコンセドン奪回作戦開始18日同町を奪回。
DIA-203-1972-06-20-1ラオス1972年06月20日1970年代愛国戦線と愛国中立勢力同盟委との合同政治会議開会(20~24日)。
DIA-203-1972-06-21-1ラオス1972年06月21日1970年代ビエンチャンの消息筋が語ったところによると,中国ラオス両政府はこのほど再び大使を交換することを決めた。両国は62年以来大使級外交関係を結んでいたが,64年ラオスが北京駐在大使を召還したのに続いて中国もビエンチャン駐在大使を召還していた。
DIA-203-1972-06-27-1ラオス1972年06月27日1970年代愛国戦線代表団(団長ヌハク・プームサバン中央常務委員)北京訪問。副団長タオ・ムン中央委員,団員カムパイ・ブファ中央委員他。同代表団は7月5日北京を離れソ連に向かう。
DIA-203-1972-07-01-1ラオス1972年07月01日1970年代プーマ首相,スファヌボン議長に書簡,全権代表団派遣を要請。
DIA-203-1972-07-02-1ラオス1972年07月02日1970年代スファヌボン議長は,プーマ首相に返書を送り,プーマ政権とラオス和平問題について討議するためビエンチャンにボンサク特使を再派遣することに同意した(8日,パテトラオ通信発表)。
DIA-203-1972-07-03-1ラオス1972年07月03日1970年代プーマ首相は1日ルアンプラバンに飛んだ。Xat Lao紙3日によれば,プーマ首相は6月末行なわれた国会,政府との話合いの結果,内閣改造を考えている。新内閣には新しい学者・政治専問家5人の入閣,2人の新人次官を大使に,3省次官の移動ないし交代が含まれる。次官が変わる省は,大蔵,経済,青年・スポーツ,公共福祉,村落改善,在郷軍人,大臣が変わるのは宗教,法務。
DIA-203-1972-07-08-1ラオス1972年07月08日1970年代Xat Lao紙8日によれば,Phagna Keo Viphakone福祉次官,Phagna Lian Pavongviengkham青年・スポーツ次官がすでに辞任,Chao Boun Oum Na Champassak宗教相も辞任。
DIA-203-1972-07-13-1ラオス1972年07月13日1970年代Khao Pachamvan紙13日によれば,プーマ首相は内閣改造を次のように考えている。Chao Boun Oum Na Champassakに代わりPhagna Nouphat Choulamanyが宗教相に,保健相にPhagna Khamphay Abhay,Khamking Souvannarasyが法相代理から法相に就任。その他Phagna Houmphanh Saignasithが首相府次官に,Phagna Soukan Vilaysanが内務次官に,Phan Norindreが在郷軍人次官に,Chao Sykham Sayavongが農村問題次官に,Somphou Oudomvilayが公共福祉次官に,Chao Somsavat Vongkotが首相府次官に,Khamtan Chantharaが文部次官に,Chamsamon Voravongが首相府次官に任命される。
DIA-203-1972-07-14-1ラオス1972年07月14日1970年代ペトラシ代表はプーマ首相と会見した後記者会見で,ボンサク殿下がスファヌボン殿下の特使として又ビエンチャン常駐代表として明日到着すること,自分は暫定的代表であることを明らかにした。
DIA-203-1972-07-15-1ラオス1972年07月15日1970年代スファヌボン議長の書簡を携行して特使ボンサク殿下がビエンチャンに到着。
DIA-203-1972-07-16-1ラオス1972年07月16日1970年代Xat Lao紙19日によれば,Anourom議員は,バッタナ国王がプーマ首相が16日提出した改造内閣名簿に署名することを拒否したことを明らかにした。王は16日のプーマ首相との会見で憲法順守を強調した。
DIA-203-1972-07-18-1ラオス1972年07月18日1970年代15日ビエンチャンに着いたボンサク特使は,プーマ首相と会談。
DIA-203-1972-07-22-1ラオス1972年07月22日1970年代ペトラシ代表,サムヌアに帰る。
DIA-203-1972-07-24-1ラオス1972年07月24日1970年代プーマ首相は特別閣議を開き,愛国戦線の5項目和平提案の討議に同意することを決定した。同閣議が決定した新提案は,①和平交渉を軍事問題と政治問題に分け,第一に軍事問題を解決すること,②軍事問題では「全外国軍隊のラオス領土からの撤退」「国際監視」の2条件のもとで爆撃停止を含むラオス全土での停戦,③停戦実現後の政治解決について話し合う,の3点を提唱している。
DIA-203-1972-08-01-1ラオス1972年08月01日1970年代Xat Lao紙2日によれば,Ngone Sananikoneの率いる連合党は改造内閣を支持することを決めた。同党は4つのポジションを与えられている。
DIA-203-1972-08-02-1ラオス1972年08月02日1970年代ラオス・カンボジア通信協定調印。
DIA-203-1972-08-12-1ラオス1972年08月12日1970年代プーマ首相,ボンサク特使と会見,プーマ首相は全権代表にフォンサワン内相を任命。
DIA-203-1972-08-16-1ラオス1972年08月16日1970年代Xat Lao紙16日によれば,8月初,サラバン・アトプ省解放区副議長Khamfeuanは政府側に帰順し,同紙にパテトラオは親北ベトナム派と北ベトナムからの独立派に分裂していると語った。
DIA-203-1972-08-17-1ラオス1972年08月17日1970年代愛国戦線代表団(団長ヌハク・プームサバン中央常務委員),北ベトナム訪問,22日まで。
DIA-203-1972-08-19-1ラオス1972年08月19日1970年代ラム・南ベトナム外相,ビエンチャン訪問。Ng.nghe Tai上院議員兼国防省高官が同行。
DIA-203-1972-08-19-2ラオス1972年08月19日1970年代パテトラオ特使テイングサム大佐,ピエンチャン着,同氏は先月初めプーマ首相からの書簡に対するスファヌボン議長の返書を携行している。
DIA-203-1972-08-22-1ラオス1972年08月22日1970年代ラム南ベトナム外相とプーマ首相の共同声明発表─声明によれば双方は,少なくとも効果的な国際監視を伴ったインドシナ全土での停戦と,公正な話合いによる解決の必要を認める点で一致した。ラム外相は空港での記者会見で「プーマ首相に対しラオス,ベトナム,カンボジアの紛争を分離して解決することは不可能であり,ICCによる効果的な国際監視の下での同時解決だけが,インドシナの恒久的な平和の道であるとの南ベトナムの立場を強調した」と語った。
DIA-203-1972-08-22-2ラオス1972年08月22日1970年代プーマ首相言明「北ベトナムがベトナム,カンボジアで戦争を続ける限り,ラオスだけの和平は不可能である」「中国政府はラオス・中国間の外交関係を大使レベルに格上げすることに同意した」。
DIA-203-1972-08-22-3ラオス1972年08月22日1970年代ラオス人民解放軍最高司令部は声明を発表し,最近米国とビエンチャン政権がジャール平原・シエンカン地区で大作戦を開始したことを告発した。
DIA-203-1972-08-23-1ラオス1972年08月23日1970年代スファヌボン議長は,最近プーマ首相にあてた書簡の中で,米軍の爆撃停止が交渉開始の前提条件であることを改めて強調した。同議長は「軍事問題と政治問題を切離してはならぬ」と述べた。
DIA-203-1972-08-25-1ラオス1972年08月25日1970年代駐米大使にPhagna Pheng Norindr任命さる。
DIA-203-1972-09-05-1ラオス1972年09月05日1970年代パテトラオのボンサク特使は,ビエンチャンからサムネワへ帰る途中ハノイで記者会見を開き,「ラオス問題を解決するに当たり,軍事問題は政治問題と切離すことができない」と言明。
DIA-203-1972-09-10-1ラオス1972年09月10日1970年代ソ連大使館員Sorokin氏,米大使館に亡命。
DIA-203-1972-09-16-1ラオス1972年09月16日1970年代愛国戦線中央委声明,臨時革命政府声明を支持。
DIA-203-1972-09-16-2ラオス1972年09月16日1970年代ペトラシ代表,ビエンチャンに帰任,スファヌボン議長の書簡携行。
DIA-203-1972-09-21-1ラオス1972年09月21日1970年代駐北京大使にPhagna Lian Pavong Viengkham任命さる。中国側もすでに承認。
DIA-203-1972-09-22-1ラオス1972年09月22日1970年代ペトラシ代表はスファヌボン議長から書簡を受取り,プーマ首相に手渡した。このメッセージでスファヌボン議長は次のように述べている。「①プーマ首相は7月24日の書簡で5項目を受入れながら,8月31日の書簡では考えを変え,政治問題と軍事問題を切離そうとしている。これは解決を遅らすものである。②ビエンチャン側はジャール平原を侵略している。③和平会議とラオス統一について話し合うため代表団を送る。」
DIA-203-1972-09-23-1ラオス1972年09月23日1970年代Nguyen Ngap北ベトナム代理大使,ハノイへ帰る。
DIA-203-1972-09-23-2ラオス1972年09月23日1970年代新任のビクトル・チャチキン・ソ連大使館1等書記官ビエンチャン到着。
DIA-203-1972-09-28-1ラオス1972年09月28日1970年代国会,72/73年度予算を可決。予算総額は230億キップで,昨年度より36億キップ増,赤字は145億キップ。
DIA-203-1972-10-02-1ラオス1972年10月02日1970年代プーマ首相は和平交渉政府特使にペン・フォンサバン内相を任命と発表。
DIA-203-1972-10-06-1ラオス1972年10月06日1970年代プーマ首相代表フォンサバン内相とペトラシ愛国戦線代表は4日以来3回にわたり会談。愛国戦線代表団への宿舎提供,会談場所は文部省,愛国戦線代表団の安全確保,ICCの協力などについて合意。
DIA-203-1972-10-10-1ラオス1972年10月10日1970年代愛国戦線と愛国中立勢力同盟が会議─ラオス問題解決について3点を強調する声明発表。
DIA-203-1972-10-11-1ラオス1972年10月11日1970年代ラオス政府,『ワシントン・ポスト』紙特派員ドナルド・ロンクに国外退去令,追放の理由は,プーマ首相が国会議員買収のため金を配ったことを明らかにした記事を書いたため。
DIA-203-1972-10-11-2ラオス1972年10月11日1970年代青木特使,ビエンチャン到着,12日プーマ首相と会見。
DIA-203-1972-10-12-1ラオス1972年10月12日1970年代愛国戦線中央委常任委員会と愛国中立勢力同盟常任委,和平交渉代表団のメンバーを発表。 首席代表general Phoun Sipraseuth,次席代表Tiao Souk Vongsak,次席代表Maha Kou Souvannamethy,次席代表Soth Phetrasy,団員colonel Pradith Thiengtham,団員Cheng Sayavong,団員Boutsabong Souvannavong,団員Phao Bounaphol,団員Khamsone Vannasongkha,団員Somsack Soukhavong。
DIA-203-1972-10-12-2ラオス1972年10月12日1970年代愛国戦線側代表団,サムヌア出発,ハノイ到着,3日間ハノイに滞在し,ファン・バン・ドン首相と会見,14日ハノイ出発。
DIA-203-1972-10-12-3ラオス1972年10月12日1970年代愛国戦線中央委,独立27周年を記念してアピール発表。
DIA-203-1972-10-13-1ラオス1972年10月13日1970年代ソ連の駐ラオス大使にウドビン氏。
DIA-203-1972-10-14-1ラオス1972年10月14日1970年代ラオス愛国戦線および愛国中立勢力代表団,ビエンチャン到着。シパスート首席代表は記者会見で,「ハノイに3日間滞在し,その間ドン首相と会見した」と言明。
DIA-203-1972-10-15-1ラオス1972年10月15日1970年代人民解放軍最高指揮部は動員令を発し,戦闘を強化して敵に5項目を受け入れさせるようよびかけた。
DIA-203-1972-10-17-1ラオス1972年10月17日1970年代ラオス和平会談第1回会談開催─今後毎週火曜日に開くこと,愛国戦線の5項目を基礎に話し合うことで合意,22日の新華社電によると愛国戦線側シパスート団長は5項目を繰返し,その中で政治解決について,①ラオス愛国戦線,②愛国中立勢力および平和独立,中立をとなえる個人,知識人,③ビエンチャン派からなる新臨時民族連合政府と政治諮問評議会を設置することを提案した。政府側フォンサバン団長は現政府への愛国戦線閣僚の復帰を呼びかけた。
DIA-203-1972-10-19-1ラオス1972年10月19日1970年代パテトラオ通信によると,パテトラオはラオガム交叉路とサラバン,コンセドン両町のタイ兵・政府軍を攻撃,コンセドン地区を制圧した。
DIA-203-1972-10-20-1ラオス1972年10月20日1970年代サリバン国務次官補代理,タイ,ラオスを訪問。
DIA-203-1972-10-20-2ラオス1972年10月20日1970年代プーマ首相は訪仏,国連総会出席のため,ビエンチャン出発,バンコック到着,21日パリ到着,25日ニューヨーク到着。
DIA-203-1972-10-20-3ラオス1972年10月20日1970年代政府軍非正規軍,サラバン周辺で作戦開始,22日サラバン市に入り,23日,政府軍はサラバンとラオガムを奪回。
DIA-203-1972-10-20-4ラオス1972年10月20日1970年代バンパオ将軍特殊部隊,ジャール平原南部と南西部および同平原の南,西方の高地を占領。
DIA-203-1972-10-21-1ラオス1972年10月21日1970年代愛国戦線の北ベトナム駐在代表団首席団長カムペン・ブパー,信任状提出。
DIA-203-1972-10-22-1ラオス1972年10月22日1970年代プーマ首相は米国に向かう途中パリで「ラオスおよびインドシナ全域での和平について楽観している」と述べた。
DIA-203-1972-10-24-1ラオス1972年10月24日1970年代第2回ビエンチャン会談開催,愛国戦線側のシパスート団長は,①米国のラオスに対する侵略と介入の即時停止,②新臨時連合政府樹立,③政治協商会議設置を要求する声明を発表,一方政府側のフォンサバン団長は,①愛国戦線のインドシナ統一戦線からの脱退,②国際監視下の全面停戦,③全外国軍隊の撤退,④行政統合,軍隊統合,総選挙の準備などを要求する提案を行なった。
DIA-203-1972-10-25-1ラオス1972年10月25日1970年代愛国戦線中央常務委と愛国中立勢力同盟常務委はこのほど会議を開き,ボンビチット書記長をビエンチャン交渉代表団の特別顧問に任命,ボンビチット書記長は25日サムヌアを出発,ハノイ経由で28日ビエンチャン到着。
DIA-203-1972-10-26-1ラオス1972年10月26日1970年代パテトラオ通信によると,パテトラオはジャール平原中心部から南方10~15キロのバンフォン,カンセン両地区で,バンパオ特殊部隊と南ラオス特殊部隊,タイ兵の陣地を奇襲,1,200名以上をせん滅。
DIA-203-1972-10-27-1ラオス1972年10月27日1970年代愛国戦線中央委声明,北ベトナム政府声明を支持。
DIA-203-1972-10-27-2ラオス1972年10月27日1970年代(ワシントン)プーマ首相,ニクソン大統領と会談。
DIA-203-1972-10-31-1ラオス1972年10月31日1970年代第3回ビエンチャン会談,フォンサバン団長,ボンピチト顧問欠席。
DIA-203-1972-10-31-2ラオス1972年10月31日1970年代チュー大統領の特使グエン・フー・ドック,ビエンチャン到着。
DIA-203-1972-11-02-1ラオス1972年11月02日1970年代政府軍,サバナケト南東20キロのケンコクを奪回。
DIA-203-1972-11-02-2ラオス1972年11月02日1970年代ルアンプラバンに夜間外出禁止令,これはルアンプラバンから6キロ,メコン河沿いのバンダンチョ村で戦闘があり,更に6キロ上流のバンパクサンの政府軍陣地が攻略されたため。
DIA-203-1972-11-03-1ラオス1972年11月03日1970年代パテトラオ,4個大隊3,000人がジャール平原南の政府軍陣地を攻撃。
DIA-203-1972-11-04-1ラオス1972年11月04日1970年代プドビン・ソ連大使,信任状提出。
DIA-203-1972-11-06-1ラオス1972年11月06日1970年代(パリ)プーマ首相,ポンピドー大統領,メスメル首相らを訪問。
DIA-203-1972-11-07-1ラオス1972年11月07日1970年代第4回ビエンチャン会談,政府側は手続問題をおいて,基本的問題について討議することを主張。
DIA-203-1972-11-09-1ラオス1972年11月09日1970年代プーマ首相はバンコックで「インドシナに和平が実現すると,米国がラオスへの軍事援助を打ち切る可能性があるため,フランスに軍事協力を要請した」と言明。
DIA-203-1972-11-09-2ラオス1972年11月09日1970年代プーマ首相,訪米・訪仏から予定より早く帰国。
DIA-203-1972-11-10-1ラオス1972年11月10日1970年代プーマ首相,ボンビチト書記長と会談,スファヌボン議長とルアンプラバンで会談することを提案。
DIA-203-1972-11-11-1ラオス1972年11月11日1970年代パテトラオ,ラオガム町を制圧。
DIA-203-1972-11-11-2ラオス1972年11月11日1970年代ボンビチト書記長,ビエンチャンを出発,ハノイ経由サムヌアに。
DIA-203-1972-11-12-1ラオス1972年11月12日1970年代パテトラオ1個大隊,タケクを攻撃。
DIA-203-1972-11-13-1ラオス1972年11月13日1970年代パテトラオ,ルアンプラバン飛行場周辺に50発の122ミリ・ロケット砲を撃ち込む。
DIA-203-1972-11-13-2ラオス1972年11月13日1970年代パテトラオ,ジャール平原周辺で攻勢,同平原南方数キロの地点ではバンパオ将軍の特殊部隊を攻撃し,南に後退させた。
DIA-203-1972-11-13-3ラオス1972年11月13日1970年代愛国戦線中央委声明。
DIA-203-1972-11-14-1ラオス1972年11月14日1970年代愛国中立勢力同盟委声明。
DIA-203-1972-11-14-2ラオス1972年11月14日1970年代第5回ビエンチャン会談,政府側は5項目の提案。
DIA-203-1972-11-16-1ラオス1972年11月16日1970年代パテトラオ2個大隊,サラバンを奪回。同市は10月27日に政府軍が奪回したばかりだった。
DIA-203-1972-11-17-1ラオス1972年11月17日1970年代新任の中国駐在大使リエン・プラボンビエンカム氏,北京到着。
DIA-203-1972-11-19-1ラオス1972年11月19日1970年代ボンビット書記長はパテトラオ通信との会見で,10日のプーマ首相との会見で提案されたルアンプラバン会談をスフアヌボン殿下が拒否したことを明らかにした。
DIA-203-1972-11-21-1ラオス1972年11月21日1970年代第6回ビエンチャン会談,政府側は①討議の録音中止,②次回から国会オブザーバーを出席させない,③議長の交代制,という点について譲歩。
DIA-203-1972-11-23-1ラオス1972年11月23日1970年代(北京)リエン・プラボンビエンカム駐中国大使,朱徳全国人民代表大会常務委委員長に信任状提出。
DIA-203-1972-11-28-1ラオス1972年11月28日1970年代第7回ビエンチャン会談。
DIA-203-1972-12-02-1ラオス1972年12月02日1970年代シパスート団長ら,サムヌアへ。
DIA-203-1972-12-05-1ラオス1972年12月05日1970年代第8回ビエンチャン会談。
DIA-203-1972-12-06-1ラオス1972年12月06日1970年代政府軍,パクソンを1年ぶりで奪回。5日米軍発表によれば,政府軍はパクソンとサラバンの一部分を奪回。
DIA-203-1972-12-10-1ラオス1972年12月10日1970年代シパスート団長ら,ビエンチャン着。
DIA-203-1972-12-12-1ラオス1972年12月12日1970年代第9回ビエンチャン会談,シパスート代表は,「愛国勢力代表団とビエンチャン政権代表団との協定草案」を提出,内容は,①米の軍事活動停止と停戦②90日以内に外国軍撤退③30日以内に政治協商議会と新しい臨時民族連合政府樹立,政治協商議会は双方の代表および愛国中立勢力代表,王室代表,ならびに平和,独立,中立,民主に賛成する著名人士から構成。新臨時民族連合政府は愛国戦線,各愛国中立勢力および平和,中立,独立,民主に賛成する著名人士,ビエンチャン側から成る④ビエンチャン中立化。
DIA-203-1972-12-12-2ラオス1972年12月12日1970年代愛国戦線代表団(団長ヌハク・プムサワン中央常任委員),ハノイ着,15日北京着,16日モスクワへ。ソ連邦結成50周年記念式に出席。
DIA-203-1972-12-16-1ラオス1972年12月16日1970年代解放勢力2個大隊,サラバンに1,000発の砲撃。
DIA-203-1972-12-18-1ラオス1972年12月18日1970年代解放勢力,ルアンプラバン飛行場に122ミリ・ロケット33発の砲撃。
DIA-203-1972-12-19-1ラオス1972年12月19日1970年代第10回ビエンチャン会談,フオンサワン代表は「臨時連合政府代表と愛国戦線代表との協定案」を提出。内容は①現状停戦,60日以内に62年6月の休戦ラインに復帰②90日以内に外国軍隊撤退③60日以内に臨時民族連合政府樹立,中立派,右派,愛国戦線の3派で構成④憲法第25条に従って国会を拡大⑤停戦と撤退監視のため混合委員会を設置⑥ルアンプラバン中立化。
DIA-203-1972-12-20-1ラオス1972年12月20日1970年代ヘイグ米大統領特使,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1972-12-22-1ラオス1972年12月22日1970年代解放勢力は13日以来,タケク南40キロのセバンフアイ橋を攻撃,22日政府軍陣地を攻略,国道13号線を切断。
DIA-203-1972-12-26-1ラオス1972年12月26日1970年代第11回ビエンチャン会談。
DIA-203-1973-01-02-1ラオス1973年01月02日1970年代第12回ビエンチャン会談。
DIA-203-1973-01-04-1ラオス1973年01月04日1970年代バンビエンに2発のロケット弾。
DIA-203-1973-01-05-1ラオス1973年01月05日1970年代(パテトラオ放送)スファヌボン議長はこのほどプーマ首相に電報を送り,政治協商会議と臨時民族連合政府樹立を呼びかけ。
DIA-203-1973-01-06-1ラオス1973年01月06日1970年代ボンサク次席代表,サムヌアへ。
DIA-203-1973-01-06-2ラオス1973年01月06日1970年代(パテトラオ通信)国道13号上カシーで兵員輸送中の米ヘリ4機が破壊される。
DIA-203-1973-01-07-1ラオス1973年01月07日1970年代7~8日,パテトラオ,サラバンを攻撃。
DIA-203-1973-01-09-1ラオス1973年01月09日1970年代第13回ビエンチャン会談,フォンサバン政府側首席代表欠席。
DIA-203-1973-01-09-2ラオス1973年01月09日1970年代パテトラオは,ビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ国道13号線の大半を制圧,ルアンプラバン南29キロの地点まで進出,政府軍は王都防衛の前進拠点Ban Cunianから総退却。バンビエン北50キロMuong Kassyの政府軍陣地や,ルアンプラバン南東80キロのKiou Cham政府軍陣地も包囲されている。
DIA-203-1973-01-10-1ラオス1973年01月10日1970年代政府軍機動2個連隊がサラバンを攻撃。
DIA-203-1973-01-12-1ラオス1973年01月12日1970年代シカイでラオス中立党本部開設ならびに指導委選出会議。議長プーマ殿下,副議長ペン・フォンサバン,同スカン・ヴィライサン,書記長カムペン・ブパー。
DIA-203-1973-01-15-1ラオス1973年01月15日1970年代プーマ首相,AFP記者に言明「憲法の枠外での解決は受け入れぬ。新連合政府の構成については議論の余地がある。連合政府は選挙準備のために小委員会を任命する。停戦協定については北ベトナム軍は徹退すべきであり,ICCによる監視が必要である。」
DIA-203-1973-01-15-2ラオス1973年01月15日1970年代タケクに18発のロケット砲。
DIA-203-1973-01-16-1ラオス1973年01月16日1970年代サイゴンの米軍司令部は,16日北爆停止直後,米機がラオス,南ベトナム爆撃を強化と発表。
DIA-203-1973-01-16-2ラオス1973年01月16日1970年代第14回ビエンチャン会談,フォンサバン政府側首席代表欠席。
DIA-203-1973-01-16-3ラオス1973年01月16日1970年代シパスート首席代表,サムヌアへ。ボンサク次席代表ビエンチャンへ。
DIA-203-1973-01-17-1ラオス1973年01月17日1970年代スファヌボン議長はプーマ首相に書簡を送り,米国の軍事援助継続についてのプーマ首相の発言などに抗議。
DIA-203-1973-01-18-1ラオス1973年01月18日1970年代ヘイグ補佐官,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1973-01-18-2ラオス1973年01月18日1970年代夜,ルアンプラバン空港にロケット砲33発。Muong-Kassyに政府軍救援隊到着。
DIA-203-1973-01-20-1ラオス1973年01月20日1970年代シファンドン解放軍最高司令官,攻撃強化を命令。
DIA-203-1973-01-20-2ラオス1973年01月20日1970年代20~21日,パテトラオは戦車2台でサラプクン北西15キロを攻撃。
DIA-203-1973-01-23-1ラオス1973年01月23日1970年代第15回ビエンチャン会談。双方共首席代表が欠席。
DIA-203-1973-01-24-1ラオス1973年01月24日1970年代チャンパサク国防次官言明「ラオスの停戦はベトナム停戦の15日後,GMT2月12日午前0特から実施されよう」
DIA-203-1973-01-24-2ラオス1973年01月24日1970年代政府軍,サラプクンを奪回。同地は昨年12月31日以来,パテトラオ。中立左派軍に占領されていた。
DIA-203-1973-01-25-1ラオス1973年01月25日1970年代プーマ首相,国会で演説「南ベトナム停戦発効から15日後にラオスで停戦が実現するだろう。ラオスからの全外国軍隊撤退という原則を受け入れたので,ラオスの諸問題は62年ジュネーブ協定にもとづき,ラオス人の間で解決できよう。」「話し合いがつけば今年の中頃にも総選挙を行なうことになろう」
DIA-203-1973-01-26-1ラオス1973年01月26日1970年代プーマ首相,記者会見「①ベトナム停戦後15日以内にラオス停戦,②スファヌボン議長との会談については,愛国戦線がビエンチャン=サムヌア間にソ連機チャーターを提案しているので会談は実現しよう,③停戦後は特殊部隊の一部を政府正規軍に編入,④米系航空会社の一部も国営ラオス航空が引受け,⑤うまくゆけば8月末にも総選挙」
DIA-203-1973-01-26-2ラオス1973年01月26日1970年代閣議,特殊部隊の解散と王国軍への統合を決定。
DIA-203-1973-01-27-1ラオス1973年01月27日1970年代愛国中立勢力会議,ラオス議長言明「愛国中立勢力同盟は真の中立勢力であり,国家の当面の問題の解決に発言権を持っており,欠くことのできない存在である」
DIA-203-1973-01-27-2ラオス1973年01月27日1970年代シパスート首席代表,ビエンチャンに帰任。
DIA-203-1973-01-27-3ラオス1973年01月27日1970年代プーマ首相,ニューデリー訪問。
DIA-203-1973-01-28-1ラオス1973年01月28日1970年代27日夜~28日朝,米B52,ファントム,ラオス領内のホー・ルートを爆撃。
DIA-203-1973-01-28-2ラオス1973年01月28日1970年代サリバン米国務副次官補言明「ラオス停戦までの期間,米国はラオス政府軍への空からの支援を継続する」
DIA-203-1973-01-30-1ラオス1973年01月30日1970年代第16回ビエンチャン会談開催,愛国戦線側は本会談とは別に,停戦に関する特別会談を31日から開催するよう提案。
DIA-203-1973-01-31-1ラオス1973年01月31日1970年代サナニコン次席代表とシパスート首席代表の間で特別会談開催。
DIA-203-1973-01-31-2ラオス1973年01月31日1970年代スファヌボン議長,プーマ首相に緊急メッセージ,交渉促進を要請。
DIA-203-1973-02-01-1ラオス1973年02月01日1970年代タケク市に12発のロケット砲。西北端バンフェイサイ西北40キロのナムュー特殊部隊基地が大隊規模のパテトラオの攻撃にあい陥落。
DIA-203-1973-02-01-2ラオス1973年02月01日1970年代プーマ首相,インド・タイ訪問を終え帰国。
DIA-203-1973-02-02-1ラオス1973年02月02日1970年代サナニコン次席代表とシパスート首席代表の間で第2回制限会談開催。
DIA-203-1973-02-02-2ラオス1973年02月02日1970年代ホノルルの米太平洋統合軍司令部は,B52を含む米機が2日,ラオス領内を連続5日間にわたって爆撃したと発表。
DIA-203-1973-02-03-1ラオス1973年02月03日1970年代アグニュー副大統領,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1973-02-03-2ラオス1973年02月03日1970年代ボンビチト書記長,ビエンチャン到着(和平会談愛国勢力代表団特別顧問,スファヌボン議長全権代表)。
DIA-203-1973-02-04-1ラオス1973年02月04日1970年代サバナケト東方190キロのムオンパランが,戦車をともなった大隊規模の解放勢力に攻撃され,政府軍は同地を撤退。パテトラオはタケクでも8キロの所に迫っている。 政府車はジャール平原奪回作戦(第2マハラ作戦)を開始,特殊部隊1万人が参加,サラプクン奪回,3日その西方50キロのムオンスイ奪回,この作戦には米空軍が支援。
DIA-203-1973-02-04-2ラオス1973年02月04日1970年代フォンサバン首席代表,フランスから帰国。
DIA-203-1973-02-05-1ラオス1973年02月05日1970年代ボンビチト書記長,プーマ首相と会見,スファヌボン議長の親書を手交。
DIA-203-1973-02-05-2ラオス1973年02月05日1970年代タケク市に30発のロケット砲。
DIA-203-1973-02-06-1ラオス1973年02月06日1970年代第17回ビエンチャン会談。双方共首席代表は欠席。
DIA-203-1973-02-06-2ラオス1973年02月06日1970年代ボンビチト書記長とシパスート首席代表は,プーマ首相と会談。8日も会談。
DIA-203-1973-02-07-1ラオス1973年02月07日1970年代人民解放軍シェンクアン軍区司令部は,愛国戦線成立17周年(1月6日)と解放軍建軍24周年(1月20日)にあたり,将校18人を含むラオス右派軍51人を釈放。
DIA-203-1973-02-08-1ラオス1973年02月08日1970年代パテトラオ,パクセ東50キロのパクソンを占領。タイ軍1個連隊が撤退。
DIA-203-1973-02-09-1ラオス1973年02月09日1970年代キッシンジャー補佐官,ビエンチャン入り。10日ハノイへ。
DIA-203-1973-02-09-2ラオス1973年02月09日1970年代ボンビチト全権代表,フォンサバン特別代表会談,10,11,12日と続けて会談。
DIA-203-1973-02-09-3ラオス1973年02月09日1970年代日本からタゴン地区Na Phokの難民村建設計画に1億4200万円贈与に関する文書交換。
DIA-203-1973-02-09-4ラオス1973年02月09日1970年代軍事情勢に関する報道管制。
DIA-203-1973-02-09-5ラオス1973年02月09日1970年代政府,停戦に備えるため警察・軍・公務員に動員令。
DIA-203-1973-02-10-1ラオス1973年02月10日1970年代プーマ首相,ルアンプラバンへ,12日ビエンチャンに戻る。
DIA-203-1973-02-10-2ラオス1973年02月10日1970年代キッシンジャー補佐官はワッタイ空港からハノイに向かう前ステートメントを発表し,「ラオス政府がラオスでの早期停戦のため努力するよう要望した。ハノイでは全インドシナ停戦実現のため話し合うことを期待している」と言明。
DIA-203-1973-02-12-1ラオス1973年02月12日1970年代プーマ首相とボンビチト全権代表会談。愛国勢力側は,米軍の爆撃停止を協定の中に明記するよう要求。
DIA-203-1973-02-12-2ラオス1973年02月12日1970年代政府軍,パクソン奪回。
DIA-203-1973-02-13-1ラオス1973年02月13日1970年代シスーク国防相代理発表「パクソン,サラバン,ムオンファラン,タケクの戦局安定」「新たに北軍4個連隊がラオスに入り計5万7000人に」
DIA-203-1973-02-13-2ラオス1973年02月13日1970年代第18回ビエンチャン会談,政府側代表団改編。団長にゴン・サナニコン公共事業相,第1団長補佐にソプサイサナ国会副議長,第2団長補佐にシスマン・シサルムサク郵電相。シスマンはソト・ペトラシとの小委代表に。愛国勢力代表団長プン・シパスートは変わらず。
DIA-203-1973-02-13-3ラオス1973年02月13日1970年代プーマ首相とボンビチト全権代表会談。
DIA-203-1973-02-15-1ラオス1973年02月15日1970年代ハノイを訪問していたサリバン国務副次官補,プノンペン経由でビエンチャンに到着。
DIA-203-1973-02-15-2ラオス1973年02月15日1970年代米国防総省発表,この1週間,ラオス爆撃急増。
DIA-203-1973-02-15-3ラオス1973年02月15日1970年代国銀コミュニケ,キップの対ドル・レートを1ドル=600キップに据置き。
DIA-203-1973-02-16-1ラオス1973年02月16日1970年代政府は16日から3月16日までの1カ月間,公務員,警察官を軍当局の指揮下におくことを指示。
DIA-203-1973-02-16-2ラオス1973年02月16日1970年代プーマ首相,閣議招集。
DIA-203-1973-02-17-1ラオス1973年02月17日1970年代ソト・ペトラシ代表言明「ラオス停戦が実現すれば,米捕虜は釈教」
DIA-203-1973-02-18-1ラオス1973年02月18日1970年代ラオス中立党大会,党首にプーマ首相,第1副党首にスカン・ビライサン在郷軍人担当国務相を選出。 同大会でフォンサバン内相は「愛国戦線側との和平会談で大半の問題について合意に達した。3,4日以内に調印できる」と述べ,また未解決の問題として,①愛国戦線側がラオス政府代表団の名称を認めず,ビエンチャン政権代表団とすることを主張していること,②愛国戦線側が新臨時連合政府の副首相を1人に限ることを主張していること,③政治諮問評議会の問題の3点を明らかにした。
DIA-203-1973-02-18-2ラオス1973年02月18日1970年代ビエンチャン北35キロで国道13号上の橋が破壊さる。
DIA-203-1973-02-18-3ラオス1973年02月18日1970年代米太平洋統合軍発表,米機,ラオス,カンボジアを爆撃。
DIA-203-1973-02-19-1ラオス1973年02月19日1970年代軍事情勢に関する報道管制解除。
DIA-203-1973-02-20-1ラオス1973年02月20日1970年代ラオス和平協定にプーマ首相とボンビチト全権代表が仮調印。
DIA-203-1973-02-21-1ラオス1973年02月21日1970年代人民解放軍最高司令部,停戦命令。愛国中立武装勢力司令部も停戦命令。
DIA-203-1973-02-21-2ラオス1973年02月21日1970年代ラオス和平協定調印-フォンサバン政府全権代表とボンビチト愛国勢力全権代表は,ビエンチャンの首相官邸でラオス和平協定に調印。
DIA-203-1973-02-21-3ラオス1973年02月21日1970年代(ワシントン)ロジャース米国務長官,米上院外交委で言明「22日正午に米軍の爆撃が全面停止される」
DIA-203-1973-02-22-1ラオス1973年02月22日1970年代愛国戦線中央委,アピール。
DIA-203-1973-02-23-1ラオス1973年02月23日1970年代(ワシントン)米国防総省発表,B52がラオス南部のパクソンを中心に爆撃。
DIA-203-1973-02-23-2ラオス1973年02月23日1970年代政府発表,パテトラオは東北部と南部で攻勢を開始し,南部のパクソンを占頷,ジャール平原周辺では政府軍がなだれをうって敗走。
DIA-203-1973-02-23-3ラオス1973年02月23日1970年代プーマ首相言明「停戦発効後に解放勢力から29件の停戦侵犯があった」「必要があれば情勢の重大な地点に限定して,米軍の空からの介入を要請する」 ソト・ペトラシ愛国戦線代表言明「プーマ首相の発表は右派が協定に不満を持ち攻撃を続けようとしているのを隠すためのもの」
DIA-203-1973-02-26-1ラオス1973年02月26日1970年代(ワシントン)米国務省言明「共産側の和平協定侵犯が続けば,米空軍の爆撃が今後もあり得る」。米機爆撃は23日再開されたが,現在は停止されている。
DIA-203-1973-02-27-1ラオス1973年02月27日1970年代ゴン・サナニコン首席代表ら政府側代表団とスク・ボンサク次席代表ら愛固勢力代表団が協定調印後初会合。政治と軍事の2つの混合小委設置で合意。政治混合小委の委員長はゴン・サナニコンとスク・ボンサク,軍事混合小委の委員長はブンチェン中将とソト・ペトラシ。
DIA-203-1973-02-28-1ラオス1973年02月28日1970年代第1回政治・軍事小委会合開催。政治小委には政府側はNgon Sananikone団長,Sisoumang Sisaleumsack,Nouphat Chounramany,愛国勢力側はSouck vongsackが出席,政治諮問評議会結成について協議。軍事小委には政府側からBounthieng Venevongsos将軍,Arya Phimmasone大佐,Heuang Insisienmay中佐,愛国勢力側からSoth Phetrasy大佐が出席。
DIA-203-1973-03-01-1ラオス1973年03月01日1970年代プーマ首相,スファヌボン議長に電報,協定11条に従い,合同委設立を促す。
DIA-203-1973-03-06-1ラオス1973年03月06日1970年代プイ・サナニコン国会議長は国会常任委が首相にあてた和平協定に関する疑問を述べた質問書を公表。
DIA-203-1973-03-08-1ラオス1973年03月08日1970年代プーマ首相,スファヌボン議長に電報で,連合政府樹立を再度促す。
DIA-203-1973-03-10-1ラオス1973年03月10日1970年代スファヌボン議長,プーマ首相に停戦実行要求。
DIA-203-1973-03-15-1ラオス1973年03月15日1970年代ビエンチャン会談,連合政府構成を協議。
DIA-203-1973-03-17-1ラオス1973年03月17日1970年代シャープ・カナダ外相,プーマ首相と会談。
DIA-203-1973-03-17-2ラオス1973年03月17日1970年代人民解放軍最高司令部スポークマン声明。
DIA-203-1973-03-18-1ラオス1973年03月18日1970年代北ベトナム文化・経済代表団(団長Hoang van Diem首相府事務次官),解放区訪問。20日北ベトナムとの共同建設になる病院,通信,郵便施設の引渡式。
DIA-203-1973-03-20-1ラオス1973年03月20日1970年代為替安定基金への米,仏,英拠出協定調印。
DIA-203-1973-03-22-1ラオス1973年03月22日1970年代シパスート代表,サムヌアへ。
DIA-203-1973-03-26-1ラオス1973年03月26日1970年代パテトラオがハノイにおける米人捕虜9人にカナダ人1人の釈放を表明,米軍撤退と米軍捕虜釈放の再開で合意成る。
DIA-203-1973-03-28-1ラオス1973年03月28日1970年代愛国戦線,捕虜10人をハノイで釈教,米軍人7人と民間人3人(うち1人はカナダ人宣教師)。
DIA-203-1973-03-29-1ラオス1973年03月29日1970年代シパスート代表,プーマ首相と会談,同氏は28日サムヌアから帰任。
DIA-203-1973-04-09-1ラオス1973年04月09日1970年代米大統領特使ヘイグ陸軍参謀次長,タノム首相と会談したのちナコンパノム米空軍基地を訪問,さらにビエンチャンを訪問,プーマ首相と会談。このあとヘイグ特使はナコンパノム基地に戻り,ボーグト第7空軍司令官らと協議。
DIA-203-1973-04-09-2ラオス1973年04月09日1970年代ラオス商業代表団(団長Khamphay Boupha中央委員)ハノイ訪問。
DIA-203-1973-04-11-1ラオス1973年04月11日1970年代サムヌアでラオス唯一の総合大学開校式,May Souk党中央教育委員長出席。講義はすべてラオ語で行なわれる。
DIA-203-1973-04-13-1ラオス1973年04月13日1970年代愛国戦線代表団(団長ヌハク・プームサバン中央委常任委員),ハノイ訪問。16日北京訪問。
DIA-203-1973-04-16-1ラオス1973年04月16日1970年代米国防総省スポークマン言明「北ベトナムとパテトラオ軍によるタビエン占拠は重要な停戦協定違反」
DIA-203-1973-04-16-2ラオス1973年04月16日1970年代ホノルルの米太平洋軍司令部は「ラオス政府の要請により同国領内でB52等が爆撃」と発表,2月23日以来7週間ぶり。爆撃地点はジャール平原西のタビエン。
DIA-203-1973-04-18-1ラオス1973年04月18日1970年代米国防総省発表,ラオス爆撃中止を命令。
DIA-203-1973-04-23-1ラオス1973年04月23日1970年代愛国戦線中央委声明,米・タイの協定侵犯を非難。
DIA-203-1973-04-23-2ラオス1973年04月23日1970年代ゴドレー米大使,離任。
DIA-203-1973-04-26-1ラオス1973年04月26日1970年代ボンビチト特使,サムヌアからハノイ経由でビエンチャン入り。27日プーマ首相と会談。
DIA-203-1973-05-02-1ラオス1973年05月02日1970年代フォンサバン内相言明,ボンビチト書記長は4月29日議定書草案を提示。
DIA-203-1973-05-07-1ラオス1973年05月07日1970年代愛国戦線代表団(団長プームサバン常任委員),モスクワ訪問。
DIA-203-1973-05-08-1ラオス1973年05月08日1970年代チャールズ・ホワイトハウス駐南ベトナム次席大使,駐ラオス大使に任命さる。
DIA-203-1973-05-11-1ラオス1973年05月11日1970年代第2期国会開会。
DIA-203-1973-05-12-1ラオス1973年05月12日1970年代愛国勢力側プレス・コミュニケ「極右派はビエンチャン協定に国会の承認を求めさせようとしているが,ビエンチャン協定は国王の同意を得たものであり,国会はこの協定と無関係」
DIA-203-1973-05-17-1ラオス1973年05月17日1970年代ボンサク代表,ク・スバンナメティ代表,サムヌアへ。
DIA-203-1973-05-25-1ラオス1973年05月25日1970年代木材輸出に新規制措置。
DIA-203-1973-05-26-1ラオス1973年05月26日1970年代サリバン米国務副次官補,ビエンチャンを訪問。
DIA-203-1973-05-31-1ラオス1973年05月31日1970年代愛国戦線中央委,協定実施状況について覚書。
DIA-203-1973-06-01-1ラオス1973年06月01日1970年代為替安定基金への日,豪拠出協定調印。
DIA-203-1973-06-07-1ラオス1973年06月07日1970年代ボンサク代表,ク・スバンナメティ代表,ビエンチャンに帰任。
DIA-203-1973-06-12-1ラオス1973年06月12日1970年代チャンパサク蔵相,1973ー74年度予算案を国会に提出。
DIA-203-1973-06-20-1ラオス1973年06月20日1970年代閣議,テレビ局建設,サヤブリ省をサヤブリ,パクライ,ホンサの3省に分割することを承認。
DIA-203-1973-07-02-1ラオス1973年07月02日1970年代愛国戦線代表団(団長ヌハク・プームサバン),北京訪問。
DIA-203-1973-07-04-1ラオス1973年07月04日1970年代サムヌアで北ベトナム援助になる製材工場引渡し式。
DIA-203-1973-07-05-1ラオス1973年07月05日1970年代初めてパリとビエンチャンを結ぶエア・フランス機がビエンチャン到着。
DIA-203-1973-07-13-1ラオス1973年07月13日1970年代ミソフ特使,プーマ首相と会見。
DIA-203-1973-07-20-1ラオス1973年07月20日1970年代9日からガソリンが44%値上がりしたのに抗議してタクシー運転手がスト。18日の閣議が値上げ決定。
DIA-203-1973-07-20-2ラオス1973年07月20日1970年代日本援助になるNa Phok村建設完成式。
DIA-203-1973-07-20-3ラオス1973年07月20日1970年代愛国戦線のトンチャン・ウプラボン中央委員兼パテトラオ銀行総裁が卒いる代表団,ハノイ訪問。通貨・貿易支払い問題協議のため。
DIA-203-1973-07-30-1ラオス1973年07月30日1970年代チャンパサク蔵相言明,価格統制委設置,同委は商人に対し10%の価格引下げを要求。
DIA-203-1973-07-31-1ラオス1973年07月31日1970年代ラオスにいるタイ軍事筋言明,8月末までに1万5000人のタイ雇い兵のうち3,000人を残して撤兵。
DIA-203-1973-08-02-1ラオス1973年08月02日1970年代ボンビチト全権代表,プーマ首相と会談。4日も続行。16日も会談。
DIA-203-1973-08-15-1ラオス1973年08月15日1970年代日本からビエンチャン水道改修に対する1.5億円の贈与に関する文書調印。
DIA-203-1973-08-18-1ラオス1973年08月18日1970年代シパスート次席代表,ビエンチャンを発ちハノイ経由サムヌアへ。
DIA-203-1973-08-20-1ラオス1973年08月20日1970年代タオマ将軍指揮下の部隊がクーデター。
DIA-203-1973-08-23-1ラオス1973年08月23日1970年代プーマ首相,閣僚ならびに29人の将軍会合,愛国戦線側の議定書案を全面的に受け入れることに反対。またプーマ首相の辞任に反対。
DIA-203-1973-08-23-2ラオス1973年08月23日1970年代シパスート首席代表,サムヌアからビエンチャンに帰任。
DIA-203-1973-08-24-1ラオス1973年08月24日1970年代ボンビチト書記長,プーマ首相と会談。25日も続行。
DIA-203-1973-09-05-1ラオス1973年09月05日1970年代閣議は内閣総辞職を回避し,和平交渉を継続するとの結論に達す。
DIA-203-1973-09-07-1ラオス1973年09月07日1970年代シパスート将軍は記者会見で,7月27日に締結された和平議定書の草案を発表し,「解決はすべてビエンチャン政府の肩にかかっており,愛国戦線側はいかなる修正も受け入れることは出来ない」と言明。
DIA-203-1973-09-09-1ラオス1973年09月09日1970年代愛国戦線代表と政府軍首脳がビエンチャンのブンポーン政府軍最高司令官邸で会談。
DIA-203-1973-09-12-1ラオス1973年09月12日1970年代和平議定書仮調印。
DIA-203-1973-09-14-1ラオス1973年09月14日1970年代ラオス和平協定実施のための付属議定書,正式調印-ビエンチャン政府側からフォンサバン全権代表とゴン・サナニコン首席代表,愛国勢力側からボンビチト全権代表とシパスート首席代表が署名。
DIA-203-1973-09-14-2ラオス1973年09月14日1970年代(ワシントン)米国務省声明,新臨時民族連合政府に対して協力と援助を継続。
DIA-203-1973-09-19-1ラオス1973年09月19日1970年代ボンビチト全権代表,サムヌアへ。
DIA-203-1973-09-19-2ラオス1973年09月19日1970年代国会常任委,首相に新政府結成に関する特権を付与することに反対。
DIA-203-1973-09-27-1ラオス1973年09月27日1970年代中央合同委愛国勢力代表団,ビエンチャン到着。
DIA-203-1973-10-02-1ラオス1973年10月02日1970年代中央合同委代表任命,ビエンチャン側首席代表スカン・ビライサン(在郷軍人担当国務相),愛国勢力側首席代表ソト・ペトラシ。
DIA-203-1973-10-12-1ラオス1973年10月12日1970年代ビエンチャン中立化を保障するための愛国戦線治安部隊第一陣を含む同戦線要員83人がハノイ経由ビエンチャン到着。兵士は約20人。18日までに要員371人とAK47ライフル・軽機関銃・ロケット砲などの物資143トンが到着。
DIA-203-1973-10-16-1ラオス1973年10月16日1970年代モントイーグル・スターン・アジア・太平洋担当米国務次官補,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1973-10-17-1ラオス1973年10月17日1970年代アメリカ援助になるシサバンボン病院引渡し式。
DIA-203-1973-10-18-1ラオス1973年10月18日1970年代政府側,愛国勢力側の要員物資輸送中断を要請。理由は,①要員の兵士・警察官・文官別リストと物資の内容が通知されていない,②要員輸送について協議する中央合同委が開かれていないの2点。
DIA-203-1973-10-27-1ラオス1973年10月27日1970年代シパスート代表,ビエンチャン帰任。30日,プーマ首相と会談。
DIA-203-1973-11-01-1ラオス1973年11月01日1970年代フォンサバン内相は国民議会で,ビエンチャン,ルアンプラバン両市の中立化のため,3日から7日までの間に愛国戦線部隊933人と軍需品135トンをビエンチャンに送りこむことを閣議決定したと報告。
DIA-203-1973-11-02-1ラオス1973年11月02日1970年代レ・ジュアン第一書記を団長とする北ベトナム党・政府代表団,ラオス解放区訪問。2日から6日まで。 ホアン・アン党書記(副首相),グエン・ドン中央委員侯補(国防次官),グエン・チョン・ビン中央委員侯補も参加。
DIA-203-1973-11-07-1ラオス1973年11月07日1970年代国会閉会。
DIA-203-1973-11-23-1ラオス1973年11月23日1970年代中央合同委,初会合。毎週木曜日の定例会議開催で合意。22日現在ビエンチャン市内にはパテトラオ兵士1,400~1,500人が駐屯。
DIA-203-1973-11-29-1ラオス1973年11月29日1970年代プーマ首相,スファヌボン殿下に電報。
DIA-203-1973-11-29-2ラオス1973年11月29日1970年代中央合同委開催,①ビエンチャンとルアンプラバンの中立化討議を最優先する。②新暫定政府樹立のため首席ないし次席代表が毎週月曜日に会議する,の2点で合意。
DIA-203-1973-12-07-1ラオス1973年12月07日1970年代スファヌボン殿下,プーマ首相に返書,ビエンチャン・ルアンプラバン両市の中立化は臨時連合政府と諮問評議会設立に不可欠と表明。
DIA-203-1973-12-27-1ラオス1973年12月27日1970年代スファヌボン議長,プーマ首相に返書,シパスートをビエンチャン側と交渉する全権代表に任命。
DIA-203-1974-01-03-1ラオス1974年01月03日1970年代愛国戦線スポークスマン言明,合同委で混合警察資材について双方合意。
DIA-203-1974-01-21-1ラオス1974年01月21日1970年代ヴドヴィン・ソ連大使,サムヌア訪問。
DIA-203-1974-01-24-1ラオス1974年01月24日1970年代中央合同委,2市中立化兵力で合意,双方はビエンチャンに2個大隊2400人,ルアンプラバンに2個中隊1200人を駐留させる。28日,発足式。
DIA-203-1974-02-02-1ラオス1974年02月02日1970年代政府軍,タケク北Pak Hin Bounから撤退。
DIA-203-1974-02-04-1ラオス1974年02月04日1970年代仏国会代表団,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1974-02-04-2ラオス1974年02月04日1970年代ホイットラム豪首相,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1974-02-04-3ラオス1974年02月04日1970年代サバナケト省で3000人以上の中学生が木材輸出・汚職に抗議してデモ行進。7日,政府は同市内に戒厳令施行,各学校閉鎖。
DIA-203-1974-02-06-1ラオス1974年02月06日1970年代中央合同委特別会議,ビエンチャンに設置する2000人の合同警察軍の形態と機能に関する合意書に調印。
DIA-203-1974-02-06-2ラオス1974年02月06日1970年代インガソル国務次官,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1974-02-09-1ラオス1974年02月09日1970年代プーン・シパスート代表,ビエンチャン到着,同氏は連合政府樹立交渉の全権代表に任命されている。
DIA-203-1974-02-14-1ラオス1974年02月14日1970年代Khamsay全学連書記長,記者会見で,国会が新政府樹立を妨害していると言明。
DIA-203-1974-02-18-1ラオス1974年02月18日1970年代仏大使,愛国戦線の招待でサムヌアに向け出発。
DIA-203-1974-02-21-1ラオス1974年02月21日1970年代ペトラシ代表言明「双方は連合政府の設立に国会の承認を必要としないことで合意」
DIA-203-1974-02-24-1ラオス1974年02月24日1970年代ビエンチャン西136キロPak Lai南25キロで戦闘,政府軍死8,傷4。
DIA-203-1974-03-06-1ラオス1974年03月06日1970年代政府は,31人の国会議員署名になる特別国会開会要請を支持しないことを決定。
DIA-203-1974-03-12-1ラオス1974年03月12日1970年代シアヌーク殿下,サムヌア訪問,16日まで。
DIA-203-1974-03-13-1ラオス1974年03月13日1970年代レ・バン・ヒエン北ベトナム大使,ビエンチャンに帰任。
DIA-203-1974-03-14-1ラオス1974年03月14日1970年代ビエンチャンの警察権,合同警察に譲渡。
DIA-203-1974-03-18-1ラオス1974年03月18日1970年代混合警察,ビエンチャンの夜間パトロール開始,3台のジープに双方から3人ずつ分乗。
DIA-203-1974-03-19-1ラオス1974年03月19日1970年代愛国戦線スポークスマン発表「両当事者はICCに同委の活動再開を要請するための覚書の内容について合意」。
DIA-203-1974-03-19-2ラオス1974年03月19日1970年代Keuky Limカンボジア外相,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1974-03-27-1ラオス1974年03月27日1970年代ボンビチト首席全権代表,9ヵ月ぶりにビエンチャンに帰任。同氏は空港で,連合政府樹立のための愛国戦線側の準備はすでに完了し,あとはプーマ首相の善意にかかっていると言明。
DIA-203-1974-03-27-2ラオス1974年03月27日1970年代中央合同委,首都・王都中立化のための合同軍隊発足に関して最終的に合意。合同軍事司令部への防衛権限委譲式挙行.-両市中立化については1月に合意が成立,政府軍側の一部幹部が抵抗していた。
DIA-203-1974-03-28-1ラオス1974年03月28日1970年代28~29日,プーマ・ボンビチト会談。28日,連合政府閣僚,政治諮問評議会委員の人選について合意。29日,国王が新政府発足で発表する勅令を検討。
DIA-203-1974-03-29-1ラオス1974年03月29日1970年代日本からの8億円贈与に関する書簡交換。難民村建設用の住宅資材の他,医薬品・農機具など民生安定物資の購入に使われる。
DIA-203-1974-04-01-1ラオス1974年04月01日1970年代プーマ・ボンビチト会談。
DIA-203-1974-04-01-2ラオス1974年04月01日1970年代愛国戦線放送発表,ス殿下ハノイ到着。
DIA-203-1974-04-01-3ラオス1974年04月01日1970年代ビエンチャン国営放送発表「1日のプーマ・ボンビチト会談で双方は,①ス殿下のビエンチャン入り,②両首脳とバッタナ国王の接見について詳細な詰めを行なった」。
DIA-203-1974-04-03-1ラオス1974年04月03日1970年代スファヌボン殿下,ビエンチャン入り-プーマ首相と会談。
DIA-203-1974-04-04-1ラオス1974年04月04日1970年代臨時民族連合政府発足-プーマ首相,国王にビエンチャン政府の辞表提出。バッタナ国王,臨時民族連合政府を任命する勅令に署名。
DIA-203-1974-04-05-1ラオス1974年04月05日1970年代(ワシントン)米国務省,現在180人の駐ラオス米大使館付き武官の数を60日以内に30人に減らすと言明。
DIA-203-1974-04-08-1ラオス1974年04月08日1970年代8~9日,閣僚引継ぎ。第1回政治諮問評議会はビエンチャン側の要請で延期。
DIA-203-1974-04-09-1ラオス1974年04月09日1970年代愛国戦線バン・トン代表と北ベトナムのブイ・バオ・バン副首相兼内商相は,今年の物資交換脇定に調印。
DIA-203-1974-04-10-1ラオス1974年04月10日1970年代連合政府閣議。国防相,愛国戦線が7日,ビエンチャン南300キロで攻勢に出たことに抗議,愛国戦線閣僚は作戦の中止を約束。
DIA-203-1974-04-13-1ラオス1974年04月13日1970年代政府軍・タケクとサバナケトの間のSe Bang Fai河にかかる橋から数マイルの中隊司令部を放棄。7日にはビエンチャン南東280キロの陣地が200人のパテトラオに占領され1000人の政府軍が12日反攻作戦。
DIA-203-1974-04-19-1ラオス1974年04月19日1970年代ICC会議,カナダのICC解体提案をインド,ポーランド拒否。
DIA-203-1974-04-21-1ラオス1974年04月21日1970年代ラオス政府通商代表団(団長シスーク・シソムバット全国商工会議所会頭),中国政府の招きで訪中するためビエンチャンを出発。
DIA-203-1974-04-23-1ラオス1974年04月23日1970年代政府筋言明,愛国戦線閣僚,13号国道封鎖解除に同意(同国道はPaksane,Thakhek間で切断)。またメコン河ルアンプラバン・Ban Houei Sai間の航行に同意(同区間は数年来切断されている)。
DIA-203-1974-04-25-1ラオス1974年04月25日1970年代政府スポークスマンOuday Souvannavong言明「23日の閣議で,全ラオスの通行・通商の自由を承認。また5月11日の憲法記念日祝賀を承認」。
DIA-203-1974-04-29-1ラオス1974年04月29日1970年代ルアンプラバンで政治諮問評議会第1回全体会議―6委員会の人選。
DIA-203-1974-04-30-1ラオス1974年04月30日1970年代ICC会議,活動再開を決定,カナダは不合意。
DIA-203-1974-05-03-1ラオス1974年05月03日1970年代閣議,11日予定の国会中止を決定。
DIA-203-1974-05-11-1ラオス1974年05月11日1970年代枢密院開会,国王演説。
DIA-203-1974-05-17-1ラオス1974年05月17日1970年代政府筋言明,新政府は国会を解散せず,開会を1年間延期することを決定。
DIA-203-1974-05-23-1ラオス1974年05月23日1970年代外交筋言明,タイ雇い兵撤退,タイ兵は63年以来ラオスに参戦。
DIA-203-1974-05-31-1ラオス1974年05月31日1970年代閣議,南北朝鮮との大使級外交関係樹立の方針を決定。また公式声明によれば,東独政府と外交関係樹立ですでに合意。
DIA-203-1974-06-04-1ラオス1974年06月04日1970年代愛国戦線,米国側が要求していた米人パイロットの釈放を拒否。ペトラシ経済相言明「このパイロットは停戦協定発効後に捕まったもので,協定違反者であり,捕虜ではない」このパイロットはコンチネンタル航空のエメット・ケイ氏。
DIA-203-1974-06-20-1ラオス1974年06月20日1970年代愛国戦線放送「6月4日(協定による米軍活動停止期限)以後,米機が5回解放区に偵察飛行」。
DIA-203-1974-06-22-1ラオス1974年06月22日1970年代韓国と国交樹立に関する共同声明調印。
DIA-203-1974-07-10-1ラオス1974年07月10日1970年代連合政府,プーマ首相提案の国民議会解散を承認(憲法によると議会解散後90日以内に総選挙)。
DIA-203-1974-07-12-1ラオス1974年07月12日1970年代プーマ首相,心臓発作。
DIA-203-1974-07-25-1ラオス1974年07月25日1970年代韓国および北朝鮮と国交樹立。
DIA-203-1974-07-26-1ラオス1974年07月26日1970年代政府スポークスマン発表,①プーマ首相は病気が回復するまで政治に関与しない。閣議は両副首相により決定が行われる。②25日の閣議でキップ切下げのうわさから起きた経済混乱について協議し,切下げは行わないこと,市中銀行を28日まで閉鎖,社会主義国に援助を申し入れるため近く経済使節団を送ることを決定。
DIA-203-1974-08-09-1ラオス1974年08月09日1970年代プーマ,首相ボンビチト副首相兼外相を首相代行に任命,同政令は,同首相代行が署名したすべての公文書はまず最初にインシシェンマイ副首相兼教育・文化とによって署名されなければならないことを定めている。
DIA-203-1974-08-22-1ラオス1974年08月22日1970年代合同平和委,捕虜交換を9月12日開始することで合意。
DIA-203-1974-08-23-1ラオス1974年08月23日1970年代警察官300人がチャンタブン国警長官の解任,社会正義と生活改善を求める横断幕を掲げてビエンチャン市内をデモ行進。またビエンチャンでは数日前から市役所公務員,米国系航空会社コンチネンタル・エア・サービス,製材会社職員などの間にストが広がっていたが,賃上げや労働条件改善などの回答を得て収拾に向かっている。
DIA-203-1974-08-25-1ラオス1974年08月25日1970年代プーマ首相,パリに向け出発。
DIA-203-1974-08-29-1ラオス1974年08月29日1970年代中央合同委,捕虜交換に関する合意書に調印。
DIA-203-1974-09-04-1ラオス1974年09月04日1970年代閣議,キューバとの外交関係樹立を決定。
DIA-203-1974-09-17-1ラオス1974年09月17日1970年代協定実施中央委,19日に釈放する捕虜の数についての合意を発表。
DIA-203-1974-09-18-1ラオス1974年09月18日1970年代北ベトナムと経済協力協定調印-北ベトナムは米,セメント,薬品を供与,通信の強化,ラオス産品輸出に北の港を利用。
DIA-203-1974-09-19-1ラオス1974年09月19日1970年代ビエンチャン北東200キロのジャール平原Phou Savanhで捕虜釈放。ビエンチャン側はラオス人7人,ベトナム人173人,愛国戦線側はラオス人20人,タイ人150人を釈放。
DIA-203-1974-09-20-1ラオス1974年09月20日1970年代政府筋言明,国連カンボジア代表権表決に,ラオス代表は投票不参加の方針。
DIA-203-1974-09-26-1ラオス1974年09月26日1970年代政府,シンガポールとの国交樹立決定を発表。
DIA-203-1974-11-18-1ラオス1974年11月18日1970年代ペトラシ経済計画相,スウェーデン着。食料・農機具・薬品等1000万クローネの援助協定合意。
DIA-203-1974-12-04-1ラオス1974年12月04日1970年代政治評議会第2期会議開会,24日閉会。
DIA-203-1974-12-12-1ラオス1974年12月12日1970年代(東京)経済使節団(団長チャンパサク国防相),宮沢外相と会談,経済援助要請。
DIA-203-1974-12-17-1ラオス1974年12月17日1970年代タイから500万バーツ(25万ドル)援助。
DIA-203-1974-12-24-1ラオス1974年12月24日1970年代バンフェイサイの2個中隊,反乱。
DIA-203-1975-01-01-1ラオス1975年01月01日1970年代チャンパサク国防相言明,バンフェイサイに入ったパテトラオ軍,24キロ後方の停戦ラインまで後退。
DIA-203-1975-01-02-1ラオス1975年01月02日1970年代中国技術経済代表団はラオス側代表との間で,両国が1974年10月に調印した総額2500万ドルの経済援助協定の実施に関する交渉を開始した。14日まで行なわれる予定。
DIA-203-1975-01-07-1ラオス1975年01月07日1970年代タケクで両地域間の通行自由,国会解散,難民帰郷,タケク中立化等を要求して学生・公務員がデモ。
DIA-203-1975-01-17-1ラオス1975年01月17日1970年代ソ連大使館使用航空機,北部で墜落,ソ連人パイロット4人,パテトラオ8人死亡。
DIA-203-1975-01-20-1ラオス1975年01月20日1970年代ビエンチャン軍3個大隊,南部Ban Nongbok町のデモ鎮圧に出動。
DIA-203-1975-01-29-1ラオス1975年01月29日1970年代難民帰郷計画第1陣180人,ジャール平原へ。
DIA-203-1975-02-08-1ラオス1975年02月08日1970年代協定実施委,このほど行方不明兵(300人)調査小委を任命。パテトラオ代表Phau Bounaphon大佐,ビエンチャン側代表Aryra Phimmasone大佐。
DIA-203-1975-02-15-1ラオス1975年02月15日1970年代パテトラオ通信発表,このほどシェンクアン省で特殊部隊の米製ヘリ1機撃墜。
DIA-203-1975-03-05-1ラオス1975年03月05日1970年代フィリュービン・ソ連外務次官,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1975-03-10-1ラオス1975年03月10日1970年代消息筋によれば,米政府はキープ貨支援のため500万ドルの贈与に同意。
DIA-203-1975-03-14-1ラオス1975年03月14日1970年代アジア開銀,UNDPに代わりラオス再建・開発計画作成にあたることに同意。技術援助に必要な外貨はUNDPから,国内通貨はラオス政府が出資。
DIA-203-1975-03-26-1ラオス1975年03月26日1970年代政府決定,キープ対米ドル公定レートを1ドル=600キープから750キープに切下げ。外貨使用税を450キープに。
DIA-203-1975-03-31-1ラオス1975年03月31日1970年代連合政府,ビエンチャン駐在の南ベトナム,カンボジア両国大使館の閉鎖を決定,両国大使に通告。
DIA-203-1975-04-09-1ラオス1975年04月09日1970年代政府は,9日の閣議で南ベトナム,カンボジア両国との外交関係の一時停止を決定。
DIA-203-1975-04-10-1ラオス1975年04月10日1970年代バッタナ国王,国民議会を解散する勅令に署名。
DIA-203-1975-04-14-1ラオス1975年04月14日1970年代パテトラオ部隊,ビエンチャンからルアンプラバンに通じる道路上にあるサラプクン付近のビエンチャン側部隊の陣地数ヵ所を奪取。
DIA-203-1975-04-17-1ラオス1975年04月17日1970年代パテトラオ部隊,サラプクンを再び攻撃。
DIA-203-1975-04-20-1ラオス1975年04月20日1970年代ビエンチャン軍,北ベトナム軍を先頭とする侵入部隊の攻撃で国道13号線の二つの陣地を放棄。
DIA-203-1975-04-21-1ラオス1975年04月21日1970年代ビエンチャン北約144キロの国道13号線と7号線の交差するサラプクンで引きつづき戦闘中。
DIA-203-1975-04-22-1ラオス1975年04月22日1970年代日本政府はラオスに無償で8億円の資金協力を行うことにし,ビエンチャンで書簡を交換。
DIA-203-1975-04-22-2ラオス1975年04月22日1970年代ビエンチャン政府と,愛国戦線部隊との話し会いの結果,サラプクン付近で20日に発生した戦闘が停止された。
DIA-203-1975-04-24-1ラオス1975年04月24日1970年代政府スポークスマン言明,南ベトナム臨時革命政府承認を決定。
DIA-203-1975-04-29-1ラオス1975年04月29日1970年代(マニラ)28,29日ラオス援助国会議。
DIA-203-1975-05-06-1ラオス1975年05月06日1970年代ビエンチャン北約130キロのカシ,愛国戦線部隊に制圧さる。
DIA-203-1975-05-06-2ラオス1975年05月06日1970年代サラプクンを占領したパテトラオは,ビエンチャンと,ルアンプラバンを結ぶ幹線道路をなんの抵抗も受けず南下,60キロをその支配下においた。また,ビエンチャン北方160キロのムオンカシ地区も占領。
DIA-203-1975-05-07-1ラオス1975年05月07日1970年代連合政府は閣議で,ビエンチャンの某米キリスト教会の米国籍,タイ国籍神父全員を国外追放するとともに同教会の財産を没収することに決定。
DIA-203-1975-05-07-2ラオス1975年05月07日1970年代プーマ首相,“ビエンチャン派”の政治軍指導者と会談,同派はプーマ首相の政策を支持することに合意。
DIA-203-1975-05-08-1ラオス1975年05月08日1970年代7日から8日朝にかけて,ビエンチャン軍の将軍や元国民議会議長とその家族を含むビエンチャン在住のラオス人,外国人,タイ人などがタイ側に避難。
DIA-203-1975-05-09-1ラオス1975年05月09日1970年代ビエンチャン北方150キロのバンビエン駐留のチャンタクマ大佐は同王国軍に対する忠誠を拒絶し,中立派のプーマ首相に権威のみをみとめる中立部隊を組織。
DIA-203-1975-05-09-2ラオス1975年05月09日1970年代愛国戦線を支持し,政府内の右派閣僚の辞任と,すべての米国系機関の引揚げを要求する約1000人(AFP電にすると3000人)の学生,青年がデモ。
DIA-203-1975-05-09-3ラオス1975年05月09日1970年代連合政府の右派閣僚5人が,学生グループや,左翼系労働組織の圧力で辞任―シスーク・ナ・チャンパサク国防相,ゴン・サナニコン蔵相,カンパイ・アバイ保健相,この他2人の副大臣。
DIA-203-1975-05-09-4ラオス1975年05月09日1970年代連合政府のシンカポ公共事業・運輸相兼経済・計画代理は,布告を発表し,社会治安の維持と,国家財産の保護および商品,通貨の国外流出防止のため,効果的措置をとるよう指示。
DIA-203-1975-05-09-5ラオス1975年05月09日1970年代パテトラオ新聞;バン・パオ特殊部隊の解散を要求。
DIA-203-1975-05-10-1ラオス1975年05月10日1970年代パテトラオはチャンパサク国防相が,クーデターを企て,タイがこの計画を支持していたと非難。
DIA-203-1975-05-10-2ラオス1975年05月10日1970年代ラオス駐在オーストラリア外交団の家族,バンコックに引き揚げ。
DIA-203-1975-05-10-3ラオス1975年05月10日1970年代ラオス出入管理当局によると,10日にメコン川を渡ってタイのノンカイに脱出したラオス人は2万人以上。
DIA-203-1975-05-11-1ラオス1975年05月11日1970年代プーマ首相は,国営放送を通して「右派およびパテトラオ軍は衝突をさけるため,現在の位置から動いてならない。国民は平静を保つよう」にとの声明を発表。
DIA-203-1975-05-11-2ラオス1975年05月11日1970年代ビエンチャン郊外にあるビエンチャン軍最大のチナイモ基地から約160人の士官候補生が集団脱走,市内のラオス・ドイツ技術大学構内にたてこもる。
DIA-203-1975-05-11-3ラオス1975年05月11日1970年代連合政府は,従来右派の支配地区であった南部6州(セドン,アトプー,チャンパサックなど)が連合政府の直接支配地域に併合されると発表。第4軍管区司令官ボンサバン准将が統治にあたる。
DIA-203-1975-05-11-4ラオス1975年05月11日1970年代チャンパサク国防相は東部タイのウボン経由でバンコクに逃亡。
DIA-203-1975-05-11-5ラオス1975年05月11日1970年代10日に辞任した右派のチャンパサク国防相の後任に,カムアン・ブッパー国防次官(愛国戦線側)が国防相代理として任命さる。
DIA-203-1975-05-12-1ラオス1975年05月12日1970年代日本援助で出来たナムグム・ダムは,パテトラオの管理下に。
DIA-203-1975-05-12-2ラオス1975年05月12日1970年代駐ビエンチャン韓国代理大使は,出張というかたちで近日中にラオスをでると語り,同大使館が事実上閉鎖されることを明らかにした。
DIA-203-1975-05-13-1ラオス1975年05月13日1970年代合同軍のビエンチャン側新司令官ブンチャン准将は,全ビエンチャン軍将兵に軍隊復帰を命じた。
DIA-203-1975-05-13-2ラオス1975年05月13日1970年代右派のブアトン空軍司令官,全空軍が連合政府を支持するとの声明を発表。
DIA-203-1975-05-13-3ラオス1975年05月13日1970年代旧ビエンチャン政府軍のプンポン最高司令官は,ビエンチャンの学生市民団体で構成されている21機関の代表約40人を招き,本日以降,旧ビエンチャン政府軍は人民のための人民の軍隊となると語った。
DIA-203-1975-05-13-4ラオス1975年05月13日1970年代フォード米大統領,駐ラオス大使にガレン・ストーン駐仏公使を任命。
DIA-203-1975-05-14-1ラオス1975年05月14日1970年代サバナケットで行なわれた反米デモの際,学生の一隊がサバナケットの知事官邸に押し入り,居合わせた米国際開発局局員3人を軟禁。
DIA-203-1975-05-14-2ラオス1975年05月14日1970年代ビエンチャン中立化のため,合同軍隊の司令官パタマボン将軍が更迭さる。
DIA-203-1975-05-15-1ラオス1975年05月15日1970年代ルアンプラバンでも,USAID追放とからめて,物価問題,流通問題の改善をもとめる大規模なデモが発生。
DIA-203-1975-05-16-1ラオス1975年05月16日1970年代ビエンチャン市内のワッタイ空港近くにあるビエンチャン軍空軍司令部内で,およそ1000人の集会が行なわれ,空軍司令官のブアトン准将の追放を要求する決議を行なった。
DIA-203-1975-05-16-2ラオス1975年05月16日1970年代カムァン・ブパー国防相代理は,ブアトン・プチトンサ准将を16日付で解任したと発表。
DIA-203-1975-05-17-1ラオス1975年05月17日1970年代政府は,近隣諸国に,亡命したラオス人を受け入れないように要請。
DIA-203-1975-05-19-1ラオス1975年05月19日1970年代ブン・ア・サバナケット知事,全面的に学生の要求をうけいれ,パテトラオ迎え入れにふみ切る。
DIA-203-1975-05-20-1ラオス1975年05月20日1970年代パテトラオ軍はメコン川をわたって,サバナケットから30キロのセノの町に入った。兵力は戦車,砲兵を含めて7個大隊2000人。サバナケット市の中心から,7キロの地点には同市に司令部を置く政府軍第3軍管区司令官,ヌペット将軍が部隊をひきいて出迎え,パテトラオ軍の司令官と握手し,これに対し市民は大歓声をあげた。
DIA-203-1975-05-21-1ラオス1975年05月21日1970年代ビエンチャン市内のUSAID構内でラオス人職員による反米集会。
DIA-203-1975-05-21-2ラオス1975年05月21日1970年代ラオス政府は,定例閣議を開き,亡命した右派閣僚の後任をきめた。チャンパサク国防相の後任にペン・フォンサバン内相,サナニコン蔵相の後任にレアム・ラサンムパト外務次官,内相にはマウノン・ボラボン氏が任命さる。
DIA-203-1975-05-21-3ラオス1975年05月21日1970年代ビエンチャンのUSAID従業員が集会,ストライキ,学生らも入って占拠,警備の海兵隊2人を監禁。
DIA-203-1975-05-21-4ラオス1975年05月21日1970年代ビエンチャン郊外のパテトラオ・キャンプ,ノンダに,パテトラオ軍は,戦車10台を先頭にして入る。
DIA-203-1975-05-21-5ラオス1975年05月21日1970年代ファンセス米国務省報道官は,情勢緊迫にかんがみ,米大使館員およびその家族の引揚げをいそいでいると発表。
DIA-203-1975-05-22-1ラオス1975年05月22日1970年代在ラオス米大使館は,サバナケットで学生らによって9日間にわたり軟禁状態におかれていた米国人18人が,米空軍機にのってタイに向ったと発表。
DIA-203-1975-05-22-2ラオス1975年05月22日1970年代連合政府スポークスマンは,政府は21日夜の閣議で,USAIDの引揚げを米当局に要請することにきめたと発表。すでに米大使館とは合意ずみ,また,同スポークスマンはビエンチャンにあるブンウム・チャンパサク殿下の副王府の廃止もきめた。
DIA-203-1975-05-22-3ラオス1975年05月22日1970年代ホワイトハウスのネッセン報道官は,米国の対ラオス援助は限定された水準でつづけられようと言明。
DIA-203-1975-05-23-1ラオス1975年05月23日1970年代政府は,ビエンチャン駐在米大使に覚書を送り,現行の米ラオス経済技術協力協定にかわる新援助協定締結のための交渉開始を提案。
DIA-203-1975-05-23-2ラオス1975年05月23日1970年代ビエンチャンの国立競技場で,ラオスの平和と統一のための集会開催。
DIA-203-1975-05-23-3ラオス1975年05月23日1970年代チャップマン駐ラオス米代理大使はワシントンからAIDを完全に引き揚げるための権限を与えられたと言明。
DIA-203-1975-05-23-4ラオス1975年05月23日1970年代米大使館員の家族および,USAID職員ら159人が,チャーター機でビエンチャンを発ち,バンコックに向った。
DIA-203-1975-05-25-1ラオス1975年05月25日1970年代愛国戦線軍は,チャンパサックに無血入城,同町を制圧。
DIA-203-1975-05-27-1ラオス1975年05月27日1970年代愛国戦線中央委は,人民決起をうながし,それを歓迎し,支持し,18項目政治綱領の実施実現をよびかける声明を発表。
DIA-203-1975-05-27-2ラオス1975年05月27日1970年代ビエンチャンのUSAIDを占領していた学生連盟は,米大使館当局と同建物の明渡しについて合意し協定に調印。来月末までに完全撤収する。
DIA-203-1975-05-27-3ラオス1975年05月27日1970年代政府各省の“反右派,汚職官吏追放”のストライキは再び激化,経済,計画,在郷軍人両省と関税局がストライキに突入。
DIA-203-1975-05-30-1ラオス1975年05月30日1970年代ビエンチャン州知事辞任,大蔵省の局長5人も辞職。
DIA-203-1975-06-01-1ラオス1975年06月01日1970年代内務省管轄の国家警察本部で,政府側警察官が集会をひらいて国警本部に反旗を翻した。
DIA-203-1975-06-02-1ラオス1975年06月02日1970年代ハビブ米国務次官補ビエンチャンに到着,プーマ首相と会談。
DIA-203-1975-06-02-2ラオス1975年06月02日1970年代サバナケット州で,学生,市民,労働者,中堅官僚,警官,婦人など12人で構成する人民解放運動の行政委員会が同州の実権をにぎり,独自の行政委員会を発足させた。同委員会は,1万人のサバナケット住民で組織される人民解放運動の上部代表組織。
DIA-203-1975-06-04-1ラオス1975年06月04日1970年代政府は閣議で,全国の地方行政を統一する方針を決定。
DIA-203-1975-06-06-1ラオス1975年06月06日1970年代プーマ首相は,愛国戦線と右派軍の統合を促進するため,愛国戦線軍に旧政府側支配下の各主要都市を含むラオス全土への進撃をみとめたと語った。
DIA-203-1975-06-10-1ラオス1975年06月10日1970年代淀川製鋼,丸紅,協和貿易の3社が現地資本と合弁で設立した。ソシエテ・カンカシ・センフォン社は操業の一時休止を決定。
DIA-203-1975-06-10-2ラオス1975年06月10日1970年代日本水道コンサルタントは,ビエンチャンで行なっている水道施設の設計監理の作業を中断,技術者を日本に引き揚げることを明らかにした。
DIA-203-1975-06-13-1ラオス1975年06月13日1970年代連合政府は辞任,亡命した5人の閣僚の後任を決定。すでに国王の認証を受けたと発表した。国防相にペン・フォンサバン内相が横すべり,後任の内相に,クオン・ボラボン大蔵次官が就任,蔵相にルアム・ラサンバト元外務次官が,外務長官にキトン・ボンサイ和平協定実施中央合同委員会ビエンチャン側次席代表,公共事業長官にソムパバン・インタポン・メコン委員会ラオス政府代表が就任した。
DIA-203-1975-06-18-1ラオス1975年06月18日1970年代バッタナ・ラオス国王は,ソ連公式訪問に招待する書簡を受取った。9月末に公式訪問の予定。
DIA-203-1975-06-26-1ラオス1975年06月26日1970年代米国際開発局(USAID)20年におよんだ活動を停止,閉鎖さる。
DIA-203-1975-06-26-2ラオス1975年06月26日1970年代25日,プーマ首相主宰のもとで行われた閣議で決定され,7月に行なわれるはずだった国民議会総選挙を延期すると発表。
DIA-203-1975-06-28-1ラオス1975年06月28日1970年代学生を中心とした反米デモ隊が,ビエンチャンで米大使館の付属施設と広報文化局(USIS)図書室を占拠。
DIA-203-1975-06-29-1ラオス1975年06月29日1970年代チャップマン駐ラオス米臨時代理大使は,駐ラオス米大使館の半数に近い22人が,タイの米空軍ウドン基地に避難したとのべた。
DIA-203-1975-07-04-1ラオス1975年07月04日1970年代内務省筋は,旧ビエンチャン政府の右派高級官僚70人は,18日から1ヵ月間にわたり,ビエンチャン近郊の師範学校に集合するよう指示をうけたと言明。
DIA-203-1975-07-07-1ラオス1975年07月07日1970年代プーミ・ボンビチト副相兼外相は,病気治療のため北京に向った。
DIA-203-1975-07-11-1ラオス1975年07月11日1970年代サバナケットで,日本の援助で完成した柔道場の落成式に出席しようとした日本青年海外協力隊長は,ブン・シャニボン同州知事から,10人の隊員全員が25日までに同地をひきあげるよう通告をうけた。
DIA-203-1975-07-11-2ラオス1975年07月11日1970年代政府はタイ国内にラオス右派政治家,軍将官が居座り,ラオスに対して反攻を企てているとして,両国国境に近いサバナケット,パクセ,バンフェイサイの3ヵ所のタイ領事官を一時閉鎖し,タイ領事はビエンチャンに集結し,領事館再開を待つよう指示した。
DIA-203-1975-07-15-1ラオス1975年07月15日1970年代外国為替安定基金(FEOF)に財政援助を与えてきた日本,米,英,仏,オーストラリヤの5ヵ国は,ラオス政府と協議の結果,米国500万ドル,日本180万ドルと,昨年度実績約2760万ドルの6割,総額1750万ドルを暫定的に拠出することにきめ,プーン・シパスート外相代理と協定に調印。
DIA-203-1975-07-17-1ラオス1975年07月17日1970年代ラオス情報局筋によると,同国政府は,外国人新聞記者や各国の新聞に対して,初めて本格的な規制にふみ切り,外国人記者の入国条件を厳しくするとともに,タイの英字紙“バンコック・ポスト”の同国内における販売を禁止した。
DIA-203-1975-07-17-2ラオス1975年07月17日1970年代政府は17日から南部パクセと,タイのウボン間の国境を封鎖。
DIA-203-1975-07-18-1ラオス1975年07月18日1970年代サバナケット州当局から退却要求をうけていた日本政府派遣の日本海外青年協力隊員10人が,18日までに全員サバナケットをひきあげ,ビエンチャンにかえった。
DIA-203-1975-07-18-2ラオス1975年07月18日1970年代政府は駐日大使を含む5ヵ国駐在大使5人の本国召還の命令を出した。インペン・スラブハイ(駐英国),リエン・プラゴンビエン・チャン(駐中国),プリセ・チャン・ヒン(駐日),ラ・ノリナル(駐ソ),ハンチャン・プライス(駐オーストラリア)。
DIA-203-1975-07-22-1ラオス1975年07月22日1970年代プーマ首相は,ビエンチャンの首相官邸で,民主化改革運動の中核になっている21機関の代表と会談。 「①ラオス国民の再統一は,すでに50%以上達成され,いま最後の段階に入った。②統一と民族一致をさらにたしかめるため,首都をビエンチャンから,ジャール平原とムオンスイのどこかに建設することになる」とのべた。
DIA-203-1975-07-24-1ラオス1975年07月24日1970年代政府は24日の閣議で韓国と外交関係を断絶することに決めたと発表。
DIA-203-1975-08-06-1ラオス1975年08月06日1970年代タイ外務省の発表によると,駐ラオス・タイ大使館駐在武官2人(中佐,小佐)は,5日午後自宅で逮捕された。同外務省はこの事件が外交官特権を無視し,国際慣例に違反する重大事件であると抗議。
DIA-203-1975-08-08-1ラオス1975年08月08日1970年代パテトラオ側のスナラト内務次官は,1976年中にラオス全土にわたる第一回国会議員選挙が行なわれようと発表。
DIA-203-1975-08-11-1ラオス1975年08月11日1970年代タイのククリット首相は,ラオス駐在タイ大使館付武官補2人が逮捕された事件でサウエト駐ラオス大使が12日中に本国に召還されようと語った。
DIA-203-1975-08-22-1ラオス1975年08月22日1970年代ラオス王国軍最高司令官プンポン少将は,病気療養の名目で中国の広東に向かった。
DIA-203-1975-08-23-1ラオス1975年08月23日1970年代ビエンチャンに革命行政委員会が設立さる。
DIA-203-1975-08-24-1ラオス1975年08月24日1970年代第5回非同盟外相会議は,25日から開催されるが,これにさきだち,ラオスはカンボジアと共に韓国の非同盟会議参加に反対の声明を行なった。
DIA-203-1975-08-24-2ラオス1975年08月24日1970年代メコン川沿いに駐留中のタイ部隊は,機関銃と手なげ弾で同州パンナムクン村のラオス部隊を攻撃。
DIA-203-1975-08-25-1ラオス1975年08月25日1970年代タイ,ビルマ国境に近いフアコン州で,メコン川を航行中のタイの軍艦艇とラオス軍部隊の間で銃撃戦がおこり,タイ側の2隻が撃沈,1隻が捕獲された。タイ兵士14名が死亡。
DIA-203-1975-08-26-1ラオス1975年08月26日1970年代23日,設立された革命行政委員会は「人民の真の利益に奉仕し,首都の情勢を早急に正常化するための計画」を発表した。
DIA-203-1975-08-28-1ラオス1975年08月28日1970年代タイの英字紙「バンコック・ポスト」は,プーン・シパスート・ラオス副首相との会見で,同氏がラオスの各分野で現在約1500人のソ連人顧問,専門家が援助にあたっていると言明していると報道。
DIA-203-1975-08-29-1ラオス1975年08月29日1970年代諮問評議会は総選挙を来年4月1日に実施すると発表。
DIA-203-1975-09-03-1ラオス1975年09月03日1970年代政府はこのほど新国旗を決める。
DIA-203-1975-09-04-1ラオス1975年09月04日1970年代トーメンと三井物産は,このほどラオス政府との間で日本のラオスに対する無償援助8億円のうち商品援助分を契約した。 今回契約したのは,ブルドーザー,医薬品,セメントなどで,トーメンは2億9000万,三井物産は2億7000万の受注である。
DIA-203-1975-09-04-2ラオス1975年09月04日1970年代ビエンチャンの刑事裁判所は特別審理で,被告欠席のまま判決言いわたしを行った。この判決をうけた何人かは現在すべて国外に亡命中。 死刑判決:ブンウム・チャンパサク殿下,クープラシット・アバイ,バン・パオ,トンリット・チョクベンプン,ウドン・サナニマン。 終身刑:ゴン・サナニコン前蔵相,シスーク・チャンパサク前国防相,ソプサイサナ前国民議会副議長,パタマポン将軍,エダム・シンポサンサ将軍。
DIA-203-1975-09-08-1ラオス1975年09月08日1970年代ビエンチャン市革命行政委員会は,警察当局の協力を得て,同市内のビエンチャン銀行,インドシナ銀行など五つの銀行を国有化。
DIA-203-1975-10-28-1ラオス1975年10月28日1970年代ビエンチャンのラオス国立銀行内で,2発の爆弾が爆発し,少なくとも20人が重軽傷。
DIA-203-1975-11-10-1ラオス1975年11月10日1970年代解放後はじめてのビエンチャン市の人民革命委員をえらぶ選挙が行なわれ,10人の委員がえらばれた。このうち5人で幹部会を構成。
DIA-203-1975-11-17-1ラオス1975年11月17日1970年代メコン川の中州ドンタン島でタイのメコン川警備艇123号がラオスの銃砲撃をうけて死者一人,重軽傷者3人をだし同島に座礁。
DIA-203-1975-11-26-1ラオス1975年11月26日1970年代25日,26日の両日,パテトラオ本部のあるビエンサイで合同会議が開かれ連合政府,評議会両組織を解体して人民の真の政府をつくること,人民の意思の反映する国民会議を開くため総選挙を早急に実施することで意見の一致をみた。
DIA-203-1975-11-28-1ラオス1975年11月28日1970年代ビエンチャンで愛国戦線の指導によるデモ。
DIA-203-1975-11-30-1ラオス1975年11月30日1970年代去る17日,メコン川中州のドンタン島に座礁したタイのメコン川警備艇123号がタイ軍の手で回収された。
DIA-203-1975-11-30-2ラオス1975年11月30日1970年代バッタナ国王の異母兄弟であるマンカラ・スニオン殿下は妻子を伴い,メコン川を越え,シチエンマイに着いた。また5月,反米運動で指導的役割を演じビエンチャンの米国際開発局本部を占拠したラオス学生連合の前会長であるタノンシンシボラもメコン川を横断タイに亡命。
DIA-203-1975-11-30-3ラオス1975年11月30日1970年代廃位に難色を示したバッタナ国王は,プーマ首相とともにビエンチャンに到着。ポンサバン皇太子と連合政府首脳が重要会議をつづけている。
DIA-203-1975-12-01-1ラオス1975年12月01日1970年代連合政府は,ビエンチャン駐在の各国外交代表を外務省に招き,近く開かれる全国人民代表大会で人民を代表する新政府を樹立すると通告。関係各国の協力を要請。
DIA-203-1975-12-01-2ラオス1975年12月01日1970年代ビエンチャンで,国王退位を叫ぶ数千人のデモ。
DIA-203-1975-12-01-3ラオス1975年12月1,21970年代人民代表全国大会開催―王制廃止。ラオス人民民主共和国樹立。カイソン・フォンビハン人民革命党書記長が演説。連合政府と諮問評議会を解散し新政府と最高人民会議を設置。 新政府閣僚は次の通り。 首相 カイソン・フォンビハン 副首相兼財政相 ヌハク・フォンサバン 副首相兼教育・スポーツ・儀典相 プーミ・ボンビチト 副首相兼外相 プーン・シパスート 副首相兼国防相 カムタイ・シファンドン 首相府相 サリ・ボンカムサオ他3名 内務・在郷軍人・社会福祉相 ソムスン・カムフィトゥン 情報・宣伝・文化・観光相 シサナ・シサン 通信・公共事業・運輸相 サナン・スティチャク 保健相 スク・ボンサク 法相 クー・スバナメティ 農林業・灌漑相 カムスク・サイニャセン 商工相 マイスク・サイソムフェン 郵政・電信相 カムペン・ブパー 国家計画委議長 マ・カイカムフィトゥン 民族問題委議長 ニャブ・ロブリャザオ 国立銀行総裁 トンチャン・ウプラバン 最高人民会議の議長はスファヌボン,副議長はシソムフォン・ロバンサイ,シトン・コンマダム,フェイダン・ロブリヤザオ,カムスク・ケオラ,書記長はカムスク・ケオラ。
DIA-203-1975-12-02-1ラオス1975年12月02日1970年代ビエンチャンで王制存廃に関する協議会開始。国王,中立側からは,ボンサバン皇太子,プーマ首相,一方,愛国勢力側からスファヌボン政治評議会議長,プーミ・ボンビチト副首相兼外相の4人が参加。
DIA-203-1975-12-03-1ラオス1975年12月03日1970年代ベトナム民主共和国とラオスは,ハノイで通信,交通の分野における協力に関する議定書に調印。
DIA-203-1975-12-04-1ラオス1975年12月04日1970年代ラオス人民民主共和国の初代大統領に,スファヌボン殿下(ラオス愛国戦線議長)首相にカイソン・ラオス人民革命党書記長の就任が発表された。バッタナ国王は,大統領最高顧問に,プーマ前首相は政府顧問になった。
DIA-203-1975-12-04-2ラオス1975年12月04日1970年代北ベトナムのVNA通信は,ラオス王制廃止を歓迎した。
DIA-203-1975-12-04-3ラオス1975年12月04日1970年代ラオス全国人民代表大会のスポークスマンは,外交面でまず米国,タイ両国政府に対し,ラオス民族の基本的権利の尊重とラオスの独立,領土保全,内政不干渉を要求した。
DIA-203-1975-12-08-1ラオス1975年12月08日1970年代米国製の130輸送機に積んだ北ベトナムからの補給物資第一便がラオスに到着。また,北ベトナム,ラオス国境の山岳地帯ムギア峠を越えてトラック輸送第一便もラオスに到着した。
DIA-203-1975-12-09-1ラオス1975年12月09日1970年代プーミ・ボンビチト副首相は,ビエンチャンで開かれた新政府樹立祝賀会で政府を代表して演説した。 ①ラオスは,外国の投資,資金援助,協力を要望する,②農村に人民公社をつくり,食糧の自給自足を一大急務とする。
DIA-203-1975-12-10-1ラオス1975年12月10日1970年代ラオス領パクセに近いタイ領のピブンマンサハンで,タイ側の小部隊がラオスからの避難民480人を保護したところ,難民を追跡して,1キロも越境したラオス側からの発砲で15分間の交戦となり,タイ側で1人死亡,1人負傷,ラオス側にも4人の負傷者がでた。
DIA-203-1975-12-11-1ラオス1975年12月11日1970年代ラオス人民民主共和国成立後はじめての閣議をカイソン首相の司会で開催,外相のカンボジア訪問を了承。
DIA-203-1975-12-12-1ラオス1975年12月12日1970年代ククリット・タイ首相が明らかにしたところによると,タイ外務省は,ラオス新政府のシパスート副首相兼外相から友好関係申し入れの親書を受取った。
DIA-203-1975-12-18-1ラオス1975年12月18日1970年代プーン・シパスート副首相兼外相を団長とする代表団は,解放後はじめて15日から18日までの4日間,プノンペンを訪問。19日共同声明発表。
DIA-203-1975-12-19-1ラオス1975年12月19日1970年代ラオス内務省はタイの新聞,雑誌,書籍など,全出版物の輸入ならびにラオスでの販売を禁止すると発表。
DIA-203-1975-12-22-1ラオス1975年12月22日1970年代ソ連は,タイ国境封鎖のため,物資欠乏になやむラオスへの空輸を開始。この一番機は,ソ連の大型輸送機アントノフ12機で食糧,ガソリンなど計1トンの物資がビエンチャンに届けられた。
DIA-203-1977-01-02-1ラオス1977年01月02日1970年代ベニン人民民主共和国と大使級外交関係樹立。
DIA-203-1977-01-04-1ラオス1977年01月04日1970年代昨年12月の数度にわたるタイ軍の国境侵犯に対し,ラオス外務省はタイ代理大使に覚書手交。
DIA-203-1977-01-05-1ラオス1977年01月05日1970年代東独厚生次官,ビエンチャン訪問。12日,保健協力協定調印。
DIA-203-1977-01-06-1ラオス1977年01月06日1970年代愛国戦線創立21周年記念式典。
DIA-203-1977-01-06-2ラオス1977年01月06日1970年代フォンサリ州でこのほど,中国援助による州都水道完成式。
DIA-203-1977-01-08-1ラオス1977年01月08日1970年代ヌバク・プムサワン副首相兼蔵相,農業税について報告。
DIA-203-1977-01-11-1ラオス1977年01月11日1970年代ニャンザン紙,ベトナムとラオスの国境沿いの両人民交流の強化のため年末年始ビエンチャン州責任者と人民団体の代表はサバナケット州を訪問。
DIA-203-1977-01-12-1ラオス1977年01月12日1970年代スファヌボン大統領,インド訪問。19日まで滞在。19日共同コミュニケ発表。同大統領は19日ビルマ訪問。23日帰国。
DIA-203-1977-01-12-2ラオス1977年01月12日1970年代シンカポ副委員長らラオス平和委代表団,世界平和会議出席のためモスクワへ向け出発。
DIA-203-1977-01-13-1ラオス1977年01月13日1970年代(ニューヨーク)非同盟諸国調整委は,ラオス・ベトナムとの連帯基金設立を決定。
DIA-203-1977-01-14-1ラオス1977年01月14日1970年代ラオス空軍パイロット,タイに亡命。メオ族に対する爆撃作戦後に脱出。
DIA-203-1977-01-15-1ラオス1977年01月15日1970年代シアンパサソン紙論評,モーリス・ワイスナー米太平洋司令官のタイ訪問は,米軍の復帰をねらうものと非難。
DIA-203-1977-01-19-1ラオス1977年01月19日1970年代ビエンチャンでソ連と農業協力協定調印。
DIA-203-1977-01-20-1ラオス1977年01月20日1970年代人民解放軍28周年に当ってのカムタイ・シファンドン最高司令官の日々命令。
DIA-203-1977-01-21-1ラオス1977年01月21日1970年代ビエンチャンで,ベトナム(ダン・ベト・チャウ対外貿易相)と76~77年貿易議定書に調印。ベトナム貿易代表団は18日来訪。この議定書は昨年8月31日の協定にもとづくもの。
DIA-203-1977-01-21-2ラオス1977年01月21日1970年代保健代表団(団長スク・ボンサク保健相),訪越。
DIA-203-1977-01-21-3ラオス1977年01月21日1970年代ベトナム婦人代表団(団長ハ・チ・クエ共産党中央委員・婦人連合会会長),ビエンチャン訪問。
DIA-203-1977-01-24-1ラオス1977年01月24日1970年代シアンパサソン紙論評,タイ南部でのマレーシア・タイ両国軍合同作戦を非難。
DIA-203-1977-01-26-1ラオス1977年01月26日1970年代経済・文化代表団団長カムブ・スミサイ国家計画委副議長,ハンガリー訪問へ。
DIA-203-1977-01-26-2ラオス1977年01月26日1970年代ブルガリア林業専門家代表団帰国。
DIA-203-1977-01-28-1ラオス1977年01月28日1970年代ベトナムの通信技術代表団と,ビエンチャン州Ban Hai Ngum村での全長22m,幅11mのコンクリート橋建設に関する議定書調印のための予備文書交換。
DIA-203-1977-01-29-1ラオス1977年01月29日1970年代ブルガリア貿易代表団(団長バチカロフ貿易次官),ビエンチャン着。
DIA-203-1977-02-01-1ラオス1977年02月01日1970年代タイ・エアウェイズのバンコク―ビエンチャン路線の運航(週4便)が無期限停止に。ラオス政府がこのほど同社のビエンチャンでの航空券の予約発売業務などをすべて「国営ラオス航空」に引き渡すよう申し入れたのに抗議して。
DIA-203-1977-02-03-1ラオス1977年02月03日1970年代タイ・ラオス両国間の物資輸送協定に関する覚書に調印。
DIA-203-1977-02-03-2ラオス1977年02月03日1970年代モンゴル,ビエンチャンに大使館開設。
DIA-203-1977-02-05-1ラオス1977年02月05日1970年代5~23日,コメコン代表団,ラオス訪問。
DIA-203-1977-02-05-2ラオス1977年02月05日1970年代タイとの国境を閉鎖。
DIA-203-1977-02-06-1ラオス1977年02月06日1970年代タイ軍事筋によれば,ラオス政府軍約50人は6日,メコン川のドンノイ,ドンタイ両島に上陸した後,ラオス領に引き揚げ。ラオス外務省筋は8日,この報道を否定。
DIA-203-1977-02-07-1ラオス1977年02月07日1970年代ウン・サナニコン元国会議長ら,タイに亡命。
DIA-203-1977-02-11-1ラオス1977年02月11日1970年代ラオス駐在国連難民高等弁務官事務所代表と280万ドルの77年援助協定に調印。
DIA-203-1977-02-12-1ラオス1977年02月12日1970年代ラオス外務省スポークスマン声明,タイのカンボジア軍事挑発を非難。
DIA-203-1977-02-14-1ラオス1977年02月14日1970年代タイ政府は,ラオス空軍パイロットが昨年12月30日以来亡命する際乗って来た飛行機3機をウドン空港でラオス側に返還。
DIA-203-1977-02-18-1ラオス1977年02月18日1970年代18~28日,人民最高評議会と閣僚会議の合同会議。カイソン首相がラオス情勢,ラオス革命の任務,77年の目標に関する報告。
DIA-203-1977-02-18-2ラオス1977年02月18日1970年代チャンサモン・オンパサイ外務省政治局長(44),タイに亡命。
DIA-203-1977-02-22-1ラオス1977年02月22日1970年代ソ連最高会議代表団(団長ニャズベコフ同会議幹部会副議長),ラオス最高人民会議の招きによる公式訪問のため,モスクワ出発。
DIA-203-1977-02-28-1ラオス1977年02月28日1970年代人民革命党中央委,朝鮮労働党中央委に平和的再統一についての朝鮮労働党の立場を支持するメッセージ。
DIA-203-1977-03-01-1ラオス1977年03月01日1970年代スウェーデン国際開発庁代表団,ラオス訪問。2日,77年援助に関する文書調印。
DIA-203-1977-03-01-2ラオス1977年03月01日1970年代ハンガリー政府代表団,ラオス訪問。
DIA-203-1977-03-02-1ラオス1977年03月02日1970年代ソ連外国貿易代表団(団長グリシン外国貿易次官),ビエンチャン訪問。4日,200万ルーブル貸付と77~80年のソ連からの物資輸送時間の短縮に関する議定書調印。
DIA-203-1977-03-03-1ラオス1977年03月03日1970年代ビエンチャン・ハノイ定期航空便開設,週2回。
DIA-203-1977-03-07-1ラオス1977年03月07日1970年代マ・カイカムピツン国家計画委議長,ベトナムとの経済・文化・科学・技術協力委に出席のためハノイ訪問。19日協力議定書調印。
DIA-203-1977-03-09-1ラオス1977年03月09日1970年代フランチセク初代チェコ大使,信任状提出。
DIA-203-1977-03-11-1ラオス1977年03月11日1970年代11~13日,最高人民評議会定例総会開会。77年の活動計画作成。
DIA-203-1977-03-12-1ラオス1977年03月12日1970年代(ビエンチャン13日AP)ラオス政府筋によると,バッタナ元国王とその家族3人が反政府陰謀の疑いによりルアンプラバンで逮捕された。
DIA-203-1977-03-17-1ラオス1977年03月17日1970年代ブルガリアと技術臨力文書調印。
DIA-203-1977-03-19-1ラオス1977年03月19日1970年代米大統領特別使節団,ビエンチャン入り。団長はウッドコック全米自動車労組委員長。20日,スファヌボン大統領,カイソン首相と会談。行方不明米人問題,経済協力問題について話し合い。
DIA-203-1977-03-20-1ラオス1977年03月20日1970年代サナン・スチチャク議長らラオス労働総同盟代表団,ソ連へ。
DIA-203-1977-03-22-1ラオス1977年03月22日1970年代首相府は公式命令を発し,石油タンクないし石油タンク車を保有する者に,通信・公共事業・運輸省へそれらを売却するよう指示。
DIA-203-1977-03-25-1ラオス1977年03月25日1970年代フニョウペク外相らチェコ外務省代表団,ラオス訪問。
DIA-203-1977-03-29-1ラオス1977年03月29日1970年代チェコ医療代表団,ラオス訪問。
DIA-203-1977-03-31-1ラオス1977年03月31日1970年代旧ビエンチャン政権の郵便・通信・保健相シスマン・シサルムサク氏の息子で,前国王のおいに当るマニボン・シサルムサク氏(30歳,現職は通信・公共事業・運輸省技術開発局長)とその家族,タイに亡命。同氏は再教育センターに送られることになったため国外脱出を決意。
DIA-203-1977-04-07-1ラオス1977年04月07日1970年代スバン・シティラト外務省事務部長ら代表団,ニューデリー開催の非同盟諸国調整委に出席。
DIA-203-1977-04-08-1ラオス1977年04月08日1970年代閣僚会議と最高人民評議会常任委合同会議。77年度予算案討議。
DIA-203-1977-04-11-1ラオス1977年04月11日1970年代ビエンチャンから10キロのメコン川のチンチュ島で政府軍(2個大隊推定1000人)と反政府軍(約300人)が交戦,政府軍が同島を奪還。同島は先月29日,カンボア大尉以下の反政府勢力が占拠していた。
DIA-203-1977-04-13-1ラオス1977年04月13日1970年代政府は3日間続いたビエンチャンの厳戒体制を解除。シエンスー島とサンキ島付近の警戒体制は続行。
DIA-203-1977-04-18-1ラオス1977年04月18日1970年代ヌパン・シパサイ外務次官ら代表団,バンコクで開催のESCAP第33回総会出席のためビエンチャンを出発。
DIA-203-1977-04-20-1ラオス1977年04月20日1970年代カムペン・ブパー議長ら婦人連合代表団,カンボジア訪問。
DIA-203-1977-04-22-1ラオス1977年04月22日1970年代ブーサボン・スバナボン財政次官,ADB運営評会議第10回会議出席のためマニラに向け出発。
DIA-203-1977-04-26-1ラオス1977年04月26日1970年代シサナ・シサン情報相ら代表団,プラハで開催の平和と社会主義の問題の再検討に関する共産党代表者会議出席のためビエンチャンを出発。
DIA-203-1977-05-01-1ラオス1977年05月01日1970年代シトン・コマダム副議長死去。
DIA-203-1977-05-02-1ラオス1977年05月02日1970年代シトン・コマダム最高人民評議会副議長の後任に,プーミ・ボンビチト副首相を任命。
DIA-203-1977-05-05-1ラオス1977年05月05日1970年代ウォン・タイ外務次官,タイ政府からの贈与として種つけ用豚,家畜用ワクチン,飼料をカムブ・スミサイ国家計画委副議長に手渡す。
DIA-203-1977-05-07-1ラオス1977年05月07日1970年代国営放送局代表団,ソ連・東独・モンゴル訪問のためビエンチャンを出発。
DIA-203-1977-05-10-1ラオス1977年05月10日1970年代カイソン首相,1週間の東独公式訪問のためビエンチャンを出発。13日共同コミュニケ調印。16日モスクワ訪問。ブレジネフ書記長と会見,19日帰国。
DIA-203-1977-05-11-1ラオス1977年05月11日1970年代パテトラオ通信:シンカポ公共事業相と中国臨時代理大使はこのほど,ラオス北部で道路建設を助けている中国人技術者労働者を訪問。
DIA-203-1977-05-14-1ラオス1977年05月14日1970年代シパンドン副首相兼国防相を団長とする軍事代表団,ソ連訪問のためビエンチャン発。21日帰国。
DIA-203-1977-05-16-1ラオス1977年05月16日1970年代日本大使館,日本から寄贈の電子工学専門学校の建物・設備をラオス当局に引渡し。
DIA-203-1977-05-20-1ラオス1977年05月20日1970年代ビエンチャン放送:タイ機,サヤブリ州の農村を砲撃。30日外務省は,タイ臨時代理大使に抗議の覚書手交。
DIA-203-1977-05-21-1ラオス1977年05月21日1970年代報道代表団(団長:シサナン・センニャヌウォン・パラトラオ通信社長),ビエンチャンを出発,中国へ。
DIA-203-1977-05-24-1ラオス1977年05月24日1970年代ビエンチャン北西地点で,ラオス船がタイ側から発砲さる。6月3日,外務省はタイ代理大使に抗議の覚書手交。
DIA-203-1977-05-25-1ラオス1977年05月25日1970年代リタウディン・マレーシア外相,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1977-05-31-1ラオス1977年05月31日1970年代ベトナム医療代表団(団長:ブ・バン・カン医療相),ラオス訪問。
DIA-203-1977-06-01-1ラオス1977年06月01日1970年代フィリュービン外務次官らソ連外務省代表団,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1977-06-04-1ラオス1977年06月04日1970年代モンゴル外務省代表団,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1977-06-04-2ラオス1977年06月04日1970年代ラオス外務省,タイ政府に覚書。3日,タイ側からのビエンチャン砲撃に抗議。
DIA-203-1977-06-05-1ラオス1977年06月05日1970年代ラオス・中国友好協会代表団,中国訪問。
DIA-203-1977-06-11-1ラオス1977年06月11日1970年代愛国戦線代表団(団長ボンビチト書記長),ブルガリア組国戦線大会出席のためソフィアに向け出発。同大会出席後東独・ソ連を訪問し,8月17日帰国。
DIA-203-1977-06-11-2ラオス1977年06月11日1970年代農林省,農業技術・灌漑・電気技術習得のため50人の学生を中国に派遣。
DIA-203-1977-06-13-1ラオス1977年06月13日1970年代ラオス党・政府代表団(団長カイソン書記長),朝鮮訪問。18日共同コミュニケ調印。同代表団は18日,中国訪問。20日,帰国の途へ。
DIA-203-1977-06-18-1ラオス1977年06月18日1970年代カムブー・スミサイ国家計画委副議長ら代表団,21~23日ワルシャワで開催のコメコン第31回会議にオブザーバーとして出席のためポーランドに向け出発。
DIA-203-1977-06-23-1ラオス1977年06月23日1970年代ラオス警察,オーストラリア人ら外国人6人を逮捕。
DIA-203-1977-06-24-1ラオス1977年06月24日1970年代民間航空局代表団,プノンペン訪問。28日航空路開設協定調印。
DIA-203-1977-06-25-1ラオス1977年06月25日1970年代首相府発表:ベトナムと追加無償援助供与に合意。
DIA-203-1977-06-27-1ラオス1977年06月27日1970年代カイソン首相,干ばつ対策を指示。
DIA-203-1977-07-02-1ラオス1977年07月02日1970年代公共事業・運輸代表団(団長サナン・スチチャク党中央委員・交通運輸相),ハノイに到着。13日,ファン・チョン・トエ交通運輸相とダナン港使用に関する協定に署名。
DIA-203-1977-07-04-1ラオス1977年07月04日1970年代米独立記念日に当りスファヌボン大統領からカーター大統領へ祝電。
DIA-203-1977-07-05-1ラオス1977年07月05日1970年代国家計画委で北朝鮮政府から医薬品,缶詰など引渡し。
DIA-203-1977-07-09-1ラオス1977年07月09日1970年代ソ連と77年文化・科学交流計画調印。
DIA-203-1977-07-15-1ラオス1977年07月15日1970年代ベトナム党・政府代表団,ラオス訪問―18日レ・ズアン書記長とカイソン書記長は共同宣言に,ドン首相とカイソン首相は友好協力協定に,フン副首相とシパスート副首相は国境線画定協定に,ダンチ国務相とカイカムピトン国家計画委議長と78~80年無償・借款援助協定に調印。
DIA-203-1977-07-17-1ラオス1977年07月17日1970年代(ビエンチャン)ホアン・ビック・ンン・ベトナム外務次官はカムパイ・ブパー・ラオス外務次官と,両国市民の国境通過,入出国査証の免除協定(外務省発行旅券と政府派遣者のみ)に調印。
DIA-203-1977-07-19-1ラオス1977年07月19日1970年代ソ連と経済・技術協力協定調印。探鉱作業実施レンガ工場とセメント工場の建設,ナムグムからバンビエンまでの送電線架設について。
DIA-203-1977-07-25-1ラオス1977年07月25日1970年代タイ航空によれば,バンコク・ビエンチャン路線再開でラオス民間航空局との間に合意成立。8月12日から相互乗入れ。
DIA-203-1977-08-01-1ラオス1977年08月01日1970年代ビエンチャン州,ビエンチャン・タドゥア間で灌漑計画完成。
DIA-203-1977-08-01-2ラオス1977年08月01日1970年代ソ連10月革命60周年記念に当りキャンペーン実施についての党政治局決議。
DIA-203-1977-08-05-1ラオス1977年08月05日1970年代ビエンチャン・プノンペン航空便就航。
DIA-203-1977-08-05-2ラオス1977年08月05日1970年代(ビエンチャン放送)タイ機,サヤブリ州Siang Hon郡Houei Laoを爆撃。
DIA-203-1977-08-08-1ラオス1977年08月08日1970年代シアンパサソン紙社説,自然災害と戦う一方,タロイモ,じゃがいも,とうもろこし等澱粉質作物の栽培を奨励。
DIA-203-1977-08-18-1ラオス1977年08月18日1970年代シアンパサソン紙社説,今月初め年計画前半の回顧と後半の目標について閣議開催。
DIA-203-1977-08-19-1ラオス1977年08月19日1970年代(KPL)このほどルーマニアとレンガ工場建設援助に関する文書調印。これは76年9月23日ブカレストで調印された経済協力協定にもとつくもの。ルーマニア技術者は7月30日から8月16日まで滞在。
DIA-203-1977-08-19-2ラオス1977年08月19日1970年代シアンパサソン紙社説,国営流通部門から農民への物資の配分について。
DIA-203-1977-08-20-1ラオス1977年08月20日1970年代ビエンチャン州の僧侶尼僧115人,36日間にわたるティーチ・イン終了。
DIA-203-1977-08-20-2ラオス1977年08月20日1970年代シアンパサソン紙社説:村と村を結ぶ道路の建設ならびにトラック,船等の輸送手設の利用強化について。
DIA-203-1977-08-20-3ラオス1977年08月20日1970年代文化代表団(団長シサナ・シサン情報・宣伝・文化・観光相),中国訪問へ。
DIA-203-1977-08-20-4ラオス1977年08月20日1970年代地質代表団(団長Somlit Chlanthavong通産省地質・鉱山局長),ベトナム訪問。9月27日帰国。
DIA-203-1977-08-20-5ラオス1977年08月20日1970年代カムスク・ケオラ最高人民評議会副議長,静養のため中国へ。
DIA-203-1977-08-21-1ラオス1977年08月21日1970年代党中央委,中国共産党第11回大会終了に当り同党中央委あて祝電。カイソン書記長からも華国鋒主席選出に祝電。
DIA-203-1977-08-21-2ラオス1977年08月21日1970年代(ビエンチャン放送)タイ警備艇,カムアン州Nong Bak県Song Meuang郡Ban Siang Louangを銃撃。 23日には同州Thakhek県Tha Deua郡Ban Tha Deuaを銃撃。 28日外務省は,これらの事件に関し,タイ大使館に抗議。
DIA-203-1977-08-23-1ラオス1977年08月23日1970年代海外留学から帰国した学生第3陣の政治訓練開始。文部省主催。60人以上参加。40日間の予定。
DIA-203-1977-08-23-2ラオス1977年08月23日1970年代ベトナムから文部省代表団(団長Ho Truc次官)来訪。
DIA-203-1977-08-26-1ラオス1977年08月26日1970年代シアン・パサソン紙社説,物資の流通・配分について。
DIA-203-1977-08-29-1ラオス1977年08月29日1970年代スファヌボン大統領,マレーシア独立記念日に当り同国国王に祝賀メッセージ。
DIA-203-1977-09-01-1ラオス1977年09月01日1970年代メコン河でビエンチャン向け石油タンカー2隻が爆発。
DIA-203-1977-09-01-2ラオス1977年09月01日1970年代ソ連赤十字からラオス赤十字への医薬品援助引渡し。
DIA-203-1977-09-03-1ラオス1977年09月03日1970年代文化代表団(団長シサナ・シサン通信・情報・文化・観光相),ハノイ訪問。
DIA-203-1977-09-05-1ラオス1977年09月05日1970年代ニュージーランド政府から15,600袋のミルク贈与。ルアンプラバン向け。
DIA-203-1977-09-07-1ラオス1977年09月07日1970年代(バンコク・ワールド紙ナコンパノム発)タイのナコンパノム対岸ラオス領で戦闘。
DIA-203-1977-09-08-1ラオス1977年09月08日1970年代駐スウェーデン大使Pattahana Chounlamani同国国王に信任状提出。
DIA-203-1977-09-09-1ラオス1977年09月09日1970年代Hartvelt駐ラオス国連代表,サラバン・アトプ両州の少数民族訪問。国連の農業・畜産専門家2人も同行。両州では最近作物・家畜の病気が流行。
DIA-203-1977-09-10-1ラオス1977年09月10日1970年代カイソン首相,農業増産について各省各州責任者に指示。
DIA-203-1977-09-10-2ラオス1977年09月10日1970年代民間航空局代表団(団長Phoun Khammounhuang局長),国際民間航空機構会議出席のためカナダに向け出発。同会議出席の後,ソ連訪問の予定。
DIA-203-1977-09-10-3ラオス1977年09月10日1970年代法務省代表団(団長スバンナメチ法務相),ハノイを訪問。
DIA-203-1977-09-12-1ラオス1977年09月12日1970年代軍事代表団,ハノイを訪問―22日帰国。同代表団の編成は次のとおり。 団長:カムタイ・シファンドン副首相兼国防相。軍最高司令官。 副団長:サマン・ビラケト国防次官・軍総政治部主任。 団員:ソムサク・サインソンカム同省次官・副参謀長,シフォン・タリカム内務次官・在郷軍人と社会福祉担当,ケムフォン・フィパサット・シエンクアン州軍区書記・兼司令官・政治局主任。同代表団は16日,ホー市と第7軍区を訪問。
DIA-203-1977-09-12-2ラオス1977年09月12日1970年代カイソン首相,シエンクアン州訪問。Muong Pekの実験農業合作社等訪問。
DIA-203-1977-09-13-1ラオス1977年09月13日1970年代ビエンチャン放送によれば,タイ機が13日,14日サヤブリ州Muong Ngeun,Muong Hongsaで発砲。15,16日タイ側からルアンナムタ州フエイサイ町に発砲。外務省はこの件につき27日付でタイ大使館に抗議。
DIA-203-1977-09-14-1ラオス1977年09月14日1970年代ルーマニア政府ならびに赤十字から11トンの薬品,魚のかん詰,織物贈与。
DIA-203-1977-09-14-2ラオス1977年09月14日1970年代Thavon Sichaleun駐アルバニア新大使,同国議長に信任状提出。
DIA-203-1977-09-14-3ラオス1977年09月14日1970年代スファヌボン大統領とプーマ顧問,モスクワから帰国,(8月2日以来休養のためモスクワ滞在)
DIA-203-1977-09-15-1ラオス1977年09月15日1970年代外務省からタイ大使館に対し,9月4日ムオンフエイサイのメコン河でタイ戦艦が発砲した事件,9月13日ビエンチャン州ムオン・ボリカンのバン・ナカムでタイ側から砲撃した事件につき抗議。
DIA-203-1977-09-17-1ラオス1977年09月17日1970年代東独のラオス・東独協力委代表団,来訪。
DIA-203-1977-09-17-2ラオス1977年09月17日1970年代郵便・通信省代表団(団長カムペン・ブパー同相),モスクワ訪問へ。
DIA-203-1977-09-20-1ラオス1977年09月20日1970年代(バンコク発AFP)バンコクの銀行筋によれば,ポンチューで錫の採堀に当てていたフランスのインドシナ鉱山研究開発会社が接収された。
DIA-203-1977-09-24-1ラオス1977年09月24日1970年代タイのオランダ大使館発表,オランダ政府はサバナケト,カムアン州の干ばつ救済のため4000万バーツの緊急援助に合意。
DIA-203-1977-09-27-1ラオス1977年09月27日1970年代タイ船,Muong PaksanのBan Hat Saiを砲撃。
DIA-203-1977-09-28-1ラオス1977年09月28日1970年代シパスート外相を団長とする代表団,国連出席のためビエンチャン発。
DIA-203-1977-09-29-1ラオス1977年09月29日1970年代党中央委,カンボジア共産党17周年記念祝賀メッセージ。
DIA-203-1977-09-29-2ラオス1977年09月29日1970年代カイソン書記長兼首相,スファヌボン大統領,中国指導者に国慶節の祝電。
DIA-203-1977-09-29-3ラオス1977年09月29日1970年代ビエンチャンでソ連と医療協定調印。
DIA-203-1977-09-30-1ラオス1977年09月30日1970年代タイの新駐ラオス大使Set Herabat,スファヌボン大統領に信任状提出。
DIA-203-1977-09-30-2ラオス1977年09月30日1970年代シパスート外相,国連でグエン・ズイ・チン外相と会見。
DIA-203-1977-10-01-1ラオス1977年10月01日1970年代通信・公共事業・輸送代表団(団長シンカポ副首相),訪越。18日帰国。
DIA-203-1977-10-01-2ラオス1977年10月01日1970年代郵便・通信代表団(団長カムペン・ブパー郵政・通信相),ソ連・東独訪問から帰国。
DIA-203-1977-10-01-3ラオス1977年10月01日1970年代医療代表団(団長スク・ボンサク保健相),ハンガリー東独,ソ連訪問へ。
DIA-203-1977-10-03-1ラオス1977年10月03日1970年代カイソン首相,食糧対策を指示。
DIA-203-1977-10-03-2ラオス1977年10月03日1970年代(ニューヨーク)シパスート外相,国連総会で演説。12日帰国。
DIA-203-1977-10-09-1ラオス1977年10月09日1970年代ビエンチャンのオデオン・ラマ劇場で,10月革命60周年記念月間開幕の集会。
DIA-203-1977-10-11-1ラオス1977年10月11日1970年代朝鮮民間航空代表団,ビエンチャン訪問。10日航空協定調印。
DIA-203-1977-10-11-2ラオス1977年10月11日1970年代国鷹中国大使,任期を終え帰国。
DIA-203-1977-10-12-1ラオス1977年10月12日1970年代米政府筋によれば,ソ連はラオスに対しミグ21ジェット戦闘機約10機を供与。
DIA-203-1977-10-12-2ラオス1977年10月12日1970年代ベトナム,ソ連,東独各武官,シエンクワン州訪問。
DIA-203-1977-10-12-3ラオス1977年10月12日1970年代文化代表団(団長:シサナ・シサン情報相),ソ連訪問へ。
DIA-203-1977-10-22-1ラオス1977年10月22日1970年代ビエンチャンで石けん工場生産再開。
DIA-203-1977-10-24-1ラオス1977年10月24日1970年代ビエンチャン・バンコク航空路閉鎖。
DIA-203-1977-10-25-1ラオス1977年10月25日1970年代中国貿易代表団(団長:蘇生代理大使),ビエンチャン訪問。織物,砂糖,かん詰など24トンの物資を引渡し。28日,無利子借款協定調印。11月12日帰国。
DIA-203-1977-10-29-1ラオス1977年10月29日1970年代シパスート外相,国境協定細目調整のためハノイ到着。31日,チン外相と友好・経済協力・国境線画定各協定実務議定書に調印。
DIA-203-1977-10-29-2ラオス1977年10月29日1970年代党・政府代表団(団長:カイソン書記長),ソ連10月革命記念式典出席のためモスクワに向け出発,11月10日帰国。
DIA-203-1977-10-30-1ラオス1977年10月30日1970年代(ビエンチャン放送)タイ側からビエンチャン市南東50キロを砲撃。31日も。
DIA-203-1977-11-01-1ラオス1977年11月01日1970年代タイ兵10人,サヤブリ州のラオス領に侵入。
DIA-203-1977-11-06-1ラオス1977年11月06日1970年代ビエンチャンでソ連10月革命60周年記念集会。
DIA-203-1977-11-09-1ラオス1977年11月09日1970年代ビエンチャン州人民法廷,26人の反政府分子に判決。
DIA-203-1977-11-12-1ラオス1977年11月12日1970年代農林・水利省代表団,ベトナムへ。
DIA-203-1977-11-13-1ラオス1977年11月13日1970年代スウェーデン国際開発庁代表団,ビエンチャン訪問。23日,1億500万クローネの援助協定調印。
DIA-203-1977-11-15-1ラオス1977年11月15日1970年代ビエンチャン州党委・行政委,乾期農業生産に関する会議開催。
DIA-203-1977-11-15-2ラオス1977年11月15日1970年代ベトナム労働総同盟代表団(団長ホアン・コク・ベト議長),ラオス訪問。
DIA-203-1977-11-15-3ラオス1977年11月15日1970年代中国雲南省経済・通商代表団,ウドムサイ州訪問。25日まで滞在。
DIA-203-1977-11-19-1ラオス1977年11月19日1970年代カムパン・ビラチト駐カンボジア大使,キュー・サムファン議長に信任状提出。
DIA-203-1977-11-21-1ラオス1977年11月21日1970年代アエロフロート機,バンコク経由のビエンチャン・モスクワ便運行開始。
DIA-203-1977-11-21-2ラオス1977年11月21日1970年代西独政府より干ばつ対策用に4384万キープ援助。
DIA-203-1977-11-22-1ラオス1977年11月22日1970年代チェコ政府代表団(団長マチェイ・ルーツアン副首相),ビエンチャン訪問。25日,78~80年文化科学協力協定調印。
DIA-203-1977-11-25-1ラオス1977年11月25日1970年代マウリ・エガート・フィンランド大使,信任状提出。
DIA-203-1977-11-26-1ラオス1977年11月26日1970年代横浜市代表団(団長飛鳥田市長),ラオス訪問。
DIA-203-1977-11-27-1ラオス1977年11月27日1970年代(バンコク・ワールド紙28日)シエンクワンでの戦闘により300人のメオ族がタイに避難。
DIA-203-1977-11-27-2ラオス1977年11月27日1970年代国防省で平和維持活動に関する会議。29日まで。平和維持委員会設立で合意。
DIA-203-1977-11-28-1ラオス1977年11月28日1970年代東独援助の医薬品7トンの引渡式。
DIA-203-1977-11-30-1ラオス1977年11月30日1970年代(バンコクAFP)ラオス・ベトナム両軍合同作戦で北部のメオ族7000人が殺された模様。
DIA-203-1977-12-02-1ラオス1977年12月02日1970年代建国2周年記念式典。カイソン首相演説。
DIA-203-1977-12-02-2ラオス1977年12月02日1970年代国慶節に当り2,3両日,タイとの国境を閉鎖。
DIA-203-1977-12-03-1ラオス1977年12月03日1970年代商工省代表団(団長マイスク・サイソムペン商工相),ソ連訪問へ。貿易協定を調印して24日帰国。
DIA-203-1977-12-05-1ラオス1977年12月05日1970年代カンボジアァ援助の塩200トン引渡し式。
DIA-203-1977-12-05-2ラオス1977年12月05日1970年代国連代表とビエンチャン平原経済・農業開発のための3プロジェクト援助協定調印。
DIA-203-1977-12-07-1ラオス1977年12月07日1970年代(バンコクAFP)ラオス外務省は今週,外交官ならびに外国人官吏に対し,ビエンチャン州の外への旅行について72時間以前に事前の許可を求あるよう回状を出した。この措置は5日施行。
DIA-203-1977-12-08-1ラオス1977年12月08日1970年代ラオス航空局発表,10日よりビエンチャン・バンコク便再開,但し当分は週1便。
DIA-203-1977-12-10-1ラオス1977年12月10日1970年代航空局代表団,バンコクへ。12日タイと航空協定調印。
DIA-203-1977-12-12-1ラオス1977年12月12日1970年代Shahid Husain世銀副総裁,国銀の招待でラオス訪問。23日干ばつ地区サラバン州訪問。
DIA-203-1977-12-15-1ラオス1977年12月15日1970年代徐晃新中国大使,信任状提出。
DIA-203-1977-12-17-1ラオス1977年12月17日1970年代党・政府代表団(団長スファヌボン大統領),プノンペン訪問。22日帰国。
DIA-203-1977-12-17-2ラオス1977年12月17日1970年代(バンコク21日共同)ビエンチャン西側筋によれば,17日未明,数人の反政府ゲリラがワッタイ空港格納庫を襲撃。
DIA-203-1977-12-26-1ラオス1977年12月26日1970年代チン・ベトナム外相,ビエンチャン訪問。29日コミュニケ発表。
DIA-203-1977-12-27-1ラオス1977年12月27日1970年代中国経済代表団(団長徐晃大使),ビエンチャン訪問。
DIA-203-1977-12-31-1ラオス1977年12月31日1970年代貿易代表団(団長サイソムペン商工省),ベトナム訪問へ。
DIA-203-1978-01-03-1ラオス1978年01月03日1970年代プン・シパスート副首相兼外相,Nguyen Si Hoatベトナム臨時代理大使と会見。ベトナムと民主カムプチアの国境紛争に対し憂慮の意を表明。両国の党と政府に話し合いで解決するよう強く要望。
DIA-203-1978-01-05-1ラオス1978年01月05日1970年代ベトナム,ラオス,タイ3国,ビエンチャンで暫定メコン委設立に関するコミュニケに調印。
DIA-203-1978-01-07-1ラオス1978年01月07日1970年代ラオス貿易代表団,ハノイで78年ベトナム・ラオス物資交換協定に調印。9日,北京へ。
DIA-203-1978-01-09-1ラオス1978年01月09日1970年代77年11月9~11日ビエンチャンで合意されたラオス・タイ間の河川輸送協定の実施についてムクダハンでタイ当局と話し合うため,ラオス代表団出発。
DIA-203-1978-01-10-1ラオス1978年01月10日1970年代コメコン代表団(団長Hans Gueffke),ビエンチャン着。11日通信・公共事業,運輸相と道路・橋建設について話し合い。
DIA-203-1978-01-11-1ラオス1978年01月11日1970年代FAO,560万ドルの無償供与を承認。
DIA-203-1978-01-16-1ラオス1978年01月16日1970年代パテトラオ通信は,ラオス経由でベトナムがカンボジアへ軍隊を派遣したとのロイター電を使ってのジャパン・タイムズ紙11日付の報道に反論。
DIA-203-1978-01-16-2ラオス1978年01月16日1970年代最高人民評議会と閣議の合同会議開催。
DIA-203-1978-01-18-1ラオス1978年01月18日1970年代ハンガリー代表団と経済,科学,技術協力に関する文書に調印。両国は耕作,畜産,灌漑,林業,鉱業で協力。
DIA-203-1978-01-18-2ラオス1978年01月18日1970年代Edouard Saouma FAO事務局長,ラオス訪問。20日ベトナムへ。
DIA-203-1978-01-20-1ラオス1978年01月20日1970年代ビエンチャンで,中国の対ラオス援助の議定書調印。
DIA-203-1978-01-20-2ラオス1978年01月20日1970年代(バンコク発共同)ビエンチャンの西側信頼筋によると,タン・センスター工業・商業次官ら4人が18日,収賄容疑で逮捕された。
DIA-203-1978-01-29-1ラオス1978年01月29日1970年代ソ連軍事代表団,ラオス訪問。
DIA-203-1978-01-31-1ラオス1978年01月31日1970年代チェコと地質学・鉱業協力に関する協定調印。
DIA-203-1978-02-04-1ラオス1978年02月04日1970年代ラオス長距離通信・郵便代表団(団長カムペン・ブパー郵便相),ハノイ訪問。13日,郵便・電報協力協定に調印。
DIA-203-1978-02-07-1ラオス1978年02月07日1970年代シパスート外相,ベトナム政府の2月5日付のカンボジアに対する3項目提案を支持。
DIA-203-1978-02-07-2ラオス1978年02月07日1970年代インド経済代表団,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1978-02-10-1ラオス1978年02月10日1970年代アンバー1ルート再開協議のため 4ヵ国会議ビエンチャンで開催。
DIA-203-1978-02-14-1ラオス1978年02月14日1970年代ソ連経済代表団,ラオス訪問。17日,経済・技術援助に関する協定に調印。
DIA-203-1978-02-14-2ラオス1978年02月14日1970年代東独・ラオス経済・科学・技術協力委員会代表団,ラオス訪問。21日,経済・科学・技術協力協定に調印。
DIA-203-1978-02-15-1ラオス1978年02月15日1970年代ビルマ政府からの援助米300トン引渡し。
DIA-203-1978-02-25-1ラオス1978年02月25日1970年代ビエンチャンのフランス文化センターとフランス語学校を閉鎖。
DIA-203-1978-02-26-1ラオス1978年02月26日1970年代ラオス政府,最後の日本青年海外協力隊員戸谷氏に滞在延長不許可を通告。
DIA-203-1978-02-27-1ラオス1978年02月27日1970年代オランダ,4000万バーツ相当の米をラオスへ。
DIA-203-1978-03-02-1ラオス1978年03月02日1970年代2~3日,最高人民評議会と閣議の合同会議。78年国家計画,予算,78~80年3ヵ年国家計画を承認。
DIA-203-1978-03-03-1ラオス1978年03月03日1970年代工業・商業省代表団,東独訪問へ。
DIA-203-1978-03-07-1ラオス1978年03月07日1970年代(ビエンチャン)ベトナムのDang Thi国務相はラオスとの経済文化・科学技術協力合同委第2回総会に出席。18日,78年経済・文化・科学・技術援助協力各議定書に署名。
DIA-203-1978-03-08-1ラオス1978年03月08日1970年代ヌーパン外務次官,ESCAP総会で演説。
DIA-203-1978-03-12-1ラオス1978年03月12日1970年代バンコクポスト紙によれば,2月初め以来の政府側の作戦で,メオ族兵士がタイへ避難。
DIA-203-1978-03-15-1ラオス1978年03月15日1970年代ソト・ペトラシ駐ソ大使,信任状提出。
DIA-203-1978-03-20-1ラオス1978年03月20日1970年代労働総同盟中央委第1回全国会議開催。
DIA-203-1978-03-22-1ラオス1978年03月22日1970年代シパスート副首相兼外相,バンコク訪問。25日貿易拡大に関する共同コミュニケ調印。ムクダハン―サバナケト間を貿易路として開く。
DIA-203-1978-03-27-1ラオス1978年03月27日1970年代工業・商業省代表団,モンゴルと経済協力協定調印。
DIA-203-1978-04-03-1ラオス1978年04月03日1970年代サハトからバンビエンまでのナムグム高圧送電線建設調査へのソ連援助に関する議定書調印。
DIA-203-1978-04-08-1ラオス1978年04月08日1970年代中国援助で建設された友好道路引渡式。
DIA-203-1978-04-24-1ラオス1978年04月24日1970年代(ビエンチャン)ベトナムのVu Quy建設省次官,ビエンサイ市とサムヌア市の都市建設へのベトナム援助分の引渡式典に出席。
DIA-203-1978-04-25-1ラオス1978年04月25日1970年代ハンガリーとの経済・科学・技術協力委員会第2回会議に出席のため.代表団がブダペストへ向け出発。78~80年物資交換・支払い協定,78~79年無償経済援助などに調印。
DIA-203-1978-04-25-2ラオス1978年04月25日1970年代(バンコク発共同)ビエンチャンの西側筋によると,ラオス政府はこのほど同国内で活動している外国企業,商社に対し営業申請を出させたうえ,18社だけに営業許可。この規制は5月から発効。
DIA-203-1978-04-30-1ラオス1978年04月30日1970年代特別人民法廷,昨年11月発覚したクーデター未遂事件容疑者41人に死刑8人を含む判決。
DIA-203-1978-05-15-1ラオス1978年05月15日1970年代シパースト副首相兼外相,マレーシア訪問。17日共同コミュニケ発表。
DIA-203-1978-05-15-2ラオス1978年05月15日1970年代(バンコク発AFP)ラオス国営放送が15日「フォンサリ,ビエンサイで平和を乱そうとしている盗賊を駆逐」と伝えたのに対し,観測筋は,中国派とベトナム派の対立を指摘。
DIA-203-1978-05-15-3ラオス1978年05月15日1970年代タイ貿易代表団来訪。
DIA-203-1978-05-15-4ラオス1978年05月15日1970年代タンザニア大使館外交関係樹立に関するコミュニケ発表。
DIA-203-1978-05-16-1ラオス1978年05月16日1970年代チャン・ラム放送・テルビ総局長,ラオスを訪問。
DIA-203-1978-05-17-1ラオス1978年05月17日1970年代バンコク・ワールド紙によれば,16日,ビエンチャン郊外19キロで,ソ連軍事顧問14人が殺害さる。
DIA-203-1978-05-17-2ラオス1978年05月17日1970年代スウェーデン政府代表団来訪。20日,無償援助5000万クローナの利用に関する協定に調印。
DIA-203-1978-05-26-1ラオス1978年05月26日1970年代チャウシェスク・ルーマニア大統領,ラオス訪問。
DIA-203-1978-06-01-1ラオス1978年06月01日1970年代米国務省スポークスマン発表,ラオスに対し500万ドル相当の緊急食糧援助を決定。
DIA-203-1978-06-10-1ラオス1978年06月10日1970年代香港の「文匯報」は,ソ連がサバナケトに大型レーダー基地を建設と報道。
DIA-203-1978-06-15-1ラオス1978年06月15日1970年代党中央委政治局,農業協同組合設立運動拡大に関する決議採択。
DIA-203-1978-06-19-1ラオス1978年06月19日1970年代プーミ副首相,シュトガル・チェコ首相と会見。21日東独訪問。
DIA-203-1978-06-21-1ラオス1978年06月21日1970年代(バンコク発共同)ビエンチャンの西側筋によれば,パクセで今月から国営商店利用の強制などの締めつけ策強化,1100人の華僑はビエンチャンから国外脱出へ。
DIA-203-1978-06-28-1ラオス1978年06月28日1970年代中国と民間航空運輸協定調印。
DIA-203-1978-06-29-1ラオス1978年06月29日1970年代政府,フランス大使館に対し,外交官1人を残して全員5日以内に国外に出るよう通告。
DIA-203-1978-07-08-1ラオス1978年07月08日1970年代ブルガリアと物資交換・支払い協定調印。
DIA-203-1978-07-09-1ラオス1978年07月09日1970年代貿易代表団,タイ訪問。
DIA-203-1978-07-10-1ラオス1978年07月10日1970年代ヌハク副首相兼財政相,ベトナムのNam Hai運輸交通次官代表団と会見。
DIA-203-1978-07-10-2ラオス1978年07月10日1970年代ベトナムのVu Quy建設次官,カムマ・フオムコン商工省次官とサバナム石こう鉱山開発協定各項目の実行議定書に署名。
DIA-203-1978-07-16-1ラオス1978年07月16日1970年代ハノイ放送は,ベトナムが73年以来3000人以上をビエンサイとサムヌアに派遣して,空港建設などに当っていると報道。
DIA-203-1978-07-19-1ラオス1978年07月19日1970年代バンコク・ワールド紙報道。ノンカイに逃げてきた脱走ベトナム兵士とラオス人パイロットによれば,ベトナム部隊とソ連人技術者の援助を得て,ジャール平原に東南ア最大の空港を建設中。
DIA-203-1978-07-19-2ラオス1978年07月19日1970年代プーン副首相兼外相,非同盟諸国外相会議出席のためユーゴへ。 30日,同外相チェコ訪問。
DIA-203-1978-07-26-1ラオス1978年07月26日1970年代ファン・ヒエン・ベトナム外務次官,ビエンチャン訪問。
DIA-203-1978-07-26-2ラオス1978年07月26日1970年代オーストラリアからの援助米2000トンの引渡式。
DIA-203-1978-07-30-1ラオス1978年07月30日1970年代ソムスン・カムピトン内務・在郷軍人・社会福祉相,ビエンチャンの病院で死去。
DIA-203-1978-08-01-1ラオス1978年08月01日1970年代最高人民評議会と閣僚会議の合同会議,このほど開催。
DIA-203-1978-08-07-1ラオス1978年08月07日1970年代(バンコク発共同)ビエンチャンの西側筋によると,7月30~31日,ビエンチャン北170kmでメオ族部隊とベトナム軍が衝突。
DIA-203-1978-08-15-1ラオス1978年08月15日1970年代日本政府からの78―79援助に関する協定の調印式。
DIA-203-1978-08-17-1ラオス1978年08月17日1970年代プーン副首相兼外相,東独訪問。9月1日,ポーランド訪問。
DIA-203-1978-08-21-1ラオス1978年08月21日1970年代外務省,フランス大使館の閉鎖を要求,フランス外務省は22日,大使館の閉鎖を発表。同時に駐仏ラオス大使(臨時)の追放を発表。26日,駐仏ラオス代理大使ら帰国。
DIA-203-1978-08-22-1ラオス1978年08月22日1970年代サリ首相府長官は,各国大使,国際機関代表を集め,洪水害への緊急援助を要請。
DIA-203-1978-08-25-1ラオス1978年08月25日1970年代モンゴメリー議員ら米議会代表団来訪。
DIA-203-1978-08-28-1ラオス1978年08月28日1970年代政府,フォンサリとウドムサイの中国領事館の閉鎖を命令。
DIA-203-1978-08-29-1ラオス1978年08月29日1970年代暫定メコン委第3回会議開催。
DIA-203-1978-08-30-1ラオス1978年08月30日1970年代マイスク中央委員ら党・政府代表団,北朝鮮の国家記念武典出席のため平壌へ。
DIA-203-1978-09-01-1ラオス1978年09月01日1970年代プーン副首相兼外相,ポーランド訪問。
DIA-203-1978-09-05-1ラオス1978年09月05日1970年代朝鮮民主主義入民共和国政府樹立30周年祝賀行事参加のため,ラオス党・政府代表団(団長サイソムベン産業通商相),平壌着。
DIA-203-1978-09-10-1ラオス1978年09月10日1970年代ドン首相,タイから帰国の途中ビエンチャン立ち寄り。
DIA-203-1978-09-11-1ラオス1978年09月11日1970年代中国援助のウドムサイ州レンガ工場建設に関する文書に調印。
DIA-203-1978-09-13-1ラオス1978年09月13日1970年代パテトラオ通信代表団,訪越。団長,Thieng Thepvongsaパテトラオ通信ならびにシアンパサソン紙編集次長。
DIA-203-1978-09-15-1ラオス1978年09月15日1970年代パリ外交筋によれば,ラオスの旧右派指導者達がフランス国内にラオス亡命政権を樹立。「目由ラオス王国政府」と呼称。
DIA-203-1978-09-26-1ラオス1978年09月26日1970年代中国援助による酸素工場建設設備のため,中国化学工業省技術者グループ来訪。
DIA-203-1978-09-27-1ラオス1978年09月27日1970年代カムパイ外相代理,第33回国連総会出席のためビエンチャン出発。10月2日の総会で演説。
DIA-203-1978-10-03-1ラオス1978年10月03日1970年代ソ連貿易代表団来訪。10日貿易協定調印。
DIA-203-1978-10-15-1ラオス1978年10月15日1970年代このほど国内の各少数民族を代表する民族委員会を政府内に設置。
DIA-203-1978-10-21-1ラオス1978年10月21日1970年代スウェーデン政府からの500万クローナ無償援助に関する覚書調印。
DIA-203-1978-10-22-1ラオス1978年10月22日1970年代(ビエンチャン)ハノイとビエンチャン両市人民委は姉妹都市協定に調印。
DIA-203-1978-10-25-1ラオス1978年10月25日1970年代中国政府経済貿易代表団,来訪。29日,無利子借款協定に調印。
DIA-203-1978-10-29-1ラオス1978年10月29日1970年代プーン副首相兼外相,訪越。
DIA-203-1978-10-29-2ラオス1978年10月29日1970年代カイソン書記長,ソ連革命記念式典参加のためモスクワに向け出発。
DIA-203-1978-10-30-1ラオス1978年10月30日1970年代ホルブルック米国務次官補,ラオス訪問。
DIA-203-1978-11-10-1ラオス1978年11月10日1970年代ナムダム・ダム発電第2期工事完成式。
DIA-203-1978-11-15-1ラオス1978年11月15日1970年代閣僚会議声明,農業協同組合指導中央委設置。
DIA-203-1978-11-26-1ラオス1978年11月26日1970年代キューバ大使館で銃撃事件。28日には国防省付近でも銃撃事件。
DIA-203-1978-11-29-1ラオス1978年11月29日1970年代ベトナムのNguyen Xuan(前外務次官)駐ラオス新大使はスファヌボン大統領に信任状提出。
DIA-203-1978-11-29-2ラオス1978年11月29日1970年代アヘン栽培農民の作物転換に関する国連との協定に調印。
DIA-203-1978-12-06-1ラオス1978年12月06日1970年代タイ物資通過代表団来訪。
DIA-203-1978-12-08-1ラオス1978年12月08日1970年代ラオス経済・技術協力委はブルガリア訪問中,30万レウ供与ならびに50万レウ長期無利子貸付で合意。
DIA-203-1978-12-08-2ラオス1978年12月08日1970年代ベトナム援助のラジオ設備引渡式。
DIA-203-1978-12-08-3ラオス1978年12月08日1970年代ハンガリー貿易代表団来訪。
DIA-203-1978-12-08-4ラオス1978年12月08日1970年代ラオス・メコン委設立。議長シンカポ通信・公共事業・運輸次官。
DIA-203-1978-12-11-1ラオス1978年12月11日1970年代駐ラオス初代アルバニア大使,信任状提出。
DIA-203-1978-12-12-1ラオス1978年12月12日1970年代外務省発表,20日にタイ首相来訪。
DIA-203-1978-12-14-1ラオス1978年12月14日1970年代中国の対外友好協会代表団来訪。
DIA-203-1978-12-17-1ラオス1978年12月17日1970年代タイ政府発表,20日予定のクリアンサク首相のラオス訪問延期。13,14日タイ海軍船がメコン川で砲撃されたたため。
DIA-203-1978-12-20-1ラオス1978年12月20日1970年代ソ連からの橋・道路建設援助に関する議定書調印。
DIA-203-1979-01-01-1ラオス1979年01月01日1970年代人民革命青年同盟機関紙「ヌム・ラオ」創刊(週刊紙)。
DIA-203-1979-01-01-2ラオス1979年01月01日1970年代キューバと,自由入国ビザ協定調印。
DIA-203-1979-01-03-1ラオス1979年01月03日1970年代グエン・ズイ・チン・ベトナム副首相兼外相,アジア諸国歴訪の帰路,ラオスに立寄る。4日まで。
DIA-203-1979-01-04-1ラオス1979年01月04日1970年代クリアンサック・タイ首相,訪ラ-ラオス解放後,タイ首相の訪問は初めて。同日,カイソン首相と首脳会談。友好を再確認。6日,共同声明発表。要旨「相互は内政干渉を行わず,武力威嚇と侵略行為を禁止し,メコン川を両国の平和と友好の河川にすべく努力し,諸分野の交流を促進する」。同日,帰国。
DIA-203-1979-01-08-1ラオス1979年01月08日1970年代政府,民主カンボジア・駐ラオス大使館閉鎖。
DIA-203-1979-01-08-2ラオス1979年01月08日1970年代(ビエンチャン)ソ連と150kW中波ラジオ局建設援助に関する協定・議定書調印。7月31日,同局建設の装置・材料輸送援助協定調印。
DIA-203-1979-01-09-1ラオス1979年01月09日1970年代政府は,カンボジア人民革命評議会を,カンボジアの唯一の合法政府として承認。
DIA-203-1979-01-12-1ラオス1979年01月12日1970年代政府は,カムパン・ビラチト駐民主カンボジア大使を,引続き駐カンボジア人民共和国大使に任命。
DIA-203-1979-01-13-1ラオス1979年01月13日1970年代暫定メコン委・ラオス代表団,17日からの第4回総会に出席のため,ハノイへ出発。総会は,ビエンチャン州に貯水池4,ラオス中央部に洪水防波堤を建設する79年度計画プログラムを採択。21日まで。
DIA-203-1979-01-17-1ラオス1979年01月17日1970年代輸送部門,78年計画目標を超過達成。乗客輸送は年目標を28%超過。航空事業は77年比67%増。水運は大進歩を収めた,と発表された。(KPL)
DIA-203-1979-01-17-2ラオス1979年01月17日1970年代FAO,ラオス政府がビエンチャンなど2ヵ所に農業指導員学校を建設するにあたり317,620米ドルを援助する,と表明。
DIA-203-1979-01-22-1ラオス1979年01月22日1970年代民間航空省代表団,訪越。27日,帰国。
DIA-203-1979-01-31-1ラオス1979年01月31日1970年代78年交通事業計画は以下の諸点を達成:国道6,7,8,9,13,42号の交通安全化。国道1900kmを改良・舗装し,地方道路1900kmを修復した。(KPL)
DIA-203-1979-02-01-1ラオス1979年02月01日1970年代閣議・最高人民評議会,拡大定例会を開催。カイソン首相が過去3年間の国内・国際情勢を評論,79年の政府方針と国家計画目標達成に関する報告を行い,農業協同組合加入世帯目標を30~35%,食糧総生産高目標を115万tと定めた。12日,閉会。
DIA-203-1979-02-03-1ラオス1979年02月03日1970年代貿易代表団(団長カーマ・ポンコン商工次官)タイへ出発。5日,タイ商業相と国境貿易・物資輸送,メコン川の水運,対タイ供給電力料金引上げ問題,タイの対ラオス借款1億バーツの使途などを討議。8日,79年貿易協定(両国貿易額は各5億バーツ相当)を調印。借款の返済期間は10年間で合意。同日,帰国。3月1日,トンサワット首相府次官,14日,カーマ商工次官はそれぞれ訪タイ,電力料金と借款問題を引続き協議。
DIA-203-1979-02-05-1ラオス1979年02月05日1970年代アルヒポフ・ソ連副首相,訪ラ-7日,79~80年経済・科学・技術協定(道路建設と農業技術に関する建設資材・部品・機械類などの実物援助),両国間経済・科学・技術協力委設置に関する協定,79~80年ラオス技術者・専門技術労働者養成に関する協定を締結。8日,協力強化をうたった共同新聞発表。帰国。(注:上記諸協定に基づき,3月10日,職業訓練協力に関する諸議定書,4月12日,援助議定書をビエンチャンで調印)
DIA-203-1979-02-14-1ラオス1979年02月14日1970年代政府,イラン回教共和国を承認。
DIA-203-1979-02-16-1ラオス1979年02月16日1970年代民族統一戦線全国会議開催-(ビエンチャン)スファヌボン大統領,カイソン首相など200人以上の人民代表が参加。会議は,戦線が社会主義建設・国防の事業を遂行するため,歴史的使命を終えたラオス愛国戦線に代えてラオス国家建設戦線を設立することを,20日までに決定。また,10項目の戦線行動綱領(資料参照),5章19項より成る戦線規約を,20日までに採択。20日,終了日にあたって大会決議を採択。76名の委員より成る戦線中央委員会を選出。主要委員は以下の通り。議長 スファヌボン大統領 副議長 パイデーン・ロブリアニャオ ブアラン カムスック・ケオラ 常任委員 ティットムアン・サオチャンタラー カムペン・ブパー女史 ニアウ・ロブリアニォオ
DIA-203-1979-02-16-2ラオス1979年02月16日1970年代中国援助で建設された織物工場の引渡式。同設備は78年3月より操業開始。同12月に全面操業に。
DIA-203-1979-02-18-1ラオス1979年02月18日1970年代政府,中越紛争に際し声明発表-要旨「事態を慮憂する。政府は両国に,平和的交渉による問題の解決を呼びかける。中国はベトナム領から撤退し,両国は相互の主権と領土保全を尊重せねばならない」。
DIA-203-1979-02-19-1ラオス1979年02月19日1970年代カイソン首相,グエン・スアン・ベトナム駐ラオス大使と会見。カイソン首相は,ベトナム人民の闘争を全面的に支援することを“再確認”した。
DIA-203-1979-02-20-1ラオス1979年02月20日1970年代国家建設戦線中央委全体会議開催。中国のベトナム侵略を非難する戦線中央委声明を発表。
DIA-203-1979-02-24-1ラオス1979年02月24日1970年代モンゴルと,病院建設・牧畜センター建設に関する協力議定書調印。
DIA-203-1979-02-28-1ラオス1979年02月28日1970年代閣議・最高人民評議会,合同会議を開催。国内情勢と近隣諸国の状況について討議。
DIA-203-1979-03-02-1ラオス1979年03月02日1970年代ソ連タス通信は,ベトナム侵攻中の中国軍がラオス国境に軍隊を派遣,破壊活動を行った,と報道。
DIA-203-1979-03-02-2ラオス1979年03月02日1970年代シアン・パサソン紙社説は,青年層によるゲリラ網の形成が大衆・人民から遊離していることを指摘,農村と生産施設におけるゲリラ網の組織化に注意を喚起。
DIA-203-1979-03-06-1ラオス1979年03月06日1970年代政府,「ラオスへの中国の威嚇行動」に関する声明発表-要旨「ベトナム侵略開始後,中国はラオス国境に多数の正規軍を移動させ,軍事演習を行い,少数民族間に不和の種をまき,反政府宣伝を行うスパイを領内に潜入させた。ラオスに対する内政干渉と,独立・主権・領土保全に対する侵害の責任は全て中国側にある」(注;6日,閣議・最高人民評議会の緊急合同会議が開催され,中国軍がラオス国境地域に集中した結果引起された国内状況についての討議の後,発表されたもの。同会議は国家防衛のための必要な措置を決定した。)
DIA-203-1979-03-07-1ラオス1979年03月07日1970年代カムパイ・ブパー外相代理は,黄華中国外相に覚書を送り,北部ラオスでの中国人労働者による道路建設の一時中止と労働者の即時引揚げを要請(注;この道路建設は74年10月3日に調印された両国間協定により,行われていたもの)。
DIA-203-1979-03-07-2ラオス1979年03月07日1970年代党中央委,ベトナム共産党の3月4日付アピールを支持する声明を発表(3.9付シアン・パサソン紙社説において明らかになったもの)。
DIA-203-1979-03-07-3ラオス1979年03月07日1970年代(ハノイ)ベトナムと,79年経済・科学・技術議定書調印。
DIA-203-1979-03-10-1ラオス1979年03月10日1970年代(北京)韓念竜・中国外務次官,駐中国ラオス大使に覚書を手渡し,6日付ラオス政府声明と7日付外務省覚書を「両国関係を悪化させるもの」と厳しく抗議。
DIA-203-1979-03-15-1ラオス1979年03月15日1970年代外務省は,中国駐ラオス大使館に中国外務省宛ての覚書を送り,その中で,3月7日と10日に中国軍が北部ラオスの領内に侵入した事を非難,国境に集結中の中国軍の即時撤退とラオスに対する転覆活動の停止を要求し,また中国人労働者の即時引揚げを重ねて要請。
DIA-203-1979-03-16-1ラオス1979年03月16日1970年代バンコク消息筋によれば,過去数日間,ラオス駐留ベトナム軍はルアンナムター,ルアンプラバン,フォンサリの3州で,中国・ラオス国境地域に移動,不満分子に対し砲撃を行った。(ホンコンAFP)
DIA-203-1979-03-20-1ラオス1979年03月20日1970年代政府・最高人民評議会代表団(団長:スファヌボン大統領),カンボジア訪問-サナン交通・公共事業・運輸相,シサナ情報・宣伝・文化・観光相,カムパイ外相代理が同行。南部軍管区司令官,アタップー州行政委員長,チャンパサック州軍司令官らも随行。同日,ヘン・サムリン救国戦線議長らと首脳会談。22日,経済・文化・科学技術協力協定調印(資料参照)。共同声明発表。同日,代表団,帰国。
DIA-203-1979-03-21-1ラオス1979年03月21日1970年代カイソン首相,79年生産計画実行任務に関する指令発令-重点は次の通り。1.大衆の生活を保証するため特に農林水産業生産を増大すること。2.産業輸出向け資源を増大すること。3.自然災害と敵の生産サボタージュに備えて余剰を蓄積すること。
DIA-203-1979-03-21-2ラオス1979年03月21日1970年代農林灌漑省代表団,訪タイ。28日まで。
DIA-203-1979-03-21-3ラオス1979年03月21日1970年代(ビエンチャン)ソ連と,文化協力覚書に調印。
DIA-203-1979-03-21-4ラオス1979年03月21日1970年代ソ連とビエンチャン工科大学建設援助に関する協定調印。大学では電子工学・地質学の学生を養成する。
DIA-203-1979-03-28-1ラオス1979年03月28日1970年代(ビエンチャン)日本政府と,経済発展助成のための100万米ドル援助計画と,ビエンチャン市に4貯水池を建設するにあたっての援助証書に調印。
DIA-203-1979-03-29-1ラオス1979年03月29日1970年代中国人,多数が引揚げ-ラオスは29日までに,中国人労働者全員と全ての中国報道関係者,多数の中国人外交官を国外退去させたもよう。このためラオス在住中国人は大使を含む大使館員29人と在ラ華僑だけになった。(朝日3.30)
DIA-203-1979-04-01-1ラオス1979年04月01日1970年代政府代表団(団長:カイソン首相),訪タイ-同日のレセプションで首相は「両国の関係は政体の異なる国の間の友好関係の見本である」と述べたが一方で「インドシナ3国の関係は「我々の権利である」と強調。2日,クリアンサック・タイ首相らと首脳会談。4日,対タイ供給電力料金引上げ問題,タイの対ラオス借款1億バーツの返済利子率について合意が得られず,2時間遅れて共同声明調印。同日,代表団帰国。
DIA-203-1979-04-03-1ラオス1979年04月03日1970年代プーミ・ボンビチト副首相,海外での病気治療を終えて帰国(タイへの亡命がうわさされていた)。
DIA-203-1979-04-04-1ラオス1979年04月04日1970年代ブルガリアと,ビエンチャン州シトロネラ油製造場フアパン州薬品工場の建設援助計画書に調印。
DIA-203-1979-04-04-2ラオス1979年04月04日1970年代ラオス電力会社,ブルガリアとナム・サム川1000kw水力発電ダム建設に関する無償援助議定書に調印。
DIA-203-1979-04-04-3ラオス1979年04月04日1970年代第1回英雄・競争戦士全国大会,開催-政府は“新競争運動”の実施を決定。中国を非難。9日まで。10日,ビエンチャン市で英雄勲章の授与式が行われた。
DIA-203-1979-04-06-1ラオス1979年04月06日1970年代リビア政府,昨年の洪水被害への救済援助として,政府に165,793米ドルの小切手を進呈。
DIA-203-1979-04-24-1ラオス1979年04月24日1970年代第1回農業協同組合全国会議,開催-農業協同組合運動の総括と強化の方策を討議。26日のヌーハック副首相演説によれば,これまでに組合1732が設立され,78年の穀物収穫は77年のそれを超過,今年の冬春作米植付けは新記録を樹立した。5月4日,閉会。
DIA-203-1979-04-24-2ラオス1979年04月24日1970年代東独と,79~80年保健協力協定に調印。
DIA-203-1979-04-25-1ラオス1979年04月25日1970年代(ビエンチャン)タイと,気象通信協定調印。
DIA-203-1979-04-26-1ラオス1979年04月26日1970年代第2回交通・公共事業・運輸全国会議開催。交通部門の強化の方策を討議。5月4日まで。
DIA-203-1979-04-26-2ラオス1979年04月26日1970年代カムパイ外相代理はワルトハイム国連事務総長に書簡を送り,その中で,中国のラオスに対する武力脅迫・干渉・転覆行動に対し国連が適切な措置をとるよう要請,またベトナム軍のラオス駐留の事実を認め,これを「両国間協定に基づく正当な権利である」と強調した。
DIA-203-1979-05-04-1ラオス1979年05月04日1970年代(ビエンチャン)第1回電気全国会議開催。特にナムグム・ダム第2期拡張工事の完了成功を総括。
DIA-203-1979-05-05-1ラオス1979年05月05日1970年代政府代表団(団長カムパイ外相代理),第五回UNCTAD総会に出席のため,マニラへ出発。
DIA-203-1979-05-07-1ラオス1979年05月07日1970年代第1回宣伝・情報・文化事業全国会議開催。大衆教化・幹部育成の諸方策を学習。6月24日,閉会。
DIA-203-1979-05-09-1ラオス1979年05月09日1970年代(ビエンチャン)ベトナムと地質調査協力覚書調印-これに基づきベトナムは,シエンクワン・サムヌア両州の地質地図作成,シエンクワン州鉄鉱脈とサワンナケート州石炭石鉱脈の開発,シエンクワン・カムムアン・サワンナケート諸州のセメント・煉瓦原料資源の開発,セメント工場建設に関し,ラオスを援助する。
DIA-203-1979-05-15-1ラオス1979年05月15日1970年代(ビエンチャン)東独と,79~80年対ラオス経済援助協定と物資交換協定に調印。
DIA-203-1979-05-18-1ラオス1979年05月18日1970年代バンコク発共同電は,18日付民主カンボジア放送により,「ラオス社会党」の存在を報道(読売5.19)。21日,ND紙論評は「これはラオス革命の転覆を企む北京の犯罪計画の新たな一歩である」,と報じた。
DIA-203-1979-05-21-1ラオス1979年05月21日1970年代ベトナム財政省代表団(団長ダオ・ティエン・ティ副財政相),訪ラ。22日,ヌーハック財政相と会談。31日,非商業取引協定,79~80年財政協力・国境通貨交換・銀行運営議定書に調印。同日,帰国。
DIA-203-1979-05-25-1ラオス1979年05月25日1970年代サヤボリー州パクライ県の人民解放軍部隊は同地域の反政府・転覆活動を全て粉砕した。(ビエンチャン放送)
DIA-203-1979-05-28-1ラオス1979年05月28日1970年代スウェーデン経済協力代表団,訪ラ。31日,援助額4500万クローナを内容とする発展協力協定締結。
DIA-203-1979-05-28-2ラオス1979年05月28日1970年代デネシュ・シン・インド特使,訪ラ。29日まで。
DIA-203-1979-06-01-1ラオス1979年06月01日1970年代外務省は,中国駐ラオス大使館に書簡を送り,その中で,6月中に同大使館員数を12人に減らし,軍人を大使館員にしないよう,通告した。(注,6.20付シアン・パサソン紙論評で明らかになったもの)
DIA-203-1979-06-02-1ラオス1979年06月02日1970年代政府代表団,4日からの非同盟諸国外相会議に出席するため,コロンボへ出発。
DIA-203-1979-06-06-1ラオス1979年06月06日1970年代閣議・最高人民評議会の合同定例会は,カイソン首相の80年国家計画実行プランに関する報告を承認。また,全省・国家機関・地方事務所の林業促進に関する指示を決定。これに関する回状が7日に発令され,森林保護と同時に植林増進の必要性を強調(KPL8.2)。
DIA-203-1979-06-09-1ラオス1979年06月09日1970年代シサナ宣伝・情報・文化・観光相,訪越。10日,79年度文化・情報協力協定に調印。16日,帰国。
DIA-203-1979-06-09-2ラオス1979年06月09日1970年代(ビエンチャン)キューバと,空輸協定に調印。
DIA-203-1979-06-12-1ラオス1979年06月12日1970年代ビエンチャン放送論評によれば,このほどラオス軍は山賊の残党掃索を行い,山賊数人を逮捕,少数民族に対する心理戦争を行うために使用された重要文書多数を押収,逮捕された残党は自分たちが中国の協力を受けていることを自白した。論評はまた,これらの残党はこれまで多くのメオ族に対し危害を加えており,また捜索中に多数の少数民族人民が死亡した,と報じた。
DIA-203-1979-06-12-2ラオス1979年06月12日1970年代第1回価格統制全国会議,開催。報告は国内市場の価格管理の不備と価格の上昇を指摘。会期は45日間。
DIA-203-1979-06-14-1ラオス1979年06月14日1970年代農業協同組合中央指導委全国会議,開催。主に組合建設の指導と管理に関して討議。8月10日,閉会。
DIA-203-1979-06-14-2ラオス1979年06月14日1970年代ベトナム共産党中央委農業局議長以下代表団,訪ラ。農民指導に関し意見を交換。7月12日まで。
DIA-203-1979-06-15-1ラオス1979年06月15日1970年代(ビエンチャン)ソ連と,通信衛星中継局建設資材運輸協定・議定書調印。
DIA-203-1979-06-20-1ラオス1979年06月20日1970年代シアン・パサソン紙論評は,中国領内に中国の支援を受けた反政府政党の成立と活動を確認。
DIA-203-1979-06-22-1ラオス1979年06月22日1970年代党中央委・教育省は教育会議を開催-ボンビチト副首相兼教育相が演説。要旨「・我々は以下の点を達成した。①79年度就業者数:小学生487,000人,中学生66,000人,高校生6,600人,大学生1,684人。職業校は中央で19,地方で22が建設され1万人が学んでおり,職場での学習者は3万人に達し,識字者数は34万8000人となった。②仏僧は一組織に統一された。・しかし総括すれば,教育事業の変革は未完成である。①文盲克服は,ビエンチャン州のみで達成され,村レベルで29.5%,州レベルで11.7%にすぎない。②少数民族教育が不充分であり,③教育物資も不足している。・これらは経済回復の遅れに源がある」。
DIA-203-1979-06-23-1ラオス1979年06月23日1970年代政府代表団(団長ヌーハック副首相兼財政相),コメコン30周年式典出席のため,モスクワへ出発。28日まで。7月7日,帰路ベトナムに立寄り,帰国。
DIA-203-1979-06-26-1ラオス1979年06月26日1970年代政府,タイ在住ラオス難民数万人に対する全ての責任を否定(駐米ラオス大使が表明したもの)。
DIA-203-1979-06-28-1ラオス1979年06月28日1970年代最高人民評議会・国家建設戦線の合同会議,開催。6月の党中央の決定を確認。
DIA-203-1979-06-29-1ラオス1979年06月29日1970年代現在,全国で1819の農業協同組合が設立。農民32万5819人,耕地7万6790haを組織。(KPL)
DIA-203-1979-07-04-1ラオス1979年07月04日1970年代サリ首相府相・農・林・灌漑相代理,首相府声明を発表。要旨「農業の物質的基礎は自然に依存したままである。灌漑・水利保護施設は多くの地域で要求に応えておらず,従って米増産のためには干ばつ・洪水害を防ぐ手段の用意が急務である」。
DIA-203-1979-07-04-2ラオス1979年07月04日1970年代スファヌボン大統領,休養のためブルガリアに出発。5~26日まで。帰路モスクワへ立寄って,28日帰国。
DIA-203-1979-07-05-1ラオス1979年07月05日1970年代日本共産党代表団(団長:野坂議長)・訪ラ。カイソン党書記長と首脳会談。9日,連帯と協力をうたい,ベトナムの立場を支持する共同声明発表。帰国。
DIA-203-1979-07-10-1ラオス1979年07月10日1970年代ソ連技術者団と,ビエンチャン州電力事業拡大計画に関する覚書に調印(80年度から発効)。
DIA-203-1979-07-12-1ラオス1979年07月12日1970年代スファヌボン大統領70歳誕生日にあたり,ソ連最高幹部会は大十月革命勲章を贈呈。(タス7.16)
DIA-203-1979-07-14-1ラオス1979年07月14日1970年代党書記局,現在の農業協同組合建設と生産に関する指令を発令-要旨「建設促進の結果,組合数は2500を越えたが,生産向上のための建設という方針・政策・目的が党員に理解・把握されておらず,現耕作期の生産を無視した組合建設の結果,生産は低下し,農地を捨てて家畜を殺し,あるいは海外へ逃げる農民が増え,これが悪質分子の組合建設運動サボタージュを助長している。指令:①農民の精神・思考をノーマルに戻すため最大限の努力をするべし。a現在の生産期間中は農民の組合編入は中止し,b参加農民の脱退も認める。②略。③幹部は農業生産に必要な物資の不足を解消せよ。」
DIA-203-1979-07-14-2ラオス1979年07月14日1970年代外務省報道官,「ラオスは,ジュネーブでのインドシナ難民国際会議に代表団を派遣する」と表明(注:国連はラオスを会議に招請していなかった)。16日,政府代表団(団長スバン外務次官),ジュネーブへ出発。21日,会議で政府文書配布。26日,帰国。次官は会議の成果は「インドシナ人民の偉大な成功だった」と表明。
DIA-203-1979-07-14-3ラオス1979年07月14日1970年代キューバ政府代表団(団長ブラボ副首相),訪ラ。14~16日,ラオス政府諸高官と,17日,カイソン首相と両国に関心ある諸問題について意見交換。18日,帰国。
DIA-203-1979-07-16-1ラオス1979年07月16日1970年代ブルガリア外務省代表団(団長ヨトフ副首相),訪ラ。18日,友好を確認した共同新聞発表,帰国。
DIA-203-1979-07-20-1ラオス1979年07月20日1970年代北部軍区・党組織このほど会議を開催。79年前半の活動を総括。カムタイ国防相が演説し,帝国・国際反動主義者のラオス侵略の事態に備えて近代的正規軍の建設を訴えた。(ビエンチャン放送)
DIA-203-1979-07-25-1ラオス1979年07月25日1970年代国家計画委代表団(団長マ・計画委議長),ゴスプランの招待で訪ソへ出発。ソ連滞在中,タシケントの工場設備とコルホーズを見学。両国計画委は,対ラオス党学校・党舎建設援助協定と党代表団年次定例交換に関する協定調印。8月14日,代表団帰国。
DIA-203-1979-07-26-1ラオス1979年07月26日1970年代(ビエンチャン)豪政府と,政府間援助協定に調印。これに基づき豪政府はビエンチャン州13地域に据え付ける192万豪ドル相当の水利ポンプを贈与。
DIA-203-1979-07-28-1ラオス1979年07月28日1970年代ソ連と,79年文化・科学・技術覚書に調印。
DIA-203-1979-08-01-1ラオス1979年08月01日1970年代党代表団(団長チャンミ首相府相・党教宣局長),訪ソへ出発。党建設・幹部指導について意見交換。
DIA-203-1979-08-03-1ラオス1979年08月03日1970年代政府,ニカラグア国家再建臨時政府を承認。
DIA-203-1979-08-05-1ラオス1979年08月05日1970年代宣伝・情報・大衆文化代表団,訪越。
DIA-203-1979-08-07-1ラオス1979年08月07日1970年代閣議・最高人民評議会,定例会開催。内外情勢・外交・教育問題を討議。今後2年以内の文盲一掃と補充教育促進のための指導委を設立。スファヌボン大統領が指導委議長に就任。24日,同指導委は第1回会議を開催。各級に積極的なキャンペーンを呼びかけた。
DIA-203-1979-08-07-2ラオス1979年08月07日1970年代ロガチョフ・ソ連東南アジア局長,訪ラ。滞在中,ラオス指導者と会談し諸生産設備を訪問。13日まで。
DIA-203-1979-08-09-1ラオス1979年08月09日1970年代現在の農業協同組合の経営状態-8.9付シアン・パサソン紙社説で明らかになったもの。農業協同組合における①労働就業日数:年間100~170日。②就業員年令:男16~60歳,女16~55歳。ただし学生は労働者とはみなさず,老人・子供・病人・労働不能者は補助労働者とする。③主要な労働者の質は強・普通・弱の三段階に分類される。④主要な労働者がa)30人未満で生産集団を,b)30人以上で農業協同組合を組織する。⑤農業協同組合員は割当てられた土地の比率に従い耕作の義務を有する。⑥農業協同組合は主要な労働者の他,家畜,農具,補助労働力たる家族を有せねばならない。
DIA-203-1979-08-09-2ラオス1979年08月09日1970年代国立銀行総会,このほど開催。9日,ヌーハック副首相兼財政相とヌーファン国立銀行総裁が会談。市場におけるキップ貨の循環・管理と最近生じた通貨問題国立銀行地方支局の拡大について協議。
DIA-203-1979-08-10-1ラオス1979年08月10日1970年代ベトナム祖国戦線代表団(団長ヴェト戦線議長),訪ラ。11日,スファヌボン国家建設戦線議長と首脳会談。15日,共同声明発表。代表団,帰国。
DIA-203-1979-08-14-1ラオス1979年08月14日1970年代国防省で,ベトナム援助のれんが生産工場(建設は60%進行中)の引渡式。
DIA-203-1979-08-16-1ラオス1979年08月16日1970年代タイ政府代表団(団長レック内相),訪ラ。17日,平和・友好促進をうたった共同新聞発表。帰国。
DIA-203-1979-08-16-2ラオス1979年08月16日1970年代バンコク消息筋,ラオス人民革命党中央委員1名(党機関紙の政治委員)とその側近4人が,このほど中国へ脱出,亡命を申し出た,と言明。(AFP時事)
DIA-203-1979-08-20-1ラオス1979年08月20日1970年代カンボジア人民革命評議会・救国戦線代表団(団長ヘン・サムリン議長),訪ラ-20~21日,カイソン首相と首脳会談。22日,人民革命評議会の合法性,3.22付協力協定の発展,対カ4億キップ相当の実物援助継続などをもった共同声明発表。代表団,訪越へ。
DIA-203-1979-08-20-2ラオス1979年08月20日1970年代党組織,第1回検閲全国会議を開催。15日間。
DIA-203-1979-08-21-1ラオス1979年08月21日1970年代(ビエンチャン)ソ連と,石油貯蔵タンク・自動車修理工場建設援助(注:実物)議定書に調印。
DIA-203-1979-08-27-1ラオス1979年08月27日1970年代タイ亡命中のラオス政府元高官は27日までに,ラオス政府・党内が対越・対中政策をめぐって極めて不安定な状態にあり,ムーン・ビエンチャン行政委委員長(市長)とカムスーク・サイニャセン農相が反越言動のため,ベトナムへ送られ再教育を受けている事実を暴露した。また同氏によれば,ベトナムは①ラオス全土に民間人顧問6000人を配置し②軍隊4万~5万人を派遣しているという。(共同)
DIA-203-1979-09-03-1ラオス1979年09月03日1970年代(ハバナ)第6回非同盟諸国首脳会議,開催。スファヌボン大統領は総会で演説して(日付不明),中国がラオスに脅威を与えている,と非難。帰路,モスクワに立寄り。14日まで。15日,大統領,帰国。
DIA-203-1979-09-12-1ラオス1979年09月12日1970年代シアン・パサソン紙社説「農業協同組合化運動は階級闘争であるため,敵が建設を妨害し,カムムアン,チャムパサック両州では実際に破壊活動が起った。組合は首尾良く“武装”しなければならない」。
DIA-203-1979-09-15-1ラオス1979年09月15日1970年代通信・公共事業・運輸省代表団(サナン同省大臣),訪越。同事業について協議。24日,帰国。
DIA-203-1979-09-18-1ラオス1979年09月18日1970年代農林灌漑省,第1回灌漑事業全国会議を開催。過去数年の総括と80年の事業を決定。4日間の予定。
DIA-203-1979-09-18-2ラオス1979年09月18日1970年代(ビエンチャン)ポーランドと,文化・科学協力協定に調印。同協力の部門は多岐にわたっている。
DIA-203-1979-09-23-1ラオス1979年09月23日1970年代地方軍第1回全国会議,開催-解放後初めて。過去3年間の総括と80年の行動方針を討議。カムタイ国防相が演説し,地方経済・農業建設,大衆動員運動への参加を地方軍の任務として強調。29日まで。
DIA-203-1979-09-23-2ラオス1979年09月23日1970年代今年1~6月にかけてビエンチャン地区の歩兵大隊はスパイ捜索を行い,彼らに操られていたモン族40人,トゥン族100人を救出した。(ビエンチャン放送)
DIA-203-1979-09-24-1ラオス1979年09月24日1970年代党教宣代表団(団長チャミ教宣局長),訪越。
DIA-203-1979-09-25-1ラオス1979年09月25日1970年代シアン・パサソン紙社説「北部国境のヤオ,モン,プノイなどの少数民族は薬・塩・織物など物資不足に悩んでおり,敵がこれを利用して少数民族の政府からの離反を計っている。少数民族の生活条件の改善が急務であり幹部は率先して問題解決にあたるべきである」。
DIA-203-1979-09-26-1ラオス1979年09月26日1970年代(モスクワ)カイソン首相,ブレジネフ・ソ連首相と会談-9月初めより訪ソ。両国に関心のある国際問題,特に東南アジア情勢を協議。ブ首相,ラオス支持・援助を再確認。共同声明発表。30日,首相帰国。
DIA-203-1979-09-26-2ラオス1979年09月26日1970年代ソ連国家計画委代表団,訪ラ。27~28日,両国計画委は協議会を開き,ソ連側は経済建設に関しラオスの次期5ヵ年計画作成に対する助言を行う。
DIA-203-1979-09-27-1ラオス1979年09月27日1970年代ベトナムと,旅行協力議定書に調印。
DIA-203-1979-09-29-1ラオス1979年09月29日1970年代ラオス・ブルガリア友好協会,設立。シサナ情報・宣伝・文化・観光相が会長に就任。
DIA-203-1979-10-01-1ラオス1979年10月01日1970年代政府経済代表団(団長サリ首相府相・農相代理),訪越。ベトナム党経済委代表と会談。15日まで。
DIA-203-1979-10-01-2ラオス1979年10月01日1970年代政府,中国国慶節にあたり祝電を送る。
DIA-203-1979-10-02-1ラオス1979年10月02日1970年代ブルガリア党・政府代表団(団長ジフコフ・ブルガリア党第一書記・国家評議会議長),訪ラ-30日,カイソン首相と首脳会談。4日,両国友好協条約と領事協定締結。中国を非難する共同声明発表。帰国。
DIA-203-1979-10-03-1ラオス1979年10月03日1970年代ボンビチト副首相以下党・政府代表団,東独建国30周年式典に出席のためベルリンへ。16日,帰国。
DIA-203-1979-10-03-2ラオス1979年10月03日1970年代チャムパサック州ゲリラ部隊は,8月中旬に公安の使命を遂行。混乱を引起した帝国・反動主義者の手先数名を捕え,武器・備品を押収。(ビエンチャン放送)
DIA-203-1979-10-06-1ラオス1979年10月06日1970年代(北京)中国国内のラオス人留学生43人,引き揚げ。列車でモスクワへ出発。(共同)
DIA-203-1979-10-08-1ラオス1979年10月08日1970年代(バンコク)ラオス駐タイ大使,声明を発表。最近,豪副首相が訪タイした際のレセプションで,ラオス内に新タイ共産党が成立したとの発表は,正しくなく,ラオス=タイ関係の悪化を狙ったものである,と。
DIA-203-1979-10-11-1ラオス1979年10月11日1970年代最高人民評議会,このほど召集。79年の総括と残りの期間の方針を決定。(ビエンチャン放送)
DIA-203-1979-10-13-1ラオス1979年10月13日1970年代国際メコン委代表団(団長シンカポ公共事業相),第6回暫定メコン委総会に出席のため,バンコクへ出発。総会は16~21日まで。ラオスの要請したメコン開発6計画のほか,ラオス国内のフェリー装置据付け,ルアンプラバン州河川間のブイ据付け,を採択。25日帰国。
DIA-203-1979-10-16-1ラオス1979年10月16日1970年代(ブダペスト)ボンビチト副首相兼教育相,社会主義諸国教育相会議に出席。31日,帰国。
DIA-203-1979-10-17-1ラオス1979年10月17日1970年代ハンガリー副外相,訪ラ。20日,共同新聞発表。帰国。
DIA-203-1979-10-22-1ラオス1979年10月22日1970年代ネ・ウィン・ビルマ大統領,訪ラ-ビルマ元首としては初めて。22日,スファヌボン大統領と,23日,カイソン首相と首脳会談。24日,東南アジア地域の諸問題の平和的解決をうたった共同声明を発表。帰国。
DIA-203-1979-10-25-1ラオス1979年10月25日1970年代世界平和評議会代表団(団長ロメシュ議長),訪ラ。26日,カイソン首相と会談。連帯を確認。
DIA-203-1979-10-29-1ラオス1979年10月29日1970年代ビエンチャン放送,ラオス軍は北部ラオスでの中国の破壊行為に備えるため戦闘態勢に入ったと報道。
DIA-203-1979-10-31-1ラオス1979年10月31日1970年代ベトナムと,物資交換議定書に調印。
DIA-203-1979-11-01-1ラオス1979年11月01日1970年代閣議・最高人民評議会,月例定例会を開催。
DIA-203-1979-11-01-2ラオス1979年11月01日1970年代ポーランド経済代表団(団長スタトコフスキー首相府相),訪ラ。2日,ヌーハック副首相と会談。3日,物資交換・経済協力協定と議定書に調印。帰国。
DIA-203-1979-11-01-3ラオス1979年11月01日1970年代東独外務省代表団,訪ラ。2日,80~81年外務協力協定に調印。3日,コミュニケを発表して帰国。
DIA-203-1979-11-02-1ラオス1979年11月02日1970年代(ビエンチャン)ソ連援助の,8000m3石油貯蔵タンクの引渡式。ビエンチャン市ドンチョン地区。
DIA-203-1979-11-03-1ラオス1979年11月03日1970年代党中央農業指導委・指令を発令。農業協同組合での収穫物分配に関し公正の原理を把握するよう強調。
DIA-203-1979-11-07-1ラオス1979年11月07日1970年代政府代表団(団長シサワット首相府相,マイチャンタン社会福祉相),訪タイ-8日,共同声明発表,9日,8.17付共同新聞発表にのっとり,①両国国境に中央地方のレベルの連絡委をすでに設置し,②中央委は毎年,地方委は隔年で総会を開く,ことなどをもった覚書に調印。同日,代表団帰国。
DIA-203-1979-11-09-1ラオス1979年11月09日1970年代ハンガリーと,科学・技術協力議定書に調印。
DIA-203-1979-11-12-1ラオス1979年11月12日1970年代(ビエンチャン)ソ連とサラワン・サワンナケート両州の地質調査・森林開発に関する議定書調印。
DIA-203-1979-11-12-2ラオス1979年11月12日1970年代UNHCRの79年対ラオス難民援助引渡し式。総額300万米ドル相当(米6175t,粉ミルク1000tなど)。他に難民定住の援助協定調印(455,000米ドル)。
DIA-203-1979-11-13-1ラオス1979年11月13日1970年代東独祖国戦線代表団,訪ラ。19日まで。
DIA-203-1979-11-19-1ラオス1979年11月19日1970年代外務省,14日の国連カンボジア決議に対し声明を発表。「決議は正しくなく,不公正である」と。
DIA-203-1979-11-21-1ラオス1979年11月21日1970年代シアン・パサソン紙論評は,ラオスがベトナム軍と共に北部ラオスのモン族と,北西カンボジア国境のクメール・ルージュに対し毒ガスを使用した,との新華社,APの報道に対し,これを否定。
DIA-203-1979-11-21-2ラオス1979年11月21日1970年代ラオスの工場は全て,道具・食糧・消費物資・建設材料の3ヵ年計画における目標を達成。(VNA)
DIA-203-1979-11-23-1ラオス1979年11月23日1970年代民間航空局代表団,ソ連へ出発。滞在中,ソ連と,民間航空輸送協定に調印。26~30日,ソフィアで開かれたコメコン民間航空会議に出席。12月4日,帰国。
DIA-203-1979-11-25-1ラオス1979年11月25日1970年代25日付バンコク・ポスト紙は,22日にビエンチャンで反ベトナム派政府高官の一斉摘発が行われ,カンペン・ブパー郵政相など閣僚3人,局長クラス7人が逮捕された,と報道。(注:報道は,23日にタイへ亡命してきた89人のラオス人の話に基づいてなされたもの)
DIA-203-1979-12-02-1ラオス1979年12月02日1970年代(ビエンチャン)ラオス解放4周年記念式典。2万人以上が参加。12.1付シアン・パサソン紙社説はこれに関し,社会主義の根本的基礎が敷かれた,と成果を強調。農業協同組合数は2000以上と発表された。
DIA-203-1979-12-05-1ラオス1979年12月05日1970年代モンゴル党・政府代表団(団長バトムンフ首相),訪ラ-5日,カイソン首相らと首脳会談。6日,両国経済・科学・技術協力委を設置(同委は8日に,貿易支払い協定など4協定を締結),8日,友好協力条約(期限25年),共同声明に調印。代表団,帰国。
DIA-203-1979-12-07-1ラオス1979年12月07日1970年代フランスは,11月中に,ラオスに外交関係再開を提案する文書を送った。シサナ情報相とAFP記者の会見の際,明らかにされたもの。情報相は「フランスが海外のラオス人反動家を支持しなければこの提案を考慮する」とAFP記者に述べた。(AFP)
DIA-203-1979-12-08-1ラオス1979年12月08日1970年代(ビエンチャン)ソ連と,経済協定に調印。同協定により,80年に物資供給・無償援助が行われる。
DIA-203-1979-12-10-1ラオス1979年12月10日1970年代通貨改革実施-①閣議指令「旧キップ貨を廃止し,新キップ貨を印刷・配布する。この際貨幣単位を変更し100:1のデノミを行う。今日,午前6~12時までの間に,全人民は,手持ちの旧貨と預金している旧貨の双方を,貨幣交換所で新貨に交換せねばならない」②閣議,貨幣交換中央委の設立(9日)を発表(委員長ヌーハック財政相)(以上,ビエンチャン放送午前0時)。③閣議常任委,各級行政委に指令「国庫に残留する現金を査定し,12時までに新貨と交換せよ。取引を停止し,小切手・領収証はデノミ比率に従って新しく記帳せよ」(同午前4時)。④国立銀行声明「新貨は,12月19日より流通し,種類は新1,5,10,20,50キップとする」(同午前9時48分)。(注:同改革は,現在の経済困難を解決するため,11月中に党中央が決定した(AFP12.11)。また,10日,ラオス・タイ国境で対ラオス交易を行っていたタイ商人の多くは,切り換えが間に合わず,破産した<バンコク・ポスト12.11>。)
DIA-203-1979-12-10-2ラオス1979年12月10日1970年代ラオス公式筋,西側報道に言われるような「全軍の警戒体制突入」を否定。(AFP)
DIA-203-1979-12-12-1ラオス1979年12月12日1970年代シアン・パサソン紙社説要旨「10日の通貨改革は,ラオスの政治経済の安定を破壊するために旧貨を用いていた内外の反動家に対する措置である。都市と地方の間の新貨の交換レートは異なる。」
DIA-203-1979-12-19-1ラオス1979年12月19日1970年代閣議常任委,各級行政機関に「交易」に関する指令を発令-同指令はヌーハック副首相名で発令され,①都市・地方間,地方同士の物資交流の促進,②非合法交易に従事する分子のせん滅・処罰を意図している。要旨「1.○農民からの米・畜産物の買上げにあたり,交易当局・各級行政機関は,物々交換用の工業製品を確保すべし。特に地方ではこれに留意すること。○農民は,米・畜産品を自由市場で売ってもよい。○畜産品に関しては,軍・警察・公共組織・肉屋は,農民から直接買ってもよい。○国家管理下にある物資以外の売買は,各級行政機関の許可を必要としない。商人は業務にあたって許可証を所持していればよい。2.商人は全て,平常通りの交易を行ってよい。3.政府は,家畜の私的輸出入,林業に関する私的交易を禁ずる。4.各級行政委は,交易促進の障害となる検問所があれば,これを廃止する。国家管理下の物資に関してはこの限りでない。5.各級行政委は,税務官吏の教育に注意を払う」。
DIA-203-1979-12-23-1ラオス1979年12月23日1970年代(ビエンチャン)ベトナムと,教育協力協定に調印。76年4月31日調印された両国文化・科学・技術協力協定の一部。
DIA-203-1979-12-24-1ラオス1979年12月24日1970年代閣議,年次定例会を開催。79年の内外状況総括と80年の路線・義務・事業を決定。25日まで。
DIA-203-1979-12-26-1ラオス1979年12月26日1970年代最高人民評議会(国会),79年通常国会を開催-首相が79年の内外情勢と80年の課題・方針について総括報告し,特に国家機関・経済の管理強化を訴えた。28日,コミュニケを採択して閉会。
DIA-203-1979-12-31-1ラオス1979年12月31日1970年代外務省,アフガンのカルマル新政権に祝電。