DIA-201-1969-01-01-1 | 北ベトナム | 1969年01月01日 | 1960年代 | ホー・チ・ミン大統領,全国の人民と兵士へ新年のメッセージを送る-労働党機関紙ニャンザンはホー大統領の全国の人民と兵士にあてた新年のメッセージと詩を掲載した。その内容は次のとおり。 親愛なる南北同胞と戦士諸君! 1968年はわが南北ベトナムの輝かしい勝利の年であった。米帝国主義者は北ベトナムに対して破壊戦争を停止せざるを得なかった。 1968年の初春から南ベトナム同胞と戦士らは連続的に蜂起し進攻し,栄光の内に勝利を獲得した。 米帝国主義者は必ず完全に敗北するだろう。わが全国の人民と兵士は勝利によって進攻し,必ず完全に勝利するだろう。 1969年の新年に当り,わが全国人民を代表して,私は社会主義諸国と進歩的米人民を含めた全世界の正義と平和を愛好する人民の,ベトナム人民の抗米救国事業に対する援助に熱烈に感謝し,祝いのことばを送りたい。 私は南北の同胞,戦士,幹部員,華僑友人および海外僑民へ親愛なる新年の団結,戦闘,勝利の祝辞と,次のような新春を祝う詩を送る。 昨年は輝かしい勝利!今年も前線で必ず大きく勝利することだろう。独立,自由のため,米軍を1人も残さず,かいらいどもが崩壊するまで戦おう。前進せよ!戦士,同胞!南北が統一される春こそ最も喜ばしい春といえよう。 |
DIA-201-1969-01-10-1 | 北ベトナム | 1969年01月10日 | 1960年代 | スウェーデン政府,北ベトナムと完全な外交関係樹立を発表-ニルソン外相は電報でグェン・ズイ・チン北ベトナム外相にこの決定を伝えた。駐北ベトナム初代大使はアルネ・ビョーンベルイ駐北京大使が兼任する模様である(UPI)。 なお,従来,スウェーデンの駐南ベトナム大使は同国駐タイ大使の兼任となっていたが,1967年にこの兼任が解かれ,以来同国と南ベトナム政府との関係は事実上断絶した形になっている。 |
DIA-201-1969-01-24-1 | 北ベトナム | 1969年01月24日 | 1960年代 | サイゴンの米軍情報による,北爆停止以来の北ベトナムの経済再建の状況一北ベトナムは,昨年11月1日の全面北爆停止いらい,その軍事的立場を強化した。その結果補給能力は強化され,道路網は整備され,北ベトナムの南半分にあるビン,クアンケ,ドンホイの3港での軍需品の蓄積は増大している。南への浸透ルートの一つである北ベトナムからラオスに通じる山岳ルートでも軍需品の蓄積がみられる。北から南への軍需品の補給は続いているが,その量は大規模な軍事攻勢の迫っていることを示唆するようなものではない。 北ベトナムの南半分の地帯で蓄積されている一部物資は,建設用資材であり,軍事目的よりも民間用の建設を目的とした可能性が濃い。石油パイプもビンから南へと延長されつつある。北ベトナムの破壊された産業の再建は,修理施設や資材の破壊のため,大きな制約をうけている。タイグエン鉄鋼所もまだ生産を再開していない。再建は石炭,繊維,水力発電所から始まり,セメント工場は一部操業を開始,水力発電所はその半分が作業を再開している。 ハノイ,ハイフォン周辺の食糧は,輸入などでじゅうぶん供給されているが,配給機構などの欠陥から,一部物質の不足をきたしているようである。 |
DIA-201-1969-02-03-1 | 北ベトナム | 1969年02月03日 | 1960年代 | 1969年の国家計画について3点を強調-グェン、バン・ダオ国家計画委員会副委員長は,1969年計画を成功させるため次の3点を強調した。 (1)抵抗戦争の要求に適確に迅速に応えるべく生産の増強に努めること。また前線と後方との運輸通信手段の保全強化に努めること。 (2)農民の要求を満たし,国家に食料を提供できるよう地方経済の発展に努めること。地方経済では農器具製造工場など農業に奉仕する工業,農産物加工業の発展に重点をおく。農業では「1ヘクタール(2毛作)で5トン,1人1ヘクタール耕作,同時にヘクタール当り豚2頭の飼育」という三つの目標の達成に努力する。工業作物の作付を拡大する。(3)戦後の経済復興および発展のための,長期プランを作成すること,このために,経済調査および各部門のプランニングを開始すること。 |
DIA-201-1969-02-18-1 | 北ベトナム | 1969年02月18日 | 1960年代 | 北ベトナム,戦後の建設運動を始める-北ベトナム政府は,国家のエネルギーを戦時目標から平時の目標に転換させるようねらったことがはっきりとわかる運動を開始した。この運動は国民の生活水準を急速に引き上げ,戦争のため必要とされた犠牲を回復しようというものである。またニヤンザン紙の社説では北ベトナム国民のすべては,その力を戦闘と日常生活の向上に注がねばならないと述べ,労働者と農民は消費物資をはじめとする各種産物の増産,建設活動の積極化,責任感の向上,浪費,腐敗,不正行為,投機との戦い,経営技術の改善などの面で競争していかなければならないと強調している(VNA)。 |
DIA-201-1969-02-24-1 | 北ベトナム | 1969年02月24日 | 1960年代 | 1968年の経済報告-1968年の計画は102%遂行された。重工業部門は1967年に比して8.9%,基本建設は31%増加した。1969年の努力目標として管理,労働規律,浪費略奪の防止,技術の向上,原料の効率的使用,財務管理の徹底をあげた。とくに重工業部門において企業運営管理の弛みがみられると指摘。 |
DIA-201-1969-03-03-1 | 北ベトナム | 1969年03月03日 | 1960年代 | "労働党中央委員会政治局全員,南ベトナム解放民族戦線代表団と会談-北ベトナム労働党首脳は,フン・バン・クン南ベトナム解放民族戦線中央委員会副議長と代表団を迎えて会談を行なった。同会談には,ホー・チ・ミンをはじめ中央委政治局全員が出席した。両代表の顔ぶれは次のとおり。 労働党政治局 Ho Chi Minh 議長 Vo nguyen Giap 政治局員 Le Duan 第1書記 Ngyen duy Trinh 〃 Truong Chinh 政治局員 Le thanh Nghi 〃 Pham van Dong 〃 Hoang van Hoan 〃 候補 Pham Hung 〃 (欠席) Tran quoc Hoan 〃 Le duc Tho 〃 ・Van tien Dung 〃 解放戦線中央委代表 Phung van Cung 副議長 Nguyen thi Lao 委員(女) Nguyen van Tien 委員 Nguyen van Ngoi 〃 Nguyen phu Soai 〃 ・Thich thien Hao 〃 Mi doan 〃 (女) Ho hue Ba 〃" |
DIA-201-1969-03-06-1 | 北ベトナム | 1969年03月06日 | 1960年代 | 北ベトナムの婦人,政治経済および社会各分野に進出-ハノイ放送の伝えたところによると,ベトナム民主共和国においては建国以来,民族の伝統と社会主義制度に基づき男女の完全平等が達成され,婦人たちは政府機構の中央から地方まで,行政と経済などの諸分野に進出した。その進出の状況を例示すれば次のとおりである。 婦人議員は国会議員総数のうち14.5%を占め,国会常務委員会副委員長1人,各省次官級4人が女性である。 省人民委員会員総数のうち35.2%,省行政委員会委員のうち13%を占める。省行政委員会副議長が8人。県人民委員会委員総数のうち45.8%,県行政委員会委員総数のうち26.5%を占める。県行政委員会議長が20人,副議長282人。 村の人民委員会委員総数のうち47.4%,村の行政委員会委員総数のうち32.7%を占める。同委員会の議長が963人,副議長が4681人。 党幹部と労働者全体では婦人が35%を占める。また軽工業に従事する者は総数の60.6%,商業は49.5%,通信と運輸機関は20%,教育に従事する者は32.6%,国民の健康衛生事業に従事する者は48%,農業合作社管理委員会議長が1476人,副議長が7983人。 生産チームの指導者は1万8049人,管理委員会委員は3万2898人となっている。 |
DIA-201-1969-03-15-1 | 北ベトナム | 1969年03月15日 | 1960年代 | 日越貿易-日本大手商社の情報によると,北ベトナム政府の招きで2月26日にハノイに到着した日越友好商社代表団は,日本から尿素1万トンの輸出契約を成立させた。その他農機器の買付け商談も進んでいる。また北ベトナムは昨年,日本へホンゲイ無煙炭30万トンを輸出したが今年は3割増加できる見通しである。 |
DIA-201-1969-03-24-1 | 北ベトナム | 1969年03月24日 | 1960年代 | 北,南の両代表,コミュニケを発表ークン団長と南ベトナム解放民族戦線代表団11人は,ハノイを訪れ,北の党と政府首脳らと一連の重要会談を行なった。同代表団は20日間以上ハノイに滞在したが,最終会談において次のようなコミュニケを発表した。 ○ソ連,中国および社会主義兄弟国のベトナム人民に対する支援と支持に感謝する。 ○米国はパリ会談で,問題の正しい政治的解決を妨害する一方,野蛮な爆撃によって南ベトナムの町や村に対する攻撃を増大させている。 ○米国は同時に北ベトナムの主権と安全も侵犯している。米国はたびたびB52爆撃機などによって,北ベトナムのビンリンからゲアンに至る地帯を爆撃している。 |
DIA-201-1969-04-26-1 | 北ベトナム | 1969年04月26日 | 1960年代 | ニヤンザン紙中国9全大会を称賛-従来,中国の文化革命に関する報道を避けてきたニヤンザンが中国共産党第9回全国代表大会の模様と毛沢東主席の肖像を第1面に掲載した。なお同紙は,毛主席の指導の下に9全大会は完全な勝利をおさめた,この大会を通じて中国人民全体に毛思想が普及され,文化大革命は,階級革命,生産革命,科学的な経験の革命を発展させて行くだろうと称賛している。 |
DIA-201-1969-04-29-1 | 北ベトナム | 1969年04月29日 | 1960年代 | ソ連航空社,北京-ハノイ航路を停止し,新空路を開設-ソ連国営航空会社は従来の北京経由,ハノイ行き航路を廃止し,中央アジアのタシケント,パキスタンのカラチ,インドのカルカッタ経由でハノイへ向う新空路の開設を発表した。このコースは,アフガニスタン,東西パキスタン,インド,ビルマおよびラオス高原の上空を通過するものである。 |
DIA-201-1969-05-17-1 | 北ベトナム | 1969年05月17日 | 1960年代 | ニヤンザン編集長,ニクソン米大統領の8項目提案を批判-ニャンザン編集長Hoang Tung氏は日本電波ニュース特派員との単独会見で,ニクソン大統領の提案に対する北ベトナムの基本的正式態度として,①侵略者アメリカはまず南ベトナムから無条件かつ完全に撤兵すべきである。②南ベトナムにおける各武装勢力の問題は,ベトナム内部の問題であってアメリカの干渉は許されない。アメリカ・ベトナム間の問題である米軍撤退問題とは本質的に異なる。③ニクソン提案は外国の銃剣の下での総選挙を要求しているが,これは南ベトナム人民の自決権に反するものであると語った。 |
DIA-201-1969-05-18-1 | 北ベトナム | 1969年05月18日 | 1960年代 | 北ベトナム内務省,地方人民議会の選挙結果を発表-内務省当局は4月27日に行なった県・村などの人民議会(1969~71年任期)選挙の最終結果を次のように発表した。 選挙参加率は99.08%,当選者の階層は労働者・農民団体の代表,社会主義者の知識分子,諸少数民族,各地方で社会文化,軍事,政治,経済などの活動に参加している宗教家らであり,青年層が33~38%,婦人層は40%を占めている。なお,立候補者総数は20万人で,そのうちの16万人が町,県,市,省都などの293の人民議会と5851の村の人民議会に選ばれた。 |
DIA-201-1969-05-23-1 | 北ベトナム | 1969年05月23日 | 1960年代 | ホー大統領,79歳の誕生日に当り,全軍に徹底抗戦を強調-ホー・チ・ミン大統領は誕生日を祝うなかで,解放軍の高級幹部や将校と会見し,「わが軍民は大きな苦難と犠牲を払って,最後の勝利にむかって進む。米侵略軍を1人残らず打倒し,売国奴を打倒,南ベトナムを完全に解放することによって,はじめてわが人民は真の平和と自由を享受できるのである」と述べた。 |
DIA-201-1969-06-03-1 | 北ベトナム | 1969年06月03日 | 1960年代 | 日越貿易の決済に関して円・ドン決済を検討-日越貿易協会はポンド不安定のため北ベトナムとの貿易の決済問題を再検討すべきであると言明した。同協会は円・ドン(ドンは北ベトナムの貨幣)直接決済も検討している。同協会の調べによれば,日本からの対北ベトナム輸出は1965年15億6千万円,1966年20億3千万円,1967年6億5千万円,1968年8億8千万円で,輸入は1965年34億9千万円,1966年34億7千万円,1967年24億6千万円,1968年22億円である。 |
DIA-201-1969-06-04-2 | 北ベトナム | 1969年06月04日 | 1960年代 | ニヤンザン紙,南ベトナム問題解決の基本条件は米軍完全撤退と,連合政府樹立であると強調-ニヤンザン紙は標記の点を強調し,次のような社説をかかげている。 臨時連合政府の役割は,総選挙を組織することである。この政府は祖国の独立,平和,中立を支持する亡命者らを含めて,南ベトナムのさまざまな政治傾向の見解を取り入れたものでなければならない。また総選挙はアメリカの侵略戦争停止,アメリカとその衛星国軍隊の完全撤退という条件のもとでしか実施できない。 正規の連合政府樹立をめざすわれわれの達成すべき目標はおよそ次の3点に要約される。 ①自由で民主的な総選挙による,立憲議会の設立,②議会による憲法草案の作成,③民族的な協和と広範な人民の統一を反映した南ベトナム連合政府樹立。ニクソン政権は総選挙の問題と自決権を完全に無視することは出来ない。このため,ニクソン氏は8項目提案のなかで手のこんだあいまいな表現で,これらの問題を提起しているが,その中には,新しい連合の枠内で,かいらいたちにあらゆる策動,圧力,ぎまん,でっち上げを許す条件を保証するような環境を作ろうとしている点がうかがわれる。 |
DIA-201-1969-06-10-3 | 北ベトナム | 1969年06月10日 | 1960年代 | タンホア省中和合作社の農業発展-タンホア省は米軍の激しい爆撃にもかかわらず,着実な農業発展をつづけている。同省の中和合作社は同省総耕作面積の2.06%(1966年)に当る規模を有するが,1967年には2.07%,1968年には2.2%に達し,生産量も増加している。若干の指標をあげれば,次のとおりである。1965年1ヘクタール当り籾米5640kg,いも類7728kg,落花生1212kg,1968年,籾米6736kg,いも類9340kg,落花生1884kg。 |
DIA-201-1969-06-12-1 | 北ベトナム | 1969年06月12日 | 1960年代 | 北ベトナム政府の臨時革命政府成立に関する声明-北ベトナム政府は南の臨時革命政府の樹立に当って“平和的統一”へ共闘するよう次のような声明を発表した。ベトナム民主共和国政府は,全国の同胞とともに,この人民の新しい偉大な歴史的成功を熱烈に歓迎し,南ベトナム共和臨時革命政府の路線と行動綱領を強力に支持する。 南ベトナム人民代表大会によって選出された臨時革命政府は合法政府であり,南ベトナム人民の真の代表である。 ベトナム民主共和国政府は,北部駐在南ベトナム解放民族戦線特別常駐代表部を,南ベトナム共和臨時革命政府の特別代表部の地位に昇格させることで,臨時革命政府と合意に達した。 われわれは祖国の平和的統一のためにすべての分野で両地帯間の関係を強化し,激励と援助の手をさしのべあって民族解放完成のためにともに努力しなければならない。 |
DIA-201-1969-07-01-3 | 北ベトナム | 1969年07月01日 | 1960年代 | ニヤンザン紙,9全大会の成功を称賛‐ニヤンザンは中国共産党創立48周年記念日に当り,要旨つぎのような社説をかかげた。 本日わが人民と労働者階級は中国人民と労働者階級とともに,偉大な中国共産党創立48周年記念日を祝っている。中国共産党は国内の封建制度と反動腐敗の勢力を打破し,日本軍閥勢力の侵略を粉砕し,民族解放,民族民主革命のため戦闘し,これに勝利をおさめ,社会主義へ進んでいる。 毛沢東主席が1949年10月1日天安門壇上で,中国人民共和国の成立を宣言したことにより,人類の歴史上ソビエト革命についで,プロレタリア階級はもう一つの偉大な革命の勝利をかちとった。その影響はアジア・アフリカおよびラテン・アメリカに及ぶものである。 中国共産党が,政権を奪取してのち,中国経済の状態は完全に変化した。社会主義制度の下に中国の農業は貧困とおくれた状態から脱し近代的農業へと進んでいる。また革命前ほとんどないと言ってもよかった工業は,革命後,すばらしい速度で発展している。現在,ほとんど工業は自給自足のできる体制を確立した模様である。また科学と文化両方面も非常に発展した。中国人民と労働者階級は努力して9全大会の決議を実現し,社会主義建設を完成し,米帝国主義に対して激しく闘争し,世界の平和と世界革命実現のため支援を続けるだろう。 ベトナム・中国は兄弟の社会主義国および善隣国であり,昔から伝統的に友好関係を持っていた。その密接な関係はベトナム労働党と中国共産党の間にも維持され強化されてきた。革命の過程を通して,わが人民は中国共産党と人民に支持され,援助された。 米帝侵略者がわが国に侵略をはじめて以来,中国の党と人民はわれわれのため,大きな支援を与えている。中国人民の指導者であり,またベトナム人民の尊敬する友人である毛沢東主席は「われわれの両国は唇歯のような緊密な関係を持つ隣邦であり,両国人民は喜と悲しみをともにする。南ベトナム人民および全ベトナム人民は,彼らの抗米救国の闘争がとりもなおさず,われわれ中国人民の闘争でもあると確信してよい。中国7億人民はベトナム人民の後方勢力であり,中国の広大な領土はベトナム人民の強力な後方である」と述べている。 |
DIA-201-1969-07-08-2 | 北ベトナム | 1969年07月08日 | 1960年代 | 労働党中央委政治局,1970年の運動計画を発表‐労働党政治局は内外情勢の発展に対応できるよう,1970年の四つの記念日の機会に党員と人民に党と政府の路線と政策をより一層理解させ,実行させるための学習運動の計画を発表した。 4大記念日:①1970年2月3日,労働党創立40周年記念,②1970年4月22日,レーニン生誕100周年記念。③1970年5月19日,ホー・チ・ミン大統領の生誕80周年記念。④1970年9月2日,ベトナム民主共和国成立25周年記念。 行事内容:①1969年6月1日から準備を始める。②幹部および党員は4大記念日に関する論文を作成し発表する,③資料を集め,党史を編さん出版する,④党員と人民および知識分子はレーニンの作品とホー大統領の論文集を共同研究する,⑤生産競争,活動競争を展開する,⑥戦闘・生産の分野で優秀な労働者を養成し,“1970年の党員”として入党させる。 |
DIA-201-1969-07-19-2 | 北ベトナム | 1969年07月19日 | 1960年代 | ホー・チ・ミン,ジュネーブ協定調印15周年に当りアピールを発表-ホー大統領は7月20日のジュネーブ協定調印記念日に当り,ベトナム戦争の非米化を非難し米軍完全撤退まで徹底的抗戦するよう呼びかけた。 今春以来,情勢は急速にわが方に有利に,敵に不利になった。南ベトナム人口の4分の3を持つ,全土の5分の4が解放された。この勝利の条件のもとで南ベトナム人民代表大会が開かれ,同大会は南ベトナム共和臨時革命政府と諮問協議会を全会一致で選出した。同政府は20以上の兄弟国,友好国から承認された。 ニクソン米大統領は米国民の利益に反し,わが国の南部で侵略戦争を引き続き強化し,B52爆撃機と有毒薬品による攻撃を激化させ,狂暴な砲撃を行ない,最も野蛮な新しい犯罪を犯してきた。また南ベトナム人民と戦うため,かいらい軍部隊を利用しようとして非米化の陰謀を推進している。ニクソン大統領は,米国と世界の世論をなだめようとして米軍の2万5000人の撤退を計画しているが,これは一種のトリックである。ベトナム人民は米国およびその衛星国の全面無条件撤退を断固要求する。 米軍・衛星軍の撤退および南ベトナムの解放の後,10項目解決策に規定されているように,臨時連合政府はいかなる外国の干渉をも許さず,南ベトナム人民が彼ら自身の政治体制を自ら決定し,制憲議会を選出し,憲法を起草し,正式な連合政府を樹立できるよう自由かつ民主的な総選挙を組織することになろう。 わが軍民数百万は一体となって革命的英雄主義を堅持し,犠牲と困難を恐れず南を解放し,北を防衛し,国家の再統一に向かって前進するため,米軍の完全撤退と,かいらい軍およびかいらい政権の全面崩壊まで抵抗戦争を継続する決意である。 |
DIA-201-1969-08-06-1 | 北ベトナム | 1969年08月06日 | 1960年代 | ニヤンザン紙,日米の沖縄返還交渉を論評-労働党機関紙は「日米反動主義帝国主義と戦う日本人民の活発な攻撃精神の発展」と題する論文を掲載,次のように論評した。 日本では日米安保条約の破棄,沖縄の無条件即時返還を求める闘争が連日続けられており,安保破棄の要求は日本国民の中心的問題である。米帝国主義者は,沖縄のものを含め200以上にのぼる日本国内の米軍基地を長期にわたって占拠し,これらをベトナムに対する戦争挑発のためのもっとも重要な補給,作戦基地として利用している。 米国は安保条約を延長し,補則の取決めを修正することによって,日本を米国の侵略と戦争の政策により堅く結びつけることを決定した。沖縄の返還は,米国が沖縄ばかりでなく,日本国内の基地を自由に使用できるという条件付きであり,日本が沖縄の防衛を受け持つという口実の下で,日米軍事同盟が強化され,日本の軍備競争と,軍国主義の復活を進めることになろう。 安保破棄のための日本国民の戦いは,米帝国主義者と結託する反動分子が軍国主義を復活させ,日本をアジアにおける戦争と侵略の温床にしようとしていることに対して向けられたものである。 |
DIA-201-1969-08-07-3 | 北ベトナム | 1969年08月07日 | 1960年代 | 北ベトナム国内商業省,消費物資22品目の配給制を廃止-国内商業省当局は,国民の必要を一層よく満たすためガソリン,石けん,衣料など22品目の消費物資の配給制を8月5日から撤廃したと発表した。これらの品目はすべてハノイの店頭で豊富に自由販売されるようになり,購入切符は必要でなくなった。以上22品目はハンカチ,タオル,歯ブラシ,歯みがき,針,糸,普通の紙巻きタバコ,マッチ,茶,フィルム,印画紙,自転車部品,ボールペン,腕時計,ほうろう鉄器,茶わんなどを含む。 |
DIA-201-1969-08-08-2 | 北ベトナム | 1969年08月08日 | 1960年代 | 1969年上半期の工業生産-北ベトナムの工業生産は1968年および1969年上半期に増加を示した。ベトナム通信によると,1968年の工業生産に前年の2.1%増,米国の北爆が開始された1964年に比べ8.7%増加した。また本年上半期では前年同期に比べ5.2%の増加を示した。これはさきにハノイで開かれた過去1年半の地域産業開発状況検討の会議で報告されたもので,北ベトナムには現在,国営地方企業が約1000,手工業合作社が約2000ある。これらの企業には,機械,建設資材,肥料,化学,運輸などの各産業が含まれ,米国の北爆期間中も農業,通信,運輸へ十分にサービスをすることができたという。 |
DIA-201-1969-08-09-1 | 北ベトナム | 1969年08月09日 | 1960年代 | 農業合作社新条令-ニヤンザン紙はホー大統領の農業合作社条令に対する5月1日付の声明を掲載した。要旨つぎのとおり。(63頁参照) 農業生産合作社の新条令は非常に重要なものである。私自身で2回修正した。 新条令は合作社社員の集団に対する権利を保障するものである。合作社を強化し農村の団結を強化し,生産を発展させ,農民の生活の安定向上を促進するため,新条令を実現させなければいけない。合作社社員と幹部は新条令を民主的に討論し,正しく理解しなければならない,また,党員と幹部社員は新条令に対して模範的に行動しなければならない。新条令が完全に実現できれば,合作社は抗米救国の事業と社会主義の建設に大きな貢献をすることができるであろう。各レベルの行政機関は農業生産合作社が新条令を正しく実施できるよう支援しなければならない。 |
DIA-201-1969-08-11-1 | 北ベトナム | 1969年08月11日 | 1960年代 | 外交部,ラオス政府の駐ラオスベトナム大使館員5人逮補に厳しく抗議 |
DIA-201-1969-08-14-1 | 北ベトナム | 1969年08月14日 | 1960年代 | 南ベトナム民族民主平和連盟代表団,ハノイを訪問-初めて,ハノイを訪問した代表団は次のとおり。 Trinh dinh Thao 平和連盟議長,革命政府諮問委員会副議長(弁護士) Thich don Hau バンハン地域統一仏教協会会長,連盟副議長,革命政府諮問委員(師) Lam van Tet 平和連盟副議長,諮問委員(愛国人士) Le van Giap サイゴン・チョロン地域平和連盟委員会委員長,諮問委員。 Le van Hao ユエ平和連盟委員会委員長,同地域革命委員会議長 Nguyen dinh Chi ユエ市平和連盟副委員長,諮問委員(女性) Lien hoa Ngo thi Phu サイゴン・チョロン・ジャデン地区平和連盟委員 (女性) Duong van Chien 平和連盟中央委事務長。 |
DIA-201-1969-09-01-3 | 北ベトナム | 1969年09月01日 | 1960年代 | 中国ベトナムに対する祝電で自主独立,徹底抗戦を要望-中国の毛沢東党主席,林彪党副主席および周恩来首相はベトナムの独立24周年記念に当り,連名で次のような祝電を送った。 ベトナム人民はここ数年来入民戦争を堅持し,抗米救国戦争の偉大な勝利をかち得た。米帝国主義はベトナム侵略戦争でみじめな失敗をなめているが,その侵略の本質は変わるものではない,ニクソン政権は,ベトナムの南部を永久に不法占領しようとたくらんでいる。 ソ連修正主義裏切り者集団は米帝国主義と一つ穴のむじなであり,ベトナム人民と全世界人民の共同の敵である。ソ連は米国と世界を再分割するため最近ますます米帝との結託を強めている。ソ連のベトナム支持は偽物であり,本当はベトナムを売り渡すものである。われわれはベトナム人民が持久戦争を堅持し,独立自主を守り,自力更生を続けて必ず困難を克服し米帝国主義をベトナムから追い出すことができると信じている。 |
DIA-201-1969-09-03-2 | 北ベトナム | 1969年09月03日 | 1960年代 | ホー・チ・ミン大統領,死去-ベトナム労働党中央委員会,ベトナム民主共和国国会常任委員会,ベトナム民主共和国政府閣僚会議,ベトナム祖国戦線中央委員会議長団は,9月4日,ホー・チ・ミン大統領の死去について,特別コミュニケを発表した。(58頁参照) |
DIA-201-1969-09-06-2 | 北ベトナム | 1969年09月06日 | 1960年代 | ニヤンザン,ホックタプ共同社説,ホー大統領死後の集団指導制を確認-ニヤンザン紙,ホックタップ労働党理論誌は,ホー・チ・ミン大統領の死後の集団指導制について,次のような共同社説をかかげて確認した。 革命活動の中で,また毎日の生活の中で,ホー大統領は,ともに進歩するための平等と民主の関係,互いに愛し合い,批判と自己批判を行なうという人と人との新しい関係をつくった。ホー大統領は集団主義を高く掲げ,個人主義を一掃した。党の創立者であり,領袖であるホー大統領は常に組織の中に自分を置いていた。ホー大統領は集団を尊び,大衆の意見に耳を傾けた。ホー大統領は全身全霊人民に奉仕した。 ホー大統領は忠実で,人民に愛され,どんな任務でも完成し,どんな困難をも乗り越え,どんな敵にもうち勝つという精神に基づいて幹部と党員を指導した。ホー大統領は同志と団結し,幹部を愛した。ホー大統領は実際的なことを愛し,幻想的なやり方をきらった。ホー大統領は偉大な革命の指導者であったが,非常に謙虚で質素であった。 ホー大統領はせい去した。しかしホー大統領の事業はわれわれとともに永遠に生きている。この悲しみの中で,わが全党,全軍隊,全人民は全力をあげて,ホー大統領の偉大な革命事業を受け継ぐことを誓う。 われわれは全力をあげて,反米救国戦争を完全な勝利までねばり強く推し進めることを誓う。「独立と自由ほど尊いものはない」というホー大統領の教えを心に深く刻んで,われわれは必ず米国を追い出し,かいらい政権を打倒する。 「すべての米軍と米国の衛星国軍は完全に撤退し,2万5000人,25万人,あるいは50万人だけを撤退するのではなく,すべて完全に無条件で撤退しなければならない」。ホー大統領のこのような決意はわが全党と全軍隊および全人民の決意でもある。われわれは全力をあげて北ベトナムにおける社会主義建設の事業を推し進め,大後方の経済と国防の力量を高め,大前線の要求のすべてを急いで十二分に満たし敵の新しい軍事的冒険のすべてを粉砕する用意をととのえることを誓う。 われわれはホー大統領の百戦百勝の旗印を高く掲げ,米侵略者に打ち勝ち,南ベトナムを解放し,北ベトナムを守り,さらに祖国の平和的統一に向かって前進しよう。独立と自由のため,社会主義のため,全国の戦士と同胞は勇敢に前進しよう。 |
DIA-201-1969-09-23-2 | 北ベトナム | 1969年09月23日 | 1960年代 | 新しい正副大統領決定一ベトナム民主共和国第5期国会第5回会議はトン・デュク・タン(Ton duc Thang)現副大統領を大統領に,グェン・ルオン・バン(Nguyen luong Bang)党監査委員長を副大統領に選出した。また,同会議に南ベトナム解放戦線,平和連盟および革命政府首脳5人も出席した。 タン大統領略歴:1888年生れ,南ベトナムのデルタ地帯ロンスエン省出身,中農階級出身,サイゴン工業技術学校卒,1929年ホー・チ・ミン大統領の青年革命同志会に加入,フランス海軍入隊,1918年ロシア革命成功で革命政権成立後,同政権攻撃に派遣された戦艦「パリ」号上でソ連攻撃反対の赤旗を掲げた。1920年に国内活動のため帰国,1930年仏官憲に逮捕さる,16年間獄中生活,また獄中インドシナ共産党に入党,日本敗戦後釈放,南部でベトミンに参加,1965年12月レーニン平和賞を受賞,党中央委員。 バン副大統領略歴:1904年生れ,北ベトナム,ハイブオン省の貧しい教師家庭出身,学校へ行けず船の雑役夫,1925年中国広洲でホー大統領に会って青年革命同志会に加入,ハイフォン,サイゴン,上海の航路を利用し活動した。アンナン共産党に入党,1931年中国でフランスのスパイ団に逮捕され,20年の重労働刑を受け,10年後脱走し中国へ潜入し,1943年党中央委員候補,1945年中央委員に昇格,国立銀行総裁,初代駐ソ大使,国会,党の監査委員長歴任。 |
DIA-201-1969-09-26-2 | 北ベトナム | 1969年09月26日 | 1960年代 | 中国との間に,1970年の援助協定調印一中国・北ベトナム両国政府代表団は,北京で1970年の経済援助協定を調印した。李先念副首相とレ・タン・ギ北ベトナム副首相が団長として協定書に署名したが,中国側は周恩来首相が出席し,ベトナム側からはゴ・ミン・ロアン駐北京大使,リ・バン対外貿易次官,チヤン・サ国防次官も出席した。また,南の革命政府の駐北京大使グエン・バン・クアン氏も同席した。 |
DIA-201-1969-09-30-1 | 北ベトナム | 1969年09月30日 | 1960年代 | スウェーデン政府,北ベトナムに2億クローネ以上の経済援助を発表ーAP通信によれば,スウェーデン政府は北ベトナムに対し,経済援助として2億クローネ(4000万ドル)以上を供与する計画であるとニルソン同国外相が与党社会主民党の大会における記者会見で明らかにした。この援助は3年間にわたって行なわれる予定で,同外相はこの措置が「世論の強い支持を受けるものと確信している」と述べた。 |
DIA-201-1969-10-01-2 | 北ベトナム | 1969年10月01日 | 1960年代 | 北ベトナム党政府首脳,文革後の中国国慶節に初参加一フアム・バン・ドン北ベトナム労働党政治局員,政府首相を団長として,ベトナム代表団6人は,中国の第20回国慶節に参加するため,北京に到着した。 |
DIA-201-1969-10-01-3 | 北ベトナム | 1969年10月01日 | 1960年代 | 中国の対ベトナム援助継続ーニヤンザン紙は,従前の援助協定に続き,9月26日北京で調印された中国の1970年対ベトナム経済,軍事援助は,ベトナム人民の抗米救国の戦いに対し,その完全な勝利まで援助を増加しようという,中国共産党,政府および人民の決意をはっきりと示したものである。周恩来首相はレ・タン・ギ北ベトナム副首相と会見したさい,中国はすべての米侵略者が南ベトナムから追放されるまで,ベトナム人民を援助する覚悟でいることを再確認したと述べている。 |
DIA-201-1969-10-04-4 | 北ベトナム | 1969年10月04日 | 1960年代 | 故ホー大統領遺言の学習のための全国運動を指示一労働党中央委政治局は,故ホー大統領の遺言の学習のための全国運動を開始するよう指示する文書を発表した。要旨次のとおり。 ホー大統領の遺言に従って行動し,南部解放,北部防衛,国家再統一へ前進するため抗米救国のレジスタンスを堅持し推進し,北部の社会主義建設を強化するため,競争運動に励み,全世界の労働階級と人民の革命事業に貢献することを決意するのは,わが党,全人民の義務である。運動のねらいはホー大統領の献身,業績,革命的美徳を,より良く理解させることで,大統領の革命的事業を引き継いでその遺言を実現するためにわれわれの誇り,熱意,確信,決意を増進させることである。 このため,①全党員,全人民の間で,ホー大統領の遺言,党中央委の弔辞とアピールの討論を組織する。②愛国競争運動を開始し,本年末まで「党の建設,生産,戦闘,戦線への補給,人民の生活の組織および1969年国家計画遂行のための当面の目標達成のため,悲しみを革命的行為に変える」というスローガンを実施する競争運動を全党員,全人民の間で組織する。現在の政治的運動は初歩的段取りに過ぎない。すべてのレベル,分野の党と行政機関の執行部は,大統領の遺言を実行し,すべてのレベルの党委員会,行政機関の経済的財政的運営と指導を改善することに留意し,党の建設と人民権力の強化を促進するための長期計画を作成せねばならない。 |
DIA-201-1969-10-06-2 | 北ベトナム | 1969年10月06日 | 1960年代 | 東独の建国20周年記念大会にベトナム代表団出席‐フアム・バン・ドン首相を団長とするベトナムの党と政府の代表団は,東独の建国20周年記念に際して東独を訪問し,経済軍事援助協定を締結するとともに両国の間に経済協力委員会を設置することで同意を得た。 |
DIA-201-1969-10-08-1 | 北ベトナム | 1969年10月08日 | 1960年代 | 労働党中央委書記局,閣僚会議常務委員会,1970年の農業問題を討議一党中央委書記局と閣僚会議常任委員会のメンバーは各省市の行政委員会議長,政府,各省の農業担当者と1970年の農業分野における目標と任務を討議した。 討議では,灌漑設備を修復し,戦争による破壊と管理の不手際によって荒廃した耕地を再開発し,栽培面積を拡張して生産の増加に努めること,畜産の分野ではヘクタール当り豚2頭を飼育するよう努力することなどが討論された。 |
DIA-201-1969-10-11-3 | 北ベトナム | 1969年10月11日 | 1960年代 | フアム・バン・ドン首相公式にソ連を訪問 |
DIA-201-1969-10-14-1 | 北ベトナム | 1969年10月14日 | 1960年代 | ドン首相,米国民の反戦デモにメッセージ-フアム・バン・ドン首相は米国民の反戦デモを称賛する要旨つぎのようなメッセージを送った。 親愛なアメリカの友人諸君。アメリカの進歩的人民は,今日までベトナムにおける侵略戦争に反対して闘争してきた。今秋アメリカ人民の広範な大衆は,多数の平和正義愛好の著名人士によって激励され,ニクソン政権がベトナムにおける侵略戦争をやめ,すべての米軍をただちに引き揚げるよう要求するため,全国で広範な強力な運動を再びはじめた。諸君の運動はアメリカの名誉を救い,アメリカの青年のため,ベトナムにおける無益な死をさけるという,諸君の人民の正当な緊急な要求を雄弁に反映している。これはまた,アメリカと世界世論の抗議を無視して,ベトナムにおける侵略戦争の強化と引延ばしに,がんこに固執している米当局に対する,きわめて適切な時宜に適した回答である。ベトナム人民と世界の人民は諸君の正義の闘争を完全に是認し,熱烈に歓呼する。ベトナム人民は,アメリカ政府がすべての米軍と他の同盟国軍を,完全にかつ無条件にベトナムから引き揚げ,ベトナム人民にかれら自身の運命をかれら自身で決定させるよう要求する。ベトナム人民は深く平和を愛するが,しかしそれは自由と独立の中の平和である。米政府がベトナムにおける侵略戦争をやめない限り,ベトナム人民は自己の民族的権利を守るため,ねばり強く戦いつづけるだろう。われわれはわが両国人民の団結と勇気によって,世界の平和愛好人民の共鳴と支持によって,アメリカの侵略に反対するベトナム人民とアメリカの進歩的人民の闘争が,全面的な勝利に終るものと確信する。諸君の秋季攻勢が輝かしい成功を収めるよう祈る。 |
DIA-201-1969-10-20-1 | 北ベトナム | 1969年10月20日 | 1960年代 | 北ベトナム・ソ連政府首脳の共同声明ドン首相は党と政府の代表団団長としてソ連を公式に訪問した。一行はソ連の党,政府首脳と会談した後,次のようなコミュニケを発表した。 ソ連は米帝国主義者の南ベトナム問題への武力干渉をあらためて強く非難するとともに,ベトナム人民の戦いに必要な支援を続けることを表明した。ソ連,北ベトナム両国は協議の結果,1970年度援助協定に調印した。これによってソ連は食糧,石油製品,輸送施設,鉄および非鉄金属,化学肥料,武器,弾薬など防衛力増強,経済開発に必要な物資を北ベトナムに提供する。北ベトナム代表団は,ベトナムにおける米国の行為,パリ会談における米国の立場をみると米国政府は破たんへの道を歩きながらも,武力によって南ベトナムの反動的かいらい政権を強化しようとしていることが明白である。南ベトナム人民は北ベトナムの同胞とともに,世界のあらゆる進歩的勢力の支援にたよりつつ,故ホー・チ・ミン大統領の遺志を継いて,ベトナム人民の願いが達成され,ベトナムの国土から米侵略者とその手先が一掃されるまで,軍事,政治,外交の戦いを推進する決意である。 なお,ソ連の援助総額は明らかにされていないが,総額10億ドル相当と推測されている。 |
DIA-201-1969-10-20-2 | 北ベトナム | 1969年10月20日 | 1960年代 | パキスタン親善代表団,ハノイに来訪 |
DIA-201-1969-10-20-3 | 北ベトナム | 1969年10月20日 | 1960年代 | 北ベトナム・ルーマニア両国1970年の経済軍事援助協定に調印 |
DIA-201-1969-11-01-1 | 北ベトナム | 1969年11月01日 | 1960年代 | 米国中央情報局,北ベトナム経済復興を分析ー米国情報専門家グループは,北爆全面停止から1年たった今日北ベトナムの経済復興はどこまで進んだかを次のように分析した。 米国の推定では,北爆では3万5000の建物が破壊され,この結果,北ベトナムの工業力は1954年の水準にまで落ちた。 米空軍当局者はもし北爆による民間人死傷者の数を最小限度に押さえるという制限がなかったならば,補給の流れを完全に止めることが出来ると主張した。当時,約60万人の北ベトナム人が食糧生産から通信,輸送路の確保や防空要員に回されたが,爆撃で受けた損害の復興のため動員されたのは数千人だった。 主要道路の橋で破壊もしくは損傷したものは,現在までにすべて修復された。偵察機によると,最新のディーゼル機関車が南部のビン市にまで延び,ハノイ・中国間の北東幹線鉄道も完全に修復された。ラオスに延びるすべての主要道路はトラック輸送用に再修理され,非武装地帯の西端までつながり多数のバイパスも建設された。 補給活動の中心地として,ビン市がこれまで以上の重要地点として再建設された。1965年以来初めて,外国の大商船が積荷をビン港でおろしている。 タンホア北部には,北爆停止後約30ヵ所の新しい軍事貯蔵所,補給施設などが建設された。 ハノイ,ハイフオン両地区の地対空ミサイル基地の周囲には,地上の被爆遮蔽物の建設が進み,これらは主要な発電所の周囲にも建設されつつある。爆撃で破壊された発電所のうち10ヵ所が部分的発電を開始しており,電力供給は現在全能力の60%まで回復している。 北爆によりセメントと肥料の生産工場はほとんど壊滅したが,セメント生産は現在爆撃前の35%まで,肥料生産は60%まで回復した。また石炭の生産は1965年の75%程度まで回復した。(AP通信) |
DIA-201-1969-11-01-2 | 北ベトナム | 1969年11月01日 | 1960年代 | レ・タン・ギ副首相,ブルガリア政府代表と1970年の経済軍事の援助協定書に署名 |
DIA-201-1969-11-06-2 | 北ベトナム | 1969年11月06日 | 1960年代 | ニクソン演説に対するベトナム政府声明-ベトナム政府は声明を発表し3日のニクソン米大統領演説は「戦争を長引かせようとする戦争演説である」とつぎのように非難した。 戦争のベトナム化は,世界征服をめざす米国の友好的な帝国主義的政策をはっきりと示した。ニクソンが重点をおこうとしている戦場および和平交渉でのいわゆる政策の転換は,戦争を激化し,南ベトナムにしがみつき,パリ会談の正しい解決を拒否することを意味する。 ニクソン大統領が戦争の終結を望んでおらず,これをベトナム化してベトナム人同士を戦わせ,米国の利己的で好戦的な利益に奉仕させようとしていることは明らかである。米軍の“こまぎれ撤退”は戦争を無期限に継続することである。米国が地上戦闘部隊だけを引き揚げると宣言したのは,米軍の別の部分によって南ベトナムをいつまでも占領することを意味する。 |
DIA-201-1969-11-08-3 | 北ベトナム | 1969年11月08日 | 1960年代 | 日本政府,在外公館を通じて北ベトナムに和平打診-日本政府筋は欧州,アジアの在外公館を通じて,北ベトナム代表と接触,和平促進に努力していることを明らかにした。また同筋によると,この接触は主として日本側が北ベトナムの意向を打診している段階であり,紛争解決のための北側の具体的反応は示されていない,しかし北ベトナム側は接触を拒否するような態度でなく,一部では友好的ふんいきも芽ばえているといわれる。同筋によると日本側はこの接触を通じて,①紛争解決なしにアジアの安定はあり得ない,②そのためには北ベトナムが現実的な姿勢を示すことが必要だ。もしアメリカに対し注文があれば日本は責任ある“仲介役”を買ってでる意思がある,③和平後の復興は南北両ベトナムヘの援助を含め積極的に協力する,と伝えている。 |
DIA-201-1969-11-11-1 | 北ベトナム | 1969年11月11日 | 1960年代 | 米国,北ベトナムの米捕虜取扱いで国連に問題提起-米国連代表は国連総会の第3(社会,人道,文化)委員会に,北ベトナムが米軍人捕虜の取扱いで国際法に違反していると問題提起を行なった。 |
DIA-201-1969-11-12-1 | 北ベトナム | 1969年11月12日 | 1960年代 | スウェーデン政府,北ベトナムに正式に援助を発表-スウェーデン政府はこのほど,北ベトナムに対して,贈与,借款あわせて,2億2500万クローネ(約14350万米ドル)の援助を来年7月1日以降,3年間にわたって供与することを決定した。 |
DIA-201-1969-11-13-4 | 北ベトナム | 1969年11月13日 | 1960年代 | フランス通信,北ベトナムの日常生活は正常に復したと報道一フランス通信(AFP)の報道によれば,現在ハノイでは街灯が再び明るく輝き,電力制限も廃止された。劇場や映画館は完全に再開され,爆撃中閉鎖されていた多くのレストランも店を開いている。多くの住民は自分の町に戻り,多くの工場が元の所で生産を再開している。1000キロの複線鉄道が修復され,正常な輸送を開始している。旅客列車はハノイから五つの地方へ向って走っている。1週間の旅客輸送は約10万人に達する,また自動車道路は1200キロ以上が修復されている。 |
DIA-201-1969-11-14-2 | 北ベトナム | 1969年11月14日 | 1960年代 | 北ベトナム・チェコ両国,1970年の経済軍事技術援助および通商支払い協定に調印 |
DIA-201-1969-11-17-1 | 北ベトナム | 1969年11月17日 | 1960年代 | 北ベトナム・北朝鮮両国,1970年の経済軍事および技術援助の協定に調印 |
DIA-201-1969-11-24-2 | 北ベトナム | 1969年11月24日 | 1960年代 | 北ベトナム・アルバニア両国,1970年の経済援助と物資交換の協定に調印 |
DIA-201-1969-11-24-3 | 北ベトナム | 1969年11月24日 | 1960年代 | ノルウェー国会,北ベトナム承認を否決一ノルウェー国会は北ベトナムとの国交樹立を求めた決議案を,64票対61票の小差で否決した。 |
DIA-201-1969-11-24-4 | 北ベトナム | 1969年11月24日 | 1960年代 | 人民軍報,日米共同声明を論評ー人民軍報は佐藤首相とニクソン米大統領との会談後,発表された日米共同声明について,「米帝国主義と日本の結託」と題する論説をかかげ,次のように論評した。 佐藤首相の米国訪問のおもな目的は「沖縄返還について米国と交渉するためであると宣伝しているが,実際には米国との結びつきを全面的に強め,米国ともに,東南アジアと極東における新植民地政策を実行する陰謀をたくらむためである。 ベトナム問題とアジア情勢はニクソン・佐藤会談の大きな問題であった。ベトナムで重大な失敗を蒙ったため,米国は侵略戦争をいわゆる「ベトナム化」するという,ニクソンの政策に対する日本のいっそう積極的な支援を必要としている。この会談で,佐藤は南ベトナムにおける新植民地主義を実現するため全面的に協力することを約束した。 |
DIA-201-1969-12-03-2 | 北ベトナム | 1969年12月03日 | 1960年代 | 冬春季農業生産目標達成のための三つの仕事一ニヤンザン紙は社説で冬春季の農業生産の目標を達成するため,三つの緊急な仕事を行なわなければならないと強調した。同紙は全国民に政府の生産目標の達成のため,第1に可耕地をすべて利用し1ヘクタールと言えども無駄にしてはならない。第2に播種,耕作,苗の移植の間の関係を考慮して最大限の効果を上げること,第3に時間の配分と播種,耕作の時間を誤ってはならないと呼びかけた。 |
DIA-201-1969-12-04-3 | 北ベトナム | 1969年12月04日 | 1960年代 | 11月30日までに北ベトナムの秋季収穫面積は80%を完了 |
DIA-201-1969-12-06-5 | 北ベトナム | 1969年12月06日 | 1960年代 | ハノイ市人民議会,人民の日常生活改善に乗り出す一政府はこのほど食糧配給および住宅,教育など日常生活の各面について改善に乗り出したが,ハノイ市人民議会は最近10項目の決議を採択した。この決議では,①今後数力月にチーズ,大豆の増産をはかる,②野菜の生産・販売を合理化する,③米の配給の行列をなくすため国営商店を近代化する,などが打ち出されている。さらにパン工場の修理,石油配給量の増加,材木,石炭,水の配給方法の改善も決定をみ,住宅,学校,公衆衛生施設の改善が採択され,現存住宅の修繕の努力を進め,2階建て以上の住宅建設計画を徐々に導入することが明らかにされている。 |
DIA-201-1969-12-10-2 | 北ベトナム | 1969年12月10日 | 1960年代 | 内閣改造-政府は経済の発展と復興にあたって,管理技術の改善を達成するため,内閣改造を行なった。 Ngo minh Loan 食糧相 (前駐北京大使) Tran danh Tuyen 物資相 (国会議員) Nguyen huu Mai 財政経済計画長官 Do Muori 副首相兼経済相 |
DIA-201-1969-12-13-2 | 北ベトナム | 1969年12月13日 | 1960年代 | 南ベトナム軍スパイ団,北ベトナムの北部高原で降伏ーハノイ放送の伝えたところによると,北ベトナムの北部のハジヤン省山岳地帯にパラシュートで降下し,同地域でかく乱作戦を展開しようとした米軍と南ベトナム政府軍の武装スパイ部隊が,本年6月,北ベトナムの同地方政府に降伏した。 |
DIA-201-1969-12-13-3 | 北ベトナム | 1969年12月13日 | 1960年代 | "F・バターフィールド米記者,ハノイ訪問報告ーF・バターフィールド記者は米実業家イートン氏に同行し,ハノイに入り,ドン首相をはじめ,北ベトナムの指導者と会見したが,同記者がレ・ドク・ト特別顧問と外交部で特別会見を行なった際,同顧問は次のように言明した。 われわれは絶えず戦争の終結を望んできたし,そのために妥協的な態度をとってきた,たとえば,北爆を全面停止しない限りわれわれは交渉に応じないと主張していたにもかかわらず,ジョンソン氏が北爆をわずか部分的に停止したとき,われわれはパリでの会談に応じた。しかし,ニクソン大統領はいま戦争を長引かそうとしている。それは彼の""ベトナム化""政策にもみることができる。彼は米戦闘部隊を引き揚げて,代りに補給部隊,航空機,各種火器や軍需品をサィゴン政権を支援するため残そうとしている。戦闘部隊の撤退でさえ,こま切れに過ぎない。" |
DIA-201-1969-12-18-1 | 北ベトナム | 1969年12月18日 | 1960年代 | ボー・グェン・ザプ国防相,人民戦争路線で戦争を遂行する論文を発表ーザプ国防相はベトナム人民軍建軍25周年(12月22日)とベトナム労働党創設40周年(1970年2月3日)を記念して「党の軍事路線一ベトナムにおける人民戦争の無敵の旗」と題して党の軍事路線は人民戦争路線であり,それは党の政治路線から生まれ,規定されたものである。との論文を発表した。 |
DIA-201-1969-12-19-5 | 北ベトナム | 1969年12月19日 | 1960年代 | 米実業家イートン氏,北ベトナム首脳は戦争長期化を覚悟していると言明-イートン氏はハノイからの帰途東京で記者会見して次のように述べた。 北ベトナム首脳はベトナム戦争の終結を喜ぶだろう。しかしどんなに時間がかかろうとも戦い続ける準備をしており,全社会主義国の大きな援助に確信を持っている。 私が会見したフアム・バン・ドン首相ら北ベトナム首脳は,米国が軍隊を南ベトナムから引き揚げても間接的に,すなわちサイゴン政府への空海の援助を通じて戦争を継続しようとしていると信じているようだった。このため北ベトナムの指導者たちはさらに2年以上戦争が続くとして計画を立てている。 |
DIA-201-1969-12-21-3 | 北ベトナム | 1969年12月21日 | 1960年代 | スターリンを再評価-ニヤンザン紙はスターリン生誕90周年記念日にあたって,次のようにスターリンを再評価する社説を掲載した。 1919年から1943年までのコミンテルンで,スターリンは国際共産主義運動と国際労働運動,植民地,半植民地諸国の民族独立闘争およびあらゆる所の平和,民主主義,社会進歩を目ざす戦いを力強く支援した。それゆえにすべての進歩的人類は,ソ連人民と同じようにスターリンの功績を非常に高く評価している。 |
DIA-201-1969-12-21-4 | 北ベトナム | 1969年12月21日 | 1960年代 | 林彪中国国防相,北ベトナム建軍25周年に祝電 |
DIA-201-1969-12-21-5 | 北ベトナム | 1969年12月21日 | 1960年代 | ハノイで人民軍創立25周年と抗戦デー23周年記念大集会-ハノイではベトナム人民軍創立25周年(12月22日)とベトナム全国抗戦デー23周年(12月19日)を祝賀するため,祖国戦線中央委員会と国防部を中心として大集会を行なった。 |
DIA-201-1969-12-21-6 | 北ベトナム | 1969年12月21日 | 1960年代 | 労働党政治局代表,中国の各国党責任者と「文芸の夕」に参加-中国共産党中央文革小組は北京滞在中の各国マルクス・レーニン主義党責任者を招いて文革の夕を催したが,ベトナムからは労働党政治局員ホァン・バン・ホァン氏が出席した。 |
DIA-201-1969-12-24-2 | 北ベトナム | 1969年12月24日 | 1960年代 | ホァン・ミン・ザム文化相,米国民にメッセージ-ザム文化相は米国民へあてて「このばかげた,不正な戦争から脱却したいというあなたたちの希望が,来年こそは実現されることを確信する」とメッセージを送った。 |
DIA-201-1969-12-25-1 | 北ベトナム | 1969年12月25日 | 1960年代 | チン外相,日米共同声明を非難-グェン・ズイ・チン外相は共同通信記者と単独会見を行なった際11月の日米共同声明を引用して,「これは米帝国主義と,日本反動政府の間の結合の強化を示すものだ,また日本は米国にたよりながら,戦前の大東亜共栄圏の再現を夢みている」と強く批判した。 |
DIA-201-1969-12-26-1 | 北ベトナム | 1969年12月26日 | 1960年代 | 北ベトナム政府,米実業家ペロットの入国を拒否-北ベトナムにいる米捕虜にクリスマスプレゼントを渡そうとビェンチャンに着いた米実業家ペロット氏は,当地の北ベトナム大使館で,ブチェン臨時代理大使と会い,約1時間半にわたって交渉したが,同大使はペロット氏が贈り物を積んだ2機(総量9トン)の飛行機とともに,北ベトナムに入国することを拒否した。また,ペロット氏は記者会見で,飛行機を乗り入れることも,私自身が北ベトナムにはいることも拒否された,しかしまだあきらめないと述べている。 |
DIA-201-1969-12-29-2 | 北ベトナム | 1969年12月29日 | 1960年代 | 北ベトナム,セネガルと国交樹立-セネガルと北ベトナムとの両政府は,大使館レベルでの外交関係を樹立することを決定した。 |
DIA-201-1969-12-30-2 | 北ベトナム | 1969年12月30日 | 1960年代 | 日本の衆議院選挙における共産党の進出を歓迎-ニヤンザン紙は「総選挙での日本共産党の勝利」を歓迎,次のように述べた。 社会党の敗北は統一戦線の結成を拒否した結果である。 北ベトナム人民は日本共産党の大勝利を歓迎し,共通の敵と戦っている日本人民の正義の戦いを支持している。 |
DIA-201-1969-12-30-3 | 北ベトナム | 1969年12月30日 | 1960年代 | ハノイにラオス愛国戦線の情報センター設置。 |