ID 国名 日付 年代 内容
DIA-304-1969-01-01-1パキスタン1969年01月01日1960年代アユブ大統領,月初放送-アユブ大統領の月初放送要旨は以下の通り。 ① 西パでは過去数週間,集会やデモが行なわれてきた。しかしこれらの動きは後退しつつあり,政情は平静になりつつある。政治的意見の相違は民主的方法で表明されねばならぬ。すべての政党,個人は異なった政治的見解をもつ権利がある。しかし異なった意見をもつ人は政府に対し具体的提案をすべきである。 ② 現政府は憲法により選出されたものである。憲法はすでに1962,1965年の2度に亘る総選挙により支持をうけている。憲法の下で国民は政府を変える権利をもつ。憲法にもとづかない政府の変更は非民主主義的であり混乱を招くだけだ。
DIA-304-1969-01-05-1パキスタン1969年01月05日1960年代NAP(バシャーニ派),選挙ボイコットを決定-民族人民党NAP(バシャーニ派)東パ執行委は1月2日,選挙ボイコットを決定した。同党は今後大衆運動を通じ,反帝,反封建,反資本主義政府の樹立のために闘うことを明らかにした。
DIA-304-1969-01-06-1パキスタン1969年01月06日1960年代PDM,選挙ボイコットを決定-パキスタン民主運動PDM中央執行委員会は3日から4日間の討議の結果,いかなる段階にせよ選挙には参加せずボイコットすることを決定した。この決定は,アスガル・カーン氏のダッカ到着をまって行なわれた。
DIA-304-1969-01-08-1パキスタン1969年01月08日1960年代野党8政党,民主行動委員会設立-PDM5政党および人民連盟AL(6項目派),NAP(モスクワ派),Jamiatul-Ulema-I-Islamの8政党は完全な民主主義,パ人民の主権回復などを要求し,統一戦線である民主行動委員会Democratic Action Committee(DAC)を設立,同時に以下の8項目の要求を共同綱領とすることに同意するとの声明を発表した。 ①連邦議会制度,②普通成人による直接選挙,③非常事態宣言の即時廃止,④市民の自由回復と弾圧法廃止,とくに裁判なしの拘留を決めた法律や大学法の廃止,⑤すべての政治犯,逮捕学生,労働者,ジャーナリストの釈放,ムジブル・ラーマン,ワリ・カーン,アリ・ブットの釈放,⑥刑事訴訟法第144条にもとづくすべての条令廃止,⑦労働者のスト権の回復,⑧出版に対する全統制の撤廃。声明に署名している人の名前は,S.N.イスラム(東パAL6項目派委員長代理一綱領の発表者),アミール・フセイン・シャー(NAPモスクワ派委員長代理),C.M.アリ(ニザム党委員長),ムフティ・マームッド(ウラマー党書記長),ダウルタナ(回教連盟評議会派MLC委員長),N.N.カーン(AL委員長・PDM委員長),ヌールル・アミン(民族民主戦線NDF委員長),M.T.モハメッド(ジャマート党書記長代理)の8名で,これらの人々が,DACの中央委員会を構成する。
DIA-304-1969-01-12-1パキスタン1969年01月12日1960年代NAP(パシャー二派),DAC加盟を拒否-NAP(バシャーニ派)のバシャーニ委員長はボグラからダッカに到着,記者会見でNAPがDACに加盟する可能性はないとのべた。記者会見の内容要旨は以下の通り。 ①DACが選挙ボイコットを決めたことは,歓迎すべきことである。 ②選挙のための統一については,過去の苦い経験からして反対である。 ③NAPは帝国主義,植民地主義,資本主義,封建制打破のために闘うものであり,また完全な州自治,直接普通成人選挙,西パ統一州の廃止,カシミールの民族自決,軍事同盟からの脱退という立場に立っている。もしDACがこれらの立場を認めるなら,加盟を考えることができよう。 ④NAPはしかし,実際の行動については他の野党と協力して行くつもりである。
DIA-304-1969-01-17-1パキスタン1969年01月17日1960年代パ全域で民主行動委員会DAC主催のデモ-民主行動委DACは17日を統一行動日“要求の日”として,全国で反政府集会デモを行なった。ダッカではBar Libraryで集会が開かれ,ヌールル・アミン氏ほかDACの主要メンバーが集まり,①現アユブ政権不信任,②人民の権利が回復されアユブ政府がやめるまで人民の闘争をつづける,③普通成人選挙,④全政治犯の釈放,⑤2月5日に全国的規模での完全ハルタル(ゼネスト),などを決めた。集会後行なわれたデモは警察と各地で衝突,デモ隊は放水を浴びてデモを行なった。このなかでPDMの書記長モハメッド・アリ,NAPのモヒウッディン,ジャマート党員など指導者多数が逮捕された。 ダッカ大学では構内で集会をしていた学生に対し,警棒,催涙ガス,ライフル,小銃などで武装した警察が学校当局の許可なしに構内に入り,催涙ガスを使い警棒を振るって学生と衝突,学生数人が逮捕されている。集会では刑訴法144条の廃止,全政治犯の釈放,学生の11項目要求の支持,2月1日に全州規模での学生ストなどを決め,また18日にも警察の行為に反対する全学ストをするよう決定した。カラチでもDACによる集会,デモが行なわれ,このほか学生団体によるDAC支援デモも行なわれた。ラホール,ラワールピンジ,ナラヤンガンジ,チッタゴン等々でも集会・デモが行なわれている。
DIA-304-1969-01-18-1パキスタン1969年01月18日1960年代警察,ダッカ大学構内に乱入-17日に引き続き,警察および東パ警備軍EPR(East Pakistan Rifles)が大学当局の許可なしに大学構内に乱入した。これはダッカ大学の学生が17日の警察の暴挙に抗議し,学内で抗議集会を開き街頭デモをしようとしたため。警察は学内で34人の学生を逮捕,催涙ガス・警棒などの使用で学生多数(女子学生を含む)が負傷した。学生側は門の入口にはじめてバリケードを構築したが,排除された。2度に亘る警察・EPRの構内乱入に対し,ダッカ大学のM・O・ガーニ副総長はパキスタン・オブザーバーの記者に対し,「警察・EPRの大学構内乱入はわれわれに対する不信の表われである。わたしは警察が大学に入るのに許可を与えていない。わたしは教師を学生の所に送ってその説得に努めている」とのべている。またダッカ大学教師連合DUTAも,警察・EPRの行動を非難,学生と共に抗議集会を開いた。集会後数百人の学生たちは街に出,抗議デモを行なっている。
DIA-304-1969-01-21-1パキスタン1969年01月21日1960年代ダッカで完全ハルタル,死者の葬式に10万人のデモ-ダッカ市は学生の呼びかけに応じ完全なハルタルが行なわれ,交通機関,市場,商店,銀行,官庁などはすべて機能せず,市はまったくその機能を失ってしまっている。20日の発砲で死んだ学生の葬式に参加するため,市の郊外やテジガオン工場地帯などから続々と人がダッカ市内に入り,10万人もの大規模な集会・デモとなった。このデモを制止しようとした警察・EPRは2度に亘って発砲,あるいは警棒をふるったため,市全体で29人が負傷(内10人はEPR,婦人10人,人力車夫,学生など9人),69人が逮捕されている。
DIA-304-1969-01-24-1パキスタン1969年01月24日1960年代東パ全域でハルタル,デモ隊と警官隊が衝突し発砲で10人死亡-学生行動委員会の呼びかけにより,東パ全域でのハルタルが行なわれ,ダッカ,チッタゴン,ナラヤンガンジ,クールナ,マイメンシンなどをはじめほとんどの街で,商店は閉ざされ,交通も止まり,ほぼ完全なハルタルが実施された。ハルタルのあいだ学生,労働者,一般市民などが政府への抗議集会を開き,あるいはデモを行ない,一部のデモ隊は政府の建物,自動車,政府系新聞社などに焼打ちをかけ,あるいは石を投げた。そのためデモ隊と警官隊が衝突,発表されただけでダッカで5人,チッタゴンで1人,マイメンシンで1人,クールナで3人,計10人が発砲により死亡,20人が重傷と伝えられている。
DIA-304-1969-01-24-2パキスタン1969年01月24日1960年代ダッカに午後8時から24時間外出禁止令,軍隊出動-ダッカでは商店はほとんど閉められ,官庁・政府公社や,郵便局などでは労働者がピケットをはり,出勤する人々に,ハルタルヘの参加を呼びかけたため,ほとんど閉鎖された。州政府本部にもピケット隊が行きハルタルヘの参加を呼びかけたが,ここでは警察・EPRがこのピケットの人々と衝突,警察は本部の正門を閉めて,中にいるデモ隊に多量の催涙ガスを投射,発砲した。このため3人が射殺されている。 またデモ隊の一部はPress Trustの建物に行きモーニング・ニューズ,ドイニク・パキスタンなど政府系新聞社に火をつけた。ここで1人射殺されている。さらにアユブ支持の国会議員宅では家具調度品をすべて路上に持ち出して火をつけ,国会議員の家族を近くの家に避難させた後,空家になったところで四方から火をつけ,ジープ,自動車なども焼いた。午後から学生たちは,射殺された学生2人の遺体をかついで,街をデモ,集会を開いた。このほか村落評議会の議長宅,EPR事務所,ホテル,地方長官事務所,駅,DITなどの政府建物などにも火がつけられている。このため政府は午後8時から24時間外出禁止令を発布すると共に,軍の出動を求めた。この日一日中,ダッカは完全に他から連絡がきれ,市の機能は完全に麻痺状態になった。ダッカと地方を結ぶ鉄道は止まり,PIAも州内部はストップ,両パ間でも1機がラホールにむけて飛び,1機がカラチから来ただけであった。通信も途絶えた。
DIA-304-1969-01-25-1パキスタン1969年01月25日1960年代外出禁止令,ダッカ,カラチ,クールナ,ナラヤンガンジに出さる-24日ダッカに出された24時間外出禁止令は,25日になってその他地域にも拡大され,ダッカだけでなく,カラチ,クールナ,ナラヤンガンジにも出された。
DIA-304-1969-01-27-1パキスタン1969年01月27日1960年代カラチ・ラホールに軍隊出動-カラチ,ラホールに軍隊が出動,反政府デモの鎮圧に当っている。カラチではリアカタバード,ゴリマール,ナジマバード地帯を中心に軍のパトロールがつづけられ,外出禁止令は27日午後1時から48時間出されている。カラチのリアカタバードでは与党の指導者アリ・クレシ氏宅前で与野党の支持者が乱闘をくり返し,野党は同氏宅に火をつけた。このため与党支持者が発砲,2人が死亡した。その他カラチだけで6人が対立グループの発砲あるいは警官の発砲で死亡しており,このため軍が出動した。 ラホールではDAC主催のハルタルが行なわれ,抗議デモが行なわれた。デモ隊は政府系新聞コヒスタン社を襲って火をつけた。このため軍が出動,午後5時30分以降は24時間外出禁止令が出されている。デモ隊は警官隊と衝突,少なくとも4人が射殺され,20人が負傷,うち5人は重傷である
DIA-304-1969-01-27-2パキスタン1969年01月27日1960年代ペシャワールに軍隊出動-ペシャワールでも24日から再発した学生デモ鎮圧のため軍隊が出動,街をパトロールしている。
DIA-304-1969-01-27-3パキスタン1969年01月27日1960年代カラチで7人死亡,1000人逮捕-カラチでは反政府デモ隊とパキスタン回教連盟PML指導者アリ・クレシの支持者が衝突,7人が死亡している。同氏の支持者であるイスラム・シャームシはデモ隊の人々にリンチをうけ,火の中に投げこまれたという。 カラチだけで1000人が逮捕された。またリアカタバード地区の市場も火をつけられ,破壊されている。PML指導者カウサル氏宅も火をつけられ,焼失した。
DIA-304-1969-01-27-4パキスタン1969年01月27日1960年代ラホールで新聞社焼打ち-ラホールでは政府系新聞社コヒスタン社が,反政府デモにより火をつけられ,焼失した。
DIA-304-1969-01-29-1パキスタン1969年01月29日1960年代グジャランワラに軍隊出動-ラホールから42マイルのグジャランワラでの反政府デモは29日朝から警官隊と激しく衝突,ついに軍隊が出動した。警官の発砲で3人が殺され,10人が重傷を負っている。D.I.カーン地区でも激しい反政府デモが行なわれ,学生6人が負傷した。デモの中には多数の生徒がまざっていたという。
DIA-304-1969-02-01-1パキスタン1969年02月01日1960年代アユブ大統領,野党に話合いの提案-アユブ大統領は月初放送を通じ,「責任ある野党代表者を招いて話し合いたい。また現在の憲法を国民の意見をとり入れて改正するいかなる提案も歓迎する」とのべた。
DIA-304-1969-02-03-1パキスタン1969年02月03日1960年代ダッカの学生集会,アユブ大統領の話合い提案を拒否-ダッカの学生集会はアユブ大統領提案の与野党の話合い提案を拒否,「ムジブル・ラーマン,ブット,ワリ・カーン氏らが逮捕され,集会禁止令が出され,軍が市内をパトロールし,大量逮捕がつづいている現在,どんな話合いができるというのか」と反論している。
DIA-304-1969-02-04-1パキスタン1969年02月04日1960年代アユブ大統領,与野党円卓会議を17日に提案-アユブ大統領はDAC代表N.N.カーン氏に対し,2月17日に与野党円卓会議を開くよう提案した。
DIA-304-1969-02-05-1パキスタン1969年02月05日1960年代カーナフリ製紙工場で労働者と警察衝突カーナフリ製紙工場(ダウッド財閥)で労働者が経営者を事務所に閉じ込め,大衆団交を行なった。このため警官が導入され,両者が衝突,警官は催涙ガスを使って追い払った。この事件の起りは経営者が組合代表と団交中,突然労働者が組合代表の指令を無視して事務所に入り大衆団交を要求したもの。負傷者は少なく,工場の被害も少ない。
DIA-304-1969-02-05-2パキスタン1969年02月05日1960年代ラジャルガオン(コミラ)で徴税人と学生・農民が衝突,警官の発砲で2人死亡-政府発表によるとコミラのラジャルガオンで徴税人が税金を集めに行ったところ学生・農民がその徴税人のもっている書類・税金台帳を奪い,徴税人を不法監禁した。このため6日に入って武装した警官が監禁された所にかけつけたため怒った学生・農民が警官隊を包囲,それに攻撃をかけ,警官が自衛のため発砲,学生2人が死亡した。
DIA-304-1969-02-06-1パキスタン1969年02月06日1960年代人民連盟AL(6項目派),ラーマン委員長を釈放しない限り与野党会議に欠席-人民連盟AL(6項目派)はN.N.カーン・パ民主運動PDM委員長に対し,ムジブル・ラーマン同党委員長(アガルタラ事件で拘禁中)の釈放なしに与野党会議に出席することはできないとの態度を明らかにした。
DIA-304-1969-02-08-1パキスタン1969年02月08日1960年代パ回教連盟評議員会,アユブ大統領を総裁に再選-パキスタン回教連盟PML評議員会がダッカで開かれ,アユブ大統領が満場一致で次期総裁に再選された。しかし幹事長については大きな意見の相違が表面化し,次期幹事長は総裁が任命することになった。総裁選挙が終ってすぐ,ムルタンからの評議員が任命でなく選挙せよと主張,また東パ反主流派の人々が幹事長は東パから選ぶべきだと主張,主流派は閣僚の中から選ぶべきだとして反対,結局,党の規定によりアユブ大統領が任命することに決った。大統領はまた,副総裁(複数),書記なども任命する。
DIA-304-1969-02-10-1パキスタン1969年02月10日1960年代PML反主流派,憲法改正を主張-パ回教連盟PML反主流派(東パ)38人は憲法改正を主張,①国民の主権を認め,立法府の法律が最高権限をもつ,②政治,行政,経済,国防その他において人口に応じその代表を出す,③普通成人選挙の3条件を認めるよう要求。また大学の自治要求を支持する旨を明らかにした。代表者はワヒドゥ・ザーマン前商相,A.マーチン国会副議長など。
DIA-304-1969-02-10-2パキスタン1969年02月10日1960年代ブット人民党委員長,釈放-ブット人民党委員長は釈放され,自宅に軟禁された。
DIA-304-1969-02-13-1パキスタン1969年02月13日1960年代ソ連指導者,アユブ大統領にメッセージ-ソ連のブレジネフ書記長,コスイギン首相,ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長らはアユブ大統領にメッセージを送った。これは駐パ・ソ連大使M.V.デグチャリ氏がソ連に帰り,2週間滞在して帰任した後,フセイン外相との会談の席上手交されたもの。デグチャリ大使帰国の理由は,パキスタンでの政情に重大な関心をもっているソ連首脳部と打合せのためといわれている。 インドのステーツマン紙のモスクワ特派員ニハルシンは,1月31日記事の中で,ソ連首脳がアユブ大統領の政治的見通しに関心をもっているとのべ,さらに「ソ連の主要な関心はパキスタン・インドでの政治的安定である。ソ連が最も恐れでいるのは,アユブ大統領以外のだれが大統領になっても,パキスタンの安定はむずかしいのではないかということだ」とのべている。
DIA-304-1969-02-14-1パキスタン1969年02月14日1960年代全国ハルタル-民主行動委DACの呼びかけにより,14日全国一斉ハルタル(ゼネスト)が行なわれた。このストはDACだけでなく,学生行動委,パ人民党,民族人民党NAPなどの支持をうけている。ゼネストは東パでは平穏に行なわれたが,西パでは各地で警官とデモ隊が衝突,ラホール,カラチ,ハイデラバードでは軍が出動し治安確保に当っている。
DIA-304-1969-02-15-1パキスタン1969年02月15日1960年代ワリ・カーン釈放さる-NAP(モスクワ派)委員長ワリ・カーンはブット氏と共にパ国防法で逮捕されていたが,14日ペシャワールで釈放された。ブット氏も自宅での軟禁を解かれ自由の身になった。
DIA-304-1969-02-15-2パキスタン1969年02月15日1960年代アガルタラ事件の被告2人が脱走1人射殺され,1人重傷-政府の発表によれば,アガルタラ事件の被告のうち2人が獄舎から75ヤードはなれた屋外便所に行く途中,見張人のピストルを奪って脱走しようと試み,2人とも警官に射たれてたおれ,うち1人は病院に入ってから死亡,1人は重傷を負った。死亡したのザフルル・ハク軍曹で,重傷を負ったファズルール・ハク空軍軍曹は陸軍病院に入院中である。
DIA-304-1969-02-16-1パキスタン1969年02月16日1960年代DAC,与野党の円卓会議を受諾-民主行動委員会DACのスポークスマン,マハムッド・アリPDM書記長はラホールで記者会見,DACはアユブ大統領が呼びかけた与野党の円卓会議を受諾,会議の日は17日ではなく19日にするよう提案したと発表した。この会議にはアガルタラ事件の被告になっているムジブル・ラーマン人民連盟AL委員長もALを代表して出席,アユブ大統領もこれに同意している。
DIA-304-1969-02-16-2パキスタン1969年02月16日1960年代蔵相,下級公務員に特別救済金-蔵相は中央政府の下級公務員(3・4級職)に対し,1969年3月より特別救済金を支給すると発表した。支給額は月給100ルピーまでは基本給の20%,101~200ルピーまでは同15%(ただし20ルピーを最低とする),201~500ルピーまでは同10%(ただし30ルピーを最低とする)。なお地方公務員については,2月17日同額の資金が支給される旨発表された。政府は民間企業についても同様賃金の引上げ,あるいは賃金構成の合理化などを行なうよう要請している。
DIA-304-1969-02-17-1パキスタン1969年02月17日1960年代非常事態宣言,廃止-政府は1965年9月6日発布した非常事態宣言を,17日午前0時をもって廃止した。この結果憲法に規定された基本的人権に関する条項は完全に効力をもち,基本的人権が侵害されたときの裁判は高等裁判所が行なう。したがって大統領あるいは議会が,憲法第5条~9条,13条に規定した基本的人権保護に反するような立法・行政をすることはできない。
DIA-304-1969-02-18-1パキスタン1969年02月18日1960年代東パ・ラージシャーイで警官の発砲により2人死亡,外出禁止-ラージシャーイで学生と警官が衝突,止めに入った教官と学生1人が警官の発砲で死亡した。これに抗議した学生が市の各所で警官隊と衝突,軍が出動した。夜間外出禁止令。このニュースがダッカに伝わると,外出禁止令にもかかわらず学生が集会を開いた。また街のあちこちから突然反政府スローガンや叫び声が上り,街の中心はスローガンと叫び声につつまれるという異様な雰囲気となった。これらは家の中,屋根の上から叫ばれるためパトロール中の警官も時々威かくのため発砲するものの何の効果もなく,街の各所ではゲリラ活動も行なわれた。
DIA-304-1969-02-19-1パキスタン1969年02月19日1960年代与野党円卓会議延期-19日に予定されていた与野党円卓会議はDAC側が代表全員の出席をやめ,N.N.カーンPDM委員長1人を代表としてアユブ大統領と会談することに決め,与党側がこれに同意しなかったため中止された。いつ開催されるかまだ決まっていない。 DACが突然その代表の欠席を決めたのは,政府がムジブル・ラーマンの釈放,アガルタラ事件裁判の撤回を認めなかったことおよび最近の政治情況を検討した結果であるという。
DIA-304-1969-02-20-1パキスタン1969年02月20日1960年代パ商工会議所連盟総裁,政府に譲歩による事態の収拾を呼びかけ-モーシン・アリ,パ商工会議所連盟総裁はダッカで声明を発表,要旨以下のようにのベている。 思慮ある人間ならば最近わが国で起っていることに目をつぶっていることはできない。最近のこの政情不安は社会を分断し,大きな被害を与えている。このため生産と輸出は減少し,外貨不足を来している。こうした現状の下では,普通直接選挙,議員内閣制,州自治などの大衆の要求を容認し,事態の正常化にむかうことが重要である。したがってわたしは大統領に対し,おくれることなく社会不安をなくし,ムジブル・ラーマン,バシャーニ,ブット,アスガル・カーン,アザム・カーン,ムルシェッド氏など野党指導者の意見をとり入れて事態の正常化にむかうよう呼びかける。わたしはパキスタンの全財界の感情を代表している。
DIA-304-1969-02-21-1パキスタン1969年02月21日1960年代アユブ大統領,不出馬声明-アユブ大統領は21日夕刻特別放送を行ない,1970年初に予定されている大統領選挙には出馬しないとの声明を発表した。放送要旨は以下の通り。 ① 私の大統領選不出馬の決意は最終のものであり,くつがえされない。パキスタン人は,自らの意思にそって,自らの新大統領を選ぶことができるように,民主主義の最善の伝統に基づいて,自由かつ公正な選挙が行なえるような取決めをつくるべきである。 ② 前回の1965年の選挙のあとで,私は親しい仲間に対して,現在の大統領任期以上に政権の座にすがりつきたくないこと,そして次の選挙以後は,私以外の人物が大統領の執務につかねばならない,と話した。 ③ 私は,現行の選挙制度について国内に不満が存在することをよく知っている。国民は,成人選挙権に基づく直接選挙を望んでいる。私はまた,知識階級がなにか国政から疎外された気になり,もっと発言したいと要求していることをよく知っている。東パキスタンでは,人々が現行制度では,東パキスタンの問題を解決するために,完全な力を持っていないと感じていることも知っている。 ④ 私は国会に新憲法を提案するつもりだ。新憲法には選挙制度の改革が含まれよう。 ⑤ 現在国内に起っている暴力は放置出来ない段階に至っている。⑥ 大統領選挙制度に関する新しい取決めが野党との間に成立しなければ,私に残された唯一の手段をとらねばならない。それは困難を除去するために,私の憲法提案を国民に直接提起することであろう。
DIA-304-1969-02-22-1パキスタン1969年02月22日1960年代アガルタラ事件裁判撤回,全員釈放さる-政府はアガルタラ事件裁判の撤回を決め,逮捕されていた被告全員の釈放を命じた。事件の首謀者とされていたムジブル・ラーマンAL(6項目派)委員長も釈放され,24日には与野党会談のためラワールピンジに出発する。
DIA-304-1969-02-22-2パキスタン1969年02月22日1960年代ムジブル・ラーマン,大衆集会で演説-22日,アガルタラ事件裁判の撤回で釈放されたムジブル・ラーマン人民連盟AL委員長はじめ34人は,学生行動委員会が主催した大衆集会に出席した。この集会には50万人以上の人々がつめかけたという。席上ラーマン委員長は要旨以下のように演説した。 ① わたしは26日に予定されている与野党円卓会議に参加するつもりだ。この会議でわたしはパ国民,とくに東パの人々の要求を強く主張するだろう。 ② 東パは種々の面で差別を受けている。われわれは東パがあらゆる面で人口に比例した配分をうけるよう要求する。東西同数は認められない。中央政府支出の60%は西パで使用され,国防支出においては80%が西パに支出されている。首都も西パだ。東パは中央政府に委ねられている行政権のいくつかを取り戻さねばならぬ。西パ人の東パ搾取を止めさせねばならない。 ③ 1965年9月の印・パ戦争以来,わたしはパキスタンのような地域的特色のある国での問題解決の方法はあらゆる面で地域の自治を認め,この地域が自給体制をとる以外にないと考えるようになった。
DIA-304-1969-02-26-1パキスタン1969年02月26日1960年代与野党円卓会議開かる-与野党円卓会議がラワールピンジで開催された。出席者はアユブ大統領はじめ与党側15人,DAC16人,無所属2人(アスガル・カーン,ムルシェッド)の33人で,人民党ブット委員長,民族人民党バシャーニ委員長,アザム・カーン前東パ知事は出席していない。会議は40分という短いもので,具体的話合いはなされていない。会議終了後発表された共同声明では,正常化の必要性が強調され,全国民に正常化のための努力に協力するよう訴えている。また与野党の実質的話合いを,3月10日に開くことを決めている。
DIA-304-1969-03-03-1パキスタン1969年03月03日1960年代野党穏健派指導者,国民に平静を呼びかけ--DAC指導者は国民に対し,いかなる犠牲を払っても国の混乱は避けねばならないとのべ,平静を呼びかけた。これは学生行動委が4日に全国ハルタルを計画していることに対して訴えられたものである。
DIA-304-1969-03-05-1パキスタン1969年03月05日1960年代カラチ港湾労働者無期限スト-カラチ・ポート・トラスト(KPT)の労働者約1万人は,賃上げなど諸要求実現のため無期限ストに入った。このためカラチ港の荷揚げ,船積みなどは完全にストップしている。水先案内人もストのため,カラチ港に出入する船も影響をうけた。KPTのストは港湾の民間企業労働者2万人にも影響を与えるとみられている。要求の中には賃金の10~25%引上げ,ボーナス引上げ,児童手当支給,時間外手当倍増などが含まれている。
DIA-304-1969-03-07-1パキスタン1969年03月07日1960年代カラチの工場,操業停止状態つづく-カラチのシンド工業貿易団地(SITE)地域は労働者が職場放棄をして工業団地内をデモし,また工場で働こうとする労働者をピケを張って排除し,操業を始めようとした工場には投石するなどして操業をストップさせている。全パ繊維工場主連合(APTMOA)スポークスマンの発表によれば,同地域の内大規模な450工場は少数の労働者しか集まっていない。投石,放火,ストなどにより受けた損害は数千万ルピーに達するという。
DIA-304-1969-03-07-2パキスタン1969年03月07日1960年代学生行動委指導者,バシャーニNAP委員長批判-一学生行動委指導者トファイル・アーメッド(ダッカ大学学生連合副委員長)はバシャーニNAP委員長に対し,もし学生の11項目要求を本当に支持しているのなら,円卓会議に出席してこれら要求実現のために闘うべきだとのべ,同会議不参加を決めているバシャーニ氏を暗に批判している。
DIA-304-1969-03-08-1パキスタン1969年03月08日1960年代バシャーニ,与野党の円卓会議は帝国主義者の陰謀と語る-バシャーニNAP委員長はラホールの大衆集会で演説,与野党の円卓会議は帝国主義者が資本家の利益を守り,われわれ労働者の搾取をつづけるための陰謀であるとのべた。
DIA-304-1969-03-08-2パキスタン1969年03月08日1960年代カラチ郵便労働者,無期限スト-カラチの郵便労働者は賃上げ,物価手当引上げなどを要求して無期限ストに入った。すでに郵便配達夫や郵便区分け人などの下級労働者はストに入っている。郵便労働者のストはカラチに限らず,ラホール,ペシャワールでもストをしている。
DIA-304-1969-03-10-1パキスタン1969年03月10日1960年代与野党円卓会議開く-2月26日の与野党会談での決定に従い,与野党の円卓会議がラワールピンジの迎賓館で開かれた。初めN.N.カーンDAC代表がウルドゥ語で二つの点につき要求した。すなわち,①パは州自治を保証した連邦制とする,②直接普通成人選挙の2点である。同氏に次いでALのムジブル・ラーマンは英語で「同党の6項目要求,学生の11項目要求を支持し,議会代表は人口比例とすることを要求する」とのべた。次いで民族人民党(モスクワ派)のワリ・カーン委員長が立ち,州自治の完全な実施と西パ統一州の廃止を要求した。これらのことはDACが統一要求を出すことができず,N.N.カーン氏の2要求だけが統一要求で,東パ出身者の要求および西パ統一州反対の要求は,それらを強く主張するラーマンAL委員長とワリ・カーンNAP(モスクワ派)委員長に発表させるという形で妥協をはかったものとみられている。
DIA-304-1969-03-10-2パキスタン1969年03月10日1960年代NAP,PPP共同闘争を決定-NAPバシャーニ委員長,パキスタン人民党PPPブット委員長はラホールで会談,この2党が以下の3点について共同闘争を行なうことに決定した。 ① 東西パ人民の要求を基礎にした民主主義の確立。 ② パキスタンのイデオロギーに合致する社会主義の確立。 ③ 外国の干渉をなくし,あらゆる植民地主義に反対し,SEATO,CENTOおよび軍事同盟から脱退。
DIA-304-1969-03-10-3パキスタン1969年03月10日1960年代ラホールでUSISの図書館焼打ちさる-ラホールで学生デモがUSISの図書館に放火,図書館前の自動車にも火をつけた。図書館の方は内部の館員の手で消火されたが,消防署と警察の双方とも消火に来なかったため問題とされている。
DIA-304-1969-03-10-4パキスタン1969年03月10日1960年代東パ,ジャマルプールで17人死亡-政府発表によれば東パ,ジャマルプール地区で数日前から大規模な放火,殺人,生きながらの焼殺が行なわれているという。これまでに殺されたものは17人に達する。放火され,殺された人々は犯罪人あるいは家畜盗人たちだといわれているが,中には一般の農民も生きながら火の中に投げ込まれているという。すでに96の家が焼かれ,食糧輸送船もおそわれ,食糧が奪われた。またある場所では学生の暴徒が村落評議会の議長宅におしかけて辞任を迫り,ききいれないと火をつけるなどしたため,議長側が発砲,学生(高校生)1人が殺され,2人が重傷を負った。これに怒った学生・農民は議長宅におしかけ,放火した。こうした事件は農民の間に恐怖をまき起こし,市場は開かれず,食糧の価格上昇がつづいている。
DIA-304-1969-03-10-5パキスタン1969年03月10日1960年代グレチコ国防相,訪パ-グレチコ国防相はパ国防相の招請により7日間の予定でパキスタンを訪問するため,ラワールピンジに到着した。空港にはA.R.カーン国防相,ヤヒア・カーン陸軍最高司令官,ユーソフ外務次官,空・海軍司令官代理,駐パ・ソ連大使が出迎えた。夜行なわれたパ国防相主催の夕食会にはグレチコ国防相一行のほか,パ外相,ヤヒア・カーン,駐パ・ソ連大使M・V・デグチャリ,その他官僚・軍関係者が出席した(~15日)。
DIA-304-1969-03-11-1パキスタン1969年03月11日1960年代"ダッカのトンギー工場地帯で“ゲラオ”始まる-ダッカのトンギー工場地帯で,工場労働者が要求をつきつけて""ゲラオ""(集団つるし上げ)を行なっている。これはゲラオが始まった最初である。"
DIA-304-1969-03-11-2パキスタン1969年03月11日1960年代ラージシャーイで家屋478戸焼失-政府発表によればラージシャーイで暴徒約9000人がバグマラ警察区の村を襲撃,村落評議会議長宅,金細工店,州議員宅などに放火,サナプーラ,マドマンダ警察区でも暴徒が議長宅や州議員宅などに放火,このためラージシャーイ全域で478戸が焼失した。
DIA-304-1969-03-11-3パキスタン1969年03月11日1960年代電信・電話局保線工夫,無期限スト-カラチ電信・電話局の保線工夫3500人は諸要求を掲げ無期限ストに入った。組合の発表によると,西パ全域の電信・電話局員5万5千人は3月13日から無期限ストに入るという。
DIA-304-1969-03-13-1パキスタン1969年03月13日1960年代与野党円卓会議終る-10日から始まった与野党円卓会議が終了した。最終日のきょう,与党側は「これまでの野党の要求を検討した結果,①国民の代表は直接普通成人選挙で選出する,②議会制度を回復し,連邦制とする,ただし東西同数の代表者数とする,の2点で合意を見た。その他の問題(西パ統一州問題,州自治の問題など)についてはひきつづき,時間をかけて検討したい」と発表した。最終日の会談では与党側のこの発表に対し,各野党代表が演説したが,西パ出身者であるN・N・カーン,C・M.アリ・ニザム党首,マウドゥディ・ジャマート党首などは,この与党発表に全面的賛成を表明,東パ出身者および西パ少数民族出身者であるムルシェッド前東パ高裁長官,ムジブル・ラーマンAL委員長,ワリ・カーンNAP委員長などはこの決定に対する不満の意を表明した。ムジブル・ラーマンは「この二つの決定だけでは東パの人々は満足しないだろう」とのべている。
DIA-304-1969-03-13-2パキスタン1969年03月13日1960年代AL,DACから脱退-ムジブル・ラーマンはラワールピンジで記者会見,DACが州自治および西パ統一州廃止の要求に失敗した以上,ALがDACに加盟している理由はない,として脱退することを明らかにした。
DIA-304-1969-03-13-3パキスタン1969年03月13日1960年代DAC解散-8政党より1月初めに結成された民主行動委(DAC)はその任務が終了したとして解散を決定した。解散を決めたDAC会議には,AL(6項目派),NAP(モスクワ派)代表は欠席している。なおDAC加盟の各政党は,解散後独自に選挙戦の準備を始めることを決めている。
DIA-304-1969-03-13-4パキスタン1969年03月13日1960年代アスガル・カーン,新政党を結成-アスガル・カーン前空軍最高司令官はラワールピンジで記者会見「正義党」(Justice Party)を結成することに決定したと発表した。党の綱領および組織については,近く国民会議を開き考えて行きたいとのべている。また新党は次期選挙には立候補者を立てる予定だという。同党の目的についてアスガル・カーンは次のようにのべた。「新党の目的は,第1にパ国民が統一して価値ある回教国を建設し,国民が平和と協調のもとに生活できるようにすること,第2に貧しい人々が人間らしい生活を送ることができ,彼らの要求が満たされる,そういう社会をつくることである」とのべている。
DIA-304-1969-03-13-5パキスタン1969年03月13日1960年代ダッカ郊外で45人殺さる-ダッカ北方でこの数日間に「犯罪者」45人が殺されたという。事件が起ったのはマニクガンジ,シンガイル,ダームライ,ジョイデブプールなどでこれらの地域では村人たちが「犯罪者」の家におしかけ,つかまえた後で殺し,死体をバラバラにして河に流したり,あるいは「犯罪者」の家に火をつけてその中に投げ込んだりしているという。このため225軒の家が放火で焼失した。シンガイルでは高校の校長の家が放火された。「犯罪者」とはアユブ政府の協力者をさす。
DIA-304-1969-03-15-1パキスタン1969年03月15日1960年代西パ知事,更迭-大統領は現ムーサ西パ知事を更迭,新知事にユーサフ・ハルーン(Dawn紙社主)を任命。
DIA-304-1969-03-19-1パキスタン1969年03月19日1960年代東パ,パルバティプールに軍出動-政府はパルバティプールに軍を出動させ,外出禁止令もさらに24時間延長した。同地区での暴動で200人以上の人が負傷し,放火で数千の家が焼失したという。
DIA-304-1969-03-20-1パキスタン1969年03月20日1960年代新党,カイデ・アザム回教連盟設立-K.アブドル・カユム・カーン北西辺境区NWFPの前首相は記者会見で,あらたにカイデ・アザム回教連盟(Quaid-e-Azam Muslim League)を設立したと発表。
DIA-304-1969-03-20-2パキスタン1969年03月20日1960年代政府,憲法改正法案を発表。
DIA-304-1969-03-21-1パキスタン1969年03月21日1960年代東パ知事,更迭-大統領は現モネム・カーン知事にかえ,M.N.フーダ博士(東パ蔵相)を新知事に任命した。
DIA-304-1969-03-22-1パキスタン1969年03月22日1960年代A.R.カーン国防相,共産主義の脅威を強調-A.R.カーン国防相はラワールピンジで記者会見,最近のパの政情についての質問に答え,要旨以下のようにのべた。情況は重大である。われわれは第3の勢力に直面している。彼らは公然と内戦をあおり,人を殺し,家に放火し,財産に傷をつけている。この政情不安の原因は“持てるものと持たざるもの”“共産主義者と非共産主義者”“右翼と左翼および外部から労働組合組織に入り込んだ挑発者”との対立にある。一部にはインドから挑発者が,パ領に侵入しているという情報もある。こうした状況のため,経済は危機に直面している。スト,ゲラオ,デモが工場や役所で頻発,生産は落ち,行政機能も低下している。 東パの状況は非常に悪い。そこでは大衆による殺害,放火,略奪,警察の襲撃などが行なわれている。3月15日,ラクサムでは3000人の村人が村の役人を殺し8人に負傷させ,ライフル8丁を盗んで逃げた。翌日ラージシャーイでも役人が1人殺され,2人が負傷した。その上,工場でもストやゲラオが行なわれ,経営者は暴力的に要求をのまされている。 西パでは各地で労働争議が頻発し,とくにカラチ,ムルタン,リアルプールその他都市部でのデモやストが激しい。重要なスイ・ガス会社の労働者も経営者との話合いがまとまらず,ストによりガスの供給がストップする危険がある。もしスイ・ガス会社の操業がストップすれば西パの工業は,重大な損害をうけるだろう。カラチの企業家の中には政府に対し,工場を保護するため軍の護衛を要請する人もいる。
DIA-304-1969-03-23-1パキスタン1969年03月23日1960年代カラチの主要施設警備に軍出動-政府はラジオ,テレビ放送局,マイクロウェーブ通信センター,工場など主要施設警備に,警察に代わって軍隊を出動させた。
DIA-304-1969-03-24-1パキスタン1969年03月24日1960年代ダッカヘ死の行進-カラチ発UPIは24日,東パからカラチについた英人旅行者(複数)が語ったものとして,「東パでは飢きん地帯の数千人の農民が殺人,略奪,放火をしながらダッカヘの行進をつづけ,途中『人民法廷』を開いて腐敗分子とみなした人物を捕えて死刑にしたり,目玉をくりぬいたり,拷問を加えている。東パではこれを死の行進と呼んでいる」とのニュースを伝えている(しかしこのニュースはパキスタン・オブザーバー,Dawn紙では確認できない)。
DIA-304-1969-03-24-2パキスタン1969年03月24日1960年代ムジブル・ラーマン(AL-6項目派)委員長,憲法案発表。
DIA-304-1969-03-25-1パキスタン1969年03月25日1960年代パ全土に戒厳令,アユブ大統領,全権をヤヒア・カーン陸軍最高司令官に移譲-アユブ大統領は午後7時15分特別放送を行ない,パキスタンを政治的混乱から救うため,全権をヤヒア・カーン陸軍最高司令官に移譲すると発表した。ヤヒア・カーン大将は,全軍総司令官,戒厳令最高司令官となり,全土に戒厳令を発布した。ヤヒア・カーン最高司令官は憲法の廃止を発表,直ちに4項目の命令および25項目の規則(regulation)を発表した。また戒厳令副司令官にアブドル・ハミド・カーン陸軍中将,S.M.アハサン海軍中将,ヌル・カーン空軍中将を任命,パキスタンをA・B2地区に分け,A地区(西パ)の司令官にA.ラーマン陸軍中将を,B地区(東パ)の司令官にムザファルッディン陸軍少将を任命した。東西両知事・閣僚の権限は失われ,国会・地方議会は解散となった。
DIA-304-1969-03-25-2パキスタン1969年03月25日1960年代アユブ大統領,ヤヒア・カーンにあてた書簡-書簡は24日付となっている。その要旨は以下の通り。 わたしは残念ながら行政権・憲法による規制が全く効果を失っているという結論を出さざるをえない。もしこのままの状況がつづけば,すべての経済生活,市民の生活が不可能になろう。わたしは身を引いて軍にすべてをまかせたいと思う。軍だけが国を統制しうる勢力である。軍だけが混乱と破壊から国を救い,再び繁栄への道に立ち戻らせることのできる勢力である。
DIA-304-1969-03-26-1パキスタン1969年03月26日1960年代政情,平静に-戒厳令によりパ政情は平静さを取り戻し,正常化してきている。カラチその他の工場ではストが中止され生産が始まっている。下級公務員も職場にもどり,ジャーナリストもストを止め,私立中学の教師も職場に戻った。大学・学校も3月31日から一斉に再開される。
DIA-304-1969-03-26-2パキスタン1969年03月26日1960年代工場など操業再開-カラチのSITEやランディ工業地帯(ここには600以上の工場があり,パ全体の工業生産の40%を生産する)では労働者が集まり,各工場では操業を再開している。ただし夜業や二部制はとっていない。PIAは国際線,国内線とも正常に飛行している。ラワールピンジ,ラホールなども事態は平静で,数ヵ月つづいたあの混乱はまるで嘘のように静かだという。公務員は任務にもどった。
DIA-304-1969-03-26-3パキスタン1969年03月26日1960年代新体制は選挙による代表が決まるまでの暫定-ヤヒア・カーン戒厳令最高司令官は特別放送を行ない,新体制は暫定的なものであると発表した。放送要旨は以下の通り。 ① 国民はすでにアユブ大統領の放送および24日付書簡をよんだと思う。大統領は過去数週間の間,平和的かつ憲法に保障された方法で権力を移すよう努力し,可能なあらゆる手段を講じてきた。しかしこの努力は成功しなかった。そのため大統領はわたしにパキスタンを破壊から守る義務を課したのだ。 ② すでに私はパ全域に戒厳令を布告した。われわれ軍は平和が回復し,こうした極端な措置をとりたくないと考えてきた。しかし情勢は正常な法的方法ではどうにもならないところまできていた。人の生命・財産は破壊され,恐慌状態になり,生産は危機的なまで低下し,経済は非常な打撃をうけた。ストや暴力が日常行事となった。軍はこうした無政府状態を無視できなかった。そのため戒厳令を公布したのである。 ③ 戒厳令の唯一の目的は,生命と自由と財産を守ることにある。わたしの任務は行政が正常の機能を果たすようにすることにある。わたしは憲法に基づく政府の樹立ができるような条件をつくるということ以外,何の野心もない。健全な,手のきれいで潔白な政府が樹立され,成人選挙により自由・公正に選出された国民の代表に権力がスムーズに移されることを強く念願している。パキスタンに適合した憲法を与え,国民の心を動揺させてきた一切の政治・経済・社会問題の解決策を見いだすことが,これら代表の任務である。 ⑤ わたしは学生,労働者,農民などの苦しみを知っている。これらの人々の苦しみを解消するため,新政体はできるだけのことをしよう。 ⑤ 軍は国民のものである。軍は何の政治的野心もないし,いかなる特定の個人,政党にも関連がない。われわれは歴史上最も微妙な時期を迎えている。我国のプレスティージは地に落ち,繁栄はとまった。わたしはすべての国民がそのおかれている場に戻り,パ経済の発展のために努力するよう訴える。
DIA-304-1969-03-31-1パキスタン1969年03月31日1960年代ヤヒア・カーン戒厳令最高司令官,大統領に就任-ヤヒア・カーン戒厳令最高司令官は31日夜,大統領に就任したと発表した。この就任の理由は対外的,対内的必要からと説明されている。大統領就任に関する声明要旨は以下の通り。 ① 戒厳司令官が国家元首および行政府の長として行なうべき国事を遂行するためには,戒厳司令官が国法の枠内で,国際慣行の諸要件に従って責任を果たしうるような称号を持つことが必要である。 ② たとえば大統領だけに,条約の批准,外交使節の任命および国際的取決めなどの内外諸問題での責任を遂行する資格がある。 ③ これらの各種の要件を満すため,選出された国民の代表が新憲法を作成するまでの間,パキスタンの元首および政府の長としての機能を果たす戒厳司令官は,同時に大統領としての元首の職務を遂行すべきである。
DIA-304-1969-04-03-1パキスタン1969年04月03日1960年代ヤヒヤ大統領,戒厳令副司令官と行政委員会を設立-ヤヒア大統領は声明を発表,戒厳令副司令官3人と共に行政委員会(Council of Administration)を設立,委員長にヤヒア大統領自身が就任すると述べた。
DIA-304-1969-04-04-1パキスタン1969年04月04日1960年代パ政府,暫定憲法令発布-戒厳令最高司令官は声明を発表,暫定憲法令(Provisional Constitution Order)を発表した。要旨は以下の通り。 ① この命令は暫定憲法令と呼び,1969年3月25日をもって発効の日とする。この憲法令はパ全域に施行される。 ② 1962年憲法の廃止にもかかわらず,戒厳令および同規則,命令以外に関する事項は同憲法の規定により処理される。 ③ 戒厳令最高司令官は大統領とされ,したがって,1962年憲法に規定した大統領の権限をもつ。 ④ 憲法第2部第1章,基本的人権に関する条項のうち,2,4~9,13~15,17は無効とする。 ⑤ 戒厳司令部に反対するいかなる判決,告訴もできない。 ⑥ 大統領・知事の権限は,憲法上の規定に拘束されない。
DIA-304-1969-04-08-1パキスタン1969年04月08日1960年代東西パ戒厳令司令官,知事兼任-ヤヒア大統領・戒厳令最高司令官は,東西パの各司令官に対し知事の任務も同時に果たすよう命じた。
DIA-304-1969-04-10-1パキスタン1969年04月10日1960年代ヤヒア大統領,記者会見で戒厳政権の暫定性強調-ヤヒア大統領は初めて記者会見,戒厳政権の目的は選挙で選ばれた国民の代表に権力が移せるよう健全な政情をつくるにあるとのべ,その暫定性を強調した。
DIA-304-1969-04-12-1パキスタン1969年04月12日1960年代政府,小麦の買上げ価格を2ルピー引下げ--政府は小麦の政府買上げ価格を2ルピー引下げ,1モーンド15ルピーにすると発表した。政府はこれによって都市住民,農業労働者に利益を与え,合わせて物価水準を引き下げ得るとのべている。
DIA-304-1969-05-05-1パキスタン1969年05月05日1960年代中国,周恩来首相,ヤヒア大統領に返書-周恩来首相はヤヒア戒厳令最高司令官の大統領就任の書簡に返書を送り,「中・パ両国の友好関係を発展させ,カシミールの民族自決権のための闘いを支持する」とのべた。返書の全文は以下の通り。 この数年間,中・パの友好・協力関係は非常に深まった。これはわれわれ両国人民の共通の利益である。中国政府と人民は,常に平和5原則に基づきパキスタンと友好関係を強めてきたし今後も強めることを貴国首脳に繰り返し約束したい。中国政府と人民はまた,常に外国の侵略および干渉と闘い,カシミール人民の民族自決の闘いを断固支持してきたパキスタンの政府・人民の正義の闘いを固く支持している。わたしは両国の共同の努力により中・パ人民の友好関係がつづき,一層発展するよう望むものである。 なお駐中国パ大使K.M.カイザーはさきに周恩来首相と会見したが,席上周首相はヤヒア大統領に挨拶を送るとのべたという。またPIAのパ=上海・広東開通5周年記念のパーティーでも中国側代表はパとの友好関係を支持している。
DIA-304-1969-05-06-1パキスタン1969年05月06日1960年代ヌル・カーン,コスイギン首相と会見-ヌル・カーン戒厳令副司令官,空軍最高司令官はニュー・デリーで,コスイギン首相と30分間の短い会見を行なった。またインディラ・ガンジー首相とも30分間話し合った。インド放送の伝えるところによれば,フセイン大統領の葬儀に参加するため,デリーに来ているシェイ.ク・アブドラ,アフザル・ベグの両指導者もヌル・カーンと会談したと伝えている。
DIA-304-1969-05-07-1パキスタン1969年05月07日1960年代コスイギン首相,パ・イの関係改善を訴え-コスイギン首相はインドでガンジー首相と会見したが,その後記者会見,ソ連はパ・イの関係改善を期待している,タシケント宜言の調印は両国が紛争を平和的に解決できることを示したものだとのべた。
DIA-304-1969-05-14-1パキスタン1969年05月14日1960年代"アユブ回教連盟総裁,同党役員を任命-アユブ前大統領,回教連盟総裁は2月に開かれたPML評議員会での決定により,回教連盟の役員を指命した。これはM.M.カシム幹事長が発表したもので,2月の評議員会では内部対立から,総裁しか決まらなかったためである。主な役員は以下の通り。 副総裁 Khan A.Sabur Khan  Khan Iftikhar Husain Khan  Khan Abdul Jabbar Khan  Qazi Mohammad Issa 幹事長 Malik Mohammad Qasim 幹事 M.Y.Khan Wattoo  M.A.Matin(Pabna)  Akhtaruddin  Manzar-i-Alam 会計 A.Gbafoor Khan(Hoti) 執行委員 M.Amimddinら20人"
DIA-304-1969-05-17-1パキスタン1969年05月17日1960年代労働問題会議終る-15日からカラチで開かれていた労働問題会議は,四つのグループに分かれて,それぞれの問題について検討していたが,17日全体会議を開き,各分科会の結論を討議,いくつかの重要な問題について決定を行なった。この会議は労働者,経営者,政府の3者が相互に話し合い,民主的方法で労働問題を解決して行こうとの,初めての試みである。 政府はこの会議の結論および4月に発表した労働政策要綱にもとづき,5月末あるいは6月初にも新労働政策を発表する予定。 労働者会議の各分科会の報告書要旨は,以下の通りである。 (1)賃金・福祉厚生グループ:中立の人々で構成する最低賃金委員会をつくり,生計費の変動に対応して毎年最低賃金を勧告するようにする。また福祉厚生基金を設ける。 (2)保健・安全その他労働条件グループ:委員会を設立し,保健・安全その他の労働条件に関する現行法令を検討し,パ産業の現在の状況および必要とされる点について勧告してもらう。危険な業務につかせる場合には,労働者に対して訓練期間を設けなければならない。また身体上の負傷,ガス中毒,職業病の危険のある職業は危険業務に指定する。 (3)労働組合および労働争議グループ:東西州の労働法を統一的なものとし,民間部門および公共部門に適用される労働法もまた,統一する。なお民間,公共とも(ただし軍を除く),組合結成が許される。労働争議については,解決のため,①当事者同士の任意の交渉,②任意の調停・仲裁,③強制あるいは任意の仲裁および判決,の3段階をつくる。 (4)利潤配分グループ:労働者側は労働者20人以上の企業あるいは払込資本40万ルピー以上,あるいは固定資本80万ルピー以上の企業について,労働者への利潤の配分を現行税込利潤の22%からそれ以上にするよう要求したが,経営者側はそれを承認せず,結論としてこの問題に関する調査委員会を設立することに意見が一致した。
DIA-304-1969-05-19-1パキスタン1969年05月19日1960年代パ債権国会議開く-世銀主催によるパ債権国会議がパリで開かれた。この会議では1969/70年度という,パ第3次5ヵ年計画の最終年次に当たる重要な年の援助額を決める。会議は20日まで開かれるが19日にはM.M.アーマッド・パ代表が,第3次計画および第4次計画の概要について説明した。会議参加10ヵ国の中から最近の政治混乱のパ経済に与える影響について,質問が集中したといわれる。
DIA-304-1969-05-20-1パキスタン1969年05月20日1960年代パ債権国会議,5億ドルの援助を承認-パリで開かれていたパ債権国会議は1969/70年度中に必要な外貨援助分として,世銀の勧告した5億ドルの援助額を承認した。このうち2分の1はプロジェクト援助である。世銀の勧告によれば,債権国会議参加諸国は経済活動運営上の諸困難,最近の政情不安にもかかわらず,GNPが6%近くも増加し,食糧生産は5%,輸出は10%,'工業生産は約8%も増加していることを高く評価し,さらに新政権下で作成された1969/70年度計画が適切なものであると判断している。ただし対外債務返済能力について,これまで以上に注目すべきだとの意見が出され,今後債権国会議で検討されることになった。M.M.アーマッド計画委副議長はこの問題に触れ,パ政府がソフト・ローンとハード・ローンの比率を2/3と1/3という比率を固く守る決意であることを明らかにすると共に,援助条件の緩和について以下の4点を検討して欲しいとのべた。 ① 商業べース借款の場合,その利子補助のため援助供与国が特別基金をもうける。 ② 借款が満期に達したとき,満期以降も借款がえられるよう特別の機関をもうける。 ③ 返済期が延長できないときには,せめて据置き期間を長くする。④ タイド・ローンによる輸入品の価格が国際価格より高いとき,その差額分を援助供与国が贈与の形で支払う。
DIA-304-1969-05-23-1パキスタン1969年05月23日1960年代"債権国会議について-M.M.アーマッド計画委副議長は記者会見で債権国会議の結果に触れ,要旨以下のようにのべた。 ① 債権国会議の援助額は少なくとも4億8000万ドルの約束が可能となろう。いかなる場合にしても,4億5000万ドルを下回ることはないだろう。 ② 商品援助は2億ドル以上になると思う。これは1968/69の水準1億5200万ドルをはるかにこえている。 ③ 援助額のうち3億ドルはソフト・ローンになろう。昨年度は2億ドルであった。(ソフト・ローンとは25年以上の長期借款で利子率3%以下のものをいう。) ④ IDA(10年据置き50年返済,利子3/4%)資金は7500万ドルが期待できよう。 ⑤ アメリカは債権国会議以外に,2500万ドルの輸入延払いを認めている。これは肥料輸入にあてられる。PL480は5900万ドルの予定で,内容は食用油,タロ芋,長繊維綿花,タバコなど。 ⑥ パは第3次計画の4年間に,債権国会議諸国から年平均3億2500万ドルの援助をうけている。1968/69年の援助受取額は3億9100万ドルである。 ⑦ 1969/70の援助約束額のうち,国別内訳は以下の通り. カナダ 2720万ドル フランス 1500万ドル 西独 3500万ドル イタリー 3000万ドル 日本 3000万ドル オランダ 440万ドル スウェーデン 1000万ドル イギリス 2280万ドル アメリカ 1億4000万ドル 米輸出入銀行 2000万ドル 世銀 6500万ドル IDA 7500万ドル ベルギー 1000万ドル 計4億8440万ドル ⑧ 1968/69の返済外貨額は1億4600万ドルであった。"
DIA-304-1969-05-23-2パキスタン1969年05月23日1960年代ニクソン米大統領,駐パ大使を更迭か-N.Y.タイムスによるとニクソン米大統領はロジャーズ国務長官の訪パ後,新しい駐パ大使を任命するだろうとのべている。
DIA-304-1969-05-24-1パキスタン1969年05月24日1960年代ロジヤーズ米国務長官,訪パ-ロジャーズ米国務長官はアジア諸国訪問の一環として,インド経由パキスタンを訪問,ラホールでヤヒア大統領と会見した。会談の内容は国際問題,とくにカシミール問題,ファラッカ問題,ベトナム問題および両国間の問題,とくにアメリカの対パ武器販売の問題等について話し合ったという。 席上,ロジャーズ国務長官はニクソン大統領のヤヒア大統領宛親書を手交した。
DIA-304-1969-05-25-1パキスタン1969年05月25日1960年代ロジャーズ米国務長官,カブールに出発-ロジャーズ米国務長官は25日,19時間のパ滞在後カブールにむけ出発した。空港での記者会見で,ロジャーズ国務長官は要旨以下のようにのべている。 ① パ指導者との会談は今日の諸問題への理解を深めた。米政府はパキスタンの将来に重要な関心をもってきたし,今後ももちつづけるだろう。 ② 米の軍需品供与の問題についても話し合った。しかしこの問題について今すぐ決定できるというものではないが,この問題は他の世界の諸問題とともに米政府によって検討されている。 ③ 大統領とはパの経済発展について話し合ったが,われわれは米・パ両国の経済関係がひきつづき発展していくことを希望している。 なおソ連のコスイギン首相も25日,アフガニスタン政府の招きでカブールを訪問する。
DIA-304-1969-05-30-1パキスタン1969年05月30日1960年代コスイギン首相,訪パ-コスイギン首相はアフガニスタンから1日の予定で訪パした。ラワールピンジ空港にはヤヒア大統領,A.ハミッド・カーン,S.M.アハサン,ヌル・カーン戒厳令副司令官,外務省高官ら多数が出迎えた。その後イスラマバードの大統領官邸で両首脳会談が行なわれた。会談は昼食時の中断を含め4時間に亘り,多岐な問題について話し合った。 会議には,ソ連側から駐パ大使デグチャリ,領事スコドレフが首相を補佐し,パキスタン側はユーサフ外務次官,駐ソ大使サールマン・アリが大統領を補佐した。会談後大統領主催による歓迎夕食会が開かれたが,その席上ヤヒア大統領はパ・ソ関係の発展を望むと語った。コスイギン首相はパキスタンとインドとの関係が改善されることを希望するとのべ,ソ連,インド,パキスタン,アフガニスタンは隣国であり,平和関係がつづくことを希望するとのべた。
DIA-304-1969-05-30-2パキスタン1969年05月30日1960年代パ・ソ共同コミュニケ発表-訪パ中のコスイギン首相はヤヒヤ大統領と会談後,要旨以下のような共同コミュニケを発表した。 両国首脳はパ・ソ両国に関係深い諸問題および双方とも関心のある国際問題について,友好的かつ理解に満ちた雰囲気で話し合った。ヤヒア大統領はまず,最近のパキスタン政情について説明,これらがパの対外政策に影響を与えることはない,とくにパ・ソ関係は一層強化させたいとのべた。 これに対して,コスイギン首相は,ソ連もパキスタンとの友好関係を継続させたいと考えていると語りパ・ソ両首脳は両国が経済,文化,社会などすべての分野で協力の範囲を広める努力をすることを確認した。 ヤヒア大統領はまたコスイギン首相に対し,インドとの関係について説明,パキスタンはインドとの紛争を平和的に解決するべく努力をつづけているとのべ,コスィギン首相はインドとの紛争が1日も早く解決することを希望するとのべた。 両国首脳はまた,中近東問題,ベトナム問題についても話し合った。
DIA-304-1969-05-31-1パキスタン1969年05月31日1960年代コスイギン首相,帰国-訪パ中のコスイギン首相はヤヒア大統領との会談を終え,帰国した。帰国に当りコスイギン首相は記者会見を行ない次のようにのべた。 「わたしとヤヒア大統領は広範囲な諸問題について話し合った。わたしは多くの問題でわれわれの意見が同じであることに満足している。パ・ソ両国の政治・経済・商業・貿易・文化等に関する諸関係は非常によい。パキスタンとインドおよびアフガニスタンの関係については,わたしはこれら3国が紛争を平和的に解決することができるし,そうすることが根本的急務であると考えている。わたしはインドとパキスタンが,その紛争を解決するために協力しあうことは確実だと感じている」とのべた。
DIA-304-1969-06-02-1パキスタン1969年06月02日1960年代プラウダ,南アジアの平和な協力を主張-プラウダは6月2日,マエフスキー評論員の「平和的協力は真実の道」と題する論評をのせ,中共の大国主義的路線に対抗するため,「インド,パキスタン,アフガニスタン,イランその他諸国の経済および一般的平和維持の闘争分野での協力」の重要性を強調した。
DIA-304-1969-06-08-1パキスタン1969年06月08日1960年代新駐パ中国大使,ラワールピンジに到着-新駐パ中国大使張氏はダッカからラワールピンジに到着した。 新大使は空港で記者会見,パ・中両国の深い,伝統的友好関係を一層強化するために努力するとのべ,さらに同氏は,毛沢東首席および中国人民のヤヒア大統領宛のメッセージを持ってきていることを明らかにした。空港にはM.A.カーン儀典長官,Hsu Ying中国領事その他大使館メンバー,パ・中友好協会,反帝戦線のメンバー,ルーマニア大使館代表などが出迎えた。
DIA-304-1969-06-17-1パキスタン1969年06月17日1960年代パクトニスタン運動指導者,インド訪問を受諾-パクトニスタン運動の指導者カーン・アブドル・ガファール・カーン(NAPワリ・カーン委員長の父)は10月1日からインドを訪問,ネルー平和賞を受けることについて受諾した。パクトニスタン運動とはパキスタン北西辺境区NWFPとアフガニスタンに住むプシュト語を話す人々により,パクトニスタン国を建設しようとする運動をいう。
DIA-304-1969-06-18-1パキスタン1969年06月18日1960年代"NAP(バシヤーニ派)指導者8人,1956年憲法を批判-NAP(バシャーニ派)指導者8人は連名で声明を発表,1956年憲法はパ各地域の不平等な関係を維持し,人民の主権を否定し,西パ統一を固持し,地域間格差を固定したものであり,東パ人民の基本的権利である人口比例代表制や州自治を否定したものであると批判このような憲法を支持している人たちが,アユブ前大統領との円卓会議参加者であることは興味深いとのべている。署名している人は以下の通り。 副委員長 H.M.ダニッシュ 書記長 M.トーハ 東パ書記 アンワル・ザヒッド  ヌールル・フーダ 前国会議員 S.ハッサン  M.A.イフティカール 東パ執行委 A.ジャリール  M.サルタン"
DIA-304-1969-06-22-1パキスタン1969年06月22日1960年代経済情勢1968/69発表-政府は1968/69経済情勢を発表した。それによるとGNP成長率は5.2%増,1人当り所得は2.25%増にとどまった。ただし食糧生産は非常に好転している。工業については所定の目標に達成しえず,大規模工業で7.4%増にとどまっている。
DIA-304-1969-06-24-1パキスタン1969年06月24日1960年代野党4政党,新政党「パキスタン民主党」を結成-民族民主戦線NDF,人民連盟(PDM派),正義党,ニザム党の4政党は統合して新政党「パキスタン民主党」(Pakistan Democratic Party)を結成した。このためにパ民主運動PDMは事実上解散した。
DIA-304-1969-06-28-1パキスタン1969年06月28日1960年代1969/70年度予算および年度経済開発計画を発表-政府は1969/70年度予算および年度経済開発計画を発表した。
DIA-304-1969-07-01-1パキスタン1969年07月01日1960年代IDA,パに4450万ドルの援助を決定-IDAはアルゼンチン,モーリタニア,パキスタン,ベネズェラなどに対し総額1億0350万ドルの援助を決定した。パキスタンに対しては4450万ドルで,鉄道建設に1450万ドル,農業開発に3000万ドルとなっている。その他の国はモーリタニア1300万ドル,アルゼンチン1500万ドル,ベネズェラ3100万ドル。
DIA-304-1969-07-01-2パキスタン1969年07月01日1960年代ラホールで新政党設立-パキスタン・オブザバー(7月2日)によれば,5月末にラホールで新政党が設立された。党の名称はPakistan Labour Party(PLP)で委員長はバシール・アーマッド・バクティアール労動組合指導者。党の主張は①基幹工業の国有化,②土地所有限度50エーカー,③月給の最高限度1000ルピー,④全パ人に無料かつ平等な医療,教育機会を与える,⑤無料の家屋をつくる,⑥老令年金,⑦失業手当,⑧最低賃金を月200ルピーとする,⑨西パ統一州に反対,⑩労働者・農民・インテリ・宗教指導者に議席を留保する,などがあげられている。
DIA-304-1969-07-03-1パキスタン1969年07月03日1960年代政府,新教育政策(案)を発表-パ政府は現在の教育政策をドラスティックに変革する新教育政策(案)を発表した。この案はヌル・カーン行政評議会メンバーが作成したもので,要旨は以下の通り。 ① 初等教育の充実。小学校5年と中学校2年を初等教育とし,回教寺院などで開かれているマドラッサ(主としてコーランを教える無料の寺小屋)を通常の学校に統合する。 ② 中等教育(高等学校)は技術・職業訓練に重点をおく。 ③ 教育行政の官僚統制をなくす。 ④ 教師の地位の向上,給与増加を行なう。 ⑤ ミッション・スクールの国有化。 ⑥ 英語は1974年まで公用語とし,その後ウルドゥ語・ベンガリ語を公用語とする。中学・高校においてはウルドゥ語(東パ),ベンガリ語(西パ)を必修課目とする。官吏はとくに両州語に通じなければならない。 ⑦ 1969/70年度の教育支出を増やし4億ルピーとする。 ⑧ 大学法を廃止,大学の自治を大幅に認める。各州に奨学金委員会をつくる。 ⑨ 識字率を高めるための平和部隊(Literary Corps)を若い人々から募集し,農村に入れる。 ⑩ 1980年までの目標を次のように決める。
DIA-304-1969-07-05-1パキスタン1969年07月05日1960年代政府,新労働政策発表-パ政府は要旨以下のような新労働政策を発表した。これはヌル・カーン行政評議会メンバーが作成したもの。 ① スト権・ロックアウト権の復活。ただし政府の重要業務および公共性の強い職務のスト権は認めない。病院,消防,警察,軍等についてもスト権は認めない。 ② 労働組合活動は公共,民間を問わず認める。鉄道,電信電話,郵便等公共企業にも組合活動を認める。 ③ ゲラオや脅迫などによる協定は無効。 ④ 労働者の福祉基企10億ルピーをつくり,低家賃家屋の建造などを行なう。 ⑤ 最低賃金を7月1日より引き上げ,労働者50人以上の企業の未熟練労働者の場合で,カラチ月140ルピー,その他工業地帯125ルピー,その他115ルピーとする。東パでの茶園労働者の場合には茶園の大きさに応じ100~120ルピーとする。ただしこの賃金の政策は政府役人,公共部門に働く労働者には適用されない。
DIA-304-1969-07-05-2パキスタン1969年07月05日1960年代西パに労農党(Krishak Sramik Party)復活-西パに労農党が復活,委員長にモハメッド・マクスード,書記長にスライマンが選出された。
DIA-304-1969-07-10-1パキスタン1969年07月10日1960年代米国務省,「アメリカは旧式の米製戦車(パットン戦車)を,トルコからパキスタンに移すことを認めるだろう」と発表(ロイター電)。
DIA-304-1969-07-12-1パキスタン1969年07月12日1960年代ヌル・カーン空軍中将,訪中-ヌル・カーン空軍最高司令官・中将を団長とする友好代表団は,中国政府の招きにより1週間の予定で中国を訪問した。同行者は同夫人,S.M.カーン外務次官補,アフサン・ラシッド空軍中佐,アーメッド顧問(教育・労働に関する),私設秘書ら。北京空港には周恩来首相,黄永勝人民解放軍総参謀長,呉法憲同副総参謀長,李先念国務院副総理,郭沫若人民代表大会常務委副委員長,空軍政治将校等多数が出迎えた(帰国は17日)。
DIA-304-1969-07-16-1パキスタン1969年07月16日1960年代ヌル・カーン空軍中将,北京での夕食会で演説-ヌル・カーン空軍中将は北京で周恩来首相を招いての夕食会で演説,「パキスタンと中国は隣国の協力関係にとって一つの好例である。両国間の理解がなく,しかも基本問題について紛争・意見の相違のあるところでは,経済その他の問題についての地域協力に関する話合いは非現実的である」と発言。(政府高官が公式にソ連のアジア集団安保構想を批判したのは,これが初めてである。)
DIA-304-1969-07-17-1パキスタン1969年07月17日1960年代カラチ商工会議所,最低賃金制に反対-カラチ商工会議所は政府の最低賃金制に反対,「もしこの制度が企業の生産性の考慮なしに導入されるならば,労働者,経営者,国家にとって不利益となろう。小規模な企業は最低という名の高賃金で倒産するだろう。この最低賃金制は100人以上の労働者を雇用する企業に限るべきだ」とのべた。
DIA-304-1969-07-18-1パキスタン1969年07月18日1960年代アメリカのバダベル基地(ペシャワール)の撤去はほぼ終り,同基地は17日深夜で機能を停止している。
DIA-304-1969-07-23-1パキスタン1969年07月23日1960年代インドのディネス・シン外相は議会で,「パは過去6ヵ月にソ連からT55戦車100台,ヘリコプター,130ミリ砲,レーダー装置,弾薬などを受け取った」と発言。
DIA-304-1969-07-24-1パキスタン1969年07月24日1960年代インディラ首相,ヤヒア大統領に親書-インディラ首相は,新政権が成立して初めてヤヒア大統領に親書を送ったことが明らかになった。内容は,①パ・イの不戦条約,②相互に自由な旅行を許す,③通商の再開,④航空・航海の再開等を提案している。
DIA-304-1969-07-26-1パキスタン1969年07月26日1960年代ファラッカ堰に関するパ・イ会談終る-ニューデリーでファラッカ堰に関するパ・イ次官級会談は12日間の日程を費しながら具体的結論の出ないまま終了した。次回は4ヵ月以内にイスラマバードで開く。
DIA-304-1969-07-28-1パキスタン1969年07月28日1960年代ヤヒア大統領,ラジオ放送-ヤヒア大統領はイスラマバードで要旨以下のラジオ放送を行なった。 ①近く民間人を含む閣僚会議を作ろう。この目的は行政の基礎を拡大することにある。この閣僚会議はわれわれ現政府の性格-臨時行政機構-からして,次の選拳には立候補しないだろう。民間人が入っても戒厳政府の性格は変らない。民間人参加の内閣ができれば東パ代表に妥当な席を与える。 ② 選拳のための選拳管理委員長に最高裁のアプドゥ・サッタール判事を任命する。委員長は選拳区の確定,新選拳人名簿の作成などを行ない,選拳のための準備活動をすることになる。この期間は1年か1年半以上はかからないだろう。国内に憲法制定の基盤ができれば,直ちに総選拳を行なう。 ③ 憲法問題,西パ統一州問題,地方自治問題等々重要な問題について国民の意見は非常に多様である。いかなる憲法であれ,あるいは政府の形であれ,それらは国民に受け入れられるものでなければならないし,パのイデオロギー,統一を守るものでなければならない。パの各地域の合理的要求はパキスタンの統一を保持しうる限り,それを満すための方法,手段が見出されねばならない。国民の間での意見の統一がなされなければ,私は国民に対し,自分の憲法を発表し,国民投票により審判を仰ぎたいと思う。 ④ 政党活動について,戒厳令を改正し,その活動制限を一部緩和し,執行委,活動者会議,大会などの開催は屋内で行なう限り許可する。 ⑤ 兵隊の徴募においては,東パ出身者の採用を2倍にする。これはほんの第一歩であり,国防力の中の東パ人の割合を高めるための努力はつづけられよう。 ⑥ 西パ特別区であったスワート,ディル,チトラルは西パ州に編入する。
DIA-304-1969-08-01-1パキスタン1969年08月01日1960年代ニクソン大統領,訪パ-ニクソン大統領は特別機でラホール空港に到着した。空港にはヤヒア大統領,ヌル・カーン空軍最高司令官,アハサン海軍最高司令官が出迎えた。空港でニクソン大統領は「今回の訪問により両国のかかえている諸問題をすべて解決できるとは考えていない。だが短い滞在期間中にも両国の意見の相違を除く基礎のできることを望んでいる」とのべた。両国大統領は午後1時間40分に亘って2人だけで会談,パ・イ問題,中国問題,ブレジネフ構想を中心とする東西関係,パの経済開発を含めた地域協力開発問題などについて話し合い,なかでもパ・イ紛争解決および米国の経済援助,武器購入問題等に多くの時間が費された。しかし決定事項はない。ニクソン大統領はパキスタン市民に与えられる最高勲章Nishun-e-Pakistanを与えられた。ニクソン大統領の随員はパット夫人のほか,キージンガー特別補佐官,ハルドマン報道官など7人。
DIA-304-1969-08-01-2パキスタン1969年08月01日1960年代最近の輸出実績-中央銀行の発表による最近数年の輸出実績は以下の通り。
DIA-304-1969-08-04-1パキスタン1969年08月04日1960年代ヤヒア大統領,新内閣発表-ヤヒア大統領は7月28日のラジオ放送で発表した通り,主として民間人による新内閣を発表した。 大統領・外相・国防相・計画相 ヤヒア・カーン(西) 保健・労働相 A.M.マリク(東) 工業・資源相 ハフィズッディン・アーメッド(東) 商相 アフサヌル・フク(東) 教育相 シャムスル・フク(東) 情報・放送相 シャー・アリ・カーン(西) 内務相 サルダル・アブドル・ラシド(西) 大蔵相 ムザファル・アリ・キジルバシュ(西) 農業事業相 モハメッド・ハルーン(西)(8月15日発令) 法相 アルヴイン・ロバート・コーネリゥス(西)(9月17日発令) 運輸相 G.W.チョードリ(東)(10月8日発令) 各閣僚の略歴 ① 保健・労働相 A.M.マリク‐医学博士。独立前は全インド労働組合会議の執行委,独立後は全パ労働組合連合の初代議長,1958年中国大使に任命され,1961~65年まではフィリピン大使。 ② 工業・資源相 A.K.M.ハフィズッディン‐ダッカ大学卒後は警察に入り,1958年には東パの警察長官となる。1962年2月PIDCに入り,同月にEPIDCの初代総裁。 ③ 商相 アフサヌル・フク‐西ベンガルに生る。放送の分野で活動し,次いでパ・ジュート協会の議長となる。1964年インドネシア大使,1966年ルーマニア大使を歴任。 ④ 教育相 シャムスル・フク‐西ベンガルに生る。ロンドン大学で財政・通貨問題をテーマに勉強。卒業後イスラミア大学に奉職,1965年以降ラージシャーイ大学の副総長。 ⑤ 情報・放送相 シャー・アリ・カーン‐パタンの著名な家柄であるイブラヒム・アリ・カーンの息子。1933年英国のサンドハースト陸軍学校卒。1955年パ陸軍の参謀長となる。 ⑥ 内相 サルダル・アブドル・ラシド‐ペシャワールに生る。1930年国境警備隊に入り,1951年にはペシャワールの警察長官となる。1958年ヌーン内閣では商工業相。 ⑦ 蔵相 キジルバシュ‐ラホールの名家キジルバシュ家に生る。ケンブリッジ大学に学び,独立後はパンジャブ州議員となり同州内閣で歳入相,1957年中央政府の工・商業相となる。 ⑧ 農業事業相 モハメッド・ハルーンーカラチのハルーン家(財閥)の一員でアユブ大統領末期に西パ知事に任命され,3日目に戒厳令でやめたハルーン知事の兄。Dawn社の持主でもある。 ⑨ 法相 A.ロバート・コーネリゥスー1903年アグラに生る。法曹界の重鎮で最高裁判事,同長官を歴任。 ⑩ 運輸相 G.W.チョードリー1926年東ベンガルに生る。ダッカ大学で政治学の教授となり,現在に至る。
DIA-304-1969-08-10-1パキスタン1969年08月10日1960年代世銀調査団訪パ,6週間の予定。
DIA-304-1969-08-10-2パキスタン1969年08月10日1960年代ジャム・カシミール人民投票戦線,直接選挙要求‐ジャム・カシミール人民投票戦線は声明を発表,パ側カシミールに完全に民主的,かつ人民の代表による政府の樹立を要求,そのため大統領および議員の直接選拳,議会権限の拡大(財政権,立法権をもつようにする)を要求した。
DIA-304-1969-08-11-1パキスタン1969年08月11日1960年代ALムジブル・ラーマン,パ議会の2院制に反対‐ALムジブル・ラーマン委員長は,「もし新憲法が2院制を決めれば,たとえ人口比例代表制や西パ統一州廃止を認めたものであっても,その憲法に反対する」とのべた。
DIA-304-1969-08-12-1パキスタン1969年08月12日1960年代ダッカ大学で学生同士衝突‐ダッカ大学で開かれた教育政策ゼミナールで学生同士が衝突,戒厳令東パ司令官は大学構内での集会を15日間禁止した。これはジャマート党系学生がなぐり込みをかけたものと見られている。
DIA-304-1969-08-13-1パキスタン1969年08月13日1960年代東パ学生指導者31人,新教育政策に反対。
DIA-304-1969-08-14-1パキスタン1969年08月14日1960年代パ民主党(PDP)中央執行委,政策声明発表‐PDPは4日間の中央報行委を終え,政策声明を発表した。 ① 西パ統一州問題について:1956年9月以前のように西パを三つの州に分け,さらにバハワルプール,バルチスタンを加える。各州は小連邦制とし,1院制でパンジャブ州とその他州の代表者数を同じにする。 ② 地方自治について:中央政府は国防,外交,通貨および財政,外国・域内通信・貿易を行なう。 ③人口の比例代表制について:国会は2院制とし,下院は人口比例,上院は東西同数とする。
DIA-304-1969-08-15-1パキスタン1969年08月15日1960年代"東西知事任命‐ヤヒア大統領は東西両知事を任命した。 東パ知事 S.M.アハサン(海軍中将・同最高司令官) 西パ知事 ヌル・カーン(空軍中将・ 〃) この任命に伴い,新たに空・海軍最高司令官も任命された。 空軍最高司令官 ラヒム・カーン少将 海軍 〃 ムザファール・ハッサン少将"
DIA-304-1969-08-17-1パキスタン1969年08月17日1960年代パキスタン会議派Pakistan Congress Party復活。
DIA-304-1969-08-20-1パキスタン1969年08月20日1960年代パ民主党(PDP)党綱領案を発表
DIA-304-1969-08-24-1パキスタン1969年08月24日1960年代シルク・ロード再開‐ギルギットと新彊を結ぶシルク・ロードの再開を告げる中国のキャラバン隊の第一陣がパキスタンの国境の町ミシュガルに到着した。
DIA-304-1969-08-24-2パキスタン1969年08月24日1960年代新輸出政策1969/70発表‐政府は1969/70年度新輸出政策を発表した。 ① 輸出総額は35億4340万ルピーを目標とする。これは前年度実績の10%増。② 輸出品目中で製造工業品目の占める割合を1968/69の55%からさらに増加させる。③ 主な輸出品目とその目標。
DIA-304-1969-08-30-1パキスタン1969年08月30日1960年代選挙管理委員長.選挙スケジュール発表‐選拳管理委員長はダッカで記者会見,総選拳は1970年末までに可能であるとのべ,大体のスケジュールを発表した。 1969.10.15まで、選挙体制確立のための行政措置完了 10.16から 選拳人名簿作成開始 1970.1.15に 同名簿ドラフト発表 1.31まで 同名簿についてのクレーム受付け 3.31まで 選拳区の確定 6.15まで 同名簿の発刊
DIA-304-1969-08-30-2パキスタン1969年08月30日1960年代東パに新しい歩兵大隊‐東パに新しい歩兵大隊が結成された。これは東パ連隊の一部となるもので,第14師団となる。隊長はムザファルッディン少将。
DIA-304-1969-09-09-1パキスタン1969年09月09日1960年代パキスタン中央銀行,1968/69年次報告発表-パ中央銀行は1968/69年次報告を発表した。この中で注目すべきことは卸売物価が前年比5.8%上昇したこと,マネーサプライが,前年度の11億5120万ルピーにくらべ,16億7820ルピーに急増したことである。後者について,その原因は通貨発行の増加で,政府の中央銀行からの借入金増加が通貨発行という形でなされたことを示している。
DIA-304-1969-09-13-1パキスタン1969年09月13日1960年代キジルバシュ蔵相,ルピー切下げの噂否定-キジルバシュ蔵相はカラチで記者会見,ルピー貨切下げの噂はすべて根拠がなく政府は切下げを考えたこともないと発言。
DIA-304-1969-09-15-1パキスタン1969年09月15日1960年代ダッカ大学構内で学生集会-ダッカ大学学生は構内で集会を開き,9月17日を“教育の日”とし休日にするよう要求した。それに対し東パ警察長官は大学当局・学生に警告,「大学のキャンパスやホールは公共の場所であり,たとえ警察がこの地域での集会を禁止するため構内に入ったとしても,それは大学の聖域を犯したことにはならないし,事前の許可も必要としない」とのべた。また東パ戒厳令司令部は学生指導者4人に対し,16日までに出頭するよう命じた。
DIA-304-1969-09-17-1パキスタン1969年09月17日1960年代“教育の日”で集会・デモ-ダッカ大学の全学生行動委員会(Students' All Party Committee of Action)は戒厳令以降初の大規模な集会・デモを行なった(ただし戒厳司令部より事前の許可をえている)。集会では,①新教育政策の撤回,②選挙日の発表,③選挙された代表による憲法の制定,④連邦議会制,⑤州自治,⑥人口比例代表制,⑦西パ統一州の廃止,⑧基本的人権の擁護などが要求として出された。
DIA-304-1969-09-19-1パキスタン1969年09月19日1960年代ヤヒア大統領,回教国首脳会議に出席-ヤヒア大統領はラバトで開かれる回教国首脳会議出席のため,イランにむけ出発した。ラバトには20日に到着。
DIA-304-1969-09-22-1パキスタン1969年09月22日1960年代共和党復活-1958年10月,アユブ前大統領により活動禁止にされていた共和党(Republican Party)が復活した。
DIA-304-1969-09-27-1パキスタン1969年09月27日1960年代"パ民主党(PDP)全国代表大会開催-PDPの全国代表大会がダッカで開催され,PDP各地方代表350人が出席した(~28日)。全国代表大会はPDP綱領を一部修正(「1956年憲法の復活」という項を,「1956年憲法は州自治およびその他の重要な点に関する修正をして復活する」と変える)して承認,さらに28日にはPDP中央執行委および東パ執行委の選挙が行なわれた。綱領の修正をめぐって前ニザム党メンバーとその他政党メンバーが対立,あるいは人事問題をめぐって東西パ出身者が対立するなど,大会はPDP内部の種々の問題を表面化させることになった。とくに人事問題では西パ出身者が書記長にニザム党のハッサン氏を推したのに対し,東パ出身者はアスガル・カーン氏を推して対立した。PDP中央執行委メンバー,東パ執行委メンバーは以下の通り。 中央執行委員会委員長 ヌールル・アミン(東) 副委員長 モハメッド・アリ,サドゥラー・カーン,  ファリッド・アーメッド,ラヒム・ブク・サムル 書記長 シェイク・ナシム・ハッサン(西) 東パ執行委員会委員長 アブドゥス・サラム・カーン 副委員長 ヌールル・イスラム・チョードリ他6人 書記長 サイード・アジズル・ハク"
DIA-304-1969-09-28-1パキスタン1969年09月28日1960年代国慶節参加のパ代表,訪中-国慶節参加のパ代表(団長アプドル・ハミド・カーン陸軍参謀長,他9人)訪中。
DIA-304-1969-10-02-1パキスタン1969年10月02日1960年代ヤヒア大統領,東パ学生指導者処罰せずと発表-9月15日以来,ダッカ大学学生を中心に戒厳令に違反する集会・デモが続発していたが,ヤヒア大統領は9月29日よりダッカを訪問,検討の結果「東パ学生指導者の処罰はしない」との発表を行なった。発言要旨は以下の通りである。 わたしは,9月15日以来,ダッカ大学,その他学校の学生が,一度ならず戒厳令に違反したことに警告を発してきた。これら不法行為は非難すべきであり,強い措置をとるべきであろう。しかし,わたしはこれらの学生がまだ若く,一時の感情で行動し,ときには無思慮に動いていることを知っている。これらの誤った方向に導かれている少年達の将来を破壊することは,わたしの好むところではない。したがって,わたしは彼らを処罰しないことに決定した。しかしながら,この寛大な措置を乱用するようなことがあれば,きびしく取り締まるつもりである。
DIA-304-1969-10-05-1パキスタン1969年10月05日1960年代東パで農民大会開く-農民組合(Krishak Samity)の主催により東パのイシュルディ近くのシャープールで農民大会(Peasant Volunteer Conference)が開かれ,農民1万5000人が参加した。大会は対立する二つのグループが衝突する危険があったため,2日間の予定のところ1日で中止された。農民組合はNAP(バシャーニ派)系で,内部にはインドのナクサルバリ式闘争を支持する過激派と,中道を行く穏健派があり,それぞれトロツキスト,新修正主義者などといわれている。 (インド側情報によれば,バシャーニ委員長は中共式人民武装組織をつくり,富裕な土地支配者から土地を奪い,土地をもたない農民に分配する運動を始める用意があると言明したという。また集会参加の農民がダッカにむけデモを行なったという。しかしこれらのニュースはパキスタン・オブザーバー紙では確認できなかった。) 大会で行なったバシャーニNAP委員長演説要旨は以下の通り。 東パの人々は,現在食糧不足,物価上昇,ジュートなどの換金作物の低価格に苦しめられ,政府役人の大規模な汚職で苦しめられている。貧しい人々は,イスラムとか平和とかの名のもとになされる,誤ったスローガンにだまされたりはしない。われわれは,税および手数料などの引下げを要求する。われわれは,また帝国主義者,資本家,封建地主,大企業主,官僚たちによる人民からの搾取に反対する。ここに出席している農民は,反人民勢力の絶滅により,搾取のない,繁栄した社会を建設するために闘わねばない。そうした社会は,社会主義によってのみ建設できる。そのために階級闘争を村にもち込まねばならない。すなわち,社会主義建設の目的達成のために,各ユニオン段階に義勇闘争部隊“Volunteer corps”をつくり力強い運動を開始し,あらゆる搾取に反対する闘争を組織すべきである。社会主義のほかにわれわれの生きる道はないし,パキスタンの病根をなくすることもできない。
DIA-304-1969-10-07-1パキスタン1969年10月07日1960年代パ側カシミール大統領辞任-パ側カシミールのアブドル・ハミド・カーン大統領は辞任すると発表した。後任はアブドル・ラーマン准将(10月8日)。
DIA-304-1969-10-07-2パキスタン1969年10月07日1960年代ガファール・カーン,インドで記者会見-ガファール・カーン(パクトニスタン運動指導者,80歳,インドでは辺境のガンジーと呼ばれている)はインドで記者会見,「われわれは独立のパクトニスタン国家を要求しているのではなく,パキスタン国内で自治州を要求しているのだ」とのべた。これまで同氏はパクトニスタン独立を要求していると見られていた。
DIA-304-1969-10-08-1パキスタン1969年10月08日1960年代世銀,パの平価切下げを勧告か-ニューデリーからの報道によれば,最近パキスタンを訪問した世銀特別調査団はパキスタンの為替レートは不自然であり,現状では長く持たないとの結論に達し,近く平価切下げを勧告するといわれている。
DIA-304-1969-10-14-1パキスタン1969年10月14日1960年代新駐パ米大使,ジョセフ・シンプソン・ファーランド氏決定-ニクソン大統領は新駐パ米大使にジョセフ・シンプソン・ファーランド氏を任命した。同氏はニクソン大統領と個人的に親しい関係にある。
DIA-304-1969-10-15-1パキスタン1969年10月15日1960年代東パの綿工場,操業停止-トンギー,カリガンジ,デムラなどにある10社の綿工場は労働者が最低賃金制(未熟練労働者で月125ルピー)の適用を要求し,事実上のストに入っている。このため綿工場は生産がストップしている。これら労働者はNAP系の東パ労働者連盟(Purbo Pakistan Sramik Federation)に属している。(その後ストに入る工場数は14社に及び,ストは12月10日までつづけられた。)
DIA-304-1969-10-16-1パキスタン1969年10月16日1960年代選挙人名簿記入事務始まる-選挙人名簿記入事務が始まり,ヤヒア大統領が先ず第1号の署名を行なった。
DIA-304-1969-10-20-1パキスタン1969年10月20日1960年代パ代表,北ベトナムに訪問-パ代表(団長K.M.カイザー駐中国大使,他1人)は1週間の予定で北ベトナムを訪問した。
DIA-304-1969-10-25-1パキスタン1969年10月25日1960年代NAP(バシャーニ派)内部対立-パキスタン・オブザーバー(10.26)によれば,NAP(バシャー二派)はその政治路線をめぐって三つの派閥に分かれているという。 ① ナクサライト:武装農民による革命を主張。パブナ,ノアカリ地区で強く,指導者はアブドル・マーティン。 ② 中道派:暴力の使用に反対。指導者はM.トーハ,アブドル・ハク。 ③ 穏健派:憲法にもとづく選挙を主張,指導者はナシウル・ラーマン。
DIA-304-1969-10-26-1パキスタン1969年10月26日1960年代"PDP西パ代表者会議終る-PDP西パ代表者会議が2日間の会議を終え,党役員を選出した。 委員長 N.N.カーン 副委員長 K.M.ザーマン・カーン,他3人 書記長 S.M.S.ジャフリ"
DIA-304-1969-10-28-1パキスタン1969年10月28日1960年代アポロ11号の3飛行士がダッカに到着し,市民の盛大な歓迎をうけた。
DIA-304-1969-10-28-2パキスタン1969年10月28日1960年代チョードリ・モハメッド・アリ(ニザム党前委員長)は健康を理由に政界から引退すると発表した。
DIA-304-1969-10-28-3パキスタン1969年10月28日1960年代PDP中央執行委メンバー,東パ遊説(~11.11)。
DIA-304-1969-10-29-1パキスタン1969年10月29日1960年代法相,総選挙は1956年憲法によると発言-コーネリゥス法相はラホールで記者会見,来るべき総選挙は1956年憲法によって行なうだろうと発言した。
DIA-304-1969-11-01-1パキスタン1969年11月01日1960年代ダッカで再び暴動,死者6人-ダッカで選挙人名簿に使用する言語をめぐってベンガル人とウルドゥ語を使うインド・ビハール州からの難民とが衝突,警察や東パ警備隊EPR,軍などが出動した。衝突の間に6人が殺され,71人が負傷した。東パ戒厳司令部は午後7時から夜間外出禁止令を発布,ダッカ市,ナラヤンガンジ市全域にこれを適用した。衝突の始ったのはミルプールであったが,その後噂が流れてダッカ市のあちこちに波及した。 この事件に関し,野党各派はダッカの人々に平穏を保つよう訴え,混乱を起こすことは民主主義のための闘争を妨げることになるとの声明を発表している。
DIA-304-1969-11-03-1パキスタン1969年11月03日1960年代ダッカ市各地に平和委員会-ダッカ市各地に政党指導者,インテリ・学生などによる平和委員会(Peace Committee)が結成されている。また2日には東パ政党指導者22人が共同声明を発表,国民に平和を呼びかけている。22人の中にはパ回教連盟(PML)から民族人民党(NAP)までが含まれている。なお1~3日の死者は7人。
DIA-304-1969-11-03-2パキスタン1969年11月03日1960年代労使関係法発表-政府は労使関係法Industrial Relations Ordinance 1969を発表した。これはヌル・カーンの新労働政策に依拠して作ったもので,主な内容は以下の通り。 ① 労働者の自由な結社の権利を認める。 ② ILO87・89号にもとづき結社の自由,組織の権利を保証し,団体交渉を認める。 ③ 相互の交渉が失敗したときには,スト権とロックアウト権の行使を認める。 ④ チェック・オフ制を認める。 ⑤ 電信・電話局,鉄道,公社の下で働く労働者もスト権・団交権もつ。ただし軍,軍関連事業は除く。
DIA-304-1969-11-04-1パキスタン1969年11月04日1960年代NAPバシャーニ委員長,ダッカ暴動はジャマート党が原因と発言-NAPバシャーニ委員長は,ダッカでの暴動について,これはパキスタンをインドネシアのように大量殺戮状態にしようとするファナティックなウラマー組織によって起されたものであり,CIA,インド,ジャマート党に責任があるとのべた。
DIA-304-1969-11-05-1パキスタン1969年11月05日1960年代ダッカ事件調査委員会をつくる-政府はダッカ事件調査委員会をつくり,M.ハキム判事およびS.アーメッド判事を委員に任命した。ダッカの状態は平静になっているものの,時々衝突が起こり5日には1人が夜間外出禁止令を犯して射殺され,19人が逮捕された。夜間外出禁止令は6日解除された。
DIA-304-1969-11-10-1パキスタン1969年11月10日1960年代ラホールで24工場がスト-ラホールですでにスト中の3工場に対し,21工場が同情ストを行なった。
DIA-304-1969-11-10-2パキスタン1969年11月10日1960年代北ベンガル州独立要求の大会,クールナで開く-北ベンガル地方を独立の州にするよう要求する大会がクールナで開かれた。しかし独立運動反対の学生・労働者が会場に入り,大会は混乱のまま閉会した。
DIA-304-1969-11-11-1パキスタン1969年11月11日1960年代日本,東パに米10万トン供与-日本政府は東パに米10万トンを供与する旨決定した。これは貸付の形で行なわれるもので,条件は10年据置,20年間にパキスタン米で返済する。利子は年2000トンの米を10年間で支払う。
DIA-304-1969-11-15-1パキスタン1969年11月15日1960年代第3次計画の東パでの実施状況-パキスタン・オブザーバー(11.15)によれば,第3次計画の東パでの実施状況は以下の通り。 ① 第3次計画の東パに対する総投資額は270億ルピーであった。しかし現実には146億2000万ルピーでしかない。このうち公共投資は160億ルピー,民間投資は110億ルピーの計画のところ,現実の投資額はそれぞれ95億ルピー,51.2億ルピーである。しかも1964/65~1968/69の間に物価が25%も上昇したことを考えれば,事実投資はそれぞれ67.5億ルピー,38.4億ルピーでしかなく,実施率は42%,35%である。 ② このため計画目標の達成率は非常に低い。GDPの40%の増加,年成長率の7%増加という目標に対し,現実には年成長率は4.3%,1人当り所得の増加率は年1.5%でしかない。したがって1人当り所得の東西格差は計画の20%縮小に反し,逆に23%拡大した。 ③ 雇用機会の拡大についても,297万人の雇用を確保する計画のところ,現実には124万人の雇用が可能になっただけである。 ④ 物価上昇も著しく,年平均6%もの上昇であった。米価は1964/65~1968/69の4年間に25~42%も値上りした。綿布価格も37%値上りした。1人当り米の消費量も1964/65の170シーアから1968/69の155シーアとなっている。
DIA-304-1969-11-15-2パキスタン1969年11月15日1960年代西パ政府,ガス労働者にスト禁止令-西パ政府はカラチ・ガス会社,インダス・ガス会社,スイ・ガス会社の労働者に対し,公共事業に類するガス企業のストは国民生活を著しく傷つけるとして,そのストを禁止した。(16日カラチ・ガス会社はこの命令に違反してストに入った。)
DIA-304-1969-11-20-1パキスタン1969年11月20日1960年代西パ知事は,1970年以降カラチ大学での試験にベンガル語を使用してもよいと発表した。カラチ大学では東パ出身の学生が試験のベンガル語使用を要求,認められないときは,20日からハンストに入ると宣言していた。
DIA-304-1969-11-21-1パキスタン1969年11月21日1960年代カラチ工業団地で労働者と警察が衝突,1人死亡-カラチのシンド工業貿易団地(SITE)では11月に入ってから労働者のストが続発しているが,一部スト労働者が工場に投石したり,あるいはストに参加していない労働者を工場からつれ出したりしたため警察と衝突,発砲で1人が死亡した。
DIA-304-1969-11-21-2パキスタン1969年11月21日1960年代ハイデラバードでシンド語使用要求の78人逮捕-ハイデラバードで,選拳人名簿にシンド語を使用するよう要求してハンストをしていた学生・労働者など78人が逮捕された。シンド大学の学生組織もこの日集会を聞き,大学でのシンド語使用を要求して「死に至るハンスト」に入ると発表した。
DIA-304-1969-11-23-1パキスタン1969年11月23日1960年代ブット人民党委員長,選挙人名簿にシンド語使用を要求-ブット人民党委員長は選拳人名簿にシンド語使用を要求,もしこの要求が受け入れられないときには人民党は選拳をボイコットすると発表した。
DIA-304-1969-11-28-1パキスタン1969年11月28日1960年代ヤヒア大統領ラジオ放送,総選挙は1970年10月5日と発表-ヤヒア大統領はラジオ放送を行ない,総選拳を1970年10月5日に行なうと発表するとともに,民政移管までの措置を発表した。放送内容要旨は以下の通り。 ① 総選拳は1970年10月5日に行なう。 ② 西パ統一州は廃止する。 ③ 1人1票の原則を認める。 ④ 国の統一を妨げない範囲で,最大限州自治を認める。 ⑤ 新憲法制定のため,120日の会期で新たに選出された国民議会を召集する。会期中に憲法が制定されない場合には,国会を解散し,再び総選拳を行なう。 ⑥ 1970年1月1日より政党活動は自由となる。 ⑦ 1970年3月31日までに,選拳区確定の準備を行なう。 ⑧ 戒厳令は国民の代表に権限が移るまで続く。 ⑨ 憲法制定後に,新政府形成のための段階を規定する。 ⑩ 次の事項に関しては国民の間に同意があり,すでに決着がついたものとみなし得る。 (a)連邦制,(b)直接成人普通選拳,(c)基本的人権の内容とその保証,(d)司法権の独立と,憲法の番人としての役割,(e)回教。
DIA-304-1969-11-29-1パキスタン1969年11月29日1960年代ブット人民党委員長,暗殺未遂,23人逮捕(ムルタン)。
DIA-304-1969-11-29-2パキスタン1969年11月29日1960年代選拳人名簿のシンド語使用許可。
DIA-304-1969-11-30-1パキスタン1969年11月30日1960年代ヤヒア大統領演説に対する反響-大統領放送について各政党の反響が出てきている。一般的に内容については非常に好意的で,歓迎するという反応を示している。西パ側はほぼ歓迎するという空気が強く,東パ側はNAPバシャーニ委員長,ALムジブル・ラーマン委員長などが声明を発表,州自治の内容,人口比例代表制,普通選拳などの内容に不満を表明しつつも,選拳日を確定していることなどに好感を寄せている。
DIA-304-1969-11-30-2パキスタン1969年11月30日1960年代東パで選拳人名簿にウルドゥ語,英語の使用を認める。
DIA-304-1969-12-01-1パキスタン1969年12月01日1960年代第4次計画調整委員会,結論出せず-第4次計画調整委は内部で,①成長率目標,②公共・民間投資の資金配分,③東西パの資金配分,④社会・経済目標などについて意見が対立,結論の出ないまま終了した。計画委員会の提案は,成長率目標6%(東パ6.5%,西パ5%)とする,投資総額は750億ルピーとし公共投資は450億ルピー(60%)とする,東西パ配分は東パ370億ルピー,西パ380億ルピーとする,となっている。
DIA-304-1969-12-02-1パキスタン1969年12月02日1960年代アスガル・カーン,政界からの引退を声明-アスガル・カーン空軍中将は声明を発表,「政界に入った目的は一応達せられた」として政界からの引退を声明した。
DIA-304-1969-12-07-1パキスタン1969年12月07日1960年代政府,汚職などを理由に高級官吏303人を停職処分-戒厳政府は汚職・職権乱用などを理由に,高級官吏303人を停職処分とした。このうち38人は上級公務員(CSP)である。この中にはジャフリ工業省次官・鉄鋼公社総裁,情報省次官らアユブ前大統領の側近などが含まれている。
DIA-304-1969-12-08-1パキスタン1969年12月08日1960年代NAP(バシャーニ派)東パ支部,選挙参加をめぐって対立-NAP東パ支部委員会は来るべき選挙に参加するかボイコットするかについて討議,投票した結果,賛成10,反対8,棄権5でかろうじて賛成が決められた。但し最終決定は全国委員会で決められる。
DIA-304-1969-12-08-2パキスタン1969年12月08日1960年代パ回教連盟PML中央執行委,選挙参加を決定-PMLはアユブ総裁邸で中央執行委を開き,選挙に参加することを決定すると共に,西パ委員長キルマニ氏に対し,党規則に違反したこことを理由に除名を決定した。このPML中央執行委を東パの反首流派はボイコットしている。
DIA-304-1969-12-17-1パキスタン1969年12月17日1960年代パ・ソ陸路交易開く-パ・ソ連を結ぶ陸路交易が再開された。これはアフガニスタンのヘラート,ファラー,カンダール,チャマンを経由してパキスタンのクェッタ・カラチに至る経路。
DIA-304-1969-12-20-1パキスタン1969年12月20日1960年代PDP全国執行委終る-PDP全国執行委が終り,①パ通貨の平価切下げ,②輸出ボーナス制廃止,③ジュート価格引上げ,④第4次計画立案は選挙による政府が行なう,などが決議された。
DIA-304-1969-12-21-1パキスタン1969年12月21日1960年代戒厳政府,政党活動の基準発表-戒厳政府は1970年1月1日から制限が廃止される政党活動に関し,以下の基準を発表した。 (1)パキスタンの統一と安全を妨げる言動は許されない。 (2)暴力の使用,脅迫,財産の破壊,政府機関,教育機関への妨害活動,言論圧力,他政党の中傷,選挙実施に反対するプロパガンダは,これを中止する。 (3)集会・デモの事前届出。 (4)集会・デモにおける武器携帯禁止。 (5)国家反逆,異なった地域・民族・コミュニティ・カースト・セクト・少数民族・階級の人々の間に敵意・憎悪をもたせる発言などは禁止する。 (6)上記のことを示唆し,あるいは暴力行使をそそのかすようなプラカードを持つことは禁止。 (7)他政党の集会・デモヘの妨害行為は禁止。 (8)政治犯以外の罪で有罰の判決をうけてから5年以内のもの,および公務員で解雇・追放後年以内のものは集会に参加し,発言してはいけない。
DIA-304-1969-12-31-1パキスタン1969年12月31日1960年代1970年1~6月の輸入政策発表-政府の発表した新輸入政策の特徴は,①輸入商品の域内移動を7月1日以降禁止,②輸入許可品目を33から38品目に増加する,③ボーナス品目から若干の品目をボーナス・現金併用品目に移す,等でその他については従来のものと大きく変化はない。いずれも東パの人々の主張を原則的にとり入れたものとして注目されている。
DIA-304-1969-12-31-2パキスタン1969年12月31日1960年代アユブ前大統領,政界からの引退を発表。