ID 国名 日付 年代 内容
DIA-304-1970-01-01-1パキスタン1970年01月01日1970年代政治活動制限大幅緩和――ヤヒア大統領は戒厳令による政治活動制限を大幅に緩和した。各地で政党・学生組織など一斉に政治活動再開。
DIA-304-1970-01-02-1パキスタン1970年01月02日1970年代大統領,東パ政治家と会見――昨年12月23日からダッカを訪問中のヤヒア大統領は東パ諸政治指導者を一堂に招集し,総選挙実施のため平穏を保つよう訴えた。
DIA-304-1970-01-07-1パキスタン1970年01月07日1970年代経済格差平衡基金設立――政府は東パおよび西パ後進地域の中小企業に資金を貸付けるために2億ルピーの授権資本(払込資本は5000万ルピー)をもって経済格差平衡基金を設立した。同基金はパキスタン工業開発銀行(IDBP)が取扱い,本部はダッカに置かれる。
DIA-304-1970-01-08-1パキスタン1970年01月08日1970年代アスガル・カーン元空軍総司令官,政界復帰を表明。
DIA-304-1970-01-08-2パキスタン1970年01月08日1970年代選挙人名簿作成業務,東西パとも完了――有権者数は東パ3100万(全パ有権者数の55%強),西パ2500万。
DIA-304-1970-01-09-1パキスタン1970年01月09日1970年代パキスタン民主党(PDP)から脱退者――PDP党員4人は同党指導部を非民主的であると非難,脱退してアスガル・カーン支持を表明した。この後も11日に50人,13日に150人というように,アスガル・カーン支持のPDP党員の脱退がつづいている。
DIA-304-1970-01-10-1パキスタン1970年01月10日1970年代新政党「全パ回教連盟」結成――カーイデ・アザム・ムスリム連盟はパ・ムスリム連盟(PML)の反主流派と結合,新たに全パキスタンムスリム連盟(All Pakistan Muslim League,APML)を結成した。委員長はカユーム・カーン,書記長K.A.サブル元運輸相。
DIA-304-1970-01-14-1パキスタン1970年01月14日1970年代政府,IDBP本部ダッカ移転を決定。
DIA-304-1970-01-18-1パキスタン1970年01月18日1970年代ダッカのジャマート大衆集会混乱――混乱は同党の人民連盟(AL)批判によって生じ,死亡者2名,負傷者400名を出した。このため19日,ダッカでAL系学生組織東パ学生連盟(EPSL)の呼びかけで3時間ハルタル(ゼネスト)が行なわれた。
DIA-304-1970-01-19-1パキスタン1970年01月19日1970年代東パのサントスで第2回農民大会――全国から数千の農民・労働者また民族人民党(NAP)両派・パ人民党(PPP)等の政党代表者も参加したが,NAP(パシャーニ派)のトーハ書記長等は欠席した。席上パシャーニNAP委員長が演説し,要旨以下の演説を行なった。①選挙前に十分な食糧を供給せよ。②食糧,州自治,労働者,農民用の議席割当て等の条件が満たされない時には選挙はあり得ない。③政府は完全な社会主義を確立せよ。④100万人の労農兵を養成し,国家主権および被抑圧階級の利益を擁護する必要がある。
DIA-304-1970-01-21-1パキスタン1970年01月21日1970年代パ・ルーマニア,1969-70年貿易協定調印。片道4100万ルピーのバーター取引。
DIA-304-1970-01-23-1パキスタン1970年01月23日1970年代ALのアーミナ夫人(東パAL前書記長代理,急進派)脱党。3月14日,人民進歩連盟(NPL)に加入。
DIA-304-1970-01-26-1パキスタン1970年01月26日1970年代ハイデラバードに軍出動――対立する政治グループがハイデラバードで衝突,学生等が通信社,新聞社,映画館等を襲撃し,21人負傷,20人逮捕。対立したのはシンド土着の人々と,独立後シンドに来た難民達。
DIA-304-1970-01-27-1パキスタン1970年01月27日1970年代ハイデラバードでハルタル――ハルタルによって事態は悪化,さらにヒラーレ・パキスタン紙(PPP系)等が襲撃され,軍のパトロールが続いている。学生はハイデラバード県知事,市長,シンド大学副総長の解任を要求している。
DIA-304-1970-01-28-1パキスタン1970年01月28日1970年代ハイデラバードで政治活動禁止――ハイデラバード戒厳当局は48時間の政治活動禁止を行ない,一方,ヌル・カーン西パ知事は学生に平穏を保つよう訴えた。
DIA-304-1970-01-31-1パキスタン1970年01月31日1970年代ヌール・カーン西パ知事辞任――後任にアティークル・ラフマーン陸軍中将。
DIA-304-1970-02-02-1パキスタン1970年02月02日1970年代ダッカ商工会議所,独自の計画委員会設置を要求――ダッカ商工会議所ラーマン総裁は記者会見で要旨以下の要求を行なった。①中央銀行を含む全金融機関の中心を東パに移す。②経済省,大蔵省,商業省,工業・資源省の支所を東パに設置する。③中央とは別個の計画委員会を設置し,それが東パの計画・資金運用などを全面的に管轄する。
DIA-304-1970-02-04-1パキスタン1970年02月04日1970年代ダッカで労働者同士衝突――ダッカ,テージガオン工業地帯のコヒヌール化学工業会社でNAP(パシャーニ派)系の東パ労働者連合(East Pakistan Sramik League)とAL系の民族労働者連盟(Jatiyo Sramik League)が衝突し,30人負傷,17人が逮捕された。5日にはチッタゴンのA.K.カーン・ジュート工場でもNAP系・AL系の労働組合組織の労働者が衝突,死者1人,負傷者25人,逮捕者12人。東パ各地で同様な衝突が頻発している。
DIA-304-1970-02-06-1パキスタン1970年02月06日1970年代クールナ商工会議所,インドとの交易再開要求――東パはインドにジュートを輸出できずジュート価格が低迷している。一方,インドからの石炭・鉄鋼等の輪入禁止のため,それらの価格騰貴をきたしている。
DIA-304-1970-02-06-2パキスタン1970年02月06日1970年代パ・ソ連,1970年の貿易協定調印――片道1億1000万ルピー弱のバーター取引。
DIA-304-1970-02-07-1パキスタン1970年02月07日1970年代政府,パ鉄鋼公社総裁S.M.ユースフを閣外大臣に任命。
DIA-304-1970-02-07-2パキスタン1970年02月07日1970年代日本,対パ第9次円借款で3000万ドル相当額供与協定に調印。
DIA-304-1970-02-10-1パキスタン1970年02月10日1970年代パ,ポーランドと片道1億1500万ルピーの1970年バーター取引協定調印。
DIA-304-1970-02-12-1パキスタン1970年02月12日1970年代政府,パ軍人のヨルダン派遣について反論――政府スポークスマンは「パはヨルダンに多数の軍人を派遣している」との外国紙ニュースに対し,「パはヨルダン軍に軍事訓練は行なっているが,外国紙ニュースは非常な誇張である」と反論した。
DIA-304-1970-02-13-1パキスタン1970年02月13日1970年代スワートのミンゴラ・エメラルド鉱山で労働者と警察が衝突,3人死亡,18人負傷。
DIA-304-1970-02-15-1パキスタン1970年02月15日1970年代スワートに軍出動――スワートでは集会・ストが禁止され,13日以来24人が死亡したというが,政府発表では死亡者は5人。なお,19日までに計44人が逮捕された。
DIA-304-1970-02-18-1パキスタン1970年02月18日1970年代ニクソン大統領,外交教書発表――その中で同大統領は南アジアに関し要旨以下のように述べている。「アメリカは1965年の印パ戦争時に停止した軍事援助の再開を要求するパ政府に対して検討を約束したが,結論はまだ出ていない。パとインドは軍備拡張競争を停止すべきであり,アメリカは両国の繁栄のため協力関係樹立を援助する用意がある」。この外交教書に対してパ外務省は慎重に検討するまで何もいえないとしながらも要旨以下のようなコメントを行なった。「アメリカやソ連などの友好国がパ・インドの根本的紛争について平和解決を援助しようとすることは,パにおいて心からの支持を受けよう。しかしパは小国であり,大国の対立の中に身を投ずることはできない」。
DIA-304-1970-02-24-1パキスタン1970年02月24日1970年代パ債権国予備会議,パリで開く(~26日)。
DIA-304-1970-02-26-1パキスタン1970年02月26日1970年代シンド統一戦線(SUF),ALを支持――シンド統一戦線(SUF)のG.M.サイード委員長はダッカでムジブル・ラーマンAL委員長に会見し,SUFはALの6項目要求を支持すると述べ,ALとの協力関係を強調した。
DIA-304-1970-02-27-1パキスタン1970年02月27日1970年代政府,独禁法発表――要点は次のとおり。①経済力の集中,非合理的独占力,非合理に限定された取引などを禁止する。②独占統制局を設置する。③独占統制局への代表は東西パ同数とする。④この法は政府が所有している企業および政府が株式の過半数を所有している企業には適用されない。
DIA-304-1970-02-27-2パキスタン1970年02月27日1970年代チッタゴンでのPDP大衆集会混乱――集会ではヌールル・アミーン委員長などが演説したが,AL支持者群が「6項目万歳」を叫んで乱入し,集会後もPDP指導者のホテルなどに投石し,30人が逮捕された。
DIA-304-1970-02-28-1パキスタン1970年02月28日1970年代カラチ株式取引所長,独禁法反対――L.E.ジャマール同所長は,先進国企業がパに投資を増加させている現在,独禁法はパ経済成長を遅延させ,時代錯誤的であると批判した。
DIA-304-1970-03-01-1パキスタン1970年03月01日1970年代アスガル・カーン,市民運動を組織――アスガル・カーン元空軍総司令官はPDPを脱退していたが,このほど「国民主権運動(タフリーケ・イステイクラール)」と呼ばれる。新しい市民運動を通して民主主義と国の統一のための活動を行なう旨発表した。
DIA-304-1970-03-02-1パキスタン1970年03月02日1970年代米大使館,パ内政への干渉を否定――2月27日,ラーホールのウルドゥー語日刊紙が「アメリカの外交官がPL480や村落援助計画などを利用して,ALを支持するよう農民に働きかけている」との某政治家の発言を掲載したことに対し,駐パ・米大使館は「まったく根拠のないことだ」と反論した。
DIA-304-1970-03-02-2パキスタン1970年03月02日1970年代汚職公務員処分決定――政府は,停職を命じた汚職公務員303人のうち最初の30人の処分を決定した。内訳は19人免職,8人退職,3人が復職(残りの人々の処分は以後さみだれ的に発表されている)。
DIA-304-1970-03-02-3パキスタン1970年03月02日1970年代ファラッカ会談進展なし――2月24日からラワールピンディで行なわれていたファラッカ堰問題に関するパ・インド次官級会談は何の進展もなく終了した。
DIA-304-1970-03-03-1パキスタン1970年03月03日1970年代北鮮からの友好使節団,ペシャーワル訪問――北鮮からの友好使節団一行5人は同地のパ・北鮮友好協会の招きでペシャーワルを訪問した。団長は鄭承奎対外文化連絡委,一行は5日からダッカを訪問して帰国する。
DIA-304-1970-03-07-1パキスタン1970年03月07日1970年代ジャマート機関紙,アメリカのパ内政干渉批判――ジャマート・プレス紙は「駐パ米国大使館はパの内政に対して不可解な言動を行なっている。パ政府はこれに抗議すべきである。ファーランド米国大使の就任以来,突然こういう言動が増加しており,われわれは同大使の解任を要求する」と述べている。
DIA-304-1970-03-07-2パキスタン1970年03月07日1970年代世銀調査団,第4次計画の外国資金検討――マンフレッド・ブローベル氏を団長とする世銀調査団は3月初め訪パ以来,政府役人,財界人との会談を重ねている。同調査団の目的は第4次計画中に必要な外国援助を検討するためで,援助の増大,条件緩和,返済などについても検討する。4月4日まで滞在。
DIA-304-1970-03-08-1パキスタン1970年03月08日1970年代ムスリム連盟評議会派(MLC),SUFに警告――MLCタウルタナ委員長はスックールで「もしSUFのサイード委員長がALとの選挙連合を続けるならば,MLCはSUFとの選挙協定を破棄するだろう」と述べた。
DIA-304-1970-03-09-1パキスタン1970年03月09日1970年代東パ全域で私立中学教師スト。
DIA-304-1970-03-09-2パキスタン1970年03月09日1970年代郭沫若中国友好使節団,訪パ――郭沫若中国人民代表会議常設委副議長を団長とする中国友好使節団が訪パ(~3月12日),ダッカ空港に到着した。一行は3月11日ラワールピンディでヤヒア大統領と会見。
DIA-304-1970-03-10-1パキスタン1970年03月10日1970年代ダッカ県全域で運輸労働者スト――ダッカ県運輸労働者組合は2月10日以来の12項目要求貫徹のため無期限ストに突入し,1万人が参加した(~4月1日)。東パ陸運公社労組は3月12日からストに入る。
DIA-304-1970-03-10-2パキスタン1970年03月10日1970年代AA連帯委員会,ラワールピンディで集会――同集会はニクソン米大統領の外交教書を批判し,決議文の中で要旨以下のように述べた。「ニクソン大統領のパ・インド関係改善の政策はパの独立と主権に対する新たな攻撃である。パ政府は同教書に対して明確な立場をとらねばならないし,パ人民はパ・インドの協力という名のもとにカシミール問題を凍結したり,パを反中国に変えさせることによってパの主権と独立を冒そうとするすべての試みに断固反対せねばならない。」
DIA-304-1970-03-16-1パキスタン1970年03月16日1970年代外国の対パ民間投資――中央銀行報告によれば1966~68年の3年間の対パ外国民間投資は2億4180万ルピーであった。
DIA-304-1970-03-17-1パキスタン1970年03月17日1970年代ブット,記者会見――ブットPPP委員長はラーホールで記者会見,「ALの6項目要求は東パの分離以外の何ものでもない。また,政府が共産党を合法化すれば民主的措置といえよう。私自身は進歩的ナショナリズムと社会主義を信じている」と述べた。
DIA-304-1970-03-20-1パキスタン1970年03月20日1970年代ダッカ第1労働法廷,運輸労働者ストを違法と判決。
DIA-304-1970-03-21-1パキスタン1970年03月21日1970年代バシャーニNAP委員長,共産党の合法化要求。
DIA-304-1970-03-21-2パキスタン1970年03月21日1970年代カラチ製鋼所計画に関するソ連調査団,調査完了――2月4日より訪パしていたソ連調査団はカラチ鉄鋼公社当局との話合いをほぼ完了し,18週以内にフィージビリティ・レポートを提出する。
DIA-304-1970-03-22-1パキスタン1970年03月22日1970年代NAP(バシャーニ派)書記逮捕――NAP東パ支部アヌワール・ザーヒッド書記は非合法集会等の科で逮捕された。
DIA-304-1970-03-23-1パキスタン1970年03月23日1970年代西パ初の農民大会――西パのトバ・テク・シンで初の農民大会が開かれ,バシャーニNAP委員長が要旨以下の演説を行なった。①パの大衆は回教社会主義を支持している。このことに政府が疑問を持つなら直ちにこの問題について国民投票を行なうべきだ。②社会主義革命闘争が弾圧され,大衆集会が禁止されればわれわれはパレスチナ型のゲリラ戦争に訴えるだろう。③パ人民は1965年印パ戦争中,中国が断固パ支持を表明したことを忘れない。CIAがパ・中国の友好を妨げようとしているが失敗しよう。④パ官僚は開発資金で私腹を肥やすなどの不正を行なっている。⑤西パでは12.5エーカー,東パでは5エーカー以下の土地に対する地租は15日以内に廃止せよ。⑥アメリカ政府は印パ戦争中,もし東パが独立を宣言すれば直ちに承認し,50億ルピーを供与すると提案したという。このことはCIA書類中にあり,政府はこの書類を出版すべきだ。
DIA-304-1970-03-23-2パキスタン1970年03月23日1970年代ジャマート,共産党合法化反対。
DIA-304-1970-03-23-3パキスタン1970年03月23日1970年代新教育政策発表――要点は次のとおり。①政府は教師基本給増加のため東パに6億8000万ルピー,西パに3億2000万ルピーを追加供与する。②学問の自由と自治とをまもるため教育行政の中央統轄を廃止する。③宗教教育は教育制度の中で重要な役割を果たすものとする。
DIA-304-1970-03-23-4パキスタン1970年03月23日1970年代NAP(バシャーニ派)東パ支部マシュフール・ラーマン書記逮捕――理由は3月23日にトバ・テク・シンでの農民大会で挑発的な演説を行なったというもの。
DIA-304-1970-03-28-1パキスタン1970年03月28日1970年代ヤヒア大統領,全国ラジオ放送――①新国会議員数は313人とし,内13議席は婦人に割り当てる。②新憲法は回教の原則に基づかねばならない。③パは「パキスタン回教共和国」と称し,連邦制とする。④州政府は最大限自治を持ち,その中には立法・行政・財政の権限が含まれる。⑤外交関係は互恵の原則に基づき,第3国との関係は独立したものとする。⑥西パ統一州は7月1日までに廃止する。⑦第4次5カ年計画は7月1日から実施する。⑧政府は東パ洪水対策のため特別基金を設ける。⑨定期的自由選挙,司法の独立,基本的人権を含む民主的憲法が制定されねばならない。
DIA-304-1970-03-29-1パキスタン1970年03月29日1970年代ヤヒア大統領,選挙要綱発表――要点は次のとおり,①議会が120日以内に憲法を制定できない時には解散する。②大統領は新憲法の拒否権を持つ(要綱25条)。③選挙要綱の修正権は大統領のみが有する(同27条1項)。④選挙要綱の解釈に疑義ある場合は法廷によらず大統領のみが最終的解釈権を持つ(27条2項)。
DIA-304-1970-03-31-1パキスタン1970年03月31日1970年代ヤヒア大統領,記者会見――要旨は次のとおり。①ルピー切下げの決定はない。②アメリカがパ・インド地域への武器売却に関する態度を再検討しているというが,パについては進展はない。③アメリカがだめなら他からの購入を考えざるをえない。
DIA-304-1970-03-31-2パキスタン1970年03月31日1970年代PPP大衆集会混乱――ハイデラバード付近でのPPP集会に「パガロ(シンド地方の有力者)万歳」を叫ぶ集団が乱入し,さらにPPPのデモ隊に発砲,4人死亡,61人負傷,ブット委員長も負傷した。
DIA-304-1970-04-01-1パキスタン1970年04月01日1970年代西パキスタン分割法発表――政府は7月1日より西パキスタンを4つの州に分割するため,同分割法を発表,同時に各州の理事を任命した。知事は当面,分割に伴なう準備事務を統轄する。各州知事は以下のとおり。 シンド州――ラクマーン・グル陸軍中将,バルーチスタン州――リアーズ・フセイン陸軍大将,北西辺境州――K.M.アズハード・カーン陸軍中将,パンジャーブ州――M.A.ラフマーン陸軍中将(現西パ州知事)
DIA-304-1970-04-01-2パキスタン1970年04月01日1970年代1人当たり所得の地域別内訳――計画委副議長が発表した1人当たり所得(1968/69)の地域別内訳は以下のとおり。 パキスタン    525ルピー 東パキスタン   460 〃 西パキスタン   611 〃 (カラチ・シンド854ルピー,パンジャブ 614ルピー,バルチスタン 455ルピー,NWFP 360ルピー)
DIA-304-1970-04-01-3パキスタン1970年04月01日1970年代東パAL執行委,選挙要綱を批判――東パAL執行委は3月29日の選挙要綱について,とくにその25条,27条は国民の主権を侵害するものであるとして反対決議を行なった。この問題をめぐり,若手党員は選挙ボイコットを主張したがこれは否決された。なおこの選挙要綱についてはALだけでなく,人民進歩連盟(NPL),労農党(KSP),NAP両派,PDP,PPPなどが反対している。ただしムスリム連盟系の3政党,ジャーマトなどは支持を表明。
DIA-304-1970-04-02-1パキスタン1970年04月02日1970年代中国経済友好使節団,訪パ――中国対外経済連絡委員長,方毅を団長とする中国経済友好使節団は,10日間の公式訪パのため上海よりダッカに到着した。4月6日にはヤヒア大統領とともに,ダッカ近郊ジョイデプールにある中国援助の兵器工場開所式に出席した(~11日)。
DIA-304-1970-04-04-1パキスタン1970年04月04日1970年代ヤヒア大統領,東パ訪問――大統領は1週間の予定で東パを訪問,ダッカ空港で記者会見,選挙要綱についての質問に答え,「これは国民の代表の権限を犯すものではない。現在は正常の状態ではないことを忘れないでもらいたい。今は戒厳令下にあり,それは私が選んでそうしたわけではない」と述べた(~10)。
DIA-304-1970-04-05-1パキスタン1970年04月05日1970年代英運賃同盟船主代表,訪パ――英・インド・パキスタン運賃同盟船主代表L.G.ハドソン氏は,運賃の15%引上げについて協議するためパキスタンを訪問した。パキスタン荷主協議会はこの運賃引上げに強く反対している。
DIA-304-1970-04-08-1パキスタン1970年04月08日1970年代閣僚会議,基本的民主主義(BD)制度の廃止を決定――ダッカで開かれた閣僚会議はBD制の廃止を決定,地方行政機構として次のように決定した。 ①村落評議会は議員,議長とも直接選挙。②地方・都市評議会の議員について直接選挙,議長は互選。③これらはいずれも任命議員を作らない。④これらの選挙は州議会選挙直後に行なう。
DIA-304-1970-04-09-1パキスタン1970年04月09日1970年代訪パ中国経済友好使節団,対パ援助協定に調印――訪パしていた中国経済友好使節団(団長方毅)はイスラマバードで以下の4プロジェクトに対する援助協定に調印した。 ①砂糖工場(西パ)―機械はタキシーラの機械工場で作る。②肥料工場(東パ)―日産150トンのアンモニア肥料生産。③耐火レンガ(東パ)―年産1万トン。④鉱物工場(西パ)―タキシーラ。
DIA-304-1970-04-10-1パキスタン1970年04月10日1970年代ヤヒア大統領,ダッカで記者会見――大統領はダッカで記者会見,選挙要綱について,「大統領として,私は国会と同じく憲法制定に関与する。もし国会の作成した憲法が国の原則に合致していなければ,大統領はそれを再び国会に戻して再考を要請する権限をもつ。多くの政治家の選挙要綱を支持している」と述べた。
DIA-304-1970-04-10-2パキスタン1970年04月10日1970年代西パ政府,政府の新給与を発表――新給与は月平均50ルピー以上の引上げとなっている。例えば小学校教師は初任給で月100ルピーが150ルピーに,校長は400~900ルピーが450~1,000ルピーに,大学助手は275~500ルピーが350~925ルピーに,教授(古参)は750~1,500ルピーが875~1,700ルピーに引上げられた(東パ政府は4月27日に新給与を発表)。
DIA-304-1970-04-10-3パキスタン1970年04月10日1970年代選挙区画定法発表――政府は選挙区画定法を発表した。この特徴は1区1人という小選挙区制をとっていることである。
DIA-304-1970-04-12-1パキスタン1970年04月12日1970年代SUF,MLCとの選挙連合破棄――SUFはMLCとの選挙連合を破棄することを決め,選挙は単独で争うことを決定した。
DIA-304-1970-04-12-2パキスタン1970年04月12日1970年代東パ・ボグラで農民大会――東パ・ボグラでNAP(パシャーニ派)主催の農民大会が開かれた。これは第3回目のものである。
DIA-304-1970-04-13-1パキスタン1970年04月13日1970年代アメリカ,8300万ドル援助協定に調印――アメリカはパキスタンに対し,8300万ドル(3億9400万ルピー)の商品援助を供与する協定に,イスラマパードで調印した。これは1969/70年度中にアメリカが供与を約束した1億8000万ドル援助の一部となるもので,このうち4500万ドルは鉄鋼・化学製品などの工業用原材料輸入,3500万ドルは肥料・農業などの輸入にあてられ,残り300万ドルはマラリア撲滅計画,鉄道近代化,科学技術教育などに使われる。調印したのは,ファーランド駐パ米大使とV.アーメッド経済局長。
DIA-304-1970-04-15-1パキスタン1970年04月15日1970年代全国のジャーナリスト,スト突入,新聞の発行止まる(~23日)。
DIA-304-1970-04-17-1パキスタン1970年04月17日1970年代日本はダッカ・チッタゴン間ハイウェーのシタラキア橋建設を行なうことに決定した。
DIA-304-1970-04-24-1パキスタン1970年04月24日1970年代バハワルプールに軍出動――バハワルプールでは,同地方の州への昇格を要求するデモ隊が警察と衝突,その発砲により2人が死亡,2人が負傷した。警察は治安維持のため軍の出動を依頼,軍は集会禁止令および外出禁止令を出し,市内をパトロールした。軍はデモの指導者9人を逮捕した。
DIA-304-1970-04-25-1パキスタン1970年04月25日1970年代パ・ハンガリー貿易協定(バーター)に調印。片道4000万ルピー。
DIA-304-1970-04-26-1パキスタン1970年04月26日1970年代ヤヒア大統領,中国の人工衛星打上げで周恩来首相に祝電。
DIA-304-1970-04-28-1パキスタン1970年04月28日1970年代選挙区画定作業終る。
DIA-304-1970-04-29-1パキスタン1970年04月29日1970年代東パで軍弾薬箱13個盗まる――チッタゴンからのニュースによれば,4月12日,チッタゴン港からダッカの軍駐留地に送られた軍事物資の貨物の中から軍弾薬箱13個が盗まれた。この中には実弾1,100発が入っている。警察はマスタンナガル駅近くの草むらで空箱を見つけたという。
DIA-304-1970-05-01-1パキスタン1970年05月01日1970年代東パ学生連合,分裂――NAP(バシャーニ派)系の学生組織である東パ学生連合(EPSU)は,運動方針をめぐって分裂した。これはNAPの選挙参加をめぐる内部分裂に対応している。分裂した結果,EPSUは以下の3つの組織となった。 ハイデル派――名称をかえ,東パ革命的学生連合。NAPパシャーニ派系。 マハッブラー派――名称をベンガル語にかえ,東パ学生連合。NAPアラーウッディーン派系。 ディリップ派――EPSUを名のる。NAPトーハ派系。
DIA-304-1970-05-04-1パキスタン1970年05月04日1970年代NAPバシャーニ委員長,アメリカを非難――NAPバシャーニ委員長は声明を発表,アメリカのカンボジア介入を非難,「アメリカのカンボジア侵入は暴力によるおどしであり重大な内政干渉である。今やパ政府がアメリカのベトナム・カンボジア干渉を公然と非難し,あらゆる軍事的関係を打ち切るときである」と述べた。 NAP(ワリ・カーン派)はダッカで米軍のカンボジア介入抗議集会を開き,USISの前でデモを行なった。
DIA-304-1970-05-05-1パキスタン1970年05月05日1970年代ダッカ爆発事件――ダッカのアメリカ・センターとパキスタン・カウンシル図書館に爆弾が投げ込まれた。負傷者はなく,被害も軽微。1人の若い男が図書館に現われ,中で本を読んでいる人々に外に出るよう警告した後で火炎ビン2本と手製の爆弾を投げて逃亡した。しばらくして,近くのアメリカ・センターにも爆弾が投げ込まれた。
DIA-304-1970-05-06-1パキスタン1970年05月06日1970年代ダッカ近郊マリバークで爆発事件――ダッカ近郊マリバーグで列車の中から投げられた手製爆弾4つのうち3つが爆発,近くの少年4人が負傷した。東パでは5日に次いでの2度目の爆発事件であり,「テロの徴候」であるとして関心を集めている。これらの事件の背景についてはまだ明確ではないが,何らかの政治的背景があると見られている。
DIA-304-1970-05-07-1パキスタン1970年05月07日1970年代ダッカでアメリカのカンボジア介入抗議デモ――ダッカでNAP(バシャーニ派),東パ労働者連合,東パ革命的学生連合,東パ学生連合主催により,カンボジアへの米軍侵入抗議デモが行なわれ,アメリカの全インドシナからの撤退,シアヌーク政権支持,米との軍事同盟破棄,米製品ボイコットなどを決議した。
DIA-304-1970-05-10-1パキスタン1970年05月10日1970年代クールナで手製爆弾爆発,少女2人負傷,6人逮捕――クールナで2人の少女が遊んでいる所に手製爆弾が投げ込まれ,負傷した。この事件で学生,婦人各2人を含む6人が逮捕された。クールナでは過去1カ月半に7回も爆発事件があり,死亡1人,負傷者12人を出している。
DIA-304-1970-05-10-2パキスタン1970年05月10日1970年代ブット人民党委員長,アメリカのカンボジア侵略を非難――「アメリカの軍事介入はインド亜大陸にも起こりうる。きのうはベトナム,きょうはカンボジア,そして明日はパキスタンに起こるかもしれない。政府はこの米軍介入に明確な態度をとるべきだ」と述べた。
DIA-304-1970-05-11-1パキスタン1970年05月11日1970年代PIAのトライデント旅客機の中国への売却交渉,最終段階に――中国の航空公司代表は,PIAから英国制トライデント旅客機4機を購入する交渉をカラチで行なっていたが,11日帰国し,交渉は最終段階に入った。PIAは現在ボーイング7機,フレンドシップ11機をもっているが,トライデント機を売却して,ボーイング707型機を3機購入する計画をたてている(交渉は5月27日にまとまった)。
DIA-304-1970-05-11-2パキスタン1970年05月11日1970年代ダッカで再び爆発事件,2人死亡――ダッカで再び爆発事件があり,少年2人が死亡した。 ダッカでの一連の爆発事件について,NAP(両派),AL,PDP,ジャマートなどは声明を発表,これは選挙に反対するグループが暴力により選挙を妨害しようとするものであるとして非難している。
DIA-304-1970-05-15-1パキスタン1970年05月15日1970年代中国から貿易代表団,訪パ――中国からLien Chen-hscen氏を団長とする貿易代表団一行4人が訪パした。シルク・ロードを通しての陸路交易拡大について話合う(~22日)。
DIA-304-1970-05-15-2パキスタン1970年05月15日1970年代西パ政府,米の供出価格引上げ――西パ政府は米の政府供出価格を引上げ,以下のように改めた(1モーンド当たり・ルピー)。 バスマティ米(上質)32 イリ米(精米)(中質)20.25 〃(ボイル米)(〃)18.75 ベグミ米(中質)20.00 カンニ米(〃)19.00 ジョシ米(下級)18.50
DIA-304-1970-05-16-1パキスタン1970年05月16日1970年代ダッカ大学自治会選挙――選挙には6学生組織および無所属からの立候補があったが,NAP(バシャーニ派)系の東パ学生連盟3派は選挙をボイコットし,AL系の東パ学生連合系(EPSL)が多数を獲得,NAP(ワリ・カーン)系の東パ学生連合(EPSU)(モティア派)が第2位を占めた。PDP系,ジャマート系は議席をえられなかった。
DIA-304-1970-05-18-1パキスタン1970年05月18日1970年代MLC,西パ各州議会の議席増を主張――MLCは西パ各州議会議席数が,全体で300議席になっていることに反対,510議席にふやし,その州別配分は,パンジャーブ250,シンド120,NWFP100,バルーチスタン40にするよう主張した。
DIA-304-1970-05-20-1パキスタン1970年05月20日1970年代パ,ソ連と原子力平和利用に関する協定に調印。
DIA-304-1970-05-22-1パキスタン1970年05月22日1970年代ダッカのシャンプール工業地帯で労働者・警官の衝突,10人死亡――ダッカの近郊シャンプール工業地帯でスト中の労働者と警官隊が衝突,労働者など10人が死亡,110人以上が負傷し,うち43人は入院,10人が重態(なお非公式には死者は35人に達するという)。警察側の負傷者は34人,逮捕者は157人。この事件で警官1人が殺されたという(死者の数は24日には13人となった)。
DIA-304-1970-05-23-1パキスタン1970年05月23日1970年代シャンプール警察発砲事件で抗議のハルタル――シャンプールでの警察発砲事件に抗議してダッカ市では完全なハルタルが行なわれ,いくつかの集会,デモが行なわれた。
DIA-304-1970-05-23-2パキスタン1970年05月23日1970年代A.B.アワーン前内相,アスガル・カーンの運動に加入――A.B.アワン前内相・前情報局長は1970年4月に退役し,アスガル・カーンの国民主権運動に加入すると発表した。記者会見でアワン氏は外国からの政治資金についての質問に答え,「ある政党が外国から資金をえていることは確かである。それら資金は外国から持ち込む必要はない。そうした資金は現在十分積みたてられている」と述べた(なおA.K.カーン前工業相も25日,同運動に加入を発表した)。
DIA-304-1970-05-23-3パキスタン1970年05月23日1970年代パルバティプールで飢餓行進――パルバティプールのハシドプール,バワニプールから約2,000人の農民がディナジプールにむけ25マイルを裸足で行進し,地方長官事務所前で,食糧・衣類などを要求した。この飢餓行進はNAP(バシャーニ派),KSP,学生らの指導によって行なわれたもので,東パでのこうした行進が報告されたのはこれが初めてのことである。
DIA-304-1970-05-30-1パキスタン1970年05月30日1970年代パルバティプールで再び飢餓行進――パルバティプール地区ディナジプールで再び飢餓行進が行なわれた。今回の主催はAL,NAP(ワリ・カーン派),学生,人力車夫組合など。
DIA-304-1970-05-30-2パキスタン1970年05月30日1970年代NAP(バシャーニ派)書記長辞任――NAP(バシャーニ派)書記長M.トーハ氏はダッカで声明を発表,NAPからの脱退を明らかにするとともに,バシャーニ委員長を批判して「NAP脱退の理由は,NAPがその基本的原則から逸脱し,民主的組織ではなく,バシャーニ委員長の独裁制になっていること,バシャーニ委員長は口先では社会・経済・政治の各分野での過激な改革運動を主張しながら,行動の面では常にこれを避けてきたからである」と述べた。
DIA-304-1970-05-30-3パキスタン1970年05月30日1970年代パ空軍総司令官訪中――パ空軍総司令官A.ラヒーム・カーン空軍中将は,中国空軍参謀長の招きで中国を訪問した(~6月6日)。同空軍中将は6月3日に周恩来首相と会見。
DIA-304-1970-05-30-4パキスタン1970年05月30日1970年代英運賃同盟,船主7月15日より運賃12%引上げ――英・インド・パキスタン運賃同盟船主は,7月15日より船舶運賃を12%引上げる旨発表した。当初15%引上げを主張していたが,インド・パキスタン荷主協議会の反対をうけ,12%に下げたもの。
DIA-304-1970-06-01-1パキスタン1970年06月01日1970年代東パ水力開発局シディールガンジ変電所労働者スト――東パ水力開発局(EPWAPDA)シディールガンジ変電所の労働者は,1日午後5時30分よりスト,送電スイッチを切った。そのためダッカ市およびナラヤンガンジ市の一部は完全に停電し暗黒の町となった。労働者はストとともに経営者・職員を事務所に閉じ込め,門のカギを閉め,送電設備のある建物の道路ではバリケードを築いた。交渉の結果,経営者側が労働者の要求を,ほぼ全面的に認め,2日午前3時送電を開始した。政府はこの事件を重く見て,指導者,労働者多数を逮捕した。
DIA-304-1970-06-02-1パキスタン1970年06月02日1970年代国家経済評議会(NEC),第4次5カ年計画案を承認――NECは,7月1日から始まる第4次5カ年計画案を承認した。総投資額は750億ルピー,公共部門投資490億ルピー,民間部門投資260億ルピー,地域別配分では,東パ394万ルピー(52.5%),西パ356万ルピー(47.5%)となっている(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-06-02-2パキスタン1970年06月02日1970年代ジャマート,「2つのベンガル」統一の動きに警告――ジャマート指導者ジーラーニ氏はラーホールで記者会見,「カルカッタに東西ベンガル統一委員会が結成され,東西ベンガルの貿易・人的交流により,社会・文化・経済の一体化を目標とし,東パのALとの連絡をとっている。そして“ベンガル2つの世界”という新聞を出している」と述べ,この動きは警戒する必要があると述べている。
DIA-304-1970-06-02-3パキスタン1970年06月02日1970年代東パ共産党(マルクス・レーニン主義者)中央委の書簡――タイムズ・オブ・インディア紙によれば,東パ共産党(マルクス・レーニン主義者)中央委員会はインド共産党(マルクス・レーニン主義者)中央委員会に書簡を送り,武装ゲリラ闘争とともに協力して闘うよう呼びかけたという。書簡要旨は以下のとおり。 「東パのナクサリストは選挙ボイコットを主張し,階級の敵,その手先,反動勢力組織のため,解放区をつくるべく,農村での武装農民ゲリラ闘争を組織している。われわれは議会主義に反対し,1970年代を東パ解放の10年にするつもりである。今や情勢はインドと同様熟している。われわれはアメリカの犬,地主,資本家,ソ連社会帝国主義に対し,協力して闘争しなげればならない。」
DIA-304-1970-06-05-1パキスタン1970年06月05日1970年代東パ食糧価格上昇――東パでは各地で食糧価格上昇が伝えられている。ダッカでは下級米で1モーンド45ルピー(通常25~30ルピー),上質米は50ルピーを越えている。
DIA-304-1970-06-05-2パキスタン1970年06月05日1970年代ラングプールで飢餓行進――ラングプールで約400人の農民が飢餓行進,食糧配給を要求した。
DIA-304-1970-06-06-1パキスタン1970年06月06日1970年代AL,選挙綱領発表――AL中央評議会は同党の選挙綱領を決め,発表した。要旨は次のとおり。 (1) 党の目的は民主的方法により社会的・経済的革命を達成することにある。 (2) 経済政策として,銀行・保険の国有化を第1に行ない,次いで鉄鋼・鉱業などの重工業を国有化し,さらに外国貿易,とくに主な品目の輸出入を国有化する。 (3) 政治体制としては連邦議会制とし,議員数・国家公務員数・軍人数は人口比例とする。州議会は完全な自治権をもち,中央議会は国防・外交に責任をもち,通貨については一定の条件の下で責任をもつ。 (4) 土地改革を行ない,とくに西パの地主制を廃止し,土地所有の上限を現在より下げる。 (5) 労働者の権利はILOに基づき断固守る。
DIA-304-1970-06-08-1パキスタン1970年06月08日1970年代クールナでナクサリスト派学生・農民が富農をおそう――クールナでナクサリスト派の学生・農民が富農の家をおそい食糧を奪って逃げ,貧しい農民に配分する事件が起こった。このうち4人が農民につかまったが,うち2人は学生,2人は農民組合員である。
DIA-304-1970-06-10-1パキスタン1970年06月10日1970年代政府,PMLの党基金を凍結――大統領はPMLの党基金がアユブ一派により不正に使われているとの訴えについて調査するため,その凍結を命じた。基金を取り扱っているすべての銀行,金融機関は30日以内に預金金額および1969年3月26日以降の党基金の収支を報告しなければならない。
DIA-304-1970-06-22-1パキスタン1970年06月22日1970年代ヤヒア大統領,訪ソ――ヤヒア大統領は一行18人とともに,コスイギン首相の招きでソ連を公式訪問した。モスクワの空港にはポドゴルヌイ議長,コスイギン首相,グレチコ国防相らが出迎えた(~26日)。
DIA-304-1970-06-23-1パキスタン1970年06月23日1970年代パ中央銀行,パキスタン・ルピーの切下げはまったく考えていないと発表――これはルピー切下げの噂が国の内外で広まっており,香港でのルピー交換レートが非常に変化している時点で行なわれたもの。こうした発表にもかかわらず,7月か9月にインドと同率かあるいはそれ以上の切下げをするとの噂が,国の内外に流れている。
DIA-304-1970-06-26-1パキスタン1970年06月26日1970年代パ・ソ連共同コミュニケ発表――ソ連を訪問していたヤヒア大統領は帰国にあたり共同コミュニケを発表した。要旨は以下のとおり。 (1) ソ連はパキスタンの第4次5カ年計画に必要な経済・技術援助を行なう。ソ連はカラチ製鋼所建設計画への援助を行う。 (2) パ・ソ連両国代表は長期貿易協定の締結について話合いを行なった。 (3) パ・ソ連両国は,両国の外務省を通じ,定期会談をもち,相互に連絡をとり合うことに同意した。 (4) ソ連はパ・インド関係の平和的解決の重要性を指摘し,両国がその解決に努力する必要を認めた。
DIA-304-1970-06-26-2パキスタン1970年06月26日1970年代ヌール・カーン前西パ知事政界入り――ヌール・カーン前空軍総司令官・前西パ知事はカラチで記者会見,今後は政界でパキスタンの民主主義のため働くと発表した。ヌール・カーン空軍中将は西パ知事辞任についての質問に答え,「ヤヒア大統領が私の任務遂行に十分信頼をおいてないと思ったからだ」と述べた。ヌール・カーン氏はカラチの財閥ハルーン家と親しいことから,カラチから国会議員に立候補するとの噂が流れている。
DIA-304-1970-06-27-1パキスタン1970年06月27日1970年代パキスタン経済事情(1967/70年)発表――政府はパ経済事情(1969/70年)を発表した。要旨は以下のとおり(なお詳細は参考資料参照)。 (1) GNPは1969/70年で前年比5.8%の成長率を示した。1965/66年からの第3次計画全体では32%で目標の37%には達しなかった。1人当たり所得は1969/70年で423ルピーである(1968/69年は410ルピー)。 (2) 農業部門の成長率は1969/70年で6.1%を示した。5カ年間の年平均成長率は4.5%で計画目標5%には達していない。 (3) 工業は政治・社会不安のためよくなかった。大規模工業の成長率は1969/70年で7.5%(前年度は10.8%),年平均成長率は8.6%で目標の13%を大幅に下回った。 (4) 外貨収入は商品・サービスで1969/70年は42億9270万ルピー。第3次計画期の収入総額は190億9810万ルピー,年成長率は6.95%であり,これは目標の9.5%を下回っている。 (5) 外国援助は1969/70年で5億5000万ドルを見込まれている。第3次計画期の援助目標は28億5000万ドルであったが,現実には約束額で10%減の25億6500万ドル,支払われた額は23億9700万ドルにすぎない。 (6) 月間平均卸売物価指数は上昇傾向を示し,1969/70年で3.7%上昇した。 (7) 第3次5カ年計画は余り成功しなかった。その理由は,1965年の戦争と国防支出増,外国援助不振,1966~67年の干害と洪水,社会・政治不安などによっている。
DIA-304-1970-06-27-2パキスタン1970年06月27日1970年代NAP(バシャーニ派),選挙への参加を決定――NAP(バシャーニ派)はラーホールで中央評議会を開き,10月5日の選挙に参加することを正式に決定した。また選挙闘争に当たってはKSPと連合して行なうことも決定した。
DIA-304-1970-06-29-1パキスタン1970年06月29日1970年代1970/71年度予算発表――政府は1970/71年度予算を発表した。今期予算の特徴は,前年比約4億ルピーを増税によって賄う点である。キジルバシュ蔵相はこのため,大幅な増税提案を行なっている。これと同時に1970/71年度計画を発表した(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-06-30-1パキスタン1970年06月30日1970年代各州1970/71年度予算発表――7月1日より西パキスタンが4つの州に分割されるに伴い,東パキスタン,パンジャーブ,シンド,バルーチスタン,北西辺境州の5つの州の1970/71年度予算が発表された(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-06-30-2パキスタン1970年06月30日1970年代ボンベイにパキスタン高等弁務官支所開設(12年ぶり)。
DIA-304-1970-07-01-1パキスタン1970年07月01日1970年代第4次5カ年計画,始まる――1970年7月~1975年6月の第4次5カ年計画が始まった。主目標はGNPの年成長率を6.5%とし,外国援助依存を減少させて自力更生の道を進み,資本財工業・防衛産業など重工業化を進め,食糧の自給体制を確立することである(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-07-01-2パキスタン1970年07月01日1970年代西パキスタン州廃止,パンジャーブ州,シンド州,バルーチスタン州,北西辺境州発足。
DIA-304-1970-07-01-3パキスタン1970年07月01日1970年代西パ州知事会議設置――ヤヒア大統領は西パ統一州廃止に伴い,新4州間の問題を調査するため州知事会議を設置した。議長はパンジャーブ州知事。
DIA-304-1970-07-02-1パキスタン1970年07月02日1970年代IDAなど,東パ灌漑計画に援助――IDA,スエーデンは東パ灌漑計画(4460万ドル)のうち,2000万ドルの資金援助を行なう協定に調印した。IDA1400万ドル,スエーデン600万ドルで3,000の深井戸を掘り,18万エーカーを灌漑する。条件は無利子(手数料は4分の3%)で10年据置き50年返済。
DIA-304-1970-07-03-1パキスタン1970年07月03日1970年代RCD閣僚会議,トルコで始まる(~4日)。
DIA-304-1970-07-04-1パキスタン1970年07月04日1970年代増税の影響で物価上昇――1970年7月からの販売税,消費税,関税などの増税により,ダッカ市内では物価上昇が目立っている。米の価格はこの1週間で1%上昇した。とくに金・銀の価格は急昇し,1tole(約2オンス)当たり156ルピーだったものが194ルピーにまで上昇した。貴金属関係業者は7月1日から増税反対ストに入っている(~7月29日)。
DIA-304-1970-07-07-1パキスタン1970年07月07日1970年代東パ下級公務員スト――政府の禁止命令にもかかわらず,東パ下級公務員は賃上げなどを要求してストに入った。参加者は東パ全域で7万2000人という(~7月31日)。東パ政府は8日,このストを違法であるとして中止を命ずるとともに,スト参加者には厳罰をもってのぞむと発表し,41名を逮捕した。
DIA-304-1970-07-07-2パキスタン1970年07月07日1970年代ヌール・カーン前西パ知事,MLCに加入。
DIA-304-1970-07-07-3パキスタン1970年07月07日1970年代C.F.イラーヒ元国会議長(現PML党員),PPPに加入。
DIA-304-1970-07-09-1パキスタン1970年07月09日1970年代全国知事会議開く――西パ分割後初めての知事会議が開かれ,東パ食糧事情について話合った。それによると,7月1日現在の東パ繰越食糧は89万トン,1970/71年の不足食糧は,ほぼ180万トンに達するものと見られ,食糧の輸入手配が決められた。
DIA-304-1970-07-09-2パキスタン1970年07月09日1970年代カーデルPML委員長代行,蔵相の解任を要求――カーデル委員長代行は,キジルバシュ蔵相は政党に干渉し,PMLの選挙運動を妨害しているとして同蔵相の解任を要求した。
DIA-304-1970-07-09-3パキスタン1970年07月09日1970年代第4次計画期の免税地域指定―― (1) 免税期間3年……下記の地域を除く西パキスタン全域。 ①カラチ,②西パ後進地域。 (2) 免税期間4年……東パの4大都市および市境界線より半径10マイルの地域。 (3) 免税期間6年……(1),(2)以外の地域。
DIA-304-1970-07-10-1パキスタン1970年07月10日1970年代新輸入政策1970年7~12月発表――ハック商務相は1970年7~12月の新輸入政策を発表した。主要点は輸入品の東西パ移動禁止,東パ優遇品目を10品目増加して43とする,現金・ボーナス・リストに12品目加え,輸入の若干の自由化を行なう,などである。 なお輸出ボーナス制の修正点は以下のとおり。 ①ジュート・綿・米その他一次産品に10%のボーナス。②羊毛のボーナスは20%を10%とする。③FOB価格30%~40%のボーナスは35%~45%とする。
DIA-304-1970-07-10-2パキスタン1970年07月10日1970年代ジュート政策(1970/71年)発表――政府はジュート生産を安定させるため,ジュートに10%の輸出ボーナスを与え,生産者に対する最低生産者に対する最低買上げ価格を1モーンド当たり4ルピー引上げるなどのジュート政策を発表した。
DIA-304-1970-07-12-1パキスタン1970年07月12日1970年代国会・州議会議員選挙法発表――①候補者の国会議員の場合1,000ルピー,州議会議員の場合500ルピーを供託金として政府指定銀行に預金する。②選挙は秘密選挙とする。③投票場には各1個の投票箱をおく。
DIA-304-1970-07-12-2パキスタン1970年07月12日1970年代PML西パ支部役員選挙――委員長にM.M.ヤスィン・ワットー,書記長にS.K.ハヤート・カーンが選出された。
DIA-304-1970-07-16-1パキスタン1970年07月16日1970年代ファラッカ堰問題でパ・イ次官級会議,ニューデリーで開く(~7月21日)。
DIA-304-1970-07-16-2パキスタン1970年07月16日1970年代AID,1280万ドル援助。
DIA-304-1970-07-19-1パキスタン1970年07月19日1970年代PML評議員会開催――役員選挙が行なわれ,委員長にF.カーデル・チョードリ,書記長にM.カーシム,副委員長にF.カーンが選出された。
DIA-304-1970-07-19-2パキスタン1970年07月19日1970年代バシャーニNAP委員長,選挙の延期を主張。NAPのほか,MLC,NPLなどからも延期を要求する声が上っている。理由は東パの洪水。
DIA-304-1970-07-23-1パキスタン1970年07月23日1970年代パキスタン債権国会議開く――パ債権国会議がパリで開かれた。パ政府は1970/71年度分として5億7000万ドルの援助要請を行ない,各国代表はそれを承認した(7月24日)。
DIA-304-1970-07-23-2パキスタン1970年07月23日1970年代NAP(ワーリ・カーン派)指導者層,続々PPP加入――7月23日,元NAPバルーチスタン支部長A.Aカリーム氏がNAPはその目標から逸脱してしまったとして脱党,PPPに加入したが,この後も8月2日までに,S.A.フセイン・シャーNAP副委員長,M.M.A.カスリ西パ支部委員長,パンジャーブ・バハワルプール支部委員長および書記長,その他各地支部委員長など多数の指導者がPPPに加入した。
DIA-304-1970-07-26-1パキスタン1970年07月26日1970年代東パ洪水深刻化――アッサム地方大雨のため東パは各地で洪水に見舞われ,被害は東パ19県のうち14県に及んでいるという。
DIA-304-1970-07-26-2パキスタン1970年07月26日1970年代ブット氏,選挙前に現内閣の辞職要求――ブットPPP委員長はカラチの集会で演説,「現内閣の中には政治的中立を守らず特定の政党を応援しているものがおり,選挙2カ月前までに内閣は辞職すべきだ」と述べた。
DIA-304-1970-07-28-1パキスタン1970年07月28日1970年代ヤヒア大統領,ラジオ放送――大統領は総選挙にむけて各政党指導者に暴力を廃し,不法行為を行なわないよう訴えた。
DIA-304-1970-07-29-1パキスタン1970年07月29日1970年代大蔵省,税率改正発表――大蔵省は6月末発表の税率引上げに対する反対に鑑み,若干の引下げを発表した(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-08-01-1パキスタン1970年08月01日1970年代東パのアダムジーナガルで労働者同士衝突,死者10人――アダムジーナガルでアタムジー・ジュート工場の団体交渉権をもつ労働組合を決める全員投票が行なわれ,その結果AL系労働組合が勝利したことからNAP(バシャーニ派)系の労働組合員と衝突,死者10人,負傷者200人を出した。逮捕者40人。
DIA-304-1970-08-02-1パキスタン1970年08月02日1970年代東パ洪水救援活動に軍隊出動。
DIA-304-1970-08-02-2パキスタン1970年08月02日1970年代NAP(バシャーニ派)東パ評議員会,書記長選出――NAP東パ評議員会は8月1~2日の会議を終え,書記長にマシュフール・ラーマンが選出された。これはトーハ書記長の辞任のためとられた措置である。またNAPの選挙参加については,党内一部から反対が出されたが多数をとれず,参加が正式に決定した。なお評議員は総数350人のところ200人程度しか出席していない。
DIA-304-1970-08-02-3パキスタン1970年08月02日1970年代民族進歩連盟(NPL)大会,党名をパ民族連盟に変更――民族進歩連盟(NPL)は2日間の大会を終え,党名をパキスタン民族連盟(PNL)にかえるよう決定した。役員選挙では委員長にA.ラーマン・カーン氏,書記長にS.アズィーズル・ラーマン氏が選出された。東パ委員長はA.ラーマン・カーン氏(兼任),書記長はO.アハド氏,副委員長はアーミナ夫人ら3人。
DIA-304-1970-08-04-1パキスタン1970年08月04日1970年代東パ洪水視察のため大統領東パ訪問――ヤヒア大統領は東パ洪水視察のため東パ訪問(~8月16日)。この洪水被害額は現在までで2億1500万ルピーと推計され,米作に大きな打撃を与えている。政党指導者の多くは,この洪水被害に鑑み,選挙延期を主張している。ALのムジブル・ラーマン委員長のみ反対。
DIA-304-1970-08-06-1パキスタン1970年08月06日1970年代政府,選挙規約発表――政府は選挙管理委員会と協議の後,国会・州議会選挙規約および選挙用の政党シンボル・マークを発表した。
DIA-304-1970-08-11-1パキスタン1970年08月11日1970年代PIA,ボーイング707型3機購入――PIAはボーイング707型3機を購入する交渉を進めている。価格は3100万ドルで,資金は米輸出入銀行やボーイング社からの貸付金その他で賄う。
DIA-304-1970-08-11-2パキスタン1970年08月11日1970年代ゴラサール肥料工場,生産開始――東パ産業開発会社(EPIDC)と東洋エンジニアリングとの合同プロジェクトであるゴラサール肥料工場が生産を開始した。生産能力は年34万トン(尿素肥料)。
DIA-304-1970-08-11-3パキスタン1970年08月11日1970年代PNLのA.ラーマン・カーン委員長(パ・ソ友好協会副委員長)ら,訪ソ。
DIA-304-1970-08-15-1パキスタン1970年08月15日1970年代ヤヒア大統領,選挙日を12月7日に延期――大統領はダッカで声明を発表,東パ洪水などのため国会議員選挙を12月7日に延期すると述べた。州議会議員選挙は12月19日までに行なう。
DIA-304-1970-08-19-1パキスタン1970年08月19日1970年代日本,パに米20万トン輸出――日本はパキスタンに1968年産の古々米20万トンを輸出する。価格はFOBでトン当たり137ドル。条件は10年据置き(利子2%),20年返済(利子3%)の延払い。
DIA-304-1970-08-20-1パキスタン1970年08月20日1970年代愛知外相訪パ――愛知外相はインド訪問の後,陸路パキスタンに入った。愛知外相は陸路を通った理由として,パ・イ関係正常化に何らかの役立てるつもりであったという。愛知外相は21日にヤヒア大統領と会見した(~23日)。
DIA-304-1970-08-29-1パキスタン1970年08月29日1970年代MLCダウルタナ委員長辞表提出――MLCのダウルタナ委員長は健康上の理由で委員長を辞任する旨発表した。
DIA-304-1970-08-29-2パキスタン1970年08月29日1970年代東パでイスラム系4政党,公認候補者リストを交換――PDP,MLC,ジャマート,Nizamの各政党はダワカで合同会議を開き,できるだけ4政党間の競争にならないよう公認候補者を1選挙区につき4党で1人にしぼることを決めた。
DIA-304-1970-08-29-3パキスタン1970年08月29日1970年代東パ洪水被害,総額11億ルピー強,死者42人。19県のうち16県が被災した。
DIA-304-1970-08-30-1パキスタン1970年08月30日1970年代中パ友好協会役員選挙(1970/71年)――会長はM.G.ハーフィズ,事務長はL.アッラーム,前の役員であったバシャーニNAP委員長およびムルシェッド前東パ高等裁判所長官は顧問。
DIA-304-1970-08-31-1パキスタン1970年08月31日1970年代ヌール・カーン,ムスリム連盟系3党の統合を呼びかけ――MLCに入ったヌール・カーンはムスリム連盟系3党の統合を呼びかけた。
DIA-304-1970-08-31-2パキスタン1970年08月31日1970年代キジルバシュ蔵相,ルピー平価切下げの噂を否定。
DIA-304-1970-09-01-1パキスタン1970年09月01日1970年代計画委員会副議長替る――大統領は計画委副議長に,M.M.アーマッド氏に替え,M.H.スーフィ氏を任命した。アーマッド氏は9月4日,大統領経済顧問に任命され,閣僚と同じ格付けを与えられた。
DIA-304-1970-09-02-1パキスタン1970年09月02日1970年代ムルタンに軍出動,警察の発砲で2人死亡――ムルタンで1日,青年が警察に連行され,なぐり殺されたことからハルタルが行なわれ,警察とデモ隊が衝突,2人が射殺され,軍が治安に出動した。
DIA-304-1970-09-02-2パキスタン1970年09月02日1970年代パキスタン中央銀行,(1969/70年)年次報告発表(詳細は参考資料参照)。
DIA-304-1970-09-09-1パキスタン1970年09月09日1970年代世銀の東パ調査団訪パ――世銀の東パ水力開発調査団(団長R.サドブ氏)は東パの農業開発・水力開発・洪水対策などについて話合うため,ダッカに到着した(~9月17日)。
DIA-304-1970-09-09-2パキスタン1970年09月09日1970年代東パで学生衝突,1人死亡――ボグラで選挙運動をめぐってEPSLとEPSU(モティア派)の学生が対立,1人死亡,数名負傷。
DIA-304-1970-09-15-1パキスタン1970年09月15日1970年代選挙スケジュール
DIA-304-1970-09-15-2パキスタン1970年09月15日1970年代AL,党公認候補者選択に苦慮――ALは国会議員168人,州議会議員300人を立候補させる意向であるが,その党公認候補者を誰にするかで苦慮している。一部の地域では2人~3人のAL党員が立候補の意向を示していて,その調整がとれないためである。党公認からもれた人の中には脱退して,無所属で立候補することを明らかにしている者もいる。
DIA-304-1970-09-15-3パキスタン1970年09月15日1970年代バシャーニNAP委員長,ヤヒア大統領に会見――バシャーニ氏は大統領との3時間半におよぶ会談の後カラチで記者会見,「食糧も買えぬ人々は莫大な選挙供託金は払えない。NAPは権力の座につくつもりはなく,国会の内外で人民の権利のために闘争を進める。洪水問題について大統領はそれをパ全体の問題と考えていると確言した。また,私は大統領に,NAPは10月2日からダッカなど全国各地で農民の大衆運動を行なうと伝えた。これは地主・小作関係を改善して生産物の3分の2を小作人,3分の1を地主に配分するようにすることが目的である」と述べた。
DIA-304-1970-09-16-1パキスタン1970年09月16日1970年代パ,フランスにミラージュV型機30機発注――ミラージュV型は同III型機の改良機で,マッハ2。パキスタンはフランスからミラージュB訓練用ジェット機,ミラージュIII型,同IV型機など24機を購入している。
DIA-304-1970-09-16-2パキスタン1970年09月16日1970年代ダッカ大学農学部閉鎖――NAP(バシャーニ派)系の東パ学生連合EPSU(メノン派)とAL系の東パ学生連盟EPSLの衝突のため,ダッカ大学農学部が向こう20日間閉鎖された。
DIA-304-1970-09-18-1パキスタン1970年09月18日1970年代パ海軍総司令官,訪中――パ海軍総司令官ムザッファル・ハッサン海軍中将は,中国の招きで訪中した(~9月25日)。20日には周恩来首相,25日には毛首席と会見した。この訪中について,インド紙は「中国が潜水艦数隻を供与することに同意,その交渉のため」と論評している。
DIA-304-1970-09-21-1パキスタン1970年09月21日1970年代ヌール・カーンMLC指導者は政府に対し,「パがアラブ世界から誤解される前にヨルダン危機についての立場を明確にすべきだ。ヨルダン空軍に軍事訓練のため派遣されているパ軍を引きあげ,ヨルダン内戦に帝国主義勢力の干渉を許すべきでない」と述べた。
DIA-304-1970-09-22-1パキスタン1970年09月22日1970年代ダッカ商工会議所会頭,ルピー切下げ主張――M.ラーマン総裁は記者会見,ルピー切下げおよびインドとの交易再開を要求した。また東パ工業保護のため,工業製品の東西パ移動を完全に禁止し,富の集中をさけるため,製造業者が卸売業者,輸出入業者を兼業できないようにすべきである,と述べた。
DIA-304-1970-09-23-1パキスタン1970年09月23日1970年代ヤヒア大統領東パ訪問――大統領は洪水被害救援活動の進展状況を調査するため東パを訪問,質問に答え,「パには今政治犯はいない。入獄している者はすべて法律に違反している者だ」と述べた。
DIA-304-1970-09-24-1パキスタン1970年09月24日1970年代AL,東パの国会・州議会議員候補者リスト発表。
DIA-304-1970-09-25-1パキスタン1970年09月25日1970年代PDP西パ委員長,統一イスラーム戦線結成発表――N.N.カーンPDP西パ委員長は,PDP,ジャマートの2政党および6宗教団体で統一イスラーム戦線(United Islamic Front)を結成したと述べた。
DIA-304-1970-09-26-1パキスタン1970年09月26日1970年代国慶節使節のためパ代表団訪中――団長はパンジャーブ州知事アティークル・ラフマーン陸軍中将で,同行者の中には同夫人,ドーン紙・イッテファーク紙各編集長などが含まれている(~10月3日)。
DIA-304-1970-09-26-2パキスタン1970年09月26日1970年代農業代表団,訪中――パ農業代表団5人(団長A.K.M.アフサーン農業次官)は中国の農業発展,現状について調査するため訪中した。
DIA-304-1970-09-27-1パキスタン1970年09月27日1970年代ヤヒア大統領,ネパール訪問――大統領は4日間の予定でネパールを公式訪問,マヘンドラ国王と会見した(~9月30日)。
DIA-304-1970-09-28-1パキスタン1970年09月28日1970年代PPP機関誌編集長,逮捕――PPP指導者でラーホールの“Weekly Shahab”編集長は「戒厳令政府・戒厳令総司令官等を批判する記事を出して良心的ジャーナリズムの域を脱した」として逮捕された。
DIA-304-1970-09-30-1パキスタン1970年09月30日1970年代ナセル・ア連合大統領死去で,ヤヒア大統領は予定をくり上げ,帰国した。ナセル大統領の葬儀にはA.M.マーリク労働相が出席。
DIA-304-1970-10-02-1パキスタン1970年10月02日1970年代NAP(バシャーニ派)主催の労働者・農民集会ダッカで開催――集会には労働者・農民・学生など数千人が参加,バシャーニ委員長は「NAPはわれわれの闘争の一部として選挙に参加するのであり,権力をとるためではない」と発言したが,参加者の中からは選挙ボイコットを主張する声が上がった。演壇の前には毛沢東主席の大きな写真がかざられていた。
DIA-304-1970-10-03-1パキスタン1970年10月03日1970年代ALで党公認候補者めぐる対立――ALで党公認候補者をめぐる内部対立が続き,ナラヤンガンジの一部党員は,同地の公認候補者に反対して,党委員長ムジブル・ラーマンの家の前で抗議デモ。
DIA-304-1970-10-05-1パキスタン1970年10月05日1970年代NAPバシャーニ委員長,同党議会局メンバーを発表――NAP(バシャーニ派)は10月3~4日,中央執行委を開き,選挙への参加を正式に決定するとともに,同党議会局メンバーを発表した。局長はバシャーニ委員長。
DIA-304-1970-10-08-1パキスタン1970年10月08日1970年代19政党,選挙シンボル決る――選挙管理委員会は,19政党に対し,選挙シンボルの配分を決定した。13日にはさらに5政党の選挙シンボルが決定された(政党と選挙シンボルについては参考資料参照)。
DIA-304-1970-10-08-2パキスタン1970年10月08日1970年代アメリカ,対パ武器売却申し入れ――AFPによれば,アメリカ政府は,1965年の印パ戦争以来初めて,パキスタンに対し武器売却を申入れたという。売却額は1500万ドル以下で,F104スター・ファイター18機,B57キャンベラ型爆撃機7機,装甲輸送車300台と伝えられている。 この対パ武器売却について,インド政府は米政府に強硬に抗議したといわれる。駐デリー米大使館は「この措置は例外的なものであり,しかも使い古した設備の代替であって,攻撃用のものではない」と述べた。 また駐デリー・ソ連軍事顧問は「ソ連はインドとパキスタンの軍事的バランスをこわすようなことはしない」と発言した。
DIA-304-1970-10-08-3パキスタン1970年10月08日1970年代大手銀行,国有化対策に着手――主要諸政党が銀行国有化を提唱しているため大手銀行の中には国有化の対象にならない協同銀行を設立したり,小規模銀行をのっとってそこに相当額の資本を移転し始めているという(パキスタン・タイムズ10月10日)。
DIA-304-1970-10-11-1パキスタン1970年10月11日1970年代東パ労働者連合,分裂――東パ労働者連合(E.P. Sramik Federation―NAP系)はイデオロギー上の問題とそれに絡んだ人事問題で対立,2つに分裂した。 E.P. Sramik Federation=チッタゴン中心,D.シックダール派。 Purbo Bangla S.F.=トンギー中心,K.J.アーメッド派。
DIA-304-1970-10-11-2パキスタン1970年10月11日1970年代対パ武器供与決定でアメリカの世論沸騰――ニューヨーク・タイムズ紙は社説でこの決定を「信じられぬこと」であり,「南アジアの火薬庫に火を放つに等しい」としており,「このためインドがソ連からさらに武装供予を受けることになろろうし,インドの核武装への傾斜を助長してしまう」と批判した。その他,ボールティモア・サン紙等も同様の批判をしている。
DIA-304-1970-10-12-1パキスタン1970年10月12日1970年代PPP指導者逮捕――PPP指導者ターリフ・アズィーズ氏は過激な発言を理由にカラチで逮捕。
DIA-304-1970-10-12-2パキスタン1970年10月12日1970年代パキスタン労働党設立決定――東パ労働者連合(166組合20万人)の政治委員会はパ労働党を設立する旨決定した。
DIA-304-1970-10-12-3パキスタン1970年10月12日1970年代アスガル・カーン(国民主権運動委員長),ラワールピンジから無所属で出馬。各政党の立候補者名簿が続々発表されている。
DIA-304-1970-10-13-1パキスタン1970年10月13日1970年代ヨルダンでパキスタン人8人死亡――駐ヨルダン・パ大使の確認によると,さきのヨルダン内戦でアンマンにいたパキスタン人8名が死亡,5人が負傷した。
DIA-304-1970-10-15-1パキスタン1970年10月15日1970年代国会議員立候補届出終る――国会議員立候補者の届出が締切られ,東パで871人,西パで1,070人が届出を行なった。東パ議席は162,西パ議席は138。有権者数は5670万人(なお選挙前までに辞退者が出て,最終的には東パ769人,西パ801人が立候補した)。
DIA-304-1970-10-17-1パキスタン1970年10月17日1970年代7~8月洪水被害――洪水救援委員会は7~8月東パをおそった洪水被害の最終結果を発表した。被害総額は約15億ルピー,これは1968年の11.6億ルピー,1966年の5.8億ルピーにくらべ非常に大きくなっている。 死者42人,被災者1180万人,被災地域1万6000平方マイル(東パ全19県のうち17県にわたる),作物被害10億ルピー,家畜(牛・羊)被害2,000頭,全壊家屋9万5000戸,半壊家屋35万戸,政府の救援支出2億3000万ルピー。
DIA-304-1970-10-18-1パキスタン1970年10月18日1970年代ヤヒア大統領,国連総会出席の旅へ――大統領は第25回国連総会出席の旅に出発し,途上カイロを訪問,サダト大統領と会見して後ロンドンに到着した。20日,ニューヨーク着。
DIA-304-1970-10-19-1パキスタン1970年10月19日1970年代州議会議員立候補届締切る――東パで300議席めぐり2,121人,西パでも3,500人が届出を行なった(その後辞退者が増え,東パ1,861人,西パ2,372人となる)。
DIA-304-1970-10-19-2パキスタン1970年10月19日1970年代マルダンで小作人30名逮捕――西パのマルダンで土地奪還運動をおこし,地主と対立して逮捕されたもの。
DIA-304-1970-10-21-1パキスタン1970年10月21日1970年代補欠選挙――選挙管理委員長は「一つ以上の選挙区から選出された国会議員は,当選の日から15日以内に一つを除いて他の議席を辞退しなければならない。それによって欠員になった議席は,国会の場合,3週間以内に補欠選挙を行なう」と発表。
DIA-304-1970-10-21-2パキスタン1970年10月21日1970年代労資関係法改正――政府は昨年11月3日発表の労資関係法を改正した。改正点は,①労働組合が団交権を持つには被雇用者の3分の1以上を組合員としていなくてはならない,②スト通告ないしロックアウト通告前の妥協交渉期間は21日を超えてよい(今までは21日が限度),③労資間紛争が複数の州にわたった場合,中央政府は州政府の権限を政府にかわって行使し得る,等である。
DIA-304-1970-10-21-3パキスタン1970年10月21日1970年代ヤヒア大統領,ロジャーズ米国務次官と会談――主としてパの対外債務返済問題とアメリカの対パ武器供与が扱われた。これは25日のヤヒア・ニクソン会談として行なわれた。
DIA-304-1970-10-22-1パキスタン1970年10月22日1970年代ヤヒア大統領,国連総会で演説――ヤヒア大統領は25回国連総会で演説,次のように述べた。 (1) パキスタンはインドに対し,カシミールからの軍の撤退について話合うよう呼びかける。軍が撤退することにより,カシミール人民は外部からの干渉なしに自らの将来を決められるだろう。これまでカシミール紛争解決のためのあらゆる努力が実を結んでいないとはいえ,平和のための新しい提案はおそすぎるということはない。 (2) 私は1969年7月にパキスタンが行なった提案,すなわち不戦協定を,インドに対し再び行ないたい。 (3) パキスタンは中国の国連への加盟を支持する。中国7億人民の参加なしには国連は十分な機能を果たしえない。中国の加入は世界の平和と発展にとって重要な要素である。 (4) 中東問題はヤリング特使を派遣し,解決策を見出すよう念願している。
DIA-304-1970-10-22-2パキスタン1970年10月22日1970年代バシャーニNAP委員長,アメリカの対パ武器供与批判――バシャーニNAP委員長はダッカで記者会見,アメリカの対パ武器供与について次のように批判した。 帝国主義者アメリカの対パ武器供与にわれわれは重大な関心をもっている。これまで数十億ルピーの武器がアメリカだけからわが国に供与されてきた。帝国主義者は,インドネシアで起こったことをわが国でくり返そうとしている。最近西パキスタンで,1億ルピー近くの武器弾薬が発見されたが,現実にはもっと多くの武器が密輸されている。インドネシア型の内戦が起こるかもしれない。アメリカは1965年9月の印パ戦争のとき武器供与を拒否しておきながら,武器が必要でない現在,武器を供与するのは何のためか。西パでは巨額の金が特定の政党に渡されている。われわれはNAP活動家に,たとえ攻撃をうけても反撃するなといってある。こうした衝突が内戦に転化して,国が破滅するのをさけたいからである。われわれは選挙が人民の解放をもたらすとは思っていない。社会主義は選挙によって実現することはできず,革命によってのみ獲得しうるからである。
DIA-304-1970-10-23-1パキスタン1970年10月23日1970年代ガンディー・インド首相,国連総会で演説,前日のヤヒア大統領提案には言及せず。
DIA-304-1970-10-25-1パキスタン1970年10月25日1970年代選挙演説をラジオ・テレビ放送――政府は選挙に関する15政党の党首演説をラジオ・テレビで放送することを決め,そのスケジュールを発表した。10月28日ALのムジブル・ラーマン委員長を皮切りに,11月20日アスガル・カーン前空軍総司令官の演説で終る。パシャーニNAP委員長は11月5日,ブットPPP委員長は11月18日。
DIA-304-1970-10-25-2パキスタン1970年10月25日1970年代ヤヒア大統領,ニクソン大統領と会談――ヤヒア大統領は国連総会の後ワシントンにニクソン大統領を訪ね,約1時間にわたって会談した。会談にはキッシンジャー大統領特別補佐官,駐米パ大使ヒラリー卿が同席,アメリカの対パ経済援助増大,援助負債返済問題,東パ洪水対策,対パ武器供与について話合った。なお,ヤヒア大統領は会談に先立ってニューヨークで記者会見,質問に答えて「訪中の際アメリカと中国の橋渡しをするつもりはない」と語った。
DIA-304-1970-10-26-1パキスタン1970年10月26日1970年代ヤヒア大統領,フランスで首相と会見――ヤヒア大統領はフランスを訪問,デルマス首相と会見,フランスの対パ経済援助問題について話合った。大統領は27日帰国。
DIA-304-1970-10-29-1パキスタン1970年10月29日1970年代ポーランド元首,訪パ――ポーランドのスピハルスキー元首は5日間の公式訪問のためイスラマバードに到着した。空港にはヤヒア大統領が出迎えた。
DIA-304-1970-10-31-1パキスタン1970年10月31日1970年代自由カシミール(パ側)“大統領”選挙結果――自由カシミールで行なわれた初めての直接選挙による“大統領”選挙(10月30日)は,ムスリム会議から出馬したサルダール・アブドル・カユーム・カーン氏が当選し丸 た。カユーム・カーン氏は1956年から約1年間“大統領”に就任している。今回の選挙では以下の4政党が各1人の候補者をたてている。 カシミールムスリム会議――サルダール・アブドル・カユーム・カーン 自由カシミール  〃 ――サルダール・イブラヒーム・カーン カシミール解放連盟――K.H.フルシッド カシミール人民投票戦線――シャリーフ・タリク (注) 自由カシミールは“大統領”(35歳以上の回教徒)と3人の“閣僚”および25人の議会によって運営されることになっており,議会の選挙は10月31日に行なわれた。25人のうち16人はカシミールから,8人は西パ各地にいるカシミール難民から,1人は婦人のために,選出される。“大統領”は立法・財政・行政を司り,国防はパキスタン政府の“顧問”を通さなくてはならない。財政資金の赤字,経済開発資金は,パキスタン政府に全面的に依存している。
DIA-304-1970-11-01-1パキスタン1970年11月01日1970年代ポーランド元首,カラチ空港で襲撃さる――訪パ中のポーランド元首一行はラワールピンジからカラチ空港に到着したところ,空港内でPIA(パキスタン航空)の貨物車に突っ込まれ,スピハルスキー国家元首は危く難をのがれたが,同行のウォルニアク外務次官が死亡,パキスタンの保安局次長,APP通信および情報省所属カメラマンら3人が死亡,駐パ・ポーランド大使ほか15人が負傷した。貨物車の運転手フィローズはその場で逮捕された。目撃者の話によれば,フィローズは突込んだ後,共産主義反対を叫び,“私は任務を遂行した,私は犠牲者として死にたい”と叫んだという。死亡したウォルニアク外務次官の遺体は元首と共にポーランドに帰った。パキスタン大統領はスピハルスキー元首にメッセージを送り,深い悲しみと遺憾の意を表明,直ちに事件調査委員会を任命した。
DIA-304-1970-11-01-2パキスタン1970年11月01日1970年代バシャーニNAP委員長,共産主義者を党から追放すると発言――バシャーニNAP委員はダッカで記者会見,「NAPは革命組織ではないし共産主義運動とは関係がない。党から共産主義者を追放しなければならぬ。NAPの名前を使って共産党を組織するために動いている党員がいる」と述べた。
DIA-304-1970-11-01-3パキスタン1970年11月01日1970年代米ロッキード社会長,パ蔵相に会見――同社カールC.コーシアン会長はパを訪問,キジルバシュ蔵相に会見してPIAが同社製トライ・スターL1011型機を採用する可能性について話合った。同会見はこのあとS.ギアスッディン・アーメッド国防次官にも会見した。
DIA-304-1970-11-02-1パキスタン1970年11月02日1970年代ブットPPP委員長,カラチ事件を論評――この事件の背後には国際的陰謀がある,と発言。パ国内には犯人のフィローズが当日非番であるにもかかわらず空港にはいれたこと,PIAの制服を着用していたこと,などから事件の背景に対して疑惑が出ている。
DIA-304-1970-11-03-1パキスタン1970年11月03日1970年代ブット演説――ブットPPP委員長はラーホールで開かれた反帝国主義者戦線主催のレセプションで要旨以下の演説。「パ債権国会議はパの経済的主権に圧力をかけて脅かすものであるからPPPは政権をとったらそれと絶縁し,かわりに現在のパ債権国会議諸国と2国間の交渉で経済援助を確保するという2国間政策を採用する」。
DIA-304-1970-11-04-1パキスタン1970年11月04日1970年代ナショナル・バンクの東西パ別出身者――パキスタン・オブザーバーによれば,ナショナル・バンクの東西パ別出身者割合は以下のとおり。 全職員 18,200人 東パ出身者 4,200人 2・3・4級職 16,124 〃 3,846 主任職員 1,090 〃 287 上級職 280 〃 51 スタッフ 15 〃 3 理事 7 〃 2
DIA-304-1970-11-06-1パキスタン1970年11月06日1970年代ジャマート,イスラム統一戦線(IUF)を脱退――9月23日ジャマート,PDPを中心として西パに結成された選挙連合IUFからジャマートとJamiat Ittehad-ul-Ulemaが脱退し,PDPの他5宗教団体を残すのみとなった。
DIA-304-1970-11-07-1パキスタン1970年11月07日1970年代ヤヒア大統領,国民兵役令発表――これは18歳以上20歳未満の成年男子で大学入学資格以上の教育資格を持つものに兵役を義務づけるもので,有資格者は3軍のうちいずれかに1年間徴兵され,俸給のほか特定の特典を与えられる。ただし,この政令の発効日は11月25日。
DIA-304-1970-11-10-1パキスタン1970年11月10日1970年代ヤヒア大統領,中国訪問――大統領は5日間の公式訪問のためダッカより北京に到着した。空港には周恩来首相らが出迎え,盛大な歓迎が行なわれた。
DIA-304-1970-11-11-1パキスタン1970年11月11日1970年代パ・中首脳会談――ヤヒア大統領と周首相は1時間半にわたって,中近東問題,インドシナ問題,カシミール問題その他両国間に関係深い問題について,友好的で信頼に満ちた雰囲気の下で話合った。
DIA-304-1970-11-11-2パキスタン1970年11月11日1970年代ヤヒア大統領,夕食会で演説――大統領は夕食会で演説,要旨次のように述べた。 (1) パキスタンは2つの中国に反対する。台湾は中国の不可分の一部であり,中国こそ国連の議席を占めるべきである。パは中国の国連加入を支持してきた。すべての国は中国の重要な役割を認め,今日世界が直面しているきびしい諸問題解決に中国が重要な役割を果たしうることを認めるべきである。 (2) パ・中友好関係の将来は確固たる基礎の上にあり,その継続はパ・中両国だけでなく,この地域の安定と平和にとって重要である。パ・中友好関係は,他の国に反対するものではなく,その基本は友好と相互協力であり,その目的は平和である。 (3) われわれは中国の支援,とくに隣国から軍事侵略をうけるというようなとき,中国がわが国を援助したことを忘れないだろう。 (4) われわれはあらゆる形の植民地主義,帝国主義的抑圧に反対している。われわれは植民地的支配下にある人民の自決権を支持している。すべての人民は選択の自由をもつ。カシミール,インドシナ,アフリカなど,植民勢力の支配下にある人々も同様である。これらの地域から,すべての外国勢力は撤退すべきである。 (5) パ政府は,中国人民が示したカシミール人民の民族自決権の支持に感謝している。
DIA-304-1970-11-12-1パキスタン1970年11月12日1970年代東パ,強大な台風に襲わる――12日深夜,強大な台風が東パを襲い,台風に伴う高潮のため,東パの海岸地帯およびガンジス河口付近に散在する大小さまざまの島が甚大な被害をうけた。台風は最大風速で時速150マイル(秒速62メートル)に達し,満潮時と重なったため,高潮は10~20フィートになったという。台風・高潮の被害は,パの歴史上最悪のものとなり,世界でも余り例のない規模となった。道路は分断され,通信も途絶,被害者数すらはっきり数えられていない。死者・行方不明者の数は,11月25日の公式数字で19万9090人(うち2万3987人は行方不明)に達し,まだ報告もれの所もあってもっと増えるという。東パ赤十字の非公式数字は65万人にもなるという。パキスタンの新聞では150万人が死亡・行方不明になったと報じている。最もひどい地域はボーラ島で,公式数字でも10万人以上が死亡,ハティア島では1万1000人,その他バリサル,チッタゴン,ノアカリ,パトアカリ地方が大きな被害を出した。
DIA-304-1970-11-13-1パキスタン1970年11月13日1970年代ヤヒア大統領,毛沢東主席と会見――大統領は北京で毛沢東主席と75分にわたって会見,世界情勢および両国の関係について話合った。
DIA-304-1970-11-14-1パキスタン1970年11月14日1970年代ヤヒア大統領,中国より帰国――大統領は中国から帰国,ダッカで次のように述べた。 (1) 中国はパキスタンの第4次5カ年計画に2億ドルの無利子借款を申出ている。これはプロジェクト援助になろう(援助協定は14日北京で調印された。10年据置き20年返済)。 (2) 中国はブラーマプトラ河の架橋プロジェクトに対しフィージビリティー・レポートを作成するため,近く専門家チームを送るだろう。専門家は東パに3カ月滞在し,調査を行なう。
DIA-304-1970-11-20-1パキスタン1970年11月20日1970年代西独,パに4200万ドル供与――西独はパに1970/71年度分として4200万ドルを供与する協定に調印した。条件は利子2.5%,8年据置,30年返済。
DIA-304-1970-11-21-1パキスタン1970年11月21日1970年代アハサン東パ知事,全国民にアピール――政府はすべての資金を救援活動に投下している。全行政機関はそのために動いている。政府は一般の人々が可能な限りで援助活動に参加して下さることを望んでいる。軍もヘリコプターと空軍輸送機を使って救援物資の運搬,空からの投下に従事し,活動は順調に進んでいる。
DIA-304-1970-11-22-1パキスタン1970年11月22日1970年代ダッカで政党指導者11人政府非難――東パ各政党指導者11人は連名で大統領に電報を送り,救援活動のおそさを強く非難,次のように述べた。「東パ人民は史上なかった大災害に対する政府の冷淡な対応,不正な行政に怒っている。何故政府の閣僚1人として東パにきて災害の実情を見ないのか。大統領さえ,中国からの帰路ちょっと視察しただけで帰ってしまったのだ。われわれは権力の座にいる者が,かくも無責任に100万の人の死を無視しうることにショックをうけている。多くの死者は放置され,救援活動のおくれは生存者をも死なせてしまうだろう。直ちに大統領は東パに移り,すべての資材を救援活動に注ぎ込むべきである」 連名した11人はバシャーニ(NAP),ヌールル・アミーン(PDP),A・ラーマン・カーン(PNL),K.カイルッデイーン(MLC)など。
DIA-304-1970-11-24-1パキスタン1970年11月24日1970年代大統領,東パへ――大統領は救援活動視察のため東パ訪問。救援活動には米ヘリコプター10機,フランス3機,英国8機,サウジ・アラビア2機,西独3機,パ空軍機3機の29機がフルに動き,その他空軍C-130輸送機1機,農薬散布機2機が活動している。被災地は7,000平方マイル,作物被害は7000万ドルに達すると見られ,海岸地帯の漁夫の65%は死亡,9,000~1万隻の小船が流出した。
DIA-304-1970-11-25-1パキスタン1970年11月25日1970年代PL480により,72万2000トン――パ・米両国はPL480により小麦72万2000トン,食用油10万トンを含む3億6000万ルピー相当の援助協定に調印した。小麦価格の3分の1は贈与。
DIA-304-1970-11-26-1パキスタン1970年11月26日1970年代ムジブル・ラーマンAL委員長,政府非難――ラーマン委員長はダッカで記者会見,政府の救援活動のおくれは犯罪的行為であると述べ,「われわれは強力な陸軍をもっているのに,外国の軍の支援をうけ,西パにヘリコプターをもっているのに外国からのヘリコプターを待たねばならないのは残念なことだ」と述べた。
DIA-304-1970-11-27-1パキスタン1970年11月27日1970年代大統領,ダッカで記者会見――大統領はダッカで内外の記者を集めて記者会見,選挙は予定通り12月7日に行なうことを明確にするとともに,次のように述べた。 (1) 被災地の選挙は延期する。 (2) 国会は,すべての議席の選挙が行なわれてから召集されよう。州議会選挙も予定通り12月17日に行なう。 (3) 国会の作る憲法が,もし選挙要綱の5原則に従って作られないなら,戒厳政府は継続されよう。またもし憲法が分離主義の傾向を示せば,戒厳政府をつづけざるをえない。選挙に参加するものは選挙要綱を認めねばならぬ。選挙後これを認めない,というなら,彼らは選挙に参加しなかったとして取扱われよう。この場合も戒厳政府がつづく。 (4) 自分は軍人であり,政治には関心もなく,参加するつもりもない。しかし憲法が国の統一と安全を保障するものであるかどうかを見きわめるのはわたしの責任である。 (5) 自分は東パの人々が最大限の自治をもち,経済計画,資源の利用について自ら決定する権限をもつべきだと思う。自治というのは,パキスタン統一の範囲内だけでなくてはならぬ。パキスタンが5つの国になることは望まない。私は強力な中央政府の必要性を信じている。
DIA-304-1970-11-27-2パキスタン1970年11月27日1970年代パウロ法王,ダッカに立寄る。空港でヤヒア大統領と会見。
DIA-304-1970-11-28-1パキスタン1970年11月28日1970年代バシャーニNAP委員長,Aラーマン・カーンPNL委員長,選挙ボイコット――バシャーニNAP委員長,ラーマン・カーンPNL委員長は,東パ台風被害と27日のヤヒア大統領記者会見内容に抗議し,自ら選挙ボイコットを表明,党の公認候補にもボイコットするよう呼びかけた。
DIA-304-1970-11-28-2パキスタン1970年11月28日1970年代閣僚会議,東パ被災地再建プラン承認。総額8億6000万ルピー。
DIA-304-1970-12-02-1パキスタン1970年12月02日1970年代東パで選挙ボイコット続出――東パで国会・州議員候補者の選挙ボイコットが続出している。サブル・カーンAPML書記長,アズィズル・ホックPDP東パ書記長,ワーヒドゥザマーンAPML副委員長など大物もボイコットを表明,国会議員だけで約65人がボイコットを表明した。
DIA-304-1970-12-02-2パキスタン1970年12月02日1970年代インドにあるエンクレーブで,パキスタン人300人殺害か――UPPによれば,西ベンガルにあるエンクレーブ(飛び領地)でパキスタン人300人がインド人に殺され,700人が負傷したという。パ政府はこの問題でインド政府に抗議。
DIA-304-1970-12-03-1パキスタン1970年12月03日1970年代大統領,ラジオ・テレビ放送――われわれは1969年3月以来,長い道程を歩いてきた。4日後,わが国では初めての国会直接選挙が行なわれようとしている。われわれの政府に対し多くの疑問が寄せられてきた。しかし,それにもかかわらず,われわれは民主主義の復活という目的をもちつづけてきた。今,計画の第1段階を完了しようとしている。国民は選挙の重要性を十分考え,賢明な投票をして欲しい。パキスタンのイデオロギーと統一を守る人に投票して欲しい。この国は個人やグループのために作られたものではない。個人やグループが権力のために政権をとろうとしても失敗しよう。選挙は民政移管の第1段階である。第2段階は憲法制定であり,第3段階は権力を新政府に移すことである。この全段階が完了するまで戒厳政府はつづく。選挙において法と秩序が守られねばならない。軍が警察を補佐し,選挙中,法と秩序維持に努めるだろう。
DIA-304-1970-12-04-1パキスタン1970年12月04日1970年代ダッカでNAPら4政党共催の集会,「独立東パキスタン国家」建設を決議――ダッカでNAP,PNL,労農党(KSP),イスラム・ウラマー党(Hazarvi派)4党主共催による大衆集会が開かれ,「独立東パキスタン国家」建設が決議された。これはバシャーニNAP委員長が呼びかけたもの。また,この日KSPは選挙ボイコットを発表,NAP,PNLもボイコットの立場を再度明確にし,イスラム・ウラマー党のP.M.アーメッド東パ委員長も立候補を取消した。
DIA-304-1970-12-07-1パキスタン1970年12月07日1970年代パキスタン国民議会選挙――全国で5694万人による初めての国会直接選挙が行なわれた。今回の選挙では東パ被災地9議席,NWFPの無競争当選1を除く,全国290の議席をめぐって,大小30の政党を含む1570人が争った。投票率は東パキスタンで55~60%程度。選挙の雰囲気は,史上初の直接選挙にもかかわらず,1965年初の大統領選挙にくらべ熱狂的なものはないという。
DIA-304-1970-12-09-1パキスタン1970年12月09日1970年代国会議員選挙結果――東パキスタンではALの地すべり的大勝利で,選挙された153議席のうち152議席を独占,ラーマン委員長は2カ所から当選した。西パでは予想を破ってブット委員長の率る人民党が,138議席のうち81議席を占め,ブット委員長は4カ所から当選している。ラワールピンジから出馬したアスガル・カーン前空軍総司令官が人民党候補に4万票の大差で敗れ,アユブ政権時代の政治家,それ以前の旧政治実の多くが落選,22財閥とはっきりした関係をもった人々も落選した。一般に若い世代の人々が当選している。とくにPPPがパンジャーブで77議席中62議席を占め,ラーホールの8議席,ラワールピンジの4議席を独占したことが注目されている。NWFPではカユーム・カーン氏の率いるAPMLが,強いといわれたNAP(ワーリ・カーン派)を破って第1党になり,バルーチスタンはNAPが4議席中,3議席をとった。パキスタン・タイムズ紙は今回の選挙を「選挙を通しての革命」と論評している(選挙結果については参考資料参照)。
DIA-304-1970-12-09-2パキスタン1970年12月09日1970年代ムジブル・ラーマンAL委員長,6項目要求に基づく憲法作成を主張――ALの勝利はベンガルの抑圧された人々の勝利である。この選挙は,ベンガルの人々にとって,何よりも6項目,11項目要求による完全な州自治という重要な問題についてのレファレンダムであった。憲法は6項目要求に基づき,11項目要求も反映させて作られねばならぬ。われわれは搾取のない,新しい経済・社会体制を確立することを誓うものである。
DIA-304-1970-12-09-3パキスタン1970年12月09日1970年代ブット人民党委員長,憲法制定協力を約束――ブット委員長はラルカナで記者会見,「PPPは憲法の制定に関しあらゆる協力を約束する。パ人民は今回の選挙で政治意識の高さを証明した。今回の選挙は,国民が経済体制の革命的変革を要求していることを示した。資本主義,ジャーギルダール制は完全に廃止され,搾取のない社会主義型経済体制が作られねばならない」と述べた。
DIA-304-1970-12-09-4パキスタン1970年12月09日1970年代バシャーニNAP委員長,東パ独立の国民投票主張――バシャーニNAP委員は被災地視察から帰り,ダッカの記者会見で次のように述べた。 (1) ベンガル7000万人の大多数は東パキスタンの独立を支持している。これまで23年間,西パは東パの問題解決に何ひとつ努力してこなかった。今や東パ国民は自らの運命を自らの手で決め,自らの足で立上がるときである。 (2) 今回の選挙は7000万ベンガル人の熱望を示したものであり,特定の政党・個人の勝利ではなく,ベンガル国民の勝利である。東ベンガルの独立は早いほどよい。これはわれわれに残された唯一の道である。 (3) 1971年のラーホール決議では,2つの独立した国の建設を決めている。東パが独立した後の西パとの関係は,RCDのようなゆるい機構の形成,あるいは他の回教国ともっている関係のようにすればよい。 (4) 1971年1月9日,すべての政治指導者を招いて,この問題についての全国会議を開く。 (5) 党の選挙ボイコット決議にもかかわらず西パで立候補した人々は今や私には何の関係もない。私は今はもう東パの問題にしか関与しない。また,東パで立候補した党員は追放処分にする。
DIA-304-1970-12-10-1パキスタン1970年12月10日1970年代大統領,AL,PPP委員長に勝利を祝うメッセージを送る。
DIA-304-1970-12-12-1パキスタン1970年12月12日1970年代NAP(バシャーニ派)書記,脱党――西パ出身の書記アリフ=イフティカール氏はバシャーニ委員長の西パに対する敵対的姿勢に反対して脱党を表明。
DIA-304-1970-12-13-1パキスタン1970年12月13日1970年代カラチ株式市況,低迷――選挙結果が明らかになるにつれ,カラチ株式市況は連日下落をつづけている。弱気が一般的で投資家たちはその巨大な損失にもかかわらず,持株を一斉に整理しはじめている。PPPとALの勝利の結果生じたこの下落は,投資家たちがこれら政党の経済政策に不安をもっていることを示すものである。
DIA-304-1970-12-14-1パキスタン1970年12月14日1970年代ブット人民党首,憲法小委員会を任命――PPPとしての憲法草案を作成するためで,委員長はM.アリ・カスリ党副委員長。
DIA-304-1970-12-15-1パキスタン1970年12月15日1970年代シェール・アリ情報相,辞任――シェール・アリ情報相は大統領に辞表を提出,受理された。
DIA-304-1970-12-15-2パキスタン1970年12月15日1970年代東パ被災地選挙は1月17日――サッタール選管委員長は,東パ被災地の国会議員9,州議会議員21(被災地は18,残り3は候補者が死亡したため延期)の選挙を1月17日行なうと発表した。
DIA-304-1970-12-17-1パキスタン1970年12月17日1970年代州議会選挙――東パキスタン,パンジャーブ,シンド,NWFR,バルーチスタン5州の州議会選挙が行なわれた。東パでは選挙が延期された21議席を除く279議席をめぐって1861人が立候補,パンジャーブでは180議席に1308人,シンドでは60議席に577人,NWFRでは40議席に322人,バルーチスタンでは20議席に164人が立候補した。投票率は東パで約50%,場所により30%のところもあり,国会選挙に比べ一層低調であった。
DIA-304-1970-12-17-2パキスタン1970年12月17日1970年代大統領,政治犯釈放を発表――ヤヒア大統領は政治活動を理由に逮捕されていた者に対し,選挙が平和裡に終ったため,恩赦を与え釈放すると発表した。これにより各地の刑務所から政治犯多数が釈放された。
DIA-304-1970-12-17-3パキスタン1970年12月17日1970年代ラージシャーイのナトールで手榴弾発見――ナトールで手榴弾を非合法に作っているところが発覚,14人が逮捕された。うち2人は学生。
DIA-304-1970-12-18-1パキスタン1970年12月18日1970年代州議会選挙結果――パキスタン5州の州議会選挙結果によると,東パではALが279議席中268議席を得て圧勝した。パンジャーブ(定数180)とシンド(同60)ではPPPがそれぞれ113議席,32議席を獲得して第1党となり,NWFP(定数40)ではNAP(ワーリ・カーン派)が13議席,APMLが10議席に達したが,いずれも過半数を制することはできなかった。また議席20のバルーチスタンではNAP)ワーリ・カーン派)が8議席を得たが,やはり過半数には及ばなかった。
DIA-304-1970-12-20-1パキスタン1970年12月20日1970年代ブット人民党首,ラーホールで演説――ブット委員長はラーホールの大衆集会で要旨次のように演説。 (1) いかなる政府もPPPの協力なしには機能しえないし,効果的改革もできないだろう。 (2) PPPは銀行,保険,大規模な綿工場,砂糖工場,石油工場,セメント工場などを国有化する。 (3) PPPは自主独立の外交政策を取る。インドの関係については,カシミール問題解決まで対決する。インドに対する弱腰政策はインド指導部を増長させるだろう。 (4) 中央政府は東西パ多数党の同数メンバーによって作られるべきである。
DIA-304-1970-12-21-1パキスタン1970年12月21日1970年代AL東パ書記長,ブット氏批判――ALの東パ書記長T.アーメッドは声明を発表,ブット氏の20日の発言を批判,ALは他党の協力のあるなしにかかわらず憲法草案を作成し政府を構成するだろうと述べた。
DIA-304-1970-12-21-2パキスタン1970年12月21日1970年代クールナでナクサライトによるテロか?――クールナで村の有力者が殺され,17人が逮捕された。この事件につき,AL指導者はナクサライトのやったものだ,と述べている。ナクサライトはクールナで活発に動いており,ポスターやリーフレットを農民にくばり,大地主や富農に反対して立上がるよう訴えている。
DIA-304-1970-12-22-1パキスタン1970年12月22日1970年代PPP内部対立――西パで勝利したPPP内部では多数党のALと連立中央政府をつくるべきか,あるいは野党にとどまるべきかで深刻な内部対立が表面化してきている。PPP内部の地主,資産家を中心とする右派は連立政権を主張し,学生・弁護士などの左派グループは野党にとどまるべきであると主張している。ブット委員長は一方で急進的経済政策を主張して左派勢力をなだめつつ,ALとの連立政権を考慮しているといわれる。
DIA-304-1970-12-22-2パキスタン1970年12月22日1970年代東パ・パブナでALの新州議員刺殺さる――パブナでALの新州議員が刺殺され,この事件で23日,4人が逮捕された。うち3人は学生。
DIA-304-1970-12-23-1パキスタン1970年12月23日1970年代NAP(ワーリ・カーン派)ウスマニ書記長,辞任――ウスマニ書記長は国会選挙で落選したことを理由に書記長を辞任したが,党内にはとどまる。
DIA-304-1970-12-26-1パキスタン1970年12月26日1970年代第2回回教国外相会議,カラチで開催――会議ではヤヒア大統領が開会の演説を行なった。回教国23カ国から代表が参加,パレスチナ解放機構からの代表はオブザーバーとして参加した。
DIA-304-1970-12-27-1パキスタン1970年12月27日1970年代ブット人民党首,1月初に東パへ――ブット人民党委員長は1月初に東パ訪問,ムジブル・ラーマンAL委員長と会見,憲法問題について話合うと発表した。
DIA-304-1970-12-27-2パキスタン1970年12月27日1970年代PNL分裂――パ国民連盟(PNL)はA.ラーマン・カーン委員長ら主流派と東パ書記長オリ・アハッド派とに分裂した。分裂の理由はアハッド派の人々がラーマン委員長に対し,選挙ボイコット・中国型社会主義支持表明・バシャーニNAP委員長の独立東パキスタン要求支持表明などを党綱領違反と非難,それに対して委員長派はアハッド派を除名処分にしたため分裂した。
DIA-304-1970-12-28-1パキスタン1970年12月28日1970年代ダッカ市内の物価急騰――パ・オブザーバー紙によればダッカ市内の物価はこの数カ月に30%は上昇したという。1969年12月と1970年12月の主な商品価格の変動は以下のとおり。
DIA-304-1970-12-28-2パキスタン1970年12月28日1970年代パブナで学生2人刺殺さる――パブナでイスラミア大学の学生2人が刺殺された。2人とも同大学の東ベンガル学生連合に属している。パブナではこの他にも暴力事件が続発,不安が高まっている。この事件で30日,3人が逮捕された。東ベンガル学生連合委員長はこの事件について「民主主義のポーズをとったある組織のファシストたちがやった」とのべている。
DIA-304-1970-12-30-1パキスタン1970年12月30日1970年代大統領,第1回国会はダッカ開催を発表。
DIA-304-1970-12-31-1パキスタン1970年12月31日1970年代1971年1―6月輸入政策発表――前期と大幅な変更はないが,自動車,エアコン,ミシン,高級時計などは6カ月間輸入禁止になった。
DIA-304-1971-01-01-1パキスタン1971年01月01日1970年代東パキスタン(以下,パキスタンはパと省略)州政府当局によれば,12月の選挙後,ことにダッカにおいて,社会犯罪が急増している。
DIA-304-1971-01-02-1パキスタン1971年01月02日1970年代パキスタン人民党(PPP)使節,ダッカ着-PPP使節のダラーム・ムスタファー・カールはブット委員長の命でダッカ訪問,ムジブル・ラーマン人民連盟(AL)委員長と会見,憲法制定のため討議したいとのブットPPP委員長の意向を伝えた。
DIA-304-1971-01-02-2パキスタン1971年01月02日1970年代バルーチスタン学生組織,最大限のバルーチスタン州自治を要求してカラチでデモ。
DIA-304-1971-01-03-1パキスタン1971年01月03日1970年代ラーマンAL委員長,総選挙後初の政見発表(ダッカ)-要旨は次の通り。(1)ALは総選挙でバングラデシュ(ベンガルの地)のみならず全パにおいても過半数の支持を得たのであり,パを統治する権利は当然われわれにある。憲法作成については西パ政党指導者と協力する用意はあるが,国防・外交権を除きバングラデシュの完全自治を求める6項目要求についての妥協は考えられない。(2)すべての国々,とくに近隣諸国との友好関係を望み,インドとの間のカシミール・ファラッカ両問題を平和裡に解決したい。(3)ALを叩こうとする動きに対しては敢然と立ちむかって殴りかえすべきだ。過去にバングラデシュのために血を流した人々に報いるためにはわれわれも血を流さねばならないかもしれない。
DIA-304-1971-01-05-1パキスタン1971年01月05日1970年代民族人民党(NAP)(バシャニー派)副委員長,脱退-ハジ・ムハマッド・ダネシュNAP副委員長は,「バシャニー委員長は党を小じんまりした組織にしてしまっており,とても主要目標は達成できない。そのため全パ的規模での政党をつくりたい」として脱退を表明。同氏は14年間NAP党員であった。
DIA-304-1971-01-05-2パキスタン1971年01月05日1970年代S.ノズルル・イスラームAL副委員長は東パのマイメンシンで演説,「ALは6項目要求に基づいて憲法を作成する。PPPも協力してくれるものと期待する」と述べた。
DIA-304-1971-01-06-1パキスタン1971年01月06日1970年代ダッカのAL本部で開かれたAL義勇軍会議の席上,ラーマン委員長は,「策謀家による攻撃に対し,警戒を怠らぬよう注意する」と述べた。
DIA-304-1971-01-06-2パキスタン1971年01月06日1970年代基本的民主主義制度存続-イスラーマバードの政府筋は基本的民主主義制度(アユーブ政権の命とりの一つとなった非民主的間接選挙制度)は昨年末をもって廃止されたとの説を否定して次のように語った。「昨年4月8日のダッカでの州知事会議で,地方議会の選挙が行なわれるまで現存の制度は機能を続行すると決定されている。なお,同選挙の実施日については政府はまだ何も決定を下していない」
DIA-304-1971-01-06-3パキスタン1971年01月06日1970年代カナダ首相公式訪パ(~9日)-トリュード・カナダ首相は7日のヤヒア大統領との会談で国際情勢ならびに両国間の問題を討議,8日イスラーマバードで中国国連加盟およびインドの核開発について演説,9日カナダ援助によって建設中のカラチ原子力発電所を視察。
DIA-304-1971-01-07-1パキスタン1971年01月07日1970年代ラーマンAL委員長暗殺未遂-同日夜,ラーマン委員長との私的会見を希望してラーマン邸を訪れたダラーム・ムスタファーというコミラの青年(25歳)が短剣を所持していたことが発覚。同青年は逮捕された。タージュウッディンAL東パ支部書記長によれば,同青年は「自分には強い組織が背後にありラーマン暗殺が目的だった」と自白したという。
DIA-304-1971-01-07-2パキスタン1971年01月07日1970年代NAPから8人脱退-NAP(バシャニー派)の東パ支部副書記,ダッカ市支部副書記等8人が脱党。理由はバシャニー委員長が先の西パ支部との関係を一方的に絶ったり(1970年12月9日),党自体が人民の利益に反することばかり行なう組織に思えるようになってきたから,というもの。
DIA-304-1971-01-07-3パキスタン1971年01月07日1970年代ヤヒア大統領は5州知事会議で,戒厳令の規則を活用して,密輸,物価騰貴を極力抑えるよう命令した。
DIA-304-1971-01-08-1パキスタン1971年01月08日1970年代外貨事情悪化-8日版の中央銀行報告書によればパの外貨準備高は現在SDR2億7000万ルピーを含めて11億1000万ルピー(約2億3320万ドル)という。なお,1970年3月末は16億6710万ルピー(約3億5000万ドル)であった。
DIA-304-1971-01-08-2パキスタン1971年01月08日1970年代英首相,公式訪パ(~9日)-キプロスから到着したヒース首相は東パ被災地のために200万ポンド供与を発表(無利子,25年間)。9日ヤヒア大統領と会談,中東問題に関しヤリング特使による調停成功への期待を表明。一方,ヤヒア大統領は印パ関係についてもパの立場を語った。
DIA-304-1971-01-08-3パキスタン1971年01月08日1970年代サントスで大衆集会-東パのサントスでNAP(バシャニー派)およびパ国民連盟(PNL)の主催で大衆集会が開かれ,席上バシャニーNAP委員長は,「われわれは社会主義の道を歩むべきだが,過激派のいう武装革命などは誤っている」と述べた。同集会では帝国主義,植民地主義の根絶,東パ内で代替物が生産されている外国製品のボイコットおよび均等配分,等の5項目計画が採択され,その実行のためNAPとPNLから5名ずつ計10名の労農委員会(代表はバシャニー)が結成された。
DIA-304-1971-01-10-1パキスタン1971年01月10日1970年代ブットPPP委員長はペシャーワルの集会で演説し,①PPPは全西パを代弁する権利を有する,②PPPが選挙に勝利したのは,人々が古い教条的な保守的指導者を嫌い,能力あるダイナミックな指導者を求めている結果である,などと述べた。
DIA-304-1971-01-10-2パキスタン1971年01月10日1970年代ダッカでのNAP集会で,バシャニー委員長は,「ラホール決議を即時採用せよ」と述べ,次の5項目を要求した。①ラホール決議の即時採用,②生産・配分機構の社会主義化,③東パで生産されうる商品の輸入禁止,④反帝・反植民地主義,⑤政治犯釈放。
DIA-304-1971-01-10-3パキスタン1971年01月10日1970年代コスイギン,印パ両国にメッセージ-タス通信によるとソ連のコスイギン首相は,この日がタシュケント宣言調印5周年記念日にあたるため,ガンディー・インド首相およびヤヒア・パキスタン大統領に対し,両国間の問題を平和裡に解決するよう呼びかけた。
DIA-304-1971-01-11-1パキスタン1971年01月11日1970年代ヤヒア大統領,東パ訪問(~14日)-ダッカ空港で要旨以下の記者会見。「第1回国会招集日は未定。憲法起草令(Legal Framework Order)は民政移管のためのものだが,私は国家元首であり,私の気が変れば効力を失なおう。私の任務は終り,今は憲法制定という民政移管の第2段階に入った。この点,楽観視しており,憲法制定が成れば可及的すみやかに民政移管を進めるが,ただ神のみが知り給うことだ。ラーマンAL委員長には会うが,ブットPPP委員長も含めた3者会談は考えてもいない。憲法については彼ら2人が会って話せばよいのであって私は3者会談を開く立場にはない」
DIA-304-1971-01-11-2パキスタン1971年01月11日1970年代バシャニーNAP委員長は同党のノアカリ県,チッタゴン市,フュニ行政区の3委員会は党組織の秩序を破ったとしてこれらを解散し,暫定的委員会を新設した。
DIA-304-1971-01-12-1パキスタン1971年01月12日1970年代ヤヒア・ラーマン会談-ヤヒア大統領とラーマンAL委員長の第1回会談がダッカの大統領官邸で1時間半にわたって開かれた。この日の会談は秘密会談で予備会談的性格のものであった。会談後ラーマンは,「今は会談の内容については何も言えないが,満足すべきものであった。明日も大統領にAL幹部陣とともに会う」とだけ語った。
DIA-304-1971-01-12-2パキスタン1971年01月12日1970年代援助について政府見解-政府は,「わが国は対パ債権国会議から約5億ドルの援助を受けることになろう。これは昨年7月の同会議諸国のパリ会議での約束額3億8000万ドルよりもはるかに多額だ。その他,中国から2億ドル,ソ連から2億ドル(1億8000万ルーブル)が約束されている」と発表した。
DIA-304-1971-01-13-1パキスタン1971年01月13日1970年代ヤヒア・ラーマン会談-会談はダッカの大統領官邸で3時間にわたって行なわれ,会談後ラーマンAL委員長は「会談には満足した」として要旨以下のように述べた。①物価問題など重要な経済問題を話合った,②大統領は国会をできるだけ早く開くことに同意した,③私はすべての政党指導者と会見する用意があると伝え,大統領に6項目要求を詳しく説明した。制憲問題については大統領はラーマンAL委員長とブットPPP委員長で話合えばよいとしているため,ラーマンと大統領との問ではこの問題は議題にならなかったもよう。なお,会談出席者はAL側はラーマンの他,サイエッド・ノズルル・イスラーム,マンスール・アリ退役大尉(以上副委員長),A.H.M.カマルッザマン書記長,コンドカル・ムシュターク・アーメッド東パ支部副委員長,タージュウッディン・アーメッド東パ支部書記長で,政府側は大統領主席参謀将校ピールザーダ陸軍中将,東パ州知事アハサーン海軍中将。
DIA-304-1971-01-13-2パキスタン1971年01月13日1970年代ブットPPP委員長,ラーワルピンディで記者会見-ブットは1月第3週にダッカでラーマンと会見する予定であると述べ要旨次のように語った。①6項目要求は否定しないが,国の統一と団結が先決条件である,②インドとの関係改善は紛争が解決してからの問題である。なおブットは,当地滞在中に,中国,フランス,トルコ各大使と会談した。
DIA-304-1971-01-14-1パキスタン1971年01月14日1970年代ヤヒア大統領,西パ帰還-大統領はカラチへ向う前にダッカ空港で記者会見,要旨以下のように述べた。①ラーマン氏との会談は有益であった,②ラーマン氏は有能で近く首相になる人であり,政権移譲をすれば私は立去る,③国会開催の日時は未定。まだ多くの問題がある,③パの経済状態は極めて悪い。全国民の努力なくして好転することはない。自分は間もなく去り,すべてはラーマン氏が後継することになろう,⑤私は非常に渡れているが,誰とでも会う用意がある。
DIA-304-1971-01-14-2パキスタン1971年01月14日1970年代政府,インド非難-政府はインド政府がインド側カシミールのジャム・カシミール人民投票戦線を禁止し(13日),また,ネパールに対パ貿易禁止を強制したことに関し,強く抗議するとともにインド大国主義を非難,さらにネパールに対して可能な限りの援助を約した。
DIA-304-1971-01-14-3パキスタン1971年01月14日1970年代第18回英連邦首脳会議(シンガポール,~22日)。アハサーヌル・ハック商相(団長),スルタン・ムハマッド・カーン外務次官等が出席。パは20日の演説でカシミール問題解決の必要を強調。
DIA-304-1971-01-17-1パキスタン1971年01月17日1970年代ヤヒア大統領,記者会見-カラチからラールカーナ近郊のモヘンジョダーロ空港におりたった大統領はブットの歓迎を受けたのち記者会見で要旨以下のように述べた。①定められた期間内に憲法制定が行なわれることを希望するが,この点について2大政党の指導者たちが相互了解に達するようにてこ入れをするということはしていない。それは私の関与すべきことではないのだ,②私はラーマンAL委員長は近く首相になる人だと言ったおぼえはない。事実は彼が議席の過半数を占める政党の指導者であり,議会制においてはそういう者が首相になるものだということだ。それゆえ彼は首相になる資格のある人ではあるが,彼が首相になりたくなければ私としては彼に首相になれと強制することはできない。また,私としては誰が次の国家元首になるかは言えない。まず憲法が制定されねばならず,その憲法では大統領選挙が行なわれることになろう。国家元首が誰になるかはそれからのことだ,③国会開催日は時期が来れば発表する,④本日ブット氏と会談を行なうが,私は同氏の客であり,会談後に何かを発表するのはブット氏が先になろう(これについてブットは,「記者団に語るべきことは国家元首によって決められよう」と述べた)。
DIA-304-1971-01-17-2パキスタン1971年01月17日1970年代ヤヒア・ブット会談-会談はラールカーナのブット邸で長時間にわたって行なわれたが,会談後ブットPPP委員長は記者団に対し,「本日は何も言うことはない。明日なら少しばかり言うこともあろう」との伝言を届けさせたのみであった。なお,会談はほとんど大統領とズルフィカール・アリ・ブット委員長だけの秘密会談であったが,途中少しだけ陸軍参謀長アブドゥル・ハミード・カーン大将とS.G.M.M.ピールザーダ陸軍中将が同席,またPPP側はムムターズ・アリ・ブットおよびムスタファー・カールが同席した。
DIA-304-1971-01-17-3パキスタン1971年01月17日1970年代ブットPPP委員長,テレビ記者会見(ラーワルピンディ)-この夜ブットは要旨以下のように語った。「PPPの総選挙での大勝利は貧しき人民の勝利だ。わが党は経済体制を変え,独自の外交を進め,民主主義を回復する。そのための憲法を作成するためならば東パで勝利をおさめた指導者たちと相互了解に達するにはやぶさかではない」
DIA-304-1971-01-17-4パキスタン1971年01月17日1970年代東パ全域で東パ学生連合モティア派を中心に「11項目要求」週間開始。
DIA-304-1971-01-18-1パキスタン1971年01月18日1970年代ヤヒア大統領,記者会見(ラールカーナ)-要旨以下の通り。①私はラールカーナには休養のために来たのだったが,ブットPPP委員長と有益な意見交換をする機会にめぐまれた。ただ,何かを言うには時期尚早だ,②物価上昇は困ったものだ,③ブット氏は近くラーマンAL委員長に会うだろう。また,必要とあらば何らかの貢献をするために3者会談を行なってもいい。とはいえ,中心になるのは両氏である。両氏がわが国の安全と統一について共通の目標に到達すると確信している。
DIA-304-1971-01-18-2パキスタン1971年01月18日1970年代大統領,ブットを呼びつけ-ブットPPP委員長はカラチでの党活動者会議で,「ラーワルピンディの大統領から至急来いと電話を受けた。ことわったが,重要問題であるらしいから今夕出発する」と発表。さらに,「パの3大勢力はALとPPPと軍であり,第4の勢力は望まないし,ALとPPPの間に第三者による干渉が入ることは歓迎しない」と述べた。
DIA-304-1971-01-18-3パキスタン1971年01月18日1970年代AL書記長カマルッザマンはラージシャヒ・スタジアムで開かれた労働者評議会で演説し,「バングラデシュは,6項目の実施に反対する西パ一部勢力による陰謀が続けられようとも,自分自身の道を歩むであろう。人民の政府が設立された時にのみ,自分たちの政府を樹立したことになるし,選挙に勝利したことが成功するのである」などと述べ,さらに基本的民主主義制度の即時撤廃を強く訴えた。
DIA-304-1971-01-18-4パキスタン1971年01月18日1970年代外貨事情悪化-18日カラチ発の“パ・オブザーバー紙”報道によれば,パ政府は外貨事情悪化を乗り切るためにIMFに対し5000万ドルのスタンドバイ・クレジットを要請したという。
DIA-304-1971-01-19-1パキスタン1971年01月19日1970年代補充・補欠選挙結果出揃う-東パのサイクロン被災地では選挙が延期されていたが,17日に補充選挙が行なわれ,国会9議席中の全部をALが獲得。ラーマンAL委員長が昨年二重当選して放棄することとなった1議席および当選者が暗殺されたチッタゴンⅡ区の補欠選挙は先日すでにALが勝利。これにより婦人議席を除く国会議席300中ALは160を占めることとなった。東パ州議会については無所属当選1議席を除く20議席をALが獲得。これにより東パ州議会議席300中ALの議席数は288となった(ただし,1名暗殺により現有州議会議員数は287,補欠選挙は憲法制定後)。なお,西パの国会議席についてはムスリム連盟カユーム派(QML,従来の呼称は全パキスタン・ムスリム連盟APML)のカユーム・カーン委員長の三重当選,PPPブット委員長の五重当選のため,今回彼らが放棄した2議席と4議席,計6議席の補欠選挙が14日~17日に行なわれ,結局,前2議席はQML,後4議席はPPPに帰した。
DIA-304-1971-01-20-1パキスタン1971年01月20日1970年代東パで“殉難の日”-(Shaheed Asad Day。1969年1月20日に警官隊の発砲で死んだNAPバシャニー派系の東パ学生連合メノン派の幹部アサドゥッザマンを悼む日)。この日,東パ学生連合ハイデル派(別名東パ革命的学生連合)による東パ全域ハルタル(ゼネスト)の呼びかけにダッカおよびチッタゴン両都市は完全に麻痺した。ダッカでの集会でムスタファー・ジャマール・ハイデル委員長は,①われわれ進歩的勢力は資本主義・封建主義の根絶のために人民民主主義確立のための統一運動を要する,②バシャニーは初志を忘れ去った。大衆闘争は彼の下ではゴミ箱に葬り去られよう。③ラーマンは輩下に竹棒を備えろと言ったが,それはAL指導者たちが自分の輩下に対する裏切りに用いるためだ,などと述べた。一方,東パ学生連合モティア派は「殉難の日」との呼称を排し,この日を「11項目要求日」と呼んで大衆蜂起を唱えた。しかし,AL系の東パ学生連盟は沈黙を守った。
DIA-304-1971-01-22-1パキスタン1971年01月22日1970年代AL,憲法草案完成-ALは憲法草案の作成を秘密裡に進めていたが,本日それが完成したといわれる。詳細は不明だが,6項目要求を基礎とし国の統一は保証したものであるという。
DIA-304-1971-01-22-2パキスタン1971年01月22日1970年代ソ連より借款-パとソ連はモスクワで1億8000万ルーブル(2億ドル)の借款協定に調印。これによりソ連はカラチ鉄鋼所に設備供与を行なう。また,冶金等についてソ連はパキスタン人技術者および監督者の育成を考慮中。
DIA-304-1971-01-22-3パキスタン1971年01月22日1970年代英連邦首脳会議へのパ代表団スポークスマンは共同コミュニケを「美化された議題にすぎない」として正式に異議を表明。
DIA-304-1971-01-23-1パキスタン1971年01月23日1970年代PPP,第1回党中央委員会(カラチ)-委員会はカラチのブット邸で正味8時間にわたって開かれ,以下の決定が行なわれた。①ALと会談するためブット委員長を含む中央委員15人が1月27日にダッカを訪問する,②18人編成だった中央委員会を拡充する。この日6人が新委員に選ばれたが,後日あと数名が追加される,③党副委員長は各州から1名で合計5名とし,書記長は1名とする。書記長にはJ.A.ラヒームを任命,副委員長にはミアーン・マフムード・アリ・カスリ(パンジャーブ州),マクドゥーム・ムハマッド・ザマーン・ターリブル・マウラ(スィンド州)を任命し,残り3名については後日決定する。④委員会設置-経済委,行政改革委,外交問題委,カシミール解放委,文化・青年教育委,労働土地改革委。
DIA-304-1971-01-24-1パキスタン1971年01月24日1970年代インド政府,パ外交官追放-インド政府はパ高等弁務官府のZ.I.ラトール1等書記官(駐ニューデリー)を,インド側カシミールの反政府秘密結社アル・ファタとの協力とスパイ活動容疑およびインド高官暗殺計画に関係しているとの容疑で追放命令。
DIA-304-1971-01-25-1パキスタン1971年01月25日1970年代政府,インド外交官追放-政府はインド高等弁務官のB.L.ジョシ1等書記官(駐ラーワルピンディ)に48時間内に国外退去するよう命令。容疑はパ政府転覆活動およびスパイ活動を行なったというもの。
DIA-304-1971-01-26-1パキスタン1971年01月26日1970年代ラーマンは知事公邸で,アハサーン東パ州知事と1時間にわたり会談した。
DIA-304-1971-01-26-2パキスタン1971年01月26日1970年代ルピー切下げ,ノーコメント-大統領経済顧問M.M.アハマッドはカラチ商工会議所での演説の席上,「ルピー切下げはあるか」との質問に対しノーコメント。これは,政府高官が公式にルピー切下げの可能性を否定しなかった初めての事例である。
DIA-304-1971-01-27-1パキスタン1971年01月27日1970年代ブットPPP委員長,東パ訪問(~31日)-出発に先立ってカラチ空港で記者会見,「ダッカでラーマンAL委員長と様々の話をしようが,東パ訪問後の記者会見で私が色々と言うべきものを持っているだろうとは期待しないでほしい」と語った。 ダッカ空港には,カマルッザマンAL書記長,タージュウッディンAL東パ支部書記長らのAL幹部およびNAP(バシャニー派)の東パ支部書記長モシフール・ラーマンが出迎えた。ブットは空港で記者会見,要旨以下のように語った。「私は議席の過半数を占める政党に政府運営の権限を譲るが,制憲については,とくに連邦国家の場合には広範なコンセンサスが最も重要だと考える。私の東パ訪問の目的は同意と妥協がなされ得る点をさぐることにあるが,ALの6項目について相互理解に達するかどうかは私のコメントし得る所ではない。私は未解決の基本的諸問題(それらは何であるかとの質問には答えず)を恒久的に解決するために全力を尽したいと思う。また,国家団結の最大の方法は現存の経済体制を打破して搾取なき新社会を築きあげることである」 なお,PPP代表団はブット委員長,M.M.Z.T.マウラ副委員長,ミアーン・M.A.カスリ副委員長,J.A.ラヒーム書記長等18名および26日到着の先発隊8名の計26名。
DIA-304-1971-01-27-2パキスタン1971年01月27日1970年代ラーマン・ブット会談-会談はラーマン邸で75分にわたって開かれ,出席者は両党首のみ。会談後ラーマンAL委員長,ブットPPP委員長は記者団に対しいずれも「今日のところは何もない」と言うにとどまった。
DIA-304-1971-01-28-1パキスタン1971年01月28日1970年代ラーマン・ブット会談-会談はホテル・インタコンティネンタルで70分にわたって両党首だけで行なわれたが,会談後の記者会見で両党首とも,「われわれはわが国の問題すべてを話合っている」とするのみであり,「意見の相違は多少とも解消できたか」との質問にはノーコメント。 なお,両党首会談の前に両党代表団のグループ討議が行なわれ,ALの6項目要求,憲法問題等が議題にされたという。この会議の出席者はAL側が2副委員長,党書記長,東パ支部副委員長,東パ支部書記長,および憲法問題専門家カマール・ホセイン博士で,一方PPP側は党書記長,カラチ支部委員長A.H.ピールザーダ,PPP党機関誌“ムサーワート”編集長ハニーフ・ラメイ,パンジャーブ州支部委員長シェイク・ムハマッド・ラシード,憲法委員全委員ラフィー・ラザであった。
DIA-304-1971-01-29-1パキスタン1971年01月29日1970年代ラーマン・ブット会談-会談はラーマン邸で1時間にわたり両党首のみで進められた。会談後ラーマンAL委員長は記者団に要旨以下のように語った。①われわれは制憲問題の他,色々と話合った。ALとしては意法は東パの大衆の声を反映する6項目要求を基礎にすべきとの立場を堅持した,②国会開催はこれ以上遅れてはならない。私はすでにヤヒア大統領に国会は2月15日に開くべきだと伝えている,③ALはすべてのグループに協力を求める。私は近くブット氏以外の西パ指導者たちにも会う。一方,ブットPPP委員長は次のように語った。①私はこれでラーマン氏の立場と6項目に基づいた憲法の主張とを理解した。PPPは人民の憲法作成のためにあらゆる協力を提供するであろう,②国会は民政移管を早めるために早期開催が望ましい。しかし,2月15日である必要はない。 なお,会談後ブットはアハサーン東パ州知事に会見。会見の目的はこの日視察した大洪水(1970年11月)被災地のもようを伝えるためという。
DIA-304-1971-01-30-1パキスタン1971年01月30日1970年代ブット,記者会見(ダッカ)-要旨以下の通り。①ALとPPPはいまだに多くの基本的問題に対する恒久的解決は見出し得ていない。両党は現在,交渉結果に共通の利害関心を持っている。われわれは互いにこれ以上離れてはならない。これ以上離れるとなると事態は今までとは異なってくる。誰もそれを望んではいないのだ,②私は東パの人々の立場について理解した。だからわれわれの立場もわかってほしい。パンジャーブ州とスィンド州はパの国力の中心だが,その力は東パに敵対的なものではないのだ,③PPPはALの6項目要求のうちパを連邦制にすべしとの項目は支持する。ただ,1940年のラホール宣言はベンガル,パンジャーブ,アッサムがそれぞれ二分されることなくすべてパに含まれていて初めて意味をもつのであって,現在は意味はない。また,州ごとの準軍隊を置けとの項目にも賛同する。だが残りの項目については困難が多く,私としては近い将来には何も言えまい。東パ学生の11項目要求について言えば,PPPはそのうち9項目を支持し,1項目は部分的に支持し,ALの6項目要求に基づいた憲法を要求する項目は残されている,④私の東パ訪問は主にALの6項目要求の存在意義と6項目に基づく憲法の必要性如何を理解するためだった。ALは国会議席の過半数を占め,憲法を草案することはできるが,全国的コンセンサス無くしては無駄だ。新憲法を単純過半数で決めてしまうなど不毛におわる,⑤国会を2月15日に開くことは無理だ。わが党にも準備期間が必要なのだ,⑥ヤヒア大統領は同意と了解の成立のために努めている。なお,今月17日の大統領と私の会談にハミード・カーン大将が同席したというのはデマにすぎない。
DIA-304-1971-01-30-2パキスタン1971年01月30日1970年代インド機乗取り事件-搭乗員4名を含む32名を乗せたインド航空のフォッカー・フレンドシップ機が,スリナガルを飛び立った後インド側カシミール青年2名に乗取られ,西パのラホールに着陸を強制された。犯人はクレーシ・ムハマッド・ハーシム(20歳)とサイード・ムハマッド・アシュラフ・クレーシ(21歳)で,インド側カシミールの秘密結社アル・バルク(Al-Barq)に所属するという。2人はインド側カシミールの活動家36名全員の釈放を要求,インド政府が拒否すれば機体を爆破するとし,同時にパ政府に政治亡命を申請。
DIA-304-1971-01-31-1パキスタン1971年01月31日1970年代サイエッド・ノズルル・イスラームAL副委員長はダッカ近郊ナラヤンガンジで演説,「若干の西パ指導者たちは6項目要求の一部に賛同するとし,話合いによって憲法制定をひきのばそうとしている。しかし,憲法は6項目要求に基づかねばならぬし,誰も人民の妻求をわきにそらすことはできない」と述べた。
DIA-304-1971-01-31-2パキスタン1971年01月31日1970年代ブット,飛行機乗取り犯人と会見-ダッカからラホールに到着したブットPPP委員長は犯人の一人クレーシ・ムハマッド・ハーシムに話しかけた。後ほどもう一人の犯人ムハマッド・アシェラフ・クレーシは記者団に対し,①ブット氏は自分にすべてをまかせてくれと言ってくれた,②われわれはスリナガル出身で民族解放戦線に属している,と語った。
DIA-304-1971-01-31-3パキスタン1971年01月31日1970年代政府,インド機乗取り犯の亡命を許可。
DIA-304-1971-02-01-1パキスタン1971年02月01日1970年代PPP,第1回国会招集日を2月末か3月第1週に希望(A.H.ピールザーダPPPカラチ支部委員長発言)。
DIA-304-1971-02-01-2パキスタン1971年02月01日1970年代ブットはラホールでパキスタン・ムスリム連盟評議会派(CML)のダウルターナ委員長と会談。ダウルターナは憲法問題で協力を約した。
DIA-304-1971-02-01-3パキスタン1971年02月01日1970年代ラーマン,西パ政治家と会見(ダッカ)。CMLの当選議員S.S.ハヤート・カーンはCMLはALの6項目を支持すると述べた。他に2名の無所属当選議員がラーマン訪問。
DIA-304-1971-02-01-4パキスタン1971年02月01日1970年代東パのクールナで手製爆弾。同市ではこの数カ月で8度目。この8度で死者1,負傷者25人前後。
DIA-304-1971-02-01-5パキスタン1971年02月01日1970年代インド機の乗客解放。犯人を除く30名は全員解放され,バスでインド領に護送された。
DIA-304-1971-02-02-1パキスタン1971年02月02日1970年代PPP,AL6項目の修正を希望-ラホールで幹部会議が開かれ,ALの6項目要求は強い中央集権主義に対立するため,そのうちの2つの項目(1月30日ブット発言の③参照)を除く4項目について修正案を考える決定がなされた。
DIA-304-1971-02-02-2パキスタン1971年02月02日1970年代ダウルターナCML委員長は,CMLは憲法制定を促進するためにPPPとALのいずれにも協力すると述べた。
DIA-304-1971-02-02-3パキスタン1971年02月02日1970年代インド機爆破さる-乗取り犯2名は36人のカシミール活動家の釈放が拒否されたため,ついに機体を爆破した。犯人は負傷して入院(~11日)。パ政府,インドの犯人引渡し要求を拒否。
DIA-304-1971-02-03-1パキスタン1971年02月03日1970年代ブット,ヤヒア大統領訪問(カラチ大統領官邸)。
DIA-304-1971-02-03-2パキスタン1971年02月03日1970年代ラーマンおよびブット,インド航空機乗取事件について-ブットは,「インド航空機の爆破は,2人の青年がやったことで,パキスタン政府と国民に何の責任もない」と語った。またラーマンは「私は,乗取機が爆破されたことに驚いている。全く嘆かわしいことである。こうした異常事態を故意に起して,民政移管を遅らせようとする陰謀に重大な警告を発する」と述べた。
DIA-304-1971-02-03-3パキスタン1971年02月03日1970年代ラーマンは自宅で駐ダッカ中国総領事と会談した。なお同日,ネパール総領事,ポーランド大使とも会談した。
DIA-304-1971-02-03-4パキスタン1971年02月03日1970年代ニューデリーのパ高等弁務官府に投石-学生を中心とする約1,000人のデモ隊によるもので,騒ぎは昼すぎから夕刻まで続いた。一方,イスラーマバードのインド高等弁務官府においてもパの学生により同様の騒動があった。
DIA-304-1971-02-03-5パキスタン1971年02月03日1970年代インド政府,すべてのパキスタン機のインド上空飛行を禁止(オール・インディア放送3日夜)。
DIA-304-1971-02-04-1パキスタン1971年02月04日1970年代ラーマンに非難-インド機爆破に関するラーマンAL委員長発言に対し,インド領カシミールのジャム・カシミール人民投票戦線,カシミール解放戦線等から強い非難の声があがっている。
DIA-304-1971-02-04-2パキスタン1971年02月04日1970年代ブット,インド非難-ブットPPP委員長は,「インドによるパ航空機インド上空飛行禁止は重大な問題だ。このような行為は戦時にしかあり得ないことだ」とインドを非難した。
DIA-304-1971-02-04-3パキスタン1971年02月04日1970年代パ国際航空(PIA),路線変更。インドによるパ航空機インド上空飛行禁止措置に伴い,PIAはラホール・ダッカ間の便を廃止すると共にカラチ・ダッカ間の便はインドを迂回してセイロンのコロンボ経由とした。
DIA-304-1971-02-05-1パキスタン1971年02月05日1970年代ヤヒア大統領,インドによるパ航空機インド上空飛行禁止宣告について,パキスタンの事情説明のため,数カ国の元首にメッセージを送った。
DIA-304-1971-02-08-1パキスタン1971年02月08日1970年代政府は,インド航空機がパキスタン上空を飛行していると抗議した(パはインド機のパ上空飛行を禁じていない)。なお,同日,政府はインド政府の乗取犯引渡し要求を拒否した。
DIA-304-1971-02-10-1パキスタン1971年02月10日1970年代PPP,憲法問題討議-ムルターンでブット委員長主宰下にPPPの国会・州議会当選者約100名が10時間にわたって憲法問題を討議。1月のブット・ラーマン会談以来,3度目。休息時間中ブットは次のように語った。①政府は故意に民政移管を遅らせている,②政府とラーマン氏との間にALの6項目要求に基づいて憲法を作成する計画がある。6項目に基づく憲法が作成されればPPPは反対闘争を展開する。
DIA-304-1971-02-10-2パキスタン1971年02月10日1970年代州政府への財政援助-政府は71年6~12月分の対州政府財政援助を発表。東パ14億2948万ルピー,西パ4州合計6億0578万ルピー。
DIA-304-1971-02-10-3パキスタン1971年02月10日1970年代外務省は各国大使を呼び,印パ問題についてパの立場を説明。
DIA-304-1971-02-11-1パキスタン1971年02月11日1970年代インド政府,パに覚書-インド政府はニューデリー駐在のパ高等弁務官に覚書を手渡し,インド機爆破の補償を要求。
DIA-304-1971-02-12-1パキスタン1971年02月12日1970年代ヤヒア大統領,ブットPPP委員長と会談(ラーワルピンディ)-議題は主として国会招集日についてであったという。
DIA-304-1971-02-12-2パキスタン1971年02月12日1970年代バルーチスタンの指導者ナワーブ・アクバル・カーン・バグティは,ダッカでムジブル・ラーマンと会談,その後の記者会見で,「与党が政権を担当し,憲法を作成すべきである。われわれは,すでに憲法が6項目と11項目要求をもとに作成されることに同意している」と述べた。
DIA-304-1971-02-13-1パキスタン1971年02月13日1970年代国会招集日発表-ヤヒア大統領は3月3日午前9時から制憲議会を兼ねる国会をダッカで開催すると発表した。このなかで,ヤヒア大統領は,①印・パ間の緊張は非常に高まっている,②ラーマン氏は2月15日開会を要求したが,ブット氏がさらに15日間延期するよう申入れた。議会開催についてはコンセンサスが必要なので,この措置をとった,などと述べた。
DIA-304-1971-02-13-2パキスタン1971年02月13日1970年代ブット,カユーム・カーンと会談。ブットPPP委員長はペシャーワルのカユーム・カーンQML委員長邸で憲法問題について1時間半話合った。
DIA-304-1971-02-13-3パキスタン1971年02月13日1970年代パ政府,国連に書簡-アガ・シャーヒ国連大使は国連安保理に書簡を渡し,インド機乗取り事件とそれに伴うインド政府によるパ航空機インド上空飛行禁止措置に関し,パの立場を訴えた。
DIA-304-1971-02-13-4パキスタン1971年02月13日1970年代楊傑中国交通部長を団長とする代表団が,2月16日に行なわれる中・パを結ぶカラコルム・ハイウェー開通式に出席のため,途中ダッカに立寄った。なお,この代表団を出迎えに来た張中国大使は,同日,ラーマンと会談した。
DIA-304-1971-02-14-1パキスタン1971年02月14日1970年代ラーマン,大統領声明を歓迎-ラーマンAL委員長は,13日の大統領声明は制憲のための第1歩であるとしてこれを歓迎したが,憲法草案にあたってはALの6項目要求と学生の11項目要求を基礎にするという態度を堅持した。
DIA-304-1971-02-14-2パキスタン1971年02月14日1970年代ブット,ペシャーワルで北西辺境州指導者と会談。その後ワーリ・カーンNAP(ワーリ・カーン派)委員長と2時間にわたって憲法問題を討議し,ブットは「われわれはパキスタン統一の保持を軸に憲法起草を進めている」と述べた。
DIA-304-1971-02-14-3パキスタン1971年02月14日1970年代北西辺境州の政党指導者7人PPP加入-ブットの北西辺境州訪問に伴い,カーン・ハビブッラー・カーン(元国務相),カーン・ファイズッラー・カーン(CML副委員長),パキスタン・ムスリム連盟会議派(PML)2名等,計7人がPPPに加入を発表。
DIA-304-1971-02-14-4パキスタン1971年02月14日1970年代バシャニーNAP委員長は,「ラーマンやヤヒアが取組んでいる憲法とは関係なく,大衆運動は続けなければならない」と述べ,さらに「パの80%の富は26家族に独占されている。……共産主義が搾取を無くすことができるのなら,回教によって出来ないことはない。人々が平等に生きていきたいなら,回教を確立するしかない。それができねば全てが共産主義者に転向するしかなくなる」と語った。
DIA-304-1971-02-14-5パキスタン1971年02月14日1970年代婦人議席選挙は3月2日-選挙管理委員会は国会議席総数313のうち婦人用に残された13議席の選挙は3月2日にダッカで行なうと発表(婦人議員は東パ7,西パ6の割当てになっており,男女共に立候補し得た昨年12月国会総選挙の当選者によって間接選挙される)。
DIA-304-1971-02-15-1パキスタン1971年02月15日1970年代ブット,国会ボイコットを示唆-ブットPPP委員長はペシャーワルで記者会見,要旨以下のように語った。①ALは一歩も譲ることなく6項目要求に基づいた憲法草案を作成してしまい,あとはただわが先に同意をせまっている。われわれはこのように独裁的に作られた憲法に同意するためだけならば3月3日にダッカに行きはしないだろう,②ALと政府が共謀して6項目要求に基づいた憲法を作っていると2月10日に私が語ったとの報道は,デマもはなはだしい,③北西辺境州訪問中にカユーム・カーンQML委員長,ワーリ・カーンNAP委員長,イスラーム・ウラマ一党のムフティ・マフムード書記長等と会談し,満足すべき結果を得た。
DIA-304-1971-02-15-2パキスタン1971年02月15日1970年代PPP憲法草案大綱作成-PPPはラホールでこの3日間にわたって憲法草案作成を進めてきたが,本日その大筋が決定したという。しかし,詳細な発表はなく,大筋として,①連邦制をとり,②二院制とし,③中央政府は十分な財政権限を持つ,というものであろうとの推測がされたのみであった。
DIA-304-1971-02-15-3パキスタン1971年02月15日1970年代ラーマンに全権-ALの国会・州議会当選者448名中446名がダッカで会合を開き,早期民政移管のために必要な措置をとる全権を満場一致でラーマン委員長に委任した。
DIA-304-1971-02-15-4パキスタン1971年02月15日1970年代国会開催準備完了-国会事務局は,「国会開催準備はすべて整い,事務局は2月18日にダッカの国会議事堂に移転する」と発表した(国会議事堂は未完成)。
DIA-304-1971-02-16-1パキスタン1971年02月16日1970年代AL,国会議員団会議を開催-ALはこの会議で議員団の役員を選出した。これによると団長にはラーマン,副団長にノズルル・イスラーム,書記長にカマルッザマン,院内幹事長にユースフ・アリがそれぞれ選ばれた。また同時に閣僚候補が選出され,タージュウッディン・アーメッドは国務相,その他,オスマーニ退役大佐,カマール・ホセイン等の入閣を決めた。なおAL東パ支部副委員長のコンドカル・ムシュターク・アーメッドは国会スポークスマンの予定。
DIA-304-1971-02-16-2パキスタン1971年02月16日1970年代ブット発言への反応-ALは緊急会議を行ない,ブットの「攻撃的でかつ自らの品位をおとしめるようなJ発言を検討したが,ラーマン委員長の命により何らの決一定も行なわなかった。パキスタン民主党(PDP)のヌールル・アミーン委員長は,「救い難い暴挙であるばかりでなく,民政移管について人々の間に不安をかきたてるものだ」と強い不満を示した。また,バシャニーNAP委員長は,「強力な中央集権を望むブットPPP委員長は東パの人民を脅迫している。われわれ東パ人民はそのような圧力には屈服しない」と述べ,PNL委員長アタウル・ラーマンは,「ブットの行動はパキスタンを二分するものだ」として,国会召集に応ずべきだと非難した。
DIA-304-1971-02-16-3パキスタン1971年02月16日1970年代PPP,国会ボイコット路線くずさず-ブットPPP委員長はカラチの記者会見で次のように述べた。「私が下した決定は最終的なもので変更できない。国会に1週間続けて出席しなければ議席を剥奪されるが,そうなれば最もすばらしい事態だ。婦人議員選挙もわれわれを抜きに行なうがいい。それはわが国が基本的民主主義制度の時代よりも後退していることを示すだけだ」
DIA-304-1971-02-16-4パキスタン1971年02月16日1970年代PPP国会議員83名に-国会議員当選者マリク・ムザッファル・カーン(無所属)はPPP加入を発表,これでPPPの現有国会議員数は先に入党した者も加えると83名となった。
DIA-304-1971-02-16-5パキスタン1971年02月16日1970年代カラコルム・ハイウエー開通式-このハイウェーはギルギットと中国の新彊省ウイグル自治区を結ぶもので,中国援助によりパキスタン工作隊によって12日に完成された。1968年にもギルギットと新彊省力シガルを結ぶ道路が完成しているが,その後も中国軍1万人以上が駐屯して文化大革命中でもパキスタン軍と共に拡張工事を続行。今回完成したカラコルム・ハイウェー(別名,友好ハイウェー)は全天候道路で3トン・トラックの通行可能,全長約600キロ。なお,開通式には楊傑交通部長を団長とする中国側代表団,パ側はアブドゥル・ハミード・カーン陸軍参謀長などが列席。
DIA-304-1971-02-17-1パキスタン1971年02月17日1970年代ラーマン,ALダッカ支部で演説-「バングラデシュ人民は目的を達するまでは,血の犠牲も覚悟しなければならない。バングラデシュ人民は,人民の権利が確立されるまで闘争を続けなければならない」などと述べた。
DIA-304-1971-02-17-2パキスタン1971年02月17日1970年代ブット,国会ボイコットを再度示唆-ブットPPP委員長は,ALとの間に制憲について意見の調整ができ.ぬ限り国会に出席することは無意味であると述べた。
DIA-304-1971-02-17-3パキスタン1971年02月17日1970年代ワーリ・カーンNAP委員長はカラチで記者会見,NAPは国会に参加すると発表,さらに「パは現在,東パ,パンジャーブおよびスィンド,バルーチスタンおよび北西辺境州の3グループに割れている」と語った。
DIA-304-1971-02-17-4パキスタン1971年02月17日1970年代イギリス防衛白書,ソ連海軍に警戒心-イギリス政府は4月1日発足の新年度軍事予算を発表し,インド洋のソ連海軍にふれ,「5年前にはインド洋にソ連海軍は見あたらなかったが,昨年のある一時点においてソ連海軍の砲艦7隻,潜水艦4隻,補助艦9隻が見られた」,とし,ソ連海軍の動向に警戒心を表わした。
DIA-304-1971-02-18-1パキスタン1971年02月18日1970年代大統領,ブットを呼びつけ-ヤヒア大統領はカラチ滞在中のブットPPP委員長に電話で「重要問題について討議したいからラーワルピンディに来るよう」要請。ブットは真夜中に到着した。
DIA-304-1971-02-19-1パキスタン1971年02月19日1970年代ヤヒア,ブット会談(ラーワルピンディ)-ヤヒア大統領はブットPPP委員長を呼び緊急会談を行なった。この日ヤヒアはブットに柔軟な態度をとるよう要望したといわれる。しかし,ブットは国会召集に応ずる条件として,ALの6項目要求の修正を強く要望した。
DIA-304-1971-02-19-2パキスタン1971年02月19日1970年代ブット,記者会見-ブットは席上,「われわれは決してドアを閉じてしまったわけではない。私は再度ラーマンAL委員長と会談する用意があるし,PPPとしてもALの6項目要求に基づく制憲に協力する用意は,ある。しかし,6項目のうち通貨,外国貿易,徴税権については独自の調整がなされなければならない」と語った。また席上ブットは自分の後継者にマイラージュ・ムハマッド・カーンとダラーム・ムスタファー(共に党中央委員)を指命したと発表。
DIA-304-1971-02-19-3パキスタン1971年02月19日1970年代憲法起草令修正-ヤヒア大統領は1971年憲法起草(修正)令(1971年大統領命令第1号)を発表。これは1970年憲法起草令(1970年大統領命令第2号)を修正するもので,国会または州議会に選出された議員に対し国会または州議会開催前に辞任を許可するというもの。
DIA-304-1971-02-19-4パキスタン1971年02月19日1970年代ラーマンAL委員長記者会見-ラーマンは席上,「ALの政策は東パだけのためのものではなく,すべての州の自治権を要求するものである」旨を述べ,また,カシミール問題,ファラッカ問題についてのインドの大国主義を非難,さらに親中国政策をとると語った。
DIA-304-1971-02-19-5パキスタン1971年02月19日1970年代バシャニーNAP委員長,政府に警告-同委員長は,政府がすべての政治犯を釈放しなければNAPは監獄を破壊する運動を進めるとし,1940年のラホール決議実施のためにNAPに協力するよう一般人に呼びかけた。
DIA-304-1971-02-20-1パキスタン1971年02月20日1970年代PPP党大会,ブットに全権委任-PPPの国会・州議会当選者等がカラチで党大会を開き,辞任に関する全権をブット委員長に委任した。
DIA-304-1971-02-20-2パキスタン1971年02月20日1970年代ラーマンAL委員長,アピール-ラーマンは東パ人民に対し,自治拡大のためにはさらに犠牲を覚悟してほしいと訴えた。
DIA-304-1971-02-20-3パキスタン1971年02月20日1970年代東パ州知事アハサーンは,大統領が要請した重大会議に出席のためラーワルピンディに到着。
DIA-304-1971-02-21-1パキスタン1971年02月21日1970年代PPP党大会終了-大会では要旨以下の宣言が採択された。「制憲問題に関する相違,西パとの国境地帯へのインド軍の集結,反国家的反啓蒙主義者・資本家分子・帝国主義者・新植民地主義者による国家の危機の到来に鑑み……わが国の両地域が同意に基づいて憲法を作成し得ると判明するまでは国会参加をしないとのブット委員長の決定を承認し……(1)われわれは真に民主主義的なパキスタンを要求し,選挙によって選ばれた者の専制という権威主義的方針を拒否し……,(4)社会主義的経済体制を築き……,(7)ジャム・カシミール人民の民族自決権のための聞いが目的達成まで続けられることを要求する。……ここにわれわれは以下のことを宣言する。①パに最適の政府形態は真の意味での連邦制である,②その連邦制は各構成単位が平等に代表され……るような制度を中央に備えているべきである,③通貨および徴税に関し,地域間(注-東西パの間ということ)……の搾取を防止するために,交渉によって公明正大な方法を考案することは可能である,③憲法は……連邦政府に歳入調達の権限を与えねばならない,⑤外国貿易および外国援助は連邦政府の管轄とし,憲法は各州間の商品・サービスおよび人の自由な流れを保証するものでなくてはならない。……われわれは憲法問題についてALと同意に達すべく最大の努力をしてきたことを宣言する。……われわれはパの団結と統一……のためにあらゆる犠牲を払う用意がある。……憲法がコンセンサスに基づいて作成されるとの保証さえあれば,われわれは国会に参加してALに対して……協力する用意がある」
DIA-304-1971-02-22-1パキスタン1971年02月22日1970年代内閣解散-ヤヒア大統領は「国内政治状況に鑑みて」閣僚評議会(内閣)を解散した。また,同日ラーワルピンディに各州知事および各戒厳司令官が招集されて特別会議が開かれた。同会議には戒厳副総司令官アブドゥル・ハミード・カーン陸軍大将および大統領首席参謀将校S.G.M.M.ピールザータ・陸軍中将も参加。
DIA-304-1971-02-22-2パキスタン1971年02月22日1970年代PPP中央委員会-カラチでPPP中央委員会(24名編成)がJ.A.ラヒーム党書記長主宰で開かれた。閉会後,同党スポークスマンのA.H.ピールザーダ(カラチ支部委員長)は記者団に対し,「わが党は国と国民のために正しいことをしてきたのであり,わが党の議員の辞任はあり得ない。法的技術面からして彼らが権利を剥奪されるなら(注-議会を1週間つづけて欠席すると議席を失なう),それを剥奪する者たちも同じ結果におちいろう」と語った。
DIA-304-1971-02-22-3パキスタン1971年02月22日1970年代インド駐在のサイジャッド・ハイデル・パ高等弁務官,ニューデリーに帰還。また,パ駐在のB.K.アチャリャ・インド高等弁務官は23日にラーワルピンディ帰還。2人ともインド機乗取り事件による印パ緊張について討議のため本国に召還されていた。
DIA-304-1971-02-23-1パキスタン1971年02月23日1970年代アハサーン東パ州知事,大統領に会見-席上,知事はヤヒア大統領に東パ政治状況を説明したといわれる。
DIA-304-1971-02-24-1パキスタン1971年02月24日1970年代ラーマンAL委員長,声明-ラーマンAL委員長はダッカの記者会見で要旨以下の声明を発表した。①現在,国民の代表による憲法制定と民政移管を妨害するために国家的危機が計画的につくりだされている。わが国では民主勢力が伸長するといつもこういうことが行なわれてきた。しかしわが党は泥の投げ合いを避けるため,あえて論争はひかえ,憲法についても国会で討議しようとの態度を一貫してとってきた,②わが党は国会総議席の過半数を占めており,このことはわれわれの6項目要求に基づいた憲法を作成する全権を全国民がわれわれに委任したことを意味する。しかし,これはわが党が6項目を西パの人々に強制するということではない。それゆえにこそわれわれは西パの指導者に会って6項目の説明を行なって協力を求めてきたのだ,③しかし,PPPとブット氏は突然強硬な態度に出て憲法作成のための過程を転倒させ,国会の正常な機能を妨害しているのである。パの目覚めた人民は,陰謀家や利権保持者やその追従者たちが民政移管妨害のために絶望的に必死の努力を行なっているのを知っている。彼らは今や絶望のあまり,国家の団結について心配しているかに装って,実は国家の存続そのものをも破壊せんとする賭けに出ようとしている。彼らこそ国家の敵なのである,④PPPのJ.A.ラヒーム書記長は彼の著書outline of a Federal Constitution for Pakistanの中で「東パがまさに植民地であるのはまぎれもない事実だ」と指摘している。実にバングラデシュはパの独立以来,西パの大資本によって差別されてきたのであり,われわれには自治拡大以外に方法はない。われわれはわれわれの子孫が植民地に住む必要がなくなるよう,必要とあらば生命を捧げるとの誓いを本日ここに新たにするものである。なお,ラーマンAL委員長は記者団に次のように語った。①6項日は西パの州にも強制するというものではなく,修正の余地はない。6項目は今や全国民の財産だ,②大統領とはまた会うかもしれない,③ブット氏は83人の指導者であり,私は160人の指導者だ(注-それぞれPPP,ALの国会議員数),④私は全国の指導者であり,私が西パへ赴くことはない。国会に参加する西パ議員は国会開催1週間前にダッカに来てわれわれと協議すべきだ。
DIA-304-1971-02-24-2パキスタン1971年02月24日1970年代ウルドゥ語紙,東パ高官非難キャンペーン-東パの“パ・オブザーバー紙”(中央政府系)によれば,このところ西パのウルドゥ語紙で論説や投稿の形をもって,中央銀行総裁やパキスタン放送局長など東パ出身の政府関係高官に対して非難キャンペーンが行なわれているという。非難は,これらの東パ出身高官が東パ出身者ばかりを昇格させて西パ出身者を冷遇しているというもの。これに対し,“パ・オブザーバー紙”は逆に政府および政府関係機関における東パ差別を例証した後,ウルドゥ語紙の非難があたっているか否かはわからないとしながらも,「非難の仕方が感情的で東西感情のギャップを拡大するものでしかない」と批判している。
DIA-304-1971-02-25-1パキスタン1971年02月25日1970年代大統領,カラチへ-ヤヒア大統領は夕刻ラーワルピンディからカラチ到着。目的・滞在日数不明。空港にはスィンド州知事ラクマーン・グル陸軍中将が出迎えた。また,東パ州知事アハサーン海軍中将もそれに先立ち,S.G.M.M.ピールザーダ陸軍中将およびS.Y.アリ・カーン陸軍中将に伴われて午前中にラーワルピンディからカラチ入りしている。
DIA-304-1971-02-25-2パキスタン1971年02月25日1970年代ブットPPP委員長はハイダラバードで演説,「PPPは国会ボイコットはしていない。わが党の見解が入れらるという保証があれば国会に参加する」と述べた。
DIA-304-1971-02-25-3パキスタン1971年02月25日1970年代ニクソン米大統領,外交政策発表-同大統領は議会に外交政策について報告を提出,その中で南アジアに関し,要旨次のように述べている。①南アジアにおけるわが国の基本的問題は経済的・政治的発展という課題に対処することであり,また,印パ関係を敵対関係から協力関係に転換することである,②インド亜大陸の必要が満たされず,両国間の紛争が続けば,この地域は望ましくないほどの外国の影響を受けやすくなる恐れがある……。われわれは両国が望むような関係以上の緊密な関係を両国に強要するつもりはない。したがって,南アジアにおけるわが国の現在の姿勢はニクソン・ドクトリンに内在する抑制と合致する,③わが国は昨年パに対し限られた量の軍需品を1回限り供給するという難かしい決定をしたが,これはインド亜大陸の軍事的均衡を変えるものでも軍拡競争をあおるものでもない,④わが国は同地域の経済向上のために援助を続けていくし,また,関係諸国に直接の指示は与えずにそれら諸国の間のより正常な関係の確立を奨励していく,⑤わが国はこの地域におけるソ連および中国の正当な利益に害を与えるようなことは何一つ行なわないつもりである。しかし,いかなる外国勢力も圧倒的な影響力を行使してはならないことも明白である。
DIA-304-1971-02-26-1パキスタン1971年02月26日1970年代ヤヒア,ブット会談-ブットPPP委員長はハイダラバードからカラチに入り,制憲問題の危機を乗りきる策をヤヒア大統領と討議した。なお会談は,東パの“パ・オブザーバー紙”によれば4時間,西パの“パ・タイムズ紙”によれば2時間にわたった。
DIA-304-1971-02-26-2パキスタン1971年02月26日1970年代東パ州知事,ラーマンと会談-西パから帰還したアハサーン知事は,夕刻ラーマンAL委員長と35分間の会談を行ない,大統領の意向を伝えた。なお,同日昼間も知事と同委員長はダッカ市内いずこかで2時間にわたって秘密会談を行ない,知事は同委員長に西パ訪問を強く要請したという。
DIA-304-1971-02-27-1パキスタン1971年02月27日1970年代ブット,演説-ブットPPP委員長は,カラチからラホールへ飛び,パンジャーブ大学で演説,「私が西パ諸政党の指導者たちと交渉し,わが党の党員たちと相談している最中に,AL委員長は国会開始日の決定を要求し,西パ代表たちの見解を考慮せぬまま憲法を作成しようとくわだてた。ALの態度には妥協の気持は見られない」と語った。この日,ブットのラホール行きが突然数時間延期されたため,「ブットは大統領に会い,26日のラーマンと東パ州知事の会談をふまえてさらに討議した」との憶測が流れたが,これについてブットは「出発遅延はある約束のため」とだけ語った。なお,ラホール空港でJ.A.ラヒームPPP書記長は記者団に対し,「24日のラーマン声明はALが立場を変えていないことを示している。PPPとしては政治状況に変化がない限り国会をボイコットする。こういう状況下では大統領は3つの選択肢を持つことになる。すなわち,①3月3日に国会を開くか,②主要政党間の同意ができるまで国会を延期するか,③何もしないか,ということだ」と語った。
DIA-304-1971-02-27-2パキスタン1971年02月27日1970年代PPPとQMLはALが6項目を修正せぬ限り国会をボイコットするとしているが,その他の西パ諸政党はこの日までにほとんど国会参加を明らかにしている。
DIA-304-1971-02-27-3パキスタン1971年02月27日1970年代AL,憲法草案を審査-ALの国会議員団会議がダッカで4時間にわたって行なわれ,席上,同議員団に対し同党の憲法草案が発表された。この後,憲法草案は30人編成の憲法委員会による審査にまわされた。ALは同議員団会議での討議および憲法草案の内容について記者団に対し完全な沈黙を保った。
DIA-304-1971-02-27-4パキスタン1971年02月27日1970年代パ駐在ファーランド米大使はダッカ訪問,45分にわたってラーマンAL委員長に会見。
DIA-304-1971-02-28-1パキスタン1971年02月28日1970年代ブット,国会延期要求-ブットPPP委員長はラホールで演説,次のように述べた。「現在,大統領は次の3つのうちのいずれかをなし得る。すなわち,(1)国会を解散すること。しかしこれは戒厳令の存続を意味し,受入れ得ない,(2)私とラーマンAL委員長が会談を続行できるよう,国会を延期すること。もし,国会が予定通り開かれれば西パ全域でゼネストを行なう,(3)または120日という国会会期の制限をとり除くこと。そうすれば国会で諸政党が制憲に関して同意し得るまで国会で討議を続行できる」
DIA-304-1971-02-28-2パキスタン1971年02月28日1970年代ラーマン,演説-ダッカ商工会議所の招きによるレセプションでラーマンAL委員長は要旨次のような演説を行なった。①西パの国会議員は,国会招集に応ずるべきである,②ブット氏の話では,とにかく彼が第1人者になりたいようである。もしも彼に良い考えがあれば,同意することができるのだ,③6項目要求を変えるわけにはいかない。なお,同じ席上でALの国会議員当選者モシフール・ラーマン(ダッカ商工会議所会領)は実業界を代表してALの経済政策に賛意を表し,「西パの資本家たちは東パを搾取し続けてきた。ラーマン委員長の下での経済政策は大衆に志向したもので,それによって西パ資本のカルテル体制を打破し,中小企業を育成することができる」と語った。
DIA-304-1971-02-28-3パキスタン1971年02月28日1970年代東パ学生連盟(AL系),国会開催を予定通り開くよう要求してデモ。
DIA-304-1971-02-28-4パキスタン1971年02月28日1970年代ワーリ・カーンNAP委員長は,新憲法がALの6項目要求に基づかぬものであれば抗議の大衆運動を行なうと述べた。
DIA-304-1971-03-01-1パキスタン1971年03月01日1970年代国会延期-この日ヤヒア大統領は全国ラジオ通じ,「憲法制定に関して各政党が合意に達する必要があり,そのためには3月3日の国会開始を無期延期して討議を続行しなければならない」旨の声明を発表した。
DIA-304-1971-03-01-2パキスタン1971年03月01日1970年代戒厳令人事-ヤヒア大統領兼戒厳総司令官は即日発効で次の人事を発表。(1)アハサーン東パ州知事(海軍中将)を解任,S.M.ヤクーブ・カーン陸軍中将をB地区(東パ)戒厳司令官とする,(2)西パ各地区戒厳司令官を次のように任命する。C地区(パンジャーブ州)-アティークル・ラハマーン陸軍中将。D地区(スィンド州)-ラクマーン・グル陸軍中将。E地区(バルーチスタン州)-リアーズ・フセイン陸軍中将。F地区(北西辺境州)-K.M.アズハル・カーン陸軍中将(以上,西パの4人はすべて当該州の前知事)。なお,放送を同日,ヤクーブ・カーンB地区新戒厳司令官は戒厳令規則第110号を発令,パの統一をみだすいっさいの表現を禁止した。
DIA-304-1971-03-01-3パキスタン1971年03月01日1970年代東パ銃隊(EPR),一部武装解除か-東パ駐在の日本人が噂として伝えるところによれば,この日,主に東パ人で構成されるEPR(治安部隊)と東パ警官との一部が軍将校によって武装解除されたという。また,軍の高級将校はすでに2月27日頃から家族を西パに帰しているという。
DIA-304-1971-03-01-4パキスタン1971年03月01日1970年代選挙管理委員会は東パの国会婦人用議席への立候補者7名(すべてAL)は無競争当選とすると発表した。
DIA-304-1971-03-01-5パキスタン1971年03月01日1970年代ダッカで抗議の渦-国会延期に抗議する声がダッカ市内にあふれ,市内は竹槍,鉄棒などを持った人々で埋った。パルタン・マイダン広場には多数の人々が集まり,自然にAL系の人間を中心に自発的抗議集会の形と.なった。ホテル・プルバーニではALの指導者たちがラーマン委員長を中心に集まって緊急会議を開いたが,ここにも学生など数百人が詰めかけ,口々に独立を叫んだ。ラーマンはホテルのバルコーから「ハルタル(ゼネスト)を明日から行なう。私にまかせてほしい」と演説したが,ダッカ市民はすでにハルタルに入っており,「そういうことは聞きあきた。独立を宣言せよ」と詰めよった。ラーマンは目に見えるほど震えており,ついに「この次われわれが立上る時は独立の方向をめざしてのことになろう」と述べた。拍手が起ったのはその時が初めてだったという。なお,この日,軍の発砲で数名が死亡。軍はすでに2月28日夜間にラジオ・テレビ局等を占拠していたという(在ダッカ日本人報告,ロンドンのサンデー・タイムズ特派員アンソニー・マスカレンハス氏談話等による)。
DIA-304-1971-03-01-6パキスタン1971年03月01日1970年代諸政党指導者の反応-ブットPPP委員長は,「国会無期延期については注意して検討中」とするのみで,カユーム・カーンQML委員長は賛意を表した。しかしその他ほとんどの政党の指導者たちは遺憾の意を表し,中でもラーマンAL委員長は記者会見で次のような声明を発表した。(1)延期は陰謀だ。PPPとQMLを除いて全政党がダッカに集まっており,憲法について協議しようという時に,国会延期とは遺憾だ。また,大統領がALに相談せず,ALをすえおいて少数のPPPに譲歩したのは民主主義に反する,(2)2日にダッカで,3日に東パ全域でハルタルを行ない,西パ製品をボイコットし,非暴力非協力運動に入る。いかなる犠牲も覚悟してほしい,(3)7日にダッカで大衆運動を行なう。それまで政府が何もしなければ東パの将来の地位と行動について重大発表をする,(4)今後のことについて東パの他政党と協議する。
DIA-304-1971-03-02-1パキスタン1971年03月02日1970年代ダッカでハルタル-教育施設,政府機関,交通機関,通信網などほとんどの機能が麻痺し,ハルタルはダッカ以外にも飛び火。各地でデモ抗議集会。人々は竹槍,鉄棒,「バングラデシュ国旗」を持ち,「独立ベンガル」を叫んでいる。集会ではブットの人形,国旗,「建国の父」ジンナーの写真が焼かれ,また,西パ系の建物,ウルドゥ語や英語の看板,銃砲店などの商店,映画館等が襲撃された。
DIA-304-1971-03-02-2パキスタン1971年03月02日1970年代ラーマンAL委員長,声明を発表-今後の方針についてALの基本姿勢を明らかにした。これによると東パ全域で3月3日から3月6日までハルタル(午前6時~午後2時)を行なうというもの。ただし,病院,報道関係,水道・ガス関係,バングラデシュ内の電話関係等を除く。なお同声明では闘争の平和的行動を強く呼びかけた。
DIA-304-1971-03-02-3パキスタン1971年03月02日1970年代ブット,ヤヒア会談-ブットPPP委員長はカラチでヤヒア大統領と会談。会談後の記者会見で,「東パの抗議は行き過ぎである。国会延期は制憲に関する合意をつくるためのものであり,失なわれるものはない。私はいつでもラーマンAL委員長と話合う用意がある」と述べた。
DIA-304-1971-03-02-4パキスタン1971年03月02日1970年代ダッカで夜間外出禁止令-ダッカ地区戒厳当局はダッカ市内に次のような夜間外出令を布いた。3月2日午後9時~3月3日午前7時。3日以後は毎日午後7時から12時間の夜間外出禁止。パキスタン放送によれば,外出禁止令は放火・略奪等の違法行為に対処するため。この夜,外出禁止時刻に入ってもデモの人波は続き,各地でデモ隊と軍が衝突,軍の発砲で多数の死者が出た。
DIA-304-1971-03-02-5パキスタン1971年03月02日1970年代パ軍は東パのシレット県各地に軍キャンプを設立,インドのアッサム州カリムガンジに接する国境地帯に軍を移動している(タイムズ・オブ・インディア紙,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-02-6パキスタン1971年03月02日1970年代スウェーデン,対パ武器売却中止-スウェーデン政府はこのほど,パに戦闘機4機を売却する決定をしたが,それを撤回した(タイムズ・オブ・インディア紙)。
DIA-304-1971-03-03-1パキスタン1971年03月03日1970年代東パ全域ハルタル,各地に外出禁止令-ラーマンAL委員長の呼びかけにこたえて東パ全域でハルタルが行なわれた。一方,戒厳当局は午後7時から12時間というダッカ市内の外出禁止令を午後10時から9時間に短縮したものの,シレット市では午後7時半から11時間半,ラングプールでは午後2時半から24時間,クールナ,ディナージプール等の諸県に7時間の外出禁止令を出した。しかし,各地で武装デモ隊が外出禁止令を無視,放火や略奪を働き,警官・軍と衝突,発砲騒ぎで多数が死傷した。
DIA-304-1971-03-03-2パキスタン1971年03月03日1970年代ラーマン,演説-ラーマンAL委員長はダッカのパルタン・マイダン広場で次のように演説した。(1)今日の事態の責任はわれわれにはなく,ブットPPP委員長にある,(2)西パの人々が一つの憲法を望まぬなら,われわれにはわれわれ自身のを作らせよ。西パは西パのを作ればよい。その上で互いに兄弟として生きていけるかどうかを考えようではないか,(3)われわれ7000万人のベンガル人を殺したとて,われわれを黙らせることはできない,(4)軍を兵営に引揚げよ,(5)政権はバングラデシュ人民に移譲せよ。(6)ビハール人であろうと非回教徒であろうとバングラデシュに住む者はベンガル人であり,われらの兄弟である。彼らの財産を侵犯したり,略奪や放火は絶対にしないでほしい。厳しい規律なくしては大衆運動の成功はない。平穏なサティヤーグラハ(ガンディー翁が手始めた非暴力不服従運動)を進めてほしい。
DIA-304-1971-03-03-3パキスタン1971年03月03日1970年代ヤヒア大統領,円卓会議を提案-大統領は,「国会前に諸政党間に憲法についてコンセンサスが得られれば国会が2週間以内に開かれ得ない理由はない」とし,3月10日にダッカで諸政党間の円卓会議を行なう提案をした。招請されたのはラーマンAL委員長,ブットPPP委員長,カユーム・カーンQML委員長等12名。
DIA-304-1971-03-03-4パキスタン1971年03月03日1970年代ラーマン,大統領提案を拒否-ラーマンAL委員長は本日夜の記者会見で次のような声明を発表。「バングラデシュ各地で無防備の罪なき数百人の市民が殺害され,その死体は埋める間もなく路端にころがり,その血はまだ乾いてもいない。そういう時に出された大統領提案など冷酷な冗談だ。耳をつんざく銃声はいまだわれわれの耳の中で響いている。銃を突きつけての招請なるものに応じることなど一体できるものだろうか」
DIA-304-1971-03-04-1パキスタン1971年03月04日1970年代東パ全域ハルタル2日目-ラーマンAL委員長は,政府および民間企業は未払賃金をすみやかに支払うよう,また,そのために銀行は2時間だけ開くように指示。この日ダッカではAL活動家により略奪・放火防止のための警備が行なわれ,まず何事もなく,ダッカ市内とシレット市内は外出禁止令解除。しかしチッタゴン,ラングプール,クールナなど他地域ではまだ11~24時間の長時間外出禁止が続いている。
DIA-304-1971-03-04-2パキスタン1971年03月04日1970年代ヌールル・アミーンPDP委員長,ヤヒア大統領提案の円卓会議を拒否。
DIA-304-1971-03-04-3パキスタン1971年03月04日1970年代3月2日からカラチで開かれていたPPP中央委員会が終了し,ブット委員長は記者団に「われわれが望んだのは短期間の国会延期にすぎず,ALがああいう過激な行動をとる理由はない」と語った。
DIA-304-1971-03-04-4パキスタン1971年03月04日1970年代軍,増援-陸軍は4日夜ダッカ市内の重要拠点を占拠した。また,増援部隊が西パから送り込まれている(ロイター=共同,ダッカ発)。
DIA-304-1971-03-04-5パキスタン1971年03月04日1970年代インド,印パ交渉を提案-インド政府はパ政府に対し,印パ問題とくにインド機乗取り事件について直接交渉開始を提案。インドは爆破された飛行機の弁償と犯人の返還とを求めている。また,インド政府は,「パが東西問題について印パ関係を悪用している」とパ政府を非難した(タイムズ・オブ・インディア紙)。
DIA-304-1971-03-05-1パキスタン1971年03月05日1970年代東パ全域ハルタル3日目,軍引揚げ-東パ戒厳当局はダッカ市内では秩序が回復したとして軍のパトロールをやめ,兵営に引揚げを命じた。なお,5日までの非公式死者数はダッカ市26人,チッタゴン市108人,クールナ市9人等,計173人に達するというが,ラーマン委員長はダッカ市内だけで300人とし,また,ある地方通信社はダッカ市内で2,000人と伝えようとしたが,完全な報道管制のため発表されなかった。
DIA-304-1971-03-05-2パキスタン1971年03月05日1970年代ラーマンAL委員長はAP電およびオール・インディア放送が伝えた,(1)ラーマンは2人首相制に同意,(2)ラーマンは東西パ問題でアメリカの助力を求めた,との報道を否定。
DIA-304-1971-03-05-3パキスタン1971年03月05日1970年代ヤヒア,ブット会談-ラーワルピンディでのこの会談には,PPP側はJ.A.ラヒーム書記長,ピールザーダ・カラチ支部委員長なども参加。会談は5時間にわたって行なわれたが,会談後PPPスポークスマンは記者団に対し,「われわれは大統領に招請されたものだ.」とだけ語った。
DIA-304-1971-03-05-4パキスタン1971年03月05日1970年代PPP東パ支部,分離。PPP東パ支部は西パの本部から独立して「バングラデシュ人民党(BPP)」と改称し,ALに協力すると発表(ガリーブ・ネワズPPP東パ支部書記長発表)。
DIA-304-1971-03-06-1パキスタン1971年03月06日1970年代東パ全域ハルタル4日目-ハルタル最終日にあたり各地で大々的な抗議集会・デモが行なわれたが,この日ダッカでは中央刑務所から政治犯を含む325人が脱獄,そのうち30人前後が市内をデモ行進した。
DIA-304-1971-03-06-2パキスタン1971年03月06日1970年代大統領,国会の3月25日開会を発表-ヤヒア大統領は特別放送を通じ,東パでの事態を遺憾なこととし,軍は国家の統一のために尽すと強調,さらに国会を3月25日に開会すると発表した。
DIA-304-1971-03-06-3パキスタン1971年03月06日1970年代ティッカ・カーン,東パ州知事に-ヤヒア大統領は,1日に解任されたアハサーン前東パ州知事にかえ,インドおよび東パに対するタカ派としてしられるティッカ・カーン陸軍中将を東パ州知事に任命した。
DIA-304-1971-03-06-4パキスタン1971年03月06日1970年代ヤヒア戒厳総司令官は各戒厳地区の副司令官を以下のように任命した。B地区-カーディム・フセイン・ラージャ陸軍少将,C地区-A.A.K.ニアーズィ陸軍少将,D地区-M.ラヒーム・カーン陸軍少将,E地区-ナザル・フセイン・シャー陸軍少将,F地区-ムハマッド・ジャムシェド陸軍少将。
DIA-304-1971-03-06-5パキスタン1971年03月06日1970年代PPP国会参加を発表。
DIA-304-1971-03-07-1パキスタン1971年03月07日1970年代ラーマンAL委員長,国会参加の条件を提示し,今後の方針を発表-ラーマンAL委員長は,AL主催のダッカ競馬場大集会で演説し,国会参加の4条件として①戒厳令撤廃,②軍隊の兵営帰還,③軍隊による殺傷の調査,④選挙による国民代表への政権移譲,を提示した。 また同集会で,今後の運動方針として,非暴力非協力運動を基礎に次の項目を発表した。①税金不払運動続行,②東パ政府,半官半民事務所,裁判所等を閉鎖,③鉄道,港湾は操業するが,それらが人民弾圧のために使用されるなら従業員は非協力,④報道機関が大衆運動についての報道をさし控えれば,ベンガル人従業員は非協力,⑤電話は東パ内のもののみ操業,⑥教育機関はすべて閉鎖,⑦西パへの送金停止,⑧すべてのビルに毎日黒旗を掲揚,⑨これら以外の分野の同時閉鎖はしないが,状況によって完全あるいは部分的閉鎖を実施,⑩各地区のAL組織下に行動委員会を設置する。
DIA-304-1971-03-07-2パキスタン1971年03月07日1970年代選挙管理委員会は西パに割当てられた6名の国会婦人議員の選挙は14日に行なうと発表。
DIA-304-1971-03-08-1パキスタン1971年03月08日1970年代東パ高裁長官,新知事を拒否-B.A.スィディキ東パ高裁長官はティッカ・カーン新東パ州知事の就任宣誓を司ることを拒否した。
DIA-304-1971-03-08-2パキスタン1971年03月08日1970年代政府公式発表によれば,3月1日~6日に東パで死者172人,負傷者358人が出たが,このうち死者78人,負傷者205人は暴徒自身同士の衝突によるものという。
DIA-304-1971-03-08-3パキスタン1971年03月08日1970年代ヒース英首相,公式訪パ(~9日)。
DIA-304-1971-03-08-4パキスタン1971年03月08日1970年代ソ連,印パ関係調整を希望か-ソ連はインド政府に対し,最近の印パ関係の悪化に鑑み,「第2のタシュケント会議」を申入れたという(フィナンシャル・タイムズ紙)。
DIA-304-1971-03-09-1パキスタン1971年03月09日1970年代ティッカ・カーン,東パ戒厳司令官に-ヤヒア戒厳総司令官はヤクーブ・カーン東パ戒厳司令官(3月1日就任)を解任,ティッカ.カーン陸軍中将を7日付けで東パ戒厳司令官に任命。これは東パ高裁長官による同中将の東パ州知事就任宣言の拒否によって生じた措置といわれる。
DIA-304-1971-03-09-2パキスタン1971年03月09日1970年代ヤヒア大統領,近く東パ訪問と発表。
DIA-304-1971-03-09-3パキスタン1971年03月09日1970年代バシャニー,ラーマンを支持-バシャニーNAP委員長はダッカのパルタン・マイダン広場での集会で,東ベンガルの解放のために,ラーマンの闘争を断固支持すると述べ,非暴力非協力運動推進のための全政党行動委員会の結成を提案した。
DIA-304-1971-03-09-4パキスタン1971年03月09日1970年代東パでの非協力運動と軍との衝突は続いており,このところ外国人の国外退去が続いている。
DIA-304-1971-03-09-5パキスタン1971年03月09日1970年代ラージシャヒに夜間外出禁止令(~10日)。これは7日のラーマン演説以来はじめて。
DIA-304-1971-03-10-1パキスタン1971年03月10日1970年代ブットPPP委員長,ラーマンAL委員長に電報で会談申入れ。
DIA-304-1971-03-10-2パキスタン1971年03月10日1970年代ヤヒア大統領.ALパンジヤーブ支部長と会談-大統領はM.クールシェドALパンジャーブ支部委員長を招致して会談,同氏を大統領特使としてダッカに派遣すると発表。
DIA-304-1971-03-10-3パキスタン1971年03月10日1970年代ラーマンAL委員長,国連専門家の国外退去を批判。
DIA-304-1971-03-10-4パキスタン1971年03月10日1970年代アメリカ政府,アメリカ人の東パからの国外退去必要なしと発表(西パのドーン紙,UPI)。
DIA-304-1971-03-10-5パキスタン1971年03月10日1970年代AL,東パ統治機能掌握か-東パの軍事的要衝は軍が掌握しているが,行政機関などはALの支持に従っており,ALは自らを事実上の政府と見なしている(ヘラルド・トリビューン紙,AP電)。
DIA-304-1971-03-11-1パキスタン1971年03月11日1970年代タージュウッディン・アーメッドAL東パ書記長は,東パの非暴力非協力運動推進中における,生産,行政などに関する指示を発表した。これによると一部を除いて公共機関の機能回復を指示している。
DIA-304-1971-03-11-2パキスタン1971年03月11日1970年代チッタゴンの港湾労働者,軍事物資の陸揚げ拒否。
DIA-304-1971-03-11-3パキスタン1971年03月11日1970年代ALパンジャーブ支部委員長,ダッカ着-M.クールシュド支部長はただちにラーマン委員長と会談し,ヤヒア大統領のダッカ訪問について打診。
DIA-304-1971-03-11-4パキスタン1971年03月11日1970年代ブット,ラーマンに打電-ブットPPP委員長はラーマンAL委員長に打電,パの統一を守る必要性を訴え,ラーマンにすぐ会う用意があると伝えた。
DIA-304-1971-03-11-5パキスタン1971年03月11日1970年代カラチ商工会議所のアハマッド・アブドゥラ会頭はヤヒア大統領に打電,「西パ販売業者たちは東パからの取引きがストップしているため非常に因っており,直ちに措置がとらなければ西パ経済は重大な被害をうける」と伝えた。
DIA-304-1971-03-12-1パキスタン1971年03月12日1970年代ヤヒア大統領,ラーワルピンディからカラチへ飛ぶ-13日,ラクマーン・グルD地区(スィンド州)戒厳司令官と会談。
DIA-304-1971-03-12-2パキスタン1971年03月12日1970年代ブットPPP委員長,ラーマン4条件(7日)の②③は支持すると発表。
DIA-304-1971-03-12-3パキスタン1971年03月12日1970年代タージュウッディンAL東パ書記長は,ラーマン委員長にあてたブットの電報は検討していないと語った。
DIA-304-1971-03-12-4パキスタン1971年03月12日1970年代バシャニーNAP委員長,マイメンシンの農民集会で演説-「ベンガルはすでに完全に解放された。われわれの任務は今や,ベンガルの独立をパ軍を含む全ての外国勢力から守ることにある。そのために人民軍を組織し,必要な訓練を行なわねばならぬ」と述べた。
DIA-304-1971-03-12-5パキスタン1971年03月12日1970年代政府は3月23日予定のパキスタン・デー祝典は中止すると発表。
DIA-304-1971-03-12-6パキスタン1971年03月12日1970年代選挙管理委員会は西パの国会婦人用議席への無競争当選者5名を発表。うち4名はPPP,1名はQML。残る1名は未定。これで,国会議員当選後PPPに加入した者も含め,PPPの現有国会議員数は89名となった。
DIA-304-1971-03-12-7パキスタン1971年03月12日1970年代カラチの株価下落続く-3月1日からカラチの卸売物価は上がり,証券市場は下落の方向。出来高は通常10万株だが,このところ6万株程度。株価の動きは次の通り(ハビーブ銀行は1株5ルピー,他は10ルピー)。
DIA-304-1971-03-13-1パキスタン1971年03月13日1970年代B地区戒厳司令部命令-同司令部は政府公務員のうち国防関係者の職場復帰を命令,これに反した者は脱走者とみなして10年の禁固刑に処すと発表。
DIA-304-1971-03-13-2パキスタン1971年03月13日1970年代政府は,昨年11月の東パ洪水で,今までに諸外国から救援物資・現金等,計7000万ドル分を受けたと発表。
DIA-304-1971-03-14-1パキスタン1971年03月14日1970年代ブット,主要2政党への政権移譲要求-ブットPPP委員長はカラチで次のような演説を行なった。 (1)PPPは東西パの二つの主要政党に対する権力移譲を要求する,(2)二つの主要政党が協力して国益のために尽くすことを希望する,(3)東パへ赴いてラーマン氏と会見する用意がある,(4)国会の前に新憲法について同意がなければ国会は120日の会期内に憲法を作成できず,あとはただ解散されてしまうだけだ。
DIA-304-1971-03-14-2パキスタン1971年03月14日1970年代ラーマンAL委員長,非暴力非協力運動の35項目にわたる具体的指示を発表し,夜遅く関係機関に指令した(参考資料参照)。
DIA-304-1971-03-15-1パキスタン1971年03月15日1970年代ヤヒア大統領,ダッカ着(~25日)-午後2時,空港に到着,軍の厳重な警戒の下に大統領官邸に入った。なお同行者は戒厳副総司令官アブドゥル・ハミード・カーン陸軍大将,オマル陸軍中将,グル・ハッサン陸軍少将ら。しかし,ハミード・カーン大将とグル・ハッサン少将は同行していないという説もある。
DIA-304-1971-03-15-2パキスタン1971年03月15日1970年代国際収支-政府発表によれば,パの1969~70年度国際収支は前年度の4億4250万ルピーの黒字に対し,3390万ルピーの赤字を示した。外貨準備は前年度14億2250万ルピー(約2億0988万ドル)に対し13億6780万ルピー(約2億8735万ドル)に減少。
DIA-304-1971-03-16-1パキスタン1971年03月16日1970年代ヤヒア,ラーマン会談-会談は午前中ダッカの大統領官邸で2時間半にわたって2人だけで開かれた。会談後ラーマンAL委員長は「国内政治状況等について話合った」とだけ語り,何か前進があったかとの記者団質問に対しては,「国の運命がかかっている会談は1分や2分の間に終了しない。だから明日も大統領に会う」と答えた。この日ラーマンは車に黒旗とバングラデシュのマークを付けて大統領官邸に入った。外では学生のデモ隊が軍による殺害に抗議して「ヤヒア返れ」と叫び,中に押入ろうとしたが,AL有志たちが説得してデモのコースを変更させた。この日もダッカではラーマンAL委員長の呼びかけで非暴力非協力運動が続行されたほか,現在の運動についての啓蒙のため各地域で寸劇が行なわれ,さまざまの抗議集会・デモが挙行され,AL義勇軍がアブドゥル・ラズダクを隊長に決定するなどの事件があった。また,AFP電によれば中国から陸軍向けの武器がチッタゴン港に着いたが,ラーマンの指示で港湾労働者は陸揚げを拒否しているという。
DIA-304-1971-03-17-1パキスタン1971年03月17日1970年代ヤヒア,ラーマン会談-会談は午前10時から大統領官邸で2人だけで行なわれ,1時間で終了(予定では2時間)。記者会見でラーマンAL委員長は,「前進したのかどうかは私には分からない。言えることはただ,会談は続いているということだけだ。また,非暴力非協力運動は目標達成まで続行する。今日はこれ以上何も言えない」とだけ語った。
DIA-304-1971-03-17-2パキスタン1971年03月17日1970年代軍出動経過を調査-ティッカ・カーンB地区戒厳司令官は「3月2日~9日に東パ諸地域で民間行政に助力を与えるために陸軍出動に至った状況を調査するため」の調査委員会設立を発表。発表によると東パ高裁長官が調査委員長を勤め,4人の委員は陸軍,政府高等文官(CSP),警察,東パ銃隊(EPR)から各1名が任命され,調査報告はB地区戒厳司令官に提出される。ただし,これはヤヒア大統領が,ラーマンAL委員長が7日提示した4条件のうちの(3)を認めたことを意味するか否かは明らかにされていない。
DIA-304-1971-03-17-3パキスタン1971年03月17日1970年代バシャニーNAP委員長はチッタゴンで「ヤヒア・ラーマン会談は公開すべきである。われわれはベンガル独立を宣言すべきであると主張する。遅れればベンガルは第2のベトナムとなるだろう」と述べた。
DIA-304-1971-03-17-4パキスタン1971年03月17日1970年代オール・インディア放送によれば,ヤヒア大統領はブットとハムードゥル・ラハマーン最高裁長官をダッカに招請したという。
DIA-304-1971-03-17-5パキスタン1971年03月17日1970年代AL筋によれば3月1日以来,西パから戦闘員が秘密裡に東パに送り込まれており,配備されている戦闘員は現在6万人という(ル・モンド紙,AFP)。
DIA-304-1971-03-17-6パキスタン1971年03月17日1970年代ラホール駐在のフランク・ディーン米領事兼情報担当官は記者会見で,CIAは東西パの分離を図っているのではないかとの説を否定した(タイムズ・オブ・インディア紙,ロイター)。
DIA-304-1971-03-18-1パキスタン1971年03月18日1970年代ラーマン,軍出動経過に関する調査委員会を拒否-理由は,同委員会がその設立趣旨(17日参照)からもわかるように,戒厳当局に都合のいい「調査」しか行なわないことは明白であるため協力できない,というもの。なお,ラーマンAL委員長はバシャニーNAP委員長の要請を容れて独自の調査委員会を設置した。
DIA-304-1971-03-18-2パキスタン1971年03月18日1970年代ブット,ダッカ行きを拒否-ブットPPP委員長はカラチで記者会見,「大統領からダッカに来いと言われたが,今わたしが行っても役に立たないから行くつもりはない」と語った。
DIA-304-1971-03-19-1パキスタン1971年03月19日1970年代ヤヒア,ラーマン会談-会談は午前中大統領官邸で1時間半にわたって2人だけで行なわれた。会談後ラーマンAL委員長は今までとはうって変った陽気さを見せていたが,会談の内容については何も言わず,「最善を望み,最悪に備えよう」とだけ語った。なお,今夕,政府側とAL側の顧問会議が2時間にわたって開かれた。政府側出席者はA.R.コルネリウス最高裁判事(前法相),大統領首席参謀将校S.G.M.M.ピールザーダ陸軍中将,陸軍法務総監M.A.ハッサン陸軍大佐で,AL側はサイエッド・ノズルル・イスラーム副委員長,タージュウッディン東パ支部書記長,カマール・ホセイン法学博士。
DIA-304-1971-03-19-2パキスタン1971年03月19日1970年代ダッカ近郊のジョイデプールで軍による発砲,外出禁止令。ラーマンAL委員長,これを強く非難。この事件により20人死亡,数人が負傷したといわれるが,公式発表では3人死亡,8人負傷。
DIA-304-1971-03-19-3パキスタン1971年03月19日1970年代西パの“パ・タイムズ紙”によればダッカのソ連総領事は今夕ラーマンAL委員長と会見した。
DIA-304-1971-03-20-1パキスタン1971年03月20日1970年代ヤヒア,ラーマン会談-会談には双方の顧問団が初めて同席し,2時間15分に及んだ。会談後の記者会見でラーマンAL委員長は次のように語った。(1)会談は順調な進展を見たが,まだ続行される,(2)双方顧問団は民政移管のために憲法の暫定的枠組を作成すべく,これからもたびたび討議することになろう,(3)大統領は西パ指導者たちと会い,憲法問題とくに西パに関係することを討議するかもしれない,(4)大統領はジョイデプールでの軍発砲事件を重大だとして換討すると約束した,(5)非暴力非協力運動は続行するが,来たる23日はそれを行なわず,バングラデシュ全域の休日とする。なお,AL側の顧問団にはコンドカル・ムシュターク・アーメッド東パ支部副委員長,マンスール・アリ副委員長,カマルッザマン書記長が付け加えられた。
DIA-304-1971-03-20-2パキスタン1971年03月20日1970年代ブット,ダッカ行き決定-ブットPPP委員長はカラチで記者会見,大統領から再度ダッカ行きを要請されたため,14人の党員とともにダッカへ行くと語った。
DIA-304-1971-03-20-3パキスタン1971年03月20日1970年代バシャニー,暫定政府を要求-バシャニーNAP委員長はチッタゴンで演説,政治危機解決のためラーマンAL委員長を首班とする暫定政府をつくるよう要求した。
DIA-304-1971-03-20-4パキスタン1971年03月20日1970年代ラーワルピンディ近郊の軍要衝サルゴダで1時間の灯火管制訓練が行なわれた。
DIA-304-1971-03-21-1パキスタン1971年03月21日1970年代ヤヒア,ラーマン会談-会談は予定外のもので,午前中1時間10分にわたって両者のほかにタージュウッディンAL東パ支部書記長を交えて行なわれた。AL側は戒厳令の即時全面解除を求めたという。なお,22日付けの西パの“パ・タイムズ”紙はこの日の会談に関し,次のような特派員報告を掲載した。(1)大統領は戒厳令解除と暫定的連立内閣設置を考えている,(2)この件に関し,3月23日に公式発表が行なわれよう,(3)連立内間は全州の代表で構成されるが,各州代表者数は人口比例による,(4)首相にはサイエッド・ノズルル・イスラームAL副委員長が予定されており,ラーマン委員長は入閣せずに国会議員団長となりたい意向である。
DIA-304-1971-03-21-2パキスタン1971年03月21日1970年代西パ小党代表者会議-西パ代表者の非公式会議が午前中ホテル・インタコンティネンタルのダウルターナCML委員長の部屋で開かれた(2回目)。出席政党はCML,NAP(ワーリ・カーン派),イスラーム・ウラマ一党(ハザルヴィ派)。
DIA-304-1971-03-21-3パキスタン1971年03月21日1970年代ブット,ダッカ着-ブットPPP委員長は12名の党幹部とともに本日午後ダッカ到着。ヤヒア大統領は兵営をブットの宿所にあてがう予定でいたが,昨日ブットに拒絶された。そのためブットはホテル・インタコンティネンタルに宿泊することとなり,7階と10階との全フロアがブット一行の安全を期してPPP専用とされ,厳重な警戒が敷かれた。ホテルの外では「ブット,返れ」が声高に叫ばれていたという。
DIA-304-1971-03-21-4パキスタン1971年03月21日1970年代ヤヒア,ブット会談-会談は夕刻ヤヒア大統領官邸で2時間にわたって行なわれ,会談後ブツトPPP委員長は記者団に対し,「すべてはうまく行くだろう」とだけ語った。
DIA-304-1971-03-21-5パキスタン1971年03月21日1970年代ラーマン,バシャニーに密任-ラーマンAL委員長はバシャニーNAP委員長に密使を送ったという。過去数週間,ラーマンはバシャニーと密接に連絡をとっている。
DIA-304-1971-03-22-1パキスタン1971年03月22日1970年代3者会談開始-ヤヒア,ラーマン,ブットの3者会談は午前中1時間15分にわたって大統領官邸で行なわれた。ブットPPP委員長はラーマンAL委員長が官邸を出た後も1時間にわたって大統領と会談を続けた。
DIA-304-1971-03-22-2パキスタン1971年03月22日1970年代国会またも延期-午後,大統領は国会無期延期を発表。発表によるとこの措置は,諸政党間に同意の幅を拡げるためであり,近く大統領が全国放送を行なうという。
DIA-304-1971-03-22-3パキスタン1971年03月22日1970年代ラーマン,ブット,記者会見-午後,ラーマンAL委員長は自宅で記者団に対し次のように語った。(1)大統領は私との間の討議のすべてをブット氏に伝えてきたと語った,(2)会談の内容については今は言えない,(3)(会談は進展しているかとの質問に対し)進展がないとすれば,なぜに私は会談を続けていようか,(4)国会再延期は,われわれの条件が満たされぬ限りわれわれが国会に出席しないとしているからだ。一方,ブットPPP委員長は「そのうち話す」とだけ語った。
DIA-304-1971-03-22-4パキスタン1971年03月22日1970年代大統領メッセージ-ヤヒア大統領は23日のパキスタン・デーに先立って22日午後メッセージを発表,その中で大統領は民政移管の意向と国家統一の必要性を強調。一方,ラーマンAL委員長は危機収拾についてヤヒア大統領と合意に達したという報道を否定し,さらに,ダッカ市内ではALの主導下にバングラデシュ独立要求のデモが大々的に挙行され,ラーマンに「妥協はするな」と訴えた。
DIA-304-1971-03-22-5パキスタン1971年03月22日1970年代ヤヒア大統領は夕刻ダウルターナCML委員長,ワーリ・カーンNAP委員長などと2時間にわたって会談。
DIA-304-1971-03-22-6パキスタン1971年03月22日1970年代PPP,大統領顧問団と会談-今夕,ブットPPP委員長およびPPPの法律専門家5名は大統領官邸で大統領顧問団と会談を行なった。
DIA-304-1971-03-22-7パキスタン1971年03月22日1970年代周恩来中国首相,3月23日のパキスタン.デーに関し,ヤヒア大統領にメッセージ。
DIA-304-1971-03-23-1パキスタン1971年03月23日1970年代パキスタン・デー,ダッカで大々的抗議デモ-パ独立要求宣言記念日であるパキスタン・デーにあたるこの日,ALの実質的行動機関であるAL青年行動委員会等の「この日を抵抗の日」としようの呼びかけにこたえ,ダッカ市内は抗議の黒旗と「バングラデシュ国旗」で埋った。ラーマン邸には学生を中心に組織された私設民兵ジョイ・バングラ(ベンガル勝利の意)部隊が訓練用の木製銃などをもって詰めかけ,ラーマンAL委員長の「閲兵」を受けた。デモ隊はダッカ市内の米・英・中の総領事館に入り,パ国旗をひきずりおろして焼き捨て,そのあとに「バングラデシュ国旗」をかかげた。ソ連総領事館はソ連旗の下に「バングラデシュ国旗」をかかげており,また,インドネシア総領事館は急いでパ国旗をひきおろした。一方,NAP(バシャニー派)はこの日をバングラデシュの「独立記念日」としてキャンペーンを行ない,大衆集会でモシフール・ラーマンNAP東パ支部書記長は,「バングラデシュはすでに独立している。あとはただいかなる犠牲を払っても独立を守り抜くだけだ」と語った。
DIA-304-1971-03-23-2パキスタン1971年03月23日1970年代大統領顧問団とAL顧問団の会談がダッカで行なわれた(3回目)。
DIA-304-1971-03-23-3パキスタン1971年03月23日1970年代カユーム.カーンQML委員長,ダッカ到着。
DIA-304-1971-03-24-1パキスタン1971年03月24日1970年代各地で軍発砲-ラングプール,ミルプール,サイドプール,チッタゴン等で民衆と軍が衝突,軍の発砲によりサイドプールでは50人死亡。チッタゴンでは軍の軍事物資陸揚げ作業に反対する住民がバリケードを築いて抗戦,死者多数。タージュウッディンAL東パ書記長は声明を発表し,軍に強く抗議した。
DIA-304-1971-03-24-10パキスタン1971年03月24日1970年代ラーマンAL委員長,声明を発表-同委員長はこの中で,「政治解決がおくれていることは不幸なことだ。危機的状況は新たな軍事行動によって深まっている。大統領がダッカに居る間に危機を政治的に解決する旨発表しないのは非常に残念なことだ」と述べ,さらに,3月27日,東パ全土でゼネストを行なうよう呼びかけた。
DIA-304-1971-03-24-11パキスタン1971年03月24日1970年代軍,増強-現在すでに6万人の政府軍がダッカ,コミラ,ジェソールを中心に配備されているが,今夜,チッタゴンとチャルナの両港にさらに戦闘員が6隻の艦船に分乗して到着,上陸した(ロイター通信およびインドのPTI通信,アガルタラ発)。
DIA-304-1971-03-24-12パキスタン1971年03月24日1970年代大統領,夜間カラチ帰還-ピールザーダ中将が同行。ブットPPP委員長はまだダッカに残っている。
DIA-304-1971-03-24-13パキスタン1971年03月24日1970年代軍,一斉行動開始-夜11時頃からダッカ市内を中心に軍の一斉行動開始。ラーマンAL委員長はこの直後自宅で軍に逮捕されたという。軍の発砲に対し,東パ側についた東パ銃隊(EPR),東パ警官隊,学生等により部分的応戦あり。軍は戦車でバリケードを破り,一夜にしてAL拠点,ダッカ大学学生寮,ヒンドゥー教徒居住地域を集中攻撃(現地日本人報告)。
DIA-304-1971-03-24-2パキスタン1971年03月24日1970年代西パ政党代表,帰還-ダウルターナ(CML),カユーム・カーン(QML),ワーリ・カーン(NAP)等の西パ各政党委員長,およびPPPのうち7人が西パへ帰還した。
DIA-304-1971-03-24-3パキスタン1971年03月24日1970年代ブット,大統領顧問団と会談-ブットPPP委員長は午後1時間半にわたって大統領官邸で大統領顧問団と会談。記者会見で次のように述べた。(1)話合いは進展している,(2)大統領,AL,PPP3者の顧問団同士の3者会談は考えられるが今は可能ではない,(3)PPPのダッカ訪問団のうち今後の会談に必要でない者7人はきょう西パに返した。
DIA-304-1971-03-24-4パキスタン1971年03月24日1970年代大統領顧問団,AL顧問団と会談-今夜の両顧問団会議は今まで4回目のもので,2時間にわたって行なわれた。会談後の記者会見でタージュウッディンAL東パ書記長は,「われわれはラーマン委員長が提案し,大統領が同意した4条件(3月7日参照)に基づき,それを表現する細目を討議している」と語った。
DIA-304-1971-03-24-5パキスタン1971年03月24日1970年代ライヤルプールに夜間外出禁止令-西パのライヤルプールでPPP左派と警官隊が衝突,30人が負傷し,午後9時から10時間の夜間外出禁止令が敷かれ,軍が出動した(パ・タイムズ紙)。
DIA-304-1971-03-24-6パキスタン1971年03月24日1970年代政府,インド政府にパ航空機のインド上空飛行禁止解除を再度要請。
DIA-304-1971-03-24-7パキスタン1971年03月24日1970年代民衆と軍の衝突相つぐ-24日夜から25日未明にかけてチッタゴン,サイドプール,ラングプール等で民衆と軍の衝突が相ついでいる。
DIA-304-1971-03-24-8パキスタン1971年03月24日1970年代ヤヒア,ブット会談-ブットPPP委員長は朝,ヤヒア大統領と45分間の会談を行ない,その後の記者会見で「ALの求めているものは自治以上のものであり,主権国家論に近づいている。PPPはAL6項目要求にできるだけ近づいた提案をしたが,ALはことごとく拒否してきた」などと述べ,3者の話合いが事実上決裂したことをほのめかした。
DIA-304-1971-03-24-9パキスタン1971年03月24日1970年代大統領顧問団,PPP顧問団と会談-大統領官邸で1時間。
DIA-304-1971-03-26-1パキスタン1971年03月26日1970年代政府軍,東パ制圧か-非暴力非協力運動以来「ダッカ放送」としてALが使用してきたパキスタン放送ダッカ局は,26日朝,突如として調子を変えた。この朝,ティッカ・カーンB地区戒厳司令官は同放送を通じ,東パキスタン全土の政治活動を全面的に禁止するなど10項目の戒厳令規則を発表し,軍による東パ制圧を報じた。
DIA-304-1971-03-26-10パキスタン1971年03月26日1970年代国連,「バングラデシュ」加盟に備えて準備-国連法務当局は「バングラデシュ」が国連に加盟を申請した場合に生じると見られる問題について検討作業を開始した(AFP,ニューヨーク発)。
DIA-304-1971-03-26-2パキスタン1971年03月26日1970年代東パ戒厳司令官はダッカ滞在の外国人新聞記者の国外退去を命じた。
DIA-304-1971-03-26-3パキスタン1971年03月26日1970年代東パの政府軍は7万人になった(PTI通信,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-26-4パキスタン1971年03月26日1970年代ブットPPP委員長午後6時,ダッカよりカラチに帰着-記者会見で,「今は何もいいたくない。今いえることは全知全能の神のおかげでパキスタンが救われたということだけだ」と語った。
DIA-304-1971-03-26-5パキスタン1971年03月26日1970年代東パ,独立宣言か-本日夜ラーマンAL委員長は,「独立バングラデシュの声」放送を通じ,「バングラデシュ人民共和国」の独立を宣言した。さらに同放送は「東パ銃隊(EPR),警官隊はチッタゴン,コミラ,シレット,ジュソール,バリサル,クールナで,政府軍部隊と激戦中」であると述べ,徹底抗戦を呼びかけ,国連に東パでの虐殺をやめさせるよう要求した(インドのPTI通信,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-03-26-6パキスタン1971年03月26日1970年代ヤヒア大統領,ALを非合法化-ヤヒア大統領はカラチで午後7時ラジオ放送をつうじて,ALは国家の統一を乱したとし,ラーマンは国家反逆者であると述べ,ALを非合法化するとともに,戒厳令規則第76号および77号を発令,完全な報道管制を布き,全国の政治活動を禁止した(参考資料参照)。
DIA-304-1971-03-26-7パキスタン1971年03月26日1970年代インド軍,警戒体制-インドの国境警備軍は予防措置として警戒休制に入った(時事通信,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-26-8パキスタン1971年03月26日1970年代政府軍はEPRを追って国境を侵犯,インドのトリプラ地方に入った(AFP,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-03-26-9パキスタン1971年03月26日1970年代米国,事態を憂慮-米国務省スポークスマンは「東パ情勢が南アジアに不安定要因を持ち込むことを憂慮する」と語ったが,東パからのアメリカ人引揚げの計画は「今のところない」と述べた。
DIA-304-1971-03-27-1パキスタン1971年03月27日1970年代ラーマン逮捕を発表-B地区戒厳当局はパ放送を通じ,ラーマンAL委員長は26日午前1時半に自宅で逮捕されたと発表,さらに昨日出されたダッカ市内24時間外出禁止令は9時間に短縮すると発表した。
DIA-304-1971-03-27-2パキスタン1971年03月27日1970年代B地区戒厳当局,外国報道陣を東パから追放。
DIA-304-1971-03-27-3パキスタン1971年03月27日1970年代ブット,記者会見-ブットPPP委員長はカラチで記者会見,「ラーマンは1966年以来東パの分離をめざしてきた。彼は東パに人種主義的ファシスト独立政権を築かんと企てた」とラーマンAL委員長を強く非難し,さらに「インドの内政干渉」に抗議した。
DIA-304-1971-03-27-4パキスタン1971年03月27日1970年代“パ・タイムズ”紙は,「バングラデシュの声」放送はカルカッタ近郊のフーグリ川に浮かべた小舟にあり,インド政府の手によるものである,と報じた。インドはこれを否定。
DIA-304-1971-03-27-5パキスタン1971年03月27日1970年代東パから難民-カルカッタ権威筋によればこの日約200人の東パ住民がインドの西ベンガル州に流入。以後,インドへの難民の数は急速に増え,インド政府によれば8月12日までに750万人,11月19日までには,970万人が流入したという。
DIA-304-1971-03-27-6パキスタン1971年03月27日1970年代インド,東パ支持表明-インド各地で東パ支持のデモが行なわれ,ガンディー首相は国会での演説で東パ支持を表明。これに対しパ政府はインドは内政干渉をしているとして激しく非難。
DIA-304-1971-03-27-7パキスタン1971年03月27日1970年代ソ連,建設的解決を希望-ソ連共産党機関紙プラウダは論説において「東南アジアの困難を悪用する敵」に利用されず,問題が「全パ人民の利益のために解決されることを望む」としている。
DIA-304-1971-03-27-8パキスタン1971年03月27日1970年代外務省,米英に抗議-外務省はファーランド米大使およびピッカード英高等弁務官を招請し,VOAないしBBCによる東パ暴動についての誤報を停止するよう要請した。
DIA-304-1971-03-27-9パキスタン1971年03月27日1970年代イギリスは介入せず-ヒース英首相は保守党の会合において「パの紛争は遺憾だが,同国は完全な独立国であり,一刻も早い平和回復を願うしかない」と答え,介入の意向のないことを明らかにした。
DIA-304-1971-03-28-1パキスタン1971年03月28日1970年代AL資金凍結-ヤヒア戒厳総司令官はAL党資金の凍結を発表。
DIA-304-1971-03-28-2パキスタン1971年03月28日1970年代東パ平静か-ティッカ・カーンB地区戒厳司令官はパ放送を通じ,「東パ主要都市および郊外は完全に平静である。政府・公社の職員も職場に復帰している。ダッカの夜間外出禁止は午後7時から10時までである」などと述べた。
DIA-304-1971-03-28-3パキスタン1971年03月28日1970年代「解放軍」,臨時政府樹立か-「自由ベンガル放送」は「バングラデシュはジア・カーン(Jia Khan)少佐を首班とする臨時政府を樹立,諸外国の即時承認を求めた」と発表,また,コミラ,ジュソール,クールナは「バングラデシュ解放軍」の手中にあると伝え,さらに,バシャニーNAP委員長は5万人の農民軍を「解放軍」の指揮下に入れることに同意したと報道した(インドのエコノミック・タイムズ紙,-PTIおよびUNI,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-03-28-4パキスタン1971年03月28日1970年代トルコ海軍・空軍両総司令官が訪パ。
DIA-304-1971-03-29-1パキスタン1971年03月29日1970年代ヤヒア大統領,今朝カラチからラーワルピンデイへ帰還。
DIA-304-1971-03-29-2パキスタン1971年03月29日1970年代B地区戒厳当局,「都市は急速に正常化しつつある」と発表。
DIA-304-1971-03-29-3パキスタン1971年03月29日1970年代政府軍,空路数千人増援(米軍のスターズ・アンド・ストライプス紙)。
DIA-304-1971-03-29-4パキスタン1971年03月29日1970年代ダッカの外出禁止令,午前6時から12時間解除(パ・タイムズ紙)。
DIA-304-1971-03-29-5パキスタン1971年03月29日1970年代インド軍事筋によると,東パ「解放軍」は内戦勃発当時,東パ側にまわった東パ銃隊(EPR)1万8000人のうちの3分2を中心に構成され,さらに民兵が現在までに20万人加わった(朝}1新聞,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-29-6パキスタン1971年03月29日1970年代インド公式筋はラーマンAL委員長の逮捕を否定(AP,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-29-7パキスタン1971年03月29日1970年代北京の中国外交官は「パキスタンの問題は,国内問題であり,中国は他国の内政に干渉するつもりはない」と語った。
DIA-304-1971-03-29-8パキスタン1971年03月29日1970年代ウ・タント国連事務総長は印・パ両国代表と別個に会い,東パ問題について協議した。国連としては,「東パ側から独立宣言と国連加盟申請があるまでは東パ問題はパの内政問題と考えざるを得ない」としている。
DIA-304-1971-03-30-1パキスタン1971年03月30日1970年代パ放送によれば,東パ主要都市と周辺は完全に正常化し,とくにチッタゴンの武装反乱軍は鎮圧され,パ国際航空(PIA)の州内便も回復し,「バンダラデシュの声」なる放送も本日中頃から聞こえなくなったという。
DIA-304-1971-03-30-2パキスタン1971年03月30日1970年代東パに新政府か-インドで傍受した「バングラデシュの声」放送によると,「解放軍」のジア・カーン総司令官は「ラーマンAL委員長のもとに新政府が樹立された」と宣言した(時事通信,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-30-3パキスタン1971年03月30日1970年代政府はインド政府に対し,これまでインド放送が行なっている「根拠のない報道」に厳しく抗議した。これによると,(1)空軍による空襲(2)10万人の殺りく,(3)ティッカ・カーン射殺,鋸ラーマンは逮捕されていない,等の報道は完全に事実に反するものであるというもの。
DIA-304-1971-03-30-4パキスタン1971年03月30日1970年代駐ダッカ米総領事は米政府に対し,東パのアメリカ人引揚げを行なうよう要請。
DIA-304-1971-03-30-5パキスタン1971年03月30日1970年代米・ソ・印が協議-インド政府高官によると,東パ内戦中止策について米・ソ・印の3国が外交折衝を掃始した。ニューデリーの米大使館もインドと協議中と発表した(AP,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-03-30-6パキスタン1971年03月30日1970年代SEATO,内政不干渉-SEATOスポークスマンはバンコックで声明発表,東パ問題はパ国内問題であると述べた。
DIA-304-1971-03-31-1パキスタン1971年03月31日1970年代ヤヒア大統領兼戒厳総司令官は,各地区の戒厳司令官は当該州の知事でもあると再度あきらかにした。
DIA-304-1971-03-31-2パキスタン1971年03月31日1970年代インド国会,満場一致で東パ支持決議。
DIA-304-1971-03-31-3パキスタン1971年03月31日1970年代アメリカ人部分的引揚げ決定。米国務省は東パのアメリカ人の部分的引揚げを実施すると述べた。
DIA-304-1971-04-01-1パキスタン1971年04月01日1970年代政府,インド軍が東パ国境地域に侵入したと非難-この後も引続きこの種の非難が印パ両国間に頻繁にとりかわされ,両国関係は険悪化の一途をたどった。
DIA-304-1971-04-02-1パキスタン1971年04月02日1970年代米国,介入せず-米国務省スポークスマンは東パ問題はパの内政問題であるとの見解を発表。
DIA-304-1971-04-03-1パキスタン1971年04月03日1970年代ポドゴルヌイ,ヤヒア大統領に書簡-ソ連のポドゴルヌイ最高幹部会議長はヤヒア大統領に東パでの武力行使の停止と政治的解決を要望する4月2日付けの書簡を送った。これに対しヤヒア大統領は5日,「内政干渉である」と抗議。
DIA-304-1971-04-03-2パキスタン1971年04月03日1970年代中国,東パ問題で反応-新華社電は「パ政府はインドによる内政干渉に対し3度にわたって強く抗議した」と伝え,さらにヤヒア大統領の3月26日演説の要旨を論評ぬきで報道。
DIA-304-1971-04-04-1パキスタン1971年04月04日1970年代インドのナクサライト,大量に東パ侵入-ザ・タイムズ紙特派員によると,西ベンガル州を本拠とするナクサライトという極左活動家がこのところ大量に東パに侵入している(西ベンガル州パルガナス発)。
DIA-304-1971-04-05-1パキスタン1971年04月05日1970年代ティッカ・カーン,東パ指導者と会見-ティッカ・カーンB地区戒厳司令官は東パの著名な政治指導者12名と会見,彼らほ協力を約したという(東パのモーニング・ニューズ紙)。
DIA-304-1971-04-05-2パキスタン1971年04月05日1970年代ヌールル・アミーンPDP委員長,インド内政干渉を非難。
DIA-304-1971-04-05-3パキスタン1971年04月05日1970年代チュアダンガ,「バングラデシュ」の臨時首都に-「バングラデシュ解放軍」総司令官アサブル・ハック・ジョアルダル博士はクスティア県のチュアダンガで記者会見,同町が「バングラデシュ人民共和国」の臨時首都になったと発表(ロイターチュアダンガ発)。
DIA-304-1971-04-05-4パキスタン1971年04月05日1970年代匿名の東パ代表,ソ連で演説-モスクワのソ連共産党某組織の集会で匿名の東パ代表が演説,その草稿は後にプラウダに掲載された。
DIA-304-1971-04-06-1パキスタン1971年04月06日1970年代中国,インドに抗議-駐印・中国大使館は6日付でインド外務省に覚え書きを送り,「3月29日数百人のインド人が中国は…パ政府を支持していると中傷した…」と抗議。インドこれを拒否。
DIA-304-1971-04-07-1パキスタン1971年04月07日1970年代米政府,紛争終結を要望-米国務省スポークスマンは,米政府がパ政府に対し,紛争の早期平和解決を要望,また,米国製兵器を紛争に使用しないよう申し入れたことを明らかにした。
DIA-304-1971-04-10-1パキスタン1971年04月10日1970年代ダッカの著名人140人が市民生活正常化のために市民平和委員会を設立した。
DIA-304-1971-04-11-1パキスタン1971年04月11日1970年代政府軍,主要都市周辺に対し掃討作戦開始。
DIA-304-1971-04-11-2パキスタン1971年04月11日1970年代「解放軍」南西地区司令官M.A.オスマーン少佐は,「パブナは政府軍に占領され,解放軍は砲撃にさらされている」とチュアダンガからインドのPTI通信に電話を入れた(PTI,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-04-11-3パキスタン1971年04月11日1970年代中国,インド非難-北京放送によると,11日の人民日報は「インド拡張主義者はどうしたいというのか」という評論を掲載。同評論は「中国人民は…外部からの侵略と干渉に反対するパ政府と人民の正義の闘争を断固支持する」とし,さらに,米・ソ両国がインドと組んでパ内政に干渉していると攻撃,とくにソ連を名指しで非難している。
DIA-304-1971-04-12-1パキスタン1971年04月12日1970年代東パ政府,公務員に職場復帰を命令-東パ州政府は政府公務員,政府関係機関職員に対し21日までに職場復帰せぬ者は厳しく処罰するとし,復帰を命じた。
DIA-304-1971-04-12-2パキスタン1971年04月12日1970年代コスイギン,印・パ両大使と会見-コスイギン・ソ連首相はモスクワ駐在のJ.K.マルケル・パ大使の要望に応えて同大使と会見した(タス通信,モスクワ発)。なお,同首相はこの日,インド大使とも別に会見した。
DIA-304-1971-04-12-3パキスタン1971年04月12日1970年代中国,インドに警告-周恩来首相はヤヒア大統領に個人的メッセージを送り,「インド拡張主義者が対パ侵略を企てるならば,中国政府と人民はパを支持する」と述べた。
DIA-304-1971-04-13-1パキスタン1971年04月13日1970年代「バングラデシュ臨時政府」発足宣言-このところ約2週間途絶えていた「自由バングラデシュ放送」は13日,「バングラデシュ民主共和国臨時政府」の発足宣言を発表し,すべての民主諸国が同政府を承認し,ベンガル人民の解放闘争を支援してくれるよう訴えた。また,同放送は,首都はチュアダンガと発表すると共に,「臨時政府」が発足後ただちに「人民は現地のAL指導者と解放軍の命令に従え」などの指令を出したと述べた(以上,UPI,ニューデリー発)。さらにあるAL首脳は,「同臨時政府」は東パの「解放地区のどこかで最初の6人内閣閣議を開いて14日発足するだろう」と語った(ロイター,カルカッタ発)。なお,閣僚は次の通り。「大洗領」-シェイク・ムジブル・ラーマン(AL委員長)。「副大統領」-サイエッド・ノズルル・イスラーム(AL副委員長)。「首相」-タージウッディン・アーメッド(AL東パ支部書記長)。「外相」-K.M.アーメッド(AL東パ支部副委員長)。その他,マンスール・アリ(AL副委員長)およびA.H.M.カマルッザマン(AL書記長)のポストは未定。
DIA-304-1971-04-13-2パキスタン1971年04月13日1970年代インド首相,承認を考慮か-ガンディー・インド首相は記者会見で,「インドはバングラデシュ政府承認について検討するだろう。われわれは他国に左右されずに独自の決定を下すだろう」と語った。
DIA-304-1971-04-14-1パキスタン1971年04月14日1970年代ブット,諸政党の禁止を要求-ブットPPP委員長は記者会見で,「ALの禁止は当然だ。パ建国に反対したその他の諸政党も禁止さるべきだ」と述べた。
DIA-304-1971-04-14-2パキスタン1971年04月14日1970年代「解放軍」司令官を発表-「バングラデシュ臨時政府」のタージウッディン・アーメッド「首相」は「自由ベンガル放送(Swadhin Bangla Betar Kendra)」を通じ,各国に武器,弾薬の供給を要請すると共に,「解放軍(Mukti Fouj)」の司令官を次のように発表した。 総司令官-A.G.オスマーニ大佐(前パ陸軍東ベンガル連隊EBR大佐)。東部軍管区(シレット・コミラ地域)司令官-カーリッド・ムシャラフ少佐(前EBR)。南部軍管区(チッタゴン・ノアカリ地域)司令官-ズィアウル・ラーマン少佐(前EBR)。南西部軍管区(ジュソール・クールナ地域)司令官-M.A.オスマーン少佐。北部・中部軍管区(タンガイル・マイメンシン地域)司令官-ショフィウッラー少佐(前EBR)。
DIA-304-1971-04-14-3パキスタン1971年04月14日1970年代「バングラデシュ」使節団,ヨーロッパへ-同使節団はAL中央執行委員2名から成り,「バングラデシュ共和国」承認を求めてカルカッタから空路ヨーロッパへ向った。
DIA-304-1971-04-14-4パキスタン1971年04月14日1970年代米国務省,対パ弾薬供与の事実を認む-米国務省スポークスマンは記者団の質問に対し,「米政府は1967年来,パキスタンに対し年間1000万ドル弱分の軍需品を供与してきた。このうち250万ドル分は弾薬である」と語った。従来,米政府は対パ供与軍需品は運輸通信関係のものであって殺傷的軍需品を含んでいないとしていた。
DIA-304-1971-04-15-1パキスタン1971年04月15日1970年代「臨時政府」初閣議-AL筋がカルカッタで発表したところによると,「バングラデシュ臨時政府」はこのほど初閣議を開いた。閣議はカルカッタで開かれたもようである(ロイター,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-04-16-1パキスタン1971年04月16日1970年代政府軍,チュアダンガ占領-政府軍はチュアダンガを占領。占領にあたっては何らの抵抗もなかったという(ドーン紙)。
DIA-304-1971-04-16-2パキスタン1971年04月16日1970年代パ放送は主要諸都市は政府軍の制圧下にあると発表した。
DIA-304-1971-04-16-3パキスタン1971年04月16日1970年代ブット,大統領への協力を呼びかけ-ブットPPP委員長はメッセージを発表,党員に対し危機脱出のためヤヒア大統領に協力するよう訴えた。
DIA-304-1971-04-16-4パキスタン1971年04月16日1970年代AL指導者,ナクサライトを非難-ラージシャヒ県ナオガオン地区のAL指導者は,「M.トーハに忠誠を誓うナクサライトは解放軍に加わってはいるものの,ALの指揮に従わず統制を乱している」と非難した(ザ・ステイツマン紙)。
DIA-304-1971-04-16-5パキスタン1971年04月16日1970年代インド,パに強硬警告-インド外務省は要旨以下の特別声明を発表,パに強く警告した。(1)インドは南ベトナム臨時政府を承認していないが実在しているとみなしている,(2)パのインド非難はすべて根拠が無い,(3)パのやろうとしていることば東ベンガル人民の闘いを単に印・パ間の紛争という別問題にすりかえるものだ,(4)インドはいつでも戦闘に対処する用意がある。
DIA-304-1971-04-17-1パキスタン1971年04月17日1970年代「バングラデシュ」,正式独立宣言-式典はクスティア県メヘルプール行政区のバベルパラ村で行なわれ,50名の外国人記者団の同席するうちにノズルル・イスラーム「大統領代行」が「本日午前11時,バングラデシュ民主共和国を樹立した」と宣言した。なお,席上,「解放軍」新総司令官オスマーニ大佐が閣僚の一人に任命され,バベルパラ村は「ムジブナガール」と改称された(「ムジブナガール」とは「ムジーブの町」という意味。「ムージブ」とはムジブル・ラーマン「大統領」の姓命の一部。この町はインド国境警備隊の国境監視所から1マイルと離れていない。) 式典後の記者会見ではオスマーニ大佐は「パキスタン軍はバングラデシュ人民を今までに10万人も殺害していよう。われわれに武器はないし,われわれに敵対する連中もいるが,最後まで闘う。また,われわれの闘いの性格とタイプからすれば中央から指揮するというのは困難であり,各地域の人々に自主的戦術をとるよう勧めている」と述べ,ゲリラ戦法への志向を示唆した。
DIA-304-1971-04-17-2パキスタン1971年04月17日1970年代タイムズ・オブ・インディア紙は,東ベンガルの戦闘は今や農村部に移ったと報道。
DIA-304-1971-04-18-1パキスタン1971年04月18日1970年代ティツカ・カーンB地区戒厳司令官,ラジオ放送-同司令官はダッカ放送を通じて東パ人の軍人および警察官等に対して職場復帰を呼びかけると共に,軍による武力行使は一部の人間に向けられているにすぎず,一般市民は何の心配もないと述べた。
DIA-304-1971-04-18-2パキスタン1971年04月18日1970年代パ副高等弁務官,「バングラデシュ」に忠誠-カルカッタ駐在のホセイン・アリ副高等弁務官(東パ人)は「バングラデシュ民主共和国」への忠誠を表明した。カルカッタのパ副高等弁務官府は今後,「バングラデシュ」の外交公館となるとされ,「バングラデシュ国旗」が掲揚された。
DIA-304-1971-04-18-3パキスタン1971年04月18日1970年代空軍参謀学院長,北京訪問(~5月9日)-空軍参謀学院長カマール・アハマッド准将を団長とする使節団が北京に到着。一行は夜,〓任農中国人民解放軍空軍副司令員の歓迎会に出席。
DIA-304-1971-04-19-1パキスタン1971年04月19日1970年代「バングラデシュ政府」,カルカッタで会議-「バングラデシュ解放軍」はシレット以外でははば全域で崩壊し,「解放軍」南西部軍管区の全兵力である400人の兵士はカルカッタ北方175キロのインド領内ベタイ国境監視所に駐留している。一方,「バングラデシュ政府」は19日夜カルカッタでひそかに会議を開き,危機を討議した(ザ・タイムズ紙,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-04-20-1パキスタン1971年04月20日1970年代外務省はインド政府に対し,カルカッタのパ副高等弁務官以下の東パ人スタッフの追放を要求。インド,これを拒絶。
DIA-304-1971-04-20-2パキスタン1971年04月20日1970年代イギリス,パ政府支持か-ヒース英首相は議会で,パ政府は東パ問題解決のため同政府が最善と考える策をとることを許されねばならないと述べた。
DIA-304-1971-04-21-1パキスタン1971年04月21日1970年代政府は,去る1月30日にインド機を乗取り,パに亡命した青年2人はインド情報機関のスパイであることが判明したため逮捕したと発表した。
DIA-304-1971-04-22-1パキスタン1971年04月22日1970年代インドのPTI通信によると,東パ北東部のシレット,西部のメヘルプール等もパ政府軍の支配下に入った。これらの町は最近まで「解放軍」の強力な拠点と伝えられていた°
DIA-304-1971-04-22-2パキスタン1971年04月22日1970年代バシャニーNAP委員長,電報でニクソンおよび毛沢東に「バングラデシュ」承認および援助を要請(AFP,カルカッタ発)。なお返電はなかったもよう。
DIA-304-1971-04-22-3パキスタン1971年04月22日1970年代SDR使用-IMF報告によるとパは2月中に1800万ドル分のSDRを使用した。
DIA-304-1971-04-22-4パキスタン1971年04月22日1970年代米艦隊,インド洋に出現-米国防省は,太平洋艦隊の空母1隻,駆逐艦4隻,潜水艦1隻を1~2週間の訓練のためインド洋に送りこんだと発表。これは最近ソ連艦隊がインド洋に出現したことに対抗するものと観測筋では推察している。なお,米艦隊はすでに去る18日にインド洋東南部(東経100°,南緯17°)のフォートン海溝付近に出現していた。
DIA-304-1971-04-23-1パキスタン1971年04月23日1970年代ソ連から再び親書-外務省筋が明らかにしたところによると,ヤヒア大統領はこのほどコスイギン・ソ連首相から親書を受取った。これは,3日のポドゴルヌイ書簡より穏やかな内容という。
DIA-304-1971-04-26-1パキスタン1971年04月26日1970年代政府,ダッカのインド副高等弁務官府を閉鎖-政府はこれに続いてカルカッタの副高等弁務官府も閉鎖。
DIA-304-1971-04-26-2パキスタン1971年04月26日1970年代政府,ソ連等に特使-コスイギン・ソ連首相は26日,ヤヒア大統領の特使(閣僚級)として到着したアルシャッド・フセイン氏と会談。マルケル駐ソ・パ大使が同席。同氏はこの後,ロンドンおよびパリを訪問。
DIA-304-1971-04-27-1パキスタン1971年04月27日1970年代ティツカ・カーンB地区戒厳司令官は東パ銃隊(East Pakistan Rifles)の名称を東パ市民軍(East Pakistan Civil Armed Forces,EPCAF)と改称。
DIA-304-1971-04-27-2パキスタン1971年04月27日1970年代ブットPPP委員長,ヤヒア大統領と会見。
DIA-304-1971-04-29-1パキスタン1971年04月29日1970年代ブットPPP委員長,中国大使と会談-同大使にすみやかな効果的援助を要請。なお,28日には日本およびフランスの大使と会談している。
DIA-304-1971-04-30-1パキスタン1971年04月30日1970年代外貨準備激減-パの外貨準備高は1970年3月末では3億5000万ドルであったが,パの経済学者が明らかにしたところによると,71年1月末には1億2700万ドル,4月末には8200万ドルとなった(AP,5月19日ラーワルピンディ発)。
DIA-304-1971-04-30-2パキスタン1971年04月30日1970年代パリで対パ債権国会議(非公式)。
DIA-304-1971-05-01-1パキスタン1971年05月01日1970年代援助返済停止-政府は,すべての外国援助返済をむこう6カ月間にわたり,本日より一時停止することに決定した。
DIA-304-1971-05-02-1パキスタン1971年05月02日1970年代PPP内部対立,表面化-ブット委員長は,当選国会議員アハマッド・ラザ・カーン・カスリは党方針に反したとしてその党員資格を一時停止した。
DIA-304-1971-05-03-1パキスタン1971年05月03日1970年代ラザ・カスリ,PPP委員長を自称-A.ラザ・カーン・カスリは記者会見で,「党方針に反したブット委員長を解任し,今後PPP委員長は私が勤める」と述べた。
DIA-304-1971-05-04-1パキスタン1971年05月04日1970年代ラザ・カスリ自称PPP委員長は,「国が危機にある時に民政移管を要求するとは問題外である。西パだけで民政移管を行ない,東パを戒厳令下においたままにすれば,パの敵国(複数)に非難の口実を与えてしまう」と述べ,ブット委員長を批判。
DIA-304-1971-05-04-2パキスタン1971年05月04日1970年代ブットPPP委員長,民政移管について記者会見-要旨は次の通り。①PPPは即時民政移管は要求していない。しかし,早い方が良く,できれば新政権が予算作成できるように7月1日より前が望ましい,②その際,暫定憲法を作成して民移管を行ない,本憲法は国会で作成する,③しかし,国家の危機に鑑みて,7月1日以前の民政移管が無理なら,やむを得ぬものと認める。
DIA-304-1971-05-06-1パキスタン1971年05月06日1970年代軍情報局長,戦争の可能性を示唆-軍情報局長ムハマッド・アクバル・カーン陸軍大将は記者会見で「インドがパへの干渉をやめなければ,印・パ間に究極的には戦争が勃発することば否定しない」と述べた(ル・モンド紙)。
DIA-304-1971-05-06-2パキスタン1971年05月06日1970年代米上院外交委員会,対パ軍事援助停止を決定-同外交委はパの内戦終結まで対パ軍事援助および軍需品売却の停止を求めた決議案を,国務省の反対を押切って全会一致で可決した。
DIA-304-1971-05-07-1パキスタン1971年05月07日1970年代G.M.サイアッド,逮捕-ALの6項目を強く支持してきたスィンド統一戦線のG.M.サイアッド委員長はカラチ北方170キロのバウ村で逮捕された。
DIA-304-1971-05-07-2パキスタン1971年05月07日1970年代ダッカ,午前4時半から外出禁止令解除(解除時限66時間)。
DIA-304-1971-05-07-3パキスタン1971年05月07日1970年代政府,英,米,中国の記者合計6人にダッカ入りを許可。これは内戦以来初めての措置。
DIA-304-1971-05-08-1パキスタン1971年05月08日1970年代パ代表団,訪米-M.M.アハマッド大統領経済顧問を団長とする使節団が8日,ワシントンに到着。 21日の帰国までに,ニクソン米大統領,キッシンジャー同大統領特別補佐官,ロジヤーズ米国務長官,マクナマラ世銀総裁等々と会談,主に対パ援助問題について話合った。
DIA-304-1971-05-10-1パキスタン1971年05月10日1970年代「バングラデシュ大統領代行」,演説-ノズルル・イスラーム「代行」は「自由ベンガル放送」を通じて演説,「バングラデシュは社会主義の道を歩み,大企業の国有化と土地税廃止を提案する」と述べた(ロイター,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-05-11-1パキスタン1971年05月11日1970年代PDP委員長,大統領と会談-ヌールル・アミーンPDP委員長(東パ人)はラーワルピンディに飛び,3時間以上にわたってヤヒア大統領と会談。13日ダッカ帰還。
DIA-304-1971-05-11-2パキスタン1971年05月11日1970年代ラホール証券取引所,開所-これはカラチおよびダッカの証券取引所に続き,第3番目のもので,払込み資本金は12億5000万ルピー。同証券取引所はパンジャーブ州と北西辺境州をカバーし,これによりカラチ証券取引所はスィンド州とバルーチスタン州をカバーするに限られることとなった。
DIA-304-1971-05-11-3パキスタン1971年05月11日1970年代印・パ,スイスの調停案受諾。ニューデリーの外交筋によると,両国政府は,ダッカとカルカッタの副高等弁務官府員の帰国問題行詰まりを打開するために調停を申し入れたスイスの提案を受諾した。
DIA-304-1971-05-12-1パキスタン1971年05月12日1970年代PDP委員長,記者会見-ヌールル・アミーンPDP委員長はカラチで記者会見,(1)東パの工場は操業していない。回復には半年はかかろう,(2)非合法化されたALに所属する国会議員の行動と将来についての最も良き判断者は東パ戒厳当局である,と語った。
DIA-304-1971-05-14-1パキスタン1971年05月14日1970年代戒厳令人事-ヤヒア戒厳総司令官は戒厳副司令官を次のように任命。B地区(東パ州)-A.A.K.ニアーズィ陸軍中将(昇格)。D地区(スィンド州)-B.M.ムスタファー・カーン陸軍少将。E地区(バルーチスタン州)-チョードリ・ナスィール・アハマッド陸軍少将。F地区(北西辺境州)-K.H.ラージャ陸軍少将。
DIA-304-1971-05-15-1パキスタン1971年05月15日1970年代ダッカ大学,再開。
DIA-304-1971-05-20-1パキスタン1971年05月20日1970年代ブット大統領と会談(イスラーマバード)-ブットPPP委員長は会談後の記者会見で,「非合法化されたAL党員で罪のない者には恩赦を与えるよう大統領に要請した」と語った。
DIA-304-1971-05-21-1パキスタン1971年05月21日1970年代ヤヒア大紋領声明-同大統領は要旨以下の声明を発表した。「東パから国境を越えていった人々は安心して戻ってほしい。東パの秩序は回復し,すべては常態に復しており,政府は彼らが反国家分子の宣伝に迷わされず帰国して本来の業務に復すことを歓迎する」。
DIA-304-1971-05-21-2パキスタン1971年05月21日1970年代大統領,実業家と会談-ヤヒア大統領はカラチで東西パの実業界指導者層と4時間にわたって会談した。出席者にはM.M.アハマッド大統領経済顧問,大統領首席参謀将校ピールザーダ陸軍中将等も含まれていた。なお,会談は22日にも行なわれた。
DIA-304-1971-05-22-1パキスタン1971年05月22日1970年代貿易代表団,中国訪問一マクブーブ・カーン准将団長以下3名の貿易代表団が陸路貿易計画の詳細について協議のため,北京にむけてカラチを出発。29日,同貿易について交換文書調印(ウイグル自治区ウルムチにて)。
DIA-304-1971-05-23-1パキスタン1971年05月23日1970年代ブット,演説-ブットPPP委員長はカラチで報道関係者のためにレセプションを開き,席上,次のように演説した。「PPPは非合法化されたALの6項目要求の全体あるいはその一部も認めはしなかった。われわれは分離主義を排し,様々の問題を解決して国家の統一を守らねばならない。問題の解決と変革とを行なうのは官僚であってはならず,国民であり,私である」
DIA-304-1971-05-23-2パキスタン1971年05月23日1970年代ワーリ・カーンNAP(ワーリ・カーン派)委員長,辞意表明-理由は目の治療で長期間イギリスに行くため。
DIA-304-1971-05-24-1パキスタン1971年05月24日1970年代大統領,記者会見-ヤヒア大統領はカラチで内戦以来初の記者会見を開き,席上,民政移管計画を2~3週間内に発表する等と述べた。
DIA-304-1971-05-24-2パキスタン1971年05月24日1970年代ガンディー,大国の沈黙を非難-ガンデイー・インド首相は国会で,「東パ問題は軍事的には解決できない。政治的解決こそが必要だ。また,パは難民をインドに送り込む権利はない」などとパ政府を攻撃すると共に,「大国が沈黙すれば事態は悪化する」と大国を非難し,さらに,「難民350万人の早期帰国の国際的措置がとられなければ,インドは一方的な措置をとる」と警告した。
DIA-304-1971-05-25-1パキスタン1971年05月25日1970年代印・パ両軍交戦-インドのPTI通信によると,25日から26日にかけてパ軍がアッサム州に侵入,両国軍の交戦により多数が死傷した。
DIA-304-1971-05-26-1パキスタン1971年05月26日1970年代米政府,印パ・両国に自制を要請。
DIA-304-1971-05-27-1パキスタン1971年05月27日1970年代バングラデシュ共産党,中国を批判-カルカッタのベンガル語紙のアガルタラ発報告によれば,バングラデシュ共産党中央委員会が「バングラデシュのどこか」で開かれ,本日の声明発表を以て終了した。同声明は,パ政府を支持する中国の態度に「ショックを受けている」として中国を批判すると共に,ラーマンAL委員長の釈放を求め,さらに,ALやNAP等との統一戦線結成を提起している。
DIA-304-1971-05-28-1パキスタン1971年05月28日1970年代ブット,演説-ブットPPP委員長はハイダラバードで演説,「PPPは今や多数党である。大統領は民政移管の決意を十分に固めており,PPPが東西両パの人民に奉仕する日は近い」と述べ,さらにインドの内政干渉を厳しく非難した。
DIA-304-1971-05-28-2パキスタン1971年05月28日1970年代AL,大1転向か-東パのモーニング・ニューズ紙の伝えるところによると,AL国会議員167人のうち40数人が現政権への忠誠を表明。このうち9人は新聞紙上で「われわれはラーマンにだまされた」と自己批判。
DIA-304-1971-05-29-1パキスタン1971年05月29日1970年代駐パ・ソ連大使更迭-デグチャリ氏にかえてアレクセイ・ロディヨノフ氏が新大使に任命された。
DIA-304-1971-05-31-1パキスタン1971年05月31日1970年代バシャニー,政治解決に反対-バシャニーNAP委員長は「バングラデシュのどこか」で記者会見を行ない,次のように述べた。①政治解決はあり得ない。そのようなものはバングラデシュ人民の認めるところではない,②バングラデシュの革命の根底にはナショナリズムだけではなく,24年間も虐げられてきた人民の不満があるのだ,③私はヤヒア政権に対する協力が誰からも為されないように全政党の闘争委員会を提唱した(ザ・タイムズ・オブ・インディア紙,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-05-31-2パキスタン1971年05月31日1970年代ブット,即時民政移管要求-ブットPPP委員長はナワーブシャーで党活動家に演説,即時民政移管の必要を再度強調した。
DIA-304-1971-05-31-3パキスタン1971年05月31日1970年代世銀・IMF合同使節団,訪パ(~6月11日)。
DIA-304-1971-06-01-1パキスタン1971年06月01日1970年代「バングラデシュ」指導者,西パとの妥協を拒否-「バングラデシュ臨時政府」のカマルッザマン「国務相」とバシャニーNAP委員長は,それぞれ記者会見で最後まで闘うとの声明を発表。バシャニーNAP委員長はさらに記者会見の席上,中国,ソ連,北ベトナム等の社会主義諸国をバングラデシュを支持していないとして非難した(ザ・タイムズ紙,カルカッタ発)。
DIA-304-1971-06-01-2パキスタン1971年06月01日1970年代ガンディー,「バングラデシュ臨時政府」指導者と会談-ガンディー・インド首相は同「臨時政府」指導者3人と初めて公式に会談した(UPI,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-06-02-1パキスタン1971年06月02日1970年代「解放軍」,3万人を訓練中-2日付のザ・タイムズ紙によると,「解放軍」は現在,インド軍の協力を得て国境付近の約30のキャンプで推定3万人の兵士を訓練中という。
DIA-304-1971-06-02-2パキスタン1971年06月02日1970年代「バングラデシュ」,米国の介入を要請-「バングラデシュ臨時政府」のタージュウッディン・アーメッド「首相」はオール・インディア放送のインタビューにおいて,同「政府」が米政府に東パ問題の政治的解決のために接触したことを明らかにした(ザ・タイムズ・オブ・インディア紙,ニューデリー発)。
DIA-304-1971-06-05-1パキスタン1971年06月05日1970年代東パの軍協力者,暗殺すでに100人-ラーワルピンディの信頼すべき外交筋は,「AL弾圧以来,東パの軍に対する協力者と目された人物がすでに100人も暗殺されている。政府系新聞ですら9人の殺害事件があったと伝えている」と語り,さらに,「最近2~3週間に散発的抵抗事件が200件近く起ったとみられている」と述べた(AP,ラーワルピンディ発)。
DIA-304-1971-06-05-2パキスタン1971年06月05日1970年代インド,パ外交官を拘束-インド政府はカルカッタのマスード・パ副高等弁務官(新任)以下30名のパ外交官を公邸に軟禁すると共に,パと結んだインド人スパイ6人を逮捕した。これは4月26日のパ政府の措置に対する報復措置とされている。
DIA-304-1971-06-06-1パキスタン1971年06月06日1970年代「バングラデシュ臨時政府」,政治解決のための4条件を提示-同政府の,ノズルル・イスラーム「大統領代行」は「自由ベンガル放送」を通じ,以下の4条件をヤヒア大統領に提示した。①ムジブル・ラーマン大統領および独立バングラデシュ議員として選出されたのち投獄された人々の無条件釈放,②軍の撤退,③バングラデシュを独立国として承認すること,④軍が住民に及ぼした損害に対する賠償。
DIA-304-1971-06-07-1パキスタン1971年06月07日1970年代高額紙幣任用停止-ヤヒア大統領兼戒厳総司令官は戒厳令命令第81号を公布,これにより,500ルピーおよび100ルピー紙幣の使用を停止した。公式理由は,東パ動乱に際して推定6億ルピーが銀行等から略奪され,国家経済や国の安全に害を及ぼす方向で使用される恐れがあるためとされている。また,政府スポークスマンによれば,この措置は通貨価値を安定させ,インフレの急進を防ぐためでもあると語った(中央銀行発行紙幣は71年5月末現在で総額82億6800万ルピー。なお,政府は26日,これらの高額紙幣は再発行しないと発表)。
DIA-304-1971-06-08-1パキスタン1971年06月08日1970年代「バングラデシュ首相」に15年の刑-ダッカの特別軍事法廷筋によると,「バングラデシュ」のタージュウッディン・アーメッド「首相」等は8日の欠席裁判で重労働15年の刑などを宣告された。
DIA-304-1971-06-10-1パキスタン1971年06月10日1970年代逃亡者に恩赦-ティッカ・カーンB地区戒厳司令官は,インドに逃亡したり地下に潜入した東パ人に対して帰国を呼びかけると共に,帰国希望者全員に対する恩赦を発表した。
DIA-304-1971-06-11-1パキスタン1971年06月11日1970年代ダッカ,外出禁止令解除。
DIA-304-1971-06-12-1パキスタン1971年06月12日1970年代米,印・パに自重を要望-インド政府発表では東パからの難民は12日,ついに500万人を越えたといわれ,印・パ両国間の緊張はますます強まっている。この事態を憂慮して米政府は印・パ両政府に対し,行動を自重するように要望した。
DIA-304-1971-06-16-1パキスタン1971年06月16日1970年代国家経済評議会開催(ラーワルピンデイ,~17日)-同評議会における承認事項は以下の通り。①新会計年度(7月1日~1972年6月31日)の公共部門開発計画の承認。総額55億ルピーのうち東パ27億9000万ルビー,西パ27億1000万ルピー。②第4次5カ年計画の公共部門工業投資計画承認。総額137億8000万ルピーのうち東パ48億4000万ルピー,西パ89億4000万ルピー(このうち47億4000万ルピーはパンジャーブ州)。
DIA-304-1971-06-16-2パキスタン1971年06月16日1970年代イラン外相,訪パ-イランのザーヘディ外相は公式訪問のため訪パ,ヤヒア大統領と会談。
DIA-304-1971-06-20-1パキスタン1971年06月20日1970年代インド国防相,対パ戦争準備を呼びかけ-ジャグジヴァン・ラム国防相はパンジャーブ州ジャランダ市で陸軍将兵に演説,「パは国境侵犯など,戦争に至るような情勢を作り出している。われわれはいかなる事態にも即応できる覚悟を持たねばならない」と述べ,臨戦態勢の準備を呼びかけた。
DIA-304-1971-06-21-1パキスタン1971年06月21日1970年代対パ債権国会議,対パ援助一時停止-対パ債権国会議がパリで開かれ,東西パ紛争解決の見通しがつくまでは新規援助は延期することに決定した。
DIA-304-1971-06-22-1パキスタン1971年06月22日1970年代コスイギン,パ大使と会見-コスイギン・ソ連首相はマルケル駐ソ・パ大使と会見した(タス通信,モスクワ発)。
DIA-304-1971-06-22-2パキスタン1971年06月22日1970年代米からパに軍用機発送-22日,ニューヨーク港からパのパドマ号(6万8550トン)がカラチに向けて出港。同船は米国製軍用機8機などを積載していたというので米議会などで問題化している。米国務省は,3月25日以前にパ政府に引渡し約束が済んでいた軍用機であれば援助停止令に抵触しないとしている。その後,パの政府系各紙はパドマ号は食糧しか積んでいないと書きたてたが,7月15日,米国務省スポークスマンは,同船が弾薬を含む約123万ドル相当の軍需品を積載していたことを明らかにした。
DIA-304-1971-06-23-1パキスタン1971年06月23日1970年代チッタゴンの外出禁止令解除。
DIA-304-1971-06-24-1パキスタン1971年06月24日1970年代米国,インド要求を拒否-米政府は,武器を積んでニューョークからパに向った船2隻の航行を中止せよとのインドの要求を拒否。
DIA-304-1971-06-25-1パキスタン1971年06月25日1970年代海外旅行禁止-政府は外貨事情悪化に鑑みて,輸出商談のため以外の海外渡行を禁止。許可を受け得るのは輸出監査長官まで登録した輸出業者のみで,それも海外での商談がうまくいかなかった場合には罰を課せられ,場合によっては中央銀行のブラック・リストに載せられるという厳しいもの。
DIA-304-1971-06-26-1パキスタン1971年06月26日1970年代重要人事-ヤヒア大統領は,7月1日発効で以下の人事を行なった。マフブーブル・ラシード中央銀行総裁を国家計画委員会副委員長に,M.H.スーフイ同委員会副委員長を農業・事業省およびカシミール問題局顧問に,S.U.ドゥラーニ・パキスタン航空(PIA)総裁を中央銀行総裁に任命。
DIA-304-1971-06-26-2パキスタン1971年06月26日1970年代B地区戒厳当局はパ放送を通じて市民の職場復帰を再度よびかけた。
DIA-304-1971-06-26-3パキスタン1971年06月26日1970年代71/72年度予算案発表(参考資料参照)。
DIA-304-1971-06-28-1パキスタン1971年06月28日1970年代ヤヒア大統領,全国ラジオ放送-同大統領はこの中で民政移管の新方針を明らかにし,4カ月後をめどとして全国的に民政移管を行なう予定であると述べた(参考資料参照)。
DIA-304-1971-06-28-2パキスタン1971年06月28日1970年代米政府,対パ経済援助継続-ホレン米国務省中東・南アジア担当次官補は,米政府は対パ債権国会議の21日の決定にもかかわらず単独で対パ経済援助を続行すると語った。
DIA-304-1971-06-29-1パキスタン1971年06月29日1970年代テッカ・カーン東パ州知事,州予算演説。
DIA-304-1971-06-30-1パキスタン1971年06月30日1970年代カルカッタの「バングラデシュ人民共和国代表部」は,4ページの週刊公報“Bangladesh”を刊行。
DIA-304-1971-07-05-1パキスタン1971年07月05日1970年代政府,英政府に抗議-政府は,スワラン・シン・インド外相の訪英に際し6月21日に発表された英・印共同声明に,「…東パの人々が受け入れ得るような政治的解決が見出されねばならない」とあるため,これは不当な内政干渉であるとして抗議の覚え書きをラーワルピンディの英高等弁務官に手渡した。
DIA-304-1971-07-06-1パキスタン1971年07月06日1970年代ブット,イラン訪問(~12日)-ブットPPP委員長はイラン政府の招待でイラン訪問。出発に先立つ空港での記者会見で,「インドの悪意に対抗するために大統領が提起した諸外国訪問の用意がある」と語った。
DIA-304-1971-07-07-1パキスタン1971年07月07日1970年代カラチ移住の東パ学生,抗議-東西パ関係の悪化以来数百名の学生がカラチに移住,様々の技術学校に入学を許可されて授業を受けていたが,このほど入学が取消されたため,彼らはスィンド州知事に抗議の覚え書きを送付した(ドーン紙)。
DIA-304-1971-07-07-2パキスタン1971年07月07日1970年代米の対パ武器供与-米のチャーチ上院議員は7日の上院での演説で,「米政府は対パ武器供与を禁じたにもかかわらず,現在3500万ドル分の軍事装備がパに向けて発送される態勢にある。ニクソン大統領は政府内からも対パ武器供与反対が出ているというのに,その即時停止を拒否した」などと述べた。一方,米国務省スポークスマンは8日,「米国の近年の対パ武器供与は年平均1500万ドル分である」と語った。
DIA-304-1971-07-08-1パキスタン1971年07月08日1970年代キッシンジャー,訪パ-アジア諸国歴訪中のキッシンジャー米大統領特別補佐官は,ニューデリーから米空軍特別機でラーワルピンディに到着。ただちにファーランド米大使と会談,その後,同大使のほかパ側のM.M.アハマッド,スルタン・カーン外務次官およびわざわざ帰国したアガ・ヒラリー駐米パ大使と会談。さらに夕刻,ヤヒア大統領と非公式会談。
DIA-304-1971-07-09-1パキスタン1971年07月09日1970年代キッシンジャー,北京訪問(~11日)-訪パ中のキッシンジャー米大統領特別補佐官は午前中ヤヒア大統領と公式会談,その後,秘密裡に北京へ飛び,ニクソン米大統領訪中の話をとりまとめた。
DIA-304-1971-07-11-1パキスタン1971年07月11日1970年代ヤヒア大統領へ米大統領メッセージ-キッシンジャー米大統領補佐官はこの日,テヘラン経由でパリへ向った。パ外務省スポークスマンによれば,同補佐官は訪パ中にヤヒア大統領と印・パ情勢など諸問題を話合ったが,提案は行なわず,印・パ間の調停を行なっているのではないという。また,同スポークスマンは,同補佐官はニクソン米大統領のメッセージをヤヒア大統領に届けたと語ったが,内容は明らかにしなかった。
DIA-304-1971-07-13-1パキスタン1971年07月13日1970年代A.M.マリク,大統領特別補佐官に任命-A.M.マリク前保健・労働相(東パ人)は難民対策担当の大統領特別補佐官に任命された。扱いは閣僚級。
DIA-304-1971-07-13-2パキスタン1971年07月13日1970年代米政府,対パ人道的援助続行-7月13日付のニューョーク・タイムズ紙は,「東パ情勢は正常にはほど遠く,対パ経済援助は少なくとも1年間くらいは停止したままにならざるを得ない」との世銀使節団(6月3~9日に東パ訪問)の秘密報告書を発表。米政府はこれに対する公式反応として,「パ政府が東パ情勢を考慮した上で新たな開発計画を提出するまで対パ経済・技術援助は保留するが,東パへの人道的援助は続行する」と発表した。
DIA-304-1971-07-14-1パキスタン1971年07月14日1970年代PML,CML合併への動き-カーデル・チョードリPML委員長およびダウルターナCML委員長は今夜半,ラホールで両党合併の決定の意志を明らかにした共同声明を発表した。ただし,決定はそれぞれの先の評議会で承認されねばならず,そのため両党の評議会が1カ月以内に同時にダッカで開かれるという。一方,この日はやはりラホールにいたカユーム・カーンQML委員長は同上両委員長の呼びかけにもかかわらず,両者には会わぬままイスラーマバードに赴き,夕刻,ヤヒア大統領と会見した。なお,QMLは,ムスリム連盟系3党の統合の前提はカユームQML委員長を首班にすることであるとしている。
DIA-304-1971-07-15-1パキスタン1971年07月15日1970年代印・パ両国間の外交官帰国問題は,スイスが調停の努力中であるが(5月11日参照)進展はいまだ見られない。
DIA-304-1971-07-15-2パキスタン1971年07月15日1970年代ソ連,東パの政治的解決を要望-ソ連共産党機関紙プラウダは,ソ連がパに武器を供与しているとのうわさを強く否定すると共に,「ソ連は,東パ人民の正当な権利と利益とに鑑み,また,その立場に立って東パ難民の帰国問題の解決を考え,ただちに政治的解決を行なうことを良しとする」と述べた。一方,イズベスチア紙は,ソ連宇宙飛行士の死亡(6月30日)に際して弔辞を寄せた外国指導者の一人として,「サイエッド・ノズルル・イスラーム・バングラデシュ民主共和国大統領代行」の名を挙げている(ロイター,モスクワ発)。
DIA-304-1971-07-15-3パキスタン1971年07月15日1970年代政府,英連邦との関係断絶を考慮-政府スポークスマンは,イギリスのパに対する敵対的態度に鑑み,政府は英連邦との関係断絶を考慮中であることを明らかにした。
DIA-304-1971-07-16-1パキスタン1971年07月16日1970年代ブット,大統領と会談-ブットPPP委員長は,ラーワルピンディで4時間以上にわたってヤヒア大統領と会談。記者会見で,「会談はうまく行っている」と語り,さらに,ニクソン米大統領訪中の発表に歓迎の意を表した。
DIA-304-1971-07-16-2パキスタン1971年07月16日1970年代ヌールル・アミーン,ムスリム連盟との関係を否定-このほどダッカの地方紙に,「ムスリム連盟系3党は統合しても新党の委員長を誰にするかとの問題があるため,妥協としてヌールル・アミーンPDP委員長を新党委員長に据える予定である」という趣旨の記事が掲載されたが,同氏は,「全く根拠がない」としてこれを否定した。
DIA-304-1971-07-16-3パキスタン1971年07月16日1970年代ファーランド駐パ米大使,本国へ一時帰還。
DIA-304-1971-07-17-1パキスタン1971年07月17日1970年代ブット,大統領と会談-会談後の記者会見でブットPPP委員長は,「会談は十分なものではあったが,政府とわが先の問には今少し意見の相違がある」と語った。
DIA-304-1971-07-18-1パキスタン1971年07月18日1970年代ダウルターナ,大統領への協力を訴え-ダウルターナCML委員長はラーワルピンディで同党活動家に演説,次のように述べた。(1)ヤヒア政権はパを一つに保つという国民の願いを象徴しており,同政権の力を強めるよう協力するのは愛国者の義務である。同政権が国民を代表していないというのは聞達っている,(2)パが危機にある現在,民政移管を要求するのは背信行為だ,(3)ムスリム連盟系3党は統合すべきだが,政府がそのためにてこ入れしているというのは根拠のないことだ。
DIA-304-1971-07-20-1パキスタン1971年07月20日1970年代ブット記者会見(ラホール)-席上,ブットPPP委員長は6月28日の大統領演説に触れ,「わが党は民政移管を4カ月延ばすのは喜んで受入れるが,それ以上は待てない」と述べた。
DIA-304-1971-07-21-1パキスタン1971年07月21日1970年代市民にも警察権-B地区(東パ)戒厳司令官はラザカール(16~17歳のビハール人,パターン人を中心とする民兵)および一般市民に,反政府活動分子を逮捕する権限を与えた。
DIA-304-1971-07-21-2パキスタン1971年07月21日1970年代「解放軍」,改称-「バングラデシュ解放軍」は従来“Mukti Fauj(解放陸軍の意)”と呼称されていたが,今後“Mukti Bahini(解放3軍の意)”と呼ばれることとなり,近く空軍および海軍も持つこととなった(“Bangladesh”-6月30日参照-による)。
DIA-304-1971-07-21-3パキスタン1971年07月21日1970年代中国,インドのパ内政干渉を非難-インド,これを拒否。
DIA-304-1971-07-22-1パキスタン1971年07月22日1970年代PDPとQML,代表者会談(~25日)-PDPのN.N.カーン西パ支部委員長はカユームQML委員長と両党の合併について会談。合談は後者のアボッタバード(ペシャーワル付近)の自宅で開かれた。なお,N.N.カーンはそれに先立ってダウルターナCML委員長およびカーデルPML委員長と秘密会談をしたといわれる。
DIA-304-1971-07-24-1パキスタン1971年07月24日1970年代ムスリム連盟系3党の会談-会談はアボッタバードのカユームQML委員長の自宅で5時間にわたった行なわれた。出席者は同委員長のほか,M.M.カースィムPML書記長,チョードリ・ザフール・エラヒPML活動者委員会委員などであった。
DIA-304-1971-07-25-1パキスタン1971年07月25日1970年代選管委員長,ダッカへ-サッタール選挙管理委員長は8月14日までの予定で東パ訪問のためイスラーマバードからダッカに到着。
DIA-304-1971-07-26-1パキスタン1971年07月26日1970年代ALの転向者-ALから東パ州議会に当選したS.B.ザマーンはカラチで記者会見,次のように語った。(1)AL党員のほとんどは東パに潜伏している。(2)政府はAL党員のうち国会,州議会の議席を剥奪された者のリストを発表すべきだ,(3)私はきょう再びブットPPP委員長と有益な会談をした。私は,ALの有資格者(議席を剥奪されなかった者)とPPPの連携(tie-up)に希望的である,(4)非合法化されたALから国会当選者のうち70名,州議会当選者のうち109名がザヒルッディン氏(AL当選国会議員)を指導者にすることを承認した。
DIA-304-1971-07-27-1パキスタン1971年07月27日1970年代PPPのニアーズイ情報担当書記はカラチの記者会見で昨日のザマーン発言に触れ,「非合法化されたALの元党員と連合することを検討中」と述べた。しかし,ALのザヒルッディン氏は28日,PPPとの提携の動きを否認。
DIA-304-1971-07-27-2パキスタン1971年07月27日1970年代大統領,英国を非難-ヤヒア大統領はパを訪問したイランの新聞記首との会見で,「英政府はわが国に対して敵対的態度をむき出しにとってきており,わが国の内政に干渉しようと試みている」と英政府を非難した。
DIA-304-1971-07-29-1パキスタン1971年07月29日1970年代ブット,大統領と会談-会談はカラチで2時間半にわたって行なわれた。会談後の記者会見でブットPPP委員長は,「会談は満足すべきものだった」とだけ語った。
DIA-304-1971-07-30-1パキスタン1971年07月30日1970年代ザマーン,ブットと会談-17日から西パ訪問中の・AL党員ザマーン氏は,カラチでブットPPP委員長と会談。これは25日,26日に続いて3度目。なお,同氏は31日にダッカに帰還。
DIA-304-1971-07-31-1パキスタン1971年07月31日1970年代ブット,大統領と会談-1時間の会談後の記者会見でブットPPP委員長は,「われわれは第1の障害物を越えた。その障害物とは,真の正常化のために双方同意の解決法を見出す方法に関するものである」と述べた。
DIA-304-1971-08-03-1パキスタン1971年08月03日1970年代米下院,対パ経済援助を拒否-米政府は本年度の対パ経済援助(1億1800万ドル)の承認を求めたが,米下院はパ政府が東パ情勢安定に努力せぬ限り,すべての対パ経済・軍事援助を停止するという法案を可決した。
DIA-304-1971-08-04-1パキスタン1971年08月04日1970年代大統領,テレビでインタビュ-―これは7月30日に録画され,放映は4月。この中でヤヒア大統領は次のように語った。①国家反逆罪で逮捕されたラーマンは裁判にかけられよう,②民政移管はあと3~4カ月後になろう,③国会・州議会の議席を剥奪されない当選議員のリストを2~3週間内に発表する。リストにもれた者の議席について補欠選挙を行なう,④インドの介入と侵略が続けば国を挙げて戦争に突入する,⑤英国がパ攻撃の先頭に立っているのは遺憾なことである,⑥ニクソン米大統領の訪中発表は今世紀のすばらしい一大ニュースである。
DIA-304-1971-08-04-2パキスタン1971年08月04日1970年代ダッカで商業銀行会議-主宰はドゥラーニ中央銀行総裁。
DIA-304-1971-08-04-3パキスタン1971年08月04日1970年代ニクソン,援助停止に反対-ニクソン米大統領は3日の下院の決定に反対との立場を明らかにし,「われわれが行ないうるもっとも建設的な役割は,西パに対する経済援助を続けて諸事件の流れに影響を与えることであると,われわれは信じている」と語った。
DIA-304-1971-08-05-1パキスタン1971年08月05日1970年代政府,東パ問題で白書(参考資料参照)。
DIA-304-1971-08-05-2パキスタン1971年08月05日1970年代中国銀行をパに譲渡-中・パ両国は,中国がカラチとチッタゴンにある中国銀行支店をパに譲渡する旨の同意に達した。なお,正式調印は17日。
DIA-304-1971-08-07-1パキスタン1971年08月07日1970年代政府,国会議席保持者を発表-政府は,非合法化されたALの当選国会議員167名中88名は,犯罪的行為を行なわなかったため議席を保持し得るとし,そのリストを発表した。
DIA-304-1971-08-09-1パキスタン1971年08月09日1970年代印・ソ条約調印(インドの項参照)。
DIA-304-1971-08-09-2パキスタン1971年08月09日1970年代米国務省報道官は,「今後対パ武器輸出を行なう可能性は否定できないが,これは米政府が行なうものではなく,商業的とりきめによるものである」と語った。
DIA-304-1971-08-10-1パキスタン1971年08月10日1970年代カユームQML委員長,大統領と会見。
DIA-304-1971-08-10-2パキスタン1971年08月10日1970年代ブット,印・ソ条約を非難-ブットPPP委員長は,ソ印条約は侵略のための条約だとしてこれを非難。一方,政府はまだ検討中とするのみで見解発表を控えている。
DIA-304-1971-08-10-3パキスタン1971年08月10日1970年代インド政府は,「ダッカのインド外交官と家族,カルカッタのパ外交官と家族は相互に本国に送還する協定が結ばれた」と発表。同協定は12日実施された。
DIA-304-1971-08-11-1パキスタン1971年08月11日1970年代ラーマン,軍事裁判に-9日発表されたラーマンAL委員長の秘密軍事裁判は11日夜半,ラーワルピンディで開始された。ガンディー・インド首相は12日,裁判をやめさせるよう24カ国首脳に訴え,タージュウッディン「バングラデシュ首相」も13日これに警告。ウ・タント国連事務総長は10日,懸念を表明。米政府は後日,アガ・ヒラリー駐米パ大使を通じて重大な関心を表明した。
DIA-304-1971-08-11-2パキスタン1971年08月11日1970年代ダッカ随一のホテル・インタコンティネンタルのロビーがゲリラに爆破され,米人記者1名死亡,20数名が負傷した。
DIA-304-1971-08-11-3パキスタン1971年08月11日1970年代ブット,中国領事と会見-ブットPPP委員長はカラチの聶(ニエ)中国領事と会見。このあとの記者会見で,ブット委員長は同領事とソ・印条約について話合ったことを明らかにし,さらに,「わが国とインドとの基本的紛争事項に永久に決着をつけるための戦争をやってみよう」と語った。
DIA-304-1971-08-11-4パキスタン1971年08月11日1970年代アガ・ヒラリー駐米大使はワシントンで,「印・ソ条約により,インドは非同盟外交を捨ててしまった」と述べた。
DIA-304-1971-08-12-1パキスタン1971年08月12日1970年代印・ソ友好条約非難-政府スポークスマンは記者会見で,「印・ソ防衛条約と共同声明は現在,外務省で検討中」とし,さらに,「共同声明は東パ問題の政治解決を云々しているが,これは全くよけいなおせっかいだ」と語った。
DIA-304-1971-08-13-1パキスタン1971年08月13日1970年代ムスリム連盟系3党の合併の動き-PMLのカースィム書記長は4日間のダッカ訪問を終えてカラチ帰還,記者会見で,「3党の合併の努力は政権獲得のためでなく,国家の危機を救うためのものだ。この点,私がダッカで会った指導者たちも了解している」と語った。なお,同書記長はダッカ滞在中,K.A.サブルQML書記長,ワーヒドゥッザマンQML議員団長,アブル・カースイムCML書記長,カワージャ・カイルッディンCML東パ支部書記長に会い,ムスリム連盟系以外ではヌールル・アミーンPDP委員長,N.N.カーンPDP西パ支部委員長に会っている。
DIA-304-1971-08-13-2パキスタン1971年08月13日1970年代ヤヒア大統領は8月14日の独立記念日に際してメッセージを発表,植民地主義とヒンドゥー教徒の支配に対して国家の団結を守るよう,訴えた。なお,この日,ティッカ・カーン東パ州知事,A.M.マリク大統領特別顧問兼東パ州知事など4名が最高勲章を授与された。
DIA-304-1971-08-15-1パキスタン1971年08月15日1970年代外務次官,ソ連を訪問か-スルタン・カーン外務次官は記者会見でソ・印条約に触れ,「ソ連がパに敵対的動機を持っているとは考えない。私は2週間前にソ連政府の招待状を受け取ったが,訪問期日は未定である」と語った。
DIA-304-1971-08-16-1パキスタン1971年08月16日1970年代中国とイラン,外交関係樹立の共同声明をイスラーマバードで調印。
DIA-304-1971-08-17-1パキスタン1971年08月17日1970年代スルタン・カーン外務次官,イラン公式訪問-イランではザーヘッド・イラン外相などと会談したほか,中東および東アフリカ駐在のパ外交官と国際政治状況について会談し,その後ジュネーヴに飛び(23日),ヨーロッパ,北米駐在のパ外交官と会談(24~25日),26日にはスイス外相と会談。
DIA-304-1971-08-18-1パキスタン1971年08月18日1970年代ソ連大使,大統領と会見-ロディョノフ駐パ・ソ連大使はイスラーマバードでヤヒア大統領に会見,印・ソ条約はソ連とインド以外の国との関係を犠牲にするものではないと伝えたといわれる。
DIA-304-1971-08-18-2パキスタン1971年08月18日1970年代米国務省,印・パについて-米国務省スポークスマンは記者会見で次のように述べた。①米国はパに対しいは東パ救済に計6900万ドルを提供し,インドには難民救済のため7000万ドルを割当てた,②米国が100万ドルを供与することにより国連監視団の印・パ国境派遣が近く実現することを希望する,③インドは米国が南ベトナム用の兵器をパで使用していると報道しているが,根拠のないことだ,④インド訪問中のケネディ上院議員が,インドは米国とも印・ソ条約と同様のものを締結したいと望んでいると言ったが,インド政府からそのような要請は受けていない。
DIA-304-1971-08-19-1パキスタン1971年08月19日1970年代政府,東パ州議会議席保持者を発表-政府はALの当選州議会議員288名中94名,その他,PDP2名,NAP(ワーリ・カーン派)2名,イスラーム秩序党1名は議席を剥奪されないとしてそのリストを発表した。
DIA-304-1971-08-19-2パキスタン1971年08月19日1970年代東パ政府,議席保持者に出頭を呼びかけ-東パ州政府はALの国会議員,州議員に対し,これまで政府がその議席を保留することを許可したものはすみやかに出頭するように呼びかけ,出頭したものについては,政府が全面的に保護することを約した。
DIA-304-1971-08-24-1パキスタン1971年08月24日1970年代A.M.マリク大統領特別補佐官,ヤヒア大統領と会見。
DIA-304-1971-08-24-2パキスタン1971年08月24日1970年代PPP左派,右派を批判-PPPパンジャーブ支部のラシード委員長は,「集団を成してPPPに加入し,ブット委員長をとりまいている封建大地主たちは,大地主制を廃止しようとしているラーナ氏(ライヤルプール市支部委員長)やランガ氏(党中央委員)を無視している」と批判した。
DIA-304-1971-08-25-1パキスタン1971年08月25日1970年代ブット,大統領と会談(ラーワルピンディ)-3時間半の会談後の記者会見でブットPPP委員長は,「これは先月の大統領との会談にひき続くものであり,大統領は理解を示す態度でわが党の見解を聞いてくれた」と語り,さらに,「大統領は自分の考えている行動を実行に移す覚悟と思えた。その一環として新東パ知事の任命の可能性も話題になった」と述べた。
DIA-304-1971-08-26-1パキスタン1971年08月26日1970年代PPP,政府と会談-PPP代表団はラーワルピンディでA.R.コルネリウス大統領法務顧問,M.M.アハマッド大統領経済顧問などの政府高官と2時間にわたって憲法問題などについて話合った。PPPの代表団はM.A.カスリ副委員長,ラヒーム書記長,ピールザーダ・カラチ支部委員長,ラフィー・ラザPPP憲法委員全委員の4名。なお,会談は27日にも行なわれ,また,ブットPPP委員長は同日ピールザーダ大統領主席参謀将校と会見した。
DIA-304-1971-08-26-2パキスタン1971年08月26日1970年代A.M.マリク大統領特別補佐官,大統領に会見。
DIA-304-1971-08-26-3パキスタン1971年08月26日1970年代カラチで灯火管制訓練。
DIA-304-1971-08-27-1パキスタン1971年08月27日1970年代サッタール選挙管理委員長,大統領と会見。
DIA-304-1971-08-30-1パキスタン1971年08月30日1970年代ニューデリーに「バングラデシュ」代表部(3人編成)-代表は,4月に駐ニューデリー・パ高等弁務官府2等書記官を辞任,「バングラデシュ」に忠誠を誓ったK.M.シャハブッディン氏。この代表部は1週間前に開所の予定であったが,ダッカのインド外交官の本国帰還が完了するまで延期されていた。なお,同種の代表部はすでにカルカッタ,ロンドン,ワシントンに開設されており,ニューデリーのものは4番目。
DIA-304-1971-08-30-2パキスタン1971年08月30日1970年代ニクソン新経済政策について-米国の輸入課徴金制度の決定により,今後パキスタンの対米輸出が極めて大きい損害を受けるとイスラーマバードの当局が述べた。当局の発表によると対米輸出額は最近緩慢ではあるが,年々上昇しており,最大の輸出相手国となっているだけにその打撃は大きい。なお,対米輸出額と対米主要品目輸出額は次のとおりである。  ◎1970-71年度における対米主要品目輸出額  エビ 2711.6万ルピー  綿花 81.5万ルピー  生ジュート 1745.7万ルピー  ウール 350.0万ルピー  獣毛 326.8万ルピー  くず綿 188.9万ルピー  ジュート織維 2億2062.9万ルピー
DIA-304-1971-08-31-1パキスタン1971年08月31日1970年代東パ知事,更迭-ヤヒア大統領はティッカ・カーン東パ州知事兼B地区戒厳司令官を解任,A.M.マリク大統領特別補佐官を新東パ州知事に,東部軍団司令官兼B地区戒厳副司令官A.A.K.ニアーズイ陸軍中将をB地区戒厳司令官に,それぞれ任命した(就任は9月3日)。なお,政府スポークスマンは今回の東パ州知事人事に関し,「文民の東パ州知事任命はヤヒア大統領が約束した民政移管に一歩前進となるものである。今後,軍は州知事の民政を助けて国内治安にあたるだけになる」などと述べた。
DIA-304-1971-08-31-2パキスタン1971年08月31日1970年代インド首相,印・ソ条約について-ガンディー・インド首相は,ニューデリーで世界平和評議会のチャンドラ事務局長との質疑応答において,「印・ソ条約はイスラーマバードの冒険主義に対する抑制要因となると思う」と述べた。
DIA-304-1971-08-31-3パキスタン1971年08月31日1970年代インド3軍兵士,休暇取消し,配備につく(ロイター,アンタラ発)-軍はノーコメント。
DIA-304-1971-08-31-4パキスタン1971年08月31日1970年代政府,英政府に抗議-政府は,英国および植民地がパの領土的保全を害するための基地として用いられているとして,英政府に抗議した。
DIA-304-1971-09-01-1パキスタン1971年09月01日1970年代大統領,記者会見-ヤヒア大統領はフランスの“ル・フィガロ”紙記者のインタビューに応じ,つぎのように述べた。 ①わが国は,インドがパキスタン領内に一歩でも侵入すれば,全面戦争をも辞さない,②国境状勢はなお緊張が続いている。インド軍は常に国境を侵犯しているし,反乱活動を扇動している。こんな情勢下で,難民が,国に戻ることができるか?③私は,わが国の危機に示したフランスと中国の態度を高く評価している,④現在,パキスタンにおける法と秩序はある特定の国境地域を除いて,全て私の軍のコントロール下にある。私は民政移管についてはいまでも固く約束することができる。
DIA-304-1971-09-01-2パキスタン1971年09月01日1970年代政府,難民の公式数を発表-政府は,3月の動乱以来インドに逃げた難民の県別統計を発表。これによると,20万人を上回る県はディナージプールのほかクールナ,ジュソール,ファリドプール,ラングプールの各県で,ダッカ県はわずか5,355人と成っており,全東パで200万人強とされている。
DIA-304-1971-09-01-3パキスタン1971年09月01日1970年代駐パ・インド高等弁務官に,B.K.アチャラヤ氏にかえてローマ駐在インド大使J.K.アタル氏が任命された。
DIA-304-1971-09-03-1パキスタン1971年09月03日1970年代A.M.マリク東パ新州知事,ニアーズィB地区戒厳司令官,就任-この日さらにラヒーム・カーン陸軍少将がB地区副戒厳司令官に就任。なお,マリク知事を官邸に最初に訪れたものはモネム・カーン元東パ州知事。
DIA-304-1971-09-03-2パキスタン1971年09月03日1970年代「バングラデシュ外相」,声明-「バングラデシュ」のK.M.アーメッド「外相」は東パ州知事更迭について声明を発表,その中で,「これはパ政府が自らの敗北を認めたという表明である」とし,また,「パ政府が本国では文民統治を回復せぬままに植民地だけでそれを行なうというのは意義深いことだ」と皮肉っている(PTI,ムジブナガール発)。
DIA-304-1971-09-03-3パキスタン1971年09月03日1970年代駐米大使,更迭-アガ・ヒラリー氏にかえてナワーブザーダ・アガ・ムハマッド・ラザ氏が任命された。
DIA-304-1971-09-04-1パキスタン1971年09月04日1970年代大統領,補欠選挙について-ヤヒア大統領は憲法起草令を修正。これによると,国会・州議会の補欠選挙は空席発生から4カ月内に行なわれることになる。
DIA-304-1971-09-04-2パキスタン1971年09月04日1970年代パキスタン国際航空機爆破を計画-3日からイギリス訪問中の「バングラデシュ」使節はロンドンで声明を発表,「バングラデシュはパ国際航空の旅客機を爆破する計画を立てている」と警告した。
DIA-304-1971-09-04-3パキスタン1971年09月04日1970年代外務次官,訪ソ-スルタン・カーン外務次官はグロムイコ・ソ連外相の招待でソ連訪問のため,4日,モスクワ着。
DIA-304-1971-09-05-1パキスタン1971年09月05日1970年代大統領,再度恩赦を発表-ヤヒア大統領は3月の東パ動乱開始以来いままでに法に反した者のすべてに対して恩赦を与えると発表,彼らの社会復帰を呼びかけた。
DIA-304-1971-09-06-1パキスタン1971年09月06日1970年代国防記念日-全国各地で,国家の統一と団結を強調する催しが行なわれた。
DIA-304-1971-09-07-1パキスタン1971年09月07日1970年代ブット,記者会見-「国民の代表による政庁でないかぎり,現在の国家危機は解決出来ない。直ちに政権を選出された国民の代表に移譲すべきである」と述べた。
DIA-304-1971-09-08-1パキスタン1971年09月08日1970年代東パ紙,ブット批判-東パの“パ・オブザーバー”紙は,「ブット氏はできるだけ早期にPPPに政権が移譲されるべきだと叫び続けている。しかし,東パで欠員の生じた議席が補充されない限り民政移管は行ない得ないし,現在の東パでは経済的・社会的再建の方が急務であって補欠選挙などは不可能でしかない」とブットPPP委員長を批判した。
DIA-304-1971-09-08-2パキスタン1971年09月08日1970年代NAP(バシャニー派)東パ支部書記長モスィフール・ラーマン,除名-NAP拡大執行委は,同氏は人民の利益に反する陰謀に加担したとして除名。除名宣言の署名者は「アフサル・スィディキNAP代表」。
DIA-304-1971-09-09-1パキスタン1971年09月09日1970年代「バングラデシュ」に5党協議委員会,結成-(参考資料参照)。
DIA-304-1971-09-09-2パキスタン1971年09月09日1970年代スルタン・カーン外務次官,帰国-カラチ空港で記者会見,次のように語った。「モスクワではグロムイコ外相およびフィリュービン外務次官と会談し,両国関係,印・ソ条約の意味等々について広く話合った。ソ連の指導者たちはパの統一と団結に深い関心を持っており,3月来の事件はパの内政問題であるということに同意した」
DIA-304-1971-09-09-3パキスタン1971年09月09日1970年代米国務長官,対パ援助を主張-ロジャーズ米国務長官は上院で,パの要求に基づく開発援助には制限を設けずに全面的に協力するように勧告。
DIA-304-1971-09-11-1パキスタン1971年09月11日1970年代ブット民政移管を要求-ブットPPP委員長は「建国の父」アリ・ジンナーの23周忌にあたり,カラチのジンナー廟広場で演説,「政府はいいかげんにかくれんぼをやめて民政移管を今すぐこの場で行なうべきだ」と要求し,「人民の政府を確立するためのPPPの闘争に参加するよう」訴えた。
DIA-304-1971-09-12-1パキスタン1971年09月12日1970年代ブット,大統領と会談-会談はカラチの大統領官邸で3時間にわたって民政移管と憲法問題について2人だけで行なわれた。会談後,PPPスポークスマンは,「会談は満足すべきものであったが,結論を得るには至らなかった」と語った。
DIA-304-1971-09-12-2パキスタン1971年09月12日1970年代ヌールル・アミーン,国家統一を強調-ヌールル・アミーンPDP委員長はダッカで演説,国家の統一を強調するとともに,「わが党の綱領は,中央政府は国防,通貨,外交,外国貿易および東西パ間交易を司ることとし,他の権限は州政府が持つこととするとうたっているが,予定の文民政府樹立に参加するか否かは,わが党の綱領が新憲法に組み込まれるかどうかにかかっている」と述べた。
DIA-304-1971-09-12-3パキスタン1971年09月12日1970年代「バングラデシュ」,戦闘公報を発刊-ニューデリーとカルカッタの「バングラデシュ代表部」は「解放軍」の活動を伝えるため,戦闘公報“War Bulletin”を発刊,新聞社に配布を開始した。
DIA-304-1971-09-14-1パキスタン1971年09月14日1970年代東パ州知事,演説-マリク東パ州知事はラジオ放送を通じ,現在の東パ州政府は暫定的なものであり,州議会補欠選挙が終了しだい東パ州レベルでの民政移管が行なわれると明らかにした。
DIA-304-1971-09-14-2パキスタン1971年09月14日1970年代大統領,イラン訪問(~15日)-ヤヒア大統領はイラン国王の招待で公式訪問のためテヘランに到着。スルタン・カーン外務次官などが随行した。両国代表は印パ関係を話合ったといわれるが,15日発表の共同声明は,パとイランの友好関係を強調するにとどまった。
DIA-304-1971-09-15-1パキスタン1971年09月15日1970年代PDP全国活動者委員会,早期民政移管を要求(ダッカ)-さらに,「パを解体しようとしている」としてインドを非難した。
DIA-304-1971-09-17-1パキスタン1971年09月17日1970年代東パ州政府閣僚任命-A.M.マリク東パ州知事は州閣僚評議会(内閣)メンバーを次のように任命,就任式を催した。教育相-アッバス・アリ・カーン(ジャマーテ・イスラーム党,以下JI,ボグラ出身),歳入相-マウラナ・A.K.M.ユースフ(JI,クールナ出身),基本的民主主義・地方政府相-マウラナ・M.イシャク(イスラーム秩序党,パブナ出身),財政相-アブル・カースィム(CML書記長,ラングプール出身),林業・漁業相(少数民族問題も担当)-アウング・ショー・プルエ(無所属,チッタゴン丘陵地域出身),商工業相-アクタルッディン・アーメッド(PML,バリサル出身),労働・社会福祉・家族計画相-S.S.M.スレーマン(パ労農党,ダッカ出身),食糧・農業相-ナワジェシュ・アーメッド(CML,クスティア出身),保健相オベイドゥラ・マジェムダール(前AL当選国会議員,ノアカリ出身),救済・復興相兼難民問題担当-シャムスリ・ハック教授(前AL当選州議会議員,チッタゴン出身)。なお,最初の3人は25日までにゲリラの手にかかって重軽傷を負った。 さらに10月8日,以下の3人が追加された。法務・議会問題相-ジャムスッディン・アーメッド(PDP,シレット出身),情報相-ムジブル・ラーマン(QMLコミラ出身),公共事業・電力・灌漑相-A.K.モシャラフ・ホセイン(PDP,マイメンシン出身)。
DIA-304-1971-09-17-2パキスタン1971年09月17日1970年代ポンド・スターリング圏を離脱-中央銀行は,パは17日からポンド・スターリング圏を離脱,ドル圏に入ると発表。対ドル・レートは次の通り(1ドルあたり,単位1ルピー)。直物(買)-4.7619,6カ月までの先物(買)-4.7619,直物(売)4.7775,6カ月までの先物(売)-4.7932。大衆を対象とする場合は次の通り。直物(買)-4.7307,6カ月までの先物(買)-4.7307,直物(売)-4.7932,6カ月までの先物(売)-4.8244。
DIA-304-1971-09-18-1パキスタン1971年09月18日1970年代大統領,憲法について声明-要旨以下。「政府の憲法委が作成する憲法草案は,議会に上程されて90日の討議期間中に修正を加え得る。修正案の採択は国会議員の単純過半数で行なうが,その単純過半数というものは全州のコンセンサスを包含したものでなくてはならないし,また,修正案は大統領の承認を要する」
DIA-304-1971-09-18-2パキスタン1971年09月18日1970年代ヌールル・アミーン,大統領と会談-ヌールル・アミーンPDP委員長はヤヒア大統領の招きでカラチを訪問,同大統領と憲法問題および東パ問題を話合った。なお,PDPからはN.N.カーン西パ支部委員長およびマフムード・アーリ副委員長が同席。
DIA-304-1971-09-18-3パキスタン1971年09月18日1970年代ブット,大統領と会談-2時間にわたる会談のあとの記者会見で,ブットPPP委員長は会談の内容についてはノーコメント。
DIA-304-1971-09-18-4パキスタン1971年09月18日1970年代中央銀行総会-中央銀行の第23回年次総会がペシャーワルで開かれ,ドゥラーニ総裁は1970/71年度の経済の低下を明らかにするとともに,急進的改革の必要を,強調した。
DIA-304-1971-09-19-1パキスタン1971年09月19日1970年代補欠選挙期日発表-選挙管理委員会は,東パの国会議席78および州議会議席105の補欠選挙(ただし,ラーマンAL委員長の剥奪国会議席は対象になっていない)は11月25日~12月9日に実施すると発表した。
DIA-304-1971-09-19-2パキスタン1971年09月19日1970年代ヌールル・アミーンPDP委員長は,補欠選挙は少しく時期尚早であり,あと1カ月は延期すべきだと述べた。
DIA-304-1971-09-21-1パキスタン1971年09月21日1970年代補欠選挙日程変更-選挙管理委員会は先に発表した補欠選挙を延期,12月12日~23日に実施すると発表。
DIA-304-1971-09-21-2パキスタン1971年09月21日1970年代ヌールル・アミーンPDP委員長,小刻み民政移管に反対を表明。
DIA-304-1971-09-21-3パキスタン1971年09月21日1970年代政府代表団,国連総会出席のためニューヨーク着-団長はマフムード・アリPDP副委員長で,団員は他に,副団長のアガ・シャーヒ駐国連パ常任大使など15名。
DIA-304-1971-09-22-1パキスタン1971年09月22日1970年代ブット,記者会見-要旨以下。(1)PPPは東パでの補欠選挙に出馬する,(2)ヌールル・アミーンPDP委員長,JIのマウドゥーディ委員長,ムスリム連盟系諸党指導者たち等が要求したからといって,選挙管理委員会が彼らに追従して補欠選挙を延期したのは不当である,(3)過去2回の大統領との会談では補欠選挙と政治活動禁止令の撤廃など,民主主義回復の手段について話合った。民主主義は来年早々に回復されよう。政治活動は来月には自由になろうが,それは必ずしも戒厳令解除を意味しない。戒厳令下でも政治活動の回復はあり得るからだ。
DIA-304-1971-09-24-1パキスタン1971年09月24日1970年代ヌールル・アミーンPDP委員長記者会見-要旨以下。①大統領は多分9月28日に全国的演説を行なおう,②大統領は10月に東パを訪問するかもしれない,③来月までには政治活動は自由になろう。
DIA-304-1971-09-24-2パキスタン1971年09月24日1970年代カユームQML委員長,大統領と会見。
DIA-304-1971-09-24-3パキスタン1971年09月24日1970年代ダッカで灯火管制訓練(30分間)。
DIA-304-1971-09-24-4パキスタン1971年09月24日1970年代「バングラデシュ政府」,隔週英字機関紙“The Nation”を刊行(「ムジブナガール」から)。
DIA-304-1971-09-28-1パキスタン1971年09月28日1970年代政府は,1970年憲法起草令の一部を修正,州政府閣僚も補欠選挙に立候補し得るとした。
DIA-304-1971-09-28-2パキスタン1971年09月28日1970年代ソ連,東パ問題に懸念を表明-ソ連のコスイギン首相は訪ソ中のガンディー・インド首相のために開いた昼食会で演説,東パ情勢に重大な懸念を表明,事態収拾のため早急に手を打つようヤヒア大統領に強く要請,さらに,「800万人以上もの人々をインドへ避難せざるを得なくしたパ当局の行為は正当化できない」と語った。
DIA-304-1971-09-29-1パキスタン1971年09月29日1970年代ブット,記者会見-要旨以下。①国会は年内に開かれるべきだ,②大統領は,9月18日声明の中の「90日」が,大統領が国会から憲法修正案を受けとってから検討する時間等も含むのか否かを明確にすべきだ,③憲法草案は社会的・経済的改革を妨げるものであってはならない,④民政移管を早期に行なうべきだ。私はもう3カ月と待てない,③コスイギン・ソ連首相の昨日の発言は偏見に満ちあふれたものだ。
DIA-304-1971-09-29-2パキスタン1971年09月29日1970年代印・ソ共同声明-同声明は東パ問題に関し,「ソ連側は,インド政府は…難民を本国へ即時帰還させるため必要な措置を講ずる決意に満ちているとのガンディー首相の言明を考慮に入れた。ソ連側は,ヤヒア・カーン・パ大統領にあてたポドゴルヌイ議長の書簡(4月3日参照)で述べられている…ソ連の立場を確認した」等と述べている。
DIA-304-1971-10-01-1パキスタン1971年10月01日1970年代ポドゴルヌイ,インド訪問-ポドゴルヌイ・ソ連最高会議幹部会議長はハノイ訪問の途中インドに立寄った。同日,ギリ・インド大統領による晩餐会で,「ソ連は東パ問題の政治的解決のためにあらゆる助力を行なう。印・パ両国が軍事的紛争にこれ以上進むのは避けられねばならない」と語った。
DIA-304-1971-10-02-1パキスタン1971年10月02日1970年代パ債権国会議諸国,非公式会議(ワシントン)-会議では,10月31日にパの外国援助返済モラトリアム(5月1日参照)期間が切れる件などが話合われたもよう。
DIA-304-1971-10-02-2パキスタン1971年10月02日1970年代米,インドに自制を要望-ロジャーズ米国務長官は国連総会出席のために訪米中のスワラン・シン・インド外相を非公式に招待し,「インドはパ問題の平和解決のために南アジアでの影響力を行使して自制を訴えるよう」要請し,事実上インドの自制を要請した。
DIA-304-1971-10-03-1パキスタン1971年10月03日1970年代選挙管理委員会は,残りの州議会議員議席88についての補欠選挙は12月18日から1月7日までに行なうと発表した(9月19日参照)。
DIA-304-1971-10-04-1パキスタン1971年10月04日1970年代PPP機関紙,一時発禁-C地区(パンジャーブ州)の戒厳司令官は,PPPの日刊機関紙「ムサーワート」は度々戒厳令に違反しているとして,本日から1週間の発禁を命じた。しかし,実際には3日間で発禁処分は撤回された。
DIA-304-1971-10-05-1パキスタン1971年10月05日1970年代カユームQML委員長,ダッカ訪問(~9日)-6日にヌールル・アミーンPDP委員長と会談,その後アブル・カースィムCML書記長およびカワージャ・カイルッディンCML東パ支部委員長と会談。7日,マリク東パ州知事,アブル・カースィムCML書記長,JIのダラーム・アザム東パ支部委員長,モネム・カーン元東パ州知事,ダッカ駐在中国総領事とそれぞれ別個に会談。9日,ダッカで記者会見,①ムスリム連盟系3先の合併はうまく行きそうだ,②PDPはインドに対抗するため文民政府が必要としているが,現政府こそその任にふさわしい,③パの統一に反する教師は追放すべきだ,などと述べた。
DIA-304-1971-10-06-1パキスタン1971年10月06日1970年代国連総会の一般演説で,ロジャーズ国務長官は,「東パにおける事件は,パ政府と国民自身が解決しなければならない内政問題である」と述べた。
DIA-304-1971-10-07-1パキスタン1971年10月07日1970年代右派諸党,合併への動き-このところ,東パでの議会補欠選挙に備えてムスリム連盟系3党およびPDPの合併への動きが目立つ。ムスリム連盟系3党はダッカでひんぱんに代表者会議を行なっており,また,3党の幹部陣はヌールル・アミーンPDP委員長等との会談を繰り返している。
DIA-304-1971-10-07-2パキスタン1971年10月07日1970年代政府,インド非難-外務省スポークスマンはイスラーマバードで,「印・ソ条約はインドを勇気づけ,調印以来インドはパに対して極めて挑発的行為を続けている」と述べた。
DIA-304-1971-10-08-1パキスタン1971年10月08日1970年代ブット,演説(ムルターン)-要旨以下。(1)戦争の危険が強い現在,ただちに民政移管を行なうべきだ。大統領は4月に私に対し,いかなる事態となっても民政移管は6月までには行なうと約束したのだ,(2)東パ州政府閣僚には選挙で放れた政党の者が任命されたというのに,全国の第1党であるPPPは相談さえも受けなかった。
DIA-304-1971-10-10-1パキスタン1971年10月10日1970年代政治活動禁止令解除-ヤヒア戒厳総司令官は,本日より政治活動禁止を全面的に解除。従来の政治活動禁止は,3月26日の戒厳令規則第76号によるもので,これを今回撤回することになったもの。しかしながら,この政治活動禁止解除は,国家の統一と治安を破壊もしくは乱す者には適用されない。なお,この措置は補欠選挙用に出されたものである。
DIA-304-1971-10-10-2パキスタン1971年10月10日1970年代PPP代表団,東パ訪問(~28日)-団長のM.M.アリ・カスリ副委員長以下10名編成。東パ滞在中にヌールル・アミーンPDP委員長,モスィフール・ラーマン「NAP(バシャニー派)東パ支部書記長」等々の政治家のほか,マリク東パ州知事,ニアーズィB地区戒厳司令官などと会見。同代表団は各地で東パの国会・州議会補欠選挙でPPPから出馬する者を募ったが,成果はあがらず,28日までにPPPの指名を希望した者は7名にすぎず,それも有力候補ではなかった。しかし,10月29日,突如としてPPPの国会立候補者5名が無競争当選とされた。
DIA-304-1971-10-10-3パキスタン1971年10月10日1970年代ラザ・カスリPPP(ラザ派)委員長,東パ訪問(~23日)
DIA-304-1971-10-11-1パキスタン1971年10月11日1970年代右派5党会議(~13日)-ラホールで右派5党代表者会議が開かれ,補欠選挙でゆるやかな統一戦線を組む方向で合意に達した。出席は,カーデルPML委員長,ダウルターナCML委員長,M.Y.カッタクQML当選国会議員,JIのM.トゥファイル・ムハマッド委員長代行,N.N.カーンPDP西パ支部委員長など。
DIA-304-1971-10-12-1パキスタン1971年10月12日1970年代ヤヒア大統領,全国ラジオ・テレビ放送-国会,憲法などについてのこの特別放送によると憲法は起草専門委員会が12月20日に発表し,国会は12月27日に召集されることになる。さらに大統領は印・パ関係について国民に訴えた(参考資料参照)。
DIA-304-1971-10-12-2パキスタン1971年10月12日1970年代印・パ国境緊張-このところ東パとインドとの国境だけでなく,西パとインドとの国境でも小ぜりあいが続き,東西国境地帯に印・パ両軍が大々的に展開している。西パでは,町を走る民間人の車にも「インドをもみつぶせ」というステッカーが目立つ。
DIA-304-1971-10-13-1パキスタン1971年10月13日1970年代コルネリウス,辞任-コルネリウス大統領法務顧問はその職務を辞任した。辞任は,ブットPPP委員長が,「非回教徒が回教国の憲法の草案にたずさわるのはおかしい」と批判し続けたためといわれる。
DIA-304-1971-10-13-2パキスタン1971年10月13日1970年代モネム・カーン元東パ州知事は,ダッカの自宅で狙撃され,14日死去。
DIA-304-1971-10-13-3パキスタン1971年10月13日1970年代インド機,パ領空侵犯-2機が東パのモゴルハットで領空侵犯,パ国境陣地に猛攻を加えた(ドーン紙)。
DIA-304-1971-10-14-1パキスタン1971年10月14日1970年代ヤヒア大統領,イラン訪問(~16日)-イラン建国2500年祭出席のため。大統領帰国までの戒厳総司令官代行にはハミード・カーン戒厳副総司令官が任命された。大統領はイラン訪問中,チトー・ユーゴ大統領,チャウセスク・ルーマニア国家評議会議長,ポドゴルヌイ・ソ連最高幹部会議長などと会見。ポドゴルヌィ議長との会見では,国境からの条件つき撤兵を示唆した。なお,15日は友好国イランの建国祭を祝って公休日とされた。
DIA-304-1971-10-16-1パキスタン1971年10月16日1970年代インド軍,各部隊に待機命令,将兵の休暇を取消し。
DIA-304-1971-10-17-1パキスタン1971年10月17日1970年代NAP(バシャニー派),補欠選挙ボイコット-モスィフール・ラーマン「東パ書記長」主宰の党活動者会議がダッカで開かれ,全人民の納得し得る政治解決が見出されるまで補欠選挙は無意味とされ,ボイコットが決議された。また,同書記長は,バシャニー委員長と党員が会見できるように同委員長をインドによる拘留から解放してネパールなどの中立国へ移すよう,国連に要求した。
DIA-304-1971-10-17-2パキスタン1971年10月17日1970年代ヤヒア大統領,インドの出方によっては報復すると言明-(ル・モンド紙記者との会見で)。
DIA-304-1971-10-18-1パキスタン1971年10月18日1970年代ブット,PDPとの協力について-ブットPPP委員長はラホールで記者会見,「PDPは西パ支部は反動的だが,東パ支部についてはそうとはいえず,わが党はPDP東パ支部と連立政権を組むなどの点で協力する用意がある」と語った。
DIA-304-1971-10-19-1パキスタン1971年10月19日1970年代右派6政党,選挙連合結成-東パの国会議席78および州議会議席193の補欠選挙に関し,右派6政党が選挙連合を結成した。中心的存在はPDPとJIで,前者は国会議席23,州議会議席50,後者は国会19議席,州議会45議席に候補者を出すことになった。残りの4政党はCML,PML,QML,NIである。これらの政党はこのところひんぱんに代表者会議を行なっていた。
DIA-304-1971-10-19-2パキスタン1971年10月19日1970年代空軍,インドを書戒-空軍総司令官ラヒム・カーン中将は空軍将兵に対し,「空軍はインド軍のパ領空侵犯に十分な警戒をするよう」要請した。
DIA-304-1971-10-19-3パキスタン1971年10月19日1970年代政府,インドに抗議-政府はインド政府に対し,うち続く挑発戦闘行為をただちにやめるよう抗議の覚書を渡し,さらに,損害賠償を要求した。
DIA-304-1971-10-20-1パキスタン1971年10月20日1970年代パ国際航空(PIA)は国内短距離旅客用フォッカー・フレンドシップ機の基地をインドとの国境付近のラホールからラーワルピンディに移転すると発表。
DIA-304-1971-10-20-2パキスタン1971年10月20日1970年代ウ・タント国連事務総長はヤヒア大統領とガンディー・インド首相に同文の書簡を送り,両国の紛争解決に仲介の労をとる用意があると伝えた。パは23日,これを受入れると国連に通告。
DIA-304-1971-10-22-1パキスタン1971年10月22日1970年代ブット,突然ヤヒア大統領と会談-記者会見で会談についてはノーコメント。PPPが東パ補欠選挙をボイコットするのではとの質問に対しては,「その推測はあたっていよう」と答えた。
DIA-304-1971-10-22-2パキスタン1971年10月22日1970年代国会無競争当選者発表-選挙管理委員会は22日,東パ国会補欠選挙(78議席)立候補者のうち15名を無競争当選と発表。その後11月9日までに58名の無競争当選が発表されたが,その後は11月26日,「12月7~26日に国会議席について補欠選挙を実施する」と発表があった以外は何の発表もないまま,12月7日の連立内閣組織となった。なお,58名の政党別内訳はJI15,PDP12,QML7,PML7,CML6,NI6,PPP5。一方,東パ州議会補欠選挙(193議席)については11月4日までに81名の無競争当選が発表され,内訳は,JI20,PDP15,PML14,CML11,QML8,NI8,無所属3,PPP1,不明1。11月8日には内訳を示さず,単に96名になったとの報道があり,11月26日には「12月7~26日に東パ州議会補欠選挙を71議席について行なう」との発表があった。
DIA-304-1971-10-23-1パキスタン1971年10月23日1970年代ブットPPP委員長,諸国歴訪(~11月3日)-エジプト政府の招待でエジプト訪問の後,リビア,フランスを歴訪,東パ問題および対インド関係についてパの立場を伝えた。
DIA-304-1971-10-25-1パキスタン1971年10月25日1970年代ヌールル・アミーン首相説-このところダッカではヌールル・アミーンPDP委員長が首相にされるのではないかとの説が広まっている。PDP幹部筋は必ずしもこれを否定していない。
DIA-304-1971-10-25-2パキスタン1971年10月25日1970年代大統領,両国軍撤退を要望-ヤヒア大統領はウ・タント国連事務総長に書簡を送り,印・パ両国を直ちに訪問して両国軍の国境からの撤退の方法を討議するよう要請した。
DIA-304-1971-10-25-3パキスタン1971年10月25日1970年代中国,国連加盟-ヤヒア大統領は周恩来首相に祝いのメッセージを送った。
DIA-304-1971-10-27-1パキスタン1971年10月27日1970年代国会事務局は当選国会議員に対し,国会は12月27日に開くと書簡で通告。
DIA-304-1971-10-27-2パキスタン1971年10月27日1970年代政府,インドに抗議-政府は,10月6日から21日までにインド軍による砲撃(すべて東パで)が21件あったとしてそのリストと抗議の覚書をパ駐在インド高等弁務官に手交した。
DIA-304-1971-10-31-1パキスタン1971年10月31日1970年代大統領,記者会見-31日発行のニューズウィーク誌によれば,ヤヒア大統領は同誌記者との独占会見で次のように語った。(1)インドはすでにわが国と戦闘状態に入っているが,全面戦争に至っていないのはわが国が報復していないからだ,(2)戦争になれば中国は派兵はせずとも,パを全面的に援助するだろう,(3)新憲法は12月20日発表となる。これによると,東パ州は国防・外交・徴税以外の全権限を持ち,最大限の自治を享受する,(4)国民が望めばラーマン氏を釈放するが,もし彼がいま東パに帰ると,東パ人の苦しみはすべて彼の責任とする東パ人自身の手で殺されてしまおう。また,英国のデーリー・メール紙記者との会見では,ガンディー・インド首相について,「独立バングラデシュはパの終焉だけでなく,インドの崩壊も意味するということをあの女はわかっているものと神に祈りたい」と語った。
DIA-304-1971-10-31-2パキスタン1971年10月31日1970年代PPP代表団,東パ訪問(~11月6日)-A.H.ピールザーダ(カラチ支部委員長)団長以下4人。<11月,12月は655ページ「印・パ戦争を中心とする日誌」を参照>
DIA-304-1972-01-01-1パキスタン1972年01月01日1970年代財界人自宅軟禁─ブット大統領は戒厳令命令により,「22財閥」の2人を6カ月間の自宅軟禁処分にすると発表(1月24日解除)。
DIA-304-1972-01-02-1パキスタン1972年01月02日1970年代主要産業国家管理化―大統領は,銑鉄業,自動車業,重機械工業等,「22財閥」の関連産業を含む国内主要産業を「人民による管理・支配下に置く」と発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-01-03-1パキスタン1972年01月03日1970年代大統領ラーマン釈放を発表─ブット大統領は,ラーマン人民連盟(Awami League)総裁を近く無条件釈放すると発表。
DIA-304-1972-01-04-1パキスタン1972年01月04日1970年代銀行・保険業国有化予定ハッサン蔵相はラホールで記者会見,銀行と保険業を国有化する予定と明らかにした。
DIA-304-1972-01-05-1パキスタン1972年01月05日1970年代カラチでスト(~1月8日)―カラチの工業団地の労働者2万人以上が賃上げ,労働条件改善等を要求してゲラオ(暴力的大衆団交)とストに突入,経営者を監禁しているという。
DIA-304-1972-01-06-1パキスタン1972年01月06日1970年代大統領,記者会見(ラルカーナ)―席上ブット大統領は,次のように述べた。①労働者はゲラオをやめて生産の向上に努力すべきだ。②近く土地改革を発表する。③この過渡期にあってはこれ以上の産業国有化は行なわないし,外国資本には決して手をつけない。④戒厳令は改革推進のために必要だ。⑤インドと話合いの用意がある。
DIA-304-1972-01-06-2パキスタン1972年01月06日1970年代第7艦隊,常駐化─米国防総省は,昨年12月インド洋に派遣された第7艦隊は今後もインド洋でほぼ常時遊よく,定期的に作戦行動を行なうことを明らかにした。なお,米国は現在マルディヴ諸島南方のディエゴ・ガルシャに通信基地を建設中であり,また,米国防総省によれば現在インド洋には約20隻のソ連海軍船舶が遊よく中という。
DIA-304-1972-01-08-1パキスタン1972年01月08日1970年代ヤヒア前大統領軟禁─同時にハミード・カーン前陸軍参謀長も軟禁。
DIA-304-1972-01-08-2パキスタン1972年01月08日1970年代ラーマン釈放―バングラデシュ(以下,バングラ)不在大統領ラーマン人民連盟総裁は本日釈放され,パキスタン(以下,パ)国際航空特別機でパからロンドンに到着。
DIA-304-1972-01-09-1パキスタン1972年01月09日1970年代クエッタで民族人民党(NAP)とイスラーム・ウラマー党(Jamiat-ul-Ulema-e-Islam,JUI)ハザルヴィ一派が共闘集会を開き,ヤヒア前大統領を非難するとともに現政権に戒厳令撤廃と暫定憲法を要求した。
DIA-304-1972-01-10-1パキスタン1972年01月10日1970年代米政府は,第7艦隊は東支那海に帰ったと発表した。しかしソ連は,同艦隊はインド洋に居残っているとしている。
DIA-304-1972-01-12-1パキスタン1972年01月12日1970年代海外隠匿外貨等送還を命令―大統領は財界人等に対し,海外に隠匿している外貨(政府によれば送還可能資産は約5億ルピー)の本国送還を命令。違反者は国外追放。
DIA-304-1972-01-13-1パキスタン1972年01月13日1970年代大統領,記者会見(ラホール)―以下要旨。①西パ在住ベンガル人は東パ行政回復のため東パに帰還してよい。②政府は東パに食料を送る用意がある。これはわれわれが1つの国だからだ。③西パは東パ復興を援助する。もしラーマン氏が望むなら,秩序維持のために軍隊を派遣してもよい。④ラーマン氏との交渉続行は東パが外国による占領から解放されて初めて可能となるだろう。⑤インドが東パを占領している限り,いかなるバングラ承認国とも外交関係断絶を検討するだろう。
DIA-304-1972-01-16-1パキスタン1972年01月16日1970年代さらに企業国家管理化。これまでに合計31企業が国家管理化された(参考資料参照)。
DIA-304-1972-01-17-1パキスタン1972年01月17日1970年代大統領,演説(クエッタ)―パの統一を維持するためには,ラーマン・バングラ首相に権力を譲渡し,無条件で協力を申し出るつもりだ,と述べた。
DIA-304-1972-01-22-1パキスタン1972年01月22日1970年代3月に州議会─ブット大統領はラルカーナで記者会見,「民政移管の第1歩として3月23日に各州議会を招集する」と発表。
DIA-304-1972-01-24-1パキスタン1972年01月24日1970年代大統領,近隣諸国歴訪(~28日)―訪問国はイラン,トルコ,モロッコ,アルジェリア,チュニス,リビア,エジプト,シリア。
DIA-304-1972-01-25-1パキスタン1972年01月25日1970年代NAP,民兵を組織―NAPはパクトゥーン・ザルマ(「パターン民族青年」の意)と称する民兵を組織し始めた。「総司令官」のワーリ・カーンNAP委員長は,各「司令官」に対し,2月10日までに同組織メンバーのリストを提出するよう指令。なお,隊員は赤帽をかぶる。
DIA-304-1972-01-25-2パキスタン1972年01月25日1970年代ソ連,バングラを承認―これでバングラ承認国はインド,ブータン,東ドイツ,ブルガリア,モンゴル,ポーランド,ソ連等,11カ国になった。この日,ブット大統領は訪問中のモロッコで,ソ連とは外交断絶はしないと語った。
DIA-304-1972-01-26-1パキスタン1972年01月26日1970年代ピールザーダ教育・情報・放送・文化相は,最近,全国的に労働者や学生のゲラオ(前出)やハンストにより政治・経済状態が悪化しているため,それらの行動の中止を強く訴えた。
DIA-304-1972-01-27-1パキスタン1972年01月27日1970年代ブット大統領は訪問中のエジプトで,「バングラ承認は時期尚早で軽率だが,承認国と外交断絶はしない」と語った。
DIA-304-1972-01-29-1パキスタン1972年01月29日1970年代マクナマラ世銀総裁,来訪(~1月30日)。
DIA-304-1972-01-30-1パキスタン1972年01月30日1970年代英連邦脱退―政府は,英国を含むいくつかの英連邦加盟国が確実にバングラ承認に踏切るだろうとし,英連邦(32国で構成)脱退決定を発表。同日,スミス英連邦事務局長,ブット大統領と会談のため訪パ(~31日)。
DIA-304-1972-01-31-1パキスタン1972年01月31日1970年代軍人等デモ─新兵約500人がカラチのM.A.ブット・スィンド州知事邸前で,「徴兵期間を1年から4カ月に短縮せよ」等の要求をもってデモ。カラチの9工場の労働者も工場主,警官等を拘禁。
DIA-304-1972-01-31-2パキスタン1972年01月31日1970年代大統領,訪中(~2月2日)―夜,周首相との会談開始。随員はブット夫人,ラヒーム・カーン空軍総司令官,グル・ハッサン陸軍総司令官,ハッサン・ハフィーズ・アハマッド海軍総司令官代理,S.M.カーン外務次官等。
DIA-304-1972-02-01-1パキスタン1972年02月01日1970年代第2回ブット・周会談―ブット大統領は,パ国内情勢や対外的立場を説明,中国との友好関係を強調するとともに経済再建のための援助を要請。
DIA-304-1972-02-02-1パキスタン1972年02月02日1970年代中・パ共同コミュニケ─コミュニケは,インドを強く非難,パ軍捕虜の送還をインドに呼びかけた。また,中国がすでにパに提供した4項目の借款を全部無償援助に変える等の措置をとること,さらに,中国がパに新規に援助を提供することなどが明らかにされている。
DIA-304-1972-02-08-1パキスタン1972年02月08日1970年代警官スト―ハイダラバード市で武装警官を含む警官がスト突入。9日,軍出動,鎮圧にあたる。
DIA-304-1972-02-10-1パキスタン1972年02月10日1970年代ブット大統領,新労働政策発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-02-11-1パキスタン1972年02月11日1970年代ワーリ・カーン記者会見(ラホール)―ワーリ・カーンNAP委員長は席上,ブット大統領が戒厳令を撤廃して民主主義を回復しなければ大々的な大衆運動をおこすと警告。
DIA-304-1972-02-12-1パキスタン1972年02月12日1970年代大統領,戒厳令撤廃を示唆─ブット大統領は,「年末になるよりずっと前に戒厳令を撤廃し民主主義を回復する」と述べた。
DIA-304-1972-02-13-1パキスタン1972年02月13日1970年代米との軍事関係を希望─ブット大統領は『ニューヨーク・タイムズ』紙記者と会見,パは67年に米が事実上廃棄した相互防衛条約を復活して両国軍事関係強化を望んでいると述べた。その際,米・中友好を強調し,71年印・パ戦争の時の米の行動に謝意を表するとともに,当時のCENTOやSEATO諸国の対パ援助不足に失望したと語った。
DIA-304-1972-02-14-1パキスタン1972年02月14日1970年代ラーマン少数民族交換を希望―グイティアルディ国連特使はブット大統領に,ラーマン・バングラ首相がバングラの少数民族ビハール人と西パ在留ベンガル人の相互交換を提案したと伝えた。
DIA-304-1972-02-14-2パキスタン1972年02月14日1970年代インド和平交渉の用意―インド政府は,パと無条件でいつでも,いかなるレベルでも,直接の和平交渉を開く用意があるとの書簡を14日付けでワルトハイム国連事務総長に送付。
DIA-304-1972-02-16-1パキスタン1972年02月16日1970年代PPP中央委,戒厳令継続を決議。
DIA-304-1972-02-18-1パキスタン1972年02月18日1970年代大統領,戒厳令等について―ブット大統領は,18日放送された英国のBBC放送のインタビューで要旨以下のように語った。①一定の基本的改革が導入されてしまえば,また,ガンディー・インド首相およびラーマン氏との話合いが済めば,間もなく戒厳令撤発の時期を発表する。②ニクソン米大統領が,東パを征服したあとインドは自由カシミール(Azad Kashmir―パ側カシミールのこと)も占領して西パの崩壊をも狙っていたと語ったというが,周恩来中国首相は私の最近の訪中の時にニクソン大統領の言葉を裏付けた。③パはソ連との友好を望み,ソ連からの経済援助続行を期待する。IMFはスタンドバイ・クレジットを供給してほしい。
DIA-304-1972-02-19-1パキスタン1972年02月19日1970年代ワーリ・カーン,政府批判―ワーリ・カーンNAP委員長は記者会見で次のように述べた。①PPPが戒厳令の無期継続を決定したのは横暴だ。彼らは,国民がヤヒア将軍の戒厳令をがまんしたから,彼らがいうところの“人民の戒厳令”も国民ががまんしてくれるとでも思っているのか。また,北西辺境州・バルーチスタン州両知事(前者はPPP,後者はBUF―バルーチスタン統一戦線)は役職を悪用して専横に振舞っている。NAPおよびJUI,そしてムスリム連盟大会派(PML,Con.)は,戒厳令撤廃,国会開催,上述両知事解任を一致して要求する。②(大量のソ連製武器が北西辺境州に流入しているとムスリム連盟カユーム派QMLのカユーム・カーン委員長が言っているが,との質問に対し)われわれは何もしらない。
DIA-304-1972-02-20-1パキスタン1972年02月20日1970年代州議会婦人議席選挙(4州計11議席)―PPPが8議席獲得で大勝(参考資料参照)。
DIA-304-1972-02-20-2パキスタン1972年02月20日1970年代クエッタで炭鉱労働者1万人のスト(~24日)。
DIA-304-1972-02-21-1パキスタン1972年02月21日1970年代ペシャーワル警官スト激化―20日からスト中のペシャーワルの警官は,警棒,ピストル等を持ってデモ行進の途中,PPP事務所を略奪,『ラホール・ウルドウ・デイリー』紙販売所の看板と窓を破壊,工業学校の本を破ったり学生を殴るなどの事件をひきおこした。彼らはストを中止する条件として,給与引上げ,労働条件改善,逮捕された警官の釈放,本日結成の労働組合の承認等を要求している。23日,政府が給与表問題を1週間以内に解決すると約束し,ストは解除された。
DIA-304-1972-02-21-2パキスタン1972年02月21日1970年代大統領,インドへの回答を拒否─ブット大統領はインドからの和平会談申入れ(スイス大使館を通じたもの)について,「インドの申入れは米・中会談開始に時期を合わせた策略的なものであり,ニクソン米大統領が中国を立去るまでは回答できない」と語った。
DIA-304-1972-02-23-1パキスタン1972年02月23日1970年代労働者,国家管理化企業を占拠─PPP政権登場以来,労働者による私企業占拠は多いが,23日,ラホールの国家管理企業コヒヌール・レーヨン社が占拠された。同社はサイゴール家の私企業であったが,すでに国家管理化されていた。同社を占拠した労働者たちは,国家管理化されたにもかかわらず同社の取締役会会長(政府任命)は管理を怠り,以前からの経営陣と一緒になって政府の政策を骨抜きにするために反労働者的政策をとっているとし,経営陣の更迭を要求している。
DIA-304-1972-02-23-2パキスタン1972年02月23日1970年代ムルターン刑務所で恩赦要求の反乱囚人に警官が発砲,4名以上死亡,負傷者29名。
DIA-304-1972-02-23-3パキスタン1972年02月23日1970年代IMF,パに平価切下げを要求─訪パ中のIMF代表団(J.F.ガンサー団長)は,パ債権国会議が開かれる3月1日までにルピーを国際相場と同じに切下げるよう要求した。これは,パが債権国会議諸国に要請している借款返済の条件緩和とIMFによるスタンドバイ・クレジット供給の条件である。
DIA-304-1972-02-24-1パキスタン1972年02月24日1970年代ラホールに軍出動─ラホールのティビ警察管区で警官がスト突入(~2月28日),PPP党員と衝突,死亡1名,負傷24名。スト中の警官は口々にPPPをののしっていたという。また,昨夜真夜中にストに突入したライヤルプールの警官は,本日ストを解除。
DIA-304-1972-02-27-1パキスタン1972年02月27日1970年代北西辺境州で武装デモ─NAPの主張を支持する民衆がライフル銃で武装,ペシャーワルで大規模なデモを行なった。他にも,北西辺境州では警官ストや労働争議など反政府運動が頻発,騒ぎはバルーチスタン州にも波及している。
DIA-304-1972-02-28-1パキスタン1972年02月28日1970年代政府,ニクソン米大統領訪中に関する米中共同声明を歓迎。
DIA-304-1972-03-01-1パキスタン1972年03月01日1970年代土地改革発表─ブット大統領は全国放送を通じ,急進的な土地改革を7月1日までに実施すると発表した(参考資料参照)。
DIA-304-1972-03-01-2パキスタン1972年03月01日1970年代50ルピー紙幣無効化─公式筋によると,この措置はインド,アフガニスタン等を経由してバングラからパ紙幣が密輸入されているのを防ぐためにとられた。なお,パでは現在55~56億ルピーの貨幣が流通しており,そのうち50ルピー紙幣は25~28億ルピーという。
DIA-304-1972-03-03-1パキスタン1972年03月03日1970年代軍首脳部更迭(即日発効)─陸軍参謀長グル・ハッサン中将を解任─後任にティッカ・カーン中将を大将に昇格の上,任命。空軍参謀長ラヒーム・カーン中将を解任─後任にザファル・チョードリ少将を中将に昇格の上,任命。海軍参謀長H.H.アハマッド少将を中将に昇格,等。なお,6日,パ防衛令に基づいて軍部に関する批判は厳しく禁止された。
DIA-304-1972-03-03-2パキスタン1972年03月03日1970年代対インド強硬路線─ブット大統領は演説で対インド強硬路線を強調した。
DIA-304-1972-03-04-1パキスタン1972年03月04日1970年代PPP,NAP,JUI3党緊急会談(~6日)
DIA-304-1972-03-05-1パキスタン1972年03月05日1970年代ダウルターナムスリム連盟評議会派(CML)委員長辞任。後任はS.S.ハヤート・カーン(4月2日選出)。
DIA-304-1972-03-05-2パキスタン1972年03月05日1970年代大統領,実業家と会合─ブット大統領は全国の実業家をラーワルピンディに招集,会合を開き,次のように演説。「政府は混合経済を目指しており,基幹産業や公共事業以外では民間企業の活躍を望む。とくに輸出産業の振興を歓迎し,便宜をはかる。産業平和のためにも必要な措置をとる。従って,政府の政策に不安を抱いたり,誤解をしないでほしい。」なお,この日,実業家の海外旅行制限が解かれ,さらに,昨年12月,外貨海外隠匿の嫌疑で没収されていた実業家600人のパスポートが返却された。
DIA-304-1972-03-06-1パキスタン1972年03月06日1970年代3党会談,終了─戒厳令撤廃時期等11項目協議事項で合意に達し調印が行なわれた(参考資料参照)。
DIA-304-1972-03-12-1パキスタン1972年03月12日1970年代公務員,粛正─政府は戒厳令規則114号により,大使2名を含む高級公務員1,300名に汚職等の理由で退職命令を出した。NAP等は,悠意的にすぎるとして反対。
DIA-304-1972-03-13-1パキスタン1972年03月13日1970年代陸軍准将28人に退役命令─ブット大統領就任以来,これまでに大将から准将まで56名が退役となった(反政府『ニュー・タイムズ』紙)。
DIA-304-1972-03-15-1パキスタン1972年03月15日1970年代新教育政策発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-03-15-2パキスタン1972年03月15日1970年代大統領官邸にデモ─ラーワルピンディで約6,000人のデモ隊が大統領官邸に押しかけ,警官隊と乱闘,PPPの車に放火。デモ隊は,インドに抑留中の捕虜をただちに釈放するようソ連指導者に交渉せよと要求。
DIA-304-1972-03-16-1パキスタン1972年03月16日1970年代大統領,訪ソ(~3月18日)─ブット大統領はソ連政府の招待で訪ソ(随員53名)。この日,コスイギン首相等と会談。
DIA-304-1972-03-17-1パキスタン1972年03月17日1970年代ブット,ブレジネフ会談─インド亜大陸の諸問題等が討議された。この日,コスイギン首相は昼食会で演説,印・パ・バングラ3カ国による交渉を急ぐよう強調,かわりに対パ経済援助の用意のあることを示唆。
DIA-304-1972-03-18-1パキスタン1972年03月18日1970年代ソ連・パ共同声明─3日間の両国首脳会談の終了に際して共同声明が発表され,会談では南アジア亜大陸情勢等に大きな関心が向けられたこと,貿易・文化交流について両国間関係の改善をはかること,ブット大統領がソ連首脳をパに招請したことなどが明らかにされた。
DIA-304-1972-03-19-1パキスタン1972年03月19日1970年代全生命保険会社接収─政府は,外国社4社を含む生命保険会社を接収すると発表(このうち12社の本社はバングラにある)(参考資料参照)。
DIA-304-1972-03-19-2パキスタン1972年03月19日1970年代インドとの会談を呼びかけ─ブット大統領はラホールの大衆演説会で,ガンディー・インド首相に対し,2国間会談を呼びかけるとともに,パ軍捕虜無条件釈放を要求。さらに,ラーマン・バングラ首相と,第3国の干渉のない状況で話合う用意があると述べた。
DIA-304-1972-03-19-3パキスタン1972年03月19日1970年代ヒューム英首相,訪パ(~2旧)。
DIA-304-1972-03-20-1パキスタン1972年03月20日1970年代北西辺境州で武力衝笑─マラカンドの学生がシェールパオ州知事の乗ったヘリコプターを襲って警官隊と衝突する等,北西辺境州で3件の衝突が生じ,少なくとも計8名死亡,38名負傷。
DIA-304-1972-03-21-1パキスタン1972年03月21日1970年代ラーマン,会談を拒否─ラーマン・バングラ首相は,パがバングラを承認しなければブット大統領との会談には応じないと述べた。
DIA-304-1972-03-22-1パキスタン1972年03月22日1970年代大臣,北朝鮮等へ─ピールザーダ教育・州際調整相は12日間におよぶ北朝鮮,中国,北ベトナム親善訪問に出発した。
DIA-304-1972-03-23-1パキスタン1972年03月23日1970年代3党会談─PPP,NAP,JUI3党会談が北西辺境州とバルーチスタン州の新知事任命などに関して行なわれた。
DIA-304-1972-03-24-1パキスタン1972年03月24日1970年代4月に国会─ブット大統領は4月14日に3日間の国会を招集すると発表。
DIA-304-1972-03-25-1パキスタン1972年03月25日1970年代大統領,インドとバングラに警告─ブット大統領は記者会見で,インドとバングラがパ軍捕虜裁判に固執すれば,両国との和平の進展は望めないと警告した。
DIA-304-1972-03-26-1パキスタン1972年03月26日1970年代バングラ承認の条件─ブット大統領は米週間誌『ニューズ・ウイーク』(26日版)との会見で,インドがまず9万3000人のパ軍捕虜を釈放すればバングラを承認する用意がある,と語った。
DIA-304-1972-03-27-1パキスタン1972年03月27日1970年代ワーリ・カーンNAP委員長,国会即時開催を要求。
DIA-304-1972-03-29-1パキスタン1972年03月29日1970年代ワーリ・カーン演説─ワーリ・カーンNAP委員長はライヤルプールで演説,NAPはパクトゥーニスタン(パターン人独立国家)要求をもはや争点にしていないと語った。
DIA-304-1972-04-02-1パキスタン1972年04月02日1970年代CENTO事務局長,訪パ(~4月6日)─ナシル・アサルCENTO事務局長(イラン人)が訪パ,パのCENTO離脱志向をくいとめようとしての来訪といわれる。
DIA-304-1972-04-04-1パキスタン1972年04月04日1970年代戒厳令反対─NAPとJUIは,来たる国会で3党協定(3月6日参照)に従って戒厳令賛成の票を投じる義務はないとの統一見解を発表。
DIA-304-1972-04-04-2パキスタン1972年04月04日1970年代米,バングラ承認─これでバングラ承認国は57カ国となった。
DIA-304-1972-04-05-1パキスタン1972年04月05日1970年代ワーリ・カーン,PPP非難─ワーリ・カーンNAP委員長は,「ブット氏は3月24日に北西辺境州とバルーチスタン州の新知事を発表するとの約束を破り,3党協定を反古にしょうとしている」と非難した。
DIA-304-1972-04-05-2パキスタン1972年04月05日1970年代新聞発禁(~6月下旬)─ラホールの『ウルドゥ・ダイジェスト』(月刊),『ズィンダーギ』(週間),『パンジャーブ・パンチ』(日刊)の3紙。編集者等は逮捕された。
DIA-304-1972-04-06-1パキスタン1972年04月06日1970年代ガンディー書簡─I.アリ外務次官は,無条件で印・パ首脳会談開催に同意するとのガンディー・インド首相の書簡(3月29日付)が2日ほど前に大統領に届いたと発表。12日,ガンディー首相は首脳会談に賛同の意を表したブット大統領の書簡を受理した。
DIA-304-1972-04-08-1パキスタン1972年04月08日1970年代3党協定,廃棄か─ピールザーダ教育相は,「本日PPP,NAP,JUI3党会談が2度行なわれ,何の合意も見られなかったため,3月6日の3党協定は事実上廃棄された。しかし,PPPは新たな提案をしている」と明らかにした。NAPとJUIは,PPPの再交渉提案を拒否,3月6日協定は依然有効としている。一方,この日,PPPとQMLが北西辺境州議会での連立議員団を結成した。
DIA-304-1972-04-09-1パキスタン1972年04月09日1970年代北西辺境州に合法政権樹立を宣言─NAPとJUIはペシャーワルで大々的にデモを展開,6万人の大集会を開いた。席上,ワーリ・カーンNAP委員長は,北西辺境州にJUIのムフティ・マハムードを州首相とする合法政権を樹立したと宣言した。
DIA-304-1972-04-10-1パキスタン1972年04月10日1970年代3党秘密会談─ブット大統領はワーリ・カーンNAP委員長,ムフティ・マハムードJUI書記長等を招請,秘密会談を開いた。
DIA-304-1972-04-10-2パキスタン1972年04月10日1970年代諸党議員団会合(~4月11日)─ブット大統領は暫定憲法草案討議のため,諸政党国会議員団幹部の会合を開いた。
DIA-304-1972-04-14-1パキスタン1972年04月14日1970年代国会開催(~4月17日)─まず,ブット大統領が104対38で国会委員長に選出され,その後,大統領は長々と2時間にわたってパの歴史について演説。議場が疲労といら立った雰囲気に満ちた頃,大統領はあらかじめ用意した演説文から離れ,「17日までに暫定憲法が採択されれば4月21日に戒厳令解除(予定では8月15日)に踏切る」と発表,さらに,各州政府は各州与党によって構成されるべきこと及び野党の入閣を認めた。このあと,ブット大統領に対する信任投票が行なわれ,大統領は盛大な拍手のうちに満場一致で信任された。
DIA-304-1972-04-16-1パキスタン1972年04月16日1970年代アフガニスタンから密輸武器─北西辺境州パンヌー警察当局は,「最近パに不法入国した60名を逮捕した。彼らは兵器,弾薬,その他の密輸品を大量に携行していたが,いずれも押収した」と発表。
DIA-304-1972-04-17-1パキスタン1972年04月17日1970年代暫定憲法採択─国会で15日から審議されていた暫定憲法案が,諸野党の棄権にもかかわらず挙手で採択された(参考資料参照)。
DIA-304-1972-04-18-1パキスタン1972年04月18日1970年代州議会開催延期─ジャトイ政務相は西パ4州の議会を予定の4月21日から5月2日まで開催延期とすると発表(発令は4月20日)。
DIA-304-1972-04-18-2パキスタン1972年04月18日1970年代旧藩王の内帑帯金廃止─閣議は,旧藩王に対する内幣金などの特権を廃止することに決定した。この方針はすでに昨年12月,ブット大統領が打出していたが,旧藩王の強い反対にあって撤回していたもの。なお,ある種の手当は継続されるかもしれないという。
DIA-304-1972-04-20-1パキスタン1972年04月20日1970年代最高裁,ヤヒア前政権を非合法・違憲と宣言。
DIA-304-1972-04-21-1パキスタン1972年04月21日1970年代戒厳令解除─政府は同日0時を期して戒厳令(1969年3月29日~)を全面解除した。同時に,特別軍事法廷・簡易軍事法廷で審議中のすべての裁判事項が一般裁判所に移されるなどの措置がとられた。
DIA-304-1972-04-21-2パキスタン1972年04月21日1970年代インド人捕虜送還の用意─ブット大統領は,暫定憲法に基づいて行なわれた就任宣誓式で,インドが同様の措置をとらずともパ側としてはインド人捕虜を全員送還する用意があると述べた。
DIA-304-1972-04-22-1パキスタン1972年04月22日1970年代3省新設─政府は,国防生産・調達省,大統領府,少数民族問題・観光省を新設すると発表。
DIA-304-1972-04-23-1パキスタン1972年04月23日1970年代ワーリ・カーン,演説(ペシャーワル)─北西辺境州とバルーチスタン州でただちに民政移管を実施せよと政府に要求。
DIA-304-1972-04-26-1パキスタン1972年04月26日1970年代3党,新協定調印(参考資料参照)。
DIA-304-1972-04-26-2パキスタン1972年04月26日1970年代印・パ予備会談(~29日)─ラーワルピンディ近郊のマリーで,すでに25日にパに到着していたD.P.ダール・インド外務省政策計画委員会会長以下8名のインド代表団とパ代表団の間で会談が開始された。なお,パ代表団はアズィーズ・アハマッド外務次官以下8人。
DIA-304-1972-04-27-1パキスタン1972年04月27日1970年代印・パ予備会談,会場をラーワルピンディに移して続行。ブット大統領,非公式に出席。
DIA-304-1972-04-29-1パキスタン1972年04月29日1970年代全州知事,出揃う(参考資料参照)─これはこの日,PPP,NAP,JUIの間に新たな3党協定が成立した結果である。
DIA-304-1972-04-29-2パキスタン1972年04月29日1970年代印・パ予備会談,終了─30日発表の共同声明によれば,首脳会談は5月末または6月初めにニューデリーで開かれることになった。
DIA-304-1972-04-29-3パキスタン1972年04月29日1970年代軍事代表団,訪中(~5月7日)─A.B.アワーン陸軍少将を団長とするパ軍事代表団が,北朝鮮から空路北京に到着。同代表団は第40回北朝鮮建軍記念日の祭典に出席していた。
DIA-304-1972-05-01-1パキスタン1972年05月01日1970年代全州首相,出揃う(参考資料参照)。
DIA-304-1972-05-01-2パキスタン1972年05月01日1970年代全国でメーデー祝賀─パ独立以来初めて休日とされ,全国で盛大な祝賀が行なわれた。同日,ハニーフ労相は新労働政策の一環として,工業部分で20年間働いた者には生涯恩給を給付すると発表。
DIA-304-1972-05-02-1パキスタン1972年05月02日1970年代4州議会開催─パンジャーブ,スィンド,バルーチスタン各州議会は3日,北西辺境州議会は4日,それぞれ無期休会。
DIA-304-1972-05-05-1パキスタン1972年05月05日1970年代印・パ交戦(~6日)─カシミール北部のカイヤンおよびリパ地区で印・パ両軍が衝突。6日午後,両国司令部はそれぞれ即時停戦を命令。パ軍死者20,負傷30,行方不明3,インド軍死傷者200(ただし,パ政府10日発表)。以後,両軍は停戦命令にもかかわらず頻繁に衝突,20日にはアムリッツァル付近カールラ地区で6時間の交戦,21日にも同地区で交戦。
DIA-304-1972-05-06-1パキスタン1972年05月06日1970年代ウルドゥ語を州公用語に─ビゼンジョー・バ・ルーチスタン州知事は8日からウルドゥ語を州の公用語にすると発表。
DIA-304-1972-05-07-1パキスタン1972年05月07日1970年代北ベトナムと外交関係樹立の用意─ブット大統領は記者会見でこのように述べ,さらに,パはSEA TO およびCENTOとの関係を再検討する用意があると明らかにした。
DIA-304-1972-05-11-1パキスタン1972年05月11日1970年代ルピー切下げ─政府はルピーの対ドル・レートを即日発効で,$1=4.76ルピーから$1=11ルピーに切下げると発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-05-14-1パキスタン1972年05月14日1970年代ブット大統領,閣僚任命(参考資料参照)。
DIA-304-1972-05-14-2パキスタン1972年05月14日1970年代新輸入政策発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-05-16-1パキスタン1972年05月16日1970年代土地占拠─ハイダラバードの貧農6人が地主の土地を占拠,逮捕された。
DIA-304-1972-05-16-2パキスタン1972年05月16日1970年代ニクソン米大統領を招請─ブット大統領はS.M.カーン新駐米大使を通じてニクソン米大統領夫妻にパを訪問するよう招請。
DIA-304-1972-05-17-1パキスタン1972年05月17日1970年代ソ連から親書─コスイギン・ソ首相は,印・パ首脳会談の早期開催に関する親書をロジョノフ駐パ大使を通じてブット大統領に手交した。
DIA-304-1972-05-18-1パキスタン1972年05月18日1970年代SDR1億0800万ドルーIMFはパに対し,今後1年間1億0800万ドル相当のSDRを承認した(スタンドバイ・クレジット)。
DIA-304-1972-05-19-1パキスタン1972年05月19日1970年代政府,銀行改革を発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-05-20-1パキスタン1972年05月20日1970年代NAPに発砲─北西辺境州で大衆集会のあと別の村へ移動中のNAP党員に数百人の武装群衆が発砲,2名死亡。群衆はNAPのある1員を襲ったものだが,弾丸はワーリ・カーン委員長のジープをもつらぬいた。同委員長は無事。
DIA-304-1972-05-22-1パキスタン1972年05月22日1970年代米国旗引きおろし─カラチで全国学生連合(N.S.F.)カズミ派の学生デモ隊(100人以上)が,米総領事館の米国旗を引きおろし,ベトナム解放戦線旗を掲揚しようとして警官隊と衝突,6人負傷。去る20日のベトナム・デーにも,学生等5,000人が米総領事館内外でデモ。
DIA-304-1972-05-23-1パキスタン1972年05月23日1970年代北ベトナムと接触─ブット大統領は,カラチで開かれた経営者会議で演説し,北ベトナムと外交関係樹立のための交渉を進めていること,および,前週ベトナム問題についてニクソン米大統領に書簡を送ったことを明らかにした。
DIA-304-1972-05-25-1パキスタン1972年05月25日1970年代証券取引所,再開─カラチとラホールの証券取引所は,約6カ月ぶりに再開した。
DIA-304-1972-05-26-1パキスタン1972年05月26日1970年代パリで対パ債権国会議─現在パが負っている外国借款の返済は年間約2億3400万ドルに達するが,71年5月1日から起算して26カ月間の猶予が認められた。 また,日用必需品についてはパが今会計年度中に1億8000万ドル相当分を期待しているのに対し,現在までに米,英,カナダ,ベルギー,IDAから計1億3210万ドル分が約束された。さらに,食糧援助では米がPL-480計画で100万トン(約6000万ドル)を申し出るなどがあった。
DIA-304-1972-05-29-1パキスタン1972年05月29日1970年代全パ繊維工業連合会スィンド・バルーチスタン地域のダーダボイ会長は,労働争議のため生産が15~20%落ちこんでおり,外貨獲得高がルピー切下げ前に換算して1億ルピー以上減少しているとし,これ以上争議が続けば約130工場が閉鎖されざるを得ないと述べた。
DIA-304-1972-05-29-2パキスタン1972年05月29日1970年代大統領,中東およびアフリカ諸国歴訪(~6月10日)─印・パ首脳会談の具体化に伴い,パの立場を説明するなどのためと発表された。訪問国は,イラク,レバノン,ナイジェリアなど14カ国。サウディ・アラビアでは同国訪問中のイリアン・イエーメン首相とも公式会談。
DIA-304-1972-05-31-1パキスタン1972年05月31日1970年代ワーリ・カーンNAP委員長,アフガニスタン訪問(~6月8日)─滞在中,国王,首相,副首相らと会談,父親であるガッファール・カーンにも会った。しかし,記者会見の席上,「今回の訪問は政治的なものでは全くない」と語った。
DIA-304-1972-06-03-1パキスタン1972年06月03日1970年代政府,5ルピーおよび10ルピー紙幣を無効化─4日から新紙幣流通。
DIA-304-1972-06-03-2パキスタン1972年06月03日1970年代大統領バングラについて─中東・アフリカ諸国歴訪中のブット大統領は,この日サウディ・アラビアで,「バングラ承認問題について国民投票を行なうかもしれない」と発言。
DIA-304-1972-06-03-3パキスタン1972年06月03日1970年代中国から兵器─3日付『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば,中国はこのほどジェット戦闘機60機,戦車100台など大量の兵器をパに引き渡した。これは,ブット大統領訪中(2月)の時にまとまった経済・軍事援助協定の一部。同協定は3億ドル以上の援助を取り決めているという。なお,ロンドンの国際戦略研究所の最新報告によると,パは印・パ戦争で航空機83機と戦車220台を失ったという。
DIA-304-1972-06-04-1パキスタン1972年06月04日1970年代刑務所反乱─3日,サッカル刑務所で反乱が生じ,4日,囚人14名が射殺された。
DIA-304-1972-06-06-1パキスタン1972年06月06日1970年代ブット大統領,トルコ着(~8日)─この日,アンカラでスナイ・トルコ大統領と会談。このあとイズミレで2日間にわたり,中近東およびアフリカ駐在パ大使会議を開催。その後,再びアンカラでスナイ大統領と会談。8日イランへ飛び,シャヒンシャー国王と会談,10日帰国。
DIA-304-1972-06-07-1パキスタン1972年06月07日1970年代労働者,警官と衝笑─カラチのスィンド工業団地で労働者と警官隊が衝突,後者の発砲で労働者が少なくとも3名死亡。新労働政策(2月)による2.5%賃金カットに端を発し6日から労使関係が紛糾していた。
DIA-304-1972-06-08-1パキスタン1972年06月08日1970年代カラチ労働者スト─昨日の事件の死者のため服喪行進が行なわれ,これに警官隊が発砲,婦人,子供を含む10名が死亡。スィンド工業地帯などの労働者が抗議ストに突入,労働者は,事件は新労働政策に帰因するとして,同政策の撤廃,スィンド州知事,同州首相および警官発砲に関与したすべての役人の解任などを要求。 10日にはカラチ全域でハルタール(ゼネスト)が行なわれ労働者は口々に「資本家を倒せ,反人民政権を倒せ」などと叫び,PPP党旗を焼いた。10日,諸国訪問から帰国したブット大統領は記者会見で,「この騒ぎは印・パ首脳会談が開始されようとしている時期に際してパを弱体化させようとする陰謀だ」と述べ,平静を訴えた。
DIA-304-1972-06-13-1パキスタン1972年06月13日1970年代政府・労働者会談不調─タルプール・スィンド州知事と労働者代表との間で行なわれていた会談は不調に終り,解決策はブット大統領に委ねられた。一方,カラチの400以上の労働組合がスト継続を決議。
DIA-304-1972-06-14-1パキスタン1972年06月14日1970年代アズィーズ・アハマツド外務次官,訪中(~6月16日)。
DIA-304-1972-06-16-1パキスタン1972年06月16日1970年代経済概況─ハッサン財政・計画・開発相は全国放送で現会計年度の経済概況を発表(参考資料参照)。
DIA-304-1972-06-17-1パキスタン1972年06月17日1970年代カラチのスト,解除─政府が20万ルピーの賠償金を支払うなど,労働者の要求に応えたため,ストは解除された。20日,A.M.ブット・スィンド州首相は,7日以降逮捕された全労働者の釈放とスト中の給与支払いを命じた。
DIA-304-1972-06-17-2パキスタン1972年06月17日1970年代ハッサン財政相,72年度予算案を全国放送で発表(参考資料参照)。─発表前,大統額および閣議は同案を承認。
DIA-304-1972-06-22-1パキスタン1972年06月22日1970年代アズィーズ・アハマッド外務次官,訪ソ(~6月24日)。
DIA-304-1972-06-22-2パキスタン1972年06月22日1970年代中国貿易代表団,訪パ(~28日)─中国政府貿易代表団(団長,白相国,対外貿易部長)がパ政府の招きで来訪。同日,ラヒーム商相と会談。23日,イスラーマバードで72/73年度貿易議定書に調印。
DIA-304-1972-06-23-1パキスタン1972年06月23日1970年代政府・労働者会談─21日から始まった政府とカラチ労働者代表団の会談が終了。新労働政策の修正などが討議されたが,具体的解決策は7月の政府・労・使3者会談に委ねられた。
DIA-304-1972-06-23-2パキスタン1972年06月23日1970年代元NSF委員長A.H.カズミ,NAPに入党。
DIA-304-1972-06-25-1パキスタン1972年06月25日1970年代ラーマンとの会談準備─ブット大統領は記者会見で,ラーマン・バングラ首相との会談の準備を進めていると明らかにし,会談は7月半ばまたは7月末までに行ないたいと述べた。会談の場所については,「インド以外ならどこでもよい。ラーマン首相がパに来れなければ私がダッカに行く用意がある」と語った。
DIA-304-1972-06-27-1パキスタン1972年06月27日1970年代インドと外交関係回復の用意─ブット大統領は本日夜,全国ラジオ放送を通じて演説,インドとの外交関係回復の用意があると強調した。
DIA-304-1972-06-28-1パキスタン1972年06月28日1970年代印・パ首脳会談,インドのシムラで開始─この日,顔合せとしてのブット・ガンディー第1回会談。夜,事務レベル代表の第1回会談。パ側代表はアズィーズ・アハマッド外務次官,インド側代表はD.P.ダール外務省政策計画委員長。首脳会談の議題調整ならず事務レベルでの会談続行を決定。
DIA-304-1972-06-29-1パキスタン1972年06月29日1970年代北西辺境州で地主と小作人衝突,4名死亡。
DIA-304-1972-06-29-2パキスタン1972年06月29日1970年代印・パ会談─10時~11時半まで第2回事務レベル会談。17時~19時半まで第3回事務レベル会談,議題煮つまらず。
DIA-304-1972-06-30-1パキスタン1972年06月30日1970年代印・パ会談─朝,インド代表D.P.ダールが心臓発作で入院,会談延期。午後,インド側代表はP.N.ハクサルとなり,第4回事務レベル会談。夜,19時から第2回首脳会談,カシミール問題を中心に難行。予定ではこの日が印・パ会談最終日であったが7月に延長。
DIA-304-1972-07-01-1パキスタン1972年07月01日1970年代印・パ会談─この日,両国首脳等は1時間40分にわたって会談。カシミール問題と戦争捕虜問題について意見の対立がとくに厳しいといわれ,権威筋によればこれらの両問題はとりあえず議事凍結となったもよう。
DIA-304-1972-07-02-1パキスタン1972年07月02日1970年代印・パ会談─午後,事務レベル会談共同宣言の内容に関し今まで3回の修正。17時半から30分間の首脳会談。
DIA-304-1972-07-03-1パキスタン1972年07月03日1970年代印・パ協定調印─2日22時,印・パ会談が再開され,23時に協定の最終案が決定された。3日午前0時40分,調印(協定は7月2日付)。この協定には,両国軍の兵力撤収など若干の進展が見られるが,両国間の基本的問題は依然解決されていない(インド資料の項参照)。
DIA-304-1972-07-04-1パキスタン1972年07月04日1970年代ブット帰国─印・パ会談を終えて帰国したブット大統領は記者会見で,「戦争捕虜問題については東パの現指導者たちと交渉せねばならないだろう」と述べた。
DIA-304-1972-07-06-1パキスタン1972年07月06日1970年代ブット・コナリー会談─5日ニューデリーから来訪したコナリー米大統領特使は,ラヒーム大統領府・生産・商業相,ハッサン蔵相,カイザー大統領経済特別顧問,M.M.アハマッド海外借款・債権国会議関係顧問等と2時間の会談後,ブット大統領と1時間半にわたって会談。
DIA-304-1972-07-07-1パキスタン1972年07月07日1970年代スィンド語,州公用語─スィンド州議会はスィンド語を州公用語に定める言語法案」を強行採決した。反対者は,同法令は国語であるウルドゥ語を圧迫するものだとしている。
DIA-304-1972-07-07-2パキスタン1972年07月07日1970年代スインド州全域で暴動(~7月26日)─スィンド州議会の言語法案採択に抗議し,「ウルドゥ語も州公用語にせよ」と要求する民衆による暴動がスィンド州全域に発生,少なくとも100人が重軽傷を負い,各地に外出禁止令が出された。なお,同州のスィンド語人口は400万,ウルドゥ語人口は150万という。
DIA-304-1972-07-10-1パキスタン1972年07月10日1970年代臨時国会開催─インドとの間に調印されたシムラ協定批准のための国会がイスラーマバードで開会された。
DIA-304-1972-07-10-2パキスタン1972年07月10日1970年代言語暴動─パキスタン放送によると10日までに死者16名非公式報道では26~42名の死者が出ている。 スィンド州当局は言語暴動に関する報道の検閣を決定(7月22日解除)。
DIA-304-1972-07-11-1パキスタン1972年07月11日1970年代言語暴動で国会荒れる─外出禁止令継続地域では食糧等の必需品が不足し始めている。とくにウルドゥ語系住民の多いカラチでは騒動はまったくおさまっていない。一方,暫定憲法による制約のためシムラ協定しか討議し得ないことになっている臨時国会は,「火急の問題である言語問題を討議せよ。スィンド州政府を解任せよ」とする与野党議員が議長の許可なく発言を繰り返し,大幅に乱れた。
DIA-304-1972-07-11-2パキスタン1972年07月11日1970年代土地占拠─サッカルのアスガル・カーン退役空軍中将(国民主権運動委員長)の農園および邸宅が,ハリ(刈分小作人)と思われる80~90人の暴徒に占拠され,同氏の使用人の武器も盗まれた。
DIA-304-1972-07-11-3パキスタン1972年07月11日1970年代トルコ外相,訪パ(~7月14日)。
DIA-304-1972-07-12-1パキスタン1972年07月12日1970年代報告書は極秘─戦争敗因調査委員会(委員長ハムードゥル・ラーマン最高裁判事)はブット大統領に調査報告書を提出したが,同報告書の主要部分は極秘扱いで,他もマル秘扱いになっている。
DIA-304-1972-07-14-1パキスタン1972年07月14日1970年代シムラ協定,批准さる。
DIA-304-1972-07-15-1パキスタン1972年07月15日1970年代言語暴動─ブット大統領は全国ラジオ放送を通じ,「ウルドゥ語またはスィンド語のいずれを知っていても今後12年間雇用・昇進の機会を平等かつ全面的に保証する旨の政令をスィンド州知事が発布する」との妥協案を発表。同日午後,大統領は軍隊・武装警官による厳戒態勢下にスィンド州に入り,住民の説得を開始。
DIA-304-1972-07-15-2パキスタン1972年07月15日1970年代国会補欠選挙延期─選挙管理委員会は7月20日,23日に行なう予定だった国会補欠選挙(2議席,いずれも北西辺境州割当て分)を9月10日,14日に延期。これに対し,NAPとJUIは抗議デモ。
DIA-304-1972-07-16-1パキスタン1972年07月16日1970年代北西辺境州政府,国会補欠選挙延期の取消しを正式に要求─一方,ワーリ・カーンNAP委員長は記者会見で,「選挙延期によって法と秩序が混乱しようともそれは中央政府の責任だ」とし,さらに,「この国に独裁制を押しつけようとする者たちが北西辺境州の人をリスト・アップして暗殺を企てているとの権威筋の情報を入手した」と述べた。
DIA-304-1972-07-20-1パキスタン1972年07月20日1970年代スィンド州言語問題ほぼ解決─スィンドの言語問題は,大統領による妥協案(15日参照)にそった政令が16日発令され,ウルドゥ語派にも受けいれられて解決し,19日夜にはカラチの外出禁止令は解除された。しかし,周辺都市では全面解除はされていない。
DIA-304-1972-07-24-1パキスタン1972年07月24日1970年代カラチでまた暴動─カラチで再び言語問題で暴動。警官隊の発砲で死者1名,25日にも死者2名。夜間外出禁止令(26日解除)。
DIA-304-1972-07-24-2パキスタン1972年07月24日1970年代全国新聞関係,24時間スト─去る17日,カラチの日刊『サン』紙が言語問題報道検閲令に違反したとして発禁処分(8月13日解除)になったことなどに対し,新聞記者などから,抗議の声が局まっていた。しかし,政府が処分撤回要求に何ら満足のいく回答をしないため,本日のストとなった。ストには新聞記者のほか,植字工,配達人,経営陣などすべての新聞関係者が参加したが,これは初めてのことという。また,ワーリ・カーンNAP委員長は記者会見で,8月1日を「報道の自由の日」として抗議集会・デモを挙行するよう訴えた。
DIA-304-1972-07-26-1パキスタン1972年07月26日1970年代ニアーズィ情報相はクエッタで記者会見,極右と極左が政府およびPPP打倒のために手を握って国内に紛争を挑発していると非難。
DIA-304-1972-07-26-2パキスタン1972年07月26日1970年代カラチにNAP事務所─カラチにNAPのスィンド州支部事務所が開設された。
DIA-304-1972-07-27-1パキスタン1972年07月27日1970年代政府は国家管理化した31企業を運営するための工業運営局役員を任命。局長はJ.A.ラヒーム生産・大統領府担当相。
DIA-304-1972-07-27-2パキスタン1972年07月27日1970年代来たる国会でバングラ承認問題を討議─ニアーズィ情報相はジャーナリストの会合で,「8月14日開催の国会ではバングラ承認問題を討議することになろう。この問題は感情的にならず現実的に考えねばならない。また,憲法草案は会期中には作成が終らず,議会にはかり得ない公算が強い」と明らかにした。
DIA-304-1972-07-29-1パキスタン1972年07月29日1970年代大統領,“スィンドゥ・デーシュ”を非難─ブット大統領はハイダラバードで演説「スィンドゥ・デージュ(スィンドの地・国の意)“などと言うやからがいるが,実現し得ぬ夢である。彼らはバングラデシュ(ベンガルの地・国)の混乱状況を見れば考え直すはずだ。スィンドゥ言語暴動は,私の個人的介入と人民の私への支持がなければ内戦にまで発展したろう。混乱をひきおこそうとする連中にだまされてはいけない」と述べた。
DIA-304-1972-07-29-2パキスタン1972年07月29日1970年代『パンジャーブ・パンチ』紙,再度発禁(4月5日参照)。
DIA-304-1972-07-29-3パキスタン1972年07月29日1970年代投資計画修正を命令─ハッサン蔵相は工業投資計画の修正を命じた。新計画期間は74年6月30日までで,西パだけに限られ,労働集約的プロジェクト,輸出品生産が優先されるという。
DIA-304-1972-07-29-4パキスタン1972年07月29日1970年代輸出目標─公式筋は,72/73年度輸出目標は計6億1800万ドル(60%は綿部門)と発表。71/72年度輸出は東パを含めると6億8500万ドル,西パだけでは5億9700万ドルであったという。なお,71/72年度西パ輸出は対前年度比で42%増であった。
DIA-304-1972-07-31-1パキスタン1972年07月31日1970年代労働問題3者会談開始(イスラーマバード,~8月3日)─出席は政府代表団,経営者側100名,労働者側300名(6月23日参照)。
DIA-304-1972-07-31-2パキスタン1972年07月31日1970年代クエッタに軍出動─バルーチスタン州都クエッタで警官が武装スト(~8月2日),大衆暴動に発展し,軍が出動して警官の武装解除を行なった。この日,1名死亡。
DIA-304-1972-07-31-3パキスタン1972年07月31日1970年代大統領,シムラ協定について─ブット大統領は国際問題研究所で演説,次のように述べた。「シムラ協定は単に出発点だ。同協定は不戦協定ではなく,これからいかなる方向に向かうかは国民の決定にゆだねられている。ただ,復しゅうのための戦争を望む者がいたとしても,今は戦争すべき時期ではない。また,インドとの問題は2国間で解決すべきだが,シムラ協定は国連に対してドァを閉ざすものではない。さらに,回教徒ベンガル(バングラを指す)との関係についても国民が決定することだ。」
DIA-304-1972-08-04-1パキスタン1972年08月04日1970年代シムラ印・パ協定,発効。
DIA-304-1972-08-05-1パキスタン1972年08月05日1970年代カラチの労使緊張緩和の方向─カラチの工業地帯では,ダウッド綿紡工場で過去1ヵ月間にわたり労働組合が工場を占拠・管理するなどの事件を中心に労使間緊張が厳しくなっていたが,5日,労使間で協定に達し,緊張は緩和に向かっているという。
DIA-304-1972-08-07-1パキスタン1972年08月07日1970年代インド民間人捕虜釈放を決定─政府は印・パ戦争中にパの捕虜となったインド民間人約6,850人の釈放を決定。9月7日~17日までに544名をワが国境でインドに引渡した。
DIA-304-1972-08-08-1パキスタン1972年08月08日1970年代政治家大量逮捕─スィンド州で8日夜から10日にかけ,ウスマーニNAP書記長,G.M.サイード・スィンド統一戦線(SUF)委員長,学生約20名等を含む100名以上の政治家が逮捕された。州政府は,「これらの人物は自分の野心のため言語問題を利用して国の統一を危機におとしいれている」としている。
DIA-304-1972-08-08-2パキスタン1972年08月08日1970年代NAP北西辺境州支部は大統領制,準大統領制,独裁のいずれにも反対すると決議。NAPはまた,政府は憲法作成を意図的に遅らせていると非難している。
DIA-304-1972-08-08-3パキスタン1972年08月08日1970年代インド,パ民間人捕虜釈放の用意─インド公式筋は,インド政府はインドに囚われている民間人をパに送還する用意があると明らかにした。しかし,数は示されておらず,また,バングラで囚われたパ民間人およそ1万2000人は送還の対象にはされていない。9月18~19日にワガ国境で585名をパに引渡した。
DIA-304-1972-08-09-1パキスタン1972年08月09日1970年代PPP,粛清を予定─8日から開かれていたPPP中央委員会は,本日終了。会議後,K.ハッサン・ミールPPP書記次長は記者会見で,11月29日に3日間の全国大会を開くが,それまでにブット総裁の指示に従って党内の“悪い分子”を追放するなどの党再編措置をとると明らかにした。
DIA-304-1972-08-10-1パキスタン1972年08月10日1970年代軍将校退役─ラザ大統領特別雇問は,ブット大統領就任の2日前(昨年12月18日)に内戦を企てたとされる。R.D.シャミーム少将など6人の陸軍将校をハミード・カーン陸軍総司令官の勧告に従って退役させたと発表。
DIA-304-1972-08-10-2パキスタン1972年08月10日1970年代大統領バングラについて─ブット大統領は記者会見で次のように述べた。「来たる国会でバングラ承認問題は議題にしない。7月にラーマン氏との会談が実現しなかったからだ。また,中国が拒否権を行使するだろうからバングラの国連加盟は困難だ。」
DIA-304-1972-08-10-3パキスタン1972年08月10日1970年代印・パ軍事会談─(インドの項参照)。
DIA-304-1972-08-11-1パキスタン1972年08月11日1970年代共産党解禁─政府は1954年7月以来の共産党禁止令を解除した。
DIA-304-1972-08-12-1パキスタン1972年08月12日1970年代法律改革令─ブット大統領は,司法と行政を分離するとの誓約(4月19日)に基づいて法律改革令を発令。
DIA-304-1972-08-12-2パキスタン1972年08月12日1970年代工業振興策─ハッサン蔵相兼開発・計画相は,各省関係者と政府金融機関の3日間にわたる会議の決定として,以下の方針を発表した。①新企業をおこす。これらは陶磁器,精粉,精糖,織物など17企業で,機械類はすでに輸入されており,外貨2250万ルピー分がこれらの企業のために用意されている。②これらの企業のために政府金融機関と銀行で借款団を組織する。③民間部門の小企業に対する活発な援助計画を推進する,等。なお,同相は,民間公共部門企業の支配・所有構造に関し次のように明らかにした。「政府が直接に株式を所有しているのは7つの私企業にすぎず,同7企業投資総額3億1000万ルピー中1億8000万ルピーを政府が握っている。全経済における政府の投資率は17.5%で,政府投資は銀行・保険業,諸工業,石油・電力,等に対して行なわれている(政府所有株式,計7300万株)。これらの数字からすると,経済の多くの部分は民間組織と若干の個人に支配されているが,工業部門の主要部門は政府と民間の小株主が所有しているといえる。また,若干の個人は経済を支配しているにもかかわらず,彼らの投資がいかに少ないかがわかる。なお,国有化企業の接収総額は18億7000万ルピーである。」
DIA-304-1972-08-14-1パキスタン1972年08月14日1970年代国会開始─制憲議会を兼ねた国会がイスラーマバードで開始され,ブット大統領は演説で「バングラと無条件会談の用意がある」などと述べた。なお,国会議長にはチョードリ・ファザル・エラーヒ(PPP)が選出された。
DIA-304-1972-08-16-1パキスタン1972年08月16日1970年代国会─国会は,憲法草案の提出を12月31日まで延期するというカスリ法相の動議を満場一致で承認した。
DIA-304-1972-08-17-1パキスタン1972年08月17日1970年代元陸軍少将N.シェール・アリ・カーン(ヤヒア前政権情報相)は政府を批判,投獄された。
DIA-304-1972-08-19-1パキスタン1972年08月19日1970年代大統領,野党指導者と会談─ブット大統領はワーリ・カーンNAP委員長など野党指導者たちと会談。その結果,PPP,NAP,JUIの関係に明るい展望が開け,中央および地方レベルでの相互協力,NAP,JUIからの入閣などが確認されたという。
DIA-304-1972-08-21-1パキスタン1972年08月21日1970年代パ領ワガで印・パ第2回軍事会談(~22日,インドの項8月22日参照)。
DIA-304-1972-08-22-1パキスタン1972年08月22日1970年代封建制廃止─ブット大統領は,ギルギットおよびバールティスタン(バルーチスタンにあらず)の封建制を廃止,さらに中央政府の法律を適用し,他地域と同じ扱いにすると決定(即時発効)。
DIA-304-1972-08-23-1パキスタン1972年08月23日1970年代労働政策修正(参考資料参照)。
DIA-304-1972-08-25-1パキスタン1972年08月25日1970年代国会大荒れ─カスリ法相が,「大統領弾劾決議は50名以上の賛成がなければ提出できないことにする」等の内容を含む憲法修正法案を提出したところ,与野党議員が反対,賛成派与党議員と乱闘寸前に陥り,法相は法案を撤回するという騒ぎとなり,制憲議会としての国会は無期延期となった。
DIA-304-1972-08-25-2パキスタン1972年08月25日1970年代憲法─ブット大統領はハンザで恒久憲法は73年3月23日,遅くとも4月21日までには準備されようと述べた。
DIA-304-1972-08-25-3パキスタン1972年08月25日1970年代スィンド言語暴動に関する逮捕者は1,000人以上(『ドーン』紙)。
DIA-304-1972-08-25-4パキスタン1972年08月25日1970年代デリーで印・パ事務レベル会談(~8月29日,インドの項参照)。
DIA-304-1972-08-25-5パキスタン1972年08月25日1970年代中国,バングラの国連加盟に拒否権行使(バングラの項参照)。
DIA-304-1972-08-28-1パキスタン1972年08月28日1970年代中国外交団,来訪(~8月30日)─喬冠華外交副部長以下5名。
DIA-304-1972-08-31-1パキスタン1972年08月31日1970年代大統領,憲法について─ブット大統領はカラチの高裁弁護士協会で演説,「新憲法は連邦議会制と最大限の州自治を保証するものとなろう」と語った。昨年11月23日以来の非常事態宣言解除要求については,「解除には賛成だが,戦勝国であるインドもそれを解除していない」と述べた。
DIA-304-1972-09-01-1パキスタン1972年09月01日1970年代公務員送還─西パ統一州廃止(70年7月)の際の決定に基づき,バルーチスタン州は非バルーチスタン人公務員(約5,100名)をパンジャーブ州とスィンド州に送還開始。
DIA-304-1972-09-01-2パキスタン1972年09月01日1970年代私立カレッジ,国有化─0時を期して,北西辺境州の1校を除き全私立カレッジ(スィンド州97,パンジャーブ州78,計175校)が国有化された(参考資料参照)。
DIA-304-1972-09-02-1パキスタン1972年09月02日1970年代ソ連,パと接触─バングラ放送によると,ソ連とパ両政府は最高レベルで接触中であり,ソ連はパにバングラ早期承認,南アジア3国会談を改めて要請しているという。
DIA-304-1972-09-04-1パキスタン1972年09月04日1970年代NAP内部対立─NAPスインド州支部アズィーズラ・シェイク委員長が,NAP全国評議員会代表団からウスマーニNAP書記長(現在獄中)とその一派をしめ出したことにより,同州支部内の対立が表面化。 対立は言語問題に関して生じていた。
DIA-304-1972-09-09-1パキスタン1972年09月09日1970年代国会で“ロンドン・プラン”論争─最近ワーリ・カーンNAP委員長,メンガル・バルーチスタン州首相など野党指導層が相次いでロンドンを訪問しているが,彼らはロンドンで密議したり,ジュネーブでラーマン・バングラ首相に会ったりして陰謀を企てているとの報道や噂が流布している。彼らは,パ4州を連合制にし,各州を独立国に近い形にしようとしているといわれ,同連合には将来バングラやアフガニスタンが加盟するとされる。また,彼らは,インド軍が撤退しないよう要請しているという。現在,“ロンドン・プラン”といわれるこの事件が院内外で問題化している。
DIA-304-1972-09-12-1パキスタン1972年09月12日1970年代“ロンドン・プラン”─ワーリ・カーンNAP委員長は,訪英は目の治療に行ったものとして,“ロンドン・プラン”との関連を否定。メンガル・バルーチスタン州知事も治療のため訪英したと発表されているが,この日,同氏はジュネーブへ赴いたことは認めつつも,それは休養のためとし,ラーマン・バングラ首相に会ったことは否定。一方,「ロンドン・プランとはNAPとJUIをおとしいれるために中央政府とPPPがねつ造したものだ」とするNAPやJUIは,この日の国会で釈明のためこの問題を討議するよう動議を出したが,議長はこれを却下。このため,CMLおよび与党PPPの3名も含め,諸野党は抗議の退場を行なった。
DIA-304-1972-09-12-2パキスタン1972年09月12日1970年代海外隠匿外貨─ジャトイ通信・政治問題相は国会で蔵相代理として答弁,海外隠匿外貨送還命令(1月参照)に基づき,今までに2億3650万ルピーが申告されたが,本国送還可能なものはこのうち1億0320万ルピーであると明らかにした。
DIA-304-1972-09-13-1パキスタン1972年09月13日1970年代“ロンドン・プラン”─ラーマン・バングラ首相はジュネーブで,“ロンドン・プラン”は全く根拠がないと述べた。一方,パ政府は,この問題は微妙であり,政情不安を悪化させる恐れがあるとして,ラジオ・テレビでの報道を禁止した。
DIA-304-1972-09-15-1パキスタン1972年09月15日1970年代“ロンドン・プラン”─ブット大統領はカラチ商工会議所の会合で次のように語った。「ロンドン・プランなるものがあるなどは知らない。過度に興奮したりする必要はない。ただ,ワーリ・カーン氏は8月12日付の『ヒンドゥースタン・タイムズ』紙(インド紙)に,米ソがPPPを信用しないからインドもパを信用し得ないなどと語り,現政権を揺がせてNAPの政府樹立を狙っている。」
DIA-304-1972-09-18-1パキスタン1972年09月18日1970年代武器押収─北西辺境州パッビー付近で,警察当局は10万ルピー相当の武器を押収。これらは密輸業者がパンジャーブ州から持込んだものという。
DIA-304-1972-09-25-1パキスタン1972年09月25日1970年代ジャトイ通信・政治問題相,辞表を提出─9月29日,撤回を発表。
DIA-304-1972-09-25-2パキスタン1972年09月25日1970年代財産接収令─A.S.K.カリール北西辺境州知事は記者会見(マハムード州首相も同席)で,財産ないし生産手段を無償で撤収する権限を州政府に与えると発令したと明らかにした。JUI同州支部は,無償の接収は回教に反するとして反対決議。
DIA-304-1972-09-26-1パキスタン1972年09月26日1970年代北西辺境州,政治地図変動─最近表面化していたQML北西辺境州支部分裂が確認された。QML同州議会議員5名が最近結成された北西辺境州統一戦線(Sar.UF)に加盟。Sar.U Fは州政府協力を表明しており,QMLは同州(とくにハザーラ地域)で力を失った。なお,同州議会議員配分は以下のようになった。NAP 15,Sar.UF 9,JUI 5,QML 6,PPP 5,ジャマーテ・イスラーム1,無所属1。
DIA-304-1972-09-26-2パキスタン1972年09月26日1970年代北西辺境州マラカンドで地主と小作人,武力衝突(~9月27日)。
DIA-304-1972-09-26-3パキスタン1972年09月26日1970年代QMLスィンド州支部,CML同州支部に合併。
DIA-304-1972-09-28-1パキスタン1972年09月28日1970年代ブット大統領,カスリ法相の辞表受理を拒否(公式発表)─同法相は最近,法相,憲法作成委員会議長,PPP国会議員団副団長を辞任したいとの辞表を提出していたという。
DIA-304-1972-09-29-1パキスタン1972年09月29日1970年代M.A.ブット辞意表明─M.A.ブット・スィンド州首相の辞意表明が噂されているが,M.K.ジュネージョ・スィンド州内務次官は,同首相の辞意表明は口頭で行なわれたもので,ブット大統領はそれを拒否したと明らかにした。
DIA-304-1972-09-30-1パキスタン1972年09月30日1970年代印・パ交戦─ジャム・カシミールのコトリ地区で発生,パ軍兵士1名死亡(『ドーン』紙)。
DIA-304-1972-10-01-1パキスタン1972年10月01日1970年代私立学校国有化─スィンド州ではカラチの74校,ハイダラバードの1校を除き,小学校から高校まで全私立1,410校。パンジャーブ州では1,428校。北西辺境州政府は国有化せずと決定(9月23日)。バルーチスタン州,不明(参考資料参照)。
DIA-304-1972-10-01-2パキスタン1972年10月01日1970年代大学改組─タルプール・スィンド州知事はカラチ大学とスィンド大学を改組する法令を発令。これにより,たとえば37人編成の評議員会には学生自治会代表4名,卒業生2名が入るなど,学生の運営参加が認められた。2日,イスラーマバード大学にもブット大統領によって同様の法令が発令された。
DIA-304-1972-10-05-1パキスタン1972年10月05日1970年代カスリ法相,辞任─カスリ法相は4日,法律・議会担当相のみを辞任したいとの辞表を再度提出。5日,大統領は即時発効でこれを受諾。カスリ氏は,国家元首が立法府に責任を負う連邦議会制を主張したり,公務員大量粛正反対などの立場をとっていた。7日,同氏は憲法作成委員会議長およびPPP国会議員団副団長も辞任,国会議員は続けると発表。なお,後任はA.H.ピールザーダ教育・州際調整相(兼務)。
DIA-304-1972-10-05-2パキスタン1972年10月05日1970年代ワーリ・カーン,与野党会談を提起─ワーリ・カーンNAP委員長は,来月予定の制憲議会での混乱を避けるため与野党会談を開催すべきだとし,また,正当な議会制が樹立されるなら,中央政府の権限は国防,外交,通貨,交通・通信のみでなくてよい,と語った。
DIA-304-1972-10-12-1パキスタン1972年10月12日1970年代教師の政治活動に警告─D.M.ウスト・スィンド州教育相は,「国有化されたカレッジの教師が政治活動を行なえば免職とする。国有化教育機関に政治を持込むことは許されない」と語った。
DIA-304-1972-10-15-1パキスタン1972年10月15日1970年代労働者,警官隊と衝突─カラチのダウッド綿紡工場で続いていた労使関係の緊張は,ランディ・コーランギ両工業地帯に拡大,18日には警官隊とレインジャー部隊の発砲でスト中の労働者4名(公式発表)が死亡。23日にも,集会中のランディ工業地帯労働者4,000人と警官隊250名以上が3時間の大乱闘,警官隊の発砲で2名(公式発表)死亡。28日までに逮捕者は500名に達した。
DIA-304-1972-10-17-1パキスタン1972年10月17日1970年代北西辺境州,全教育機関閉鎖─15日,ナワキリで警官発砲により学生1名が死亡。16日,教師スト突入,州政府は全学校の10日間閉鎖を発表。一方,学生が各地で互いに衝突,スワートでは3名死亡。学生はまたスワートの行政副長官補佐を監禁(17~18日),19日にはペシャーワルの一流4ホテルを略奪,警官発砲に対して抗議デモ。21日,北西辺境州政府が15日死亡した学生の家族に対する4,000ルピーの賠償支払い等を決定し,学生の騒ぎは一応おさまった。しかし,さらに給与引上げ等も要求する教師のストは継続中。
DIA-304-1972-10-17-2パキスタン1972年10月17日1970年代M.M.カーン内務相(公共問題担当)辞任。
DIA-304-1972-10-20-1パキスタン1972年10月20日1970年代憲法大枠で合意─ブット大統領の招請により,恒久憲法について17日からラーワルピンディで開かれていた諸政党指導者会議で憲法の大枠について合意が達成され,20日,終了した(参考資料参照)。
DIA-304-1972-10-22-1パキスタン1972年10月22日1970年代支配領域ライン画定に関する第8回目の印・パ両軍代表会談がスーチェトゥガルで開かれたが,一部地域のラインについて対立したまま終了。
DIA-304-1972-10-24-1パキスタン1972年10月24日1970年代ハニーフ労相,M.ブット・スィンド州首相など政府代表と労働者代表との会談が開始されたが,28日,会談は物別れに終わり,ハニーフ労相は「騒動は労働争議ではなく反乱であり,裏に隠れた手が動いている」と述べた。
DIA-304-1972-10-24-2パキスタン1972年10月24日1970年代首脳書簡─この日の公式発表によれば,ブット大統領とガンディー・インド首相は,シムラ協定の早期実施のために書簡を交換し合った。
DIA-304-1972-10-25-1パキスタン1972年10月25日1970年代パのジャーナリスト,バングラ訪問─『ドーン』紙編集長と論説委員がこのほどバングラを訪問,ラーマン首相と会見。両氏の質問に対し,ラーマン首相は文書で回答,同文書は25日付『ドーン』紙に掲載された。その中でラーマン首相は,パとの関係改善を望むこと,またパがインド亜大陸に生起した現実を認めるべきことを強調。なお,パのジャーナリストがバングラを訪問したのは印・パ戦争以来初めて。
DIA-304-1972-10-26-1パキスタン1972年10月26日1970年代大統領,バングラ承認の訴え─ブット大統領はライヤルプールで演説,「バングラを承認するか否かは国民が決定することである。しかし,結局バングラ承認がわが国の利益にかなうことを国民が理解するものと確信する」と述べた。
DIA-304-1972-10-29-1パキスタン1972年10月29日1970年代PPP中央委員会は国会議員A.R.カスリ(前法相とは別人)を「執拗な反党活動」のため党から追放した。
DIA-304-1972-10-30-1パキスタン1972年10月30日1970年代スト禁止を勧告か─ハニーフ労相は記者会見で「閣議でスト禁止令を勧告する」と述べた。
DIA-304-1972-10-31-1パキスタン1972年10月31日1970年代M.ブット・スィンド州首相は,48時間内にストを中止しない労働者を解雇する許可を工場経営者に与えたと発表。
DIA-304-1972-11-01-1パキスタン1972年11月01日1970年代軍出動─カラチのランディー工業地帯でスト中の労働者と警官隊が衝突,後者の発砲により労働者7名死亡。鎮圧に軍出動。13日までに労働者の90%が就労したとの報道。
DIA-304-1972-11-01-2パキスタン1972年11月01日1970年代72年度(72年7月1日~75年6月30日)計画発表 以下内訳・単位1億ルピー
DIA-304-1972-11-02-1パキスタン1972年11月02日1970年代新国務相─ブット大統領はジャマール・ダール退役少将を国務相に任命。同日就任。辺境部族地域から中央政府閣僚が任命されたのはパ史上はじめて。
DIA-304-1972-11-06-1パキスタン1972年11月06日1970年代退官者に年金─政府は,去る3月13日以降に退職を命じられた州政府官吏・公社役人を含む政府関係官吏1,866名全員に対し,年金の給付を決定するとともに,非政府関係組織への就職禁止を撤回。
DIA-304-1972-11-06-2パキスタン1972年11月06日1970年代銀行借款団設立─政府の勧告に基づいて産業への融資を行なう。当初は2500万ルピーで発足。参加者はハビーブ銀行など5商業銀行。
DIA-304-1972-11-07-1パキスタン1972年11月07日1970年代政府,ベトナム民主共和国を承認。
DIA-304-1972-11-08-1パキスタン1972年11月08日1970年代政府,SEATO脱退─9日,ブット大統領はボンベイの『ブリッツ紙』との会見で,「わが国は適切な時期にCENTOからも脱退するだろう」と述べ,またバングラとの関係に進展がないことを認めるとともに,インドとの間に「直接的連絡手段(外交関係のこと)」を回復したいと述べた。
DIA-304-1972-11-09-1パキスタン1972年11月09日1970年代政府,朝鮮民主主義人民共和国を承認。
DIA-304-1972-11-11-1パキスタン1972年11月11日1970年代ワーリ・カーンNAP委員長,ペシャーワルの大衆集会で対政府協力を訴え。
DIA-304-1972-11-11-2パキスタン1972年11月11日1970年代ガンディー,パの硬化について─ガンディー・インド首相は会議派議員団の会合で,「シムラ協定以来パの態度が目に見えて硬化してきたため平和が回復しつつあるとは思えず,来年はインドにとって極めて厳しい年になろう。パの硬化の背後に諸大国の圧力があるかどうかは言えない」と最近にない厳しい発言を行なった。
DIA-304-1972-11-15-1パキスタン1972年11月15日1970年代政府,ドイツ民主共和国を承認。
DIA-304-1972-11-16-1パキスタン1972年11月16日1970年代大統領,北西辺境州遊説に出発(~26日)─ペシャーワル空港で演説,バングラ承認の必要を訴え,また,真の独立国になるには兵器の自給自足が必要だとし,そのために基幹産業に力を入れていると述べた。
DIA-304-1972-11-16-2パキスタン1972年11月16日1970年代ワーリ・カーン,NAP委員長に再選。書記長にはアジュマル・カッタク前書記。
DIA-304-1972-11-17-1パキスタン1972年11月17日1970年代スィンド州議会,州言語(Languages)適用法案可決。言語問題にケリ。
DIA-304-1972-11-18-1パキスタン1972年11月18日1970年代大統領,外圧を否定─ブット大統領はマルダンで演説,パは外国および軍部の圧力に従って支配領域ライン画定を引延ばしているとのインドからの非難を拒否,さらに,中国がバングラの国連加盟問題で拒否権を行使したのはパの要請によるものだと述べた。
DIA-304-1972-11-20-1パキスタン1972年11月20日1970年代民間人送還の提案インド・バングラ両政府はパ民間人および軍兵士の家族6,000名を送還する用意があると発表。翌21日,パ政府はこれを歓迎するとともに,パ在住ベンガル人婦女子1万人の帰国許可を決定。 12月29日,赤十字がこれらの人々のリストを作成中との報道。
DIA-304-1972-11-22-1パキスタン1972年11月22日1970年代大統領,ラーマン発言について─ブット大統領はD.I.カーン等で演説,「パが自らの誤ちを認めて謝罪すればバングラはパを許すかもしれない」との19日のラーマン・バングラ首相発言に対し,パとバングラの「双方とも誤ちをおかした」とし,パのバングラ承認前に会談に応じるようラーマン首相に呼びかけた。
DIA-304-1972-11-23-1パキスタン1972年11月23日1970年代政府,国連朝鮮統一復興委員会脱退を決定─政府はこの件をワルトハイム国連事務総長に伝え,開会中の国連総会に通達するよう同総長に要請した。
DIA-304-1972-11-25-1パキスタン1972年11月25日1970年代電話交換手9,000名スト突入(~28日)。逮捕者多数。
DIA-304-1972-11-27-1パキスタン1972年11月27日1970年代インド軍捕虜釈放─ブット大統領はインド軍捕虜616名全員をただちに釈放すると発表。これに対し,インド政府も西部戦線でとらわれたパ軍捕虜540名の釈放を発表。捕虜交換は12月1日,ワガ国境で行なわれた。
DIA-304-1972-11-28-1パキスタン1972年11月28日1970年代原子力プロジェクト完成─総費用4億5000万ルピーのカラチ原子力プロジェクト(KANUPP)の完成式が行なわれた。同プロジェクトは1962年に立案され,カナダからの援助4300万ドル等によって完成。出力137メガワット。
DIA-304-1972-11-28-2パキスタン1972年11月28日1970年代印・パ軍首脳会談─印・パ支配領域ライン画定会談行詰り打開のため,ラホールでマネクショー・インド陸軍大将とパのティッカ・カーン陸軍大将の会談が行なわれたが,物分かれに終わった。
DIA-304-1972-11-30-1パキスタン1972年11月30日1970年代PPP党大会(~12月1日,ラーワルピンディ)─ブット委員長は演説において,「PPPは回教社会主義を目指しているのであって共産主義を導入したいのではない。党内の極左分子は共産主義促進のために入党した日和見主義者である」として党内急進派を非難するとともに,次の選挙までの現段階ではこれ以上の改革は行なわないと言明した。この日,各州支部代表者(400名)や演説者の選定に細心の注意が払われたにもかかわらず,急進派と穏健派との対立が表面化。前者は党内対立と組織の弱さのため大衆が党から遊離しつつあると警告。また,党の政策批判の急先鋒であるカスリ前法相M.M.カーン前国務相,T.M.ランガ中央評議員は,代表選定方法に問題があるとして抗議の欠席。
DIA-304-1972-12-02-1パキスタン1972年12月02日1970年代バルーチスタンで略奪事件─中央政府はバルーチスタン州政府の要請で同州に辺境警備軍出動を許可。同州では武装したバグティ族とマリ族による略奪事件が多発している。
DIA-304-1972-12-03-1パキスタン1972年12月03日1970年代大統領,バングラについて─ブット大統領は,インドに抑留中のパ軍捕虜のうち250名が今月バングラに送られ,裁判にかけられるとの『イブニング・ポスト』紙の報道(2日)に関し,遺憾の意を表するとともに,パとバングラの会談がこれ以上おくれると事態はさらに悪化すると警告。
DIA-304-1972-12-05-1パキスタン1972年12月05日1970年代捕虜家族デモ─インドに抑留中のパ軍捕虜の家族数千名が各地からラーワルピンディに集結,バングラ承認,捕虜送還等を要求,約1,000名の婦女子を先頭にデモ。
DIA-304-1972-12-06-1パキスタン1972年12月06日1970年代砂糖,配給制に─政府は砂糖を1シーア(約900グラム)2.5ルピーで16日から配給制にすると発表。 砂糖は現在1シーア6ルピーにも達している例もあるが,2.5ルピー以上での販売は処罰されることになる。政府はさらに,砂糖の輸入は行なわないと発表。
DIA-304-1972-12-07-1パキスタン1972年12月07日1970年代『ドーン』紙編集長,釈放─同氏は去る2月4日,戒厳令に基づいて逮捕され,4月20日釈放されたが,釈放直後にパ国防規則によって再逮捕されていた。12月7日,スィンド・バルーチスタン州高裁は同氏の逮捕は違法として釈放を命じた。
DIA-304-1972-12-07-2パキスタン1972年12月07日1970年代印・パ軍首脳会談─マネクショー・インド陸軍参謀長とティッカ・カーン・パ軍陸軍参謀長の会談がラホールで開かれ,支配領域ラインについて合意に達した。
DIA-304-1972-12-08-1パキスタン1972年12月08日1970年代インド,パ軍捕虜抑留費を要求─ラム・インド国防相は下院で,捕虜釈放問題に関するパとの交渉において抑留費請求が行なわれようと述べた。インドはパ軍捕虜抑留に関し現在までに1280万インド・ルピーを費やしたという。
DIA-304-1972-12-09-1パキスタン1972年12月09日1970年代パキスタン・バングラ友好協会ウルドゥ語詩人で政治家のハビーブ・ジャリーブの提唱によりラホールで設立。バングラ承認を要求。会長はA.K.チョードリ(弁護士)。
DIA-304-1972-12-09-2パキスタン1972年12月09日1970年代ソ連地質相,来訪(~15日)─パ政府の招待でスィドレンコフ地質相(同相はソ・パ文化協会長)等3名のソ連代表団が来訪。12日,ブット大統領に会見。
DIA-304-1972-12-10-1パキスタン1972年12月10日1970年代対バンダラ一括交渉を希望─ブット大統領は米国『ニューズウイーク』誌10日版との会見で,「私はインドに国会を開いてバングラを承認すると伝えたが,非常な危険を惹起する恐れが強く,延期せざるを得なかった。また,私はバングラとは一括交渉を行ないたいと考えている」等と語った。
DIA-304-1972-12-11-1パキスタン1972年12月11日1970年代学生,警官と衝突─ラホールでバングラ承認反対を叫ぶ学生が警官隊と衝突,それぞれ19名,13名の負傷者を出した。
DIA-304-1972-12-11-2パキスタン1972年12月11日1970年代支配領域ライン地図,調印─スーチェトゥガルでハミード・カーン・パ陸軍中将とバガト・インド陸軍中将が支配領域ライン地図に調印。8月10日の両軍代表会談から122日,会談9回。調印後,A.アハマッド・パ外務次官は記者会見で次のように語った。①インドは,占領したジャム・カシミールのパ領土1,111km2のうち230.4km2を返還。パはインド領174.1km2のうち7.71km2を返還した。②パ側のものになった地域を考えると,71年戦争前の停戦ラインに比してパに有利になった。③この支配領域ラインは国境ではなく新停戦ラインであり,ジャム・カシミールの帰属が係争中である以上,最終的なものではない。なお13日,撤兵が開始された。21日完了予定,20日完了。
DIA-304-1972-12-14-1パキスタン1972年12月14日1970年代実績評価会議4日間にわたって開かれていた現政権の実績評価会議の終了にあたり,ブット大統領は()内のコメントを加えて以下のように今後の指示を与えた。①全地域の調和のとれた発展(パンジャーブ州が国庫に最も負担をかけているにしても,最大の寄与者でもある)。②混合経済の必要(現代では完全な社会主義とか完全に私企業に基づいた国家経済はまれである)。③庶民のための低廉な衣食住などの確保。他4項目省略。
DIA-304-1972-12-17-1パキスタン1972年12月17日1970年代バングラ承認急がず─ブット大統領は週刊『アクバレ・ジャハーン』紙との会見で,「バングラ承認は急がない。来年3月のバングラ総選挙を待って再検討する。それまではラーマン氏と会うことはない」と語った。
DIA-304-1972-12-20-1パキスタン1972年12月20日1970年代政党委員長暗殺─ラホールではバングラ承認反対デモ,警察への抗議デモが続いていたが,20日,アスガル・カーンの国民主権運動と一諸に抗議デモを行なった小政党のパ連合党委員長,K.M.ラフィーク(元パ民主党PDP幹部)が射殺された。ラホールではデモが禁止された。一方,ムルターンでも国民主権運動とPPPのデモ隊が衝突,15名負傷。
DIA-304-1972-12-20-2パキスタン1972年12月20日1970年代身分証明書─閣議は,18歳以上の国民に身分証明書所有を義務とすることを原則的に承認。政府は,証明書は配給,運転免許,旅券などの取得に役立つとしている。
DIA-304-1972-12-20-3パキスタン1972年12月20日1970年代政府は情報・放送省のラジオ・パキスタン局を分離,即日発効で法定公社とし,名称を“パキスタン放送公社”と変更。ただし,コール・サインはRadio Pakistanのまま。
DIA-304-1972-12-24-1パキスタン1972年12月24日1970年代ガッファール・カーン,帰国─北西辺境州の政治家ガッファール・カーン(もと“赤シャツ隊”指導者,ワーリ・カーンNAP委員長の実父)はアフガニスタンにおける8年間の亡命生活を終えて帰国。演説で,「私がヒンドゥー教徒の味方で,パの分離独立に反対したとの非難は根拠がない。ブット大統領に協力する」などと述べた。
DIA-304-1972-12-26-1パキスタン1972年12月26日1970年代捕虜釈放はバングラ承認待ち─シン・インド外相は,「もしパがバングラを承認すればバングラはパ軍捕虜釈放を承諾するだろう」と述べた。
DIA-304-1972-12-27-1パキスタン1972年12月27日1970年代印・パ首脳会談を希望─ブット大統領はフランスの『ル・モンド』紙との会見で,「シムラ協定に基づけば次は印・パ首脳会談のための予備会談を行なうのが筋である」と述べた。
DIA-304-1972-12-31-1パキスタン1972年12月31日1970年代憲法草案─憲法委員会は国会(30日開会)にパキスタン回教共和国憲法草案を提出。以下,要旨。①国会に対して責任を負う連邦議会制政府。②2院制。下院(国民議会─国会─,National Assembly)は定員200名。下院議員は国民の直接選挙で選出。上院は60名(各州14名,連邦首都圏2名,政府直轄少数民族地域2名)。上院議員は各州議会で選出する,等。上院議員は半数を2年ごとに改選。③国家元首は大統領(回教徒,45歳以上)。大統領は両院で選出。④行政首班は首相。首相は下院議員の絶対多数で選出。⑤各州議会定員は次の通り。パンジャーブ州200,スィンド州100,北西辺境州80,バルーチスタン州40。他に各州定員数の5%ずつの婦人議席をむこう10年間設ける。⑥各州に大統領任命の知事。⑦ジャム・カシミールとパの関係は前者がパに合併すると決定した時に前者人民の意志に基づいて決定する。⑧東パキスタン州における外国の侵略が除去されたあかつきには,同州人民が国事について代表を出し得るよう憲法を改正する。⑨現国会・州議会議員の任期は1977年8月14日までとし,その後の任期は5年。─なお,この憲法草案は278条から成り,憲法委員会は48回の会議(計170時間)を行なった。
DIA-304-1973-01-03-1パキスタン1973年01月03日1970年代野党,国民議会ボイコット-民族人民党(NAP)を初めとする諸野党は,パキスタン(以下,パ)人民党(PPP)の国民議会運営が非民主的であるとして,国民議会をボイコット。
DIA-304-1973-01-03-2パキスタン1973年01月03日1970年代大統領,バングラデシュについて-ブット大統領はカラチで演説,バングラデシュ(以下,バングラ)承認に反対する民衆の声に押され,“諸君があくまで反対なら,私もバングラ承認は反対だ”と述べた。さらに“パと回教徒ベンガルとの関係について,インドが内政干渉をするのは不当だ。パは南アジアにおいてインドが主導権を握るのは容認しない”とインドを非難した。
DIA-304-1973-01-05-1パキスタン1973年01月05日1970年代大統領,憲法について-ブット大統領は,“野党陣が国民議会ボイコットを続け,昨年10月の恒久憲法に関する協定に違反すれば,PPPだけで憲法採択に踏み切る””と述べた。6日,ワーリ・カーンNAP委員長は,“そのような憲法は北西辺境州とバルーチスターン州では無効である””と非難。
DIA-304-1973-01-06-1パキスタン1973年01月06日1970年代司法部独立ヘ-司法部を行政部から漸次独立させる法案が国民議会で採択された。
DIA-304-1973-01-07-1パキスタン1973年01月07日1970年代北京との航空路-パ国際航空(PIA)当局は,1月20日から,イスラーマバード経由北方ルートによる北京乗入れが開始されると発表。従来,北京乗入れをしていたのはソ連と北朝鮮のみ。
DIA-304-1973-01-09-1パキスタン1973年01月09日1970年代ルーマニアと国交樹立-8日,ブット大統領の招請によりチャウシェスク・ルーマニア国家評議会議長が来訪(~12日)。9日,国交樹立の調印,航空協定等調印,また,3月31日までに経済・技術協力協定を結ぶことで合意。10日,共同声明。
DIA-304-1973-01-09-2パキスタン1973年01月09日1970年代大統領,米国に不満-9日付ジャパン・タイムズ紙によれば,ブット大統領は以下の理由により米国に対する不満を公式・非公式に明らかにしているという。“(1)昨年6月ファーランド駐パ・米大使がイラン大使犯転任して以来,駐パ米大使が欠員のままである。(2)米国の対パ経済援助は対バングラ経済援助の5分の1にすぎない。(3)兵器供給要請に対する米国の反応が冷淡である”。
DIA-304-1973-01-10-1パキスタン1973年01月10日1970年代アフガニスタン,バングラ承認を決定(正式承認は2月18日)。
DIA-304-1973-01-11-1パキスタン1973年01月11日1970年代軍事友好代表団,訪中(~1月21日)-ティッカ・カーン陸軍参謀長を団長とする。国防省によれば,この訪中は友好諸国への代表団派遣シリーズ第1弾という。12日,ティッカ・カーン参謀長は張才千中国人民解放軍副総参謀長と会談,同夕,葉剣英中国軍事委員会副主席と会談。15日,周恩来首相,張才千,李達の両副総参謀長,韓念龍外交副部長が代表団と会見。
DIA-304-1973-01-12-1パキスタン1973年01月12日1970年代憲法で最高裁見解-最高裁は,“国民議会は東パ議員欠席のままで憲法を採択し得る”旨の見解を満場一致で採択した。
DIA-304-1973-01-15-1パキスタン1973年01月15日1970年代“単一民族”説を否定-NAPバルーチスターン州支部のK.B.マリ委員長はクエッタで演説,“わが国は単一民族国家ではない。各民族は自らの決定を下す権利を有する”と強調した。
DIA-304-1973-01-15-2パキスタン1973年01月15日1970年代綿花輸出政策再検討の要求-全パ織物工場協会は,“原綿価格が朝鮮戦争ブーム以来の高値を記録,1マウンド205ルピーに達しており,国内の加工業者が困っている”として輸出政策再検討を要求している。
DIA-304-1973-01-16-1パキスタン1973年01月16日1970年代パーレピ・イラン皇帝,来訪(~18日)-ブット大統領の招請による。
DIA-304-1973-01-17-1パキスタン1973年01月17日1970年代非常事態宣言について-ハッサン蔵相は記者会見で71年11月23日以来の国家非常事態宣言に触れ,次のように言明。“憲法が制定され,国家の安全と民主主義が保証されるまで宣言解除はない。解除を要求する人々は,解除のあかつきには,接収された自分たちの財産を裁判にかけてとり戻せると考えているようだが,接収されたものが再び彼らの所有物になることはない”。
DIA-304-1973-01-19-1パキスタン1973年01月19日1970年代英国,対パ貿易協定失効通告-英政府はEC加盟に伴い,パとの1951年貿易協定の2月1日終結を通告。これにより,パとの関税特恵措置等が無効となる。
DIA-304-1973-01-19-2パキスタン1973年01月19日1970年代PIAの北京-西独航空路-PIAは4月1日からフランクフルト―イスタンブール―イスラーマバード―北京路線を開設すると明らかにした。
DIA-304-1973-01-21-1パキスタン1973年01月21日1970年代大統領,バングラ承認の必要性を強調。
DIA-304-1973-01-23-1パキスタン1973年01月23日1970年代野党,国民議会ボイコット継続-ワーリ・カーンNAP委員長を座長とする諸野党調整委員会は,通常の立法府としての国民議会のボイコット継続を決定。2月17日開始の制憲議会としての国民議会に関しては未定。
DIA-304-1973-01-24-1パキスタン1973年01月24日1970年代“憲法協定は失効”-諸野党スポークスマンのハヤート・カーンは,“昨年10月の憲法協定は憲法草案作成のためのものであり,草案が出来た現在,効力はない”と述べた。これは,同協定は“最終的なもの”とした23日の大統領発言に対するもの。
DIA-304-1973-01-25-1パキスタン1973年01月25日1970年代バルーチスターン州で反乱-同州ラスベラー地域で,鉱山公営化,土地改革等に反対しているという諸部族の武装反乱が生じ,30日,中央政府は軍を派遣して鎮圧にあたった。同州では昨年12月頃から部族反乱が多く,武器密輸入や反PPP政治家逮捕が頻繁である。ビゼンジョー州知事(NAP)は,この反乱は同州に混乱を生ぜしめて大統領直轄令を布告し,同州政権を崩壊せしめるために中央政府のカユーム・カーン内相(QML,ムスリム連盟カユーム派)がたくらんだものと主張,中央政府に軍派遣を要請したことはないとしている。2月22日,政府筋はこの事件で57名が死亡したと発表。
DIA-304-1973-01-25-2パキスタン1973年01月25日1970年代シアヌーク政権承認-政府はカンボジア王国民族連合政府を承認した(パ政府はロン・ノル政権を認めていなかった)。27日,シアヌーク殿下は,“アジアの非共産国による承認は初めてで,極めて重大な意義を持つ”と語った。
DIA-304-1973-01-28-1パキスタン1973年01月28日1970年代大統領,野党と緊急会談-ブット大統領はワーリ・カーンNAP委員長およびビゼンジョー・バルーチスターン州知事と憲法問題で会談。翌日,ワーリ・カーンNAP委員長は記者会見で,“会談によって問題解決の糸口がつかめた”と語った。
DIA-304-1973-01-29-1パキスタン1973年01月29日1970年代ソ連船舶を警戒-最近のパ各紙は,スパイ活動設備を備えたソ連漁船がパ沿海に出没していると報じ,インド海軍と情報交換を行なっているとして警戒の色を強めている。また,ソ連船による近代的トロール漁法のため,パ近海の魚類は一掃されつつあるという。
DIA-304-1973-01-30-1パキスタン1973年01月30日1970年代パンジャーブ州議会副議長によれば,70年7月1日の西パ統一州廃止以来,3,725名のパンジャーブ出身役人がバルーチスターン州から戻った。
DIA-304-1973-01-30-2パキスタン1973年01月30日1970年代アタイ・イラン海軍最高司令官,来訪(~2月6日)。
DIA-304-1973-02-02-1パキスタン1973年02月02日1970年代憲法草案提出-制憲議会としての国民議会が開かれ,憲法草案が法案の形で正式に提出された。その後,国民議会は休会となり,2月17日から憲法草案の審議の連び。なお,野党は1日,制憲議会ボイコットを中止,本日の国民議会に出席した。
DIA-304-1973-02-03-1パキスタン1973年02月03日1970年代ラスベラーの反乱活動停止-4日,政府と反徒側の会談。7日,反徒側,政府に武器提出。
DIA-304-1973-02-04-1パキスタン1973年02月04日1970年代ワーリ・カーン,記者会見-ワーリ・カーンNAP委員長は席上,“憲法は個人または特定政党を強化するものであってはならない。中央政府のバルーチスターン,北西辺境両州に対する態度は敵対的だ”と語り,さらに,ヤヒア前大統領公判を要求。
DIA-304-1973-02-04-2パキスタン1973年02月04日1970年代法相,訪ソ(~8日)-ソ連の招請でピールザーダ法相がブット大統領特使として訪ソ。5日,グロムイコ外相と会談。7日,コスイギン首相および同外相と会談。消息筋によるとパ側はインドに抑留中の捕虜送還に協力を要請したが,ソ連側はパのバングラ承認が先決と回答したという。この後,ピールザーダ法相は15日まで訪英。
DIA-304-1973-02-05-1パキスタン1973年02月05日1970年代“ドーン”紙のガウファル編集長,釈放(18ヵ月ぶり)。14日,再逮捕。言論の自由を求めて各紙,政府非難。4月17日,大統領命令で釈放。
DIA-304-1973-02-05-2パキスタン1973年02月05日1970年代ラハマーナ・イラン首相特別顧問,来訪(~9日)。
DIA-304-1973-02-06-1パキスタン1973年02月06日1970年代内相,ラスベラー事件について-カユーム・カーン内相は記者会見で,“中央政府のバルーチスターン派兵はブローヒ,メンガル,ビゼンジョー等の諸部族の民兵とラスベラー住民の衝突を防ぐためだった。バルーチスターン州政府はラスベラー事件を“反乱”としているが,同州のNAP政権が州議会野党を制圧するためにおこしたものだ”と語った。
DIA-304-1973-02-07-1パキスタン1973年02月07日1970年代ワルトハイム国連事務総長,来訪-滞在中,アハマッド新国防・外務担当国務相(7日就任),ブット大統領と会談。9日,バングラ訪問直前のあいさつで,“印・パ・バングラ3国会談の機は熟していない”と語った。
DIA-304-1973-02-09-1パキスタン1973年02月09日1970年代バルーチスターン州首相,民兵動員を認む-カラチで入院中のメンガル首相は記者会見で,中央政府のラスベラー派兵に対応して数千人の部族民兵に州政庁を守らせたことを明らかにした。これらの民兵はメンガル,ビゼンジョー,スマラーリ,ギルグナーリ,ムハマッド・ハースニ,バングルザーイ,ザラクザーイ,シャーワーニ,ミルワーリ,カーカルの諸部族の者という。
DIA-304-1973-02-10-1パキスタン1973年02月10日1970年代イラク大使館で武器発見ーイラク大使館で軽機関銃300丁,手榴弾40個,弾薬等が発見され,押収された。 また同日,イスラーマバード空港でイラク外務省マーク入りの武器3袋が押収された。これらの武器のほとんどはソ連製。外務省によれば政府がある種の情報に基づいて共同捜査をイラク大使に申し入れたが拒否されたため,パ警察が一方的に手入れを行なった。政府はヒクーマット大使等,駐パ・イラク大使館員に国外退去を命令。
DIA-304-1973-02-12-1パキスタン1973年02月12日1970年代ビゼンジョー・バルーチスターン州知事,中央政府を非難-同知事は,NAP-JUI連立州政権に反対する分子が同州政府および北西辺境州政府を崩壊せしめ,大統領制による新政府を樹立する工作を進めていると非敵した。(JUI=イスラーム・ウラマー党)
DIA-304-1973-02-13-1パキスタン1973年02月13日1970年代スィンド州知事,辞任-R.B.タールプル州知事(PPP)は,彼の実兄で国会議員のM.A.A.タールプルが“反国家的活動をしている”とのM.A.ブット同州首相の非難に抗議して辞任。ブット大統領は後任としてリアーカット・アリ・カーン元首相夫人を任命(15日就任)。
DIA-304-1973-02-13-2パキスタン1973年02月13日1970年代全銀行・外為取扱機関,閉鎖(~15日)-13日の米ドル10%切下げに伴う措置。米ドル切下げにより,1米ドル=9.90ルピーとなったが,政府当局は,米ドル切下げでパに不利益はないとしている。
DIA-304-1973-02-13-3パキスタン1973年02月13日1970年代イラク政府,駐イラク・パ大使館員に国外退去を命令-テヘラン筋によれば,イラク政府は同日,イラン人2名,パ人3名をスパイ容疑で逮捕するとともに,在イラクのパ人全員にも国外退去を命令した。
DIA-304-1973-02-14-1パキスタン1973年02月14日1970年代州知事など解任-ブット大統領はバルーチスターン州のメンガル首相(NAP)以下全閣僚を解任,同州に30日間の大統領直轄令を布告するとともに,同州のビゼンジョー知事および北西辺境州知事(ともにNAP)も解任し,S.アクバル・カーン・バグティー(バグティー族長)およびM.A.K.カッタク(PPP,パターン人)をそれぞれ新知事に任命した(15日就任)。16日,北西辺境州のM.M.マハムード(JUI)内閣はこの措置に抗議して辞任。
DIA-304-1973-02-14-2パキスタン1973年02月14日1970年代この日のBBC放送がバルーチスターン指導者の言として伝えるところによると,同州の反徒2万人がイラク大使館で発見されたものと同種の武器で武装しているという。これに加え,彼らはアユーブ大統領時代のバルーチスターン反乱(1966年)に用いられたライフル303丁等も所有しているという。
DIA-304-1973-02-14-3パキスタン1973年02月14日1970年代北朝鮮外相,来訪(~20日)-許淡北朝鮮外相は中国訪問の後,金日成首相特使として来訪。16日,アハマッド国防・外務担当国務相と,18日にはブット大統領と会談。
DIA-304-1973-02-16-1パキスタン1973年02月16日1970年代M.M.A.カスリ前法相,PPPから除名さる。
DIA-304-1973-02-17-1パキスタン1973年02月17日1970年代PIA 1番機,北京着-カラチーイスラーマバード―北京-上海航空路開設に伴い,PIAの1番機でブット大統領夫人,ニアーズィ情報相等が訪中(~22日)。19日,周恩来首相による盛大な宴会。席上,同首相はパ支持を改めて強調するとともに,“諸勢力が転覆活動によってパの安全と南アジアの平和に脅威を与えている”と述べ,暗にソ漣を非難した。22日,インドのシュクラ国防生産相は,“ブット夫人とティッカ・カーン陸軍参謀長(パ紙は彼の名を発表しなかった)の訪中は,武器購入が目的であらたど述べた。
DIA-304-1973-02-20-1パキスタン1973年02月20日1970年代パ人,インド高等弁務官府を襲撃-ロンドンのインド高等弁務官府が“黒い12月”と称する組織のパ人3名によって襲撃された(2名。射殺)。名乗り出た男によると,今回の襲撃は,“パの失った威信を回復し捕虜問題に世界の目を向けさせるため”であり,ざらに(今後もインドおよびソ連の外交官と施設を攻撃するという。
DIA-304-1973-02-21-1パキスタン1973年02月21日1970年代ブット大統領,武器・弾薬不法所持者に7年の懲役刑を課す法令を公布。
DIA-304-1973-02-23-1パキスタン1973年02月23日1970年代イラン,大量の武器購入-イランは20億ドルにのぼる武器を米国に発注した(向う7年払い)。米国防省によると従来にない大量の武器供与であるという。これに対しインドは,これらの武器の一部がパに回されるとして警戒している。5月21日,米政府は従来500人だった米国のイラン駐在軍事委員を夏までに1,100人にすると決定。
DIA-304-1973-02-24-1パキスタン1973年02月24日1970年代R.J.ハンクス米海軍少将(中東艦隊司令官)来訪-H.H.アハマッド海軍中将(海軍参謀長)等と会見。
DIA-304-1973-02-25-1パキスタン1973年02月25日1970年代上位22財閥,自己資産は8億5270万ルピーと承認。現実にはこれよりさらに多額といわれる。
DIA-304-1973-03-01-1パキスタン1973年03月01日1970年代野党,統一戦線結成-イスラーマバードで8政党と無所属政治家グループが“統一民主戦線(UDF)”と称する統一戦線を結成した(正式発足は13日)。同戦線は,各グループ4名ずつの代表で構成され,10名編成の行動委員会が統一戦線中央委員会としての機能を果たす。行動委員長はピール・オブ・パガーロ・シャリーフ(QMLピール・パガーロ派,反主流)。参加者は無所属政治家のほか,NAP,JUI,パキスタン・ウラマー党(JUP),パキスタン民主党(PDP),ジャマーテ・イスラーミ(JI),ムスリム連盟大会派(PML Con.),同連盟評議会派(CML),カークサール運動(KT)である。国民主権運動(TI)は参加していない。なお,新結成のUDFは1日,“イスラーマバード宣言””と称し,以下の12項目を採択した。①愛と協力,パ統一の擁護,②連邦制,議会制を保証する回教的民主憲法,③基本的人権,所有権擁護,④独裁根絶,⑤州自治擁護,⑥インド抑留中の捕虜送還の努力,⑥非常事態宣言解除の要求,等。
DIA-304-1973-03-02-1パキスタン1973年03月02日1970年代ゲリラ指導者,逮捕-バルーチスターン州マリ族ゲリラ(2万人)指揮者のS.M.マリ等が逮捕された。“ドーン”紙によれば,S.M.マリは昨年,アフガニスタン,イラク,英国等を歴訪,秘密裡に武器を調達するとともに,帰国後,同州NAP政権の協力でゲリラを養成していたという。
DIA-304-1973-03-02-2パキスタン1973年03月02日1970年代ファン・ヤン・ポプ北朝鮮最高人民会議常任委員長,来訪(~3日)。
DIA-304-1973-03-02-3パキスタン1973年03月02日1970年代編集長逮捕-4日,反政府“ジャサーラット”で紙編集長が逮捕され,11日,同紙は2ヵ月の発禁処分。また,9日,“フロンティア・ガーディアン”紙編集長6ヵ月の禁固刑。
DIA-304-1973-03-06-1パキスタン1973年03月06日1970年代外務担当相,訪米(~10日)-アハマッド国防・外務担当国務相とカール・パンジャーブ州知事が訪米。7日,ニクソン大統領と会談。9日,軍事援助問題で米当局者と会談。
DIA-304-1973-03-07-1パキスタン1973年03月07日1970年代ソ連経済代表団,来訪(~18日)-団長,I.K.ミネエフ。10日,パ政府との間にバングラ分債務の返済義務免除の協定に調印。
DIA-304-1973-03-07-2パキスタン1973年03月07日1970年代陸軍参謀長,回教2ヵ国歴訪(~20日)-ティッカ・カーン陸軍参謀長はヨルダン,サウディ・アラビアへ計2週間の親善訪問に出発。
DIA-304-1973-03-08-1パキスタン1973年03月08日1970年代チェコ経済代表団,来訪-10日,パ政府との間にバングラ分債務の免除協定に調印。
DIA-304-1973-03-14-1パキスタン1973年03月14日1970年代米,対印・パ武器禁輸を緩和―米政府は71年印・パ戦争以来,両国への武器輸出を全面禁止していたが,今回,印・パ戦争以前に契約していた“非殺傷用”武器1410万ドル分をパに供給し,一方,インドには数年前供給したレーダーの部品のみを輸出する旨,発表。
DIA-304-1973-03-15-1パキスタン1973年03月15日1970年代UDF,憲法草案改訂要求-UDFは計31ヵ条から成る11項目の憲法草案改訂要求を大統領に提出すると発表(17日,提出。24日,要求書公表)。(参考資料,“野党へのブット大統領覚書き”参照。)
DIA-304-1973-03-15-2パキスタン1973年03月15日1970年代大統領,インドに呼びかけ-ブット大統領は,武器禁輸緩和の米政府決定に“大げさに反応せず”パに来て会談を行なうよう,ガンディー首相に呼びかけ。
DIA-304-1973-03-16-1パキスタン1973年03月16日1970年代バルーチスターン州の州知事直轄,1ヵ月延長-2月14日の大統領直轄はいつの間にか州知事直轄に変えられていたが,この日,1ヵ月間延長された。なおこの日,同州各地で抗議行動が行なわれた。
DIA-304-1973-03-17-1パキスタン1973年03月17日1970年代国防学院研究代表団,訪中(~24日)-団長はラヒームッディーン・カーン准将。
DIA-304-1973-03-18-1パキスタン1973年03月18日1970年代バングラ首相,パを非難-ラーマン・バングラ首相は,パのバングラ未承認を非難,また,在バングラのビハール人25万を引受けず,在パ・ベンガル人30万を送還ぜねば紛争を招くことになると警告。さらに同首相は,“大国は武器を売るべきではない”と3月14日の米政府発表を非難した。
DIA-304-1973-03-18-2パキスタン1973年03月18日1970年代中国,対パ武器供与-英紙“サンデー・テレグラフによると中国はこのほどパ・T-59型戦車約100輌,ミグ21型戦闘機約30機を供与することに同意。
DIA-304-1973-03-20-1パキスタン1973年03月20日1970年代大統領,野党非難-ブット大統領は19日のUDFの制憲議会ボイコット示唆を非難すると共に協力を呼びかけた。なお,この日までに憲法草案の4分の1が議会を通過している。
DIA-304-1973-03-21-1パキスタン1973年03月21日1970年代漁業専管水域50カイリに-ブット大統領は沿海でのソ連トロール船操業に鑑み,漁業専管水域を12カイリから50カイリに拡大すると布告。
DIA-304-1973-03-22-1パキスタン1973年03月22日1970年代対パ債権国会議,パリで開催(~23日)-パは同会議諸国に対し,①対外債務(総計約34億ドルが累積)返済の30年間繰延べ,②対外債務中,バングラ分(全体の33%と推定)の免除,③6億ドルの新規援助を求めた。しかし,上記主題に関する決定は延期された。
DIA-304-1973-03-23-1パキスタン1973年03月23日1970年代UDF集会で発砲-ラーワルビンディで開かれていたUDF集会で発砲事件が生じ,政府発表で7名死亡,75名負傷。同発表では,警官の規制に対しNAP労働者が発砲したという。一方,UDFによれば,PPP過激派が発砲したもので,13名死亡,100名負傷。
DIA-304-1973-03-26-1パキスタン1973年03月26日1970年代UDF,制憲議会ボイコット-UDFは憲法草案改訂を要求して制憲議会ボイコットを開始。一方ブット大統領は,野党がボイコットをやめれば協議に応じるとしている。
DIA-304-1973-03-27-1パキスタン1973年03月27日1970年代与党議員,制憲議会ボイコット-6名のPPP議員が,最近PPPから追放されて無所属となっているA.R.K.カスリおよびM.M.A.カスリ前法相(後者は2月16日追放)とともに,“非回教的,非民主的,非道徳的憲法の国民への押しつけに加担し得ない”としてボイコットを開始した。
DIA-304-1973-03-27-2パキスタン1973年03月27日1970年代CENTO会議(~28日)-ワシントンで第24回軍事委員会が開かれた。パ代表団長はティッカ・カーン陸軍参謀長。
DIA-304-1973-03-29-1パキスタン1973年03月29日1970年代大統領,野党に協議を呼びかけ-ブット大統領は全国放送を行ない,次のように述べた。(1)野党指導者と4月2日に話し合う用意がある。しかし,協議はこれが最後で,その成否に関係なく憲法はPPPだけででも採択する。(2)選挙管理内閣をつくって総選挙を行なうなどということを憲法の条項にせよなどとは気違いざただ。(3)州自治問題はすでに解決した。(4)UDFなるものは政府を脅迫するために結成された組織であり,認められない。
DIA-304-1973-03-30-1パキスタン1973年03月30日1970年代クーデター計画-国防省はクーデター計画をたてた軍人グループを逮捕。5月12日,同省は同計画の内容を明らかにした。それによると,3月末以来の逮捕者40名には,准将2名,退役准将1名,退役大佐1名,中佐4名,少佐17名等(以上,全員陸軍)が含まれる。彼らは,憲法が採択されないうちに,4月11~21日の間を狙って政権を奪取することを企図した。この時期は高級将校たちが会議で首都に赴く時期でもあったという。
DIA-304-1973-04-02-1パキスタン1973年04月02日1970年代大統領,野党と会談-ブット大統領は憲法草案について野党代表団と会談したが結論なく,4日に再会談。4日に大統領は野党に覚書き(参考資料参照)を提出,“覚書き中の譲歩は野党が4月7日から制憲議会に出席することを条件とする”とし,ボイコットが停止されなければ与党だけで憲法採択を強行するとした。
DIA-304-1973-04-03-1パキスタン1973年04月03日1970年代インド,“ラザカール”をバングラに引渡し-インド政府は,バングラからネパール経由でパに逃亡しようとし,インド情報局員に逮捕されたラザカール(71年にパ陸軍が組織した民兵。主にビハール人から成る)300人中162名(25日,さらに99名)を裁判のためバングラ政府に引渡した。(彼らはバングラで捕われたいわゆる“戦争捕虜”とは別扱いのもよう。)
DIA-304-1973-04-03-2パキスタン1973年04月03日1970年代ソ連漁船,引揚げ-ロジョノフ駐パ・ソ連大使は,3月21日のブット大統領布告に対し,ソ連トロール船をパ沿海から引揚げたとパ政府に通告。パ政府は,この措置を“友好的”として高く評価,“パ漁民の苦悩は緩和されよう”と述べた。
DIA-304-1973-04-06-1パキスタン1973年04月06日1970年代UDF,大統領提案を拒否-UDFは4日の大統領覚書き(4月2日参照)中の提案は“欺瞞に満ちており,首相に権限を集中する憲法は独裁的でしかない”としてこれを拒否,制憲議会ボイコット継続を発表。
DIA-304-1973-04-06-2パキスタン1973年04月06日1970年代大統領,バルーチスターン州および北西辺境州の対中央政府債務の免除を発表。
DIA-304-1973-04-09-1パキスタン1973年04月09日1970年代与野党代表緊急会談-この日,制憲議会は憲法草案第2回審議を完了し,第3回審議を開始。夜,ピールザーダ法相は明10日の憲法草案採択に備え,野党に会談を申し入れ,同法相とガッフール・アハマッドUDF書記長の会談が実現した。会談内容は不明。
DIA-304-1973-04-10-1パキスタン1973年04月10日1970年代新憲法採択さる(参考資料参照)-午前中,ブット大統領と野党指導層との会談が行なわれ,会談後,野党陣は制憲議会ボイコット打切りを発表。午後,出席128国民議会議員中,賛成125,反対3で新憲法が可決された。採択直前に,9~10日の与野党緊急会談に従って憲法案に8カ所の末梢的改訂が加えられた。12日,ブット大統領は新憲法承認の署名を行なった。同日,NAPのK.B.マリとA.H.バルーチー,PPP“反乱分子(3月27日参照)”等,計8名を除く137名が新憲法に署名した。
DIA-304-1973-04-10-2パキスタン1973年04月10日1970年代アハマッド海軍参謀長,スリランカ訪問-スリランカ海軍最高司令官の招請による。
DIA-304-1973-04-14-1パキスタン1973年04月14日1970年代ポーランド,“東パ”のため使用の対パ借款債務を免除。
DIA-304-1973-04-14-2パキスタン1973年04月14日1970年代マリル・アルバニア副外相,来訪(~18日)-14日,記者会見で,カシミールおよびバングラ問題でパへの支持を表明。
DIA-304-1973-04-15-1パキスタン1973年04月15日1970年代人口統計-カユーム・カーン内相発表によれば,パ人口は72年9月現在で6489万(男性3441万7000。女性3047万3000)人。 61~72年の人口増加率は51~61年Q 27.1%に対し,51.33%にも及ぶという。
DIA-304-1973-04-15-2パキスタン1973年04月15日1970年代大統領,インドに呼びかけ-ブット大統領はガンディー・インド首相に,会談のためパを訪問するよう招待の意を表明。
DIA-304-1973-04-17-1パキスタン1973年04月17日1970年代捕虜問題でインド・バングラ共同宣言-インド,バングラ両政府は,“戦犯裁判に必要な者(バングラ政府によると195名)を除くパ軍人捕虜および文民捕虜(前者7万5000,後者1万7000名といわれる),パに抑留中のベンガル人(バングラ政府は40万,国際赤十字は16万としている),バングラにいるパ人(ビハール人26万およびパ文民若干をさす)の同時送還”を骨子とする共同宣言を発表した。同宣言は,“バングラ政府は対等の主権を基盤にしない限り,パと交渉することはできない”として,バングラ承認要求の立場をくずしてはいないが,文面では,これまでパ人捕虜送還の条件となっていたパのバングラ承認が落とされている。
DIA-304-1973-04-19-1パキスタン1973年04月19日1970年代イラク教育相,来訪(~23日)-A.S.ジャワリ・イラク教育相が来訪。滞在中,アハマッド国防・外務担当相等と会談,23日付共同声明(25日発表)は,両国代表団が“両国関係を損じた遺憾な状況”を検討し,国交正常化を強く希望したことを明らかにしている。
DIA-304-1973-04-20-1パキスタン1973年04月20日1970年代政府,インド・バングラ宣言に回答-以下要旨。(1)インドは1949年ジュネーブ協定に基づき,パ捕虜を早急に一方的かつ無条件に送還すべきだ。(2)ダッカ当局はパ戦犯裁判を行なう法的根拠を持たない。いわゆる戦争犯罪はパ領土内で生じたものであり(当時バングラが東パだったことを指す),裁判権はパにある。(3)パはパ在住ベンガル人のうち反逆罪等で裁かれるべき者の裁判を差し控えてきたが,デリー宣言の諸条件はこのわれわれの自己抑制の継続を不可能にするであろう。(4)“バングラにいるパ人”という少数民族を彼らの居住地から追放してパに引受けさせようという主義は途方もないことだ。(5)これらの問題にもかかわらず,パ政府はデリー宣言を,パによる印・パ間対話の呼びかけにこたえたものと考え,さらに話を詰めるためにインド政府代表をパに招待することに決定した。これに対し,25日の全インド放送によるとインド政府筋は,“パはパ人捕虜送還とパのベンガル人送還という2方向の送還しか受け入れていない。パが在バングラ・パ人の受け入れも含む3方向送還の原則に同意せぬ限り,代表をパに送るのは問題外だ”と語った。
DIA-304-1973-04-21-1パキスタン1973年04月21日1970年代バングラ市民権剥奪-バングラ政府は,パ政府のヌールル・アミーン副大統領,R.T.ロイ観光相,マハムード・アリ監獄相など39名のベンガル人政治家めバングラ市民権を剥奪した(25日,さらに4名)。
DIA-304-1973-04-25-1パキスタン1973年04月25日1970年代アスガル・カーンTI委員長,PPPの“反乱分子”と会談。5月2日,これらの“反乱分子”は“PPP綱領派”を自称し,TIおよびUDF支持を表明した。
DIA-304-1973-04-25-2パキスタン1973年04月25日1970年代米国務次官,来訪(~27日)-南アジア諸国およびアフガニスタン歴訪中のラッシュ米国務次官は21日ニューデリーで,“パへの武器供与をしないとの約束はしない”と語った。25日,パに来訪。26日,まずアハマッド外務・国防担当相と会談,続いてブット大領統等と会談。
DIA-304-1973-04-27-1パキスタン1973年04月27日1970年代バルーチスターン州首相等,就任(参考資料参照)。
DIA-304-1973-04-29-1パキスタン1973年04月29日1970年代北西辺境州首相等,就任(参考資料参照)。
DIA-304-1973-04-29-2パキスタン1973年04月29日1970年代労相,訪ソ(~5月6日)-ハニーフ労相はメーデー参加のため訪ソ。帰国後,ソ連は石油・鉱物資源開発について技術協力の意向を示していると語った。
DIA-304-1973-04-29-3パキスタン1973年04月29日1970年代アッサル・CENTO事務局長,来訪(~5月4日)。
DIA-304-1973-04-30-1パキスタン1973年04月30日1970年代自動車公社設立決定-J.A。ラヒーム商業・生変相は,自動車産業の合理的成長のため,“パ自動車公社(P.A.C.)”の設立を決定したと発表,資本金10億ルピー。5月10日,発足。
DIA-304-1973-04-30-2パキスタン1973年04月30日1970年代石油探査協定-政府は米国AMOCO社およびフランスのTOTAL社との間に,8年間の石油探査協定を結んだ。
DIA-304-1973-05-03-1パキスタン1973年05月03日1970年代ニクソン米大統領外交教書-同大統領はこの中で南アジアに関し次のように述べた。(1)パが国家としての統一を固め,経済を回復し,世界の民主陣営に位置を占めることを望む。ブット大統領は同国民の自信を大胆な改革によって回復した。(2)印・パに対して非殺傷武器供与を続けるが,両国の軍備拡大競争に参画しているわけではない。(3)南アジアの中小国を米の影響圏とは考えない。米は南アジアにおいて経済的・戦略的特権を持つことに関心はないが,他の大国もそれを求めないでほしい。(4)インド,パ,バングラの正常化は,インドによるパ捕虜送還,パとバングラの外交関係樹立と貿易再開にかかっている。ブット大統領は捕虜送還を要求し続けてきたが,インドはバングラの同意なくして送還することを拒否してきた。ラーマン首相は最近までパのバングラ承認が先決としていた。しかし先月,難局打開への新たな努力がなされた。(5)インドが,主要諸国との間に持つ連帯関係で米国に敵対的なものに束縛されないよう望む。インドは南アジアの安定に関し重要な決定要因であり,わが国はそのことに関心を有する。インドが国内論争で米国をスケープゴートに使うことは米・印関係改善に役立たない。
DIA-304-1973-05-06-1パキスタン1973年05月06日1970年代ベンガル人を収容-パ警察はイスラーマバードの低所得者住宅に,1戸あたり3家族ずつの居住を命じられていたベンガル人6,000人のうち数百ないし数千人を強制収容所に移した。政府筋によると,彼らは最終的にはバングラに送還するために検束・収容されたという。また,7日付“タイムズ”紙によると,71年印パ・戦争前後に反国家活動をしたと目されるベンガル人たちは,パンジャーブ州や北西辺境州の収容所に移送されつつあり,いずれ裁判にかけられるという。
DIA-304-1973-05-06-2パキスタン1973年05月06日1970年代UDF,イラン皇帝発言に反ぱつ-パーレビ・イラン皇帝は今週の“ニューヨーク・タイムズ”紙との記者会見で次のように述べた。“イランは西においては中東問題とイラクとの対立に面し,東側にはバラバラになる兆しを見せているパがある。だからこそ自衛力達成に努めているのだ。CENTOは歓談のためのクラブにすぎなかった。…イラクはペルシャ湾沿岸のアラブ諸国における転覆活動を奨励し,イラン東南部とパ西南部のバルーチー民族の間に混乱を起こそうと努めている。…基本的問題は,パが完全に崩壊するのを防ぐことだ。私はインドに対し,パの不安定な政府が北西辺境州とバルーチスターン州の自治運動をコントロールするのを手助けするよう要求している。もしパが分裂すればベトナムの再現となってしまう。…もしそうなれば,わが国がやれる最低のことはバルーチスターンにおける自衛的対応であろう”。この発言に対し,UDFは6日,“内政干渉である”と反ぱつし,“にもかかわらず政府はイランに何の釈明も求めていない”と非難,この件で特別国会を要求。7日,イラン各紙は,“パの最大の友人であるイラン皇帝の言は内政干渉ではあり得ない”と反論。
DIA-304-1973-05-06-3パキスタン1973年05月06日1970年代スィンド州首相,訪欧-M.A.ブット・スィンド州首相は大統領特使としてイタリア,フランス,西独を歴訪。インド亜大陸問題でパの立場を説明。
DIA-304-1973-05-08-1パキスタン1973年05月08日1970年代UDF,13項目要求-4日から行動委を開いていたUDFは会議終了に際し,政府に13項目を要求したことを明らかにした。以下,主要項目。①憲法のすみやかな実施,②非常事態宣言解除,③政府消費抑制を含む段階的インフレ・チェック,④バルーチスターン,北西辺境両州のNAP-JUI連合政権回復,⑤新たな総選挙,⑥全政治犯釈放。なお,NAP決議(5日)が要求するCENTO脱退は入っていない。
DIA-304-1973-05-08-2パキスタン1973年05月08日1970年代政府,イランの友好を強調-政府は,野党のイラン皇帝非難キャンペーンに鑑み,要旨以下の声明を発表。“パの隣接5カ国のうち一貫してパを支持してくれたのはイランと中国だけだ。イランは(インドから見て)奧行きの浅いパにとって戦略的後背地を提供してくれている。わが国の航空機は戦時下ではイランに避難しなければ容易に敵のえじきになるし,カラチ湾も攻撃されやすいため,海の防衛にしてもイランからの物資供給が不可欠だ。イランは65年と71年の印・パ戦争中,他のどの回教国よりも多くの物的援助をしてくれた。イランは領土的野心を持っておらず,皇帝発言はパを心配してのことだ。パの敵はこのようなパとイランの友好に水をさすのを目的としている。”
DIA-304-1973-05-09-1パキスタン1973年05月09日1970年代UDF,“民主主義回復闘争”を開始-この日,スィンド州ハイダラバードで大集会が開かれ,闘争が開始された。
DIA-304-1973-05-09-2パキスタン1973年05月09日1970年代イラン,鉄道網拡張計画-イランは4億2000万ドルをかけて数年内にイラン鉄道網を外国のものと接続し,ロンドン-イスタンブ-ル-テヘラン-ラホ-ル-ニュ-デリ-カルカッタを結ぶ鉄道にしたい希望であるという。これは,今週開催された第13回中近東鉄道会議でイラン代表が明らかにしたもの。なお,同会議出席国はトルコ,レバノン,シリア,ヨルダン,イラン,イラク。
DIA-304-1973-05-10-1パキスタン1973年05月10日1970年代UDF指導者,逮捕-10日から13日にかけて国民議会議員を含むUDF指導層14名がパ国詩法によって逮捕された。
DIA-304-1973-05-10-2パキスタン1973年05月10日1970年代大統領,イラン訪問(~14日)-ブット大統領はパーレビ・イラン皇帝の招待で,ラヒーム大統領府担当相,アハマッド国防・外務担当国務相にカール・パンジャーブ州知事等53名を随員としてイランを公式訪問(大統領就任以来3度目)。この訪問は4月7~11日に予定されていたが,3月のクーデター計画発覚事件のため延期されていた。滞在中,パーレビ皇帝等と会談。
DIA-304-1973-05-10-3パキスタン1973年05月10日1970年代国防学院代表団,訪中(~19日)-中国の招請によりN.A.チョードリ少将以下14名。
DIA-304-1973-05-10-4パキスタン1973年05月10日1970年代カユーム・カーン内相,サウジアラビアへ1週間の公式訪問。
DIA-304-1973-05-11-1パキスタン1973年05月11日1970年代連邦保安隊-ブット大統領は,法と秩序維持のため行政府と警察に助力することを目的とした連邦保安隊(FSF)設立のための大統領令を布告。6月1日,国民議会で法案可決。
DIA-304-1973-05-11-2パキスタン1973年05月11日1970年代パ捕虜裁判問題で提訴-政府は,バングラによるパ捕虜裁判のためインドがパ捕虜をバングラに引き渡そうとしているが,これは1949年ジュネーブ協定違反だとして国際司法裁に提訴した。政府は,これらの捕虜の裁判権はパにのみ属するとしている。この提訴に開し,インドは,“パはシムラ協定から逸脱しつつある”と非難している。6月18日,国際司法裁,審議延期発表。
DIA-304-1973-05-11-3パキスタン1973年05月11日1970年代インド,対パ代表団派遣を拒否(4月20日参照)。
DIA-304-1973-05-11-4パキスタン1973年05月11日1970年代イラン皇帝発言-パーレビ皇帝はブット大統領との宴席で,“われわれはバングラと称される国をパより先に承認することはない”と述べ,さらに“パ国内の分離運動はわれわれにとっても重荷である”と語った。また同国王は,12日発行のThe Point誌上で,“イランはパを崩壊せしめようとの企図は受容できない。諸大国とインドはそのことを知っておくべきだ。…諸大国は私と友好関係を持つことが私にかなうことを知っている。…独立国とは武装国だ。…私が諸大国に対し,私かペルシャ湾地域の安全をつかさどることにしたことを理解させておいた”と述べた。
DIA-304-1973-05-14-1パキスタン1973年05月14日1970年代イラン・パ共同コミュニケ―ブット大統領の訪問終了に際し,インドにパ捕虜無条件釈放を,バングラに戦犯裁判計画取りやめを要求する共同コミュニケが採択された。同コミュニケはまた,相互の独立と領土防衛のために協力し合うこと,RCD(“地域開発協力機構”-イラン,トルコ,パで構成)の機能促進のために両国間に閣僚委員会(年1回以上会合)を設置すること等を明らかにしている。
DIA-304-1973-05-15-1パキスタン1973年05月15日1970年代ペシャーワルで武器発見-北西辺境州ペシャーワル近郊でライフル61丁など,大量の未登録武器が押収された。これらは,ソ連,ベルギー,チェコ,イタリア製のマーク入りだが,国内で製造されたものとみられている。
DIA-304-1973-05-16-1パキスタン1973年05月16日1970年代バルーチスターン州ラスベラー付近に武装集団出没。
DIA-304-1973-05-18-1パキスタン1973年05月18日1970年代ゲリラ,政府兵を殺傷-バル-チスタ-ン州スィビ-近郊でマリ族ゲリラに政府兵が銃撃され,8名が死亡した。同日,同州カラ-トでも地方官吏一行がメンガル族ゲリラに狙撃された。
DIA-304-1973-05-18-2パキスタン1973年05月18日1970年代暫定憲法修正-ブット大統領は,1人で同時に国民議会と州議会に議席を有することを禁じた暫定憲法246条の廃止命令を布告。恩恵を受けるのは北西辺境州のワーリ・カーンとアミールザーダ・カーンおよびバルーチスターン州のK.B.K.マリ(3人ともNAP)。
DIA-304-1973-05-22-1パキスタン1973年05月22日1970年代バルーチスターン州に派兵-このところ,同州では再び諸部族による反乱事件が頻発しており,中央政府は武装民兵と政府軍の派遣を決定した。これに対し,野党陣から,“派兵はヤヒア前大統領の東パ派兵と同じだ。政府はバルーチスターンと北西辺境州をパから締め出すつもりがとの非難が出ている。
DIA-304-1973-05-22-2パキスタン1973年05月22日1970年代アフガニスタン,“パクトゥーニスターン”支持-ザーヒル・アフガニスタン国王は来訪中のポドゴルヌイ・ソ連最高会議幹部会議長に対し,夕食会の席上,“パクトゥーン人の闘争を支持し続ける”と語った。“パクトゥーニスターン”とはパに住むパターン入が自分たちの居住地域に与えた名称で,“パクトゥーン人(パターン人)地域”の意。これを,パターン人の独立への志向を表徴する名称と見なす人々も多い。とくにアフガニスタンは常日頃,“パクトゥーン人の独立運動を支持する”としている。
DIA-304-1973-05-23-1パキスタン1973年05月23日1970年代テイッカ・カーン陸軍参謀長,イラン訪問(~31日)。
DIA-304-1973-05-24-1パキスタン1973年05月24日1970年代大統領,イランとの防衛協力について-24日付“ドーン”紙によるとブット大統領はイラン訪問中,同国のKayhan International紙記者に対し,“イランとの防衛協力拡張は正式な同盟より意味がある。…パが軍増強を続けることは絶対的に必要である”と語った。
DIA-304-1973-05-25-1パキスタン1973年05月25日1970年代国民議会,荒れる国民議会で野党ならびに“PPP綱領派”議員は,政府軍がバルーチスターン州で機銃掃射などを行なっており,同州は第2の東パになってしまうとして政府・PPPを非難,国民議会は大荒れとなった。一方,政府は野党の非難を否定。
DIA-304-1973-05-25-2パキスタン1973年05月25日1970年代アスガル・カーンTI委員長(元空軍最高司令官),中国との防衛条約を要求。
DIA-304-1973-05-25-3パキスタン1973年05月25日1970年代カンボジア王国民族連合政府と大使交換-新華社電によると,同政府外務省は25日,パと大使級の外交関係を樹立する決定を発表。
DIA-304-1973-05-27-1パキスタン1973年05月27日1970年代カシミール大統領辞任を要求-カシミール議会の23議員中12人が支持するにすぎないといわれるS.A.カユーム・カーン大統領に対する辞任要求が相次いでいる。27日,ジャム・カシミール解放連盟(JKLL)のK.H.クールシード委員長は,“同大統領は腐敗しており,カシミール解放に無能だ”として辞任を要求。
DIA-304-1973-05-27-2パキスタン1973年05月27日1970年代“アジア安保”批判-27日付けパ・タイムズ”紙社説はソ連の“アジア安保”構想を次のように批判した。“ポドゴルヌイ議長は最近アフガニスタンを訪問し,アジア安保の原則として武力不行使,国境不可侵,内戦不干渉”等をあげたが,アジアではこれらの原則は破壊されている。それは印・ソ条約後のインドによるパ侵略をみてもわかる。アジア諸国は,アジアを諸大国の争奪の場にする安保体制にひきずりこまれはしない”。
DIA-304-1973-05-29-1パキスタン1973年05月29日1970年代ヤヒア裁判について-政府がヤヒア前大統領の公判を差し控えていることに対し,野党陣から非難が続いていたが,ピールザーダ法相は国民議会で,“裁判は約束するが,時期については国際的かかわりあいからして延期している”と述べた。
DIA-304-1973-05-29-2パキスタン1973年05月29日1970年代ベンガル人を裁判か-ブット大統領は,“バングラがパ捕虜を裁判にかければ,パにいるベンガル人について同様の措置をとる”と警告。
DIA-304-1973-05-30-1パキスタン1973年05月30日1970年代ブット大統領,カシミール大統領と会談-パ側カシミール政府は,“この会談によってカシミールの危機は去った”との声明を発表。両大統領は翌31日にも会談を行なった。この日の会談にはピールザーダ法相,K.A.カエーム・カーン内相なども出席した。会談後,S.A.カエーム・カーン大統領は記者会見でK.A.カユーム・カーン内相,K.ハッサン・ミール無任所相,ユースフ・バッチ大統領特別顧問を,“自分に敵対行動をとってきた”と非難し,その原因について,“私がワーリ・カーンNAP委員長に会ったのが気にいらないからと人は言っでいる”と語った。なお,30日の国民議会でアハマッド国防・外務担当国務相は,“パの解放カシミール(パ側カシミールのこと)に対する権限(パはカシミールの国防・外交権を持つ)はパ憲法ではなく,70年解放カシミール法に基づく”と説明した。
DIA-304-1973-06-04-1パキスタン1973年06月04日1970年代“ジャーサーラット”紙編集長,逮捕-8日,同紙編集長代行および“パキスタン・ヘラルド”紙印刷責任者も逮捕された。
DIA-304-1973-06-07-1パキスタン1973年06月07日1970年代前法相,TIに入党ーPPPから除名されていたM.M.A.カスリ前法相およびA.R.カスリがTIに入党。これでTIは2名の国民議会議員を有することとなった。
DIA-304-1973-06-07-2パキスタン1973年06月07日1970年代72/73年度経済白書出来(参考資料参照)。
DIA-304-1973-06-09-1パキスタン1973年06月09日1970年代73/74年度予算案,国会に提出(参考資料参照)-27日,可決。28日,20.6億ルピーの補正予算を可決。
DIA-304-1973-06-10-1パキスタン1973年06月10日1970年代CENTO会議(~11日)-イランのテヘランで第20回閣僚理事会が開かれた。会議の冒頭,パーレビ・イラン皇帝から“印・パ戦争におけるパの例からみて,国家主権,領土保全を保証する国際的秩序が生まれない限り,防衛力増強をせざるを得ない”との趣旨のメッセージがあった。11日,最終会議が開かれ,アラブとイスラエルの対立,インド亜大陸問題,ソ連のペルシャ湾への関心増大とインド亜大陸への進出およびイラクへの武器援助等が議題となったもよう。同日,共同コミュニケ。なお,パはアハマッド国防・外務担当国務相を代表団長とした。パがCENTO会議に外務担当相を派遣したのは60年代後半以来はじめて。また,米(オブザーバー)代表団長はロジャーズ国務長官。
DIA-304-1973-06-13-1パキスタン1973年06月13日1970年代イラクと国交正常化-政府は,イラクとの間に再び大使を交換すると発表。両国はそれぞれ新大使を任命した。
DIA-304-1973-06-15-1パキスタン1973年06月15日1970年代北西辺境州議長,辞任-M.A.K.カッタク同州知事兼州議会議長は,NAP等に,両職兼任は違法だと追及され,議長ポスト辞任を発表。18日,後任にM.ハニーフ・カーン(PPP)が選出された(NAP候補が辞退)。
DIA-304-1973-06-17-1パキスタン1973年06月17日1970年代姫鵬飛中国外交部長夫妻,来訪-(~19日)パ政府の招請。18日,ブット大統領と会談の後,歓迎宴において同外交部長はインド亜大陸問題でパ支持の立場を確認,“南アジアにおいてある拡張主義者の勢力があらゆる手段で侵略を試みている”と非難した。共同声明はなかったが,同外交部長の来訪は米・ソ首脳会談と時を同じくしている。なお同外交部長は去る15日,テヘランにおいて5月のイラン・パ共同声明とイランのペルシャ湾政策を支持した。
DIA-304-1973-06-17-2パキスタン1973年06月17日1970年代米のアポロ17号飛行士3名,来訪(~22日)。18日,ブット大統領と会見。
DIA-304-1973-06-20-1パキスタン1973年06月20日1970年代バルーチスターン州に派遣中の中央政府軍は新たな作戦行動のためジャラーワル地方に入った。クズダールーベラー間の道路は封鎖中。これはビゼンジョー前州知事が発表したもの。
DIA-304-1973-06-20-2パキスタン1973年06月20日1970年代ハッサン蔵相,国会で米輸出国有化の決定を発表-同蔵相はまた,政府による全綿花買い上げも検討中と発表。
DIA-304-1973-06-22-1パキスタン1973年06月22日1970年代軍部批判禁止の法案-政府は,軍部批判を禁止する法案を予定している。違反者は14年以下の禁固。
DIA-304-1973-06-25-1パキスタン1973年06月25日1970年代外務省スポークスヤンによれば,インド政府はパ政府との会談を強く望んでいるという。このところ, 両国外務担当相間で書簡交換が行なわれている。
DIA-304-1973-06-27-1パキスタン1973年06月27日1970年代新輸入政策発表(参考資料参照)。
DIA-304-1973-06-28-1パキスタン1973年06月28日1970年代大統領,野党指導層と会談(~29日)-ブット大統領は28日,ワーリ・カーンNAP委員長等4名のNAP指導者と会談。29日にはNAPの他,猪野党指導者とも会談を行なった。ただし・決定事項は何もなかったもよう。
DIA-304-1973-06-29-1パキスタン1973年06月29日1970年代イラン皇帝,インドに警告-ピーレビ・イラン皇帝は29日付“タイムズ・オブ・インディア”紙との記者会見で,“インドがパを攻撃すればインドに対してイランの武器を用いる”と述べた。
DIA-304-1973-07-01-1パキスタン1973年07月01日1970年代ニコラエ・ルーマニア外国貿易担当国務相が来訪(~4日)。
DIA-304-1973-07-04-1パキスタン1973年07月04日1970年代“ソ連論文”を没収-バルーチスターン州政府は,“パ,インドおよびバングラの複雑な問題におけるわれわれの役割”と題するウルドゥ語パンフレットを不適当として没収を命じた。これはソ連情報局発行という。5日,同情報局はそのようなものは作成していないと発表。
DIA-304-1973-07-06-1パキスタン1973年07月06日1970年代米,武器援助について一米国国務省は印・パ両国に対する殺傷武器の輸出禁止を続行するが,政策変更は無しとはしないと発表。これは,米からの武器援助を望むブット大統領の訪米(7月17~22日の予定)に先立っての発表。
DIA-304-1973-07-07-1パキスタン1973年07月07日1970年代国民登録法-身分証明書の取得と携行を義務づける1973年国民登録法が,野党陣が抗議の退場をした後,国民議会で強硬採択された。同法は7人編成の委員会で野党委員2名,与党PPP委員1名の反対に会い,議長票によりかろうじて採択されたいわくつきのもの。
DIA-304-1973-07-07-2パキスタン1973年07月07日1970年代バングラ承認問題で最高裁意見-72年4月17日採択の暫定憲法が,パは同憲法発効時(同21日)の諸州から成るとし,また,来たる8月14日発行の恒久憲法が,“外国の侵略が根絶されたあかつきに東パの人々が国政に参加し得るように憲法を改正する”としていることなどに鑑み,去る3日,ブット大統領は最高裁に対し,バングラ承認権限を政府に与える決議を国民議会で行なうことの合憲性について検討するよう依頼した。これに対し,最高裁は7日,“バングラを正式に承認する前にとらねばならないと思われる法的・行政的措置の合憲性については意見を控えるが,そのような決議は立法府の意見表明にすぎないから,違憲とはならず,採択を法的に阻止するものはない”旨の意見を全員一致で採択・答申した。
DIA-304-1973-07-10-1パキスタン1973年07月10日1970年代上院議員選挙結果,出揃う-8月発効予定の新憲法に基づくパ史上初の上院議員還挙が7月4日から行なわれていたが,10日,全結果が出揃い,45名中33名をPPPが制した(参考資料参照)。
DIA-304-1973-07-10-2パキスタン1973年07月10日1970年代特別国民議会,政府のバングラ承認権限を承認-国民議会は10日早朝,政府に適切な時期にバングラを承認する権限を与える決議案を採択した。野党は“審議の時間が不十分”等を理由に退席した。ブット大統領は9日夜,同決議案審議に先立って演説,“インドに抑留されているパ捕虜の送還が行なわれ,バングラがパ戦犯裁判を取りやめない限り,適切な時期が来たとは言えない”と強調した。
DIA-304-1973-07-10-3パキスタン1973年07月10日1970年代政府,織布,織糸の輸出税を引上げ。
DIA-304-1973-07-12-1パキスタン1973年07月12日1970年代援助-パ放送によれば,対パ債権国会議が現会計年度に約1億8000万ドルの商品援助を行なうことが確実になった。この額は未定の日本,イタリア,フランスの約束額を含んでいない。
DIA-304-1973-07-12-2パキスタン1973年07月12日1970年代大統領,訪米に出発-アハマッド国防・外務担当国務相,ラザ,ジャフリ両将軍等を随員として,トルコに立寄った後まずイタリア訪問。ブット大統領は同国滞在中レオーネ大統領と会談。なお13日,16日から1週間の訪米予定がニクソン大統領の病気で,9月に延期された。16~23日,スイス非公式訪問。
DIA-304-1973-07-12-3パキスタン1973年07月12日1970年代中国報道-北京12日発新華社電は,パ国民議会が政府にバングラ承認権を与える決議を行なったことを初めて報道,“南アジア亜大陸正常化の見通しを新たに開いたパの主体的行動を関係当事者たちが真剣に考慮するよう期待する”としている。
DIA-304-1973-07-13-1パキスタン1973年07月13日1970年代モロッコ政府,バングラを承認。17日,アルジェリア,チュニジアもバングラを承認。
DIA-304-1973-07-15-1パキスタン1973年07月15日1970年代ソ連調査団,来訪-8人編成のソ連鉄鋼専門家チームが,カラチ鉄鋼工場建設調査の残り50%完了のため約2ヵ月の予定で来訪。
DIA-304-1973-07-16-1パキスタン1973年07月16日1970年代国際司法裁,捕虜問題審理を中止-国際司法裁は,パの仮処分申請に関し(5月11日参照)審理中止を決定。17日,パは同申請を撤回。
DIA-304-1973-07-17-1パキスタン1973年07月17日1970年代原皮輸出禁止。
DIA-304-1973-07-18-1パキスタン1973年07月18日1970年代政府,食用油9万トンの大量緊急輸入を決定。
DIA-304-1973-07-19-1パキスタン1973年07月19日1970年代秘密放送-ラジオ・パクトゥーニスターンと称する秘密放送局が開始され,英語でテスト放送を2時間半行なったとペシャーワルから報道された。
DIA-304-1973-07-21-1パキスタン1973年07月21日1970年代蔵相,綿花について-ハッサン蔵相は記者会見で次のように語った。(1)現在パは世界綿花輸出高の35~40%を占め,世界最大の綿花輸出国である。(2)本年9月から来年9月までは,綿花価格が1マウンド70~200ルピーの間にある限り,政府は綿花・綿糸の取引きに介入しない。(3)しかし,綿花産業は100億ルピーにのぼる大産業であり,来年9月までには国有化準備を完了するであろう。
DIA-304-1973-07-22-1パキスタン1973年07月22日1970年代アフガニスタン新政権を承認一政府は,去る17日クーデターで成立したダウード・アフガニスタン新政権を承認し,新政権が同国在住の全パ人を追放したとの報道を否定。
DIA-304-1973-07-23-1パキスタン1973年07月23日1970年代大統領,訪英(~25日)-スイスに招致されて合流したピールザーダ法相,カール・パンジャーブ州知事,バグティー・バルーチスターン州知事を随員に加え,大統領就任後初の訪英。24日,ブット大統領とヒース首相の会談で,在英・パ移民問題,英のEC加盟,アフガニスタン政変,ペルシャ湾沿岸諸国情勢等を討議。なお23日,訪米の途中ロンドンに寄ったパーレビ・イラン皇帝とも会談。
DIA-304-1973-07-24-1パキスタン1973年07月24日1970年代印・パ特使会談開催(~30日)-7月3日に開催が原則的に合意された印・パ特使会談がイスラーマバードおよびラーワルビンディで開かれた。インドは,“パで開くとバングラが出席できない”としてニューデリーを主張していた。なお,これは72年8月のニューデリー会談以来,初の公式会談である。パ側代表は19日にスイスから帰還したアハマッド国防・外務担当国務相を,インド側はP.N.ハクサール特使をそれぞれ団長とする。議題は捕虜交換,パのバングラ承認,在パ・ベンガル人と在バングラ・ビハール人交換,バングラによるパ戦犯裁判の問題を中心とする。24日,第1~2回会談。シムラ協定後の情勢および4月17日のインド・バングラ共同宣言を討議。この日,印・パ間テレックス開設。26日,双方譲歩なく第3回会談終了。27日,ブット大統領帰国,ハクサール・インド代表団長と会談。同団長,会談後の記者会見で,“私は現在も希望を失っていない”と語る。28日,3時間会談。29日,会談続行。インド代表団,滞在を2日延長。30日,ブット・ハクサール会談。31日,共同声明。以下要旨。“双方は,シムラ協定の実施に関してこれまでになされた進展を検討した。双方は亜大陸正常化に関し,4月17日のインド・・
DIA-304-1973-07-25-1パキスタン1973年07月25日1970年代大統領,訪仏(~26日)-同日,ポンピドー大統領と両国関係,その他の国際問題で会談。ジョベール外相,ガレー国防相とも会談,経済援助,対潜攻撃機3機,ミラージュ戦闘機12~18機購入などの問題が話し合われたと推測されるが,ブット大統領は記者会見で武器問題では回答を避けた。なお,この訪仏はブット大統領訪米が延期となったため,フランスが申し出たもの。
DIA-304-1973-07-25-2パキスタン1973年07月25日1970年代イラン皇帝,印・パ関係について-訪米中のパーレビ皇帝はワシントンで,“パが攻撃されればイランはパを援護する。しかし,印・パ共存のためにいかなる努力も惜しまない”と語った。
DIA-304-1973-07-28-1パキスタン1973年07月28日1970年代TIとPPP衝突-北西辺境州リアーカタバードで開所式を待っていたTI(党首,アスガル・カーン)の事務所が,PPP支持者と目される100名によって襲われ,同党リアーカタバード支部長が狙撃されて重傷。カラチでも同党員8名が襲われて重軽傷。一方,リアーカタバードのPPPの2事務所が群衆の焼打ちにあった。騒ぎは両地域で拡大,31日まで続いた。
DIA-304-1973-07-29-1パキスタン1973年07月29日1970年代マリ族反乱-バグティー・バルーチスターン州知事が29日発表したところでは,過去4日間に同州マリ族地域とカラートにおいて,それぞれゲリラの待伏せで政府軍兵士8名が死亡したという。
DIA-304-1973-07-30-1パキスタン1973年07月30日1970年代UDF会議-28日からラホールで開かれていたUDF行動委員会終了に際し,“8月24日までに国民の基本的権利が回復されず,恒久憲法発効後も刑法144条(5人以上の集会・デモを禁止するもので,乱発されている)による表現の自由の拘束が撤廃されなければ,適切な全国民規模の運動を実施する”と発表。さらに同委は,以下の7項目を8月14日までに実施するよう政府に要求した。①71年印・パ戦争以来の非常事態宣言の撤廃,②政治犯釈放,③報道の自由の回復,④新聞用紙輸入制限解除,⑤71年水準までの物価引下げ,⑥バルーチスターンに出動中の軍の引揚げ,⑦バルーチスターツ州および北西辺境州前政権の回復。
DIA-304-1973-08-01-1パキスタン1973年08月01日1970年代輸出目標-政府筋は,今会計年度輸出目標は昨年度の目標を2.25億ドル上回る9億ドルにすると発表。
DIA-304-1973-08-02-1パキスタン1973年08月02日1970年代外務省スポークスマンは,カラチ発行某紙がメンガル前バルーチスターン州知事の言として,“イラン軍がバルーチスターンに入っている”と報道したことに関し,“全く根拠がない”と否定した。
DIA-304-1973-08-04-1パキスタン1973年08月04日1970年代国産トラクター-自国で設計・製造されたパ初のトラクターがブット大統領に贈呈された。
DIA-304-1973-08-06-1パキスタン1973年08月06日1970年代上院議長選挙-この日,上院議員就任式が開かれ,第1回上院会議で議長等の選挙が行なわれた。議長にはカーン・ハビブッラー・カーン(PPP)が,副議長にはミルザ・ムハマッド・タヒール(同)が,それぞれ32対13でK.M.サフダル(CML)とZ.ハック(NAP)を破って当選した(参考資料参照)。
DIA-304-1973-08-09-1パキスタン1973年08月09日1970年代新国民議会議長-大統領選出馬のため国民議会議長を辞任したエラーヒ氏に代わり,サーヒブザーダ・ファルーク・アリ(PPP)が満場一致で選出された。また,後進に道を譲ってこの日副議長を辞任したM.ハニーフ・カーン氏に代わり,11日,A.K.アッバースィ博士(PPP)がJ.J.ムーサ博士(NAP,女性)を98対26で破って初の女性副議長となった(参考資料参照)。
DIA-304-1973-08-09-2パキスタン1973年08月09日1970年代ゲリラ活動で警告-バグティー・バルーチスターン州知事は記者会見で次のように語った。“バルーチスターンのゲリラ活動は悪化している。過去3日間だけでもマリ,ジャーラワーン両地域で政府軍兵士4名が殺され,ゲリラ活動は今やサラワンおよびボラーン地域にまで拡大している。これはNAPの仕業である”。なお,11日政府発表では過去1週間に政府軍兵士6名死亡。12名負傷で,ゲリラ側死亡者は5名,逮捕者50名。
DIA-304-1973-08-10-1パキスタン1973年08月10日1970年代大統領選挙-国民議会(下院)および上院の合同会議で新憲法による大統領選挙が行なわれ,チョードリ・ファイサル・エラーヒ前国民議会議長(PPP)がアミールザーダ・カーン(NAP)を139対45で破って選出された(参考資料参照)。
DIA-304-1973-08-10-2パキスタン1973年08月10日1970年代市民軍法案,可決-国民議会は市民軍(National Guards)法案を可決。同軍は,聖戦軍,ジャーンバーズ(“勇猛”の意)軍,学生軍事教練隊,婦人軍から成り,パ陸軍が統轄する。アハマッド国防・外務担当国務相によると,同市民軍は戦争ないし非常事態に際し,正規軍に代わって副次的役割を担当する。野党陣は,同軍は州自治と野党の言動を抑圧するためのものだとして反対,国民議会から退場した。
DIA-304-1973-08-10-3パキスタン1973年08月10日1970年代給与引上げ-ハッサン蔵相は,給与物価一括政策の一部として,月700ルピーまでの政府・民間サラリーマンの給与を一率35ルピー引上げると発表。9月17日,立法措置。11日には政府職員・軍人の給与体系の単純化を発表。
DIA-304-1973-08-12-1パキスタン1973年08月12日1970年代首相選挙-この日,国民議会で首相選挙が行なわれ,ブット大統領が野党統一候補のM.S.A.ヌーラーニ(JUP)を108対28で破って選出された。
DIA-304-1973-08-12-2パキスタン1973年08月12日1970年代トルコ外相,立寄リーバユールキン・トルコ外相はインドネシア訪問の途次カラチに立寄り,記者会見で,“パがCENTOに再び関心を持つに至ったため,CENTOは強力になったと語った。
DIA-304-1973-08-13-1パキスタン1973年08月13日1970年代産業開発5公社設立-政府は,従来西パ産業開発公社(WPIDC)が担当してきたプロジェクトを,公共部門の能率化のために新設の5公社の権限下に置くことに決定した。WPIDC管理職組合委員長は,“政府はこの決定を国民議会にはかりもせず秘密裡に行なった。撤回せねば集団辞職する”と警告した。17日,Heavy Engineering and Machine Tool Corporation,Federa Chemical and Ceramics Corporation,State Cement Corporation of Pakistan,State Electrical Corporation of Pakistan, National Fertilizers Corporation of Pakistan5公社の名称が報道され,25プロジェクトがこれらの公社の権限下に置かれ,17プロジェクトがWPDCに残されることが明らかになった。
DIA-304-1973-08-13-2パキスタン1973年08月13日1970年代ベンガル人とビハール人交換で合意-インド,バングラ,パ3国はこのほど,パに抑留中のベンガル人5,000人とバングラおよびネパールに抑留中のビハール人5,000人の相互交換で合意に達した。28日から交換が実施された。
DIA-304-1973-08-14-1パキスタン1973年08月14日1970年代新憲法発効-独立記念日のこの日,4月12日,の国会で反対0で可決された新憲法が発効し,新大統領,首相,閣僚等の就任式が挙行された(参考資料参照)。なお,新憲法発効に伴い,ヌールル・アミーン(ベンガル人)は自動的に副大統頭取を免じられた。この日,新国家元首となったエラーヒ大統領は全国放送で,ブット首相を,“カーイデ・アーザム(‘偉大なる指導者’の意。‘建国の父’と英訳されている)”と称されるジンナー初代総督に対置してか,“カーイデ・アワーム(‘人民の指導者’の意)”と呼んでその業績を称えるとともに,野党などに強く協力を訴えた。一方,ブット首相は演説で次のように述べた。“われわれは本日をもって宮廷革命やクーデターと決別する。決定は合意または多数の見解に基づいて民主的に行なわれよう。政治的少数者が少 数者としての立場を拒絶したり,院外の者が軍人などを利用して権力を奪取しようとしたり,分離主義的傾向を奨励すれば,民主主義は実現できないのであり,破壊的傾向は許さない。 PPPおよび協力者の政権は遂に州自治問題などを解決したとはいえ,まだ全公約を果たし得ごといない。それには国民の協力と時間が必要だ。野党が対話を望めば私は常・
DIA-304-1973-08-16-1パキスタン1973年08月16日1970年代基本的人権停止令-エラーヒ大統領は新憲法第233条に基づき,非常事態宣言が存続する限り基本的権利を停止する旨の大統領令を発令した。71年11月23日の非常事態宣言は新憲法第280条によって効力を保っている。
DIA-304-1973-08-16-2パキスタン1973年08月16日1970年代NAP政治家逮捕-バルーチスターン州で,政治的腐敗,扇動などの科により,以下の人々が逮捕された。ビゼンジョー前州知事,メンガル前州首相,S.K.バクシュ・マリ(マリ族指導者,NAPバルーチスタープン州支部委員長),前州政府が構成したといわれ,現在以消滅している“地方治安(Dehi Moha丘z)軍”の司令官S.ムハマッド退役大佐(以上,NAP),等。さらに,4.7~18日に上院議員2名等が逮捕され,同州でのNAP逮捕者はこの3日間で9名になった。ブット首相は17日,“これらの逮捕はやむを得なかった。また,戦争捕虜問題も解決せず,国内にも陰謀が存在する現在,非常事態宣言解除はできない”と語った。
DIA-304-1973-08-16-3パキスタン1973年08月16日1970年代公定歩合引上げ-中央銀行はインフレ対策として公定歩合を6%から3%に引上げた。また,指定銀行が維持すべき流動性比率も現行の30%から35%に引上げられた。
DIA-304-1973-08-18-1パキスタン1973年08月18日1970年代印・パ特使会談(~28日)-7月の会談の続きがニューデリーで開かれた。パ代表団長はアハマッド国防・外務担当国務相,インド側団長はハクサール特使。この日,パ側はパ捕虜送還の最優先を主張したもよう。20日,アハマッド特使はインドのシン外相およびダール計画相と予定外の会談。午後の特使会談後,アハマッド特使は“バングラのパ戦犯裁判棚上げを確認した”と発表。21日,特使会談なく,アハマッド特使とガンディー・インド首相の会談。22日,インドから文書による提案があったもよう。23日,アハマッド特使,ギリ・インド大統領を訪問。午後の特使会談ではパの提案を文書で行なったという。跡目,アガ・シャーヒ外務次官,ブット首相と協議めため帰国。この日までに,バングラによるパ戦犯裁判の問題では一定の合意が成立しているもよう。ただ,バシグラの非ベンガル人については,インドはパが26万人全員を引受けるべきだとし,かつ,この問題を9万人のパ捕虜送還問題と切離していないようすであり,一方,パは西パ出身の非ベンガル人しか引受け得ないとしているようす。25日,アガ・シャーヒ外務次官,アハマッド特使とともにダール・インド計面相と会談。午後,特使会談。26日,アハマ・
DIA-304-1973-08-20-1パキスタン1973年08月20日1970年代行政改革-ブット首相は行政改革委員会答申に基づき,大幅な行政改革を発表。①従来4階級に分かれていた政府職員の階級制廃止,②従来用いられていたPSP(高等文官)等の肩書き廃止,③民間企業の有能な者にも公務員への道を開く,等を骨子とする。
DIA-304-1973-08-23-1パキスタン1973年08月23日1970年代UDF,市民不服従運動-UDF行動委は11項目要求を採択,不服従運動を開始。これに対し,カュ-ム・カ-ン内相は“強硬手段をとる”と警告。以下,UDF11項目要求。①物価引下げ,②国家統一を乱す政策の放棄,③基本的人権回復。④政治犯釈放,⑤報道の自由,⑥野党へのデマ停止,⑦労働者,学生,農民の要求を満たせ,⑧憲法の回教に関する条項を守れ,⑨北西辺境州とバル-チスタ-ン州に民主的代表による政府を回復せよ,⑩洪水被災者に補償,⑪アルコ-ル,かけごとの禁止。
DIA-304-1973-08-26-1パキスタン1973年08月26日1970年代UDF指導者逮捕-UDF副委員長N.N.カーン,PML書記長M.M,カースィム等,UDF指導者6名がラホールで逮捕された。27日~9月7日に,さらに95名以上が各地で逮捕。
DIA-304-1973-08-27-1パキスタン1973年08月27日1970年代大洪水,綿花輸出禁止-8月初旬からのカシミール豪雨のためインダス川が氾濫,24日現在で死者1,500名,9月4日現在の被害見積りは4億7000万ドル(スィンド州の農作物と工業の損害を含まず)という。綿花は430万ベールが見込まれていたが,作付け面積の4分の1が被災,27日,輸出禁止となった(10月解除)。日用必需品も大幅に不足,すでに牛肉,羊肉,野菜等(8月9日),穀物,ミルク製品,砂糖等々(同16日)も輸出禁止となっていた。政府は,憲法祝賀行事をパンジャーブ,スィンド両州で全面中止し,救済活動にあたっている。なお,洪水は9月中旬にほぼおさまった。
DIA-304-1973-08-28-1パキスタン1973年08月28日1970年代印・パ,協定調印-協定文は29日発表(インドの項,参考資料参照)。
DIA-304-1973-08-30-1パキスタン1973年08月30日1970年代“バングラ承認は時期尚早”ブット首相は記者会見で,“バングラとの間には裁判問題,非ベンガル人問題/対外債務問題が残っているため,すぐ承認というわけにはいかない”と語った。
DIA-304-1973-08-30-2パキスタン1973年08月30日1970年代アリマッド国防・外務担当国務相,訪中(~9月2日)-31日,姫鵬飛外交部長と会談。9月1日,周恩来首相と会談。
DIA-304-1973-09-01-1パキスタン1973年09月01日1970年代73年経済改革(修正)令-エラーヒ大統領は72年経済改革令を修正する73年経済改革(修正)令を発表。これは72年改革令によって国家管理化された企業の株式の全部ないし一部を90日以内に取得する権限を中央政府に与える(有償)ことを骨子としている。
DIA-304-1973-09-02-1パキスタン1973年09月02日1970年代食油国有化-政府は,植物油工業国有化を発表。食油は洪水前から不足していたが,洪水に乗じて売り惜しみがひどかったといわれる。3日,国有化対象は24社と発表。9月10日,国民議会(以下,“下院”とする)で国有化法案可決。
DIA-304-1973-09-03-1パキスタン1973年09月03日1970年代3紙,30日の発行停止-編集長など逮捕。この3紙はカラチの“フーリヤッド”および“ジャサーラット”両紙,ハイダラバードの“ヌフラーン”紙。
DIA-304-1973-09-05-1パキスタン1973年09月05日1970年代非常事態宣言延長-下院・上院合同会議で非常事態宣言を74年3月13日まで延長する法案が可決された。野党はS.S.ハヤート・カーン(CML)を中心とする7名を除き全員が退場,国会ボイコットを開始。
DIA-304-1973-09-09-1パキスタン1973年09月09日1970年代72/73年度中央銀行年次報告(参考資料参照)。
DIA-304-1973-09-12-1パキスタン1973年09月12日1970年代キッシンジャー,印・パについて-キッシンジャー米大統領袖佐官は米上院外交委員会で次のように語った。“米はパが新たな役割を見出し,新たな現実に順応するのに助力する。インドには,同国のいくつかの隣国が突然の攻撃におびえないよう,南アジアの安定に寄与することを望む。イランへの武器売却はイランの自衛のためであり,パを強化するためではない”。
DIA-304-1973-09-14-1パキスタン1973年09月14日1970年代“バングラ国連加盟はまだ”-アハマッド国防・外務担当国務相は記者会見で,“いわゆる戦犯裁判をバングラが放棄せぬ限り,また,パ捕虜全員が送還されてしまうまで,パはバングラの国連加盟に反対する。中国もパの立場を支持している”と語った。
DIA-304-1973-09-14-2パキスタン1973年09月14日1970年代パはアブ・ダビ初の精油所建設のため技術援助を行なう協定を結んだ。
DIA-304-1973-09-15-1パキスタン1973年09月15日1970年代大逆罪処罰法一国会は野党欠席のまま,憲法の廃棄・転覆を企図する者を死刑ないし終身刑に処す大逆罪処罰法案を可決。
DIA-304-1973-09-15-2パキスタン1973年09月15日1970年代首相,演説-ブット首相はこの日の訪米に先立ち全国放送で,洪水復旧に協力を訴えるとともに,次のように野党に警告した。“西パの諸言語グループは様々の共通点で結ばれており,第2のバングラは生じないと確信する。パの再度の分裂の懸念をもてあそぶ者は自らに災いを呼ぶ者である。また,野党が国境の外側に支援を求めるのは不毛であり,反逆的である”。
DIA-304-1973-09-15-3パキスタン1973年09月15日1970年代租税追加―エラーヒ大統領は,洪水のため歳入追加が必要になったとし,25%こめ追加税を機械を除く全輸入品に課税,所得税を10%増税する等の措置を発令。
DIA-304-1973-09-15-4パキスタン1973年09月15日1970年代首相,訪米に出発-ブット首相は,ピールザーダ法相,アハマッド国防・外務担当国務相,イムティアーズ陸軍准将(軍事担当首相秘書),サイード海軍准将等41名を随員として訪米の途についた。17日までオランダを非公式訪問。18日,ニクソン米大統領と会談。なお,同日,ニクソン大統領は新駐パ大使としてヘンリー・バイロード氏を任命する意図を明らかにした(11月22日着任。駐パ米大使は72年6月以来欠員となっていた)。19日,第2回ブット・ニクソン会談。21日,共同声明。声明においてニクソン大統領はパへの強力な支持を約束すると共に洪水救済を含む経済援助を保証,さらに南アジア和平の進展を歓迎した。同日,ブット首相はワルトハイム国連総長およびベニテス新国連総会議長と別個に会談,午後,国連総会で,バングラが戦犯とする195名のパ軍将校を含む捕虜の送還が完了するまでバングラの国連加盟は容認できない旨の演説。24日,離米に際し,“武器入手ができなかったことだけが残念だ”と語った。25~26日,オーストラリア非公式訪問。27日,帰国。
DIA-304-1973-09-19-1パキスタン1973年09月19日1970年代被抑留者送還開始-デリー協定に基づき,パとバングラの間で被抑留者相互交換が開始された。まずラホールから168名のベンガル人がダッカに空輸され,折り返し135名のパ人が帰国した。
DIA-304-1973-09-21-1パキスタン1973年09月21日1970年代アフガニスタン,パの“内政干渉”非難-BBC放送によれば,アフガニスタンでダウード新政権に対するクーデター計画が発覚し,カーブル放送は,裏には“パの隠れた手がある”と非難したという。22日,パ政府は“根拠がない”としてアフガニスタン政府に強く抗議。
DIA-304-1973-09-26-1パキスタン1973年09月26日1970年代UDF,乱れる-JI中央委員会は,同党がUDFの一員であることを再確認はしたものの,“市民不服従運動や情勢悪化を助長するその他の運動には参加しない”と決定。
DIA-304-1973-09-28-1パキスタン1973年09月28日1970年代NAP委員長暗殺未遂-ワーリ・カーン委員長のジープが北西辺境州マルダンで何者かに狙撃され,同委員長は無事だったが1名死亡,1名負傷。
DIA-304-1973-09-28-2パキスタン1973年09月28日1970年代捕虜第1陣,帰還-デリー協定に基づき,捕虜および被抑留市民842名が国境のワガ町を還って帰国した。前日,捕虜福祉委員会長ミルザ陸軍少将は,“捕虜の抑留期間中,市民1名のほか軍人捕虜48名がインド兵に殺された。その他,自然死した者が96名,行方不明6,000名”と明らかにした。
DIA-304-1973-09-29-1パキスタン1973年09月29日1970年代インド,軍縮に反対-ガンディー・インド首相は記者会見で,最近のブット首相の印・パ軍備縮小の希望に対し,“インドはある1国だけでなく別の1国からの侵略にも直面しており,軍備を強化せねばならないと述べた。
DIA-304-1973-10-03-1パキスタン1973年10月03日1970年代“パクトゥーニスターン”問題-国連総会でアフガニスタン代表は,“わが国とパの間のパクトゥーニスターン問題は未解決である。パのパクトゥーン民族は植民地主義者の軍事力によって祖国アフガニスタンから切離されている”と演説した。
DIA-304-1973-10-03-2パキスタン1973年10月03日1970年代中国,ソ連を非難-国連総会で中国代表は,“ソ連はインドのパ分割を支持した”と強く非難した。
DIA-304-1973-10-07-1パキスタン1973年10月07日1970年代ブット首相は,6日勃発した中東戦争に関し,エジプト,シリア両政府に連帯のメッセージを送った。
DIA-304-1973-10-11-1パキスタン1973年10月11日1970年代首相,申東歌争で軍幹部と会談-ブット首相は3軍各参謀長,蔵相,内相,情報相等を招集し,中東戦争に関する会談を行なった。なおこの日,政府はエジプトとシリアへの医療団即時派遣を決定(各15人編成)。
DIA-304-1973-10-12-1パキスタン1973年10月12日1970年代陸軍参謀長,演説-ティッカ・カーン陸軍参謀長はインドからの帰還兵との会合で演説,“国内の反乱を制圧するのも軍の役割だ。最近の敵の手は,外国の指示に頼る連中を使って国内に混乱を生ぜしめるというものだ。バルーチスターンには国の統一を乱す分子がいるが,同州には軍が派遣されており,彼らの意図を粉砕しだと述べた。
DIA-304-1973-10-16-1パキスタン1973年10月16日1970年代首相,イラン等訪問-ブット首相はアハマッド国防・外務担当国務相,アガ・シャーヒ外務次官等を随員として,イラン,トルコ,サウジアラビアを緊急歴訪。16~17日,パーレピ・イラン皇帝と2度の会談。ブット首相は記者会見で,“イスラエルは占領地域から完全撒退すべきだという点て両者は一致している”と述べた。17~18日,タルー・トルコ首相代理と会談。18日,共同声明でアラブ支持,および問題解決への努力を表明。同月,サウジアラビア訪問,ファイサル国王と会談。19日,帰国。20日,記者会見で,“確実で組織的な援助をエジプトとシリアに行なっている”と述べ,さらに,“CENTOは中東危機にとっては適切ではないが,中東問題解決の障害にはなっていない。しかし,アラブがCENTOを障害とみなすことがあればパはCENTOに関する立場を再検討するだろう”と言明した。
DIA-304-1973-10-24-1パキスタン1973年10月24日1970年代綿花輸出公社設立-政府は,今後綿花輸出はすべて公共部門で取扱うと決定,同公社を設立した。本部,カラチ。
DIA-304-1973-10-25-1パキスタン1973年10月25日1970年代政府,綿糸輸出税を40%(従価)+ポンド当り40パイサに引上げ。
DIA-304-1973-10-30-1パキスタン1973年10月30日1970年代水利・電力開発公社(WAPDA)に警告-ブット首相はラールカーナ近郊の農村で演説,“WAPDAは浸水と塩害の問題で何もしていない。農耕地はわが国の命だ。効果的にこれらの問題を解決せねば解体する”と警告,さらに,“土地改革法を守らない地主からはさらに土地を没収する”と警告した。
DIA-304-1973-10-31-1パキスタン1973年10月31日1970年代州知事,辞意表明-バグティー・バルーチスターン州知事はブット首相に辞表を手交した。これは11月11日に発表されたが,辞意の理由は不明。消息筋によると新憲法で知事の権限が大幅に縮小したためという。同11日,ブット首相は辞任の正式了承を発表したが,バグティー氏と会談を重ねた結果,同27日,同氏の一応の辞意撤回が明らかにされた。74年1月1日,正式辞任。
DIA-304-1973-11-01-1パキスタン1973年11月01日1970年代学生軍事教練-他州ではすでに10月から開始されていたカレッジ学生軍事教練がスィンド州でも開始された。期間は2年間で,優秀な者は軍部だけでなく公務員試験,大学入試等においても優遇される。
DIA-304-1973-11-01-2パキスタン1973年11月01日1970年代国有化否定と輸出目標ーブット首相はカラチの輸出振興協議会会議で演説,①従来以上の国有化はしない,②民間部門と公共部門の役割を明確化する憲章をつくる,③その前に政府・労・使3者会談を開く,④平価変更はしないと言明。2日,同協議会は今年度輸出目標を9億ドルから11億ドルに修正。内訳(単位1億ドル)は,綿花・綿製品6.58,米2.18,皮革・同製品0.6723,羊毛・同製品0.3480,魚類0.2214,その他0.9983。
DIA-304-1973-11-02-1パキスタン1973年11月02日1970年代“二重議席”を禁止-エラーヒ大統領は下院州議会の双方に議席を持つ者は11月10日までに一方を放棄するよう命じた大統領令を布告。
DIA-304-1973-11-04-1パキスタン1973年11月04日1970年代14労組連合が結合-ラホールで全国労働者の会議が開かれ,14の労組連合が“パキスタン統一労働協議会(ULCP)”を結成した。
DIA-304-1973-11-04-2パキスタン1973年11月04日1970年代鉱山接収-バグティー・バルーチスターン州知事は,クローム鉄鉱と大理石を手始めに若干の鉱山の州営化を漸次すすめると発表。
DIA-304-1973-11-05-1パキスタン1973年11月05日1970年代首相,カシミール遊説(~9日)-ブット首相は5日,解放カシミール(パ側カシミール)首都ムザッファラバードで次のように演説。(1)カシミール独立は望まない。そのようなことは国際的謀略を引起としてしまう。(2)解放カシミールはその住民の意思によってはパの1州としての地位と議会制州政府を有してもよく。また,最終的地位の確定を待って暫定的にジャム・カシミール全体をパの連邦枠組に入れてもよい。(3)2月ないし3月までにインドからの捕虜送還が完了すれば,ただちにインドと会談を行なう。カシミールに関しての会談はその後,いずれ行なう。その際カシミール住民の自決原則を堅持する。8日,ブット首相はインド側カシミール学生に対し。カシミー御問題が未解決であることを示すストを行なうよう訴えた。
DIA-304-1973-11-05-2パキスタン1973年11月05日1970年代ケヤカン・トルコ海軍司令官,来訪-7日,ブット首相と会見。
DIA-304-1973-11-07-1パキスタン1973年11月07日1970年代ピールザーダ法相,イラン訪問(~8日)-中東問題に関してマレーシアのトゥンク・アブドゥル・ラーマンが提唱し,パで開かれる予定の回教諸国首脳会議に関して協議のためという。
DIA-304-1973-11-08-1パキスタン1973年11月08日1970年代SEATOを正式脱退-昨年11月にブット現首相が脱退を表明して以来,1年間の予告期間が切れ,パは正式にSEATOを脱退した。
DIA-304-1973-11-09-1パキスタン1973年11月09日1970年代キッシンジャー氏,来訪-キッシンジャー米国務長官は中東問題等討議のためイランから到着,ブット首相と会談を行なった。10日,北京へ出発。
DIA-304-1973-11-10-1パキスタン1973年11月10日1970年代新州知事,州首相-6日辞任したメーラージュパンジャーブ前州首相に代わり,9日,カール前州知事が州首相に選出され,新知事に任命されたクレーシ前州農相とともにこの日就任した。(参考資料参照)なお,メーラージュ氏はいずれ連邦政府入閣の予定。
DIA-304-1973-11-12-1パキスタン1973年11月12日1970年代首相,遊説(~18日)-ブット首相は北西辺境州に点在する部族地域を歴訪。期間中,次のように述べた。(1)アフガニスタンと友好・協力関係を樹立したく援助の用意もある。(2)パは今や堅固な要塞であり,自己の統一と安全を守る決意だ。諸君はパを弱体化させるための外国からの宣伝に,野党政治家のようにまどわされてはならない。(3)アフガニスタンは水も教育施設も病院も不足する貧しい国だ。わが国のような言論の自由もない。(4)クーデターのためアフガニスタンに戻れないザーヒル国王がパに在住したければそれを拒否し得ない。これは政治的策謀のためではない。
DIA-304-1973-11-15-1パキスタン1973年11月15日1970年代イランと初の閣僚会議(~16日)-イスラーマバードで。17日発表の共同声明によると,両国は合弁により,パで織布,セメント生産,畜産物加工,イランで合成ゴム生産,ジュート栽培加工を行なう協定に調印した。(5月14日参照)
DIA-304-1973-11-16-1パキスタン1973年11月16日1970年代ピールザーダ法相,諸国歴訪(~25日)-首相特使としてリビア,エジプト,シリア,サウジアラビア歴訪(目的は11月7日に同じ)。
DIA-304-1973-11-17-1パキスタン1973年11月17日1970年代クールシード無任所相,諸国歴訪-首相特使としてトルコ,ョルダン,レバノンへ出発(目的は11月16日のピールザーダ法相に同じ)。
DIA-304-1973-11-17-2パキスタン1973年11月17日1970年代ライサーニ農相,諸国歴訪(~27日)-首相特使としてマレーシアおよびインドネシア歴訪(同上)。
DIA-304-1973-11-19-1パキスタン1973年11月19日1970年代政府・労・使3者会談開始-開会に際し,ブット首相が演説,労働側には労働者の生活向上のために公約を守ると約束し,使用者側には脱法行為などをせぬよう訴え,これ以上の国有化については現段階では何も言えないと述べた。また双方に対し,生産向上を訴え。
DIA-304-1973-11-20-1パキスタン1973年11月20日1970年代シェールパオ天然資源相,諸国歴訪(~12月8日)-アブ・ダビ,クエート,サウジアラビア,イラン,イラクを歴訪。
DIA-304-1973-11-22-1パキスタン1973年11月22日1970年代反国家活動予防律令-エラーヒ大統領が布告。これは,パ領土の分離を企図したり,パの主権および領土的統一に疑問を唱えたりすること,また,宗派的ないし地域的対立をあおったり,パ国民は複数民族で構成されていると説くことを目的として,人種的,言語的もしくは類似の基盤に基づいて地域的統一戦線を結成することを一切禁止するもので,違反者は7年以上の禁固刑。
DIA-304-1973-11-22-2パキスタン1973年11月22日1970年代新米大使,着任-Henry A.Byroade駐パ米大使が着任(9月15日参照)。
DIA-304-1973-11-23-1パキスタン1973年11月23日1970年代首相,米紙記者と会見-“ドーン”紙によるとブット首相は部族地域遊説中に米の“クリスチャン・サイエンス・モニター”紙記者と会見,“米が対パ武器供与を拒否し続けるなら,武器調達資金をアラブ諸国にあおぐことになろうと語った。
DIA-304-1973-11-25-1パキスタン1973年11月25日1970年代国営放送局にダイナマイト-北西辺境州のパキスタン放送ペシャーワル支局にダイナマイトが投げ込まれた。被害は微小。28日,5名の“パクトゥーン・ザルマ司令官”が逮捕された。これは,“パターン民族青年隊”の意で,72年1月頃からNAPが組織した民兵。
DIA-304-1973-11-26-1パキスタン1973年11月26日1970年代バス料金引上げで暴動-スィンド州政府は68年以来1マイル2.5パイサに据えおかれていた市内バス料金を“1マイルあたりわずか2.5パイサ引上げる”(すなわち倍増)と発表。このためカラチを中心に暴動が発生,30日には警官発砲で1名死亡,集会が禁止された。同日,ブット首相はラールカーナで演説,“バス料金引上げは石油価格上昇のためで政府の責任ではない。しかし,わが国はすべての点てアラブを支持しているのであり,バス代引上げくらいでストをやらないでほしい”と訴えた。騒ぎは,M.A.ブット・スィンド州首相による最高料金(13マイル以上は70パイサ)の15パイサ引下げ発表(12月1日)後も続き,12月5日におさまった。この間,逮捕者は400名近くになった。
DIA-304-1973-11-26-2パキスタン1973年11月26日1970年代政府,綿布7種の価格を凍結。
DIA-304-1973-11-26-3パキスタン1973年11月26日1970年代ズィアーウツディーン首相特使(弁護士),アフリカ諸国に出発-訪問国はソマリア,スーダン,モーリタニア,セネガル,ギニア,マリ,ニジェール。
DIA-304-1973-11-29-1パキスタン1973年11月29日1970年代蔵相,国会答弁-ハッサン蔵相は下院での答弁で次のように述べた。(1)パは対パ債権国会議諸国に対し,73/74年度に5~6億ドルの新規援助を要請したが,現在までの約束額は1.2億ドル。しかし,年度内の約束額は3.73億ドルに達しよう。(2)73年6月30日現在で対外債務残高累計は46.79億ドル(うち6.01億ドル分がルピー払い)。(3)東パで使用されたもので明確な分については74年6月30日以降は債務返済をしなくてよいことになっている。非債権国会議諸国ではユーゴ,チェコ,ポーランド,ソ連が東八分の債権を取消し,中国は昨年1月のブット大統領訪中に際し,それまでの対パ借款1.1億ドルをすべて贈与に変更してくれた。
DIA-304-1973-11-29-2パキスタン1973年11月29日1970年代フランス海軍参謀長,来訪-ド・ジョイベール大将が6日間の親善訪問のため到着。
DIA-304-1973-12-01-1パキスタン1973年12月01日1970年代バンダラナイケ首相,1973年を生産年とし,生産の100%増を国民に要請。
DIA-304-1973-12-01-2パキスタン1973年12月01日1970年代インドのドラビダ進歩同盟指導者M.G.Ramachandran,スリランカに支部を設けずと言明。
DIA-304-1973-12-02-1パキスタン1973年12月02日1970年代首相,海外へ-ブット首相は3日までクエートを訪問,シャイフ・サバーッサラーム首長(Emir)およびシャイフ・ジャーベルル・アハマッド皇太子,シャイフ・アハマドゥル・ジァヴァール首相等と会談。議題は中東問題とパで開催予定の国教諸国首脳会議,ムルターン精油所設立計画(1.2億ドル)へのクエートの参画問題を含む経済協力等と発表されたが,消息筋によると,ブット首相の訪問はパのフランスからのミラージュ戦闘機購入資金をクエートにあおぐためともいう。3日,ブット首相はオマーン王国の国王,スルターン・カーブース・ビン・サイードと会談。同日帰国。
DIA-304-1973-12-02-2パキスタン1973年12月02日1970年代バルーチスターン州で官吏粛正-バグティー州知事は同州官吏粛正を開始,手始めに16名に退職を命令。
DIA-304-1973-12-02-3パキスタン1973年12月02日1970年代暗殺-A.S.K.アチャクザーイNAPパクトゥーン派(現在親PPP)委員長が,クエッタの自宅に投げ込まれた手榴弾によって死亡。8日,実子のMahmud Khan Achakzaiが委員長に選出された。
DIA-304-1973-12-02-4パキスタン1973年12月02日1970年代住宅所有制限法Housing Property Law,議会通過。規模を2,000ft^2に制限。
DIA-304-1973-12-02-5パキスタン1973年12月02日1970年代革命平等党VLSSP第37回党大会。ベトナム戦争非難。
DIA-304-1973-12-02-6パキスタン1973年12月02日1970年代とうがらし配給制。1人1ヵ月オンス0.6ルピー。
DIA-304-1973-12-03-1パキスタン1973年12月03日1970年代アガ・シャーヒ外務次官,諸国歴訪(~12日)-パで開催予定の回教諸国首脳会議の打合わせのため,首相特使としてサウジアラビア,アルジェリア,ヂュニジア,モロッコ歴訪。
DIA-304-1973-12-04-1パキスタン1973年12月04日1970年代投資低調-“ドーン”紙によると,過去2年間と同じく今年度も民間部門の投資状況は悪く,目標の32億ルピーに対し,現在までの投資額はその4分の1に達していない。投資家達は長期的計画と企業“接収”をしないとの政府の確約等を望んでいるという。
DIA-304-1973-12-04-2パキスタン1973年12月04日1970年代スリランカ・ベトナム連帯委員会,北爆非難集会。イランガラトネ,ケネマン,C.シルバ,クマラスリヤの4大臣も出席。
DIA-304-1973-12-04-3パキスタン1973年12月04日1970年代野党リーダー,新聞審議会法案の合憲性に関する議事手続き問題を憲法裁判所に提起。
DIA-304-1973-12-04-4パキスタン1973年12月04日1970年代キャンディのマハナヤケ死去。79歳。
DIA-304-1973-12-05-1パキスタン1973年12月05日1970年代第5次5カ年計画案-75年7月1日実施予定の第5次5か年計画作業案が計画委の手でまどめられた。詳細は不明だが,公共部門は第4次計画よりはるかに拡大され,民間部門については現実的アプローチがとられるという。公式表明はないが,従来のように経済的進歩を成長率で計るのではなく,今後は物価安定,失業問題,公正な所得分配に重点が置かれるものと一般に考えられている。
DIA-304-1973-12-05-2パキスタン1973年12月05日1970年代政府,回教諸国首脳会議は来年1月15日頃と発表。
DIA-304-1973-12-06-1パキスタン1973年12月06日1970年代インドのパ非難キャンペーン-アハマッド国防・外務担当国務相は国会の答弁で,インドは全インド放送およびアムリッツァル・テレビを通じ,このところパ非難を強めていると述べた。
DIA-304-1973-12-07-1パキスタン1973年12月07日1970年代接収企業について-“ビジネス・レコーダー”紙によると,政府が接収した企業の取締役会(Board of Directors)が復活されるかもしれないという。政府による接収の際,これらの取締役会は廃止され,代わりに,政府任命の専務取締役(Managing Directors)が経営をつかさどり,経営管理委員会(Board of Industrial Management)がこれに側面から助力を与えて接収企業を管理している。しかし,政府はより綿密な経営のために取締役会を復活する意向という。政府はこれの企業の株式の一部または全部をすでに取得しており,政府指名の取締役を出し得るが,小株主たちも自分たちの取締役を出し得ることになろうという。
DIA-304-1973-12-07-2パキスタン1973年12月07日1970年代フランス外務次官,来訪(~9日)-リプコフスキー外務次官はこの日,ブット首相と会談。9日,帰国に際し記者会見で次のように述べた。“ソ連のアジア安保はこの地域の平和に役立たない。また,米の対印・パ武器禁輸および英の事実上の武器禁輸は公正でない。武力均衡が破れたら是正すべきだ。亜大陸正常化に関し,パのインドに対する軍縮提案は注目さるべきだ。私は滞在中,パ政府代表とフランスの従来の対パ武器供与を検討したが,今後のことは専門家にまかせるべきだ”。同9日,共同声明発表。
DIA-304-1973-12-07-3パキスタン1973年12月07日1970年代前教育相I.M.R.A.イリヤゴレ死去。
DIA-304-1973-12-08-1パキスタン1973年12月08日1970年代北西辺境州大臣宅に爆弾-バンヌーのサイフッラー公共事業相宅に爆弾が投げ込まれたが,被害者はなかった。バンヌーおよびコハート地域では,過去1週間で3度目の爆弾騒ぎ。
DIA-304-1973-12-08-2パキスタン1973年12月08日1970年代バンダラナイケ首相,生産年の植樹運動を開始。
DIA-304-1973-12-08-3パキスタン1973年12月08日1970年代インド駐在スリラソカ高等弁務官N.G.Dias,トリンコマリの中国貸与説(連邦党チエルバナマカム主張)を否認。
DIA-304-1973-12-10-1パキスタン1973年12月10日1970年代首相,ペルシャ湾諸国歴訪(~12日)-ブット首相は,アハマッド国防・外務担当国務相,バッチ首相特別顧問等を随員としてペルシャ湾沿岸諸国を歴訪。議題は諸分野での協力と回教諸国首脳会議。“ビジネス;レコーダー”紙によると,パはペルシャ湾沿岸諸国およびアラブ諸国からかなりの経済援助を獲得し得るであろうという。10日,ブット首相一行はまずバハレーンを訪問,同国のシャイフ・イッサー・ビン・サルマーヌル・ハリーファ首長,シャイフ・ハリーファ・ビン・サルマーヌル・ハリーファ首相,シャイフ・ムハマッド・ビン・ムバーラクル・ハリーファ外相と会談。会談後,ブット首相は記者会見で,“ムルターン精油所計画に関し,ペルシャ湾沿岸諸国との間にすでに協定が締結されている(11月23日)。現在,多数の国々がインド洋に関心を抱いているが,パはこの地域の静穏を望む”と語った。同日,一行はカタルを訪問,シャイフ・ハリーファ・ビン・ハマドゥッサーニ首長等と会談を行なった。11日,一行はアブ・ダビに到着,アラブ首長国連邦(UAE)大統領でもあるシャイフ・サイード・ビン・スルターン・アン・ニフヤーン首長,シャイフ・ハリーファ・ビン・ザイード首相,アハマッドゥ・
DIA-304-1973-12-11-1パキスタン1973年12月11日1970年代洪水被害額-政府筋発表によると,8~9月洪水による被害額は総計40億ルピーに達する。被災者は480万人で,うち死亡者はパンジャーブ州449名,スインド州25名。冠水面積計1036万エーカー。うち耕作地は373万エーカー。栽培中の綿花,小麦,米の被害額は国内価格で20億ルピー,国際価格で50億ルピー。貯蔵穀物被害額は国内価格で4億2500万ルピー,国際価格で15億ルピー。その他の農業部門損害は国内・国際価格いずれにおいても3100万ルピー。その他,住宅は9億ルピー;工業資産は5000万ルピー;灌漑設備,電力,運輸・通信は3億3100万ルピー;等。しかし復旧は目覚しい。
DIA-304-1973-12-14-1パキスタン1973年12月14日1970年代捕虜送還-政府筋によれば,現在インドは1ヵ月に1万2000人の割合でパ軍捕虜および文民被抑留者を送還している。この割合では送還完了は来年4月末になる。一方,パは13日までに6万3229人のベンガル人をバングラに送還し,バングラから非ベンガル人2万7067人を引受けたが,これらは来年2月までに完了予定。
DIA-304-1973-12-15-1パキスタン1973年12月15日1970年代回教圏開発銀行-サウジアラビアのジェッダで回教諸国29カ国蔵相会議が開かれ,回教圈開発銀行(IDB)設立が決定された。これは72年に提唱され,マレーシアが立案を担当してきたもの。資本金10億ドル。
DIA-304-1973-12-16-1パキスタン1973年12月16日1970年代公共部門,株式市場に進出か-ハッサン蔵相は,政府金融機関に対し,株式市場での株式取得を指示する決定を行なったことを明らかにするとともに,“株式市場低迷の報道はデマだ”と述べた。
DIA-304-1973-12-16-2パキスタン1973年12月16日1970年代ジャトイ政治問題相,イラン訪問(~18日)-ブット首相特使としてパーレビ皇帝と会談。
DIA-304-1973-12-17-1パキスタン1973年12月17日1970年代ラヒーム生産相は国会で,米の政府による輸出は続けると言明した。
DIA-304-1973-12-17-2パキスタン1973年12月17日1970年代ブット首相,インド首相に会談を呼びかけ。
DIA-304-1973-12-18-1パキスタン1973年12月18日1970年代州首相,辞任-M.A.ブット・スィンド州首相は,疲労を理由に辞任。代理にカイム・アリ法相。
DIA-304-1973-12-18-2パキスタン1973年12月18日1970年代4大銀行に規制-政府は4大銀行に対し7大都市での新支店開設を禁ずるとともに,中小都市で1支店を開設するには農村に3支店を開設せねばならないという厳しい規制を発表した。
DIA-304-1973-12-20-1パキスタン1973年12月20日1970年代宅地を無料配分-ブット首相はラーワルビンディで演説,“農村地域の貧民に宅地を無料で与える”と発表した。
DIA-304-1973-12-21-1パキスタン1973年12月21日1970年代回教諸国首脳会議は2月22日からラホールで開催-ブット首相発表。
DIA-304-1973-12-21-2パキスタン1973年12月21日1970年代政府金融機関等,移転予定-以下の機関の本部が近くカラチからイスラ-マバ-ドに移転されるという。これらは,中央銀行,パ産業開発公社(PIDC),パ貿易公社(TCP),国家生命保険公社(SLIC)。パ投資公社(ICP)と国民投資トラスト(NIT)は合併後移転。パ工業開発銀行(IDBP,半官半民),パ保険会社(PIC),パ工業信用投資会社(PICIC),パ国民銀行(NBP,以上民間)。
DIA-304-1973-12-24-1パキスタン1973年12月24日1970年代新州首相-連邦政府のジャトイ運輸通信・政治問題相がスィンド州首相に選出され,就任した。
DIA-304-1973-12-26-1パキスタン1973年12月26日1970年代州閣僚-カール・パンジャーブ州首相はサーヒブザーダ・カーンを州閣僚に任命した(担当不明)。
DIA-304-1973-12-27-1パキスタン1973年12月27日1970年代自動車生産計画-ラヒーム生産相は政府が自動車生産7ヵ年計画(1.2億ルピー)を開始したことを明らかにした。
DIA-304-1973-12-27-2パキスタン1973年12月27日1970年代輸出-73年7~10月の輸出は2.495億ドルで前年同期(1.736億ドル)に対し43.7%増大した。
DIA-304-1973-12-30-1パキスタン1973年12月30日1970年代PPP党大会(~31日)-カラチで。
DIA-304-1973-12-30-2パキスタン1973年12月30日1970年代カラチ近効ピプリのカラチ製鋼所(ソ連援助)着工。
DIA-304-1973-12-31-1パキスタン1973年12月31日1970年代首相,カラチで実業家に演説-以下,要旨。(1)政府が接収した企業の出資者には妥当な補償を算定する。(2)今まで以上の国有化については現段階では何も言えない。(3)民間部門の役割に関する憲章の作成に際しては実業界に公正でありたいと思う。
DIA-304-1973-12-31-2パキスタン1973年12月31日1970年代インド首相,来訪の意向なし-ガンディ-・インド首相は“雰囲気が改善されるまで”パを訪問する庫向はないと述べた。しかし,貿易,通信については会談を望んでおり,この件に関してブット首相に書簡を送付,回答を待っていることを明らかにした。
DIA-304-1973-12-31-3パキスタン1973年12月31日1970年代74年1月1日銀行国有化。
DIA-304-1974-01-01-1パキスタン1974年01月01日1970年代銀行国有化-大統領は,①1974年銀行国有化法令The Bank’s Nationalization of Ordinance,1974②1974年石油製品販売統制法令The Marketing of Petroleum Products(Federal Control Ordinance),1974,および③1974年パ海上船舶統制法令The Pakistan Maritime Shipping(Regulation and Control)Ordinance,1974を発令した。 この結果,①により国内銀行15行全部が国有化され,政府はその経営管理権,所有権,株式のいっさいを接収した。東京銀行を含む外資系銀行8行は例外として国有化措置法より除外している。②により,政府は石油製品の販売に関与しているすべての企業の経営を接収し,パ投資公社および外国人投資を除く株式を取得する。③により,海上船舶に関するすべての企業の経営・株式を政府が接収する。 これら接収企業・銀行に対しては政府の定めに従い,補償金を支払う。 パキスタンでは金属・化学・セメント・肥料等,主要産業の国有化を進めて来たが,これまでは政府が経営を監督するだけで資本には手をつけてこなかったのに対し,銀行の場合は資本そのものを接収する完全な国有化の形をとっている。これで国有化されていない主要産業は繊維産業だけとなった。
DIA-304-1974-01-01-2パキスタン1974年01月01日1970年代石油価格上昇-シェルパオ燃料相は,原油価格高騰のため,石油製品価格も引上げざるを得ないと発表した。
DIA-304-1974-01-01-3パキスタン1974年01月01日1970年代国際収支-1972/73年度のパ国際収支は14億7210万ルピーの黒字を記録した。これは資本取引に関する純収入26億20万ルピー,資本移転18億5090万ルピーに対して商品・サーヴィス関係の赤字29億8080万ルピー。
DIA-304-1974-01-01-4パキスタン1974年01月01日1970年代石油販売会社の国有化-政府は国有化法令にもとづき,資産総額2億6000万ルピーの2つの石油販売会社,ダウッド石油会社(資産7574万ルピー)パキスタン・ナショナル石油会社(資産1億8445万ルピー)を国有化した。パキスタン・バーマ・シェル社(49%外国会社出資),エッソ・イースタン・カルテックス社(100%外資)は国有化されない。 ダウッド石油会社の取締役にはJ.A.ファルーク石油ガス開発公社総裁,パ・ナショナル石油会社にはA.Alla-hwalaパ石油精製会社取締役がそれぞれ任命された。
DIA-304-1974-01-03-1パキスタン1974年01月03日1970年代バルーチスターンの新知事-バルーチスターン州知事に1月1日に辞任したブグティ氏に代わりミール・アフマッド・ヤール・カーン(カラート)が就任した。
DIA-304-1974-01-03-2パキスタン1974年01月03日1970年代ブット首相,米国軍事援助再開を要求-レクスプレス紙記者と会見したブット首相は,対外関係について次のようにのべた。 ①パの地理的戦略的重要性からして,その安定強化がインド亜大陸に及ぼす影響は大きい。アメリカはパキスタンの安定がその外交政策のポィントであることに気づくだろう。パのバルカン化はアメリカの利益にならない。アメリカはその条約の義務に従い,対パ軍事援助を再開すべきだ。 ②ソ連とは中国との友好関係をそこなわないという原則の下に,友好関係をつづけたいと考えている。ソ連はインドやアフガニスタンに軍事援助を与え,インドやバングラデシュに食糧援助をしている。しかしパキスタンには1967年に買ったソ連製ヘリコプターの部品すら供与していない。しかし我々は希望を捨ててはいない。 ③イラクは“大バルーチスターン”運動を支持しているが,これはイラン・パキスタン関係をヒビ入らせるためのものである。 ④バルーチスターン,NWFPには外国勢力の干渉があるが,パ政府はこれら2州を統一して行けると考えている。
DIA-304-1974-01-06-1パキスタン1974年01月06日1970年代中国軍事代表団,来訪-張才千人民解放軍副総参謀長を首班とする代表団一行は,ティッカ・カーン陸軍参謀長の招請を受け,12日間の予定で公式訪パ。
DIA-304-1974-01-09-1パキスタン1974年01月09日1970年代民間部門投資低調-公式筋によれば,過去2カ年の民間部門投資は目標額32億ルピーの4分の1以下しか達成されず,これに反して公共部門投資は促進されている。民間投資促進のため,政府はBoard of Industrial Management(BIM)およびPIDCに対し,そのプロジェクトを早急に進めるよう指示した。BIMは自動車産業,重化学工業,セメント工業,鉄鋼・機械工業,肥料工業などのプロジェクトを担当しており,新たに石油・ガス産業,電気製品なども担当する。
DIA-304-1974-01-10-1パキスタン1974年01月10日1970年代クーデター計画にパが加担?-アフガニスタン外務省筋によれば,昨年9月摘発されたダウド政府転覆未遂事件にパが積極的に加担していたことを裏付ける膨大な証拠文書を手に入れたことを明らかにしたが,パ大使は証拠文書の閲覧を拒否したといわれる。証拠文書によると,パはクーデター計画に武器・資金面で関与したという。
DIA-304-1974-01-12-1パキスタン1974年01月12日1970年代首相,中国軍事代表団を歓待-ブット首相はシンド州知事官邸で夕食会を主催し,“パ・中国の友好関係は時の試練に耐え,カラコルムより高く,インド洋より深いものだ”と述べたのに対し,張才千代表は“両国の友好関係は原則に基づき帝国主義と拡張主義に反対する共通の闘争として発展してきた”と語った。 中国代表団はこれより前,プット首相と会談,両国に関係深いことについて話し合った。パ側からは首相の他アジズ・アーメッド外交・国防担当国務相,シャーヒ外務次官,陸・海軍総参謀長が同席,中国側は代表団に駐パ大使が加わった。
DIA-304-1974-01-12-2パキスタン1974年01月12日1970年代シンド州閣僚任命-シンド州内閣に前閣僚2名と新人3名が入閣した。就任したのはアブドール・ワヒード・カトプル(保健・人口計画・法務・議会問題担当),ジャム・サディワ・アリ(地方自治体・住宅・都市計画担当)の前閣僚と,プヤール・アリ・アラーナー(教育・文化担当),バスィル・アフマッド・シャー(食糧・協同組合担当),ミール・ハザール・カーン・ビジャラニー(運輸通信・農村開発担当)の新人である。
DIA-304-1974-01-12-3パキスタン1974年01月12日1970年代公共部門における産業再編について-J.A.ラーヒム生産相はカラチでの記者会見で公共部門における産業再編成問題に触れ,類似の産業単位の活動,費用削減,充分な生産能力の確保の上で管理機構を整備するため生産省管轄下に7つの公社を設置することを発表した。公社は自動車,鉄鋼,重工学,軽工学,セメント,化学および肥料の7分野にわたる予定。
DIA-304-1974-01-15-1パキスタン1974年01月15日1970年代2肥料プラント建設計画-第1のプラントは北シンド地方に9000万ドル以上の費用で建設される予定。当計画に関連して西パ工業開発公社は5000万ドル借款の財政的援助を求め,フランスと交渉中である。第2のプラントは中国の財政・技術援助でNWFPに建設される計画である。
DIA-304-1974-01-15-2パキスタン1974年01月15日1970年代カナダ,西ドイツの援助-対パ債権国会議諸国の内,西ドイツはライヤルプルでの200m.w.ガス・タービン発電所の設置に対して約2500万ドル援助に同意した。西独は,この他すでに約3000万ドル援助(商品援助 約2000万ドル,プロジェクト援助1000万ドル)をコミットしている。またカナダは2500万ドルを500kwタルベラ=ライヤルプル間送電設置のために供与,その他に商品援助1000万ドル,プロジェクト援助1000万ドル(原子カエネルギー委員会に600万ドル,WAPDAに100万ドル,鉄道に100万ドル,未割当220万ドル)をコミットした。
DIA-304-1974-01-16-1パキスタン1974年01月16日1970年代シンド州閣僚に2人任命-ジャトイ州首相はシンド州閣僚にバルーチ氏,タルプール氏の2人を入閣させた。これにより州閣僚は首相を除き7人。 G.M.Jatoi:州首相・一般行政・内務・大蔵(工業・情報) A.W.Katpar:保健・家族計画・事業・法務議会 J.S.Ali:地方行政・住宅・都市計画(灌漑・電力) P.G.Allana:教育・文化・計画・開発 M.H.K.Bijarani:運輸・通信・農村開発(歳入・復興) M.A.H.Talpur:農業・森林 A.Baloch:労働・社会福祉 H.A.Shah:食糧・協同組合
DIA-304-1974-01-18-1パキスタン1974年01月18日1970年代物価問題について-フルシィッド・ハッサン・ミール連邦相は上院で政府の価格安定対策について説明し,①昨年の輸出税引上げによる追加収入10億ルピーの利用,②州政府レベルにおける価格安定局の設置,③ウクアイリー委員会勧告の検討・実施,④計画委員会下に価格委員会の設置,⑤8つの特別価格安定品目(小麦,小麦粉,下級米,植物性油,砂糖,茶,下級布,ケロシンおよびマッチ)を決めたこと,⑥米を政府が余剰の50%を独占的に供出させ,供出価格を固定したこと,⑦公正価格店の設置,⑧雑穀の輸出禁止,⑨下級綿布の価格凍結などを行なったことを明らかにした。
DIA-304-1974-01-19-1パキスタン1974年01月19日1970年代輸出目標達成対策-現会計年度輸出目標11億ドル,前会計年度外貨獲得高8億2600万ドルの33%増を達成するための対策が検討されている。これは,最近の輸出振興局理事会において今年上半期の輸出は昨年同期間の約3%増にすぎなく,先月末までの外貨獲得高は4億3500万ドルにすぎず,あと6億6500万ドル相当の輸出が下半期になされる必要があると推計されたためである。主な原因は,原綿および米の輸出が低調であること,石油高騰により輸入に見合うだけの製造品輸出がなされてないこと等にあると考えられている。
DIA-304-1974-01-21-1パキスタン1974年01月21日1970年代インド有力紙『ステーツマン』は,パが中国の援助で地対空ミサイルの生産を開始すると報道。中国軍事代表団と最終的合意に達し,ソ連がインドに供与を約束したというSAM6型ミサイルに匹敵するものが生産されるといわれる。
DIA-304-1974-01-22-1パキスタン1974年01月22日1970年代アジア開発銀行,パに5270万ポンドの借款(電力・肥料)を供与する協定に調印。
DIA-304-1974-01-22-2パキスタン1974年01月22日1970年代UNDP,エネルギー調査に55万ドル供与。
DIA-304-1974-01-23-1パキスタン1974年01月23日1970年代政府,仏ジャーナリスト追放-政府は仏ジャーナリスト,プリアン・メイに1週間以内に国外に退去するよう命令した。追放理由は,1月20日同氏が“中国はパ国内での地対空ミサイル生産に援助することに同意した”と発表したことによる。
DIA-304-1974-01-23-2パキスタン1974年01月23日1970年代ブット首相,駐印・パ米大使と会見-駐印米大使D.P.モイニハンは駐パ米大使と共に,特別機でハイデラバードにブット首相を訪ねた。会見は全く私的なものであることが強調されている。
DIA-304-1974-01-26-1パキスタン1974年01月26日1970年代州議会議員逮捕-バルーチスターン州議会議員(NAP)M.D.M.カーンは,州内で逮捕された。理由は不明。
DIA-304-1974-01-26-2パキスタン1974年01月26日1970年代ミサイル生産を否定-外務省筋は,中国軍事代表団来訪の際,中国がパ国内での地対空ミサイル生産に協力することで合意したとのAFP通信の報道を否定した。
DIA-304-1974-02-01-1パキスタン1974年02月01日1970年代期待される援助総額,3億9000万ドル-今年度の外国援助総額は3億9000万ドル,前年度比12.7%の増加となる見込みである。この内訳は,プロジェクト援助1億6400万ドルー公共部門9500万ドル,民間部門6900万ドル,非プロジェクト援助-食糧4400万ドル,非食糧1億8200万ドル,となっている。
DIA-304-1974-02-01-2パキスタン1974年02月01日1970年代国務相,アフガニスタンへ-アジーズ・アフメッド国防・外交担当国務相は3日間のアフガニスタン訪問に出発した。ダウド大統領と会見の予定。
DIA-304-1974-02-01-3パキスタン1974年02月01日1970年代さとうきび価格引上げ-ブット首相主宰の特別会合(ラホール)で1974/75年のさとうきび価格問題が討議され,今年11月からの砂糖工場渡し価格を1モーンド当り50パイサー引上げることを決定した。その結果州別では1モーンド当りの価格は,NWFP4.50ルピー,パンジャーブ4.75ルピー,シンド4.90ルピーとなる。
DIA-304-1974-02-02-1パキスタン1974年02月02日1970年代パ農業開発銀行,利子率2%引上げ-当行は1月22日付で利子率を2%引上げた。その結果利子率は貸付総額5000ルピー以内で9%,以上で10%となる。
DIA-304-1974-02-02-2パキスタン1974年02月02日1970年代ニクソン大統領,新パ大使と会見-ニクソン大統領はS.Y.カーン新パ大使に対して,両国の友好関係は今後も堅持されることをブット首相に伝えるよう要請した。
DIA-304-1974-02-03-1パキスタン1974年02月03日1970年代カラチ港でギリシア船乗っ取り-イスラム教徒国際ゲリラ(MIG)と名乗るパレスチナ・ゲリラ3名(PLO関係を否定)は,ギリシア貨物船ボリ号(11,500トン)を乗っ取り,ギリシア当局に逮捕,死刑を宣告されたアテネ空港襲撃犯人2名の即時釈放を要求し乗組員2名を人質にたてこもったが,ギリシア政府の死刑撤回の約束を契機としてパ国際航空機のチアーター機でカラチから退去し,事件は28時間で解決した。
DIA-304-1974-02-05-1パキスタン1974年02月05日1970年代鉄道料金引上げ-ハッサン蔵相はラホールで,政府は燃料費の増大にともない鉄道貨物運賃(商品・小包)を2月7日から30%引上げることに決定したことを明らかにした。
DIA-304-1974-02-06-1パキスタン1974年02月06日1970年代中国援助で鉄鋼工場-ラーヒム生産相は下院で自国産鉄鉱石の利用による鉄鋼生産プロジェクトに対して中国からの援助交渉が進行中であることを明らかにした。同相は,ピプリ鉄鋼工場プロジェクト(73年12月30日礎石置かれ,今年中旬始動の予定)については良質の鉄鉱石を利用する方向であること,さらにカラバーグ鉄鋼工場プロジェクトについてはチチアリー鉄鉱石を100%使用する方向もあるが,鉄含有量が低いため輸入鉄鉱石をも利用する見通しであることを明らかにした。
DIA-304-1974-02-08-1パキスタン1974年02月08日1970年代AID援助-M.J.ウィリアムAID代表はワシントンでパ復興を支持し,洪水救済を中心とする6200万ドル援助を要請したことを明らかにした。なお援助内訳は,借款4000万ドル,贈与2200万ドルとなる予定。
DIA-304-1974-02-08-2パキスタン1974年02月08日1970年代ADB借款-最近アジア開発銀行はパに対して総額5200万ドル以上に上る借款を承認した。その内訳は,マングラー水力発電開発に対し1670万ドル,ムルタン肥料プロジェクトに対し2750万ドル,発電所・送電・配電の補充借款として900万ドルとなっている。
DIA-304-1974-02-10-1パキスタン1974年02月10日1970年代綿花生産-食糧・農業省による1973-74年綿作最終評価によれば,総作付面積は4,559,400エーカー(pak-upland4,200,400エーカー,desi359,000エーカー)で前年度総作付面積4,966,900エーカー(pak・upland4,568,700エーカー,desi398,200エーカー)と比較すれば洪水被害のため8.2%の減少である。総生産高は前年度3,946,700ベール(pak-upland3,746,100ベール,desi200,600ベール)に対して3,704,400ベール(pak-up-land3,519,700ベール,desi184,700ベール)と6.1%減少する見込み。州別評価は以下の通り。
DIA-304-1974-02-12-1パキスタン1974年02月12日1970年代回教国首脳会議について-外交筋によれば会議へのバングラ参加をめぐってカイロ,イスラマーバード,ダッカ間で折衝が続けられている。ハッサン・アル・トハミー回教会議事務局書記長は再びバングラ指導者と会談するためダッカを訪問する予定。スワラン・シン・インド外相は本日ダッカに到着する予定。また,サダト・エジプト大統領もバングラを訪問する見込みといわれる。
DIA-304-1974-02-12-2パキスタン1974年02月12日1970年代ソ連と貿易協定-E.A.ナイク商務省次官を首班とする貿易代表団は1月28日,2月1日の2日間ソ連を訪問し,1974年の貿易協定を締結した。この交換協定に基づき,ソ連側は原材料・機械,尿素,銑鉄,鉄棒,亜鉛,トラクター,石油・ガス採掘設備や,テレビ,食器,板ガラス,タイヤなどの消費財を輸出し,パ側は原綿,靴下・メリヤス類,既製服,皮革靴,綿織物,タオル,シーツ,スポーツ用品などを輸出する。
DIA-304-1974-02-13-1パキスタン1974年02月13日1970年代3閣僚辞任-ブット首相はシェルパオ燃料・電力・天然資源相,バクシュ・ライサニー食糧・農業相,マハムド・アリ国務相の3名の辞表を受理した。なお燃料・電力・天然資源相はモハマッド・ハニーフ労働・公共事業相が代行。
DIA-304-1974-02-15-1パキスタン1974年02月15日1970年代バルーチスターン州閣僚-J.M.G.カディルカーンを首相とするバルーチスターン州内閣にラィサニー前連邦相と,M.S.K.パラチァー(PPP)の2名が新たに入閣し,計6名となった。
DIA-304-1974-02-18-1パキスタン1974年02月18日1970年代バングラ承認の用意-政府系新聞『ムサワト』は,“インドに捕えられているパ捕虜(195人)を戦犯として裁判にかけないという「明確な保証」が得られれば,48時間以内にバングラを承認する用意がある”と報じた。
DIA-304-1974-02-19-1パキスタン1974年02月19日1970年代補欠選挙-クエッタで行なわれた国民議会補欠選挙でM.P.M.ジァマリ(PPP)が勝利。
DIA-304-1974-02-20-1パキスタン1974年02月20日1970年代ソ連との貿易-今年パとソ連の貿易額は5000万ドルに達する見込。これは昨年より40%増となる。来訪中のG.N.マクリン・ソ連貿易代表は,“先月モスクワで調印された1974年貿易協定は貿易の拡大を意図している”と述べた。
DIA-304-1974-02-21-1パキスタン1974年02月21日1970年代回教会議使節団,バングラ訪問-回教国会議外相会議はAl-Jabarクエート外相を団長とする使節団(7人)をダッカに送ることに決め,一行はクエート特別機でダッカに向かった。トハミー回教国会議事務局長も同行。使節団はラーマン首相に,パのバングラデシュ承認と引替えに,195人のパ捕虜裁判の取消を説得する意向であるという。
DIA-304-1974-02-22-1パキスタン1974年02月22日1970年代バグラを承認-ブット首相は緊急の記者会見で,“わが国と回教世界の利益のためバングラデシュを独立国として承認する”と発表した。一方,ラーマン・バングラ首相は“パの無条件承認”を歓迎するととも に,サダト大統領の参加要請の提案を受諾し,回教国首脳会議に参加することを明らかにした。 なおイラン・トルコも同日,バングラデシュ承認を発表した。
DIA-304-1974-02-22-2パキスタン1974年02月22日1970年代第2回回教国首脳会議ラホールで開催(~24日)-22日,ブット首相は“第三世界はいまや初めて協力により自らの資源を使用する立場に立ったが,産油国と非産油国間に不一致があるためこの機会を逃す恐れもある”と基調報告した。
DIA-304-1974-02-22-3パキスタン1974年02月22日1970年代リビアのカダフィ革命評議長は,一般演説の中で,石油消費国を①アラブ敵対国,②アラブ支持国,③第三世界,④回教国に分け,回教国に対しては,価格面でもっとも優遇する方式を提案した。
DIA-304-1974-02-23-1パキスタン1974年02月23日1970年代ラーマン首相,パキスタン到着-ラーマン首相は独立後初めて,回教国首脳会議参加のため,パキスタンに到着した。空港にはブット首相が出迎え,劇的な対面をした。
DIA-304-1974-02-24-1パキスタン1974年02月24日1970年代回教国首脳会議終る-3日間に亘りラホールで開かれた回教国首脳会議は,ラホール宣言を採択して,24日閉会した。それに先立つ23日夜,中東およびパレスチナの大義(13項目)およびエルサレム(4項目)の2つの決議を採択している。ラホール宣言の内容要旨は以下の通り。 ①同じ苦しみにあるアジア・アフリカ・中南米の国民への連帯を深めつつ,回教諸国民は社会進歩と平等,正義の世界秩序建設の闘争で中心的役割を果している。 ②占領されたあらゆる土地を回復するためのアラブの闘争を全面的に支持する。 ③エルサレムを回教国に。イスラエルのエルサレムからの撤退は中東の恒久平和にとって至高の条件である。 ④兵力引離しは和平そのものではない。 ⑤回教諸国は世界各国,特に発展途上国の天然資源に対する恒久の主権と支配権を支持する。 ⑥現今のエネルギー危機は,第三世界によるすべての資源の供給と,発展途上国が先進国から輸入する製品とサービスとの相互関連で見なければならない。 ⑦回教諸国は相互経済協力の目的達成のための機構設立に直ちに着手し,その目的のために経済専門委員会(8カ国委)を設置する。
DIA-304-1974-02-24-2パキスタン1974年02月24日1970年代フランス援助-仏政府はパに対して1億1000万フランの借款を供与することになった。この供与協定は22日パ大使館で調印された。また洪水被害に対する小麦5000トン供与協定が21日調印された。
DIA-304-1974-02-29-1パキスタン1974年02月29日1970年代経済界,パングラ承認を歓迎-M.アクラムパ商工会議所連盟総裁は記者会見で演説し,バングラ承認決定に歓迎の意を表明するとともに“民間部門はバングラとの貿易回復に関するすべての事柄について相談されるべきである”と連邦政府に要請した。
DIA-304-1974-03-02-1パキスタン1974年03月02日1970年代共同謀議事件-軍法会議がラワルピンディーで開かれ,Inter Service Public Relation Directorateにより21名の被告将校のうち15名に対して,終身流刑2名,解雇13名の判決が下った。F.B.アリー陸軍准将(退役)とA.A.アフリディ陸軍大佐(退役)の2名が内乱煽動の罪で終身流刑を宣告された。
DIA-304-1974-03-04-1パキスタン1974年03月04日1970年代非常事態宣言,継続-上・下院共同議会は,国家の安全のため国家非常事態宣言を6ヵ月間延長するという政府提案を承認した。ブット首相は2日間に亘る国会討議の後に承認された非常事態宣言の延期について,「9月以降には解除されうる可能性がある。しかし9月になってもしさらに延長する必要が生じたならば,その延長が最後のものとなろう」とのべた。 野党はこの延長問題で政府に反発,延長期間を短縮するよう要求したが入れられず,抗議のため議場から退場したが,NAP議員G.ファルーク(ペシャワール)は残った。
DIA-304-1974-03-04-2パキスタン1974年03月04日1970年代貿易収支,輸入超過傾向-Dawn紙報道によれば,1973/74年パ貿易収支は輸出10億ドルに対して輸入13億ドル以上と輸入超過の傾向である。1974/75年度の外貨獲得高は米・綿花の国際市場価格が現状通りとすれば11億ドル程度となると予想されるが輸入が拡大するため,ギャップはさらに拡大する見込。なお,今年1月の貿易額は輸出6億7340万ルピーに対し輸入12億5160万ルピーである。
DIA-304-1974-03-08-1パキスタン1974年03月08日1970年代公式筋によれば,バングラ承認に伴い6月までに両国の負債の振り分けが決められることからパは世銀・債権国会議さらに非債権国会議諸国に対して債務返済の長期繰延べを強く要請するとみられている。1972/73の外国援助は,目標4億6600万ドルに対して実績は3億4500万ドルでしかない。1973/74は目標3億9000万ドル。
DIA-304-1974-03-08-2パキスタン1974年03月08日1970年代政府,綿花価格安定対策-政府は綿花価格を安定させるため,綿花輸出公社に最良質綿花価格が1モーンド当り240ルピー以下に下落しないように購買市場に介入するよう指示した。この処置は生産者が生産に見合う公正な価格(1マウンド当り90ルピー)を得ていないことに対してとられた。
DIA-304-1974-03-09-1パキスタン1974年03月09日1970年代所有地配分-ドーン紙の最近の統計によれば,1972年の土地改革により西パにおける民間所有地の43%が無償で小作農に配分された。全国で1897人の土地保有者が影響をうけ,その土地78.7万エーカーが接収された。州別概要は以下の通り。
DIA-304-1974-03-10-1パキスタン1974年03月10日1970年代パンジャーブ州首相辞任-グーラム・ムスタファ・カール・パンジャーブ州首相は11日までに後任を決めることを要求して辞任。同氏は後継者としてアフザル・ワットー(州閣僚)を示唆したといわれる。
DIA-304-1974-03-11-1パキスタン1974年03月11日1970年代パンジャーブ州首相にラメイ前蔵相-ブット首相はG.M.Khar州首相の辞任にともない新州首相に前蔵相ハニーフ・ラメイを指名した。ラメイ氏は記者会見し,憲法によれば州首相の辞任に伴い州閣僚会議は自動的に解放することになり,州議会を14日以内に開いて,首相と州議会リーダーを選出しなければならない,とのべた。Khar州首相の辞任に歩調を合わせて,A.Wattoo,M.Kahloon,T.Hassan,C.I.Ahmedの4閣僚も辞任するとみられ,パンジャーブ州PPPの内紛が表面化して来ている。
DIA-304-1974-03-11-2パキスタン1974年03月11日1970年代来訪中のドン・R・ヘンダーソン,アメリカ貿易使節団代表は,“今回の来訪は両国の経済関係を一層強化する可能性を調査するためである”とのべた。
DIA-304-1974-03-12-1パキスタン1974年03月12日1970年代土地利用状況-最近の農業統計によれば,パキスタンの全面積1億9700万エーカーのうち,7500万エーカー(38%)が可耕地である。しかし,このうち今年耕作された土地は4800万エーカーで,全面積の24%にすぎない。耕地の3分の2が灌漑地で,その73%はCanalによる灌漑である。残り3分の1は天水利用。耕地の規模別割合は次の通り。
DIA-304-1974-03-13-1パキスタン1974年03月13日1970年代アメリカ貿易使節団,調査-一行はドン・R・ヘンダーソン商務省南アジア局長を団長とする8名で構成。ヘンダーソン代表は,“両国企業の合弁計画は時期尚早である”と語った。なお,一行は発電設備供給に関してパの市場を調査する予定。
DIA-304-1974-03-13-2パキスタン1974年03月13日1970年代バルーチスターン州議会副議長,暗殺-モウルヴィ・ジャムスディン,バルーチスターン州議会副議長は,クェッタから自動車での帰途射殺された。これは,Achakzaiパクトニスターン運動指導者が昨年12月クェッタで殺されて以来のテロである。
DIA-304-1974-03-13-3パキスタン1974年03月13日1970年代パンジャーブ州前首相,ブット首相への忠誠誓う-カール・パンジャーブ州前首相は,その支持者を集めての会合で演説,「首相に対するいかなる陰謀もありえない。ブット氏はいつも我々の将軍であり,我々は常に兵士である。これまで7回も州首相の辞任を申し出たがうけいれられなかった。過去6年間,私は党内外の多くの敵と闘って来た。今回敗れたのは初めてだが,しかし自分の尊敬する人に敗れたのだから,むしろ誇りに思っている。遠くない将来,ブット首相は敵が私ではないことを知るだろう」とのべた。カール氏の支持者は「カール支持,ラメイ反対」のスローガンを叫んだ。
DIA-304-1974-03-13-4パキスタン1974年03月13日1970年代パンジャーブ州首相-モハマッド・ハニーフ・ラメイは州議会でパンジャーブ州首相に選出された。近日中に彼は閣僚名簿をブット首相に提出する予定。ラメイ氏は党の支持者に対し,統一を守るよう訴え,カール氏との対立について,そのような事実はない,とのべた。ドーン紙はラメイ氏の州首相就任について“農村地主階級に後押しされた封建領主に権力が与えられた”と評している。
DIA-304-1974-03-14-1パキスタン1974年03月14日1970年代ADB借款-ADBはスイ-カラチ間ガスパイプライン(305マイル)計画に対する1180万スターリング借款供与を承認したと発表した。返済期限は5年据置の25年間で,利子は年率7.5%である。当計画の総経費は930万ポンドと見積られ,完成は1976年末の予定。なお当計画には最近発見されたAsari SingとHundi地区(カラチから約40マイル)のガス田が利用される。
DIA-304-1974-03-14-2パキスタン1974年03月14日1970年代IDA3500万ドル供与-IDAは昨年8月洪水の救済計画に対して3500万ドルの信用供与を承認した。内訳は洪水復興1600万ドル,原材料輸入1800万ドルとなっている。条件は10年据置50年返済,手数料0.75%。
DIA-304-1974-03-19-1パキスタン1974年03月19日1970年代鉄鉱石鉱床,発見-カラチ北東約90マイル,Thano Bulla Khan付近で高質の鉄鉱石鉱床が発見された。試験的調査・採掘によれば鉄含有量は59.4%で,カラチ-タッター-ダドゥ-ラスベラの広い地域に埋蔵しているとみられている。
DIA-304-1974-03-19-2パキスタン1974年03月19日1970年代ソ連,尿素,トラクター供給-来訪中のニコライ・マトクリンソ連貿易代表は記者会見で,先月調印され た貿易議定書に基づき今年度に尿素肥料25,000トン,トラクター2000台,鉄棒10,000トン,亜鉛鉄板700トン,テレビ15,000台を供給するとのべた。また両国の貿易拡大を評価,昨年の交易3000万ドルが今年は5300万ドルになろう,とのべた。パキスタンはこれまでの借款の返済のため,今年は600万ドル相当の商品を輸出する。またソ連は今後3カ年に13万7000台の紡錘機(約1000万ドル)を7カ年の延払いで供与する。条件は,2.5~3%の利子率で,商品により返済する。
DIA-304-1974-03-19-3パキスタン1974年03月19日1970年代輸出米-政府は今年65万トンの輸出米を供出させる予定。このため政府は米生産を拡大する行動計画を準備した。すでに政府は生産拡大のため約100万トンの肥料を調達した。米の供出目標はシンド州40万トン,パンジャーブ州25万トンで,これを貿易公社は完全に輸出する計画である。
DIA-304-1974-03-20-1パキスタン1974年03月20日1970年代貿易収支,赤字-1973年7月~74年1月の貿易収支は16億ルピーの赤字である。1972/73年の同時期7ヵ月間は5億8000万ルピーの赤字であった。輸出入別にみると,輸入は73年12月の9億9950万ルピーに比較して74年1月には12億5160万ルピーと急増し,輸出は同時期で8億3960万ルピーから6億7340万ルピーと減少している。
DIA-304-1974-03-20-2パキスタン1974年03月20日1970年代ソ連と機械設備購入協定-パ鉄鋼公社はピプリ付近のカラチ鉄鋼工場建設にともない23億ルピー相当の機械・設備購入協定に調印した。
DIA-304-1974-03-22-1パキスタン1974年03月22日1970年代政府,Banking Council設置-政府は国有化商業銀行を監督するため,1月1日設置された国有化銀行局に代わり,6名の委員から構成されるBanking Councilを設置した。議長はM.R.ピルバハイ氏,会議は政府に対する政策の勧告,各行の財政・機能評価等の役割を担う。
DIA-304-1974-03-25-1パキスタン1974年03月25日1970年代パンジャーブ州閣僚-州議会開会(4月2日予定)に先だってラメイ・パンジャーブ州首相は5名を閣僚に指名した。指名されたのは,アブドール・カリーフ(教育・社会福祉担当),シアン・モハメッド・アフザール・ワットー(灌漑・電力担当),アブドール・ハニーフ・カルダール(工業・計画開発担当),サルダール・サキール・アフマッド(法律・議会問題・労働担当),サルダール・ナスルラー・カーン・ドリシャク(食糧・協同組合担当)の5名である。なおラメイ首相によれば,州内閣は12~13名で構成され,残りは議会開会中か終了後任命される。
DIA-304-1974-03-26-1パキスタン1974年03月26日1970年代北朝鮮代表団,来訪-Kang Riang Uk副大統領を首班とする代表団10名は6日間の公式訪間で到着。副大統領はパ人民のブット首相主導下における主権防衛・新経済・社会秩序の創造のための“闘争”に朝鮮人民の確固たる連帯を表明。
DIA-304-1974-04-03-1パキスタン1974年04月03日1970年代カラチに集会禁止令(2ヵ月間)。
DIA-304-1974-04-03-2パキスタン1974年04月03日1970年代回教国会議経済委員会,ジェッダで開催-ラホール宣言に基づく経済委員会(8カ国委員会)は,その第1回会合をジェッダで開き,産油国による非産油回教諸国救済の方法について話し合った。
DIA-304-1974-04-03-3パキスタン1974年04月03日1970年代RCD閣僚会議,イランで開催(~4日)。
DIA-304-1974-04-04-1パキスタン1974年04月04日1970年代国有化銀行,5つの指定銀行に統合-Banking Councilのピールバイ議長は6月30日より国有化15銀行を5っの指定銀行に統合すると発表した。 National Bank=Bank of Bahawalpurを統合。 Habib Bank=Habib Overseas,Standard Bankを統合。 United Bank=Commerce Bankを統合。 Muslim Commercial Bank=Premier Bankを統合。 Allied Bank of Pakistan=Australasia Bankを中心としてPak Bank,Sarhad Bank,Lahore Commercial Bankを統合。
DIA-304-1974-04-05-1パキスタン1974年04月05日1970年代インド・パキスタン・パングラデシュ3国外相会議開く-3国外相はインドで亜大陸の関係正常化のための,初めての会議を開いた。
DIA-304-1974-04-05-2パキスタン1974年04月05日1970年代ブット首相,ポンピドゥ仏大統領の葬儀のため,パリ着。
DIA-304-1974-04-05-3パキスタン1974年04月05日1970年代回教国8カ国委員会終了-経済問題解決のための方策を勧告。 ①世界的インフレにより経済状況が悪化しているメンバー国の国際収支改善のための基金設立。 ②回教国共同市場の設立。 ③回教銀行(Islamic Bank)の設立。資本金は10億ドル以上で,本部はジェッダ。 ④他国の銀行に預金している資金を回教銀行に預けること。 ⑤産油国は他の回教国の経済発展を助け,外部の敵に対し国防力を強化。
DIA-304-1974-04-09-1パキスタン1974年04月09日1970年代3国外相会議終る-印・パ・バングラ3国外相会議は,3国協定に調印して,5日間に亘る討議を終えた。協定は①バングラは戦犯195人を無条件に帰国させる,②パキスタンはバングラにいるパキスタン人を受け入れることを明らかにしている。
DIA-304-1974-04-12-1パキスタン1974年04月12日1970年代パキスタンの石油輸入は1973年7500万ドルのところ,1974年は3億5000ドルと推計されている。
DIA-304-1974-04-14-1パキスタン1974年04月14日1970年代バルーチスターン州正常化への措置-ブット首相はNWFP州・バルーチ州の各知事,首相,連邦政府・各州政府閣僚,軍参謀長などと協議の結果,次の措置を取ると言明。 ①5月15日以降,行政権はすべて州政府に移し,道路建設,農村電化,学校の開設などを除き,軍は手を引く。 ②州内に拘禁されている者で刑法違反者以外は特赦を与える。
DIA-304-1974-04-15-1パキスタン1974年04月15日1970年代憲法第1次修正法案,国会提出-バングラデシュ承認に伴う修正(4月23日,国会可決)。
DIA-304-1974-04-15-2パキスタン1974年04月15日1970年代空軍参謀総長,更迭。チョードリ中将に代って,ズルフィカール・カリ・カーン少将。
DIA-304-1974-04-15-3パキスタン1974年04月15日1970年代NAP中央執行委,ブット提案拒否-NAP中央執行委はバルーチスターンの正常化のためのブット提案を拒否した。
DIA-304-1974-04-20-1パキスタン1974年04月20日1970年代ネ・ウィン・ビルマ大統領,訪パ(~23日)
DIA-304-1974-04-20-2パキスタン1974年04月20日1970年代アユブ・カーン元大統領,死去。67歳。
DIA-304-1974-04-20-3パキスタン1974年04月20日1970年代政府,肥料の価格引上げ-尿素は1ポンド75Rsを110Rsに,カリは22Rsを112Rsに。
DIA-304-1974-04-20-4パキスタン1974年04月20日1970年代1974/75の米の供出価格-バスマティ米は1モーンド90Rs,ジョシ米39Rs,IRRI米38Rs。
DIA-304-1974-04-20-5パキスタン1974年04月20日1970年代1974の小麦供出価格は1モーンド25.50Rsに決める。
DIA-304-1974-04-24-1パキスタン1974年04月24日1970年代PPP党員の追放-ラホール県選出の国民議会議員(MNA)3名と州議会議員(MPA)1名はPPPパンジャーブ州本部に党内の”反人民的分子”3名の追放を要請した。
DIA-304-1974-04-25-1パキスタン1974年04月25日1970年代小麦,供給不足-カラチ市場での国産小麦は供給不足であり,最近の2週間小麦価格は1モーンド当り,平均2ルピー急騰した。一方,収穫が始ったシンド州生産県では小麦価格は1モーンド当り,平均2~3ルピー下落した。また,カラチ卸売市場では価格は1モーンド当り約34ルピーから36ルピー平均に上昇し,小売価格は1モーンド当り38~40ルピーとなっている。取引業者は“この事態は政府が買上げ政策の一環として小麦の県間移動を禁止したため”とみている。他方,政府筋は“この欠乏は人為的なもので不当利得によるもの”とみている。
DIA-304-1974-04-28-1パキスタン1974年04月28日1970年代首相,軍備間題について-ブット首相はUPI記者との会見で亜大陸情勢に触れながら,“武器の不均衡は侵略につながるゆえ,アメリカはパへの軍事援助を再開すべきである”とのべ,また“バングラとの貿易は準備中である”と語った。
DIA-304-1974-04-30-1パキスタン1974年04月30日1970年代最後の捕慮,帰還-インドに抑留されていたニアジ陸軍中将はじめ将兵が国境のワガ町を経由して帰国し,捕虜の帰国は完了。捕虜・被抑留者の復員の詳細は,将校1818名,JCO2138名,その他のランク51,897名,海軍兵1319名,空軍兵772名,レインジヤー警察等20,766名,国防玖外の市民(civilians paid out of defence)882名,市民10,389名,総計89,981名である。
DIA-304-1974-04-30-2パキスタン1974年04月30日1970年代労働組合指導者,暗殺-アブドール・ラーマン,Muttahida Mazdoor Majlis-i-Amal議長はラホールで狙撃され,グラブ・デヴィ病院で死亡した。犯人は不明。同氏はMessrs Package Ltd.の従業員で,コート・ラークパト地域の労働組合により形成された共闘戦線の議長であった。この事件に対してコート・ラークパト,ジャーダラ地域の工場労働者が抗議行動を展開し,一時交通が麻痺した。
DIA-304-1974-05-04-1パキスタン1974年05月04日1970年代教師の新給与規準-ピルザーダ教育相はラジオ・テレビを通じて,カレッジ,大学および工芸学校教師に対する新給与規準の詳細を説明し,すでに3州で承認,近くシンド州でもその運びとなることを明らかにした。概要は以下の通り。 (1)カレッジ・大学関係 講師 Rs.500-50-1000-50-1250(17号級) 助教授 Rs.1000-75-1750(18号級) 教授 Rs.2300-100-2600(20号級) ただし,助教授には1ヵ月当り150ルピーの特別給与が付加。 (2)工芸高校関係 下級教官 Rs.300-20-400-EB-25-525-EB-25-650(12号級) 上級教官 Rs.500-50-1000-50-1250(17号級) 学科長(主任教官)Rs.1000-75-1750(18号級) 校長Rs.1800-80-2200(19号級) ただし,上級教官には1ヵ月当り100ルピーの特別給与が付加。
DIA-304-1974-05-07-1パキスタン1974年05月07日1970年代講師ストライキ-パンジャープ州の政府系カレッジの講師約2500名は,同州講師協会の指導下に給与固定を1972年3月1月に遡及させることを要求して無期限ストに突入。
DIA-304-1974-05-08-1パキスタン1974年05月08日1970年代州政府,学校閉鎖へ-教師ストに関連してパンジャーブ州政府は情勢が改善されるまで明日9日からすべての学校,カレッジを閉鎖することを決定。一方,今朝教師を支持する10代の学生がShahrah-i-Quaid-i-Azam近辺で公共物にレンガ片を投げつけ,時混乱。他方,数干人の国立学校教師は今朝から無期限ストに入り,ラワルピンディーのパンジャーブ工芸学校教師連合はスト第3日目に,グジャラートのスウェディシュ・パク技術研究所もストに入った。また西パ国立カレッジ教師も明日らか無期限ストに入ることを決定。
DIA-304-1974-05-08-2パキスタン1974年05月08日1970年代世銀,借款-世銀は食糧自給・農業開発政策に基づくパの肥料生産拡大に対する3500万ドル借款を認可。これはパンジャーブ農業地帯の中心に位置するムルタンの天然ガス肥料工場の拡大計画に対するもので世銀による総額1億0200万ドルの借款が予定されている。なお当計画はPak-Arab肥料株式会社(政府株70%)により実施されるが,すでにADBにより総額2700万ドル借款が供与されている。
DIA-304-1974-05-11-1パキスタン1974年05月11日1970年代ブット首相中国訪問,毛沢東主席と会見-ブット首相は4日間の公式訪問のため中国を訪れ,異例のことだが同日,毛沢東主席と90分に亘って会見した。ブット首相一行は30人で,中にはラヒム・カーン少将・陸軍総参謀長ら軍関係者も含まれる。
DIA-304-1974-05-12-1パキスタン1974年05月12日1970年代周首相主催夕食会で,インド大使退場-人民大会場でのブット首相歓迎宴会の席上郭小平副首相は亜大陸情勢に触れ,中国は平和共存の5原則に基づき亜大陸諸国との友好関係を一層発展させる用意があること,国家的独立,国家主権および領土的統一の防衛,覇権主義・拡張主義反対のためのパの闘争を支持すること,またカシミール人民の自決権闘争を断固支持すること,等を強調した。このため駐中国インド大使が退場した。これに応えてブット首相はインド外交官が退席したことを非難しながらも,毛沢東主席等との会見に触れ“亜大陸諸国との友好関係が新しい段階に来ている”とのべた.
DIA-304-1974-05-12-2パキスタン1974年05月12日1970年代首相,周恩来首相と会談-ブット首相は周恩来首相と約2時間にわたり公式に会談,会談内容は多岐に亘ったが,パの防衛問題についても話し合われたといわれる。経済の分野では中国の2億3000万ドルの援助の使途について話し合われた。
DIA-304-1974-05-13-1パキスタン1974年05月13日1970年代シアヌーク,カンボジア元首は北京滞在中のブット首相を訪問し,昨年国連でのパの“カンボジア正当政府”への支持に対して謝意を表した。
DIA-304-1974-05-14-1パキスタン1974年05月14日1970年代パ・中国共同コミュニケ-ブット首相の4日間にわたる公式訪問終了に際し,両国はコミュニケを発表。コミユニケは5項目にわたるもので,その内容要旨は以下の通り。 ①ブット首相の訪問は両政府間の密接な関係を一層堅固にし両国人民の友好を深める上で意義ある貢献をなした。 ②平和共存の5原則に基づき亜大陸諸国の友好近隣関係を発展させる用意がある(中国はイスラマバード,ダッカ間の関係が正常化すればバングラを承認する意向)。 ③現在の国際情勢は帝国主義,覇権主義にとって不利で,各国人民にとって直接有利に展開している。 ④植民地主義,帝国主義,拡張主義および不平等な経済制度による搾取に対する第三世界の闘争において回教諸国の役割が増大している(中国はカシミール人民の自決権闘争を支持,パは中国の台湾解放闘争を支持)。 ⑤第三世界における民族独立,国家主権防衛,国民経済発展,民族資源の保護のための民族解放闘争を支持する。
DIA-304-1974-05-14-2パキスタン1974年05月14日1970年代ブット首相,中国より帰国。
DIA-304-1974-05-15-1パキスタン1974年05月15日1970年代パ債権国会議,パリで開催(~16日)-パは同会議諸国に対して,①対外債務返済の現経済状況に即した繰延べ,②対外債務のうちバングラ分(12億ドル中4億ドルは返済)の返済拒否,③5億ドルの新規援助,を求めた。その結果,16日約5億ドルの新規援助が約束された。が,債務繰延べおよびバングラとの分担問題は結論が出なかった。
DIA-304-1974-05-16-1パキスタン1974年05月16日1970年代汚職役人,解雇-シンド州政府は行政機構内における背任行為を根絶するため1973年州公務員法に基づき,65人を解雇し225人を停職にしたことをリストで公表した。
DIA-304-1974-05-18-1パキスタン1974年05月18日1970年代インドの地下核実験について-外務省スポークスマンは,“インドの地下核実験は全世界,特に近隣諸国に対する重大な脅威とみなさざるを得ない事件である”と語った。
DIA-304-1974-05-19-1パキスタン1974年05月19日1970年代首相,インドの核実験について-ブット首相はラホールでの記者会見で演説,“インドによるいかなる核の恐喝に対してもパは屈服しないし,核実験による脅しには全力をあげて対抗する”とのべた。
DIA-304-1974-05-20-1パキスタン1974年05月20日1970年代クェッタ補欠選挙でパ人民党候補者当選。
DIA-304-1974-05-20-2パキスタン1974年05月20日1970年代中国から貿易代表団訪パ。1974/75の国境貿易について。
DIA-304-1974-05-21-1パキスタン1974年05月21日1970年代ブット首相はパンジャーブ州人民党執行委を解任,新たに党刷新委員会を任命した。
DIA-304-1974-05-23-1パキスタン1974年05月23日1970年代ガンディー首相書簡-ガンディー・インド首相は,先週“インドの核実験は平和的意図によるものである”とする書簡をブット首相に送ったといわれる。また,インド情報筋によれば,ガンディー首相は“インドは1973年シムラ協定に基づき交渉を通じてパとのすべての困難を解決する”ことを繰り返したといわれる。
DIA-304-1974-05-23-2パキスタン1974年05月23日1970年代NWFP州知亭辞任-モハマッド・アシュラム・カーン・カタックNWFP知事は健康上の理由で辞任,政界からの引退も声明した。同氏はA.S.K.カリールの後任として1973年2月15日に知事に就任した。ブット首相はカタック知事の後任に,24日S.Ghawas退役陸軍少将を任命。
DIA-304-1974-05-23-3パキスタン1974年05月23日1970年代アジース国務相,ニクソン大統領と会談-ホワイトハウスにおける30分間の非公式会談ではインドの核実験について討議。大統領は,アメリカは核兵器の拡散防止を充分支持していること,印・パに対する武器援助政策は変えないこと,等をのべた。
DIA-304-1974-06-01-1パキスタン1974年06月01日1970年代パ,インドとの話合い延期-パ政府はインドの核実験は両国の関係正常化にとってマイナスであるとして話し合い延期を通告した。
DIA-304-1974-06-04-1パキスタン1974年06月04日1970年代ラホールで宗派争い-5月29日リアルプール近くの町でスンニー派とアフマディア派回教徒が衝突した事件に端を発した宗派争いはラホールにも波及し,アフマディア派を回教の一派として認めることに反対する政党(野党)指導者たちがデモ,政府は彼ら11人を拘禁した。 (注)アフマディア派はカディア派ともいい,19世紀にグーラム・アーマッドによって生まれた新興宗教。ドウルタナ駐英大使も同派に属す。政財界に隠然たる実力をもち軍人にも多い。
DIA-304-1974-06-05-1パキスタン1974年06月05日1970年代1973/74経済情勢発表(資料参照)。
DIA-304-1974-06-07-1パキスタン1974年06月07日1970年代カラチでも宗派争い-リアカタバード,ニザーマバード,バハードウルバード,バーンズ街地域,PECHSおよび新カラチにおいて騒動が発生。学生を中心とした青年層はバス,トラックを焼打ちし,警察側は催涙弾を使用。約50名が負傷(その内警察側20名以上,新聞関係者2名を含む),100名以上が逮捕。
DIA-304-1974-06-07-2パキスタン1974年06月07日1970年代パ国会,インド核実験に関して討議。ブット首相は「インドの核実験はパの情況を質的に変えた。パとしても核開発を推進する」とのべた。
DIA-304-1974-06-08-1パキスタン1974年06月08日1970年代1974/75予算案,国会提出-ハッサン蔵相は1974/75予算案を国会に提出した。これは均衡予算で新規課税を行なわず,従来の予算に比べ,健全財政となっている(資料参照)。
DIA-304-1974-06-09-1パキスタン1974年06月09日1970年代首相,インディラ書簡に返答-ブット首相はガンディー書簡に答えて,“インドの核実験に対するパの反応は世界中のすべての公式な見解と同じであり,実験は平和的目的であるという単なる保証によってはパの脅威は緩和されない”とのべた。
DIA-304-1974-06-10-1パキスタン1974年06月10日1970年代アザド・カシミールの政治変革-ブット首相はアザド・カシミール代表と話し合い,カシミールの政治改革について,次のように決定した。 ①普通選挙により,40人の代表議会議員を選出,婦人の中から2人を議員に任命する。 ②大統領は代表議会の2/3の多数により選出される。 ③首相は代表議会の多数決で選出される。 ④評議会をつくり,メンバー13人のうち7人はカシミール議会から選出され,5人はパキスタン首相が連邦政府閣僚・州議員等から任命する。評議会議長はパキスタン首相がなる。
DIA-304-1974-06-13-1パキスタン1974年06月13日1970年代ブット首相はラジオ・TV放送を通じ,宗教紛争について「紛争の背後に外国の手がある」とのべ,インドの核実験,アフガン大統領の訪ソ,ワリ・カーンのアフガン訪問などをあげた。この宗教紛争は6月に入って全国的に拡がり,これまでに死者は50人以上になるといわれ,アフマディヤ派の教会,商店,レストランなどが焼打された。政府はこの紛争の詳細について新聞・雑誌に発表することを禁止した。
DIA-304-1974-06-27-1パキスタン1974年06月27日1970年代ブット首相,バングラデシュ訪問-ブット首相は両国関係正常化の話し合いのためバングラを訪問した。この日ダッカ空港には多数の群衆がつめかけ,“パキスタン万才”との叫びも聞かれた。
DIA-304-1974-06-27-2パキスタン1974年06月27日1970年代日本,2217万ドル援助-日本は対パ第11次円クレジット分として,2217万ドルの援助を約束した。商品援助が中心。輸銀ベースで,7年据置き,25年返済,利子率4%。
DIA-304-1974-06-28-1パキスタン1974年06月28日1970年代ブット・ラーマン第1回公式会談-両国首相は,主として債権債務振分け,ビハール人帰還問題について話し合った。バングラは旧パキスタン時代の金・外貨準備はじめ,軍の装備など人口比率(バングラ56%,西パ44%)での資産配分を要求,パ側は現状固定のまま外国援助の返済分担を求め,対立している。
DIA-304-1974-06-28-2パキスタン1974年06月28日1970年代パ,北朝鮮,新バーター協定に調印-1974~76年の2カ年に亘るもので,北鮮は尿素肥料,銑鉄,鋼,非鉄金属などを輸出,パは綿製品,皮革などを輸出する。
DIA-304-1974-06-29-1パキスタン1974年06月29日1970年代ブット首相,バングラより帰国イスラマバードでの記者会見で,ブット首相は「会談は成功だった。債権債務の振分けについては専門家レベルでの話合いにまかせる」とのべた。この日,ブット首相はラーマン首相と第2回目の会談をもち,帰国時間を2時間のばして話し合いをつづけたが,最終的意見が合わず,外交関係樹立を含め,交渉は次の機会に持ちこされた。この会談後,フセイン・バングラ外相は記者会見,「両国関係を正常化するという大きな機会を失い,失望している」とのべている。具体的成果はないものの,今回のブット訪バは,インドという大国をはさんでのパ・バングラ関係の「新らしい幕明け」という点で歴史的意義をもつものと見られ,フセイン外相も「話し合いの道は開かれたままである」とのべている。これに対し,インド側は「印バ友好関係に水をさすもの」として警戒しており,バングラ政府のかたくなな態度もインドに対する配慮と見るむきも多いという。
DIA-304-1974-06-29-2パキスタン1974年06月29日1970年代パ・バ共同声明発表-唯一の成果はラーマン首相が訪パ招請を受諾したことにある。
DIA-304-1974-07-03-1パキスタン1974年07月03日1970年代J.A.ラヒム商務相,解任-理由は党規に反する行動をしたことにある,という。ラヒム氏はパ人民党の書記長。
DIA-304-1974-07-03-2パキスタン1974年07月03日1970年代物価上昇-Lahore Council of Pakistanの調査によれば,1973年7月にくらべ,1974年7月の物価は,洗濯石けん165%,米(Kangni米)71%,マスタード油73%,小麦66%,砂糖40%,牛肉57%,マトン44%,それぞれ上昂した。
DIA-304-1974-07-05-1パキスタン1974年07月05日1970年代1974/75投資計画発表-民間投資は37億5900万Rs,公共投資は37億2300万Rsと決め,投資優先13業種を指定した(繊維,皮革,紙,砂糖,自転車,機械・建設機器その他)。投資の原則は,農業に基礎をおく工業,輸出指向工業,国産原材料を使う工業(綿・皮革など)などを優先する,というもの。
DIA-304-1974-07-05-2パキスタン1974年07月05日1970年代パ,米国とPL-480に調印。植物性油を買う。
DIA-304-1974-07-06-1パキスタン1974年07月06日1970年代パ債権国会議開く-パリで開かれた会議で1978年までの4カ年に先進諸国が総額6億5000万ドルの債務の繰延を認めた。この利子率は2.5%,10年据置,30年返済の条件。
DIA-304-1974-07-08-1パキスタン1974年07月08日1970年代1974/75輸入政策発表,大幅な自由化を前面におし出している。
DIA-304-1974-07-12-1パキスタン1974年07月12日1970年代インド軍国境集結-パ外務省スポークスマンは「インドとアフガニスタンはパキスタンとの国境に近い所に異常なほど部隊を移動させている」とのべた。一方インド外務省スポークスマンも同日,「パキスタン軍が6月初から国境沿いで移動の演習を行なっており,パ空軍機も何回かインド領空を侵犯している」とのべている。
DIA-304-1974-07-12-2パキスタン1974年07月12日1970年代パ・アフガニスタン,航空機乗り入れ中止。
DIA-304-1974-07-15-1パキスタン1974年07月15日1970年代パキスタン,オフ・ショアの石油開発-ハニフ資源相は国会で,カラチからMekranの海岸7757平方マイルでの石油探索が始められており,今年中にも2本の試掘が行なわれるだろう,とのべた。
DIA-304-1974-07-15-2パキスタン1974年07月15日1970年代ブット首相の訪ソ,延期-7月の予定のところ10月にのびた。
DIA-304-1974-07-29-1パキスタン1974年07月29日1970年代統一民主戦線(UDF)の役員選挙。 委員長 Pir Pagaro 書記長 Ghafoor Ahmed
DIA-304-1974-07-31-1パキスタン1974年07月31日1970年代1974年1-3月の国際収支-国際的インフレに伴い,国際収支は赤字に転じ,この期は6億3630万Rsの赤字であった。前年同期は1億2220万Rsの黒字。商品貿易の収支は27億4620万Rsもの赤字を計上した。
DIA-304-1974-08-01-1パキスタン1974年08月01日1970年代綿布・綿加工品,洋品類の輸出税撤廃-輸出促進のため,かねて財界からの強い要請に応えたもの。
DIA-304-1974-08-02-1パキスタン1974年08月02日1970年代ブット首相,バルーチスターン地域訪問-ブット首相は“人民との対話”のため,2日からバルーチスターン各地を歴訪する旅に出た。2日はクェッタを訪問,大衆集会で演説し,現在反政府活動を行っている人々に対し,10月15日までに武器をもって投降するよう呼びかけた。
DIA-304-1974-08-06-1パキスタン1974年08月06日1970年代ADB,パのガス・パイプライン敷設のため2351万ドル援助協定。
DIA-304-1974-08-11-1パキスタン1974年08月11日1970年代パ国防相は陸軍のヘリコプター(乗員5人)が無線機の故障と燃料の関係でアフガニスタン領内に不時着し,機体および乗務員が抑留されたと発表。
DIA-304-1974-08-12-1パキスタン1974年08月12日1970年代クェッタで起った爆発事件(8月2日)について,パ情報筋は,これは首相をねらった陰謀事件で,背後にはアフガニスタン政府がいるとのべた。この事件で逮捕された人は22人で,多くはバルーチスターン学生組織(BSO)のメンバー。
DIA-304-1974-08-14-1パキスタン1974年08月14日1970年代ブット首相,基的本人権の回復を発表-パの独立記念日に当り,ブット首相は声明を発表。これまで憲法上規定された基本的人権の一時停止を決めた法令を撤回して,基本的人権の回復を行うことを発表した。但し非常事態宣百はつづける。
DIA-304-1974-08-18-1パキスタン1974年08月18日1970年代綿糸の輸出税,廃止。
DIA-304-1974-08-21-1パキスタン1974年08月21日1970年代NAP委員長,ブット首相の辞任要求-ワリカーンNAP委員長は記者会見し,「ブット政権は何ら国民の信を問うたものではない。ブット首相のため,パキスタンは友好国を失い,孤立化している。また汚職・腐敗も目立っているし,物価も1969年5月~1974年7月までの約5年間に222~789%上昇している。これらの責任をとってブット政権は直ちに辞任し,総選挙をすべきだ」とのべた。
DIA-304-1974-08-21-2パキスタン1974年08月21日1970年代1974/75年度開発計画-政府は1974/75年度開発計画を発表した。要旨は次の通り。 ①投資総額は153億8000万ルピーで,前年度より50%増。公共部門はこのうち85億ルピー,民間投資は64.5億ルピー,その他4.5億ルピー。 ②目標は,農業開発とくに塩害対策,水資源開発および電力開発,運輸・通信の発展,鉄鋼のような基礎産業の発展等に重点をおく。
DIA-304-1974-08-23-1パキスタン1974年08月23日1970年代パ・米,2500万ドルの商品援助協定に調印。米国から鉄,銅,錫板,機関車部品などを輸入する。
DIA-304-1974-08-24-1パキスタン1974年08月24日1970年代アザド・カシミール立法議会,暫定憲法を承認-この暫定憲法はアザド・カシミールに議会制度を導入する初段階を設定したもので,要旨は次の通り。 ①回教を国教とし,大統領・首相は回教徒たるべきこと。 ②大統領は住民の直接選挙で選ばれる。しかし,議員総数の3分の2の不信任投票で免職される。 ③首相は議会の多数により任命・解任される。 ④閣僚会議を設け,行政上の責任をもつ。 ⑤評議会を設け,総裁はパキスタン首相が就任,副総裁はアザド・カシミール大統領,パ首相が選んだ5人,カシミール議員から6人のメンバーで構成する。 ⑥立法議会も評議会も,共に立法権をもつ。但し評議会の立法は,特別に定められた項目についてのみ行う。しかし,いずれも,防衛,通貨,外交に関する立法はできない。
DIA-304-1974-08-24-2パキスタン1974年08月24日1970年代クェッタ駅でダイナマイト爆発,オイルタンク焼失。
DIA-304-1974-08-26-1パキスタン1974年08月26日1970年代国会上下合同会議,非常事態宣言延長を承認-ブット首相の要請により,国会上下両院合同会議が開かれ,非常事態宣言をさらに6ヵ月延長させることを承認した。野党側はこの延長に強く反対,票決の際退場した。
DIA-304-1974-09-03-1パキスタン1974年09月03日1970年代中央銀行の貸出金利,1%引上げ-中央銀行はインフレを抑え貯蓄を増やすため,銀行の貸付金利および銀行預金金利を引上げ,貸付金利を9%にすると発表した。預金金利は普通預金を4.75%から7.5%に,定期預金は1年もので7.75%から8%に引上げられた。
DIA-304-1974-09-04-1パキスタン1974年09月04日1970年代スリランカ首相,訪パ-バンダラナイケ・スリランカ首相は,両国の経済関係強化のため訪パ。
DIA-304-1974-09-07-1パキスタン1974年09月07日1970年代IDAパに3600万ドル借款-使途は電話交換機,マイクロ・ウェーブを含む通信設備のため。
DIA-304-1974-09-07-2パキスタン1974年09月07日1970年代国会,憲法第2次修正法案を承認-これはカディアニ派・アフマディ派を非回教と規定することを目的としている。
DIA-304-1974-09-09-1パキスタン1974年09月09日1970年代カラチ港湾労働者スト-カラチの港湾労働者1万2000人がストに突入した。政府は直ちにスト中止を命令。
DIA-304-1974-09-10-1パキスタン1974年09月10日1970年代パンジャブ州の回教徒連盟派議員,与党に加入-州議員で回教徒連盟派(MLC)9人,ジャミアトール派1人,計10人が与党のパ人民党に加入した。その後9月13日にも州議員7人がパ人民党に加入したため,州議員186人のうちパ人民党だけで170人を占めることになる。
DIA-304-1974-09-12-1パキスタン1974年09月12日1970年代印パ正常化の話合い-印パ間の郵便,通信,旅行の相互交流についての話し合いがイスラマバードで始った。
DIA-304-1974-09-14-1パキスタン1974年09月14日1970年代印パ合意-郵便,電信電話,ビザ発給,旅行許可などの相互業務再開についての合意がなされた。なお航空協定および貿易協定等については,近く話し合うことが同意された。
DIA-304-1974-09-14-2パキスタン1974年09月14日1970年代武装ゲリラ1000人,投降-クェッタのMarri,Mengal地区の武装ゲリラ1000人が武器をもって投降して来た。
DIA-304-1974-09-14-3パキスタン1974年09月14日1970年代パキスタン共産党設立-H.Yousaf Aliを中心につくられたもの。
DIA-304-1974-09-22-1パキスタン1974年09月22日1970年代1975/74の外貨収支-輸出入差は3億3640万ドルの赤字。即ち輸出は10億3430万ドル,輸入は13億7070万ドル。主な輸出品は米(2億1200万ドル),綿糸(1億8840万ドル),綿布(1億4310万ドル)。主な輸入品は穀物1億5710万ドル,石油製品1億5240万ドル,機械1億2080万ドル。
DIA-304-1974-09-22-2パキスタン1974年09月22日1970年代1974年の世銀,IDAからの援助-1974年中にパがプレッジをうけた援助資金は1億1100万ドル,内訳は工業へのバンクローンとして2500万ドル,肥料工場拡張工事に3500万ドル,カラチ港拡大および新石油バース建設工事1600万ドル,洪水対策3500万ドルとなっている。
DIA-304-1974-09-23-1パキスタン1974年09月23日1970年代ブット首相,ギルギット訪問-ギルギットから62マイルのDarryoreを訪ね,カラコルム・ハイウェー建設責任者(Meng Tung-ming)と会見した。
DIA-304-1974-09-24-1パキスタン1974年09月24日1970年代フンザ王国,パキスタンに併合-ブット首相はギルギットで,「フンザ王国をパキスタンに併合する」と発表した(なお9月29日パ外務省は声明を発表。「プット首相の発言の意味は,フンザ王国の世襲的制度を廃止するものであって,フンザ地域をパに統合するものではない」とのべた)。
DIA-304-1974-09-25-1パキスタン1974年09月25日1970年代中国・外交部副部長一行訪パ-Chiao Kuanhua氏でニューヨークへの途上立寄ったもの。
DIA-304-1974-10-01-1パキスタン1974年10月01日1970年代中国の対パ援助-中国は5億9000万ルピーにのぼるパ工業化援助を進めている。 ①ラルカナ製糖工場―現在33人の中国人技術者が働いている。年産1.5万~1.8万トン。 ②鉄鉱石調査―8人の専門家チームがクェッタから355マイルのチャガイ地区で鉄鉱石調査中。 ③タルベラの繊維工場―2.5万スピンドルを持つ綿工場(5165万ルピー)に援助。 ④タキシラの鋳鍛鉄工場。
DIA-304-1974-10-04-1パキスタン1974年10月04日1970年代ブット首相はワルトハイム国連事務総長に書簡を送り,パがバルーチスターン州で住民の虐殺を行って いるとのアフガニスタンの非難を否定し,さらに,「アフガニスタンはパキスタン領土を奪取するため,同州での反乱を指導している」とのべ,アフガンが反乱分子を同国で訓練していること,最近続発している爆発事件の背後にアフガンがからんでいることなどを明らかにしている。
DIA-304-1974-10-05-1パキスタン1974年10月05日1970年代スト・テロ・転覆活動に対する即決裁判をできるよう,特別法廷をつくることが大統領令で決められた。
DIA-304-1974-10-10-1パキスタン1974年10月10日1970年代1975/74年度貿易収支は大幅赤字-政府推計によれば,1973/74年度の貿易収支は34億0850万ルピーの赤字となった。1972/73年度は1億2910万ルピーの黒字。
DIA-304-1974-10-13-1パキスタン1974年10月13日1970年代ペシャーワルの製粉工場で時限爆弾が破裂,負傷者多数を出した。マルダン,ラワルピンジ,ラホールでも,爆発事件が起っている。
DIA-304-1974-10-15-1パキスタン1974年10月15日1970年代バルーチスターンの現状-ブット首相は記者会見で,バルーチスターンの少数民族による反乱活動は終ったとのべた。また同首相は,反乱分子の投降に対する恩赦の期限を,10月15日から12月15日まで延期することを発表した。
DIA-304-1974-10-22-1パキスタン1974年10月22日1970年代内閣改造-ブット首相は22,23の両日に亘り,内閣改造を発表した。特徴は連邦の閣僚数が9人から11人へ3人増加したこと,国務大臣が大幅に増え,2人から11人になったこと,大蔵大臣が更迭され,Mumtaz Ali Bhutto(首相の甥,前シンド州知事)が入閣したことなどである(閣僚名簿は資料参照)。
DIA-304-1974-10-24-1パキスタン1974年10月24日1970年代パ・ソ間の貿易実績(単位100万ルピー)
DIA-304-1974-10-24-2パキスタン1974年10月24日1970年代ブット首相,訪ソ-7月の予定が延期されていたブット首相の訪ソが24日から実現した。 相にとって2度目の訪ソ。この日,クレムリンでコスイギン首相と会見,インド亜大陸の状況,両国の経済関係,その他国際関係について話し合った。
DIA-304-1974-10-25-1パキスタン1974年10月25日1970年代ブット首相,ブレジネフ書記長と会談。
DIA-304-1974-10-26-1パキスタン1974年10月26日1970年代パ・ソ共同声明発表-ブット首相は訪ソを終え,26日イラン経由帰国の途についたが,その前に共同声明を発表した。その内容は亜大陸の正常化,善隣関係の確立を強調,印パ間およびパとアフガニスタン間の問題の解決の重要性が強調されている。
DIA-304-1974-10-26-2パキスタン1974年10月26日1970年代ソ連,2億2800万ルーブルの借款供与-うち1億9100万ルーブルは15年返済,年利2.5%,3700万ルーブルはサプライヤー・クレジット。いずれもカラチ製鋼所建設用。
DIA-304-1974-10-29-1パキスタン1974年10月29日1970年代北京からカラチ経由でパリに飛ぶ PLA 国際航空が正式に開通した。
DIA-304-1974-10-31-1パキスタン1974年10月31日1970年代キッシンジャー国務長官,訪パ-キッシンジャー国務長官はダッカからラワールピンジに到着,2時間半に亘りブット首相と会談した。同日夜共同声明が発表されたが,それによると,アメリカはパに PL 480に基づき10万トンの小麦を供与することを約束している。キッシンジャー氏は11月1日,パキスタンをはなれた。
DIA-304-1974-11-04-1パキスタン1974年11月04日1970年代中国,国連政治安全委員会でパキスタンの提案する「南アジアの非核武装地区宣言」を支持。
DIA-304-1974-11-04-2パキスタン1974年11月04日1970年代ブット首相,パンジャーブ地方遊説-ブット首相はパンジャーブ地方遊説のためバハワルナガル着,大衆集会で演説して次のようにのべた。「NAP指導者たちはインド会議派に加担しあるいはアフガニスタン政府に支援されている。彼らは東パキスタンの分離に勇気づけられ,西パキスタンの分割に力を注いでいる。彼らは,だから西パの半分を欲しているカブール政府の支援をうけているのだ。パキスタンの敵は東パを力によって分離させ,今やもうひとつの方法で西パキスタンを分断させようとしているのだ。私はソ連を訪問した際,ソ連政府に対し,アフガニスタンの干渉を止めさせ,NAP 支援を中止させるべく,何らかの措置をとるよう要請して来た。」
DIA-304-1974-11-06-1パキスタン1974年11月06日1970年代訪パ中のソ連文化使節団,ピールザダ文相と会見,両国の文化交流を促進する計画について意見交換を行った。ソ連はモヘンジョダロの保存に関心が深いという。
DIA-304-1974-11-07-1パキスタン1974年11月07日1970年代冬作穀物の生産増加策発表-食糧・農業相 S.M.Rashid はラジオ・TV放送を通じ,冬作穀物生産を増加させるための政策を発表した。 ①1974年中にトラクター1万5000台輸入完了。このうち40%のトラクターは延払いで供与する。 ②河水不足を補うための深井戸に与えられる補助金は4000ルピーから8000ルピーに引上げる。深井戸に必要な電化は最優先を与える。 ③肥料も延払いで供与する。パンジャーブだけで4億2000万ルピーの肥料が用意されている。 ④農業については,その費用の75%を州政府が負担し25%は農民負担とする。
DIA-304-1974-11-07-2パキスタン1974年11月07日1970年代米の輸出目標は70万トン-米輸出公社によれば,1973/74年度の米の輸出は50万トン,約2億ドルであったが,1974/75年度の輸出目標は70万トン(うちバスマティ米20万トン)で,15万トンはすでに売却され,中近東と5万トン輸出交渉が進んでおり,目標達成は固いとみられている。1973/74の綿糸輸出収入は1億8800万ドル,綿製品1億4300万ドル,原綿4300万ドルと,米の輸出収入が最大品目となっている。
DIA-304-1974-11-07-3パキスタン1974年11月07日1970年代原綿の政府買上げ価格,決定-綿花輸出公社が決めたもので,シンド・デシ(最上級)1 モーンド184ルピー,バハワルプール・デシ(上級)180 ルピー,パンジャプ・デシ(上級)178ルピーとなっている(1974/75年度)。
DIA-304-1974-11-08-1パキスタン1974年11月08日1970年代ブット首相,バハワルプールで演説-バハワルプールを州に昇格させることは,国の統一と団結に反するものであり,断固反対である,とのべた。
DIA-304-1974-11-08-2パキスタン1974年11月08日1970年代訪パ中国友好使節団,帰国-Ma Jen-hui を団長とする中国友好使節団一行は,9日間の公式訪問を終え,帰国した。
DIA-304-1974-11-09-1パキスタン1974年11月09日1970年代選挙管理委,国会・州議会議員の州別配分発表-パンジャーブ州の場合,国会議員は115議席,州議会議員は240議席をもつ。シンド州の場合,国会議員は43議席(うちカラチ市は11議席),州議会議員は100議席をもつ(うちカラチ市は25議席)。
DIA-304-1974-11-10-1パキスタン1974年11月10日1970年代シンド州の人口-1972年センサスの最終集計によれば,シンド州の人口は1400万7701人,うちカラチは358万9972人(市部が349万8614人,農村部9万1358人)となっている。ハイデラバードは220万人,サッカールは136万8600人,ナワブシャー134万1700人,タッタ67万4590人となっている。シンド州の国会議員は32.6万人に1議席,州議会議員は14万人に1議席となる。
DIA-304-1974-11-10-2パキスタン1974年11月10日1970年代ブット首相はリアカトプールで演説,石油価格について,パキスタンはアラブとイランの繁栄を希んでおり,石油価格引上げはパ経済に打撃を与えるとはいえ,それには反対しない,とのべた。
DIA-304-1974-11-10-3パキスタン1974年11月10日1970年代11月初の外貨保有高,43億1340万ルピー。
DIA-304-1974-11-11-1パキスタン1974年11月11日1970年代野党指導者,狙撃さる-ラホールで野党指導者 Raza Khan Qasuri が自動車運転中に狙撃され,父親が死亡した。アスガル・カーン氏は直ちにラホールに行き,「Qasuri 氏はこれまで3度もねらわれており,これまで24人が政治的理由で暗殺されたが,犯人はどれも捕われていない」とのべた。
DIA-304-1974-11-13-1パキスタン1974年11月13日1970年代パ,石油輸入のため SDR 6733万ドル引出し-10月中にパ政府は石油・同製品の輸入のため,IMFの SDR 6733万ドルを引出した。
DIA-304-1974-11-14-1パキスタン1974年11月14日1970年代西独と2億2500万マルクの援助協定に調印-1974/75年度のもので,うち2200万マルクは贈与。5000万マルクは商品援助,4000万マルクはプロジェクト援助1億1300万マルクは債務繰延分。条件は10年据置,30年返済,利子率2%。
DIA-304-1974-11-14-2パキスタン1974年11月14日1970年代パ友好使節団,訪中-カユム・カーン内相を団長とする大型友好使節団は中国の招きにより,12日間の訪中に出発した。
DIA-304-1974-11-15-1パキスタン1974年11月15日1970年代パ代表は国連第1委員会(政治・安全)に,南アジアの非核武装地域化に関する決議を正式に提出した(委員会は20日にこの決議について討議,賛成84,反対2-インド・ブータン,棄権26で議決された)。
DIA-304-1974-11-18-1パキスタン1974年11月18日1970年代印パ会談始まる-両国の航空路再開に関する印パ会議が,イスラマバードで始まった。インド代表はN.Sahgol 航空次官,パ代表は,F.Muqeen Khan 国防次官。
DIA-304-1974-11-21-1パキスタン1974年11月21日1970年代綿製品輸出,再び拡大-政府のいくつかの手段により,綿糸輸出は7月の最低値800万ポンドから,10月には2300万ポンドに上昇,綿布も7月の1900万ヤードから10月には5600万ヤードになっている。これは輸出税の廃止などによるとみられている。
DIA-304-1974-11-21-2パキスタン1974年11月21日1970年代政府,原毛の輸出税を2分の1に(ポンド当り2.2ルピーを1.1ルピーに)。
DIA-304-1974-11-21-3パキスタン1974年11月21日1970年代政府,Fisheries Board 設立。商務省の下におく。
DIA-304-1974-11-22-1パキスタン1974年11月22日1970年代ペシャーワルで爆発事件-シェルパオ NEFP州大臣が演説する予定の地で,その直前に爆発事件が発生,35人が負傷,20人が重態である。
DIA-304-1974-11-22-2パキスタン1974年11月22日1970年代印パ航空協定に対する話し合いは結論を出せず,改めてインドで話し合いを継続することが決められた。会談は5日間に亘るものであったが,特にハイジャックされたインド空軍機をめぐっての意見対立が大きかった。 なお,印パ間のテレックスは,20日から再開している。
DIA-304-1974-11-23-1パキスタン1974年11月23日1970年代パ・米,PL480協定に調印-パは米国から1800万ドル相当の小麦(約10万トン)をPL480で輸入する協定に調印した。
DIA-304-1974-11-25-1パキスタン1974年11月25日1970年代クェッタでプラスチック爆弾破裂。
DIA-304-1974-11-25-2パキスタン1974年11月25日1970年代ペシャーワルでの爆破事件で国会議員(NAP 系)を含む16人が逮捕された。
DIA-304-1974-11-25-3パキスタン1974年11月25日1970年代印パ戦争調査委員会,補足報告書提出-印パ戦争の原因を調査する委員会(委員長 Hamoodur Rahman 判事)は,1972年7月に第1次報告書を政府に提出しているが,捕虜交換で帰国したニアジ中将等,多くの将官を喚問,この度,第2次の補足報告書(全4部)を政府に提出した。
DIA-304-1974-11-26-1パキスタン1974年11月26日1970年代印パ貿易再開協定,始まる-パ代表はナイク商務次官を団長とする一行5人で,1965年以来空白になって来た両国貿易を再開するには,まだ時間を必要とするとみられる。
DIA-304-1974-11-26-2パキスタン1974年11月26日1970年代少数民族地区(州政府の管轄下にある場合)のジャギール制およびその他中間搾取制は廃止され,土地は補償されず,農民の手に与えられる。これはThe Abolition of Jagirs and Intermediary Interests Regulation の発布による。
DIA-304-1974-11-27-1パキスタン1974年11月27日1970年代印パ貿易再開交渉,原則的に合意。
DIA-304-1974-11-27-2パキスタン1974年11月27日1970年代フランス,1億2000万フラン(約3000万ドル)の対パ援助協定に調印。
DIA-304-1974-11-30-1パキスタン1974年11月30日1970年代印パ,貿易協定に調印-5日間に亘る交渉の末,印パ両国は10年間に亘る貿易中止の後,1974年12月7日から再開されることに同意し,相互に最恵国待遇を与えることにも同意した。貿易品目は当面7品目(綿花,機械,ジュート製品,鉄鉱石,鉄道施設,米,茶)。
DIA-304-1974-11-30-2パキスタン1974年11月30日1970年代バルーチスターンで武器大量に発見。3人逮捕,2人はアフガニスタンに逃げた。
DIA-304-1974-12-01-1パキスタン1974年12月01日1970年代イラン,バルーチスターンに6億7000ルピー投資か-州工業相は,イランがバルーチスターンに3つの合弁企業を設立し,6億ルピー投資することに同意したとのべの合弁企た。うち2つは綿紡績でクェッタとラスベラに設立され,それぞれ織機1000台,紡機5万台をもつ。もうひとつはシビにつくられるセメント工場で年30万トンの生産能力をもつ。総投資は9億5000万ルピー。イランはまたクェッタに医科大学,クズダールに工業大学を設立する計画に7000万ルピー贈与する。
DIA-304-1974-12-01-2パキスタン1974年12月01日1970年代小麦不足はない-食糧・農業相はラホールで記者会見,政府は外国から100万トンの小麦輸入手続をしており,うち30万トンはすでに到着,小麦が不足するようなことはない,とのべた。
DIA-304-1974-12-02-1パキスタン1974年12月02日1970年代アスガル・カーン逮捕は事実無根-政府はアスガル・カーン氏が逮捕されたとのBBC放送は全く根拠がない,とのべた。
DIA-304-1974-12-02-2パキスタン1974年12月02日1970年代文部大臣はバルーチスターン州住民の教育機会を増やすため軍幹部学校に16人,公立学校に18人,バルーチスターン州住民を入学させ,授業料免除,生活費を保証することにする,と発表した。
DIA-304-1974-12-02-3パキスタン1974年12月02日1970年代アジ銀(ADB),タルベラ水力発電所計画に4700万ドル借款供与を決める。
DIA-304-1974-12-03-1パキスタン1974年12月03日1970年代ブット首相,バングラに食糧援助申し出-ブット首相は現在の食糧危機によりバングラデシュで餓死者多数が出たことに同情,食糧援助を申し出た。またパキスタンは今年100万トンの小麦を輸入(約40億ルピー)する契約をしたことを明らかにし,これは石油輸入量(約40億ルピー)と同じで,これら2品目だけで,外貨収入120億ルピー一の66%を占めるとのべた。
DIA-304-1974-12-04-1パキスタン1974年12月04日1970年代ブット首相,ムルタン地区遊説-ブット首相は“国民との対話”のためムルタン地区を遊説中で,Khanewal で演説,パ人民党政府は政権を担当以来,内外政策ともに他に類例を見ない程の成功を収めたとのべ,東パキスタンの分離にはインドの支援があり,今度はインドはアフガンと共に NAP を支援して西パキスタンの分割をはかっている,とのべた。
DIA-304-1974-12-06-1パキスタン1974年12月06日1970年代RCD 商工会議所評議員会開く-RCD 商工会議所評議員会がカラチで開かれ,総裁A.M.Bonakdarpour(イラン代表)が3カ国の貿易拡大のための努力について強調した。会議は RCD 合同貿易公社および RCD 合同陸路交通公社の設立を決定した。RCD 合同貿易公社の本部はテヘランに,交通公社の本部はトルコにおかれるもよう。
DIA-304-1974-12-06-2パキスタン1974年12月06日1970年代Aziz Ahmed外交・国防担当相,訪日。
DIA-304-1974-12-06-3パキスタン1974年12月06日1970年代PIA 中国経由東京乗入れ権を得る。週2便。
DIA-304-1974-12-06-4パキスタン1974年12月06日1970年代綿工業について-R.Raza 生産・工業相は綿工業の現状について「政府の政策により綿工業は再び活発化している」とのべ,綿花輸出も順調,綿糸輸出は7月に740万ポンド,9月に1905万ポンド,11月にも1900万ポンドと増え,綿布輸出は9月には3480万ヤード,11月には6804万ヤードと急増している,とのべた。
DIA-304-1974-12-07-1パキスタン1974年12月07日1970年代パキスタン,インドとの貿易再開。
DIA-304-1974-12-07-2パキスタン1974年12月07日1970年代日本,2330万ドルの商品援助-アーメッド外務・国防担当相が訪日して調印したもので,1974年度(1975年3月末まで)の商品援助。プロジェクト援助はパキスタン側が3300万ドル要請(セメント工場設立のため)しているが,未定。
DIA-304-1974-12-07-3パキスタン1974年12月07日1970年代第2回全パ機械見本市,カラチで開催。
DIA-304-1974-12-08-1パキスタン1974年12月08日1970年代外貨保有高減少-中央銀行によれば,外貨保有高は12月7日現在38億8810万ルピーで前週より2億万ルピー減少した。銀行の貸出は少なく,金融市場の引きしめは一層きびしくなっており,コール・レートも,前週の11.5%から12%になった。貯金は増加して106億5500万ルピー(前週106億5210万ルピー),流通貨幣は104億7670万ルピーと前週より2470万ルピー増となっている。
DIA-304-1974-12-09-1パキスタン1974年12月09日1970年代マレーシア国王夫妻,訪パ(~12日)。
DIA-304-1974-12-09-2パキスタン1974年12月09日1970年代1971年の印パ戦争前にインドで拘禁されていたパキスタン人160人は,パに拘禁されていたインド人30人との交換で帰国した。
DIA-304-1974-12-09-3パキスタン1974年12月09日1970年代ペシャーワルのUSISで爆破事件-USIS 図書館に爆発物が設置されたためで,2人負傷した。
DIA-304-1974-12-09-4パキスタン1974年12月09日1970年代国連総会,パ提案の「南アジア非核武装地区指定」を承認(賛成96,反対2-インド,ブータン,棄権36)。
DIA-304-1974-12-09-5パキスタン1974年12月09日1970年代中国から科学者チーム(6人)訪パ。
DIA-304-1974-12-11-1パキスタン1974年12月11日1970年代パ・日共同声明発表-両国は最近の核兵器の発展に重大な関心を寄せており,核兵器拡散に反対することの重要性を再確認した。
DIA-304-1974-12-12-1パキスタン1974年12月12日1970年代インドから綿花買付チーム訪パ予定-商相が発表したもので,19日に訪パする。
DIA-304-1974-12-12-2パキスタン1974年12月12日1970年代アーメッド外務・国防担当相訪中-北京で周恩来首相と会見。
DIA-304-1974-12-13-1パキスタン1974年12月13日1970年代11月の貿易収支,大幅赤字-輸出は7億9150万ルピー,輸入は17億0200万ルピーで9億1050万ルピーの大幅赤字。1973年11月は輸出9億9300万ルピー,輸入8億4780万ルピーで1億4520万ルピーの黒字であった。
DIA-304-1974-12-13-2パキスタン1974年12月13日1970年代綿花輸出に民間企業参加認めず-商相はカラチ綿花協会が綿花輸出取引に民間企業の参加を認めるよう要求したことに関し,それを認めないことを明らかにした。
DIA-304-1974-12-16-1パキスタン1974年12月16日1970年代ブット首相,上院で演説-バルーチスターン問題を討議するための上院議会で演説,バルーチスターン問題政治解決のため野党と話し合いたいとのべた。バルーチスターンの少数民族反乱軍は,ブット首相の呼びかけにより,12月15日で期限のきれたきょうになっても投降するものが出て来ているという。ピールザダ文相は1973年2月バルーチスターンの NAP 州政権がたおれて以来つづいて来た反乱は Marri 地区ではほぼ終り,Mengal 地区では小規模になったとのべた。
DIA-304-1974-12-16-2パキスタン1974年12月16日1970年代WFP 8000トンの小麦供与-世界食糧会議(WFP)はシンドの旱魃被災地の2万5000人の救済のため,小麦8000トン(190万ドル)を供与する協定に調印した。これはパ政府の要請により贈与される。
DIA-304-1974-12-16-3パキスタン1974年12月16日1970年代パンジャブ州閣僚にM.A.Khakwani(ムルタン)州議員任命。この任命によりパンジャブ州人民党内の前州首相 Khar 派と現首相 Ramay 派の対立はさらに深化するものと見られている。
DIA-304-1974-12-16-4パキスタン1974年12月16日1970年代日本,Lesbels セメント工場建設に3500万ドル援助-A.A.Khan 経済省次官が発表したもので,商品援助とし,通常の商品援助2330万ドルとは別枠。
DIA-304-1974-12-17-1パキスタン1974年12月17日1970年代保健・労働・社会福祉・人口計画相,辞任-K.H.Meer 大臣はブット首相に書簡を送り,情報相との対立を理由に辞任する旨通告した。
DIA-304-1974-12-17-2パキスタン1974年12月17日1970年代上院,テロ行為禁止法の討議始める-これは爆発事件などのテロ行為を禁止するべく,裁判を早めるために特別法廷を設置することを決めた法案で,野党からは強く反対をうけている。
DIA-304-1974-12-19-1パキスタン1974年12月19日1970年代パ外務省,ペシャーワルのUSIS爆発事件に遺憾の意表明。
DIA-304-1974-12-19-2パキスタン1974年12月19日1970年代オーストラリアから小麦2万5000トン-うち1万トンは食糧援助計画,1万5000トンは国連特別援助によ
DIA-304-1974-12-19-3パキスタン1974年12月19日1970年代ブット首相,人民党政府樹立3周年を記念してテレビ放送。
DIA-304-1974-12-19-4パキスタン1974年12月19日1970年代1973/74の小麦生産高,750万トン-食糧省の推計によれば,1973/74の小麦の生産面積は1510.5万エーカー,生産高は750万8400トンで,前年度732万4700トンにくらべ,2.5%の増産となっている。
DIA-304-1974-12-23-1パキスタン1974年12月23日1970年代1971年戦争に関する委員会報告-1971年印パ戦争,バングラデシュ独立に関するHamoodur Rahman 委員会報告書が1974年11月25日に政府に提出されたが,ブット首相はこの報告書の内容を検討するため,2つの小委員会(外交関係と安全・防衛)を設置する旨発表した。
DIA-304-1974-12-23-2パキスタン1974年12月23日1970年代英国,2000万ポンド借款供与。プロジェクト援助で,7年据置,25年返済,無利子。
DIA-304-1974-12-27-1パキスタン1974年12月27日1970年代政府,23人の経済問題諮問委員会メンバー任命。
DIA-304-1974-12-27-2パキスタン1974年12月27日1970年代OPEC,パに3億5000万ドル借款供与。
DIA-304-1974-12-28-1パキスタン1974年12月28日1970年代肥料汚職に高官も関与-ブット首相の指示により特別警察は肥料汚職について調査していたが,肥料の分配を担当している農業開発供給会社の地域担当官,補佐官などが肥料の横流しに関与していた事実をつかみ,首相に報告した。
DIA-304-1974-12-29-1パキスタン1974年12月29日1970年代スワート地方,地震-スワート地方をおそった地震は Pattan と Jalal の村を破壊し,死者・負傷者を出した。中国の援助でつくられていたカラコルム・ハイウェーは各地で切断され,ギルギット,バルーチスターン地方とは連絡が途絶えている。
DIA-304-1974-12-30-1パキスタン1974年12月30日1970年代スワートの地震で死者4700人-スワートをおそった地震による被害は9カ村に及び,4700人が死亡1万5000人が負傷したとみられる。カラコルム・ハイウェーは数カ所で地すべりのため切断されている。
DIA-304-1974-12-30-2パキスタン1974年12月30日1970年代カラチの株式市況,好調。
DIA-304-1974-12-30-3パキスタン1974年12月30日1970年代中央銀行総裁,民間投資を呼びかけ-イシャク・カーン中央銀行総裁は23回年次大会で演説,もし民間投資不調がつづき生産が伸びなければ,それは一層の物価上昇につながる,とのべた。総裁によれば,国内預金のGDPに占める割合1969/70の14.4%から1973/74には10.5%に減少している。一方卸売物価指数は1973/74年度内に27.4%上昇,前年度19.6%より増加率が高い。小売物価は30%も高くなっている(前年度9.3%)。
DIA-304-1974-12-31-1パキスタン1974年12月31日1970年代ブット首相,地震被災地視察-スワートおよびハザーラ地方で,被災者救済に特別基金300万ルピーを支出することを明らかにした。この地震被害に対し,アメリカが2万5000ドルの救援資金援助を決め,インド赤十字は毛布2000枚を贈与することを発表した。
DIA-304-1974-12-31-2パキスタン1974年12月31日1970年代ソ連,カラチ製鋼所に1億6000万ルーブル-ソ連はカラチ製鋼所建設に,これまで約束した1億8000万ルーブルの援助加えて,1億6000万ルーブル援助を供与する協定に調印。
DIA-304-1974-12-31-3パキスタン1974年12月31日1970年代中央銀行の小規模貸付金上限は,これまでの5万ルピーから7万5000ルピーに引上げられた。
DIA-304-1975-01-01-1パキスタン1975年01月01日1970年代土地改革の進捗状況―連邦土地委員会は1972年5月から1974年11月までに161万5913エーカーを収用し,そのうち57万3046エーカーを5万9251人の土地なき小作農(ハーリー)に無償供与した。州別では,シンドは収用地25万1238エーカー,再分配地は10万9737エーカー,受益小作農8579人,パンジャーブはそれぞれ25万0126エーカー,16万1151エーカー,3万0608人,北西辺境州は13万4145エーカー,12万5031エーカー,9429人,バルーチスターンは24万5248エーカー,2万6345エーカー,1968人。このほかパト・フィーダー運河地域(バルーチスターン)の収用地約60万エーカーのうち15万0582エーカーが8667人の小作農に,シンド州狩猟指定地区の収用地13万5156エーカーのうち連邦・州首相専用地も再分配された。 ブット首相は同委員会に収用地再分配作業を今年3月31日までに完了するよう指示した。
DIA-304-1975-01-01-2パキスタン1975年01月01日1970年代スワート地震の死者5100人に―スワート地震の死者は被災地からの報告が入るにつれふえ5100人にたっした。なおハザーラー地区でも400~500人の死亡が伝えられている。不通となっているカラコラム・ハイウェーの修復工事は急ピッチで進められ,被災地には軍ヘリコプターが救援物資を運んでいる。
DIA-304-1975-01-02-1パキスタン1975年01月02日1970年代アフガン大統領に訪パ招請―ブット首相はタッタ(シンド州)での「野外移動政府」の際,臨時記者会見を行ない,アフガニスタン関係改善のためダウド大統領に訪パを招請したが反応はまだないことを明らかにした。対印関係では,シムラ協定履行について首脳会談の必要性を否定,またラーマン・バングラ首相との新たな接触についても「ダッカ政府が不合理な要求をつづけるなら進展はまったくない」とのべた。
DIA-304-1975-01-03-1パキスタン1975年01月03日1970年代シンド州自治運動党(Tahrik-i-Istiqlal)のラヒーム・バクシュ・スームロー前書記長(州議員),パ人民党に入党。
DIA-304-1975-01-05-1パキスタン1975年01月05日1970年代「第三世界フォーラム」開かる―「第三世界フォーラム」(本部サンチャゴ)はパ・ナショナル銀行の協賛をえてカラチ会議(~10日)を開催した。第三世界35ヵ国約75人の経済学者・社会科学者が参加し,開会式に出席したアジーズ・アフマド国防・外務担当国務相は,第三世界諸国が屈従の地位を脱するため相互協力を求めた。
DIA-304-1975-01-06-1パキスタン1975年01月06日1970年代グラーム・カーディル・カーン・バルーチスターン州首相とサルダール・アンワール・ケートラン州議員は,ラールカーナー滞在中のブット首相と会見後パ人民党加入を表明した。ケートラン州議員はバルーチスタン内のケートラン部族民4万人の首長。
DIA-304-1975-01-09-1パキスタン1975年01月09日1970年代非常事態宣言は継続―ブット首相は第2回パ法律家会議の開会式で,非常事態宣言を解除する段階にはいたっていない,パ防衛規則の乱用は慎んでいるとのべた。
DIA-304-1975-01-10-1パキスタン1975年01月10日1970年代パ・リビア共同声明―8日からイスラーマーバードで開かれていた両国合同閣僚委員会第2回会議(パ側代表アジーズ・アフマド国防・外務担当国務相,リビア側アブドゥル・アティル・ウバィディー労務相)は共同声明を発表した。両国は合弁で投資銀行,海運会社,イスラミク・センター,出版社(いずれも本部カラチ)の設立に合意し,肥料,製糖,セメント,製紙,織物などの共同プロジェクトにもリビア側はつよい関心を示した。
DIA-304-1975-01-10-2パキスタン1975年01月10日1970年代ハフィーズ・ウッラー・チーマー前科学技術担当国務相,労働・保健・社会福祉・人口計画相に就任。後任の科学技術担当国務相はサアイドゥル・ラシード・アッバーシー国民議会議員。
DIA-304-1975-01-13-1パキスタン1975年01月13日1970年代一企業単一組合制に―マリク・ミーラージ・カーリド法務相は全パ労働組合連合(B.A.バクティアール議長)に,政府は労働関係法を改正して複数小型組合制を排し単一組合制にしたいと考えを明らかにした。
DIA-304-1975-01-15-1パキスタン1975年01月15日1970年代パ・印海運再開交渉妥結―11日から5日間の交渉後調印された議定書によれば,2月15日から両国間の海運が再開され,両国の船舶は出入港,碇泊,荷積み・おろし,航行安全についてたがいに最恵国待遇をうける。これは昨年11月30日調印の貿易協定に沿ったもので,約10年ぶりの再開となる。
DIA-304-1975-01-15-2パキスタン1975年01月15日1970年代スリランカ国会議員団(団長S.ティッレケラトネ議長)訪パ。
DIA-304-1975-01-16-1パキスタン1975年01月16日1970年代ペシャーワル高等裁判所はアフガニスタン在住のアジュマル・カッタク民族アワーミー党(NAP)前書記長とヒダーヤトゥッラーを「失踪者」と宣言した。
DIA-304-1975-01-17-1パキスタン1975年01月17日1970年代パ人民党中央委員会はムバシル・ハサンを書記長に任命した。また各地区に12人の委員からなる党員登録委員会を設置。
DIA-304-1975-01-17-2パキスタン1975年01月17日1970年代イラン,北西辺境州・シンド州に4プロジェクト―イラン政府筋によれば,同国はすでに承認ずみのバルーチスターン州の3工場のほかに,NWFP州の2織物工場,シンドの織物・製紙2工場に(総額20億ルピー以上の建設費)資金援助を行ない,それぞれの企業に株式参加する。
DIA-304-1975-01-19-1パキスタン1975年01月19日1970年代ブット首相,ウィットラム・オーストラリア首相と会談―両国の友好関係強化を中心とする広範な問題について意見交換の後,オーストラリアはすでに売約済みの小麦30万トンに加えて20万トン購入したいとのパ政府の考向を考慮すると発表した。
DIA-304-1975-01-19-2パキスタン1975年01月19日1970年代ムバシル・ハサン・パ人民党新書記長は,辞任を否定したJ.A.ラヒーム前書記長の新聞発表に関し,個人的もしくはイデオロギー問題で論争するのは反動勢力を利するだけだとし,党綱領では中央委員会が党の最高決定機関であり,したがって党の役職任命を承認する権限をもっていると強調した。
DIA-304-1975-01-19-3パキスタン1975年01月19日1970年代パ人民党はパンジャーブ州党組織を再編し,州・地区・タフシール・市・町ごとに運営委員会を設けた。再編後の同州運営委員会委員長はマリク・ミーラージ・カーリド法務相,書記はナシール・リズウィー国民議会議員。
DIA-304-1975-01-19-4パキスタン1975年01月19日1970年代アシュラフ・パーレヴィー・イラン王女5日間の訪パ親善旅行。
DIA-304-1975-01-19-5パキスタン1975年01月19日1970年代パ印貿易交渉(~22日,イスラーマーバード)始まる。パ側代表E.A.ナーイク商務次官,インド側代表はY.T.シャー商務次官。
DIA-304-1975-01-19-6パキスタン1975年01月19日1970年代ブット首相,中国第4回全国人民大会での周恩来首相再選に祝賀メッセージ。
DIA-304-1975-01-22-1パキスタン1975年01月22日1970年代IERIC世論調査―米国際経済調査投資会社がパキスタンで行なった世論調査(都市・農村・地域別抽出600人面接調査)によれば,90%がブット首相を指導者と認め,68%がブット政府の政策を支持,75%が最大の問題は「物価上昇」と考え,56%が大衆教育・実技教育制度の欠如を問題としている。
DIA-304-1975-01-23-1パキスタン1975年01月23日1970年代パ印貿易協定調印―予定より1日おくれてパ印貿易交渉は妥結。協定はただちに発効し1年間有効,2年間延長可能である。貿易再開は政府間・政府支配会社間の7品目(米,綿花,機械工業製品,鉄道用品,鉄鋼製品,ジュート製品,茶)にかぎられ,第三国への再輸出は禁止。送金業務についての覚書きも印・ステート・バンクとパ・ナショナル・バンクの代表間で交された。
DIA-304-1975-01-25-1パキスタン1975年01月25日1970年代パ・ムスリム連盟(カイユーム派)運営委員会は,引続きブット首相指導下のパ人民党と協力すると決定した。
DIA-304-1975-01-27-1パキスタン1975年01月27日1970年代ブット首相は3日間のラーワルピンディ遊説旅行中にキャンベルプール大衆集会で演説し,カシミール問題についてカシミール人の自決権に対するパキスタンの立場は不変であり,シェイク・アブドゥッラーとガンディー首相のあいだにいかなる一方的決着もしくは合意がなされようとそれにはまったく拘束されないと強調した。内政問題では野党の「反人民的,反民主主義的」行動を厳しく批判し,バングラデシュの新体制に言及しつつパキスタン憲法の擁護と2年以内に総選挙を行なうことを言明した。
DIA-304-1975-01-27-2パキスタン1975年01月27日1970年代石油試掘成功―イナーヤトゥル・ラーマン・アッバーシー議会問題次官は国民議会で,ローラーラーイー地区ジャンドラーン(バルーチスターン)とキャンベルプール地区ヴェジャール(パンジャーブ)で油田を発見したと発表した。埋蔵量は不明。1975年中には米・英・仏・独・オーストラリアの会社の協力で,4州14ヵ所で試掘中。
DIA-304-1975-01-31-1パキスタン1975年01月31日1970年代テロリスト活動抑止(特別法廷)法成立。政府説明によれば,この法律は都市ゲリラの抑止を目的とするもの。同法案審議中の野党のアフマド・ラザー・カーン・カスーリー議員(ラホール・自治運動党)は国民議会の議事防害を理由に残る会期の活動停止処分をうけ,野党はその後の審議をボイコットした。
DIA-304-1975-01-31-2パキスタン1975年01月31日1970年代腐敗・非能率防止閣僚5人委員会設置。省庁以下の部局にも同様の委員会が設けられる。
DIA-304-1975-01-31-3パキスタン1975年01月31日1970年代ブット首相は2月3日からの訪米をまえに外国特派員と記者会見し,世界および南アジア地域の情勢について細目にわたる会談がなされようと語った。とくにパ米関係については,米国の武器輸出解禁は南アジア地域の力の均衡をくずさない,友好関係とは国際問題でつねに米国に同調することではないとのべた。
DIA-304-1975-02-01-1パキスタン1975年02月01日1970年代輸入税引上げ―連邦政府は以下の品目について従価25%増税の即刻実施を発表した。武器弾薬,きんま葉,びんろうじ,コカ葉・コカイン,コーヒー,ガンビール,清涼飲料エキス,食品着色料・食品エキス,ホップ,冷蔵庫・冷暖房器および部品・スペア,室内暖房器および部品・スペア,家庭用調理器具・湯沸器および部品・スペア,濃縮香水,レコード・プレーヤーおよびチェンジャー,家庭用電気器具,ステンレス流し台,クロム・プレート衛生設備,人造繊維・紡糸,ビーディ用たばこ葉,自動車・ジープおよびスペア・パーツ(スパーク・プラグを含む)。
DIA-304-1975-02-03-1パキスタン1975年02月03日1970年代ブット首相,訪米・訪ルーマニアの途に―ブット首相は夫人と随行員40人を伴って特別機でローマ経由米国に出発した。5日に米国着,3日間滞在の後ミュンヘン経由で10日にルーマニア着,12日帰国の予定。
DIA-304-1975-02-03-2パキスタン1975年02月03日1970年代1974年労使関係(改正)法案国民議会通過―同法案は1969年労使関係布告の改正で,団体交渉代表権者の選出,銀行員その他の国営部門労働者の賃金・就業条件を決定する賃金委員会の設置,同法違反者の罰則などを規定している。ハフィーズッラー・チーマー労務相は,この法改正で一企業複数組合制は抑制され,労働組合運動の健全な発展,労働者の福祉と労使平和が実現されようとのべた。
DIA-304-1975-02-03-3パキスタン1975年02月03日1970年代綿業不振―S.Q.アリー・シャー工業担当国務相は,外国市場の需要減のため1974年の工場生産は綿糸8億1555万1000ポンド,綿布6億9322万5000ヤードと,前年の8億6159万3000ポンド,7億1708万8000ヤードに比し減産となったと国民議会で発表した。これに対して政府は,①綿糸について1974年10月に,綿布について同年8月に輸出税を撤廃,②輸出振興策として綿糸輸出信用制の導入,③1974年10月に,綿糸消費税を10ポンド当り6ルピー減税,繰り綿の最低価格を1モーンド当たり200ルピーに引下げ,綿花輸出公社は綿工場・綿花生産者から申し出があればすべて購入,④金融機関は原綿・綿糸,綿布への貸出利子を適宜引下げる方針,⑤綿織物輸出市場の開拓,⑥在庫品を捌くため東欧・中国とのバーター取引,の措置をとった。
DIA-304-1975-02-04-1パキスタン1975年02月04日1970年代織物工業危機打解の8項目―世界的不景気で危機に直面している織物工業会(APTMA)は緊急総会を開いて8項目の打解策を決定した。 (1)当初3ヵ月間は最小限1交代分の生産削減を行ない,その後は情勢に応じて決定する。 (2)紡糸・織物の国際・国内価格を基礎に綿花価格の補助を行なう。 (3)工場の未払賦課・税金の支払い猶予,銀行借入れ金償還延期,支払い猶予期間は無利子とする。 (4)セメント用紙袋を除き,紙・ジュート・プラスチック製袋の輸入禁止。 (5)消費税の支払いについてはその基礎を生産実績か設備能力とするかの選択権を工場に与える。 (6)すべての種類の合成繊維の輸入禁止。 (7)紡錘の増設を認めない。 (8)政府は労働者に協力と質の向上,不当な要求をやめるよう訴える。 アーラム・モンヌー会長によれば,約45工場が部分的もしくは完全に操業停止しており,うち40工場がシンド,残る工場がパンジャーブ,NWFP州。
DIA-304-1975-02-05-1パキスタン1975年02月05日1970年代ブット・フォード会談始まる―ホワイト・ハウスで開かれた両国首脳会談では,国際問題,パ米関係について意見の交換がなされた。パ側出席者は,首相のほかにアジーズ・アフマド国防・外務担当国務相,アーガー・シャーヒー外務次官,ヤクーブ・アリー・カーン駐米大使,米側は大統領のほかキッシンジャー国務長官,H.バイロード駐パ大使,B.スノークロフト国家安全副補佐官。スポークスマンによれば,フォード大統領はとくに食糧援助については現行会計年度中に約束ずみの10万トン以外に追加援助の用意がある,武器輸出解禁については「積極的に考慮する」と語った。
DIA-304-1975-02-06-1パキスタン1975年02月06日1970年代ブット首相記者会見―アメリカの報道関係者との記者会見でブット首相は首脳会談の内容にふれ,追加食糧援助量は30万トンであると明らかにし,武器輸出解禁についての「積極的考慮」とは「当面の重要問題」と理解しており望みがないわけではないと確言を避け,もし武器輸出解禁になった場合でもインドと軍備競争をするつもりはないとのべた。
DIA-304-1975-02-06-2パキスタン1975年02月06日1970年代野党,国会審議に復帰―与野党間で今後の国会運営に当って6項目について同意がなされ,国会ボイコットを中止した。①国会提出法案は与野党が相談して決める,②野党の発言をより自由に認める,③質問はルールに基づいて為される,④議員特権に関する法令は今会期中に決める,⑤国会審議は直ちに国民に伝える,⑥与野党とも国会内では紳士的行動をとる。
DIA-304-1975-02-07-1パキスタン1975年02月07日1970年代パ米共同コミュニケ発表―両国指導者は,米パの緊密な関係の強化と国際政治の展開について意見を交わし,ブット首相は南アジア亜大陸の永久平和を確立するため地域的紛争の平和的解決に建設的役割を果たすとのべ,フォード大統領はパキスタンの独立と領土保全への支持が米外交政策の不変の原則であると保証した。ブット首相は最近の食糧生産の深刻な不振についてふれ,フォード大統領は今会計年度中に約束ずみの10万トンにPL480(タイトルI)での30万トンの小麦援助追加を約束し,また両国の経済協力についてパ政府は開発計画で農業開発,人口計画に重点をおき外国援助を期待しているとし,フォード大統領は今後とも優先的に留意すると確言した。訪パ招請に対しフォード大統領は年末の可能性を明らかにした。
DIA-304-1975-02-08-1パキスタン1975年02月08日1970年代シェールパーオNWFP州内務・計画・開発相爆死―H.M.K.シェールパーオNWFP州大臣(パ人民党NWFP州委員長)は,ペシャーワル大学歴史学科学生自治会の結成式に出席して演説の直後,演壇に仕掛けられた爆弾の爆発によって負傷し,ちかくの陸軍病院で死亡した。この爆発事件で18人の学生・教員も重傷を負った。訪米中のブット首相はルーマニア訪問を延期し,9日帰国の予定。シェールパーオ州内務相は昨年11月22日にもペシャーワルで爆発事件にあったが無事だった。
DIA-304-1975-02-09-1パキスタン1975年02月09日1970年代民族アワーミー党指導者逮捕―シェールパーオ暗殺事件に関連してパ防衛規則が適用され,ワリー・カーンNAP委員長,ラシード・アフマド副委員長,カスワル・ガルデージー書記長,R.M.アクタル・パンジヤーブ州委員長,G.A.ビロールNWFP州委員長,S.K.カリール前同州知事など多数の同党国会議員,州議員,指導者が各地で逮捕された。
DIA-304-1975-02-10-1パキスタン1975年02月10日1970年代民族アワーミー党禁止―政府は1962年政党法にもとづきNAPを禁止し,財産,資金をすべて没収し,全国の党事務所を封鎖した。
DIA-304-1975-02-10-2パキスタン1975年02月10日1970年代国民議会は,国民議会および州議会の議員に対する会期中およびその前後14日間の予防拘禁免除特権を奪う2法案(国民議会〔予防拘禁・任意出頭免除〕改正法案,州議会議員特権改正法案)と,パキスタンの主権もしくは保全に反し創立,活動している政党だと判定する権限を政府に付与する政党法改正案を可決した。 また爆弾事件で死亡したシェールパーオ国境州内務・計画相の哀悼決議も採択した。
DIA-304-1975-02-10-3パキスタン1975年02月10日1970年代パ・イラン合同閣僚委員会第2回会議始まる(~11日,テヘラン)。パ側代表ムハムマド・ハニーフ蔵相,イラン側代表ホウシャング・アンサーリー蔵相。
DIA-304-1975-02-11-1パキスタン1975年02月11日1970年代憲法第3次改正案国民議会上程―憲法第10条(逮捕・拘禁に対する保護)および232条(非常事態宣言)の改正案が国民議会に上程され,去る6日の政府・野党間の合意にもとづき特別委員会に付託された。
DIA-304-1975-02-12-1パキスタン1975年02月12日1970年代憲法第3次改正案可決―国民議会の第3次修正案可決によって,予防拘禁条項は強化され,非常事態宣言は「上下両院合同会議の過半数議決で否決」された場合失効する。野党はボイコット。
DIA-304-1975-02-13-1パキスタン1975年02月13日1970年代パ・イラン合同閣僚委員会会議終わる―議定書によれば,イランの対パ借款総額5億8000万ドルのうち2億5000万ドルがすでに支出された。イランはバルーチスターンの5万錘規模の2織物工場と年産30万トンのセメント工場に,総額4800万ドルの借款を供与し,それぞれ49%の株式参加をする。その他年産51万6000トンの1肥料工場,各2万5000錘規模の3織物工場,年産30万トンの1セメント工場は予備調査をまって原則的に協力,水利開発の4計画の協力も原則的に合意をみた。3ヵ月以内に長期貿易協定を締結することも合意にたっした。
DIA-304-1975-02-14-1パキスタン1975年02月14日1970年代民族アワーミー党禁止措置,最高裁の判断に―A.H.ピールザーダー州調整相は,政府のNAP禁止措置は憲法の規定に準拠したもので恣意的もしくは遺恨の仕返しでなく,4日以内に最高裁判所にこの問題を付託して合憲か否かの判断を求めると語った。 (注)政党法によれば,パキスタンの主権と保全に反する政党と宣言した場合,政府は15日以内に最高裁判所に付託し判断をあおがねばならない。
DIA-304-1975-02-16-1パキスタン1975年02月16日1970年代パ外務省,アフガン政府非難―パ外務省は2月13日カーブル放送でのシェールパーオ暗殺事件に関連するアフガン政府声明について言及し,アフガン政府は「パクトゥーン,バルーチーの兄弟たちの権利を支持し」,テロリストの訓練・武装に便宜を供与して,パキスタン転覆運動を行ない内政に干渉しているとはげしく非難した。
DIA-304-1975-02-16-2パキスタン1975年02月16日1970年代シンド州議会補欠選挙(ハイデラーバード)で統一民主戦線のウスマーン・ケネディーがパ人民党の対立候補を破って当選した。
DIA-304-1975-02-17-1パキスタン1975年02月17日1970年代北西辺境州90日間の連邦政府直接統治―連邦政府は憲法第232条(非常事態宣言)2項(C)にもとづきNWFP州政府のすべての職務と権限を90日間掌握するよう州知事に命じた。理由は「国外勢力(単数)のあくどいパキスタン内政干渉で同州の法と秩序が悪化」したため。同知事は18日,3人の評議員を補佐役に任命した。
DIA-304-1975-02-21-1パキスタン1975年02月21日1970年代全国の大学・学生寮一斉捜索―警察は全国の大学や学生寮を深夜一斉捜索し,ピストル500丁以上,銃砲約30丁,短剣290本以上,大量の弾薬・爆弾を押収,パンジャーブ,シンド両州で284人を逮捕した。捜索は続行中。
DIA-304-1975-02-24-1パキスタン1975年02月24日1970年代米国,対印パ武器輸出解禁―米国務省は印パ両国への武器禁輸を解除すると発表した。ブット首相はこの解除に対するインド側の誤解を遺憾とし,シムラ協定にもとづく両国関係の正常化は推進するとのべた。
DIA-304-1975-02-24-2パキスタン1975年02月24日1970年代2月28日にカシミール問題で抗議スト―ガンディー・インド首相とシェイク・アブドゥッラーとの合意成立の公式発表に伴い,ブット首相は全パキスタン人,カシミール人に対し2月28日(金)に1日抗議ゼネストに入るようよびかけた。
DIA-304-1975-02-25-1パキスタン1975年02月25日1970年代パーレヴィー・イラン国王,非公式訪パ(~27日)。―グレチコ・ソ連国防相の訪印(24日)直後に急に決められたもの。
DIA-304-1975-02-28-1パキスタン1975年02月28日1970年代カシミール問題で全国的抗議ゼネスト―ガンディー・アブドゥッラー協定に抗議して,電気・ガス・水道などの一部公益事業,ラジオ・テレビ・新聞(朝刊)の報道機関,長距離列車・パ国際航空2便を除くすべての分野でほぼ全面的に抗議ゼネストが全国で決行された。
DIA-304-1975-03-01-1パキスタン1975年03月01日1970年代8国営企業増産―工業管理局(BIM)の1973/74年度報告によれば,BIM所有の8企業は前年度対比で31.4%の増産を記録した。企業別では,連邦化学・陶磁器公社(FCCC)11.7%,連邦軽機械工業公社(FLEC)24%,ハ国民肥料会社(NFCP)26.7%,パ自動車公社(PAC)83.9%,パ工業開発公社(PIDC)8.5%,パ国家セメント公社(SCCP)9.5%,国家重機械・工作機械公社(SHEMTC)74%,国家精油・石油化学公社のみ(-)5.3%。
DIA-304-1975-03-03-1パキスタン1975年03月03日1970年代パ米両政府は30万トン(4880万ドル相当)の小麦追加援助協定に調印した。昨年11月23日調印の協定を修正したもので,今年度中の米小麦援助は40万トン(6680万ドル相当)となる。
DIA-304-1975-03-03-2パキスタン1975年03月03日1970年代人民日報は「インドのカシミール併合は地域の平和を脅かすものであり,中国はカシミールの自決権の闘いを支持する」と報道。
DIA-304-1975-03-04-1パキスタン1975年03月04日1970年代バルーチスターン州政府当局によれば,軽機関銃1丁,ライフル銃10丁,手りゅう弾31個,時限爆弾30個など大量の武器・弾薬と反パ文書が各地で押収され,約40人が検挙された。
DIA-304-1975-03-08-1パキスタン1975年03月08日1970年代シンド州の国民議会・州議会議席の再配分―中央選挙管理委員会は州内行政区画再編に伴い,国民議会43議席,州議会100議席をディヴィジョン別にそれぞれサッカル15;36,ハイデラーバード17;39,カラチ11;25に再配分を決定した。
DIA-304-1975-03-12-1パキスタン1975年03月12日1970年代パ外務省は,アフガン政府との首脳会談予備交渉についてアフガン側が要求した前提条件は「まったく受入れがたく,悪質なパキスタン内政干渉のいま一つの例証でもある」とのべた。2月10日からのダウド大統領訪印に随行しているワヒード・アブドゥッラー副外務相は11日のダウド・チャーヴァン外相の会談後,アーガー・シャーヒー・パ外務次官とは「パキスタンが2月10日(パ政府がNAPを禁止した日)以前の状態にもどれるなら,どんな対話も歓迎する」と新聞発表していた。
DIA-304-1975-03-14-1パキスタン1975年03月14日1970年代パンジャーブ州知事更迭―サーディク・フサイン・クレーシー前知事に代ってグラーム・ムスタファ・カール前同州首相が就任。
DIA-304-1975-03-14-2パキスタン1975年03月14日1970年代中国援助のラールカーナ―製糖工場完成。落成式に出席したブット首相は,政府が今後5年間にパンジャーブに6工場,シンドに6工場,国境州に3工場を新設し39万6000トン能力増設の計画を決定したことを明らかにした。
DIA-304-1975-03-19-1パキスタン1975年03月19日1970年代ラフィー・ラザー商務相は記者会見で,工業管理局(BIM)所有の国営企業の生産は現行会計年度の前半期に18.6%上昇しだが,連邦化学・陶磁器公社(FCCC)だけ減産,BIM企業への投資は国全体の投資総額の20%をしめている,稼動率は上昇しているが同時に借入金も年度内見積り4億ルピーに対し前半期で2億9210万ルピーにたっした,同期の売上高は75%伸び純益(税込み)総額は8720万ルピー,従業員数は1974年12月現在で4万8295人,と発表した。また政府は5~6年間に280億ルピーの工業投資を計画,カラチ製鋼所は1978年までに銑鉄生産を開始,織物工業不況の最悪期は政府の不況対策で乗り切ったと語った。
DIA-304-1975-03-22-1パキスタン1975年03月22日1970年代海軍参謀長にムハムマド・シャリーフ海軍中将就任。
DIA-304-1975-03-22-2パキスタン1975年03月22日1970年代S.T.シャー・パ商工会議所新会頭は,政府の混合経済政策を歓迎し,パ人民党の選挙綱領の社会経済目標に財界は財界としての任務は果たすが,公共・民間部門に割当てらるべき産業の明確な規定,長期的な政策,国有化に伴う補償の迅速化,新規企業認可手続の簡素化などを要望した。
DIA-304-1975-03-22-3パキスタン1975年03月22日1970年代綿糸500万ポンド,スリランカへ輸出。パ貿易公社とス織布供給公社の商談が成立したもの。
DIA-304-1975-03-24-1パキスタン1975年03月24日1970年代アーザード・カシミール次期大統領選挙の候補者指名をめぐってアブドゥル・カイユーム現大統領と全ジャンムー・カシミール・ムスリム会議ムハムマド・イブラーヒーム委員長の対立が表面化し,たがいにムスリム会議からの除名処分を決めた。去年のムスリム会議総会は現大統領を党公認候補に決めている。
DIA-304-1975-03-25-1パキスタン1975年03月25日1970年代ブット首相,暗殺されたファイサル・サウジアラビア国王の葬儀参列のため出発。
DIA-304-1975-03-26-1パキスタン1975年03月26日1970年代国民議会,ファイサル国王死去に哀悼決議。全国民は25日から10日間喪に服し,官庁は半旗をかかげている。
DIA-304-1975-03-27-1パキスタン1975年03月27日1970年代グラーム・イシャーク・カーン,パ・ステート・バンク総裁は農業への協同組合融資を増強するため三段協同組合銀行(連邦協同組合銀行,州協同組合銀行,単位協同組合銀行)の構想を明らかにした。
DIA-304-1975-03-28-1パキスタン1975年03月28日1970年代NWFP州犯罪抑止法成立―国民議会は4月1日失効予定の同州知事布告と同趣旨の法案を可決した。アブドゥル・カイユーム・カーン内務相はシェールパーオ暗殺事件について,捜索は続行中で数人の容疑者を逮捕したが,重要容疑者の2人の学生は保釈中に失跡しアフガニスタンに逃亡したと思われると語った。
DIA-304-1975-03-31-1パキスタン1975年03月31日1970年代カシミール問題―アジーズ・アフマド国防・外務担当国務相は,国民議会でガンディー・アブドゥッラー協定に言及し,パ政府はまずインドとの交渉で問題を解決しようと提案しているが,成功しなかった場合適当な時期に問題を国連安全保障理事会にもちこむ考えであることを明らかにした。
DIA-304-1975-03-31-2パキスタン1975年03月31日1970年代新聞社で爆発事件―ドーン紙など新聞数社の事務所のあるハルーン・ハウスの一階便所で夕刻ドーンという大音響とともに爆発が起き,ドーン紙編集部員と速記者の2人が負傷した。
DIA-304-1975-04-02-1パキスタン1975年04月02日1970年代シェールパーオ暗殺事件捜査終了―NWFP州政府発表によれば,暗殺事件の捜査は終了し,前パ人民党指導者ニサール・ムハムマド・カーン,NAP党員のアスファンディヤール・ワリーとアフマド・ファールークは暗殺の計画,実行を自供した。爆弾入りテープレコーダーを仕掛けた2人の学生は隣国に逃亡した。暗殺の動機は政治的対立。
DIA-304-1975-04-03-1パキスタン1975年04月03日1970年代S.H.クレーシー前パンジャーブ州知事,州議会議員補欠選挙(ムザッファルガル)で無競争当選。
DIA-304-1975-04-03-2パキスタン1975年04月03日1970年代パ・東独文化協定調印。
DIA-304-1975-04-03-3パキスタン1975年04月03日1970年代RCD閣僚会議開かる(~4日,トルコ,イズミール)。
DIA-304-1975-04-04-1パキスタン1975年04月04日1970年代国民議会,爆発物(改正)法案を可決。最高の終身流刑を死刑に改正したもの。
DIA-304-1975-04-04-2パキスタン1975年04月04日1970年代AJKMC(イブラヒーム派)はカシミール議会選挙に4党統一して臨むことを決めた。その他3党はパキスタン人民党,解放連盟,アーザード・カシミール回教徒会議。4党統一大統領候補はイブラヒーム氏。
DIA-304-1975-04-06-1パキスタン1975年04月06日1970年代NWFP議会議員補欠選挙にパ人民党とパ・ムスリム連盟共同候補のナスルッラー・カーン・カッタクが統一民主戦線の対立候補を破って当選。
DIA-304-1975-04-07-1パキスタン1975年04月07日1970年代小麦,砂糖,植物性油(ギー)値上げ―政府は小麦1モーンド当たり21.5ルピーから32ルピー,砂糖1シーア当たり3.50ルピーから4ルピー,ギー1シーア当たり7.50ルピーから9ルピーに値上げを発表し,即刻実施した。この値上げで1家族につき月平均25ルピーの家計支出増が見込まれ,政府は公務員,政府企業職員,民間商工業会社従業員に同額の物価手当を,年金受給者には25ルピーを上限とする10%の物価手当(いずれも免税)を支給することとした。政府の補助支出削減がねらい。
DIA-304-1975-04-07-2パキスタン1975年04月07日1970年代シンド州政府は,昨年8月のタルベーラ・ダムの故障で影響をうけた米作地帯の地税・水利税を10~20%削減すると発表した。
DIA-304-1975-04-09-1パキスタン1975年04月09日1970年代パンジャーブ州政府は小麦,砂糖,植物性油以外の生活必需品価格を2月7日現在の水準に凍結した(シンド・NWFP州は4月10日から)。
DIA-304-1975-04-10-1パキスタン1975年04月10日1970年代最高裁,NAP禁止措置で予審開始(~12日)。
DIA-304-1975-04-11-1パキスタン1975年04月11日1970年代国民議会,予防拘禁法(改正)案可決。「敵の密偵もしくはパキスタンの領土保全,安全もしくは防衛を害するような行為を行なう人物の無期限拘禁」を許すもの。
DIA-304-1975-04-11-2パキスタン1975年04月11日1970年代パ外務省,インドのシッキム併合について声明―インドがシッキムを併合したことは重大な関心を呼ばずにはおかない。インドは領土保全の尊重・内政不干渉という原則を守らず,力によってその隣国との関係をかえることを,もう一度示した。
DIA-304-1975-04-11-3パキスタン1975年04月11日1970年代ガファール・カーン氏,自宅軟禁。
DIA-304-1975-04-11-4パキスタン1975年04月11日1970年代中国,インドのシッキム合併を非難。
DIA-304-1975-04-14-1パキスタン1975年04月14日1970年代パ・ルーマニア共同コミュニケ発表―チャウシェスク・ルーマニア大統領が訪パ(13日),ブット首相と会見した後出されたもので,1973年の両国間協定を基礎に経済協力の強化と世界平和の確立(とくにバルカン・インド洋地域を核非武装地域とする)を強調。
DIA-304-1975-04-14-2パキスタン1975年04月14日1970年代全国労働連盟8項目決議―4月10日から開催されていた大会は,繊維工業危機に伴う労働者首切り反対,失業増加をもたらす労働政策反対,生活必需品の値上りを憂慮し減税のために行政経費を削減すること,生計費上昇にみあう賃上げ,労使関係布告の改正,国民経済から「利子」を廃止,パ防衛規則および刑事訴訟法第144項の批判・報道の自由,増産のため各工場に「生産協議会」を設置,などを決議した。
DIA-304-1975-04-16-1パキスタン1975年04月16日1970年代アーザード・カシミール議会,大統領不信任案可決―アブドゥル・カイユーム・カーン大統領は州議会議員の3分の2以上の多数によって不信任,新大統領にはシャイク・マンザル・マスード前議長が就任した。
DIA-304-1975-04-19-1パキスタン1975年04月19日1970年代債権国会議への援助要請額は7億ドル―5月7・8日の会議でパ政府は7億ドルを要請する。1974/75のプレッジ額は13億ドル(IMF2億ドル,債権国会議5億ドル,その他6億ドル)で,その実行額は8~10億ドルとみられる。
DIA-304-1975-04-20-1パキスタン1975年04月20日1970年代中国李先念副首相訪パ(~25日)―ブット首相と第1回会談をもち,亜大陸を含めた世界情勢について話し合った。副首相という政府高官の訪パは10年ぶりのこと。夕食会で李副首相は「覇権主義・拡張主義に反対する南アジアの人々の闘いを支持,カシミールの自治権の闘い,シッキム併合反対の闘いを支持する」とのべた。この後李副首相は21日にブット首相と3軍総司令官を含あた第2回会談を行ない,ラホール・カラチを歴訪して帰国。
DIA-304-1975-04-22-1パキスタン1975年04月22日1970年代連那政府は最高裁の命令に従って,州政府に対してNAPの資金・書類を指定代理人に返却するよう指示した。
DIA-304-1975-04-22-2パキスタン1975年04月22日1970年代ムフティー・マフムード・イスラム神学者協会(JUI)事務局長(国民議会議員)はスジャーワル(シンド州)での集会に行く車中で襲われたが無事だった。
DIA-304-1975-04-24-1パキスタン1975年04月24日1970年代パ商工会議所連盟は予算関係覚書を政府に提出し,農業所得税は灌漑地50エーカー,非灌漑地100エーカー未満規模を免税とする,法人税は株式公開会社40~50%,非公開会社55%で所得再投資に20%の投資控除を認める,新設企業の配当金は5年間免税とする,その他の租税優遇措置を要望した。
DIA-304-1975-04-26-1パキスタン1975年04月26日1970年代野党の統一民主戦線は緊急執行委員会を開いてアーザード・カシミール大統領・議会議員選挙でアブドゥル・カイユーム・カーン前大統領の率るムスリム会議を支持すると決定した。
DIA-304-1975-04-29-1パキスタン1975年04月29日1970年代パ人民党,バルーチスターン州議会で単独過半数に―シェール・アリー・カーン(NAP)州議員はブット首相と会見後パ人民党入党を発表した。21州議席のうちパ人民党は11議席となった。
DIA-304-1975-05-01-1パキスタン1975年05月01日1970年代南ベトナム臨時革命政府を承認。
DIA-304-1975-05-02-1パキスタン1975年05月02日1970年代NWFP州議会,州首相にナスルッラー・カーン・カッタク(パ人民党)を選出(知事は同じくS.ガワス氏)。
DIA-304-1975-05-03-1パキスタン1975年05月03日1970年代NWFP州の連邦政府直接統治終わる。
DIA-304-1975-05-04-1パキスタン1975年05月04日1970年代パ政府,5月5日ジュネーブで開催の核拡散防止条約会議への不参加を決定。
DIA-304-1975-05-06-1パキスタン1975年05月06日1970年代パ債権国会議,パリで開催(~7日)―昨年援助額5億ドル以上の援助が約束された。
DIA-304-1975-05-06-2パキスタン1975年05月06日1970年代日本・ペルシア湾船舶協議会加盟船舶はカラチ港積み・おろしの船荷に10%の加重運賃を実施した。
DIA-304-1975-05-07-1パキスタン1975年05月07日1970年代NWFP州政府組閣―ナスルッラー・カーン・カッタク(首相;内務・行政・財務・計画・開発・森林・情報),イナーヤトゥッラー・カーン・ガンダープール(建設・法務・議会問題),アブドゥル・ラッザーク・カーン(工業・食糧・農業・地方自治体),フマーユーン・サイフッラー(保健・家族計画・社会福祉・観光),シカンダル・ザマーン(教育・スポーツ),ムハムマド・イクバール・カーン・ジャドゥーン(歳入・税務),アブドゥル・バーキー(協同組合・刑務所・遺贈)。パ人民党,ムスリム連盟,イスラム神学者協会の連合政権。
DIA-304-1975-05-07-2パキスタン1975年05月07日1970年代自治運動党(アスガル・カーン党首),9項目の国民経済再編計画を発表。
DIA-304-1975-05-09-1パキスタン1975年05月09日1970年代パ・イラン,長期貿易協定に調印―5年間の長期協定で更新も可能,特定品目の貿易量・額は定めず,最大限の貿易拡大を目指すもの。第三国との通過貿易協定も同時に調印された。パ輸出品は米・綿製品・皮革製品,輸入品は石油・同製品が主。
DIA-304-1975-05-09-2パキスタン1975年05月09日1970年代世銀,スーイー北部ガス・パイプライン社の配送施設拡張計画に6000万ドルの借款供与。
DIA-304-1975-05-12-1パキスタン1975年05月12日1970年代シンド・バルーチスターン選挙裁判所の投票用紙再審査の結果,1970年総選挙におけるM・A・ファールーキー(イスラム党)の国民議会議員当選は無効となり,対立候補のシャフィー・オーカールヴィー(パ神学者協会)が当選となった。
DIA-304-1975-05-12-2パキスタン1975年05月12日1970年代国家開発金融公社(NDFC)は国産機械設備(公共部門)の利用を奨励するための信用供与を開始した。
DIA-304-1975-05-13-1パキスタン1975年05月13日1970年代パ商工会議所連盟は政府に税制改革を提案した。主な改革点は法人税・財産税引下げ,機械輸入税引下げ,農業所得への課税など。
DIA-304-1975-05-14-1パキスタン1975年05月14日1970年代アーザード・カシミール学生連盟,選挙ボイコット主張。選挙が公正,民主的に行なわれえないためという。
DIA-304-1975-05-15-1パキスタン1975年05月15日1970年代パ印正常化会談,ニューデリーで開催。パ側代表はアーガー・シャーヒー外務次官,インド側はケーワル・シング。主要議題は民間航空機相互乗入れ・上空飛行問題。
DIA-304-1975-05-16-1パキスタン1975年05月16日1970年代ブット首相,記者会見―ブット政権の第2段階の主要課題は,法と秩序,犯罪と汚職,インフレーションの3基本問題に取組むことであると語った。
DIA-304-1975-05-16-2パキスタン1975年05月16日1970年代野党の統一民主戦線はピール・パガーロ議長,ガフール・アフマド書記長を再選した。
DIA-304-1975-05-16-3パキスタン1975年05月16日1970年代ジャンムー・カシミール・ムスリム会議(カイユーム派)は自由・公正な選挙の条件が整わなければ大統領・議会議員選挙をボイコットすると決定した。
DIA-304-1975-05-18-1パキスタン1975年05月18日1970年代アーザード・カシミール選挙―大統領にアーザード・カシミール人民党を含む4党連合のムハムマド・イブラーヒーム・カーンが当選し,議会42議席(うち2議席は当選議員の間接選挙による婦人保留議席)のうち4党連合が34議席(パ人民党22,ジャンムー・カシミール解放連盟5,全ジャンムー・カシミール・ムスリム会議イブラーヒーム派4,アザード・ジャンムー・カシミール・ムスリム会議3)を獲得し,ボイコット宣言をしていたムスリム会議(カイユーム派)は3議席,無所属は3議席をしめた。
DIA-304-1975-05-19-1パキスタン1975年05月19日1970年代パ印正常化会談,民間航空再開問題で合意不成立。
DIA-304-1975-05-20-1パキスタン1975年05月20日1970年代三者労働会議開催―政府・労使三者代表約600人が参加して第3回会議が2日間の日程で開かれた。 主要議題は労使関係,労働法とその実施状況,労働生産性向上・投資奨励措置,社会保障法・社会保障問題と解決で,4分科会に分かれて報告書を作成する。
DIA-304-1975-05-22-1パキスタン1975年05月22日1970年代グラーム・カーディル・カーン・バルーチスターン州首相は記者会見で,同州マストゥング近くで5月19日以降大量の外国製武器・弾薬,軍事訓練文書が発見され,これはアフガン政府のパ内政干渉を示すものであると語った。
DIA-304-1975-05-25-1パキスタン1975年05月25日1970年代サッタル・カーン自治運動党NWFP州委員長はM.Y.カッタク州首相・燃料・電力相と会見後,40人以上の党員とともにパ・ムスリム連盟(カイユーム派)に入党した。
DIA-304-1975-05-26-1パキスタン1975年05月26日1970年代予算国会始まる―野党は統一民主戦線を脱退したシャウカト・ハヤート・カーン(ムスリム連盟評議会派)を除き全員審議ボイコットをつづけた。ブット首相は2月6日与野党合意の失効を宣言し,ボイコットをやめるか辞職か二者択一すべきだと非難した。
DIA-304-1975-05-27-1パキスタン1975年05月27日1970年代米国,パに6万5000トン(850万ドル)の小麦輸出追加に調印。
DIA-304-1975-05-28-1パキスタン1975年05月28日1970年代野党の統一民主戦線の指導者ムフティー・マフムードは記者会見でブット首相の国民議会での発言を非難し,政府は国民投票で信任を問うか「国民政府」組閣に同意するよう求め,予算国会終了までボイコットはやめないと語った。
DIA-304-1975-05-28-2パキスタン1975年05月28日1970年代政府証券・為替局(SEAP)は,1975年2月に公布され1971年12月16日に遡って施行された遺棄財産(譲受・管理)法の適用から,もと東パ居住者所有の株式・証券類でその後パ住所に変更されたものは除外すると発表した。
DIA-304-1975-05-29-1パキスタン1975年05月29日1970年代タルベーラ・ラヤルプール500KV高圧送電線工事着工。総工費10億8000万ルピーで,カナダ援助4100万ドル。
DIA-304-1975-05-31-1パキスタン1975年05月31日1970年代パ・オリンピック協会会長M.M.カーリド法相は,経済困難のためアジア競技大会のパ開催を辞退するとの意向を表明した。
DIA-304-1975-06-02-1パキスタン1975年06月02日1970年代1975/76年度鉄道予算案,国民議会に上程―旅客運賃据置き,貨物運賃の15%値上げで1億3000万ルピーの増収,収入総額は17億ルピーを見込んでいる。
DIA-304-1975-06-06-1パキスタン1975年06月06日1970年代1974/75年度経済自書を発表―パ経済はGNP成長率2.6%で人口増加率を下回り,インフレ圧力下にあったが,次年度に好転を期待しうるところにきているとの見通し(資料参照)。
DIA-304-1975-06-06-2パキスタン1975年06月06日1970年代国民議会,鉄道予算を可決。
DIA-304-1975-06-07-1パキスタン1975年06月07日1970年代1975/76年度予算案,国民議会提出―ムハムマド・ハニーフ蔵相は増産によるインフレ抑制を目標とする連那予算を国民議会に提出した。経常勘定は歳入149億3000万ルピー,歳出142億5000万ルピーで6億8000万ルピーの余剰,資本勘定(年次開発計画)は収入126億4000万ルピー,支出137億ルピーで赤字106億ルピー,年間GNP成長率9%を予想している(資料参照)。
DIA-304-1975-06-09-1パキスタン1975年06月09日1970年代銀行金融機関賃金委員会はすべての銀行,金融機関従業員に統一的に適用される賃金体系を発表した。
DIA-304-1975-06-11-1パキスタン1975年06月11日1970年代パ商工会議所連盟,新予算案を歓迎し,政府が民間部門の「より大きな参加」を望んでいることに満足の意を表明した。
DIA-304-1975-06-12-1パキスタン1975年06月12日1970年代国有化補償金―政府筋によれば,国有化された植物性油(ギー)工場には総額6290万ルピーが,100ルピー未満の株主には現金,その他には補償債券の形で次年度中に支払われる。銀行の前株主にはベーナーミーもしくは係争中の株主を除いて4億2000万ルピーが,燃料・電力会社については2000万ルピー以上の額が補償債券で支払われた。工業会社については今年度の1億5600万ルピーで支払いは完了する。
DIA-304-1975-06-13-1パキスタン1975年06月13日1970年代統一民主戦線全国大会開催(~14日)。アーザード・カシミールの選挙やり直しなどの大会決議を採択した。
DIA-304-1975-06-13-2パキスタン1975年06月13日1970年代パ・イラン文化協定調印。
DIA-304-1975-06-15-1パキスタン1975年06月15日1970年代ブット首相インド危機について声明を発表―6月12日のアラーハーバード高裁での有罪判決に関連して「もっともよろこんでいるのはパキスタン」だとのべたと伝えられているガンディー・インド首相の発言について,インドの最近の事態についてパの公式発言はなにもないし,他国の内政問題不干渉の原則は堅持している,インドの現在の問題は彼女自身が招いたものでパをそれに巻き込もうと企んでもむだであるとのべた。
DIA-304-1975-06-16-1パキスタン1975年06月16日1970年代最高裁,NAP非合法化で審問を開始―アブドゥル・ワリー・カーン被告(NAP党首)から提出された,弁護費用は国費で支弁すること,審問に拘禁中の5人のNAP指導者が出廷することとする諸要求に対してヤヒヤー・バクティヤール検事総長が反論した。
DIA-304-1975-06-16-2パキスタン1975年06月16日1970年代シンド州銀行従業員(全国銀行従業員連盟)は賃金委員会報告の撤回と団体交渉権の回復を求めて1時間ストに突入した。要求実現まで続行の予定。
DIA-304-1975-06-18-1パキスタン1975年06月18日1970年代最高裁はワリー・カーン被告の請求に対し,弁護費用の一部分(訴訟準備に総額1万ルピー,弁護団出廷費用に1日1500ルピー,速記・タイプ費用に1ヵ月1000ルピー以内実費)を国費負担とし,ワリー・カーンについては19日以降の審問に立合うよう言い渡した。
DIA-304-1975-06-22-1パキスタン1975年06月22日1970年代連邦政府工業経営局の1974/75年度報告によれば,国営工業会社の生産高は21.8%,売上高は65%の伸びを記録,純益総額は前年度より7970万ルピー増の2億5450万ルピーとなる見込みである。全従業員数は1975年3月31日現在で4万9975人。人民製鋼所,ラールカーナー製糖工場など3企業が操業開始,建設中のプロジェクトは40以上。
DIA-304-1975-06-25-1パキスタン1975年06月25日1970年代最高裁はNAP問題でワリー・カーンの出廷拒否を遺憾とし被告側の協力なしでも審問をつづけざるをえないとの指令書を出した。
DIA-304-1975-06-25-2パキスタン1975年06月25日1970年代ブット首相,国会で演説―野党の地方主義の傾向,国会の予算討議ボイコットを強く非難。
DIA-304-1975-06-25-3パキスタン1975年06月25日1970年代アター・ムハムマド・マッリー国民議会議員(ムスリム連盟パガーロ派,シンド)はパ人民党に正式に入党した。
DIA-304-1975-06-26-1パキスタン1975年06月26日1970年代連邦予算案,財政法案,国民議会で可決。
DIA-304-1975-06-26-2パキスタン1975年06月26日1970年代パ・リビア閣僚委員会第3回会議(トリポリ)は共同新聞発表で両国合弁の持株会社設立に合意したことを明らかにした。
DIA-304-1975-06-27-1パキスタン1975年06月27日1970年代トパ政府は,インドの非常事態宣言について,内政問題不干渉の原則を理由にあげて論評を拒否した。
DIA-304-1975-06-28-1パキスタン1975年06月28日1970年代輸入政策は自由化を堅持―1975/76年度輸入政策の特徴はつぎのとおり。①過去4年間の自由化政策は堅持する。②大部分が工業原材料,部品,機械からなるフリー・リストとバーター,信用供与にもとづくタイド・リストの現行制度は存続させる。③近代化・更新用の機械輸入の金額上限は75万ルピーに引上げ,バーター・信用による輸入額上限は150万ルピーとする。④動力耕耘機(政府輸入のみ),ボール・ベアリングはタイド・リストからフリー・リストに移す。人絹または合成繊維の輸入制限は織機1台当たり300ポンドに引下げる。 ⑤パ貿易公社の手続を簡素化する。
DIA-304-1975-06-29-1パキスタン1975年06月29日1970年代カーン・アブドゥル・ハミード・カーン,アーザード・カシミール初代首相に就任。
DIA-304-1975-07-02-1パキスタン1975年07月02日1970年代アーザード・カシミール内閣発表―州首相はA.ハミード・カーン,大蔵・法務・農業相はM.H.ラートール,地方行政・農村開発相はM.G.ラスール,教育・地方税・運輸相はG.A.リザー,歳入・復興相はC.S.アリ。
DIA-304-1975-07-05-1パキスタン1975年07月05日1970年代パ・スリランカ共同コミュニケ―2日間の外務次官会談ののち両国は,インド洋地域を平和地帯とするには沿岸・内陸諸国の核武装放棄が肝要であるとのコミュニケを発表した。
DIA-304-1975-07-06-1パキスタン1975年07月06日1970年代自治運動党,レザー・カスーリー国民議会議員を除名処分。
DIA-304-1975-07-08-1パキスタン1975年07月08日1970年代パ・アラブ首長国連邦は,連邦が石油などパキスタンの工業プロジェクトに参加するとの合同閣僚委員会第3回会議の共同声明を発表した。
DIA-304-1975-07-11-1パキスタン1975年07月11日1970年代ムハムマド・ハニーフ・ラーメイ・パンジャーブ州首相辞任。パ人民党から同州上院議員選挙に立候補の予定。
DIA-304-1975-07-11-2パキスタン1975年07月11日1970年代イタリア,インダス・スーパーハイウェー・プロジェクト(カラチ―ペシャーワル)の技術援助覚書に調印。
DIA-304-1975-07-14-1パキスタン1975年07月14日1970年代カラチ証券取引所の先物取引認可。4年ぶりのもの。
DIA-304-1975-07-15-1パキスタン1975年07月15日1970年代イスラム教国外相会議―12日からジッダで開かれていた同会議は,核兵器保有国に使用・威嚇しないことを求めるパ提案を決議し,次期国連総会で安全保障理事会非常任理事国にパキスタン,リビアを推すことを決定した。
DIA-304-1975-07-15-2パキスタン1975年07月15日1970年代最高裁はNAP禁止問題で統一民主戦線からの訟訴当事者認定申請を却下した。
DIA-304-1975-07-15-3パキスタン1975年07月15日1970年代S.H.クレーシー州議員(前パンジャーブ州知事),パンジャーブ州首相に就任。
DIA-304-1975-07-18-1パキスタン1975年07月18日1970年代ナシールッディーン・パンジャーブ州工業開発局長は中国,日本訪問ののち帰国し,中国とのあいだにパンジャーブに2万5000錘規模の織物工場を初めての延払いで供与するとの協定が成立したと発表した。
DIA-304-1975-07-20-1パキスタン1975年07月20日1970年代パンジャーブ州の氾濫はチェナーブ,ラーヴィー河流域を中心にさらに広がり,被災面積は1500村以上の100万エーカー(作物被害は50万エーカー),被災者は数十万人にのぼっている。
DIA-304-1975-07-24-1パキスタン1975年07月24日1970年代上院議員パンジヤーブ州選挙で,パ人民党が全5議席(M.H.ラーメイ前州首相を含む)をしめた。
DIA-304-1975-07-26-1パキスタン1975年07月26日1970年代ソ連の鉄鋼所援助―建設中のカラチ製鋼所に41億4000万ルピーの工場設備,10億9000万ルピーの建設資材が1975~80年に供給される。
DIA-304-1975-07-26-2パキスタン1975年07月26日1970年代インドネシア・パ経済文化協力閣僚会議(24日からジャカルタで開催)は,合弁企業の設立などを含む両国経済・文化関係の強化をうたった共同コミュニケを発表した。
DIA-304-1975-07-26-3パキスタン1975年07月26日1970年代上院議員シンド州選挙で,パ人民党が4議席,野党の統一民主戦線が1議席(前国民議会議員S.A.ヌーラーニー・パ神学者協会総裁)を獲得した。
DIA-304-1975-07-26-4パキスタン1975年07月26日1970年代イスラム・イデオロギー審議会は,国内法のイスラム化のためリバー(高利貸し)の廃止,ザカート(喜捨)制度の確立,教育改革を原則的に決定した。
DIA-304-1975-07-27-1パキスタン1975年07月27日1970年代パ社会党(PSP,C.R.アスラム委員長)は2日間の全国大会後,反帝・反封建・反独占の決議を採択し,統一民主戦線の野党を批判した。
DIA-304-1975-07-28-1パキスタン1975年07月28日1970年代上院議員バルーチスターン州選挙で,パ人民党が4議席,無所属候補者が1議席をしめた。
DIA-304-1975-07-30-1パキスタン1975年07月30日1970年代上院議員NWFP選挙で,パ人民党から3議席,統一民主戦線が2議席を獲得した。
DIA-304-1975-07-31-1パキスタン1975年07月31日1970年代パンジャーブ州知事更迭―G.M.カールの辞任にともないムハムマド・アッバース・アッバーシー准将が就任。
DIA-304-1975-07-31-2パキスタン1975年07月31日1970年代上院議員連邦直轄部族地域2議員の選挙でニーマトウッラー・カーン・シンワーリーとアジャブ・カーンが当選した。
DIA-304-1975-08-01-1パキスタン1975年08月01日1970年代ブット首相は記者会見でアフガニスタン関係改善の前提はデュランド・ラインの国境線を認めることである,つぎの総選挙は憲法に定めるとおり1年半後に行なうとのべた。
DIA-304-1975-08-01-2パキスタン1975年08月01日1970年代タルベーラー・ダム修復工事に世銀援助―訪パ中のチャドネット世銀副総裁は800万ドルの援助供与を発表した。
DIA-304-1975-08-06-1パキスタン1975年08月06日1970年代上院,議長にハビーブッラー・カーン,副議長にターヒル・ムハムマド・カーンを再選。
DIA-304-1975-08-06-2パキスタン1975年08月06日1970年代パンジャーブ州閣僚―アブドゥル・カーリク(大蔵),サーヒブダード・カーン(通信・建設),サイド・M・マスード(法務・議会問題)の3閣僚が就任した。
DIA-304-1975-08-07-1パキスタン1975年08月07日1970年代米パ両政府は小麦300万トン(4750万ドル)のPL480食糧援助協定に調印した。
DIA-304-1975-08-07-2パキスタン1975年08月07日1970年代パ・ソ連文化科学交流計画―両国政府は,パ学生55人の奨学金供与,研究者の交流など教育,芸術,スポーツ,放送分野での年次交流計画に調印した。
DIA-304-1975-08-11-1パキスタン1975年08月11日1970年代ビゼンジョ氏,PPPに入党―バルーチスターンのビゼンジョ族の首長ビゼンジョ氏は部族民3万人を率いてPPPに加入した。
DIA-304-1975-08-13-1パキスタン1975年08月13日1970年代アーザード・ジャンムー・カシミール評議会6評議員の選挙。 (注)同評議会はアーザード・カシミール議会議員の投票による6人,パ首相が国会上下両院の議員から任命する5人,職権上の評議員であるアーザード・カシミール首相,副議長のアーザード・カシミール大統領,議長のパ首相の14人からなる。
DIA-304-1975-08-14-1パキスタン1975年08月14日1970年代パキスタン経済概況(1974/75)発表(詳細は資料参照)。
DIA-304-1975-08-15-1パキスタン1975年08月15日1970年代パ政府,「バングラデシュ・イスラム共和国」を承認―ブット首相は軍部クーデターによって成立したムスターク・アーメド新政府の承認と同時に,バングラ国民の安寧のため可能なかぎり助力する用意があるとのべ,またイスラム教諸国および第三世界に新政府の承認をよびかけた。同時に米5万トン,生地1500万ヤード贈与を決めた。
DIA-304-1975-08-16-1パキスタン1975年08月16日1970年代パンジャーブ州閣僚にマリク・グラーム・ナッビー(教育),ラーナー・シャウカト・マッムード(歳入・入植)が就任した。
DIA-304-1975-08-18-1パキスタン1975年08月18日1970年代アーザード・ジャンムー・カシミール評議会開会。ブット首相は議長演説で公正な解決がパ・印両国間でなされるまでカシミール問題は不変で自決権に妥協の余地はないとのべ,パとアーザード・カシミールのあいだに政治的,社会経済的,文化的に緊密な関係のあることを強調した。
DIA-304-1975-08-18-2パキスタン1975年08月18日1970年代IDAほか6ヵ国はタルベーラー・ダムと灌漑プロジェクトに4200万ドルの借款供与を発表した。内訳はIDA800万ドル,イタリア,米国各1000万ドル,西ドイツ130万ドル,英国600万ドル,オーストラリア130万ドル。
DIA-304-1975-08-18-3パキスタン1975年08月18日1970年代アーザード・カシミール首相襲わる―アブドゥル・ハミード・カーン首相の乗用車に手榴弾が投げられたが不発のため無事だった。
DIA-304-1975-08-19-1パキスタン1975年08月19日1970年代ニアジ少将,解任―東パキスタン軍最高司令官を務め,インド軍に投降したニアジ少将及びシディキ東部司令官の2人は責任を問われて解任された。
DIA-304-1975-08-20-1パキスタン1975年08月20日1970年代イタリアは1974/75年度償還分1480万ドルの債務救済を行ない,総残高は10年据置きの30年間に2.5%の利子で支払われる。
DIA-304-1975-08-20-2パキスタン1975年08月20日1970年代1977年までに小麦・肥料自給―首相・州知事会議は農業調査委員会の勧告を承認し,種子供給公社の設立,協同組合農場の促進,灌漑開発と効率的利用,機械化,肥料増産などの施策を決定した。
DIA-304-1975-08-21-1パキスタン1975年08月21日1970年代綿花買上げ価格決まる。最上質長繊維綿A-C134SGの新年ものを1モーンド215ルピーとする。
DIA-304-1975-08-22-1パキスタン1975年08月22日1970年代パ外務省は,バングラデシュのクーデタにパキスタンが関係しているとの「ミッラト」紙(8月20日号,ロンドン)の記事を無責任かつ事実無根であるとして否定した。
DIA-304-1975-08-25-1パキスタン1975年08月25日1970年代アーメド・バングラデシュ大統領はブット首相にメッセージを送り,「バングラデシュ人民共和国」政府と国民はパとの関係正常化と友好的・兄弟的関係の確立を望んでいるとのべた。
DIA-304-1975-08-25-2パキスタン1975年08月25日1970年代パンジャーブ州南部で洪水。
DIA-304-1975-08-28-1パキスタン1975年08月28日1970年代インダス川の増水と豪雨でシンド州各地に洪水。
DIA-304-1975-08-29-1パキスタン1975年08月29日1970年代ブット首相は西ドイツの新聞「ディー・ヴェルト」との記者会見で,中国を除外したアジア集団安全保障条約には加盟の意志がないことを明らかにした。ブット首相はウィーンでの記者会見でもこのアジア安保を「アジア・ヘルシンキ」を呼んで反対を表明している(9.9)。
DIA-304-1975-09-01-1パキスタン1975年09月01日1970年代ブット首相はサウジアラビアを公式訪問し,カリド国王,ファフド皇太子と会談を開始した。
DIA-304-1975-09-01-2パキスタン1975年09月01日1970年代8月31日投票の国民議会議員補欠選挙(ラヤルプール)でパ人民党のムバーリズ・カーンが当選。
DIA-304-1975-09-03-1パキスタン1975年09月03日1970年代パ・サウジアラビア共同コミュニケ―ブット首相の3日間の公式訪問中に行なわれたカリド国王,ファフド皇太子との会談の結果,両国はイスラム教国首脳会議ラホール宣言および国連決議に沿った中東紛争の解決と両国関係の強化をうたった共同コミュニケを発表した。
DIA-304-1975-09-03-2パキスタン1975年09月03日1970年代国連開発計画の技術援助―国連開発計画,世銀,パ政府は,インダス流域・隣接地域の農業開発・開墾計画作成プロジェクトに調印。3年にわたってパ政府は4億3000万ルピーを分担し,国連援助300万ドルは世銀が実施を担当する。
DIA-304-1975-09-07-1パキスタン1975年09月07日1970年代自治運動党中央執行委員会は,個人当たり土地保有限度25エーカーその他の土地改革,労働者の経営参加,非開発支出の削減,ヤーヒヤ・カーン前大統領の裁判,対バングラデシュ関係強化・アフガニスタン関係正常化などを含む新綱領を採択した。
DIA-304-1975-09-10-1パキスタン1975年09月10日1970年代カナダ,タルベーラー・ラヤルプール間の500KV送電線プロジェクトに1600万カナダ・ドルの借款を追加供与。カナダの同プロジェクトへの借款供与総額は4100万ドルとなる。
DIA-304-1975-09-12-1パキスタン1975年09月12日1970年代パにIMF石油基金から9061万ドル(SDR7636,万ドル)の援助。
DIA-304-1975-09-12-2パキスタン1975年09月12日1970年代パンジャーブ州内閣に3閣僚就任。ナスルッラー・カーン・ドレーシャク電力・灌漑相,カーリド・マリク工業相,カイユーム・マリク保健相。
DIA-304-1975-09-14-1パキスタン1975年09月14日1970年代外国借款利子支払い―政府発表によれば,1975/76年度の対外債務利子の支払いは総額14億ルピー(借款に10億1000万ルピー,IMF引き出しに3億1000万ルピー,食糧援助に8000万ルピー)にたっする見込み。昨年度の支払い総額は10億3000万ルピーであった。
DIA-304-1975-09-15-1パキスタン1975年09月15日1970年代新選挙人名簿―選挙管理委員会は全国で新選挙人名簿を公示した。一般閲覧は9月30日まで。選挙人総数は3045万8219人(総人口6252万3844人の48.71%),選挙区画定時に作成される予定の中央政府直轄部族地域は含まれていない。今後の選挙は新名簿によって実施され,毎年改訂される。
DIA-304-1975-09-15-2パキスタン1975年09月15日1970年代物価上昇傾向をチェックするため,カラチでは12のマーケットに苦情センターを設置した。
DIA-304-1975-09-17-1パキスタン1975年09月17日1970年代最高裁,NAP禁止結審―政府側はNAPの活動は国の主権と領土保全を害するもので政党法にもとづき禁止したのは適法と主張し,証人39人をたて,文書約800点を提示した。
DIA-304-1975-09-17-2パキスタン1975年09月17日1970年代1975/76年次計画発表―投資総額は対前年度比25%増の218億ルピー(うち民間部門投資は10%増の64億ルピー)で,農業の成長率5~5.5%,大規模工業13.6%,総国内生産9.4%を目標としている。(資料参照)
DIA-304-1975-09-18-1パキスタン1975年09月18日1970年代ラホール高裁は,週刊誌「ライロナハール」(ラホール)の編集人兼印刷人と出版人の2人に対し法廷侮辱罪(禁錮3ヵ月および科料1000ルピー,もしくは禁錮4ヵ月)の有罪を宣告した。
DIA-304-1975-09-19-1パキスタン1975年09月19日1970年代第12次円借款協定調印―総額2330万ドルで一部分日本以外の発展途上国国からの輸入も可能。返済条件は,年間利子率4%,7年据置き25年償還。
DIA-304-1975-09-19-2パキスタン1975年09月19日1970年代最高裁長官にM.ヤクーブ・アリー判事が任命された(11月1日就任予定)。ハムードゥル・ラフマーン現長官は10月31日付で退官。
DIA-304-1975-09-19-3パキスタン1975年09月19日1970年代シンド州の洪水・大雨被害―G.M.ジャトーイー同州首相は記者会見で,最近の大雨と洪水で8643ヵ村,約410万エーカーが浸水,作物冠水102万エーカー,浸水家屋13万戸,被災者100万人以上にたっしたと発表し,連邦政府の救援をつよく要請した。
DIA-304-1975-09-23-1パキスタン1975年09月23日1970年代パ新聞編集者協議会(マジード・ニザーミー会長)は,週刊誌「アダーカール」(ラホール,9月17日に1年間発行禁止)の発禁解除とジャーナリストの外国旅行に対する差別的規制(NOC)を撤廃するよう訴えた。
DIA-304-1975-09-23-2パキスタン1975年09月23日1970年代パンジャーブ州歳入・労働相にR.I.アフマド・カーン就任。
DIA-304-1975-09-24-1パキスタン1975年09月24日1970年代パンジャーブ州前知事ムスタファ・カール,人民党を脱退―カール氏は記者会見で人民党を脱退し,ラホール6区のバンジャーブ州議員補欠選挙では無所属で立候補すると宣言した。カール氏と共に人民党系国会議員3人・州議員25人が脱党した。
DIA-304-1975-09-25-1パキスタン1975年09月25日1970年代教育政策―4州教育会議(23日から2日間,議長A.H.ピールザーダー教育相)を終えてピールザーダー教育相は記者会見を行ない,今後の教育政策の最重点は初等教育におき,初等レヴェルについては男子は1983年まで,女子は1987年までに義務化し,中等レヴェルについてはそれぞれ1985年,1990年までに義務化を実現する,同時に教育内容も農業・工業技術を重視した新カリキュラムを8学年以下については1979年までに,高等学校以下について1981年までに導入する,奨学制度を強化する,高等教育については量的拡大よりも質的向上をはかり学期制など統一的制度を導入する,教員の外国派遣は政府間取決めのみとする,成人の文盲追放運動を展開する,などの方針を発表した。
DIA-304-1975-09-25-2パキスタン1975年09月25日1970年代英国,タルベーラー・ダム修復に250万ポンドの贈与。同プロジェクトへの英国援助は総額1250万ポンドとなった。
DIA-304-1975-09-26-1パキスタン1975年09月26日1970年代シンド州政府の発表によれば,今年1~8月の労働情勢は労使紛争処理制度が強化されたため改善し,スト件数は85,ロックアウト件数は3に減少した。
DIA-304-1975-09-27-1パキスタン1975年09月27日1970年代パ・ジャーナリスト組合連合事務局長は声明を発表し,関係州政府は「アダーカール」誌と日刊誌「ロウホ・カラム」(カラチ)の発禁命令を撤回し,報道・表現の自由を侵すなと訴えた。
DIA-304-1975-09-27-2パキスタン1975年09月27日1970年代パンジャーブ高裁は,同州の国民議会議員2人,州議員9人,ほか5人それぞれに対し,保釈金有価証券1万ルピーと保証人2人で逮捕前に保釈を認めた。上記16人はいずれも前パ人民党員(G.M.カール派)で,党籍離脱のため当局に逮捕される危険ありと申し立てていたもの。
DIA-304-1975-09-29-1パキスタン1975年09月29日1970年代石油製品値上げ―OPECの原油価格10%引上げにともない連邦政府は1973年11月以来5度目の石油製品値上げを即刻実施すると発表した。価格据置きの灯油,軽ディーゼル・オイル,ファーナス・オイル,アスファルトを除き,値上げ幅は8.3%~14.3%。
DIA-304-1975-09-30-1パキスタン1975年09月30日1970年代中央銀行,最低利子率引上げ―定期預金(3~6ヵ月)の利子率は現行7.5%を8%に,当座預金は6%を6.5%に引上げられた。
DIA-304-1975-10-01-1パキスタン1975年10月01日1970年代ブット首相,イランを非公式訪問。パーレビ国王と2度に亘って会見した(~2日)。
DIA-304-1975-10-02-1パキスタン1975年10月02日1970年代ラホール高裁は,パンジャーブ州政府に対して判決確定まで「アダーカール」誌発禁命令の執行停止を命じた。
DIA-304-1975-10-02-2パキスタン1975年10月02日1970年代ハイダラーバード県に刑事訴訟法第144項が施行され,2ヵ月間集会,デモ行進,武器携行などが禁止された。
DIA-304-1975-10-03-1パキスタン1975年10月03日1970年代アジーズ・アフマド国防・外交担当国務相は国連総会で演説し,主権と領土保全の尊重,内政不干渉を基礎として隣接諸国およびバングラデシュとの関係正常化に努力しているとのべた。
DIA-304-1975-10-04-1パキスタン1975年10月04日1970年代パ・バングラデシュ外交関係樹立―国連総会に派遣団代表として,出席中のアジーズ・アフマド国防・外交担当国務相とAS.チョウダリー・バングラ外相とのあいだに会談が行なわれた結果,両国政府は大使級国交関係を樹立することに同意した。
DIA-304-1975-10-05-1パキスタン1975年10月05日1970年代パ農業調査協議会(会長MKB.ブッチャ首相特別補佐官)は,小麦生産の目標達成のため5項目戦略を発表した。①多収量品種の作付面積を854万エーカーから954万エーカーに100万エーカーふやす。②肥料(とくに多産効果のもの)を増投する。③タルベーラー貯水池の灌漑水を科学的・効果的に利用する。④近代的な栽培技術を大規模に採用する。⑤天水利用地にも多収量品種を導入し施肥方法を改良する。
DIA-304-1975-10-06-1パキスタン1975年10月06日1970年代政府,5ヵ年計画再開を決定―1976~81年の5ヵ年計画作成の準備が進行中。
DIA-304-1975-10-09-1パキスタン1975年10月09日1970年代アジーズ・アフマド国防・外交担当国務相,フォード大統領と会談。
DIA-304-1975-10-09-2パキスタン1975年10月09日1970年代アブドゥル・カイユーム・アーザード・カシミール前大統領,自宅軟禁状態。
DIA-304-1975-10-10-1パキスタン1975年10月10日1970年代米の買上げ価格決る。バスマティ米はモーンド90ルピー,ジョシ米は30ルピー。
DIA-304-1975-10-11-1パキスタン1975年10月11日1970年代国連世界食糧計画,シンド州洪水被災者に390万ドルの食糧援助。
DIA-304-1975-10-13-1パキスタン1975年10月13日1970年代パ・ルーマニア閣僚委員会第2回会議開催(イスラーマーバード)―パ代表M.ハニーフ蔵相,ル代表F・ドミトレスク蔵相で,経済協力,貿易関係について討議を開始した。
DIA-304-1975-10-13-2パキスタン1975年10月13日1970年代統一民主戦線中央行動委員会は補欠選挙のボイコットを決定した。
DIA-304-1975-10-13-3パキスタン1975年10月13日1970年代カラチ西部に刑事訴訟法第144項施行。
DIA-304-1975-10-14-1パキスタン1975年10月14日1970年代週刊誌「ライロ・ナハール」1年間の発行禁止。
DIA-304-1975-10-15-1パキスタン1975年10月15日1970年代パ・ルーマニア両国は,経済関係の強化とパキスタン側の乳製品,綿織物,缶詰,製粉,冷凍工場,穀物サイロの建設に相互協力の可能性を指摘した議定書に調印した。
DIA-304-1975-10-15-2パキスタン1975年10月15日1970年代仏,1億5000万フラン(1975/76年度)の援助協定に調印。
DIA-304-1975-10-16-1パキスタン1975年10月16日1970年代鄭準基北朝鮮副総理,4日間の公式訪パ。ブット首相,チョウダリー大統領と会談。
DIA-304-1975-10-18-1パキスタン1975年10月18日1970年代ティッカー・カーン陸軍参謀長はパ士官学校卒業式当日の観閲式で演説し,国の領土保全を外国の侵略と国内の破壊活動から護るうえで軍の役割は大きいとのべた。
DIA-304-1975-10-18-2パキスタン1975年10月18日1970年代ラホール高裁は,国民議会議員1人,州議員1人に逮捕前保釈承認を与えた。
DIA-304-1975-10-19-1パキスタン1975年10月19日1970年代ブット首相,フランス,ルーマニアの公式訪問に出発。
DIA-304-1975-10-19-2パキスタン1975年10月19日1970年代3補欠選挙でパ人民党勝利―国民議会議員補欠選挙(カラチ7区)でヌールル・アールフィーンが有力対立候補ハニーフ・タイヤブ(パ神学者協会)を破り,カイバル特別区でグル・ムハムマド・カーンが当選。パンジャーブ州議員ラホール6区補欠選挙ではシェール・ムハムマド・バッティーが無所層のG.M.カール前州知事を破って当選。
DIA-304-1975-10-20-1パキスタン1975年10月20日1970年代ブット首相,仏首脳との会談を開始。
DIA-304-1975-10-20-2パキスタン1975年10月20日1970年代カラチで国会議員補欠選挙の投票数,再審査。不正行為があったとの野党批判によるもの。
DIA-304-1975-10-20-3パキスタン1975年10月20日1970年代G・M.カール前パンジャーブ州知事とH.ラーメイ前同州首相(上院議員)は共同記者会見を行ない,4項目の政府反対の闘争方針(①パをイスラム共和国とする;②全構成単位が自治を行なう連邦制;③経済の原則は「各人は能力に応じて働き,仕事に応じて受取る」とする;④すべての市民が基本的人権を有する社会)を発表した。
DIA-304-1975-10-22-1パキスタン1975年10月22日1970年代パ・仏共同コミュニケ―ブット首相とジスカールデスタン大統領,シラク首相との会談後,南アジア諸国の関係正常化,中東紛争の解決,南北問題などの国際情勢と両国関係の強化をうたった共同コミュニケを発表した。
DIA-304-1975-10-22-2パキスタン1975年10月22日1970年代ブット首相,ルーマニア訪問。
DIA-304-1975-10-22-3パキスタン1975年10月22日1970年代1975/76年度の経済見通し―M・ハニーフ蔵相はテレビ放送で,今年度のGNP成長率は7~9%を達成できよう,小麦生産は800~840万トン,綿花350~360万梱,綿糸9億4000万ポンド,砂糖62万5000トン,ギー30万トンで,物価上昇は鈍化しつつあり,全般的に経済情勢は満足すべきものであると語った。
DIA-304-1975-10-22-4パキスタン1975年10月22日1970年代統一民主戦線中央行動委員会は,国民議会・州議会の審議ボイコットを中止すると決定した。またラホール補欠選挙に際しての不法行為と選挙前の政党活動家の逮捕をはげしく非難し,逮捕者全員の釈放を政府に要求した。
DIA-304-1975-10-23-1パキスタン1975年10月23日1970年代パ,国連安保理事会の1976/77年非常任理事国に選出。有力対立候補インドの辞退で決ったもの。
DIA-304-1975-10-24-1パキスタン1975年10月24日1970年代パ・ルーマニア首脳会談―ブット・チャウシェスク会談の結果,両国は科学技術協力,経済協力・貿易,国際旅客貨物輸送・観光協力に関する協定と,両国関係強化の共同コミュニケに調印した。
DIA-304-1975-10-24-2パキスタン1975年10月24日1970年代統一民主戦線ムフティー・マフムード議長代行は記者会見で,議会審議拒否は中止したが政府に対する院内外での抵抗は強化する,補欠選挙ボイコット決議を無視したパ神学者協会とも戦線内で連帯する,カール・ラーメイ4項目政策を認めパ人民党脱退者とも協力すると語った。
DIA-304-1975-10-25-1パキスタン1975年10月25日1970年代パ・中国,バーター協定に調印。
DIA-304-1975-10-25-2パキスタン1975年10月25日1970年代教育省は初等教育普及のためイスラム教寺院,宗教施設,木蔭に初等学校を開設し,教員のみでなく教員養成大学学生や公務員,半官半民団体職員をも動員して普及運動を推進する新方式を勧告した。
DIA-304-1975-10-28-1パキスタン1975年10月28日1970年代ラホール高裁はパンジャーブ州政府に対して週刊誌「ライロ・ナハール」発行禁止命令の執行停止を命じた。
DIA-304-1975-10-29-1パキスタン1975年10月29日1970年代国民議会,冬季開会。ボイコット中止の野党は8ヵ月半ぶりに出席した。
DIA-304-1975-10-29-2パキスタン1975年10月29日1970年代パ商工会議所連盟主催の初の労使2者労働会議が開催された。
DIA-304-1975-10-30-1パキスタン1975年10月30日1970年代最高裁,NAP禁止を支持―最高裁は,NAPとその指導者の活動は国境州・バルーチスターン州の民族自決権を口実として究極的には両州の分離を目指したものであり,憲法および国内の法秩序・民主制度の破壊を主張するなど,パキスタンの存権,主権,領土保全を侵害する方法で行なわれていたとして,1975年2月10日政党法にもとづく政府のNAP禁止措置を支持する判決を下した。
DIA-304-1975-10-31-1パキスタン1975年10月31日1970年代ブット首相,ラジオ・テレビで演説―ブット首相は,とくに最高裁のNAP判決に言及して「重要かつ歴史的な判決」と称え,国の敵(NAP指導者)を除く他の者には政治的解決の道が残されている,対アフガニスタン関係改善のためいつでも対話・交渉の用意はあるが内政干渉は許されない,と語った。また野党の統一・民主戦線のNAP協力と議会ボイコットを批判,州自治問題は憲法で解決ずみである,次期総選挙は予定どおり行なうと言明した。
DIA-304-1975-10-31-2パキスタン1975年10月31日1970年代G.M.カール,M.H.ラーメイは同派の国民議会議員4人,上院議員1人,パンジャーブ州議員約25人とともにパ・ムスリム連盟に入党した。
DIA-304-1975-11-01-1パキスタン1975年11月01日1970年代ヨルダン皇太子,訪パ―国王代理として公式訪問したもので,ブット首相と2回に亘って会見(~6日),経済協力覚書に調印(5日),共同声明発表(6日)。
DIA-304-1975-11-02-1パキスタン1975年11月02日1970年代全国民主運動(NDM)結成―前パ人民党系シンド州知事Bax kham Talpurが組織したもので,州自治,政治犯釈放,労働者・農民の搾取廃止を要求。
DIA-304-1975-11-06-1パキスタン1975年11月06日1970年代全国民主党結成(NDP)―S.Mazariを中心に旧NAP指導者を含めた政党。
DIA-304-1975-11-07-1パキスタン1975年11月07日1970年代パ外務省スポークスマンは「パキスタンはミラージュ戦闘爆撃機を建設する計画で10億ドル以上の資金を投下する予定」とのインド紙報道に反論,全く根拠なしとのべた。
DIA-304-1975-11-10-1パキスタン1975年11月10日1970年代小規模土地所有者の地租免除―ブット首相はラジオ・TVでの全国放送で,長い間抑圧されてきた農民たちの負担を軽減するため,小規模土地所有者に対する地租,地方税・開発税などを免除する,と発表した。 主な内容は以下の通り。 (1)灌漑地12エーカー,非灌漑地25エーカー以下の小規模土地所有者に対する地租・地方税などを免除する。 (2)これによる減収は大規模土地所有者の地租・地方税を増税して充当する。 (3)適用は1975/76のラビ作からとする。 (4)灌漑地12~25エーカー,非灌漑地25~50エーカーの土地所有者の地租等は現行通り。 (5)灌漑地25~50エーカー,非灌漑地50~100エーカーの土地所有者の地租等は50%増額する。 (6)同50エーカー以上,100エーカー以上の大土地所有者のそれは100%増額する。 (7)非灌漑地2エーカーは灌漑地1エーカーとして算定する。 (8)所有地確定は11月10日現在のものとする。 (9)この措置により土地所有者の85%以上が負担を減免されている。長い間虐げられてきた農民大衆の利益のための歴史的決定である。
DIA-304-1975-11-11-1パキスタン1975年11月11日1970年代第4次憲法改正法案,国会提出―改正法案の主内容は①高等裁判所の権限(憲法119条)の範囲を明確化する。②国会・州議会への少数民族代表者数の増加,③国会・州議会の会期を画定するなど。
DIA-304-1975-11-14-1パキスタン1975年11月14日1970年代第4次憲法改正法案,国会通過―野党議員は反対してボイコットしたため与党議員の単独裁決で可決した(102票)。
DIA-304-1975-11-14-2パキスタン1975年11月14日1970年代高等裁判所弁護士会,第4次憲法改正に反対声明。
DIA-304-1975-11-18-1パキスタン1975年11月18日1970年代トルコ大統領F. koruturk,訪パ―5日間の公式訪問で,ブット首相と2回会談,経済・技術協力協定に調印(20日),共同声明発表(24日)。
DIA-304-1975-11-18-2パキスタン1975年11月18日1970年代野党,再び国会ボイコットを決定。
DIA-304-1975-11-20-1パキスタン1975年11月20日1970年代イラン国王がトルコ紙記者との会見で「RCDをイラク・アフガン・インドを加えて拡大する」よう提案したことについて,ブット首相は「現在必要なことはRCD事業を円滑化することであって,拡大することではない」と発言した。
DIA-304-1975-11-26-1パキスタン1975年11月26日1970年代全野党合同会議開く―政府の高姿勢に対抗して,全野党合同会議が開かれ,①野党の国会ボイコットをつづける,②与党といかなる政治的話合いもしない,③野党国会・州議会議員の総辞任を検討することが決められた。
DIA-304-1975-11-28-1パキスタン1975年11月28日1970年代トルコ国防相はアンカラで「トルコ・パキスタンの合弁で軍事工業を設立することに合意がなされた」とのべた。
DIA-304-1975-11-28-2パキスタン1975年11月28日1970年代0PECから6億2200万ドル―フィナンシャル・タイムズによれば,1973年から1975年半ばまでの2年半に,OPEC諸国がパキスタンに供与した援助(マルチ・バイ計)は6億2200万ドルになる。
DIA-304-1975-11-30-1パキスタン1975年11月30日1970年代ブット首相はChilghaziに鉄鋼製錬所を建設することを認可した。これは中国が技術・資金援助を与えることになっているもので,年生産能力は10~20万トンの鋼。
DIA-304-1975-11-30-2パキスタン1975年11月30日1970年代カラチ空港PIA事務所で爆破事件,2人負傷。
DIA-304-1975-12-02-1パキスタン1975年12月02日1970年代全野党委員長会議―全野党委員長及び野党系国会・州議会議員,上院議員など45人がラホールに集まった。会議は今後の方針について,①与党との対話拒否,②適当な時期に国会・州議会からすべての野党メンバーの辞任などを決めた。
DIA-304-1975-12-06-1パキスタン1975年12月06日1970年代ブット首相,激しい野党非難―ブット首相はサルゴダを訪問して演説,政府は野党との対話によって民主的解決を希望しているが,もし野党が対話を拒否し暴力による圧力をかけるならば,政府としても強い態度をとらざるをえない,とのべた。
DIA-304-1975-12-09-1パキスタン1975年12月09日1970年代パ政府スポークスマンはカーブル放送(プシュト語)が内政干渉を行なったとして遺憾の意を表明した。カーブル放送は「パキスタンは内戦の淵にある。野党は独裁政権との闘いをあきらめるか,あるいは反対運動に立上るかの岐路にある」として野党の活動を鼓舞した。
DIA-304-1975-12-10-1パキスタン1975年12月10日1970年代ブット首相,スリランカ公式訪問(~19日)―ブット首相はスリランカ国会で演説,「南アジアの平和と安定は,平和共存・主権平等・紛争の平和解決の原則の上にのみ可能である。我々は覇権主義・大国支配を拒否する」と発言した。ブット首相は2回に亘ってバンダラナイケ首相と会談,共同声明を発表した(19日)。
DIA-304-1975-12-20-1パキスタン1975年12月20日1970年代人民党政府成立4周年記念―ブット首相は4周年を記念して演説,要旨次のようにのべた。 (1)野党に対し話合いの窓は常に開いていることを再表明する。 (2)外交政策は試練に打ち勝ち最も安定した局面にある。 (3)法の改正:刑事訴訟法を改正して裁判のスピードアップと費用低下をもたらし,民事訴訟法も改正する予定。 (4)労働者に対しては老齢年金の支給,労働者住宅地供給,労働組合育成,労働法上の裁判の促進などを行なう。 (5)国防軍についてはJoint Chies of Staffの議長のポストを新設して国防軍の統合システムを作り,兵士の住宅その他設備の完備を行なう。 (6)パ経済については公共投資が1975/76には137億ルピーに達する(1971/72は26億ルピー)。1人当り所得も増加している。食糧事情も大幅に改善した。
DIA-304-1975-12-21-1パキスタン1975年12月21日1970年代Law Reforms Ordinance 1972,改正―大統領はLaw Reforms Ordinance(Amendment)1975を発表した。
DIA-304-1975-12-22-1パキスタン1975年12月22日1970年代シアヌーク元首,訪パ―カンボジア・シアヌーク元首はブット首相の招きでパキスタンを公式訪問し,北京へ出発した(26日)。共同声明発表(26日)。
DIA-304-1975-12-23-1パキスタン1975年12月23日1970年代雇用者老齢年金法,労働法(改正)発布―ブット首相の発表に従い,大統領は二つの法令を発布した。老齢年金法は「10人以上の企業で15年以上働いた労働者で,月給1000ルピーまでのものは月75ルピーの年金を支払う」ことを基本としたもの。労働法(改正)は,労働組合の認可制限,団体交渉の権限強化などを定めたもの。
DIA-304-1975-12-26-1パキスタン1975年12月26日1970年代政党法改正―政党法により解散させられた政党の党役員は5年間,国会・州議会議員の資格を失う,という項目を捜入するもので,現職議員の資格をAct of Parliamentによって失わせることができるようになったのは第4次憲法改正によってである。以前は現職議員の資格はく奪はできなかった。この法改正により資格を失った議員の議席は補欠選挙で補う。
DIA-304-1975-12-28-1パキスタン1975年12月28日1970年代カラチ8区で州議員補欠選挙―パ人民党侯補者P・Allanaが圧勝,7万人選挙人のうち3万2000票を確保した。投票率は約60%。JUP系の候補者は4000票。
DIA-304-1975-12-29-1パキスタン1975年12月29日1970年代刑法改正―大統領は刑法の改正を行ない,国家の安全・統一・主権を犯す反逆罪は特別法廷を設置してそこで裁判をすることに決めた。特別法廷の判事3人は最高等裁判所判事でうち1人は政府が任命する。この特別法廷の判決に合意できないものは30日以内に最高裁判所に訴えることができる。
DIA-304-1975-12-30-1パキスタン1975年12月30日1970年代パ・ADBと7500万ドルの援助協定。肥料工場設立に利用される。
DIA-304-1975-12-31-1パキスタン1975年12月31日1970年代バルーチスターン,連邦政府支配に―連邦政府はバルーチスターンの情勢を検討した結果,州政府を解任し,連邦政府の直接統治にすることを発表した。行政は州知事と5人の顧問(Jam G.Q. Khan,G. BuxRaisani,Md. K. Barozai,S.K. Paracha,M.T.S. Jogezai)によって執行される。連邦政府統治にする理由として政府は,「州政府は行政面で十分な働きをすることができなかったし中央政府が開発のために配分した資金を十分利用して地域住民の生活向上に役立てることができなかった」とのべ,州知事の要請もあったことをつけ加えた。
DIA-304-1975-12-31-2パキスタン1975年12月31日1970年代海軍総司令官Mohammed Shariff中将が大将に昇格,空軍総司令官Zulfiqar Ali Khan中将が大将に昇格した。
DIA-304-1976-01-01-1パキスタン1976年01月01日1970年代P.アラーナ,スィンド州政府閣僚に就任。
DIA-304-1976-01-02-1パキスタン1976年01月02日1970年代ザヒールッディーン駐パ・バングラデシュ(以下,バングラ)大使,エラーヒ-大統領に信任状提出。
DIA-304-1976-01-04-1パキスタン1976年01月04日1970年代インド,カッチ湿原沖でパ漁船を掌捕。
DIA-304-1976-01-04-2パキスタン1976年01月04日1970年代マクガバン米上院議員来訪(~7日)―同議員は5日,“パのように重要な国は妥当な軍備を有するべきだ,と語った。6日,「ブット首相は“十分な軍備は所有したいが,インドおよびアフガニスタンとの関係改善を望む”と私に語り,首相は特に南アジアと近東については多くを語った」と述べた。
DIA-304-1976-01-05-1パキスタン1976年01月05日1970年代パ人民党(PPP)書記長,記者会見―ムバッシル・ハッサン書記長は,“①準備中の新綱領では新たに諸改革が導入される。②生産向上面で政府に協力せぬ民間企業家たちはこの国を信頼していないのだ。もし彼らが積極的役割を果たせば生存のチャンスがあろう。③新綱領は搾取階級に対し更に確実な打撃を与えるものとなろう”等と語り,実業界の非難を浴びた。
DIA-304-1976-01-10-1パキスタン1976年01月10日1970年代移民令―エラーヒ-大統領は1922年移民法に代る76年移民令を公布。主に専門職・技術職者の流出を規制するもの。
DIA-304-1976-01-11-1パキスタン1976年01月11日1970年代インド貿易代表団来訪―75年4月のパ代表団訪印に続くもの。14日,貿易協定調印。
DIA-304-1976-01-16-1パキスタン1976年01月16日1970年代クールシード駐バングラ・パ大使正式着任。
DIA-304-1976-01-16-2パキスタン1976年01月16日1970年代チャバン・インド外相は上院で,“パがこの数ヵ月反印キャンペーンを行っており,残念ながらパとの外交関係回復の段階には至っていない”と述べた。
DIA-304-1976-01-18-1パキスタン1976年01月18日1970年代土地上納改革スケジュール発表。
DIA-304-1976-01-19-1パキスタン1976年01月19日1970年代次期収穫綿花輸出無期限停止―昨年の375万ベールに対し,本年は推定280万ベールの収穫のため。
DIA-304-1976-01-20-1パキスタン1976年01月20日1970年代新聞労組連合(CNWU),カラチで結成―パ連邦ジャーナリスト組合,同組合関係諸労組,非ジャーナリスト報道関係者26組合が2年半に及ぶ協議の末に結成。報道の自由を要求。
DIA-304-1976-01-20-2パキスタン1976年01月20日1970年代イスラーム結社(JI)中央活動者委,改正前の現憲法原型回復,報道管制撤廃,政治問題解決手段としての武力行使停止等を要求。
DIA-304-1976-01-21-1パキスタン1976年01月21日1970年代民間防衛―民間防衛パンジャープ州指揮官サヤール陸軍中佐は,全国で来年5月から9~10学年(14~15歳)で民間防衛が必須教課になると明らかにした。
DIA-304-1976-01-21-2パキスタン1976年01月21日1970年代ラホールでインダス水利問題印パ会談(~22日)。
DIA-304-1976-01-22-1パキスタン1976年01月22日1970年代PPPハイデラーバ-ド県(District)大会(~24日)―プット委員長演説。①憲法採択は現政権の一大業績で空前の州自治を保証するものだ。②野党は州自治と州利己主義を混同するな。③パが亜大陸最強国になる日は遠くない。
DIA-304-1976-01-23-1パキスタン1976年01月23日1970年代政府,ヤヒア・カーン前大統領の拘留期間をさらに3ヵ月延長。
DIA-304-1976-01-23-2パキスタン1976年01月23日1970年代サンマ・パンジャーブ州議会議員,暗殺。
DIA-304-1976-01-23-3パキスタン1976年01月23日1970年代ガボール労動担当国務相演説―同相は全パ織物工場協会で,“パ労働者が海外出稼ぎを望むのは労働条件の相違による。パの使用者は低賃金で利益をあげず,研究と経営改善で品質向上を図るべきだ”と述べた。一方,同協会のダーダボーイ理事長は次のように演説。①政府の労組結成制限は正しい。②ボーナス委と国民生産性評議会の設置は改革の優れた面だ。また,賃金と生産を結びつけることは品質向上につながる。③労働状況は全体としては良いが,個々の工場では満足できない。
DIA-304-1976-01-24-1パキスタン1976年01月24日1970年代国営企業―ラザー生産相は産業経営委(BIM)について次のように明らかにした。①BIM傘下53企業は74年度に対前年比で生産22%,純売上69%,税前利益62%,輸出は2.4億ルピ-で38%,対政府納入税額は12.1億ルピーで140%,総雇用者数5.4万人で22.4%,それぞれ増大した。②建設中のカラチ製鉄所の他に42企業の建設を検討中。
DIA-304-1976-01-25-1パキスタン1976年01月25日1970年代スターン世銀副総裁来訪―26日,カイサル首相特別経済補佐官に民間による経済参画の拡大を勧告。
DIA-304-1976-01-26-1パキスタン1976年01月26日1970年代PPPサッカル県大会(~27日)―38人の演説には経済問題と行政への不満が多かった。27日ブット委員長は,“野党が反政府運動を試みれば24時間以内にたたきつぶされよう”と警告した。
DIA-304-1976-01-28-1パキスタン1976年01月28日1970年代ピールザーダ教育相,諸国歴訪―29日,チェコと初の文化協定調印。2月2日,ハンガリーと文化交換・科学協力協定調印。訪英後,2月16日帰国。
DIA-304-1976-01-29-1パキスタン1976年01月29日1970年代首相,言論の自由について一本日付“ニューヨーク・タイムズ”紙とのインタビューで,ブット首相は,“私は洗練されていない農民の精神を毒するほどの言論は行わせない。私がより多くの自由を与え得るためには経済開発がさらに進展せねばならない”と語った。
DIA-304-1976-01-29-2パキスタン1976年01月29日1970年代カラチ大の学生連盟(複数)とJIは,スィンド州各地で生じているといわれる,“スィンド万才学生(昔からのスィンド人の学生組織)”による“新参スィンド学生(移住スィンド人とその子弟)”への乱暴に関し,州政府に保護を要求した。
DIA-304-1976-01-29-3パキスタン1976年01月29日1970年代ラホールで第19回地域朗発脇力機構(RCD)閣僚会議が開かれ,各国代表あいさつでRCDが期待ほど機能してこなかったことが指摘された。30日,共同コミニニケ。同日トルコ代表が記者会見で,“RCDは4月の首脳会談で軍需品生産を討議する”と明らかにした。
DIA-304-1976-01-30-1パキスタン1976年01月30日1970年代パ各紙によると,18~30日に,全国各地で回教徒連盟(PML)パガーロー派党員,非合法民族人民党(NAP)員(以下,“非合法”は省略),自由カシミール解放連盟党全体等々が続々とPPPに入党した。
DIA-304-1976-01-30-2パキスタン1976年01月30日1970年代ムパッシルPPP書記長,入党者について―同書記長は,“PPP事務局はブット委員長もしくは党の地方指導層の許可なくPPPに入党した者たちの非行を報告するよう指示している。彼らは来たる総選挙のためにPPP公認が欲しくてもぐり込んだのだ”と語った。
DIA-304-1976-01-31-1パキスタン1976年01月31日1970年代政府発表によれば,1月中にバルーチスターン州ジャラーワンやマリ族地域で計100名以上のゲリラ戦士が政府軍に投降した。
DIA-304-1976-01-31-2パキスタン1976年01月31日1970年代1976年土地改革〈改正〉令,公布。
DIA-304-1976-02-01-1パキスタン1976年02月01日1970年代パンジヤ-ブ州内閣拡大-以下の3名が就任して計13名となった。R.S.アハマッド(地方自治体,社会福祉,住宅・厚生計画担当),A.ミンハース(牧畜,酩農,森林,野生生物担当),M.Y.カーン・ラシャーリー(食糧・農業協同組合担当)。
DIA-304-1976-02-02-1パキスタン1976年02月02日1970年代ナハヤーン・アラブ首長国連邦大統領,来訪。
DIA-304-1976-02-02-2パキスタン1976年02月02日1970年代アズィーズ外務・国防担当国務相,リピアへ―9日,第4次両国合同閣僚委会議終了に際し1億ドルの合弁持株会社設立を含む協定に調印。
DIA-304-1976-02-05-1パキスタン1976年02月05日1970年代内閣拡大改造―資料参照。
DIA-304-1976-02-05-2パキスタン1976年02月05日1970年代新州知事(29日就任)―ディラーワル・カーン・オプ・ジュナーガド(ズィンド州),ナスルッラー・カーン・バーバル元陸軍少将(北西辺境州)。
DIA-304-1976-02-05-3パキスタン1976年02月05日1970年代軍,人事(3月1日就任)―陸軍参謀長ティッカ・カーン大将は退役して閣僚扱い首相特別国防顧問に,M.シャリフ陸軍中将が統合参謀本部(新設)議長に,M.Z.ハック陸軍中将が陸軍参謀長に任命された。
DIA-304-1976-02-05-4パキスタン1976年02月05日1970年代移民令撤廃一政府によれば“在外パ人の反応に応じたもの”という。野党も激しく非難していた。
DIA-304-1976-02-05-5パキスタン1976年02月05日1970年代国民保険公社(NIC),業務開始―本部カラチ。73年7月設立の国民保険基金(NIF)に代るもの。
DIA-304-1976-02-06-1パキスタン1976年02月06日1970年代北西辺境州でPPP大会―6~12日にD.I.カーン,スワート,ペシャーワルで。14日ブット委員長はペシャーワルで演説,“NAP党員のうち愛国者のPPP入党を歓迎する”と語った。
DIA-304-1976-02-08-1パキスタン1976年02月08日1970年代暗殺―クエッタ近郊ガワールマンディ-のPPP支部長がNAPパクトゥ一ン派の者に射殺された。
DIA-304-1976-02-09-1パキスタン1976年02月09日1970年代首相,インド洋等について―ブット首相はペシャーワルでの朝日新聞との会見でスリランカ提案のインド洋平和地域化は実現困難だとし,“一超大国が制覇するより複数の国が進出した方が力の均衡を保ち得る”と語り,また,林彪事件以来中国は国防政策等の修正を迫られ,対パ援助にも限界があったと明らかにした。
DIA-304-1976-02-10-1パキスタン1976年02月10日1970年代クエッタ駅で列車爆破,4名死亡,7名負傷。
DIA-304-1976-02-16-1パキスタン1976年02月16日1970年代首相,外資歓迎―プット首相はイラン報道陣との会見で,“外資を歓迎し,外資国有化はしない。アフガニスタンとの対話の用意は常にある”等と語った。
DIA-304-1976-02-16-2パキスタン1976年02月16日1970年代中国軍事友好使節団,来訪(~28日)。
DIA-304-1976-02-17-1パキスタン1976年02月17日1970年代北西辺境州内閣拡大―M.アリー・カーン(PPP)が農相に就任し,計7名となった。
DIA-304-1976-02-17-2パキスタン1976年02月17日1970年代パ側カシミール第5次5カ年計画発表―計15億ルピーで運輸・通信を優先。
DIA-304-1976-02-18-1パキスタン1976年02月18日1970年代1976年外国民間投資〈振興および保護〉令―エラー牛,一大統領が公布。外資を含む企業の国有化に際しては外資による十分な補償を行うとし,利養送金等についても保障している。
DIA-304-1976-02-18-2パキスタン1976年02月18日1970年代首相,諸国歴訪―18~20日,西独のシュミット首相シェール大統領等と貿易等の経済問題や国際政治を討議。20日,対パ9000万マルク援助協定調印。20日,スウェーデンへ。パ首相の同国訪問は初めて。23日,トルドー首相と会談のためカナダへ。24日,二重課税防止協定,投資保障協定,500kV送電線建設で500万ドル借款協定調印。25日共同声明。26日訪米,キッシンジャー米国務長官と南アジア問題等を討議。27日,ワルトハイム国連事務総長と会談,同日ベニス立寄り,28日帰国。
DIA-304-1976-02-19-1パキスタン1976年02月19日1970年代K.カイルッディーンPML副委員長,逮捕―同副委員長はベンガル人。3月15日,国外追放。
DIA-304-1976-02-19-2パキスタン1976年02月19日1970年代人民日報論文―19日付人民日報は“インドの覇権コース”,“パとバングラ関係の喜ばしい発展”という2論文を掲載。前者は,インドのファラ:ンカ堰建設はバングラに洪水をもたらすとし,インドはインドを基地とする反バングラ武装反徒の活動を放任していると非難。後者は最近のパ・バングラ関係進展を“快挙”とし,南アジア情勢正常化への“積極的貢献”としている。
DIA-304-1976-02-22-1パキスタン1976年02月22日1970年代G.W.カーン・メヘスードNAP中央執行委員が亡命先のアフガニスタンから帰国,,政府に投降。
DIA-304-1976-02-23-1パキスタン1976年02月23日1970年代政府,アンゴラ人民共和国を承認。
DIA-304-1976-02-24-1パキスタン1976年02月24日1970年代綿花輸出日標減額修正―政府は不作のため綿花輸出目標額を1.42億ドル(前年実績1.83億ドル)から1億ドルに引き下げたと発表した。
DIA-304-1976-02-26-1パキスタン1976年02月26日1970年代バルーチスターン州夫統領直轄令(75年12月31日),2ヵ月延長―両院合同会議で。野党退席。
DIA-304-1976-02-29-1パキスタン1976年02月29日1970年代M.I.カーン・ジャドゥーン北西辺境州歳入相がPPPに入党。その他,2月中に同州でファリーシュケール族数千名,PML党員300名等がPPP入党。
DIA-304-1976-03-01-1パキスタン1976年03月01日1970年代インド国防相,パに警告―ラール国防相はソーネーパットの大衆集会で,“パは気狂い地味た軍備増強をしている。対印侵略があれば1971年(印パ戦争のこと)が繰り返されよう”と警告した。
DIA-304-1976-03-01-2パキスタン1976年03月01日1970年代バングラとの電信開始。4日,航空便も開始。
DIA-304-1976-03-02-1パキスタン1976年03月02日1970年代北西辺境州政府人事―財政,森林はカッターク首相兼務だったが,それぞれM.I.カーン・ジャドゥーン歳入相,A.R.カーン工業・食糧・農業相の担当となった。なお,ジャドゥーンは上級大臣となった。
DIA-304-1976-03-02-2パキスタン1976年03月02日1970年代インドと外交の用意―アズィーズ外務・国防担当国務相は対印外交再開等を協議め用意があると発表。
DIA-304-1976-03-05-1パキスタン1976年03月05日1970年代教科書監修―教科,教科書,教育水準の政府監督を制定する法案が下院を通過した。
DIA-304-1976-03-05-2パキスタン1976年03月05日1970年代フィリュ-ピン・・ソ連副外相,来訪(~9日)。
DIA-304-1976-03-06-1パキスタン1976年03月06日1970年代ムクタール・ラーナー・パ革命戦線(PIM)書記長(元下院議員)ラーイヤルプルで逮捕。
DIA-304-1976-03-06-2パキスタン1976年03月06日1970年代米,農村開発援助を約東―USAID駐パ代表は政府に,様々の農村開発計画について1プロジェクト当り4~500万ドルの援助を行うと約束した。
DIA-304-1976-03-07-1パキスタン1976年03月07日1970年代バルーチスターン州のゲリラ指導者アーガー・スレーマンが部下16名と共に政府に投降した。
DIA-304-1976-03-07-2パキスタン1976年03月07日1970年代首相のアフガニスタン訪間を発表―政府はプント首相がダウード・アフガニスタン大統領の招待でアフガニスタンを公式訪問する予定であると発表した。
DIA-304-1976-03-07-3パキスタン1976年03月07日1970年代海軍参謀学院団長団,訪中―16日,北朝鮮へ。
DIA-304-1976-03-07-4パキスタン1976年03月07日1970年代パーレピー・イラン皇帝夫妻,来訪(~11日)―ブット政権登場後初の公式訪問。9~10日,ブット首相と会談。12日,共同声明。①両者はインド洋が平和地域たるべきこと,南アジアに非核武装地域を設置すべきとの点で意見一致を見た。②両者はペルシァ湾とインド洋の安全について協議。③ブット首相はイランとイラクの関係正常化と国王の中東における非核武装地域設置提案を歓迎。④両者は核平和利用で相互協力の必要を強調。
DIA-304-1976-03-10-1パキスタン1976年03月10日1970年代クエッタのレストランで爆弾破裂。8名逮捕。
DIA-304-1976-03-12-1パキスタン1976年03月12日1970年代チャバン・インド外相は上院で,“パが対印関係正常化に本当に関心があるか疑わしい”と語った。
DIA-304-1976-03-12-2パキスタン1976年03月12日1970年代エジプトの対印戦争協力暴露―エジプトの“アル・アハラーム”紙社説は,71年印パ戦争時エジプトが武器を満載したソ連機にエジプト経由でインドへ飛行する許可を与えたと明らかにした。パ外務省スポークスマンは18日,“アラブの大義を完全に支持する”とだけ語り,あとはコメントを控えた。通常は信頼し得る筋によると,4月15日,エジプト政府は上記社説を否定した。
DIA-304-1976-03-13-1パキスタン1976年03月13日1970年代ルーベン・ソ連最高会議民族会議議長等8名来訪(~21日)―パの招待。
DIA-304-1976-03-14-1パキスタン1976年03月14日1970年代NAPのM.Z.カーンがPPPに入党し,北西辺境州議会42議席中PPPは25議席となった。
DIA-304-1976-03-14-2パキスタン1976年03月14日1970年代EC代表団来訪(~19日)。16日,商業協力協定。
DIA-304-1976-03-16-1パキスタン1976年03月16日1970年代パンジャーブ州閣僚,1名増員―I.アハサーンが州閣僚に就任。
DIA-304-1976-03-16-2パキスタン1976年03月16日1970年代インドの対パ非難に反論―外務省スポークスマンは“パはバングラの親パ分子に内密に武器を送付した”とのガンジー・インド首相の最近の発言を“全く根拠がない”と否定,12日のチャバン発言に対しては,“外交関係回復等について話し合う用意がある”と語った。
DIA-304-1976-03-16-3パキスタン1976年03月16日1970年代パ,インド漁船8隻を盒捕。
DIA-304-1976-03-16-4パキスタン1976年03月16日1970年代日本政府経済使節団,来訪(~22日)。
DIA-304-1976-03-17-1パキスタン1976年03月17日1970年代法改正―州知事補佐官就任者が国会・州議会の議席ないし被選挙権を失わないようにする法案と刑赦免撤廃法案が下院を通過した。
DIA-304-1976-03-17-2パキスタン1976年03月17日1970年代JIのM.A.ファールーキーは70年選挙での得票再検の結果75年5月に下院議席を失ったが,選管委による再度の検討の結果改めて議席を獲得し,パ神学者協会(JUP)のM.S.オカルヴィーが議席を失った。
DIA-304-1976-03-17-3パキスタン1976年03月17日1970年代仏と核燃料再処理工場建設協定に調印―パリで。 18日 ウィーンで,同工場に対する安全保障供与に関し国際原子力委を含めて3者協定に調印。
DIA-304-1976-03-20-1パキスタン1976年03月20日1970年代国家経済委はミアーンワーリー県チャシュマの600MW原子力発電所プロジェクトを承認した。
DIA-304-1976-03-20-2パキスタン1976年03月20日1970年代ブット首相はイランの“ケイハーン,紙とのインタビューでRCDは他の近隣諸国をも含むべきだと主張。
DIA-304-1976-03-22-1パキスタン1976年03月22日1970年代ムバッシルPPP書記長は全パ会計士大会で,“資本家等の支配階級が社会改革を内部から阻止するためにPPPに入党しつつある”と演説した。
DIA-304-1976-03-22-2パキスタン1976年03月22日1970年代原子カプラント―M.A.カーン原子力委員長は記者会見で,“エネルギー需要充足のため今後24年間で24の原子力プラントが建設される”と明らかにした。
DIA-304-1976-03-24-1パキスタン1976年03月24日1970年代5名の陸軍少将が全員中将に昇格。
DIA-304-1976-03-24-2パキスタン1976年03月24日1970年代国民民主党(NDP)スィンド州支部委員長等,スィンド州各地で地方指導者が中央と対立して脱党。
DIA-304-1976-03-24-3パキスタン1976年03月24日1970年代値上げ―セメント,トン当り60ルピー値上げ。ガス料金25%引上げ。25日,鉄道旅客運賃20%,貨物15%引上げ。26日,電気料金20%引上げ。
DIA-304-1976-03-27-1パキスタン1976年03月27日1970年代バルーチスターン州知事,補佐官の担当割当て―M.A.Y.カーン知事(一般行政,州内務,部族問題,歳入,情報担当を兼務),J.M.G.Q.カーン(財政,税務,灌洩,電力,食糧,農業),S.G.B.ライサーニー(教育,計画,開発),S.カーン・パラーチャ(工業,地方自治体,交通・通信,公共事業),S.M.カーン・バローザーイ(法,議会,労働,運輸,観光),N.T.S.ジョーゲザーイ(保健,社会福祉,宗教,統計調査,社会救済)。
DIA-304-1976-03-27-2パキスタン1976年03月27日1970年代カイム工業相は全パ織物工場協会の晩さん会で一時解雇を非難,生産向上を訴えた。
DIA-304-1976-03-27-3パキスタン1976年03月27日1970年代首相,対印書簡―ブット首相はガンジー・インド首相あて27日付書簡で,国際民間航空機構で係争中の訴訟を取り下げる用意があると伝えた。
DIA-304-1976-03-28-1パキスタン1976年03月28日1970年代バルーチスターン州でPPP大会―28日プット委員長はスィビー省(Division)大会で演説,“民衆がサルダール(封建的地主)に反対できなかった時代は終った”と述べた。31日,クズダ-ルでカラート省大会開始。4月1日,大会の席上M.F.ムハマッド・メーンガル等の指導者4名を含む13名のゲリラが投降,プット首相と会見。4月3日,クエッタ省大会。
DIA-304-1976-03-28-2パキスタン1976年03月28日1970年代下院非回教徒議席選挙でPPP全6名無競争当選。
DIA-304-1976-03-28-3パキスタン1976年03月28日1970年代文官学院代表団,訪中(~4月12日)。
DIA-304-1976-03-29-1パキスタン1976年03月29日1970年代ラメーMLC組織委員長(前パンジャーブ州首相),逮捕。
DIA-304-1976-03-30-1パキスタン1976年03月30日1970年代3月もTI,PML,JUP,NAP等の政党地方指 導者を含む党員多数,北西辺境州とバルーチスターン州の諸部族,全パ退官政府公務員協会,初代首相の実子等等,PPP入党者が相次いだ。
DIA-304-1976-04-01-1パキスタン1976年04月01日1970年代パ国際航空(PIA),国内運賃25%引上げ。
DIA-304-1976-04-02-1パキスタン1976年04月02日1970年代労働法改正―下院は,65年パ雇用者社会保障令適用範囲を月収500ルピー以下の者から1000ルピー以下の者とし,また,合同経営委における労働者参加率を30%に引き上げるよう労働法を改正した。
DIA-304-1976-04-03-1パキスタン1976年04月03日1970年代マスカットでオマーン商業銀行開店。パ銀行国有化後初の外国との合弁銀行。
DIA-304-1976-04-04-1パキスタン1976年04月04日1970年代首相力シミ-ルについて―プット首相はエジプトの“アル・アフバール”紙とのインタビュ-で“①カシミール紛争について当面解決がなくてもよい。②私は,技術面と軍需品生産面での協力のため,パ,イラン,サウジアラビア,エジプトの回教圏主要4カ国で資金をプールすることを考えている”等と語った。
DIA-304-1976-04-05-1パキスタン1976年04月05日1970年代71年パ国防令改正案,下院通過―パ国防規則に基づいて特別法廷設置権限を州政府にも与えるもの。
DIA-304-1976-04-08-1パキスタン1976年04月08日1970年代全国でサルダール制廃止―エラーヒー大統領はサルダール(封建地主)制を廃止する律令を公布。これはサルダールの労働強制,逮捕,私的牢獄維持,貢物受納等の権限を剥奪するものであるが,政府は彼らに政府業務遂行を指示したり,“個人的奉仕報酬”を賦与することはできる。この日,ブット首相はクエッタの集会で演説,“数百年も続いたサルダールによる統治制度は部族制度の最悪の残存物であり,その廃止は現政権最大の改革だ。サルダール制にしがみつく者はアフガニスタンかインドへ行け”等と語った。
DIA-304-1976-04-12-1パキスタン1976年04月12日1970年代マリ族ゲリラ指導者ランギアーニ-,投降。
DIA-304-1976-04-13-1パキスタン1976年04月13日1970年代上院議員5名逮捕―NAP幹部であったM.H.ギルザーイ,S.H.シヤー,G.A.バロール。
DIA-304-1976-04-13-2パキスタン1976年04月13日1970年代上院,2法案可決―上院は,国家反逆罪審理のため特別法廷を設置する“1976年刑法改正〈特別法廷〉法案”と地方行政官の権限を強化する“1976年法改革〈改正〉法案”を可決した。
DIA-304-1976-04-15-1パキスタン1976年04月15日1970年代国家反逆罪裁判―13日逮捕の3上院議員を含み,ワーリー・カーン委員長(75年2月逮捕)以下43名のNAP幹部の国家反逆罪容疑の審理がハイデラーバードにおける特別法廷で開始された。
DIA-304-1976-04-15-2パキスタン1976年04月15日1970年代政府は農業振興のため,トラクター購入許可制の廃止,肥料値下げ,リント綿の政府買上価格39.5%引上げ等を決定。綿花作付前のこの種の決定は初めてのこと。
DIA-304-1976-04-15-3パキスタン1976年04月15日1970年代貿易代表団,中近東,ペルシア湾沿岸諸国45日間歴訪に出発(~5月31日)。
DIA-304-1976-04-16-1パキスタン1976年04月16日1970年代ミニッチ・ユーゴ外相,来訪(~18日)―18日,合同経済機構設立に合意等の共同声明。
DIA-304-1976-04-17-1パキスタン1976年04月17日1970年代マリ族ゲリラ指導者R.マザーラーニ-,投降。
DIA-304-1976-04-19-1パキスタン1976年04月19日1970年代インド提案の国交交渉を受諾―インド外務省は,ガンジー首相が4月11日付プット・パ首相あて書簡で国交回復のための会談を提案したことを明らかにした。同19日,パ政府はこの提案の受諾を発表した。
DIA-304-1976-04-20-1パキスタン1976年04月20日1970年代中国のアジア開銀(ADB)加盟を提案―ジャカルタでのADB年次総会でパ代表ハニーフ蔵相が提案したが,採決は次回に見送られた。
DIA-304-1976-04-20-2パキスタン1976年04月20日1970年代薜玉珊中国教育副部長,来訪(~5月6日)。
DIA-304-1976-04-21-1パキスタン1976年04月21日1970年代RCI,首脳会議,トルコのイズミ-ルで開催(~22日)―これに先立ち19~20日に外相会議開催。首脳会議は22日,3ヵ月以内に調印される“イズミール宣言”に基づいてRCD自由貿易地域を10年以内に設定すること,RCD投資・開発銀行設立等をうたった宣言を採択。なお,パ,トルコ,イラン3国による兵器産業も討議されたと見られるが宣言では触れられていない。
DIA-304-1976-04-22-1パキスタン1976年04月22日1970年代本日付“ワシントン・ポスト”紙は,米が対戦車ミサイル,ジープ等1億ドル相当の武器の対パ輸出を準備中であり,また,過去数週間,パ空軍代表団が米国で戦闘機を物色して回っていると報道した。
DIA-304-1976-04-23-1パキスタン1976年04月23日1970年代アズィーズ外務・国防担当国務相,サウジアラビア訪問(~29日)。
DIA-304-1976-04-25-1パキスタン1976年04月25日1970年代アユーブ・カーン元大統領の実子ゴウハル・カーンは反政府演説をしたため逮捕された。
DIA-304-1976-04-25-2パキスタン1976年04月25日1970年代アフガニスタンに援助―政府はダウード・アフガニスタン大統領の要請で同国に100万ドルの地震・洪水災害物資援助を開始した。
DIA-304-1976-04-26-1パキスタン1976年04月26日1970年代パルーチスタ-ン州の大統領直轄令,さらに2ヵ月延長―両院合同会議で。
DIA-304-1976-04-26-2パキスタン1976年04月26日1970年代ハニーフ蔵相は下院で,最近バルーチスターン州で新たに6県が制定されたことを明らかにした。
DIA-304-1976-04-28-1パキスタン1976年04月28日1970年代パ側カシミール初のPPP夫会(~29日)―29日ブット委員長はムザッファラーバードで,“①カシミール問題は解決するが性急なことはしない。②搾取に対する闘いで勝利するには宗教,ナショナリズム,イデオロギーの均衡を維持せねばならない”等と語った。
DIA-304-1976-04-28-2パキスタン1976年04月28日1970年代パルーチスターン州土地改革―同州土地委員会は72年土地改革の規定以上の土地を所有していたM.A.ブグティー,K.B.マリー,G.B.ビゼンジョ-の3部族長から計9万エーカーを没収した。
DIA-304-1976-04-28-3パキスタン1976年04月28日1970年代バングラ貿易代表団,来訪(~5月3日)―M.ラーマン商業次官以下4名。30日,一般貿易協定と最恵国待遇船舶航行再開合意覚書に調印。5月1日,相互に銀行を開設することで合意。
DIA-304-1976-04-28-4パキスタン1976年04月28日1970年代パリで対パ債権国会議(~29日)―同会議は76年度に対パ7億ドルの援助をすることを決定した。
DIA-304-1976-04-28-5パキスタン1976年04月28日1970年代今月のPPP入党者。北西辺境州:G.ファールーク国会議員(NAP,元中央政府閣僚,元東パ州知事,17日),M.A.ハキーム下院議員(JUI,28日),労農党とパ回教徒連盟カユーム派(QML)党員,部族員等。バルーチスターン州:M.H.B.ドゥムキー上院議員(無所属,7日),C.カーン・ドゥムキー州議員,S.K.ハヤート・パ回教徒連盟(PML)パガーロー派副委員長,NAPパクトゥーン派党員,部族長多数。カシミール:K.B.カーン・カシミ-ル教育相。スィンド州:A.ラヒーム夫人(社会福祉家),M.H.カーン(元州議員,PML),ピール・S.A.G.S.ジーラーニ(民間信仰教主),TI,JUI等党員。パンジャーブ州:M.G.ムルタザー・カル(TI,元PPP創立者の1人,18日,M.G.ムスタファ・カル元同州知事の実弟),ラホールの2商人組合,ラーイヤルプルのカハローン一族とダグラー一族,等。
DIA-304-1976-05-05-1パキスタン1976年05月05日1970年代NDP綱領発表―4月30日ペシャーワル大会で採択。①基本的人権保障,司法独立,抑圧的法律廃止。②国防,通貨,外交,運輸・通信を除く完全州自治。③文化,言語,地理,歴史背景に基づく州再編。④東パ崩壊調査委設立と責年の所在明確化。⑤非同盟外交。⑥封建主義,独占資本主義,帝国主義根絶,他6点。
DIA-304-1976-05-07-1パキスタン1976年05月07日1970年代政府,農村開発委を設置(委員長は首相)。
DIA-304-1976-05-08-1パキスタン1976年05月08日1970年代統一民主戦線(UDF),ラホ-ルで大会(~9日)―9日,ピール・パガーロー委員長とガッフール・アハマッド書記長を再選,共同宣言採択。
DIA-304-1976-05-10-1パキスタン1976年05月10日1970年代ギルギットでPPP北方地域大会(~11日)。
DIA-304-1976-05-11-1パキスタン1976年05月11日1970年代嫁取り金,制限―下院は,嫁取り金または花婿への贈与金品総額を5000ルピー,結婚式費用を2500ルピーに制限する法案を可決。非回教徒にも適用。
DIA-304-1976-05-12-1パキスタン1976年05月12日1970年代軍白書―政府は“高度国防体制”設立を告げる白書を発表。要旨以下。①1971年戦争時,3軍の有機的関連も総合的国防政策も欠如していた。海軍参謀長はたまたまラジオで開戦を知って驚いた。②現政府はこのため政権担当以来,国防生産庁設置,74年の海軍本部の首都への移転,最近の国防次官任命,海軍・空軍両参謀長の陸軍参謀長との同格化を行い,現在,空軍本部首都移転を検討中。③首相,内閣国防委,国防評議会,統合参謀本部等の責任をこの白書で明確化(詳細不明)。
DIA-304-1976-05-12-2パキスタン1976年05月12日1970年代回教諸国外相会議開催(~15日,トルコ)―13日アズィーズ外務・国防担当国務相は核の脅威を警告。14日,ズィアーウル・ラーマン・バングラ副戒厳司令官と会談。これは昨年のバングラ政変後初の両国高官会談。
DIA-304-1976-05-13-1パキスタン1976年05月13日1970年代首相,印パ会談について―ブット首相は遊説先のギルギットで軍人に演説,“パが尊敬するパの友人たちのうちの若干がインド首相の対パ関係改善の意向を伝えてきた。彼らがインドとの関係の発展を望むならパ政府もこれを望む”と語った。また,印パ会談インド代表団来訪を歓迎するとともに,“カシミール問題では譲 歩しない”と言明,さらに,“パの武器調達に対するインドの抗議は遺憾だ”と語った。
DIA-304-1976-05-14-1パキスタン1976年05月14日1970年代ブットPPP委員長,書記長に警告―ムバッシルPPP書記長は4月29日のブット発言(28日参照)を踏まえ,5月14日付“パ・タイムズ”紙に“ブットの革命的見地について”という社会主義礼讃論文を発表。これに対しブット委員長は14日ギルギットで,“私は自分の思想や見地を自分で明確に表現し得る。私の発言の歪曲は警告を招くことになる。革命とは期が熟した時に自ら到来するものであり,革命を毎日語る者によって演出され得るものではない”との声明を発表した。
DIA-304-1976-05-14-2パキスタン1976年05月14日1970年代印パ,国交再開で合意―12日からイスラーマバード(以下,イスラマと省略)で開かれていた両国外務次官会談は14日,国交回復で合意,要旨以下の共同声明を発表。①双方は国際民間航空機構での訴訟の相互撤回,相互領空飛行,航空機相互乗入れで合意。②双方はワガ,アッタリーの国境を越えての鉄道による貨物・乗客の輸送再開で合意。③両国相互向けの道路貨物輸送は国境までとし,積換えのための措置を講じる。④双方は大使交換に合意。⑤7月15日から民間貿易も許可。なお,共同記者会見で,14日の会談中,両次官が電話でそれぞれの首相と協議したこと,カシミール問題も協議したこと(共同声明では全く言及無し)等が明らかにされた。
DIA-304-1976-05-14-3パキスタン1976年05月14日1970年代インド,イラン共同コミュニケ―ホヘイタ・イラン首相とインドの共同コミュニケは,“ホベイダ首相は印パ会談に衷心から喜びを表明した”としている。
DIA-304-1976-05-14-4パキスタン1976年05月14日1970年代米,印パ共同声明を歓迎。ソ連のタス通信も“両国の賢明な指導者はインド亜大陸の歴史に新たな1ページを開いた”と最大級の歓迎を表した。
DIA-304-1976-05-15-1パキスタン1976年05月15日1970年代首相カラコラム道路視察―ブット首相はハザーラ県カイガーで中国人作業隊に演説,この道路は戦略的にも重要で両国の永遠の友好の証拠だと語った。
DIA-304-1976-05-15-2パキスタン1976年05月15日1970年代空港開発局と国民建設会社,サウジアラビアの空港建設(複数,計18億ルピ一)を共同受注。
DIA-304-1976-05-16-1パキスタン1976年05月16日1970年代ギルギットとスカールドゥーでテレックス開始。
DIA-304-1976-05-16-2パキスタン1976年05月16日1970年代16日付人民日報は,“印パ国交回復は南アジアと世界人民の歓迎を受けた”と述べ,“南アジア動揺の根源たるソ連の覇権主義の策動にもかかわらず南アジア人民の団結は進むだろう”と結んでいる。
DIA-304-1976-05-18-1パキスタン1976年05月18日1970年代米からミサイル購入―駐パ米大使館筋によれば,パは米から対戦車ミサイル等2800万ドル相当分を輸入する契約に調印した。
DIA-304-1976-05-20-1パキスタン1976年05月20日1970年代首相,北朝鮮訪問―20日香港でパ人社会に,カシミール問題でインドとの密約はないと言明。21日,金日成首相は歓迎宴でプット首相来訪は“両国関係発展で歴史的意義を有する”と述べた。ブット首相は“朝鮮統一は朝鮮人民生得の権利”と述べ,また,パの自主外交と覇権主義反対を強調。21~23日の3回の会談では両首相は協力関係促進等を協議。朝鮮中央通信は軍事担当者会談も23日行われたと報道。25日ブット首相は答礼宴で朝鮮統一協力を言明,また,第3世界首脳会議を開き,新経済秩序を協議すべきだと訴えた。28日,26日付で第3世界統一戦線形成を訴える共同コミニニケ発表。
DIA-304-1976-05-21-1パキスタン1976年05月21日1970年代ナワーブシャーの砂糖工場でスト,43名逮捕。
DIA-304-1976-05-25-1パキスタン1976年05月25日1970年代CENTO外相会議(ロンドン,~27日)―26日,キッシンジャ-米国務長官はパの近隣諸国との関係改善を歓迎,また,“米の対パ関心は不変”と言明。
DIA-304-1976-05-26-1パキスタン1976年05月26日1970年代首相,訪中―ブット首相は平壌から北京入り,華国鋒首相等と第1回会談。夜,歓迎宴で華首相はパの反帝・反覇権への“積極的貢献”を称讃,南アジア情勢は“帝国主義と覇権主義に不利に発展している”,と語り,パの最近の善隣外交,パの南アジア非核武装提案,スリランカのインド洋平和地域化構想,ネパールのネパール平和地域宣言提案を歓迎。ブット首相は反帝,反拡張主義,反覇権主義の立場を強調,また,AALA首脳会議開催を訴え,カシミールについては“中国の変らぬ支持に感謝する”と述べた。なお,本日の人民日報は一面トップでブット訪中歓迎社説を掲載。27日ブット首相は毛主席と会見,夜,華首相と第2回会談。28日,第3回会談。29日第4回会談,第3世界首脳会議構想を討議。夜,答礼宴でブット首相は“カシミール問題は65年印パ戦前の状態に戻し,民族自決原則で解決すべきだ”と主張。この時,駐中国インド代理大使退席。一方,華首相はカシミール問題でパ支持を表明したが,第3世界首脳会議には言及しなかった。30日,科学・技術協力協定と経済・技術協力議定書調印。ブット首相随員に統合参謀本部長と空軍参謀本部長が含まれているため軍事援助等も協議されたと見られ,軍事協力は内・
DIA-304-1976-05-27-1パキスタン1976年05月27日1970年代国民建設会社,ヨルダンの精油所建設受注。
DIA-304-1976-05-28-1パキスタン1976年05月28日1970年代A.B.カーン・タールプル(TI,下院議員)逮捕。
DIA-304-1976-05-29-1パキスタン1976年05月29日1970年代食油(ギー),国営化―政府は73年9月の“国有化”以来各州政府が経営してきた食油工場を,連邦経営委(委員長は工業相)を設置して中央政府経営に移した。また,パ食油公社,パ雑食油公社を設立。
DIA-304-1976-05-31-1パキスタン1976年05月31日1970年代“党路線決定は委員長のみ”―ニァーズィーPPP情報担当書記(宗教相)は有名人3名の入党歓迎会で,“党路線を決めるのはブット委員長のみで新参者や自称党指導者が党路線を超えて自己の政治哲学を党内に持ち込むのはもってのほかだ”と暗にムバッシル書記長を非難。なお,今月も各地で元NAP中央執行委員,JUI党員,労組員,カラチ弁護士協会,ラーワルピンディー商業会議所総裁,RCD商業会議所名誉終身総裁,メーモーンー族奉仕委員会事務局長等がPPP入党。
DIA-304-1976-06-01-1パキスタン1976年06月01日1970年代政府,非回教徒週間を開始。
DIA-304-1976-06-01-2パキスタン1976年06月01日1970年代バングラと航空協定,イスラマで調印。
DIA-304-1976-06-01-3パキスタン1976年06月01日1970年代イラクと文化・科学協力議定書,イスラマで調印。
DIA-304-1976-06-01-4パキスタン1976年06月01日1970年代ユーゴと教育・文化協力議定書,イスラマで調印。
DIA-304-1976-06-02-1パキスタン1976年06月02日1970年代下院は,牧畜農場と協同組合農場を土地改革適用範囲から免除する法案を採択した。
DIA-304-1976-06-02-2パキスタン1976年06月02日1970年代国務相担当変更―資料参照。
DIA-304-1976-06-04-1パキスタン1976年06月04日1970年代「76年度経済概況」発表(資料参照)。
DIA-304-1976-06-04-2パキスタン1976年06月04日1970年代西独経由でアフガニスタンとのテレックス開通。
DIA-304-1976-06-05-1パキスタン1976年06月05日1970年代パガーローUDF委員長はラホールで記者会見,“野党はPPPとは会談しない”と語った。
DIA-304-1976-06-05-2パキスタン1976年06月05日1970年代76年度予算案,下院に上程(資料参照)。
DIA-304-1976-06-05-3パキスタン1976年06月05日1970年代76年度年次開発計画下院に上程(資料参照)。
DIA-304-1976-06-07-1パキスタン1976年06月07日1970年代TI,選挙参加表明一アスガル・カーンTI委員長は記者会見で次のように述べた。①TIはJUPと連携して来たる総選挙に出馬。②他の諸野党は完全に混乱しているし,政府の取巻きにすぎない。③行政府はPPPの警察の機能を果たしており,連邦保安隊(FSF)はPPPの政治目的のために乱用されている。
DIA-304-1976-06-07-2パキスタン1976年06月07日1970年代首相,アフガニスタン訪問―7日,ダウード大統領と予定外会談。この日,アフガニスタン政府はプット訪問が4日から5日に延長されたと発表。8日第2回会談。10日第3,4回会談。夜,答礼宴でブット首相は,“両国民をできるだけ近づけるためにあらゆる努力をする”と語った。一方,ダウ-ド大統領はアフガニスタン政府と国民の対パ友好感情を確約し,“会談で互いの立場を理解し合えた”と語ったが,“両国間に常に存在してきた相違は1,2回の会談や訪問では解決し得ない”と述べた。11日第5回会談。同日,“双方は平和共存5原則に基づく相違解決で協議し,とりあえず敵対的宣伝の自己規制に合意しだ,との共同コミュニケ発表。同日ブット首相は帰国直後ペシャーワル空港で,アフガニスタンと相互の領土と主権の尊重で合意したことを強調し,“皆さんは(聴衆はほとんどパターン人)常に我々の国民で,ここは常に我々の領土である”と述べた。
DIA-304-1976-06-13-1パキスタン1976年06月13日1970年代ハザーラ省誕生―北西辺境州政府はブット首相の指示によりアボッターバード,マ-ンセヘラーコーヒスターン3県から成るハザーラ省制定を決定。
DIA-304-1976-06-14-1パキスタン1976年06月14日1970年代北西辺境州内閣拡大,一部改造―A.ジヤハーンギール・カーンとM.アクラム・カーンが入閣,同州閣僚は計9名となった。この2人は最近NAPからPPPに入党していたもの。15日,前者は法務・議会,保健,人口計画・社会福祉相,後者は運輸,小工業相に就 任,H.サイフッラー・カーン保健,人口計画・社会福祉相は公共事業,観光相に,州首相が兼任していた住宅,厚生計画相はA.ラーズィク・カーンが従来のポストと共に兼任することとなった。
DIA-304-1976-06-16-1パキスタン1976年06月16日1970年代NDP分裂―Sカーリド(元NAP幹部)はマザーリ-委員長のNDPを政府の取巻きだと非難,同党から脱退,同名の党を結成して委員長に就任。書記長はナワーズ・ブット。新NDPは社会主義を標榜。
DIA-304-1976-06-17-1パキスタン1976年06月17日1970年代マリー族指導者M.バングル・カーン・パーワディー・マリrクエッタ近郊コフルーで暗殺さる。
DIA-304-1976-06-17-2パキスタン1976年06月17日1970年代インドと民間航空路再開で合意(ニューデリー)。
DIA-304-1976-06-17-3パキスタン1976年06月17日1970年代駐イラン・アフガニスタン大使発言―同大使はパの通信社PPIとの会見で次のように語った。①イランは過去数年間,わが国とパの関係正常化に努力してきた。②わが国はパに対する領土的要求は持たない。③両国間の問題が国際機関によらず両国間で解決されることを望む。④イラン援助でわが国で建設予定の鉄道はパの鉄道とも連結すればパにも利用し得るようになろう。⑤わが国とパの間の航空路再開を望む。
DIA-304-1976-06-20-1パキスタン1976年06月20日1970年代NDPマザーリー派,PPPとの対決を終止―同党中央組織委決定。なお,マザーリー委員長は印パ正常化で政府の非常事態継続理由は消失したと述べた。
DIA-304-1976-06-20-2パキスタン1976年06月20日1970年代政府,黒人虐殺で南アフリカに抗議。
DIA-304-1976-06-21-1パキスタン1976年06月21日1970年代国家反逆罪裁判再開―今回からNAP幹部に加えてM.A.B.タールプル(下院議員),メーラージュ・M.カーン(元国務相)等8名が新たに審理の対象に含まれることとなった。
DIA-304-1976-06-21-2パキスタン1976年06月21日1970年代ボーイング汚職―先週,米の“ウォール・ストリート・ジャ-ナル”紙が,ボ-イング社が60年代の対PIA旅客機売込みの際,パ有力者にわいろを贈ったと暴露。21日,アズィーズ外務・国防担当国務相は上院で,この件に関する捜査を開始すると明らかにした。
DIA-304-1976-06-21-3パキスタン1976年06月21日1970年代全ジャムー・カシミール回教徒協議会イプラヒーム派,PPPカシミール支部と合併。
DIA-304-1976-06-22-1パキスタン1976年06月22日1970年代外資誘致で12ヵ国と協定―政府は外資誘致のため英,米,西独,仏,日,印,豪,スウェーデン,スイス,デンマーク,スリランカ,アイルランドと二重課税防止,資本移転等に関する協定を締結したことを明らかにした。なお,トルコ,イラン,ベルギー,ポーランド,マルタ,カナダとも交渉中。
DIA-304-1976-06-22-2パキスタン1976年06月22日1970年代フダー駐カラチ・バングラ貿易コミッショナー兼総領事,着任。
DIA-304-1976-06-23-1パキスタン1976年06月23日1970年代人口―政府は6月1日推定人口は7237万と発表。うち労働人口は都市部で550万,農村部1560万で労働人口は毎年60万強増加しているという。また,7月30日発表の政府統訪では就労率は人口の29.9%(都市26.5%,農村31.0%)。失業率4.6%(都市15%以上)。労働力の57.3%は農業,,生造部門12.5%,商業・貿易10%。
DIA-304-1976-06-24-1パキスタン1976年06月24日1970年代ウルドゥー語紙“ジャング”によると政府はヤヒア・カーン前大統領の拘留期間をさらに3ヵ月延長。
DIA-304-1976-06-24-2パキスタン1976年06月24日1970年代アブダビ軍事代表団来訪(~30日)。
DIA-304-1976-06-25-1パキスタン1976年06月25日1970年代A.カーリドNDP北西辺境支部委員長(下院議員),公共秩序維持令違反で逮捕。
DIA-304-1976-06-25-2パキスタン1976年06月25日1970年代下院非回教徒追加議席選挙PPP1名無競争当選。
DIA-304-1976-06-25-3パキスタン1976年06月25日1970年代カラチ大学で内ゲバーピストルで2名重傷。
DIA-304-1976-06-25-4パキスタン1976年06月25日1970年代首相演説―ブット首相は各省予算要求審議終了に際し下院で要旨以下の演説。①石油等探査に高い優先順位を与えたのは現政権が初めて。②土地改革による農業構造変革によって小麦は今にも自給できる所まで来た。本年の収穫予定は850万トンだ。③現政権は織物工業だけに力を入れずカラチ製鉄所計画等,工業の基礎拡大を図っている。④国防の最優先は我々の義務だ。
DIA-304-1976-06-25-5パキスタン1976年06月25日1970年代プット首相,ベトナム統一に祝詞。
DIA-304-1976-06-28-1パキスタン1976年06月28日1970年代印パ鉄道運輸再開合意書,ニューデリーで調印。
DIA-304-1976-06-28-2パキスタン1976年06月28日1970年代政府,セーシエル共和国を承認。
DIA-304-1976-06-29-1パキスタン1976年06月29日1970年代特殊鋼初輸出―パ製鉄所公社はトルコ向けステンレス・スチール1700トンのうち25トンを発送。
DIA-304-1976-06-30-1パキスタン1976年06月30日1970年代バルーチスターン州議会復活―大統領直轄令(4月26日参照)の期限が切れ,州議会を復活する大統領命令が公布された。しかし,州首相以下の州政府閣僚は復活されず,州知事が全権を委任された。
DIA-304-1976-06-30-2パキスタン1976年06月30日1970年代新輸入政策発表―要旨以下。①自由リスト品目を389から407に増加。②近代化,取換え用の機械・設備の年間輸入限度額を44~100%増大。③冷房機,冷蔵庫,テープレコーダー,食器等の日用必需品を自由リストに移す。④トラクター,肥料,殺虫剤の輸入促進。
DIA-304-1976-06-30-3パキスタン1976年06月30日1970年代ニァーズィー宗教,在外邦人相は回教6ヵ国とケニアへ在外パ人の実情調査(2週間)のために出発。
DIA-304-1976-06-30-4パキスタン1976年06月30日1970年代今月もバルーチスターン州議会のM.カーン・バローザーイ議長(16日),NAP元中央執行委員,オワイスィー・パンジャーブ州議員,カルPML副委員長の出身地コート・アブー警察管区住民多数等々,全国各地で様様の社会層・政党の人々が続々PPPに入党した。
DIA-304-1976-07-01-1パキスタン1976年07月01日1970年代社会福祉計画発足一政府の農村改善計画と老齢年金等の社会福祉計画が発足した。
DIA-304-1976-07-01-2パキスタン1976年07月01日1970年代パンジャーブ州ヴェハーリー,カスール2県制定。
DIA-304-1976-07-01-3パキスタン1976年07月01日1970年代海外雇用公社設立―ガボール労働担当当国務相が13日に明らかにした。民間の海外就職斡旋は禁止されていない。
DIA-304-1976-07-02-1パキスタン1976年07月02日1970年代ブット首相,第13回OAU会議に対するメッセージでアフリカ諸国の反植民地主義闘争を支持。
DIA-304-1976-07-03-1パキスタン1976年07月03日1970年代カシミールへ通じるカガーン峡谷道路開通。
DIA-304-1976-07-03-2パキスタン1976年07月03日1970年代民間は中小産業のみ―アフザル商業相はラーイヤルプル商工会議所で“将来主要産業には公共部門が専念,民間は中小産業の設立しかできなくなる”と語った。
DIA-304-1976-07-04-1パキスタン1976年07月04日1970年代トゥート油田第3油井,採油開始―これで日産1400バレルが2200バレルに増加する。なお,76年度中に前年度の3.05億ルピーに対し4.54億ルピーが石油・ガス探査に用いられ,従来は公共部門による油井掘さくは年間1~2本であったが,今年度は8本の予定。
DIA-304-1976-07-05-1パキスタン1976年07月05日1970年代貿易代表団,バングラへ―13日,共同声明。
DIA-304-1976-07-06-1パキスタン1976年07月06日1970年代首相非公式イラン訪問―8日,ブット首相は帰国前の記者会見で次のように述べた。①インドのRCD加盟はカシミール間題解決が前提。アフガニスタンは加盟しないだろう。②スリランカのインド洋平和地域化構想は原則的には支持するが,インド洋での超大国の影響力はむしろ増大しよう。③米の対印核燃料供給はパには不安だが,パの対米関係には影響ない。
DIA-304-1976-07-07-1パキスタン1976年07月07日1970年代国家反逆罪裁判再開―被疑者は56名と発表された(4月15日,6月21日参照)。
DIA-304-1976-07-07-2パキスタン1976年07月07日1970年代スィンド州政府は,カラチ製鉄所所在地をブット首相の名にちなんで“ズルフィカーラーバード(ズルフィカールの町)”と名付けた。
DIA-304-1976-07-07-3パキスタン1976年07月07日1970年代バングラデシュ・ビマン航空1番機,カラチ着―インドが上空飛行を拒否したためドゥバイ経由。
DIA-304-1976-07-07-4パキスタン1976年07月07日1970年代アビジャンで開催中のECOSOC会議でパの第3世界首脳会議開催提案を非同盟諸国グループと他の若干の諸国が支持した。
DIA-304-1976-07-08-1パキスタン1976年07月08日1970年代ィンドネシアとの第8回経済・文化協力閣僚会議開催(カラチ,~10日)。10日,共同コミュニケ。
DIA-304-1976-07-09-1パキスタン1976年07月09日1970年代71年国防令改正令―エラーヒー大統領が公布。74年8月14日以降の特別法廷判決に対する上告権が与えられ,また,特別法廷で裁判中の者の保釈が禁じられた。現在,国家反逆罪裁判以外にハニーフ・ラメー,C.Z.エラーヒー,カークワーニー,ラージャー・ムナッワル等の政治犯の審理が特別法廷で行われている。
DIA-304-1976-07-11-1パキスタン1976年07月11日1970年代土地生産性単位評価額引上げ―ラシード農相はブット首相の命令によって土地生産性単位(農地面積を生産性の大小に換算して表わすための単位)の評価額を1単位40ルピーから60ルピーに引き上げると発表。これにより,土地所有者は従来より少い土地を担保にして従来と同額もしくは従来以上の金融を受けられる。
DIA-304-1976-07-15-1パキスタン1976年07月15日1970年代輸出リファイナンス制,大幅拡大―中央銀行は非伝統的商品をも含めた全般的輸出拡大のため,原綿,米,羊毛,原皮,ウェット・プルー皮(なめし工程中間製品)を除く全品目に拡大,77年6月までのリファイナンス枠として計8.81億ルピーを割り合てた。
DIA-304-1976-07-16-1パキスタン1976年07月16日1970年代選管委,選挙人名簿案を発表。
DIA-304-1976-07-16-2パキスタン1976年07月16日1970年代印パ航空脇定,イスラマで調印。
DIA-304-1976-07-17-1パキスタン1976年07月17日1970年代国有化一ブット首相は外国人所有企業を除くすべての綿繰り,精米,製粉の計2000工場の国有化を発表。所有と経営は綿繰り工場は綿花取引公社,製米は新設の精米公社,製粉は各州の製粉公社(バルーチスターン州は同州開発局)が行い,新設の農業管理省がこれらの公社および食油関係2公社(5月29日参照)を管理する。なおブット首相は全国放送で次のように述べた。①今回の国有化は綿花の退蔵,ヤミ販売,価格操作,小麦粉品質悪化を根絶し,あわせて農村経済から中間業者を排除するための措置だ。②これは工業の国有化ではない。国有化された工場は農業経済の不可欠部分だ。
DIA-304-1976-07-17-2パキスタン1976年07月17日1970年代内閣一部改造(資料参照)。
DIA-304-1976-07-20-1パキスタン1976年07月20日1970年代ガッフールUDF書記長,総選挙日程の速やかな決定と最低6ヵ月の準備期間を要求。
DIA-304-1976-07-20-2パキスタン1976年07月20日1970年代政府代表団,バングラ訪問(~23日)―シャーヒー外務次官以下3名。24日,共同声明。
DIA-304-1976-07-20-3パキスタン1976年07月20日1970年代パ,第5世界救済のための10項目提案―パはジュネーブでの第16回ECOSOC会議で,債務救済等,第3世界救済のための10項目計画を提案。
DIA-304-1976-07-21-1パキスタン1976年07月21日1970年代首相,パルーチスターン州遊説(~8月4日)―21日,トゥルバットで同州の速やかな開発と貧困者のための福祉を強調。22日,ウタールでラスベーラ県の国有地占有小作者に対する所有権賦与を発表。24日,デーラー・ブグティーで政府の石油探査努力を強調。25~8月3日,テンプル・デーラー,カラート,クズダール,クエッタ,ズィヤーラット,コホルー,ローラーラーイ,ピシーン,フォート・サンデマン(30日,これを“ゾーブ”と改名)を訪問。8月4日,カラチへ帰還。
DIA-304-1976-07-21-2パキスタン1976年07月21日1970年代印パ両大使,それぞれ着任―インド側は前オランダ大使,フセイン駐印パ大使は国防次官,大統領府事務次官等を歴任。なお,この日,印パ航空路再開。
DIA-304-1976-07-22-1パキスタン1976年07月22日1970年代印パ鉄道再開。
DIA-304-1976-07-23-1パキスタン1976年07月23日1970年代イスラマでリヒアと第5回合同閣僚委会議―25日,共同声明。
DIA-304-1976-07-25-1パキスタン1976年07月25日1970年代パート運河地域土地改革―ブット首相はテンプル・デーラーでバルーチスターン州パ-ト運河地域50万エーカーを小作人に無料で賦与すると発表。1人当り上限は16エーカー。(ナスィーラーバード県にあり,インダス川グッドゥー堰から灌洩用水を引いている地域。同州で最も肥沃。今世紀初頭来,所有権を巡る争いが絶えなかった。この地域での72年土地改革は今まで中途半端なままで進展していなかった。)
DIA-304-1976-07-27-1パキスタン1976年07月27日1970年代バングラ・ジュート代表団来訪(~8月1日)。
DIA-304-1976-07-28-1パキスタン1976年07月28日1970年代国防令,再度改正―特別法廷の判決を裁判所がくつがえすことは不可能となり,上告権賦与も撤回された(9日参照)。
DIA-304-1976-07-30-1パキスタン1976年07月30日1970年代スルターン・アリー農相はラーイヤルプルで,政府は今後農作物最低価格を播種前に決定すると発表。
DIA-304-1976-07-30-2パキスタン1976年07月30日1970年代米,パの核に圧カー7月30日付“FarEastem Economic Review”誌によると,フォード米大統領はプット首相へ最近の書簡で,フランス協力による核燃料再処理工場建設計画を放棄するよう勧告し,プット首相はこれに反対する書簡を出した。
DIA-304-1976-07-31-1パキスタン1976年07月31日1970年代今月のPPP入党者―PMLパガーロー派,TI等党員,S.Z.アリー・シャー・スィンド州議員(無所属),ハイデラーバ-ドのメーモーン一族,ラージプーターナ一族,ラホールの芸術家と俳優多数,北西辺境州商工会議所総裁,同州キリスト教徒1000家族,バルーチスターン州各地で諸部族長と成員。
DIA-304-1976-07-31-2パキスタン1976年07月31日1970年代中旬からの全国での豪雨と洪水はまだ続いている。
DIA-304-1976-08-01-1パキスタン1976年08月01日1970年代米パ首脳,衛星中継でメッセ-ジ交換―ブット首相は第3世界の技術不足と貧困に対する闘いを強調,フォード大統領はそれへの協力を約束した。
DIA-304-1976-08-03-1パキスタン1976年08月03日1970年代ブット首相は,インドに対する国内での貿易仲継施設供与はカシミール問題解決後だと述べた。
DIA-304-1976-08-03-2パキスタン1976年08月03日1970年代ジャトーイ・スィンド州首相,シャー州農相に代って農業も担当。後者が精粉公社関係で多忙のため。
DIA-304-1976-08-04-1パキスタン1976年08月04日1970年代PPP党員増加運動開始―9月10日まで。
DIA-304-1976-08-04-2パキスタン1976年08月04日1970年代“ドーン”紙によるとカラチで16織物工場が閉鎖されており,1万1000人が失職中という。
DIA-304-1976-08-05-1パキスタン1976年08月05日1970年代ラホール高裁,非常事態宣言に合憲判断―高裁は,“非常事態宣言には戦争ないし国内騒擾の勃発を要さず,布告は大統領の判断のみによる”と断言。
DIA-304-1976-08-05-2パキスタン1976年08月05日1970年代カースィム港起工式―立案後10年を経て。80年までに完成の第1段階8埠頭(26.9億ルピー)は616万トンの貨物取扱い能力を持つ。78年までに2.5万トン船の停泊が,85年末には最終的に7.5万トン船までの停泊が可能となる。第2段階の総費用算定は未了。
DIA-304-1976-08-06-1パキスタン1976年08月06日1970年代プット首相,スィンド州洪水被災地視察。
DIA-304-1976-08-06-2パキスタン1976年08月06日1970年代ダッダ・モーリタニア大統領来訪(~14日)。
DIA-304-1976-08-07-1パキスタン1976年08月07日1970年代カラチ製鉄所技術者訓練のため61名訪ソ。計1200名がソ連で訓練を受ける予定。
DIA-304-1976-08-07-2パキスタン1976年08月07日1970年代政府,イスラエル支援の“神の子”団のパ国内活動を禁止,国外追放を命令。
DIA-304-1976-08-08-1パキスタン1976年08月08日1970年代キッシンジャー米国務長官来訪―カーブルからラホール着。ブット首相は歓迎宴で次のように述べた。①パの安全はイランの安全と不可分,米がイランの安全を重要視するのなら,パの安全も同格に扱わなければ安全の概念全体が崩壊する。この認識が欠けていれぱそれは危険な脱漏である。このことは,安全のための措置の概念全体に関する米の認識に対する“リトマス試験”である。②カシミール問題についてはインドと妥協しない。これに対しキッシンジャー長官は,“パの領土保全と独立は米にとって重大な関心事だ”と述べた。
DIA-304-1976-08-09-1パキスタン1976年08月09日1970年代米,パの核燃料再処理に圧力―諸外国紙誌によるとキッシンジャー米国務長官はブット首相との会談で,パが仏からの核燃料再処理施設購入計画を中止するよう要求,対パ軍事援助3.32億ドルの中止を示唆。9日,共同声明発表。①パの独立,領土保全は米の対外政策上の恒久的原則。②米は南アジアでの関係改善を強く支持。③米パ間の伝統的な温かい友好関係に満足,等。なお,キ長官はこの旧パリヘ向う直前,空港でパの洪水救済援助として20万トンの小麦供与を発表,また,核問題では“対決を回避する決意で続行する”と語った。一方,ブット首相は会談に満足の意を表し,米の対パ武器援助状況については“良好”と語った。
DIA-304-1976-08-10-1パキスタン1976年08月10日1970年代核燃料再処理工場計画は不変―ブット首相が仏のラジオ局の電話インタビューで断言。一方,仏当局は米の圧力に激怒,訪仏中のキッシンジャー米国務長官はこの日ソーバニャルグ仏外相に電話,仏の核燃料再処理工場の対パ輸出阻止の意図はないと釈明。
DIA-304-1976-08-10-2パキスタン1976年08月10日1970年代バングラと海運協定,ダッカで調印。
DIA-304-1976-08-11-1パキスタン1976年08月11日1970年代プット首相,スィンド・パンジャーブ両州の洪水状況視察(~15日)。
DIA-304-1976-08-11-2パキスタン1976年08月11日1970年代海外出稼ぎ―イクバール海外雇用公社専務理事発表の数字,( )内は9月1日の移民局(72年設立)発表。①(72~76年4月に6万6434人が海外で雇用された。65~71年は1万4000人。)現在毎年3万人が海外就職のために出国して,3000人が帰国している。②(海外からのパ人の送金は63~64年度は9610万ルピー,)71年度は7億ルピー,74~75年度は30億ルピー以上(25億ルピー),81年度までに50億ルピーに達しよう。
DIA-304-1976-08-11-3パキスタン1976年08月11日1970年代シラク仏外相対パ核燃料再処理施設輸出に関するキ長官の米,仏,パ3国間の非公式協議提案を拒否。
DIA-304-1976-08-12-1パキスタン1976年08月12日1970年代カナダ,対パ警告―カナタ政府はパが仏からの核燃料再処理工場輸入計画を中止せねば,カラチ原子力発電所へのウラン供給の停止もあり得ると警告。
DIA-304-1976-08-13-1パキスタン1976年08月13日1970年代新綿花政策―シヤー農業管理相発表。購入価格をプーティー綿は37・3kg当り125ルピー,在来綿は120ルピー(35%引上げ)にすることが骨子。
DIA-304-1976-08-15-1パキスタン1976年08月15日1970年代プーメディエン・アルジェリア大統領,非同盟諸国首脳会議途次カラチ立寄り。20日にも帰途立寄り。
DIA-304-1976-08-16-1パキスタン1976年08月16日1970年代首相,北西辺境州洪水状況視察に出発。
DIA-304-1976-08-19-1パキスタン1976年08月19日1970年代カダフィー・リピア革命評議会議長,来訪―コロンポ会議の帰途立寄り。ペシャーワルでプット首相と中東,両国関係で2度の会談。同日帰国。
DIA-304-1976-08-19-2パキスタン1976年08月19日1970年代アリー・ルバイ南イエーメン大統領5オムデル・パナマ大統領,コロンボ会議帰途,カラチ立寄り。
DIA-304-1976-08-20-1パキスタン1976年08月20日1970年代ダウ-ド・アフガニスタン大統領来訪(~24日)―コロンボ会議の帰途,初の公式訪間。21日,プット首相とコロンポ会議,両国会議等について会議。夕方,ブット首相によるレセプション。夜,ダウード大統領による答礼宴。22日,アズィーズ外務・国防担当国務相はアブドゥッラー・アフガニスタン副外相と会談。23日,両首脳第2回会談。24日,両国間問題解決のため直接会談を強調する共同コミュニケ発表。
DIA-304-1976-08-21-1パキスタン1976年08月21日1970年代国防令改正―下院は特別法廷の判決に関する高裁への上告権を賦与する“パ国防〈第3次改正〉法案”を採択した(7月28日参照)。なお同日,下院はイスラーマバード大学を“カーイデ・アーザム(国父ジンナの尊称)大学”と改称する法案も採択した。
DIA-304-1976-08-24-1パキスタン1976年08月24日1970年代北西辺境州で初めての石油探査権がパ油田会社,アトック・オイル社,テキサス・ガルフ社に与えられた。協定は現政権下での国際会社との7回目のもの。
DIA-304-1976-08-25-1パキスタン1976年08月25日1970年代全パ織物工場協会職員,6ヵ月のILO調整不調によりストライキ突入。
DIA-304-1976-08-27-1パキスタン1976年08月27日1970年代ガッファール・カーン釈放―老齢のため。
DIA-304-1976-08-27-2パキスタン1976年08月27日1970年代アズィーズ外務・国防担当相は上院で,カナダがウラン供給を停止するとの報道を否定,ウラン供給は続いており,今後の問題は協議中と述べた。
DIA-304-1976-08-30-1パキスタン1976年08月30日1970年代政府はパ人出稼ぎ労働者の多い中東諸国,ペルシア湾沿岸諸国の大使館に労務担当官を置くと発表。
DIA-304-1976-08-30-2パキスタン1976年08月30日1970年代シャーヒー外務次官,訪日―両国定例協議会のため。9月1日,パ提案の第3世界首脳会議は1~2年内に開きたいと述べた。3日,北京へ。
DIA-304-1976-08-31-1パキスタン1976年08月31日1970年代今月のPPP入党者―アリー・マハムード元NAP指導者(ハールーン財閥一族出身),QMLの前中央上級副委員長,前中央執行委員1名,前スィンド州支部委員長兼書記長,同州前副委員長2名等(以上,9日),QMLクエッタ省支部委員長(28日。なお,QMLはPPPと連立政権を構成している),PMLスィンド州支部委員長,M.アミール・カーン元西パ州閣僚,パ・キリスト教徒連盟委員長,バルースチターン州ゾーブ自治区バーバル族指導者数名,等々。
DIA-304-1976-09-01-1パキスタン1976年09月01日1970年代隠匿収入申告締切り―政府はこの数力月間,隠匿収入の摘発と申告奨励を行ってきた。2日,ハニーフ蔵相は申告額は15億ルピーに達しようと語った。
DIA-304-1976-09-02-1パキスタン1976年09月02日1970年代PPPに復党―75年7月,労相およびPPP副書記長を辞任,事実上の新政党を結成していたクールシード・ハッサン・ミールは,8月31日ブット首相と会談,9月2日,綱領派解散とPPP復帰を表明した。
DIA-304-1976-09-02-2パキスタン1976年09月02日1970年代パ,核燃料再処理工場計画中止か―米の“Aviartion and Space Technology”誌最近号によると,米はパが仏からの核燃料再処理施設購入の中止決定をした見返りとして(パ紙報道せず),キッシンジャー長官訪パ時に結ばれた攻撃機110機販売契約の履行に同意した。最初の引渡しは78~79年の予定。
DIA-304-1976-09-03-1パキスタン1976年09月03日1970年代シャーヒー外務次官,訪中(~14目)―東京の帰途。3日,華首相の招宴。
DIA-304-1976-09-05-1パキスタン1976年09月05日1970年代第5次憲法改正―法案の下院提出は1日。①現憲法下第1次総選挙後は非常事態宣言下または大統領直轄令の場合を除きある州の恒久的居住者はその州の知事に任命され得ない。②スィンド州とバルーチスターン州に別々の高裁を設立(現在は両州合同高裁)。③司法府の行政府からの分離のための準備期間を3年から5年(原法案では6年)に延長。④最高裁長官と高裁所長の任期をそれぞれ5年,4年に固定。⑤高裁は保釈賦与命令を出し得ない。⑥非常事態宣言のための法は基本的人権に抵触しても訟訴対象とはなり律ない。⑦法廷侮辱罪のための立法を行う。なお,法案ξま111対0で可決。
DIA-304-1976-09-05-2パキスタン1976年09月05日1970年代首相論文―ブット首相は各紙に“第3世界―統一は至上命令”と題する長論文を発表。要旨以下。 (1)現在第3世界は地域的ないし政治的同類による諸グループに分かれて自己限定的であるため,全地域を包含する問題に対応し得ないでいるのである。 (2)3世界首脳会議は,AALA諸国が政治的解放後,機会均等が慈善や貿易上の選択的譲歩に依存するものではないという段階に到達したことを標すことになろう。 (3)会議は,発展途上諸国の経済活動活発化の必要に関する工業諸国の認識を受身的に待つのではないという, 第3世界の決意を示すことになろう。 (4)会議は,未来のための戦略を考案し,適切な制度的措置をとることによって,先進諸国に対する第3世界の諸政策を調整し得るし,発途諸国の最低限の協力計画は実施し得る。
DIA-304-1976-09-06-1パキスタン1976年09月06日1970年代印パ航空郵便,小包の交換開始。
DIA-304-1976-09-07-1パキスタン1976年09月07日1970年代PPP,党員増加運動を10月10日までに延長。
DIA-304-1976-09-09-1パキスタン1976年09月09日1970年代ブット首相,バルーチスターン州とスィンド州の洪水状況視察。
DIA-304-1976-09-09-2パキスタン1976年09月09日1970年代政府は毛沢東中国共産党主席死去に際し,7日間の喪に服すことと,葬儀までの半旗掲揚を指示。
DIA-304-1976-09-10-1パキスタン1976年09月10日1970年代デリー発ボンベイ行きインド国内航空機が乗っ取られ,パのラホール着陸。11日,パ軍人が犯人6名を逮捕。乗客77名と乗員7名を解放。12日,同機帰還。なお,英の“Times”紙によると犯人はリビア人らしい。数日後のパ紙ではインド人。インド紙は発表せず。
DIA-304-1976-09-13-1パキスタン1976年09月13日1970年代新築アパート倒壊,140名死亡,48名負傷―カラチのリアーリー地区で。同地区はスラムの多い密集地帯でこの7階建てアパ-トも低所得者用。
DIA-304-1976-09-13-2パキスタン1976年09月13日1970年代メキシコで77ヵ国グループ閣僚会議―パ代表はアズィーズ外務・国防担当国藩相。14日,パは9副議長団の1つに選ばれた。首脳会議開催は前途多難だが,22日,メキシコ会議諸国代表は各国政府にパ提案の検討を勧告することで同意。10月1日,パは満場一致で同グループの議長団に選出された。
DIA-304-1976-09-13-3パキスタン1976年09月13日1970年代核技術と対西欧関係―ブット首相は最近の英“Spectator“誌どの会見で,パが核技術導入を拒否されればパと西欧諸国との関係はさらに悪化すると警告。
DIA-304-1976-09-14-1パキスタン1976年09月14日1970年代エラーヒー大統領は公衆の集まる場所での武器の携帯,保管,展示を禁じる律令公布。
DIA-304-1976-09-14-2パキスタン1976年09月14日1970年代年次開発計画発表(資料参照)。
DIA-304-1976-09-15-1パキスタン1976年09月15日1970年代第5次5ヵ年計画―アターウンラー工業相はカラチ商工会議所で計画は近く発表されると述べた。16日,5ヵ年計画に続いて発表予定の投資計画では資源志向産業,重工業,基幹産業は公共部門が設立,軽工業,消費物資生産業は民間が設立することになると述べた。
DIA-304-1976-09-21-1パキスタン1976年09月21日1970年代ラメーに4年半の刑―特別法廷はラメー上院議員(PML組織委員長,元パンシャーブ州首相)に対し,反政府演説のかどで4年の拘禁および5万ルピーの罰金または4年半の拘禁の判決を下した。
DIA-304-1976-09-22-1パキスタン1976年09月22日1970年代メヤール油田の油井完成―日産4000バレル。
DIA-304-1976-09-23-1パキスタン1976年09月23日1970年代ブット首相は先週のイランの“テヘラン・ジャーナル”紙との会見で,“印パ両国はそれぞれの総選挙後カシミール問題を討議すべきだ。大統領制か議会制かは選挙民が決めることでPPPは来たる総選挙ではこれを争点としないが,議会制をあと5年続け得るか否かは分らない”などと語った。
DIA-304-1976-09-23-2パキスタン1976年09月23日1970年代選管委員長は,来年8月1日以前の総選挙に向けて人口の50%が有権者として登録し終えたと述べた。
DIA-304-1976-09-23-3パキスタン1976年09月23日1970年代海外出稼ぎに警告―23日付“ドーン”紙は次のような特派員報告を掲載。“リビア政府が外国人労働者8カテゴリーの雇用を禁じて以来,ほとんどの非熟練労働者は就職し得なくなった。全財産を投じてリビアヘ来たパ人のほとんどは非熟練労働者で,彼らは帰国費用もなく,路上生活者と化し始めている”。
DIA-304-1976-09-23-4パキスタン1976年09月23日1970年代スィンド,バルーチスターン両州洪水続く。
DIA-304-1976-09-23-5パキスタン1976年09月23日1970年代ラシード農相は,土地改革令に基づき某スィンド州現職大臣とその弟から7000エーカーを接収することを命じたと発表した。
DIA-304-1976-09-30-1パキスタン1976年09月30日1970年代駐パ・アフガニスタン大使―パ政府はN.A.エーティマーディー駐パ大使の任命を承認。同氏は現駐ソ大使で,アフガニスタンの首相外相等を歴任。
DIA-304-1976-09-30-2パキスタン1976年09月30日1970年代9月のPPP入党者―16日,ジャムー・カシミール解放連盟(62年結成。党首,K.H.クールシード)がPPPカシミール支部と合併。合併式にはブット首相も出席。その他,F.アーリアーニー女史(バルーチスターン州議員,元NAP,25日);PMLバルーチスターン州支部委員長,書記長等々;PMLハイデラーバード市支部副委員長;ラールカーナの刈分小作人指導者(元NAP);ハイデラーバード市商工会議所総裁;著名宗教指導者;弁護士;商人,等々。
DIA-304-1976-10-01-1パキスタン1976年10月01日1970年代政府,労働者週間を開始―労働者22名釈放。
DIA-304-1976-10-02-1パキスタン1976年10月02日1970年代下院補欠選挙でPPPのC.A.M.ダリワール,無競争当選(NW17,グジニラーンワーラ-2区)。
DIA-304-1976-10-04-1パキスタン1976年10月04日1970年代パ鉄道車両社,バングラの鉄道車両落札―入札には日本と韓国も参加した。
DIA-304-1976-10-04-2パキスタン1976年10月04日1970年代チャバン・インド外相は国連総会で,カシミール帰属に関する1948,49年の国連の民族自決原則は“時代遅れである”と演説。
DIA-304-1976-10-05-1パキスタン1976年10月05日1970年代政府・労・使5者会談(ラーワルピンディー,~7日)―参加者は政府,使用者側は各100名,労働者側450名。ジャマーリー労相は開会演説で,“労働組合の過剰数結成の悪影響は重要な問題だ”等と語った。6日,グループ討議で工場での事故傷害問題がパにおける3者会談では初めて討議された。
DIA-304-1976-10-06-1パキスタン1976年10月06日1970年代パ,台湾のIMFからの追放と中国の加盟を要求―マニラでのIMF・世銀合同総会で。
DIA-304-1976-10-07-1パキスタン1976年10月07日1970年代PPP,党員増加運動をさらに1ヵ月延長。
DIA-304-1976-10-08-1パキスタン1976年10月08日1970年代カーター候補,パの核に反対―カーター米大統領候補はフォード大統領とのテレビ討論会で,仏の対パ核燃料再処理工場輸出阻止の必要を強調した。
DIA-304-1976-10-09-1パキスタン1976年10月09日1970年代9日付“ワシントン・ポスト”紙によると,米は仏に対パ核燃料再処理工場の輸出を断念するように強く働きかけている。
DIA-304-1976-10-10-1パキスタン1976年10月10日1970年代ハーリド・サウジアラピア国王来訪(~15日)―パは最大級の歓迎。国王はPPP機関紙日刊“ムサーワード紙とイスラマで会見,両国の“あらゆる分野での協力”を強調,パ提案の第3世界首脳会議を支持。11月,国王とブット首相第1回会談および両国の閣僚会議(~13日)。12日,国王はサウジ資金でイスラエルに建設予定のファイサル王モスク(2500万ドル)の定礎式を行った。13日,ラホール訪問。14日,カラチ訪問。15日,第2回両首脳会談。国王はパの社会福祉計画に3000万ドル贈与。同日,要旨以下の共同コミュニケ。①両首脳は両国関係,回教圏,国際関係一般を討議。②両者は両国関係に完全に満足の意を表した。③両国閣僚会議をさらに頻繁に開く。④中東問題はイスラエルの完全撤退によってのみ解決。パはアラブ諸国への揺ぎなき支持を継続。⑤国王は印パ,パ・バングラ,パ・アフガニスタン関係の正常化を歓迎。⑥プット首相は第3世界首脳会議の目的を説明,両者は公正な新経済秩序確立には発途諸国の継続的政策調整が必要であるとの点で合意。
DIA-304-1976-10-12-1パキスタン1976年10月12日1970年代出稼ぎ送金―政府筋によると海外出稼ぎ者による75年度の本国送金は33,4億ルピーに達した。
DIA-304-1976-10-12-2パキスタン1976年10月12日1970年代建設中のカラコラム道コミラで山崩れ,中国人作業者25名死亡,22名負傷。
DIA-304-1976-10-15-1パキスタン1976年10月15日1970年代米2社とバルーチスターン沖合石油探査協定。
DIA-304-1976-10-17-1パキスタン1976年10月17日1970年代首相,レバノン問題で訴え―ブット首相はアサド・シリア大統領とサダト・エジプト大統領にレバノン問題の解決と和解を求める至急メッセージを伝達。また,同首相はアラファトPLO議長とサルキス・レバノン大統領,サバハ・クウニート首長にもレバノン内戦解決の努力を求めるメッセージを伝達。
DIA-304-1976-10-18-1パキスタン1976年10月18日1970年代政府,全国婦人週間開始。
DIA-304-1976-10-19-1パキスタン1976年10月19日1970年代連邦協同組合銀行―エラーヒー大統領は農村金融拡充のため,中央政府,各州政府,中央銀行の共同出資で連邦協同組合銀行を設立する大統領令を公布。
DIA-304-1976-10-19-2パキスタン1976年10月19日1970年代印パ水利会談(イスラマ,~21日)―インドがチエナーブ川上流に建設予定のサラール・ダムがパに悪影響を及ぼさぬようにすることで合意。
DIA-304-1976-10-19-3パキスタン1976年10月19日1970年代ソ連の評論家クビチェフは“Asia and Africa Today”誌で,“パの進歩はプット政権が成立してから始まつた”と称賛。
DIA-304-1976-10-19-4パキスタン1976年10月19日1970年代ブカレストでパ・ルーマニア経済協力閣僚委員会会議(~23日)―パ代表はハニ-フ蔵相。
DIA-304-1976-10-23-1パキスタン1976年10月23日1970年代タルベーラ・ダム,潅厩用放水開始―現在,放水は余水路で行われている。11月21日,第5番放水路から放水開始。
DIA-304-1976-10-26-1パキスタン1976年10月26日1970年代“選挙は予定通り”―プット首相はハイデラーバードで記者会見,次のように述べた。①PPPはいつでも選挙にのぞむ態勢にあり,選挙は予定通り行う。②PPPは11月に党拡充を終えたら党再編を実施。③議会は選挙を1年商延期する権限を有している。なお,首相はハイデラーバ-ド記者クラプに1万ルピーを寄付。
DIA-304-1976-10-27-1パキスタン1976年10月27日1970年代洪水被害―7~9月の洪水で政府は世銀向け暫定調査結果を発表。被災者979万,死者425,被災地1.84万町村,冠水地2048万エーカー,被災作付地441万エーカー。綿花は作付地の25.8%が被災,実綿ベースの当初収穫予想210万トン(綿花ベース400万ベール)に対し,見込み収穫減は52.5万トン(100万ベール)。米は作付地の31.6%が被災,当初予想397.5万(もみ米ベース)に対し見込み収穫減は37.5万トン。
DIA-304-1976-10-27-2パキスタン1976年10月27日1970年代6ヵ年計画―計画委は75年3月頃第5次5ヵ年計画(75~80年度)をまとめたが,公式発表がないまま同計画は廃案となった。かわりに本日,6ヵ年計画(77~83年度)作成設置が発表された。77年2~3月までに第1次案を,6月までに最終案を完成する予定。
DIA-304-1976-10-30-1パキスタン1976年10月30日1970年代反乱―北西辺境州ペシャーワル北方160キロのディール山地で,先月,政府の森林資源接収に反対する少数民族の武装反乱が生じ,政府は空軍機,戦車で鎮圧,250~300人が殺されたという。
DIA-304-1976-10-30-2パキスタン1976年10月30日1970年代バングラと衛星中継通信開始。
DIA-304-1976-10-31-1パキスタン1976年10月31日1970年代国防法改正―大統領令により特別法廷は同法廷を侮辱した者を罰する権限を与えられた。
DIA-304-1976-10-31-2パキスタン1976年10月31日1970年代6野党会議(ラホール)―参加政党はNDPマザーリー派,PMLパガーロー派,JI,JUI,JUP,パ民主党(PDP)。4項目要求を採択。①73年憲法にしたがった民主主義の回復,②憲法改正,非常事態宣言,国防法,公共秩序法の撤廃,③市民の自由と法による統治の回復,④経済悪化の阻止。なお,TIは不参加。
DIA-304-1976-10-31-3パキスタン1976年10月31日1970年代首相論文―ブット首相は各紙に“2国間主義―新たな次元”と題する1万2000語に及ぶ論文を発表。その中で同首相は2国間主義の存在理由と成功を語り,かつ,国際間の経済的不平等を根絶するには真の非同盟主義を確立せねばならず,そのために第3世界首脳会議開催の要があるとしている。また,“インドが核実験を行ったというのにパの原子力平和利用を阻止しようというのは差別だ”としている。なお,全体にインドの“非同盟”主義を批判する色彩が強い。
DIA-304-1976-10-31-4パキスタン1976年10月31日1970年代今月のPPP入党者―パガーローPML委員長の従弟等親族9名;TIカラチ支部副委員長等,JIワズィーラーバード支部委員長等々;F.K.カーン元陸軍少佐(元国会議員)および親族多数;M.M.ピールザーダ(実質新政党PPP進歩派を結成していた)がPPPに復党(18日);S.M.ハッサン元駐トルコ大使等;タッタの大地主2名;パ商工会議所連盟総裁;カラチ商工会議所総裁,副総裁等;カラチ市カレッヂ教授;法律家22名;初代首相の孫;ラホール市アナールカリー市場商人全員;パ労働者連盟委員長等;スィンド州テレビ・タレント77名;ラホールのパ映画俳優組合の500名。
DIA-304-1976-11-01-1パキスタン1976年11月01日1970年代ブット首相,北西辺境州部族地域遊説(~6日)―モフマンド,クッラム,カイバル等,6自治区を歴訪,各地で政府の部族地域開発努力を自賛。
DIA-304-1976-11-02-1パキスタン1976年11月02日1970年代政府,バングラにボーイング707機1機贈与。
DIA-304-1976-11-05-1パキスタン1976年11月05日1970年代首相,仏特使と協議―PPP機関紙“ムサーワードはブット首相がペシャーワルで仏特使と協議と報道。7日,アズィーズ外務・国防担当国務相訪仏。
DIA-304-1976-11-06-1パキスタン1976年11月06日1970年代ジャーン選挙管理委員長は,選挙人名簿と選挙日画定を11月末までに完了する,選挙人名簿は76年1月1日に21歳になる者を含むよう修正されたと発表。
DIA-304-1976-11-06-2パキスタン1976年11月06日1970年代PPP,党員増加運動を11月30日まで延長。
DIA-304-1976-11-08-1パキスタン1976年11月08日1970年代首相,北西辺境州遊説(~12日)―マルターン,マラカンド,バンヌー等々歴訪。
DIA-304-1976-11-08-2パキスタン1976年11月08日1970年代外貨預金利子免税一政府は去る73年3月,在外パ人がパ国内銀行に外貨口座を設けるのを許可したが,8日,その利子を免税とした。
DIA-304-1976-11-08-3パキスタン1976年11月08日1970年代エーティマーディー駐パ・アフガニスタン大使着任―16日,信任状提出。
DIA-304-1976-11-10-1パキスタン1976年11月10日1970年代国家反逆罪を審理中のハイデラーバード特別法廷,3名釈放。釈放者はこれで計4名となった。
DIA-304-1976-11-10-2パキスタン1976年11月10日1970年代政府,小規模の270精米工場を民間に返却―7月17日参照。
DIA-304-1976-11-10-3パキスタン1976年11月10日1970年代カッターク天然資源相は下院で,タルベーラ・ダム漏水問題等に鑑み,巨大ダムはもう建設せず,カーラーバーグ・ダム計画も再検討すると述べた。
DIA-304-1976-11-11-1パキスタン1976年11月11日1970年代マクナマラ世銀総裁来訪(~15日)―着後,“農業部門への援助増大”との声明発表。
DIA-304-1976-11-11-2パキスタン1976年11月11日1970年代仏,対パ核燃料再処理工場輸出を断念か―UPI電は,仏政府は米・カナダの圧力により,パが同意すれば同工場輸出計画を中止するとパリ外交筋が明らかにしたと報道(12日,仏外務省スポークスマンは同報道を否定)。なお,現在パのアズィ-ズ・アハマッド外務・国防担当国務相はパリで仏当局と協議中。
DIA-304-1976-11-12-1パキスタン1976年11月12日1970年代パ,国連安保理でベトナムの国連加盟を支持。
DIA-304-1976-11-15-1パキスタン1976年11月15日1970年代スィンド・パルーチスターン高裁,第4次憲法改正に合憲判断。
DIA-304-1976-11-15-2パキスタン1976年11月15日1970年代銀行家会議(カラチ,~16日)―主催はパ銀行家協会。会議には英,印,バングラ,トルコ等11外国の代表も参加。15日,ハニーフ蔵相は商業銀行に対し農業・低廉住宅,中小企業への融資増を呼びかけ。
DIA-304-1976-11-15-3パキスタン1976年11月15日1970年代インド記者,プット首相と会見―9月23日の会見の内容が本日発表。①カシミールについてはパの立場を捨てぬ。,②パは核燃料再処理工場をエネルギー問題解決のため必ず入手。③中印関係改善を歓迎。両国の相互理解のためにパが一役買うこともできよう。
DIA-304-1976-11-16-1パキスタン1976年11月16日1970年代パ食油公社は北西辺境州政府からバナースパティー・ギ-(植物油)の販売・流通権を接収。
DIA-304-1976-11-17-1パキスタン1976年11月17日1970年代カラチで全パ小作人協会結成。
DIA-304-1976-11-17-2パキスタン1976年11月17日1970年代バングラ貿易代表団来訪(~28日)―19日,カラチ商工会議所で合弁綿花加工工場設立の希望を表明。21日,パの対バングラ投資を歓迎。24日,パはバングラから新聞用紙輸入覚書に調印。28日,バングラは非公式会談ではパがスリランカから輸入している紅茶に賦課税を課すことをパに求めた。また,アフガニ又タン,イラン等との貿易のため中継施設提供を求む。
DIA-304-1976-11-17-3パキスタン1976年11月17日1970年代米国防総省,対パA-7軽爆撃機110機販売を承認―部品,パイロット訓練を含め総額7億ドル。
DIA-304-1976-11-18-1パキスタン1976年11月18日1970年代選挙法案,下院に提出―以下,主要点。①現行の70年国会・州議会〈選挙〉令を撤廃。②ある政党から立候補して当選した議員がその党から脱退すれば議席を失う。②政党法によって禁じられた政党の役員を71年12月20日以降に勤めていた者は,当該政党の禁止日から向う5年間,被選挙権を有さない。③選挙違反は3年の禁固刑または5000ルピー以下の罰金。④選挙資金上限は国会4万ルピー,州議会2.5万ルピー(従来はそれぞれ2.5万,1.5万ルピー)。法案は12月17日可決。
DIA-304-1976-11-18-2パキスタン1976年11月18日1970年代プット首相スィンド州遊説―18~21日,タッタ,ハイデラーバード等歴訪。20日,サーンガルで綿花生産者への融資増を発表。25~27日,ジェイコバーバード,サッカル等歴訪。27日,ラールカーナでもみ米政府購入センター増加を発表。
DIA-304-1976-11-21-1パキスタン1976年11月21日1970年代イスラマで6野党会議―総選挙期日発表,政治活動制限撤廃,特別法廷廃止,等を要求,出席政党はNDP,PDP,JI,JUP,JUI,PML。
DIA-304-1976-11-22-1パキスタン1976年11月22日1970年代政府,公務員週間開始―ブント首相,停年の58歳から60歳への引上げを発表。
DIA-304-1976-11-22-2パキスタン1976年11月22日1970年代中国向け貨物船進水式―カラチ造船所製。1万3500トン,970万ドル。
DIA-304-1976-11-22-3パキスタン1976年11月22日1970年代ソ連からカラチ製鉄所建設視察団来訪。
DIA-304-1976-11-25-1パキスタン1976年11月25日1970年代警察改革―プット首相はイスラマで“人命,名誉,財産の保護”を目的とした,国道公安警察設置,婦人警官導入等の改革を発表。
DIA-304-1976-11-25-2パキスタン1976年11月25日1970年代仏の戦闘機―25日“ジャパン・タイムズ”紙によるとパは米のA-7戦爆に代り得るものとして英・仏のジャガー超音速戦闘機に関心を示しており,英航空機公社は12月第2週に代表団をパに派遣の予定。
DIA-304-1976-11-26-1パキスタン1976年11月26日1970年代下院,2法案採択一下院は,国会・州議会の議席を汚職者から剥奪する法案および汚職等の非行を犯した議員に7年の禁固刑または罰金あるいはその双方を科する法案を採択した。
DIA-304-1976-11-29-1パキスタン1976年11月29日1970年代カラチで開かれた州間調整委員会会議(議長はブット首相)は連邦洪水対策委員会設置を決定。30日,12月1日から小麦粉の1人当て配給量を月3.7キロから7.5キロに倍増すると決定。
DIA-304-1976-11-29-2パキスタン1976年11月29日1970年代自由貿易地域―信頼できる筋によると77年にパに目由貿易地域2ヵ所が設定される予定で,現在アメリカの専門家がフィージビリティ・レポートを作成中。2ヵ所のうち1ヵ所は内陸のラホール近辺の公算。
DIA-304-1976-11-29-3パキスタン1976年11月29日1970年代国連,パの非核武装地域提案を採択―パは24日,国連総会の政治委員会に南アジア非核武装地域設置を提案したが,本日この決議草案を採択。賛成票85票には南アジア6ヵ国中,スリランカ,バングラ,ネパールが含まれ,反対2票はインドとブータン,棄権45は主にソ連ブロックと西欧諸国。12月4日には同委は同じくパ提案の,非核武装国に対する核の使用または使用の脅迫をせぬよう要請する決議草案を90:0,棄権35で採択。
DIA-304-1976-11-29-4パキスタン1976年11月29日1970年代今月のPPP入党者―カラチの実業家14名,シェイクプーラ13工場の労働者1万人,ラホ-ルの商人5000人;ダードゥーの地方指導者多数;NAP,PMLバガーロー派等党員。15日,PMLベテラン指導者ショウカット・ハヤート・カーン下院議員の入党歓迎会(イスラマ近郊にて)にはブットPPP委員長も出席。
DIA-304-1976-12-01-1パキスタン1976年12月01日1970年代スィンド高裁,バル-チスタ-ン高裁開所(9月5日参照)。
DIA-304-1976-12-05-1パキスタン1976年12月05日1970年代パルーチスターン州知事,全州に2規則公布―ブット首相の指示。第1は遺産相続,婚姻等に関するサルダールの慣習的権限を廃止するもので,従来,クエッタ,ピシーン両県,スィービー県の一部にしか適用されていなかった。第2は民間紛争を慣習法に代って,現在カラート省で行われている成文法で解決するもの。
DIA-304-1976-12-06-1パキスタン1976年12月06日1970年代パルーチスターン州政府復活―11ヵ月の大統領直轄後,同州政府が復活,J.M.グラーム・カディールを議長に選出。同州議会はまたM.カーン・バローザーイ前議長を州首相に選出。以下,同州政府閣僚。バローザーイ:首相,行政,財政,計画・開発,工業,灌漑・電力。ガウス・バクシュ・ライサーニー:上級大臣,内務,部族問題,地方行政。サイフッラー・カーン・ピラーチャ:通信・公共事業,法務・議会,情報,食糧。タイムール・シヤー・ジョーゲザーイ:農業,労働,交通。ミス・ファズィーラ・アーリアーニー:教育,保健,社会福祉。ナスラトゥッラー・サンジャラーニー:歳入・税務,宗教,観光。
DIA-304-1976-12-07-1パキスタン1976年12月07日1970年代PPP再編―ブットPPP委員長はパ側カシミールおよび各州からテヘスィール(警察管区)・レベルまでの同党再編の完了を発表。同党声明は,“再編により党は新たな力を得ようし,わが国のダイナミヅクな政治的成長を恐れる人々のいかなる挑戦にも対応し得よう。PPPのような党は決して静止し得ず,国と共に生きるのだ”としている。役員は6日間にわたって発表される予定。12日付“ドーゾ,紙に5ページを費してスィンド州各レベルの役員を発表。
DIA-304-1976-12-07-2パキスタン1976年12月07日1970年代カラチ市営リアーカターバード・スーパ-・マーケント開店―12階建て,建築費1200万ルビー。ブット首相が開店演説。
DIA-304-1976-12-10-1パキスタン1976年12月10日1970年代ブット首相,パンジャーブ州遊説(~13日)―ムルターン,D.G.カーン等を歴訪。11日サヒーワ-ルで,“アジアで真の民主主義が栄えているのはわが国のみだ。選挙は予定通り行う”等と述べた。
DIA-304-1976-12-13-1パキスタン1976年12月13日1970年代政府,農民週間開始一ブット首相は,進歩的・戦闘的農民が多いことでしられるマンディー・バハーウッディーン(パンジャーブ州)で同週間開始演説,“現政権の諸改革は何としても継続する”等と語った。15日,ラシード農相は土地改革について次のように明らかにした。①土地改革により4州で約326.9万エーカーが政府によって収用され,現在までにこのうち141.3万エーカーが13.4万人に分配された。②また,連邦土地委は48.3万エーカーの沃土を収用,その面積を従来秘密にしてきたが,これも分配するであろう。③政府はパート運河地域(7月25日参照)53.6万エーカー中すでに20.5万エーカ-を分配。
DIA-304-1976-12-14-1パキスタン1976年12月14日1970年代カラマンリス・ギリシァ首相,来訪―16日,パと技術・文化協力協定調印。17日,共同コミュニケ。
DIA-304-1976-12-15-1パキスタン1976年12月15日1970年代ジャトーイ・スィンド州首相,運輸業国有化のうわさを否定。
DIA-304-1976-12-17-1パキスタン1976年12月17日1970年代下院,200溝里経済水域法案を可決。
DIA-304-1976-12-18-1パキスタン1976年12月18日1970年代農民憲章―ブット首相は,農民週間終了に際し,8ヵ条から成り,国有可耕地を土地なき農民および最低生活レベル以下の土地保有者に分配すること,また,国有地を賦与されたが地価分割払いの延滞金があるため所有権を得ていない者に1年の猶予期間を与えることを骨子とする“農民のための国民憲章”を発表。これにより全国で約100万家族が利益を受けるという。なお,最低生活に必要な保有地面積は州平均で以下の通り(単位,1エーカー)。パンシャ-ブ州および北西辺境州,12.5。スィンド州,16。バルーチスターン州,32。
DIA-304-1976-12-20-1パキスタン1976年12月20日1970年代武器国産努力―ブット首相はPPP機関紙“ムサーワードとの会見で次のように述べた。①パは海外からの武器調達に加えて国産努力を続けている。②アフガニスタンとの対話は続いており,いずれの政府も両国首脳会談はもう行わないと決めたわけではないが,次回の会談がいつになるかは分らない。③インドは覇権を求めていないとの最近のガンジー・インド首相の言明を歓迎。インドがまた核実験を行うとの報道があるが,それは国連総会の決議(11月29日参照)違反だ。
DIA-304-1976-12-20-2パキスタン1976年12月20日1970年代イスラマ体育競技場群,起工式―中国援助で77億ルピーの費用で81年完成の予定。
DIA-304-1976-12-21-1パキスタン1976年12月21日1970年代石油発見―ブット首相は両院合同会議で,石油・ガス開発公社がD.G.カーンのドーダックで埋蔵量2億バレルの右油と4~5兆立方フィートの天然ガス(スーイ・ガス田め半分)を掘りあてたと発表。石油は7~8000フィートという浅い地点で採掘され,75%がガソリン,14%灯油,7%ディーゼルという非常に良質のもの。同日,首相はパ石油委員会の設立(委員長は次官級)と石油・ガス開発公社の同委への併合を発表。
DIA-304-1976-12-22-1パキスタン1976年12月22日1970年代第6次憲法改正―下院は憲法第260条を改正して最高裁長官および高裁所長は停年後も任期満了時まで在任し得るとする法案を可決。
DIA-304-1976-12-23-1パキスタン1976年12月23日1970年代国家反逆罪を審理中のハイデラニバード特別法廷はS.H.シャーとH.カーシ・ギルザーイてともに上院議員)を保釈した。
DIA-304-1976-12-23-2パキスタン1976年12月23日1970年代カナダ,対パ原子力発電所協力を打切り―ジャミソン・カナダ外相は下院で,カラチ原子力発電所に対する燃料供給,部品,技術協力すべての打切りを発表。
DIA-304-1976-12-26-1パキスタン1976年12月26日1970年代ブット首相,イランを非公式訪問(~28日)―パーレビー皇帝と会談。27日,公式筋によると両者は世界経済の新秩序確立の方法に関して合意した。
DIA-304-1976-12-28-1パキスタン1976年12月28日1970年代R.S.ザマーン・カーン北西辺境州教育相とA.ラウフ・カーン同州議員はQMLから脱退した。
DIA-304-1976-12-29-1パキスタン1976年12月29日1970年代UDF,選挙参加を発表。
DIA-304-1976-12-29-2パキスタン1976年12月29日1970年代パンジャーブ大学の“すべての学生団体”と大学側は大学の学問的雰囲気を守るための協定を締結した。
DIA-304-1976-12-29-3パキスタン1976年12月29日1970年代政府は米政府と,PL480により食油7万トン(3710万ドル)を米がパに供給する協定に調印。
DIA-304-1976-12-31-1パキスタン1976年12月31日1970年代ブット首相,記者会見―ラホールで。①選挙は予定通り実施個日は発表せず)。②アフガニスタンとの関係改善のための門戸は開いたままにしてある。非観的になる疹要はない。
DIA-304-1976-12-31-2パキスタン1976年12月31日1970年代カウンダ大統領にジンナ人権賞―ジンナ生誕100年祭に際しパ政府が開始したジンナ人権賞はカウンダ・ザンビア大統領が受賞することに決定(毎年1名,賞金50万ルピー)。
DIA-304-1976-12-31-3パキスタン1976年12月31日1970年代今月のPPP入党者―1年ほど前にPPPからPMLに移ったパンジャーブ州議員ラウフ・ターヒル等PMLからの復党者30数名,ラホールのJNAP党員若干,キリスト教徒連盟がPPPに合併,TI党員で著名な女流作家ラズィーア・バット,等,
DIA-304-1977-01-02-1パキスタン1977年01月02日1970年代下院・州議会選挙区最終案発表さる。
DIA-304-1977-01-02-2パキスタン1977年01月02日1970年代アズィーズ・アハマッド国防・外務相当国務相は記者会見でフランスからの核燃料再処理工場輸入計画は放棄しないと言明した。
DIA-304-1977-01-04-1パキスタン1977年01月04日1970年代政府,新労働改革発表―昨年10月の労・使・政府3者会談に基づく措置で特に大きな“改革”はなく,死亡補償金を最低6000ルピーから1万2000ルピーに引き上げる等,現行労働法の拡充を中心とする。
DIA-304-1977-01-05-1パキスタン1977年01月05日1970年代ブット首相,第2次土地改革発表―以下は骨子。①旧来の土地上納制を廃止して農業所得税を導入。②個人の所有地面積上限を灌漑地100(現行は150)エーカーあるいは非灌漑地200(同300)エーカーとする。③この上限を越える分は有償接収とし,無償で小作人および所有地12エーカー以下の農民に分配する。
DIA-304-1977-01-06-1パキスタン1977年01月06日1970年代新年金体系―ハニーフ財政相は1億2000万ルピーの国庫負担により公務員および軍人の年金を大幅に引き上げる新年金体系を発表した。
DIA-304-1977-01-07-1パキスタン1977年01月07日1970年代総選挙実施発表―ブット首相は下院で,現政府の任期は8月14日までであるが3月7日に下院選挙,同10日に州議会選挙を実施すると発表。これに基づき下院は1月10日,4州議会は同13日に解散された。
DIA-304-1977-01-10-1パキスタン1977年01月10日1970年代選挙管理委員会,下院選挙日程発表―1月19日立候補締切り,21日資格審査,29日立候補撤回期限,3月7日投票日。
DIA-304-1977-01-10-2パキスタン1977年01月10日1970年代野党,統一戦線結成―総選挙を控え野党9政党から成るパ国民連合(PNA)がラホールで結成された。参加政党は次の通り。統一民主戦線構成6政党,すなわちパ回教徒連盟(PML)パガーロー派,イスラーム結社(JI),イスラーム神学者協会(JUI),パ民主党(PDP),カークサール運動(KT),解放ジャムー・カシミール回教徒会議(AJKMC),および団結運動党(TI),パ神学者協会(JUP),国民民主党(NDP)の3党。16日,PNAは委員長にムフティーJUI委員長,書記長にバジュワーJUP書記長,副委員長にナスルッラーPDP委員長を選出した。この日,PNAはバルーチスターン州で治安維持のための軍の展開が続いていることを理由に同州での選挙ボイコットを決定した。
DIA-304-1977-01-10-3パキスタン1977年01月10日1970年代カラチで統一労働者戦線(UWF)結成―参加労組数216,委員長にナヤーブ・ナクウィー選出。賃金の物価スライド制,雇用保証,基本的人権を要求し,農業労働者の組織化キャンペーンを行なうと宣言。
DIA-304-1977-01-12-1パキスタン1977年01月12日1970年代内相解任―ブット首相はカユーム・カーン内相およびユースフ・カッターク天然資源相を解任した。両氏は共に回教徒連盟カユーム派(QML)に所属している。同日,スィカンダル・ザマーン・カーン北西辺境州教育・スポーツ相がQMLを脱党,PPPに入党。
DIA-304-1977-01-14-1パキスタン1977年01月14日1970年代S.H.クレーシー・パンジャープ州首相はダード・カーン退役陸軍准将およびM.A.ミンハースの2名の州大臣を解任した。
DIA-304-1977-01-15-1パキスタン1977年01月15日1970年代カシミール白書―外務省は1947年の印・パ分離独立以来のカシミールに関する事実経過を中心とした1万語を越える“カシミール白書”を発表。これは“ドーン”紙に17日から3日間にわたって掲載された。
DIA-304-1977-01-19-1パキスタン1977年01月19日1970年代首相以下17人無競争当選―選挙管理委員会は,ブット首相を含むPPPの下院選挙立候補者17人が無競争当選したと発表。これは最終的には直接選挙200議員中19人(スィンド州15人,バルーチスターン州4人)となり,4州議会計460議員(直接選挙分)についても63人が無競争当選とされた。なお,野党の立候補者が誘拐されて立候補申請を妨害されたとのPNAの訴えが立候補締切りのこの日から選管に対して相次いた。
DIA-304-1977-01-22-1パキスタン1977年01月22日1970年代中国科学技術協力代表団来訪(~2月6日)―石林対外経済連絡部副部長以下9名。29日,科学・技術協力に関する議定書調印。
DIA-304-1977-01-23-1パキスタン1977年01月23日1970年代選挙運動開始―ブット首相はこの日ラーワルピンディーで演説,PPP政権の“功績”を自賛し,また,“パをインド亜大陸の指導者にする。PNAは外国人の靴をなめ,資本家の手先であり国の敵だ”等と述べた。一方,PNA指導者たちはカラチで次のように演説した。①PNAはブット首相等の東パ分離の責任者たちを裁判にかける。②国有化企業が庶民の犠牲の上に暴利をむさぼり得ないようにする。③PNAは政権に着けば6ヵ月以内に物価を1970年のレベルに戻す。④経済的に有利でない事業や贅沢品の輸入のために用いられた外国借款の債務返済は拒否する。⑤回教法導入,回教社会の建設。酒,賭博,売春,贅沢の禁止。⑥ブット首相等の無競争当選は認めない。⑦われわれ(PNA構成9政党)はブット首相が早く選挙実施を発表するようにあえて足並の乱れを装ったのだ。
DIA-304-1977-01-24-1パキスタン1977年01月24日1970年代PPP選挙綱領発表―70年選挙綱領とは打って変り,ドラスチックな“改革”は打ち出されず,“5年間で国民所得の50%引上げ,生活物資の十分な供給,インフレ収束,労働者の最低賃金の25%引上げ,民間企業の役割増大,警察拡充と治安向上,軍の強化と軍需品の国内生産体制確立,双務主義外交,カシミールの民族自決達成の支援”等々を掲げた総花的なものである。
DIA-304-1977-01-28-1パキスタン1977年01月28日1970年代北朝鮮軍事代表団来訪―呉振宇国防相兼総参謀長以下14人。
DIA-304-1977-01-29-1パキスタン1977年01月29日1970年代首相,国防能力について―ブット首相が明らかにしたところによると,パはすでに小型兵器・弾薬の自給体制を有し,軽航空機の組立・製造能力も有するに至った。また,高性能の航空機,潜水艦,戦車,ミサイル,レーダー等々の製造能力を持っために数々の計画が実施中ないし検討中である。建造中のカーシム港には海軍造船所が建設中である。
DIA-304-1977-01-30-1パキスタン1977年01月30日1970年代首相遊説―ブット首相はカラチで“野党が政権をとれば混乱と危機が生じる”等と述べた。
DIA-304-1977-01-31-1パキスタン1977年01月31日1970年代3国務相辞任―ジャハーンギール保健・人口計画担当国務相,ジャアァッファル科学・技術・文化担当国務相,C.ムムターズ・アハマッド農事管理担当国務相が辞任。これは2月7日に明らかにされた。
DIA-304-1977-02-01-1パキスタン1977年02月01日1970年代S.ショウカット・アリーQML上級副委員長はQMLを脱退,PMLショウカット派を結成。
DIA-304-1977-02-02-1パキスタン1977年02月02日1970年代首相,パンジャーブ州遊説(~6日)―ブット首相はラホール,ムルターン等で“インフレは世界的現象で,行政経験のない野党が政権につけば事態は悪化する。PPPはPNAの資本主義強制の意図を粉砕する”と述べた。なお,首相は70年選挙戦時とは対象的にインドに対する非難はほとんど避けた。
DIA-304-1977-02-03-1パキスタン1977年02月03日1970年代リビアで第6回パ・リビア合同閣僚会議(~6日)。8日,複数の協力協定調印。
DIA-304-1977-02-04-1パキスタン1977年02月04日1970年代PNA指導部,遊説―PNA指導部はラーワルピンディーで演説会を開いた。席上ムフティーPNA委員長は“官僚が中立を保たなければPNAは政権担当後彼らの責任を問う”と述べ,アスガル・カーンTI委員長は“コーランがPNAの綱領だ”と述べた。PNA指導部は6日にはラホールで遊説。
DIA-304-1977-02-07-1パキスタン1977年02月07日1970年代首相,北西辺境州遊説(~8日)―ブット首相はアボッターバード(アスガルTI委員長の本拠),サイドゥー・シャリーフ等で“アスガルの政治資金はペシャーワルの1人,カラチの4人,パンジャーブ州の4人の資本家から出されている”等と述べた。
DIA-304-1977-02-07-2パキスタン1977年02月07日1970年代ジスカール・デスタン仏大統領は仏の対パ核燃料再処理工場輸出の契約を守ると言明した。
DIA-304-1977-02-08-1パキスタン1977年02月08日1970年代PNA選挙綱領発表―これは“回教に基づいた政治・経済・社会体制の確立,独裁の廃止,基本的人権の擁護,腐敗追放”を骨子としている。またPNAは従来,国有化企業の国有解除および物価の70年レベルまでの引下げを主張してきたが,綱領では“国有化企業は国有解除しないが民間企業の役割を増大する。物価は庶民の手の届く範囲まで引き下げる”とされている。
DIA-304-1977-02-09-1パキスタン1977年02月09日1970年代首相,PNA選挙綱領を批判―ブット首相はモヘンジョダロ空港で記者会見,“矛盾だらけだし,PNAが時計を逆に回したがっているのが明白だ”とPNAの綱領を批判した。
DIA-304-1977-02-09-2パキスタン1977年02月09日1970年代アラファトPLO議長来訪(~11日)―10~11日,ブット首相と会談。11日,共同声明。
DIA-304-1977-02-11-1パキスタン1977年02月11日1970年代首相,スィンド州遊説(~13日)―11日ブット首相はサッカル,ハイデラーバード等で次のように述べた。①野党は外国借款を非難するが,借款なくして国防は不可能だ。②JUIやJIはパの建国に反対した。③PNAは私が酒を飲むと非難するが1日の激務の後のほんの一口は許されよう。PNA指導者たちは贅沢なハルワー菓子を毎日食っている。
DIA-304-1977-02-12-1パキスタン1977年02月12日1970年代バジュワーPNA書記長はラホールでの記者会見で物価を70年の水準に戻すと強調した。また,ムフティーPNA委員長はムルターンで演説,“基幹産業以外の国有化企業は国有解除する”と述べた。
DIA-304-1977-02-14-1パキスタン1977年02月14日1970年代首相,パンジャーブ州遊説(~16日)―14日グジュラーンワーラーで演説。15日,スィアールコートで“PNA”は尻尾の結ばれた9匹の猫だ。アスガルが240エーカーの農地を巧妙に子供たちに分割したため,彼の土地は土地改革で接収されなかった”等と述べた。16日,サルゴーダ。
DIA-304-1977-02-18-1パキスタン1977年02月18日1970年代ハイデラーバードで反政府デモ―スィンド州の大豪族タールプル一族の一員でPNAに属するフェーズ・ムハマッド・タールプルが同地で警官隊に射殺された。ために,従来PPP支持者が多かったタールプル一族の大半は反PPPに回り,ハイデラーバードを中心に反PPP政府デモを展開,各地で警官隊と衝突した。
DIA-304-1977-02-20-1パキスタン1977年02月20日1970年代PNA大行進―アスガルTI委員長はカラチでPNAの行進を行なったが,無数の群衆が参加し,飛行場から20数キロの演説会場に到着するのに10時間半を要した。このため演説会は5時間遅れて真夜中に開始。
DIA-304-1977-02-20-2パキスタン1977年02月20日1970年代首相遊説―ブット首相はラホールで次のように演説した。①インフレに対する聖戦を行なう。②腐敗している者はPPPから追放する。③住宅や金は国有化しない。④選挙後に給与を引き上げる。
DIA-304-1977-02-20-3パキスタン1977年02月20日1970年代2月20日付米誌“ニューズウィーク”によれば金日成北朝鮮主席は最近2度にわたり,ブット・パ首相を通じて米との関係改善への関心を表明した。
DIA-304-1977-02-21-1パキスタン1977年02月21日1970年代首相辞任を要求―アスガルTI委員長はカラチでの演説で“PNAは選挙に勝っても負けてもあるいは選挙を待たずとも政権をとる”と述べ,ブット首相の辞任を要求した。
DIA-304-1977-02-21-2パキスタン1977年02月21日1970年代外務省は“回教諸国との関係の概観”を発表。
DIA-304-1977-02-22-1パキスタン1977年02月22日1970年代首相,PNAを非難―ブット首相はグジャラートの演説で特にアスガルTI委員長を非難し,“憲法をくつがえそうとの試みは断固粉砕する”と述べた。
DIA-304-1977-02-23-1パキスタン1977年02月23日1970年代タクスィラー重鋳鍛造工場開所―中国援助によるもので,エンジニアリング計画としてはパ最大。
DIA-304-1977-02-25-1パキスタン1977年02月25日1970年代ティッカ・カーン,記者会見―国防担当首相特別補佐官のティッカ前陸軍参謀長は,71年印・パ戦での東パ戦線指揮官であったニアーズィー退役陸軍少将の24日のPNA加入と反政府演説を強く非難した。(ニアーズィー中将は3月24日,PNA中のJUPに入党)。
DIA-304-1977-02-26-1パキスタン1977年02月26日1970年代首相遊説―ブット首相はラホール近郊の5町村で演説,“ニアーズィー退役少将の加入によって,パの建国に反対し,かつ,インドに屈服した人々から成るPNAの形成は完了した”としてPNAを非難した。
DIA-304-1977-02-27-1パキスタン1977年02月27日1970年代首相,北西辺境州遊説(~28日)。
DIA-304-1977-02-28-1パキスタン1977年02月28日1970年代カラチ等でゼネスト―PNAは政府が選挙戦での暴力事件を放置しているとして抗議のゼネストを行ない,交通機関が完全に止まり,主要商店街も閉鎖された。総選挙に向けてのPNAとPPPの衝突による死者は1月初旬から23人に達する。
DIA-304-1977-03-01-1パキスタン1977年03月01日1970年代ブット首相,バルーチスターン州遊説。
DIA-304-1977-03-02-1パキスタン1977年03月02日1970年代PPP大行進―ブット首相はカラチで,途中での演説時間を含むと13時間に達する大行進を挙行,“有利”とされるPNAへの巻返しを図った。
DIA-304-1977-03-02-2パキスタン1977年03月02日1970年代アフガニスタンと航空協定調印―カーブルにて。これにより,74年来中断されていた両国の航空機相互乗り入れが4月3日から再開された。
DIA-304-1977-03-04-1パキスタン1977年03月04日1970年代不正選挙工作を非難―アスガルTI委員長は記者会見で“PPPによる不正選挙のための手段”を説明し,またこの日のカラチでの演説で,“私だけでも3000万人に対して演説をした。彼らはPNAを支持しており,PNAはすでに選挙で勝ったのだ”と述べた。
DIA-304-1977-03-05-1パキスタン1977年03月05日1970年代選挙運動最終日―ブット首相はラホールで演説。ラーワルピンディーではアスガルTI委員長のデモ隊に何者かが発砲,カラチでもPNAとPPPの武力衝突が発生。これらの事件で最低1人が死亡,12人が負傷。
DIA-304-1977-03-06-1パキスタン1977年03月06日1970年代核燃料製造工場―ブット首相は米誌U.S.News and World Report3月14日号のインタビューで,“パは仏の核燃料再処理工場を入手できずとも10年内に自力で核燃料製造工場を建設し得る”と語った。
DIA-304-1977-03-07-1パキスタン1977年03月07日1970年代下院選挙投票日―各地で衝突が生じ,政府発表では民間人の死者8名,負傷者130名,警官の負傷者13名が出た。ブット首相は投票終了と同時に政治集会・デモを禁止(選挙結果については資料参照)。
DIA-304-1977-03-08-1パキスタン1977年03月08日1970年代ブット首相,記者会見(ラーワルピンディー)―以下,発言要旨。①私は以前にPPPはパンジャーブの議席の80%を得ると文書で予想した(実際は93.1%獲得)。②不正選挙工作は全くなかった。③野党が混乱を起こそうとすれば厳しく対処する。④インド,アフガニスタンとの関係改善の努力は続ける。⑤パの仏からの核燃料再処理工場輸入に反対の米と話し合いたい。
DIA-304-1977-03-08-2パキスタン1977年03月08日1970年代PNA,州議会選挙ボイコットを発表―理由はPPP・政府による“不正選挙”。
DIA-304-1977-03-09-1パキスタン1977年03月09日1970年代PNA,当選国会議員の議席放棄を発表。
DIA-304-1977-03-10-1パキスタン1977年03月10日1970年代4州議会選挙投票日―PNAはボイコット。カラチ,ムルターン等でPPPとPNAの衝突多発,9~10日で死者42名,逮捕者および負傷者数百名。(選挙結果については資料参照)。
DIA-304-1977-03-11-1パキスタン1977年03月11日1970年代全国でゼネスト―PNAのアピールに従い全国各地でゼネスト。カラチでは交通機関が止まり,商店街は閉鎖され,鉄道,国営企業,PPP事務所等が放火され,警官隊が規制にあたった。軍は機関銃装備のトラックでパトロールを行なった。カラチで1人死亡。
DIA-304-1977-03-12-1パキスタン1977年03月12日1970年代首相,全国放送―以下,要旨。①総選挙結果は確定したもので総選挙やり直しはあり得ない。②ムフティーPNA委員長および彼の仲間たちとの対話を提案する。ただし円卓会議は行なわない。③PNAが法を踏みにじるのは許さない。
DIA-304-1977-03-12-2パキスタン1977年03月12日1970年代PNAの決定―PNA指導部がラホールでの記者会見で発表。①ブット首相と選挙管理委員全員は辞任し,新たな選管が司法府と軍の監督下に公正な総選挙を実施せよ。②新たな選管は選挙管理内閣が任命し,管理内閣は大統領が任命。③ブット首相との対話は拒否するが,管理内閣とは交渉してもよい。④以上の要求が満たされなければ14日から全国で反政府デモを開始。
DIA-304-1977-03-12-3パキスタン1977年03月12日1970年代イズミール協定―パ,イラン,トルコから成るRCD(地域開発協力機構)の外相会議がテヘランで開かれ,76年4月トルコのイズミールで開かれた首脳会議を踏まえ,10年内に3国に自由貿易地域を設置すること等をうたったイズミール協定が締結された。
DIA-304-1977-03-13-1パキスタン1977年03月13日1970年代首相書簡―ブット首相はムフティーPNA委員長あての書簡でPNAとの会談を提唱。翌14日,ムフティー委員長は返書で会談を一応拒否したが“新たな提案があるのなら喜んで次の会談で討議する”とした。
DIA-304-1977-03-14-1パキスタン1977年03月14日1970年代全国でデモ―全国各地で総選挙やり直しを要求するデモが行なわれ,所によっては警官隊,連邦保安隊が出動して催涙弾等で規制し,軍がパトロール。ムフティーPNA委員長とワリー・カーン(非合法民族人民党NAP党首)夫人であるナスィーム女史はペシャーワルで2時間の“保護拘禁”を受けた。なお,政府一辺倒だった“ドーン”紙にもPNAに関する報道が増加し始め,“警官隊はデモ隊に理解を示した”等,PNAに同情的な記事が出始めている。また,他の様々の紙誌の掲載写真ではデモ隊のプラカードには総選挙やり直しの他,物価引下げ,労働条件改善等の要求も見られる。
DIA-304-1977-03-14-2パキスタン1977年03月14日1970年代中国軍事代表団来訪(~31日)―楊成武中国人民解放軍副総参謀長以下14人。
DIA-304-1977-03-15-1パキスタン1977年03月15日1970年代首相書簡―ブット首相はムフティーPNA委員長に対する本日の書簡で会談を再度提案したが,“憲法の枠外のことは討議できない”とした。17日,ムフティーPNA委員長は会談拒否の返書を送付。
DIA-304-1977-03-15-2パキスタン1977年03月15日1970年代PNA書記長追放―去る13日にブット首相と秘密裡に会見したバジュワー氏はPNA書記長とJUP副委員長の地位を解任され,PNAから追放された。16日,PNA書記長後任にガッフールJI書記長選出。
DIA-304-1977-03-15-3パキスタン1977年03月15日1970年代警官隊が発砲―各地でPNAデモが続き,カラチでは警官隊の発砲により4人死亡,24人が入院。
DIA-304-1977-03-16-1パキスタン1977年03月16日1970年代群衆が発砲―反政府デモはパンジャーブ州,北西辺境州の一部農村地帯にも波及し始めた。スィンド州ハイデラーバードではこの日,群衆が石のみならず硫酸,火炎ビンを投げ,警官隊に発砲し,警官隊との射ち合いで群衆のうち1人が死亡,3名が重傷を負った。
DIA-304-1977-03-17-1パキスタン1977年03月17日1970年代エラーヒー大統領,国会を3月26日に招集。
DIA-304-1977-03-18-1パキスタン1977年03月18日1970年代PNA指導者を逮捕―この日,アスガルTI委員長,マザーリーNDP委員長等6人のPNA指導者が逮捕され,一方,PNAデモ隊と警官隊の衝炎でカラチで1人,ラーヤルプルで5人が死亡した。なお,各地のデモ隊は回教寺院から出発,片手にコーランを持っており,カラチでは酒屋が覆われた。
DIA-304-1977-03-18-2パキスタン1977年03月18日1970年代パ労働連盟(PLF),総選挙やり直しを要求。
DIA-304-1977-03-19-1パキスタン1977年03月19日1970年代カラチに軍出動,外出禁止令―18日のPNA指導者逮捕に抗議する群衆による大規模な放火・略奪が発生し,政府発表で民間人数人(ロイター電では17入)が死亡,また,国営の自動車工場が放火で大損害を受けた。軍が本格的に出動し,戦車も動員された。ナーズィマーバード等の西カラチおよびコーランギー等の東カラチ(いずれも中流以下の地域)に夜間外出禁止令が出された。暴動は他の9都市にも拡大し,群衆は容易に退去しなくなっており,法律家のデモも目立ち始めた。
DIA-304-1977-03-19-2パキスタン1977年03月19日1970年代ガッフールPNA書記長,カラチで逮捕さる。
DIA-304-1977-03-19-3パキスタン1977年03月19日1970年代首相書簡―ムフティーPNA委員長あて。以下,要旨。①PNAが選挙で有意味な議席を得たからこそ私は会談を提起するのだ。②貴殿の仲間たちはPNAが負ければ選挙結果を認めないと公言したが,これは彼らの民主主義理解の程度を示す。③合法的な道に戻る者は議員として建設的役割を果たす機会を持つだろう。
DIA-304-1977-03-20-1パキスタン1977年03月20日1970年代政府,PNA指導者釈放を指示―政府はアスガルTI委員長,マザーリーNDP委員長,ヌーラーニーJUP委員長,ガッフールPNA書記長の釈放を指示した。これは20日付のムフティーPNA委員長の19日付首相書簡に対す返書に基づく措置とされる。ムフティー返書は“PNA指導者たちを直ちに釈放しなければPNA首脳部の会議が開けず,貴殿の書簡に答えられない”としている。なお,13~20日の首相とムフティー氏との交換書簡は21日付主要紙で公開された。
DIA-304-1977-03-20-2パキスタン1977年03月20日1970年代暴動続く―政府発表ではカラチで1人死亡。諸病院情報では病院に収容された死者は6人。ハイデラーバードでは政府発表で17人負傷(うち警官5人)。PNA地方指導者によると死者15人,負傷者100人。“ドーン”紙がこのようにPNAの地方指導者の発表を掲載したのは反政府暴動開始以来初めて。
DIA-304-1977-03-21-1パキスタン1977年03月21日1970年代アスガル,釈放拒否―他の3人のPNA指導者が釈放に応じた中でアスガルTI委員長は“①(71年印・パ戦争以来の)非常事態宣言の撤回,②すべての政治犯の釈放”を出獄の条件として釈放を拒否した。一方,出獄したヌーラーニー氏はカラチで3月1日以来のPNA逮捕者は“1万人以上”とし,また,“ガンディー・インド首相は公正な選挙を行なうことによって民主主義に貢献した”と述べた。
DIA-304-1977-03-21-2パキスタン1977年03月21日1970年代選挙管理委員会,選挙結果を正式に発表。
DIA-304-1977-03-21-3パキスタン1977年03月21日1970年代大統領令―エラーヒーチ・ョードリー大統領は不正行為のあった選挙区の選挙結果を無効とする権限を選管に与える大統領令を発令した。
DIA-304-1977-03-22-1パキスタン1977年03月22日1970年代パの右派系日刑“ナワー・エ・ワクト(時の声)”紙はインドの総選挙結果を論評,“不正な介入によって選挙制度を踏みにじったりせず,国民が自由に判断することを認めた”とガンディー女史を称賛(AP)。
DIA-304-1977-03-23-1パキスタン1977年03月23日1970年代ムフティーPNA委員長はラホールで他のPNA指導者数名とともに逮捕された(数時間後釈放)。
DIA-304-1977-03-24-1パキスタン1977年03月24日1970年代射殺命令―スィンド州政府は軍に対し,放火・略奪・破壊活動等を行なう者は見つけしだい射殺せよとの命令を下した。
DIA-304-1977-03-24-2パキスタン1977年03月24日1970年代PNA,首相との会談を拒否。
DIA-304-1977-03-25-1パキスタン1977年03月25日1970年代PNA指導者逮捕―カラチでヌーラーニーJUP委員長,マザーリーNDP委員長等,ラホールでムフティーPNA委員長,ガッフール同書記長等,PNA主要指導者のほとんどが逮捕された。この日,ハイデラーバードにも軍の本格的出動(UPI)。なお,PNAは明26日の全国的ゼネストを呼びかけていた。
DIA-304-1977-03-26-1パキスタン1977年03月26日1970年代国会招集,PNAゼネスト―選挙後初の国会でPPPと無所属の議員たちの就任式が行なわれた。これらの新国会議員たちは婦人議員・少数宗教議員計16人(全員PPP)を選出。これにより,PPPは計216の下院議席中171議席を占めることとなった。なお,新婦人議員10人の中にはヌスラット・ブット首相夫人も含まれている。一方,PNAは国会招集に反対して全国でゼネストを行なった。その結果,デモ隊と警官隊の衝突で全国で少なくとも7人が死亡した(AP)。
DIA-304-1977-03-28-1パキスタン1977年03月28日1970年代ブット首相再選―国会はブット首相を168対0で再選した(任期5年)。同首相は就任演説で次のように述べた。①PNAが反政府運動をやめれば(71年来の)非常事態宣言を解除し,政治犯を釈放する。②コーランに合致し得る法律を検討するための委員会を設置したい。③PNAに対する会談提案はかなりの長期間にわたって有効とする。④新たな国有化は行なわない。⑤私はPPP党員に対して,憲法改正に必要な下院での3分の2以上の過半数を望むとは言わなかったし,不正選挙の指示もしなかったが,若干程度の不正行為はあったかもしれない。これは米国においてさえ行なわれていることだ。⑥パと米の関係は親密であり,パの内政に干渉する理由を米は全く持っていなかったと確信する。
DIA-304-1977-03-28-2パキスタン1977年03月28日1970年代西カラチの一部を除き,カラチの外出禁止令解除。
DIA-304-1977-03-29-1パキスタン1977年03月29日1970年代新駐パ米大使―カーター米大統領は次期駐パ大使としてジョージS.ヴェスト前国務省政治軍事部長を決定した(3月30日付“Washington Post”紙)。
DIA-304-1977-03-30-1パキスタン1977年03月30日1970年代ブット首相,新内閣組織(資料参照)。
DIA-304-1977-03-30-2パキスタン1977年03月30日1970年代女性だけのデモ―30日,PNAは28日の首相提案を拒否,反政府運動の継続を発表した。この日,ブルカ服で顔・全身をおおった女性たちだけのデモが行なわれた。“ドーン”紙によれば,これは女性だけのデモとしては“かつてない大規模なもの”であった。
DIA-304-1977-03-30-3パキスタン1977年03月30日1970年代スィンド州議会招集―同州議会は翌31日,ジャトーイ州首相を再選した。
DIA-304-1977-03-30-4パキスタン1977年03月30日1970年代フニョーペク・チェコ外相来訪―4月4日共同声明を発表。
DIA-304-1977-03-31-1パキスタン1977年03月31日1970年代議席剥奪―選管は総選挙での不正行為を理由にチーマ前鉄道相の下院議席を剥奪した。(以後,同じ理由で4月20日までに6人が下院議席を剥奪された)。
DIA-304-1977-04-01-1パキスタン1977年04月01日1970年代スィンド州ナワーブシャーでPNAデモ隊とPPPおよび警官隊が衝突,3人死亡。
DIA-304-1977-04-02-1パキスタン1977年04月02日1970年代政府は,対パ債権国会議諸国は対パ援助額決定のために5月初めワシントンで会議を開く予定と発表。
DIA-304-1977-04-04-1パキスタン1977年04月04日1970年代バージパイ・インド外相,印・パ不戦条約を提案―同外相は“パがなぜさらに多くの武器を必要とするのか理解に苦しむ”と述べ,この提案が,米が最近対パ武器援助を決定したと伝えられることへの対抗手段であることを示唆した(UPI)。パは同提案を拒否。
DIA-304-1977-04-05-1パキスタン1977年04月05日1970年代キアーニーPPP上院議員,辞任。
DIA-304-1977-04-05-2パキスタン1977年04月05日1970年代デモ―5日も各地で反政府デモが行なわれたが,教育機関再開を要求する学生デモが目立った。カラチでは2000人の報道関係者が報道の自由を要求してデモ。アスラム・パ社会党委員長は“現情を打解し得るのは総選挙のやり直しのみだ”と語った(以上AP)。
DIA-304-1977-04-05-3パキスタン1977年04月05日1970年代不正選挙調査―選管は不正選挙調査のために30の下院選挙区の投票記録等を差しおさえた。
DIA-304-1977-04-05-4パキスタン1977年04月05日1970年代バローザーイ・バルーチスターン州首相就任。
DIA-304-1977-04-06-1パキスタン1977年04月06日1970年代カラチの外出禁止令,全面解除。
DIA-304-1977-04-06-2パキスタン1977年04月06日1970年代I.K.ジャドゥーン北西辺境州首相就任。
DIA-304-1977-04-08-1パキスタン1977年04月08日1970年代PPPを脱党―T.M.ラーンガPPPパンジャーブ州支部書記次長等6名が脱党してパキスタン人民民主党(PAJP)を結成。
DIA-304-1977-04-09-1パキスタン1977年04月09日1970年代暴動―ラホールでパンジャーブ州議会開会を阻止しようとする群衆と警官隊が衝突,政府発表で8人が死亡,77人が負傷し,警官隊も負傷者94人を出した。PNAによれば死者は33人,負傷者は300人(ロイター)。PNAによればムザッファルガル近郊のレイアでも7人が射殺された。
DIA-304-1977-04-10-1パキスタン1977年04月10日1970年代ロンドンでデモ―ロンドンでパ人2000人による反パ政府デモが行なわれた(ロイター)。カラチではこの日,警官隊と連邦保安隊が群衆に発砲,政府発表で5人が死亡。同日,PNAは税金不払い運動の開始を訴える声明を発表した。
DIA-304-1977-04-11-1パキスタン1977年04月11日1970年代国有解除を検討―ピールザーダ財政相はカラチでの実業界との会合で,精米,製粉,食用油工場を民間に返還することを検討中であると語った。
DIA-304-1977-04-11-2パキスタン1977年04月11日1970年代クレーシー・パンジャーブ州首相,再選さる。
DIA-304-1977-04-12-1パキスタン1977年04月12日1970年代PNA寄りのパ労働連合(PLA)結成―カラチで。20労組連盟が参加(13日付“ドーン”紙)。150万人を擁するパ国民労働連盟(PNFT,ムハマッド・シャリーフ委員長)が中心となったもので,直ちに,国営銀行および国鉄の労組を含む26労組の支持を得た(Far Eastern Economic Review誌7月1日号)。
DIA-304-1977-04-13-1パキスタン1977年04月13日1970年代ムバッシル・ハッサンPPP書記長辞任―この日また,S.A.アリー下院議員およびパンジャーブ州議会議員2人が辞任。(以後,4月末までに計4人が下院議員を,少なくとも計5人が州議会議員を辞任。)
DIA-304-1977-04-13-2パキスタン1977年04月13日1970年代駐スペイン大使,辞任―ラヒーム・カーン退役空軍中将はブット首相の独裁に抗議して大使を辞任。
DIA-304-1977-04-13-3パキスタン1977年04月13日1970年代州議会選挙やり直しの提案―ブット首相はBBC特派員との会見で,“4州議会選挙をやり直し,PNAが議席の過半数を得れば下院選挙もやり直す”との提案を検事総長名で行なったことを明らかにした(提案日は不明)。同首相はまた,“極右,極左勢力も巧妙な方法で暴動に参加してきた”と述べた。
DIA-304-1977-04-14-1パキスタン1977年04月14日1970年代グル・ハッサン駐ギリシア大使,辞任(退役陸軍中将)―ブット氏を政権につかせた陰の主要人物。
DIA-304-1977-04-14-2パキスタン1977年04月14日1970年代カラチでPLAとPNA主導のゼネスト。
DIA-304-1977-04-14-3パキスタン1977年04月14日1970年代首相演説―ブット首相はラホールでPPP活動者に対し,“暴動鎮圧は治安当局にまかせ,党員は内戦(ロイター。“ドーン”紙では単に‘衝突’となっている)を避けるべく自制してほしい”と語った。
DIA-304-1977-04-15-1パキスタン1977年04月15日1970年代PPP発砲―PPP支持者がPNAデモ隊に発砲,政府発表ではラホールで4人,カラチで1人が死亡。また,双方が略奪行為を行なった(以上UPI)。パンジャーブ州ジャーンプルでは警官発砲で3人死亡。暴動発生以来の死者は政府発表で131人。PNAによれば死者300人,負傷者数千人,逮捕者2万8000人。なお,このころからPPPとPNAの武力衝突が頻繁に伝えられるようになった。
DIA-304-1977-04-15-2パキスタン1977年04月15日1970年代警官,PNAデモに参加か―北西辺境州D.I.カーンで警官2名がPNAの反政府デモに参加したといわれる。18日,本人たちはこれを否定した。
DIA-304-1977-04-15-3パキスタン1977年04月15日1970年代PNA,検事総長提案を拒否(13日参照)。
DIA-304-1977-04-15-4パキスタン1977年04月15日1970年代ブット首相,報道・出版令の撤廃を発表。
DIA-304-1977-04-16-1パキスタン1977年04月16日1970年代PPP議員が再選挙要求―ショウカット・ハヤート等7人のPPP下院議員が総選挙やり直しを要求する声明を発表。7人のほとんどが大地主で建国以来の指導的政治家。ショウカット,PPPから除名さる。
DIA-304-1977-04-16-2パキスタン1977年04月16日1970年代在モスクワ・パ大使館の2等書記官,辞任。
DIA-304-1977-04-16-3パキスタン1977年04月16日1970年代第5次開発計画―イスラーマバードのある経済学者によると,第5次開発計画(6年間,77年7月~83年6月)の総投資は1900億ルピー以上で,GNPの伸び率は当初5%,後半は7%になる予定。計画は食糧自給達成と基幹産業の生産増を目標としている。
DIA-304-1977-04-17-1パキスタン1977年04月17日1970年代パ国際航空(PIA)操縦士,スト(~21日)―賃上げ等を要求。鉄道労働者も賃上げ,労働条件改善等を要求して2~3日後にスト突入の予定。
DIA-304-1977-04-17-2パキスタン1977年04月17日1970年代ブット首相,記者会見―以下,発言要旨。①集会・デモ禁止を解除。②飲酒,賭博,ナイト・クラブを禁止。③煽動行為は宗教の名において今や農村部にまで拡大した。④総選挙をやり直すか否かで国民投票は行なわない。⑤軍部が圧力をかけてくれば処罰する。
DIA-304-1977-04-17-3パキスタン1977年04月17日1970年代上院24空席が無投票で充足された(全員PPP)。
DIA-304-1977-04-18-1パキスタン1977年04月18日1970年代“聖戦”―この日,PNAはブット首相に対する“聖戦”を訴えて各地でデモ行進,PPP支持者と衝突し,ラーイヤルプルではPPPの発砲により政府発表で3人が死亡。ナスルッラーPNA委員長代行は“ブット首相は国を内戦に追いこみたいのだ”と非難した。カラチでは身体障害者による反政府デモ。
DIA-304-1977-04-18-2パキスタン1977年04月18日1970年代大使館占拠―20人のパ人がパ政府に抗議してロンドンのパ大使館を占拠した。数時間後退去(AFP)。
DIA-304-1977-04-18-3パキスタン1977年04月18日1970年代軍人・政府公務員給与引上げ―5月1日実施。
DIA-304-1977-04-19-1パキスタン1977年04月19日1970年代元労相でPPP左派指導者として著名であり,この数年来獄中にあるメーラージュ・ムハマッド・カーンは獄中からのメッセージで反政府運動の強化を訴えるとともに,“社会主義か回教かという論議の落とし穴に陥らないよう”警告した。
DIA-304-1977-04-19-2パキスタン1977年04月19日1970年代米,対パ催涙弾の輸出を延期。
DIA-304-1977-04-20-1パキスタン1977年04月20日1970年代大衝突―従来のゼネストは1~2日単位であったが,PLAとPNAの主導によるとの日のゼネストは無期限。PPPとの衝突により政府発表で9人(病院発表で12入)が死亡,70人が負傷した。ロイター電では軍の発砲により1人死亡,警備の軍人が乗っている列車がPNAデモ隊に突っ込み2人死亡,PPPとPNAの衝突で15人死亡,負傷者計150人。このため21日夜明けからの無期限外出禁止令が布告された。
DIA-304-1977-04-20-2パキスタン1977年04月20日1970年代16日に再選挙を要求した7人のうちショウカット等3人は20日に正式に下院議員を辞任し(うち1人は同日これより先に議席を剥奪された),“国を救うにはPPPの下院議員たちがブット氏に対する無血クーデターを行なう必要がある”と訴えた。
DIA-304-1977-04-20-3パキスタン1977年04月20日1970年代対パ債権国会議延期―5月予定を7月に延期。
DIA-304-1977-04-21-1パキスタン1977年04月21日1970年代戒厳令―この日も全国各地で反政府デモが行なわれた。現地英字紙には死者数は出ていないがAP電によると,PNAとPPPの衝突,PNAデモ隊に対する警官隊・連邦保安隊の発砲でカラチで19人,ハイデラーバードで13人が死亡。同日夜,政府は“まず手始めに”カラチ省,ハイデラーバード県,ラホール県の各全域に戒厳令を布告,都市部には外出禁止令も出された。
DIA-304-1977-04-22-1パキスタン1977年04月22日1970年代暴動―軍がデモ隊に発砲,政府発表でカラチで5人,ハイデラーバードで2人死亡。AP電ではカラチだけで20人死亡。この他,全国でゼネストが続けられ,PNAとPPPおよび警官隊の衝突が多発,パンジャーブ州ダスカでは7人(PNAによれば30人)が死亡(AFP)。ロイター電では全国での死者は計34人,AFP電が一部報道として伝えるところによると計60人近いという。一方,ラホールは完全武装した軍の警備下に静まり返っている(“日経”)。この日,ラーイヤルプルにも外出禁止令が出された。また,インドに続く道路がワガ国境で閉鎖された(鉄道は閉鎖されていない)。
DIA-304-1977-04-23-1パキスタン1977年04月23日1970年代一斉逮捕―23~24日にPNAのナスルッラー委員長代行,M.J.アッバースィー副委員長代行,ワズィール書記長代行等,第2線級のPNA幹部48人が逮捕された。これより先PNAはジア・ウル・ハック陸軍参謀長にブット政権支持をやめるよう要請する決定をしていた。また,同23日,政府は58年,69年に次ぐ3度目の報道事前検閲制を導入した(以上AFP)。なお,カラチの有力ウルドゥー語紙“ジャング”は今までの死者は1万人,負傷者数万人と発表(“毎日”)。
DIA-304-1977-04-23-2パキスタン1977年04月23日1970年代スィアールコートとバハーワルナガルに外出禁止令。(スィアールコートの外出禁止令は26日解除)。
DIA-304-1977-04-24-1パキスタン1977年04月24日1970年代キルマーニー駐エジプト大使辞任。
DIA-304-1977-04-26-1パキスタン1977年04月26日1970年代戒厳令違憲裁判―パンジャーブ州高裁は戒厳令を違憲とするPNAの訴えを25日に受理,翌26日に審理を開始した(共同通信)。
DIA-304-1977-04-27-1パキスタン1977年04月27日1970年代軍部,現政府支持を声明―統合参謀本部議長以下3軍参謀長は同声明中で,“合法的に成立した現政府を支持する”とするとともに,“国内混乱を外国諸勢力が利用する”可能性に憂慮を表明している。
DIA-304-1977-04-27-2パキスタン1977年04月27日1970年代ブット首相,ティッカ・カーン前陸軍参謀長を国防・国家安全保障担当国務相に任命(閣僚級)―25日に上院議員に選出されていた。旧東パ弾圧等で有名。
DIA-304-1977-04-27-3パキスタン1977年04月27日1970年代PNA,首相提案を討議―首都近郊のスィハーラ警察大学に最近集められたPNA幹部は13日以来のブット首相の諸提案の討議を開始した。
DIA-304-1977-04-27-4パキスタン1977年04月27日1970年代イクバール・リザ駐仏公使,辞任。
DIA-304-1977-04-28-1パキスタン1977年04月28日1970年代首相,米を非難―ブット首相は両院合同会議で演説,名指しは避けながらも米が“選挙戦中にドルをばらまいてPNAを支援した”とし,また,“自分の外交政策に対しことごとく反対した”と様々の例を出し,強い口調で米を非難した。同日,米国務省はこれを否定し,また,米政府筋は新駐パ大使の任命が同日撤回されたことを明らかにした(“朝日”)。
DIA-304-1977-04-28-2パキスタン1977年04月28日1970年代近隣諸国軍事訓練―Far Eastern Economic Review誌7月1日号によると,この頃パの近隣諸国がパ国境で軍事訓練を行なっていたという。
DIA-304-1977-04-28-3パキスタン1977年04月28日1970年代アラブ諸国,調停開始―ハーリド・サウジアラビア国王の特使とスウェーディー・アラブ首長国連邦外相(~5月1日)がパ政府とPNAの調停のために来訪。
DIA-304-1977-04-29-1パキスタン1977年04月29日1970年代ラホールの外出禁止令解除。カラチの外出禁止令も次第に大幅緩和に向っている。
DIA-304-1977-04-30-1パキスタン1977年04月30日1970年代アスガル・軍に訴え,―アスガルTI委員長(退役空軍中将)はメッセンジャーを通じて軍首脳部に現政府を支持しないように要望(AP)。5月4日,国防省スポークスマンは“アスガルは軍の忠誠心をくつがえそうとしている”と強く非難した。
DIA-304-1977-04-30-2パキスタン1977年04月30日1970年代PNAは全国から首都に向う“大行進”を予定していたがPNA幹部を初めとする指導者たちの逮捕と軍の厳重な警備のために“不発”に終った。
DIA-304-1977-04-30-3パキスタン1977年04月30日1970年代ラーイヤルプルの外出禁止令解除。
DIA-304-1977-04-30-4パキスタン1977年04月30日1970年代米国務長官書簡―ブット首相は“静かに話し合う”ことを求めたバンス米国務長官の29日付書簡に対し,“この会談が静かであろうがなかろうが,原則を堅持して妥協には応じないが会談には応じる”と述べた。
DIA-304-1977-05-02-1パキスタン1977年05月02日1970年代中国人を人質―中国との国境に近い山岳地帯でコーヒスターン族がブット首相の辞任等を要求,カラコルム・ハイウェー建設に従事している中国人民解放軍労働隊1200人とパ軍工兵隊1000人を4月末以来包囲している。陸維釗駐パ中国大使は最近ブット首相に会い,中国側の懸念を伝えた(AP)。4日,軍出動,5人死亡,57人逮捕(パンジャーブ大学South Asia Papers,6月号)。
DIA-304-1977-05-04-1パキスタン1977年05月04日1970年代リビアも調停―トリエキ・リビア外相が来訪,パ政府とPNAの調停に努めた(同日スイスへ)。
DIA-304-1977-05-05-1パキスタン1977年05月05日1970年代PNA提案―PNAはパガーロー議長代行を通じ,“①非常事態宣言,戒厳令等の解除。②政治犯釈放。③国会・4州議会解散と総選挙実施。④ブット首相の辞任”など政局打開のための32項目要求を発表。
DIA-304-1977-05-05-2パキスタン1977年05月05日1970年代核開発能力―インドの“ヒンドゥースターン・タイムズ”紙がPPP左派系週間誌“アル・ファタハ”を引用して伝えたところによると,パはいつでも地下核実験を行なう段階にある。同紙によると中国がパに協力している兆候があるという。また,ストックホルムの国際平和調査研究所によると,パはすでに20Kt級の原爆9個を作るのに十分なプルトニウムを有している。 6日―ラホールに再び外出禁止令布告―これを無視したPNAデモ隊に軍が発砲,政府発表で3人死亡,8人負傷。ハイデラーバードでも2人負傷。 7日―首相の演説中止―ブット首相がこの日ラホールで軍人に対する演説を予定していたが,ラホール県軍行政官(戒厳令司令官)であるイクバール・カーン陸軍中将(ラホール方面軍団司令官)等の出席拒否のため中止(7月7日付“日経”)。
DIA-304-1977-05-11-1パキスタン1977年05月11日1970年代国有一部解除―アヌワル・アズィーズ農事管理相は2072の国有精米所のうち中小規模の1523精米所を元の所有者に返還すると発表した。6月4日,この旨の大統領令が発令された。
DIA-304-1977-05-12-1パキスタン1977年05月12日1970年代軍将校,辞表提出か―ラホールの陸軍第10歩兵師団旅団長4人(准将),将校55人が辞表を提出した(AP)。ブット首相はこれを否定。
DIA-304-1977-05-12-2パキスタン1977年05月12日1970年代ブット首相,ムフティーPNA委員長と会談。
DIA-304-1977-05-13-1パキスタン1977年05月13日1970年代イクバール陸軍中将,辞表提出か―のち,撤回か。政府は同中将の辞任を否定(AP)。
DIA-304-1977-05-13-2パキスタン1977年05月13日1970年代全国で反政府デモ―“暗黒の日”と称してPNAのデモが各地で行なわれ,軍の発砲によりラホールでは政府発表で2人死亡。ムルターンではデモ隊と警官隊の衝突で政府発表で2人,AFP電によると8人が死亡した。14日,ムルターン市に軍出動,外出禁止令。
DIA-304-1977-05-13-3パキスタン1977年05月13日1970年代首相,国民投票を提案―ブット首相は国会で演説,“総選挙のやり直しは行なわない。議会を犠牲にするくらいなら個人的地位の方を犠牲にする”として,自分が首相の地位にとどまるべきか否かについて国民投票を行なうと発表。PNAはこれを拒否。16日,国民投票実施のための第7次憲法改正案が下院で採択された。
DIA-304-1977-05-14-1パキスタン1977年05月14日1970年代政府,選管の不正選挙調査を停止。
DIA-304-1977-05-14-2パキスタン1977年05月14日1970年代テヘランでCENTO閣僚理事会(~15日)―パは駐イラン大使を出席させ,アズィーズ外相を欠席させた。17日,バンス米国務長官はこれを非難。
DIA-304-1977-05-15-1パキスタン1977年05月15日1970年代ユーゴ貿易・科学代表団来訪―20日,合同閣僚委員会設立の議定書に調印。
DIA-304-1977-05-15-2パキスタン1977年05月15日1970年代サバハ・クウェート外相,パ政局調停のため来訪。
DIA-304-1977-05-16-1パキスタン1977年05月16日1970年代パ・イラン合同閣僚会議(イスラーマバード,~18日)―18日,合弁事業等の経済協力議定書調印。イランは支払収支の1.5億ドル援助のほか,5.8億ドルの資金援助を約束した。
DIA-304-1977-05-17-1パキスタン1977年05月17日1970年代衝突―パンジャーブ州カーンプルのPNA集会で,PNA支持者とPPP支持者が衝突し,PNAに近い筋によれば,警官隊に護衛されたPPP支持者により9名のPNA支持者が殺害された(AFP)。
DIA-304-1977-05-20-1パキスタン1977年05月20日1970年代反政府デモ―この日も各地で反政府デモが行なわれ,スィアールコートでは警官隊の発砲により政府発表で4人死亡。AFP電では全国で7人死亡。
DIA-304-1977-05-22-1パキスタン1977年05月22日1970年代金日成北朝鮮主席のメッセージ―同主席は外国勢力による対パ“内政干渉”に対するパの安全確保努力を支持するメッセージをブット首相に送付。
DIA-304-1977-05-25-1パキスタン1977年05月25日1970年代PLO特使,与野党対立調停―スィハーラでムフティー・マハムードPNA委員長と会談。
DIA-304-1977-05-25-2パキスタン1977年05月25日1970年代対パ債権国会議,再び延期され9月の予定。
DIA-304-1977-05-27-1パキスタン1977年05月27日1970年代政府は政治的・宗教的スローガンないし伝言が書き込まれた銀行券は6月2日から無効と発表。
DIA-304-1977-05-30-1パキスタン1977年05月30日1970年代6月3日に与野党会談開始―ニアーズィー宗教相発表。調停に努めてきたハーティブ駐パ・サウジアラビア大使は“会談の行方は楽観的だ”と語った。
DIA-304-1977-05-31-1パキスタン1977年05月31日1970年代ブット首相,軍首脳部と会談―国内政治問題について。会談は3時間にわたった。
DIA-304-1977-05-31-2パキスタン1977年05月31日1970年代経済悪化―ピールザーダ財政相は国営APP記者との会見で,“暴動の結果,GNPに40~50億ルピーの損失が出て,経済の見通しは厳しい”と述べた。
DIA-304-1977-06-01-1パキスタン1977年06月01日1970年代PNA幹部釈放―この日,トゥファイルJI委員長釈放。2日,ムフティーPNA委員長,ナスルッラー同副委員長,ガッフール同書記長等釈放。
DIA-304-1977-06-01-2パキスタン1977年06月01日1970年代米パ会談―パリの国際経済協力会議出席中のアズィーズ外相は同地でバンス米国務長官と会談,両国の友好関係を回復することで合意した。
DIA-304-1977-06-01-3パキスタン1977年06月01日1970年代中国はパとの間に,タルベーラに2万50CO錘の繊維工場(6000万ルピー)を建設する協定に調印。
DIA-304-1977-06-02-1パキスタン1977年06月02日1970年代パンジャーブ州高裁,戒厳令に違憲判決―政府はただちに上告したが,翌3日,最高裁は上告審判決までパンジャーブ州高裁判決の効力差止めを求める政府の要請は却下した。(スィンド州高裁は5月22日に合憲判決を出した。)
DIA-304-1977-06-02-2パキスタン1977年06月02日1970年代北西辺境州にハザーラ県(District)新設。
DIA-304-1977-06-03-1パキスタン1977年06月03日1970年代与野党会談開始―初の与野党会談が開かれ,以下の点で合意。①集会・デモ禁止令による逮捕者の釈放。②報道の事前検閲制の撤回。③会談期間中,集会・デモを中止。政府代表はブット首相,ピールザーダ財政相,ニアーズィー宗教相,PNA代表はムフティー委員長,ガッフール書記長,ナスルッラー副委員長。なお,ジア・ウル・ハック陸軍参謀長が20分ほど会談を傍聴。
DIA-304-1977-06-03-2パキスタン1977年06月03日1970年代釈放―アスガルTI委員長,S.B.マザーリーNDP委員長,ヌーラーニーJUP委員長,アシュラフ・カーンKT委員長の他,2000人が釈放された。
DIA-304-1977-06-04-1パキスタン1977年06月04日1970年代米,対パ戦闘機売却中止―米政府は,昨年11月のパに対するA7戦闘機110機売却(7億ドル)の決定を,カーター政権の武器制限政策にしたがって中止。
DIA-304-1977-06-06-1パキスタン1977年06月06日1970年代バクティヤール検事総長は3月14日~5月27日までに政治混乱で241人死亡,1195人負傷と発表。ムフティーPNA委員長によれば死者は1000人。
DIA-304-1977-06-07-1パキスタン1977年06月07日1970年代政府,戒厳令の即時解除を発表―本日の第3回与野党会談での合意に基づく措置。
DIA-304-1977-06-07-2パキスタン1977年06月07日1970年代アスガルの警告―アスガルTI委員は記者会見で,“政府は会談で引き延ばし戦術をとっており,私が最も不満を持っている。政府が野党非難宣伝をやめ,24時間以内に野党活動者全員を釈放しなければさらに激しい運動を開始する”と警告した。
DIA-304-1977-06-07-3パキスタン1977年06月07日1970年代ヌーンPPP下院議員辞任,TIに入党。
DIA-304-1977-06-07-4パキスタン1977年06月07日1970年代中央銀行,公定歩合を9%から10%に引き上げ。
DIA-304-1977-06-08-1パキスタン1977年06月08日1970年代ニアーズィー情報相は“集会・デモ禁止令による逮捕者1万2900人全員が既に釈放された。他の罪による逮捕者は3027人中1000入が釈放された”と発表。
DIA-304-1977-06-08-2パキスタン1977年06月08日1970年代G.M.カルPML副委員長,PPPに再入党―元パンジャーブ州首相。75年9月にPPPを脱党。
DIA-304-1977-06-10-1パキスタン1977年06月10日1970年代CENTO脱退示唆―ブット首相は下院で,“CENTOが待パ差別を続ければ脱退を考慮する。また,仏の核燃料再処理工場は必ず輸入する”と言明。
DIA-304-1977-06-10-2パキスタン1977年06月10日1970年代経済白書出来(資料参照)。
DIA-304-1977-06-11-1パキスタン1977年06月11日1970年代77年度予算案および年次開発計画,下院に上程(資料参照)―実質審議のないまま24日下院を通過。
DIA-304-1977-06-14-1パキスタン1977年06月14日1970年代年内に総選挙―以下,第8回与野党会談での合意点。①年内に現憲法下第2次総選挙を実施(総選挙の“やり直し”にあらず。また,PNAは総選挙実施は8月15日以前としていた)。②選管の再編と権限の大幅増大。③総選挙は現政府が実施(ブット首相辞任要求および閣僚の3分の2をPNAが占める暫定政府の樹立要求は取り下げ)。④紛争中の死傷者に対する補償。⑤最終的合意成立後に非常事態を解除,また,殺人犯等を除き紛争中の逮捕者を全員釈放。
DIA-304-1977-06-15-1パキスタン1977年06月15日1970年代PNA支持者の反応―この日の与野党会談は今までの合意点の細目をピールザーダ財政相とガッフールPNA書記長から成る小委員会が討議することで合意。会談後,ブット首相とムフティーPNA委員長は抱擁。街頭ではPNA支持者のデモ隊が“ブットとムフティーは兄弟だ。われわれは何のために命を捨てたのか”と叫んでいた(F.E.E.R.6月24日号)。
DIA-304-1977-06-15-2パキスタン1977年06月15日1970年代ラールカーナ省新設―7月1日から。同省はラールカーナ,ジェイコバーバード,シカールプル3県から成る。シカールプル県はサッカル県から分かれて新設。これでスィンド州は4省から成ることになる。
DIA-304-1977-06-15-3パキスタン1977年06月15日1970年代人口―政府発表では77年7月1日の推定人口は7343万(推定人口増加率は3.0%)。うち72%が4万5000村に居住,都市人口2200万。毎年30万人が農村から都市に流入,都市人口増加率は年間4.8%。
DIA-304-1977-06-16-1パキスタン1977年06月16日1970年代ブット首相,国会で演説―以下,要旨。①PPPは次期総選挙でさらに強くなる。②PPP議員たちは意気消沈しないでほしい。動揺する者は党を去れ。
DIA-304-1977-06-16-2パキスタン1977年06月16日1970年代G.M.カル,首相特別補佐官に任命さる。
DIA-304-1977-06-18-1パキスタン1977年06月18日1970年代ブット首相,回教諸国歴訪―パの政局調停に対する協力に謝意を表すためとされる。18日,サウジアラビア。18~19日,リビア。20日,アラブ首長国連邦で回教諸国間の防衛条約ないし相互不可侵条約を提唱(75年4月にもRCD3国の防衛条約を提唱していた)。21日,クウェートでアラファトPLO議長とも会談。同21日,10月7日に総選挙実施とイランで発表。22日,アフガニスタン訪問(予定外),ダウード大統領に相互不可侵条約を提唱。23日帰国。
DIA-304-1977-06-19-1パキスタン1977年06月19日1970年代カラチでPPPデモ隊とPNAデモ隊が衝突,警官隊の催涙弾で解散させられた。
DIA-304-1977-06-20-1パキスタン1977年06月20日1970年代政府・PNA小委員会会談が行き詰まった。
DIA-304-1977-06-21-1パキスタン1977年06月21日1970年代中国,作業班を撤収―中国はカラコルム・ハイウェー建設の作業隊を撤収中。現在,4000人のパ軍が警備中。最近,駐パ中国大使館武官が当該地を訪問(6月21日付Washington Post紙)。
DIA-304-1977-06-22-1パキスタン1977年06月22日1970年代パ鉄鋼公社従業員1万5000人スト(~30日)―休暇規則等の改善を要求。
DIA-304-1977-06-23-1パキスタン1977年06月23日1970年代協定案―PNAは政府側に最終協定案を提出。政府側はこれを不満とし,25日,政府側協定案をPNAに提出。26日,PNAは修正案を提出,“これを政府がのまなければ反政府運動を再開する”と警告。
DIA-304-1977-06-23-2パキスタン1977年06月23日1970年代中国民航(CAAC)代表団,来訪(~30日)―29日,同代表団はパ側との間に,中国からカラチ経由でアフリカに至る航空路開設の覚書に調印した。
DIA-304-1977-06-24-1パキスタン1977年06月24日1970年代ラホールでPPP支持者とPNA支持者衝突。
DIA-304-1977-06-27-1パキスタン1977年06月27日1970年代パ政府,ジブチ共和国を承認。
DIA-304-1977-06-28-1パキスタン1977年06月28日1970年代クーデターを予期?―ブット首相は記者会見で,“野党も政局打開に努めなければ憲法も民主主義も何もかも失なわれる。誰が(政権を)奪取するか分からない。それはラスプーチン(帝政ロシア時代に権力を欲しいままにした怪僧)かイワン雷帝か……”と述べた。
DIA-304-1977-06-29-1パキスタン1977年06月29日1970年代ナスルッラーPNA副委員長は記者会見で,“政府がPNAに5つの閣僚ポストと一般下院議席55および婦人議席4の提供を申し出たが拒否した”と語った。
DIA-304-1977-06-29-2パキスタン1977年06月29日1970年代新輸入政策発表―機械類,部品,原材料の輸入制限緩和,フリー・リスト不変などを骨子とする。
DIA-304-1977-06-30-1パキスタン1977年06月30日1970年代カラチに大雨―7月20日までに221人死亡。7月3日までの工業地帯の損失は推定10億ルピー。
DIA-304-1977-07-01-1パキスタン1977年07月01日1970年代与野党第12回会議―1日夜8時から2日午前6時半まで徹夜会談。2日朝,すべての点で合意に達し,協定は調印を待つのみと双方が発表。会談には,シャリーフ統合参諜本部議長および3軍の参謀長も出席。
DIA-304-1977-07-01-2パキスタン1977年07月01日1970年代本日から金曜休日,木曜は半日勤務となった。
DIA-304-1977-07-01-3パキスタン1977年07月01日1970年代前掲F.E.E.R.誌7月1日号によれば3月来の暴動による損失は政府推定で7.3億ドル。
DIA-304-1977-07-02-1パキスタン1977年07月02日1970年代アスガルTI委員長,記者会見―“PNA代表団はPNAの基本的立場を受けいれるという越権行為を犯した。与野党が最終的合意に達したとするのは間違いだ”と述べた。3日,同氏はガッフールPNA書記長に代り,PNAの新スポークスマンとなった。
DIA-304-1977-07-02-2パキスタン1977年07月02日1970年代ラホールでPPPとPNAが武力衝突。両者の武力衝突はほとんど毎日発生している。
DIA-304-1977-07-03-1パキスタン1977年07月03日1970年代40年ぶりの大雨で全国の被害拡大。コレラなどの伝染病発生。ブット政権の無策に対する非難強まる。
DIA-304-1977-07-04-1パキスタン1977年07月04日1970年代首相,PNAを非難―ブット首相はこの日2度の記者会見で,“PNAは新たな10~11項目の要求を提出し,与野党合意を踏みにじった。PNAが議論を蒸し返すなら政府側も同数の要求を出す”と強く非難したが,“明日にも協定に調印する用意がある”と言明。
DIA-304-1977-07-04-2パキスタン1977年07月04日1970年代労働者,新政党結成か―選挙戦中はPPPを支持していたパ労組連盟(PTUF)が中心となり,“進歩的勢力の権利擁護”のために新政党を結成する決定がラホールで採択された。
DIA-304-1977-07-04-3パキスタン1977年07月04日1970年代ハンメル駐パ米大使,ブット首相と会見―大使の要請による。大使は午前1時に首相官邸来訪。
DIA-304-1977-07-05-1パキスタン1977年07月05日1970年代クーデター―ジア・ウル・ハック陸軍参謀長が4日真夜中から5日未明にかけブット首相以下の与野党主要指導者を“保護拘禁”,“公正作戦”と称する政権奪取を敢行,全国に戒厳令を布告,自ら戒厳令総司令官に就任(以下ではジア戒厳令総司令官とはせず,単にジア将軍とする)。5日午前,同将軍はエラーヒー大統領を慰留,ヤユーブ・アリご最高裁長官にも会見,“憲法は廃棄しないように”との同長官の忠告に従った(F.E.E.R.,7.22)。軍の5月7日付秘密文書によると,ジア将軍は内戦発生の可能性を憂慮しつつも軍の政治介入に反対していたが,軍に近い高度の情報筋によると,ジア将軍は配下の6人の軍団司令官に突き上げられてクーデターを決行(W.Post,7.12)。同将軍はまた,決起後に初めて統合参謀本部議長と海・空軍参謀長に決起の報を伝達(F.E.E.R.,7.22および10月31日の最高裁でのブット前首相弁論)。5日夕,ジア将軍が全国放送(資料参照)。
DIA-304-1977-07-05-2パキスタン1977年07月05日1970年代軍事政権人事(資料参照)。
DIA-304-1977-07-05-3パキスタン1977年07月05日1970年代連邦保安隊―戒厳令司令部は治安部隊である連邦保安隊の武装解除と再編成を命令(DPA)。6日,マスード・マハムード同保安隊長,逮捕(ロイター)。
DIA-304-1977-07-05-4パキスタン1977年07月05日1970年代PNAの諸政党,軍事クーデターを歓迎。
DIA-304-1977-07-06-1パキスタン1977年07月06日1970年代ジア将軍,各省次官に演説―以下,要旨。①現在の行政機構は時代遅れで改編の要がある。②総選挙に向けての90日作戦に協力を要請する。③公務員の粛正は行なわない。④個人の武器所有を厳しく制限する(以上Dawn,7.7)。⑤軍は前政府に対し政治問題解決の義務があると数度警告した。⑥10月選挙はブット氏の復帰をもたらすべきではない(以上,“毎日”7.8)。
DIA-304-1977-07-06-2パキスタン1977年07月06日1970年代シャーヒー外務次官,外務総次官に昇格。
DIA-304-1977-07-06-3パキスタン1977年07月06日1970年代釈放―75年10月以来カシミールのダライ収容所などに拘禁されていた元パンジャーブ州政府のタリー,イルシャド両閣僚など33人が釈放された。この後も政治犯釈放が続いた。なお,ダライ収容所には1200人の政治犯が収容されていたという(W.Post,7.11)。
DIA-304-1977-07-06-4パキスタン1977年07月06日1970年代政府,洪水対策本部を設置。軍,救援に出動。
DIA-304-1977-07-07-1パキスタン1977年07月07日1970年代ブット前首相の裁判を要求―ピール・パガーローPNA副委員長が要求。同氏は,ジア政権が10月総選挙までにブット氏を裁判にかけなければ,PNAが政権についた時に同氏を裁判にかけるとしている。
DIA-304-1977-07-07-2パキスタン1977年07月07日1970年代S.シャリーフッディーン・ピールザーダ元外相を検事総長に任命―同氏ブット前首相の政敵。同7日,グラーム・イスハーク・カーン元中銀総裁,閣僚級の総次官長に任命。各省次官の長として各省の調整を担当。
DIA-304-1977-07-07-3パキスタン1977年07月07日1970年代武器配布―有力筋によれば,ブット政権は与党国会議員1人につき小火器100丁,州議会議員には1人50丁を割り当てた(共同)。
DIA-304-1977-07-07-4パキスタン1977年07月07日1970年代陸維剣駐パ・中国大使,ジア将軍に会見―同日,駐パ・サウジアラビア大使も同将軍に会見。
DIA-304-1977-07-07-5パキスタン1977年07月07日1970年代駐米・パ大使,バンス米国務長官と会談。
DIA-304-1977-07-08-1パキスタン1977年07月08日1970年代ジア将軍演説―ジア将軍はラーワルピンディーのモスクでの礼拝後,“我々はブット氏を天から地上に引き落とした”などと演説するとともに,同氏の裁判は行なわないことを示唆(W.Post,7.9)。同将軍はまた,同日のAP通信員との会見で,“ブット氏には1ヵ月以上前に非常事態計画(政権奪取)を通告しておいた”と明らかにした(“読売”7.10)。
DIA-304-1977-07-09-1パキスタン1977年07月09日1970年代武器提出命令―イクバール・カーン・パンジャーブ州戒厳令司令官は,①個人所有武器を7月25日までに(後に31日に延期)提出すること,②政治活動全面禁止,③ストライキ,ロットアウト禁止,④商品退蔵禁止などを命ずる戒厳令命令を布告。他の州でも11日までに同様の描置がとられた。
DIA-304-1977-07-09-2パキスタン1977年07月09日1970年代英,米,ソ連など13ヵ国の大使がジア将軍に会見。
DIA-304-1977-07-10-1パキスタン1977年07月10日1970年代回教法刑罰を導入―ジア将軍は,④特別・簡易軍事裁判所の設置,②手の切断,鞭打ちの刑の導入などを定めた戒厳令命令を布告(Dawn,7.11)。
DIA-304-1977-07-12-1パキスタン1977年07月12日1970年代ジア将軍は,“3月総選挙での不正行為はいわれているほどの規模ではなく,ブット氏が行なったものでもない。それは彼の配下の者たちの過剰忠誠によるものだ”などと語った(W.Post,7.13)。
DIA-304-1977-07-14-1パキスタン1977年07月14日1970年代ジア将軍,記者会見―以下,発言要旨。①総選挙にはPPPとPNAの双方が参加してほしい。②ブット前首相は与野党対立打解に全力を尽くした。③PPPは不正選挙をせずとも勝てたはずだ。誰が再選挙を彼に受諾させたかの判断は諸君と歴史にまかせる。④政変前日,与野党合意の道は残されていなかった。双方は武装しており,内戦回避のために軍が介入せざるを得なかった。⑤統合参謀本部議長と3軍の参謀長は既に7月5日以前に不慮の場合に備えて計画を作成していたが,最終的決定は私が行なった。⑥政治家の処罰は,非行を行なったことが100%明確な者についても行なわない。⑦回教体制確立の主張は政治家たちが主張し始めたのではなく民衆が彼らに要求したものだ。
DIA-304-1977-07-14-2パキスタン1977年07月14日1970年代ブット氏法廷侮辱罪予審―ブット前首相はタリー氏など(6日参照)に対するパンジャーブ州高裁(=ラホール高裁)の保釈命令を無視して75年10月に同氏などを逮捕させ,ダライ収容所に拘禁したとされるが,この日,タリー氏がこの件でラホール高裁で証言。
DIA-304-1977-07-15-1パキスタン1977年07月15日1970年代ジア将軍,ブット前首相と会見―その前にムフティーPNA委員長とも会見。
DIA-304-1977-07-17-1パキスタン1977年07月17日1970年代ムシュターク・フセイン・パンジャーブ州高裁所長代行,選管委員長に就任。30日,選管組織完了。
DIA-304-1977-07-17-2パキスタン1977年07月17日1970年代シャーヒー外務総次官,イラン訪問―19日,クウェート。24日帰国。
DIA-304-1977-07-17-3パキスタン1977年07月17日1970年代資本流入額削減―政府は国際収支改善のため向う5年間の総資本流入額を76/77年度の16.94(純12.00)億ドルから年平均14億ドルに削減し,82/83年度には13.00(純5.15)億ドルにする計画を作成した。債務返済額は76/77年度の4.5億ドルから年平均7.5億ドルに増加の予定。貿易収支赤字は76/77年度の13.8億ドルから8/83年度には9億ドルに減少の予定。
DIA-304-1977-07-18-1パキスタン1977年07月18日1970年代本日付米誌Newsweekによると,ジア将軍の行動が遅れたら軍内部に反乱が発生していたかもしれないと陸軍将校たちが最近明らかにした。
DIA-304-1977-07-21-1パキスタン1977年07月21日1970年代分離扇動は死刑―ジア将軍はパからの領土的・行政的分離を扇動する者および政府ないし戒厳令総司令官に対する不忠を軍人に教唆する者は死刑に処し,また,軍人,警官,役人を装う者は5年間の禁固刑に処す旨の戒厳令規則を公布した。同日,戒厳令当局者を装って悪事を働いた役人がムルターンで逮捕された。
DIA-304-1977-07-21-2パキスタン1977年07月21日1970年代労働者解雇に警告―ジャハーンゼーブ・スィンド州戒厳令司令官は,経営者による多数の労働者の不法解雇が生じているが,労組活動を禁止する戒厳令規則は労働者の不法解雇を許すものではないと警告した。
DIA-304-1977-07-22-1パキスタン1977年07月22日1970年代予防拘禁令―ジア将軍は公共の安全などを脅やかす恐れのある者を予防拘禁する権限を自らに与える戒厳令命令第12号を布告した。
DIA-304-1977-07-27-1パキスタン1977年07月27日1970年代ジア将軍,全国放送―以下,要旨。①保護拘禁中の政治家たちを一両日中に釈放。②予定通り10月に総選挙を実施し,民政移管を行なう。③8月1日からラマザーン月末(9月15日)まで屋内の政治活動を認め,その後は政治集会も認めるがデモは禁止。④(75年来,民族人民党NAPのワリー・カーンなどの国家反逆罪容疑の審理を行なっている)ハイデラーバード法廷には手をつけない。⑤経済情勢は極めて悪い。これを討議するための政府・労・使3者会談を近く行なう。⑥行政府各部門は経費の5%削減を実施せよ。軍も同様の措置をとる。ぜいたくな洋服を民族服に変えよ。
DIA-304-1977-07-27-2パキスタン1977年07月27日1970年代グラーム・ハッサン・カーン陸軍中将,ジア戒厳令総司令官国家安全保障担当顧問に任命さる。
DIA-304-1977-07-28-1パキスタン1977年07月28日1970年代ブット前首相等,釈放―5日に保護拘禁されたブット前首相など8人のPPP指導者,およびムフティー委員長以下6人のPNA指導者が釈放された。
DIA-304-1977-07-28-2パキスタン1977年07月28日1970年代エラーヒー大統領,総選挙命令を公布。
DIA-304-1977-07-28-3パキスタン1977年07月28日1970年代外務省は,デリーにおける24日の“米はインドが南アジアで指導的立場をとることを期待する”とのクリストファー米国務次官発言に関し,“覇権主義を推奨するもの”として駐パ・米公使に遺憾の意を表した。
DIA-304-1977-07-29-1パキスタン1977年07月29日1970年代ブット前首相演説―首都のピールザーダ前財政相邸にて。PPP党員に対し,“国家的見地から現行法と戒厳令規則の範囲内で活動する。ジア将軍は,私が国に寄与したか国益をそこねたのかを総選挙実施前に決定すべきだ”などと述べた。同日,ラールカーナ着。
DIA-304-1977-07-31-1パキスタン1977年07月31日1970年代ラーイヤルプル簡易軍事裁判所は,製粉工場労組委員長に対し無断欠勤のかどで解雇および1年間の禁固刑をいい渡した。
DIA-304-1977-07-31-2パキスタン1977年07月31日1970年代イスハーク総次官長,サウジアラビア訪問(~8月3日)―経済援助要請のため。
DIA-304-1977-08-01-1パキスタン1977年08月01日1970年代ブット前首相,カラチ入り―ラールカーナから列車で。各停車駅で群衆の熱狂的歓迎が見られた。
DIA-304-1977-08-01-2パキスタン1977年08月01日1970年代PNAは選挙参加―ガッフール書記長発表。
DIA-304-1977-08-02-1パキスタン1977年08月02日1970年代総選挙日程発表―投票日は10月18日。選管委員長によると投票日を“90日作戦”の期限より2週間延期したのは候補者選択の都合上それを希望した政党(複数)の要請による(F.E.E.R.,8.12)。
DIA-304-1977-08-02-2パキスタン1977年08月02日1970年代離合集散―総選挙日程発表とともに政治家の離台集散開始。8月中にジャマーリー前保健衛生相やパ最大の地主G.M.メヘルを含む前下院議員4人,元閣僚4人,前上院議員4人などがPPP脱退。州レベルでもPPP脱退者多数。彼らの多くはPMLまたはTIに入党。その他,M.A.K.ホーティー元西パ州閣僚,フィダー・カーン元下院議員,キルマーニー駐エジプト前大使,ショウカット・ハヤート,カッタークQML下院議員がPML入党。ムザッファル・ハッサン元海軍総司令官,A.M.スームロー元西パ州議会副議長がTI入党。元閣僚のクールシード・ハッサン・ミール元PPP書記次長,PAJP入党。
DIA-304-1977-08-03-1パキスタン1977年08月03日1970年代PPP選挙参加―昨日からカラチで開かれていた中央執行委員会の決定。ブット委員長は記者会見で,“PPP活動者に対する個人攻撃や逮捕,選挙法の若干の不公平な規定などという(PNAに対する)偏向が続けば,立場を変更することもあり得る”と述べた。
DIA-304-1977-08-03-2パキスタン1977年08月03日1970年代人民民主連盟(AJI)結成―ラホールにて。参加政党はPAJP(4月8日参照),パ社会党(PSP),パ労働者党(PWP)などの左派7政党。8月21日付Dawn紙によるとその後,同7党は合併してPAJPを称することになったもよう。20日,PNA支持を表明。
DIA-304-1977-08-03-3パキスタン1977年08月03日1970年代政治家の非行を調査―スィンド州戒厳令当局は同州出身の前国会・州議会議員の非行調査を開始。
DIA-304-1977-08-04-1パキスタン1977年08月04日1970年代アスガル,記者会見―アスガルTI委員長は記者会見で,“①10月総選挙後に危機が生じるというブット氏の予測には反対だ。彼は自分が敗れるのを予期し,そうなれば混乱を生ぜしめるぞといいたいのだろうか。②近い将来にPNA構成9党が合併することはあり得ない。③次期首相には私が最適だ。7月5日以前にPPPを脱退した人々にTIの門戸を開く”などと談。
DIA-304-1977-08-04-2パキスタン1977年08月04日1970年代過去1ヵ月,各紙に回教関係論説が急増。
DIA-304-1977-08-05-1パキスタン1977年08月05日1970年代PPP,新公職選挙法を批判―PPPは“選挙管理委員会が公正だとの幻想は抱かない”として,新たな選挙命令および選挙法を批判する声明を発表。
DIA-304-1977-08-06-1パキスタン1977年08月06日1970年代政治家の列車使用を禁止―ジア戒厳令総司令官は,政治指導者たちは政治的混乱を避けるため列車に代えて航空機を利用することを命じた。
DIA-304-1977-08-06-2パキスタン1977年08月06日1970年代非行調査―ジア戒厳令総司令官は公務員の非行調査と処罰を命ずる戒厳令命令第17号を布告。
DIA-304-1977-08-07-1パキスタン1977年08月07日1970年代選管,投票管理人を任命―200人の国会選挙投票管理人のうち102人が軍人,98人が司法関係者。
DIA-304-1977-08-07-2パキスタン1977年08月07日1970年代パ側カシミール暫定憲法第5次改正。
DIA-304-1977-08-08-1パキスタン1977年08月08日1970年代ブットPPP委員長,ラホール入り―ムルターンから。記者会見で同委員長は次のように述べた。①私の生命は狙われている。これには外国勢力(単数)がからんでいる(Dawn,8.9)。私が生きている以上はパを米国の51番目の州にはさせない。②PNAとPMA(パ陸軍司官学校)には何の相違もない。私は政府の中立性と選管の公正性について幻想は抱かない。なお,歓迎の群衆6万人(以上F.E.E.R.,8.26),はデモ行進に移り,建築物を破壊し,警官隊と衝突,43人が逮捕された。同日,PNAはPPPに抗議するためのゼネストを訴え(9日中止)(以上Dawn,8.9)。
DIA-304-1977-08-08-2パキスタン1977年08月08日1970年代ヌーラーニーJUP委員長,記者会見―“①PNAは政権に着けば東パ分離問題を含めブットの行なったことを調査する。②PNAはすべての国有化企業の国有解除を行なう”などと述べた。
DIA-304-1977-08-08-3パキスタン1977年08月08日1970年代PAJPはクールシードH.ミール書記長,ラーンガ書記次長を選出した。委員長は不明。
DIA-304-1977-08-08-4パキスタン1977年08月08日1970年代ハッサン・ビン・タラル・ヨルダン皇太子来訪(~10日)―ジア将軍の招待。10日,共同コミュニケ。
DIA-304-1977-08-09-1パキスタン1977年08月09日1970年代社会民主連盟(SDU)結成―委員長はJ.A.ラヒーム元PPP書記長。特にTI支持を表明。
DIA-304-1977-08-10-1パキスタン1977年08月10日1970年代連邦政府,スィンド道路交通公社を合理化―カラチ支局では“過剰雇用者”1686人中1080人が即日解雇され,うち472人のみに対し,1ヵ月の通告期間を置かない代償として1ヵ月分の給与が与えられた。
DIA-304-1977-08-10-2パキスタン1977年08月10日1970年代PNA綱領草案―以下,骨子。①国有化企業の国有解除,②土地なき貧農に住宅建設などのため約54坪(PPP時代は38坪だった)の土地を付与,③雇用機会増大と賃金の物価スライド制,④高校までアラビア語教育の義務化,⑤1年内に政府業務をウルドゥー語化など。
DIA-304-1977-08-10-3パキスタン1977年08月10日1970年代パ側カシミール議会解散―選管が決定する10月のある日に総選挙が実施される予定。
DIA-304-1977-08-11-1パキスタン1977年08月11日1970年代選挙ボイコットを示唆―ブットPPP委員長はペシャーワルでPPP活動者に対し演説,“総選挙のために完全な公正が保たれなければ総選挙をボイコットすることもあり得る。その場合に生じる重大な全国的危機の責任はPPPには無い”と語った。
DIA-304-1977-08-11-2パキスタン1977年08月11日1970年代ジア将軍,軍人に演説(カラチ)―“選挙ボイコットは総選挙に何の影響も与えない”などと述べた。
DIA-304-1977-08-11-3パキスタン1977年08月11日1970年代ジア将軍,バルーチスターン州の軍を選挙前1カ月内に撤収とPNAに通告(1月16日参照)。
DIA-304-1977-08-12-1パキスタン1977年08月12日1970年代ブット演説―ブットPPP委員長はペシャーワルで,“労働者,特に鉄道労働者(PPP支持者が多い)の解雇は遣憾。②PPPの選挙ボイコットは状況を大きく左右する”などと述べた。
DIA-304-1977-08-13-1パキスタン1977年08月13日1970年代パンジャーブ州の全5省長官更迭―15日,県知事16人なども更迭。“不正選挙”協力の疑い。
DIA-304-1977-08-13-2パキスタン1977年08月13日1970年代国有解除―ジャハーンゼーブ・スィンド州戒厳令司令官はカラチの2教育機関を旧所有者に返還。
DIA-304-1977-08-14-1パキスタン1977年08月14日1970年代独立記念日―ジア将軍が全国放送。以下,要旨。①回教の名の下に建国されたわが国の将来の道は建国の理想,即ち回教体制の建設にある。それは政治・経済・社会全般にかかわるものだ。②鞭打ちの刑や手首切断の刑は廃止せよとか,公開するなとの意見があるが(“残酷だ”との批判がある),継続する。③政府内の回教イデオロギー委員会の再編,④経済回復策を検討中。生産高ボーナス制を導入,⑤銀行の管理職給与引上げ(15日,財政省が最低10%の引上げを発表),⑥前政権下で免職された公務員に関し,その復帰を特別法廷で検討,⑦77年1月~7月5日までに投獄された全政治犯の釈放,⑧政治的暴力には厳しく対処。
DIA-304-1977-08-15-1パキスタン1977年08月15日1970年代政敵暗殺容疑―検察当局は,ブット前首相が大統領兼戒厳令総司令官であった時,JIのナズィール国会議員を暗殺させたといわれる事件の調査を完了。
DIA-304-1977-08-15-2パキスタン1977年08月15日1970年代マリ族反徒に恩赦―ジア将軍は逃亡中のバルーチスターン州マリ族ゲリラに恩赦を与えると発表。
DIA-304-1977-08-16-1パキスタン1977年08月16日1970年代国有解除勧告―11日からカラチ商工会議所主催の“産業開発・生産性運動”会議は以下の勧告を採択。①国有化企業の実態調査と国有解除,②所得税体系の根本的変革,③民間部門の役割を明示した工業投資計画の策定,④同計画は中東の工業化計画と密接に関連させること,⑤5ヵ年計画の導入,⑥労働意欲なき労働者を他の者に代える権限を雇用主に与えること,など。
DIA-304-1977-08-16-2パキスタン1977年08月16日1970年代アスガルTI委員長は,TIの公認立候補者数の25%を新入党者に割りあてると述べた。
DIA-304-1977-08-16-3パキスタン1977年08月16日1970年代戒厳令命令―ジャハーンゼーブ・スィンド州戒厳令司令官は,今後,カラチおよびハイデラーバード両市における家主・借家人の紛争は簡易軍事法廷で裁くとの戒厳令命令を布告。19日付Dawn紙はこれを“借家人に対する過剰保護の是正に役立つ”としている。
DIA-304-1977-08-17-1パキスタン1977年08月17日1970年代R.M.ハニーフ・カーン前商相,PPPによる下院選挙立候補公認を拒否。
DIA-304-1977-08-18-1パキスタン1977年08月18日1970年代国家反逆罪―PNAのザフール・エラーヒーはブット前首相は東パ分離の責任者だとしてラホール県治安判事に提訴。20日,この件はラホール高裁に移送。
DIA-304-1977-08-18-2パキスタン1977年08月18日1970年代立候補届け締切り―20日の資格審査の結果,下院200議席(直接選挙分)に1265人,4州議会合計460議席(同)に4286人が立候補することになった。その後,資格審査結果に対する異議検討後,若干の修正があり,各党は立候補者最終リストを28日に選管に提出。
DIA-304-1977-08-20-1パキスタン1977年08月20日1970年代ニアーズィーPPPスポークスマン,PPP選挙綱領はイード祭(9月中旬)前に発表すると言明。
DIA-304-1977-08-21-1パキスタン1977年08月21日1970年代M.アワーンPPP下院議員候補,ムルターンでPNA活動者に襲われ重傷。PNA活動者4人逮捕。カラチではマザーリーNDP委員長宅に発砲。
DIA-304-1977-08-22-1パキスタン1977年08月22日1970年代敗戦調査委員会報告書の公開を要求―ムフティーPNA委員長はハムードゥル・ラーマン報告書を総選挙前に公開するよう政府に要求。
DIA-304-1977-08-26-1パキスタン1977年08月26日1970年代ブットPPP委員長,記者会見(イスラーマバード)―“①わが国は重大な政治的危機に直面している。唯一の解決策は公正な選挙だ。②進行中の私に対する様々な訴訟手続は私を民衆から融離するためであり,はるかに大きな策略の一部である”などと述べた。
DIA-304-1977-08-26-2パキスタン1977年08月26日1970年代ブットPPP委員長の行動を制限―A・カーリクPPP中央執行委員によれば,戒厳令当局は繁華街への立入り禁止など,ブット氏の行動を制限した。
DIA-304-1977-08-26-3パキスタン1977年08月26日1970年代駐パ・サウジアラビア大使および同アラブ首長国連邦大使,ブット前首相に会見。
DIA-304-1977-08-26-4パキスタン1977年08月26日1970年代タバラク・フセイン・バングラデシュ外務次官など,来訪―パ側の招待。30日共同声明発表。
DIA-304-1977-08-27-1パキスタン1977年08月27日1970年代政敵暗殺容疑―検察当局は7月から進めていたブット前首相によるナワーブ・M.A・カスーリー暗殺事件の調査を完了した。当局は29日,1週間内にブット前首相を起訴すると発表した。
DIA-304-1977-08-28-1パキスタン1977年08月28日1970年代ジア将軍,ブットPPP委員長と会見。
DIA-304-1977-08-28-2パキスタン1977年08月28日1970年代ムフティーPNA委員長はPNAの綱領はイード祭(9月中旬)後に発表すると言明。
DIA-304-1977-08-28-3パキスタン1977年08月28日1970年代政府,サダト・エジプト大統領に招待状手交。
DIA-304-1977-08-29-1パキスタン1977年08月29日1970年代ジア将軍,トゥファイルJI委員長と会見。
DIA-304-1977-08-29-2パキスタン1977年08月29日1970年代ムフティーPNA委員長は,核燃料再処理工場は必ず入手すると談。
DIA-304-1977-08-30-1パキスタン1977年08月30日1970年代ブット裁判の要求―4人の元最高裁・高裁判事が,“選挙民の判断のためにブット氏以下のPPP指導者の裁判・処罰を総選挙前に行なうべきだ”との声明を発表。同日,アスガルTI委員長も同様の要求を行ない,総選挙期日は“神聖不可侵ではない”と述べた。
DIA-304-1977-08-31-1パキスタン1977年08月31日1970年代投獄―簡易軍事裁判所はキアーニー前PPP下院議員など6人に最高1年間の禁固刑および鞭打ち10回の刑を申し渡した(戒厳令違反)。
DIA-304-1977-08-31-2パキスタン1977年08月31日1970年代ナスルッラーPNA副委員長は,PPP指導部の裁判は総選挙後の新政権が行なうべきだと述べた。マザーリーNDP委員長はブット氏の即時逮捕を要求。
DIA-304-1977-09-01-1パキスタン1977年09月01日1970年代ジア将軍,記者会見(4時間)―以下,発言要旨。①全立候補者は資産を申告せよ。②諸政党は回教価値体系に即した綱領を作成せよ。③大統領制がパに最適。大統領は回教でいうアミール(首長)概念に極めて近い。大統領は首相により,首相は国会によりチェックされる権力均衝原理を導入すべきだ。軍は憲法上の役割を有すべきだ。軍のみが国家統一を護持し得る。新国会が10月28日に招集されたらこの統治体制を勧告。④2女子総合大学の創立を検討中。⑤回教イデオロギー評議会を再編中。⑥双方の政治指導者と国民の要求があれば選挙を数日ないし数週間延期。選挙実施が来年にならぬよう祈る。⑦ヤヒヤー元大統領を釈放した。⑧敗戦調査委報告書は当面は公表しない。⑨村落の5人組都市のモハッラ(町内)委員会,バルーチスターン州のジルガ(部族会議)を復活,⑩全精米・製粉工場,綿繰り工場の搾油部門を旧所有者に返還(3日,綿繰り工場本体も全数の約3分の2を返還と発表。24日,残り全300工場の返還も指示)。⑪ラーイヤルプル市をファイサラーバード国王市と改命(後日,冗長なため“国王”省略)。
DIA-304-1977-09-02-1パキスタン1977年09月02日1970年代経済回復策―イスハーク総次官長は,農・工業金融拡充,輸出金融・輸出信用保証の条件緩和,綿花生産目標350万ベールなどの措置を発表。
DIA-304-1977-09-03-1パキスタン1977年09月03日1970年代ブット逮捕―M.A.カスーリー暗殺容疑で。ブット前首相は他にも様々な科で告訴されており,告訴件数さえ判然としないほどである。
DIA-304-1977-09-03-2パキスタン1977年09月03日1970年代カラチの貧民街でブット氏逮捕に抗議する群衆が警官隊と衝突,計64人逮捕(Dawn,9.5&6)。
DIA-304-1977-09-04-1パキスタン1977年09月04日1970年代資産申告―ジア将軍は,70年12月~77年7月の間に国会・州議会議員を務めた者に資産申告を命令。
DIA-304-1977-09-04-2パキスタン1977年09月04日1970年代ジア将軍特使,クウェート訪問。
DIA-304-1977-09-06-1パキスタン1977年09月06日1970年代シヤーヒー外務総次官,訪仏―核燃料再処理工場輸入計画の協議のため。
DIA-304-1977-09-07-1パキスタン1977年09月07日1970年代軍のひいきを拒否―ムフティーPNA委員長は,“我々はブット氏を総選挙で打ち破りたいのであり,戒厳令当局によるひいきは望まない”と演説。
DIA-304-1977-09-08-1パキスタン1977年09月08日1970年代PNA,大統領制に反対―PNA中央評議会はまた,ジア将軍の9月1日発言で生じた混乱の払拭のために10月18日総選挙の実施を再確認するよう要求。
DIA-304-1977-09-08-2パキスタン1977年09月08日1970年代ジア将軍特使,アラブ首長国連邦訪問。
DIA-304-1977-09-09-1パキスタン1977年09月09日1970年代ジア将軍,サウジアラビア訪問―“聖地巡礼のための個人的訪問”。10日,ハーリド国王と会談。
DIA-304-1977-09-12-1パキスタン1977年09月12日1970年代ハビーブッラー・カーン退役陸軍中将を戒厳令総司令官主席工業問題顧問に任命―国有化企業を管轄している産業経営委員会(BIM)の業務再検討,工業回復などを担当。15日,BIM傘下の10公社中6公社総裁異動。なお,ハビーブッラー退役中将は大実業家。
DIA-304-1977-09-13-1パキスタン1977年09月13日1970年代ブット保釈―ラホール高裁はブット氏のM.A.カスーリー暗殺容疑に関し,“検察の提出証拠はすべて状況証拠にすぎない”として同氏の保釈を命令。
DIA-304-1977-09-13-2パキスタン1977年09月13日1970年代ブット,高裁に挑戦―ブット前首相は,同氏の不法監禁・法廷侮辱罪容疑を審理中のラホール高裁で,“私の罪を決定するのは人民裁判所(総選挙を指す)である。それはこの法廷より上級の法廷であり,この法廷に私を裁く権利はない”と述べた。
DIA-304-1977-09-13-3パキスタン1977年09月13日1970年代大統領制提案撤回―ジア将軍は選挙戦倫理規定についてPPP,PNAなどと会談。会談に際し,“①総選挙は10月18日実施。それまでに申告資産のすべては検討できないから,私自身のやり方で検討する。②1日の発言は私の個人的見解だ。大統領制あるいはその他の統治制度を強制する意図は全くない”と演説。
DIA-304-1977-09-14-1パキスタン1977年09月14日1970年代ジア将軍,イラン訪問―“個人的訪問”。シャーヒー外務総次官随行。Dawn紙によれば同将軍はパーレビ皇帝と3時間の会談。だが,それは予定であり,現実には会談は1時間弱で打ち切られ,皇帝はブット前首相逮捕に遺憾の意を表したという(UPI)。
DIA-304-1977-09-15-1パキスタン1977年09月15日1970年代非常事態宣言解除―エラーヒー大統領は71年印パ戦争以来の非常事態宣言を解除し,また,71年国防令を撤廃(既に前日,PNAが暴露していた)。
DIA-304-1977-09-15-2パキスタン1977年09月15日1970年代追放―連邦保安隊の改編・改称と関係者の大規模な追放が計画されている(Dawn,9.15)。
DIA-304-1977-09-15-3パキスタン1977年09月15日1970年代パ銀行評議会解体が進行中―(B.Recorder,9.16)。74年の銀行国有化直後に設置されたもの。
DIA-304-1977-09-17-1パキスタン1977年09月17日1970年代ブット逮捕―戒厳令当局はブット委員長,フセイン書記長など中央執行員25人中5人を含む11人のPPP指導者を逮捕し,10月18日までに軍事裁判に付すと発表。ジア将軍は,“①前政権下ですべての制度が破壊された。②3月総選挙は大規模に操作された。③裁判はブット氏の要求(7月29日参照)に従ったものだ”との声明を発表。月刊Urdu Digest誌最近号でもジア将軍は次のようにプット氏を非難。①彼は6月下旬から軍首脳を閣議に招待し始めた。ある閣議で彼は“権力を共有しよう”と私に提案した。②彼はPNAとの交渉で不誠実だった。③彼は横領者,暗殺者,強姦者だ。
DIA-304-1977-09-17-2パキスタン1977年09月17日1970年代ブット氏の逮捕後,ラホールだけでも5万人の労働者が“一時解雇”された(F.E.E.R.10.14)。
DIA-304-1977-09-17-3パキスタン1977年09月17日1970年代ラールカーナでPPP支持者たちが警宮隊と衝突,90人逮捕。18日,ラホールでPPPとPNA支持者の武力衝突。その後も各地で同種の混乱続発。
DIA-304-1977-09-18-1パキスタン1977年09月18日1970年代PNA,選挙運動開始―カラチで大集会。
DIA-304-1977-09-18-2パキスタン1977年09月18日1970年代資格剥奪,立候補辞退などにより,下院選挙立候補者は最終的に756人となった(8月18日参照)。
DIA-304-1977-09-19-1パキスタン1977年09月19日1970年代PPP,選挙運動開始―ラーワルピンディー集会で主要演説者であるニァーズィー情報書記は平穏を訴えたが,群衆はプット釈放を叫んでいた。ヌスラット女史は,”我々は革命的人民だ。ブットを釈放せよ。人民裁判所に判決を下させしめよ”などと演説。
DIA-304-1977-09-19-2パキスタン1977年09月19日1970年代人身保護―ヌスラット女史はジア政潅,戒厳令,ブット氏などの勾留を違憲としてブット氏などに対する人身保護および釈放を最高裁に請願。最高裁は20日これを受理,被告ジア将軍に対しブット氏などの身柄をカラチなどから首都のスィハーラ警察大学に移すよう命令。同将軍がこれに従わぬため,25日,最高裁は国を当事者とし,26日,ブット氏,などのラホールへの移送を指示。
DIA-304-1977-09-20-1パキスタン1977年09月20日1970年代PPP中央執行委員会―以下の新役員を選出。ヌスラット委員長代行,ニアーズィー書記長,S.ファールーク・アリー・カーン副委員長,等々。
DIA-304-1977-09-21-1パキスタン1977年09月21日1970年代ジア将軍,選挙戦中の倫理規定を布告。
DIA-304-1977-09-21-2パキスタン1977年09月21日1970年代パガーローPML委員長,PPP禁止を要求。
DIA-304-1977-09-22-1パキスタン1977年09月22日1970年代最高裁長官を更迭―ジア将軍は76年の第5・6次憲法改正新条項のうち3ヵ条を撤廃,同3ヵ条を元に復した。これにより,第6次改正で任期を延長されたヤユーブ・アリー最高裁長官は退官,S.アヌワルル・ハック判事が新長官に任命された(23日就任)。
DIA-304-1977-09-22-2パキスタン1977年09月22日1970年代ジア将軍の教育論―ジア将軍はパンジャーブ大学で,“国家統一護持のため教育の回教化・パキスタン化”を主張。同大学はジア将軍に名誉法学博士号贈呈。
DIA-304-1977-09-22-3パキスタン1977年09月22日1970年代PNAはラホールの集会で軍事政権によるPPPの責任追及の強化を要求する決議を採択。
DIA-304-1977-09-23-1パキスタン1977年09月23日1970年代PPP,ラホールで大集会―ヌスラット女史は,“PPPに対して平和の道が閉ざされれば,おのずと革命の道が開ける”と演説。
DIA-304-1977-09-23-2パキスタン1977年09月23日1970年代ジア将軍,PPPについて―ジア将軍は非公式記者会見で,“PPPは大衆の間に根をはっている。同党を禁止するつもりはない。同党の悪い血を抜く方がはるかによい”と述べた。
DIA-304-1977-09-23-3パキスタン1977年09月23日1970年代タルベーラ・ダム主要放水路の路底が崩れ始めた。74年来3度目の欠陥発覚で,今までで最悪という。
DIA-304-1977-09-24-1パキスタン1977年09月24日1970年代PNA,ワリー・カーン釈放を要求―ハイデラーバードで集会。ムフティー委員長,ブットの裁判を要求。群衆は“ブットを絞首刑にしろ”と叫んでいた。
DIA-304-1977-09-25-1パキスタン1977年09月25日1970年代PNA,選挙綱領採択―10月第1週発表の予定。草案骨子は8月10日,最終案骨子は9月9日発表。
DIA-304-1977-09-25-2パキスタン1977年09月25日1970年代政府は,全国各都市の兵営地区の中等・初等教育機関の管轄権を教育省から国防省に移すと決定。
DIA-304-1977-09-26-1パキスタン1977年09月26日1970年代“ある共産主義国”非難―ヌーラーニーJUP委員長は,“ある共産主義国が選挙戦中にPPPに大規模な資金援助を行なった”と演説。27日,NDPのR.M.アクタルは,“ブットはグワーダル港をソ連に提供してソ連の助力を得ようとした”と演説。10月29日,ガッフールPNA書記長,駐パ・ソ連大使に謝罪。
DIA-304-1977-09-27-1パキスタン1977年09月27日1970年代新中国大使館―ジア将軍は竣工式で,“両国の友好関係の根は深い”とあいさつ。これに対し陸維剣駐パ・中国大使は,“新大使館は中パ友好関係の記念碑だ”などと短かいあいさつをしたが,恒例の“カシミールに関するパの闘争を支持する”などの発言はない。
DIA-304-1977-09-27-2パキスタン1977年09月27日1970年代戒厳令当局,カラチのブット氏事務所を閉鎖。
DIA-304-1977-09-27-3パキスタン1977年09月27日1970年代マクナマラ世銀総裁,来訪。
DIA-304-1977-09-28-1パキスタン1977年09月28日1970年代本日付Dawn紙によれば,先週ロンドンで核技術輸出15ヵ国が協定に達した際,米はパの仏からの核燃料再処理工場輸入計画を既成事実として認めた。ムニール原子力委員長は28日,ジュネーブの国際原子力機関総会で同工場が建設中であると明らかにした。10月7日,同委員長はカラチで,“国際原子力機関の会議はパの核燃料再処理工場問題には全く触れなかった”と談。
DIA-304-1977-09-29-1パキスタン1977年09月29日1970年代ジア将軍,記者会見―以下,発言要旨。①総選挙延期については来月10日までに決定。②司法府の裁判所による判決まではトップの男の軍事裁判は控える。③10月末までに前政権に関する白書を発表。④(質問に答え)国民の代表たちを指名するかどうかは考える。
DIA-304-1977-09-29-2パキスタン1977年09月29日1970年代“報復”―ベーナズィール・ブット氏長女は29日,“ブットが絞首刑にされればパンジャーブ5河川は血で染まる。私は手を責任者たちの血で染めてやる”と演説(F.E.E.R.,10.14)。戒厳令当局は彼女を自宅軟禁とし,ヌスラット女史の挑戦的言動にも警告。
DIA-304-1977-09-29-3パキスタン1977年09月29日1970年代政府,ブット前首相等の資産申告書を公表。
DIA-304-1977-09-30-1パキスタン1977年09月30日1970年代ニアーズィーPPP書記長,回教法導入を公約―同書記長はカラチの集会で,“コーランは平和的革命の書であり,PPP綱領の基礎である。PPPは政権につけば3ヵ月以内に回教法を導入する”と演説。
DIA-304-1977-09-30-2パキスタン1977年09月30日1970年代電報・電話局内のPPP支持者追放開始。
DIA-304-1977-10-01-1パキスタン1977年10月01日1970年代総選挙無期延期―ジア将軍,全国放送。①過去3ヵ月間,政治家たちは選挙綱領すら発表せず憎悪と暴力を唱えてきた。民政移管を今行なえば国はさらに大きな危機に直面する。“軍人が権力を自発的に手離したことはない”とのインテリたちの批判は気にしない。②申告資産の検討,また,所属政党とは無関係に政治家たちの責任追及を総選挙以前に行ない,政治を浄化。③室内での政党執行委員会を除き政治活動禁止。④選挙延期によって生じた時間で行政部門とくに警察の効率化,回教体制確立の準備,経済回復,労農生活の向上,教育制度改善などを行なう。⑤今後は戒厳令を厳しく適用。
DIA-304-1977-10-01-2パキスタン1977年10月01日1970年代ジア将軍,ガッファール・カーン(ワリー・カーンの実父)と会見―ペシヤーワルで。将軍は3日,“彼は誰にも負けぬ献身的な国民であると思えた”と談。
DIA-304-1977-10-01-3パキスタン1977年10月01日1970年代印・パ衛星通信協定(イスラーマバードにて)。
DIA-304-1977-10-02-1パキスタン1977年10月02日1970年代政府,食用油工場の民間返還を検討中―ハビーブッラー工業担当顧問が明らかにしたもの。
DIA-304-1977-10-03-1パキスタン1977年10月03日1970年代全国教育会議(~5日)―ジア将軍は開会演説で“旧い教育機関の若干”の民間返還を示唆。
DIA-304-1977-10-03-2パキスタン1977年10月03日1970年代ブット氏はラホール高裁で記者団に取り囲まれ,“選挙をすればPPPは129下院議席を得る”と言明。
DIA-304-1977-10-03-3パキスタン1977年10月03日1970年代パ側カシミール総選挙,無期延期。
DIA-304-1977-10-04-1パキスタン1977年10月04日1970年代国連総会出席中のシャーヒー外務総次官は4日W.アブドゥッラー・アフガニスタン外相,6日バジパイ・インド外相,7日バンス米国務長官と会談。
DIA-304-1977-10-06-1パキスタン1977年10月06日1970年代PNA,総選挙日程発表と制限付き政治活動解禁を要求―なお,アスガルTI委員長はこの日,“責任追及よりも民主政府形成の方が重要だ。もしPPPが選挙で勝てばそれを認めねばならない”と談。
DIA-304-1977-10-06-2パキスタン1977年10月06日1970年代対パ債権国会議延期―9月予定が10月となり,今度は12月16日に延期。本会議は78年3月の予定。
DIA-304-1977-10-07-1パキスタン1977年10月07日1970年代“国民政府”構想―総選挙までの期間,選挙によらない政府が組織されるとのうわさがあるが,ムフティーPNA委員長もニアーズィーPPP書記長もそのような政府への参加を拒否。後者はまた,PPPの州レベル指導者たちとTIとの提携進行のうわさを否定。
DIA-304-1977-10-08-1パキスタン1977年10月08日1970年代PNA分裂のきざし―アスガルTI委員長(退役空軍中将)は記者会見で,“我々は単独飛行も編隊飛行もできる”と語った。
DIA-304-1977-10-08-2パキスタン1977年10月08日1970年代ジア将軍,アラブ首長国連邦訪問―“友好訪問”。8日ナハヤン大統領,9日マフトゥーム副大統領と会談。滞在中,“数ヵ月内に民政移管実施”と言明。
DIA-304-1977-10-09-1パキスタン1977年10月09日1970年代ラホール高裁,9月のブット氏保釈を撤回。
DIA-304-1977-10-10-1パキスタン1977年10月10日1970年代S.H.マリク・ラホール高裁判事,辞任―理由不明。5月にブット政権下で任命された。
DIA-304-1977-10-10-2パキスタン1977年10月10日1970年代ジア将軍,アフガニスタン非公式訪問―10~11日,ダウード大統領と会談。11日,帰国。
DIA-304-1977-10-11-1パキスタン1977年10月11日1970年代“暗殺”裁判―ラホール高裁はブット前首相および連邦保安隊関係者4人に対するM.A.カスーリー暗殺容疑の審理を正式に開始。全員,無実を主張。
DIA-304-1977-10-11-2パキスタン1977年10月11日1970年代PPP内部対立か―BBC放送によれば,10~11日の同党中央執行委員会はPNA,PPPなどとの個別会談を提案した8日のジア将軍書簡を巡って,ブット氏即時釈放を要求するヌスラット女史派とまず総選挙が必要とするニアーズィー書記長の多数派とに対立したという(Dawn 10.12 & F.E.E.R.10.21)。
DIA-304-1977-10-11-3パキスタン1977年10月11日1970年代PPPデモ開始―ラホール,カラチを中心に各地で,PPP支持者たちがコーランを手にブット氏釈放要求デモを開始。ニアーズィー書記長などはデモ開始の指示はしていないと言明。Dawn紙はデモの報道を控えているが,同紙で判明しただけでも11~17日にラホールで74人,13~24日にカラチで76人,21日ラーワルピンディーで8人が逮捕され,14日にはサッカルでPPPとPNAの武力衝突で1人が死亡。なお,8日にはナワーブシャーでPPP支持者と警官隊の銃撃戦で3人が死亡。
DIA-304-1977-10-12-1パキスタン1977年10月12日1970年代中央銀行76年度年次報告書を公表―76/77年度の経済悪化を詳細に報告。なお,過去3年間,前政府は中銀年次報告書の公表を禁止していた。
DIA-304-1977-10-12-2パキスタン1977年10月12日1970年代政府負債―政府負債総額は3月1日現在で約656.8億ルピーとなった。うち569.2億ルピーは対外債務。パは対外債務累計679.2億ルピー中110億ルピーしか返済していない(Business Recorder,10.12)。
DIA-304-1977-10-13-1パキスタン1977年10月13日1970年代ジア将軍,PNA会談―会談後の記者会見でPNA指導者たちは,“総選挙の来年3月までの延期に同意した。11月1日までに制限付き政治活動が解禁となろう”と談。彼らはまた,“PNAとPPPの代表から成る国民評議会の助力を得て行政にあたるための暫定措置”をジア将軍が提案したかとの質問を肯定。なお,政府発表によると,ジア将軍は“責任追及完了には6ヵ月,選挙手続完了に2ヵ月を要する”と述べた。
DIA-304-1977-10-13-2パキスタン1977年10月13日1970年代国有企業調査―政府は国有企業実態調査のため艮間のパ工業信用投資会社(PICIC)会長を委員長とする国営企業再検討委員会(SERC)の設置を決定した。
DIA-304-1977-10-14-1パキスタン1977年10月14日1970年代アスガルTI委員長,記者会見―同委員長はPPP禁止要求に反対するとともに,“PPP指導部の責任追及完了の時点でPNAの統一維持の良否を再検討する。PNAの綱領はまだ完成していない”と談。
DIA-304-1977-10-14-2パキスタン1977年10月14日1970年代選挙権制限か―ジア将軍の側近たちは,文盲の大衆が選挙権を持つから政治不安が生じるとして選挙制度の修正を同将軍に勧告している(F.E.E.R,10.14)。
DIA-304-1977-10-15-1パキスタン1977年10月15日1970年代政府,タバコの12.5%値上げを認可。
DIA-304-1977-10-15-2パキスタン1977年10月15日1970年代ジア将軍,イラン訪問―パーレビ皇帝と会見。
DIA-304-1977-10-17-1パキスタン1977年10月17日1970年代役員追放―ジア将軍は,“政府がわずかでも財政的に関与している公共・民間組織の役員で,いかなる形であれ政治活動を行なってきた者はその役員資格を失う”との戒厳令規則を公布。25日,中央銀行役員などの不安表明にこたえ,適用範囲を大幅に縮小。
DIA-304-1977-10-17-2パキスタン1977年10月17日1970年代ジア将軍,人民財団基金(PFT)およびZ.A.ブット基金の管財委員会を停止―前者はPPPの日刊Musawat紙に印刷便宜を供与し,また,PPP系日刊Hilale-Pakistan紙と週刊Nusrat紙を所有。
DIA-304-1977-10-17-3パキスタン1977年10月17日1970年代PML,綱領―パガーローPML委員長はPMLが独自の綱領を作成中であると記者会見で明らかにした。また,同党のC.ザフール・エラーヒーは,”①PNAの全政党はPMLに合併すべきだ。②反PPP政権運動の成功の75%は労働者と一般民衆に負う”と談。
DIA-304-1977-10-17-4パキスタン1977年10月17日1970年代政府,マルディブに正式に大使館を開設。
DIA-304-1977-10-18-1パキスタン1977年10月18日1970年代経済回復措置―ジア将軍は関係各省次官と7時間半に及ぶ会談で,①民間部門の役割の明確化,②短期・中期経済計画(年次計画ないし2~3年単位の計画)立案,③肥大した行政機構の縮小等々を指示。
DIA-304-1977-10-18-2パキスタン1977年10月18日1970年代スィンド州政府,バス運賃を引き上げ。
DIA-304-1977-10-19-1パキスタン1977年10月19日1970年代国民解放戦線(QMA)結成―9月8日に保釈されたメーラージュM.カーン元PPP指導者が結成。同氏は,ブット氏とPPPを非難するとともに国有解除などのジア政権の諸政策に反対を表明。
DIA-304-1977-10-19-2パキスタン1977年10月19日1970年代政府,米の買上げ価格引き上げ―本年初めて。これにより,たとえばIrri-6号普通米は1モーンド(37.3キロ)あたり4ルピー高の46ルピーとなる。
DIA-304-1977-10-20-1パキスタン1977年10月20日1970年代アスガルTI委員長は記者会見で,”TIは大統領制と議院内閣制のいずれが適当か検討中”と談。
DIA-304-1977-10-20-2パキスタン1977年10月20日1970年代政府,良質紅茶の輸入従価税を40%から50%に引き上げ―低品質の茶には15%の輸入税が課せられたが,小売価格は据え置かれる。政府歳入の増大措置。
DIA-304-1977-10-22-1パキスタン1977年10月22日1970年代ブット前首相,最高裁で弁論。
DIA-304-1977-10-24-1パキスタン1977年10月24日1970年代ニアーズイーPPP書記長,記者会見―①責任追及の完了は12月中旬までに可能。それまでに選挙日程の発表がなければ民主主義回復のたあの運動を開始する。②ジア将軍は11月1日の会談を提案してきた。なお,同書記長は,PNAが分裂すれば現在のPNAのいずれかの構成党と連合を組む可能性を否定しなかった。
DIA-304-1977-10-26-1パキスタン1977年10月26日1970年代インドに石油を輸出―インド外務省発表によると,同国は,パが中東から輸入した石油の余剰分14万トンおよびナフサ3.6万トンを77年11月~78年1月に輸入する協定にカラチで調印した(共同通信)。
DIA-304-1977-10-27-1パキスタン1977年10月27日1970年代軍事評議会の警告―同評議会は,当面は政治活動制限を緩和しないと発表,また,“公務員停年引下げ”などのうわさを流布する者には厳しく対処すると警告。同評議会は度々開かれてきたが,この種の発表がジア将軍名でなく軍事評議会名で行なわれたのは初めて。
DIA-304-1977-10-29-1パキスタン1977年10月29日1970年代アスガルTI委員長,中東諸国歴訪―29日,パーレビ・イラン皇帝に会見。駐イラン・パ大使も同席。滞在中,他の政府首脳にも会見。30日,テヘランでの記者会見で同委員長は,“訪問の目的は皇帝との謁見,また,PNAは反イラン的だとの(PPPによる)宣伝の誤解を解くことだ。②パは同盟諸国に相談なくCENTOを脱退することはない”と語った。7~8日,アラブ首長国連邦でナハヤン大統領以下の政府首脳と会見。8日,帰国後の記者会見で,“①サウジアラビアも訪問したが巡礼のためだ。②国民政府には参加しない”と談。
DIA-304-1977-10-30-1パキスタン1977年10月30日1970年代大統領命令―エラーヒー大統領は77年1月~7月5日の高裁判事の任命を再検討する高裁判事〈任命調査〉命令を公布。これに基づき12月1日までにラホール高裁判事補2名,カラチ高裁判事補2名辞任。
DIA-304-1977-10-30-2パキスタン1977年10月30日1970年代民間投資許可―政府は鉄鋼,重機械,自動車,重化学,石油化学など,72年に国有化されたものを含む11の産業分野に対する民間投資を許可すると発表。
DIA-304-1977-10-30-3パキスタン1977年10月30日1970年代物価高騰―政府発表では本年8月の主要食料品価格は前年8月に対し,小麦12%,ギー油26%,中品質米33%,大麦73%,玉ねぎ238%高などとなった。
DIA-304-1977-10-30-4パキスタン1977年10月30日1970年代ジア将軍,中東諸国歴訪―非公式親善訪問。30日クウェート着。11月1日トルコへ。同日イラクにメッセージ。2日アンカラで記者会見,“①政治家の責任追求には4~6ヵ月かかり,それから総選挙を実施するか,あるいはおそらく来年10月または11月に実施する。②社会主義という酒の飲みすぎは害がある。③CENTOには未来はないかもしれないがRCDに関しては私は楽観的だ”と述べた。2日リビア着。3日ヨルダンへ。4日,“巡礼のため”サウジアラビアへ。外遊中,(サウジアラビアを除き?)各国政府首脳と会談。5日,帰国後の記者会見で,“①行政執行のための諮問評議会を近く設置する。②アスガルTI委員長は私の特使ではなかったし,彼に何の権限も委任しなかった”。彼の皇帝謁見にパ大使が同席したのは通常の措置だ(11月15日,パ外務省は大使が同席したことを否定)と言明。
DIA-304-1977-11-01-1パキスタン1977年11月01日1970年代綿花取引公社2理事など85人解雇(Dawn,11.4)。
DIA-304-1977-11-02-1パキスタン1977年11月02日1970年代PPP機関紙Musawat編集長,逮捕。
DIA-304-1977-11-06-1パキスタン1977年11月06日1970年代マザーリーNDP委員長,記者会見―一部のPPP禁止要求に反対。また,“すべての政治家のイメージを故意に傷つけようとする企図”に不服を表明,“すべての政治家を同様に扱うべきではない”と談。
DIA-304-1977-11-07-1パキスタン1977年11月07日1970年代シャリーフ海軍参謀長,中東諸国へ―8日,イランでパーレビ皇帝と会見。その後,サウジアラビアを訪問し,28日帰国。
DIA-304-1977-11-08-1パキスタン1977年11月08日1970年代本日付Dawn紙は10月24日のジア将軍に対するBBCのインタビューを掲載。以下,同将軍の発言要旨。①(クーデターについて)私は,今こそ私が政治的解決に寄与できることがある意味でうれしかった。②(クーデターには)私の同僚たちの一部は驚天したと思う。③総選挙延期とブット氏裁判は我々のクレディビリティーを確立した。④鞭打ちのようなすさまじい刑の導入は権威確立のためだ。それは回教刑罰でもある。
DIA-304-1977-11-08-2パキスタン1977年11月08日1970年代パ労働連合(PLF),労働者の解雇・監禁,国有解除に反対。
DIA-304-1977-11-08-3パキスタン1977年11月08日1970年代学生,カラチ市営バス6台を乗っ取り―8~9日に2短大の学生89人逮捕。彼らは劣悪なバス通学条件の改善を要求(Dawn,11.11)。13日,ハイデラーバードの3短大で学生がこれに同調して授業をボイコット。
DIA-304-1977-11-10-1パキスタン1977年11月10日1970年代最高裁,ヌスラット請願を却下―満場一致。以下,判決要旨。①7月5日の(政権の)変化は抗拒し得ぬ強制力の支配によるものであり,通常は禁じられていることも許容され得る。7月5日の変化は,陸軍参謀長による国家権力の簒奪ではなく,不正選挙によって非合法的に権力を掌握した簒奪者を追放したものである。②戒厳令布告は暫定的な措置として国民に歓迎された。また,戒厳令総司令官は可及的速やかに民主的統治を回復すると厳粛に誓っており,それを疑う理由はない。③以上の理由から戒厳令総司令官による憲法外の行為は有効である。ただし,憲法からのこの逸脱は政権奪取から総選挙実施までの期間とする。④政権奪取以前の状況は明らかに非常事態に相当するものであり,従って,基本的人権の停止は合憲である。よって,ヌスラット・ブット夫人の申立てを却下する。なお,最高裁は,“憲法は依然として最高の法であり,また戒厳令布告を正当化する強制力の支配は司法府の責任によって生じたものではない。従って,上位裁判所は戒厳令当局による法ないし行為を再審理する権限を有する”とし,この点では戒厳令政府の主張をしりぞけた。
DIA-304-1977-11-10-2パキスタン1977年11月10日1970年代ブット保釈申請―ブット前首相の法廷弁護士は同氏のM.A.カスーリー暗殺容疑に関し,最高裁に同氏の保釈を申請(11月27日撤回)。
DIA-304-1977-11-10-3パキスタン1977年11月10日1970年代西独,対パ9000万マルク借款協定に調印。
DIA-304-1977-11-11-1パキスタン1977年11月11日1970年代TI,PNAを脱退―以下,声明要旨。①PNAは会談というブットのわなにはまった。TIの反対がなければ代表団は協定(7月1日参照)に調印していたであろう。②PNAは20世紀の諸問題を解決し得ず,国民の願望を満たし得ない。
DIA-304-1977-11-12-1パキスタン1977年11月12日1970年代ジア将軍,学生自治会選挙を禁止。
DIA-304-1977-11-13-1パキスタン1977年11月13日1970年代PPP中央執行委員会の決議―①PNAを作らせた外国勢力(単数)は7月5日に目的を果たしたため,今度は9頭の馬から1頭の馬に乗り代えるのが安全だと考えた。国際的謀略は打ち砕かれよう。14日,さらに,②遅くとも12月末までに総選挙を実施せよ。③小作人追放,労働者解雇に反対。④全PPP活動者を釈放せよ,などの決議を発表。
DIA-304-1977-11-13-2パキスタン1977年11月13日1970年代PNA中央評議会―政府に対し,制限付き政治活動解禁,一般民衆の問題を解決することなどを要求。
DIA-304-1977-11-15-1パキスタン1977年11月15日1970年代労働者の要求―様々な職種の労働組合がカラチで労働者利害調整委員会(WCC)を結成。代表はバルナ全パ報導関係雇用者連合(APNEC)委員長兼パ連邦ジャーナリスト連盟(PFUJ)委員長。以下,要求要旨。①綿繰り工場,精米工場の国有解除だけでも7000人の解雇者を出した。その他,公共・民間部門で数々の解雇者が出ている。恣意的な解雇を撤回せよ。②国有企業・教育機関の国有解除反対。③労働者の様々な権利の回復。④全労働者の釈放。⑤給与生活者の実質購買力はこの数ヵ月で30~40%低下。物価急騰を収束し,賃金を引き上げよ。⑥バス料金値上げを撤回せよ,など。
DIA-304-1977-11-16-1パキスタン1977年11月16日1970年代フランス,今年度用対パ1.7億フラン(約3400万ドル)借款協定に調印(B.Recorder,11.20)。
DIA-304-1977-11-18-1パキスタン1977年11月18日1970年代ジア将軍演説―ラホールのファーティマ記念病院開設式で,“物価高は流通機構の欠陥と独占企業のせいだ。③私は選挙に出馬したくもないし,国家元首になる熱意もない”などと演説。
DIA-304-1977-11-18-2パキスタン1977年11月18日1970年代PNA,TI等はこの頃から年末にかけ,責任追及のテンポの遅さに強い不満を訴え,総選挙早期(3月)実施を頻繁に要求。PMLだけは総選挙は急がないとしている。また,PNA,TIは農業所得税廃止を要求。
DIA-304-1977-11-20-1パキスタン1977年11月20日1970年代ジア将軍,高校までの私立学校設立を許可。
DIA-304-1977-11-20-2パキスタン1977年11月20日1970年代次官評議会実行委員会決定。①小麦の供給円滑化のため現在の備蓄に加え100万トン輸入,②小麦粉の品質向上(この数ヵ月,品質が低下したとの不満が強い),③食用油公社および植物ギー油公社の管轄を農事管理省から工業省に移す。民間株主の両公社工場経営参加の強化,④織物業界に対する特恵的信用供与,など。
DIA-304-1977-11-21-1パキスタン1977年11月21日1970年代兵営管轄区域(一般住宅地も含む)の固定資産税,遊興税などの徴収権は75年7月から各州政府に移管されていたが,ジア将軍は1924年兵営法に基づき,兵営委員会の兵営管轄区域内での徴税権を復活させた。
DIA-304-1977-11-21-2パキスタン1977年11月21日1970年代ヌスラット女史,再び人身保護の請顧―今回はブット氏および他4人に関し,ラホール高裁に請願。
DIA-304-1977-11-23-1パキスタン1977年11月23日1970年代ニアーズィーPPP書記長,帰国―“巡礼のため”サウジアラビアを訪問していた同書記長は,滞在中ハーリド国王に会見にしたことを明らかにした。
DIA-304-1977-11-23-2パキスタン1977年11月23日1970年代回教イデオロギー評議会は無利子銀行制度の確立をめざし,専問家委員会の設置を勧告。JUIなど,PNAの一部も無利子銀行制度導入を主張している。
DIA-304-1977-11-24-1パキスタン1977年11月24日1970年代脱獄騒ぎ―ラヒームヤール・カーン刑務所で政治犯数百人が脱獄を試み,1人射殺,2人負傷。
DIA-304-1977-11-25-1パキスタン1977年11月25日1970年代大統領命令―エラーヒー大統領は国会・州議会<議員資格停止>命令および公職者<非行処罰>命令を布告。これらは70年12月以後の大統領・州知事,首相・州首相以下の中央・州政府閣僚などで特別法廷によって非行があったことが認められた者に適用される。資格停止期間は7年間,最高刑は禁固7年,なお,1月4日にも同様の法案が国会で採択されたが,これらには首相・州首相を適用範囲外に置くなどの抜け道があった。
DIA-304-1977-11-26-1パキスタン1977年11月26日1970年代5カ年計画―ジア将軍は26日の次官評議会で計画委員会に対し,“人間の基本的必要,民間部門の役割増大”などを優先する5ヵ年経済開発計画(78/82年度)概要を3ヵ月以内に作成するよう指示した。既に12月24日,5ヵ年計画工業政策担当者第1回会議。なお,既に先11月21&22日付B.Recorder紙によると,今後5年間の工業投資総額は490億(外貨分275億)ルピーであり,計画発足までの措置として年次開発計画が77年末までに発表される予定であるという。
DIA-304-1977-11-26-2パキスタン1977年11月26日1970年代自由工業地域―政府はカラチ近郊に建設中のカースィム港付近およびラホールの内陸通関所(dry port)付近に自由工業地域を設置するための調査を開始。
DIA-304-1977-11-27-1パキスタン1977年11月27日1970年代ガッフールPNA書記長,記者会見―“①状況は正しい方向には動いていない。犯罪者たち(PPP)は民衆の忘れっぽさに乗じ,救世主として再び抬頭するための状況を作り出すかもしれない。②一般民衆は今も苦しんでいる。警察の行過ぎが驚くほど増加している。③来年3月13日までに総選挙を実施せよ”と談。
DIA-304-1977-11-28-1パキスタン1977年11月28日1970年代顧問任命―ジア将軍はA.ハミード・ガニー氏を戒厳令総司令官鉄道特別顧問,アミール・ムハマッド・パ農業大学副学長を同農業顧問に任命した。
DIA-304-1977-11-28-2パキスタン1977年11月28日1970年代サジャドA.ジャーン前選管委員長は,“3月総選挙はPPPのために完全な詐欺になった”と談。
DIA-304-1977-11-28-3パキスタン1977年11月28日1970年代PPPカラチ支部指導者など450人,QAM加入。
DIA-304-1977-11-28-4パキスタン1977年11月28日1970年代テヘランでRCD3カ国原子力委員長会議開始。
DIA-304-1977-11-30-1パキスタン1977年11月30日1970年代PPP中央執行委員会(ラホール)―ニアーズィー書記長およびジャトーイ・スィンド州支部委員長は,PPP結成10周年記念日にあたるこの日の中央執行委員会に欠席した。12月1日,ヌスラット委員長代行が記者会見。①ブットの誕生日である1月5日に“民主主義の日”行動を行なう。②ブットは3~4年前に終身委員長になった。③本日予定の党役員選挙は戒厳令解除と民主主義回復後に行なう。今は適切な時期ではない。12月2日,PPPは国有解除反対などの決議を発表。
DIA-304-1977-11-30-2パキスタン1977年11月30日1970年代ムフティーPNA委員長帰国―6週間のエジプト,サウジアラビア訪問を終えて。帰国後,“ブット氏が民主主義のチャンピオンであるとの誤った印象が作られた。PNAにとって軍政の受容は賢明でない”と談。
DIA-304-1977-11-30-3パキスタン1977年11月30日1970年代エラーヒー大統領,連邦保安隊解体令を公布。
DIA-304-1977-11-30-4パキスタン1977年11月30日1970年代ガッファール・カーン氏は,”インドから贈与された金(かね)は北西辺境州人民の財産であり,出版社創立と週刊“プシュトゥーン”誌再発行に用いると談。
DIA-304-1977-11-30-5パキスタン1977年11月30日1970年代政府,民間の5セメント工場設立の認可を決定。
DIA-304-1977-11-30-6パキスタン1977年11月30日1970年代シャリーフ統合参謀本部議長,トルコ訪問―1週間の公式訪問のため。滞在中,デミレル首相などの政府首脳および軍首脳と会談。
DIA-304-1977-12-01-1パキスタン1977年12月01日1970年代PNA代表団,ジア将軍と会談―PNAの要請。2日,ガッフール書記長は記者会見で,“ジア将軍は,前政権下での政治犯の釈放に関しPNA代表たちを含む委員会を設置すると言明。②申告資産検討と処罰は3月中旬までに完了。③ジア将軍は,政治犯の釈放に関しPNAを含む委員会を設置すると言明。5日,同書記長は,“諮問評議会のメンバーには政治家以外の者,特に官僚が任命されるだろうとの印象を受けた”と談。
DIA-304-1977-12-02-1パキスタン1977年12月02日1970年代アスガルTI委員長,記者会見―“①ブット氏失脚によってPNAの利用価値はなくなった。②来たるべき総選挙ではJUPに協力する”と談。
DIA-304-1977-12-02-2パキスタン1977年12月02日1970年代ニアーズィーPNA書記長はペシャーワルでの歓迎会で,“選挙は経済・社会問題で争うべきであり宗教が利用されてはならない。そのため,12~1月までに回教法を導入し,それから選挙を実施すべきだ”と談。18日,アスガルTI委員長も同じ要求を出した。
DIA-304-1977-12-03-1パキスタン1977年12月03日1970年代ハンスト―女性2人を含む11人の報道関係者がカラチ記者クラブでハンスト突入。要求は,①Musawat紙の発禁処分の撤回,②Hilal-e-Pakistan,Nusrat両紙の編集長の解雇撤回,③労働組合運動の保証,など。席上バルナ氏(11月15日参照)は,“現政権は報道の自由をうたう一方では前政権崩壊の原因となった策略と同じ策略を用いている”と演説。また,Musawat新聞社会長でもあるヌスラットPPP委員長代行も演説。
DIA-304-1977-12-03-2パキスタン1977年12月03日1970年代ガッファール・カーン,ジア将軍に書簡―“私はパキスタン自体に反対したことはない。私がパを去ってアフガニスタンへ行かざるを得なかったのは支配者たちが建国の理想を汚したからだ””との趣旨。
DIA-304-1977-12-04-1パキスタン1977年12月04日1970年代ジア将軍,記者会見(クエッタ)―“①政治テンポを今より早めるのは望ましくない。②6月以前の総選挙実施は考え難い。③分離選挙制(10月頃からJIなどがその復活を要求していた)が望ましい”と談。
DIA-304-1977-12-05-1パキスタン1977年12月05日1970年代ガス田―10月27日にバルーチスターン州マリーおよびブグティー両族地域のピルコで発見された良質ガス田の創業式。埋蔵量の発表はないが,採算は十分に合い,輸出も可能という。深さ8700フィート,ガス田面積130平方マイルで世界でも25番以内の規模という。
DIA-304-1977-12-06-1パキスタン1977年12月06日1970年代ワリー・カーンの保釈を許可―ハイデラーバード特別法廷(7月27日参照)はワリー・カーン非合法PNA委員長など15人の保釈を許可。この裁判の被告は現在41人だが,このうち15人の保釈が許可され,残り26人については法廷は判断を回避。7日,3人保釈。8日,ワリー・カーン氏など6人保釈。一方,N.K.B.マリー,G.Bビゼンジョー,G.K.ナスィールのバルーチスターン州の3人は6日以来,保釈を拒否。その理由は,“我々の勾留は非合法だ。全員を無条件釈放すべきだ”など。
DIA-304-1977-12-06-2パキスタン1977年12月06日1970年代6日までにハンスト中の新聞記者31人が逮捕された。この動きには,ブット政権に反対していたJhang,Dawn,Morning News紙などの編集長・記者たちも大々的に参加している。
DIA-304-1977-12-06-3パキスタン1977年12月06日1970年代Musawat紙復活―同紙の事実上発禁はジア将軍による措置であるが,ジャハーンゼーブ・スィンド州戒厳令司令官が,訪れた5紙編集長に対して同紙の再発行許可を発表。7日,ハンストによる逮捕者,全員釈放。
DIA-304-1977-12-06-4パキスタン1977年12月06日1970年代選管権限拡大―ジア将軍は,3月総選挙の不正行為調査権と不正行為者の議員立候補資格を5年間剥奪する権限を選管に与える戒厳令命令を布告した。
DIA-304-1977-12-08-1パキスタン1977年12月08日1970年代第2世銀,対パ7197万ドル借款を発表。
DIA-304-1977-12-09-1パキスタン1977年12月09日1970年代ワリー・カーン,記者会見―“パの分割の責任者たちを追及すべきだ”などと談。
DIA-304-1977-12-10-1パキスタン1977年12月10日1970年代ワリー・カーン,円卓会議を提案―記者会見。①ジア将軍は前政権下の犠牲者全員に恩赦を与えた後に全州の政治家たちの円卓会議を開くべきだ。②ジア将軍は誠実だ。③私はパクトゥーニスタン構想を主張したことはない。それはブット氏によるでっちあげだ。④ブット主義の背骨を折らねばならない。⑤私はまず(分離主義者という)ぬれぎぬを晴らさねばならない。⑥総選挙自体は目的ではない。
DIA-304-1977-12-10-2パキスタン1977年12月10日1970年代最高裁のNAP禁止支持判決(75年10月)は有効―ジア将軍が言明。ただし同将軍は,この件で最高裁の再判断を抑ぐ必要があれば協議するとしている。
DIA-304-1977-12-11-1パキスタン1977年12月11日1970年代アスガルTI委員長,ジア将軍と会見―会見後の記者会見でアスガル氏は,“①私は分離選挙には反対だ。②将軍は物価が異常に高いとは言えないとしている。私は,インフレの1因は公務員給与引上げなどの前政権による支出増にあると思う”と談。
DIA-304-1977-12-11-2パキスタン1977年12月11日1970年代ムフティーPNA委員長は記者会見で,“①誰かを首相に指名するのは時期尚早だ。②回教体制導入は選挙によって選ばれた政府にまかせるべきだ”と主張。
DIA-304-1977-12-11-3パキスタン1977年12月11日1970年代TIのS.モイヌッディーン中央執行委員は,“4州の政治指導者たちの円卓会議などと,州レベルで考えるべきではない”とワリー・カーン提案を批判。
DIA-304-1977-12-12-1パキスタン1977年12月12日1970年代身分証明書―政府は,73年国民登録法に基づき来年4月30日までに身分証明書を入手するよう命令。17才以下の者についても保護者がこれを登録しなければならない。違反者には1000ルピーの罰金または(および)最高3ヵ月の禁固刑が課せられる。
DIA-304-1977-12-13-1パキスタン1977年12月13日1970年代ワリー・カーン,ジア将軍に会見。
DIA-304-1977-12-13-2パキスタン1977年12月13日1970年代パ,食糧不足のアフガニスタンに米1万トン贈与。
DIA-304-1977-12-13-3パキスタン1977年12月13日1970年代外国銀行新設を許可―74年1月の国内銀行国有化に伴い,パにおける外国銀行の新設が禁止されたが,政府は13日これを撤回,同日,ドバイのオマーン銀行のカラチ支店新設を認可。
DIA-304-1977-12-14-1パキスタン1977年12月14日1970年代ワリー・カーン,記者会見―“責任追及完了前の総選挙は無意味。②どの単一政党も全国の代表とはいえない。③ビゼンジョー氏(6日参照)などを支持する。④基本的人権および全州の諸権利を認めよと主張。
DIA-304-1977-12-14-2パキスタン1977年12月14日1970年代アスガルTI委員長記者会見―イラン皇帝との会見において南アジア,ペルシァ湾,中東を含む地域の外交と防衛についても話し合ったこと,また,“ジア将軍が500件の責任追及が開始されると述べた”とし,また,円卓会議提案に賛成。
DIA-304-1977-12-14-3パキスタン1977年12月14日1970年代ジア将軍訪中―中国の招待による非公式親善訪問。14日,上海で黄華中国外交部長と会見。16日,ジア将軍一行は毛主席記念堂で黙祈し,また,民族服姿で北京のモスクで礼拝。礼拝後,ジア・鄧小平会談。同日,鄧小平副総理による国務院名の歓迎宴。17日,ジア将軍は鄧頴超(周恩来夫人)に会見。18日午前,第2回ジア・鄧小平小平会談。同日,ジア・華国鋒会談。華主席は,“パの安定,団結,強大化,繁栄を希望する”と述べた。同日,ジア将軍による答礼宴。中国側は鄧小平氏以下の政府要人が出席。両国の友好を再確認。
DIA-304-1977-12-15-1パキスタン1977年12月15日1970年代ラホールでPPPデモ,14人逮捕―12月末までにラホール,首都圏,カラチ,ラールカーナ等で最低150人が逮捕された。18日,ベーナズィール・ブット氏長女,1週間の自宅軟禁。19日,カラチでPPP支持者がバスに放火。
DIA-304-1977-12-15-2パキスタン1977年12月15日1970年代ソ連,パを非難―モスクワ放送は,“パの飛行機が中国製の武器をソマリアに運んでいる”と非難。パ外務省は,これを強く否定した。
DIA-304-1977-12-15-3パキスタン1977年12月15日1970年代アジア開銀,対パ7000万ドル借款供与を承認。
DIA-304-1977-12-16-1パキスタン1977年12月16日1970年代衝突―ラホールで英・パ間クリケット試合会場でヌスラット女史が観客を扇動,PPPとPNA支持者が衝突,ヌスラット女史は負傷して入院。同日,ラフィークPPPパンジャーブ州支部委員長(前州議会議長),カスールで逮捕。
DIA-304-1977-12-16-2パキスタン1977年12月16日1970年代対パ債権国会議―パリで,今77/78年度の対パ援助7.75億ドルを決定(昨年度は7.30億ドル)。パは9億ドルを要請していた。
DIA-304-1977-12-17-1パキスタン1977年12月17日1970年代マザーリーNDP委員長,記者会見―“PNAは政府決定に関与していないのに現政府による諸措置のためにPNAが非難されている”と談。
DIA-304-1977-12-17-2パキスタン1977年12月17日1970年代アスガルTI委員長,政治活動完全解禁を要求。
DIA-304-1977-12-17-3パキスタン1977年12月17日1970年代紅茶輸入税,再引上げ―良質紅茶は50%から75%に,その他は5%増(10月20日参照)。
DIA-304-1977-12-19-1パキスタン1977年12月19日1970年代ワリー・カーン,記者会見―“パの存続は国民的団結にかかっているのに,外国でパの外交関係について声明を出したりPNAから脱退するとは無分別だ”と暗にアスガルTI委員長を非難。
DIA-304-1977-12-19-2パキスタン1977年12月19日1970年代ジア将軍,中国から帰国―記者会見で次のように談。①訪中はすべての点で非常な成功を収めた。②中国国民の規律を見習え。③PPPを禁止するかどうかはPPPの態度にかかっている。必要なら禁止するだけでなくその他の手段もとる。
DIA-304-1977-12-20-1パキスタン1977年12月20日1970年代ムフティーPNA委員長,ジア将軍に“PPP政権白書”を早く発表するように訴え。
DIA-304-1977-12-22-1パキスタン1977年12月22日1970年代ジア・ウル・ラーマン・バングラデシュ大統領来訪(公式)―貿易拡大,ビハール人のパへの受入れ増などで合意。23日,共同コミュニケ発表。
DIA-304-1977-12-22-2パキスタン1977年12月22日1970年代米,対パ5700万ドルPL480援助協定に調印―米国からの小麦20万トン,植物油8万トン輸入のため。
DIA-304-1977-12-23-1パキスタン1977年12月23日1970年代ニアーズィーPPP書記長,記者会見―“①PPPは責任追及遂行は認めるが,それは民主主義の道を閉ざすものであってはならない。②PPPは誰も終身委員長にしたことはない”と談。また,最近のPPP支持者による騒動とのかかわり合いを否定。
DIA-304-1977-12-24-1パキスタン1977年12月24日1970年代水資源・電力開発公社は,前政権時代に採用された149人を解雇。その3分の2は管理職者。
DIA-304-1977-12-24-2パキスタン1977年12月24日1970年代ワリー・カーン,記者会見―“州自治問題は73年憲法では決着済みだが,それが侵されぬような保証が必要だ。その意味で上院の権限を強化すべきだ”と談。
DIA-304-1977-12-26-1パキスタン1977年12月26日1970年代政府・労・使3者会談―ジア将軍は次のように開会の演説。①今後,最低賃金および労働者とその家族に対する教育・医療の便宜供与は各単位企業の責任とする。②労働者は生産向上の義務を果たさねば権利は保証されない。③9月1日の生産性ボーナス制発表以来,その資格を得た者はいない。④8000の労組の役員たちは労組員を食い物にしている。労組数を減らす必要がある。生産活動を妨害する労組指導者には子々孫々にも伝わるような厳しい措置をとる。⑤前政権によるのろうべき社会保障制度を廃止し,代りに労働者のための医療便宜を供与する。⑥実業家たちは海外に逃避させた資本を自国に投資せよ。28日,3者会談は労使強調路線に基づく100項目以上の勧告を採択。詳細不明。
DIA-304-1977-12-26-2パキスタン1977年12月26日1970年代パ労働者連合(PWF)委員長,“労働運動を抑圧しながらの政府・労・使3者会談は無意味”と反対。
DIA-304-1977-12-27-1パキスタン1977年12月27日1970年代戒厳令当局,ヌスラット女史を軟禁―入院中の病院またはラホールの自宅に1月10日までの軟禁。
DIA-304-1977-12-27-2パキスタン1977年12月27日1970年代パ労組連盟(PTUF)は全産業の国有化,労働者の権利回復などを要求。
DIA-304-1977-12-27-3パキスタン1977年12月27日1970年代アスガルTI委員長,TIが“影の政府”を組織することを要求したとのうわさを否定。
DIA-304-1977-12-28-1パキスタン1977年12月28日1970年代“民主主義の日”撤回―ニァーズィーPPP書記長,M.タリーブル・マウラ副委員長など中央執行委員8人が,1月5日を“祈りの日”として,いかなる違法行為も行なわぬようにとの声明を発表。彼らは声明で,“当日デモなどを行なう指示が或る向きから出されていてもそれに従わなぬよう”訴えた。一方,PPPパンジヤーブ州支部執行委員会(S.M.マスード委員長代行)は同日,“①ブット氏は終身委員長。②総選挙こそが責任追及の手最”との決議を発表。29日,Y.ワットゥー中央執行委員およびカーリド情報書記はこの決議と同趣旨の声明を発表,1月5日の“民主主義の日”行動により大衆の連帯を図るとした。
DIA-304-1977-12-29-1パキスタン1977年12月29日1970年代ワリー・カーン,記者会見―“PNAは国民の団結には必要だが,頼まれてもPNA委員長にはならない。(最高裁が)私が愛国者であるか反逆者であるかを決めるまではどの政党にも入らない”と言明。この日,PNA評議会出席の約束を取り消してカラチへ。同地では,責任追及制度を憲法に明記する必要を強調。なお,それより前にラーワルピンディーでジア将軍に会見。
DIA-304-1977-12-29-2パキスタン1977年12月29日1970年代PNA新規約採択―事実上,単一政党として行動する路線に基づいている。30日,新規約により7人の役員を選出(ほとんど変化なし)。西パ統一州復活を要求し,ワリー・カーンを批判してきたJUPは役員選挙をボイコット。また,PMLも11月13日のパガーロー委員長によるカラチ支部解散,12月に入ってのS,マハムーダ夫入の中央活動者委員会からの追放などによって,委員長とマリク・カースィム書記長が対立している。
DIA-304-1977-12-29-3パキスタン1977年12月29日1970年代ジンナ連盟(JL)結成―M.アーザム・カーン退役陸軍中将(元東パ州知事)が結成。
DIA-304-1977-12-30-1パキスタン1977年12月30日1970年代ワリー・カーン,全国の政治犯恩赦を要求―カラチで記者会見。他に,“戒厳令は歓迎できないが,軍はブット氏追放によって国を救った”などと談。
DIA-304-1977-12-30-2パキスタン1977年12月30日1970年代アスガルTI委員長はジャングで記者会見,議院内閣制を主張し,憲法改正と大統領制導入に反対。
DIA-304-1977-12-30-3パキスタン1977年12月30日1970年代バレ・ソマリ民主共和国大統領来訪。
DIA-304-1977-12-30-4パキスタン1977年12月30日1970年代今年度の綿花収穫は推定280~290万ベール―カラチ綿花業界の推定。綿花協会発表。12月30日綿花輸出公社発表では,今年度の綿花輸出目標は60万ベール(不作年以外は例年110~120万,昨年は7万ベール)。
DIA-304-1977-12-31-1パキスタン1977年12月31日1970年代リアーズ・パ革命戦線(PIM)書記長代行は,PIM(ムクタール・ラーナー委員長)は,メーラジュ・M.カーンのQMA,PMLのハニーフ・ラメー,ムバッシル元PPP書記長と協力するかもしれないと談。これらの指導者はかつてのPPP左派として著名。
DIA-304-1977-12-31-2パキスタン1977年12月31日1970年代パ側カシミール政府,新選挙人名簿作成を指示。
DIA-304-1977-12-31-3パキスタン1977年12月31日1970年代ワリー・カーン氏とマザーリーNDP委員長はハイデラーバードで保釈拒否の3人に会見。
DIA-304-1977-12-31-4パキスタン1977年12月31日1970年代TIのPNA脱退以来TI地方指導者の脱退とPPP地方指導者のTI入党が相次いでいる。11月11日M.ナスィール・A.K.タールプル(スィンド州大豪族)がPPP脱党,TI入党。11月17日,A.E.ザヒールTI情報書記,TIを脱党。11月末,ゴウハル・アユーブ(アユーブ元大統領の実子),TIを追放さる。
DIA-304-1977-12-31-5パキスタン1977年12月31日1970年代ハイデラーバードの1医学校,元の所有者に返還。
DIA-304-1977-12-31-6パキスタン1977年12月31日1970年代国有解除―ハビープッラー工業顧問は,3食用油工場の民間返還を発表。これらの工場の外貨資本(送還不可)は在外パ人ないしインド亜大陸出身のウガンダ国籍者などが出資していたもの。
DIA-304-1977-12-31-7パキスタン1977年12月31日1970年代二重為替制度導入を要求―M.ムザッファル・パ商工会議所連合(FPCCI)新総裁が要求。
DIA-304-1978-01-01-1パキスタン1978年01月01日1970年代ジア・ウル・ハック戒厳総司令官,記者会見―ジア戒厳総司令官(以下,ジア将軍)は席上ハイデラーバード特別法廷の解体,回教に背反する法律を破棄する権限の司法府に対する付与,税率改正などを発表した(参考資料参照)。なお,大幅な税制改革は“暫定政権の仕事ではない”と,カラチの財界筋も驚いているという(「朝日」,1.19)。
DIA-304-1978-01-02-1パキスタン1978年01月02日1970年代警官隊が発砲―ムルターン織物工場でボーナスを要求してスト中の労働者に警官隊が発砲,後日の政府発表で17人射殺。4日,ムルターンで抗議のゼネスト。なお,同工場のストは16日に解決。
DIA-304-1978-01-02-2パキスタン1978年01月02日1970年代ジア将軍,イラン訪問―ジア将軍は2日,クウェート元首の死去弔問のため同国を訪問したのち,同日イランを訪問,パーレヴィー国王と両国関係,カーター米大統領のイラン訪問などについて会談。3日帰国。
DIA-304-1978-01-03-1パキスタン1978年01月03日1970年代ワリー・カーン,民族民主党(NDP)入党―ワリー・カーン民族人民党(NAP,非合法)党首はNDPに入党。なお同日,NDPは分離選挙制度導入を支持するように綱領を修正した。
DIA-304-1978-01-03-2パキスタン1978年01月03日1970年代カーター米大統領はインドからサウジアラビアへの途次,パキスタン(以下,パ)の領土保全,発展,独立の支持はアメリカの政策の原則である旨のメッセージをジア将軍に送った。
DIA-304-1978-01-05-1パキスタン1978年01月05日1970年代パ国民連合(PNA),再分裂の動き―パ神学者協会(JUP)は昨年末のPNA役員選挙を不満とし,本日,PNA綱領はPNA構成全政党の一致で採択することなど,JUPがPNAに留まる条件を決定。
DIA-304-1978-01-05-2パキスタン1978年01月05日1970年代ワリー・カーン,カラチ弁護士協会で演説―①現在最も重要なのはブット主義を払拭し,民主主義の基本たる立法,司法,公務員の制度を元に復することだ。②そのためにはPNAの存在が必須条件だ。③ブットは回教法に基づいて裁かれるべきだ。④軍はブットを引きずりおろすことによってパを救った。
DIA-304-1978-01-05-3パキスタン1978年01月05日1970年代デモ―パ人民党(PPP)は本日を“民主主義の日”と称し全国各地で反政府デモを挙行。ラーワルピンディーでは警察隊が催涙ガスを発射,200人を逮捕したが,他地域のデモは小規模だったもよう。
DIA-304-1978-01-08-1パキスタン1978年01月08日1970年代憲法改正を答申―政府の回教イデオロギー評議会(IIC)は1日のジア将軍の発言を受け,回教法導入のための憲法改正をジア将軍に答申した。
DIA-304-1978-01-09-1パキスタン1978年01月09日1970年代ワリー・カーン,ラホール弁護士協会で演説―①将来は統一州(One Unit=4州の単一政体への統合)も可能かもしれない。②総選挙前にPNAが分裂しても構わない。③政教分離については建国の父ジンナと同じ立場だ。
DIA-304-1978-01-09-2パキスタン1978年01月09日1970年代ブット前首相はラホール高裁における政敵カスーリー暗殺容疑の審理をボイコット。
DIA-304-1978-01-09-3パキスタン1978年01月09日1970年代核燃料再処理工場―フランス外務省は核燃料再処理工場の対パ輸出に関し,すでに昨年9月パ政府に対して,契約を変更して純粋なプルトニウムの抽出ができないタイプのものに切りかえるよう提案したことを明らかにするとともに,同提案を繰り返した(“Herald Tribune,”1.10)。11日,パ政府はこの提案を拒否(Washington Post,”1.12)。
DIA-304-1978-01-10-1パキスタン1978年01月10日1970年代軟禁―ヌスラット・ブット夫人(党首代行)の自宅軟禁は14日まで,その息女ベーナズィール女史の自宅軟禁は13日までに延期(軟禁日不明)。
DIA-304-1978-01-11-1パキスタン1978年01月11日1970年代高裁終身所長―ラホール高裁のムシュターク・フセイン所長代行は同高裁の終身所長に就任した。
DIA-304-1978-01-11-2パキスタン1978年01月11日1970年代ジア将軍,2月に訪印の予定―ジア将軍自らがイスラーマバードでの記者会見で明らかにしたもの。また13日付“Herald Tribune”紙によると,ジア将軍は,パが核燃料再処理工場をあきらめなければ援助を停止するとアメリカが通告してきたと明らかにした。
DIA-304-1978-01-11-3パキスタン1978年01月11日1970年代キャラハン英首相来訪(~13日)―12日,ジア将軍と会談。双方はイギリス在住のパ人移民250万人の諸問題などを討議。13日,ジア将軍は記者会見でパは英連邦復帰の用意があると談。なお,英首相の来訪は1959年以来19年ぶり。
DIA-304-1978-01-12-1パキスタン1978年01月12日1970年代小麦価格急騰―「ドーン」紙調査によると昨年7月初旬に比して現在の小麦価格は所により19.3%から38.7%も上昇しているという。
DIA-304-1978-01-14-1パキスタン1978年01月14日1970年代顧問評議会設置―ジア将軍は全員が閣僚級であり事実上の内閣である顧問評議会を設置。顧問は16人(1月22日に2人,2月12日に1人追加)で,うち4人は現役軍人,1人は退役軍人,他はほとんどが官僚。ジア将軍自らは国防,情報など11のポストを担当。(なお,メンバーのリストは本年報1978年版に収録済み)
DIA-304-1978-01-14-2パキスタン1978年01月14日1970年代陸軍人事―ジア将軍はサワール・カーン中将に代えファズル・ハック中将を第11軍団司令官ならびに北西辺境州戒厳司令官に任命(1月12日付)。
DIA-304-1978-01-14-3パキスタン1978年01月14日1970年代回教会議諸国と協定―サウジアラビア駐在のパ大使はジェッダで回教会議諸国との間で,経済,技術,商業協力に関する一般協定に調印。
DIA-304-1978-01-15-1パキスタン1978年01月15日1970年代カラチ造船所は,中国より受注していた貨物船“和田”号(1万3500トン)を引き渡した。
DIA-304-1978-01-16-1パキスタン1978年01月16日1970年代特別法廷―政府は昨年11月25日の公職者〈非行処罰〉命令に基づきそれぞれ1人の高裁判事から成る12の特別法廷を設置した。18日,これらの法廷による責任追及の対象を首相以外の国会議員および州議会議員だけでなく,首相・州首相の特別補佐官・顧問にも拡大するための大統領令が布告された。
DIA-304-1978-01-16-2パキスタン1978年01月16日1970年代ナスルッラー回教神学者協会(JUI)党首,総選挙日程の即時発表を要求。
DIA-304-1978-01-17-1パキスタン1978年01月17日1970年代マザーリーNDP党首はパ回教徒連盟(PML)などPNA内一部政党主張の統一州復活に反対。
DIA-304-1978-01-18-1パキスタン1978年01月18日1970年代ヌスラット女史,ムルターン訪問―1月2日の事件に関し政府を非難,労働者殺害の責任者に対する厳しい処罰を要求。
DIA-304-1978-01-18-2パキスタン1978年01月18日1970年代アスガル自立運動党(TI)党首はスィンド,バルーチスターン両州訪問を終えカラチで記者会見,両州農村部の法と秩序は悪化しているが,これはブット時代の名残りだと談。
DIA-304-1978-01-19-1パキスタン1978年01月19日1970年代政府,バルーチスターン州の反政府活動者に対する恩赦の対象を拡大。
DIA-304-1978-01-20-1パキスタン1978年01月20日1970年代乗取り―パ国際航空(PIA)国内便がサッカルからカラチに向う途中,初めてパ人によって乗っ取られた。14時間後,犯人を逮捕。犯人は癌患者で余生を楽しむためにインド行きを要求していた。
DIA-304-1978-01-21-1パキスタン1978年01月21日1970年代ハイデラーバード特別法廷の解体により先日釈放されたビゼーンジョー元バルーチスターン州知事は政教分離,(宗教の相違に基づかない)合同選挙制,議会制民主主義を主張した。
DIA-304-1978-01-22-1パキスタン1978年01月22日1970年代顧問評議会は政治家に対して国家経済などの問題を定期的に説明することを決定。2月4日の第1回会合ではPPP,JUPが欠席,TIはオブザーバー参加。3月4日の第2回会合ではNDPのバルーチスターン州政治家,PPP,TIが欠席。
DIA-304-1978-01-23-1パキスタン1978年01月23日1970年代円卓会議を提唱―ワリー・カーンは政府および政治指導者たちに対し,国家の諸問題の解決のために全政治指導者の円卓会議を開くことを提案した。
DIA-304-1978-01-24-1パキスタン1978年01月24日1970年代労働者,ジャーナリスト,学生が各地で“暗黒の日”を挙行し,ムルターン事件に抗議。
DIA-304-1978-01-25-1パキスタン1978年01月25日1970年代カアバのイマーム,来訪(~30日)―サウジアラビアのメッカにあるカアバ神殿のイマームが来訪。30日,ジア将軍と会談,同将軍の回教重視策を礼賛。
DIA-304-1978-01-26-1パキスタン1978年01月26日1970年代特別法廷―ジア将軍は昨年11月25日のエラーヒー大統領による国会・州議会議員〈資格剥奪〉命令に基づき,適切な数の特別法廷を設置するための詳細な戒厳令命令第31号を布告。2月3日,これに基づき11の特別法廷設置。各法廷は高裁判事または判事補および陸軍准将の2人で構成。70年12月以降の国会・州議会議員でこれらの法廷により非行があったと認められた者は最高7年間議員職につくことを禁じられる。同3日,ブット前首相,ヌスラット女史,クレーシー前パンジャーブ州知事を含む89人のリストがこの裁判にかけられる第1グループであるとして発表さたれ。
DIA-304-1978-01-26-2パキスタン1978年01月26日1970年代陸軍人事―ジア将軍はイクバール・カーン中将に代え,サワール・カーン前北西辺境州戒厳司令官(中将)を第4軍団司令官ならびにパンジャーブ州戒厳司令官に任命(1月25日付)。
DIA-304-1978-01-26-3パキスタン1978年01月26日1970年代当局発表によればブット前首相の公金の不正使用額は8000万ルピーに達するという。
DIA-304-1978-01-26-4パキスタン1978年01月26日1970年代ヌスラット女史,1月31日までカラチで行動制限。ベーナズィール女史はラホールで5日間の自宅軟禁。
DIA-304-1978-01-29-1パキスタン1978年01月29日1970年代政府,8年生からアラビア語教育を義務化。
DIA-304-1978-01-29-2パキスタン1978年01月29日1970年代ムフティーPNA委員長は,総選挙の早期実施のため政治家の責任追求のテンポを早めるよう要求。
DIA-304-1978-01-30-1パキスタン1978年01月30日1970年代ムフティーPNA委員長,インドとの友好はカシミール問題の解決後にのみ可能と主張。
DIA-304-1978-01-31-1パキスタン1978年01月31日1970年代戒厳副司令官に予防拘禁権―ジア将軍は戒厳副司令官(各州の省レベル担当)にも予防拘禁を行なう権限を与える戒厳令命令第33号を布告。
DIA-304-1978-01-31-2パキスタン1978年01月31日1970年代ラホール高裁は,今後はブット前首相の暗殺容疑の審理を非公開で行なうと決定。
DIA-304-1978-01-31-3パキスタン1978年01月31日1970年代アメリカ海軍太平洋司令部司令官M.F.ワイスナー大将が友好訪問のため来訪(~2月5日)。
DIA-304-1978-02-01-1パキスタン1978年02月01日1970年代グラーム・フセインPPP書記長釈放―釈放後の記者会見で脱党のうわさを否定。
DIA-304-1978-02-02-1パキスタン1978年02月02日1970年代ブット前首相にさらに5件の起訴―検察当局は総選挙での不正行為,資産の不正申告,公金の不正使用,秘密基金の不正使用,権力の乱用の容疑でブット前首相を特別法廷に起訴。4日,検察当局は個人的目的のための貴重品不正輸入の容疑で6件目の起訴を行なった。
DIA-304-1978-02-03-1パキスタン1978年02月03日1970年代PPP中央委員会(カラチ)―4日,メーラージュ・カーリド宣伝書記代行が次の決議を発表。①パを大国間の通り道にしてしまう(イラン提唱の)アジア共同市場構想に反対。②真に独立した国家の建設のために1000年の闘いも辞さない。③インドの回教結社(JI)委員長がわが国を訪問中だが,これに反対。④政治活動と労組活動を解禁し,PPP活動者を釈放せよ。⑤2ヵ月以内に総選挙を実施せよ。
DIA-304-1978-02-03-2パキスタン1978年02月03日1970年代中国,南アジア非核武装地帯提案を支持―ネパール訪問中の鄧小平中国副首相はカトマンズで,パによる同提案を全面的に支持すると言明。
DIA-304-1978-02-05-1パキスタン1978年02月05日1970年代パーレヴィー・イラン国王,立寄り―インド訪問の帰途,ラーワルピンディーでジア将軍と会談,パの国家統一に対する関心を表明し,援助の増加と債務救済を約束した。
DIA-304-1978-02-06-1パキスタン1978年02月06日1970年代スィンド州政府,州公務員1746人を解雇。
DIA-304-1978-02-06-2パキスタン1978年02月06日1970年代インド外相来訪―バシパイ・インド外相が友好促進を目的として来訪。同日,ジア将軍シャーヒー外務担当顧問らと会談を行ない,74年シムラ協定の尊重,サラール・ダム問題の交渉再開(76年に中断していた),貿易拡大,通信の改善,定期刊行物の輸入自由化,記者交換,領事事務拡大に合意。しかし,カシミール問題については何の進展もなかった。7日,観光。8日,帰国。なお,インド外相の来訪は66年以来12年ぶり。
DIA-304-1978-02-07-1パキスタン1978年02月07日1970年代土地改革を否定―ジア将軍はイスラーマバードでの農民大会で演説,①小麦,米,綿花の新価格を3月に発表する,②土地改革は行なわない,③農業税制を再検討中,と発表した。
DIA-304-1978-02-08-1パキスタン1978年02月08日1970年代ヌスラット女史,他党の協力を要請―同女史はブット前首相失脚後初めて北西辺境州を訪問。ペシャーワル近郊でシェールパーオ元PPP同州支部長の暗殺3周忌に際して演説,民主主義回復のためのPPPの闘争に対する他党の協力を歓迎すると述べた。
DIA-304-1978-02-09-1パキスタン1978年02月09日1970年代ガッフールPNA書記長(またJI書記長)は大統領制導入に反対を表明。
DIA-304-1978-02-10-1パキスタン1978年02月10日1970年代全パ新聞雇用者連合(APNEC)傘下の新聞関係労働者,ラホールの日刊「ザ・サン」紙のロックアウトに抗議してスト。
DIA-304-1978-02-10-2パキスタン1978年02月10日1970年代陸軍人事―サワール・パンジャーブ州戒厳司令官はアクラム中佐に代え,アブドゥル・ラシード中佐をミアーンワーリー県戒厳小地区司令官に任命。
DIA-304-1978-02-10-3パキスタン1978年02月10日1970年代誘拐―去る4日カラチで誘拐された8歳の少女が絞殺死体で発見された。このため,警察当局の不手際に怒った学生などが市内各地でゼネストを呼びかけ,警察の車の他,ゼネストに応じない店に投石や放火を行なうだけでなく,反政府スローガンを叫んだ。騒ぎはスィンド州各地に拡大し,25日,犯人4人が逮捕されるまで続いた(“Dawn,”2.11~26および目撃者の談話)。
DIA-304-1978-02-10-4パキスタン1978年02月10日1970年代釈放―PPPのS.ラシード前農業相およびカーリド・マリク元パンジャーブ州政府大臣。
DIA-304-1978-02-13-1パキスタン1978年02月13日1970年代誘拐増加―警察当局発表によると,カラチにおける昨年の誘拐事件が実質75件であったのに対し,78年には2月上旬までですでに実質33件(すべて少女)が発生しているという(“Dawn,”2.13)。
DIA-304-1978-02-15-1パキスタン1978年02月15日1970年代カラチで教育機関閉鎖(1日間)―戒厳当局はまた,学生の銃火器携帯を厳しく禁じた。
DIA-304-1978-02-15-2パキスタン1978年02月15日1970年代ハッサン・トゥファニアン・イラン副国防相来訪(~21日)―18日,ジア将軍に会見。
DIA-304-1978-02-16-1パキスタン1978年02月16日1970年代陸軍人事―ジア将軍はジャハーンゼーブ・アルバーブ中将に代え,イクバール前パンジャーブ州戒厳司令官(中将)を第5軍団司令官ならびにスィンド州戒厳司令官に任命(2月15日付)。なお,ジャハーンゼーブ中将は2月21日CENTOのパ代表として転出。
DIA-304-1978-02-16-2パキスタン1978年02月16日1970年代ジア将軍,記者会見(ラーワルピンディー)―インドとバングラデシュ訪問ののち来訪したアメリカ記者団との会見。①私の唯一の目的は非倫理的な政治家たちの粛清および健全な経済のための基礎工事を行なったあとで総選挙を実施することだ。後者のためには5年はかかるが,現政府はそれほど長く居座るつもりはなく,その基礎工事の端初部分を行なうだけだ。②私はいかなる政治的職務にも立候補しない。③印・パ関係の急速な正常化のためにはまずインドが何らかのジェスチャーを示すべきだ。④中国は世界平和のために確たる役割を果たしている超大国だ。
DIA-304-1978-02-16-3パキスタン1978年02月16日1970年代“闘争の日”―全国各地で労働者,とくに報道関係労組が“闘争の日”と称してデモやストを挙行。ムルターンでは国家新聞トラスト(NPT)による人事介入に反対して日刊「イムローズ」紙を発行している“進歩的新聞社(PPL)”労組などが抗議行動。テレビ局労働者は賃上げなどを要求してラーワルピンディー,ラホール,ペシャーワル,クエッタの4局を占拠。翌17日,労組役員28人逮捕,4局奪還。21日,解決。
DIA-304-1978-02-16-4パキスタン1978年02月16日1970年代宗派衝突―カラチで回教2宗派(シーア派とスンニー派か)が衝突。20日にはこの衝突で8人が死亡。放火,略奪が各地で行なわれ,軍が出動。
DIA-304-1978-02-18-1パキスタン1978年02月18日1970年代ワリー・カーン,記者会見―NDPのワリー・カーンは16日間のパンジャーブ州遊説を終え,ラホールで記者会見。①現政権による責任追及は100%民主的だ。②責任追及なしの総選挙は無意味。③総選挙の早期実施のためにはブットの軍事裁判が必要。④ジア将軍が責任追及後に総選挙を実施することは疑いない。⑤ジア将軍はPNAに対し,総選挙の10月実施を示唆した。
DIA-304-1978-02-19-1パキスタン1978年02月19日1970年代軍事裁判所の権限強化―本日発令の戒厳令命令第37号は,いかなる法に抵触するいかなる犯罪であれ,これを裁く権限を軍事裁判所に与えた。
DIA-304-1978-02-19-2パキスタン1978年02月19日1970年代ヌスラット女史,ラホールで3日間の自宅軟禁。ベーナズィール女史は1ヵ月間のカラチ市外の禁足。
DIA-304-1978-02-19-3パキスタン1978年02月19日1970年代ラメーPML組織委員長は全政党を解体して“無政党民主制”を導入することを記者会見で提案。
DIA-304-1978-02-20-1パキスタン1978年02月20日1970年代中国友好代表団来訪(~28日)―王炳南対外友好協会会長以下8人。28日,バングラデシュへ。
DIA-304-1978-02-21-1パキスタン1978年02月21日1970年代アスガルTI党首,総選挙4月実施を要求。
DIA-304-1978-02-21-2パキスタン1978年02月21日1970年代デメル・スリランカ財政相,ジャーヤワルデネ大統領特使として来訪(~27日)。
DIA-304-1978-02-22-1パキスタン1978年02月22日1970年代ニアーズィー,記者会見―ニァーズィーPPP宣伝秘書(前書記長代行)がNDPに入党するとのうわさがあるが,同氏は記者会見でそれを否定。また,ヌスラット党首代行の政治活動が特別法廷(1月26日参照)によって禁じられた場合はベーナズィール女史を党首代行とするとの党内の動きについては党内に賛否両論があると明らかにした。
DIA-304-1978-02-22-2パキスタン1978年02月22日1970年代トゥファイル党首,年内総選挙を要求。
DIA-304-1978-02-22-3パキスタン1978年02月22日1970年代マクドゥームPPPスィンド州副委員長逮捕―翌23日,ハーラで抗議のゼネスト。41人逮捕。
DIA-304-1978-02-23-1パキスタン1978年02月23日1970年代ジア将軍,総選挙について―同将軍はバルーチスターンのスィビーで名士との会合の席上,政界浄化作業ののち総選挙が積極的結果を産み出すと確信すれば,適当な時期に総選挙を実施すると語った。
DIA-304-1978-02-23-2パキスタン1978年02月23日1970年代ガッフールPNA書記長はファイサラーバード県弁護士協会で演説,総選挙を経て政権につけばPNAは大統領に広範な権限を与えると言明。
DIA-304-1978-02-24-1パキスタン1978年02月24日1970年代ブローヒー法律・議会担当顧問はラホールでのシンポジウムで,回教法と近代国家としての要請の双方に精通した学者の欠如,回教社会のモデルたり得る国が一つもないことなどのため回教法の導入は困難だが,政府はそれを可及的速やかに導入する決意だと言明。
DIA-304-1978-02-24-2パキスタン1978年02月24日1970年代ジア将軍はバルーチスターン州の政治家であるG.B.ビゼーンジョー,A.メーンガル,K.B.マッリーと会談。内容不明。
DIA-304-1978-02-24-3パキスタン1978年02月24日1970年代西ドイツ,パ人を追放―西ドイツ政府はブット政権時代に政治亡命の口実で移民してきたパ人1万2000人の国外追放を決定。
DIA-304-1978-02-25-1パキスタン1978年02月25日1970年代24日からカラチで開かれていた“労働指導者大会”は,回教に基づいた生活を支持し,また,労使協調のためにパ労働連盟評議会(PCLF)の設立を決定。
DIA-304-1978-02-25-2パキスタン1978年02月25日1970年代カラチ市警察は不法所持武器の押収を強化。
DIA-304-1978-02-25-3パキスタン1978年02月25日1970年代PML,ラメー組織委員長を追放。
DIA-304-1978-02-27-1パキスタン1978年02月27日1970年代裁判中の者の政治活動を禁止―ジア将軍は資格剥奪裁判の対象とされた者はその対象とされた日から無実が証明されるまでは政治活動を禁止される旨の戒厳令命令第38号を布告した。
DIA-304-1978-02-28-1パキスタン1978年02月28日1970年代政治活動全面禁止―政府は政治活動を3月31日まで全面的に禁止する戒厳令規則第33号を布告。違反者には7年以下の懲役および/または上限なしの罰金および/またはむち打ちの刑が課せられる。同日,学生自治会,弁護士協会などの選挙が戒厳令規則第32号によって解禁となった。
DIA-304-1978-02-28-2パキスタン1978年02月28日1970年代軍人事―ジア将軍はS.M.アッバースィー陸軍参謀幕僚長(中将)をColonel Commandant of the Ordnance Corpsに任命。
DIA-304-1978-02-28-3パキスタン1978年02月28日1970年代ジア将軍,ハミード・D.ハビーブを財政・経済問題特別顧問(閣僚級)に任命。
DIA-304-1978-02-28-4パキスタン1978年02月28日1970年代追放―ヌスラット・ブットPPP党首代行はニアーズィー宣伝秘書をPPPから5年間追放(Viewpoint誌,3.5)。
DIA-304-1978-02-28-5パキスタン1978年02月28日1970年代学卒失業―ILOの調査によると71/72年度の数字に基づくパの学士号保有者の失業率は6%に達し,これに低所得就業を含めるとその率は7~8%に及ぶ。
DIA-304-1978-03-01-1パキスタン1978年03月01日1970年代一斉逮捕開始―ブット前首相に対するラホール高裁判決を控え,全国でPPPの残る第2,3線級指導者と同党支持者の予防拘禁が開始され,パ史上初めて婦女子も投獄された。逮捕者の数は不詳だが,とくにパンジャーブ,スィンド両州で多く,PPPは全国で10万人が逮捕されたとしている(“Dawn,”3.2~19およびFar Eastern Economic Review,3.31)。
DIA-304-1978-03-01-2パキスタン1978年03月01日1970年代製鉄所―Pakistan Affairs誌3月1日号によると,ソ連援助によるカラチ製鉄所の建設工呈の4分の1が現在までに終了し,資金面では昨年11月までに総額170億ルピー中42億ルピーが費消された。
DIA-304-1978-03-02-1パキスタン1978年03月02日1970年代ブット裁判―昨年10月以来ラホール高裁で行なわれてきたブット前首相の政敵暗殺容疑に関する審理が完了したが,判決は10日以内に発表ということにされた。なお,この裁判では原告側証人が42人であったのに対し,被告側証人は4人に過ぎなかった。
DIA-304-1978-03-02-2パキスタン1978年03月02日1970年代陸軍Aviation WingがAviation Corpsに昇格。
DIA-304-1978-03-02-3パキスタン1978年03月02日1970年代乗取り未遂―PIAのジャンボ機がイスラーマバードからカラチへ向う途中,パ側カシミール人にデリー行きを要求されたが,犯人は取りおさえられた。なお,犯人は手榴弾の暴発で重傷を負ったが機は無事イスラーマバードへ戻った。
DIA-304-1978-03-05-1パキスタン1978年03月05日1970年代ダーウード・アフガニスタン大統領来訪(~8日)―同日,随員ぬきでジァ将軍と会談。6日の第2回会談後,ジア将軍はPNA指導陣,アスガルTI党首,PPPを追放されたニアーズィーなどの政治家19人をダーウード大統領に紹介。8日,ダーウード大統領は記者会見で,会談では通過貿易問題などを話し合い,貿易拡大などのための共同委員会設置に双方が合意したが,アフガニスタンはRCD加盟を拒否したことを明らかにした。
DIA-304-1978-03-09-1パキスタン1978年03月09日1970年代カラチ市第1戒厳地区,3小地区に分割さる。
DIA-304-1978-03-09-2パキスタン1978年03月09日1970年代北朝鮮友好代表団来訪(~13日)―朴成哲副主席以下17人。10日,ジア将軍と会談。同将軍は南北朝鮮の平和的統一運動を支持。
DIA-304-1978-03-11-1パキスタン1978年03月11日1970年代ブット前首相に対する新たな訴訟6件のうち最初の3件(2月2日参照)の聴問がコート・ラクパト刑務所内で開始された。
DIA-304-1978-03-12-1パキスタン1978年03月12日1970年代編集長逮捕―PPPの機関紙である日刊「ムサーワート」紙のラホール版編集長,副編集長,発行人が逮捕。
DIA-304-1978-03-12-2パキスタン1978年03月12日1970年代ヌスラット女史,ラホールで15日間の自宅軟禁。
DIA-304-1978-03-13-1パキスタン1978年03月13日1970年代ジア将軍,北西辺境州訪問(~17日)―14日,ペシャーワル陸軍駐屯地で,政治状況が改善されなければ厳しい措置に代えると演説。15日,コハートの名士たちに,①各州の1~2の都市で実験的に喜捨徴集制を導入する,②私は総選挙に立候補しない,と演説。16日,ペシャーワルの記者会見で,①国有化を防ぐ憲法上の保証を検討中,②ペシャーワルを自由貿易地帯とすることを検討する,と談。
DIA-304-1978-03-13-2パキスタン1978年03月13日1970年代イスハーク労農党党首(退役陸軍少将),逮捕。
DIA-304-1978-03-13-3パキスタン1978年03月13日1970年代アメリカの援助―イスラーマバードのUSAID理事長補佐は記者会見で,アメリカの78/79年度対パ援助は農業生産と農村保建の向上に集中すると談。
DIA-304-1978-03-15-1パキスタン1978年03月15日1970年代全パ織物工場協会(APTMA)年次総会開く―S.E.エラーヒー新会長を選出。総会の席上M.T.フセイン前会長は,政府は織物業界危機の打解のために有意味なことを何一つやってこなかったと非難し,財政,金融などの面で打解策をとるよう最近政府に対して11項目要求を提出したことを明らかにした。なお,30日のAPTMA年次報告書によれば全国171の織物工場のうち27工場(織機2900台,紡錘44万2000本)が閉鎖中で,70工場が部分的閉鎖(織機8000台,紡錘78万本が操業停止)に追い込まれているという。
DIA-304-1978-03-15-2パキスタン1978年03月15日1970年代グラーム・ファールーク元連邦政府大臣がルピーの変動相場制移行を主張。
DIA-304-1978-03-16-1パキスタン1978年03月16日1970年代政府の“選挙細胞”(座長はF.A.チシュティー陸軍中将)が諸政党との協議を開始。この日はNDP,TI,NAPパクトゥーン派(P-NAP)と各1時間半の個別協議を行なった。
DIA-304-1978-03-16-2パキスタン1978年03月16日1970年代国有解除―ジア将軍はペシャーワルで実業界代表と会見し,席上,ノウシェラ市のNowshera Engineering Works社を旧所有者に返還すると言明。
DIA-304-1978-03-16-3パキスタン1978年03月16日1970年代5カ年計画専門家グループ設置―議長はM.L.クレーシーパ開発経済研究所長。
DIA-304-1978-03-17-1パキスタン1978年03月17日1970年代陸軍人事―マハスード陸軍准将に代え,ナーズ陸軍准将が西カラチ小地区戒厳司令官に任命された。
DIA-304-1978-03-18-1パキスタン1978年03月18日1970年代前首相に死刑判決―去る74年11月,A.R.カスーリー下院議員の車が銃撃されその父親が死亡した事件に関し,ラホール高裁はカスーリー原告の主張を全面的に認め,ブット前首相と旧連邦保安隊関係者4人に絞首刑を宣告。判決は暗殺そのものに言及するだけでなく,前首相の“回教徒にあらざるべき言動,権力の乱用”等々を激しく非難している。なお上告は7日以内に行なわれなければならない。
DIA-304-1978-03-18-2パキスタン1978年03月18日1970年代ブット釈放要求―3月1日からのPPP支持者の大量逮捕,公開むち打ち刑,厳重警戒にもかかわらず,ブット前首相に対する死刑判決の撤回と釈放を要求する学生,労働者,農民などが各地で散発的だが激しい抗議行動を展開。20日,鉄道労働者がイスラーマバード・ラホール間の鉄道を2ヵ所で破壊,同日,ティッカ・カーン前国防担当国務相(前陸軍大将),逮捕。21日,メーラージュ・カーリド前下院議長,逮捕。22日,スィンド州メヘルで2000人のデモ隊が地裁に放火,警察を襲って逮捕者たちを救出。29日,シェイク・ラシード前農業相,再逮捕。イギリス,デンマーク,シンガポールなどでも在住パ人がブット釈放を要求してデモを続けた。しかし,月末までには騒ぎは下火になったもよう。
DIA-304-1978-03-18-3パキスタン1978年03月18日1970年代“選挙細胞”,PNAおよびJUPと個別協議。
DIA-304-1978-03-18-4パキスタン1978年03月18日1970年代インドに反論―去る15日,バシパイ・インド外相は北朝鮮副主席の訪印時に,カシミールに関する国連決議は時代遅れとなったと語ったが,シャーヒー・パ外務担当顧問はこれを強く否定した。
DIA-304-1978-03-19-1パキスタン1978年03月19日1970年代大統領命令―前政権下での公務員の特別任命を取り消すためのもの。
DIA-304-1978-03-19-2パキスタン1978年03月19日1970年代減刑要請―ブット前首相の死刑判決とともに諸外国の減刑要請が相次いだ。3月中に,エジプト,リビア,アラブ首相国連邦,トルコ,イラン等々の中東諸国の政府または国家元首,バングラデシュ政府,インドネシア大統領,PLO,国連事務総長,アムネスティ・インタナショナル等々が減刑要請を行なった。英米両国はしばらく沈黙を保っていたが,31日,米国務省は米政府も減刑を要請したと言明するとともにサウジアラビアも減刑要請を行なったと明らかにした(“Washington Post,”4.1)。なお,デサイ・イド首相はパの内政には干渉しないとしながらも,ガンディー前首相が死刑判決を受けたとしても彼女に恩赦を与えると語った。一方,パ政府は在外公館などを通じて死刑判決の弁明を強化した。
DIA-304-1978-03-19-3パキスタン1978年03月19日1970年代恩赦によりバルーチスターン州で910人釈放。
DIA-304-1978-03-21-1パキスタン1978年03月21日1970年代戒厳地区変更―連邦直轄部族地域は今後北西辺境州戒厳司令官の担当となった。
DIA-304-1978-03-21-2パキスタン1978年03月21日1970年代カラチ・ジャーナリスト労組は,「ムサーワート」紙編集長などの釈放,「ハヤート」紙再発行許可,最近の「ヒラール・エ・パキスタン」紙のラーワルピンディー局閉鎖と同局長解雇の撤回などの要求を決議。
DIA-304-1978-03-22-1パキスタン1978年03月22日1970年代国民政府(挙国一致内閣)構想再燃―昨年9~10月に表面化し,しだいに立消えとなっていた同構想が再度問題になり始めた。22日,PNA代表団は“選挙細胞”との協議およびPNA独自の会合を行なった。
DIA-304-1978-03-22-2パキスタン1978年03月22日1970年代エラーヒー大統領,73年2月15日~77年7月4日に逃亡したバルーチスターンの政治犯に恩赦。
DIA-304-1978-03-22-3パキスタン1978年03月22日1970年代「ムサーワート」紙ラホール版発禁,印刷工場閉鎖―同紙ファイサラーバード版も発禁。APNEC,これを非難し撤回を要求。同22日,「ハヤート」紙発禁処分撤回さる。
DIA-304-1978-03-22-4パキスタン1978年03月22日1970年代インド亜大陸初の公開絞首刑―幼女暴行・殺害の3犯人,ラホールで公開絞首刑(2月10日参照)。
DIA-304-1978-03-24-1パキスタン1978年03月24日1970年代ジア将軍,記者会見―ジア将軍はパ時間3月24日放送のBBC記者との会見で,①外国からのブットの減刑要請はそれらの穏やかな調子からして内政干渉とは考えない,②総選挙日を心に決めているが今は発表しない,③ブット前首相に関する上告審は完了までに6~8週間かかろうと談。同24日,ペシャーワルでの記者会見では,国民政府はすべての政党が参加してこそ初めて意味があると語った。
DIA-304-1978-03-24-2パキスタン1978年03月24日1970年代ムバッシル・ハッサン前財政相,逮捕―ラホールのコート・ラクパト刑務所に投獄(3ヵ月)。
DIA-304-1978-03-25-1パキスタン1978年03月25日1970年代ブット前首相,最高裁に上告。
DIA-304-1978-03-26-1パキスタン1978年03月26日1970年代ワリー・カーン訪英―“目の治療”のためというが,夫人を同行し,7月まで帰国の予定はない。
DIA-304-1978-03-26-2パキスタン1978年03月26日1970年代ジア将軍,教育について―ジア将軍はラホールのエイチソン・カレッジで,パキスタンのイデオロギーに基づいて教育革命を行なう決意だと演説。
DIA-304-1978-03-26-3パキスタン1978年03月26日1970年代ヌスラット女史の軟禁,1ヵ月延長。
DIA-304-1978-03-26-4パキスタン1978年03月26日1970年代インドでブット減刑要求デモ―1500人のインド人デモ隊がジア将軍の肖像を焼き,ブット前首相に対する減刑を要求してパ領に越境しようとして警官隊に阻止された(“The Japan Times,”3.28)。
DIA-304-1978-03-27-1パキスタン1978年03月27日1970年代ジア将軍,記者会見―①パには大統領制が最適。国民は1人の大統領候補の信任投票を行なう。②民主主義は草の根レベルから。選挙は村落評議会レベルで行なわれるべきだ。③国民政府樹立には諸政党の参加が必要。④民政移管までは戒厳令を継続。⑤政治家は権力闘争に明け暮れてきた。⑥私は選挙には出ず,自分の政党も作らない。⑦現在67もある政党を減らすべきだ。下院議席の20%をとれなければ政党ではない。⑧新聞の労組も多過ぎる。単一組織にすべきだ。⑨ジャーナリストが報道倫理を守りかつ自らの責任追及を行なえるように新聞評議会を設けるべきだ。⑩パンジャーブ州の反政府分子はあと1~2回の公開絞首刑で分別を得よう。スィンド州の状況はパンジャーブ州よりも注目すべきだ。
DIA-304-1978-03-27-2パキスタン1978年03月27日1970年代最高裁はブット死刑判決の上告審は4月1日に開始すると発表。4月1日,これを5月6日に延期。4月15日,これをさらに5月20日に延期。
DIA-304-1978-03-27-3パキスタン1978年03月27日1970年代「アーザード」紙(TI機関紙)前編集長および「パヤーム・エ・カーイド」紙関係者6人,,逮捕。
DIA-304-1978-03-27-4パキスタン1978年03月27日1970年代経済調整委員会,1947年資本発行〈統制継続〉法の改正を承認。
DIA-304-1978-03-28-1パキスタン1978年03月28日1970年代拝火教徒のブローチャ氏がブローヒー宗教担当顧問に対する名誉顧問に任命された。
DIA-304-1978-03-29-1パキスタン1978年03月29日1970年代政治活動全面禁止を無期延長―戒厳令規則第35号。PPP,NDP,TIはこれに反対を表明。
DIA-304-1978-03-30-1パキスタン1978年03月30日1970年代NDP,国民政府不参加をPNAに通告。
DIA-304-1978-03-30-2パキスタン1978年03月30日1970年代中銀,輸出金融利率を引き下げ―8%→6%。
DIA-304-1978-04-01-1パキスタン1978年04月01日1970年代北ワズィーリスターン自治区ラズマックに部族自治区初の士官候補カレッジ創設。
DIA-304-1978-04-01-2パキスタン1978年04月01日1970年代政府は77/78年度の輸出目標を13.8億ドルから13.38億ドルに引きさげた(“Business Recorder,”4.2)。
DIA-304-1978-04-02-1パキスタン1978年04月02日1970年代政府,茶の輸入関税を15~25%引き上げ。
DIA-304-1978-04-02-2パキスタン1978年04月02日1970年代ラホールのアメリカ領事館に手榴弾投入さる―とくに大きな被害はなかった。
DIA-304-1978-04-02-3パキスタン1978年04月02日1970年代ガッファール・カーン(ワリー・カーンの実父),アフガニスタンのジャラーラバードへ。
DIA-304-1978-04-02-4パキスタン1978年04月02日1970年代サウジアラビアの日刊「アル・ナダワ」紙はブット前首相死刑判決を支持(“Dawn,”4.13)。
DIA-304-1978-04-03-1パキスタン1978年04月03日1970年代ニアーズィーPPP前宣伝秘書,“選挙細胞”と協議,国民政府構想を支持。
DIA-304-1978-04-04-1パキスタン1978年04月04日1970年代ソ連,減刑要請―4日付「ムサーワート」紙によればブレジネフ・ソ連共産党書記長はブット前首相の生命に関して憂慮を伝える書簡をパ政府に送った(「日経」4.7)。
DIA-304-1978-04-05-1パキスタン1978年04月05日1970年代人口―政府発表によると78年3月31日現在のカラチ市の人口は推定497万5000人で,85年には700万人に達するという。また,15日の発表によればパの農村人口は78年現在5448万であるが83年には6053万に,一方,都市人口は2114万から2670万に増加すると推計されている(増加率4.6%)。
DIA-304-1978-04-05-2パキスタン1978年04月05日1970年代中国,減刑要請―陸維剣駐パ・中国大使は,過去2週間にエラヒー大統領を1度,ジア将軍を2度訪れ,中・パ関係緊密化やパのプレスティージの向上に対するブット前首相の大きな貢献を考慮して減刑を行なうよう要請した(“Dawn,”4.6)。
DIA-304-1978-04-06-1パキスタン1978年04月06日1970年代爆破計画―ラホールで,プラスチック爆弾90個,手榴弾2個などを積んだ乗用車が摘発され,3人逮捕。また,この件でブット政権時代の3閣僚,3下院議員,PPP党員若干名が逮捕された。彼らはラホール高裁などの公共施設を爆破する計画を立てていたという(“Dawn,”4.7&“Herald Tribune,”4.7)。
DIA-304-1978-04-07-1パキスタン1978年04月07日1970年代イギリス下院でパのブット前首相の減刑要請の動議を提出するために200議員の署名が集められた。
DIA-304-1978-04-08-1パキスタン1978年04月08日1970年代軍政の暫定性を否定―サワール・パンジャーブ州戒厳司令官は,現戒厳令政権は総選挙の実施にコミットしているがこの政権の性格は暫定的なものではないと言明(Viewpoint,4.16)。
DIA-304-1978-04-08-2パキスタン1978年04月08日1970年代チシュティー“選挙細胞”議長(制度・組織庁等担当顧問,戒厳総司令官付参謀本部長,陸軍中将)は記者会見で,国民政府を組織するためには全政党の参加が理想的だが,全政党の参加がなくても組織し得ると談。
DIA-304-1978-04-08-3パキスタン1978年04月08日1970年代政府,テレビ・ラジオ2公社の労組を禁止。
DIA-304-1978-04-09-1パキスタン1978年04月09日1970年代ジア将軍,記者会見―イランの9日付「ケイハン・インタナショナル」紙掲載のインタビュー。①政治家の責任追及にはあと4~6ヵ月必要。資格剥奪法廷は過去2ヵ月で1件しか処理していない。責任追及のテンポを速めるため,最初の考え通りに責任追及を軍事裁判所に行なわせることを真剣に考慮中だ。②総選挙のための環境浄化にはあと6~7ヵ月かかる。前政権は右派と左派という政治の両極化を行なった。私は右派であり,締めつけを強化しつつある。左翼は目ざめて中道化すべきだ。③選挙人名簿の改正にはあと8ヵ月かかる。総選挙は来年3月になるかもしれない。④現政権がとっている長期的な経済政策は民政移管後の政府が真空状態に陥るのを避けるためだ。⑤交通・通信,また鉄鋼などの重工業は国営が良いが,中小工業は国有解除するつもりだ。⑥パーレヴィー・イラン国王のいう共同市場構想はEECタイプでもRCD(イラン,パ,トルコで形成)の拡大でもない。それはまず2国間の経済関係を緊密化した上で多国間の関係を確立し,インド亜大陸だけでなくオーストラリア,ニュージーランド,マレーシア,シンガポールまで含めようというものだ。わが国はこの構想について協議する用意があるが,イラン,アフガ
DIA-304-1978-04-10-1パキスタン1978年04月10日1970年代シャーヒー外務担当顧問,訪印―11日からバシパイ・インド外相とサラール・ダム問題を中心に会談。同ダムはインダス川上流のチェナーブ川に建設されるものだが,パは60年のインダス川水利条約に基づいて同計画がパの灌漑水利事業に悪影響を及ぼさぬようインドと過去8年にわたって交渉してきた。14日,双方はダム設計の基本的事項に合意,調印。パはこれを歓迎,ジア将軍はバイパイ・インド外相に祝意を表明。
DIA-304-1978-04-11-1パキスタン1978年04月11日1970年代ジア将軍,記者会見―4日間のスィンド州遊説後,ハイデラーバードで。①政党,とくにPPPの資金凍結を検討中。②責任追及の対象となる政治家のリストはまだ続く。③現在の78政党の数を減らすのは総選挙後が適当。④軍のスィンド連隊を増強したい。
DIA-304-1978-04-13-1パキスタン1978年04月13日1970年代公定歩合引下げの要求―カラチの商業関係者たちはカーズィー財政・経済問題担当顧問との会合で,公定歩合引下げ,輸入機械・部品の関税引下げ,工場生産と輸出の増大のための諸措置をとることを要求。
DIA-304-1978-04-13-2パキスタン1978年04月13日1970年代デサイ・インド首相,パ記者団と会見(ニューデリー)―①パとの間でカシミール問題を討議する用意がある。②ブット氏とガンディー女史の間でカシミールに関する密約があったとは思わない。
DIA-304-1978-04-15-1パキスタン1978年04月15日1970年代ジア将軍,政治家と協議―ジア将軍は国民政府について政治家との会談を開始。会談はPNA,回教徒連盟カユーム派(QML),PPPニアーズィー派,TI(ただしアスガル党首は欠席)と個別に行なわれ,政府側からはジア将軍の他にチシュティー中将(“選挙細胞”議長,制度・組織庁等担当顧問)とスームロー政治間題担当顧問が出席。
DIA-304-1978-04-15-2パキスタン1978年04月15日1970年代ジア将軍,BBC特派員と会見(ラーワルピンディー)―①国民政府構想は試案の段階。政治家たちは軍と権力を共有したければ責任も共有すべきだ。②私には使命がある。もし私が神に選ばれた者だとすれば私は使命を果たす。③ブットは単なる犯罪者であり政治犯ではない。したがって彼を亡命させることはあり得ない。
DIA-304-1978-04-15-3パキスタン1978年04月15日1970年代バルーチスターン州クズダールの学生たちが同州学生組織役員たちの逮捕に抗議して警官隊とライフル銃で射ち合い,労働者1人が死亡,15人負傷。
DIA-304-1978-04-16-1パキスタン1978年04月16日1970年代ジア将軍,サウジアラビア訪問―政権担当後,同国を2度訪問しているが,公式訪問は初めて,リアド空港では慣例を破ってハーリド国王自らがジア将軍一行を出迎えた。17日,ジア将軍とハーリド国王が2人だけで45分間会談を行なったのち,両国代表団をまじえてさらに1時間半の会談が行なわれた。同日夕刻,ファハド皇太子はナスリア宮殿に滞在中のジア将軍を訪れ,両国の経済関係拡大について2時間半におよぶ会談を行なった。会談後の記者会見でファハド皇太子は,“ジア将軍が統治している限りパは安全だと確信している”と述べた。18日ジア将軍は,パ政府の政策に対するサウジアラビアの支持に感謝する声明を発表し,巡礼のためメッカとメディナへ向った。同日午前,サウジアラビアの神学者代表団がジア将軍を訪れ,ジア将軍の回教重視策を礼賛。同日,シャーヒー外務担当顧問はCENTO閣僚会議出席のためロンドンへ向った。
DIA-304-1978-04-16-2パキスタン1978年04月16日1970年代イスラーマバードの外交筋によるとサウジアラビアはブット助命の要請をしたことは否定したが,ブット処刑があり得ることを懸念しているという(“Financial Times,”4.17)。
DIA-304-1978-04-18-1パキスタン1978年04月18日1970年代ベーナズィール女史の自宅軟禁,1ヵ月延長。
DIA-304-1978-04-19-1パキスタン1978年04月19日1970年代大統領代行―エラーヒー大統領は,外遊,死亡,辞任により大統領が不在となった場合は最高裁長官が代行を勤める旨の大統領命令を布告。
DIA-304-1978-04-19-2パキスタン1978年04月19日1970年代分離選挙制―最近デリーのパ大使館が出したプレス・リリースによるとジア将軍は分離選挙制の導入を提案しているという(“Times of India,”4.20)。
DIA-304-1978-04-19-3パキスタン1978年04月19日1970年代ジア将軍,記者会見―サウジアラビアからの帰国後の記者会見。①われわれは両国の協力促進,パの国内問題,教育,宗数などについて話し合い,私の期待以上の成功を収めた。②サラジアラビアは不法入国した3~4万のパ人を正規の入国者と認めるための手続きをとることになった。③ブット問題は些細な問題だ。その討議のために行ったのではない。④金をもらいに行ったのではない。⑤ファハド皇太子発言(4月16日参照)は極めて正確かつ極めてよく考えたものだ。⑥今回の訪問は去る1月のハーリド国王による招待に基づいていた。⑦ハーリド国王は回教世界の精神・物質両面での指導者だ。(“Dawn,”4.20&F.E.E.R.,5.5)
DIA-304-1978-04-19-4パキスタン1978年04月19日1970年代CENTO閣僚会議(ロンドン)―シャーヒー外務担当顧問は報告演説で印・パ関係の改善に楽観的態度を表明し,他の国々の代表とは異なり,CENTO地域の安全維持にCENTOが有効であるということは言わなかった。
DIA-304-1978-04-19-5パキスタン1978年04月19日1970年代秘密合意を否定―バイパイ・インド外相は18日,下院で72年シムラ会談においてガンディー前首相とパのブット前首相の間で若干の秘密合意があったと述べたが,パのアズィーズ前外相はこれを強く否定した。
DIA-304-1978-04-20-1パキスタン1978年04月20日1970年代印・パ密約―20日付インド各紙は,72年のシムラ会談においてパのブット首相とガンディー・インド首相との間でカシミール停戦ラインを多少手直しして凍結するとの密約があったと報じた。
DIA-304-1978-04-21-1パキスタン1978年04月21日1970年代ムフティーPNA委員長,PNAはニアーズィー氏の参加する国民政府には参加しないと言明。
DIA-304-1978-04-23-1パキスタン1978年04月23日1970年代シャリーフ海軍参謀長,親善訪中(~30日)。
DIA-304-1978-04-24-1パキスタン1978年04月24日1970年代ヌスラット女史の軟禁,1ヵ月延長。
DIA-304-1978-04-25-1パキスタン1978年04月25日1970年代ルピー切上げ要求―パ商工会議所連盟(FPCC&I)は,政府に対する予算前覚書で,73年のルピー大幅切下げの悪影響(輸入資本材・原材料の価格急騰など)と輸入資本財関税引上げの悪影響の払拭を主要な理由として,“輸入コストを合理化できる範囲”でのルピー切上げを要求。また次善の策として,食糧,資本材,医薬品など必需品の輸入に対してはルピーを切上げ,その他の輸入および海外出稼ぎ者の本国送金については変動相場制移行を提案している。
DIA-304-1978-04-26-1パキスタン1978年04月26日1970年代ロックフェラー元米副大統領以下10人来訪―私的訪問という。同日,ジア将軍による招宴。28日,アフガニスタンへ。
DIA-304-1978-04-27-1パキスタン1978年04月27日1970年代アスガルTI委員長は,総選挙を経て成立した政府のみが国の諸問題を解決し得ると考えており,国民政府には参加しない,と言明。
DIA-304-1978-04-28-1パキスタン1978年04月28日1970年代ムフティーPNA委員長は記者会見において,PNAは国益の観点から現政権強化のために国民政府に参加すると言明。一方,ガッフールPNA書記長は国民政府構想に落胆を表明。マザーリーNDP委員長は,NDPはPNA内にとどまるが国民政府には参加しないと言明。ニアーズィー氏は同政府参加の申し出を撤回した。
DIA-304-1978-04-30-1パキスタン1978年04月30日1970年代ハンスト―パキスタン・ジャーナリスト労組連盟(PFUJ)とAPNECは「ムサーワート」紙発禁処分の撤回,報道の自由などを要求してラホールでハンスト(毎日4人)に突入。22人逮捕。
DIA-304-1978-05-02-1パキスタン1978年05月02日1970年代編集長解雇―NPTは「パ・タイムズ」紙と「イムローズ」紙の両編集長を解雇。同日,カラチの週刊誌「アルファー」と「メイヤール」が発禁。一方,ラホールでの報道関係者のハンストは激化しており,8日にはハイデラーバードで労・農・学生連合委員会が同情ハンスト突入。11日,テレビ・ラジオ関係労働者もラホールでのハンストに合流。同日,NPTの圧力により「ムサーワート」紙カラチ版が発行停止。13日,14人にジャーナリストとしては初のむち打ちの刑。16日,NPTはバルナPFUJ委員長兼APNEC議長を解雇。22日までに新聞記者160人逮捕。
DIA-304-1978-05-05-1パキスタン1978年05月05日1970年代ジア将軍,PNAと会談―ジア将軍は3~4日,PNA指導者たちと国民政府構想,4月27日のアフガニスタン政変などについて協議。4日,PNA指導者たちは記者会見で“共産主義は今やわが国の国境に到達した”と警戒の色をあらわにした。
DIA-304-1978-05-05-2パキスタン1978年05月05日1970年代輸出加工地域―政府はカラチとラホールに輸出加工地域を設置することを決定。これらの地域の工場に対しては海外からの投資を誘致するために免税,法的保護などの特別措置がとられる。
DIA-304-1978-05-05-3パキスタン1978年05月05日1970年代政府,アフガニスタン新政権を承認。
DIA-304-1978-05-05-4パキスタン1978年05月05日1970年代タラキー・アフガニスタン大統領,記者会見―席上,パとのパシュトゥニスターンの問題については,パとの間で平和裡に解決したいと語った。
DIA-304-1978-05-05-5パキスタン1978年05月05日1970年代各地でソ連との外交関係30周年記念行事開催。
DIA-304-1978-05-06-1パキスタン1978年05月06日1970年代リアーズ・シャヒード・パ革命戦線(PIM)書記長代行,ファイサラーバードで逮捕。
DIA-304-1978-05-06-2パキスタン1978年05月06日1970年代印・パ貿易会談(~9日)―イスラーマバードにて。双方は貿易拡大には合意したが具体的結論には達することができず,交渉は後日再開となった。
DIA-304-1978-05-07-1パキスタン1978年05月07日1970年代顧問評議会,アラビア語はやはり選択課目とすると決定(1月29日参照)。
DIA-304-1978-05-07-2パキスタン1978年05月07日1970年代シャーヒー外務担当顧問,イラン訪問(~10日)―滞在中イランのパーレヴィー国王,アムゼガル首相,カラトバリ外相らとの会談で両国関係や中東情勢について協議したが,とくにアフガニスタン政変を重視し,同国の新政権との友好の確立について意見が一致。10日,帰国後の記者会見でCENTOに対する失望を表明。
DIA-304-1978-05-07-3パキスタン1978年05月07日1970年代ガッファール・カーン,タラキー・アフガニスタン大統領に会見(カーブル)―非合法NAPのアジュマル・カッターク元書記長も同行。
DIA-304-1978-05-08-1パキスタン1978年05月08日1970年代QMLとPMLは今後統一政党として活動すると発表。
DIA-304-1978-05-09-1パキスタン1978年05月09日1970年代在英パ人会長選挙―選挙には59の下部団体が参加し,軍政反対で知られるS.カードリー氏(弁護士)を新会長に選出(“Times of India,”5.10)。
DIA-304-1978-05-09-2パキスタン1978年05月09日1970年代ソ連大使,パを非難―9日付のパの週刊『アフロ・エイシャ』誌とのインタビューで駐パ・ソ連大使は極めて厳しい口調でパの外交全般,とくにパがCENTOの1員であることを非難し,パはインドやアフガニスタンのように中立政策をとるべきだと述べた。ソ連政府は10日,西欧のマスコミがこの件を報道して36時間も経てからこれを否定した。(“Times of India,”5.13;F.E.E.R.,5.26;“Dawn,”5.11)。
DIA-304-1978-05-10-1パキスタン1978年05月10日1970年代暗殺―クエッタの週刊「ネダー・エ・バルーチスターン」紙の編集長がクエッタで暗殺された。
DIA-304-1978-05-10-2パキスタン1978年05月10日1970年代カレッジ占拠―カラチのダウ医学カレッジ学生たちが自治会選挙などに対する政府の介入を非難してカレッジを占拠。11日,スィンド州政府は同カレッジを閉鎖,18日予定の学生自治会選挙を無期延期。
DIA-304-1978-05-10-3パキスタン1978年05月10日1970年代イギリスに抗議―パ政府はパに関するイギリスの報道は著しく偏見に満ちているとして英政府に抗議。
DIA-304-1978-05-11-1パキスタン1978年05月11日1970年代ムフティーPNA委員長,QMLの国民政府参加に反対を表明。
DIA-304-1978-05-12-1パキスタン1978年05月12日1970年代エチオピア,パを非難―メンギスツ・エチオピア革命軍事評議会議長は数万人のエジプト,パ,イラク軍が同心諸勢力と共にエチオピア侵攻のためソマリアに駐留していると非難。17日,パ政府はこれを否定。
DIA-304-1978-05-13-1パキスタン1978年05月13日1970年代軍人に公職留保―ジア将軍はカーリアーン衛戌地で軍人に演説,県レベルの地方公務員職の20~25%を退役軍人のために留保すると言明(Viewpoint,5.21。ただし“Dawn”紙では確認できない)。
DIA-304-1978-05-13-2パキスタン1978年05月13日1970年代13日付「タイムズ・オブ・インディア」紙によると,アフガニスタン政変直後パとイランはCENTOに“歯”を持たせるよう主張したという。
DIA-304-1978-05-14-1パキスタン1978年05月14日1970年代戦闘機組立工場―北西辺境州アトック県カムラ村のPIA工場群内の戦闘機修理・組立工場の開所式が行なわれた。これにより,パはフランスのミラージュ機のオーバーホール能力を有するに至った。
DIA-304-1978-05-14-2パキスタン1978年05月14日1970年代1981年に国勢調査実施―本日の顧問評議会決定。
DIA-304-1978-05-15-1パキスタン1978年05月15日1970年代教師スト―国家開発ボランティア計画教師(NDVP,73年に始められた一種のインテリ失業者救済策としてカレッジのパート・タイム教師700人あまりを雇用)250人が未支払い給与の支払いと正規教師の身分を要求してカラチで無期限スト突入。19日,彼らのうち女性教師たち若干名がハンスト突入。24日,政府は給与支払いを約束。26日,スト解除。
DIA-304-1978-05-15-2パキスタン1978年05月15日1970年代ベーナズィール女史自宅軟禁,1ヵ月延長。
DIA-304-1978-05-15-3パキスタン1978年05月15日1970年代農事管理省廃止―必要業務は工業省に移管された(4月24日付)。
DIA-304-1978-05-16-1パキスタン1978年05月16日1970年代メーラージュ・ムハマッド・カーン国民解放戦線(QMA)代表,逮捕。
DIA-304-1978-05-17-1パキスタン1978年05月17日1970年代ブット前首相,ハンスト突入(~22日)―ラーワルピンディー刑務所で。待遇改善を要求。
DIA-304-1978-05-18-1パキスタン1978年05月18日1970年代ニアーズィー氏,PPP党首代行を自称―PPPニアーズィー派は18,19両日の会議で以下のPPP役員を選出。マウラーナー・コウサル・ニアーズィ党首代行,カマール・アズファル書記長,ナスルッラー・カーン・カッターク副党首など。しかし,軟禁中のヌスラット・ブット夫人を党首代行とするPPP勢力はこれを認めていない。なお,PPP前中央執行委員21人中10人はニアーズィー派。
DIA-304-1978-05-18-2パキスタン1978年05月18日1970年代ジア将軍,アフガニスタンについて―将軍はペシャーワルで部族地域長老たちと会見,アフガニスタンの政変は同国の国内問題だと初めて公式に見解を表明。
DIA-304-1978-05-19-1パキスタン1978年05月19日1970年代CENTOに不満―シャーヒー外務担当顧問は21日付「ザ・タイムズ」紙とのインタビューでCENTOに対する不満を表明,パ国民はますます非同盟ということを見直していると語った。
DIA-304-1978-05-19-2パキスタン1978年05月19日1970年代イラン,ブット助命を強要か―19日のBBC放送によると,アムゼガル・イラン首相は18日の記者会見で,もしパのブット前首相の死刑が強行されれば対パ経済援助を停止するとパ政府に通告したことを明らかにした(“Dawn,”5.20)。21日,駐パ・イラン大使はこれを否定。22日,ハンガリー訪問中のパーレヴィー・イラン国王はブット助命についてイランは要請はしても圧力をかけることはできないと語った。
DIA-304-1978-05-20-1パキスタン1978年05月20日1970年代最高裁でブット前首相上告審開始―ブット前首相は独房生活のために健康を害しているという。
DIA-304-1978-05-20-2パキスタン1978年05月20日1970年代パ民主党(PDP),国民政府不参加を表明。
DIA-304-1978-05-21-1パキスタン1978年05月21日1970年代ブット前首相の長男ムルタザはロンドンで前首相の釈放を要求して4000人のデモ隊を先導。26日,ムルタザはカル元パンジャーブ州知事と共にモスクワへ向った(“Dawn,”5.22,5.27)。
DIA-304-1978-05-21-2パキスタン1978年05月21日1970年代アメリカ,プルトニウムの対パ輸出ライセンスを撤回―国務省説明では,パが核燃料再処理能力を入手しようとしているためという(“Herald Tribune,”5.22)。
DIA-304-1978-05-22-1パキスタン1978年05月22日1970年代新聞記者ハンスト,妥協の動き―ハンスト不参加のラホールのパ・ジャーナリスト連盟(PUJ)とカラチの新聞雇用者連合(NEC)がAPNECおよびPFUJの頭越しにムジーブル・ラハマーン情報省審議官(退役陸軍少将)と収拾策を協議。24日,PFUJとAPNECはこの調停を拒否。同日までの投獄者136人。
DIA-304-1978-05-22-2パキスタン1978年05月22日1970年代ヌスラット女史,3ヵ月の自宅軟禁。
DIA-304-1978-05-23-1パキスタン1978年05月23日1970年代国営企業の株式公開―経済調整委員会(ECC)は昨年10月設置の国営企業再検討委員会(SERC)の以下の答申を承認。①株式上場18企業は民間株主の代表を含む理事会を設置する。②利益をあげている非上場企業はその株式の20~25%を雇用者を含む一般人に公開する。③財務諸表を定期的に公開する,等々。
DIA-304-1978-05-23-2パキスタン1978年05月23日1970年代フサク・チェコスロバキア大統領,ブット前首相の減刑を要請。
DIA-304-1978-05-24-1パキスタン1978年05月24日1970年代PNA会議―PNA中央評議会は,総選挙日程を明示することなどPNAの国民政府参加の条件をジア将軍に文書で送付することを決定。
DIA-304-1978-05-25-1パキスタン1978年05月25日1970年代JUP,国民政府参加を拒否。
DIA-304-1978-05-26-1パキスタン1978年05月26日1970年代スームロー政務担当顧問はBBCとのインタビューで,政府は総選挙前に地方自治体選挙を実施することを考えていると明らかにした。
DIA-304-1978-05-27-1パキスタン1978年05月27日1970年代ワリー・カーン,記者会見―ロンドンで「ドーン」紙特派員と。①昨年7月の政変は人民の勝利だ。②しかし戒厳令は問題の解決にはならない。民主主義のみが唯一の希望だ。③国民政府は選挙を経ない指名された政府にすぎない。
DIA-304-1978-05-28-1パキスタン1978年05月28日1970年代戒厳令当局,ティッカ前陸軍大将を軍事裁判に付すとラホール高裁に通告(3月18日参照)。
DIA-304-1978-05-29-1パキスタン1978年05月29日1970年代新聞ハンスト,妥協―PUJおよびNECとNPTの間で,「ムサーワート」紙は責任あるジャーナリズムの規範を守れば発禁を撤回するとの妥協が成立。30日,APNECおよびPFUJは闘争を中止。
DIA-304-1978-05-29-2パキスタン1978年05月29日1970年代ジア将軍はギー油公社総裁および食用油公社総裁を停職処分―食用油の極端な不足の責任によるという。
DIA-304-1978-05-29-3パキスタン1978年05月29日1970年代バジパイ・インド外相,デューランド線を尊重―イランから帰国後の記者会見で,デューランド線(パ・アフガニスタン国境)も含め現存の国境は尊重されるべきだというのがわが国の原則であると述べた。
DIA-304-1978-05-30-1パキスタン1978年05月30日1970年代銀行預金に喜捨税―7月1日から銀行預金の(年間?)平均残高に2.5%の喜捨税がかかるもよう。ただし外国人,官・民の株式会社,政府などの預金は適用外。また,農業生産者は生産物に対し10%の喜捨税(ウシュル)がかかることになる(“Dawn,”6.1)。
DIA-304-1978-05-31-1パキスタン1978年05月31日1970年代“資格剥奪法廷”(1月26日参照)によって国会・州議会立候補資格を向う7年間剥奪された政治家は5月末日までに少なくとも35人になった。
DIA-304-1978-06-01-1パキスタン1978年06月01日1970年代対パ債権国会議開く(パリ)―パが78/79年度分として要請していた8.89億ドルの援助に対し同会議は2日,8.425億ドル(対前年度実績15%増)を決定。しかし,同会議はパの債務繰延べ要請については何の決定もしなかった。パは援助諸国に計2.5~3億ドルの債務支払い猶予を要請しているが対パ債権国会議分はこの半分を占めるという(パは過去4年間に同会議から計6.5億ドルの支払い猶予を受けている)。
DIA-304-1978-06-02-1パキスタン1978年06月02日1970年代ブット前首相,ハンスト突入―2回目。待遇改善を要求。10日,当局と合意,ハンスト中止。
DIA-304-1978-06-03-1パキスタン1978年06月03日1970年代行政府人事―次官4人の大幅格下げを含む16人の異動が行なわれたが,新聞記者のハンストを終結させたムジーブル・ラハマーン情報省審議官(退役陸軍少将,心理戦専門家)の同省次官昇格が目立つ。
DIA-304-1978-06-04-1パキスタン1978年06月04日1970年代ジア将軍はセメント公社総裁以下6人を停職処分―極端なセメント不足の責任によるという。
DIA-304-1978-06-05-1パキスタン1978年06月05日1970年代インド,南アジア平和地帯構想に反対―バジパイ・インド外相は訪米の途次テヘランでの記者会見で,“南アジアだけを平和地帯に宣言すれば世界的火災を助長する”としてパの提案に反対を表明。
DIA-304-1978-06-06-1パキスタン1978年06月06日1970年代駐パ・イラン新大使―イランの国家安全・情報機構(SAVAK)長官のナスィーリー将軍が同長官を解任され,駐パ新大使に任命された。
DIA-304-1978-06-08-1パキスタン1978年06月08日1970年代ガッフールPNA書記長,記者会見―政府に“5項目プログラム”実施を要求,①総選挙日程の早期発表,②責任追及のスピード・アップ,③文民・軍人混合政府の解散,④人民の問題の解決,⑤政治活動の自由化(Viewpoint 6.11)。
DIA-304-1978-06-08-2パキスタン1978年06月08日1970年代外務官僚20人解雇(氏名・役職不詳)―ブット政権下で縁故関係により採用された人々という。
DIA-304-1978-06-08-3パキスタン1978年06月08日1970年代デサイ・インド首相はロンドンでの記者会見で,ジア将軍の7月訪印のうわさを否定した。
DIA-304-1978-06-09-1パキスタン1978年06月09日1970年代国連総会に出席したシャーヒー外務担当顧問は5月25日~6月9日の間にバンス米国務長官,ギランゴー仏外相,黄華中国外交部長,カラトバリ・イラン外相,アミーン・アフガニスタン外相,バシパイ・インド外相などと会談を行なった。
DIA-304-1978-06-10-1パキスタン1978年06月10日1970年代パ銀行評議会(PBC),農業貸付利率を13%から12%に引き下げ。
DIA-304-1978-06-12-1パキスタン1978年06月12日1970年代ジア将軍が国民政府(挙国一致内閣)構想を放棄するとのうわさがある中で,パガーローPML党首は“国益のために文民政府に参加してもよい”と談。
DIA-304-1978-06-12-2パキスタン1978年06月12日1970年代「ニューズ・ウィーク」誌6月12日号によればジア政権はブット前首相を2,3ヵ月以内に処刑することを秘密裡に決定したという。
DIA-304-1978-06-13-1パキスタン1978年06月13日1970年代ニアーズィーPPPニァーズィー派(PPP-N)党首は中央委員会のメンバー100人のうち50人を任命。残りは後日任命の予定という。
DIA-304-1978-06-14-1パキスタン1978年06月14日1970年代ジア将軍,政治家と会談―14日,PNAと会談。15日,アスガルTI党首はジア将軍との会談で政府参加を拒否。16日,ジア将軍とPNAの会談。
DIA-304-1978-06-14-2パキスタン1978年06月14日1970年代カラチのスィンド州高裁はベーナズィール女史の自宅軟禁を違法としてその撤回を命令。
DIA-304-1978-06-16-1パキスタン1978年06月16日1970年代耿中国副首相来訪―耿副首相以下40人の中国代表団がカラコラム道開通式列席のため来訪。当初は副首相より地位の低い人物が来訪する予定であったが(“Financial Times,”6.18),アフガニスタンの親ソ派新政権の成立に鑑みてか,中国は6月1日になって同副首相の派遣を発表。16日夕,一行はジア将軍以下のパ側代表団と第1回会談。同日夜,ジア将軍は歓迎宴で,①パはインドとの関係正常化に努めているがカシミール問題が最大の阻害要因となっている,②パのアフガニスタンとの関係は平和共存原則に基づいており,同国の安定を望むなどと演説。これに対し耿副首相は,①中国は独立と主権を守るための南アジア諸国の正義の闘いを支持する,②中国は,パ政府の南アジア非核武装地帯化提案および同政府によるジャムー・カシミール民族自決のための努力を強く支持する,③カラコラム道は中・パ友好の結晶だ,などと述べた。17日,中国代表団はエラーヒー大統領などと2時間の会談後,タルベーラ・ダムを視察。
DIA-304-1978-06-17-1パキスタン1978年06月17日1970年代空港混乱―カラチ空港で空港警備隊とPIAの荷物運搬人とが衝突,発砲などにより30人が負傷。混乱は8時間にわたり,軍が事態収拾のため動員された。
DIA-304-1978-06-17-2パキスタン1978年06月17日1970年代ラホール高裁は,ブット前首相による自分の5年半におよぶ拘禁を非合法とするヤヒアー元大統領の6月3日の申立てを受理。なお,ヤヒアーはこの件に関する宣誓供述書の中で,71年の東西パ分裂にブットが役割を担ったとしている(“The Times,”6.5)。
DIA-304-1978-06-18-1パキスタン1978年06月18日1970年代去る15日ブット前首相に会見したベーナズィール女史は,ブット前首相は最高裁で死刑が確定しても助命嘆願は決してしないように命じたと明らかにした。
DIA-304-1978-06-18-2パキスタン1978年06月18日1970年代カラコラム道開通―中・パ両国代表団によりターコート橋で盛大な開通式。この道路は中国新疆省との国境にあるクンジェラーブ峠(標高4700m)とイスラーマバード北方100kmのハヴェーリアンを結ぶもので全長860km,幅10mの全天候2車線道路。この道路の建設は元来パ政府が1959年に内陸部の統治強化のためにそれまでのジープ道の拡張に着手したことに始まる。71年印・パ戦争後中国が協力を申し出,74年から両国の工兵隊などによる合同工事が開始された。投入された労働人口はパ側が延べ1万5000人,中国側が延べ9500人であった。工事は困難を極め,パ側が2000人,中国側が500人の犠牲者を出したという。
DIA-304-1978-06-19-1パキスタン1978年06月19日1970年代ジア・耿第2,3回会談(イスラーマバード,計6時間)―両国関係,国際関係などを討議したという。夜,耿副首相による答礼宴。21日,中国代表団はスリランカへ向った。
DIA-304-1978-06-20-1パキスタン1978年06月20日1970年代学生選挙―カラチの52のカレッジで学生自治会選挙が行なわれ,左派の進歩戦線(PF)および進歩連盟(PA)の傘下の7組織が25校で勝利を収めた。一方,右派は学生回教協会(IJT)と回教学生会(ATI)の2組織のみが選挙に参加し,前者が10校で圧勝したと発表。他17校については不明。
DIA-304-1978-06-20-2パキスタン1978年06月20日1970年代印・パ両軍発砲―カシミールの印・パ停戦ラインのラージャウリーで両軍の水争いで発砲事件が発生したが負傷者はなかった(“Dawn,”6.26)。
DIA-304-1978-06-21-1パキスタン1978年06月21日1970年代オスマーン・アリー中銀総裁辞表提出―その後,辞表を撤回したもよう。
DIA-304-1978-06-22-1パキスタン1978年06月22日1970年代ジア将軍,PNAと会談―この日も“文民政府”組織に関する会談は不調に終り,7月10日または11日に再開されることとなった。PNA8政党のうちJUPとNDPは総選挙を経ない政府には不参加との方針をすでに表明している。PDPはPNAとして参加を決定すればそれを支持するがPDPは入閣しないとし,PMLも内部の意見対立が激しい。
DIA-304-1978-06-24-1パキスタン1978年06月24日1970年代予算前会議―ジア将軍は来年度予算に“様々な意見を反映するために”商・工業経営者,銀行家,経済学者,経済記者計67人およびほぼ同数の官僚の会議を8時間半にわたって主催。
DIA-304-1978-06-25-1パキスタン1978年06月25日1970年代ジア将軍,全国放送―①回教法導入の指導に当たるため近くサウジアラビアとエジプトから宗教大臣と顧問が来訪。②銀行預金に対して強制的喜捨税を課すことはない。③政治家たちは国家安定のための国民政府構想の検討に際して自己の利害を超越し得なかった。このため諸政党の参加する国民政府ないし文民政府の構想を破棄し,現在の顧問評議会に代る連邦政府を7月5日に組織する。④州政府も同じ路線によって組織。⑤われわれの基本酌目標が選挙実施であることに変りはない。⑥現在までに44人が公職選挙立候補を向う7年間剥奪された。⑦責任追及の早期完了のために資格剥奪法廷を再編。今後はこの法廷は陸軍准将1名およびSessiQns Judge(県レベルの刑事裁判官)またはMagistrate(それより下級の刑事裁判官)1名で構成(翌26日,この旨の戒厳令命令第47号布告)。⑧腐敗した政治家たちの裁判は軍高級将校から成る略式軍事裁判所で行なう。⑨2,3ヵ月後に政治活動を部分的に解禁。⑩総選挙で一定の投票数を得なかった政党は禁止することを考慮中。⑪総選挙前に政党ぬきの地方選挙を年末頃実施。⑫アフガニスタンとの関係は平和原則に基づく。
DIA-304-1978-06-25-2パキスタン1978年06月25日1970年代大統領,官僚を批判―エラーヒ大統領は最近,官僚はジア戒厳総司令官の権威を失墜させようとしていると批判した。これは,軍政に対する官僚の不満,また,軍人が事務部局に入りこんでいるために生じている軍人と官僚機構との摩擦を反映していると思われる(「読売」6.25)。
DIA-304-1978-06-25-3パキスタン1978年06月25日1970年代ジア将軍,サディーク天然資源省次官を停職処分。
DIA-304-1978-06-25-4パキスタン1978年06月25日1970年代ケシ栽培に警告―パ麻薬統制局は北西辺境州におけるケシの違法栽培者に対して厳重警告。ケシはとくに旧土侯国で栽培されており州政府の統制が不十分という(“Dawn,”6.26)。なお関係者の話しでは,去る2日の対パ債権国会議においてとくに西ドイツが対パ援助供与の条件としてケシ栽培と阿片密輸出の厳しい統制をパに要求したという(筆者の現地インタビュー)。
DIA-304-1978-06-27-1パキスタン1978年06月27日1970年代インド,パに抗議―メータ・インド外務次官は駐印・中国大使と駐印・パ大使に対して個別に,“パ占領カシミール”を通るカラコラム道に関して抗議した。29日,パ外務省スポークスマンはこれを拒否。
DIA-304-1978-06-28-1パキスタン1978年06月28日1970年代政府,『経済概況』を発表(参考資料参照)。
DIA-304-1978-06-28-2パキスタン1978年06月28日1970年代AFP電はクウェートの“Al-Siassa”紙を引用,ジア将軍はイランの調停に従いブット前首相の刑を終身刑に変えてサウジアラビアへ亡命させることに同意したと伝えた(“The Statesman,”6.29)。
DIA-304-1978-06-29-1パキスタン1978年06月29日1970年代陸軍人事―ジア将軍はグラーム・ムハマッド少将に代えてラヒームッディーン・カーン中将をバルーチスターン州戒厳司令官に任命。
DIA-304-1978-06-29-2パキスタン1978年06月29日1970年代78/79年度予算発表(参考資料参照)―ジア将軍自らが発表した。
DIA-304-1978-07-01-1パキスタン1978年07月01日1970年代PMLはPNA内の申し合わせに反し,7月5日に組織される政府に参加すると表明。
DIA-304-1978-07-01-2パキスタン1978年07月01日1970年代輸入政策発表―民間業者が輸入し得る品目が429から460に増えたこと,紡績機械,農業用機器,工業用原材料など国内生産増大に寄与する品目の輸入許可額が増大したこと,国内の品不足に鑑みて民間によるセメント輸入が数年ぶりで許可されたことなどが目立つ。
DIA-304-1978-07-02-1パキスタン1978年07月02日1970年代カラチ商工会議所会頭,輸入政策を歓迎。一方,APTMAは新予算に“失望した”と批判。
DIA-304-1978-07-03-1パキスタン1978年07月03日1970年代第5次5カ年経済開発計画発表(資料参照)。
DIA-304-1978-07-04-1パキスタン1978年07月04日1970年代シャーヒー外務担当顧問,サウジアラビア訪問―9日,ハーリド国王と会談。11日,帰国。
DIA-304-1978-07-05-1パキスタン1978年07月05日1970年代連邦内閣成立―ジア将軍は自らを首班(首相ではない)とし,17人の連邦大臣および5人の国務大臣から成る内閣を組織。閣僚は軍人,官僚,政治家(PMLのみ)などから成る(参考資料参照)。ジア将軍は直ちに第1回閣議を開き,その後記者会見。①この内閣は回教体制導入,総選挙準備,経済状況改善,国内安定と海外でのパの威信高揚という4つの目的をもって組織した。②4州でも同様の政府を組織する。③PNAとの会談後,閣僚数を増やすこともあり得る。④軍事評議会は存続し,そのメンバーは閣僚として閣僚会議に出席。一般事項については内閣が最高権限を有し,国防については軍事評議会の意見が優先。⑤憲法は停止されているが憲法の精神は守っている。⑥閣僚は政治的演説を許される。⑦現在,私と閣僚は神以外の誰にも責任を負わない。⑧政府は大統領制導入という激変は考えていない。
DIA-304-1978-07-06-1パキスタン1978年07月06日1970年代JUP,PNAを脱退―JUPはPNAを“非能率的かつ規約違反の組織形態は連合とは呼び得ない”としてPNAを脱退。NDPなどはこの脱退を非難。
DIA-304-1978-07-06-2パキスタン1978年07月06日1970年代ブット政権時代にアフガニスタンへ亡命したバルーチスターンの著名なゲリラ指導者8人が帰国した。
DIA-304-1978-07-06-3パキスタン1978年07月06日1970年代無利子銀行制度―ジア将軍はカラチ商工会議所で演説,①国有解除はケース・バイ・ケースで行なう,②利子がコーランで禁じられているため無利子銀行制度の導入を検討中などと述べた。
DIA-304-1978-07-06-4パキスタン1978年07月06日1970年代第1回全アジア回教会議,力ラチで開く(~8日)―世界回教連盟(本部はメッカ)主催。各国代表200人が出席。ジア将軍は開会演説でイスラエルの占領地からの撤兵,カシミール問題の解決,回教への復帰などを訴えた。7日,パ商工会議所連盟による各国代表歓迎宴でジア将軍は,世界の回教徒はカアバ神殿から精神的教示を受けるのと同じようにハーリド・サウジアラビア国王に世俗上の指導を求めるよう訴えた。
DIA-304-1978-07-07-1パキスタン1978年07月07日1970年代TI,野党として政府と対抗することを決定。
DIA-304-1978-07-07-2パキスタン1978年07月07日1970年代綿花輸出―ジア将軍はカラチ綿花協会(KCA)で,綿花輸出を民間に許可するか否かは慎重に決定するが,基本的には綿花輸出公社(CEC)と民間業者との健全な競争が望ましいと思う,と演説。
DIA-304-1978-07-08-1パキスタン1978年07月08日1970年代PPP非公式中央活動者委員会開く―イスラーマバードのジャトーイ邸で。ブット党首およびヌスラット党首代行への全面的信頼を表明,また,連邦内閣の形成は総選挙引延ばし作戦だと非難。なお,会議には16人の中央執行委員とベーナズィール女史が出席。
DIA-304-1978-07-08-2パキスタン1978年07月08日1970年代洪水―北西辺境州で豪雨発生。その後豪雨は全国に拡大。洪水が9月初旬まで続き,軍が各地に出動。
DIA-304-1978-07-10-1パキスタン1978年07月10日1970年代6月にアフリカ東部で大量発生したバッタの大群がパにも来襲。陸・空両軍が撲滅にあたっている。
DIA-304-1978-07-11-1パキスタン1978年07月11日1970年代日本政府,パなど10ヵ国に対する計900億円の債務救済を決定。
DIA-304-1978-07-12-1パキスタン1978年07月12日1970年代JI,入閣の用意があると言明。
DIA-304-1978-07-13-1パキスタン1978年07月13日1970年代陸軍人事―ジア将軍はムハマッド・イクバール・カーン中将に代えて,サディークル・ラシード・ムハマッド・アッバースィー中将を第5軍団司令官ならびにスィンド州戒厳司令官に任命。イクバール中将は陸軍副参長に任命(いずれも7月15日就任)。
DIA-304-1978-07-13-2パキスタン1978年07月13日1970年代オクチュン・トルコ外相,来訪(~16日)―インド訪問を終えて来訪した同外相は記者会見で,デタントに向っての傾向がある中でCENTOは再検討されるべきだ,と談。14日,シャーヒー未就任外務担当国務相との間で両国の非同盟諸国会議参加とCENTOにおける役割について会談(“The Times,”7.15)。
DIA-304-1978-07-14-1パキスタン1978年07月14日1970年代小麦大量輸入―サフダール食糧・農業相は,政府は小麦220万トンを輸入する措置を整えたと発表。
DIA-304-1978-07-14-2パキスタン1978年07月14日1970年代米国務次官来訪―イラン,インド,アフガニスタン訪問を終えたニューソム米国務次官が14日訪パ。17日,サウジアラビアへ向ったもよう。
DIA-304-1978-07-16-1パキスタン1978年07月16日1970年代分離選挙制導入―閣議決定。他に選挙区の再画定,政治活動全面禁止の継続などを決定。
DIA-304-1978-07-18-1パキスタン1978年07月18日1970年代ハンスト―APNECおよびPFUJは,5月ハンスト中にNPTが解雇した新聞関係者124人の解雇撤回,「ムサーワート」紙カラチ版および親PPP2週刊誌の発禁撤回など8項目を要求してカラチでハンスト突入(“報道自由運動”)。PUJおよびAPNEC反主流派はこれを非難。同18日,バルナAPNEC議長以下5人逮捕。20日,「ムサーワート」紙カラチ版が70日ぶりに再発行。31日までに約60人逮捕。
DIA-304-1978-07-19-1パキスタン1978年07月19日1970年代タクシー・スト―警察当局はカラチの大雨時に乗車拒否などの違法行為を働いたリクショー(3輪タクシー)運転手の摘発を開始。一部運転手がこれに抗議してスト突入。翌20日,タクシーおよびリクショーが全面スト突入。24日行政当局が,ストを中止しなければ車を没収すると警告,ストは25日までに終結。なお,警察当局によればストの真の狙いは料金引上げだという。
DIA-304-1978-07-19-2パキスタン1978年07月19日1970年代イギリス,1億ポンドの対パ債権帳消しを決定。
DIA-304-1978-07-22-1パキスタン1978年07月22日1970年代ジア将軍はラーワルピンディー戒厳総司令官府で2000人の庶民に演説,裁判手続が2ヵ月以内に簡素化されなければ軍将校とマジストレイト(6月25日参照)から成る略式裁判所を設けると言明。
DIA-304-1978-07-22-2パキスタン1978年07月22日1970年代空軍人事―ズールフィカール空軍参謀長(大将),停年退役。後任としてムハマッド・アヌワル・シャミーム中将が大将に昇格,新空軍参謀長に就任。
DIA-304-1978-07-22-3パキスタン1978年07月22日1970年代暗殺―ムラード・カーン・ジャマーリーPMLバルーチスターン州支部委員長,クエッタて暗殺。
DIA-304-1978-07-23-1パキスタン1978年07月23日1970年代地方選挙―ザフール・エラーヒー地方自治体相は政府は12月末までに地方選挙を行なうべく検討を開始したと発表。同相によると地方自治体は村落では村落評議会,中央評議会,県評議会(Union Council,Markaz Council,District Council)の3層で構成される。村落評議会は8~10村から成り,1000~1500人に1人の割で同議会議員が選出される。中央評議会は10~15人の村落評議会議長から成る。県評議会は各県の中央評議会議長から成る。県評議会は自らの議長を選出し,副議長は県副知事(Deputy Commissioner)が勤める。県評議会は徴税権を有する。村落評議会議長は司法権を有し,上告は中央評議会議長が扱う。都市部では人口に応じて町委員会,市委員会,または市自治体(Town Committee,Municipal Committee,Municipal Corporation)が設置される。自治体選挙立候補は無所属で行なう。
DIA-304-1978-07-23-2パキスタン1978年07月23日1970年代世銀勧告―6ヵ月にわたるパの綿紡業調査を終えた世銀調査団は,品質改善,納期厳守,金融拡充,市場調査撤底などを強く勧告する報告書を発表した。
DIA-304-1978-07-23-3パキスタン1978年07月23日1970年代経済代表団,訪ソ(~29日)―団長はイスハーク財政相。27日,カラチ製鉄所建設に対する追加援助および債務支払い繰延べを含む1.67億ルーブル(2.54億ドル)の経済抱括取決めに調印。また29日,帰国後の記者会見でイスハーク財政相はコスイギン・ソ連首相が冬にパを訪問しようと明らかにした。
DIA-304-1978-07-24-1パキスタン1978年07月24日1970年代総選挙白書―政府は『1977年3月総選挙操作の青写真』と題する白書(付録込みで1449ページ)を発表。これによるとブット前首相は総選挙での不正行為をすでに76年4月から計画し,また,“或る国の元首”を通じて多額の選挙資金を受けたという。
DIA-304-1978-07-24-2パキスタン1978年07月24日1970年代ムフティーPNA委員長は地方自治体選挙がアユーブ大統領時代のように国会選挙の選挙人団を構成する基礎になるのではないかとの懸念を表明。
DIA-304-1978-07-25-1パキスタン1978年07月25日1970年代アフターブ・アハマッド新NPT議長就任―元「パ・タイムズ」紙重役。ジャミールッザマーン前議長は官僚。
DIA-304-1978-07-25-2パキスタン1978年07月25日1970年代パ,非同盟諸国会議に“来賓”として出席(ベオグラード)―代表団長はシャーヒー外務担当国務相。パを“来賓”と認めるに際し加盟諸国からとくに反対はなかったが,アフガニスタンとタンザニアが,参加要請国は非同盟原則に関する意向宣言を行なうことが望ましいとした。27日アミーン・アフガニスタン外相が,パとの民族問題は交渉で解決したいとしたが,これに関して“パシュトゥーンおよびバルーチー民族の民族酌宿命”という言葉を用いたため,パ政府は“内政干渉だ”と反ぱつ(ただし,パに発言権なし)。同会議は30日閉幕。
DIA-304-1978-07-26-1パキスタン1978年07月26日1970年代ジア将軍,ムフティーPNA委員長と会談(カラチ)―PNAの政府参加問題について。会談にはアッバースィー・スィンド州戒厳司令官のみが同席。
DIA-304-1978-07-27-1パキスタン1978年07月27日1970年代ジア将軍,バルーチスターン州遊説(~8月1日)―同日クエッタの記者会見で,①核燃料再処理工場はアメリカの反対があるが入手する,②地方自治体議員を総選挙の選挙人団にするか否かについてはまだ明確に検討していない,などと談。28日,バルーチスターン州政治家たちと,ブット時代の同州武力弾圧の被災者問題など同州正常化について会談。
DIA-304-1978-07-27-2パキスタン1978年07月27日1970年代ジア将軍は77年8月6日の戒厳令命令第17号に基づく政治家の非行調査を弁護人ぬきで行なう旨の戒厳令命令第50号を布告。
DIA-304-1978-07-28-1パキスタン1978年07月28日1970年代マザーリーNDP党首,記者会見―①PML閣僚が辞任しなければPMLをPNAから追放すべきだ。②NDPは政府に十分に長い間協力してきたが今や事態は変化した。それゆえ,来年4月か5月,遅くとも10月までには総選挙を実施すべきだ。
DIA-304-1978-07-30-1パキスタン1978年07月30日1970年代国民投票およびCENTO脱退を示唆―ジア将軍はクエッタで記者会見,地方選挙より国会・州議会総選挙を先にせよとのPNAなどの要求に鑑み,①どちらを先にすべきかを決定するため国民投票の用意がある,と言明する他,次のように談。②州政府形成は急がない。③バルーチスターンの反乱分子に対する恩赦期限を6ヵ月延長。④72年3月11日の戒厳令規則第115号(土地改革令)のバルーチスターン州での適用を6ヵ月間停止する。⑤必要とあらばCENTOを脱退する。⑥アフガニスタンとの関係改善は楽観視している。
DIA-304-1978-07-31-1パキスタン1978年07月31日1970年代スィンド州政府は,新郎新婦が同市町村出身の場合,結婚披露宴で飲物以外に食事を出すことを禁止。
DIA-304-1978-07-31-2パキスタン1978年07月31日1970年代公職選挙立候補資格を剥奪された者は7月末日までに54人に達した(“Herald Tribune,”8.1)。
DIA-304-1978-08-01-1パキスタン1978年08月01日1970年代次期大統領問題―ブローヒー法相は記者会見で,次期大統領任命のために戒厳令による憲法改正の必要があろうと談(“Dawn,”8.2)。エラーヒー大統領の任期は8月14日で切れるが,同大統領は軍政継続に抗議して7月中に1度,また8月初旬にもジア将軍に辞表を提出したといわれる(“Herald Tribune,”8.1;F.E.E.R. 8.25;“The Times,”8.16)。
DIA-304-1978-08-01-2パキスタン1978年08月01日1970年代ナスィームNDP副党首が万引き―訪英中のナスィーム女史(ワリー・カーン夫人)はロンドンの裁判所で万引きの罪で罰金250ポンドの判決を受けた。10日,NDP副党首辞任を表明。15日,帰国。16日,NDPの要請により副党首辞任を撤回。
DIA-304-1978-08-02-1パキスタン1978年08月02日1970年代ジア将軍,洪水被災地を観察。
DIA-304-1978-08-02-2パキスタン1978年08月02日1970年代公式筋はバルーチスターン州ノックンディーで大規模なモリブデン鉱脈を発見したと発表。
DIA-304-1978-08-02-3パキスタン1978年08月02日1970年代PLOとイラクの抗争,パに飛火―2日,2人の男がカラチのイラク総領事館に発砲。パ警察により1人射殺,1人逮捕。5日,イスラーマバードのPLO事務所が襲撃され,パレスチナ人3人とパ人1人が死亡。
DIA-304-1978-08-03-1パキスタン1978年08月03日1970年代ジャルード・リビア副大統領,来訪―4日,訪中。15日,東南アジア歴訪後再び訪パ,ジア将軍と経済協力などの両国間問題を討議。16日,帰国。
DIA-304-1978-08-03-2パキスタン1978年08月03日1970年代パ公式筋は,中国に支援された150人の武装パ人がインド側カシミールに侵入したとのインド報道を否定。
DIA-304-1978-08-04-1パキスタン1978年08月04日1970年代ジア将軍,ムフティーPNA委員長と会談―5日も2回に及ぶ会談。
DIA-304-1978-08-04-2パキスタン1978年08月04日1970年代アメリカ,対パ援助を停止―米政府はパが核燃料再処理工場の入手を断念しないことを理由にすでに昨年10月(一説には7月,また4月)から対パ援助を中止していたというが,4日,米国務省は食糧援助および10月以前に決定していたプロジェクト援助を除き,今後は対パ新規援助を停止すると正武に発表した。
DIA-304-1978-08-06-1パキスタン1978年08月06日1970年代メーンガル元バルーチスターン州首相(非合法NAP指導者)は声明で,政府は同州の人道的問題の解決を遅らせているとして今後の政府との交渉を拒否するとともに,サルダール(封建的地主)制が秘密裡に復活されていると政府を非難。
DIA-304-1978-08-06-2パキスタン1978年08月06日1970年代アスガルTI党首,訪中―中国の招待。21日,帰国後の記者会見では具体的内容に触れなかった。
DIA-304-1978-08-07-1パキスタン1978年08月07日1970年代軍出動―カラチで警官が交通違反者を殴ろうとして誤ってその8歳の女児を単車から殴り落とし,女児はそこに来た車にひかれて即死。これを見た群衆は警官2人を石で殴打,騒ぎは軍出動まで4時間続いた。
DIA-304-1978-08-07-2パキスタン1978年08月07日1970年代アフガニスタンのミグ17型機,パ領に不時着―故障のため。10日,アフガニスタンへ帰着。
DIA-304-1978-08-08-1パキスタン1978年08月08日1970年代4月に着工されたインダス・ハイウェー建設計画は資金難のためほぼ破棄されたという(“Business Recorder,;8.9)。
DIA-304-1978-08-09-1パキスタン1978年08月09日1970年代陸軍人事―ジア将軍はニシャート・アハマッド少将に代え,ムハマッド・アスラム・シヤー少将を北方地域戒厳司令官に任命(7月28日付)。
DIA-304-1978-08-10-1パキスタン1978年08月10日1970年代小麦危機―6月の対パ債権国会議でパは150万トンの小麦援助を要請したが,7月下旬イスラーマバードで開かれた同会議では220万トン(都市配給用)を要請。しかし,同会議はパのいう不作因(天候不順と作付地減)に納得せず,8月10日予定のワシントンでの対パ小麦援助会議を中止。8月初旬,パは世銀を通じてついにインドに小麦援助を要請したと報道されたが,3者ともこれを否定。パは8月21日までにアメリカなどから50万トンを獲得したにすぎない(“Dawn,”8.6&8.10;“Financial Times,”8.4&8.22)。
DIA-304-1978-08-11-1パキスタン1978年08月11日1970年代空軍人事―中将2人,准将5人が(円満)退役させられ,5人の准将が中将に昇格。
DIA-304-1978-08-12-1パキスタン1978年08月12日1970年代労働白書―これによると77/78年度の総人口7500万のうち就業適齢者(10歳以上)は5000万人だが現実の労働人口は2222万人(女性は300万人)。
DIA-304-1978-08-15-1パキスタン1978年08月15日1970年代各地で銀行職員のストが生じているらしく,国家労使関係委員会(NIRC)は2銀行の全国職員に非合法であるストや集会・デモをやめるよう通告した。22日も銀行員の賃上げ要求ストが継続との報道あり。
DIA-304-1978-08-15-2パキスタン1978年08月15日1970年代中国が核技術を提供か―ニューヨーク刊行のNucleonics Week誌は,中国は6月の耿副首相の訪パ時にパに対し核燃料再処理技術の提供を申し出た。これは中国初の核技術輸出となる(“Financial Times,”8.16)。
DIA-304-1978-08-15-3パキスタン1978年08月15日1970年代フォリー米第7艦隊司令官,友好訪問のため来訪。
DIA-304-1978-08-16-1パキスタン1978年08月16日1970年代NDP,PNAを脱退―NDPは“権力欲のため国民の信頼を裏切ったPNA”からの脱退を表明。17日,PNA内の小政党であるカークサール運動(KT)もPNAの入閣予定を非難。
DIA-304-1978-08-16-2パキスタン1978年08月16日1970年代輸入政策改正―海外出稼ぎ者による冷蔵庫,オートバイ,レコード・プレーヤー,冷房機などの輸入を許可する“贈答品計画”の導入を骨子とする。
DIA-304-1978-08-17-1パキスタン1978年08月17日1970年代司法と行政の分離を延期―73年憲法は司法と行政の分離を5年以内に達成するとしているが,ジア将軍はそれを5年半に延期するための戒厳総司令官命令78年第1号を布告(8月14日付)。
DIA-304-1978-08-18-1パキスタン1978年08月18日1970年代ワリー・カーン,帰国―記者会見を拒否。
DIA-304-1978-08-19-1パキスタン1978年08月19日1970年代PNA入閣決定―本日のジア将軍とPNAとの会談で。なお,PNA構成政党の党首は入閣しない。
DIA-304-1978-08-20-1パキスタン1978年08月20日1970年代ブット前首相の主任弁護人であるバクティアール前検事総長は最高裁で正味57日に及ぶ弁論を完了。21日,他の4人の上告者の弁護人が弁論を開始。
DIA-304-1978-08-21-1パキスタン1978年08月21日1970年代ヌスラット女史の自宅軟禁,3ヵ月延長。
DIA-304-1978-08-23-1パキスタン1978年08月23日1970年代新内閣―ジア将軍はPNA代表13人を含む連邦大臣21人と国務大臣3人から成る内閣を組織(参考資料参照)。ジア将軍が首班を勤める他は現役軍人は1人も入閣していず,国防相に無所属政治家を起用。同日ジア将軍の記者会見。①新内閣は回教体制導入,総選挙準備,経済安定を目標とする。②軍事評議会は最高機関として存続。③総選挙を来年10月までに実施。④24日から政治活動を一部解禁(24日,戒厳令規則第39号により室内集会,記者会見,党員登録などを許可)。⑤エラーヒー大統領は次期大統領選出まで留任。⑥ジスカール・デスタン仏大統領は核燃料再処理工場の対パ輸出契約を変更しなければ輸出は困難だとの返書を送ってきた。パには核技術入手のための幾つかの選択肢がある。
DIA-304-1978-08-24-1パキスタン1978年08月24日1970年代新内閣への反応―入閣した政党以外は一斉に反ぱつし総選挙の早期実施を要求。PPPは年内総選挙,TIは45日以内の総選挙実施を要求。PPP-Nですら内閣は総選挙3ヵ月前に辞任せよと要求。また,ビゼーンジョー元バルーチスターン州知事は軍による州政府指名をやめよと要求(“Dawn,”8.25~8.29)。
DIA-304-1978-08-24-2パキスタン1978年08月24日1970年代ガッフールPNA書記長,入閣に伴い辞任。
DIA-304-1978-08-25-1パキスタン1978年08月25日1970年代政府,バルーチスターン州に追加交付金6950万ルピーを供与。
DIA-304-1978-08-25-2パキスタン1978年08月25日1970年代カマール・アズファルPPP-N書記長,脱党。
DIA-304-1978-08-26-1パキスタン1978年08月26日1970年代第3回回教諸国首脳会議開催の打診のためにカリーム・ガイエ同会議事務局長が来訪(~29日)―28日,回教諸国商工会議所設立のためその規約作成会議が近くジェッタで開かれると明らかにした。
DIA-304-1978-08-27-1パキスタン1978年08月27日1970年代『報道抑圧白書』政府は前政権が報道手段をいかに乱用し,かつ30数紙を閉鎖するなどいかに報道を弾圧したかを力説する白書を発表。277ページ。
DIA-304-1978-08-27-2パキスタン1978年08月27日1970年代ニアーズィーPPP-N党首は同党の会合で,①PPP両派は12月か1月までに再統合しよう,②責任追及はPPPだけに対する不公平なものになった,と談。
DIA-304-1978-08-28-1パキスタン1978年08月28日1970年代ビゼーンジョー元バルーチスターン州知事声明―①コーランには“回教徒民族”なるものはない。“2民族理論”はインド分割のために作られたにすぎぬ。“回教徒民族”論も“パのイデオロギー”論も何らの真の基盤も有さない。②“パのイデオロギー”論を発明したのはヤヒアー元大統領である。それを説く者(宗教家ならびにジア将軍一筆者)こそパの真の敵だ。③各民族の隆盛のために73年憲法を拡大して州自治を拡大すべきだ。中央政府は国防,外交,貿易,通信,通貨などを管轄するだけで十分強力たり得る。
DIA-304-1978-08-29-1パキスタン1978年08月29日1970年代昨日のビゼーンジョー声明に対しPNA,TI,PPP-Nなどが“パの統一を脅やかす”と一斉に反ぱつ。31日,ブグティー元バルーチスターン州知事(現在TI所属)が同上声明を支持。NDPは“個人的見解”と言明。なお,PPPも現在は(スィンド州の)州自治拡大を主張している(F.E.E.R.,9.15)。
DIA-304-1978-08-29-2パキスタン1978年08月29日1970年代小麦支持価格―政府は小麦の支持価格を74/75年度以来の1モーンド(37.32kg)あたり37ルピーから45ルピーに引き上げた。生産者は50ルピーを要求。
DIA-304-1978-08-30-1パキスタン1978年08月30日1970年代スィンド連隊―タールプル国防相は記者会見で,近いうちにスィンド人からなる連隊の創設のための措置をとると言明。
DIA-304-1978-08-30-2パキスタン1978年08月30日1970年代ジア将軍,サウジアラビア訪問―巡礼のためというが,随員にラヒームッディーン・バルーチスターン州戒厳司令官が含まれているのが目立つ。31日,ケニアでケニアッタ大統領の葬儀に列席後,デサイ・インド首相と会談。同日サウジアラビアへ戻った。9月2日,帰国後の記者会見で,①デサイ首相との会談は今後の同首相との会談の端初であり,打診的なものだ,②同首相は過去2,3回私を公式に招待した,などと談。
DIA-304-1978-08-30-3パキスタン1978年08月30日1970年代アメリカ,パに戦闘機を売却か―情報筋によると米政府は近くパに対してF-5E戦闘機100機を売却するという(“The Statesman,”8.31)。
DIA-304-1978-08-30-4パキスタン1978年08月30日1970年代西ドイツ,パ人270人を強制送還―西独に移住ないし出稼ぎのために悪質業者の斡旋により東独経由で“政治亡命”者として西独に入国した者は過去6ヵ月の間に2000人に達するという。
DIA-304-1978-08-31-1パキスタン1978年08月31日1970年代ハニーフ・ラメイ前PML組織委員長はラホールで“パキスタン平等党(PMP)”を結成。
DIA-304-1978-08-31-2パキスタン1978年08月31日1970年代“報道自由運動”の逮捕者は7月18日以来191人。
DIA-304-1978-08-31-3パキスタン1978年08月31日1970年代アフガニスタン政府はパ居住のパターン(7月25日参照)およびバルーチー民族の民族自決運動を支持する“パシュトゥニスターンの日”行事を盛大に開催。 (“POT-Afghanistan Series,”New Delhi,9.5)
DIA-304-1978-09-02-1パキスタン1978年09月02日1970年代ジャトーイPPPスィンド支部委員長代行,ニアーズィー氏のPPP復党許可を示唆。同日ニアーズィーPPP-N党首,復党の条件を提示。
DIA-304-1978-09-02-2パキスタン1978年09月02日1970年代5カ年計画修正か―クールシード計画委員会副委員長は記者会見で,新5ヵ年計画は手直し後実施と談。
DIA-304-1978-09-03-1パキスタン1978年09月03日1970年代12月予定の地方選挙無期延期―アーチャクザーイ地方自治体相が記者会見で明らかにしたもの。
DIA-304-1978-09-03-2パキスタン1978年09月03日1970年代新綿花政策発表―①紡績工場への繰り綿売渡し価格の1.8~3.0%引き上げ。②綿製品輸出額の7.5~12.5%のリベートを支払う,などが骨子。
DIA-304-1978-09-04-1パキスタン1978年09月04日1970年代NDPスィンド州支部書記長,“アフガニスタン革命の支持者はパの敵”とするPDP党首の発言を“内政干渉”として非難(“Dawn,”9.7)。
DIA-304-1978-09-04-2パキスタン1978年09月04日1970年代4日パ人民民主党(PAJP)が,また,13日パ社会党(PSP,親ソ)がビゼーンジョー声明を支持。
DIA-304-1978-09-04-3パキスタン1978年09月04日1970年代インドの種子小麦を輸入―サフダール農業相は訪印後の記者会見で,インドからさび病に強い種子小麦5270トンを輸入する協定に調印したと発表。パは同じ頃メキシコからも種子小麦1万トンの輸入を契約。
DIA-304-1978-09-06-1パキスタン1978年09月06日1970年代シャーヒー外務担当顧問,訪中(~8日)―両国高官の定期協議のためという。
DIA-304-1978-09-07-1パキスタン1978年09月07日1970年代ベーナズィール女史,記者会見―①最近のPPP中央委は他党と連合を組まないと決定。②PPPはニアーズィー派の復党を許さない。③ビゼーンジョー発言の類は憲法が停止されているがゆえに出てくるのだ。
DIA-304-1978-09-09-1パキスタン1978年09月09日1970年代ビゼーンジョー,正式にNDPに入党。
DIA-304-1978-09-09-2パキスタン1978年09月09日1970年代アスガルTI党首,演説―ラーワルピンディーで党活動者に対し,“『報道抑圧自書』は前政権を非難しているが,現政府も同じことをやっている”などと演説。
DIA-304-1978-09-09-3パキスタン1978年09月09日1970年代ジア将軍,アフガニスタンおよびイラン訪問―イラン非公式訪問の途次アフガニスタンに立ち寄り,タラキー大統領と会談。両者は両国の広範な脇力の可能性があること,また両国間問題を平和裡に解決することで合意。同日,ジア将軍はイランでパーレヴィー国王とCENTOなどについて会談。10日,第2回会談。12日帰国。
DIA-304-1978-09-10-1パキスタン1978年09月10日1970年代ベーナズィール女史,北西辺境州遊説(~4日)―各地で政府を激しく非難し,ブット釈放を要求。同女史の行く先々は聴衆であふれた。
DIA-304-1978-09-10-2パキスタン1978年09月10日1970年代投資振興策―サルフラーズ商相は記者会見で,政府は近く海外で働くパ人に対し本国での工場設立のための資本財輸入を許可すると発表。
DIA-304-1978-09-10-3パキスタン1978年09月10日1970年代ジア将軍は特別法廷の管轄事項も必要とあらば軍事裁判所が取扱い得る旨の戒厳令命令第54号を布告。
DIA-304-1978-09-12-1パキスタン1978年09月12日1970年代IIC,回教体制(Nizam-e-MustafaないしNizam-e-Islam)確立のための答申書を政府に提出。
DIA-304-1978-09-14-1パキスタン1978年09月14日1970年代政治活動制限強化―ジア将軍は室内での政党の会合および記者会見を役員に限って許可する旨の戒厳令命令第40号を布告。
DIA-304-1978-09-14-2パキスタン1978年09月14日1970年代ワリー・カーン演説(ペシャーワル)―①責任追及は遅れ,総選挙は後退しつつある。ジア将軍の正直さは疑わないが将軍は約束を履行すべきだ。②官僚の行動は大衆の間に憎しみさえ醸成している。③ブットの“社会主義”悪用と同じく,現在は回教が悪用されている。④州は自らが選んだ者によって統治さるべきだ。
DIA-304-1978-09-14-3パキスタン1978年09月14日1970年代“選挙細胞”解体を発表―“選挙細胞”委員であったファルマーン・アリー退役少将は文民政府の成立に伴って“選挙細胞”が2~3ヵ月前に解体されたと談。
DIA-304-1978-09-15-1パキスタン1978年09月15日1970年代大統領継承令―エラーヒー大統領は大統領職が欠員となった場合は戒厳総司令官もしくはその指名した者が大統領に就任し得るとの大統領令を布告。
DIA-304-1978-09-16-1パキスタン1978年09月16日1970年代ジア将軍,大統領に就任―ジア新大統領は,他に適当な人物が見つかれば自分は大統領を辞任すると言明。一方,エラーヒー前大統領は記者会見で,“総選挙は行なわれそうもないし,また私は憲法改正に署名することはできなかった”などと談。なおジア戒厳総司令官は同日,各州戒厳司令官を各州知事(兼務)に任命。
DIA-304-1978-09-16-2パキスタン1978年09月16日1970年代予防拘禁延長―ジア将軍は予防拘禁期間を1年から2年に延長する戒厳令命令第55号を布告。
DIA-304-1978-09-16-3パキスタン1978年09月16日1970年代PPP中央執行委員会(イスラーマバード)―ベーナズィール女史を中央執行委員に選出。また17項目要求の他,ジア将軍の大統領就任は憲法の事実上の廃棄を意味するとの6項目決議を採択。
DIA-304-1978-09-17-1パキスタン1978年09月17日1970年代TI,屋外集会―アスガルTI党首は戒厳令を無視したカラチでの屋外集会で,現政権は総選挙を通じて民政移管を行なうつもりはない,と非難。
DIA-304-1978-09-17-2パキスタン1978年09月17日1970年代PPPの人民行動委員会,ラーワルピンディーを中心に毎日数人の小規模デモ作戦を開始。
DIA-304-1978-09-17-3パキスタン1978年09月17日1970年代イスハーク財政相,イラン訪問(~19日)―両国経済協力合同閣僚委員会出席のため,帰国後の記者会見で,イランは2.61億ドルの債務救済を行なおうと談。
DIA-304-1978-09-18-1パキスタン1978年09月18日1970年代ムフティーPNA委員長,記者会見―ジア大統領が自分の政党を組織し,PNAの政策に同意するなら同大統領のPNA加入に反対しない,と言明。
DIA-304-1978-09-18-2パキスタン1978年09月18日1970年代アスガルTI党首,記者会見(カラチ)―①PPP党員が引き抜かれて“君主の政党”が組織されつつある。②政府はTIを対立に追い込んでいる。
DIA-304-1978-09-18-3パキスタン1978年09月18日1970年代国有解除令―政府は72年経済改革令で国有化された企業の返還手続きを定めた“国営企業移管命令”と称する大統領令(9月10日付)を布告。これによると,政府から国営企業の株式または所有権の返還申し出を受けた旧所有者が21日以内に申し出を受諾しなければ権利放棄となる。財界は同令を歓迎しつつも“21日間”は短かすぎるし,返還条件もあいまいだとしている。
DIA-304-1978-09-18-4パキスタン1978年09月18日1970年代ジア将軍,CENTOについて―ジア将軍は米誌『タイム』9月18日号のインタビューで,①私は,アメリカはこの地域での利害を放棄したと感じている。②CENTOは紙上の条約であり全く無意味だ。③パ・米関係はおそらく今までで最悪だ,などと語った。
DIA-304-1978-09-20-1パキスタン1978年09月20日1970年代PNA内部対立―ラーワルピンディーでのPNA会議(19~20日)で政治活動制限を支持するPMLおよびJIとそれに反対のPDPおよびJUIが対立。20日,会議は州政府の早期組織を要求,また,スィカンダル・ハヤート新書記長(全ジャムー・カシミール回教徒会議,AJKMC)を選出。
DIA-304-1978-09-20-2パキスタン1978年09月20日1970年代ムフティーPNA委員長は政府が設立を検討中の回教法委員会(Shariat Commission)では真の回教法を導入できないと強い反対を表明。
DIA-304-1978-09-20-3パキスタン1978年09月20日1970年代マザーリーNDP党首は記者会見で,PPPを含むPNA以外の政党とは連合を組んでもよいと言明。
DIA-304-1978-09-20-4パキスタン1978年09月20日1970年代バルナAPNEC議長他6人の新聞記者がカラチの獄中でハンストを開始。なお,“報道自由運動”の逮捕者はこの日までで250人(Viewpoint,9.24)。
DIA-304-1978-09-21-1パキスタン1978年09月21日1970年代カースィムPML書記長,憲法改正に反対。
DIA-304-1978-09-22-1パキスタン1978年09月22日1970年代73~77年のバルーチスターン武力弾圧の被害者による救済申請は現在までに2167件(うち1743件がスィビー省,383件がカラート省)に達した。
DIA-304-1978-09-23-1パキスタン1978年09月23日1970年代カラチの詩人・作家34人が報道自由運動支持。
DIA-304-1978-09-23-2パキスタン1978年09月23日1970年代18日発表の大統領令に対し,国有解除後の労働者解雇の可能性などに鑑みPPP,NDP,TI,JUP,またJIさえもが強い反対を表明したほか,国営企業労働者の反対運動も発生しているが(筆者の現地インタビュー),クールシード計画委副委員長は23日の記者会見で,同大統領令は大規模な国有解除ではないと言明。
DIA-304-1978-09-24-1パキスタン1978年09月24日1970年代憲法改正―ジア大統領は憲法第7条を改正して分離選挙制を導入する選挙管理委員会〈改正〉令と称する大統領命令1978年第16号を布告。他に関係3法を改正。これらにより下院議員数は回教徒200,非回教徒8,婦人10の計218人と成る。10月18日,選挙管理委員会は国会・州議会議席の割当てを発表。
DIA-304-1978-09-24-2パキスタン1978年09月24日1970年代ゲリラの発言―バルーチー民族ゲリラ指導者シェール・ムハマッド・マリー(最近釈放)は“タイムズ”紙記者と会見,①パ政府が民族問題について直ちに交渉しなければ民族自決のための武力闘争を再開すると言明。また,マリー部族長カイル・バクシュ・マリーはバルーチーおよびパターン両民族問題についてパと討議するとのタラキー・アフガニスタン大統領の申し出に極度の警戒の色を示した(“The Times,”9.25)。
DIA-304-1978-09-24-3パキスタン1978年09月24日1970年代4月のアフガニスタン政変後,難民数千人がパ領に流入(“Financial Times,”9.25)。
DIA-304-1978-09-26-1パキスタン1978年09月26日1970年代生産相,国有解除を否定―ガッフール生産相はカラチ証券取引所理事会との会合で,18日公表の大統領令は単なる“権能付与命令”にすぎず,政府は国有化企業の国有解除を行なう意図は有さないと言明。このため,18日以来急謄していた株価は暴落。
DIA-304-1978-09-26-2パキスタン1978年09月26日1970年代印・パ両国はそれぞれボンベイとカラチにビザ・オフィスを開設することに合意。
DIA-304-1978-09-27-1パキスタン1978年09月27日1970年代ジャトーイPPPスィンド州支部委員長代行(元同州首相),辞意を表明―30日,辞表を撤回。
DIA-304-1978-09-27-2パキスタン1978年09月27日1970年代サウジアラビアから顧問―ハーリド国王の特別補佐官であるダワリビー博士がIICの回教法導入のための顧問として来訪(~10月28日)。
DIA-304-1978-09-28-1パキスタン1978年09月28日1970年代新テレビ・ラジオ政策―ファルーキー情報省発表。以下,骨子。①宗教番組の増加,②ひわいな歌(恋愛の歌など―筆者)の禁止,③踊りはヒンドゥー文化の遺産であるから禁止,④テレビに出る女性は異性を刺激せぬようすべての肌を隠せ。
DIA-304-1978-09-29-1パキスタン1978年09月29日1970年代パンジャーブ州政府はティッカ・カーン元国防担当国務相の拘留を3ヵ月延長。
DIA-304-1978-09-30-1パキスタン1978年09月30日1970年代記者会見禁止―ジア将軍は政党執行委員の記者会見を禁止する戒厳令規則第41号を布告。
DIA-304-1978-10-01-1パキスタン1978年10月01日1970年代焼身自殺―ラーワルピンディーで青年2人がブット釈放を叫んで焼身自殺を図った(以後10月22日までにパンジャーブ,スィンド両州各地で計10人が焼身自殺を図り,5人が死亡)。2日ラーワルピンディーで48人逮捕の他,ラホールでもPPP支持者がバスなど9台に放火し42人逮捕。ナワーブシャーではスィンド大学学生が軍人による女子学生暴行に抗議してデモ,兵士1人が死亡し,86人逮捕。同日,スィンド大などハイデラーバード県の教育機関が無期限閉鎖。
DIA-304-1978-10-01-2パキスタン1978年10月01日1970年代ジア将軍は,執行委員会以外の政党集会も屋内でのものなら許可する旨の戒厳令規則第41号を布告。
DIA-304-1978-10-03-1パキスタン1978年10月03日1970年代ジア大統領,北方地域遊説(~5日)―以下,遊説中の発言。①この地域に対して少なくとも1国会議席の割当てを検討中。②北方地域は連邦政府の省長官が統治する省に再編すべきだ。③パは一民族から成る。④数日中に回教体制について重要発表。
DIA-304-1978-10-03-2パキスタン1978年10月03日1970年代PPP禁止か―ザフール・エラーヒー政務相の記者会見。①最近のPPPの違法行為に鑑みて同党は禁止さるべきだ。②責任追及の迅速化のために71年12月20日~77年7月5日の間に上院,下院,州議会の議員であった者は10月31日までに再度の資産申告をせよ。③責任追及は来年3月31日に完了。④総選挙は来年10月。
DIA-304-1978-10-03-3パキスタン1978年10月03日1970年代綿花不作―サフダール農業相は今年度の綿花の収穫予測は330万ベールと発表。23日CEC総裁は300~310万ベールを見込んだが,マーケット筋は250~260万ベールと見込んでいるという。
DIA-304-1978-10-03-4パキスタン1978年10月03日1970年代パとアフガニスタン,民族問題に関し国連で対立。
DIA-304-1978-10-04-1パキスタン1978年10月04日1970年代学生自治会選挙―過去数ヵ月間の各地の学生自治会選挙ではペシャーワル大学を含み,親PPP派が地滑り的圧勝を収めた(F.E.E.R.,10.27)が,4日のパンジャーブ大学自治会選挙ではJI系のIJTが圧勝。親PPP組織は政府当局の介入を非難。
DIA-304-1978-10-04-2パキスタン1978年10月04日1970年代ベーナズィール女史逮捕―ムルターン空港で逮捕され,ラーワルピンディーで3ヵ月軟禁。
DIA-304-1978-10-05-1パキスタン1978年10月05日1970年代シーア派の不満―シーア派のムジュタヒド(宗教上の検査役)でもあるラズィーIIC委員は,シーア派はスンニー派数義を押しつけられたくないと,両派の教義を教科書で一本化する政府の動きに反対。
DIA-304-1978-10-05-2パキスタン1978年10月05日1970年代政府,Nowshera Engineering社の旧所有者への返還を申し出。9日,さらにPeoples’ Steel Millsなど4企業の返還交渉開始。
DIA-304-1978-10-05-3パキスタン1978年10月05日1970年代セメント不足対処のため民間による輸入を許可。
DIA-304-1978-10-05-4パキスタン1978年10月05日1970年代印・パ両国はイスラーマバードでバッタ対策会議を開き,FAOに協力を要請。
DIA-304-1978-10-06-1パキスタン1978年10月06日1970年代PPPバルーチスターン州支部,ブット釈放と民主主義回復の運動を開始すると宣言。
DIA-304-1978-10-07-1パキスタン1978年10月07日1970年代アッバースィー・スィンド州戒厳令司令官は同州に3特別軍事裁判所と12略式軍事裁判所を設置。
DIA-304-1978-10-07-2パキスタン1978年10月07日1970年代TIは政府がPPP支持者とともに多数のTI支持者も逮捕していると非難。また,法と秩序の維持には民間人を使わず政府機関のみで行なうべきだと非難。なお,PNA活動者はPPP活動者を密告するための秘密組織を結成したという(F.E.E.R.,11.3)。
DIA-304-1978-10-07-3パキスタン1978年10月07日1970年代印・パ貿易会談(イスラーマバード,~10日)―パのスーイ・ガス利用の合弁肥料工場建設が議題の一つとなった(“Financial Times,”10.17)というが,両政府ともこれを否定。
DIA-304-1978-10-07-4パキスタン1978年10月07日1970年代駐パ・イラン大使,辞任(6月6日参照)。
DIA-304-1978-10-08-1パキスタン1978年10月08日1970年代APNECとPFUJは新聞関係者のハンスト終結を発表。政府,逮捕者釈放を開始。
DIA-304-1978-10-08-2パキスタン1978年10月08日1970年代最近のカラチ商工会議所会頭選挙でJI系候補がJUP系候補に大敗。スィンド州弁護士協会長選挙でJI系候補がTI系候補に敗北(Viewpoint,10.8)。
DIA-304-1978-10-09-1パキスタン1978年10月09日1970年代アンサーリー宗教相は,村落評議会など(7月23日参照)を直ちに復活し,それらをPNAの指名する者によって構成するとの政府決定を発表。
DIA-304-1978-10-09-2パキスタン1978年10月09日1970年代カラチの警察当局は「ムサーワート」紙および他1紙を扇動罪で起訴する訴訟登録を行なった。
DIA-304-1978-10-09-3パキスタン1978年10月09日1970年代トゥファイルJI党首,PPPの禁止を要求。
DIA-304-1978-10-09-4パキスタン1978年10月09日1970年代パ政府はF-5E戦闘機の購入予定を否定。10日,シャーヒー外務担当顧問はバシパイ・インド外相に対しインドのジャガー機購入に懸念を表明。
DIA-304-1978-10-10-1パキスタン1978年10月10日1970年代連邦政府はテロリスト活動鎮圧〈特別法廷〉法1975年,に基づきスィンド州に特別法廷を設置。
DIA-304-1978-10-11-1パキスタン1978年10月11日1970年代政府は労働・人的資源省の名称を“労働・人的資源および在外パキスタン人省”と改称。
DIA-304-1978-10-11-2パキスタン1978年10月11日1970年代パ空軍筋によると最近1日40機の割合でアフガニスタン空軍機がパ領空を侵犯しているという(“Financial Times,”10.11)。
DIA-304-1978-10-12-1パキスタン1978年10月12日1970年代新教育政策―ホーティー教育相は教育全般に回教の教義・伝統を生かし,かつ,教科書の全国統一,ウルドゥー語の地位向上などを図る新教育政策を発表。
DIA-304-1978-10-13-1パキスタン1978年10月13日1970年代ラホールの反政府週刊誌Viewpoint10月22日号は,アルシャッド技術相が記者会見でパは核兵器製造能力を持っていると言明したと報道。
DIA-304-1978-10-13-2パキスタン1978年10月13日1970年代パ・アフガニスタン国境両側の地域での阿片用ケシ栽培は今やビルマ,タイ,ラオスの“黄金の三角地帯”をしのぐ勢いという(F.E.E.R.,10.13)。
DIA-304-1978-10-14-1パキスタン1978年10月14日1970年代シーア派指導者4人,新教育政策を非難。
DIA-304-1978-10-14-2パキスタン1978年10月14日1970年代タラキー発言―タラキー・アフガニスタン大統領はポーランドの通信社特派員に,“パとイランはアフガニスタンに敵対的なことは何もしていない”と談。
DIA-304-1978-10-15-1パキスタン1978年10月15日1970年代PNA閣僚の不満―ナスルッラーPNA副委員長とジア大統領との会談後,PNAの会議。席上PNA閣僚たちから,①閣僚の権限が不十分である,②官僚が非協力的だなどの不満が表明された。
DIA-304-1978-10-15-2パキスタン1978年10月15日1970年代PPPの“抗議の日”―各地で散発的なデモがあっただけで大きな騒乱はなかった。警察当局は9月17日以来パンジャーブ州だけで300人を逮捕と発表(一説では全国で3000人,PPPによると1万人)。
DIA-304-1978-10-15-3パキスタン1978年10月15日1970年代アフガニスタンに援助―パ政府はアフガニスタンの洪水に鑑み,米5000トン援助の一部を届けた。
DIA-304-1978-10-16-1パキスタン1978年10月16日1970年代政党法改正―ジア大統領は62年政党法を77年7月に遡及してさらに改正する“政党〈改正〉令,1978年”を布告。これによるとパの主権または統一に反する政党だけではなく,新たに“パの安全,回教イデオロギー,公序良俗に反する”政党,また“外国に支援された”政党の結成が禁じられる。
DIA-304-1978-10-16-2パキスタン1978年10月16日1970年代新聞事前検閲―政府は“西パ公序維持令,1960年”に基づく新聞事前検閲の実施を各州政府に指示。今回は「ムサーワート」紙など8紙誌が対象とされた。18日,同上8紙誌は抗議ストに突入(~20日)。
DIA-304-1978-10-16-3パキスタン1978年10月16日1970年代獄中のブット前首相,通常施設の撤去に抗議してハンスト突入(Viewpoint,10.22)。
DIA-304-1978-10-17-1パキスタン1978年10月17日1970年代ジア将軍,北西辺境州遊説(~20日)―ペシャーワルで17日,小麦の新規作付地の灌漑用水を無料にすると言明。18日ペシャーワルで,スワービー,ジャドゥーン両地域のケシ栽培者の転作を奨励すると言明。
DIA-304-1978-10-18-1パキスタン1978年10月18日1970年代サルフラーズ商相は最近のパガーローPML党首によるPNA脱退の示唆を非難。
DIA-304-1978-10-18-2パキスタン1978年10月18日1970年代スンニー派会議(JAS)は数千人が主席した大会で回教体制の即時施行を要求。
DIA-304-1978-10-18-3パキスタン1978年10月18日1970年代政府は40の“病める紡績工場”に対する金融の仲介をする3人委員会を設置。長はガッフール生産相。
DIA-304-1978-10-19-1パキスタン1978年10月19日1970年代ラホールで爆弾が爆発,1人死亡。
DIA-304-1978-10-19-2パキスタン1978年10月19日1970年代政府は今までに輸出加工地域(5月3日参照)での工場建設申請350件を受理。投資申請総額は500億ルピー(2分の1は外貨)にのぼるという。
DIA-304-1978-10-20-1パキスタン1978年10月20日1970年代ジア大統領,選挙ぬき民政移管を示唆―ジア大統領はペシャーワルで記者会見,PNA諸政党が統合して単一政党となれば総選挙を実施しないままその政党に政権を完全に譲り渡してもよいと言明。また,州政府形成は急がないと談。
DIA-304-1978-10-20-2パキスタン1978年10月20日1970年代パのインフレは(前年度の)年率9%から非公式には15%になった(F.E.E.R.,10.20)。
DIA-304-1978-10-21-1パキスタン1978年10月21日1970年代分離選挙制に基づく有権者登録開始。
DIA-304-1978-10-22-1パキスタン1978年10月22日1970年代ジア大統領,遊説(ファイサラーバード,~23日)―①無利子経済の導入期限を近く発表。②政府は喜捨税と10分の1税の導入計画の作成を完了した。③反回教的法律の再検討のための回教法法廷(Shariat Benches,最高裁の一部と成る)設置を含む回教条項導入について数日中に発表。④現在のパの政治体制は非回教的だ。⑤労働委員会が6週間後に新労働政策を答申。⑥本年は小麦240万トンの輸入を余儀なくされた。
DIA-304-1978-10-22-2パキスタン1978年10月22日1970年代カースィムPML書記長はパガーロー党首追放のための党評議会の11月2日開催を発表。
DIA-304-1978-10-23-1パキスタン1978年10月23日1970年代アメリカの援助―情報筋によると最近アメリカは対パ経済援助停止措置を撤回し,78/79年度に1.5億ドルの対パ経済援助を行なう見通しという。
DIA-304-1978-10-24-1パキスタン1978年10月24日1970年代チーマIIC議長,回教法法廷設置に反対。
DIA-304-1978-10-24-2パキスタン1978年10月24日1970年代ワリー・カーン演説―カラチでNDP党員に,パの4兄弟(4民族)は平等の権利を有すべきだと演説。
DIA-304-1978-10-24-3パキスタン1978年10月24日1970年代ジュネージョー鉄道相は,パはサウジアラビアのヒジャーズ鉄道(660km)再建計画の20%を担当することになろうと明らかにした。
DIA-304-1978-10-25-1パキスタン1978年10月25日1970年代PNA再編の動き―パガーローPML党首は記者会見で,①PML,JUI,JUPおよび必要ならJIも加えてPNAに代る連合を組織中,②回教法委員会設置が廃案になったことからJI流の回教体制導入の企図は失敗したといえる,などと語った。
DIA-304-1978-10-26-1パキスタン1978年10月26日1970年代ハヤートPNA書記長,パガーロー構想を非難。
DIA-304-1978-10-26-2パキスタン1978年10月26日1970年代グジュランワーラーで学生と警官隊の武力衝突し,学生1人死亡。
DIA-304-1978-10-27-1パキスタン1978年10月27日1970年代ジア大統領,記者会見―席上,政府からどの政党が抜けても危機は生じない。われわれは十分に政府運営能力を有している”と語った。
DIA-304-1978-10-28-1パキスタン1978年10月28日1970年代寄進地管理の移管―前政権は77年4月15日に回教寺院の寄進地を完全に接収したが,“政府は28日,“寄進地〈連邦管轄〉法,1976年”を撤回,“西パ寄進財産令,1961年”を復活させることにより寄進地の管轄を再び各州政府に移管した。
DIA-304-1978-10-28-2パキスタン1978年10月28日1970年代リアーカットPML副委員長,カースィム書記長を解任。30日,ムフティーPNA委員長が調停開始。
DIA-304-1978-10-30-1パキスタン1978年10月30日1970年代カシミール大統領を更迭―ジア大統領はパ側カシミールのイブラヒーム大統領を解任し,後任にムハマッド・ハヤート・カーン陸軍准将を任命した。
DIA-304-1978-10-30-2パキスタン1978年10月30日1970年代イスラーマバードで開かれていた神学者3000人の大会は,国家統一護持のための非政治的組織“スンニー派主流会議(SAAS)”を結成すると発表。
DIA-304-1978-10-31-1パキスタン1978年10月31日1970年代NDP決議―クエッタで4日間の討議を終えたNDP組織委員会は政党法撤廃,合同選挙制による総選挙の即時実施と民政移管を要求する決議を発表。
DIA-304-1978-11-01-1パキスタン1978年11月01日1970年代シャーヒー外務顧問,訪仏(~4日)―ジア大統領の書簡をジスカール仏大統領に手交。
DIA-304-1978-11-02-1パキスタン1978年11月02日1970年代イブラヒーム前カシミール大統領の抗議―ジア・パ大統領による自分の解任はカシミール憲法違反であり,カシミール高裁に提訴すると宣言。また,カシミールの中国との国境地域をパに併合するとのジア・パ大統領の構想(10月3日参照)を非難。なお,イブラヒーム氏はPPPカシミール支部委員長。(“Dawn,”11.3&“The Statesman,”11.4)
DIA-304-1978-11-02-2パキスタン1978年11月02日1970年代PML指導部の徹夜会議を通じ,カースィム書記長派はパガーロー党首に対する不信任案提出を撤回。
DIA-304-1978-11-03-1パキスタン1978年11月03日1970年代ニアーズィー自称PPP党首代行は自派の名称を“進歩人民党”(以下でもPPP-Nと略)と変更。
DIA-304-1978-11-03-2パキスタン1978年11月03日1970年代ガッフール生産相,記者会見―①政府はいかなる産業も国有解除しない。②産業経営委員会(BIM)13公社管轄の61企業中23は病める企業で7公社は全く利益をあげていない。6日,国営企業雇用者の70%は過剰労働力だとして国営企業の全体的構造を12月に大幅に変更すると発表。
DIA-304-1978-11-04-1パキスタン1978年11月04日1970年代タールプル国防相,スィンド州遊説(~13日)―以下,遊説中の発言。①73年憲法は1人の男に押しつけられたもので国民はこれを受容できない。アメリカ方式に代えるべきだ。②現政府は鉄の歯を有している。③ジア将軍による政変は人民のための革命だ。(“Dawn,”11.5~11.14;Viewpoint,11.19&11.26)
DIA-304-1978-11-04-2パキスタン1978年11月04日1970年代除名―パガーローPML党首は閣僚2人を含む党活動委員会の7委員を除名。
DIA-304-1978-11-04-3パキスタン1978年11月04日1970年代サフダール農業相はクエッタで記者会見,①今年度は小麦250万トンを輸入する,②今年度の小麦生産目標は950万トンだ,などと明らかにした。
DIA-304-1978-11-04-4パキスタン1978年11月04日1970年代ベンソン米国務次官(防衛援助担当),来訪。
DIA-304-1978-11-05-1パキスタン1978年11月05日1970年代ジア大統領,サウジアラビア訪問(~14日)―巡礼のため。この訪問は5日朝突然発表された。ジア大統領は滞在中ファハド皇太子などサウジアラビア政府高官と会見(ハーリド国王は不在)。13日,“Arab News”紙記者と会見。①司法府と軍の監督により公正な総選挙を来年実施。②その後は,政治指導者たちが軍の役割について憲法上の規定を設けないとすれば軍の(政治上の)役割は消滅する。なお,ジア大統領はブット前首相に関しては回答を拒否。また,ジア大統領のサウジアラビア訪問中,他の3人の軍事評議会メンバー全員が国外に出た(Viewpoint,11.12,p.11)。
DIA-304-1978-11-06-1パキスタン1978年11月06日1970年代ベーナズィール女史,ジア将軍の大統領就任は憲法第199条違反としてラホール高裁に提訴。
DIA-304-1978-11-06-2パキスタン1978年11月06日1970年代5カ年計画修正―政府は,去る7月1日発足の経済開発5ヵ年計画に代る2ヵ年計画の作成に着手したという(“Business Recorder,”11.7)。
DIA-304-1978-11-07-1パキスタン1978年11月07日1970年代PNA中央委員会は,PNAは今後単一政党として行動すると発表。
DIA-304-1978-11-07-2パキスタン1978年11月07日1970年代左派連合―左派および中道左派12組織の連合である人民民主連盟(AJI)が最近結成された。F.E.E.R.誌10月20日号によるとAJIは親ソ派共産主義者の組織で,権力奪取のためにアフガニスタン政変にならうとしている。(AJIは77年8月に1度結成されたがその後解散し今回再び結成されたものと思われる。)
DIA-304-1978-11-07-3パキスタン1978年11月07日1970年代中央銀行77/78年度報告書発表―77/78年度のGNP成長率は実質9.2%など6月の『経済概況』と同じく経済回復を強調しながらも,赤字財政や海外出稼ぎ者の送金増によるインフレ圧力に対する懸念を表明。
DIA-304-1978-11-07-4パキスタン1978年11月07日1970年代ジア大統領はメッカでレバノンの雑誌記者と会見,アフガニスタンとイランの動きはパに直接の影響があるとして両国の政治状況に対する懸念を表明。
DIA-304-1978-11-08-1パキスタン1978年11月08日1970年代JIのスィンド州サーンガル県支部長,暗殺。
DIA-304-1978-11-14-1パキスタン1978年11月14日1970年代公務員問題―前政権時代に不正に公務ポストについた者の格下げ・解雇が進んでいるが,この過程でスィンド人が連邦政府職から排斥されているとの批判が高まっている。
DIA-304-1978-11-15-1パキスタン1978年11月15日1970年代大統領,官僚に警告―ジア大統領は現政権に協力している諸政党に対して全面的に協力しない官僚には厳しい措置をとると警告(Viewpoint,11.19)。
DIA-304-1978-11-15-2パキスタン1978年11月15日1970年代ホーティ教育相は全宗派が受容し得る宗教教科書の作成のための小委員会を設置したと発表。
DIA-304-1978-11-15-3パキスタン1978年11月15日1970年代パ政府は対パ債権国会議諸国に対し,79年1月までに債務救済措置がとられなければ債務支払い不履行は避けられないと通告した。今年度の対パ債権国会議に対するパの債務要返済額2.49億ドル中9800万ドルを占めるアメリカは対パ債務救済に乗り気ではないという。
DIA-304-1978-11-16-1パキスタン1978年11月16日1970年代バタールヴィー特別公訴官は,ブット前首相の上告審で最高裁における正味38日間の弁論を終了。18日,バクティヤール前検事総長が訴答権に基づくブット前首相の弁護を開始(~12月17日)。
DIA-304-1978-11-16-2パキスタン1978年11月16日1970年代パガーローPML党首の義兄弟,暗殺さる。
DIA-304-1978-11-16-3パキスタン1978年11月16日1970年代5カ年計画修正中―クールシード計画委副委員長は記者会見で,政府は現行5ヵ年計画を基礎として回教経済確立を目的とする5ヵ年計画を数ヵ月内に発表すると談。また,無利子経済の導入はまず投資機関から開始し,次に工業銀行制度を扱い,それから国際取引を扱うという3段階を経ることになると談。
DIA-304-1978-11-16-4パキスタン1978年11月16日1970年代ヌーラーニーJUP党首,アフガニスタンからバルーチスターン州への難民の流入に懸念を表明。
DIA-304-1978-11-17-1パキスタン1978年11月17日1970年代アルシャッド科学相はサッカルで,ブット前首相による選挙操作がなければPNAは選挙に勝っていたのであるから,PNA閣僚たちは選挙を経ない閣僚でなく選出された国民の代表だと主張。
DIA-304-1978-11-18-1パキスタン1978年11月18日1970年代選挙人登録書式の不備に乗じてカーディアーニー教徒(74年9月の憲法改正で非回教徒とされた一派)が回教徒として登録しているとの批判がムフティーPNA委員長などから出ていたのに鑑み,ジア大統領は10月21日から配布中の選挙人登録用紙を廃棄した。
DIA-304-1978-11-18-2パキスタン1978年11月18日1970年代ヌスラット女史釈放―ラホール高裁はヌスラットPPP党首代行の自宅軟禁を違法として釈放を命令。
DIA-304-1978-11-19-1パキスタン1978年11月19日1970年代汚職調査―ジア将軍は政府公務員の執務状況および汚職を調査する連邦行政管理委員会(FIC)を設置するための戒厳令命令第58号を布告。
DIA-304-1978-11-19-2パキスタン1978年11月19日1970年代ブグティー元バルーチスターン州知事,TI脱党。
DIA-304-1978-11-20-1パキスタン1978年11月20日1970年代様々の宗派の7宗教団体がカラチで連合(名称不明)を結成。回教体制の早期導入をめざすという。
DIA-304-1978-11-20-2パキスタン1978年11月20日1970年代ブット首相,4度目の獄中ハンスト突入。医療便宜の不十分さに抗議(“The Times,”11.21)。
DIA-304-1978-11-20-3パキスタン1978年11月20日1970年代72年経済改革令改正―ジア大統領は72年経済改革令を再び改正する“経済改革〈改正〉令,1978年”を布告。これにより,国営企業の理事会に民間株主が60日以内に再び加えられることとなる。
DIA-304-1978-11-21-1パキスタン1978年11月21日1970年代PNA,回教体制実施のための“社会改革(Islah-e-Muashra)”運動を開始―しかし,JI以外のPNA政党はほとんど行動していないもよう。
DIA-304-1978-11-23-1パキスタン1978年11月23日1970年代ビゼーンジョー,スィンド州遊説開始―1週間。以下,遊説中の発言。①連邦政府の管轄事項を国防,外交,通貨,通信の4つに制限すべきだ。②武力による国家統一護持はこの地域の地政的変化(アフガニスタン政変を指す一筆者)という状況下で,バングラデシュの分離独立と同じ結果を産む。③73年憲法は廃棄されてしまった。④非民主的支配の恒久化のためにウラマー(神学者)が利用されている。なお,29日のムフティーPNA委員長はビゼーンジョー氏がアフガニスタンからの避難民を“反革命的”としたと非難。
DIA-304-1978-11-23-2パキスタン1978年11月23日1970年代マザーリーNDP党首,記者会見―大統領制導入,州内閣指名,基礎的民主制復活,憲法による軍の政治的役割の規定などの動きに強い反対を表明。
DIA-304-1978-11-23-3パキスタン1978年11月23日1970年代ジア大統領自らPNA内紛調停を開始―以後,頻繁に関係政治家たちと会見。
DIA-304-1978-11-23-4パキスタン1978年11月23日1970年代ジア将軍は特別法廷などで係属中の訴訟を軍事裁判所に移転する旨の戒厳令命令第61号を布告。
DIA-304-1978-11-23-5パキスタン1978年11月23日1970年代TI綱領―アスガルTI党首は記者会見で,TI新綱領の一部として,①植民地行政制度の払拭,②司法と行政の分離を主張。なお,現在行なわれているテレビの政党党首会見企画には生放送でなければ応じないと拒否。30日,ジャトーイPPPスィンド州支部委員長代行も同じ理由でこれを拒否。
DIA-304-1978-11-24-1パキスタン1978年11月24日1970年代ワリー・カーン,演説(イスラーマバード)―①シーア宗派とスンニー宗派の対立,(スンニー派内の)デーオバンディー派とバレルヴィー派の衝突が見られる,②今こそ政治指導者たちの会談が必要だ。
DIA-304-1978-11-24-2パキスタン1978年11月24日1970年代ジア大統領は記者会見で,PNAに対する申し出はまだ有効だと言明。
DIA-304-1978-11-24-3パキスタン1978年11月24日1970年代鉄道労働者労組主催の全パ労働者会議がラホールで開かれ,基本的人権の回復,総選挙の実施などを要求する決議を採択(Viewpoint,12.3,p.27)。
DIA-304-1978-11-24-4パキスタン1978年11月24日1970年代王震中国副首相,来訪(~25日)―訪英の帰途。25日,ジア大統領,シャーヒー外務顧問と会談。
DIA-304-1978-11-25-1パキスタン1978年11月25日1970年代ムフティーPNA委員長,ジア将軍と会談―前者は会談後の記者会見で,大統領は回教法法廷を最高裁のほか4高裁にも設置することに同意したと談。
DIA-304-1978-11-28-1パキスタン1978年11月28日1970年代PML分裂―パガーロー派(PML-P)はカラチでの活動者委員会で閣僚4人を除名し,ザファル新書記長を選出。一方,チャッタ派(PML-C)のカースィム書記長はラホールで全体評議会を開き,チャッタ新党首を選出。後者はほとんどパンジャーブ州の者から成り,前者はスィンド州の者を核とする弱小3州の政治家および一部のパンジャーブ州政治家から成る。
DIA-304-1978-11-28-2パキスタン1978年11月28日1970年代ジア大統領,サッカル遊説(~30日)―①州政府形成を遅らせない。②PML分裂から政治家たちが何か別の意図を持っているのが分る,などと述べた。
DIA-304-1978-11-28-3パキスタン1978年11月28日1970年代カラチ造船所労働者7000人が,4ヵ月来の賃上げなどの交渉が決裂したためストに突入。12月9日終結。
DIA-304-1978-11-30-1パキスタン1978年11月30日1970年代選管は総選挙の具体的日程を数日中にジア大統領に答申すると発表。
DIA-304-1978-11-30-2パキスタン1978年11月30日1970年代PPP中央執行委員会(イスラーマバード)―総選挙即時実施,PPP支持者2万5000人の釈放,ブット党首の入院許可などを要求。また,政治指導者の円卓会議が総選挙と民政移管のみを討議するものなら参加するとの決議を採択。ヌスラット女史は政府とブット党首の間で話し合いが行なわれているとのうわさを否定。
DIA-304-1978-11-30-3パキスタン1978年11月30日1970年代ヌーラーニーJUP党首はテレビの政党党首会見企画で,①回教体制はその気になれば24時間以内に施行し得る,②CENTO脱退には反対などと述べた。
DIA-304-1978-12-01-1パキスタン1978年12月01日1970年代ヌスラット女史によると,ブット前首相は最高裁で死刑が確定しても助命嘆願はしないという。
DIA-304-1978-12-02-1パキスタン1978年12月02日1970年代ジア大統領,全国放送―この日は回教暦1月1日にあたる。なお,この放送は西暦11月11日の予定であったがこの日まで延期されていた。以下,放送要旨。①各高裁に回教法法廷を設置。これは回教に背反する法律を指摘し,政治がそれに基づいて当該法律を改正。最高裁には回教法上訴法廷を置く。(同日,“上級裁判所回教法法廷命令,1978年”を布告。予言者ムハマッドの生誕日にあたる回教暦3月12日,すなわち西暦2月10日発効の予定)。②現在法務省が作成中の回教刑法を聖予言者の生誕日に施行。③専門家班が解決策を見出ししだい回教経済体制を施行。④喜捨税(ザカート)と十分の一税について近く答申がある。⑤政府関係機関は執務時間中の礼拝のための措置を1週間内にとること。⑥その他,自転車購入に際しての政府貸付金を無利子にするなど幾つかの枝葉末筋の措置を発表。
DIA-304-1978-12-02-2パキスタン1978年12月02日1970年代PNAは大統領放送を歓迎したが,PNAと無関係の宗教組織のほとんどはその不撤底さに反ぱっ。回教法導入を支持する一部法律家たちからも,回教法法廷は現行諸法の95%に関しては何の権限も持たされていないとの不満が生じている。財界は経済の回教化を警戒。
DIA-304-1978-12-03-1パキスタン1978年12月03日1970年代スィンド人民運動(SAT),パンジャーブ民主戦線(PJF)およびムルターンの勤労戦線(MM)がAJI(11月7日参照)を脱退。9日これら3党は労農党(MKP),スィンド刈分小作人委員会(SHC)などを加え左派8党のパ人民運動(PAT)を結成。
DIA-304-1978-12-03-2パキスタン1978年12月03日1970年代ヌール・カーン元空軍司令官は11月下旬,ラホールの週刊誌との会見で,①ジア陸軍参謀長は来年(事実は80年―筆者)3月に任期が切れたら退役すべきだ,②彼は国にとって不可欠ではないと主張(Viewpoint,12.3,p.10)。
DIA-304-1978-12-03-3パキスタン1978年12月03日1970年代マズハリーViewpoint誌編集長,逮捕―9日から同誌に対する事前検閲開始。20日,ラホール高裁は同上編集長の保釈を命令。なお同誌の発行部数は1万弱。
DIA-304-1978-12-03-4パキスタン1978年12月03日1970年代連邦検察局(FIA)は,少なくともあと4件のブット前首相に対する公訴を準備中といわれる。
DIA-304-1978-12-03-5パキスタン1978年12月03日1970年代綿花不作―綿花輸出公社総裁は最近,今年度の綿花生産高は250~260万ベールどまりになろうとの予測を発表した(Viewpoint,12.3,p.25)。
DIA-304-1978-12-03-6パキスタン1978年12月03日1970年代最近多数の外国“秘密使節”団が来訪しており,パの国内政治と関連があると見られている(Viewpoint,12.3,p.13)。
DIA-304-1978-12-04-1パキスタン1978年12月04日1970年代ムルターンの特別軍事裁判所は3月24日の列車転覆未遂事件で3人に死刑を宣告。ジア将軍はこれを承認。7日,ラホール高裁はこの判決の執行停止を命令。
DIA-304-1978-12-05-1パキスタン1978年12月05日1970年代PML両派の再統一のための会談,決裂。
DIA-304-1978-12-05-2パキスタン1978年12月05日1970年代アフガニスタン,ソ連と友好条約を締結―軍事協力を含む。パ政府はコメントを控えており,「ドーン」紙もやっと15日になって社説でこれを取り上げたが解説のみでとくに批評は加えていない。
DIA-304-1978-12-06-1パキスタン1978年12月06日1970年代ムフティーPNA委員長は,PNAはPML両派をPNA構成政党と認めると談。
DIA-304-1978-12-06-2パキスタン1978年12月06日1970年代ハンメル駐パ・米大使,演説―カラチの“英語使用組合”にて。7月14日に訪パしたニューソム国務次官はアメリカの対パ関係に関し核から人権問題まで6点をパ政府に伝えたと明らかにするとともに,とくに人権外交について詳細に語った。なお,アメリカの対パ・プロジェクト援助中止は77年4月からだったと述べた。
DIA-304-1978-12-07-1パキスタン1978年12月07日1970年代ラホールの国営APP通信社に爆弾投入さる。
DIA-304-1978-12-07-2パキスタン1978年12月07日1970年代バイパイ・インド外相,強硬発言―下院で。①パがカシミール民族自決を頻繁に主張するのは火をもてあそぶものだ。②パはかつての東パが今はバングラデシュであることを認識すべきだ。③わが国はわが国の安全を強化しつつあり,挑戦を受けるだろう。これに対しパ政府のみならず,パ国民は一斉に反ぱつ。12月13日,学生がイスラーマバードのインド大使館前で抗議デモ。
DIA-304-1978-12-10-1パキスタン1978年12月10日1970年代アンサーリー宗教相は記者会見で,①喜捨税と十分の一税は来年7月から徴収するが,非回教徒は現行形態の税金を人頭税(ジズィア)として支払う,②この新税制は現行税制の数倍の国家歳入をもたらす,と談(“Dawn,”12.11&Viewpoint,12.17)。
DIA-304-1978-12-12-1パキスタン1978年12月12日1970年代繊維用綿輸出停止―サルフラーズ商相は記者会見で,①今年度の綿花生産量は推定280万ベール,②(国内での品不足を予測しての)投機の根絶のために繊維用綿の買入れと輸出を停止する,と発表。
DIA-304-1978-12-13-1パキスタン1978年12月13日1970年代パ政府,サウジアラビアとの合併投資会社設立協定に調印―パの(とくに民間の)開発プロジェクトに投資。パは資本金1億ドル中5000万ドル相当分のルピーを拠出。23日,クウェートと同様の協定(資本金2500万ドル)に調印。去る10月14日にもパはリビアとの間に同様の協定(資本金1億ドル)に調印している。
DIA-304-1978-12-13-2パキスタン1978年12月13日1970年代サルフラーズ商相,アフガニスタン訪問―滞在中,同国のタラキー大統領,ゴールバンディー商相,アミーン外相らと会談。15日,帰国後の記者会見で,①両国は経済協力促進のための合同閣僚委員会設置に合意,②タラキー大統領はソ連との友好条約はいかなる国にも敵対するものではないと述べた,などと語った。
DIA-304-1978-12-14-1パキスタン1978年12月14日1970年代アスガルTI党首はパキスタン政治的シーア会議(PPSC)のラホールでの会合で演説,回教は貧困根絶のためにその真の姿で実施されるべきだと主張。
DIA-304-1978-12-14-2パキスタン1978年12月14日1970年代クエッタでイランのホメイニ支持のデモ。逮捕者多数。15日,イランへ越境しようとした7人逮捕。
DIA-304-1978-12-15-1パキスタン1978年12月15日1970年代国連総会,パの南アジア非核武装地帯化決議案を採択。97対2(インド,ブータン),棄権37。
DIA-304-1978-12-16-1パキスタン1978年12月16日1970年代第2回回教諸国商工会議所会議がカラチで開かれた(~18日)。カラチに本部を置く回教諸国商工・商品取引会議所(ICCICE)の設立が正式に決定。
DIA-304-1978-12-17-1パキスタン1978年12月17日1970年代ムフティーPNA委員長は記者会見で,パの回教体制確立構想に同情的な超大国は1つもないと談。
DIA-304-1978-12-17-2パキスタン1978年12月17日1970年代ジア大統領,米・中外交関係樹立で両国に祝辞。
DIA-304-1978-12-18-1パキスタン1978年12月18日1970年代ブット前首相,最高裁に出廷―ラホール高裁の死刑判決に対し21日まで反論を展開。
DIA-304-1978-12-18-2パキスタン1978年12月18日1970年代ジア大統領はムルターンで記者会見,①去る2日の回教法法廷命令を近く改正し身分法,財政,銀行制度も回教法法廷による法再検討の対象とする,②(1961年の)回教徒家族法の改正も検討中と言明。
DIA-304-1978-12-18-3パキスタン1978年12月18日1970年代回教の価値感とパのイデオロギーに照らしての600種の教科書の改訂作業が完了。新教科書は3月から。
DIA-304-1978-12-19-1パキスタン1978年12月19日1970年代政府はOPECの原油15%値上げ発表に伴い,灯油,ガソリンなどを5.4~43.1%値上げ。
DIA-304-1978-12-20-1パキスタン1978年12月20日1970年代ワリー・カーンNDP指導者は,①政府は国民の日常問題を忘れてPML内紛の調停に全力を注いでいる,②政府は権力維持の長期化を図っていると非難。
DIA-304-1978-12-20-2パキスタン1978年12月20日1970年代国営企業の業績に関するベイグ,ウカイリー,ウトゥラ3委員会の報告書を検討する閣僚委員会が設置された。委員は3人で委員長はガッフール産業相。
DIA-304-1978-12-20-3パキスタン1978年12月20日1970年代シャムスル・ホック・バングラデシュ外相,来訪―21日,シャーヒー外務担当顧問と両国関係などについて会談。同日,ジア大統領と会見。22日,帰国。
DIA-304-1978-12-21-1パキスタン1978年12月21日1970年代選管は選挙人登録を来年1月1日再開と発表。
DIA-304-1978-12-21-2パキスタン1978年12月21日1970年代ジア大統領は保健省に伝統医学諮問委員会(TAB)と伝統医学研究所を設置すると発表。
DIA-304-1978-12-23-1パキスタン1978年12月23日1970年代最高裁,ブット前首相の上告審を終了―しかし,最高裁は判決を留保した。
DIA-304-1978-12-23-2パキスタン1978年12月23日1970年代ムフティーPNA委員長は記者会見でTI,JUP,NDPのPNA復帰を訴えた。また,大統領制導入のために73年憲法を改正することはないとの合意がすでにジア大統領とPNAの間にできていると言明。
DIA-304-1978-12-23-3パキスタン1978年12月23日1970年代レヘマット・エラーヒー天然資源相は記者会見で,PNAを脱退した諸政党がPNAに再加盟するならPNA閣僚たちは辞任してもよいと言明。
DIA-304-1978-12-24-1パキスタン1978年12月24日1970年代チーマIIC委員長は,政府は喜捨税,十分の一税,および回教刑法(フドゥード)の施行の発表を聖予言者ムハマッドの生誕日に発表すると言明。
DIA-304-1978-12-24-2パキスタン1978年12月24日1970年代パガーローPML-P党首はヌーラーニーJUP党首と新たな連合の結成について協議。
DIA-304-1978-12-25-1パキスタン1978年12月25日1970年代国父ジンナの生誕102年祭,全国で盛大に挙行。政府,この日を祝日に指定。ジア大統領は前日の国民へのメッセージで,国父の教えは永遠の光だ,とした。なお,パではいつの時代にも政情が不安定なほどジンナ関係の催しが盛大となる傾向がある。
DIA-304-1978-12-25-2パキスタン1978年12月25日1970年代閣議,10月発表の新教育政策を承認―またカラチとラホールと女子総合大学設立(来年度)を決定。
DIA-304-1978-12-27-1パキスタン1978年12月27日1970年代アーチャクザーイ地方自治体相は,①地方自治体粗織の枠組ができあがった,②州内閣も新地方自治体と同時に指名(10月9日参照)されると発表。
DIA-304-1978-12-27-2パキスタン1978年12月27日1970年代ハーリド元PPP閣僚,釈放。同日,カマール・アズファル元PPP上院議員(前PPP-N書記長),77年7月政変を支持(Viewpoint,12.31)。
DIA-304-1978-12-28-1パキスタン1978年12月28日1970年代アスガルTI党首はTI新綱領の一部を発表。回教諸国との関係緊密化をうたい,バングラデシュとの連合結成を目ざすという。
DIA-304-1978-12-28-2パキスタン1978年12月28日1970年代輸入政策修正―中古車の輸入が禁止され,化学繊維が新たなフリー・リストに加えられた。
DIA-304-1978-12-28-3パキスタン1978年12月28日1970年代ジア大統領,アルジェリアへ―ブーメディエン同国大統領の葬儀に出席のため。途次,サウジアラビアに1時間の立寄り。30日,帰国。
DIA-304-1978-12-29-1パキスタン1978年12月29日1970年代ムフティーPNA委員長はラホールでの全パ・ムスタファ(予言者ムハマッドの尊称)体制会議(APNMC)開会式で演説,政府が聖予言者の生誕日に回教刑法を施行しないか,あるいは10月までに総選挙を実施しないようならPNAは閣僚を引き揚げると言明。
DIA-304-1978-12-29-2パキスタン1978年12月29日1970年代マザーリーNDP党首はPNAが閣僚を引き揚げればPNA再加盟を考えると談。また,“状況が変化した”として政治指導者の円卓会議提案に反対。
DIA-304-1978-12-30-1パキスタン1978年12月30日1970年代閣議は4年前に着手されたインダス・ハイウェー建設計画を資金難のため廃棄。現在までに2.2億ルピーが消費され,5キロメートルの建設が完了していた。
DIA-304-1978-12-31-1パキスタン1978年12月31日1970年代パンジャーブ州政府は州政府公務員に対し,77年1月~78年6月に所有していた資産の申告を命令。
DIA-304-1978-12-31-2パキスタン1978年12月31日1970年代ムフティーPNA委員長,所得税廃止を要求。
DIA-304-1978-12-31-3パキスタン1978年12月31日1970年代公職選挙立候補資格を剥奪された者は12月末日までに少なくとも計100人に達した。
DIA-304-1979-01-01-1パキスタン1979年01月01日1970年代選挙人登録開始-3カ月で終了の予定。(以下,特記したもの以外はニュース発生日の翌日付の各紙による。新聞名なきものはDawn紙)。
DIA-304-1979-01-02-1パキスタン1979年01月02日1970年代ベナズィール・ブット(ブット前首相の長女)の自宅軟禁,3カ月延長。
DIA-304-1979-01-02-2パキスタン1979年01月02日1970年代グエン・ズイ・チン・ベトナム副首相,来訪。
DIA-304-1979-01-03-1パキスタン1979年01月03日1970年代78年7月下旬にPMLに復帰していたQMLは78年11月のPML分裂以来PML-Cに属していたが,再び分立した。以後,ジア大統領は関係諸党との間でもPML再統一について頻繁に協議。
DIA-304-1979-01-05-1パキスタン1979年01月05日1970年代クールシード計画委員会副委員長はPNA活動者に演説,①利子廃絶の第一段階を数カ月内に開始する,②イスラーム経済体制においては進歩と繁栄は生産ではなく平等な分配と正当な収益に基づくと述べた。
DIA-304-1979-01-06-1パキスタン1979年01月06日1970年代政府は79/80年度秋作農作物の生産目標を次のように決定。綿花370万俵,米330万トン,砂糖キビ2981.5万トン。
DIA-304-1979-01-07-1パキスタン1979年01月07日1970年代ファルーキー情報相は記者会見で,「暴虐の物語り」(昨年12月に開始された連続テレビ番組で前政権の行状を暴露するもの)はあと3ヵ月間続ける,と談。
DIA-304-1979-01-08-1パキスタン1979年01月08日1970年代JI決議-5日から開かれていたJI中央委員会は6~8日に次の決議を発表。①政府は厳しい状況にある経済,とくに危険な状態にある物価上昇を解決せよ。②政府による政治家の「責任追及」はそのテンポが極端に遅いため無意味になっている。③官僚は現在の問題を解決せず,腐敗や法・秩序問題を悪化させている。
DIA-304-1979-01-09-1パキスタン1979年01月09日1970年代ヤピアー・カーン元大統領はUrdu Digest誌1月号でのインタビューでブットが71年当時グル・ハッサン陸軍中将およびラヒーム空軍最高司令官と結託して東パ分離を企てたと語った(BR)。
DIA-304-1979-01-14-1パキスタン1979年01月14日1970年代ゴーカル船舶・港湾相,辞任-ただし同氏は戒厳総司令官船舶・港湾顧問の地位に留る(D)。一部国内報道によると他の閣僚たちの不正行為に対する抗議の辞任という(FE 1.26)。
DIA-304-1979-01-14-2パキスタン1979年01月14日1970年代スィンド州高裁はPPPのH.ピールザーダおよびムムターズ・ブットの戒厳令命令第12号による拘禁を違法として釈放を命令。ただし後者は別件で自宅軟禁。
DIA-304-1979-01-14-3パキスタン1979年01月14日1970年代非開発費削減-閣議は非開発予算の4.51億ルピー削減(国防費5%,その他10%)を決定した。
DIA-304-1979-01-14-4パキスタン1979年01月14日1970年代イスハーク財政相は記者会見で,アメリカの報道に反論,13日付の中央銀行報告によればパの外貨準備高は増大して2.987億ドルになっており,対外債務支払い不履行はあり得ない,と言明。
DIA-304-1979-01-15-1パキスタン1979年01月15日1970年代政府は「ブット政府の行状」に関する白書を発表。これは前政権の「実態」を暴露するための第3番目の白書で,4巻から成るシリーズものである。本日発表のものはその第1巻(計182ページ)で,「ブット前首相とその家族,閣僚などによる職権乱用,公費着服,外為法違反」などを暴露している。
DIA-304-1979-01-16-1パキスタン1979年01月16日1970年代地方選挙を優先-ジア大統領はロンドンのImpact International誌記者との会見で次のように談。①軍は非常事態においては大統領の要請あるいは自らの意志に基づいて政治に介入し得るべきだ。②私は大統領制が良いと思うが,これについては将来の政党政府に決定をゆだねる。③総選挙は政党抜きの地方選挙後にすべきだ。総選挙は肯定的結果が見通し得て初めて実施され得る。④政治家の責任追及により公職被選挙権を剥奪された者の数は現在のところ予定の60%にすぎないが,責任追及は3月末か4月初めまでには完了しよう。⑤パはアラビア語を公用語にすべきであった。(PPPを初め,TI,JUP,NDP,また軍政に協力しているPNAも含め,ほとんどの政党が総選挙の早期実施を要求し,かつ,総選挙前に地方自治体選挙を行うことおよび73年憲法の改正に反対している-D Jan. 3,5,6,9,11,14,16,17,21,等々)。
DIA-304-1979-01-17-1パキスタン1979年01月17日1970年代カラチ総合郵便局員,ストライキ-賃上げ,超過勤務手当引上げなどを要求。28日,解決。
DIA-304-1979-01-17-2パキスタン1979年01月17日1970年代タラキー・アフガニスタン大統領はカーブル放送を通じ,アフガニスタンはパに敵意を有さないと言明。
DIA-304-1979-01-18-1パキスタン1979年01月18日1970年代ヌラーニーJUP党首,記者会見-①「親パキスタン連合」結成の話しが進められている。これにはJI,JUI,NDP,PPPは参加する資格はない。②PNA閣僚たちは国家の運営を誤った。③あちこちのモスクで説教者が追放され,特定の神学派の者にとって代られつつある。④水資源・電力開発公社(WAPDA),国鉄,織物工場等々で御用組合がつくられつつある。
DIA-304-1979-01-18-2パキスタン1979年01月18日1970年代ラホールのイラン領事館に反パーレヴィー国王のイラン人17人およびパ人39人が乱入,逮捕された。
DIA-304-1979-01-19-1パキスタン1979年01月19日1970年代カラチ警察は過去2週間に3度の爆弾事件があったことに鑑み,特別班を編成した。
DIA-304-1979-01-20-1パキスタン1979年01月20日1970年代ジア大統領,PNAと会談-会談後,ムフティーPNA委員長が記者会見。①「親パ」連合を唱える者(1月18日参照)は国民を欺こうとしている。②会談では(PNA閣僚に対する)官僚の非協力などを討議した。③自由カシミール(=パ側カシミール)情勢も討議したが,PNAは同地での正常な状況の必要を強調した。なお同日,ムフティーPNA委員長はAJKMCに対してPNA脱退決定を行わないように要請した。
DIA-304-1979-01-20-2パキスタン1979年01月20日1970年代イランのホメイニ師の使節,来訪(2人)。マウドゥーディーJI初代委員長に同師の書簡を手交。同書簡はパにおけるシーア派とスンニー派の調和を評価しているという。同日,イラン人学生(18日参照),釈放。
DIA-304-1979-01-20-3パキスタン1979年01月20日1970年代李先念中国副首相,来訪(~22日)-アフリカ諸国訪問の帰途,パの要請で公式訪問。21日,ジア大統領と会談。経済・武器援助などの話しはなかったもよう。
DIA-304-1979-01-22-1パキスタン1979年01月22日1970年代ラホール高裁弁護士協会は,77年に取り消された親PPP弁護士の会員権復活を決定した。
DIA-304-1979-01-23-1パキスタン1979年01月23日1970年代白書第2巻出来-「ブット前首相による議会制および司法の独立の破壊」を非難。
DIA-304-1979-01-24-1パキスタン1979年01月24日1970年代バルーチスターンの指導者シェール・ムハマッド・マリー(通称シェーロフ将軍)は記者会見で,①どの中央政府指導者も自分の意志を国民に押しつけ,現在の指導陣も憲法を改正している。②したがって州自治についても再交渉してよいではないか,と述べた。
DIA-304-1979-01-24-2パキスタン1979年01月24日1970年代ヌスラット・ブット夫人(PPP党首代行)はカラチで記者会見,ブット前首相の命令に従ってブット家の者は誰も彼の助命を嘆願していないと語った。
DIA-304-1979-01-25-1パキスタン1979年01月25日1970年代白書第4巻出来-前政権は「経済を崩壊寸前の状態に至らしめた」と非難。
DIA-304-1979-01-25-2パキスタン1979年01月25日1970年代援助-サウジアラビア,9200万ドルの対パ援助供与協定に調印。ピプリー火力発電所建設用。これは同国が他国に供与した一件の援助としては最大という。同日アメリカは4000万ドルの対パ援助供与協定に調印。小麦,植物油輸入のため。(D 1.26, FT 1.31)
DIA-304-1979-01-25-3パキスタン1979年01月25日1970年代フセイン・マレーシア首相,来訪(~28日)。
DIA-304-1979-01-28-1パキスタン1979年01月28日1970年代ブット前首相に対する最高裁判決を控えて,混乱を予想する国民は2~3カ月分の生活物資をたくわえ始めた。一方,治安当局は重要建築物の警護を強化するとともに,学生・労働者が集まる場所やブット支持者の多い地域での警戒を厳重にしている。(G)
DIA-304-1979-01-28-2パキスタン1979年01月28日1970年代A.フセイン・カラチ製鉄所会長によれば,同製鉄所の建設工事は41%が完了しており,77年推定の建設費93.5億ルピー中77.9億ルピーが費消された。生産開始は80年9月予定で,建設最終段階の83年度には生産110万トン(最大能力200万トン)になるという。
DIA-304-1979-01-29-1パキスタン1979年01月29日1970年代白書第3巻出来-これは今回の白書シリーズで最重要といわれるもので,ブット前首相が政敵根絶のためにいかに拷問,誘拐,暗殺などの手段をとったかを暴露している。
DIA-304-1979-01-29-2パキスタン1979年01月29日1970年代ジア大統領,ハキーム・ムハマッド・サイードを伝統医学顧問に任命(国務相級)。
DIA-304-1979-01-29-3パキスタン1979年01月29日1970年代インドの1月29日付Statesman紙社説によると,昨年1年間で1万5000人のPPP党員が軍事裁判で有罪判決を受けた。また,(最近?)ムアッザム・アリー大統領顧問は,「悪魔の勢力」が勝ちそうな場合はイスラーム教は選挙実施を禁じていると述べたという。
DIA-304-1979-01-29-4パキスタン1979年01月29日1970年代東パ軍総指揮官であったニアーズィー元陸軍中将は某週刊誌との会見で,71年の対印敗戦の責任はヤヒアー大統領(当時)とブットにあると談(BR)。
DIA-304-1979-01-29-5パキスタン1979年01月29日1970年代バルーチスターン州と北西辺境州の商工会議所は,パ商工会議所連盟(FPCCI)における両州代表権の増大が認められないことに抗議して中央委員を引き揚げた(BR 1.30, 2.5,2.6)。
DIA-304-1979-01-29-6パキスタン1979年01月29日1970年代イシュラット・アリーFPCCI新会頭は,政情不安が経済に悪影響を及ぼしていることを指摘し,政情安定化のために総選挙日程の早期発表を要求。
DIA-304-1979-01-31-1パキスタン1979年01月31日1970年代パ政府は,アフガニスタンからの難民を受け入れてはいるが,反タラキー政権ゲリラの訓練は許可していないと言明(G)。難民の数はパ政府発表によると2万人というが非公式には3万人とされる(FT)。
DIA-304-1979-02-01-1パキスタン1979年02月01日1970年代閣議決定-①国営63企業を監督してきた産業経営委員会(BIM)を廃止し,政府の持株会社および公社の数を削減。②民間工業部門の新規企業への株式資本参加および社債引受けを目的とするBankers Equity Ltd.を設立。③頻発する爆弾事件に厳しく対処。
DIA-304-1979-02-03-1パキスタン1979年02月03日1970年代大量逮捕-3~5日にかけ,公式発表によると全国で455人のPPP党員・支持者が逮捕された。内訳はパンジャーブ州201,スィンド州177,北西辺境州61,バルーチスターン州16。5日,ヌスラットPPP党首代行も1カ月の自宅軟禁(以上D)。PPPによれば逮捕者は数千人に及ぶという(E 2.10)。
DIA-304-1979-02-03-2パキスタン1979年02月03日1970年代政府はラホールで2月15日開催予定のイスラーム諸国工業化閣僚会議を無期延期すると発表。
DIA-304-1979-02-03-3パキスタン1979年02月03日1970年代日本,パに特別円借款180億円を供与-用途は貨物船7隻の購入。特別円借款としては今までで最高。
DIA-304-1979-02-05-1パキスタン1979年02月05日1970年代政府,全国の高等教育機関を無期限閉鎖。
DIA-304-1979-02-05-2パキスタン1979年02月05日1970年代アスガル・カーンTI党首はカラチで党活動者に演説,PNAはイスラームの名において民衆を欺き,政権の座につくと公約を破っていると非難した。
DIA-304-1979-02-06-1パキスタン1979年02月06日1970年代ブット前首相の死刑確定-最高裁は78年3月のパンジャーブ州高裁による死刑判決を不服とするブット前首相および他4人の上告を棄却。7人の判事はブット前首相および他1名については4対3で上告を棄却したが,他の3人については全員一致。判決後3判事は個別に異論を発表,この裁判自体に対する強い不信感を明らかにした。判決後,全国各地で散発的なブット釈放要求デモが見られたが,8日までにほぼ鎮圧された。
DIA-304-1979-02-06-2パキスタン1979年02月06日1970年代助命要請-6~8日の間にほとんどのイスラーム圏諸国,英,米,仏等々の諸国の政府または元首,ワルトハイム国連事務総長,国際アムネスティー等々からジア大統領に対し,ブット助命要請が相次いでいる。6日,エジェヴィット・トルコ首相はブット氏の亡命を受けいれたいと提案。インドは今まで沈黙を保ってきたが,8日,レディー大統領が初めてブット助命を「個人的に」要請。国内でも,いくつかの小政党が助命を要請。(以上,D 2.7~9)一方,PNA,JUPはブット死刑執行を要求し,NDPは外国の助命要請を内政干渉とし,TIはノー・コメント(D 2.7~10, FE 3.2)。
DIA-304-1979-02-07-1パキスタン1979年02月07日1970年代ジア大統領はイギリスのSandy Gallテレビ放送のインタビューで,何人といえども法を超えることはできないと述べた(D)。また,軍の某高級将校は,ブットを絞首刑にするのは危険だが,そうしないのはそれ以上の災難をもたらすと語った(G)。
DIA-304-1979-02-07-2パキスタン1979年02月07日1970年代ブット前首相の長男シャーナワーズ(19歳)はロンドンで,ブットが処刑されれば全国民が報復しようと警告。同じくロンドンに留学中の長男ムルタザ(24歳)は支持取りつけのため中東諸国を歴訪中といわれる。
DIA-304-1979-02-07-3パキスタン1979年02月07日1970年代パガーローPML-P党首,現状は総選挙実施に不適であると主張。
DIA-304-1979-02-08-1パキスタン1979年02月08日1970年代憲法改正-79年第3次大統領命令により,4州高裁にイスラーム法(Shariat)法廷を,最高裁にイスラーム法上告法廷を設置する規定がそう入された。
DIA-304-1979-02-09-1パキスタン1979年02月09日1970年代PPPはイスラーマバードで緊急執行委員会。
DIA-304-1979-02-09-2パキスタン1979年02月09日1970年代中国の華国鋒主席,ソ連のブレジネフ書記長など,ジア大統領に対しブット助命を要請。
DIA-304-1979-02-10-1パキスタン1979年02月10日1970年代イスラーム体制-ジア大統領は予言者ムハマッドの生誕祭にあたるこの日,イスラーマバードでの儀式においてイスラーム体制確立措置を発表(資料参照)。PPP,TI,JUPは欠席。大統領はこの他,即日発効の79年大統領命令第5号により「1979年工業資産権保護命令」を公布。これは公益のため以外には工業資産の国有化を行わないとしている。
DIA-304-1979-02-12-1パキスタン1979年02月12日1970年代政府,イスラーマバードで自宅軟禁中のヌスラット,ベナズィール両人をスィハーラ警察学校宿舎に移動。
DIA-304-1979-02-12-2パキスタン1979年02月12日1970年代ブットの著書出版-ブットが最高裁にあてた8万語に及ぶ書簡が牢獄からひそかに持ち出され,政府はその公表を禁じた事件が昨年発生したが,ニュー・デリーのVikas Publishing HouseはこれをIf I Am Assassinatedと題する本として出版(HT)。
DIA-304-1979-02-12-3パキスタン1979年02月12日1970年代イスハーク財政相,記者会見-①ザカートおよびウシャル(資料参照)によるザカート基金収入の額はまだ予測できない。②ウシャルは小麦にして計25マウンド(948キログラム)以上の生産量のある農民(小作人を除く)から徴収。一方,クールシード計画委員会副委員は同日の記者会見で次のように談。①ザカートは20億ルピー以上,ウシャルは9億ルピー以上のザカート基金収入をもたらそう。②全国の家族の6~7割がザカートを納入することになろう。③ウシャル収入は地租収入の4~7倍になろう。④イスラーム体制は5~10年で経済体制を全く変えてしまおう(D, BR)。
DIA-304-1979-02-12-4パキスタン1979年02月12日1970年代全パ織物工場協会(APTMA)のエラーヒー会長は,ジア大統領あての電報で,イスラーム体制によって投資活動が損われないように所得税および財政制度の調整が行われることを要望した。
DIA-304-1979-02-12-5パキスタン1979年02月12日1970年代政府はイランのバザルガン暫定政府を即日承認。
DIA-304-1979-02-13-1パキスタン1979年02月13日1970年代ブット前首相弁護団,最高裁に再審を要請-14日,最高裁はこれを受理,死刑執行を延期。
DIA-304-1979-02-13-2パキスタン1979年02月13日1970年代エラーヒー前大統領,ブット助命を要請。
DIA-304-1979-02-13-3パキスタン1979年02月13日1970年代内閣の経済調整委員会(ECC)は綿花輸出公社(CEC)に対し,綿花の買付け再開を指示したが,昨年12月来の綿花の輸出禁止は変更なし。
DIA-304-1979-02-14-1パキスタン1979年02月14日1970年代ジア大統領のインタビュ-―アメリカのCBSテレビ記者と会見。①アフガニスタンにおけるソ連の進出,イラン問題などで揺れるこの地域に対するアメリカの関心は薄く,その対応は誤っている。②アメリカはパなどの同盟国を見捨ててきた。③政治不安に際してクーデターを起こさず済にむように,軍が一時期政治に介入し得るように憲法を改正すべきだ。軍は政治安定後,文民に政権を返還する。私が協議してきた政治家たちはこの考えに賛成している。④ブット裁判は政治裁判ではない。⑤ブット助命要請は内政干渉だ。⑥ブット助命問題については私1人では決定しないで,軍および全閣僚と協議して決定する(D 2.18)。
DIA-304-1979-02-15-1パキスタン1979年02月15日1970年代ジア大統領,記者会見-①地方自治体選挙は国会・州議会選挙の前に実施さるべきだ。これは国の政治基盤を強化するためだ。②私は自治体評議員を私を大統領に選出するための選挙人団にする気はない。私は自分の政党を作ってもいないし将来そうするつもりもない。③現状は総選挙実施に不適だ。
DIA-304-1979-02-15-2パキスタン1979年02月15日1970年代非合法NAP会議-N.K.B.マリー元下院議員は非合法NAPのバルーチスターン州在住党員の今後の方針を討議するために,クエッタで会議を開催。
DIA-304-1979-02-16-1パキスタン1979年02月16日1970年代ムフティーPNA委員長は,総選挙が予定通り実施されなければPNAは全閣僚を引き揚げると言明。
DIA-304-1979-02-16-2パキスタン1979年02月16日1970年代JUPは2月10日のイスラーム法導入を「部分的成功」と評し,ザカートおよびウシャルは1922年所得税法を撤廃しなければ真に実施し得ないとした。
DIA-304-1979-02-17-1パキスタン1979年02月17日1970年代中央・各州レベルでザカート基金設立。
DIA-304-1979-02-18-1パキスタン1979年02月18日1970年代ジア陸軍参謀長の任期,無期延長さる-ジア陸軍参謀長の任命は今月末で切れるはずであった。
DIA-304-1979-02-18-2パキスタン1979年02月18日1970年代JUPは閣僚の悪業を暴露する「黒書」作成のための委員会を設置。
DIA-304-1979-02-20-1パキスタン1979年02月20日1970年代ティッカ・カーン前陸軍参謀長,ジア大統領に対しブット助命を要請(D 2.22)。
DIA-304-1979-02-21-1パキスタン1979年02月21日1970年代ペーシュ・イマームTI書記長,記者会見-①イスラーム法の適切な実施のためには庶民の経済問題をまず解決する必要あり。②TIはPPP指導陣とは意見を異にするがPPP自体との間に相違点なし。TIの綱領はPPPのそれと若干類似している。
DIA-304-1979-02-21-2パキスタン1979年02月21日1970年代サワール・パンジャーブ州知事は同州パスルールの州営精糖工場開所式で演説,公共部門で設立した企業は適切な時期に民間に払い下げると言明(BR)。
DIA-304-1979-02-22-1パキスタン1979年02月22日1970年代ガッフール生産相はカラチ商工会議所で,政府は所得税法,会社法,労働法を改正するだろうと言明。
DIA-304-1979-02-22-2パキスタン1979年02月22日1970年代ヴァジパイ・インド外相は下院で,アメリカが対パ武器売却を考えていると伝えられることに関し,アメリカにインドの懸念を伝えたと明らかにした。
DIA-304-1979-02-23-1パキスタン1979年02月23日1970年代イスラーム法導入によって阿片使用が禁じられ,公認の阿片喫煙店が閉鎖されたため,現在までに常習的阿片使用者40人が死亡した(G, S 2.25)。
DIA-304-1979-02-23-2パキスタン1979年02月23日1970年代ハーリド・サウジアラビア国王およびイランのホメイニ師,ブット助命を要請。パ政府,後者を否定。
DIA-304-1979-02-24-1パキスタン1979年02月24日1970年代最高裁,ブット死刑判決の再審を開始。
DIA-304-1979-02-24-2パキスタン1979年02月24日1970年代ジア大統領は最高裁長官を委員長とし,法律の改善に関する答申を行う「法律委員会」を設置した。
DIA-304-1979-02-24-3パキスタン1979年02月24日1970年代トゥファイルJI党首,イラン訪問。
DIA-304-1979-02-24-4パキスタン1979年02月24日1970年代パ外務省スポークスマンは記者会見で22日のインド外相発言に遺憾の意を表し,インドこそ軍備拡張によって近隣弱小諸国の安全を脅かしていると述べた。
DIA-304-1979-02-25-1パキスタン1979年02月25日1970年代ガッフール生産相,政府はパ産業開発公社(PIDC)を廃止するつもりはないと言明。
DIA-304-1979-02-26-1パキスタン1979年02月26日1970年代3月21日に4年の任期を終えて退役するムハマッド・シャリーフ海軍参謀長の後任に,カラーマート・ラハマーン・ニアーズィー少将が中将に昇格の上,任命された(3月21日,就任)。
DIA-304-1979-02-26-2パキスタン1979年02月26日1970年代実業界筋によると民間工業の人件費は72年以降の4年間で3倍になった。それは前政権によって労働者に対するインフレ手当て,ボーナス,社会保障,福祉費,年金,制服等々の支給が義務づけられたためという。
DIA-304-1979-02-27-1パキスタン1979年02月27日1970年代訪英中のブローヒー法相は週刊Impact誌記者との会見で,①ブット前首相に対する最高裁判決が実行されなかったらパは大変な混乱に陥ろう,②ブット氏に対してあと8~9件の訴訟が係争中だ,などと談。
DIA-304-1979-02-28-1パキスタン1979年02月28日1970年代ガッフール生産相は記者会見で,①公共部門企業の再編成は6月までに完了しよう,②BIM企業の旧所有者への返還は行わない,などと談。
DIA-304-1979-03-01-1パキスタン1979年03月01日1970年代ジア大統領,記者会見-①8月14日よりずっと前に総選挙期日を発表する。②ブット前首相の助命を行うか否かは私だけが決定する。③既に出た判決をくつがえす余地はない。
DIA-304-1979-03-01-2パキスタン1979年03月01日1970年代クリストファー米国務副長官,来訪(~3日)-ニューデリーから。帰国後の7日,米下院外交委アジア太平洋小委員会で報告,アフガニスタン,イラン,インドシナなどでの激変によりインド亜大陸でも対立が再燃していると警告するとともに,印パ両国に対して緊張をあおらない方法で武器売却の用意があると言明。
DIA-304-1979-03-02-1パキスタン1979年03月02日1970年代特別使節団,サウジアラビア訪問-特別な使命を帯びたものといわれ,イスハーク財政相,シャーヒー外務顧問,アーリフ戒厳司令官付幕僚長(陸軍少将)の3人(D 3.5,3.6)。同使節団は5億ドルの経済援助を取りつけたといわれる(FE 3.16)。
DIA-304-1979-03-04-1パキスタン1979年03月04日1970年代ブット前首相の片腕として知られていたピールザーダ元財政相,ジア大統領と会談。
DIA-304-1979-03-04-2パキスタン1979年03月04日1970年代閣議決定-①カラチ輸出加工区設立の承認。カースィム港付近に設置され,製品の80%は輸出。②BIM解体案承認,等。
DIA-304-1979-03-04-3パキスタン1979年03月04日1970年代投資振興委員会(IPB)は全国の「病める企業」の調査を完了。これによると,「病める企業数」は200を越え,その大半は資金難を最重要問題としている。なお,同委員会は織物業界に対する措置はすでにとられたとして,この200という数字に織物業界の企業を含めていない。(BR)
DIA-304-1979-03-05-1パキスタン1979年03月05日1970年代シーア派代表団,ジア大統領と会見。席上,大統領は一つの宗派の教義を他の宗派に押しつけることはしないと言明するとともに,宗教相を委員長とし,シーア派代表を含む常設委員会の設立を決定した(D)。なお,この会見はイランのホメイニ師がパ記者団に対し,パの全宗派が平等に扱われるようにとの希望を表明して初めて実現した(FE 3.30. D 3.4も参照のこと)。
DIA-304-1979-03-07-1パキスタン1979年03月07日1970年代統合参謀本部議長,辞任-ジア大統領は記者会見で,ムハマッド・シャリーフ統合参謀本部議長(陸軍大将)が任期の切れる2月28日よりおよそ1カ月前に「本人の意志」で辞任したことを明らかにした。
DIA-304-1979-03-07-2パキスタン1979年03月07日1970年代ジア大統領,公共業務分野の汚職増加に警告。
DIA-304-1979-03-08-1パキスタン1979年03月08日1970年代シャーヒー外務顧問,イラン訪問-イラン政府首脳陣と中央条約機構(CENTO)問題などで協議した他,ホメイニ師とパにおけるイスラーム法適用問題について討議。11日,帰国後の記者会見で,イラン側は地域開発協力機構(RCD)にイラク,アフガニスタン,インドを含めたい意向であったため,パの立場を明らかにする必要があった,などと談。
DIA-304-1979-03-08-2パキスタン1979年03月08日1970年代アミーン・アフガニスタン副首相は,パシュトゥーン,バルーチー両民族の問題はパとの間の唯一の相違点であるが,パ政府との間で平和裡に解決したいと言明(KT 3.10-P 3.13)。
DIA-304-1979-03-09-1パキスタン1979年03月09日1970年代ヌラーニーJUP党首は,①物価上昇や腐敗行為はPNA閣僚たちのせいだ,②PNA閣僚たちの誤ちはPPPの死体に生命を吹き込みつつある,と述べた。
DIA-304-1979-03-12-1パキスタン1979年03月12日1970年代パはCENTOが当該地域に対する奉仕に失敗したとして,CENTO脱退を関係諸国に通告。
DIA-304-1979-03-14-1パキスタン1979年03月14日1970年代メーンガル元バルーチスターン州首相,NDPに入党。記者会見で州自治問題が基本問題だと主張。
DIA-304-1979-03-15-1パキスタン1979年03月15日1970年代ビゼーンジョー元バルーチスターン州知事は,パ政府はパ領内のアフガニスタン人反動反乱分子を援助すべきではないと主張(FT 3.16, P 3.21)。
DIA-304-1979-03-17-1パキスタン1979年03月17日1970年代最高裁,ブット判決再審要請の判決を保留。
DIA-304-1979-03-18-1パキスタン1979年03月18日1970年代閣議は,ラホール輸出加工区の設立を決定。
DIA-304-1979-03-19-1パキスタン1979年03月19日1970年代ジア大統領,憲法改正について-2月22日の米誌記者との会見で。①西欧民主主義はパ国民の精神に合わない。このため,大統領と首相の権限の均衡,院内での反党言動阻止のための政党法重視,軍の憲法上の役割という3つの目的をもって若干の憲法改正を行う。②軍はパの安定を保証する唯一の組織だ。大統領は軍の助力によって国会を解散して権力を掌握し,軍の力を借りて数カ月国政を行い,選挙を行って,文民政治家に政権を移譲するというようにすべきだ。③文盲の者が冷静に投票権を行使することは期待できない。④総選挙は実施する。ことしは選挙の年だ。(U.S. News & World Report 3.19, D 3.20)
DIA-304-1979-03-19-2パキスタン1979年03月19日1970年代ジア大統領,記者会見-①アフガニスタンの内政には干渉しない。②同国からの難民数は3.5万(北西辺境州に2.5万)。難民受入れは純粋に人道的見地から実施。③RCDを活発化すべきだ。④コモンウェルス再加入を検討中だが,再加入するか否か今は言えない。
DIA-304-1979-03-19-3パキスタン1979年03月19日1970年代ソ連,パを非難-19日付『プラウダ』紙論説は,パ政府は自国領内のアフガニスタン人ゲリラによるアフガニスタン革命政権に対する破壊活動を容認していると非難。同紙はまた,中国も中・パ両国を結ぶカラコラム道を経由してゲリラに武器などを供給するとともにゲリラ訓練を行っていると非難。20日,パ外務相は同論説を「全く根拠がない」と否定するとともにパはアフガニスタンおよびソ連との友好関係を重視していると強調。
DIA-304-1979-03-19-4パキスタン1979年03月19日1970年代シャーヒー外務顧問,トルコ訪問(~20日)-CENTO,RCDなどについて協議のため。
DIA-304-1979-03-21-1パキスタン1979年03月21日1970年代少将更迭-ジア陸軍参謀長は,今まで2個機甲師団を率いてきたラフィー・アラム少将を突然更迭し,スィアールコートの1歩兵師団長として配属。同少将はジア大統領とブット派政治家たちの調停役を果たしてきたといわれる。(G 3.21, FT 3.24)
DIA-304-1979-03-21-2パキスタン1979年03月21日1970年代21日付『プラウダ』紙は,パがアフガニスタン・ゲリラを支援していると再び非難するとともに,米,英,中,西独,エジプト,その他若干のアラブ諸国が反アフガニスタン宣伝を強化していると非難。
DIA-304-1979-03-23-1パキスタン1979年03月23日1970年代総選挙期日発表-ジア大統領は「パキスタン記念日」のこの日,3軍パレード隊に次のように演説。①11月17日に総選挙を実施する。②パのイスラーム教イデオロギー,連邦議会制,州自治の3点を選挙戦の争点とすることを禁止。③大統領と首相のうち一方が独裁者になり,他が無権限にならぬようにするため,両者の権力を均衡させるべく憲法が改正されよう。首相は行政府の長の地位に留り,大統領はパ・イスラーム共和国の象徴かつ憲法の保護者となる。
DIA-304-1979-03-23-2パキスタン1979年03月23日1970年代ジア大統領,「1979年移民令」を布告。海外出稼ぎ周旋業者の違法行為などを規制するもの。(D 3.25)
DIA-304-1979-03-23-3パキスタン1979年03月23日1970年代最近の世銀報告によるとパにおける企業の操業率は40~60%だという(『日経』3.23)。
DIA-304-1979-03-23-4パキスタン1979年03月23日1970年代アフガニスタン政府は,(パ領内の)パシュトゥーン,バルーチー両民族地域で反動反乱分子の武装訓練が行われているとパを非難。(KT 3.24-P 3.26)
DIA-304-1979-03-24-1パキスタン1979年03月24日1970年代再審却下-最高裁はブット前首相に対する死刑判決の再審要請を却下したが,4判事が署名した判決主文はジア大統領に対して恩赦を行うように勧告。他の3判事は判決主文署名を拒否し,別個に意見表明文を発表。同文も再審要請を却下するものではあるが,より明確な形で恩赦を勧告している。
DIA-304-1979-03-24-2パキスタン1979年03月24日1970年代EEC 9ヵ国,ブット助命を要請(D 3.26)。
DIA-304-1979-03-24-3パキスタン1979年03月24日1970年代政府はパに亡命中のアフガニスタン人に対し,記者会見,声明発表など,パの対外関係に悪影響を及ぼす言動を慎しむよう訴えるとともに,パは近隣諸国,とくにアフガニスタンとの友好関係を望むとの声明を発表。
DIA-304-1979-03-25-1パキスタン1979年03月25日1970年代ジア大統領,ラーワルピンディーでNDPのマザーリー党首およびワリー・カーンと個別に会談。
DIA-304-1979-03-25-2パキスタン1979年03月25日1970年代ハーシュミー・パ社会党スィンド州支部長は25エーカー以下の農地所有者に対してはウシャルを免除するよう要求(前政権時代には非灌漑農地25エーカー以下の所有者は地租を免除されていた―筆者)。
DIA-304-1979-03-25-3パキスタン1979年03月25日1970年代政府,アフガニスタンに抗議-政府は去る3月13日にアフガニスタン空軍機がパ領内のクッラム自治区の難民収容所に爆撃を加えた(人的被害なし)とし,アフガニスタン政府に対し強く抗議。
DIA-304-1979-03-25-4パキスタン1979年03月25日1970年代張廷発空軍司令官を団長とする中国人民解放空軍友好代表団,来訪(~4月3日)(BR)。
DIA-304-1979-03-27-1パキスタン1979年03月27日1970年代マザーリーNDP党首,記者会見-①NDPは総選挙で州自治を争点とする。そのために禁止されても構わない。②政府はアフガニスタン難民を救援すべきではない。③NDPはアフガニスタンによるパ領土侵犯を危惧の念をもって見ている。④現政権による憲法改正に反対,④イスラーム法導入と総選挙期日の発表でPNA閣僚の必要性は消失した。彼らは直ちに辞任せよ。
DIA-304-1979-03-27-2パキスタン1979年03月27日1970年代パはフランスからミラージュ戦闘機32機を購入する協定に調印。計3.3億ドル。81年から納品。(FT)
DIA-304-1979-03-27-3パキスタン1979年03月27日1970年代アミーン・アフガニスタン外相,再び「パとイランによる内政干渉」を非難。
DIA-304-1979-03-28-1パキスタン1979年03月28日1970年代ムフティーPNA委員長は記者会見で,(現政権による)憲法改正が国民全体のためのものならば賛成だ,などと談。
DIA-304-1979-03-28-2パキスタン1979年03月28日1970年代イスハーク財政相は,財政省の顧問評議会(主に民間人から成る)において,政府の民間資本優遇策にもかかわらず実業界は政府の期待に応えていないと談。
DIA-304-1979-03-30-1パキスタン1979年03月30日1970年代アスガルTI党首は,総選挙前の憲法改正に反対するとともにPNA閣僚の辞任を要求。
DIA-304-1979-03-30-2パキスタン1979年03月30日1970年代政府非同盟諸国運動に正式に加入を申請。
DIA-304-1979-03-31-1パキスタン1979年03月31日1970年代選挙管理委員会,選挙人名簿草案を発表。
DIA-304-1979-03-31-2パキスタン1979年03月31日1970年代PPP中央執行委員会はジア大統領に対しブット助命を正式に要請。同日,ピールザーダ元財政相,アズィーズ元外相もブット助命を正式に要請。
DIA-304-1979-03-31-3パキスタン1979年03月31日1970年代パ外務省によれば3月初旬ジア大統領は,2月中旬のデサイ・インド首相の書簡に対する返書を送付,そのなかでパの核開発は平和目的のためであることを強調するとともに,核兵器の入手または製造を放棄する旨の両国共同宣言を行うことを提案した。
DIA-304-1979-04-01-1パキスタン1979年04月01日1970年代ブット前首相の義理の姉,ブット助命を要請。
DIA-304-1979-04-02-1パキスタン1979年04月02日1970年代ティッカ前陸軍参謀長およびベナーズィール女史の軟禁,延長さる(V 4.8)。
DIA-304-1979-04-03-1パキスタン1979年04月03日1970年代警察当局は,カラチおよびラールカーナのブット前首相邸から搬出されようとしていた国家安全,外交などに関する秘密文書を押収したと発表(BR)。
DIA-304-1979-04-03-2パキスタン1979年04月03日1970年代ヌスラット,ベナズィール両女史,ラーワルピンディー県刑務所でブット前首相に面会。面会時間は2時間半という異例の長さ。ベ女史は前日,父親との面会はこれが最後だと通告されていた(D 4.3)。
DIA-304-1979-04-04-1パキスタン1979年04月04日1970年代ブット前首相,処刑-ブット前首相は午前2時,ラーワルピンディーで絞首刑ののち,午前10時半,スィンド州の郷里に埋葬。同日,全国とくにパンジャーブ,スィンド両州で暴動が発生。インド国境付近ではパの地方部隊が反乱,正規軍に鎮圧された(『朝日』。ただしニューデリー特派員電)。5日,ラホール市の3分の1は暴徒に占拠された。シカールプルでは暴徒と警官隊の銃撃戦で6人死亡。グジュラーンワラーでも2人死亡。ラーワルピンディーでの追悼集会がデモ隊化したのを見たPPPのピールザーダ,ムムターズ・ブットなどは立ち去った。7日,政府はカラチとラホールに準軍隊を派遣。以後,事態はほぼ鎮静化。同日,JI系学生がラホールでPPP事務所などを襲撃。処刑後,在外パ人も抗議デモ。またインド側カシミールではイスラーム教徒が国連軍監視事務所を襲い,警備隊の発砲で6人死亡。さらにパ側カシミールでも暴動が発生。カシミール停戦ライン沿いでは印・パ両軍が増強されているという。ブット処刑後,PNA,JUPなどは処刑支持を発表。NDPのパシュトウーン民族勢は賛意を暗示したが,ブット批判をやめていたバルーチー民族勢はノーコメント。TIもノーコメント。なおブット処刑後,株価が急上昇。(・
DIA-304-1979-04-04-2パキスタン1979年04月04日1970年代諸外国の反応-4日,英,米などの政府がブット処刑に遺憾の意を表明。ソ連は4日,ブット処刑を報じ,5日,パ国内の抗議デモを報道。中国は4日,ブット処刑を報じ,9日,ブットは「中国人民の古くからの友人であり,中・パ両国の友好増進に寄与した」として処刑に遺憾の意を表明。9日,アサド・シリア大統領は今月末予定のジア・パ大統領のシリア訪問の無期延期をパ政府に要請。その他,多数の国々の政府・元首などがブット処刑に遺憾の意を表明。(以上,内外諸紙)
DIA-304-1979-04-06-1パキスタン1979年04月06日1970年代米,対パ援助停止-米政府は,パが遠心分離方式によるウラン濃縮工場を建設中であるとし,77年の対外援助法修正条項に基づいてパに対する79年度分の経済援助4000万ドルのほとんど,80年度分4500万ドル全額,年60万ドルの軍事訓練援助の全額(ただし食糧援助約4000万ドルを除く)を停止すると発表。8日,パ政府はこの措置を「シオニストの妄想に基づくもので,差別行為だ」と強く非難。援助停止後,パ国内では反米デモや米国施設爆破事件などが起きた(『朝日』4.13)。なお,77年11月のF-5Eタイガー戦闘機売却提案はキャンセルされていない(FE 4.27)。
DIA-304-1979-04-07-1パキスタン1979年04月07日1970年代閣議・新教育政策を承認。
DIA-304-1979-04-08-1パキスタン1979年04月08日1970年代カーブル放送は,パ軍人がアフガニスタン領に侵入,警官駐在所4カ所を襲撃と非難(D 4.10)。
DIA-304-1979-04-09-1パキスタン1979年04月09日1970年代政府は鉄道下級労働者(PPP支持者が多い)の給与を8~10%引き上げると発表。ジュネージョー鉄道相によれば約7万人が恩恵を受ける。
DIA-304-1979-04-09-2パキスタン1979年04月09日1970年代タラキー・アフガニスタン大統領は,パとイランによる「内政干渉」を非難し,両国は「隣国」の名に値いしないなどと述べた。
DIA-304-1979-04-10-1パキスタン1979年04月10日1970年代パンジャーブ農業研究所が「アユーブ農業研究所」と改称された(P 4.13)。以後もこの種の改称が度々行われ,故アユーブ元大統領複権の動きと見られる。
DIA-304-1979-04-10-2パキスタン1979年04月10日1970年代内閣の経済調整委員会は,具体的数字をあげながら,過去6カ月の間に綿紡績業が「目覚しい」回復を遂げ始めたと発表。また,79/80年度の綿花生産目標を365万ベールに設定。
DIA-304-1979-04-10-3パキスタン1979年04月10日1970年代パの諸兵器工場を統轄するS.アリー・ナワーブ少将によると,イスラーム諸国は兵器を貯蔵・貸与する「イスラーム戦略兵器銀行」の設立を検討中という。これは去る2月のイスラーム諸国防衛会議でパが提案し,満場一致で原則的に賛意を得たものという(G)。
DIA-304-1979-04-10-4パキスタン1979年04月10日1970年代ソ連の10日付『プラウダ』紙は,パ,米,中,エジプトはパ国内の12の収容所で反アフガニスタン政府勢力を訓練・支援していると非難(HR)。
DIA-304-1979-04-11-1パキスタン1979年04月11日1970年代ラーワルピンディー繁華街で花火店の火薬庫が爆発,50人死亡,100人負傷。
DIA-304-1979-04-11-2パキスタン1979年04月11日1970年代ジア大統領,「1976年寄進財産<連邦統制>法」を撤廃する「1979年大統領令XXII号」を発令。
DIA-304-1979-04-13-1パキスタン1979年04月13日1970年代ジア大統領,「1979年大統領令XXIII号」により,「1922年所得税法」を改正。
DIA-304-1979-04-13-2パキスタン1979年04月13日1970年代10日からイスラーマバードで開かれていたPNA党首会議は13日,パガーローPML-P党首をPML党首として承認。18日,PML-CはPNAを脱退。
DIA-304-1979-04-13-3パキスタン1979年04月13日1970年代ソ連の13日付『プラウダ』紙は中国がパの核兵器開発を奨励していると非難(TI 4.14)。
DIA-304-1979-04-14-1パキスタン1979年04月14日1970年代最近の軍による世論調査によるとPPPの支持率はPNAより高かったという(『世界日報』4.14)。
DIA-304-1979-04-15-1パキスタン1979年04月15日1970年代PNA閣僚,辞任要請PNAは10日からの党首会議,11日のジア大統領との会談などを通じ,15日,大統領に対しPNA全閣僚の辞任を認めるよう正式に要請。ムフティーPNA委員長は記者会見で,閣僚辞任はブット前首相の処刑とは無関係だと述べた。
DIA-304-1979-04-15-2パキスタン1979年04月15日1970年代クールシード計画委副委員長は記者会見で,今年度のインフレは年率9~10%に収まろうと談(BR)。
DIA-304-1979-04-15-3パキスタン1979年04月15日1970年代ゴールバンディー商業相を団長とするアフガニスタン貿易使節団が6日間の予定で来訪。
DIA-304-1979-04-16-1パキスタン1979年04月16日1970年代ベナズィール女史の軟禁,4月30日まで延長。
DIA-304-1979-04-16-2パキスタン1979年04月16日1970年代小麦粉値上げ-政府は5月1日から小麦粉の配給小売価格を27~33%引き上げると決定。これは年間25億ドルに達する小麦補助金の打切りに伴う措置といわれる。なお,小麦粉は全国2352店を通じて700万人に配給されている。(FT 4.17, D 4.18)
DIA-304-1979-04-16-3パキスタン1979年04月16日1970年代工業投資計画,拡大修正-政府は現行第5次5ヵ年計画の工業投資当初計画400億ルピーのうち,既に政府が認可した165億ルピー分を除く235億ルピーの投資規模を395億ルピーに修正。その理由は新計画を,資金不足発生の可能性,認可後の投資不実行などの「クッション」とし,当初計画235億ルピーの投資を達成するためとされている。
DIA-304-1979-04-19-1パキスタン1979年04月19日1970年代NDP分裂-メーンガル,ビゼーンジョー,A.H.ジャトーイ,S.Q.ガルデズィーなどバルーチスターン州政治家を中心とする一派がNDPから脱退。メーンガル氏はこの分裂を「イスラーマバードから輸入されたものだ」と表明。この後も,ワリー・カーンの率いるパシュトゥーン(パターン)民族勢力に反対する政治家たちが続々とNDPを脱退。
DIA-304-1979-04-19-2パキスタン1979年04月19日1970年代トルコのMillat紙は最近,「イランとパがCENTOに代る防衛条約の締結に関する協議を完了した」と報道(PPI通信-P 4.21)。
DIA-304-1979-04-21-1パキスタン1979年04月21日1970年代新内閣成立(参考資料参照)-ジア大統領は組閣後の記者会見で次のように談。①憲法改正についてはハムードゥル・ラハマーン憲法問題担当顧問(元最高裁長官),政治家などと協議して決定する。大統領と首相の権限の均衡をとることが緊要だ。この点についてほとんどの政治家は私に賛成している。②地方選挙よりも総選挙を先に実施すべきだとの私の見解(傍点は筆者)についても検討中だ。③戒厳令は正当に選ばれた政府が出現するまで解除しない。④責任追求の完了を急ぐよう努力中だ。⑤ブット問題はもう終ったことであり,忘れるべきだ。⑥非常に早い時期にブット夫人を釈放する。
DIA-304-1979-04-21-2パキスタン1979年04月21日1970年代スィンド州ジャングシャーヒーで列車衝突事故が発生し,44人死亡,37人負傷(D 4.22&23)。
DIA-304-1979-04-22-1パキスタン1979年04月22日1970年代核問題-ジア大統領は記者会見で次のように談。①わが国は主権を有する独立国として平和目的のための核エネルギー開発権を決して放棄しない。②インドはわが国の非核武装地帯宣言提案に対して積極的反応を示していない。③核燃料再処理工場に関するフランスとの交渉は続行中だ。
DIA-304-1979-04-23-1パキスタン1979年04月23日1970年代ビゼーンジョー,記者会見-①彼ら(NDPに残った者たち。以下,同)は支配階級の利益に奉仕している。②現存の4州はイギリス帝国主義の遺産だ。③パは諸民族から成ることが認められるべきだ。われわれがこの文脈において自治権拡大を主張した時,この問題で一貫性を欠いてきた彼らはわれわれがパからの分離を要求していると非難した。④彼らはPNA脱退後もPNAの政策を行い,「忠実な野党」に成り下がった。⑤われわれはアフガニスタンの革命を支持し,わが国などの反動勢力による反アフガニスタン政府言動に反対する。
DIA-304-1979-04-23-2パキスタン1979年04月23日1970年代選挙管理委,国会・州議会選挙区案を発表。
DIA-304-1979-04-23-3パキスタン1979年04月23日1970年代イランのホメイニ師はイラン・イスラーム共和国成立に対するジア大統領の祝辞に対し両国関係の緊密化を期待する親書を送った。
DIA-304-1979-04-24-1パキスタン1979年04月24日1970年代カーター米大統領は訪米中のヴァジパイ・インド外相に対し,パの核兵器保有を阻止するためにインドの支援を要請した(『毎日』4.26)。
DIA-304-1979-04-25-1パキスタン1979年04月25日1970年代シャーヒー外務次官,諸国歴訪(~5月14日)-まずサウジアラビアでCENTO脱退などを協議した後,27日,国連訪問のため渡米。5月5日,バンス米国務長官と核問題などについて会談。10日,第10回イスラーム諸国会議出席のためモロッコへ。
DIA-304-1979-04-26-1パキスタン1979年04月26日1970年代ワットゥーPPP書記長代行は記者会見で,アフガニスタンにおける人民革命はこの地域の被抑圧人民の勝利であり,第3世界人民の闘争に新たな精神を吹きこんでくれたなどと述べた。
DIA-304-1979-04-26-2パキスタン1979年04月26日1970年代イスラーム刑法に基づき窃盗犯に対する初の手首切断刑がムルターンで宣告された(PT)。
DIA-304-1979-04-27-1パキスタン1979年04月27日1970年代バルーチスターン学生協会人民派(BSO-A),パシュトゥーン学生協会(PSO),パシュトゥーン学生連盟(PSF),社会主義者学生協会(SSO)はクエッタでアフガニスタン革命合同祝賀集会を開いた(Zamana紙-P 5.1)。
DIA-304-1979-04-28-1パキスタン1979年04月28日1970年代パガーローPML党首は「マウドゥーディー主義は民主主義にとって有害である」とJIを非難。
DIA-304-1979-04-30-1パキスタン1979年04月30日1970年代フセイン・「ジャアッファル神学運動(TFJ)」委員長はシーア派のジャアッファル神学法体系が実施されないことに抗議して政府のイスラーム教イデオロギー評議会(IIC)委員を辞任(PT)。
DIA-304-1979-04-30-2パキスタン1979年04月30日1970年代IMF使節団,来訪-詳細は不明だが,IMFはパ政府にルピー切下げ,小麦補助金打切りなどを要求してきた。
DIA-304-1979-05-01-1パキスタン1979年05月01日1970年代マザー・リーNDP党首は,NDPは「4民族論」と最大限の州自治の主張を放棄していないと言明。
DIA-304-1979-05-01-2パキスタン1979年05月01日1970年代核問題-ピカリング国務次官補は米上院政治問題委の公聴会で,パは2~4年後,遅くとも3~5年以内に核兵器保有国になろうとの米政府見通しを明らかにした。これによると,パは遠心分離方式によるウラン濃縮工場の建設に必要な物資を西独,米,英,オランダ,スイスなどから購入してきたという。(『朝日』5.2夕, HT 5.3)
DIA-304-1979-05-02-1パキスタン1979年05月02日1970年代ヌスラット女史の軟禁,1カ月延長。
DIA-304-1979-05-02-2パキスタン1979年05月02日1970年代サウジアラビアのムハマッドゥル・ファイサル王子,来訪。
DIA-304-1979-05-04-1パキスタン1979年05月04日1970年代PPPパンジャーブ州支部活動者会議は,シーア派のジャアッファル神学実施要求を支持し,また左派および進歩的勢力の団結に努力すると決議(D)。
DIA-304-1979-05-04-2パキスタン1979年05月04日1970年代ラホールで開かれたJI中央委員会は,現政権による一方的な憲法改正に反対,地方選挙の総選挙前実施に反対などの決議を発表。
DIA-304-1979-05-06-1パキスタン1979年05月06日1970年代カラチ警察は,カラチ州運動(TSK)の学生活動者3人を逮捕(Jang-P 5.9)。
DIA-304-1979-05-07-1パキスタン1979年05月07日1970年代ペシャーワル警察は,クエッタから持ち込んだ外国文書を配布しようとした非合法NAP学生3人を逮捕(PPI通信-P 5.9)。
DIA-304-1979-05-08-1パキスタン1979年05月08日1970年代マザーリーNDP党首は,NDP脱退者はわが党に親共産路線をとることを強要しようとしていたと談(Mornig News=以下MN-P 5.11)。
DIA-304-1979-05-09-1パキスタン1979年05月09日1970年代ラヒームッディーン・カーン・バルーチスターン州知事(陸軍中将)は,ブット時代の同州武力弾圧の被害者のうち5000人以上が補償要求を出したと述べた(MN-P 5.12)。
DIA-304-1979-05-11-1パキスタン1979年05月11日1970年代ブット40日弔-スィンド州クダー・バクシュ・ブット村のブット前首相の墓地に数十万人が訪れ,ワットゥーPPP書記長代行が5キロメートルに及ぶデモ隊を先導。多数の者が死者をいたんで鎖で胸を打ち,「スィンド独立,バルーチスターン万才」などと叫ぶ者もいた。カラチ,イスラーマバード,ペシャワール,クエッタなどでも同様の行事が挙行された。(Maghribi Pakistan, Nawa-e-Waqt=以下,NW-P 5.14)
DIA-304-1979-05-12-1パキスタン1979年05月12日1970年代ジア大統領,バルーチスターン州遊説(~18日)-各地で部族長,政治家,学生などと討議した他,次のように演説。①この州の基本的問題はその後進性だ。この州の諸問題を平和裡に解決する。②総選挙を11月17日に実施。ただし州自治問題などを選挙戦の争点にしてはならない。③最高裁は私に対しいかなる憲法改正を行う権限をも与えているし,総選挙で単一政党が議席の過半数を制することはほとんど考えられない。したがって,私はそれだけ憲法を改正しやすい立場にあり,国益のためには何でもやる。④5~6カ月以内に利子廃絶など,さらに多くのイスラーム法を実施する。⑤アメリカはパの戦略的重要性を理解するものと期待する。なお13日,ゾーブの一部族長が大統領に対し,同地域で大量の反パ政府文書が配布されていると警告。また14日,大統領はメーンガル,ビゼーンジョー両氏と憲法改正問題などを討議。(以上,D 5.13~19)しかし両氏によると会談は失敗だったという(NW-P 5.17)。
DIA-304-1979-05-12-2パキスタン1979年05月12日1970年代第11回イスラーム諸国外相会議が来年パで開かれることに決定。
DIA-304-1979-05-14-1パキスタン1979年05月14日1970年代学園紛争-今月初めから目立ち始めた学生同士の衝突や学園紛争は,14日のカラチ大学生による副学長室占拠と16日の学生自治会長の逮捕で一気に拡大。紛争は5月末までにカラチ,ラホールを始め,主にスィンド,パンジャーブ両州の総合大学,カレッジなど少なくとも20数校に波及。学生たちは,今回の紛争は非政治的なものとして通学バス,教育施設などの改善を要求しているが,現実には反政府スローガンも叫ばれている。各地で行動を起こしている学生には親PPP学生組織が多いが,なかにはJI系学生も学生宿舎などを占拠。この状況下で,PPP学生がJI系学生または警官隊と衝突を繰り返し,死者も出ている。5月30日にはラホールの1カレッジで100人が逮捕。(以上,パ各紙誌)
DIA-304-1979-05-14-2パキスタン1979年05月14日1970年代M.A.ミルザ・バルーチスターン州検事総長,辞任。「健康上」の理由という。(PT)
DIA-304-1979-05-15-1パキスタン1979年05月15日1970年代パ外務省情報官,記者会見-①アフガニスタン政府の度重なる根拠なき対パ非難は両国関係の悪化につながるのみであり,遺憾だ。②アフガニスタンによる頻繁なパ領空侵犯にもかかわらず,わが国は自制してきた。③パ政府が難民の動きを監視するのは極めて困難だ。アフガニスタン政府が平穏を回復し,彼らの帰国をうながす措置をとることを期待する。
DIA-304-1979-05-15-2パキスタン1979年05月15日1970年代カーブルで開催中の発途諸国技術協力会議に出席中のホーティー教育相は,パはアフガニスタンに対して技術協力の用意があると言明(APP通信-P 5.18)。
DIA-304-1979-05-16-1パキスタン1979年05月16日1970年代ラホールの鉄道労働者などが,物価上昇およびJIによる暴力に抗議の集会(PT)。
DIA-304-1979-05-17-1パキスタン1979年05月17日1970年代JI,政府を批判-トゥファイルJI党首は,イスラーム法廷はパンジャーブ州だけにしか設置されていないなど,政府のイスラーム体制実施は不満足なものであると批判(Mashriq-P 5.19)。
DIA-304-1979-05-17-2パキスタン1979年05月17日1970年代政府,Lahore Engineering and Foundry社を国有化前の旧所有者に返還すると発表。
DIA-304-1979-05-17-3パキスタン1979年05月17日1970年代シャーヒー外務顧問,訪中(~23日)-19日,華国鋒主席と会談。20日,鄧小平副首相と会談。
DIA-304-1979-05-17-4パキスタン1979年05月17日1970年代タラキー・アフガニスタン大統領はカーブル放送を通じ,アフガニスタン政府に対する反乱分子の煽動をやめるようパ政府に要求し,やむを得ぬ場合は「わが国のインドおよびソ連との友好関係を利用する」と警告。
DIA-304-1979-05-18-1パキスタン1979年05月18日1970年代パンジャーブ州サルゴーダでモスクの管轄権をめぐり,バレルヴィー神学派とデオバンディー神学派が衝突,12人負傷(PT)。
DIA-304-1979-05-19-1パキスタン1979年05月19日1970年代レガーリーPPP中央執行委員,釈放。21日,ティッカ前陸軍参謀長などPPP指導者5人釈放。
DIA-304-1979-05-19-2パキスタン1979年05月19日1970年代バルーチスターン州政府,ビゼーンジョー元同州知事およびメーンガル元同州首相に対する収賄罪訟訴を撤回(Muslim-P 5.22)。
DIA-304-1979-05-19-3パキスタン1979年05月19日1970年代パの要請に基づき国連の難民問題調査団が来訪。
DIA-304-1979-05-22-1パキスタン1979年05月22日1970年代故K.A.ヤール・カーン(通称,カラートのカーン)の実弟でパ・アフガニスタン友好協会長でもあるカリーム非合法NAP指導者は,自派,パ平等党(PMP),進歩人民党(PRP)の3党が州自治拡大,民政移管などを要求して連合結成に合意と発表。
DIA-304-1979-05-22-2パキスタン1979年05月22日1970年代リアーズ・ハーシュミー・サラーイキー州戦線代表は,パンジャーブ州と他の諸州との間に安定的均衡を作り出すために「サラーイキー州」(パ州の旧バハーワルプル藩王国およびムルターン省から成る)を設けるよう要求(情報源不明-P 5.26)。
DIA-304-1979-05-24-1パキスタン1979年05月24日1970年代政府は,バルーチスターンの15人以上の政治家の外遊を制限。この他,非合法NAP,PPP,NAPパクトゥーン派(NAP-P)の100人以上が既に同じ扱いを受けている。(Muslin-P 5.28)
DIA-304-1979-05-25-1パキスタン1979年05月25日1970年代PPP中央執行委員会開催(ラホール)-ブット党首処刑後初めて。25日,軟禁中のヌスラット女史を終身党首に選出。26~27日,①総選挙前の地方自治体選挙はボイコットする,②軍部は中央集権化により,連邦制という建国当初からの国家形態を破壊しつつある,などの決議を発表。27日,レガーリー書記長代行は記者会見において,73年憲法規定以上の州自治拡大を望む政党(複数)があれば,総選挙を通じて選ばれた国民の代表がそれを協議し得ると注目すべき発言。なお,中央執行委には委員31人中29人が出席。
DIA-304-1979-05-25-2パキスタン1979年05月25日1970年代シャーヒー外務顧問,イラク訪問(~27日)-滞在中,イラク外相とCENTO問題などを討議。
DIA-304-1979-05-26-1パキスタン1979年05月26日1970年代ジア大統領は演説において,①政治家の過半数は総選挙前の地方自治体選挙に反対しているが,私は国益のためにこれを実施する,②政治家たちは国民に奉仕し得ない,などと述べた(PT)。
DIA-304-1979-05-27-1パキスタン1979年05月27日1970年代マウドゥーディーJI初代党首は27日の渡米に先立ち,宗教諸政党が分裂したままでは70年総選挙(PPPが勝利)の二の舞になると警告(PT)。なお,ガッフール副党首,アハマッド書記長,クールシード前計画委副委員長はすでに渡米(Muslin-P 5.30)。
DIA-304-1979-05-27-2パキスタン1979年05月27日1970年代アスガルTI党首,1カ月の訪英に出発。
DIA-304-1979-05-27-3パキスタン1979年05月27日1970年代コロンボの公式筋によると,パ政府は27日,非同盟運動への加入を正式に申請(D 5.29)。
DIA-304-1979-05-27-4パキスタン1979年05月27日1970年代M.F.ジャーンジュア農相(海軍少将)を団長とする大型使節団,12日の予定で訪中(BR)。
DIA-304-1979-05-27-5パキスタン1979年05月27日1970年代ジア大統領の特使がアフガニスタンのアミーン首相と会談,大統領の親書を手交した。
DIA-304-1979-05-27-6パキスタン1979年05月27日1970年代27日付New York Times紙によれば,米政府は印・パの核軍備競争阻止のために「南アジア非核地帯」構想を実現しようとしている(『朝日』)。
DIA-304-1979-05-28-1パキスタン1979年05月28日1970年代ヌスラット,ベナズィール両女史,釈放-29日,ベナズィール女史はカラチで記者会見。①PPPは単なる進歩的政党ではなく,革命的政党だ。②ブット前首相との最後の会見時にもらった国民あての手紙の内容を適切な時期に国民に伝える。
DIA-304-1979-05-28-2パキスタン1979年05月28日1970年代シャー・ナワーズ外務次官,訪印-パの非同盟運動加入,ビザ,貿易問題なども討議のため。
DIA-304-1979-05-29-1パキスタン1979年05月29日1970年代PML-C,カイルッディーン新党首を選出。
DIA-304-1979-05-30-1パキスタン1979年05月30日1970年代ヌスラット女史はある人物を介してBBC放送の質問に答え,PPPが望めば首相の座を目指して闘うと言明。(同女史は,イスラーム教義に基づき夫の死後4カ月と10日間は他人である男性には会えない)。
DIA-304-1979-05-30-2パキスタン1979年05月30日1970年代PNAのスポークスマンは,政府はアフガニスタン人難民に適切な助力を与えていないばかりか,彼らを追い返していると政府の難民対策を批判。
DIA-304-1979-05-30-3パキスタン1979年05月30日1970年代援助-サウジアラビアは9000万ドルの対パ借款供与協定に調印(ピプリー火力発電所計画用)。
DIA-304-1979-05-31-1パキスタン1979年05月31日1970年代ベナズィール女史,ブット前首相の墓参-墓地および途中の各地でPPP支持者の群衆が同女史を囲んでジア政権に対する「復讐」を叫んだ。なお,墓参に先立ち同女史はカラチで党指導者たちに対し,党再編の必要を訴えた。
DIA-304-1979-06-01-1パキスタン1979年06月01日1970年代新政党結成-NDP脱党派はカラチで大会を開き,パキスタン民族党(PNP)を結成。ビゼーンジョー党首,ガルデーズィー書記長。大会にはNDP脱党者の他,BSO,PSF(4月27日参照),スィンド万歳学生連盟(JSSF)も参加。同党発表の政策14項目は,①連邦政府の権限を国防,外交,通貨,通信に限り,連邦の各構成単位に完全な自治権を与える,②連邦の全構成単位の言語を国語とする,などを含む。
DIA-304-1979-06-01-2パキスタン1979年06月01日1970年代ベナズィール女史に会うためにスィンド州各地からラールカーナに集まった学生1000人が警官隊と衝突,警官隊は催涙弾などで鎮圧(Musawaat-P 6.4)。
DIA-304-1979-06-01-3パキスタン1979年06月01日1970年代政府筋によるとパ政府はアフガニスタン人難民のためにすでに400万ドルを費消したという。
DIA-304-1979-06-03-1パキスタン1979年06月03日1970年代外務省情報官は,パ軍が対アフガニスタン電撃侵攻を計画しているとのモスクワ放送の報道を否定するとともに,6月2日にパ・ソ両国で「非常に高級レベル」での対話があったと明らかにした(PT)。同情報官はまた,過去1年間にアフガニスタンによるパ領空侵犯は45件,空爆は3件に達したと談(S 6.5)。
DIA-304-1979-06-03-2パキスタン1979年06月03日1970年代ハルーン宗教相以下4人の代表団,訪ソ-ソ連の著名な宗教指導者の招待という。タージキスターン共和国なども訪問し,16日帰国。
DIA-304-1979-06-04-1パキスタン1979年06月04日1970年代政府は,PPPのべナズィール女史,ティッカ前陸軍参謀長など4人を政治活動の疑いで告訴。
DIA-304-1979-06-04-2パキスタン1979年06月04日1970年代ジア大統領は「選挙室」を復活させた。室長はチシュティー陸軍中将。
DIA-304-1979-06-04-3パキスタン1979年06月04日1970年代WAPDAが70年から進めていたインダス川右岸のチャシュマ灌漑用水路の着工式が行われた。
DIA-304-1979-06-05-1パキスタン1979年06月05日1970年代部族地域初のラズマック陸軍士官学校開設。
DIA-304-1979-06-05-2パキスタン1979年06月05日1970年代ムフティーPNA委員長は,パが核爆弾を所有することは宗教上の義務だと主張(PT)。
DIA-304-1979-06-05-3パキスタン1979年06月05日1970年代対パ債権国会議(パリ,~6日)-同会議は,78/79年度の対パ援助8億ドル,また79/80年度のパの要請8億ドルに対し,7億ドルの援助を約束。アメリカは食糧援助4000万ドル以外は出さないとの立場を堅持。また,パによる万ドル以外は出さないとの立場を堅持。また,度も決定が得られなかった。アフターブ財務次官によれば,パの公的対外債務残高は74億ドル,年間の要返済額は5.7億ドルに達する。(D 6.6, 6.7)
DIA-304-1979-06-05-4パキスタン1979年06月05日1970年代コロンボの非同盟運動調整事務局は,9月予定の同運動諸国首脳会議におけるパの正式参加を許可。
DIA-304-1979-06-05-5パキスタン1979年06月05日1970年代アフガニスタンはパに対し,パ軍がチトラールから同国攻撃を開始したと非難(PT)。6日のカーブル放送は,パのモフマンド部族4万人がアフガニスタンに侵入したと非難(G)。
DIA-304-1979-06-06-1パキスタン1979年06月06日1970年代北西辺境州のカイバル自治区で民族進歩党(NPP)結成。同党はパ政府に対し,難民による反アフガニスタン政府活動の抑制を要求するとともに,パおよびアフガニスタンによる爆撃はそれぞれの相手国ではなくて部族地域に向けられるものだとして,両国の紛争に巻き込まれたくないとしている(V 6.10,p. 24)。
DIA-304-1979-06-06-2パキスタン1979年06月06日1970年代ラホールの工業労働者たちは,政府による国営食油工場などの民間への払下げの動きに対し「暗黒の日」と称する抗議集会を開いた(Musawaat-P 6.8)。
DIA-304-1979-06-07-1パキスタン1979年06月07日1970年代G.M.ジャトーイPPPスィンド州支部長は6週間の訪米に先立ち,①州境再調整の要求には反対,②ブット氏の処刑は法的決定であり,党指導者たちは彼を救えなかったとの非離は当らない,などと談。
DIA-304-1979-06-08-1パキスタン1979年06月08日1970年代政府は小麦粉配給店に対する補助金を1マウンド(37.3キログラム)当り15ルピーから13ルピーに引き下げた(PPI通信-P 6.11)。
DIA-304-1979-06-09-1パキスタン1979年06月09日1970年代NDP党大会(ペシヤーワル)-ワリー・カーンが次のように演説。①軍は独裁者を打倒し,バルーチスターン問題を政治的に解決し,民政移管を約束している。私が現政権に協力しているのはこのためであり,私はそれに全てを賭けている。②私は右派にも左派にも反対だ。③NDP綱領は4民族論を唱えていないが,国防,外交,通貨,通信以外はすべて各州の権限とすべきことを主張している。④若干の青年層がこれだけでは不十分というのなら,彼らは党綱領の改正を求めるべきだ。⑤73年憲法は神聖なものではなく,今すぐにでも改正され得る。-なおこれより先,PSFなどの学生たちが政府に対し,難民に対する武装訓練施設の供与をやめるよう要求。また,同大会の決議のなかには,①現政権による憲法改正には反対する,②軍は国防のみに専念せよ,というものがある(PT 6.10, V 6.17)。
DIA-304-1979-06-10-1パキスタン1979年06月10日1970年代政府,地方自治体構想を発表-概要,以下の通り。(1)農村部:全国に計3414の「村落評議会」を設置。同議員は直接選挙により1000~1500人につき1名選出。この上に村落評議会議長から成る「郡評議会」を設置。その上に直接選挙による「県評議会」を設置。(2)都市部:各州都および人口50万以上の都市には「都市自治体」,50万~1万人の都市には「都市委員会」,1万~5000人の町には「町委員会」を設置。(3)政府直轄部族地域:農村部に「自治区評議会」,町には町委員会を設置。いずれも選挙権は年金受領者のみに与える。なお従来は,これらの地方組織がザカートとウシャルの徴収にもあたるとされていたが,そのためには「州ザカート評議会」の管轄下におかれる別組織が設置される。
DIA-304-1979-06-14-1パキスタン1979年06月14日1970年代ベナズィール女史は外国人記者団との会見で,ブット前首相は生きていれば政界から引退しラールカーナで生活するはずであったと明らかにした。
DIA-304-1979-06-14-2パキスタン1979年06月14日1970年代カイバル自治区の大規模な長老会議(ジルガ)がペシャーワルで開かれ,パの統一の堅持のためにいかなる犠牲もいとわないと宣言(APP-P 6.16)。
DIA-304-1979-06-15-1パキスタン1979年06月15日1970年代ガルデーズィーPNP書記長は記者会見で,①PPP抜きでは左派連合結成は不可能だ,②PNPは共産主義政党ではないなどと談。
DIA-304-1979-06-15-2パキスタン1979年06月15日1970年代95日間に及ぶ各地銀行員スト,終結(V 6.24)。
DIA-304-1979-06-17-1パキスタン1979年06月17日1970年代マハムード・アリー社会福祉担当国務相に対する暗殺未遂事件が発生(APP-P 6.20)。
DIA-304-1979-06-17-2パキスタン1979年06月17日1970年代ワリー・カーンNDP指導者,タラキー政権はアフガニスタン国民の頭痛の種だと談(V 6.24)。
DIA-304-1979-06-18-1パキスタン1979年06月18日1970年代ビロール北西辺境州NDP指導者はワリー・カーン氏との対立のうわさを否定(Muslim-P 6.21)。
DIA-304-1979-06-19-1パキスタン1979年06月19日1970年代ブット時代にイギリスに亡命した人々の組織であるバルーチスターン海外代表団(BOD)が発行しているといわれる月刊People’s Front誌は,「長期的な革命的反乱」によってパおよびイランからバルーチスターンを「解放」することを在英バルーチー人たちが決定したと発表。この計画にはアフガニスタンのバルーチー居住地域が含まれていないことに対し,BODスポークスマンは回答を避け,この計画の背後にアフガニスタンがあるとの印象を与えたという(D 6.20)。
DIA-304-1979-06-20-1パキスタン1979年06月20日1970年代ハムードゥル・ラハマーン憲法問題大統領顧問は,大統領と首相の権限に関する憲法改正の最終案の作成準備は完了したと明らかにした。
DIA-304-1979-06-20-2パキスタン1979年06月20日1970年代カラチ港湾労働者ストが22日目を迎えたこの日,警官隊は催涙弾や警棒を用いて大々的な鎮圧に出た。なお,今までで約6000人が解雇されている。(各紙)
DIA-304-1979-06-20-3パキスタン1979年06月20日1970年代国家経済委員会(NEB)設置-これは,①イスラーム経済体制の導入,②農工業生産の増大などを目的とし,ジア大統領を議長とする。
DIA-304-1979-06-22-1パキスタン1979年06月22日1970年代PSFは,難民はパの経済と統一にとって脅威となっているとして,彼らをアフガニスタンに送り返すことを要求。また,反タラキー勢力を破って当選したといわれるS.A.シャーPSF新委員長は,アフガニスタン革命支持を表明(Muslim-P 6.26)。
DIA-304-1979-06-23-1パキスタン1979年06月23日1970年代銀行預金に対するザカート課税に反対のシーア派最高評議会は,シーア派全員に対し6月末までに銀行預金の引出しを要請(Musawaat 6.25-P 6.26)。
DIA-304-1979-06-23-2パキスタン1979年06月23日1970年代政府,鉄道料金を23%引上げ。
DIA-304-1979-06-23-3パキスタン1979年06月23日1970年代パの核燃料再処理工場建設に携わってきた最後のフランス人技術者数人が帰国(S 6.25)。
DIA-304-1979-06-24-1パキスタン1979年06月24日1970年代ジア大統領,「ザカート・ウシャル<組織>令」を公布これは中央ザカート評議会(CZC)を最高機関とする五段階の組織の設置を定めるものである。
DIA-304-1979-06-24-2パキスタン1979年06月24日1970年代シーア派最高会議委員および信者会議(TM)委員長であるバンガーシュ氏は,シーア派のアフガニスタン難民支援を続けると談(Muslim-P 6.28)。
DIA-304-1979-06-24-3パキスタン1979年06月24日1970年代PPPバルーチスターン州支部は中央執行委員会に対し,モフユッディーン旧カラート藩王国王子など6人の党からの除名を要請(Muslim-P 6.26)。
DIA-304-1979-06-24-4パキスタン1979年06月24日1970年代チシュティー労相,訪中(~7月2日)。
DIA-304-1979-06-26-1パキスタン1979年06月26日1970年代ラホールで3輪タクシー運転手のストにミニ・バス運転手が合流(V 7.1)。
DIA-304-1979-06-26-2パキスタン1979年06月26日1970年代『経済白書』出来(参考資料参照)。
DIA-304-1979-06-26-3パキスタン1979年06月26日1970年代イスラーマバード近郊カフタの原子力施設付近で行動していた駐パ・フランス大使が暴漢に襲われ,負傷(G)。29日,パの核問題を調べていたイギリス人記者もイスラーマバードで襲われ,負傷(G)。
DIA-304-1979-06-27-1パキスタン1979年06月27日1970年代ハーシュミー文化相,辞表提出。29日辞任。
DIA-304-1979-06-28-1パキスタン1979年06月28日1970年代79/80年度予算発表(資料参照)。29日,イスハーク財政相は記者会見で,①広範かつ大幅な増税は前政権下で悪化した経済の立直しのために必要だ,②増税による物価上昇は4%に収まろうなどと述べ,また,ルピー切下げ,金国有化などのうわさを否定。
DIA-304-1979-06-29-1パキスタン1979年06月29日1970年代ジア大統領,ワリー・カーンに会見。
DIA-304-1979-06-30-1パキスタン1979年06月30日1970年代学園紛争-5月初旬からの学生騒動は学園紛争の域を越えて政治化,6月に入ってさらに拡大した。紛争は一部の高校レベルにまで波及し,学園内外で左派学生と右派学生・警官隊との武力衝突が頻発,各地で教育機関が閉鎖された。6月5日,カラチで銃火器の携帯禁止。16日,ラホールの左派学生6団体が連合を結成。なお17~18日,全国のカレッジ教員も住宅手当増額などを要求してスト。(以上パ各紙)
DIA-304-1979-06-30-2パキスタン1979年06月30日1970年代バルーチスターン州ピシーンでアフガニスタン難民による犯罪に抗議する学生たちが難民収容所近くでデモ。難民側はデモ隊に発砲。(Muslim-P 7.3)
DIA-304-1979-06-30-3パキスタン1979年06月30日1970年代新輸入政策発表-輸入規制は従来通り緩やか。
DIA-304-1979-06-30-4パキスタン1979年06月30日1970年代シャーヒー外務顧問は,パはリビアの資金により今秋ムルターン付近で核実験を行うとの最近の週刊Eight Day-Middle East International誌報道を否定。同誌はロンドン発行だが所有者が駐英アラブ首長国連邦大使であるため,パ政府は7月1日,同国に強い抗議を申し入れた。(内外各紙)
DIA-304-1979-07-01-1パキスタン1979年07月01日1970年代政府,通常郵便料金を100%引き上げ。
DIA-304-1979-07-01-2パキスタン1979年07月01日1970年代駐パ・中国代理大使,ワリー・カーンに会見(Wafaaq-P 7.3)。
DIA-304-1979-07-01-3パキスタン1979年07月01日1970年代ドースト・アフガニスタン外相,来訪(~3日)-ジア大統領に対するタラキー大統領の招待状を手交。なお,近くシャーヒー外務顧問がアフガニスタンを訪問し,会談を続行することになったという。
DIA-304-1979-07-01-4パキスタン1979年07月01日1970年代シャーヒー外務顧問,モロッコ訪問-2~3日にラバートで開催のエルサレム委員会会議出席のため。
DIA-304-1979-07-02-1パキスタン1979年07月02日1970年代難民と衝突-アフガニスタン難民1000人がチャマンでNAP-Pなどを親タラキー派だと非難してデモ,この後ピシーンで集会。集会場で爆弾破裂。3日,難民による発砲で1日負傷。4日,クエッタで難民がガソリン・スタンド,ホテルなどを襲う一方,JI系学生がアフガニスタン領事館前にデモをかけた。なお,BSOも難民の「横暴」を非難している。(パ各紙)
DIA-304-1979-07-02-2パキスタン1979年07月02日1970年代カラチのSadaqat紙編集長逮捕。3日,カラチのSun紙編集長逮捕(Muslim-P 7.4)。16日,週刊Al Fatah誌出版者逮捕(Musawaat-P 7.18)。
DIA-304-1979-07-03-1パキスタン1979年07月03日1970年代カラチで民間病院およびダウ医学専門カレッジの医師,スト突入(~19日)。
DIA-304-1979-07-04-1パキスタン1979年07月04日1970年代カラチで三輪タクシーとタクシー運転手,スト突入。5日,ミニ・バス運転手が合流。11日,終決。
DIA-304-1979-07-05-1パキスタン1979年07月05日1970年代JUIバルー・チスターン州支部は,JIのPNAからの除名を要求(Muslim-P 7.9)。
DIA-304-1979-07-05-2パキスタン1979年07月05日1970年代ヌラーニーJUP党首,訪英(~23日)。
DIA-304-1979-07-06-1パキスタン1979年07月06日1970年代イスハーク労農党首はPPPのみが民主勢力の中核たり得ると談(Muslim-P 7.9)。
DIA-304-1979-07-06-2パキスタン1979年07月06日1970年代日本政府筋によると,わが国のある電子機器メーカーはウラン濃縮用遠心分離機の制御に使われる高周波数変換装置を購入したいとのパ政府の引き合いを,通産省の行政指導により断ったという(『日経』7.7)。
DIA-304-1979-07-07-1パキスタン1979年07月07日1970年代大使会議-ジア大統領は世界各地のパ大使を招集し1月以来2度目の大使会議(6日間)を開催。
DIA-304-1979-07-07-2パキスタン1979年07月07日1970年代中国のイスラーム教徒代表団,来訪(~19日)-12日,ジア大統領に会見。13日,ペシャーワル訪問。
DIA-304-1979-07-08-1パキスタン1979年07月08日1970年代PNAによる「暴虐予算」に対するゼネストの呼びかけに対し,カラチの主要商店街は閉鎖されたが,他の都市では一部商店の閉鎖に終った。カラチでは警察隊が催涙弾を用いてデモ隊を鎮圧した。
DIA-304-1979-07-08-2パキスタン1979年07月08日1970年代ニアーズィー海軍参謀長,サウジアラビア,アラブ首長国連邦,カタールの公式訪問に出発。
DIA-304-1979-07-09-1パキスタン1979年07月09日1970年代西側筋によると,パは過去15年間にわたって核兵器開発に努めてきたという(TM 7.9)。
DIA-304-1979-07-10-1パキスタン1979年07月10日1970年代予算修正会議-ジア大統領は新予算に対する国民の反発が強いことに鑑み,各界代表をも含む予算修正会議を開催。22日,報告書提出。
DIA-304-1979-07-11-1パキスタン1979年07月11日1970年代ブラウン米国防長官が米国務省に提出した報告によると,ソ連は年末までに大量の軍隊をアフガニスタンに投入する予定という(NW-P 7.13)。
DIA-304-1979-07-11-2パキスタン1979年07月11日1970年代労働委員会,260項目の勧告をチシュティー労相に提出。
DIA-304-1979-07-11-3パキスタン1979年07月11日1970年代ベナズィール女史任命のPPP「審査委員会」は南部スィンド州地域の全支部役員を解任。PPP筋によると,これはジャトーイ派追放のためであるとされ,献身的党員のなかから新役員が選ばれる(PT)。
DIA-304-1979-07-12-1パキスタン1979年07月12日1970年代アスガルTI党首は,政府は地方選挙を総選挙以前に行う計画を廃棄したと談(MN-P 7.16)。
DIA-304-1979-07-14-1パキスタン1979年07月14日1970年代5日からの都市部での郵便局員スト,解決。
DIA-304-1979-07-15-1パキスタン1979年07月15日1970年代7月15日付Viewpoint誌は,詳細な数字を挙げ,新予算発表後ほとんどの生活必需品価格が急騰したとしている。
DIA-304-1979-07-15-2パキスタン1979年07月15日1970年代イスラーマバード空港でパ国際航空(PIA)労働者と空港警備隊が衝突。労働者は抗議のスト突入。
DIA-304-1979-07-16-1パキスタン1979年07月16日1970年代カラチ商工会議所は決議文で新予算を非難するとともに79年所得税法撤廃を要求(BR)。
DIA-304-1979-07-16-2パキスタン1979年07月16日1970年代政府,カラチのタクシー料金50%引上げを承認。
DIA-304-1979-07-17-1パキスタン1979年07月17日1970年代サウジアラビア宗教相,来訪(~21日)。
DIA-304-1979-07-19-1パキスタン1979年07月19日1970年代大学交付金委員会(UGC)は,大学の全卒業生に1年間の軍事教練を課すること,「大学保安軍」の設立などを検討中と明らかにした。
DIA-304-1979-07-21-1パキスタン1979年07月21日1970年代S.A.メーンガル元バルーチスターン州首相の実弟で73年2月以来アフガニスタンに亡命していたZ.メーンガルが帰国,次のように談。①メーンガル部族の者はほとんど帰国したが,マリー部族の者の多くはアフガニスタンに残っている。②ダーウード政権はバルーチーの者を若干遠ざけたが,これはアフガニスタン4月革命後,是正された(Muslim-P 7.24)。
DIA-304-1979-07-22-1パキスタン1979年07月22日1970年代比例代表制-ジア大統領は西ドイツ方式を簡略化した比例代表制の導入を提起し,8月14日までに見解を述べるよう主要政党指導者は文書で指示した。24日JIが,25日PNAがこれを支持した他は,ほとんどの政党が強い反対を唱えている(とくにPPP)。
DIA-304-1979-07-22-2パキスタン1979年07月22日1970年代ビゼーンジョーPNP党首はラールカーナでの演説で,連合結成のためにPPPが提示した3条件(内容不詳)を拒否した。
DIA-304-1979-07-22-3パキスタン1979年07月22日1970年代H.J.バルーチーBSO新委員長は,BSOはPNPを支持していないと言明(PT)。
DIA-304-1979-07-23-1パキスタン1979年07月23日1970年代ジア大統領発言-本日付Newsweek誌掲載のインタビュー。①私は草の根レベルの民主主義の奨励のために地方選挙を実施したかったが,全ての政党がこれに反対した。②私の陸軍参謀長としての任期は80年3月までだが,新たな政府が新参謀長を任命すべきだ。私は引退したい。③しかし,その前に実施しておきたいことが幾つかある。たとえば,首相が国家を牛耳ろうとしたら大統領が軍を投入し得るように憲法を改正したい。ただ,軍は文民統制下に置かれる。④また,小政党排除のために比例代表制を導入したい。⑤核開発に関する査察を認めるが,その場合,インドの核施設の査察も行うことが条件だ。
DIA-304-1979-07-23-2パキスタン1979年07月23日1970年代ベナズィール女史は本日付Newsweek誌で次のように談。①軍部はパを分裂させようとしている。②各州で分離傾向が強まっており,このままではいかなる政党もパの崩壊を阻止し得ない。③急進派が権力を握らないうちにPPPが自己の存在を主張せねばならない。
DIA-304-1979-07-24-1パキスタン1979年07月24日1970年代ワリー・カーンの動き-ニューヨークのExecutive Intelligence Review誌およびNew Solidarity紙によると,イギリスに滞在中のワリー・カーンNDP指導者はアフガニスタンの王制復古を目指して同国の反政府勢力と謀議を重ねてきたが,最近,ローマに亡命中のザーヘル前国王と会見したという(Muslim 7.24-P 7.25)。
DIA-304-1979-07-24-2パキスタン1979年07月24日1970年代24日発表の世銀報告書は,パ経済の幾つかの好感し得る傾向はインフレと国際収支の問題によって危うくされていると指摘し,パ政府に対し財政赤字削減,通貨供給量拡大の統制,公共部門の輸入削減と投資計画再検討などを勧告している(Date Asia 7.23―29)。
DIA-304-1979-07-25-1パキスタン1979年07月25日1970年代最高裁は,軍事裁判所は通常の裁判所および特別法廷が扱うべき訴訟の管轄権を有さないとするペシャーワル高裁の判決を10月15日まで停止した。
DIA-304-1979-07-25-2パキスタン1979年07月25日1970年代ブット前首相による政敵暗殺事件に協力したとして死刑判決を受けていた他の4人が処刑された。
DIA-304-1979-07-26-1パキスタン1979年07月26日1970年代政府筋によるとアフガニスタン難民数は登録された者だけで計14万2356人に達したという(PT)。
DIA-304-1979-07-26-2パキスタン1979年07月26日1970年代パンジャーブ州内の長距離バス料金,40%値上げ。同日,医薬品70%値上げ(PT)。
DIA-304-1979-07-27-1パキスタン1979年07月27日1970年代軍内の意見対立-ジア大統領は今月初旬,11月17日の総選挙以前に地方選挙を行うのは物理的に不可能だとの官僚たちの報告を受けた。同大統領はその後,政府首脳部の会議で地方選挙取りやめを提案したが,軍部の超タカ派の者たちは,どういうことになろうと総選挙前に地方選挙を行うと宣言した。(以上,FE 7.27)なお,地方選挙の早期実施を主張してきたのはチシュティー労相(陸軍中将),サワール・パンジャーブ州知事(同)などである(パ各紙)。
DIA-304-1979-07-27-2パキスタン1979年07月27日1970年代イギリスのThe Guardian紙によると,ブット前首相の人気は処刑後むしろ高まった。今や「聖者」と化したブットの墓には毎日何百人という「巡礼者」が訪れる。また,ブットの演説の「録音テープ産業」が成立しているという(The Straits Times 7.27, N 7.23)。
DIA-304-1979-07-27-3パキスタン1979年07月27日1970年代27~31日の間に,バルーチスターン州を除く3州で各州知事により79年地方自治体令が布告された。
DIA-304-1979-07-27-4パキスタン1979年07月27日1970年代ジア大統領,修正予算を発表-以下の諸点が打ち出されたが,根本的修正はない。①連邦・州政府の開発支出を8億ルピー,非開発支出を5.5億ルピー削減。②灯油,粉ミルクの新税を撤回。③天然ガス料金引上げの撤回。④政府関係者の海外派遣の削減,等。これに対しJIさえもが,不十分だとして反発。
DIA-304-1979-07-27-5パキスタン1979年07月27日1970年代クエッタでパ・中国友好協会,結成。
DIA-304-1979-07-27-6パキスタン1979年07月27日1970年代キューバ工業相,来訪―シャーヒー外務顧問などとパの非同盟運動参加を協議。
DIA-304-1979-07-27-7パキスタン1979年07月27日1970年代シャーヒー外務顧問,イラン訪問-29日,渡米。31日,ニューヨークでの記者会見で,華国鋒中国主席のメッセージをホメイニ師に伝えたと談(PT)。
DIA-304-1979-07-30-1パキスタン1979年07月30日1970年代選挙管理委員会,選挙区画定最終案を承認。
DIA-304-1979-07-31-1パキスタン1979年07月31日1970年代ハムードゥル・ラハマーン憲法問題顧問は,比例代表制導入に憲法改正は不要と言明。
DIA-304-1979-07-31-2パキスタン1979年07月31日1970年代学生衝突-5月以来のPPP系学生とJI系学生の衝突は7月にも頻発したが,かなり下火になったもよう。ただ,新たな動きとして,クエッタなどでタラキー・アフガニスタン政権を支持する学生とJI系学生の衝突が目立ち始めている。
DIA-304-1979-07-31-3パキスタン1979年07月31日1970年代パ筋によれば,ソ連は65年のタシュケント3者会談(印,パ,ソ)方式によるパとアフガニスタンの調停を考慮中という(Bangladesh Obsrver 7.31)。
DIA-304-1979-08-01-1パキスタン1979年08月01日1970年代JI,比例代表制を支持。同党も所属するPNAは12日,同制度導入反対を決定。その他のほとんどの政党も12日までに同制度に反対を表明。
DIA-304-1979-08-02-1パキスタン1979年08月02日1970年代PPPは党員に対し,政府が設置を進めているザカート・ウシャル委員会の委員にならないように指示(Musawaat-P 8.4)。
DIA-304-1979-08-04-1パキスタン1979年08月04日1970年代政府は世銀に対し,パの対外債務救済の討議のために対パ債権国会議を招集するように要請。79/80年度のパの対外債務要返済額は7.71億ドルで,外貨総収入(30~35億ドル)の25.7~22.0%に達するという(以上,D)。これに対し世銀は27日,世銀使節団の訪パは来年10月と通告することにより,パの要請を間接的に拒否(PPI-P 8.30)。なお世銀はパに対し,国防費削減,大幅な土地改革,国有化企業の旧所有者への返還などを勧告している(P 8.23)。
DIA-304-1979-08-05-1パキスタン1979年08月05日1970年代PPP,一部分裂か-A.A.アッバースィーPPPカラチ支部新委員長を「封建地主の代表」としてその任命に反対する人々が,「PPPカラチ支部活動者委員会」を組織した(PT)。
DIA-304-1979-08-05-2パキスタン1979年08月05日1970年代政府は著名なバルーチー民族指導者であるN・カイル・バクシュ・マリー,シェール・ムハマッド・マリー両氏の海外訪問を禁止(Muslin-P 8.7)。
DIA-304-1979-08-05-3パキスタン1979年08月05日1970年代北西辺境州ディール地区の地主と小作人の衝突は重大問題となりつつあり,当局は5日,小作人による刈入れを禁止した(Muslim-P 8.7)。
DIA-304-1979-08-05-4パキスタン1979年08月05日1970年代政府は77年土地改革法に基づき,現在までに3168人の地主から15万2320エーカーの土地を収用し,うち8930エーカーを1350人の貧農に分配したという。また5日,同法の効率的実施のために同法のいくつかの改正が閣議で承認された。
DIA-304-1979-08-05-5パキスタン1979年08月05日1970年代ヤズディー・イラン外相はRCD解体の意向を表明したが,解体の最終的措置はパがこの問題の検討を完了するまではとられないと言明(PT8.6, V 8.12)。
DIA-304-1979-08-06-1パキスタン1979年08月06日1970年代PSFの分裂について-77年12月のワリー・カーン釈放後,A.カッタークを中心とする分裂派を出していたPSFは78年4月のアフガニスタン革命後,それを支持する派(A.カンスィー,S.A.シャーなど)とワリー・カーンにつく主流派とに分裂していた。去る7月にカラチで行われたPSF大会での役員選挙では親アフガニスタン革命派の立候者全員が当選し,この分裂は決定的となった。親革命派は,「パクトゥーン,バルーチー両民族の権利闘争におけるNDPの否定的役割」を非難し,一方,アルシャド・アリーの親NDP派は,「NDPは今でも民主的な民族主義者の政党だ」としている。(Muslim 8.6-P 8.7)。
DIA-304-1979-08-06-2パキスタン1979年08月06日1970年代アスガルTI党首,ジア大統領と会見-7日,記者会見。①大統領の11月総選挙実施の決意は固い。②比例代表制にはとくに反対しない。③大統領は9月には政治活動を一部解禁しよう。(D)この記者会見の前後から,総選挙を経ないままアスガルTI党首を首班とする暫定的な挙国一致内閣が組織されるとのうわさが出始めたが,政府は17日これを否定(APP-P 8.20)。
DIA-304-1979-08-06-3パキスタン1979年08月06日1970年代アフガニスタンのカーブル放送は,5日カーブルで生じた反乱にパが関係していたと非難。パ政府はこれを強く否定。(Muslim-P 8.8)
DIA-304-1979-08-08-1パキスタン1979年08月08日1970年代日本政府,第17次対パ円借款供与協定に調印-総額76億円。これにより61年以来の対パ円借款供与総額は約1966億となる。(『毎日』8.9)
DIA-304-1979-08-09-1パキスタン1979年08月09日1970年代A.カッターク・民族進歩党(NPP)書記長(元PSF委員長)は,パの現状は民族民主革命に最適だとして民主勢力の連合結成を訴えた。NPPは,PPP抜きでは望ましい規模の民主擬線は結成し得ないとしている(Muslim 8.11-P 8.13)。
DIA-304-1979-08-10-1パキスタン1979年08月10日1970年代PNAは地方選挙が総選挙前に行われた場合はそれをボイコットすると決定(PT)。
DIA-304-1979-08-10-2パキスタン1979年08月10日1970年代アフガニスタン政府は同国駐在のパ大使館員の亡命を許可したと発表(KT-P 8.14)。12日,パ政府は同館員はアフガニスタン政府に誘拐されたのだと反論(PT)。14日,パ政府は19日に予定されていたシャーヒー外務顧問のアフガニスタン訪問を中止。
DIA-304-1979-08-11-1パキスタン1979年08月11日1970年代ベナズィール女史は,総選挙問題以外で政府との協議を企図するPPP党員は追放すると言明。
DIA-304-1979-08-12-1パキスタン1979年08月12日1970年代学生騒動-8月に入ってJSSF(6月1日参照)とPPP系学生の衝突がハイデラーバード大学などで目立ち始めた。10日,JSSFは2派に分裂。同時に各地でのPPP系学生とJI系のイスラーム学生協会(JTI)学生及び警官隊との衝突もまだ続き,12日にはカラチ大学で,学生同士の衝突においては史上初めて軽機関銃が使用された。これにより,記者4人を含む18人が負傷。(パ各紙,P)
DIA-304-1979-08-12-2パキスタン1979年08月12日1970年代対パ制裁-12日付米New York Times紙は米国務省当局者の言明として,米政府はパの核兵器取得の阻止のため,新型通常兵器の提供から厳しい経済制裁までのいくつかの方策を検討中であり,一時はCIAによるパのウラン濃縮工場(建設中)の破壊まで考えられたという(『朝日』8.13&19, PT 8.13)。15日,パ政府は米政府に強く抗議。
DIA-304-1979-08-13-1パキスタン1979年08月13日1970年代イシュラット・アリー・パ商工会議所連盟会頭は,新予算による生産・流通経費の急騰のため物価上昇は6ヵ月以内に明白となり,その率は40%を超えることになろうと警告(BR)。
DIA-304-1979-08-14-1パキスタン1979年08月14日1970年代ヌスラット女史はブット前首相の死後初めて公衆の面前に姿を表わし,カラチで記者会見。①ブット前首相は復讐を良しとしていなかった。②核技術入手の放棄を条件に私や娘がアメリカに彼の助命のための協力を頼んだとのうわさはでたらめだ(HT 8.24参照)。③(ベナズィール女史の発言)記録によると前首相は,「わが国は草を食べても(核)爆弾を手に入れる。ヒンドゥーの爆弾があるのにムスリムの爆弾があってなぜ悪い」とまで言っている。④PPPには連合は不要だ。
DIA-304-1979-08-15-1パキスタン1979年08月15日1970年代パンジャーブ州の看護婦,無期間スト突入-17日,他の3州にも波及。23日,パンジャーブ州の全看護婦学校,閉鎖。同日,ムルターンで警官隊が警棒で看護婦を殴打,8人負傷。これにより27日,賃上げ要求ストには抗議ストの様相も加わり,カラチではジンナ大学院医学センターの医師300人など,各地の医師が賃上げをも要求する同情ストに突入。
DIA-304-1979-08-15-2パキスタン1979年08月15日1970年代ラホールでPPP活動者20人逮捕。サヒーワルでも13人逮捕。同日,警察当局はティッカPPP書記補佐(前陸軍参謀長)など27人を政治活動のとがで告訴。
DIA-304-1979-08-15-3パキスタン1979年08月15日1970年代左派7党の首都支部指導者は,中央レベルでの連合をうながすために7項目の政策目標を掲げて実質的連合を結成。7党とはPPP,労農党,NPP,民族解放戦線(QMA),民族労働戦線(QMM),人民労働戦線(PLF),パ労働戦線(PLF)。(Muslim-P8.17)
DIA-304-1979-08-15-4パキスタン1979年08月15日1970年代インドの警告-チャラン・シン・インド首相は,パが核爆弾製造に着手すればインドも核爆弾をつくらないという従来の方針を再検討すると演説(TI)。
DIA-304-1979-08-15-5パキスタン1979年08月15日1970年代ウルフ米民主党議員以下14人の代表団,来訪。
DIA-304-1979-08-16-1パキスタン1979年08月16日1970年代政府は新予算の資金不足を償うために海外の銀行から約3億ドルを借り入れる交渉を行っているという(Muslim 8.16-P 8.17)。
DIA-304-1979-08-16-2パキスタン1979年08月16日1970年代アフターブ・アハマッド・カーン財務次官,サウジアラビア訪問(PT)。
DIA-304-1979-08-17-1パキスタン1979年08月17日1970年代17日付米New York Times紙は,パによる核実験は早ければ年内にもあり得ると報道(『日経』)。
DIA-304-1979-08-18-1パキスタン1979年08月18日1970年代JI党首,大統領を非離-トゥファイルJI党首は党員に対し次のように演説。①政府はJIの要求に反しまだ親PPPの官僚を粛清していない。②現政府はPPPとブットの政策を踏襲している。③ジア将軍は250億ルピーもの紙幣を増刷した。現政府は国民の経済的苦悩に関し(前政府と)同じように責任がある。(Muslim-P 8.20)
DIA-304-1979-08-18-2パキスタン1979年08月18日1970年代政府はイランに1.5億ドルの借款供与を要請。
DIA-304-1979-08-18-3パキスタン1979年08月18日1970年代政府筋によると,アフガニスタンによる対パ領土への砲撃は今までで9回に及ぶという。
DIA-304-1979-08-19-1パキスタン1979年08月19日1970年代ジア大統領,サウジアラビア訪問-小巡礼(オムラ)のためという。22日,同国のArab News紙との会見で次のように談。①地方選挙立候補者はすべて無所属でなくてはならず,同選挙のボイコットは諸政党の勝手だ。②私の総選挙出馬を阻止するものは何もない。ただその場合,私はまず陸軍参謀長などのポストを辞任する必要がある。(PT)
DIA-304-1979-08-22-1パキスタン1979年08月22日1970年代修正予算-すでに発表された国防費2.5%削減およびその他の非開発支出5%削減(中央・州とも)により,非開発支出の主要項目は最終的には次のようになった(単位1億ルピー)。国防114.5,債務返済74.6,輸出リベート以外の補助金15.3,綿製品輸出リベート6.5,教育4.8,保健1.4,社会福祉1.9.一般行政等23.7,その他42.3,計285.0。23日,政府は開発予算についても当初予算の約9%に当る20.65億ルピーの削減を発表。この削減は今年度内に完成見込みおよび外国援助のプロジェクトには適用されない。
DIA-304-1979-08-25-1パキスタン1979年08月25日1970年代ペシャーワル警察はあるホテルなどから多数の外国製爆弾などを押収。これに関し27日までにPPP党員およびPPP系のパ学生連盟(PakSF)の学生など11人が逮捕された。(Imroze, NW-P 8.28, 29)
DIA-304-1979-08-28-1パキスタン1979年08月28日1970年代各州政府は28~31日の間に地方選挙の9月25日実施を発表。パ側カシミールの地方選挙は9月20日,総選挙は11月19日にそれぞれ実施。
DIA-304-1979-08-28-2パキスタン1979年08月28日1970年代ジア戒厳総司令官は国営APP通信社の雇用者に対して徴罰措置をとるための戒厳令命令第69号を布告。
DIA-304-1979-08-28-3パキスタン1979年08月28日1970年代ベナズィール女史,6日間のバルーチスターン州遊説を開始。
DIA-304-1979-08-28-4パキスタン1979年08月28日1970年代ラメー・パ平等党(PMP)党首は政府に対し,核兵器を製造する政策を明確に宣言するよう要求(NW-P 8.30)。
DIA-304-1979-08-29-1パキスタン1979年08月29日1970年代リビア政府,パ人労働者の受入れを停止。
DIA-304-1979-08-30-1パキスタン1979年08月30日1970年代政党法改正-ジア大統領は62年政党法を改正する「79年政党法<改正>令」を布告。以下,改正点要旨。①政党は総選挙前に選挙管理委員会に登録すること。②政党は9月18日までに党資金を申告すること。外国から資金を得ている政党は選挙参加資格を失う。③若干の政治指導者,神学者,知識人などが私に対し総選挙延期を繰り返し勧告してきた。彼らは総選挙よりもイスラーム体制の確立が先だとしている。④政党は総選挙前に党内選挙を完了すること。⑤政党はパのイデオロギー法と秩序,司法府,軍に反対する言動をとってはならない。この日ジア大統領は全国放送で政党法改正および9月の地方選挙について説明した他,次のように言明。①パはエネルギー問題に対処するために核燃料再処理工場を入手する決意だ。②アフガニスタンの78年政変は同国の国内問題だ。しかし,同国内の事態はパに直接の影響を及ぼしており,難民数は今や17万に達する。
DIA-304-1979-08-30-2パキスタン1979年08月30日1970年代PPP中央執行委,「ジア将軍の手先を排除するために」国民に対し地方選挙参加を要請。
DIA-304-1979-08-31-1パキスタン1979年08月31日1970年代レガーリーPPP書記長代行は,著名なバルーチー民族主義者であるN.K.B.マリー,A.ギチュキー両氏に会見(Baluchistan Times-P, 9.4)。
DIA-304-1979-09-01-1パキスタン1979年09月01日1970年代パンジャーブ州の看護婦,スト中止。4日,カラチのジンナ大学院医学センター看護婦,スト中止。12日,同センター医師,スト中止。4日,クエッタの看護婦,無期限スト突入(Musawaat-P 9.9)。
DIA-304-1979-09-01-2パキスタン1979年09月01日1970年代中央銀行によるとパの外貨準備高は71年印・パ戦争以来最低の9100万ドルになった。このため政府は外国銀行から5億ドル以上の短期資金を借り入れるために努力中だが,外銀は乗り気ではないという。(Muslim-9.3&4-P 9.4&5)
DIA-304-1979-09-01-3パキスタン1979年09月01日1970年代シャーヒー外務顧問はハバナでミシュラ・インド外相と会談を行い,席上,パが濃縮ウラン生産計画を推進中であることを初めて公式に認めた(『朝日』9.5)。
DIA-304-1979-09-01-4パキスタン1979年09月01日1970年代ジア大統領,キューバへ-非同盟諸国首脳会議出席のため。2日到着。3日,ミシュラ・インド外相およびヤズディー・イラン外相と個別に会談。なお,非同盟諸国会議はすでに8月30日にパの正式加入を承認。
DIA-304-1979-09-02-1パキスタン1979年09月02日1970年代戒厳令当局,ベナズィール女史を反政府演説のとがで告訴。
DIA-304-1979-09-02-2パキスタン1979年09月02日1970年代カラチで傍受されたVoice of America放送によれば,モンデール米副大統領は訪中時にアメリカの対パ関係改善のために中国の影響力行使を打診。
DIA-304-1979-09-03-1パキスタン1979年09月03日1970年代イスラーマバードの原子力研究者居住地区でイギリス大使館員の子息(18歳)が何者かに殴打され,一時拘禁された。英政府は同日,パ政府に抗議。
DIA-304-1979-09-04-1パキスタン1979年09月04日1970年代インドの4日付Indian Express紙によると,ジア大統領は最近シン・インド首相に書簡を送り,両国原子力施設の相互査察協定締結を提案(『朝日』)。
DIA-304-1979-09-05-1パキスタン1979年09月05日1970年代ヤズディー・イラン外相はハバナでパ記者団と会見,「イランは旧CENTOと結びついた組織,とくにRCDから手を引きたい。RCDはインドとバングラデシュをも含んだコンソーシアムとしてのみ存続し得る」と談(Muslim 9.8-P 9.11)。
DIA-304-1979-09-06-1パキスタン1979年09月06日1970年代ジア大統領,非同盟諸国会議で演説-①パは近隣諸国との友好関係を促進する決意だ。②核兵器の全面禁止と非核保有国の安全保証を要求する。③パは平和目的のための核開発に対する圧力に屈しない。④世界経済体制の再構築のために非同盤諸国は団結すべきだ。
DIA-304-1979-09-06-2パキスタン1979年09月06日1970年代ジア大統領,タラキー・アフガニスタン大統領と会談-ハバナで,カストロ・キューバ革命評議会議長の仲介で実現。会議後,近くシャーヒー外務顧問をアフガニスタンに派遣する,またジア大統領あるいはタラキー大統領自らも相手国を訪問するかもしれないと言明。(PT 9.8, Muslim 9.8-P 9.11)
DIA-304-1979-09-09-1パキスタン1979年09月09日1970年代総選挙延期を示唆-ジア大統領はハバナからの帰国の途次立寄ったフランクフルトで,「核開発はその経済的利益からして総選挙より重要だ。総選挙が予定通り実施されなくても餓死者はでない」と談。10日,帰国後の記者会見で,核燃料再処理工場建設についてはフランスを含む国々と交渉中だと明らかにした(PT)。
DIA-304-1979-09-09-2パキスタン1979年09月09日1970年代中央銀行は外貨定期預金(実質米ドル預金に限定)金利を12~13%から13~14%に引き上げた。
DIA-304-1979-09-11-1パキスタン1979年09月11日1970年代パはフランスからのF-Iおよびミラージュ200型戦闘機購入を交渉中。最近この件でシャミーム空軍参謀長が訪仏した(Imroze 9.11-P 9.13)。
DIA-304-1979-09-12-1パキスタン1979年09月12日1970年代世銀は債務救済討議のためのパによる対パ債権国会議の開催要請の拒否を通告。
DIA-304-1979-09-13-1パキスタン1979年09月13日1970年代比例代表制導入-ジア大統領は憲法を改正して比例代表を導入する「1979年国会・州議会<選挙基盤>命令」を布告。
DIA-304-1979-09-13-2パキスタン1979年09月13日1970年代PPP登録拒否決定を発表。
DIA-304-1979-09-13-3パキスタン1979年09月13日1970年代チシュティー労相,サウジアラビア訪問。
DIA-304-1979-09-15-1パキスタン1979年09月15日1970年代アサドゥル・ズヘール・サウジアラビア空軍司令官,来訪(~20日)。
DIA-304-1979-09-16-1パキスタン1979年09月16日1970年代アッバースィー・スィンド州知事(陸軍中将),1週間のイラク訪問に出発。
DIA-304-1979-09-17-1パキスタン1979年09月17日1970年代アスガルTI党首は,政府による総選挙での票の操作は行われないだろうと談(PT)。
DIA-304-1979-09-17-2パキスタン1979年09月17日1970年代アミーン・アフガニスタン新大統領は,同国とパの相違点を平和裡に解決したいと言明するとともに,ジア大統領の来訪を待っていると述べた。
DIA-304-1979-09-18-1パキスタン1979年09月18日1970年代ラホール県治安判事補は同県に刑法144条(4人以上の集会禁止)を布告するとともに,こん棒,ナイフなどの武器の携帯を禁止(PT)。
DIA-304-1979-09-18-2パキスタン1979年09月18日1970年代ハムードゥル・ラハマーン憲法問題顧問,辞任。
DIA-304-1979-09-19-1パキスタン1979年09月19日1970年代ジア大統領は,政党法に基づく登録をしなかった政党の党員の国会・州議会被選挙権を剥奪する「1979年国会・州議会<選挙><第2次改正>命令」(79年大統領命令第15号)を布告した。
DIA-304-1979-09-19-2パキスタン1979年09月19日1970年代ムフティーPNA委員長は,PNAとPPP抜きの選挙は茶番劇であると談。
DIA-304-1979-09-19-3パキスタン1979年09月19日1970年代79/80年度綿花政策-政府はこれにより綿繰り工場の実綿買入れ価格を改定するとともに,綿花輸出については実業界の要求を退けて綿花輸出公社による輸出業務の独占を継続することとした。
DIA-304-1979-09-20-1パキスタン1979年09月20日1970年代親PPP軍人辞職-カーリド陸軍准将(北西辺境州の砲兵学校長,45歳)およびシャミーム陸軍大佐(戒厳令調査班長,40歳)はロンドンでの記者会見で辞職を発表し,次のように談。①ジア将軍の権力掌握は違法だ。軍内の90%はジア大統領を支持していない。②ジア将軍の辞任,ムシュターク選挙管理委員長の解任等々の要求が認められなければ最近組織したパ解放戦線の活動を活発化する。(S 9.21, 『朝日』9.22)
DIA-304-1979-09-21-1パキスタン1979年09月21日1970年代ベナズィール女史,Dawn紙記者と会見-①PPPは禁止されてもそれに対応し得る。②PPPの総選挙参加はほとんど不可能にされてしまった。③軍事政権は形だけの「文民政府」をでっちあげようとしている。
DIA-304-1979-09-21-2パキスタン1979年09月21日1970年代政党の資産申告は最終的に64政党が行ったがPPP,NDP,PNP,またパ社会党などの左派政党は申告を拒否した(内外諸紙)。
DIA-304-1979-09-22-1パキスタン1979年09月22日1970年代マウドゥーディーJI創立者,死去。76歳。
DIA-304-1979-09-22-2パキスタン1979年09月22日1970年代政府,IMFのルピー切下げ要請を拒否(PT)。
DIA-304-1979-09-22-3パキスタン1979年09月22日1970年代ジア大統領はコハートでの演説で,パは近く平和目的のための核開発に成功しようと述べた。
DIA-304-1979-09-22-4パキスタン1979年09月22日1970年代バンス米国務長官はザブロック米下院外交委員長に対する書簡で,パの核開発阻止に関する米政府の努力はまだ奏効していないと述べた。
DIA-304-1979-09-25-1パキスタン1979年09月25日1970年代地方自治体選挙-この日,バルーチスターン州を除く3州で13年ぶりの地方選挙が実施された。立候補者はすべて無所属とされているが,PMLとJIはPNAのボイコット決定に反して選挙に参加,各地でPPPと衝突し,12~17人が死亡。ラホールの一部では軍が動員された。PPP系の立候補者は「人民の味方」グループを自称して各地で善戦,3州で議席の60~80%を獲得(Muslim 9.27-P 9.28)。27日に選挙が実施されたバルーチスターン州では一般にTI,PML,宗教政党系などの右派が勝ち,左派は敗北(NW 9.29-P 9.30)。結局,全国総議席の80%をPPP系の立候補者が獲得したといわれる(E 10.13)。なお,JIはPPPが圧勝したとのデマを官僚たちが流していると非難している。
DIA-304-1979-09-25-2パキスタン1979年09月25日1970年代選挙管理委員会,総選挙日程を発表-立候補受付け9月26~10月2日,立候補者名簿発表10月10日,選挙シンボル割当て10月13日,投票11月17日。
DIA-304-1979-09-25-3パキスタン1979年09月25日1970年代戒厳令当局,ヌスラットPPP党首を政治活動のとがで告訴(PPI通信-P 9.27)。
DIA-304-1979-09-25-4パキスタン1979年09月25日1970年代旧政府はサウジアラビアから無利子借款の第1回分割払い分1億ドルを受領。第2回分は80年6月に供与されるという(PT)。
DIA-304-1979-09-26-1パキスタン1979年09月26日1970年代ジア大統領,演説(クエッタ)-①現在の政情からすると総選挙の実施よりも国家統一とパのイデオロギーの擁護の方が重要だ。コーランには私が11月17日に総選挙を実施するとの啓示はない。②地方選挙の結果に基づく挙国一致内閣が組織されよう(PT)。
DIA-304-1979-09-27-1パキスタン1979年09月27日1970年代政党法,再び改正-ジア大統領は,総選挙前に政党の資産申告を義務づける「1979年政党法<第2次改正>令」を布告。
DIA-304-1979-09-27-2パキスタン1979年09月27日1970年代核兵器競争に懸念-クリストファー米国務副長官は,パの地下核実験強行説,パの核政策に対するインドの批判の強まりなどに鑑みてか,「南アジアにおける“核兵器競争の亡霊”に重大な関心を払っている」と,米政府の懸念を初めて表明(『日経』9.28夕)。
DIA-304-1979-09-28-1パキスタン1979年09月28日1970年代選挙法,再び改正-ジア大統領は総選挙において,無所属候補は有効票の50%以上を得なければ落選とすることを定めた「1979年国会・州議会<選挙基盤><修正>命令」(79年大統領令第17号)を布告。大統領はまた,1976年国民代表法第11条に基づく通告からその2ヵ月前までの期間にある政党の党員もしくは支持者もしくは関係者であった者の無所属立候補を禁じる「1979年国会・州議会<選挙><第3次改正>命令」(1979年大統領命令第18号)を布告。
DIA-304-1979-09-28-2パキスタン1979年09月28日1970年代タールプル国防相,現政権の暫定性を否定。
DIA-304-1979-09-28-3パキスタン1979年09月28日1970年代PNAは登録と比例代表制の拒否を最終的に決定し,立候補締切りの10月12日までの延長を要求。
DIA-304-1979-09-30-1パキスタン1979年09月30日1970年代政党登録締切り-主要政党としてはTIとJUPのみが登録。総選挙をめぐってジア大統領と交渉を続けてきたPNAはこの日までの登録を拒否。なお同日,PNA,TI,JUPなど41政党が選挙管理委員会に選挙シンボル割当てを申請。
DIA-304-1979-09-30-2パキスタン1979年09月30日1970年代シャーヒー外務顧問は国連総会出席のため訪問のニューヨークでヤズディー・イラン外相,オクチュン・トルコ外相と個別に会談を行い,RCDの必要性を強調。
DIA-304-1979-10-01-1パキスタン1979年10月01日1970年代JI単独行動-選挙管理委員会は,JIがPNAとは別個に党の登録および選挙シンボルの申請を行ったと明らかにした。5日,PNAはJIを除名。
DIA-304-1979-10-02-1パキスタン1979年10月02日1970年代選管はPPP,PNAなど未登録政党の立候補者名簿を拒否し,また登録を願い出た56政党のうちTI,JUP,JI,PMPなど16政党の登録を許可。翌3日,同16政党のうち14政党にシンボルを割合て,77年総選挙でのPPPとPNAのシンボルを凍結。
DIA-304-1979-10-05-1パキスタン1979年10月05日1970年代パ政府と国連の合同調査によるとパの幼児の72%が2歳未満で死亡している(PT)。
DIA-304-1979-10-05-2パキスタン1979年10月05日1970年代国連総会出席中のシャーヒー外務顧問はニューヨークでミシュラ・インド外相と会談。両者は南西アジアの政治状況からして両国の友好関係維持の必要があることで合意。(PT 10.7)
DIA-304-1979-10-06-1パキスタン1979年10月06日1970年代4日から行われていた会談でジア大統領とPNAは,政党登録の代りに選管の質問表に答えることなどで合意した。なお,実業家代表は総選挙を延期して経済,行政面の重要問題の解決に集中することを要求。
DIA-304-1979-10-07-1パキスタン1979年10月07日1970年代総選挙延期か-ジア大統領は大統領令により「1979年国会・州議会<選挙基盤>命令」および「1977年国会・州議会<選挙>命令」をまたも改正。これにより,立候補者届けが10月13日まで,また政党登録が10月9日まで延長された。この日の大統領の声明はこのため,総選挙の11月17日実施は困難となったが年内に実施するとしている。同7日,PPPは選挙参加を表明。
DIA-304-1979-10-09-1パキスタン1979年10月09日1970年代選挙管理委員会はPNA,PML,JUI,他1政党に対し新たに選挙参加を許可。
DIA-304-1979-10-10-1パキスタン1979年10月10日1970年代値上げ-政府は10日,砂糖の配給店小売価格のキロ当り80パイセ引上げを発表。なお,精糖業不振による品不足でパは年度内に20万トンの砂糖を輸入することになるという(D 10.14)。12日,PIA国内航空運賃25%引上げ。15日,パン公社製品15~20%値上げ。
DIA-304-1979-10-11-1パキスタン1979年10月11日1970年代チシュティー選挙室長は記者会見で,イスラームと西欧流民主主義には極端な相違があり,聖予言者ムハマッドの時代には選挙の概念などなかったと談。
DIA-304-1979-10-11-2パキスタン1979年10月11日1970年代バハーワルプルの特別軍事法廷はイギリスに逃避中のカル元パンジャーブ州知事(PPP)に対し,懲役14年および罰金50万ルピーの判決を下した(PT)。
DIA-304-1979-10-11-3パキスタン1979年10月11日1970年代パンジャーブ州で地方評議員の就任式。
DIA-304-1979-10-11-4パキスタン1979年10月11日1970年代情報筋によると,イスラーマバード近郊のカフタに建設中であったウラン濃縮工場の建設工事がおよそ2週間前に中止されたという。理由は部品の入手が思うようにいかないこと,設計上の欠陥の発見など。(G)
DIA-304-1979-10-11-5パキスタン1979年10月11日1970年代シャミーム空軍参謀長,訪中(~19日)。
DIA-304-1979-10-13-1パキスタン1979年10月13日1970年代選挙日程,またも変更-選挙管理委員会は立候補辞退締切りを10月20日まで延長するなど,選挙日程をまたも変更した。13~14日,ジア大統領は各州知事および各軍団司令官を招集して情勢を検討。
DIA-304-1979-10-14-1パキスタン1979年10月14日1970年代パンジャーブ州の335ヵ所で地方選挙のやり直しが行われた(PT)。
DIA-304-1979-10-14-2パキスタン1979年10月14日1970年代PNA,総選挙参加を拒否。
DIA-304-1979-10-14-3パキスタン1979年10月14日1970年代政府は10月8日にアフガニスタン機による領空侵犯があったとして同国に強く抗議。
DIA-304-1979-10-15-1パキスタン1979年10月15日1970年代15日付Muslin紙によると,ディール県のように伝統的にJIが圧勝的強さを誇っていた所においてすら9月の地方選挙で同党はPPPに完敗した(PPP系16議席,JI系12,NDP系2,等)(P 10.17)。
DIA-304-1979-10-15-2パキスタン1979年10月15日1970年代イギリス在住のパ人学者アブドゥッサラーム博士,ノーベル物理学賞,受賞決定。
DIA-304-1979-10-16-1パキスタン1979年10月16日1970年代総選挙,無期延期-ジア大統領,全国放送。①総選挙を無期延期。②憲法は廃棄しないが戒厳令を徹底。③全政治活動禁止。全政党の解散,事務所閉鎖,資金凍結。④反国家的新聞・雑誌の禁止,報道管制強化。⑤労働者のスト権と工場側のロックアウト権の剥奪。⑥全教育機関から政治と暴力を一掃。⑦軍事裁判所の判決に対する通常の裁判所の異議申立ては認めない。⑧近く内閣を改造。⑨真の意味での混合経済体制の確立。公共部門は基幹産業,民間が関心を示さない産業,国有化が国益に合致する産業のみ。⑩総選挙延期で生じた時間を利用して次の優先順位で以下のことを行う。i)イスラーム体制導入の迅速化,ii)国民生産増と輸出拡大,iii)日用必需品価格の適正化,iv)汚職,犯罪の抑制,V)強制労働収容所の根絶,vi)重要犯罪の軍事裁判。同16日,上記③,④に関する戒厳令規則第48,49号布告。また,戒厳総司令官に軍事裁判所および特別法延の設置権限を与える第212A条が「1979年憲法<第2次改正>命令」(大統領令)によって73年憲法に付加された。
DIA-304-1979-10-17-1パキスタン1979年10月17日1970年代政治家逮捕-PPPのヌスラット党首。ベナズィール女史,ティッカ前陸軍参謀長,TIのアスガル党首など全国で約50人の政治指導者が逮捕された。公式筋によると18日までに150人逮捕(G)。また17日,PPP機関紙Musawaatなど5紙が発禁となった。
DIA-304-1979-10-17-2パキスタン1979年10月17日1970年代全土に軍事裁判所を設置-翌18日,「機動軍事裁判所」設置。これは犯罪者をその場で即決裁判にかけ,公開鞭打ち刑に処すためのもの。
DIA-304-1979-10-17-3パキスタン1979年10月17日1970年代政府,衣類公社を廃止。
DIA-304-1979-10-17-4パキスタン1979年10月17日1970年代米政府筋によると,米政府はパの核開発を遅らせるために同国に対する高度な科学技術や機械類の売却をしないよう,日本,ヨーロッパ諸国などに働きかけているという(『読売』10.19)。また現在,ワシントンでバンス米国務長官とシャーヒー・パ外務顧問の間で核問題に関する秘密会議が行われている(『日経』10.19夕)。
DIA-304-1979-10-18-1パキスタン1979年10月18日1970年代大統領演説-報道関係者との会合で。①イスラームには西欧流民主主義の入る余地はなく,西欧流の選挙の規定もない。②戒厳令は暫定的だが,2年,4年,10年と続く可能性もある。終局的には国民の信頼を享受する政府が出現すべきだ。③検討中の新体制について国民投票を行うかもしれない(以上,D)。④総選挙延期はPNAの要請に基づく。完全に総選挙準備ができていたのはTIだけだ(Zamana-P 10.23)。
DIA-304-1979-10-18-2パキスタン1979年10月18日1970年代18日付Dawn紙によると,各地に今までで3万2000のザカート委員会が設置された。
DIA-304-1979-10-18-3パキスタン1979年10月18日1970年代イラン政府は74年にパに供与した5.8億ドルの借款の返済猶予期間を3年から5年に延長した。このため返済は80年初開始となる。
DIA-304-1979-10-19-1パキスタン1979年10月19日1970年代Far Eastern Economic Review誌は,バルーチー民族ゲリラが着実に力をたくわえてきていると詳細に報告。同記事の筆者(パ人),11月13日逮捕。
DIA-304-1979-10-20-1パキスタン1979年10月20日1970年代アッバースィー・スィンド州知事は近く同州で文民州政府が組織されると言明。
DIA-304-1979-10-20-2パキスタン1979年10月20日1970年代中国軍事代表団,来訪(~29日)-団長は張才千中国解放軍副総参謀長。21日および28日,ジア大統領と会談。28日,ジア大統領は張才千副総参謀長に「パキスタンの三日月」というパの最高勲章を贈った。
DIA-304-1979-10-21-1パキスタン1979年10月21日1970年代インドの22日付Patriot紙によると,パでブット前首相派と見られる将兵1000人以上が武装解除され,兵舎に監禁されたという(『日経』10.23)。
DIA-304-1979-10-21-2パキスタン1979年10月21日1970年代ジア大統領は本日発表のあるインタビューで次のように述べた。①イスラーム的政府設立のために近く委員を設置。②同委員会はイスラーム的選挙制度の導入に際してとくに立候補者の指名と投票権を考慮する。③わが国の識字的(15~20%)などからして,成人すべてに投票権を与えるというわけにはいかない。
DIA-304-1979-10-21-3パキスタン1979年10月21日1970年代戒厳令当局,悪徳商人などの一掃を開始。
DIA-304-1979-10-22-1パキスタン1979年10月22日1970年代ジア大統領,高級官僚に演説-①官僚は公僕として国民,政府,イスラームのために尽くせ,②私は官僚の政治化という害毒を根絶し,官僚のなかの枯木を取り除く決意だ。
DIA-304-1979-10-22-2パキスタン1979年10月22日1970年代軍事裁判所の権限を強化-ジア戒厳総司令官はパ刑法を含む通常の市民法の犯罪についても裁判権を軍事裁判所に付与する戒厳令命令第72号を布告。
DIA-304-1979-10-23-1パキスタン1979年10月23日1970年代戒厳令人事-ラヒームッディーンD地域(ベルーチスターン州)戒厳司令官は,R.M.イクバール少将を戒厳副司令官(クエッタ省担当),M.アーリフ・カーン准将を戒厳副司令官(メクラーン省担当),A.G.ターヒル准将を戒厳下位司令官(クエッタ県担当)に任命(Baluchistan Times-P 10.27)。
DIA-304-1979-10-24-1パキスタン1979年10月24日1970年代チシュティー労相は,国内および海外での,パ人熟練労働者の需要は年間10万人だが,現実には熟煉労働者は年間7000人しか育っていないと談。
DIA-304-1979-10-24-2パキスタン1979年10月24日1970年代半年ほど前まで台湾に次ぐ世界第2の規模を誇っていたパの船舶解体業は老朽化船舶の国際価格急騰のために崩壊寸前の状態にあるという(BR 10.24)。
DIA-304-1979-10-24-3パキスタン1979年10月24日1970年代政府は民間工業投資手続きを簡素化。
DIA-304-1979-10-25-1パキスタン1979年10月25日1970年代国連はアフガニスタン難民救済金1500万ドル運用のため高等弁務官事務所をイスラーマバードに設置。
DIA-304-1979-10-27-1パキスタン1979年10月27日1970年代ジア大統領,外人記者団と会見-①刑法のイスラーム化にはあと12~18ヵ月かかる。②去る16日に述べた4つの課題(法秩序問題の改善,庶民の問題が解決する程度まで経済を改善すること,裁判の迅速化,腐敗の根絶)が改善されたら総選挙を行う。③わが国の問題は政治でなく経済だ。④私は大統領と陸軍参謀長をいつまでも兼任するわけにはいかない。将来の政府機構を具体的に考える時期が来た。⑤パの核計画は平和目的のためだ。平和的核爆発というものはあり得ない。⑥アフガニスタンからシャーヒー外務顧問への招待があった。
DIA-304-1979-10-28-1パキスタン1979年10月28日1970年代本日付Viewpoint誌によると,過去2ヵ月の間に財閥系の20以上の織物工場や精糖工場が経営不振のため格安で売却され,今後もこの傾向は続くという。
DIA-304-1979-10-29-1パキスタン1979年10月29日1970年代サワール・パンジャーブ州知事は州の文民内閣が組織されようが,急いではいないと談(PT)。
DIA-304-1979-10-30-1パキスタン1979年10月30日1970年代挙国一致内閣への動き-ハルーン財閥のユースフ・ハルーン氏(M・ハルーン内相の実兄)が首相候補として近くアメリカから呼び戻される予定(NW 10.30-P 10.31)。次期内閣は軍人と若干の官僚から成ろうとの観測もある(Muslim 10.29-P 10.31)。
DIA-304-1979-10-30-2パキスタン1979年10月30日1970年代ラホール高裁は戒厳令に基づくムバッシル・ハッサン元財政省の拘禁を却下,釈放を命令(PT)。
DIA-304-1979-10-30-3パキスタン1979年10月30日1970年代政府,79/80年度春作小麦の生産目標を1047万トン(昨年度目標950万トン)に設定。
DIA-304-1979-10-31-1パキスタン1979年10月31日1970年代今月も,小規模ながら学園紡争が継続した。
DIA-304-1979-10-31-2パキスタン1979年10月31日1970年代情報筋によると,印・パ国境が緊張しているとの諸外国のラジオ報道は全く根拠がないという。
DIA-304-1979-11-02-1パキスタン1979年11月02日1970年代政府,砂糖10万トン輸入を決定。このため,約4300万ドルの外貨が流出しよう(BR 11.11)。
DIA-304-1979-11-04-1パキスタン1979年11月04日1970年代国際アムネスティは,過去20日間パでは少なくとも300人が逮捕され,80人が鞭打ち刑を受けるなど人権に関する状況が悪化していると発表(S 11.6)。7日,政府情報官は300人の逮捕を認めたが,人権の抑圧はないとした(NW-P 11.12)。
DIA-304-1979-11-04-2パキスタン1979年11月04日1970年代パ側カシミール大統領,3人の顧問評議会を設置。
DIA-304-1979-11-05-1パキスタン1979年11月05日1970年代M.ハヤート・カーン・パ側カシミール大統領,閣僚級の3人から成る顧問評議会を設置。
DIA-304-1979-11-05-2パキスタン1979年11月05日1970年代78年3月のPIA機乗っ取り未遂事件犯人,処刑。
DIA-304-1979-11-05-3パキスタン1979年11月05日1970年代閣議は,綿花輸出は綿花輸出公社のみが行い,民間業者は国内取引きに限るとの方針を再確認。26日,政府は民間に綿花輸出業務との関連を持たせるために40社に綿花輸出代理業を依願(BR)。
DIA-304-1979-11-05-4パキスタン1979年11月05日1970年代ムニール原子力委員長はロンドンのイスラーム防衛技術研究所の雑誌に寄稿,イスラーム産油諸国はいつまでも石油に依存し得ないのであり,核開発計画支援のための基金を設置すべきだと主張(NW 11.5-P 11.6)。
DIA-304-1979-11-05-5パキスタン1979年11月05日1970年代ヤズディー・イラン外相は,ロンドンのImpact International誌最新号でのインタビューで印パ両国の友好関係促進を希望(PPI-P 11.7)。
DIA-304-1979-11-06-1パキスタン1979年11月06日1970年代アブドゥル・ラハマーン(退役?)陸軍大将を団長とするパ代表団が,イランのコムでホメイニ師に会見(PT)。アメリカは最近,イランの人質問題解決のためにパの協力を求めたという(Jang 11.8-P 11.10)。また,ナーイク・パ国運大使はワルトハム国連事務総長に対し,この件でのパの協力を約した(APP-P 11.12)。
DIA-304-1979-11-07-1パキスタン1979年11月07日1970年代ラホール高裁,政党禁止を違法とするナスルッラーPDP(パ民主党-PNA内の1政党)の訴訟を受理。同日,ペシャーワル高裁はアスガル党首の拘禁を違法とするTIの訴訟を受理。
DIA-304-1979-11-08-1パキスタン1979年11月08日1970年代政府は73~77年の反乱勢力掃討作戦の被害者であるバルーチスターン州のバルーチー,パシュトゥーン人たちの救済のために8000万ルピーを使用する予定。今までに全州で5321人(スィビー地区3632人,カラート1000人,メクラーン100人,クエッタ210人)が補償要求を提出(Muslim-P 11.13)。
DIA-304-1979-11-09-1パキスタン1979年11月09日1970年代米連邦大陪審は,マネダネル・ダグラス社の最高幹部4人を,74~76年にPIAへのDC10型機売込みに際しPIA幹部と政府要人に対して1機当り40万ドルの賄賂を支払ったとして起訴。
DIA-304-1979-11-10-1パキスタン1979年11月10日1970年代カラチ市長選挙-9月の地方選挙で選出されたカラチ市評議会議員(168人)による第21代市長選でA.S.アフガニー市長選出。なお,2人の市長候補はいずれもカラチ最大のスラムであるリアーリー地区住人。
DIA-304-1979-11-10-2パキスタン1979年11月10日1970年代サワール・パンジャーブ州知事はM.H.バクシュ社会福祉顧問を任命。一方,S.H.ハッサン灌漑顧問,辞任。このポストはA.G.バッティー農業顧問が兼任することになった。(PT)
DIA-304-1979-11-11-1パキスタン1979年11月11日1970年代陸軍法改正-ジア大統領は「1979年陸軍<改正>令」(79年大統領令第LX号)を布告。これは,政府は必要に応じ陸軍副参謀長に対し陸軍参謀長の権限を付与(「代行」という用語なし-筆者)し得るとしている(MN 11.13-P 11.17)。
DIA-304-1979-11-11-2パキスタン1979年11月11日1970年代ジア大統領は新聞編集長との会合で,内閣改造ないし挙国一致内閣のうわさを否定。同日,実業界代表団との会見で,アメリカはパの核開発阻止のためにルピー切下げの圧力をかけていると明らかにした。
DIA-304-1979-11-13-1パキスタン1979年11月13日1970年代ジア大統領,北方地域視察-13日ギルギットで,軍人に次のように演説。①総選挙延期と現政府のいま少しの留任はわれわれの一致した決定だった。②わが国の本当の問題は政治ではなく経済上のものだ。過去2年間の措置は望ましい結果を産まなかったが,先月の戒厳令による諸措置は肯定的結果を示しつつある。
DIA-304-1979-11-14-1パキスタン1979年11月14日1970年代ラヒームッディーン・バルーチスターン州知事,近い将来に州政府が組織されることはないと言明。
DIA-304-1979-11-14-2パキスタン1979年11月14日1970年代政府,国家兵砧(たん)委員会を設置。
DIA-304-1979-11-14-3パキスタン1979年11月14日1970年代ラホール高裁,レガーリーPPP書記長代行の拘禁を違法とする訴訟を受理(Sadaqat-P 11.16)。
DIA-304-1979-11-14-4パキスタン1979年11月14日1970年代インドに対するパの入超は過去3年間に75%縮小された(BR 11.14)。
DIA-304-1979-11-15-1パキスタン1979年11月15日1970年代ジア大統領,パ側カシミール視察-ムザッファラーバードで演説。①カシミール問題が国連決議に基づいて解決されない限りインドとの真の友好はあり得ない。②デサイ前インド首相は私に対して訪印を2,3度もちかけ,カシミールについても協議すると言明した。③ザカート制の機能開始はシーア派など諸宗派間の調整がつきしだい実施。④イスラームの観点に基づく民法編纂が進展中で,2,3ヵ月内に完了しだい導入。
DIA-304-1979-11-15-2パキスタン1979年11月15日1970年代ルピーの対ルーブル切下げ-パとソ連はイスラーマバードで,80年1月1日からルピーの対ルーブル平価を1ルーブル=13.50ルピーから14.50ルピーに切り下げる協定に調印。
DIA-304-1979-11-18-1パキスタン1979年11月18日1970年代カラチ高裁は党事務所閉鎖を違法とするTIの訴訟を受理(Sadaqat-P 11.22)。
DIA-304-1979-11-18-2パキスタン1979年11月18日1970年代18日付各紙は「耐乏生活」の見本として自転車で登庁するジア大統領の写真を第1面トップに掲載。
DIA-304-1979-11-19-1パキスタン1979年11月19日1970年代ラホール高裁弁護士協会は憲法の完全な形での回復,80年3月末までに総選挙実施,民主主義回復,軍事政権退陣などを要求する決議を採択。
DIA-304-1979-11-19-2パキスタン1979年11月19日1970年代IMFとの会議-5日からのイスラーマバードでの予備会議のあと,19~20日,パ政府とIMFの本会議が行われた。20日,政府高官筋はルピー切下げを否定するとともに,国際収支改善のために近くIMFから1.5億ドルが供与されようと明らかにした。
DIA-304-1979-11-21-1パキスタン1979年11月21日1970年代ジア大統領はラーワルピンディー市内を視察した後,同市評議員に対して演説,総選挙実施が6ヵ月先か,2年先か,5年先きになるかについては今は言えないが,軍政を長期化させたくはないなどと述べた。
DIA-304-1979-11-21-2パキスタン1979年11月21日1970年代グジュラーンワラー近郊の農村で小作人と地主が衝突し,地主が殺害された(D 11.26)。
DIA-304-1979-11-21-3パキスタン1979年11月21日1970年代米大使館に放火-21日のメッカのアル・ハラム大モスク占拠事件に関し,「アメリカとイスラエルが関与」とのうわさが国内で広まり,これに激怒したJI(スンニー派)系のイスラーマバード大学のイスラーム学生協会(JTI)学生が中心となって米大使館を襲撃,放火。同大使館は完全に破壊された。この事件で米人大使館員2人,パ人学生2人が死亡。派遣された軍人は群衆の鎮圧にさして関心を示さなかったといわれるが,大使館員をヘリコプターで救出。同日ラーワルピンディー,ラホール,カラチ,ペシャーワル,クエッタなどでも米領事館,米文化センター,英領事館,サウジ航空会社などが襲撃された他,対米抗議のゼネスト。同日,カーター大統領はこれらの事件でパ政府に対し懸念を表明するとともに,米外交官の家族らにパからの引揚げを命令。ジア大統領,米に陳謝。同大統領はまた,同日の全国放送においてメッカ事件に対する懸念を表明し,国民の気持ちは分るが外国の大使館を保護するのがイスラームの教えだと述べた。同日,政府は首都圏の全教育機関の2日間の閉鎖を発令。(以上,内外紙誌)
DIA-304-1979-11-21-4パキスタン1979年11月21日1970年代国連第1委員会はパ提案の南アジア非核武装地域設置に関する決議案を86対3(棄権38)で採択。反対はインド,ブータン,モーリシャス(D 11.23)。
DIA-304-1979-11-22-1パキスタン1979年11月22日1970年代イスラーム暦元旦-これに先立つ19日,ジア大統領はイスラーム暦14世紀最終年(1400年)の開始に際し,全世界9億のイスラーム教徒に団結を呼びかけ。20日,ブローヒー「遷都(ヒジラ)祭典委員会」委員長は今後2年間にわたる同祭典開始に際し,「イスラーム総合大学」建設の予定,首都および各州都に「遷都記念塔」の建設,論功行賞の付与などの措置を発表。
DIA-304-1979-11-22-2パキスタン1979年11月22日1970年代イランのホメイニ師,パの反米暴動を称賛。
DIA-304-1979-11-23-1パキスタン1979年11月23日1970年代赤字財政-79/80年度の最初の2ヵ月(7~8月)の財政赤字は,78/79年度の70億ルピーおよび79/80年度の財政赤字予定30億ルピーに対し,すでに30億ルピーを超えた(FE 11.23)。
DIA-304-1979-11-23-2パキスタン1979年11月23日1970年代華国鋒中国主席,イラン,パの米大使館襲撃事件で初めて見解を発表し,早期解決を希望。
DIA-304-1979-11-23-3パキスタン1979年11月23日1970年代ニアーズィー海軍参謀長,トルコ訪問。
DIA-304-1979-11-24-1パキスタン1979年11月24日1970年代政府はイランとアメリカの紛争に憂慮を表明するとともに,イランの国連安保理開催要請を支持する国連事務総長あての書簡を発表。
DIA-304-1979-11-25-1パキスタン1979年11月25日1970年代北西辺境州政府は州の高級官僚43人を免職。
DIA-304-1979-11-25-2パキスタン1979年11月25日1970年代イスハーク財政相,トルコ訪問(3日間)。
DIA-304-1979-11-26-1パキスタン1979年11月26日1970年代PIA機墜落-サウジアラビアでの聖地巡礼を終えた人々および大モスク事件の釈放人質(以上,パ人)154人,外国人2人の計156人の全員が死亡。
DIA-304-1979-11-26-2パキスタン1979年11月26日1970年代ムザッファルガルで職務怠慢の警官92人,停職。
DIA-304-1979-11-26-3パキスタン1979年11月26日1970年代政府,イスラーマバードとラーワルピンディーの全カレッジおよびカーイデ・アーザム大学を12月1日まで閉鎖。
DIA-304-1979-11-27-1パキスタン1979年11月27日1970年代閣議は,新聞などの出版物の出版者,編集者を逮捕令状なしで逮捕する権限を警察に与えるための刑法改正を承認した。
DIA-304-1979-11-27-2パキスタン1979年11月27日1970年代パ国営放送によると,アフガニスタンからの難民は登録済みの者だけで31万人を超えた。
DIA-304-1979-11-28-1パキスタン1979年11月28日1970年代ジア大統領はタクスィラの戦車再生工場(名称Heavy Rebuild Factory)竣工式で,軍需品自給達成努力を強化するなどと演説。同工場は中国援助により3年半で完成したもので敷地は5万平米を超える。式典には徐以新駐パ・中国大使も出席した。
DIA-304-1979-11-28-2パキスタン1979年11月28日1970年代国連の第1委員会は,非核武装国の安全保障に関するパの決議案を99対0(棄権21-主に西欧諸国およびインド)で採択。中・ソともにこれを支持。
DIA-304-1979-11-29-1パキスタン1979年11月29日1970年代エクルンド国際原子力機関(IAEA)事務局長は12月4日からの同機関総会出席のため訪問中のニューデリーで記者会見,同機関はパの原子力開発に関して9月までに70回の検査を実施したが,同国が核を軍事目的に利用しようとしているとの報告はないと言明。
DIA-304-1979-11-30-1パキスタン1979年11月30日1970年代23日から来訪予定であった世銀プロジェクト視察団,来訪を延期(Muslim-P 12.3)。
DIA-304-1979-12-02-1パキスタン1979年12月02日1970年代全国でアシュラ殉教祭。この日,北西辺境州D.I.カーンでシーア派とスンニー派が衝突,警官隊の発砲で1人死亡。同地では外出禁止令が出された。
DIA-304-1979-12-02-2パキスタン1979年12月02日1970年代先月21日の米大使館事件で死亡した学生の家族に対する補償およびハンメル駐パ・米大使を殺人罪で告訴することを要求する学生1000人と警官隊がラーワルピンディーで衝突,50人逮捕(S)。
DIA-304-1979-12-03-1パキスタン1979年12月03日1970年代ジア大統領,バルーチスターン州を視察(~4日)-3日,同州知事と同州の開発,治安状況などで協議。同日,記者会見。①戒厳令強化は国民に評価されている。戒厳令は私がいる限り続く。②地方自治体評議員たちを入閣させることは今は考えていない。③新たな土地改革は行わないが,今までのものを完全に実施する。4日の記者会見で,イランに対する武力使用は非建設的だとの意見をアメリカに伝えたと明らかにした。
DIA-304-1979-12-03-2パキスタン1979年12月03日1970年代スィンド州政府はカラチの「コーラン教義協会」および「パキスタン予言者最終性保存協会」の出版物2点を,「国民間に憎悪を引き起こす」として発禁。
DIA-304-1979-12-04-1パキスタン1979年12月04日1970年代スィンド州政府,ズルフィカーラバードSub-DivisionをカースィムSub-Divisionと改称。
DIA-304-1979-12-04-2パキスタン1979年12月04日1970年代ハルーン宗教相,ザカートとウシャルの75%は地方で使用するが25%は国庫に納入と談。
DIA-304-1979-12-05-1パキスタン1979年12月05日1970年代中央銀行年次報告書出来(参考資料参照)。
DIA-304-1979-12-05-2パキスタン1979年12月05日1970年代イスラーマバードでインド大使館員がスパイ現行犯で逮捕された。政府,インドに抗議。9日,インド外務省は同上の逮捕があったことを否定し,自国の大使館員が乱暴されたものとした。10日,パ外務省はこの事件を再確認。(PT)
DIA-304-1979-12-05-3パキスタン1979年12月05日1970年代パ初の女性大使,任命(駐ガーナ)。
DIA-304-1979-12-08-1パキスタン1979年12月08日1970年代ジア大統領,記者会見-①私は新たな政治体制を築くかもしれない。現在,幾つかの案を検討中。②政府がイスラーム諸法の実施に無関心というのは当らない。政府は現在,その実施上の技術的問題を解決しつつある。③核開発計画の進捗状況は満足すべきだ。その結果を確信をもって発表するにはあと1年ほどかかろう。④米大使館事件のパ・米関係に対する影響はない。
DIA-304-1979-12-08-2パキスタン1979年12月08日1970年代アッバースィー・スィンド州戒厳司令官は「不法占拠地開発命令」を布告。これは,都市部を中心とする公共用地の不法居住者に代替地を提供するなどの措置をとって,公共地を開発するためのもの。
DIA-304-1979-12-08-3パキスタン1979年12月08日1970年代地方議員失格法-ジア大統領は,去る9月の地方自治体評議員選挙において政党に関与した形で当選したものを向こう4年間失格とする「1979年首都圏地方自治体<改正>令」を布告。
DIA-304-1979-12-08-4パキスタン1979年12月08日1970年代政府はインド訪問者に対する外貨割合てを75ドルから45ドルに削減した(BR)。
DIA-304-1979-12-08-5パキスタン1979年12月08日1970年代中国銀行代表団,来訪(~15日)-卜明団長以下5人。12日,ジア大統領に会見。15日,イズハールル・ハック商業次官と貿易拡大などで協議。
DIA-304-1979-12-08-6パキスタン1979年12月08日1970年代政府はアフガニスタン政府に対し,アフガニスタン軍用機による去る6日のパ領空侵犯ならびにチトラール自治区村落(複数)爆撃に厳重抗議。
DIA-304-1979-12-09-1パキスタン1979年12月09日1970年代国際アムネスティの79年報告書によると,パでは79年5月現在7000人の政治囚(ほとんどはPPP党員・支持者)がいた。同報告書はまた,パの法相の説として年間800人が処刑されているとしている。(S)
DIA-304-1979-12-09-2パキスタン1979年12月09日1970年代ジア大統領,在外大使会議を招集(緊急,予定外)-招集されたのは米,英,ソ,中,アフガニスタン,インド,イラン,トルコ駐在のパ大使および国連のジュネーブ代表部駐在のパ代表。会議は南~南西アジア地域に関し具体的結論に達したといわれる。11日,会議終了後,外務省情報官,記者会見。①インドとの関係正常化促進策を継続。②アフガニスタンによる挑発にもかかわらず同国との友好関係を目指す。③イランとの協力を2国間ベースで促進。④イランとアメリカの緊張関係は世界平和に対する脅威だ。両国の問題はイランの正当な利益を考えて平和裡に解決されるべきだ。
DIA-304-1979-12-11-1パキスタン1979年12月11日1970年代ラホール高裁は去る10月16日のパンジャーブ州政府によるMusawaat紙印刷所の押収を違法と判決。12日,同印刷所返還の数分後,サワール・パンジャーブ州戒厳司令官は戒厳令により同紙を発禁処分とした。
DIA-304-1979-12-11-2パキスタン1979年12月11日1970年代スィンド州戒厳令当局による悪徳商人などからの罰金徴収により,11月10日~12月10日の間に同州政府は2500万ルピーの新財源を得た。1人で支払った罰金の最高額は900万ルピー。(情報源不明-P 12.14)。
DIA-304-1979-12-11-3パキスタン1979年12月11日1970年代中央銀行はカラチ市の14の民間金融機関の営業を停止してその不正を調査しているが,既にこれらの金融機関の社長などの多くが預金を「硬貨」に代えて外国へ逃亡している。一方,預金を横領された人々がこれらの金融機関の雇用者に暴行を加えるため全パ金融機関雇用者協会(5万人)は政府に保護を求めた。(Muslim 12.10-P 12.12, PT 12.12)
DIA-304-1979-12-11-4パキスタン1979年12月11日1970年代政府は,在外パ人の投資促進のために国営企業相互基金(SEMF,6億ルピー)の設立を決定。
DIA-304-1979-12-11-5パキスタン1979年12月11日1970年代WAPDAは職員数の即時削減(管理職10~20%,他は30%)を決定(PT)。同様に,政府の経費削減策にしたがって他の政府関係機関や政府諸局が廃止される見込みである(APP-P 12.18)。
DIA-304-1979-12-11-6パキスタン1979年12月11日1970年代物価統制令-ジア大統領は,「1979年物価統制および暴利・退蔵防止<改正>令」を布告,生活必需品の値上げを物価統制長官による許可制とした。
DIA-304-1979-12-12-1パキスタン1979年12月12日1970年代第1回カラチ市評議会は,アフガニー市長の選出に疑義を唱える「自由評議員」派が「統一グループ」派と連帯して市長支持派(少数派)を罵倒,混乱。
DIA-304-1979-12-12-2パキスタン1979年12月12日1970年代パンジャーブ州で地方評議会特別議席2726の選挙。15日,9月地方選挙当選者のうち失格とされた人々の362議席について補充選挙。
DIA-304-1979-12-15-1パキスタン1979年12月15日1970年代関係当局は,カラチ製鉄所の第1番炉の火入れは80年12月の予定,第2段階完成は83年,全面操業開始は84~85年,今までに計画の193.5億ルピーのうち108.4億ルピーを費消したと発表。
DIA-304-1979-12-17-1パキスタン1979年12月17日1970年代中央銀行は10万ドル以上の外貨定期預金の利率を15.75~15.88%から14.35~14.5%に引き下げ。
DIA-304-1979-12-17-2パキスタン1979年12月17日1970年代政府は,シャーヒー外務顧問は12月22~23日にアフガニスタンを訪問すると発表。22日,この訪問はさらに30~31日に延期された。
DIA-304-1979-12-18-1パキスタン1979年12月18日1970年代ジア大統領は,報道分野における名誉殻損に対する処罰をさらに厳しくする「1979年刑法<改正>令」を布告。報道関係者,猛反対。
DIA-304-1979-12-18-2パキスタン1979年12月18日1970年代ジア大統領はノーベル賞受賞のアブドゥッサラーム教授に対する名誉博士号授与式で演説,学生自治会の禁止を含む大学に関する法令を検討中と言明。
DIA-304-1979-12-20-1パキスタン1979年12月20日1970年代パンジャーブ州で地方評議会議長選挙。21日,ラホール市評議会議員110人のうちPPP系の55人はラハマーン新市長に反対して,ラフィー・シェイク氏を「新市長に選出」した。23日,ラーワルピンディーで新市長など6人,失格。
DIA-304-1979-12-20-2パキスタン1979年12月20日1970年代IMF,対パ1.6億ドルの借款供与を承認(PT)。同日,世銀はWAPDAに対する8000万ドルの借款供与を承認(PPI 12.21-P 12.23)。
DIA-304-1979-12-22-1パキスタン1979年12月22日1970年代戒厳令当局は10月17日に逮捕または自宅軟禁されたティッカ前陸軍参謀長などPPP指導者7人を釈放。この頃,他にも釈放続く(多くは高裁命令)。
DIA-304-1979-12-24-1パキスタン1979年12月24日1970年代政府はOPECの原油値上げにより79/80年度の負担増は2億ドルになるとして,レギュラー・ガソリン1リットル当り3.61ルピーを4.25ルピーとするなど,石油製品の大幅値上げを発表。
DIA-304-1979-12-24-2パキスタン1979年12月24日1970年代ジア大統領,サウジアラビア訪問(~26日)-随員はシャーヒー外務顧問,イスハーク財政相,ハルーン宗教相など。同日,ハーリド国王と会談。26日,帰国後の記者会見。①この訪問はイランとアメリカの問題には無関係。②湾岸地域の安全保障および共同防衛についても協議しなかった。③イスラーム諸国の団結の必要についてファハド皇太子との間で意見が一致。④国王および皇太子との会談は非常に有用だった。
DIA-304-1979-12-25-1パキスタン1979年12月25日1970年代ジア大統領の招待でロンドンから一時帰国中のハルーン財閥のユースフ・ハルーン氏は,ビゼーンジョーPNP党首をクエッタからカラチへ呼び寄せて会談を行った(NW 12.27-P 12.28)。
DIA-304-1979-12-26-1パキスタン1979年12月26日1970年代ラホールで宗派衝突,1人死亡(PT)。
DIA-304-1979-12-26-2パキスタン1979年12月26日1970年代シャーヒー外務顧問,イラン訪問(~28日)-同日,ゴトブザデ外相と会談。27日,ホメイニ師に会見。28日,テヘランのパ大使館が声明を発表。①ジア大統領はホメイニ師への親書でイラン革命に対するパの完全な連帯を表明した。②シャーヒー外務顧問はホメイニ師に対し,現在の危機に武力で対処すること,またイランの資産を凍結することに対しパの強い反対を表明。③国連によるイランとアメリカの問題の解決の努力において,イランが国連の平等性の確約を得る必要がある。
DIA-304-1979-12-26-3パキスタン1979年12月26日1970年代スィンド州政府は,Pakistan’s Islamic Bomb(D.K.Palit少将,P.K.S.Namboodiri著)というインド出版の本の販売を禁止,押収(MN)。
DIA-304-1979-12-27-1パキスタン1979年12月27日1970年代アフガニスタンで政変-同日,カールマル新革命評議会議長は,イラン,パなどの近隣諸国との友好を保つと言明。この政変に先立つ25~26日,ソ連は6500人(米政府情報)の戦闘部隊をカーブルに空輸していたが,その数は現地時間30日までに2.5~3万(同)に達した。(内外諸紙)
DIA-304-1979-12-27-2パキスタン1979年12月27日1970年代政府はラーワルピンディーのレザー・シャー・パーレヴィー道路を元のマリー道路と改称(PT)。
DIA-304-1979-12-28-1パキスタン1979年12月28日1970年代PIA,国際運賃を1月1日から3%引き上げ。
DIA-304-1979-12-28-2パキスタン1979年12月28日1970年代政府は,中東産油国の雇用主がパ人労働者を雇用する場合,最低賃金(非熟煉労働者=153~203ドル,高等熟練労働者=300~508ドルなど)の保証など,パ人出稼ぎ者の労働条件改善を義務づけた(PT)。
DIA-304-1979-12-29-1パキスタン1979年12月29日1970年代ジア大統領,記者会見-①1月中旬までにジャーナリスト,経済学者,科学者,技術者,などから成る一種の諮問委員会を設置することを検討中。②報道検閲について考え直すこともあり得るが,報道関係者が責任ある態度をとることが条件だ。③アフガニスタンにおける最近の情勢展開は重大な問題を引き起こした。
DIA-304-1979-12-29-2パキスタン1979年12月29日1970年代政府,ソ連軍撤退を要求-パ政府はソ連のアフガニスタン侵攻後初めての声明において,「外国軍の対アフガニスタン導入は平和共存の規範に対する重大な侵害である」として「外国軍が直ちに撤収されることを希望する」としている。同日,パ外務省は30~31日予定のシャーヒー外務顧問のアフガニスタン訪問を取り消した。30日,政府は重ねてソ連のアフガニスタン侵攻に重大な懸念を表明し,また難民流入増への懸念を表明。
DIA-304-1979-12-29-3パキスタン1979年12月29日1970年代米の対パ武器援助-29日(米時間28日),対パ武器援助のテンポを速めるとのカーター米大統領の指示が出された。31日(米時間30日),ブレジンスキー大統領補佐官は,もしパが侵略されれば米政府は武力行使を含む適切な措置をとると警告。
DIA-304-1979-12-30-1パキスタン1979年12月30日1970年代政府,79/80年度輸出目標を19億ドルから21.2億ドルに引き上げ。
DIA-304-1979-12-31-1パキスタン1979年12月31日1970年代本年中に,紙上で判明した者だけで少なくともさらに30人が国会・州議会の被選挙権を剥奪された(パ本土20人,パ側カシミール11人)。