ID 国名 日付 年代 内容
DIA-602-1969-01-01-1ソ連1969年01月01日1960年代チェコ連邦政府新閣僚任命-チェルニーク首相,ズール国防相らは留任。なお,スロバキア民族評議会は連邦制発足(1日)と共に成立したスロバキア社会主義共和国の政府を選出した。
DIA-602-1969-01-01-2ソ連1969年01月01日1960年代タジックスタン共産党中央委に対する叱責-「党生活誌」69年第1号は,タジックスタン共産党中央委員会の活動には多くの欠陥があり,工業・農業の指導に重大な怠慢がみられるとのソ連邦共産党中央委員会の決議を掲載した。
DIA-602-1969-01-05-1ソ連1969年01月05日1960年代ソ連内に反政府グループ-北京5日発新華社電は,ソ連に革命組織「ソ連におけるマルクス・レーニン政党再建のための戦士委員会」が存在することを明らかにし,同組織が配布した文書「英雄の鮮血と裏切り者の恐怖」を発表した(北京周報)。
DIA-602-1969-01-12-1ソ連1969年01月12日1960年代人民統制委活動規則-イズベスチヤ紙12日は,「ソ連邦中央委と同閣僚会議はこのほど人民統制委員会の活動規則を承認した」としてその内容を発表した。
DIA-602-1969-01-14-1ソ連1969年01月14日1960年代ソ連の石油輸出-ヘラルド・トリビューン・の報道によると,ソ連石油採掘工業相V.D.シャシンは次のように述べた。ソ連の原油輸出を今後,従来のようなテンポで増やしてゆくことはできないであろう。東欧への大量の輸出は長期協定に基づいて実施を続けるが,西側への輸出は増やせるかどうか疑問である。68年の原油生産3億0900万トンのうち,5700万トンを原油のままで,2500万トンを精油として輸出した。将来の石油増産は主としてオビ河附近の西シベリアの開発に頼る予定であるが,湿地,森林,輸送の隘路,厳冬などのため,開発は若干遅れている。現在の計画によれば,75年には西シベリアで約7500万トンの石油を生産することになっている。71年までには西シベリアの油田はシベリア全体の需要を満すようになり,余剰はヨーロッパ部に送られることになろう。今ひとつの開発予定地はカスピ海東北沿岸であって,ここでは1975年までに3700万トンの石油を生産することになっている。 東欧とソ連をむすぶ友好パイプラインの現在の能力は年間4000万トンであるが,将来1億トンにまで増強されよう。目下のところ,シベリアから太平洋沿岸ヘパイプラインを敷設する計画はない。
DIA-602-1969-01-15-1ソ連1969年01月15日1960年代プラハ青年集会が反ソ宣言-プラハで15日夜同市の全青年組織,ジャーナリスト,芸術家,金属労働者,印刷労働者の代表千人以上を集めて集会が開かれ,この席上ソ連に対する挑戦的な宣言が発表された。これは16日のチェコチロバキア共産党中央委員会に先立って開かれたもので,宣言の最大の特徴は慣例の「ソ連その他社会主義諸国との友好」ということばがなく「ソ連人民およびその他社会主義諸国との善隣関係」とされ,またこれとともに「8月21日(ソ連・東欧軍の介入)は友好にとり長期にわたる障害となろう」としていることである。宣言はまた,“内政問題”に関する検閲の廃止,党大会の招集,「8月21日に関するあらゆる堕落した様相」を除くため,ソ連との交渉を準備することなど6項目の要求を提示した。
DIA-602-1969-01-16-1ソ連1969年01月16日1960年代ソユーズ4・5号ドッキング成功-ソ連は16日ソユーズ4号・5号で世界で初めて有人宇宙船同士のドッキングに成功,地球をまわる軌道上に有人宇宙実験ステーションをつくりあげ,さらに5号の2飛行士が4号に乗り移る試みに成功した。
DIA-602-1969-01-20-1ソ連1969年01月20日1960年代宇宙ステーション建設が第1目的-タス通信は,「有人の実験軌道ステーションをつくるための国家委員会が設立された」と報じた。
DIA-602-1969-01-22-1ソ連1969年01月22日1960年代赤の広場で狙撃事件発生-23日,タス通信は,22日ソユーズ4・5号の宇宙飛行士が赤の広場にさしかかったとき,ベレゴボイ飛行士らの車に「数発の銃弾がうちこまれた。このため運転手と,護衛のオートバイの運転手が負傷した」と発表した。犯人はただちに逮捕され,ソ連外務省は精神異常者と発表した。AFP電によると犯人は22歳くらいの青年で軍服を着ていたという。狙撃されたソ連宇宙飛行士の乗ったオープンカーの後方には,ブレジネフ書記長,ポドゴルヌイ最高会議幹部会議長が乗った車も続いていたところから,一部には犯人はブレジネフ書記長をねらったのではないかとのうわさも生まれているが,確認されていない。
DIA-602-1969-01-23-1ソ連1969年01月23日1960年代コメコン総会終る-21日より開催,発表されたコミュニケによると,いわゆる「経済統合」問題について進展がみられなかったもようである。なお,この総会には加盟国のほかユーゴスラビアが特別参加した。
DIA-602-1969-01-27-1ソ連1969年01月27日1960年代チェコスロバキア共産党中央委,秩序回復の訴え-16日に,チェコスロバキアのカレル大学学生ヤン・パラフ(21歳)がソ連軍の進駐に抗議して焼身自殺をとげて以来,DPAによると30日までに15人が同様の焼身自殺をはかった。25日,パラフ青年の追悼会・デモが行なわれたが,主催者側によれば参加者は約50万人にのぼったという。26,27日にも追悼デモが行なわれた。27日夜,中央委幹部会は声明を発表,「大衆の間にはいぜんとして緊張が続いており,騒擾をひきおこそうとする新たな企て,反社会的な,または反社会主義的な意図を持つ挑発すらも予想せねばならない。ゆえに幹部会は全党員が党指導部,共和国大統領,政府の静穏をとり戻そうとする努力を積極的に支持するよう求める」と訴えた。
DIA-602-1969-01-29-1ソ連1969年01月29日1960年代米,チェコ国境で演習-2月4日まで実施。規模はここ5年以来最大とされており,約1万5500人が参加する。
DIA-602-1969-01-29-2ソ連1969年01月29日1960年代チェコスロパキア連邦会議開催-連邦制度下における第1回めの会議で連邦会議人民会議議長にはJ.スムルコフスキー前国民議会議長を,連邦会議民族会議議長にはD.ハネシュを選任した。
DIA-602-1969-01-29-3ソ連1969年01月29日1960年代北京放送,パラフ追悼集会を論評-「チェコ人民の怒りを深く反映したものであり,」抵抗の意思を示したものとして歓迎と激励の意を表明した。
DIA-602-1969-02-03-1ソ連1969年02月03日1960年代シェレーピン政治局員カイロ訪問-A.シェレーピン政治局員は「アラブ労働組合4回国際会議出席のため」1月よりカイロを訪問「アル・アハラム」紙によると1月31日ブレジネフ書記長の親書をナセル大統領に手渡し,2日同大統領と会見,その内容を協議,3日帰国した。なお,プラウダ紙は1月25日にソ連の中東解決案を公表している。
DIA-602-1969-02-05-1ソ連1969年02月05日1960年代日本共産党,世界党会議不参加を発表
DIA-602-1969-02-05-2ソ連1969年02月05日1960年代指導者の責任を強調する論文-イズベスチヤ紙5日は,「国家規律」と題する論文を掲載,「国家規律とは法と作業計画,集団ならびに責任者間の相互義務の履行,下級レベルの上級機関への服従の謂である。」が,従来経済計画が未遂行に終った場合でも,その責任が何処にあるか明かにされないで済むことが多かったが,「計画未達成の影には必ず貴任者がいる筈である」から,その点明確にすべきであると主張した。
DIA-602-1969-02-11-1ソ連1969年02月11日1960年代トルード紙の異色の論調-ヘラルド・トリビューン紙13日はA.シューブ記者の最近の労働組合機関紙(労働組合中央評議会議長はN.シェレーピン政治局員)の論調がソ連諸紙のうちでも異色であるとの記事をかかげ,その例として11日付のプラウダ紙がベルリンで西独大統領選挙を実施することにかんする東独の諸措置(西ベルリンへの交通制限など)を詳しく解説したのに比べ同日のトルード紙はこれにほとんど注意を払わず,「欧州保全保障のために交渉のテーブルにつく時が来た」と強調したこと,農業の不振に注意を喚起したこと,多くの場合ブレジネフ書記長の扱いの小さいことなどを指摘した。なお,同紙は9日に「指導者の権威」と題する社説をかかげ「…適当な時期に指導者の誤りを正す措置をとることは労働組合の義務である。」こと,労働組合は「経済指導者と緊密な連絡のうえで仕事をせねばならぬこと」などを強調している。
DIA-602-1969-02-13-1ソ連1969年02月13日1960年代ソ連政府が西独非難声明-タス通信が15日明かにしたところによると,ソ連政府は13日,西独政府に対して連邦大会議の西ベルリン開催は4大国協定違反であること,こうした挑発的陰謀には断固反撃すること,そのさいの責任は西独政府にあることなどの内容の声明を伝達した。
DIA-602-1969-02-13-2ソ連1969年02月13日1960年代ワルシャワ条約加盟国軍事代表者会議-10日より東ベルリン訪問中であったヤクボフスキー司令官の「指導のもとに」各加盟国の参謀長,国防次官などを集めて開催,ルーマニアも参加した。
DIA-602-1969-02-13-3ソ連1969年02月13日1960年代日ソ航空交渉妥結調印-2月6日より東京で交渉開始,13日原田運輸相とロギノフ航空相の間で覚え書調印。内容は次のとおり。①日本のモスクワ線自主運航は遅くとも昭和45年3月末までに実現する。②それまでは現在の日ソ共同運航を続ける。③現行の週1便をふやし,同時に使用機種をIL62型機に代える,④万国博のため大阪=ハバロフスク間に共同のチャーター便を飛ばす,⑤自主運航開始後,大阪=ハバロフスク線にチヤーター便,貨物便の開設を協議するなどである。この結果,わが国は世界で初めてのシベリア上空を飛べる権利を獲得した。日本航空は自主運航と同時にモスクワ以遠の欧州便を計画している。
DIA-602-1969-02-13-4ソ連1969年02月13日1960年代タジックスタン共産党中央委総会-13日付プラウダ紙は,タジックスタン共産党中央委が開催され(2月4日),D.ラスロフ第1書記がタジックスタン党の活動にかんする連邦中央委員会の決議とその実行について報告,欠陥是正に努めることを公約したと報じた。
DIA-602-1969-03-01-1ソ連1969年03月01日1960年代グレチコ国防相インド訪問-10日までインドに滞在,パキスタンを経て15日帰国,トルケスタン軍管区司令N.リヤシチェンコ上級大将以下が同伴。
DIA-602-1969-03-01-2ソ連1969年03月01日1960年代西ペルリン周辺で合同演習-ソ連・東独軍合同で7日まで。これよりさき,2月29日,ソ連政府は東独政府に対し西独=西ベルリン間の通行制限を強化するよう申し入れており,また2日には5日の西ベルリンで施行される大統領選挙への代議員の「空路の西ベルリン旅行の安全を保証しない」と声明を発表,いずれも大統領選挙への圧力とみられる。
DIA-602-1969-03-02-1ソ連1969年03月02日1960年代ダマンスキー島で中ソ国境警備隊交戦-2日早朝ウスリー江上の小島ダマンスキー島において中ソ両国国境警備隊が衝突,銃火を交えて死傷者を出した。この事件についてソ連側は当初小さくしか報道しなかったが5日トルード紙が詳報をのせ,7~8日以降各報道機関いっせいにキャンペーンを開始した。
DIA-602-1969-03-14-1ソ連1969年03月14日1960年代69昨年度日ソ貿易協定調印-交渉は1月13日より開始,大和田駐ソ臨時大使代理,セミチャストノフ外国貿易相第1代理らが参加しておこなわれ,2月26日実質的に妥結。交渉は日本からの消費物資の輸出額をめぐって双方が対立,一時難航したがソ連側がわずかに譲歩,メリヤス縫製品,毛織物またはジャージー,皮ぐつ類の消費物資3品目の輸入額を少しずつ増額することでまとまった。67年の対ソ輸出3億5600万ドル,同輸入3億4700万ドル,合計7億0300万ドルで昨年の実績に比べて21%の増加が予定された。過去2年間の貿易実績は日本の大幅な輸入超過だったため,日本側は交渉で貿易の不均衡是正に主力をおき,日本の輸出を伸ばすための具体的な努力として,新しい輸出品目を盛ることにつとめ①極東森林資源開発に関する基本契約に伴う設備機械資材および消費物資②鉄道車両③鉄道車両部品④ブリキ⑤塩化ビニール樹脂⑥エチレン・グリコール⑦カーボン・ブラツクの7品目計2500万ドルを新たに加えた。
DIA-602-1969-03-15-1ソ連1969年03月15日1960年代再びダマンスキー島で交戦-タス通信は,14・15日の両日中ソ両国国境警備隊が再びダマンスキー島で交戦したことを明かにした。今回は各報道機関は16日以降足並みを揃えて大々的な反中国キャンペーンを行なった。
DIA-602-1969-03-15-2ソ連1969年03月15日1960年代米軍偵察機撃墜事件にかんするソ連の反応-米国防総省は,厚木基地より発進した偵察機1機が行方不明になったと発表,本国でロジャーズ米国務長官はドブルイニン駐米ソ連大使と会談して捜索に協力を要請した。米国防総省はこの後ソ連駆逐艦2隻が現場に到着,捜索に協力して偵察機破片などを米軍に引き渡したと発表。なお,イズベスチヤ紙17日は,米軍の北鮮スパイ活動を「スキャンダル」と呼んで非難する論文を掲載した。
DIA-602-1969-03-15-3ソ連1969年03月15日1960年代ユーゴ党大会閉幕-11日から15日まで開催,新規約など採択,チトー議長以下の新指導部を再選して閉幕した。ルーマニアを除くワルシャワ条約諸国は代表を送らなかった。
DIA-602-1969-03-15-4ソ連1969年03月15日1960年代ペトロフ・ソ連地中海艦隊司令官カイロ訪問-ナセル大統領と会談。
DIA-602-1969-03-15-5ソ連1969年03月15日1960年代各級地方ソビエトの代議員選挙-タス通信は21日次のように発表した。15日,ソ連邦構成15共和国で各級地方ソビエト代議員の選挙がおこなわれた。ソ連邦共産党は,非党派候補者とブロックをくんで選挙に参加した。選出された代議員の55%は非党員であった。1月12日から選挙運動がおこなわれたが,900万人の候補者のうち,3万人は67年3月の選挙で当選した経験を持つものであった。候補者のほとんどは99%以上の信任票を得た。135の農村選挙区では,指命された候補者が投票数の過半の信任票をとることができなかったので,落選とされた。郡ソビエトへの3人の候補者,ならびに多くの市ソビエトへの候補者,4人の町ソビエトへの候補者は必要な票を得ることができず,落選した。2農村選挙区と4町ソビエト選挙区では選挙法の違反があり,選挙は無効とされた。5選挙区では候補者の移転のため,選挙は行なわれなかった。これらの地区では再選挙が実施される。
DIA-602-1969-03-17-1ソ連1969年03月17日1960年代ワルシャワ条約機構政治諮問委開催-ルーマニアを含む東欧・ソ連7ヵ国が集りプダペストで開催,ソ連からはブレジネフ書記長,コスイギン首相,カトゥシェフ書記,グレチコ国防相,グロムイコ外相、ルサコフ党中央委部長らが参加(14日モスクワ発,16日到着,19日モスクワ帰還)した。16日予備会談開催,本会議は17日午後,予定より6時間遅れて開催,わずか3時間で終了した。会議は,コミュニケと全欧州むけのアピールを採択した。コミュニケは「統一軍と統一軍司令部にかんする新規則」を承認したことを明かにしており,またアピールは「欧州の安全保障と平和協力の諸問題を討議する全欧州会議」の開催を再度(66年ブダペスト会議以来)呼びかけたものである。なお,ソ連はこの会議で中国問題を扱いたい意向であったが,ルーマニアの主張により欧州問題にのみ限られたと西側では観測されている。
DIA-602-1969-03-19-1ソ連1969年03月19日1960年代ソ連・トルコ国境条約に調印-ソ連=トルコの再画定作業の方法と技術原則を定めた6文書がモスクワで調印された。
DIA-602-1969-03-21-1ソ連1969年03月21日1960年代戦闘的無神論は党員の義務-ソビエツカヤ・ロシア紙は「戦国的無神論者」と題する社説をかかげ,党の規約は,すべての共産主義者にとって義務であるにかかわらず,いまだに宗教から逃れられない党員がいると叱責した。
DIA-602-1969-03-22-1ソ連1969年03月22日1960年代世界党会議準備委員会開催-モスクワで19日より22日まで,67党が参加した。①基本文書草案の各党中央委での再検討,②最終準備委を5月23日にモスクワで開催する③本会議を6月5日に招集することを決定した。
DIA-602-1969-03-25-1ソ連1969年03月25日1960年代ワルシャワ条約軍演習-ソ連,プルガリア,ルーマニア3軍合同司令部演習,ヤクボフスキー司令官指揮のもとにブルガリア領内のみで実施,ルーマニア領では行なわれなかった。
DIA-602-1969-03-28-1ソ連1969年03月28日1960年代チェコスロバキア民衆,対ソ・スポーツ試合で熱狂-28日,チェコスロバキア・アイスホッケー・チームはストックホルム世界選手権大会でソ連チームと対戦,これを降した。チェコスロバキア国営チェ・テ・カ通信は29日早朝,28日夜の状況を次のように伝えた。「午後7時までに,すべての市民は家路を急ぎ,ラジオやテレビにかじりついたのでプラハとブラチスラワの街は事実上空虚となってしまった。プラハでは試合が終るや否や巨大な群集とおそらくプラハ全市の車はワーツラフ広場へむかい,試合後30分たつと10万から15万の群集が広場を埋め,なおも流れこんでいた。ブラチスラワでも情況は同じようであった。」
DIA-602-1969-03-29-1ソ連1969年03月29日1960年代チェコスロバキア各地で反ソ・デモ-チェコ政府は29日次のようなステートメントを発表した。「ストックホルムで開催されたアイス・ホッケー世界選手権大会の後で28日夜から29日にかけ,チェコスロバキアの各地で(試合の勝利を祝う)自発的な集会がもたれた。」こうしたことは,何ら非難する点もないわが国の伝統である。しかしながら,「いくつかの場所では,こうした集会が通常の規模を越え,公共の秩序とチェコスロバキア刑法が犯された。「こうしたデモストレーションの過程で,主としてソ連当局・機関により利用されているいくつかの建物に対し,蛮行ならびに無頼行為がなされたことにかんし,チェコスロバキア政府は遺憾の意を表明する。」なお,チェコスロバキア内務省の31日の報告によると,プラハ,ウスチ・ナド・ラベム,ブラチスラワ,ムラダ・ボレスラフ,リベレツ,オロムチ,ブルノ,ヤロメル,コシツェなどではデモははっきりした反ソ・デモのかたちをとり,ソ連軍宿舎が襲撃され,プラハではソ連民間航空「アヱロフロート」の事務所が破壊された。またその他の反ソ行為が各地でみられた。
DIA-602-1969-03-29-2ソ連1969年03月29日1960年代ソ連政府,国境問題で声明-タス通信は30日,ソ連政府が中国に対し長文の声明文を送り,「ソ連政府は,中ソ国境の情勢正常化のため,遅滞なく実際的措置をとる必要があるあると考える。われわれは,中国政府が事態の一層の紛糾をもたらすような行動を控え,問題が生じたさいには平静に,交渉を通じて解決するよう要求する。ソ連政府はまた,中ソ両国代表が最も近い将来に,64年北京で始った国境交渉を再開するよう提案する。」と伝えたと発表した。
DIA-602-1969-03-30-1ソ連1969年03月30日1960年代ワルシヤワ条約軍合同演習始まる-ソ連,ポーランド,チェコスロバキア,東ドイツの4国軍が東独領内で「69年春」演習を開始,4月4日まで実施。この合同演習の実施は反ソ・デモ発生(3月)以前に決定されていたものの,西側ではチェコスロバキア指導部に対する圧力と一般に解されている。
DIA-602-1969-03-31-1ソ連1969年03月31日1960年代プラウダ紙,チェコ指導部を非難-プラウダ紙31日号は,28~29日のチェコスロバキア各地の反ソ・デモに関連してスムルコフスキー議長を名ざしで非難,また「プラーツェ」紙以下4紙を攻撃した。なお,グレチコ国防相,V.セミョーノフ外務次官がチェコに到着,外務次官はチェコ政府首脳と会談した。
DIA-602-1969-04-01-1ソ連1969年04月01日1960年代チェコスロバキア党幹部会議開催-2日にコミュニケ発表,リスティ紙以下4紙に対し警告・廃刊処分を発表,また政府は2日報道機関に対し事前検閲制を実施する方針を明かにした。4月4日,党中央委機関紙ルデ・プラーボ編集局改組。同8日政府・新聞情報委員会議長交代。新任者は西側の観測筋によれば保守派であるとされている。
DIA-602-1969-04-11-1ソ連1969年04月11日1960年代ソ連外務省,国境問題で覚え書-12日タス通信は,ソ連外務省が11日中共外交部に対し,国境紛争にかんする覚え書を送り,4月15日頃か,あるいは中国側に都合の良い期日に両国会談を開くよう提案したと報じた(中国側は結局これを無視した)。
DIA-602-1969-04-11-2ソ連1969年04月11日1960年代日ソ・カニ漁業議定書仮調印-交渉は難航し,2月6日から25日間かかった。協定期間は1年,漁獲高は前年比20%以上の減少となる見込み。
DIA-602-1969-04-13-1ソ連1969年04月13日1960年代グレチコ国防相の東欧諸国訪問一グレチコ国防相は3月31日チェコスロバキアに到着,ワ条約軍演習関係者の出迎えをうけた後4月2日プラハに到着,チェコ政府・党首脳と会見した。3日シュトロウガル党ブユーロー議長を訪問,10日に「東独駐留ソ連軍を訪問」,ベルリン滞在中であったゴムルカ・ポーランド党第1書記と会談,再びチェコにもどり,13日帰国した。なお,西側の観測によればベルリンではウルブリヒト第1書記をもまじえた3者会談がおこなわれたのであるが,グレチコ国防相のチェコ訪問の政治的意図とウルブリヒト第1書記のむすびつきをふせるため,故意に発表されなかったのであるとされている。なお,多くの場合,ウラジミル・セミョノフ外務次官と参謀本部員が国防相と行動を共にした。
DIA-602-1969-04-14-1ソ連1969年04月14日1960年代ワルシャワ条約軍防空演習-14日公式に発表されたところによると,ワルシャワ条約軍の防空演習が開始され,16日まで実施される。演習は「ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリー,ソ連邦西部諸地区,その他の諸国の領空」で行なわれる。「その他の諸国」はどの国を指すか明かではないが,一説には東ドイツで,今次防空演習の政治的意図と東ドイツ政府のつながりを隠すため故意にふせられたと解されている。
DIA-602-1969-04-17-1ソ連1969年04月17日1960年代チェコスロバキア共産党中央委総会開催-18日になって公表されたコミュニケによれば,ドプチェク第1書記は「解任を要請」すると共に後任にグスタフ・フサークを推薦し,総会はドプチェクが連邦議会議長に就任することを条件にその解任を認め,「秘密投票により圧倒的票数をもって」フサーク氏を第1書記に任命した。中央委総会はまた,「現行の幹部会執行委員会を廃止し,11人からなる新幹部会を選出した。」幹部会のメンバーは次の通り。 チェコスロバキア共産党中央委員会の4月総会で新たに成立した幹部会(11人) 第1書記 グスタフ・フサーク 幹部会 ワシル・ビリャク  ペーテル・ツォロトカ  オルドジフ・チェルニーク  アレクサンデル・ドゥプチェク  エブゼン・エルバン  グスタフ・フサーク  ヤン・ピレル  シュテファン・サドフスキー  ルドビク・スボボダ  ルボミル・シュトロウガル  カレル・ポラチェク (1968年9月1日に成立した21人の幹部会から追放された主な指導者たち) ヨゼフ・スムルコフスキー ヨゼフ・シュパチェク ボフミル・シモン ワツラフ・スラビク ワツラフ・シムチェク アントニン・タスキー ヨゼフ・ズラク ウラジミル・カブルナ
DIA-602-1969-04-17-2ソ連1969年04月17日1960年代ソ連邦最高裁判所総会-議題は「国家ならびに国有財産の横領に対する闘争の強化にかんする諸裁判所の活動の改善について」。
DIA-602-1969-04-24-1ソ連1969年04月24日1960年代コルホーズ員大会招集決定-24日付ソ連各紙は,中央委員会が新コルホーズ模範規約草案を採択し,11月にコルホーズ員大会を招集することを決定したと報じ,草案全文を発表した。
DIA-602-1969-04-26-1ソ連1969年04月26日1960年代コメコン首脳会議-23日より加盟国の最高首脳を集めてモスクワ会開催されていたコメコン首脳会議は,①加盟国間の経済・科学協力の発展についての主要方針の作成を決定し,②コメコン投資銀行の創設とコメコン国際協力銀行の業務改善が望ましいことで意見が一致した旨のコミュニケを採択して閉幕。なお,チェコからはフサーク第1書記が参加した。
DIA-602-1969-04-26-2ソ連1969年04月26日1960年代メーデーの軍事パレード取止め-タス通信は「ソ連邦共産党中央委員会ならびに同閣僚会議は,今年度以降,ソ連軍のパレードは11月7日の革命記念日以外行なわない方がよい」旨決定したと発表した。勤労者のデモ行進は例年通り。
DIA-602-1969-04-29-1ソ連1969年04月29日1960年代日ソ漁業交渉妥結・調印-内容は①サケ・マスは新たに日本海はえなわ漁業を規制対象に加え,総漁獲量は10万5000トンとする。②にしんについては始めて禁漁区を設ける(コルフォ・カラギン,シュレホフ両水域)ほか,承認船を自主減船する,など日本側にとってきわめて厳しいものである。
DIA-602-1969-05-01-1ソ連1969年05月01日1960年代軍パレードなしのメーデー式典-各地のメーデー式典は軍事パレードなしで行なわれた。モスクワのメーデー式典では,例年の国防相の演説はなく,ブレジネフ書記長のみが演説した。ブレジネフ書記長の演説は穏健で,名ざしでの対米,対中国非難はみられなかった。
DIA-602-1969-05-02-1ソ連1969年05月02日1960年代中ソ国境河川航行合同委開催を提案-タス通信は2日,4月26日にソ連政府は中国政府に対し,中ソ河川航行委員会を5月にハバロフスクで開催するよう申し入れたことを明かにした。この委員会は1951年に締結された協定に基づき1951~67年にわたり定期的に開催されてきたが,68年に至り,「中国側は会議への参加を拒否した」とされている。なお,11日中国はこの提案に対し6月に話合いの用意のあるむね通告した。
DIA-602-1969-05-10-1ソ連1969年05月10日1960年代カザフ=新疆国境で中ソ衝突か-AFP電によると,モスクワの消息筋は,5月に入ってから,ウスリー江上の戦闘と同程度の規模の戦闘がソ連領パンフイロフ市と中国領クルジャ(伊寧)市の間の地域のイリ河渓谷でおこり,死者を出したこと,この地点では最近になって紛争が頻発し,トルケスタン国境の緊張が高まっていることを明かにした。なお,11日国防省スポークスマンは「そのような情報は受け取っていない」と言明した。なお,一部の報道によると,モスクワ消息筋は13日にも,中国正規軍がカザフ共和国へ越境,ソ連領62km2を占領した旨言明したという。
DIA-602-1969-05-14-1ソ連1969年05月14日1960年代コスイギン首相専用機のパイロット死去-「赤い星」紙発表。なお,これ以外にも将官が続々と死亡しており,西側観測筋の注目をひいている。
DIA-602-1969-05-15-1ソ連1969年05月15日1960年代グリゴレンコ少将逮捕さる-ユーゴのボルバ紙が伝えるところによると,昨年チェルチーク市で自治共和国の再建を要求してデモを行なった。クリミア・タタール人のグループの裁判に抗議するためタシケントを訪れたグリゴレンコ退役少将は逮捕された。
DIA-602-1969-05-16-1ソ連1969年05月16日1960年代ウエネラ5号-金星への軟着陸に成功。
DIA-602-1969-05-16-2ソ連1969年05月16日1960年代チャウシェスク議長訪ソ-ルーマニアのチャウシェスク共産党書記長・国家評議会議長は「ルーマニア,ソ連双方の取決めにより」訪ソ,ブレジネフ書記長,コスイギン首相,カトゥシェフ書記らと会談したが半日で帰国した。
DIA-602-1969-05-19-1ソ連1969年05月19日1960年代ワルシャワ条約軍演習-14~19日にわたりソ連領で実施,参加はソ連,ブルガリア,ルーマニアの3軍。
DIA-602-1969-05-23-1ソ連1969年05月23日1960年代中ソ合同委員会の開催を提案-タス通信は中ソ国境河川航行合同委員会ソ連側スミルノフ議長が,6月18日ハバロフスクで同委員会を開催したいとの電報を送ったと発表した。なお,24日,中国政府は声明を発表,この提案に応ずる意向を明かにした。
DIA-602-1969-05-24-1ソ連1969年05月24日1960年代ポドゴルヌイ議長の北鮮・モンゴル訪問-12日モスクワ発,イルクーツク・ウラジオストック経由で14日平壌到着,5日間滞在して金日成首相らと会談,19日イルクーツク帰着。20日,19日付コミュニケが発表されたが,中国を名ざしで非難する字句はなく,また北鮮の世界党会議参加には触れていない。同日モンゴルに到着,夕食会で演説,「毛沢東一派は事実上,社会主義の敵として振舞っている」と強調した。これに対しツェデンバル首相も,「北京の指導者たちが中国人民の利益と社会主義の大義の裏切者である」ことは,最近の中ソ国境事件が示している由を述べた。24日帰国,共同コミュニケ発表。
DIA-602-1969-05-25-1ソ連1969年05月25日1960年代ポリヤンスキー政治局員,タジックスタン訪問-ポリヤンスキー政治局員・連邦副首相はこのほど3日間にわたりタジックスタンを訪問,主として農業関係の視察を行ない,経済協議会で演説した。
DIA-602-1969-05-26-1ソ連1969年05月26日1960年代ワルシャワ条約軍演習-26日チェコ国防省スポークマンはチェコスロバキア=ソ連軍合同演習が18~26日間チェコスロバキア領内でおこなわれたと発表した。
DIA-602-1969-05-26-2ソ連1969年05月26日1960年代仏=ソ連貿易・経済協力協定調印-期間は1970~74年で,両国間の貿易を期間中に2倍に増やすこと,あるゆる分野の関係改善が予定されている。
DIA-602-1969-05-29-1ソ連1969年05月29日1960年代アジア諸国の集団安全保障を提案-イズベスチヤ紙29日は,マトベーヱフ論説委員の論文をかかげた。同論説委員は,英軍のアジアからの徹退について論じ,アジア諸国は米・英・中・日などいかなる大国の影響力をも排除すべきであり,「世界のこの地域におけるあらゆる外国の軍事基地が取り除かれれば,それは集団安全保障体制を創設する基礎条件ができたことを意味するであろうし,そうなればこれらの国々は,共同の努力によりその自由意志を護り,平和を固め,帝国主義と拡張主義を排除することができよう…」と書き,さらに「ソ連邦ならびにその地の社会主義諸国」はこうした集団安全保障体制に援助を惜しまぬと強調している。
DIA-602-1969-05-30-1ソ連1969年05月30日1960年代世界党会議最終準備委員会-23日より開催70党代表が参加,基本文書草案を修正意見つきで本会議に提出することを決め,30日閉会。
DIA-602-1969-05-30-2ソ連1969年05月30日1960年代チェコ共産党中央委総会開催-29日より開催,ソ連軍駐留条約反対者および2000語宣言署名者である6中央委員(シク,クリーゲルら)を除名,シュトロウガルを第1書記代理に任命,シユパチェク,スラビーク両書記を解任した。同総会はフサーク第1書記の「当面する政治情勢の中における党の役割」と題する報告を承認。
DIA-602-1969-05-31-1ソ連1969年05月31日1960年代コスイギン首相の南アジア諸国訪問-25日モスクワ発,タシケント経由で26日カブール着,30日パキスタンを訪問,31日帰国した。
DIA-602-1969-06-03-1ソ連1969年06月03日1960年代反対派グループ,世界党会議代表にアピール-P.ヤキルらソ連市民10名は,モスクワに滞在中の各国世界党会議代表団に対し現政権を非難するアピールを送り,スターリン主義復活に反対する彼らの闘争を支援するよう呼びかけた。
DIA-602-1969-06-05-1ソ連1969年06月05日1960年代世界共産党部会開幕
DIA-602-1969-06-06-1ソ連1969年06月06日1960年代タタール人がモスクワでデモ-モスクワのマヤコフスキー広場でタタール人とみられる6人の市民(女性2名を含む)が「クリミア・タタール民族を故郷に帰せ」,「グリゴレンコ少将を釈放せよ」などと書いたプラカードをかかげ,同広場に居合せた200人の一般市民に訴えたが,5分後に逮捕された。
DIA-602-1969-06-11-1ソ連1969年06月11日1960年代国境衝突事件で対中抗議-タス通信はソ連外務省が11日付で中国政府に覚え書きを送り,中国の10日付対ソ覚え書は事実を歪曲しており,10日夕刻セミパラチンスク地区タスタ河地域において発生した国境衝突は,中国側の牧羊者ならび羊に続いて1隊の兵士がソ連領に400mも侵入したため,ソ連当局が発砲を余儀なくされて起ったものであると主張した。
DIA-602-1969-06-13-1ソ連1969年06月13日1960年代中ソ国境交渉の再開を提案-14日発表されたところによると,ソ連政府は中国政府に対し,声明を送り,1964年に中断された中ソ国境交渉を2~3ヵ月の間に再開するよう提案,ソ連政府はこの交渉団の代表として次官クラスのパーベル・ズイリャノフを任命したことを明かにした。なお,同声明は「ソ中国境に関係ある現行の諸条約を基礎として国境を正確に規定する問題が審議される」よう主張しており,中国側の不平等条約にかんする主張は全く認めていない。
DIA-602-1969-06-13-2ソ連1969年06月13日1960年代グロムイコ外相カイロ訪問-10日,セミョーノフ次官らと共にカィロに到着,13日まで数次にわたりアラブ連合首脳と会談した。
DIA-602-1969-06-14-1ソ連1969年06月14日1960年代農業収穫確保のための措置-イズベスチヤ紙14日は長文の「1969年における農産物の調達と収穫を確保する諸措置についてのソ連党中央委ならびに閣僚会議の決定」を発表した。他部門からの労働力の流用,労働者に対する物質的報償制度などのほか,収穫・運搬・保存措置の改善のための細い措置を定めている。なお,米国消息筋は厳冬と遅い春の到来のため,ソ連の今年度の穀物生産は前年比大幅減と観測していると述べた。
DIA-602-1969-06-17-1ソ連1969年06月17日1960年代世界党会議閉幕-「共産党ならびに労働者党国際会議」は,基本文書ならびにその他7文書を採択,閉幕した。討論の過程で中国非難,チェコ問題などでかなりの意見のくいちがいがみられ,基本文書には参加75党のうち66党が署名,その他の党は各々いくつかの留保条件をつけた。なお,7日演説したブレジネフ書記長はアジア情勢にふれ「集団安全保障体制を設けることが急務である」と述べた。
DIA-602-1969-06-18-1ソ連1969年06月18日1960年代国連人権委員会へソ連市民から請願状-国連スポークスマンはソ連市民人が署名したソ連邦における基本的人権の抑圧にかんする請願書を受け取ったと言明した。なお,この請願書の写しは5月23日にモスクワで西欧新聞記者の部ならびに一般市民に配布されたという。
DIA-602-1969-06-20-1ソ連1969年06月20日1960年代建設工業の促進措置-各紙は中央委ならびに閣僚会議の「資本建設計画の改善と建設産業の経済的刺激の強化について」の決定を発表した。この決定は長文のものであるが,建設・組て工業は段階的に独立採算制に移行すること,従来契約成立と同時に支払われていた仮払いは廃止され,支払いは完成時にのみ行なわれること,国家建設銀行からの借款の手続き,労働者の賃銀の25%引上げなどを定めている。なお,この決定は新規設備の操業が予定より遅れており,それが工業生産の伸び悩みの一因となっている事態を改善するためになされたものとみられている。
DIA-602-1969-06-22-1ソ連1969年06月22日1960年代中ソ国境河川航行合同委開催-タス通信は22日「アムール,ウスリー,アルグン,スンガチヤ河とハンカ湖の航行にかんする中ソ両国国境河川航行合同委員会が18日に開始された」とのみ発表した。開催場所はハバロフスク市とみられる。
DIA-602-1969-06-26-1ソ連1969年06月26日1960年代ソ連邦共産党中央委総会開催-ブレジネフ書記長が「共産党ならびに労働者党国際会議について」報告,P.E.シェレスト,V.V.グリシン,D.A.クナーヱフ以下が発言,報告と同じ表題の決議を採択した。プラウダ紙に発表された決議要旨は以下の通り。 「ソ連党中央委総会は党政治局の世界共産主義運動の団結の強化に向けての政治路線と実際的活動ならびに6月5日から17日までモスクワで行なわれた世界党会議におけるソ連党代表団の活動を全面的に承認した。」「党中央委員会は,会議での意見の交換において現在の中国共産党指導部の対外方針とその分裂主義的政策が圧倒的多数の兄弟諸党の側からの断固たる反撃にあっていることがはっきり示されたと考える。総会は会議でソ連共産党代表団が表明した立場を満場一致で確認した。ソ連共産党は現在の中国指導者の反レーニン主義的思想方向に対し,その分裂主義政策と大国主義的対外方針に対し妥協のない闘争を行なう。」「総会は以下のとおり決議する。①世界党会議で採択された諸文書を承認する。③総会はソ連共産党とソ連政府の対外政策方針を承認する。⑤世界党会議の結果に関するイデオロギー活動の強化が重要な課題である。⑥総会はわが国民をソビエト・
DIA-602-1969-06-26-2ソ連1969年06月26日1960年代各アジア駐在大使の召喚-モスクワの消息筋が明かにしたところによると,アジア諸国駐在の各ソ連大使は13日前後に召喚され,一部は26日の中央委総会にも出席した後,帰任した。
DIA-602-1969-06-28-1ソ連1969年06月28日1960年代ニクソン大統領のルーマニア訪問予定発表
DIA-602-1969-06-28-2ソ連1969年06月28日1960年代中国国境でソ連軍演習一「赤い星」紙28日は,ザバイカル軍管区で「戦術上の訓練演習」が行なわれ,「攻撃の手段・方法」が細部にわたって検討されていると報じた。
DIA-602-1969-06-30-1ソ連1969年06月30日1960年代各地で党活動家集会,各首脳列席-6月30日から7月はじめにかけて各地で党活動家集会が開催され,党首脳が各々地方へ飛んで列席,「世界党会議について報告」した。主な首脳の行先は次の通り。ブレジネフ書記長-ウクライナ,コスイギン首相-ノボシビルスク,ケメロボ(1日)ポノマレフ書記-チェリヤビンスク,ポリヤンスキ-政治局員一ウォロネジ,シヱレーピン政治局員-タリン,カトゥシヱフ書記-イルクーツク(1日)ウラジオストック(4日),キリレンコ政治局員-リガ(1日)グリシン政治局員候補-ウラン・ウデ(2日)。
DIA-602-1969-07-01-1ソ連1969年07月01日1960年代ザゴルスクで宗教者会議-タス通信によると,モスクワ近郊ザゴルスクで,国際平和と協力のための宗教者会議が開催され,ソ連邦のあらゆる宗派と40カ国の代表が参加した。会議は4日間にわたり開催されるが,アレクセイ・ロシア教会総主教が開会の辞を述べ,コスイギン首相の歓迎の辞が読みあげられた。
DIA-602-1969-07-02-1ソ連1969年07月02日1960年代米・ボーマン宇宙飛行士ソ連訪問-10日まで。
DIA-602-1969-07-04-1ソ連1969年07月04日1960年代チェコ=ソ連通商協定調印-むこう5ヵ年間,往復30億ドルに達する貿易を見込んでいる。
DIA-602-1969-07-08-1ソ連1969年07月08日1960年代中ソ国境で衝突-タス通信は,ソ連外務省の8日付の中国政府あて抗議覚え書全文を発表したが,この覚え書でソ連政府はアムール河のゴルジンスキー島に武装した中国人の1隊が侵入,8日朝航行標識修理のために同島にきたソ連作業員を射撃,1名が死亡,3名が負傷したと主張し,ソ連当局は「ソ連邦市民の安全を脅かす中国側の行動に対し,補足的な措置を講ずることを余儀なくされている」と述べている。
DIA-602-1969-07-11-1ソ連1969年07月11日1960年代第7回ソ連邦最高会議第6会期開催-10日より開催,グロムイコ外相が外交政策について基調報告を行ない,中国との関係については,「ソ連中国の友好関係を回復することが将来においてもソ連外交の基本であるが,当然,ソ連邦は挑発に対して断固反撃する権利を保有する」と強調し,また対米核兵器交渉を希望すること,米ソ首脳会議を考慮してもよいこと,などを述べた。11日,会議はこの報告を承認,また矯正労働法などを採択して閉会した。
DIA-602-1969-07-11-2ソ連1969年07月11日1960年代極東における中国の国境侵犯-最高会議に出席したハバロフスク地方党委第1書記A.シチコフは,本年前半期だけで中国の極東国境侵犯は130件にのぼると報告した。
DIA-602-1969-07-13-1ソ連1969年07月13日1960年代河川航行交渉難行-タス通信はグリニッジ標準時12日21時半(モスクワ時間23時半)頃,ハバロフスクで開催中の中ソ国境河川航行合同委の中国代表は,権限外の問題の討議を主張するなど一連の妨害と挑発を行なったのち,12日に入って会議への出席を拒否したと報じた。同通信は同じく標準時13日15時頃,中国側はこの通告を撤回,14日より会議再開方を申し入れてきたと報じた。
DIA-602-1969-07-14-1ソ連1969年07月14日1960年代チェコ駐留ソ連軍の演習-6日より14日まで,チェコスロバキア領内数カ所で実施。なお4日から11日まで,ポーランド領内ではソ連・東独・ポーランド軍合同の司令部演習が実施された。
DIA-602-1969-07-14-2ソ連1969年07月14日1960年代アフンドフ・アゼルバイジャン共産党第1書記解任-アゼルバイジャン共産党中央委総会が開催され,「第1書記アフンドフ同志は,アゼルバイジャン科学アカデミー副総裁への転任にともない,第1書記ならびに中央ビューロー員を解任された。後任としてアリエフ同志が第1書記ならびに中央ビューロー員に選出された。総会には連邦中央委書記カピトノフ同志が参加した」とバキンスキー・ラボーチー紙をつうじ発表された。
DIA-602-1969-07-25-1ソ連1969年07月25日1960年代日ソ知事会議開催-ソ連側の招待により訪ソ中であった桑原愛知県知事らは,シベリア・極東各地方・州ソビエト執行委議長らと会談した。29日発表された共同コミュニケは会議は「沿岸貿易の現状とその一層の発展」について協議したと述べている。
DIA-602-1969-07-27-1ソ連1969年07月27日1960年代ソ連艦隊キューバ訪問-ロケット積載巡洋艦など7隻からなるソ連艦隊が,キューバ政府の招待により20日から27日までハバナ港を親善訪問した。
DIA-602-1969-07-28-1ソ連1969年07月28日1960年代ソ連作家亡命-「バービイ・ヤール」などの作品でわが国にも知られるソ連の中堅作家アナートーリ・クズネツォフは英国へ亡命を認められた。なお,「バービイ・ヤール」は発表後,「赤い星」紙によりユダヤ人の犠牲について書きすぎているとの批判をうけている。
DIA-602-1969-08-02-1ソ連1969年08月02日1960年代ニクソン大統領,ルーマニアを訪問-ニクソン米大統領はルーマニア政府の招きによりブカレストに到着,チャウシェスク共産党書記長兼国家評議会議長ら党・政府首脳はじめ,西側の報道によれば約50万人ものぼる市民の歓迎をうけた。米大統領はルーマニアに28時間滞在,ルーマニア政府首脳と会談,①図書館の相互設置,②領事条約正式交渉の再開,③民間航空交渉の開始。などについての合意に達したと発表された。なお,この訪問についてソ連の報道機関は訪問と会談の事実のみをコメントなしに簡単に報じたのみであった。
DIA-602-1969-08-03-1ソ連1969年08月03日1960年代ワルシャワ条約軍演習-3日公表されたところによると,ポーランド,ソ連,チェコスロバキア空軍の合同演習が参独と参加国軍の領内で7月23日から8月2日まで実施された。
DIA-602-1969-08-06-1ソ連1969年08月06日1960年代極東軍管区司令官の交代-「赤い星」紙6日によって,ロシク大将にかわり極東軍管区司令官にはウラジーミル・F.トルプコ大将が戦略ロケット軍司令官第1代理から転じていたことが明かになった。
DIA-602-1969-08-07-1ソ連1969年08月07日1960年代アゼルバイジャン中央委の活動批判-バキンスキー・ラボーチー紙7日によると,7月14日に国家保安委議長からアゼルバイジャン党第1書記になったG.A.アリヱフは5日に開催された同中央委総会で同共和国の幹部達を激しく攻撃し,アゼルバイジャンのあらゆる生活の部門に失敗と非能率がみられ「多くの官吏は収賄をおこない,犯罪者をかくまっている」が,「我々は非道徳的な振舞いや,一部の官史の放縦を見のがしてやる権利は持っていない。」「我々は厄介者や,中傷者や,陰謀家や出世主義者たち,これら社会に害をもたらす者を暴露せねばならぬ。」と述べた。また彼は,政府の担当者は能率の下落や,まずい計画などに何の「関心をも示さず」,一部の工場は能力の3分の1しか発揮しておらず,運輸関係の各省はノルマを達成していない。従って石油産業は生産計画を達成していないと述べた。
DIA-602-1969-08-08-1ソ連1969年08月08日1960年代中ソ国境河川航行合同委開会-タス通信は中ソ双方の代表団長は「河川航行情況の改善のため,双方が1969年度の航行にかんして一連の措置をとることについての協定を記した議定書に署名した。また双方は16回定例会議を1970年中国で開催することについて合意した」と報じた。
DIA-602-1969-08-10-1ソ連1969年08月10日1960年代フサーク第1書記ら訪ソ-モスクワ放送は,チェコスロバキアのフサーク共産党第1書記とスボボダ大統領は「ソ連共産党中央委の招きにより短期の休養のため」クリミアに到着,ブレジネフ書記長。ポドゴルヌイ議長らと会談したと報じた。10日まで滞在。
DIA-602-1969-08-12-1ソ連1969年08月12日1960年代ルーマニア党大会開催-ルーマニア共産党は6日から12日まで第10回党大会を開催したが,ソ連からはカトウシェフ中央委書記が参加したのみであった。なお,慣例として東欧諸国の党大会には従来書記長が参加するのが普通のこととされていた。
DIA-602-1969-08-13-1ソ連1969年08月13日1960年代カザフ=新疆国境で中ソ衝突-ソ連外務省は13日付で中国政府に対し,要旨次のような抗議の覚え書を送った。「本年5月から現在にかけ,中国当局は意識的にカザフ共和国セミパラチンスク州の国境の情勢を緊張させている。」ソ連外務省は5月4日,7月11日の2回にわたり,これに対し抗議した。しかし,「8月13日地方時間7時40分,中国軍人のいくつかのグループはジャラナシコリ居住地の東数十キロの地点でソ連国境を侵した。」ソ連当局がこれを排除しよとしたところ,彼らは「さらに各々60~70人の軍人からなる2隊を呼びよせようとした。」ソ連側は彼らを国境外に撃退したが,その際「中国軍人2名を拘留した。」また「死傷者があった。この挑発は明かに計画的なものである」。
DIA-602-1969-08-21-1ソ連1969年08月21日1960年代ソ連軍侵入1周年のチェコスロバキア-西側の報道によれば状況は次のようであった。21日朝プラハ市民は抗議の意思表示のため公共の輸送機関をボイコットし,職場へ黙々と歩いていった。また正午にはプラハ中の工場がサイレンを,自動車その他はクラクションを5分間鳴らし,職場放棄と黙とうが行なわれた。19日から続いているデモ隊は約5万人といわれるが,夜中までに完全に排除されたが,そのさい放水や催涙ガス,戦車などが使われた。チェコスロバキアの各地でもデモがあり,デモ隊は「ドプチェク万才」「スムルコフスキー万才」「ロシァ人よ恥を知れ」などと叫んだ。なお,8月上旬,ソ連とチェコスロバキア内のソ連軍の動きはきわめて活発で,前者から後者への移動がみられたという。またソ連報道機関は,8月上旬チェコにはいまだ反革命勢力があるとのキャンペーンを行なった。
DIA-602-1969-08-27-1ソ連1969年08月27日1960年代ノーブイ・ミール誌に集中攻撃-自由派的な傾向を持つとされる文学誌「ノープイ・ミール」(編集長トウァルドフスキー)は3日(ソビヱツカヤ・ロシア紙),9日(社会主義工業紙),27日(文学新聞)とイデオロギー偏向を非難された。
DIA-602-1969-09-02-1ソ連1969年09月02日1960年代第13福寿丸事件で対ソ抗護-ソ連政府は8月28日,8月8日以来行方不明となっていた第13福寿丸につき,同船はソ連領海を侵犯したため,停船を求めて近づいてきたソ連警備船と衝突,沈没し,その際乗組員は1人を除き11人が死亡したと通告した。この件にかんし,政府は,ソ連政府に抗し協議口上書を伝達した。
DIA-602-1969-09-04-1ソ連1969年09月04日1960年代愛知外相のソ連訪問-4日,ハノイにむけ出発直前のコスイギン首相と会見,クズネツォフ外相第1代理(5日),グロムィコ外相(8日)らとも会談9日まで滞在した。この会談中,グロムイコ外相,ボドゴルヌイ議長が71年度に来日することが取り決められた。領土問題は進展をみず,漁民の安全操業問題は事務レベルで交渉することになった。
DIA-602-1969-09-06-1ソ連1969年09月06日1960年代コスイギン首相らハノイ着-ホー・チ・ミン大統領の葬儀に参列するためソ連党・政府代表団がハノイに到着した。代表団メンバーは,コスイギン首相カトゥシェフ書記,ヤスノフ最高会議幹部会副議長3名。なお,この代表団は途中デリーに立ち寄り,ガンディー・インド首相と短時間会見した。なお,一行は10日ハノイを発ち,カルカッタ経由で帰国した(11日)が,後に(12日)北京に立ち寄ったと発表された。
DIA-602-1969-09-06-2ソ連1969年09月06日1960年代グロムイコ外相のユーゴ訪問-2日ユーゴスラビアを公式訪問し,6日ユーゴ首脳と会議,帰国した。外相は記者会見で「現在の情勢の認識にかんし,両国は異ったアプローチをしているが,この差異を小さくする用意のあることを表明した」と言明した。
DIA-602-1969-09-10-1ソ連1969年09月10日1960年代中ソ国境事件について-タス通信は「3月2日,15日の2回にわたり,中国当局はダマンスキー島地区(珍宝島)においてソ連邦の国境警備隊を不法にも攻撃した。6月20日,中国当局はウスリー河にあるソ連領キルキンスキー島に対して武装攻撃をかけた,7月8日,アムール河(ゴルジンスキー島)のソ連河川航行係員に対して海賊的な攻撃をおこなった。5月,6月,8月に中国当局はタスタ河地区において,またセミパラチンスク地方の人口居住地ジャラナシコル付近において国境紛争をひき起した。これ以外にも数多くの紛争があった。中国側の国境における挑発,特にそのために訓練された人員,ならびに中国軍によるソ連領への侵入は実際ほとんど連日のように起っている。6月から8月中旬までの期間に488件の計画的な国境侵犯と中国側からの武力挑発があり,武力挑発には2500人以上の中国市民が参加した。虚偽の主張と中傷,事実をねじ曲げることにより,中国当局は,中ソ関係悪化の責任をのがれようとしている……。しかし,ソ連側は次のような証拠をにぎっている」として若干の証拠物件なるものを紹介した。
DIA-602-1969-09-11-1ソ連1969年09月11日1960年代中ソ首脳会談-12日付プラウダ紙は第一面に小さく次のようなタス電をかかげた。「69年9月11日,双方の話合いの結果合意に達したので,ベトナム民主共和国からモスクワヘの帰途にあったソ連邦閣僚会議議長A.N.コスイギンと中華人民共和国首相周恩来が北京で会見した。双方は率直に各々の立場を説明し,双方にとって有益な会談を行なった。ソ連側からはソ連共産党中央委書記K.F.カトゥシェフ,最高会議幹部会副議長M.A.ヤスノフらが同席した。中国側からは李先念副首相謝富治副首相らが同席した。」コスイギン首相らは同日帰国した。
DIA-602-1969-09-16-1ソ連1969年09月16日1960年代ソ連の中国介入はあり得る-ソ連人記者ビクター・ルイスは16日,ロンドンの新聞イブニング・ニューズに寄稿,この1年間の出来事は,社会主義諸国は自分の利害に関係のあることに互いに介入する権利があるという原理にソ連が固執していることを示しているが,中国がチェコスロバキアより何倍も大きく,武力抵抗をするであろうとしても,「西欧の一部のマルクス主義理論家」はそれはこの原理を中国に適用せぬ理由にはならないとしていると書き,さらに中国の反毛派のなかから他の社会主義国に“友好的な援助”を求める指導者が出てくることはありうる,と述べた。
DIA-602-1969-09-23-1ソ連1969年09月23日1960年代中国非難再開-11日以来,ソ連の日刊各紙は中国非難をしなかったが,プラウダ紙23日は22日付タス電を掲載,中国国内の混乱を指摘,さらに中国の各報道機関は反帝国主義宣伝を全く停止,反ソ宣伝にのみ専念していると非難した。
DIA-602-1969-09-25-1ソ連1969年09月25日1960年代北京会談でソ連側は3項目を提案-ニューヨーク・タイムズ紙25日によると,G.ホール米国共産党書記長は同紙に対し,11日のコスイギン=周会談で,コ首相は①国境問題について副首相級の会談を開く,②大使を帰任させる,③経済関係回復をはかる,の3項目の提案を行なったと語り,また多数め各国共産党指導者たちは,中ソ戦争の発生を憂慮していると言明した。
DIA-602-1969-09-26-1ソ連1969年09月26日1960年代新2000語宣言-フランスのル・モンド紙はチェコスロバキアで流布されている「新2000語宣百」なる文書の全文を掲載した。宣言はソ連・東欧軍の介入を否定し,検閲と粛清に反対し,合法手段による抵抗を訴えたものである。
DIA-602-1969-09-27-1ソ連1969年09月27日1960年代ソ連東欧軍大演習-ソ連,東ドイツ,ポーランド,チェコの4ヵ国軍が参加してポーランド領内とバルト海で21日よりワルシャワ条約機構軍の大合同演習実施。参加兵力の規模は,戦後の欧州における最大の演習といわれた66年9月のチェコ領内でのブルタバ演習に匹敵するのではないかと西側ではみられている。ワ条約軍の陸,海,空合同演習は初めてである。
DIA-602-1969-09-27-2ソ連1969年09月27日1960年代チェコスロバキア共産党中央委総会開催-25日より開催,27日午前2時に閉会した。28日,総会にかんするコミュニケが発表されたが,それによると総会はソ連・東欧軍の介入を正当と認め,秘密党大会(68年8月22日)を無効とし,ドプチェク幹部会員を解任(中央委員は留任)後任ケムプニーとし,スムルコフスキー,ハーエク,ムリナーシら7中央委員,同候補を解任した。28日,新チェルニーク内閣が成立,経済閣僚はほとんど交代した。
DIA-602-1969-10-06-1ソ連1969年10月06日1960年代東独建国20周年式典-ドイツ民主共和国20周年記念式典がワルシャワ条約加盟国5ヵ国の首脳,北ベトナム首相などの列席(ルーマニア,ユーゴは欠席)のもとにおこなわれ,ブレジネフ書記長が演説,「ソ連,ドイツ民主共和国その他すべてのワルシャワ条約加盟国は,欧州の緊張緩和と,西ドイツを含むすべての国との善隣関係推進を支持するする」と強調,また西ドイツの総選挙結果を「民主勢力の明白な勝利」と述べて評価する姿勢を示し,ついでドイツ民主共和国を西側が承認するよう主張した。
DIA-602-1969-10-09-1ソ連1969年10月09日1960年代企業経営の改革措置-プラウダ紙9日は,中央委員会のシチェキノ化学コンビナートで行なわれた企業経営の新方式の実験についての決議を発表した。決議の要旨は次の通り。同コンビナートでは「生産と労働の組織の改善と賃金体系の改善によって人員を削減すると同時に生産量を増やす」ことに成功した。すなわち同企業では過去2ヵ年の間に870人を解雇,その代り就業人員の賃金を実績に応じてひき上げる方式をとった結果労働生産性は87%,生産高は80%向上した。中央委員会は関係各当局がこの方式に従って労働生産性をひき上げるよう勧告し,「この実験を基礎として,諸対策を立案するよう連邦各省・庁に命ずる。」この決議は,企業に人員の解雇と賃銀体系についての大幅な裁量を認める方向への措置として西側では注目されている。
DIA-602-1969-10-16-1ソ連1969年10月16日1960年代チェコスロバキア連邦議会開催-15日よりチェコスロバキア連邦議会開催,昨夏の反ソ決議を無効と宣言,さらに総選挙の2年延期を決定,9月中央委総会の決議に基づくドプチェク連邦議会議長とスムルコフスキー人民議会議長の辞任を承認,新議会幹部会を選出(改革派脱落),16日にはクリーゲル以下議員5人を解任し,さらにソ連・東欧軍の侵入を正当と認める決議を採択して閉会。
DIA-602-1969-10-18-1ソ連1969年10月18日1960年代中ソ会談始る-タス通信は「中ソ両政府間の合意に基づき両国政府代表は20日,北京で双方に関心ある問題について会談を始める。クズネツォフ第1外務次官を団長とするソ連代表団は18日北京にむけ出発した」と報じた。
DIA-602-1969-10-18-2ソ連1969年10月18日1960年代ソユーズ6~8号の実験-11日~13日にかけて打ち上げ,16~18日にわたり回収,合計7人の宇宙飛行士は無事帰還した。西側の報道機関では。実験の意図は失敗したとする観測が強い。
DIA-602-1969-10-20-1ソ連1969年10月20日1960年代ソ連市民から国連へ請願状-国連事務局はソ連知識人グループから国連総長にあてた,ソ連国内における人権侵害について調査するようにとの請願状(9,月26日付)が届いたと発表した。西側の記者によれば,この「補足請願状」には「ソ連人権擁護発起人」グループ10人とその支持者30人が署名しており,同グループが,5月に同様の請願状を出して以来ますます弾圧が強まったと述べている。
DIA-602-1969-10-21-1ソ連1969年10月21日1960年代中央委代表団来日-A.N.ルミャンツェフ中央委員を団長とするソ連共産党中央委代表団は15日来日,16,21日の両日江田書記長らと会談した。22日発表された合意メモによると,社会党は北洋漁業安全操業問題と果実などの対ソ輸出拡大を提案したのに対し,ソ連側が好意的に検討することを約し,アジア諸国集団安全保障については双方が実現のために努力することを約した。北方領土,チエコ,核拡散防止条約については双方が「それぞれ見解を述べた。」
DIA-602-1969-10-24-1ソ連1969年10月24日1960年代管理部門改革の法令-プラウダ紙は連邦中央委員会ならびに,同閣僚会議の「管理機構の改善ならびに経費削減のための諸措置について」の決議を発表。この決議は現在の管理機構には重複・肥大化がみられること,事務の機械化と自動化が十分でないこと,不必要な人員がいることなどを指摘,対策を指示すると共に,1970年には管理機構維持の経費を17億ルーブル節約するよう命令している。なお,同決議は各省の管理職務から解雇される人員については関係各省が就職をあっせんすべきことも指令している。
DIA-602-1969-10-25-1ソ連1969年10月25日1960年代イルクーツク州党委の活動批判-プラウダ紙25日号は,イルクーツク州党委の業績をたたえた後,同州党委の初級党組織に対する指導が十分でなく,技師・技手たちは生産の合理化と技術革新に十分な熱意を示していないと批判,ゴスプランその他に同州の技師・技手と補助労働者の比率を合理的なものにするよう指示したと報じた。
DIA-602-1969-10-27-1ソ連1969年10月27日1960年代チェコスロバキア=ソ連交渉-フサーク第1書記,スボボダ大統領,チェルニーク首相シュトロウガル書記らチェコスロバキア首脳は,20日よりモスクワでソ連首脳と会談,双方は共同声明に調印,チェコ代表団は28日帰国した。共同声明は長文のものであるが,①会談では経済問題に重点がおかれ,「特に1975年までの国民経済計画を調整してゆくための具体的な問題が討議された。ソ連はチェコ側の希望により今後,石油,銑鉄,綿花その他重要原材料ならびにプラントのチェコヘの供給を当初の計画量より増やす。」「またソ連側は,1970年度チュコへの耐久財の供給をふやし,同時にチェコスロバキアで不足している耐久財を外国市場で買い入れるのを支援する。」これとともにソ連はチェコからの機械・プラント類の輸入を増やす。②双方は,ソ連・東欧軍の介入はチェコスロバキアでの反革命阻止に貢献したと認める。③70年5月までに新友好協力相互援助条約を締結する。④報道機関の党による統制など,チェコはイデオロギー闘争を強化する。などが要旨である。会談後27日の演説でブレジネフ書記長は「わが方のイニシアティブで」コスイギン首相らは9月に北京で「周恩来同志およびその他の中国政府のメンバー・
DIA-602-1969-10-31-1ソ連1969年10月31日1960年代ワルシャワ条約加盟国外相会議-30日より7カ国外相が参加してプラハで開催,31日共同声明を採択して閉会。共同声明は,70年前半に全欧州安全保障会議が召集できるよう全欧州諸国が協力すべきことを訴え同会議の議題として安全保障・相互武力不行使,貿易・経済・科学・技術関係拡大の2点を提案している。なお同声明は言及していないが,同会議では主に対西独対策が協議されたと西側ではみられている。
DIA-602-1969-10-31-2ソ連1969年10月31日1960年代4大国会談の再開を提案-ソ連外務省は中東問題についての4大国会談の再開を主張する声明を発表,また米国のラオス介入非難声明を米当局に伝達した。
DIA-602-1969-11-03-1ソ連1969年11月03日1960年代ワルシャワ条約7ヵ国高級軍人会議開催-10月30日よりプラハで開催,70年度の計画が討議された。ソ連からはヤクボフスキー条約軍司令官が参加した。
DIA-602-1969-11-03-2ソ連1969年11月03日1960年代タジック共産党の活動の欠陥-プラウダ紙3日は「個人の責任を増す」と題する特派員電をかかげ,最近タジック共産党中央委の決議の遂行状況について1.G.コワリ第2書記が報告したが,タジック共産党の活動にはいまだに多くの欠陥のあること,そのため「工業生産の伸び率は5ヵ年計画に見込まれているよりも遅れている」と報じた。また同記事は同共和国相I.S.アフメドフを「多くの企業の計画指標をひき下げた」として名ざしで非難し,投資効率はいぜん低いままで,工場・住宅の建設は以前と同じく全く不十分なテンポで実施されていると厳しく叱責している。
DIA-602-1969-11-05-1ソ連1969年11月05日1960年代日ソ航空交渉妥結-10月28日からモスクワで行なわれていた日ソ航空細目交渉は,70年3月28日から,東京=モスクワ=パリ,およびロンドンの2路線で自主運航を開始することその他で合意に達した。
DIA-602-1969-11-08-1ソ連1969年11月08日1960年代中央アジア軍管区新設-7日の革命記念日のトルケスタン諸共和国首都における軍事パレードにつき,8日の各共和国中央紙はアルマアタ,ドゥシャンベ,フルンゼの各市では「中央アジア軍管区」の部隊が行進各々同軍管区司令N.G.リヤシチェンコ陸軍大将(前トルケスタン軍管区司令官),同軍管区参謀長V.N.カルポフ大将,氏名不詳者が閲兵したと報じた。これに対し,タシケントでは「赤旗トルケスタン軍管区司令官臨時代理S.E.ベロノシコ中将」が閲兵したとされた。以上から,西側ではトルケスタン軍管区が二つに分割され,中央アジア軍管区が新設されたと目されている。
DIA-602-1969-11-12-1ソ連1969年11月12日1960年代整党にかんする決議-プラウダ紙は,「ヤロスラフ市党委雄会開催の実状について」と題する中央委決議を報じた。決議は①ヤロスラフ市党委員会の集会が規約に定められた回数だけ招集されていないし,招集されても出席率が低い。集会では瑣未な問題のみが論じられ生産向上に資する討論が少ない。②党組織は,「国家・労働規律の違反,飲酒,社会主義財産の横領,濫費,その他反社会的行為」との闘争に十分な注意を払っていない。③集会では指導者側が一方的に発書するのみで真の批判・討論がなされていないし,指導者の個人的な責任は追及されず,つねにぼかされる。④党規律と党員としての倫理が厳く遵守されていない。などの欠点を指摘,その改善措置実施につき70年8月1日までに中央委に報告するよう命じている。なお,同紙15日号は社説でこの決議をとりあげ,全党組織は「この決議から然るべき教訓をひき出すべきである」と強調した。
DIA-602-1969-11-12-2ソ連1969年11月12日1960年代A.ソルジェニツィン,作家同盟から除名-「文学新聞」紙12日はロシア連邦共和国作家同盟リャザン支部で集会で開催され,この集会は「A.ソルジュニツィンの行為は反社会的な性格をもち,ソ連邦作家同盟憲章に定める諸原則に全く反するものであると全員一致で認め」,彼の追放を決議,ロシア連邦共和国作家同盟理事会書記局はこの決議を承認したと報じた。なお14日A.Y.ソルジェニツィンは言論の自由を要求する公開状を同盟に送ったといわれる。
DIA-602-1969-11-17-1ソ連1969年11月17日1960年代米ソ戦略兵器制限予備交渉始る-ヘルシンキで開催,ソ連側代表団はV.セミョーノフ外務次官,N.V.オガルコフ軍参謀本部次長以下6名であるが,会談内容は秘密とされている。
DIA-602-1969-11-24-1ソ連1969年11月24日1960年代最高会議幹部会開催,核拡散防止条約批准-この会議ではスースロフ政治局員とグロムイコ外相が報告,ブレジネフ,ポドゴルヌイ,コスイギンの3首脳も出席した。
DIA-602-1969-11-27-1ソ連1969年11月27日1960年代第3回全ソ・コルホーズ大会開催-ブレジネフ議長のもとに24日新コルホーズ模範定款草案準備委開催,準備期間中に出された修正案とともに草案を大会に提出することを決定。25日,コスィギン首相を議長として開会,ブレジネフ以下96人の幹部会を選出,まずブレジネフ書記長が演説,ついでD.S.ポリヤンスキー政治局員・第1副首相が長文の報告を行ない,のち討論に移った。26,27日討論を続行,修正案を承認した後,全会一致で「コルホーズ模範定款」ならびに「コルホーズ評議会の設置について」,「コルホーズ員の社会保障について」の決議を採択,全ソ・コルホーズ評議会員125名を選出して閉幕。28日,全ソ・コルホーズ評議会は第1回めの会合を行ない,V.V.マッケウィチ・ソ連邦農相を議長に選出した。なお,コルホーズ大会の開催は34年ぶりのことである。28日,中央委ならびに閣僚会議は同大会の決定をすべて承認した。
DIA-602-1969-12-04-1ソ連1969年12月04日1960年代ワルシャワ条約国首脳会議-3日よりワルシャワ条約加盟7ヵ国の党第1書記,首相以下の首脳を集めてモスクワで開催。4日コミュニケを発表して閉幕。コミュニケはドイツ問題に重点を置き,会談では「平和と安全保障のために,あらゆる国が国際法を基礎としてドイツ民主共和国と平等な関係を樹立し,オーデル・ナイセ沿いの国境を最終的かつ変更不能として認めることを含め,現在のヨーロッパ国境線を承認することが必要との意見を再確認した。ドイツ連邦共和国における選挙の結果と新政府の成立は西ドイツ大衆の間でもろもろの変化と,諸国間の協力,相互理解の現実的な政策をめざす諸傾向が生じていることが指摘された。ドイツ連邦共和国が核拡散防止条約に調印したことは積極的な要素として留意さるべきである。」「もし西ドイツ政府が……ヨーロッパ諸国間の関係で緊張をつくり出している諸問題に現実的なアプローチを示すなら,これは社会主義諸国とすべての平和愛好諸国民の双方によって歓迎されるであろう」と述べている。
DIA-602-1969-12-06-1ソ連1969年12月06日1960年代ウォロシーロフ元帥の葬儀-3日に死去したウォロシーロフ元帥追悼集会が赤の広場でおこなわれポドゴルヌイ議長や,グリシン・モスクワ市党委第1書記,グレチコ国防相らが演説,党・政府首脳はこぞって葬儀に参列した。なお,モロトフもと外相も葬儀に姿をみせた。
DIA-602-1969-12-11-1ソ連1969年12月11日1960年代芸術家同盟合同理事会開催-10日よりクレムリンで開催,デミチェフ中央委書記,ヱピシェフ軍政治総本部長らも参加した。演劇,作家,映画,音楽,その他の分野の代表が発言,イデオロギー引締めを訴えた。
DIA-602-1969-12-15-1ソ連1969年12月15日1960年代連邦中央委員会開催-1970年度予算と経済計画を討議,ブレジネフ書記長が「政治局の外交内政における実際的活動について」報告,一連の決議を採択。
DIA-602-1969-12-19-1ソ連1969年12月19日1960年代第7期最高会議第7会期開催-16日連邦・民族会議合同会議開催,N.K.バイバコフ・ゴスプラン議長が「1970度国民経済発展計画」につき,ついでV.F.ガルブーゾフ蔵相が「1970年度国家予算ならびに1969年度予算」について報告,17日これにつき討論,18日連邦会議ならびに民族会議は個別に会議を開き討論の後,経済計画,予算案と実施報告を承認。19日合同会議開催,「連邦ならびに連邦加盟共和国保健衛生基本法」を採択,閉会。
DIA-602-1969-12-21-1ソ連1969年12月21日1960年代スターリン生誕記念論文発表-プラウダ紙21日は第2面に「スターリン生誕90周年によせて」と題する無署名論文を掲載,同紙23日はレーニン生誕年を記念する1万3000語の中央委員会のテーゼを発表した。
DIA-602-1969-12-22-1ソ連1969年12月22日1960年代米ソ・本交渉開催で同意-ヘルシンキで5週間にわたり開催された米ソ戦略兵器制限交渉予備交渉は,簡単なコミュニケを発表して終了した。コミュニケは,「本交渉を1970年4月16日よりウィーンで開始する」と述べている。
DIA-602-1969-12-23-1ソ連1969年12月23日1960年代ソ連=西独交渉-7日,ツアラプキン駐独ソ連大使は西ドイツ政府に対し,「相互武力不行使宣言の交換」交渉にソ連側が応ずるむね伝達,8日モスクワでグロムイコ外相とアラルト駐ソ独大使の間で第1回めの会議がおこなわれ,23日には第3回めの会議がおこなわれた。会談内容は明かにされていない。
DIA-602-1969-12-25-1ソ連1969年12月25日1960年代カザフスタン党中央委開催-24,25日にわたりカザフスタン共産党第7回中央委開催,D.A.クナーヱフ第1書記以下が報告,「12月連邦中央委総会の諸結果とカザフ共和国国民経済5ヵ年計画完遂にかんする組織活動について」の決議採択(27日発表)。決議は共和国内の工業企業の3分の1が,販売計画を遂行していないこと,基本建設が遅れており,畜産も不振であること,ソホーズ・コルホーズでは,農業機械関係の人員が不足していることなどを指摘し,対策を講ずるよう指令したものである。25,26日最高会議開催,予算案と経済計画を承認。なお,他の共和国でもほぼ同様に中央委と最高会議が開催され,予算案と経済計画を承認したが,アゼルバイジャン共和国最高会議はインケンドロフ同会議幹部会議長を解任,後任にハリロフ蔵相を任命した。
DIA-602-1969-12-25-2ソ連1969年12月25日1960年代トルクメン共産党第1書記解任一トルクメンスカヤ・イスクラ紙25,26日によると,24日にトルクメン共和国党中央委総会,25日に同最高会議が開催され,予算と経済計画を承認したほか,第1書記B.オベゾフを「仕事におけるいくつかの重大な欠陥」のため解任,後任にM.ガプーロフ首相を任命,首相の後任にはO.N.オラズムハメドフ書記を任命した。最高会議でA.タイリェフ・同共和国ゴスプラン議長は,1969年1~11月の期間に同共和同の262工業企業のうち106企業が計画を完遂しなかったこと,特に綿花洗滌工場の遅れ,建設材料工業の生産不十分が甚しいこと,基本建設計画は38%しか達成されていないこと,住民への物資・サービスの供給がいぜん全く不十分なままであること,などを指摘した。
DIA-602-1969-12-25-3ソ連1969年12月25日1960年代国境警備軍則司令官死去ー「赤い星」紙26日はソ連国境警備軍司令官ヤコフ・T・レズニチェンコ少将が服,務中に死去したと報じた。
DIA-602-1969-12-29-1ソ連1969年12月29日1960年代中ソ会談再開ヘー中ソ同境会議の首席代表クズネツォフ第1外務次官らは最高会議出席のため14日より帰国していたが,ソ連外務省は数日中に代表団が帰任すると発表した。