ID 国名 日付 年代 内容
DIA-503-1980-01-01-1アフガニスタン1980年01月01日1980年代PDPA,創立15周年祝賀。カルマル首相初めてテレビに登場。
DIA-503-1980-01-01-2アフガニスタン1980年01月01日1980年代ソ連,ブルガリア,東独,ベトナム,モンゴル,カルマルに祝電。(カーブル・ニュー・タイムズ)
DIA-503-1980-01-01-3アフガニスタン1980年01月01日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』は日付不明のソ連に対する緊急の政治的,経済的,道徳的援助を軍事援助も含めて要請したアフガン政府の声明を発表。
DIA-503-1980-01-01-4アフガニスタン1980年01月01日1980年代政府がソ連の援助を求めたのは,「外国の敵による大規模な侵略と挑発」のため(バフタル通信)。
DIA-503-1980-01-02-1アフガニスタン1980年01月02日1980年代カルマル首相,反民主的・反人道的措置の撤廃,政治犯の釈放,神聖なイスラム教原理の尊重を約束。
DIA-503-1980-01-03-1アフガニスタン1980年01月03日1980年代EC,アフガン向け食糧援助,一時停止。
DIA-503-1980-01-03-2アフガニスタン1980年01月03日1980年代バーミヤンでソ連軍部隊襲われる。
DIA-503-1980-01-03-3アフガニスタン1980年01月03日1980年代『プラウダ』,バプーチン第一内務次官がアフガニスタンで12月28日死亡したことを報じる。
DIA-503-1980-01-04-1アフガニスタン1980年01月04日1980年代ヘラート,ジャララバードで反政府ゲリラ。
DIA-503-1980-01-04-2アフガニスタン1980年01月04日1980年代米大統領,アフガニスタンへのソ連介入に抗議し,対ソ穀物追加輸出停止,モスクワ五輪不参加など発表。
DIA-503-1980-01-04-3アフガニスタン1980年01月04日1980年代カルマル首相,近く民主憲法と語る。
DIA-503-1980-01-05-1アフガニスタン1980年01月05日1980年代『プラウダ』は,「ソ連軍の限定部隊は,内政干渉が停止されれば,直ちに引き揚げられる」と述べる。
DIA-503-1980-01-06-1アフガニスタン1980年01月06日1980年代プレ・チャルキ・刑務所で2730人の政治犯釈放。
DIA-503-1980-01-06-2アフガニスタン1980年01月06日1980年代イスマイル南イエーメン大統領,カルマルに祝電。
DIA-503-1980-01-06-3アフガニスタン1980年01月06日1980年代ソ連軍降下部隊,バダクシャンに投入(AP)。
DIA-503-1980-01-07-1アフガニスタン1980年01月07日1980年代カルマル議長,「今後結成するイスラム教徒や少数民族をも含む広範な統一戦線の目標は主権,独立,進歩,民主のアフガニスタン建設である」と言明。
DIA-503-1980-01-07-2アフガニスタン1980年01月07日1980年代国連緊急安保理で,「外国軍隊撤退要求」決議案はソ連の拒否権行使で否決された。
DIA-503-1980-01-07-3アフガニスタン1980年01月07日1980年代米国務省,アフガンのソ連軍は少くとも8万5千人余り,場合によっては10万を越えると述べた。
DIA-503-1980-01-07-4アフガニスタン1980年01月07日1980年代『プラウダ』,パキスタンに対し,アフガンへの「帝国主義者の侵略」に手を貸さないよう警告。
DIA-503-1980-01-08-1アフガニスタン1980年01月08日1980年代クンドズ,ラグマン両州内の反政府ゲリラ活溌。
DIA-503-1980-01-08-2アフガニスタン1980年01月08日1980年代国防省声明で,パキスタンの反動勢力が,中国,サウジアラビア,エジプトなどの反動勢力と組んで,テロリストを養成,アフガンに送っていると非難。
DIA-503-1980-01-08-3アフガニスタン1980年01月08日1980年代エジプト,アフガン・ゲリラに支援を約束。
DIA-503-1980-01-09-1アフガニスタン1980年01月09日1980年代カルマル政権,州知事全員を更迭,新知事任命。
DIA-503-1980-01-09-2アフガニスタン1980年01月09日1980年代ソ連,軍事顧問のほか3千の行政顧問派遣(共同)。
DIA-503-1980-01-10-1アフガニスタン1980年01月10日1980年代PDPAは,党中央委員会,政治局,書記局のほか,革命評議会の常設機関として最高会議を設置。
DIA-503-1980-01-10-2アフガニスタン1980年01月10日1980年代カルマル議長,西側記者と初会見。「アミンは米帝国主義の手先。ソ連軍はアフガン政府側の要請で出動し,ソ連軍の目的は限定的なもので米中の侵略を防ぐため」。
DIA-503-1980-01-10-3アフガニスタン1980年01月10日1980年代特赦で6000人の政治犯釈放された。
DIA-503-1980-01-10-4アフガニスタン1980年01月10日1980年代バダクシャン州ファイザバードで激戦。
DIA-503-1980-01-12-1アフガニスタン1980年01月12日1980年代ブレジネフ書記長,『プラウダ』で見解表明。「やむことのない軍事干渉,外国反動勢力の策謀は,アフガニスタンの独立を損ない,ソ連南部国境近くに帝国主義的前進基地を作り出す恐れがあった」
DIA-503-1980-01-13-1アフガニスタン1980年01月13日1980年代カーター米大統領,「米国の利益を守るためには,イランでもアフガニスタンでも,軍事力の行使をも辞さない」と強調。
DIA-503-1980-01-14-1アフガニスタン1980年01月14日1980年代国連緊急特別総会,「アフガニスタンからの全外国軍隊の撤退要求決議案」を採択。賛成104,反対18,棄権18,投票不参加12。
DIA-503-1980-01-14-2アフガニスタン1980年01月14日1980年代カルマル,イランのホメイニ師に友好呼びかけ。
DIA-503-1980-01-19-1アフガニスタン1980年01月19日1980年代ルマル政府,すべての国の報道機関にビザ発給停止。
DIA-503-1980-01-19-2アフガニスタン1980年01月19日1980年代PDPA常任幹部会,全世界のムスリムに対してアフガン革命を支持するよう訴える。
DIA-503-1980-01-21-1アフガニスタン1980年01月21日1980年代カルマル政府,18人のパキスタン人捕虜釈放。パキスタンとの話合いを提案。
DIA-503-1980-01-23-1アフガニスタン1980年01月23日1980年代カルマル首相は,アミンは12月31日から1月2日の間に,カンプチア,チリで行なった以上の大虐殺を伴なったクーデターを計画していたと語る。
DIA-503-1980-01-26-1アフガニスタン1980年01月26日1980年代PDPA政治局,左翼スローガン,絵画の表示を禁止。その理由として,民族・民主主義革命の現段階には不適当であると説明。
DIA-503-1980-01-26-2アフガニスタン1980年01月26日1980年代アブドル・カディル少将,ヘラートを訪れ,シーア派指導者たちと会う。
DIA-503-1980-01-27-1アフガニスタン1980年01月27日1980年代ペシャワールを根拠地とする反政府ゲリラの6組織「イスラム擁護同盟」の名称の反ソ統一戦線結成。参加組織は,ヒズベ・イスラミ(G.ヘクマチアル派),同(Y.ハリス派),民族解放戦線,イスラム革命民族戦線,アフガニスタン・イスラム社会,イスラム革命運動。
DIA-503-1980-01-28-1アフガニスタン1980年01月28日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』社説,政府に対して全ての愛国勢力を招集するよう要求。一種の政府批判。
DIA-503-1980-01-29-1アフガニスタン1980年01月29日1980年代ヘラートで反ソ・ゼネスト。
DIA-503-1980-01-29-2アフガニスタン1980年01月29日1980年代イスラム外相会議,ソ連軍撤退要求とカルマル政権不承認を内容とする決議採択
DIA-503-1980-01-31-1アフガニスタン1980年01月31日1980年代モスクワ放送,反政府ゲリラ支援の中国人軍事顧問逮捕説を伝える。
DIA-503-1980-02-02-1アフガニスタン1980年02月02日1980年代反政府ゲリラ,カーブルの中央電報局に放火。
DIA-503-1980-02-03-1アフガニスタン1980年02月03日1980年代訪パ中のブレジンスキー米補佐官,難民キャンプとカイバル峠を訪ねる。
DIA-503-1980-02-04-1アフガニスタン1980年02月04日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』編集長ラヒム・ラファット解任される。
DIA-503-1980-02-06-1アフガニスタン1980年02月06日1980年代「アフガニスタン解放イスラム同盟」のラバニ議長,3月までに臨時政府を国内に樹立したいと語る。
DIA-503-1980-02-06-2アフガニスタン1980年02月06日1980年代ジア・パキスタン大統領,インド,イラン,パキスタンはアフガニスタン国境を守るため,「平和維持軍」を創設すべきであると述べる。
DIA-503-1980-02-07-1アフガニスタン1980年02月07日1980年代カルマル首相,インドのS.Kシン特使と会見。
DIA-503-1980-02-07-2アフガニスタン1980年02月07日1980年代国防省人事局,無断で職務を離れた者を解任。
DIA-503-1980-02-07-3アフガニスタン1980年02月07日1980年代ヘーラトで,1万人の反ソデモ。
DIA-503-1980-02-07-4アフガニスタン1980年02月07日1980年代外務省スポークスマン,ブレジンスキーのパキスタン,中東訪問を非難。
DIA-503-1980-02-09-1アフガニスタン1980年02月09日1980年代東独,アフガニスタン,経済・技術協力協定調印,通信エネルギー分野の開発プロジェクト援助。
DIA-503-1980-02-10-1アフガニスタン1980年02月10日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』,カーブルの茶,食用油の価格が低下したと報道。
DIA-503-1980-02-11-1アフガニスタン1980年02月11日1980年代カーブル北方のカルガ政府軍駐屯地の反乱,ソ連軍によって鎮圧される(AFP)。
DIA-503-1980-02-11-2アフガニスタン1980年02月11日1980年代ドスト外相,パキスタン内のパシュトーン,バルーチの問題は,パの国内問題と語る。
DIA-503-1980-02-11-3アフガニスタン1980年02月11日1980年代尿素肥料価格,袋当り500アフガニから400アフガニまで引下げられる。
DIA-503-1980-02-13-1アフガニスタン1980年02月13日1980年代コンゴ・ブラザヴィル親善使節団,カーブル訪問終える。
DIA-503-1980-02-14-1アフガニスタン1980年02月14日1980年代サルワリ副議長,2月9日以降のマザリシャリフ視察から帰る。
DIA-503-1980-02-14-2アフガニスタン1980年02月14日1980年代閣議声明でカーター米大統領の一般教書に反論「アフガンの土地は,インド洋,ペルシャ湾,あるいは石油資源に接近するために利用されていないし,決して利用されないだろう」と強調。
DIA-503-1980-02-14-3アフガニスタン1980年02月14日1980年代アムネスティ代表,カルマル議長と会う。
DIA-503-1980-02-14-4アフガニスタン1980年02月14日1980年代アジア開銀,アフガン化学肥料会社に570万ドルの借款供与。
DIA-503-1980-02-15-1アフガニスタン1980年02月15日1980年代カルマル議長,PFLP(パレスチナ解放人民戦線)代表と会見。
DIA-503-1980-02-16-1アフガニスタン1980年02月16日1980年代カーブルのイスラム寺院で3月10日に首都攻撃を呼びかけ「シャブ・ナーメ(夜の手紙)」配布される。
DIA-503-1980-02-16-2アフガニスタン1980年02月16日1980年代アブドル・ガファル・カーン,ソ連援助称賛。
DIA-503-1980-02-16-3アフガニスタン1980年02月16日1980年代米政府筋,アフガン政府軍は7万から4万人に減少と語る(ワシントン・ポスト紙2・17)。
DIA-503-1980-02-17-1アフガニスタン1980年02月17日1980年代ドイツ社会主義統一党代表団,カーブル訪問。
DIA-503-1980-02-18-1アフガニスタン1980年02月18日1980年代ファイザバードの空軍基地で政府軍守備隊反乱の報道(ジャミアト・イスラミ・スポークスマン)。
DIA-503-1980-02-18-2アフガニスタン1980年02月18日1980年代『プラウダ』アフガン内で平穏な生活の条件をつくり経済を正常化するうえでの困難を伝える。またカルマル政権は農民の土地保有,相続を認めると報ず。
DIA-503-1980-02-19-1アフガニスタン1980年02月19日1980年代バフタル通信.南イエーメン軍がアフガンに介入しているというエジプト紙『アル・アハラム』の報道を否定。
DIA-503-1980-02-19-2アフガニスタン1980年02月19日1980年代EC外相会議,アフガン中立化方針採択。
DIA-503-1980-02-20-1アフガニスタン1980年02月20日1980年代ソ連軍の70%はソ連国内のイスラム圏出身者であったが,本国へ送還し入れ替え中(テヘランでヒズベ・イスラミの指導者ヒクマチアル言明)。
DIA-503-1980-02-20-2アフガニスタン1980年02月20日1980年代公務員労働者の労働時間,午前8時から午後4時(一時間昼食)と決められる。
DIA-503-1980-02-20-3アフガニスタン1980年02月20日1980年代ソ連のノーボスチ通信とバフタル通信,情報及び技術協力に関する協定調印。
DIA-503-1980-02-21-1アフガニスタン1980年02月21日1980年代カーブルで反ソ行動として多くの商店閉店。夜「アラー・アクバル」の合唱。政府,一斉取締りに着手。
DIA-503-1980-02-22-1アフガニスタン1980年02月22日1980年代カルマル政府,カーブルに戒厳令,夜間外出禁止令を出した。反ソデモがカーブル市庁前で集会。
DIA-503-1980-02-22-2アフガニスタン1980年02月22日1980年代国外との電話・テレックス回線しゃ断。
DIA-503-1980-02-22-3アフガニスタン1980年02月22日1980年代カルマル政府,米国人を含む17人の反政府活動分子を逮捕したと発表。
DIA-503-1980-02-22-4アフガニスタン1980年02月22日1980年代アフガニスタン問題を討議する非同盟諸国の会議でアフガン外交官A.グルフォールザイ代表,ソ連非難を行なった後辞任。
DIA-503-1980-02-23-1アフガニスタン1980年02月23日1980年代カーブルの国家公務員のスト入りが伝えられる。
DIA-503-1980-02-24-1アフガニスタン1980年02月24日1980年代カーブル川を境に同市の半分を封鎖。
DIA-503-1980-02-24-2アフガニスタン1980年02月24日1980年代アフガニスタン国境警備隊のマソード少将らパキスタン領に脱出。
DIA-503-1980-02-26-1アフガニスタン1980年02月26日1980年代カーブル放送,商店再開と公務員の職場復帰を呼びかける。
DIA-503-1980-02-26-2アフガニスタン1980年02月26日1980年代カルマル,米・中・パ・エジプト・イスラエルの「反革命活動」を激しく非難。
DIA-503-1980-02-26-3アフガニスタン1980年02月26日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』,サウジ・アラビアがアフガニスタン反政府ゲリラに7億ドル相当の武器供与決定と非難。
DIA-503-1980-02-27-1アフガニスタン1980年02月27日1980年代カーブル市内の7割の商店,店を開く。
DIA-503-1980-02-27-2アフガニスタン1980年02月27日1980年代第一回農業会議終了。
DIA-503-1980-02-27-3アフガニスタン1980年02月27日1980年代訪ソ中のアブドル・カディル空軍少将,帰国。
DIA-503-1980-02-28-1アフガニスタン1980年02月28日1980年代ソ連・アフガニスタン友好条約59周年記念行事がカーブルで行なわれる。
DIA-503-1980-02-28-2アフガニスタン1980年02月28日1980年代ラテブザド教育相,ソ連・東欧訪問に出発。
DIA-503-1980-02-29-1アフガニスタン1980年02月29日1980年代クナール州,カンダハル州でソ連軍,反政府ゲリラに対する空爆。
DIA-503-1980-03-01-1アフガニスタン1980年03月01日1980年代カルマル政府,新憲法の草案作成と国旗変更のための委員会設置を決定。生活必需品(小麦,塩,砂糖,灯油,繊維等)の流通問題に関する委員会も設置。
DIA-503-1980-03-01-2アフガニスタン1980年03月01日1980年代ソ連軍,クナール州,カンダハル州でゲリラ掃討。
DIA-503-1980-03-03-1アフガニスタン1980年03月03日1980年代カンダハル州,ヘルマンド州で洪水の被害。
DIA-503-1980-03-03-2アフガニスタン1980年03月03日1980年代アフガンを訪問したパレスチナ解放民主戦線(DFPL)とPDPA共同声明発表。ソ連援助を歓迎。
DIA-503-1980-03-04-1アフガニスタン1980年03月04日1980年代外務省,パキスタン空軍機の領空侵犯を非難。アフガン空軍機のイラン領空侵犯を否定。
DIA-503-1980-03-04-2アフガニスタン1980年03月04日1980年代ソ連,ECのアフガニスタン中立化構想を非難。
DIA-503-1980-03-05-1アフガニスタン1980年03月05日1980年代カーブルの夜間外出禁止時間,一時間短縮。
DIA-503-1980-03-05-2アフガニスタン1980年03月05日1980年代今まで内務,外務,教育,法務,商業,鉱工業,農業,土地改革,保健,内閣各省庁に任命された103人の公務員のうち45人はPDPA党員以外と報じられる。
DIA-503-1980-03-05-3アフガニスタン1980年03月05日1980年代国際人権連盟,ソ連軍がクナール州で神経ガス使用と非難。ソ連側は否定。
DIA-503-1980-03-05-4アフガニスタン1980年03月05日1980年代農業協同組合数は1199で,組合員数は18万1800人と発表される。
DIA-503-1980-03-05-5アフガニスタン1980年03月05日1980年代ソ連の贈与と借款で輸入される物資は金額で前年度より70%増の見通し。
DIA-503-1980-03-06-1アフガニスタン1980年03月06日1980年代ヘーラト,カンダハル,ラシュガルでゼネスト。
DIA-503-1980-03-06-2アフガニスタン1980年03月06日1980年代ジャンガラクとバグラミ工場の労働者,政府を支持して抵抗グループを結成の用意ありと表明。
DIA-503-1980-03-07-1アフガニスタン1980年03月07日1980年代米国務省スポークスマン,ソ連の軍事顧問団の家族や長期滞在者たちの本国引き掲げが始まった,と言明。
DIA-503-1980-03-07-2アフガニスタン1980年03月07日1980年代ECとASEAN外相会議,共同声明でソ連軍のアフガニスタン介入を非難。
DIA-503-1980-03-08-1アフガニスタン1980年03月08日1980年代ソ連軍,クナール川渡河。ゲリラ勢力弱体化。
DIA-503-1980-03-09-1アフガニスタン1980年03月09日1980年代革命評議会。21歳以上の者に対して総動員令。
DIA-503-1980-03-09-2アフガニスタン1980年03月09日1980年代ソ連,小麦(5万トン),綿実(2千トン),砂糖(3万トン)供給協定調印。
DIA-503-1980-03-10-1アフガニスタン1980年03月10日1980年代カルマル政権,アミン一派42人逮捕と発表。
DIA-503-1980-03-11-1アフガニスタン1980年03月11日1980年代クナール州,パクチア州でソ連軍とゲリラとの交戦激化。
DIA-503-1980-03-12-1アフガニスタン1980年03月12日1980年代カルマル首相,アブドル・ガファル・カーンを見舞う。
DIA-503-1980-03-12-2アフガニスタン1980年03月12日1980年代カルマル内閣改造。
DIA-503-1980-03-12-3アフガニスタン1980年03月12日1980年代カーブル北のホッセンクート駐屯地の政府軍一個大隊,反政府側に寝返り。
DIA-503-1980-03-12-4アフガニスタン1980年03月12日1980年代ソ連テレビ,アフガン駐留ソ連軍初放映。
DIA-503-1980-03-13-1アフガニスタン1980年03月13日1980年代カルマル,国際法律家協会(本部,ブリュッセル)グループに対し,ソ連の援助なしに反乱を封じこめることはできないと語った。
DIA-503-1980-03-13-2アフガニスタン1980年03月13日1980年代ドスト外相ソ連訪問。
DIA-503-1980-03-13-3アフガニスタン1980年03月13日1980年代日本の国会,ソ連のアフガニスタン侵攻は,「世界の平和と安全を脅かす行為」として非難決議。
DIA-503-1980-03-14-1アフガニスタン1980年03月14日1980年代ドスト外相,ソ連外相との会談終える。
DIA-503-1980-03-14-2アフガニスタン1980年03月14日1980年代ルーマニア,イギリスは共同声明で,アフガニスタンにおけるソ連の役割を非難。
DIA-503-1980-03-15-1アフガニスタン1980年03月15日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』社説は,中国はアフガニスタンに対する領土的野心ありと非難。
DIA-503-1980-03-15-2アフガニスタン1980年03月15日1980年代政府軍,エジプトのスパイを逮捕したと発表。
DIA-503-1980-03-16-1アフガニスタン1980年03月16日1980年代外務省,カーブルの米大使館に対して,アミンとCIAの間の協力関係を示す書類を提供するよう要請。
DIA-503-1980-03-16-2アフガニスタン1980年03月16日1980年代革命評議会,1980年度の予算承認。
DIA-503-1980-03-19-1アフガニスタン1980年03月19日1980年代カルマル政権,ソ連の借款,贈与に支えられた均衡予算と反政府ゲリラと闘うための動員計画を発表。
DIA-503-1980-03-19-2アフガニスタン1980年03月19日1980年代サルワリ副首相,カンダハル訪問。
DIA-503-1980-03-19-3アフガニスタン1980年03月19日1980年代カルマル政府,外国への難民に対して一般特赦の声明で帰国を促す。
DIA-503-1980-03-19-4アフガニスタン1980年03月19日1980年代ソ連,アフガニスタン内に宇宙衛星受信用のテレビ局設置を約束。
DIA-503-1980-03-20-1アフガニスタン1980年03月20日1980年代『カーブル・ニュー・タイムズ』,園田特使のインド・パキスタン訪問に関して,日本がペルシャ湾,インド洋でのアメリカの侵略政策を支持していると批判。
DIA-503-1980-03-21-1アフガニスタン1980年03月21日1980年代カルマル首相,イランのホメイニ師とバニサドル大統領に対して新年のあいさつを送る。
DIA-503-1980-03-22-1アフガニスタン1980年03月22日1980年代カルマル首相,アフガニスタン中立化構想非難。
DIA-503-1980-03-22-2アフガニスタン1980年03月22日1980年代ラテブザド教育相,ソ連・東欧から帰国。
DIA-503-1980-03-22-3アフガニスタン1980年03月22日1980年代アフガン国立石油会社(ANPC),79年度の天然ガス生産は24億立方メートル,輸出で2億ドル獲得と発表。
DIA-503-1980-03-23-1アフガニスタン1980年03月23日1980年代2月21~22日のカーブル暴動逮捕者1507人釈放。
DIA-503-1980-03-24-1アフガニスタン1980年03月24日1980年代砂糖の販売価格,キロ当り30アフガニと決定。
DIA-503-1980-03-24-2アフガニスタン1980年03月24日1980年代(イスラマバード):5ゲリラ組織,アフガン解放イスラム擁護同盟(IALA)革命評議会議長にアブドウル・ラソール・サヤス選出。
DIA-503-1980-03-26-1アフガニスタン1980年03月26日1980年代西独でアフガンのサッカー・チーム7人亡命。
DIA-503-1980-03-27-1アフガニスタン1980年03月27日1980年代カルマル政府,朝鮮民主主義人民共和国とラジオ,テレビ関係の協力協定調印。
DIA-503-1980-03-28-1アフガニスタン1980年03月28日1980年代チェコ訪問中のケシュトマンド副首相,フサーク大統領と会談。
DIA-503-1980-03-29-1アフガニスタン1980年03月29日1980年代ソ連軍,クナール州とバダクシャン州の反政府ゲリラ一掃(ニューデリーに着いた旅行者談)。
DIA-503-1980-03-29-2アフガニスタン1980年03月29日1980年代(ニューデリー):アフガン政府,土地改革地を元の地主に返却しつつある,とカーブルからの旅行者談。
DIA-503-1980-03-30-1アフガニスタン1980年03月30日1980年代閣議一般初等義務教育を都市では1985~86,農村では1986~87年までに導入することを決定。
DIA-503-1980-04-01-1アフガニスタン1980年04月01日1980年代カルマル政府,ガズニ州のカラバグ地区の反政府ゲリラ一掃と発表。
DIA-503-1980-04-01-2アフガニスタン1980年04月01日1980年代ソ連の80年度の贈与として1億ルーブル相当の生活必需品供給協定調印。
DIA-503-1980-04-01-3アフガニスタン1980年04月01日1980年代米国が貿易特恵対象国からアフガニスタンを除外したことに対して,カルマル政府抗議。
DIA-503-1980-04-02-1アフガニスタン1980年04月02日1980年代米国務省,79年1月のダブス大使殺害事件へのアフガン政府の説明は事案をゆがめていると非難。
DIA-503-1980-04-02-2アフガニスタン1980年04月02日1980年代バンク・メリ・アフガンの株主に対して,2億1200万アフガニの補償金が支払われると発表される。
DIA-503-1980-04-03-1アフガニスタン1980年04月03日1980年代反政府ゲリラに破壊されたタンギ・バーシャン橋復興。
DIA-503-1980-04-03-2アフガニスタン1980年04月03日1980年代M.A.ワタンジャル通信相,訪ソ。
DIA-503-1980-04-04-1アフガニスタン1980年04月04日1980年代ソ連最高会議幹部会は,ソ連軍部隊のアフガニスタンへの暫定的駐留に関する同国政府との条約を批准。
DIA-503-1980-04-04-2アフガニスタン1980年04月04日1980年代アフガニスタン革命評議会も同条約を承認。
DIA-503-1980-04-05-1アフガニスタン1980年04月05日1980年代50万人が文盲退治のため教育を受ける予定。
DIA-503-1980-04-05-2アフガニスタン1980年04月05日1980年代カルマル首相,キューバのI.マルミエルカ外相と会談。
DIA-503-1980-04-06-1アフガニスタン1980年04月06日1980年代カーブルの夜間外出禁止時間,一時間繰り下げて午後11時からとなる。
DIA-503-1980-04-06-2アフガニスタン1980年04月06日1980年代PDPAのカーブル市活動者会議,党内の派閥主義追放を呼びかける。
DIA-503-1980-04-06-3アフガニスタン1980年04月06日1980年代国営石油会社によると,80年の対ソ天然ガス輸出は,ジャルクドクとゴゲルダックのガス田から23.25億立方メートル(2億ドル)となる見込み。
DIA-503-1980-04-07-1アフガニスタン1980年04月07日1980年代カルマル政府,退役軍人に対して,志願兵として軍務に復するよう呼びかける。
DIA-503-1980-04-07-2アフガニスタン1980年04月07日1980年代クナール州東部,ラグマン州でソ連軍とゲリラの間の激戦が伝えられる。
DIA-503-1980-04-07-3アフガニスタン1980年04月07日1980年代ソ連向け天然ガス輸出価格,千立方メートルあたり83.37ドルは妥協―バフタル通信。
DIA-503-1980-04-08-1アフガニスタン1980年04月08日1980年代ドスト外相,トリポリでリビア外相A・タリキと会談。
DIA-503-1980-04-08-2アフガニスタン1980年04月08日1980年代ドスト外相,イスラム外相会議で「アフガン問題」を議論することは内政干渉であると述べる。
DIA-503-1980-04-09-1アフガニスタン1980年04月09日1980年代政府軍戦車,カーブル市内から姿を消す。
DIA-503-1980-04-09-2アフガニスタン1980年04月09日1980年代普通教育期間を従来の12年間から10年に短縮。
DIA-503-1980-04-09-3アフガニスタン1980年04月09日1980年代ウズベク語の詩に関するシンポジウム開かれる。
DIA-503-1980-04-10-1アフガニスタン1980年04月10日1980年代国防省,ヘーラトの反政府ゲリラは米国製の毒ガス入り手榴弾をもっていたと声明。
DIA-503-1980-04-10-2アフガニスタン1980年04月10日1980年代カーブル放送,バグラン州で「外国の手先」グループの多くを殺したと伝える。
DIA-503-1980-04-11-1アフガニスタン1980年04月11日1980年代ドスト外相,シリブ訪問。アサド大統領と会見。
DIA-503-1980-04-11-2アフガニスタン1980年04月11日1980年代ソ連陸軍政治部A.A.エプシェフ将軍,『プラウダ』紙上でワルシャワ条約加盟国は,帝国主義者の攻撃を受けたアフガニスタンなどの友好国の安全を守る用意ありと述べる。
DIA-503-1980-04-12-1アフガニスタン1980年04月12日1980年代ドスト外相,イラク訪問。
DIA-503-1980-04-13-1アフガニスタン1980年04月13日1980年代PDPA中央委総会。新憲法とPDPA党章を承認。
DIA-503-1980-04-14-1アフガニスタン1980年04月14日1980年代革命評議会,新憲法(アフガニスタン民主共和国の基本原則)を公布。イスラムの尊重,人権尊重を前文でうたう。全部で10章。民族祖国戦線の結成と,新しい段階に入った4月革命を押しすすめ,民族,民主,反封建,反帝国主義を強調している。
DIA-503-1980-04-14-2アフガニスタン1980年04月14日1980年代ゴール州の住民5000人以上帰還(ニュー・タイムズ)。
DIA-503-1980-04-14-3アフガニスタン1980年04月14日1980年代ナンガルハル州労働組合結成される。
DIA-503-1980-04-14-4アフガニスタン1980年04月14日1980年代ドスト外相,アラブ諸国歴訪を終え帰国。M.A.ワタンジャル通信相,ソ連から帰国。
DIA-503-1980-04-17-1アフガニスタン1980年04月17日1980年代アフガニスタン政府,イラン,パキスタン両国との国交正常化のための政府間交渉など5項目提案。
DIA-503-1980-04-17-2アフガニスタン1980年04月17日1980年代米国務省,アフガニスタンでのソ連軍の死傷者は推計8千人にのぼるとの見方を明らかにする。
DIA-503-1980-04-19-1アフガニスタン1980年04月19日1980年代PDPA中央委員会,四月革命2周年記念に際し,「四月革命のイデオロギー的目的」を発表。
DIA-503-1980-04-21-1アフガニスタン1980年04月21日1980年代新憲法,発効。
DIA-503-1980-04-21-2アフガニスタン1980年04月21日1980年代革命評議会議長公邸「人民の家」に,赤,黒,緑の3色の新国旗が掲げられた。赤は革命,黒は平和,緑はイスラムを象徴していると説明される。
DIA-503-1980-04-21-3アフガニスタン1980年04月21日1980年代米軍事筋は,アフガン作戦に動員されているソ連軍は11万5千人(アフガニスタン内で8万4千人,トルキスタン軍管区で3万人待機)と述べる。
DIA-503-1980-04-22-1アフガニスタン1980年04月22日1980年代カルマル政府,チェコとの経済・技術協力協定(総額9000万ドル)承認。
DIA-503-1980-04-24-1アフガニスタン1980年04月24日1980年代15kwの通信センター,タカ・トゥートで作動開始。
DIA-503-1980-04-26-1アフガニスタン1980年04月26日1980年代カーブル市で革命2周年記念大集会,ソ連,東独,ブルガリア・キューバ・ハンガリー,ポーランド,モンゴル,エチオピア,南イエメン,コンゴ,ベトナム,カンボジア(ヘン・サムリン政権),ラオス代表参列。
DIA-503-1980-04-27-1アフガニスタン1980年04月27日1980年代朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席,カルマル首相に対し革命2周年記念で祝電を送る。
DIA-503-1980-04-28-1アフガニスタン1980年04月28日1980年代非政治犯の刑期短縮令出される。
DIA-503-1980-04-28-2アフガニスタン1980年04月28日1980年代公務員の不当解雇禁止,原状復帰令出される。
DIA-503-1980-04-28-3アフガニスタン1980年04月28日1980年代アフガン・ソ連友好の家,カーブル訪問中のアルキーポフ・ソ連副首相の手でオープンされる。
DIA-503-1980-04-29-1アフガニスタン1980年04月29日1980年代カーブルで女子高生のソ連軍撤退要求デモ。
DIA-503-1980-05-02-1アフガニスタン1980年05月02日1980年代カーブル学生デモで死者57人(BBC)―4月27日の革命2周年記念行事と新国旗(赤・緑・黒の三色旗)に反対して学生・生徒(女子も含む)が集会・デモを行ない,アフガン軍が生徒への発砲を拒否したためソ連軍が鎮圧に出動,デモが行なわれた約1週間に死者57人,負傷者100人,逮捕者300~400人を出した。
DIA-503-1980-05-03-1アフガニスタン1980年05月03日1980年代4月革命記念日に,カンボジアのヘン・サムリン議長より祝電(カーブル放送)。
DIA-503-1980-05-04-1アフガニスタン1980年05月04日1980年代ソ連,小麦14万トン(15億アフガニ)の贈与を約束(カーブル放送)。
DIA-503-1980-05-05-1アフガニスタン1980年05月05日1980年代バダクシャン州でソ連軍・政府軍とゲリラが激戦,ソ連・政府軍は死者160人(うちソ連人15人),ヘリ4機,戦車8輌の損害をうけた。ゲリラ側の死者は4人でカラシニコフ銃160丁,対空キャノン砲4を捕獲した(IALAの発表)。
DIA-503-1980-05-05-2アフガニスタン1980年05月05日1980年代反政府勢力,アフガン中立化構想を拒否(Doha放送)―アブ・ダビ訪問中のIALA委員長A.R.Sayyatは記者会見,西側諸国提案の中立化構想は受け入れられないとのべた。
DIA-503-1980-05-07-1アフガニスタン1980年05月07日1980年代チトー大統領葬儀にS.A.ケシュトマンド革命評議会副議長ら出席。
DIA-503-1980-05-10-1アフガニスタン1980年05月10日1980年代カーブルの南西約100マイルのGazni州Ungut地方で,ソ連・政府軍とゲリラが激戦。ソ連・政府軍は戦車600台,武装ヘリ,MIG戦闘機など投入,反政府軍は1万人を投入。2週間の戦闘で村人5000人以上(主に女・子供)が死亡(BBC)。
DIA-503-1980-05-10-2アフガニスタン1980年05月10日1980年代Konarha州都で革命記念パレードをゲリラが襲撃(AFP)―ソ連人15人,政府軍45人を殺害(IALA発表)。
DIA-503-1980-05-11-1アフガニスタン1980年05月11日1980年代天然ガス処理工場,開所式(カーブル放送)―Jowzjan州のJarkuduk工場で,ソ連の資金・技術援助で3年間かけて建設したもの。開所式にはソ連からShcherbina石油・ガス工業建設相が出席した。天然ガス生産量は1245MCM(million cubic meter)で,ソ連に輸出され,1980/81年度は40億アフガニの収入となる。
DIA-503-1980-05-12-1アフガニスタン1980年05月12日1980年代1980年社会経済開発計画,革命評議会承認(カーブル放送)―GNP成長率は6.5%,農業生産高は4.4%の増,工業生産額は11.6%増を目標とし,小麦生産は290万トンとする。
DIA-503-1980-05-13-1アフガニスタン1980年05月13日1980年代1980年予算,発表(カーブル放送)―予算規模は337.6億アフガニで非常に意欲的なものである。収入増加は天然ガス輸出収入,ソ連を中心とする商品・プロジェクト援助及び贈与の増加によって達成する。
DIA-503-1980-05-14-1アフガニスタン1980年05月14日1980年代カルマル政権,アフガン問題の政治的解決提案(カーブル放送)―イラン・パキスタンとの関係正常化の話し会いを含む6項目提案を発表した(詳細は資料参照)。
DIA-503-1980-05-15-1アフガニスタン1980年05月15日1980年代ヘラート市,ゲリラの手に(AFP)―IALAの発表によれば,反政府ゲリラは13日ヘラート市を制圧。しかし,ソ連は市郊外のShindand空港に兵力を増強して奪回したもよう(タス通信はゲリラ制圧を否定)。
DIA-503-1980-05-15-2アフガニスタン1980年05月15日1980年代カーブル大学教授,インドに難民として到着(AFP)―同教授によると,カーブル大学は反ソ・反政府活動の中心となっており,4月27~29日の反ソ・デモでは学生,生徒156人(うち68人は女性)が殺された。大学教授83人のうち大学に残っているのは20人だけで,あとは外国・故郷に行き,カルマル政権への協力を拒否している。
DIA-503-1980-05-16-1アフガニスタン1980年05月16日1980年代サテー・インド外務次官,アフガン訪問(カーブル放送)―18日にはカルマル議長,ケシュトマンド副首相と会見,アフガン情勢について協議(~19日)。
DIA-503-1980-05-17-1アフガニスタン1980年05月17日1980年代イスラム諸国外相会議カラチで開催(~22日)―パキスタン大統領が開会演説を行ない,アフガン問題の政治的解決のための常設特別委員会設立を提案した。20日にはアフガン反政府グループ代表(IALA指導者)がイラン代表の一員として政治委員会で演説,ソ連・カルマル政府との断交,反政府ゲリラ活動支援を訴えた。21日「アフガン問題決議」が採択され,同外相会議はソ連軍のアフガンからの早急・全面・無条件撤退を要求すると共に,パキスタンを含む閣僚級3人委員会を設置,問題の包括的解決の方策を見出す努力をすることが決議された(決議にはリビア,シリア,南北イエーメン,PLOは反対)。3人委員会はパのシャーヒ外相,イラン外相,イスラム諸国会議事務局長で構成される。
DIA-503-1980-05-17-2アフガニスタン1980年05月17日1980年代パ国境から25kmのNangahar州で反政府ゲリラとソ連軍激戦(ヘズビ情報)。
DIA-503-1980-05-20-1アフガニスタン1980年05月20日1980年代(イスラマバード):アフガン・ゲリラ諸派代表,全体代表に「アフガン解放イスラム同盟」のサイユフ議長を任命と発表。
DIA-503-1980-05-21-1アフガニスタン1980年05月21日1980年代カーブルから8kmのKhair Khanaの兵器庫がゲリラに襲撃され,警備のソ連兵5人,アフガン兵3人が殺され,兵器弾薬多数が奪われた(AFP)。
DIA-503-1980-05-21-2アフガニスタン1980年05月21日1980年代アフガン・ソ連国境問題第19回会議,終了。
DIA-503-1980-05-25-1アフガニスタン1980年05月25日1980年代『プラウダ』紙,アフガン撤兵にはインド洋・ペルシャ湾からの外国基地撤去が前提と。
DIA-503-1980-05-26-1アフガニスタン1980年05月26日1980年代カーブルで再び学生デモ(AFP)―カーブル大学及び中学・高校の学生が20~24日に再び市内で反ソデモを行ない,ソ連・政府軍の発砲で25人以上(女子学生を含む)の死者が出た(ヘズビ情報その他による)。
DIA-503-1980-06-01-1アフガニスタン1980年06月01日1980年代ロシア語学習ラボ,カーブル大学に設置。
DIA-503-1980-06-01-2アフガニスタン1980年06月01日1980年代徴兵を逃がれて,青年層流出(AFP)―医師・技術者・教師・大学学生など,政府の徴兵を逃がれてパキスタン・イラン等に大量に流出している。
DIA-503-1980-06-02-1アフガニスタン1980年06月02日1980年代国防省,反政府ゲリラ勢力がアメリカ製の化学兵器を使用と発表。
DIA-503-1980-06-04-1アフガニスタン1980年06月04日1980年代ソ連軍,兵力増強(AFP)―ソ連軍は国境駐屯の予備兵力25,000人をコナール,パクティア,ヘラート,ジャララバード州に空輸している。これら州の反政府勢力一掃作戦のためとみられる。
DIA-503-1980-06-05-1アフガニスタン1980年06月05日1980年代北部Balkh州でアフガンからソ連への天然ガス・パイプラインがゲリラによって爆破(ヘズビ情報)。
DIA-503-1980-06-05-2アフガニスタン1980年06月05日1980年代カルマル首相,アフガン特別委決定拒否。
DIA-503-1980-06-06-1アフガニスタン1980年06月06日1980年代カーブル近郊で戦闘(AFP)―カーブル北西20kmのPaghman-Carikar丘陵地帯でソ連軍2万人が反政府軍1万人と激戦。同地帯はカーブル防衛戦略地点。
DIA-503-1980-06-06-2アフガニスタン1980年06月06日1980年代コナール州で激戦(AFP)―ソ連軍が兵力を集中,1晩でソ連兵250人,ゲリラ兵60人が死傷する激戦。
DIA-503-1980-06-06-3アフガニスタン1980年06月06日1980年代全国24州で反政府ゲリラの活動(AFP)。
DIA-503-1980-06-06-4アフガニスタン1980年06月06日1980年代カルマル議長,Mengal族の長老を旧王宮に招いて会談,イスラム教の尊重を強調(カーブル放送)。
DIA-503-1980-06-06-5アフガニスタン1980年06月06日1980年代ソ連・北アフガン送油管300km完成。
DIA-503-1980-06-07-1アフガニスタン1980年06月07日1980年代ソ連軍死者数―Daily Telegraphは東欧筋の情報として,ソ連の軍事介入以来,ソ連軍は月平均1000人以上の死者を出していると報じた。
DIA-503-1980-06-07-2アフガニスタン1980年06月07日1980年代バーミアン駐屯第41旅団の兵士は旅団長を殺し戦車6台と共に反政府ゲリラに参加した。
DIA-503-1980-06-08-1アフガニスタン1980年06月08日1980年代アミン一族・協力者処刑発表―カーブル放送は,アミン前議長の兄と甥(元秘密警察KAM長官),アミン政府時代の警察長官,大統領官邸警備長官,アミン副官,国防省情報部長(以上3人はタラキ議長殺害責任者),KAMのIG,Pol-e-Charklri刑務所長など9人がすでに死刑の判決をうけ,処刑されたと発表した。
DIA-503-1980-06-08-2アフガニスタン1980年06月08日1980年代徴兵強化―カーブル放送は21歳の男子で徴兵に応じないものは軍事法延で裁かれようと警告した。
DIA-503-1980-06-10-1アフガニスタン1980年06月10日1980年代カルマル議長,宗教指導者と会見(カーブル放送)―Jamiat-ul-Ulema代表を招いて会見,協力要請。
DIA-503-1980-06-10-2アフガニスタン1980年06月10日1980年代外務省ソ連人顧問の活動(AFP)―アフガン外務省にはソ連大使館のNo.4とされるVasiliy Safranchuk顧問がおり,実質的に外務大臣の仕事をしている(パキスタン亡命元外務省高官談)。
DIA-503-1980-06-11-1アフガニスタン1980年06月11日1980年代モスクワでソ連・アフガン軍首脳会談。
DIA-503-1980-06-11-2アフガニスタン1980年06月11日1980年代特別革命法廷,元閣僚ら3人に死刑判決(カーブル放送)―元通信相M.Zarif(カンダハル州知事時代の残虐行為),元計画相M.S.Alemyar(Balkh州知事時代のテロ活動),元国境問題相S.Sahraiの3人で,アミン政権時代のハルク派閣僚。
DIA-503-1980-06-11-3アフガニスタン1980年06月11日1980年代パクティア州で激戦(AFP)―ソ連は1個師団を投入して反政府ゲリラと対決。
DIA-503-1980-06-16-1アフガニスタン1980年06月16日1980年代ソ連から道路建設機材328万ドル購入。
DIA-503-1980-06-16-2アフガニスタン1980年06月16日1980年代情報相,負傷(共同)―ヘラートで反政府ゲリラが情報相一行を待伏せて攻撃,情報相負傷。
DIA-503-1980-06-17-1アフガニスタン1980年06月17日1980年代カルマル自殺未遂説(AFP)―デリーに届いた信頼する情報によれば,カルマル議長(53歳,独身)は公邸で自殺を試み,ソ連人コック長に止められたという。自殺の原因として,ソ連首脳部との意見の相違,2度に亘るクーデター未遂事件(1度はSarwari副首相による,もう1度はGulabzoi内相によるもの),ハルク派との対立などがあげられている。
DIA-503-1980-06-17-2アフガニスタン1980年06月17日1980年代ハルク派とパルチャム派対立激化(AFP)―6月8日以来人民民主党内部対立が激化,両派とも10人以上の活動家が毎日殺される状況にあるという。
DIA-503-1980-06-18-1アフガニスタン1980年06月18日1980年代ブルガリア,ベトナム友好代表団,訪ア。
DIA-503-1980-06-18-2アフガニスタン1980年06月18日1980年代カディル将軍,治療のためソ連へ(AFP)―4月革命の中心であったカディル将軍はハルク派にそ撃され,治療のため訪ソ。
DIA-503-1980-06-20-1アフガニスタン1980年06月20日1980年代イスラム会議3人委員会,ジュネーブで初会合―イランとパキスタン外相,イスラム会議事務局長の3人委員会はカルマル派代表,反政府ゲリラ代表を招いて初会合を行ったが,カルマル派は拒否,ゲリラ側は代表9人を送った(~22日)。
DIA-503-1980-06-20-2アフガニスタン1980年06月20日1980年代カーブルの外出禁止時間,23時~3時に短縮。
DIA-503-1980-06-21-1アフガニスタン1980年06月21日1980年代カーブルで商店スト。学生もデモ。
DIA-503-1980-06-22-1アフガニスタン1980年06月22日1980年代ソ連軍,一部撤退(タス)―ソ連軍1個師団と戦車108輌が撤退した。イタリアで開かれている先進国首脳会議にむけてのプロパガンダとみられている。
DIA-503-1980-06-22-2アフガニスタン1980年06月22日1980年代Sarwari副首相,治療のため訪ソ(カーブル放送)。
DIA-503-1980-06-25-1アフガニスタン1980年06月25日1980年代ゲリラ,石油パイプラインを爆破(AFP)―ソ連国境からバクラン州Doshiのソ連軍基地に至る石油パイプライン(300km)を爆破。
DIA-503-1980-06-25-2アフガニスタン1980年06月25日1980年代カーブルの商店スト終る(AFP)―3日間に亘り90%の商店がストに参加したが,政府軍により強制的に店を開けさせられた。
DIA-503-1980-06-28-1アフガニスタン1980年06月28日1980年代AA連帯委員会,カーブルで会合―24ヵ国AA連帯委代表が参加。
DIA-503-1980-06-28-2アフガニスタン1980年06月28日1980年代カルマル議長,民族祖国戦線の結成を提唱。
DIA-503-1980-06-30-1アフガニスタン1980年06月30日1980年代アフガン僧職者の初会合開催(カーブル放送)―全国のUlemaやMullahをカーブルに集めて行なわれた初会合(~6月1日)。
DIA-503-1980-07-05-1アフガニスタン1980年07月05日1980年代レスリング選手7人,パキスタンに亡命(共同)―オリンピック出場のため訪ソする前日,カーブルを脱出したもの。
DIA-503-1980-07-05-2アフガニスタン1980年07月05日1980年代ソ連,コナール州に地雷(AFP)―ソ連軍ヘリが上空から多量の小型地雷を散布,ゲリラ勢力に打撃。
DIA-503-1980-07-08-1アフガニスタン1980年07月08日1980年代ソ連,アフガンに500万ルーブルの技術協力。
DIA-503-1980-07-10-1アフガニスタン1980年07月10日1980年代BBC特派員,追放―カーブル郊外で取材中逮捕され,国外追放された。
DIA-503-1980-07-14-1アフガニスタン1980年07月14日1980年代政府,アミン時代に接収した財産を返却―銀行預金凍結も解除した。
DIA-503-1980-07-16-1アフガニスタン1980年07月16日1980年代イラク建国記念日で,カルマル議長はフセイン大統領に祝電。
DIA-503-1980-07-17-1アフガニスタン1980年07月17日1980年代ソ連,オモチャ爆弾を使用(BBC)―ソ連は飛行機・ヘリから時計や鳥の型をしたオモチャ爆弾を投下,拾うと爆発する仕掛けになっているため,住民の負傷者が増加している。
DIA-503-1980-07-19-1アフガニスタン1980年07月19日1980年代カルマル議長,行政機構攻革を発表(カーブル放送)―行政機能を高めるため,首相権限を強化する必要から次の行政機構改革を行なう。即ち,総理府に「総合地方行政指導最高会議」(General Directorate of Guidance of Local Administrative Organs)を新設し,この中に内務省の企画・行政・監督局,総理府の行政改革局,閣僚会議事務局及び人的資源局,鉱工業省の労働局などを吸収する。同会議は各州・市・県・町村などの地方行政に関する政策決定,実施,監督を行なう。BBCはこの機構改革によって,カルマル議長兼首相の権限が一層強化され,人民民主党ハルク派の権限が縮小,カルマル政府はパルチャム派で固められたと論評。
DIA-503-1980-07-21-1アフガニスタン1980年07月21日1980年代イラン,反政府ゲリラ組織の活動禁止(カーブル放送)―イラン政府はJamiat-e-Islamiがアメリカの援助を受けていたとして,そのイラン内の活動禁止。
DIA-503-1980-07-21-2アフガニスタン1980年07月21日1980年代アリアナ航空会長,カーブル空港での銃撃戦で死亡(AFP)。
DIA-503-1980-07-24-1アフガニスタン1980年07月24日1980年代小麦買上げ価格(カーブル放送)―国営協同組合農場からの買上げ価格は1kg7.16アフガニ,個人農は7アフガニとする。
DIA-503-1980-07-27-1アフガニスタン1980年07月27日1980年代ジャララバード県知事,逮捕(AFP)。パルチャム派指導者の指示を拒否したため。
DIA-503-1980-07-28-1アフガニスタン1980年07月28日1980年代サルワリ副首相(ハルク派指導者),モンゴル大使に任命(ニュー・タイムズ)。
DIA-503-1980-07-28-2アフガニスタン1980年07月28日1980年代政府軍の反乱,急増(AFP)―ガズニの14師団などハルク派政府軍が反乱,ソ連軍と戦闘する件が急増。
DIA-503-1980-07-31-1アフガニスタン1980年07月31日1980年代ブルガリア,ポーランド,アフガンに兵力を送る(共同)。戦闘部隊ではなく技術援助のため。
DIA-503-1980-08-02-1アフガニスタン1980年08月02日1980年代内務省ソ連人顧問(准将),射殺される(AFP)。
DIA-503-1980-08-02-2アフガニスタン1980年08月02日1980年代反政府ゲリラ勢力の衝突で5人殺害(AFP)―ジャララバード近くでゲリラのHezbi Islami派とIslamic Revolutionary Front派が,「金と戦略」問題で衝突した。
DIA-503-1980-08-03-1アフガニスタン1980年08月03日1980年代ソ連軍,カーブル南ガズニ政府軍基地の反乱を制圧。しかし兵士4~5千人は10日間の戦闘の後ゲリラ側に。またソ連軍はタンジ・ワルダクの政府反乱軍となお交戦中(ニューデリー発AP)。
DIA-503-1980-08-10-1アフガニスタン1980年08月10日1980年代(カーブル発)ヘラート市中心はゲリラが掌握,カンダハルも同様,ソ連軍は市周辺に配置(ワシントン・ポスト紙8・11)。
DIA-503-1980-08-11-1アフガニスタン1980年08月11日1980年代アフガン・ソ連貿易協定に調印。
DIA-503-1980-08-11-2アフガニスタン1980年08月11日1980年代断食月明け祭りで囚人206人,未決囚140人を特赦。
DIA-503-1980-08-13-1アフガニスタン1980年08月13日1980年代ソ連軍石油貯蔵タンク爆破―デーリー・テレグラフはサラン峠から100マイル北のソ連軍石油基地がゲリラ勢力に襲われ,貯蔵タンクが破壊されたと報じた。このためカーブル市内でもガソリン不足で,自動車1台1日6lまでしか買えない。
DIA-503-1980-08-16-1アフガニスタン1980年08月16日1980年代政府人事発表(カーブル放送)―Dr.Saleh Md.Ziray(党政治局員,中央委員)を革命評議会幹部会員に,A.Arian司法相を副首相に任命。またモスクワ,イスラマバード,ハバナに3人の代理大使を任命。
DIA-503-1980-08-17-1アフガニスタン1980年08月17日1980年代反政府ゲリラ,ハイウエーを支配(AFP)―カーブルとジャララバードを結ぶハイウエーはゲリラの支配下にあり,通過車輌から税を徴収している。
DIA-503-1980-08-20-1アフガニスタン1980年08月20日1980年代閣議,経済諮問委員会設立(カーブル放送)―カルマル首相を議長とし,計画相,商相を副議長とする。その他,商務,鉱工,計画省の次官級10人を任命した。最高裁は24人の新判事を任命。
DIA-503-1980-08-21-1アフガニスタン1980年08月21日1980年代政府人事発表(カーブル放送)―Faryab,Badakhshan,Baghllan,Laghman各州知事,計画省高官4人,商務省高官3人など。
DIA-503-1980-08-22-1アフガニスタン1980年08月22日1980年代カーブル放送―エジプトと米国が秘密協定を結び,エジプトはアフガン反政府勢力に旧式のソ連製武器を供与,その代りアメリカから新式武器を受けることに同意したと報道。
DIA-503-1980-08-23-1アフガニスタン1980年08月23日1980年代ソ連とカーブル空港拡張計画に調印(カーブル放送)―現在の滑走路4000mをさらに1600m延長し,国内線用滑走路1本を新設,空港ビルも拡充する。総工費9500万ルーブルでソ連が設計,施工を担当し,2年以内に完成する(共同)。
DIA-503-1980-08-27-1アフガニスタン1980年08月27日1980年代宗教指導者ら100人,訪ソ(カーブル放送)。
DIA-503-1980-08-27-2アフガニスタン1980年08月27日1980年代政府機関紙刊行(カーブル放送)―従来のHaqiqate Enqlabe Sourに代って,Hiwad紙を刊行。
DIA-503-1980-09-01-1アフガニスタン1980年09月01日1980年代カーブル当局,市民に身分証携行義務づけ。
DIA-503-1980-09-02-1アフガニスタン1980年09月02日1980年代アブドル・カデル少将,ソ連より帰国。
DIA-503-1980-09-06-1アフガニスタン1980年09月06日1980年代約100人のアフガン・イスラム聖職者,11日間のソ連イスラム教地区旅行からカーブルに戻る。
DIA-503-1980-09-06-2アフガニスタン1980年09月06日1980年代徴兵忌避者・脱走者への罰則法公布(10月6日発効)。
DIA-503-1980-09-08-1アフガニスタン1980年09月08日1980年代(ニューデリー発AP):消息筋によれば,ソ連軍とパクチィア出身の傭兵5百人,カーブル北方パンチィア渓谷で攻勢をつづけ,ゲリラ側・ソ連側とも損害大。傭兵の給与は政府兵の10倍という。
DIA-503-1980-09-08-2アフガニスタン1980年09月08日1980年代(ニューデリー発AFP):インド外交筋,アフガン政府,政府軍を10万人に拡大すべく,徴兵強化。21歳以上徴兵,大学生の免除取り消し,家計支持の青年除外も取り消し。
DIA-503-1980-09-09-1アフガニスタン1980年09月09日1980年代(カーブル放送):党中央委,青年達に軍への参加をよびかける声明発表。
DIA-503-1980-09-10-1アフガニスタン1980年09月10日1980年代アフガン経済代表団訪ソ。
DIA-503-1980-09-10-2アフガニスタン1980年09月10日1980年代ソ連報道代表団,カーブル訪問。
DIA-503-1980-09-12-1アフガニスタン1980年09月12日1980年代(モスクワ):ドスト外相,国連へ向う途中,ソ連外相と会談。
DIA-503-1980-09-13-1アフガニスタン1980年09月13日1980年代カルマル首相,ソ連報道代表団と会見。
DIA-503-1980-09-13-2アフガニスタン1980年09月13日1980年代(イスラマバード):ゲリラ筋,ファイズ・モハマド国境相,ゲリラの攻撃でパクチア州ザドランで死亡と。
DIA-503-1980-09-15-1アフガニスタン1980年09月15日1980年代カーブル米大使館にソ連兵逃げ込む。
DIA-503-1980-09-15-2アフガニスタン1980年09月15日1980年代イスラム学者代表団,タシケントのイスラム学者会議に出席し帰国。
DIA-503-1980-09-17-1アフガニスタン1980年09月17日1980年代(ニューデリー):外交筋,ソ連軍,バダクシャン州パンチィア渓谷での作戦を11日打切り,と語る。
DIA-503-1980-09-17-2アフガニスタン1980年09月17日1980年代ソ連報道代表団帰国。
DIA-503-1980-09-17-3アフガニスタン1980年09月17日1980年代カルマル首相,インド首相から親書受取る。
DIA-503-1980-09-19-1アフガニスタン1980年09月19日1980年代カルマル首相,民族愛国戦線結成の条件が生れた,人民民主党の団結も回復されたと新聞との会見で述べる。また農業改革の第2段階が始まったと語る。
DIA-503-1980-09-21-1アフガニスタン1980年09月21日1980年代米大使館に亡命したソ連兵,亡命撤回。
DIA-503-1980-09-22-1アフガニスタン1980年09月22日1980年代革命評議会第3回会議でカルマル首相,ゲリラ活動等のため,小麦生産が低下し,ソ連が14万トンの小麦を贈与してくれることになったと述べる。
DIA-503-1980-09-23-1アフガニスタン1980年09月23日1980年代革命評議会幹部会員アブドル・カデル少将,キューバ訪問に出発。
DIA-503-1980-09-26-1アフガニスタン1980年09月26日1980年代アフガン・ヘリ6機,パキスタン領に入り,パキスタン兵2人殺す。
DIA-503-1980-09-29-1アフガニスタン1980年09月29日1980年代(イスラマバード)「ヘズミ・イスラミ」リーダー,ソ連国内のイスラム青年達がムジャヘディンとともにソ連軍と戦うことを申し入れてきたと語る。
DIA-503-1980-10-01-1アフガニスタン1980年10月01日1980年代(ワシントン):米政府筋・アフガン政府軍は3万5千人で半数のみが戦闘可能,またソ連軍はヘリを60機から240機にふやし,一部重火器撤収,と語る。
DIA-503-1980-10-01-2アフガニスタン1980年10月01日1980年代政府軍政治宣伝セミナー閉会(9月27日開会)。
DIA-503-1980-10-03-1アフガニスタン1980年10月03日1980年代(ワシントン):ジア・パマキスタン大統領,米大統領と会談,アフガニスタンなど討議。
DIA-503-1980-10-05-1アフガニスタン1980年10月05日1980年代政府,ソ連からアントノフ24型機2機購入。
DIA-503-1980-10-06-1アフガニスタン1980年10月06日1980年代カルマル議長,ソ連作家同盟代表団と会見。
DIA-503-1980-10-06-2アフガニスタン1980年10月06日1980年代アブドル・カデル少将,キューバから帰国。
DIA-503-1980-10-06-3アフガニスタン1980年10月06日1980年代革命評議会,徴兵忌避者処罰法中,脱走兵処罰に関する規定の公布を国防省要請により1ヵ月間(11月7日まで)延期。
DIA-503-1980-10-09-1アフガニスタン1980年10月09日1980年代政府,ソ連から北方石油・ガス開発機械購入。
DIA-503-1980-10-12-1アフガニスタン1980年10月12日1980年代政府閣議,ソ連贈与の2万トンの米をキロ当り18アフガニでクーポン保有者に売却すること等協定。
DIA-503-1980-10-14-1アフガニスタン1980年10月14日1980年代カルマル首相,訪ソのためタシケント入り。
DIA-503-1980-10-14-2アフガニスタン1980年10月14日1980年代(イスラマバード):西側外交筋,カーブルのプル・エ・チャルキ兵営でアフガン兵と顧問団が衝突,ソ連戦車が兵営封鎖と。また市内でも衝突があり,外出禁止時間は5時間から7時間に延長された。
DIA-503-1980-10-16-1アフガニスタン1980年10月16日1980年代カルマル議長,モスクワ入り。ブレジネフ書記長と会談。ソ連の軍事支援継続を確認。
DIA-503-1980-10-16-2アフガニスタン1980年10月16日1980年代(ニューデリー):外交筋,ソ連軍,カーブル西方のGhorband渓谷で大攻勢開始,と。
DIA-503-1980-10-19-1アフガニスタン1980年10月19日1980年代(モスクワ):アフガニスタン・ソ連共同声明発表(16日調印)。パキスタンおよび帝国主義者の内政干渉なくならぬ限り,ソ連軍撤退せぬと主張。
DIA-503-1980-10-19-2アフガニスタン1980年10月19日1980年代カルマル首相,ソ連テレビでの演説で,アフガニスタンのソ連軍の勇気とヒロイズムをたたえる。
DIA-503-1980-10-20-1アフガニスタン1980年10月20日1980年代カルマル議長,モスクワ離れる。
DIA-503-1980-10-20-2アフガニスタン1980年10月20日1980年代カーブル放送,ソ連が水力発電,農業への援助計画を発表した,と放送。
DIA-503-1980-10-22-1アフガニスタン1980年10月22日1980年代ワタンジャル通信相,キューバでのスプートニク通信会議出席のため出発。
DIA-503-1980-10-24-1アフガニスタン1980年10月24日1980年代カーブル大学,徴兵反対でスト突入。
DIA-503-1980-10-24-2アフガニスタン1980年10月24日1980年代(ベルグラード):国連世界通信会議でアフガニスタン代表,ソ連支配非難演説を行ない,西側に亡命。
DIA-503-1980-10-24-3アフガニスタン1980年10月24日1980年代(カーブル放送):国防省当局者,徴兵で説明。それによると,21~46歳男子は全員徴兵。兵役義務期間は2年。
DIA-503-1980-10-25-1アフガニスタン1980年10月25日1980年代訪ソ代表団,カルマル首相を除き帰国。
DIA-503-1980-10-29-1アフガニスタン1980年10月29日1980年代カーブルで政治宣伝工作セミナー開く。
DIA-503-1980-11-02-1アフガニスタン1980年11月02日1980年代イラク政府,カルマル政権承認。
DIA-503-1980-11-04-1アフガニスタン1980年11月04日1980年代カルマル首相,モスクワを離れ帰途につく。
DIA-503-1980-11-05-1アフガニスタン1980年11月05日1980年代カルマル首相,ソ連より帰国。
DIA-503-1980-11-05-2アフガニスタン1980年11月05日1980年代(カラチ放送):ソ連,アフガンと中国,パキスタンが接するワカン回ろうを併合中。
DIA-503-1980-11-06-1アフガニスタン1980年11月06日1980年代カルマル首相ら,カーブルでソ連革命記念式典出席。レーニン博物館開館。
DIA-503-1980-11-08-1アフガニスタン1980年11月08日1980年代ルーマニア大統領,ソ連のアフガン撤兵主張。
DIA-503-1980-11-10-1アフガニスタン1980年11月10日1980年代(イスラマバード発)「ヒズベ・イスラミ」スポークスマン,3日にカンダハルを制圧と発表。
DIA-503-1980-11-11-1アフガニスタン1980年11月11日1980年代カルマル首相,党中央委で訪ソ報告。
DIA-503-1980-11-12-1アフガニスタン1980年11月12日1980年代国境交渉のためソ連代表団到着。
DIA-503-1980-11-12-2アフガニスタン1980年11月12日1980年代(イスラマバード発AFP)カンダハル市中では数週間にわたり反政府ゲリラが支配,ソ連軍は市を包囲。
DIA-503-1980-11-15-1アフガニスタン1980年11月15日1980年代(ニューデリーAP):ソ連軍,11月3日よりヘラート,11月8日よりカンダハル爆撃・多数死傷と情報筋。
DIA-503-1980-11-15-2アフガニスタン1980年11月15日1980年代政府軍,パルワン,ガズニ,カンガルハル,カーブルで軍事演習開始。
DIA-503-1980-11-15-3アフガニスタン1980年11月15日1980年代国連人権委報告,パキスタンのアフガン難民は126万7千人と発表。
DIA-503-1980-11-17-1アフガニスタン1980年11月17日1980年代(カーブル放送):バダクシャン州Derwazとヘラート州Engeelで反政府軍一掃,と。
DIA-503-1980-11-17-2アフガニスタン1980年11月17日1980年代(国連):パキスタン代表,総会にアフガニスタンからの外国軍撤兵要求決議提出。
DIA-503-1980-11-19-1アフガニスタン1980年11月19日1980年代農業・土地改革省で,土地改革第2段階検討セミナー開く。
DIA-503-1980-11-20-1アフガニスタン1980年11月20日1980年代国連総会,アフガニスタンからの外国軍撤兵要求決議を111対22(棄権12)で可決。
DIA-503-1980-11-20-2アフガニスタン1980年11月20日1980年代ソ連国境交渉団帰国。
DIA-503-1980-11-20-3アフガニスタン1980年11月20日1980年代(ニューデリー発AFP):西側筋,ソ連・アフガン軍,カーブル,パルバン,ガズニ,ナンガルハル,バルダク各州で冬期前攻勢開始。
DIA-503-1980-11-23-1アフガニスタン1980年11月23日1980年代ラフィ国防相らパルバン,カーブル,ナンガルハル,ガズニでの政府軍演習を視察。
DIA-503-1980-11-26-1アフガニスタン1980年11月26日1980年代ハンガリー政府機関紙,アフガン問題の政治解決主張,軍事解決ありえぬ,と。
DIA-503-1980-11-27-1アフガニスタン1980年11月27日1980年代(カーブル発タス):アフガン政府,治安強化,綱紀確立で特別決議採択。
DIA-503-1980-11-27-2アフガニスタン1980年11月27日1980年代(ローマ):アフガニスタン元国王モハメッド・ザヘール・シャー・アフガン愛国者が団結してソ連を追い払おうとよびかけ。
DIA-503-1980-11-28-1アフガニスタン1980年11月28日1980年代(イスラマバード発AFP):西側筋,アフガニスタンでキューバ兵が戦闘参加,と。
DIA-503-1980-12-03-1アフガニスタン1980年12月03日1980年代(ニューデリー発AFP):西側信頼筋,アフガン・ゲリラは依然要衡を確保し,ソ連軍に損害を与えつづけ,アフガン28州中20州でアフガン・ソ連合同作戦が実施されていると述べた。ソ連軍基地はカーブルの他に,大きさの順でShindand,Qunduz,Pbul-i-Kumari,Jalalabad,Qandahar,Gardoz,Ghazniにある。アフガン政府軍は3万人で大部分は戦闘可能ではない。5千人の義勇兵がいる。警官隊は1万人。アフガン・ソ連軍は10~12州で困難に直面している。
DIA-503-1980-12-08-1アフガニスタン1980年12月08日1980年代ブレジネフ書記長,インド訪問(~11日)。
DIA-503-1980-12-09-1アフガニスタン1980年12月09日1980年代カルマル首相,経済協議委第1回会合に出席。
DIA-503-1980-12-09-2アフガニスタン1980年12月09日1980年代財政省,新100,50,10アフガニ紙幣発行。
DIA-503-1980-12-10-1アフガニスタン1980年12月10日1980年代(カーブル放送):アフガニスタン・ソ連技術援助協定。
DIA-503-1980-12-10-2アフガニスタン1980年12月10日1980年代第1回農業協同組合会議開催。ソ連代表も出席。
DIA-503-1980-12-11-1アフガニスタン1980年12月11日1980年代カルマル議長,農業協同組合会議で演説。
DIA-503-1980-12-14-1アフガニスタン1980年12月14日1980年代スルタン・アリ・ケシュトマンド政治局員,キューバ・ソ連訪問に出発。
DIA-503-1980-12-16-1アフガニスタン1980年12月16日1980年代カーブル市,ソ連と,公共土木技術等のソ連民間人専門家滞在延長協定調印。
DIA-503-1980-12-24-1アフガニスタン1980年12月24日1980年代(モスクワ):スルタン・アリ・ケシュトマンド副首相,ソ連と経済協力協定調印。ソ連は農機具工場,電線工場などの建設,かんがい再建,ガス・石油開発に協力する。
DIA-503-1980-12-25-1アフガニスタン1980年12月25日1980年代(カイロ):サダト大統領,アフガニスタン・ゲリラへの武器援助を増やすと語る。
DIA-503-1980-12-26-1アフガニスタン1980年12月26日1980年代ケシュトマンド副首相,キューバ・ソ連訪問より帰国。
DIA-503-1980-12-27-1アフガニスタン1980年12月27日1980年代アフガン民族愛国勢力会議,民族祖国戦線結成大会組織委を任命。カルマル首相ら40人。
DIA-503-1980-12-27-2アフガニスタン1980年12月27日1980年代(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン):アフガン情勢についての米国務省分析:国土の75%が政府・ソ連軍の支配外にあるが,ゲリラ勢力も弱く,1日1ヵ所で千人以上が参加した攻撃はなく,また外部からの武器流入はほとんどない,ソ連軍死傷者数は1万5千人に達する。
DIA-503-1980-12-27-3アフガニスタン1980年12月27日1980年代(タス通信):カルマル首相:反共ゲリラ戦の継続により,アフガン経済に深刻な打撃と発言。
DIA-503-1980-12-28-1アフガニスタン1980年12月28日1980年代カルマル首相,パキスタン,インドに話し合いよびかけ。
DIA-503-1980-12-29-1アフガニスタン1980年12月29日1980年代(カーブル):反ソ暴動発生,一部警官も参加。
DIA-503-1980-12-31-1アフガニスタン1980年12月31日1980年代(ニューデリーUPI):カーブルの警官暴動でソ連・政府軍がヘリ,装甲車で反攻,警官3人死亡。
DIA-503-1981-01-01-1アフガニスタン1981年01月01日1980年代アフガニスタン人民民主党(PDPA)第16回創立記念大会。
DIA-503-1981-01-01-2アフガニスタン1981年01月01日1980年代カルマル,インド通信(UNI)との会見で,反乱軍の大半かい滅,ソ連軍は侵略時への“予備軍”と。
DIA-503-1981-01-02-1アフガニスタン1981年01月02日1980年代カルマル書記長,パクティア州諸種族長老代表と会見,民族祖国戦線への協力に感謝。
DIA-503-1981-01-04-1アフガニスタン1981年01月04日1980年代政府閣僚会議,国内商業状況改善について商業省報告承認。またチェコとの81年物資交換協定,ソ連との科学・文化協定,東独との科学・文化計画承認。
DIA-503-1981-01-05-1アフガニスタン1981年01月05日1980年代(ニューデリー):Anahita Ratebzad 文部相, ガンディー首相と会見。カルマル首相,国連代表同席でパキスタン,イランと会談の用意とインド首相に親書。
DIA-503-1981-01-06-1アフガニスタン1981年01月06日1980年代英労働党議員3人,カーブル訪問,11日まで。
DIA-503-1981-01-08-1アフガニスタン1981年01月08日1980年代カルマル議長,Sathe インド外務次官と会見。
DIA-503-1981-01-08-2アフガニスタン1981年01月08日1980年代革命評議会,徴兵法公布。20歳以上徴兵義務,兵役2年,予備役の定年は40歳(従来より6歳減),徴兵期間後も兵役に服する者は月給2000~3000アフガニ。なお兵役期間は国防相命令で,さらに6カ月延長できる。
DIA-503-1981-01-09-1アフガニスタン1981年01月09日1980年代カルマル議長,英議員団と会見。
DIA-503-1981-01-14-1アフガニスタン1981年01月14日1980年代カ-ブル放送,ゲリラがTakhar州Rostag県で学校に放火,コーラン30巻など焼いたと非難。
DIA-503-1981-01-17-1アフガニスタン1981年01月17日1980年代外務省,イスラム首脳会議でのアフガン討議に反対,会議の結果に拘束されぬと声明。
DIA-503-1981-01-17-2アフガニスタン1981年01月17日1980年代Zabol州Qalat市でAbdol Majid文化相,地方種族長老と会見。
DIA-503-1981-01-21-1アフガニスタン1981年01月21日1980年代(ニューデリー):西側外交筋,アフガン政府,兵士の2年6カ月後の除隊禁止令布告,と。
DIA-503-1981-01-22-1アフガニスタン1981年01月22日1980年代カルマル議長,レーガン大統領に祝電。
DIA-503-1981-01-25-1アフガニスタン1981年01月25日1980年代カルマル,Badakhshan州Darwaz県Khaman地方の長老達と会見。
DIA-503-1981-01-26-1アフガニスタン1981年01月26日1980年代革命評議会,Lowgar,Vardak,Kapisak州レベルの行政単位設置承認。
DIA-503-1981-01-27-1アフガニスタン1981年01月27日1980年代(パリ):仏大統領,アフガン国際会議提唱。
DIA-503-1981-01-28-1アフガニスタン1981年01月28日1980年代ケシュトマンド副首相,州農業長官セミナで演説,80/81年度の穀物生産は437万トン(前年比15万トン増),ポテト1万8000トン(前年比7%増),果物5万5000トン(前年比7%増),ぶどう3万2000トン(同8%増),野菜類3%増,秋小麦作付は153万ヘクタールと。また81/82年度,穀物生産目標450万トン,綿花10万トン,ビート糖7万トン,果物91万トン,野菜85万トン。
DIA-503-1981-01-29-1アフガニスタン1981年01月29日1980年代ソ連貿易代表団来訪。○ソ連・アフガン文化・技術協力協定(1981―84年)調印。
DIA-503-1981-02-04-1アフガニスタン1981年02月04日1980年代Rafie国防相,アフガン政府軍の力は80年1月以来強化されているが,国境からの反革命分子の侵入が続いているので,なおソ連軍の保護を必要と語る。
DIA-503-1981-02-06-1アフガニスタン1981年02月06日1980年代(ニューデリー):イラン,パキスタンはアフガニスタンとの三国会談拒否。なおドスト外相は非同盟会議準備会のため当地を訪問,両国との会談を提案した。
DIA-503-1981-02-09-1アフガニスタン1981年02月09日1980年代(ニューデリー):非同盟諸国外相会議。
DIA-503-1981-02-10-1アフガニスタン1981年02月10日1980年代カルマル議長,PDPA中央委政治局員,革命評議会員,閣僚,地方の党幹部,軍政治代表,治安機構幹部,国防,治安関係党・政府専門家など出席の会議で演説。会議は国内治安維持と社会経済計画に関する重要な決定を行なった。
DIA-503-1981-02-10-2アフガニスタン1981年02月10日1980年代(ニューデリー):ドスト外相,ガンディー首相と会見。
DIA-503-1981-02-11-1アフガニスタン1981年02月11日1980年代PDPA中央委労働組合代表者評議会結成。
DIA-503-1981-02-11-2アフガニスタン1981年02月11日1980年代(ニューデリー):非同盟会議20周年記念式典。○ドスト外相,国連総長と会談。
DIA-503-1981-02-12-1アフガニスタン1981年02月12日1980年代アフガニスタン・東独,文化・科学協力協定調印。
DIA-503-1981-02-12-2アフガニスタン1981年02月12日1980年代(ニューデリー):ドスト外相,非同盟外相会議で演説,パキスタン,イランとの直接交渉をよびかけ。
DIA-503-1981-02-13-1アフガニスタン1981年02月13日1980年代(ニューデリー):非同盟外相会議終了。外相会議は,アフガン問題について,アフガニスタンの独立,主権,領土,非同盟の尊重と外国軍の撤兵を宣言したが,アフガニスタン代表団は,この宣言を拒否した。
DIA-503-1981-02-17-1アフガニスタン1981年02月17日1980年代ソ連・アフガン通商協議。ソ連通商代表は,80年の両国貿易が6億7000万ドル(ソ連の輸出2億7600万ドル,アフガニスタン輸出3億9400万ドル)と発表。
DIA-503-1981-02-18-1アフガニスタン1981年02月18日1980年代カルマル,ソ連訪問,モスクワ到着。
DIA-503-1981-02-18-2アフガニスタン1981年02月18日1980年代(ニューデリー):西側筋,ヘラートで戦闘つづき,カンダハルはゲリラが占拠,と(IHT2/19)。
DIA-503-1981-02-20-1アフガニスタン1981年02月20日1980年代ソ連,アフガニスタンに157万ルーブルの運輸技術援助協定。
DIA-503-1981-02-20-2アフガニスタン1981年02月20日1980年代(モスクワ):カルマル記者会見,ソ連軍の数は西側宣伝より少ない,また仏提唱国際会議拒否,と語る。
DIA-503-1981-02-20-3アフガニスタン1981年02月20日1980年代国家石油会社代表,ソ連より帰り,81年対ソ天然ガス輸出135億アフガニ(前年比40億増)見込みと。
DIA-503-1981-02-23-1アフガニスタン1981年02月23日1980年代ソ連軍建軍記念日,ソ連大使館レセプションにケシュトマンド副首相ら出席。
DIA-503-1981-02-23-2アフガニスタン1981年02月23日1980年代PDPAのNur中央委書記,過去6カ月に党員は25%増加,全国の県と町で党委員会活動中,と。
DIA-503-1981-02-27-1アフガニスタン1981年02月27日1980年代(モスクワ):カルマル・ブレジネフ会談。帝国主義介入非難で一致。
DIA-503-1981-03-02-1アフガニスタン1981年03月02日1980年代パキスタン航空機,Zulfaqarグループに乗っとられ,カーブル空港着陸。イラン上空飛行許可要求。
DIA-503-1981-03-03-1アフガニスタン1981年03月03日1980年代アフガン・ソ連,輸送状況改善で協定。
DIA-503-1981-03-04-1アフガニスタン1981年03月04日1980年代(ニューデリー):消息筋,カルマル政権,2月後半,反政府派3000人逮捕,と(AP)。
DIA-503-1981-03-05-1アフガニスタン1981年03月05日1980年代乗っとりパキスタン機なおもカーブルに。
DIA-503-1981-03-05-2アフガニスタン1981年03月05日1980年代(ニューデリー):信頼筋,ソ連軍の食料破壊でアフガン農村で飢え,ゲリラ,都市部へ移動と(AP)。
DIA-503-1981-03-06-1アフガニスタン1981年03月06日1980年代カルマル議長,ソ連より帰国。
DIA-503-1981-03-07-1アフガニスタン1981年03月07日1980年代第1回アフガン労働組合大会開催。
DIA-503-1981-03-08-1アフガニスタン1981年03月08日1980年代アフガニスタン政府,パキスタンが乗っとり機との交渉打切ったので,同機の離陸許可と声明。
DIA-503-1981-03-08-2アフガニスタン1981年03月08日1980年代New Times 紙によれば,アフガニスタンには400の労働組合単位があり,組合員数は16万人である。
DIA-503-1981-03-09-1アフガニスタン1981年03月09日1980年代(ワシントン):レー-ガン大統領,アフガン・ゲリラへの武器提供考慮と語る。
DIA-503-1981-03-11-1アフガニスタン1981年03月11日1980年代閣僚会議,社会経済開発計画および予算案承認。3月21日から始まる年度の予算は支出合計で,455億2100万アフガニ,基本予算支出は290億2100万アフガニ。開発予算支出は164億8100万アフガニ。
DIA-503-1981-03-12-1アフガニスタン1981年03月12日1980年代政府,米大統領のゲリラ支援発言非難声明。
DIA-503-1981-03-16-1アフガニスタン1981年03月16日1980年代カルマル,軍司令官など軍幹部団会合に出席。
DIA-503-1981-03-16-2アフガニスタン1981年03月16日1980年代(ニューデリー):外交筋,先週Lowgar川のアフガン軍(将校11,兵300),集団脱走と(AFP)。
DIA-503-1981-03-18-1アフガニスタン1981年03月18日1980年代PDPA中央委第5回総会。カルマル議長が演説し,民主的土地改革の継続,新年度からの労働賃金を26.6%引上げると述べ,またPDPA党員の25~30%が労働者・農民出身となったことを明らかにした。
DIA-503-1981-03-19-1アフガニスタン1981年03月19日1980年代革命評議会会合。予算案など承認。ケシュトマンド評議会副議長は,国家予算支出の3分の1が治安関係費と説明。また開発計画により11万4000人の雇用が創設され,雇用者総数は全労働力の85.2%のにあたる435万人となる予定と述べた。
DIA-503-1981-03-22-1アフガニスタン1981年03月22日1980年代革命評議会員Qader将軍,Aryan副首相,Balkh州都Mazar-eSharif訪問。
DIA-503-1981-03-23-1アフガニスタン1981年03月23日1980年代カルマル,軍士官学校卒業式出席。
DIA-503-1981-03-23-2アフガニスタン1981年03月23日1980年代New Times によれば,1980年の総投資額は105億アフガニで,うち52億アフガニが外国援助。
DIA-503-1981-03-26-1アフガニスタン1981年03月26日1980年代カルマル,Ahmadzi Wazir族長老達と会見。
DIA-503-1981-03-29-1アフガニスタン1981年03月29日1980年代ドスト外相,米英の介入強まれば,必要な対抗措置をとる,と。○カルマル議長,パレスチナ解放人民戦線(PFLP)代表団と会見。
DIA-503-1981-03-30-1アフガニスタン1981年03月30日1980年代アフガン・ソ連経済協力委第2回会合開催。
DIA-503-1981-03-31-1アフガニスタン1981年03月31日1980年代アフガン・ソ連,経済技術協力協定調印。
DIA-503-1981-04-01-1アフガニスタン1981年04月01日1980年代ケシュトマンド中央政治局員,チェコへ。
DIA-503-1981-04-01-2アフガニスタン1981年04月01日1980年代ジャララル商務相,ソ連へ出発。
DIA-503-1981-04-02-1アフガニスタン1981年04月02日1980年代カルマル議長,地方党幹部と会見。
DIA-503-1981-04-02-2アフガニスタン1981年04月02日1980年代イスラマバード:外交筋,アフガン29州中20州で戦闘継続,特にカンダハル市で激戦,と(AFP)。
DIA-503-1981-04-04-1アフガニスタン1981年04月04日1980年代軍政治部宣伝班セミナー。
DIA-503-1981-04-08-1アフガニスタン1981年04月08日1980年代カルマル議長,Herat地方代表団と会見。
DIA-503-1981-04-08-2アフガニスタン1981年04月08日1980年代(ニューデリー):西側筋,ソ連軍2万~2万2000人,過去2週間にアフガニスタンに増派と(AFP)。
DIA-503-1981-04-08-3アフガニスタン1981年04月08日1980年代(ワシント):米国防省,ソ連軍増派説否定。
DIA-503-1981-04-10-1アフガニスタン1981年04月10日1980年代Qader准将(党中央委員司法・防衛部長),GolAqa准将(党中央委,軍政治局長),Ghowr州都Changh-charan訪問。
DIA-503-1981-04-10-2アフガニスタン1981年04月10日1980年代内務省,ボランティア・サービス法発表。
DIA-503-1981-04-11-1アフガニスタン1981年04月11日1980年代Qader,Gol Aqa両准将,Farah訪問。
DIA-503-1981-04-12-1アフガニスタン1981年04月12日1980年代Gol Aqa准将,Herat訪問。
DIA-503-1981-04-13-1アフガニスタン1981年04月13日1980年代Qader,GolAqa両准将,Harat市幹部と会見。
DIA-503-1981-04-13-2アフガニスタン1981年04月13日1980年代(Bakhtar紙):ソ連から32万2500トンの石油製品を購入する契約が最近結ばれたが,これで81年の石油需要はまかなえる。
DIA-503-1981-04-14-1アフガニスタン1981年04月14日1980年代(モスクワ):プラウダ,アフガニスタンのソ連軍苦戦の状況を報道。
DIA-503-1981-04-14-2アフガニスタン1981年04月14日1980年代Qader,Gol Aqa両将軍,カンダハル市訪問。
DIA-503-1981-04-15-1アフガニスタン1981年04月15日1980年代ケシュトマンド中央政治局員,帰国。
DIA-503-1981-04-15-2アフガニスタン1981年04月15日1980年代Javier Perez de Cuell1ar国連副事務総長到着。
DIA-503-1981-04-16-1アフガニスタン1981年04月16日1980年代カルマル,国連副事務総長と会見。
DIA-503-1981-04-18-1アフガニスタン1981年04月18日1980年代運輸省権威筋,今年Badakhshan州のFaizabadなど6カ所で新空港建設,カーブル空港も再建設,と。
DIA-503-1981-04-19-1アフガニスタン1981年04月19日1980年代カルマル議長,Jalalabad訪問。
DIA-503-1981-04-19-2アフガニスタン1981年04月19日1980年代ドスト外相,チェコへの友好訪問に出発。
DIA-503-1981-04-20-1アフガニスタン1981年04月20日1980年代Fazl Rahim Momand農業相,ロ-マへ出発。
DIA-503-1981-04-20-2アフガニスタン1981年04月20日1980年代Nor Ahmad Nor政治局員,東独より帰国。
DIA-503-1981-04-21-1アフガニスタン1981年04月21日1980年代アフガン・イスラム教ウラマ・僧侶最高評議会第1回会合,首相官邸で開催。
DIA-503-1981-04-22-1アフガニスタン1981年04月22日1980年代カルマル議長,イスラム教リーダーと会見。
DIA-503-1981-04-22-2アフガニスタン1981年04月22日1980年代Danesh鉱工業相,キューバ訪問に出発。
DIA-503-1981-04-26-1アフガニスタン1981年04月26日1980年代革命評議会革命3周年記念臨時会議。カルマル議長が演説,79年と80年に7億2200万アフガニに達した農民の土地税を免除すると発表。これにより86万農民家族430万人が利益をえると述べる。また政治犯706人釈放発表。
DIA-503-1981-04-26-2アフガニスタン1981年04月26日1980年代ドスト外相帰国。
DIA-503-1981-04-27-1アフガニスタン1981年04月27日1980年代カーブルで革命記念費軍事パレード。
DIA-503-1981-05-01-1アフガニスタン1981年05月01日1980年代カーブルでメーデー集会。
DIA-503-1981-05-02-1アフガニスタン1981年05月02日1980年代(イスラマバード):信頼筋,ソ連・アフガン軍,カンダハル封鎖に成功,と(AP)。
DIA-503-1981-05-06-1アフガニスタン1981年05月06日1980年代党中央の指示により,カーブル市党員グルー-プが地方へ民間秩序強化,革命目的説明に出発。
DIA-503-1981-05-06-2アフガニスタン1981年05月06日1980年代Qader准将,Aryan副首相,Feyzabad訪問。
DIA-503-1981-05-08-1アフガニスタン1981年05月08日1980年代Qader准将,Aryan副首,Pole Khomri訪問。
DIA-503-1981-05-10-1アフガニスタン1981年05月10日1980年代Fazl Rahim Momand相,ローマから帰国。
DIA-503-1981-05-11-1アフガニスタン1981年05月11日1980年代カルマル議長,カーブル空港の守備隊視察。
DIA-503-1981-05-12-1アフガニスタン1981年05月12日1980年代Mohammad Rafie国防相,治療のため訪ソ。
DIA-503-1981-05-13-1アフガニスタン1981年05月13日1980年代ドスト外相,パキスタンとイランへの直接会談よびかけを再確認の声明。
DIA-503-1981-05-15-1アフガニスタン1981年05月15日1980年代閣僚会議,クーポン保有者へ米を従来のキロ当り18アフガニから14アフガニに値下げして販売,また食用油はキロ当り45アフガニと決定。
DIA-503-1981-05-17-1アフガニスタン1981年05月17日1980年代カルマル議長,Ghowr州労働者代表と会見。
DIA-503-1981-05-17-2アフガニスタン1981年05月17日1980年代Anahita Ratebzad政治局員,ソ連タジク共和国教育相Dadaoyevと会談。
DIA-503-1981-05-19-1アフガニスタン1981年05月19日1980年代ケシュトマンド政治局員,タジク共和国教育相と会見。
DIA-503-1981-05-20-1アフガニスタン1981年05月20日1980年代民族祖国戦線結成討議のため,Saleh Mohammad Ziray,Noor Ahmad Noor中央幹部会員ら,Paktia,Uzbek,Turkmen,Nurestan,Nangarhah,Eeratなどの地方,種族の長老,著名人代表と会合。
DIA-503-1981-05-23-1アフガニスタン1981年05月23日1980年代カルマル,諸種族長老らと会見。
DIA-503-1981-05-23-2アフガニスタン1981年05月23日1980年代Noor Ahmad Noor政治局員,モンゴルヘ出発。
DIA-503-1981-05-24-1アフガニスタン1981年05月24日1980年代アフガン・ソ連,領事協定調印。
DIA-503-1981-05-26-1アフガニスタン1981年05月26日1980年代政府,チェコからトラクター40台購入契約,代金はチェコからの9000万ドルの信用供与から支払い。
DIA-503-1981-05-26-2アフガニスタン1981年05月26日1980年代カルマル,ジャーナリスト同盟幹部と会見。
DIA-503-1981-05-28-1アフガニスタン1981年05月28日1980年代革命評議会,国境・種族問題省を諸民族・種族省に再組織し,同省にアフガン種族最高評議会設置と発表。
DIA-503-1981-05-30-1アフガニスタン1981年05月30日1980年代Noor Ahmad Noor政治局員,モンゴルから帰国。
DIA-503-1981-06-02-1アフガニスタン1981年06月02日1980年代(Bakhtar紙):中国首相のパキスタン訪問非難。
DIA-503-1981-06-03-1アフガニスタン1981年06月03日1980年代Aryan副首相,モンゴルから帰国。
DIA-503-1981-06-06-1アフガニスタン1981年06月06日1980年代第1回道路輸送セミナー。ケシュトマンド副議長,Aryan副首相ら出席。
DIA-503-1981-06-09-1アフガニスタン1981年06月09日1980年代カルマル議長,民族祖国戦線最高組織委員会会議に出席。会議は祖国戦線憲章草案を採択した。
DIA-503-1981-06-11-1アフガニスタン1981年06月11日1980年代PDPA中央委第6回総会開催。カルマル議長が民族祖国戦線結成について報告。新政治局員にMohammad Aslam Watanjar,Mohammad Rafie,Najibullahを承認。また同候補,新中央委員ら承認。さらに新革命評議会員を承認。新評議会副議長にNoor Ahmad Noor,Abdul Rashid Aryan。○革命評議会常任幹部会員選出,議長にバブラク・カルマル,副議長にAbdol Qadir,Gol Aqa。
DIA-503-1981-06-11-2アフガニスタン1981年06月11日1980年代革命評議会はスル夕ン・アリ・ケシュトマンドを閣僚会議議長(首相),国家計画委議長に任命。
DIA-503-1981-06-15-1アフガニスタン1981年06月15日1980年代民族祖国戦線結成大会開催。カルマル議長が開催演説。憲章,全国委員会,執行委など承認。全国委議長は,Saleh Mohammad Ziray政治局員。
DIA-503-1981-06-16-1アフガニスタン1981年06月16日1980年代アフガニスタン・ソ連国境画定条約調印。Zorkul湖西岸とPik Povalo-Shveykovskogoに至る地域。
DIA-503-1981-06-17-1アフガニスタン1981年06月17日1980年代(ニューデリー):6月9日に西側筋,カーブル北57kmバグラムのソ連空軍基地をゲリラが改撃,大損害与う,と(UPI)。
DIA-503-1981-06-18-1アフガニスタン1981年06月18日1980年代政府,ゲリラ投降者に大赦令布告。
DIA-503-1981-06-21-1アフガニスタン1981年06月21日1980年代閣僚会議・政治局,民主的土地改革継続承認。
DIA-503-1981-06-22-1アフガニスタン1981年06月22日1980年代カルマル議長,チェコスロバキアへ出発。
DIA-503-1981-06-22-2アフガニスタン1981年06月22日1980年代(イスラマバード):19~21日,カンダハルをソ連機爆撃,戦車突入,数百人死傷,旧市街破壊,と消息筋。
DIA-503-1981-06-24-1アフガニスタン1981年06月24日1980年代ソ連イスラム代表団到着。
DIA-503-1981-06-24-2アフガニスタン1981年06月24日1980年代(ニューデリー):カーブル西20kmパグマンで17日から政府軍とゲリラ激戦中と消息筋(AFP)。
DIA-503-1981-06-25-1アフガニスタン1981年06月25日1980年代東独,電気,通信などに4000万ドル援助約束。
DIA-503-1981-06-25-2アフガニスタン1981年06月25日1980年代(プラハ):カルマル議長,チェコと共同声明。
DIA-503-1981-06-29-1アフガニスタン1981年06月29日1980年代ケシュトマンド首相・ソ連イスラム代表会見。
DIA-503-1981-06-30-1アフガニスタン1981年06月30日1980年代チェコ訪問の政府代表団帰国。しかしカルマル議長は治療のため,同国に数日滞在する。
DIA-503-1981-06-30-2アフガニスタン1981年06月30日1980年代(ルクセンブルグ):EC首脳,アフガン中立化で国際会議提唱。○米国も歓迎声明。
DIA-503-1981-07-01-1アフガニスタン1981年07月01日1980年代ソ連中央アジア・カザフスタンのムスリム宗教局のM.Z.I.I.ババハノフとS.アフガニ・イスラム局長の共同声明,イスラエルのイラク原子炉爆撃を非難。
DIA-503-1981-07-01-2アフガニスタン1981年07月01日1980年代駐ソ・アフガン大使ハビス・マンガルは,EC諸国がアフガン問題を国際問題化しようとしていると非難し,アフガニスタン民主共和国の参加しないいかなる提案にも反対すると述べた。
DIA-503-1981-07-02-1アフガニスタン1981年07月02日1980年代ラマザン期間中,カーブルの夜間外出禁止令は12時から3時までの3時間に短縮された。
DIA-503-1981-07-04-1アフガニスタン1981年07月04日1980年代ケシュトマンド首相,イランIRP本部の爆破事件に関して,ラジャイ首相に弔電を送る。
DIA-503-1981-07-04-2アフガニスタン1981年07月04日1980年代ポハンマル・グルダド副首相,訪ソを終え帰国。
DIA-503-1981-07-06-1アフガニスタン1981年07月06日1980年代アブドル・ワキル蔵相,チェコ訪問を終え帰国。
DIA-503-1981-07-06-2アフガニスタン1981年07月06日1980年代ニューデリーのアフガン反政府筋は,反政府系の「アフガニスタン・モジャヘディン・イスラム連合」が6月末に結成されたことを明らかにした。構成組織はイスラム革命民族戦線,イスラム革命運動,アフガニスタン民族解放戦線,ジャミアト・イスラミ,ヒズミ・イスラミ,ヒズミ・イスラミ(ハリス派)の6組織。
DIA-503-1981-07-07-1アフガニスタン1981年07月07日1980年代パキスタンが核爆発のための濃縮ウランを入手しようとしていると非難(カーブル・ニュータイムズ)。
DIA-503-1981-07-07-2アフガニスタン1981年07月07日1980年代チェコ訪問したアフガン労組代表団は,チェコ労組との共同声明で,ペルシャ湾,インド洋での米軍事プレゼンスの拡大,アフガニスタンに対する挑発を非難。
DIA-503-1981-07-07-3アフガニスタン1981年07月07日1980年代政府,農業生産増強計画を発表。それによると,79/80年度に比べて,80/81年度は農業生産2.2%引上げ,81/82年度は3.5%増を目標にしている。
DIA-503-1981-07-09-1アフガニスタン1981年07月09日1980年代米国の対アフガン難民援助,80年度の4400万ドルから,81年度には9300万ドルへ引上げられた。
DIA-503-1981-07-12-1アフガニスタン1981年07月12日1980年代カーブル・ニュータイムズ社説,アフガン問題でのEC提案を「挑発であり,アフガン政府に代表権を与えないもの」であり,絶対に受入れられないと激しく非難。
DIA-503-1981-07-12-2アフガニスタン1981年07月12日1980年代ファテ・モハメツド(退役)将軍(民族祖国戦線の全国委員)暗殺。
DIA-503-1981-07-17-1アフガニスタン1981年07月17日1980年代カルマル議長,クリミアでブレジネフ・ソ連共産党書記長と会談。
DIA-503-1981-07-20-1アフガニスタン1981年07月20日1980年代東独社会主義統一党代表団,カーブルに到着。
DIA-503-1981-07-21-1アフガニスタン1981年07月21日1980年代クナール地区のアスマル運河が復旧。
DIA-503-1981-07-22-1アフガニスタン1981年07月22日1980年代在印西側外交筋,7月13日~15日にかけて,カーブル北西のパグマンで,ソ連・政府軍と反政府ゲリラの間で激しい戦闘があり,双方で数百人が死亡したと伝える。政府軍士官侯補生が多数殺害された。
DIA-503-1981-07-28-1アフガニスタン1981年07月28日1980年代カルマル議長,ソ連より帰国。
DIA-503-1981-07-29-1アフガニスタン1981年07月29日1980年代兵役年齢未満の45人の青年,軍入隊認められる。
DIA-503-1981-08-08-1アフガニスタン1981年08月08日1980年代国連事務総長特使・ペレス・デ・クエラー,カルマル議長,ケシュトマンド首相と会談。
DIA-503-1981-08-08-2アフガニスタン1981年08月08日1980年代アフガン労組中央評議会,イスラエルのレバノン攻撃を非難するメッセージを発表。
DIA-503-1981-08-09-1アフガニスタン1981年08月09日1980年代革命評議会,土地改革法改正の法令を発布。モスク,宗教関係者,近代農法農家などを土地改革の対象から除外するもの。
DIA-503-1981-08-09-2アフガニスタン1981年08月09日1980年代ドスト外相,訪ア中のインド代表S・Kシンと会談。
DIA-503-1981-08-10-1アフガニスタン1981年08月10日1980年代クエラー特使,カルマル議長やドスト外相との話合いは興味深く,両氏ともワルトハイム事務総長の努力を理解していたと語った。
DIA-503-1981-08-12-1アフガニスタン1981年08月12日1980年代米国務省,アフガン情勢に関する報告書公表,反政府ゲリラの抵抗でソ連は苦境に陥っていると分析。
DIA-503-1981-08-15-1アフガニスタン1981年08月15日1980年代政府のイスラム局は,メッカへのアフガン人の巡礼に問題が起きれば,サラジアラビア当局に責任があるとするコミュニケ発表。
DIA-503-1981-08-15-2アフガニスタン1981年08月15日1980年代カーブル・ニュータイムズ社説,米国の対パ軍事援助(F16機その他)計画を非難。
DIA-503-1981-08-16-1アフガニスタン1981年08月16日1980年代ドスト外相,訪ア中のベトナム外務次官バン・ドン・ジャングと会談。ジャングは18日にカルマルと会う。
DIA-503-1981-08-16-2アフガニスタン1981年08月16日1980年代カルマル,政府軍は戦場で指導権を握ったと語る。
DIA-503-1981-08-20-1アフガニスタン1981年08月20日1980年代NFF機関紙ANIS発刊される。
DIA-503-1981-08-23-1アフガニスタン1981年08月23日1980年代イスラム局長サイイド・アフガニら訪ソ。
DIA-503-1981-08-24-1アフガニスタン1981年08月24日1980年代カルマル政府「アフガニスタンをめぐる政治的解決」に関する声明発表。80年5月14日提案のパキスタン,イランとの個別交渉提案を取り下げ,また国連事務総長(またはその代理人)の立会いに合意するもの。
DIA-503-1981-08-24-2アフガニスタン1981年08月24日1980年代フィリュービン・ソ連外務次官訪パ。
DIA-503-1981-08-25-1アフガニスタン1981年08月25日1980年代ドスト外相訪ソ。
DIA-503-1981-08-25-2アフガニスタン1981年08月25日1980年代ベトナム外務省,アの「8項目新提案」支持を表明。
DIA-503-1981-08-25-3アフガニスタン1981年08月25日1980年代アフガニスタンからの81年のハジ6000人。
DIA-503-1981-08-28-1アフガニスタン1981年08月28日1980年代パのジア大統領「8項目新提案はかなり柔軟」と語る。
DIA-503-1981-08-28-2アフガニスタン1981年08月28日1980年代ドスト外相,ダマスカスでシリア大統領訪問。
DIA-503-1981-08-29-1アフガニスタン1981年08月29日1980年代ドスト外相,ベイルートでPLOのアラファト議長に会う。
DIA-503-1981-08-31-1アフガニスタン1981年08月31日1980年代閣議で,兵役期間を従来の2年をさらに1年延長し,再徴兵を決定。手当として月額3000アフガニ。
DIA-503-1981-08-31-2アフガニスタン1981年08月31日1980年代「パシュトーン,バルーチ連帯デー」。
DIA-503-1981-09-01-1アフガニスタン1981年09月01日1980年代カーブル市の外出禁止時間が延長され,午後10時から午前4時までとなる。
DIA-503-1981-09-02-1アフガニスタン1981年09月02日1980年代ケシュトマンド首相,クンドス市訪問。
DIA-503-1981-09-03-1アフガニスタン1981年09月03日1980年代PDPA中央委,農民向け党機関紙Dehgan(ダリとパシュトー)発行を決定。
DIA-503-1981-09-03-2アフガニスタン1981年09月03日1980年代政府,カーブル・マザリシャリフ道路で反政府ゲリラを撃退したと発表。
DIA-503-1981-09-03-3アフガニスタン1981年09月03日1980年代ドスト外相,南イエメン訪問。
DIA-503-1981-09-04-1アフガニスタン1981年09月04日1980年代ドスト外相,エチオピア訪問。
DIA-503-1981-09-05-1アフガニスタン1981年09月05日1980年代PDPA中央委と内閣,修正土地改革の期限つき実施計画を承認。
DIA-503-1981-09-05-2アフガニスタン1981年09月05日1980年代米国はフランスに対し,アリアナ・アフガン航空のパリ乗入れを停止させるよう圧力をかけたが,仏政府はそれを拒否(カーブル・ニュータイムズ)。
DIA-503-1981-09-05-3アフガニスタン1981年09月05日1980年代ソ連灌漑担当副首相プラトザダ,カルマルと会談。
DIA-503-1981-09-06-1アフガニスタン1981年09月06日1980年代EC外相,非公式会談でアフガン問題をめぐる国際会議開催提案継続で合意。
DIA-503-1981-09-06-2アフガニスタン1981年09月06日1980年代カーブル放送,ミグ17機のパキスタン侵入説を否定。
DIA-503-1981-09-06-3アフガニスタン1981年09月06日1980年代カルマル政権とエチオピア国交樹立。
DIA-503-1981-09-07-1アフガニスタン1981年09月07日1980年代国防筋,アフガン機がパの国境ポストを攻撃したとのパ側の主張を否定。
DIA-503-1981-09-07-2アフガニスタン1981年09月07日1980年代ドスト外相,インド公式訪問。
DIA-503-1981-09-07-3アフガニスタン1981年09月07日1980年代パ,アフガン地方部隊がクエッタ地方のパ領に侵入と発表。
DIA-503-1981-09-16-1アフガニスタン1981年09月16日1980年代国防省,8月31日の徴兵延期令を一部緩和,身体障害者,家計支持者などを除外。
DIA-503-1981-09-16-2アフガニスタン1981年09月16日1980年代カンダハルで反政府ゲリラ,大規模攻撃(ロイター)。
DIA-503-1981-09-21-1アフガニスタン1981年09月21日1980年代サダト大統領,米NBCとの会見で,79年末以降米国がエジブトから極秘に武器を購入し,アフガニスタン反政府ゲリラに引き渡していたことを明らかにした。
DIA-503-1981-09-21-2アフガニスタン1981年09月21日1980年代カーブル放送,政府軍がゲリラ掃討のためパンジシェリ渓谷に出動,掃討に成功したと伝える。ニューデリー筋では,作戦が失敗し,ソ連軍だけで1500人の死傷を伝える。
DIA-503-1981-09-22-1アフガニスタン1981年09月22日1980年代革命評議会,地方機関,行政に関する法案提出。
DIA-503-1981-09-22-2アフガニスタン1981年09月22日1980年代ソ連のグロムイコ外相,国連総会で,アフガン政府の参加しないアフガン問題国際会議提案を拒否。カルマル政府の8月24日提案支持を訴える。
DIA-503-1981-09-22-3アフガニスタン1981年09月22日1980年代ケシュトマンド首相,アフガンの8項目提案に対してパキスタンは消極的であると批判。また,経済状況に関して,今年度前半のGNPは前年度並みであるがソ連援助のプロジェクトは好調であり,天然ガスは11.2億m3の目標をほぼ達成したと語る。電力・水利分野での計画の遅れを指摘。
DIA-503-1981-10-01-1アフガニスタン1981年10月01日1980年代ケシュトマンド首相,ヘラト訪問。
DIA-503-1981-10-05-1アフガニスタン1981年10月05日1980年代アフガン工業開発銀行の純利益は,80/81年度で3881万5628アフガニで前年度より60%増加。
DIA-503-1981-10-06-1アフガニスタン1981年10月06日1980年代ララブザデ民主婦人会議議長,チェコ訪問。
DIA-503-1981-10-10-1アフガニスタン1981年10月10日1980年代通信・テレビラジオ分野でのソ連・アフガン援助プロトコール調印される。
DIA-503-1981-10-10-2アフガニスタン1981年10月10日1980年代NFF全国委員会,エジプト国民にサダトの暗黒体制を暴露するよう呼びかけた(カーブル・ニュータイムズ)。
DIA-503-1981-10-10-3アフガニスタン1981年10月10日1980年代アフガン政府,同国機のパキスタン領攻撃(10月4日)の事実を全面否定。
DIA-503-1981-10-12-1アフガニスタン1981年10月12日1980年代カルマル政府スポークスマン,10月8日訪パしたサッチャー英首相は反政府ゲリラを支持したと非難。
DIA-503-1981-10-16-1アフガニスタン1981年10月16日1980年代S.M.グラブゾイ内相,ヘラト訪問。
DIA-503-1981-10-18-1アフガニスタン1981年10月18日1980年代ケシュトマンド首相,党・政府の親善代表団の団長としてブルガリア訪問。
DIA-503-1981-10-18-2アフガニスタン1981年10月18日1980年代バミヤン地方で叛徒を全滅させたと語る。
DIA-503-1981-10-19-1アフガニスタン1981年10月19日1980年代ドスト外相,パキスタンと直接話し合うことを望むと強調。当面,イランが参加しなくてもよいと語る。
DIA-503-1981-10-21-1アフガニスタン1981年10月21日1980年代アフガニスタン労組中央評議会第3回大会開催。
DIA-503-1981-10-22-1アフガニスタン1981年10月22日1980年代部族・民族省副大臣,サフィー,アフリデ,モマンド,バジャワル,ウトマンハイル,などの部族の指 導者と会う。
DIA-503-1981-10-22-2アフガニスタン1981年10月22日1980年代革命評議会副議長グル・アカ少将,マザリシャリフ訪問。
DIA-503-1981-10-25-1アフガニスタン1981年10月25日1980年代陸軍政治教育セミナー始まる。S.M.ジアリー,ヌール・アフマド・ヌールなど参加。
DIA-503-1981-10-26-1アフガニスタン1981年10月26日1980年代アフガン空軍機,国境近くの味方陣地を爆撃(ロイター電)。
DIA-503-1981-10-28-1アフガニスタン1981年10月28日1980年代アフガン機が(12月26日)パキスタン領空を侵したというパ側の非難に対して,アフガン国防相非難。
DIA-503-1981-10-29-1アフガニスタン1981年10月29日1980年代カーブル市NFF支部結成される。
DIA-503-1981-10-31-1アフガニスタン1981年10月31日1980年代ソ連の法務副大臣アレクサンダー・ソハロフ訪ア。
DIA-503-1981-11-01-1アフガニスタン1981年11月01日1980年代F.R・モハメド農業・土地改革相・今年度の穀物生産は450万トン(うち小麦は280~290万トン)で,綿花,ビートは昨年実績を越えるだろうと語る。
DIA-503-1981-11-02-1アフガニスタン1981年11月02日1980年代PDPA中央委国際関係委員長マフムード・バルヤライ,南イエメンから帰国。
DIA-503-1981-11-02-2アフガニスタン1981年11月02日1980年代NFFキューバ訪問団帰国。
DIA-503-1981-11-02-3アフガニスタン1981年11月02日1980年代政府の手により・カーブルの17のモスク・寺院の修理・復旧工事始まる。
DIA-503-1981-11-02-4アフガニスタン1981年11月02日1980年代陸軍政治局議長のグル・アカ少将,ガズニ陸軍司令部集会で演説。
DIA-503-1981-11-03-1アフガニスタン1981年11月03日1980年代コメコン,対ア技術協力を約束。
DIA-503-1981-11-04-1アフガニスタン1981年11月04日1980年代ロガル,ワルダク両州で対反政府ゲリラ作戦。
DIA-503-1981-11-04-2アフガニスタン1981年11月04日1980年代バフタル・アフガン航空の今年度前半の利益は3707万アフガニで,前年同期比で2107万アフガニも増加したと語る。
DIA-503-1981-11-04-3アフガニスタン1981年11月04日1980年代ファリド・ザリフ,国連大使となる。
DIA-503-1981-11-05-1アフガニスタン1981年11月05日1980年代カーブル・ニュータイムズ,第37旅団を称賛。同旅団は過去7カ月の間にガズニ,パンジシェル渓谷などで13の作戦を遂行し成果を挙げたと伝える。
DIA-503-1981-11-06-1アフガニスタン1981年11月06日1980年代アブドル・ガファル・カーン,病気治療のため訪印。
DIA-503-1981-11-09-1アフガニスタン1981年11月09日1980年代政府軍准将シャハザド・カーン,パへ亡命。
DIA-503-1981-11-10-1アフガニスタン1981年11月10日1980年代政府「パイカル」名の極左グループ逮捕と発表。
DIA-503-1981-11-10-2アフガニスタン1981年11月10日1980年代イラン,ソ連軍の無条件撤退とイラン,パキスタンを含むイスラム平和維持軍によるアフガニスタンの管理,そのもとでの制憲議会の選出などを骨子とするアフガン問題の解決等を提案。
DIA-503-1981-11-11-1アフガニスタン1981年11月11日1980年代反政府ゲリラ筋(パ),カディル将軍カンダハルで負傷と伝える。
DIA-503-1981-11-11-2アフガニスタン1981年11月11日1980年代S.M.グラブゾイ内相,親善使節団団長として公式訪ソ,18日まで。
DIA-503-1981-11-15-1アフガニスタン1981年11月15日1980年代外務省,11月10日のイラン提案を内政干渉であると非難。
DIA-503-1981-11-16-1アフガニスタン1981年11月16日1980年代革命評議会,最高勲章ホルシーデ・アザディ(自由の太陽)を法制化する布告承認。
DIA-503-1981-11-16-2アフガニスタン1981年11月16日1980年代アフガニスタン,ソ連から7万トンの小麦輸入契約に調印。
DIA-503-1981-11-17-1アフガニスタン1981年11月17日1980年代J.N.ディクシット,新駐印大使に任命さる。
DIA-503-1981-11-18-1アフガニスタン1981年11月18日1980年代ソ連,アフガニスタンから4万トンの尿素肥料(740万ドル)輸入契約に調印。
DIA-503-1981-11-18-2アフガニスタン1981年11月18日1980年代アジア・アフリカ人民連帯機構(AAPSO)幹部会,カーブルでアフガニスタン問題を協議(21日まで)。
DIA-503-1981-11-28-1アフガニスタン1981年11月28日1980年代農業開発銀行,80/81年度の貸出し額は,前年度の2.03億アフガニから20.73億アフガニへ急増と発表。
DIA-503-1981-12-05-1アフガニスタン1981年12月05日1980年代PDPA第7回中央委総会開く。パシュトーンおよび諸民族に対する呼びかけを決議。カルマル書記長,党員に対し,党内派閥の克服と規律の維持を求める。また,経済分野では輸送の正常化の重要性を強調。
DIA-503-1981-12-06-1アフガニスタン1981年12月06日1980年代国防相,アフガン軍ヘリの対パ領攻撃を否定。
DIA-503-1981-12-07-1アフガニスタン1981年12月07日1980年代公務員労働時間は,午前8時30から午後3時30分までと決められる(12時から1時まで昼食)。
DIA-503-1981-12-08-1アフガニスタン1981年12月08日1980年代政府軍のナンガルハル州作戦で,反政府ゲリラが484人殺されたと発表。
DIA-503-1981-12-12-1アフガニスタン1981年12月12日1980年代アフガニスタン・ドイツ民主共和国の技術教育協定調印。
DIA-503-1981-12-13-1アフガニスタン1981年12月13日1980年代ケシュトマンド首相,ブルガリア,ソ連訪問を終え2カ月振りに帰国。
DIA-503-1981-12-13-2アフガニスタン1981年12月13日1980年代カーブル・ニュータイムズ,パキスタンと国民党はジア政権に対して,アフガン政府と無条件に交渉を始めるよう決議したと伝える。
DIA-503-1981-12-13-3アフガニスタン1981年12月13日1980年代部族・諸民族大臣スレイマン・ライク,訪ソ。
DIA-503-1981-12-14-1アフガニスタン1981年12月14日1980年代ソ連,82年に8万トンの小麦,1万トンの小麦粉,2000万ルーブルの消費財贈与に関する協定調印。
DIA-503-1981-12-15-1アフガニスタン1981年12月15日1980年代カルマル議長,ブルガリアへの往路,モスクワに立寄る。ブレジネフ書記長に対して,アフガニスタンの最高勲章「ホルシーテ・アザディ(自由の太陽)」を授与。
DIA-503-1981-12-15-2アフガニスタン1981年12月15日1980年代カーブル・ニュータイムズ,クンドス,ヘラト,ナンガルハル,バグラン各州での反政府ゲリラとの作戦成功を伝える。
DIA-503-1981-12-16-1アフガニスタン1981年12月16日1980年代カルマル議長,ブルガリア公式訪問。
DIA-503-1981-12-17-1アフガニスタン1981年12月17日1980年代カルマル議長,ジューコフ議長と会談。
DIA-503-1981-12-18-1アフガニスタン1981年12月18日1980年代アフガン・チェコ科学・文化協定調印。
DIA-503-1981-12-19-1アフガニスタン1981年12月19日1980年代R.M.パトキン水資源・電力相,ガンディー首相と会見し,インドから帰国。
DIA-503-1981-12-20-1アフガニスタン1981年12月20日1980年代パ外務省,18日アフガン武装ヘリ6機がワジリスタン地区でパ領に侵入,難民キャンプをロケット砲で攻撃したと非難。
DIA-503-1981-12-22-1アフガニスタン1981年12月22日1980年代アフガニスタン・ブルガリア友好・協力条約調印される。また,党間協力議定書,1981―85年経済関係発展基本方向,科学・文化交流計画が調印された。
DIA-503-1981-12-24-1アフガニスタン1981年12月24日1980年代カルマル議長,ブルガリアから帰国。
DIA-503-1981-12-25-1アフガニスタン1981年12月25日1980年代カーブルで反政府系の学生の家で爆弾爆発。
DIA-503-1981-12-27-1アフガニスタン1981年12月27日1980年代アフガニスタン銀行(中央銀行),新紙幣(1000,500,100,50,20,10アフガニ)と新コイン(5,2,1アフガニと50,25プル)を発行。
DIA-503-1981-12-28-1アフガニスタン1981年12月28日1980年代カルマル議長,モスク,寺院などへの財政的支援を指示。
DIA-503-1982-01-02-1アフガニスタン1982年01月02日1980年代アフガニスタン人民民主党(PDPA)は,共産主義諸国の党追放の正式指示に当る新たな「党員カード」の発行を開始。カールマル革命評議会議長は演説で,「過去2年で党員数は倍増した」と言明。
DIA-503-1982-01-04-1アフガニスタン1982年01月04日1980年代カールマル革命評議会議長は81年9月来モスクワ滞在中のラフィー国防相の「代行」としてアブドゥル・カーデル少将(革命評議会幹部会員)を任命。
DIA-503-1982-01-04-2アフガニスタン1982年01月04日1980年代(カーブルのア軍事筋):アフガニスタン駐留のソ連軍は81年12月中旬から急速に増強され始め現在11~12万人となっている。
DIA-503-1982-01-05-1アフガニスタン1982年01月05日1980年代(ア軍事筋):反政府ゲリラは81年12月,アーム・ダルヤー川を越えてソ連領を急襲(D,1/6)。
DIA-503-1982-01-07-1アフガニスタン1982年01月07日1980年代ゲリラの「自由ワルダク州軍事司令官」は同州で反政府勢力が独自の郵便制度を運営していると発表。
DIA-503-1982-01-08-1アフガニスタン1982年01月08日1980年代反政府ゲリラによると,81年暮からヘラート,パクティヤー,タハール,カンダハール各州およびカーブル近郊で一斉に戦闘が再開されている(『読売』1/10)。
DIA-503-1982-01-09-1アフガニスタン1982年01月09日1980年代(在インド西側外交筋):政府は兵員徴集のため街頭で15~50歳男性の狩り出し強行(DR,1/21)。
DIA-503-1982-01-11-1アフガニスタン1982年01月11日1980年代新地方行政法,公布。州,県以下各レベルの地方行政単位に地方評議会およびジルガ(長老会議)を設置することを骨子とする。
DIA-503-1982-01-14-1アフガニスタン1982年01月14日1980年代カーブルでアフガニスタン民主青年協会(DYOA)第3回中央委員会開催。
DIA-503-1982-01-16-1アフガニスタン1982年01月16日1980年代ガズニー州バンデ・サルデ空港開設。
DIA-503-1982-01-17-1アフガニスタン1982年01月17日1980年代カーブルで密輸入阿片2122㌔押収。
DIA-503-1982-01-18-1アフガニスタン1982年01月18日1980年代政府は最近33の中小工業プロジェクト(じゅうたん,皮革,製氷等。計4億8000万アフガニー)を認可。
DIA-503-1982-01-18-2アフガニスタン1982年01月18日1980年代アブドゥル・ワリー王子(ザーヘル元国王の義理子息・元ア軍中央司令官,57歳)は18日付『ニューズウィーク』誌掲載インタビューで,私がパキスタンのアフガン難民と行動を共にするのは時期尚早,と語る。
DIA-503-1982-01-19-1アフガニスタン1982年01月19日1980年代アの天然ガスの82年対ソ輸出は2億6700万㌦相当(81年は2億3300万㌦)の見込み。
DIA-503-1982-01-20-1アフガニスタン1982年01月20日1980年代(在インド西側外交筋):このほどPDPA内で粛清が始まり,ハルク派の多数が追放された(『読売』1/21)。
DIA-503-1982-01-25-1アフガニスタン1982年01月25日1980年代パクティヤー州でソ連軍ヘリコプターが反政府ゲリラの砲撃で墜落,シュキドチェンコ中将以下4名のソ連軍将校が死亡。
DIA-503-1982-02-01-1アフガニスタン1982年02月01日1980年代ソ連とア,1982年貿易議定書および無利子借款(1000万ルーブル)協定に調印。
DIA-503-1982-02-02-1アフガニスタン1982年02月02日1980年代(在印西側外交筋):PDPA党員数は78年革命時の1万5000人から現在10万人に増加(D.R,2/3)。
DIA-503-1982-02-07-1アフガニスタン1982年02月07日1980年代政府はカーブルに全寮制の「スパイ幼年学校」を創立(『読売』2/8)。
DIA-503-1982-02-08-1アフガニスタン1982年02月08日1980年代ステッセル米国務次官は上院外交委で,79~81年度にソ連軍化学兵器でア人3000人以上死亡と証言。
DIA-503-1982-02-11-1アフガニスタン1982年02月11日1980年代PDPA・政府土地改革合同委員会は,土地改革継続のために関係省庁等に対する指令を中心とする12項目決議案を採択(POT-A,3/5)。
DIA-503-1982-02-17-1アフガニスタン1982年02月17日1980年代(在印パ西側外交筋):政府・ソ連軍,2月上旬数カ月ぶりヘラート,カンダハール両市奪還。カ市を占拠していたゲリラは土地の人々の要請で撤退した模様。ゲリラはバーミヤーン,パルワーン,カーピサ等の州ではなお優勢だが,パ側国境沿いはパクティヤー,ローガル両州を除くと政府軍が押さえた。なお,ア駐留ソ連軍は81年暮れまでに10~11万人に増え,ア政府軍も5万人に増員されたという(『読売』2/17,『日経』2/22)。
DIA-503-1982-02-17-2アフガニスタン1982年02月17日1980年代(インドのアジア法律家調査委員会報告):79年12月来の死傷・行方不明はア人3万2000~4万8000人,ソ連人1万2000~1万5000人。また,アで集団処刑や拷問が行なわれ毒ガスが使用されているという(D,2/19)。
DIA-503-1982-02-20-1アフガニスタン1982年02月20日1980年代政府はゲリラを隠匿しない町村に消費物資補助金,農業指導等の恩恵付与(Economist,2/27)。
DIA-503-1982-02-21-1アフガニスタン1982年02月21日1980年代カールマル議長はPDPAカーブル支部大会で党内の「分派主義者」粛清の必要を強調。
DIA-503-1982-02-21-2アフガニスタン1982年02月21日1980年代国連のソ連軍毒ガス使用調査団はア入国を拒否され,パ領内で10日間の調査を終了。
DIA-503-1982-02-22-1アフガニスタン1982年02月22日1980年代デクエヤル国連事務総長はD・コルドヴェズ事務次官をア問題調停の事務総長特別代表に任命。
DIA-503-1982-02-23-1アフガニスタン1982年02月23日1980年代ソ連国防省機関紙『赤い星』はアでの苦戦を認め,また,1月だけでも反政府ゲリラ2223人を殺害,1117人逮捕,2000の武器を押収と報道(『読売』2/24)。
DIA-503-1982-02-26-1アフガニスタン1982年02月26日1980年代最近アのクンドゥズ,タハール,サマンガン,バルフ州にソ連人3万人が定住(D,2/26)。
DIA-503-1982-02-27-1アフガニスタン1982年02月27日1980年代EEC は3月21日を「アフガンの日」に指定。
DIA-503-1982-02-27-2アフガニスタン1982年02月27日1980年代今週初めカーブルで激戦(DR,3/1)。
DIA-503-1982-02-28-1アフガニスタン1982年02月28日1980年代(モスクワ放送):カーブルで,「インタースプートニク」システムの一環となる宇宙通信地上ステーション「ロートス」落成式,(『東京』2/28)。
DIA-503-1982-03-01-1アフガニスタン1982年03月01日1980年代政府はソ連と,カーブル空港拡張議定書に調印。滑走路を700㍍延長など。計3億9200万アフガニー。
DIA-503-1982-03-02-1アフガニスタン1982年03月02日1980年代カープル駐在の外国農業専門家は82年のアの食糧不足を懸念し,政府のいう(食糧穀物?)300万㌧収穫は230万㌧くらいで,ソ連による補給も望めないとしている(『東南アジア月報』3月号)。
DIA-503-1982-03-06-1アフガニスタン1982年03月06日1980年代政府・ソ連軍はバグラーン,ファラー,タハール,クンドゥズ各州で春季攻勢。
DIA-503-1982-03-08-1アフガニスタン1982年03月08日1980年代PDPA中央委員会,第8回総会開催。
DIA-503-1982-03-09-1アフガニスタン1982年03月09日1980年代閣議,諸改革進捗状況と来年度予算案を討議。
DIA-503-1982-03-10-1アフガニスタン1982年03月10日1980年代レーガン米大統領はア暦元旦に当る3月21日を「アの日」と宣言。20日,カーブルで30万人反米デモ。
DIA-503-1982-03-10-2アフガニスタン1982年03月10日1980年代M・ラフィー国防相,6ヵ月の訪ソから帰国。24日,「再教育」のため再度ソ連へ。
DIA-503-1982-03-13-1アフガニスタン1982年03月13日1980年代カーブル大学総長(PDPA ハルク派)暗殺。
DIA-503-1982-03-14-1アフガニスタン1982年03月14日1980年代PDPA全国党大会―1965年の党結成以来2度目,78年4月革命後初めて。カ議長開会演説。以下は同趣旨の中央委員会報告骨子。(1)妥当な土地所有上限など土地改革継続,(2)革命の現段階では民間資本容認の混合経済体制をとる,(3)イスラーム教尊重,諸民族・部族伝統の尊重,(5)パシュトゥーン民族の歴史的役割の尊重,(6)分派活動根絶,(7)対ソ関係強化。・15日,51人の最高幹部会議メンバー選出,党憲章改正,党行動要綱等採択の後,予定より1日早く閉会。・大会には全国の代議員836人(1200人予定)参加。うち60%はパルチャム派,40%がハルク派(在印西側外交筋)。両派対立激しく,各国共産党代表の参加はなかった。
DIA-503-1982-03-14-2アフガニスタン1982年03月14日1980年代パのア政府7組織は最近「初の真剣な努力」として「アフガニスタン聖戦士イスラーム同盟」(IUMA)を結成。議長は各組織1カ月の輪番制で副議長はヘクマティヤール・イスラーム党(IP=HI)党首。
DIA-503-1982-03-16-1アフガニスタン1982年03月16日1980年代政府は米大使館の新代理大使を拒否。
DIA-503-1982-03-19-1アフガニスタン1982年03月19日1980年代81年対ソ貿易は対前年比30%増の9億3000万㌦。対ソ貿易は輸出が全体の60%,輸入が同じく57%。
DIA-503-1982-03-20-1アフガニスタン1982年03月20日1980年代カールマル議長は,「反政府活動にもかかわらず81/82年度にはGNP1.5%,農業3.1%,国民所得2.4%の成長率を達成した」と発表。
DIA-503-1982-03-21-1アフガニスタン1982年03月21日1980年代カーブルでウズベキーおよびトゥルクメン民族に対する母語での初等教育開始。
DIA-503-1982-03-21-2アフガニスタン1982年03月21日1980年代政府は新年に当り反政府勢力全面特赦を発表。
DIA-503-1982-03-27-1アフガニスタン1982年03月27日1980年代政府はソ連との間で北方地域灌漑施設修復契約(100万ルーブル)に調印。
DIA-503-1982-03-31-1アフガニスタン1982年03月31日1980年代カ議長は最近の英BBC放送との会見で,PDPA党員数は7万と言明(POT-A,4/15)。
DIA-503-1982-04-01-1アフガニスタン1982年04月01日1980年代人事異動:Khalil Ahmed Abawi→副首相・計画委員長。Mehrabuddin Paktiawal→中央銀行総裁(閣僚級)。
DIA-503-1982-04-03-1アフガニスタン1982年04月03日1980年代ドースト外相,クウェートでの非同盟諸国外相会議出席の途次,訪印。ガンディー首相と会談。
DIA-503-1982-04-05-1アフガニスタン1982年04月05日1980年代徴兵年齢,21歳から19歳に引き下げ。政府軍は,ゲリラ活動活発化に伴いカーブル街頭で徴兵適齢期徴兵キャンペーンを実施(DR,4/13)。
DIA-503-1982-04-06-1アフガニスタン1982年04月06日1980年代クウェートの非同盟諸国外相会議出席中のドースト外相は,ア問題政治解決のために国連主催のア,パ,イラン3カ国会議(パ提案)に同意を表明。
DIA-503-1982-04-07-1アフガニスタン1982年04月07日1980年代ソ連軍地上部隊,初のイラン領侵入(5km〉。8日、駐パ・イラン代理大使,これを確認。
DIA-503-1982-04-10-1アフガニスタン1982年04月10日1980年代コルドヴェズ国連事務総長特使,ア問題政治解決のためア,パ,イラン歴訪。議題は従来から各首脳との間で挙げられている,(1)アからの全外国軍の撤退,(2)民族自決による国家再建,(3)外国による不干渉に関する国際的保証,(4)避難民の自由意志による帰国,の4原則。22日,国連に戻りデクエヤル事務総長に報告。
DIA-503-1982-04-10-2アフガニスタン1982年04月10日1980年代ヌーリスタンのゲリラは自由国家「イスラーム革命アフガニスタン」樹立を宣言。パンジシェール渓谷に次ぐ第2の自由州樹立宣言(D,4/16)。
DIA-503-1982-04-11-1アフガニスタン1982年04月11日1980年代政府,落第生徴兵の政令布告。数日前には軍に志願する学生には卒業証書付与と発表。23日,学生の軍事教練受講を訴え。
DIA-503-1982-04-11-2アフガニスタン1982年04月11日1980年代ヌール・A・ヌールPDPA書記訪ソ(~21日)。
DIA-503-1982-04-13-1アフガニスタン1982年04月13日1980年代政府・ソ連軍はファラー州での対ゲリラ春季攻勢で初のイラン領空侵犯の模様(WP,4/13)。
DIA-503-1982-04-13-2アフガニスタン1982年04月13日1980年代駐印ア大使館武官,オーストリアに亡命。
DIA-503-1982-04-14-1アフガニスタン1982年04月14日1980年代ア政府軍がパに亡命の軍人たちがクエッタで「アフガン・イスラーム軍事戦線」(AIMF)を結成。
DIA-503-1982-04-19-1アフガニスタン1982年04月19日1980年代政府は,マザーレ・シャリーフにソ連領事館を設置する協定をソ連との間に締結(『読売』4/21)。
DIA-503-1982-04-19-2アフガニスタン1982年04月19日1980年代(パのゲリラ筋):ソ連,ワハーン回廊に大規模な空軍基地を建設中(『東南アジア月報』4月号)。
DIA-503-1982-04-26-1アフガニスタン1982年04月26日1980年代ブルガリア国家評議会副議長,来訪。
DIA-503-1982-04-30-1アフガニスタン1982年04月30日1980年代アジア開発銀行会議(マニラ)でア代表は国際機関の対ア援助停止状態を非難(TI,5/1)。
DIA-503-1982-05-06-1アフガニスタン1982年05月06日1980年代アのバフタール通信は,パに米軍人による80のア・ゲリラ訓練センターが存在と非難(TI,5/7)。
DIA-503-1982-05-09-1アフガニスタン1982年05月09日1980年代土地改革「第2段階」開始。5月26日付Kabul new Times紙は第2段階に入って7万4000haの土地分配と報道(POT-A,5/14& 5/26)。
DIA-503-1982-05-12-1アフガニスタン1982年05月12日1980年代ソ連はソ連領Termezとア領Jeyretan(ソ連の地図ではKhairaton)から5kmの地点を結ぶ橋をアーム川に完成(鉄道・自動車用,1.6km)。予定より1年早い2年半で完成(IHT,5/26)。
DIA-503-1982-05-13-1アフガニスタン1982年05月13日1980年代中国,ア綿花2000㌧輸入契約。
DIA-503-1982-05-15-1アフガニスタン1982年05月15日1980年代フセイン・イラク大統領の特使,来訪。
DIA-503-1982-05-15-2アフガニスタン1982年05月15日1980年代ア・インド経済協力合同委員会開催(カーブル)。17日,両国は経済協力議定書に調印。
DIA-503-1982-05-16-1アフガニスタン1982年05月16日1980年代人事異動:水資源・電力省が灌漑省と電力省に分割され,それぞれの大臣としてA.Shah Surkhabi Dr. Raz M.Paktin が任命された(DR,5/18)。E.Azim保健相に代りDr.M.Nabi Kamyar,電力相はRaz M. Paktin留任(『東南アジア月報』5月)。
DIA-503-1982-05-17-1アフガニスタン1982年05月17日1980年代政府・ソ連軍,パンジシェール渓谷奪回作戦開始。80年5月以来6回目。
DIA-503-1982-05-17-2アフガニスタン1982年05月17日1980年代(信頼筋):最近のPDPAカーブル市支部大会はカールマル議長に不信任投票,ケシュトマンド首相の革命評議会議長就任を要求。また,同党の最も著名な指導者G・D・パンジシェーリーは最近カーブル駐在のソ連人顧問と議長交替について協議(D,5/18)。
DIA-503-1982-05-18-1アフガニスタン1982年05月18日1980年代カールマル議長,東独訪問。21日,東独との間で友好協力条約調印。26日,カ議長は「休養」のためソ連へ(~6月24日)。
DIA-503-1982-05-19-1アフガニスタン1982年05月19日1980年代カーブルの夜間外出禁止令,1時間短縮。
DIA-503-1982-05-19-2アフガニスタン1982年05月19日1980年代イラン領内の反ア政府ゲリラのラジオ放送はイラン政府がア人ゲリラを逮捕しア政府に引き渡していると非難。一方イランは最近,パとアの間接会談について正式説明を初めて求めた(IHT,5/20)。
DIA-503-1982-05-19-3アフガニスタン1982年05月19日1980年代政府とゲリラはソ連侵攻後初の捕虜交換,各1人。
DIA-503-1982-05-26-1アフガニスタン1982年05月26日1980年代政府・ソ連軍はカーブル周辺5~20kmの地域の山岳ゲリラに攻勢(WP,5/26)。
DIA-503-1982-05-28-1アフガニスタン1982年05月28日1980年代反政府ゲリラのソ連捕虜3人,赤十字国際委員会,ソ連,ゲリラ組織の合意でスイスへ。
DIA-503-1982-05-28-2アフガニスタン1982年05月28日1980年代ドースト外相,非同盟運動調整事務局会議の帰途,訪ソ。28日グロムイコ外相との会談後,80年5月と81年8月のア提案がア問題の現実的政治解決の基礎との見解で一致したと語る。
DIA-503-1982-06-01-1アフガニスタン1982年06月01日1980年代(新華社通信):ゲリラは先週(5月31日?)ア・ソ連間の天然ガス・パイプをロケット砲で爆破したという(DR,6/7等)。
DIA-503-1982-06-03-1アフガニスタン1982年06月03日1980年代(パ放送):カーブルでソ連軍侵入以来「例を見ない」激戦展開中(『読売』6/4)。
DIA-503-1982-06-05-1アフガニスタン1982年06月05日1980年代(ア筋):ソ連軍は新戦略失敗原因究明のためア全国のソ連人高級将校をカーブルに招集。これとともに各地位の将校たちがソ連に転任し,多くのソ連人家族が本国に帰還しているという。別の筋によれば,ア政府軍内のPDPA2派軍人がこの3日,互いに戦闘中という(DR,6/11)。
DIA-503-1982-06-07-1アフガニスタン1982年06月07日1980年代ア内戦はこのところ発生以来2年半で最も激化。戦闘範囲は北はソ連国境100km付近,西はヘラート,カーブル近くのパンジシェール渓谷に及ぶ。政府は16日,パ渓谷の反政府勢力掃討に成功と発表。
DIA-503-1982-06-09-1アフガニスタン1982年06月09日1980年代カープルに労組活動家のためのカレッジ開設。
DIA-503-1982-06-16-1アフガニスタン1982年06月16日1980年代ア問題政治解決を目指すア,パ両国の第1回正式外相会談がジュネーブで開始。オブザーバー参加予定のイランは16日参加拒否を通告。形式はコルドヴェズ国連事務次長を仲介役とする間接交渉だが,アとパの2当事国代表の会談はソ連のア軍事侵攻後初めて。議題はこの日誌4月10日の(1)~(4)。23日,コ国連次長は記者会見で,アとパの直接会談の可能性もないわけではない,と語った。25日コ国連次長,記者会見。(1)ある種の重要な歩み寄りが見られた。(2)近い将来第2回会談が開かれよう。(3)イラン,ソ連,米には会談の進捗状況を常に伝えた。・7月5日,ドースト外相は閣議で,ア代表は柔軟性を示し,パも一定程度の柔軟性を示したと報告。
DIA-503-1982-06-18-1アフガニスタン1982年06月18日1980年代18~19日,ヘイグ米国務長官はニューヨークでグロムイコ・ソ連外相とア問題などで会談。
DIA-503-1982-06-24-1アフガニスタン1982年06月24日1980年代5月の東独訪問後ソ連に滞在していたカールマル議長は白血病または(および)心臓病の疑いで種々の健康診断の後,24日帰国(FEER,7/23)。30日付『ニューヨーク・タイムズ』紙によると,帰国後のカ議長は最近のパンジシェールでの大損害をめぐってPDPA両派の対立に直面。
DIA-503-1982-06-26-1アフガニスタン1982年06月26日1980年代A・W・サフィー法相・検事総長,リビアから帰国。
DIA-503-1982-06-28-1アフガニスタン1982年06月28日1980年代カーブル放送はインド洋の米軍事力増強を非難。
DIA-503-1982-07-01-1アフガニスタン1982年07月01日1980年代3月結成のIUMAは現在は6組織から成り,各3組織の2派に分れ,ともにIUMAを自称。うち,国民イスラーム戦線(NIF)等の親西欧3組織が結束の点で一歩リードと見られる(『読売』7/1)。
DIA-503-1982-07-03-1アフガニスタン1982年07月03日1980年代訪米中のA・A・ゲラーニーNIF議長,ソ連が大規模なシンダンド空軍基地などアで軍事基地建設を進めており,またワハーン回廊の国境線を変更したと語る。10日,ゲリラは衣・食・武器が大幅不足と語る。
DIA-503-1982-07-04-1アフガニスタン1982年07月04日1980年代米のVOA,1日30分のパシュト語放送開始。
DIA-503-1982-07-06-1アフガニスタン1982年07月06日1980年代(在印西側外交筋):パンジシェール渓谷のソ連軍(目撃者談1万2000人),撤退(DR,7/7)。
DIA-503-1982-07-07-1アフガニスタン1982年07月07日1980年代政府は,国内の反乱活動は終りに近づいたとして反乱勢力に対し81年6月の一般大赦令に基づく一般大赦を発表。これは81年6月の大赦以来2度目。
DIA-503-1982-07-18-1アフガニスタン1982年07月18日1980年代党・政府土地改革合同委員会は今後国民祖国戦線(NFF)代表も土地改革実務に参加させると決定。
DIA-503-1982-07-23-1アフガニスタン1982年07月23日1980年代政府は,ラマザーン月(6月12日~7月11日)間に全国12軍区のうち7区の反政府勢力を掃討と発表。
DIA-503-1982-07-24-1アフガニスタン1982年07月24日1980年代米国務省は,米ソ両国がア問題解決のためこのほどモスクワで初めて交渉(大使級)を行なったが何の進展もみられなかったと発表。
DIA-503-1982-07-27-1アフガニスタン1982年07月27日1980年代カーブルでPDPA中央委員会第9回総会。26日,党の団結,党イデオロギーの情宣,宗教的価値および伝統的価値の尊重を訴えて閉会。・従来はPDPA会議でのカールマル議長の演説は大々的に報道されてきたが27日夜の国営カーブル放送はカ議長演説を放送しなかった。同議長はまた総会の初めと終りだけしか出席せず,同議長不在時はS・M・ゼアーリー国民祖国戦線議長が総会を主宰した。さらに,通常のメンバーの他にPDPA各州委員会書記,軍管区司令長官,党の諸組織書記,陸・空両軍政治局長が出席(DR,7/29)。
DIA-503-1982-07-27-2アフガニスタン1982年07月27日1980年代(在パ西側外交筋):政府・ソ連軍は2カ月前からパンジシェール渓谷(カーブルの北100km)のゲリラ拠点に大攻撃をかけていたが先週から苦戦に陥り,大損害を出しているもよう(『日経』7/29)。
DIA-503-1982-07-28-1アフガニスタン1982年07月28日1980年代(在印外交筋):ソ連軍は最近,バルーチ民族居住のニムローズ州で主要作戦開始(D,7/29)。
DIA-503-1982-07-29-1アフガニスタン1982年07月29日1980年代(西側外交筋):現在のPDPA党員数は推定4万5000~7万人という(DR,7/29)。
DIA-503-1982-08-02-1アフガニスタン1982年08月02日1980年代政府は、(1)兵士服役期間を2年から3年に延長,(2)78年10月22日以前の退役者で35歳以下の者の2年間の再徴兵,等を骨子とし,現政下で最も厳しい徴兵令改正を発表。・なお,西側外交筋によると現在のア軍は3万~4万8000人(DR,8/3;8/4)。
DIA-503-1982-08-02-2アフガニスタン1982年08月02日1980年代KNT紙はタス通信を引用して,パキスタンはアにる対す宣戦布告なき戦争の基地となっておりパによる(ア問題)の政治解決云々は煙幕にすぎないと非難。
DIA-503-1982-08-04-1アフガニスタン1982年08月04日1980年代(駐印西側外交筋):陸軍中将グル・アーカー内務省政治間題局長が軟禁状態で,また,政府職員の段階的粛清のなかにハルク派のS・M・グラーブゾイおよびア秘密警察(KHAD)ナンバー・ツーのJ・ヌーリスターニーが含まれている(JT,8/5)。
DIA-503-1982-08-09-1アフガニスタン1982年08月09日1980年代投資問題高官会議は35の民間の中小工業プロジェクトを承認。
DIA-503-1982-08-12-1アフガニスタン1982年08月12日1980年代人事異動(信頼筋):政府は,モスクワ滞在中のハリールッラー中央軍団司令官を更迭,後任にアブドゥル・ウォドゥード少将(革命評議会委員)を任命。思想教育責任者である軍政治局長にはヤスィーン・サーデキー将軍(PDPA中央委員)を任命。同ポストは従来グル・アーカー革命評議会副議長が兼任(『読売』8/12)。
DIA-503-1982-08-16-1アフガニスタン1982年08月16日1980年代(パのNW紙):このほどカーブルでPDPA2派幹部同士の銃撃戦でカ議長が負傷,閣僚3人など6人死亡。カ議長に対する3度目の暗殺未遂。ハルク派のグラーブゾイ内相,逮捕(『東南アジア月報』9月)。
DIA-503-1982-08-18-1アフガニスタン1982年08月18日1980年代西側報道によるとゲリラはこのところ攻撃目標をソ連軍施設にしぼっている。
DIA-503-1982-08-26-1アフガニスタン1982年08月26日1980年代ソ連のリトアニア共和国の地下出版Ausra紙はアにおける多数のソ連兵士戦死のソ連国内での波紋について論説(Times,8/26)。
DIA-503-1982-08-27-1アフガニスタン1982年08月27日1980年代政府は国外在住ア難民向けのラジオ放送「祖国の声」を開始,帰国を訴え。
DIA-503-1982-08-27-2アフガニスタン1982年08月27日1980年代(アのAAP通信):ソ連はバダフシャーン,カンダハール,ヘラート,バルフ各州に空軍基地建設の計画(D,8/27)。
DIA-503-1982-08-28-1アフガニスタン1982年08月28日1980年代人事異動:F.R.Momand農相→中央統制局長(閣僚級)。A.G.Lakanwal→農相。
DIA-503-1982-08-29-1アフガニスタン1982年08月29日1980年代カールマル議長,ソ連軍はアに対する諸外国の不干渉が保証されるまで駐留するであろうと言明。
DIA-503-1982-08-31-1アフガニスタン1982年08月31日1980年代ドースト外相,アとパの会談は82年末には再開されるべきだと語る。
DIA-503-1982-08-31-2アフガニスタン1982年08月31日1980年代政府は「パシュトゥーン,バルーチ両民族の国民記念日」挙行。30日付KNT紙は,「パの抑圧された人民と諸民族の正義の闘いに対し完全な連帯」を表明。
DIA-503-1982-09-01-1アフガニスタン1982年09月01日1980年代カ議長はパとイランに関係正常化の呼びかけ。
DIA-503-1982-09-02-1アフガニスタン1982年09月02日1980年代(在印西側外交筋):政府・ソ連軍はパンジシェール渓谷に秋季大攻勢を開始。
DIA-503-1982-09-09-1アフガニスタン1982年09月09日1980年代A・B・サマンダリー財政相,トロントでの世銀,IMF年次総会でアの経済好転を報告。
DIA-503-1982-09-09-2アフガニスタン1982年09月09日1980年代ザーボル州カラートで作戦失敗の相互非難から政府軍とソ連軍の衝突で40人死亡(D,9/25)。
DIA-503-1982-09-09-3アフガニスタン1982年09月09日1980年代ブレジネフ・ソ連共産党書記長は訪ソ中のデクエヤル国連事務総長と会談。コルドヴェズ・ア問題調停担当国連事務総長特別代表も同席。しかし同日の共同コミュニケにはア問題について何の記述もない。
DIA-503-1982-09-12-1アフガニスタン1982年09月12日1980年代人事異動:カールマル議長はA.M.Sarbland情報・文化相とP.Gol Dad高等教育・職業教育相を解任(両名とも副首相留任)し,マスメディアのケシュトマンド首相による直接統轄を指示。
DIA-503-1982-09-13-1アフガニスタン1982年09月13日1980年代13日付KNT紙によると,81/82年度の天然ガス生産量は27億6100立方米で,天然ガス販売による収入150億アフガニーは政府予算の半分に相当。
DIA-503-1982-09-14-1アフガニスタン1982年09月14日1980年代ソ連軍によるカーブル市内パトロール,再開。
DIA-503-1982-09-16-1アフガニスタン1982年09月16日1980年代ソ連は最近ソ連とアを結ぶ鉄道建設に着工したという。ソ連~シェール・ハーン河港~プレ・コムリー~マザーレ・シャリーフ~ヘラート(D,9/17)。
DIA-503-1982-09-17-1アフガニスタン1982年09月17日1980年代ドースト外相,モスクワでグロムイコ・ソ連外相とア問題政治解決について協議。19日,帰国。
DIA-503-1982-09-18-1アフガニスタン1982年09月18日1980年代政府はパとの国境2100kmに沿って「ベルリンの壁」の建設を考慮中という。A・ラテブザード政治局員はこれを確認(DR,9/24;D,10/2)。
DIA-503-1982-09-18-2アフガニスタン1982年09月18日1980年代バグラーン州ダステ・カラガイのソ連軍駐屯地が空軍基地に拡張中という(DR,9/21)。
DIA-503-1982-09-21-1アフガニスタン1982年09月21日1980年代人事異動:陸軍大佐6人が「将軍」(General)に昇格(POT-A,10/4)。
DIA-503-1982-09-23-1アフガニスタン1982年09月23日1980年代人事移動:陸軍准将M.Rafie国防相,解任→副首相。陸軍少将A.Qader革命評議会最高幹部会副議長・解任→国防相。S。Mangal高等教育・職業教育次官→同相に昇格。A.G.Lakanwal農相→最高幹部会委員を解任(以上,DR,9/24)。・A.Ratebzad教育相,解任→アフガニスタン婦人民主機関長官(『東南アジア月報』9月号)。
DIA-503-1982-09-27-1アフガニスタン1982年09月27日1980年代アハマッド・ゲラーニーNIF議長は対ソ戦について強気だが,その子ハッサン・ゲラーニーはスウェーデン記者との会見で,ゲリラもソ連も互いに勝てないことを知っていると語った(DR,9/30)。
DIA-503-1982-10-01-1アフガニスタン1982年10月01日1980年代陸軍少将A・ウォドゥード中央軍団司令官(ハルク派),カーブルで死体で発見(D,10/5)。
DIA-503-1982-10-01-2アフガニスタン1982年10月01日1980年代デクエヤル国連事務総長は国連での桜内外相との会談で,(1)ソ連はア問題政治解決で国連に期待,(2)国連を通じての問題解決に自分が直接乗り出そうと言明。
DIA-503-1982-10-03-1アフガニスタン1982年10月03日1980年代カールマル議長,ハンガリー訪問へ。3日,ソ連ウズベク共和国のタシュケントに立寄り。7日,両国間で友好協力条約調印。同日共同コミュニケ。8日帰国。
DIA-503-1982-10-12-1アフガニスタン1982年10月12日1980年代(在印西側外交筋):政府・ソ連軍,カーブル近郊のゲリラに大攻撃開始(『日経』10/14)。
DIA-503-1982-10-12-2アフガニスタン1982年10月12日1980年代政府はソ連と灌漑施設修復設備供給契約に調印。
DIA-503-1982-10-14-1アフガニスタン1982年10月14日1980年代(信頼筋):パの14日付Jang紙は,ソ連はこのほどタージク共和国バカン地区の軍事基地に,近隣諸国に到達可能な長距離ミサイルを配備したと報道。
DIA-503-1982-10-14-2アフガニスタン1982年10月14日1980年代ケシュトマンド首相は西側紙と会見,ソ連軍は必要期間アに駐留(無期限)と言明(D,10/15)。
DIA-503-1982-10-15-1アフガニスタン1982年10月15日1980年代ソ連ではアへの派遣兵士の徴募条件の格差をめぐって中央アジア系国民の不満が募り,スラブ系国民との間に時に暴力沙汰が発生(FEER,10/15)。
DIA-503-1982-10-16-1アフガニスタン1982年10月16日1980年代国連総会出席中のドースト外相,デクエヤル国連総長に会見。
DIA-503-1982-10-18-1アフガニスタン1982年10月18日1980年代パ国境内数キロのバルーチスタン州チャマンにア政府軍のミグ17型戦闘機が墜落,パへの亡命を企てたと思われるパイロットが死亡。19日,パ政府は「友好のしるし」としてクエッタのア領事に死体を引き渡した。
DIA-503-1982-10-20-1アフガニスタン1982年10月20日1980年代革命評議会・NFFは内外記者団に合同声明発表。(1)土地を持たなかった30万家族が革命により無償で土地の分配を受けた。(2)DYOA(1月参照)メンバー数は9万。同様の婦人運動のメンバー数は1万2000。(3)反政府勢力訓練のための軍事訓練センターがパだけで80もあり,1年に2万人を訓練している。(4)教育機関,医療機関などに対する反革命勢力による損害は11億2820万アフガニーに達する(DR,10/22)。
DIA-503-1982-10-20-2アフガニスタン1982年10月20日1980年代PDPAカーブル市支部・カーブル市共同の機関誌,Pamir Weekly,発刊。
DIA-503-1982-10-21-1アフガニスタン1982年10月21日1980年代カールマル議長は,「イラン革命の反封建主義・反帝国主義の立場はわが国の革命と合致する」として両国の友好促進を希望。
DIA-503-1982-10-22-1アフガニスタン1982年10月22日1980年代(信頼筋):ソ連はアのローガル州のアイナク銅鉱山開発を決定(D,10/22)。
DIA-503-1982-10-25-1アフガニスタン1982年10月25日1980年代イギリスの国際戦略問題研究所はア政府を現在4万3000人と推定(Times,10/25)。また,在英外交筋によれば,ソ連軍のア侵攻以来の損害(死傷者別は不明)は1万2000~1万6000(D,10/28)。
DIA-503-1982-11-02-1アフガニスタン1982年11月02日1980年代政府は先月,50年の伝統を破ってパシュトゥーン部族地域住民の徴兵を開始したが彼らはカーブルで先週3日間の反対集会・デモ(2000~3000人)を挙行。政府はこのため彼らの徴兵を「一時的に」中止。
DIA-503-1982-11-02-2アフガニスタン1982年11月02日1980年代(西側外交筋):先月2度にわたりカーブルで相当規模の反ソ・反政府デモ。81年9月以来のもの。
DIA-503-1982-11-02-3アフガニスタン1982年11月02日1980年代2日あるいは3日,カーブル北方100kmのサラン峠トンネル(2.6km)内でソ連兵を乗せてカーブルに向かう輸送車とタンク・ローリーが正面衝突,炎上。ソ連兵700人死亡,200人負傷。ア民間人400人死亡。12日,IPゲリラが犯行声明。20日ア政府,これを否定。
DIA-503-1982-11-04-1アフガニスタン1982年11月04日1980年代(在パ西側外交筋):ゲリラに4日と7日,サマンガン州のダシュテ・カラギアとカーブル近郊のバグラーム空軍基地付近でソ連軍の幹線パイプラインを爆破したという(『東南アジア月報』11月号)。
DIA-503-1982-11-12-1アフガニスタン1982年11月12日1980年代シュルツ米国務長官は,ソ連のアンドロポフ新指導部が米ソ関係改善のために行なうべき4項目の一つとしてアからのソ連軍撤退を挙げた(WP,11/13)。
DIA-503-1982-11-15-1アフガニスタン1982年11月15日1980年代ブレジネフ・ソ連共産党書記長の国葬に列席のため訪ソ中のカールマル議長,アンドロポフ新書記長と会談。18日,帰国。
DIA-503-1982-11-16-1アフガニスタン1982年11月16日1980年代ソ連共産党機関紙『プラウダ』のテファナスィエフ編集長(党中央委員)は日本人新聞記者団との会見で,(1)軍事力ですべてを解決できない。ソ連は近く撤兵するつもりだ,(2)それにはアに非同盟でソ連と善隣関係を持つ政府が存在できることが条件だ。それはソ連型社会主義政権でなくてもよい,と言明。
DIA-503-1982-11-16-2アフガニスタン1982年11月16日1980年代6月に英に亡命したソ連のKGB大物スパイといわれるウラジミール・クズィーチキンは,(1)ブレジネフ書記長はKGBのアからの撤兵勧告を無視していた,(2)79年12月のアミーン・ア革命評議会議長殺害はKGBによるもの,と言明(『読売』,11/17)。
DIA-503-1982-11-16-3アフガニスタン1982年11月16日1980年代ブレジネフ・ソ連共産党書記長死去によりアのPDPA両派の対立激化(『読売』,11/17)。
DIA-503-1982-11-18-1アフガニスタン1982年11月18日1980年代マルシェ仏共産党書記長は記者会見で,ア問題は「かなり早期に解決」の可能性があると語る。
DIA-503-1982-11-28-1アフガニスタン1982年11月28日1980年代カーブル行きのアーリアーナ・アフガーン航空機の機長らア人乗員3人が西独に政治亡命を求め,乗客52人を乗せたままフランクフルト空港に着陸。
DIA-503-1982-11-29-1アフガニスタン1982年11月29日1980年代国連総会本会議は,(1)アの主権,領土保全,政治的独立,(2)外国軍の退時撤退,(3)政治的解決のための国連事務総長の努力継続,等を骨子とするパキスタン提案の決議案を114対21,棄権13で採択。
DIA-503-1982-12-01-1アフガニスタン1982年12月01日1980年代英,仏,西独はアのアーリアーナ航空との航空協定を破棄。
DIA-503-1982-12-03-1アフガニスタン1982年12月03日1980年代民族・部族問題省はパシュト語の月刊誌『ジルガ』(「長老会議」の意)を刊行。
DIA-503-1982-12-05-1アフガニスタン1982年12月05日1980年代人事異動:最近カールマル議長の実弟Mahmud Baryabiが政治局員に任命されて広範な権限を与えられ るとともに党中央委員会書記および国際関係委員会議長に任命された(DR,12/6)。
DIA-503-1982-12-06-1アフガニスタン1982年12月06日1980年代ケシュトマンド首相,81/82年度経済・社会開発計画の進捗状況を報告(POT-A,12/17)。
DIA-503-1982-12-10-1アフガニスタン1982年12月10日1980年代国連はこのほど,(1)段階的なソ連軍撤退,(2)パ経由のゲリラへの武器供給停止(3難民帰国のため,アとパ,イラン両国国境解放,米,ソ,中3カ国によるこれらの手続きの保証の4項目から成るア問題調停案の骨子をまとめた。11日,国連総会出席中のグロムイコ・ソ連外相は同案に対する支持を表明。
DIA-503-1982-12-10-2アフガニスタン1982年12月10日1980年代陸軍准将A・マンナン国防省Direct or General,パに亡命。タラキー政権下で18万人に増強されたア軍は今は2万人と語る(DR,12/22)。
DIA-503-1982-12-12-1アフガニスタン1982年12月12日1980年代人事異動:PDPA中央委員会第10回拡大総会はカーデル国防相,Z・ラムジョー党中央委員会委員,M・Y・サーデキー将軍(党中央委員会委員)を党中央委員会事務局委員に任命(DR,12/13)。
DIA-503-1982-12-15-1アフガニスタン1982年12月15日1980年代最近パに亡命したGhulam Siddiq Miraki(秘密警察幹部)は,ブレジネフ・ソ連共産党書記長は死の直前までアをソ連に併合せんとしていたと言明。
DIA-503-1982-12-15-2アフガニスタン1982年12月15日1980年代(アのバフタール通信):ラフィー将軍(PDPA)政治局員,副首相)およびN・ムハンマド空軍教化隊長はソ連へ「戻った」(POT-A,12/17)。
DIA-503-1982-12-16-1アフガニスタン1982年12月16日1980年代ソ連共産党機関紙『プラウダ』は「アの人民革命は後戻りさせ得ない」と強調(11月16日参照)。
DIA-503-1982-12-18-1アフガニスタン1982年12月18日1980年代ガンディー・インド首相はカールマル議長を83年3月のニューデリーでの非同盟諸国首脳会議に招待。
DIA-503-1982-12-20-1アフガニスタン1982年12月20日1980年代訪ソ中のカールマル議長は記者会見で,外国からの干渉がある限りソ連軍の撤退はあり得ないと強調。
DIA-503-1982-12-26-1アフガニスタン1982年12月26日1980年代西側の外交攻勢―レーガン米大統領はアの非同盟復帰を求める特別声明を発表した。同大統領はまた,ア駐留のソ連軍は10万5000人と指摘。同26日,ゲンシャー西独外相はア問題の政治解決のための国際会議を提唱。
DIA-503-1982-12-27-1アフガニスタン1982年12月27日1980年代中国共産党機関紙『人民日報』は「アは必ず勝つ」と題する社説でソ連の「侵略」継続を激しく非難。
DIA-503-1982-12-27-2アフガニスタン1982年12月27日1980年代27日のタス通信は26日のレーガン米大統領提案を「偽善」として非難。
DIA-503-1983-01-03-1アフガニスタン1983年01月03日1980年代パキスタンに亡命したア陸軍大佐によると、ソ連人の軍事顧問は昨82年3月、ソ連がアをソ連の中央アジア共和諸国と類似の国家にする計画であると明らかにしたという(DR、1/4)。
DIA-503-1983-01-05-1アフガニスタン1983年01月05日1980年代パキスタンに亡命のアフガン学生によると、大学・カレッジ教員は次第にソ連人教員に更迭中。
DIA-503-1983-01-10-1アフガニスタン1983年01月10日1980年代ア・ソ連83年度貿易議定書調印。
DIA-503-1983-01-10-2アフガニスタン1983年01月10日1980年代反政府ゲリラ、カーブルのマクロレイヨン(公務員、ソ連人顧問住宅地)を攻撃。
DIA-503-1983-01-11-1アフガニスタン1983年01月11日1980年代ア陸軍兵站室勤務のM・ナワーズ准将がソ連人顧問の過度の干渉を不満としてパキスタンに亡命。同准将は高級将官の亡命としては4人目という。
DIA-503-1983-01-16-1アフガニスタン1983年01月16日1980年代アの諸民族代表団(52人)、ソ連のタージク共和国友好訪問から帰国。
DIA-503-1983-01-17-1アフガニスタン1983年01月17日1980年代最近パキスタンに亡命したアのN・M・アジージー陸軍中将は記者会見で、今までにゲリラとの闘いでア軍人3万人が死亡と述べた。
DIA-503-1983-01-21-1アフガニスタン1983年01月21日1980年代国連事務総長特使コルドベス同事務次長はアフガニスタン問題調停のため、国連が82年12月にまとめた4項目包括調停案を基礎としてイラン、ア、パキスタン間で往復外交を開始。21~23日、イラン。23~27日、パキスタン。23日、イスラマバードでの記者会見で、「急ぎすぎないようにしよう」と述べた。27~31日、ア。31~2月3日、パキスタン。2月3~5日、ア。5~7日、イラン。コ特使はこの往復外交のなかで、国連は「アフガン人民の自決権行使のための努力を惜しまない」としている。これに対しパキスタン側は「交渉による解決」に向けての努力を約束したとしている。イランはア政府との直接・間接のいかなる会談をも拒否。
DIA-503-1983-01-25-1アフガニスタン1983年01月25日1980年代(在パ西側外交筋)ソ連は最近パンジシェール渓谷のゲリラとの停戦工作を試みた(DR、1/26)。
DIA-503-1983-01-26-1アフガニスタン1983年01月26日1980年代(在パ西側外交筋)今月初めマザーレ・シェリーフでソ連人顧問15人が誘拐された。
DIA-503-1983-01-30-1アフガニスタン1983年01月30日1980年代ゲリラ協力のフランス人1人、逮捕。
DIA-503-1983-01-30-2アフガニスタン1983年01月30日1980年代政府はカーブル市の石油製品不足に対処するために20億アフガニーの補助金を認可。また、政府によると砂糖不足はないというが、カーブルの電力不足が伝えられる(Kabul New Times、1/31)。
DIA-503-1983-02-03-1アフガニスタン1983年02月03日1980年代ザーヘル・シャー元国王はア国内とパキスタン在住の反政府勢力に特使3人を派遣(DR、2/9)。
DIA-503-1983-02-04-1アフガニスタン1983年02月04日1980年代国家情報サービス(SIS)所長のナジブッラー博士(アフガニスタン人民民主党PDPA政治局員)はパシュトゥーン民族の反政府勢力に対し、反政府武力闘争終結を第1条件としてジルガー(部族長会議)を通じての話し合いに応じるとラジオを通じて声明(KNT、2/5、6、7、8)。
DIA-503-1983-02-04-2アフガニスタン1983年02月04日1980年代陸軍中将A・カールデル国防相、訪ソ―5日、ウスチノフ・ソ連国防相と会談。3月4日、帰国。
DIA-503-1983-02-06-1アフガニスタン1983年02月06日1980年代ソ連国防省機関紙『赤い星』は「反革命主義者によって数千人が殺された」と報道。
DIA-503-1983-02-08-1アフガニスタン1983年02月08日1980年代ケシュトマンド首相、省庁の業務停滞を非難。
DIA-503-1983-02-09-1アフガニスタン1983年02月09日1980年代(国営バフタール通信)78年4月~82年前半の鉱工業生産額は53兆8830億2700万アフガニーと報道。
DIA-503-1983-02-09-2アフガニスタン1983年02月09日1980年代政府、78~81年の貿易統計を発表。同期間に資本主義諸国との貿易は全体の40.5%から16.1%に減少したという(KNT、2/10)。
DIA-503-1983-02-11-1アフガニスタン1983年02月11日1980年代ゲリラ7組織の「アフガニスタン聖戦士イスラーム同盟」(IUMA)のヘクマティヤール副議長は、コルドベス国連特使によるアフガニスタン問題調停工作を拒否すると宣言。
DIA-503-1983-02-15-1アフガニスタン1983年02月15日1980年代(バフタール通信)政府スポークスマン、ア問題解決のためには政治的解決しかあり得ないと強調。
DIA-503-1983-02-15-2アフガニスタン1983年02月15日1980年代1982/83年度(3月21日~3月20日)は3万の「読み書きコース」に全国60万(前年度52万)人が登録。
DIA-503-1983-02-16-1アフガニスタン1983年02月16日1980年代アの労組員数は16万2000(KNT、2/16)。
DIA-503-1983-02-20-1アフガニスタン1983年02月20日1980年代ラーケンワール農業・土地改革相によると、(83/84年度の)生産目標は綿花が10万㌧以上(作付面積は9万5000㌶)、テンサイが7万㌧以上(同3500㌶)。また、20日付KNT紙によると、小麦生産高は対前年比1万㌧増。
DIA-503-1983-02-21-1アフガニスタン1983年02月21日1980年代(在印西側筋)反政府ゲリラがカーブルのソ連大使館をロケット砲攻撃。20人死亡。
DIA-503-1983-02-23-1アフガニスタン1983年02月23日1980年代外務省は、政府が反乱勢力との会談に応じることで国連と合意した旨の西側情報を全面的に否定する声明を発表(KNT、2/24)。
DIA-503-1983-02-23-2アフガニスタン1983年02月23日1980年代ソ連の労働中央評議会機関紙『トルード』はアでのソ連兵戦死の模様を詳細に報道。
DIA-503-1983-03-03-1アフガニスタン1983年03月03日1980年代3日付のソ連国防省機関紙『赤い星』はアフガニスタンがらみの不満投書2通を掲載。
DIA-503-1983-03-11-1アフガニスタン1983年03月11日1980年代アは非同盟諸国首脳会議開催中のニューデリーでグレナダ(11日)、ラオス(12日)、ニカラグア(12日)との間に大使級国交樹立協定を締結。
DIA-503-1983-03-12-1アフガニスタン1983年03月12日1980年代インドで開かれていた非同盟諸国首脳会議は12日採択の政治宣言で、ア問題政治解決のための国連の行動に対する支持を確認。
DIA-503-1983-03-12-2アフガニスタン1983年03月12日1980年代エルシャド・バングラデシュ戒厳総司令官は記者会見で、近くカーブルに大使を派遣し、アとの外交関係を正常化させると言明。16日、駐パキスタン・バングラ大使はこれを否定、同国の立場に変化はないと言明。
DIA-503-1983-03-13-1アフガニスタン1983年03月13日1980年代特別革命裁判所、フランス人スパイに8年の禁固刑(日誌1月30日の人物とは別人)。
DIA-503-1983-03-16-1アフガニスタン1983年03月16日1980年代宗教指導者・部族長老50人、訪ソ。
DIA-503-1983-03-17-1アフガニスタン1983年03月17日1980年代ケシュトマンド首相、1983/84年度社会・経済開発計画を発表(「参考資料」参照)。
DIA-503-1983-03-19-1アフガニスタン1983年03月19日1980年代第11回PDPA中央委員会総会―カルマル議長が演説。(1)責任ある地位の同志らは、党と人民に対する義務の遂行状況を完全に改める必要がある。(2)党機関は行政組織に取って代ってはならぬ。(3)物価上昇統制の努力は完全に不十分。(4)土地改革と水利改善の進捗状況は非常に悪い。(5)反革命勢力による被害は240億アフガニー以上になろう。なお、今総会はカルマル演説を「指導的文書」と規定する他、「ア暦1362/63年度(1983/84年度)の農工業生産レベルを1357年(1978年)のレベルに回復させる」などの決議を採択した。
DIA-503-1983-03-19-2アフガニスタン1983年03月19日1980年代(在印西側外交筋)サイアド・バーバー国営アーリアーナ航空社長(PDPAパルチャム派。カルマル議長の親戚)、カーブルで暗殺さる(『朝日』、3/23)。
DIA-503-1983-03-21-1アフガニスタン1983年03月21日1980年代米国務省はア新年に際し反ア政府勢力を称賛。
DIA-503-1983-03-22-1アフガニスタン1983年03月22日1980年代市民防衛法典、公布。
DIA-503-1983-03-22-2アフガニスタン1983年03月22日1980年代22日発売のイギリスの鉄道専門誌Railway Gazette International4月号は、ソ連が同国とアを結ぶ鉄道網を計画と伝えた(『読売』、3/24)。
DIA-503-1983-03-23-1アフガニスタン1983年03月23日1980年代政府軍、春季大攻勢開始(『読売』、3/23)。
DIA-503-1983-03-27-1アフガニスタン1983年03月27日1980年代デクエヤル国連事務総長、ソ連入り。
DIA-503-1983-03-28-1アフガニスタン1983年03月28日1980年代政府、ソ連と小麦2万㌧輸入を契約。これで1983年のソ連との小麦輸入契約は計142万㌧。
DIA-503-1983-03-29-1アフガニスタン1983年03月29日1980年代中国の雑誌『瞭望』83年3期号で中ソのジャーナリストがア問題などで論争(『朝日』、3/29)。
DIA-503-1983-04-06-1アフガニスタン1983年04月06日1980年代F.M.Yaqubiに代えてAbdol Samad Qayyumi新教育相、任命さる。
DIA-503-1983-04-07-1アフガニスタン1983年04月07日1980年代アメリカのCBSテレビ記者がこのほど許可を得てアに入国、カーブル市内および郊外のソ連兵士の撮影に成功、CBSテレビで放映(『東南アジア月報』、83年4月号)。
DIA-503-1983-04-09-1アフガニスタン1983年04月09日1980年代アの国連常任代表はデクエヤル国連事務総長への書簡で、「アメリカはすでに3億2000万㌦を反革命の策動に支出した」と非難。
DIA-503-1983-04-10-1アフガニスタン1983年04月10日1980年代(バフタール通信)国営農園プロジェクトにより昨年は2750㌶の耕作地が創出された。
DIA-503-1983-04-10-2アフガニスタン1983年04月10日1980年代在パキスタンの反ア政府勢力は国連調停によるア問題政治解決交渉を拒否(D、4/12)。
DIA-503-1983-04-11-1アフガニスタン1983年04月11日1980年代ジュネーブでアとパキスタンの第2回間接外相会談。コルドベス国連事務次長が仲介。22日、終了。国連筋によると「全分野で実質的進展があった」という。
DIA-503-1983-04-11-2アフガニスタン1983年04月11日1980年代ケシュトマンド首相、財政省の経済セミナーで演説。(1)官僚主義、利己主義、縁故者ひいき、賄賂を根絶すべきだ。(2)予算制度を一本化すべきだ。(3)過去3年間の革命の過程で国民のために630億アフガニーの歳出があった。(4)わが国は現在、国民所得停滞により財政難に陥っている。ケ首相はこの他、反政府勢力の破壊活動による損害を詳細に発表した。
DIA-503-1983-04-18-1アフガニスタン1983年04月18日1980年代反政府組織ア・イスラーム結社のB・ラバーニー委員長は、ア問題で国連代表と協議の用意があると語った(『東南アジア月報』、83年4月号)。
DIA-503-1983-04-25-1アフガニスタン1983年04月25日1980年代訪米中の3人の「ゲリラ・スポークスマン」は記者会見で、ア国内の50以上の反政府組織は現在2グループに統合されているが、同2派は近く統一戦線を組むことになろうと語った。2派はいずれもIUMAを自称し、それぞれ傘下に主要3組織を有する(2月11日参照)(『東南アジア月報』、83年4月号)。
DIA-503-1983-04-25-2アフガニスタン1983年04月25日1980年代亡命ア将校によれば、ソ連人顧問が官僚機構を運営し、アをソ連のイスラーム系共和国と同組織に変えた(『東南アジア月報』、83年4月号)。
DIA-503-1983-04-26-1アフガニスタン1983年04月26日1980年代ソ連はアにおける反政府ゲリラの破壊活動をテレビで放映(『東南アジア月報』、38年4月号)。
DIA-503-1983-04-27-1アフガニスタン1983年04月27日1980年代革命5周年記念日。カルマル革命評議会議長は演説で、「アメリカ帝国主義は中国の覇権主義と共謀してパキスタンをアに対する侵略のジャンプ台にしてしまった」と非難。なお、27日夜のみ、カーブル市に23時~4時の外出禁止令が出された。
DIA-503-1983-05-04-1アフガニスタン1983年05月04日1980年代米国務省役人(複数)によると、昨年秋レーガン大統領が反ア政府勢力に対する軍事支援強化を決定、82年12月からCIAがバズーカ砲、きゅう砲などソ連製武器を供与している(IHT、5/5)。
DIA-503-1983-05-05-1アフガニスタン1983年05月05日1980年代ケシュトマンド首相はAFP通信に対し、ソ連のア撤兵日程討議中とのうわさを否定(DR、5/6)。
DIA-503-1983-05-07-1アフガニスタン1983年05月07日1980年代アはハンガリーとの間で友好協力条約(82年10月7日調印)批准書を交換。
DIA-503-1983-05-08-1アフガニスタン1983年05月08日1980年代政府、米大使館の二等書記官を国外追放。9日、アメリカも駐米・ア大使館二等書記官を国外追放。
DIA-503-1983-05-09-1アフガニスタン1983年05月09日1980年代カーブル入りしたフランスのAFP記者は、過去2年間に秘密警察(KHAD)が異様なほど拡充、共産党筋によるとソ連のKGBに統制されたエージェントは1万人、などと送稿(『読売』、5/11)。
DIA-503-1983-05-10-1アフガニスタン1983年05月10日1980年代(在印西側外交筋)今月初め政府・ソ連軍がヘラート市と近郊を爆撃、市民3000人~数千人死亡(『毎日』、5/11)。
DIA-503-1983-05-11-1アフガニスタン1983年05月11日1980年代コルドベス国連事務次長はニューヨークでパキスタンのAPP記者に対し、ソ連のア撤兵日程表を含む包括的解決案の95%ができあがっており、またソ連、アメリカ、中国がこの合意に対して保証を与える用意があるとの非公式徴候を得ていると言明(D.R、5/12)。
DIA-503-1983-05-11-2アフガニスタン1983年05月11日1980年代イラン政府、ア政府がホメイニ・イラン政権転覆の陰謀に関与していると非難。
DIA-503-1983-05-22-1アフガニスタン1983年05月22日1980年代IUMAはA・R・サイヤフ教授を向う2年間の委員長に選出(従来は構成7組織各1カ月の輪番制)。アラブ諸国からの援助のほとんどは同教授を通じて流入するといわれる(DR、5/23)。
DIA-503-1983-05-24-1アフガニスタン1983年05月24日1980年代(在パ西側外交筋)ハリールッラー国防次官がA・カーデル国防相を殴打、負傷させた。同次官は最近のPDPAパルチャム派将校多数の昇進に憤慨していたといわれる(『日経』、5/25)。
DIA-503-1983-05-24-2アフガニスタン1983年05月24日1980年代(在印西側外交筋)パンジシェール渓谷の反政府ゲリラが一時休戦に合意。25日、IUMAが確認。一方、同渓谷ゲリラの指導者A・S・マスードが5月初め西側記者に対し(1月来の)休戦はいつでも破れる状況にあると語ったとの報道もある(DR、5/25)。
DIA-503-1983-05-24-3アフガニスタン1983年05月24日1980年代モスクワ放送の世界向け放送で同一アナウンサーが18日と23日に計5回にわたってアフガン・ゲリラを称賛・ソ連のア侵略を批判していたことが判明。
DIA-503-1983-05-28-1アフガニスタン1983年05月28日1980年代ケシュトマンド首相、農業省で土地改革の問題点について演説(POT-A、6/15)。
DIA-503-1983-06-05-1アフガニスタン1983年06月05日1980年代ソ連はアとの間に、アの南~南西部に井戸160本を掘削する協定に調印。
DIA-503-1983-06-07-1アフガニスタン1983年06月07日1980年代イーグルバーガー米国務次官(政治担当)は、アでのソ連軍将兵の死者は1万5000と述べた。
DIA-503-1983-06-09-1アフガニスタン1983年06月09日1980年代シュルツ米国務長官はパリのNATO閣僚理事会で、アを非同盟中立国化するのが望ましいと語った。
DIA-503-1983-06-09-2アフガニスタン1983年06月09日1980年代1983/84年度の農業の目標成長率は前年度比1.8%(KNT、6/9)。
DIA-503-1983-06-09-3アフガニスタン1983年06月09日1980年代(反政府勢力筋)サマンガン州で政府軍700人がゲリラ側に投降(『読売』、7/6)。
DIA-503-1983-06-10-1アフガニスタン1983年06月10日1980年代モスクワでソ連・パキスタン外相会談。
DIA-503-1983-06-13-1アフガニスタン1983年06月13日1980年代(バフタール通信)東ドイツのDer Morgen紙は、アメリカおよびその同盟国がアの反革命勢力に対し今までに10億㌦を供与、本年は計3億6800万㌦(武器を含む)を供与するだろうと報道。
DIA-503-1983-06-13-2アフガニスタン1983年06月13日1980年代ドースト外相、ジュネーブへの途次、訪ソ。
DIA-503-1983-06-14-1アフガニスタン1983年06月14日1980年代(在印西側外交筋)ゲリラが攻勢強化。
DIA-503-1983-06-15-1アフガニスタン1983年06月15日1980年代カーブルで国民祖国戦線、(NFF)中央委員会第3回総会。
DIA-503-1983-06-16-1アフガニスタン1983年06月16日1980年代ジュネーブでア問題解決のためのアとパキスタンの第3回間接外相会談が開始。コルドベス国連事務次長が仲介。協議の焦点は、(1)ソ連撤兵の日程作り、(2)在パキスタンなどのアフガン難民の帰国、(3)ア内政への外部からの干渉、介入の停止、(4)以上に関する米中ソ3大国の保証。5部(20ページ前後)から成る和平協定案がすでに作成済みという。だが、パキスタン外務省筋によると(4)はこれまでに討議されたことはない(『読売』、6/23)。24日、会議終了後コ国連事務次長は「前進を見た」と述べたが、合意への道がいぜん厳しいことも示唆。ドースト・ア外相は帰国途次も訪ソ。
DIA-503-1983-06-20-1アフガニスタン1983年06月20日1980年代過去5年で1234の農業協同組合が設立され、農民20万人が組織された(KNT、6/20)。
DIA-503-1983-06-21-1アフガニスタン1983年06月21日1980年代(モスクワ、AFP=時事)ア駐留のソ連軍兵士が棺おけに毛皮や日本製品をつめソ連国内に持ち込んでいる事実が発覚(『東南アジア月報』、83年6月号)。
DIA-503-1983-06-22-1アフガニスタン1983年06月22日1980年代(信頼筋)パンジシェール溪谷の反政府ゲリラ(JI系)のマスード隊長がこの2週間カーブルでソ連側と直接交渉。昨年9月成立したといわれる休戦協定はこの8月に切れるといわれる(『読売』、6/23)。
DIA-503-1983-06-23-1アフガニスタン1983年06月23日1980年代閣議は最近、ソ連との国境のアーム・ダルヤー川のハイラタン港を中核とする都市(600㌶、計画人口4万)建設のマスター・プランを承認。
DIA-503-1983-07-01-1アフガニスタン1983年07月01日1980年代訪印中のシュルツ米国務長官はニューデリーで記者会見、5月にアの将来に関しグロムイコ・ソ連外相と書簡を交換したがソ連の撤兵を含む国際的取決めが成立するかどうかはまだ疑問だと語った(WP、7/2)。
DIA-503-1983-07-03-1アフガニスタン1983年07月03日1980年代第12回PDPA中央委員会総会。カルマル議長が基調報告。(1)国家の地方機関の発展状況は必要に見合っていない。(2)党中央委は、軍内の党指導の強化、また軍、警察、KHAD(秘密警察)の反革命との闘いにおける戦闘能力の強化を重点的に検討してきた。(3)現在わが党員・準党員は9万人で、1983年には党員数は35%増となった。(4)反政府勢力は粉砕され、アには大規模な匪賊は残存しない。なお、総会決議は党内の不調和を遺憾とし、党、国家機構、軍の団結強化を訴えた。
DIA-503-1983-07-03-2アフガニスタン1983年07月03日1980年代PDPAは第12回中央委員会総会に際し、委員候補5人を含む10人を委員に昇進させ、新たな委員候補16人を選出。パキスタンのアフガン難民筋によると、昇進したのはほとんどパルチャム派の人物(JT、7/5)。
DIA-503-1983-07-07-1アフガニスタン1983年07月07日1980年代カルマル議長、モンゴル訪問(人民革命記念行事列席のため)。12日、両国は友好協力条約に調印。13日、カルマル議長一行、モスクワ訪問。カ議長は「健康診断」の後、8月15日帰国(POT-A、9/7)。
DIA-503-1983-07-07-2アフガニスタン1983年07月07日1980年代ア投資委員会は民間部門の37プロジェクトを承認(8億4500万アフガニー)(KNT、7/7)。
DIA-503-1983-07-10-1アフガニスタン1983年07月10日1980年代S・ユーリッシュ外務次官は、アメリカがアフガニスタンとパキスタンとの対話を当初から妨害してきた、と非難。
DIA-503-1983-07-18-1アフガニスタン1983年07月18日1980年代18日発売のアメリカの『ニューズウィーク』誌は、アメリカはアでのソ連の化学兵器使用の実態の確証をつかむためにゲリラ兵士の利用を開始。
DIA-503-1983-07-18-2アフガニスタン1983年07月18日1980年代ケシュトマンド首相は最近、国家権力強化のためには大衆の信頼を得るべく地方幹部を訓練し、かつ中央に徴用すべきであると強調(KN7、7/19、20)。
DIA-503-1983-07-24-1アフガニスタン1983年07月24日1980年代ア軍出版局は78年4月革命以来、計13万部の種種の出版物を発行(KNT、7/24)。
DIA-503-1983-07-25-1アフガニスタン1983年07月25日1980年代ソ連はアとの間に、本年秋播種用の改良小麦種子5000㌧(133万8600劣相当)を無償で供与する協定に調印。
DIA-503-1983-07-25-2アフガニスタン1983年07月25日1980年代ソ連の『イズベスチア』紙はア・パキスタン国境のア軍の戦闘振りを報道(JT、7/26)。
DIA-503-1983-07-31-1アフガニスタン1983年07月31日1980年代外務省は25日の呉中国外相のイスラマバード空港での、反ア政府勢力への支援強化の約束を非難。
DIA-503-1983-08-01-1アフガニスタン1983年08月01日1980年代ケシュトマンド首相は閣議で、1983/84年度第1四半期(3月21日~6月21日)の工業成長率は10.5%を記録したが、社会・経済計画の進展は遅れていると述べ、真剣でない官僚に対する尋問を提言。
DIA-503-1983-08-01-2アフガニスタン1983年08月01日1980年代パキスタンのペシャーワルにあるアフガン情報・文書センター(AIDC)の詳細なアフガン難民面接調査によると、昨年のアの小麦生産量はソ連軍侵攻前の5分の1という(『朝日』、8/1)。
DIA-503-1983-08-03-1アフガニスタン1983年08月03日1980年代教育継続のための徴兵延期に関する徴兵法条項、修正(DR、8/5)。
DIA-503-1983-08-09-1アフガニスタン1983年08月09日1980年代(在印西側情報筋)パンジシェール渓谷のゲリラとソ連の停戦が期限切れ。同22~26日に全国ゲリラ代表の会議が同渓谷で開かれ、8月9日、ソ連による停戦2カ月延長申入れを拒否(JT、8/10)。
DIA-503-1983-08-09-2アフガニスタン1983年08月09日1980年代(在パ西側外交筋)先月20日、カーブル南方メイダーンシェヘルの第8師団が反乱。兵士100人以上が死亡、師団の半数がゲリラ側に寝返り(DR、8/11)。
DIA-503-1983-08-11-1アフガニスタン1983年08月11日1980年代革命評議会および閣僚評議会の機関紙の日刊Hewad紙は、反政府勢力による破壊活動の被害を発表。240億アフガニー(17日のモスクワ放送によると3億6000万㌦)(DR、8/12)。
DIA-503-1983-08-13-1アフガニスタン1983年08月13日1980年代(カーブル放送)当局は軍・民合同作戦によりヘラート州西部の反政府勢力攻撃(5月以来、最大)。
DIA-503-1983-08-15-1アフガニスタン1983年08月15日1980年代陸軍少将M・ラフィー国防相はソ連で「高等教育」を受けて帰国(KNT、8/16)。
DIA-503-1983-08-16-1アフガニスタン1983年08月16日1980年代(在印パ西側外交筋)先週末カーブルで反政府ゲリラが過去3年で最大の攻撃を政府・ソ連軍にかけた。戦闘は13日まで続き、カーブル全市街が戦闘状態におかれたという。また、カーブル在住者によるとPDPAハルク派メンバーたちがゲリラに協力したという(DR、8/17)。
DIA-503-1983-08-19-1アフガニスタン1983年08月19日1980年代パキスタンのペシャーワル市を本拠とする反政府勢力穏健派3組織が先週末ローマで会議を開いた。過去10年間、亡命者としてローマ在住のザーヘル・シャー元ア国王は声明で、国際的に政治的連絡をとることを同上3組織から委任されたと明らかにするとともに、自分は王政復古は望まないとしている(DR、8/23)。
DIA-503-1983-08-23-1アフガニスタン1983年08月23日1980年代ケシュトマンド首相、訪ソ(「健康診断のため」)。9月21日、帰国。
DIA-503-1983-08-23-2アフガニスタン1983年08月23日1980年代1982/83年度貿易統計発表。前年度比4%増。
DIA-503-1983-09-01-1アフガニスタン1983年09月01日1980年代東ドイツ国民戦線代表団、来訪。
DIA-503-1983-09-04-1アフガニスタン1983年09月04日1980年代A・H・ナシール農業省広報局長によると、78年4月革命以来、60万人の土地無し農民、農場労働者、遊牧民のうち35万人が土地の分配を受けた(66.5万㌶以上)。83年3月21日以降の土地改革第2次実行プランでは8000人以上の貧農が土地の所有証書を与えられたという(D.R、9/7)。
DIA-503-1983-09-05-1アフガニスタン1983年09月05日1980年代ソ連ウズベク共和国の宗教学者一行、来訪。
DIA-503-1983-09-06-1アフガニスタン1983年09月06日1980年代(西側外交筋)去る8月17日、ヘラートでPDPAの主流パルチャム派とハルク派の間で戦闘が勃発。ハルク派は警官隊とパルチャム派軍隊を圧倒したという(『東南アジア月報』、83年9月号)。
DIA-503-1983-09-15-1アフガニスタン1983年09月15日1980年代政府は駐ア・米大使館の二等書記官とアタッシェをスパイ行為などで国外追放。
DIA-503-1983-09-16-1アフガニスタン1983年09月16日1980年代ソ連国防省機関紙『赤い星』はソ連軍のN・ルイザノフ将軍がアでこのほど「突然」死去と報道。
DIA-503-1983-09-18-1アフガニスタン1983年09月18日1980年代パキスタン政府高官によると、ミグ戦闘機7機がアからパ領に侵入、イスラマバードの西175キロメートルの村を爆撃、1人死亡、1人負傷。79年のソ連軍のア侵攻以来最大のパキスタン領爆撃。
DIA-503-1983-09-21-1アフガニスタン1983年09月21日1980年代ドースト外相、キューバ訪問に出発(DR、9/22)。22日、事務訪問のため短期間モスクワに滞在したドースト外相はグロムイコ・ソ連外相と会談(『東南アジア月報』、9月)。28日、第38回国連総会出席のためニューヨーク入り(DR、9/29)。
DIA-503-1983-09-21-2アフガニスタン1983年09月21日1980年代過去4年で10~15歳の子供6万人がピオネール組織に加入。83/84年度上半期にに2万人が加入。これは前年度同期比100%増(KNT、9/21)。
DIA-503-1983-09-22-1アフガニスタン1983年09月22日1980年代ア北部100万㌶の灌漑水路修復技術援助協定、ソ連との間で調印。
DIA-503-1983-09-22-2アフガニスタン1983年09月22日1980年代1983/84年度第1回革命評議会。検察・司法関係機関に対して業務の完全遂行を訴えるなど6項目の決議案を採択。なお、この革命評議会はケシュトマンド首相が約1カ月の訪ソから帰国(21日)した翌日に開催。
DIA-503-1983-09-24-1アフガニスタン1983年09月24日1980年代パキスタンで傍受されたアのパシュト語放送は、ワインバーガー米国防長官のパキスタン訪問をアに対する陰謀であると非難。
DIA-503-1983-09-24-2アフガニスタン1983年09月24日1980年代CIAスパイ4人(ア人、パキスタン人)、逮捕(KNT、9/25)。
DIA-503-1983-09-29-1アフガニスタン1983年09月29日1980年代カルマル議長、カーブル市内のデパート、商店など各地を視察。10月1日のバフタール通信はカ議長の視察はア国内の安全を示していると解説。
DIA-503-1983-10-03-1アフガニスタン1983年10月03日1980年代第38回国連総会出席のドースト外相はニューヨークでデクエヤルに国連事務総長と会見。
DIA-503-1983-10-07-1アフガニスタン1983年10月07日1980年代パキスタン放送は、ア空軍機が北西辺境州ワナ付近を爆撃(過去3週間で2度目)、3人死亡と非難。
DIA-503-1983-10-10-1アフガニスタン1983年10月10日1980年代(在パ西側外交筋)カルマル議長は内閣改造に関する協議のため隠密裡に訪ソ。カ議長は17または18日に帰国したが、同議長の実弟M・バリアライPDPA中央委員は未帰国。また、KHAD(秘密警察)のナジポッラー長官も最近、隠密裡に訪ソ(DR、10/19)。
DIA-503-1983-10-12-1アフガニスタン1983年10月12日1980年代外務省はイラン代理大使を招致、イラン空軍機数機が9~10日にア領空を侵犯したと文書で強く抗議。
DIA-503-1983-10-13-1アフガニスタン1983年10月13日1980年代82/83年度に土地無し農民1万人が土地の分配を受け、300以上の消費者協同組合と手工芸協同組合が設置された(組合員5万7000人)(KNT、10/13)。
DIA-503-1983-10-13-2アフガニスタン1983年10月13日1980年代重要人事―サルワール・マンガル高等教育・職業教育相が副首相兼国家計画委員長に。ブルハヌッディン・ギアーシーが高等教育・職業教育相に。M・バシール・バグラーニーが法務相に。
DIA-503-1983-10-14-1アフガニスタン1983年10月14日1980年代ソ連軍のアニトフ将軍以下13人、戦死。
DIA-503-1983-10-19-1アフガニスタン1983年10月19日1980年代農業・土地改革省筋によると、83/84年度の農牧畜業生産は前年度より「ずっと多い」という。現在の耕作面積400万㌶は前年比2000㌶増。
DIA-503-1983-10-20-1アフガニスタン1983年10月20日1980年代オマーン訪問途次の19日にパキスタンに立ち寄った呉学謙中国外相は20日、ソ連軍のア撤退のために国際的圧力をかけ続ける必要があると述べた。
DIA-503-1983-10-24-1アフガニスタン1983年10月24日1980年代インドのセングプタ・デリー大学教授がパキスタンの24日付.Muslim紙で報告するところによると、コルドベス国連事務次長はア問題の政治解決工作が完全に行き詰ったため、同問題に関するデクエヤル国連事務総長特使の役の辞任を申し出たという。
DIA-503-1983-10-24-2アフガニスタン1983年10月24日1980年代アとソ連の1984年貿易議定書、調印。
DIA-503-1983-10-28-1アフガニスタン1983年10月28日1980年代N・A・ヌール革命評議会副議長は、1984年にア初の地方選挙が行なわれようと述べた。投票箱は設置されず、1981年創立の国民祖国戦線(NFF)が選んだ、立候補者の中からジルガー(部族会議)において(各地方の代議員の類が)選出されるという(DR、10/31)。
DIA-503-1983-10-30-1アフガニスタン1983年10月30日1980年代ケシュトマンド首相は、アメリカはア反乱勢力に対する支援を強化しており、アメリカのアに対する宣戦布告なき戦争は同国のグレナダ侵略と同じくらいに明白なものであると非難(DR、10/31)。
DIA-503-1983-10-31-1アフガニスタン1983年10月31日1980年代83/84年度上半期経済検討の特別閣議。
DIA-503-1983-11-09-1アフガニスタン1983年11月09日1980年代クナール州アサダバード水力発電所、操業開始。350キロワット発電機2基のうち1基のみ発電開始。2基目は近い将来に完成予定という。同発電所は国連およびFAOの協力で建設された(POT-A、11/26および12/21)。
DIA-503-1983-11-09-2アフガニスタン1983年11月09日1980年代(在パ西側外交筋)反政府勢力の抵抗はソ連軍による撃滅作戦により最近低調となった(『東南アジア月報』、11月号)。
DIA-503-1983-11-10-1アフガニスタン1983年11月10日1980年代(在パ西側外交筋)カーデル国防相狙撃さる。
DIA-503-1983-11-14-1アフガニスタン1983年11月14日1980年代カーブルでアフガニスタン青年作家協会(AYWA)創立大会。参加者500人。
DIA-503-1983-11-15-1アフガニスタン1983年11月15日1980年代S・ユーリッシュ外務次官、ベルリンでの東欧経済相互援助会議(COMECON)にオブザーバー参加の後、帰国(KNT、11/16)。
DIA-503-1983-11-20-1アフガニスタン1983年11月20日1980年代ア軍のSU7型戦闘機がパキスタン領内に着陸、パイロットはパキスタンに亡命。
DIA-503-1983-11-21-1アフガニスタン1983年11月21日1980年代第38回国連総会はアに関する討議を開始。23日、アからのソ連軍の即時撤退を求めた決議案(パキスタン・タイなど44カ国の共同提案)を採択。賛成116、反対20、棄権17。国連のソ連軍撤退要求決議はこれで5回目。なお、パキスタンのヤークーブ外相が「外国軍撤退の時間的めどの明確化」を迫ったのが注目された。
DIA-503-1983-11-25-1アフガニスタン1983年11月25日1980年代25日付英Daily Mail紙はソ連軍の脱走兵を100人単位でひそかに西側に連れ出す「地下ルート」が開通したと報じた(『読売』、11/26)。
DIA-503-1983-11-25-2アフガニスタン1983年11月25日1980年代元PDPAバルフ州支部書記以下4人、党内の地位を利用して殺人を犯した科により、処刑。
DIA-503-1983-11-26-1アフガニスタン1983年11月26日1980年代(在パ西側外交筋)11月26日~12月2日、カーブル北方ショマーリー地区グルダーラー渓谷で政府・ソ連軍と反政府勢力が83年最大規模の戦闘。
DIA-503-1983-11-27-1アフガニスタン1983年11月27日1980年代日刊Haqiqat-e-Enqelab-e-Saur紙によると、83/84年度上半期の農業生産は向上。現在の全耕作地は337万㌶(うち232.7万㌶は小麦)(KNT、11/27)。
DIA-503-1983-11-29-1アフガニスタン1983年11月29日1980年代英連邦首脳会議はア紛争の政治解決を訴え、あらゆる外国軍のアからの撤退を要求。最終コミュニケではア内政に対する不干渉を強く呼びかけ。
DIA-503-1983-11-29-2アフガニスタン1983年11月29日1980年代カルマル議長は閣議で党および国家機構の業務遂行の欠陥を指摘し、改善を要求(DR、11/30)。
DIA-503-1983-11-30-1アフガニスタン1983年11月30日1980年代国連スポークスマンによると、ア問題に関する国連の調停工作は84年4月再開の予定。
DIA-503-1983-12-02-1アフガニスタン1983年12月02日1980年代(在パ西側外交筋)過去6カ月のアとソ連中央アジア地域との貿易は120万㌦を超え、前年同期比250%増となった(『読売』、12/2)。
DIA-503-1983-12-03-1アフガニスタン1983年12月03日1980年代部族・民族問題省は隔月刊の『諸民族の友愛』(英訳各Fraternal Nationalities)を発刊。
DIA-503-1983-12-06-1アフガニスタン1983年12月06日1980年代閣議は土地所有法の修正を検討し、「村落農民評議会」設置のための付則草案を採択。
DIA-503-1983-12-06-2アフガニスタン1983年12月06日1980年代革命防衛隊(公称1万8000人)代表500人がカーブルで初の集会を開催(POT-A、12/16)。
DIA-503-1983-12-06-3アフガニスタン1983年12月06日1980年代カーブル第7師団司令官M・ラヒーム将軍がパキスタンに亡命(DR、12/7)。
DIA-503-1983-12-07-1アフガニスタン1983年12月07日1980年代(バフタール通信)バリアライPDPA中央委員会書記は最近キューバ訪問(POT-A、12/16)。
DIA-503-1983-12-08-1アフガニスタン1983年12月08日1980年代1983/84年度第2四半期に12州で1万人以上の土地無し農民および小土地所有者に対して土地が分配された(KNT、12/8)。
DIA-503-1983-12-09-1アフガニスタン1983年12月09日1980年代アメリカ国務省が9日発表した報告書によると、79年12月のア侵攻以来のソ連軍の死傷者は1万7000~2万人という。23日の反政府側AIP通信によると、78年4月革命~83年10月のアで軍人などのソ連5万2070人が殺害されたという(DR、12/27)。
DIA-503-1983-12-10-1アフガニスタン1983年12月10日1980年代イスラーム党ユヌス・ハーレス派(HI-K)は声明でIUMA脱退を表明(JT、12/12)。
DIA-503-1983-12-12-1アフガニスタン1983年12月12日1980年代ザーヘル元ア国王特使H・S・アーセフィー(ザーヘルのいとこで義兄弟)はパキスタンのペシャーワルで、亡命政権樹立の必要性を強調したが、ゲリラ諸派の合意成立には「2カ月も、おそらく6カ月もかかろう」と述べた(DR、12/12)。
DIA-503-1983-12-13-1アフガニスタン1983年12月13日1980年代マンガル副首相兼国家計画委員長は最近新設の国家計画検討委員会(Committee for State Plans)においてアフガン暦本年(83年3月21日~)の農工業生産目標は達成されたと報告(KNT、12/14)。
DIA-503-1983-12-16-1アフガニスタン1983年12月16日1980年代最高会議幹部会は「土地改革に関する革命評議会第8号律令」および土地所有法を改正。
DIA-503-1983-12-17-1アフガニスタン1983年12月17日1980年代テヘランでこのほどイラン人がアフガン難民を3時間にわたってつるしあげた。少なくとも1人死亡。イランにおけるアフガン難民襲撃が報じられたのは初めて。なお、イランのアフガン難民は160~170万人。
DIA-503-1983-12-19-1アフガニスタン1983年12月19日1980年代革命評議会勅令に基づき高等ジルガー(部族会議)の設立作業、開始。これは国境隣接9州代表150人から成る。代表は各地部族が選出(KNT、12/19)。
DIA-503-1984-01-01-1アフガニスタン1984年01月01日1980年代1日付ソ連国防省機関紙『赤い星』によると,ソ連はアフガニスタン(以下,ア)軍に地対空ミサイル(基数不詳)を供与(Washington Post,1/3)。
DIA-503-1984-01-01-2アフガニスタン1984年01月01日1980年代政府は18歳以上の男性の徴兵を開始。
DIA-503-1984-01-02-1アフガニスタン1984年01月02日1980年代2日発売の米Time誌9日号によると,79年12月のソ連軍のア侵攻以来のソ連軍の死者2万,ゲリラ側5万。ソ連駐留経費は1日800万ドル。
DIA-503-1984-01-05-1アフガニスタン1984年01月05日1980年代KNT5日によると,国民祖国戦線(NFF)カーブル市支部は今までに12万8000の団体・個人会員を獲得。同支部は11管区で40の文盲撲滅コース(580人)を開設。83/84年度(3月21日~3月20日)に同戦線所属の5000人の青年が自発的に軍に入隊。
DIA-503-1984-01-06-1アフガニスタン1984年01月06日1980年代ケシュトマンド首相,経済等で語る-(1)今年度(83年3月21日~84年3月20日)の国民所得は昨年度比4.5%増。小麦は300万トンで空前の豊作。ただGNPは革命前の97.4%。(2)政府は現在,来年の地方政府選挙の準備中。ジルガ(部族会議)を改編して村および州レベルの人民会議(people’s council)を設置する。中央レベルには国民会議(national council)を設置。(3)ア軍は現在約10万人。(Giulietto Chiesaとの会見。Daily Report,1/10)
DIA-503-1984-01-08-1アフガニスタン1984年01月08日1980年代パの西側外交筋によると軍幹部の大幅な人事異動が行なわれた。ババ・ジャーン軍参謀総長,解任。後任は前空軍司令官ナザル・モハメッド中将。その他異動。この人事に先立ちカルマル議長は6時間に及ぶ演説で兵士の脱走,辺境地域支配における軍の無能などを批判したという(International Herald Tribune,1/24,読売,1/25)。(12月3日参照)
DIA-503-1984-01-11-1アフガニスタン1984年01月11日1980年代パキスタン放送はパに亡命したア鉱工業省技術者の言として,カーブル地域のハワージャ・ラワーシュ丘でウランが発見されたが,この2カ月,ソ連が自国に持ち帰っていると報道(Daily Report,1/12)。
DIA-503-1984-01-14-1アフガニスタン1984年01月14日1980年代14日付Pakistan Times紙によると,英BBC放送はアフガン難民がイランから追放されてパのバルーチスタン州に流入と報じた。16日付KNTによると,その数は5000人で,24日付Japan Timesによると,かれらは対イラク戦争への徴用を拒否した人々だという。
DIA-503-1984-01-15-1アフガニスタン1984年01月15日1980年代投資高級委員会(High Commission on Investment)は民間部門の32プロジェクト(計4億1100万アフガニー)を承認。
DIA-503-1984-01-16-1アフガニスタン1984年01月16日1980年代趙紫陽中国首相は訪問中のカナダでア問題とカンボジア問題について「ソ連の膨張の封じ込めで米中が協力できるよう期待する」と言明。
DIA-503-1984-01-18-1アフガニスタン1984年01月18日1980年代2月1日付米Daily Reportによると,ヌール・アハマッド・ヌール・アフガニスタン人民民主党(PDPA)政治局員(党内ナンバー・ツーの実力者と目され,ハルク派)がモスクワへ追放された。カーブルの外交筋は,ヌールがカルマル(パルチャム派)政権転覆を企てたと噂(8月25日参照)。
DIA-503-1984-01-18-2アフガニスタン1984年01月18日1980年代18付日KNTによると,83/84年度上半期の輸出は前年同期比2.1%増の3億3160万ドル,輸入は18.5%増の2億9460万ドル。貿易額合計6億2620万ドルのうち,64.9%は社会主義圏との貿易。
DIA-503-1984-01-18-3アフガニスタン1984年01月18日1980年代18日付パのMuslim紙によると,今までにア外務官僚の3分の1に当る70人がパに亡命した。
DIA-503-1984-01-28-1アフガニスタン1984年01月28日1980年代29日付KNTによると,ア・ソ連経済・技術協力第一協定調印30周年記念日。ソ連はアに対し,1956~81年の間に19億5500万ドルの援助を供与。現在ソ連援助の180以上のプロジェクトが建設中。
DIA-503-1984-02-02-1アフガニスタン1984年02月02日1980年代8日付Daily Reportによると,ソ連軍はカーブル北50kmのエスターレフを攻撃,民間人数百人殺害。
DIA-503-1984-02-03-1アフガニスタン1984年02月03日1980年代7日付POT-Pakistan Seriesによると,カーデル国防相は,300人のアメリカ人専門家がパ100のキャンプで反革命勢力を訓練中と非難。
DIA-503-1984-02-09-1アフガニスタン1984年02月09日1980年代パを根拠地とする反ア政府諸グループの連合組織「アフガン聖戦士イスラーム同盟」(IUMA)は,5日からの週に解体した(8月31日参照)。
DIA-503-1984-02-11-1アフガニスタン1984年02月11日1980年代カルマル革命評議会議長は革命評議会特別会議で政府地方機関法(1981年9月22日布告に基づく)などに関して演説(Daily Report,2/17)。
DIA-503-1984-02-13-1アフガニスタン1984年02月13日1980年代カルマル革命評議会議長,訪ソ-アンドロポフ前ソ連共産党書記長の葬儀に列席のため,14日,チェルネンコ新書記長と会談。16日,帰国。
DIA-503-1984-02-13-2アフガニスタン1984年02月13日1980年代ゲリラ筋によると,ソ連・ア連合軍はナンガルハール州の3カ村で民間人54人を殺害(Daily Report,2/21)。
DIA-503-1984-02-14-1アフガニスタン1984年02月14日1980年代ゲリラ,カーブルのソ連大使館を攻撃。
DIA-503-1984-02-16-1アフガニスタン1984年02月16日1980年代Kabul New Times紙は社説で,「国際アムネスティ」はアを誹謗中傷している,と非難。
DIA-503-1984-02-27-1アフガニスタン1984年02月27日1980年代3月9日付POT-Aによると,国家計画委は83/84年度第3四半期の鉱工業生産は「帝国主義諸国による宣戦布告なき戦争」にもかかわらず,目標の101%(1978年価格)を達成。同じく食料品は95.4%だが,小麦粉105.2%,パン112%,塩103%,と発表。
DIA-503-1984-02-28-1アフガニスタン1984年02月28日1980年代ケシュトマンド首相,土地改革セミナーで演説。(1)土地改革布告の改正により土地の細分化は避けられるようになった。当初の布告のように土地の再分配を(1家族当り)限度1haとすることなく,1~6haが合法化された。(2)土地改革の第1段階では28州で貧農7万7818家族が6万6700haの再分配を受けた。(3)83年8月23日~84年1月20日には1万8770家族が土地の再分配を受けた。
DIA-503-1984-03-01-1アフガニスタン1984年03月01日1980年代カルマル議長演説(PDPA第13回中央委員会)-(1)党内統-,熱意の不足,利己主義などが問題となっている。(2)現在,党員の60%以上が軍,警察,国家情報機関に送り込まれている。(3)反革命勢力はモスク10,病院など医療施設130,国内の学校の半数(1814校)を破壊した。彼らの活動による被害350億アフガニーはわが国の過去20年の総投資額の半分ほどに相当。(4)州レベル以下の行政当局は軍人徴募に必要な注意を払っていない。(5)降服した匪賊(反政府ゲリラ-筆者)の相当部分を政府軍の兵役につかせねばならない。(6)わが国では国家権力はまだ全土に固まっていない。それは帝国主義勢力の宣戦布告なき戦争や匪賊の反革命活動のためでもあるが,歴史的にも,都市を除いては,国家の地方機関は事実上存在しなかったのだ。
DIA-503-1984-03-08-1アフガニスタン1984年03月08日1980年代革命評議会,一般徴兵法を改正-カーブル駐屯兵の任期を3年から4年に延長,等(Daily Report,3/14)。カーブルの西側外交官らによると,同上改正発表の数時間後からカーブル市内および近郊の政府軍兵士が逃亡ないし反乱を開始。西側情報で4万といわれる軍人の主流を占めるハルク派兵士がカルマル政権の基盤であるパルチャム派兵士と銃撃戦。
DIA-503-1984-03-08-2アフガニスタン1984年03月08日1980年代8日付KNTによると,アの女性数は全人口1661万中の850万。女子大生は5979人。
DIA-503-1984-03-13-1アフガニスタン1984年03月13日1980年代パキスタン放送によると,ソ連指導下に民族体(nationalities)を規準としてアを分割(divide)するための担当室が政府内に設置された(Daily Report,3/14)。
DIA-503-1984-03-14-1アフガニスタン1984年03月14日1980年代閣議は84/85年度予算案と年次開発計画を承認。マンガル副首相によると「アフガン暦1362年(西暦1983/84年)のGDPは前年比6%増,GNPは6.4%増,国民所得は5.4%増,前年のGNPは1684億アフガニー,国民所得は1180億アフガニー(POT-A,3/23)。
DIA-503-1984-03-22-1アフガニスタン1984年03月22日1980年代カーブルのモスクで爆弾破裂,4人死亡。
DIA-503-1984-03-24-1アフガニスタン1984年03月24日1980年代24日付KNTによると,最近,鉱工業省,商業相,その他若干省の再編で軽工業・食料品省が設置された。担当大臣はEngineer Mohammad Aziz。
DIA-503-1984-04-05-1アフガニスタン1984年04月05日1980年代コルドヴェス国連特使,来訪(3~5日のイラン訪問後)。5日ドースト外相,6日カルマル議長と会談。7日,訪パ。ア問題解決への見込みは悲観的と語8る。日,ジア・パ大統領,ヤークーブ外相と会談。10日,再度アでドースト外相と会談。12日,パでナーイク外務次官に会見。14日,アに戻り,同14日夜,三たびパへ。15日,テヘラン経由でニューヨークへ。
DIA-503-1984-04-08-1アフガニスタン1984年04月08日1980年代米上院外交問題委員会報告書は米政権にア亡命政権承認を要求。同報告書は本年1~2月にパからア反政府ゲリラとともにアに潜入したリッチ上院議員が作成(IHT,4/8,Washington Post 4/10)。
DIA-503-1984-04-11-1アフガニスタン1984年04月11日1980年代外務省,米大使館3等書記官1人を追放(スパイ容疑)。
DIA-503-1984-04-15-1アフガニスタン1984年04月15日1980年代政府はソ連政府との間で文化協力議定書に調印。これにより,84/85年度にアの学生1500人がソ連においてさまざまな分野で訓練を受ける。
DIA-503-1984-04-19-1アフガニスタン1984年04月19日1980年代農業・土地改革省によると,「民主的土地改革」の第1段階において去る3月までに70万(一等地換算で28万8000)haの土地が30万7863人の土地なし農民あるいは貧農に分配された。この他,7万4000haの可耕地が国営農場に回された。これらの土地は7000人の封建地主が所有していたものである。彼らは1人40ha以上を所有していた(KNT,4/19)。
DIA-503-1984-04-21-1アフガニスタン1984年04月21日1980年代ソ連軍パンジシェール渓谷のゲリラに大攻勢開始(Washington Post,4/24)。4月末までに,ソ連軍は同渓谷入口から50キロの地点まで前進(Daily Report,5/10)。
DIA-503-1984-04-23-1アフガニスタン1984年04月23日1980年代23日の国営バフタール通信によると,アの労働組合員数は19万人。
DIA-503-1984-04-26-1アフガニスタン1984年04月26日1980年代革命6周年記念日。以下カルマル議長演説要旨。(1)労働者の賃金を平均18%引き上げる。(2)貧農に対する余剰地売却時のローン返済を免除。(3)PDPA党員は準党員を含め,現在11万5000人。政権の当初時は1万8000人。(4)対ア相互経済協力評議会(CMEAA)諸国は対ア援助の93%,特にソ連は73%を占める。
DIA-503-1984-04-29-1アフガニスタン1984年04月29日1980年代Bakhtar通信によると,パキスタン政府は,83年12月18日にアとパのトルハム国境で銃撃戦が生じた際に,拉致したア政府雇用者37人を返還。
DIA-503-1984-04-29-2アフガニスタン1984年04月29日1980年代29日付Bakhtar通信によると,このほど米CBSテレビは,CIAはパ在住の反ア政府勢力に年間7500万ドルを供与,と報道。
DIA-503-1984-05-01-1アフガニスタン1984年05月01日1980年代特別革命裁判所は反革命のとがで「解放毛沢東主義者機構」(RMO,本部は在パキスタン)の2名の裁判を開始した。23日,1人死刑,1人終身刑の判決。
DIA-503-1984-05-08-1アフガニスタン1984年05月08日1980年代ア外務省は中曽根日本首相が訪パ中に約束した42億円(昭和59年度分)のアフガン難民援助を「軍事的支援だ」として,日本政府を初めて名指しで非難。
DIA-503-1984-05-10-1アフガニスタン1984年05月10日1980年代10日付KNTによれば,国民祖国戦線各レベルの評議会設置数は現在まで以下のとおり。州評議会25,都市評議会23,district councils 53,divisional 2,country 66,sub-divisional 15,village 88,residential 約800(POT-A,5/26)。
DIA-503-1984-05-23-1アフガニスタン1984年05月23日1980年代カルマル政権下の元駐ソ代理大使,パに亡命。
DIA-503-1984-05-28-1アフガニスタン1984年05月28日1980年代サウジアラビアのSPA通信によると,26~28日にカーブルでソ連・ア政府連合軍と反ア政府勢力の間で本年最も激しい戦闘があったもよう。28日,鉱工業省で時限爆弾破裂,12人死亡。28日のアフガニスタン放送は,ラマザーン月(断食月)にもかかわらず,23~3時の夜間外出禁止令を発表(Daily Report,5/30)。
DIA-503-1984-05-30-1アフガニスタン1984年05月30日1980年代30日付KNTによると,国民祖国戦線メンバーは現在70万。同戦線はまた,社会問題解決に重要な役割を担う60のジルガ(1月6日参照)を設置した(POT-A,6/6)。
DIA-503-1984-05-30-2アフガニスタン1984年05月30日1980年代最近のア政府系報道によると,反政府ゲリラによる街道沿いの強盗活動のためカーブルでは食料品と灯油が大幅に不足しているという(Times,5/30)。
DIA-503-1984-06-06-1アフガニスタン1984年06月06日1980年代6日のバフタール通信によると,このほど革命評議会は政府機関などに厳格な石油節約を命じるとともに石油製品の値上げを決定。1リツトル当り新価格はガソリン20アフガニー,ディーゼル14アフガニーだが,灯油価格は不変の14アフガニー(Daily Report6/8)。
DIA-503-1984-06-09-1アフガニスタン1984年06月09日1980年代PDPAはイエーメン社会党(南イエーメン)との間で党協力議定書に調印。
DIA-503-1984-06-09-2アフガニスタン1984年06月09日1980年代軽工業省は84/85年度の原綿,繰り綿の目標生産量をそれぞれ対前年度比217%増,211%増と発表。
DIA-503-1984-06-10-1アフガニスタン1984年06月10日1980年代ポーランドのオルスゾウスキー外相,来訪。12日,領事館設置,科学・技術協力,84~85年外務協力の3協定に調印。
DIA-503-1984-06-12-1アフガニスタン1984年06月12日1980年代ゲリラ筋によると,ソ連・ア連合軍がこのほどア西部のヘラート州に大攻勢,市民数百人が死亡(Daily Report,6/12)。
DIA-503-1984-06-13-1アフガニスタン1984年06月13日1980年代国営アフガニスタン放送によると,反政府イスラーム党(HI)の1000人が多数の武器を持って投降,革命戦力に参加。彼らはバグラーン州アンダラーブ県で活動していたという(Daily Report,6/14)。
DIA-503-1984-06-22-1アフガニスタン1984年06月22日1980年代22日付パのNawa-e-Waqt紙によると,ソ連は反政府勢力と同じ戦法をとるタスク・フォースを編成したという(Daily Report,6/27)。
DIA-503-1984-07-06-1アフガニスタン1984年07月06日1980年代カルマル議長,再びカーブル市内を視察。83年9月に続く2度目のことで市内10カ所を訪問。
DIA-503-1984-07-07-1アフガニスタン1984年07月07日1980年代ソ連の『ソビエッツカヤ・ロシア』紙7日は,パ国内には反ア政府ゲリラ訓練所100カ所以上があり,アメリカ人300人以上が訓練に当るほか,ア国内の襲撃にも参加していると報じた(IHT,7/9)。
DIA-503-1984-07-09-1アフガニスタン1984年07月09日1980年代農民協同組合連合(UPC)によると,農民および職人3万人以上が120の消費者・手工芸協同組合のメンバーだという(KNT,7/9)。
DIA-503-1984-07-09-2アフガニスタン1984年07月09日1980年代モスクワ放送によるとカルマル議長は「短期間」の訪問のためモスクワ入り。「一連の健康診断ののち」8月3日,帰国。
DIA-503-1984-07-10-1アフガニスタン1984年07月10日1980年代インドの西側外交筋によるとカーデル国防相(PDPAパルチャム派)がワタンジャール通信相(同ハルク派)をピストルで射撃,負傷させた(日付不明)という(Times,7/11)。この時,カルマル議長も負傷とのうわさが流れている(Daily Report,7/17)。
DIA-503-1984-07-10-2アフガニスタン1984年07月10日1980年代パの西側外交筋によると,1日に始まる週にワキール財政相が暗殺されたという(Daily Report,7/10)。去る7日の国営バフタール通信は,革命評議会はモハンマッド・カビール博士を財政相に任命したと伝えていた(Daily Report,7/10)。
DIA-503-1984-07-11-1アフガニスタン1984年07月11日1980年代デクエヤル国連事務総長,訪ソ(~13日)。ア問題調停役のコルドヴェス事務次長が同行。
DIA-503-1984-07-11-2アフガニスタン1984年07月11日1980年代11日付KNTによると,去る81年3月パキスタン国際航空(PIA)機をハイジャックしてア政府に投降した犯人のうち1人(犯人はパの反政府組織の者で計3人)が最近処刑されたという(ナンガルハール州シンワールの「自由部族地域」の男性1人を殺害)。
DIA-503-1984-07-15-1アフガニスタン1984年07月15日1980年代バフタール通信は,アの親中国派政治組織「パイカル」(Paikar,1979年創設)の逮捕されたメンバー2人の告白を引用して「中国覇権主義がアで反革命活動を支援している」と非難(Daily Report,7/17)。
DIA-503-1984-07-16-1アフガニスタン1984年07月16日1980年代16日付KNTはバフタール通信の論評を引用して,ザーヘル・シャー元国王(ローマに亡命中)が反政府勢力の一指導者S・モジャダニー(ザヘール元国王の召使いだった)に反政府勢力の統一とを要請したと報じた(POT-A,7/25)。
DIA-503-1984-07-22-1アフガニスタン1984年07月22日1980年代22日付KNTによると,ア婦人民主機関(WDOA)メンバーは現在2100人以上。また,生産および防衛面で8000人の婦人が活躍(POT-A,8/11)。
DIA-503-1984-07-27-1アフガニスタン1984年07月27日1980年代PDPAはモスクワでラオスの人民革命党との間で初の協力議定書(84/85年度用)に調印。
DIA-503-1984-07-27-2アフガニスタン1984年07月27日1980年代米下院歳出委員会は反ア政府ゲリラ援助として5000万ドルの補正予算を可決。上院歳出委も承認予定。これで84年度の対ア反政府ゲリラ援助は2億ドルとなる。バフタール通信30日によれば,「西側諸国,アメリカ,その同盟国の反ア革命勢力に対する援助は合計6億ドル」という。(Daily Report,7/31)
DIA-503-1984-07-30-1アフガニスタン1984年07月30日1980年代ケシュトマンド首相,閣議で経済近況を報告。(1)今年度第1四半期は比較的好調。(2)耕作地は昨年より2万5000ha増。(3)灌漑の計画数値は昨年比16.4%増(以上,ママ)で,工業生産額は28.7%増。(4)今年度第1四半期の天然ガス生産は計画を20.1%超過した(Daily Report,8/1)。
DIA-503-1984-07-31-1アフガニスタン1984年07月31日1980年代31日付KNTは論評で,反ア政府勢力がイラン経由でアメリカ製化学兵器を入手しているとして,イラン政府に懸念表明を要請(POT-A,8/25)。
DIA-503-1984-08-02-1アフガニスタン1984年08月02日1980年代バフタール通信2日によると,政府は83/84年度に民間の68プロジェクトを承認。また,83/84年度に完了したプロジェクトのうち26が民間部門のもの。
DIA-503-1984-08-02-2アフガニスタン1984年08月02日1980年代2日付パのMuslimは反ア政府ゲリラ筋情報として,9月にサウジアラビアでザーヘル・シャー元アフガニスタン国王(ローマに亡命中)主宰のロイ・ジルガ(大会議)が開かれ,亡命政権樹立も発表される予定と報じた(Daily Report,8/16,10月26日参照)。
DIA-503-1984-08-05-1アフガニスタン1984年08月05日1980年代5日発売の米Newsweek誌(8月13日号)はア反政府勢力亡命者との会見記事を掲載。
DIA-503-1984-08-06-1アフガニスタン1984年08月06日1980年代ケシュトマンド首相,訪ソ-「短期訪問」のため。9月7日,帰国。
DIA-503-1984-08-08-1アフガニスタン1984年08月08日1980年代マンガル副首相,訪ソ。20日,帰国。
DIA-503-1984-08-09-1アフガニスタン1984年08月09日1980年代在西独ア大使館に何者かが侵入して文書数点を窃盗。政府は西独治安当局がこれを黙認したとして西独政府に抗議。79年4月および80年1月にもボンで同様の事件が発生している。(Daily Report,8/13)
DIA-503-1984-08-18-1アフガニスタン1984年08月18日1980年代ア独立65周年記念日。カルマル議長は演説において,83/84年度の農業生産額は881億アフガニーで対1978年比7.1%増,対前年比2%増と述べた。
DIA-503-1984-08-19-1アフガニスタン1984年08月19日1980年代パ政府は過去1週間にア空軍機によるパ領爆撃で少なくとも32人が死亡と非難。
DIA-503-1984-08-22-1アフガニスタン1984年08月22日1980年代22日付KNTは,反政府勢力諸派の激しい対立を示す文書数点を公表。これらの文書は政府が反政府勢力から押収したものという(POT-A,9/4)。
DIA-503-1984-08-25-1アフガニスタン1984年08月25日1980年代ヌール・A・ヌールPDPA書記(1月18日参照)はソ連共産党のPartiinaja Zhiznj(『党生活』の意)誌にPDPAの歴史と業績に関し長論文を寄稿。同論文はKNT8月25日,9月1日,9月8日に英語で転載(POT-A,9/15に再転載)。
DIA-503-1984-08-25-2アフガニスタン1984年08月25日1980年代25日のアフガニスタン放送によれば,アの労働組合は本年は1400人の子供をタージク共和国などソ連中央アジアの3共和国に派遣した(Daily Report,8/29)。
DIA-503-1984-08-26-1アフガニスタン1984年08月26日1980年代26日付KNTによるとカルマル議長はHaqiqat-e-Enqelab-e-Saur(『4月革命の真実』日刊)と会見。(1)84/85年度耕作地は380万haの予定。(2)今年度の小麦生産は約286万トンで78/79年度より4万7000トン増。(3)高利貸し禁止により農村の1100万人が救われた。(4)81年に初めて水利法施行。(5)革命前は封建地主のための農協が137あったが,現在は415の農業・手工業協同組合がある。(6)現在までに67万7000haの土地が収用され,30万7867人の貧農に再分配された。
DIA-503-1984-08-27-1アフガニスタン1984年08月27日1980年代スイスのジュネーヴでア問題解決のための第3回ア・パ間接外相本会談開始(~30日)。コルドヴェス政治担当国連事務次長の調停。今回は初めて両国代表を同一建物内の近接した部屋に待機させ,この間をコ次長が往復するという「近接方式」を採用。31日の記者会見でコ次長は,(1)会談は失敗という報道は間違っている,(2)次回は85年2月,などと語った。
DIA-503-1984-08-30-1アフガニスタン1984年08月30日1980年代「パシュトゥーン民族およびパルーチ民族の日」行事挙行。29日付KNTはデュアランド線(アとパの国境)による両民族分断の歴史と現状を非難。
DIA-503-1984-08-31-1アフガニスタン1984年08月31日1980年代パを根拠地とするイスラーム革命運動(HEE)委員長および「アフガン聖戦士7組織」の書記長であるM・N・マンスールはパの31日付Nawa-e-Waqt紙との会見で,聖戦士の立場は,(1)ソ連の無条件撤兵,(2)難民の名誉ある帰国,(3)アフガン人による自らの統治形態の選択,(4)アの自由な非同盟国としての地位の保全の4点だ,などと述べた(Daily Report,9/7)。
DIA-503-1984-08-31-2アフガニスタン1984年08月31日1980年代カーブル空港で爆弾破裂,30人死亡。
DIA-503-1984-09-02-1アフガニスタン1984年09月02日1980年代2日付英Sunday Telegraphは,ソ連はアに7万の兵力を増派と報道(朝日,9/3)。
DIA-503-1984-09-03-1アフガニスタン1984年09月03日1980年代ドースト外相,ソ連から帰国。
DIA-503-1984-09-05-1アフガニスタン1984年09月05日1980年代在パ反ア政府勢力のうちIUMA7組織はすでにペシャーワルから撤収(パ日誌7月30日参照)。
DIA-503-1984-09-08-1アフガニスタン1984年09月08日1980年代アフガニスタン放送は金曜日と祝祭日を除く毎日,聴衆が電話で市民生活などの苦情を訴える番組「人民の声」を開始(Daily Report,8/13~)。
DIA-503-1984-09-08-2アフガニスタン1984年09月08日1980年代カーブルの夜間外出禁止令,22時~4時に延長。
DIA-503-1984-09-10-1アフガニスタン1984年09月10日1980年代PDPA常任幹部会議副議長のゴル・アーカー陸軍准将,訪ソ(~24日)。
DIA-503-1984-09-10-2アフガニスタン1984年09月10日1980年代中国広州市の国際サッカー試合にアが参加。79年12月のソ連軍のア侵攻後,中国がアのスポーツ・チームもしくは代表団を受け入れるのは初めて。11日,アの選手2人が中国への途次インドのニューデリーでアメリカに亡命することを明らかにした。
DIA-503-1984-09-17-1アフガニスタン1984年09月17日1980年代バフタール通信23日によると,反政府ゲリラに協力しつつスパイ活動を行なっていたフランス人「ビジネスマン」が逮捕されたという(POT-A,9/29)。
DIA-503-1984-09-19-1アフガニスタン1984年09月19日1980年代カルマル議長,全インド放送との会見でカルマル政権の業績を詳述(Daily Report,9/20)。
DIA-503-1984-09-21-1アフガニスタン1984年09月21日1980年代カルマル議長,PDPA総会で内外情勢について長時間の演説(Daily Report,9/24)。
DIA-503-1984-09-21-2アフガニスタン1984年09月21日1980年代カルマル議長は本年初の革命評議会会議で「国内の立法問題の完了・改善と革命的遵法の強化のための訪方策」と題して演説(Daily Report,10/4;10/16)。
DIA-503-1984-09-21-3アフガニスタン1984年09月21日1980年代ドースト外相は,第39回国連総会における演説において,(1)反革命勢力による国家経済に対する破壊活動の被害はおよそ340億アフガニーで,78年4月革命前の20年間の総投資額の4分の3に達する(3月1日参照),(2)にもかかわらず83/84年度のGNPは約6%,国民所得は4.5%成長した(3月14日参照)などと述べた。
DIA-503-1984-09-22-1アフガニスタン1984年09月22日1980年代カルマル議長は革命評議会会議において,革命評議会の活動は主として革命的国民をさらに糾合して反革命勢力を打破することである,と語った。
DIA-503-1984-09-22-2アフガニスタン1984年09月22日1980年代22日付KNTは第1面で,(1)帝国主義はジュネーブ会談(8月27日参照)の妨害に血道を上げて正当な合意への道に障害を築いている,(2)ジュネーブ会談はパの軍事政権の偽善性を暴露した,と非難。
DIA-503-1984-09-27-1アフガニスタン1984年09月27日1980年代ア・インド間の直通電話開通。
DIA-503-1984-09-27-2アフガニスタン1984年09月27日1980年代第39回国連総会出席のため訪米中のドースト外相,デクエヤル国連事務総長に会見。
DIA-503-1984-09-28-1アフガニスタン1984年09月28日1980年代パ政府は,ア機が27日にア・パ国境付近のパ領を爆撃,32人が死亡,48人が負傷したとしてアを非難。
DIA-503-1984-09-28-2アフガニスタン1984年09月28日1980年代カルマル議長,第14回PDPA中央委員会総会で長時間の演説。(1)党と民衆の密着,軍事問題,党の統一と規律と勝利達成が三大問題だ。(2)地方におけるわが党の困難は党や政府の地方組織の欠陥だけでなく,地方問題に対する政府省庁や党中央委員会の注意不足にもよる。(3)現在,党の州委員会またはそれと同等の委員会数は31で,市委員会は26,ward委員会は300,precinct委員会は36,districtおよびsub-district委員会は200以上である。(4)軍,警察,秘密警察(KHAD)のなかの党組織と党活動を強化する必要がある(以上,POT-A,11/7;Daily Report,9/24)。なお,ケシュトマンド首相のある演説(10月12日)によれば,上記総会の主要議題は(2)の地方における諸問題の改善だったという(Daily Report,10/16)。
DIA-503-1984-10-09-1アフガニスタン1984年10月09日1980年代在印西側外交筋によると,アのソ連軍はこのほどパンジシェール渓谷の反政府勢力のマスード司令官に休戦協定の締結を申し入れた(『日経』10/10)。
DIA-503-1984-10-11-1アフガニスタン1984年10月11日1980年代ソ連共産党機関紙『プラウダ』11日の「アフガニスタン・メモ」は「反革命勢力がこれほど強い力を持っているのは本当か,と私は驚いた」とのソ連軍中佐の感想を掲載した(『朝日』12/27付,モスクワ特派員電)。
DIA-503-1984-10-12-1アフガニスタン1984年10月12日1980年代ソ連のノーボスチ通信社の日刊『APNプレスニュース』12日および12月4日は米Washington Post紙(日付不明)を引用して,「同紙のいう“CIA最大の秘密作戦”(ア反革命分子への援助)費用はCIAだけですでに3億2500万ドルに達する」と伝えた。
DIA-503-1984-10-15-1アフガニスタン1984年10月15日1980年代ゴル・アーカー革命評議会副議長論文(ブルガリアのOtechestven Frontに掲載)。(1)土地改革で30万8000の貧農家族が土地を与えられた。(2)78年4月革命後,農業生産は7.1%,労働の生産性は6.6%,国民所得は6.3%,平均賃金は26~50%,それぞれ上昇した。(3)すでに100万人が文盲撲滅コースを終了した。(4)現在,労組数は5300,組合員数は19万人。(5)民族資本家の商工会議所は現在25団体から成る。これらは他の諸々の組織とともに国民愛国戦線(NPF)に属している。(6)PDPA党員数は12万。(7)反革命勢力などに対するアメリカなど西側の庇護者の援助は10億ドルを超える(Daily Report,10/17)。
DIA-503-1984-10-16-1アフガニスタン1984年10月16日1980年代在印西側外交筋によるとソ連は最近,ア駐留軍を従来いわれていた10万5000人から14万人に増強した。増強部隊はパとの国境に近い2州に空輸されたという。
DIA-503-1984-10-16-2アフガニスタン1984年10月16日1980年代カーブルで「模範労働者」の第1回全国大会。
DIA-503-1984-10-21-1アフガニスタン1984年10月21日1980年代21日付KNT紙によると,特別革命裁判所はフランス国営テレビのフランス人レポーター(9月17日参照)に対し18年の禁固刑の判決。フランス政府の強硬な対ア・ソ連政府抗議により25日,釈放された。
DIA-503-1984-10-21-2アフガニスタン1984年10月21日1980年代カンダハール市でテレビ放送開始。
DIA-503-1984-10-23-1アフガニスタン1984年10月23日1980年代23日付POT-Aによれば,(10月初旬の?)日刊Haqiqat-e-Enqelab-e-Saur紙は,78年4月革命後176の民間中小企業が設立されたが,これは革命前の20年間に設立された中小企業と同数であると伝えた。
DIA-503-1984-10-25-1アフガニスタン1984年10月25日1980年代ア国防省の統計を携行してパに亡命したM・W・ラシディー准将によれば,ア駐留ソ連軍は4月と8月に計2万人の増強を受けたという。ソ連軍の他に,チェコスロバキア,キューバ両軍の将兵5000人がカンダハール,シンデンド両空軍基地に駐留しているという。
DIA-503-1984-10-26-1アフガニスタン1984年10月26日1980年代ザーヘル元国王(69歳)のインタビュー発言(Voice of America,10/26。8月2日参照)。(1)民族統一戦線結成の努力は継続中。(2)(アフガニスタン聖戦士イスラーム連合IUAMは83年6月宣言のあと,イスラーム諸国の支持の取付けを貴殿に依頼したが……)努力は続いている。(3)(アフガニスタン聖戦士7組織連合A70AM指導者の過半数は貴殿の統一戦線結成提案に反対しているが……)残念だが相違はいまだにある。(4)亡命政権樹立はまだ考えられていない。(Afghan Realities―Peshawar版,10/16~10/31)。
DIA-503-1984-10-26-2アフガニスタン1984年10月26日1980年代パンジシェール渓谷の反政府勢力カマスード司令官によると,ソ連・ア連合軍は26日,同渓谷に対する攻勢(第9次)を開始(Daily Report,11/2)。
DIA-503-1984-10-31-1アフガニスタン1984年10月31日1980年代31日のバフタール通信によると,PDPAは日刊Haqiqat-e-Enqelab-e-Saur紙(日付不明)掲載の論文で国民の生活向上のための党の役割を強調。同論文は5~8日付KNT紙に転載(ただし英文)され,さらに12月7日付POT-Aに全文が再転載(英文)された。
DIA-503-1984-11-02-1アフガニスタン1984年11月02日1980年代ケシュトマンド首相,訪印。故ガンディー前インド首相の葬儀に列席のため。同日,ラジーヴ・ガンディー新首相と会見。
DIA-503-1984-11-04-1アフガニスタン1984年11月04日1980年代Haqiqat-e-Enqelab-e-Saur紙(日付不明)掲載のPDPA中央委論文によると,現在の党員は78年4月革命時の1万5000に対し12万(KNT,11/4)。また,10月30日付日刊Amis紙によるとアフガニスタン婦人民主機関(WDOA)メンバーは2万5000人(KNT,10/30)(以上,POT-A,11/21)。
DIA-503-1984-11-05-1アフガニスタン1984年11月05日1980年代ア国内放送5日によると,内乱の犠牲者の子供(7~9歳)870人が10年間の教育のため教師37人とともにソ連中央アジア共和諸国に送られた。これは今後も毎年続く予定。(Daily Report,11/6)
DIA-503-1984-11-05-2アフガニスタン1984年11月05日1980年代カルマル議長,反政府勢力のカーブル市内破壊活動の被災地(旧市街)を視察。9日も市内各所を視察した(Daily Report,11/13)。
DIA-503-1984-11-09-1アフガニスタン1984年11月09日1980年代9日付米Daily Reportによると,ア国内放送は最近,PDPA結成20周年記念日(85年1月1日)に先立ち,党の歴史,功績などを解説した長文の中央委員会文書を放送した(「参考資料」参照)。
DIA-503-1984-11-13-1アフガニスタン1984年11月13日1980年代在印西側外交筋によると,ソ連・ア連合軍は4週間ほど前,ア中央部ハザーラジャートで武装解除された反政府勢力450人を虐殺したという。
DIA-503-1984-11-15-1アフガニスタン1984年11月15日1980年代第39回国連(159カ国)総会,アのソ連軍即時撤退要求決議案を賛成119,反対20,棄権14で採択。
DIA-503-1984-11-29-1アフガニスタン1984年11月29日1980年代29日付IHT紙は米政府筋の言明として,アメリカの1985年度(10月1日~)のア反政府勢力に対する援助は前年度の倍以上の2億8000万ドルが計上されており,これにより,79年12月のソ連軍のア侵攻以来のアメリカの同援助は累計6億2500万ドルに及ぶと伝えた。
DIA-503-1984-12-03-1アフガニスタン1984年12月03日1980年代重要人事。3日のアフガニスタン放送によると,PDPA中央委員会政治局員候補のA・カーデル陸軍中将がこのほど国防相を解任され,第一副首相に任命された。また,党中央委員会メンバーおよび国防省中央幕僚部長のナザル・モハンマッド陸軍准将が国防相に任命された(Daily Report,12/4)。
DIA-503-1984-12-13-1アフガニスタン1984年12月13日1980年代カーブルで国民祖国戦線第5回総会,開始。
DIA-503-1984-12-25-1アフガニスタン1984年12月25日1980年代25日付『朝日』イスラマバード発特派員電によると,この1年のア駐留ソ連軍の死傷者は1万3000~1万6000人で,戦費は30数億ドル。同電がカーブル在住西側外交筋の言として伝えるところでは,70万といわれていたカーブル市人口は周辺からの難民流入により250万以上になり,また,79年12月のソ連軍のア侵攻後初めて全29州で戦闘が確認されたという。
DIA-503-1984-12-25-2アフガニスタン1984年12月25日1980年代パのペシャーワルを本拠地とする反ア政府組織「イスラーム党」(HI)のヘクマティヤール党首は記者会見で,ザーヘル元国王を首班とする亡命政権に関してA・R・サイヤフ(反政府勢力指導者。在パ)との意見の相違があるとのうわさを否定(Muslim,12/26)。
DIA-503-1984-12-25-3アフガニスタン1984年12月25日1980年代23~29日付『毎日』カーブル発特派員電。(1)夜のカーブルではロケット弾が飛びかう。(2)午後10時~午前4時のカーブルは外出禁止。(3)ゲリラは6月頃からカーブルに無差別ロゲット砲攻撃を開始(4)ソ連軍は今年の春からア政府軍を押しのけるような形で戦闘の前面に出るようになつた。(5)ゲリラ側戦士は並の敵を1人殺すごとに500アフガニー(実勢1000円強)を支給される。(6)政府軍とゲリラ軍の間で臨機応変に寝返るのはアフガン人には珍しいことではない。(7)カーデル国防相が解任(12月3日)されたのは,彼がソ連軍の焦土作戦に反対したためといううわさが外交筋の間に根強い。(8)アではなお経済の85%が私企業で動いており,貧富の差はかなり激しい。(6)ケシュトマンド首相は(本特派員に)「アは社会主義以前の段階にあるが,社会主義を志向する社会だ」と語った。(10)アのソ連軍は現在11万5000人(アメリカ推定)。
DIA-503-1984-12-26-1アフガニスタン1984年12月26日1980年代26日付ソ連政府機関紙『イスベスチア』は,アのゴール州でソ連・ア連合軍は州都チャグチャラーンだけをおさえ得ているのみだと報じている(IHT,12/28)。
DIA-503-1984-12-27-1アフガニスタン1984年12月27日1980年代27日付『朝日』は在モスクワ西側軍事専門家の話として,ア領内のソ連軍は11~12万人で,ソ連国内でアにかかわっているソ連軍は3万人と伝えている。
DIA-503-1985-01-05-1アフガニスタン1985年01月05日1980年代アフガン情報・文書センター(AIDC,本部はパキスタン領ペシャーワル)によると,フランスのドニオ元対外貿易相(現在は欧州議会政治・人権委員会副委員長)が10日間アに潜入,反ア政府ゲリラに接触し,5日,パに戻った(『朝日』1/7)。
DIA-503-1985-01-05-2アフガニスタン1985年01月05日1980年代国営バフタール通信はHaqiqat-e-Enqelab-e-Saur(日刊『4月革命の真実』)紙を引用して次の報道。(1)78年4月革命以来68万㌶以上の土地が土地なし農民と小土地所有者に分配され,農民に7000万㌦の農業金融が供与された。(2)78~84年にGNPは6%,「国民所得」(「」内は筆者)は6.3%,農業総生産は7.3%,それぞれ成長。(3)同期間に工業部門における国家のシェアは20%になった。(米商務省FBIS Daily Report,1/7)
DIA-503-1985-01-05-3アフガニスタン1985年01月05日1980年代アフガニスタン人民民主党(PDPA)中央委員会政治局はPDPA創立20周年(記念日は1日)を記念して,志願兵の「徴兵期間および部分的予備兵役期間」を3年から2年に短縮(DR,1/7)。
DIA-503-1985-01-07-1アフガニスタン1985年01月07日1980年代アはモザンビーク人民共和国と外交関係樹立。
DIA-503-1985-01-07-2アフガニスタン1985年01月07日1980年代KNT紙7~10日はPDPAが1966年に採択し,当時の党機関紙であった週刊,Khalq紙創刊号(4月11日)に掲載した初の「行動計画」の英語版を覆刻掲載。POT-A誌2月8日号は全文を転載(「参考資料」参照)。
DIA-503-1985-01-10-1アフガニスタン1985年01月10日1980年代PDPA創立20周年記念行事,全国で開催(記念日は1日)。カルマル革命評議会議長は演説で,(1)現在の党員数は党員・党員候補で計12万人,(2)うち30%は労働者,貧農,商人,(3)ここ2~3年の新規党員の50%は労働者だ,などと述べた(DR,1/14)。
DIA-503-1985-01-13-1アフガニスタン1985年01月13日1980年代米Washington Post紙13日が情報筋の話しとして伝えるところによると,ア反政府ゲリラに対する,米中央情報局(CIA)の秘密援助が急増し,85会計年度にはCIAの秘密活動費の80%以上に相当する2億5000万㌦に達したという。また,中東やアジア諸国からの援助も2億㌦を超えるという(『朝日』1/14)。
DIA-503-1985-01-16-1アフガニスタン1985年01月16日1980年代1985年度ア・ソ連貿易議定書,モスクワで調印。本年度の両国貿易高は前年度比10~15%増の予定。
DIA-503-1985-01-17-1アフガニスタン1985年01月17日1980年代KNT紙17日によるとカルマル議長はこのほどポルトガルのジャーナリストと会見。(1)パには120の反ア政府テロリスト訓練所がある。(2)イランと中国の新彊省にも同様の訓練所がある。(3)アに対する宣戦布告なき戦争の被害は350億アフガニー以上。これはアの過去20年間の開発支出の3分の2に相当。(4)米国はアでの破壊活動のために今までに10億㌦以上を支出。(POT-A,2/14)
DIA-503-1985-01-23-1アフガニスタン1985年01月23日1980年代アフガニスタン・ピオネール機関(POA)のメンバーは8万7000人で,毎年2万5000人が新規参加。
DIA-503-1985-01-31-1アフガニスタン1985年01月31日1980年代英のJane’s Defence Weeklyはワシントン情報として,イスラエル,サウジアラビア,中国の反ア政府勢力への本年の援助は推定2億ドルと報道。これにCIAの2億5000万㌦(13日参照)と繰越金3000万㌦を加えると,計4億8000万㌦。同誌はまた,エジプトが反ア政府勢力に対し若干の武器を供与したと信じられているとしている(KNT,1/31)。
DIA-503-1985-01-31-2アフガニスタン1985年01月31日1980年代KNT31日によるとPDPAはこのほど中国共産党への書簡で,反ア政府勢力支援停止を訴えるとともに,革命後の中国に対するソ連の援助を思い出してア革命に協力するよう要請した(DR,1/31)。
DIA-503-1985-02-04-1アフガニスタン1985年02月04日1980年代バフタール通信は,現在1万5500人以上の農民が320以上の農協に組織化されていると報道。
DIA-503-1985-02-07-1アフガニスタン1985年02月07日1980年代コルドベス国連事務次長は2月14日予定のアとパの第4回間接外相会談をパの要請(国内総選挙のため)により5月まで延期すると発表した。
DIA-503-1985-02-18-1アフガニスタン1985年02月18日1980年代AIDC(1月5日参照)によると,ソ連はア西部のシンデンド空軍基地に短距離地対地ミサイルSS12を配備しているという(『日経』2/19)。
DIA-503-1985-02-19-1アフガニスタン1985年02月19日1980年代ウィーンで米ソが中東についての協議(~20日)のなかでアも議題にした。
DIA-503-1985-02-21-1アフガニスタン1985年02月21日1980年代中国共産党機関紙『人民日報』は「アフガニスタンに干渉しているのはだれか」と題する論評を掲載。
DIA-503-1985-02-24-1アフガニスタン1985年02月24日1980年代KNT紙24日によると,パの月刊『ウルドゥー・ダイジェスト』誌(最近号?)(イスラーム結社Jamaat-e-Islami機関誌)がパ人がアで対ア政府破壊活動に従事しているのを認める時評を掲載。パ政府は同誌に,その種の記事を掲載せぬよう警告(POT-A,3/29)。
DIA-503-1985-02-25-1アフガニスタン1985年02月25日1980年代アフガン暦1363年(西暦1984年3月21日~85年3月20日)のアフガニスタン民主青年機関(DYOA)は現在まで6万8000人で,DYOAメンバーは計15万になった(KNT,2/25)。
DIA-503-1985-02-26-1アフガニスタン1985年02月26日1980年代ソ連政府スポークスマンによると,アとソ連の1984年の貿易総額は前年比3分の1増の9億ルーブルであったという(DR,2/27)。
DIA-503-1985-02-26-2アフガニスタン1985年02月26日1980年代国連人権委員会はアからの「外国軍」撤退要求決議案を採択。31対7,棄権5。同委員会は3月13日,アの「外国軍」による化学兵器使用,拷問,政治犯5万人の拘禁などを非難する報告書を26対8,棄権8,欠席1で採択(IHT,2/28,3/16; WP,3/2,3/14)。
DIA-503-1985-02-26-3アフガニスタン1985年02月26日1980年代(在印西側外交筋)ソ連軍は今月初めコンドズ州チャハールダラで市民480人を殺害(『日経』2/27)。
DIA-503-1985-03-02-1アフガニスタン1985年03月02日1980年代アとソ連は新経済・技術協力協定に調印(DR,3/4)。ソ連は同協定に基づきアの5ヵ年社会・経済開発計画に1億6800万ルーブルの援助を供与する予定(DR,3/18)。
DIA-503-1985-03-13-1アフガニスタン1985年03月13日1980年代(バフタール通信)このほどバグラーン州アンダラーブの火力発電所(220kw,総工費500万アフガニー)が操業を開始した(POT-A,3/19)。
DIA-503-1985-03-14-1アフガニスタン1985年03月14日1980年代ソ連のゴルバチョフ共産党新書記長は故チェルネンコ前書記長の葬儀に参列のためモスクワを訪れたカルマル・ア革命評議会議長と会談し,ソ連の対ア援助継続を保証,両国関係に変化のないことを強調した。
DIA-503-1985-03-19-1アフガニスタン1985年03月19日1980年代PDPA中央委員会第15回総会(~20日)でのカルマル議長演説。(1)この1年,地方における国家権力機構の拡充が見られ,多数の村落が反革命勢力の支配から解放された。(2)この1年に数百人の反革命勢力が政府に投降。(3)現在の党員・党員候補は計13万人以上,労働組合員は20万人以上,DYOAメンバーは15万人,アフガニスタン婦人民主機関(WDOA)はおよそ4万人,国民祖国戦線(NFF)は70万人以上。(4)アフガン暦1362年に「国家権力・行政地方機関法」(本年報1981年版「重要日誌」9月参照)が革命評議会の特別会議で承認された。同法は民主的選挙によってこれらの地方機関を創設するものだ。(5)現在まで数百もの村が新設されて村落行政官が選出されたが,その数は非常に少ない。(6)米帝国主義者とその連合勢力がアに対する宣戦布告なき戦争につぎ込んだ10億㌦以上の金は,78年4月革命以前の20年間にアメリカがアに供与したいわゆる援助の6倍に相当。(7)大衆的政治活動および青年の軍事訓練のレベルはまだ低い。(8)29州のほとんどにおいて党・政府機関と軍との連携が見られない。(9)国の領土と革命の守護のため,イランとの国境の守りを固めるとともに,パとの国境を閉鎖するという果断・緊急の措置が不可欠であ・
DIA-503-1985-03-20-1アフガニスタン1985年03月20日1980年代カルマル議長,アフガン暦新年の全国放送。(1)人民が国家行政に直接参画できるように地方議会(jirgah―本年報,1985年版「重要日誌」1月6日参照)選挙を実施する。(2)1978年(ア革命の年)に比較すると84/85年度のGNPは4.7%,「国民所得」は5%,GNPは8.7%,それぞれ成長(KNT,3/23)。
DIA-503-1985-03-21-1アフガニスタン1985年03月21日1980年代マンガル国家計画委員長(副首相)がこのほど日刊HES紙に語ったところによれば,本年度(アフガン暦1364年=1985/3/21~86/3/20)の経済開発計画はとくに土地改革促進,農協拡充,農業金融拡充,農民機械化を目指しているという(KNT,3/24)。
DIA-503-1985-03-30-1アフガニスタン1985年03月30日1980年代革命評議会発表によると,イスラーム問題局がイスラーム問題・宗教財産省(Islamic Affairs and Religious Trusts)に昇格した(KNT,3/30)。バフタール通信4月8日によると,Mawlawi Abdul Wali Hojatが同省大臣に任命された(DR,4/9)。
DIA-503-1985-04-06-1アフガニスタン1985年04月06日1980年代革命評議会は国民大会議(Loya Jirgah)を開催するための布告を発令した。会議の目的は国内外の諸問題解決法の討議。参加者はPDPA中央委員会委員,ア民主共和国革命評議会委員,閣僚,NFF代表(複数),諸社会組織代表,労働者・農民・知識層およびすべての民族体(nationalities)・部族・氏族の代表,聖職者,長老から成る(DR,4/15)。
DIA-503-1985-04-12-1アフガニスタン1985年04月12日1980年代インドのバンダリー外務次官,来訪。13日,両国は南アジア・インド洋地域の緊迫した安全保障問題に対する懸念を表明する共同声明を発表。
DIA-503-1985-04-14-1アフガニスタン1985年04月14日1980年代バフタール通信は,イラン政府が同国の反ア政府アフガン人4組織連合を反ア活動に利用のため直接統制しようとしていると非難(POT-A,5/8)。
DIA-503-1985-04-15-1アフガニスタン1985年04月15日1980年代国民大会議に出席する代表の選挙が各地で開姶されて。20日終了し,29州で計1796人の代表(カーブル市は306人,DR,4/22)が選出された。代表は伝統社会の部族会議(jirgah)で選出された(DR,4/24)。
DIA-503-1985-04-19-1アフガニスタン1985年04月19日1980年代ニューデリーで非同盟諸国調整事務局閣僚会議(~21日)。アからはドースト外相が出席。
DIA-503-1985-04-23-1アフガニスタン1985年04月23日1980年代国民大会議(Loya Jirgah,Grand Tribal Assembly),カーブルで開催(~25日)。出席者はPDPA中央委員会政治局員,革命評議会総会メンバー,閣僚,諸社会組織代表,友好諸国大使。他に,全民族体・部族の全階層代表が参加。カルマル革命評議会議長は演説において,(1)この国民大会議(以下,大会議)は国民的課題に関する集団的決定機関だ,(2)全国の代表1796人が出席し,200人の来客を得たなどと述べ,78年4月革命の成果を詳述。23日の開会式は大会議議長にAbdor Rahim Hatef Pashtoを選出。以下は国営バフタール通信のラジオ放送(DR,4/24)およびPOT-A5月22日より。(1)代表たちの11.6%は労働者,26%は農民,23%は知識人,3%は民族資本家および神学者・説教者,25.4%は諸部族・民族(ethnic groups)の代表および国の著名人だ。(2)全代表のうち247人は遊牧民および辺境諸部族の部族会議の長老・成員が直接に参加したもの。(3)38人は部族連隊(tribal regiments),国民軍(militia),および革命防衛者集団の指導者や司令官であり,また国家に投降した武装集団の指導者たちだ。(4)43人は退官した高級官僚,軍人,判事,市長だ。(5)37人は元上院議員および元人民議会議員だ(人民議会=Wolosi Jirgah,People’
DIA-503-1985-04-26-1アフガニスタン1985年04月26日1980年代陸軍人事―9人が准将から少将へ,19人が大佐から准将へ,それぞれ昇格(DR,4/30)。
DIA-503-1985-04-27-1アフガニスタン1985年04月27日1980年代4月革命7周年記念日。
DIA-503-1985-05-07-1アフガニスタン1985年05月07日1980年代カルマル議長,訪ソ―ソ連の対ファシズム戦勝40周年祝賀式出席のため。16日,カルマル議長は初のポーランド公式訪問。同日,ヤルゼルスキー・ポーランド共産党党首と会談。21日,帰国。
DIA-503-1985-05-09-1アフガニスタン1985年05月09日1980年代「アメリカ人・アフガン人交友連盟」(FAAA)によると79年12月のソ連軍のア侵攻以来,反ア政府勢力へのCIAの秘密援助は累計3億8000万~4億ドルに達し,本年は2億500万ドルが追加予定(1月13,31日参照)。在パのアフガン難民に対する米政府の人道的援助は今までで3億ドル。レーガン政権はア在住のアフガン難民およびゲリラにも85年に400万ドル,86年に500万㌦の非殺傷性援助(救急車,食料品,薬品など)を初めて公に行なうと決定(WP,5/9,Times,5/10)。米国務省はすでに反ア政府勢力に対し400万㌦相当の非殺傷性援助をひそかに供与している。5月14日,米上院は反ア政府勢力に対する人道的援助1500万ドルを審議抜きで採択(WP,5/15)。
DIA-503-1985-05-11-1アフガニスタン1985年05月11日1980年代米WP11日によると,ソ連のタス通信は10日(?),4月27日のソ連軍人およびア軍人計24人の死亡を報道した。ソ連の報道としてはきわめてめずらしい。
DIA-503-1985-05-13-1アフガニスタン1985年05月13日1980年代(反政府勢力筋)カンダハールの反政府ゲリラ500人の指揮者で二重スパイであった男がこのほど部下60人とともにア政府側に寝返った(IHT,5/13)。
DIA-503-1985-05-13-2アフガニスタン1985年05月13日1980年代ケシュトマンド首相,財政省の経済セミナーで演説。(1)アフガン暦1363年には78年4月革命後初めてGNPと「国民所得」の成長目標が達成された。(2)本年(85/86年)のGNPは1839億アフガニー,「国民所得」は1316億アフガニーに達しよう。これらの数字はそれぞれ前年比で2%増,1%増であり,アフガン暦1357年に対しては15.8%増,17.8%増となる。(3)1363年の農業は従前より安定していた。本年の農業成長率目標は(前年比?)2%増。(4)1363年の工業は(前年比?)4.6%増,すなわち革命前の年に比して5%増。本年の工業成長率目標は(前年比?)8.4%。(5)1364年の歳入は前年比70億アフガニー増,すなわち14.3%増になろう(POT-A,6/8)。
DIA-503-1985-05-14-1アフガニスタン1985年05月14日1980年代(在パ西側外交筋)アのソ連軍は3月にラグマーン州カルガイで市民1000人を殺害(IHT,5/15)。
DIA-503-1985-05-16-1アフガニスタン1985年05月16日1980年代パを本拠地とする反ア政府ゲリラのうち7組織(イスラーム原理主義4組織,穏健派3組織)は共同戦線「アフガニスタン聖戦士イスラーム同盟」(Ittehad-e-Islami-e-Mujahedeene-Afghanistan)の結成を発表。指導者および統一行動方針の類は未決定(『朝日』5/18,Dawn5/18,IHT,5/28)。
DIA-503-1985-05-23-1アフガニスタン1985年05月23日1980年代米WP23日はアに関する在印パ西側外交筋情報(とくに数字)の誇張に注意を喚起する記事を掲載。
DIA-503-1985-05-28-1アフガニスタン1985年05月28日1980年代コルドベス国連事務次官がアとパの間接外相会談準備のためパから来訪。30日,再びパへ(~31日)。
DIA-503-1985-06-02-1アフガニスタン1985年06月02日1980年代アのソ連軍はこのほどコナール渓谷バリコード一帯に,79年12月のア侵攻以来最大規模の攻撃を加えた(『日経』6/4)。1万人以上を投入したこの戦いはゲリラへの補給路の切断を目的としてアとパの国境を封鎖するための攻撃の第一段階である(WP,6/2)。11日の在パ西側外交筋発表では,ソ連・ア合同軍は多数の死傷者を出して撤退しつつある(『朝日』6/13)。
DIA-503-1985-06-03-1アフガニスタン1985年06月03日1980年代重要人事。M.Ismail Danesh鉱工業相,解任→後任はNajbullah Masir。ダ・アフガニスタン銀行(中央銀行)新総裁にAbdul Basir Ranjbar,等。
DIA-503-1985-06-09-1アフガニスタン1985年06月09日1980年代英Sunday Telegraph紙はアで戦死したソ連兵士たちが持っていた手紙や書類の全容を掲載。ある兵士の私信には「軍律違反者が多すぎて営倉が満員」とある。81年7月18日付の「アイナク(カーブル近郊)で埋蔵量世界最大,最高品質の銅鉱脈が発見された」との軍事報告書が注目されている(『東京新聞』6/9―「アフガンのソ連軍資料,主な内容」も掲載)。
DIA-503-1985-06-18-1アフガニスタン1985年06月18日1980年代米国務省で米ソがア問題で協議したが,具体的成果のないまま19日終了。マーフィー米国務次官補,ソコロフ駐米ソ連大使,アレクセーエフ・ソ連外務省中東部長が出席した。
DIA-503-1985-06-18-2アフガニスタン1985年06月18日1980年代中国の『人民日報』18日は「ソ連,アフガニスタン侵略戦争を強化」と題する論評でソ連を非難。
DIA-503-1985-06-18-3アフガニスタン1985年06月18日1980年代米,ソ連と農業技術協力協定に調印。1980年に米がソ連のア侵攻に抗議して破棄していたが,これで協力再開となる(『日経』6/19)。
DIA-503-1985-06-20-1アフガニスタン1985年06月20日1980年代コルドベス国連事務次長(デクエヤル専務総長特使)の仲介でジュネーブでアとパの第4回間接外相会談開始。21日中断。24日再開,同日閉会。24日,コ特使は「真剣で実りある会談で,双方とも結果に満足している。次回は8月27日からジュネーブで行なう」と述べた。ドースト外相の帰国は6月29日。なお,議題は83年12月国連提案の以下の4項目。(1)ア内政に対する外部の干渉・介入の停止,(2)パとイランに流入した難民の帰還,(3)ソ連撤兵後のアの安全の保証,(4)アの外国軍の撤退。
DIA-503-1985-07-06-1アフガニスタン1985年07月06日1980年代カルマル議長はPDPA中央委員会政治局会議で現在の党員数は13万4000で,アフガン暦1363年の新PDPA党員候補3万4000人の45%は労働者,貧農,職人でDYOAメンバーは約50%だったと述べた。
DIA-503-1985-07-08-1アフガニスタン1985年07月08日1980年代カルマル議長は土地改革に関する閣議で84/85年度の土地所有証書配布数は前年度の1000に対して4万5000にも及んだなど詳しい数字を発表(DR,7/10)。
DIA-503-1985-07-10-1アフガニスタン1985年07月10日1980年代カルマル議長,健康診断のため非公式に訪ソ。29日,帰国。
DIA-503-1985-07-15-1アフガニスタン1985年07月15日1980年代(国連筋)ソ連はア派遣軍への作戦統制を強化するとともに暗殺・破壊専門の特殊部隊スペツナズ(SPETSNAZ)2個旅団を投入したもよう。アのソ連軍は地上軍だけで現在12万人以上に達し,この他アとソ連の国境に3万~4万人が待機(『『サンケイ』7/16)。
DIA-503-1985-07-23-1アフガニスタン1985年07月23日1980年代在パ西側外交筋は東側外交筋から得た情報として,反ア政府ゲリラは今月に入りカーブルにソ連大使館に3回のロケット砲攻撃を行なったと語った。
DIA-503-1985-07-25-1アフガニスタン1985年07月25日1980年代米IHT紙25日によれば,ソ連は今月初めからアでのソ連軍の戦闘ぶりをテレビで流し始めたという。
DIA-503-1985-08-05-1アフガニスタン1985年08月05日1980年代反ア政府勢力組織「イスラーム党」(HI,ヘクマティヤール党首)はイラン政府の「非友好的態度」のため同国にあった11の事務所を閉鎖した。
DIA-503-1985-08-11-1アフガニスタン1985年08月11日1980年代政府は「国家権力・行政地方機関法」に基づく地方選挙を開始。16日,NFFのA.R.Hatefi Pashto議長は同選挙に関する演説において,この法(上記)は地方権力の人民への移管を目指すもので,選挙は段階的に実施されると述べた(12月末現在,進行中)。
DIA-503-1985-08-11-2アフガニスタン1985年08月11日1980年代米ホワイトハウスは声明で,ソ連軍がアから撤退する可能性が出てきたとの英日曜紙Observer11日の報道を「全く根拠がない」と否定(『日経』8/13)。
DIA-503-1985-08-11-3アフガニスタン1985年08月11日1980年代KNT11日によると,アフガン暦1364年第1四半期の経済実績は以下のとおり。(1)公共部門および混合部門(公共部門および民間部門)の工業生産は3億9116万アフガニーで,目標の103.3%を達成。これは前年同期比13.5%増。(2)耕作面積は計画を1万6000ha超過した。(3)化学肥料の配布は計画を46%超過達成(POT-A,8/29)。
DIA-503-1985-08-17-1アフガニスタン1985年08月17日1980年代KNT紙17日によれば84/85年度の初等,中等,高等教育機関の入学者は65万人だったという。
DIA-503-1985-08-23-1アフガニスタン1985年08月23日1980年代ドースト外相はジュネーブでのア・パ間接外相会談への途次,訪ソ(~25日)。
DIA-503-1985-08-26-1アフガニスタン1985年08月26日1980年代モスクワでア・ソ連経済協力常設委員会の第5回会議,開催(~27日)。
DIA-503-1985-08-27-1アフガニスタン1985年08月27日1980年代スイスのジュネーブでア問題の政治的解決のための第5回ア・パ間接外相会談。会談は27日暗礁に乗り上げて休会,29日再開,30日終了。次回は12月16~20日の予定。仲介役のコルドベス国連事務次長の30日の会談終了後の記者会見。(1)国連提案の4項目(6月20日参照)のうち3項目については進展があったが,「外国軍撤退」については相互不信がはなはだしい。(2)「内政不介入」については仕事は事実上終了した。(3)「難民の帰還」問題はほとんど完了した。(4)6月の会談でア・パ双方は政治的解決の「保証」について一致した。その合意書を米・ソ両国に送ったところ,双方とも国連の「保証」案に同意する反応を示した。「保証」に関係しているのは米・ソの2ヵ国のみだ。
DIA-503-1985-08-27-2アフガニスタン1985年08月27日1980年代ア・ソ連は,アにおける天然ガス鉱床探査協定に調印。今までに両国協力により5鉱床が発見された。
DIA-503-1985-09-04-1アフガニスタン1985年09月04日1980年代(カーブル放送7日)反政府勢力がカンダハール空港を離陸したアフガニスタン航空国内線旅客機をミサイルで撃墜。乗客・乗員52人全員死亡。12日,反政府勢力のイスラーム党(HI)スポークスマンは同党による撃墜であることを認めた。
DIA-503-1985-09-05-1アフガニスタン1985年09月05日1980年代ケシュトマンド首相,ソ連での「健康診断」を終えて帰国(出発日は不明)。
DIA-503-1985-09-06-1アフガニスタン1985年09月06日1980年代(反ア政府ゲリラ筋)アのソ連軍は8月24日から兵力1万4000人を投入してパクティヤー州で大攻勢(Financial Times,10/1),所によりパ国境から2kmまで接近(『読売』9/6夕)。ソ連兵力は1万5000,ゲリラ側5000,一部戦闘はパ領内にも持ち込まれているという(『日経』9/7)。
DIA-503-1985-09-13-1アフガニスタン1985年09月13日1980年代ソ連・ア政府軍の夏期大攻撃は5月中旬から,パンジシェール渓谷,コナール渓谷,パクティヤー州の順で展開。ソ連・ア政府軍の1万5000~2万人が投入され,「ア戦争開始以来で最大」といわれるこの激戦で,双方の兵士2000人以上が死亡した。一方,ゲリラ側は8月初旬から首都周辺への破壊活動を強化(『朝日』9/14)。
DIA-503-1985-09-14-1アフガニスタン1985年09月14日1980年代国境諸部族大会議(High Jirgah),カーブルで開始(~16日)。バフタール通信のラジオ放送によると,本会議はPDPA第12回総会(83年7月)決定,国民大会議(85年4月)決定,辺境地帯(パと国境を指す)在住の諸民族体・部族の要求に基づくもので,国の進路を決め,国および革命の防衛における辺境諸部族の役割を強化することを目的とする。当該12州の代表は2500人。この他,パの北西辺境州および政府直轄部族地域在住のパシュトゥーン,バルーチ両民族(民族体)諸部族代表1200人ほどが参加したもよう(『朝日』1986/1/17)。カルマル議長は14日の演説において,パシュトゥーンおよびバルーチの「兄弟たち」がアの国土防衛にいかに重要な役割を担ってきたかを強調,絶賛した。以下,その他のカルマル議長演説主要点。(1)PDPA,革命評議会,政府の諸部族・氏族に対するアプローチ方法は基本的な諸文書,すなわち「ア民主共和国基本原則」(Fundamental Principles)「PDPA行動計画」(Programme of Action),国民大会議諸文書に記載されている。(2)地方選挙(8月11日参照)のカーブル州選出代表280人のうちほとんど半数はパシュトゥーン,バルーチ,ヌーリスターニー(以上,「民族体」名)だ。(3)(ア・パ)国境を閉鎖す・
DIA-503-1985-09-21-1アフガニスタン1985年09月21日1980年代ドースト外相は国連で,ソ連のシェワルナゼ外相と会見。27日,ドースト外相は第40回国連総会で演説。
DIA-503-1985-09-25-1アフガニスタン1985年09月25日1980年代革命評議会は国家行政の質と能率の向上を目指す26項目ガイドラインを発表(POT-A,11/2)。
DIA-503-1985-10-07-1アフガニスタン1985年10月07日1980年代デクエヤル国連事務総長はア問題の政治的解決のための国連調停によるア・パ間接外相会談の経過について第40回国連総会で報告するとともに4ページの報告書を提出した。以下,報告要旨。(1)6月会談で国連提案4項目(6月20日参照)のうち3項目については次のような基本的合意に達した。(2)「不干渉」協定は事実上成立。(3)「難民の自発的帰還」は難民の納得を得れば完了。(4)「国際的保証」宣言の作成も完了し,米・ソに送られた。(5)8月会談では,ア・パ双方が米・ソのコメントを検討した。(6)8月会談ではアからの外国軍撤退と他の3項目との関係を扱った第4項目については協議できなかった。(7)第4項目についてア代表はパ代表との直接会談を要求してそれに固執し,パ側はそれを突っぱねた。(8)第6回会談は12月16~20日ということで合意。
DIA-503-1985-10-20-1アフガニスタン1985年10月20日1980年代KNT紙20日によると治安当局は最近「アフガル」(Akhgar)という毛沢東主義者の一団を逮捕。
DIA-503-1985-10-24-1アフガニスタン1985年10月24日1980年代レーガン米大統領は国連40周年総会で演説,ア問題など地域紛争の解決に米ソ両国の影響力行使を提唱し,またソ連と反ア政府ゲリラの直接交渉を提唱。
DIA-503-1985-10-27-1アフガニスタン1985年10月27日1980年代インドのラジーブ・ガンディー首相は記者会見で,(1)ア問題でインドが仲介役を果たすつもりはない,(2)不幸にも米国は(ア内政不干渉などの)保証について話し合おうとしていない,などと述べた。
DIA-503-1985-10-29-1アフガニスタン1985年10月29日1980年代反政府7組織連合IIMA(5月16日参照)は国連議席獲得のために代表団をニューヨークに送り込んだ。同組織スポークスマンのヘクマティヤールHI党首は29日の記者会見で,反ア政府ゲリラとソ連の直接交渉を提唱した24日のレーガン米大統領演説は本当の当事者たちを考慮に入れたものだとして歓迎しながらも,ソ連と交渉するのは無益だと述べた(IHT,10/31)。
DIA-503-1985-10-29-2アフガニスタン1985年10月29日1980年代インドはアに対し320万アフガニー相当の機械類を贈与する文書に調印(POT-A,11/20)。
DIA-503-1985-10-31-1アフガニスタン1985年10月31日1980年代(バフタール通信)ア国家地方組織代表団(60人),ソ連のタージク共和国およびウズベク共和国への友好訪問を終えて帰国(POT-A,11/20)。
DIA-503-1985-11-05-1アフガニスタン1985年11月05日1980年代米IHT紙5日はア駐留ソ連軍脱走兵の話として,ソ連兵は軍の兵器や燃料を横流ししてヘロインの大量吸飲のための費用にしていると伝えている。
DIA-503-1985-11-06-1アフガニスタン1985年11月06日1980年代ア政府は国連総会配布書類で,レーガン米大統領の10月24日国連演説の地域紛争に関する部分を「ア,アンゴラ……等への介入を正当化する試みだ」と非難。
DIA-503-1985-11-09-1アフガニスタン1985年11月09日1980年代革命評議会臨時総会。カルマル議長は演説で以下10項目を「緊急課題」に挙げた。(1)極左逸脱行為を含む反革命活動との闘い。(2)さまざまな階層の人々を国家組織に受容。(3)土地・水利問題の解決と農業生産の向上。(4)民族資本家への便宜供与。(5)文盲撲滅。(6)後進的民族体・部族の生活向上。(7)NFFの強化および独自の大衆組織結成の促進。(8)イスラーム教の尊重。(9)軍の強化。(10)ア周辺の状況の平和的解決(POT-A,12/3)。
DIA-503-1985-11-09-2アフガニスタン1985年11月09日1980年代KNT9日によると,農業協同組合開発局管轄下の農協数は368(資本金合計2813万4000アフガニー,メンバー数6万152,管轄土地面積9万7000ha)。
DIA-503-1985-11-12-1アフガニスタン1985年11月12日1980年代第40回国連総会はアのソ連軍即時撤退要求決議案を賛成122,反対19,棄権12で採択した。
DIA-503-1985-11-13-1アフガニスタン1985年11月13日1980年代米IHT紙13日によると,今やソ連各紙はアでの“dushman”(敵)との戦いで殉死した若き英雄たちに関する記事を定期的に掲載し,テレビは戦闘シーンを流しているという(7月25日参照)。
DIA-503-1985-11-19-1アフガニスタン1985年11月19日1980年代ジュネーブでの米ソ首脳会談(~20日)はア問題の政治解決も協議。21日,スピークス米大統領副報道官はア問題でゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がア政策の変更を示唆したことを指摘し,ア問題で近く進展がある可能性があると述べた。25日,パーマー米国務副次官補は,(1)アに対する内政干渉の中止,(2)難民帰還,などでの合意が発効すると同時にソ連軍撤退を開始する,との案をソ連側が米側に示唆したことを明らかにした。
DIA-503-1985-11-21-1アフガニスタン1985年11月21日1980年代PDPA中央委員会第16回総会で重要人事。政治局員のナジブッラー博士を党書記に選出。G・D・パンジシェリー→政治局員解任(「健康上の理由」)。A・カーデル将軍→政治局員候補解任(同上)。M・I・ダーネシュ→政治局員候補解任。ナザル・モハンマド将軍(国防相)→政治局員候補。ソラエマーン・ラーエク民族・部族問題相→政治局員候補。G・F・ヤークービーKHAD第一副長官→政治局員候補から正規の政治局員へ。その他。なお,総会は「革命政権の社会的基盤の拡充」を目指す決議案を採択し,また11月9日の項目に対する支持を表明(POT-A,12/20)。
DIA-503-1985-11-21-2アフガニスタン1985年11月21日1980年代国連総会に提出された国連人権委員会の報告書は,一般市民を守るために,ソ連に支援された政権が「人権を無視して活動している地域に国際的監視下にある「中立地帯」を創設するように提案している。IIMAスポークスマンのヘクマティヤールHI党首は,IIMAは同案に合意する用意があると言明(DR,11/22)。
DIA-503-1985-11-29-1アフガニスタン1985年11月29日1980年代ソ連の世界経済国際関係研究所のプリマコフ所長,『朝日』特派員と会見。(1)(ソ連は)アの社会体制がソ連により近くなることに固執しない。(2)私は,米国務省高官と話し合った時,ソ連をアに縛りつけておこうとするグループがいることをはっきり感じた。(3)ソ連が撤兵するか否かはソ連とアの間で話し合う問題だ。(4)ソ連としてもアがワルシャワ条約機構に入ることを望んではいない。(『朝日』12/1)
DIA-503-1985-11-30-1アフガニスタン1985年11月30日1980年代革命評議会は,閣議による次の人事を承認した。Sayyed M.N.Mayhanparast→副首相。Ghulam Mohyuddin Sbahbaz→ア民主共和国統計局評議会長。
DIA-503-1985-12-10-1アフガニスタン1985年12月10日1980年代ドースト外相,第6回ア・パ間接外相会談出席の途次,ソ連を訪問。
DIA-503-1985-12-13-1アフガニスタン1985年12月13日1980年代ホワイトヘッド米国務副長官は,米がア問題の包括的解決の保証人となることを引き受ける旨の書簡をデクエヤル国連事務総長に提出したと明らかにした。
DIA-503-1985-12-16-1アフガニスタン1985年12月16日1980年代ジュネーブでア問題解決のための第6回ア・パ間接外相会談。19日,予定より1日早く終了。19日,仲介役のコルドベス国連事務次長,記者会見。(1)アとパはともに「外国軍撤退」の他の3項目(6月20日参照)では基本的に合意。(2)ムジャーヘディーン(「聖戦士」―反政府ゲリラのこと)を会談に参加させる段階ではない。(3)イランには会談結果をしらせるつもりだ。次回のア・パ会談は86年2月末または3月初旬の予定。
DIA-503-1985-12-20-1アフガニスタン1985年12月20日1980年代レーフェル米国務次官代理,記者会見。(1)(ア問題でのア・パ間接会談に関しパの一部報道で国連提案4項目の「ソ連軍撤退」についても撤退計画を踏まえて話し合われたと伝えられたが)それを裏付けるものは何もない。(2)ソ連に対し,駐留・戦闘の続行よりも早期撤退の方が外交的にも軍事的にも打撃が少ないと判断させることが大切。(3)アメリカとしては対アフガン・ゲリラ人道援助,対パ援助を続行(『朝日』12/21夕)。
DIA-503-1985-12-20-2アフガニスタン1985年12月20日1980年代PDPA中央委員会は閣議による次の重要人事を承認。Shah Nazar Helmand→ヘルマンド州知事。Shaykh Muhammad Aziz Ahmadi→バーミヤーン州知事。Qamaroddin→ローガル州知事(DR,12/20)。
DIA-503-1985-12-23-1アフガニスタン1985年12月23日1980年代IIMAのヘクティヤールHI党首,日本の報道機関と会見。(1)(『プラウダ』21日がカルマル政権に対しア国内の反政府勢力との対話を呼びかけたことに関して)ソ連は明らかに政策を変更した。(2)ソ連が直接交渉を呼びかけるなら,話し合いに応ずる用意がある。(3)ソ連は対話路線を組み込んだ。ソ連は疲れ切っているのだ。(4)過去2年間,カルマル政権の閣僚級がわれわれに対し対話工作を続けてきたが,われわれは拒否し続た。新たな要請があったとしても,それに応ずる段階ではない。交渉当事者はあくまでムジャーヘディーンとソ連だ。(5)ソ連は今年,過去最大の攻勢をかけ,25州で激しい攻撃が確認された。(6)(戦闘により)国民の間で深刻な食糧危機が続いている(『朝日』12/25)。
DIA-503-1985-12-26-1アフガニスタン1985年12月26日1980年代政府は11月9日の「10項目」実施のために次の重要人事を発表。(1)Syed Amanoddin Amin→副首相(2)Sarjan Khan Zazay→閣僚評議会(内閣)の大臣付顧問。民族体・部族問題担当。(3)Abdol Wahed Sorabi博士→内閣の大臣付顧問。社会・文化問題担当。(4)Abdol Ghafur Baher→内閣の大臣付顧問。イスラーム問題担当。(5)Fazl Haq Khaleqiar→内閣の大臣付顧問。財政・経済問題担当。(6)Mohammad Akbar Kargar→ア民主共和国印刷・出版委員長。(7)Abdol Hamid Mobarez→教育・訓練省の文盲退治担当副大臣。その他の副大臣4人。(8)省付顧問3人。なお,これらの役職者たちはさまざまな民族体・部族から選ばれているもよう。国営カープル放送は各人の出自と略歴を発表(DR,21/27)。
DIA-503-1986-01-01-1アフガニスタン1986年01月01日1980年代ア外務省は,西独の代理大使を呼び,西独が政府をあげてア反政府勢力を支援し,アに対し宣伝戦を仕掛けていると抗議。
DIA-503-1986-01-01-2アフガニスタン1986年01月01日1980年代バフタール通信は,「昨年末ごろ,パのハイバル峠地区で,アフリデー族およびシンワリー族がパ政府軍と武力抗争,パ政府軍は初め両部族のリーダーの家に攻撃をかけ,そのあと部族側が反攻した」と報道。
DIA-503-1986-01-05-1アフガニスタン1986年01月05日1980年代重要人事。検事総長にM・O・ラシェクが就任。
DIA-503-1986-01-06-1アフガニスタン1986年01月06日1980年代モロッコのフニズで開催の第16回イスラム諸国外相会議に反政府組織「アフガン・イスラム戦士同盟」のサイード・アーメド・ギラニ議長が出席。
DIA-503-1986-01-06-2アフガニスタン1986年01月06日1980年代イスラマバードの西側外交筋は,アの将軍4人が昨年12月,反政府ゲリラのA・S・マスードにソ連軍の動向などについての情報を流したとして逮捕された,と発表。激怒したソ連軍は以後軍の移動についての情報を4時間以上前にア軍に流さないことを決めた(AFP)。
DIA-503-1986-01-06-3アフガニスタン1986年01月06日1980年代ア・モンゴル協力協定に調印。
DIA-503-1986-01-08-1アフガニスタン1986年01月08日1980年代ソ連共産青年同盟機関紙『コムソモーリスカヤ・プラウダ』がア帰還ソ連兵の心の傷について初めて報道(共同)。
DIA-503-1986-01-09-1アフガニスタン1986年01月09日1980年代カルマル議長は『朝日』と会見し,「ジュネーブでのパとの間接交渉では相互理解が深まっているが,内政干渉の停止と信頼できる国際保証というソ連軍撤退のための2条件は譲れぬ」との立場を表明。
DIA-503-1986-01-10-1アフガニスタン1986年01月10日1980年代中国が反政府ゲリラ800人以上を訓練し,資金,武器を提供しているとする白書を,ア国連大使が国連事務総長に手渡し,公表。
DIA-503-1986-01-11-1アフガニスタン1986年01月11日1980年代フェズで開かれていたイスラム諸国外相会議で,ソ連軍の完全撤退要求,国民の自由な意思による指導者の選出,難民の安全な帰還などを決議。ただし,シリア,リビア,南イエメン,PLOは留保。
DIA-503-1986-01-11-2アフガニスタン1986年01月11日1980年代ア秘密警察(KHAD)創立6周年で,「国家安全保障省」と改称し,昇格。担当大臣はG・F・ヤークビー大将。
DIA-503-1986-01-15-1アフガニスタン1986年01月15日1980年代パ公式筋は,パ上空侵犯のア戦闘機4機のうちミグ21を1機撃墜,と発表。
DIA-503-1986-01-16-1アフガニスタン1986年01月16日1980年代ア革命評議会の特別会議でカルマル同評議会議長を再選。副議長はH・M・ツァムカニ(「ジルガ」議長,非党員)およびS・ウル(宗教指導者),H・ニザムデイン(商工人,非党員)の各氏。また,幹部会メンバー18人を再任し,さらに,革命評議会メンバーに非PDPAメンバー79人を追加任命(バフタール通信)。
DIA-503-1986-01-18-1アフガニスタン1986年01月18日1980年代ロイター通信など西側記者団20人カーブル着。
DIA-503-1986-01-19-1アフガニスタン1986年01月19日1980年代ソ連の援助で今後5年間に10ヵ所の職業訓練センターを設置することを決定。ガスおよび鉱業発掘,化学,繊維工業,農業,建設,輸送など(タス通信)。
DIA-503-1986-01-21-1アフガニスタン1986年01月21日1980年代中国は国連事務総長に書簡を手渡し,アの内政干渉の非難に反駁。
DIA-503-1986-01-23-1アフガニスタン1986年01月23日1980年代パの北西辺境州ペシャーワルにあるパキスタン航空(PIA)事務所で爆弾が爆発,2人死亡,30人以上が負傷した(AFP)。
DIA-503-1986-01-26-1アフガニスタン1986年01月26日1980年代カルマル議長は外国人記者団と会見し,相互不干渉の国際保証には米国の参加が不可欠,などと表明。
DIA-503-1986-01-29-1アフガニスタン1986年01月29日1980年代バフタール通信の報道によると,パのバルーチスタン州でバルーチ族とパ政府軍が衝突。パ政府軍の61人がバルーチ族側に降伏した。
DIA-503-1986-01-30-1アフガニスタン1986年01月30日1980年代PDPA中央委政治局は,新5ヵ年計画の「社会・経済開発基本方針案」を承認。
DIA-503-1986-01-30-2アフガニスタン1986年01月30日1980年代カーブル空港にロケット弾2発,米使節団住宅中庭に1発が命中(AFP,2/4)。
DIA-503-1986-02-01-1アフガニスタン1986年02月01日1980年代米,アの最恵国待遇停止の決定を発表。
DIA-503-1986-02-08-1アフガニスタン1986年02月08日1980年代カーブル空港第一期拡張工事が完成,ラフィー副首相,ペトロフ・ソ大使館経済顧問らが出席して式典。
DIA-503-1986-02-09-1アフガニスタン1986年02月09日1980年代スウェーデン Dagens Nyheter紙はヘラート潜入記で,ソ連による焦土作戦を「80年代の広島」と形容。
DIA-503-1986-02-10-1アフガニスタン1986年02月10日1980年代PDPA中央委政治局で,86~90年の社会・経済開発計画(基本方針)を採択。5年間で国民所得26%,工業生産28%,農業生産は14~16%それぞれ増加する,としている。
DIA-503-1986-02-13-1アフガニスタン1986年02月13日1980年代ア・ソ連の86~90年間の貿易協定および付属文書,モスクワで調印,貿易額は30%増加の予定(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-02-18-1アフガニスタン1986年02月18日1980年代ポーランド在住の約30人のア学生が17日,大使との面会を要求してワルシャワのア大使館を占拠,18日ポーランド警察により追放された。
DIA-503-1986-02-20-1アフガニスタン1986年02月20日1980年代反政府勢力とソ連軍は,ゲリラ,ソ連軍兵士各1名ずつをカンダハール地区で交換(DPA)。
DIA-503-1986-02-25-1アフガニスタン1986年02月25日1980年代第27回ソ連逗共産党大会でゴルバチョフ書記長が演説。ア問題に触れて「ソ連の安全もンの隣国の安全も考慮せず,ソ連の国境情勢を先鋭化させようとする連中が少なくない。たとえば,反革命と帝国主義はアを鮮血の流れる傷口に変えた。われわれは,ア政府の要請によって同国に駐留するソ連軍をもっとも早い時期に本国に帰還させたいと考えている。アの内政に対する外部からの武力干渉が実際に停止され,さらに,将来再開されないことを確実に保証する政治解決が達成され次第行なわれるソ連軍の段階的撤退の段取りについて,ア側との間ですでに合意している」と語った。
DIA-503-1986-02-27-1アフガニスタン1986年02月27日1980年代ソ連・ア友好条約締結65周年にあたり,ソ連共産党中央委,最高会議幹部会などと祝電を交換。
DIA-503-1986-03-01-1アフガニスタン1986年03月01日1980年代ソ連党大会出席のため訪ソ中のカルマル議長が記者会見し,ソ連の協力を称賛。
DIA-503-1986-03-03-1アフガニスタン1986年03月03日1980年代ア外務省はイランに対し,イランは過去1年間に63回ア領土ないし領空を侵犯し,20人を殺害,245人を負傷させ,19人を連行した,と抗議。
DIA-503-1986-03-05-1アフガニスタン1986年03月05日1980年代ソ連共産党大会で,日本,イタリア,スウェーデン共産党の代表などが,ソ連のアフガンにおける行動を非難する姿勢を見せたと『プラウダ』紙が報道。
DIA-503-1986-03-07-1アフガニスタン1986年03月07日1980年代コルドベス国連特使はイスラマバードに到着し,ヤクーブ・カーン・パ外相と4次に及ぶ会談の後,10日カーブルへ。ドースト・ア外相と会談し,13日再度イスラマバードを訪問。15日またカーブルに戻り,17日またイスラマバードへ。ソ連軍撤退の計画案が正式に提案されたことを明らかにし,ニューヨークに帰任した。
DIA-503-1986-03-08-1アフガニスタン1986年03月08日1980年代カルマル議長ら訪ソ団が帰国。
DIA-503-1986-03-10-1アフガニスタン1986年03月10日1980年代英国のサッチャー首相,ハウ外相は,ア反政府勢力の代表と会見。11日にア政府がこの会見を非難。
DIA-503-1986-03-12-1アフガニスタン1986年03月12日1980年代米86年版『ソ連の軍事力』は,ア駐留のソ連軍は11万8000人で,87年には12万人に達する見込みと推定。
DIA-503-1986-03-18-1アフガニスタン1986年03月18日1980年代ア軍機がパ領クラム地区に越境爆撃し,民兵5人が死亡,14人が負傷(イスラマバード,AFP)。
DIA-503-1986-03-19-1アフガニスタン1986年03月19日1980年代ソ連外国貿易省によると,85年のア・ソ連の往復貿易額は8億7000万ルーブル以上。内訳は,ソ連の輸出が5億5020万ルーブル,アの輸出が84年比1900万ルーブル増の3億2300万ルーブル。また,ソ連国家対外経済交流委員会によると,ソ連の援助でアに建設された,または建設過程にある施設は200を超す(タス通信)。
DIA-503-1986-03-20-1アフガニスタン1986年03月20日1980年代ア革命評議会幹部会は,1986年以後の地税支払いを条件に,81~85年の農民の地税不払いの罰金免除を決める布告を発布。
DIA-503-1986-03-21-1アフガニスタン1986年03月21日1980年代レーガン米大統領は「アの日」記念メッセージを発表し,自由への戦いを称賛。また,米国務省近東・南アジア問題局のC・ダンパー特別補佐官は,外人記者クラブで会見し,ソ連は85年以来,SPETZNATZとよばれる特殊部隊6~7大隊を投入している,と発表。
DIA-503-1986-03-22-1アフガニスタン1986年03月22日1980年代スウェーデン各地でソ連軍のア駐留に反対するデモ。外務次官もソ連軍の駐留に非難の演説。
DIA-503-1986-03-23-1アフガニスタン1986年03月23日1980年代ア・ソ連経済開発常任委員会が開催され,協力計画書に調印。ソ連の対ア援助額を前年より70%増加,65の開発計画に資金・技術援助を行なうことになった。
DIA-503-1986-03-27-1アフガニスタン1986年03月27日1980年代ジア・ウル・ハック・パ大統領がパリの夕刊紙と会見。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がア政策の誤りを悟り,従来の考えを変える可能性がある,と示唆。
DIA-503-1986-03-30-1アフガニスタン1986年03月30日1980年代カルマル議長が訪ソ。
DIA-503-1986-04-01-1アフガニスタン1986年04月01日1980年代ジア・パ大統領は米『ロサンジェルス・タイムズ』紙とのインタビューで,米国によるア反政府勢力への武器援助強化に対する反対を表明。
DIA-503-1986-04-02-1アフガニスタン1986年04月02日1980年代米『ワシントン・ポスト』紙は米政府筋情報として,ソ連がア駐留ソ連軍の段階的撤退のタイムテーブルをパに提示した,と報道。
DIA-503-1986-04-04-1アフガニスタン1986年04月04日1980年代米国務省はアをリビア,レバノン,イランなどと並ぶ世界44ヵ所の危険地帯の一つに指定,米国人旅行者の注意を呼びかけた(AP)。
DIA-503-1986-04-04-2アフガニスタン1986年04月04日1980年代82年10月以来追放されていた国際赤十字の代表が3年半ぶりにカーブルに到着(ジュネーブで10日発表)。
DIA-503-1986-04-04-3アフガニスタン1986年04月04日1980年代ソ連・政府軍は,東部パクティヤー州ザワル地区にある反政府勢力最大の基地に対する大攻勢を開始。攻撃側司令官はナビー・アジミー大将,反政府側のハッカーニ司令官は5日,ナパーム弾により負傷した(共同,AFP)。政府軍は25日一連の作戦を終えカーブルに凱旋(カーブル放送)。反政府側は27日再占拠した,と発表(共同)。
DIA-503-1986-04-08-1アフガニスタン1986年04月08日1980年代イスラマバードの西側外交筋は,ソ連軍はリン酸爆弾を使用している証拠がある,と発表(AFP)。
DIA-503-1986-04-21-1アフガニスタン1986年04月21日1980年代ケシュトマンド首相はソ連の招待でモスクワに到着。ルイシコフ・ソ連首相と会見,24日には共同声明発表。ア問題には特別言及なし(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-04-21-2アフガニスタン1986年04月21日1980年代ア・ソ連デー参加のための代表団(団長・ペトロフ白ロシア共和国副首相)がカーブルに到着。
DIA-503-1986-04-24-1アフガニスタン1986年04月24日1980年代ア政府,4月革命8周年記念恩赦を発表,ただし政治犯は含まず(カーブル放送)。
DIA-503-1986-04-24-2アフガニスタン1986年04月24日1980年代ア政府は革命8周年を記念して軍人の大量昇進を発表,しかし,正確な昇進人数は不明(カーブル放送)。
DIA-503-1986-04-25-1アフガニスタン1986年04月25日1980年代85年末のア難民は348万人で,うち約270万人がパに,残りがイランに在住している,と米難民委員会が発表(共同,2/25)。
DIA-503-1986-04-25-2アフガニスタン1986年04月25日1980年代モスクワでア4月革命8周年記念集会。チタ,ドネツク,ミンスクなどでは28日に集会(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-04-26-1アフガニスタン1986年04月26日1980年代ア電力省と全ソ工業技術輸出公団「テクノプロム・エクスポルト」が電力産業について大規模な契約に調印。ソ連はアに対し,送電線建設の設備・資材を供与することが決まった(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-04-27-1アフガニスタン1986年04月27日1980年代革命8周年記念式典がカーブルで開かれたが,カルマル革命評議会議長は訪ソ中で姿を見せず,ソ連の国営ラジオを通じて革命の成果などについて語った。26日のPDPA政治局会議についての報道ではカルマル氏の名前は言及されず,軍事パレードでは,ナザル・モハマド国防相が閲兵した。
DIA-503-1986-05-01-1アフガニスタン1986年05月01日1980年代カルマル議長がソ連から特別機で帰国(カーブル放送)。
DIA-503-1986-05-02-1アフガニスタン1986年05月02日1980年代革命評議会議長官邸付近で女性グループがデモを行なったが秘密警察に解散させられた。この日始まったPDPA中央委総会でのカルマル書記長更迭の動きに抗議しようとするものと見られる(ロイター)。
DIA-503-1986-05-04-1アフガニスタン1986年05月04日1980年代PDPA中央委第18回総会で,「健康上の理由」によるカルマル書記長の辞任を承認,後任にナジブ氏が選出された。ナジブ氏はカルマル政権成立後,秘密警察(KHAD)長官をつとめ,85年11月から党中央委書記。カルマル氏は革命評議会議長,党中央委政治局委員にはとどまる(カーブル放送)。
DIA-503-1986-05-05-1アフガニスタン1986年05月05日1980年代ジュネープでコルドベス国連特使の仲介により,第7回ア・パ間接外相会談を開始,この会談は,23日いったん中断され,次回は7月末から再開予定。
DIA-503-1986-05-06-1アフガニスタン1986年05月06日1980年代西側外交筋によると,ナジブ新書記長選出の直後,ソ連軍の戦車がカーブルの主要政府建物を包囲し,政府軍の兵舎を封鎖した(AP,ロイター)。また,AFP通信は,4日から8日までに学校などで少なくとも8件の反ナジブ・デモがあった,と伝えた。
DIA-503-1986-05-08-1アフガニスタン1986年05月08日1980年代PDPA中央委は検事局の業務遂行状況を検討,必ずしも十分ではないとして汚職,贈収賄,その他犯罪との闘いを強化するよう指示した(バフタール通信)。
DIA-503-1986-05-11-1アフガニスタン1986年05月11日1980年代パクティヤー州ザジ地区でソ連軍兵士とア反政府勢力州司令官との捕虜交換(新華社,4/20)。
DIA-503-1986-05-13-1アフガニスタン1986年05月13日1980年代ア国境に近いパ北西辺境州のテリマンガルでア軍の越境砲撃を受け,1人死亡,約30人が負傷(AP)。
DIA-503-1986-05-13-2アフガニスタン1986年05月13日1980年代カーブルでカルマルPDPA書記長の解任に対する抗議デモがあり,学生,主婦ら約200人が逮捕(AP)。
DIA-503-1986-05-17-1アフガニスタン1986年05月17日1980年代4月に締結したア・ソ連経済・技術協力協定が閣議承認された.(1)北部アにおける天然ガスの探査,ガス工業,採掘の強化,(2)発電所の建設,送電網の整備などが盛られている(カーブル放送)。
DIA-503-1986-05-17-2アフガニスタン1986年05月17日1980年代パ政府は,領空侵犯したアのミグ21戦闘機1機を撃墜,さらに1機を大破し,パーラチナールに不時着させた,と発表(AP)。ア政府はこれを否定(バフタール通信)。
DIA-503-1986-05-23-1アフガニスタン1986年05月23日1980年代ナビー・ア国家安全保障省(KHAD)次官らの乗ったジープがカンダハル近くで地雷に触れ,同乗の同省職員3~5人とともに死亡(共同,6/3)。
DIA-503-1986-05-25-1アフガニスタン1986年05月25日1980年代パフタール通信は,パの北西辺境州で爆弾事件などが相次ぎ,ア反政府勢力追放を要求する声が強まっている,と報道。
DIA-503-1986-05-29-1アフガニスタン1986年05月29日1980年代ア政府,過去の徴兵忌避者,脱走兵は,6ヵ月以内に出頭すれば処ばつしない,と発表(カーブル放送)。
DIA-503-1986-05-31-1アフガニスタン1986年05月31日1980年代パのカルディ難民キャンプで反政府勢力のネオイザイ,アーチャクザイ両部族が武器弾薬の配給をめぐって衝突し,21人が死亡した(ロイター)。
DIA-503-1986-06-02-1アフガニスタン1986年06月02日1980年代ア空軍のM・A・カーン准将がパに亡命。パグラム基地航空機整備工場に勤務していたが,過去1年間に40機の航空機が破壊された,と語った(AP)。
DIA-503-1986-06-13-1アフガニスタン1986年06月13日1980年代ソ連国家テレビ・ラジオ委員会とア国家ラジオ・テレビ・映画委員会の86~88年協力議定書がモスクワで調印。
DIA-503-1986-06-15-1アフガニスタン1986年06月15日1980年代ア政府は,軍務終了をもって高等教育履行とみなすことにより,18歳以上の全学生を2年間の軍務へ登録すると布告。ア兵力を現有3万5000人から21万人へするため,増強,という(AFP)。軍隊が大学などの教育施設を包囲し,この日だけで7600人の学生を徴用した(タンユグ通信,6/30)。
DIA-503-1986-06-16-1アフガニスタン1986年06月16日1980年代ア反政府勢力のS・ゲラーニは元ア国王ザーヘル・シャーと会談のためローマに到着(AFP)。
DIA-503-1986-06-16-2アフガニスタン1986年06月16日1980年代訪米中の7反政府勢力指導者4人はホワイトハウスでレーガン米大統領と会見,独自の政権樹立の意向を示したが,支持は得られなかった(AP)。
DIA-503-1986-06-16-3アフガニスタン1986年06月16日1980年代農業開発銀行に対する利子および元金返済遅延について罰金の支払い免除を閣議決定(バフタール通信)。
DIA-503-1986-06-22-1アフガニスタン1986年06月22日1980年代重要人事。モハマド・アジーズ食糧・軽工業相を副首相兼国家計画委員長に任命。ロマール国家計画委員長は食糧・軽工業相に(カーブル放送)。
DIA-503-1986-06-23-1アフガニスタン1986年06月23日1980年代カーブルの国家警察アカデミーがロケット攻撃を受け,少なくとも26人が死亡(AFP)。
DIA-503-1986-06-23-2アフガニスタン1986年06月23日1980年代反政府勢力のブルハヌディン・ラバーニがシラク仏首相と会談(AFP)。
DIA-503-1986-06-27-1アフガニスタン1986年06月27日1980年代重要人事。ソ連最高会議幹部会は,フィクリャト・アフジャーノビッチ・タペーエフを第一副首相に任命。タベーエフは79年のソ連軍のア侵攻直前から駐カーブル大使をつとめていた(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-07-02-1アフガニスタン1986年07月02日1980年代アブドル・ラヒム・ファチフ・ア民族祖国戦線中央評議会議長がモスクワでグロムイコ・ソ連最高会議幹部会議長と会見(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-07-07-1アフガニスタン1986年07月07日1980年代ソ連・ア道路建設協力に関する議定書にカーブルで調印(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-07-10-1アフガニスタン1986年07月10日1980年代ナジブ書記長はPDPA中央委員会第19回総会で,多くの党員,政府職員は革命への奉仕に失敗し,権力を乱用し無能であった,と批判。また,アサドラ・サルワーリ元副首相,秘密警察長官など3人を罷免。ナジブ側近のスレマン・ラエク民族・部族問題相は政治局員に昇格。モハマド・ファルーク・ヤクービ国家安全保障相,ミール・サーヒブ・カルワル宣伝長官はそれぞれ政治局員候補に昇格。カルマル側近の陸軍政治問題主任ヤシーン・シディキ中佐を中央委員会書記から異動(カーブル放送)。
DIA-503-1986-07-12-1アフガニスタン1986年07月12日1980年代ソ連国防省機関紙「赤い星」はウズベク共和国の高官数人が,徴兵された息子がアに送られないようにその地位を利用して工作していると名指しで暴露。
DIA-503-1986-07-18-1アフガニスタン1986年07月18日1980年代クラウド・マルウレ仏首相付き人権問題担当国務相が,アで人道的救助活動を行なう仏の民間団体に200万フランの資金援助をする,と発表。仏では「国境のない医師団」「世界の医療」「アフラン」などの民間奉仕団体が,80年以来延べ800人の医師や看護婦をアに送っている(『フィガロ』紙)。
DIA-503-1986-07-21-1アフガニスタン1986年07月21日1980年代ア軍パクティヤー州副司令官ナージムムッディン大佐が負傷し,死亡した。葬儀にはナザル・モハマド国防相らが出席(カーブル放送,7/23)。
DIA-503-1986-07-24-1アフガニスタン1986年07月24日1980年代カーブル放送はア児童200人が「ピクニック」にソ連に送られた,と報道。イスラマバードの西側筋は,ア児童の計画的ソ連化の一部とみている(AP)。
DIA-503-1986-07-28-1アフガニスタン1986年07月28日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長はウラジオストクてアジア政策について重大演説。アに関する部分は次のとおり。「形成されつつある情勢を徹底的に検討するとともに,ア政府との協議を行なったソ連指導部は86年末までにアから6連隊を本国に帰国させるとの決定を採択し,本日,正式に発表する。帰還するのは機甲連隊1,自動車化狙撃連隊2,対空砲兵連隊3で兵器,機材を伴う。(ソ連は)。これによって政治解決を促進し,それに新たな弾みを与えることを願う」(モスクワ放送)。パ政府は「小さな進歩だが,歓迎」と発表(AP)。
DIA-503-1986-07-31-1アフガニスタン1986年07月31日1980年代5月23曰いらい中断されていたジュネーブのア・パ間接外相会談を再開。
DIA-503-1986-08-01-1アフガニスタン1986年08月01日1980年代反政府勢力は,3グループ合同でカーブルの秘密警察本部を攻撃,29人を死亡させた,と発表(タンユグ通信)。
DIA-503-1986-08-01-2アフガニスタン1986年08月01日1980年代ア・パ国境地域の部族民代表らによるロイヤ・ジルガ(大部族集会)。がペシャーワルで開かれ,カーブル政権が部族地域への砲爆撃を停止しないなら,部族民は実力行使に出る,と警告(『ドーン』紙,6/7)。
DIA-503-1986-08-08-1アフガニスタン1986年08月08日1980年代ジュネープで行なわれていたア・パ間接交渉が再び中断。ソ連軍撤退のタイムテーブルで対立した。
DIA-503-1986-08-08-2アフガニスタン1986年08月08日1980年代イスラマバードの西側外交筋によると,反政府勢力がカーブルに大規模なロケット砲攻撃をかけ,ソ連,ポーランド大使館にも命中した(AP)。
DIA-503-1986-08-09-1アフガニスタン1986年08月09日1980年代ア当局は過去5ヵ月で25トン以上の麻薬を押収した,と発表(タンユグ通信)。
DIA-503-1986-08-10-1アフガニスタン1986年08月10日1980年代バフタール通信は,バがア反政府勢力支援のため国境民兵をアに送り込んでいる,とパを非難。
DIA-503-1986-08-10-2アフガニスタン1986年08月10日1980年代カーブルで8ヵ月抑留されていた反政府勢力のリーダーとソ連軍軍曹をヒズペ・イスラミ(イスラム党)。のグループが人質交換。
DIA-503-1986-08-11-1アフガニスタン1986年08月11日1980年代ア外交官が家族と列車でモスクワに向かう途中,北部イランで襲われ,負傷,報告書入りの外交行嚢などを奪われた,と7がイラン当局に抗議。
DIA-503-1986-08-14-1アフガニスタン1986年08月14日1980年代ソ連,新駐ア大使にパーベル・モジャニア党中央委員候補を任命。同氏は83年からのレニングラード州党第2書記だった(UPI)。
DIA-503-1986-08-17-1アフガニスタン1986年08月17日1980年代反政府組織ジャミアテ・イスラミはソ連との国境に近いタハール州フェルカー渓谷でソ連・政府軍基地を攻撃,20日に陥落させた,と発表。85年のパンジシェール渓谷プシゴア基地陥落いらい最大の戦果という(ロイター,9/2)。
DIA-503-1986-08-19-1アフガニスタン1986年08月19日1980年代英の国防誌『ジェーン・ウィークリーはア・ゲリラは英国製対空ミサイル発射機を装備し,最近多くのソ連ヘリを撃墜している,と報道。
DIA-503-1986-08-22-1アフガニスタン1986年08月22日1980年代ファーリン・ソ連ノーボスチ通信社長は,今秋のソ連軍のア撤退はまず8000人の規模だ,と発表。
DIA-503-1986-08-26-1アフガニスタン1986年08月26日1980年代カーブル郊外の第8師団弾薬庫が大爆発,近くのミサイル中隊にも飛び火し,大きな犠牲がでた(AP)。ナジブ書記長も現地を視察(カーブル放送)。
DIA-503-1986-09-02-1アフガニスタン1986年09月02日1980年代モスクワでア問題に関する米ソ実務者会談を開催。ソ連側からアレクセーニフ外務省近東局長,米側からラッフェル中東・南アジア担当国務次官補第一代理らが出席(モスクワ放送)。
DIA-503-1986-09-07-1アフガニスタン1986年09月07日1980年代ハラレで開かれた非同盟諸国首脳会議は「ア駐留外国軍隊の撤退とアの独立,主権の尊重にもとづく政治解決」を要求する決議を採択。
DIA-503-1986-09-09-1アフガニスタン1986年09月09日1980年代ソ連軍がカーブル地区で新たな攻撃を開始。パグマンが集中砲火を浴びている,と西側外交筋が発表(ロイター)。毎日15人程度のア兵士が死亡し,カーブルの病院は負傷兵であふれている,という(AFP,9/23)。
DIA-503-1986-09-10-1アフガニスタン1986年09月10日1980年代国際赤十字委員会のジャン・ミセル・モノド代表がカーブルからパのペシャーワルに到着し,ア当局と戦病者用のセンター設置で協議中,と言明(ロイター)。
DIA-503-1986-09-17-1アフガニスタン1986年09月17日1980年代ソ連のリガで開かれたソ連・米国セミナーでコルニエンコ・ソ連共産党中央委員が,米国の軍事顧問がアで死亡したことを確認した,と言明。ア市民に対する犯罪は米国製のソ連服着用の者によって行なわれていた,と語った(UPI)。
DIA-503-1986-09-27-1アフガニスタン1986年09月27日1980年代ソ連・ア政府間経済協力委員会第6回会議が28日までカーブルで開催,ソ連側はムラホフスキー第一副首相兼国家農工委員会議長,ア側はM・アジス副首相兼国家計画委員会議長が団長をつとめた(『プラウダ』9/30)。28日調印された議定書では,電気,地質調査,ガス,石油工業,軽工業,食品工業,運輸,貿易,住宅建設,農業,灌漑,公務員の訓練,計画立案の各分野で協力を進めることになっている(カーブル放送)。
DIA-503-1986-09-28-1アフガニスタン1986年09月28日1980年代カーブル放送によると,カーブルのソ連貿易機関近くで車に仕掛けられた爆弾が爆発,学童2人を含む3人が死亡。他方,イスラマバードの西側外交筋の話では,カーブルのソ連大使館のカフェテリアに反政府勢力のロケット弾が命中,ナジブ・ア書記長と会見していたムラホフスキー・ソ連第一副首相がかろうじて負傷を免れた。また別の西側外交筋によると,ソ連大使館構内で車が爆発,ソ連児童2人,守衛1人が死亡(AFP)。
DIA-503-1986-09-29-1アフガニスタン1986年09月29日1980年代タス通信は,ア反政府勢力に加わっていた日本人男性が政府軍との戦闘で死亡した,と発表。しかし,日本国内の調査では該当者は不明(『朝日』)。
DIA-503-1986-10-02-1アフガニスタン1986年10月02日1980年代カーブル放送は,約2週間前にア国境の村にパがミサイル攻撃をかけ,児童60人,兵士1人,民間人1人が死亡,他に村民44人が負傷した,と放送。また,同放送は9月19日にはカンダハール州スピンバルダク県に700発のミサイルが撃ち込まれ,カーブル駐在パ代理大使に抗議した,と伝えた。
DIA-503-1986-10-10-1アフガニスタン1986年10月10日1980年代ア政府は,クンドゥーズ州の州農業銀行と州食粗・公共補給局が汚職・横領容疑て調査され,職員若干名が罷免された,と報道。
DIA-503-1986-10-10-2アフガニスタン1986年10月10日1980年代第4回ア・ブルガリア技術・経済・貿易・科学協力委員会をカーブルで開催。
DIA-503-1986-10-14-1アフガニスタン1986年10月14日1980年代イスラマバードの西側外交筋は,ソ連・政府軍が10月初めショマリ地区で家畜,穀物の大量撲滅の野蛮な作戦を行なった,と公表(DPA)。
DIA-503-1986-10-15-1アフガニスタン1986年10月15日1980年代ア駐留ソ連軍一部部隊の撤退が西部のシンデンド基地で開始。カーブルの駐在ソ連軍陸軍統合参謀部代表のミハイル・ソトコフ将軍が「撤退する兵士らは,ソ連領中央アジアのトルコメンに滞在することになろう」と言明(AFP)。
DIA-503-1986-10-15-2アフガニスタン1986年10月15日1980年代ジア・パ大統領は「パ情報当局の情報では,ソ連はア駐留軍の部分撤退を前にして,この3ヵ月間に1.5万人の軍隊を新たにアに派遣している」と言明。
DIA-503-1986-10-17-1アフガニスタン1986年10月17日1980年代駐留ソ連軍一部撤退第2陣の撤兵式がクンドウーズで行なわれた。
DIA-503-1986-10-19-1アフガニスタン1986年10月19日1980年代駐留ソ連軍一部撤退の第3陣としてカーブル駐在の対空砲兵隊の撤兵式がバラーヒサル基地で行なわれ,カルマル議長がほぼ1ヵ月ぶりに姿を見せた(『朝日』)。
DIA-503-1986-10-27-1アフガニスタン1986年10月27日1980年代アから撤退予定のソ連軍6個連隊のうち最後の対空砲兵部隊の撤兵式がクンドゥーズでワタンジャル通信相の出席で開かれ,15日からのソ連軍一部撤兵が終了。
DIA-503-1986-10-28-1アフガニスタン1986年10月28日1980年代イスラマバードの西側外交筋によると,ア反政府勢力は先週,撤兵中のソ連軍対空砲兵部隊をサラン峠付近で急襲し,兵士35人を殺害した(AFP)。
DIA-503-1986-10-28-2アフガニスタン1986年10月28日1980年代モハマド・サリームPDPA政治局員候補兼ヘラート州党書記が27日,イラン国境付近で反政府勢力による地雷のため死去,ヘラートで国葬(カーブル放送)。
DIA-503-1986-11-02-1アフガニスタン1986年11月02日1980年代副首相にモハマド・ハキームを任命。
DIA-503-1986-11-02-2アフガニスタン1986年11月02日1980年代中国共産党機関紙人民日報は,先月のアからのソ連軍部分撤兵について「みせかけの部分撤兵」と題する長文の評論を掲げ「本当に誠意をもって政治的解決を図ろうとしているか疑わしい」と厳しく批判。
DIA-503-1986-11-02-3アフガニスタン1986年11月02日1980年代ケシュトマンド首相らが第42回経済相互援助会議(コメコン)。総会出席のためルーマエア訪問(~6日)。
DIA-503-1986-11-03-1アフガニスタン1986年11月03日1980年代カーター元米大統領は,ジア・パ大統領と共にパのナセルバーグのア難民キャンプを訪問。
DIA-503-1986-11-05-1アフガニスタン1986年11月05日1980年代米が反政府勢力に地対空スティンガー・ミサイル2基を供与,このためバフタール航空の民間機が撃墜され,52人が死亡した,とバフタール通信が報道。
DIA-503-1986-11-06-1アフガニスタン1986年11月06日1980年代ニューヨークの国連本部ビルで,記者会見のため同ビルを訪れたア反政府勢力のアフガニスタン・ムジャヘディン・イスラム同盟(IUMA)。の代表4人にア国連代表部の職員らが殴りかかり,乱闘(共同)。
DIA-503-1986-11-07-1アフガニスタン1986年11月07日1980年代S・タナイ参謀総長はバフタール通信と会見し,国内の反政府勢力の活動を停止させるにはパ,イランとの国境を封鎖する必要がある,と強調。
DIA-503-1986-11-09-1アフガニスタン1986年11月09日1980年代タハル州の反政府勢力ゲリラ80人が政府側に降伏した,とバタール通信が報道。同通信によると過去3ヵ月間に30グループ以上約2000人が政府側に降伏し,約100グループが戦闘中止の意思を表明しているという。
DIA-503-1986-11-11-1アフガニスタン1986年11月11日1980年代デクエヤル国連総長はア問題に関する国連人権委員会の特別報告書を国連総会に送付。ア難民が同国人口の3分の1以上の500万人以上を占め,外国(ソ連軍)の駐留による内戦が深刻な人権侵害を引き起こしている,としている。また,8000人のソ連兵の撤退にもかかわらず,戦闘,難民とも増えている,という。
DIA-503-1986-11-11-2アフガニスタン1986年11月11日1980年代PDPA政治局会議は子弟を海外に留学させるなどして兵役を忌避させている党幹部がいる,と指摘。今後は兵役終了者以外は留学させず,現在留学中の者も帰国しだい兵役につかせる,と決議。
DIA-503-1986-11-12-1アフガニスタン1986年11月12日1980年代スラマバード発のタンユグ通信によると,カルマル派のラフティ,グルダット両将軍が公職から追放されたと報道。他に,カディル将軍とサルボランド(党幹部)。がそれぞれポーランド,キューバ大使に任命され,さらに下級党員の間でもカルマル派メンバーの逮捕が続いている,という。また,同通信は最近の地方選挙で18~19歳の青年が地方政府で重要な位置を占めるようになり,「権力構造を転換する」ナジブ書記長の政策が着々と実施に移されている,という。
DIA-503-1986-11-12-2アフガニスタン1986年11月12日1980年代ファラおよびヘラート地区で,政府軍兵士100人以上が脱走,反政府勢力に加入とパキスタン放送が報道。
DIA-503-1986-11-19-1アフガニスタン1986年11月19日1980年代国際人権擁護組織アムネスティ・インターナショナルはア政府の政治犯虐待についての報告を発表。反政府活動,ゲリラ勢力への協力を名目に政府職員,ビジネスマン,学生多数の逮捕,拷問が日常的に行なわれている,という。また,ンの現場にソ連関係者が立ち会っており,共犯者であるとして,グロムイコ・ソ連最高会議幹部会議長に事態の改善と反省を求める書簡を送った。
DIA-503-1986-11-20-1アフガニスタン1986年11月20日1980年代重要人事。革命評議会が開かれ,カルマル革命評議会議長・最高会議幹部会議長の辞任を承認(カーブル放送),後任の革命評議会議長代行にパクティヤー州出身の非党員H・M・ツァムカニ同評議会副議長を任命(CTK通信)。カルマル氏はPDPA党員,革命評議会議員を除き,党中央委員からも退いた。また,第20回PDPA全体会議で,ヤクビ国家安全保障相を政治局員に,ゴラブゾイ内相,マズダク・ア民主青年組織第一書記をそれぞれ政治局員候補に昇格。他に,ユリシュ外務次官ら9人が中央委員に選出された(カーブル放送)。
DIA-503-1986-11-22-1アフガニスタン1986年11月22日1980年代第20回PDPA中央委全体会議におけるナジブ書記長の演説を発表(カーブル放送,ダリー語)。
DIA-503-1986-11-23-1アフガニスタン1986年11月23日1980年代コルドベス国連事務次長はカーブルを訪問,ナジブ書記長,ドースト外相と会談,25日パへ。29日再びアを訪れ,12月1日またパを経てニューヨークへ。
DIA-503-1986-11-26-1アフガニスタン1986年11月26日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪印に反対するア難民がニューデリーでデモ,難民60人が逮捕。
DIA-503-1986-11-26-2アフガニスタン1986年11月26日1980年代ソ連中央アジア諸共和国の代表団がアを訪問。12月3日までア各地を歴訪した。
DIA-503-1986-11-27-1アフガニスタン1986年11月27日1980年代新華社通信は,ア反政府勢力はア国内に仮政府樹立を真剣に考慮中であると,と報道。
DIA-503-1986-11-28-1アフガニスタン1986年11月28日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長がニューデリーで記者会見し,ア問題について「具体的作業が進行しており,早期解決を楽観している」と述べた。
DIA-503-1986-11-29-1アフガニスタン1986年11月29日1980年代イスラマバードの西側外交筋によると,カルマル革命評議会議長の更迭はソ連の意図で行なわれたものであり,当時カーブルは厳重な警戒体制の下にあった,という。また,同筋によると,パルチャム派は,カルマル派,ナジブ派,N・A・ヌール派,ケシュトマンド派の4派に分裂,さらに,ナジブ書記長はパシュト族重視政策をとっており,党中央委政治局員15人のうちパシュト族は5人から11人に増加(AFP)。
DIA-503-1986-12-01-1アフガニスタン1986年12月01日1980年代米『ニューヨーク・タイムズ』紙は,複数の米政府高官の情報として,イランへの武器秘密売却代金の一部がアフガニスタンの反政府勢力にも流れた,と報道。
DIA-503-1986-12-01-2アフガニスタン1986年12月01日1980年代ペシャーワル反政府筋情報では,カーブルの東30kmでソ連製輸送機を撃墜し,少なくとも25人が死亡(AFP)。
DIA-503-1986-12-04-1アフガニスタン1986年12月04日1980年代重要人事。ナザル・モハマド准将を第一副首相に,ラフィ准将を国防相に任命。S・M・ドースト外相が外務担当国務相兼国連大使に任命され,後任の外相にアブドル・ワキールが就任。
DIA-503-1986-12-07-1アフガニスタン1986年12月07日1980年代ソ連は侵攻以来,ソ連軍の基地にしてきたフォート・カーブルをア政府に返還。100万ルーブル相当の新たな建物が建設されているという。
DIA-503-1986-12-07-2アフガニスタン1986年12月07日1980年代ケシュトマンド首相は,1986~91年のソ連の援助はこの期間の外国援助の4分の3に及ぶであろう,と言明。開発計画への援助は3600万ルーブルが予定されている。
DIA-503-1986-12-11-1アフガニスタン1986年12月11日1980年代ナジブPDPA書記長は就任以来初めてモスクワを公式訪問。12日,ゴルバチョフ書記長と会見。
DIA-503-1986-12-13-1アフガニスタン1986年12月13日1980年代モスクワで開かれた歓迎夕食会でナジブ書記長が「国民和解を推し進め,現在一時的に国外にいる勢力も含む国民統一政府をつくる」と言明。ただし,「国の歴史的革新の事業に参加が義務」との条件を付加。
DIA-503-1986-12-19-1アフガニスタン1986年12月19日1980年代ソ連国防省のソツコフ中将は記者会見で,ア反政府勢力が11月末に米国製スティンガー・ミサイルを実戦使用した,と言明。
DIA-503-1986-12-26-1アフガニスタン1986年12月26日1980年代反政府勢力側のアフガン通信は,今年アで死傷した同国政府軍,ソ連軍は8321人で,そのうち55%(約4600人)。以上はソ連将兵である,と発表(新華社)。
DIA-503-1986-12-27-1アフガニスタン1986年12月27日1980年代ハウ英外相は,ソ連軍ア侵攻7周年の声明を発表,ア駐留ソ連軍の迅速かつ完全な撤退を求めた。
DIA-503-1986-12-27-2アフガニスタン1986年12月27日1980年代ソ連国防省機関紙『クラスナヤ・ズペズダ』は,カーブル近郊でソ連軍輸送機にゲリラの米国製ミサイルが命中,同機はカーブル空港に緊急着陸,と報道。
DIA-503-1987-01-01-1アフガニスタン1987年01月01日1980年代ア政府は反政府ゲリラとの戦闘を15日から全土で一方的に停止する,と発表。ナジブ書記長は停戦は国民和解路線の一環であると述べた。
DIA-503-1987-01-01-2アフガニスタン1987年01月01日1980年代反政府ゲリラ主要7組織の連合体,アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のスポークスマン,ナビ・モハマディ・イスラム革命運動議長は停戦呼びかけを無視する姿勢を強調。
DIA-503-1987-01-02-1アフガニスタン1987年01月02日1980年代米国務省スポークスマンは米国は声明より行動を望むと停戦宣言を論評。
DIA-503-1987-01-03-1アフガニスタン1987年01月03日1980年代ア革命評議会は国民和解宣言を採択。1月15日からの一方的停戦を確認するとともに期間を6カ月とし継続も可能だとした。宣言はさらに,(1)政府指導者,部族長老ら15人で構成する国民和解最高特別委員会の設置,(2)和解成立後,平和地帯を宣言した地区の住民への恩恵の保障と地方機関への権力分与,(3)話し合いに訪れるゲリラ指導者への安全と帰還の保障,(4)敵対行動をとらないと誓約した人々の釈放,(5)武器を捨てて投降したゲリラ側住民への恩赦,などをうたっている。また策定中の新憲法でイスラム教を国教とする旨を明記すると言明。
DIA-503-1987-01-03-2アフガニスタン1987年01月03日1980年代複数のア軍機がパ北部チトラール地方の難民キャンプを爆撃,難民5人が死亡,15人が負傷(AFP)。
DIA-503-1987-01-05-1アフガニスタン1987年01月05日1980年代ソ連のシェワルナゼ外相とドブルイニン党中央委書記がゴルバチョフ書記長の直接指示でカーブル入り。6日までナジブ書記長,ケシュトマンド首相,ワキル外相と会談。7日国連仲介の間接交渉でア問題をできるだけ早く政治的に解決するとの共同文書を発表した。
DIA-503-1987-01-06-1アフガニスタン1987年01月06日1980年代イスラマバード発新華社電によると,ジュネーブに亡命していたモハマド・ユスフ元首相,アブドル・ハキム元国連代表,アブドル・ラーマン・パズワク元駐印大使の3人が最近カーブルに戻った。
DIA-503-1987-01-06-2アフガニスタン1987年01月06日1980年代反政府ゲリラ組織,イスラム革命民族戦線のサイド・アハマド司令官が部下1000人を連れてヘラートで投降(カーブル放送)。
DIA-503-1987-01-08-1アフガニスタン1987年01月08日1980年代ゲリラ組織,イスラム党ハリス派のハッカニ司令官はソ連がゲリラ連合組織,アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟との直接交渉に同意すれば暫定停戦に応じると言明(共同)。
DIA-503-1987-01-14-1アフガニスタン1987年01月14日1980年代カーブルでア民族祖国戦線第2回大会開幕。ソ連など20カ国の代表団も出席。ナジブ書記長は2日目の15日に演説,内戦終結を呼びかけるとともに,国外に脱走した政府軍の将校,兵士や投獄中の政治犯に対する恩赦を発表。
DIA-503-1987-01-15-1アフガニスタン1987年01月15日1980年代午前零時から政府軍が予定どおり全土で一方的停戦に入る。
DIA-503-1987-01-15-2アフガニスタン1987年01月15日1980年代一方的停戦に入った数時間後,反政府ゲリラが政府軍輸送部隊を襲撃,兵士3人を殺害(AFP)。
DIA-503-1987-01-15-3アフガニスタン1987年01月15日1980年代グラブゾイ内相が夜間外出禁止令を従来より2時間繰り下げ,午前零時からにする,と発表。
DIA-503-1987-01-15-4アフガニスタン1987年01月15日1980年代ラフィ国防相が西側記者団にゲリラから捕獲した米国製の携帯用対空ミサイル・スティンガーと英国製の同・ブローパイプを公開(『朝日』)。
DIA-503-1987-01-16-1アフガニスタン1987年01月16日1980年代ソ連・ア政府間の経済・技術協力協定をモスクワで調印。ソ連がクンドゥス川の給水ポンプ・ステーション建設用設備を供給,数千ヘクタールの土地灌漑とビート栽培農場の設立が可能となる。ソ連はまたカーブル郊外の居住区建設に参加,自動車運輸企業のための設備を供給する。
DIA-503-1987-01-17-1アフガニスタン1987年01月17日1980年代ゲリラ組織連合体,ムジャヒディン・イスラム同盟がパキスタンのペシャーワル郊外で集会を開き,ナジブ政権の停戦・和解提案を全面拒否。(1)ソ連軍排除とナジブ政権打倒後に暫定政府の下で総選挙を行ない,イスラム政権を樹立,(2)暫定政府樹立のための法案を練る委員会を設置,2月末までに原案提出,(3)ソ連軍の無条件全面撤退の要求,など6項目の宣言を採択した。
DIA-503-1987-01-17-2アフガニスタン1987年01月17日1980年代ソ連はコワリョフ第1外務次官をパに派遣,ア問題を協議。
DIA-503-1987-01-18-1アフガニスタン1987年01月18日1980年代アーマコスト米国務次官がパを訪問。20日,米政府はソ連軍撤退までゲリラ支援を続ける,と言明。
DIA-503-1987-01-29-1アフガニスタン1987年01月29日1980年代クンドゥス州のアブドル・アスド国民和解委員会議長がゲリラに殺害される(タス通信)。
DIA-503-1987-01-30-1アフガニスタン1987年01月30日1980年代アは経済相互援助会議(コメコン)との協力協定に調印。コメコンと協力協定を結んだ発展途上国としては8番目。
DIA-503-1987-01-31-1アフガニスタン1987年01月31日1980年代人民民主党中央委がゾフル・ラズムジョ政治局員候補とアブドル・ワキル外相を政治局員に選出。
DIA-503-1987-01-31-2アフガニスタン1987年01月31日1980年代ソ連『イズベスチャ』紙によると国際赤十字とア赤新月社の協力議定書がカーブルで調印された。
DIA-503-1987-02-01-1アフガニスタン1987年02月01日1980年代カーブルのインド大使館横に駐車中の車に仕掛けられた爆弾が爆発,4人が死亡,17人が負傷した(カーブル放送)。
DIA-503-1987-02-03-1アフガニスタン1987年02月03日1980年代ファゼル・ハク・ハレクヤル財政・経済相を団長とする実業界代表団が訪ソ,6日まで両国の経済・技術協力の発展にアの私企業が参加する問題を討議。
DIA-503-1987-02-05-1アフガニスタン1987年02月05日1980年代パのヤークブ・ハーン外相が訪ソし6,7の両日シェワルナゼ外相とア問題を討議。
DIA-503-1987-02-07-1アフガニスタン1987年02月07日1980年代カーブルの中央刑務所から反政府活動の罪で投獄されていた1300人の囚人が釈放される(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-02-07-2アフガニスタン1987年02月07日1980年代ワキル外相インドを訪問,8日にティワリ外相と会談。
DIA-503-1987-02-09-1アフガニスタン1987年02月09日1980年代コルドベス国連事務次長,モスクワに到着。11日にシェワルナゼ外相とア問題の政治調整で協議。
DIA-503-1987-02-09-2アフガニスタン1987年02月09日1980年代タス通信によると,パクチア州のホストから離陸したアントノフ26型旅客機がロケット弾で撃墜され,婦人と子どもを含む計30人が死亡。
DIA-503-1987-02-17-1アフガニスタン1987年02月17日1980年代ケシュトマンド首相が訪ソ,18日にルイシコフ首相と会談。
DIA-503-1987-02-18-1アフガニスタン1987年02月18日1980年代ソ連との87年度商品取引き議定書に調印。
DIA-503-1987-02-23-1アフガニスタン1987年02月23日1980年代革命評議会は徴兵の新法案を採択。帰国を決定した難民には兵役義務を免除するか延期することになった。兵役義務は18歳に達した青年全員に課せられ2年間。大学生は1年から1年半の特例とする(タス通信)。
DIA-503-1987-02-25-1アフガニスタン1987年02月25日1980年代国連仲介の間接交渉がジュネーブで再開。
DIA-503-1987-02-26-1アフガニスタン1987年02月26日1980年代バフタル航空,アラブ首長国連邦とカーブル~ドバイ間に週1便の航空路開設。
DIA-503-1987-03-07-1アフガニスタン1987年03月07日1980年代米誌『USニューズ・アンド・ワールド・リポート』最新号は,米ソ間でザヒル・シャー元国王をカーブルに呼び戻して中立政権を樹立するとの秘密交渉が進んでいる,と報道。仲介役はソ連要人とも親しいアーマンド・ハマー米オクシデンタル石油会長。
DIA-503-1987-03-08-1アフガニスタン1987年03月08日1980年代アとの国境沿いにあるソ連タジク共和国ピャンジ市が反政府ゲリラのミサイル砲撃を受け,死者1人,負傷者2人が出た(ノーボスチ通信)。
DIA-503-1987-03-09-1アフガニスタン1987年03月09日1980年代2月25日から行なわれていたジュネーブ間接交渉が終了。コルドベス国連事務次長は10日に会見して,ソ連軍の撤退期間は86年8月の時点でパ側が3,4カ月以内を主張し,ア側との差が32~33カ月以内だったが,今回両者の差は一年以内に縮まった,と説明。西側通信社はア側主張18カ月,パ側7カ月と報道。
DIA-503-1987-03-10-1アフガニスタン1987年03月10日1980年代モスクワ放送によると,シャムシン・ソ連通信相のア訪問時にソ連によるテレビ中継ステーション供与に関する文書をア側と調印。
DIA-503-1987-03-19-1アフガニスタン1987年03月19日1980年代モスクワ放送によると天然ガスの採掘設備設置をソ連がアに援助する契約がカーブルでこのほど成立。
DIA-503-1987-03-20-1アフガニスタン1987年03月20日1980年代レーガン米大統領は3月21日をア・デーとする宣言を発表。ソ連が現実の政治状況を理解し始めたかすかな兆候がある,と述べた(時事)。
DIA-503-1987-03-24-1アフガニスタン1987年03月24日1980年代ワインバーガー米国防長官は87年版『ソ連の軍事力』の公表にあたって,ソ連軍がアでレーザー光線を標的に向け照射したと言明。
DIA-503-1987-03-24-2アフガニスタン1987年03月24日1980年代パ国防省は23日,複数のア戦闘機が国境地帯の町ワナ近郊を越境爆撃し,22人が死亡,26人が負傷したと発表。ア軍機は同じ国境地帯のテリメンガル村も空爆,住民51人が死んだ。
DIA-503-1987-04-01-1アフガニスタン1987年04月01日1980年代マーフィー米国務次官補が下院歳出委海外活動小委で証言,ソ連はアからの早期撤退を決意したとの見通しを明らかにし,今後はソ連軍撤退後のア政権のあり方が焦点となるとの見解を示した(共同)。
DIA-503-1987-04-05-1アフガニスタン1987年04月05日1980年代米紙『ワシントン・ポスト』が米政府筋などの話として報じたところによると,レーガン政権はアの反政府ゲリラに約600基のスティンガー・ミサイルを引き渡しつつある。これまで150基の同ミサイルが供与され,ソ連軍機が撃墜されている。
DIA-503-1987-04-11-1アフガニスタン1987年04月11日1980年代モスクワ放送によると,人民民主党中央委はこのほど4月革命9周年によせてのアピールで在外ア人の早期帰国とゲリラの帰順を呼びかけた。
DIA-503-1987-04-13-1アフガニスタン1987年04月13日1980年代ゴードン・ハンフリー米上院議員がソ連軍侵攻以来初の米国議員としてカーブル入り。
DIA-503-1987-04-15-1アフガニスタン1987年04月15日1980年代カツシェフ国家対外経済連絡委議長を団長とするソ連代表団がカーブルに到着。民間実業家の全国会議や鋳物工場の火入れ式,輸血センターの開所式に出席,16日にはナジブ書記長と会談。
DIA-503-1987-04-16-1アフガニスタン1987年04月16日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長はモスクワで開かれた第20回共産青年同盟大会で演説し,ア駐留ソ連軍の若い兵士の勇気はソ連の誇りだ,と称賛。
DIA-503-1987-04-17-1アフガニスタン1987年04月17日1980年代パのクエッタ近郊の難民キャンプで開かれた約5000人の種族リーダーの会合はザヒル・シャー元国王の復帰を圧倒的に支持(AFP)。
DIA-503-1987-04-18-1アフガニスタン1987年04月18日1980年代ソ連とアの87~88年貿易・経済協力議定書,カーブルで調印。消費物資の貿易拡大が目玉。
DIA-503-1987-04-19-1アフガニスタン1987年04月19日1980年代アの民族資本が参加する企業設立へのソ連援助の協定が両国間で調印される。協定議定書に基く最初の合弁企業はカーブルのパン製造所と自転車組立て工場,シバルガンの製粉所,マザリシャリフの皮革・履物製造工場となる予定(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-04-19-2アフガニスタン1987年04月19日1980年代87年3月までの1年間にアは8.5万トンの干しぶどうをはじめ乾燥果実の輸出で1.29億ドルの外資を獲得。これは前年度より50%増,ソ連・社会主義諸国のほか西欧各国,インド,パにも輸出(AFP)。
DIA-503-1987-04-21-1アフガニスタン1987年04月21日1980年代バフタル通信はパと米CIAによるナジブ書記長暗殺計画がこのほど発覚したとパを非難。
DIA-503-1987-04-27-1アフガニスタン1987年04月27日1980年代4月革命9周年を記念してア革命評議会は囚人に対する部分的恩赦令を採択(バフタル通信)。
DIA-503-1987-05-01-1アフガニスタン1987年05月01日1980年代バフタル通信はパクチア州に4月29日侵入したパ空軍のF16機をミサイルで撃墜したと報じた。パ当局によると,6機のア空軍機がパ領空を侵犯したのでスクランブル発進したうちのパ機1機が国境付近で撃墜された。
DIA-503-1987-05-03-1アフガニスタン1987年05月03日1980年代インドのティワリ外相がカーブル入りし,ナジブ書記長らと会談,ア政府の一方的停戦の立場を支持して5日帰国。
DIA-503-1987-05-03-2アフガニスタン1987年05月03日1980年代イスラマバード発新華社電はカルマル前議長が逮捕されたと報じた。
DIA-503-1987-05-04-1アフガニスタン1987年05月04日1980年代カルマル前議長は医師の助言とソ連の招待により療養のためソ連に向かった。出発に先立ち,カルマル前議長はナジブ書記長ら党幹部と会談した(カーブル放送)。
DIA-503-1987-05-05-1アフガニスタン1987年05月05日1980年代ア政府は帰還した亡命者に対し不在間は免税とする法律を制定(バフタル通信)。
DIA-503-1987-05-08-1アフガニスタン1987年05月08日1980年代カンダハル市のアマン民族和解委議長が反政府ゲリラに殺害された(バフタル通信)。
DIA-503-1987-05-10-1アフガニスタン1987年05月10日1980年代イスラマバード発AFPによると,ムジャヒディン・イスラム同盟の代表,ユヌス・ハリス師はア難民は332人から成る強力な制憲議会を近く選出するだろうと語った。
DIA-503-1987-05-13-1アフガニスタン1987年05月13日1980年代アリストフ・ソ連外国貿易相がカーブルに到着。17日にナジブ書記長と両国間の貿易・経済関係強化の問題を討議。またソ連の87年度対ア経済援助に関する協定に調印(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-05-17-1アフガニスタン1987年05月17日1980年代ワキル外相がポーランド,チェコ,ブルガリア歴訪の旅に出発。ポーランドとは文化協力協定に調印。帰途の26日にモスクワでシェワルナゼ外相と1月の一方釣停戦以来の情勢を協議して28日帰国。
DIA-503-1987-05-21-1アフガニスタン1987年05月21日1980年代ゴルバチョフ・ソ連書記長はイタリア共産党機関紙『ウニタ』との会見で,ザヒル・シャー元国王を国民和解政府の一員として迎える用意があることを示唆。
DIA-503-1987-06-04-1アフガニスタン1987年06月04日1980年代ケシュトマンド首相を団長とする代表団がバグダッドに到着。6日,イラクとの通商・経済・文化・科学技術協力条約に調印。
DIA-503-1987-06-04-2アフガニスタン1987年06月04日1980年代香港の英語週刊誌『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』最新号は,モスクワ特派員発として,ソ連はア問題解決のこう着状態打開のため,米国,パ,ソ連,アのカーブル政府と反政府ゲリラ代表が参加する円卓会議の開催を提案する模様だ,と報じた。同誌はまた,円卓会議が開かれればザヒル・シャー元国王も出席する可能性が強い,と伝えた。
DIA-503-1987-06-04-3アフガニスタン1987年06月04日1980年代バフタル通信によると,バルフ州は国民和解政策の一環として反革命活動のため投獄中の約150人を釈放した。同通信によるとこの後も6日にカーブルで79人,9日にクンドゥス州で100人以上,19日に275人と釈放が相次ぎ,恩赦の合計は約3000人になった。
DIA-503-1987-06-09-1アフガニスタン1987年06月09日1980年代カーブル放送によると,4月に召還されていたアブドル・ハミッド・ムフタート前駐日大使がこのほど副首相に任命された。
DIA-503-1987-06-10-1アフガニスタン1987年06月10日1980年代ナジブ書記長は人民民主党中央委総会で演説,旧王制の支持勢力,過去の体制の政治家たち,権威ある宗教家と接触する用意がある,と述べた。また将来の連合政権について,反対派の代表者に2,3のいすを与えるというようなものでなく,権力を分かち合う,と説明。新しい憲法草案を近く公表し,国民討議にかけることを明らかにし,複数政党制を認める用意も示唆した(タス通信)。
DIA-503-1987-06-10-2アフガニスタン1987年06月10日1980年代ア農業・土地改革省と全ソ東方貿易公団の交渉がカーブルで行なわれ,ソ連へのア農産物の輸出とソ連からの播種用穀粒と化学肥料の輸入に関する諸問題が話し合われた。2億1100万アフガニー相当分の2万トンの肥料のアへの無償供与で合意(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-06-11-1アフガニスタン1987年06月11日1980年代バフタル通信によると,カンダハル発カーブル行きの国営バフタル航空アントノフ26型旅客機がザブ-ル州上空で反政府ゲリラのミサイルで撃墜され,子ども16人と女性10人を含む53人が死亡,2人が重傷を負った。AFP電はゲリラのイスラム党は撃墜を認めたが武器弾薬をカーブルへ運ぶ途中の乗員5人の飛行機だったと主張している,と伝えた。
DIA-503-1987-06-11-2アフガニスタン1987年06月11日1980年代モスクワ放送によると,このほど開かれた人民民主党中央委総会はグラブゾイ内相を党政治局員に選んだ。
DIA-503-1987-06-21-1アフガニスタン1987年06月21日1980年代ソ連の『社会主義工業』紙は,ソ連の経済・技術援助でアには200以上の工業その他の施設が完成ないしは建設中,と伝えた。同紙によるとソ連援助による発電所はアの電力の60%を発電,ガス田は天然ガス生産の100%を占めている。
DIA-503-1987-06-23-1アフガニスタン1987年06月23日1980年代非同盟諸国の記者の国際会議がケシュトマンド首相を迎えてカーブルで開幕。40カ国から75人の代表が参加し,28日に閉幕。
DIA-503-1987-06-25-1アフガニスタン1987年06月25日1980年代ソ連による無償教育援助議定書にこのほどカーブルで調印。ソ連は学校や実験室などの設備,机やイス,映写機,体育用具などを供給する(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-07-02-1アフガニスタン1987年07月02日1980年代革命評議会幹部会が複数政党法を採択。6日その内容が新聞に掲載された。各党は国家権力及び他政党に対する武力闘争を行なわないことを順守,また構成の点で国民的性格を帯び,モットーと党章はいかなる民族や部族の特徴も反映してはならないとされている。
DIA-503-1987-07-06-1アフガニスタン1987年07月06日1980年代ナジブ書記長はカーブルで開かれた第1回全ア遊牧民族会議で演説,国内で進行中の革命的改革の目的について全民族,種族の文明開化をはかるものだと説明し,ソ連の援助を高く評価した(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-07-13-1アフガニスタン1987年07月13日1980年代革命評議会は憲法革案を承認し,新聞に発表して国民討議に付すことを決定。
DIA-503-1987-07-14-1アフガニスタン1987年07月14日1980年代ナジブ書記長は1月から実施して来た一方的停戦をさらに6カ月間延長して88年1月15日まで順守すると発表(カーブル放送)。
DIA-503-1987-07-19-1アフガニスタン1987年07月19日1980年代ナジフ書記長は空路モスクワに到着,20日ゴルバチョフ書記長とア問題の政治解決,二国間関係について会談した。さらに21日に記者会見,外部からの軍事面での干渉停止とそれが再開されないとの確かな保証があって初めてソ連軍撤兵のタイムテーブルが決まる,と述べた。
DIA-503-1987-07-21-1アフガニスタン1987年07月21日1980年代ゲリラのイスラム党のヘクマチアル代表はナジブ政権の複数政党制など新しい国民和解政策に対し,これはカーブルの支配政党の力を弱めるものではないと拒否した。またア人民はザヒル・シャー元国王の復帰を認めないだろうと述べた。イスラム統一体のサヤフ代表もナジブ政権の一方的な停戦延長を受け入れないと強調した(イスラマバード発新華社)。
DIA-503-1987-07-26-1アフガニスタン1987年07月26日1980年代ハビブ・マンガル駐ソ大使が離任。帰国。
DIA-503-1987-07-29-1アフガニスタン1987年07月29日1980年代アとソ連政府間の経済協力委員会の会議がモスクワで終了。ソ連の共和国とアの州の直接交流の確立,アの私企業との貿易拡大,合弁企業の設立などを検討した(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-08-02-1アフガニスタン1987年08月02日1980年代ア政府はこのほど反政府勢力との連合結成やゲリラ指導者への地方ポスト譲渡をうたった提案を改めて行なった。地方レベルでの平和地域設置も呼びかけている。和平の見返りとして反政府勢力は地方行政組織を樹立する権限を与えられる(タス通信)。
DIA-503-1987-08-03-1アフガニスタン1987年08月03日1980年代アのムハマドゥルラ・サフィ新駐ソ大使が信任状を提出。
DIA-503-1987-08-05-1アフガニスタン1987年08月05日1980年代ソ連外務省は7月下旬から訪ソ中のナジブ書記長がソ連南部で病気治療を受けるため滞在を延長した,と言明。
DIA-503-1987-08-05-2アフガニスタン1987年08月05日1980年代ソ連のプラウダ紙は戦死したソ連兵士の父親の「わが国のマスコミはアで起こっていることを断片的にしか伝えていない。時には実際と違うことを書いている」との手紙を掲載。
DIA-503-1987-08-06-1アフガニスタン1987年08月06日1980年代ソ連は3月21日から始まった87年度中にカーブル市内の各種開発プロジェクトに1700万ドルを供与する方針。アパート,学校建設,道路修復その他にあてられる(カーブル放送)。
DIA-503-1987-08-06-2アフガニスタン1987年08月06日1980年代7月30日にカーブル入りした国連人権委調査団のエルマコラ代表がカーブルのプリ・チャルヒ監獄を訪問(AFP)。
DIA-503-1987-08-09-1アフガニスタン1987年08月09日1980年代ソ連のイズベスチャ紙によると,アの300人の子どもたちが夏休み中の1カ月間をキャンプで過ごすためキルギス共和国の首都フルンゼにこのほど到着した。
DIA-503-1987-08-10-1アフガニスタン1987年08月10日1980年代ソ連を訪れていたナジブ書記長が22日ぶりに帰国。
DIA-503-1987-08-14-1アフガニスタン1987年08月14日1980年代アとの国境近くにあるイラン領ホラサン州のドガロウン村の税関事務所と軍事施設がア政府軍の砲撃を受け,多数のイラン人が死亡(イラン国営通信)。
DIA-503-1987-08-17-1アフガニスタン1987年08月17日1980年代ソ連の『プラウダ』紙はカーブル発の特電でソ連・ア政府軍が苦戦を強いられていることを報じた。またナジブ政権内の派閥主義,部族主義など足並みの乱れを非難した。
DIA-503-1987-08-21-1アフガニスタン1987年08月21日1980年代ナジブ書記長はカンダハルでゲリラに対し国家内の問題解決のための会談を呼びかけた。この旅行にはラフィ国防相,ヤクビ国家安全保障相が同行(AFP)。
DIA-503-1987-08-24-1アフガニスタン1987年08月24日1980年代87年中に648万アフガニーを農民に貸し出すとア農業開発銀行が発表(バフタル通信)。
DIA-503-1987-09-01-1アフガニスタン1987年09月01日1980年代実務訪問のためカーブル入りしたウォロンツォフ・ソ連第1外務次官とワキル外相が会談。
DIA-503-1987-09-04-1アフガニスタン1987年09月04日1980年代ソ連国防省機関紙『赤い星』は,ソ連製ア民間機に対する反政府ゲリラの攻撃で87年にこれまで計134人が死亡した,と報道。
DIA-503-1987-09-07-1アフガニスタン1987年09月07日1980年代国連仲介のジュネーブ間接交渉が始まり,予定を1日延期して10日まで開かれた。懸案のソ連軍撤退期間についてはア側16カ月,パ側8カ月を主張。
DIA-503-1987-09-08-1アフガニスタン1987年09月08日1980年代ソ連での休暇を終えてカーブルに戻るケシュトマンド首相がシェワルナゼ・ソ連外相とアの国民和解政策と二国間問題について会談。
DIA-503-1987-09-11-1アフガニスタン1987年09月11日1980年代ア情勢をめぐる諸問題についての米ソ専門家協議がジュネーブで行なわれた(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-09-13-1アフガニスタン1987年09月13日1980年代クンドゥス付近上空でアントノフ26型輸送機が反政府ゲリラによって撃墜され,2人の女性を含む15人が死亡(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-09-16-1アフガニスタン1987年09月16日1980年代パイシュ民族祖国戦線第1副議長を団長とする同戦線代表団がベトナム祖国戦線中央委の招きでベトナムを公式訪問,2週間にわたる滞在期間中ファム・テ・ズエト・ベトナム共産党中央委書記,フイン・タン・ファト・ベトナム祖国戦線議長と会見し,またカンボジア人民共和国も訪れチア・シム国会議長兼国家建設防衛統一戦線議長と会見した(ハノイ放送)。
DIA-503-1987-09-17-1アフガニスタン1987年09月17日1980年代『赤い星』紙が,アのラフィ国防相との会見を掲載。同国防相はア軍の待遇は改善されたが,兵士と士官の士気と闘争心を高める必要がある,と語る。
DIA-503-1987-09-21-1アフガニスタン1987年09月21日1980年代国連総会でレーガン米大統領が演説,ソ連軍の撤退を呼びかけ,ソ連が真の政治的解決の用意があることを誠実に示すならば,米国は手助けを行なう用意があることを確約すると述べる。
DIA-503-1987-09-21-2アフガニスタン1987年09月21日1980年代『ワシントン・ポスト』紙は米政府が反政府ゲリラに対し120ミリ長距離迫撃砲などを供与することを決定したと伝えた。
DIA-503-1987-09-30-1アフガニスタン1987年09月30日1980年代ナジブ書記長,革命評議会議長(元首)に選出される。これまで議長代行のツァムカニ氏は第1副議長に選ばれた(カーブル放送)。
DIA-503-1987-09-30-2アフガニスタン1987年09月30日1980年代ソ連の宇宙船および軌道ステーション「ミール」での共同飛行の準備に関するソ連・ア議定書がモスクワで調印される。共同飛行は89年前半に予定され,アの天然資源の宇宙からの調査が行なわれる(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-10-02-1アフガニスタン1987年10月02日1980年代国連からの帰途,ワキル外相がモスクワに寄りウォロンツォフ・ソ連第1外務次官と会談(AFP)。
DIA-503-1987-10-05-1アフガニスタン1987年10月05日1980年代ラフィ国防相がモスクワ入りし,6日にヤゾフ・ソ連国防相と会談。
DIA-503-1987-10-05-2アフガニスタン1987年10月05日1980年代タンユグ通信によると,ソ連とアはロガール川およびバルカブ川に二つの水力発電所を建設する長期契約に調印した。総工費は30億アフガニー。電力の一部はソ連に送られる予定だという。
DIA-503-1987-10-08-1アフガニスタン1987年10月08日1980年代バフタル通信によると,カーブル市内で反政府分子が仕掛けた自動車爆弾が爆発,市民ら27人が死亡,35人が負傷。
DIA-503-1987-10-10-1アフガニスタン1987年10月10日1980年代DPA通信が伝えるアの公式統計によると,8年間の戦闘による損害は400億アフガニー(8億ドル)に達し,個人所得は195ドルから155ドルに低下した。
DIA-503-1987-10-10-2アフガニスタン1987年10月10日1980年代『ワシントン・ポスト』は,イランが保有していることが明らかになった米国製スティンガー・ミサイルは,米国が86年にひそかに反政府ゲリラの7グループに供与したうち,1グループがイランに売り渡したものであることがわかった,と報道。
DIA-503-1987-10-14-1アフガニスタン1987年10月14日1980年代ソ連の週刊紙『文学新聞』はアのルポ記事で現地のソ連軍人に要人の子弟はほとんどいなかったと伝えた。またア政府への無償援助物資が横流しされているとも報道。
DIA-503-1987-10-14-2アフガニスタン1987年10月14日1980年代ワインバーガー米国防長官は米『ウォールストリート・ジャーナル』紙との会見で,スティンガー・ミサイルを輸送していた反政府ゲリラのトラックがイランとアの国境で故障し,イラン革命防衛隊が何発かのスティンガーを入手したとみられる,と語った。
DIA-503-1987-10-15-1アフガニスタン1987年10月15日1980年代アーマンド・ハマー米オクシデンタル石油会長は米CBSテレビとの会見でナジブ書記長,シェワルナゼ・ソ連外相とこのほど会談したことを明らかにし,ア問題はザヒル・シャー元国王を暫定政権の首班とすることで解決する,と述べた。
DIA-503-1987-10-16-1アフガニスタン1987年10月16日1980年代反政府ゲリラ統一組織,ア・ムジャヒディン・イスラム同盟は議長にイスラム党ハリス派のユヌス・ハリス代表を選んだ。任期はこれまでの半年から1年間になった(ロイター)。
DIA-503-1987-10-18-1アフガニスタン1987年10月18日1980年代人民民主党第2回全党会議が3日間の日程で開幕。ナジブ書記長は基調演説で国民和解政策の結果,45都市全てが政府の掌握下に入り,難民9万人が帰国した,と述べた。また党内のセクト対立の存在を公然と認めて,これを根絶し党の団結を固めることを誓う緊急決議が全員一致で採択された。
DIA-503-1987-10-22-1アフガニスタン1987年10月22日1980年代イスラマバード発の新華社は,パクチア州の知事と副知事がゲリラ制圧に失敗したとの理由で解任された,と伝えた。
DIA-503-1987-10-25-1アフガニスタン1987年10月25日1980年代ゲリラのア民族解放戦線のムジャディディ代表はAFP通信との会見で,ナジブ書記長から教育相就任を打診されたが拒否したことを明らかにし,元国王を指導者として受け入れるのに賛成だ,と語った。
DIA-503-1987-10-26-1アフガニスタン1987年10月26日1980年代コズロフスキー・ソ連地質相がアを訪問,鉱物採査の協力議定書に調印(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-10-27-1アフガニスタン1987年10月27日1980年代ゲリラ組織,イスラム党によるとアでドキュメント映画を撮影していた米国人2人が政府軍の待ち伏せ攻撃で死亡した(AP)。
DIA-503-1987-11-02-1アフガニスタン1987年11月02日1980年代人民民主党政治局が新憲法草案を承認(カーブル放送)。
DIA-503-1987-11-06-1アフガニスタン1987年11月06日1980年代革命70周年記念式展出席のため訪ソ中のナジブ書記長がモスクワで記者会見してザヒル・シャー元国王の息子のナジル・シャー氏を国民和解政府に迎え入れる用意のあることを明らかにした(共同)。
DIA-503-1987-11-10-1アフガニスタン1987年11月10日1980年代国連総会がアからの外国軍隊の即時撤退を求める決議案を賛成123,反対19,棄権11で採択。前年欠席のブータンが賛成に回り,反対のブルキナファソが棄権し,これまで9回の同様の決議では最多の票差。
DIA-503-1987-11-11-1アフガニスタン1987年11月11日1980年代ソ連のノージン退役大将とアのゲリラグループ,イスラム革命民族戦線のガイラニ代表の娘,ファティマ・ガイラニ女史がオランダのハーグで同国平和運動グループの仲介でア問題について公開討議(AP)。
DIA-503-1987-11-12-1アフガニスタン1987年11月12日1980年代レーガン米大統領がホワイト・ハウスでア・ムジャヒディン・イスラム同盟のユヌス・ハリス代表と会見,「もしソ連が速やかに撤退しなければゲリラへの援助をふやす」と約束する一方で「ソ連に真の政治解決の用意があるなら,米国も助ける」と語った。
DIA-503-1987-11-16-1アフガニスタン1987年11月16日1980年代南ドイツ新聞はカーブル発の特電で東側筋の話として,ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長が11月初めに訪ソしたナジブ書記長にできるだけ速やかにソ連軍の全面撤退に合意するよう求めた,と報じた。
DIA-503-1987-11-16-2アフガニスタン1987年11月16日1980年代ゲラシモフ・ソ連外務省情報局長は訪問中のミュンヘンで会見し,ア駐留ソ連軍は和平成立後7カ月ないし1年以内に撤退すると言明。
DIA-503-1987-11-16-3アフガニスタン1987年11月16日1980年代ア,ソ連計画委が今後の経済協力問題を話し合う会議がカーブルで開始(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-11-17-1アフガニスタン1987年11月17日1980年代国連総会から帰国途中のワキル外相がモスクワでシェワルナゼ・ソ連外相とジュネーブ間接交渉の完了の展望を討議(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-11-23-1アフガニスタン1987年11月23日1980年代カーブル州の120以上の居住地点(町村)が平和地帯の宣言をした(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-11-24-1アフガニスタン1987年11月24日1980年代『ニューヨーク・タイムズ』紙は,ナジブ書記長の弟シディキ氏が最近亡命しゲリラ組織,イスラム協会に参加した,と伝えた。
DIA-503-1987-11-27-1アフガニスタン1987年11月27日1980年代ア革命評議会はこのほど四つの新政党結成の登録申告を受理した。承認されたのは二つの労働者党とア人民イスラム党,ア農民正義党(カーブル放送)。
DIA-503-1987-11-29-1アフガニスタン1987年11月29日1980年代新憲法を討議するロヤ・ジルガ(国民評議会)が2日間の日程で開幕。西側報道陣の伝えるところによると,初日のナジブ書記長の演説中に会場近くでゲリラのロケット弾攻撃とみられる4発の爆発が起きた。ナジブ書記長はゲリラが停戦に合意するならソ連軍は12カ月以内に完全撤退すると提案。大会は2日目の30日にイスラム教を国教と定め,国名をこれまでの「ア民主共和国」から「ア共和国」に改めた新憲法を満場一致で採択,ナジブ書記長を大統領に選出した,任期は7年。
DIA-503-1987-12-05-1アフガニスタン1987年12月05日1980年代『ニューヨーク・タイムズ』紙によるとコルドベス国連事務次長がローマでソ連軍撤退後の誓定政権についてザヒル・シャー元国王と秘密会談。4日にはゲリラ側の複数のリーダーとも会談したと伝えられる。
DIA-503-1987-12-07-1アフガニスタン1987年12月07日1980年代ゲリラのイスラム党のヘクマチアル代表はペシャーワルでの大衆集会で「カーブル政権を含めた連合政府樹立の提案を拒絶する」と演説(新華社)。
DIA-503-1987-12-08-1アフガニスタン1987年12月08日1980年代ヘラート州の反政府集団600人がカーブル政権側に転向(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-12-10-1アフガニスタン1987年12月10日1980年代ソ連のゴルバチョフ共産党書記長はレーガン米大統領とのワシントン会談後の記者会見で「われわれはアに親ソ政権を求めない。米国も親米政権を求めないとの意思表示をすべきだ」「ソ連軍の撤退開始はゲリラへの武器と金の援助ストップの開始とならねばならない」と述べた。
DIA-503-1987-12-16-1アフガニスタン1987年12月16日1980年代ソ連共産党中央委はア諸州とソ連の諸共和国,諸州との直接交流による支援を発展させるための会議を開催。リガチョフ,ウォロトニコフ,チェブリコフ,シェワルナゼ,スリュニコフ政治局員らが出席(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-12-21-1アフガニスタン1987年12月21日1980年代米国務省はア紛争に関する年次報告を発表。87年のソ連軍の死傷者は約3000人,ソ連軍侵攻以来では計3万3000~3万8000人に達し,ゲリラへ供与した地対空ミサイルによって87年中だけで150~200機のソ連・ア政府軍機を撃墜したとしている。
DIA-503-1987-12-22-1アフガニスタン1987年12月22日1980年代アの私企業へのソ連による経済援助の議定書にカーブルで調印。二つのパン工場,四つの菓子工場,四つの建設会社の設立を見込み,ソ連が5000万ルーブルのクレジットを提供(モスクワ放送)。
DIA-503-1987-12-23-1アフガニスタン1987年12月23日1980年代ゲラシモフ・ソ連外務省情報局長がパ国境近くのパクチア州ホスト周辺で大規模戦闘が継続中と発表。ゲリラの包囲による物資不足を解消するため,州都ガルデスからホストに通じる道路の奪回,安全確保を目的としゲリラ側に1500人以上の死傷者が出たとしている。
DIA-503-1987-12-24-1アフガニスタン1987年12月24日1980年代ナジブ大統領がインド,ベトナム,カンボジア訪問に出発。この日はガンディー・インド首相と会見,ベトナムではボー・チ・コン国家評議会議長,グエン・バン・リン共産党書記長と会見して友好協力条約に調印,カンボジアのヘン・サムリン政権とも友好協力条約を結んで31日に帰国。
DIA-503-1987-12-26-1アフガニスタン1987年12月26日1980年代ア・ムジャヒディン・イスラム同盟のハリス代表は「ソ連軍の撤退が決まれば,安全な帰国を保証する」と声明(AP)。
DIA-503-1987-12-27-1アフガニスタン1987年12月27日1980年代アはホストでの戦闘で米国人顧問1人を死亡させたと発表。米国防総省は28日に「軍事顧問を駐留させていない」と否定。
DIA-503-1987-12-27-2アフガニスタン1987年12月27日1980年代ナジブ大統領はハノイでの記者会見で予算の6割を軍事支出に振り向けていると言明(新華社)。
DIA-503-1987-12-27-3アフガニスタン1987年12月27日1980年代イラン中部のイスファハンでソ連領事館がア人のデモ隊に襲われた(イラン国営通信)。
DIA-503-1988-01-04-1アフガニスタン1988年01月04日1980年代ソ連のシェワルナゼ外相がカーブルを訪問,ナジブラ大統領と会談。6日,帰国にあたってバフタル通信と会見,駐留ソ連軍を88年中に撤退したいとの意向を表明し,和平協定調印後60日以内の撤退開始を宣言。
DIA-503-1988-01-04-2アフガニスタン1988年01月04日1980年代アーマコスト米国務次官がイスラマバードを訪問,ジア・パ大統領とア和平問題をめぐって会談。5日に主要反政府ゲリラ7派のうち5派の指導者と会談し,6日の記者会見で「ソ連との信頼できる合意に達する時がきた」と言明。
DIA-503-1988-01-04-3アフガニスタン1988年01月04日1980年代カーブルの特別革命裁判所はゲリラとともにアに潜入し,87年9月に逮捕された仏人ジャーナリスト,アラン・ギーヨ氏にスパイ罪で禁固10年の判決(カーブル放送)。
DIA-503-1988-01-07-1アフガニスタン1988年01月07日1980年代シュルツ米国務長官はワシントンでの会見で「ソ連軍撤兵が始まれば米国は反政府ゲリラへの軍事援助を停止するだろう」と表明。
DIA-503-1988-01-10-1アフガニスタン1988年01月10日1980年代ザヒル・シャー元国王は10日付英紙『オブザーバー』との会見で「ソ連軍が撤退し,現政権指導者が3年間ソ連に亡命することになれば母国に戻り,民族を統一した臨時政府を樹立したい」と表明。
DIA-503-1988-01-12-1アフガニスタン1988年01月12日1980年代ソ連「イズベスチヤ」紙によると,88年度のソ連とアの商品取引き議定書とソ連のアに対する経済援助供与交換公文がこのほどカーブルで調印された。ソ連からアへは機械設備,石油製品,肥料などが,アからソ連へは天然ガス,羊皮製品,乾燥果実などが供給される。
DIA-503-1988-01-15-1アフガニスタン1988年01月15日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長はモスクワでアーマンド・ハマー米オクシデンタル石油会長と会談,「撤兵問題は,アの問題への外部からの内政干渉の停止と結びつけられねばならない」と語る(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-01-18-1アフガニスタン1988年01月18日1980年代パ駐在の反政府ゲリラ系,アフガン情報センターはア駐在のソ連当局がア人民民主党員の一部にソ連への脱出用身分証を発行していると発表。
DIA-503-1988-01-19-1アフガニスタン1988年01月19日1980年代コルドベス国連事務次長は,ア駐留ソ連軍の撤退について,国連としては平和維持監視軍を駐留させて監視する方針をロイターとの会見で明らかにした。
DIA-503-1988-01-19-2アフガニスタン1988年01月19日1980年代ナジブラ大統領はカーブルを訪問中のマルチューク・ソ連科学アカデミー総裁らソ連代表団と会見,両国の学者間の協力に関して討議した(『プラウダ』)。
DIA-503-1988-01-19-3アフガニスタン1988年01月19日1980年代ジュネーブ大学のスリピンスキ教授が発表した調査報告によると,ア紛争のア側死者は人口の9%以上にあたる130万人に上り,その52%は老人,女性,15歳以下の子どもだという。第2次大戦中のソ連人の死者は人口の8.6%だった(AP)。
DIA-503-1988-01-22-1アフガニスタン1988年01月22日1980年代ジャララバードでパの独立運動指導者アブドル・ガファル・カーン氏の葬儀中,バスに仕掛けられた爆弾が爆発,少なくとも17人が死亡,25人が負傷した(AP)。
DIA-503-1988-01-22-2アフガニスタン1988年01月22日1980年代ホーク豪首相は国家承認方法の修正に伴い,アをフィジー,カンボジアとともに承認したと発表(AFP)。
DIA-503-1988-01-31-1アフガニスタン1988年01月31日1980年代反政府ゲリラ主要7組織の連合体,アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟が声明を発表,ナジブラ政権にかわる新政権樹立計画を明らかにした。政権は同盟が主導するものの,難民およびア内部のイスラム教徒も受け入れるという。
DIA-503-1988-02-01-1アフガニスタン1988年02月01日1980年代ナジブラ大統領はカーブル・イスラマバード間のシャトル外交を展開中のコルドベス国連事務次長と会談し,同次長のア問題解決の努力を支持することを再確認した(カーブル放送)。
DIA-503-1988-02-02-1アフガニスタン1988年02月02日1980年代コルドベス国連事務次長,イスラマバードでヌーラーニー・パ外務担当国務相と会談。
DIA-503-1988-02-06-1アフガニスタン1988年02月06日1980年代コルドベス国連事務次長,アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のユヌス・ハリス議長と会談。ゲリラ側との公式接触は初めて。
DIA-503-1988-02-08-1アフガニスタン1988年02月08日1980年代ゴルバチョフ書記長がア問題に関する声明を発表,3月15日までに政治解決協定に調印できるとの前提で,ア駐留ソ連軍の撤兵を5月15日から開始,10カ月以内に終了させる,との具体的日程を公表。また「新しい連合政権の樹立とソ連軍の撤兵が必ずしも結びつかなくてもよい」との立場を表明した。
DIA-503-1988-02-08-2アフガニスタン1988年02月08日1980年代ナジブラ大統領が国営テレビ,ラジオを通じて声明を発表,「ソ連軍の撤退は干渉停止や反政府過激グループへの武器供給停止と直接結びついている」と米国のゲリラ援助中止を強く求めた。
DIA-503-1988-02-09-1アフガニスタン1988年02月09日1980年代ヌーラーニー・パ外務担当国務相は,カーブルに正当かつ中立な暫定政権が樹立されない限りパはジュネーブ和平協定に調印しない,と表明。
DIA-503-1988-02-11-1アフガニスタン1988年02月11日1980年代ソ連とアの共同宇宙飛行議定書がモスクワで調印された。ア側飛行士は12日,モルマド・ダウラン大佐とアブドル・アハド大尉に決定(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-02-12-1アフガニスタン1988年02月12日1980年代反政府ゲリラの穏健派グループは北西辺境州で8000人以上を集めて大集会を開き,ソ連軍撤退後の暫定政府首班にザヒル・シャー元国王を擁立するよう呼びかけた(新華社)。
DIA-503-1988-02-14-1アフガニスタン1988年02月14日1980年代ア和平計画の説明のため,クウェート,リビア,シリアのアラブ3国訪問中のワキル外相が最終訪問国のシリアでアサド大統領と会見。
DIA-503-1988-02-14-2アフガニスタン1988年02月14日1980年代テヘランを訪れたペトロフスキー・ソ連第1外務次官に対しベラヤチ・イラン外相はアフガン・ゲリラに将来主要な役割を与えるよう要求した(テヘラン放送)。
DIA-503-1988-02-17-1アフガニスタン1988年02月17日1980年代訪米中のヌーラーニー・パ外務担当国務相は記者団に,将来の暫定政府からナジブラ大統領を排除すべきだとのパ政府の見解を明らかにした。
DIA-503-1988-02-18-1アフガニスタン1988年02月18日1980年代ウォロンツォフ・ソ連第1外務次官はパのア新政府樹立要求は非建設的な態度と非難(『プラウダ』)。
DIA-503-1988-02-22-1アフガニスタン1988年02月22日1980年代呉学謙・中国外相は北京訪問中のヌーラーニー・パ外務担当国務相と会談,暫定政府樹立に関するパの主張に理解と支持を表明した(新華社)。
DIA-503-1988-02-23-1アフガニスタン1988年02月23日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟は暫定政権に関するコミュニケを発表。内容は,(1)ジュネーブ和平協定調印以前に現政権と交代,(2)内閣は28人構成でゲリラ組織14人,難民7人,現政権のイスラム教徒7人,(3)国名はアフガニスタン・イスラム国と改称―など。
DIA-503-1988-02-26-1アフガニスタン1988年02月26日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟の主導で樹立声明した暫定政府首班にムジャヒディン同盟教育・財政委員会議長のアフメド・シャーがこのほど指名された(新華社)。
DIA-503-1988-02-27-1アフガニスタン1988年02月27日1980年代ワキル外相,『プラウダ』紙との会見でパが主張し始めたソ連軍撤退前の暫定政権づくりを「内政干渉」と非難。
DIA-503-1988-02-29-1アフガニスタン1988年02月29日1980年代米上院,ソ連軍完全撤退までゲリラ援助を継続するよう米政府に求める決議を満場一致で採択。
DIA-503-1988-03-02-1アフガニスタン1988年03月02日1980年代ア問題の政治解決を目ざす国連仲介のア・パ間接交渉がジュネーブで再開された。
DIA-503-1988-03-03-1アフガニスタン1988年03月03日1980年代ワキル外相はジュネーブで記者会見し,駐留ソ連軍の撤兵スケジュールではパと合意がなかったと発表。「撤退期間は9カ月。50%は最初の3カ月で,残る50%は6カ月で完了する」とのパ提案にアが応じた。
DIA-503-1988-03-03-2アフガニスタン1988年03月03日1980年代日本の栗山尚一外務審議官が訪パ,ジア大統領,ジュネージョー首相のほか初めてアフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のユヌス・ハリス代表と会談した。ア難民帰還問題で国際援助が必要な時期がくれば,日本も協力の用意あり,と表明。
DIA-503-1988-03-04-1アフガニスタン1988年03月04日1980年代間接交渉は一時中断,ヌーラーニー・パ外務担当国務相は帰国して5日,パ政府に経過を報告。ジュネージョー・パ首相は野党指導者らに協力と支持を求めた。ヌーラーニー国務相は6日ジュネーブに戻り,なお暫定政権が課題であることを示唆。
DIA-503-1988-03-08-1アフガニスタン1988年03月08日1980年代反政府ゲリラの穏健派,アフガニスタン民族解放戦線の指導者ムジャディディはパ政府がイスラム原理主義グループを重視しているとしてアフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟からの脱退を表明したが,11日に撤回した。
DIA-503-1988-03-10-1アフガニスタン1988年03月10日1980年代ジュネージョ・パ首相はラホールでの会合で間接和平協定に調印するかどうか最終決定はしていないと言明。
DIA-503-1988-03-12-1アフガニスタン1988年03月12日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のユヌス・ハリス議長が辞任。健康上の理由だが,イスラム党ハリス派は同盟にとどまると言明。後任議長にはイスラム党指導者のヘクマチアルが14日に就任した。
DIA-503-1988-03-15-1アフガニスタン1988年03月15日1980年代間接和平交渉でソ連側の示した合意期限最終日を迎えたが歩み寄りはなく,交渉は継続されることになった。
DIA-503-1988-03-16-1アフガニスタン1988年03月16日1980年代ソ連最高会議幹部会はモジャーエフ駐ア大使を他の職務への転出に伴い解任,後任にエゴルイチェフ元デンマーク大使を任命した。
DIA-503-1988-03-23-1アフガニスタン1988年03月23日1980年代22日からワシントンで開かれていた米ソ外相会談後,シュルツ米国務長管は記者会見し,「ア問題で米ソ同時の援助停止を提案したがソ連側は受け入れなかった」と表明。シェワルナゼ・ソ連外相は会見で「アへの軍事援助をソ連は停止するつもりはない」と改めて言明。
DIA-503-1988-03-28-1アフガニスタン1988年03月28日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のヘクマチアル議長はゲリラ側が近く暫定政府を樹立し,各国の承認を求めると言明(新華社)。
DIA-503-1988-03-29-1アフガニスタン1988年03月29日1980年代コメコン(経済相互援助会議)対ア協力委の第1回会議がカーブルで開会,クシャニ副首相は合弁企業の設立,コメコン諸国の首都におけるア製品販売店の開設,カーブルでのコメコン諸国製品販売店の開設を提案した。
DIA-503-1988-03-29-2アフガニスタン1988年03月29日1980年代ゲラシモフ・ソ連外務省情報局長はナジブラ政権が首相と副大統領を含む重要な閣僚ポストを反政府勢力指導者に手渡す用意があることを明らかにした。
DIA-503-1988-03-31-1アフガニスタン1988年03月31日1980年代『ニューヨーク・タイムズ』紙は米政府高官の話として,ソ連がゲリラへの軍事援助続行を認めることを検討するとの意向を示唆した,と伝えた。
DIA-503-1988-04-02-1アフガニスタン1988年04月02日1980年代コメコン対ア協力委の第1回会議は経済交流拡大のための議定書をア政府と調印して閉会。
DIA-503-1988-04-03-1アフガニスタン1988年04月03日1980年代ソ連のシュワルナゼ外相がカーブルに着き,ナジブラ大統領と4日まで2日間会談。ジュネーブ間接交渉決裂の場合に備えて代案を討議した(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-04-04-1アフガニスタン1988年04月04日1980年代ソ連・ア政府間経済協力委の第8回総会が6日までカーブルで開かれ,ソ連の州や共和国とアの州との直接交流の発展の重要性が指摘された。ソ連側のムラホフスキー団長(第1副首相兼国家農工委議長)はナジブラ大統領,ケシュトマンド首相とも会見。
DIA-503-1988-04-05-1アフガニスタン1988年04月05日1980年代国民議会の上・下両院議員選掌が14日まで行なわれた。150万人以上が投票に参加,62選挙区で行なわれた上院は,115人,229選挙区が用意された下院は54選挙区が反政府勢力支配下のため184人の議員が選ばれた(バフタル通信)。
DIA-503-1988-04-07-1アフガニスタン1988年04月07日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長とナジブラ大統領がソ連ウズベク共和国の首都タシケントで会談。ジュネーブ和平協定が短期間のうちに調印されれば5月15日からのソ連軍撤退開始の約束は依然として有効だ,との共同声明を発表した。
DIA-503-1988-04-08-1アフガニスタン1988年04月08日1980年代間接和平交渉仲介役のコルドベス国連事務次長はジュネーブで会見,「和平協定が遅くとも4月14日までに調印される」と発表した。
DIA-503-1988-04-08-2アフガニスタン1988年04月08日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のヘクマチアル議長はペシャワルで声明を発表,間接和平交渉の最終合意を拒否,パに協定の調印をやめるよう要請した。
DIA-503-1988-04-10-1アフガニスタン1988年04月10日1980年代マイマナからマザリシャリフに向かっていたソ連製アントノフ26型旅客・輸送機が反政府ゲリラの地対空ミサイルによって撃墜され,29人が死亡(バフタル通信)。
DIA-503-1988-04-14-1アフガニスタン1988年04月14日1980年代ジュネーブ間接和平交渉の当事国アとパ,保証国のソ連と米国の4カ国外相はデクエヤル国連事務総長の同席のもとにジュネーブの国連欧州本部で和平4文書に調印,ア駐留ソ連軍の5月15日からの撤退開始が確定した。4文書はそのほかア,パ両国の相互内政不干渉をうたい,パ領内のア難民の18カ月間での自発的帰還を盛り込んでいる。
DIA-503-1988-04-16-1アフガニスタン1988年04月16日1980年代反政府ゲリラ7派はペシャワル郊外で10万人集会を開き,ナジブラ政権との戦闘の継続を改めて表明。
DIA-503-1988-04-25-1アフガニスタン1988年04月25日1980年代ナジブラ大統領はカブールで演説,難民の安全な帰還のためにパとの国境沿いに非武装地帯を設ける用意がある,と提案した(ロイター)。
DIA-503-1988-04-25-2アフガニスタン1988年04月25日1980年代ソ連による電力産業援助協定がカーブルで調印された。ソ連は国境からカブールまでの高圧送電線をはじめ北部,中部諸州での送電線,変電所建設に協力する(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-04-26-1アフガニスタン1988年04月26日1980年代4月革命10周年記念式典がカーブルで行なわれ,ソ連製のミグ23戦闘機やT72型戦車が初めて登場した。
DIA-503-1988-04-27-1アフガニスタン1988年04月27日1980年代カーブル市中心部でトラックに仕掛けられた爆弾が爆発,6人が死亡,49人が負傷した。
DIA-503-1988-04-28-1アフガニスタン1988年04月28日1980年代ナジブラ大統領がカーブルで記者会見,連合政府樹立のため反政府ゲリラといつ,どこででも交渉に応じる,と表明した。
DIA-503-1988-05-01-1アフガニスタン1988年05月01日1980年代フィンランドのヘルミネン少将を団長とするソ連軍撤退の国連監視団14人がカーブルに到着。
DIA-503-1988-05-04-1アフガニスタン1988年05月04日1980年代ナジブラ大統領がインドを訪問してガンジー首相と会談。6日,帰国を前に記者会見し,反政府勢力に譲歩して大統領を辞任するつもりがないことを明らかにした。
DIA-503-1988-05-10-1アフガニスタン1988年05月10日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟はペシャワルで最高諮問会議を開き,「アフガニスタン・イスラム国」新憲法を全会一致で採択した。
DIA-503-1988-05-11-1アフガニスタン1988年05月11日1980年代デクエヤル国連事務総長は国連のア援助調整官にアガ・カーン元国連難民高等弁務官を任命した。
DIA-503-1988-05-14-1アフガニスタン1988年05月14日1980年代カーブルの大統領官邸から1キロ離れた場所でトラックに仕掛けられた爆弾が爆発,住民11人が死亡,12人が負傷。南部の住宅地に反政府勢力によるロケット弾が撃ち込まれ,子ども3人を含む4人が死んだ。
DIA-503-1988-05-15-1アフガニスタン1988年05月15日1980年代駐留ソ連軍の全面撤退がジャララバードからの第1陣1200人を皮切りに始まった。ソ連とアは共同声明を発表,アへの外部からの干渉中止を求めた。アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のヘクマチアル議長は撤退はカーブル政権崩壊の始まりを示している,との声明を発表した。
DIA-503-1988-05-16-1アフガニスタン1988年05月16日1980年代カーブル郊外のハイルハナ基地前で前日ジャララバードを離れたソ連軍大隊の撤退記念式典が行なわれ,ナジブラ大統領も出席してソ連兵をねぎらった。
DIA-503-1988-05-22-1アフガニスタン1988年05月22日1980年代シャルク副首相が記者会見し,在パ難民のうち25万人を3カ月間で帰国させるという帰還計画を明らかにした。
DIA-503-1988-05-23-1アフガニスタン1988年05月23日1980年代『ニューヨーク・タイムズ』紙はペシャワル特電でソ連軍の撤退開始により,パとの国境沿いのア政府軍の守備拠点が急速に崩壊しつつあり,ジャジ,チャムカニ,バリコトの3主要拠点と小拠点6カ所が最近ゲリラによって陥落したと伝えた。
DIA-503-1988-05-25-1アフガニスタン1988年05月25日1980年代ソ連のリジチェフ陸海軍政治本部長がモスクワで会見,ア戦争でのソ連軍被害を死亡1万3310人,負傷3万5478人,行方不明311人と公表した。
DIA-503-1988-05-26-1アフガニスタン1988年05月26日1980年代アフロメーエフ・ソ連軍参謀総長が会見でア駐留ソ連兵は5月15日現在で10万3000人と語った。
DIA-503-1988-05-26-2アフガニスタン1988年05月26日1980年代ナジブラ大統領はシャルク副首相(難民問題担当)を首相に任命した。シャルク新首相は人民民主党の非党員で元駐日大使。ケシュトマンド前首相は人民民主党の政治局員のまま書記兼任となった。
DIA-503-1988-05-29-1アフガニスタン1988年05月29日1980年代アの国会が15年ぶりに開かれ,ナジブラ大統領はこれまでの国政の最高機関,革命評議会の廃止を宣言した。
DIA-503-1988-05-30-1アフガニスタン1988年05月30日1980年代スウェーデン政府が後援する同国のア委員会がア農業についての報告書を発表した。難民キャンプ4500人,国内5500人の農民からの聞き取り調査に基づき,87年の農業生産高は79年の53%に低下と推定(UPI)。
DIA-503-1988-06-03-1アフガニスタン1988年06月03日1980年代ナジブラ大統領がラフィ国防相,ハテフ民族祖国戦線議長,ムータット副首相,サラビ教育相の4人を副大統領に指名。
DIA-503-1988-06-03-2アフガニスタン1988年06月03日1980年代ナジブラ大統領が国連軍縮特別総会出席およびキューバ訪問に出発。往きと帰りにモスクワに寄ってゴルバチョフ書記長と会見して13日に帰国。
DIA-503-1988-06-07-1アフガニスタン1988年06月07日1980年代ナジブラ大統領が国連での演説後に会見,79年以降の戦争でア人死者は児童2万700人,女性3万5700人を含む24万3900人であると語った(UPI)。
DIA-503-1988-06-08-1アフガニスタン1988年06月08日1980年代シャルク新首相が国会に25人の閣僚名簿を提出した。ハルク派指導者のグラブゾイ内相は留任。
DIA-503-1988-06-10-1アフガニスタン1988年06月10日1980年代アガ・カーン国連ア援助調整官が期間4年半,総額約20億㌦の復興援助計画を発表。89年末までの第1段階18カ月間に難民帰還,農業再建などで11億6600万㌦,その後の第2段階3年間に農業再建の継続,産業復興などに8億3900万㌦を必要としている。
DIA-503-1988-06-15-1アフガニスタン1988年06月15日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のヘクマチアル議長の任期切れに伴い,穏健派のイスラム革命民族戦線のガイラニ代表が新議長に就任。
DIA-503-1988-06-19-1アフガニスタン1988年06月19日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟がゲリラ側の暫定政府閣僚名簿を発表。大統領は原理主義派のイスラム統一体に属するアフメド・シャーですでに指名,就任ずみ。
DIA-503-1988-07-06-1アフガニスタン1988年07月06日1980年代カーブルの中央市場で車に仕掛けられた爆弾が爆発,7人が死亡,26人が負傷(タス通信)。
DIA-503-1988-07-08-1アフガニスタン1988年07月08日1980年代ジャララバードの映画館近くで車に仕掛けられた爆弾が爆発,31人が死亡(バフタル通信)。
DIA-503-1988-07-09-1アフガニスタン1988年07月09日1980年代カーブル訪問を終えたコルドベス国連事務次長がイスラムバードで記者会見,9月1日からの休戦と独立かつ中立的なメンバーによる新政府樹立を呼びかけた和平案を発表した。
DIA-503-1988-07-11-1アフガニスタン1988年07月11日1980年代ジャララル商業相,モスクワでムラホフスキー・ソ連第1副首相兼国家農工委議長,カツシェフ対外経済関係相と会談。
DIA-503-1988-07-16-1アフガニスタン1988年07月16日1980年代ナジブラ大統領がテレビ演説で4月30日から7月15日までカーブルにミサイル167発,迫撃砲30発が撃ち込まれ,63個の爆弾が爆発,139人が死亡,170人が重軽傷を負ったことを明らかにした。
DIA-503-1988-07-21-1アフガニスタン1988年07月21日1980年代ア政府は31番目の州としてクナール州の一部を独立させてヌーラニスタン州を創設したと発表。4月には30番目の州としてバルフ,ジョズジャン両州を分割してサリプル州を設置している(ロイター)。
DIA-503-1988-07-23-1アフガニスタン1988年07月23日1980年代パのジア大統領がラワルピンジでの記者会見でア駐留のソ連軍が撤退を中止し,新たに1万人を投入したと語った。ソ連のアフロメーエフ参謀総長は全面否定し,25日にレッドマン米国務省報道官も増派説を否定。
DIA-503-1988-07-26-1アフガニスタン1988年07月26日1980年代ナジブラ大統領はイスラム教の休日に合わせてカーブルを訪れた反政府ゲリラの代表342人と会見,休戦を呼びかけた(タス通信)。
DIA-503-1988-07-27-1アフガニスタン1988年07月27日1980年代ソ連によるアの鉱物調査,天然ガス開発援助協定がモスクワで調印された。ソ連の支出はアからの天然ガスなどの引き渡しによって支払われる。
DIA-503-1988-08-04-1アフガニスタン1988年08月04日1980年代ソ連のシェワルナゼ外相がカーブルを訪問,7日まで滞在し,ナジブラ大統領と2回会談,「パの支援による反政府活動が中止されなければ,両国は必要な行動をとる」との共同声明を発表した。
DIA-503-1988-08-06-1アフガニスタン1988年08月06日1980年代シャルク首相がカーブルで記者会見し,和平のためには最高指導者の大統領も首相もその地位から退く用意があると言明した。
DIA-503-1988-08-08-1アフガニスタン1988年08月08日1980年代カーブル駐留のソ連・自動車化狙撃部隊約500人が撤退した。首都からのソ連軍引き揚げはこれが初めて。
DIA-503-1988-08-10-1アフガニスタン1988年08月10日1980年代反政府ゲリラはサラン峠北のバグラン州カラガイにあるソ連軍の弾薬・燃料補給庫をロケット攻撃で爆発させ,ソ連軍兵士少なくとも109人を殺害した(AFP)。
DIA-503-1988-08-11-1アフガニスタン1988年08月11日1980年代ソ連対外経済関係省によるとソ連とアの88年上半期貿易額は3億2000万ルーブル以上に達した。両国は2000年までの経済・技術・商業協力長期計画もこのほど作成を終え,近く調印する(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-08-15-1アフガニスタン1988年08月15日1980年代ア駐留ソ連軍は4月のジュネーブ和平合意に基づき,予定どおり半数の約5万人の撤退を完了,ナジブラ大統領が同日の記者会見で確認した。
DIA-503-1988-08-16-1アフガニスタン1988年08月16日1980年代ソ連は撤退を15日でいったん停止し,3カ月後の11月中旬から残る半数の撤退を再開するとタス通信を通じて発表。
DIA-503-1988-08-18-1アフガニスタン1988年08月18日1980年代ア政府は17日に事故死したジア・パ大統領の死去に関しカーン大統領代行に弔電を送るとともに代行就任を祝い,両国関係の正常化を希望した(ロイター)。
DIA-503-1988-08-18-2アフガニスタン1988年08月18日1980年代6月の新内閣発足から空席だった国防相にタナイ陸軍参謀長が,軍参謀総長にアセフ中将が任命された(タス通信)。
DIA-503-1988-08-29-1アフガニスタン1988年08月29日1980年代ソ連とアの国際クルーを乗せたソ連宇宙船ソユーズTM6号がバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。ア人のモハマンド研究担当飛行士が同乗。ナジブラ大統領はテレビ演説で共同飛行期間中の停戦を呼びかけた。
DIA-503-1988-08-31-1アフガニスタン1988年08月31日1980年代『ワシントン・ポスト』紙のペシャワル電によると米政府はゲリラ各派の本部を通さずにア国内のゲリラ部隊に武器援助の大半を引き渡し始めた。過激なヘクマチアル派の勢力拡大を懸念したためとみられる。
DIA-503-1988-08-31-2アフガニスタン1988年08月31日1980年代ワキル外相はデクエヤル国連事務総長あての書簡でジュネーブ和平合意について協議するためア,パ,ソ連,米国の4カ国外相会談の開催を提案した(タス通信)。
DIA-503-1988-09-01-1アフガニスタン1988年09月01日1980年代カーブルのソ連空軍基地内の武器庫がゲリラのロケット砲で一斉攻撃されて爆発,輸送機などが破壊された(UPI)。
DIA-503-1988-09-07-1アフガニスタン1988年09月07日1980年代モハマンド宇宙飛行士とソ連宇宙飛行士は軌道コンプレクス「ミール」での作業計画を完了してカザフ共和国内に軟着陸した。
DIA-503-1988-09-15-1アフガニスタン1988年09月15日1980年代コルドベス・エクアドル外相(前国連事務次長)はアの将来を決定するため伝統的なロヤ・ジルガ(部族代表会議)を89年3月1日に開くよう国連で呼びかけた。
DIA-503-1988-09-18-1アフガニスタン1988年09月18日1980年代シャルク首相は閣僚5人を伴って訪ソ。19日にルイシコフ・ソ連首相と会談,20日にゴルバチョフ書記長と会談した後,2000年までの長期経済・技術・通商協力計画,ソ連の大学・職業技術学校におけるア人養成に関する議定書などに調印して22日に帰国。
DIA-503-1988-09-22-1アフガニスタン1988年09月22日1980年代国連のア難民救済調整官事務所が1回目の報告書を発表した。87年の小麦収穫量は内戦の開始前の50%に落ち,また内戦によって舖装道路2000㎞の70%が破壊され,2000校の学校が損害を受けた(ロイター)。
DIA-503-1988-09-26-1アフガニスタン1988年09月26日1980年代『プラウダ』紙はカーブル発の特電でナジブラ政権の弱体ぶりや幹部の腐敗,カーブル市内の動揺を伝える異例のルポを掲載した。
DIA-503-1988-09-28-1アフガニスタン1988年09月28日1980年代反政府ゲリラがカーブルに向けて1時間に21発の地対地ロケットを撃ち込み,1発が中心部の広場で爆発し,35人が死亡,156人が負傷した(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-09-29-1アフガニスタン1988年09月29日1980年代ソ連のゲラシモフ外務省情報局長は国連本部で記者会見し,パによるジュネーブ和平合意違反を非難するとともに国連ア・パ仲介ミッション(UNGOMAP)が違反に適切な対応をしていないと不満を表明した。
DIA-503-1988-10-04-1アフガニスタン1988年10月04日1980年代ハマー米オクシデンタル石油会長がカーブルを訪れナジブラ大統領と会談。大統領は前提条件なしにゲリラや難民代表と交渉する用意があることを明らかにした。
DIA-503-1988-10-05-1アフガニスタン1988年10月05日1980年代ゲリラ側のアフガン通信によると反政府ゲリラはパクチカ州の州都シャランをこのほど制圧した(AFIP)。
DIA-503-1988-10-05-2アフガニスタン1988年10月05日1980年代カーブルにゲリラが26発のロケット弾を撃ち込み,13人が死亡,34人が負傷した(タス通信)。
DIA-503-1988-10-11-1アフガニスタン1988年10月11日1980年代ゲリラ側のアフガン通信によると,このほどクナール州全域がゲリラ側に制圧された(新華社)。
DIA-503-1988-10-12-1アフガニスタン1988年10月12日1980年代ソ連のベロノゴフ国連大使がアの再建援助国連計画にソ連は4億ルーブル(約6億㌦)を拠出することを明らかにした。
DIA-503-1988-10-13-1アフガニスタン1988年10月13日1980年代ソ連の新ア大使にウォロンツォフ第1外務次官が任命された。第1外務次官は兼任のままで赴任する。
DIA-503-1988-10-19-1アフガニスタン1988年10月19日1980年代ア人民民主党中央委員会総会でゼアリ政治局員とラゼムジョ党カブール書記長が政治局員から解任された。国民和解路線に抵抗したためとみられる(『朝日』)。
DIA-503-1988-10-22-1アフガニスタン1988年10月22日1980年代ナジブラ大統領が反政府ゲリラに対し,サウジアラビアのメッカで和平会談を開くことを提案した(カーブル放送)。
DIA-503-1988-10-24-1アフガニスタン1988年10月24日1980年代ゲリラ側のアフガン通信によると,反政府ゲリラはこのほどカピサ州の州都マフムド・ラクィを奪取した(新華社)。
DIA-503-1988-11-01-1アフガニスタン1988年11月01日1980年代米国務省はア駐留ソ連軍がミグ27攻撃機約30機を配備したのに続き,戦術地対地ミサイル・スカッドBをカーブルに展開したとの情報を確認(時事)。
DIA-503-1988-11-03-1アフガニスタン1988年11月03日1980年代テヘランの『イスラム共和国』紙がガズニ州キャレバクで最近スンニ派とシーア派のイスラム教徒同士が衝突したと伝えた。死傷者多数が出てシーア派の800家族以上が同地区から追放されたという。
DIA-503-1988-11-04-1アフガニスタン1988年11月04日1980年代ソ連のベススメルトヌイフ第1外務次官が記者会見でア駐留ソ連軍部隊の撤退再開遅れを示唆。
DIA-503-1988-11-07-1アフガニスタン1988年11月07日1980年代アフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟のラバニ議長が訪米。9日に会談したレーガン大統領はソ連軍の撤退完了までゲリラ組織への援助継続を約束。
DIA-503-1988-11-07-2アフガニスタン1988年11月07日1980年代『イズベスチヤ』紙がソ連とアが送電線建設で契約に調印したと報道。ソ連の国境地方とアを結ぶ送電線の建設のためソ連は設備,資材を供給する。
DIA-503-1988-11-08-1アフガニスタン1988年11月08日1980年代カーブル放送はグラブゾイ内相がソ連の要請により駐ソ大使に任命されたと報じた。同内相はハルク派の指導者で国民和解路線に反対していたと伝えられる(『朝日』)。
DIA-503-1988-11-09-1アフガニスタン1988年11月09日1980年代シャルク首相が国連本部で会見,ソ連軍の撤退完了までに和解政府を樹立するため,国際的監視の下での政府側とゲリラ側の非武装化を提唱(時事)。
DIA-503-1988-11-11-1アフガニスタン1988年11月11日1980年代ア政府軍は過去2日間にわたりスカッドBミサイルでナンガハル州のゲリラ拠点を攻撃,ゲリラ720人を殺害,ゲリラ側によって封鎖されていたカーブルとジャララバードを結ぶ幹線道路を再開した(カーブル放送)。
DIA-503-1988-11-11-2アフガニスタン1988年11月11日1980年代バクラノフ・ソ連共産党中央委書記がベロウソフ機械製作相,スイスツォフ航空工業相を伴ってカーブル入り。ア側との会談で追加援助に合意(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-11-11-3アフガニスタン1988年11月11日1980年代マンガル副首相が『イズベスチヤ』紙との会見で国内情勢の緊迫化を表明した。「われわれはいくつかの地域を保持できないかもしれないが,ゲリラ側の勝利はありえない」と語った。
DIA-503-1988-11-12-1アフガニスタン1988年11月12日1980年代ゲリラ組織のイスラム協会(ラバニ代表)はカーブルとソ連を結ぶサラン街道を寸断したと発表した(AP)。
DIA-503-1988-11-14-1アフガニスタン1988年11月14日1980年代政府軍はナンガルハル,カンダハル,ヘラートなど6州で反政府ゲリラと戦闘を展開,ゲリラ計505人を殺害した(カーブル放送)。
DIA-503-1988-11-16-1アフガニスタン1988年11月16日1980年代ヤゾフ・ソ連国防相はユーゴスラビアの週刊誌との会見でソ連がミグ27戦闘機30機をアに供与したとの西側報道を否定した(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-11-20-1アフガニスタン1988年11月20日1980年代訪印していたゴルバチョフ書記長とガンジー首相の首脳会談が終了,両国は共同声明でア和平実現のため国連主宰による国際会議開催を提案した。
DIA-503-1988-11-22-1アフガニスタン1988年11月22日1980年代グラブゾイ前内相の後任にワタンジャル通信相が任命された(ロイター)。
DIA-503-1988-11-22-2アフガニスタン1988年11月22日1980年代カンダハルで寝返りをはかった政府軍の一部の指導者たちが軍司令部にゲリラ部隊約400人を引き入れようとしたクーデター未遂事件が起きた(タス通信)。
DIA-503-1988-11-27-1アフガニスタン1988年11月27日1980年代パ外務省で駐パ・ソ連大使館員4人とゲリラ代表2人がソ連人捕虜の釈放について会談した。両者の会談はソ連軍侵攻以来初めて(ロイター)。
DIA-503-1988-12-02-1アフガニスタン1988年12月02日1980年代ゲリラ勢力は2000人のパ将兵の支援のもとにカイバル峠のア側国境の町トルハムを占領した(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-12-02-2アフガニスタン1988年12月02日1980年代ソ連外務省がア和平国際会議の開催を呼びかける声明を発表。
DIA-503-1988-12-03-1アフガニスタン1988年12月03日1980年代ウォロンツォフ・ソ連第1外務次官兼駐ア大使がア・ムジャヒディン・イスラム同盟のラバニ議長らとサウジアラビアのタイフで4日まで会談。ゲリラ側に捕らえられているソ連兵捕虜の釈放問題のほか撤退ソ連軍の安全問題,暫定政権問題が話し合われ,次回交渉をイスラマバードで開くことに合意した。
DIA-503-1988-12-03-2アフガニスタン1988年12月03日1980年代ブット女史がパ首相に就任,記者会見でアに対するパの政策は変わらないだろうと表明(モスクワ放送)。
DIA-503-1988-12-07-1アフガニスタン1988年12月07日1980年代ゴルバチョフ書記長が国連総会で演説,ア問題について89年1月1日からの完全停戦を提案。また双方への武器供給の停止,国連平和維持部隊の派遣を提唱し,アの中立化と非軍事化に関する国際会議開催を国連事務総長に要望した。
DIA-503-1988-12-10-1アフガニスタン1988年12月10日1980年代東部国境近くのホストからカーブルに向かっていた国内旅客機がパ空軍機に撃墜され,子ども3人と女性1人を含む25人が死亡(カーブル放送)。パ政府は否定し,反政府ゲリラのイスラム党が12日,地対空ミサイルで撃墜した,と発表(AP)。
DIA-503-1988-12-23-1アフガニスタン1988年12月23日1980年代ア・ムジャヒディン・イスラム同盟のラバニ議長がテヘランを訪問,シーア派8派のア・イスラム連合評議会の代表と27日まで会談した。両者は28日,イスラム政権の樹立,国連監視軍の駐留に反対,などを骨子とする共同声明を発表(『毎日』)。
DIA-503-1988-12-24-1アフガニスタン1988年12月24日1980年代ウォロンツォフ・ソ連第1外務次官兼駐ア大使がローマでザヒル・シャー元国王と会談,新政府樹立に向け50~60人の政治家,著名人から成る評議会の開催を提案し,元国王の参加を求めた。
DIA-503-1988-12-27-1アフガニスタン1988年12月27日1980年代米国務省がア情勢に関する特別報告書を発表,政府軍はソ連軍撤退後数カ月と持ちこたえられず,ナジブラ政権も崩壊するとの見方を明らかにした。
DIA-503-1988-12-30-1アフガニスタン1988年12月30日1980年代ナジブラ大統領が国営テレビで演説,89年1月1日から4日間の一方的停戦を発表した。
DIA-503-1989-01-01-1アフガニスタン1989年01月01日1980年代ア駐留ソ連軍およびア政府軍,4日間の一方的停戦に入る。ゲリラ側はこれを拒否し,ナンガルハール州などで攻撃を続行。
DIA-503-1989-01-02-1アフガニスタン1989年01月02日1980年代ウォロンツォフ・ソ連第一外務次官(駐ア大使),テヘラン入り。3日,ハメネイ・イラン大統領およびベラヤティー同外相と会談。このあと,イランに拠点を置く反ア政府勢力8派代表と初の直接和平会談。4日パ入りした同外務次官はヤークーブ・ハーン・パ外相と,広範な基盤を持つ連立政権をアに樹立する件などについて会談(5日も)。6日,イスラマバードのパ外務省でアフガン聖戦士イスラーム同盟(IUAM)のモジャッデディー議長と第2回目の直接和平交渉に入った。9日,同議長およびM・K・ハリーリー在イラン8派代表はイスラマバードでの記者会見で,ソ連の直接交渉を打ち切ると発表した。なお,同上8派はシーア派8組織から成り,IUAMはスンニー派7組織から成る。
DIA-503-1989-01-04-1アフガニスタン1989年01月04日1980年代ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(最高会議幹部会議長)はクレムリンで,イランのホメイニ師のジャワディ・アモリ特使とア問題の政治解決などで会談。
DIA-503-1989-01-04-2アフガニスタン1989年01月04日1980年代アとソ連,1989年貿易・経済協力議定書に調印。
DIA-503-1989-01-12-1アフガニスタン1989年01月12日1980年代B通信によるとアフガニスタン暦の本年(1367年=西暦1988年3月21日~89年3月20日)に全国で22の幼稚園が新設された。現在全国に計262の幼稚園があり,園児数は1万9600。(POT-A,2/24)
DIA-503-1989-01-13-1アフガニスタン1989年01月13日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相,ア訪問(~15日)―14日,ナジブラ(ナジーブッラー)・ア大統領と会談。ア暫定政権樹立でソ連が今後も仲介役を果たすことを確認。同日,シャルク首相,ワキール外相,タナイ国防相,ヤークービー国家治安相,ワタンジャル内相とも会談。15日,B通信との会見で,2月15日までのソ連撤退を確認。また,「撤兵後も軍事援助など継続」と言明。
DIA-503-1989-01-18-1アフガニスタン1989年01月18日1980年代KT紙1月18日は過去2年間の経済的成果として次のように報道。民間の338プロジェクトが認可された。1987/88年度に政府は国内で18.7万㌧の小麦を買いつけた。この数字が記録されたのはア史上初めて。今ア年は国民和解政策2年目で,その成果の一環としてアとソ連の12共和国との経済面での直接的協力が制度化された。(POT-A,2/24)
DIA-503-1989-01-19-1アフガニスタン1989年01月19日1980年代日本政府,今年度補正予算案の中に「ア難民帰還促進援助資金」として140億円を計上。
DIA-503-1989-01-22-1アフガニスタン1989年01月22日1980年代反ア政府ゲリラが今月開始した首都封鎖作戦によりカーブルでは食糧・燃料が不足している。これに対処するためソ連政府は必需品の空輸を20日に開始した(『朝日』1/23夕刊)。モスクワ放送2月16日によれば,過去3ヵ月にソ連はカーブルに700台のトラックで8000㌧の食糧および燃料を供給した。
DIA-503-1989-01-23-1アフガニスタン1989年01月23日1980年代「アフガニスタン共和国左派民主政党連合」(ADLPRA)調整評議会の定期会議がカーブルで開かれた。会議には政権党「アフガニスタン人民民主党」(PDPA),「アフガニスタン働く者たちの革命機関」(ROWPA)および「アフガニスタン働く者たちの機関」(WPOA)の各若干名が参加(DR,1/27)。
DIA-503-1989-01-24-1アフガニスタン1989年01月24日1980年代パの外交筋によると,ここ数日間にア駐留ソ連軍1万5000人がカーブルを撤退,ソ連国境に向かってサラン街道を北上中(DR,1/24)。
DIA-503-1989-01-25-1アフガニスタン1989年01月25日1980年代ヤゾフ・ソ連国防相,カーブル入り。
DIA-503-1989-01-30-1アフガニスタン1989年01月30日1980年代B通信によるとア暦本年,本日までに7900人以上の青年が自発的に政府軍に入隊した(POT-A,1990年3/4)。
DIA-503-1989-01-30-2アフガニスタン1989年01月30日1980年代カーブルの米大使館が一時閉鎖された。日本も。
DIA-503-1989-02-02-1アフガニスタン1989年02月02日1980年代シリアの首都ダマスカスのパ公式筋によると,ア政府上級役人たちとイスラーム党(HI)のヘクマティヤール党首に率いられたアのイスラーム原理主義者団体(複数)代表団が2,3日前に当地で和平のための秘密交渉を行なった(DR,2/6)。
DIA-503-1989-02-04-1アフガニスタン1989年02月04日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相,訪中後パを訪問。ア問題などでパ政府首脳陣と会談。6日,離パ。
DIA-503-1989-02-06-1アフガニスタン1989年02月06日1980年代ブットー・パ首相,イスラマバードで記者会見。「シェワルナゼ・ソ連外相は,アの臨時政府設立のためのシューラ(評議会)支持の条件としてPDPAの参加を強調していたが,シューラに誰が参加すべきかはムジャーヒディーン(聖戦士たち)が決めることだ」。
DIA-503-1989-02-08-1アフガニスタン1989年02月08日1980年代タスによると,PDPAはソ連撤兵後のカーブル防衛のため党員を中核とする国防義勇軍の創設を決定。
DIA-503-1989-02-09-1アフガニスタン1989年02月09日1980年代新華社電2月9日によると,ア政府軍のアーセフ参謀長は記者会見で,PDPA党員の64%が軍に入隊していると明らかにした(RP)。
DIA-503-1989-02-10-1アフガニスタン1989年02月10日1980年代ナジブラ政権打倒後の政権作りを目指して反政府ゲリラがパのラーワルピンディーでシューラ(2月6日参照)を開いた。しかし,イランを本拠地とする反ア政府ゲリラ8派は欠席。シューラ議席は当初の構想では,パを本拠地とするIUAM7派の各派から60人,同上8派から計80人,ア国内の「善良なムスリム」19人,その他20人となっていた。しかし,2月5日のIUAMと同上8派の協議の結果,同上8派に100議席が配分されることになった。だが現実には,8派によれば,「IUAMがわれわれに60議席しか配分せず,暫定内閣閣僚ポスト28のうち約束の7に対して4しか配分しようとしないこと」がシューラをボイコットする理由だという。
DIA-503-1989-02-10-2アフガニスタン1989年02月10日1980年代ソ連外務省ベルフィリエフ情報局長によると,「カーブル市外180km地点で反政府勢力が小麦積載トラック数千台を止めているため人口200万のカーブルは食糧危機に瀕している」という(APN,2/10)。
DIA-503-1989-02-10-3アフガニスタン1989年02月10日1980年代食料品,医薬品など26㌧を積んだ国連救援機が初めてカーブルに到着した。
DIA-503-1989-02-11-1アフガニスタン1989年02月11日1980年代ソ連国防省機関紙『赤い星』,ア駐留ソ連軍5万人(1988年8月)のうちすでに3万9093人が帰国と報道。
DIA-503-1989-02-14-1アフガニスタン1989年02月14日1980年代B通信によると,カーブルのクーポン券所有者に対し今までに350㌧以上の小麦粉が配給され同市の食糧問題は解決したという(POT-A,3/20)。
DIA-503-1989-02-15-1アフガニスタン1989年02月15日1980年代ア駐留ソ連軍撤退完了―1979年12月以来のソ連によるア軍事介入終了に際して特別な行事はなかったが,ソ連政府は次の声明を発表(要旨)。(1)ア政府は国民和解計画を打ち出した。(2)ア政府は非同盟中立国として再生する。(3)今後のア情勢はソ連とアの建設的路線に他のジュネーブ協定調印諸国が従うかどうか,また,パとイランの反ア政府勢力軍の出方にかかっている。(4)ソ連はアフガン人諸グループ間の戦闘を直ちに停止すること,および,すべての国々に対して武器供与を停止するように改めて提案する。(5)現在,パは自国領土を反ア政府勢力に使用させないという特別の責任を負っている。(6)ソ連は,パ政府指導部がパ・ア連合を創設する可能性を口にしたことを無視することはできない。停戦なくしてア難民問題は解決できない(POT-A,1990年3/24)。なお,撤退完了頃から日本にKTが届かなくなり,発行先から手紙の返事もこなくなったという(某氏談)。
DIA-503-1989-02-15-2アフガニスタン1989年02月15日1980年代ソ連軍全面撤退後,首都カーブル周辺に約3万人の反政府ゲリラが集結した(『朝日』2/19)。このため同日,首都カーブルに22時~4時の夜間外出禁止令。
DIA-503-1989-02-15-3アフガニスタン1989年02月15日1980年代IUAM最高評議会(7人)は,エンジニア・アハメッド・シャー(アフガニスタン・イスラーム連合:IIA)を反ア政府ゲリラ「暫定政府」首相に指名。同氏は,パのラーワルピンディーで記者会見,「できるだけ早くシューラの信任を得て26人の内閣を結成する」と談。
DIA-503-1989-02-16-1アフガニスタン1989年02月16日1980年代パのイスハーク・ハーン大統領とベーナジール・ブットー首相はソ連のア撤兵歓迎の声明を発表。
DIA-503-1989-02-18-1アフガニスタン1989年02月18日1980年代ナジブラ大統領は,19日午前零時を期して全国に非常事態宣言を布告。これにより国民議会の権限が停止,同大統領は同19日,非PDPA党員の閣僚7人を更迭し,党員を新閣僚に任命。また,祖国防衛最高評議会(20人中,19人は党員)を創設。
DIA-503-1989-02-18-2アフガニスタン1989年02月18日1980年代シューラは「暫定政府」大統領にマウルビー・ナビー・モハメッド・ナビー・モハメディー(アフガニスタン・イスラーム革命運動HIIA党首)を承認。
DIA-503-1989-02-20-1アフガニスタン1989年02月20日1980年代ナジブラ大統領はM・H・シャルク首相(非党員)を解任した。
DIA-503-1989-02-21-1アフガニスタン1989年02月21日1980年代ナジブラ大統領はソルターン・アリー・ケシュトマンド元首相(52歳)を再度首相に任命。
DIA-503-1989-02-21-2アフガニスタン1989年02月21日1980年代イスラマバードの西側外交筋によると反ア政府勢力はオルズガーン州タリーンコート陥落に成功。4ヵ月ぶりの州都陥落。(『朝日』2/22)
DIA-503-1989-02-22-1アフガニスタン1989年02月22日1980年代イギリスの救援機関World Visionによると,アでソ連・ア政府軍および反ア政府勢力双方が敷設した地雷は数百万発になるという(時事,2/22)。
DIA-503-1989-02-23-1アフガニスタン1989年02月23日1980年代IUAM 7派のシューラは秘密投票によりシブガトゥッラー・モジャッデディー教授(アフガニスタン救国国民戦線JMNA党首)を「暫定政府」大統領に選出(有効票425中174)。首相にアブドル・ラスール・サヤーフ(アフガニスタン解放イスラーム同盟IIBAA党首)を選出(同173)。閣僚7人のうち国防相(他の2ポスト兼任)はゴルブッディーン・ヘクマティヤール(イスラーム党HI党首),外相兼部族問題相兼法相はブルハーヌッディーン・ラッバーニー(アフガニスタン・イスラーム協会JIA党首)。
DIA-503-1989-02-24-1アフガニスタン1989年02月24日1980年代IUAM「暫定政府」閣僚一部変更。外相兼国境警備相兼法相にヘクマティヤール,国防相(他に4ポスト兼任〉にモハメディー(2月18日参照)。
DIA-503-1989-02-25-1アフガニスタン1989年02月25日1980年代カーブル放送によるとナジブラ大統領は本日の国民議会での演説で,反政府ゲリラに対し「それぞれの支配地域での自治権を認める」と述べるとともに,パに本拠を置く反ア政府ゲリラ組織との決別を呼びかけた。
DIA-503-1989-02-28-1アフガニスタン1989年02月28日1980年代閣議は政府および軍の関係者たちに対し石油製品の使用を厳しく制限(DR,3/2)。
DIA-503-1989-03-01-1アフガニスタン1989年03月01日1980年代パ国内放送は,アではバグラーン,ジャララバード,パクティヤー,パルワーンなど6州で激戦中と報じた(DR,3/1)。
DIA-503-1989-03-01-2アフガニスタン1989年03月01日1980年代反ア政府ゲリラはカーブルを包囲,経済封鎖を強めている。ゲリラはカーブル周辺に3万,ジャララバード周辺には1万5000の兵士を集結させている。ジャララバード,カンダハール,ヘラートの地方3都市が陥落すれば「半年以内にナジブラ政権崩壊」と米国務省は分析している。カーブル市内では食糧,ガソリンなどが極度に不足。ナジブラ大統領は民間人による首都防衛部隊を新設した。(『日経』3/2,ニューデリー発)
DIA-503-1989-03-02-1アフガニスタン1989年03月02日1980年代ワキール外相,訪印(~6日)。
DIA-503-1989-03-06-1アフガニスタン1989年03月06日1980年代ア東部の要衝ジャララバード攻略を狙う反ア政府ゲリラ,本格攻撃を開始。イスラマバード発新華社電によると10日,IUAM「暫定政府」はパクティヤー州シャボイで初閣議,パのペシャーワルの軍事筋によると,11日現在ジャララバード攻防戦はゲリラ側優勢だが膠着状態。タス11日によると,この攻防戦で今までにゲリラ側死者415,負傷者315,政府側死者14,負傷者18が出た(『朝日』3/12)。11日夜,ア政府軍ハック軍事部長は,ゲリラ側兵力1万4000人にパ人の民兵3000人が含まれていると言明。他方,ア政府軍兵力は1万2000人と言われる(『朝目』3/13)。
DIA-503-1989-03-09-1アフガニスタン1989年03月09日1980年代サウジアラビア政府はIUAM「暫定政府」を承認。11日スーダン,13日バハレーンも同政府を承認。
DIA-503-1989-03-11-1アフガニスタン1989年03月11日1980年代ナジブラ大統領は11日,ジュネーブ和平協定の保証人であるゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(最高会議幹部会議長)とブッシュ米大統領に書簡を送り,ジャララバード攻防戦による事態緊迫化を食い止める措置をとるよう要請。同書簡はまた,反政府ゲリラ軍に対するパ軍の支援および「アとの国境地帯のパ軍大部隊の集結」を非難。
DIA-503-1989-03-12-1アフガニスタン1989年03月12日1980年代パの12日付『ザ・ムスリム』紙はカーブルでのナジブラ大統領とのインタビュー(日付不明)記事を掲載。以下,重要点。(1)1979年にソ連の介入を要請したことが誤ちであったか否かを断じるのは時機尚早だ。(2)PDPA左派の誤ちや拙速なプログラムは党の性質や目標とは無縁のことだったのだ。
DIA-503-1989-03-13-1アフガニスタン1989年03月13日1980年代ア反政府ゲリラ筋および難民によると,ジャララバード戦のため難民3万人がパに流入した。
DIA-503-1989-03-15-1アフガニスタン1989年03月15日1980年代カーブルで新年度(ア年度1368)の予算案に関する閣議が開かれたとB通信が伝えた(DR,3/15)が,具体的数字は不詳。
DIA-503-1989-03-16-1アフガニスタン1989年03月16日1980年代ソ連のウォロンツォフ駐ア大使(第一外務次官)は記者会見で,パ兵数百人がジャララバード戦の第二線に配置されているとしてパ政府に介入停止を要求。
DIA-503-1989-03-16-2アフガニスタン1989年03月16日1980年代イスラーム諸国会議(OIC)定例外相会議がサウジアラビアのリヤドで開かれ,IUAM「暫定政府」にOIC正式会員資格を与えると決定した。
DIA-503-1989-03-17-1アフガニスタン1989年03月17日1980年代北京17日発新華社電によるとソ連は3月15日にアへの武器空輸を再開。ウォロンツォフ駐ア・ソ連大使によると,「武器には中距離スカッド・ミサイルが含まれる」という。(『日経』3/18)
DIA-503-1989-03-17-2アフガニスタン1989年03月17日1980年代17日のモスクワ放送は,ジャララバード戦で3月5~16日の間に反政府勢力側に死者4500人,負傷者2000人の損害が出たという(『日経』3/18)。
DIA-503-1989-03-17-3アフガニスタン1989年03月17日1980年代ソ連のウォロンツォフ第一外務次官(駐ア大使)はタスとの会見で,「パがアに直接的軍事交渉を強めている。これは直接侵略で,パ・ア戦争の始まりと言える」との判断を示した(『朝日』3/18夕)。
DIA-503-1989-03-20-1アフガニスタン1989年03月20日1980年代米『ワシントン・ポスト』紙3月20日によると,アでこの4年間ソ連国防省の作戦グループを指揮していたワレンニコフ国防次官(地上軍総司令官)は改革派有力週刊誌『アガニョーク』最新号とのインタビューで,79年末のソ連のア軍事介入に当時の参謀本部はこぞって反対していたと明らかにした。
DIA-503-1989-03-22-1アフガニスタン1989年03月22日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相は22日付『イズベスチア』紙で79年末のア軍事介入は一握りの指導者が密室で決定したとして介入決定の誤ちを事実上認めた。
DIA-503-1989-03-24-1アフガニスタン1989年03月24日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相はタスとの会見で,アの戦闘当事者への武器供与が停止されればソ連も武器供与停止の用意はあるが一方的な停止はせず,ソ連・ア二国間協定に基づく軍事援助を続けると言明。
DIA-503-1989-03-27-1アフガニスタン1989年03月27日1980年代KT紙27日によると,バローチ人政治局員でバルーチスタン解放運動(BLM)書記長のHalib Jaleepはナジブラ大統領に対する上申で,パによる「パ・ア連合」ドクトリンを厳しく非難(POT-A,4/23)。
DIA-503-1989-03-28-1アフガニスタン1989年03月28日1980年代ナジブラ大統領は国営放送を通じて反政府ゲリラに停戦を呼びかけるとともに「権力を分有する用意がある」と強調した。
DIA-503-1989-03-29-1アフガニスタン1989年03月29日1980年代米国務省スポークスマンは,「アフガニスタン・パキスタン国連仲介使節団(UNGOMAP)が十分に役割を果たしている」として,アにおける国連の役割の拡大を求めるソ連の最近の提案を拒否した(D,3/31)。
DIA-503-1989-04-02-1アフガニスタン1989年04月02日1980年代ワキール外相,カーブルでロイター通信記者と会見。(1)ア政府は過去(の諸政権の)誤ちに気づいて政策を変更した。(2)われわれは社会主義や共産主義を目指すつもりはない。(3)変化したア政権との交渉を西側諸国が拒否して反政府勢力を支持し続けているのは残念だ。
DIA-503-1989-04-12-1アフガニスタン1989年04月12日1980年代マレーシア政府,「ア暫定政府」を承認。
DIA-503-1989-04-13-1アフガニスタン1989年04月13日1980年代モジャッデディーIUAM「暫定政府」大統領は,パ政府がモハメッド・ザーヘル・シャー元ア国王に入国査証を与えるのなら同氏の帰還に反対しないと言明。
DIA-503-1989-04-16-1アフガニスタン1989年04月16日1980年代ア政府,カフマルド県をバーミヤーン州から分離してバグラーン州に編入(DR,4/18)。
DIA-503-1989-04-19-1アフガニスタン1989年04月19日1980年代ソ連のペロゴノフ常任国連代表は国連安保理で次のように述べた。(1)パには反ア政府勢力の100以上の軍事センターがある。(2)パ自身がア領内での軍事行動に参加しており,パの軍人と軍事顧問が反ア政府勢力の作戦を立案している。現在,ア領内には6000人以上のパ人傭兵がいる。(3)パには現在20人の国連監視員がいるものの,彼らはつんぼ桟敷に置かれているのだ。
DIA-503-1989-04-19-2アフガニスタン1989年04月19日1980年代IUAM「暫定政府」のヘクマティヤール外相,訪中(~21日)。
DIA-503-1989-04-19-3アフガニスタン1989年04月19日1980年代パのワリー・ハーン人民国民党(ANP)党首はゴルバチョフ・ソ連共産党書記長に書簡を送付。「ソ連とアがジュネーブ協定を厳守している他方で,アメリカによる支援と煽動によってパはアに対する内政干渉を続けており,パ軍部は軍人をアに送り込んでいる」との要旨。ゴ書記長より感謝の返書。
DIA-503-1989-04-20-1アフガニスタン1989年04月20日1980年代カーブルのソ連大使館筋によると反政府ゲリラが同大使館敷地内外にロケット弾4発発射。被害は微少だが,同大使館がゲリラに攻撃されたのは初めて。
DIA-503-1989-04-22-1アフガニスタン1989年04月22日1980年代パ政府筋によると反ア政府ゲリラのジャララバードへの正面攻撃はオークリー駐パ米大使同席のもと,パ政府と軍の3月5日会議で決定。同会議にゲリラ側からの出席者はなく,その代理となったパ軍情報局(ISI)の反対にもかかわらず決定。(『朝日』4/24-NYT紙特約)
DIA-503-1989-04-23-1アフガニスタン1989年04月23日1980年代パのブットー首相は記者会見で,ア問題の解決はナジブラ政権の廃絶によってのみ可能と述べた。
DIA-503-1989-04-26-1アフガニスタン1989年04月26日1980年代香港発AFP電は,反ア政府ゲリラの暫定政府はアにまだ拠点を有さず,ゲリラ筋によるとモジャッデディー大統領の統治は多分に象徴的なもので,同暫定政府閣僚のほとんどはパのペシャーワル市のホテルに事務所を構えているにすぎないと報じた(DR,4/26)。
DIA-503-1989-04-26-2アフガニスタン1989年04月26日1980年代カーブルで「4月革命」第11周年記念の軍事パレード。記念日は27日だが,ゲリラの攻撃を避けるためかパレードは1日繰りあげて実施された。翌27日,大統領府内で20ヵ国ほどの代表団を招いて革命記念式典が開かれた。なお,同日朝から夕方までにゲリラのロケット弾54発がカーブル市内に着弾。(『朝日』(4/27,28)
DIA-503-1989-04-26-3アフガニスタン1989年04月26日1980年代パのシャー・ナワーズ国連代表は安保理で,UNGOMAPの拡大の要を主張。なお,11日からの国連安保理会議は26日,宣言発表なきまま終了。
DIA-503-1989-04-27-1アフガニスタン1989年04月27日1980年代香港発AFP電によると,サウジアラビアはスンニー派ゲリラより戦闘的なシーア派ゲリラを牽制するためにアラブ諸国のスンニー派過激勢力約2000人を反ア政府の「聖戦」に投入していると,穏健派ゲリラたちにしばしば非難されている(DR,4/26)。
DIA-503-1989-04-29-1アフガニスタン1989年04月29日1980年代ア政府発表では,3月8日からのジャララバード攻防戦での死者はゲリラ側7000~1万2000で,政府側は一般市民を含めて約300(『朝日』4/30)。
DIA-503-1989-04-30-1アフガニスタン1989年04月30日1980年代ナジブラ大統領は日本人記者団との会見で,「反政府勢力の幾つかのグループとはすでに停戦で合意,調印も済ませている」と明らかにした。また,「パは昨年4月のジュネーブ合意を破り,ペシャーワルの臨時政府を支援している」と非難した。
DIA-503-1989-04-30-2アフガニスタン1989年04月30日1980年代反ア政府ゲリラ側のアフガン報道センター(AMRC)によると,1988年4月~89年4月にゲリラ側はア政府軍・ソ連軍の2万2125人を殺害し,自らも死者1500人を出したという(DR,5/3)。
DIA-503-1989-05-02-1アフガニスタン1989年05月02日1980年代ア訪問中のパのバルーチスタン州政治家M・G・B・ビゼンジョー(パキスタン国民党NPP委員長)はア革命11周年記念式典(4月26日参照)で,「NPPはアの78年4月革命当初からそれを支持してきたし,今後も支持し続ける」と言明(DR,5/3)。
DIA-503-1989-05-08-1アフガニスタン1989年05月08日1980年代カーブルの非同盟国外交筋によると,ゲリラ側は最近,従来の正面作戦をやめ,反政府包囲網を固めて兵糧攻め作戦に変えた模様(『朝日』5/9カーブル発)。
DIA-503-1989-05-13-1アフガニスタン1989年05月13日1980年代ナジブラ大統領は大会議(Loya Jirgah=Grand Assembly)選挙法を承認(選挙法全文はDR,5/17に再録)。
DIA-503-1989-05-13-2アフガニスタン1989年05月13日1980年代ア外務省は「ジャララバードで政府軍は攻勢に転じつつある」と発表。カーブルでは首都特別防衛隊が警備。反政府勢力による首都包囲・封鎖作戦は今も続いている。食用油や米はこの3ヵ月で2~3倍に値上がり。医療品不足も深刻。(『朝日』5/14カーブル発)
DIA-503-1989-05-14-1アフガニスタン1989年05月14日1980年代ナジブラ大統領は英BBC放送との会見で,「ザーヘル・シャー元国王(ローマに亡命中,74歳)の役割がア問題解決のために必要だ」と述べた。ただし,「王政復古の余地はない」と言明。なお,このBBC記者は会見中,「われわれがジャーナリスト400~500人の報道を分析したところ,パ軍人がジャララバード攻防戦に参画していると言っている者は1人もいない」と述べている。(POT-A,6/22)
DIA-503-1989-05-17-1アフガニスタン1989年05月17日1980年代大会議総選挙が州および州と同地位の地区(units)の計32ヵ所で行なわれた。議員は同上地域各10人の計320人の他200人の計520人。200人とは国会議員,州知事,カーブル市長,最高裁判所長官など自動的に大会議議員を兼任する人々。(DR,5/17,22)
DIA-503-1989-05-19-1アフガニスタン1989年05月19日1980年代在イラン反ア政府ゲリラ8派はパのペシャーワルに代表団(代表はM・K・ハリーリー)を送りIUAM7派(代表はB・ラッバーニー)と会談。28日,両派は各々6人の代表を出して委員会を設置するなど5項目の合意書に調印した(DR,5/23,30)。
DIA-503-1989-05-20-1アフガニスタン1989年05月20日1980年代カーブルで大会議開催(~21日)。20日,ナジブラ大統領,演説(「参考資料」参照)。
DIA-503-1989-05-20-2アフガニスタン1989年05月20日1980年代KHAD(秘密警察)のL・アーリヤーン長官,カンダハールでゲリラに殺害さる(DR,5/23)。
DIA-503-1989-05-21-1アフガニスタン1989年05月21日1980年代大会議,非常事態(2月19日参照)の6ヵ月延長を決議。
DIA-503-1989-05-21-2アフガニスタン1989年05月21日1980年代ナジブラ大統領は大会議の閉会演説で,反ア政府ゲリラ司令官14人(とくにパンジシェール渓谷のA・S・マスード司令官)に対し,反政府闘争をやめて政府に協力することを条件に実質支配地域の自治権を付与すると呼びかけた(DR,5/23,POT-A,6/23)。なお,大会議は同日,大統領提案の和平調停委員会設置を承認。
DIA-503-1989-05-23-1アフガニスタン1989年05月23日1980年代B通信23日によると,マスード司令官(5月21日参照)は最近の英BBCテレビ放映インタビューで,パ軍の情報機関ISIが反ア政府ゲリラ諸組織のうちゴルブッディーン・ヘクマティヤールのHIを支援していることに疑問の余地はない,と述べるとともにIUAMの暫定政府には欠陥が多いと非難した(POT-A,6/23)。
DIA-503-1989-05-23-2アフガニスタン1989年05月23日1980年代香港発AFP電23日によると,パのイスラマバードの反ア政府ゲリラ情報として,ゲリラ野戦司令官数百人(主にアの南部および東部の諸州出身者)が,IUAM「暫定政権」を拒否する書類に署名した(DR,5/23)。
DIA-503-1989-05-23-3アフガニスタン1989年05月23日1980年代在イランの反ア政府ゲリラ8派のスポークスマンは,「ザーヘル・シャー元国王の帰国に反対はしないが,彼は過去10年間国民が殺されている時に何もしなかった」と述べた(UPI電)。
DIA-503-1989-05-26-1アフガニスタン1989年05月26日1980年代1988年1~6月のアの国別輸入額(単位:100万㌦)は,ソ連262,日本50,韓国37,中国19,インド17,チェコ17,……パ10,米2.6。また,1989年1月現在の物価(単位:アフガニー,かっこ内は88年12月現在)。小麦粉7kg袋=1000(600),米1袋=1600(800),ガソリン20㍑=6000~8000(600)。(時事通信)
DIA-503-1989-05-26-2アフガニスタン1989年05月26日1980年代B通信26および30日によると,最近反ア政府ゲリラ組織のHIとJIAがバルフ,パルヴァーン,ファリアーブ,ラグマーン,ガズニーの諸州で戦利品をめぐって武力衝突。死者55,負傷者47。(DR,6/1)
DIA-503-1989-05-26-3アフガニスタン1989年05月26日1980年代香港発AFP電26日によると,南部アではザーヘル国王の帰国を支持する部族民が支配的(DR,6/1)。
DIA-503-1989-05-29-1アフガニスタン1989年05月29日1980年代M・ハビービー上院議長(ナジブラ大統領に近い人物)はAFP通信との会見で次のように述べた。(1)ザーヘル・シャー元国王はアに帰国して自らの使命を果たす勇気を持つべきである。帰国しないと彼はア国民を失望させてしまうことになろう。(2)ザーヘル国王が帰国した場合の彼の役割を確定することは時機尚早だ。王制が英国流のものだとしても,アが王制に戻ることは考え難い。国王は統治はできないが,精神的かつ道徳的に指揮することになろう。(3)私はイスラームに基づいた穏健な社会主義を支持する。(DR,5/30)
DIA-503-1989-05-29-2アフガニスタン1989年05月29日1980年代ヘクマティヤールIUAM「暫定政府」外相は,「ソ連は英国とインドの諜報機関の協力でザーヘル(元国王を呼び戻そうとたくらんでいる」と非難(DR,5/30)。
DIA-503-1989-06-06-1アフガニスタン1989年06月06日1980年代米IHT紙6日によると,米政府内にはア政策変更の流れがあるという。CIAは軍事的勝利の見通しについて今までずっと楽観的であったが,ベーカー米国務次官の補佐官たちは膠着状態が長く続くのではないかと案じている。国務省欧州局および米国務次官の政策立案班の若千名はゲリラが勢いを盛り返せない場合はア政策の見直しが必要だとしている。なお,米国務省中近東局は今までの政策の変更に抵抗し,軍事的勝利のために反ア政府ゲリラにもっと時間的ゆとりを与えたいとしている。
DIA-503-1989-06-06-2アフガニスタン1989年06月06日1980年代訪米中のブットー・パ首相とブッシュ米大統領が会談後発表した声明は,「両国は今後もア問題の政治解決に向け密接な協力を行なう」としている。
DIA-503-1989-06-07-1アフガニスタン1989年06月07日1980年代ルイシコフ・ソ連首相は人民代議員大会で,9年間のア軍事介入の出費は450億ルーブル以上にも及ぶと明らかにした(『日経』6/8)。
DIA-503-1989-06-09-1アフガニスタン1989年06月09日1980年代ベーカー米国務次官は記者会見で,ナジブラ大統領が辞任しない限りア問題は解決しないと発言。ア政府,これを拒否。
DIA-503-1989-06-11-1アフガニスタン1989年06月11日1980年代ワキール外相はデクエヤル国連事務総長にア・パ国境国連監視所(現在3ヵ所)の増設を訴えた。
DIA-503-1989-06-18-1アフガニスタン1989年06月18日1980年代ア国営航空機がイラン領シースタン・バルーチスタン州に墜落し,乗客4人が死亡,34人負傷。イラン国営ラジオによると乗員同士のけんかが原因だというが,ア政府はハイジャックとしている。
DIA-503-1989-06-19-1アフガニスタン1989年06月19日1980年代政府はジャララバード攻防戦勝利を宣言。
DIA-503-1989-06-19-2アフガニスタン1989年06月19日1980年代駐パ米大使館はア領内で取材中の米人記者がア政府軍に捕まったと発表(7月21日釈放)。
DIA-503-1989-06-20-1アフガニスタン1989年06月20日1980年代ソ連撤兵以降,カーブルで野菜価格は4~5倍になり,やみ灯油は1㍑400アフガニー(約1000円)。公務員平均給与は月3000アフガニー(約7300円)という。また,男子徴兵でカーブル大学生1万人中6~7割は女学生。なお,アには現在約1000人の女性兵士がいて補給部隊や各都市防衛隊に所属。(『読売』6/20夕,カーブル発)
DIA-503-1989-06-21-1アフガニスタン1989年06月21日1980年代パの反ア政府ゲリラ組織JIA幹部によると,「ジャララバード戦は失敗だった」という。同氏は,「統一戦線を組まなければカーブルを陥落させるのは難しい」とも指摘し,戦術転換の必要性を主張している。(『読売』6/21,ペシャーワル発)
DIA-503-1989-06-25-1アフガニスタン1989年06月25日1980年代ナジブラ大統領はカルマル前PDPA書記長の実弟マハムード・バリアライ(推定45歳)を第1副首相に任命(DR,6/26)。
DIA-503-1989-06-26-1アフガニスタン1989年06月26日1980年代イスラマバードのパ外務省でソ連大使館代表とIUAM代表がソ連軍捕虜解放について第4回目の会談。
DIA-503-1989-06-27-1アフガニスタン1989年06月27日1980年代『読売』6月27日夕刊によると,ジャララバード戦でパに避難したアフガン難民たちは古顔の難民たちに「今までア国内にとどまっていたお前たちは共産主義者なんだろう」と迫害されているという。
DIA-503-1989-06-29-1アフガニスタン1989年06月29日1980年代『朝日』29日によると,カーブルで5月に小麦粉1袋(70kg)は800アフガニー(1アフガニー=公定レートで2.6円,やみで39銭)だった。外務省中堅職員の月給は5000アフガニー。公務員には小麦粉無料配給券が毎月支給されることになっているはずだが,2月のソ連軍撤退以来,支給されたのは1回だけという。昨年末まで1枚6アフガニーだったナーン(平たいパン)1枚が今は1枚14アフガニー。石油はやみで1㍑600アフガニーと10倍以上にはね上がった。またかつて国内からの流入難民で250万にまでなったカーブル市人口は現在は100万~150万といわれる。なお,4月完成のサラン街道バイパスによりソ連から毎日3000㌧以上の援助物資がカーブルに運び込まれている。
DIA-503-1989-06-29-2アフガニスタン1989年06月29日1980年代マザーレ・シャリーフ市の肥料工場備品の売買契約(480万㌦)が,ソ連との間で契約された(POT-A,7/29)。
DIA-503-1989-06-30-1アフガニスタン1989年06月30日1980年代ナジブラ大統領はア政府,反ア政府ゲリラ,パの三者が直接和平交渉に臨むというアラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長の提案を受諾した。
DIA-503-1989-07-01-1アフガニスタン1989年07月01日1980年代イラン各紙によると在イランの反ア政府ゲリラ8派は他のそれぞれ独立したスンニー派4派と合同で「聖戦評議会」を結成した(『朝目』7/4)。
DIA-503-1989-07-02-1アフガニスタン1989年07月02日1980年代カーブルのソ連大使館にミサイルが射ち込まれた。モスクワ放送3日はこの件でゲリラに強く警告。
DIA-503-1989-07-04-1アフガニスタン1989年07月04日1980年代IUAM,アラファト提案を拒絶。
DIA-503-1989-07-05-1アフガニスタン1989年07月05日1980年代6月20日に反ア政府ゲリラ勢力への米政府特使に任命されたピーター・トムセンがイスラマバードに着任し,記者会見。(1)私の着任は「暫定政府」承認の第一歩。(2)ゲリラには私の着任の反対者も多い。(3)ソ連との間で武器供与停止交渉は実施されまい。(FT,7/6)
DIA-503-1989-07-05-2アフガニスタン1989年07月05日1980年代反ア政府ゲリラは4~5日,ジャララバードを大攻撃。ア政府によるとソ連撤兵後最大規模の攻撃でゲリラ側死者238人,政府側4人。(『産経』7/8)
DIA-503-1989-07-06-1アフガニスタン1989年07月06日1980年代B通信6日によると,ヘルマンド州のある反ア政府ゲリラ野戦司令官は自分たちの戦闘資金のかなりの部分がケシ栽培・阿片密輸出によるものと認めたという。とくに在パの反ア政府勢力がパ軍人と協力してこの件にかかわってきたことはすでに西側諸国のマスコミが繰り返し報じてきたとおりであるという。(POT-A,8/3)
DIA-503-1989-07-06-2アフガニスタン1989年07月06日1980年代IHT紙6日によれば,米陸軍特別報告書は(アメリカが86年9月から反ア政府ゲリラに供与し始めた)「スティンガー・ミサイルが戦争の性格を変え決定的な兵器となった」としている。同報告書によると,本年2月終了のア戦争の最後の3年だけを見ても,反政府ゲリラはこのミサイル340発で敵機269機を落とすという驚くべき成果をあげた。
DIA-503-1989-07-07-1アフガニスタン1989年07月07日1980年代ナジブラ大統領,全パキスタン・ジャーナリスト組合(APJU)代表団と記者会見。
DIA-503-1989-07-09-1アフガニスタン1989年07月09日1980年代JIAの7月20日発表によると,同派兵士30人が9日,HI兵士にタハール州ファハーン渓谷で殺害された。うち5人は待ち伏せにより即死,25人は処刑。30人中9人はJIの野戦司令官。(『産経』7/21(夕))
DIA-503-1989-07-09-2アフガニスタン1989年07月09日1980年代ウォロンツォフ駐ア・ソ連大使(第一外務次官)は,米軍将校たちがア南部カンダハール市で反ア政府ゲリラの攻撃計画に参画と非難,米が参画をやめなければソ連はア政府軍に最新鋭機を供与と警告(T,7/10)。
DIA-503-1989-07-10-1アフガニスタン1989年07月10日1980年代英BBC放送10日によると,ウォロンツォフ駐ア・ソ連大使はこのほどカーブル市で,ア全土の4分の3の地域で反ア政府ゲリラ司令官たちが政府軍との戦闘を停止して和平交渉に入ったと言明(RP=東京)。
DIA-503-1989-07-10-2アフガニスタン1989年07月10日1980年代カーブル空港には連日30~40機のソ連輸送機イリューシン76が戦車,ミサイルなどの武器を搬入。なお,ゲリラ側はこの数日の戦闘(ジャララバード戦?)でパ国境付近まで退却しているという。(『朝日』7/11)
DIA-503-1989-07-12-1アフガニスタン1989年07月12日1980年代ナジブラ大統領はカーブル放送を通じ反政府ゲリラ勢力との会談に無条件で応じると訴えた(D,7/13)。
DIA-503-1989-07-12-2アフガニスタン1989年07月12日1980年代ソ連,米政府によるF16戦闘機60機の対パ売却決定を「ア戦争を奨励するもの」と非難(『日経』7/13)。
DIA-503-1989-07-16-1アフガニスタン1989年07月16日1980年代米政府高官によると,ソ連の対ア軍事援助は本年3月初めから月2~3億㌦(年間30億㌦)のペースだったが,反ア政府ゲリラへの米の軍事援助は最盛期でも年間6億㌦余にすぎなかったという(IHT,7/17;WP,9/2)。また,17日発売の米誌『ニューズウィーク』(7月24日付。ただしアメリカ版か。アジア版にはない。)によるとア駐在のソ連軍人顧問は一時の倍以上も増えて150人近くであるという(『産経』(7/17(夕))。
DIA-503-1989-07-18-1アフガニスタン1989年07月18日1980年代パのイスラマバードの外交筋によると,7月18日ごろアでクーデター計画が発覚し,将軍数人を含む将校多数が逮捕されたという(『読売』8/3)。なお,7月19日のア政府のプレス・ブリーフィングが突然中止され,22日付のKTは休刊となった。
DIA-503-1989-07-18-2アフガニスタン1989年07月18日1980年代B通信18日によると,(最近?)ワルダーク州でのJIAとHIIAの武力衝突で44人死亡。ローガル州ではサウジアラビア派遣兵多数が反ア政府ゲリラに殺害されたもよう。(POT-A,8/25)
DIA-503-1989-07-19-1アフガニスタン1989年07月19日1980年代ナジブラ大統領はダーネシュ教育相を解任。後任はカーブル大学医学部のM・M・アジーズ教授(非党員)。文教政策等の批判が強かった。(DR,7/21)
DIA-503-1989-07-23-1アフガニスタン1989年07月23日1980年代ケシュトマンド首相によると,アの国民所得の80%は民間部門によるが,政府予算(歳入?)に占める民間部門の寄与率は8%未満だという(DR,7/28)。
DIA-503-1989-07-24-1アフガニスタン1989年07月24日1980年代ア・ソ連間で1989年無償援助協定。ソ連はアに5000万米㌦以上の消費物資などを供与。(DR,7/28)
DIA-503-1989-07-29-1アフガニスタン1989年07月29日1980年代ナジブラ大統領は1986年5月にソ連に辞任させられたカルマル前PDPA書記長の友人ヌール・アハメッド・ヌールをシャー・モハメッド・ドースト外相に代えて国連駐在ア大使に任命。
DIA-503-1989-07-29-2アフガニスタン1989年07月29日1980年代パのペシャーワル市でIUAMのHI派に対する抗議デモ。デモ隊はラッバーニーJIA党首が組織したもので先頭はモジャッデディーIUAM「暫定政府」大統領。
DIA-503-1989-07-30-1アフガニスタン1989年07月30日1980年代ナジブラ大統領はキアル・M・カテワジを外務省顧問に任命。カテワジはPDPAの現政権派であるパルチャム(旗)派と対立するハルク(人民)派の人物で,8年前投獄されるまではハルク派政権の情報相。3ヵ月前に釈放されていた。
DIA-503-1989-07-31-1アフガニスタン1989年07月31日1980年代ストックホルムで米ソ間のア和平会談開く。89年2月以降5回目。8月1日,米側代表団長のケリー米国務次官補は会談後,全く何の進展もなかったと談(FT,8/2)。他方,ソ連政府機関紙『イズベスチア』2日は同会議は「有益だった」と報じた(RP,8/2)。
DIA-503-1989-08-01-1アフガニスタン1989年08月01日1980年代多数のカーブル市民が反ア政府ゲリラによる首都ロケット砲撃などはUNGOMAPがまともに任務を果たしていないからだとしてデモ(POT-A,9/13)。
DIA-503-1989-08-01-2アフガニスタン1989年08月01日1980年代カーブルに夜間外出禁止令。反政府ゲリラのロケット弾による攻撃のため(DR,8/2)。
DIA-503-1989-08-01-3アフガニスタン1989年08月01日1980年代最高防衛会議の指令でカーブル市および周辺地域で武器捜索が行なわれ,ロケット砲100発などが押収され,100人が逮捕された。政府発表ではカーブルでは過去3週間に約90人がロケット弾で死亡。(DR,8/2)
DIA-503-1989-08-03-1アフガニスタン1989年08月03日1980年代カーブル放送によると,反政府ゲリラ軍司令官たちに対するナジブラ大統領の演説および5月の大会議の決議に応じて,700人の武装グループおよび8000人の非武装グループが政府に投降した。彼らはイブラーヒーム・ベーグ将軍の率いるHIムハメッド・ナビー派。彼らは今後は150の村落の防衛を担当することになった。(DR,8/4,8/8)
DIA-503-1989-08-04-1アフガニスタン1989年08月04日1980年代タス4日によると,アのタナイ国防相は,2月のソ連撤兵後ゲリラ側は2万5000人が死亡し,31州中6州のみが彼らの完全支配下にあると語った(RP)。
DIA-503-1989-08-06-1アフガニスタン1989年08月06日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相,来訪。同日,ア,パ,イラン,米,ソ,中,インドの7ヵ国よる和平会談を提唱。
DIA-503-1989-08-14-1アフガニスタン1989年08月14日1980年代ア通貨アフガニーの実勢レートは3ヵ月前の1㌦=240アフガニーに対し,現在は1㌦=約400アフガニー。インフレはひどいがガソリンのやみ値だけはソ連からの供給ルート確保により1㍑300アフガニーとピーク時の6月末の半値になった。(『読売』8/15,カーブル市発)
DIA-503-1989-08-15-1アフガニスタン1989年08月15日1980年代KT15日によると,政府はア国民に対するパスポート発給手続きを正常化した(POT-A,9/19)。
DIA-503-1989-08-17-1アフガニスタン1989年08月17日1980年代ソ連共産党機関紙『プラウダ』17日は,79年12日のソ連のア侵攻から89年2月の全面撤退の間のソ連軍戦死者は計1万3833(うち将校は1979人)と発表。行方不明・捕虜は330人。(『読売』8/18)
DIA-503-1989-08-19-1アフガニスタン1989年08月19日1980年代英国からの独立の記念式典は反政府ゲリラの激しい首都攻撃のため中止されたが,ナジブラ大統領は次のように演説(主要点)。(1)米はア国民の統一を乱したいのだ。(2)革命の目標が達成されていないのは諸外国の介入のせいだ。(3)パはア侵略の開始者,扇動者,直接の関与者だ。(4)ア共和国はこの数ヵ月間,在外ア人と連絡をとって諸提案を行なった。他の側(ゲリラ―筆者)の諸提案も検討された。(5)ア共和国はどこだろうと反対者たちの提案する国で交渉する用意がある。合意に達すれば全国的和平会議に応じ,以後6ヵ月の停戦を発表する。(6)新憲法を大会議が採択しよう。憲法起草委員会は国会総選挙のための法案も作成し,新政府が成立する。この政策枠組においてアはア,パ,イラン,米,ソ,中,印の国際会議(8月6日参照)に賛同する。(7)もしそのような会議がアの隣国(複数)および国連安全保障理事会常任理事諸国によるアの非軍事化を条件として,アの永世中立を保障するならば,ア政府にとっては容認可能だ。(8)ア政府は国連の支援下に総選挙を実施する用意がある。(9)われわれは(この国における)複数政党制を支持する。(DR,8/21)。
DIA-503-1989-08-20-1アフガニスタン1989年08月20日1980年代ア政府軍からパの反ア政府ゲリラ側に6月に寝返ったM・F・ザリーフ陸軍少将(39歳。当時,ナジブラ大統領護衛隊3000人の隊長),記者会見。彼はゲリラ側が公開した元ア政府軍人として最高位。(WP,8/21)
DIA-503-1989-08-21-1アフガニスタン1989年08月21日1980年代世銀は,対ア借款を打ち切ったと発表。債務7920万㌦の返済が6ヵ月間ないため。(JT,8/23)
DIA-503-1989-08-21-2アフガニスタン1989年08月21日1980年代内戦前30万だったジャララバートドの人口は現在10万。政府軍は「安全を確保しているのは半径30kmの範囲のみ」と認めている。(『朝日』8/22,カーブル発)
DIA-503-1989-08-22-1アフガニスタン1989年08月22日1980年代カーブル市で公定価格6アフガニーの主食ナーン(パン)1枚がやみ市ではしばしば40アフガニー(『読売』8/23)。
DIA-503-1989-08-24-1アフガニスタン1989年08月24日1980年代反政府ゲリラ暫定政府のハーリス内相,ナジブラ大統領の停戦提案(8月19日)を拒否。
DIA-503-1989-08-25-1アフガニスタン1989年08月25日1980年代アのケシ栽培が急増中。ケシの栽培量はア国内で年700㌧前後で,国連開発計画(UNDP)のカーブル市事務所代表によればパで精製される。(『朝日』8/26)
DIA-503-1989-08-27-1アフガニスタン1989年08月27日1980年代ナジブラ大統領,ジャララバードへ(~28日)。数ヵ所を訪れて兵士を激励し,一般国民にも会った。
DIA-503-1989-09-01-1アフガニスタン1989年09月01日1980年代訪パ中のコロム赤十字国際委員会会長はイスラマバードで,1988年5月のソ連軍撤退開始後,負傷者数が急増したと語った。また,79年12月のソ連のア軍事介入後の死者は推定100万人という。(DR,9/1)
DIA-503-1989-09-02-1アフガニスタン1989年09月02日1980年代情報筋によると,反ア政府ゲリラに対する武器供与の非効率さのために議会内で批判の強かったCIAのアフガン・タスク・フォースの指揮官がこのほど更迭されたという(WP,9/2)。
DIA-503-1989-09-02-2アフガニスタン1989年09月02日1980年代イスラマバードの外交筋および反ア政府ゲリラ筋によると,米国およびパはIUAM7派への資金・武器援助を停止したという。その代わりに両国政府はア国内のゲリラ司令官たちや部族長たちに対して直接に資金・武器援助を渡すことを画策中という。(WP,9/3)
DIA-503-1989-09-03-1アフガニスタン1989年09月03日1980年代IUAMへのトムセン米政府特使の「アにはソ連人軍事顧問300人が残留している」との発言(8月31日)をア外務省が否定。
DIA-503-1989-09-06-1アフガニスタン1989年09月06日1980年代ベオグラードでの非同盟諸国首脳会議に出席中のナジブラ大統領,デクエヤル国連事務総長,ガンディー・インド首相などと会談。
DIA-503-1989-09-07-1アフガニスタン1989年09月07日1980年代WP紙7日によると,過去2週間,パクティヤー州都ホースト攻防戦が激化してきた。
DIA-503-1989-09-11-1アフガニスタン1989年09月11日1980年代米政府は政府当局者がザーヘル・シャー元ア国王と数回接触してきたと言明(『日経』9/13夕)。
DIA-503-1989-09-11-2アフガニスタン1989年09月11日1980年代ソ連外務省のゲラシモフ情報局長によると,駐ア大使を兼任していたウォロンツォフ第一外務次官は大使兼任を解かれてモスクワに帰任した。後任はボリス・パスツホフ駐デンマーク大使(13日任命)。
DIA-503-1989-09-12-1アフガニスタン1989年09月12日1980年代ナジブラ大統領はア訪問からインドに帰国したアーザード国民会議派(I)総務に対し,ザーヘル・シャー元国王の帰国を歓迎する旨を伝えた。また同総務は,ナジブラ大統領は過去3年間ザーヘル元国王に帰国を要請してきたと明らかにした。(DR,9/13)
DIA-503-1989-09-12-2アフガニスタン1989年09月12日1980年代サヤーフIUAM「暫定政府」首相はペシャーワルでの記者会見で,ザーヘル・シャー元国王のア政界復帰構想に強い反発を示した。
DIA-503-1989-09-18-1アフガニスタン1989年09月18日1980年代ナジブラ大統領,訪ア中のパの「バルーチスタン州自立青年運動」(IYMBP)代表団と会見。
DIA-503-1989-09-19-1アフガニスタン1989年09月19日1980年代ブットー・パ首相はロイター通信記者にザーヘル・シャー元ア国王の帰国は時期尚早と語るとともに,パはまだIUAM「暫定政府」を支持し続けると言明。
DIA-503-1989-09-20-1アフガニスタン1989年09月20日1980年代ヘクマティヤールHI党首は,「アメリカは聖戦士たち(反ア政府ゲリラ)が最終的勝利をおさめるのにはどうしようもないくらい反対なのだ。アメリカは聖戦士たちとその暫定政府に対する陰謀をソ連とグルになってたくらんでいる」と非難した(FT,9/21)。
DIA-503-1989-09-20-2アフガニスタン1989年09月20日1980年代20日発売のソ連作家同盟機関紙『文学新聞』最新号は,1979年のソ連軍ア侵攻は当時のブレジネフ党書記長,コスイギン首相,グロムイコ外相,ウスチノフ国防相,スースロフ政治局員,アンドロポフ国家保安委員会(KGB)議長の6人の政治局員によって密室で決定されたと決定関与者名を初めて公表(『産経』9/21)。
DIA-503-1989-09-22-1アフガニスタン1989年09月22日1980年代モスクワ放送22日はモイセーエフ・ソ連軍参謀総長・第一国防次官がこのほどアを実務訪問と報道。
DIA-503-1989-09-22-2アフガニスタン1989年09月22日1980年代デクエヤル国連事務総長はア問題解決のために新たな提案を検討中と明らかにした。
DIA-503-1989-09-23-1アフガニスタン1989年09月23日1980年代23日発表の米ソ外相会談共同声明は,双方がア問題の平和的解決は国民和解を基礎とし,またアの独立,中立を保つものであるべきだという点で合意したとしている。なお,KT紙30日によると,ア政府は(月日不明)この共同声明に対する支持を発表(DR,11/4)。
DIA-503-1989-09-24-1アフガニスタン1989年09月24日1980年代パのヌスラット・ブットー上席無任所相の文化顧問を含む4人の代表団がアの「平和・連帯・友好機関」の招待でア訪問(~30日)。
DIA-503-1989-09-28-1アフガニスタン1989年09月28日1980年代ワキール外相は第44回国連総会で演説,米政府に対し,実情調査と意見交換のためアへの使節派遣を要請するとともに米,ソ,中,パ,イラン,インド,非同盟諸国代表などからなる「アフガニスタン和平国際会議」の開催を提案。また,「パには180の(反ア政府ゲリラの)軍事訓練拠点と30の武装集団があり,1200人がアに潜入している」と述べた。
DIA-503-1989-09-29-1アフガニスタン1989年09月29日1980年代IUAM「暫定政府」のモジャッデディー大統領以下代表団87人がイラン政府の招待でイラン訪問(12日間)。10月2~4日,ア戦争に関するセミナーに出席(ヘクマティヤール外相は欠席)。(DR,10/3,4,5)
DIA-503-1989-09-30-1アフガニスタン1989年09月30日1980年代ナジブラ大統領はパ新聞記者(単数)との会見でブットー・パ首相と話し合う用意があると言明。
DIA-503-1989-10-01-1アフガニスタン1989年10月01日1980年代ペル米上院外交委員会委員長は,ア内戦のこう着状態を打開するためにザーヘル・シャー元国王下で新たな中立政権を樹立するなどの提言を盛り込んだ報告書を上院外交委員会に提出した。
DIA-503-1989-10-02-1アフガニスタン1989年10月02日1980年代英BBC放送2日によると,ブットー・パ首相は最近BBCテレビとの会見で,反ア政府ゲリラに対してナジブラ政権との和解を訴え(『産経』10/3)。
DIA-503-1989-10-02-2アフガニスタン1989年10月02日1980年代イランのベラヤティ外相は記者会見で,反ア政府勢力が受け入れることを前提に,ア問題解決の話し合いにナジブラ政権も加えてよいとの姿勢を示した。
DIA-503-1989-10-03-1アフガニスタン1989年10月03日1980年代イスラマバード3日発新華社電によると,IUAM「暫定政府」のナウローズ国防次官は同日,米国が9月に在パの反ア政府ゲリラへの武器供給を再開と言明。
DIA-503-1989-10-04-1アフガニスタン1989年10月04日1980年代カーブル市西側外交官たちによると,毎日40機のソ連機がカーブル空港に飛来(DR,10/4)。ア政府・軍によると,16~20機で荷の80~90%は食物(DR,10/12)。
DIA-503-1989-10-08-1アフガニスタン1989年10月08日1980年代アの北部一帯で大規模なイナゴ害発生。被害面積は50万haに及び,パなどへの難民流出が増え始めた。10州の被害者は50万人で,35万人が食糧不足に直面。スウェーデンの非政府組織(NGO)は計22.5万㌧の小麦が必要と予測。小麦は3倍以上に値上がりしている。国連などが緊急援助を開始。(『産経』10/9夕)
DIA-503-1989-10-09-1アフガニスタン1989年10月09日1980年代イラン訪問中のIUAM「暫定政府」と在イランの反ア政府勢力8派の間で,イラン政府の調停によりテヘランで相互了解予備覚書に調印(DR,10/10)。
DIA-503-1989-10-10-1アフガニスタン1989年10月10日1980年代米政府秘密文書によるとスカッド・ミサイル発射などはすべてア軍制服姿のソ連人顧問が実行しているという。また米政府役人たちは,アはソ連から月2.5億~3億㌦の軍需品を供与されており,2月以来少なくとも延べ3800機のソ連機が食料品,燃料,武器弾薬などをアに搬入したと述べた(IHT,10/11-NYT,10/10)。ウィリアムズ米国防総省報道官は,ソ連人軍事顧問たちは「スカッド・ミサイル関係の作戦に関係している」としたが,ミサイル発射に直接携わっているかどうかについては「証拠がない」と言明を避けた。なお,モスクワ放送10日によると,ゲラシモフ・ソ連外務省情報局長は同日の記者会見で,(上記NYT10/10の記事内容は)「まったく根拠がない」と強調した(『日経』10/11(夕)。なお,9月3日日誌参照)。
DIA-503-1989-10-11-1アフガニスタン1989年10月11日1980年代イスハーク・ハーン・パ大統領はペシャーワルで,ソ連が将来のア連立政権に現ナジブラ政権を含めることを要求するのはア問題解決の妨げになると述べた。
DIA-503-1989-10-14-1アフガニスタン1989年10月14日1980年代本日の閣議で以下の数字が発表された。1368会計年度(1月12日参照)の公共部門投資計画には計10億アフガニーの新規プロジェクト25件が含まれている。上半期の公共,民間,混合部門で工業生産額は84億アフガニーであった。セメント4.2万㌧以上,綿布872万㍍,毛織物7.5万㍍が生産された。民間部門の10プロジェクトが生産を開始した。農民に対し5.18万㌧の化学肥料が分配された。なお,ざんごう内の防弾壁,保安哨所本部の設営に5億アフガニーが使われた。(DR,10/17)
DIA-503-1989-10-14-2アフガニスタン1989年10月14日1980年代ナジブラ大統領は2月19日に停止された国民議会権限の一部回復を布告。法律の承認,改正,廃止の権限を回復。非常事態宣言の解除ではない。(DR,10/16)
DIA-503-1989-10-21-1アフガニスタン1989年10月21日1980年代PDPA中央委員会政治局は1989年4月に建設開始となったカーブル・バグラム道を12月6日までに完成させるべく協議を行なった(DR,10/27)。
DIA-503-1989-10-21-2アフガニスタン1989年10月21日1980年代香港発AFP電21日によると,ア通貨のやみレートは現在よくて1㌦=400アフガニー。また,今会計年度上半期のアの輸出総額は1億0635万㌦(86/87は5億1190㌦,87/88は3億9465㌦)。(DR,10/26)
DIA-503-1989-10-22-1アフガニスタン1989年10月22日1980年代POT-A12月5日号から,「ゲリラがア政府当局にミサイルやロケット弾50発を売却した」旨の記事が頻繁に出るようになった。売却は各地で各派のゲリラにより10月中旬から始まった模様。
DIA-503-1989-10-23-1アフガニスタン1989年10月23日1980年代IUAM代表団5人は第44回国連総会に際して「暫定政権」の国連議席獲得を目指すロビー活動のため訪米。団長はファールーク・アーザム教育相。
DIA-503-1989-10-23-2アフガニスタン1989年10月23日1980年代シェワルナゼ・ソ連外相は最高会議での演説において。1979年のア軍事介入は誤ちだったと断言した。
DIA-503-1989-10-24-1アフガニスタン1989年10月24日1980年代徴兵法改正。徴兵対象年齢は18~34歳の男子となり,35歳以上は予備役となった(DR,10/27)。
DIA-503-1989-10-25-1アフガニスタン1989年10月25日1980年代カーブル市でのPDPA党大会で重要人事が発表された(「参考資料」参照)。
DIA-503-1989-10-30-1アフガニスタン1989年10月30日1980年代ケシュトマンド首相,「健康診断」および「治療」のため訪ソ。12月4日,帰国。
DIA-503-1989-11-01-1アフガニスタン1989年11月01日1980年代第44回国連総会本会議は,ア各勢力が広範な基盤を持つ政府を樹立し,問題の包括的解決を図るよう呼びかけた「ア情勢決議」を投票なしの総会合意で採択。
DIA-503-1989-11-05-1アフガニスタン1989年11月05日1980年代ウェブスターCIA長官はWP紙との会見で,2月のソ連撤兵後100基以上のスカッド・ミサイル(3月17日参照。1基100万㌦)が発射されたと談(D,11/6)。
DIA-503-1989-11-06-1アフガニスタン1989年11月06日1980年代KT紙6日によると,ジャララバード戦の民間人負傷者救済のため今までに計4万4000㌦以上の寄付金が「ジャララバード民間人被害者援助基金」(JCVAF)に贈られた。内訳はアメリカ,1万8038㌦,イギリス7026㌦,フランス5445㌦,西ドイツ4539㌦など。日本は319㌦。(POT-A,12/20)
DIA-503-1989-11-08-1アフガニスタン1989年11月08日1980年代B通信8日によると,アメリカはパンジシェール渓谷のマスード司令官の反ア政府ゲリラ・グループに4人のアドバイザーを送り込んだという(DR,11/9)。
DIA-503-1989-11-09-1アフガニスタン1989年11月09日1980年代パの国内放送9日によると,反ア政府ゲリラはオルズガーン州のほとんどを解放した(DR,11/13)。
DIA-503-1989-11-10-1アフガニスタン1989年11月10日1980年代IHT紙10日によると,ア政府は1977年4月革命から1979年12月のソ連の軍事介入までの間にKHAD(秘密警察)に殺害された人物のリストを発表した。それによると,その数は1万1000でとくに70年末期に多いという。なお反ア政府ゲリラたちは,KHADに殺害されたのは8万人としている。
DIA-503-1989-11-12-1アフガニスタン1989年11月12日1980年代カーブル放送12日によると,このほどラグマーン州でサウジアラビア派遣兵の詰め所で他派ゲリラによる爆弾事件。サウジ派遣兵1名が死亡(DR,11/17)。
DIA-503-1989-11-14-1アフガニスタン1989年11月14日1980年代国防省作戦局長M・アヌワル中将は,3月6日~11月9日にジャララバード戦で反ア政府ゲリラは死者2万9000人を出したと発表(POT-A,12/27)。
DIA-503-1989-11-16-1アフガニスタン1989年11月16日1980年代B通信16日によると,パによるジュネーブ協定の主な違反は(1988年5月から)1989年11月13日までの18ヵ月間に7344件という(POT-A,12/30)。
DIA-503-1989-11-18-1アフガニスタン1989年11月18日1980年代ヘクマティヤールHI党首,イスラマバードで記者会見。(1)もしソ連がPDPA政権への武器供与をやめれば「もう一方の側」(反ア政府ゲリラ)もア国内のゲリラたちへの武器供与をやめる。このア国内への武器供与の全面停止はアの平和を回復させよう。(2)IUAMは今や無用の長物だ。(3)IUAM暫定政府は成立6ヵ月後に行なうはずだった総選挙を実施できなかった。故に暫定政府はもはや存在しない(も同然だ)。(DR,11/30)
DIA-503-1989-11-20-1アフガニスタン1989年11月20日1980年代ア政府は18日のヘクマティヤール発言を非常に限定された表現で歓迎した上でさらに,ヘ発言が(アメリカによる対HI援助停止の動きによる)「自暴自棄による発言だとすれば話は別だ」とした。(DR,11/21)
DIA-503-1989-11-20-2アフガニスタン1989年11月20日1980年代カーブルの西側外交筋によると,(推定人口150万の)同市にサラン峠経由でソ連のトラック1000台が食料品などの援助物資を10日ぶりに搬入(DR,11/21)。
DIA-503-1989-11-20-3アフガニスタン1989年11月20日1980年代ワシントンの情報筋によると,米とサウジアラビアはCIAに7.15億㌦を分担して供与する協定に調印した。これはCIAが反ア政府ゲリラに武器など軍需品を供与できるようにするためという(IHT,11/20)。
DIA-503-1989-11-21-1アフガニスタン1989年11月21日1980年代ナジブラ大統領,非常事態宣言を6ヵ月延長。
DIA-503-1989-11-21-2アフガニスタン1989年11月21日1980年代イランのKeyhan紙21日によると,IUAM7派の“ほとんど”は18日のヘクマティヤール発言に強く反対したという(DR,12/5)。
DIA-503-1989-11-24-1アフガニスタン1989年11月24日1980年代パレスチナ人学者S・A・エザムがペシャーワルで暗殺された。彼はHIとJIAの調停役として働き,23日に同2派の合意に成功していた。(DR,12/6)
DIA-503-1989-11-24-2アフガニスタン1989年11月24日1980年代IUAM「暫定政府」代表団(2人)が米政府高官と会談のため訪米に出発。「暫定政府」の通信社「イスラミック・アフガニスタン報道機関情報局」(MIDIA)によると彼らは健康診断のためすでに訪米中のモジャッデディー大統領と合流の予定。なお,11月に訪米中のモ大統領が武器援助の増強を求めたのに対し,米政府は事実上の拒否回答をした(『日経』12/28)。
DIA-503-1989-11-27-1アフガニスタン1989年11月27日1980年代IUAM「暫定政府」はペシャーワル市でN・ヤクーニン駐パ・ソ連大使に対し1986年に捕えられたソ連兵捕虜2人を引き渡した(DR,11/27)。
DIA-503-1989-11-27-2アフガニスタン1989年11月27日1980年代ナジブラ大統領は国民議会で演説し,過去3ヵ月の間に計2.6万人の武装・非武装74グループが国民和解政策に参入し,計3万人の113グループと戦闘停止の協定書に調印したと述べた(DR,11/28)。
DIA-503-1989-11-30-1アフガニスタン1989年11月30日1980年代イタリア訪問中のシェワルナゼ・ソ連外相はザーヘル・シャー元ア国王と会談を行なった。
DIA-503-1989-11-30-2アフガニスタン1989年11月30日1980年代1987年憲法発布第2周年記念日。
DIA-503-1989-11-30-3アフガニスタン1989年11月30日1980年代ヘクマティヤールHI党首とラッパーニーJIA党首はペシャーワルの記者会見で両派が去る23日に和平の合意に達したと発表(24日参照。DR,12/6)。
DIA-503-1989-12-02-1アフガニスタン1989年12月02日1980年代ア政府国家保安省はクーデター未遂容疑で127人が逮捕された(その後,3人釈放)と発表。彼らを逮捕したのはKHAD(秘密警察)を管轄している内務省。謀略は「イスラミック党中央機関」(COIP)という秘密組織によるものらしい。この組織はヘクマティヤールHI党首の地下組織で,PDPA役員,国防省文化,諸教育機関などの他,ア国軍軍人の「上から下まで」に根を張っているという(DR,12/5,6/27,1990/1/2,1/4,POT-A,1990/1/29)。なお,ケシュトマンド首相は,シャーナワーズ・タナイ国防相が自宅軟禁中だとのうわさを(12月26日?)否定(DR,12/27)。
DIA-503-1989-12-03-1アフガニスタン1989年12月03日1980年代パ国内放送によると,IUAM「暫定政府」のモジャッデディー大統領はワシントンでソ連のモスクワ東洋学研究所(MIOS)代表3名と会談。同大統領によると議題は「ア戦争の全側面で,会談は前向きであった」いう。伝えられるところによると,反ア政府ゲリラ側とソ連官職者との会談は初めて。(DR,12/6)
DIA-503-1989-12-05-1アフガニスタン1989年12月05日1980年代スコウクロフト米大統領補佐官(国家安全保障担当)は記者会見で,2~3日の米ソ首脳会談ではア問題も扱われ,「進展があるかもしれないため」詳細を明らかにしなかった(『日経』12/6(夕),ワシントン発)。7日,(日本の?)外務省首脳は,マルタでの米ソ首脳会談ではア問題で米・ソ間に歩み寄りはなかったと説明した(『日経』12/8)。
DIA-503-1989-12-05-2アフガニスタン1989年12月05日1980年代ヘクマティヤールHI党首のスポークスマンは次のように語った。(1)B通信4日のクーデター未遂事件報道はデマで,HIで逮捕された者はいない。(2)しかし,HI党員たちは確かにア陸軍の者たちやPDPA内の異端者たちと組んでア政府転覆のためカーブル市で行動している。(3)ア政府は最近300人以上を逮捕したが,彼らは学生,商売人,労働者など無実の民間人だ。(DR,12/6)
DIA-503-1989-12-06-1アフガニスタン1989年12月06日1980年代KT紙6日は,ヘラート市正常化と報道。
DIA-503-1989-12-07-1アフガニスタン1989年12月07日1980年代カーブル放送7日によると,イラン政府はイランのアフガン難民(推定200万人)による麻薬禍などの防止のために彼らの強制収容を計画中。これに対してア政府は収容よりも帰国させる方策を練ることを要請し,ア・イラン合同委員会の設置を提案(DR,12/7,POT-A,1990/1/23)。また,反ア政府ゲリラはシーア派もスンニー派も強制収容案に反対を表明(DR,12/11)。
DIA-503-1989-12-10-1アフガニスタン1989年12月10日1980年代在イランのゲリラ8派のハリーリー代表はイランの反ア政府ゲリラ8派のIUAM「暫定政府」参加問題を協議のために訪パ中(DR,12/11)。
DIA-503-1989-12-11-1アフガニスタン1989年12月11日1980年代アフガニスタン共和国ジャーナリスト連合幹部会はPDPA中央委員会機関紙PAYAM11日の掲載記事で,ソ連人ジャーナリストたちのなかにはソ連のア政府に対する援助を不必要としてその停止を要求する者たちがいるとし,懸念を表している(DR,12/13)。
DIA-503-1989-12-11-2アフガニスタン1989年12月11日1980年代特別法廷,反ア政府ゲリラのサウジアラビア人傭兵に17年の刑を決定(DR,12/12)。
DIA-503-1989-12-16-1アフガニスタン1989年12月16日1980年代オルズガーン州知事,ゲリラに殺害さる。
DIA-503-1989-12-23-1アフガニスタン1989年12月23日1980年代KT23日によると,ナジブラ大統領は「アフガニスタン賃金労働者前衛機関」(VTOA)の設立を承認した。なお,KT21日も同大統領による「アフガニスタン青年労働者機関」(YWOA)設立承認を報じた。(DR,12/28,POT-A,1990/2/1)
DIA-503-1989-12-23-2アフガニスタン1989年12月23日1980年代IUAMのJIA派のA・S・マスード司令官はHI派のゲリラ4人を処刑した(POT-A,1990/2/7)。
DIA-503-1989-12-24-1アフガニスタン1989年12月24日1980年代ソ連人民代議員大会は閉幕に先立ち,79年12月のソ連のア軍事介入を「道義的,政治的に」非難する決議を採択した。
DIA-503-1989-12-24-2アフガニスタン1989年12月24日1980年代ア軍事法廷はヨルダン人2人に対しスパイ罪で20年の重労働の判決を下した(DR,12/26)。
DIA-503-1989-12-26-1アフガニスタン1989年12月26日1980年代ア政府閣議は民族(nationality,民族体)問題に関する特別指針を含む決議案を採択(DR,12/27)。
DIA-503-1989-12-28-1アフガニスタン1989年12月28日1980年代IHT紙28日によると,アフガニーの対ドル・レートはカーブル市で現在1㌦=525アフガニー。88年12月は225アフガニー。1ヵ月前は400アフガニーだった。また,1988年のアの輸入額は6億9440万㌦で輸出は3億9470万㌦。89年上半期は輸入3億7300万㌦,輸出は1億490万㌦。
DIA-503-1989-12-30-1アフガニスタン1989年12月30日1980年代KT30日によると,ナジブラ大統領はBBCと会見。(1)私が辞任するかどうかは外国の干渉のない状態でア人の間での直接の対話によってのみ決定され得る。(2)(「1979年12月のソ連による軍事介入は正しかったのか」との質問に)それ以前にすでにパ領地からの侵略・干渉が最盛期に達していたのだ。それゆえ,ソ連が軍をアに送り込んだのが正しかったか否かが問題なのではない。われわれはソ連に感謝しているのだ。(3)ザーヘル元国王がアに帰国するつもりなら,彼は戦争を終結させてアの平和を確実にする役割を果たし得る。誰も彼をアに連れ帰ることはできない。彼は戦時的解決の結果としてのみ帰国できるのだ。(4)彼の将来の役割は交渉の場でのみ決定され得る。(DR,12/29;POT-A,1990/2/9)
DIA-503-1989-12-30-2アフガニスタン1989年12月30日1980年代PDPA中央委員会のN・カウヤーニー書記は,PDPA結成25周年記念日(1990年1月1日)を目前にしたこの日,過去のPDPAの誤ちなどについて声明を発表するとともに,PDPA抜きの(ア問題の)政治的解決はあり得ないと強調した(POT-A,1990/2/9)。
DIA-503-1989-12-30-3アフガニスタン1989年12月30日1980年代ケシュトマンド首相,カーブル・バグラム道(10月21日参照)の開通式を挙行(DR,1990/1/3)。
DIA-503-1989-12-31-1アフガニスタン1989年12月31日1980年代ナジブラ大統領,党変革を提案(「参考資料」参照)。