ベンガル農村風景の大部分は地域としては西ベンガル州 ビルブム村(Birbum)、スル-ル村(Surul)、シャンティニケターン(Shantiniketan)(詩聖 タゴ―ル創設の大学所在地)など。*A0068, A0115, A0118, A0126 そして,ギリディ(Giridhi)(周辺農村部のマ―ケット中心地)など。*A0107
私の足はベンガル平野の全域に及ぶ。東は当時の東パキスタン(現在のバングラデシュ)コミラ県。*A0093, A0114, A0132 北はガンジス河流域を含むネパ―ル国境周辺地帯。すべて伝統農法を特徴とする稲作農業地帯。*A0054, A0055, A0056, A0058, A0097, A0102, A0112, A0129, A0130, A0131, A0136, A0138
しかしながら、1960年代末からこの一帯に「緑の革命」(Green Revolution)が進展し、1970年代に入ると稲作農法は飛躍的に変貌をとげる。ベンガル平野はその舞台であった。私の写真映像には「変化」の予兆を示唆する多くの「顔」がある。
当時、農村社会はカ―ストや土地制度の研究からアプロ―チされていたので、これら社会慣習や制度は不変の前提として扱われていたといえる。なぜ、農民の自画像に興味を持ち、カメラのビ―ムを向けたのか。
私の滞在していた研究所にひとりの異色の農村社会学者 ラ―マクリシュナ・ムケルジ―博士がいた。マルクス理論の立場を鮮明に打ち出す著作で有名といわれる。1960年の末、(故)福武直氏(当時東大教授)がベンガル農村調査のためにカルカッタを訪ねたおり、わたくしはR・ムケルジ―博士を紹介した。福武先生の議論は物静かな面持ちとは反対に、冷静さの中に論理を貫く、激しい追及の言葉があったのを覚えている。フィ―ルド調査の対象村をムケルジ―博士のアドバイスに従い、ビルブム村一帯とすることにした。この地域はテラコッタ(素焼きレンガ)彫刻で飾ったヒンドゥ―寺院が多くあることで有名である。*A0060, A0061, A0099, A0127 わたくしも一週間の農村調査に先生のお供をすることになった。後に先生は「世界農村の旅」(東京大学出版会)と題して克明な調査の記録を残している。
このときの私の関心はベンガル農民の変化に対する行動にあった。そのきっかけとなるヱピソ―ドはムケルジ―博士の「社会科学論」に紹介された、1930年インド「人口動態調査」{Census of India 1930}の中の記述である。そのポイントはベンガル農民(サンタ-ル族)はイギリス宣教師の経営する、インディゴ(Indigo)栽培農園の賃労働者として働くときには宣教師の与える「鉄製の鍬や鋤」を上手に、しかも能率的に使いこなす。しかし、かれらは「賃労働者」の仕事を終え、自分の畑で自分の生活のために農作業にあたるときは先祖伝来の「木製の農機具」をつかう。鉄製の農機具がはるかに能率的で生産性が高いことを理解しているはずであるが、なぜか?サンタ―ル農民の「不可思議な行動」をどう解釈するのか。*A0059, A0078, A0113
この疑問は後に、歴史学者や農村社会学者、さらに経済学者の論争を呼ぶことになる。わたくしの写真のフォ―カスはベンガル農村のサンタ―ル族農民が1930年代に一般的だった木製農機具の農法から、1960年代の今(当時)、はたして、鉄製の農機具に変わっているか、という点にあった。観察結果は「否」である。「変化」が見られないのである。この時点での定点観測はその後二回(1971年および1992-3年)の比較時点調査へと続くことになる。同じビルブム村のサンタ―ル農民を訪問し、「鉄製農機具」が一般化していることに驚き、そして安堵の思いに浸った。1970年代後半にはこれらの地域にも「日本式農法」として知られる、いわゆる近代稲作技術が普及し収量は飛躍的に増大していった。写真映像は「緑の革命」が進展する前夜、その予兆を写したものといえる。
村落の調査を終え、シャンティニケタ―ン大学のゲスト・ハウスに帰る道すがら、真夏日の夕刻、火炎樹に群がるホタルの大群を見た。*A0117
はじめて遭遇した妖艶なホタルの舞。そして1992-3年、再び訪ねた。同じ季節の夢想があった。無灯火の農道に「変わらないもの」を見たのである。1960年のベンチマ―ク定点観測は私のインド理解の大切なツ―ルである。 |