1960年のインド:「変化」の予兆を写す

田部 昇
(元アジア経済研究所理事 / 明治学院大学名誉教授)

1960年のインド。そこには独立後に彷彿として湧き上がる経済ナショナリズムがあった。独立の父ガンジ-の思想を継承する非暴力・非同盟の国家像が形成された。そして、「社会主義型」社会への展望と将来への楽観主義が漲っていた。まさにインド研究を志す者にとっては知的興奮を覚える、スリリングな時代状況であった。共通するキイワ-ドは「変化」である。

私はアジア経済研究所に一期生として入所し、1960年から二年間、海外派遣員一回生としてインド統計研究所(カルカッタ。現コルカタ)に滞在する機会をえた。当時、日本には 現代インドを研究するための蓄積は皆無に等しかった。かろうじて アメリカやイギリスの現代インド研究の成果が手に入るにすぎなかった。インド社会を直接、目にし、感じ、味わう方法はフィールドワーク以外にない。「変化する」とは。どのくらいの時間幅が、どのような条件が必要となるであろうか。

「フォト・ア-カイブ :インド」に掲載されたスライド写真は当時のインド全土におよぶ調査旅行の記録である。それぞれの写真の先には「変化」を読み取ろうとする眼球が絶えず光っていたとおもう。

広大なインド亜大陸の東部地方は(1)ベンガル平野の農村社会。中部地方は(2)国営鉄鋼所のベルト地帯。そして南部地方は(3)ケ―ララ マラバ―ル沿海漁村。移動はすべて長距離列車、バス、人力車、そして牛車等、この地球上に存在するあらゆる交通輸送手段を使った。そして、いまは姿を消したスリ―ピング・バッグ(寝具一式)の携行。

まさに、インドの大地を這い回るような調査旅行。いまとなれば楽しい旅の記憶ばかりである。

 

(1) ベンガル平野の農民と社会


ベンガル農村風景の大部分は地域としては西ベンガル州 ビルブム村(Birbum)、スル-ル村(Surul)、シャンティニケターン(Shantiniketan)(詩聖 タゴ―ル創設の大学所在地)など。*A0068, A0115, A0118, A0126 そして,ギリディ(Giridhi)(周辺農村部のマ―ケット中心地)など。*A0107

私の足はベンガル平野の全域に及ぶ。東は当時の東パキスタン(現在のバングラデシュ)コミラ県。*A0093, A0114, A0132 北はガンジス河流域を含むネパ―ル国境周辺地帯。すべて伝統農法を特徴とする稲作農業地帯。*A0054, A0055, A0056, A0058, A0097, A0102, A0112, A0129, A0130A0131A0136A0138

しかしながら、1960年代末からこの一帯に「緑の革命」(Green Revolution)が進展し、1970年代に入ると稲作農法は飛躍的に変貌をとげる。ベンガル平野はその舞台であった。私の写真映像には「変化」の予兆を示唆する多くの「顔」がある。

当時、農村社会はカ―ストや土地制度の研究からアプロ―チされていたので、これら社会慣習や制度は不変の前提として扱われていたといえる。なぜ、農民の自画像に興味を持ち、カメラのビ―ムを向けたのか。

私の滞在していた研究所にひとりの異色の農村社会学者 ラ―マクリシュナ・ムケルジ―博士がいた。マルクス理論の立場を鮮明に打ち出す著作で有名といわれる。1960年の末、(故)福武直氏(当時東大教授)がベンガル農村調査のためにカルカッタを訪ねたおり、わたくしはR・ムケルジ―博士を紹介した。福武先生の議論は物静かな面持ちとは反対に、冷静さの中に論理を貫く、激しい追及の言葉があったのを覚えている。フィ―ルド調査の対象村をムケルジ―博士のアドバイスに従い、ビルブム村一帯とすることにした。この地域はテラコッタ(素焼きレンガ)彫刻で飾ったヒンドゥ―寺院が多くあることで有名である。*A0060, A0061, A0099, A0127   わたくしも一週間の農村調査に先生のお供をすることになった。後に先生は「世界農村の旅」(東京大学出版会)と題して克明な調査の記録を残している。

このときの私の関心はベンガル農民の変化に対する行動にあった。そのきっかけとなるヱピソ―ドはムケルジ―博士の「社会科学論」に紹介された、1930年インド「人口動態調査」{Census of  India 1930}の中の記述である。そのポイントはベンガル農民(サンタ-ル族)はイギリス宣教師の経営する、インディゴ(Indigo)栽培農園の賃労働者として働くときには宣教師の与える「鉄製の鍬や鋤」を上手に、しかも能率的に使いこなす。しかし、かれらは「賃労働者」の仕事を終え、自分の畑で自分の生活のために農作業にあたるときは先祖伝来の「木製の農機具」をつかう。鉄製の農機具がはるかに能率的で生産性が高いことを理解しているはずであるが、なぜか?サンタ―ル農民の「不可思議な行動」をどう解釈するのか。*A0059, A0078, A0113

この疑問は後に、歴史学者や農村社会学者、さらに経済学者の論争を呼ぶことになる。わたくしの写真のフォ―カスはベンガル農村のサンタ―ル族農民が1930年代に一般的だった木製農機具の農法から、1960年代の今(当時)、はたして、鉄製の農機具に変わっているか、という点にあった。観察結果は「否」である。「変化」が見られないのである。この時点での定点観測はその後二回(1971年および1992-3年)の比較時点調査へと続くことになる。同じビルブム村のサンタ―ル農民を訪問し、「鉄製農機具」が一般化していることに驚き、そして安堵の思いに浸った。1970年代後半にはこれらの地域にも「日本式農法」として知られる、いわゆる近代稲作技術が普及し収量は飛躍的に増大していった。写真映像は「緑の革命」が進展する前夜、その予兆を写したものといえる。

村落の調査を終え、シャンティニケタ―ン大学のゲスト・ハウスに帰る道すがら、真夏日の夕刻、火炎樹に群がるホタルの大群を見た。*A0117

はじめて遭遇した妖艶なホタルの舞。そして1992-3年、再び訪ねた。同じ季節の夢想があった。無灯火の農道に「変わらないもの」を見たのである。1960年のベンチマ―ク定点観測は私のインド理解の大切なツ―ルである。

(2) 国営製鉄所のべルト地帯を往く


独立後最初の首相J. ネ―ル首相が「近代化の寺院」と呼んだ重工業、とりわけ製鉄所建設は1960年代前半に完成する。カルカッタの北西、ビハール州に隣接するジャムシェドプ―ル(Jamshedpur)には19世紀末、インド民族資本のタタ(Tata)財閥によってつくられたタタ製鉄所がある。*A0080, A0098, A0111,

そこからさらに南西,カルカッタとボンベイ(現ムンバイ)鉄道幹線にそってドゥルガプ-ル(Durgapur)*A0069A0112。 ル―ルケラ(Rourkela)。*A0085A0086A0087, A0088A0089A0090A0091A0140。そして、さらにビライ(Bhilai)。それぞれ粗鋼生産能力年産100万トンの規模を有する、最新の技術を誇る国営製鉄所が建設され、あるいは創業間近のときである。ドゥルガプ-ル製鉄所はイギリス中心の国際コンソ-シアム、ル―ルケラ製鉄所は西ドイツ(当時)、また、ビライ製鉄所はソビヱット(当時)の援助によって完成。*A0070, A0108, A0120, A0124, A0135 

時代はまさに、東西援助合戦の最中、非同盟を国是とするネ―ル政権は東西両陣営から重化学工業建設の資本・技術両面の援助を受けることに成功した。これら国営方式の重厚長大型産業は当時、第二次五ヵ年計画の中核部門として位置づけられた。また、「社会主義型社会」建設の象徴的イデオロギ―となった。私は、インド統計研究所所長.P.C.マハラノビス教授の手配によって、約一ヶ月に及ぶ調査旅行を行った。インド政府計画委員会の許可、さらに国営企業の所管官庁の許可、そして当該企業本社などの受け入れ準備など半年近い時間を要した。調査旅行には海外派遣員二期生の伊藤正二君(故人)も派遣先マドラス(現チェナイ)に赴く途中、カルカッタから参加した。同君が最初にインドの洗礼を受けたのは国営企業建設に携わる人々の熱気、夢,歓喜であり、未来への楽観主義であった。

訪ねた国営企業は製鉄所に加え、シンドリ肥料工場(ビハ-ル州シンドリ)*A0063、ボパ―ル重電気工場(マディアプラデシ州ボパ-ル)。また、数少ない日本の合弁事業の先駆者、インドアサヒ工場(ビハ-ル州)*A0103。さらに南インド バンガロール(Bangalore)に立地する精密機械(Hindustan Machine Tools)、航空機製造(Hindustan Aircraft)、電子機器(Bharat Electronics)などがある。機密保持の観点からカメラの携帯、保持は禁じられ、また、録音機器の使用も許可されず一時没収の扱いを受けた。当時、一切の資料等は門外不出とする誓約書に署名させられた記憶がある。したがってこれら企業の写真映像はフォト・ア―カイヴに掲載されていない。

ところで、主要な国営企業の現地調査を終えることになるが、カルカッタに戻りあらためて、当時、開発体制のシンボル的用語「混合経済」とは何かという疑問が湧き上がって来る。民間企業の分野を認めつつも政府部門主導の投資活動を優先させる経済運営は果たして機能するのだろうか。市場の厳格な価格管理、物量計画という政府主導の開発方式,官僚による企業経営など。1960年代、「混合経済」という開発体制はその出発点からすでに内部矛盾を抱えてスタ―トしたのである。1990年初頭、経済自由化政策によってインド経済が世界との接点を見出すまで、約30年の歳月を要したことになる。ここにも定点観測の効用が読み取れると思う。

(3) ケ―ララ州 マラバ―ル沿岸の漁村と漁民たち


今、日本のス―パ―にあふれる冷凍エビは原産地インド洋、つまりインドからの輸入品が多い。その多くはインド洋に面したケ―ララ州 マラバ―ル海域の漁獲である。ケ―ララの六月の初旬。マダガスカル島付近に発生するモンス―ンがインド洋をわたり、激しく山岳地帯(ガ―ツ)に降り注ぐ雨季の始まりである。モンス―ンの季節はこの地から始まる。

今、この地を訪ねると美しい砂浜と椰子の林、そして近海漁業の漁船群を眺めることができる。しかし誰にも数十年前のこの地の姿は想像できない。海岸の椰子林の中に埋もれるように建つ掘立て小屋。海岸からせいぜい数百メ―トルの視界範囲で漁をする漁民のカヌ―。そして水揚げは村のマ―ケット。すべて自家消費の経済があった。

いまは(1)沿岸漁業から遠洋漁業へ、(2)人力のカヌ―からジ―ゼルエンジンへ、(3)ゼロからの保冷・冷蔵設備へ、(4)地域単位の漁業組合組織、そして(5)輸出市場への組織化。インド洋産のエビはマラバ―ルの長い苦難の歴史を経てはじめて、日本の食卓に到達したのである。 *A0074A0081A0082, A0083A0084A0128, A0145

1950年代後半、漁業近代化の一環としてFAO(食料農業機構)、ノルウェ―政府、そしてインド政府合同の事業が始まる。いわゆる.Indo-Norway Fishery Projectである。ノルウェ―の社会調査グル―プが現地漁村に住み込み、詳細な調査結果を発表した。それによると、文化人類学の観点からは、漁村の宗教別構成(ロ―マカトリックとプロテスタント、ヒンドゥ―教徒)などの違いによって新しい技術導入への態度が著しく異なること、また、経済学の観点、市場の開発と動機についてもキリスト教徒とヒンドゥ―教徒では労働や金銭動機が異なるという。採取産業の段階から近代漁業への移行は、漁民の知識水準や宗教的な心的態度に応じて漸進的技術移転の方策をとるべき、というのがプロジェクトの最終結論であり、勧告となった。カヌ―に焼玉エンジンを付け加えるという方式になる。そして、みごとに失敗に終る。

1960年、世界の注目を集めた「インド―ノルウェ―漁業プロジェクト」終焉の時期である。それから10年を待たずして日本は冷凍技術の教育・訓練、移転そして普及の分野でODAによる技術協力が行われ成功をおさめる。その後、日本のプロジェクトは現地政府に引き継がれ、コ―チン(Cochin)大学水産学部として今日に至っている。私は1992年に招かれて大学を訪れ、日本の技術移転プロジェクトの誕生から終結という、一連のプロジェクト サイクルのなかで発展指向型組織(institution)の大切なことを強調した。
採取産業から近代漁業への転換という「変化」はインド亜大陸の南、マラバ―ルで始まったのである。日本の食卓を賑わすインド洋産エビには長い、苦難の旅路があったことを記憶に留めたい。