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Vocational Education

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わが国離陸期の実業教育

Title: 第2章:E 別府学校組合立工業徒弟学校
Author: 山岸 治男
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1982年
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第2章:E 別府学校組合立工業徒弟学校

Ⅰ 学校創設の背景
 大分県別府町浜脇町学校組合立別府工業徒弟学校が創設されたのは,明治35年(1902)2月である.県都でもない当地に徒弟学校が創設された背景には,当地における伝統工芸,竹工の存在があった.竹工は,農家の副業として主に湯治客用の実用品(米あげ笊,飯籠,味噌こし等)として作られていた.しかし,別府温泉のその後の発展は,浴客の質・量ともに変えていき,それに伴い,竹工の内容も変化していった.即ち,これら実用品以外に,温泉客の持ち土産品としての工芸品も生まれるようになるのである.
 工芸品の市場拡大は,主として温泉客の増加と関連していた.第1表に別府の人口と温泉客の推移を示した.人口は,明治39年(1906)~大正4年(1915)の9年間に2倍強に急増し,浴客数もこれにあわせて増大している.当地の,かかる急激な発達には,日露戦後,重工業化への転換をとげた日本資本主義の発達に伴う観光産業の発達が背景にあろう.明治3年(1870),別府港が完工.同17年(1884)には大阪商船株式会杜別府出張店が設置されている.大正12年(1923),阪神・別府間に定期便が往復する.かくて,市場は関西にも拡張されたが,これに伴い,竹製品の製造にも一大変化が現われた.即ち,農家の副業生産品から専業的生産品へと切り替えられたのである.当然,品質,デザイン,手法等も旧来とは変わらなければならない.ここに,別府竹製品産業の基礎が形成される.昭和初期の当地の産業における竹製品の比重を示せば第2表の通りである.
第1表 明治末~大正期の別府町(市)の人口及び温泉客の推移
第2表 昭和初期別府市の職業別人口構成比と工業の概要
 大衆実用向き工芸から美術工芸への切り替えは,しかし,自然に移行できるものではなかった.特に,手のこんだ細密な手業は長時間に及ぶ訓練がなければ身につかない.ここに,徒弟学校創設の前提があった.ちょうど当時の殖産興業政策は,工芸技術者養成を主唱していた.別府は,この施策に呼応し,隣接浜脇町(明治39年(1906)別府に併合)とともに,郡や県の経済的援助を受けながら,徒弟学校の創設をこころみたのである.

Ⅱ 学校沿革の概要
 本校の主要な沿革を概観しておこう.本校は「徒弟学校規程」(明治27年(1894)文部省令第20号)に基づいて大分県速見郡浜脇町に設置された.県内では最初の工業学校であり,九州でも早期の創立に属する.当初,竹籃,指物,挽物,漆工,蒔絵の五科を置き,1学年定員33名,修業年限は,竹藍1年,他は3年であった.明治39年(1906)度より建築科を新設,さらに42年(1909)には学則を変更,生徒総定員100名,指物,建築,洋家具,塗料,蒔絵,板金,
竹籃,竹器の八科を置く.
 明治43年(1910),町立から県立に移管される.その後,大正4年(1915),別府から大分市に校舎を移転し,「大分県立工業徒弟学校」と改称される.この移転は,本校が工業学校に移行する上で大きな契機となった.移転に伴い,生徒総定員を150名に増員した.かかる変遷の後,大正7年(1918),本校は工業学校(明治32年(1899)文部省令第8号による「工業学校規程」による)へと脱皮した.全国的趨勢としては若干遅れぎみであった.そこには,少なからず,地場産業の中心が伝統工芸にあったことが関与していよう.工業学校への転換において,徒弟学校の伝統を引く家具科を存続させたのも,かかる理由によるものと思われる.
 ともあれ,大正7年(1918)の工業学校(高小卒後3年制)への転換は,本校における大改革であった.これにより,「大分県立工業学校」となり,本科に普通機械科,電気機械科,建築科の三科を置いた.前記家具科は大正14年(1925)以後廃止される.昭和2年(1927),学則変更により,5年制(小卒5年制)工業学校となった.この間の変遷を示せば第3表の通りである.
第3表 学科の変遷

Ⅲ 学校の実態
(1)各科の概要
発足期各科の概要は次の通りである1).
○指物科:浴客の土産品または大阪方面への移出品として販売する工芸品作製技術を中心とした.指物の良否は材料の乾燥具合できまる.本校で使用した材料は,県内産の槻,桑,桜,桧が主であった.大阪方面から購入した唐木(紫檀,黒檀,鉄刀木等)も使用した.
○挽物科:挽物は,日用品,〓漆の素地となる園器,機械器具の付属物の三種に大別される.本校で扱ったのは前記二種で,材料は町内産の槻である.
○〓漆科:これは板物類と円物類に分けられる.板物類は桧材が最適であるが,桧は県内には乏しい.従って,将来的に板物にも着手する予定で,初めは県内産の槻を利用した円物に主力を注いだ.漆液は,県内産のもののほか,熊本,京都,大阪,和歌山産のものも使用した.
○蒔絵科:〓漆業を補強する役割を担っていた.色漆は静岡県浜松に,漆液は京都に,粉類は大阪に各々求めていた.
○竹籃科:大分県は良質の竹材を産出する.少なからぬ伝統もあり,これを受け継ぎ,発展させようとしていた.
 では,本校において,どんな生徒が,どんな教師のもとに,どんな教育をうけたのであろう.
(2)生徒の資質
 設立初年の本校は,必ずしも青少年の憧れを呼びおこす学校ではなかった.「其ノ当時ニ於ケル町民ノ時代心ハ竹籃業ヲ非人乞児ノ職トナシテ卑下スルヨリ敢テ入学斯ノ業ヲ修メントスル子弟ナカリキ」2)とあるように,地元においてさえ,あまり人気はなく,他郡からの生徒の応募は皆無であった.やむなく,両町の小学校中退者等,かろうじて24名を集め得ただけである.しかも,生徒の質は全体に悪く,「職人養成ナル名ノ下ニ集リシヲ以テ生徒仲間ノ無頼漢ノミニシテ小学校在学中放校退学停学譴責等アラユル悪履歴ヲ有スルモノノミナルカ故ニ始メ半年間ハ遅刻欠席退学等定マリナク技能ノ練磨ヨリハ寧ロ是等生
徒ノ品性ヲ陶冶スルコトニ向テ本校ハ非常ナル苦心ト労力トヲ費シタリ」3)という状態であった.
 しかし,かかる状態も,やがて,労働(実習)を重視する本校の教育によって好転の兆を見せる.本校では,優れた生徒製作品を一般商品同様に販売することにした.家賃工具材料費は自弁であったが,例えば竹籃科の場合,生徒の自弁額は,1人1ヵ月平均30銭程度にすぎなかった.これに対し,製品販売による収入は,月額1~2円程度になったのである.品性陶冶にかけた半年を経過する頃になると,販売に耐える生徒製作品が出現した.それが市場に出まわると,生徒は,次第に専念して訓練を受けるようになったのである.明治36年(1903)度の製品販売高は,竹籃科在籍13名の総額だけで252円82銭5厘にのぼっていた.
 こうして,地元住民にさえあまりかえりみられなかった本校も,次第に人々の注目するところとなる.即ち,入学生徒の急激な質的変化がみられたのである.第2回生徒募集時には,定員33名に対し,45名の応募者があったのである.しかも,それは,地元両町のみならず,県下全郡にわたっていた.前学歴を見ても,高等小学校卒業生が圧倒的となり,中学校からの受験者,代用教員からの転入者さえいた.この好転は第3回生徒募集時にも続き,応募者は定員の2倍をこえ,やむなく選抜試験を実施している.明治36年(1903)度の地域別,学年別,前学歴別,父兄職業別生徒の状況は第4表~第7表の通りである.
第4表 出身地別生徒数(明治36年)
第5表 学年別生徒数(明治36年)
第6表 入学生徒の前学歴(明治37年4月入学)
第7表 入学生徒父兄の職業(明治37年4月入学)
 製品の県外への移出が続くと,本校は広く県外にも知られるようになった.「学校参観者が全国各地より毎日押しかけてその応接に暇がなかったと伝えられている.従って,この校風を慕って,生徒は,九州各県はもとより,遠く広島,山口,四国各県から集まり,中には,毎月補助金を出して本校に生徒を派遣する(郡もある)という状況」4)になってきた.資料1の手紙も,そのことを示すに足るものである.
資料1 後藤秀夫(大正4年板金科卒)妻の手記
生徒の出身県に関しては第8表に資料を示そう.
第8表 出身地別生徒数及び年次別他県出身生徒数
かくて,生徒の資質は,発足初年を除けば比較的良く,この傾向は大正期にも続く.それは,「不況下にもかゝわらず,就職状況が良好であったことに起因して,大正10年(1921)ごろから生徒父兄の職業にも変化があらわれている.従来は工業学校であるのに農家の子弟が大部分を占めていたが,このころから,官公吏や教員の子弟が増加し,父兄の職業も多様となってきた」5)という報告にあらわれている.多様な階層から生徒が集まる傾向にあったことがわかる.
 ただ,中退者が多かったことは否めない.明治37年(1904)の県統計書記載においても,県内実業学校6校のうち,本校のみ,特に中退者が目立っている.明治36年(1903)度分では,本校年間中退者は24名(家事都合22名,病気2名)である.
 生徒の学校生活は,終日実習に明け暮れる毎日であった.だが,時には町なかに遊びに出歩くこともあった.近くには,石垣村(現別府市)に県立農学校があった.農学校生徒と本校生徒がすれちがうような場合,作業服を着た職人スタイルの本校生徒は小さくなってよけて通ることが多かったという.時々両校生徒間にけんかもあった.「徒弟学校(生徒)は人員が少ないので勢力負けしていた」6)といわれる.別府が観光都市として発達するにつれ,浜脇界隈も観光地化する.上級学年生徒の中には,「冬休みに帰省せず,女郎を買い,学校に知られて退学させられた者もいた」7)という.勿論,それが生徒全体の傾向であったわけではない.また当時の中等学校では,一般にそうであったように,上級生と下級生の間の区別は厳然としていた.ただ,発足初期は,「軍隊から帰った人や大工職の1~2年経験者も入学して」8)いた状態なので,一定年齢者が一定学年に在籍した中学校とは若干のちがいがあった.当時の県内実業学校入学生徒の最高・最低年齢を示せば第1図の通りである.だが,時代が下るにつれ,入学生徒も次第に平準化している.
第1図 学校別入学生徒の年齢差.
(3)教育目標・教師
 本校の教育目標は,発足期に制定された校憲に示される.それは,次のような五つの基本原則を示すものであった9).
校 憲
 本校ハ創立ノ当時ニ於テ先ツ校憲五ケ条ヲ定メタリ曰ク
 一,学校ラシキ学校トナスニアラスシテ職場ラシキ学校トナスニアリ
 二,学校生徒ラシキ生徒トナスニアラスシテ職人ラシキ生徒トナスニアリ
 三,職ニ高下貴賤ナキヲ悟ラシメ高尚ニシテ尊敬スヘキ職人トナルノ外毫末モ他ノ希望ヲ有セシメサルニアリ
 四,平民主義ヲ心髄トシ務メテ虚誇尊大ノ風ヲ避ケ著実勤勉労苦是レ楽ムノ習慣ヲ長セシムルニアリ
 五,勤労ヲ好ミ力作ニ甘シテ劇シク労働シ長ク労働スルハ是レ職業唯一ノ秘訣ナルヲ以テ本校ハ之レヲ生徒ニ責ムルノ前先ツ職員ニ責ムルニアリ
 是レ本校ノ神聖ナル唯一ノ校憲ナリ総テノ施設経営ハ悉ク此理想ノ貫徹ヲ期シタルモノニシテ本校ノ存立ト共ニ永遠変フ可ラサルノ大主義方針ナリトス
 校憲の一条と二条は,本校の,実業教育に徹する方針を明示している.それは,学校教育というより,むしろ,職場教育というに近いものである.一般の中等学校生徒が,例えば農学校生徒さえ黒の制服を採用したのに対し,本校が紺の作業服(和服)を着用したのも,この教育方針に基づくものである.校憲の三条,四条は職業人としてのモラルに関して言及している.実に学んで実に徹する生き方の奨励が示される.五条は,かかる方針の達成方法について示したものと言えよう.注意すべきことは,校憲が,単に生徒を対象にしてのみ掲げられたのでなく,ひとしく教師にも向けられている点である.生徒に労働の尊さを教えるには,何よりも教師が手本を示さなくてはならない.本校では,教師(含校長)も,生徒と同様、平常は作業服を着ていた.
 校憲と同時に,次のような,本校職員心得も制定されていた10).
職 員
 本校職員タルモノハ常ニ身ニ職工服ヲ纒ヒテハ手ニ工具ヲ放タス職務ニ服シテハ昼夜朝夕ノ別チナク復担当時間ノ多少ヲ云ハス一度ヒハ必ス基職ヲ以テ営業ノ道ヲ立テ善ク利益ノ秘点ヲ悟リ尚且ツ教授シ得ルノ学理ヲ解シ労働又労働然モ劇シク労働シ長ク労働スルコトヲ是レ楽ムノ人ナラサル可ラス彼ノ一週ノ教授時数十八時ヲ以テ担当時間ノ相場トナシタル今日ノ中等教員傲然タル学校卒業ノ肩書ヲ有シ腕ニ実芸ノ見ルヘキナク口ニ学理応用ヲ云々スル法螺的教員職に高下貴賤ナキヲ知ラス平民主義ノ本領ヲ解セス徒ニ虚誇尊大ニ奔ル独尊主義教員ノ如キハ凡テ本校ノ大禁物ナリトス本校ハ此ノ理想ヲ以テ職員ヲ雇聘シ遂ニ希望以上ノ人物ヲ得タリ
本校職員心得
一,本校職員トシテハ単ニ学理ノ精通ヲ取ラス技術ノ秀抜ヲ賞セス職務ノ為メニ専心一意熱血ヲ漑キ赤誠ヲ捧ケ只是レ劇シク労働シ長ク労働スルコトヲ楽ムモノヲ良教師トナス
二,先生風ヲ飾ラス紳士体ヲ真似ス平民的ニ低ク其ノ身ヲ持シ職工タルヘキノ生徒ニ向テ常ニ良職工タルノ模範ヲ示ス者ヲ良教師トス
三,特ニ時間ヲ確守シ規律ヲ重ンシ校規ニ向テハ事毎ニ身ヲ以テ生徒ヲ率フルノ覚悟ナカル可ラス
四,制服制帽ヲ用フルニ及ハス靴亦穿タサル可ナリ然レトモ出勤中ハ職工服トシテ紺ノ筒袖襦袢ニ股引ハ必ス之ヲ着セサル可ラス
五,校ノ内外ヲ問ハス衣服ハ主ニ綿服ヲ用ヒ絹布ノ如キハ成ルヘク纒ハサルコト
六,率先勤倹貯蓄ノ美風ヲ発揮スルカ為メニ月々月俸弐拾分ノ一以上貯金ヲ為サヽル可ラス
 これを検討すれば,本校職員には,何よりもまずその道の奥義をきわめた職人たることを求めていたことが判る.学理も軽視されたわけではないが,技術重視が何より優先した.職員心得は,要約すれば,教師として生徒に接するのでなく,先輩職人としてその範を示すこと,そのため,教師らしきふるまいをさけ,むしろ,職人としてのあり方に徹するべきことをうたっている.この教師像は,単に訓辞として示されたばかりでなく,実際に具体化されている.学事報告の中でも「本校ヲ参観シタルノ人ニシテ職員ト生徒ヲ判別シ得タルモノナシ亦以テ如何ニ其労働ノ平民的ニシテ常ニ身ヲ以テ生徒ヲ率ヒツヽアルカヲ察スルニ難カラサルヘシ」11)と述べられており,また,次のような本校卒業生からの話も示すことができる12).
 [井本貞蔵・大正2年(1913)建築卒]建築実習の先生は山口先生で,70歳の老人でしたが,非常に元気で,冬でも6時に必ず起床するとの事で,大分の住人で,御子息は家に居られ,一人で学校に泊まって居られました.若い時は殆ど3時間位しか寝ないとか.堂宮師としては九州でも1~2と言われた人だった……
 [三浦怜三・大正5年(1916)建築卒]先生が手を取って,刃物等は個人個人に先生が研いで見せてくれて,総て個人教育で……注文物の忙しい時は学科中止のことも多かった……
 [黒屋敏太・大正8年(1919)指物卒]校長は高木秀太郎先生で大変厳しく,率先垂範の実行型で人格者でしたので私達は尊敬していました.英語の吉田先生は……京都の工芸学校の出身で,図学も担当されていました.先生の新しいデザインに魅力を感じたのは私1人ではなく,全員が尊敬していました.総じて,本校の先生方は人格高潔にして親しみ易い先生が多かった様に記憶しています.
 では,本校就任教師には,どんな属性があり,本校教師の社会的性格はどのようなものとして把握されるであろうか.明治37年(1904)当時の9名の教員について,第9表に整理した.これによると,学歴では,学卒者4名,自営修業者5名の比となっている.また,普通学科を担当したのは学卒教員2名のみであり,他の全教員は実習にたずさわっていたことが判る.本校の教育が,いかに,実習,実技指導に徹していたかを示すに足るであろう.教師は,熟練した,その道に精通した一級の職人であって,けっして学卒者ではなかったのである.職員心得は,校憲の精神に則って,鮮かに具現化されていたわけである.明治45年(1912)に指物科を修了した日野秀次の手紙からも,教員構成は,実習担当教師を中心としていたことがわかる.日野の記憶によれば,明治末年の各科実習教師,助手,第3学年生徒数は第10表の通りとなる.かりに,全学年の生徒数を,この第3学年生徒数の3倍とみなせば,実習教師,助手1人当たりの指導担当生徒数は3~9名にすぎず,平均4.7人である.教師と生徒の関係が,いかに密の濃いものになり得たかを推測するに難くない.しかも,実習という手の作業を通じているわけであり,教師と生徒の関係は,いっそう親密になっていたことがうかがえる.前記卒業生の話も,そうした事実にもとづくものと思われる.
第9表 職員構成(明治37年)
第10表 明治45年頃の実習担当教師及び生徒数(人)
 ところで,第9表から,われわれは,もう一つ特徴的な事実に気づく.それは,教師の前任地,族籍から推測できるのだが,教師の出身地が,かなり広範囲に及んでいたことである.大分県出身は2名にすぎず,他は,石川,和歌山,兵庫,香川,佐賀の各県に及んでいる.それは,学卒者を集めたのでなく,その道に精通した一級の職人を集めようとした努力の結果である.そこから,本校は,例えば,実用品の域を脱しなかった竹工が,本校創設後に工芸美術品の域に達しえたように,地場産業に多大な影響を与えることになる.市誌にも,それは「別府徒弟学校に竹籃科を設け,斯業の先進地より教師を聘び,徒弟の養成に努めたる結果,技巧上に著しき進歩向上を観たるのみならず,其の製出品目頗る複雑となり……用途好尚に応じて多様多岐の種類を生じ……」13)と記されるに及んでいる.工芸先進地帯からの教師(職人)の招来が,本校の後の展開,ひいては地場産業形成に果たした役割の大きさを知らなくてはなるまい.
 教師については,さらに重要な点がある.それは,実習,実技を優先させ,一級の職人こそ一級の教師とする中にあって,校長及び次席クラスの教師だけは,創設以来,一貫して工業教育界のメッカたる工業教員養成所(蔵前高等工業・現東京工大)卒業者であったことである.即ち,実に学んで実に徹する本校の教育であったが,その管理運営は,工業教育界における最も近代的頭脳においてなされていたのである.本校が,後に,九州では最も早く5年制工業学校に転換するのも,実習,実技を最優先させながらも,管理運営的部分においては,常に歴史的社会的に広い視野を持ち続けたことによるであろう.では,この部分で手腕を発揮した校長には,どんな人物が就任していたのであろうか.本校第七代校長・泰平宮治の語るところを記そう14).
 [初代・長尾薫・明治35年(1902)1月~明治40年(1907)11月]日田郡の出身で大分師範学校を卒業後,蔵前高工の工業教員養成所を卒業された優秀な方で創意にみちた卓見の士であり,実践型の教育を徹底的に主張された信念の人であった.……空理空論を排して専ら実践躬行,長く労働,激しく労働,好んで労働すべきことを教育の中心目標とし,勤労をもって生命とする校風を樹立された.……明治40年(1907)になって,時の大久保知事が大阪府知事に栄転のとき,強引に先生を大阪に連れてゆかれ,大阪府立西野田職工学校を開設させた.……大阪府は昭和18年(1943)中等学校令が改正されるまで36年間も府立の工業学校はすべて職工学校名でおし通したが,別府の徒弟に対して大阪は職工と,長尾教育精神を受け継いだものだ.……「輪島塗り」の技能が必要となると自ら輪島に行き,第一級の職人を別府につれて帰り教師にする.その人を中心にし,5~6人の生徒が輪になって早朝から夜遅くまで技能を磨く.その合間に修身,国語,数学を教えるが中心は勤労であり実習だ.これを3ヵ年やると生徒は立派な一人前の熟練者になって卒業する.中には先生1人が2~3人の卒業生を伴って鶴崎に,竹田に,日田その他県外各地に行き,そこで徒弟学校や指導所を開設した.そうして誕生したのが現在の鶴崎工業であり,日田林工の前身だ.……長尾氏は大阪時代はアメリカに派遣され……
 [二代・平尾英臣 明治40年(1907)12月~大正5年(1916)3月]在職中に物故されたのだから,その生涯を別府工業徒弟学校に捧げられたわけである.当時の本校がその真価を発揮し,長尾精神が発揚されたのはむしろこの時代であったようだ.平尾校長は長尾校長同様,蔵前高工の工業教員養成所の卒業で,謹直で厳格な人物で,専ら学校の内容充実に努められたようだ.その功績は最後に学校を別府から大分に移転された業績と併せて偉大なものがあったわけである.
 [三代・高木秀太郎 大正5年(1916)5月~昭和5年(1930)4月]岡山県立工業学校教諭から……赴任した.前任者同様自ら作業服をまとい,教師,生徒と苦楽を共にしながら本校建学の精神を受け継ぎ,伝統を守り,着々と実績をあげられた.……蔵前高工の機械科卒業だったから機械はもちろん,数学,物理には精通していて,自ら教室の授業も担当されていた.
 [四代・花田虎介 昭和5年(1930)5月~昭和10年(1935)3月]蔵前高工教員養成所電気科の卒業であり……鹿児島師範学校を優等で卒業し,前記の学歴を経て教育界にはいられた方で……本校には大正8年(1919),電気科長として赴任され,大正12年(1923)には教頭に昇任していた.初代科長として電気科の創設に当たられ,施設,設備の充実や卒業生の電気主任技術者の資格獲得などに尽力された.
 [五代・今村純一 昭和10年(1935)7月~昭和23年(1948)4月]京都帝大電気工学科のご出身で……県立岐阜工業学校の機械科長として勤務されていた……
 校長において,今日の管理職と異なる点は,校長もまた進んで作業服を纒い,普通教科及び実習関連基礎教科の授業を担当したことである.従って,管理運営と実習実践は分化されず,学校は外見上,さながら工場のようであり,職場のようであったわけである.では,かかる生徒,教師を擁した本校は,どのような内実を伴っていたであろうか.

(4)施設・設備・カリキュラム・実習
 創設当初の本校は,一時,民家をもって校舎にあてた後,浜脇町旧役場の建物(18坪)に平屋(31.5坪)を増築して校舎にあてたが,第1回生24名を収容するのが手一杯であった.そこで,両町は合計1500円を拠出し,県費1500円,郡費500円の補助をうけ,計3500円をもって校舎を新築し,明治37年(1904)から新校舎に移転した.新校舎は浜脇町の朝見川河畔に,資料2に示すような,当時としては近代的建築物として作られた.当初の校舎及び明治末年の校舎見取図(いずれも口伝により作製)を示せば第2図と第3図の通りである.
資料2 明治35年の別府工業徒弟学校
第2図 徒弟学校建物配置図(内田九郎氏談,安部巌氏作制).
第3図 徒弟学校建物配置図(明治45年卒業,日野秀次氏による).
 教室の広さは,日野秀次(明治45年卒)の記憶によれば,塗料科実習室18坪,板金科同12坪,挽物科・洋家具科同20坪,指物科同24坪,建築科同24坪である.これらの教室に,100名前後の生徒が散在したわけである.
 実習室は工場同様であった.しかし,現在の工業高校の施設,設備からみれば,それらはきわめて貧弱であった.本校は主として手工芸品の製作技術を教授していたから,施設,設備も比較的小規模な小道具ですんだのである.実習に比較的大がかりな機械類が登場するのは大正中期以降である.この間の事情は,実習授業に関する次のような手記の推移からもうかがうことができよう15).
 [日野秀次・明治45年(1912)指物卒]校外建築現場で実際工事にあたったことが多い.
 [井本貞蔵・大正2年(1913)建築卒]実習授業は1年生は実習教室で工具の拵え方から家庭用具例えば火鉢,机塵取其他です.2年生から建築に対する学科ということになって居ましたが,丁度,朝鮮合併後で,朝鮮の合併に功労のあった人の別荘を学校が請負って居り其の仕事を大工2人と一緒にすることになりまして,約半年後から,製図にかゝりました.……機械器具類は殆どありませんでした.挽物科のロクロ操位なものでしょう.
 [森 武生・大正5年(1916)建築卒]実習には大工仕事と製図があった.
 [黒屋敏太・大正8年(1919)指物卒]機械器具は,学校の性格上,割合に充実していました.バンドソー,サーキュラソー,フレッドソー,ドリル,グライダー,旋盤,其の他工具修理・製作機械等,必要最少限度のものは有りました.個人貸付工作用工具一式,修理用器具等がありました.其の他着色用薬品,用具,乾燥器,図案用具,製図板等……
 次に,カリキュラムを検討しよう.第11表に各科別教科課程を示した.
第11表 各科教科課程(明治37年)
各科とも,各学年の週当たり時数は45時間である.全体の時数そのものが多いが,とりわけ実習はきわめて時数が多い.それは,木工・漆工科1年次66.7%,同2年次68.9%,同3年次75.6%,同科平均70.4%,竹工科88.9%に及んでいた.学校は午前8時に始まり,通常,午後4時まで授業が行なわれた.普通学科は50分を1単位時間とし,実習は2時間につき15分の休憩をとる形で行なわれていた.この間,昼食に40分の休憩があるだけであった.しかも,生徒の約半数は,放課後も願い出て,なお作業にとりくみ,学事報告によれば「生徒ハ……午後六時ニ退散スルモノ過半数ヲ占メ間ニハ夜間ニモ亦作業ニ従事スルモノアリ」16)と記されている.普通学科は実質上軽視され,教科書を使用した学科指導は,明治37年(1904),四科目にすぎなかった.当時使用された教科書は第12表の通りである.竹工科の場合は,国語も算術もなく,ひたすら技術の口述をノートに筆記し,見よう見まねでそれを習得させる授業風景であった.カリキュラムがこのように編成されたのは,前述した本校教育方針によるが,それは創設当初から,次に示す,「実習教授ノ方針」として具体化されたのである17).
第12表 使用教科書(明治37年)
実習教授ノ方針
 一,生徒ニ製作セシムヘキ品類ハ吾人日常ノ需用品ニシテ最モ販路広キモノヲ選択シ美術的ニ偏セシメサルコト
 二,生徒操業ノ状態ハ全ク実際的営業ノ状態ニ一致セシムルコト
 三,教授ヲシテ営業的ナラシメ務メテ生徒製作品ヨリノ収入ヲ増加シ出来得ル限リ町村負担ヲ軽減スルコト
 四,生徒操業ノ際ハ念頭常ニ材料費売価工料ノ計算ヲ忘レシメサルコト
 五,放課後休暇又ハ夜間ト雖モ是レカ利用ヲ奨励シ自由ニ登校製作ニ従事セシムルコト
 所謂学校製作ナルモノヲ見ルニ其技ヤ巧妙優麗其作ヤ美術的ニ美ノ美ナルモノニシテ一見実ニ驚クヘキ進歩ヲ表顕シタルカ如シト雖モ深ク其実際ヲ窺フトキハ思半ハニ過キサルモノアリ製作ニ時間ノ多少ヲ問ハス原料ニ価格ノ高下ヲ論セス材料ノ如キ従テ購入スレハ従テ消耗シ工料原価売価ノ如キハ毫モ之ヲ脳裏ニ算セス学校経費ノ如キハ其多少固ヨリ我損益ニアラス痛痒豈ニ敢テ関センヤトナシ生徒製品ノ如キモ贅沢ニ贅沢ヲ重ネ恰モ外面ニ粉シテ衆目ヲ掩フノ類比々皆然ラサルハナシ故ニ教師ノ生徒ヲ教授スルニ当リテ世ノ需用ヲ探リ販路ヲ考へ営業上ノ方法ヨリ其秘点ノ如キハ一モ之ヲ教授スルコトナシ否教授セサルニアラス教師ニ教授シ得ルノ実力ヲ欠クノ致ストコロナルヘシト雖モ亦自己ノ資本ヲ投シ自己ノ営業ヲ指揮監督スルカ如キノ責任ナク極端ニ論スレハ「学校ハ金銭ノ捨テ場ニシテ取リ入ルヽノ場所ニアラス」テフ如キ与論ノ傾向ヲ生出シタルノ弊ニヨラスンハアラス現ニ今日ノ実業学校ニシテ学校製品ノ収入ヲ以テ大ニ経費ヲ軽減シタルノ事例皆無ナルニアラスヤ以テ此事実ヲ証明シテ余リアリト謂フヘシ本校ハ是等ノ弊風ヲ一洗シ率先斯教育ニ一新例ヲ開キ広ク一般ニ好模範ヲ示スヲ以テ自任スルニアリ即チ職員生徒ヲ駆リテ劇シキ労働ニ服セシメ極力学校ノ収入ヲ増加シ一面ニハ町村ノ負担ヲ軽減シ一面ニハ生徒ヲシテ長ク労働シ速ニ製作セシムルノ能ヲ養フニアリ故ニ其製作セシムル品類ノ如キ需用稀有ニシテ価貴キ美術品ハ之ヲ避ケ最モ売口広ク然モ利益多キ日用品ヲ主トシ実習ニ於テハ実際的営業ヲ営ミ生徒ノ励精労作ヲ奨励スルカ為メニハ日々ノ仕事ニ於ケル材料費売価ヨリ工料ヲ計算シ一日ノ労力其価幾何ナルカヲ充分知得セシメ今ハ昨ヨリ工料多シ明ハ今ヨリ尚多カルヘキヲ楽マシメ放課後休業日又ハ夜間ト雖モ登校製作ニ従事セシメ品行方正善ク課業ニ勉強スル生徒ニハ貯蓄ノ法ヲ設ケテ其工料ヲ与フル等アラユル手断(段?)方法悉ク生徒ノ実際的技術ヲ進メ労働ヲ習慣シ且ツ学校ノ収入ヲ増加スルニ外ナラス是レ本校実習教授ニ以上ノ方針アル所以ナリ
 以上の方針を要約すれば,本校では,いたずらに技巧を競うことを厳しく禁止していること,実業教育の場として,収入の道を開くことも教育の一目標であり,いたずらに町村費の支出を求めないこと,そのためには,手のあいている間は,かた時でも作業に励むよう,職員,生徒の両者に求めていたことになろう.「学校なら支出を伴って当然」という観念を排除しようとしているところに特色がある.この方針が徹底すれば,生徒は,着実に基礎的技術を身につけ,売れる作品を作り,それが生徒の将来の生活を支えることになる.伝統工芸を,単なる日用品から美術工芸にまで育て上げる本校であるが,それは,きわめて着実で慎重な配慮をめぐらした上での選択だったのである.
 最後に,明治44年(1911)時の実習に関する資料を掲げ,若干の検討を加えてこの項をとじよう.

           生徒実習……ニ関スル状況18)
  工業徒弟学校ノ実習ハ各学科目中最モ重要視スヘキモノナリ故ニ其ノ教授時数最モ多シ之カ効果ヲ挙ケントセハ勢ヒ実習教員ニノミ委スヘキニアラス全校職員挙ツテ指導督励ニ務ムルハ勿論常ニ学科ト術科トノ連絡ヲ図リ生徒自ラ実習ニ趣味ヲ生セシムルコトニ注意シ又或科ノ如キ其ノ技術カ手芸ニ傾ケルモノニアリテハ其ノ製作方法ヲ授クルノミナラス練習ニ重キヲ置カサルヘカラス是等ノ目的ヲ達センカ為メ本年度実施セル方法左ノ如シ
1.実習ノ教授要目ヲ厳密ニ編製ス.教授要目ヲ編製シテ生徒ニ課スヘキ作業ニハ必ス一定ノ目的ヲ記入セシメ主トシテ工具ノ取扱使用法ニ熟練セシムルト仕様仕口ノ教授程度ヲ誤ラサラシメンコトニ注意セリ
2.実習教授法ヲ研究ス.実習教授ノ方法ヲ最モ有効ナラシムルタメ教授法ノ研究会ヲ開キ教授細目ノ適否教授ノ順序方法等ヲ研究ス
3.模範品ヲ製作セシム.教員ヲシテ絶エス生徒作業ノ模範トスヘキ物品ヲ製作セシメ一般職員ノ批評ヲ求メシム
4.製作品ノ評価ヲナサシム.生徒製作品ハ上級生徒又ハ生徒相互ニ検査批評セシメ材料,工料等ヲ基礎トシテ評価セシメ職員之ヲ決定ス
5.課外作業ヲ奨励ス.品行方正身体強健ニシテ正課ニ勤勉ナルモノニハ課外又ハ休業日ニ従事スルコトヲ許可シ製品ヨリ得ヘキ工料相当価ヲ其ノ生徒ニ与フ
6.場外実習ヲ課ス.依頼工事ヲ引受ケ職員生徒ヲシテ一般職工ト伍シ揚外ニ実習ニ従事セシム此ノ方法ハ技術ノ練習ヲ奨励スルノミナラス長キ労働ニ堪ヘシメ卒業後ニ於ケル自立自営ノ態度ヲ養成スルニ於テ極メテ効果アリ故ニ一年級ヲ除キテハ早朝(午前七時又ハ八時)ヨリ点燈(午後四時半ヨリ午後六時マテ)マテ就業セシメタリ随テ一人一ケ年ノ実習時間数ノ最多キハ千七百五十八時に及ヒ其ノ最少ナルモノモ亦千三百七十時ニ達シ平均時数千五百九十時タリ
以上からも「実習教授の方針」は,現実に活用されていたことがわかる.しかも,それは,かなり組織的であったと思われる.そこに,県内実業学校のうちでも特に注目された理由があろう.
 以上,施設,設備,カリキュラム,実習授業の実態について述べてきた.では,これらは,学校経営全体の中で,どのように位置づけられたのであろう.
 (5)学校経営
 創設時の学事報告には,「学校経営ノ方針並現況」として,「本校ハ我卒業生カ在学中ニ於テ学ヒ得タル学理ト技術ヲ実地ニ試ミ,自労自活盛ニ其営業ヲ続ケ,遂ニ此地ニ最モ適切ニシテ,利益多キ新工業ヲ創建シ,大分県ノ一大産業地ヲ形成スルニ至ラサレハ已マサルナリ」19)と記されている.この経営方針は,まもなく軌道にのった.開校3年後の明治38年(1905)4月,久保田文相が本校を視察するに到っている.この時,設置者たる学校組合議員と本校職員に,文相は次の話をして帰った.
 「只今知事より紹介が有ったが,実は此学校の事は,今日始めて知ったのではない,前々から文部省視学官等の報告に依って承知して居ります,又嘗て知事が東京に出られた時其話が有ったが其後更に詳細なる報告を得まして大に参考になったので,其趣特に自ら書面を書いて送ったことがある,此学校に関しては疾からよく我記憶に存して居る.
 這度此学校を見ることは一の楽みとして居った.此所に来て見れば豫て承知して居る通りで,徒弟学校の性質として最も適当なる学校であることは愈明になった,此の如く徒弟学校として申分のない学校の此地に在ることは私の最も喜ぶ所で,此学校は実に全国の徒弟学校の模範たるに足るものと信ずる,又校長は余程よい人で,已に一昨日も教育功労者として知事から紹介された一人であることは私の記憶に存して居る.
 乍併此学校は僅に二町村の設立で其負担はなかなか容易のことではない.郡長始め諸君の御骨折は一通ではあるまいが,其成果は町村の子弟の幸福になることは勿論之が為めに此町村の繁栄を増すことは疑のないことである.又只今校長の話に依れば他郡から来て居る生徒も大分あるとのことである.さうすれば独此町村の利益のみならず全県の工業の発達を助けて其繁栄を図ることになるので,事業は小なるも其利益は大である,言はば他の全国の模範ともなる事業であるから,諸君の御骨折も多からふが其功績も大なることであるから今後共十分の御協力を希望します.
 今色々見ましたが実に此学校は学校らしくなくして工場らしい.実業学校は別して斯うありたいものだ.工業徒弟学校の学校らしくして工揚らしくないと云ふことは決して喜ぶべきことではない.一寸見ると学校か工揚か分からぬそれでこそ始めて実地に引用することが出来る.斯る学校は今日の時代に於ては多くは見られぬ学校である.私は今日其実際を見て一層其喜びを加へたのである.只今此所に出来た成績品を持ち還って内閣諸大臣に見せて品物に就て此学校を説明しやうと思ふ.
 此学校に関しては将来大に望を属する所であるから諸君は勿論特に校長に於ては一層注意を加へ益々其成績を挙けられんことを呉々も希望する所である.」20)
 ところで,「本校が,開校3年目にして,文部大臣の視察を受けるまでに発展したことについては,関係者の努力はもとより,社会的にも実業教育振興の気運が盛り上りっつあったことにもよるが,最大の理由は……本校の経営方針で」21)あった.では,具体的に,それは,どのようなものとして実現していたのであろうか.
 経営方針が結実したものの一つは,実習教授の方針にも記されたように,実習製作品の販売行為であり,もう一つは,製品の博覧会への出品,入賞という栄誉の獲得である.
 まず,作品の販売についてである.第13表は,明治35年(1902)~37年(1904)度までの,本校実習材料費の予算等を示したものである.これによれば,35年度は400円の材料費予算に対し,作品販売による収入が305円あり,実質的出費は95円弱で済んだことがわかる.36年は同じく900円の予算に対し,収入も900円であり,実質出費はなかったことになる.37年度は,いっきに2,500円の材料費を計上しているが,記録によれば,2,700円の収入を見込むことができるという.従って,発足3年めには200円の純益が生ずるに到るわけである.この純益は校費として使用することにし,町負担軽減の方途を開く第一歩となる.また,それは本校が生徒から授業料を徴収しないで存続する要因の一つともなったと思われる22).
第13表 年度別材料費予算等(明治35~37年度)
 販売の方法として,別府,浜脇両町に,両町の選定した一手販売者を各1ヵ所ずつ設け,この公に定められた一手販売者が,学校の指定した価格において,また学校の合格品と認めた製作品のすべてについて購入していくことで,学校と販売者間に約束がなされていた.学校は,指導の教師が販売に耐えると認めた生徒製作品について,「担当教師ニ於テ普通市価ニ適シタル材料費ニ生徒ノ労働ヲ普通職人ノ労働ニ換算シタルモノヲ加へ一定ノ売価ヲ定メ之ヲ学校所定ノ章紙ニ記入シ其製品ニ貼付スル同時ニ其保管ニ係ル製品簿ニ記入シ学校書記ニ送付ス」23)ることになっていた.送付をうけた書記は「之ヲ製品台帳ニ記入シ製品戸棚ニ納」め,「其製品ノ推積高或度ニ達シタルトキハ其額ヲ一手販売者ニ通知シ学校組合書記立合ノ上所定価格ノ八割ヲ以テ現金引替ニ交付」24)したのである.それ故,一手販売者の収入は一律定価の2割である.学校指定の定価を守らせたのは,市販価格の正当表示の規準として,学校製作品がその範となる意図をも含んでいたからにほかならない.一手販売者以外には,いかなる個人にも学校としては販売しないことにしていた.
 製品に対する評判はかなりよかった.特約販売申込者が相次いが名乗り出ていた.だが,製造量がそれに追いつかなかった.明治37年(1904)度の材料費予算が,いっきに前年の2.8倍になったのも,ある程度の量産をしたかったからであろう.学事報告には次のように記されている.
 「製品ニ対スル一般ノ世評ハ有望ナルモノノ如シ特約販売申込者ハ愛媛宮崎広島ノ各県ヨリ朝鮮ニ及ヒ県内各地ヨリモ続々ノ予約者アリト雖モ本校ノ製品ハ其売店ニ出ツルヤ聚散繁キ旅人浴客ノ土産トシテ供給セラレ未タ一手販売店スラ之ヲ飾ルニ足ラサルヲ以テ是等ノ要求ニ応スル能ハサルハ遺憾トスルトコロナリ今ヤ別府町ニ物産陳列所ヲ設ケ浜脇町ニ高厦ナル勧工場ヲ置キテ共ニ本校製品ヲ収容セントス販路ノ前途ハ益有望ナルヘシ」25)
資料3 学則第31条
 正規の授業において,実習用に製作した製品の収入は学校経費にくり入れられたが,しかし,資料3に示す本校学則により,賞金として生徒にも還元されていた.賞金は卒業時まで貯蓄され,卒業時に一括手渡されていた.本校には,生徒が実習に励むためのもう一つの施策があった.それは,前掲学則第二項である.即ち,学業就業状態,行動について学校が良好と認める生徒に,課外に学校の実習室における製品作製を許可したのである.これによって作られた製品は,販売方法において,授業中に作られた製品と同じ扱いをうけたが,収入のうち,材料費を差引いた工料はすべて生徒に与えた.これも卒業期まで貯蓄させていた.明治37年(1904)現在,課外作業を許された者13名,その貯金高116円であった.
第14表 発足当初学校予算等一覧
資料4 徒弟学校卒業生(含工業学校
別科)動向調査結果

 博覧会への出品は,創設翌年の明治36年(1903),第5回内国勧業博覧会に「学校経営方法」及び製作品を出品し,表彰されたのが最初である.以後,明治43年(1910)4月には,九州沖縄8県聯合共進会に「学校経営方法」及び製作品を出品し,三等及び四等賞を受賞した.さらにこの年の7月,ロンドンにおける日英同盟記念大博覧会に全国代表として「学校経営方法」及び製作品を出品し,名誉大賞を受賞した.大正期に入り,3年(1914)には東京大正博覧会に製作品を出品し,協賛賞を受賞した.4年(1915)には,パナマ運河開通記念サンフランシスコ万国大博覧会に製作品を出品し,一等賞を受賞している.また,同年11月に大分県物産共進会に製作品を出品し,名誉賞を受けた.
 かくて,数回に亘り,博覧会,共進会に作品を出品したのであるが,それは,黎明期のわが国工業振興策の一環でもあった.万国博覧会への出品も,「単に学校の発案ではなく,文部省の指示により日本工業教育の代表としての出品」26)であった.それは,裏返せば,本校が「わが国工業教育のモデル校として全国的に有名であったことを物語っている」27)かも知れない.全国的水準からは,第21番目の開校であると言われるが,多くの学校が経営悪化におちいる中で,本校が次第に経営状態を向上させていったことが,全国代表に選ばれる原因になったと思われる.
 次に,寄宿生管理について記そう.本校は自宅通学不可能な生徒については,すべて寄宿舎に収容していた.たとえ親戚であっても下宿することを認めなかった.寄宿舎は,別府町に民家を借り,舎監として本校職員1名を同居させた.生徒からは,舎長,副舎長各1名を選出させ,この代表者を通じて舎監と一般生徒の連絡が行なわれていた.午前6時起床,午後6時門限,午後10時就寝となっていた.寄宿生への親元からの学資送金は,学校あてに行なわせていた.これを書記が管理し,生徒には必要により申し出をさせ,これを校長が認めた場合に限って,必要限度の現金を与えるしくみであった.生徒の無駄使いを極力さけるしくみだったわけである.それ故か,明治37年(1904)時調査では,生徒の1人1ヵ月現金使用は平均4円61銭4厘にすぎない.参考までに,14年後の大正7年(1918)の生徒募集広告によれば,在学中の学資について,「寄宿舎ニ入舎スル者ハ一カ月オヨソ11円……通学スル者ハ一カ月オヨソ4円50銭」28)とある.
 最後に,発足初期の学校経費配分を第14表に示してこの項を閉じよう.第14表のうち,34年(1901)度分は,学校施設・設備を整えるためのものである.
 (6)生徒の進路
 卒業生の進路,就職状況に関しては,次の三つの資料にふれることができる.1)「徒弟学校に学んだ人達は別府の竹工芸をレベル・アップするリーダーであり,後続する人達の指導者でもあり,精神・技術ともに基本的な厳しさを擁し……」(「別府における竹の由来」,別府工芸研究所),2)「卒業生は……徒弟
学校時代が18回443名…… 卒業生の就職状況を見るに,徒弟学校時代の卒業生には自家営業が最も多くて224名……」(『別府市誌』,昭和8年,821ページ)29),3)「ドン底の悲境に陥った事業界を相手のこの学校の卒業生の売行は,毎年雇入申込が卒業生の3倍ないし4倍という好況……」(『大分新聞』,大正13年3月6日付).
 次に,筆者が昭和55年9月に,本校卒業生にアンケート用紙を郵送して得た回答結果から生徒の進路を探ってみよう.徒弟学校規定による卒業生523名(工業学校改編後の別科を含む)のうち,アンケート調査実施及び有効回答数は次の通りである.豊工会名簿により,現住所の明確な卒業生94名に用紙を発送.分析可能な回答35通(本人死亡により,子,孫による回答を含む),本人死亡により白紙回答3通,住所変更等により配達されず,返却されたもの30通,未回答26通であった.有効回答率は配達されたもののうちの54.7%,全卒業生の6.7%である.なお,回答した35人の原票を整理すれば資料4の通りである. 初めに卒業直後の就業業務と本校修了課程との関係を見よう.第15表によれば,卒業直後の就職に際して,本校で得た知識技術はきわめて高い比率で仕事の内容とかかわっていたことが判る.第16表から就職先は大分県内が最も多いが,43%程度である.卒業生は九州内のみでなく,大阪,東京方面にまで散在している.
第15表 卒業直後の就業業務と徒弟学校修了課程との関係
第16表 卒業直後の就業先
 次に,これまでの半生(または生涯)の中心となった仕事と本校修了課程との関係を検討すれば第17表のようになる.卒業直後よりも,その関係は10%程度落ちこむ.関係のなくなった原因は,主として自営農業に従事せざるをえなくなった者や,官公庁職員に転じた者の出現である.しかし,なおかつ,80%の卒業生が,生涯にわたって,本校で得た知識,技術を職業生活に生かしていたことは注目すべきであろう.
第17表 半生の中心となった就業業務と徒弟学校修了課程との関係
 では,本校卒業生は,就業上どの程度の地位を得たのであろうか.半生の中心となった職業の態様を整理したのが第18表である.自営業28.6%,農業8.6%,会社官庁等勤務者37.1%,教員20.0%,不明5.7%となる.農業も含めて約40%が自営業,教員も含めて約60%が勤務者となる.自営業のみについての内訳は,従業員4人以下の自営23.1%,同5~29人15.4%,同30人以上38.4%,農業23.1%であり,従業員を30人以上傭っている例が最も多くなっている.勤務者のみの内訳では,教員35%,管理職技術職30%,会社一般職員20%,官庁一般公務員15%となり,教員と管理職,技術職の比率が高くなっている.
第18表 半生の中心となった就業業務の態様
 さて,以上,文献資料及びアンケートによる資料を合わせて考えた場合,本校卒業生の職業上の地位は次のようになっていたと考えられる.全国的水準で見た揚合,技術職として,中堅下層~中層部分の担い手であったこと,また,後進県たる大分県内においては,中堅中層~上層部分の担い手であったことである.職業上,中堅中層~上層は,中学校,甲種実業学校卒業生のしめる位置であるのが一般であるなかで,制度上,それより一段低かった本校卒業生がかかる地位に就くことができたのは何故であろうか.それは,郡部からの入学生の資質が年々向上したことと,卒業後の,研修等再教育受講生の多かったことが関係しよう.なるほど,「地元の大分,別府あたりでは徒弟学校といって蔑視していたようだが」30)しかし,前掲資料に記すように,郡推薦者として,高等小学校の優秀児を本校に送りこみ,郡内産業振興に期待をかけていた地域もあったのである.また,「大分県統計書」明治45年・大正元年(1912)度記載資料を第19表のように整理しても,図書設備において本校が他より特に劣っている以外,他校と大差ないことがわかる.しかも,当時の本校は乙種程度であり,他の実業学校が既に甲種程度になっていたのにである.
 生徒が,実社会でかかる地位をしめたということは,本校と地域社会との関係を考察する上で,すこぶる重要である.
第19表 大分県・県立中等諸学校の比較(明治45・大正元年度)
 (7)地域社会との相互関係
 創設時の本校と地域社会との関係については既に述べた.注意すべきことは,創設当初から,郡費は勿論,県費,国費の補助を得ているということである.それは,失敗すれば即座に廃校とされようが,逆に,経営がうまく進展した場合,モデル校の一つとして,その後の展開が可能になることを意味していた.
 ところで,学校が地域社会とかかわりを持つという場合,一つは学校自体が地域社会に何らかの機能をなす場合と,二つは卒業生という「人」を通してそれのなされる場合とがあろう.前者の視点からは,本校が製作品の販売を通して別府町との関係をもっていたことを挙げ得よう.それは,別府の観光都市としての発達に促されたものであると同時に,別府の土産品産業振興にきっかけを与えることにもなった.かくて,本校が地域社会の産業振興に大きく貢献したことは事実であり,今日に到る別府の伝統工芸産業の基礎づけをしたのである.例えば竹工の場合,本校は明治41年(1908)をもって,卒業生を出さなくなったが,それは,一応,本校が竹工の伝統工芸育成の役割を果たし終えたからである.『別府今昔』には,「この時失業した竹の先生を手島森太郎がやとって別府竹製工芸研究所をつくったのが別府の竹製品の量産と質の向上に大きな役割を果たしながら昭和前期まで“竹の別府”の名声を天下に高めた……工業徒弟学校ができてから竹工芸の分野に花器などの新しい技術が登場,手島森太郎は技術者の養成と販路拡張に独特の手腕を発揮した」31)と記されている.この伝統は,竹工科が事実上廃止された後も,別府の伝統として竹籃職人に引き継がれ,いくつかの流派となって今日に到っている.当時からの主要流派は資料5の通りである.要約すれば,本校は,竹工の伝統を強化変容させたのであり,高度化した技術は,職人間に諸流派をさえ生ずるまでに到ったわけである.
資料 5 竹工師匠の系列
 しかし,本校の地域社会に与えた影響は,より大きくは,その卒業生と,卒業生によって組織される豊工会(同窓会)によってであると言わなくてはならない.なるほど,本校と別府の伝統工芸産業との関係はきわめて濃厚である.しかし,それはあくまで「伝統」産業の域を出ないのであり,県全体の近代工業振興のためには,徒弟学校制度に基づく本校の力はきわめて弱かったのである.大正7年(1918)本校が工業学校に衣替えした後,はじめて,大分県の近代工業振興と本校とのかかわりが濃くなったといってよい.それには,本校卒業生が,県内各地に工芸学校を発足させる基礎をなしたこと,及び同窓会が結成され,卒業生の横の連絡及び同窓生間の縦の系列が整然としてきたことが大きく関与していよう.豊工会は明治42年(1909)に発足し,以来今日まで会誌の発行を続け,徒弟学校期の本校並びにその後身たる工業学校,工業高等学校の卒業生で組織されている.会社,官公庁を問わず,主要な職場には必ず下部組織を置き,職場の下位集団として機能してきたのである.
 では,卒業生と地域社会とのかかわりの進展するなかで,本校はどのような変容を迫られたのであろうか.
 (8) 校舎移転と学校の変容
 学校の性格を指標にした場合,本校変容の転期として考えられるのは,県立移管(明治43年(1910)4月),大分市への校舎移転(大正4年(1915)4月),工業学校への転換(大正7年(1918)4月)の三つである.その間,わずか8年しか経過していない.この急速な変容は,何故必要だったのであろう.それをほのめかす三つの資料を記そう.1)「日本における産業革命の波をいち早くキャッチした先覚者たちは,別府の産業構造をこの工業徒弟学校を中心に考えたが,明治40年(1907)の入学者109人のうち卒業したもの34人32),しかも竹籃科では市場が狭いのに竹細工の技術者が次々に卒業したのでは過当競争が起こり,メシのくい上げになるというので,明治37年(1904)竹籃科を廃止したこともあった」(『別府今昔』,昭和41年,343ページ),2)「[三代・高木校長の時代]当時欧州第1次大戦が終わり,木工,塗物といった工芸から機械工業,水力電気といったものが,現代の電子工業のように大変な魅力となり,蒸気エンジンや白熱電灯が目玉商品となってきたから,着任後,これまでの工芸中心の学校を機械,電気を中心とした工業学校に転換するという大計画を立てられ,これが実施のため東奔西走されたようである.これは時勢にもマッチして,翌大正6年
(1917)秋の県議会までに成功を収めたのである……大正7年(1918)4月から機械,電気,建築という新しい内容の甲種工業学校に昇格し……学校内は正科として建築科を残すのみで,家具科が別科として従来制度のまま辛うじて片隅に止まるという状況で,中心が近代工業学科に転換したのだから,従来の教師も工場も設備も不要となって学校内はてんやわんやの大騒動であった」(『創立70周年記念誌』,昭和46年,52-3ページ),3)「徒弟学校から工業学校にかわる時の事情についてはわかりません.唯私は,卒業して初めて鯰田炭坑に就職した時,独身寮に入りましたが,殆どが中学校出身か普通工業学校などで,(私だけ)数学,英語等殆どゼロで,建築構造学は全然なく残念でした.これについて卒業後2年間鯰田に居る間,校長に数回手紙を出しました.後の生徒達のために(筆者への井本貞蔵・大正2年(1913)建築科卒・の寄せた手紙の一部).

資料6 大分県立別府工業徒弟学校学則  (県令第11号,明治43.3.23)
県知事発(原文は縦書)
大分県立別府工業徒弟学校則左ノ通定メ明治43年4月1日ヨリ施行ス
第一章 目  的
第一条 本校ハ木工,塗料工,金工若クハ竹工ノ業務ニ従事スルニ必須ナル智識技能ヲ授ケ善良ノ職工ヲ養成スル所トス
第二章 授業時間数,教科課程
第二条 本校ノ教科ハ木工科,塗料工科,金工科,竹工科ノ4科トス
第三条 木工科ヲ分ツテ建築,指物,洋家具ノ3分科トシ塗料工科ヲ分ツテ塗料,蒔絵ノ2分科トシ金工科ハ板金科トシ竹工科ヲ分ツテ竹籃,竹器ノ2分科トス但シ竹工科ハ其ノ1分科若クハ2分科共之ヲ欠クコトアルヘシ
第四条 生徒ハ其性質体格長所及志望ニ応シテ学校長ノ定ムル所ニ従ヒ各其1分科ヲ専修セシム
第五条 木工科,塗料工科,金工科ノ教科目ハ修身国語体操実習工具及製作法材料図画数学物理及化學トス竹工科ノ教科目ハ修身体操実習工具及ビ製作法材料トス
第六条 修業年限ハ木工科,塗料工科,金工科共各3ケ年トシ竹工科ハ1ケ年トス
全課程修了後尚1ケ年間学校指定地ニ於テ実地自営ノ方法ニヨリ便宜技術ノ練習ニ従事セシム
第七条 毎週教授時数ハ45時トス
第八条 教科課程ハ別表ノ如シ但シ実習教授ノ都合ニヨリ或時期間ハ学科ヲ省キテ実習ノミヲ課シ又他ノ或時期間ハ実習ヲ省キテ学科ノミヲ課シ互ニ其省カレタル時間ヲ補ハシムルコトアルヘシ
第三章 学年,学期,休業
第九条 学年ハ4月1日ニ始マリ翌年3月31日ニ終ル
第十条 学年ヲ分ツテ左ノ2学期トス
 前学期 4月1日ニ始マリ10月10日ニ終ル
 後学期 10月11日ニ始マリ翌年3月31目ニ終ル
第十一条 休業日ハ左ノ如シ但シ大祭祝日ヲ除クノ外ハ休業セサルコトアルヘシ
 日曜日  大祭祝日 学校創立記念日
 春季休業 4月1日ニ始マリ同月7目ニ終ル
 夏季休業 8月1日ニ始マリ同,月31日ニ終ル
 冬季休業 12月25日ニ始マリ翌年1月7日ニ終ル
第四章 生徒定員,入学,退学
第十二条 生徒定員ヲ100人トス
第十三条 入学ノ期ハ毎学年ノ始メトシ募集ノ科別及其ノ人員ハ其ノ都度之ヲ定ム但シ生徒ニ欠員アルトキハ臨時入学ヲ許スコトアルヘシ
第十四条 入学セントスルモノハ左ノ資格ヲ備フルヲ要ス
木工科,塗料工科,金工科
一 品行端正,身体強健ナル者
一 年齢12年以上ノ者
一 修業年限6ケ年ノ尋常小学校卒業ノ者若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者
竹工科
一 品行端正,身体強健ナル者但シ実習ニ支障ナキ一部ノ不具ハ碍ケス
一 年齢満14年以上ノ者
一 尋常小学校卒業ノ者若クハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者
第十五条 入学志望者ハ入学願書ニ(甲号書式)履歴書(乙号書式)ヲ添へ本校ニ差出スヘシ
第十六条 入学ノ許可ヲ得タル者ハ2週間以内ニ保証人ヲ立テ誓書(丙号書式)ヲ差出スヘシ但シ証人ニ適セスト認ムルトキハ之ヲ換ヘシムルコトアルヘシ
第十七条 所定ノ教科目ニ対シ第2学年以上ノ學力技術アリト認ムル者アルトキハ相当級ニ編入スルコトアルヘシ
第十八条 所定ノ教科目ニ対シ相当ノ学力アリト認ムル者アルトキハ修身体操ヲ除ク外ハ其教授ヲ省キ之ニ代ヘテ実習ヲナサシムルコトアルヘシ
第十九条 生徒若シ伝染病ニ罹リタルトキハ勿論家内ニ伝染病者アルトキハ医師ノ証明アルニアラサレハ昇校スヘカラス
第二十条 本校生徒ニシテ左ノ各号一ニ該当スル者ハ退学ヲ命ス
一 実習ヲ厭フノ形蹟アル者
二 性行不良ニシテ改善ノ見込ナシト認メタル者
三 学力劣等ニシテ成業ノ目途ナシト認メタル者
四 正当ノ事由ナクシテ引続キ2ケ月以上欠席シタル者
第五章 試験,成績調査,卒業
第二十一条 試験ヲ分ツテ入学試験,学期試験ノ2種トス
第二十二条 入学試験ハ入学志願者ノ身体及学力ヲ検査スルモノニシテ其学力試験ノ科目ハ左ノ如シ
  国語算術習字図画
 入学志願者ノ数募集定員ニ超過セサルトキハ第十四条ノ資格アル者ニ限リ学力試験ヲ行ハス
第二十三条 学期試験ハ毎学期ノ終リニ於テ其学期中ニ履行セル科目ニ付試験スルモノトス
第二十四条 試験ノ成績ハ点数ヲ以テ評定ス但シ試験ヲ行ハサル科目ニツキテハ其科目ニ於ケル平常ノ成績ヲ考査シテ其評点ヲ定ムルモノトス
 各科目ノ試験評点ハ平常ノ成績ヲ考査シテ酌量スルコトアルヘシ
第二十五条 試験ニ欠席シタル者ノ評点ハ各科目毎ニ平常ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ム但シ此場合ニハ各科目共合格点以下ノ評点ヲ付スルコトヲ得サルモノトス
第二十六条 各科目ノ評点ハ10ヲ以テ最高点トシ実習評点6其他各科目ノ評点4以上ニシテ諸科目ノ成績平均数5以上ヲ合格点トス
第二十七条 学年ノ成績ノ各科目毎ニ各学期成績ノ平均数ヲ求メ前条ノ手続ヲ経テ之ヲ得ルモノトス
第二十八条 最終学年ノ成績合格ノ者ニハ修了証書(丁号書式)ヲ授与ス
第二十九条 全課程修了後1ケ年ニ於ケル実地練習ノ成績ニヨリ善良ノ職工タルコトヲ認定シタル者ニハ卒業証書(戊号書式)ヲ授与ス
第六章 賞  罰
第三十条 品行方正ニシテ善ク課業ニ勤勉スル生徒ニハ其度ニ応シテ左ノ賞ヲナス
 一 褒状ヲ与フ
 一 課外又ハ休業日等ニ登校シテ実習ニ従事スルコトヲ許可シ其製品ヨリ得ヘキ工料ハ其生徒ニ与フ
 一 其生徒1學年間ノ実習製作品価格高ノ十分ノ一以下ノ賞金ヲ与フ
 前2項ヨリ生徒ニ与ヘタル賞金ハ其都度貯蓄シ置キ其生徒卒業ノ際ニアラサレハ授与セサルモノトス但シ其生徒ニシテ貧家ノ子弟ト認メタル者ナルトキハ特ニ之ヲ其学資ニ充テシムルコトアルヘシ
第三十一条 本校生徒ニシテ品行不良課業怠慢ノ者アル時ハ其軽重ニヨリ左ノ条項ニ従ヒ処分ス
 一 〓 責    一 停 学
 一 放 校
第七章 寄宿舎
第三十二条 生徒自宅ヨリ通学スル者ノ外ハ総テ寄宿舎ニ入舎セシム但シ学校長ノ見込ニヨリ特ニ入舎セシメルコトアルヘシ
第三十三条 寄宿舎ニ関スル細則ハ学校長之ヲ定ム

 まず,県立移管時(明治43年)の学則を資料6に示そう.発足初期の内容と異なった点は,1)洋家具科,塗料科,板金科の三分科の新たな登場,2)竹工科の事実上の廃止,3)理科にかわって物理,化学が必修となったが,図画は大幅に削減され,国語も半減し,実習が一段と強化されたこと,4)課程修了後,なお1ケ年の実地訓練を課し,これを通過した時卒業証書が授与されるしくみになったこと,の四つである.
 次に,大分市への校舎移転である.移転理由を明らかにした資料は見当たらない.大分市にあった物産陳列所との交換であったが,学校との交換にしてはあまりにも不均等交換である.むしろ,卒業生の手記にあるように33),観光地化した別府に所在するより,県庁所在地たる大分に移転した方が,本校の果たす役割として,より大きくなることが見込まれたからではないかと思われる.この点について,郷土史研究家の阿部巌34)の語るところを参照すると,次のように整理される.阿部氏によれば,別府は,現在こそ温泉を中心とした観光都市であるが,明治期には必ずしもそうではなく,地場産業をおこして工業都市化する道と,観光の道のいずれかの選択を迫られていたという.この言葉を念頭におけば,徒弟学校設立自体も,工業化の道を予想した別府の,一つの試みであったことになる.だが,別府のその後の歴史的歩みは観光都市化の歩みとなった.従って,そこでは,伝統工芸産業は育っても,近代工業は育ちにくい.だが,近代工業振興は,国家的政策として大分県にも要請されてくる.工業関係の学校としては,県内唯一といってもよい本校以外に,その担い手を養成することは不可能である.それが,校舎移転,学校再編という事業を方向づけたと考えられるのである.
 大分市への校舎移転は,それ故,必然的に工業学校への転換を予測するものであった.前記,施設,設備の項でふれたように,殆ど何も設備らしいもののなかった本校にも,大正期以降,次第に設備が充実していく.工業学校への転換は,裏から見れば,伝統工芸的色彩を,可能な限り断ち切っていくことにほかならない.それは,まさに英断というに等しい.それが可能であったのは,前述したように,本校が,実学主義を標榜しながらも,かつ,管理運営的部分が,常に,工業教育界の最新情報をキャッチし得る能力を備えた人的構成をなしていたからにほかならない.この条件がなければ,移行は失敗に終わったかも知れない.
 工業学校への移行はきわめて整然としていた.旧的措置をとったのは,別科としての家具科のみであった35).建築科は内容を変更して近代的なものにかえていた.これ以後,卒業生は急増し,昭和2年(1927)度(工業学校転換7年後)までに,既に,徒弟学校期の卒業生(全18回)数を抜いている.昭和3年(1928)度までの本校卒業生数を示せば第20表の通りである.
第20表 卒業生数の変遷

 Ⅳ 小  括
 以上,本校の学校としての実態及び地域社会とのかかわりについて述べた.最後に,1)技術の伝授,2)地域社会への技術の浸透と本校との関係,3)本校の制度的転換,の三つの視点から,これらを要約しよう.
 まず,技術の伝授である.本校創設に先立って,竹製日用品製作という低度の伝統工芸が,別府における工芸技術の基礎であった.この基礎は,本校創設によって開花する.しかし,それには条件があった.本校創設を提唱し,推進する役割の担い手の存在である.その一つは,上部機構の工業教育政策であった.同時に,もう一つは,それを受けて本校開設にふみ切らせた,少数の外来移住職人であった.別府には,良質の竹を求めて,松山(愛媛),有馬(兵庫)等の先進地帯から職人が移住してきていたのである.今日,別府の竹工に諸流派が見られるのも,一つには,技術移入期に,複数の先進地から,同時に異なる技術が導入されたからにほかならない,技術の伝授は,竹工の場合,学校の内と外の双方において,並行して行なわれた.他方,漆工等,他の工芸は,地元に伝統もなく,学校を中心に技術の伝授が行なわれたが,それらは,結果的には,竹工を支えるものとしての意味を持つ工芸であった.竹工も,最終的には漆塗りを通して完成するのである.竹工は,本校創設以後も,別府の町なかで親方から弟子への技術伝授が並行して進められていた.本校卒業生が,基礎的技術を学んだ後,親方職人のもとに弟子入りし,技術を磨きあげた例もあろう.それは,今日見られる,職業訓練校における基礎技術の指導と,訓練校卒業後の親方職人への弟子入りの関係に類似している.勿論,本校卒業と同時に独立自営にふみ切った卒業生もあった.しかし,近代工業と異なり,手業の技術の伝授は、学校における組織的な基礎的技術の伝授と,親方職人への弟子入りによる熟練技術の伝授とが並行的に同時存在し,相補ってはじめて存続,発展し得たと考えるのが妥当と思われる.それは,例えば,本校から竹工科が消滅した後も,なお,県,市または組合によって,工芸研究所,試験所等,指導的機関が設けられてきたことからも推測できる.
 次に,地域社会への技術の浸透と本校との関係についてである.大分県における現在の主要伝統工芸は,別府の竹製品と日田の木工(含家具)製品である.日田の木工は,本校卒業生を教師にむかえて創設された,日田郡立工芸学校の歩みとともに発達したものである36).日田には,杉林をはじめ,良質の原材があり,また低度の木工芸が古くから行なわれていた.この基礎の上に,本校卒業生が漆工の技術(当然,指物・挽物・家具工芸を伴う)を伝達したわけである.漆工は,以後,県内では日田を中心に開花し,別府には竹工のみが残った.このことから,われわれは,本校と地域社会との関係を次の2点に要約することができる.①本校が,先進地(松山・有馬の竹工,輪島・和歌山の漆工等)の技術を一手に集約し,生徒に伝授することによって,地域への技術の定着の方途を開いたこと,②その技術が地域に定着するためには,たとえ低度であっても,何らかの先行する伝統があり,その低度の伝統こそが,先進技術を吸引し,それを定着させるもとになっていたこと.
 さて,本校が,制度的転換,実質的変容をとげたことについてはどのように要約できようか.設置課程の変遷から考察すると,次のような特徴的事実をみつけることができる.即ち,廃止の早かった課程が,順に,竹籃,漆工,挽物[以上Ⅰ群]であり,次に蒔絵,指物,家具[以上Ⅱ群]となり,建築[Ⅲ群]は工業学校へも引き継がれていることである.Ⅰ群は手業の技術職人養成,Ⅱ群は大工,建具師等の養成,Ⅲ群は大工及び建築技師養成と結びつく.これらの変遷は,巨視的に見れば,工芸から工芸と工業の混合的なものを経て,工業に移行した跡を物語るものである.この移行(変容)が順調に行なわれた条件の一つは,先述した,上部からの近代工業振興策に応じた工業教育の転換要請である.だが,それだけでは必ずしも転換はうまくいかない.事実,転換できないまま廃止された例も多いのである.移行を可能にした実質的条件は,本校の人的構成,特にヘッドにおけるそれである.また,学校の外部において,地元商人の手による販路拡大等,流通経路が整備され,県,市,組合等の手による技術伝達方法が探求され,本校にのみ依存しないで伝統を根づかせる条件が熟してきたことも重要である.本校はかかる条件を創出するための役割をはたした後,近代工業に応じた内容へと転換したのである.
 以上,三つの視点から要約した.なお残された問題として,例えば日田郡立工芸学校創設にかかわることがら,生産品流通経路の整備と拡大についての問題等,多々,探究すべきことがらがある.これらについては,別途に論ずる機会を待ちたいと思う.

[注]
1) 明治37年4月15日学事報告(以下学事報告と略記)参照.なお本稿では『大分県教育百年史』第三巻資料編(1)によった.
2) 学事報告(前掲).
3) 同前.
4) 『創立70周年記念誌』,昭和46年,大分工業高等学校,52ページ.
5) 『大分県教育百年史』第一巻,昭和51年,大分県教育委員会,803ページ.
6) 日野秀次(明治45年指物卒)の手紙より.
7) 同前.
8) 森 武生(大正5年建築卒)の手紙より.
9) 学事報告(前掲).
10) 同前.
11) 同前.
12) アンケートの回答と同時に筆者にあてた手紙内容の抜粋.
13) 『別府市誌』,昭和8年,259ページ.
14) 『創立70周年記念誌』,51-6ページ.
15) アンケートの回答と同時に筆者にあてた手紙内容の抜粋.
16) 学事報告(前掲).
17) 同前.
18) 『大分県統計書』「学事の部」,明治44年.
19) 学事報告(前掲).
20) 『大分県教育雑誌』243号,明治38年,60-1ページ.
21) 『大分県教育百年史』第一巻,561ページ.
22) 卒業生から寄せられたアンケート回収結果においても,授業料は徴収されなかったことで一致している.明治45年(1912)度の大分県統計書にも,本校が授業料を徴収しなかった資料がある.大正期の統計書には,授業料徴収の跡が見られる.
23) 学事報告(前掲).
24) 同前.
25) 同前.
26) 『創立70周年記念誌』,52ページ.
27) 同前.
28) 大正7年(1918)3月5日付生徒募集広告.なお『大分県教育百年史』第一巻,800ページ参照.
29)徒弟学校時代の卒業生は,『創立70周年記念誌』によれば479名である.市誌記載に若干の誤りが含まれているものと考えられる.
30) 『創立70周年記念誌』,52ページ.
31) 『別府今昔』,昭和41年,是永勉,大分合同新聞社,343ページ.
32) この数値の記載方法には誤りがある.明治40年(1907)度において,入学者が109人あり,その年度の卒業生が34人いたのであって,109人の入学生のうち34人が卒業したのではない.
33) 若干名の卒業生から,大分市移転理由を推測した手紙が筆者あて寄せられている.
34) 現在(昭和55年)別府市立南小学校校長で,別府の産業・経済史に詳しい.
35) これも,大正14年(1925)以降,鶴崎分校(乙種工業学校として継続)に移される.36) 『大分県の工芸産業』,昭和42年,寺川由己著.
[山岸治男]