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Vocational Education

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わが国離陸期の実業教育

Title: 第4章:工業教育と企業内熟練形成
Author: 岩内 亮一
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1982年
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第4章:工業教育と企業内熟練形成

 Ⅰ 徒弟学校の変質とその背景

 明治27年(1894)に制度化された日本の徒弟学校は,もともと前近代的な徒弟制度の改革を目指して出発した.その後の過程は前章までに明らかなように,それらの一部は初期の目標を達成したが,他はそれを十分に満たすことができなかった.なぜそのような帰結が生じたのであろうか.簡単に要約すると以下の通りである。まず,徒弟学校は,二つのタイプに分化された――伝統工業産地に立地されたタイプと,大都市および地方都市に設立されたタイプ――が,前者はしばらくの間,その機能を発揮したにもかかわらず,20世紀に入って徐々に衰退した.そして後者は,都市に発達しつつあった近代工業に支えられて存続した.やがて大正9年(1920),前者,つまり伝統産業地に立地されていたいくつかは廃校の憂き目に合い,後者,つまり都市型徒弟学校の相当部分は再編成されて甲種の工業学校として,中等レベルの産業教育機関となる(甲種は乙種より修学年限が長い)1).都市の工業地に立地された徒弟学校の多くは,甲種工業学校に再編成されたが,農村の伝統産業地の徒弟学校のいくつかも甲種工業学校となった.例えば明治以前から今日にいたるまで,代表的な日本の窯業産地の一つである瀬戸に明治28年(1895),設立された徒弟学校は,甲種工業学校に昇格し,第2次大戦後も高等学校として存続している2).
 このような少数例を別にすれば,大半の中等レベルの技術教育機関は,上記のような変質過程を経た.その過程が生じた背景として少なくとも,次の4点をあげるのが妥当であろう.第1は,明治43年(1910)代以降の急速な工業化のために,近代型工業の職工に対する需要が高まり,その供給源としての,近代的な工業学校の拡張が,行政当局の決定事項となった.ただ,そのときどきに変動する需要によって労働市揚への供給の形態が変わるとともに,国民のそれに対する期待いかんによって入学の意欲が異なり,これらが工業学校の盛衰を決める要因となる.
 第2に,伝統工業を抱える産地の成長が鈍化したために,前近代的な徒弟養成を近代化するための徒弟学校の多くは,生徒が集まらず,地方政府の財政的負担が無駄になった.この種の学校が養成する熟練工に対して,期待された需要が低迷を続けたからである.
 第3に,当時の大工場は,早い時期に企業内技能教育に努力を傾注した点をあげなければならない.日本の工業化を先導した大工揚は,当初から公立の技術教育に依存することが少なかった.というよりも,むしろ,大工揚の内部に設置された技能訓練機関は,公立の技術教育機関の代替的な役割を果たしたのである.後述するように,それはときには先導的な役割を果たして高い評価を受けた.
 第4に,公的教育制度の発達による中等教育の機会の拡大が,徒弟学校への入学指向を後退させた.よく知られているように日本の近代的教育制度はもっとも早い時期から初等普通教育の普及を政策上の標的とし,明治5年(1872)に近代教育を移植する方針のもとに発布された学制以降,30年を経ずして就学率は90%を越えた.この初等普通教育に次いで発達した高等教育は,明治政府の行政組織の整備とともに制度化された.原則として,帝国大学は近代国家の推進者養成の機能を期待され,学生は将来のエリートの地位を約束され,ごく少数に制限された.義務制の初等普通教育と帝国大学との間に位置する各段階の教育機関,すなわち中等レベルの実業教育機関(農業・商業・工業)および普通教育(中学校),高等レベルの専門学校(ここに高等工業学校が含まれる)の制度化と発達は後発的であった.中等レベルの教育制度のうち,徒弟学校はもっとも先発的であり,より後発的な学校が設立されるにしたがって,中等教育制度のなかで相対的な地位を低めた.
 これら4点のうち,(1)第1点の工業学校の成長は徒弟学校制度の消滅後の中等技術教育の様子を知るうえに重要である.(2)第3点の企業内の技能教育が,どのような必要から創設され,その機能がどのように変化したか,また公的教育とどのような関連をもって推移したか.(3)さらに後期義務教育とでもいうべき実業補習学校が,上の諸教育機関とどのような関連で変化したか.これら3点を以下,素描してみよう.

 Ⅱ 工業教育の成長とテクニカル・スタッフの供給

 工業学校規程は,徒弟学校規程より5年遅れて明治32年(1899)に発布された.同年,発布された実業学校令は産業教育全般の法的基盤を整備しただけではなく,それに対する国庫補助を保証するのに役立った.徒弟学校の多くが,町や村の政府およびそこの工業組合の財政的負担に依存していたのに対して,工業学校は当初から中央政府の財政的援助に基礎づけられるようになった.工業学校は工業の最前線で工業化の促進を担う技士(もっとも工場組織にこの技士が独立した階層をなしていたわけではないが,しばしばそう呼ばれていた)の供給に大きな期待がかけられた.
 明治33年(1900)まで,その生徒数は5,000人以下であったが,その後増加し,大正10年(1921)には20,000人に達した.この増加は徒弟学校の併合による.その後,例えば大正14年(1925)からの10年間は緩慢な伸びであったが,昭和10年(1935)以降,第2次戦時体制が本格化してからはまさに急上昇カーブを描いた(第1図参照).なぜこのような量的変化が生じたか.一方では供給側の学校の制度改革にその理由があり,他方では需要側の評価が影響を与えたのである.そして両者の間には必ずしも一致があったとはいいがたい.
第1図 技術者養成の増大(明治33年~昭和17年).
 (1) まず第1に供給側の状況としての制度変更および各種別,各段階別の工業教育機関の推移を素描する.確かに工業学校は政府の積極的な援助によって設立されたが,この制度の前身をなした徒弟学校の成熟を看過するわけにはいかない.すでに明治43年(1910)に開催された工業学校・徒弟学校長の全国会議で,何年かの実績を積んできた徒弟学校が工業学校と比較して遜色のない力量を備えていること,それら徒弟学校はたとえ乙種程度であっても実務に従事するものの養成に適していること,が強調された(実業学校令の制定された後,文部省が召集した会議).二つの種類の学校の併存状況が約20年続いた後の「全国実業学校長会議・工業学校・徒弟学校部会」(大正5年(1916))では,「工業学校ト徒弟学校ヲ統一スル必要ナキヤ」の協議事項が徒弟学校長から提出され,これにつき校長の間に議論が交された.その議論に徒弟学校と工業学校の関係の現状とその改善の方向が示された.それらは以下のように要約される.第1に他の実業学校,商業学校や農業学校には甲種乙種の区別があるが,工業の実業学校には工業学校と徒弟学校の二種類がある.そして,徒弟学校の名称には低い評価を与えられる印象がある.第2にこの二つの学校の社会的機能に関して,徒弟学校は,低級の工業者もしくは職工の養成といった目的がはっきりしているのに,工業学校がどの程度の技術者または技能者を養成するかが必ずしも確定していないとする意見が多かった.第3は教育機会の提供に関することである.ある地域に徒弟学校しか設置されていない場合,それ以上の段階の学習を希望する若者に工業教育を与える場がない.もし徒弟学校に工業学校の規則を適用する制度がつくられればこの問題は解消する.第4に工業学校の入学条件として,義務教育の前期課程の修了者(尋常小学校卒業者)を入学させないが,これを変更する必要がある点が主張された.この前期課程修了者は徒弟学校へ,そして後期課程修了者(高等小学校卒業者〉は工業学校へ進学する二つの道がつくられていた.この複線型システムを単線化するために,同会議は他の諮問事項「実業学校制度の修正」に対して,工業学校の入学資格と修業年限を,尋常小学校卒五箇年,高等小学校卒三箇年の案をもって答申した3).ともかくこの会議では徒弟学校と工業学校の統合を主張する意見が大勢を占めた.
 大正8年(1919),文部省によって設けられた「工業教育調査委員会」は,工業教育機関とりわけ下級レベルのそれの改善策の基礎となる資料を得るための調査を実施した.その結果の一つとして徒弟学校と工業学校の統合が必要であるとの見解を提出した.同じ年,全国実業学校長会議・工業学校・徒弟学校部会は工業学校,徒弟学校の両制度の区別を撤廃して融合統一することを決議した.
 これらの議論・調査・決議の結果が実業学校の改正(大正9年=1920),それにもとづく諸規程の改正(大正10年=1921)に反映された.徒弟学校は大正10年(1921)から廃止され,その多くは甲種工業学校となった.第1図でみた大正9年(1920)以降の工業学校生徒数の急激な増加が,この徒弟学校の甲種工業学校への昇格によることはいうまでもない.なお乙種工業学校の生徒数は大正9年(1920)代,昭和5年(1930)代を通して増減なく,ほぼ横ばい状況であった.この乙種工業学校の多くは伝統産業地の下降型4),徒弟学校および女子の裁縫学校である.産地の徒弟学校が乙種の工業学校へと格下げされたのは,伝統産業に年季徒弟制を温存し,近代科学による技術・技能教育の成果を受容する素地を欠いていたためである.なお制度上,乙種実業学校と甲種実業学校の区別は,大正9年(1920)に廃止された.
 (2) 拡張の途をたどった工業学校は,都市の近代工業の需要にこたえるべく機能したか.公的技術・技能教育の需要側の評価がつねに科学技術の動向に即して一貫性をもっていたわけではないが,下級技術スタッフに対する要請に工業学校は必ずしも適応的であったといえない.この問題を探るために,本節の第2点,つまり工業界の需要のしくみが問われなければならない.下級技術スタッフという一つの階層と工業学校が対応されるのは,他の階層が存在するのを前提とするため,公共事業体を含む相対的に大規模な工業組織での需要が主な論点となる.それゆえ大規模な近代工業の需要に対して工業学校が果たした役割と,小規模工業・伝統産業・新規に発生した工業が果たした役割とのちがいを細かく検討することは不可能である.当時の相対的な大企業もしくは主導的な工業にとって,徒弟学校と工業学校の機能は,以下の三つの諸関連で評価されてきた.
 その一つは徒弟学校が本来の機能を十分に発揮しないまま,工業学校へ転化したため,職工を養成する機能が欠落したことに対する批判である.例えば大正9年(1920)代後半から昭和5年(1930)代前半の工業学校について,「徒弟学校より変更してその伝統を守っているもの,職工学校と称しあるいはその精神を以て経営しているもの等もあるが,全体より見ればその数は極めて少ない.多くは“工業に従事せんとする者に須要なる知識技能を授く”という抽象的な目的を掲げているが,右の“工業に従事せんとする者”とは果たして何者を指しているかは判明しない」と指摘されている.少数の学校は「職工養成」「工業との実技に従事する者に須要なる知識工芸を授く」と具体的な養成対象を明示しているが,殆どの工業学校は技術者または経営者の養成を目論んでいるようであった.ところが「今日の工業界に於いて,工業学校卒業者が果たして学校の期待するが如き技術者になっているか,またなる可能性があるかは可成りの疑問の存するところで,識者並に実際家中には,今日の工業学校を以て職工あるいは職工長の養成機関となすべしとの意見を持する人の多いのは注目に値する」といわれていた5).つまり供給される人材の質についての工業学校側の目的の曖昧さと,需要側の期待との間にギャップがあったのである.
 その二つは,会社や工場の組織に発達した工業技術マンパワーの階層化と学校段階との間の関連である.制度上,徒弟学校と工業学校が融合されるべきとの議論がなされていたころ,工業教育機関に五つの“階級”があるといわれた.それらは,(1)工揚内に設置された徒弟教育機関であり,そこには小学校卒業の徒弟を収容する,(2)小学校卒業後3年位の修業年数を有する工業学校であり,熟練職工もしくは工手の養成を主眼とする,(3)中学程度を標準とする工業学校であり,技手階級の技術家の養成を目的とする,(4)高等工業学校もしくは専門学校であり,中学卒業後3年あるいは4年の修業年限によって技手,技師などの高級技術家の養成にあたる,(5)さらに程度の高い帝国大学の工科大学,である6).そしてここで批判されるのは,学校教育体系が工業技術マンパワーの階層化を生み出す装置となった点である.つまり「……吾人の常に弊害として指摘するのは技術者間に多種多様なる階級が出現して一の階級から他の高級なる階級に進級する事が容易でなくなるのみならず,或揚合には絶対に不可能となるのである.……各個人の技能,人格,学術等によりて地位が作られるに非ずして,学校時代の修業年限の長短に支配される事が多い為に,適材が適所に置かれざる場合が多くなるので有る……」「吾人は工業界の各種の階級を打破せよと叫ぶのではないが,学校教育によりて階級を造り出す事は大なる弊害であると信じて居る」7)と指摘された.
 ここで強調されるのは,工業教育機関の修学年限の長さが,技術・技能者層の階層分化の固定化に寄与し,その各層が職務遂行上の分業に合致しないことに対する批判である.五つの段階の工業教育機関が,生産現場の職工徒弟から高級技術者にいたる数種の技術職業段階に対応することはありえない.ヒエラルキカルな技術職業段階が職場組織に存在しないからである.それにもかかわらず技術・技能者層の階層分化が生じたのは,学校教育のヒエラルキカルな構造によるものである.当時の大規模工場の組織には,少なくとも職工と技術者の二つの層が存在し,それに経営管理者層が成長しつつあった.日本の工業化の初期段階には熟練職工が少なくその養成への期待が高かった.明治14年(1881)に設立された東京職工学校に,その期待がかけられたが,その学校はまもなく技術者養成に転換した.近代工業に関連する学科をもった徒弟学校にも熟練職工養成の期待がかけられたが,大正9年(1920)以降の徒弟学校と工業学校との融合により,熟練職工養成の明確な目的は消滅した.その後の工業学校が技術者層の養成機関の性格を強化したことにより,大学,高等工業学校,工業学校はそれぞれ上級技術者,中級技術者,下級技術者を養成する場となった.ところがこの三つの層は機能上の区分ではない.下級技術者の別称として技手,また上級熟練職工の別称として工手という用語があったが,実質的にテクニシャン(technician)の職能を遂行する層はまだ確立していなかった.そのため大学と高等工業学校,高等工業学校と工業学校の間に一種の競合関係が生じた.とくに大正9年(1920)以降,専門学校令に基づいて高等工業学校が増設され各段階の工業教育機関の供給構造に変化が生じた.昭和5年(1930)にはその供給増は工業学校卒業生の雇用市場に圧力を加えるようになる.この点につき「……今日技術者養成を目的とする工業専門学校の発達著しく,此等の学校よりの卒業者に依って,中級下級の技術者は殆ど供給過剰の状態で,普通の工業学校卒業者の入る余地は殆ど残されていない」と報告されている8).
 工業学校の需給に関するその三は,学生数と学科構成の地域的不均衡である.昭和10年(1935)の時点で,高等小学校卒業後3年,尋常小学校卒業後5年の修学年数によるいわゆる甲種工業学校は95校,尋常小学校卒業後3年を修学年数とするいわゆる乙種工業学校は15校設置されていた.そして生徒定員数は54,066名である.「学科」を15の工業の分野によって分類すると,機械工業に関する学科がもっとも多く,ついで染織工業,化学工業,図案業,木工業とつづく.具体的な個別の「細目学科」はもっと多岐にわたる.例えば機械工業関係では,機械科は66校に設置されていたが,さらに鍛工科6校,鋳金科5校,精密機械科5校,木型科4校,化工科3校,造船科・自動車科2校,機工科・〓工科・鑢工科・紡績機械科・製鑵科・時計科各1校と細分化される学校があった.このように個別の学科は多様化をきわめていたが,全体として機械,建築,染織・紡織,電気,化学,土木など近代工業と関連のある学科の比重が高かった.これは木材工芸,塗,金属工芸・金工,窯業など,かつての徒弟学校に優位を占めていた諸学科の新増設よりも近代工業分野での拡張が顕著であったからである.それがどんな帰結をもたらしたか.工業学校の所在地に発達した特殊な産業とその学校の学科構成との間に不一致が生じたのである.例えば製糸工業の盛んなある県に立地する工業学校は機械・電気,応用化学,土木・建築の三学科によって構成されていた.他の帰結として,工業学校および生徒定員が,当該県の工業生産高と関係をもたない状況が現出した.例えば静岡県と山形県を比較すると工業力は前者が後者を凌いでいるにもかかわらず,前者は2校,800人(生徒数)で後者は3校,1,500人(同)である.工業生産高が低くない長崎県と千葉県は工業学校を一つももたないという極端な例があらわれた9).地域の産業の振興に貢献する目的で設立された徒弟学校を前身とする工業学校もいくつかあったが,大正9年(1920)以降に設置された工業学校の多くは,このように都市に発達した近代工業向きの学科によって構成された.その結果,工業学校は地域の産業の振興に貢献せず,その卒業生を大都市へ移出させることとなった.
 (3) 上に記したように大正9年(1920)以後の工業学校とその卒業生の雇用市場の間の需給関係は,ある意味で不均衡な関係にあった.工業界が期待する“教育ある熟練職工”あるいは“職工長の候補者”を工業学校が大量に供給することができなかった.また地域産業の特色と関係のうすい学科を主体とする工業学校が増加するに従い,卒業生を地元に吸収できず,都市部へ移出することとなった.このように工業学校に対して多くの批判が集中したにもかかわらず,20世紀前半のほぼ30年間に,それは技術者層のある部分を大量に充当し,工場組織内にも一定の地位を獲得した.その機能は以下のように要約できる.
 まず問題にされるべきは工業学校卒業生の地域移動である.昭和5年(1930)ごろには毎年1万名近くの卒業生が輩出された.工業生産の低い県では,その半数ないし3分の2が県外,とりわけ都市工業地域に就職した.確かにこの工業学校卒業者の地域移動は地域産業の発展を促進させる要素とはならなかったが,かれらの都市への集中は大規模組織での成員として,または小工場の創業者として一つの層を形成した.近代工業に関する科学・技術の一定レベルの知識と技術を体得したことがかれらを近代工業の担い手としての層化に役立ったといえよう.
 ついで工業学校卒業者が獲得した社会的地位の高さも看過できない.学校での教育が,工業の実地に適応できない,熟練職工養成の機能を果たさないとの批判が一部の工業経営者の間にひろまったが,工業学校が中等教育のアカデミック・コースの中学校と同じ段階の学校制度に位置づけられた.そのため会社・工場に入職した工業学校卒業者は中学校卒業者とほぼ同じ待遇を受けることができた.大正9年(1920)代から規模の拡大をみた会社・工場では,一方では,職員と工員とが疑似身分的に区分される組織構造が発達した.他方,教育体系の複雑化に伴い,教育年数の長さによる会社・工場内での地位昇進の慣行が形成された.この過程で工業学校卒業者は中等教育修了者として,入職後の早い時期に職員層に位置づけられる資格を保持すると評価された.こうしてかれらは大規模組織のなかで比較的安定した地位を獲得した.
 その背景の一つとして各段階の就学率の変化があげられる.まず義務教育の就学率は明治35年(1902)に92%と高水準に達したが,これは男女合計であり,女子のそれは87%であった.その2年後に女子のそれも91%と上昇した.男女合計の就学率は明治39年(1906)に98%,大正9年(1920)に99%をマークするにいたる.ついで大正9年(1920)までの高等教育の在籍率は漸増であったのに対して,中等教育の明治43年(1910)以降の増大は急テンポであった(第1表).明治38年(1905)と明治43年(1910)の間における中等教育人口の急激な変化は準中等教育機関の中等教育機関への制度改正によるが,それ以上に明治43年(1910)以降の増加が顕著であったことに注目すべきであろう.中等教育に限定して製作したのが第2表である.
第1表 中等教育,高等教育の該当年齢人口に占める在学率
第2表 中等教育人口と普通コース,工業コースの比率
普通コースに占める学生の比率,とくに男子のそれは確実に漸減したが,職業コースの学生は徐々に増加した.第2表には示されないが,男女とも商業コースの学生数の増加はいちじるしい.女子の工業コース学生の数はネグリジブルであるが,男子のそれは確実に比率を高めた.比率が上昇したことは実数の増加につらなる.商業コースの学生数とともに量的規模を拡大した工業コースの学生が,卒業して,産業界でしかるべき層を形成する.さらに高等教育在籍率の緩慢な上昇に対して中等教育のそれがより急速であったことは,普通コース修了後,労働市場へ参入するものの増加を示唆する.こうして中等教育を終えて産業分野へ直接進出するものの量的拡大は,経営組織のなかで一定の地位と職務能力をもつ層の固定化につながる.中等レベルの工業コース出身者が経営組織で職員への途を準備されるようになったのは,以上の中等教育の拡大の一つの結果であるといってよい.

Ⅲ 企業内技能教育の拡大と変容
 徒弟学校が工業学校と改称し,組織的な徒弟教育を実施する公的な機関が少数に限定されると,企業は工場内に,熟練職工養成のための施設を設置する.この施設は「工場学校」と呼ばれていたが,その規模,教育内容の質,修業期間,入学資格などその形態はまちまちであった.従業員を昼間の就業後,夜間クラスで短期間,初等教育を補足する形態から,公的学校教育の要件を満たして私立工業学校の認可を受ける形態まで種々多様であった.
 徒弟学校が制度化される以前から,官営工場や軍工〓は熟練職工と監督者の訓練を試みた.官営工揚が民間に払い下げられ,新たに要員を調達し訓練するにあたって官営時代の訓練方式を継承することもあったが,多くは大規模化,技術水準の高度化に対応して新たな訓練方式を開始した.軍工〓は独自に訓練方式を開発した.重工業の民間企業の訓練が成熟した明治43年(1910)以降は関連協会開催の会議などを通してこの軍工〓と民間との間に情報が交換されるようになるが,このように民間企業での訓練が発達するまでには長い時間がかかった.
 それは工業化の初期の段階での民間工業の発達が緩慢であり小規模であったため多くの熟練工を必要としなかったからである.官営工場が民営に移される過程で,官営工場で訓練された熟練者が新規の民間工揚へ移動しその現場で指導的な役割を果たしたこともあった.比較的早い時期に大規模化した繊維工業は,若い女工の訓練を試みたが,その内容は初等普通教育を追加する程度のものであり技能養成の性格は薄かった.繊維女工に匹敵する量的規模をもった鉱山労働者に対する訓練も,長い間,等閑視されていた.それは訓練というより懲罰的統制に近かった.
 20世紀の新たな工業化段階を迎えて,重工業の比重が高まるに伴い,機械工業の熟練労働者の需要が大きくなる.そして繊維女工,鉱山夫とならんで機械職工が労働者階級の代表的存在となる.この三つの労働者類型のうち機械職工はより高度の熟練を必要とし,他の職種との代替可能性の低い層であった.しかも経営規模の拡大とともに,経営・労務管理の合理化が進行したのも製造工業であった.企業経営に規模の拡大と合理化が要請される過程での中心的な課題の一つは,労働力確保であったが,それは単に量的確保ではことたりない.一定の質をもった労働力が必要であったのである.この労働力確保のためにとられた施策は,労働者の組織間移動の防止と,直接雇用である.19世紀の後半まで機械工揚の基幹的な熟練職工は,その技能のゆえにより高い賃金で誘いのかかった企業に移動することが多かった.そして弟子をもつ熟練職工の移動に伴って多くの労働者が所属組織を変えた.とくに親方職工にある職務範囲を契約して与える下請的な雇用関係では,個々の労働者と企業の間は間接雇用によって結ばれていた.やがてこの雇用関係が直接的な関係,つまり直傭制に転化する.直傭化の時期は個々の産業によって遅速がある10)が,直傭制を採用する多くの大企業は,義務教育を終えたばかりの若年労働者を採用する方針をとるようになった.
 若い労働者はそのまま労働力となりえないが,訓練可能性をひめているため訓練の対象として重要視された.かれらに対する訓練は直接雇用制の成立後,ますます重要視されたが,訓練のための職工養成機関が,より確立された工場学校に形を整えるまでには時間がかかった.それは職工養成機関の設立そのものが財政的理由で困難であったからだけではない.一つには公的工業教育制度の教育内容と,各企業が必要とする労働能力内容とのギャップが明確になったことを判断するまでに若干の時間がかかった.二つにはより組織化された職工養成制度が成立する契機として,企業内の労務管理制度の成熟をまたねばならなかった.この労務管理制度のうち重要なのは,往時の伝統的な職人的徒弟制度に代置される工場徒弟制度の成長である.最初は年齢に関係なく新入者に対する雇用保証,つまりある期間,就業を続ける契約のための職工規則が制定された.この規則によって雇用主は一定期間以上の就業を被雇用者に約束させた.その後,年少労働者の参入が増加するにしたがい,工場徒弟制度が制定される.これは職工修業生規則,見習職工規則,見習徒弟規則などによって規定され,年少労働者は配置職場のボスの指示に従って仕事に習熟するようになった.この見習職工制度が制定された当初は,組織間移動を防止する目的が強く残っていたが,やがて技能養成の目的が明示されるようになる.早い時期から直接雇用制を採用し,職工修業生制度をしいた三菱長崎造船所は,もっとも先駆的に技能工養成機関を設置した.それは明治32年(1899)設立になる三菱工業予備学校であり,文部省の中等工業教育制度と同程度の学校であった.この学校が設立された後も,見習職工制度は別個に存続した.明治42年(1909)その規則は「見習ノ進級ニ関スル規定ヲ改正シ専ラ技術ニ依リ随時進級セシムルモノトス」11)と一部改正された.ここに見習職工制度が単に労働力の移動防止の手段ではなく,技能習得の機能をも内包するようになった.この例も含めて企業内の組織化された職工養成機関や中等工業教育機関が,工場徒弟制度と併存することが少なくなかった.
 鉱業では,組織化された養成機関の設置よりもむしろOJT(on the job training)を中心にした徒弟制度が制定され,そこでの訓練は徐々にシステマティックになる.明治43年(1910)の農商務省の調査によれば,「……少数鉱山ニ於テハ就職中ノ鉱夫ノ子弟又ハ将来鉱夫トシテ就職ヲ欲スル者ノ為メニ鉱夫見習規程ヲ設ケ見習鉱夫トシテ此等ノモノヲ採用シ而シテ熟練ナル鉱夫ノ指揮監督ノ下ニ実地ニ就キ指導訓練セシメ又ハ業務ノ余暇ヲ以テ簡易ナル程度ノ学課ヲ受クルモノアル……」12)と報告している.鉱夫の訓練のために徒弟を一定期間,熟練した鉱夫の指導する制度に,学業をも課す試みがいくつかの鉱山でなされていた.この調査の対象となった17の鉱山,炭鉱,油田のうち学課指導を実施している事業所は4個所と少なく,しかもその学課は普通学科に限られていた.見習徒弟の修業年限は6カ月から3年までのところが11事業所,4年以上が3事業所,不定が3事業所と短期の事業所が多かった.また約半数の事業所では見習徒弟となる資格要件が義務教育修了者であった13).鉱山労働が未熟練筋肉作業に依存していた時代と比べて,20世紀初頭のこの時期の鉱山・炭鉱の労働は職種構成の多様化と技術的高度化によって変化しつつあった,この変化に対応するために労働者の調達,訓練が重要な課題となったのである.
 鉱山・炭鉱と比べて機械工業の職工養成はもっと組織的であった.上記の三菱工業予備学校をはじめとして代表的な大企業は独自の職工養成機関を設置するにいたる(第3表).
第3表 主な職工養成機関の概要(大正4年)
その殆どは明治43年(1910)前後に設立されたが,いずれも義務教育修了者に中等レベルの技術教育を課している.また多くが文部省の認可によって公的な工業学校の基準を満たしていること,卒業後その企業に就業する義務を課されない事例が少なくないことなどに特徴づけられる.
 これら企業内に職工養成機関が現出した背景には,企業内外の条件がかかわった.企業内条件については上述した通りであるため,企業外条件を追加すると,概略,以下の通りとなる.それは教育制度の不備と産業の要請にマッチしない公的中等工業教育機関の未整備である.工業化の最前線で実質的な担い手となるべき人材をこの公的機関で養成できなかったのは何故か.これは熟練職工および職長など監督者の養成を目的として設立された少数の学校が,より高水準の技術者養成機関へと昇格したことと関係が深い.熟練職工,職長層の養成を本来の目的とした学校が高等教育機関に昇格した結果,これら中堅層を養成する教育機関を欠落することになった.このような結果を招いた社会的背景として,人々が公的教育機関に対してもっていた期待つまり学校を社会的上昇移動の手段とみなしていたことと,企業が雇い入れた労働者を配置する基準として教育年数を重視したことの二者の結合があげられる.この結合が,企業の人事・労務管理における学歴主義として結晶する.明治43年(1910)代後半からこの学歴主義はより強化される.第3表に例示される大企業の職工養成機関は,一方では中等レベルの教育機会を提供するという意味で社会的期待にこたえ,他方では技能養成による中堅工確保という企業の要求を充足する機能をもっていた.第3表中の八幡製鉄所・幼年職工養成所には中等学校と同程度の教育を受けられるという期待をもった有能な少年が応募した.ところがこの養成機関では社会的期待と企業の要求とが十分に合致しなかった.この不一致は養成所出身者の製鉄所での処遇をめぐって顕在化した.その出身者は養成所の募集要項に記載されていた,修了後の職員層(技術員)への昇格を期待していたが,実際にはその期待に報われる待遇を受けることができなかった.蓄積された不満は大正7年(1918)の労働争議に爆発した.その後,大正9年(1920)の組織改正によって養成所出身者が職員層へ昇格する途が開かれるとともに,養成所の目的も変更された.変更の主な点は,養成所が義務教育卒業者を受け入れる中等教育の機能を代行する目的から,製鉄所従業員の能力再開発ないし継続教育としての機関へと重点を移したことである.三菱長崎造船所内に設けられた三菱工業予備学校も,これとは別の理由で,また異なった方向へと変質した.名称は大正7年(1918)に三菱工業学校と変わったが,大正12年(1923)の三菱職工学校と改称されるまでは甲種工業学校として,単に同造船所の労働力調達を目的とするのではなく,日本の造船業と中等工業教育の発展に寄与することを意図していた.同学校の卒業生は同造船所での就業義務を負う必要はなかったため,上級学校へ進学したり他の組織へ移るものが少なくなかった.大正12年(1923)の改正によって,同工業学校は同造船所の基幹工の養成場である三菱職工学校に編成替えされる.八幡製鉄所の幼年職工学校と三菱長崎造船所の工業予備学校とも,幾多の変遷の後に結果としてたどった方向は,工場内の労働力の確保と定着に貢献することであった14).
 上記の二つの事例以外にも,熟練工養成を目的としながら公的な中等技術教育の先駆的モデルとなった工場学校がないわけではない.三井工業学校,国鉄の教習所,軍工〓の養成機関などがそれに該当する.ところが他の多くの工場学校はもっぱら組織内の労働力の定着と技能向上に目的を限定していた.それらは公的な中等技術教育とは別個に機能した.公的教育制度への親近性の程度,職場訓練(OJT)の比重の大小,学課教育の分量の大小とその程度,修学期間の長短などの点でさまざまな形態はあるが,明治43年(1910)代から大正9年(1920)代にかけて工場学校は,成長過程の企業に着実に普及した.ここに工場徒弟制度から職工養成制度への急激な転換を認めることができる.

 Ⅳ 工業補習学校の未成熟と転換
 多様な工場学校または工場内教育施設が普及する過程で,技術・技能を主体とする学校・施設と,基礎的な学力や教養を高める学校・施設の二つのタイプに分化する傾向にあった.後者は補習教育と呼ばれたが,その形態と内容もまた多様であった.工場学校,工場内教育施設が多くの企業に設置された昭和7年(1932)8月の調査によれば,13%の企業で技術教育が,そして21%の企業で補習教育が実施されていた(第4表).官営工場では両者とも実施率が高く,民間企業では機械工場と製糸工場では両者の設置がともに15%前後におよんでいる.紡績工揚は補習教育に重点をおいている.
第4表 工場における技術教育と補習教育
 補習教育は一方では後期義務教育(高等小学校)を修了しなかった職業人に3R'sや教養を追加する目的をもち,他方ではあるレベルの実業教育を行なって職業的準備となる目的のもとで発達してきた.補習学校にはいくつものコースが準備され,その一つに工業補習学校が設けられる.この工業補習学校が,(1)実業補習学校制度全体のなかでどの程度の比重をもち,どのように性格づけられたか,また他の公的工業教育機関とどのような関連をもったか,(2)工業,とくに製造業における労働力の需給とどのような関連をもったか.そして工場学校の発達,変遷にどのようにかかわったか,の2点につき以下,工業補習学校の推移を跡づける.
 第1の実業補習学校の制度化の過程で指摘される点は,それが開設された当初の目的と実際の普及にみられた実態との間にギャップが生じたことである.“実業補習学校”の名称はすでに明治23年(1890)の“小学校令”にあらわれたが,具体的な規定は明治26年(1893)の“実業補習学校規程”によって明確になる.その時点では,実業補習学校とくに工業補習教育は徒弟学校と関連づけてその内容が想定された.前者は小学校教育の補習と職業準備のカリキュラムを,そして後者は職業教科を主体とするという比重のおき方のちがいが意図されていたが,両者とも職業教育を志向していた.そのちがいは実業補習学校がパート・タイム制,徒弟学校がフル・タイム制をとるところにあった.開設間もない徒弟学校はその普及のために,しばらくパート・タイム制をとらざるをえなかったが20世紀に入ってフル・タイム制が主流となり,やがて中等学校として正当に位置づけられる.
 実業補習教育は義務教育後の教育として普及するが,当初の意図に反して工業補習教育は不振であった.もっとも拡張したのは農業補習教育であり,その学生数は明治28年(1895)で51%であったが,明治38年(1905)には87%に上昇した.大正9年(1920)の実業教育令の改正により,「補習」より「実業」にアクセントが移され,前期2年課程を職業基礎教育,後期2年もしくは3年課程を専門職業教育とされたが,工業補習学校の拡張は達せられなかった.第1次大戦とその後の工業発達にもかかわらず,また実業補習学校生徒の量的規模が拡大したにもかかわらず,工業補習学校学生の構成比はむしろ僅かながら低下した(第5表).
第5表 実習補習学校学生数の変化(大正4,14年)
商業補習学校とならんで工業補習学校が発展を遂げなかった理由の一つは,それがドイツの補習教育制度をモデルとしたところにあるといわれる.ドイツの補習教育は発達したギルトとの長年にわたる連携によって成功を収めた.そのドイツの例を日本に移転するには,産業組織の訓練の成熟と組織内の職務との適合性を図らなければならない.つまり実地の仕事に応じた訓練の内容と方法が確立されなければならない.また労働者を保護する“工場法”が工業補習学校の制度化と連携を保ち青少年労働者の教育機会を提供する法的基盤となれば,工業補習教育はもっと発展したであろうが,日本の“工場法”にはそのような規定がなかった.これも工業補習学校の停滞を導びいた要因である15).
 ある制度が開始されるとき,その先導的試行としてある個人もしくはある組織がモデルを示すことが多い.工業補習学校の揚合もその例外ではない.帝国大学についで日本の中等・高等工業教育の発達に支配的な役割を果たした東京高等工業学校(いまの東京工業大学)は,明治32年(1899),その付属機関である工業教員養成所の付属機関として補習学校を設置した.これは夜間授業方式を採り,金工科,木工科の専門コースを設けて,後に設立された各地の工業補習学校のモデルとなったが,東京高等工業学校が大学昇格運動を開始した大正10年(1921)に,労資協調を主旨とする経営者団体“協調会”に経営を移管された16).
 第2点の産業界と実業補習学校との関連は,大正9年(1920)まではとても密接な連携があったとはいえない.これは工業補習学校からの供給量が少なかったこと,一部の企業を除いて従業員を夜間学校で学習機会を与える余裕がなかったことなどがあげられる.
 しかしながら工業補習学校の教育内容とそこから輩出される労働者の質について,雇用主または経営者団体が積極的に発言したか.これに関して十分な資料的裏付けがあるわけではないが,徒弟学校および工業学校に対する産業界からの批判ほど明確に工業補習学校のあり方が議論されなかったようである.明治43年(1910)代以降,代表的な企業は工場学校を設置しいわば自家栽培的に労働力を養成した.公的学校は産業界の要請に呼応すべくその教育内容の改善に努力するが,施設の陳腐化,教員の確保などの理由でその要請に容易にこたえることができない.そのため産業界と公的教育の間に壁がはりめぐらされる観を呈したが,実は公的学校でも工場学校でもすぐれた工業教育の実践が重ねられてきた.ここでその個々の事例を紹介しないが,大正9年(1920)代の後半までに,その成果が結実する.第5表に示されるように大正14年(1925)の時点で,かなりの数の企業が教育施設をつくったのはその端的なあらわれである.工業補習学校は大正14年(1925)以降にさらに量的な拡大がみられる.とくに昭和5年(1930)以降,熟練工,中堅工の養成が量・質ともに充実する.
 その充実を可能にした条件は一つには強力な“産業合理化”政策の推進であり,二つには青年学校の設置である.第1の“産業合理化”政策は産業政策の主要課題であり,産業界の行政指導を担う商工省が果たした役割は大きかった.官民合同の技術者団体“工政会”はすでに大正14年(1925),工業教育調査委員会を設け,その後の“工政会”の大会で各段階の工業教育の改善の指針を示している.大正14年(1925),大正15年(1926)の大会で工業補習教育の改善がとくに重要な議題となった.商工省の生産管理委員会が,調査をもとに工業教育の改善のための具体的な提案を世に問うのは臨戦,戦時体制に突入した昭和5年(1930)以後であるが,その素地は大正9年(1920)代後半に固められていた.
 第2の青年学校は昭和10年(1935)の青年学校令の公布によってうまれ,それは実業補習学校と昭和6年(1931)に設置された青年訓練所を統合するものであった.青年学校は全国的な規模で設置を奨励され,国家主義的な精神教育を重要な目的としたが,実質的には技能教育により高い比重がかけられていた.また実業補習学校と比べて,青年学校の方がより高い比率で学生を教育した17).これは企業内に青年学校を設置する傾向が強かったからである.
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 19世紀の末葉から20世紀にかけて,徒弟学校は量的に拡張したが,やがて正当な中等教育に位置づけられた工業学校にその機能は継承された.そのためもっぱら熟練した中堅工の養成を行なう公的教育機関は一般的に存在しなかった.その欠落機能を補充したのが大企業の工場学校であったが,その少数の学校の役割は単なる補充ではなく工業教育のモデルともなる先駆的な機能であった.企業と学校との協力による工業教育は,明治38年(1905),東京商業会議所の依頼によって企業の従業員教育を東京府立職工学校に依託した方式(“適材教育”と呼ばれた)にみられる.芝浦製作所,石川島造船所,その他の工場がこの依託教育を利用することができたが,この機会を受けた工場,労働者はほんの僅かであり,企業と学校の有機的な連携は一般化しなかった.熟練工候補者を輩出するのを期待された工業補習学校は,大正9年(1920)ごろまでその量的増大は微々たるものであった.それが増加するのは大正後期から昭和初期である.とくに昭和10年(1935)に制度化された青年学校に補習学校の工業教育が継承され,それに多くの民間企業の工場学校が協力した.このように考えると明治28年(1895)ごろから職人徒弟制度の近代的発達は,その40年後に達成されたといえよう.
 この間,行政当局は工場徒弟制度,熟練養成制度の開発,成熟,普及にあずかって力のあったことはいうまでもないが,他方,教育行政組織が直接関与しない分野での教育機関が工業教育の発展に寄与した点は看過できない.それはあらゆる教育法令に拘束されなかった“工業各種学校”である.この種の学校は時代の要請に対して鋭敏に反応することが可能であり,その組織も弾力的に運営することができる.大正後期から昭和初期にかけて急速に成長し,公的中等工業学校の2倍の学生を擁していた.なかには日本工業化の初期段階にすぐれた指導者のもとで創設された学校もあった.例えば攻玉社高等工学校(古い伝統をもつが,明治19年(1886),土木技術者養成の目的で創設された学校),工手学校(明治22年(1889),八学科構成で創設),関西商工学校(明治35年(1902)設立),東京商工学校(明治36年(1903)設立),電機学校(明治40年(1907)設立),中央工学校(明治42年(1909)設立),神戸工業高等専修学校(大正11年(1922)設立),などがある.これらの多くは工業教育の発展に貢献した大学,高等工業学校の教授の創設になるものであり,そのいくつかは実質的に高等教育のレベルにまで達した.これらの他,相当数の工場学校もまた教育法令の拘束を受けない“各種学校”であった.第5表に含まれている住友職工養成所はその一つである.
 以上のようにある時期には停滞気味であったが,工場徒弟教育の整備に伴って公的・私的工業教育は,大正後期から急速に発展したが,その背景には20世紀初頭からの中等工業教育の改善・発展に教育・産業行政機関,学校,民間企業の貴重な経験・試行が積み重ねられたことは否定できない.それにしても他方では伝統工芸の徒弟や中小零細工場に働く膨大な数の労働者が技能教育の機会に恵まれなかったことも動かし難い事実である.

 [注]
 1) 佐藤守・佐田玄治・羽田新・板垣幹男共著『徒弟教育の研究』,御茶の水書房,昭和37年,45-52ページ.
 2) 岩内亮一「伝統産業の展開と産業学校機能の変容――陶磁器産地における事例」『教育社会学研究』第21集,東洋館,昭和41年,146-60ページ.
 3) 文部省専門学務局編纂『全国実業学校長会議録』,大正6年.
 4) 佐藤守他『前掲書』の分類.
 5) 協調会『徒弟制度と技術教育』,昭和11年,283-84ページ.
 6) 大河内正敏『工業教育管見』,科学工業社,大正7年,80-81ページ.
 7) 『同上書』,81-83ページ.
 8) 協調会『前掲書』,284ページ.
 9) 『同上書』,276-80ページ.
 10) 間 宏『日本労務管理史研究』,ダイヤモンド社,昭和39年.
 11) 三菱長崎造船所職工課『長崎造船所労務史』,昭和3年,52ページ.
 12) 農商務省鉱山局『鉱夫調査概要』,大正2年,239ページ.
 13) 『同上書』,294-301ページ.
 14) Ryoichi Iwauchi,“Industrial Training in Japan,1890~1930”,(1),(2), in Bulletin of the Tokyo Institute of Techology, No.111,1972, pp.31-40, and No.114,1973, pp.63-86.
   岩内亮一「企業内熟練形成制度の推移――日本の産業革命期以降における重工業の事例を中心に――」『技術教育更』,講談社,昭和53年,483-519ページ.
 15) 細谷俊夫『技術教育』,目黒書房,昭和19年,192-94ページ.
 16) 『東京工業大学六十年史』,昭和15年,549ページ.
 17) 細谷俊夫『前掲書』,190-205ページ.
                              [岩内亮一]