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Vocational Education

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わが国離陸期の実業教育

Title: 研究の成果(サマリー)
Author: -
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1982年
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研究の成果(サマリー)

 徒弟学校の成立

 明治政府は明治27年(1894),徒弟学校規程を制定して,学校教育を通じて低度技能者養成に本格的にとりくんでいくことになった.このことは,伝統的な長期間にわたる住み込み年季徒弟奉公による職人養成から近代的な科学技術を身につけた技能者養成への転換を意味している.
 しかしながら,このような明治政府の近代的な技能者養成の意図は,必ずしも順調な経過をたどっていったとはいえない.明治中期における義務教育・小学校への就学率はせいぜい50%程度であったから,小学校修了者を原則として入学させる徒弟学校は,小学校の補習的性格を帯びざるを得なかったし,地域によっては入学者難に悩まざるを得ない事情も見受けられた.また,伝統的な年季徒弟奉公の強固な残存は,徒弟学校による伝統産業の近代化を阻止する要因としても作用することになった.
 それにも拘わらず,明治政府の殖産興業策の強力な意志は,紆余曲折を経ながらも貫徹していくことになる.即ち,明治32年(1899),実業学校令の公布により徒弟学校は工業学校の種類とされ,ついで同年,工業学校規程が制定されるに及んで,徒弟学校は同規程による工業学校へと次第に変質していき,やがて大正9年(1920)の実業学校令の改正によって徒弟学校は工業学校に統合されていくことになった.このように,初期の徒弟学校は年季徒弟奉公に対立しながらも部分的には教育内容,方法等に前近代的要因を含んでいたのであったが,次第にその要因を払拭して,近代的な技能者養成へと脱皮していった.それ故,徒弟学校は伝統的な年季徒弟制による職人養成から近代的な技能者養成へと移行していく過渡的な性格をになっていたといえる.
 この章節(本文第1章)においては,以上のような徒弟学校のたどった一般的な経過をふまえて,徒弟学校の成立に焦点をあてて検討している.まず第一に,
徒弟学校の前史として,東京職工学校(明治14年設立),および東京工業学校附属徒弟学校(明治23年設立)の設立の経過が述べられている.特に後者の附属徒弟学校を雛型にして全国的に徒弟学校を設立していくことになった.
 次に徒弟学校の類型としては,市街地を中心にして間接的に伝統工業の近代化に資していく都市型徒弟学校,特殊工業地に設立して直接的に伝統工業の近代化に貢献していく産地型徒弟学校が考えられている.更に小学校修了者を入学資格とする第一種徒弟学校,小学校中途退学者を入学させて小学校の補習教育をも兼ねた実業教育を施そうとする第二種徒弟学校,および女子職業学校が構想されて全国的に設立されていくことになった.このように徒弟学校は初等教育,職工養成,更に年季徒弟奉公の機能を帯びた未分化の状態で発足していくことになったのである.

 仙台市徒弟実業学校

 同校は明治29年(1896),徒弟学校規程に準拠して創設された.創設に当って,当時の仙台市長・遠藤庸治,東京工業学校出身で手島精一の愛弟子である横沢多利吉の果したリーダーシップは大きかった.
 当初は木工科(定員120名)のみで,木工(定員80名),指物(定員40名)の二分科とし,尋常小学校卒業以上の者で年齢満12歳以上17歳以下の者を入学させ,修業年限は4カ年であった.修業年限中,最後の1カ年は現業練習として,同校監督のもとに職人の徒弟として仕事に従事させることにしている.このように同校は設立当初において,大工,指物師等の伝統的職人養成である年季徒弟奉公から脱皮して,制度的な学校教育を通じて職人養成の近代化に資していこうとするものであったが,その実習は伝統的な職人に依存するという未分化な形態をとどめて発足したのであった.
 まもなく明治32年(1899),校名を仙台市工業学校と改称すると同時に,金工科を増設し,更に木工科を建築,指物の二分科に改めた。続いて明治34年(1901),校名を市立仙台工業学校と改称した.また,明治44年(1911)度から木工科を建築科,家具科の二分科に分けて教育内容の充実をはかっている.このように,明治後半期になると,同校は伝統的な職人養成から,はっきりと訣別することになっていく.
 大正期に入って,大正2年(1913),金工科を鍛工,鋳造の二分科とし,大正8年(1919),校名を仙台工業学校と改称して,翌大正9年(1920)度から工業学校規程にもとづく工業学校に昇格していくことになった.ここで修業年限3カ年の工業学校学科と,修業年限2カ年の徒弟学校学科との併置を許可され,金工科は板金工と精機工の二分科に改められたが,大正11年(1922),学則改正によって,徒弟学校学科は廃止され,尋常小学校卒業後,修業年限5カ年の名実ともに甲種工業学校へと改組されたのである.同年度内には土木科増設が認められ,大正14年(1925)度からは,建築科,家具科,機械科,土木科の四科とし,18学級をもって発足することになった.
 以上のように,同校は明治後半期以降,再三にわたる校名の変更,校則の改正,施設設備の充実を通じて,近代的な工業へと適応し,低度技能者養成を目指す徒弟学校から,近代的な技術者養成の工業学校へと脱皮していったのである.この上昇型徒弟学校において特に重要な役割を演じたのは,明治27年(1894)の実業教育費国庫補助法,及び工業教員養成規程である.明治政府の国庫補助と教員養成の梃入れによって,仙台徒弟実業学校は紆余曲折を経ながらも,工業学校規程による工業学校へと上昇し,日本における近代的工業の発展に寄与することができたといえるのである.

 会津漆器徒弟学校

 若松市立会津漆器徒弟学校は,明治31年(1898)に設立された.〓漆科(丸物部と板物部),蒔絵科,木地製作科から成り,修業年限は3ケ年,入学資格は尋常小学校卒業,満12歳以上の者とされている.定員は60名であった.職員数は9名であるが,これは徒弟学校の基準に達していない.はじめは入学志願者が少なくその上中途退学者が多くて定員に達しなかったので,若松市では生徒に補助費を支給して漆器製造業者の子弟を入学させるよう勧誘した.そこでようやく定員に近くなっていった.徒弟学校の運営に必要な経費(大半が教員の給料)はすべて市費でまかなわれた.
 生徒は経済的には上位にある親方層の出身が多かったが,後には長野県の嘱託生として農家の子弟も入学した.はじめは尋常小学校卒業か高等小学校1年修了の12~13歳の者が多かったが,だんだん学歴も年齢も高くなっていった.生徒の能力資質は秀れており,将来の漆器業界を担う中堅としての意気込みで,放課後も教師の自宅へ押しかけておそくまで熱心に勉学するほどであった.実際に,卒業後彼等は業界の中心となって活躍し大きな貢献をしている.
 学科目は実習が中心で,授業時間数週24時間の半分以上を占め,ほかに図画など五科目が置かれていた.これは後に授業時間数の大幅な増加(週39時間)が行なわれて,実習時間が倍増したのをはじめその他の科目も九科目に増えて内容が充実した.
 教師は,実習以外の学科の担当者は士族の出身で,東京工業教員養成所,東京美術学校,師範学校などを卒業した若手の専門の教師であった.これに対して実習担当者は平民の出で,地元で漆器業を営む塗師,蒔絵師,木地師の親方層のうち特に技術に秀れた者が選ばれており,中高年者が多かった.彼等助教員の月給10円というのは,当時の最上級の職人の月収に相当する.専門の教師である校長の月給45円,教諭同35円というのはかなりよい待遇であった.
 校舎は,土蔵のある普通の家屋に教室として木造二階建一棟を建て増したもので,校舎とは名ばかりであった.実習工場は48坪ほどの広さであったが,実習は塗,蒔絵,木地のそれぞれの業者の家で実施することも多かった.授業料は徴収せず,その上毎月生徒に25銭の補助費を支給していた.これは後に2円50銭に増額された.
 会津漆器徒弟学校の生徒は,本来の教育対象である漆器徒弟候補者ではなく,その徒弟を雇用する親方層の子弟であった.漆器業界の中堅育成には多大の役割を果たしたが,それは徒弟学校の本来の意図とは異なるものであった.これは,同校が明治37年(1904)に工業学校に昇格し,その後漆工科として相対的に重要性を失ってゆく中で一層明らかになった.

 瀬戸陶器学校

 本校の創立は明治28年(1895)10月1日とされるが,計画はそれより約10年前,地元の有力な窯屋の間から起っている.千年に近い陶磁器生産の歴史を持ち,良質な陶土に恵まれた瀬戸の業者たちは,維新後の欧米における博覧会への参加や西洋技術の導入から強烈な刺激を受けた.永年の経験と勘に頼っていた生産から科学技術と結びついた生産への転換に迫られたのは当然であった.
 折しも明治27年(1894),徒弟学校規程公布の年の11月,町長が県知事に設立を申請,翌年2月許可,年額1,000円の国庫補助を受けて開校したが,校長,教員3名,生徒18名という寺子屋同然の姿であった.
 創立後10年近い間は,施設・設備も貧弱で学校としての機能を果すものではなかった.しかし,北村初代校長,黒田三代校長は東京でワグネルに学んだ当代最高の指導者であって,学理と実際の一致を教育方針として,率先,新技術の開発,応用に努力した.
 明治35年(1902)には校舎を新築移転し,陶磁器試験所を併設,更に石炭窯による焼成の実験等により着々その成果を挙げ,地域の期待にこたえていった.日露戦争後は入学者も漸増,卒業生に対する需要も増加する.丁度この頃,名古屋を中心として,金融,運輸,電信,電力等の諸産業も近代化され,それに伴って陶磁器業も従来の山村家内工業型から都市工場生産型へ変容する.一時は廃校論まであったが,明治44年(1911)3月県立移管が決定,愛知県立陶器学校と改称し,黒田正策校長のもとに新しい歩みを始めるのである.教員の質もこれを機として向上し,学校の指導体制も確立する.それは業界が経営組織面ならびに生産技術面で著しい進歩を遂げるのに対応するものであった.
 また,西洋技術の導入により硬質磁器の生産に成功した日本陶器等の設立と名古屋港の開港が陶磁器の輸出に拍車をかけ,瀬戸が名実共に国内第1の産地に発展したことも本校の地歩を一層強固にする要因であった.特に第1次大戦後のノベルティの開発,生産においても本校教育の成果が遺憾なく発揮され,有能な技術者のみならず,経営者をも多く世に送り出す重要な教育機関となったのである.その後も常に時代の進運に対応し,設備も教育課程も改善しつつ,現在も愛知県立瀬戸窯業高等学校として,85年に及ぶ輝かしい校史を重ねている.

 南都留染織学校

 山梨県南都留郡立南都留染織学校は明治29年(1896)に徒弟学校規程によって創立されている.三年制をとり生徒定員20名,教員は校長を含め3名であるが,実際に入学者を受け入れたのは翌年度からのようである.
 同校は明治34年(1901)に工業学校規程に基づき甲種工業学校に昇格し,同年秋には南北両都留郡の郡組合立染織学校となる.明治37年(1904)には県立に移管が決まり,翌年山梨県立工業学校と改称するが,二度の移転を経て明治43年(1910)には徒弟学校に再編されている.
 組織上の再編が重なることは同校の特徴であるが,それはまた同校の置かれた郡内地方の絹織物業が我国の絹織物業界中極めて零細な経営層によって担われていたことも関連していたと考えられる.
 同校は類似の形態を有していた明治23年(1890)設立(1年で廃止)の郡立色染所ともども郡立の教育機関として設置されている.設立主体が郡役所であることから,郡レベルでの政策実現主体の形成が大きな鍵をなしている.それも個人的な次元ではなく,郡内部での社会的背景を有する推進主体の形成が必要であった.
 それに対し,教育担当者は創設期の混乱はともかく,漸次,各地高等工業学校出身者によって固められていっている.彼等は同校に限らず,各地の実業教育機関を遍歴しながら社会的に上昇していく者達である.但し,同校の場合,併設の工業試験場の技師,技手層が兼任することもあり,同校出身者が試験場技手としてやがて母校の教壇にも立つ事例が珍しくない.
 入学者は主としてこの地方の自作農兼業の機業家の子弟が多い.機業家は総じて零細経営層であるが,同世代中で同校など上級学校進学者は明治期で5%,昭和初期でやっと10%前後であり,うち中学校進学はごく例外的である.
 卒業生は,創立後10年間ほどとその後とで社会的軌跡を若干異にしている.
初期においては上級学校進学者や県外就職者が多く,日露戦後になってから,地元の染織業就業者が顕著な増加を見せている.これは地元中学校の整備と並んで,同地方内の染織業界の生産力水準が染織学校や工業試験場の技術水準との間でリンクできるようになったことが影響していたと指摘できる.
 実業教育に関しては,工業試験場や同業組合においても各々取り組まれており,それらの活動を含めて検討される必要もある.直接的生産過程内部にまでは直截な影響力を持ち得なかった当時の実業教育の限界ともども,二,三の特徴について紹介した.

 別府学校組合立工業徒弟学校

 別府学校組合立工業徒弟学校(以下本校)は明治35年(1902)に発足し,大正7年(1918),工業学校に転換するまで,約15年間存続した.以下,(1)別府に本校が設立された要因,(2)本校に見出す社会的・歴史的性格の2点について要約しよう.
 本校設立には,次の三つの要因がある.まず,国の工業振興策である.これは,本校にのみ特有の要因ではない.次に,低度な技術によってではあるが,旧来,別府周辺で,竹製日用品が作られていたことである.別府の近代的観光都市としての発達に伴い,これを工芸美術品の水準に高めようとする動きが現れる.第3は,こうした動向の中で,竹工技術の先進地から,少なからぬ数の竹職人が別府に移動して来たことである.その他,本校設立には,多くの要因が関わっていようが,主には以上三つを析出することができる.
 こうして,本校は,竹工芸を中心に,関連部門の技術の伝授・創造を使命として設立された.そこには,どんな社会的・歴史的性格が存在したであろうか.
 一つは,本校が,技術の伝授・創造機能のすべてを担ったのではないことである.本校とは別に,親方から弟子への技術伝授が存続した.両者は相補的・並列的に存在したのであり,教育機能のすべてが本校に委ねられるという完全な機能分化は見られない.
 だが,技術創造(変容)において,本校は大きな功績を残す.それは,本校が他地域との技術交流・新技術摂取を可能にしたからである.本校は,伝統的工芸技術の指導と調節の役割を果たしていたのである.
 また,本校が,県内伝統工芸技術の水準を高め,その定着に与えた影響は大きい.各地に技術伝達機関が開設され,本校卒業生が指導にあたった.そのうち最も顕著な成果が,日田の漆器工芸である.
 かかる功績を残しながら,他方,近代工業の発達に対して,本校は殆ど影響を与え得なかった.日本の近代工業化が進む中で,本校は制度上,工業学校に移行する.それは,実質上,徒弟学校としての性格を断ち切っていく過程であった.以後,本校の機能は全面変容し,旧来の機能は,公立工芸研究機関に受けつがれる.
 以上,二つの視点から,若干の要約事項を析出した.これらを総合した場合,本校の役割は,伝統工芸技術の水準を高め,技術の高水準定着を促したこととして理解されよう.同時に,本校の管理運営というソフトな部分が工業学校創設の母胎となったことも無視できない.

 徒弟学校の変質と展開

 Ⅰ. 工業学校への転換
 徒弟学校の事例研究として選定された仙台市徒弟実業学校は都市型徒弟学校であり,会津漆器徒弟学校,瀬戸陶器学校,南都留染織学校,別府学校組合立工業徒弟学校の4校はいずれも産地型徒弟学校である.これらの徒弟学校は低度技能者養成として伝統産業の近代化を目指して設立されたのであったが,次第に近代工業への中堅技術者養成へと転換していくことになった.その過程で,特に産地型徒弟学校は都市型徒弟学校へと変質することによって工業学校規程による工業学校へと上昇していくのであった.
 Ⅱ.実業教育制度の整備
 ここでは明治中期以降における実業教育制度の成立過程を概観し,その全体的視点から徒弟学校の歴史的性格を検討しようとした.まず,明治20年代前半以降,初等実業学校,中等実業学校,実業専門学校が次第に整備されつつあったが,まだ法的に体系化されたものではなかった.ここでは徒弟学校は初等実業学校として位置づけられていたのである.
 明治27年(1894)の実業教育費国庫補助法の制定を導火線として実業教育は急速な発展をしていくことになった.これにも拘わらず実業学校の拠るべき準則はなく,僅かに低度の実業学校規程があるに過ぎず,実業教育全般についての統一的な規程を欠いていた.このような現状にかんがみ明治32年(1899),実業学校令が公布され,続いて工業学校規程が制定されて,各種実業学校全般に通ずる包括的な基本法規が実現することになったのである.ここで徒弟学校は初等工業学校から次第に中等工業学校への傾斜を濃くしていくことになるのである.ついで,明治36年(1903),専門学校令が制定されて,全国各地に実業専門学校が設置されていくことになった.
 以上の実業教育制度の整備の過程において,明治中期から後期にかけて中等工業学校,高等工業学校が整備されていくのである.そして徒弟学校は,初期の初等工業学校から次第に脱皮して,中等工業学校の中に吸収されていくことになったのである.
 Ⅲ. 徒弟学校の変容過程
 五つの徒弟学校の事例のみでなく,更に全国的にその他の徒弟学校の事例を鳥瞰して巨視的な観点から徒弟学校の変容過程を検討した.明治27年(1894)の徒弟学校規程の制定から明治40年(1907)前後までに創設された徒弟学校を前期徒弟学校とし,それ以後のものを後期徒弟学校としてまとめている.
 前期徒弟学校は産地型が多いが,その地域は都市的性格が強い.それは,いわば都市・産地型徒弟学校といってよい.その後には農村・産地型徒弟学校が続く.後期徒弟学校においては校名が多様であると同時に,都市・産地型の場合,工業学校へと上昇し,農村・産地型は廃校になっていく事例が多い.

 工業教育と企業内熟練養成

 明治27年(1894),公的教育制度として発足した徒弟学校は,伝統工業に残存
していた旧型徒弟制度と徒弟訓練を近代化することと,都市に勃興しつつあった近代工業の推進役たる職工を養成すること,この二つの目的をになっていた.ところが20世紀に入って,第一の目的は,主として伝統工業に“教育のある徒弟”の需要が増加しない理由で,徐々に衰退した.明治32年(1899)の実業学校令の発布によって産業教育制度全般が整備され,徒弟学校に期待された第二の目的,つまり近代型職工の養成機能は工業学校に移された.20世紀の初頭に約20年間,徒弟学校と工業学校は併存したが,この間の会議・調査の結果として,大正9年(1920),徒弟学校は廃止され,その大半は甲種(上級)工業学校へと昇格した.徒弟学校がこのような経過をたどった背景として,(1)伝統産業型・徒弟学校への需要が低迷を続けた,(2)近代産業推進型・徒弟学校への需要が高まるとともに,行政当局も産業界もこの型の徒弟学校の充実に積極的であった,(3)産業教育行政の標的が工業学校の拡張に移行した点があげられる.
 重工業の比重が高まった明治43年(1910)代の産業界の技術マンパワー需要に,徒弟学校・工業学校の教育は必ずしも適合的でなかった.とくにヒエラルキカルな構造をもつ大工場組織では,“教育のある”熟練職工・監督者を大量に必要としたが,この層および技手(テクニシャンの訳であるがレベルは一定していない)を組織的に養成する機関が欠落していたため,企業経営者は一方では工業教育制度に批判的であり,他方では企業内に“工場学校”を設立し,主として熟練職工の自家養成を試みた.この“工場学校”は技術教育以外に補習的な普通教育機能をもつものであり,形態・内容面で多様であった.公的な中等技術教育が不備な時期には,“工場学校”は公的教育の代替機能を発揮したが,工業学校の充実に伴って“工場学校”の機能も変質する.工業学校卒業生が組織内で準職員の身分的地位を獲得する労務管理慣行が形成されるに伴って,義務教育修了者を教育する“工場学校”の質を高めてその被訓練者を準職員待遇に処することができなくなったからである.
 “工場学校”の変質は二つの方向をとった.一つは中等教育より高いレベルの技術員養成機能への転換であり,二つは熟練職工・中堅工の大量養成の強調である.多くは後者へ変質した.この変質の過程で,それまで停滞的であった工業補習学校が活況を呈する.義務教育修了者に職業教育を追加するために設置された実業補習学校は,徒弟学校,工業学校と同様,早期に制度化された.そのうち農業補習学校は当初から隆盛であったが,工業・商業のそれが大規模化するのは大正9年(1920)代後半以降である.昭和6年(1931)に制度化された青年訓練所,昭和10年(1935)の青年学校令は工場学校の大規模化を促進した.
Ⅰ 明治期における実業教育
Ⅱ 公私立実業学校数(明治28年~大正3年)
Ⅲ 学校系統図(明治36年)
Ⅳ 経済の成長(鉱工業生産指数)と初等・中等・高等教育機関の在学者数の推移
Ⅴ 中等教育在学者数の伸びと生産・所得の伸びの関係
Ⅵ 中等教育機関への進学率
Ⅶ 明治以降の不就学と文盲
Ⅷ アジア各国中等教育の就学状況(コース別実数と比率) (1975年現在)
Ⅸ 専攻分野別中等教育機関在学者数の推移.
Ⅹ 物の値段(単位:円)