Economic Policy

List of Articles
Economic Policy

松方財政と殖産興業政策

Title: 第Ⅰ部:第3章:大隈財政論の本態と擬態ー「五千万円外債案」を中心にー
Author: 山本 有造
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1983年
Table of ContentsMain Text (PDF version)

第Ⅰ部:第3章:大隈財政論の本態と擬態ー「五千万円外債案」を中心にー

 はじめに

 参議兼内務卿大久保利通にとって,1878(明治11)年の春は特別の感慨をもよおすものがあった.いわゆる「大久保政権」の成立いらいほぼ5年,この間内外の多事をのりきって,いまやようやく本来の「内治」とくに殖産興業に力を尽しうる時期を得たからである1).前年の内戦には4,200万円という巨額の戦費を要し,それを,第十五国立銀行よりの借入れ1,500万円,予備紙幣の増発2,700万円という応急的措置でまかなわなければならなかった2).しかし,それとても,年来の貨幣・金融制度整備の努力の結果であって,全体にインフレ傾向を促したとはいえ当面とくに経済に動揺をきたす兆候も見えない3).
 同年3月,大久保は「一般殖産及華士族授産ノ儀」につき伺を提出し,この基本方針実現の財政計画として参議兼大蔵卿大隈重信は「内国債募集ノ儀」につき上申を行った4).積極財政を前提とした殖産興業政策が,ようやく実現へ大きく発進しはじめたのである.同年5月1日「起業公債証書発行条例」が発布された.募集総額1,250万円(募集実額1,000万円),年利6分,元金は2年据置,3年目より23カ年間にわたり抽籤償還.取扱事務は,国立第一銀行,三井銀行に委託し,政府は新たに「起業基金部」を設けてその処置を行う5).
 起業公債の公募は,全般的な財政散超と改正国立銀行の簇生という金融状況の軟調に支えられて予定額の2倍以上の応募を見るなど,順調に消化された.公債資金は,大久保=大隈建議にいうところにしたがい,一半は,交通運輸機構の整備を中心とする社会資本の充実にあてられ,他の一半は士族授産のための勧業資金の貸付にあてられた.起業公債資金使途の詳細は表3-1の通りであり,内務省・工部省・開拓使という「殖産興業」主務機関の間における資金配分が知られて興味深い.「募集金額ノ儀ハ都テ之ヲ回産復生ノ資本ニ活用スルトキハ則チ数年ノ後若干ノ利分起生スルハ舎テ論セス所謂一国ノ財貨屹度充実シ政府ノ収入亦随テ増加スル」(「内国債募集ノ儀」)というのが,彼ら担当者の理念であり,期待であった.
表3-1 起業公債資金の配分
 その5月14日大久保横死の結果は,水面下における権力闘争を激化させたけれども,当面の経済政策に関していえば,大久保の遺志である積極的勧業論の継承は残された政府首脳の共通認識であり,ひとまず大隈を中心とする大蔵省主導体制が成立する6).ここにおいて,1878(明治11)年夏以降大隈に与えられた課題は,微妙な薩長勢力のバランスの上に,かついまやようやく顕在化しようとする紙幣インフレーションの中で,既定路線である「積極財政を基調とする勧業政策」をいかに効率的に遂行するかにあった.

 Ⅰ 1879(明治12)年6月「減債方案」ならびに「財政四策」

 政府当事者の紙幣インフレに対する概しての無知ないし無視にもかかわらず,1879(明治12)年に入るとインフレーションの進行がようやく多方面に影響を及ぼしはじめた.1879(明治12)年6月27日,大隈重信は「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を太政大臣三條実美に建議した7).これが,以後数年にわたり展開される西南戦後インフレ対策の出発点となった.
 ここにあげられた四件とは,(1)地租再査ノ事(地租改正における租額査定の不均衡是正については全面再調査ではなく部分的手なおしにとどめる件),(2)儲儲蓄備荒ノ事(新地租制度下での定額租税負担にともない不時の凶作に備えて官民折半の救済基金を儲蓄する件),(3)紙幣支消ノ額ヲ増シテ之ヲ截断ニ付スル事(「公債及紙幣償還概算書」による計画のうちとくに紙幣消却年限を短縮する件),(4)外国関係ノ用度ヲ節減スル事(官庁関係の対外支払経費節減の件),であった.ここでは,第(3)件「紙幣支消」に考察のポイントを置く.
 紙幣消却計画については,すでにその前年1878(明治11)年8月,大隈が正院に稟議した「公債及紙幣償還概算書」があった8).このうち「第9紙幣ノ事」によれば,現今の政府紙幣流通残高1億2千余万円,これを1878(明治11)年度から1905(明治38)年度までの28年間に漸次正金その他鋳貨で引換え消却する.ただし当面(1878〈明治11〉年度から1892〈明治25〉年度まで)は西南戦費2,700万円分にあたる小額紙幣を補助鋳貨に交換するにとどめ,とくに1878(明治11)年度から1882(明治15)年度までは回収額を年50万円とする,というきわめて微温的形式的なものであった.ところがこの6月に至って,大隈は「国債紙幣銷還方法」(減債方案)をもってこの計画を短縮促進することを提案した.とくに西南征討費関係の2,700万円については,1878(明治11)年度より1885(明治18)年度の8ヵ年間に悉皆消却することとし,当面の回収=裁断額を,1878(明治11)年度716万余円,1879,80(明治12,13)年度は各200万円とするという大改定であった9).「財政四策」にいう第(3)件「紙幣支消」の事は,この「減債方案」中とくに紙幣の消却年限短縮についての提案理由をなすものである.
 それでは,この段階において何故に紙幣消却のスピード・アップが提案されたものであろうか.大隈にとって紙幣消却などということはそもそも「変通ノ考案」にすぎない.しかるに世の「常人」は,すこし変事があるとつい自分のわかりやすいところに原因を求めがちである.不幸にして近事洋銀相場が昂騰するにつれて,新聞などが銀紙の差をあおりたてる結果,諸人は「遂ニ異口同音概シテ其原因ヲ紙幣ノ増発ニ帰シ復タ其他ヲ顧ミルニ遑アラス」という状況である.誠に愚なことであるけれども,しかしこうした傾向はややもすれば人心に恐慌を来し,遂には財政金融政策上にも悪影響を及ぼしかねない.誠にやむを得ず紙幣処分という「権宜の処分」を行って時機至るを待つほかないのである.
(西南征討費に支出された政府紙幣)弐千七百万円ノ額ハ原ト独リ已ムヲ得サルノ挙ニ出スルノミナラス当時貨幣流通上ニ於テ亦深ク考察スル所アリ即チ因テ以テ貨幣ノ用ヲ充足シ若シクハ金融ノ道ヲ疎通スル等ノ微意亦在ル有ル事後条ニ詳説スル所ノ如ク敢テ漫ニ増発スルノ旨趣ニ非ザリシモ今日ニ至リ不幸他ノ事故ニ撹乱セラレ遂ニ徒ラニ増発ノ議評ヲ取テ止マシムルハ抑又憾ムベキノミ
 他の三案における積極的主張に比して,この第(3)件における消極的かつイマイマしさに満ちた口吻は注目に値する.大隈は「常人」の中にだれを数えていたのであろうか.廟堂内に芽ばえはじめた「勤倹論」的風潮への大隈一流の対応であったのかもしれない10).
それでは,大隈はこの経済危機――「約言スレバ則チ輸出入ノ不平均洋銀ノ騰貴紙幣ノ増発物価ノ昂貴」――の関係をどのように理解していたのか.まず,当面もっとも問題とされる洋銀相場の騰貴について次のようにいう.諸原因は錯綜しているけれども,その主要因は,(諸官庁の対外払いを含む)巨額の輸入超過→正貨流出→正貨欠乏にあり,副要因としてこれに乗じた内外商の洋銀投機と正貨退蔵があげられる.これらは紙幣増発とは直接関係をもたない.それでは諸物価の騰貴についてはどうか.これまた米穀の対支輸出および凶作が重なった米価の騰貴が引金となっているのであって,紙幣増発に原因を求むべきではない.さらにいえば,若干の物価騰貴は「一国理財ノ全局ヨリ之ヲ観察スルトキハ」時に景気浮揚効果をもつものである.そもそも紙幣増発の結果が紙幣過剰を生んでいるという認識が誤っている.現今通貨流通高を1人当りで見ると約千円40銭余であって,海外先進国あるいは維新前に比べてすらなお通貨は欠乏しているといってよい.(すでに上引のように)西南戦費にかかわる紙幣増発にすら金融の凝滞硬塞を免れんとする正当な意図があったのである.
 以上要するに,今日経済危機は,洋銀騰貴の現象に代表されるのであって,その原因は直接的には洋銀需要の過熱に,本源的には国際収支の不均衡にある.したがって,その対策もまた,短期的には洋銀供給の円滑化に,長期的には,国際収支不均衡の是正に求められなければならない.前者は,1879,80(明治12,13)年にかけて施行されたところの一連の「洋銀対策」に具体化されるものであって,その概要は表3-2のごとくである.また後者は,大久保政権下以来「(一再建言スル所ノ如ク)復タ務メテ道路海港等ヲ修築改良シ以テ交通運輸ノ便利ヲ興シ農商工諸職業ヲ振起盛大ニシ物産ノ増殖若クハ輸出ヲ謀リ或ハ外品需用ノ額数ヲ省減」するという殖産興業政策の遂行にほかならなかった.そして,上述の大隈の紙幣観(「通貨欠乏論」)ないし物価観(「インフレ景気浮揚論」)もまた,この「積極勧業論」に連なるものであった11).
表3-2 大隈時代における洋銀騰貴抑制の諸対策
 大隈が,当面の経済混乱の中心現象を洋銀(・・)騰貴にあるとするかぎり,彼の論理はそれなりに斉合的であった,そして,紙幣(・・)インフレの激発を充分予想しえずに,それに対する有効な予防措置を取り得なかった点において,彼の財政政策はあやまりを冒したといえる.しかし,今日からみてむしろ意外におもわれるのは,西南戦費支出とインフレーションの進行のあいだにかなりのタイム・ラグが見られることである.インフレの激化は,ようやく1879(明治12)年以降というべく,当時の情報スピードの下で政府当事者の認識もこの結果を先どりすることはできなかったであろう.梅村のいうように,このタイム・ラグがその後の経済運営における不運の遠因であったかもしれないのである12).

 Ⅱ 1880(明治13)年5月「正金通用方案」ならびに「三議一件」

 1879(明治12)年から1880(明治13)年にかけて大隈主導下の経済政策をめぐる環境悪化は一層進行し,広く顕現しはじめた.それは,単にインフレの激化という一般現象にとどまらず,国家財政の破綻という形をとることによって,「経済不巧者」を自認する閣員にもその危機を痛感させたのである13).
 1880(明治13)年2月の参議・省卿分離という大きな機構改革を経て,同年5月,会計部分掌参議大隈重信は二つの重要な建議を提出した.その1は「経済政策ノ変更ニ就テ」であり,その2は「通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ議」である14).大隈は,この段階において,従来の政策の何を変更し,何を改めんとしたのであろうか.まず当時の政局に大きな波紋をなげかけた後者の内容からみていこう.
 この要旨は,「五千万円外債案」と俗称されるように,5,000万円の外債を募集し,その手取正貨をもって一気に不換紙幣消却を行おうとする大胆な通貨制度改革案であった.この方案をもって大隈は何を打開しようとするのか.通貨体制に関する大隈の基本認識は,前年「財政四策」の時と変らない.
 維新以降本邦は紙幣専用の時世にして別に金銀を要すべき場合なく唯海外貿易に於てのみ独り金銀を通用せり故に金銀需要の範囲は単に貿易市上の一部分に止まり是部分を除くの外は邦内に於て曽て金銀の多少伸縮を感覚すること無しと言ふも可なり茲に若し金銀の輸出入相平均するの有様ならんには仮令ひ邦内の金銀如何に乏少なりとも需要の供給に超過すること無るべし果して然らば金銀は紙幣に対して決して昂上すること能はず紙幣は依然として其格位を保ち邦内に流通して些少の障害を見さるへし斯の如き時世ならんには紙幣専用の制も亦た何の不可なることか有らん之を察せすして而して深く紙幣通用の制度を罪するは抑も亦た冤なり故に紙幣通用は其制の不可なるにあらず唯輸出入不平均の時世に不利なるのみ
現に,商品ないし保蔵正貨の輸出で国際収支不均衡をどうにかまかなってきた過去数年においては,「紙幣専用ノ制」もそれなりにうまく運用されてきたのである15).
 ところが,一昨1878(明治11)年末いらい昨1879(明治12)年春にかけて,不均衡が大きくなり,洋銀相場の騰貴という現象になやまされることになった.ところが更に「又今日の勢たるや金銀独り紙幣に対して昂低上下するに止まらず内地の物貨も亦た乱動浮沈を与にせり」つまり,銀紙の差の拡大につれて,銀貨騰貴が全般的インフレーションを引起すにいたったのである.「故に之を大にしては工商諸業に損益危険の状勢を現し又下等生計の人民をして窮苦の悲態に陥入せしめ,之を小にしては各官庁の経費頗る不足を生して比々其増額を要請し国帑の歳計為に匱乏を告るに至る.」事態がここに立ち至った以上,いたずらに「紙幣専用の制」にしがみつくべきではない.紙幣を悉皆正貨と交換して「銀紙差」の根源を断とうとするのである.ここに大隈は「正金通用方案」を次の7項目にわけて説明する.
 (1) 紙幣流通額の事.1880(明治13)年3月末の不換紙幣は112,650千円であるが,うち732千円は1880(明治13)年度中に消却されるべき分であり差引1880(明治13)年度末現在(すなわち1881〈明治14〉年6月末)流通額は105,330千円である.これを以下の方法で正貨と交換する.
 (2) 外国債を募る事.7分利付,売価100分の95,償還期限25年のポンド外貨10,526,315ポンドを募集し,紙幣消却の原資としてまず正貨59,000千円を得る.
 (3) 国庫儲存の正金を募集の外債金に合して紙幣を交換する事.1880(明治13)年度末において政府が保有する正貨17500千円と上を合して正貨原資は67,500千円.ただし紙幣相揚の下落している今日,正貨1円を以て紙幣1円15銭5厘5毛に交換しうるから,上述の正貨原資で78,000千円の紙幣を交換することができる.残余の紙幣は27,300千円となる.
 (4) 銀行の抵当公債証書を変更する事.上の紙幣残額は,国立銀行券発行の抵当法を改正し,銀行券発券の抵当を金札引換公債証書で代位させることにすれば,各銀行は政府紙幣をあつめて金札引換証書を要求するから容易に消却しうる.
 (5) 正貨通用に変するも通貨過少の憂なき事.以上の結果政府紙幣は悉皆消却され正貨67,500円に縮減する.これに国立銀行券が加わるが,これまでと異なり,正貨との兌換となるわけであるから,発行額の5分の1は準備金を保有しなければならない.したがって全国通貨量は,正貨67,500千円プラス現今の国立銀行券流通高の5分の4つまり29,960千円,計97,460千円ということになる.
ところで,世の「通貨欠乏論者」は,あるいはこうした通貨縮減の結果に金融閉塞の悪影響を予想して,この方案を難ずるかもしれない.しかし正貨通用の時世に変すれば,これまでの正貨騰貴で保蔵隠伏していた正貨が自ら流通界に戻ってくる.新貨条例いらいの新円正貨の退蔵約52,710千円,古金銀の退蔵約61,580千円,これらが流通界に戻るときは,全国通貨の額は2億をもこす巨額に増加することになろう.
 (6) 外国債及金札引換公債の利子を支弁する事.以上の内外債増加の結果,年々の利子支出は外債3,680千円,内債1,640千円,計5,320千円の増加を見る.しかしこの支弁は決して至難ではない.酒・煙草など奢侈品への課税・増税で容易にその財源は確保しうる.またすでに「減債方案」に予定する紙幣消却費もまたこの計画の財源とみなしうる.
 (7) 是方案施行の後国債総計の結果如何.この方案は,一見無利債たる紙幣を有利債に変えるがごとくであるが,債務合計では36,090千円を減じることになり,また利子支弁増が困難でないことは上述の通りである.
 以上において大隈の提案を聞いたわれわれは,次にその提案の現実妥当性について考察しなければならない.これはさらに,「紙幣通用の制」から「正貨通用の制」への変更の経済効果と,その変更の財政コストの問題にわけられる.大隈のこの新提案は,いまやようやく彼の危機認識が(単なる洋銀=銀貨相場の騰貴から)全般的インフレーションへと向かったことを示している.しかしそれにもかかわらず,インフレーションのこの段階にいたってなお,彼が,「紙幣インフレ論」をとらず,銀価騰貴が諸物価騰貴の引金になっているという「銀価騰貴先導論」をとっていることが注目されなければならない.その結果,彼のインフレ対策は,この銀価騰貴=銀紙格差を解消する方策(しかも輸入超過の連続と保有正貨の枯渇という状況の中でこれを根源的に解消する方策),つまり紙幣と正貨(銀貨)との全面的代替を指向する.
 なるほど,もし彼の「正金通用方案」が成功したと仮定して,紙幣が悉皆銀貨に代替されたとすれば,銀紙格差は解消し,物価は銀建価格に一元化されよう.しかしこれによってインフレーションの進行は鎮静化するであろうか.大隈はこれを自明の理のごとくに論じないけれども,実は大隈のインフレ論にはここから亀裂が生じはじめる.銀価騰貴がなぜ一般物価騰貴を引起すのか.彼の正貨欠乏→正貨騰貴理論ではこの説明がつかないのである.「抑も金銀乏少の為めに金銀に対して紙幣落下するときは物品も亦金銀に対して落下すへきの事理なり」「故に紙幣物品相与に金銀に対して落下するも物品紙幣の間に昂低の差等あるへからさるなり」.紙幣過剰論を否定する彼は,現状を「一種異様の状態」というほかはない.結局のところ,彼が輸出入不均衡→正貨欠乏→正貨騰貴→諸物価騰貴という道すじを信ずるかぎりにおいて,彼の「正貨通用策」はインフレ対策たるの根拠を有したのであり,しかしその道すじに固執するかぎり,彼のインフレ対策は間道をゆくものにほかならなかったといえる.
 もちろん,彼とても,彼の「正貨専用の制」の下でのインフレ抑制がすすむケースに全く気付かなかったわけではない.すなわち国際収支不均衡が持続する結果,正貨流出=通貨縮小によるデフレ効果が大きく働くケースである.(そして,大隈提案が万一実現したとして,これが最もありうべき現実であったように思われる.)しかし,こうした縮小均衡は大隈理論の許容しうるところではない.彼の真のねらいは,正金通用により「紙幣専用の制」の不安定性が除去された時には,資金,外貨ともに今より一層潤沢・円滑に供給され,いわゆる殖産興業に一層好条件が準備されるところにあったのである.それはいいかえれば,拡大再生産によるインフレ克服というべきものであり,ここにおいても,彼の積極勧業論は一貫して生きつづける.このように見るならば,外債5,000万円をもってする「正金通用方案」というこの大胆かつ急激な通貨制度改革において,インフレ抑圧効果はむしろ従の位置に立ち,「殖産興業」のためのよりたしかな通貨基盤の確立という長期的展望に主眼があったといえるのである16).
 それでは次に,この「五千万円外債案」が日本経済ないし財政に加重するコストの面は如何.方案第(6)の説明によれば,歳出全体としての当面の増分は外債利子3,680千円,金札引換公債利子1,640千円,計5,320千円になる.これについては酒・煙草など奢侈品への課税・増税で容易にカバーできるという.しかしすでに破産状態にある財政事情の下で,この加重にたえうるであろうか.さらにいえば,このうちとくに対外支払い増となる外債利子支払い正貨についてはどうか.年々の政府対外支払い5,6百万円にきゅうきゅうとしている現状で,さらに3百万円以上の負担増にたえうるのか.これは,諸悪の根源を国際収支不均衡にもとめる大隈の持論と矛盾しないのか.ここにいたって大隈の説明はにわかに恫喝的になる.正金通用策といった重大な施策実施にあたって「利弊相ひ伴ふは世常の常数にして邦国為政の責に任する者は唯其軽重如何を計較深慮すへきのみ」.しかし実は,以上は利子のみである.この上元金償還が加わればこれによる歳出増加・正金流出は一体どうなるのか.大隈はあえてこれにふれない.正直なところ,いかにオプティミストたる彼とてもそれにふれる勇気をとても持ち合わさなかったのであろう17).
 以上のように,大隈の「五千万円外債一正貨通用方案」は今日から見るとき,その効果・コストいずれの面からしても疑問点の多い政策といわざるを得ない.しかし大隈の信ずるところ,この通貨対策はいまや彼の全政策体系の要石におかれた.そしてその実現のためには財政上の負担加重はさけられない.たとえそれがいかに重かろうと,いまは経済再建のための必要経費とみなされなければならない.
 是政策を施行して別冊方案中に述るが如く外債募集の挙あるときは各官庁より金銀を輸出するの費途亦た充分に之を節減せしめざるべからず,此他各官庁の事務に於て其緩急大小を考慮するときは今日尚ほ不急の業務なきにあらず又各官衙の間に於て一事層行の重復に渉る者あり是等の類は亦た此際に於て厳に節減更革せざるべからざるなり
われわれは,もうひとつの建議「経済政策ノ変更ニ就テ」をこのコンテキス

トにおいて読みたいと思う.
 「経済政策ノ変更ニ就テ」は,参議・省卿分離と官制改革にともない,「各省使院事務ノ章程就中理財ニ関スル事項ニ付キ施政ノ主義管理ノ方向ヲ更改楚定スル事緊急ナ」次の「三議一件」を提案する.
 第一 勧誘ノ為メ設置シタル工場払下ケノ議
 第二 諸学校ヲ文部ニ統轄シ普通小学ノ補助金ヲ廃スル議
 第三 御領ヲ定ムルノ議
 第四 各省中局課ノ分合所属改替ノ件
 ここで注目される第一は,無論「工場払下案」である.
大隈は,官営工場のタイプを三つに分ける.(1)国家統治上必要な機具を作る,陸海軍工廠あるいは造幣局.(2)起興のための資財・学識の点であるいは秘密保持の点で民間に任せられないところの,製錬熔解部門あるいは電信電話部門,(3)本来民間の営業に任すべきでありながら,工業の勧誘のためにたてられた模範工場,紡績・製糸・製絨所など.そしてこのうち(3)の範疇に属する内務・工部所属の14工場について,払下げを提案する.もし利益があって政府が営業を継続すれば官業独占になり,利益なきものはむしろ幾分の損をしても払下げて冗費の節減を行うべきである.とくに,「方今国債償還ノ資ヲ増加スルノ急且要ナル筍モ歳出ヲ節減スルノ方アラバ之レカ挙行ヲ怠ルヘカラサレハナリ」.
 同じく冗費削減の事は,第2議の課題でもある.例えば文部省が学制を統轄するかたわらで司法省に法律学校あり工部省に工部学校を有するというのは,まさに一事層行の重復にほかならない.「因テ軍学校ノ陸海軍ノ両者ニ於ケルカ如キ其学科ノ特別ナルモノヲ除クノ外ハ宜シク此際挙テ文部ノ所轄ニ帰スヘキナリ」.また従来の「各地ニ散付シテ僅少ナル」小学校補助金はこれを廃して,工芸学校・農学校の拡張に投じ,資金の有効利用をはかる.
 以上の「三議一件」の内容に関して,工場払下げの議が果たして大隈の勧業政策論の転換を意味するものかどうか,なお議論は残るであろう.しかし「正金通用方案」について長々と論じてきたわれわれは,ここにおける財政上の主眼が,なお単なる冗費整理・経費節減に止まるものであったと考える18).
 以上本節の考察の結果,1880(明治13)年5,月にほぼ同時に提起された二つの大隈建議に関するわれわれの理解は次のように要約できる.
 (イ) 「正金通用方案」は,現行政府紙幣の全てを外債5千万円の手取外貨によって正貨に交換するという極めてドラスチックな「一挙安定型」通貨制度改革案であった.その意味において,この方案は,財政余剰をもって紙幣の漸次消却を行おうとするこれまでの「減債方案」には本質的に異なるものであった.
 (ロ) しかしそれは,インフレ激化という環境の激変に対処して「殖産興業」のためのよりふさわしい金融基盤を整備することに主眼があり,したがって,大隈年来の積極勧業論の一貫した延長上に位置するものであった.
 (ハ) この段階における大隈の財政緊縮論は,上の通貨改革案のやむを得ざる前提条件あるいは必要コストとして提示されたものである.「三議一件」にみられる経費節減の諸策は,このコンテキストの中で読む時「正金通用方案」の積極論と矛盾しない.

 Ⅲ 1880(明治13)年9月「財政更革ノ議」ならびに11月「農商務省設立建議」

通貨混乱の根本的原因が「正貨欠乏」にありとするか,あるいは「紙幣過剰」にありとするかという見解の相違は別にして,「紙幣整理」が不可避であることについては,いまや大隈もまた同意するに至った.そしてその対応方策の1は,財政余剰金を捻出し,これをもって徐々に紙幣の消却を行うもの,すなわち「減債方案」の路線であり,その2は,外部資金に依存して一挙に紙幣消却を行い,その上に経済・財政建直しを行うというもの,すなわち「外債五千万円案」の路線であった.後者は,すでにそれ自身が破綻状態にある財政収支への負担を一時棚上げにするというメリットと,外債元利償還の長期的影響という政治経済的デメリットとを合わせもつところに論議をよぶ原因があった.
 民権運動の沸騰する政治状況の中で「外債不可」が大勢をしめ,大隈提案が否定されることによって議論の焦点はいまや明確に「財政論」にしぼられてくる19).目下最大の憂事たるべき通貨混乱を救治するためにも財政にたいする緊急・直截な打開策が講じられなければならない.それには,収入の増強をまず図るべきか,支出の節倹を先とすべきか.歳入の補強をどの階層に求め,歳出の節減はどの部局が負担するのか.1880(明治13)年6月3日「外債不可」の勅諭いらい9月18日「米納論不可」の勅諭にいたる間の廟議の甲論乙駁は,これを経済論にかぎれば,以上をめぐって行われた20).
 1880(明治13)年9月,上記の財政論議の過程で伊藤との連携を深めた大隈重信は,あらたに「財政更革ノ議」を提示し,増税と経費節減による財政余剰の捻出とその上にたった紙幣消却強化の路線の選択を表明する21).外債主義を原則的に否定され,米納論のもつ前近代性を許容しえない大隈にとって,紙幣整理と財政整理の同時遂行の途は「減債方案」への回帰と強化の方向しかなかったといえる22).
この意見書では,財政余剰金の創出と紙幣消却の強化という関連する二つの方策のうち,まず前者について「凡ソ壱千万円ノ余裕ヲ得ルニ至ル」具体的方法4カ条が提案される23).
 第一条 税法改正ノ事
 第二条 府県ノ理財法ヲ改正スル事
 第三条 正貨ノ収支ヲ均フスル事
 第四条 各庁経費減少ノ事
 第一条において酒税・煙草税の増徴による約400万円の増収計画が示される一方,第二条では地方収入増徴の方策と引換えに地方への国庫補助支出を約209万円削減し,第三条では政府の正貨収入と均衡をはかるべく約163万円の対外支出を減省し,第四条では官営工場の払下げを含む各省庁経費約150万円を節減するという,経費縮減計画が打出される.
 大隈=伊藤の協調関係の上に打出された以上の緊縮財政の基本方針は,薩派を中心とする緊縮反対派の根づよい抵抗を排しつつ,かなり早いテンポで具体化される24).まず9月27日には,酒類税則に代る酒造税則の公布があって関係税率の倍増が図られ(太政官布告第40号),また?麹営業税の新設があった(同41号).ついで11月5日は,関係する重要な布告・令達が矢継ぎ早に却せられた日として記憶される.その1は,著名な「第48号布告」すなわち「歳計節約紙幣銷ノ元資増加ニ付地方税則中改正増加」(「法令全書」)であって,これにより,地方税率の引上げ(地租5分の1以内から3分の1以内へ)を見返りとする国庫支弁費用の地方転嫁が果たされ,その分紙幣銷却原資への繰込みが可能とされた.その2は,「工場払下概則」の関係6省(内務,大蔵,陸軍,海軍,文部,工部)および開拓使への令達であり,ここに,前掲の大隈建議「三議一件」の第一に言及された官営工場払下げ具体化への第一歩が印される.その3は,「経費定額ノ節減ニ付内務,大蔵,陸軍,海軍,文部及工部ノ六省へ令達」であり,ここでは,来る1881(明治14)年度以降の各省経費定額を,(1880〈明治13〉年度既定額に比し)大蔵12万円,内務12万円,陸軍25万円,海軍15万円,文部20万円,工部12万円宛,計96万円を減省すべく,具体的方策の具申を令している.これに関連してその4に「外国債元利償還,在外公館経費,外国派遣官吏及留学生経費,傭外国人給料,外国品購入代,其他正貨ヲ以テ仕払ヲナスヘキ経費ハ海関税其他ヨリ収入スル正貨ヲ以テ支弁スルノ予算ヲ立テ」ることとし,各省庁にたいして一般予算とは別に正貨予算を調整すべきことを令達した25).
 以上の財政改革方針と一連の対応措置の確定を見た1880(明治13)年11月下旬,大隈・伊藤の両人は連名をもって「農商務省設立建議」を提出する26).今回財政御改革ノ主旨タル事務ノ繁ヲ省キ簡ニ就キ善ク其緩急ヲ計リテ経費ノ節減ヲ行フニアルヲ以テ啻タ経費ヲ省略スルノミニ止ラス併セテ百般ノ政務ヲ一層改良スルノ必要ナルハ言ヲ侯タス 既ニ地方ノ政務改良ノ事ハ載テ第四十八号ノ公布ニ明カナリ 中央政府ノ改良モ彼ノ工場払下ノ令達ノ如キ其一端ヲ発スト雖モ未タ政務改進ノ基礎タル各省管掌事務ノ分合ヲ画定スルニ至ラス 事務節略ノ令達アリト雖モ是レ各省使ニ向テ為シタル令達ナルヲ以テ其効力各省限リニ止リテ彼此相通シテ行政ノ全局ニ及ホスヲ得ス 然リ而シテ事務ノ分合上最モ急要ト認ルモノハ各省分任ノ事務中農商ニ関スル事務ヲ一省ニ集合スル是ナリ
 ここに,まず農商務省設立が今日の財政大改革一経費節減・政務改良の路線上に位置づけられることが明言される.しかしこの建議のより一層の重要性は,いまや旧来の「殖産興業政策」の主義を一変して新しい理念に立つ勧業政策を提唱するところにあった.すなわち,現今の勧農勧商の実況を「稍々奨励保護ノ区域ヲ踰越シテ自ラ事業ヲ興起シ若クハ資金ヲ貸与シテ直ニ農商ノ営業ニ干渉シ僅々数名ノ農商ヲ庇保シ其成績ヲ以テ他ノ模範ト為スニ因リ其間識ラス知ラス一般ノ農商ト利益ヲ競争スルノ嫌避スヘキ状態アルヲ免カレス」と批判したうえで,新しい農務省勧業は「農商管理ノ事務」すなわち「博ク奨励保護ニ関スル法制ヲ案シ府定ノ規則ニ拠リテ公平不変洽ネク誘導スル事」を主となすべきであると主張する.
 この建議はただちに政府の容れるところとなり11月25日には職別・章程・経費などの調査が命じられ翌1881(明治14)年4月7日,内務省の勧農・山林・駅逓・博物の4局,大蔵省の商務局,その他を移管して「農商務省」の設立を見る27).
 以上1880(明治13)年9月以降の2建議の裁可と実行が,両3年にわたる経済的危機状況にたいしてはじめての実効的対策となったこと,より長期的にいえば,大久保体制以来の経済政策の全面的変更を画期したことについては,すでによく知られている.そしてまた,これは,大久保没後をリードした大隈・大蔵省主導体制の変容と表裏の関係にあることについても,すでにすぐれた政治史的分析をもっている.「外債論」を契機としてその「成長主義」的政策を批判され,その遂行の手段を否定された大隈が,なお政策運営の主流に居座るためには,伊藤・井上ら長派との連携を密にし,彼らの緊縮論との妥協を余儀なくされたことは想像にかたくない.しかしその妥協は,大隈の内在的政策意図の明確な変質にもとづくものであったのであろうか.御厨のいうごとく,この段階において「もはや大隈は財政への興味よりは,新たな課題たる憲法と国会への関心を強めていた」のであろうか28).結局は明治14年政変の幕間劇におわったところのもう一幕をここでの考察につけ加えなければならない.

 Ⅳ 1881(明治14)年7月「公債新募銀行設立ノ議」

 1880(明治13)年9月の財政整理方針の確定にともない,紙幣整理についても「減債方案」の強化がはかられた.すなわち,1879,80(明治12,13)年度の経常歳出予算中「紙幣消却」費各200万円にたいし,1881(明治14)年度予算は「減債方案」にもとづく350万円計画を倍増して700万円が計上され紙幣整理にとりくむ政府の姿勢は確定した29).ここに,一応「財政論」をめぐる争点は結着を見て,伊藤一大隈連携体制がととのったかに見えた.
 それが,あらたに「憲法論」を正面にすえて亀裂を生じはじめるのが1881(明治14)年3月から7月にかけてであることについては,政治史にくわしい.この極めて微妙な時期にあたる7月末,大隈・伊藤は再度連署をもって新しい経済建議「公債ヲ新募シ及ヒ銀行ヲ設立セン事ヲ請フノ議」を提案する30).
 この提案は昨1880(明治13)年9月いらいようやく緒についた財政・紙幣整理につき「今日ニ於テ是ヲ完整セシムルニ緊要ナルニ様ノ処置」を提起するという体裁を取る.まずその第1の処置は,紙幣消却を一層加速しかつあわせて紙幣の兌換準備たるべき金銀正貨の国内への誘入をはかるために,新規公債を募集する計画である.この公債の性質を略記すれば次のようである.
(1) 紙幣を以て応募し,正貨を以て償還する.
(2) 募債総額は5,000万円とし,毎年100余万円宛40ないし50ケ年で償了とする.
(3) 利子を [ママ]分)とし,一株額面100円,募集価額も同じく100円とする31).
(4) 応募奨励のため,毎年の元金償却時に抽籤をもって賞与金を付与することとする.
(5) 人民の請求に応じて既発公債を紙幣と,あるいは紙幣を公債と自由に交換する.
(6) 正金をもって応募することを許可し,この時は正金時価をもって紙幣額に換算する.
(7) 法律ないし条例を遵守することを条件に外国人の応募を許可する.
 以上の性質をもつ新規公債募集の目的は,いうまでもなく,紙幣を国債に転換することによる不換紙幣の大量消却にあったわけであるが,「是方案ニ属スル利益ノ最モ大ナル者」として,要件(5)によって一種の紙幣量の自動調節機構の作動が期待されていたこと,以下の通りである.
 新募公債ヲシテ以上ノ性質ヲ具備セシメハ人民ハ紙幣ト公債証書ト自由ニ交換シ得ルカ故ニ通貨欠乏ノ実勢アルトキハ人民ハ公債証書ヲ納テ紙幣ヲ引出シ斯クシテ通貨ノ買額ヲ需用適応ノ度ニ伸暢スヘク又之ニ反シテ通貨ノ過多ナルトキハ紙幣ヲ納テ公債証書ヲ引出シ斯クシテ過多ノ通貨ヲ減縮シ之ヲ需用適応ノ有様ニ廻収セシムルニ至ラム是則チ是方案ニ属スル利益ノ最モ大ナル者ナリ
 ここにはなお,かねて大隈が主張するところの「通貨欠乏論」的危惧,すなわち,通貨を無闇に縮小することによって民間経済の活動を阻害することをおそれる思想が根づよく残存していることを知るのである.
 それはともあれ,窮極的には不換紙幣の消却=正貨主義の採用が必要とされることについては,いまや大きな異論はなかった.そのためには「悠久ノ歳月ヲ費サスシテ可成速ニ海外ノ金銀ヲ邦内ニ誘入シ之ヲ儲存シテ紙幣ノ交換ニ充備シ何時ニテモ政府ノ意ニ随ヒ正金通用ニ変シ得ヘキノ準備」をなす必要がある.ここに新募公債の要件(7)すなわち国債の海外売出しによる外資導入が挿入される意義があり,そしてわれわれはここにもまた大隈「五千万円外債論」の部分的復活の要求を読みとることができるのである.
 つづいて第2の処置として,こうして邦内に誘入した外貨を保管・運用し,かつ将来は,政府紙幣に代る兌換銀行券の発券銀行となり,外国銀行を抑制する外国為替銀行となり,また国庫金出納を司どる政府の銀行となるべき一大銀行の設立を提案する.今日すでに横浜正金銀行があるけれども「其規模結構ノ狭小ナルカ為ニ未タ充分ノ成績ヲ挙クルニ至ラス」,故にこれを合併し資本金1,500万円以上官民合弁の大銀行となし,国内許多の小銀行をこれに牽合せしめんとする.ここにはじめて,政府紙幣に代る兌換銀行券制度と国立銀行に代る中央正金銀行制度の構想が明示される32).
 以上の提案を読んできたわれわれは,「財政更革ノ議」を一層完整せしむるという外貌にもかかわらず,その内容がむしろ財政緊縮路線を否定し,「五千万円外債論」の部分的復活を意図したものであることに注目した.それは「大隈財政」がもちつづけてきたところの二つの外部依存主義をあらためて強く提示することを特徴としていた.すなわち,財政外部の資金に紙幣整理の元資を求めて当面財政負担を軽減し,また外国資本の導入に正貨調達の道を求めて当面の入超をしのこうとするものである,(そしてあわせていえば「松方財政」と呼ばれるものの本質はこの二つの外部依存主義の否定の上に成立する.)もちろん「五千万円外債論」のもつ急進主義の弊は反省されて,紙幣整理の実行と中央銀行制度の展望が組み合わされているところにこの提案の現実性があったように思われる.(そしてその意味では「松方紙幣整理」のある種の原型がすでにここに求められるといえるのである.)
 この建議の成立過程についてはなお文献学的に検討を残しているけれども,以上の考察はこれが大隈の主導の下に提起されたことを充分に推測させる33),この推測はまた,独立変数としての国会論をめぐる対立そのものが大隈追放に連なる政変に向かう可能性が少なかったこと,むしろ国会論における伊藤対大隈の対立による両者の破局を回避するためにこの段階において財政論における協調が強く模索された,という御厨の見解とも一致する、今回は,国会論における協調を模索する伊藤が,財政論において大隈に譲歩・妥協したと見うるであろう,
 この建議は8月1日付をもって「建議ノ趣御採用」につき「方按詳細取調可差出事」が命ぜられた,「しかし問題は,この財政論における伊藤・大隈の協調が再確認されたちょうど1881(明治14)年7月末,1880(明治13)年9月以来の財政転換の帰結としての開拓使廃止にともない,周知のごとく黒田が五代らの関西貿易商会に対して千五百万円を投じた官有物をわずか三十九万円・無利息三〇年賦で払下る提案をしたことから生じる,」34)上記の詳細取調べもすでに草案を得るまでに進んでいたらしいが,10月政変の結果新たに大蔵卿に転じた松方正義のもとで実行見合せに至ることは,すでによく知られている,

 む す び

 大久保没後その遺志をつぐとして大蔵省主導型の指導体制を敷くことに成功した大隈重信が,西南戦費紙幣の散超を直接的契機とする経済危機の進行と,それに密着して展開する政治的諸問題の節目節目にあたって提出した諸建議を,その内容に即して読み,その含意に即して解釈するという作業を行ってきた,その結果われわれが得た第一印象は,この激動の数年を通じて大隈の経済政策論に一貫するある種のライトモチーフの存在であった,それは,一言でいえば,「外部依存主義」とさきに要約したところの特徴であって,不換紙幣の整理・交換が必要であるとすれば,それを財政外部の資金・外債募集による外貨の調達できりぬけようとする見解であり,それは,さらに根底において積極財政一積極勧業の維持・拡張という本来の「大隈財政」構想と分ちがたくむすびつくものであった,
 以上の指摘は,いうまでもないことながら,具体的な現象形態の多様性を否定するものでは全くない,むしろ,事態の変化に即して多様な「応変の策」を案出しえたところに,大隈の真面目があったといえるかもしれない.対外支払いが古金銀その他何らかの方法で決済されているかぎり「紙幣専用ノ制」継続を主張し,その前提がくずれたと認識する以上「正貨専用ノ制」への転換を主張することは,大隈にとって何ら矛盾とは感じられなかったであろう.そして更にはまた,自分をとりまく政治力学の変化を敏感にキャッチして,「減債方案」に同意し「財政更革ノ議」に妥協することもまた,彼にとっては一種「応変の策」であったように思われる.
 それでは,大隈財政論にあらわれるこうしたオポチュニスト的性格が,本来の「大隈財政」の遂行をついにさまたげた一因であったろうか.大隈経済論に色こくみられる改進党的「階級的」視角は,もし彼の経輪が好環境を得て実行にうつされていたとして,その後の日本経済の方向づけに何をもたらしたであろうか35).あるいはまた,やはり大隈経済論の底にながれる対外依存的「買弁的」性格についてはいかがであろうか36).これらの点は,「論」を論じようとする本稿とは一応別のテーマに属するものとする.
 [注]
 1) 「今ヤ事漸ク平ケリ故ニ此際勉メテ維新ノ盛意ヲ貫徹セントス之ヲ貫徹センニハ三十年ヲ期スルノ素志ナリ仮リニ之ヲ三分シ明治元年ヨリ十年ニ至ルヲ第一期トス兵事多クシテ則創業事間ナリ十一年ヨリニ十年ニ至ルヲ第二期トス第二期申ハ尤モ肝要ナル時間ニシテ内治ヲ整ヒ民産ヲ殖スルハ此時ニアリ利通不肖ト雖十分ニ内務ノ職ヲ尽サン〓ヲ決心セリ二十一年ヨリ三十年ニ至ルヲ第三期トス三期ノ守成ハ後進賢者ノ継承脩飾スルヲ待ツモノナリ」(「済世遺言」『大久保利通文書』9,169ページ).
 この時期に至る一般的情勢については,坂野潤治「征韓論争後の「内治派」と「外征派」」,『年報・近代日本研究』3,1981年11月,参照.
 2) 征討費決算については「九州地方賊徒征討費決算報告」,『明治前期財政経済史料集成』第4巻にくわしい.
 3) 紙幣インフレーションの進行が顕在化するのは,ほぼ12年以降のことに属する(本書第2章梅村論文68―69ページ.紙幣インフレの発現になぜこのように長いタイム・ラグを伴ったのか,その究明は経済史上興味深い問題の一つであろう.ともあれ,このタイム・ラグが,「その後の経済運営にとって不運であった」という梅村の指摘は,傾聴に値する.
 4) 日本史籍協会編『大久保利通文書』9,東京大学出版会複刻版,1969年,所収;早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』第3巻,同研究所,1960年,所収.
 5) 「起業公債」に関しては,『明治財政史』第8巻にくわしい.

 6) 御厨貴「大久保没後体制」,『年報・近代日本研究』3,1981年11月,参照.
 7) 『大隈文書』第3巻,340-60ページ.
 8) 以下「紙幣消却計画」の概要については,『明治財政史』第12巻(第13編通貨,第3章政府紙幣,第9節政府紙幣ノ整理),196ページ以下,ならびに「貨政考要」
中編・政府紙幣ノ部,第6章新紙幣ノ事歴,第4節回収銷却ノ要況,『史料集成』第13巻,250ページ以下.
 9) 「明治十一年度ニ於テ此巨額ノ増加ヲ生シタルハ同年度ノ公債元金償還予算高ノ内ヨリ百四拾六万余円ヲ減シ又明治九年及十年度ノ歳計余剰金参百参拾七万余円,西南征討費決算残余四拾四万余円其他準備金ヨリ百三拾八万余円ヲ支出シ以テ之ヲ同年度ノ紙幣銷却ニ充テタルニ由ルモノナリ」,『明治財政史』第12巻,208ページ.
 10) 当時政府内における「勤倹論」的風潮の醸成については,御厨,前掲論文.また,やがて大隈財政論の否定につらなるところの積極勧業政策批判の系譜については,とりあえず上山和雄「農商務省の設立とその政策展開」,『社会経済史学』41巻3号,1975年10月;梅村又次「松方デフレ下の殖産興業政策」,『経済研究』32巻4号,1981年10月.
 11) 積極財政・積極金融を通じて民間経済の振興を図り,その高度成長を通じて物価騰貴・国際収支逆調を中和化しようとするのが大隈財政・経済論の核心であったといえる.こうした経済論調は,1875(明治8)年以降,大隈ならびに大隈派官僚の建議類に一貫してかつくりかえしあらわれる.この意味において,大隈およびその一派が,その内在的政策意図においてインフレ成長論者であったことを否定しえない.長幸男『日本経済思想史研究』,未来社,1963年,第2章;岡田俊平『明治期通貨論争史研究』,千倉書房,1975年,第3章以下.
 こうした高度成長主義はまた,金本位制確立後に定着するところの,国際収支赤字基調のもとでの高圧的経済運営を支える政策理念の一つの原型をなしたものといえよう.
 12) 前掲注3),参照.
 13) この「財政危機」は,歳入の不足と外貨の不足という二重の構造をもつものであった.第1には,ようやく軌道にのった地租金納制度が,インフレ進行の結果,政府の実質収入を大きく減退させたことである.すなわち,地租改正にともなう定額地租化の結果,政府収入は固定化される一方,米価に先導される諸物価騰貴は支出を膨張させる.加えて,地租改正以後の農民抵抗におされた地租率の引下げ措置(1877〈明治10〉年1月,3分→2分5厘)が累積的効果をあらわしはじめていた.農民一揆・士族反乱の危機の下で「上ヲ損シテ下ヲ益シ国力ヲシテ振起セシムル」(内務省少書記官橋本正人一『福沢諭吉選集』第7巻,坂野潤治解説,所引)という意図がここにきて大きく裏目に出たといえる.
 第2には,洋銀=正貨騰貴が政府の対外支払い正貨の調達をこれまで以上に困難にすると同時に,銀紙の乖離が政府の出納・記帳事務を大きな混乱におとしいれた.(本書第1部補論の山本論文,参照.)この外貨危機は,もちろん経済全体の危機にぼかならなかったけれども,より一層深刻に政府の財政運営を圧迫した.いうまでもなく,当時の財・サービス・資本の最大の輸入主体は政府であり,外貨の円滑な供

給はあらゆる政府施策の運営に致命的に重要であったからである.
 14) 前者は,日本史籍協会編『大隈重信関係文書』第4巻,東京大学出版会複刻版,1970年,112-25ページ.後者は『大隈重信関係文書』第4巻,125-48ページ;ならびに『大隈文書』第3巻,444-55ページ.
 15) 大隈の指摘する通り,新貨条例の発布ならびに新紙幣の発行いらい,国内流通はもっぱら紙幣をもって媒介し,正貨は極力これを対外決済に集中するという,いわば貨幣の二重構造が存在し,それなりにうまく機能していたことの確認は重要である.山本有造「明治初年の「円」」,『商大論集』32巻5号,1981年3月;山本有造「内ニ紙幣アリ外ニ墨銀アリ―大隈財政期の通貨構造―,『人文学報』第55号,1983年9月,参照.
 16) しかしながら,この方案にたいする大隈の希望的効果がすべて実現したとして,長期的な通貨基盤の確立という日標が達成しえたかどうかはなお大いに疑問とすべきであろう.こうした完全正貨主義のみをもってしては,長期的にみた成長通貨の弾力的供給はほとんど不可能のように思われるからである.
 17) この建議が読む者にとって若干奇異に感じられるのは,経済危機のこの段階にいたって,大隈提案がもっぱら通貨危機対策に集中し,同時に進行しつつある財政危機への言及がきわめて稀薄である点である.これを表面的に読むかぎり,抜本的な通貨改革に成功すれば,インフレの鎮静,民間経済の回復をもって財政危機もおのずと解消するというのが大隈の企図であった様に思われる.しかし主に薩派積極財政論者のつきあげのきつい政治状況の下で,こうした漸進主義のみが大隈の真意であったであろうか.実はここにおいて,この通貨改革すなわち「正貨専用ノ制」への転換が,ただちに財政上の大きな改善につながる二つの可能性に気がつかなければならない.それは,この通貨改革により政府の歳入受取金もすべて正貨に一変する結果,(1)これまでの紙幣定額地租が正貨定額地租に変ることにより政府の歳入手取の実質額は大幅に増大し,(2)対外支払い正貨調達のための紙幣と正貨の交換というこれまでの手数と労苦は解消するという2点である.建議本文に徴するかぎりこれらの効果について全く言及がないけれども,機敏な大隈がこれらに気がっかなかったとは考えにくい.これらの実現に何か支障があったのか,あるいは大隈の「隠し財源」であったのか,後考に俟ちたい.本書第2章梅村論文73-74ページ参照.
 18) ここでの「工場払下げ」提案が,大蔵大輔兼内務省勧農局長松方正義が1879(明治12)年11月「勧農要旨」いらい示唆し,1880(明治13)年2月「勧農局処務条例」において定置したところの,官営諸場を全て「臨時事業」へ繰り込む方針を受容したものとし,したがってこの「三議一件」全体を,経費節減と勧業抑制との二重の意味でとらえようとする見解もある.例えば,御厨,前掲論文,284-85ページ.この見解は,したがって,「三議一件」と「正金通用方案」を対立的,二者択一的な提案と位置づけることになる.同上論文,287ページ.
 しかし「事業ノ緩急軽重ヲ察シ費途ノ多少要穴ヲ詳ラカニスル」ための官立事業払下げのアイディアは,すでに早く1875(明治8)年1月「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」(『大隈文書』第3巻,所収)において大隈の提起するところであった.今回の提案もまたこの着想の延長線上にあったと見る方がより自然である様におもわれる.
 19) 「五千万円外債案」をめぐる論議とその否定にいたる経緯については,中村尚美『大隈財政の研究』,校倉書房,1968年,第4章,第5章;御厨,前掲論文,参照.
 20) 「財政取調委員」(会計部担当参議大隈・寺島・伊藤および大蔵卿佐野)の設置,各省使定額金300万円節減計画の立案と挫折,ならびに一種の幕間劇としての「米納論」提案とその否決の経過については,中村,前掲書;御厨,前掲論文のほか,本書所収の梅村,猪木論文にくわしい.
 21) 『大隈文書』第3巻455-62ページ.
 22) この建議は,現在「大隈文書」に残る資料では,大隈単名の提案になっているが,『伊藤博文伝』中巻,181ページによれば,大隈と協力して難局の打開に務めよとの勅諭を受けた伊藤が,大隈を自邸にまねいて「自ら研究せる結果に基き」建議骨子を提出したところ「大隈も,他に良策なきを以て,総て公の提案に同意し,尚ほ両人協力してその実現に努めんことを約した」という.
 23) 後者,紙幣整理の方法については,「一タヒ歳入上ニ若干ノ余裕ヲ得ハ之ヲ以テ或ハ紙幣銷却ノ資ニ増加スルモ或ハ外国荷為替其他ノ方法ニ因テ正貨ヲ購入シテ紙幣ノ準備ヲ増加スルモ固ヨリ爾後廟議ノ選択スル所」であり,「第一途決定ノ後更ニ其方案ヲ上陳」するという.
 24) この政策具体化の概要については,主に『明治財政史』第12巻,226ページ以下による.
 25) 第3,第4の2件については,『太政類典』第4編第44巻所収,「十三年十一月五日,各省十四年度以降外国ニ関スル費用正貨額ヲ定メ支弁ノ見込ヲ具状シ並ニ事務省略経費節減ノ方案ヲ具申セシム」にくわしい・
 26) 『大隈重信関係文書』第4巻,180-84ページ・
 27) 上山和雄,前掲論文.
 28) 御厨,前掲論文,297ページ下段,
 29) 本書第2章,梅村論文・
 30) 『大隈文書』第3巻,472-74ページ,ならびに『大隈重信文書』第4巻,475-82ページ.
 31) 原案では利率がブランクになっているが,『紙幣整理始末』によって,これが5分利付債を予定していたことが知られる.(『史料集成』第11巻,216ページ.)
 32) 明治前期における中央銀行制度設立案の展開については,岡田俊平,前掲書,第7章,参照・
 33) 中村,前掲書,245-48ページ,参照.
 34) 御厨,前掲論文,263ページ下段.
 35) 長,前掲論文.
 36) 中村,前掲書,196-201ページ;石塚裕道『日本資本主義成立史研究』,吉川弘文館,1972年,7,23,135ページほか.
[山本有造]