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松方財政と殖産興業政策

Title: 第Ⅱ部:第8章:松方デフレ下の勧業政策
Author: 梅村 又次
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1983年
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第Ⅱ部:第8章:松方デフレ下の勧業政策

 I 前奏曲

 1875(明治8)年,政局の一応の安定と対外緊張の緩和をえた政府は,その機をとらえて念願の殖産興業政策の組織的展開に乗り出した.しかし,地租の軽減と内戦によるインフレの昂進から政府の財源不足はますます深刻化するばかりであったから,ようやくその緒についたばかりの殖産興業政策もインフレが頂点に達した1880(明治13)年には薩派の執拗な抵抗にもかかわらず財政論争の進行につれて戦線縮小の方向を余儀なくされていった.そうして,これを決定的たらしめたのが1881(明治14)年の政変である.
 この政変によって積極派の巨頭と目されていた大隈重信(1838―1922年,肥前)と黒田清隆(1840―1900年,薩摩)は追放され,最終的に緊縮路線の松方財政が定着するのだが,この段階に至っても政府高官の中での健全財政主義の信奉者はどうも松方正義(1835―1924年,薩摩)と井上馨(1835―1915年,周防)ぐらいのものだったようである.自ら調和家をもって任じていた伊藤博文(1841―1909年,周防)は事に当って曖味だったし,その他の高官達は「無い袖は振れぬ」現実は認めながらも何とか工面してでも緊縮財政は避けたいし,折あらば巻返して所管業務の拡大をと願う積極派だったと観測される.
 ところで,当時の殖産興業政策は,(1)官営工場鉱山の経営,(2)民間海運業の助成,(3)内務省による道路河川などの公共土木事業,(4)1881(明治14)年春には新設の農商務省に集約されることになる一般民間産業の助成,(5)士族授産事業の五つに大別することができる.殖産興業政策の戦線縮小を進めるに当って,政府の方針としては,治安対策の意味をもつ士族授産事業は別格として,その他はすべて戦線縮小の対象としていたようである.しかし,財政再建のための松方デフレ期に事業の縮小が実際に進められたのは,(3)の内務省の公共土木事業と(4)の農商務省の勧業行政の二つにとどまった.(1)の官営事業が既定方針の通りに民間事業家の手に払下げられるに至ったのは松方デフレ終了後のことだったし,(2)の海運助成に至っては後段でもふれるように折からの対外緊張の高まりと1881(明治14)年政変の余波でかえって拡大される始末であった.
 こうした次第であったから,物価の低落や政局の変転に伴い諸省の予算増額要求が次々と登場してきて,松方の健全財政主義が重大な挑戦にさらされることになるのも,またその際戦線縮小の実害の大きかった内務省と農商務省が大蔵省攻撃の先陣に立ったのも,いわば自然の勢いといえよう.こうした要求に対し,大蔵省はその政治的含意の大小強弱に応じてあるいは増税によって対処し,あるいは若干の予算増額は認めるもののその制度化は断然拒否するといった硬軟両様の戦術を駆使し,健全財政の根幹だけは断然守ろうとする.そうした諸省間の攻防戦は当然に派閥間の対立抗争とも不可分の関係にあるから,その対立競合は相互に波及して多次的に拡大するであろう.その一環としての農商務省の積極的勧業政策――『興業意見』――をめぐるドラマがここでの主題である.
 ところで,1881(明治14)年の政変から1890(明治23)年の帝国議会開設に至る時期に展開された派閥間ならびに諸省間の地方経営をめぐる対立競合関係の多次的拡大については,御厨の画期的研究『明治国家形成と地方経営』1)にほとんどつくされている.本稿も勿論この御厨の研究に全面的に依存している.だが,御厨の研究をもってしても,農商務省の積極的勧業政策をめぐる対立競合のドラマの中で西郷農商務卿の演じた役割はまだどうも明快ではない.ごく常識的にいって,これでは政策決定過程の分析としていささか不十分ではないだろうか.そこで,ここではこの点に注目して,西郷農商務卿を軸としてドラマを再構成してみることにした.そうすることによって,果してドラマはどのように変貌し進行するであろうか.幕を開けよう.

 Ⅱ 農商務省の創設

 勧業関連の財政支出は新政府の創設とともに始まってはいるけれども,その多くはどちらかといえばad hocな性格のもので,政府が殖産興業政策としてこれを計画的に展開するに至ったのはいわゆる大久保政権下の1875(明治8)年のことであった.しかし,西南戦争のインフレによって輸入超過と財源難の問題がおこり,大久保利通(1830―78年,薩摩)の遭難死去もあって,殖産興業政策の華麗な展開はごく短命に終り,政府の内部にも勧業政策の非効率に対する反省,やがては財源難から進んで公然たる批判までおきてきた.主として民力休養の立場からする民間からの批判はいうまでもない.
 管見のかぎりでは,その第1着はどうやら内務卿就任早々の伊藤であったようだ.伊藤の批判と提案は直接みることはできないが,伊藤の産業資金貸与法の立案指令に対して反論を試みた内務大書記官河瀬秀治(1841―1909年,宮津)の建言書2)(1878<明治11>年11月)にこれを窺うことができる.「従来政府ニ於テ資金貸与ノ事ヲ挙行セラルルハ,固ヨリ民業興起ヲ希図セラルルニ出ルト雖モ,一般ノ人民ヨリ之ヲ見レハ其事偏厚偏薄ノ観無キヲ得サルヲ以テ,其公平ヲ失スルノ誹ヲ招クコト無キニ非ス,又干渉主義ヲ咎ムルノ論者ハ,或ハ其事ヲ以テ却テ民業ヲ妨碍スルモノナリト做スニ至リ,其他ノ評論モ亦一ニシテ足ラス,且従前貸資ノ処分ニ於ケル一定ノ例規ナク,各自其法ヲ異ニスルヨリ,勢ヒ錯雑紛擾ノ弊ナキヲ保シ難ク,因テ将来之カ標準ヲ設ケ,以テ其偏厚偏薄ノ患ヲ防キ,錯雑紛擾ノ弊ヲ免カレシメンカ為メ,今回貸資規則立案ノ事ヲ秀治ニ命セラル」とある.これに対する河瀬の反論は「其金額タル皆人民一般ノ租税ヨリ出ルモノニシテ,之ヲ貸与スルハ乃チ一人又ハ一社ノ望ヲ充タシムルノ状アルヲ以テ,…仮令幾百条ノ規則ヲ制スルモ,到底貸与ノ施行ヲ廃止スルニアラサレハ,決シテ偏厚偏薄ノ外観ヲ免ルヘカラス,故ニ若シ唯此患ヲ免ンコトヲ切望スルトキハ,則断然貸資ノ方策ヲ廃止スルノ一法アルノミ」というにあった.
 ここでの伊藤の意図は,大久保―大隈ラインで進められてきた勧業政策そのものに軌道修正を加えるというよりは,むしろ大久保没後に強化された内務省勧業行政における大隈―河瀬ラインに楔を打込んで省内における彼自身の主導権を高めることにあったようである3).しかし,大隈をバックにした河瀬の強い抵抗にあって伊藤はその意図を放棄し,産業資金貸与法はそれきりになった.しかし,その意図がどうあれ,内務卿の伊藤が公然と政府の勧業政策を批判したとあっては,省内に潜在していた勧業政策再検討の声が表面化してくるのは自然の成り行きである.1879(明治12)年には,石橋を叩いて渡る松方勧農局長も「勧農要旨」4)を草して,「政府以テ各般ノ民業ニ着手シ事ヲ好ミ功ヲ貪ホル如キハ,反テ人民自為独立ノ気勢ヲ挫折シ百事政府ニ倚頼スルノ風習ヲ養成シ,或ハ人民営業ノ利ヲ妨害シ,大ニ国内ノ生殖力ヲシテ減退セシメ,其弊害タル得テ測ルヘカラサラン」と批判し,したがって「事務ヲ施設スルニ当テ,宜ク政府ノ永遠保護管理ヲ要スヘキモノト,一時ノ仮設ニ出テテ竟ニ之ヲ収縮変更スヘキモノトノ一大関節ヲ分画セサルヘカラス」と主張する.
 この線に沿って,1879(明治12)年11月には『勧農局農事月報』第6号の附録に「勧農局主務目的及臨時事業要目」5)を発表し,主務と臨時事業の別を明確にする.そこでは従来勧業政策の基軸とされてきた所管官営場所はすべて臨時事業とし,「其利益確着ニシテ人民ノ気嚮該業ニ傾向スル日ニ至レハ官営ヲ要セサルモノナリ」とする.いずれは官営廃止,民間への払下げが示唆されているわけで,1880(明治13)年11月の「工場払下概則」に先駆するものである.なお,1880(明治13)年3月22日の「勧農局分課及処務条例改定」6)では下総種畜場と三田育種場の2場は主務に組替えられている.その間の事情は今日のところ不明だが,あるいは今日の農事試験場設立への動きが部内で始まっていたのかもしれない.
 その主務とするところは,(1)開拓使所管の北海道を除く全国を12農区に分け,毎区担当委員を派出し実情を視察せしめる,(2)各地方毎郡両三名の老農篤志の人を選び農事上の会議および通信を興す,(3)農区共進会を開く,の三つである.これを要するに,松方は普及事業7)の組織的展開をもって農政の根幹としようとしたのであって,大久保―大隈の直接介入路線は放棄されたのである.この段階では勿論勧農局所管の行政分野にかぎってのことだが,これが勧業政策の全般に及ぶのはそれから僅か1年後のことであった.
 1880(明治13)年11月に大隈と伊藤の連署の「農商務省創設ノ建議」8)が採択され,翌1881(明治14)年4月7日には農商務省が発足した.そこでの大隈と伊藤の意図はその建議の文面にまったく明らかである.すなわち,「今回財政御改革ノ主旨タル,事務ノ繁ヲ省キ簡ニ就キ,善ク其緩急ヲ計リテ経費ノ節約ヲ行フニアルヲ以テ,啻ダニ経費ヲ省略スルノミニ止ラズ,併セテ百般ノ政務ヲ一層改良スルノ必要ナルハ言ヲ俟タズ.既ニ地方ノ政務改良ノ事ハ,載セテ第四十八号ノ布告ニ明カナリ.中央政府ノ改良モ,彼ノ工場払下ノ令達ノ如キ,其一端ヲ発スト雖モ,未ダ政務改進ノ基礎タル各省管掌事務ノ分合ヲ画定スルニ至ラズ.事務節略ノ令達アリト雖ドモ,是レ各省使ニ向テ為シタル令達ナルヲ以テ,其効力各省使限リニ止リテ,彼此相通ジテ行政ノ全局ニ及ボスヲ得ズ然リ而シテ事務ノ分合上最モ急要ト認ルモノハ,各省分任ノ事務中農商ニ関スル事務ヲ一省ニ集合スル是ナリ」.ここでは産業政策の積極面の展望はまったく示されることなく,緊縮財政の貫徹のみが一方的に主張されており,今回提案される農商務省の設立もそうした緊縮政策の一環たることが明示されているにとどまる.そうして,当然,農商務省の業務も緊縮路線に沿うものでなければならないわけだ.かくして,前述した松方農政の哲学や施策の方向がそのまま農商務行政全般に拡張適用されることになる.すなわち,「勧農勧商ノ実況タル,抑モ農商事務局第一ノ要務タル農商管理ノ事務即チ博ク奨励保護ニ関スル法制ヲ案ジ,一定ノ規則ニ拠リテ公平不偏洽ネク農商ヲ誘導スルノ事ハ,却テ第ニトナリ,稍ミ奨励保護ノ区域ヲ踰越シテ自ラ事業ヲ興起シ,若クハ資金ヲ貸与シテ直ニ農商ノ営業ニ干渉シ,僅々数名ノ農商ヲ庇保シ,其成績ヲ以テ他ノ模範ト為スニ因リ,其間識ラズ知ラズ一般ノ農商ト利益ヲ競争スルノ嫌避スベキ状態アルヲ免カレズ,宜ク此主義ヲ顛倒一変シテ農商管理ノ事務ヲ主ト為スベキナリ」9).
この勧業政策の転換は同年9月の財政政策の転換とともに伊藤,井上,松方らの緊縮派の完勝を思わしめるものであった.しかし,ことは決して単純に一方向にだけ進むものではない.大久保の没後,薩派は大久保の遺志継承を基本政略として長派に対抗し,政府主導の積極政策の推進を常に主張してきた.今回も同様で,薩派のドン黒田清隆は1880(明治13)年2月12日に「国家開設ヲ尚早トスル意見案」を提出し,国会開設よりも殖産興業を優先させるべきことを主張している.確かに,1880(明治13)年夏に展開された財政論争の中で薩派の推した外債論,米納論はともに敗れ,万策つきて財源の面から薩派の積極政策は頓挫してしまい,その結果として秋には財政政策は好むと好まざるとにかかわらず井上,松方の主張してやまなかった緊縮路線に落込んでしまうのだが,だからといって,これによって薩派がその積極政策を放棄してしまったわけでもなければ,またその閣内における影響力が失われてしまったわけでもなかった.薩派は折あらばと巻返しの機会を狙っていたし,予算の削減には強い抵抗を示した.大隈と伊藤の建議が農商務省創設をめぐる表流を代表するものであれば,黒田の建議はその伏流を示唆するものとして等しく重要である.後段でみるように伏流はやがて地表に噴出して表流と激しく主導権を争うことになる.
 まず,ここでは黒田の説くところをみることにしよう.「今農業を盛にして以て民力を養ふは,則ち更に説あり.夫れ国益を図るは物産を起すに在り.物産を起すは農工商賈の業を勧誘するに在り.方今勧農勧商の官を設けざるに非ざれども,内務大蔵両省中の一局たるに過ぎざるのみ.人民勧誘の道を尽さざるに非ざれども,両省の事務甚だ広く且繁なるを以て,未だ力を此に専らにするに遑まあらず.因て以為く仏孛諸国の制に倣ひ,農商事務を管掌するの一省を設け,全国勧業の事皆此に専轄せしめ,長官を撰て其責に任じ,勧農勧商二局を併せ,人民勧誘の道を尽して,物産を興隆するに従事せしむべし.苟も斯目的を達せば田野日に闢け,物産日に殖し,山には礦物の利を起し,海には魚塩の富を致し,製造益々盛んに,貿易益々繁く,土地の便尽さざるなく,運輸の道通ぜざるなく,財源洞開、国本充実す.何ぞ金貨の昂貴を憂へん,何ぞ米穀の沸騰を慮らん,何ぞ輸出入の不平均を恐れん.然ども議者或は更に一省を増さば,費用給せざるを以て之を難ずる者あらん.夫れ国家の物産に富めるは,世界万国の共に称する所たるも,国民の意を興産に注ぎしは僅々四五年間の事のみ.遺利未だ悉く挙らず,実益未だ悉く興らず,殆ど金庫を鎖して其の廃棄に任すと異なるなし.今専省を設けて之に従事し,其経費の如きは国債を募り,紙幣を製して以て之に充て,其長官たる者をして償還の責を負担せしめば,何ぞ費用の給せざるを憂へんや.況や全国の人民鼓舞抃躍競て産業に就くときは,無頼不平の徒無用の弁を費して,不急の務に従ふ者漸く其勢力を減殺し,実用の人材始て世に出つるに至らん.是時に於て国会を開く未だ晩しと為ざるなり」10).
 こうした緊縮派と積極派との対立の他に,政策転換によってもっとも割をくわされた内務省や農商務省の官僚達の中でこれに対する不満が高まってきたであろうことも推察にかたくない.まして,緊縮派の施策が行き詰ったり,矛盾を露呈してくるようにでもなればなおさらのことである.松方農政の根幹たる普及事業は試験研究機関のバックアップを欠いていたから,こうした徒手空拳の普及事業にはおのずと狭い限界があった.上山が報じた岐阜県の事例「談論常ニ同一ニシテ会一回ヨリ進歩セサルナリ」11)はいわばその当然の帰結でもあった.しかも,ちょうどその頃,農商務省では大輔品川弥二郎(1843―1900年,長州)が1881(明治14)年の政変にからんだ長派の派閥的感情から緊縮派の政策路線とはまったく逆行する共同運輸会社事件をひきおこしつつあった.これも省内下僚の不満をさらに刺戟したことであろう.おそらく省内では積極的勧業政策の復活を高らかに歌い上げる英雄の出現が待望されたことであろう.その役割を演じたのが前田である.興業意見作成時の農商務省内の異常な熱気はこれを物語るものであろう.
 また,勧業政策の転換は,「府県勧業課を廃すべし」とする田口卯吉(1855―1905年,幕臣)の経済政策批判への同調を意味する12).それは薩長藩閥政府がもっとも嫌悪するところの自由民権派の経済政策への接近をも意味するであろう.薩長藩閥政府と自由民権派との対立抗争が激化してきた時,政府高官にとってこれは確かに大きな心理的矛盾といわねばならない.その矛盾故に,政府内部の強硬派は気分として積極的経済政策の方向へ傾く,ということもあったかもしれない.それはともあれ,この段階においても政府の内部に積極的勧業政策の主張が依然としてきわめて有力だったことは確かである.

 Ⅲ 前田正名

 前田正名(1850―1921年,薩摩)13)は1869(明治2)年夏に白山伯ことコント・モンブランに伴われて渡仏し,1877(明治10)年3月帰国するまで7年余パリに滞在していた.この間,1870(明治3)年7月19日には普仏戦争が勃発し,前田はパリ籠城を体験した.普仏戦争の帰結は万里波濤を越えたわが国にも大きな物的ならびに心的影響を及ぼすことになるのだが,前田に与えた精神的衝撃もまたはなはだ深刻なものがあった.前田は戦中戦後の体験を通じて西欧文明の絶対性という重圧感から解放され,「欧州文明企及の確信」を得たと書いている.こえて1873(明治6)年,岩倉使節団米欧回覧の際,大久保は帰途単身再びパリを訪れ,その折に鹿児島出身の留学生たちがサンゼルマンにおいて大久保を囲んで郷友会を開いた.この時前田は大久保の目にとまったのであろう.「明治七年,政府は経費節減を行い,一時海外留学生をも召還せしが,前田正名を特に仏国公使館書記生に任じ,勧業寮御用掛を兼ねしめ,専ら殖産興業の調査に従事せしめたり.爰に於て,前田は仏国農商務省に就き,鋭意研究する所ありき」14)ということになった.この時以降,前田は当時農商務次官のEugene Tisserant(1830―1925年)に師事し,その指導をうけた.これは後年松方がパリ万博の折大蔵大臣Leon Sayの指導をうけたのと対比して,思うところが多い.
 そのパリ万博が前田に一つの転期を与えた.前田はTisserantに依頼して事務員待遇ということで博覧会事務所に入り,万博運営を学ぶとともに日本の万博参加の推進を計画した.9月,井上の家族同伴でのパリ滞在の機会をとらえて,井上に万博参加を説き,井上の賛成をえた.12月に帰国の命令を受けた前田は,翌1877(明治10)年3月に8年ぶりで故国の土を踏んだ.この折,前田が持ち帰った種苗を旧薩藩邸跡に植えたのが三田育種場の創設である.西南戦争中という非常事態にもかかわらず,大久保の決断によって万博参加が決定され,前田はパリ万博事務官長に任ぜられた.同年10月前田は再度渡仏し,仏国博覧会副総裁を命ぜられた松方も翌1878(明治11)年2月には渡仏する.万博中,前田と松方は同じパリの屋根の下で一緒に仕事をしていたわけだ.
 1879(明治12)年5月,前田は大蔵省御用掛,商務局勤務を命ぜられて帰国するが,帰国後間もない10月に『直接貿易一斑』(1881<明治14>年11月公刊)を提出する.居留地の外国商社貿易が支配的であった当時にあっては,直接貿易の振興はきわめて重要な政策問題であったが,これを推進するための前田の政策提案は次の三つであった.
 (1) 海外の荷為替と内地の前為替を取扱う政府出資の帝国銀行を設立すること.
 (2) 支店を欧米諸州に設け,直輸出物品販売に当る貿易会社を設立すること.
 (3) 製産者を団結せしめること.
 この直輸出論によって前田は大久保―大隈路線を行く企画官僚としての地位を不動のものとし,やがてこれを殖産興業論にまで拡大するのであるが,ちょうどその頃内務省勧農局では松方の手によって勧農政策の転換が進められていたことはすでに述べたところである.くしくも時を同じうして,勧農政策に関して大蔵省勧商局の積極政策と内務省勧農局の緊縮政策とが併進させられていたわけで,他日その衝突は不可避の運命であった.当時はまだ,政府内部の支配的意見はむしろ前者の積極派に与するものであり,後者の緊縮派がこれにとってかわるようになるのは翌1880(明治13)年の財政政策論争を経過した後のことである.
 1881(明治14)年政変がまさに吹き上ろうとする8月6日に前田は大蔵大書記官のポストで産業経済事情調査のため欧米出張を命ぜられるが,10月21日には松方大蔵卿15),西郷農商務卿等の人事が行われ,11月上旬には大久保―大隈路線の推進者たる前田は農商務大書記官兼大蔵大書記官に任ぜられ,農商務省書記局事務取扱として渡欧する.一面適材適所の人事ではあるけれども,やはり政変の波が前田の身辺にもおしよせてきたことを見ざるをえない.1883(明治16)年1月帰国した前田は「欧州産業経済事情調査報告」を提出する.また,前田が森有礼(1847―89年,薩摩)の紹介で高橋是清(1854―1936年,仙台)に会うのもこの年のことである.
 われわれもここでようやく主題にたどりつくことが出来た.1884(明治17)年に入って前田は「興業意見」の作成に全力を傾注する.当時の農商務省の熱気に満ちた雰囲気を高橋は「四,五十人の課員が前田君の精神に感奮して朝は暗いうちに提燈をつけて家を出で,まだ役所の門の開かない前から行って待っている.そうして精励刻苦夜は暮れてからでなくては帰らぬという有様で非常な能率を挙げた」16)と回想している.彼等は待望久しかりし積極的勧業政策の強力なイデオローグを前田に発見し,感奮したのである.
 『興業意見』未定稿がその定本とはまったく異なる構想のもとに準備がすすめられながら,最後の段階で大蔵省の強硬な反対によって重大な編纂方針の変更を余儀無くされ,ほとんどすりかえ同然のかたちで定本が同年12月に公刊配布されるに至った経過および未定稿・定本の差異は,有泉の画期的研究「『興業意見』の成立」17)につくされているので,定本からは削除されてしまった未定稿の「方法乙」,すなわち農商務省の「興業銀行設立方按」と大蔵省の「興業銀行条例草按」(明治17年草案)の対立点のうち興業銀行の営業にかかわるものにしぼって以下に述べることにする.大蔵省案による興業銀行の営業は不動産抵当の貸付(第14条),府県郡区の貸付(第23条),預り金及び尋常貸付割引等(第25条,第26条)の3種である.そのうち大蔵省政策の眼目が第2の府県郡区の貸付にあったことは,すでに多くの指摘するところである.「興業銀行条例草案説明」はこの第23条につきこう述べている.「道路開鑿,橋梁架設,荒蕪墾闢,沼沢乾燥,堤防修築,溝渠疏通其他学校病院ノ建設等全国到ル処其需用ヲ告ケサルハ莫シ,然ルニ府県若クハ郡区ニ於テ此等ノ事業ヲ起サントセハ,一時ニ巨額ノ資金ヲ要スヘク決シテ尋常歳入額ノ得テ支弁スル所ニ非ス,又之ヲ人民ニ賦課シ若クハ之ヲ資本者ニ称貸スルモ亦容易ニ非サルナリ,是ヲ以テ或ハ資本ノ得難ヲ以テ有益ノ事業ヲ抛棄シ或ハ資金ヲ国庫ニ仰キ若クハ府県債募集ノ許可ヲ請願スルニ至レリ,是レ宜シク適当ノ方法ヲ以テ資本ヲ得セシムルノ道ヲ開カサル可ケンヤ,今ヤ興業銀行設立ノ日ニ至ラバ,府県庁又ハ郡区役所ニ於テ起業ノ為メ資金ヲ要シ特ニ政府ノ許可ヲ受ケタルトキハ,興業銀行ヲシテ要抵当又ハ無抵当ニテ貸附ヲ為スコトヲ得セシムヘシ」18).つまり興業銀行の任務は地方土木費補助の肩替りだというわけである.別言すればかの悪名高き第48号布告19)の再版を意味している.これは来るべき国会開設にそなえて地方経営の整備をめざしている内務省にとってはなはだ挑戦的にうつったことであろう.
 これに対して,農商務省の意図するところは殖産興業資金の供給であって,その貸附着手の順序は,(1)生糸・茶・砂糖への短期貸附,(2)煙草・紙・漆器・菜種・海産物・牧畜・紡績・織物・雑貨他への短期貸附,(3)山林・道路・疏水・開拓・地質改良への長期貸附,(4)運河・造船・築港・堤防への長期貸附となっており,しかも「当分ノ内蚕糸茶砂糖ノ三業ニ限ルヘシ」となっている20).そこでは貿易関連の在来産業の振興が眼目となっている.かように同じく興業銀行とはいっても両省の眼目とするところは違っていたし,またその所管をめぐる対立もあった.従ってこの案が参事院の会議に上ると非常な議論があって,結着の糸口は容易に発見できない.
 こうなってくると,『興業意見』未定稿の処置がもう一つ問題となってくる.参事院で係争中の案件に関して農商務省がその構想を一方的に発表することには当然大蔵省は賛成できないし,また未定稿には各所で鋭いデフレ政策批判が書き込まれているが,政府の刊行物の中で政府が現に推進中の政策を正面きって攻撃することは許されることではないからである.配布された未定稿が回収され,大幅な削除の結果ほとんどすりかえ同然のかたちで定本が公刊配布されることになったのは当然の帰結といわねばならない.前田の構想そのものである『興業意見』未定稿は有泉によって発見されるまで『前田正名関係文書』の中に長く埋もれることとなった.
 さて,参事院での両省間の対立論戦は蜒々として翌年に持ち越されたが,やがて西郷農商務卿と松方大蔵卿の薩派同士のトップ会談を経て,「銀貨ト紙幣ノ間大ニ価格ノ平準ヲ失ヒ物価高低ノ変常無キニ際シ仮令ヒ之ヲ設ルモ反ツテ失敗ヲ来タスノ恐レアリ」21)を口実として大蔵省の「17年草案」は取り下げられ,両者間の懸案は一時棚上げとされた.松方ともあろう者がこの理由にならない理由をあえて理由としてまで「17年草案」を取り下げたということは,この薩派同士の会談が高度の政治的判断を含む内容のものであったことを示唆している.そのことについては後段で述べることとして,ここでは事実関係の推移に注目したい.
 5月13日に1886(明治19)年1月1日よりの銀紙交換の開始を建議した大蔵省は,6月6日の第14号布告を待って,7月24日には「日本興業銀行条例草案」(18年草案)を提出する.これを「17年草案」と比較してみると,営業に関しては府県郡区への貸附を府県郡区町村への貸附(第25条)と拡大したのみで他に実質的な変更は加えられず,政府の監督に関して「日本興業銀行ヨリ借用シタル資金ヲ以テ起ス所ノ事業ハ内務卿農商務卿及ヒ大蔵卿之ヲ監督スルモノトス」(第47条)と事後的監督権を認める譲歩を示すにとどまる22).当然,両省間に再び論戦が開かれることとなった.しかし,両省間の対立は次第に妥協含みの対立の方向へ移行していったとみえて,9月には参事院の委員会で妥協案が成立する.その要点は次の二つである23).
 (1) 草案第25条の「府県又ハ郡区町村ノ公益ニ係ル事業ヲ興ス為メ資金ヲ要シ特ニ政府ノ許可ヲ受ケタルトキハ」が委員会案第27条では「府県区町村ニ於テ政府ノ許可ヲ受ケ資金ヲ借入ルトキハ」と「公益ニ係ル事業」が削除されたこと.
 (2) 草案第29条の「日本興業銀行ハ第25条ニ記載シタル事業及ヒ農工事業ヲ興作スル資本ノ外バ一切貸附ヲ為ス可カラス」が,委員会案第30条では「農工事業ヲ改良作興スル資本及第27条ニ記載シタルモノノ外ハ一切他ノ営業ヲ為スコトヲ許サス前項農工事業ハ主務卿及大蔵卿千於テ地方物産ノ状況ニ依リ時宜ヲ度リ其緩急ヲ区別シ興業者若シクハ該資本取扱会社ヘ貸附ヲ為サシムヘシ」と変更されたこと.
 この委員会の妥協案もついに陽の目をみることなしに,興業銀行設立の構想は放棄されてしまうのだが,その間の事情については後段に譲ることとし,ここではまずその要因の一つともなった前田の農商務省改革とその帰結について述べておかねばならない.
 『興業意見』未定稿は殖産興業政策の具体的展開として農務21,商務21,工務19,庶務11部の合計72項目の施策を挙げ,これを詳論している24).これが「方法甲」であって,「方法乙」の興業銀行構想はその資金的裏付けであった.さて,これら施策を実施すべく,前田は1885(明治18)年1月末から農商務省の改革と府県勧業行政の統制強化に乗り出す.改革の内容は第1に書記局の拡充と書記局への権限の集中であり,第2に徹底した経費節減による事業費の捻出であった.だが,前田は施策の実施に熱中するの余り改革に当ってふれるべからざるところにまで踏込んでしまった.他の局長達の職権をおかしてこれを前田自身に集中したこと,職員俸給1カ月分を削減したこと等はこれである.ためにかつては前田を農商務省のエースと歓迎した省内各層も次第に前田に対する不平不満を高めていった.また,府県勧業行政の統制強化はしばしば農商務卿の職権外に逸脱し,また「各府県書記官及ヒ郡長ハ農商務省官吏ヨリ選択」など好んで他省とのフリクションの種を播くものであったから,農商務省独善の批判をまねくことになった25).
 大輔の交代を契機にそれまで省内に潜在していた不満が表面化し,10月には岩山敬義農務,品川忠道商務,富山冬三工務,奥青輔水産の4局長が連名の意見書を西郷農商務卿へ提出して,個々に改革の撤回を求めた.さらに,12月22日に内閣制の創設に伴う人事移動で中正党の谷干城(1837―1911年,土佐)が農商務大臣に就任すると,4局長は再び意見書を呈し,「軽率主義の不経験者」が「机上ノ空論憶説ヲ以テ本省各般ノ実業事務ヲ一手ニ綜括セント」する弊をきたしたと改革そのものを露骨に批判し,「此時ニ乗シテ一刀両断ノ御処分」を要求した.薩長嫌いの谷はこれを容れ,前田は同月31日非職となった.農商務省は内紛によって自爆し,折角の積極的勧業政策もそれきりとなってしまった26).
 これが農商務大臣としての谷の唯一の仕事であったようだ.根が軍人で産業行政などにはまったく興味のなかった谷は,翌1886年早々に省内で孤立してしまい,伊藤の斡旋で在職のまま喜々として外遊してしまうからである.派閥バランスのためにこうした長官人事をおしつけられたということは重ね重ね農商務省とってまことに不運なことであった.

 Ⅳ 高橋是清

その画期的論文「『興業意見』の成立」を『史学雑誌』に発表した際,有泉は「高橋是清自伝』にある興業銀行条例案をめぐる農商務省と大蔵省の対立についての高橋の回想を大蔵省の「17年草案」をめぐるものと見て引用していた.ところが,その後拝司がこれは「18年草案」をめぐる対立の回想であることを明らかにしたので,有泉は同論文をその著書『明治政治吏の基礎過程』に収録するに当って,拝司の考証を全面的に受入れて自説に修正を加えた27).したがって,今日では高橋の回想は「18年草案」をめぐる両省間の対立の回想とみるのが定説となったと考えてよかろう.
 当初,私は,高橋の回想が「17年草案」をめぐるものであるか,それとも「18年草案」にかかわるものであるかの別は,事件の大きな流れにとって些細なポイントと考えていた.ところが,この一連のドラマの中で前田の上司たる西郷従道(1843―1902年,薩摩)や品川弥二郎の果していた役割が余りにも小さく霞んで見えてくることに疑念を持って,1885(明治18)年中に彼等が何をしていたかをあらためて調べてみた.その調査の結果は後段で述べるが,その結論と高橋の回想を照合してみると,高橋の回想は実は「17年草案」をめぐる対立の第1ラウンドと「18年草案」をめぐる対立の第2ラウンドの双方にわたっていると見るべきもので,これを時間の流れに沿って整理してみると,これまで端役のように見えていた西郷が実は陰で農商務卿たるにふさわしい大きな役割を演じていたのではないかという見方が浮び上ってきた.また,その延長線上で通説における松方と前田の薩派同士の対立抗争という図式にも別の理解を与えることができそうなことに気付いてきた.
 そこで,あらためて拝司論文を再検討してみることにした.拝司が高橋の回想を「18年草案」をめぐるものと断定した根拠は次の3点である28).
 (1) 高橋は「農商務省の計画は,地方を先にして中央を後にするの案で」と書いているが,農商務省の中で「地方興業銀行設立方案」が案としての体裁をととのえたのは1885(明治18)年にはいってからのことと考えられる.
 (2) また,高橋は「大蔵省案によれば,貸出しに際しては大蔵省の自由裁量により勝手に貸出し,その後の責任即ち監督,回収等については一切農商務省でやらねばならぬことになっていた」と書いているが,大蔵省の興業銀行案のうち貸付業務について農商務省の関与を認めたのは「18年草案」のみであった.
 (3) 参事院の審議過程で大蔵省側委員の加藤亘(銀行局長)の動議があって,委員の選定を選挙によることに変更されたが,投票の結果は高橋が最高点で選ばれたという一幕のあったことを高橋は書いている.ところが,1885(明治18)年9月30日付で参事院議長に提出された報告には「興業銀行条例全部付託修正委員ノ選ニ当リ」とあり,高橋の名が委員の筆頭に掲げられている.
 この3点についての拝司の考証はまことに美事であって異議をさしはさむ余地がない.しかし,「農商務卿は支那から帰ったばかりで,これまでの事情を知られないから,参事院議官が両卿の出席を求める前に,農商務省の主張と,大蔵省案との相違する点を,よく西郷農商務卿の腹に入れておかねばならぬ」29)ということで幹部が急遽西郷へのレクチャーに駈けつけ,続いて省議が開かれるという一連の「事件が起ったのは,明治18年7月24日以降9月25日までの間であったと推定しうる」30)と拝司が結論している点には同意できない.その理由はこうである.
 西郷が伊藤らとともに天津条約を締結して帰国したのはたぶん4月下旬のことであったろう.御厨は「2月28日から4月28日までの丸2カ月間,制度取調局長官たる伊藤と農商務卿たる西郷が清に赴き,日本を留守にした」31)と書いている.したがって,拝司の推定する「7月24日以降9月25日までの間」は帰国後すでに3―5ヵ月を経過していることになる.後段で再述するが,帰国してから7月までの間西郷が農商務大輔の品川には委せることのできない共同運輸会社事件収拾の最終的なつめで多忙であったろうことは事実である.しかし,だからといって,西郷が同じく農商務省の重点政策案件たる興業銀行条例に関する農商務省の主張と大蔵省案との対立点を3―5ヵ月もの間まったく報告も受けずにいたとは官庁組織の常道に照らして到底信じられない.やはり前述した西郷の帰国に始まる一連の事件は帰国直後の4月下旬から5月上旬にかけて起ったと考えるのが自然であろう.当然,そこでの大蔵省案とは「17年草案」のことでなければならない.
 高橋は「その後聞くところによれば,西郷さんから松方さんへ話があって,ついに大蔵省はこの案を参事院から撤回したということであった」32)と書いている.これははなはだまぎらわしい表現である.「17年草案」は西郷と松方とのトップ会談で銀紙交換のめどのつくまで棚上げということになり,参事院から撤回された.その経緯は高橋も詳細承知していたはずだから,高橋のいう「この案」が「17年草案」であるならば,その結末は高橋にとって「その後聞くところによれば…」ではありえなかったはずである.その後,余りにも短い棚上げの冷却期間を経て,7月には「18年草案」をめぐっての両省間の対立の第2ラウンドが開始された.9月には参事院の委員会で両省間の妥協案が成り,10月にはこの妥協案が参事院本会議にかけられたが,高橋はその前途をみとどけることなく,「専売商標保護に関する現法実視の為欧米各国へ被差遣候事」で11月24日にはアメリカへ向けて出発した33).したがって,その結末は高橋にとって「その後聞くところによれば…」であったわけである.また,参事院本会議での審議の経過がどのようなものであったにせよ,大蔵省が委員会の妥協案を道連れにしてその「18年草案」を参事院から撤回するに当っては,「松方さんから西郷さんへ話があって」と運ぶのが物事の筋道であろう.
 かように高橋の回想には「17年草案」をめぐるトピックと「18年草案」にかかわるトピックとが混じって語られているのである.それはこの種の回想談にありがちのことであって,個々のトピックはきわめて正確に書き上げられていることにむしろ注目すべきであろう.

 Ⅴ 品川弥二郎

 1885(明治18)年の前半に推進された前田の農商務省改革は,一応の成果はおさめたものの,一方では他省との間に摩擦を生ぜしめ,農商務省独善の批判を受け,他方では省内不平派を刺戟して彼等を反前田運動に結集せしめ,同年の後半にはついにそれが表面化して前田の命とりとなった内紛の種を播く仕儀となった.これはたしかに前田の政治情勢を捉える眼識の不足と熱血漢にありがちな暴走癖によるものではあろうが,しかし,だからといってすべてが前田一人の責だとみることはできない.暴走しがちな前田を抑制しつつ省内の融和を計ることは農商務省大輔たる品川や農商務卿たる西郷の当然の責務であることを思えば,彼等の省内統制の失敗の責もまた問われねばなるまい.
 3月某日,病床にあった品川は病をおして各局長を集め「卿輔各局長以下満省ノ吏員協同一致」34)を求めたとのことであるから,彼なりに一応の努力はしたのであろう.しかし,品川が果して前田の産業振興政策構想の円滑な実現のために全力投球したかとなるとはなはだ疑わしい.なぜならば,当時品川は同じ長派の外務卿井上馨と組んで自ら仕掛けた共同運輸会社事件でまったく窮地に立たされていたので,おそらく品川には他を顧る余裕はなかったであろうと推察されるからである.ことによると,品川の病気もその心労のためであったかもしれない.
 共同運輸会社事件の経過はおよそ以下のようである.
 「大約三面より三菱を圧倒すべき一大汽船会社を起すべき計画の出で,一に近来隣国に事多く[筆者の注:1882(明治15)年7月,韓国京城で反日暴動,壬午事変おこる],一層船舶の便宜を増さざるべからずとし,二に三菱が大隈の援助にて拡張し,其の一党を援助し,政府に反抗するを以て,極力之を倒さざるべからずとし,三に三菱との競争に敗れたる船舶会社が共同して之に当らざるべからずとし,関係者が井上を繞りて頻りに運動し,井上が熱中して品川に勧め,品川が更に熱中し,管船局長塚原周造に調査を命じ,共同運輸会社の創設に決定す」35)というのが事件の発端である.共同運輸会社は資本金600万円(うち260万円は政府出資)をもって1883(明治16)年4月に開業し,船舶24隻,約26,000トンをもって三菱の27隻,約36,000トンに対して決戦を挑んだ.しかし,三菱側が社長岩崎弥太郎の下に一致団結して事に当ったのに対して,寄合世帯の共同側は社内外に融和を欠き,社内も株主の別に派閥を生じ,問屋の末にまで及んだというから,「三菱も懊悩すれど,共同運輸は費用に比して効果挙がらず,勝利を得るの絶望なるを覚ゆ.・・・井上も,品川も,当初の意気込に似ず,漸く沈滞し,漸く持剰まし,進むに進まれず,退くに退かれず,身を処するに惑ふ.・・・初め共同運輸に賛成せし者も,勝利の覚束なきを見,殊に薩の吉田清成は井上に大輔となりて快からず,茲に井上の徒らに三菱と争ふの愚劣なるを説き立て,能く反駁する者なし.尚ほ前より三菱側にて大官に親しき者,中にも岡本健三郎が頻りに奔走し,日一日共同派の塁壁を切り崩す」36).事ここに至ったのを見てとって,これまでは専ら品川大輔に一任し,形勢を傍観してきた西郷も1885(明治18)年1月には調停に乗り出すことになる.西郷の調停で一渡両社間に競争制限の協定が締結されるが,僅の3週間で協定は破れる.こえて7月,西郷は両社合併の内訓を発し,ついに合意なり,9月26日には両社合併して日本郵船会社を設立する許可がおりた.また,政府側でも同日付をもって当面の責任者ということで品川が駐独公使に転じ,井上の批判者だった吉田清成(1845―91年,薩摩)が農商務大輔に就任した.ここにさしもの共同運輸会社事件も一件落着したわけだ.結局,長派の海坊主退治の策謀は不成功に終り,長派はその出血を最小限度にとどめえはしたものの薩派の西郷に大きな借金を作ってしまった.

 Ⅵ 西郷従道

 大輔の品川が共同運輸会社事件で進退まったく谷まり他を顧る余裕を持たなかったであろうと推察される事情はおよそ前述のようである.では卿たる西郷はこの間何を考え,何をしていたのであろうか.
 1873(明治6)年政変では兄隆盛と袂をわかったこと,1881(明治14)年政変では黒田の退陣を決定づけたこと等,大事に当っての西郷の政治家としての行動にはわれわれの理解をこえるところが少なくないのであるが,興業銀行と省内機構改革という農商務省にとっての大懸案をめぐる西郷農商務卿の行動についてもまた同様である.ここではとりあえず三宅の西郷人物評をあげるにとどめておきたい.
 共同運輸会社事件をめぐって三宅はこう書いている.「西郷が卿として何を為しつつありたるやは不可解の限りなるが,西郷の性格は後に至りて判明を加ふ.彼は大隈の憎むべきを覚えず,三菱の倒すべき者なるを考へず.さりとて,同僚の大隈を罵り,三菱を倒すべきを言ふに反対せず,品川の為す所に賛成し,之を奨励するを怠らず.西郷の眼には興るべき者が興り,倒るべき者が倒れ,其間人力の及ばざる者あり.興る者をして興らしめ,倒る者をして倒れしめよ.若し自身の力にて為し得べきあらば,之を為すに躊躇せざるのみ.騎虎の勢なるは,孰れが是,孰れが非なるを知らず.敵に咎むべき事あれば,褒むべき事あり,味方に褒むべき事あれば咎むべき事あり,是非得失は勢の赴く所に任かすの外なし.苟も我が力を以て為すべきに臨まば,或は進んで斡旋することあるべく,之に先んじて各自の為す所に任かさんとす.西郷の力は共同及び三菱の共に疲れて苦む際に顕る」37).

 三宅のこうした西郷観がどれほど正鵠を射たものであるかを検討すべき材料をもたないので,ここでは一応三宅の説くところに従うことにしよう.その上で,ここで語られている長派と三菱との対立抗争を農商務省と大蔵省の対立,あるいは農商務省内部の前田派と反前田派の抗争に置き替えて読んでみるのは確に興味ある視角といえよう.だが,全面的にこうした見方を採ることには躊躇を感ぜざるをえない.その理由はこうである.(1)品川が共同運輸会社事件に窮して,他を顧る余裕を失っていたことは,西郷とても十分承知していたはずである.(2)共同運輸会社の件は長派の井上―品川の線でいわば外から農商務省に持込まれたものであったのに対して,興業銀行や機構改革の件は農商務省の内発的な政策推進に関するものであったから,同じく農商務省の所管事項とはいっても,卿たる者の立場からみればその性格は著しく異なっているといえる.また,大蔵卿の松方も農商務大書記官の前田も西郷と同じ薩派の人間であって,薩派内部の亀裂は策謀家の多い長派のよく乗ずるところであろうことは,西郷も知り過ぎるほどよく知っていたはずである.(3)それにもかかわらず,西郷が農商務省の政策課題をケセラセラと観じて,窮地の品川に一任し,形勢をまったく傍観していたとすれば,それは農商務卿として余りにも無責任の譏をまぬかれえないであろう.たしかに西郷は多くの事に茫漠漢であったけれども,事に当っては決して無責任漢ではなかった.そのことは高橋是清の回想の中でも明らかなところである38).
 前田にとって不幸なことには,西郷は1884(明治17)年12月から1885(明治18)年4月にかけてはなはだ多忙であった.1884(明治17)年12月4日に韓国京城で甲申事変が勃発した.事変は伊藤―井上―駐韓公使竹添進一郎(1841―1917年,肥後)の線で韓国の政争に介入したことに端を発するものであったが,結果は惨敗に終った.事態収拾のため井上外務卿らが京城にとび,1月9日には韓城条約が締結されたが,この条約が今度は国内に大きな波乱をまきおこすこととなった.「事件の内容上,井上外務卿も余り強いことがいえず,将来の日韓友好を表看板にして控え目の賠償要求で締結したから,清国軍が日本の公使館に発砲し,日本人非戦闘員を殺しただけを知っている日本国民が清国討つべしと騒ぎ出し,薩摩出身の軍人が急先鋒で腰抜けの伊藤や井上をやっつけろ,殺してしまえとまで連呼して開戦論を沸騰させた.当時,従道は既に薩摩の代表人物でもあったので,この開戦論を抑える為もあって,伊藤博文を熱海に訪い遣清大使の正使を説得し,自ら副使を買って出て「自分は国際法上の事は少しもわからん.談判の相談に乗ろうというものではない.談判は貴公のよいようにされるが宜しい.ただ大変むずかしい時だから事後の責任を分担したいので一緒に行こうというのじゃ」と申し出たので,伊藤も意を決し清国差遣の正使の腹を決めたということである」39).こうした経緯で西郷は伊藤とともに2月28日横浜を発して清国に向い,談判難行の末ようやく4月18日に天津条約を締結することができた.伊藤らの帰国は4月28日のことである.高橋が「ちょうどこの時西郷農商務卿が支那から帰って来れた」と書いているのはこの時のことである.
 以上のような次第で1885(明治18)年生月一杯まで韓国問題処理のために,西郷は陸軍中将として,参議として,また薩摩の重鎮としてきわめて多忙であったと推察される.その皺寄せで流石の西郷も農商務卿としての省務にまでは十分手がまわりかね,意図するとせざるとにかかわらず結果的には省務は品川大輔に一任する形になったのであろう.ちょうどその間,参事院では興業銀行問題をめぐる農商務省と大蔵省との係争が火花を散らしていたし,また農商務省の中では前田の機構改革が着手されていた.後日,後者が前田の命とりとなったことを思えば,そのタイミングの悪さが前田のために惜しまれてならない.
 西郷と松方のトップ会談で興業銀行問題は「紙幣・銀貨ノ差アリテ通貨価格動揺中」40)につきという奇妙な口実を設けて銀紙交換の実現まで棚上げということになった.然るべき史料あってのことではないけれども,薩派の重鎮同士のことだから,たんに棚上げの相談だけをしたのではあるまい.おそらく諸般の政治情勢の分析とその対策の基本に関する腹蔵ない意見の交換が行われたことであろう.あえて一つのシナリオを書いてみるならばこうである.
 (1) 興業銀行問題をめぐって農商務省と大蔵省とがこのまま対立を続けるならば,人をして薩派内部の亀裂を思わしめ,策謀好きの長派に乗ずべき隙を与えることにもなりかねない.薩派としてこれはなんとしても避けなければならない.
 (2) 担当部局は農商務省と大蔵省の対立抗争を専らいいたてているけれども,実は両省は根本の興業銀行創設という点では一致している.むしろここでの根本的な対立は地方土木費補助の予算増額を要求し続けている長派山県有朋(1838―1922年)の内務省と,これを興業銀行からの融資に振替えようとする大蔵省との間のものである.この際宜しく両省は早期妥協の方向で進み,長派の掌中にある内務省をして漁夫の利をえさしめてはならない.
 (3) しかし,担当部局は現在論戦でいきり立っているから,当面はまず懸案を一時棚上げとして,冷却期間をおくのが上策であろう.然る後,われわれはそれぞれ省内担当部局を妥協の方向へ誘導しようではないか.
 どうもその後の経過はこのトップ会談での合意の線に沿って進んだように思われてならない.レールはこの時すでに敷かれていたとみたい.5月13日に,松方は「交換着手ハ来明治十九年一月一日トシ,・・・」41)と建議し,大蔵省は直に第2ラウンドに備えていわゆる「18年草案」の準備に着手する.この「18年草案」は7月初めには内務省に内示されている42).農商務省に対しても同様だったに違いない.他方,農商務省においても地方興業銀行設立案など第2ラウンドへの準備が着々進められていたことであろう.そうして,西郷はここでもう一つの重要懸案たる共同運輸会社事件を全力収拾することになる.
 9月26日の日本郵船会社の設立と品川の駐独公使への転出をもって,さしもの共同運輸会社事件も解決をみたことはすでに述べたが,品川の転出がきっかけとなってこれまで農商務省の内部でくすぶっていた前田派に対する不平不満が表面化して内紛となった.折り悪しく,ちようどこの頃から政局は1881(明治14)年秋以来の懸案であった内閣制度創設をめぐって大きく揺れ動き出した.薩派の重鎮たる西郷は当然その渦中に巻き込まれたわけだが,農商務卿として西郷が同じ薩派の吉田農商務大輔と協力して内紛に動揺する省内の統制にどのように対処しようとしたのかは残念乍ら不明である.
 12月22日に内閣制度が創設され,西郷は海軍大臣に転じる.そうして,前田は谷農商務大臣の下で12月31目に非職となる.これを評して,御厨は「農商務省改革を中止させ西郷―前田ラインにその責任をとらせ放逐することを意味した」43)と書いている.こと前田に関しては確にそうである.しかし,これを西郷の責任追及とまで見ることには疑問が残る.仮に,当時,薩派が西郷の処遇を御厨が評する如く左遷の臭いあるものと受取ったとしたら,どうであろうか.彼等は反撃に転じ,共同運輸会社,甲申事変と連続して大味噌をつけたばかりの長派の井上の責任追及に立ち上ったことであろう.当時そうした気配が薩派の中にあったとはみえない.やはり西郷の海相就任は御厨の見るところとは逆にむしろ西郷の優遇栄転を意味するものと一般には観測されていたからではないだろうか.当時,農相のポストは,後年とは違って,閣内でのランキングも低ければ,また政治家にとって魅力のある椅子でもなかったのではあるまいか.中正党の谷に農相のポストを当てたのもそうした農相ポストの評価を含んでのことであったろうし,また4年前の1881(明治14)年の政変の際に西郷があえてこのランクの低い農商務卿のポストを甘んじて受けたのも,実は薩派が黒田の不始末の責任をとったという意志表示の意味をもっていたと解したい.
 こうした農商務省の低い政治的位置付けと大久保時代の殖産興業政策の正統な後継者をもって任ずる農商務官僚の自負のすれちがいに,政策路線の対立とは別に創設当時の農商務省の悲劇があったのではないだろうか.

 Ⅶ 興業銀行条例案の結末

 高橋の努力と人望によって,1885(明治18)年9月には参事院の委員会で農商務,大蔵両省間の妥協がなり,委員会修正案が10月には参事院の本会議に上程された.参事院議官の安場保和は10月19日付高橋宛の書翰で「興業銀行条例第二次回云云ハ御承知ノ通リ議場ノ請求先ツ聞置ニ相成候.小生之考ニテハ当時府県債ノ方調査中ニ付右整頓之上相決候事ト存候.決而御心配ニハ及申間敷ト存候」44)と書いているので,委員会修正案による条例の参事院通過は有望と観測されていたもののようである.ところが,意外にもようやく妥協の成った折角の興業銀行条例も陽の目をみることなしにそれきりとなった.その間に重大な情勢の変化を思わざるをえない.
 しかし,この情勢の変化が具体的に何であったかを直接物語ってくれる史料は,今日までのところまだ発見されていないので,勢い前後左右からのインタポレーションにならざるをえない.1885(明治18)年の秋から冬にかけての情勢の変化をふまえて,大蔵省はおそらく次の二つの作戦を考慮したことであろう.
 (1) 10月以降,農商務省は省内抗争の激化によって統一性を欠き始め,やがて省としての影響力を喪失していったという情勢判断の下に,この際不満の残る妥協案を通すよりも,「18年草案」は取下げ,あらためて農商務省との妥協を排した新草案の通過を計るべきだ.幸い12月22日の人事で西郷も農商務省を去ってしまったのだから,松方が農商務省に義理立てをする理由もなくなってしまったわけで,大蔵省としても「18年草案」の取下げがやりやすくなった.
 (2) そもそも興業銀行の構想は地方土木費補助の増額を求めてやまない内務省の鋭鋒をかわす狙いのものである.興業銀行条例で大蔵省と農商務省との妥協成立をみてとった内務省は,これに対抗すべく壮大な国道・河川改修10カ年計画を盛込んだ「土木費準備法案」を用意している45).この内務省の動きを事前に封じ込めるためにも,既定の方針通りこの際は参事院での委員会修正案の早期成立を促進すべきであろう.
法案がついに陽の目をみるに至らず廃案となってしまったという動かし難い事実経過に照らせば,大蔵省の作戦は(1)であったと考えたいところだが,必ずしもそうだとばかりは速断できない.大蔵省の作戦が(2)であったとしても,内務省の強力な巻き返しに逢って,大蔵省の成立促進の意図に反して法案が不成に終るということもありうることだからである.最終的な判断はもちろん然るべき史料の発掘にまたねばならないけれども,当時内務省では山県―三島という強引かつ辣腕のコンビがことに当っていたこと,現に内務省は国道河川改修10カ年計画をふりかざして盛んに大蔵省に対してデモンストレーションをかけていたこと,しかも結果において笑ったのは内務省であったこと,といった一連の情況証拠からみて,内務省巻き返し作戦の可能性ははなはだ高かったように思われてならない.
ここで前掲の安場書翰に「当時府県債ノ方調査中ニ付右整頓之上相決候事ト存候」とあったのが思い出される.これは,7月24日の松方の「日本興業銀行条例発行ノ儀上申」に附された追伸に「本条例中府県区町村貸附ノ件ニ付テハ特ニ府県債条例ナル者御発行可相成儀ト被存候条本議御裁定ノ上追テ取調禀議可致候也」46)とあるのに対応するものとみてよいだろう.こと府県債条例となると,それは内務省の所管事項でもある.これまで興業銀行条例をめぐる大蔵省と農商務省のやりとりに外から熱い眼差しを送ってきた内務省は,えたりとばかりここを突破口として興業銀行条例問題にまで介入してきたのではあるまいか.今度は大蔵省と内務省のやりとりになるわけだが,結果からみて,大蔵省は内務省の国道河川改修10カ年計画とでも取引して「18年草案」を取り下げたのではあるまいか.

 *「松方デフレ下の殖産興業政策」(『経済研究』32巻4号,1981年10月)の加筆改題版である.
 [注]
 1) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,東京大学出版会,1981年.
 2) 『大隈文書』第2巻,268-74ページ.
 3) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,269ページ.
 4) 『松方伯財政論策集』(『明治前期財政経済史料集成』第1巻),522-32ページ.
 5) 農林省農務局編纂『明治前期勧農事蹟輯録』上巻,63-4ページ.
 6) 『明治前期勧農事蹟輯録』上巻,58‐63ページ.
 7) 普及事業の歴史と現状については,農林水産省農産園芸局普及部編『協同農業普及事業――その組織と活動』,全国農業改良普及協会,1981年,山極栄司『普及事業を考える』,全国農業改良普及協会,1980年,参照.
 8) 『明治前期勧農事蹟輯録』上巻,66-7ページ,および『伊藤博文伝』中巻,統正社,1940年,182-85ページ.
 9) 偏厚偏薄,干渉主義,民業圧迫という勧業歳策批判の論点は,伊藤の産業資金貸与法構想以来一貫して主張されているが,これは当時における自由民権派を含む民間評論家達の主張でもあった.また,初代の農商務卿としては井上の下馬評が高かったが,大隈派と目される河野敏鎌(1844―95年,土佐)が就任した.
 10) 『自由党史』(岩波文庫版)上巻,325-26ページ.
 11) 上山和雄「農商務省の設立とその政策展開」,『社会経済史学』41巻3号,1975年10月,51-2ページの注(9).また,上山によればその対策として岐阜県では植物試作場を設置し,農事会の議論に基づき試験を行うこととした,という.注目すべき情報である.
 12) 田口卯吉の政府政策批判については,小林正彬『日本の工業化と官業払下げ』,東洋経済新報社,1977年,43-5ページを参照.
 13) 祖田修『前田正名』古川弘文館人物叢書,1973年,に負うところが多い.
 14) 勝田孫弥『大久保利通伝』,祖田修『前田正名』,48‐9ページより再引用.
 15) 政変後の内閣改造人事の当初構想では伊藤の大蔵卿が予定されていたが,伊藤の内閣制度創設構想が破れ,太政官6部制を廃して参事院が創設され,伊藤はその議長に就任したので,大蔵卿の椅子が松方にまわってきたのである.御厨貴『明治国家形成と地方経営』,20‐4ページ参照.
 16) 『高橋是清自伝』(中公文庫版)上巻,194ページ.
 17) 有泉貞夫『明治政治史の基礎過程』,吉川弘文館,1980年,第2章の補論.
 18) 日本勧業銀行調査部勧銀史研究会編『日本勧業銀行法草案関係資料』(日本勧業銀行史資料,第1集),1951年,56ページ.
 19) 太政官布告第48号(明治13年11月5日)は「歳計ヲ節約シ紙幣銷却ノ元資ヲ増加」することを目的とするもので,(1)「地方税目中地租五分ノ一以内トアルヲ地租三分ノ一以内ト改定」,(2)「地方税ヲ以テ支弁スヘキ費目中」府県庁舎建築修繕費,府県監獄費,府県監獄建築修繕費の3項を増加,(3)「地方税ヲ以テ支弁スヘキ府県土木(即チ河港,道路,堤防,橋梁建築修繕)費中官費下渡金ハ来ル十四年度ヨリ廃止」を内容としている.
 20) 『興業意見・所見前田正名』明治大正農政経済名著集1,農山漁村文化協会,1976年,298ページの2,298ページの6.落丁訂正のため頁数の表示が乱れている.
 21) 『日本勧業銀行法草案関係資料』,96ページ.
 22) 『日本勧業銀行法草案関係資料』,125-32ページの「日本興業銀行条例草案」を参照.
 23) 上山和雄「前田正名と農商務省」,『日本歴史』1976年12月号,73ページ.拝司静夫「日本興業銀行条例」案の挫折と農商務省」,『金融経済』130号,1971年10月,13-4ページ.
 24) 『興業意見・所見前田正名』,216-98ページ.
 25) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,90-2ページ,および98-100ページ.上山和雄「前田正名と農商務省」,70-1ページ.
 26) 上山和雄「前田正名と農商務省」,75-6ページ.
 27) 有泉貞夫『明治政治史の基礎過程』,200ページの付記.
 28) 拝司静夫「「日本興業銀行条例」案の挫折と農商務省」,3-5ページ.
 29) 『高橋是清自伝』上巻,196ページ.
 30) 拝司静夫「「日本興業銀行条例」案の挫折と農商務省」,12ページ.
 31) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,101ページ.また『明治天皇紀』第6,吉川弘文館,1971年,400ページの18年4月の項には「二十八日 遣清特派全権大使伯爵伊藤博文参内復命す」とみえている.
 32) 『高橋是清自伝』上巻,203ページ.
 33) 『高橋是清自伝』上巻,207-8ページ.
 34) 上山和雄「前田正名と農商務省」,75ページ.
 35) 三宅雪嶺『同時代史』第2巻,岩波書店,1979年,178-79ページ.
 36) 三宅雪嶺『同時代史』第2巻,247-48ページ.
 37) 三宅雪嶺『同時代史』第2巻,179ページ.
 38) 『高橋是清自伝』上巻,206-3ページ.
 39) 西郷従宏『元帥西郷従道伝』,芙蓉書房,1981年,202ページ.
 40) 祖田修『前田正名』,103ページ.
 41) 「紙幣整理始末」,『明治前期財政経済史料集成』第11巻,254-55ページ.
 42) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,109ページ.
 43) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,121ページ.
 44) 上山和雄「前田正名と農商務省」,74ページ.
 45) 御厨貴『明治国家形成と地方経営』,117-18ページ.
 46) 『日本勧業銀行法草案関係資料』,97ページ.
 [梅村又次]