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松方財政と殖産興業政策

Title: 第Ⅱ部:第10章:明治前期における日本の在来産業ー綿織物業の場合ー
Author: 阿部 武司
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1983年
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第Ⅱ部:第10章:明治前期における日本の在来産業ー綿織物業の場合ー

はじめに

 明治初年の日本では,周知のとおり,政府の華々しい殖産興業政策に支えられて先進工業国の生産技術と経済制度が積極的に導入され,近代産業1)の育成が図られる.しかし,こうした施策の効果は直ちには現われず,松方デフレ末期の1885(明治18)年における非農林業従事者563万7千人(これは全有業者の25.2%に相当する)のうち,近代産業従事者が41万8千人にすぎなかった2)事実が示唆するように,明治前期3)の第2次および第3次産業は,ほぼ在来産業のみから成立っていたといっても過言ではない4).
 当時の在来産業を構成する業種はおびただしい数に及んでいたものと思われるが,1874(明治7)年における各種生産物の金額を取りまとめた表10‐1からうかがわれるように,そのうち醸造業と織物業がとりわけ重要な地位にあり,織物では綿と絹の2製品の比率が高かった.
 本稿は,明治前期における代表的な在来産業であった綿織物業の発展過程につき考察する.綿布生産は当時,全国各地で行われていたと見られるが,生産者をはじめ問屋,加工業者などは比較的狭い地域に結集して,いわゆる綿織物産地(機業地とも呼ばれる)を形成するのが通常であった5).以下では,まずⅠで,主な産地の生産高の動きを推定した表を提示する.Ⅱでは,それにもとづき諸産地を三つの型に分類した上で,各類型が持ついくつかの特徴について検討する6).

表10-1 1874(明治7)年における各種生産物の位置

 [注]
 1) 近代産業と在来産業の定義は,中村隆英『戦前期日本経済成長の分析』,岩波書店,1971年,20ページに従う.
 2) 同上書,338ページ.
 3) 本稿は,明治政府の成立から松方デフレ期までを明治前期と呼ぶ.
 4) 明治末の1912年でも近代産業従事者は非農林業従事者(全有業者の30.2%)中19.7%にすぎなかった(中村,前掲書,339ページ).1886―89(明治19―22)年のいわゆる企業勃興期以後,近代産業はめざましい発展をとげるが,少なくとも就業構造面では明治期を通じて在来産業が常に圧倒的な比率を占めていた.
 5) 後にもふれるが,綿織物産地は,綿布が生活必需品として大量に消費されるようになった徳川期から形成されてきた.明治末期以降,多くの産地で織布工程に力織機が導入されて,在来綿織物業は中小工業へと変身していくが,中小規模の綿布生産者が関連業者とともに特定の地域に結集するという特徴は今日に至るまで基本的に変化していない.産地が,綿織物業のみならず近代日本の在来産業ないし中小工業の多くの業種に見受けられることも付言しておく.
 6) 本稿は,基礎的であるにもかかわらず,これまで必ずしも知られていない若干の事実を明らかにすることを主な目的としており,明治前期における綿織物業の全体像を体系的に解明したものではない.また,幕末から明治前期を対象にする従来の綿織物業史研究の多くは,いわゆるマニュファクチュアがこの産業に見出せるか否かという論点に精力を集中してきたが,現存する史料からこの問題に対する明確な
解答を導くことはきわめて困難であると思われる.本稿がこの論点に一切ふれていないこともあらかじめ断っておく.

 Ⅰ 主な綿織物産地の生産高の動向

 徳川期には,商品生産の活発化にともない,多数の綿織物産地が,棉花栽培および家内工業的な手紡糸生産と深くかかわりつつ全国各地に形成されていった1).幕末から明治前期にかけても,綿布生産は全国各地に散在する数多くの産地によって担われていた2).ここではまず,本稿の分析の対象となる産地を定めておきたい.

表10-2 主な綿織物生産府県
表10-3 主な綿織物産地の動向
 (注) (1) 表の読み方については本文を参照.
 (2) 表示の諸産地の他に少なくとも南埼玉(埼玉県),摂津,堺,泉北(いずれも大阪府)などにつき今後検討する必要がある.
 (3) 新潟県の諸産地は明治前期には主に綿織物を生産していたものと見られるが,後に絹織物生産を中心とするようになる.ここでは綿織物が確実に作られていたと思われる産地のみを掲げた.それらの生産高の動きが表10-2から得られるイメージと異なるのは,表10-3において,実際にはおそらく相当数存在していた衰退型の産地が記されていないためか,あるいは,表示した産地が現実には綿織物から絹織物への製品転換を行いつつ生産高を伸ばしていったためであろう.
 (4) 栃木県の足利は綿織物も生産していたが,主な製品が絹綿交織物であったため,この表には含めない.
 (5) (12)では1887(明治20)年頃に帯芯木綿が開発された.
 (6) (21)では徳川中期より明治前期まで,防寒衣,足袋地などに使われる紋羽も織られていた.
 (7) (34)では遅くとも1885(明治18)年に輸入紡績糸が使われている.
 (8) (4)は中野,(11)・(12)・(13)は三河,(14)は尾州または丹葉,(21)は和歌山,(27)は雲州,(28)は備前,(33)・(34)は伊予と呼ばれることがある.(29)・(30)・(31)は一括して備後とも呼ばれる.(20)は(19)の一部であるが,沿革が泉南一般とは異なるため,一つの産地と見なした.
 (出所) (1):中蒲原郡役所『中蒲原郡誌』下編,1936年,亀田町誌の項48-9ページ,小林弌編「亀田町史』,1959年,324‐42ページ,(2):『綿業』2巻1号,1925年10月,31-2ページ,(3):「綿業』2巻5号,1926年2月,43ページ,(4):群馬県邑楽郡教育会『群馬県邑楽郡誌』,1917年,157-59ページ,『綿業』2巻2号,1925年11月,40ページ,(5):大林雄也編「大日本産業事蹟・工芸製作物産及鉱業』,1891年,瀧本誠一・向井鹿松編『日本産業資料大系』5,中外商業新報社,1926年,58-9ページ,高等商業学校『両毛地方機織業調査報告書』,1901年,191,213ページ,青木虹二「関東における棉作と木綿生産」,横浜市立大学「経済と貿易』73・74号,1959年2月,101ページ,(6):農商務省編『興業意見』,1884
年,大蔵省編『明治前期財政経済史料集成』19,1964年,330ページ,大林編前掲書,62-3ページ,青木,前掲論文,97,107ページ,(7):埼玉県内務部勧業課『織物資料』2,1909年頃,青木,前掲論文,103-4ページ,神立春樹『明治期農村織物業の展開』,東京大学出版会,1974年,92-6ページ,(8):農商務省『明治十八年工業概況』,土屋喬雄編『現代日本工業史資料』1,労働文化社,1949年,264-65ページ(以下,『概況』と略す),大林編,前掲書,57-8ページ,埼玉県,前掲書1,青木,前掲論文,102ページ,(9):大林編前掲書,63-4ページ,埼玉県,前掲書1,青木,前掲論文,105-6ページ,(10):『興業意見』,大蔵省,前掲書20,1964年,39ページ,下新川郡『下新川郡史稿』下巻,1909年,370-72,1128-37ページ,富山県「富山県紀要』,1909年,203ページ,坂井誠一「越中の織物」,地方史研究協議会編『日本産業史大系』5,東京大学出版会,1960年,300-2ページ,奥田淳爾「新川木綿の盛衰」,『富山史壇』33号,1966年,8-13ページ,梅村又次「幕末の経済発展」,近代日本研究会『幕末・維新の日本』,山川出版社,1981年,22-3ページ,(11):竹内金六『今昔の三谷』,1929年,118-19ページ,愛知県実業教育振興会『愛知県特殊産業の由来』上巻,1940年,387-93ページ,鈴木徹三「東三河における綿織物業の発展」,法政大学『経済志林』19巻1号,1951年1月,103-15ページ,(12):幡豆郡役所『愛知県幡豆郡誌』,1923年,277‐78ページ,青山善太郎編『西尾町史』下巻,1934年,294-96ページ,愛知県実業教育振興会,前掲書,374-77ページ,(13):岡崎市役所『岡崎市産業調査書』,1930年,22ページ,森原章「三河・知多の白木綿と有松絞」,地方史研究協議会編前掲書,54-9ページ,(14):『概況』,265ページ,愛知県実業教育振興会,前掲書,338-49ページ,(15):『概況』,265ページ,尾西織物同業組合『尾西織物要覧』,1935年,21ページ,森徳一郎編「尾西織物史』,1939年,195-98ページ,愛知県実業教育振興会,前掲書,307-11ページ,信夫,前掲書,161ページ,塩沢君夫・川浦康次『寄生地主制論』,御茶の水書房,1957年,
第1-2章,林英夫「尾西と西濃の織物業」,地方史研究協議会,前掲書,31-53ページ,同『近世農村工業史の基礎過程』,青木書店,1960年,第2章,(16):林英失校訂「竹之内源助手記」,1911年,『地方史研究』11巻6号,1961年12月,40-50ページ,知多郡役所『知多郡史』下巻,1923年,1208-14ページ,山崎広明「知多綿織物業の発展構造」,法政大学『経営志林』7巻2号,1970年7月,33-5ページ,(17):『概況』,258-62ページ,大林編,前掲書,62ページ,森田五一・奥野増治『大和木綿全組合沿革吏』,1898年,(18):『概況』,255-58ページ,片岡英宗編『中河内郡誌』,1923年,157-59ページ,(19):『概況』,262-63ページ,『泉南郡織物同業組合沿革誌』,和泉文化研究会『和泉志』48・49号,1972年8月,相沢正彦『岸和田志』,1931年,243-45ページ,同『泉南織布発達史』,1938年,谷口行男『泉南郡綿織物発達史』,1950年,第1篇,(20):大林編,前掲書,48-9ページ,大阪府庁『大阪府誌』2,1906年,274-76ページ,『泉南郡織物同業組合沿革誌』,和泉文化研究会,前掲書,34ページ,(21):『興業意見』,大蔵省編,前掲書20,150-51ページ,大林編前掲書,40‐1ページ,太田保夫『紀州ネル業研究』,1926年,17-20ページ,和歌山高等商業学校産業研究部「和歌山綿ネル業研究』,甲文堂書店,1938年,9-33ページ,(22):図司宗治編『播州織同業組合沿革史』,1928年,1-13ページ,藤井茂「綿織物工業の発展」,中小企業調査会『中小企業研究』1,東洋経済新報社,1959年,第1章,高村直助「播州綿織物業と金融」,山口編,前掲書,912-13ページ,(23):松本静吾繍『姫路紀要・全』,1912年,101-7ページ,播磨史談会『姫路市史』,1919年,322-27ページ,藤井,前掲論文,116ページ,(24)・(25):『概況』,267-69ページ,大林編,前掲書,70-1ページ,(26):大林編前掲書,69-70ページ,鳥取県東伯郡役所『東伯郡誌』下巻,1907年,第5章10~11丁,福光勝次郎編『倉吉町誌』,1941年,318-19ページ,倉吉市誌編さん委員会『倉吉市誌』,1956年,349-52ページ,(27):『概況』,268-69ページ,上野富太郎・野津静一郎『松江市誌』,1941年,641-43ページ,伊藤好一「出雲の木綿市」,『地方吏研究』14巻2・3号,1964年4・6月,14-23ページ,島根県『新修島根県吏・通史編』2,1967年,97,113-15ページ,(28):岡山県内務部『岡山県産業要覧』,1915年,228-30ページ,岡山県『岡山県通史』下巻,1930年,1042ページ,太田健一「幕末における農村工業の展開過程」,『土地制度史学』6号,1960年1月,24-34ページ,(29)・(30)・(31):『芸備日々新聞』1895年10月19-25日,「沼隈郡報』8号,1912年10月(いずれも広島県『広島県史・近現代資料編』2,1975年,461-72ページに収録).(29)のみ『概況』,271ページも参照,(32)=岩国市史編纂所『岩国市史』,1957年,324-32,901-2ページ,(33):大鳥居蕃「今治綿業の研究」,賀川英夫編『日本特殊産業の展相』,ダイヤモンド社,1943年,87-8ページ,菅原利鑠『今治綿業発達史』,1951年,11-5ページ,(餠):『概況』,274-75ページ,伊予織物同業組合『沿革誌』,1919年頃,川崎三郎「伊予絣の研究」,賀川編,前掲書,23-32ページ,(35):大林編,前掲書,61-2ページ,信夫清三郎「久留米絣の生産形態」,服部之総・信夫清三郎『日本マニュファクチュア史論』,育生社,1937年,後篇,第2章,久留米絣技術保存会『久留米絣』,1969年,12-4,91-2ページ.

 初めに統計史料を活用して明治前期における主な綿織物生産府県を確認する.当時の産業関係のデータは概して少ないが,1874(明治7)年については内務省勧業寮編『明治七年府県物産表』が,1884(明治17)年以降の各年に関しては農商務省「農商務統計表』が,府県別の綿布生産額を収録している.いうまでもなくこれらのデータの信憑性に過度の信頼を置くのは危険であるが,当時の綿織物業のおおよその実態がそれらに反映されていると考えることは許されるであろう.上記二つの吏料から作成した表10-2の①欄によれば,1874(明治7)年には大阪府,そしておそらくは埼玉県の綿布生産額がおのおの全国生産額の約1割のシェアを占め,栃木,愛知,奈良,新潟,富山の各県がそれらに続いている.群馬県も上位府県に含まれるのかもしれない.②欄は,松方デフレ後の企業勃興期の状況を示しているが,その頃は各年の綿織物生産府県の順位変動が激しいため,各府県および全国の生産額の3カ年の平均値を求めて整理してある.この欄を①欄と比較検討すれば,まず,埼玉,大阪,愛知,奈良,栃木の5府県が上位の座を維持している(ただし,埼玉と愛知のシェアは増加し,大阪と栃木のそれは減少しているようである).しかし,かつて上位にあった北陸地方の2県,新潟と富山は姿を消している.群馬県も上位から脱落したのかもしれない.そして,和歌山,愛媛,福岡の3県が新たに上位に加わっている.続いて,この表に登場した全11府県に存在し,明治前期以前に遠隔地への綿布販売が確実に行われていたと見られる産地を,地誌・地方史および筆者の未定稿「日本における産地綿織物業の展開(1914―37年)」などに依拠して探した.この作業によって明治前期に生産額の多かった産地の大部分を見出すことができたと思われる.
 とはいえ,この手続きだけでは,徳川期に大産地でありながら幕末・維新期に急速に綿布生産を減らしていった産地を欠落させてしまうおそれが生じる.そこで,徳川期における全国各地の専売制度を精力的に取りまとめた吉永昭氏の研究3)に依拠して,表10‐2にない府県で,徳川期に綿布の専売が行われていたもの4)を求め5),主に地誌・地方史を用いて綿織物産地を見出した.
 さて,以上の手続きを経て選ばれた全35産地の綿布生産高の推移を検討しよう.明治前期については各産地に関する信頼度の高い統計吏料がほとんど得られないため,諸産地に論及した記述史料(地誌・地方史,同業組合史,先行研究業績など)をなるべく多く集め,それらを比較検討した上で生産高の動きを文脈から推定するという手法を採用した.
 この作業の結果は表10‐3に示されているが,それにもとづく分析を行う前に,同表の読み方を説明しておくべきであろう.まず,産地名の下のA,B,Cは生産高の推移から見た産地の類型であり,含意は次節で述べるが,順に蘇生型,衰退型,成長型の略号である.産地の発展期は,遠隔地への製品販売が本格化したと見られる時期であり,たとえば天保・弘化は天保年間から弘化年間頃を意味する.同欄の①は18世紀前半以前,②は18世紀後半から開港以前,③は開港以後の幕末期,④は明治前期の略号である.――は生産高が減少ないし停滞したという記述が見あたらない,すなわち,おそらく生産高が順調に伸びたことを示し,‐‐‐は生産高の減少ないし停滞を,・‐・‐・は自家消費用または近隣市場向けの綿布生産が行われていたことを表わす.以上3種類の線上のドットは,いわゆる粗製濫造を意味する.●は輸入紡績糸,◎はガラ紡糸,◎は国産機械製紡績糸,△は高機(それ以前は地機が用いられていたものと思われる),▲はバッタン,×は新種の染料の採用の略号である.□は同業者団体が結成されたことを表わす.↑は史料に明記された年を示し,これがない場合,●などの事実が生じた年は推定である.なお,諸産地はおおむね北から南,東から西の順に並べてある.
 [注]
 1) 名和統一『日本紡績業と原棉問題研究』大阪商科大学研究叢書7,大同書院,1937年,第1篇第1章,信夫清三郎『近代目本産業史序説』,日本評論社,1942年,第1篇第1章,三瓶孝子『目本機業史』,雄山閣,1961年,150ページ以下を参照.
 2) 紡績兼営織布工場は企業勃興期以後に登場する.
 3) 吉永昭『近世の専売制度』日本歴史叢書32,吉川弘文館,1973年.
 4) 秋田(秋田=旧藩名,以下同様),京都(綾部),兵庫(明石,姫路),鳥取(鳥取),島根(松江),広島(広島),山口(萩,岩国)の諸府県である.ただし,史料不足のため,綾部,明石,広島,萩の諸藩内における産地の明治期の状態は不明である.また,秋田県には横手などの産地があったが,主に自家消費用ないしは近隣市場向けに生産を行っていたと見られるため,検討の対象に含めない.秋田県の綿織物業については服部之総「天保度秋田藩の貿易および産業」,1934年,同「幕末秋田藩の木綿市場および木綿機業」,1935年(いずれも奈良本辰也編『服部之総全集』6,福村出版社,1973年に収録),高村直助「開港後における綿布市場の形成」,横浜国立大学『エコノミア』35号,1968年3月を参照.
 5) この手法は斎藤修氏のご教示である.

 Ⅱ 明治前期における綿織物業の展開過程
 ――綿織物産地の3類型――

 表10-3 に示されている綿布生産高の推移を仔細に観察すれば,明治前期における主な綿織物産地は次の3類型に分けられるであろう.
 (1) 蘇生型
生産高がいったん減少または停滞した後に回復したと考えられるもので,全35産地中18産地までが,この型に含まれる.
 (2) 衰退型
 生産高が減少ないし停滞していき,ついに回復しない7産地である.
 (3) 成長型
 生産高が一貫して増加していったと見られるもので,蘇生型に次いで数が多く10産地がこの型に属している.
 以下では,各類型ごとに,実態が比較的詳しく判明する産地の具体例1)を紹介した後,その類型が持ついくつかの特徴につき考察する.
 (1) 蘇生型
 [例1(17)大和]
 大和(現,奈良県)では1653(承応2)年頃から棉作が始まったが,やがてそれと並んで白木綿と縞木綿の生産が盛んになった.この地方の綿布の商品化は急速に進んだようで,1665(寛文5)年には大和木綿の名称ができたといわれる.文政年間(1818―28)には絣も本格的に織られるようになった.
 1868,69(明治元,2)年頃まで大和木綿は染色が良く尺幅も十分で他産地の製品を凌ぐ名声を博していたが,明治初年代には,従来使われていた阿波産の正紺にかわって泥紺なる粗悪染料が採用され,尺幅不足の綿布が織られるようになり,しかも製品の外観と重量を糊で取りつくろうことが広く行われ始めた.そのため大和木綿は市場の声価を失い,とくに1879,80(明治12,13)年頃に業者は危機的状況に陥った.この事態に対し,有志者は1878(明治11)年に織屋仲間なる組合を設け,規約を定めて監査員を置き,その者に各機業家を巡回させて製品検査を行わせたが,規約がたんなる私約にとどまっていたために効果はあがらず,他方で「濫造ノ弊ハ恰カモ滔天ノ波ノ如ク」2)であり,たとえば1881(明治14)年には粗悪染料の使用量がきわめて多く,良質の染料を使う者はほとんどいなかったといわれる.有志者は,さらに集団会(1882<明治15>年結成),相談会(1883<明治16>年結成)など粗製濫造の防止をめざす会合を開き,1883(明治16)年には再び同業者団体,木綿商組合を設けて粗悪品生産の阻止を図ったが,業者が持つ泥紺の在庫は多く,また,組合費の徴収が困難であったため,目的は達成されなかった.以上のように,明治前期の大和では,同業者団体の活動にもかかわらず粗製濫造が続いたとされているが,松方デフレも業者に大きな影響を与え,たとえば1885(明治18)年の生産量は前年よりも14.9%ほど減少している3).粗製濫造が激化したと見られる1879,80(明治12,13)年頃から松方デフレ期にかけて大和木綿の生産高は現実に減少ないし停滞したのであろう.
表10-4 大和の綿布生産高
 しかし,表10-4によれば企業勃興期には大和の綿布生産高は急激に伸びており,いったん下落した生産高が,この頃に回復したことがうかがわれる.とはいえ,粗製濫造はそれ以後もしばらく続いたようであり,たとえば1886(明治19)年からは前述の木綿商組合が製品検査の結果を示す証紙を綿布に貼り付けるようになるが,反対者が続出してこの措置は有名無実となってしまった.
 [例2(19)泉南]
 泉南(現,大阪府南部)は近接する泉北,河内とともに徳川初期から棉作が盛んで,次第に農家はこれに関連する繰綿・手紡糸・白木綿の生産(とくに後二者)をほとんど唯一の副業として営むようになった.白木綿は当初,自家消費用または近隣市場向けに生産されていたのであろうが,寛文(1661―72)年間以後にはその商品化が進み,製品は堺に向けられるようになった.文政(1818―29年)から天保(1830―43年)期にかけて泉南の綿織物業はいっそうの発展をとげたものと見られ,全国有数の綿布集散地たる大坂への出荷がこの頃から増加した.ただし嘉永・安政(1848―59)年間には綿布の市況が悪化し,生産高は一時減少したようである.
 泉南では1875,76(明治8,9)年頃から輸入紡績糸が綿布の経糸に使われるようになり,この綿布は半唐木綿と呼ばれた.1879(明治12)年頃にはいわゆるバッタンの一種であるチョンコ機が発明され,「それまでの下機では1日1台1人が2反しか織れなかつたものが,チヨンコ機になると4反から5反織れるやうになつた」4)といわれる.おそらくこれらの技術進歩も功を奏して,いわゆる和泉木綿の売行きは明治初年には順調であったようである.とくに西南戦争後のインフレーション期には綿布価格がめだって上昇して非常な好況が生じ,泉南は今治,大和の2産地と激しく競争しつつも,それらをほとんど「圧倒せんとするの昌盛を極めた」5).
 ところが増産につれて粗悪品が現われ始め,市場における和泉木綿の声価は落ちるようになった.それに加えて,1882,83(明治15,16)年には松方デフレの影響が及び,「価格も突飛に下落して市場商人の倒産をなすものすら出て之しか余波を蒙りたるもの少から」6)ず,泉南は不況に陥った.泉南郡織物同業組合の史料による表10‐5からも当時,生産が停滞的であった事実がうかがえるが,別の史料によれば1884(明治17)年1―6月に108万8千反であった泉南の綿布生産量は翌年同期には65万反に激減している7).この不況下で他産地との競争は激化し,それは泉南の機業家をさらに苦境に追い込んだものと見られる.
表10-5 泉南の綿布生産高
 大和と同じく泉南でもこの頃から同業者団体の結成の動きが活発になったようである.まず,1885(明治18)年頃に大阪府の同業組合準則8)にもとづく準則組合が設けられたが,業者の歩調が整わなかったため,ほどなく解散する.しかし,1888(明治21)年には産地問屋などが結託して株式会社組織の共同会社なる団体を設立し,同社は注目すべき活動を開始する.すなわち,1883(明治16)年以降に国産の機械製20番手綿糸が市場に出回り始めた事情を背景に,丸唐木綿と呼ばれる,経・緯とも国産機械製紡績糸を用いた白木綿の生産を奨励して,これを共同会社の専属取扱いとした9).さらに,1892(明治25)年頃,地元の松浪米蔵がチョンコ機を改良した,太鼓機と称する織機を発明し,綿布の仕上りを大幅に改善することに成功したが,共同会社はこの織機の性能にいちはやく着目して普及に努めた結果,太鼓機は泉南のほぼ全域で急速に採用されていったといわれる.共同会社の設立が企業勃興期と重なっているため,その活動の評価はやや難しいが,前掲の表10-5によれば,同社ができた頃から泉南の綿布生産量は顕著に増加している.

 蘇生型産地の特徴は,まず,生産高の推移に景気変動の影響が比較的鮮明に認められることである.すなわち,明治前期に製品転換を行いつつあった(5)佐野,(26)倉吉,(34)松山を除く15産地のうち,西南戦争後のインフレーション期に生産高を順調に伸ばしたと考えられるものが11産地,松方デフレ期に生産高が減少または停滞したものが14産地である.とくに景気に敏感に反応して生産高が動いたと見られるものは10産地であるが,そのうち,(18)中河内,(19)泉南,(20)樽井などは先の泉南の例からうかがわれるように,天下の台所といわれた大坂に近接していたため,すでに徳川期から商品としての綿布の生産を活発に行っていたようである.また,(15)尾西で幕末に綿布が商品として盛んに織られていたことは広く知られている.実証は今後の課題とせざるをえないが,綿布の商品化が進んでいた地域ほど明治前期に景気変動の影響を強く受けていたという仮説が成り立ちうると思われる.
 次に,18産地中15産地で粗製濫造が発生し,多くの場合,それが生産高の減少または停滞を惹き起こしたと見られる点に注目すべきである.明治初年にはいわゆる株仲間の解放が行われ,商取引の自由化が進む半面で,旧来の商道徳の規制力が薄らぎ不正取引行為が横行するようになった10).蘇生型の綿織物産地に生じたといわれる粗製濫造も,多くの場合こうした事態を反映しているのであろう.
 ところで,株仲間の廃止に伴う一種の無政府状態の出現は,旧株仲間の構成員にはきわめて由々しきことであったと思われる.表10-3の原史料の大部分は重要物産同業組合法(1900<明治33>年発布)によって組織された同業組合の関係者が作成したものであろうが,旧株仲間の構成員が明治前期に様々な業種で同業組合の設立運動を執拗に行っていた11)点から見て,後の同業組合の役員に彼らが就任した可能性は大きい.従って,表10-3における粗製濫造は現実よりも誇張されているおそれがある12).
 とはいえ,1877(明治10)年頃に年間80万反の綿布を産出していた(34)松山が,松方デフレの影響がさほど現われていないと思われる1880―83(明治13―16)年に年平均生産量を45万反に落とした13)事実は,粗製濫造だけで綿布生産高の急減が生じた産地も実際に存在したことを示唆するものであろう.
 なお,この型に属す18産地中12産地までが縞または絣木綿を織っており,それらのうち少なくとも6産地で新種の染料が採用された後に粗製濫造が生じている.粗製濫造は,泉南のような白木綿産地で生じることは比較的少なく,大和のような縞または絣木綿産地で新種の染料の導入に伴って発生した場合が多かったようである.
 (2) 衰退型
 [例 (10)新川(にいかわ)]
 加賀藩主前田は,越中(現,富山県)を領地にした際,領民に質朴な生活を奨励するために,絹紬類に重税を課す一方で綿布に課税をせず,また,下新川の魚津に加賀,越中,能登の綿布を集散する特権を与えたといわれる.藩によるこのような施策の影響を受けてか,魚津を中心とする中新川・下新川地方の各地(現,富山県北東部)では古くから白木綿生産が盛んであった.この地方は棉作地帯ではなく,西廻り海運によって高岡の綿場に運ばれた泉州堺などの繰綿が農民によって手紡糸,さらには綿布へと加工された.18世紀には白木綿の若干部分が魚津と高岡の商人の手を経て京坂地方へ向けられたというが,大部分は越中周辺で消費されていたようである.
 ところが,文化(1804―17)年間に島屋清七が信州松本で新川の白木綿の販売に成功したことを契機に,松本をはじめ越後三条などの商人との取引が急増し,新川木綿の名称ができた.松本へ売られた綿布は手拭,足袋の裏地などに加工されて江戸や関東各地に転売されていたが,1828(文政11)年には加賀藩産物の江戸直売が開始され,新川木綿は直接江戸市場に向けられるようになった.天保(1830―43)年間に新川木綿の生産高はいっそう増加し,幕末から1877(明治10)年前後までの時期には年出荷量が100万反以上に及び,その全盛期が到来したとされている.
 しかし,以後,新川木綿の年出荷量は1880(明治13)年頃35万反,1884(明治17)年頃25万反と激減していき,1887(明治20)年頃にはほぼ皆無になってしまった.この急激な衰退の原因は,新川木綿が輸入綿布,および機械製紡績糸を用いた他産地の白木綿に市場を奪われ,そこに松方デフレの打撃が加わったことであるといわれる.富山県では後に綿織物業の再興が図られ,機械製紡績糸の採用や機具・製品の改良などが行われたが,昔日の繁栄は戻らなかった.

 衰退型産地の一つの特徴は,松方デフレの影響が明瞭に認められることであろう.当時,在来産業の疲弊が大きな社会問題になっていたのは周知の事実であるが,この型に属す諸産地の綿布生産は,深刻な不況を契機にほぼ完全に消滅してしまったのである.ちなみに,松方デフレ期における在来産業の衰微を克明に記した農商務省編『興業意見』には衰退型産地の(6)真岡(もおか)と(10)新川に関する記事が収録されている14).
 とはいえ,表10-3では,この型に含まれる全ての産地の生産高が松方デフレ以前にすでに減少または停滞し始めている点にも注目すべきである.松方デフレに先立ってこれらの産地が衰退し始めたのはなぜだろうか.
 通説を援用すれば,この問題に対する解答は次のようになるであろう.高度の生産力にもとづく低価格を武器に,輸入綿布が,同一市場で競合する国産白木綿の市場を蚕食し,とくに衰退型産地に壊滅的な打撃を与えたためである,と.確かに,開港以後西南戦争頃までの日本にはイギリスを初めとする先進工業国から綿布が大量に流入し続け,たとえば1874(明治7)年に輸入綿布は数量ベースで国内綿布需要の4割余りを占めていた15).また,表10-6によれば,衰退型産地の製品は白木綿に集中しており,さらに,諸史料も先の解答の正しさを裏付けるかのように,この型に属す(6)真岡,(10)新川,(23)姫路の衰退の一因として輸入綿布の圧迫を指摘している16).
表10-6 諸産地の製品
 しかし,近年の研究成果17)によれば,幕末から明治前期にかけて輸入された綿布の大部分は生金巾などの耐久性に乏しい薄地の製品であり,それらは日本国内の綿織物産地で作られる耐久性に富む厚地綿布と直接の競合関係にあったとはいいがたく,むしろ絹織物の代替財であった.本稿は,輸入綿布の圧迫という海外要因よりも,国内要因,すなわち,綿織物産地間の競争が激化する中で衰退型産地の生産技術が低位にとどまっていたという事実を先の問いに対する解答としたい.表10‐7によれば,本稿がとりあげた綿織物産地の過半は18世紀後半から開港以前に遠隔地向け綿布生産を開始しており,この頃に諸産地間の競争が激しくなったことが推察される.ところが,競争者が輩出するにもかかわらず,衰退型に属す諸産地は技術進歩に無関心であった.表10‐8によれば,幕末から西南戦争後のインフレーション期にかけて綿織物業における主な技術進歩は輸入紡績糸と高機の採用であった18)が,衰退型産地にはこうした技術進歩の形跡が全く認められない.
表10-7 諸産地の発展期
表10-8 諸産地の技術准歩
 この型の諸産地は徳川後期以来他産地との競争が激化する中で技術水準を向上させる努力を怠ったため,次第に他産地に市場を奪われていき,そこに松方デフレの打撃が加わって再起不能に陥ったと考えられる.
 (3) 成長型
 [例 (11)東三河]
 一般に三河地方(現,愛知県東部)では徳川初期から棉作が盛んで,農家がおそらく当初は自家消費用に,後には商品として,自ら栽培した棉花で手紡糸と綿布を作るようになったが,東三河(現,蒲郡市)は近隣の幡豆(はず)と三州に比べれば後進産地であり,白木綿を西尾,岡崎など近くの集散地に向けていたにすぎなかった.
 さて,1875(明治8)年または1877(明治10)年頃に小田時蔵が遠州笠井から高機を導入し,また,1876(明治9)年頃に武内せきが尾西の祖父江村から新式の織機(これも高機と思われる)を搬入し,同地の工女も雇い入れて綿布製織を始めたといわれる.おそらく,これらの技術導入が契機となり,東三河では1879,80(明治12,13)年頃に従来の白木綿から縞木綿へ製品の転換が行われたが,この過程と並行して,いわゆる三河縞の販路が東方に急速に拡大していった.三河縞はまず三河北部から信州南部の下伊那地方を販路に加えた後,1879,80(明治12,13)年頃に伊豆の松崎・下田方面,房州および伊勢路への進出に成功した.1885(明治18)年頃には東京と仙台への販路が開け始め,企業勃興期以降には東海道線の開通という好条件も加わり,三河縞の東方進出はいよいよ活発化した.なお,以上の販路拡大は牛久保在住の新興商人の手で行われ,彼らの前身は古着・荒物・雑貨類をあわせて扱う大小の商人であったといわれる.

 成長型産地の特徴は,西南戦争後のインフレーション期のみならず,前記2類型の産地の多くを窮地に追い込んだ松方デフレ期にも,生産高が減少または停滞した形跡がないことである.もちろん,本来華生型に含められるべき産地が史料的制約のために誤ってこの型に入れられている可能性は大きい.しかし,東三河がまさに松方デフレ期に販路を拡げていったことはすでに見たとおりであり,(7)北埼玉も「従前ヨリ専ラ東京問屋ト取引ヲナセシカ明治15,16(1882,83)年以降名古屋及東北地方ニ得意ヲ生シ取引ヲ開始スルニ至」19)っている.また,前章でたてた基準に従えば,本稿の分析対象には含まれないが,縞木綿などの産地として明治後期から著名になる遠州(現,静岡県西部.浜松とも呼ばれる)でも東三河に酷似した販路の拡張が松方デフレ期に認められる20).成長型の産地のいくつかは,実際に松方デフレの打撃をほとんど受けず,むしろその時期に販路を開拓し生産高を伸ばしていったと見るべきであろう.
 深刻な不況下にあって,いくつかの産地で生産拡大が生じた原因は目下のところ明らかではないが,さしあたり以下の仮説を提示しておきたい.(1)これまで紹介してきた各類型の具体例からうかがわれるように,初期における綿織物産地では農民が綿布をまず自家消費にあてて,余剰部分を近隣市場で販売していたものと見られる.おそらくこの段階を経た後に諸産地は遠隔地向け綿布生産を行うようになるのであるが,明治前期の成長型産地では他の類型の諸産地に比べて綿布生産高中に占める自家消費部分の割合が大きく,商品として市場へ向けられる綿布の絶対量が少なかったため,デフレーションによる損失が小さかったのではあるまいか.(2)明治前期に関東・東北地方などの綿布需要が何らかの理由(たとえば人口増加)によって急増していたのではないか.ちなみに,表10‐9によれば,1877―80(明治10―13)年に東北諸県の綿布移入量がおおむね顕著に増加している.これらの県では綿布生産が盛んではないから,少なくとも西南戦争後のインフレーション期には東北地方の綿布市場は急激に拡大していたものと見られる.なお,尾城太郎丸氏も,明治10年代にこの地方の織物市場が拡張していたことを,具体例をあげつつ論じている21).
表10-9 各県の綿布移入量

 [注]
 1) 各例の出所は断りのない限り表10-3に同じ.
 2) 森田・奥野,前掲書,23ページ.
 3) 農商務省『概況』,253ページより算出.1―6月分の数値と思われるが,確認できない.
 4) 谷口,前掲書,27ページ.
 5) 『泉南郡織物同業組合沿革誌』,和泉文化研究会,前掲書,12ページ.
 6) 同上書,13ページ.
 7) 『概況』,253,262-63ページ.
 8) 1885(明治18)年発布の甲46,同業組合準則.大阪市『明治大正大阪市史』6,1934年,866-68ページに原文が収録されている.
 9) 半唐木綿は各人の任意取扱いとされた.
 10) 宮本又次『日本ギルドの解放』大阪大学経済学部社会経済研究室研究叢書10,有斐閣,1957年を参照.
 11) 同上書,第6章,永田正臣『明治期経済団体の研究』,日刊労働通信社,1967年,第3章第2節を参照.
 12) この段落の記述は梅村又次氏のご教示によるところが大きい.
 13) 伊予織物同業組合,前掲書,1-2ページ.
 14) 表10-3の出所を参照.
 15) 中村哲『明治維新の基礎構造』,未来社,1968年,221ページ.
 16) (6)真岡:「開港以来漸次洋布ニ圧セラレ逐年其産額ヲ減シ,嘉永ノ末年ニ・・・一ケ年産額十二万反・・・明治十四年ニハ僅々一万五千反・・・」(『興業意見』,大蔵省,前掲書,19,330ページ),(10)新川:「洋綿布ノ輸入盛ンナリシヨリ次第ニ其(新川木綿のこと――引用者)産額ヲ減殺シ・・・」(同上書,大蔵省,前掲書,20,39ページ),(23)姫路:「旧藩ノ際ニハ(姫路木綿の生産が一引用者)頗ル盛ナリシモ,廃藩ノ後ノ其保護廃セシニヨリ大ニ衰ヘシカ,爾来外国品ノ輸入ニ圧サレ彌減退スルノミ・・・」(兵庫県勧業諮問会編『兵庫県第一回勧業諮問会日誌』,1885年,27-8ページ.藤井,前掲論文,116ページより再引用).
 17) 川勝平太「明治前期における内外綿関係品の品質」,早稲田大学『早稲田政治経済学雑誌』,250・251号,1977年7月.
 18) 表10-8からはその他にも以下のような興味深い事実が読みとれる.①輸入紡績糸と高機はすでに徳川期に多くの産地で採用されており,松方デフレ以前にその普及がほぼ完了した.②ガラ紡糸は松方デフレ以前にいくつかの産地に普及した.ただし,表10-3によれば,それは愛知県下の産地以外では採用されそいない.③国産機械製紡績糸の採用は松方デフレ期以降に本格化する.④バッタンの採用が進むのは企業勃興期以後のことである.
 19) 埼玉県,前掲書2,青縞の項46ページ.
 20) 山崎広明「両大戦間期における遠州綿織物業の構造と運動」,法政大学『経営志林』6巻1・2号,1969年7月,97ページ.蘇生型産地であるが,(1)亀田でも松方デフレの影響は少なかったといわれる.「明治17,8年に於ける経済界の不況は全国各機業地を通じて孰れも一時恐慌状態を呈したりしが幸に此地(亀田町――引用者)は其影響を蒙むること僅少にして産額の減退を見るに至らず依然(明治――引用者)11
年頃の盛況を持続し・・・」(中蒲原郡役所,前掲書,亀田町誌の項48ページ).
 21) 尾城太郎丸「明治初年における殖産政策と在来産業」,1952年,明治吏料研究連絡会編『近代産業の生成』明治史研究叢書8,御茶の水書房,1958年,134‐35ページ.

 おわりに

 古島敏雄氏は1859(安政6)年の開港が綿織物業に与えた影響に着目し,幕末の綿織物産地を,開港後衰退を続けるもの(表10-3に掲げた諸産地のうち(6)真岡,(24)青谷(あおや),(25)浜の目,(26)倉吉があげられている.以下同様),開港後,一時生産高奪落とした後に輸入紡績糸を採用して回復に向かうもの((8)北足立,(20)樽井),開港後,輸入紡績糸や高機を採用して新興産地として成長していくもの((9)所沢)の3類型に区分した1).すでにふれたように,開港が日本の綿織物業に及ぼした影響は従来考えられていた以上に複雑であり,この類型区分も開港以前から存在していた,国内の諸産地間の競争を考慮に入れて再検討きれる必要があるものと思われる.
 とはいえ,ここで興味深いのは,開港を松方デフレに置き換えれば,古島氏の諸類型が,本稿で明らかにされた3類型に期せずしてほとんどそのまま重なり合うことである.
 封鎖体制から開放体制への移行,あるいはインフレーションからデフレーシヨンへの転換などに伴う経済のドラスティックな変化は,在来産業をしばしば危機に陥れ,守旧的な業者を没落させてきたといいうるであろう.しかし他方で,打撃を受けた業者が新しい生産技術(近代産業の技術に比べて必ずしも高度なものではない)を導入して立ち直ること,また,経営環境の変化に巧みに対応して販路を拡張し生産高を伸ばしていく業者が登場することもけっして稀ではなかったように思われる.
 [注]
 1) 古島敏雄『産業史Ⅲ』体系日本史叢書12,山川出版社,1966年,61-5ページ.
 [付記]
本稿のテーマと手法は中村隆英先生のご教示による.また,本稿は1981年7月にアジア経済研究所の国連大学委託プロジェクト経済政策研究会で報告した際の草稿をもとに執筆されたものである.中村先生をはじめとする同研究会の先生方,ならびに東京大学の石井寛治,高村直助,原朗の諸先生と沢井実氏からは多くの貴重なコメントをいただいた.記して厚く御礼申し上げる次第である.ただし,本稿に含まれる誤謬の責任は全て筆者個人にある.なお,本文中に掲げた筆者の未定稿「日本における産地綿織物業の展開(1914-37年)」の前半部分は「1914-37年における日本産地綿織物業の府県別生産額」,『東京大学・経済学研究』25号,1982年11月として公刊され,後半部分は1983年度社会経済史学会大会共通論題報告「綿織物業の地域類型」(1983年5月15日,於名古屋大学)として発表された.後者は論文として近く公刊される予定である.最後に,本稿では1982年以降に刊行された諸業績が活用されていないことを付言しておく.
 [阿部武司]