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わが国産業化と実業教育

Title: 第3章:事例研究:A 都城商業学校の設立と展開
Author: 山岸 治男
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1984年
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第3章:事例研究:A 都城商業学校の設立と展開

序論

 戦後の学制改革によって,旧制中等学校の殆どは新制高等学校に転換した.昭和32年(1957)に校名を変更して以来現在まで存続している宮崎県立都城商業高等学校も例外ではない.その歴史を遡ると,約45年間に及ぶ旧制商業学校の歴史がある.それは,さらに,約6年間の商業補習学校の歴史を持っている.即ち,都城商業高等学校の歴史を遡及することにより,われわれは,現在の高等学校の起源の一つを,明治後期の実業補習学校に見出すことができるのである.
 実業補習学校は,先行する類似の諸教育機関の実態に対して,明治26年(1893),「実業補習学校規程」が,文部省所轄下の学校として受け止めた初等の実業教育機関である.明治32年(1899),「実業学校令」により,実業補習学校は実業学校の一種と認められた.これによって,実業補習学校は,少なくとも規程上,中等段階の実業教育機関となる.だが,その実態は,多くの場合,必ずしも中等段階の学校とは言えない劣悪な状態であった.そのような学校が,現在までに,正規の職業科高等学校にまで発達するには,いくつかの転換期を経験しなければならなかった.その,のりこえるべき節目の一つは,実業補習学校から中等実業学校への転換であった.事実,この節目をのりこえた学校のみが,現在まで,高等学校として存続しているのである.最盛期には1万校を越えた実業補習学校の殆どが,こうした転換を経験することなく,制度上,たち消えになっていったことを考えれば,都城商業補習学校が商業学校に転換したことは,それだけでも,まれなできごとであったといえよう.
 では,どのような歴史的,社会的背景において,どのような過程を経て,この転換が可能になったのであろうか.転換によって,各期に,学校は,全体社会や地域社会と,どのようなかかわりを持つものとなってきたのであろうか.この項は,都城商業補習学校を例に,商業補習学校から商業学校への,学校の,制度的・内容的転換,変容過程を,以上の問題意識にそってあとづけようとするものである.

Ⅰ 本校創設の社会的背景

(1)地理的,歴史的背景
 都城市は第1図に示すように,宮崎県西南端に位置し,鹿児島県大隅地方と県境をなしている.県境域ながら,しかし,一帯は広大な都城盆地をなし,盆地には,現在,1市7町が含まれる.即ち,県境一般に考えられがちな辺境ではないのである.現在の県境は明治16年(1883)に再度ひかれたものである1).それ以前,短期間ながら都城県を構成したこともあり,都城は,盆地を中心とした,宮崎県西南部一帯と,鹿児島県大隅地方一帯を圏域とする,政治・経済・文化の中心地であった.県境のひかれた今日でも,行政上の問題が加わらない限り,このことに大きな変化は無い.
第1図 都城の位置.
 周辺地域の産業基盤は,旧来,農業である.盆地は,早くから水田地帯として開発されてきた.旧来,島津荘の本荘と称せられた盆地一帯は,通称「ショネ(荘内)」とよばれている.「ショネ」は南九州では最も生産性の高い農業地帯であった2).これに対し,周囲山岳丘陵地帯,薩摩半島は水田に乏しかった.大隅半島も,桜島による火山灰台地(シラス)を成しており,水田に乏しく,全国的にも生産性の低い畑作農業地帯である.それ故,古くから,南薩・大隅地方から盆地への人口移動が頻繁に行われた.これを,人々は「ショネ移り」と言う.これについて次のような文献がある.
 「昔は当地方から見て薩摩半島を西目,大隅半島を東目と称した.西目辺りから米所都城地方の旧称『庄内』を見れば広大な憧れの地域であったらしく,『いこや,はっちこや庄内さね行こや,庄内の茅には米がなる』.それで,徳川時代を通じ,又明治以降も陸続きとして庄内移りが行われた」3)
 このような,生産性の比較的高い水田盆地地帯と,生産性の低い畑作丘陵地帯を背景に,地域流通・経済の中心的役割を果たしたのが都城町(大正13年(1924)市制施行)であった.都城は同時に,明治2年(1869)まで,島津氏の治める城下町でもあった.都城島津家は鹿児島島津家の分家であったが,ほぼ独立藩主並の政治的実力を持っていた.藩政期には,各地の商人を寄せ集め,町方を作るとともに,帰化中国人を優遇して,これを城下に住まわせた.これら,各地から城下に集まった人々によって,都城の商業活動が胎動する.
 城下及びその周辺における藩政期の住民の身分と,その諸活動は三つに大別される.一つは支配的地位にあった士族(郷士)層である.二つは広範に多数存在した農民層である.三つは城下に生活しながら,なお,士族,農民層の存在を背景に,その流通・経済過程を一手にひきうけて商業活動を営んでいた商人層であった.
(2)商業活動の拡大
 都城の商圏は,霧島において鹿児島の商圏と,青井岳で宮崎の商圏と,各々接していたが,その商圏はかなり広大である.あわせて,近代以後の農業の急速な発達は,肥料・農具の調達,作物の販売において,商業活動を活気づける条件となっていた.都城町の商業も,その例外ではない.周辺農村部への販路の拡大,更に,大阪方面との船運による流通経路の開拓は,その活動を,いよいよ,拡大,複雑化していく.
 都城町は,このように,城下町でありながら,必ずしも封建都市としてのみ発達したのではなく,どちらかといえば,農村都市の性格を濃厚に持つ都市であった.経営規模の大きな商人は,同時に商人地主である場合が多かった.都城商人が宮崎商人と異なるのは,その地主的経営方法であったといわれる.即ち,商人は,農民との間に肥料販売の契約を結び,代金を米納させていたのである.だが,やがて,肥料代を払い切れなくなる農民が現われる.代わりに,農地が次々に商人の手にわたっていく.収穫期になると,農家から商人地主のもとへ小作料が運ばれるわけである.人々は,これを,「アゲコク(上穀)」とよんでいた.商人地主達は,通称「地主さん」とよばれ,地域において指導的役割を演じていたが,ただ,彼等は,直接,政治に関わることは少なかったという.明治期の主な商人地主を示せば,第1表の通りである.
第1表 明治期都城町の主な商人地主
(3)商業教育機関設立に到る諸条件
商業活動の拡大,業務の複雑化は,当地に商業教育機関が創設される最も基礎的な条件であった.だが,それだけで,当地に商業補習学校が創設されたわけではない,学校創設には,なお,以下のような諸条件の成熟が必要であった.まず,この地方が,古くから,教育に熱心な地域であったことである.それは,後に,都城に女子師範学校を誘致しようとしたことからも明らかである4).第2は,そうした,教育への情熱をそそる指導者の存在である.都城は,今日,地元住民自身が「都城はどちらかといえば保守的な土地柄である」と公言する地域である.それは,旧時代の伝統に由来するものであろう.そのことは,しかし,逆に,対領外社会に対し,内側の結束を強め,我々意識を強めやすい.その場合,政治上の公式的リーダーシップをとったのは,殆ど士族層であったが,なお,非公式的側面でリーダーシップをとったのは有力商人達であった.商人達は,身分上,旧士族の下にありながら,しかし,その全活動を通じて,士族以上に「世間に明るい」存在となっていた.いよいよ高まり来る商業活動を通して,商人達の実力は,次第に士族の実力を上まわっていく.彼ら商人出身指導者層に共通の性格として見られたのは,政界で名を挙げるより,実際的な利にかなった産業界で活躍する方を良しとしたことである.経済的基盤においても,又,農民との連絡においても,これら商人層指導者の実力を背景としなければ,商業教育機関の創設は不可能であった.第3にあげなければならない条件は,これら商人層指導者を中心に,商業者集団が早くから組織され,上町集会所を建設していたことである.ここには,宮永直八(大正6年(1917)卒)の記憶によれば,石原福次郎,西川治平,森徳治,小林熊太郎,熊原十太郎,黒岩常平等,後の商業補習学校設立発起人となるべき人々が,時々寄りあっては会合を開いていたのである.こうした,商人達の,パーソナル・コミュニケーションの場がなければ,商業教育機関を発足させようとする,直接的契機は生じないで終わってしまったかもしれない.更に第4に,周辺農村部における教育機関設立要望も無視し得ないであろう.都城町は,周囲農村と無関係には存立しえない都市であった.周囲農村部では,明治後半までに,かなりの農民層分解が進んでいた.従って,農村からは,絶えず析出人口が流出していたのである.それは,南薩・大隅の農民が,都城盆地へ「ショネ移り」したのと同様,次第に形成されつつあった都市に流出しなければならない人々であった.もちろん,それら農村析出人口の総てを都城町が一手に受けとめることはできなかったであろう.だが,そうした析出人口をかかえた村々にとって,移動者に一定水準の教育をほどこすことは強く要請されることがらであった.
 以上,商業活動の拡大,複雑化を主要な契機として,なお,諸他の具体的条件を背景に,この地に商業補習学校が設立されたのである.学校制度の整備拡充に伴って,中央又は府県教育政策に則って設立されたその後の多数の商業学校とは,この点で,本校は,その地域社会的基盤を異にしている.それは,いわば,下からの,地域社会的要請において,必然的な脈絡の中で創設された教育機関である.それは,同時に,自力で自校のあり方を選択しなければ,その存在さえ危ぶまれることになるという,本校のその後の歴史の起点でもあった.以下,制度的転換を主軸に,本校の展開につき,稿をすすめようと思う.なお,本校の主要な沿革を年表にすれば,第2表のようになる.
第2表 主要事項の沿革

Ⅱ 商業補習学校の設立

(1)開校の機運
 この節では,明治31年(1898)の設立から約6年間にわたる実業補習学校時代の本校の展開を述べる.前節で指摘したように,商業教育機関設立の機運は,明治後半,都城町を中心に次第に高まっていた.この期は,第3表に示すように,町の商業活動が次第に近代的な性格を備えた組織を形成する期にあたっていたのである.そこでは,最終的な契機たる,発起人の提案が待たれるのみであった.ただ,専門の教育機関を設立する場合,前もって解決しておくべき問題がいくつかあった.
第3表 都城町同業組合の発達
 一つは,学校の授業形態についてである.唯一のモデルは小学校のそれである.だが,実業補習学校が小学校と異なる点は,かなり年輩の生徒が学ぶこと,場合によっては,実際に商業に従事している生徒が学ぶこと,義務制でないので,最初から,厳しく学業にのみ専念させることが少々はばかられること等である.
 二つは,校舎の設営である.設立主体が町であり,財政的基盤も弱く,他の多数の実業補習学校がそうであったように,施設,設備の貧弱なものになるおそれがあった.
 三つは,教員の確保である.専門教員をどのような待遇で雇うことができるかである.
 更に,入学生徒の募集である.それは,潜在的ながら,最も苦労の多い仕事であった.
 又,農村部との関係をいかに保つかという問題も重要であった.町内からの応募生徒のみでは,必ずしも,期待した生徒数には達しなかったのである.だが,逆に,農村部出身生徒が商業科目の学習に満足するか否かも問われた.
 最後に,法的規程の保護と制約である.既に,明治27年(1894),「実業教育費国庫補助法」が成立していたが,この適用をうけ得るか否かが,本校設立の可否を若干左右していたのである.同時に,「実業補習学校規程」に定められた基準に最低限適合している必要がある.もし,この規程から著しく逸脱する事態が永続すれば,設立後,廃止されかねないからである.
 解決すべき課題は,以上のように山積していた.しかし,商業教育機関設立要請もまた次第に高くなっていた.集会所における商人の会合や町議会で,それは次第に議論として煮つまってくる.こうした根まわしを背景に,明治29年(1896)12月23日,町議会議員石原福次郎他の主唱により,議会は「実業補習学校設置伺」及び国庫補助の申請を提出することを議決した.
 「設置伺」は,農科,商科の二科を内容として提出されている.ここに,農村部との関係を保とうとしたことがうかがえる.町の申請は速やかに認められた.翌明治30年(1897)8月26日付,設置許可が下り,同時に,「実業教育費国庫補助法」が適用され,開校に際して300円の国庫補助を得ることができた.
 明治31年(1898)2月7日,都城町上町集会所を仮校舎として,都城実業補習学校が開校した.この年,実業補習学校として開校したのは,全国で17校あり,この年までの実業補習学校数113校,生徒数6,975人である.商業補習学校としては九州で7番目の開校であった.「実業補習学校規程」成立後,既に5年が経過していた.全国的水準から見れば,必ずしも早期に発足した学校とは言い難い.しかし,実業補習学校普及の遅れていた宮崎県においては,富高農業補習学校(明治29年),=肥農業補習学校(明治30年)に次ぐ,3番目の開校であった5).こうして,明治37年(1904)6月,商業学校に転換するまでの約6年間,本校は「実業補習学校規程」による学校史の歩みをたどることになる.
(2)商業補習学校としての歩み
 この6ヵ年の歩みは,現在の都城商業高等学校全体の歴史の中では極めて短い時間でしかない6).だが,この期の動向が,その後の本校の歴史全体に強い影響を与えたことを考慮すれば,本校の展開にとって,それは最も基礎となるべき期間であった.本校は,必ずしも当初から活況を呈した学校ではなかった.だが,発足期から修業年限を3ヵ年としたこと,国庫補助金300円を得ることができたことは,本校の基礎固めに大いに役立っている.実業補習学校の修業年限は1~3年まで幅を持っていた.時代が下り,実業補習学校が普及するにつれ,修業年限の短い学校が増加する.だが,本校は,修業年限3年を継続した.初期には,必ずしも3年間の修学に耐え得ず,中退する者も続出した.だが,なお,修業年限は短縮されなかった.ここに,後に商業学校に転換する基礎があったのである.以下,6ヵ年の歩みを,資料をもとにたどってみよう.
 まず,発足直後,設置学科が,商業科だけに変更される.農業科廃止のいきさつに関しては,資料として残されたものがないが,大正7年(1918)の「学校一覧」7)によれば,明治32年(1899),既に「此町ノ設立ニ係ル学校トシテ農科ハ適当ナラザルヲ自覚シ此時早クモ農科廃止ノ議ハ起レリ」とされている.なお,本校元校長蒲生昌作の見解によれば,学校を将来どのように運営するかという点で学校推進の世話役をしていた商議員が,総て商家出身者であったこと,町としては商業の発達を重視したのであり,農科は最初から成立しなかったことがその原因であるという.こうして,明治34年(1901)9月には,3年半続いた農科は廃止される.以後,本校は商業教育を本命とする学校となり,校名も,「都城商業補習学校」と改称された.
 では,そこには,どんな生徒が,どの程度学んでいたのであろう.開校時の入学生は13名,総て男子であった.明治32,33年(1899,1900)の入学生数を示す資料はないが,文部省年報によれば,明治32年(1899)の本校生徒総数64名,33年(1900)は同67名となっている.更に,明治34年(1901)に第1回18名の卒業生を出している.つまり,31年入学生13名を越える卒業生数だったことから,途中で編入学した生徒のいたことが推測されるのである.一方,「都商同窓会名簿」によれば,第1回卒業生は明治32年(1899)3月2名,第2回明治33年(1900)3名となっており,氏名も掲載されている.しかし,本校修業年限3年を考えれば,明治32,33年(1899,1900)の卒業生はいないはずである.1年ごとに修了生扱いしたか,又は記録に残らないまま,別科や講習科を用意したかである.前記「学校一覧」は,最初の卒業生を34年18名として扱っている.とまれ,発足期,毎年20名前後の生徒を受け入れることができたことは確かである.記録によれば,明治34年(1901)4月25名,35年4月27名,36年4月12名の入学生があった.これに対する卒業生数は,明治34年(1901)3月18名,35年3月23名,36年3月7名,37年3月5名,38年3月4名である.各年度の入学生に対する卒業比率を単純計算すれば,明治34年(1901)入学生の場合,25名に対して5名,即ち20%にすぎなかたことになる.
(3)生徒の動向
 学校の盛衰を示す一つの指標は卒業生数である.従って,本校が明治35年(1902)以降明治38年(1905)まで,一貫して卒業生数を減じていたことは,本校及び都城町にとって憂慮すべきことであった.前記「学校一覧」はこれに関し,「三五年四月ノ学期始ニハ補習科の功績モ幾分世人ニ認知サレ二十七名ノ入学者ヲ得タリ,然レドモ世間ニ噂アリ商業補習学校ハ程度低シ今少シク之ヲ高メンニハト是レ即チ時勢ノ然ラシムル所ナルモ翌年四月ニハ僅ニ十二名ノ入学生ヲ得シノミ」8)と記している.生徒卒業状況の悪化からみても,早くも,本校存続の可否が問われる困難に直面したのである.
 入学生徒は,おおむね都城町の商家出身者であった.明治36年(1903)入学生12名もすべて商家出身である.又,その前学歴は,小学校4年卒業程度であった.明治36年(1903)入学生12名のうち,高等小学校2年修了者(通算6年の教育を受けた者)は1名(8.3%)にすぎない.平均年齢は11-12歳であった.明治36年(1903)入学生についてみれば,最高13歳1月,最低10歳,平均11歳2月となっている.更に,先の資料から判るように,中退者が多かった.明治36年(1903)の中退者は5名であり,中退理由は総て家事都合によるとなっている.中退者の多いことは,実業補習学校の全歴史を通じて指摘されることであるが,本校もまた,その例外ではなかったのである.
(4)学校の内実
 では,このような属性,性格を持つ生徒を受け入れた学校の施設・設備,指導した教員については,どんな実態があったのであろう.
 宮崎県学事年報によれば,実業補習学校期の本校教員数は明治34年(1901)3人,明治35年(1902)2人,明治37年(1904)3人であり,商業学校に転換した明治38年(1905)から4人になっている.教員の学歴,出身階層等は不明である.二代校長が小学校長との兼務であったことを考えれば,小学校教員程度の学歴を越えない状態であったと思われる.なお,教員は総て男子であった.その待遇は,学校長で年俸420円(明治38年)であった.都城中学校長の同年年俸1,000円,農学校長の同年年俸1,200円,中学校教諭の平均年俸560円,中学校助教諭の平均年俸312円と比べ,一段と低かったことがわかる.
 発足期の悩みの一つは校舎の建築であった.開校直後の1年4ヵ月の間に,上町集会所,個人有倉庫,監獄署跡の3ヵ所を仮校舎として移動していた.この間,明治31年(1898)10月6日,校舎改築移転を町に申請している.この申請は同年11月5日に認可され,明治32年(1899)6月8日,都城町大字宮丸字大王に校舎が落成した.敷地1反3畝28歩,建物坪数85坪8合9勺であった.校舎の移転は,その後もたび重ねて行われるが,この時の校舎が本校最初の独立校舎であった.民家をやや大きくした程度にすぎないが,これによって,ようやく仮住いを脱することができたのである.
 次に,本校の運営経費をみよう.明治32年(1899)度は,授業料収入29円,年間総計費550円であった.明治33年(1900)度は授業料収入44円,年間総計費826円である.明治34年(1901)度は郡費374円,国庫補助300円,授業料収入38円,計712円が収入の総てであったのに対し,年間経費は786円であった.更に明治37年(1904)度は,授業料収入12円,年間経費955円になっている(いずれも文部省年報及び宮崎県学事報告).
 授業内容と授業形態についてもふれよう.上町集会所で開校した時は,夜間に授業をする,パート・タイムの学校であった.それは,集会所の性格から,昼間授業が行い得なかったからである.倉庫移転時からは,昼間に授業を行うフル・タイムの学校になっている.教育内容の具体像に関する資料はないが,開設科目は第4表に示す通りであった.
第4表 開設科目一覧
(5)商業学校への転換志向
 以上,学校として発足したものの,校舎もなく,教員組織も充実しておらず,入学生も年によってまちまちであったこと,卒業率が極めて低く,一般から,必ずしも「程度の高い学校」という印象を受け得なかった,実業補習学校期の本校の実態を記した.しかし,なお,それは,発足後わずか6年後に,商業学校へ転換する,その準備期でもあった.当時の本校の内実は,なるほど,正規の小学校や中学校に比較した場合,極めて劣悪なものであったといえよう.だが,そうした状況下にあっても,なお,当時の実業補習学校全体の趨勢からみれば,本校の条件は上位に位置づけられるものであった.多くの実業補習学校は,校舎もなく,小学校の一室に間借りし,小学校との兼務教員がわずか1名配置されただけであり,年間総計費も10円未満という例さえめずらしくなかったのである.これと比較してみれば,本校は,実業補習学校としては充実した学校であったといわなくてはならない.機会が来れば,通常の実業学校に脱皮する可能性を十分持っていたのである9).その期の熟すまでに,約6ヵ年がかかったわけである.では,乙種商業学校への転換はどのようにして行われ,本校をどのように変容させたのであろうか.

Ⅲ 乙種商業学校への転換

(1)転換を促す諸要因
 この節では,明治37年(1904)から大正8年(1919)度までの約16年間の本校の展開を述べたい.この間の本校沿革の主要事項を対比したのが第5表である.乙種商業学校への転換は,法制上,「実業補習学校規程」に従う学校から,「商業学校規程」に従う学校への転換を意味している.その実質的意味は,第6表に示す規程の違いからわかるように,教育程度の高度化にあった.これを実現するには,いくつかの内発的要因がなければならない.
 一つは,都城の商業活動の拡大と都市としての発達である10).明治38年(1905)に本校に着任した旧職員岩満鶴之助によれば,「その頃都城は町で,諸種の機関は未だ備わらず,全くの田舎町でした.……上町だけが目立っている許りで外は別に大した程[ママ]もなかったようです.併し,商家の経済状態は実質的に今日より以上であったかも知れ」11)ないという.都城は,後,明治43年(1910)歩兵連隊設置,大正2年(1913)日豊線開通,都城駅開設と,急速に近代的色彩をおびていく.明治30年代末は,その前夜ともいうべき時期であったのである.
第5表(a) 実業補習学校期の沿革
第5表(b) 乙種商業学校期の沿革
 二つは,生徒の入学動機の変化である.本校発足当初の卒業率は必ずしも芳しくなかった.これには相応の理由があった.宮永直八(大正6年(1917)卒)によれば,商業補習学校を卒業しただけでは,丁稚にしかなれなかったため,本校は人気のない学校であったという.宮永自身は大正3年(1914)に入学したが,当時,既に,本校入学生は,地元商店に就職するためというよりは,広く県外に就職することを目ざして入学していたという.算盤と簡単な簿記,若干の商法を心得て,自家商業を営むための知識を求めて入学する生徒は次第に減少したのである.地域社会という,内側に向けられていた目が,外側に向けられてきたともいえよう.
第6表 規程に見る商業補習学校と商業学校の差異
 三つは,実業補習学校時代の卒業生による,商業学校への転換運動である.「その中心となったのは元高野書店の高野嘉平氏で瀬戸山豊吉氏,南崎勇助氏(南崎雄七氏の兄),大浦藤市氏等その運動に毎晩のように集まって協議した」12)という.
 四つは,町議会の動向である.議会は,前記の三つの動きに敏感に応じていた.明治37年(1904)4月より乙種商業学校への転換が実現すべく文部省に申請することを議決したのである.
 明治37年(1904)6月13日,文部省は,申請より2ヵ月遅れたが,本校の乙種商業学校への転換を認可した.認可直後の本校生徒数は,わずか13名にまで減じていた.明治38年(1905),町は,本校運営経費を600円余に増額した.既に4月には乙種最初の入学生34名(宮崎県学事年報によれば33名)を迎えていた.前年に在学した13名のうち,2年生に進級した者8名,留年2名,中退3名を数え,都合,1年生36名,2年生8名という構成となった.なお,教師は1名増員して4名である.明治38年(1905)3月,実業補習学校規程による最後の卒業生4名を送り出した.以後,補習科は廃止となっている.翌明治39年(1906),新入生24名を入学させた(宮崎県学事年報によれば25名).前年の2年生8名は全員3年生に進級した.前年の1年生は,2年生に進級した者23名,留年6名,中退7名となった.都合,1年生30名,2年生23名,3年生8名,計61名の構成である.この年,ようやく全学年1学級ずつそろったのである.
(2)転換直後の変容
 商業補習学校末期における本校の衰退状態は,乙種転換後2,3年の内に,不十分ながら活況をとりもどしていく.明治40年(1907)以降は次第に学校としての内容を充足し,規程が示す学校に相応したものとなっていく.この間の推移を,若干の資料から検討しよう.
第7表(a) 入学率
第7表(b) 中途退学者数
 初めに,明治40年(1907)頃の生徒に関する事項を第7表に示そう.これによれば,明治38年(1905)-明治42年(1909)まで,志願者のほぼ全員が入学を許可されている.この間,なお1学年定員50名には達しない志願状況であった.しかし,商業補習学校期に20名程度であった入学者数と比較すれば,約2倍の生徒数を保持し得たことになる.入学生の前学歴も向上した.第2図によれば,小学校4年卒業だけの者はなく,高等小学校2年修了者60%,同3年修了以上40%となっている.これに伴い,入学生の年齢も,第3図からわかるように,商業補習学校期の明治36年(1903)度入学生と比べて,平均年齢で2,3歳上昇している.他方,中退者の数も少なくなかった.明治41年(1908)以後,中退者は毎年20名前後にのぼっている.そのほとんどは,旧時同様,「家事都合」を理由とするものであった.
第2図 入学生徒の前学歴.
第3図 入学生徒の年齢.
 生徒の出身階層を第8表に見よう.商家出身者を多数としながら,なお,農業,工業等出身者も本校に学ぶようになっていることがわかる.特に,農家出身生徒の比重が次第に大きくなる傾向にあったことは注目すべきであろう.農民層分解の進展と学校の整備との関連の一端を見出すことができるのである.それは,生徒が,都城町に限らず,周辺部町村,遠方町村より本校に進学しはじめたことを意味する.
第8表 入学生徒父兄の職業
 学校経費も,第9表のように増額している.乙種転換を期に,約2倍になっている.
第9表 年間経費の推移
(3)郡立移行と校舎移転
 生徒の漸増は,まもなく校舎の不足をきたすことになる.本校が,より充実した内容に変容するためには,その精神的意気込みと同時に,具体的な施設,設備,教員組織の充実が必要であった.それには,相応じた財政的基盤がなければならない.そこから,本校の郡移管の声がおこってくる.旧職員岩満鶴之助の手記から,当時の実情を探ろう.
 「私が就任したのは明治三十八年で,日露戦争が終幕を告げようとする頃でした…….実業補習学校から独立の商業学校となったのですから,総てを新しく立直さねばならぬ重要な責任があったので,今まで不備になっていたものを悉く整理して,図書台帳や備品に到る迄記帳整頓して始めて学校内らしい一つの世帯を構ふる事になりました.併し学校の設備内容等を今になって考えて見ると貧弱なものでした.校舎は古い家を持って来て建てたもので,柱なんかキズだらけで粗末なものでした.参考書としても之はという程の物は一つもなく,商要[ママ]簿記等に要する書式なども簡単なもの許りが一通り揃った位でした.運動場は全く箱庭で……」13)
 ここに,郡移管の要請がおこってくる必然性があった.だが,郡移管には,①都城町の結束を固めること,②郡内他村の協力を得ることが必要である.ここでも,同窓生,町長税所篤正,町議児玉△△ら有力メンバーによる東奔西走が鍵であった.特に児玉氏は「商業教育の必要を力説し町有志を集めて都城の将来と自分の抱負を熱心に披瀝し町議席に於ても第一線に立ちて移管移転増築問題を高唱せられたので,町議すべての人が悉く賛意を表し」14)たほどであった.
 他方,各村の協力を得るため,移転改築費は町有志の寄附に待たねばならないことになった.本校教師は,率先して各商家に寄附を願い出たという.岩満鶴之助の手記によれば,「町有志としては江夏,小林,瀬戸山,黒岩家等町内の素封家には残らず膝つき合せて相談した結果,意外にも多額の金を御恵み下さいました.……取分け江夏芳太郎氏はイの一番に金壱千円他を惜しげもなく御寄附せられ,将来の学校林にも山地一丁歩許りにわざわざ杉苗を植えつけて下さいました.」15)という状態であった.そうした寄附金をたより得たのには一つの理由がある.都城の豪商の多くは,藩政期には藩令として禁止されていた浄土真宗(この地方では「かくれ念仏」16)という)の信仰者であった.郷土史研究家瀬戸山計佐義によれば,第10表にかかげる当時の有力商人の総てが,この信仰に篤く,幸福を平等に分けあう思想を内包していたという.
第10表 明治期主要商人一覧
 さて,以上のような背景の下,明治41年(1908)4月,北諸県郡会は本校を郡に移管することを議決承認した.この移管は,本校の内容を変更するものではなかったから,これによって,特に質が変わったわけではない.だが,町から郡へ移管したことは,本校が,より広大な地域社会の要請に応えるよう期待されたことを示そう.
 校舎移転要請は,児玉町議等の功もあり,郡会で議論の末,承認された.この結果,明治44年(1911)8月,都城町大字宮丸字平江原に校舎移転が実現した.敷地面積3反27歩,旧敷地の約2.6倍である.この時,生徒寄宿舎(28坪2合余)も設置された.それは,遠方通学生徒の漸増によるものである.かくて,次第に入学者数を増大するが,志願者が初めて定員を越えたのは大正2年(1913)であった.即ち,定員50名に対し,69名の応募があったのである.中退者も多く,なお全校生徒定員150名以内なので,志願者は全員合格した.だが,志願者増と中退者の減少は,まもなく,定員を満たす生徒数の確保を実現させることになる.これが大正中期の本校の実態である.大正5年(1916)から大正14年(1925)までの資産に関する表を示せば第11表の通りである.
第11表 大正期における都城商業学校資産一覧
(4)大正初期までの動向
 生徒数の増加は見られたものの,乙種転換直後の本校が,まだ,必ずしも内容を充実してはいなかったことに関しては,宮崎県学事報告の記載にもあらわれている.例えば,「乙種程度ニ変更以来日尚ホ浅ク斯業ノ改良発達ヲ期スル為メ設備ノ拡張及内容改善ヲ計画シ着々進歩シツツアリ」(明治39年(1906)度報告).「都城町立都城商業学校ノ設備ニ至リテハ未タ不充分ニシテ校地校舎ノ拡張ハ此ノ校ノ急務トスル所ナルモ町経済多端ノ折柄未タ目的ヲ達スル能ハサルハ遺憾トスル所ナリ」(明治40年(1907)度報告).「北諸県郡立都城商業学校ハ従来都城町立ナリシカ四十一年度ヨリ郡立ニ変更シ其ノ規模ヲ拡張シ教育ノ実績ヲ挙ケンコトヲ期シツツアリ設備等ハ俄ニ完成スルコト能ハサレトモ四十一年度ニ於テハ校舎ヲ増築シ尚緩急ニ応シ完備ヲ期セリ」(明治41年(1908)度報告).「前年来ノ方針ニヨリ着々其ノ歩ヲ進メ実績ヲ収メンコトニ力ヲ致スト雖未タ完成ノ域ニ達スル能ハサルハ遺憾トスル所ナリ」(明治42年(1909)度報告).
 即ち,乙種転換,郡立移管,校舎改築という重なる転変にもかかわらず,必ずしも商業学校規程に準じた水準には達し得なかったことが推測されるのである.名実ともに規程の水準に達したのは大正期に入ってからであったと思われる.『都商七十周年記念誌』の座談会における,大神兼昭(明治45年(1912)卒)と津曲春吉(大正4年(1915)卒)のスピーチを分析してみよう.
 大神:出席者の中で,前田町時代の経験者は私だけですが,今考えると,敷地が狭かったですね.運動場もいくらもなかったですよ.学校はちょっとした高台でしたからテニスをすればボールが下の神田どんに飛んで……
 津曲:私達のころは大王町に移転していましたが,敷地は30アール位,テニスコートが三面ありました.先生は学校長以下7名,……
 大神:私たちの頃はセッチン学校と言われて馬鹿にされていました.その時代に比べると,大正時代は随分よくなっていますね.
 津曲:私たちが三年生の時でした.セッチン学校の汚名返上に,生徒の質の向上,意気の高揚をはかり,生徒にプライドを持たせようという試みがなされました,
 大神:先生方は教育に情熱を傾けておられたようですね.17)
 両者の卒業年次の違いはわずか3年にすぎない.その間に,このスピーチに語られるような差が生じているのである.明治42年(1909)の本校教員数は4名であった.それが,大正3年(1914)には,津曲の記憶では7名になっている.その間,わずか5年しかたっていない.これらのことがらを総合して推測すれば,乙種転換後最初の5年間は,学校の水準を高める草分期であったこと,本格的に商業学校らしい体勢を整えるのは,大正期以後であったことがうかがえるのである.しかも,整備は急速に進んだ.では,安定的な乙種商業学校時代の本校はどんな実態を呈していたのであろうか.大正7年(1918)発行の「北諸県郡立都城商業学校一覧」を中心に,それを把握してみよう.
(5)「学校一覧」に見る大正期本校の動向
 「学則」は第12表のような構成をなしていた.生徒定員120名(各学年40名)である.各学年の学科課程は第13表の通りである.週当授業時数,三学期制,夏季・冬季・春季休業日の制定,入学試験の実施,留年制等,多岐にわたって,今日の高等学校と類似している.授業料は,郡内出身者月額80銭,その他月額1円である.又,儀式に関する規程,生徒心得服装等,一通りの規則が整っている.教師に対しても,心得が箇条書きにして規程にのせられている.それには,各教科の水準と教授上の注意事項が含まれている.実業補習学校ではなく,商業学校に「昇格」したことを表明する上でも,規程を定めた意味があったであろう.本校が,学校らしい学校に脱皮する,一つの背伸びともみることができよう.卒業生の多数からも,大正初期の規則の厳しかったこと,教師のこわかったこと,週番の目の光っていたことが口々に語られている.
第12表 都城商業学校学則の構成
第13表 乙種期学科課程表(都城商業学校)
 本校が,学校としての体裁を整えた他の証拠は,第14表に示される校務分掌の整理と,第15表に示される学校行事の中に見出されよう.そこに,いよいよ学校文化を開花させようとする姿を鮮かに読み取ることができよう.
第14表 校務分掌一覧
第15表 乙種期主要学校行事一覧
 公式的学則と並んで,非公式な性格を持ちながら,本校の外郭組織をなしたものに,学友会,同窓会の二つがあった.学友会は,今日の生徒会にあたる組織である.学友会には,文芸部,運動部,庶務部があった.学友会規則によれば,文芸部は「学術ノ講演雑誌発行等ヲナスモノ」であり,運動部は「各種運動ノ練習競技ヲナスモノ」であり,庶務部は「本会ノ庶務会計ノ任ニ当ルモノ」であった18).この頃から,ようやく生徒文化が本校に根付きはじめたといえるわけである.文芸誌は『商友』と称され,後まで,広く,生徒の文芸,言論活動の舞台となっていく.
第16表 志願者の学歴
 生徒の入学前学歴を見ると,第16表の通り,高等小学校卒業修了生が約40%をしめている.当時は,甲種転換後のような厳しい入学競争はなかったのであるから,これら,高等科卒業修了生の入学生の多かったことは,それだけ,本校の,学校としての人気を高める効果があったことになろう.これを裏付けるように,第17表及び第18表から,なお郡内出身者が多数をしめたとはいえ,場合によっては,その比率が70%台に落ち込むほど,他郡,他県からの入学生を集めていたことを指摘することができるのである.
 卒業生の進路においても,第19表のごとく,わずかながら,会社員,銀行員,教員,鉄道員,官吏等,いわゆる近代的職業部門への就業者が現われはじめている.もちろん,それらはまだ,ほんの芽生えにすぎなかったが.
第17表 学年別生徒原籍地
第18表 郡立期卒業生の出身地
第19表 卒業生の現況
(6)甲種程度への転換の胎動
 以上のように,大正期に入り,本校は学校としての組織を一通り整備し,まにあわせの学校という印象を払拭した.しかし,中等商業学校として完成するには,もう一つの飛躍,即ち,甲種程度への転換が課題として残されていた.これを実現するについて,本校には,三つの契機が内包されていた.一つは,同じく中等学校として存続した中学校の存在である.都城中学校と比較すれば,本校は,いまだに「セッチン学校」の域を出ない学校であった.これを,中学校と同等の就業年限とし,教育程度を高めようとする運動が,関係者,とりわけ同窓会からおきないはずがなかったのである.『都商七十周年記念誌』には,「大正五年高木修吉校長となる.妻ヶ丘に敷地移転問題起り,郡会に提案され移転案が決定されそうになった.しかし,諸種の事情のため遅滞した.その間校舎は損壊し,見るも惨憺たる状況になった」19)と記されている.
 二つめは,卒業生の就職先の拡大と,就業業務の複雑化である.卒業生は,必ずしも都城周辺にのみ就業したのではなかった.国内はもちろん,海外にも進出していくようになる.そこで要請されるのが,より程度の高い商業教育であった.
 三つは,全体社会の動向である.大正期は,既に農業人口が全就業人口の60%にまで減じた時期である20).農業に代わって,商工業が次第に勢いを増してくる.地方中小地主の政治的活躍の場であった郡制も,従って,解体の一途をたどる.こうした全体社会において,乙種実業学校は,機に乗じて甲種に「昇格」するか,のり遅れてそのまま留まるかという羽目に立たされたわけである.
 こうして,乙種商業学校として拡充整備された本校は,大正期後半,再び,組織,内容の転換をすべく,地域的要請をうけたのであった.それは,乙種商業学校から甲種商業学校への転換においてのみ,具体化されるものであった.

Ⅳ 甲種程度への転換と組織の拡充

(1)甲種への転換の必然性
 甲種商業学校への転換は,地域的要請であり,本校自身による主体的選択であった.この間の事情を,卒業生座談会の記録からみていこう.大正6年(1917)-大正9年(1920)までの卒業生7名の発言のうち,主要なものを列記すれば次の通りである.
 神田橋:高等科から来た生徒が大分いましたね…….
 松山:私のクラスは五分の二が高等科,五分の三が尋常小学校から来ていたようです…….
 金井田:……その頃,商業学校は県内で都城に一つしかなかったのです.だからあちこちから入学していました.
 宮永:自家の手伝いをする人,それから多かったのがデッチ奉公でしたね.進学者はいなかったですね.
 白男川:私達の頃は……鹿児島や熊本,長崎の甲種商業学校へいくらかの人が進学してゆきました.
 松山:私たちの頃は学校長が自ら就職の斡旋をしていましたね.就職難時代で.
 金井田:多くの人がデッチ奉公だったんですね.
 高野:私は大阪のあるメリヤス問屋に二年間いました.一年間は便所掃除,荷ほどきが一ヵ年,それからが商品販売でしたね.21)
 この記録から判ることは,本校入学者の出身地域が拡大していたこと,高学歴入学生が増加していたこと,しかし,なお,乙種程度であったため,卒業後,必ずしも思うような就職ができなかったことである.
 次に,卒業生の手記を拾ってみよう.
 「……常に先生の入れ変わりが激しく欠員の時など簿記,商業など満足な授業はうけられず英語も幼稚なものであった……」(神田橋勝海,大正9年(1920)卒)22)
 「……山間僻地の小学校の分教場のようなこの学校に対し,世人は雪隠学校と侮蔑の言葉を放っていた.……県立都城中学校を見る度に,羨望の念をどうしてもぬぐい去り得なかった……」(大山九平,大正12年(1923)卒)23)
 「我々が入学した当時の都商の校舎は……教材なども乏しく,校舎は掘立小屋で,壁板は腐っていた.……生徒は足にゲートルを巻き…….当時の中学生などは高い下駄などをひっかけ偉く気どって街を闊歩しており……」(池崎利盛,大正12年(1923)卒)24)
 大正9年(1920)2月,郡会は,本校の甲種商業学校への転換を申請した.申請は認められ,その年度から,本校は甲種程度の商業学校として出発することになる.次いで,翌大正10年(1921)4月には,念願の県移管が実現した.
(2)指導者としての校長の果たした役割
 制度転換に伴う学校組織の実質的転換が,ここでも難事業の一つであった.この難事業を切りぬけたのが,石川,林,の各校長であり,石川校長を補佐した池袋教頭であった.三氏に対する関係者の見方を記そう25).
 ⅰ)石川校長に対して
 「石川校長在任四年の間に誠に驚くべき躍進を都商はとげたといえる.石川校長は丈高く俊敏な=刺たる立派な紳士であった.先生は外交の手腕にすぐれた方であると同時に一面事務的な技術者でもあった」(村田節,大正7年(1918)卒)
 「大正八年,三年生の時,大分県の臼杵商業学校長の石川於菟喜先生が校長として着任され,実に東奔西走,昼夜を分たず鋭意折衝の結果……」(大山九平,大正12年(1923)卒)
 ⅱ)林校長に対して
 「家が貧しくて銀行の給仕を長い間勤め,学資も貯めて鹿児島商業から長崎高商へ進学して卒業した人.苦労のにじみでるような,しかし,極めて明朗な,親しみの持てる人柄であった.……卒業式の校長訓辞は,奉書紙一枚に,きまりきった文語体で書かれてあるのが普通であったが,林校長のは違っていた.奉書の巻紙一巻(約10米位)に,口語体でこんこんと社会人としての心構えを,例の達筆であざやかに述べられてあった」(畠野国雄,大正13年(1924)卒)
 「林校長先生は,型やぶりの校長だったと思う.その頃は冷暖房は勿論教室にはなかった.寒い冬のある日,校長は日当りのよい廊下に私達を集めて授業をされた.このことが,後日教師間で問題になった,と級友の誰かが話しているのを聞いたが,真偽は判らない.が,私には心温まる授業だった」(野田久次,昭和4年(1929)卒)
 ⅲ)池袋教頭に対して
 「五年生の時,敬度なクリスチャンで,人格高潔な池袋春樹先生が自分達の学級主任をされたことは,実に幸せであった.国漢を教わったが,その学の深さと,講義の明快で面白かったことは,今でも忘れ得ない.……数回の注意指導にもききめのなかった某君は,遂に先生宅に一ヵ月か二ヵ月位引き取られ……」(大山九平,大正12年(1923)卒)
 「池袋教頭の献身的努力は今でも頭のさがる思いがする.都城の名門の出で,クリスチャンでもあり,その崇高潔白な人格と,高邁な識見と,周到・緻密な経営とは,創立匆々の都城商業学校の校風の刷新振粛に大きな足跡を残されたように思う」(鵜戸西平助,旧職員)
 なお,昭和戦前及び敗戦直後の本校運営に功績の大きかった蒲生昌作,川畑明彦両校長に対する生徒の印象を記しておこう.「蒲生先生の功績は実に大きい.勉学に,体育武道に,その校名を県の内外にとどろかし,……生徒に対しては,或時は厳父となり,或時は慈兄となって接せられ,……常に県当局に対し,強い信念を持って正しい意見を率直に述べられ……」(大山九平,大正12年(1923)卒).「川畑先生は新制都城商業高校初代校長として,現在の都商の敷地の確保,永久校舎の建設のため,大きな推進力を発揮された.厳しく,しかし穏やかな先生の指導には,どの生徒も暖かい教育愛を感じないではいられなかったと思う」(本村秀雄,昭和14年(1939)卒の談)
(3)生徒指導の組織化
 名実ともに学校の「昇格」を実現するには,町内に並立する都城中学校,高等女学校,農学校に見劣りしない内実をつくり出さなくてはならなかった.それは,一つには生徒の質の向上をはかることに,二つには,教員組織の充実をはかることに,三つには,施設,設備の充実をはかり,等位認定にパスすることとして具体化される.
 生徒の質の向上を促すために試みられたのは,①生徒の学力向上,②規律ある生活をめざす指導の強化である.これは,県移管と同時に定められた校訓三ヵ条,即ち,誠実堅忍の人,勤倹自治の人,分度謙譲の人たるべきこととして具体化される.幸いにも,甲種転換直後の予科入学生は,各小学校のほぼトップクラスの卒業生であった.旧職員鵜戸西平助によれば,「予科一,二年のクラスは,県立甲種商業学校昇格の気運に乗った粒選りの秀才組であった.その気運は尾を引いて,入学志願者が急激に増加し,余りにも狭い門だということで……」26)大正12年(1923)から二学級100名募集にしたという.
 生徒指導のための「生徒心得」,週番制度や服装に関する学校規則等は,既に大正初期から定められていた.甲種転換を期に,それらが,教師,生徒間に自覚的に再確認されたのであった.前記三人の本校の校長,教頭が,多数の卒業生に深い思い出を残しているのも,本校の,こうした時期における,密度の濃い,教師・生徒間の相互作用があったからである.
 さて,等位認定にパスするため,大正10年(1921),本校は妻ケ丘に校舎を移転する.これによって,施設,設備等,一通り完備する学校になった.教員組織については,どの程度の実力のある教員を採用できるかについて,すべて校長の手腕にかかっていた.石川校長が東奔西走したのもこのためであった.これもかなり充実し,本校は等位認定にパスし,甲種転換直後の難局を,どうにかのり切ったのであった.
 こうして,昭和初年まで,本校は安定した甲種商業学校として広く認められていく.当時の本校の内実を,昭和4年(1929)版の「宮崎県立都城商業学校一覧」27)からひろってみよう.
(4)昭和初期の「学則」
 前記「学則」は,大正12年(1923)に定められ,大正15年(1926)に改正されたものである.それは第20表のような構成である.生徒定員は500名.各学年二学級編成である.授業は年間43週にわたって行われ,これを三学期に分けている.学期の交代時に春季,夏季,冬季の休業期間を設けていた.授業は第21表に示す学科課程表に基づいて行われていた.なお,使用教科書は第22表に示す通りである.
第20表 都城商業学校学則の構成
第21表 甲種期学科課程
第22表 甲種期使用教科書一覧
 成績が振わず,留年する生徒もあった.志願者は常に定員を越え,入学試験が実施されている.途中で,他校から編入学すること,他校へ転出することも,条件を満たせば許可された.入学を許可されても,性行不良者,学力劣等で向上見込のない者,引き続き1年以上欠席した者は退学処置をとられる.授業料は月額4円50銭(全月休業,休学の場合,当該月は徴収しない)であった.寄宿舎は昭和3年(1928)から廃止され,遠方通学生徒は,学校の許可により,下宿生活に切りかえていた.
 生徒に関する規程の全容は第23表の通りである.心得細則には,多方面にわたり,標準となる生徒の行為の仕方が定められている.学級には,級長,副級長を置き,学級生徒集団の統合をはかっていた.更に,校内の風紀を正し,生徒の自治的精神を養う目的で週番制が導入されていた.
 職員に関する規程もある.これによれば,職員は,通常は,始業10分前までに出勤し,放課後30分を経過するまで在校することを原則としていた.出勤時に押印し,早退,外出時はその都度校長に届け出ることになっていた.又,一名ずつ宿直勤務があった.更に,毎週土曜日,担当学科の進度表を校長に提出することになっていた.なお,事務分担一覧を示せば第24表及び第25表の通りである.
第23表 生徒に関する規程の構成
第24表 事務部事務分掌
表25表 教務部事務分掌
 本校附設諸団体・組織に関する諸規程も定められている.本校が所期の教育目標を達成するためには,地域社会や生徒の家族との関係を無視することができなかったのである.同窓会は,実業補習学校期の卒業生によって明治後期に既に結成されていた.他に,学友会,学友団,販売部,職員互礼会,父兄会が明確な規程をもった団体として,しかも,パーソナル・コミュニケーションの欠落しない団体として,その組織を作り続けていた.学友会は,乙種時代のものを引き継いだ組織である.これを通じて,正規の学業のほか,様々な生徒活動が展開する.学友団は,乙種期にはなかったもので,今日の地区生徒会に当たる組織である.即ち,通学域ごとに,校外活動の規律を守ることを目的として,在校生徒をもって作られていた.販売部は「生徒ヲシテ商品智識ノ体験及商業道徳ヲ養成シ併セテ廉価学用品ヲ供給販売スル」28)目的をもって組織されたものである.又,父兄会は「学校ト家庭トノ連絡ヲ密接ニシ生徒ノ教養ニ関シ学校ト協力シテ其ノ効果ヲ増進スル」29)ことを目的として作られていた.今日のPTAに若干類似する組織である.
 これら,諸規則を一瞥してわかることは,それらが,現在の学校規則の構成方法とよく似ていることである.学校規則のこのような整備は,一方で,学校教育の官僚主義的組織化として理解されるとともに,他方,未整理状態の学校を整理し,学校が組織として一つの指針を持つよう充実してきたこととしても理解されよう.では,大正末期から昭和初期にかけて,どのような変容が,本校において進んでいたのであろうか.
(5)生徒の学力・特性と生徒文化
 乙種転換直後も,本校は,生徒の資質向上を期して,様々な面で指導を強化していた.だが,生徒の学力は,必ずしも高いものとはいえなかった.志願者も少なく,定員に満たないことが多かった.ところが,甲種程度に編成替えした後の志願者は,量,質ともに変わってくる.大正9年(1920)-昭和4年(1929)までの志願者数と入学許可者数を第26表に示そう.大正12年(1923),二学級募集にふみ切るまで,競争率は約3倍になっていたのである.卒業生の回顧によれば,小学校で2,3番以内の成績でないと商業学校入学は無理だったという.短い年月のうちに,定員割れの学校から競争試験の厳しい学校に転じたのである.
第26表 志願者・入学者の推移
第27表(a) 志願者・入学者の学歴
第27表(b) 志願者・入学者の年齢
 入学がむずかしくなると,第27表のように生徒の年齢も高くなる.又,入学生徒の親の職業構成も,第28表のように多様になる.商家出身者が50%を割り始めるのである.これに伴い,第29表に示されるように,生徒の出身地域も,乙種時代とは比較にならないほど拡大している.
第28表 生徒家庭の職業
第29表 学年別生徒原籍地
 ところで,こうして,厳しい競争試験を突破して入学しても,全員がそろって卒業できたわけではない.学業不振による脱落もあった.だが,むしろ多かったのは,家庭の都合で退学せざるを得なかった生徒である.「学友の四割ほどが近くの農村から通学していたし,市内も製糸業や林業の不況がつづいたので,いつとはなしに退学していくものもいた」(山口常雄,昭和6年(1931)卒)30).
 だが,そうした中にあっても,なお,生徒達は,それなりに社会から猶予されており,一時なりとも青春のひとときを楽しむことのできる身分にあった.昭和6年(1931)卒業の山口定によれば,「大正九年の反動恐慌から不況が慢性化し,同十二年には突発的な関東大震災で都城地方から移出されていた米,繭,炭,木材,茶,生糸などが焼失して景気の前途はいっそう滅入ってしまっていた.そのころ入学したのだから,あたら有為の才をいだいて小学校だけで当時のことばでいえば百姓をしたり,丁稚小僧となっていわゆるメダレかけの奉公に出た友だちからは,羨望の眼でみられたものだった」31)と言う.
 生徒達は必ずしも裕福とはいえない家庭事情の中から通学していた.彼らは,家族からの期待を背負い,卒業後には一人前の社会人として世に出ることを予想しながら,なお,学友会組織を通して,特有の生徒文化を形成していた.記録として今日まで残されているのは文芸誌『商友』である.他に,各地に遠征,出場したスポーツ大会の記録がある.
(6)生徒の卒業後の進路
 卒業後の生徒の進路にも特徴が現われてきた.第30表は,昭和4年(1929)までの卒業生の就業職種をまとめたものである.気のつくことの一つは,商業補習学校-乙種商業学校-甲種商業学校と,本校の組織が拡充するにつれ,卒業生の職種が,銀行,官公吏,教員等,いわゆる近代的職業部門に順次拡大していることである.商業に従事する者の比重は,順に,73%-65%-45%と,次第に減じている.二つめは,乙種期末期から,高等教育機関に進学する者が急増してきたことである.先の,授業科目一覧からもわかる通り,甲種転換後
第30表 昭和4年現在卒業生の現況

の本校は,英語,数学等,普通教育科目についてもかなりの時間をとっている.高等教育機関への進学を媒介にして,商業学校卒業生としては異色の分野に進んだ例も多々見られる.昭和6年(1931)卒業の山口常雄は,「学校時代には目立たず,黙々と自己形成に努力した人たちが,異色ある分野で頭角をあらわしたのも時代相の反映であったろう.裁判官から現在熊本市で弁護士を開業して社会正義のために働いている西辻孝吉君,毎日新聞西部本社校閲副部長で定年を迎え,第二の人生を門司で送っている四元二三男君,役人生活で役職員として重きをなした丸中利夫(都城市開発公社専務),林新一郎(宮崎市役所)なども変りダネとして己を成し遂げた人たちであろう」32)と記している.
第31表 卒業生居住地
 卒業生の就業先に関しても,第31表のような特徴がある.多くの卒業生が,外地(主に朝鮮,満州,台湾)に就職していたことである.外地志向は,商業補習学校期から既にみられた.昭和期以降顕著になる.その背景の一つは,曰本の,外地への経済進出である.二つは,本校入学生が,自家営業継承のためにだけ本校に進学したのではない状態がますます鮮明になっていたことである.特に農村出身生徒は,農民層分解の進む過程で析出された,農家二・三男である場合が多かった.彼らは,卒業と同時に家を離れ,独立しなければならなかった.彼らにとって,外地は,一つの憧れの「新天地」であった.三つに,そうした彼らの気持をくんで,本校教育方針が,広く世界に目を向け,羽ばたくことをかかげていたことである.昭和2年(1927)卒業の菊池新二によれば,当時の本校は「常に自分の個性,適性をのばすべく,あらゆる分野で自己の可能性を試す」よう指導していたという.菊池自身は,在学中に数学の才能を認められ,卒業後,東京物理学校に進学した.物理学校卒業後,京城師範学校教諭となり,戦後,母校の校長になるという経歴をたどっている.さて,四つには,同窓会組織が整っていたことである.海外就業者が,ただ一つ頼りとし自己の準拠集団としたのは,ほかならぬ「都商同窓会支部」であった.支部会員は,新たに海外就業する後輩をよく世話した.このルートを通じて,卒業生は次々と海外に就職することができたのである.1人海外に出て孤独のまま終わったのではなかったのである.五つに,九州という,地理的条件である.海路をもとにすれば,東京よりも,朝鮮半島の方が近いのである.更に六つに,本校が「鮮満旅行」と称して,外地に修学旅行をしていたことである.生徒は,この旅行を通じて,外地在住の先輩と顔見知りになり,同時に,外地への親近感を覚えたという.
 海外就業者のうち,中国東北地方(旧満州)における本校卒業生の動向について,大正8年(1919)卒業の松山照の記録するところを紹介しよう.松山によれば,満州における主な就職先は「満鉄消費組合」であったが,満鉄就職の最初は大正7年(1918)の3名であったという.以後,大正8年(1919)1名,大正9年(1920)8名である.松山の調べによる,昭和10年(1935)の,地区別,卒業年度別,在満州同窓生は第32表と第33表の通りである.松山によれば,昭和3年(1928)-10年(1935)代にかけてが,満州への就業者数のピークであったという.
第32表 満州在職卒業生地区別内わけ
第33表 卒業年度別在満者数
(7)教員構成
 昭和4年(1929)の本校教員は第34表に示す構成であった.又,第35表は,明治36年(1903)以降,本校勤務教員の勤続年数に関する調査結果を示したものである.これらによれば,甲種期の教員は,すべて学卒有資格教員であったことがわかる33).又,その週当たり担当授業時数も16-18時間程度であり,今日の高等学校とほぼ近似している.
第34表 現在職員調
第35表 旧職員に関する事項
 以上,甲種程度商業学校への昇格後の本校の動向をみてきた.なお,昭和21年(1946)までの主要な動きを記せば第36表の通りである.また,昭和10年(1935)当時,戦前期商業学校としての本校が最も施設を充実した
頃の校舎配置図を示せば第4図のようになる34)。
第36表 甲種商業学校期の沿革
第4図 校舎配置図(昭和11年(1936)).

 結論:商業補習学校から商業学校へ

 以上みてきたように,本校の歴史は,今日までに80年を越える長いものとなっている.その間の,本校の生徒数,卒業生数,教員数等の推移については,第37表の通りである.その歩みは,途中で曲折もあったが,巨視的には,不十分な,非組織的な商業教育機関から,比較的充実した,組織的教育機関への歩みであった.それは,制度的には実業補習学校から商業学校への移行として現われた.では,そのような変化(転換)を可能にした要因は何だったであろうか.その変化のプロセスはどのように受けとめられるであろうか.その結果,本校にはどんな特性が生じ,本校はどんな社会的役割を演ずるようになったのであろうか.これらの問題を中心に,以上の事例をまとめたい.
 本校の設立が可能だったのは,何よりもまず,地元都城町の商業活動が拡大化しようとしていたからである.その基本的条件の上に,旧士族層における教育重視の思想,農村における,農家析出次三男教育の必要性の自覚化等が重なっている.更にその上,指導的商家の先見性に富む指導があった.このリーダー達は,信仰心の厚い素封家でもあったので,後には本校に対する直接的経済援助もしている.以上の点に,本校発足の基礎があったとみてよいであろう.
 商業学校への転換は,時代の流れの反映でもあった.だが,実業補習学校のすべてがこのような転換をなし得たわけではない.転換を果たすにはそれなりの条件が必要であった.本校の場合,ここでも,指導的商家の指導力が強い影響を与えている.甲種商業学校に到るまでの歩みを図式化すると,それは,町立商業補習学校→町立乙種商業学校→郡立乙種商業学校→郡立甲種商業学校→県立甲種商業学校への歩みとして要約される.そこには,町→郡→県という設置主体の移行と,実業補習学校→乙種商業学校→甲種商業学校という制度上の移行が並行して展開していた.この二つが,うまく噛みあったところに,本校の「上昇」移動の根拠がある.
 「上昇」移動は,他方で,本校の,学校としての性格を根本的に変えていったともいえる.実業補習学校期の本校は,いわば,地域社会に直接応えるために存在した学校であった.それは,丁稚程度の商業従事者養成機関にすぎなかったかもしれないが,しかし,卒業生は,地元の商店に勤務し,地元に留まる比率が高かった.だが,商業活動が拡大,複雑化し,経営形態が近代化するにつれ,実業補習学校の教育内容は,次第に,これに追いつかなくなる.そこに,本校が商業学校へと,制度的転換をとげる必要があったのである.この転換は,本校の性格をも変容させた.卒業生の進路が,地元商店の丁稚奉公入りから,都市一般勤労者としての就職へと変化したのである.そのため,卒業生の地元への定着率は必ずしも高くはなくなる.他方,カリキュラムの変更は,高等教育機関への進学希望者に,その希望を実現させるようになる.それ故,卒業生の進路はますます多様化し,近代的職業部門への拡張が進む.即ち,本校の社会的役割も,地域社会の要請に直接応える役割から,全体社会の要請に応える役割へと変化していったのである.もちろん,それは,必ずしも,地域社会との関係を断ち切って展開したのではなかったが.
第37表 教員・生徒数の推移
 このような,制度上の移行,設置主体の移行に伴い,本校の内実,実態も大きく変わった.実業補習学校期には,教員組織も生徒組織も,又,定まった学校と外部社会集団とを結合する組織も殆ど無きに等しかった.しかし,乙種商業学校に転換した後,それらは徐々に組織化された.学校規則も生まれ,学校文化及びその下位文化としての生徒文化も形成されている.それは,甲種商業学校に移行したことを契機に,ますます独自のものとして開花していく.本校が,様々な曲折にもかかわらず,今日まで存続し得た,もう一つの潜在的要因を,この,学校文化に求めることができよう.
 とまれ,県の最西南端という県境域に,宮崎県最初の商業教育機関が,地域社会独自の要請で設立されたことに本校の特性があるのである.

[注]
1)都城一帯を含む宮崎県は,明治6年(1873)に設置された.明治9年(1876),宮崎県は廃止され,鹿児島県に併合された.明治16年(1883),再度宮崎県を設置して今日に至っている.
2)『都城市史』によれば,一帯の水田反当たり収量は,明治36年(1903)頃1.5石,昭和3年(1928)頃2.0石である.
3)本村秀雄『都城盆地の歴史散歩』,南九州文化研究所,昭和49年(1974),参照.
4)宮崎市は明治以前は田舎町にすぎなかった.県庁所在地となってから,県内最大規模の都市となるが,それ以前は,都城の方が,むしろ,あらゆる面で中心都市的役割を果たしていた.
5)宮崎県は,実業補習学校普及において全国的水準をはるかに下まわっていた.明治39年(1906),県より各町村に,実業補習学校を開設するよう通達が出されている.
6)現在の都城商業高等学校では,学校創設後の経過年数を数える場合,実業補習学校期の約6ヵ年を算入していない.だが,この算入されない6ヵ年こそ,本校の胎動期というべきであろう.
7)「北諸県郡立都城商業学校一覧」大正7年(1918)1月,参照.以下「郡立学校一覧」と略す.
8)「郡立学校一覧」大正7年(1918)1月.
9)発足当初の実業補習学校又はそれと類似の諸学校の中には,学校制度の整備される過程にあわせて,「上昇」移動したものが少なくない.例えば同じ都城町に明治35年(1902)に設置された郡立女子職業学校は,大正3年(1914)に郡立高等女学校に,又大正7年(1918)に県立高等女学校に「上昇」移動している.
10)都城町の人口の推移について,『都城市史』によれば,明治21年(1888)11,578人,明治44年(1911)2万人となる.大正9年(1920)に2万5千人を越え,昭和5年(1930)には3万5千人となっている.昭和10年(1935)に4万人に達し,昭和11年(1936),周辺部農村を合併して6万5千人を越える.
11)『商友』第59号,昭和9年(1934)7月.
12)『宮崎県立都城商業高等学校創立七十周年記念誌』昭和49年(1974)9月,都商同窓会.以下『都商七十周年記念誌』と略す.
13)『商友』第59号,昭和9年(1934)7月.
14)同上.
15)同上.
16)かくれ念仏については,本村秀雄『都城盆地の歴史散歩』,参照.
17)『都商七十周年記念誌』より.
18)「郡立学校一覧」大正7年(1918)1月.
19)『都商七十周年記念誌』より.
20)宮本憲一『都市と経済』,日本放送出版協会,昭和55年(1980).
21)『都商七十周年記念誌』より.
22)同上.
23)同上.
24)同上.
25)同上.
26)同上.
27)以下「県立学校一覧」と略す.
28)「県立学校一覧」昭和4年(1929).
29)同上.
30)『都商七十周年記念誌』より.
31)同上.
32)同上.
33)甲種商業学校期に入った後,「教諭」採用者が比較的多くなっていることがわかる。
34)この年,本校に本部をおいて,軍の「大演習」があった.この演習に皇族の参加があり,不足ぎみの校舎を拡充整備している.

[山岸治男]