Vocational Education

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わが国産業化と実業教育

Title: 第3章:事例研究:B 福島商業学校の設立と発展
Author: 羽田 新
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1984年
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第3章:事例研究:B 福島商業学校の設立と発展

Ⅰ 沿革および地域社会とのかかわり

 福島商業学校は,商業中心地である地域社会の要望を担い,さらには県下一円の要求を満たしつつ,中等商業学校として着実な発展を続けて今日に至っている.中等商業教育に果たした役割は,わが国の中等商業学校のなかでもひときわ抜きんでており,中等商業学校としての一つの典型を示している.同校が歩んだ足跡を辿ることは,わが国中等商業教育史の主流を明らかにする上で大きな意義を有するものと考えられる.わが国実業教育研究の事例として同校をとりあげる理由はここに存する.
 さて同校は,明治30年(1897)4月に,福島県福島町において福島町立福島商業補習学校としてその第一歩を踏み出した1).明治26年(1893)に公布された「実業補習学校規程」にもとづく初等商業教育機関である.しかし,明治40年(1907)4月には市制施行を機に中等商業教育機関である乙種商業学校へ転換し,福島市立福島商業学校として再発足することになった.すなわち,明治32年(1899)公布の「実業学校令」にもとづく「商業学校規程」による中等商業教育機関となったのである.そして翌明治41年(1908)には新築の独立校舎へ移転し,以後大正7年(1918)の甲種商業学校昇格までの約10年間に中等教育機関としての内容を充実させ,独自の校風を培ったのである.商業補習学校時代を草創期とすれば,乙種商業学校時代は基礎確立期ということになるであろう.
 しかし乙種商業学校は中等学校とはいえ,甲種商業学校に比べると一段と程度の低い下級の教育機関とされていたので,これを名実ともに中等商業教育機関とするべく甲種程度への昇格が企図された.そして,大正7年(1918)4月からは甲種商業学校として教育内容を一層充実し,さらに高度化していったのである.明治31年(1898)に設立された福島中学校と同格となり,これと競合し,大正後期には入学生徒の質の高さは福島中学校を凌ぐものであった.これは,甲種商業学校としては県内唯一のものであったこと,県立中等学校増設ならびに公私立中等学校の県立移管を内容とする県の中等教育機関振興策にもとづいて大正11年(1922)に県立へ移管されたことなどによるものである.すなわち,同年4月からは設置主体が福島市から福島県へと変わり,福島県立福島商業学校と改称された.なお,甲種昇格にともなって校舎が狭隘となり,翌大正8年(1919)にすぐ近くの元市立第一高等小学校校舎に移転した.昭和初年までのこの時代は発展期と呼ぶのがふさわしい.
 昭和初年になると戦時体制に入り,第2次大戦たけなわの昭和19年(1944)には国策により工業学校(機械科,電気科設置)に転換し,商業学校生徒の募集を中止した.敗戦後は商業学校に復活再転換するとともに,学制改革により新制中学校を併設し,昭和23年(1948)には新制高等学校に組織変更して福島県立福島商工高等学校と改称した.さらに翌昭和24年(1949)には福島市立福島女子商業高等学校を合併したため,同年度には福島商業学校生徒,福島工業学校生徒,併設中学校生徒,福島商工高等学校生徒,それに旧女子商業高等学校生徒,同併設中学校生徒が混在するという異常事態が生じている.これは昭和25年(1950)に工業科が廃止され,福島県立福島商業高等学校と改称されるにおよんで漸く一本化された.また,同年に福島県立福島第二高等学校(夜間,普通科・商業科)を併設した.この間,昭和23年(1948)に火災により校舎の大半を焼失したが,同25年(1950)に復興を完了している.この時代は戦時中は勤労奉仕や学徒動員,戦後は窮乏生活や校舎の焼失による二部授業等,正常な授業,学習が著しく困難な時代でもあった.昭和20年(1945)の敗戦時をはさむ昭和10年代から20年代にかけての時代は,いろいろな意味を含む変転期ということになるであろう.
 昭和24年(1949)から同40年(1965)までの十数年間は,福島商業学校の歴史の上で貴重な経験がなされた時代である.それは,福島市立福島女子商業高等学校(前身は福島商業学校の県立移管後設立された市立商工実務学校の女子部が分離独立した市立家政女学校)を合併することにより男女共学が実現したことである.しかし,昭和38年(1963)に県立の福島西女子高等学校が新設されたため,同年より女子生徒の募集を停止し,同40年(1965)にはまた元の男子校に戻ってしまった.男子のみの商業高等学校は全国的にも珍しい例である.この時代を男女共学期と呼ぶことがふさわしいが,教育内容の面から見ると新制商業高等学校としての基礎を固め,拡大と充実をはかった拡充期でもある.
 昭和40年代以降は,45年(1970)に現校舎へ新築移転を完了して47年(1972)には情報処理科を新設するなど,新しい展開が見られ,戦後発展期となることが期待されている.
 次に,以上のような福島商業学校の成立と発展が,地域社会の歴史的経過のなかでどのように位置づけられ,どのような事情とかかわりあうかについて簡単に述べておくことにする.福島市立福島商業補習学校の設立については,直接には当時の福島町長であった文化人の鐸木[すずき]三郎兵衛をはじめとする町政関係者が,町民子弟の教育に関してきわめて熱心であったことがあげられる.しかし,その背景には,当時の福島町が福島県北部の商業中心地であり,とりわけわが国でも有数の養蚕地である信達地方(信夫郡・伊達郡の一帯)の中枢部に位置して生糸取引(とくに輸出生糸)が盛んで,多くの生糸問屋や関連業者,銀行等金融機関が所在したために,これらの業務に従事する者を組織的に養成する必要に迫られていたという事情がある.
 当時の入学者の大半が商家の子弟であり,卒業後は自家営業やこれらの商店等に就職している点から見て,本校は地場産業の要求に応じて設立され,これにふさわしい役割を果たしたいわば純産地型の学校ということができよう2).このような性格は,乙種商業学校である福島市立福島商業学校となってからも継続して見られるが,これに加えて下級ながら中等商業学校であるところから,義務教育からの進学校の役割を担うことになった.
 この傾向は甲種商業学校に昇格し,さらに県立に移管して福島県立福島商業学校となるにおよんで一層強くなった.県下唯一の甲種さらに県立の商業学校であるため,生徒は全県下から集まり,商家のほかに勤め人の子弟が増加し,卒業生の進路も会社銀行等への就職がもっとも多く,上級校への進学がふえ,また県外への転出傾向が見られる.福島市は,大正期の半ば頃から,かつての生糸集散地としての盛況よりはむしろ県庁所在地として関連諸機関や商工業による都市機能の故に地方中心都市としての役割を果たすように性格が変わってきているが,このような事情も反映しているものと考えられる.
 以上のように,福島商業学校は商業補習学校として創立されてはいるが,それはいわば仮の姿で,早晩中等商業学校へ昇格してそれなりの機能を果たすことが地域社会,少なくとも関係者達によって期待されていたと見られる.事実,その後の経過はこれを裏づけている.この点から考えると,本校は典型的な上昇型の事例ということができよう.しかし,乙種商業学校への昇格により商業補習学校が消滅するので,国の政策もあって依然として大きい補習教育への要求に応ずるため,新たに福島市立福島商業補習学校を明治42年(1909)に創立し福島商業学校に附設することになった.
 これは甲種昇格後も存続するが,県立移管にともない市立の商業学校が姿を消すことになった.そこで,この後大正11年(1922)には新たに実業補習学校規程による福島市立商工実務学校を設立し,実質的には乙種商業学校と実業補習学校との中間程度の初等実業教育を施して市民の要望に応えたのである3).

Ⅱ 商業補習学校の設立

(1)設立の背景
 明治30年(1897)に福島町立福島商業補習学校が設立された経緯については次にとりあげるとして,まず設立に至る直接間接の背景について明らかにしておくことにする.
 全国的レベルで見ると,この頃は明治政府による殖産興業政策が強力に推進され,移植された資本主義経済もようやく発展期に入った時代である.もっとも,いまだに産業構造は軽工業が中心であり,その近代化,さらに重工業化を進めるために必要な原料や機械を輸入する見返りとして,軽工業製品とりわけ綿糸・生糸類をはじめとする在来産業を保護奨励し,その製品を輸出することがはかられた.
 このような政治・経済の状況に対応して,明治政府の教育政策とりわけ実業教育政策も新たな展開を見せることになった.文部省は明治16年(1883)に農学校通則,翌明治17年(1884)に商業学校通則を制定しているが,不況等のため学校費負担に限界があり,あまり実効がなかった.しかし,明治20年(1887)頃から労働のかたわら学業を修めるパート・タイムの教育が識者の関心をひくようになり,これが実業補習学校として具体化されたのである.浜尾新,手島精一らによって主張されたこのような動向をとらえて,文部大臣井上毅は非常な熱意を示し,明治26年(1893)に実業補習学校規程が制定されるに至った4).そして翌27年(1894)に,実業教育を奨励するために国庫から毎年度15万円を支出してその費用を補助することを眼目とする実業教育費国庫補助法が制定されることによって,公立に限られるとはいえ財政的基礎が確立し,商業を含む初等実業教育機関として実業補習学校が全国的に設置されていくのである.
 次に地方的レベルで見ると,まず当時の町政当事者ならびに関係者達が教育に関して非常に熱心であって,福島町は,教育熱心をもってつとに有名であった5).とくに町長を勤めていた鐸木三郎兵衛は,実業家にして,かつ県下でも有名な進歩的知識人(和漢の学に通じて文才あり,俳句をよくして馬巌と号し,キリスト教信者,また福島日日新聞を創刊)であり,また県会議長,代議士(政友会)として町や県に大きく貢献しており,のちには福島県教育会長となって教育の振興に奔走した6).
 県庁所在地であったことも大いに与っていると考えられる.明治初年の師範学校や中学校の設立(のちには明治19年(1886)の師範学校令,中学校令による再発足)は,県都であることから県下にさきがけてなされたものであり,その他の学校の設立や県立移管についても同様の事情が見られる.これは,当時の福島県属(学務課長)中川駿太郎の教育諸機関の創設拡充への献身的努力に負うところが大きい7).
 しかし,これらの背景には,当時の福島町が板倉氏の支配する福島藩の城下町時代からひきつづいて商業の盛んな,地方中心都市であり,とりわけ全国的に有名な生糸(とくに明治期を通じて最大の外貨獲得産業であった輸出生糸)などの集散地であったという事情がある8).福島町の周辺の信夫郡と伊達郡の一帯は信達地方と呼ばれ,幕末以来わが国でも有数の養蚕地として知られていた.ここで産する座繰生糸は良質のため輸出品として声価を高め,また蚕種は有名な奥州蚕種の優良品として日本各地からの需要に応じていたのである.
 これを他産地と比較して見よう.明治初年,旧福島県(中通り地方)は,生糸生産額において全国第3位,繭産額で第4位,蚕卵紙産額で第3位にあり,全国有数の養蚕・製糸県であったが,その約7割は信夫・伊達両郡で占めていた(第1,2表).
第1表 明治7年:主要蚕糸県の蚕糸類
第2表 明治10年:福島県旧県郡別生糸・繭生産額しかも各種物産総価額のうちに占める絹業総生産額の比重は25.5%で旧山梨県(26.2%)に次いで全国第2位,生糸産額の比重では第1位であった9).このような地位は明治中期以後も維持され,さらには旧若松県,旧磐前県の一部を除く全福島県下に拡張されていったのである.
 信達地方におけるこのような養蚕・製糸業の盛況は,当然のことながらその販売にたずさわる問屋商人をはじめとする関連業者の活動を必要とし,資本金や運転資金の調達,とりわけ荷為替業務にかかわる銀行等の金融機関の成立を必然たらしめた.これらの所在地が,旧城下町で信達地方の中心地であった福島町であったことはいうまでもない.明治25年(1892)には生糸等を扱う問屋の数は23,仲買人数は139にも達している.扱い額は,生糸だけで340万余円,その他を含む絹業関係扱い総額は470万余円であった.明治30年代に入るととくに生糸の集散額の増加が著しく,30年(1897)に512万余円,31年に765万円,32年に900万円とわずか数年の間に倍増している10).このような生糸取引の盛況にともない,明治27年(1894)には福島蚕糸米穀取引所が設立された.これは生糸を中心とした商人の大組織で,それ以後の各市場に影響を与えた11).
 金融機関も多く,銀行のみでも明治9年(1876)設立の第六国立銀行をはじめ,11年(1878)の第百七国立銀行,13年(1880)の福島銀行,さらに29年(1896)の福島商業銀行,31年(1898)の農工銀行などがあった12).このほか福島町の近辺にも数行設立されており,また県外の諸銀行も数行が支店を設置している.このように,生糸取引にともなう業務を中心に金融が盛んとなり,明治32年(1899)には日本銀行出張所が設けられた.東北地方では最初のものである.
第3表 福島・瀬上・飯坂の商業の年次推移
第4表 商工業者数と営業種別(明治32年(1899))
 以上のほかに,商業都市福島の商工業者数を見ると第3,4表の通りである.まず信夫郡内の他の町と比べて見ると,商業の売上金額,人員ともに福島町が桁違いに多いことが知られる.次にその内訳を見ると,明治初年にすでに荒物390戸,農業250戸に次いで糸綿156戸となっており,生糸関係が他業種(4位は旅籠屋62戸)に抜きんでていることがわかる13)が,これを明治32年(1899)の信夫郡の数字によって見ると次のようになる.もっとも多いのは乾物青物果物類であるが,生糸繭がこれに次ぎ製糸,和洋織物とあわせるとほぼ匹敵する数となり,福島町の産業の性格をよく示している.諸種の会社数も20を越えるが,やはり生糸関係が多く,生糸販売(問屋)を中心に明治20年代に多く設立されている.これは30年代に入ってからも続き,明治44年(1911)には金融業以外の資本金1万円以上の会社だけでも15社(1万円未満は14社)を数える(第5表).なお,明治23年(1890)頃には商業方法の研究のため福島商業研究会がつくられ,31年(1898)には福島勧工場が開かれている14).共に商業心の旺盛さを示すものといえよう.
第5表 資本金1万円以上の諸会社(明治44年(1911))
 このように,福島町は福島県北部の商業,金融の中心地として栄え,そのために県庁所在地とされてきたのであった.もちろん交通の要衝として東京,仙台方面へ,また浜通り地方や米沢,山形へ通じており,これは明治20年(1887)の東北線さらに32年(1899)の奥羽線など鉄道の開通によって一層促進され,商都=県都の性格を強めている.明治34年(1901)の現在人口は25,695人,本籍人口は14,542人,現在戸数は4,355戸(町村制実施前の明治21年(1888)の人口は13,154人,戸数は2,906戸)であった.
 ところで,生糸取引を中心とする福島町の商業の発展は,次第にこれに従事する人々の量的増大と質的向上(商業についての近代的知識と技能)を要求するようになった.商家ではその後継者である子弟に初等教育である小学校よりも一段上の教育を授けることを希望し,また生糸問屋や銀行会社等は商業取引について専門の教育を受けた人材を多数従業員として必要としていたのである.中等程度の商業学校の設立の機運は熟しつつあったといえるであろう.
(2)設立の経緯
 明治30年(1897)に福島町立福島商業補習学校が設立された直接の契機は,福島町当局が,明治7年(1874)に新築した福島町立福島尋常高等小学校の校舎が老朽化したためその改築を検討する過程で,学校経営上男子部と女子部を分離しそれぞれ独立させることが至当と判断され,ついては多年懸案であった上級学校の設置をはかろうとして,男子部には商業補習学校を附設し,女子部には高等女学校を併設する計画がたてられたことにある.いま当時の福島町における学校教育の概況を見ると次のようであった15).
 明治5年(1872)の学制発布により翌6年(1873)福島小学校が設置されたが,さらに福島県では同校内に教員養成のために明治7年(1874)に福島小学教則講習所を併置した.これらのほか県では中学校の設置にもせまられ,同年,福島城跡に「福島学校」が建築された.これは,上記二校のほかに福島変則学校(中学校),同英語科が同居する総合校舎であった.その後福島小学教則講習所は師範伝習校を経て福島第一師範学校となり,明治11年(1878)には福島師範学校へと統合され,同13年(1880)には附属小学校も設置され,本格的な教員養成が始まった.
 ところが中学校の方は福島,若松,磐前の3県が合併した明治9年(1876)に姿を消し,同12年(1879)に福島県第一番中学校として再発足したものの県財政のしわよせにより翌13年(1880)に廃止となった.その後明治17年(1884)に若松,平と共に福島町にも福島県福島中学校が設立され,同19年(1886)には中学校令の公布にともない他の二校を併合して県下唯一の福島県尋常中学校となったが,県北に偏在するところから同年の校舎火災焼失を機に安積郡桑野村(現郡山市)に移転したのである.
 このように,明治20年代の福島町は小学教員養成の専門校である師範学校以外に中等学校が存在せず,町民の子弟の一般進学に不便を来たしていた.明治2年(1869)設立の開明学舎の後身として同4年(1871)に設立され,同7年(1874)に家塾(私立学校)として正式認可を受けた作新塾などによりその空白が一部埋められたが,もちろん十分なものではなかった.なお,明治14年(1881)には福島医学校が開設された.これは,須賀川町の福島県病院内に置かれた医学所が本院の福島町への移転にともなって移されたものである.しかし,明治17年(1884)に甲種医学校昇格後,明治20年(1887)の勅令48号(地方税による府県立医学校の費用支弁の禁止)により廃校となるに至った.前述の県財政のしわよせは同校や師範学校の整備のための出費によるものであった.
 実業学校についても事情は同様であり,明治20年代には県内に実業学校は皆無の状態であった.明治13年(1880)に設置された福島県立郡山農学校は,のち開成山農学校と改称したが19年(1886)に不振のため廃止され,前述したように全国屈指の養蚕県でありながら,福島県は農業学校をもたなかったのである.これは,明治27年(1894)の簡易農学校規程と実業教育費国庫補助法にもとづき,同29年(1896)に福島県蚕業学校が信夫郡渡利村(福島町の隣村)に設立されることによって一応の解決を見たが,その対象はもっぱら県下一円の農家,とりわけ富農の子弟であり,とうてい福島町民の要求を満たすものではなかった.
 福島商業補習学校の設立は,以上のような福島町民の希望を反映するものであったが,町政当局ならびに関係者の対応は次のようであった.明治22年(1889)に町村制により福島町となったが,同年の町予算は14,982円余(ただし,22年7月-23年3月の9ヵ月分)で,そのうち経常費12,214円余の61%に当たる7,496円余が教育費として支出されることになっており,幼稚園費を含めると実に3分の2を占める高い比率である.2,501円余の役場費,580円余の土木費に比していかに大きな比重を占めていたかがうかがわれるが,これは教育への重視を物語る数字である16).
 ではその他の警備費(消防など),衛生費等を含む事業費の不足は何によってまかなわれていたかというと,これは町の有力者の有志金に頼ってきたのであるが,その有力者とは第6表のような人達であった.いずれも町政に直接タッチし,もしくは間接的に関与した人々で,とくに21名中17名までが商人であり,しかも10名が生糸商関係者(いわゆる蚕物屋)であることは注目される.ほとんどが生えぬきの福島人である.福島町立福島商業補習学校の設立を推進したのはこのような層であった.
第6表 福島町の有力者(明治22年(1889)8月)
 具体的経過としては,明治29年(1896)までに鐸木町長が中川県属らと協議の上,同年3月22日の町会で5名の設立調査委員を委託して調査を行い,翌30年1月12日の臨時町会で福島第一尋常高等小学校に附設する件が決議された.当時の新聞に伝えられた設立の趣旨は次のようなものであった.
 「(前略)高等女学校設立の件は女子教育の完全を期せんとする必要上より起りたるものなり小学校男子部に商業補習科を附設せんとするも亦同一理由に過きす当町は本県商業地の中心にして商業は年を追ふて繁雑の域に進み学齢児童の小学校を卒業し他の専門学科を修めんとし他府県に修業せさるものは多く身を商業界に投するを以て今日小学校に商業補習科を設くるの必要を感するなり(後略)」17)
 設立は明治30年(1897)4月2日に認可され,5月1日に開校式を挙行した.なお,これに先立って4月17日には福島町立福島高等女学校の開校式が行われた.また,翌31年(1898)にはのちの福島中学校に直接継続する福島県立福島第三尋常中学校(同34年(1901)に福島県立福島中学校と改称)も同校に仮設された.明治30年(1897)前後から以後数年間はまさに福島市における中等学校の揺籃期ということができよう.
(3)学校の概要
 福島町立福島商業補習学校は,福島町における近代学校の発祥地であり,教育の揺籃でもあった福島町立福島小学校(明治30年(1897)からは男子部の福島第一尋常高等小学校と女子部の福島第二尋常高等小学校に分離)に附設される形で発足した.したがって校舎は福島第一尋常高等小学校の一部を使用し,学校長は同小学校長の宇田三郎が兼務した18).学則によると,「商業に従事せんと欲する児童に小学校教育の補習と同時に簡易なる方法を以て商業に必要なる知識技能を授く」ることを目的とし,入学資格は高等小学校2学年修了以上の学力あるもの(明治32年(1899)度からは尋常小学校卒業以上と改正)とした19).修業年限は3ヵ年,定員は100名(明治34年(1901)度からは150名に増員)であった.
第7表 福島商業補習学校のカリキュラム
 カリキュラムは第7表の通りであるが,毎週授業時間は33時間と多く,商業関係の科目数や授業時間数の比重が大きく,普通科目では英語の時間数がもっとも多かった.補習学校というよりはむしろ商業学校に近い内容のものである.教員は5名であったが,そのうち3名は小学校との兼務であり,補習学校の専任としては商業科目および英語の担当者の2名だけであった.商業科目担当教員として福島町出身で東京商業学校を卒業後,大阪汽船会社に奉職中の渡辺子之吉を招聘したが,わずか1年で病気のため退職した.その後任として赴任したのが,その後明治39年(1906)に宇田校長のあとを受けて二代校長となった近藤節太郎であった.福島県石城郡飯野村(現いわき市)の出身で,私立東京商業学校を卒業後,店員,会社員,その他各種の実務経験の豊富な人で,いわば実践タイプの教育者であった.福島商業学校の基礎をつくった人物である.大正10年(1921)に二宮市長に請われて福島市助役となったが,昭和7年(1932)に四代校長として返り咲いた.その近藤校長の回顧文によると,発足当時の状況は次のようであった.
 「我福島の先覚者が商業教育の必要を唱へて,補習学校の名を以て設立した学校も,町民には何を教へるのか能く知れてゐないのと,最初高等科二年の修了者を入学せしめたが,中学校が出来たので程度を下げて尋常科卒業(当時四年)者を入れることに改めたのとで,校長始め教員が町の東西南北を駈け廻り尋常科の卒業生の家庭を訪問して学校の目的方針を説明し,本人及家庭の志望に依って,生徒の振分をしたのが四五年間.其結果は大体家庭が富有で,頭の良い生徒は,中学校に,貧乏で小学校の成績も思はしくないと云ふ者は,商業補習学校へと言った様な按配であった.それでも追々生徒が増加して,校舎が狭隘となったので,或時は小学校の二階に移り,最後には今の市役所の一部に移った.全体市役所の正面は元物産陳列館の跡で,其後方に勧工場的の建物があったが,それが商業学校になったのだ.」20)
 第1回の入学者は30数名であったが,翌年に設立された中学校へ入学するものや中途で退学するものが出てきて半数位に減り,卒業にまでこぎつけたのは16名であった21).その後も含めて見ると,入学者の学歴は規程よりも上廻るものが何人かいたし,したがって年齢も多いものがいた.父兄の職業は商業が過半数を占め,次いで工業,農業,その他となっており,他町村からきているものもいた(第8表)22).そして,次のような初期卒業生の回顧・追憶は,当時の生徒の心境を生き生きと伝えるものである.
 「先生は何れも第一流の方々で……子供心にも之等の異なった先生方によって新しい学科を教はる事に軽き矜りと或種の興趣を唆った」23)(第1回生)
 「オレたちが歴史をつくるんだと一生懸命勉強した」24)(第2回生)
 「当時の当地は座繰り生糸の最盛期でありまして生糸問屋十数軒繁栄を至し居りました……私共少年も生糸問屋には魅力を感じ卒業の上は問屋の丁稚に住み込み天下の糸平を夢みて修業したものです」25)(第3回生)
 卒業生の進路は,1回生16名,2回生30名の半数が自家営業に従事したが,生糸問屋などの商店,会社に就職したものも4割近くを占める.このような傾向はほぼ明治40年(1907)までの補習学校時代を通じて見られ,卒業後数年から10数年後の大正6年(1917)頃で見ると,自家営業が6割強,次いで会社・商店・銀行で4分の1となっている(第9表)26).なお,明治38年(1905)には町内をはじめ各地から求人が多く,卒業者数の2,3倍に達したといわれている27).商業補習学校設置の目的はほぼ達成されたものと判断してよいであろう.明治34年(1901)に福島県ほか7県の学事視察として来福した北海道札幌区創成小学校長の伊藤貴策は,北海時事新聞への寄稿中で,明治30年(1897)以降の商業補習学校設立を含む一連の事業に見られる福島町の教育熱心を絶賛している28).
第8表 福島県信夫郡福島町立福島商業補習学校一覧表
第9表 福島商業補習学校卒業生の職業
 ところで,小学校長との兼務であった宇田三郎校長は,商業教育についても一家言を有しており29),明治33年(1900)に福島商業補習学校内に夜学部を設けている.これは「商業に従事し若くは商業に従事せんとする者にして,昼間修学の余暇なき子弟のため,毎年十一月より翌年三月迄夜間三時間以内,修身,国語,算術,商事要項,簿記等の学科を教授し,簡易なる商業上の知識技能を得しめ,兼て普通教育の補習をなさしむるを目的とした」30)ものであり,こちらの方がむしろ実業補習学校のあるべき姿をよく示しているといえるかもしれない31).これは,のちに乙種の市立商業学校への転換にともない市立商業補習学校として附設され,さらに甲種商業学校への昇格,県立移管後は市立商工実務学校として独立再発足し,福島市における商業補習教育の流れを形成していくのである.

Ⅲ 商業学校の発展

(1)乙種商業学校への転換
 福島町では明治34年(1901)頃から市制施行運動が開始されているが,市制施行の条件である人口2万6千人以上という条件をみたしていなかったためと合併にからむ内紛のため実現に至らなかった.しかし浜辺村との合併も進み,日露戦争も終結したので,明治40年(1907)4月1日よりいよいよ市制を施行することになった.この日現在の戸数5,251戸,人口3万1,835人であった.市制施行を記念して奥羽六県共進会をはじめさまざまな事業や行事が計画されたが,福島商業補習学校を乙種程度の商業学校へ転換することもその重要な一つであった32).
 もちろんその背景には,前述したように福島町が生糸取引を中心とする商業都市としてますます発展し,また県庁所在地としての機能をいよいよ高めており,一層高度の商業教育を受けた人材を必要としていたという事情がある.また商家をはじめとする町民からは,子弟の教育上,福島中学校に対応するレベルの商業学校の設置が待望されていた.教育熱心をもって知られる福島町当局がこれを推進したのはきわめて自然な成行きであった.直接当事者である近藤節太郎校長がそもそもの発議者であったことはいうまでもない.その経過は次のようなものであった.
 「福島の発展進歩が著しい結果,町福島より,市福島と改むべき議が起り,明治四十年愈々市制施行と決したので,時の町長高木善助氏に相談して,補習学校を乙種程度の商業学校に昇格せしむることに纒まり,町会でも満場一致可決し認可の申請をした.ところが文部省からは,校舎建築の条件付で認可があったから,地を今の寄宿舎の処に相して,建築に着手した.財政の関係で,教室だけを新しくして事務室其他は記念のため古建物を利用した訳だ.斯くて水草を逐ふた遊牧者のやうな学校も,兎も角一個独立の校舎を有する学校となった.ここまでが十一年間,明治四十一年の三月であった.校舎の独立,それは我等に取て一の喜びであり,誇りであったので,開校の祝賀会には,狭い彼の校庭で小規模の運動会を催したことがあった.」33)
 このように,明治40年(1907)からは乙種商業学校として再発足し,校名も福島市立福島商業学校と改称され,翌41年(1908)3月には市内大字腰浜字西谷地に平屋総建坪358坪の新校舎が落成してここに移転したのである.旧補習学校生徒は編入試験により相当学年に編入された.近藤校長以下旧補習学校職員は皆新商業学校職員に任命された34).
 学則によると,「本校ハ明治三十二年文部省令第十号商業学校規程乙種程度ニヨリ商業ニ従事セントスルモノニ必須ナル教育ヲ施シ将来実務ヲ処理経営スル技能ヲ授クルヲ以テ目的トス」るものであり,修業年限は3ヵ年,生徒定員は200名,授業時間は毎日5時間,1週30時間であった35).入学資格は商業学校規程により尋常小学校(6年)卒業またはそれ以上ということになる.
 明治41年(1908)には本科のほかに修業年限1ヵ年の講習科を設け,本校の卒業生および高等小学校卒業以上の学力を有するものを入れ,商業一般の知識を授けることにした.これは4年間続いたが,教室の都合で明治45年(1912)に廃止された36).また,明治42年(1909)に福島市立商業補習学校を附設したが,これは商業補習学校時代の季節夜学部の後身であり,商業補習学校の乙種商業学校への転換にともない独立の組織としたものである.市立商業学校長近藤節太郎が校長を兼務し,教員は市立商業学校の教員および小学校の教員が兼任した.ただし通学の便をはかり,福島第二尋常高等小学校附設幼稚園舎の一部を教室にあてた37).
 福島市立福島商業学校は,その後明治41年(1908)には帽章を改定,校歌を制定し,翌42年(1909)には生徒心得綱要七則,校旗を制定するなど38),矢継ぎ早に中等学校としての体裁をととのえるとともに,近藤校長の強力なリーダーシップの下に,「不撓不屈」「維信維義」「全力処事」などのスローガンに表現される福商精神の基礎が築かれたのである39).教員もすべて専任となり,7名にまで増加し,財政面でも毎年350円の国庫補助と350円(のち500円)の県費補助を受けることになった.生徒数も増加して,大正年間に入ると200名を越えるようになった.生徒の出身階層は過半数が商家である点は商業補習学校時代と同様であるが,官公吏が増加の傾向にある.卒業生の進路は商業補習学校時代とほとんど変わりがないが,鉄道関係がやや多くなっている40).大正初年に卒業生の数も増加したので,同窓会が組織され,機関誌兼同窓生名簿『商友』が発行され,大正7年(1918)までに3号の発行を見ている.全般的に見て,学校の基礎がようやく固まった時代である.
(2)甲種商業学校への昇格と県立移管
 市立福島商業学校は,乙種程度商業学校として着々とその基礎を確立してきたが,大正7年(1918)には甲種程度の商業学校に昇格し,さらに4年後の大正11年(1922)には県立に移管されることにより,学校の性格が変わり,内容が充実すると共に生徒の資質が向上し,発展の時期に入るのである.この間にわが国の経済,社会の発展も著しく,また教育の進歩も顕著であった.この点について簡単に述べておくことにする.
 明治30年代後半,日露戦争の勝利を境にわが国の資本主義は確立期に入り,軽工業から重工業への重点の移行という形で産業革命が進行した.企業経営は近代化され,高等教育を受けて広く経営上の識見と手腕をもつ人材が要求されたが,一方,中堅的商業人としての実務担当者の養成も必要欠くべからざるものとなったのである.このため政府は大正年代に入り甲乙二種の商業学校の充実に努めてきたが,大正9年(1920)の実業学校令の改正にともない翌10年(1921)には商業学校規程を改正し,甲乙二種別を廃してこれを融合するとともに,年限と履修科目に幅をもたせ,また人格陶冶に留意して普通学科を増加させている.大正期の中等商業学校数は,大正元年(1912)甲種67(乙種32)が同5年(1916)72(40),10年(1921)120(45),14年(1925)196(38)と推移し,甲種への設立・昇格傾向が顕著である.生徒数も大正元年甲種21,597(乙種4,589)に対して大正10年55,358(8,099)と著増している41).
 商業教育に対する世間の期待の大きさを見ることができるが,福島市や福島県においても事情は同様であった.福島市を中心とする信達地方の養蚕,製糸,絹織物業は,大手資本の進出による座繰製糸から器械製糸への転換に代表される大きな変化により大手資本による絹業支配と生糸問屋の不振を生じ,かつての生糸問屋等から各種の会社銀行,官庁等へとその需要の性格は変わっていく42)が,福島市の商工業中心地,県庁所在地としての機能はいよいよ高まっており,中等商業学校への要求は増大する一方であった.甲種程度の商業学校への昇格は時間の問題であったといえよう.
 県立移管については,大正8年(1919)に宮田知事が県議会に提出した「県立学校増設ニ関スル件」という諮問と可決確定前後の経過によると次の通りである43).県立中学校をはじめとする中等諸学校に対する志願者は明治後期・大正初期に急増し,入学率は県立中学校では60%前後,時には51%という状態であった.そこで県当局ではこのような進学の要求に応ずるために県立中等学校の増設配置計画をたて,とりわけ実業教育機関を最優先して推進しようとしたのである.幾多の議論の末,増設が決定し大正年間に実行に移されていったのは第10表に見られるような学校で,結果的には中学校と農業関係の学校が多い.公立商業学校2校中福島商業学校が移管の対象となったのは歴史の古さと県庁所在地にあるためであろう.
第10表 改組・新設の県立中等教育機関(大正9(1920)-14年(1925))
 県立移管後の学則では「商業学校規程ニ依リ商業ニ従事セムトスル者ニ須要ナル智識技能ヲ授ケ兼テ徳性ヲ涵養スルヲ以テ目的トス」44)とあり,修業年限は5ヵ年,生徒定員は市立時代各学年1学級で250名,県立移管後2学級で500名(昭和16年(1941)からは3学級で750名),毎週授業時数は1,2学年32時間,3学年以上33時間(ただし年度により多少の増減あり)であった.入学資格は年齢12歳以上の男子で尋常小学校卒業程度の学力を有する者である.大正9年(1920)からは,高等小学校卒業者を対象として修業年限1ヵ年の専修科を設置したが,これは県立移管にともない廃止された45).また県立移管にともない,附設されていた市立商業補習学校も廃止されたので,福島市ではこれに代わるものとして大正11年(1922)より福島市立商工実務学校を設立し,第一尋常高等小学校に附設した46).
 さて甲種昇格,県立移管によって福島商業学校にはどのような変化が生じたであろうか.ひとくちでいえば学校の格があがって内容が充実し,生徒の質が良くなったことである.中等学校として県立中学校と同格となり,カリキュラムも充実した内容となった.専任教員数も漸時増加して,多い時では19名に達している.学校の基礎をきずいた近藤節太郎は,二宮市長に請われて市助役就任のため大正10年(1921)に退職した.そこで県立移管後最初の校長となったのは石川彦策であった.校舎も大正8年(1919)に大字腰浜歯扶柳の敷地2,740坪,建坪601坪の元福島第一高等小学校舎に移転した.県内唯一の甲種商業学校,また県立移管後は唯一の県立商業学校ということで福島市,信達地方を中心に全県下から,さらに県外からも志願者が集まり,競争率が高く3倍を越えた年もあった47)(第11表).このため大正12年(1923)に寄宿舎が設けられ,昭和5年(1930)まで経営されている.
第11表 福島商業学校の入学志願者入学者の状況
 生徒の出身階層は,商家出身が主力であることは同様であるが,そのほかには農業,官公吏から会社員へと重点が移っている.また卒業生の進路は大きく変わり,自家営業よりは会社,銀行,官公庁,学校などが多くなり,また大正11年(1922)には福島市に福島高等商業学校が設置されたこともあって,進学者が増加している(第16回生の場合は40名中実に14名が進学している).運動部をはじめ課外活動も盛んとなり,大正13年(1924)には校友会である「学而会」の機関誌『学而』も発刊された.また昭和9年(1934)には夏休みを利用して4,5年生が福島市内の小売商店の調査なども実施している.以上のように,大正中期から昭和初期にかけては,福島商業学校がさまざまな面で発展を遂げた時代である.

Ⅳ 教育の実態

(1)教育方針・制度・カリキュラム
 福島商業学校の校風は,「信義全力」(または「維信維義」48)「全力処事」)「不撓不屈」などのスローガンによって表現されるように,堅実なものである.これは,前述のように二代校長の近藤節太郎によって掲げられたものであって,以来校訓とされて生徒心得綱要に盛られ,校歌にも歌われてきた.三代校長石川彦策によれば,信義全力主義とは,信義が主として他人に対する場合の心得で,人の言葉に虚偽なく言行一致して真面目に親切な信実と道理正しく筋道の通った正義の意味,全力事に処するとは主として自己に対する心得で,有る限りの力で働く意味であるとされている49).このような生徒指導の方針が,近藤の四代校長再任を経て五代校長田中健三へと受け継がれ,戦前の中等商業教育が人格教育として具体化されていったのである.
 Ⅰで述べたように,福島商業学校は補習学校規程による町立の商業補習学校としてスタートしたが,その後は比較的順調に乙種程度の商業学校として再発足し,甲種程度への昇格,県立への移管を果たしてきた.この間修業年限は3ヵ年から5ヵ年へ,生徒定員は100名(のち150名)から200名へ,さらに250名(のち500名,さらに最終的には750名)へと増加している.入学資格は高等小学校2年修了程度から小学校(4年)卒業程度へ,さらに義務教育年限延長により小学校(6年)卒業程度へと変わった.一時,乙種時代には講習科,甲種時代には専修科が,修業年限1ヵ年で設けられている.なお福島市が,商業補習学校時代には季節夜間部を,市立商業学校時代にはその後身である商業補習学校を附設させ,県立移管後はこれを市立商工実務学校として独立再発足させていったことは注目される.
 カリキュラムは,第7表,第12表,第13表に見られるように,商業補習学校から乙種商業学校へ,さらに甲種商業学校へと変わるにしたがって専門化高度化し,学科数も多くなってきたが,専門科目の比重としては商業補習学校時代の方が大きい.これは同校がはじめから小学校教育の補習よりはむしろ商業科教育を指向していたことのあらわれとも見られるが,甲種時代の普通学科重視は改正商業学校規程に準拠したものである.なお,商業補習学校時代に英語の時間数が多く,その内容程度はともかく,甲種時代のそれに近いことは注目される.また,甲種時代の特徴としては軍国主義化が進行し,軍事教練が正課としてとり入れられたことである.
第12表 福島市立商業学校教科目,毎週授業時間(大正2年(1913))
第13表 福島県立福島商業学校学科課程,毎週教授時数
 生徒の課外活動は,乙種時代には柔剣道のほか軟式庭球が主であったが,甲種時代になると校友会として「学而会」が発足し,剣道,柔道,庭球,野球,競技の各運動部と応援団のほかに文芸部,講演部も活動を始め,とくに剣道部は強豪を以て鳴らした.ほかに図書部,実習販売部があった.大正13年(1924)には「学而会」の機関誌として『学而』が創刊され,生徒の学習研究の発表の場となり,以来毎年発刊されている.編集は講演部が担当した50).なお,修学旅行は乙種時代は東京方面,甲種時代は関西方面であった.
(2)教員・校舎施設・財政
 商業補習学校時代には,教員5名のうち専任の教員は商業科目担当者と英語担当者の2名だけで,校長とほか2名は小学校と兼任であった.乙種商業学校になるとこれがすべて専任となり,7名にまで増加した.甲種商業学校に昇格して12名にまで増え,県立移管後はどんどん増えて昭和初年には19名にまで増加した.このほかに教授嘱託,配属将校,書記,校医まで含めると教職員は20数名にのぼる.教員の出身は福島県が最も多いが,広く各県にわたっており,出身学校も商業関係の専門学科担当者はだいたい高等商業学校卒業者であるが,普通学科担当者は師範学校も含む諸専門学校,大学に分かれている.
 歴代校長は,戦後を除けば,初代が福島第一尋常高等小学校長との兼務であった宇田三郎で,創立時から明治39年(1906)まで10年間勤めた.二代校長は同校商業科目担当教員であった近藤節太郎が明治39年(1906)から大正10年(1921)まで16年間勤め,この間に乙種商業学校への転換,甲種商業学校への昇格を実現し,福島商業学校の基礎をつくった.三代校長は石川彦策で県立商業学校としては初代校長となる.大正11年(1922)から昭和7年(1932)まで10年間勤め,大きな発展が見られた.同年近藤節太郎が四代校長として再任し,昭和12年(1937)まで5年間勤め,五代校長の田中健三にバトンタッチした.近藤は福島商業学校で通算21年間校長を勤め,一般教員時代を含めると約30年を数え,同校の物心両面の基礎を築いた人物である.
 実務経験の豊富な人格者で,生徒に対する感化力は絶大であった.その一面を教え子の一人は次のように語っている.
 「ひと口で言えば教育政治家.色浅黒く,あだ名は“ゴボウ”.東京の三越に,白木屋,丸善など一流会社に入社したOBが多いのも近藤の実力があったからではないか.三年になると,昼休みに生徒を一人ずつ校長室に呼び,給仕役をやらせる.いわば対話の場だが,お前のおじさんは立派な人だった.しかるに,お前は何をやっているかと,すべてお見通しだから,とても勝ち目がなかった」51)
 校舎は,商業補習学校時代は福島第一尋常高等小学校に附設され,保嬰学校や訓盲学校などと同居していたので狭い上に騒々しかった.乙種商業学校に転換後,明治41年(1908)にようやく念願の独立校舎が新築されて移転した.しかし大正7年(1918)に甲種商業学校に昇格したのでここも手狭となり,翌8年(1919)に元福島第一高等小学校校舎に移転し,戦後昭和23年(1948)に火災で焼失するまで15年間この老朽校舎を使用したが,昭和16年(1941)に学級増設を機に2階建普通教室6教室延170坪を建築した.また県立移管にともない全県下から生徒が集まるため,旧校舎を寄宿舎として大正12年(1923)に開設し,これは昭和5年(1930)廃止まで継続した.
 財政面は,商業補習学校時代と市立商業学校時代は町または市の予算を以てまかなったが,乙種商業学校時代以後は毎年実業教育費国庫補助350円(甲種昇格後は450円)ならびに県費補助500円(甲種昇格後は1,000円)が交付された.これらは市費の2割ないし1割に相当する額であった.授業料収入は少額であったが,甲種昇格後はだんだんと増加して市費に匹敵する額にまで増加している.すなわち授業料が乙種時代の40銭から甲種時代の2円へと大幅な値上げが行われている.なお,支出の大半は教員の俸給である52).
(3)生徒の資質と卒業生の動向
 生徒数は年々増加しており,大正2年(1913)の195名が甲種商業学校への昇格後は大正8年(1919)の247名へと増え,県立移管後2学級増設が完成する年度の昭和元年(1926)には458名となっている53).その出身階層は,商業補習学校以来の商業が過半数を占めて多いものの,そのほかは乙種時代の農業,官公吏に加えて甲種時代には会社員が増加傾向にある.出身地域は,甲種昇格後とくに県立移管後は県内各地さらに他府県からの者が増加しているが,大正14年(1925)には福島市が33.5%に対して周辺の信夫,伊達,安達の3郡はあわせて45.7%と多く,その他の県内が10.6%,他府県10.1%という分布となっている.県内に県立商業学校が増設された昭和16年(1941)になるとさすがに福島市が46.4%と多くなるが,それでもなお3郡あわせて37.3%,その他の県内6.3%,他府県10.0%が存する.
 入学者の資質は,甲種商業学校になってから志願者が多くなり,競争率が3倍を越す年もあり,小学校で上位の成績でないと入学できないような事情となったため著しく向上した.これは福島高等商業学校など上級学校進学希望者の合格率が著しく高いことからも知られる.これは昭和に入ってからも続き,競争率は大正14年(1925)1.8倍,昭和2年(1927)1.7倍,昭和8年(1933)1.9倍,昭和12年(1937)2.2倍,昭和16年(1941)1.6倍(1学級増設の年)と推移している.
第14表 卒業生の職業
第15表 卒業生職業別一覧表
 卒業生の進路はどうであろうか.昭和5年(1930)と12年(1937)における統計を利用して見ることにする(第14表,第15表).商業補習学校卒業生は自家営業が圧倒的に多い.これに対して乙種商業学校卒業生は,自家営業はもっとも多いが商店や銀行,会社,鉄道,官公庁などに勤務するものも相当に多い.甲種商業学校卒業生になるとこの比重は逆転し自家営業よりは会社,官公庁,銀行などに勤務するものが圧倒的に多くなる.古い卒業生の自家営業は以前は勤め人であった例もあろうし,新しい卒業生の勤め人のうち自家営業に転ずる例も出ると考えられるが,それにしても大きな相違である.福島商業学校の役割は,商業補習学校時代の商家の後継者および生糸問屋等の商店員の養成を主とするものから,乙種商業学校,甲種商業学校へと転換,昇格する過程で,各種の職場で働くサラリーマンを養成するものへと変化したといえるであろう.
 しかし,これらの卒業生はそれぞれの職場の中堅として活躍の場を得ているわけで,とくに地元福島市では実業界をはじめ市政その他の場で重要な社会的役割を果たしているものが多い.同窓会員は約14,500名で,県内外各地各職場に支部があり活発な活動が見られる.卒業生に人材は多いが,変わり種としては第21回(昭和3年)卒の有名な作曲家古関裕而がいる54).

[注]
1)福島商業学校の沿革については,次節以下で引用する諸資料のほか,とくに福島県立福島商業高等学校資料『沿革史』,福島県立福島商業学校『福島県立福島商業学校一覧』(各年版)等を参照.
2)「産地型」や「上昇型」の概念については,佐藤守ほか『徒弟教育の研究』,御茶の水書房,昭和37年(1962)を参照.
3)福島市立商工実務学校については,福島市『福島県福島市学事一覧表』(大正11
年(1922)-昭和5年(1930)版),福島市史編纂委員会編『福島市史』別巻Ⅱ「福島の教育」,福島市教育委員会,昭和54年(1979)等を参照.
4)『日本近代教育百年史』第9巻「産業教育1」,国立教育研究所,昭和48年(1973),第2章参照.
5)『福島教育』第24号,福島教育社,明治30年(1897),34ページ,また『福島市史』別巻Ⅱ「福島の教育」,同第4巻「近代Ⅰ」,昭和49年(1974),参照.後述のように,明治22年(1889)町村制施行時の福島町の予算を見ると,教育費が経常費の61%を占め,幼稚園費を合算すると実に3分の2に達している.また,作新塾,福島英語夜学校,福島育英舎,学半塾,福島保嬰学校など各種の私立学校も盛んであった.
6)『福島県史』第22巻「各論編8人物」,福島県,昭和47年(1972),293-94ページ,『福島市史』第4巻,445-46ページ参照.
7)『福島県史』第22巻,359ページ,『福女80年誌』福島県立福島女子高等学校,昭和52年(1977),15,24ページ参照.
8)『福島県史』第18巻「各論編4産業経済1」,昭和45年(1970),同第19巻「各論編5産業経済2」,昭和46年(1971),『福島市史』第3巻「近世Ⅱ」,同第4巻参照.
9)『福島県史』第19巻,4ページ以降参照.
10)『福島市史』第4巻,632,634ページ参照.
11)同書,630ページ以降参照.
12)同書,354ページ以降参照.
13)同書,243ページ参照.
14)同書,628-29ページ参照.
15)同書,同別巻Ⅱ,参照.
16)同書,486ページ参照.
17)福島民報,明治30年(1897)1月13日号.
18)当時は,福島第一尋常高等小学校と附設の福島商業補習学校,福島第二尋常高等小学校と併設の福島高等女学校,同附設幼稚園のほかに明治28年(1895)設立の福島保嬰学校があったし,翌31年(1898)には県立の福島第三尋常中学校が仮設され,福島訓盲学校も設立されたので,一時は旧「福島学校」の区画に八つの学校が同居する有様であった.
19)『福島教育』第25号,明治30年(1897),38-39ページ.
20)『学而』第4号,福島県立福島商業学校学而会,昭和3年(1928),3-4ページ.
21)『商友』第3号,福島市立福島商業学校商友会,大正7年(1918),5-7ページ参照.
22)『福島教育』第87号,明治35年(1902),20-21ページ.
23)『商友』第3号,6ページ.
24)『高校風土記』(1),毎日新聞(福島版),昭和49年(1974)9月17日号.
25)『創立60周年記念誌』福島県立福島商業高等学校,1957,7ページ.
26)『商友』第3号より作成.ただし補習学校第1回生より第7回生までの卒業生中職業が判明しているものに限った.なお,各回の卒業生の数は記録がないため正確にはわからないが,『福島市誌』福島市,昭和17年(1942)の資料となった『福島市志材料』中巻,福島市図書館,大正3年(1914)(草稿)によると,7回生までで計165人とされている.『商友』第3号に名前が出ているのは,第1回20名,第2回30名,第3回13名,第4回25名,第5回23名,第6回29名,第7回32名,計172名であるが,これには卒業しなかったものも含まれていると見られる.
27)『福島教育』第110号,1905,21ページ.すなわち,「福島補習学校ノ如キ創設最モ早ク尋常小学校卒業者ヲ収容シ三ヶ年ノ教育ヲ施シタル後商店会社等ノ丁稚小僧ニ周旋シ来リシカ其成績大ニ顕レ本年三月ノ如キハ卒業生二十二名ニ対シ福島郡山仙台等ノ商店会社ヨリ雇入申込数十名ニ達シ卒業生中保護者雇主トノ関係及自家営業ノタメ僅カニ一両名ヲ除クノ外ハ何レモ各所ニ雇傭セラレ実業界ニ稗益スル所尠ナカラスト云フ」と.
28)『福島教育』第76号,明治34年(1901),45ページ参照.
29)『福島教育』第61号,明治33年(1900),4ページから6ページにわたり,「商業教育の必要」と題して教育による商業家の品性道徳の向上を強調している.
30)『福島市誌』,337ページ.
31)『福島市志材料』,92-93ページには「明治三十六年以降毎年十一月ヨリ翌年三月ニ至ル季節夜学部ヲ設ケ修了生ヲ出スコト五回百一人ナリ」ともあり,開設の年次は確定しがたい.
32)『福島市史』第5巻「近代Ⅱ」,昭和50年(1975),6-17,196,227-29ページ参照.
33)『学而』第4号,4ページ.
34)『福島市誌』,729ページ,『福島県立福島商業学校一覧表』大正14年(1925)版,参照.
35)『福島市史』第11巻「近代資料Ⅱ」,昭和48年(1973),257-58ページ参照.
36)『福島市志材料』中巻,参照.
37)同書参照.入学者数は次の通りである.明治42年35(修了者17),43年24(14),44年30(18),大正1年27(18),2年37(24).職業は銀行会社員48(31.4%),官庁奉職24(15.7%),家業24(15.7%)などである.また年齢は最高満28歳,最低満13歳,平均して見ると17歳前後となる(同書参照).大正3年以後の入学者数は,3年32,4年29,5年15,6年22,7年不明,8年49,9年36であった(『福島県福島市学事一覧表』(各年版),福島県福島市役所,参照).
38)『福島県立福島商業学校一覧表』大正14年版,参照.
39)『高校風土記』(1),毎日新聞(福島版),昭和49年9月17日号,参照.
40)『福島市志材料』中巻,『福島県福島市学事一覧表』大正2-6年版,参照.なお,乙種程度同窓生の数は,明治41年の第1回33名,以後第2回39名(講習科第1回10名),第3回29名(同第2回6名),第4回16名(同第3回11名),第5回15名(同第4回8名),第6回21名,第7回26名,第8回46名,第9回57名,第10回52名,計354名(講習科35名)である(『商友』第3号による).
41)『日本近代教育百年史』第10巻「産業教育2」,1973,492ページ以降参照.なお,商業補習学校の普及もはかられ,大正8年(1919)の276校が翌9年(1920)には359校,13年(1924)444校,昭和2年(1927)556校と著増していった(同書,501-2ページ参照).
42)『福島県史』第19巻,58-85ページ,『福島市史』第5巻,第2章参照.
43)『福島県教育史』第2巻,昭和47年(1972),福島県教育委員会,166ページ以降参照.
44)『福島県教育史編纂資料第5集教育関係例規』,福島県教育委員会,昭和46年(1971),467ページ.
45)専修科の卒業生は,第1回20名,第2回31名,第3回35名であった.
46)『福島市史』別巻Ⅱ参照.これは昭和6年(1931)に市立商業実務学校と改称し,さらに昭和10年(1935)に第一青年訓練所と合併して商業実務青年学校となっていくのである。学制は第1部,男子部2ヵ年女子部3ヵ年(各1学級),第2部(夜学),甲種2ヵ年乙種予科2年本科2年(2学級)であった.これは後に学級数が増加し,また昭和初年には学制が変わって本科(男子,女子)のほか高等科,専習科,家政科を置くようになった.昭和5年(1930)の生徒数は,第1部第2部あわせて男女計338名,卒業生は累計653名であった.(『福島県福島市学事一覧表』大正11年-昭和5年版による).
47)福島商業学校の卒業生で,福島高商へ進学し,母校で27年間教鞭をとった第16回生の丹治嘉市は次のように追憶している.「福商が甲種(五年制)になって第一回の入学が大正7年私達五十人の生徒で……翌年夏現在地にあった高等小学校の古校舎に移転し,入学志願者も第一次大戦後の好況を迎えてグンと増え定員五十名に四倍から最高六倍ともなって,普通の成績では入学は容易でなかったので,小学校の先生は福中と福商への志願者振分けに手加減を加える始末であったとか,当時福中英語教師で後に小樽高商に転じた浜林先生が後年筆者に語ったことでも当時の入学難が頷かれる.運動面でも頭角をあらわしてきた無名の福商がどうにも目障りでならなかったのか,福中の暴れん坊二三十人が福商へ押かけて来たのも筆者が二年生のこと.」(『創立60周年記念誌』,8ページ).近藤校長の回顧による商業補習学校時代の状況と比べると,まるで夢のような話である.
48)これは,周知のように明治41年(1908)10月13日発布の戊申詔書にある言葉で,海軍大将東郷平八郎の筆になる額があったが,昭和23年(1948)の校舎火災で焼失した.
49)『学而』第3号,1-3ページ参照.
50)『高校風土記』(4),(7),毎日新聞(福島版),昭和49年9月20日,27日号参照.
51)『高校風土記』(2),毎日新聞(福島版),昭和49年9月18日号.
52)『福島県福島市学事一覧表』大正2年-昭和5年版,参照.
53)本項の数字等については下記を参照。『福島県福島市学事一覧表』大正2年-昭和5年版,『福島県立福島商業学校一覧』大正14,昭和2,8,12,16年度版,『商友』第3,7,9,13号.
54)なお,古関は筆者との面談の中で,福商時代の印象として作曲その他の活動が思うままにできた自由な学生生活の雰囲気を語っている.当時の校風は,堅実ではあるが固苦しいものではなかったことを示すものであろう.

[羽田 新]