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わが国産業化と実業教育

Title: 第3章:事例研究:D 広島県職工学校
Author: 竹内 常善
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1984年
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第3章:事例研究:D 広島県職工学校

 序論:学校成立の経緯と沿革概要

 本節では広島市に徒弟学校として創設された広島県職工学校の歴史を追いながら,そこでの実業教育の特徴と,わが国の産業化過程でこの種の実業学校が果たし得た社会的意味を検討していくこととする.なお紙面の制約もあり,参考資料,文献等は最後に一括して掲げることとし,行論中詳細な脚注を付す余裕のないことを予めお断りしておきたい.
 明治中期の広島市は殆ど固有の工業生産力的基礎を持たない消費都市であり,政治都市であった.当時の地方新聞でも「工場製造所として視るべきは僅かに三,四ケ所に過ぎず」と指摘されており,とりわけ機械金属工業は皆無に等しかった.
 だが近くの呉には明治22年(1889)に海軍鎮守府がおかれ,軍港として同地では造兵ならびに兵站部としての機能強化を計ろうとする方針が早くから確立していた.呉海軍工廠の歴史は鎮守府開庁とともに始まるが,明治28年(1895)に第一期拡張工事が竣工するのをまちきれず,漸次造船事業に入っている.同海軍工廠の重要度が再確認されたのはおりからの日清戦争であったが,明治35年(1902)以降の厳しい軍艦建造史の序幕はすでにおとされていたのである.
 海軍に限らず陸軍関係の諸施設についても広島は一大拠点となっていた.広島市におかれた広島鎮台は明治17年(1884)には第5軍管区となり,工兵隊や被服廠なども設置されている.こうして軍都としての広島は,日清戦争期の広島大本営設置で,一種の軍需ブームを見るまでになる.それまで消費都市でしかなかった広島では,こうしたブームの中で,戦後の景気後退期に対する積極的克服策が一方で模索されるところとなる.
 日清戦争期以降になると,広島地方の産業的基盤の整備も進みはじめていた.明治27年(1894)に山陽鉄道は糸崎・広島間が開通し,明治30年(1897)には広島・徳山間に鉄道が延びていく.同じ頃,明治27年(1894)に広島電燈株式会社が設立され,明治29年(1896)には中国紡績株式会社,明治30年(1897)には広島水力電気株式会社と民間有力企業の創立が続いている.こうした経済情勢の変化に加え,明治33年(1900)の北清事変の影響もあって,同地方内では職工不足問題が惹起するところとなる.同年末の県下工場登録数91,職工6,700人,100人以上雇傭工場は市内に7工場,郡部に5工場となっている.とはいえ,原動機使用工場は僅かに2ないし3工場であり,中心は若年女子労働力依存の軽工業であった.しかし男子熟練労働力の絶対的貧困は多少の労働力移動や兵役動員にも左右されるものであった.
 こうした状況下で,県内に徒弟学校設立の動きが生じてくる.発端となったのは東京高等工業学校長手島精一の広島地方視察であった.彼は県会議員層に工業教育施設の必要を説き,これが,一部の県会議員を動かしたとされている1).明治28年(1895),県会は知事宛に実業学校設立の建議を提出.明治30年(1897)に至って県費支出の徒弟学校としては全国初の広島県職工学校の設立を見ている.この点については第1表を参照されたい.また第2表とあわせて見ればわかるように,工業学校も含めて伝統産業や工芸が中心の時代にあって,同校が急速に近代工業に比重を移していったことは注目されるところである.
第1表 初期の徒弟学校一覧
第2表 初期の工業学校一覧
 同校は工業関係の実業学校としては中国地方で最も早いものであり,かつ安定的に成長していったものであった.明治35年(1902)には岡山県立工業学校が,また明治37年(1904)には山口県熊毛郡に県立工業学校が設置されている.しかし,後者は大正3年(1914)には廃校においこまれている.
 明治30年(1897)8月に初代校長尾形作吉が着任し,9月には生徒33名,職員4名で授業が開始されている.木工と金工の2科がおかれ,当年中は両科とも伝統産業の加工実習が構想されているが,翌年には機械金属加工の領域が採り入れられている.明治34年(1901),学校名称は広島県立職工学校となり,明治40年(1907)には甲種工業学校へ変更されている.
 この間,明治37年(1904)からは私立広島工業補習学校の教員ならびに校長を同校の教員,校長が兼任し,工業教育の底辺の拡大に取り組んでいる.同補習学校は明治40年(1907)には市内3校に分立拡大しているが,大正6年(1917)には廃止されている.またこれとは別に,大正2年(1913)に職工学校附設工業補習学校が開校され,大正15年(1926)まで運営されている.
 こうした動きは広島市一帯における工業教育のあり方が一つの転換点にさしかかり,新たな模索の始まっていることを示している.大正9年(1920)には広島高等工業学校が新設され,大正13年(1924)には同校の設備を利用し,校長兼任の格好で広島市工業専修学校が発足している.これは実業補習学校規程によるもので,機械,電工,土木,建築の4科がおかれている2).また大正3年(1914)に山口県の宇部鉄工所が長門工業学校を設置.大正8年(1919)には海軍工廠が呉に技手養成所を開くなど,企業内養成工制度が顕在化したのもこの時代であった.大正9年(1920)から大正10年(1921)にかけて山口県には宇部と下松の両工業学校が設置されるなど,工業学校数も急増傾向を見せていた.
 こうした変化は広島県職工学校の内実にも及んでいる.大正5年(1916)に広島県広島工業学校と改称されたのに伴い,学則を改正してそれまであった工芸科が廃され,機械と建築の2科のみとなって,名実ともに重工業中心の工業教育に進むことが示されている.大正9年(1920)には電気科が独立.大正14年(1925)には土木科が加設されて4科制となっている.定員は大正時代を通じて倍増し,専修科を加えて800名を越える大型の工業学校となっていった.
 こうした再編の動きが第2波だとすれば,第3の波は第2次大戦へ続く日中戦争期以降の時期に現われている.昭和12年(1937),戦時経済体制への移行とともに技術者不足が次第に深刻化し,それに対応するために中学校卒業者を1年間で修了させる短期養成機関として第二部電気科が設置され,昭和16年(1941)にはそれが第二本科電気科と改められている.昭和13年(1938)には高等小学校2年修了者を1年間専修させる課程として第二専修科(機械科のみ)がおかれている3).第2次世界大戦に突入する頃になると軍事体制の要請から「技術者払底」は一段と激しくなり,昭和16年(1941)には機械,電気建築,土木の4科をもつ第二工業学校が増設されている.全国的な工業学校増設や商業学校の工業学校への転換などの動きに相応したものであるが,本校の特徴は同じ昭和16年(1941)に設置された幹部機械工養成所に示されている.「本校機械科の実習設備は著しく充実せられ,地方工業学校としては比類なき設備」を有していた同校の特殊性が利用されたのであろう4).
 以上広島県職工学校成立と沿革を概観したが,本稿では昭和初期までの動向を中心に以下検討することとしたい.

 Ⅰ 教育方針の特徴

 広島県職工学校が創設された明治30年(1897),わが国には第1表,第2表で既に見たごとく,工業学校6校,徒弟学校12校が中等工業教育機関として存在していた.翌年には工業学校が19校に急増し,徒弟学校も20校となって,中等工業教育機関の勃興期にあたっていた.
 そうした時代的趨勢を理念的に支えたものが当時の富国強兵論であると考えることはできる.しかし当初の資料から見られる限り,同校の教育の基本理念となったものは,むしろ産業立国論であり,実学第一主義である.まず前記明治28年(1895)の知事宛建議書は次のように指摘している.
 「文化進歩ノ気勢日ヲ逐ウテ其光錯ヲ発現セルニ際シ実業ノ根本ヲ培養シテ以テ益々進歩ヲ助成スルノ要ナルハ今更之ヲ弁スルヲ待タサルナリ.今夫レ実業ノ根本ヲ培養スルノ法一ニシテ足ラサルト雖モ先実業学校ヲ設立シ青年有志者ヲシテ学理応用共ニ之ヲ修ムルヲ得セシムルヨリ急ナルハ莫キナリ……」5)
 初代校長尾形作吉を動かしていたのも富国強兵論的な大状況意識ではなく,徒弟学校は「下層多数ノモノニ幸福ヲ与ヘ職ヲ与ヘ生産力ヲ増スモノ」であり,「自活ノ道ヲ教フル主義」であり,「博士…….以上ヲ志望シ……,机上ノ工業タラントスルコト」6)は心得ちがいであると戒めている.庶民大衆に対する中間層独特の気負いは感じられるが,ここに見られる作業現場の実利を第1とする感覚は創立期の同職工学校の基本体質となっていく.
 明治31年(1898)4月には学則の全面改正がなされ,「木工若くは金工たるに必要なる教科を授くるをもって目的とす」との規定を再検討し,「職工養成にもあらず,学者養成にもあらず,はなはだあいまいなものがあったから,これを徒弟学校規程にしたがって将来木工または金工の業に従事するに適した善良な職工の養成を目的とすることに改めた.この趣旨は,明治四十年から工業学校規程に変更された後も少しも変改は加えられていない」7)とされている.創立時に「工業学校」の名称を積極的に拒否したことは同校の基本姿勢を現わしている.また工業学校規程移行後も,徒弟学校の多くが「工業学校」の名称を採用している中にあって,36校の工業学校中で唯一の「職工学校」たる工業学校名を大正5年(1916)まで保持している.
 こうした意識は,学校運営における専門科目と実習活動の重視となって表現されている.この点については東京高等工業学校長手島精一も「生徒入学の当初よりそれぞれ専門課業を授くる事は全国の工業学校にて其比を見ざる所にして効果の如何は老生が刮目して見んと欲する所なり」8)と指摘している,こうした方針に基づく学校運営は創立時からの同校の社会的活動を際立たせるところとなる.明治36年(1903)には実習作品が内国勧業博覧会に出品され,日露戦争に際しては陸軍の輜重車以下の軍需品の製作納入を行い,生徒製作品の販売規則を設けて積極的に市中の評価を問うだけでなく,市中に出て請負工事も行っている.そして明治44年(1911)には,工業関係の全国の実業学校を代表してロンドンの日英大博覧会に出品し,「名誉大賞」を得ている.
 こうした実物教育と専門的実践を支えた精神的背景は自発的行為の発露を最大限に引き出そうとする一種独特の――しかしイデオロギー的に高度に純粋化し結晶化しているとはいい難いが――力作力行思想である.それは思想と呼ぶよりは,志向と呼ぶ方がふさわしいほど不定形なものであるが,この学校の人間関係の基底を形成している.初代校長尾形作吉の日常的スローガンは「教わらなければ出来ないものは教えても出来ない者である」というものであった.その彼は数学と修身を担当する傍ら,自ら学校の設備に塗料をぬって回り,池の掃除を1人でやってのける存在であった.
 イデオロギー的体系性を欠如した精神論はわが国では珍しくない.このため第1次世界大戦期以降になると内発的力行の理念は国家主義的スローガンや素朴な富国強兵論とないまぜになっていく.それでも大正4年(1915)制定の校訓には「公徳を重んじ,学業に励み,堅忍力行をもって適良なる技術者ならん」と私的努力が謳われ,「奮励自彊」「工夫創意」などが校内生活の「徳目」として掲げられている.同年制定の校歌の一部にも「堅忍力行進みなば,如何なる業かならざらん,いざや試さん我が力――」と同校教諭の作詞が付されている.
 「遅鈍で無精な者には好い事は廻ってこない」とする尾形校長らの生活態度は教師にもかなり猛烈に浸透している.明治35年(1902)以降,教師達は夏休みの大半を費やして県下小学校教員を対象とした夏期工業講習会に打ち込んでいる.「工業思想」の普及がその目的であった.翌々年からは夜間の工業補習学校の教育を校長以下総がかりで引き受け,二代目校長高田申丸は病苦をおした夜間授業のはてに倒れ,ついに帰らぬ人となっている.授業についてこれない生徒のためには正規の授業と実習時間の前後に,つまり早朝と夕刻に,課外授業が行われている.
 同様の雰囲気は生徒の間にも散見できる.課外授業の後に私学に通って好きな学問領域を更に進める者もいた.実習は深夜に及ぶことも珍しくなく,時として徹夜作業すら行われている.そして夏休みには各々各地の企業や工事現場に出かけて実習を行っている.実習現場で彼等は労働時間概念を捨象しきったような中堅技術者の作業ぶりに驚かされることになる.昭和初年に中国山地内奥の山村で土木測量に参加したある生徒は次のような報告を遺している.
 「(前略)自己に与へられた職責の為,全生命を投じてゐるその徹底した信念に感銘せずには居られ無かった.吾人は之の世の中が支障なく運行していく反面各自与へられた責務を完全に果すといふ代償の払はれている事実を認識し,又その事実をなすべき運命に吾人は置かれてゐることを認知した(後略)」
 彼は危険な山岳地帯の測量精度の高さに感激し,大驟雨の中を測量機械を守りながら引き返す.そして「家に引揚げたら皮膚に徹[ママ]する迄も濡れてゐた.而し私は喜んだ,よい経験を嘗めたと! こんなよい試練に遭った事を寧ろ感謝した」9)と心情を吐露している.
 このような学園生活は,校長自らが「入学式の日には体罰も加えることがあると宣言」する緊張の場であると同時に,熟練の達成を通じて各人が人間的に結びつきうる舞台ともなっていた.そして,こうした状況下で最も注目されたことは,職工生活に関わる伝統的な意識や差別感覚を一蹴する上で,学園生活が大きな効果を持ちえていることである.初期の卒業生の1人は後年次のように述懐している。
 「今の世の中には,ホワイトカラーの希望者は街に溢れていても,自ら手を汚し実務に従事するブルーカラーの希望者が少なくなってきたことは,不思議な現象だと思います.実地の技術をマスターする者こそが,本当に技術の革新力を持つ者と申しても決して過言ではないと思います……(多くの技術革新の場合も)現場の技術者の実地の体験による着想が開発の原動力となっており,机上の理屈では遠く及ばないものであると思うのであります.……」10)(カッコ内は筆者)
 また学歴中心主義への批判的態度も同校の歴史を貫く一筋の糸となっている.尾形作吉は「ヒントを得たら他よりも先にこれを物にすることによって必ずや成功の彼岸に達するものであって,決して最高学府である大学に入ることを絶対必要な条件と考えたりはしない」11)ことを再三強調している.こうした態度はずっと後の時代の第16代校長藤井良三にも認められる.彼は「技術の習得は工業学校で十分である.大学卒に負けないように頑張って欲しい.要は県工スピリットを身につけることである.自分も今一度技術の社会で頑張るつもりである」と説き,「その約束を果すのは教師のモラルであり,決然として二十年の工業教育に終止符をうった」12)のち,中小企業に転じている.彼はまた同校卒業生の1人でもあった.さらにこの種の雰囲気が生徒の家庭でも認められた点は注目される13).同校卒業後に高等工業への進学希望をもらした初期の生徒に対して,彼の父親はこう批判している.
 「東京にやるのは金が惜しいからいけないというのではない.上級学校にいくのが大成の道と考えているのがわしは気にいらないのだ.仕事は卒業免状の枚数が多ければできるものではない.ある程度までは教わる必要があろう.しかしあとは自分でつかみとっていかなければならないというのでなければ本物でない……」14)
 ところで同校のこうした現場作業を重視し,実技能力を中心に人格の陶冶を計ろうとする価値意識の底辺には,対照的な二つの要素を見てとることができる.いずれも十分に洗練されたものとはいい難いが,それだけ余計に実感的迫力をもって教師と生徒の心に食い入っていたようである.
 一方の極には西欧的な文明や個人主義への憧憬がある.修身の時間には福沢諭吉の「独立自尊」が語られ,カーネギーの立志伝が熱っぽく語られている.生徒の間でもカーネギーの伝記がよく読まれている.数学の時間にも,その哲学的背景が論じられたという.古河市兵衛や岩崎彌太郎までが同様の脈絡で語られるという雑居性はあったにしても,修身の教科書など全く無視した自由なテーマの設定と思索が大方の心に深い印象となって映じている.大正時代に建築科で最も人気のあった千々岩助太郎の授業では「建築の生命は美なり」ということが重ねて強調され,生徒達はパルテノンの丘に夢をはせ,夜を徹してアクロポリスの模型作りを敢行している15).
 これに対し,一方では「上司を助けて職に殉ずる」式の,伝統的職人社会を彷彿させる奉公精神もよく強調されている.幸田露伴の『五重塔』が引かれ,校長は?々卒業生のアルバムに「奉仕第一」と揮毫している.こうした校風の中からは,「技術家というものは同じことを繰り返し十年以上やらないとわからぬものだ.わしらは三十年同じことをやって漸くわかるようになった」16)と後輩に説く卒業生も不自然さなしに形成されてくる.彼は第1回の卒業生として呉海軍工廠に入り,やがて戦艦大和などの主砲設計や取り付けを担当することになる.そして砲身研究のために一日中砲身内に入りびたり,同僚をあわてさせたりすることが日常化するような,そんな仕事の虫であった.そうした生活観を育んだ生徒の実習服装もまた,木工科が股引半纒,金工科は菜葉服であり,一般職人社会のそれと同じものであった.
 こうした対照的思想潮流の雑居性が多面的に構成員の社会的行動力を惹き出した点は無視できない.しかし多様性が内に緊張感を孕み,自発的行為を惹起できるうちはいい。それらはやがて渾然一体とし,多少とも整序されてくる.巨大な産業組織が成立してくる後の時代になって「業界の求める人材とは表裏なく自分の持場を守る人,一人一人が経営者の心を心とする人でなくてはならない」というのは単なる経営家族主義への後退である.そうした後の時代と対比してみるなら,創立期から第1次世界大戦期にかけての時代は,まださまざまの意欲と創意の錯綜したエネルギッシュな時代だったようである.

 Ⅱ 学校運営の推移

 まず学則上で同校の運営体制を見ておくことにしたい.それによると明治30年(1897)8月に創立された時,学期は9月に始まり翌年8月終了となっており,2学期制が採られている。入学資格は満13歳以上,尋常小学校卒業程度となっているが,入学試験に依るもののほか,郡市長による推薦入学の制度を採用している.当初授業料はなく,学資の一部が補助されている点も注目される17).なお入学者は市内の保証人を有することが義務づけられていた.
 翌年春の学則改正にあたっては入学資格を高等小学校第2学年卒業以上で満17歳以下と定めている.入学基準を厳しくすると共に,徒弟学校の場合は入学中徴兵猶予の特典が与えられないので年齢に上限を設定したもののようである.また資格条件として「志望強固」の項目が加えられている.上級学校への予備校として入学する者があり,中途退学を申し出る者が出たので,それらを避けるためだったようである18).この時の改正では,学年始業期が4月,終業期は3月とされている.
 明治39年(1906)の学則大改正時には,学期が3学期制となり,「生徒学業習熟の度,進歩したものは臨時卒業をさせ得る」ことが加えられている.郡市長による推薦制が廃止され,保証人は「市内オヨビ付近一里以内ニ於テ独立ノ生産ヲ営ム成年以上ノモノ」と改められている.またそれまで卒業後1年以内の専修科が認められていたが利用者が殆どなく,1年以内で修了の別科が新設され学生募集がなされている.これは「旧来経験ヲ有スル職工ニ新規ノ機械工具ノ使用法ヲ習熟サセ,マタハ有志ニ志望ノ工芸ヲ学バセ,工業教育普及ノ一端ニ資スルタメ」だとされている.
 明治40年(1907),職工学校は工業学校規程によるものに変更されることが文部省から認可されている.同校では早くから工業学校への変更を申請していた.卒業生の社会的地位,在学中の徴兵猶予,学校の移転拡張計画などが絡んでの運動がなされている.ただ文部省は徒弟学校としては最大規模のものであり,しかも時代が要請している機械工業部門に順調に人材を送り出していたことから,「全国徒弟教育の模範であったのに,これを捨て,他校にならうのは実に惜しい」として認可を渋っていたようである.変更は校長自ら上京して交渉し,卒業生の実体などを調査し資料として提示するなどの努力のすえ,終に認められている.
 改正後の学則には次の諸点が盛られている.「目的」の項には「本校ハ,工業学校規程ニヨリ適良ナル技術者タルベキモノヲ養成スルコトヲモッテ目的トスル」と示されている.修業年限は3年4ヵ月となり,別科は2年以内と改められた.入学資格は14歳以上18歳以下で高等小学校卒業ないしそれと同等以上の学力が要求されている.また授業料金額が年6円と明示され19),自宅もしくは学校長の認めた監督者のもとから通学する者以外は,全て寄宿舎に入ることが規定されている.また在学者は編入試験を経て新規程の学年に振りわけられており,自動的に工業学校の同学年には編入しないなど,厳しい姿勢で臨んでいる20).
 では次に同校の施設,設備の拡充過程を見ることとする.最初の校舎は広島市北部の二葉の里にあり,市有の木造2階の古建物(建坪126坪)を借用し21),校長も自ら手入れしながら利用したもので,第1図のようになっていた.
第1図 創立当時校舎平面図
敷地の周囲に針金をめぐらしただけのものであったが,翌年には周辺を含め敷地1,634坪が指定され,日夜をいとわぬ拡充整備が進んだ.同年秋には実習場が竣工.年末にはスイス製4.5馬力の石油発動機が設置され,本格的実習が開始されている.しかし明治35年(1902)には早くも実習機械の増加と稼動率の激しさから動力不足が深刻になり,新たに英国製5馬力の石油発動機が導入されている.明治37年(1904)には平屋建の仮教室ができ,明治38年(1905)には2階建教室の新築落成をみている.こうして敷地内には建物も増え,「工具その他の設備もようやく備わり」学校に対する評価も高まっていったが,教師生徒ともに実習時間をさいて施設整備作業を行うことが多かったようである.
 明治36年(1903)頃から既に敷地の狭さと将来の拡張のための移転の必要が
叫ばれ,県会議長よりの知事宛建議書が出されて年末には決定をみている.しかし日露戦争となり,移転予定地には陸軍病院分院が建てられることとなる.戦争期には工場を第4師団に貸与しながらも施設整備を続け,明治39年(1906)には電動機室に10馬力モーターが導入されるなど動力機も多様化していった.こうして明治40年(1907)になると第2図に見られるように敷地の利用は限界に達している.このため県会は5カ年継続事業による移転拡張を決議し,市内中央部の千田町に移されることになった22).年次別の工事完成度は第3図に示してある.明治44年(1911)には普通教室のほか15棟,上下水道工事などが完了し,学校全体の移転を行っている.移転式は翌年5月に行われ,大正2年(1913)完成の寄宿舎を残してほぼ全容ができ上がっている.
第2図 明治40年(1907)校舎平面図.
第3図 新築移転当時校舎平面図.
 しかしこの間,明治44年(1911)には電気工科がおかれ,45馬力の蒸気機関を主動力にした15キロワットの直流発電機もやがて電気実験用電源としては不足をきたすなど,新たな問題が出はじめていた.
 次に経理の側面から同校の特徴を見ると,初年度の当初予算は県から4,400円が計上され,11月には文部大臣より実業教育費国庫補助法により,当面5年間は毎年1,200円が交付される旨の通達が届いている.補助金は翌々年には3,000円に増額されているが,同校の場合,国庫からの臨時費の追加支給が多いのも特徴的である.明治31年(1898)には1,000円,大正4年(1915)には機械購入費補助として500円,大正9年(1920)には電気科設備費補助として800円,大正11年(1922)には実習用設備補助として900円などである.しかし経費の圧倒的部分は県費によっている.決算額の推移は第3表からわかる通りで,初年度についても当初予算よりは脹れ上がっている.差額分が県費によって埋め合わされたことはいうまでもない.また第4表の金額は予算額表示であり,第3表の金額とは一致しないが,同校の予算規模が際立って大きいことが窺える.複数校所在府県では1校当たり予算を単純計算で示してあるため厳密な比較は難しい.だとしても,同校の規模は全国的にみても最大規模であることが予想できる.
 一方収入については,第3表のごとく当初授業料が免除されていたため,工業学校規程に移って徴収を始めるまで全くない.雑収入があるが,その多くは生徒作品などの売却代であろう.明治37年(1904)に生徒製作品売却規則が制定され,明治40年(1907)からは決算報告書に明示されるようになっており,そのため雑収入額が急減していることからも明らかであろう.作品売却代が第1次世界大戦期まで授業料収入より大きい点が注目されるが,作品が本格的なものであったことは第5表からもわかる.と同時に,大正11年(1922)頃をピークに後退していることから,民間企業の商品のレベルが高度化し,同校の実習作品のレベルを凌駕していったものと考えられる.逆にそれ以前では特定の機械工具などに関しては,同校の実習製作の能力が広島地方一帯ではトップレベルに近かったと指摘することもできそうである.
第3表 広島県職工学校の経費と収入の推移
第4表 公立実業工業学校についての都道府県別経常費予算:大正11年(1922)
第5表 創立25周年記念日の主な販売品:大正11年(1922)
 なお創立時には学資補助が学校から1人につき2円出され,「図引具ノ外図書器具及ビ工具ハ本校ヨリコレヲ貸与ス」となっていた23).しかし,明治33年(1900)には寄宿生以外の者の学資を半減し,教科図書は全て自弁となっている.明治36年(1903)には通学生,寄宿生の補助金が各々更に半減されている.入学希望者が急増傾向を見せはじめたからだともいわれているし,一方では学校経費が急膨張していったからでもあろう.そして明治40年(1907),工業学校に認可されると同時に年6円の授業料が課されたのである.
 最後に,工業学校には多く見られる寄宿舎について触れておこう.明治31年(1898)10月には「公認下宿規定」がつくられ,自宅,保証人ないし親戚宅以外のところからの通学生は,全て学校の定める下宿に入ることを要求されている.明治38年(1905)頃こうした公認下宿は3軒あり,各々には舎監として教師が止宿し,上級生が舎長,副舎長として規律の重視を中心とした生活の世話を計っていた.朝夕には人員点呼もなされていたようである.明治40年(1907)には定員の増加もあり一部で移転拡張もなされ,名称は「校外寄宿舎」となっている.第1次世界大戦期まで,農村部出身者の比率が高かったこともあり,初期には寄宿生の比率が高かったようである.大正2年(1913)には千田町のキャンパス内に112.5坪のもの4棟ほか食堂,炊事室,集会所などを備え,150人収容の設備が完成し,校外寄宿舎は廃止されている.

 Ⅲ 教育内容の展開

 まず学科編成の推移から見ることにする.明治30年(1897)には木工科と金工科がおかれている.前者には指物工と彫刻工の2コースがあり,後者は板金工のみであった.いずれも手仕事中心の伝統的職人社会の内容でしかなかったが,半年後に木工部と金工部に再編され,前者の構成はそれまでと同様であったが後者は板金工,鍛工,鋳工,仕上工の4科がおかれ,機械工業育成の方針と実体が示された.明治39年(1906)には12工科を擁する3学科に拡充されている.機械科には機械製図工,木型工,鋳工,鍛工,鑪工,鑪工の6科,建築科には建築製図工科と大工科,工芸科には彫刻工,指物工,塗物工,板金工の4科が配置されている.創立時の学科は全て工芸科に含まれたが,生徒には途中選択の余地が十分に与えられていた.工業学校移行時もこの編成は変わっていない.しかし明治44年(1911)になると機械科に旋工科と電気工科が加わり,時代の要請が反映されていることを感じさせる.
 大正5年(1916)にはかなり大規模な改革がなされている.機械科は機械製図工科が廃されて銅工分科が加えられている.旋工科が機工分科に,鑪工科が仕上分科に名称変更され,「分科」の名称が用いられている.建築科と工芸科は建築科に統合されている.建築製図工科が廃され,大工科は造家分科に,彫刻工科と指物工科が家具分科に,塗物工科と板金工科が塗工分科になっている.重工業中心の構成をもち,全国有数の工業学校と言われはじめるのはこの時期あたりからである.大正9年(1920)には電気科が独立,建築科の塗工分科が消えている.大正時代に入ってそれまでの蒸気機関が姿を消し,重油機関と電動機の急速な普及が見られたことを考えるなら,この点は時宜を得ている.
 だが分科制度によって専門的実技を特化することは,教育の場と産業界の間で技術的な差があまりないか,むしろ前者がリードしえている間は有効である.しかし産業界の水準が高度化してくると社会生産の現場での再教育に余計な労力を要するものとなってしまう.そうなると実業教育の場ではより一般的な知識と技能の修得が要請されることになる.こうした基調の変化は第1次世界大戦期あたりから顕在化していたのではないかと思われるが,同校(大正12年(1923)に広島県立広島工業学校と改称している)では大正14年(1925)に全ての分科を廃し,土木科を新設して4科のみの編成にしている.土木科は当時中国地方では岡山工業学校にしかなく,広島県内でも専門家の不足がいわれていたのである.
 この後,学科編成上の大きな変化は戦時経済体制が本格化してくる昭和10年代(1930年代後期)までないといってもいい24).それ以降の推移については本稿の課題を越えている.
 次にカリキュラムの構成について見ておく.教科は専門教科と補助教科(のち普通教科と呼ばれる)に分かれている.明治30年(1897)の要項では前者には実習のほか製作法,工具用法,材料応用があり,後者には修身,読書,算術,幾何,工業理科,図画が含まれている.入学者は高等小学校卒業者が多く.読書は自由選択科目となっている.授業は午前中が「座学」で午後は実習にあてられている.「体育等は設備の実習が忙しいために省みられず,機械体操の設備は生徒が作ったり」している.
 それでも明治39年(1906)には体操が必須となり,専門教科は工業要領と実習の二つにまとめられている.工業学校移行に伴い,専門教科は各科別に著しく細分されている,機械科のみについていうと,実習以外に,工場用材料,工具用材料,工具及び工作法,応用力学,発動機,電気工学大意,機械製図,工作術となっている.普通教科には物理,化学が加えられている.この後に大きな変化はないが数学が多様化し,大正5年(1916)には算術,代数,幾何,三角関数と内容が規定され,大正11年(1922)には高等数学初歩が加えられている.この年にはまた,新工業学校規程の影響で地理,歴史,法制経済が追加されている.
 カリキュラム上ではとりわけての特徴はないが,実習と課外授業の多さには驚かされる.課外授業は生徒の要求で開かれることもあった.実習では夜業や徹夜すらも行われているし,午後の課外授業で足りない時は早朝授業が組まれている.生徒は全て徒歩通学を義務づけられていたため,「自宅通学者は市内の者でも「4時起き,5時出発」そして途中駆け足だったという者がある.それどころか,授業外に私塾に通う者も少なくなかったという25).そうしたことから3年制にもかかわらず5年制の中学校の総授業時間数より実質的にかなり多かったと指摘する見解もある.
 教科書については普通教科については師範学校や中学校用のものが用いられている.しかし,専門教科については殆どなく,「工業教員養成所で習得したノートと原書による口述」をノートに書きとるしかなかったようである.専門書はあっても大冊であり,学校向きの手頃な専門書が出版されはじめたのはやっと大正末期からだという.昭和9年(1934)に作られた機械材料学のテキストを調べたところ,謄写印刷に青焼きの図表を貼りつけた全くの手作り品であり,教師が自分で作ったものである26).教材の不自由さはこのような「工夫創意」で克服されており,各地の機械工業会社の製品型録を広汎に収集するなど最新の技術情報に遅れまいとする努力が続けられている.第1次世界大戦以前には生徒でも一般の工業雑誌を購読し,工業界ばかりか自分の就職しようとする事業所の実情についてもかなりの知識を持って卒業していった.またそれができた時代でもあった.
 次に実習について触れておく.実習道具は学校で備えられることになっているが,初期の生徒などは鋼材を買ってきて,コンパス,内外カリパス,定規などを自作している.ほどなく機械類は揃ったものの全員の実習には足りないと考えられ,やがて旋盤,ボール盤,シェーバーなどは学内で作り出されている.明治期には実習の基礎条件すら学内で作り出されていったといえる。
 当初から日用品などの実習製作品は市民へ原価で販売していたが,品目も多くなり,機械工具類も作られるようになって,明治35年(1902)には第1回製作品展覧会が学内で5日間開かれている.翌年には生徒実習製作品順序模型が第5回内国勧業博覧会で二等賞牌をうけている.明治37年(1904)には前述したように生徒製作品売却規則が定められ,依頼製作にも応じることになった.日露戦争期には土曜日曜の休みを返上し,陸軍兵器廠の仕事の一部を担当して輜重車などの製作を行っている.明治39年(1906)には市内で42.5坪の住宅1棟を請負い,竣工させている.これは教師と3年生の実習だけで完成させたものである.明治43年(1910)にはロンドンの日英博覧会には2馬力竪型蒸気機関,和風二階建住宅(雛形),飾棚,茶道具などを出品,名誉大賞を受けている.また同年の韓国皇太子の県庁訪問に際し,県当局は同校製作の工芸品を献上品として納めている.大正時代に入ると電動モーター,その応用品である扇風器の製作販売などが進められている.三菱がやっと扇風機の製作販売をはじめたのと同時期であるが,ここでは京都市での全国博の出品作品を第6表に掲げておく.
第6表 全国工業博覧会出品作品:大正10年(1921)
 実習は夏季休暇中も続けられている.大正時代以前の記録がないので昭和期のものを紹介すると,卒業生の職場に各自頼みこんで作業させてもらうということが多いようである.実習期間は数日から長い者は3週間に及んでおり,実習のための夏季休暇という印象すらある.参考のために機械科の昭和7年(1932)の資料を第7表に掲げておく.
第7表 昭和7年(1932)度機械科夏期休暇実習一覧
 こうした教育と実習以外に日常生活における礼儀作法についても厳格な方針と姿勢が保たれていた.危険の伴う実習作業があることも手伝って,下級生は教師と上級生の監視と保護の下におかれていた.欠礼などで制裁をうけることは日常的であったが,傷でもうけぬ限りは父兄からの苦情がでることもなかったという.

 Ⅳ 教師の社会的性格

 同校の教員と生徒数の推移の一端は第8表に示しておく.
第8表 入学者数に対する卒業者数一覧
生徒数に対する教職員比率が高いことは同校の特徴であろう27).創立直後の職員は校長を含めて5名である.一般職員は訓導となっていたが,明治32年(1899)からは教諭,助教諭,書記と改められている.高田申丸は東京工業学校教員養成所出身,中林成一は東京工業学校付属職工徒弟学校出身,児玉周年は双三郡吉舎尋常小学校訓導兼校長から転じ,大木一清は佐伯郡書記から転じている.教師は校長を含めて東京工業学校ないし同校附設の教員養成所出身者が中心のようである.
 そして彼等以外に「師範職工」と呼ばれる熟練職人達が採用されて実習を担当している.最初の師範職工となったのは斎藤仲吉である.彼は静岡県出身で東京に出て大工の「棟梁」となり,明治30年(1897)10月に着任している.明治31年(1898)には訓導採用は1名のみで,5名の師範職工が採用されている.三堀松造は横浜の工場労働者出身であり,板金の実習を担当している.他に指物工の永井才次,鋳物工の原田次郎,鍛工の十川常太郎,デザイン担当の和田保などである.彼等と専門学校出身の教師との連携こそが,同校の実習製作レベルを全国的に見ても最高度の水準に高めていく鍵となっていた.彼等はのちに「実習教師」ないし「助手」として待遇されることになる.それでも明治時代には給与も月給ではなく日給月給で支払われるなどの不利があり,待遇を不満として短期で辞めていく者もあった.
第9表 歴代校長の略歴
 だが師範職工に限らず,全国的に職場を求めて移動することは校長以下全職員について指摘できることであった.初期の校長達のうち,多少とも履歴の明らかになった者のみについて示したのが第9表である.出身地もさまざまであり,各地で教員を勤めながら校長となっている.彼等も教諭達も各地の職場を移動しながら社会的地位の上昇を達成している.
 それに対して学歴は持たなかったが「経験の豊富な,人間的には魅力的な親方たち」28)の場合,そうした機会は乏しかったようである.但し途中で文部省中等教員検定試験(文検)に合格しさえすれば,他の教員と同等の扱いはうけられるようになっている.大正時代以降職人親方的な実習教師は少なくなり,工業学校出身のものが増えてくる.それでも「2間の柱を仕上鉋で削り,削り屑が空中に舞っている間に削り終る」ことを得意とするような名人肌の人間が大正末期にはまだ存在していたようである.
 一般教員の学歴は大正時代以降の新任者になる程,高等工業出身者が増えている.国語など普通教科では師範学校出身者が見られ,数学では一時期など海軍士官も教えている.出身地も次第に広島県の者の比率が高くなってくる.そのことは第9表からもわかる.それでも電気科や土木科の新設ごとに人材は広く他府県から求められているし,有能だと思われた者はまた新しい職場を得て県外に移ることも珍しくない.大正期の建築科名物教官の1人,千々岩助太郎は名古屋高等工業出身で,のち宮崎工業,台北高等工業を経て第2次大戦後は文部省の九州出張所長となっている.同期に電気科にいた河合常三郎はのち逓信省に移り,在任中に県下各所の水力発電所の設計や建設を行っていた山賀辰治は苫小牧工業学校長に,同じくモーターの設計製作を担当していた山本富武は中国電力水力発電所長に転じている.
 このようにして教員達は教育現場のみならず産業界の先端領域でも通用する存在だったのである.双方の領域の技術力格差が顕在化しはじめると同時に,産業界と教育界の単純な蜜月時代は崩れ,両者は社会的分業関係の枠内に収っていくことになる.それが明らかになったのは昭和に入ってからのようである.その頃になると,中等工業学校教員の払底や「質の低下」が叫ばれ,教員と現場技術者の人事交流の必要が指摘されてくる29).産業構造や社会経済構造が変化していた時にこうした微視的な改革案が効を奏すべくもないが,中等工業教育機関のあり方が大きな転換点にさしかかっていたことは確かであろう.

 Ⅴ 生徒の社会的性格

 職工学校時代の明治43年(1910)までの卒業生を(在校生については卒業予定年次別)出身地域別に分類したものが第10表である.
第10表卒業生の出身地別推移
ここから分かるように,農村部の出身者比率が高い.この点は同じ実業高校である商業学校と比べて大きな差異をなしている.後者には市内出身者が圧倒的である.
 農村部出身者といっても,村内では中上層の者が多いようである.殆どが高等小学校卒業者ないし修業者であり,当時高等小学校進学率は十数人に1人程度であるから一般農家出身者ではない.また村長やかつての庄屋の家庭の子弟もみられるが,ほぼ一様に何らかの理由で没落しており,親戚の援助とか学資補助が得られるとの理中で同校に入学している.だから経済的に最上層の家庭出身者ではない.更に長男が少ないことは当時の農村の家制度の強さを反映している.長男の者は都市の小生産者の家庭出身の場合に限られるといってもよさそうである.
 入学試験はかなり厳格である.初年度入学希望者は33名30)であり,定員以内の数しか採用されていない.同校が全国的に見て最も厳しい合格率であることは第11表にも示されている.大正末期の大正11年(1922)について見ても,応募者557名に対し,採用168名,全国平均の合格率40.3%に対し同校は30.2%と最も難しい学校になっている.定員は200名であり,84%しか充足していない.
第11表 各地徒弟学校の入学者数合格率:明治33年(1900)
 途中退学者について信頼するに足る数字は得られなかったが,当初は上級学校への進学希望から退学する者も少なくなかったようである.初年度入学者35名中,卒業者は29名となっている.成績不良での落第や退学も多く,創設されたばかりで「不良学生」がまぎれこんだといわれた大正14年(1925)度土木科の入学者の場合,40名入学して2年進級時に早くも6名落第し,卒業できたのは22名にすぎない.
 こうした厳しい環境の中で生徒の対応はかなり活発である.上級学校の教科書を購入して独力でマスターする者も少なくなかった.授業の前後に私塾に通って勉学範囲を広げる者もいた.当時の国内では最先端の工業雑誌を読みこなす者もかなりいたようであり,卒業生の多くは就職先の工場の状況をあらかじめ理解し,自分にとっての課題をわきまえて巣立っていったとされている.また文芸活動もさかんであり,このことは現存の『校友会誌』からも散見できる.文章能力があり達筆であることは当時では有効な知的能力の表現手段であり,遺された資料の多くはそうした能力の才を示して余りあるものが少なくない.
 次に彼等の卒業後の進路について概観しておこう.初期の卒業生について見たものが第12表である.
第12表 卒業生の就職先推移
この中では軍工廠,その他軍関係施設と公営企業(国鉄,八幡製鉄所など)への就職者の比率が高い.第1回卒業の秦千代吉はのちに海軍初の勅任技師となり,呉海軍工廠内の同窓会組織の中心人物となる.「自宅」と表示された者も自営業だと考えるなら,これもかなりの部分を占めている.工芸関係では伊藤琢郎のように家業を継いで人間国宝的存在になった者もいるし,外国会社の技師長を経て家業の土木建築業を継いだ坂本柳太のような事例もある.民間企業に出た者のうちからは,三好松吉,竹林巧,倉本憲一,中野春吉,小崎春記,石井源治らのように経営者として成功した者も多い.ただ初期の卒業生が同校出身の学歴だけで社会的地位を得ることが可能だったのに対し,昭和期以降の卒業生で企業経営者として成功した者には高等工業を経た者が多い.日本コロンビア社長となった正坊地隆美や東洋工業副社長となった村尾時之助などのようにまた初期には海外に出て働く者が少なくないことも注目される31).この傾向は後退しながらも昭和期まで続いており,第13表からもわかるように,200名以上の者が海外か植民地で働いている.初期から一貫して,一部に上級学校進学者があるが,主として高等工業である.進学率は比較的高くなった昭和期でも10%以下だったようである.
第13表 卒業生就職地方別構成:昭和7年(1932)
第14表 県内の就職者の就業先:昭和12年(1937)
 昭和初期までの卒業生にとって,卒業後も比較的多くの社会的選択肢に恵まれていたことは指摘されねばならないだろう.例えば明治40年(1907)卒の倉本憲一の場合,沖電気株式会社,和田計器研究所(のち東京計器),東京瓦斯電気株式会社,日本光機工業株式会社を転々としたのち独立して倉本研究所を興している.同期の穂積礼一の場合は,陸軍建築部に入ったのち,3年で辞め,私塾に通った上で明道中学校に入り,名古屋高等工業を経て陸軍の造兵廠に入り,再度技手から出発して技師となり,第2次大戦後は大蔵省役人となっている.卒業後直ちに教員となり文検を受けて師範学校教師や大学教授にまでなった者もある.大正11年(1922)卒業の原田三郎は日本製鋼広島製作所に勤めたのち入営,除隊後に高等商船学校に入り,やがて広島商船高等専門学校長になっている.こうした選択肢の広さは彼等の社会的活力が引き出される上での大きな要因となっている.但し,卒業生の一部には一貫して進路,地位の「不詳」な者がいることを等閑にふすことはできない.同窓会意識の強い当時にあって,母校との連絡が切れることはとりもなおさず社会的脱落を意味することが多い.
第15表 卒業者中の軍関係機関の就業者構成比:昭和12年(1937)
 昭和期を含めた卒業生の動勢を見るために前記第13表以外に第14表と第15表を掲げておく.卒業生の半数は県内で働いており,その中心は呉海軍工廠である.同工廠を含め軍関係機関勤務者は機械科卒の県内就職者の過半数を越えている.全国的に見ても3分の1を越え,建築,土木の両科でも2割を越えている.その際に注目されるのは,わが国の重工業化が進展しはじめる大正後期(1920年代)から昭和初期(1930年代)にかけて軍工廠への依存度が飛躍的に高くなっている点である.このことは機械金属産業が軍需に頼ってしか拡大できなかった戦前期わが国経済の基本体質を露呈している.

 結論:小括および今後の課題

 中等実業教育機関としての広島県職工学校に対する世間的評価は高い.既に見たように国庫補助額が多いだけでなく,追加的交付を再三受けているし,各種博覧会での実績も際立っている.顕官要人の視察件数も実に多い.明治32年(1899),旧藩主浅野侯.明治33年(1900),樺山文相.明治41年(1908),大浦農商務相.同,小松原文相.大正5年(1916),一木文相などなど.浅野家では大正5年(1916)に同校生徒のために奨学資金制度を設け,市内有力者は「製針事業研究費」として2,000円を寄附している.
 そうした評価は同校の製作実習の水準と,生徒および卒業生の直接的実技能力に対して集中的に向けられたものであり,しかも当初それが徒弟学校の枠内で達成されている事実が注目されている.だからして文部省は日英博覧会への出品校として特に同校を代表校として指定しながら,一方では工業学校への「格上げ」に難色を示したのである.所期の目的が達しきれずにいる全国徒弟学校の中にあって,しかも最も実効の期待されている重工業領域にあって,同校は創立後短期間のうちに一定の実績と評価を得たのである.徒弟学校時代の明治35年(1902)頃には同校への入学希望者が増大し,早くも全国きっての難関校となっている.
 ところで,実習や実技能力の水準に対する一般的評価が一致していた程には,卒業生の「職工」としてのイメージは統一化されていない.むしろ政策担当者の「職工」に対するイメージの貧困こそが指摘さるべきかもしれない.旧士族層を中心とした官僚や知識人の眼からすれば,生産現場で直接的指導にあたる者とて「下層多数ノモノ」の一部にすぎない.だから徒弟学校も庶民に「幸福ヲ与ヘ職業ヲ与ヘ」「自活ノ道ヲ教フル」ための恩情的手段だと考えられてしまう.一方,農村部を中心として生徒を送り出した社会層からすれば,「職工」とはもはや旧時代的職人の域を脱して先端部門の技術者や経営者をすら渾然一体として含み込んだ概念になりかけていた.だから徒弟学校も社会的栄達のための当面の通過点であり,決して目標地点ではない.「ある程度までは教わる必要があろう.しかしあとは自分の力でつかみとっていかなければならない」のだという主張は,力作力行の何時か社会的に報われることを信じる者にとっては,十全の重さを持つ訓話となりうる.双方の評価の乖離は各々の拠って立つ社会的基盤の差異に根ざしている.
 ただこうした社会構造に救いがあったとすれば,それは教育者にも,後に経営者として上昇していく者達にも,現場作業を重視し,自らそこに携わっていくことを何ら厭わなかった生活態度が存在した点にある.そうした社会条件が――決して社会の全領域にではなかったにせよ――ともかくもある範囲に成立していたことによって,卒業していった「職工」予備軍は実に多様な社会的軌跡を描くことになる.勅任技師や有力経営者,各種教育者,中小自営業者,公務員,工芸家などなど.彼等の中から幾多の社会的上昇事例を引き出すのは実に容易である.「職工」予備軍は,同時に技術者や経営者の予備軍としても世に出ていったのである.しかも初期の卒業生は就職先の実情を知悉して赴いたばかりでなく,その場に着くやいなや掛替えなき即戦力でもありえた.当時のわが国の実体からすれば実に有難い人間類型だといえる.
 しかし多くの社会的上昇事例から日本人の立身出世主義を論じ,そのことをもって我国経済の成長活力に――ある者は通俗的礼讃をもって,またある者は神経質な白眼視を試みて――説明原理を与えようとする見解には疑問が残る.着眼すべきはむしろ,成功者となって上向する者と所在「不詳」となって消えていく者との,格差の大きさという事実の方にある.特定の社会的制度を通過した者が,特定の社会的地位に落着いていくという画一的保証や身分制的因果律はここにはない.その代わり,ここでは強烈な競争原理が機能しうる.徹夜実習すら矛盾なく受け入れる内発的力行は,こうした社会関係からを背景においてこそ理解可能となろう.
 それにしても本稿での紹介事例が,重工業型徒弟学校としての,例外的成功事例であったことについては,将来より広い視野からの再検討を要請している.
 また思想的には実に雑多なものが混在し,そのことが一つの活性源となりえている面妖さについては専門家の助言を得たいところである.
 卒業生の社会的軌跡の多様性についても,第1次世界大戦後になると,卒業者数の飛躍的増大,進路の画一化,社会的選択肢の狭隘化などから転換点にさしかかっている.これらについてはのちの戦時体制期の問題ともども別に考察される必要があろう.
 残された問題は多いが,粗略乍ら,以上をもって明治・大正期の広島県職工学校の歴史的展開とその特徴に関する小報告としたい.

 [注]
 1) 手島精一の来広は明治28年(1895)とする説と明治29年(1896)とする説があるが確認できなかった.知事宛建議が明治28年(1895)末であるから,前者であろうかと思われるがここでは判断できない.
 2) 同校は昭和10年(1935)の実業補習学校廃止に伴い,付設の青年訓練所を廃して広島市立工業専修青年学校に再編.昭和12年(1937)には工業学校規程に基づく夜間制の広島市工業学校となっている.現在の広島市立工業高等学校である.
 3) 同専修科は昭和18年(1943)に廃止されている.
 4) 広島工業高等学校『六十年史』,昭和32年(1957),40ページ.昭和初年,定員規模でみる限り,同校は全国工業学校中五指に入る存在であった.とりわけ大工業都市に有力工業学校が偏在していた中にあって,地方都市にあったものとしては異例の存在である.
 5) 前掲『六十年史』,8ページ.
 6) 広島県『広島県史』近代1通史 Ⅴ,昭和55年(1980),1149ページ.
 7) 前掲『六十年史』,14ページ.
 8) 東京高等工業学校『蔵前工業雑誌』,明治40年(1907)12月号,7ページ.
 9) 県立広島工業学校校友会『工苑』第28号,昭和8年(1933),159ページ.
 10) 三好松吉「新卒業生に望む」,広島工業高等学校『八十年史』,昭和53年(1978),38ページ.我国の場合,「職工」や「ブルーカラー」の内容が歴史的に変化していくことが無視された発言であるが,ここではしばらくその点は問わぬことにしよう.三好松吉は職工学校だけの学歴で経営者としても大成していった人物である.
 11) 前掲『八十年史』,219ページ.
 12) 同上,209ページ.
 13) それも主に都市周辺の農村部の家庭で顕著に認められるようであるが,この点についてはいま少し検討が必要である.
 14) 株式会社倉本計器精工所『めぐる』,昭和50年(1975),12ページ.
 15) 伊藤 悟「餞の言葉」,広島県広島工業高等学校同窓会『同窓会誌』母校八十周年記念号,昭和52年(1977),52ページなど.
 16) 舛本政夫「大砲の神様秦技師」,前掲『八十年史』,244ページ.
 17) 学資補助は明治19年(1886)の東京高等商業学校附属商工徒弟講習所職工科の場合について既にみられた.但しほどなく廃止されている.
 18) 学年終了が7月になるため上級学校進学者は3月に退学を余儀なくされている点もある.
 19) 第4学年は4カ月間のため2円であった.
 20) 詳細については前掲『六十年史』,18ページなど参照.
 21) 準備期に一時,広島県尋常師範学校内に形式的に設置されたのが始まりであるが,その点は省略する.
 22) 現在,広島大学工学部の敷地跡となっている.
 23) このためこの金額をためて姉の結婚費用にあてる苦学生もいたという.
 24) 昭和5年(1930)に専修科が青年訓練所同等以上の認定を受け,昭和6年(1931)に研究生選科生の制度がつくられたりしているが詳細は省くことにする.
 25) 類似の話は呉の海軍工廠技手養成所出身者からも聴いた.早朝や夜間の授業を行う私立学校が広島市にも呉市にも数校あったようである.
 26) 広島工業高校同窓会室に保存されている.
 27) 現在もほぼ10対1であり,県内の高校中最大の職員比率と定員数を有している.
 28) 倉本憲一「県立職工学校の思出」,前掲『八十年史』,226ページ.
 29) 日本学術振興会第16特別委員会『工業関係学校教育改善ニ関スル基本調査報告』基二,昭和19年(1944),8,51,178ページ.
 30) 後期の資料では35名とするもの,39名とするものがあるが,最も古い資料のものをとった.
 31) 一部は進学のため,また一部は企業派遣を含んでいるようであるが確認できなかった.『日本近代教育百年史』第9巻は就職したものとして分類している.
 補 参考文献・資料
 広島県職工学校以来の制度上の規定に関しては広島県より出された『県令』『告示』の文書綴が年度別に整理され,広島県立図書館に保管されている.校友会,同窓会関係の出版物としては職工学校時代の『校友会誌』『二葉の里』,工業学校時代の『工苑』,工業高校になってからの『同窓会誌』があり,現在の広島工業高等学校同窓会事務室に保存されている.同室では他に戦前期の同窓生名簿を利用させて戴いた.記念誌としては,広島県立職工学校『十とせの秋』明治39年(1906),広島県立工業学校『三十五年史』昭和7年(1932),広島県立広島工業高等学校『六十年史』昭和32年(1957),同『八十年史』昭和53年(1978),がある.
 広島県下の教育史全般の資料としては,『芸備日日新聞』,広島県教育会『広島県教育会五十年史』昭和16年(1941),広島県『広島県史』近代現代資料編Ⅱ,昭和50年(1975),同『広島県史』近代Ⅰ,昭和55年(1980),広島市役所『広島市史』第4巻,大正11年(1922),同『新修広島市史』第2巻,昭和33年(1958),文部省実業学務局『各府県選定実業補習学校調査報告書』大正元年(1912),同『実業学校実業補習学校ニ関スル諸調査』大正12年(1923),広島県教育委員会『広島県教育八十年誌』昭和29年(1954),広島県議会事務局『広島県議会史』第2巻,昭和35年(1960)などを利用した.
 全国的な教育体制の推移と県内の実業教育の対応については,国立教育研究所『日本近代教育百年史』第9巻,昭和49年(1974),文部省実業学務局『実業教育五十年史』昭和9年(1934),日本学術振興会第16特別委員会『工業関係学校教育改善ニ関スル基本調査報告』其二,昭和19年(1944),隅谷三喜男編『日本職業訓練発達史』上巻,日本労働協会,昭和45年(1970)などを利用し,中国地方他県の動勢については,岡山県教育史刊行会『岡山県教育史』下巻,昭和36年(1961),下工四十周年記念誌編集委員会『七彩』,山口県立下松工業高等学校,昭和36年(1961),下松工業会『会員名簿』昭和51年(1976)を参照した.
 広島県内の産業と社会の動態については前記の県史,市史のほか,八木彬男『明治の呉及呉海軍』,株式会社呉造船所,昭和32年(1957),畑耕一『広島大本営』,天佑書房,昭和18年(1943),呉市史編纂室『呉市史』第3巻,昭和39年(1964),広島市勧業課『広島市産業案内』大正3年(1914),によっている.
 同校卒業生の動向に関しては,株式会社電業社機械製作所『三好松吉追悼誌』昭和56年(1981),三好松吉『水と共に七十有余年』昭和47年(1972),株式会社倉本計器精工所『めぐる』昭和50年(1975)のほか,中井利三郎,村尾時之助の両氏および同窓会事務局の皆様に多大の御迷惑をおかけした.特に記して謝意を表したい.
[竹内常善]