Vocational Education

List of Articles
Vocational Education

わが国産業化と実業教育

Title: 研究の成果(サマリー)
Author: -
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1984年
Table of ContentsMain Text (PDF version)

研究の成果(サマリー)

実業補習学校の成立と展開
――わが国実業教育における位置と役割――

 わが国にはじめて低度実業教育制度が確立したのは明治26年(1893)に制定された実業補習学校規程によってである.その後,昭和10年(1935)の青年学校令の公布によって実業補習学校規程が廃止されるまでのおよそ42年間にわたる実業補習学校の歴史を,前期,中期,後期の三つの時期に区分することができる.
 前期実業補習学校は明治26年(1893),小学校令にもとづく実業補習学校規程の制定にはじまり,明治35年(1902),実業学校令にもとづいて同規程を改正するまでの9カ年間である.この時期の実業補習学校は小学校の種類として主として小学校教育の補習に力点がおかれた.
 つぎに中期実業補習学校は実業学校令にもとづく実業補習学校規程の改正にはじまり,大正9年(1920),同規程の大改正までのおよそ18年間である.この時期における実業補習学校は実業学校の種類として勤労青年の実業教育に重点がおかれていった.
 最後に後期実業補習学校は大正9年(1920)の同規程大改正後,昭和10年(1935)の青年学校令の公布に至る15年間である.この時期においては大正15年(昭和元年=1926)に制定された青年訓練所と実業補習学校とは並列していくことになったが,実業補習学校は実業教育だけではなく公民教育にも力点をおくことになった.そして最終的には青年訓練所と実業補習学校とは統合されて青年学校となり,軍事教育をクローズアップしていくことになったのである.以上のように実業補習学校の展開過程をみると,その基本的性格は他の学校との相互関係のあり方によって規定されている.まず前期においては小学校との関係が密接であって,そのために初等実業教育機関としての実業補習学校は,同時に初等普通教育を補完する役割をになっていった.
 つぎに中期においては実業学校令の公布によって実業補習学校は小学校の種類から実業学校の種類として格あげされていったが,必ずしも中等実業教育機関として明確に位置づけられたというものではなかった.中等実業教育機関としては甲種,乙種の実業学校,および徒弟学校があり,実業補習学校はこれらの中等実業教育機関と初等教育機関との中間的性格を帯びていた.この中間的性格は,小学校への進学率の上昇にともなって,小学校教育の補完的役割から脱却したこと,さらに実業補習学校から乙種実業学校へ,乙種実業学校から甲種実業学校へと上昇していく事例が数多く認められたことによっても理解される.そしてこの時期においては学校制度全体が分岐システム(dual system)を明確にすることによって,そのなかのパート・タイム・スクールの勤労青年教育機関として位置づけられていった.
 最後に後期においては,中期における融通性のある規程に大幅な改定を加えて制度的に整備拡充をはかっていく.そして実業補習学校は公民教育を重視することによって,その基本的性格を変えることになった.この時期における実業補習学校は青年訓練所とともに青年団の修養機関として位置づけられ,やがて青年学校のなかに統合されていくことになったのである.
 実業補習学校は明治後半期以降における日本経済の発展に対応して,初等普通教育,中等実業教育の整備と深くかかわりながら,それらを補完し,さらに初等普通教育と高等教育との間隙をうずめながら,勤労青年の教育要求を組織していったのである.

都城商業学校の設立と展開

 都城商業学校は明治31年(1898),都城実業補習学校として発足した.発足には,①都城町における商業活動の拡大,②商業者同業組合の結成,③旧士族層における教育重視思想,④周辺農村における農民層分解の進展に伴う実業教育の必要性の存在,⑤指導的商人による献身的努力等の条件が背景になっていた.
 だが,実業補習学校は,施設,設備,教員,生徒数等において,すべて不十分であった.例えば,校舎がなく,町の集会所や倉庫に仮住まいする状態であった.一方,都城の商業活動は年々拡大し,経営方法の近代化も進んだ.それ故,実業補習学校の教育は,まもなく,この変化に追いつかなくなる.従って,生徒もまた,進んで本校に進学しようとはしなくなった.
 そこで,町では,時代の要請にあわせて教育程度を高め,本校を乙種商業学校に移行することを企てた.それには,校舎増築,教員増,設備の充足が必要であった.その費用は,最初,殆ど有力商家の寄付に頼っていた.これら商人達が共通に持ったのは,富や幸は分けあうべきであるという浄土真宗思想である.
 商業学校移行後の本校は,次第に内容を整えた.生徒指導も組織的に行われ,今日の高等学校に似た学校文化を持ち始める.しかし,なお,修業年限が3年にすぎず,卒業後,必ずしも希望通りの就職ができなかった.施設,設備も,都城中学校に比べ,劣っていた.老朽校舎で程度の低い学校だというので,人々は,本校を「雪隠学校」とよんでいた.
 そこで,本校関係者,町,同窓会,指導的商人等により,本校の将来像が再検討された.その結果,大正9年(1920),本校は就業年限を2年延長して甲種商業学校に移行した.大正10年(1921),更に,設立主体を郡から県に移行した.ここに,ゴールたる,県立甲種商業学校への移行が実現したのである.
 この時,定員を一学年100名に増加し,小学校で優秀な成績を修めた生徒を入学させることができた.生徒の出身地域,出身階層が拡大した.卒業後の就職先や職種も拡大した.特に,中国,朝鮮等外国への就職者の増加,高等教育機関進学者の増加,会社・銀行・教員等,近代的職業部門への就職者の漸増が顕著になった.
 以上,本校の発足,展開の概要を述べたが,そこから,都城商業学校の設立と展開について,次の点を結論することができる.
(1) 発足,制度的転換,教育内容の変化等,どの移行過程においても,本校自身の内発的意欲,内的条件が存在していた.
(2) 機を逃さず移行を実現するべく,校長等学校指導者の指導性が十分発揮されていた.
(3) 都城町,北諸県郡,学校関係者,指導的商人等,地域社会からの本校への期待が大きく,地域社会が,本校の存続を支持していた.

福島商業学校の設立と発展

 文化人鐸木[すずき]町長をはじめ,教育熱心をもって知られる福島町では,明治30年(1897)に町立福島商業補習学校(入学資格高等小学校2年修了,のち尋常小学校卒業程度,修業年限3年,定員100名,のち150名)を設立した(はじめ第一尋常高等小学校に附設).東北地方では,仙台商業学校に次いで2番目の早い創立である.その背景には,当時の福島町が,長野,埼玉等の諸県とならんでわが国でも有数の養蚕県であった福島県の養蚕業の中心地信達地方の中枢部に位置し,生糸取引等が盛んで全国的に有名であり,これらの業務に従事する者を養成する必要に迫られていたという事情がある.
 はじめは定員に満たない状況であったが,のち二代目校長となった近藤節太郎らの努力により漸時軌道にのり,明治40年(1907)には市制施行を機に乙種商業学校に転換し,市立福島商業学校(入学資格尋常小学校卒業程度,修業年限3年,定員200名)として再発足することになった.明治41年(1908)には宿願の独立校舎に移り,以後大正年間にかけて中等実業学校としての内容を充実させ,「信義全力」,「不擁不屈」などの校訓に表現される堅実な校風の基礎をきずいた.これには近藤校長の人格教育のしからしめる所多大である.なお商業補習学校時代に開設されていた季節夜間部は,明治42年(1909)から市立福島商業補習学校として福島商業学校に附設されることになった.
 大正7年(1918)には甲種商業学校に昇格し,翌年に元第一高等小学校校舎に移ったが,さらに3年後の大正11年(1922)には,福島県の県立中等学校拡充策により県立に移管されて福島県立福島商業学校と改称した(入学資格尋常小学校卒業程度,修業年限5年,定員500名).カリキュラムは,補習学校時代から乙種,甲種,県立の時代へと変わるにつれて,科目数や週授業時間数が商業科目から普通科目へ重点が移っている.教職員数は,補習学校時代(明治35年(1902))の5名(ただし内3名は兼任)から乙種時代(大正3年(1914))の7名へ,さらに甲種時代の12名(大正9年(1920)),県立時代の19名(昭和5年(1930))へと充実された.
 生徒は,乙種時代までは主として町市内の商家の子弟が入学し,卒業後は自家営業のほか市内の生糸問屋をはじめ関係業者への就職が多かった.しかし,甲種昇格後とくに県立移管後は市内外の全県下から優秀な生徒が集まり,出身階層も勤め人の子弟がふえている.卒業後の進路についても会社銀行等への就職に重点が移り,県外への転出や上級校への進学者もふえている.学校の性格は大きく変わってきたが,これは設置主体や生徒の出身階層の変化とあわせて,福島市の性格そのものがかつての生糸集散地から県庁所在地としての総合的機能をもつ都市へと変わってきたことを反映していると考えられる.

安城農林学校
――創立と地域産業への貢献――

 本校は実業学校令に基づく甲種農学校として明治34年(1901)愛知県碧海郡安城村に開校した.この碧海台地は安城ケ原と呼ばれる荒蕪地であったが,明治13年(1880)以降明治用水の開削により,松林と溜池の多い原野の開拓が進む頃であった.また,明治24年(1891)に国鉄安城駅が設置され,安城は広大な碧海郡の中心として発展する兆しを示し始めていた・
本校は当初予科1年,本科3年の修業年限で,農科と林科から成っていた.中等教育が普及する以前であったため,生徒は村の地主の長男が大部分であった.中小農家の教育に対する認識も浅く,学費も負担になったのであろう.創立後10年ほどは中退者が多い.
 29歳の初代校長山崎延吉は旧加賀藩の士族の出身,東京帝大で農芸化学を専攻,古武士の風格を備えた偉丈夫であった.この校長の教育方針は勤労主義精神主義で,教育を社会に延長することを目標とした.特に,長年県の農事試験場長を兼務したので,新しい知識・技術がすぐ学校に導入され,本校で学んだ卒業生が地域の指導者として活躍するようになった.山崎は校長在職19年,よく本校を充実させ声価を高めたが,明治末期からの農村の疲弊,農民の窮乏を黙視するに忍びず,その救済のため農民教育運動に挺身することになる.「興村行脚」と称されるもので,日本全国を講演して廻り,その回数は1万5,000回を越えた.やがて三重県の農村に私塾を開いたり,衆議員議員になる一方,帝国農会の重鎮でもあった.一農林学校長に留まらず,破格的にスケールの大きい農民指導者であったと言うことができる.
 大正期に入り本校の教育は地域の農業の顕著な発展となって結実する.多角経営と,産業協同組合制度の普及と活動である.それらの先進的な経営と共同事業によって大正末期には碧海郡が「日本のデンマーク」と呼ばれるようになり,国定教科書にも登場し,全国的に有名な農業地帯となった.
 山崎校長の抜群の指導力にもよるが,農林学校の近代的な教育と,学校が地域にも解放されて社会教育の場となり,地域社会と一体となって技術の研究と試行に取り組んだ結果である.碧海郡の発展にとって,本校の教育は正に“天の時,地の利,人の和”を合わせ得たものであった.
 大正14年(1925)学制が5年制となり,昭和期に入ると全国農業学校のモデルとなり,戦後は男女共学の新制高校へ移行する.現在は日本農業の構造的変化に対応して,園芸,畜産,食品化学,生活等の新学科を加え,定員840名の学校として変容している.
 要するに,明治後半以後山崎と本校が強力なエンジンとなり,この地域農業を近代へと見事に離陸させたのである.

 広島県職工学校

 本校は従弟学校として明治30年(1897)広島市に創立されている.従弟学校としては珍しく県立であり,かつ早くから重工業中心の学科編成を進め,その成果が著しかったところから中央の注目を集めている.明治40年(1907)に甲種工業学校となり,大正5年(1916)に広島県広島工業学校と改称している.この間に工業補習学校を一時期並設している.
 同校の教育理念は予想されるほど富国強兵論的なものではない.むしろ西欧的リベラリズムとわが国古来の職人社会的な奉公思想の結びついたものである.その最大の特徴は現場作業や実技能力を重視するところにある.
 学校運営の特徴も実習に最大の比重をおいたものである.その能力水準は高く,旋盤などの実習機械は同校内で製作されており,明治43年(1910)には文部省の指名をうけ,全国工業学校の代表校として製作品をロンドンの日英博覧会に出品し,名誉大賞をうけている.これに類した社会的評価を得ている事例は実に多い.
 学科編成は当初は木工科と金工科の2科で内容も伝統工芸品生産に近かったが,半年後には鍛工など機械工業関係のものが加わり,前者は漸時縮小されている.明治39年(1906)には機械,建築,工芸の3科となり,明治44年(1911)に電気分科が増設され,これは大正9年(1920)に独立した科となっている.工芸科は大正5年(1916)に廃され,全て重工業中心の体制となり,大正14年(1925)に土木科が加わっている.
 教育と実習は厳格であり,競争率は全国でも有数の高さである,また定員以下しか採用しないことも多い.落第や退学も多いが,そうした教育は半面で同校卒業者に対する社会的評価の高さを呼んでいる.社会的に成功した人材も多いが,その多くは学歴を気にせぬ力作力行型の人間であることを指摘しておかねばならない.
 教師には東京高等工業附属工業教員養成所の出身者が多いが,大正時代になると高等工業出身者が中心となる.彼等とは別に実習担当の師範職工がおかれ,そうした伝統的職人の技術と近代教育を受けた者の協力関係が同校独自の活力源ともなっている.しかし職人出身の者は漸時減少し,大正時代は工業学校出身者に代わっていくことになる.
 卒業生の社会的条件は恵まれている.職場を途中で変えることも含め,総じて社会的選択肢の幅が広い.しかしわが国機械工業の底の浅さもあって,昭和期に入ると軍工廠中心の職場に特化し,職種も現場作業の管理層に限られてくる傾向が見られた.

わが国中小企業の企業内訓練

 19世紀後半から徐々に形成された日本の企業内教育は,主として大企業の先駆的な試みとして出発し発展した.中小企業の企業内教育は,ながらく低迷を続けた.それは中小企業が資金的に準備がなく,また従業員に仕事を離れて職場外の訓練(off-The-Job-training)に従事させる余裕がなかったからである.
 そこで中小企業における労働力の陶冶を調べるために,まず第1に基本的には職場内訓練(OJT-on-the-job-training)が中核となったことを前提としても,その形態を具体的に明らかにしなければならない.職場内訓練のもっとも未組織かつ原初的な形態は,新入りの徒弟が先輩職工の作業を見よう見まねで覚える方式であるが,作業の方法を徐々に覚え熟練を習熟する過程は一様ではない.また中小企業に熟練労働者が形成され蓄積されるまでには,大企業からの熟練の移転(transfer)が必要とされた.その熟練の移転には,(1)大企業から中小企業への下請化,(2)大企業と中小企業の間・中小企業内部での労働者の横断的な移動の二つの経路があった.後者は典型的には「渡り職工」の存在にみられる.この渡り職工も,二つのタイプがあった.一つは転々と職場を変える浮動的な渡り職工であり,ときには都市の下層部に沈澱したタイプである.二つはいくつかの工場を渡り歩いた後,独立して小工場の経営者になるタイプである.この独立型の渡り職工は中小企業内部で移動する場合があると同時に,大企業から中小企業へ移動する場合もある.大企業での熟練労働者の成功への道は,そこで上級監督者になるかそれとも独立して小工場を営むかであった.
 第2に労働行政,教育行政にまたがる人的能力開発政策が,中小企業の企業内教育の形成に与えた影響を跡づける必要がある.これを1910年代以降についてみると三つの段階に分けられる.第1段階は明治44年(1911)に成立した工場法にはじまる.これはもともと労働者の労働諸条件を保護することを目的としていたが,大正5年(1916)の工場法の実施に伴い独立した「徒弟に関する規程」が設けられ,使用する徒弟を教習することが義務化された.工場法がより小規模な工場に適用されるに従い,低賃金で徒弟を雇う慣行が徐々に衰退した.第2段階は1920年代前半からはじまった産業合理化運動のなかでの企業内教育の推進である.この運動で重要な役割を果たした技術者団体「工政会」は,工業教育の改善に積極的な提言を行ったが,年少労働者の教育・訓練に関しては,初等教育での工業科の新設,工業補習学校の振興策を提唱した.第3段階は1930年代の全国的な労働者統制に関する法令の制定と熟練工不足に対応する政府の諸施策が企業内教育に与えた影響である.増大する軍需は,中小企業の生産性向上を喚起し,そこでの労働者の技能養成に対する要請を高めた.「下請制中小企業問題」に対する社会的関心の高まりは,残存する徒弟見習制の近代化をうながした.徒弟に代わって見習工という呼称で,その採用と養成のあり方が検討された.昭和13年(1938)に公布された国家総動員法とそ
れにつらなる諸法令は,労働者への国家統制を徹底させる意図にたったが,同時に技能養成を普及する効果をもたらした.そして中小企業労働者の組織的な教育・訓練機会がようやく拡大されるにいたる.

「修業的労働市場」の存立構造

 第1次大戦から1920年代へかけての時期は,日本の工業化及び労使関係形成史上格別の意義をもった時期としてとらえられるが,労働者の職業訓練制吏の上でもまた注目すべき時期である.それは,重工業を中心に大企業においては,企業内での「子飼い」職工養成の体制が急速に普及,定着していったことである.労働市場の内部化とリンクして企業内教育・訓練制度が発展していったのであった.
 しかし,こうして企業内で養成されていった労働者は,工業労働者全体からみれば決して多数ではなかったことも見逃すことはできない.労働者の大多数が存在していた中小企業においては,事情は全く異なっていた.そこでは,組織的,系統的な労働者の職業訓練・技能養成の制度はほとんど見ることはできない.中小企業にとりわけ多数存在していた年少・若年労働者は,伝統的な「徒弟」の呼称を与えられて就業していたとしても,彼らを雇用した中小企業経営主や親方労働者が彼らに対して,職業教育・訓練を授ける配慮をすることはむしろ稀なことであり,年少・若年労働者は,事実上,低賃金労働者として生産の過程に直接参加していた.すなわちこの期の中小企業においては,変質し形骸化した徒弟制としての「工場徒弟制」が一般化していた.
 こうした状況の下で,中小企業労働者の技能形成の過程は独特の様態を示すことになった.技能形成の過程はもっぱら労働者個人の経験と熱心さに支えられており,しかも同種工場間を頻繁に移動することが,技能形成の目的からも必要とされた.それ故,大企業においてこの期に労働者の企業内定着が目立っているのに対して,中小企業においては企業横断的な労働移動が高い頻度で存在した.労働者の職業的技能形成が,組織的,系統的な教育や訓練によってではなく,労働市場そのものに依拠することによって行われているという意味において,これを「修業的労働市場」と呼ぶことにする.
 「修業的労働市場」の存立条件は,次の諸点にあった.
 第1に,中小企業においては機械化の程度は相対的に低く,労働者の手工的・万能工的熟練に依存する部分が大きかった.かかる熟練は「秘伝」化され,その習得には,多様な生産現場を経験する必要があった.
 第2に,中小企業に参入する年少・若年労働者の抱く修業の指向である.労働者の職業的達成の目標点として「独立・開業」があり,そのルートとして中小企業労働市場が存在していたのである.
 第3に,上とかかわって,この期に大工業都市労働市場が広い範囲にわたって農村,地方都市をその労働力給源として組み入れていったことである.地方から引き寄せられる年少・若年労働者の多くが中小企業に就業してゆく.その場合,就業機会の都市集中ばかりではなく,中等教育レベルの大衆的職業教育機会,なかんずく工業教育機会の大都市への偏在も重要なかかわりを持っていたのである.