Technology and Rural Society

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水利の社会構造

Title: 第8章:灌漑開発の視点ーアジアの中の日本ー
Author: 平島 成望
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1984年
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第8章:灌漑開発の視点ーアジアの中の日本ー

は じ め に

 現在発展途上国と言われている諸国が,経済の自立化を目指してから早や30年余の月日が流れようとしている.この間,アジア諸国に限ってみても,様々な開発努力が,異なった体制の下に行われてきた.しかし,その結果は決して一様ではなく,開発初期に較べると,域内の経済格差はむしろ増大しているというのが現状である.
 先進国との相対性において,多くの途上国は,開発上の共通な悩みをかかえている.人口規模とその増加率,エネルギーの自給率,食糧穀物生産と市販余剰,技術選択と雇用吸収力,外国援助と債務累積などはその例である.しかし,問題性は共通でありながら,それらをどう解決してきたかによって,各国の間には大きな相違が生じてきている.
 アジアにおける開発問題の全般を論じるのは本論の目的ではないが,ここで強調しておきたいことは,まず問題の共通性の認識と,その上に立った多様性の把握が重要であるということである.この点を,小論のテーマである水利灌漑を例にとって補足しよう.
 周知のように,農業の発展にとって水利灌漑の果たしてきた役割,また果たすであろう役割は計り知れないものがある.アジアの発展途上国においても,水利灌漑の開発は,農業のみならず,一国経済の発展のために重要であるという認識のもとに,様々な開発努力がなされてきた.莫大な資本投下によって,各国の灌漑比率は少しずつ上昇し,その生産,雇用効果にも見るべきものがあった.しかし,水利灌漑に関する開発上の問題が解決したかというと決してそうではないのである.この点に関する各国のかかえている問題は多様であり,その意味内容も異なっているのである.
 こうした問題を取扱うにはどうしたらよいか。一つの方法は,これらの多様な問題を相対化することであり,それにはどうしても物指が必要である.この意味で,「日本の経験」を物指にするのも一つの有効なやり方である.しかしこの方法には,「日本の経験」は特殊にすぎるという批判がある.この批判は二つの要素から成り立っている.一つは時間的要素であり,いま一つは規模の要素である.
 確かに,現在途上国の直面している諸問題を,1世紀前のそれと比較することや,釜無川とインダス河を同列に論ずることには疑問があろう.しかし,それだけの理由で日本の特殊性を強調し,比較の芽をつんでしまうのは二つの意味で正しくない.一つは,日本的特殊性を形成している要素を分解してみれば,現在の途上国の問題を考える上で有益な要素が少なからず存在するからである.他の一つは,開発上のボトルネックになっている問題は,時間や規模の差を越えて存在しているということである.釜無川と同じ規模の川は,途上国にはいくらでも存在しているのである.
 そこで小論では,まず灌漑問題を論ずる際に念頭に置いておかねばならない灌漑用水の特性について論じる.次に灌漑開発を評価する際の三つの視点を紹介した上で,「日本の経験」のもつ諸特徴を整理する.そして最後に,アジアの開発途上国における灌漑開発の問題点を論じることにしたい.

Ⅰ 灌漑用水の特性

 灌漑用水は,農業生産にとって一つの投入財である.しかし,同じく農業生産にとって必要な投入財である肥料,農薬,種子などとは異なるいくつかの特性を備えている.
 まず第1に,灌漑用水は,もともと自由財としての水が,ダム,堰,溜池,揚水機などの資本財を経由することによって経済財となるものである.しかも,自由財から経済財に転換されたといっても,水としての本質,機能,形態には何らの変化も起こらないのである.したがって,一般農民が,経済財としての水,つまり水に体化された灌漑施設の減価償却費,資本利子,施設の操作・維持・管理費部分と,自由財としての水を識別し難いのは無理のないことなのである.この点で重要なことは,灌漑用水の所有権が,目下のところ,自由財を経済財に転化せしめる資本財の所有者に帰属しているという点である.
したがって,国営の用水路を通じて供給される灌漑用水は公共財であり,私的資本によって設置された動力揚水機による灌漑用水は私財と看做されているわけである.このことから生じる問題は後で取り上げることにする.
 第2に,灌漑用水そのものは,分割可能な,したがって規模に中立な投入財である.しかし,灌漑用水を調達するための施設の建設には,一定規模の資本,土地,労働が必要である.また灌漑用水の供給価格は,灌漑形態,技術,立地条件などによって著しく異なってくる.その意味で,灌漑用水の分析には,肥料,農薬,種子といった他の投入財の分析には必要のない要素カミ入ってくるわけである.
 第3に,灌漑用水の技術的先導性を挙げなければならない1).日本農業の1900(明治33)年頃までの発展が,全国に散在していた品種,栽培技術,農具の横断的普及によってもたらされたことは周知の事実である2).しかし,それは明治期以前に行われた灌漑投資を前提として初めて可能であったことも知られている.同様に,1960(昭和35)年代後半のアジァの経験も,高収量品種をはじめとする近代的投入財の普及が,灌漑用水の安定的供給を必要としたことを示している.
 第4に,灌概用水の生産および雇用効果を挙げねばなるまい.どの投入財も適時適量の投入を要請されるものであるが,他の投入量を一定として,一つの投入財を増投する結果生産函数がシフトするものとして灌漑用水を考えることができる.しかし,もっと重要なにとは,耕地の拡大,作付比率,収量変動の制御を通じて達成される生産と雇用の増加である.このことは,高収量品種や耕紙,調整,収穫過程の機械化による雇用効果に関するコンセンサスがないのと対照的である.
 第5に,灌漑用水のもつ,もっと正確に言えば,灌漑投資のもつ「公正」原理を指摘しておきたい.灌漑用水は土地と合体することによって土地の生産能力を増加せしめる.確かに,他の投入財の増投によっても生産性は上昇する.しかし,その上昇は,それらが投下される土地の価値を高める方向には作用しない.その点,灌漑用水の供給の確保されている土地の商品価値は,それが確保されていなかった時と較べて,確実に上昇する.後で論じるように,灌漑投資による土地生産力の増強は,その投資の行われ方いかんによっては,既存の土地生産性の偏在性を助長することにもなるし,また縮小することにもなるわけである.この点に関する国家の役割は極めて重要であると言わねばならない.
 灌漑用水の特性の最後の点として,組織との関連性に言及しておきたい.アジアに限らず開発途上国における灌漑開発は,国家による大規模な近代灌漑施設の建設をもって代表される.しかし,多くの国でそれらの大規模灌漑事業は十分な成果を挙げていない.その原因の最も大きなものは,用水管理にあるとされている.資本がかかりすぎ即効的でないことも指摘されている.
 こうした現実から二つの反応が生じている.一つは,土着の伝統的水利組織を再評価すべきであるという主張である.これは主として研究者により提唱され,開発途上国におけ季国家主導型の大規模灌漑事業が,技術者先導で行われ,それを動かす組織,人的要素を軽視してきた点の反省の上に立っている3).
今一つの主張は,主としてプランナー,灌漑事業担当の技術者達によってなされているものである.すなわち,大規模事業から中小規模の事業へ,また新規事業から既存施設の改良(rehabilitation)への転換をすべきであるという主張である4).
 これらの反応に対するコメントは後述するとして,ここではとりあえず,灌漑の分析には,少なくとも技術的視角と社会・経済的視角が必要である点を記しておきたい.

[注]
1)Shigeru Ishikawa, Economic Development in Asian Perspective, Kinokuniya,
Tokyo, 1967, PP.86-94.
2)S. Ishikawa, S. Yamada and S. Hirashima, Labour Absorption and Growth in Agriculture ― China and Japan, ILO / ARTEP, Bangkok, 1982, pp.59-95.
3)例えば,E. Walter Coward, Jr., ed. Irrigation and Agricultural Development in Asia,Cornell University Press, Ithaca, 1980,所収の諸論文.
4)最近のものでは,ILO/ARTEP主催のRegional Seminar on Rural Employ-
ment Policies in Asia(1983年12月)に提出された以下の論文.
1.G. S. Jakhade and S. K. Bhatia, “Policies and Programmes of Irrigation Development in India―An Overview.”
2.Dibyo Prabowo, “Irrigation and Water Management Policies in Indonesia.”
3.Robert Y. Siy, “Irrigation and Water Management Policies in the Philippines.”
4.Nanda Abeywickrema, “Irrigation and Water Management Polisies in Sri Lanka.”
5.Boonyok Vadhanaphuti,“Irrigation and Water Management Policies in Thailand.”

 Ⅱ 灌厩開発の視点

 灌漑投資が所定の目的を達しているか否かという問題を,途上国の開発問題として検討する場合,考慮に入れなければならない視点がいくつかある.まず,灌漑の特性のところですでに述べたように,その生産と雇用吸収に及ぼす効果である.この点は,しかしきわめて自明のことであるのでこれ以上の説明を必要としないだろう.要は次の3点である.すなわち,灌漑投資の方向性,灌漑投資の主体の性格,ならびに灌漑施設の操作,維持・管理の主体の問題である.若干の補足を試みよう.
 (1)灌漑投資の方向性
 どの国のどの農民も,土地の生産性は,同一資本,労働の下で一定である,という考え方が誤っていることを知っている.地代論で言う差額地代の第一形態の存在である.また同時に,彼等は,役に立たなかった土地が,灌漑・排水を主体とする土地改良投資によって高い地代を生み出すようになることを経験的に知っている.いわゆる差額地代の第二形態の発生である.
 個々の農民の耕地や,異なる地域の間に存在する土地生産性格差が,第一形態の差額地代で説明される場合,「公正」を実現する方法は二つしか存在しない.一つは,存在する差額地代部分を課税する方法である.今一つの方法は,差額地代を帳消しにするような方向で,劣等地の改良を行うことである.
 後述するように,途上国における地税,水利税の粗収入に占める割合は極端に低く,第1の方法による「公正」の実現は絶望的である.では第2の方法はどうか.結論から言えば,途上国における灌漉投資は,「公正」の実現よりも,より高い経済性を追求する方向に行われているというのが現実である.
 (2)灌漑投資の主体
 ここでいう灌漑投資の主体というのは,潮1灌投資に用いられる資本の惟格という意味である.このことを問題にする理由は以下のとおりである.
 アジアにおける灌漑投資は,ほとんどの場合,三つのレベルで行われている.すなわち,国家,共同体(連合),そして個人である.しかし,こめ半世紀ぐらいの傾向をみると,いずれの国においても,国家の役割が飛躍的に増大している.これはいうまでもなく,灌漑投資の対象が,個人や共同体の手に負えない規模をもち,したがって莫大な資本と先進の技術を必要とするようになってきたからである.食糧不足国における早期かつ大量の食糧穀物生産の必要性,それに外国援助がこの傾向に拍車をかけてきたことも事実である.
 こうした国家の灌漑投資および維持・管理における役割の増大と裏腹に,共同体レベルの灌漑投資は勿論のこと,撮近では灌漑施設の維持・管理への参加も大幅に後退していることに注目したい.同時に,個人レベルでの灌漑投資が,従来の表流水の利用(小河川の用水路灌漑,溜池)から地下水の利用に向けられるようになったため著しく増加した.
こうした傾向から生じる問題は様々であるが,共通に言えることは,官僚制の慢延による灌漑組織の非効率化が進んだこと,そして「共同的」利益よりも「私的」利益を優先させる風土が,伝統的共同体の中に培われ始めたことである.
 (3)灌漑施設の操作,維持・管理の主体
 灌漑用水の安定的供給と公正な配分を規定する要因は二つである.技術的側面,つまりハードな技術と人的・組織的側面,つまりソフトな技術である.両者の関係は,当然,前者が後者を律する関係にある.しかし,もっと現実に即して言えば,前者は灌漑の形態によって形を変え,後者も各形態によって様々な形をとる.そこでまず灌漑の形態を分類し,それぞれの形態でその維持・管理の主体が誰であるかを簡単に述べることにする.ただ,各形態の維持・管理にかかわる具体的問題年関しては,アジアの途上国における灌漑開発の問題点を論じる際に一括して言及することにしたい.
 (i)灌漑形態の分類
a.河川(用水路)灌漑
 1.貯水機能(ダム)を備えたもの.
 2.貯水機能をもたず堰,用水路より成るもの.
b.溜池灌漑
 1.システム・タンク:複数の溜池が連鎖しており,親池は河川からの給水を受ける場合がある.
 2.独立の溜池
c.揚水灌漑
 1.地下水を水源とするもの.
 2.表流水(池,用水路,河川)を揚水するもの.
d.その他の灌漑
 1.クリーク灌漑
 2.カナート灌漑
 3.その他1)

 分類は採用する基準によって変化するものである.貯水機能の有無を基準とした場合,上記の分類は相当異なったものになる2)ここで採用した主な基準は,水源とシステムの維持・管理主体の相違である.
 (ii)維持・管理主体の特徴
 ごく一般化して言えば,河川灌漑はその水源を河川に求め,国家(中央政府,地方公共団体)により主導されることが多い.建設,操作,主な施設(ダム,堰,幹線,支線水路)の維持・管理は国家が担当するが,村落レベルの用水路(tertiary canal, farm ditch)の維持・管理と配水は,受益団体である村落共同体が責任をもつことが多い.
 溜池は周辺流域から集められた流水と,一部河川からの給水によって成り立っているが,その建設,維持・管理の主体は,規模によって異なる.独自の流域にのみ依存する小溜池は,ほぼ例外なしに村落共同体(連合)により建設され維持・管理されている.しかし,スリランカのようにシステム・タンクで大規模なものは,国家の手によって建設され,管理されている3).それでも親池に連なる溜池群に関しては,村落共同体の管理下に置かれていることが多い.
 揚水灌漑のかつての主力は,人力,畜力を使った形態(ペルシャ井戸,はねつるべ,スウィング・バスケット)であったが,現在の主力は動力(電気,ディーゼル)揚水機(tube-well)である.建設,維持・管理の主体は圧倒的に個人である.もっとも,動力揚水機が,排水用(パキスタンの塩害地域)に用いられたり,大型の揚水機(バングラデシュのdeep tube-well)の場合,国家が主導したり,個人の共同所有が奨励されることはある.しかし,いずれの揚合にも,全体に占める比重は小さい.
 その他の灌漑形態の中では,クリーク灌漑とカナート灌漑がユニークな存在である.特に前者は,灌漑の形態が,それを運営する組織体を規定する際立った例として注目される.しかしながら,アジア全体の灌漑を論ずる場合,これらの諸形態はむしろ例外的な存在であるのでその詳細は先達の業績にゆだねることにしたい4).
 [注]
 1)全体に占める比重は微々たるものであるが,flood irrigation, swamp irrigation, taidal irrigationなどと呼ばれている灌漑形態がある.前者はパキスタン,エジプト,後二者はインドネシアに見られる.
 2)Hisashi Nakamura, “Stored Irrigation System in South Asia, ”Jouranal of Irrigation Engineering and Rural Planning (Japanese Society of Irrigation, Drainage and Reciamation Engineering), forthcoming.
 3)システム・タンクは,日本などを除くと次第に中央に統轄される傾向にあり,その例の一つが南インド・タミール・ナドゥーのシステム・タンクである.ここでは末端溜池の維持・管理も官僚体制下に置かれて久しい.
 4)クリーク灌漑に関しては,本書の陣内論文とその引用文献,玉城哲『水社会の構造』,論創社,1983年,カナート灌漑に関しては,岡崎正孝「イランの灌漑農業」,福田仁志編『アジァの灌漑農業一その歴史と論理』,アジア経済研究所,1976年,参照.

 Ⅲ 灌概開発におけるアジアの中の日本

 日本における灌漑を中心とする土地改良の果たしてきた役割に関しては,すでに本書の各章で詳細に論じられている.したがって,ここでは立場をかえて,途上国が直面している灌漑開発上の諸問題を視座において日本の経験を見直すとすれば,どんな点が注目されるのか,というふうに間題をおきかえてみたい.
 日本の経験をこのように相対化し,外から眺めると次の諸点がなかんずぐ重要であるように思われる.第1は,開発の地方分散化,第2は,非常に強い共同体的関係,第3は,強固な水利権,第4は,灌漑事業と土地改良事業との密接な関係,そして第5は,地代平準化への志向である.もっともこれらの諸点は,アジアの途上国の経験との相対性において「日本的」と映るのではあるが,それらが「特殊日本的」であるかどうかに関しては,十分吟味されなけれぱなるまい.若干の補足説明をしておこう.
 (1)灌漑開発の地方分権化
 日本農業の発達は,極めて資本節約的になされたと言われる場合,大抵は明治維新を開発の始点としている1).この議論は二つの重要な点に関する補足説明を必要とする.
 第1の点は,日本における灌漑事業の基礎が,明治維新までにでき上がっていたということである.確かに反当り収量と反当り労働投入が共に増加した1900(明治33)年頃までの日本農業の発達は,全国に散在していた優良品種と栽培技術の収集,選択,普及を通じてなされたものである.この意味では正に資本節約的であった.しかし,こうした形の発達を可能にしたのは,徳川末期までに各地で行われた灌概投資であったことを忘れてはならない.
 第2の点は,こうした既存の資本蓄積を利用した農業の発達も,1918(大正7)年の米騒動,1920(大正9)年代以降の一連の小作争議を境に変化し,もはや資本節約的とは言えない時代に移行せざるを得なかったことである.農業生産における限界資本-産出係数が1900(明治33)―1920(大正9)年の1.36から1920(大正9)―1940(昭和15)年の5.0へ上昇することや2),農業部門への補助金支給の割合が,1910(明治43)年の5%から,1920(大正9)年の21.3%へ,更には1940(昭和15)年の52.1%へ上昇することがこのことを物語っている3).
 さて,このように明治以降の農業発展における過去の灌漑投資の役割は特筆すべきものではあるが,特に注目を要するのは次の三点である.第1は,特に徳川期において,藩内で処理できる中小河川の開発が,藩のレベルで行われたことである.明治以降現在にいたる地方分権的な灌漑開発能力の蓄積と経験がこの時期に培われたと言える.第2は,複数の藩を流れる大河川の開発は,利害の調整上幕府がその任に当ったことである.そのために灌漑技術として公認された関東流と紀州流が全国に知られ,各藩の選択的採用を可能にした.この点,品種,耕転技術,栽培技術が藩外不出の技術として各藩独自の発展をとげたのと好対象をなしている.そして第3は,投資の主体いかんを問わず,末端の水管理は受益村が担当した点である.この過程で,村落のもつ共同体的関係が,積極的に利用されることがあっても,現在の途上国の大規模灌漑事業のように,中央集権的管理機構に代替されることはなかった.
 このように河川規模による投資,管理主体の明確化(国営,県営など)や村落共同体(連合)に基礎を置く末端水管理体制(土地改良区)などのいわば灌漑開発の組織化の原型は,明治以前に作られたものである.しかし,その組織原理の有効性は現在の日本においても,途上国においても失われていないように思われる.
 (2) 村落共同体と水管理
 村落における共同体的機能の強さを基準にとれば,アジアの諸国は決して同質的ではない,ごく一般的に言えば,強固な村落共同体を持つ国としては,日本を初めとする東アジアの諸国,南アジアの国々,そして東南アジアではインドネシアを挙げることができる.逆に共同体的関係の弱い国としては,まずタイ,フィリピン,マレーシアなどの国を挙げるのが順当であろう.もっとも,共同体的関係は,それを規定する諸要因が変化することによって変わってくるものであるから,タイやフィリピンの中にも強い共同体的関係を保持している地域(例えば北タイやルソン北部のイロコス地方)の存在を否定しているわけではない4).
 さて,こうしてアジア諸国の農村と比較してみると,共同体的関係を規定しているいくつかの要因に気づく.その第1は,貧しい要素賦存度,特に小さい土地―人口比率である.次に,農業以外の雇用機会の少なさが挙げられよう.第3は,貨幣経済(特に市場原理)の未発達,そして第4は,共同作業を不可欠とするような生産活動の場の存在である.村有の耕地,森野,そして何よりも重要なのは灌漑作業である.
 共同体的関係の強弱は,したがって,これらの諸要因がいかに組み合わされ,いかに変化していくかによって左右されると考えてよい.非農業部門における雇月機会の増大,貨幣経済の浸透,そして共同作業を軽減するような技術の発達や管理体制の変化が,アジアの多くの国,地域に保持されてきた村落共同体の機能を急速に弱めている現実が良い例証である.
 さて,日本の場合,現在の他のアジア諸国に較べ,これらの諸要因の変化が激しいにもかかわらず,共同体的関係が強く保たれてきたと考えられている.この点に関するいくつかの原因の中で,ここでは特に2点のみを強調しておきたい.その一つは,すでに江戸期から実際に行われ,明治になって法制化(1898(明治31)年)された長子相続制である.これは,均分相続が生存権を脅かす程度にまで土地―人口比率が悪化していたことを示すものであるが,その劣悪な生産条件をとりまく家,村構成の固定化をはかることによって,相互依存関係を持続させる枠組を提供する役割を果たした5).
 第2の点は,農家の共同作業を不可欠にしていた入会地と灌漑である.燃料と肥料の供給源として詳細な利用規定をもっていた入会地は,代替物の出現によってその共同体的きずなとしての役割を失うが,零細な分散圃場における田越灌漑の存続は個別農家の独自性を長年奪ってきた.事実,日本農業の近代化の歴史は,灌漑・排水,区画整理を主体とする土地改良投資によって,いかに農家の営農の自由度を高めるかの歴史であったと言っても過言ではないのである.この意味において,日本の農業政策も決して共同体的関係を強化する方向に向けられたわけではない.しかし,開発の様々な局面,なかんずく灌漑開発において必要とされる自助努力や協調性にとって,村落共同体は一定の役割を果たしてきたことは明らかである.
 (3)強固な水利権意識
 1農家が強い水利権意識を持つ背景には,次のような要素があると考えられる.第1に,灌漑用水の需要に対して供給が著しく少ない場合.第2に,灌漑用水が開発・管理コストを反映した供給価格をもつ場合.第3に,灌漑用水の調達に個人および共同体が資本,労働面で参加した場合である.この中で,第1の要素は水利権が問題になるべき前提条件をなすものであるが,第2のケースは稀にしか存在しない.したがって,第3の要素が重要であると言えよう.事実,バリ島のスバク,イロコス北部のサンヘーラ,北部タイのムアン・ファイ,スリランカの溜池地帯における成員の水利権意識は共通して強く,したがって水争いも多い.細心の水管理が要請される理由がここにあるわけである.
 このように水利権意識の強さは日本の特殊性ではない.しかし,日本の場合,水田の過剰開発がすでに17世紀に始まっており,日本の農村は水社会と言われるように6),灌漑用水の有無が社会関係を律するまでに水不足が進行し7),灌漑開発への農民の参加率が全般的に高かったことが,農民の水利権意識の高さとなって表われたと考えられる.このような水利権意識の高さが,国家の主導する大規模灌漑計画の独走に歯止めをする役割を果たしてきたことを指摘しておきたい8).
 (4)灌漑と土地改良
 灌漑用水の効率は,適用される土地条件によって大きく左右される.灌漑開発が土地改良を伴わないで行われる場合,供給される灌漑用水の生産および分配に対する効果は半減する.中部タイのチャオプラヤ灌漑計画はその1例である.
 日本の場合も1909(明治42)年の耕地整理法までは両者は統合された事業ではなかった.1900(明治33)年頃までの日本は,ドイツの区画整理をモデルとした圃場整備と,西南の先進農業(馬耕)を東北の湿湛地帯に移植するために必要な乾田化を中心とした灌漑事業が主体であった.しかし,稲作中心の日本農業では,両事業を統合せねば効果が上がらないことが明らかとなり,1909(明治42)年の耕地整理法の改正を境に,灌漑・排水事業は土地改良事業の主要な部分として位置づけられ今日に至っている.
両者を統合した土地改良事業は非常にコスト高になること,ならびに区画整理事業は多くの場合村落内の土地所有関係に抵触することを考えると,途上国の多くが両事業を切り離して行っている事情は理解できる.しかしその場合,灌漑効率の低下と,圃場整備事業の大幅な遅れは覚悟せねばなるまい.何故ならば,区画整理,土地の均平,農道の整備を主体とした独立の圃場整備事業の便益一費用比率は極端に低くなるからである.
 (5)生産性格差と灌漑
 後で述べるように,途上国における中央集権化された灌漑プロジェクトが各地域間に存在する土地生産性格差を是正することを第一義的目的とすることはまずない.食糧穀物の輸入に外貨を費やさねばならない国にとっては,灌漑投資の目的が総生産の極大化に置かれることは当然かもしれない.
 この点に関する日本の経験は,他の国に較べて,灌漑投資を含む農業投資が,地域間の土地生産性格差を是正する方向に作用したことを示している.二つの事柄がこの点に関して重要である.その第1は,日本における基礎的灌漑施設の大部分が,近代化の道を歩む以前に地方分散的に作られていた事実である.こうした地方分散化した形での灌漑投資は,明治以前の経済・政治体制の所産ではあったが,投資の局地集中化を防ぐ結果になった.その第2は,政府が積極的な土地改良投資を開始したのは,すでに触れたように,1920年代以降であったが,その動機をなしたのが1920年代に始まる小作争議であったことである.つまり小作農の土地基盤を改良することによる問題の解決がはかられたわけである.
 一つの結果として次の統計を挙げておこう.今,全国の都道府県の中で米の反当り収量の最も低い5県の平均を100とし,最も高い5県の平均と比較すると,1883(明治16)―1886(明治19)年は180であった.しかし,これは1952(昭和27)―1956(昭和31)年になると128に低下している9).この格差の縮小が,仮に高収量品種や改良農法によるとしても,それらの導入・普及には安定した灌潮1用水の供給を前提とする以上,やはり縮小の主役は,灌漑・排水を主体とした土地改良投資とその方向性であったと言わねばならないだろう.
 [注]
 1)例えば,Bruce F.Johnston,「農業開発の日本『モデル』―その発展途上国への適用性」,川野重任,加藤譲編『日本農業と経済成長』,東京大学出版会,1969年.
 2)中村隆英著『日本経済一その成長と構造』,東京大学出版会,1980年,24ページ.
 3)南亮進著『日本の経済発展』,束洋経済新報社,1981年,286ページ.
 4)Clifford Geertz, “Organization of the Balinese Subak,”in Walter Coward, ed., op. cit. ;N.Sutawan et al., Organization and Operation of Community-based Irrigation System in Bali-Indonesia,1983,ILO/ARTEP, mimeo. ;Robert Y. Siy, Community Irrigation in the Philippines-The Casa of Zanjera, ILO/ARTEP, mimeo, 1983; Henry T.Lewis, “Irrigation Societies in the Northern Philippines,”in Walter Coward, ed., op. cit. ;Vanpen Surareks and Leuchai Chulasai,People's Irrigation Systems in Northern Thailand, ILO/ARTEP, mimeo, 1983.
 5)550万戸前後の農家,1戸当り平均耕地0.8―1.0ha,1戸平均の労働力2.5‐2.7人という状態の長期存続(1875―1977)から示唆されることは2点である.一つは,個別農家の技術選択の狭さ,今一つは外部からのインパクトの弱さ(雇用機会の増加率の低さ,離家離農をするには低すぎる賃金率)である.個別農家が共同体関係か
ら自立する契機は,少なくとも戦前期においては稀薄であったと言わねばならない.
S. Ishikawa et al., op. cit., p.74.
6)玉城 哲「灌漑農業の発展理論」,福田仁志編『アジアの灌漑農業』所収.
7)筆者も参加した長野県のある調査村では,畑作農家と稲作農家との間の婚姻関係はつい最近まで行われなかったという.
8)日本農民の水利権意識の高さを証明する例は沢山あるが,最近の例としては,筑後川流域のクリーク灌漑を河川灌漑に改修する際に示された農民側の要求が挙げられる.それは既得権としての水量を確保するために,河川用水路の建設によって掘りぬかれる土地の容積と,埋めたてられるクリークの総容積が等しくなるようにというものであった.同種の要求は,堰や取水口の改修などにも見られ,堰の高さを変更してはならないとか,取水口の資材の変更を許さないという形で近代技術側の譲歩を強いた例は数多い.
9)今村奈良臣他著『土地改良百年史』,平凡杜,1977年,71ページ.

 Ⅳ 灌慨開発の課題―途上国の経験

 開発の歴史と条件を異にする途上国の灌漑問題を論ずる際に,どのような分析視角を用意したらよいか,というのがこれまで論じてきた主なテーマであった.そこで最後に,提示された分析の枠組を用いて,途上国の直面している灌漑開発上の諸問題を整理しておきたい.
 (1)低い投下資本の回収率
 灌漑投資が,個人や共同体で行われる場合と異なり,国家がその主体となる場合,ほぼ例外なしに,投下資本の回収はおろか,施設の維持・管理費も受益者から十分回収できていないのが現状である.その最大の理由は,受益農民が灌漑用水を未だに自由財と考えているか,あるいは国家の国民に対する当然のサービスと考えていることである.次に大きな理由としては,受益者の生産増加意欲をそがないように,国家が水利税や地税率を低く押さえている場合や,徴税機能が麻痺している場合などが考えられる.若干の例を挙げてみよう.
 独立前のインドにおける灌漑投資の高い収益性は知られるととろであり,中でもパンジャーブの例は有名である1).独立当初においてさえ,インド全体の灌漑事業は,施設の維持・管理費,固定資本の利子部分を控除した上でなお8%の純収益をもたらしていた.しかし,今日の状況は、水利税率の改訂にもかかわらず、メイン・システムの維持・管理費用さえ十分回収できないでいるのである2).
 インドネシアでは,1969年の大統領令(Presidential Instruction, No.1/1969)によって,水利税を徴収する権限が州知事に与えられた.しかし,水は自由財であるという慣習的な考え方に阻まれ,投下資本の回収は遅々として進んでいない3).
 フィリピンでは,水利税の徴収は行われているものの,徴収総額は維持・管理費の3分の1にも満たない程度である4).同様に,タイやスリランカにおいても,政府によって主導された大規模灌漑事業の場合,メイン・システムの維持・管理費に対する受益者負担はゼロ(タイ)か微々たるもの(スリランカ)である5).
 こうした資本回収率の低さのもたらす結果は,再投資のための資本の枯渇と,維持・管理能力の低下に伴う灌漑効率の低下である.この点に関する各国の危機感はまちまちではあるが,何とかせねばならないと感じている点では共通している.例えば,インドでは州政府が水利税率を改訂することにより,メイン・システムの維持・管理費をまかない,かつ受益者負担が,資本収益率1%程度になるよう指導すべきであるとしている6).フィリピンでは,解決策は徴収機能を強化するか,維持・管理費を節約するか,あるいは維持・管理の責任を移管するかしかないとして,国営の小規模灌漑事業の共同体(連合)への移譲を進めている7).スリランカは目下回収率の目標を維持・管理費の50%に設定し,やがて100%にもっていくべきだと考えている8).
 年々急増する建設コストと,事業の大規模化を考えると,固定資本部分の回収がますます困難になることは容易に想像できる.しかし,維持・管理費に対する受益農民の低い負担率は,単に資本不足という問題だけでなく,システムの維持・管理に対する受益農民の無関心と,政府への過度の依頼心を増長させる危険性をもつことを銘記すべきである.
 (2)灌漑投資と地代の平準化
 灌漑投資の生産・雇用効果に関しては,すでにいくつかの論証があるので9),ここでは灌漑投資,特に公共投資の分配的側面に焦点を絞ることにする.
 すでに述べたように,灌漑投資は自然的条件を異にする土地の生産性を画一化する方向に作用することもあれば,逆にその相違を拡大させる方向に作用することもある.灌漑投資が個人や村落共同体レベルで行われる場合,当然のことながら,自己の所有する土地生産性の極大化が目的である.したがって,異なる個人や村落,あるいは地域間に存在していた土地生産性格差がその結果縮小されたとしても,それは結果論であって,当初の目的ではあり得ない.個人,村落,地域間の土地生産性格差の縮小,もっと正確に言うと地代の平準化を目的とした灌漑投資を行いうるのは国家である.したがって,もし公共投資が,個人や村落共同体による灌漑投資と同じような基準でなされるとすれば,それは本来あるべき公共投資の機能と役割を果たしていないということになろう.
 日本の経験は,灌漑投資が中央集権的要素と地方分権的要素をうまく組み合わすことによって行われ,しかも村落共同体のもつ伝統的機能を灌漑システムの末端維持・管理に組み込むことで便益の局地化を防止してきたことを示唆している.この点,アジアにおける途上国の経験は,国家による灌漑投資,灌漑システムの中央集権化がますます強化され,投資の方向性も,地代の平準化の方向ではなく,投下資本の効率を高める方向でなされているといえる.
 このような傾向は次のような事情によるものと考えられる.まず第1に国家による灌漑事業の多くが大規模で高度の技術を要するために,輸入技術(資材・人材)への依存度が高まり,したがって莫大な資本と外貨を必要とし,しかも投資の懐妊期間が長いという点が挙げられる.資本回収率の低さを考慮するとき,投資効率を優先させざるをえない事情がここにある.第2に,農業をベースにした経済をもちながら食糧穀物の輸入に外貨を使わねばならない国にとっては,地域間に存在する士地生産性格差や所得格差を縮小するよりも,総生産,市販余剰の極大化を優先せざるをえないことである.そして第3に,劣等地をもっ地域での灌漑投資の資本効率は,一般的に極めて低いために,無償援助の対象にならないかぎり,投資の優先度も低くならざるをえないことである.
 さて,このように国家による灌漑投資が増加し,しかもその投資が地域的に偏在し,その上受益農民からの資本回収が,システムの維持・管理費をはるかに下回る程度である,という状態から,受益農民は三重の利益を享受することになる。第1は,灌漑用水という農業生産にとって基幹的投入財に対する国家補助(灌漑用水に体化した建設,維持・管理コストの大部分を国家が負担する)を受けることからくる利益である.第2は,国家による灌漑投資で優等地化した土地には,改良品種,化学肥料などの近代投入財が集中する結果,私的資本の効率が,公共投資の行われなかった土地のそれよりも遙かに高くなることからくる利益である.そして第3に,いわゆる「私的地代」の発生からくる利益である.これはまず国家による灌漑投資により土地の生産性が上昇し,したがって地代も上昇する.地代が上昇すると,歴史的経験によれば,その上昇率を上回る速度で地価が上昇する.この過程で,公共投資による地代の増殖部分は本来国家に帰属すべき部分であるが,現実的にはその殆どが私的所得になっている.この部分を「私的地代」として表現すれば,この増加分の地価へのはね返り部分は,もしその土地が土地市場で売買されるとすれば,不労所得を形成することになる10).したがって,高い国家投資率,投資の偏在性,低い資本回収率,低い地代―地価比率(生産性を上回る地価増殖率),私的投資の優等地への集中,という状況の中で,国家投資の対象地と非対象地の間の所得・資産格差はますます拡大せざるをえないわけである.
 (3)灌漑における地下水の役割
 途上国の今後の灌漑を考える場合,地下水を水源とする灌漑開発とその問題点を整理しておくことは極めて重要であると思われる.その理由は次の通りである.
 まず第1に,今後灌漑開発を進めていく上で地下水への依存度が高くならざるを得ないことである.例えば,インドにおける利用しうる灌漑用水の限度は1億690万ha・mであるが,その中の33%は地下水である11).パキスタンの場合も利用可能な総水量に占める地下水の割合は33.3%となっている12).また,河川灌漑開発の困難なバングラデシュは,逆に地下水への依存率はすでに高く,地下水を利用した揚水灌漑の全体に占める割合は54%(1980/81)にも達している13).一方,まだ河川灌漑の発達が不十分な地域における地下水利用は低いし,したがって関心も薄い.タイ,スリランカ,フィリピン,インドネシアがこれに当る.しかし,これらの諸国にも河川灌漑の開発が進むにつれて,南アジアの国々の直面している問題が発生するだろうことは十分予測できる.
 第2の理由は,地下水を利用する灌漑の中心が,動力を用いる揚水灌漑であるということから発生する諸問題である.まず,揚水灌概に対する投資は,その圧倒的部分が個別の私的資本によってなされるが,このことが地下水への接近を農村のごく限られた階層にのみ許す結果となっている.次に,地下水に対する国家の上級所有権が十分確立していないことから,地下水は未だ自由財であり,個人の所有している動力揚水機から汲み上げられる灌漑用水は私財となる.この点に関する国家の課税能力も,資源保全機能も全くないに等しいと言える.また,動力揚水機は河川灌漑地や溜池灌漑地での補助用水の確保のために普及した側面もあるが,このことが逆に河川・溜池灌漑への依存度を相対的に弱める結果になっている.動力揚水機の発達した地域における河川・溜池灌漑システムの末端管理機能の低下がこのことを物語っている14).
 このように,地下水の開発が個別の私的資本にゆだねられているかぎり,マクロレベルでの地下水資源の計画的利用と保全は不可能となり,ミクロレベルにおいても地下水を私有できる層とできない層の間に生じる不平等を是正することは困難になる15).
 (4)資源の有効利用と用水価格
 アジアの途上国における国営の大規模灌漑事業の多くは非常に低い灌漑効率をもって運営されている.灌漑効率は,メイン・システムから送水される灌漑用水に占める作物の要水量(最大限の収量を達成するのに必要な)の割合と考えてよいだろう.つまり,ある作物の要水量が500mmである場合,圃場レベルで利用可能な500mmを供給するのにメイン・システムから1,000mmの送水が必要であるとすれば,灌概効率は50%である.この基準を用いるとアジアの途上国の灌漑事業の灌漑効率は25%から90%のばらつきをもつが,全体の平均値は55‐60%であると言われている16).
 灌漑効率の高い所と低い所を比較してみれば明らかなように,効率の低さ,すなわち送水過程のロスは,主としてメイン・システムに発生している.これには二つの側面がある.工学的側面と管理組織的側面である.中でも後者の効率の悪さが問題とされていることは周知のとおりである.
 さて灌漑効率を論じる際は,今まで述べてきたようなメイン・システムの効率と同様に,圃場レベルでの効率の低さも問題にされねばならない17).しかし一般に灌漑システムのマクロ(送水過程)とミクロ(圃場)は相互に関連しているのが現実で,マクロの効率が悪い場合,ミクロの効率も悪いのが通常である18).
 ここでミクロの灌漑効率というのは,圃場に到着した灌漑用水がいかに効率的(産出―投入比率の極大化)に利用されたかを示すものであるが,二つのケースが注目される.一つは,灌漑用水の過剰投入である.インドネシアの場合,現実の投入レベルは作物要水量(稲作)の150%に達すると言われている19).今一つは,パキスタンの事例であるが,100エーカーの灌漑のために供給された用水を,実際は130エーカーに使ってしまうことからくる非効率である20).この二つの事例は,稲作地域と畑作地域の農家レベルの灌漑の非効率性を示していると考えられるが,図示すれば以下のようになろう21).

r1,r2=灌漑用水と作物の相対価格

周知のように,経済学的に言う投入の最適点は,生産函数と相対価格の接点で得られる22).すでに述べたように,アジアの途上国における水利税はゼロか著しく低いから,相対価格は水平(r1)になるか,きわめてゆるやかな直線になる.このような状況の下では,,灌漑用水の過剰投入が起こりやすく,その割合は米の場合の方が小麦の場合より遥かに多い(a2~a3とb2~b3).これは,米と小麦の生産函数の収量最大点前後の形状の違いによるものである.米の場合,用水の過少投入のリスクの方が過剰投入のリスクよりも遙かに高いために,農家はどうしても過剰投入しがちである.インドネシアのケースがこれに当る.
 一方,小麦の場合は米の場合と逆で,過少投入のリスクの方が過剰投入よりも低い.このことが,1エーカーの小麦に対する灌漑用水の投入点をb2にするよりも,2エーカーの小麦にb0 レベルの投入をする方が,あるいは(b0~b2)分を他の耐旱性の作物に投入する方が経済的に有利になる場合を生むわけである.パキスタンのケースはこういう状況下で発生したものである.
 これらの事例から示唆されることは,農家レベルにおける灌漑効率の低さと灌漑用水の供給価格とのプラスの相関関係である.相対価格をr1からr2に変えることにより灌漑効率は高められることが示唆されている.現在のアジアの途上国における灌漑行政にとって必要なことは,まず灌漑用水を経済財として位置づけることではないだろうか.
 (5)用水管理における伝統と近代
アジアの途上国における灌漑開発の方向性に関して二つの大きな特徴を見出すことができる.一つは,異なる灌漑形態の発展の展望に関する点,今一つは,用水管理における主体に関する点である.
 まず前者に関して次のような傾向を指摘することができる.過去20年間の動きを見るかぎり,揚水灌漑の成長率が最も高く,河川灌漑がこれに続く.しかし,溜池灌漑は確実に縮小の過程をたどっている23).もっともこれはあくまでも時系列的にみた傾向であって,横断的にみれば,灌漑に占めるウェイトは依然として河川灌漑,溜池灌漑,揚水灌漑の順である.
 後者に関しては,前者との関連において次の点が重要である.つまり,異なる灌漑形態の相対的ウェイトが変化しつつある中で,用水管理における共同体的関係が急速に消滅しつつある点である.この点に関する問題は,三つのレベル,すなわち,国家,共同体(連合),個人の補完・代替・競合の問題として考えるのが望ましい.
 日本の場合,河川灌漑,溜池灌漑,揚水灌漑,いずれの場合にも末端における共同体的関係が崩されることがなかった.また,異なる灌漑形態による共同体的関係の相違(特に河川と溜池)は問題にされても24),国家と共同体の代替関係や,共同体と個人との競合関係が,現在のアジアの途上国の場合ほど問題視されることはなかったと言える25).
さて,アジアの途上国における大規模な灌漑システムは,その工学的デザインも,その管理方式も先進国のモデルを援用したものである.そのこと自体は全く間題ではない.問題は,近代的灌漑システムが,最終需要者に直接用水を販売できるほど(例えば上水道)近代化していないにもかかわらず、その運営面において伝統的組織を活用する姿勢のないことである.河川灌漉にしても溜池灌漑にしても,国家(官僚機構)が共同体的関係を中心とした伝統的組織原理に代替しつつある地域においては次の点を指摘することができる.
 まず第1に,メイン・システムの維持・管理機能が低下している.第2に,第1の点に起因する灌漑効率の低下に伴い,村落内の地主,富農層は,村の自治機能の強化を計るかわりに,地下水の個別利用を促進することによって用水調達の安定を計る方向に解決を求めている.そして第3に,こういう状況の下で河川灌漑や溜池灌漑にしか依存できない農民の用水調達に伴う危険と不確実性は増加の一途をたどり,それに伴うコストも相対的に増加する傾向にある26).
 近代的システムが伝統的システムを代替するにはまだ多くの月日を必要とするように思われる.とすれば前者が後者のもつ長所を摂取する以外に灌漑効率を高める方法はない.
 伝統的システムの研究は,今まで主として人類学者や社会学者によって行われてきた27).日本の水利組織,バリ島(インドネシア)のスバク,イロコス(フィリピン)のサンヘーラ,チエンマイ(タイ)のムアン・ファイ,スリランカの溜池地帯の水利組織などが集中的に研究の対象になった.その一つ一つの組織について詳細に論じるのは本論の目的ではないが,これらの組織が水管理の面で成功しているとすれば,その理由は次のように考えることができよう.
 まず第1に,いずれの組織をとってもメンバーの義務と権利が明確にされていることである.第2に,意思決定の過程が明確で,全メンバーの同意を必要とする意味で,水の配分,作付形態,農作業の段取り,労働提供などの決定に対し拘束力が強い点である.第3に,灌漑施設の建設への直接参加,したがって帰属意識と水利権の強さである.そして第4に,個人に対する組織の絶対優位性である.
 このような共同体的関係を強調するのは時代に逆行するものであるという批判はもっともである.この小論でも伝統的な共同体的関係の保存や強化を主張するつもりはない.ただ,アジアの途上国の灌漑開発において遅れているのはハードな技術でなくソフトな技術であり,その遅れは伝統的技術を切り離すことによって促進されていることを強調したいのである.
 [注]
 1)S. Hirashima, The Structure of Disparity in Developing Agriculture, Institute of Developing Economies, 1978.
2)G. S. Jakhade and S. K. Bhatia, op. cit.
3)Dibyo Prabowo, op. cit.
4)Robert Y. Siy,“Irrigation and Water Management Policies in the Philippines,”op. cit.
5)Nanda Abeywickrema, op. cit.Boonyok Vadhanapbuti, op. cit.
6)G. S. Jakhade and S. K. Bbatia, op. cit.
7)Robert Y. Siy, op. cit.
8)Nanda Abeywickrema, op. cit.
9)S. Ishikawa, op. cit. K. Takase and T. Wickham, Irrigation Management as a Pivot of Agricultural Development in Asia, ADB, 1976. Farm Water Mnagememt in Rice Cultivation, APO, 1977. ILO/ARTEPの一連のLabour Absorption Studies,中でも,S. Ishikawa, Labour Absorption in Asian Agriculture, 1981 ;ARTEP, Employment Expansion in Asian Agriculture: A Compative Analysis of South Asian Countries, 1980; W. Gooneratne, ed., Labour Absorption in Ricebased Agriculture ― Case Studies from Southeast Asia, 1982; S. Ishikawa, S. Yamada and S. Hirashima, Labour Absorption and Growth in Agriculture: China and Japan, 1982.
10)この点に関する一つの論証として,拙著,The Structure of Disparity in Dveloping Agriculture, op. cit.,あるいは「英領インドにおける土地市場の生成と発展」,
『アジア経済』,第16巻第8号(1975年8月).
11)Jakhade and Bhatia, op. cit.
12)Pakistan Economoic Survey 1980-81, Govemment of Pakistarl, 1982.
13)Hafiz M. Siddigi, Lift Irrigation in Bangladesh ― Its Use Pattern and Impact on Production, Employment and Distribution, mimeo, 1983.
14)タミール・ナドゥー(インド)の溜池地帯では,動力揚水機の導入によって溜池の維持・管理に対する揚水機所有者層の関心と協力が著しく低下している.
15)ある調査によれば,インドにおける私有動力揚水機による灌漑用水の供給価格は,政府の指示した価格の3―6倍の高さである.
 C. Gopinath, Technolgy for Groundwater Use in India ― The Dilemma of the Rural Poor,mimeo, Indian Institute of Management, India, 1979.
16)Gilbert Levine,“The Relationship of Design,Operation and Management,”in W. Coward, ed., op. cit., pp.52‐56.
17)この問題に対する先駆的業績として,金沢夏樹著『稲作の経済構造―その停滞的要因と水利』,東京大学出版会,1954年,
18)Dibyo Pradowo, op. cit.
19)Ibit.
20)拙稿「パキスタンの灌漑」,福田仁志編『アジアの灌漑農業』所収.
21)これらの生産函数の原型は,小麦はチュニジァでの実験例(1968/69)),米はフィリピンの国際稲研究所の実験例(1969)である:Gilbert Levine,“The Relationship of Design, Operation and Management, "in Walter Coward, ed., op. cit., PP.52‐53.
22)小麦の場合,相対価格がr1(水利費ゼロ)ならば最適投入点はb2~b3で与えられ,r2になるとb1で与えられる.稲作の場合,相対価格がr1で与えられれば,最適投入点はa2からa3の間どこでも良いことになるが,相対価格がr2になるとa1でしか与えられない.
23)高い人口増加率に伴う土地一人口比率の悪化のため,溜池の流域の耕地化が進み,流域の縮小に伴う溜池機能の低下が著しい.また土地の稀少性の増加と共に,溜池敷も潜在的耕地と見られるようになり,河川灌漉や,極端に土地節約的な揚水灌漉に代替され始めたことなどが,溜池灌漉の減少傾向の原因と考えられる.
24)金沢夏樹著『稲作の経済構造』,および玉城哲氏の一連の著作.
25)日本の場合,アジアの途上国と違い,揚水灌漑=個別資本という関係が成り立たなかった.明治末期から普及し始めた揚水手段も地下水を水源とすることはなく,溜池やクリークという共同体ベースの水源からの揚水であった点にその原因が求められよう.
26)すでに述べたように,私的な動力揚水機による用水の供給価格に対する規制は皆無に等しく,経済計算に基づく適正価格をはるかに上回るのが常である.
27)その良い例は,Walter Coward, ed., op. cit.の諸論文がある.

 むすびにかえて

この小論は,日本の経験が時間的にも空間的にも超特殊ケースであり,途上国の開発に参考にならない,という内外の批判に対する一つの反論として書かれたものである.参考になるかならないかという問題は,比較の基準をどう定めるかという問題につながっているように思われる.小論では,灌漑用水のもつ特性を中心に,途上国が直面している諸問題を整理し,それを視座にすえて日本の経験を洗い直すという逆の方法をとった.
 小論全体が,いわば要約的に書かれているので,ここで再び要約することは避けたい.そのかわり,最初に言及しながら論評しなかった途上国における灌漑行政の二つの方向性について感想を述べておくことにしたい.
 その一つは,灌漑事業の大規模事業から中小規模事業への方向転換である.
この点に関するコメントは2点ある.その第1は,大規模事業の必要な地域において,中小規模の事業が大規模事業を代替できるか否かという疑問である.
第2に,事業規模の差は,日本の経験が示すように,事業主体の問題に還元して考えた方がよく,両者を二者択一と考えない方がよいのではないかという点である.
 今一つは,投資配分のウェイトを新規事業から既存施設の改良へ移すという政策である.既存施設の何を改良するのか必ずしも明らかではないが,これも新規事業との代替関係として考えられる類のものではない.理由の一つは,アジアの途上国における灌漑比率が,パキスタンを唯一の例外として,未だに低く新規事業がまだまだ必要であるという点である.そしてもう一つの理由は,くり返して述べてきたように,既灌漑地域への公共投資の集中をこれ以上促進することへの疑問である.
 稿を終えるにあたり,故玉城哲氏をはじめとする諸先達と同僚諸氏から学びえたことに対し記して感謝したい.
 [平島成望]