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技術と産業公害

Title: 第4章:水俣病
Author: 宇井 純
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1985年
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第4章:水俣病

はじめに

 水俣病は,戦後最大の公害である.いまだにその全貌は明らかになつていない.被害者の数,死者の数すら確実にわかっていないのである.病気の発見後四半世紀を経た今なお被害者の数は増加しつづけている1).そしてその病気の治療方法はまったくといつていい程わかっていない.そのうえ,水俣病の存在とその原因は,一度はほとんど忘れられていたのが,同じ病気が再度発生してはじめて実質的な対策がとられたのである.もし再発がなかったら,その原因すらも究明されなかったかも知れない,その過程における企業,行政,科学者,世論等の各要因の動きも,また現代の公害問題における一つの典型を示しているといえるだろう.
 水俣病をひきおこしたチッソ水俣工場も,また日本の化学工業の原型といえる工場であった.外国技術の導入と,その目本の条件への思い切った適応の努力とが,常にこの工場を日本の化学工業の先頭においた.水俣工場が日本で最初に作り出した化学製品は数多く,他工場の追随を許さない.戦前は植民地への進出により,後発資本ながら目本最大級の電気化学コンビナートを建設し,のちに中国,朝鮮の化学工業の基盤ともなった日窒コンツェルンの原動力であった.戦後はほとんど潰滅に近い打撃を受けながら,不死鳥のごとく立直り,プラスチックの大量生産,大量消費の波に乗って独占的な利益をあげた.化学工業の経営における技術の重要性を体現した工場の一つとして,戦後も一時期,目本の化学工業の代表的工揚であつた.この最も日本的な高度成長をとげた工場と,日本最大の公害の組合せが結びついた必然性はどこにあつたのか.
[注]
1) 1983(昭和58)年12月現在の患者数は,環境庁の発表したところによると,生存認定患者1923名,死亡患者730名,認定申請者5653名である(『環境白書』1984年版).

Ⅰ 日本窒素肥料の出発

 20世紀初頭,南九州の西岸にある水俣村は,入江の奥に港と若干の塩田,水田をもつ半農半漁の集落であった.対岸の天草から産出した石炭が,奥地の金山に港を通して運びこまれ,後背山地の林産物が,港から積出されてにぎわった他には,これといって特徴のない沿岸の村の一つであった.
 大学を出て間もない青年電気技術者,野口遵は,日本最初のカーバイドの工業生産に参加し,それに成功したあと,奥地の金山に電力を供給する水力発電所を作り,その余剰電力を利用したカーバイド工場の適地を求めていた.一方,水俣村の地場産業である塩田は,専売制の施行によりその経済性を失う時期にあった.水俣村の有力者たちは,村の将来のために新しい産業を誘致することを考え,現地を訪れた野口に,新工場を水俣村に建設することを強く迫った.他にも有利な立地点があると主張した野口に対し,地元有力者たちは,塩田の土地,工業用水,港,発電所から工場までの送電線費用の一部などを,無償もしくはきわめて有利な条件で提供することを申し出て,新工場を水俣に建設することがきまった.鉱山の電化によって職を失った,石炭運搬の人夫たちを低賃金でやとい入れることも,水俣に新工場を作る有利な条件の一つであった.戦後日本の高度成長の中で多く使われた,産業基盤整備の地元負担による拠点開発の手法が,この水俣工場誘致の過程ですでに典型的に現れているのは興味深い.
 こうして水俣に出発した日本窒素の工場の生産活動は,有利な立地条件に支えられて好調であったが,製品のカーバイドは当時漁民の夜漁の光源位しか需要がなく,なかなか売れなかった.カーバイドを原料として石灰窒素を作り,更にそれを変成硫安に変えて肥料工場として細々と経営をつづけるが,圧倒的に強力な国際化学肥料カルテルとの競争に苦境に陥り,一時は工場の所有権を鉄道院に売ったり,三菱資本の導入を仰いだりしたこともあった.この後発弱小資本の肥料工場にとって,第1次世界大戦の勃発は,天の助けとも言うべきものだった.輸入肥料の途絶に伴う国内市場の独占は,それまでの損失を取りもどして余りある利潤を日本の化学工業にもたらし,日窒も資本金100万円から出発して戦後1920(大正9)年には2,200万円に増資したうえに半年で104%の配当という,異常な膨張をとげた.第1次大戦の終結後ただちに欧州を視察した野口は,パイロットプラント規模でアンモニア合成に成功したばかりのカザレーの技術を導入することに踏み切る.これはアンモニア合成においても日本最初の企てであると共に,合成に必要な高圧ガス技術の最初の導入でもあった.
 戦後不況と肥料の操業短縮の中で,全く新しい導入技術による工場の建設は,技術的にも経営的にも,困難な課題であったが,日窒の技術陣はよくこの困難を克服し,合成硫安が日本で最初に日窒延岡工揚で1923(大正12)年国産化された.経営的にもこの年から戦後不況のあとの相対的安定期に入り,肥料市場の伸長に合せて順調な発展がもたらされた.この時期の日窒の原料エネルギーは,水力発電による安い電力に依存していたが,国内では主要な水力発電立地地点を財閥系の先発資本におさえられていたので,企業進出のはじまった植民地の朝鮮に1926(大正15)年から朝鮮水電を設立して進出の第一歩とした.一方,水俣工場は延岡で成功したカザレー法合成硫安の大規模化に着手し,高圧ガスの爆発等の困難に直面しながら,1927(昭和2)年から硫安の製造に成功し,合成肥料業界に日窒は新興資本としての地位を確立した.この年から朝鮮窒素興南工場の建設が着手され,東洋で最大規模の電気化学コンビナートが,大出力水力発電所とセットになって建設されるモデルとなった.1930(昭和5)年,興南工場の運転開始によって,植民地への進出路線も成功したのである.1920年代は,日本の合成化学工業の一つの柱である肥料工業の成立期であったが,日窒は新興資本ながらよく内外の圧力に堪えて,パイオニアとしての役割を果たした.特に一貫してターンキー方式をとらず,自社技術の蓄積につとめたことが,導入技術から出発したにもかかわらず拡張,増設に当っての社内技術の向上をもたらし,次の発展の基盤となった.

Ⅱ カーバイド有機化学工業への進出

1930年代は,日本の化学工業が,カーバイドアセチレンを原料として有機化学工業へ進出する時期であった.アセチレンを水銀塩溶液中に吹込むと,水1分子が附加してアセトアルデヒドを生ずることはすでに知られていた.その工業化にはおくれたが,日窒はここでも独自の技術を展開して,アセトアルデヒドの直接の誘導体である酢酸ばかりでなく,その下流に相当する製品を,酢酸エチル,酢酸繊維素,酢酸ビニル,アセトン,ブタノール,イソオクタンなど,次々に日本最初の工業生産化を試みて,それに成功した.ここに第1期の導入技術を出発点として,日本の条件に適合した独自の技術を作り出してゆく技術政策が効を奏し,有機合成化学の分野では文字通り日本最先端の技術水準を誇る企業となった.
 これらの新製品の製造技術は,まず試験工場としての水俣工場で工業化され,そこで成功したものが朝鮮の興南をはじめとする各地の工場で,更に大きな規模で生産される形をとるのが普通だった.この集中的な技術開発を可能にしたものは,優秀な技術者と労働者の水俣工場への集中であった.たとえば当時最高の教育水準をもつと考えられていた東京帝国大学工学部においては,学科で一番の学生と保証されなければ水俣工場への入社試験を受けられなかった.これは水俣周辺から供給される労働者にも共通であり,高等小学校を卒業すると,成績優秀なもののみがボーイとして社員の身のまわり支度のために見習採用され,一定期間の観察を経てはじめて職工に採用された.そして野口の言葉「職工は牛馬と思って使え」に象徴されるように,危険で苛酷な労働に低賃金で従事しなければならなかった.試験工場では,爆発,事故,危険な薬品への接触は日常のことであり,工員の募集では,命がけの作業であることを承知しなければ採用されなかった.この低廉で良質な労働力の安定した供給は,戦前,戦後を通じての日本産業の高度成長の基盤であるが,水俣工場は特にこの条件を最大限に利用した例である.また労働者の側でも,この苛酷な条件に堪えれば,植民地のエリート熟練工としてめぐまれた生活が待っているのであるから,十分それに堪えるだけの見返りのある試練と受取られた.
 工場の発展に伴って,水俣村は繁栄し,人口も増加してやがて町に昇格し,第2次大戦後は市になった.町の経済的繁栄はもちろん工場の存在によるものであり,道路などの公共投資は,工場の産業基盤が優先された.この工場城下町の性格は第2次大戦前後を通じて強化され,拡大され,工場と地域との運命共同体という意識ができ上がった.
 日本の軍事化が進行した1930年代には,植民地における工業生産が増大し,早期に植民地の支配権力である軍隊と結びついた日窒資本は,立地条件や労働力,原料の供給などの諸条件に関して,先発資本である財閥系工場よりも,有利か少なくとも同等の立場を獲得することができた.1934(昭和9)年,創業時からの三菱資本との関係から独立し,興業銀行,朝鮮銀行と結んで,新興財閥としての地位を確立する.石油の乏しい日本においては,航空機燃料をはじめとする石油系軍需物資の供給が軍部の大きな課題になるが,その代替品の合成化学工業の出発点はアセチレン化学であり,軍と結びついた製品の開発技術においても,日窒は常に最先端に立ち,朝鮮から満洲へとその進出をひろげていった.こうして作られた多種類の有機化学工業製品のうちで,アセチレンから作られるアセトアルデヒドは,常にその鍵になる中間体であった.日窒がいかにアセチレン化学に長じていたかを物語る一つの事実は,1938(昭和13)年にドイツの独占資本IGファルベンが発表した熱可塑性樹脂ポリ塩化ビニルの工業生産に1941(昭和16)年,水俣工場が成功し,これが日本で戦前に生産された唯一のビニル系プラスチックの例であったことを見てもわかる.
 また,植民地におけるダム建設,水力発電のような巨大な土木工事の建設過程において,日窒の計画が発電機などの大型重電機,あるいは機械工業の発展の原動力となった事実も否定できない.しかしその技術は,植民地における強制的な苦汗労働に支えられたものであり,土木機械,材料輸送機械などの面での技術革新には結びつかなかった.
 この急激な生産の増加に伴う廃棄物のすべては,水俣工場に限らずどの工場でも無処理で海に放流され,漁業に大きな被害を与えた.たまりかねた水俣の漁民は,しばしば工場に抗議したが,軍を背景にする強力な企業にはかなうはずもなく,1926(大正15)年と1943(昭和18)年の2回,それぞれ永久示談の見舞金を受取るにとどまっている.しかし第1回の永久示談にもかかわらず,第2回の補償交渉が戦時中になされた事実に,その被害がいかにはげしかったかを見ることができよう.水俣工場の独占的な力による被害の無視と,すぐれた技術水準が生産にのみ向けられて,その周辺の負の問題を無視したことが,水俣病発生の遠因であった.

Ⅲ 敗戦と壊滅的打撃からの立直り

 第2次大戦の敗戦と共に,日窒はその植民地資産のすべてを失い,損失は全資産の80%に上った.日窒は財閥として占領軍に分割解体を指定され,水俣工場もまた戦時下の爆撃によって重大な被害をうけた.この壊滅的な打撃にもかかわらず,優秀な技術と高い志気の伝統をもつ水俣工場は,不死鳥のごとくよみがえった.戦後の飢餓状態の中で,最重点産業とされた農業の食糧増産に必要な硫安の生産は,敗戦の2ヵ月後にはすでに再開され,工員が硫安や塩を持って農村に行き,食糧調達をするような状況の中で,アセチレン法のアセトアルデヒド生産も再開された.戦争の被害を比較的受けなかった水力発電を主エネルギー源とする肥料工業とカーバイド電炉工業は,戦後の混乱期の中でも立直りの早い産業であった.そこへ,戦後新たに米国から輸入されて,消費生活に導入された最も典型的な物資として,塩化ビニル樹脂が加わる.戦後アメリカの電線スクラップを輸入し,その被覆を再加工したシートやベルトが,ナイロン製品と称して飛ぶように売れた.このPVCの生産の経験をもつものは,日本では水俣工場だけで,1949(昭和24)年に生産再開が占領軍によって許可されると,市場で独占的な利益をもたらす商品となった.壊滅した植民地工場から引揚げた日窒の従業員は,狭い水俣工場の中にひしめきながらその努力を生存のために集中し,1950(昭和25)年ころから開始した急激な生産復興を用意したのであった.
 戦後の混乱期にあっても,水俣工場の技術陣はその高い威信をつらぬき,1953(昭和28)年にはアセチレンからアセトァルデヒドを経て,PVCの配合剤として不可欠な可塑剤,DOPの合成に成功する.PVCの独占は,米国技術と資本を有望な市場である日本へ導入する占領軍の政策で破れたが,DOPの国内市場は水俣工場が完全に独占した.これは1950年代を通じて競争の激化した大量使用型のPVC市場においても,新日窒として再発足した水俣工場の優位性を確立した.DOPの原料となるオクタノールの生産は,炭素数2のアセトアルデヒドを順次4分子結合させる複雑な化学反応で,戦前からの長いアセチレン化学の技術的伝統をもつ水俣工場のみがその工業化に成功した高度な技術であり,他にはあえてこの困難に挑戦する化学工業が存在しなかった.こうして1950年代に水俣工場は再び第2の黄金時代を迎え,日本の化学工業の指導的役割を回復した.この回復が,完全に自社の技術陣によってなされたことは,旧財閥系の化学工業が,戦後も米国をはじめとする外国からの技術導入によって戦後復興,技術革新をなしとげたこととはっきり対照的である.
 この時期,工場の繁栄に伴う水俣市の経済的繁栄は,その頂点に達した.市税の60%前後は工場関係の収入であり,市長は引退した工場長がつとめ,議員の多数も工場関係者であった.代表制民主主義をとる戦後になっても,水俣は日本で最も典型的な工場城下町であり,市民の命運は工場の盛衰と共にあることが誰の眼にも明らかだった.
 1950年代を通じ,水俣工場のアセトアルデヒドとPVCの生産設備は増産,増設を重ね,日本最大の規模を維持した.この両方の工程が水銀化合物を触媒として大量に使うものであり,排水は無処理で水俣湾に放流されたから,漁業の被害は戦前にもましてはげしいものになり,死んだ魚がしばしば目撃され,漁獲量も激減した.漁協は三度目の永久示談を工場と交渉し,今後永久に苦情を申し出ないことを条件として,海面の埋立権を工場に与え,若干の補償金を得た.しかしそのころ,周辺の漁村に多い猫が,突然飛び上がり,狂いまわり,海に飛びこんで死ぬ奇妙な現象が見られるようになった.漁民は,猫おどり,猫の集団自殺とこれを呼んで,何か不吉な前兆ではないかといぶかった.

Ⅳ 水俣病の発見,原因究明の困難

 1956(昭和31)年5月,水俣市で唯一の総合病院であった工場附属病院に,4名のふしぎな病人が担ぎ込まれた.意識はなく,はげしい痙攣,狂躁状態,昏睡と繰り返し,やがて高熱で死亡する症状が共通だった.熟達した医師である細川一院長は,一目でこれが新種の恐ろしい奇病であることを見抜き,診療と並行して,保健所,地元医師会と協力し,疫学的な調査を開始した.患者は続続と水俣市周辺の漁村集落から発見され,数十名に上った.しかも,この当時,17名が死亡し,その致死率の高さもおどろくべきものであった.これが水俣病の発見である.
 この初期調査によって,この病気が突然発生したものではなく,少なくとも数年前から医師の目にはふれていたが,新種の病気としては気付かれていなかったことがわかった.また患者の共通な条件としては,水俣湾内でとれた魚を多量に食べていることがあった.はじめ伝染病が疑われたが,精密な調査によって否定され,次いで中毒が疑われた.この段階で原因究明の研究は,熊本大学医学部に作られた研究班の手に移った.熊本大学医学部はそれから約2年間,必死に原因究明を続けたが,手がかりは全くつかめなかった.わかったことは,水俣湾周辺の魚介類が有毒であり,実験動物に特異な症状を現すことであるが,その症状は,既知のいかなる毒物の中毒とも異なっていた.
 すでに初期の疫学調査で,患者の発生した地域に共通な特殊な条件としては,水俣工場の存在が最も疑われるものであったが,企業城下町において,その疑いを口にすることは明白なタブーであった.魚の毒性が最も強かった水俣湾内は,長い間あらゆる工場廃棄物の捨場となっており,泥土を分析すると,多種類の毒物が検出されたが,あまりにもその種類と量が多すぎて,どれが真の原因物質かわからなかった.その中から,大量に検出されたマンガン,セレン,症状がやや似ているタリウムなどの重金属と病気の関係が疑われたが,動物実験の症状は水俣奇病とは一致しなかった.工場で使用する薬品や廃棄物の内容などについて,研究班は情報を工場に要求したが.反応は概して拒否的であり,工場内部のことを比較的よく知っているはずの熊本大工学部からも,積極的な協力は得られなかった.医学部の研究班が,重金属中毒が疑わしいと発表すると,工場側は反証をあげて反撃した.
 しかし2年余の長い暗中模索の間に,疑わしい物質は一つ一つ消去されていき,最後に思いがけない重金属として,水銀が示唆された.研究班は工場内で水銀が大量に触媒として使われていることを当初知らなかったし,水銀が高価な物質であるという既成概念から,廃棄されているとは考えつかず,また,工場側も化学工業界や工学者の間では周知の事実を,企業秘密として公開していなかった.しかし,泥土や有毒な魚,実験動物,患者の死体から水銀が大量に発見され,その分布は病気の分布,魚の毒性の分布と見事に重なっていた.患者の特異的な症状も過去のアルキル水銀中毒の症状と一致した.過去の模索と工場側の反論にこりた研究班は,1年近い証拠固めの積み重ねのうえに,1959(昭和34)年7月,水俣病の原因物質として水銀が最も疑わしいと発表した.

Ⅴ 社会不安と漁民暴動

 水俣病の発見から3年余を経て,症状のはげしさと原因の不明なことから,工場に疑いをもちながらも発言できなかった地域社会の中に蓄積されていたエネルギーを,有機水銀説の発表が一気に爆発させる効果をもたらしたことは当然である.工場側は猛然と反論し,水銀は使っていても排出はしていないと主張した.しかし長い間,魚が売れず,困窮していた水俣の漁民は,心中疑っていた原因がやはり水俣工場にあることを知って,工場へ補償を要求しておしかけた.折しも工場が排水口を変更して放流を開始した区域の海岸からも,新しい患者が発見された.不安は不知火海一帯にひろがり,全域の魚が毒性を疑われて売れなくなった.漁民の困窮は甚だしく,かつて沿岸漁業で繁栄を誇った漁民のなかから,乞食に転落して漂泊する者さえ出た.
 1959(昭和34)年の夏から秋にかけて,水俣漁協,不知火海漁協連合は,それぞれ工場に排水の浄化と損害賠償を要求した.工場側は水俣病の原因は工場ではないと主張して交渉を拒否し,水俣病と切り離した少額の見舞金なら支払うという態度をとった.漁民との交渉過程で起こった紛争には,企業側は容赦なく警察の導入をあおいだ.水俣市周辺における社会的緊張は高まり,11月2日,不知火海漁民4,000人が,はじめての国会議員の視察に陳情するために集まり,その帰途水俣工場に乱入して,工場事務所をたたきこわした.このニュースは全国に報道され,発見後3年半にしてようやく水俣病は全国民の注目を浴びることとなった.水俣工場の労働組合を先頭に,それを支持する社会党をはじめとして,多くの団体がこの漁民暴動を非難したが,この行動がなかったら水俣病が全国的なニュースになることもなかったであろう.
 政府部内では,工場側の反論を支持する通産大臣(次期の首相となり高度成長政策をとった最有力な政治家,池田勇人)が,熊大研究班の水俣病有機水銀説が社会紛争をもたらしたと非難した.厚生省が公表した水俣病原因研究の結論は,内部での動揺を反映するかのように,有機水銀と工場排水の関係をぼかしたものであり,しかも研究班を即日解散してしまった.また水俣工場や通産省の委託を受けた学者,団体は,十分な調査をしたとも思われないのにさまざまな異説を発表しはじめた.
 このとき工場の内部では,水俣病の発見以来ずっと患者の発見,治療に献身的な努力をつづけてきた附属病院長細川博士が,熊大の有機水銀説から自社の工場排水に疑いの目を向け,水俣工場の各部分から出るそれぞれの工場排水を猫に与える動物実験を続けていたが,アセトアルデヒド工場の排水を飲ませた猫に典型的な水俣病の症状を認め,病理解剖でこれが正しく水俣病であることを確認した.驚いた工場幹部は,細川博士の研究を禁止し,その研究結果のうち工場に有利とみられる部分のみを公表して反論の材料とするという手段に出た.すでに工場側は,1959(昭和34)年10月には自分の工場排水,それも有機合成工程の鍵ともいうべきアセトアルデヒド合成の排水が水俣病の原因であると考えられることを知りながら,外部に対してはそれを公表せず,かえって反論を展開していたのであった.
 1959(昭和34)年末には,県知事のあっせんで,不知火海漁連と水俣工場の間に,水俣病の原因にふれないという条件で合計1億円の漁業補償が支払われ,それと並行して水俣病患者の組織に対し,死者30万円,生存者年10万円の見舞金が工場から支払われることがきまった.工場側はこれは水俣病の原因とは全く無関係に,困窮した地域住民への見舞金として支払うものであることを外部に強調した.しかし,被害者が調印した協定書には,水俣病の原因が工場排水に関係あると判明した場合にもこれ以上の補償を求めないとする永久示談条項と,水俣病と工場排水の関係がないことが将来の研究で判明した時は年金の支給を打切るという免責条項が明記されていることからも,この時点で工場側が因果関係についてなんらかの事実を知ったうえで,実質的な補償協定としてこの見舞金協約が結ばれたと推察される.また,厚生省はこの時,見舞金支給対象の被害者を認定するために,医師による患者審査協議会を設置している.この協議会で認定された患者だけが,見舞金を受ける資格をもつとされたのであった.

Ⅵ 中和と忘却

 世論は概して漁民の直接行動に批判的であり,原因についても異説があり,しかも被害者に事実上の補償もされているとなると,これで社会紛争としての水俣病は終結したとされた.年があけると内政,外交にわたるはるかに大きな問題としての60年安保のかげに水俣病は忘れ去られた.暴動に参加した漁民は処罰され,因果関係については,中央の権威ある第三者による公正な研究のやり直しということで,政府部内と,日本医学会とにそれぞれ研究班が設けられた.前者は内容のはっきりしない研究を1年弱行った後,水俣病の原因は不明としたまま,予算切れを理由に消滅した.後者は水俣工場をはじめとする水銀を扱う企業の支持をうけたといわれ,日本最高の権威とされた東大医学部を中心に田宮委員会が組織されたが,世論が水俣病を忘れ去った1962(昭和37)年に何等結論を出さずに解散した.このように二つの場で真相の中和が行われたといってよいであろう.
 国の研究費を打切られた熊本大学の中では,細々と原因研究が進行し,1962(昭和37)年,衛生学教授入鹿山且郎はアルデヒド合成工程の廃触媒の中からメチル水銀化合物を分離し,水俣病原因物質として同定したが,学界内部でもほとんど注目をひかなかった.工場附属病院では,しばらくの間反論のための研究を命ぜられて忙殺されていた細川が,必死に工場幹部を説得して独自の原因研究を再開し,入鹿山と同じ結果を1962(昭和37)年までに得たが,その結果はもちろん工場内部でも極秘にされた.なお,この時期に熊本県が行った重要な研究として,水銀汚染の指標としての毛髪中の水銀蓄積濃度の調査がある.この結果,水俣市周辺だけでなく,不知火海の対岸の島々に住む漁民にも大量の水銀が発見されたが,その調査自体が公表されず,忘れられた.熊本大学もまた,外部からの有機水銀説に対する批判,反論があまりにもはげしかったために,水俣病の診断を,医学文献にメチル水銀中毒の特異な典型的症状と記載されているものに限定した.見舞金補償を受ける資格が水俣病の診断と結びついていた社会的条件も見のがせない.こうして水俣病と診断された被害者は,誰が見ても異論のないメチル水銀中毒患者の典型的なものだけに限定され,その結果1960(昭和35)年以降は1人も新患の発見はなく,水俣病は完全に終わったものとされた.1960年代前半,水俣病は完全に過去の問題として,社会から忘れ去られた.水俣では,工場の合理化計画に対する労組の長期ストライキと,経営側の労組分裂作戦の成功による勝利とが,1960年代前半の大きな社会問題であり,水俣病の患者は生きながら忘れられ,また自らもそれを望んだといえる.

Ⅶ 新潟での再発

 1965(昭和40)年6月,水俣から遠くはなれた新潟市郊外の阿賀野川下流に住む川魚漁師の間に,水俣病と同様な症状の数名の患者が発見されたと報じられなかったら,あるいは水俣病はあのまま永久に忘れられてしまったかも知れない.それはまさしく第二水俣病であり,患者の体内や食べていた魚にメチル水銀が確認された.阿賀野川上流と河口附近には,二つのアセトアルデヒド合成工場があった.発見が早かったために,発生の規模は水俣にくらべて小さかったが,それでも発見の年に死者5名,患者26名が認定された.すでに水銀が原因と判明しているにもかかわらず,新潟大学医学部を中心に組織された研究班の,因果関係研究の過程は,決して容易ではなかった.工業都市新潟市の周辺には,二つのアセトアルデヒド工場の他に,水銀を過去に使用した工場がいくつかあり,更に当時広く使われていた水銀系農薬も疑われた.また病気発見の前年,1964(昭和39)年にこの地方に多大の損害を与えた新潟大地震も,病気のこの時期の発生に何かの関連があるのではないかと疑われた.研究班はこうした多数の仮説を綿密な調査により一つ一つ検討して,1966(昭和41)年春に,阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が,メチル水銀の排出源として最も疑わしいという結論に到達した.
 ここから,第1の水俣病と全く同じ経過が展開した.企業と関連官庁は,研究班の調査結果に対する反論を展開し,報告の公表をおさえ,研究費予算を削減した.企業の委託を受けた学者が,企業に有利な異説を展開した.研究班の学者が国会に呼ばれて証言を求められると,官庁の高官が因果関係をあいまいにするようひそかに頼みこんだとさえいわれる.第一次水俣病と全く同じシーンの繰り返しだった.1年余を経てようやく公表された因果関係の研究結果は,昭和電工が阿賀野川の汚染源であることをはっきりと示していたが,企業側は,たとえ国の結論が黒と出てもそれには従わないと公言した.また研究班の報告は,いったん公表されてから更に1年半,政府部内での検討調整中と称して,正式のものとは認められない立場におかれた.
 このようなあいまいな政府の態度にたえきれなくなった新潟の被害者のうち,最もはげしい被害を受け,働き手に死者を出した三家族は,行政による原因と責任の究明に見切りをつけて,因果関係と加害責任の確定を目的とした損害賠償請求の民事訴訟にふみ切った.半農半漁の貧困層が主であった被害者にとって,裁判所というものは先祖代々かかわりをもったことのない場であり,おそろしい存在であったから,その裁判所に救済を求めたのは,たとえ弁護士の強い勧誘があったにせよ,大きな決断のいる行動であった.また弁護士にしても,科学的な因果関係の論争がからむこの事件は,全く新しい挑戦的な体験であり,決して成算が最初からあったわけではない.この事件は戦後はじめて,の公害問題が法廷にかかった事件であり,弁護士は高校の化学教科書を手にして,第一歩から勉強をしなければならなかった.しかし,最初の事件として弁護団は全国の科学者に協力を求め,よく難解な科学論文や企業側の反論を理解して,順調に法廷活動を進めた.また新潟の被害者が,法廷に提訴してのち,富山のイタイイタイ病(重いCd中毒で骨折を起こす公害病)の被害者や熊本の水俣病患者を訪れて,公害そのものの歴史について学ぶかたわら,行動に立ち上がるよう激励したことは,全国の公害被害者運動に対して大きな刺戟を与えた.イタイイタイ病の被害者はこの働きかけですぐに同様な提訴を裁判所に対して行ったし,水俣では1968(昭和43)年初頭に新潟の患者の訪問を受けて,はじめて市民の中に水俣病の被害者に対する支援組織が生まれ,その後今日までの長い患者の運動を献身的に支える活動がはじまる.この時,分裂させられたチッソ水俣工場の第一労組は,1959(昭和34)年の漁民乱入事件の前後に自分たちの組織がとった企業支持の行動を反省し,日本の労働組合史上はじめての「恥の決議」を行って被害者支援を誓った.新潟の患者の行動は,忘却の厚い壁に塗りこめられていた水俣病を,社会の表面に引き出す働きをした.水俣の被害者は,新潟の被害者が病人でありながら胸を張って歩む姿に,大いにはげまされ,ふたたび自らの運動を,市民の少数派組織に支援されながら開始した.

Ⅷ 政府見解と再交渉,調停

 1968(昭和43)年9月,病気の発見より実に12年後,政府はようやく水俣病の因果関係を公的に認め,水俣病が公害であることを宣言した.しかしこの12年間に,チッソ水俣工場は,かつての日本をリードする電気化学と有機合成化学の先頭工場から,1960年代に急激に進行した石油化学への転換に乗りおくれた,二流の化学工場へ転落していた.この場合はチッソの技術ナショナリズムと高い誇りが,石油化学転換へのブレーキとなった.水俣市民は,衰退する企業城下町の未来に不安を感じはじめた.そこへ水俣病の因果関係の再確認は,未来に対する大きな打撃と受けとられた.水俣市民の多数派は,地域の将来のために,事を荒立てずチッソに負担を与えないような,共同体的紛争解決を望んでおり,また12年間事態を放置し,何等の積極的な努力を行ったともみられない,国,県,市の行政も,責任の明確化をおそれて,同様の態度を示した.責任の明確化と補償のやり直しを要求する被害者集団は,こうして地域社会の中で絶対少数派になった.チッソは直接の交渉を拒否し,国,県の介入による第三者機関のあっせんならば応ずるという意思を表明した.しかし,これまでの公害の歴史から,第三者機関による調停ではほとんどの場合企業側に有利な結果が得られることは周知であり,1959(昭和34)年の見舞金協約もその実例の一つであった.
 今回も事態は同じ軌跡をたどるかにみえた.厚生省が任命する3人の専門家による調停委員会が出す結論には,異議なく従うという白紙委任状への署名を,熊本県と水俣市の行政担当者が被害者から集めてまわった。だが,その文面はもともと企業側が作成して行政側に渡したものであった.水俣病被害者の多数はこれに署名したが,以前に見舞金協約の際,第三者機関ににがい目にあわされた記憶をもつ少数派は署名を拒否した.ここにようやく動きはじめた被害者の組織は,白紙委任状への署名をめぐって分裂させられたのである.多数派は補償問題について厚生省の作る第三者機関に一任したので,一任派と呼ばれ,少数派は新潟にならって訴訟を検討したので,訴訟派とこの後呼ばれることになる.厚生省は既定方針通り,法律家,行政家,医師の3人によって構成される調停委員会を設け,労働災害補償の考え方を準用して調停を進めた.しかし,この方向は理論的に見ても原因者過失を不問にする点で誤りだったといわざるをえないし,3人の委員も水俣病の実態に関しては経験,知識に欠ける人々であった.

Ⅸ 水俣の提訴と市民の支援

 一方,訴訟を決意した少数派の道は,新潟に比しても決して容易なものではなかった.日本でこれまで公害の訴訟による解決,救済が全くなかったのは,企業を規制する法律がほとんどなく,あってもその適用は巧みに限定されていたからである.1958(昭和33)年に作られた工場排水規制法においてさえ,水俣病をひきおこしたアセトアルデヒド合成工場の排水は規制の対象になっていなかったほどである.結局民法の最も一般的な,故意または過失による不法行為の責任を問うほかに道はなかった.しかし工場排水の無処理放流はこれまで長い間の経営常識であり,それが過失として責任を問われる行為であることを立証するのは,きわめて困難な作業であって,一時は弁護団にとって不可能ではないかと判断された.
 このとき,水俣市民の少数有志が被害者運動の支援のために作った「水俣病市民会議」と,熊本市におけるその協力団体「水俣病を告発する会」の有志が,裁判を支援することを当初の目的として,水俣病研究会を作った.ここに一般市民の有志,研究者,ジャーナリズム,チッソ労働者等,さまざまな職種の市民が集まって,水俣病の全歴史についての研究をはじめた.チッソが証拠となるような古い操業資料を焼却すると,その一部はひそかに労働者の手によって持出された.水俣病の発見者細川博士も,すでに引退し死の床にあったが,隠された工場内での実験結果について証言した.公表された事実と断片的な資料を集成して,水俣病研究会はチッソの過失(liability)と加害者責任を明らかにした報告書を作りあげた.また告発する会は,裁判の進行状況と被害者運動の諸局面を詳しく報道する小さな新聞を作り,全国に発送した.法廷における立証活動はおそく,困難であり,新潟ほど活発とはいかなかったが,法廷をはるかに上回る大衆運動が,水俣を震源地として,熊本を経て全国にひろがったのである.1968(昭和43)年から1970(昭和45)年にかけて,水俣病の経過と真相を紹介する本が何冊か出版されたが,その中でも水俣に住む主婦で詩人の石牟礼道子の『苦海浄土』は,水俣の自然の美しさと,その中での水俣病の悲惨を幻想的な筆で記し,全国に水俣病を知らせるうえで大きな働きをした.彼女はのちにこの作品でマグサイサイ賞を受けることになる.
 厚生省が任命した調停委は,1970(昭和45)年5月,加害企業の責任を不問にしたうえで低額の補償金支払いを企業に命ずる案を提出し,これは世論の批判を浴びた.しかし,衰退する企業城下町の運命共同体に生きる多数派の被害者は,止むを得ずこの案を受諾して調印した.こうして一任派が妥協し,訴訟派が前途に展望を見出せない時期にさしかかった時,もう一つの重大な動きが進行していた.それは1人の住民の疑問から出発して,水俣病の定義を問い直すものになった.

Ⅹ 水俣病の問直し

 一般には.水俣病とは典型的メチル水銀中毒の病状を呈する病気で,1953(昭和28)年から1960(昭和35)年の間に発生し,患者審査会が認定したものだけが患者であると信じられてきた.患者審査会の中心になった熊大医学部は,有機水銀説をめぐる反論と批判にさらされ,それから身を守るために,典型的な症状である視野狭窄,運動失調,知覚障害のほとんどがそろっている場合のみを,限定的に水俣病として認定してきた傾向があった.新潟における第二例の発生と,それに伴う広範囲な疫学的調査は,この他にも多様な症状が汚染の程度に応じて現れることを明らかにしていた.また漁業者としての利害関係や,地域共同体の圧力によって,自らが水俣病であることを知りながらも認定を申請しない患者も多く,更にはみずから水俣病と気づかぬ者もあり,認定された患者とほとんど症状のちがわない住民がたくさんいることは,地域住民には気づかれていたが,審査会の医師はそれを積極的に調べようとはしなかった.審査会は,その発足の時に見舞金支給資格の認定と制度的に結びつけられ,慎重に適格者を選ぶよう方向づけられ,かつ死後認定は行わない方針をもっていた.これは単なる不注意であったかもしれないが,結果としては水俣病の過小評価をもたらし,チッソを頂点とする企業城下町の運命共同体の利益と合致することになった.1970(昭和45)年までの水俣病の概念は,明らかに意図的な過小評価であった.
 水俣の患者多発地区に住んでいた漁師,川本輝夫は,父が1966(昭和41)年に死んだときの症状が水俣病の典型であったこと,自分にもその症状があることに気づき,その確認を求めてあらゆる手をつくし,医療機関,審査会,はては人権擁護委などを訪れるが,補償金ほしさの行動かとあしらわれ,死亡者の認定は死亡時期を理由に,拒否され,彼自身の申請した審査の結果は否定された.この結果に疑問をもった彼は,周辺の地域で典型的な症状をもつ例を次々に掘りおこし,再申請を試みるが,やはり却下された.ここで行政不服審査請求の制度があることを知り,水俣病研究会の支援を受けて,厚生省(のちに環境庁)へ熊本県の行った棄却処分取消を求めた.熊本県はこれに対して「これ以上権威のある診断なし」と答えたことから,水俣病研究会は詳細な実例をあげて反論し,それまでの審査結果が,当然認定すべき事例を棄却していることを立証した.水銀汚染によって,これまで水俣病の特異的症状と考えられていたものの他に,当然全身病として多くの臓器に非特異的な症状を生ずるが,たとえばその一つである高血圧や糖尿病の存在を以て,特異性症状の原因であるとし,水銀汚染を否定するといったことがしばしばあった.
 だが,この反論の結果1971(昭和46)年に環境庁は,「有機水銀汚染の影響が否定できないものは,水俣病と認定すべきである」と裁決したのである.この裁決はそれまで政治的など種々の理由により不当に限定されていた水俣病の概念を,正当な範囲に近づけた.その結果,企業と地域運命共同体が避けようとしていた事態,つまり患者数の増加をもたらすこととなった.これまでの運動は,せいぜい100人ほどの少数派の患者によって進められてきたのだが,それだけでも大きな問題として全国に知れわたった.これ以上患者の数がふえたとしたら,企業経営が危機に直面することは明らかであった.新潟の民事訴訟で患者が勝訴したニュースも,かえって水俣市民の不安を増加させる効果をもたらした.審査のやり直しによって,それまで棄却された患者が新たに認定を受けたが,彼らに対してチッソはやはり直接交渉を拒否し,第三者の調停にのみ応ずると答えた.水俣市民の間では,患者の増加は補償額の増加による企業の業績悪化,将来への不安の深化と受けとられ,新患者の補償要求に対して強い圧力がかけられた.水俣市民の多数の中からチッソと水俣を守れという声がたかまった.実は水俣市民のかなりの部分にも,自分が不治の病である水俣病にかかっているかもしれないとの不安は共通にあり,それがかえって少数派運動への迫害の原動力になったふしもある.新患者達がチッソと直接交渉しようとする運動は,水俣では企業と行政そして地域の世論の厚い壁にはばまれて,容易に進展を見せなかった.その上,企業と行政による新患者の切りくずしによって,第三者調停に応ずる患者も現れた.一任派と訴訟派の分裂がここでも繰り返されたのである.

ⅩⅠ 本社交渉,座りこみ

 運動の先頭に立っていた川本ら少数の患者は,水俣での交渉に見切りをつけて,チッソ本社のある東京へ上り,本社において企業の最高責任者である社長との直接交渉を要求した.上京した患者は少数ではあったが,東京において市民の支援がこれに加わり,交渉を要求する座りこみがチッソ本社内ではじまり,警察に排除されてからは本社前の路上において,1971(昭和46)年12月から18ヵ月に及ぶ長期座りこみ自主交渉が開始された.チッソの他の工場に働く労働者に状況を訴えて協力を求めようとした川本らが,千葉五井工場を訪れたとき,企業に忠誠を誓う多数派労組はこれに暴行を加えた.世界的に有名な写真家,ユージン・スミスが,のちに死因の一つとなる重傷を負ったのはこの衝突においてである.この暴行は世論の批判を浴び,座りこみ自主交渉団に対する市民の支援は強まった.水俣で企業に有利に作用した運命共同体の観念は,東京では成立しなかった.逆に1968~69(昭和43~44)年の大学紛争で社会の矛盾にふれ,あるいは大学を追われた青年層が,無私の献身的な支援者として座りこみを支え,首都の治安問題としてこの座りこみを解散させようとする警察に対しても,非暴力直接行動としてよく拮抗する力量を示して,日本の大衆運動史上まれに見る大規模な長期座りこみを維持した.これは当然,チッソの営業活動にとっては大きな打撃であった.
 1972(昭和47)年6月,ストックホルムで開かれた国連環境会議は,水俣病患者らの参加により,日本の公害の深刻さと,企業,国の責任を世界に知らせる場になった.はじめ日本政府がこの会議のために用意した報告文書には,水俣病などの具体的事例については1行の記述もなかった.これを読んで憤激した市民団体は,水俣病をはじめとする日本の公害の赤裸々な報告書を作り,更に水俣病,カネミ油症(PCB中毒,1968〈昭和43〉年発生)の患者代表を送ることに決定した.この動きに対して政府は,水俣病その他の公害に対する特別報告書を急遽作成し,辛うじて体面を保つという経緯があった.ストックホルムに到着した水俣病患者は,水俣病の悲惨さと,それを再び繰り返してはならない決意を世界に訴えた.高度経済成長政策のもと,経済発展と近代化の模範的典型と見なされていた日本に,水俣病をはじめとする公害のような暗い側面があったことは,全世界,特に発展途上国をおどろかせ,開発モデルを再検討するきっかけとなった.水俣病患者の方でも北欧の制度化の進んだ福祉国家に教えられることが多く,その日本との差におどろきをおぼえた.
 水俣病患者のチッソ本社前の座りこみは,こうして世界の注目を集めた.チッソにとっても,首都の警察にとってもこれは厄介物であり,機会をとらえては排除,撤去しようといろいろな試みがなされたが,成功しなかった.毎日のように起こるチッソ社員との小ぜりあいをとらえて,川本や支援の市民を拘束,逮捕しようとする動きがあり,たとえば1972(昭和47)年10月にはチッソ社員による川本告訴撤回と,座りこみテント撤去の取引きがはかられた.川本はこれを拒否し,傷害罪で起訴された.この起訴はのちに法廷で公害被害者に対する差別的起訴として棄却され,日本司法史上はじめての公訴棄却事件となった.しかしこの起訴で,座りこみ自主交渉運動が受けた打撃は小さくなかった.政府が設けた第三者機関である公害等調整委員会のあっせんに頼ろうとする動きが患者の中に増え,調停へ持ちこもうとする動きが活発になった.
 自主交渉派は,調停への動きに不審をもち,公害等調整委に提出されている調停委任状の署名捺印を調べたところ,偽造された署名捺印が発見された.このような不正を含んだ強引な調停工作は,公害紛争においてはさほど珍しくないが,表面に出たのははじめてであった.これで調停委員の権威は失墜し,訴訟判決前の早期解決を目標としていた調停は事実上失敗した.1973(昭和48)年3月には,水俣病民事訴訟の判決が下され,原告被害者側の請求が認容された.訴訟派の患者は補償細目をチッソと交渉するために上京して自主交渉派と合流し,環境庁長官のあっせんも得て,1973(昭和48)年7月,チッソは判決をやや上回る内容の補償を全認定患者に対して支払うことを約束した.これによって1年半に及ぶ座りこみは解かれた.

ⅩⅡ 第三水俣病と行政側の反撃

 1971(昭和46)年の環境庁裁決のころ活動を開始した熊大医学部の第二次水俣病研究班は,拡張された水俣病の概念を基礎にして10年後の水俣病の再検討を進め,濃厚汚染地域,中程度汚染地域における症状をすべて検討する方法をとった.ところが対照として選んだ有明町地域にも水俣病と似た症状があり,水銀汚染の可能性も否定できないことが判明した.この結果は1973(昭和48)年5月,新聞スクープにより第三水俣病の発見として報道され,そのころ日本全国の各地で発見されていた水銀やPCBによる沿岸各地の汚染と結びついて,沿岸漁業にパニックを起こす大事件に展開した.1972(昭和47)年から1973(昭和48)年は,石油危機直前の日本経済が高度成長のピークにあり,異常な好況と通貨不安に混乱した時期で,各地の石油化学コンビナートは無理な大増産のために,爆発,火災などの事故が相次いで起こった時期でもあった.各地の漁民は工場の排水口や港湾を実力で封鎖し,世情は騒然となった.国家行政としては,事態を収拾するために,これ以上汚染の影響がひろがるのを認めるわけにはいかぬところへ追いこまれた.行政側は協力的な医師を動員して「水俣病による社会不安を鎮めるための住民健康調査」なるものを実施し,5万人を調査して水俣病の疑いあるもの158人を見出したと発表した.しかし,うち114人はすでに水俣病と認定されていた.しかもその後の別の調査で水俣病患者と認定されるものが続々出たことでわかるように,この調査は世論操作のためのものであったといわれても仕方ないだろう.この調査では患者が金ほしさに病状を訴えているという偏った問題のとらえ方が,検査に当たった医師の間に流されていたことからも,調査自体が一定の偏見のもとに計画されたとしか思われない.第三水俣病の患者に対しては,典型症状があるかないかという点に問題が限定されて調査され,新しく作られた専門家医師の委員会では第三水俣病の存在自体が否定された.ここでも有機水銀中毒を全身症状と考えず,特異性疾患だけに認識を集中する断片的な医学の方法論が決定権を握った.新しい事態に直面して,現実から学ぶことをせず,既存の外国から輸入した理論の尺度をあてはめ,定量化できた指標だけで限定的に対象をとらえるという科学研究における方法論的欠陥は特に環境に関係する分野では深刻であった.水銀汚染の有無については,ついに十分な調査はなされなかった.
 熊本県の業務と定められた患者認定審査会が,任期切れを理由に業務を一時停止し(1974~75年),認定を行わないという事態も起こり,認定患者を増やさないという効果をもたらした.1975(昭和50)年以降の認定業務は目立って認定の比率が下がり,保留と棄却が多くなった.一方,川本らの運動に触発されて,認定を申請する住民の数は増加し,1975(昭和50)年には3,000人をこえた.
 これを牽制するかのように,一部のジャーナリズムに,申請者の中には水俣病でないものが含まれているという記事がしばしば登場したが,その代表例は,1975(昭和50)年,熊本県議会公害特別委員長が環境庁で語ったニセ患者発言であった.これは地元の公職にある者の発言として影響力が大きいため,患者の抗議運動も激しく,その中から逮捕,起訴される者が出た.その後もこの種の発言が,中央,地方で繰り返されており,意図的な世論操作の存在を感じさせる.
 チッソ水俣工場の水銀排出は,当該工場の操業停止で止まったが,水俣湾内にすでに排出された数百トンにのぼる水銀を含んだ汚泥の浚渫除去が,不況下の公共投資工事として計画された.チッソの経営が不振であるうえに,補償金支払いがかさむ一方であるところへ,地域経済の救済策としてもってこられた大型土木工事は,どんなものであっても地元に歓迎されたが,水俣病被害者の少数派は,泥土をかきまわすことが新しい水銀汚染につながることをおそれた.熊本県は熊本大学の教授を中心に安全性の検討委員会を設けたが,そこで念入りな議論が行われたというより,工事の進行を前提としたものであったと見るべきであろう.工事に反対する被害者と市民の少数派は行政訴訟で争ったが敗訴し,水銀を含んだ泥土の浚渫・埋立工事は進行中である.
 多額の補償金を支払うよう義務づけられたチッソの経営は,化学工業の不況もあって赤字であり,補償金の支払いすら困難な状況になった.市中銀行もこれ以上の融資をしぶり,公的資金の導入を求めた.チッソは補償金の一時政府肩代りを要求した.これに対し,政府は,県が債券を発行し,その引き受けを政府資金運用部と市中銀行が行うことを条件に,その資金をチッソに貸付ける形を認めた.実質的には公的資金で加害企業を救済することになるこの制度には批判もあるが,ともかく1978(昭和53)年から3年間試験的に行われることとなり,のちに延長された.
 1978(昭和53)年夏,環境庁は水俣病の認定に関して事務次官通達を新たに出し,水俣病の範囲を,「医学的に見て蓋然性が高い場合」と限定し,死亡者などについても「所要の検診資料がなく,新資料を得る見込がない場合は認定できない」とした.これは申請者の増加と累積に対して,大量審査,大量棄却の方針を出したものと被害者には受け取られている.事実この通達以後,棄却される率は目立つて増えている.
 1973(昭和48)年,環境庁長官三木武夫は,水俣を視察した時に,水俣病の研究を国の事業で現地で行うことを約束し,1979(昭和54)年,国立水俣病研究センターが水俣市に開設された.しかしこの計画の過程において,企画委員の間では,過去に水俣病について結論を出さずに解散した田宮委員会のメンバーが指導権を握り,水俣病被害者の声は聞かれなかった.したがって被害者側は研究センターへの協力を拒否したため,立派な設備をもつにもかかわらずその機能は全く発揮されていない.この例に典型的に見られるように,問題を最もよく知っている当事者としての被害者の関与・参加をはじめから認めないところに,行政における水俣病対策の欠点,限界が起因すると考えられる.

ⅩⅢ 被害者運動と再生の努力

 1973(昭和48)年の第一次民事訴訟判決までは,被害者の運動と,それを支援する市民の努力が,主として加害企業チッソに向けられた.チッソはできるだけ交渉を行政の用意する第三者調停にまかせようとした.一方,被害者側においては,行政と企業に切りくずされて少数派になった訴訟派,自主交渉派などの尖鋭的な部分が生じ,それが市民有志の支援を得て全体の運動をそれぞれの時期で引っぱる機関車の役目を果たした.高度成長が終わった1974(昭和49)年以降においては,企業よりもむしろ制度化された公害対策を持った行政が運動と対立するという状況があらわれており,被害者の運動がそれを打開して新しい局面を開くことは,ますます困難になってきているとみられる.運動に対する弾圧な挑発に対しては,上記のように川本起訴を公訴棄却に持ちこんだような反撃や,その他多数の訴訟事件に見られるように,法廷における公開論争を手段としてある程度までの効果を収めたが,決定的なものは見うけられていない.運動をはばむ最大の壁になっている認定制度に対しては,弁護士が主導権をとる形で,棄却者,処分保留者を中心とする第二次,第三次民事訴訟が試みられ,一部は司法認定の道をひらいたが,労多くして効少ない結果になっている.水俣で被害者が告発した加害企業の刑事責任も,1960(昭和35)年当時の経営者が起訴され,一審有罪にはなったが控訴中であり,明確な結論はまだ出ない.当初から責任の大きな部分を占め,その比重が年と共に大きくなる行政の責任について,それを問う有効な方法はまだ見つかっていない.行政の側は,被害者からこれだけ請求があっても,住民の徹底検診や長期観察という,水俣病の全体像をつかむ基本的な仕事すら手をつけようとしないのが現状であり,目下の日本の政治的現状では当分この状態がつづくことが予想される.現状では被害者の総数すら正確に把握されていないありさまであり,本質的な対策が考えられる状態ではないといえる.
 しかし,このような困難な状況のもとでも,被害者の自力更生の運動はつづけられており,今後も止むことはないであろう.川本がかつて語った「過去,被害者の闘いがなかったが故に,弱かったが故に,水俣病の真実は曇ってきたのだ」という教訓は,立場のちがいはあっても,すべての被害者と支援に当たる市民が共通に認める真理である.そして小さくはあるがいくつかの再生への試みが芽生えていることも事実である.
 水俣病患者が1972(昭和47)年,ストックホルム国連環境会議に出席して大きな影響を与えたことを前述したが,日本の公害被害者が不自由な身体で,きびしい運動の中から国境をこえて外国によびかけたのはこれが最初であった.1975(昭和50)年にカナダインディアンの間に水俣病が発生していると聞くと,早速彼らを水俣と新潟に招き,1976(昭和51)年にはバンクーバーのHAB-ITAT会議に参加してオンタリオとケベックのインディアン居留地を訪れるなどの活動を行っている.1982(昭和57)年にはナイロビで開催された国連環境会議に出席してストックホルムから10年の反省を語り,アジアにひろがる公害に警告を与えた.この国際的な活動は,水俣病被害者運動の特徴である.
 第一次民事訴訟を契機として結成された水俣病研究会は,市民による学際的な研究報告を次々と発表し,その水準の高さで学界をおどろかせた.その仕事の流れは熊本大学内に水俣病に関する最も完備した資料センターを完成させ,現在もその整備の仕事は進行しているが,これに関して次に述べる青林舎との協力によってなしとげられた仕事は大きい.
 青林舎は,傑出した記録映画作家,土本典昭を中心とした映画人グループで,数々の水俣病と被害者運動を題材とした映画記録を作り,その上映運動を通して問題を全国に知らせることに貢献し,その業績は国際的に広く知られている.1978(昭和53)年,このグループは水俣から半径30km以内の不知火海対岸,133地点65集落を半年かかって回り,住民に水俣病の映画を観せ,かくれた患者を掘りおこす,前代未踏の旅を行った.これは,行政が全く手を打たなかった領域に対する芸術家の働きかけとなった.土本が1975(昭和50)年に制作した「医学としての水俣病――三部作」はそれまでの水俣病に関する映像を集成して,医学的資料として構成したものである.この映画の解説的な教科書が必要とされた際に,水俣病研究会がこれに協力し,これまでに水俣病について書かれたすべての文献を集成し,細川をはじめとする主要な医学者のほとんどが協力した,水俣病の決定版とも言うべき医学書『水俣病――20年の研究と今日の課題』が1979(昭和54)年完成した.水俣病に関して今日の世界で得られる最高の医学教科書が,映画人と市民の手で作られたのであった.
 水俣病の症状についても,現地を歩き最も広い調査を行って,全体像をつかもうとしているのは,水俣病研究会に参加した原田正純をはじめとする医師グループである.いわゆるHunter-Russel症状群とよばれる特異的症状の組み合せの基盤に,高血圧,糖尿,肝臓障害などの非特異的症状が存在することは予想され,かつ広く認められた事実だが,その一部は病理学的にも水銀の体内分布によってうらづけられている1).また長期にわたる生活の場における観察によって,長期微量汚染の危険が決して無視できないことを明らかにしている.しかし臨床的な非特異性症状の組合せは,しばしば老化の促進に似た形で起こるために,軽症者の認定は特に困難である.治療の努力も種々試みられていて,リハビリテーションの性格をもつものは,運動機能訓練には多少の効果があるが,中毒症としての体質的な回復は望めないのが実情である.
 社会科学,自然科学両側面の学際的な研究を不知火海総合調査団が1976(昭和51)年から開始し,その結果が出はじめたところである2).被害者の支援運動に参加した青年の幾人かは,現地に住みついて様々な活動をつづけている.その一つは全国からの寄金で建てられた相思社センターで,青年の合宿訓練所のかたわら,軽症者の授産場としてもある程度の成功をおさめた.更に1年間の生活学校を企画し,都市青年の時間をかけた現地教育をめざしているが,これはインドの都市青年学習運動としての農村におけるコミュニティキャンプの定着したものとよく似ている.
 熟達した旅役者,砂田明が,現地に住みついて患者と共生して自然農法で生きるかたわら,伝統的な独り芝居として水俣病を表現する巡礼をつづけていることも,水俣病を過去のものとせず訴えつづける一つの力になっている.患者の生産する自然農法による生産物を全国の消費者に送るネットワーク形成や,そのかたわら東洋医学の水俣病治療への適用をはかるなど,さまざまな試みが水俣ではじめられている.そのほとんどは有志の自発的な活動であり,制度的な支持をもたない故の困難はあるが,自立をめざしてある程度の成果をあげている.
 水俣駅前には,民医連(全日本民主医療機関連合会)が組織した水俣診療所が作られ,水俣病患者のための医療機関として役立っている.企業城下町の運命共同体水俣市の中で,患者が気がねなく水俣病を口にし,熟練した医師にかかれる場所が,常設の診療所として定着していることの意味は大きい.
 地域社会への再生の試みは,今はじまったばかりであり,水俣病は終わっていない.
 [注]
 1) 白本博次「水銀汚染の実態」『公害研究』第2巻第3号,1973年,1ページ.
 2) 色川大吉編『水俣の啓示―不知火海総合調査報告』上下,筑摩書房,1983年.

むすび

 水俣病は,日本で最も高度に急成長をとげた企業の心臓部に当たる工場から発生した.企業は自らの技術に自信を持ちすぎていたが故に廃棄物の危険を過小評価した.企業と行政は公害を治安問題としてとらえ,一時はその抑圧に成功したが,再発により結局は企業の経営に再起不可能な打撃を与えた.今なお解決の道ははるかに遠く,現代の我々の視界をこえている.企業と行政は危機に直面してその全体像をつかむことを怠り,伝統的共同体の維持を目的として,その場しのぎの紛争解決の手段に固執したことが,かえって問題を大きくし,解決不能にした.この局面をともかく打開してきたのは,被害者自身の運動と,それを支援する市民,そして運動に動かされた世論であった.圧倒的多数派の前に黙りこみ,耐え,忘れ去られることを望んでいた被害者の中から,少数ではあってもとことんまであきらめない新しい運動が生まれてきたところに,民主主義の普遍化が見られる.運動のないところでは局面の前進はなく,問題は忘れ去られた.運動の中で新しい方法がみつかり,局面が開かれた.その多くは非暴力直接行動であり,社会的に弱者である被害者は,問題のより深い体験と理解を武器にする他はなかった.その運動は,基本的人権を求め,より深く人間性に訴える時に前進した.この中心課題をめぐって,市民の協力が有効になる多くの局面があり,水俣病においては概ねこの協力が成功した.
 未だに完全に解かれていない問題は,被害の把握認識と救済の過程における,被害者の参加である.前者は専門の科学者と現在の環境科学の水準に任せておくにはあまりに大きすぎ,後者は現在の日本の政治,行政の手におえないことが明らかといえよう.社会的弱者である被害者の参加と関与を,認識と救済の段階にいかに積極的に実現するかが,今後の課題になる.これは新しい災厄に対する共通の教訓であろう.
 [参考文献]
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水俣病を告発する会(熊本)『水俣病にたいする企業の責任―チッソの不法行為』,1970年.
水俣病研究会『認定制度への挑戦―水俣病に対するチッソ・行政・医学の責任』,水俣病を告発する会(東京),1972年.
原田正純『水俣病』,岩波書店,1972年.
水俣病を告発する会(東京)『「告発」縮刷版』,1974年.
土本典昭『わが映画発見の旅―不知火海水俣病元年の記録』,筑摩書房,1974年.
有馬澄雄編『水俣病―20年の研究と今日の課題』,青林舎,1979年.
水俣病自主交渉川本裁判資料集編集委員会『水俣病自主交渉川本裁判資料集』,青林舎,1981年.
原田正純『水俣病にまなぶ旅』,日本評論社,1985年.
【宇井 純】