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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第1章:伝統的交通・運輸体系
Author: 山本 弘文
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第1章:伝統的交通・運輸体系

 (1) 道 路
 江戸時代の道路交通は,きびしい封建的な統制のもとに置かれていた.将軍居住地の江戸からは5本の街道が放射線状に伸び,各街道には10km前後の間隔で宿場が設けられた.宿場には武士階級の通行と休泊のため,人馬と宿舎が常備され,幕府から任命された宿役人の指揮のもとで,輸送や休泊にかんする業務の運営が行われた.常備された人馬の数は,江戸と京都(天皇居住地)を結ぶ東海道の場合,各宿に100人と100匹,これについで重要な中山道では50人と50匹,残りの三街道(甲州街道,日光街道,奥州街道)は25人と25匹であった.この五街道以外の街道は,それより重要性が低く,交通量も少なかったが,そこにも地方の領主たちによって宿場や継場が設けられ,交通量に応じた人馬が用意された.しかし,これらの施設を優先的に利用できたのは武士階級であった.彼らは時価よりはるかに安い賃銭(定賃銭)で,これらの施設や人馬を利用することができた.しかし定賃銭での使用量には,身分に応じた一定の制限(人馬遣高[つかいだか]制限)があった.貨客の輸送はすべて,隣駅までの駅伝であった.また首都の防衛のため,街道の各所に関所や木戸が設けられ,車両の通行と大河の架橋も原則として禁止された.
 以上のような輸送・休泊サービスの代償として,沿道の宿場は地税の一部を免除され,一定額の助成金を下付されたほか,庶民の休泊と輸送業務に従事することを許された.しかし庶民の休泊と人馬の利用は,武士階級の通行に支障のないよう制限され,料金ももちろん時価であった.
 他方,武士階級の輸送需要が多く,宿場の常備人馬でまかなうことができな
第1図 江戸時代末期の交通路.
い場合には,近隣農村の人馬(助郷人馬)が動員された,それらの村々はあらかじめ各宿に配属され,宿役人の指示に基づいて,そのつど必要な人馬を提供した.これらの村々はその代償として雑税を免除された.しかし免除された雑税は,輸送労働の負担を十分償うことができなかったので,幕末期には助郷村々の疲弊が進んだ.
 明治政府が幕府から引継いだ輸送制度は,このような宿と近隣農民の賦役に依存した封建的な制度であった.しかし明治政府がこの制度の廃止に踏切るまでには,かなりの時間を必要とした.それはわが国の街道と付属施設が,江戸時代を通じて,産業道路ないし商業施設として十分に成熟せず,封建的な軍事行政施設としてのわくを抜けだすことができなかったからであった.そのうえ明治政府成立直後の内戦も,この制度が本来持ちあわせた軍事的機能を,あらためて強調することになった.その結果政府は,勝利の見通しが明らかになった後もこの制度の維持に固執し,1868(明治元)年6月には,従来宿場近傍の村村に賦課した輸送労働を「海内一同」に拡大した.もっとも当時の布告は,その理由を負担の公平に求めたが,引続き高水準にあった公用輸送需要のもとで,それが負担の公平な増加に帰着することは疑いなかった.事実,軍事・行政上の通行は相変わらず盛んであったし,定賃銭人馬の利用制限も,それまでとほとんど変わりなかった.また安い公用定賃銭も,そのまま据え置かれたのであった,
 このような事情は,新たに労役を課せられた村々の強い抵抗を招いた.様々な理由を設けて労役の免除を願い出る村々が相次ぎ,人馬の調達はしだいに困難になった.公用定賃銭は内戦時の物価騰貴のため,すでに時価の半額にも及ばなかったし,不時の輸送労働は,日常の農作業を著しく阻害したからであった.もちろん抵抗に直面した政府は,繰りかえし布告を発して怠慢を叱責し,あるいは宥和につとめた.しかし時価の半額以下の低賃銭で,大量の輸送労働を農村から調達することは,結局不可能であった.そして労働の正当な対価を求める農民の力に押されて,公用人馬使用量の大幅な制限や公用定賃銭の値上げなど,相次いで譲歩を余儀なくされることになったのである.
 このような譲歩は政府の財政負担を増加し,ますます不能率になりつつあった制度を維持する根拠を,急速に掘り崩した.また1870(明治3)年4月に始まった官営鉄道の建設も,政府と宿役人が引続き道路輸送業務を管理・運営する理由を弱めた.その結果,新橋(現汐留)・横浜(現桜木町)間に最初の鉄道が開通した1872(明治5)年には,沿道住民による道路輸送業務の請負が宿ごとに認可され,ついで1875(明治8)年には,業務の民間への全面的な開放――自由な出願と同一規準による免許――が実現することになったのである.
 (2) 河川運輸
 街道と付属施設(宿,助郷,関所,番所など)が軍事・行政上,重要な役割を担ったのに対して,河川とその付属施設(河岸,川番所など)は,幕藩制下の,年貢米その他の物流の分野で,重要な役割を演じた.城下町の建設や参覲交代に見られるように,当初から商品経済と密接なかかわりを持った領主たちは,必要な消費財やサービスの調達を,年貢米その他の売却によって賄わなければ
ならなかった.そしてそのための河川の改修や河岸の新設が,江戸時代初期に各地で行われた.角倉了以による富士川,天龍川の改修(1607(慶長12)年),河村瑞賢による阿武隈川,最上川の改修(1671―1672(寛文11―12)年)などは,その代表的な例であった.わが国の河川は,脊梁山脈から流れでる短小な急流が多く,浚渫と改修,大小各種の舟の組合わせによって,はじめて舟運が可能になった.そのため上流で小舟に積込まれた荷物は,しばしば中流でより大きな川舟に積替えられ,河口の港でさらに廻船に積替えられた.中流での積替え(継舟)は,河岸問屋その他の営業圏にもとづいて行われた場合もあった.しかしそのような難点にもかかわらず河川運輸は,道路輸送にくらべてはるかに安い運賃で,大口の貨物を運ぶことができた.また積替えの回数も道路輸送にくらべて少なく,荷いたみも一般に軽微であった.そのため江戸時代を通じて,年貢米その他の領主荷物のほか,一般貨客の輸送においても,きわめて重要な役割を果たしたのであった.
 舟運の可能な河川には,各地に河岸が設けられ,河岸問屋のほか,舟持,水手[かこ],積卸し人足などが輸送業務に従事した.このうち河岸問屋は,運送取扱業者として荷物の積卸しや輸送を斡旋し,荷主から受取った運賃・手数料のうち運賃を舟持に支払い,取扱手数料を取得した.しかし,後にはみずから舟持となり,輸送現業を兼ねる者もあらわれた.彼らは幕府・諸藩に冥加金を上納して営業権を公認され,またしばしば村役人や往還問屋(荷主・旅行者に対する人馬斡旋業)を兼ねた.そして舟持,水手,積卸し人足などを指揮し,他の河岸問屋と提携して,河川運輸の組織者となったのである.維新後,内国通運会社その他と提携して,近代河川運輸の担い手となった業者の中には,こうした河岸問屋が多数ふくまれていた.
 (3) 沿岸海運
 江戸時代の海運は,幕政初期に実施された鎖国政策や大船建造禁止令によって,2世紀以上にわたり沿岸海運に閉じ込められた.そのため,16世紀後半に西欧諸国から伝えられた造船技術や航海術も,発展の可能性を奪われ,平底一枚帆の大和型帆船(弁才[べざい]船)と沿岸航海(地乗り航海)のわくから抜けだすことができなかった.しかし沿岸の海運業は,幕藩体制の確立にともなって,幕府・諸藩の貢米や特産物などを中心に,しだいに盛んになった.もともと畑作中心の関東農村は,米作に適した畿内農村にくらべて人口扶養力が弱く,江戸市中の消費需要を賄うことができなかった.また幕領は全国各地に散在していたし,参覲交代と妻子の在府制によって江戸屋敷の開設を余儀なくされた諸大名も,米その他の消費物資を国もとから回漕しなければならなかった.そのため幕政初期の1620年代には,木綿,油,酒,酢,醤油などの日用品を江戸に補給する廻船(菱垣廻船)が,大坂・江戸間の運航を開始し,また1670年代には,酒のほか紙,塗物,金物などの雑貨類を江戸に輸送する有力な廻船(樽廻船)が,あらたに就航した.1700(元禄13)年から1702(元禄15)年までの3年間に江戸に入港したこれらの廻船は,合計4036艘にのぼった1).
 他方,東北・北陸・山陰地方の貢米や特産物を大坂や江戸に運ぶ西廻り海運や,出羽,三陸,岩代,磐城などの産物を太平洋岸沿いに江戸に運ぶ東廻り海運も,1670年代の航路の開拓以来とみに盛んになり,瀬戸内の塩や繰綿,綿布,紙,油などの雑貨類が戻り荷として北送された.こうして日本列島の沿岸各地には,多数の有力な港が開け,沿岸海運のネットワークができあがることになったのである.
 しかしこのような沿岸海運の繁栄は,幕末開港後,外国船の沿岸への進出によって,大きな脅威にさらされた.1868―1872(明治元―5)年の駐日英国領事の報告書2)によれば,横浜,神戸,長崎,函館,新潟などの開港場では,1860年代末から1870年代はじめにかけて,国内開港場間の大量の貨物が外国船によって移出入されていた.また日本人の傭船名義で,開港場以外の港へ出入する外国船も目立つようになった.
 明治政府の海運政策は,このような状況のなかで,沿岸諸港への外国船舶の進出防止と,西洋形船舶の増強を軸に進められた.すなわち1868(明治元)年10月には,諸藩に対して外国船の恣意的な雇入れと回漕を禁止し,また1869(明治2)年8月には,開港場以外への雇入外国船の乗入れを全面的に禁止した.
 他方,こうした外国船の進出防止策と並んで,自国海運の振興,助成策も積極的に進められた.すなわち1869(明治2)年11月には,西洋形帆船・蒸気船の所有を一般庶民にも許可し,また1870(明治3)年2月には「商船規則」を発表して,西洋形船舶の所有を強く奨励した.そして1870(明治3)年ころから,回漕会社,郵便蒸気船会社,三菱会社などに対する保護・助成策(貢米輸送の委託,船舶の貸与,助成金の交付など)を,相ついで推進することになったのである.

 [注]
 1) 豊田武・児玉幸多編『交通史』,山川出版社,1970(昭和45)年,265ページ.
 2) 山口和雄「明治初期の外国海運と三菱会社」,『世界済経分析』,岩波書店,1962(昭和37)年.
 [山本弘文]