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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第3章:鉄道優先時代の交通・運輸ー1892~1909(明治25~42)年 I 政策
Author: 原田 勝正
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第3章:鉄道優先時代の交通・運輸ー1892~1909(明治25~42)年 I 政策

 (1) 交通政策の転換
 1885(明治18)年は,日本の近代史にとって一つの重要な転機となった.すなわち,明治政府に対し,つよく憲法制定・国会開設・藩閥体制打破を叫んできた自由民権運動が決定的に退潮を見せ,松方大蔵卿のインフレーション収束政策が完了し,軍部は朝鮮支配をめぐって来たるべき清国との戦争準備を決意した.政府が完全に政治的主導権をにぎり,インフレーション収束は,民間の新たな資本投下を誘発し,これに見合う労働力は,インフレーション収束政策の過程で進行した農村の階級分化によって土地を失い都市に流出した人々によって充足され,ここに資本主義の本格的形成が開始されたのである.
 政治・経済・軍事にわたるこの1885(明治18)年の大きな転機以後,日本国家の進路は,国内における資本主義体制の確立と,国外におけるアジア支配政策の展開と,この二つを政府の主導権の下に具体化する方向によって統一されていったのである.1889(明治22)年の憲法制定,1890(明治23)年の国会開設,1894―1895(明治27―28)年の日清戦争は,その過程のあらわれであった.
 そして,交通政策についてみると,とくに1885(明治18)年以降の資本主義体制の確立にともなって,大きな変化があらわれてくる.
 それはひとくちにいって,陸上交通機関における鉄道優位の態勢が確立したという状況であった.すなわち前章でふれられたように明治初年までの段階においては,国内交通機関は,沿岸航路によるもののほかは,陸上交通機関は道路によるほかはなかったし,その道路交通機関は,幕藩体制の下における強い統制の結果,道路・橋梁などの施設は劣悪で,輸送手段は車両すらほとんど使われていなかったのである.そこで明治政府は,当初道路の改良にその重点をおくという方策をとったが,これは膨大な投資を必要とし,また十分に車両による輸送手段・改良をすすめることは,民間資本が脆弱である以上期待することが到底無理であった.
 このようなときに,鉄道が示した輸送効果は極めて大きいものとして認識された.新橋・横浜間の貨物輸送の開始は,正式開業から1年を経た1873(明治6)年9月15日であった.当初この区間ではそれほど輸送需要が大きいことはなかった.しかし,約10年のちには,鉄道の輸送力が,旅客・貨物ともに大きい力を発揮するという事実が2回実証された.
 その第1は西南戦争1)であった.西南戦争のさい開業していた線路は,京浜間,京阪神間だけであった.しかし,このような短い区間でも,鉄道の輸送効率の大きさは,軍部にあらためて鉄道の輸送力を認識させることになった.第2は,1884(明治17)年,前記日本鉄道の上野・前橋間が全通,その翌年同社の品川・赤羽間が開通して,上野・前橋間の鉄道と,新橋・横浜間の鉄道が連絡されてから起こった変化であった.群馬県の高崎・前橋は,付近に全国有数の蚕糸業地帯をもっていた.当時輸出商品の中心となっていたのは,生糸・繭・絹織物であり,これらの商品は,群馬県の場合,倉賀野から船積みされて利根川を下り,東京湾に出て横浜港に運ばれていた.ところが日本鉄道と新橋・横浜間鉄道が結ばれると,貨車輸送の方が到達時間の短いこと,運賃の低廉なこと,安全度の高いこと,ともに水運をはるかに上回ることが実証された.結局それまで水運によっていたこれら輸出商品の輸送が,数年のうちに,完全に鉄道に転移してしまったのである.
 第1の例は,軍部の鉄道に対する認識を改めさせ,第2の例は,政府・民間資本のそれを改めさせることになった.
 鉄道優位の政策は,このようにして,軍部と民間資本と,この二つの力が政府にはたらきかけるかたちで形成されていった.それはまた,さきに述べた,1885(明治18)年以降の日本の対外政策の中心となる勢力と,国内における資本主義体制確立の中心となる勢力と,この二つの勢力が,鉄道優位の政策を決定づける上で中心となったことを意味する.すなわちこの点で鉄道優位の政策は,1885(明治18)年以降の日本の進路と密接にかかわることになったと見てよいであろう.それは,具体的には鉄道優位の交通政策が,対外戦争のさいに有効な作用をもたらし,また国内における生産・流通の促進を実現したということである.
 (2) 鉄道優位の政策
 この鉄道優位の政策はどのようなかたちをとったか.まず第1に,政府の鉄道網整備計画を挙げる必要がある.1880年代後半,軍部・民間資本の鉄道建設促進のうごきが強まると,政府はこれらの要望を受け入れつつ,政府が鉄道建設について全面的に主導権を把握するための法的措置をとろうと意図した.
 とくに私設鉄道の計画は,一種の[鉄道熱」といわれるほど多く立てられ,それらの多くが主として株式投機の対象とされ,鉄道企業として実現する見通しを持つものがなく,投機の弊害が生じていた.当時,1885(明治18)年の内閣制実施とともに工部省が廃止され,鉄道局は内閣に直属していたが,鉄道局長官であった井上勝は,この弊害を見るにつけ,上に述べたような鉄道網整備の主導権を政府がにぎり,さらにすすんで私設鉄道を国有化する構想を抱いた.
 1890(明治23)年,国会開設の年,日本経済は最初の資本主義恐慌に見舞われた.私設鉄道企業のうち,計画段階にあるものはもちろん,既設路線をもつ企業の多くが経営収支の悪化によって,企業の継続は危機的な状況となった.`そこから国有化を希望する声が高まった.1891(明治24)年,このような状況を見さだめた井上は,内務大臣2)に対し鉄道敷設法および私設鉄道買収法の制定について上申書を提出した.
 この上申書が閣議で検討され,井上の構想した二つの法案をもとに,政府が法案をまとめて帝国議会に提出した.この法案は,議会の解散などにより,なかなか本格的な審議の対象とならなかったが,このような政府の動きをみて,民間では,これとは別に民間独自の法案を議員立法の形で提出させようとする動きが起こった.1892(明治25)年に入ると,議会では,政府提出の法案と議員立法とが競合して収拾が困難な状態となった.
 そこで,これらを折衷して鉄道敷設法案という一つのまとまった法案がつくられて,これが審議の対象となった.すでに衆議院では,代議士が自らの選挙地盤に鉄道を引こうとする傾向が強まりつつあった.結局この法案は衆議院・貴族院を通過し,1892(明治25)年6月21日鉄道敷設法として公布された.
 鉄道の国有化は,このときには実施されなかった.しかし政府はこの法律によって,建設すべき予定線を決定し,さらにそのなかからただちに着工すべき第1期予定線を決定する権限をもち,その決定には,議会の承認を経るものとした.同時にこの法律によって鉄道建設の主体は政府とし,私設鉄道は,政府が承認する場合に限り建設主体となり得ることをあらためて制度化した.
 この法律によって建設予定線として挙げられたのは,本州・九州・四国の重要幹線となるべき路線であった(北海道については,別に1896(明治29)年5月14日北海道鉄道敷設法が公布された).このころまでに主要幹線は,新橋・神戸間(1889(明治22)年7月1日全通,のちの東海道本線)と上野・青森間(1891(明治24)年9月1日全通,のちの東北本線)が完成,神戸以西糸崎までを山陽鉄道が完成させていた(のちの山陽本線).また九州では門司(のちの門司港)・熊本間を九州鉄道が完成させていた(のちの鹿児島本線).
 1892(明治25)年当時,官設鉄道の営業キロ数は983.5km,私設鉄道のそれは2124.4kmで,私設鉄道の方がはるかに長い営業路線をもっていた.したがって,政府は鉄道線路網を政府の必要と認める範囲に包括することを意図したのである.すなわちこの法律できめられた建設予定線が主要幹線を構成すると述べたが,その幹線は,東京と府県庁所在地,師団司令部・聯隊所在地,軍港所在地を結ぶ線路とされた.日本では,電信網が明治初年以来このような線路を優先的に選んで張りめぐらされ,電信業務は完全に官営とし,官用・軍用電報を民間の電報に優先させる方式をとった.道路網も,国道は東京を中心としてこれらの地点を結ぶ路線とされてきた.このような交通・通信網における中央集権制の原則が,この鉄道敷設法においてあらためて採用されたのである.
 このような政治的・軍事的要請が建設予定線の決定において大きな比重を占めたが,しかし,日本の場合には,このような主要幹線は,また経済的にも重要な役割を果たす線路として位置づけられた.それは,この重要幹線が青森から東京を通って下関にいたる本州縦貫幹線を主軸とし,その途中にある都市を中心として本州を横断する線路,またこの縦貫幹線に接続する日本海岸縦貫線路を含むものとされた.そしてこれらの幹線は,従来から旅客・貨物の流れの大きかったルートを通過していたからである.したがって鉄道敷設法は,政治的・軍事的性格のつよい線路網を構想したが,同時にこの線路網は,経済的効果を十分に期待できるものとなっていたのである.
 1890年代から1900年代にかけて,とくに日清戦争以後,資本主義の発展はめざましく,鉄道の比重は輸送分野においてさらに大きくなっていった.これにともなって,私設鉄道の線路網はいちじるしく充実した.私設鉄道が鉄道敷設法の建設予定線を建設する場合には,議会の承認を必要とするとされたが,その他については,私設鉄道企業は政府の免許によって線路を建設することができることとなっていたのである.この法律が公布される以前に免許を得ていた山陽鉄道の下関までの線路や,九州鉄道の長崎・佐世保までの線路はこの時期に完成したが,そのほかに主要幹線に接続する局地的な私設鉄道の線路がつぎつぎに増えていった,
 これらのうちには,官設鉄道と競争線を形成するものがあり,とくに1902(明治35)年と1904(明治37)年との2回にわたって名古屋・大阪間で演じられた官設鉄道と関西鉄道との輸送競争は,大いに注目を浴びた.
 しかし,日露戦争を機会に,日本のその後の進路が前に述べた二つの内容をさらに現実化する方向にすすむことになると,鉄道国有化の要請が強まり,1906(明治39)年3月31日鉄道国有法が公布された.この法律によって,幹線を構成する主要私鉄17社の線路が国有化され,国有鉄道の一元的運営体制が成立したのである.

 [注]
 1) 1877(明治10)年2月鹿児島において起こった士族反乱.下野して鹿児島にあった西郷隆盛が,政府の施策に不平を抱く士族に擁せられて反乱を起こし,3万の軍隊が東京を目ざして北上を開始した.政府は,5万2000の兵力でこれを鎮圧しようとし,南九州一帯は9月まで戦場と化した.結局西郷らの反乱は鎮圧されたが,政府はこの戦争のために4157万円の支出を余儀なくされ,この戦費をまかなうための不換紙幣の発行が,戦後はげしいインフレーションを引き起こし,財政を極度に圧迫する結果となった.
 2) 当時鉄道の業務は内閣から内務省に移っていた.
 [原田勝正]