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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第3章:鉄道優先時代の交通・運輸ー1892~1909(明治25~42)年 III 道路
Author: 山本 弘文
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第3章:鉄道優先時代の交通・運輸ー1892~1909(明治25~42)年 III 道路

 (1) 鉄道貨物取扱業者の急増
 すでにふれたように日本鉄道会社の開業(1883(明治16)年7月,上野・熊谷間)とその後の順調な発展は,私設鉄道に対する関心を高め,1880年代後半から1890年代前半にかけて,一種の鉄道熱時代を出現させた.起業計画と免許申請のラッシュが始まり,建設と開業が相ついだ.また資金不足のため遅延していた東京・京都間の鉄道工事(官線)も,公債発行による資金調達と路線変更によって,1889(明治22)年7月に竣工した(新橋・神戸間全通).他方,軍部の強い要請によって1887(明治20)年秋に急遽着工された横須賀線も,1889(明治22)年6月に竣工し,新橋・大船・横須賀間で一般貨客の運輸を開始した.こうして1890年代初頭には,本格的な鉄道時代が訪れることになったのである.
 このような鉄道時代の開幕は,道路輸送に大きな影響を及ぼした.圧倒的な輸送力をもった鉄道は,これと競合する道路輸送を沿線から駆逐する反面,鉄道貨物の集配のための新しい輸送需要を,各駅の周辺に創出した.既存の物流経路は,鉄道を軸として根本的に再編成され,長距離鉄道輸送と補助的道路輸送という,新しい輸送体系が形成されることになったのである.
 このような輸送体系の形成は,各駅において,鉄道貨物の集配や発着取扱業務に従事する業者の急増をもたらした.すでにふれたようにわが国では,江戸時代初期から,宿駅の人馬を利用し,荷主にかわってその荷物を輸送する,運送請負業が各地にあらわれていた.彼らは,かつて荷主たちがみずから行っていた荷物の輸送を請負い,宿駅の人馬を利用してこれを目的地に届けることを自己の職業としたのであった.ながい年月のなかで社会的に定着したこのような職業は,そのまま鉄道時代に引継がれた.彼らにとって鉄道は,宿駅の人馬と本質的にかわりなかった.そのため1872(明治5)年に最初の鉄道が新橋・横浜間に開通すると,程なくこれを利用して荷物を輸送する,運送請負業者の出願が相ついだ.そして鉄道当局もまた,輸送貨物量の増加をはかるために,そのような請負業務を積極的に認可したのであった.運送請負業がすでに営業として定着していたわが国では,鉄道当局が集配業務を直営したり,すべての輸送契約を個々の荷主と直接取り結ぶというようなことは,あり得なかったのである.鉄道貨物の集配や発着取扱に従事する運送請負業者が,各駅に急増した背景には,このような事情があった.当時の新聞は,このような業者の急増と競争の激化について,つぎのように述べている.
 鉄路の延長,航路の拡張は,共に我邦運輸の事業を発達せしむる本にして,運送会社は頻々勃興するに至りたるが,なかんずく内国通運会社,日本運輸会社,日本郵伝会社,中牛馬会社等は,ますますその事業を拡張するに汲々たるものの如く,其の他の小会社及び組合等に至るまでを算すれば,実に多数のものなるべし.……斯く同業者の増加するは,貨主にとりて此のうえなき便利なるべけれど,同業者の間に生ずる競争も亦,想ふべきことなり.(1889(明治22)年8月21日付,『中外物価新報』)
 (2) 有力な運送請負業者の出現
 このような業者の急増と競争の激化のなかで,それらを組織し系列化する,いくつかの有力業者があらわれた.その原因となったのは,鉄道時代に入ってますます複雑化した業者間の貸借の決済と,貨物引換証の発行に対する需要の増加であった.もちろんこのような貸借の決済や貨物引換証の発行は,鉄道時代に始まったものではなかった.道路時代においても,運送請負業者が顧客から受託した貨物は,何人もの輸送現業者や運送取扱業者の手を経て目的地に届けられた.しかし付添人が同行しない限り,受託の際領収された運賃や手数料を,目的地までの個々の輸送業者に,そのつど支払うことはできなかった.隔地間の輸送は,こうして不断の貸借関係を業者間に生みだし,何らかの方法による清算を余儀なくさせることになったのである.もっとも輸送範囲や取引相手が限られ,また付添人がしばしば高級貨物に同行した道路時代には,清算方法も月1回の交互計算や巡回計算で十分であった.しかし鉄道時代に入り,頻繁で複雑な貸借関係が多数の業者間に発生するようになると,より敏速な通信によって,組織的に貸借を清算する有力業者が,是非とも必要となったのである.
 他方,荷為替の取組に必要な貨物引換証の発行も,すでに江戸時代から行われ,明治初期の運送請負業者の営業規則にも明記されていた.しかし鉄道時代に入って商品取引の範囲が広がり,より敏速な資金の回転が必要になると,荷為替の取組に不可欠な引換証に対する需要が,急速に高まることになった.そのためこうした方面からも,このような需要にこたえることができる有力業者の出現が,求められることになったのである.
 以上の結果,1890年代から1900年代にかけて,貸借の清算業務や貨物引換証の発行に従事する有力な運送請負業者が,各地に出現した.内国通運株式会社(1875(明治8)年設立),天龍運輸株式会社(1892(明治25)年設立),京三運輸株式会社(1897(明治30)年設立),日本逓業株式会社(1899(明治32)年設立),明治運送株式会社(1907(明治40)年設立)などがそれであった.これらの有力会社はいずれも,上記の清算業務や引換証発行業務を通じて各地の輸送業者を系列化し,市場占有率の拡大のための激しい競争を,系列間でくりひろげることになったのである1).
 (3) 輸送手段と道路建設の推移
 鉄道時代の開幕によって,鉄道貨客の集配を担当する輸送業者が,相次いで駅前に誕生するとともに,集配用の輸送手段も急増した.いま『日本帝国統計年鑑』によってその模様を見れば,第3表の通りであり,1890(明治23)年から1910(明治43)年の20年間に客馬車3倍,荷馬車55倍,牛車3.2倍,荷車2.2倍にのぼっている.このうち牛車と荷車は,本来近距離用の輸送手段であるが,馬車については一概に断定することができない.しかし当時の資料によれば,駅馬車はすでに各地で消滅し,客馬車は近距離用の乗合馬車,荷馬車は大型の荷車に馬を付けた,いわゆる馬力[ばりき]であった.
第3表 1890―1910(明治23―43)年の諸車台数
したがってこの時期に急増しつつあった輸送手段は,馬車をふくめて,すべて近距離用の輸送手段だったといってさしつかえないのである.なお人力車は,1900(明治33)年ころから減少に転じているが,これは市街電車の出現(1895(明治28)年京都,1902(明治35)年東京など)や自転車の実用化によるものであった.維新前後に輸入され,当初娯楽用にとどまっていた自転車は,その後欧米諸国における改良(前後輪同型の安全車にチェーン,空気タイヤなどを装着)と価格低下によって,1900(明治33)年ころからとみに輸入量がふえ,実用化の時代に入った.また国内でも,このころから輸入部品と伝統技術によって自転車製造を始める業者が続出し,工作機械や電動機などの輸入によって,しだいに国産化の基礎を整えた.その結果保有台数も,第3表に見られるように,1900(明治33)年の3万1594台から1910(明治43)年の23万9474台へと,急増することになったのである.なお自動車も1900(明治33)年ころから,蒸気・電気・ガソリンを動力とした乗用車が相ついで輸入されたが,当初は数も少なく(1912(明治45)年3月末の保有数210両),営業用輸送手段として各地で使用されるようになるのは,1920(大正9)年ころからであった.
 他方,道路の建設や改修の重点も,鉄道時代の開幕にともなって,地方道に移行した.第2章の第5表によれば,道路費総額のなかに占める国道費の比率は,1889(明治22)年までほぼ18%から30%の水準にあったが,1890(明治23)年には15%を割り,1897(明治30)年には10%以下となった.また,国道上の橋梁費の方も,国道費ほど顕著ではないにせよ,おなじく漸減傾向をたどり,橋梁費全体に占める比率は,1879(明治12)年の25%から1897(明治30)年の18%に低落した.一方,経費の負担は相変わらず地方に重く,国道費や国道橋梁費のかなりの部分が,引続き地方に転嫁された.ほぼ1890(明治23)年ころに始まった鉄道時代は,全国の道路輸送を鉄道の端末輸送としてふたたび地方化し,江戸時代以来の伝統的な地方負担主義を,引続き存続させることになったのである.
 [注]
 1) 日本通運株式会社『社史』,日本通運株式会社,1962(昭和37)年,第3章.
 [山夲弘文]