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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 I 政策
Author: 青木 栄一
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 I 政策

 1910(明治43)年から1921(大正10)年に至る10年余の時代は,一口にいえば,交通における「地方の時代」の幕明けというべき時代であった.すなわち,1880年代後半以降,官設鉄道と私設鉄道が並行して進めてきた鉄道の建設によって,四半世紀の間に,日本の主要な幹線鉄道網は整備され,これに応じてその支線となる鉄道や道路の整備に対する国民の強い要望が次第に顕在化してきたからである.いわば,「線」の交通整備の時代から,「面」の交通整備の時代に入ったのがこの時代といえるであろう.
 鉄道網の拡大は,道路網の整備をうながした.しかし,当時の道路交通機関の主力は,人力車,馬車,牛車などであり,道路網の整備とは,人力車や馬車がすれ違いのできる道路幅と砂利を道路表面で固めて馬車の重量を支える程度のものにすぎなかった.コンクリートやアスファルトを用いた道路舗装はまだ現われていなかったが,大都市内の一部では煉瓦を用いた道路があった.自動車もすでに登場していたが,数的には少なく,道路交通の主力となるのには程遠い状態にあった.
 鉄道と並ぶ有力な交通は沿岸航路であり,ここでは洋式帆船が全盛時代を迎えていた.沿岸地域では汽船による定期航路が発達し,石炭や木材をはじめとする一般貨物の輸送に洋式帆船が広く用いられた.そして各地の小港湾がそのために整備されたのであった.
 (1) 鉄道院の成立
 鉄道国有化が1907(明治40)年10月1日の関西・参宮両鉄道の買収で一応完了すると,国有鉄道はにわかに大所帯となった.国有化直前の1905(明治38)年度末には国有鉄道の総営業キロは2562kmにすぎなかったが,1907(明治40)年度末には,7153kmと,実に約2.8倍にはね上がった.その増加分4591kmのうち,4563kmは私設鉄道の買収によるものであった.
 国有化された17私設鉄道には,それぞれ独特の社風や経営方針があり,異なる技術の様式があった.そのままでは新しい国有鉄道は単にふくれあがった寄合い所帯にすぎず,統一体としての機能を十分に発揮することはむずかしい.このため,日本の交通行政を統轄する組織に大きな改造が加えられた.
 当時の交通行政(鉄道と海運)は逓信省が管轄し,その一局である鉄道作業局が国有鉄道の管理・運営を,鉄道局が私設鉄道の監督を担当していた.1907(明治40)年4月1日,鉄道作業局は昇格して,逓信省の外局である帝国鉄道庁に改組された.また,1908(明治41)年6月22日には従来内務省の管轄であった軌道(主として道路上に敷設された小規模な鉄道)の監督行政に内務省とともに逓信省も関与することとなり,鉄道局がこれを担当した.これは鉄道と軌道の監督行政を鉄道局に一本化したものであった.
 1908(明治41)年12月5日,内閣総理大臣直属の鉄道院が設置され,国有鉄道の管理・運営にあたるだけでなく,逓信省鉄道局の管轄であった鉄道監督行政の部門を併せた一大官庁が組織された.このことは,国有鉄道の重要性を高く評価し,一つの統一組織として機能させる基礎をつくるとともに,鉄道中心の陸上交通行政を拡大するものであった.鉄道院は日本国内の鉄道だけでなく,韓国において日本政府が経営する鉄道(京釜線・京義線・馬山浦線など韓国統監府鉄道管理局の経営する鉄道)や南満州鉄道の監督にもあたることとなった.
 初代鉄道院総裁には,後藤新平(逓信大臣兼任)が就任した.
 鉄道院の独立によって,鉄道に関する行政は逓信省より分離し,逓信省の権限は海運と郵便に関する部門に限定された.また,道路については内務省が主として管轄し,軌道に関してに内務省と鉄道院が共同で監督する制度になっていた.このように,鉄道・道路・海運はそれぞれ管轄する省が異なり,三部門がそれぞれの立場で別個にその改善を進める体制ができ上がった.この体制は1943(昭和18)年の鉄道・逓信両省の運輸通信省への統合まで続いた.
 さらに,鉄道院はこの時期の末期にあたる1920(大正9)年5月15日,鉄道省に改組された.鉄道院は内閣総理大臣直属の官庁であり,総裁は国務大臣ではないため,鉄道網の拡大にともなう業務量の増大にもかかわらず,閣議への出席も,省令を出す権限もなかった.軽便鉄道免許のような行政手続きも総理大臣の決裁を必要とした.鉄道院の鉄道省への昇格は,急速に進む鉄道網の拡大に対応するものであるが,鉄道優位の交通政策の反映でもあった.
 (2) 鉄道政策をめぐる論争と軽便鉄道政策
 この時代には,幹線鉄道の改良に重点を置く政策と鉄道網拡大に主力を注ぐ政策とが対立し,政党政治における重要な論争点となった.前者を代表するものに広軌改築計画があり,後者を代表するものが軽便鉄道政策である.日本の鉄道政策は内閣の交替ごとにこの二つの主張の間で揺れ動き,最終的には後者が優位を占めた.
 20世紀を迎え,日露戦争(1904―05(明治37―38)年)を経て,国内の重工業化が大きく進むと,鉄道に対する輸送需要が増大し,これに伴って,列車の運転回数や列車重量が増加するという現象がはっきりと現われてきた.
 国有化後の幹線鉄道の能力の抜本的な改善策として,鉄道院は従来の軌間1067mm(3フィート6インチ)を世界的な標準軌間である1435mm(4フィート81/2インチ)とする広軌改築案を主張し,とくに初代鉄道院総裁後藤新平によって積極的に推進された.1909(明治42)年以降,これに関してやつぎばやに具体的な調査や改築案が提案され,またこれに反対する主張が展開されて,広軌改築計画はこの時代における最も華々しい鉄道政策論争となった.
 当時,有力な政党であった政友会は,日本各地に鉄道網を速成する政策をかかげ,全国的に新線の建設を促進することを主張していた.政友会は巨額な費用を必要とする広軌改築案を実行することは,地方における鉄道網拡大を遅らせる要因として反対した.当時の政府は,国家全体にとって有用な鉄道網,すなわち幹線鉄道の整備こそが優先すべきであり,有限の財源を全国の局地的な鉄道の建設のために総花的に分散投資することは拒否せねばならないと考えていた.しかし,衆議院に多数を占める政友会の主張を無視することはできない.そこで,小規模な局地的な鉄道の建設に関しては,民間資本の投資しやすい環境をつくり,補助金を与えることによって,事業の上でいくばくかの利益を得られるようにしたのが軽便鉄道政策である.このようにすれば,政府の支出(鉄道会計のなかから支出された)は補助金だけとなって,局地的な鉄道に対する支出を低位にとどめることができる.
 従来,軽便鉄道政策は,鉄道国有化によって大規模な私設鉄道がなくなり,残された小規模な私設鉄道の監督に適した簡易な法律が必要となったためと説明されてきた.しかし基本的には,上に述べたように幹線改良優先政策と地方線建設優先政策との間の妥協案と解すべきであろう.
 このような状況のもとで,1910(明治43)年4月に軽便鉄道法(8月施行),1911(明治44)年3月に軽便鉄道補助法(翌1912(明治45)年1月施行)がそれぞれ公布された.
 軽便鉄道法は,全部でわずか8ヵ条しかない簡易な法律で,在来の私設鉄道法(1900(明治33)年制定)の準用条項7ヵ条を加えても15ヵ条にしかならない.軽便鉄道の免許は私設鉄道のように仮免許・本免許の2段手続きではなく,1回で与えられ,指定された期限内に工事施行の認可を受けて直ちに着工できた.免許資格も,私設鉄道法の規定では株式会社であることが必要であったが,軽便鉄道法では,個人,合名会社,有限会社のような組織でもかまわなかった.また,軌間選択にあたっての制約もなく,曲線・勾配の制限も緩やかで,線路・停車場・標識・車両などの設備も簡便なものでよかった.必要な場合には,許可さえ得れば道路上への敷設も可能であった.運賃率に関しても,最高制限がなかった.軽便鉄道の建設に関する規定は,主としてそれぞれの鉄道の特殊性を考慮してつくられる命令書によって定められ,また,従来からの私設鉄道,あるいは軌道でも,軽便鉄道に変更することができた.
 軽便鉄道補助法は,軌間762mm(2フィート6インチ)以上の軽便鉄道を対象としたもので,「毎営業年度ニ於ケル益金カ建設費ニ対シ1年5分ノ割合ニ達セサル時ハ政府ハ該鉄道営業開始ノ日ヨリ5年ヲ限リ其ノ不足額ヲ補給スルコト」(同法第1条)ができるとしている.1914(大正3)年の改正において,補助期間を5年から10年に延長し,さらにのちに軽便鉄道法が地方鉄道法(1919(大正8)年)に改組されると,地方鉄道補助法となり(1921(大正10)年),毎年度の補助金額は「毎営業年度ニ於ケル建設費ノ百分ノ5ニ相当スル金額」とし,ただし「毎営業年度ニ於ケル益金ガ建設費ノ百分ノ2ニ相当スル金額ヲ超ユルトキハ其ノ超過額ハ之ヲ前項ノ金額ヨリ控除ス」(いずれも同法第1条)と規定して,補助額を引き上げている.
 軽便鉄道法ならびに同補助法の制定は,各地の地域社会に大きな反響を呼び,地域社会からの自発的な鉄道建設に大きな効果をもたらした.
 一方,政府は幹線鉄道に対する広軌改築案を具体化し,1911(明治44)年度より改築に着手すべきことを計画したが,政友会系議員の反対に遭って,広軌改築費は予算から削除された.そして,1911(明治44)年8月,政友会系の西園寺内閣が組閣されると,広軌改築計画は中止された.その後,内閣の交替ごとに広軌改築計画は復活と中止をくりかえし,1918(大正7)年2月に最終的に中止された.この間,激しい論争や制度の新設・改廃があったが,結局,広軌改築計画は実現することなく,葬り去られたのであった.
 しかし,軽便鉄道政策は,政府の本来の意図にもかかわらず,独自の発展をとげるようになる.民間資本による軽便鉄道の建設についてみると,1910(明治43)年から1926(大正15)年までの軽便鉄道(1919(大正8)年以降は地方鉄道)の免許・開業キロ数は第1表のような推移をたどる.これによると,免許キロの上では,1911―1913(明治44―大正2)年度に一つのピークがあり,その後激減するが,1918(大正7)年度あたりから再び増加する.開業キロの上でも,1913―1915(大正2―4)年度が最大となるが,その後は低迷し,上昇に転ずるのは1921(大正10)年度以降である.しかし,その数値はいずれも1910年代前半のピークよりも低かったし,1920年代における免許・開業は大都市や鉱工業関係の鉄道が多くなっていて,地方の局地的な鉄道のみを考えれば,ピークは最初の1回だけである.すなわち,政府当局の意図した局地鉄道振興政策の持続期間は極めて短期間に終わったといわねばならない.ここには明らかに第一次世界大戦の影響がみられるが,軽便鉄道政策自体のなかに,この政策を崩壊させる要因を内蔵していたと考えられる.
 それは,軽便鉄道建設のための資本調達,および開業後の経営が,地域社会にとって過重な負担を強いたことが第1にあげられる.
 多くの軽便鉄道建設のための資本は,沿線となる地域から調達された.貧しい地域社会では鉄道の建設費を過少に見積もる傾向が強く,したがって資本金も過少に定められる場合が多かった.
第1表 軽便鉄道・地方鉄道の免許・失効・開業(1910―1926(明治43―大正15)年)
また機材の価格上昇によって当初の予算では足りなくなる場合も,それをカバーする資金の余裕は地域社会にはなかった.そのため,多くの軽便鉄道は多額の借入金を余儀なくされ,開業後はその利息の支払いに追われたのである.多くの軽便鉄道企業の収支決算をみると,補助金の額が支払利息額と同程度のものがしばしばみられる.運輸上の収支に関しては,通常はいくばくかの利益を計上できたが,これを大幅に上回る利息支払いによって,全体の収支は欠損となった。その意味で,補助金の役割は正に利子補給にあったといえよう.
 配当にっいてみると,無配もしくは優先株だけの配当となる場合が多く,地域社会が苦労して調達した資本は,利潤はおろか,換金性も失ってしまった.
1890年代や1900年代において,鉄道は有利な投資対象であったが,1910年代の軽便鉄道は何の卵も生まなかったのである.
 これに代わって隆盛に向かうのは政府自身による軽便鉄道の建設で,1911(明治44)年度よりはじまり,これに投ぜられる予算は年度ごとに膨張した.政府による軽便鉄道の建設は,「地方ニ於ケル運輸状態カ本位鉄道ノ規格ヲ必要トセザル場合ニ於テ其地方ニ起業者ナク又ハ其線路カ国有鉄道ノ営養線タル場合ニ於テ」1)行われたとされている.その最大の特徴は,鉄道敷設法によることなく路線の建設を決定できる点にあり,鉄道院部内で選定して,予算についてのみ帝国議会の承認が必要であった.このため,その建設決定は鉄道会議議員や貴衆両院議員の利権の狩猟場となって,後年の「政治路線」の原型を形成した.
 民間資本による軽便鉄道の建設は,地域社会に過重な資本調達の負担と経営の苦しさを課したが,もし地域社会の住民が地元選出の帝国議会議員を通じて,国有の軽便鉄道建設を政治的に運動し,その誘致に成功するならば,その地域社会は建設のための資本調達の苦労も,開業後の鉄道経営の苦心もすることなく,ただ鉄道の利用者としての利益だけを享受できる.したがって,軽便鉄道の建設が次第に政府に依存する方向に転換していったのは,地域社会としては当然の行動といわねばならないであろう.
 とくに注目をひくのは,鉄道敷設法にのせられている計画路線でありながら,建設の速成をはかるために軽便鉄道の規格で建設することとし,敷設法の条文記載をわざわざ削除する例が現われたことである.宮地[みやじ]線と犬飼[いぬかい]線の名称で建設された熊本・大分間の九州横断鉄道(現在の豊肥本線),あるいは奥羽山脈を横断する横黒[おうこく]軽便線(横手・黒沢尻[くろさわじり]間,現在の北上線)の建設がこれである.これは明らかに鉄道敷設法立法の精神に反することであり,政党や帝国議会議員の恣意的な意見によって,なんらの長期計画もなく,軽便鉄道の建設が進められたのであった.このような長期計画を欠いた鉄道の建設は,やがて政府のなかでも反省され,これが1922(大正11)年の新しい鉄道敷設法制定の動機となるのである.
 一方,従来の私設鉄道法に準拠して建設された民営の鉄道は,軽便鉄道法の施行以後,軽便鉄道に指定替えになるものが続出し,しかも新たに私設鉄道法によって免許されたものは極めてわずかであった.そのため,私設鉄道は年々減少して,1918(大正7)年までに国有化されるか,軽便鉄道に指定替えとなって,私設鉄道法の適用を受ける鉄道は皆無となってしまった.そこで,政府は,1919(大正8)年4月9日,私設鉄道法と軽便鉄道法を廃止し,新たに地方鉄道法を公布した.この法律は従来の軽便鉄道法の基準を若干高め,かつそれまで命令書によって要求していた諸条件を,法律の条文のなかに含めたものであって,軽便鉄道法の発展形態とみることができる.政府の補助金は軽便鉄道の時代よりもさらに有利な条件で支給されることとなり,局地的な民営鉄道を奨励する政策はなお強力に進められた.
 (3) 交通技術の自立
 この時代は日本の重工業が大きく発展し,交通技術の自立がほぼ完成した注目すべき時期である.すでに,客貨車や木造帆船・小型汽船の大部分は国内で製造されるようになっており,蒸気機関車と数千トン以上の大型汽船の製造も1900年代には部分的にはじめられていた.しかしこの時期になると,蒸気機関車や大型汽船を含めて,大部分の鉄道車両・船舶の国内製造が実現した.
 これらの国産化にあたって,鉄道においては鉄道院が,造船においては海軍が技術指導,技術者の派遣・移籍,安定した発注を行うことによって,技術水準の維持と向上に努め,このことはメーカーの育成に大きく貢献した.また,第一次世界大戦(1914―1918(大正3―7)年)によって日本の経済はかつてない好況に際会し,大きな需要に支えられて,生産が活発化した上,欧米諸国からの輸入が困難となって,その意味でも国産化が促進され,新しい多くのメーカーを発生させた.
 しかしながら,鉄道車両・船舶の製造には広い分野にわたる関連工業部門からの部品供給が必要であり,そのすべてが国産化できたわけではない.とくに精密工作を必要とする機械部品についてはなお多くの輸入を余儀なくされた.たとえば,ボイラーやレシプロ機関は国産できたが,タービンや内燃機関のような,より高い精度の工作を要するものの国産は一部にとどまったし,電動機や電気車の制御装置の国産もまだ十分ではなかったのである.
 (4) 大都市交通の台頭と公営交通の普及
 日露戦争以降の日本の著しい経済発展は,都市への人口集中を促進した.いわゆる四大工業地帯が形成され,東京,横浜,名古屋,京都,大阪,神戸が六大都市として知られるようになる.大都市への人口集中は都市域の周辺への拡大を促し,都市内と都市周辺における人の動きを増大させたので,大都市地域における交通需要は急速に大きなものとなっていった.
 すでに,都市内の交通機関として電車が用いられていたが,この時期にいたって,電車を走らせる鉄道が数的に大幅に増加するとともに,都市間輸送や都市郊外輸送に進出した.その線路も道路上からはなれて,専用軌道上を走るものが多くなり,車両も大型化・高出力化して,後年の高速電車の原型が登場するようになった.
 同時に,都市交通の利用者が多くなり,公共性が高いと考えられるようになると,これを私企業として経営することに反対する世論が発生する.そのため,都市自治体による買収を通じて,都市交通を一元的に経営するのが望ましいとする考えが広く信ぜられるようになり,電気事業と併せて,都市自治体による電車事業の経営が次第に多くみられるようになった.
 日本で最初に行われた公営交通事業は大阪市による市街電気鉄道の経営である.大阪市は1897(明治30)年より大阪港築港工事を進めていたが,港湾の利用と埋立地の土地利用を促進するため,幅員の広い築港道路(築港埠頭・九条町花園橋間)に電気鉄道を走らせることとし,1903(明治36)年に開業した.
 大阪市内の電気鉄道については民間資本による建設計画もあったが,時の大阪市長鶴原定吉は市内電車の市有市営方針を提案し,1903(明治36)年11月,市会はこれを決議として採択した.
 「大阪市ニ於テ将来布設スベキ市街鉄道ハ総テ大阪市直接ニ之ヲ経営スルモノトス」
 「個人若クハ私営会社ニシテ市街ニ電鉄ヲ敷設セントスル者アラバ断ジテ之ヲ除去スベシ」2)
 市長はその理由を次のように説明した.
 ① 営利会社による恣意的な利潤追求主義を排し,市民の利便・公益に重きをおくことができる.
 ② 市内電車の利益で道路を拡張し,都市の発展に資する.
 ③ 市にとって好個の新財源となり,将来の歳出膨張に備える.
 ④ 他の独占事業とくらべて,技術的にも取扱い上も簡便なうえ収益も多いので,当面の市営事業として適当であり,徐々にその規模を拡大してゆくのが望ましい.
 すなわち,公共性の維持とともに,電気鉄道の経営による市財政への寄与が実質的な要因になっていたといえる.また,とくに注目すべきは,電気鉄道の道路上への敷設が道路の拡幅と同時に行われたことである.当時の大阪のメインストリートの幅員は,東西方向のものが4.3間(7.8m),南北方向のものが3.3間(6.0m)にすぎず,電車線の建設は道路拡幅を伴う重要な都市改造事業の一環となっていた3).
 大阪市における市内電車市営主義は全国の大都市で大きな反響を呼んだが,直ちにこれにならった都市はなく,多くの都市の市内電車は民間資本によって建設・経営された.そして,市内電車の市営主義が全国的に普及するのは,1911(明治44)年以降であった.六大都市における市内電車の市営化は第2表のように行われている.
 市営化には,運賃値上げ反対運動やこれに付随して起こった電車焼き打ちのような市民運動の過激な行動が直接の動機となった東京や名古屋の例,市当局が公共事業の財源を市内電車の経営に求めて,民間の電気鉄道の買収を策し,これが失敗するやその営業する街路に,市営電車を強引に建設して競争をいどんだ京都の例などがある.
第2表 主要都市における市内電車の開業と市営化
 しかし,1920(大正9)年頃までの市街化地域の外側には民営の電気鉄道が郊外電車として盛んに建設された.その運転する地域は市行政区域の外にあったため,それらの市営化はこの時代には問題とならなかった.
 (5) 道路の整備と河川改修
 明治期における道路の状態は,江戸時代末期の状態から大きく進歩したものではなかったが,一部の幹線道路において,人力車や馬車を通すため,拡幅,マカダム方式の舗装などの改修が行われた.この状態は,基本的には1910(明治43)年以降も続いた.当時の道路はしばしば起こる大洪水によって大きな被害を受け,その災害復旧に莫大な予算が投ぜられていた.大・中規模の河川には,道路橋は極端に少なく,渡船(冬の減水期には舟橋)によるところが多かった.したがって,当時の道路整備は河川改修と密接な関係があり,幅広い河川用地を確保し,連続堤によって洪水を防ぐ河川高水工事の完成をまたねばならなかったのである.
 1896(明治29)年に河川法が施行され,大規模な河川を「重要河川」に指定し,内務省直轄による改修工事が行われた.河川法に基づく改修は,1896(明治29)年起工の淀川と筑後川にはじまるが,1910(明治43)年までに着工されたのは,大井川,木曾川,利根川(江戸川,中川を含む),庄川,九頭龍川,遠賀川,吉野川,高梁川,信濃川,渡良瀬川など,少数の大河川に止まっていた.1910(明治43)年に全国的に大洪水があり,政府は治水調査会を設置して,上記のほかに65河川を直轄河川とし,その改修をはじめた4).これによって,高水工事による河川改修は全国的に拡大し,その成功に応じて,道路整備もようやく安定した進展がみられるようになった.
 高水工事の全国的普及は,河川を交通路として整備しようとする河川低水工事政策の終焉を意味する.このことは,鉄道網の拡大と相まって,鉄道を幹線ないし準幹線交通路とし,道路は鉄道駅を中心とする末端交通路とする交通体系が全国的に確立したことでもある.事実,明治期を通じて多くの河川交通が鉄道の開通とともに没落し,最後まで残った利根川や淀川の河川交通も1910(明治43)年頃には急速な下降線をたどっていた.
 一方,20世紀に入るや自動車が日本にも輸入され5),第一次世界大戦頃よりアメリカ製自動車の輸入が急増した.また1910(明治43)年頃から乗合自動車(バス)の事業を興すものが増加し,これらの自動車の普及は,従来の道路政策,とくに道路・橋梁の管理,その技術的な構造に変革をもたらした.
 1920(大正9)年4月,道路法が施行され,従来,ほとんど県・郡・市町村当局によって改修が行われていた一般の道路に対して,政府の予算が大規模に投ぜられるようになった.同年,内務省は国府県道改良30カ年計画をたて,道路表面の舗装や長大永久橋の建設のスタートが切られた.しかし,この新しい道路政策が効果を現わすのは次の時期のことであった.

 [注]
 1) 『目本鉄道史』下篇,鉄道省,1921(大正10)年,73‐74ページ.
 2) 『大阪市交通局五十年史』,15ページ所載の決議文より抜粋.
 3) 『大阪市交通局五十年史』および『大阪市交通局七十五年史』.
 4) 真田秀吉『内務省直轄土木工事略史・沖野博士伝』,旧交会,1959(昭和34)年,9ページ.
 5) 1900(明治33)年5月,皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の御成婚に際し,在米邦人が3000ドルを拠出して,電気自動車1両を献納したのが,日本における最初の自動車といわれている(岡村松郎編『日本自動車交通事業史』上巻,自友会,1953(昭和28)年,2ページ).
[青木栄一]