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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 II 鉄道
Author: 青木 栄一
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 II 鉄道

 (1) 広軌改築計画の推移
 広軌改築案1)は,1909(明治42)年,桂内閣のときの鉄道院総裁後藤新平が,将来ますます輸送需要が増大するであろう東京・下関間について,国際標準軌・狭軌両鉄道の経済比較を鉄道調査所に命じたことにはじまる.同年7月,調査の結果が答申されたが,国際標準軌鉄道を別線で建設する場合と,現行の狭軌路線を改良して輸送能力を向上させる場合の費用が比較され,前者の2億280万円に対して,後者は1億3700万円であると推計された.この答申では,狭軌のままで改良を進める方がベターであるという考えが明瞭に盛り込まれていた.
 積極的な広軌改築案を考えていた後藤は,恐らくこの答申には不満であったと想像される.さらに技師石川石代に調査を命じ,1910(明治43)年7月,その報告書が提出された.これによると,現行の狭軌鉄道そのものを国際標準軌に改築すれば,その費用は1億5200万ですむということになっていた.すなわち,さきの鉄道調査所の報告による狭軌のままで改良する揚合の費用より1500万円しか差がなく,将来の輸送需要増大を考えれば,標準軌への改築が有利であると結論するものであった.
 この報告書に基づいて,鉄道院は標準軌への改築の意志を固め,政府は1911(明治44)年度予算としてこのための改築費を盛りこんだ予算案を帝国議会に提出した.しかし,政友会系議員の反対にあって,広軌改築費の分は削除された.政府は議会の勧告に従って,広く官民有識者の意見を徴するため,1911(明治44)年4月,広軌鉄道改築準備委員会を発足させた.
 しかし,同年8月,桂内閣は総辞職し,あとを西園寺内閣,山本内閣と政友会系の内閣が続くと,広軌改築は財源の見込みが立たないとして計画を打ち切り,前記の準備委員会は解散して,幹線の建設と改良にあたって進めてきた広軌準備措置も廃止してしまった.
 しかし,これに続く大隈・寺内内閣では再び広軌改築案が台頭する.1914(大正3)年,鉄道院総裁仙石貢は,国有鉄道の建設と改良に関する7カ年計画を定めるにあたって,広軌論を検討の対象とし,同年7月,広軌鉄道改築取調委員を任命した.委員は改築の程度によって,「現行狭軌」「強度狭軌」「普通広軌」「強度広軌」の4方式を考え,その比較調査を行って,翌年に「強度広軌」の採用を答申した.これによると,1916(大正5)年度から着工し,東京・下関間については12年間,本州の全鉄道については25年間で改築を完了する予定であった.政府はこの答申に対して,さらに具体的な調査を進めるため,1916(大正5)年4月,内閣総理大臣直属の軌制調査会を発足させた.
 同年10月,寺内内閣の下で三たび鉄道院総裁の任についた後藤新平によって,広軌改築案は急速に具体化する.彼はまずその年の12月に,いったん中止されていた現行幹線鉄道の広軌改築準備計画の復活を提案し,約1年間にわたって内閣を説得し,翌年12月,これを閣議決定させた.この間,鉄道院では,工作局長島安次郎(1919(大正8)年4月より鉄道技監)をリーダーとして,具体案の作成を急ぐとともに,改築のための実験を行った.たとえば,横浜線の原町田・橋本間に広軌線路を併設し,広軌に改造した機関車や客貨車を運転したり,大井工場で貨車の車軸取換装置を試作して,広狭両軌の接続駅において,たやすく車軸の交換ができるような方法を考えたりしている.
第3表 広軌改築問題年表(鉄道院時代,1908‐20(明治4‐大正9)年)
 この時に立案された「国有鉄道軌間変更案」は,現有の施設や車両を用いて,軌間だけを拡幅するという簡単なもので,当時これを「軽便広軌」と称した.単に停車揚のプラットホームを削ったり,複線の中心間隔を広げる程度で,ヨーロッパの鉄道に運転されているのと同じ重量の機関車を走らせようとするもので,主要な橋梁も現行のまま,ないしは簡単な補強で,改築後の使用に耐えられるものとした.これによって,改築は枕木と車両の車軸をとりかえるだけですむとされた.改築工事は1918(大正7)年度より着手,3線式もしくは4線式に現行路線の外側にレールを併設し,翌年4月の播但線(姫路・和田山間)完成を最初として,主に西日本地域から工事を進め,1923(大正12)年3月までに本州全線を広軌化すると予定された.このため,新製車両はただちに車輪の位置を動かして,拡軌できるよう長い車軸を使うように設計されることとなった.この「国有鉄道軌間変更案」は政府決定の段階までにはいたらなかったが,広軌改築計画は着手の一歩手前まで近づいたといえよう.
 しかし,1918(大正7)年9月,政権は再び政友会に帰し,原内閣のもとで再度,鉄道院総裁となった床次竹二郎[とこなみたけじろう]は,1919(大正8)年2月,帝国議会で広軌改築を否定する発言を行い,また,1920(大正9)年以降,第一次世界大戦後の不況期に入ると,財政上も広軌改築は不可能と考えられるようになった.
 広軌改築計画はその後も論争が続くが,実現の可能性は遠のいてしまう.国有鉄道当局は,狭軌のままで輸送能力,列車速度などを向上させる努力を続け,ある程度の効果をあげることができた.
 (2) 鉄道車両の国産と標準化態勢の確立
 鉄道国有化以前の鉄道車両の供給状態をみると,蒸気機関車は大部分が外国製であり,客貨車についてのみ国内で自給できた.また,全国に普及しつつあった電車は,電動機や電動台車については主として輸入に依存し,車体は国内で製造されていた.
 国有化によって,新しい国有鉄道は多種多様の蒸気機関車を私設鉄道から引き継いだが,そのため形式数は190種にも及び,標準型機関車の設計が緊急の課題となった.
 鉄道院は,蒸気機関車の標準化と国産化を同時に進めることとし,軽量旅客用・貨物用・高速旅客用の3系列のテンダー機関車の設計が1909(明治42)年よりはじめられた.これらはいずれも幹線用の機関車であり,支線の列車需要については,在来の機関車を充当した.また,ボイラーの熱効率を上げるため,シュミット式過熱蒸気機関車の採用が標準化の過程のなかに組みこまれていた.
 軽量旅客用と貨物用の機関車は最初から国産体制で設計が進められた.軸配置は前者が2B形,後者が1D形で,ともに従来から用いられてきた軸配置をそのまま引き続いて採用し,在来機をさらに大型化し,過熱式として,強力化がはかられた.それぞれの試作段階を経て,前者は6760形,後者は9600形が最終標準型として多量生産された.しかし,6760形は輸送需要の伸びに適応できず,1914―1918(大正3―7)年に88両しか製造されなかったのに対し,9600形は1913―1926(大正2―15)年にわたって製造が続けられて,その総数は770両に達した(第5章第3図参照).
 高速旅客用機関車は,従来の目本では経験のない大型機となるため,基本的な要項のみを提示して,イギリス,ドイツ,アメリカのメーカーに発注した.これによって,8700形・8800形・8850形(以上軸配置2C形)・8900形(軸配置2C1形)の4形式が1911―1912(明治44―45)年に輸入され,主として東海道線の長距離列車に用いられた.外貨節約のため,機関車の本体だけを輸入し,炭水車は国産された.8700形を除いて過熱式が採用されていた.また,8700形と8850形については,まったく同型の機関車を国内メーカーにも発注し,この種の高速機関車の製造経験をつませた.さらにこれらを基本として,若干小型化した標準型国産機関車が8620形で,1914―1929(大正3―昭和4)年に672両が完成した.
 この他,勾配線用機関車として,1911―1912(明治44―45)年にアメリカとドイツから4形式60両のマレー式機関車が輸入されたが,のちに強力な単式機関車の開発によって代替され,国産されることなく終わった.また自重60トンを超えるE形タンク機関車も1912(明治45)年にドイツから4両が輸入され(4100形),1913(大正2)年以降に4110形として39両が国内で製造された.
 このようにして,国有鉄道は幹線用標準型機関車の国内生産に成功し,国有鉄道に関する限り,蒸気機関車の輸入は1912(明治45)年で終止符を打った(のちに3気筒機関車の実験的な輸入があるだけである).しかし,当時の日本の鉄道車両工業は,国有鉄道と軽便鉄道の両形態で急速に拡大する鉄道網に対応するすべての蒸気機関車の需要に応ずるだけの力はなく,軽便鉄道の機関車については,ドイツやアメリカから多数を輸入されていて,その輸入は1928(昭和3)年まで及んでいた.
第4表 標準型蒸気機関車の生産と国産化
 客車については,鉄道院は1910(明治43)年,「客車郵便車手荷物車工事仕様書」を定め,客車製造についての統一した基準を制定した.この仕様書に基づいてつくられたボギー客車を「基本形客車」と呼ぶ(のちに,より大型の基本形が制定されたので,この時定められた基本形は中型基本形客車と称された).基本形客車には二軸ボギー車と三軸ボギー車があり,それぞれにっいて台枠と台車は共通で,車体(木造)の主要寸法やつくりも統一されていた.
 基本形客車(中型)の製造は1917(大正6)年度まで続けられるが,1067mm軌間の鉄道に用いられる車両としては,世界的にみても大型と考えられていた.室内の照明は従来は石油ランプを主としていたが,基本形からはすべて電灯を採用し,座席の質の向上も著しいものがあった.また,国有鉄道では,1912(大正元)年度以降,二軸客車の製造をまったく停止した.
 次に小単位輸送とフリークエントサービスを目的として,客車の一端に小型の蒸気機関を搭載して自走できるようにした蒸気動車の採用と国産化について述べる.
 日本における蒸気動車の営業運転は1905(明治38)年に瀬戸自動鉄道がフランスからセルポレー式蒸気動車3両を輸入したのにはじまり,1909(明治42)年には国鉄関西本線(湊町・柏原[かしわら]間)と博多湾鉄道でガンツ式蒸気動車各2両が運転を開始した.セルポレー式は1887(明治20)年,フランス人レオン・セルポレー(Leon Serpollet)の発明したもので,半月形の断面をもつ水管を使い,燃料にはコークスを用いた.機関は極めて小型化され,ボイラーの高さはわずかに1.05m,幅0.57m,重量約600kgにすぎなかった2).また,ガンツ式は当時のオーストリア・ハンガリーのブタペストにあったガンツ社(Ganz Waggon-und Maschinen-fabrik)が製作した水管式ボイラーを用いる形式であった.前者の瀬戸自動鉄道での使用はわずか3年にとどまり,1907(明治40)年に電車運転に切りかえられた.機構が複雑で取扱いが面倒な上,故障が頻発し,運転成績は悪かったという.後者は高圧(16kg/cm2)の水管ボイラーを用い,シリンダから動輪への動力伝達は歯車による方式で,のちに大阪鉄工所(のちの日立造船桜島工場)が製造権を得て,近江鉄道と河南鉄道向けに合計3両の製造を行っている.しかし,日本で最も普及した蒸気動車は工藤式で,1909(明治42)年に初瀬[はせ]軌道向けに製造された4両を嚆矢とし,1923(大正12)年までに汽車会社だけで43両がつくられた(この他に汽車会社から製作権を得て,市川勝三商店と枝光[えだみつ]鉄工所で少数製作されている).工藤式は汽車会社の技師工藤兵次郎の設計した方式で,煙管式の機関車ボイラーを用い,常用気圧11.2kg/cm2,動力伝達も通常の蒸気機関車と同様に主連棒によって行われていた.高圧蒸気を用い,機構の精緻なガンツ式は一旦故障すると手に負えなかったので,低圧で出力も小さいが,取扱いの簡単な工藤式が好まれたと考えることができ,当時の目本の鉄道運用技術水準の低さを示している3).
 内燃動力では石油発動車が導入された.石油発動車とは,単気筒の焼玉機関を用いた小型の機関車で,この機関は日本では第二次世界大戦前までは,漁船や小型船の動力として広く用いられていた.1898―1899(明治31―32)年に豆相人車鉄道(小田原・熱海間)で実験が行われたが採用されず,営業運転の上では,1905(明治38)年,筑後馬車鉄道(軌間3フィート=914mm,のち筑後軌道と改称)が最初となった.1910(明治43)年頃までに北九州(とくに佐賀平野)の馬車鉄道が動力の合理化を求めて,次々と石油発動車を採用したが,鉄道用の石油発動機を供給したのは,大阪の福岡鉄工所であった.ここで製造されたのは,2サイクル・火球点火式・出力10馬力程度のミーツ=ウント=ヴァイス(Mietz und Weiss)型と呼ばれる形式で,機関車の走り装置や車体も同工揚でつくられていた.
 石油発動車は,自重2.5トン,2軸駆動で,一般に機関車1両で客車1両を牽いて走っていた.しかし,石油発動車の普及は主として北九州地方に局限され,他の地方ではほとんど普及しなかった.その基本的な原因は恐らく極端な出力不足にあり,信頼性も低かったからであろう.
 ガソリン機関の鉄道車両の動力に導入する試みは,この時期には,わずかに1919(大正8)年,京浜電気鉄道の支線上で試運転が行われたにとどまり,営業運転は1921(大正10)年に開業した好間[よしま]軌道(福島県平付近)1社にとどまった.
 (3) 列車の高速化とその停滞
 1889(明治22)年7月,東海道線が全通した時,新橋・神戸間直通下り列車の所要時刻は20時間5分で,表定速度は30.1km/hにすぎなかった.1898(明治31)年8月,最初の急行列車が走ったが,その下り所要時間は16時間27分(表定速度36.7km/h)とやや短縮され,1906(明治39)年4月の最急行列車では所要時間13時問40分(表定速度44.2km/h)となっていた.
 1912(明治45)年6月15日より,鉄道院は新橋・下関間に特別急行と称する高速列車を運転した.この列車は一・二等車のみの編成で,食堂車・寝台車・展望車を含む7両から成っていた.その下り列車は新橋・下関間を25時間8分で走り,表定速度は45.1km/hを記録した(新橋・神戸間では12時間45分,47.3km/h).これが当時の日本で最も速い列車であると同時に,最も豪華な設備をもつ列車であった.
 しかし,東海道線列車の速度はこの時期にはこれ以上にはほとんど向上しなかった.1921(大正10)年8月における同じ列車の表定速度は47.6km/hとわずかしか速くなっていない.そして,東海道線以外の幹線鉄道における長距離列車の起終点間の表定速度はほとんどが40km/hにも達していなかった.
 この時期に強力な機関車が登場したにもかかわらず,幹線における列車速度の向上が停滞していたのは,幹線に25‰の急勾配が各所に存在していたからである.この区間で低速を余儀なくされていたことが,全体の表定速度を低下させる最大の原因であった.列車の速力や輸送力の向上を大きく制約した幹線鉄道の急勾配区間については,この時期に東海道線の箱根越え区間のように一部の路線で新線の建設や長大トンネルの掘削による改築がはじまるが,本格的な改良は次の時期まで待たねばならなかった.
 (4) 電気鉄道と電車の発達
 日本における電気鉄道は,1895(明治28)年,京都電気鉄道が,京都市内と京都・伏見間を開業したのが最初である.そして,1898(明治31)年以降,主要都市の道路上に電車が走るようになった.
 1904(明治37)年8月21日,甲武鉄道(当時,東京市内の飯田町・八王子間の蒸気鉄道)は飯田町・中野間を電化して,10分間隔で電車の運転をはじめた.従来の電気鉄道の大部分が道路上につくられていたのに対し,甲武鉄道の電車運転は蒸気鉄道が電化して,電車と蒸気列車の併用運転を行った最初の事例であった.この鉄道は専用軌道上を走り,従来の電気鉄道にはない設備を備えていた.それは総括制御と自動信号機の採用であって,ともに日本におけるはじめての設備であり,電気鉄道が路面電車から高速電車へ発展するのに不可欠の要素であった.
 甲武鉄道の電車運転区間はその後,御茶の水・中野間に延長されたが,1906(明治39)年10月に国有化され,この区間は国有鉄道における最初の電車運転区間となった.
 輸送需要の多い区間に電気鉄道を新設したり,蒸気鉄道を電化して,電車のもつすぐれたフリークエントサービスの性能を生かそうとする試みは京浜・名古屋・京阪神地域を中心として,急速な普及を示した.このように都市の市街部ではじまった電車運転は,次第に都市間輸送や郊外交通の分野へ進出した.
 最初に開業した都市間電気鉄道は大阪出入橋と神戸三ノ宮との間を結んだ阪神電気鉄道で,1905(明治38)年4月12日に開通した.中間駅は32カ所で,12分間隔で電車を運転し,全線の所要時間は90分であった.当時の官設鉄道は大阪・三ノ宮間では中間駅が3カ所(神崎[かんざき]・西宮[にしのみや]・住吉)しかなく,40―60分間隔で運転していた.運賃も電車の方が安く,両都市の中間の地域では明らかに阪神電気鉄道の方が多くの乗客の利用に適していた.このため,大量の乗客が官設鉄道から阪神電気鉄道に移り,官設鉄道のこの区間の乗客は激減した.
 同年12月,東京の品川と横浜の神奈川を結ぶ京浜電気鉄道が全通した.この鉄道の両ターミナル駅はいずれも東京と横浜の都心部からはなれた地域にあったが,既設の市街電車とターミナル駅で接続していて,その不利な点を補っていた.この電気鉄道の開通も官設鉄道に大きな打撃を与えた.
 都市間電気鉄道は,その後,蒸気鉄道として営業していた南海鉄道が電化して難波[なんば]・和歌山市間を完成し(1907(明治40)年),京都五条(のちに三条まで延長)と大阪天満橋[てんまばし]の間に京阪電気鉄道が開業した(1910(明治43)年).さらに郊外にのびる電気鉄道は数多く建設された.蒸気鉄道を電化したものは別であるが,電気鉄道は一般に軌道条例の規定によって,内務省による監督を受けていたが,1908(明治41)年10月より,内務省と鉄道院の両官庁の共同監督下に置かれた.当時の電気鉄道は信号保安設備がないまま,高速運転をしていたが,1911(明治44)年10月に専用軌道上の最高速度は原則として25マイル/時(40km/h)以内と定められ,1913(大正2)年には自動信号機の設置が義務づけられた.
 国鉄でも,東京付近の鉄道の電化を進め,東京の市街部西部を半周する山手線(1909(明治42)年電化)や,東海道線東京・横浜間(1914(大正3)年電化)にも電車が走った.
 当時の電車の製造は,台枠と車体は国産であったが,電気部品と台車はすべて輸入に依存していた.アメリカのジェネラル=エレクトリック(General Electric)社,ウェスティングハウス(Westinghouse)社,ドイツのジーメンス=シュケルト(Siemens Schuckert)社,イギリスのイングリッシュ=エレクトリック(English Electric)社などが主たる供給源であった.電動機の国産化は,20世紀初頭から芝浦製作所などで試みられていたが,大量生産はなされず,第一次世界大戦によって,ヨーロッパからの輸入が困難となったのを機会に本格的な国産化がはじまった.すなわち,国鉄では1916(大正5)年に50馬力電動機の試作に着手し,その翌年から大量生産に成功した.国内の電気機械工業も大いに発達したが,電気鉄道の急速な拡大による需要に追いつけず,電気部品の輸入は1930(昭和5)年頃まで続けられた.

 [注]
 1) 本来,「広軌」とは,国際標準軌間である4フィート8 1/2インチ(1435mm)より広い軌間をいうが,当時「広軌」と通称されたものは,国際標準軌間そのものを指している.本項でも当時の通称にしたがって「広軌」と呼ぶ.
 2) E.A.Ziffer,Der Dampferzeuger,System Serpollet,und dessen Anwendung beim Betriebe von Strassenbahnen; Zeitschrift fur Kleinbahnen 2(1895),S.14‐18.
 3) 蒸気動車の発達については『鉄道ピクトリアル』256号(1971年)が蒸気動車特集として,次のような論文を収録している.
 青木栄一「蒸気動車の思想とその系譜」,中川浩一「日本における蒸気動車の沿革」,谷口良忠「九州の蒸気動車覚書」,市上一二「工藤式蒸気動車」,今村 潔「蒸気動車の保守を顧みて」,今城光英「終末期における私鉄の蒸気動車」.
 また別に,今城光英「蒸気動車について」,『明治期鉄道史資料月報』12(1981年),では,蒸気動車と蒸気機関車牽引列車との運転経費の比較計算を行っている.
[青木栄一]