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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 III 道路
Author: 山本 弘文
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 III 道路

 (1) 混合交通の進展
 1910年代から1920年代の道路交通は,馬車・牛車・荷車などの旧来の輸送手段に,新来の自転車・オートバイ・自動車を加え,同一路面上の混合交通の度合を一段と深めた.もちろんこのような混合交通自体は,何も目新しいものではなく,すでに1870年代に,馬・駕籠・荷車などの既存の輸送手段と,馬車・馬車鉄道などの外来の輸送手段によって始まっていた.そしてその後1900(明治33)年ころまでに,人力や畜力による車両交通に,しだいに統一されていったのであった.
第5表 1910―30(明治43―昭和5)年の諸車台数
しかし1910年代に入ると,オートバイや自動車の走行が始まり,人畜交通とモータリゼーションという,異質度のより高い混合交通が登場することになった.いまその模様を諸車台数についてみれば第5表のとおりであり,1910年代から1920年代には,新来の自転車・オートバイ・自動車が急速に増加しつつあった半面,荷馬車(馬力)や牛車・荷車といった人畜の牽引する既存の車両も,引続き増加傾向にあった.もちろんこのような新旧輸送手段の併存は,それ自体,両者の交替期が近いことを示すものであった.しかし,この時点ではまだ両者は,はげしい競争をくりひろげながら併存し,混合交通の度合を日ごとに深めることになったのである.
 ところで新来の交通手段のなかで,この時期に,もっとも顕著な増加をとげたのは自転車であった.すでにふれたようにわが国の自転車工業は,1900(明治33)年ころから,安全車の輸入部品と伝統技術によって発展を開始し,工作機械や電動機の輸入によって,しだいに国産化の基礎を整えた.そして完成車や部品の輸入が途絶した第一次大戦中に,ほぼ国産化体制を確立することになったのである.
 このような国産化体制の確立によって,保有台数は,1910(明治43)年の24万台から1925(大正14)年の407万台へと急増し,ほぼ15人に1台(3世帯に1台)の割合となった.そしてこれによって,すでに1900(明治33)年ころから漸減しつつあった人力車に,決定的な打撃を加えることになったのである.
 他方,1900(明治33)年ころから輸入が始まった自動車も,1910年代に入ると,一部の高級輸送需要をまかなうハイヤーのほか,メーター制のタクシーや10―20人を収容する乗合自動車も各地に現われ,新しい道路交通手段としての足揚をしだいに固めはじめた.たとえば東京周辺では,1913(大正2)年4月,京王電気軌道株式会社が新宿・笹塚,調布・府中間でバス営業を始めたのに続いて,1919(大正8)年には板橋乗合自動車(株)・東京市街自動車(株)・東京横浜電鉄(株)・京成電気軌道(株)などが相ついでバス営業を開始した.そして大震災後の1924(大正13)年には,東京市も市営バスを開業することになったのである1).
 他方,貨物自動車の方は,当初運賃の安い荷馬車(馬力)や荷車に阻まれて寥寥たるものであったが,震災後の復興事業に機動性を発揮し,以後かなり速い足どりで増加することになった.その結果,乗用・貨物用を合わせた自動車の保有台数も,1925(大正14)年度末には2万6000台余にのぼることになったのである.
 なお自動車の試作はかなり早くから始まり,快進社(1911(明治44)年設立)・白楊社(1920(大正9)年設立)などによって,企業化の試みも進められたが,当時の技術水準で欧米の車に対抗することは困難であった.そのため当初は,英・米・仏・伊などから各種の車が輸入されたが,震災後はアメリカ車の進出がいちじるしく,1925(大正14)年には日本フォード株式会社が横浜に,1927(昭和2)年には日本ゼネラル・モータース株式会社が大阪に設立された.両社はそれぞれ親会社の部品をアメリカから輸入し,その組立と販売を通じて,1930年代なかばころまで日本市場を支配することになったのである2).
 (2) 道路法の制定と道路の改修
 以上のような混合交通の進展のなかで,1919(大正8)年4月,わが国最初の体系的な道路法が公布され,翌年4月施行された.もともと,馬車・馬車鉄道・蒸気鉄道などがほぼ同時に輸入されたわが国では,西欧のような馬車時代を経験する間もなく,鉄道時代を迎えたため,道路交通や道路建設に関する施策は,ともすれば二次的な地位に置かれてきた.もちろん長距離道路輸送がまだ重要な役割を果たしていた1870―1880年代には,輸送業の取締りや道路の修築などに関する法令が,しばしば布達された.しかし1890(明治23)年以降の鉄道時代には,体系的な道路法の制定がくりかえし審議されたにもかかわらず,ついに鉄道敷設法(1892(明治25)年6月公布)のような法令の制定を,みるにいたらなかったのであった.しかし1910(明治43)年以後の自動車数の増加と混合交通の進展は,懸案の道路問題をあらためてクローズ・アップし,道路の種別・等級,管理者と責任,道路費の負担区分,道路の構造規格などの明定を迫ることになったのである.
 しかしこの道路法は,道路の種別・等級の決定に当たって,東京と伊勢神宮・府県庁・師団司令部・海軍鎮守府を結ぶ路線と,主として軍事目的に利用する路線を国道に指定し,また軍用道路と主務大臣の指定する国道の建設・改築費以外を原則として地方負担とするなど,産業道路というより,軍事・行政道路として国道を整備しようとする古い道路観と,伝統的な地方負担主義を残していた.またこの法律にもとづいて定められた道路構造令(1919(大正8)年12月制定)も,幅員(国道7.3m以上)・勾配(同30分の1以下)・曲線半径(同55m以上)・路面荷重(同輪帯幅3cmにつき375kg)などの点で,自動車の通行というより馬車・牛車などの通行を念頭に置いたものであった.そのため1926(大正15)年には「道路構造ニ関スル細則」を定めて道路構造令を補完し,自動車交通の増加に対処することになったのである.
 以上のような法令の制定は,既存の道路の改修や橋梁の架換えを各地で促進した.たとえば神奈川県では,1921(大正10)年から1926(大正15)年の5年間に,市町村道だけで10万4000坪(34万3800㎡)の新開と691万坪(2284万3000㎡)の改修が行われたほか,2439にのぼる市町村橋梁が,新設あるいは架換えられた.この数字は,1905(明治38)年から1909(明治42)年の実績にくらべて,新開で約1.9倍,改修で2.1倍に相当するものであった.
 他方,国道の改修も各地で行われたが,1924(大正13)年から1926(大正15)年にかけて,東京・横浜間で行われた国道1号線の改修工事も,その代表的な例であった.この改修工事は,1919(大正8)年3月に官民有志によって設立された道路改良会の提案にもとづいて,大震災(1923(大正12)年)の後,震災復興事業費(国費)の支弁と,東京府および神奈川県の分担金によって実施された.改修区間は全長21km余にのぼったが,竣工(1926(大正15)年1月)時の構造規格は,神奈川県内の場合,一般幅員12.13m,最狭有効幅員4.5m,最急勾配8分の1となり,1920(大正9)年の構造規格(それぞれ7.27m,3.63m,7分の1)にくらべて,格段に改良されることになったのである.なおこの工事によって,六郷川,鶴見川の木橋もコンクリート橋に架換えられ,自動車交通量の増加に耐えるものとなった3).
第6表 神奈川県の道路交通業者数(1924(大正13)年)
 (3) 鉄道貨物取扱業の改革
 すでにふれたように,鉄道時代の道路輸送は,鉄道駅周辺の貨客の集配が中心であった.このうち旅客の輸送は,当初,人力車や乗合馬車の営業者によって行われたが,1910年代には,ハイヤー・タクシーのほか乗合自動車も登場し,大小さまざまな業者によって営業が行われた.第6表は,1924(大正13)年の神奈川県内の模様を示すものであるが,これによれば,川崎・横浜地区ではすでに乗合馬車営業が消滅していたが,その他の地区では人力車・乗合馬車・自動車の営業者が併存し,川崎・横浜地区でも人力車と自動車の混合交通が続いていた.また業者の保有自動車数はきわめて少なく,平均3台に満たなかった.このことは,私鉄やホテルの自動車営業を除けば,その経営規模がいわゆる「一台業者」に近い,きわめて零細なものだったことを示すものといえよう.
 このような事情は,貨物輸送の分野においても同様であった.もともと鉄道貨物の集配は,長距離道路輸送にくらべて,はるかに小規模な資金と施設しか必要としなかった.そのため業者数は鉄道路線の延長にともなって急増し,1907(明治40)年には5000店,1916(大正5)年には6500店,大戦中の好況期を経た1918(大正7)年には,全線1671駅に合計8000店を数えた4).しかし,その営業規模はきわめて零細で,1907(明治40)年の1店当たり取扱貨物量は,1日22トンにすぎなかった.また集配用具も少なく,輸送需要の多い東京市とその周辺の場合でも,1924(大正13)年3月末の1業者当たりの用具数は,馬車1.6台,自動車0.5台,荷車5台,自転車1台にすぎなかった5).そのため多くの集配作業が下請けの運搬業者に委託されたが,彼らも大部分,1―3台の荷馬車によって生計を立てる零細業者にすぎなかった.このような零細性は集配能力の向上を阻み,コストをアップした.また弁償能力も低く,しばしば荷主に損害を及ぼした.そのため,貨物駅や操車場の新設,貨物用機関車の改良などによって増進しつつあった鉄道輸送力とのギャップがますます大きくなり,その効果を末端において帳消しにすることになったのである.
 以上の結果鉄道院は,1919(大正8)年6月,運送取扱人公認規程を制定し,鉄道貨物取扱業者の体質改善にのりだした.この「規程」は,納税額・資力など,一定の規準にかなったものを,適正な運送取扱人として鉄道院が公認し,その氏名・商号を停車場に公告するとともに,鉄道運賃の後払いその他の特典の供与によって,育成しようとするものであった.もっともこの場合にはまだ,鉄道貨物取扱業界に対する鉄道の介入は,かなりひかえ目な範囲にとどまり,非公認業者に対しても引続き営業を認めた.しかし1920(大正9)年以降の不況期には,合理化政策の進展のなかで,集配能率の向上とコストの引下げがあらためて問題となり,これにともなって鉄道当局の介入も,しだいにきびしさを加えることになったのである.なお公認業者の数は,1921(大正10)年2月末現在,全業者の約8分の5に当たる5187店にのぼった6).

 [注]
 1) 日本乗合自動車協会『バス事業五十年史』,日本乗合自動車協会,1957(昭和32)年.
 2) 柳田諒三『自動車三十年史』,山水社,1944(昭和19)年.
 3) 神奈川県編『大正九年神奈川県統計書』,同『大正十五年神奈川県統計書』,『神奈川県公報』1287号(大正14年8月25日).日本道路協会『日本道路史』,日本道路協会,1977(昭和52)年.
 4) 鉄道省運輸局『国有鉄道の小運送問題』,鉄道省運輸局,1935(昭和10)年.
 5) 鉄道省運輸局『東京市及其ノ附近ニ於ケル小運送ノ現状』,鉄道省運輸局,1924(大正13)年.
 6) 前掲『国有鉄道の小運送問題』.
[山本弘文]