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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 II 鉄道
Author: 青木 栄一
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 II 鉄道

 (1) 鉄道車両技術の自立と発展
 1909(明治42)年にはじまる国有鉄道における蒸気機関車の国産化と標準化は着実に発展したが,この時期には輸送需要の増大に応じて,より大型・強力な機関車の設計と生産が要請され,客車もまた大型化の道をたどった.また,さまざまな用途の機関車を標準化する計画がすすみ,それぞれが日本の鉄道の多様な性格に応じたタイプを発展させた.同時に,電気機関車や内燃車がこの時期に国産化と標準化を達成し,電車・内燃動車・客車・貨車の車体構造は木製から半鋼製(車体枠と外張りが鋼製で,内張りと床が木製)へと進んだ.
 1920年代から1930年代にかけての幹線用機関車の発達は,日本の鉄道車両の発達史のなかでも最も華やかな部門の一つといえる.とくに全国への鉄道網拡大を標榜する政友会内閣は,1910(明治43)年以来断続的に進められていた広軌改築計画を1918(大正7)年に最終的に否定し,狭軌のままで輸送力の増強をはかることを決定した.このため,国有鉄道の技術陣は厳しい技術的制約のなかで車両設計を進めなければならなかった.このことはとくに強力な蒸気機関車の設計において,性能の向上を阻む重大な要因となった.
第1表 機関車保有両数
 i. 蒸気機関車
第3図 代表的な機関車
A. 日本の代表的な蒸気機関車.
B. 日本の代表的な電気機関車
C. 日本の代表的なディーゼル機関車
 1910年代後半から1920年代前半にわたって多量生産されたのは,標準型機関車の第一世代ともいうべき8620形(1C形[2‐6‐0形],旅客用)と9600形(1D形[2‐8‐0形],貨物用)であったが,この時期には標準型機関車の第二世代ともいうべきさらに強力な機関車が登場した.旅客用の18900形(1928(昭和3)年C51形と改称)と貨物用の9900形(1928(昭和3)年D50形と改称)がこれで,前者は1919―1928(大正8―昭和3)年に289両,後者は1923―1931(大正12―昭和6)年に380両が生産された.18900形は幹線鉄道の急行列車牽引用に設計されたもので,2C1形[4‐6‐2形](パシフィック形)の軸配置を採用して,大型火室の装備を可能とし,また従来の旅客用機関車では最大のものでも1600mmであった動輪直径がこの形では1750mmになった.当時,1067mm軌間の鉄道では世界最大のものであった.軸重は14.2トンとなって,在来の機関車とくらべて1トン近く重くなったが,これは当時全国の幹線で37kg軌条1)への交換が進められていたことによって可能となったものである.第二次世界大戦時までの国有鉄道の幹線用旅客機はすべて2C1形の軸配置と直径1750mmの動輪が共通した特徴であったが,これは18900形からはじまったものであった.また,貨物用の9900形も火室を大型化したため,軸配置は1D1形[2-8-2形](ミカド形)となり,動輪直径は9600形の1250mmに対して1400mmとなった.軸重は14.9トンとなったため,使用線区は幹線に限定された.
 この時期に国有鉄道は3シリンダ型機関車の導入をはかった.1926(大正15)年,アメリカン・ロコモティブ社(American Locomotive Co.)から6両を輸入し(8200形,1928(昭和3)年C52形と改称),その構造と使用実績を参考として,C53形が設計された.1928―1931(昭和3―6)年に合計97両が生産された.C53形は東海道・山陽本線の急行旅客列車用で,軸配置はC51形と同じく2C1形であったが,軸重は15.4トンとなって,これまでのいかなる機関車より重かった.東海道・山陽本線は1928(昭和3)年以降全線にわたって50kg軌条(100ポンドレール)にとりかえられていたことがC53形の登場を可能としたのであった.理論的にはすぐれていた3シリンダ型機関車も,狭軌のため狭い空間に中央クランクが押しこめられ,かつ運転の機構[メカニズム]も複雑になったため,現揚の保守関係者には嫌われ,結局,3シリンダ型の国産機関車はC53形1形式に終わった.のちに用途の上でC53形の後継機となったC59形(製造初年1941(昭和16)年)は通常の2シリンダ型となってしまっている.
 軸重が14トン以下で,一般の幹線鉄道に広く用いられる旅客用機関車としては,C51形の改良機であるC54形(1937(昭和12)年,17両),C55形(1935―1937(昭和10―12)年,62両),C57形(1937―1947(昭和12―22)年,201両)がつくられた.これらのシリーズの機関車は各車軸の重量配分を変えて,動輪上重量と最大軸重を小さくしながら,ボイラー圧力を向上させて,C51形と同じかそれを凌ぐ牽引力を得た点に特徴があった.
 貨物用機関車は1920(大正9)年後半の不況の影響で貨物輸送需要が減退したため,D50形が1931(昭和6)年で生産を中止してからはしばらくつくられなかったが,1936(昭和11)年以降,D51形の生産が開始された.D50形と同様に1D1形軸配置と直径1400mmの動輪を採用し,各車軸の重量配分を改めて動輪上重量と最大軸重(14.3トン)を軽くして使用できる線区の範囲を拡大しながら,ボイラー圧力を上げてD50形とほぼ同等の牽引力を維持したのであった(この方法は旅客用のC51形に対するC55・57形の関係に似ている).D51形は第二次世界大戦にともなう貨物輸送需要の急増に応ずるために大量生産され,民間メーカー5社と6鉄道工場において,1945(昭和20)年までに後期の戦時形を含めて同型機1115両が生産された.国有鉄道の機関車で1形式の両数としてはD51形が最大で,全国のあらゆる幹線・亜幹線の貨物列車と勾配線区の旅客・貨物列車でD51形の姿をみることができた.
 一方,小単位の快速旅客列車や短距離の貨物列車,あるいは線路規格の低い地方線区に用うる小型・軽量のタンク機関車もつくられた.1930(昭和5)年に23両製作されたC10形がその先駆で,これをさらに軽量化し,軸重を軽減して,地方線区にも使用できるようにしたC11形(1C2形[2-6-4形])とC12形(1C1形[2-6-2形])が登場し,ともに1932(昭和7)年から生産された.また地方線区の建設が進んだ結果,100kmくらいの距離に運転される軽量のテンダー機関車も必要となり,C56形が1935(昭和10)年以降につくられている.また,亜幹線用の中型機関車としては,1937(昭和12)年以降,C58形(1C1形)が生産された.この形はボイラー圧力を上げて,軽量の割に強い牽引力を発揮することができた.
 1920(大正9)年後半から1930年代にわたる国有鉄道の標準型機関車の発達をみると,狭軌という制約に加えて,弱い軌道構造や橋梁に対して抜本的な改良がなされなかったため,動輪上の最大軸重が制約され,第二次世界大戦時まで15トンを超えることはできなかった.この時期は欧米の蒸気機関車が速力・牽引力とも目ざましい発展を記録したが,日本の幹線用機関車はこの軸重制限のため大型化が制約され,かつボイラー圧力の向上も十分に行われなかったため(これも軽量化の要求が強かったためである),世界的な蒸気機関車の性能向上にはついてゆけない結果となった.広軌改築計画を中止したことによって,幹線鉄道では10年を出ずして,はやくも輸送力の限界に達したことになる.
 ii. 電気機関車
 国有鉄道はすでに1912(大正元)年以降,信越本線横川・軽井沢間のアプト式ラックレールの区間(最急勾配68パーミル)で電気機関車を使用しており,また国産にも成功していたが(1919(大正8)年),あくまで特殊な用途にとどまっていた.また,私鉄においても1916(大正5)年,大阪高野鉄道が堺東[さかいひがし]工場で最初の国産電気機関車を製造したが,その普及はまだ一部にとどまっていた.
 1925(大正14)年12月,東海道本線の東京・国府津間と横須賀線大船・横須賀間が電化され,電気機関車牽引による列車運転が開始された.この時,進歩した外国技術の導入をはかるため,1922―1926(大正11―5)年に三次にわたって,旅客用機8種47両,貨物用機5種12両が輸入された.国別の内訳はイギリス製43両,アメリカ製10両,スイス製4両,ドイツ製2両であり,それぞれ性能や取り扱い方法が大きく異なっていて,予備品の確保になやまされた.
 国有鉄道は各種の輸入機を参考にしながら川崎車輛・三菱電気・芝浦製作所・目立製作所の四メーカーとの間に旅客用標準型電気機関車の共同設計を行い,1928(昭和3)年,EF52形を完成させた.軸配置は2C+C2型で225キロワット直流直巻電動機6個を装備していた.しかし,EF52形は1931(昭和6)年の改良型を含めても9両しか製造されず,旅客用機では1932―1934(昭和7―9)年製のEF53形(19両),1936(昭和11)年製のEF55形(3両,流線型),1937・1939(昭和12・14)年製のEF56形(12両,暖房用蒸気ボイラー搭載)が,貨物用機では1934-1941(昭和9-16)年製のEF10形(41両),1934・36(昭和9・11)年製のEF11形(4両,電力回生ブレーキ付き)がその発展型として製造され,いずれも225キロワット電動機6個を装備していた.このほかに小型化されて,中央本線(飯田町・甲府間)・上越線(水上・石打間)に用いられたED16形(1931(昭和6)年製,18両),信越本線横川・軽井沢間のアプト式ラックレール区間に用うるED42形(1931―1947(昭和6―22)年製,28両)が標準型としてつくられている.
 電気機関車はこのように標準型といっても,蒸気機関車にくらべてはるかに少数生産であった.これは当時の国有鉄道の電化区間が極めて限定されていたからである.
 私鉄の電気機関車も1930年代には国産車が普及したが,国鉄におけるような6動軸の大型車はなく,一般には軸配置B+B形の小型機が多かった.
 iii. 内燃機関車・内燃動車
 内燃動力はこの時期に急速に普及した動力であり,とくにバスとの競争に直面した地方の私鉄が次々とガソリン動車を採用し,1930年代には国有鉄道もまた地方都市周辺における短距離列車用にガソリン動車を多量に導入して,それらの活動は日本全国に及んだ.
 前時期の内燃動力が漁船用あるいは農産物加工用の焼玉機関で,信頼性・性能ともに十分なものではなかったのに対し,この時期には自動車用のガソリン機関が用いられ,当初は20馬力程度の小出力のものが主に使われたが,1930年代中頃には150馬力の機関が国産されるようになった.
 日本最初のガソリン動車による営業運転は1921(大正10)年,福島県の好間[よしま]軌道で行われた.この小鉄道は常磐炭田の小炭礦都市好間を国鉄常磐線と結ぶものであった.ガソリン動車の普及は1920年代に急速に進み,短距離の路線を経営する小私鉄からはじまって,次第に中規模以上の地方私鉄に及んだ.日本のガソリン動車は地方私鉄における単行運転が一般的であったため,当初は小出力機関を床上あるいはボンネットに置く方式もみられたが,次第に床面積を客用として有効に利用できる床下装備が最も普通の方法となった.機関は大部分がアメリカから輸入された.車体の製作は当初は松井製作所・丸山車輛のような小メーカーがもっぱらあたっていたが,1920年代末以降には,日本車輛・川崎車輛・汽車製造などの大メーカーもその製造に加わった.
 国有鉄道は1929(昭和4)年以降,ガソリン動車の試作を行っていたが,1932(昭和7)年よりキハ36900形(のちキハ41000形と改称)の大量生産を開始し,1936(昭和11)年までに139両が製作された.この形は車体の高さや幅を当時の客車より小さくし,台枠や台車の構造も簡易化して軽量化されていた.また出力100馬力の国産ガソリン機関を床下に装備し,その信頼性も高く評価された,
 1933(昭和8)年には地方線区で1両程度の貨車牽引も可能な小型のキハ40000形(出力100馬力,30両),1935―1937(昭和10―12)年には大型のキハ42000形(出力150馬力,62両)も製作された.
 これらのガソリン動車は機械式動力伝達装置をもち,総括制御は不可能であった.これに対して,電気式および液体式の動力伝達装置の試作も行われたが,十分の成果をみるにいたらなかった.
 また,ディーゼル機関はドイツ製機関の輸入にはじまり,1930年代には池貝鉄工所・新潟鉄工所などで国産化が進んだが,その普及は極めて限られたものであった.
 内燃機関車は小型のものが1920年代からガソリン機関・ディーゼル機関とともに一部の私鉄,工場や河川工事現揚で広く用いられた.このなかには船舶用のディーゼル機関を用いたものもあった.大型機では国有鉄道が1929(昭和4)年にドイツから輸入した電気式ディーゼル機関車DC11形(出力600馬力)が最初であり,その翌年には機械式ディーゼル機のDC10形(出力600馬力)も到着した.しかし,その複雑な機構はなかなか現場ではなじめず,かつ分解と組立てを何度もくりかえしているうちに不都合の点が多くなって,本来の性能を発揮できなかった.国産のディーゼル機関車も製作されたが,少数にとどまった.一般に実用的な大出力の内燃機関の製作については,当時の日本の技術水準は,先進的な航空機用発動機や船舶用内燃機関の部門においても欧米の水準とはなお大きな隔差があったといえよう.
 1937(昭和12)年より石油統制がはじまり,内燃動力車の発達はいったん中断された.
 iv. 客車・電車の大型化と半鋼製車の登場
 1919(大正8)年,国有鉄道は1910(明治43)年以来製造をつづけてきた基本形客車の車体断面を拡大して,当時のヨーロッパの客車とほぼ同じ大きさに改め,これを大型基本形客車と呼んだ.従来の基本形客車は中型基本形客車と称され,1920(大正9)年以降の客車新製はすべて大形基本形となった.
第2表 客・貨車保有両数
 一方,車体の大型化と列車の高速化に対応して耐久性と安全性を向上させるため,鋼製車体についての関心が1920年代から高まり,大都市の私鉄においていちはやく採用された.日本最初の鋼製車(厳密には屋根や室内の内張り,床などに木材を用いているので半鋼車と呼ぶ)は1923(大正12)年製の神戸市電の2軸電車G車であり,高速電車では阪神急行電鉄・阪神電気鉄道・京浜電気鉄道が1924(大正13)年に半鋼車を採用している.また,翌1925(大正14)年には全鋼車も登場し,国有鉄道でも1926(大正15)年に半鋼製電車モハ73200系(のちのモハ30系),翌1927(昭和2)年には半鋼製客車オハ44400形(のちのオハ31形)などが現われた.以後,電車・客車・内燃動車などは一般に半鋼車として製作されるようになった.
 国有鉄道では1929(昭和4)年より標準形の客車の全長を従来の17mから20mとし,翌年には電車にも20mの長さのものが登場した.しかし,私鉄では路線形状の関係で20m車の導入ができない線区が多く,その採用は一部にとどまった.
 京阪神地域の私鉄では,この時期に大出力電動機の導入をはかり,200馬力電動機4個を装備した高速電車を登場させている.これは,大都市間において並行する私鉄相互の競争が激化し,急行列車のスピードアップが要求されたからである.
 当時の鋼製車では軽量化の試みがほとんどなされなかったため,木造から鋼製への転換,車体断面や長さの拡大などの大型化による自重増加は著しかった.とくに設備の豪華な優等客車ではこれがはなはだしく,木造の大形基本形客車では3軸ボギー車でも30トンそこそこであったものが,半鋼製20m客車では40トンを超えるものが珍しくなかった.このことは直ちに列車重量の増大につながり,さらに強力な機関車を必要としたのであった.
 (2) 自動連結器と空気ブレーキの採用
 日本の鉄道では北海道の鉄道を除き,列車の連結にはスクリュー(ねじ)連結器とリンク連結器を用い,連結すべき車両から相互に連結環を他方の牽引鉤にかける複式連結方式が採用されていた.この連結作業は熟練を要する上に極めて危険であり,事実,連結手の死傷事故をひんぱんに起こした.また列車単位が大きくなるとこの方法では連結器の強度が不足で,勾配区間における列車の分離事故も発生した.
 自動連結器の採用は1919(大正8)年に決定されたが,全車両の連結器を短時間のうちに一斉に取り替えねばならぬため,長期にわたる周到な準備が必要であった.まず全車両分の自動連結器の調達(大部分はアメリカから輸入),連結器取付部の補助とここにあらかじめ鋲の穴をあける作業が行われた.調達された連結器は各車両基地に必要分を集積したが,貨車は所在が一定していないため,1923(大正12)年以降,各車が連結器2個を床下に下げた状態で取り替えの日まで走っていた.同時に関係職員は迅速な取り替え作業ができるよう連日練習を重ねた.
 取り替え作業は次の期日に一斉に行われた.
  本州と四国(路線の孤立していた高知線と徳島線を除く) 1925(大正14)年7月17日
 九 州 1925(大正14)年7月20日
 高知線 1926(大正15)年7月22―27日
 徳島線 1927(昭和2)年7月1―5日
 機関車は所属する機関庫や所定の駅で主として営業についていない夜間に行い,客車のうち固定編成車や予備車はほぼ7月1―10日の間に車両基地で,その他は当日にあらかじめ指定された終着駅で実施された.しかし,最も大がかりな作業となったのは貨車であった.当時は午前0時から24時間にわたって,すべての貨物列車の運転を休止して,これらを適当な駅構内に引き入れ,午前5時から一斉に作業を開始して,午後7時までに終了した.
 北海道ではすでに自動連結器が採用されていた.ただ取付け位置が軌条面上660mmであったため,1924(大正13)年8月13―17日に本州と同じ軌条面上880mmに変更した.
 国鉄との間に直通を行う私鉄の貨車についても同時に連結器の取替えが行われ,鉄道省は私鉄に対して補助金を支給した.
 列車の連結と解放作業は自動連結器の採用によって能率的かつ安全となり,従来幹線の貨物列車の牽引トン数は600―700トンを標準としたのが,取り替え後は900―1000トン程度に向上した.
 空気ブレーキの採用も極めて重要な技術革新であった.1920年代までは一般に旅客列車では真空ブレーキが,貨物列車の大部分は手用ブレーキが用いられていた.1919(大正8)年に直通空気ブレーキの採用が決定され,1921(大正10)年からウエスティングハウス社の技術指導の下に研究と取り付け工事に着手した.工事は北海道ではじまり,1925(大正14)年7月より使用を開始した.北海道以外の地域では1927(昭和2)年4月から一部の貨物列車で使用がはじまり,1930(昭和5)年までに全貨物列車の約4分の3がブレーキシリンダの取付けを終ったので,一般の貨物列車に使用範囲を拡大した.全部の貨車に取付けが終ったのは1933(昭和8)年であった.客車は1929(昭和4)年から取付けをはじめ,1931(昭和6)年7月までに全客車の改造を完成して,空気ブレーキに統一された.
 自動連結器と空気ブレーキの採用は,機関車の大型化とともに,幹線鉄道のスピードと輸送力の向上を支えた重要な技術革新であった.
 (3) 特急列車の大衆化と発展
 1912(明治45)年6月より新橋・下関間に運転され,一・二等車より編成された特別急行列車(特急)は日本を代表する列車であったが,1923(大正12)年7月から新たに三等客のための特急列車1往復が運転を開始した.これは長距離の旅行が次第に一般大衆のなかに普及し,その輸送需要に応じたものであったが,大正デモクラシーの時代にふさわしい話題であったといえよう.この三等客用の特急列車は展望車も寝台車も組みこまれてはいなかった.
 1920年代後半の国有鉄道は不況による収益の低下になやみ,さまざまの新しいサービスを試みることによって,旅客・貨物の誘致に努力していた.さらに高速の特急列車を運転し,そのイメージを大衆に近づけるため,従来は単に列車番号のみで呼ばれていた特急列車に愛称名をつけるという試みが始まり,国有鉄道の収益向上の一翼をになうこととなった.しかも,この愛称名は広く一般から公募されたのであった.この結果,1929(昭和4)年9月より,一・二等特急は「富士」,三等特急は「桜」と命名され,さらに1930(昭和5)年10月より新たに東京・神戸間に運転を開始した特急列車には「燕」と名付けられた.
 「燕」は一・二・三等の各等車をそろえ,従来11時間以上を要していた東京・神戸間を9時間に短縮した.同時に「富士」,「桜」も大幅なスピードアップがなされた.各特急列車はスピードアップのため編成車両数を減らしたためと,輸送需要も全体として上昇したため,1931(昭和6)年12月より「燕」の10分後に続行して走る臨時「燕」1往復(二・三等のみ)が多客時に運転された.これによって,東京・神戸間には4往復の特急列車が走ることとなった.
 1931(昭和6)年2月より三等寝台車が登場した.最初は東京・神戸間の急行列車に使用されたが,同年6月より特急「桜」にも連結された.当初は毛布・枕の設備がなく,1934(昭和9)年にいたって枕が備えつけられた.
 このような特急列車の増発と大衆化の結果,客車の等級によって列車を区別することは無意味となり,1934(昭和9)年12月,丹那トンネルの開通によって特急列車のスピードアップが行われると同時に,「富士」は一・二・三各等,「桜」は二・三等特急となり,すべての特急列車に三等車が連結されたのであった.とくに「富士」は関釜連絡船を介して,釜山・新京(長春)間に運転された急行「ひかり」,および長崎線の急行に接続して,長崎・上海間定期航路と結ぶ国際列車の性格を帯びることとなった.
 特急列車に対する輸送需要はさらに増大し,1937(昭和12)年7月より東京・神戸間に「?[かもめ]」が運転され,東海道本線には季節運転の不定期「燕」を含めて5往復の特急列車が運転されたのであった.
 (4) 幹線鉄道の改良
 明治期につくられた日本の鉄道は,当時の建設技術の水準を反映して,トンネルの数や長さを最小限度にとどめようとする傾向が強かった.そのため,幹線鉄道にあっても各所で25パーミルの急勾配区間が存在していた.
 日露戦争以後の輸送需要の増大にともなって,この急勾配区間は大きな障害となった.すでに1910年代にもいくつかの急勾配区間が改良の対象となったが,この時期にはさらに多くの区間が急勾配を避けるために新線に切りかえられた.
 とくに大規模な改良工事が行われたのは東海道本線の箱根越えの区間であった.当時は箱根外輪山の外側を迂回するルートで25パーミル区間が約50kmの区間に連続していた.このため,国府津より小田原・熱海を経由し,丹那盆地の下に長大な丹那トンネルを掘削して沼津にいたるルートが選定され,1916(大正5)年より建設が開始された.丹那トンネルの建設は1918(大正7)年にはじまった.トンネルの工期は当初は7年を予定したが,多量の湧水・温泉余土・断層などになやまされ,さらに北伊豆地震に際会するなど,多くの障害にぶつかって,全通までには16年を要した.1934(昭和9)年12月,全長7841mの丹那トンネル(複線型)が開通し,これによって国府津・沼津間は延長48.5km,最急勾配10パーミルとなり,従来は急行列車で2時間30分を必要としていたものが一挙に1時間20分に短縮されて,牽引定数も約3倍となったのである.
 東京と新潟県を短絡する上越線は1919(大正8)年に着工され,1931(昭和6)年9月,当時日本最長の清水トンネル(長さ9702m,単線型)の開通によって全通した.これによって新潟県は完全に東京経済圏に含まれることになった.
 しかしながら,この時期の多くの幹線改良においても20パーミル勾配はなお各所にのこり,複線化も東海道本線(1913(大正2)年完成)と山陽本線(岩国・虹ヶ浜[にじがはま]間を除き,1930(昭和5)年完成)にとどまり,他の幹線鉄道の大部分は単線のままであった.
 (5) 貨車航送の発達
 1920(大正9)年における国有鉄道の鉄道連絡航路は次の通りであった.
 青森・函館間,宇野・高松間,宮島口・宮島間,下関・門司間,下関・釜山間
 これらの航路においては,下関・門司間を除き,一般の貨客船が用いられ,貨物は貨車から本線または艀に積みかえねばならなかったため,しばしば港における滞貨が起こった.とくに日露戦争後の輸送需要の増加によって,鉄道連絡航路は貨物輸送上のネックとみなされるに至った.すでに下関・門司(小森江)間においては,貨物輸送と旅客輸送を分離し,曳航艀による貨車航送が1911(明治44)年以降実施されていたが,この時期に至って各航路に自走貨車航送船が就航し,貨物輸送能率を大幅に向上させた.
 最初の自走貨車航送船は,1919(大正8)年に下関・門司間に就航した「第一関門丸」と「第二関門丸」(ともに463総トン)であった.航送船は最終的には5隻となり,1922(大正11)年には艀航送は中止された.これらの航送船はいずれも両頭式の外輪船で,15トン積貨車6両を運ぶことができた.下関・門司間における貨車航送は1942(昭和17)年に関門トンネルが開通するまで続けられた,
 宇野・高松間では1921(大正10)年から曳航艀による貨車航送がはじめられた.1930(昭和5)年に自走貨車航送船「第一宇高丸」が就航し,1934(昭和9)年にさらに1隻が増備されたが,艀による航送も1943(昭和18)年まで並行して実施されていた.
 津軽海峡を横断して本州と北海道を結ぶ青森・函館間は距離が長いこと(61カイリ)と本州と北海道の車両の連結器が異なっていたため,貨車航送の実施は最も遅れた.しかし,1919(大正8)年より本州における自動連結器採用計画と並行して貨車航送の計画が進められ,1924(大正13)年,「翔鳳[しようほう]丸」「飛鸞[ひらん]丸」「津軽[つがる]丸」「松前[まつまえ]丸」(各約3400総トン)が竣工し,本州における自動連結器への取り替え直後の1925(大正14)年8月より貨車航送が開始された.この4隻は後年の日本の鉄道連絡船のプロトタイプとなったもので,吃水線の約2m上に船体をほぼ全通する車両甲板があり,船尾の開口部から貨車を出入させる.客室は車両甲板の上と下に設けられた.15トン積貨車25両を積載でき,当時の商船には珍しい蒸気タービン船であって,最大速力は17ノットに達した.その後,貨物輸送の増加に応じて,旅客設備のない貨車航送船「第一青函丸」と「第二青函丸」がそれぞれ1926(昭和元)年と1930(昭和5)年に就航した.この2隻は15トン積貨車43両という大きな積載力をもっていたが,速力は14ノットでやや遅かった.
 下関・釜山間(関釜航路)は接続する鉄道の軌間が異なるために貨車航送は問題とならなかったが,輸送需要の増加に応じて大型化・高速化の道をたどり,沿海航路では最も大型・高速(20ノット以上),かつ豪華な客船が就航するようになった.
 北海道と樺太の鉄道網の整備にともなって,1923(大正12)年には稚内・大泊(現コルサコフ)間にも鉄道連絡航路が開始されたが,自動連結器の高さが異なっていたため,貨車航送は行われなかった.したがって,一般の貨客船型が用いられたが,砕氷能力をもっていた点に特色があった.

 [注]
 1) 1mあたり37kgの重量のレール.ヤードポンド法表示では,75ポンドレール(1フィートあたりが75ポンド)となる.
[青木栄一]