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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 IV 沿岸海運と河川舟運
Author: 増田 廣實
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 IV 沿岸海運と河川舟運

 (1) 世界恐慌と沿岸海運
 第一次世界大戦後の海運不況は,1923(大正12)年の関東大震災で一時活況をとり戻した.しかし再び不況となり企業整理の進む中で,1929(昭和4)年10月,ニューヨーク株式暴落を契機に世界恐慌がはじまり,海運株の暴落がおこり海運企業はますます不況へと落ち込んでいった.そして,1931(昭和6)年1月には?船は32万トンを越え,傭船料は最低を記録した.しかし,同年9月満州事変がはじまり,年末に金輸出再禁止が行われ,次第に景気の立直りが見られるようになる.
 こうした中で政府は翌1932(昭和7)年5月海事審議会を設置して海運界の景気浮揚策をたてた.その結果,同年10月第一次船舶改善助成施設が3カ年計画をもって発足した.これは,過剰船腹を整理し,新鋭船の充実をはかるため,船齢25年以上1000トン以上の老齢船を解体,速力13ノット半以上4000トン以上の貨物船を作る場合,新造船の速力・トン数に応じて,トンあたり45円から54円の助成金を交付しようとするものであった.
 この1932(昭和7)年度よりはじまる船舶改善助成施設は,第一次3カ年を終えると,1936(昭和11)年までに続いて第二次,第三次を実施し,98隻42万トンの老朽船を解体して,48隻30万トンの新鋭船を建造した.そして他方1933(昭和8)年には船舶輸入許可規則を逓信省令をもって公布し,中古船輸入を規制する措置をとって,船舶改善の実効を高めた.このような船舶改善のための助成は,1937(昭和12)年からは海運国策予算として計上されていった.すなわち,三次にわたる改善助成を受けついで,優秀船舶建造助成施設が設けられ,以後6000トン以上19ノット以上の大型船30万トンが4年間に建造され,また造船資金貸付補給及び損失補償が1939(昭和14)年に法制化され,105隻29万5000トンの建造をみる,
 このような政府による強力な海運助成策を背景に,海運界は1934(昭和9)年には不況を脱して活況を呈しはじめる.そして1935(昭和10)年以降は船腹過剰が解消され,かえって船腹不足を生じる結果となった.このため1937(昭和12)年7月逓信省は船腹不足を緩和するため,一般外国船及び関東州置籍船に当分の間沿岸貿易を特許すると発表した.この一般外国船の沿岸貿易の特許は,明治維新以来開港場間外国船の沿岸運航の慣行が定着したものを,条約改正の過程で1900(明治33)年関税法改正をもってようやくにして回復した経緯があるものであった.それだけに,この1937(昭和12)年の特許はその後のわが国の内航海運の発展が,再びそれを許すほどまでに成熟したことを示すものとして意義深いものであった.また関東州置籍船は,1933(昭和8)年の船舶輸入許可規則の公布により,関東州に便宜置籍したものが多かっただけに,この特許はこれまたこの数年間の内航海運の景気回復の成果とみることができる.
 この間における内航貨物量についてみると,1921(大正10)年以降ゆるやかに上昇してきた貨物量は1930(昭和5)年の昭和恐慌の影響をうけ減少するが,1934(昭和9)年から回復に向かい,国内景気を反映しながら1940(昭和15)年まで増加を続ける.この時期の内航貨物の構成について,全国港湾中その70%を取扱う代表的19港を対象とした第4章第10表の統計によってみると次のようである.1935(昭和10)年は,第1位燃料34%(石炭31.3%,石油2.6%),第2位建設材13.3%(木材5%,セメント3.3%,土砂石5%),第3位金属10.2%(鉄及び鉄製品9.8%,銅0.3%),第4位食料品6.9%(米3.1%,砂糖1.7%,塩1.6%,酒0.4%),第5位肥料3.5%である.
第9表 内航貨物量と増減比(1922―1937(大正11―昭和12)年)
これらを前章に掲げた1915(大正4)年,1925(大正14)年の数値と比較してみると,燃料・食料・繊維等が年度ごとに減少しているのに対し,建設材・金属・鉱石などが増加していることがわかる.中でもセメント・鉄製品・鉱石等の増加と,減少している燃料中でも石炭の減少と反対に石油の増加が目立つ.そこには国内における重工業の一層の発展を端的に反映しているといえる.
 (2) 造船技術の発展と臨海工業地帯の形成
 この時期は,第一次世界大戦期を通して近代造船業の基盤を確立した日本が,その後技術的発展をはたして,一層船舶の質的向上をなしとげた時期であった.まずそうした様子を船腹の増加を通してみると次のようであった.
 1922(大正11)年以後汽船は6312隻329万6000トン,1926(大正15)年7779隻366万2000トンと増加を続け,1930(昭和5)年8511隻396万9000トンとなる.その後隻数については,1932(昭和7)年わずかに増加するが,漸減しながら1938(昭和13)年には7657隻となり,1926(大正15)年より一段と減少していることがわかる.
第10表 内地汽船・帆船数(1922―1938(大正11―昭和13)年)
しかし,これをトン数についてみると,1931(昭和6)年以降もなお増加を続け,1938(昭和13)年には514万トンに達している.同じように1922(大正11)年以後帆船は3万5629隻126万トン,1926(大正15)年4万2161隻127万トンと増加を続け,1930(昭和5)年5万339隻135万トンとなる.その後1931(昭和6)年から1934(昭和9)年にかけ減少し,1935(昭和10)年5万1291隻138万トンと回復し,増加を続け,1938(昭和13)年5万6091隻152万トンに達している.こうした船腹の動向は,汽船・帆船ともにそれ以前からみられた汽船の船型の分極化傾向――小回りがきき速力の早い内航用小型汽船と輸送能率が格段に高く高速の遠洋大型汽船との生産に重点のおかれた――と,帆船の小型化がさらに続いていることを示していると考えられる.そして汽船・帆船にみられる1930(昭和5)年以降の変化は,昭和恐慌の影響とみることができる.すなわち,汽船の場合は船舶改善の進展により,さらに小型・大型船への分極化傾向が強まり,大型船への転換が強力に推進された結果であり,帆船は1931(昭和6)年から1934(昭和9)年にかけて造船の激減の影響と考えられる.
第11表 純帆船・機帆船数(1922―1936(大正11―昭和11)年)
 こうした船型の大型化は当然ながら機関・船体構造等の技術的努力を必要とした.その点,前の時期以来のディーゼル機関の改良による実用化・帆船の機帆船化を軸に一段と経済性にすぐれた新造船生産の成果をあげていた.
 ディーゼル機関船で最初に竣工したのは,1923(大正12)年三菱造船で作られた瀬戸内航路の「音戸丸」であったが,その後の研究はめざましく,船舶用ディーゼル機関のライセンス生産もはじまり,1930(昭和5)年に大阪商船がニューヨーク航路に就航させた貨物船「畿内丸」は,ディーゼル機関を採用して,航海速度16ノットを出し,従来の貨物船より50%以上も上回る速度で生糸をはこんだ.この「畿内丸」の成功に刺激され,ディーゼル機関装備船は増加し,1936(昭和11)年には日本でのディーゼル機関装備率は21.4%となり,世界の船舶ディーゼル装備率18.9%を上回る水準に達した.
 他方,この時期,帆船の機帆船化はさらに進み,20トン以上の登録帆船についての調査では,1926(大正15)年は2440隻13万6135トンであった機帆船は,1936(昭和11)年には7881隻47万2611トンに急増している.そして,機帆船はこの年の純帆船7805隻45万7711トンをこえ,以後帆船にとってかわることとなる.
 この時期,1931(昭和6)年満州事変を契機として軍需工業を主体とした重化学工業化が進展し,工業生産も飛躍的発展をとげる.これに対応して,内航貨物は先述したような金属・鉱石・建設材等が増加していたが,それらは港湾周辺に進出した大規模工場に輸送された.
第4図 重要港湾の分布(1930(昭和5)年).
これら重量資材は,多くの内航貨物として輸送するに最も適していたから,港湾は単なる海陸交通の結節点として機能するのではなく,生産活動の場としての機能を加えていった.こうして大規模な臨海工業地帯が形成される情勢を反映した港湾の整備が積極的に進められた.そしてこの時期,小名浜・博多・広島等が新たに重要港湾に加えられ,清水・四日市・大分・宮古等で港湾の修築が進められていった1).
 (3) 自動車の進出と河川舟運の衰退
 この時期まだ河川等内陸で舟運が続けられていたのは,利根・江戸川筋と中国地方の高梁川・江川・太田川や四国の四万十川等の限られた河川のみであった.しかし利根・江戸川筋をのぞいてはいずれも小規模であり,終末期を迎えていた.比較的大規模ではあったが利根・江戸川筋も利根運河を通過した舟数・貨物量は1921(大正10)年には1万1932隻26万51トンであったものが,10年後の1931(昭和6)年には,6043隻12万1537トンと約半減しており,衰退傾向がはっきりとわかる.この10年間に半減するという傾向はすでに1911(明治44)年以降のものであることは,前述した通りであるが,利根運河についての統計のある1937(昭和12)年までについてみると,さらに1931(昭和6)年以降も減少が続いていたことがわかる2).
 1919(大正8)年内国通運株式会社が利根川筋での汽船営業から撤退した後,それを譲渡された東京通船(東京通運と改称)株式会社も次第に経営を悪化させていった.そして,1931(昭和6)年には同社もまた東京汽船株式会社に汽船等を譲渡している.この間にあって電鉄・バス等陸上交通の発達は,次第に旅客を舟運から奪い,もはや舟運は速度の点で太刀打ちできなくなっていった.他方銚子・野田の?油会社など大口荷主が,小型貨物船を利用して東京への出荷を行うようになったため,全体の貨物量は一時的に増加した.しかし全体的に衰退傾向は続き,そこでは一隻船主が多く,小型船主の中から多数を所有するものが現われては姿を消していくという変転が続いた.こうした衰退に決定的打撃を与えたのは,1941(昭和16)年の利根運河の閉止であった3).しかし,この止めようもない衰退の原因は,特にバス・トラックの進出にあった.1930(昭和5)年には,国内貨物輸送の47%を占めるまでに成長したトラックは,内陸での河川舟運に最も大きい影響を与えたのであった4).
 このようなトラックの進出は,都市内河川での艀の役割にも大きい影響を与えたが,他方鉄道の臨港線建設によって,海運と陸運を直結させ,荷役を能率化し,艀を必要としない近代的港湾修築が,前時期より一層盛んになった.そうした例をあげると次のようである.
 東京では,大型船舶の水陸連絡施設として1925(大正14)年日の出桟橋,1932(昭和7)年芝浦岸壁,1934(昭和9)年竹芝桟橋を作り,1941(昭和16)年東京港を開港する5).これらに先立って1918(大正7)年亀戸から東京湾の東北岸に臨港線越中島線を建設,1929(昭和4)年小名木川貨物駅を開業.1927(昭和2)年汐留駅から芝浦線を建設,1930(昭和5)年芝浦駅を開業している.また横浜ではこの時期,表高島駅に5000トン級6隻,3000トン級2隻,山内町駅に5000トン級3隻が同時接岸できる岸壁を設け,それぞれ1934(昭和9)年に開業している.また川崎港は1933(昭和8)年に開港するが,すでに1918(大正7)年川崎駅から工業地帯へ臨港線を建設,浜川崎駅を開業させ,南武鉄道も尻手・浜川崎間を1930(昭和5)年に開業し,鶴見臨港鉄道も鶴見・扇町間を同年開業している.また大阪港も1922(大正11)年着工した関西線今宮から分岐した臨港線を1928(昭和3)年に完成し,西成線安治川口駅・桜島駅をそれぞれ改良,大阪市場駅が1931(昭和6)年に開業した.この他,神戸・下関・門司・新潟・富山・敦賀・長崎の諸港でもそれぞれ修築の進められるのに並行して,臨港線が開かれ,貨物駅が開業している6).
 臨港線ではないが,貨物駅として都市内舟運に直結する次の三駅が開設された.東京では前述した秋葉原駅の高架線化の改築が行われた.これは,1923(大正12)年に着工したが,関東大震災のため焼失し,1932(昭和7)年完成した.高架線下は貸倉庫として利用され,鉄道輸送に直結した倉庫としての特性を発揮し,従来の貨物駅にさらに新しい機能をそなえることとなった.また大阪駅では貨物駅を分離する方針をたて,大阪駅裏の梅田地区に梅田駅を建設した.これは大阪駅が大阪市内に四通八達した諸河川の一つ堂島川に通ずる大阪駅南側の南掘割を利用し,年間150万トンを越える貨物取扱いを行っていたので,客貨物の取扱いが飽和状態になったためであった.梅田駅は1928(昭和3)年竣工したが,その取扱貨物の30%は舟運関係であったから,南掘割に通じる北掘割を開削し,電動ガントリークレーンを設備し,1930(昭和5)年よりこれを使用した.この北掘割は幅53m,長さ237mの扇形で,物揚場に沿って,幅18m,長さ160mの積卸場が新設されていた.ここでも高架線下を貸倉庫として1936(昭和11)年より営業した7).また名古屋では1926(大正15)年から1931(昭和6)年にかけ中川運河が開削されたが,これは長さ8400m,幅36―91m,水深1.2―3mで3カ所の船溜りをもっている大規模なものであった.この一端は名古屋港に開口し,一端は市の中心部笹島駅と結ばれた.笹島駅はすでに1926(大正15)年名古屋駅の貨客分離の方針が決定した段階で建設されることとなり,中川運河と連絡して1937(昭和12)年に開業した.ここでも高架線下を貸倉庫として,営業は1937(昭和12)年の駅開業と同時に行われている8).

  [注]
 1) 『内務省史』第三巻,大霞会,1971(昭和46)年,85-6ページ.
 2) 川名晴雄『利根運河誌』,崙書房,1971(昭和46)年,87-9ページ.
 3) 松村安一「利根川汽船の変遷」,『交通史研究』第7号,15ページ.
 4) 『昭和国勢総覧』上巻,東洋経済新報社,1980(昭和55)年,419ページ,「国内貨物輸送の機関別割合」.なお同年の場合,鉄道35.1%,船舶18.0%,航空0%である.
 5) 『東京港史』,東京都,1962(昭和37)年.
 6) 『日本国有鉄道百年史』第9巻,252-54ページ.
 7) 同上,242-44ページ.
 8) 同上,253ページ.
[増田廣實]