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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 II 鉄道
Author: 原田 勝正
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 II 鉄道

 (1) 戦時輸送体制の強化
 日中戦争開始直前の1937(昭和12)年7月1日,国有鉄道は列車運転時刻の改正を実施した.この列車時刻改正によって,東海道本線の特別急行列車は1日5往復(不定期列車1本を含む)となり,急行列車や区間列車のサービスは戦前最高の水準に達した.1930年代初頭以来の恐慌から立ちなおって,経済的活力はようやくこのような列車ダイヤの編成にもあらわれてきた.機関車・貨車などを小型化して輸送単位の減少に対応してきたこれまでの姿勢から一転して,積極的な経済方針への転換が可能となったかのように見えたのである.
 しかし,この立ち直りは,中国東北に対する軍事侵略と,1936(昭和11)年に決定された総力戦準備のための軍備拡張といった戦争準備体制がもたらしたものであった.したがって,この経済的好況は,そのまま戦時体制強化に結びつく危険な要素をはらんでいたのである.
 そして日中戦争の開始は,状況を一変させた.1937(昭和12)年8月から数次にわたる大規模な兵力の動員が行われ,国鉄の線路は,この動員輸送に従事することを余儀なくされた.政府・軍部はこの戦争を,宣戦布告による正式の戦争とは呼ばず,「事変」と称していた.しかし,兵力の動員規模は,開戦後半年間で17個師団50万人にのぼり,これは1904(明治37)年の日露戦争における動員規模を上回るものとなった.これらの兵力のほとんどすべてを出港地まで輸送する任務が,国内の鉄道には与えられた.
 兵力の動員輸送は,常に緊急事態とされるから,一般の輸送を圧迫する.これを避けるため,日本の国有鉄道は,すでに1907(明治40)年,鉄道国有成立直後から,列車運行の基本計画を立てるさい,軍用列車の輸送ダイヤグラムをすべて優先して書き入れる方式をとってきた.そして鉄道当局は常に参謀本部と密接な連?を保って,軍事輸送の態勢に疎漏がないよう注意をはらってきた.したがって,戦争が開始された場合に,この動員輸送のために列車ダイヤを改変する必要はないはずであった.しかし,短期間に大規模な兵力の動員を実施するとなると,結局は列車ダイヤの手直しが必要となる.また車両の徴発,停車場施設などの使用により,平常ダイヤによる運行が不可能となる.
 こうして軍事輸送による輸送力の不足という事態がまず起こってきた.さらに中国における占領地域の鉄道に使用するために,大量の車両を供出する必要が生じた.このような,平時には予想できない臨時の措置がつぎつぎに強制されると,正常かつ平穏な輸送態勢を維持することは不可能となる.
 それだけでなく,1920年代からしだいに増加した液体燃料を動力とする車両,とくにガソリンカーの燃料は,兵器用としてまっさきに統制の対象となり,これらの車両の運行はしだいに不可能となって,代用燃料の使用に転換しなければならなくなった.また,金属資材の不足から,車両に使用する金属部品を他の材料に変更しなければならないという問題も生じてきた.いわゆる「代用品車両」の製作・使用は,1938(昭和13)年からはじまる.
 このような資材の不足は,やがて,レール自体が不足して,新線建設はもちろん,老朽レールの取り替えが不可能となるといった事態をひき起こしていく.
 国鉄の運輸数量を1936(昭和11)年と1940(昭和15)年とで比較すると,旅客は人キロで約88%,貨物はトンキロで約74%の増加を示していた.輸送数量がこのように増加しているにもかかわらず,列車本数や列車キロはほとんど増加することなく,むしろ輸送力は全体として減退の傾向を示していた.
 このような状態で,1939(昭和14)年にはいると,国有鉄道では,多客期に一般旅客の乗車制限を実施するなど,輸送需要に対する規制措置をとらざるを得なくなった.この制限はしだいにきびしさを加え,1941(昭和16)年には三等寝台車や食堂車の連結をやめて座席車に変える列車がふえ,また100km未満の旅行の場合の急行列車利用の禁止など,すでに太平洋戦争開始以前からかなりきびしい制限を加えることとなっていた.
 これに対して,輸送力増強の対策を何らかのかたちでとることが要求された.まず第1に,日本列島縦貫輸送体制の確立が要求されて,これによって,前にふれた国際標準軌間による新幹線の建設計画などが実施に移されることになったのである.(この計画はのちにふれる.)関門トンネルの計画はその一つであった.この計画はすでに1910年代はじめから検討され,橋梁・トンネル二つの案が立てられたが,空襲による破壊と大型艦船の海峡航行支障を恐れる軍部の主張によってトンネル案が決定した.この計画は1936(昭和11)年から着工がきまり,1942(昭和17)年7月第1線が開通,第2線は1944(昭和19)年9月に開通した.この工事は,当時資材と労働力とがしだいに不足してきたにもかかわらず,軍部がこれらを確保し,短時日のうちに完成することを要請した結果完成に漕ぎつけた.このトンネルの完成によって,本州と九州との間の一貫輸送体制ができ上がり,輸送力の増強に資するところが大きかった.
 新幹線計画は,1939(昭和14)年に本格的な決定を見た.これは東京・下関間に971.6kmの別線を建設し,これを全線9時間50分(東京・大阪間4時間50分)で運転するという計画で,当時の金額で工費5億5000万円,工期最短15カ年とされた.実際にこれが着工されたのは,1940(昭和15)年で,1942(昭和17)年までに東京・下関の二つのターミナル付近と鈴鹿山脈横断地区付近を除いてほぼ線路選定を終り,途中の長大トンネル,たとえば新丹那・新東山・日本坂などのトンネルは着工された.
 この新幹線では,最高速度200km/hの特別急行列車を運転することとし,さしあたり東京・静岡間,名古屋・姫路間を電化してこの区間は電気機関車牽引とし,その他は蒸気機関車牽引によるものとした.
 これらの車両の規格は,当時日本が支配していた朝鮮(朝鮮総督府鉄道局),中国東北(南満州鉄道)のそれと同一のものとし(車体幅3400mm,車体高さ4800mmを車両限界とする),これによって共通運用可能の体制がとられた.これは,前にふれたように,当時朝鮮海峡を横断する関釜トンネルの計画が立てられていたことと関係がある.
 (2) アジア大陸連絡輸送体系の構想
 日露戦争によって,日本はロシア東清鉄道南部支線のなかの大連・長春間および安東(丹東)・奉天(藩陽)間その他の線路の経営権を獲得し,これを南満州鉄道株式会社(半額政府出資)によって経営することとした.このとき同社は,線路の規格を軌間1435mmの国際標準軌間とし,朝鮮・中国全土の鉄道に合わせた.そればかりでなく,同社の初代総裁であった後藤新平は,1909(明治42)年鉄道院総裁に就任すると,日本国鉄の軌間を1435mmに改築する計画を立てた.いわゆる広軌改築計画である.広軌改築は,1890年代はじめに陸軍が唱えたことがあるが,陸軍が途中でこれを放棄したことは前に述べた.後藤の計画は単に日本国内における輸送力の増強を図るだけでなく,将来フェリーなどによるアジア大陸との一貫輸送の実現を構想し,これを前提としていたと考えられる.この計画は1918(大正7)年ごろまで準備がすすめられたが,政党が,自党の党勢拡張のために選挙区の線路の建設に重点をおくことを主張するに至って中絶した.
 このように,広軌改築は,日本のアジア支配のプランが軌道にのったときから立てられ,そしてこの日中戦争にさいして復活するという歴史的背景をもっていたのである.
 しかし,この計画は,1943(昭和18)年,太平洋戦争の戦局が日本側に不利になるとともに中止された.ただ,政府・軍部は,海上輸送が航空機や潜水艇の攻撃によって危険な状態を呈してくると,アジア大陸一貫輸送体制を強化しようとして,中国・フランス領インドシナ(ベトナム)・タイ・ビルマを通ずる鉄道線路の貫通を急いだ.もちろん,この計画は,1943(昭和18)年以後実施の可能性はなくなってしまうが,タイ・ビルマを結ぶいわゆる泰緬鉄道は,陸軍鉄道聯隊の指揮の下に,1000mm軌間の鉄道として建設され,開通した.
 (3) 戦時輸送のための諸施策
 国内では,鉄道建設については鉄道敷設法の規定にもとづいてその実施態勢がとられていたが,日中戦争開始ののちは,この規定にとらわれず,国内における資源開発に資するもの,港湾における臨港線として有用なもの,または幹線の迂回ないしは別線として重要とみられるものを優先的に建設するよう方針を転換した.これらの線路は,戦局が不利となるにともなって,応急工事としての色彩をつよめ,また最終的には空襲などによる被害を受けたさいの代替線として使用されるようなものに重点がおかれるようになった.
 また輸送力を増強するために線路容量を増加させるための工事が実施された.この工事は本来単線を複線に,複線を複々線にというように線路増設工事として実施されるべきものであった.しかし,資材が不足した当時,線路増設工事として実施された線区はごく一部で,それも不要とみなされた路線のレールをはがして転用するという方策がとられた.大部分は,単線の駅と駅との中間に信号場を設置し,行違い設備を設けて,これによって線路容量を増加するという方式であった.
 このほか,地方鉄道・軌道を国鉄が買収して輸送態勢をととのえるという方法がとられた.従来鉄道線路の国有化は,交通網整備の必要性から行われてきた.しかし,1943(昭和18)年以降になると,国内における資源開発,通勤輸送,軍事基地・軍関係工場周辺における輸送など,直接戦争遂行目的を達成するためという理由から実施されることとなった.この2年間に買収された地方鉄道は22社,延長1051kmにのぼった.
 さらに車両については,1938(昭和13)年以降,代用品使用の車両が生まれてきたことは前に述べたが,輸送力確保のために増産が要請されながら,十分な増備を行うことができず,しかも,完全な機能をそなえたものを生産することがしだいに困難な状態となった.D51形蒸気機関車は1936(昭和11)年に製作開始以来,多数の車両が増備されてきたが,1943(昭和18)年に開発されたD52形は,1D1の軸配置に牽引トン数1200トンという従来の国鉄蒸気機関車中最大の牽引能力をもつものとして設計された.しかし,いたるところに代用品を使用し,ボイラーの鋲によるつなぎも鋲を半分以下に節約することを余儀なくされて,十分な性能を発揮できないばかりか,ボイラー爆発事故を起こすという危険を生じた.EF13形電気機関車も同様の性能をもつ機関車として1944〈昭和19)年に生産開始されたが,金属材料の不足から所要の車体重量を保つことができず,25トンのコンクリートブロックを死重として積載するという苦肉の策をとらざるを得ない状態であった.電車の場合は,1両の製作に数年を要したというような常識では考えられないようなケースも生まれた.1944(昭和19)年以後製作された戦時型電車は,天井板を省略し,窓を3段としてガラスを節約し,その他屋根の絶縁省略その他工数・資材を省略して製作され,これはのちに大きな事故の原因となったのである.また貨車の不足から,1両の貨車の積載トン数を,規定より増加するという措置がとられた.不況のさいには積載トン数を減少させる措置がとられてきたが,一括して,いわゆる「増トン」制度が実施されたのである.その結果は,貨車の使用に無理が生じ,耐用年数がいたずらに短縮される結果となった.
 当時車両や一般施設の老朽化が平時とは比較にならないほどはやく進行したが,これは以上のような資材の不足による取り替え不能な状態と,これに加えて,平時よりはるかに苛酷な条件で使用されるという状態と,この二つの理由によって引き起こされたものであった.
 太平洋戦争開始後の輸送態勢は,まったく常識を越えるものとなった.戦争指導の態勢が混乱し,とくに東南アジア諸地域との連絡路が事実上崩壊して,日本本土沿岸の制海権も失われるという状況になると,アジア大陸と日本本土とを直接に結ぶ航路は危険となり,中国から朝鮮を経由する方法をとらざるを得なくなり,また朝鮮との連絡路も,関釜では危険として,日本海航路にたよらざるを得なくなってきた.こうしてアジア大陸との間の輸送路の陸上転移が実施されたが,同時に船腹の不足という理由もあって,国内貨物も同様に陸上輸送に転移させることが必要となった.
 陸送に転移する貨物の中心は石炭とされ,九州・北海道で産出される石炭を従来の沿岸航路輸送から鉄道に転移させようとした.この転移による鉄道の石炭輸送量は,1941(昭和16)年度と1944(昭和19)年度とを比較すると,この4年間に15倍に達した.石炭以外では,鉱石・鋼材・セメント・コークス・木材などが実施され,またこの転移は,太平洋岸だけでなく,海上の襲撃に対して比較的安全とされた日本海沿岸の航路・港湾を使うことが多かったため,北陸・信越・羽越などの日本海縦貫線の比重がにわかに大きくなった.
 またこの陸送転移貨物の年間計画輸送量は2100万トンとされた.このため,貨物列車を最大限に増発することが必要となって,その分だけ旅客列車の削減が要求された.結局1942(昭和17)年11月から1945(昭和20)年6月までに削減された旅客列車は,設定キロで17万2000kmとなった.
 旅客輸送が逼迫すると,旅客列車の混雑は異常なものとなった.1944(昭和19)年4月以降,一般の旅行には警察官の証明書を必要とするように定めたが,実質的にはほとんど効果がないばかりか,かえって煩雑な手続きによって能率を低下させるばかりであった.通勤や団体旅客輸送についても制限が加えられ,平時の輸送体制はまったく遠い過去となってしまった観が深かった.
 このような状態に加えて,1944(昭和19)年6月から連合軍による本土空襲が開始された.とくに11月に入ってマリアナ基地からの空襲が開始されると,鉄道はその被害を徐々に増大していったが,1945(昭和20)年2月以降は,機動部隊から発進する艦戴機が,軍関係施設とならんで直接鉄道に対して攻撃を加えるようになった.
 空襲による被害は,国鉄のものだけで爆撃403回,焼夷弾攻撃252回,機銃攻撃494回,これに釜石・日立・室蘭・浜松などの艦砲射撃15回が加わる.これらの攻撃によって軌道の破壊は,延べ1600kmに達した.被害は駅舎198カ所,通信線延長9万km,工場14,機関車891両,電車563両,客車2228両,貨車9557両にのぼった.連絡船の被害は7万9774総トンで被害比率は65%に達した.
 このような状態で,日本の鉄道は敗戦を迎えたのである.
 [原田勝正]