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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 I 政策
Author: 原田 勝正
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 I 政策

 (1) 占領体制下の交通政策
 太平洋戦争の敗戦から,1950年代中期までの約10年間に,日本経済は奇蹟といわれるほどの復興を実現した.このことは,交通全般についても同様であった.敗戦時,鉄道・自動車・海運・航空,どの部門をとってみても十分に活動できる能力はなかった.
 戦争による被害は,海運の場合,船舶の被害が約80%といわれてもっとも大きく,年間平均稼動船舶は100万総トンを割っていた.これは総トン数で1910年代前半の水準であり,太平洋戦争直前の最高609万総トンとくらべていちじるしい減少であった.1隻当たり平均トン数は3100トンから1700トンに減少していた.しかも修理を必要とするものが多く,また老朽船や,資材・工数ともに不十分な戦時標準船が多いため,船舶稼動率は保有船腹の70%以下という状態となっていた.さらに占領軍は,商船に対するきびしい管理体制をしいて,1945(昭和20)年10月総司令部(GHQ)に日本商船管理局(Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine:SCAJAP)を設置し,100トン以上の船舶の配船・運航・改造修理を担当,この下部機構として,日本側は旧来の船舶運営会をGHQの命令によりCivilian Merchant Marine Committee(CMMC)という組織に改変して,事務を担当することとした.これは,言うまでもなく,ポツダム宣言にもとづく軍国主義除去の一方策であった.しかし,輸送力の回復を必要とする当時,占領軍によるこの管理は,大きな障害となった.
 機帆船がわずかに占領軍の管理からはずされ,1946(昭和21)年以降自主運船体制を回復したが,一般船舶の民営還元が実現したのは1950(昭和25)年3月であった.同年4月からようやく全船舶が船主に返還され,自主的運航が可能となったのである.この間,船腹の不足を補うため,計画造船,沈船引上げ,非能率船の改造などが進められた.しかし,占領軍は新造船については5000トン以下,速力15ノット以下という制限を加えたため,新造船は内航船に限定され,外航船の新造は1950(昭和25)年以降に持ち越された.
 陸上輸送手段の中で自動車は,すでに第二次大戦中,燃料の決定的な不足から,十分な運行体制をとることが不可能な状態におかれていた.民間のバスおよびトラック輸送業者は,自動車の代用燃料(なかでも日本在来の燃料である木炭,薪)の使用を義務づけられて,輸送能率はいちじるしく低下していた.しかも連合軍の本土空襲による車両の被害が続出した.代表的な貨物運送企業である日本通運株式会社におけるトラックの損害は1227両(18.1%)といわれ,そのうえ,燃料・部品の不足から,残存自動車の稼動率は50%前後の水準にまで低下していた,
 このような状態で,陸上運輸ばかりでなく,沿岸航路にたよっていた貨物運輸のほとんどを,鉄道に転移する必要が生じてきたのである.戦時中と同様に,もちろん戦時中の陸送転移とは意味や動機を全く異なるものとしてはいたが,鉄道が負担すべき輸送任務は,依然として大きいものとされたのである.
 たしかに,本土空襲などによる鉄道の被災率は,船舶などに比較すれば,数字の上では大きいものとはいえなかった.しかし,被害の多くが都市の線路や主要幹線など,輸送密度の高い部分に集中しており,輸送力の低下はここでもいちじるしかった.
 敗戦とともに開始された兵力の復員輸送・疎開人員の復帰輸送は,旅客輸送需要を急激に増加し,また,貨物輸送は,前記の沿岸航路その他からの転移分を負担するため,ここでも急激な輸送需要の増加がみられた.しかし,施設・車両の不足に加えて,当時重要な動力源であった石炭の生産量が敗戦とともに激減する傾向にあり,また荒廃した施設・車両を修復すべき資材の供給は,兵器その他の生産が中止されたにもかかわらず,ほとんど供給されることがなかった.これらの理由から,鉄道の輸送力を回復すべき条件は,まったくないといってよい状態であった.
 これに加えて,占領軍は,鉄道に対する支配権を確保し,客車とくに優等客車を重点において,保有両数の約10%を接収した.また貨物輸送については,国鉄の貨物輸送量の10%を越える量を優先的に輸送すべく命令した.この占領軍のための輸送義務が,減退した輸送力に対してさらにこれを減退させる結果をもたらしたのである.
 この時期1946(昭和21)年の鉄道貨物輸送量は,国内の総貨物輸送量に対し33%を占めていた.1936(昭和11)年のそれは22%であったから,海運や自動車からの転移が,鉄道のこの比率の増大となってあらわれたものとみてよい.これをトンキロ数の比率でみると,1946(昭和21)年は64%となり,1936(昭和11)年の27%にくらべ,37%の増加となっている.平均輸送距離は216kmで,軍事輸送の多かった1944(昭和19)年の265kmにくらべれば下降していることがわかるが,しかし,とくに長距離輸送が海運に代わって鉄道によって行われていたことを示している.
 このような状態の下で,輸送力の回復をはかるためには,早急に回復を期待できない海運に代わって,まず鉄道の輸送力復旧が必要とされた.運輸省は,1945(昭和20)年敗戦と同時に,鉄道復興5カ年計画を立て,車両1259両の新製,被災車の修復,被災線路の復旧,電化工事などを積極的に推進することとした.しかし,これは資材の不足という事情から十分に進捗せず,1948(昭和23)年以降計画を立てなおして発足することとなった.とくに1948(昭和23)年以降鉄道は重点産業部門としてその復旧が石炭・鉄鋼・電力なみに重点的に実施されることとなり,車両の新製,線路の改修,電化工事の進展が計画された.このうち,線路の改修は,老朽化したレールの交換を至急の課題としており,これまでにもレールの老朽化によって,運転事故が平常時の3倍以上に達し,要注意運転線区が,とくに幹線のいたるところに設定され,通過トン数,通過速度の制限が輸送力の回復にとって大きな障害となっていたのである.また電化工事は,石炭の不足を解消するためにも,動力の転換の必要性から要請された.当時発電方式は,「水主火従」方式をとっており,水力発電によって作られる電力を鉄道電化にふりむけることによって石炭不足を解消させようという意図がはたらいていたのである.
 もともと,日本の鉄道技術者たちは,第一次世界大戦終結当時から,積極的な鉄道電化によって,石炭エネルギーに代えようという計画を持っており,主要幹線および山岳線区の大規模な電化計画が立てられた.然るに,これに対して,軍部とくに陸軍が強く反対した.戦争にさいして,空襲その他の被害を受けて,発電所・変電所が破壊されたようなとき,鉄道の輸送力が壊滅するというのがその理由であった.そのため,鉄道電化は,山岳線区と都市および周辺の地域に限られ,幹線電化は東海道本線のごく一部を除いて実施されなかった.そのような歴史的経緯からみて,積極的な鉄道電化は,戦争を放棄した日本の「平和的な状態」の下における鉄道輸送のあらたな形態といった象徴的意味をもつものとされたのである.
 しかし,このような復旧計画に対して,占領軍がきびしい制限措置をとった.占領軍は国内の経済復興がまだ十分に進捗していない状態の下で,特定部門のみの復興を進めることを極度に警戒した.それは,日本が重工業国家として復活することを恐れたためもあったであろう.鉄道もまたこの制限の対象とされた.機関車の新製は抑制され,電化工事はそのほとんどが禁止された.
 止むを得ず,蒸気機関車は,過剰となった貨物用機関車を旅客用機関車に改造するという名目で,台枠・ボイラなどを流用しつつ,事実上新製するという方式をとった.電化工事は,急勾配区間で輸送力が全く限界に達している奥羽本線の福島・米沢間の電化を認めさせ,その他東海道本線の沼津・浜松間を認めさせるなど,局地的にこれを実現するという方法をとって進めなければならなかった.
 (2) 経済再建と交通体系の変化
 このころ,占領軍の政策はようやく転換のきざしを見せた.一方でインフレーションを抑制するためのドッジ・ラインによる経済発展抑制政策が実施され,均衡財政が実施されるとともに,アメリカは,ソ連との対立という状況のもとで,日本の軍事基地としての利用価値を認識しはじめていた.1948(昭和23)年以降,賠償施設として撤去する予定とされていた軍需工業関係施設の保存が事実上開始され,重工業復活への道が開かれるにいたった.前にふれた大型船舶の建造開始もこのような立場から承認されたのである.
 このような占領政策の転換は,1949(昭和24)年の中国における社会主義国家の成立,これに伴うアメリカの中国からの撤退,アジア大陸に対する危機感の増大と同時に進行していた.これを実証するかのように,1950(昭和25)年6月,朝鮮における戦争が勃発した.
 この朝鮮戦争は,日本資本主義体制の復活にとって決定的な要因をなした.すなわち,極東米軍を中心とする国連軍の朝鮮における戦闘は,日本を兵站基地とせざるを得なかった.そこで基地建設,輸送,物資補給,兵器修理など,あらゆる後方業務を,直接日本の保有する生産力・輸送力にたよらざるを得なかったのである.そのために,日本の各企業は,占領軍から日本政府を通じて発注されるこれら業務によって,企業活動の機会と利益とを獲得することができた.「特需」と呼ばれるこれらの受注業務が経済活動復活の直接的な契機となった.財閥解体は有名無実となり,その事実上の復活が開始され,日本の経済は,ふたたび戦前と同様な独占資本の主導権の下に復活していく機会を獲得したのである.
 この路線は,1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約発効によって本格化した.総合的な輸送力の復活は,この「朝鮮特需」による経済復興とともに,急速に,各部門において進行していったのである.
 このような経済再建に伴って,それまで海運の復興を抑制してきた占領軍が,復興の各措置を指令,海運は国家統制から解放されて民営による再建の方向に進むこととなった.外航船の活躍は,サンフランシスコ講和条約以前から活発となった.1950(昭和25)年には南アメリカ航路が復活,1951(昭和26)年にはバンコック,インド,パキスタン,ラングーン,ニューヨーク,シアトルなどの各航路,1952(昭和27)年にはヨーロッパ,オーストラリア,東南アフリカの各航路,1953(昭和28)年にはニュージーランド,西航世界一周,中南米西岸,東航世界一周などの各航路,1954(昭和29)年には西アフリカ,中近東の各航路が再開され,中国を除くほとんど全世界との航路が,5年ほどのうちに実現した.
 造船は1950(昭和25)年以降,政府の計画造船の政策にもとづき,1953(昭和28)年外航船舶建造融資利子補給及び損失補償法によって,政府の利子の補給のもとに,積極的な造船がすすめられ,500トン以上の船舶は,1950(昭和25)年から急増しはじめた.商船合計では1950(昭和25)年の944隻171万1000総トンが,1960(昭和35)年には1919隻600万2000総トンに増加,とくに外航船は,同じ時期に,82隻51万8000総トンが,641隻502万1000総トンに増加した.1958(昭和33)年にはすでにリベリア,アメリカ,イギリス,ノルウェーに次いで世界第5位の地位に上昇したのである.
 海運の復活とともに,航空運輸の復活もようやく開始された.占領軍は,戦後あらゆる航空関係事業を禁止し,航空関係保安施設の継続のみを認めていた.1947(昭和22)年から米・英の航空会社が日本への乗入れを開始,1950(昭和25)年占領軍は外国航空会社に日本の国内航空を担当させようとしたが,日本側がつよく抵抗して実現しなかった.
 これに対し1951(昭和26)年8月,日本航空株式会社が設立され,日本側の航空機所有と自主運航体制は認められなかったが,アメリカのノースウエスト航空に委託するかたちで10月から国内定期航空が開始された.1952(昭和27)年講和条約発効直前に,外国民間航空機の出入国・領空航行に対する管理権が日本側に返還され,航空機の生産禁止が解除された.
 講和条約発効とともに,政府は民間航空再建方策を検討,国内線の再建と国際線への進出を並行することとし,国際線については1953(昭和28)年10月日本航空株式会社を特殊法人に改組し,資本金20億の半額を政府が出資,政府が補助金,債務保証,社債発行限度の特例措置をみとめるというかたちで,国際線への進出の基盤をかため,同時に1953(昭和28)年10月国際民間航空機関(ICAO)に加盟した.そして1954(昭和29)年2月東京・ホノルル・サンフランシスコ線および東京・沖縄線をまず開設,その後1960(昭和35)年までに北まわりヨーロッパ線,北アメリカ,アジアなどの各線を開設していった.
 国内ローカル線については,当初大阪以東を日本ヘリコプター輸送株式会社,以西を極東航空に与え,この二社は1957(昭和32)年12月合併して全日本空輸株式会社となった.このほかに青木航空(のち藤田航空),日本観光飛行協会(のち日東航空),北日本航空,東亜航空,富士航空,中日本航空などの局地的な路線運航が1960(昭和35)年前後までに開始された.
 自動車については,戦時中の台数の減少(約20%以上といわれる)にもかかわらず,自動車工業の復活とともに,まず小型三輪自動車が増加して,1948(昭和23)年には,1940(昭和15)年の台数を凌駕し,1950年代はじめまでには各車種ともに戦前の水準を越えるようになった.しかも1951(昭和26)年以降,営業用トラックの中・長距離路線の発展がめざましく,輸送トン数はすでに1952(昭和27)年に戦前のそれを越えた.トンキロでは国鉄に及ばなかったが,トン数の分担比率は自動車65%となり(トンキロでは12%),この点でも戦前の水準を越えた.自動車はこののち,1950年代後半から1960年代にかけてますます国内輸送量の中に大きな比重を示すようになる.
 その背後には,1952(昭和27)年の道路法改正,1950年代後半の高速道路関連法規の整備による道路整備の政策があずかって力あったとみることができよう.しかし,全体として道路の整備は低い状態のままでおかれ,むしろ自動車台数の増加がいちじるしい.この結果,道路と自動車との均衡が急速に失われ,交通事故,環境破壊をもたらす根本的原因となっていったことは否定できない.また,石炭・電力から石油へのエネルギー源の転換がこの時期に開始されたことも,自動車の発展をもたらす原因となったが,これも,石油をめぐる国際政治の状況の推移如何によっては,いつ崩壊するかわからないという危険な基盤の上に成立したエネルギー体制であった.
 [原田勝正]