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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 II 鉄道
Author: 原田 勝正
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 II 鉄道

 (1) 鉄道輸送力の復旧
 鉄道の復興はきびしい道を歩まなければならなかった.戦時中の資材・労働力の不足によって,車両・施設は荒廃し,本土空襲による損害がこれに加わって,敗戦当時の鉄道は,国鉄・私鉄を問わず,辛うじて列車を運転している状態であった.しかし,敗戦の日にも休まず運行をつづけているということ自体が,打ちひしがれた人びとに勇気を与えた.
 生活を破壊された人びとにとって,たとえその輸送力が不足していても,鉄道が動いているという事実は,日常生活の意識をよみがえらせる契機を与え,生活の再建への意欲を湧き立たせたのである.
 鉄道の従業員もまた,苦しい状況のもとで,人びとの期待を意識して職務に従事した.鉄道の復興の契機は,こうした利用者と職員との信頼とそこから生まれる使命感によるところが大きかったといわなければならない.
 それにしても,敗戦の痛手から立ちなおるには,多大の努力を必要とし,長い年月をかけなければならなかった.鉄道の場合,車両や施設の復旧には,十分な工業生産力,とくに資材の供給体制と労働力とが具わっていなければならない.ところが,敗戦直後の段階では,とくに鋼材の供給が不十分であり,もっとも必要なレールの交換が進行しなかった.車両については,1948(昭和23)年までにその生産力が戦前の水準にまで回復した.とくに動力車の生産力の向上に注意が払われ,また車両の修繕能力も,旧軍直轄工場,旧軍需工場などの施設を利用して,このころまでに戦時中の最高修繕能力にまで到達した.
 私鉄のうち,大都市周辺の電気鉄道は,復旧能力が低く,とくに車両の不足に悩まされた.結局,国鉄から,老朽車・戦災車をゆずり受けて修理するという応急措置をとる場合が多かった.しかし,国鉄と同一の線路規格をもつ私鉄では,国鉄の復旧用に製作された車両の流用を受ける場合が出てきた.このことは,のちに,通勤用車両の規格を,国鉄・私鉄を通じて統一する一つの契機となった.
 1948(昭和23)年から1949(昭和24)年にかけて,前項で述べたように,国鉄・私鉄の復興計画は,ドッジ・ラインによる抑制によって,かなりはげしい頓挫を来たしたが,翌年の朝鮮戦争が,事態を一変させたのである.
 朝鮮戦争の勃発に伴い,在日米占領軍の出動が開始されると,短い期間に大量の兵力を,朝鮮に向かって輸送する任務が至上命令として賦与された.この輸送量は,一定期間の軍事輸送量としては,太平洋戦争中の日本軍部隊の輸送量を凌駕し,国鉄はじまって以来の大規模な軍事輸送となった.横浜港周辺の兵器・弾薬出港駅,佐世保・門司などの兵員出港駅では,一時かなりの混乱状態がひき起こされたが,これらの輸送を通じて,それまでの復旧速度を倍加しなければ占領軍の要請に応じられないという事態となった.
 この当時,国鉄はすでに占領軍の抑制のもとで復興計画をすすめ,とくに電化・電車化の計画は,前項に述べたような抑制はあったが,少しずつ進捗した.このうち,1950(昭和25)年3月に実施された東海道本線東京・沼津間のいわゆる湘南電車の登場は,これまでの電車の常識を破り,中・長距離用の電車としての設備をもち,機関車牽引列車に代わる高い輸送能力をもつことを示した.すなわち,1個列車10両以上の編成を必要とする通勤列車では,機関車牽引の動力集中方式より,電車のような動力分散方式のほうがはるかにすぐれていることが判明した.この電車方式の成功が,のちに中・長距離用電車の使用範囲を拡大させ,特急・急行などの高速列車の動力分散化をすすめる結果をもたらし,新幹線計画もこの方式ですすめられることになった.その意味でこの湘南電車がもつ歴史的意味は大きい.
 電車と同様に,気動車の場合も,動力分散方式ですすむ方針が,1952(昭和27)年ごろまでにようやく決まった.日本では,第二次大戦前から内燃機関の研究はおくれていた.第一次大戦の賠償物資として受け入れたディーゼル機関車の内燃機関についても,その実用化の研究は十分に進まないうちに第二次大戦に突入した.そのため,ディーゼル機関の技術水準は極めて低いままに放置されたのである.第二次大戦後,非電化区間における蒸気機関車の燃料である石炭が極度に不足したところから電化の必要性が生じたが,その電化をただちに実行できない線区では,内燃動力車を導入する必要が叫ばれるに至った.戦前における国鉄の内燃動力車は,ディーゼル機関の,上に述べたような技術水準の低さもあってガソリン機関がその大部分を占めていた.戦後,研究の遅れを取りもどすという意味からも,ディーゼル機関の採用が課題として取りあげられるに至った.
 この作業は,1951(昭和26)年ころから本格的軌道に乗り,まず1953(昭和28)年に2両連結使用のディーゼル機関車DD50形を製作,さらに電気式ディーゼルカーの試作に成功,これを実用化するとともに,液体接手(torque converter)による駆動方式を採用した液体式ディーゼルカーを開発,以後のディーゼル機関,ディーゼルカーは,すべて液体式として規格化することとした.このディーゼル機関は,ディーゼルカーに用いる場合,当初は180馬力のもので,出力が不足したが,1960年代にかけて,400馬力機関の開発に成功し,ようやく強力な機関をそなえた内燃機関車,内燃動車を実用化することができるようになったのである.これによって,非電化区間における無煙化は,まず旅客用車両から可能となり,1950年代なかばから,かなりの非電化線区において,旅客列車の無煙化が実現,1960(昭和35)年からは,非電化幹線における特急列車にも,ディーゼルカーが採用されることとなった.
第1図 高度成長期直前の国有鉄道網(1955(昭和30)年10月)
 電車の技術は,湘南電車の段階までは,釣掛式モーターによっていたが,これをたわみ継手による動力伝達・駆動方式に変更する研究が,1950年代後半に実用化した.この研究では,まず大都市周辺の私鉄が一歩先んじていたが,国鉄では1957(昭和32)年通勤電車10両固定編成用の新性能電車を開発,これを実用化するとともに,高速電車にこれを応用,1958(昭和33)年には東京・神戸間の特急電車を製作,それまでの機関車牽引列車の到達時間7時間30分を6時間50分(のち6時間30分)に短縮,東京・大阪間の日帰り旅行を可能にした.
 この水準に到達するまでには,戦時設計電車による大事故を経験し,まずその復旧を1951(昭和26)年から1953(昭和28)年にかけて完全に実施するという作業が前提として必要とされた.しかし,国鉄は,このころ,木造客車の鋼体化改造の作業を開始,数年を出ずして営業用客車のすべてを鋼体化することに成功するなど,1950年代なかばまでに,車両については基礎的な改良工事をかなりの程度まで実現していたのである.
 以上述べてきた車両の改良は,1950年代なかば以後,積極的な動力近代化の方針の下に継続してすすめられることとなった.すでに輸送水準は,1949(昭和24)年に特急列車を復活,1950(昭和25)年以後しだいに平常ダイヤを復活させ,1953(昭和28)年ごろまでに戦前の水準に復帰していた.そして,占領軍の制約が消滅すると,積極的な幹線電化工事がすすめられ,1956(昭和31)年には東海道本線の全線電化が完成した.
 (2) 動力近代化と技術革新
 1955(昭和30)年以降,国鉄は,このような復旧をさらに推進するため,もっとも復旧の遅れていた施設の改良に重点をおいた第一次5カ年計画(1957(昭和32)年開始)を実施,施設・車両の更新,電化・ディーゼル化の促進をはかった,国有鉄道の組織は占領軍の下で,1949(昭和24)年6月1日公共企業体に編成替えされ,独立採算制をとることとされており,国鉄は,その経営の安定をはかるためにも,早急に,これらの計画による輸送力の増強を実現する必要に迫られていた.
 この5カ年計画においては,しかし老朽施設の更新は十分に進んだとはいえなかった.それだけ戦争のもたらした影響が大きかったということができるのだが,5カ年計画終了時までに行われた改良のうち,実現ないし完成した部門はどちらかといえば,上に述べたような車両の性能向上・改良に重点がおかれていた.線路の改良,レールの重量増加による軌道負担力の増加などは,まだ十分な成果を挙げることができなかった.これらのなかで動力近代化の一環として実施された交流電化は,1953(昭和28)年から計画され,1957(昭和32)年商用周波数50Hz(富士川・姫川以西の西日本では60Hz),20000Vの単相交流方式を採用することに成功,これを実用化し,幹線・地方線とも,地上設備の節減,運転効率の向上に資するところが大きかった.のちの新幹線の技術は,動力に関するかぎり,前に述べた湘南電車,新性能電車,それにこの交流電化方式と三つの技術的各段階をふまえて成立したものである.
第1表 国鉄電化・自動信号化区間キロ数


 [原田勝正]