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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 II 鉄道
Author: 青木 栄一
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 II 鉄道

 (1) 鉄道車両技術の革新
 ⅰ. 動力分散方式の確立
 第二次世界大戦前における日本の鉄道は,機関車が多数の無動力の客車や貨車を牽くという動力集中方式による運転形態を採用していた.電車や気動車のように旅客をのせる車両個々が動力をもつ形態は一般に短距離を運転する小単位の列車に限定されていた.少なくとも,国有鉄道においてはこの形態が定着しており,それは世界の鉄道の一般的な形態とも一致していた.
 しかし,1950年代前半の国有鉄道では電車や気動車が長大編成で中距離列車として用いられるようになり,後半にはこの方式はさらに広い範囲に用いられた.すなわち,動力分散方式が急速に普及して,従来の動力集中方式を圧倒する結果となった.そして世界の鉄道の趨勢をみても,日本ほど動力分散方式を徹底的に推し進めた国は先進国のなかでは他に例がない.
 動力分散方式においては,個々の車両に原動機がとりつけられているため,車両製作費が高価となり,かつ保守費も高くなる.しかし,これによって車両の運用効率の向上が期待でき,また日本のように軌道や橋梁構造が弱く,軸重の重い機関車の運転が困難なところでは列車重量を編成全体に平均的に分散させうるという利点があった.事実,国有鉄道では2000馬力級のディーゼル機関車(欧米ではすでに1950(昭和25)年頃に実用車が完成していた)の開発に難航しており,列車の高速化は動力分散方式を採用する方が容易に達成できたのである.これによって国有鉄道の電車と気動車の保有数は急増し,世界的にみても保有数はトップレベルに位置するにいたった(第1表).
第1表 車種別車両保有数の推移(1955―1983(昭和30―58)年)

 ⅱ.「高性能電車」と軽量車体の開発
 1950年代前半に大都市の大手私鉄を中心として試作・開発された「高性能電車」は,この時期にいたって全国的に普及し,かつその運用もあらゆる種類の旅客列車に及んだ.「高性能電車」が目的としたのは,高い加速・減速性能と電動機の震動が車体や線路に与える影響を少なくすることであり,このために回転数が大きく,かつ軽量の高速電動機,台車のバネ下重量を減らすためのカルダン駆動装置,剛性を強化しかつ軽量化された金属バネのほかに,ゴム・オイル・空気を緩衝材として震動の軽減をはかった新しい台車などが開発された.また,長大編成を前提とした機器の集中配置や制御方式,効率的なブレーキなどもとり入れられた.さらに高張力鋼,ステンレススチール,アルミ合金などを材料として,車体の軽量化も著しいものがあった.これらによって,従来全長20mの電動車で重量40トンを越えていたものが,10トン近く軽くなり,30―35トン程度におさまった.軽量化は同時に省エネルギーに役立つが,1970年代にはとくにこのことが強調され,従来の抵抗器制御方式から半導体を用いたサイリスタ制御方式に移行するにいたった.
 1958(昭和33)年,国有鉄道は中・長距離用の「東海」型電車(153系)の量産を開始し,さらに同年11月より電車特急「こだま」(151系電車)が運転されて,東京・大阪間を6時間50分(1960(昭和35)年に6時間30分まで短縮)で結んだ.1967(昭和42)年には寝台車の運用効率を向上させるため,世界的にみても例のない寝台電車(581系)が登場し,昼間は一般の座席車,夜間は寝台車として使用できるようにした.私鉄電車においては一般に車両の大型化が進み,国有鉄道と同様に全長20mの車両が普及した.
 ⅲ. ディーゼル動車とディーゼル機関車の発達
 この時期に国有鉄道は液体式ディーゼル動車の大量増備を行い,ディーゼル動車は非電化のあらゆる線区に進出し,かつあらゆる用途の旅客列車に使われるようになった.
 量産されたディーゼル動車は,最初は非電化の幹線・亜幹線の普通列車に用いられたが,車体構造・室内設備の改良により短期間のうちにその使用線区は急速に拡大した.1956(昭和31)年には勾配線区,あるいは準急(のち急行)列車用の出力強化型が生まれ,1960(昭和35)年12月には最初の特急型ディーゼル動車が運転を開始し,上野・青森間の特急「はつかり」が蒸気列車からディーゼル動車列車に置き替えられた.1961(昭和36)年10月には全国の主要幹線で特急列車が大増発され,国有鉄道における都市間輸送の一つの転機となったが,その主力列車として用いられたのは,「はつかり」用を改良したキハ82系ディーゼル動車であった.
 また,都市近郊の非電化線におけるフリークエントサービスを目的としたキハ35系ディーゼル動車が1960(昭和35)年に登場している.
 1953(昭和28)年以降約20年にわたる日本の液体式ディーゼル動車の発達に共通した特徴は,DMH17シリーズと称される8気筒機関を主機関として用いてきたことである.この機関の出力は当初は150馬力であったが,のちに180馬力まで出力強化された.この出力の強化・経済性の向上をめざして,1959(昭和34)年頃よりから床下にとりつけられる小型・軽量300馬力および500馬力程度のディーゼル機関の開発が続けられて,1968(昭和43)年に500馬力機関1基を搭載したキハ181系特急用ディーゼル動車がつくられた.1970年代以降,この機関を改良した12気筒型の440馬力機関と6気筒型の220馬力機関が標準型として量産されている.
 1972(昭和47)年よりさらに大出力・軽量化をめざして航空機用のガスタービンを鉄道用として改良したガスタービン動車キハ391系が試作され,実験が続けられたが,騒音などの問題の解決が困難で,実験は中止された.
 ディーゼル動車の急速な発達に対して,ディーゼル機関車は大出力機関の開発が容易ではなく,試作上のスタートは動車と大差なかったが,軽量で信頼性のある機関の量産は大幅に遅れた.このことは貨物列車の動力合理化を遅らせ,蒸気機関車の淘汰を引きのばす結果となった.
 日本のディーゼル機関車の発達を阻んだ最大の要因は,狭軌である上に劣悪な軌道条件に適した機関車が要求されたことである.電気式駆動を嫌って,液体式駆動に固執したのも,重量増加を最小限にとどめようとしたためである.1950年代にドイツの技術を導入した電気式のDF50形(幹線用)が量産され,また液体式のDD13形(入換用)が標準化された.1960年代に入ると,欧米では幹線用ディーゼル機関車には3000馬力,4000馬力級のものが登場するが,日本では1964(昭和39)年にいたってようやく大型蒸気機関車並みの出力をもつ幹線用デイーゼル機関車DD51形(出力2200馬力,液体式)の量産が始まるのである(第5章第3図参照).
 ⅳ. 蒸気機関車
 国有鉄道における蒸気機関車の新製は,1949(昭和24)年におけるC61形とC62形の生産終了で終止符を打った.その蒸気機関車保有数が最大となった年度は終戦直後の1946(昭和21)年で,同年度末(1947(昭和22)年3月)には5958両を数えたが,老朽機淘汰のため両数は漸減の傾向をたどった.しかし,その運転キロ数はかえって上昇し,1956(昭和31)年度における約2億8690万kmが戦後における最高記録となった.
 1956(昭和31)年以降電化の進展がはやくなり,さらにディーゼル動車・機関車の増備が行われると,蒸気機関車の淘汰はようやくテンポをはやめた.1959(昭和34)年6月の動力近代化委員会の報告では,1975(昭和50)年度までに蒸気機関車の全廃が予定されていた.最後まで蒸気機関車が走っていたのは北海道地区で,1975(昭和50)年12月に一般営業列車牽引から姿を消し,1976(昭和51)年3月に入換業務からも引退した.
 国有鉄道以外の鉄道における蒸気機関車をみると,一般の私鉄では北海道の炭鉱鉄道や東武鉄道のような貨物輸送の多い鉄道を除けば,1955(昭和30)年頃までにほとんど廃止されていた.しかし,工場などの専用鉄道では,中形のディーゼル機関車(国鉄のDD13形クラス)の開発が遅れたため,1960(昭和35)年前後からようやく蒸気機関車からディーゼル機関車への転換が行われるようになった.蒸気機関車の新製も日本国内の専用鉄道や工事路線向けのものは1953(昭和28)年まで行われていた.
 1970年代に蒸気機関車の動態保存が試みられるようになり,国有鉄道では梅小路蒸気機関車館(京都市)と山口線(山口県)で,私鉄では大井川鉄道(静岡県)で運転が行われるようになった.
 (2) 電化区間の拡大と交流電化の登場
 1955(昭和30)年10月,国有鉄道は電化調査委員会を発足させ,約2カ月の審議の後,10年間に約3300kmに及ぶ幹線鉄道の電化計画を発表した.
 当時の幹線電化をみると,東海道本線が翌年の全線電化をめざして,最後にのこされた米原・京都間の工事を急いでおり,第二次大戦前に完成していた中央本線東京・甲府間,戦後に電化された高崎線(大宮・高崎間),上越線(高崎・長岡間),奥羽本線福島・米沢間があるだけであった.この1955(昭和30)年の電化計画は全国的規模で進められるものであった.大規模な電化計画を決定した最大の要因は動力費の節減と輸送力の向上にあった.
 従来の国有鉄道の電化は直流1500ボルトを標準としていたが,この時点では新たに交流電化の実用化の可能性が高まり,直流電化とともに交流電化も並行して採用されることになった.
 第二次大戦後,フランスの国鉄では一般商用周波数による交流電化の実用化に成功し,日本でもこの方式による電化が注目されていた.1953(昭和28)年7月,国有鉄道では交流電化調査委員会を設け,交流電化計画の具体化をはかった.当初はフランスから若干の機材の購入を含む技術導入も考えられたが,フランスの国鉄やメーカーとの間の条件が折りあわず,日本による独自の開発が進められることになった.
 1954(昭和29)年9月より,仙山線作並・北仙台間で地上設備の試験が,翌年8月より交流電気機関車の試験がはじめられた.この実験では,交流によって整流子電動機を駆動する方式のED44形と,整流器を搭載して交流を直流に変えたのちに直流直捲電動機を駆動する方式のED45形の2形式の電気機関車が比較供用され,最終的には後者の方式の採用が決定した.地上試験を含めて約2年間の実験の後,1957(昭和32)年9月より仙山線仙台・作並間で交流電化による営業運転が開始された.
 仙山線における実験の成功によって,国有鉄道は幹線電化を商用周波数による交流方式で進めることを決定した(電圧単相20000ボルト,周波数は日本の電力供給における地域的差異によって50ヘルツ[関東以北]または60ヘルツ[中部以西]).1957(昭和32)年10月,北陸本線田村・敦賀間の電化によって,最初の幹線交流電化が完成し,1959(昭和34)年7月より東北本線黒磯以北の区間,1961(昭和36)年6月より常磐線取手以北の区間,鹿児島本線においても交流電化による運転が開始された.直流区間との接続は初期の非電化区間の挿入,地上切換から車上切換に進み,以後この方式が普及した.このため,交流・直流両区間を通し運転できる動力車が開発された.
 交流機関車に搭載される整流器は,当初は水銀整流器が用いられたが,シリコン整流器,さらにサイリスタと進歩し,軽量化・小型化されるとともに,交流から直流への転換にあたって,より連続した直流を発生させることができるようになった.これによって,電車にも交直両用のものが1962(昭和37)年より登場し,直流と交流の両区間にわたって運転される長距離列車の電車化を促進した.
第2表 電化の進展(1950―1984(昭和25―59)年)
 国有鉄道における幹線の電化は1960年代以降,交流区間,直流区間とも急速に進んだ.その進展は第2表に示す通りであり,1985(昭和60)年3月末における電化区間の分布は第1図に示した.
 (3) 新幹線の開業
 新幹線の開業は日本の鉄道史においてはもとより,世界の鉄道史のなかでも画期的な事件であったといえる.それは航空交通と自動車交通の急速な発達の前に,その有効性に疑問がもたれ,現実にも交通全体のなかにおけるシェアを失いつつあった鉄道交通の有効性を世界的に再認識させる結果となったからである.
 新幹線は東海道本線の輸送力強化を目的として計画されたが,単に在来線をもう1線追加するという形態をとらず,多数の列車を最大速度200km/hで常時運転するという世界の鉄道史上はじめての試みに挑戦した.
 国際標準軌間(1435mm)が採用され,列車は全部電車形式で,商用周波数
第1図 国鉄の電化区間(1985(昭和60)年3月現在).

(60ヘルツ)による交流2万5000ボルトが用いられた.使用する電車は1両の全長25m(先頭車のみ25.15m),幅3.38mで,当初は全部電動車から成る12両編成であったが,のちに16両編成となった.高速運転における安全性向上の見地からATC(automatic train control,自動列車制御装置)が採用され,制限速度を示す信号は運転台上に表示される.また,東京駅に,全列車の運行を監視し列車指令を行うCTC(centralized train control,列車集中制御装置)が設けられた.
 東海道新幹線は1964(昭和39)年10月1日開業し,東京・新大阪間を「ひかり」(名古屋・京都のみ停車)で4時間で結んだが(中間各駅―10駅―停車の「こだま」は5時間),翌1965(昭和40)年11月より「ひかり」3時間10分,「こだま」4時間に短縮された(「こだま」は1969(昭和44)年4月より,新設の三島駅に停車のため4時間10分となる).「ひかり」の表定速度は163km/h,1列車の定員約1400人で,1時間に「ひかり」4―6本,「こだま」2―3本(いずれも片道)を運転するという世界の都市間鉄道にも稀にみるすぐれたフリークエントサービスが1970年代までに実現した.これによって高速道路を走る自動車に対してはもとより,500km程度までの距離ならば,亜音速ジェット機にも互角に競争できることを証明した.
 東海道新幹線の成功は,さらにその延長線ともいうべき山陽新幹線の建設を決定させ(1967(昭和42)年起工),1972(昭和47)年3月に新大阪・岡山間,1975(昭和50)年3月に岡山・博多間が開業した.
第2図 新幹線鉄道網.
 また,1970(昭和45)年5月,全国新幹線鉄道整備法が公布され,これによって,東北新幹線(東京・盛岡間)と上越新幹線(東京・新潟間)が建設され,東京・大宮間の建設は用地買収の困難だったことで完成が遅れたが,大宮以北の区間をそれぞれ1982(昭和57)年6月および同年11月に,大宮・上野間を1985(昭和60)年3月に開業した.東海道新幹線の教訓をとり入れて,線路その他の地上施設,車両とも260km/hの運転が可能とされているが,1985年3月より最高速度240km/hで営業運転が行われている.
 新幹線の成功は,鉄道が「斜陽」であることを半ば自認していた欧米諸国の鉄道当局に,鉄道の現代的な役割を再認識させる重要な動機となった.巨大都市が集中しているアメリカ合衆国北東部や西ヨーロッパ諸国では,都市間高速列車のフリークエントサービスを1970年代より次々と実施するに至った.
 (4) 大都市地下鉄網の拡大
 1950年代に入ると,大都市の都心部においては交通需要の増大にともなって路面交通機関の能力不足が顕著となり,高速鉄道導入のために地下鉄の建設が積極的に進められることとなった.
 第二次大戦後における地下鉄の建設は,1950年代に東京と大阪においてはじまり,1983(昭和58)年までに全部で8都市が地方自治体の直営あるいはその出資による企業(営団,公社など)によって地下鉄の建設と経営が行われるにいたっている.その発達は第3表に示す通りである.
 1960年代以降に建設された地下鉄は,単に都心部付近に路線網を拡充して,路面の公共交通の機能の代替をはかっただけではなく,路線を郊外にも延長して,郊外と都心部との間に直通列車を運転しようとした点に一つの大きな特徴がある.とくに既設の郊外鉄道と線路を結んで,異なる企業間で列車の相互乗入れを行う例が多い.とくに東京ではこの方式が最も広く行われ,大阪,名古屋,福岡でも相互乗入れ運転が実施されている.また神戸高速鉄道のように自社の車両をもたず,両端で接続する4私鉄の列車が乗入れてくるという特殊な運転形態をとるものもある.
 相互乗入れを実施するためには,接続する既設郊外鉄道の建設基準に合致させて地下鉄を建設させねばならない.
第3表 大都市における地下鉄の発達(1950―1983(昭和25―58)年)
このため,従来の地下鉄における標準的な集電方式であった第三軌条に代わって,地上線並みの架空線方式が採用され,トンネルの断面も大きくなっている.また既設郊外鉄道の側でも,相互乗入れに用いられる車両は地下鉄並みの厳しい不燃性基準を満たして製作されねばならなかった.さらに同一の地下鉄企業内においても,接続する郊外鉄道の軌間や車両条件に合わせねばならないため,異なる軌間や仕様の車両を何種類も保有するという不合理な面が現われている.たとえば,東京都交通局の3本の路線はすべて軌間が異なり,1067mm,1372mm,1435mmの3種にわたっている.
 新しい技術開発の面で特筆せねばならないのは,札幌市の地下鉄である.これは札幌市交通局と川崎重工業とが共同開発した誘導軌条式の電車で,1950年代から開発・実用化されていたパリの地下鉄の誘導軌条式を改良した方式であった.この方式ではコンクリート道床上をゴム空気タイヤ車輪をもつ車両が走り,軌条は車両走行の方向誘導のみの機能をもつ.この誘導用軌条はパリでは2本であったが,札幌の方式では中心線に位置する1本のみである.しかし,このユニークな地下鉄の方式は,まだ札幌以外では採用されていない.
 (5) 路面電車の衰退と新しい中量交通機関の模索
 1950(昭和25)年現在で,日本では45の都市または都市群で路面電車の営業運転がみられた1).しかし,1950年代と1960年代におけるバスの発達に対して,機動性の劣る路面電車は競争に敗れて次々と廃止された.
 1950年代後半に一部の大都市ではアメリカ合衆国のPCC Carに範をとって,間接制御方式を採用し,電動機出力の向上によるスピードアップ,台車の改良による震動や動揺の軽減,近代的感覚の車体採用などによる新しい路面電車のイメージチェンジを試みた.しかし路面電車は時代遅れの交通機関という評価が一般社会に定着し,路線の専用化による交通渋滞からの脱出や連結運転の採用による輸送力の向上などの対策はほとんどとられなかった.また企業の多くは同一地域でバスの運転も行っていたため,企業全体としての経営効率を向上させるため,路面電車を廃止してバス1種に統一する傾向が強かった.
 このように路面電車の特徴を都市交通のなかで生かそうとする有効な対策が何もとられないまま,多くの都市で路面電車は全廃されるか,路線を大幅に縮小して,1980(昭和55)年には18都市または都市群で生き残ったにすぎなかった.すなわち,中欧諸国で行われたような路面電車の抜本的な技術的改良も,その特性を生かして都市交通のなかに適切に位置づける政策もとられなかったのである.
 しかし,1960年代より,高速電車とバスとの中間の輸送力をもち,高速電車よりも安価な費用で建設できる交通機関の開発が模索されていた.
 その一つがモノレールである.日本では西ドイツのALWEG式(跨座式),フランスのSafege式(懸垂式),アメリカのLockheed式(跨座式)などの特許に基づく技術の導入がみられた.とくにコンクリート道床上をゴム空気タイヤを用いて走る方式が多く採用された.しかし,諸外国をはるかに凌ぐ数のモノレールが多くの遊園地や博覧会において採用されたにもかかわらず,都市交通機関として実用化されたものは少なかった.このうち,1964(昭和39)年に開業した東京モノレールは東京国際空港と都心部を結ぶ重要な交通機関に成長して注目された.1985(昭和60)年12月現在,営業中のモノレールは3線,休止中1線,建設中1線がある.
 ついで1970年代より最新のエレクトロニクス技術をとり入れ,無人運転や高度のフリークエンシーをねらった新交通システムの研究が多くのメーカーで進められた.とくに都市交通に有効と考えられたのは中量軌道システムで,コンクリート道床上をゴム空気タイヤで走る小型車より成る編成を,コンピューター制御で短時間隔で運転する方式であった.1981(昭和56)年,大阪市交通局と神戸新交通(神戸市出資の公社)によって営業運転が開始され,1985(昭和60)年12月現在5線が運転中である.
 1970年代後半には西ドイツにおける路面電車の技術革新に刺激されて,日本でも路面電車の見直しがはかられるようになった.とくに運輸省の支援で試作された「軽快電車」は従来の路面電車の速力,輸送力,快適性などを抜本的に向上させた.また広島でみられたように,軌道の専用化といった路面電車の特性を生かす政策が並行して行われて,経営的にも成功した結果,路面電車は「軽快電車」として再生し,新しい形態の中量交通機関として社会的にも認められるようになった.しかし,その利用はまだ一部の都市にとどまり,なお試行錯誤の続いている段階にある.
 (6) 運転の安全性にかかわる技術の発達
 日本の鉄道は,その長い歴史のなかで多くの事故を経験してきたが,多くの場合,その教訓を直ちにとり入れて,安全性の向上に努めてきた.
 1960年代には大都市地域において輸送需要が急増した結果,運転間隔が短くなって,いわゆる「過密ダイヤ」が発生した.通勤電車が「過密ダイヤ」で走っている同じ線路上に速力の異なる長距離列車や貨物列車がわりこんでくるという状態は,事故発生の可能性を大きくするものであることはいうまでもないことである.
 1962(昭和37)年5月,常磐線三河島駅で下り貨物列車が停止信号を無視して側線の車止めに突入,機関車と貨車1両が脱線して隣の下り電車線をふさいだところに下り電車が衝突して脱線,上り電車線をふさいだ.そこにさらに上り電車が高速で突入してきた結果,死者160名,傷者296名という大事故になった.この事故によって国有鉄道は,信号と連動した自動列車停止装置(ATS)の取付けを急ぎ,1966(昭和41)年4月までに,ATSは国有鉄道の全線区で使用されるにいたった.しかし,私鉄ではATSの採用が遅れたため,衝突・追突事故がなおも続発したので,1966(昭和41)年に運輸省は大手私鉄16社に対して,区間を指定して1967(昭和42)年度あるいは1969(昭和44)年度までにATSの設置を義務づける指示を行った.この結果,大手私鉄のATS設置も急速に進んだ.
 列車集中制御装置(CTC)は1958(昭和33)年9月,伊東線で使用を開始したのが最初で,1962(昭和37)年6月には横浜線でも使用された.しかし,本格的な採用は1967(昭和42)年の土讃線多度津・高知間における使用開始以降のことである.CTCの採用で各駅の運転要員を大幅に減少させることができる.国有鉄道ではとくに単線の亜幹線で普及した.私鉄ではCTC化は1970年代にいたって大都市の大手私鉄で急速に進み,併せて列車無線装置も広くとり入れられた.
 しかし,ATSの普及にもかかわらず,1960年代後半以降も,国鉄・私鉄とも機器の操作を間違えたり,居眠り運転による事故が続発した.1968(昭和43)年には運輸省は運転関係者の再訓練を指示し,国鉄もまた運転業務査察の強化,関係者の研修,カウンセラー制度の採用,適性検査などを実施し,併せてATS電源未投入防止装置や警報持続装置の取り付けを進めた.安全性の向上は決して機械の整備だけによって達成されるものではなく,その基礎にはやはり運転関係者の的確な機器操作と訓練が必要なことはいうまでもないことである.
 (7) 鉄道連絡船の改良と衰退
 鉄道連絡航路は長らく国内の重要な幹線交通路の一環として機能してきた.とくに本州と北海道を結ぶ青函航路(青森・函館間),本州と四国を結ぶ宇高航路(宇野・高松間)の重要性は大きく,1960年代においても輸送需要の増大に応じて近代化が進められた.
 青函航路では1964―1966(昭和39―41)年に「津軽丸」型7隻が新造されたが,この型は総トン数約8300トンで,旅客定員約1200名,貨車48両(15トン積車換算)を輸送できる.また航海速力18ノットを維持して(従来は14.5ノット),青森・函館間の従来の所要時間を50分も短縮して,3時間50分とした.これによって,従来は1隻の船が1日2往復しかできなかったのが2.5往復できるようになり,稼動能率が著しく高まった.また,主機関は蒸気タービンからディーゼル機関に変わって燃料消費も大幅に減少した.甲板作業の自動化などにより,乗組員は従来の型よりも約40%減となった.
 1969―1970(昭和44―45)年には旅客扱いをしない純貨車渡船にも航海速力18ノット,貨車搭載量55両の「渡島丸」型(約4090総トン)3隻が就航し,1970(昭和45)年には青函航路の輸送能力は最大となった.
 宇高航路でも1966―1968(昭和41―43)年に「伊予丸」型(3084総トン)4隻が就航した.ここでも大型化,ディーゼル機関の採用とともに,従来の航海速力12ノットから15ノットへのスピードアップが実現し,宇野・高松間の所要時間は1時間に短縮された.
 しかしながら,鉄道連絡船は1960年代後半を最盛期として,1970年代に入って急速にその重要性が失われてゆく.それは航空交通の発達によって,首都圏・北海道間,京阪神圏・四国間の旅客流が鉄道をはなれて航空中心に移り,貨物輸送もまた鉄道から道路交通優位に転じたからである.自動車航送の普及はこの面で鉄道連絡航路の重大な脅威となった.
 青函航路においてはすでに青函トンネルの建設が進み,宇高航路においても3カ所におよぶ本州・四国間の連絡橋の工事が行われている.これらのトンネルや橋梁の完成は鉄道連絡航路の終焉をもたらすことは当然のことであるが,これらをもってしても鉄道の重要性を回復することは困難であると考えられている.

 [注]
 1) 郊外電車または都市間電車が一部区間で街路上に運転されているものを除く.
 [青木栄一]