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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

Title: 終章
Author: 山本 弘文
Publisher: 東京大学出版会
Published Year: 1986年
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終章

 近代日本の交通と運輸は,他の産業分野と同じように,再三の激しい浮沈と部門間の不均衡を伴いながら,全体としてかなり急速な発展を経験した.19世紀の中葉,日本が諸外国に対して門戸を開いた時,世界はすでに鉄道と汽船の躍進期に入っていた.しかし,日本はまだ人馬継立てと河川の継舟,平底一枚帆の和式帆船の域を出なかった.1868(明治元)年に成立した明治政府は,交通・運輸の分野においても,このようなハンディキャップを背負って出発しなければならなかったのである.
 明治政府の交通政策は,このような事情のもとで,旧制度の改革と鉄道・汽船・洋式帆船など新技術の導入,の2本立てで進められた.しかし当初その政策は,政策担当者の古い経済思想にわざわいされて,鉄道については官設官営,沿岸海運や道路交通についてもかなり立入った干渉を基調とした.しかしこのような政策は,政府に対して過大な財政負担を課したばかりでなく,営業の自由をおびやかすものとして批判の的となった.また1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて行われた欧米諸国の大規模な視察も,そうした官営ないし干渉政策に対する自省を促した.その結果1870年代後半から1880年代初頭には,政府直営から民業育成への政策基調の転換が始まり,1880年代には,郵便・電信・鉄道・兵器工場などを除く大部分の官業が,民間に払い下げられることになった.そしてこれに伴って交通・運輸の分野においても,三菱会社(海運)・内国通運会社(陸運)などの助成や,私設鉄道の認可が実施されることになったのである.
 このような政策転換と,前後して行われた不換紙幣の整理の結果,日本の民間産業は,1886(明治19)年ころから,綿紡績・製糸・海陸運輸などを中心に一斉に勃興し,1890年代後半にはほぼ自立的な資本主義体制を確立した.そして交通・運輸の分野においても,日本郵船(株)・大阪商船(株)・東洋汽船(株)などを中心とした沿岸・外洋の海運業と,鉄道を中心とした陸運業(長距離鉄道輸送と補助的道路輸送)の編成が,形を整えることになったのである.
 以上のような日本の工業化の第一段階の政策を担当したのは,主に旧下級武士出身の官僚であった.彼らは旧藩時代に修得した儒教的教養と,維新の政争のなかで鍛えられた政治的資質を具えていた.そのため当初は,旧社会の思想や政策を多かれ少なかれ引継いでいたとはいえ,開かれた国際環境のもとで急速に脱皮し,時代の進展に即した政策を的確に選択し得る,有能な官僚に成長した.また彼らは武士的な出自ということもあって,庶民に対してはきわめて専制的であったが,部内においては藩閥間の相互牽制が機能し,適切な政策選択を可能にすることになった.1870年代後半からの政策転換や開拓使官有物払下げ事件は,その好例であった.そしてその政策基調も,初期の政府直営政策から前期重商主義的な特定企業の特別助成(1870年代後半から1880年代に内国通運会社・三菱会社・日本鉄道会社・日本郵船会社・大阪商船会社などに与えられた特別助成)を経て,航海奨励法・造船奨励法(1896(明治29)年公布・施行)に代表される,後期重商主義的な一般助成へと進展することになったのである.
 他方,この時期の民間の企業活動もかなり活発であった.たとえば1869(明治2)年には,横浜・東京間に早くも日本人経営の乗合馬車が登場したのを始め,1870(明治3)年には荷車を改造して乗用とした人力車が,1872(明治5)年には東京・高崎間,東京・宇都宮間などに駅馬車が,相次いで開業した.そして1880年代には,人力車・荷馬車・客馬車・牛車などの車両交通が一斉に開花し,馬車の製作も,輸入車両を手本として,各地で行われることになったのである.
 しかし,道路交通や道路建設に対する政府の政策には,一面大きな難点があった.その一つは,道路費のうちの政府負担額が極めて少なく,国道費も含めて,大部分地方負担とされた点であった.このことは為政者の専制的な性格と相まって,しばしば地方住民のはげしい抵抗を呼び起こしただけでなく,道路の構造や規格を,20世紀半ばまで,きわめて低水準に放置することになった.このような事情は,本格的な馬車時代を経由しないで鉄道時代に入ったこの国の鉄道偏重政策によるものであったが,このことはまた道路輸送の発達を妨げ,鉄道輸送の効率を末端において減殺する結果を招いた.1910年代から1920年代にかけて,国有鉄道が進めた鉄道貨物取扱業の改善政策は,そのような偏重政策の必然的帰結であった.しかし鉄道国有(1906(明治39)年)によってますます強大となった鉄道当局は,道路と鉄道の合理的な輸送体系を展望することができず,地方線の大幅な拡充によって,国鉄財政に大きな負担を加えることになったのである.
 道路と鉄道の合理的な輸送体系の編成は,第二次世界大戦後においても,モータリゼーションの急進展と鉄道輸送の凋落という逆の不均等発展によって,極めて困難な状況下に置かれている.総額37.3兆円にのぼる国鉄の累積債務と余剰人員は,日本の交通政策の当面する最大の難問といえよう.
 [山本弘文]