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技術と社会:日本の経験

Title: 第4部:「日本の経験」--産業技術の事例研究  II 都市社会と技術
Author: 林 武
Publisher: 国際連合大学
Published Year: 1986年
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第4部:「日本の経験」--産業技術事例研究 II 都市社会と技術

 (1) 都市と技術
 「技術移転」問題を検討するこのプロジェクトが,何故,都市を問題にするのか,について,まず,説明しておかねばならないだろう.開発は開発,技術は技術,そして都市問題はまたそれとして,それぞれ独立に検討するのがこれまでの学術的慣例である.しかし,開発・技術・都市が,相互に関連し合いもつれあった問題複合をなしていることは,誰もが承知していながら,依然として,個別科学的要素還元の方法が主流をなしている.そのことが不満だから,我々は「都市社会と技術」という問題をたてたし,「農村社会と技術」という問題を,個別産業技術の検討とならべて,構想した.この意図が充分に成功したのかどうかよりは,問題提起そのものに意味があるだろう.
 「都市問題」は南北を問わず現代世界の問題であることは確かである.だが,南と北とではおのずから都市問題の内容と構造が違っている.そして,南でこそ交通・保健・住宅・雇用・治安などの点で,より複雑で困難な問題に直面している.具体的な解決策・解決手順は各国ごとに一様である筈もない.しかし開発問題がらみで言えば,日本も問題を部分的にしか解決していない.けれども,問題の「経験」は鮮明な記憶の中にあるから,最も「対話」が成立しやすい主題だと言い切れる.
 開発問題に即した「都市と技術」の関係は,次の点で我々の関心事となっている.
 (1) 開発に技術(移転)は不可欠である.
 (2) 近代技術は相互に関連し合っているので,至近距離に関連技術・周辺サービスがあるところに集中する傾向をもつ.
 (3) 技術とサービス・情報が集中する場所が都市である.また,別に言えば,技術・サービス・情報が集中・集積すればそこは都市になる.
 近代工業の発達が都市を発展させ,近代工業が新しい都市を生み・育ててもきた.工業化と近代化を如何に定義しようとも,その過程は都市化の過程であった.言わば都市または都市化は工業化と近代化の前提である.そして工業化と近代化は都市化を次のレベルに押し上げるものである.そう「日本の経験」からは言うことができる.
 たとえば,近代的都市に不可欠の公共輸送機関網や電力のサービスは,一定規模の都市人口があることで初めて可能になる.いま発展途上国は近代化・工業化の前提である都市化の段階に到達している.だから,開発上の優先順位を確定し,賢明な技術選択を行い,タイムリーな追加移転を続ければ,問題解決に成功する見込みは立つ.
 そのさい,多分,各国が都市化のどの局面に位置しているかを心得えておくことは開発政策の策定に有効であるだろう.都市化には三つの局面がある.(1〉既成都市の人口膨張,(2)都市数の増加,(3)各都市間に機能の分担がすすみ,一定の機能的大小によるヒエラルヒーが全国規模でできること,がそれである.このことは技術と技術に関連する諸機関の集中・集積が分散・点在する状態から,群となり,次いで,連続面となってゆく発展状況に対応している.
 この枠組からすれば,発展途上国の多くは,第1の局面に到達しているが,第2,第3の局面には不充分にしか到達していない.そのことは,一面では国民的技術のネットワークが全国をおおい尽くしてはいないこと,ならびに社会統合の水準が高くはなく,社会的統合が緩やかであることを物語っている.他面で,地方文化がもつ豊かな多様性を反映して,行政のネットワーク(=官僚化)が有効に機能し難い条件ともなっている.このことには,開発にとってプラスの側面とマイナスの側面があるのは言うまでもない.
 この限りで言えば,日本は前世紀中葉ですでに人口100万から1万に満たないものまでふくむ200を越える都市網を確立していた.都市間の機能的ヒエラルヒーが完成していたし,全天侯道路と舟運で連結されていた.明治維新は,240余の小行政単位を広域化して再編成し,50足らずにする行政改革をともなっていたが,士族ばかりではない行政官僚層を各地方でも調達できたのであった.このことが中央政府の指導力を保証していた.
 (2) 首座都市(primate city)
 今日,非西欧世界の開発過程に特徴的なのは,首府の膨張だけが著しく,首府にくらべて第2位,第3位の都市が規模においても成長速度においても著しく小さく・低いことである.
 東京も,首座都市である.人口は1,100万と総人口の10%近くを占めるにすぎないが,約300万の人口をもつ横浜が30キロ圏内にあり,都下の都市27市は川崎市(人口105万)などの近隣都市とともに公共交通網でおおわれていて通勤・通学圏内にあるから,東京都心部の昼間人口は1,400万以上に達する.大阪,京都,神戸の3市が形成する関西の大都市圏は,東京首都圏の70%に達していない.どちらの大都市圏も,その中央部は夜間には人口が激減して,巨大な空洞状態になる.その点に,第三世界の都市との相違がある.
 東京が首座都市であり,巨大首都圏を構成するものの,第三世界の都市化との相違は10におよぶ100万都市をもつ都市ヒエラルヒーの頂点を東京が構成しているところにある.その下に50-100万の10都市があり,以下30-50万の都市が全国をおおっていて38市ある.ここから,発展途上国の開発政策は,地方の中・小都市の開発促進に向かうのが好ましいとする想定が生れる.
 だが,投資の効果は関連部門・周辺サービスの多寡に左右されるので,地方都市開発の投資機会は制約される他ない.したがって,開発投資は首座都市に集中して,すでに絶対量の不足から利用過度で急速に老朽化しつつある都市施設の更新または再開発と地方都市開発とは綱引きの関係にたつ.
 人口爆発と低工業化とが招致する首座都市化=過度都市化が都市社会の機能を麻痺させて,カオティックにしていることは,開発期における国民社会全体の混乱を象徴するものではあるが,それがそのまま国民社会全体の解体にむかって直線的につきすすむとは考えなくてよい.勿論,その危機は皆無だとは言えないにしても,「日本の経験」からすれば,「前近代」の日本ではそれがすでに人口爆発と重ね合わせで認められたことだったからである.
 19世紀の中葉,日本の政治的中心だった江戸(のちの東京)は,人口が110万以上もあり,第2位の都市大阪は40万,京都は約30万であった.江戸はまさしく首座都市だったのである.そして江戸は権力を,京都は権威を,大阪は経済を,それぞれ主要な機能として分担し合っていた.
 明治維新は,権力と権威の統合であったが,同政府による工業化政策は大阪に対抗する別の新しい経済力を新しい首府東京にもたらすものであった.だが,東京は大阪の経済力を容易に圧倒できず,ながらく全国を2分し合い,工業化水準の上昇過程で,東京は次第に優位を確立してゆく.
(3) 東京の住民
 江戸から東京への変化は政権と政体の変化であったが,この変化は人口の減少をまずもたらした.110万の江戸人口は,一時50万前後にまで減ったあと,20年ほどして政権が安定するにつれて100万に達し,さらにその10年後の19世紀末には200万に近づいた.そのうち100万以上が,大まかにみて,社会増であったのだから,当時,東京人の2人に1人は流入者であった.
 こうした大量流入の理由は,農村の変化にある.土地制度・税制が改められ,職業選択の自由が保証されて,移動・旅行と居住地選択の自由が公認された.つまり封建的束縛は一挙に解除されたのである.とは言え,流入者の多くは「潰れ百姓」であった.開国いらいの激しい経済変動(とくにインフレ)と内戦,そして政変にともなう治山・治水行政の混乱による自然災害の誘発・増幅と伝染病の蔓延が,「潰れ」を出す理由であった.
 だから,維新直後の東京を訪ねたヨーロッパ人たちの記録によれば,人々は極めて貧しく,多くは半裸であり,家というよりは掘立小屋に住んでいた.当時は,旧武家屋敷がほとんど無住であったのに,多くが路傍に小屋掛けで住んでいたのは,繁華街の近くでなければ,生計のための路上での営業や行商ができないし,雇用機会もえられなかったからである.徒歩による交通の時代に,盛り場から2―5キロ圏にシャンティ・タウンが散在したのは,今日の第三世界の都市の場合と変らない.
 19世紀の東京では,上下水道は勿論不備で,旧幕時代の上水道は管理が抛棄されたので,一挙に荒廃した.しかし,地下水が豊富であったために浅い井戸から生活用水を採ることができた[小菅伸彦].反面で,排水設備が良くなかったから,水系伝染病が幾度となく東京を襲った.開港後,コレラが猛威をふるい,10万以上の人命を失うことが何度もあり,今世紀初頭までは数年のサイクルで大発生をみたのである.
 しかし不平等条約の強制下で,政府は防疫体制を布くことさえ列国大公使の反対にあってできないことが続いた.その最大の犠牲者は,言うまでもなく,都市下層の住民であった.
 この事情は,「道路,橋梁,河川ハ本ナリ.水道,家屋,下水ハ末ナリ」と第八代の東京知事(在任,明治15―18年)が公言していたように,明治政府にとって工業化と軍事の近代化が優先していて,都市の民生問題は第二義的なことでしかなかった.それ故,東京は江戸時代いらいの「都市問題」をひき継ぎながら,それに工業化による「新しい都市問題」を積み重ねていったのである[石塚裕道].
 その上,明治エリートたちは不平等条約を改正するために,「首都」の西欧化もまた不可欠であると考えた.石造建築の新官庁街や不燃都市化(火事が非常に多く,ほぼ3年に1度の割で大火災があり,防火設備・体制の不備が本格的木造建築の妨げになっていた)を目指して銀座煉瓦街が計画された.
 建築材料を変更するだけでは,防火にはなっても,地震や高温多湿の風土に合わず,住民から好感をもたれなかったので,銀座「煉瓦街」構想は完成されない.曲折を経て今日の銀座はできるのだが,かつてそこがスラムをかかえた地区であったことを,今日では,東京の市民さえ知らない.
 総じて,敗戦までの日本の都市計画は,事実上,国防と工業のための道路計画が中心で,住宅問題は民間セクターに委ねられていた.
 東京駅周辺,とくに丸の内がビジネス・センターとして三菱によって開発されたことを除けば,他にみるべき計画的な都市住宅開発は1910年代まで行われなかった.だから,スラム地区に貸家業の不動産業者が君臨しており,住民は毎日払いの家賃で,ハーモニカのような棟割長屋に間借りしていた.文字通りに「手から口への」生活がそこに繰り展げられていたし,雨は戸外労働の大方を不可能にしたから,人々はなけなしの家財や仕事道具を入質した.スラムの近所には質屋や,学校の寄宿舎や病院の残飯を煮なおして売る露店の雑炊屋が繁昌していた.しかしスクオッターはほとんどいなかった.すでに地権が確立していたからである.
 ⅰ. 3種類の窮乏人口
 都市人口の過半が新規流入の窮乏人口ではあっても,その内実は一様ではなく,普通には3種類に小区分されていた.
(1)「細民」大工,左官,石工,植木職など建築関係の戸外労働者を代表とする低所得の職人層,および金銀細工(=錺[カザリ]職),家具(指物)職,仕立職などの技能をもつ人口で,この人々は時に自家製品の小売や行商もする.資本力の零細な小商店主もこの中に入る1).
(2)「貧民」1880年代から新しい都市労働の代表になる人力車夫(この中にも,自営,お抱え,宿借り・住込み,もうろうの区別があり,収入の多寡と安定はこの順であった)の他に,日雇い労働者,土工など熟練を必要としない戸外の筋肉労働者からなる.所得だけからすれば,人力車夫は都市下層の平均を超えることもあるけれども,中・高齢になると続け難い重労働であった.
(3)「窮民」大道芸人,乞食,屑ひろい,流民,路上商人,行商人など軽労働に従事するものだが,老幼・男女の区別がなく,その職種と居住を特定し難いのがこのグループの特徴で,都市社会の最底辺をなす一群の人口のことである.軽労働にも耐えられない癈失者・老弱者・身体障害者などもこの中に数えられる.
 ここに述べた(2)と(3)のグループ(時には(1)の一部も含めて)は都市雑業層として一括されうるが,その構成内容からすれば「ルンペン・プロレタリアート」よりは多彩である.the urbaninformal sectorと近頃では総称されるのがほぼこれに相当するとしてよい.この中に,仮に犯罪者と無法者が含まれるとしても,この社会層全体がそうなのではないし,居住地がたとえスラムであったにしても断じて反社会的性格をもっていたのではない.そこに,すでに工業化した社会にかつて「古典的」にみられた「スラム」の排他的かつ閉鎖的な小社会集団との相違がある.このslum of“hope”and/or “despaire”は,その惨状にもかかわらず未分解で,両義的[アンビバレント]であった.
(3)のカテゴリーは明らかに保護・救済を必要としている.行政による都市社会人口の統計はこの人口のみをとりあげ,しかも東京では過小に(約10%ほ
第4部 「日本の経験」――産業技術の事例研究

どと)評価している〔中川清〕.その理由は,この人口を対象とする福祉政策は,社会全体が一大過渡期にある時には,かえって,他都市からこの部門人口を吸引することになり,都市財政上の破綻をもたらすと同時に,自助努力への意志を殺ぐこともある,という判断による.
 1890年代に,平均4円(ほぼ1円が1ドルだった)程度の収入で,主食費70%,家賃15%で飢餓線上にいた雑業層は,しかし,大都市にのみ見られるのではなかった.地方の中・小都市にも,農村にもいて,「村がかえ」として汚れ作業・けがれ仕事むきに,(ときには数カ村が共同で)扶養されていた.ある報告によれば,南アジアでは農村人口の40%ちかくが非農業人口であり,「雑業層」をなしているのに対応していよう.人口爆発と農村の人口扶養力の限界から,「潰れ百姓」が雑業人口化して都市に流入するというのは,push-pull理論としてすでに広く承認されていることから説明できるのだが,この理論のコロラリーとして,この流入人口が再び地方(都市)に逆流出することは極めて少ない,と横山源之助が『日本の下層社会」(1898年)で述べている.1960年代のカルカッタ市の報告によれば,農繁期とくに収穫期に20万ちかい人口流出があり,季節の変化と共に還流してくるという.この,いわゆるfloating population問題が,当時の目本では,横山の報告を信用すれば,ほとんどなかった.底辺人口の社会移動にかんする理論は未確定だと私は思うのだが,横山説によれば,前世紀末の日本都市は「雑業層」の大吸収力を今日の第三世界都市に比してもっていたことになる.その理由を私は解明するに至っていないけれども,仮説として提示すれば次のようになるだろう.すなわち,人口爆発に並行した工業化の初期にスラムの数と規模は都市の規模に比例するのだが,首座都市のみに集中するとは限らない.スラムの大規模化はその内部に細かい専業化を生み,分類不能なほど多様で,かつ交錯し合う製品とサービスに対する需要が貧民の生活を支え,低位に安定させるのである.
 ⅱ. 寄留者たち
 注目に価するのは,スラム地区ほど成人男子の同居・寄留者が多いことである.明治政変直後(1869年)に東京の男女人口はほぼ同数(各25―26万)だったのに,20年後には男子人口が10万以上も多くなる(総人口ともども江戸時代なみ).その寄留者の絶対数が多かったのは旧町屋地区(商工業地区)で,そういう地区の裏通りこそが都市の細民・貧民の居住地に他ならなかった.このことは,前述のように,かれらの生業と深くかかわっている.つまり,そこ以外では顧客もなく,就業機会と通勤手段がなかったのである.別に言えば,都市下層には家族を構成するほどの生活力がないのであった.
 寄留人口は,勿論,低所得層に限定されていたのではない.高所得者である新政府の官僚は,当初,大方が単身赴任だったし(家族が同居するようになっても本籍地を変えなかった),「書生」という親族・同郷の扶養人口を育英していた.そうでなければ雇用機会を提供した.それが「成功」した者たちの親類・縁者と郷里に対する社会的責任と考えられていた.
 この同郷関係と個人的信頼関係による人脈の形成が,中央と地方をつなぐパイプになるし,ときには強固な派閥になった.それが特に目立つのは官僚の世界,とくに軍隊で,高官を輩出する地方は限られていた.とはいえ,技術変化にともない専門職・技能職人口が増加すると,学歴と実績による選別原理が次第に確立されるのは必然であった.他の条件にして均しければ,同郷で同窓の者に対する信頼と期待から,学校閥が地方閥に重複して形成されるようになって,長期的な人材養成・教育投資の有無と多寡がそこに反映するのであった.
 新政権への忠誠根拠が,本人の意志ではない「出生地」=新政権への支持または反対ではなく,新技術の修得と駆使の結果である実績による評価に次第に移行することで,出自・系譜から資格・能力への弛やかな転換が展開される.そして,新政権への忠誠評価も,政治・軍事的なものだけでなく「実業愛国」・「技芸愛国」へと拡大される.
 ⅲ. 新中間層の形成
 総じて,こうした変化は工業化の展開につれて緩やかにひろがったのだが,都市社会そのものに工業化が与えた影響の最大のものは,「貧民」の分解である.新しい職業を生み(下駄屋,カバン屋,花屋など)「細民」の生活が安定化してゆき,貧民も家族を形成する.それが都市化の新局面をなしていた.1900年代にこの局面に入ると,工業労働者に転成してゆく部分が都市下層人口の中から生まれ,工程分解による一部の請負化を通じて工程分離がすすむと,その中から,小工場主化するものが出てくる.それが大工場地帯の形成につれて工場の周辺に集まり,居住地を移し,やがて工場労働者街を形成するようになる.だが,そこに至る前段では工場そのものがスラムの近くに立地した.紡績工場はその典型なのだが,用地費が安いことと労働力の調達が容易だったからである[石塚裕道].
 それとならんで,「洋服細民」と呼ばれる教員などの下級公務員・鉄道員などの公営企業職員・下級職業軍人などに代表される小俸給生活の「新中間層」が形成される.所得水準からすれば熟練の工場労働者や小自営業者と変わらないが,それらとは異なる社会意識・生活態度をもつようになる.この階層では,家長の収入が一家を支えきれない場合にも,主婦や家族が外に労働に出ることをはばかり,家計の不足は家庭内の内職で補われた.
 この階層の上に,大商店主や高学歴による専門的技能をもつ専門職,自営業者,大企業の管理職上級公務員などからなる薄い「中間層」がのる.この階層を「新」中間層と区別するのは,書生や女中の他に,主婦を教師とする「行儀見習い」目的の未婚の女子家事労働力をもつことであった.
 書生や「行儀見習い」は,とくに後者は学校制度の確立・普及につれて次第になくなってゆくが,第2次大戦が,下男・女中などの家事労働者と共に寄留者をもつことを不可能にした.
 とまれ「新」・旧の中間層の形成と膨張が,「細民」層の製品とサービスに安定市場を提供したし,零細な自営業による新しい職種がおびただしく生まれた.雑業層は,それ自体としては消滅することはなかったが,分解して工業労働者を生んだのと,並行して形成され・膨張した「新」中間層は産業化にともなう都市社会の新局面であった.
(4) 都市的生活様式
東京は文化的・社会的に二つの対極から構成されている.もともとは江戸の地理的な区別である「山の手」と「下町」がそれで,「都市と農村」という区別と同じく,明確な地図化はできない.江戸の10倍の大都市になった東京で両者は混在し,重層化しているからである.だが,ライフ・スタイルの相違・価値観の類型的な相違としては,相対的に区別できるし,社会的美意識において特に対蹠的にみられる.大まかには,「山の手」を進歩的・西欧志向的・個人主義的・高学歴志向的・専門職/管理職的・標準語的だとすれば,「下町」の気質はそのすべてにおいて反対で,江戸庶民生活の情緒と慣習を温存し,伝統芸能のファンで,気さくで・人好きがし・信心深く・近隣関係を重視し・職人らしい誠実な仕事ぶりを誇る.お祭りが大好きで,反権威的でもある.「江戸ッ子」というのが市井人としての人格理想である.フランスの重Evian-les-Bainsというのがそれに当るかどうか私にはよく分からないが,カイロのibn albaladとは似ているように思う2).
 庶民の文化は無形の社会的生活技術をたくわえているが,その一つに町内会組織がある.かつてのカイロのハーラh?rraや他のムスリム都市のマハッラmaballaに似ているが,次の点で異なっている.つまり,特定街区の全家長を成員とする近隣組織で,その下部に青年・子供・老人などの年齢別,ときに男女別の集団をもつ,相互扶助・親睦の自治的団体である.かつては消防・防犯・自警機能ももっていた.いまでは都市行政の末端としても機能している点で,日本の都市社会に固有なものと見なされたりする[中村八朗].
 町内会の起源・機能・組織については諸説があるけれども,東京を例にすれば,明治維新,関東大地震(1923年),第2次大戦の戦災とその後の膨張という3度も大きな変化を経てきているので,全域について同一である筈もない.各地区・街区の住民の社会的性格と階層および年齢によって,近隣関係に対する態度や町内会活動への参加の仕方も程度も一律一様ではない.
 とくに,中間階級の中でもリベラルなインテリは,軍事ファシズムの時代に,町内会が経済統制と思想統制の末端における相互監視機関になった悪しき記憶を忘れていないし,今日では「低所得層の保守主義・与党支持」の集票機関化していることに対する嫌悪もある3).
 ただし,こうした批判や嫌悪は,反対党の政治活動が専らナショナルなレベルでの大問題に集中し・組織労働者に依存していること,庶民生活の日常的必要に肌理こまかに対応・応接していないことで,「大衆追随」拒絶・左翼的エリート主義の傾向がないとは言いきれない.
(5) 地方都市の事例――金沢の伝統技術――
 東京首都圏は首座都市と同視できることをさきに述べたが,県ごとにみれば各県庁所在地は「地方の」首座都市である.たとえば,人口111万の石川県で,金沢市は41万の人口をもつが,第2位の都市小松は10万しかないし,第3位の都市は7万に満たない(1984年).
 金沢は,江戸時代には江戸,大阪,京都,名古屋に次ぐ日本第5位の大都市であった(現在は652市中の第30位)から,古い歴史をもつ城下町らしい濃密な文化を温存している.この都市は,徳川家一族を除くとこれほどの経済力・米の生産高をもっ大名は他にいなかったし,その江戸屋敷跡が東京大学の本郷キャンパスであることにその威勢が偲ばれる.それほどの大藩である前田家の城下町が金沢であった.
 前田家は,金沢を京都に次ぐ伝統工芸の一大拠点に育ててきた.気候が漆器の製造に最適であったが,その前工程は木工で,木工技術は刃物のような金属用具の製造技術と関連しており,その技術の頂点に日本刀の鍛造技術と熱処理技術があった.熱処理技術は良質の木炭が自給されることで発展できたし,それが有名な九谷焼に関連していた.この他に,和紙と漁網,上布と絹織物(羽二重と紬),染物(友禅)など繊維部門の諸技術も蓄積してきた.
 その何れもが高品質の特産品で,全国に市場をもっていた.勿論のこと,高技能を要する美術的価値も高い注文生産による小市場目的の伝統工芸として有名であった.
 その代表的なものが象嵌細工である.武器・武具に金・銀の細い線模様を埋めこむもので,金沢「金工」の特技は表面の装飾美にかかわらず埋めこまれた底辺部分の方が幅広であったから,衝撃に強く,鉄器にしなやかさを追加する実用性を秘めていた.このことの故に「金工」(箔打ちを含む)の頭は士分の扱いを受けてきたし,その数は明治初年で45人もいた.親方45人がそれぞれ10人以上の職人をかかえていたし,同数以上の徒弟がおり,さらに中途加工の職人,関連技術とサービス,原材料供給業者を加えると,その下部構造は家族までいれると数千人の人口になっただろう.金工だけでそれほどであったから,それ以外の各種職人を含めると,10万に足りない人口の金沢で,明治維新という政変によって,全人口の半分ちかい人員が安定した顧客層と藩の保護とを一挙に失って,失業ないし半失業と窮乏におとしこまれたのであった.その衝撃のほどや推して知るべしである.
 新政府の殖産興業政策は,当然,金沢にも機会を与えた.元下級武士の新市長は伝統工芸の産業化を企てた.有力・富裕の市民を説き伏せて資金を調達して「銅器会社」を組織した.これは,金工たちに官需から民需への転換,そして鉄への象嵌ではなく青銅・赤銅への象嵌という,素材と技術の大転換であり,職人から小経営者兼技能者への転換を意味したのであった.
 この技術転換を推進した契機は,中央政府の要請でウィーンの万国博覧会(1873年)への出品であったが,中央政府の「お雇い」ワグネルがこの出品を通じて金沢金工のデザインが野暮ったいことを覚らせたのであった[田中喜男].そして,閉鎖的に温存されてきた各地の在来技術の一般公開と全国的な交流を目的に開催された第1回全国博覧会(1877年)での受賞が,金沢金工に自信を植え付け,翌年のパリ万国博がそれに続く.
 ワグネルの助言を受け容れる基礎は先駆的な地方行政家の努力による石川県勧業博物館の創設(1876年)であり,それを開花させたのが学校方式による技術訓練で,在来産業の高度化・近代化を目指して開設された実業補習学校の卒業生たちであった.
 各工房ごとに,師弟相伝で技術的秘密が伝達されてきたのに反して,学校方式による公開の職業技術訓練が,地方の伝統産業のリーダー層形成に役立った.技術水準の高度化に応じて,教育体系も緻密になり,金沢工業学校を経て,第2次大戦後に金沢美術大学と金沢大学工学部にまで発展する基礎がこの時に創られた[田中喜男,古屋野正伍].
 伝統技術の近代化・高度化の過程は,一見したところスムーズに展開したかの如くであっても,いくつかの大きな節目があった.それが,みな,国民社会全体の変化の節目・事件に対応している.日清・日露・第1次大戦と,それはかかわっているが,直接的だったのは第1次大戦中の米騒動(1918年)である.
 都市化は食糧自給力を持たない人口の増大と米穀依存度の増大を意味したが,戦時インフレによる物価騰貴は,この頃すでに都市住民の主食として定着した米の値上りに著しかった(2年で3倍余になった).日本海岸の小漁港(都市と同じく米を外部からの供給に依存していた)で,後背地産米の県外移出を中止させようとした漁民妻女の抗議運動に端を発した暴動が「米騒動」である.米穀商を襲い,米の安売りを強要して,倉庫を開放させた.暴動はたちまちにして全国各地に野火の如くに拡がり,大都市ばかりか工場町や鉱山町に伝播し,農村にまで及んだ.農民の90%は貧農で,米の生産者ではあっても地主の収奪が多くて消費者ではなかったからである.3カ月にわたって,60市町村では軍隊の力でなければ鎮静できないほどの,日本中が明治維新以来初めての混乱を経験した.暴動は自然発生的で計画的・組織的なものでなかっただけに颱風のように全国の主要都市を荒れ狂って吹きぬけたあと急速に鎮静した.
 食糧自給力のない,完全な消費者として都市社会の下層に堆積された貧困の問題がインフレによる米不足を契機に吹き出したのである.工業化の急展開が,前近代社会に内蔵されていた調整機能を無力化したのに,他方では,近代の市民社会がもつ調整もまた成熟させていない状態が突発させた階級問題の噴出が米騒動であった.階級問題は,しかし,この前から小作騒動という形で全国各地にひろがっていて,1910年代には騒動の件数と規模でピークに達していた.これはすでに不可逆転的に構造化していた不在・寄生地主制による小作農民の著しい窮乏化・無権利化に対する抗議であって,政府をして立法措置による小作権保護に向かわせるのであった.米騒動は,生産地においてではなく,消費地において階級問題を顕在化させたのであるが,それが我々の言う国民的技術ネットワークの確立期と重なっていることは注目されるべきである.金沢の米騒動の前衛になったのは,各種の職人たち,とくに箔打ちの職人たちであった[橋本哲哉].この時期の金沢には未だ工場労働者群は充分な形成をみていないし,「細民」と「窮民」とが重複していたから職人層が抗議運動の主力となるのは当然であっただろう.
 金沢の米騒動には組織性と規律があり,集団的な値引交渉を指導していたとも言うが,多分,それは社会的・文化的に保守的であり,かつ厳しい技能評価による階層秩序を内部にもつ伝統工芸・在来産業の職人層が主体になっていたことによるものであっただろう.技倆主義的な美意識で生きる保守的な職人層をさえ「急進化」させた情況は,「明治維新」とはまるで次元を異にする社会的構造変化の産物であり,職人層が地方的な旧顧客層の小市場から脱け出て,伝統工芸として全国に製品市場を確保したそのことでも生活水準そのものは上がらず,物価騰貴に直撃される存在になってきたことを物語っている.
 農業生産が基軸の時代に高い都市的地位をもっていた金沢が,工業化の進展につれてその全国的地位を低下させていったことは,日本の工業化が太平洋沿岸にそって展開したという地理的理由とかかわりがある.しかし,いま「地方の時代」が始まって,煙突文明に汚されていない金沢には大きく新しいポテンシャルがある。

[注]
1) 19世紀末のこの社会層の生活は,若くして窮乏のうちに死んだ作家(筆は一本箸は二本と歎かれたように,専業の作家活動で生計の立つ人はほとんどいなかった)樋口一葉の作品から知ることができる.英語国民はRobert Lyons Deuly,In the shade of spring leaves-the life and writings of Higuchi Ichiyo,a woman of letters inMeiji Japan(Yale U.P.,1982)を利用できる.とくに“Child’splay,”“On the last day of the year,”and“Troubled water”をみよ.
2) Sawsan al-Messiri,Ibn al-balad-a concept of Egyptian identity,1978,Leyden.3) 秋元律郎『地域政治と住民』(潮出版)その他をみよ.