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技術と社会:日本の経験

Title: 第4部:「日本の経験」--産業技術の事例研究 V 鉱・砿山技術の移転と新技術の分離
Author: 林 武
Publisher: 国際連合大学
Published Year: 1986年
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第4部:「日本の経験」--産業技術事例研究 V 鉱・砿山技術の移転と新技術の分離

(1) 工業化と鉱・砿山技術
 製鉄と鉄道の技術は,近代化と工業化に不可欠の部門ではあったが,その技術概念が日本には未知のものであり,技術導入に巨額の資金を要したところから,政府主導にならざるをえなかった.
 しかし,鉱・砿山技術は,すでに日本にあった.けれども,その通念と役割が明治以降では一変する1).工業化による社会変化,したがって社会的編成の変化と価値の逆転をふくむ価値の転換を鉱・砿山業が立証する.それは,農業社会がもつ水・土・木・石の技術に対する金属の技術の台頭と優位とを示すものであり,金属系技術と不可分の燃料・動力革命に対応するものであった.
 鉱・砿山開発でこそ近代技術は圧倒的な効果をみせた.つまり,新技術の導入によって,鉱・砿山の生産力は「革命的に」高まったのである.近代技術の導入がこれほど劇的な効果を挙げた分野は他に例がない.だが,それは在来技術と接合されたことによるのであって,近代技術によって在来技術が飛躍的に発展させられたとさえ言いうる.
 そのことが,我々をしてこの技術分野に注目させる理由である.
 明治政府は,金銀鉱山のみを重視して,他を顧みない点では,徳川政権と同じであった.だが,それには理由があった.
 銀は日本の本位通貨の素材であったし,金が国際通貨となりつつあったからである.
 日本の銀本位制は,金銀比価では国際市場よりも銀を高く金を安く設定していたので,洋銀(とくにメキシコ銀)を日本に持ちこめば,即座に3倍の価値(購買力)になった.制度的な不等価交換が合法化されていたので,巨額の金が流出していった.これに気づいた当局が本位通貨を改鋳して実勢レートに合わせたが,諸外国から一斉に反撃された.不利益の国際的強制であったのに,それに対抗する政治=外交能力が,当時の日本にはなかった.結果として,国内では通貨価値の下落,つまりインフレーションが惹起されて,社会的・経済的な混迷が全国に百姓一揆の続発という形で深まった.主権喪失の危機=植民地化される条件は,そこにもあった.国際的圧力に抗することができない日本は,「東洋」に孤立して自らを工業化すること以外に,強制的に制度化された不等価交換=金流出に対抗する手段がなかったのである.対抗のための手段の一つが鉱・砿山の開発であった.
 その内実は,二つの方向をもっていた.
(1)は,新政府が執権6年めに公布した「日本坑法」で,地下資源の開発を外国人には認めないことであった.政府顧問の外国人技師たちの中には,高技能で低賃銀の中国人労働者の導入や外国資本の導入が開発を加速することを説くものがあった.けれども,旧政権から引き継いだ鉱山は新政権にとって貴重な財源であったから,その確保に執着したのである.そして,その開発に熱心になったのでもある.しかし,もっと言えば,外国資本と労働力の導入によって予想される外交問題の処理能力が日本には未だなかったのである.それを事前に回避する意図もそこにはあった.
 だが,銅山や炭山は非政府部門であり,そのことで,かえって,実績を挙げてゆく.チリーの銅山開発に至るまで,日本は世界一の産銅国であり,銅輸出国であったし,かつまた東洋有数の石炭輸出国でもあった2).
 19世紀中葉の列強による「開港」の要求は自国船への給炭・給水の確保が直接の目的であった.19世紀末に至るまで,日本の主たる産業動力は水力(=水車)であり,燃料は薪と木炭であった.未だ蒸気力が産業動力の主流ではなかったことが,石炭に輸出余力をもたせていたのである.
 薪と木炭から石炭(=蒸気力)への転換は,製鉄,鉄道,大手の鉱・砿山と紡績など最先端技術以外ではすぐ続いておきる電力への転換ほどに迅速ではなかった.それにしても,エネルギーの自給は産業化の基礎条件の一つであり,技術自立のための資源条件(M1)としては重要なことであった.
 燃料資源の供給に当る新興の砿山にくらべると,金属素材の供給に当る鉱山技術は,内容的には複雑かつ高度なものであった.また選砿過程を経た石炭はそのままで商品になったが,鉱石はそうではない.しかも当時は,山元製錬が普通であったから,鉱業では採鉱技術の他に精錬技術が追加されねばならなかった.総じて言えば,石炭は森林資源を枯渇させてしまった製塩地帯で利用されていたにすぎず,したがってその小さい局地的市場に見合って,運搬方法も舟運による小規模なものでよかった.新興の砿山は鉄道の普及と並行して,とくに日清戦争のあとで,工業化の展開につれて急速に発達する.
 製鉄業と鉄道はさきにみたように,官業として展開したし,財閥は参入しなかったが3),鉱・砿山業は逆に財閥の形成の核となるのであった.
 住友のように製錬技術を前政権時代からもっていたものが鉱・砿山技術の導入に熱心であったのは当然として,海運業の三菱が砿山業に参入することにも必然性があった.また,石炭が輸出品であったことから貿易会社の三井が九州の炭砿に執着したのも自然なことであった.
 鉱・砿山技術は,鉄道と同じく,そして鉄道とは燃料および運送問題で結び合わされている複合技術であったから,1920年以降にはその傘下から,多数の技術部門を分離・独立させる.
 たとえば,日立鉱山の電器部門であって,モーターの修理から始まって製作に至ったのが8,000人の大技術者軍団をもつ日立製作所(1920年創立)の起源であり,銅山経営(古河鉱業)から下流の電線製造に入り通信機製作を経てオートメ機器に到達したのが今日の富士通(1935年創立)である.そこに,同じく複合技術でありながら,鉄道との相違がある.
 こういう点に注目すると,鉱・砿山技術が工業化に演じた役割の大きさに改めて関心を喚起させられる.日本では,官業の製鉄・鉄道(のちに私鉄が起きる)と民業の鉱・砿山と織維が工業化(=つまりは技術移転)の四大リーディング・セクターであった.
(2) 新技術と制度改革
 近代技術が鉱・砿山業にもたらした重要な貢献は,精錬技術の他には,次の四点にあるといえるだろう.
ⅰ. 排 水 技 術
 鉱・砿山業にとって技術的な制約が最大であったのは坑内湧水の処理であった.近代技術導入以前にも,さまざまな装置や道具が工夫されてはいたけれども,高性能だと故障が多く操作も複雑であったところから,結局は人力でリレー式に汲み上げるのが主流で,場所によっては箱樋[はこひ]や繰樋[くりひ]のような手動ポンプでかい出すことしかできなかった.素材としては木製,動力としては手動で,排水能力は極めて小さいものであった.
 だから,鉱山労働力の過半は水夫[みずふ]が占めていて,その数は鉱山が古いほど,つまり採鉱場が深いほど多いのが普通であった.日本の代表的な金山である佐渡では,全労働力の60%以上が排水に投入されていた.そこでは3年以上も水夫の労働に耐えられるものがないと言われたほどで,鉱山労働中で最も苛酷なこの労働は,どこでも,囚人労働に依存していたし,囚人たちが最も恐れたのもこの労働であった.総じて言えば,鉱山の近代化初期までは,非技能的な重労働は囚人によって負担されていた.明治維新直前の1861年に別子銅山(四国)では,928名の全労働者のうち水夫が447名(坑夫481名)であった.それでさえ,噴出する湧水の威力の前に有望な坑道を放棄している.
 だから,強力な排水ポンプの導入だけで,一挙に2倍以上の生産効果を挙げることができた.つまり水夫労働が不要になった分だけ労働が節約できたし,放棄してきた富鉱が回復されたのである.
ⅱ. 通 風 問 題
 鉱山では,採掘現場が深く,あるいは坑口から遠くなると,それにつれて通風が次の隘路になる.
 組織的・計画的な開坑法の一部として通風坑を開削することで,稼働範囲が拡大され,また強力な機械送風によって,自然通風の制約から解放される.
 だが,通風坑の開削は大規模な開山方式でこそ実現されることで,前近代的な鉱山制度が廃止されて可能になることであった.組織的・統合的開坑方式の下でも請負制は存続したけれども,それがない請負制(山師・金名子による)では労賃と言うよりは鉱石代金が精錬高に応じて支払われていたから(=買石制)4),現場での選鉱技術を発達はさせたけれども,出鉱請負業者である山師や金名子にも,ましてやその傘下にいる坑夫たちには,迂回生産の利益を確立するための資金と労働力の余裕はなかった.
 したがって,自然通風かそれに類する燃焼通風法しか利用していない.しかも,鉱山ではともかく,砿山では燃焼通風法の利用はガス爆発を誘発するので極度に制約されていた.
ⅲ. 輸 送
 採掘された鉱石の坑内輸送,そして需要地への製品輸送が次にくる問題であった.
 人力と馬力だけが利用可能であった時代には,原鉱の一次処理が山元で行われたのは,輸送の制約があったからに他ならない.鉄道の開通がその問題解決になった,
 次に坑内運送が問題となるが,人力から馬力そして鉱車による軌道輸送という変化は,坑道の高さと幅の広さ,そして経路設計とからみ合うことであった.それは大坑道と小坑道そして枝坑道という一元的な輸送方式をもつ鉱山全体の開発と開発投資に見合う埋蔵量にかかわることだから,長期的展望に立っ「近代的」開坑方式によってのみ可能になる.そのとき,経験的な「山見立て」から近代的なボーリング試掘に至るまでの地質調査という先行投資と事前調査がなければならなかった.
 こうした一連の近代技術の採用は,他方で徳川政権いらいの鉱山政策の変更を促さずにはおかなかった.
 その第一は前出の買石制の障碍であった.鉱山の所有者である幕府が山師・金名子に稼働を請負わせ,産出した鉱石を買上げる方式では,稼働者はまず露頭から取りつき,水貫き・煙貫き(通風用の)などに必要不可欠な間接坑道の開削を極度に省略して富鉱(と言っても二次富鉱にすぎない)のみを求めて,曲折し高低も区々まちまちな採掘進路をとった.それが,運搬と保安の障碍になる.結果として,鉱山はどこでも「蜂の巣」状に乱開発されたし,1751年の足尾銅山では坑口が1,484もあるという有様であった,幕末の鉱山衰微の理由はそこにあった.
 そのことは砿山でも富坑でさえ3年位しか稼働できない条件となっていた[村串仁三郎]5).
 統一的な開坑による採掘・運送・選鉱・冶金という一貫体制の確立は,したがって買石制と鋭く対立することになる.経済的・技術的合理性を貫くためには,鉱山主が,基本的な開山計画の下に,自由に労働者を編成し,生産過程全体を直接指揮することが必要であった.それが可能になるのは,明治以降の,非政府系の鉱・砿山においてであった.
 とは言っても,近代技術を導入し統一的開山方式に先鞭を着けたのは,1884年までに87名におよぶ技術者・坑夫・機械工を,英・米・仏・独から招いた,政府所有の鉱山であった.その指導で日本の技術者・労働者が近代技術を消化してゆく.
 その中で技術的に特筆すべきなのは,1868年に佐渡(金山)と生野[いくの](銀山)に導入された階段式採掘法であって,その6年後から全国の主要鉱山に伝達されていった,
 立坑に捲揚装置が据付けられ,水平坑道にはレールが敷設された.坑道は組織的に連絡されて縦横に拓かれた.
 これで坑内輸送方法だけをとっても抜本的に革新された.鉱車による搬出が,未だ人力と馬力に依存していたにしても,能率を一挙に変えた.それが立坑の捲揚機で坑外に搬出される.中腰で歩くことができれば上々で,場所によっては這うことしかできなかった坑道が様相を一変したのである.その上,1878年からはダイナマイトが輸入されて坑道開削の能率は飛躍的に高まる.技術移転のためには,制度上の改革が不可欠であった例をそこにみてとれる.
ⅳ. 先 行 条 件
 排水・通風・運搬というM2を構成する諸要素技術が導入されたことで生産が急増したと言うことは,M3以下の諸要素がすでに整っていたことを意味している.M4やM5の既存形態がM2導入の原動力であった.M2だけの導入で済む技術移転は安価にあがるし効率がよいと言う具体例がここにある.だが,M2の利用によって5Msの構成原理とM4,M5の形態もまた変わらざるをえなくなる.
 そうした5Msの構成変化のなかで,いまここで強調したいのは,鉱山における労働力の質の問題,つまり在来技能水準の高さと,それを維持してきた労働者の組織である.
この組織は,多分,金属鉱山で発展させられたものであろうが,後発の砿山にも移転されてゆく.
 坑夫には2種類があった.
(1) は,自坑夫(または地坑夫)と呼ばれるもので,その土地に生まれ育ち,そこで熟練を形成した技能者集団である.鉱・砿山の近代的発展までは,兼業ないし副業的に坑内労働をしていた者が中心ないし優勢で,自分の稼働する鉱・砿山についての経験と知識とは深い.非鉱山労働の延長としての坑内作業は,親子・夫婦または近親者からなる小人数で稼働していた.暗いところで,つねに崩落や出水事故の危険に備えて作業しなければならなかったから,能率のためにも安全と緊急避難のためにも,完全な意思疎通と信頼関係が欠かせなかったからでもある.もっとも婦女子や年少者は搬出などの補助労働が分担であった.
(2) は,渡り坑夫と呼ばれた技能者たちで,特定の鉱・砿山に定着することはなかった.数ヵ月ないし数年で移転しながら,経験を拡充し技能を蓄積してゆき,かつ技能を普及させていったのが「渡り」坑夫であった.
 その中には特殊技能者(たとえば,水貫きや煙貫きや石掘りなどの専門坑夫)がいた.かれらの卓抜な特殊技能はどこの鉱・砿山でも常時必要ではなかったけれども,開坑期とか事故処理や回復期には不可欠であった.それだけに高い賃銀をとる「富める貧民」で,高い流動性を本来そなえていたし,ときには無妻帯でもあった.その強烈な専門技能者志向は,地坑夫たちにはない生活態度をもたせてもいた.
 かれらの技能需要にとって情報回路となるのが友子[ともこ]という鉱山労働者の全国組織である5).
 友子への加入は,手子[てご]として坑夫の補助労働(主として鉱石や廃石の搬出)に従い,坑内労働に馴れながら,後山[あとやま]として熟練坑夫(先山[さきやま])の指揮を受けて,掘削と簡単な選鉱や,崩落その他の事故防止法など,生産活動の全般にわたる技能を蓄積してゆく.一定水準の技能と経験をもつものが「坑夫免状」を与えられ(友子の「取り立て」),坑内労働者としての社会的認定をうける.親分または棟梁資格をえたのである.つまり,先山として後山以下と擬似親子関係(親分・子分関係)をとり結び,生産活動の単位集団となり,一つの切羽[きりは](掘場)を請負う.それは一般的には大きい鉱脈の元請けである飯場(または納屋)の傘下に入ることでもあった.統一的開坑法が展開されると,かれらは直接請負の作業者になる.
 日本の鉱山業は,19世紀末に急速な発展を示すが,主力鉱山の急速な発展は坑夫の急増として現われる.1894年に全就業労働人口は457万で,その10万が鉱山労働者であった(金属鉱山55,000,炭砿43,000).1917年に鉱・砿山労働者数はピークに達し(金属鉱山のみで176,000),その後は戦後不況による閉山と合理化がすすみ,1922年には4万余に激減する.
 友子同盟の主体は坑夫であり,道具がノミとハンマーとツルハシという素朴なものだったから,かえって属人的な技能の優劣による生産性格差が大きかった.それが,切羽請負いという能率給に合理性をもたせる.だが,1920年代に鉱山の近代化が完了する段階では,坑夫そのものの増加よりも,運搬・機械・電気などの工場労働型技能職の増加が著しい.
 この過程で坑夫の労働にも,金掘大工時代の「ツチとノミ」から脱して,セットウやタガネによる穿孔と発破など近代技術の修得が不可欠となる.同時に多角的技能装備から単能化にむかい,坑内作業の分業がすすむ.友子同盟はここで「明確な形を整えてくる」と言う(村上安正,原一彦)6).しかし,それは第二次的な変容であっただろう.
 ここで,忘れてならないのが友子の互助組織としての機能で,鉱山労働の変化につれて請負の形態・内容ともに変化はしても,未だ確立していない社会保障と厚生福祉の体系を,自衛・自警的に友子が維持してきたことである.閉山で失業した坑夫に対する雇用情報や職業的疾病・傷害への互助・救済活動を,日常的な冠婚葬祭などでの互助活動に並行させていた.そのことがのちに労働組合運動との接点となり,友子と労組の交錯が両者を労働運動の弾圧期にも共存させた例も少なくはない.また戦後,労組の復活期にも,友子の影響が認められたところは多い.
 総じて言えば,友子の主力は採掘夫であったから,階段式採鉱法という技術の展開がかれらの技能を引き立たせた.友子もしたがって隆盛するが,飯場制は変化してきた.次いで小型削岩機の普及によって,採鉱技術が変化すると,そのことで友子の技術的影響力は失われ始め,企業内教育が技術訓練上の指導権をもつようになる.それは,また,選鉱技術の機械化(そして金属鉱山における浮遊選鉱法などの登場)によって,富鉱中心の採掘から粗鉱大量採掘への移行によることでもあった.
 この技術変化は,現場請負から直轄夫体制への切替えという労務・経営方式の変化と並行していた.それは近代的鉱山技術体系の完成に見合うもので,19世紀末からの30年ほどの間に人数では10倍にも増加した坑夫が,鉱・砿山労働全体の中での相対的地位を低下させてゆき,人数でも坑内夫を上回る工場型の関連技術労働者を,複合技術体系としての鉱山活動の中で,必須不可欠な存在にしたことに対応しているのであった.
 「友子の時代」は近代技術の移転の時点から華やかに始まり,複合的な近代鉱山技術の発展とともに凋落していったと言える.
 けれども,大型設備機械の導入による近代的開坑技術と鉱山技術の体系的な発展が,この労働と技能の自主管理組織によって支えられてきたと言う意味で,M3の先行条件としての友子の役割は絶大であった.
 友子が鉱・砿山近代化の先行条件であったとみれば,鉱・砿山技術の自立は輸入機械の国産化でなければならない.次にそれを検討しよう.
(3) 鉱山機械の輸入から国産化へ――関連技術の自立――
ⅰ. 技術導入――足尾の場合――
鉱山技術と砿山技術とでは,精錬過程という複雑な技術過程が入るので,鉱山の方が技術的には困難が大きい7).また,装置が多くなる.だから,採鉱から精錬までの一貫体制を技術的に整備確立することは,技術が次第に集積される過程であり,それが技術的には「飛び地」を形成することであった.
 鉱山では,排水・通風・運搬から機械化と動力転換が始まり,それにつれて増産体制ができ,精錬の近代化(=大型化と高速化)が達成される.しかし切羽は依然人力のままである.だから生産増加は坑夫の増加によってのみ可能であった.掘削の機械化は一番遅れるのが日本では通例であった.
 明治維新後,一度は官収された足尾が民営になったのは「銅山としての再生が絶望」視されていたからだとされている.かつては,年平均1,100トンを70余年(17世紀末から)にわたって産出した大銅山が,前述した技術的制約と制度的規制によって,富鉱ばかりが抜き掘りにされたあとの崩落で,維新直前には廃鉱同然になっていた.1876年には「山主の未払賃銀と採掘権とを相殺し,鉱山は事実上下稼人[したかせぎにん](作業請負人,飯場の親方)の手に握られていた」・「八〇〇八坑の蜂の巣のような山」で,1877年に買収したとき古河は「気が狂ったのではないか」と言われた8).
 これを東洋有数の銅山として復活させたのは古河市兵衛(1832―1903)であった.古河は生糸店小野組の幹部として外国商館との取引に経験があったものの,鉱山で実地速習したにすぎない.だが,足尾の他に阿仁[あに],院内[いんない]の両鉱山も「払下げ」を受けて,経営刷新に成功しているほどの優れた経営者であった.
 しかも,その経営者としての力量は「ボロ鉱山」の価値を見抜いただけではなく,当時としては非常に貴重な人材であった「大学出身の新進の技術家と外国より輸入せる精新の操業機械」とが鉱山の払下げと同時に手に入ったことで補強されたのである.つまりM1からM4までが一挙に整備されたことは,当然,古河の「事業史に頗る重要な意義」をもつ.あとはM5(市場)だけが問題であったが,1880年代初頭は,アメリカ西部諸州の銅山開発で世界的な生産過剰傾向が見え始めたものの,1886年にはヨーロッパで従来の鉄線に代って硬銅線が電信線として採用され,その電線需要が銅市況を好転させた.それを背景に,東洋諸国での広範な活動で知られるジャーディン・マディソン商会が古河に長期契約を申し入れてくる(1888年).つまり,M5が確保された.同時に,設備更新の資金調達が可能になったのである.
 古河は,こうして足尾銅山の近代化に約20年かけて成功したのだが,その第1着手は切羽と旧坑を周到に調査して,富鉱を目指した直営開削法を採ったことである.これは,排水・運搬の主要坑道から掘進してゆく開坑方式で,「洋式技術である通洞開営法に準じたもので,最下底レベルから目的の鉱脈……まで急掘し,富鉱を捕捉しよう」としていた.この方法は,すでに草倉[くさくら]鉱山で「成功し」ていた(村上安正・原一彦).
 結果として,買収から5年めに140メートルの掘進で第1の富鉱に突き当り,その2年後に第2番の富鉱を捉えることができた.
 明治初年にどこの官営鉱山でも経営に失敗したのは,「設備や機械化のみが先行して鉱山の生命たる鉱源の開発が著しく遅れた」からである(村上).
 それにくらべると古河が採ったのは,近代的な大坑道開削による統一的な開発計画であったが技術的には在来の方法に依存していた.総じて言えば,古河は銅山業では先達の住友にくらべると,極めて積極的に近代技術を導入しているが,それは後年のことで,1881年までは「市兵衛は大の機械嫌い」で,蒸気力の粉砕機[クラツシヤー]を利用するべきところを手動粉砕機で,蒸気力の通風機ではなく足踏みの革ふいごで,済ますという具合であった[星野芳郎].
 しかし直営開削法による坑道掘進には火薬発破を用い,また平鉄レールを坑内に敷いて〓[ずり](廃石)を搬出する「新法」を採用していた.「新法」はそこまでであった.掘削の主力は人力であり,搬出もまた人力である.
 1885年から大通洞(=水平坑)の開削に着手し,実に11年をかけたものの,それが以後100年ちかくこの鉱山の生命を保証することになった.1885年は,足尾銅山にとって重要な年であった.この年,削岩機が導入されているし,ボイラー式ポンプが坑内排水機として,それまでの手押しポンプに追加された.
 大規模な通洞(水平坑)工事に,古河傘下の各鉱山の技術者と機械が投入されている[東海林吉郎].
 だが,同年末,突然の出水に見舞われて排水設備が潰滅的打撃を受ける.より大規模な近代施設の移植には,この年には開坑いらい最高の産銅量4,090トンを記録しながらも,未だ資本の蓄積が不充分だったのである.
 1888年を迎えて事情はまた一変する.ジャーディン・マディソン商会との契約であり,巨額の契約金(6,000万円)をえて,近代設備導入による大増産体制に入る.
 その第1は蒸気式排水ポンプの設置である.
 2種類・10基の手押しポンプで,湧水を最深部の坑道から順々に浅い坑道に汲み上げて一定の坑道に集中し,そこから坑外に排水していた.そのためには一昼夜310余人の要員が割当てられていた.それが,この年に姿を消した.
 次いで,1890年には水力発電所が設けられ,80馬力(排水)ポンプ,25馬力捲揚機,電灯用の6馬力発電機が稼働する.これで坑内電化が達成され,立坑の運搬および排水が電力となる.このことが「機械化を推進し,しかも設備投資,人件費とも安価に済ませる」.
 精錬過程もこの年に革新されている.
 冶金は,焙焼,溶鉱,錬銅,精銅の四過程からなり,土がまの焙焼(15―20日),円底炉による溶鉱(山下吹き,6時間),土がまによる酸焼溶解で粗銅にする方法が採られてきた.全工程に32日,1炉当り処理量は1トンで,しかも毎回炉の改修を要した.それが,新法では焙焼に反射炉,溶鉱に角型水套式溶鉱炉,錬銅に転炉(原理は真吹[まぶき]製銅と同じ)を採用した結果,全工程はただの2日になり,大量処理と継続操業が可能になった.
 そして,1898年には116槽の電解工場もでき,電気精銅となる.その前に1897年から,これも東京・本所で銅線製造が始まっている.つまり,採鉱一貫体制から一貫冶金体制が,20年をかけて確立されたのである.
 この間の輸送問題をみれば,さきの鉱車輸送・坑内電化とならんで,1891年には主坑口から製錬所まで電気鉄道が敷かれている.それなのに坑外では上州路,日光路とも馬の背によっていたものが,1888年から日光路(2間幅道路)の馬車輸送となり,1890年には蒸気力利用の高架空索が設備される.1892年には上州路に馬車鉄道が,翌93年には日光路にも設置される.
 1890年といえば足尾銅山の近代的装備がすでに完了し,坑内機械体系は電動化しており,製錬の燃料は薪からコークス型に転化している(1893年完成)のに,なお鉱山外との接点は,上記の如き事情であった.技術の「飛び地」的集積地点としての鉱山に注目するのは,ここに理由がある.
 国鉄足尾線(蒸気車)が全通したのは,実に,1914年のことで,45年にわたった明治の時代が終ってから3年めのことである.しかも,技術の「飛び地」が開かれたその時には,すでに,複合技術としての鉱山業から技術的スピン・オフが準備されていたのである.
 さらに,この1914年という年は,足尾において削岩機の国産化に成功した年として記憶されなければならない.言わば足尾における近代鉱山技術の定着から,四半世紀を経てのことである.移転から定着への速さは幾多の好条件に恵まれていたとしても,その上でなおこの技術自立(しかも部分的な)までの時間の長さはやはり注目に価しよう.勿論のことそれは銅山をとりまく外部の事情に左右される.とくに,一次産品としての銅の国際価格の変動が足尾にも押し寄せて好況と不況の間を往来したし,技術装備にも国産機械(や自社製機械)が入ってきている.後者は日本の機械工業力の発展に待たざるをえなかったが,坑内電車の敷設やレールの採用は国鉄の電化や八幡製鉄の発足に先行している.また,銅価の不振に,足尾は河鹿[かじか]と呼ぶ高品位の巨塊鉱床を掘り当てたことで切りぬけている.
 いずれにしても,技術の「飛び地」的な近代化は後発国の鉱山開発に宿命的なこととは言えるのだが,その突出的な近代化が鉱山周辺に未知の・解決不可能の問題をひきおこした.鉱毒問題の発生であり,著しい環境破壊である.精錬過程で放出されていた亜硫酸ガスは,それ自体で有毒なのだが,雨と重なれば硫酸となって森林を荒廃させ,廃石の遣棄が川床を上昇させて洪水の被害を増幅する.
 製錬工場の風上にあった豊かな山村を無人化し,下流農村の稲作に潰滅的な打撃を与えたのである.
 工業化にともなう「負の衝撃」としての公害問題は別項で取扱うので,ここでは,技術的飛び地がもつ問題側面として記しておく.
 ⅱ. 鉱山機械の国産化
 鉱山機械の国産化に至る過程を九州福岡県の三井三池炭砿の「製作所」の活動に即して述べてゆくことにする.砿山と精錬過程に至るまでの鉱山とには相違がないからである.
 1877年,官営三池砿山は官営工作分局(長崎=飽之浦,神戸,赤羽,釜石)から完成機械類を購入していた.立錐機械については飽之浦で製作可能であるとして輸入を見合わせたほどに国産利用志向は強い.だが,同時に国産機械のみに依存しきれないことも確かで,当然,それは輸入に依存した.砿山会社は1882年には「鋳物場」をおき,「坑内機械」および「会社附属汽船」などに装置している機械の「修補或イハ新製」に当らせている.飽之浦などへの外注では価格が高くつき納入に不足や遅延があったからである.5年後には,仕上げ,汽錐鑵,鍛冶,木型,製鑵の五工場をもち,ポンプ類と捲揚機(いずれも蒸気力による)の試作に至っている.
鋳物場から後の三池製作所への発展は,[春日豊]の労作によると,次の三段階を経ている.
 第1期,1888年の払下げから1899年まで.
 第2期,1900年から1909年まで.
 第3期,1910年から1918年まで.
 いわば10年ごとの発展段階を特徴づけるものは,第1期の機械修理(と木造運搬船の製作)であって,三菱長崎造船所の熟練工13名と他に数名を雇い入れ,その下に有給と無給の「見習い」をおいて,労働力の確保・養成に当っている.
 第2期の早々に英人技師を雇い入れ,坑内運搬用エンドレス・ロープの設計に当らせている.機械の設計方法を学習しながら,修理・改修から飛躍したのは,新坑開削のさいにデビーポンプを製作したことである.英国製よりは製作場新設費をふくめて25%以上の節約になり,為替相場下落の当時には,外国への発注は自社製の3倍にもなった.
 しかし,イギリスから3トン溶鉄炉を輸入新設して30インチ2連式スペシャルポンプの製作にあたった(1893年)ものの効率が悪く,アメリカからウォシントン式ポンプを輸入して製作を試みるなど,「輸入→模倣・試作→技術の習得という過程を繰り返しながら,蒸気ポンプや運搬機」の製作技術を蓄積している.だが,未だ機械の設計や量産ができる能力はない.
 しかし,第2期の末には,九州の諸炭砿にむけて中・小規模の排水・運搬機の受注生産をするようになり,自社むけから受注に,そして模倣から自主設計に転じている.
 第3期は,各炭砿の機械設備が一応完備してきたことと,電化がすすんだことに対応している.電力機器の修理・改造のみに従事していたものが,電気捲揚機(1904年),電動エンドレス・ロープ(1906年)を製作するに至る.こうした変化への推進力になったのは,自社製より「四割から八割」の外国製品の高価格であった.そして,ついに「最大の難関であったシリンダーの製作」を果たして発電ガス機関の製作に成功する(1912年).このことが製作陣に与えた自信は非常なものであった.それは三池の砿山電化を推進しただけではなく,コークス工場の拡張,染料工場・亜鉛工場の新設に道を拓き,関連の技術部門に参入する契機となるのでもあった.
 似たような経過は足尾でもみられた.電線製造のために古河電気工業が発足するのが1896年であり,重電機製造のためにドイツのジーメンスと提携して富士電機製造を始めるのが1923年で,次いで通信機(のちの富士電機)を興す.また住友の別子銅山も銅加工のための住友伸銅(のちの住友金属)を1898年に,電線製造のための住友電工(1911年),そしてアメリカのウェスタン・エレクトリックと提携して日本電気を発足させる(1899年).
 日立鉱山の電器修理部門が小型モーターを製作したのが重電メーカー日立製作所への門出であった.のちには弱電部門にも進出するが,古河系の富士通信機と住友系の日本電気は逓信省(今日の電電公社となる)に電話関係機器を納入する二大メーカーとなるし,この三社はいずれも電子機器開発の先頭集団をなしている.
 その母胎が,鉱・砿山業にあり,修理部門から出発していることに注目すべきであろう.我々の言う技術移転から自立に至る五段階論のヒントは,ここに一つの源泉をもつのである.

[注]
1) 鉱山技術は,山岳部に水源を求め・山腹に水路をとりつける必要があった日本の中央山岳地帯で,灌漑施設の建設に利用されて大きな効果を挙げている.この点は,[玉城哲]の論文をみよ.
2) 最近の研究成果をあげると,杉山伸也「日本石炭業の発展とアジア石炭市場」(季刊『現代経済』1982年春季号)
だが,本格的な労作には,このプロジェクトの協力者の[春日豊]による一連の論文がある.「官営三池炭礦と三井物産」(『三井文庫論叢』10号,1976年),「三井財閥における石炭業の発展構造」(同11号),「一九一〇年代における三井鉱山の展開」
(同12号),「三井炭礦における〈合理化〉の過程」(同14号)など.
3) 正確に言えば,参入はあったが国有化に応じてゆく.
4) 協力者の[佐々木潤之介]による一連の労作が,旧製錬法とともに,詳しく分析している.
5) 友子については[村串仁三郎]の「友子研究の回顧と課題――日本鉱夫組合研究序説の一齣として――」(『経済志林』48巻3号,1980年)など一連の労作がある.
重要な労作も多いけれども,ここでは入手の容易な松島静雄『友子の社会学的考察』(1978年,お茶の水書房)だけを挙げておく.
6) 『技術の社会史』4(1982年,有斐閣),51ページ・
7) 砿山では,鉱山にはない,坑内のガス爆発に備えた安全管理技術がきわめて重要になるが,ここではそれに触れない.
8) 村上安正・原一彦,前出論文.
以下の記述の典拠は[星野芳郎]「足尾銅山の技術と経営の歴吏」HSDRJE-79J/UNUP-403ならびに東海林吉郎・菅井益郎『通史足尾鉱毒事件1877―1984』(1984年,新曜社)である.