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技術と社会:日本の経験

Title: 第4部:「日本の経験」--産業技術の事例研究 X 経営ー日本的経営の展開ー
Author: 林 武
Publisher: 国際連合大学
Published Year: 1986年
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第4部:「日本の経験」--産業技術事例研究 X 経営ー日本的経営の展開ー

 (1) 「日本的経営」
 しばらく前から,欧米を中心に「日本的経営」の特殊性が話題になっている.企業グループとか,年功序列型給与体系,終身雇用制,定期の新人採用,禀議書制,集団責任性などがさまざまに分析され吟味されてきた.
 だが,欧米の企業について実情を調査すれば,異なる経営風土と経営環境に応じて,原理的には同一ないし類似のことが確認される.「日本型」経営が特殊で普遍性のない経営活動とは断じきれない,とする見解も出てきた.
 固定的な型としてよりは,歴史的に形成され,かつ歴史的に変化してゆく「経営」活動として捉えかえされつつある,とみてもよいと思う.
 i. 経済的ナショナリズム
 欧米的な経営活動との対比で析出される「日本型」経営の問題は,発展途上国の事情に即して吟味すれば,政府(経済官僚)主導型の国民経済形成とその発展として関心をもたれたり,警戒の的となったりするようだ.この点は,逆に,最近韓国を訪問した経済官僚が,日本では到底できないことを韓国ではできる,と羨望に似た感慨をこめてその印象を語ったのに対応している.
 開発の政策的誘導が政府=官庁の志向であるならば,それに対応した協調的反応が産業・経営の側からあれば,両者の関係は「良好」であると言えるだろう.経済官僚の韓国観は,日本では,事態がもはやそうではないことを裏書きしているだろう.
 確かに,官庁の一部には,「昔軍隊・今財界」という声があって,難題の提起者視する空気がある.明治以来,国民国家としての日本の発展は,重要な点で官業に支えられてきたし,民間企業の経済力が小さく安定を欠きがちだったから,官尊民卑の雰囲気があった.官庁という組織は柔軟性を欠き,部外者にも明白な客観的な評価基準をもたない上に,膨張傾向を内蔵している.公益と中立性とを標榜していても,法律主義・文書主義による保守性から脱し難い.変化する事態に対する迅速な対応への期待からも遠い.そのことを,経済界から衝かれると,さきのような声もあがるのではある.言わば,官僚制の生理と経済の論理とは相互には馴染まないところがある.日本では,アメリカなどのように,特定業界の代表が行政に入って政策を担当するような習慣はなく,官僚はすべて専門職である.
 それなのに,「日本株式会社」論というのがあるように,行政と企業とが二人三脚で活動しているように外国人には見えるらしい.
 行政と企業の両者がもつ生理と論理とは,本来馴染み難いものでありながら,そして,そこにはもうかつてのような緊密な対応関係がすでになく,行政の主導力逓減または逆転ということがいまあるにしても,政治(=行政)と経済との関係が「良好」であったことは確かである.
 旧い時代のことを言えば,明治政府が三菱会社に特権的な助成策で臨み,航路開拓や軍事輸送に当らせ,両者が一致して「近海航権」を確保した.「薄弱ナル者ヲ誘導督促シテ工業ニ勉励忍耐セシムル」(大久保利通)政府の方針に従って協力する企業家が必要であったし,三菱はその要請に応えたのである.
 これに次いだのが,官業払下げに当って,その有資格者たる「事業の継続可能者」と言うのは経営能力をもつ国策協力者のことであった.政治家と企業家との合意は,近代産業を育成することによって輸入を防遏し輸出を振興するところにあった.つまり,それは後発者としての国民的利益と企業の私的利益とが衝突しないで済んだ,そして,国際事情と経済・技術の情報が政府に集中していた,情報が高価で稀少な,そういう特別な時期のことだった.
 ii. 政党の無力
 「日本株式会社」の株主が国民であり,政党政治家は株主たる国民から委託を受けて株主総会に出席する代理人であるとすれば,株主の利益を長期的に保全する機能は政党と政治家の任務となる筈である(森川英正).
 だが,戦前も戦後も議会は「知的エリートを引きつけるに足る職業的機会とはならず」,政党・政治家の政策立案能力が貧困なので,それを中央官庁の職業的官僚が代行して企画してきている.そこから高級官僚の国会議員への転出志向と転出可能性が生まれる.そして経済団体や労働団体が新たに独自の企画力と情報力をもつようになると,経済官僚は長期予想・計画機能と調整機能を担うようになる.
 かつて中央政府だけが先進諸外国事情に詳しく,専門的知識をもった人材をほぼ独占していた段階,および連合国による占領の時期に間接支配であったために官僚が排他的に政策決定者と接触していた時期にあっては,官僚主導が明確であった.その時期は明治中期(世紀の変りめ)と,戦後の復興期であった,と言えるだろう.
 「近代日本における政府・企業の結合体制には,一貫して変化しなかった様相と,時代とともに変化を遂げていった様相の双方」がある(森川)ことは確かだし,一貫しているのは「国益」の擁護に関する限りで両者に合意があり協力関係があった.しかし過剰な「国益」の妄想が戦時経済体制へと日本全体を駆りたてた時に,「新官僚」を自任した一群の行政官僚が軍部と同調した.企業にとっては統制経済の下に活動を極度に制約されながらも保護もされた時代であった.
 この時期はまた,日本だけでなく,後発社会が急速な産業化を達成する過程の産物である財閥の封鎖性に風穴があく時期でもあった.戦時経済化は1931年頃からすすむのだが,「財閥の富の独占と経済支配に対する批判」の尖鋭部分は,青年将校をはじめとする軍部に根強かったし,「財政収入増加の必要もあって高所得者に対する課税を強めたため,財閥家族にはいる配当収入は制限される」事態となった.
 その上,軍需産業強化の重化学工業促進策が採られたので,諸財閥はその地歩を維持するためには,巨額の新規投資と追加投資をしなければならなかった.巨大化する資金需要に合わせて,財閥家族と財閥本社は資金調達力を拡大するために,ついに,本社株の一部を縁故者・縁故会社に分譲する.ここで「財閥家族の財閥本社に対する出資の独占は打ち破られることになった」ことを[安岡重明]は指摘している.周知のように財閥解体は,戦後,「経済民主化」の一環として,巨大独占体の排除命令によって行われたのだが(1947年),そして10年もせずに再統合され始める.けれども,そこではもはや旧財閥家族の支配力は及ばない.「資本家のいない資本主義」の時代になったのである.
 iii. 財界の変貌
 それが,かたわらで,「財界」の台頭となるが,阪口昭の「戦前と戦後の財界と基本的にはどこが違うか」という質問に,佐藤喜一郎(1894―1974,三井財閥の中核だった三井銀行で頭取・会長を歴任した)は答えて「戦後に財界はあるのか.ないだろう」と言っている.その真意は「三井と三菱の巨頭が話し合って決めたことを,そのまま財界の意志として政治に反映させた戦前の奥の院的仕組みこそ本当の財界なのだ」ということにある.各財閥にはそれぞれ有力政治家と「結合するパイプ」があっても「主たるパイプは三井,三菱の政友会,民政党」に対するものであった.
 その財界序列は,「奥の院」である日本工業倶楽部の理事長の人選にはっきり現われていた(阪口).
 日本工業倶楽部が発足したのは1917年であるが,これは,鉱砿業などの製造工業部門が日本経済の中に不動の地位を確立したということで,それまでの経済界に君臨していたのは銀行家であり,団体としては東京商業会議所であった1).日本工業倶楽部の初代理事長に就任したのは三井の団琢磨(1858―1932)であったが,団は,三池炭砿の近代化を指揮したエンジニヤで,後に,三井合名会社の理事長になる.財閥の代表として,右翼分子に暗殺されるまでの15年間,日本工業倶楽部の最高位者だった.後任には三菱の木村久寿弥太[くすやた](1865―1935)がなる.
 戦前の財界は「非財閥」系に対しては閉ざされた世界であった2).その「横暴」に対して財閥の外から敢然と発言した1人が宮嶋清次郎(1897―1963)日清紡績社長(のち会長)であった.宮嶋は,戦後初めての責任内閣制の総理大臣となる吉田茂と大学時代から親交があり,「所得倍増論」で高度成長のスタートをきらせる池田勇人の蔵相起用を進言したとも言われている.その池田時代の経済企画官僚の中で抜群の存在が下村治(大蔵省)と大来佐武郎(経済企画庁)であることは誰もが知っているだろう.「傾斜性生産」の時代の有沢広巳,都留重人,そして中山伊知郎,東畑精一という「教授グループ」の多彩な貢献と重複し合うところをもつが,下村と大来が官庁エコノミスト軍団の先頭に立っていた.
 戦後,財界は経済団体連合会,日本商工会議所,日本経営者団体連盟,経済同友会など四つの有力団体をもつようになった.かつての財閥主導性と封鎖性は面影をとどめないし,何よりも非財閥系企業から戦後復興期のリーダーたちが生まれたことは注目されるべきだろう.財閥解体と戦犯の公職追放によって,「一流会社の若手と二流会社の指導者のみが残り,経営者層は一新した」(原朗)のである.
 その非財閥系の新財界人に支持の厚かったワンマン宰相吉田茂は,地方財閥と親戚関係にあるが,もともと「商人的国際政治観」の持主だったという論評がある.それによれば「かれは力を構成するものとして経済的なものを考え,軍事には第二次的な役割しか認めない哲学の持主だった」(高坂正堯).
 戦後の混乱期に解放感と惨憺たる生活水準が労働攻勢を激化させたとき,旧い経営者たちは対応するすべを知らなかった.占領政策を決める最高会議である対日理事会にさえ,戦後日本の復興を日本の資本家に委せることに疑問がもたれていた時期に,日本史上空前のゼネラル・ストライキが計画された.占領軍の指令で,占領軍を「解放軍」と受けとめていた労働運動の指導部が突如ゼネスト計画を放棄したことの理由は充分な解明がなされていないけれども,盛り上がった運動と解放への安易な期待は冷水を浴びせられた.
 この後すぐ,経営者の側に体勢立直しの気運が生まれて,日経連ができる.新財界人たちは「革命阻止」のために「闘う日経連」として労働攻勢に対峙するが,そのかたわらで若手経営者たちは経済同友会に結束して「労働者階級と協調しうる最大公約数を求めた」(坂口).
 日経連と同友会は「危機を乗り越えるべく日本資本主義が仕立てた二頭立ての馬車だった」という見方が,そこから生まれる.
 経済の回復・復興とともに基幹産業は経営的基礎を確立し,企業グループが形成され,それぞれが巨大プロジェクトに取り組みだす.高度成長期に入ると,経団連の活動が活発になり,アメリカとの関係も「依存」から脱した「対等の協力関係」を主張するようになった.1964年のことである.日本に「ビッグ・ビズネスの時代」が到来したのである.
 iv. 日本的経営の現在
 こうした変化を経てきた,我々がいま理解する「日本的経営」の実情を説明する好材料が二つある.(1)は,日興リサーチ・センター理事長宍戸寿雄(当時)と三菱商事社長三村庸平との対談の中で3),日本式の総合商社がアメリカで可能か,という問いに三村は答えて,「米国の経営体質は,余りに物事を短期にみすぎるから」できない,と言っている.商事会社がもつ諸々の機能は,発端から稼働までのリード・タイムが長いから,短期間での高配当を期待する株主の要求とは合致しない,と言うのである.
 これに対して宍戸は,次のように語っている.資本主義の本来の姿からすれば「資本家が経営者を選び,経営者は短期間で業績を向上しないと馘になる.ところが日本は,資本家のいない資本主義といえる.三菱商事の社長を株主が決めたとは誰も思っていない.会社は社会的責任を口にしても,株主に対する責任はなかなか口にしない.私どもからすれば困ったことですが,逆にみれば,それだからこそ日本の会社は繁栄と生産性向上を達成したとも言える」.
 (2)ある商社員は,全社がらみの汚職事件の容疑者にされた時,「会社は永遠です」と書き残して自裁した.
 社長に株主から選任されたとする自覚が薄く,社員が会社の名誉と利益を護って死を選ぶ,というこの二つのことは,我々からすると「日本的な,余りに日本的な」経営風土と企業文化である.諸外国人には容易に説明し難いし,説明しても納得を期待できない.
 前者については,日本で個人株主の持分が圧倒的に零細で,10社ほどの機関(法人)株主が,主として金融機関であるが,決定力をもっていること,しかも会社同士が株を持ち合っていること,などで説明できる.だから「法人資本主義」とも称されるし,「資本家のいない」経営者資本主義だ,とも言われるのは理由がある.
 後者については,企業家族主義とも言うべき強烈な帰属意識と,擬似「家族主義」的な管理・支配機構の中にある激烈な忠誠競争が,ないまぜで反映しているだろう.
 それだけではなく,嫌疑を受けたそのことを我身の不徳として恥じ,かつは嫌疑をかけた者を道義的に告発するという「武士道的な」美意識があるのかも知れない.しかし,武士的美意識と不可分の職能責任の自覚が企業秘密を生命を賭けてまで防衛させたのかも知れない.そのとき忠誠への顕彰を期待するのもまた武士の心理であったことを我々は思い出す.
 死者を鞭打つようなことは,日本の文化では許されていない.だから事実の検証が死者の不名誉を発くことになるのなら困ることだし,事実の公表はされないが,まず事実が知りたい.しかし,生命はもっと尊重されるべきではなかろうか,という思いを断ちきれないのは私だけではあるまい.もしかすると,自裁者は生きることに疲れ,生きることに飽いたのであったかも知れない.それならば,高度に工業化した社会に生きる者なら誰もが引きこまれやすい誘惑であって,現代文明に内在する病気の一つであろう.
 総じて言うならば,外国人(とくに欧米人)には日本的な集団形成の心理も論理も理解し難いらしくて,集団間にある競争は認識できても,集団内部に競争原理は全然作用していないと誤解することが多い.それがそのまま,企業経営の理解になっているのではないかと思わされたのも一再ではない.逆に,経営学のテキストや論文から我々が想定していた欧米の企業経営も,実情とは違っていた.共同の実態調査に基づく「対話」の必要がここにもある.
 生涯雇用とか年功序列給与とか不明確な職能区分(したがって責任・権限の範囲の不分明)そして集団主義などは,確かに,日本的経営活動を特徴づけてはいる.
 就業者にしても,職場を選ぶのであって職業を選んでいるのではない,それが一般である.だが,そのことは同時に,新卒者の定期採用と企業内での実務訓練と不可分のシステムをなしているのであり,企業ごとの専門職の体系と職種とは他企業のそれとは互換性をもたないから,定着志向が強まり,定着率の高いことが莫大な教育投資を正当化させてきたのである.
 年功序列給与の基本体系ももとはと言えば,経験・熟練評価と生計費原則からできてきたもので,激しいインフレーションの時期に定着・普及したことである.生涯雇用も,1910―20年代に,労働運動の激化に直面して,熟練労働力の温存・慰撫を目的に定着したことであった.だから,並行して,非熟練の「社外工」と「臨時工」が追加的に調達され,非基幹部門の熟練者は別会社に分離されて間接雇用化されるという,雇用における二重構造を必然とするのでもあった.
 かつてもそうであったが,いまもまた,技術革新は「日本型経営」をさまざまに変化させつつある.企業内教育は,人材を技術革新に適応させるべく,その重心を新入社員教育から中堅層,そして特に中・高年層へと移しつつある.また,年功序列給与はすでに職能給制度と組合わされているし,職種別給与の体系さえ早いテンポで進む技術革新が修正を重ねさせている.
 経営理念ないし慣行としては,永久発展と富強化が目指されてはいるが,総じて,技術革新はかつてとは違って生産部門の雇用拡大を押しとどめ(=生産過程の自動機械化によって),他方で,事務労働力も削減しながら,企画・研究開発と販売の部門を拡大・強化させる傾向,言うところの「ソフト経済化」を推進している.このことは,直接雇用を縮小し間接雇用の多様化と増大そして短期化を促している.したがって,「日本型」経営の存続は,具体的にはどのような産業部門で,どのように展開するのか見通し難い.確かなことは,職場志向はなくならないにしても,職業志向が強まることである.
 そして短期化・不定期化する間接雇用はときに直接雇用よりも高賃銀化することもあるだろう.だが,企業としては,必要ならば直接雇用化もするだろうし,長期的にはそれが人件費負担の軽減になるだろう.それがいま進行中の「ソフト経済化」の一面で,専門職の多様化と自由職化とがその内容となるかも知れない.社会移動も当然のことながら高まりそうである.
 (2) 「日本的経営」技術の前史と展開
 経営史家の[安岡重明]は,「日本的経営」がかつてどの産業分野に生まれたかに着目する.明治維新による開国は,おおむね次の3種類の影響を産業ごとに与えている.つまり,
 (1) 初期に比較優位にあった部門.これは輸出品になったもので,生糸・茶などの農産物の一部である.(石炭・銅もこれに加えることができる.)
 (2) 国際経済からの影響を蒙らない産業・商品.塩・味噌・?油・酒などの食料,木炭・薪などの燃料,畳・木材などの建材,および呉服など衣料.
 (3) 初期に比較劣位の商品=業種.つまり輸入品であった綿織物・毛織物.
 (3)の部門が最も深刻な影響を蒙った.この部門における「輸入防遏」,つまり輸入代替から,輸出への転化の過程に「日本的経営」の工業的確立をみている.
 そのさい,[安岡重明]の視点は,(1)出資者と経営実務担当者の役割分担,(2)技術・事務職員と労働者の職制組織,(3)雇用期間,(4)給与体系,にしぼりこまれている.そのそれぞれの項目についてみると,国際比較劣位から転じて優位に立つ経営的先行条件が発見される.(1)は,大商家ならばどこでもみられたことだが,資本と経営の分離があって,実務は「番頭」たちの担当するところであった.「番頭」は,数多くの使用人の中から,長年月をかけた訓練の後,選抜されて生き残った実務の練達者で,合名会社・合資会社における労務出資社員とも称すべく,事実上は主家と運命をともにする無限責任を引き受ける存在である.だから,家産と家業を維持・発展させるために,長女を番頭の1人に娶らせることは商家では普通にとられていた相続法であって,そこに武家の長子相続との違いがみられる.
 数多くの徒弟の中から,大商店の経営幹部になるのは2―3%の確率であったとされるから,その養成訓練と評価の厳しさは察しがつくであろう.被雇用者たちに長期雇用の保証はなかったが,有能なものは生涯雇用であって,年期の改更が分離・独立の機会とも解雇の時期ともなった.その使用人取扱規則の厳密さと周到さは,三井家の例でみると,ほとんど現在の雇用・就業規則と変らない[千本暁子]
 労務管理は終日労働の常住座臥にかかわる万般・細目に至り,年2回の休日しかなく,給食と仕着せがあったものの給与は名目的な小額にすぎなかった.けれども,算盤と記帳から始まって取引・決済に至る経営技術の万般を,奉公人が修習する期間・機会と観念されていたのである.
 初期的訓練にさえ耐えられないものは落伍者とみなされたが,それから上には中間管理職者の諸階梯があり,店外に居住することも許されるし,次いで「分家」または「暖簾分け」の機会が与えられる.
 こうした商家的な(または職人的な)経営技術の訓練と経営人材の調達は,二つの契機で,年限と年齢の枠を決めることになった.(1)は,徴兵検査年齢(20歳)が職人でも,商業従事者でも,基礎的職業訓練の修了期とみなされることになってゆく.それは,(2)初等教育制度の確立に接続したものである.しかし,ある種の技能訓練では,徴兵年齢による区分がかえって,小学校卒で始まる訓練の中断を意味したのでもあった.
 それと同じく社会的変化の一端をなしながら,前述の「中断」による間隙を埋めたのが新しい技術の導入であった.
 だが,ここでも,[安岡]は技術導入が選択的になされ,京都西陣の絹織物地帯の例でみると,伝統的技術による織物の精緻さに及ばない機械は受容されず,新旧・内外技術は工程上の前後関係・リンケージ内に収容されるか,あるいはまた並列的に別の製品特性=市場性において位置づけられていた[岩下正弘].
 だから,近代技術・機械が吟味された上で,経営的に評価され・採用されていたのであって,盲目的な依存でもなく・拒絶でもないそのことが,経営的能力のストックを立証しているのである.
 (3) 日本式経営と財閥経営者
 このような旧大商家的経営能力のストックが,如何に,政治・社会的激変と工業化に対応していったのかが次いで問題になる.
 その例を,政商→財閥形成という過程において検証すると,(1)家族主義経営,(2)家業主義,(3)家産維持,という三点が明確に浮き上がってくる.
 (1)は,近代的民法と商法によって外国(人)の信用を取付けなければならなかった明治政府による私有財産制度の確立に対する反応として,言わば必然な内的論理をもっていた.「番頭制」の確立によって大商家は「専門経営者」を排除するどころか,積極的に登用し活用してきている.だが,同時に,家長制をも堅持してきている.その結果として,家産の自由な分割を認める近代的私法・私権の行使を制約しなければ「家業」の維持・発展は望めない.したがって,「家憲」・「家訓」によって,家産の分散を防止する.その一方で,他人資本が「家業」に参入するのを嫌っている.
 しかし,これでは企業規模拡大・多様化という近代的変化に対応しきる「資本」調達ができなくなる.つまり,高収益と高蓄積の分野に危険を冒して進出することを余儀なくされる.それを果たしたのは,三井家に例をとると明治維新期の三野村利左衛門(1821―77)であり,産業革命の開始・展開期に三井銀行を工業化のための「投資銀行化」を計った中上川彦次郎(1854―1901),三井物産を発展させた益田孝(1848―1937)などの「使用人」専門経営者であった.そして,「三井の頭番サン」と西郷らに評された井上馨(1835―1915)や渋沢栄一(1840―1931)らの政・財界指導者であった.
 その多くは,必ずしもその業績に相応した待遇や評価を内部から受けていないのは,住友における広瀬宰平(1828―1914)の場合と同じである.
 こうした有能な専門経営者に恵まれず,恵まれても拡大し変化する情況に対応できず,保守的に安全確実な経営に腐心したために,資本力が相対的に弱化して,ついにその業界で影響をもてなくなっていった例に金融・銀行業の鴻池家その他がある.
 「家族の独占出資・出資の閉鎖性は,時代の変化の過程で商家がなした対応の一つのタイプであって,その意味では特殊なものではない.いずれの企業でも所有者は自己の資本のみで経営し,他からの支配の介入を許さないでおきたいという願望はもっているのが普通であった.財閥の揚合は,好運にもそれを貫ぬきえただけのことである」[瀬岡誠].そのことは地方の小財閥においても変らない[藤田貞次郎].
 財閥コンツェルンが形成されるのは1910年代のことであるが,雇主たる財閥の当主と専門経営者の関係は,近代的契約関係に基づくものではなくて,実質的には主従=私的忠誠関係に近い.財閥家族がときには専門経営者に指図をしたのは,各目上は合名会社の機能資本家でありながら実質上は利益配当のみに与る持分資本家で,かつ無限責任を負うという[小橋一郎],混乱ないし矛盾した存在であったことにも由来する.しかし,主人側の口出しがなければ財閥の事業はもっと活発だっただろうとする見方もある(野田信夫).
 法律的に,財閥家族が合名会社(三菱は合資会社)形態をとったのは,そのことで経理の公開が避けられたからである[安岡重明].
 それは財産所得が不労所得とみなされるのを嫌ったものなのか,税制対策であったのか,それともさまざまの理由での義捐の強要を避けてのことか,よく分からないと学者は言う.
 「しかし,会社経営の秘密保持は,日本の財閥のみならず如何なる財閥といえども熱心に求めたところであって,かのロスチャイルド商会のごときも,貸借対照表を公開したのは,ようやく第2次大戦後であった」.
 (4) 財閥経営者と準拠集団
 財閥の経営者たちには,財閥家族への私的忠誠という側面があったし,それがさきに紹介した会社員の自裁のように会社組織が人格的紐帯などとうに失ってしまってもなお心理的には生きているのかも知れない.だが,この後者の場合にはすっかり薄れてしまっている強烈な意識が,前者にはあった.それは国益志向である.言わば,財閥の家産を利用して国家の発展に寄与しようという動機を,初期の創業者的専門経営者たちはもっていた.しかし,「その意識が強すぎると,その人物は危険視され,孤立する」のであった.
 彼らは,大方が旧士族や官吏の出身で,さらには高学歴者だったから,海外事情にも通じており,啓蒙的近代思想の洗礼を受けて,商工業活動や近代技術に高い評価を与えることができた.それでもなお,政府ならともかく,「商家の手代になる」ことに,団琢磨が逡巡したように,心理的抵抗は共通にあったと思われる.
 それだけに,実績に対する社会的評価および公的承認(国家・政府の評価)に関心をもっていた.だから,財閥事業の他に各種の社会活動と精神文化事業への配慮もしている.ここがまた後者との相違となる.
 そして,宗教家や思想家たちを言わば準拠集団として,それらに依存することと彼らを支援することとをしている[瀬岡誠].
 それが,財閥経営者にとって私益と国益の心理的均衡維持策だったかも知れないし,そうだとすれば,財閥をとりまく社会環境は,財閥の形成期にすでに緊張を孕んでいた.国益と私益という二項調和の他に,公益という問題を模索しなければならなかった事情を暗示しているだろう.私の記憶が正しければ,極右の国家改造論者北一輝(1887―1937)などにも財閥から研究費・活動費の提供が続いていた.そうした準拠集団の中には,キリスト教主義の哲学者や思想団体もあれば,国家神道主義者もいた.
 「財閥は危険をおかすパイオニアではなかったが,パイオニアに追随してその成果を後取りするにはたけていた」ことは,ここでもまた確かめられるだろう[安岡重明].
 (5) 地方財閥と新興財閥
 巨大財閥が中央政府の意向に密着しながら,用心深く事業活動を全国的な規模で拡大し多角化していったのと,対照的なのが地方財閥であり,もう一つは新興財閥であった.
 地方財閥も,経営を多角化して巨富を築いたが,本拠を地方においたままであり,全国的企業に発展した後でも,その姿勢を変えていない.総じて地方財閥は中央政府のリードする工業化の路線に馴染まず,また近代技術の導入に積極的になるほどの市場規模を背景ともしていないので,多角化も主として在来産業を中核としたものであった.大規模の卸小売・醸造・食品加工が基軸で,(地方)鉄道・沿岸海運・倉庫・電力などへの投資が追加されても,多くは(日本的規模でのことながら)大地主経営の延長上の事業活動であった.
 近代工業への参入を敬遠しながら,銀行業への積極的な投資をしたのは,資金需要の旺盛な開発過程では,銀行業は安定的であり,工業経営におけるほどに複雑・精密な技術知識を必要としないからで,業務としては簡明であったことが理由にあげられる.
 そして「銀行は地域社会の産業発展のカギを握る重要機関として認識され」ることが一般となるにつれて,「銀行に出資して役員に就任することは,その地域の名望家にとって不可欠であった」という事情がある(森川英正).
 その故であろうか,「大地主たちが,銀行に株式投資を行い,これを支配下に収めて,自家事業の機関銀行として利用しようとした形跡は見当らない」とも言う(森川).
 地方財閥の多くは,全国的な経済構造の変化の中では,むしろ,レントナー化していった.その理由は,経営的人材が調達できなかったこと,およびその資本力の限界が工業部門への参入を阻止したことにある.
 このことは,逆に,鉱砿業・製糸業などを家業の軸としてきた地方名望家が,工業化の波に乗って,家族内に蓄積された技術力を基礎にして地方財閥にのしあがっていったのと対照的である.
 経営首脳が近代技術教育を受けており,新規事業の有望性を訴えて,足りない資本を公開市場から調達する仕方で起業し,技術的リンケージをもつ諸部門に進出して財閥形成に至ったのが,「新興コンツェルン」であった.この名で記憶されているのは,日産(日本産業),日曹(日本ソーダ),日窒(日本窒素),理研(理化学研究所)などの諸企業である.
 これらの新興コンツェルンは,第1次世界大戦のときに飛躍の契機をもったか,基礎を固めるかした点で共通し,起業者がエンジニヤだったところに特色があった.その点で,重化学工業化の新分野に進出していったことでは,旧財閥よりも果敢で積極的であった.
 しかし,この産業は関連する技術がエネルギー・素材・部品供給・加工・その他の部門にまたがるために,膨張過程では既成財閥系列各社との競合・衝突を免れえなくて,それが企業活動の制約になる.そこで,これら新興コンツェルンが求めた新天地は満州・朝鮮などの植民地であり,そこにおける重工業化・化学工業化の主力となっていった.このとき,政治的パイプになったのが,「新官僚」たちであり,軍部がその後に控えていた.だから敗戦とともにその主要な基礎が一挙に失われた.
 しかし,さきに我々が抽出した5Msの観点からすれば,このことは企業グループとしての復活にとって致命的なことにはならない.財閥としては「解体」されたけれども,5Msを統括する資金力=信用調達力がなかったこと,つまり機関銀行をもたなかったことが致命傷になったのである.そして,それぞれのコンツェルンの中にいた技術力のある諸企業は,銀行が系列化した新企業グループに編成されて,復活してくる.
 この新興コンツェルンの中,理研は「産業の発達を図るため,純正科学たる物理学および化学の研究をなし,また同時にその応用方面の研究をもなすものである.工業といわず,農業といわず,理化学に基礎をおかないすべての産業は,到底堅実なる発展を遂ぐることができない.殊に人口の稠密な,工業原料その他物質のすくないわが国においては,学問の力によって産業の発達を図り,国運の発展を期す外はない.当所の目的とするところは,この重大なる使命を果たさんとするにある」として,1917年に創設された自然科学の研究所が出発点であった.その基礎研究の成果である「特許」の事業化によって理研系企業が形成されてゆく.
 科学技術立国の宣言ともみられる設立目的が,どのように達成されたかは周到な検討課題ではある.けれども,いまからみればこれは科学技術の輸入から自立に転ずる時期の象徴であったことは確かである.
 ついでに言えば,湯川秀樹,朝永振一郎,福井謙一という3人のノーベル賞学者は,直接・間接に理化学研究所4)とかかわりがある.「科学者たちの自由な楽園」と評される(宮田親平)こともある理研の基礎研究とその事業化は,科学と技術と経営の関係を検討するさいに,わが国では他に例のない重要な素材であったことは確かながら,我々の作業はそれを取扱うには至らなかった.今日の産業技術開発体制との比較研究は,しかし,問題の過去の姿と現在の姿とを明らかにするであろうし,「対話」の中でときには過度なまでに関心がもたれてきた日本の「科学・技術政策」問題に,国家=政府・大学・研究機関・企業の諸レベルにおける具体的な検討材料を提供することにはなるだろう.

 [注]
 1) 原朗「財界」(『近代日本研究入門』,1977年,東京大学出版会).
 2) 阪口昭「財界・政党・官僚」(『日本の企業と国家』1976,日本経済新聞社,所収).
 3)「三菱商事の研究」,1970,東洋経済新報社,194―95ページ.
 4) その正式英文名はThe Institute of Physics and Chemical Researchであった.なお,理化学研究所は,その組織と研究管理において,多分いまなお有効な新基軸を打出していた点で注目をひく.