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技術と社会:日本の経験

Title: 第4部:「日本の経験」--産業技術の事例研究 XIII 産業・経済政策ー新生国家の政治と経済ー
Author: 林 武
Publisher: 国際連合大学
Published Year: 1986年
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第4部:「日本の経験」--産業技術事例研究 XIII 産業・経済政策ー新生国家の政治と経済ー

 (1) 何故,経済政策か
 日本は,何故,工業化を軸とする近代化に成功したのか,という問いが「対話者」に共通の問題関心であった.
 これに対する我々の回答の一つは,植民地化されなかったから,自立を志向した開発政策がとれたし,一連の近代化についての国民的合意が形成されえたからだというものである.
 だが,この回答だけでは満足しない「対話者」たちもいた.たとえば,有力なラテン・アメリカ諸国は19世紀初頭に独立を達成していたからである.すでにブラジルは当時世界の10大富国の一つであったのに,工業化に出遅れていた.言わばこれは「達成速度」をめぐる問題に置換できるが,前の問いと結び合わされると,「何故」の問題が「如何にして」の問題と併せて回答されなければならなくなる.つまり近代化=工業化の起点と経過をめぐって,その構造と形態と速度を決定した諸条件が検討材料として浮上してくるのである.そのことは,さらに,経済(資源,市場,その他)と社会(人口構成と地方的/都市的集中など)の規模と密度にかかわっている.
 近代化=工業化が,たとえば,独立主権国家,高い社会的統合水準,能率的な行政体系,社会的流動性,市場メカニズム,政治的参加,教育/情報のシステム,世俗化など,一連・一群の「症候」を必要としている.しかし,それらがただあるだけでは,近代化も工業化も始動しない.「幕末の日本は,外からの適切な刺激があれば急激に変化できるが,それなしには均衡が破れないという,言わば過飽和的均衡状態」にあった1).
 そういう国内事情が国際的な圧力を受けることと,その圧力が「危機感をかきたてるのには十分なほど強く,しかし絶望的になるほど圧倒的ではない刺戟として」持続的に加えられることは,「後発国における近代化の努力を促進する」のに最適の条件となる.「近代日本の国際環境は,大体において,近代化の最適状態に近かった」(佐藤誠三郎)のである.そこに,日本の地政学的な好条件もまた作用していた.
 西欧列強諸国から地理的に遠く離れていたこと,1000年以上にわたって民族文化の形成と発展の師表であった中国が,列強の開国要求を拒絶すればひき起こすにいたる事態が何であるかを「阿片戦争」で立証したこと,そして,その中国からさえ主権を侵害される危険は充分にあったことが,「国民的緊迫感」を高めた.強者に対応するために,自らも強者にならうことについての「国民的合意」は,こうして比較的容易に形成されえた.
 そういう「歴史的な」特殊な国民的経験を一般化・理論化することによって,つまり日本の「産業革命」を可能にした条件を明らかにすることによって,他の後発諸民族もその条件を整えれば「産業革命」の達成が可能であることを立証することが,我々のプロジェクト作業に期待されていた.
 その「一般化」,「理論化」が可能であったにしても,諸条件は国ごとに異なり,意志的に創出できるものと,他律的な制約とがあるから,我々が明示できる「諸条件」は,未だ直接的な有効性と具体性をもてないのではあるまいか,という不安から自由にはなりきれない.しかし,日本人ができたということは,多分,他の諸民族もできることの保証であるに違いない.それ故,自然条件,民族文化,社会構造,政治体制を超えて,具体的な処方箋になるかも知れない実施可能な施策を諸国民が策定するためのヒントを,ポジティヴにもネガティヴにも,提供できることを願って,「開発と技術」の問題を個別産業ごとに追究する作業を計画したのではあった.
 しかし,こうした産業別アプローチは問題の内容と採られた解決策とを具体的細目にわたって追究し検証しうるけれども,その反面で,当然のことながら,問題の範囲と関連とを限定し,細分することになってしまう.
 それ故,問題横断的かつ鳥瞰的に総括する作業が必要であった.それが,この産業・経済政策研究グループを組織した理由である.
 それが,しかし,何故,いまから1世紀も前の「松方財政」時代に焦点を合わせる理由になるのか.「対話」が成立するための前提はここにある.
 結論的に言えば,それが新生の「国民国家」にとって存亡の危機であったからである.対内的には重大な転機だったからである.主権喪失の危険は,軍事的・政治的な問題の処理にばかりあるのではない.国民経済的=財政的にもある.経済・財政における主権喪失が如何に深刻な後遺症となるかは,日本などとはくらべものにならないほど豊かで強力であり「オリエントに唯一国ヨーロッパの王朝に匹敵する」存在だったエジプトのムハンマド・アリ王朝が,今日からみれば明治政府がしたことのすべてを先駆的に達成していながら,日本とは逆に,植民地化されていったのは財政問題における失敗(=過大な借款)であった.異なる財政政策をとる英・仏両国に財政を管理されたエジプトは,それまでの近代化における達成のすべてが根こそぎむしりとられてしまうのであった.
 1881(明治14)年の「政変」は,新政権が直面した財政的危機を,開発にむけた「積極策」である借款(=外債)でのりきるか,政治生命を賭した緊縮政策で対処するか,という政策路線の選択における対立の結果であって,後者が採られたのであった.
 それは,産業化政策からみれば,西欧技術の積極的かつ広範な導入から転じて,在来産業と技術の保護・温存(そして,その近代化)にむかうことでもあった.それは官業主導から民業振興への方向転換であり,中央に求心的であったものから地方に遠心的にすることであったし,工業から農業への重心移行でもあった.
 それは,また,革命家型政治家から実務家型政治家への実権の移行でもあった.大変革期における政治・思想的な混乱が,経済的・社会的な調整へとむかう転期なのであった.
 そこに,新政権の命運は,国内的にも国際的にも,賭かっていた.
 経済・財政問題の処理は,一定の経験と知識とを必要とする.とくに,開国と貿易を強制された幕末と明治維新には,国際経済の知識と展望とが必要であった.この点では,幸いなことに,開国以来ほぼ四半世紀の時間があって,この間に実務的な専門家が育っていたのである.それが渋沢栄一であり,松方正義や前田正名であった.大隈重信は,国際法の実務家として新政府で重きをなしたが,国際問題としての経済問題(とくに幕府および諸藩の対外債務の処理)があったから,蔵相としても活躍した.
 そうした,人材があったにもせよ,その人材がいつも活躍の場所と機会とを与えられていたのではない.経済問題が,国際政治=外交上で危険を孕んだ重要問題であり,内政的には政権安定の基礎であるにしても,それはつまるところ全政策体系の一部でしかないからである.
 経済・財政政策の専門官僚は,それぞれが開発問題で主権を行使できた各藩の中にすでにいた.明治政府の経済政策としては一枚看板である「殖産興業」にしても,すでに横井小楠などが福井藩で実績をあげてきたことを,全国的な規模に拡張・格上げしたものであったことは記憶されてよいことであろう[坂野潤治].
 開国で幕府も諸藩も,それまでの財政上の均衡を一挙に喪失することになった.経済史の研究が教えるところでは,19世紀の初頭からすでに経済・財政問題はどの藩でも深刻化していて,封建的=身分的社会の基礎を崩すことになりかねない経済発展策をとるのか,逆に緊縮によって安定を計るかの対立を内にかかえながら,一種の「国際貿易」である諸藩間の経済関係が成立していた.
 それが各藩で特産品の「開発」となり,大阪を中心とする全国一円の国民市場の形成を終えていたのであった.各藩の経済官僚(=武士)はそういう情況で育ってきた.しかし,開国は,中央政権である徳川幕府に開港場の新設,軍艦の購入,造兵廠の建設を余儀なくさせた.そればかりではなく,もはや八万騎の旗本と800万石の財力(日本全体では3,220万石)では独立主権の擁護ができず,諸藩にも大型船の建造や近代的な軍事装備を奨める.それは徳川政権の軍事的優越,鎖国という名による貿易と技術と国際情報の独占をつき崩すものであった.そのことは,同時に,諸藩をして財政上の負担を空前に過重なものにしてゆく過程でもあった.
 その財政的危機をのりこえたのが,薩長土肥の西南雄藩であり,明治政府の実権はこれら諸藩の出身者が握るのであった.その中でも薩摩藩は歴代名君に恵まれ,幕末の危機には卓抜な財政家をもち,積極的に近代技術を移転して,軍事力を貯えてきた.それを可能にしたのは,中央から遠い日本の最南西端に位置する地の利を生かした「沖縄貿易」の名をかりた中国その他との密貿易であった.それを通じて同藩は秘かに留学生を英国に送りこんでいる.これに加えて,同藩に特有の青少年組織(それが同藩と関係のあった英国人によって本国に移植されて,やがてボーイ・スカウト運動になった)による人格的紐帯が,後に,堅牢な人脈と派閥を明治政府と官僚機構の中に築いてゆく.
 西南雄藩は,権力としての徳川幕府に攘夷をせまり・開国を咎めるのに,事実上は全く無力な存在であった朝廷の権威を利用した.かれらは,権力志向をもつ公卿と同盟して,徳川政権を次第に追いこんでゆくのだが,薩摩と長州は攘夷を強行して,列国艦隊の砲撃を浴び「刀で軍艦は切れない」ことを痛感すると,たちまち国防体制の再編と近代化にむけて藩内輿論を統一してゆく.
 薩長の攘夷活動も賠償金支払は幕府の負担となったし,長州藩の反逆に軍事的懲罰を加えたのも臨時の大出費であった.徳川政権はついに「大政奉還」して,「公武合体」という統一体制で国際・国内の政治問題の処理に当ろうとした.けれども,それは雄藩の望むところではなく,むしろ懲罰的な対応をしたことから,日本中の諸藩が,親徳川と反徳川とに両極化して,1年半にわたる内戦を続けた.京都で切って落とされた戦端は江戸にまで及んできたが(そして最終的には箱館に退いてまで幕臣の一部は抗戦した),このとき内政不干渉・中立から新政権支持の側にまわった英と旧政権支持だった仏との工作で,江戸の戦闘は極小化された.英仏両国にはそれぞれ貿易上の利害があってこの対応を生んでいる.
 こうして新政権は誕生したものの,新政権は徳川政権の負債を引き継がされる.言わば政治的勝利にともなう追加コストであった.その総額は,政府歳入の2年分を超えていた.したがって,対外債務以外はその80%が切り捨てられたのである.最大の被害者は戦費の調達に応じた大富商たち(とくに大阪に多かった)であったが,庶民もまた各藩で乱発した藩札が無価値になったことで混乱に突き落とされる.
 この他にも難問があった.士族の俸禄問題である.これは,旧体制を一新して国民国家体制を布くために,諸藩主に統治・行政権を返上させ,改めて非世襲の知事に任命して財政権をとりあげたことから生じた財政問題であって,中央政府に統合一轄された新政府には士族に俸給を支払う義務が生じたのである.親徳川の諸藩には甚だしい減俸処分を与えたが,それでもなお俸禄支給額は新政府の歳入のほぼ半分に相当する巨額であった.
 この負担から解放されるべく,政府は「家禄奉還」を勧め,「営業志願の者」には資本金として,永久奉還には6年分,終身奉還には4年分の家禄を一部現金と公債とで与えた.
 旧士族の収入は幕末に比して3割以下になったと言うが,生計の途をもたない士族の困窮はこの後の開発インフレでさらに深まる.それが,1870年代の後半になって各地に頻発する士族反乱の経済的背景である.
 この秩禄処分は,外債240万ポンドを発行して行われたのだが,思えば危険な賭けであった.砲艦外交の時代に,関税自主権ももてずにいて,そしてすでに横浜税関の収入さえ抵当に入れられていた(仏への負債を英からの負債で整理した対価であった)のだから,エジプトのアルバニヤ王朝と同じ危険の瀬戸際に新政権は立っていたことになる.
 地方主権としての藩主たちに藩籍を奉還させ,廃藩置県を断行することは新生の国民国家には必要なことではあったけれども,たとえば薩摩藩主は徳川に代って将軍職に就くつもりで家臣たちの倒幕活動を財政的にも支援してきたのであったから,新政府の処遇に甚だしく不満であった.徳川政権打倒に功績のあった者たちにも恩賞の沙汰はなかったのである.その上で,次々に打ち出されてくる「一新」政策である.不満は堆積されていたものの,諸藩の財政窮乏は著しく,抵抗する余力はすでに失われていた.そのことが,廃藩置県を可能にしたのであった.こうした改革ができたのは,新政権のリーダーが,外国経験をもつ下級武士出身であったことによる.上士と下士とでは身分上に絶大の懸隔があったし,上士は一般に無能だった.
 しかし,旧慣の整理だけでは新政権の財政の基礎が固まらない.そのために打ち出したのが「地租改正」である.幕府と諸藩の財源は,農民から徴収する現物貢租,とくに米であった.新政権もそれを引き継いだが,米では安定的な財政計画がたてられないのと,徴収コストが嵩むのとで,それを金納にする策をとる.これは,土地に私有権を公認し,地価を評価してその4%を中央と地方の政府に納入するというものであった.これを4年がかりで達成したのは1876年のことであった.そして,その翌年に西南戦争がおきる.政権内部の対立が爆発したのである.士族反乱の総括とみてもよい.ここでまた戦費が財政を混乱させる.そればかりか,通貨の混乱がおき,物価騰貴をひきおこす.
 このとき,金・銀・銭とならんで発行されていた紙幣による混乱とインフレに当局は対処しなければならなかった.そのためには通貨の安定と統一とが必要であった.5,000万ポンドの外債で一挙に処理しようとするのが大隈の提案であった.このとき果たしてそれを引受ける外国銀行があったのかどうかは確かめるすべがない.政治家大隈の術策だったのかも知れない.密かに交渉していた相手がいたかも知れない.しかしそれは危険な「積極策」であったことは確かである.地租改正がやっと終って,財政は計画性をもつことができていた.これは政府の強みであった.だが,同時に,金納制はインフレに弱い[梅村又次]のでもあった.
 このとき,大隈は「積極策」の故に,前任者井上馨が陸海軍費,勧業費,教育費,裁判所の増額要求を拒絶して辞任したように,7年間務めた蔵相の地位を去る.代った松方は,会計制度自体がもつ歳入増大のメカニズムを改めることと増税を組合せたデフレ政策をとることで,インフレを見越した米投機を終熄させ,かつそれまでのインフレ政策で一途に富裕化してきた地主層からの所得移転に成功する.これで,インフレによる金融閉塞状態は克服され,輸出不振・輸入増大という貿易収支も改善されて,近代的財政の基礎は固まったのである[室山正義].

 この研究グループの作業は,政治史・政治過程の研究を基底に据えながら,その上で新生国家が直面した財政問題の詳細を,計量経済史の方法も用いて明らかにしている.この作業は,「明治の経済にエポック」を画するものであった松方正義の財政政策が「従来やや過大に評価されてきた」定説への修正をうながす意味をもつが,併せて,開発に財政問題(とくに外債,外資導入)がどのような役割をもつかという問題にヒントを与えてくれる.
 とくに,松方デフレ政策以降の「後期」殖産興業政策が在来産業・地方産業の振興を通じて新旧両部門の「均衡的発展」を誘導したことに,日本の成功の端緒はあった.ここに「開発」上の重要なヒントがかくされているだろう.さらに,ここでは,全国の産業調査を行い,それを開発計画にまとめて,「興業意見」を編纂した前田正名が,「器械的工業」中心の方針は「順序を誤ったもの」として,「固有ノ工業」の発展を説いたことに注目しておきたい.前田の関心は工業より農業に,都市より地方にあったから,政策路線をめぐる指導権争いに破れて野に下るものの,村・郡・県が村是・郡是・県是を立てて計画的に事業改良(=近代化)と地方産業の振興を計るべきことを説いて,全国を行脚している.その活動は記憶されてよい.
 この時期(1890年代)から,農商務省は品種改良・土地改良・農業技術の改善などに積極的となってくる.農政の本格化である.
 長期的趨勢からみれば,19世紀初頭から,日本経済は緩やかな成長をみせている.開国の以前にすでに,成長の基軸が農業と農村工業にあったことは明らかである.そこに突然の「開国」は幕府にも(すぐさま諸藩にも)臨時出費の急増となった.それを通貨の改鋳と御用金でまかなうのだが,当然それはインフレを招く.しかも,銀本位国日本では金銀比価が国際比価よりも銀高であったから,銀貨を持ちこんで金貨と交換するだけで3倍以上の価値になる.だから大量の金流出が始まった.当然,当局は国際比価に合わせた改鋳をするが,諸外国の抗議を受けて撤回させられる.そこで,銀価を据置き金価を3倍にすることで問題を処理した.これは「国内経済の均衡を犠牲にして国際的均衡をはかる」ことであったから,経済は混乱した.それが明治政府にも引き継がれたのである.1872―84年の間に,新政府による改鋳額5,500万円のうち4,300万円が流出し,国内に残ったのは1,100万円にすぎなかった.新政府の「通貨政策は失敗した」のである[中村隆英].しかし,それが「不平等条約」の実態であった.
 他方で,新政府の財政問題に緊急なのは,統一財政システムの確立であったが,硬貨・旧硬貨・不換紙幣の「三重構造」と「米納貢租」が障碍であった.それを地租改正と金納制で整理はできたものの,インフレに弱い体質が西南戦争で一挙に露呈される.
 ここで,外債による一括処理(大隈)か,デフレ政策か,ということが政治的な争点になる.[梅村又次]は,大隈の「外債論」が通貨改革による地租金納で実質50%ちかい増収を巧妙なレトリックで装置していた,と言う.そして「大隈時代にすでにデフレが進行中であり,松方はそれに拍車をかけた」という通説とは異なる時代相を描き出している.
 大隈の「積極論」は,物価騰貴の原因を金貨騰貴にあるとするもので,通貨を正貨に全面代替させて,拡大再生産にインフレ克服を期待する立論であった.そこに「殖産興業」論者大隈の姿を[山本有造]はみている.しかし,外債の支払能力には疑問を呈している.
 西南戦争後のインフレの急速な進行下に,財政処理について,金納化した租税を再び米納に戻し,政府が米価調整機能をもつことで,物価の安定をはかれ,という主張が有力政治家と実業人から出てきた.それが折からの自由民権運動の高揚もあり,一連の制度改革に逆行するものとして斥けられたことを[猪木武徳]は指摘する.
 この時代には地租が税収の76%を占めていたが,米作の性格から納期が晩秋から春になってしまう例であった.他方で歳出は遅滞なく行われるので毎年1,000万円余の一時借入金が制度上不可避だった.1880年には,総額が全国家予算の3分の1にまで達していた.松方は,それも通貨価格を下落させる理由と捉え,増税・経費削減と納期繰上げとを並行する技術的操作を行ったのであった[室山正義].
 大隈時代と松方時代の財政余剰を比較すると,ほぼ同額であったものが松方では地方財政への負担転嫁で処理され,次いで米投機ブームという景気循環的な変動と松方デフレが重なっていたから,結論は「松方は緊縮財政策をとるべきではなかった」ことになる.だが,松方の意図に反した政治的・軍事的事件があったことを[寺西重郎]は述べている.
 殖産興業が,「輸入防遏」重視から国際収支バランス確保にむけて在来産業重視に転化していったことを,地方レベルで検討しているのが[斎藤修]で,そこに至る過程で,中央財政への依存が大きかった反面で地方政府の自由裁量の余地もまた大きかったこと,そして,それが旧幕時代の産会所仕法など伝統的機関の再生によって展開されたことが明らかにされている.
 この点で,道路建設などは中央1対地方2の負担であったのと対蹠的ではある.松方財政は勧業費の中央・地方の負担平準化の転機になった,と言う.
 同じく地方の事例に取組んでいるのが[阿部武司]で,在来産業(綿織)の変化型を(1)蘇生型,(2)衰退型,(3)成長型に分け,業種間分業と地方的特化が決定因になるとしている.たとえば泉南(大阪)は1875年頃から輸入紡糸を経糸に用い,織機の発明で生産性を2倍半にした.これで他の先進地方を圧倒するものの,粗悪品を生み声価が落ちた時点に松方デフレが重なる.その深刻な経験から,産地問屋の動きが現われ,曲折を経て株式組織と改良機の採用とで製品転換を実現し,商品特性を打ち出すことで蘇生できた.衰退型は新川[にいかわ](富山県)で,綿作地ではなく加工地であったために機械紡績に敗北する.衰退型に共通なのは技術変化に無関心で,かつ白木綿の織布産地という共通点をもっている.成長型は,機械導入が早く,白木綿から縞木綿への製品転換を図った産地で,明治以降の参入が多い.そうした産地は松方デフレ下でも新市場の開拓を関東・東北に行い,成長を続けている.

 こうした国内的諸事情が,当時の国際経済と,如何に接続しただろうか.
 [中村隆英]によれば,松方デフレの時期には,日本はすでに世界的な景気変動のサイクルに捲きこまれていて,日本の物価は世界的波動に連動している.また,全世界的な金本位体制化の中で,共通なデフレ傾向がみられるのに,日本はインフレ下にあり,成長を持続した.
 松方デフレは世界景気の落込みと重なったから深刻であったが,その回復期は銀価の崩落に連動して為替相場の低下をともなっていた.それに合うように「企業勃興期」が始まる.つまり,日本の企業勃興は輸出の伸長によるもので,海外景気の回復と安い為替レートに支えられてのことであった.
 さらに,農業と工業との関係が松方財政を転機に,以前の農業リードから転じて,農工相拮抗した成長を続けるようになった.
 卓抜な実務能力を買われて,農民から幕臣に登用され,後に新政府に出仕し,やがて第一銀行を中心に日本実業界の代表者となる渋沢栄一は,金銀比の変動で各国は利害をともども蒙るが,「わが国は利益をうること頗る大なりとす」と言うのは上の事情を物語っている.
 [注]
 1) 佐藤誠三郎「明治維新の再検討」(『近代日本研究入門』,1977年,東京大学出版会).